ストリートピアノ

大阪の商業施設内にあるストリートピアノに関する「注意書き」をめぐって賛否が飛び交っているらしく、ネットニュースからワイドショーまでこの話題で賑わっているようです。

「練習は家でしてください」
「(略)フードコートの中になります。つっかえてばかりの演奏に多くのクレームが入っており、このままだと撤収せざるを得ない状況です。」「練習を重ねてつっかえずに弾けるようになってから、ここで発表していただけたら幸いです。誰かに届いてこそ『音楽』です。手前よがりな演奏は『苦音』です」

このような注意書きが出るということは、よくよくのことがあったのだろうと推察されます。
ただ、主意はわかるものの、いささか配慮を欠く文章が槍玉に上がって炎上に至ったと感じました。
すでに「下手くそはピアノに触るなという考え」とか「自由に弾いて何が悪いの?」「音楽を勝手に定義するな」といった意見が出ているそうで、もう少し穏当な言い方はなかったかと思います。

ストリートピアノの真の意義や狙いは何なのか、正確には知りません。
おそらく西洋発祥で、殺風景な駅のホームなどにピアノを置いて、「どなたでも、ほんのひととき楽しんで!」という粋でハートフルな計らいなのでは?と勝手に解釈しています。

しかし、個人的には日本におけるストリートピアノにはあまり共感できません。
というのも、べつに国で差別的な判断をするつもりはないけれど、こういうものは日本では馴染まないという印象がどうしても払拭できません。
日本人の平均的メンタル、ベタッとした粘着的な気質、内向的で屈折した民族性〜というあたりがストリートピアノを楽しくスマートに使いこなすには向いていないように思うのです。
さらに現代は、開放されたものには節度の抑制がきかず、ルールで縛る以外に解決のつかない権利濫用を押し通す時代だから、一部の人間による迷惑装置になることも少なくありません。

以前、ヨーロッパのストリートピアノの様子がテレビで放映されていたのを見た限りでは、各人が自然に、思い思いの曲を弾いてはサッと立ち去っていく、その接し方がいかにもサマになっていてイヤミがない。
このストリートピアノを前にすると、西洋人と我々日本人の、最も目にしたくない彼我の違いの核心みたいなものを見せられるようで、おおげさにいうなら気が滅入ります。

日本人の場合(すべてではないと一応断っておきますが)、意識過剰で、自己顕示的で、スター気分に浸ってみたり、形を変えた発表会の一種になったり、そこには音楽の楽しさより、隠微な自慢の心理が透けて見えようで、個人的には良さや楽しさを感じたことはありません。
…いや、ありました。
ストリートピアノのはしりの頃、宮崎市内に設置された街角のピアノの様子がTVで紹介されましたが、そこにあった光景は実にほのぼのした素朴な光景だった記憶があります。

ところが、これが大都市になるともういけない。
ましてや「ちょっとばかり腕に覚えのある人」などが出てくるとさらに深刻で、見ている方が赤面します。
「だれもが音楽を楽しむのは素晴らしいこと」と言わなくちゃいけない建前の裏側で、ストリートピアノが承認欲求の手段として用いられていることは、多くの人が心の奥で薄々感じていることではないかと思うのです。

ピアノは明確な音を発生させる楽器で、音というのは使い方を少しでも間違えると、周囲にとっては苦痛以外の何物でもありません。
ちなみに、下手なことは問題ではなく、むしろご愛嬌になるぐらいですが、大事なのはほがらかな遊び心と節度だと思います。
同じ所でつっかえるというのは、迷惑を顧みず何度もしつこく繰り返していることが察せられ、実際に練習している輩もいるのだそうで、こうなると「練習は家で…」と言われても仕方がないでしょう。

すでにこのピアノは撤去されたそうです。
こういうことがあると、なぜか注意した側ばかりが非難され、利用する側は皆無垢な善人として扱われ、「つっかえても心が伝わればいいはず…」的なすり替えで美化され擁護されてしまう今どきの風潮は、あまりに欺瞞的だと思います。

やむを得ず

以前より、海外からと思われる謎のコメントに悩まされてきたのですが、そのうちに沈静化するのでは?と期待して耐えていましたが、その数は増え続ける一方で、とんでもない数に及びました。

ここ最近でいうと、毎日100通近い怪しげなコメントが送り付けられ、先日も数日放置しているだけで500通オーバーというとんでもない事になっており、さすがにもう限界だと思いました。

中には日本語によるビジネス勧誘のようなものもありますが、ほとんどは英語やキリル文字による、見るからに怪しげなコメントです。

定期的にこれを消去するだけでも結構な作業で、さすがに気分的にも滅入ってしまうので、やむを得ずコメント機能を停止することになりました。

楽しいコメントを寄せてくださった方には申し訳ないのですが、PCを開くたびに大量の怪しげなコメントを目にするのはかなりのストレスでもあったので、今はとりあえずホッとしています。

