大阪の商業施設内にあるストリートピアノに関する「注意書き」をめぐって賛否が飛び交っているらしく、ネットニュースからワイドショーまでこの話題で賑わっているようです。
「練習は家でしてください」
「(略)フードコートの中になります。つっかえてばかりの演奏に多くのクレームが入っており、このままだと撤収せざるを得ない状況です。」「練習を重ねてつっかえずに弾けるようになってから、ここで発表していただけたら幸いです。誰かに届いてこそ『音楽』です。手前よがりな演奏は『苦音』です」
このような注意書きが出るということは、よくよくのことがあったのだろうと推察されます。
ただ、主意はわかるものの、いささか配慮を欠く文章が槍玉に上がって炎上に至ったと感じました。
すでに「下手くそはピアノに触るなという考え」とか「自由に弾いて何が悪いの?」「音楽を勝手に定義するな」といった意見が出ているそうで、もう少し穏当な言い方はなかったかと思います。
ストリートピアノの真の意義や狙いは何なのか、正確には知りません。
おそらく西洋発祥で、殺風景な駅のホームなどにピアノを置いて、「どなたでも、ほんのひととき楽しんで!」という粋でハートフルな計らいなのでは?と勝手に解釈しています。
しかし、個人的には日本におけるストリートピアノにはあまり共感できません。
というのも、べつに国で差別的な判断をするつもりはないけれど、こういうものは日本では馴染まないという印象がどうしても払拭できません。
日本人の平均的メンタル、ベタッとした粘着的な気質、内向的で屈折した民族性〜というあたりがストリートピアノを楽しくスマートに使いこなすには向いていないように思うのです。
さらに現代は、開放されたものには節度の抑制がきかず、ルールで縛る以外に解決のつかない権利濫用を押し通す時代だから、一部の人間による迷惑装置になることも少なくありません。
以前、ヨーロッパのストリートピアノの様子がテレビで放映されていたのを見た限りでは、各人が自然に、思い思いの曲を弾いてはサッと立ち去っていく、その接し方がいかにもサマになっていてイヤミがない。
このストリートピアノを前にすると、西洋人と我々日本人の、最も目にしたくない彼我の違いの核心みたいなものを見せられるようで、おおげさにいうなら気が滅入ります。
日本人の場合(すべてではないと一応断っておきますが)、意識過剰で、自己顕示的で、スター気分に浸ってみたり、形を変えた発表会の一種になったり、そこには音楽の楽しさより、隠微な自慢の心理が透けて見えようで、個人的には良さや楽しさを感じたことはありません。
…いや、ありました。
ストリートピアノのはしりの頃、宮崎市内に設置された街角のピアノの様子がTVで紹介されましたが、そこにあった光景は実にほのぼのした素朴な光景だった記憶があります。
ところが、これが大都市になるともういけない。
ましてや「ちょっとばかり腕に覚えのある人」などが出てくるとさらに深刻で、見ている方が赤面します。
「だれもが音楽を楽しむのは素晴らしいこと」と言わなくちゃいけない建前の裏側で、ストリートピアノが承認欲求の手段として用いられていることは、多くの人が心の奥で薄々感じていることではないかと思うのです。
ピアノは明確な音を発生させる楽器で、音というのは使い方を少しでも間違えると、周囲にとっては苦痛以外の何物でもありません。
ちなみに、下手なことは問題ではなく、むしろご愛嬌になるぐらいですが、大事なのはほがらかな遊び心と節度だと思います。
同じ所でつっかえるというのは、迷惑を顧みず何度もしつこく繰り返していることが察せられ、実際に練習している輩もいるのだそうで、こうなると「練習は家で…」と言われても仕方がないでしょう。
すでにこのピアノは撤去されたそうです。
こういうことがあると、なぜか注意した側ばかりが非難され、利用する側は皆無垢な善人として扱われ、「つっかえても心が伝わればいいはず…」的なすり替えで美化され擁護されてしまう今どきの風潮は、あまりに欺瞞的だと思います。