また折を見て再開できればと思っています。

ネルソン・ゲルナー

すこし前、Eテレでネルソン・ゲルナーのソロによる、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が放送されました。
指揮はファビオ・ルイージ、NHK交響楽団。

ネルソン・ゲルナーは1969年アルゼンチン生まれのピアニスト。
若いころ、コンクールにおいてもラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾いて制覇したかったとかで、彼にとってこの作品には並々ならぬ思いがあることを冒頭インタビューで語られていました。

こう聞くと、さてどんな演奏になるのだろう?と好奇心をもってしまいます。
果たして、それは、当世風に注意深い、端正で、嫌味も冒険もないクリアな演奏で、立派な演奏だったとは思うけれど、この作品にとってはいささか物足りないものが残りました。

オーケストラの短い序奏のあとに入る冒頭のシンプルなユニゾンのところは、普通ならだいたい同じようなものだけれど、はやくも表情が凝らされており、いちいちに強弱や呼吸のついたものであったことは、大河が流れるようなスタイルでないことを予感させ、それはある程度当たってました。

もちろん、演奏は十人十色だから「これはこれ」だと思うし、とりわけピアニストのキャリアとともに存在した作品ということで、よく弾き込まれた安心感のようなものもあり、しっかりした演奏だったと思います。
それでも、この曲でどうしても期待するのは、雄渾なスケール感や、深く切ない郷愁、さらにそこへたたみかけてくるピアノの絢爛たる技巧の妙味だろうと…古いかもしれないけれど思うのです。

知的で誠実な演奏であったと言い換えることもできるでしょうが、枠の中にきちんとに収まっている感じが拭えず、少しぐらいはみ出しても構わないから、もっと率直で大胆であってほしいとは思いました。

ゲルナー氏の演奏は、端正で一音一音を決して疎かにしないものでしたが、どこかまとまり過ぎて巨きさがなく、ロシアというよりはヨーロッパの小ぎれいな小国といったイメージでした。
個人的には、ラフマニノフの3番を聴くなら、やはりダイナミックで少々破天荒なぐらいな演奏を求めてしまいます。
だからといって粗暴な演奏では困るけれど、少なくともピアニストの湧き上がる血潮と腕っ節で、燃え盛るような一期一会的な演奏、その陰に見える哀しみ、もっといえば無頼で少しぐらい崩れてもいいから、なにか大きなものを聴かせてもらえるほうが、この作品では大事ではないかと思います。

私だけではなく、多くの人もそうではないかと思ったのは、ワッと襲いかかるような拍手はおこらず、あくまで通常あるような拍手で、それがアンコールとなるまで続いたことでした。

アンコールはリラの花でしたが、これも同様で、表情を入れすぎるのか流れが停滞してしまいます。
ラフマニノフはこまかく考えて台本的に弾くより、もっと本能に任せて、ストレートに現場感をもって弾いてほしいなあと思います。

冒頭インタビューのBGMにはラフマニノフの同曲の演奏が少し流れましたが、見事に自由で必然的な呼吸感のある演奏で、ため息が出るし、聴く方もだいいち楽ですね。

ゲルナー氏いわく、大家の演奏を聞くことには落とし穴があり、模倣に陥ることを警戒しながら自分の演奏を作り上げて行かなくてはならず、ラフマニノフの演奏に近づけたと思っても次のステージではリセットし、常に自由な発想で作品と向き合いたいというようなことを語っていましたが、裏を返せば、模倣しようと思えばできるし、しばしばラフマニノフに迫る演奏をしているんだといわんばかりで、どこか回りくどい宣伝か言い訳のようにも取れました。

せっかく立派な演奏をしているのだから、このようなトークは却って自分の演奏に小さなキズをつけることにならないかと、こちらが心配してしまいますが、まあそれは余計なお世話というものかもしれません。

傷み

最近の優秀な若手の演奏を聴いて感じるところは、折々に述べてきたつもりで、とくにブロムシュテット氏の発言は象徴的だったように思います。
その点について、あれこれの演奏に触れては思うこと。

情熱や個性というのも言い尽くした気がするので、別の視点から考えてみると、演奏に表れるべき喜怒哀楽の希薄さで、これがコンクール基準で抑え込まれすぎた結果、気がつけば本当に喪失したのではないかと思います。
外面の完成度は非常に高く仕上がっているから、はじめは感心しても、しだいにシラケてくるというお定まりのパターンです。
血の通わない完璧で、ブロムシュテット氏は「近づいてこない」と仰せでしたが、逆にいうなら、こちらが入っていく足場がなく、お近づきになりたくても、きっぱりそれは制止され、距離感を求められているような。

別に物理的に近づこうというのではなく、その演奏世界に近づいて中に入って行きたいのだけれど、その入り口はどこにも見当たりません。

おしなべて現代の若い世代の感情の在り方がちがうのか、冷静すぎるのか、実際のところはどうなのか私にはわからないけれど、たとえば言葉の点では語彙が非常に少なくなっており、必要最小限の言葉で済ませ、さらにはその言葉も省略して短くしててしまう風潮だから、日本語の多様な言葉や変幻自在なニュアンスなどあったものではなく、そういうことも演奏表現にも出てしまっているのではないか…と思ったり。

一例をあげると、昔なら、ご心配には及びません、結構です、間に合っています、ご遠慮します、元気にしています、必要ありません、差し支えありません等々、時と場合に応じて自然に使いわけられた意味は、今は「大丈夫でぇす!」の一語にすべてが置き換えられてしまい、それが常態化しています。
言葉は思考の基本であり、その言葉がこれだけ合理化されたら、そりゃあ表現力も減じてしまうのも当然なのかもしれません。

とくに演奏で感じるところでは、心の痛み、煩悶、懊悩、絶望や悲しみ等々…が聴こえてこないと少なくとも私は思うのです。
そもそも芸術においては、喜怒哀楽のうち、喜や楽よりも、怒や哀のほうがより重要ではないかと思うのです。
あのお調子者のようなモーツァルトにも悲しみが潜み、シューベルトの清冽な旋律のすぐ隣には暗い恐ろしいものが忍び寄っているように。

楽譜に書かれた音符の再生という点ではまったくお見事で、そこにある種の爽快感がないとはいいません。
しかし、それだけではやはり終われないのです。
その上にあらわれる人間そのものが写り込みやが創造性が感じられず、ただ、きれいなホールの、きれいなピアノで、きれいな演奏というところに留まります。

人は誰しも楽しく幸福ではありたいと願うけれど、多くは裏切られ、現実は苦痛や悲しみのほうが多いわけで、そういうものを心の奥底に抱え持つ人が、美しい音楽の中に込められたそれらの要素に触れて、共感したり慰められたりしたいから、演奏も当然そこのところを素通りしてもらっては困るのです。

アスリートはまったく違い、大谷翔平さんのプレイに、人間の痛みや煩悶や懊悩が反映される必要などまったくないし、むしろ邪魔ですよね。
でも、芸術はやはり精神と感覚の世界だから、根本のボタンをかけちがえるとどうにもならないようです。

それもあって、身体的なハンディや人生の不幸を抱えた人が、時に注目されることがありますが、それはただのお涙頂戴ではなく、ほんの少し芸術の理にかなっているからかもしれません。

ヤフオク

不要なものを少し処分しようと思い立ち、このところヤフオクを幾度か利用しました。
これまでにも利用経験があったので、一定の信頼感はもっていたのですが、今回はどうも様子が少しばかり違っているようでした。

ある物を出品すると、希少性が高いこともあってそこそこ入札がかかり、最終日にはまあ順当とも思える価格で落札されました。
オークションが終了すると、手順として落札者から「落札者情報」が寄せられ、それに対してこちらからは送料などを伝えるべく折り返すと、落札者は商品代+送料の合計をネット上で決済し、それを確認できたら発送作業に取り掛かるという流れです。

ところが終了の翌日、取引連絡として届いていたメッセージには「自分は代理で入札していたが、購入者はサイズを勘違いしていたらしく、キャンセルしたい」という驚くべきものでした。
商品説明の中には、10枚の写真に加えて、かなり詳しく説明文も添え、その中には寸法も明記していたし、ノークレームノーリターン(NN)ということも書いていたので、それは困ると返信すると「(NN)は決済して商品受け取り後のことであるから該当しない、お金を払うつもりはありません」という開き直りのような回答が返ってきました。
代理であることや寸法の勘違いなど、こちらには関係ないことで憤慨しましたが、でも、そんな見えない相手と争う気もないから、次点の候補者を繰り上げました。
何らかの理由で、最高入札者との取引が不成立の場合に、次点の金額の人に切り替えるシステムです。
しかし、次の人からは待てど暮らせど反応がなく、時間をおいたら熱が冷め気が変わったのか、とにかく何日たっても無反応なので、やむなく仕切り直すことに。

二回目の出品では、幸いなことに前回よりも僅かに高く落札されました。
ところが、ホッとしたのもつかの間、待てど暮らせど「落札者情報」を含む何の連絡もなく、とうとうこちらから連絡をしても無反応で、二回続けてこんなことがあるのかと不愉快が募りましたが、そのままというわけにもいきません。
こういう場合の対策をネット上から拾って、「この状態が続けはキャンセルして悪い評価をつけることになる」ということを取引メッセージに書き込むと、ようやく連絡があり、その後はすんなり決済も済んだようなので、こちらは直ちに発送しました。
ところが、まだ終わりません。
どう考えてもとっくに届いているはずであるのに、何日経過しても「受け取り連絡」がないのです。

ヤフオクにおける「受け取り連絡」というのは、ただの連絡や挨拶ではなく、取引進行上の重要な項目で、決済された代金は一旦ヤフオクの預りとなり、この「受け取り連絡」を得てようやく受け取ることができるもので、それがないと「商品は渡しているのに代金が受け取れない」という状態になるわけです。

何度かこちらから催促のコメントなどをし、ヤフオク管理サイドからも催促してもらいましたが、それでも頑として無反応でした。
これまでヤフオクは折りに触れ利用してきましたが、いつも取引は問題なくスムーズに進んで、これといったトラブルに行き当たったこともなかったこともあり、このような不愉快続きに非常に驚きもしたし、精神的にも疲れました。
たまたま運の悪いことが立て続けに起こったのか、全体にヤフオクの利用者マナーが荒れ始めているのか…。

最後の頼みとして残されたシステムは、決済から15日経過すれば「受け取り連絡なしでも代金受け取りができる」ようなので、それがせめて救いではありますが、まったく意図がわからないし、取引メッセージにコメントをすれば、PCにしろスマホにしろ端末には必ず注意を引くお知らせが出るので、見落とすということはまず考えられないから、やはり無視しているとしか思えません。

あれこれ考えたあげく、落札者は急病か何かで端末操作ができないのか、あるいはもしやこの世の人ではなくなったのか?…などとまで想像したりしながら、ともかく15日経つのを待っていたところ、あと3日という段階にで受け取り連絡がポロンときたのには、逆に驚きました。
最後の最後まで、すべてにおいて、意味がわかりませんでした。
まあ、意味などない…ということかもしれませんが。

初めの写真撮影から始まり、説明文の作成などにも注意を払ってこれらに約一週間、出品して終了するまでに8日間、落札後のゴタゴタで再出品まで5日、さらに2度目の出品期間の8日、落札後の連絡無しなどで2週間ほどを要し、さらにそこから代金受け取りまで何日もかかるため、スタートしてから50日以上経ちますが、今だに代金は振り込まれていません。

三膳知枝さんのCDの余談

聴きながらライナーノート見ていると、そこに思いがけない事実を発見しました。
手許にある、三膳さんのCDで使われたピアノは(録音時期や会場は異なるにもかからわず)すべて東京のMさんという聞き覚えのある技術者さんが調整されていたのです。

〜というのも、演奏の素晴らしさもさることながら、ピアノの音がとにかく美しく、緻密で清冽、それでいて朗々と深く鳴っているから、どこの会場のピアノなんだろうと情報を見てみたところ、果たしてそこにMさんのお名前があり、結局すべてを担当されていることがわかったのです。

それならそれで、CDを渡される際に、「Mさんが調整したピアノですよ」と言い添えてもらえたらいいものを、一言もないから、ライナーノートを繰りながらようやく自分で気がついた次第でした。
Aさんは、もともと自慢したりくだくだしい解説などされない方だから、いつもの流儀だったのか、あるいは黙って聴かせてみてどういう反応をしてくるか…という意図が潜んでいたのか、そこのところはわからないし、そういうことはこちらも聞きません。

そもそものいきさつは知らないけれど、Aさんと東京のMさんは数十年におよぶ無二の釣り友達なのだそうで、MさんはAさんとの釣りのためときどき福岡に来られているらしいのです。

Mさんは、日本のピアノ技術者の中でも最高ランクの名人らしく、Aさんが云われるのだからむろんそうなのだろうけれど、演奏という手段を持つピアニストとちがい、技術者の奥義を味わうことは意外に簡単ではないから、そこで話は終わってしまっていました。
伝え聞くところでは、Mさんはまるで飾ったところのない無垢なお人柄で、ある意味子供のように純粋な天才肌らしく、要するによくある通俗的な人物とは、かなり規格の御方のようです。
私もそんな名人にお会いしてみたい気持ちはないことはないけれど、わざわざ釣りをしに来られているのに、まさか、そんな貴重な時間に分け入ってゆくほどの図々しさは持ち合わせません。

CDに戻ると、ホールやピアノはあちらこちらと変わっているのに、いずれにも通じる抜きん出た美しさが光っていることは素人の耳にもわかるもので、本物のコンサートチューナーの仕事というものの凄みに、思わず震えました。
一般に「上手い」といわれる人の多くは、なるほど上手いのだろうけれど、どこかそつなく小奇麗にまとまっているだけの印象があるのに対し、Mさんはまるで次元の違うことをやられているというのがじわじわ伝わります。
そういう意味で、このCDの束は、ピアニストだけでなく、本物の技術者の技が作り出す美音に耳が洗われるチャンスにもなりました。

Mさんの手にかかると、並のスタインウェイが、特別な駿馬に変身するようです。
スタインウェイの音というのは、いい意味でどこか抽象性のあるピアノだと思っていたけれど、このCDから聴こえる音には明確に共通した特徴があり、伸びやかで明晰、各音がスッと立っていながらあくまで甘くまろやかに語りかけるようで、まさに気品が薫り立つピアノでした。

音質が整然と揃っている点も呆れるばかりで、しかも一音一音にはどこか肉声のようなような親しみと連なりがあるかと思えば、低音は厳しく引き締まり、床が震えるように鳴り響き、全体はきわめて融和的にまとまっていている。
それでいて(ここがとても大切なところだけど)ピアノが前に出すぎることはまったくなく、主役はあくまでピアニストとして一線がピシっと引かれているのもお見事というほかありません。
もうひとついい添えるなら、時間をかけて努力した果てに仕上げられた硬い美しさではなく、無駄のない作業で手早く一気に仕上げられた感じがあるから、日本文化によくあるような緊迫した窮屈感とは逆の、ほがらかで、むしろ寛ぎさえ感じることは重ねて驚きでした。

さらに、この6枚のCDは、初期のものから最新のものまで20年ちかい隔たりがあり、会場もピアノもいろいろ変わっているのに、同じ技術者による同じ調子がしっかりと息づいて維持されているのは、その技術と美意識が本物である証でしょう。
その魔法のような技術には、まったく唖然とするばかりでした。

さらに、もうひとつ付け加えると、私は録音技術やレーベルのことなどはさっぱりわからないけれど、ALMレーベルというのは、相当に高度な録音するものだと、この点にもしみじみ感服しました。
最高の席に座って、理想的な距離で生演奏に立ち会っているようで、ピアノの発する音の、空気感や余韻までしっかり捉えられているあたりが素晴らしく、これに慣れると、他のピアノの音が物足りないように感じられてしまいました。

三膳知枝さん

三膳知枝さんというピアニストのCDを6点まとめて手にする幸運に恵まれました。

親しく交際させていただいている技術者Aさんに会ったら、ふいに輪ゴムでくくられたCDの束を渡されました。
「Yさん(日本のご高齢のピアニスト)が気に入られた人だそうで、よかったら聴いてみてください」といわれただけで、これという細かい説明もないのがこの方のいつものスタイルで、くだくだしい説明などはされません。
それでなくても、私はピアノのCDなら喜んで聴くほうだからありがたく受け取って、そのあとはすぐに他の話題になりました。

その日の夜、ハイドンのソナタから聴き始めました。
たちまち心地好いピアノの美音が流れだし、こまやかな神経のかよった上質な演奏というのが第一印象。
音と音とが緻密に機能してゆくところに、目の詰まった織物みたいな心地よさがあり、そもそもハイドンで聴かせるというのは個人的には至難なことだと思っているだけに、聴きながらしだいに興味が高まりました。

三膳(みよし)さんは新潟出身で、桐朋からロシア・グネーシン音楽院(キーシンやアヴデーエワの学んだ学校)へ留学されたようですが、まずもって興味をそそられたことはバッハ、スカルラッティ、ハイドン、スクリャービンという選曲と、プロフィールの扱いでした。
バッハは平均律全曲とゴルトベルク、スカルラッティのソナタ集、ハイドンのソナタ集、スクリャービン作曲集で、各CDはひとりの作曲家の作品でまとめられています。

プロフィールは、いつぞや書いたような大仰なスタイルとは真逆の、ライナーノートの末尾に1ページにも充たないぐらいに要点のみが簡潔にまとめられているだけで、まず演奏を聴いて欲しいというまっすぐな姿勢を物語っているようでした。
やはりプロフィールは簡潔最低限に済ませるほうが、遥かに品格があると再認識しました。

次に聴いたのはバッハの平均律でしたが、名うての名盤が数多くひしめくこの作品ですが、新たな感銘をもって心ゆくまで楽しむことができました。
隅々まで掃除の行き届いた、趣味の良い部屋に案内されたような気持ちの良さと、雑念なくピアニストが作品と向き合っている世界が目の前にあり、こちらはそっと窓辺から耳を傾けているような感覚がありました。

自分の信じるものに従っている演奏がそこにあるだけで、良い意味でさっぱりしているから、辛気くさい主張とか自説の押し付けなども一切なく、その無欲にむしろ惹きつけられました。
世俗にまみれず、自分のやりたいことをやっているピアニストというものを久しぶりに聴いた気がします。
演奏を通じて、この方の深い教養や音楽に対する真摯な姿勢にふれるようで、今どきの最もスポットライトのあたる売れっ子のタワマンエリアみたいなところを離れると、稀に、このように音楽への奉仕を喜びとする方もおられるということを知り、その事実にじわりと胸打をたれました。

集中しているけれど自然な呼吸に従い、淡々としているけれど枯淡でもなく、そこがこの人の魅力でしょうか。
どれもが凛としていて筋道が通っており、信頼を寄せて耳を傾けることができることは快適だし、派手というのとは違うけれど、澄んだ秋の空気のようなくっきりとした美しさに浸ることができるため、何度も繰り返し聴きたくなる演奏でした。

視界を定めて、迷いなく演奏に打ち込むことで、おのずと質の高いものになるということでしょうか。
日本やドイツでは一流の職人というものに、一種の高いリスペクトがありますが、それは高度な専門性に信頼を置くからだと思われ、故に貴重でありがたいもののように感じ人は少なくないように思います。

少し残念だったのは、ゴルトベルク変奏曲はほんの少し生煮えのところがある印象が残り、これが平均律並のクオリティに迫ったらどんなに素晴らしいかと欲が出ますが、とにかく素晴らしいピアニストをまたひとり知ることができて感謝です。
スクリャービンは、ほの暗い情念の奔流をぶつけるような新劇の演技みたいな演奏の多い中、あくまで自己を見失わず、要らざる演技をせず、ときに平坦でもある演奏が却って楽しめました。

時流

昨日、とあるショッピングモールに行きました。
ここは福岡のドーム球場の前に位置する中規模の商業施設で、オープンしたての頃は、従来型モールとは一味違う新しい仕立てという感じがありましたが、普段あまり用がないことと腰痛で動けなかったことも重なって、おそらく一年ぶりだったと思います。

立体駐車場から繋がる橋をわたり、モール内3Fに入った瞬間、アッというほど多くのお店の顔ぶれが相当変わってしまっていることに目が点になりました。
単に別の店舗に交代しているというだけでなく、あたりは思い切りよく子供向けの施設などになって、ガラスの中で子どもたちが飛んだりはねたりしていて、それを親御さん達が外からゆったり眺めていたりで、そういう施設がぐんと増えており、併せて子供向けの大手店舗が大きなスペースをしめていたりと、以前とは打って変わったその雰囲気には少なからずショックを受けました。

2F1Fは、まだいくらか以前の姿を留めてはいたけれど、それでもどことなく活気を失っていることを、肌で感じてしまいます。
こうなると悪循環で、いち客の立場で云わせてもらうと、自分に直接関係あるなしにかかわらず、そこに足を向けるには全体的な印象とか雰囲気というのはとても大事ですが、正直いって、今後はよほどのことがない限り行くことはないだろうと思いました。

こうして、はじめは色とりどりに、賑やかに軒を連ねていた店舗は時を経て櫛の歯が欠けるように消えてゆき、オープン時にみなぎっていた全体の調子が崩れていくんだろうと思います。
とくにキッズ向けの運動や、遊戯や、なにか学ぶための施設というのは、需要があるのか大事かもしれないけれど、そういうものが増えていくと一般客にとっては甚だ魅力を欠くものとなり、トータルでの客足は遠ざかるでしょう。

ビジネスだから採算が合わなければ撤退するのは当然だとしても、ちょっとした雰囲気が違ってくることで、負のスパイラルに陥りそうで、別に私は関係者でもなんでもないものの、どこか寂しい気分を引きずりながら店をあとにしました。
あまりにも時代が急速に変化して、情報だけがやみくもに氾濫すると、人は自衛本能から様子見に陥るのかもしれません。

テナントのひとつである有名な楽器店も、びっしりと商品が並んでいるのが却って虚しく目に映り、ここに入店して何かを買うというのは、相当にハードルが高いことのように見えてしまいました。

数年前だったか、配信サービスの発達によってCDが売れないと聞いた時は愕然としたものですが、最近はさらに時代がもう一回転して、新聞などの従来型のメディアが下火になり、かくいう自分自身にもその変化が起こっています。
数十年と取り続けた新聞もやめてはや数年が経つけれど、困ることは何もなく、安くもない購読料を払いながら毎日積み上がる紙の山の始末まで考えれば、もう元に戻る気にはなりません。
それでなくとも、新聞など既存のメディアへに対する信頼の失墜は甚だしいものがあり、挽回は難しいでしょう。

ニュースはネットなどから拾って目を通せば済むこととしても、さて音楽となると、これが配信などによってただ消費されていくというのじゃ困ると思うのですが、しかし、これだけの勢いで世の中が流れている以上、自然災害に為す術がないように、それを憂いてみたところでどうなるものでもありません。

少し前までは、アコースティックピアノを買おうとしたら、周囲から奇異の目で見られるとか、電子ピアノをピアノだと思っている、というような話に、半ば呆然とし、大いに憤慨嘆息したものですが、いまなら「まあそうだろうなぁ」と思えるところまで時流とやらに飼い慣らされてしまったように思えるこのごろです。

草野政眞さんCD

草野政眞さんのCD7枚を一通り聴き終えるのには、一枚を何度も繰り返して聴くため1ヶ月ちかくかかりました。
期待にたがわぬ感銘三嘆の連続でしたが、同時に音楽を聴く意味や価値について、何度も問い返してみるきっかけにもなりました。

クラシック演奏にまつわる永遠の課題のひとつは、作品か演奏かというテーマだろうと思いますが、その結論を出すことは不可能で、作品そのものに深い感銘を覚えることもあれば、演奏が放つ圧倒的魅力に心を奪われることもあり、草野さんの演奏に触れるとそのは判断は後者に大きく振られます。

演奏のエネルギーが作品構造に融け合って同一の呼吸となったように思えるとき、作品は大きく目の前に立ち現われ、一陣の風や光となって躰を通過していく快感は何物にも代えがたいものがあります。
優れた演奏とは、否応なく聴き手が吸い寄せられ、音の恍惚郷へと強引に拉致されてしまう魔力があり、その独特な充実と満足はほとんど生理的なものかもしれません。

草野さんはレコーディングを好まれず、音源はすべてライブ、すなわち一発勝負の演奏に限られます。
したがって必ずしも最上の音質ではないし、キズやミスもあるけれど、それが却って凄みにもなって、ピアニストが演奏にかける気迫とか、やり直しの効かない緊張感までが記録されているようです。

現在のクラシック演奏の有り様は、まずこの点があまりに軽視されており、見てくればかりで食べる人のことを考えない冷凍食品のようで、演奏家は自ら演奏の芸術的内実に対してあまりに鈍感であり過ぎるのは、甚だ憂慮すべき状態なのではないでしょうか。

有名な国会議員が環境大臣時代に場違いなセクシー発言をして失笑をかいましたが、端的にいって音楽こそもっとセクシーで肉体的であるべきではないかと思います。

草野さんの演奏の真髄を一言で表すことは難しく、私などにできることではないけれど、ピアノ演奏に対する厳しい美意識と、聴く者の神経を覚醒させる強力なドライブ感がすべての演奏に貫かれ、楽曲が見晴らしよく一気呵成に体験できるのは、爽快で、充実して、ひりひりして、まるで自分が何かを達成したかのような錯覚さえ味わえるようです。

ピアノは分厚く咆哮し、繊細さと磊落さが互いを牽制し合い、常に一貫した音楽表現に徹する演奏姿勢には草野さんの壮烈なダンディズムさえ感じます。
表情や歌いこみなどは過度に陥らず、一見平静な節度を保っているけれど、聴こえるすべては草野さんの胸の深いところをくぐり抜けてきた音であり、このピアニストならではの矜持や孤独がいろいろに滲んでいます。

真の芸術は、すべてとはいわないけれど、その大半は悲しみに縁取られているもので、だからかどうかわかりませんが、草野さんのピアノを聴いていると、なぜか涙があふれそうになる瞬間がたびたび訪れました。

話が少し逸れるようですが、昨年は美術史家の高階秀爾氏がお亡くなりになったことを年末の日曜美術館で知りました。
日本に西洋美術を紹介された重鎮で、美術愛好家のバイブルにも近い著作も多く現した方で、ちょうど音楽における吉田秀和氏のようなものではないかと私は勝手に思っています。

東大出身で、若いころヨーロッパを周遊し、存分に本物を躰に叩き込んで帰国、その後は日本で多大な貢献をされ、後年は文化勲章受賞という点でも共通してます。
高階氏いわく、絵にはただ美しいとか綺麗だということだけでなく、作品に描かれたものは当時の歴史の証人でもあり、それを読み解くところにも価値があると仰せでした。

音楽の場合、数々の楽曲だけでなく、個々の演奏も時代ごとに咲いた作品だと私は思っています。
悲しいかな、音楽は時間芸術という宿命によって、作品は発生と同時に消えていくものだから、録音に託すより手段がありませんが…。

ざっと50年ごとに見ても、演奏には各時代の空気や価値観が克明に刻みつけられていており、21世紀の演奏は、音楽においても経済至上主義、情報化と合理化の波に洗われた市場原理で動いていることを見ても、高階氏の主張に合致します。
メディアの発達で世界は急速に結び合わされ、大衆社会は極まって、オリンピックは商業主義に堕し、音楽、映画、スポーツ、出版などあらゆるものが経済主導のデータやランキングの呪縛から逃れることができなくなりました。
すなわち孤高や異端といった存在さえ消え去り、話題の演奏家は主要コンクールの上位入賞者の独壇場と化し、真の芸術家が立つべき場所まで削り取られてしまいました。

番組最後に高階さんのお言葉で印象的な一言が流されました。
「文化の灯というものは、けっして絶やしてはならないもの」という肉声で、いかにもその通りだとは思うけれど、さてこれを現在のクラシック音楽の有り様に引き移してみると、文化の灯が消えかかってはいないか…という切実な恐怖に慄きます。

今どきの演奏に少しでも違和感のある人は、草野さんの演奏を聴くことで、いつの間にか消え去ってしまったものの相当量を取り戻すことができ、一時的にもせよ、カラカラに干からびた精神は久々の水や養分の補給を得て、いっときでも活き返る気がします。

何を聴いても感激しないようになったことを、自分の歳やセンサーの劣化のせいかと思っていたら、幸いそうではないらしく、いつでも敏感に反応できる準備はまだ備わっていたことがわかって自分でも嬉しくなりました。

かつて、真に心を打つ感動的な演奏が存在し、それに興奮したことは、錯覚でも昔語りでもなく、間違いではなかったことを思い出し確認するためにも、草野政眞さんの演奏に接することは大きな意味があり、そこに行けば有無を言わさぬ世界が待っているのは極めて貴重なことだと思います。

こう書きながら、手許にあるCDは容易く聴けるものではないことを考えると、なんとかならないものかなぁ…と思います。

再放送から-2

▼務川慧悟
他日の再放送、「岡本誠司バイオリンリサイタル」では、ピアノを務川慧悟さんが務めていました。
ベートーヴェンのVnソナタ第10番、シューベルトの幻想曲D934という奥深い二曲が並んで、たいへん見事な演奏だったと思います。

ここに聴く務川さんのピアノは、ソロ以上に感服するところがあり、丁寧な仕上げの縫製品のようなピアノパートがヴァイオリンに寄り添うようで、質の高い音楽が紡がれました。
ピアノとヴァイオリンがユニゾンで同じ音型をなぞるときなど、ヴァイオリンのわずかな息遣いにさえ吸いつくごとく合わさって、はじめのベートーヴェンの第一楽章を聴いただけでも、いいものに触れているという満足を覚えました。
こういう演奏はそうざらにあるものではなく、ごく自然に耳が傾いてしまいます。

務川さんのピアノは、今どきの完璧を目指すもどこか空疎な演奏とは少し趣が違っており、演奏の源泉は自らの感性に依ってきたることが伝わってくるもの。
礼儀正しい人に接すると気持ちがいいように、音楽のマナーや様式美がしっかりしていて、演奏の立ち居振る舞いがよく、それでいてさりげない奥深さがあります。

タッチはクリアで明快だけれど、そこに情感と陰影が途切れることなく活動しているから、今どきのドライなピアニストとは一線を画するものがあり、気品ある演奏として仕上がっているように感じます。
そしてそれは、このようなデュオのときにより顕著となるのか…とも思ったり。

ピアノのソロは、正真正銘自分ひとりがすべてを請け負い、全責任を背負う過酷なパフォーマンスだから、その集中力たるや尋常なものではないはずで、そのためには莫大なエネルギーを消費するはず。
それがデュオになることで、全責任の縛りからわずかに開放され、そのわずかのところで呼吸を整え、折々にリフレッシュできるという効果があるのかもしれません。

テンポもむやみに急がず落ち着いているし、細部には切れ目なくデリカシーがかよって、しかも息苦しくないという、なかなか大したものだと思います。
そして良い演奏を聴いた後というのは、それが終わっても耳の内側に記憶とも余韻ともつかないものが残り、そういうときに音楽の不思議な力が生きづいていること思わずにはいられません。

務川さんのことばかりになりましたが、岡本誠司さんもとても音楽的礼節のある演奏で、これほど質の高いデュオはそうそうないものと思います。
残念だったのは、このソナタの中でも美しい第2楽章がカットされ、いきなり第4楽章になってしまったのには、おもわず天を見上げてしまいました。

会場は浜離宮朝日ホール、ピアノはベーゼンドルファー。
てっきり新しい280VCだろうと思っていたのが、このメーカーの伝統のトーンが思いの外よく表れているから、なんだかんだといいながら血は争えないものだなぁ…と思っていら、よくよく細部をみると旧い275で、どうりでと納得でした。

ベーゼンドルファーは、ピアニストのタッチ感を際立たせる粒立ちがあり、古楽器的なニュアンスも併せ持つためか、弦楽器と合わせるとき素朴な鍵盤楽器らしさがあり、これはこれで見識ある選択だと思いました。
ベーゼンドルファーの魅力というと木の音の温もり云々…とする意見が大勢で、それも頷けるけれど、誤解を恐れず言うと個人的には良い意味での「どぎつさ」にあるとも思います。
京都とかウィーンのような古都には、そういう説明のできない何物かが棲んでいるのかも…。

演奏以外でちょっと目についたのは、拍手に応える二人の様子。
それぞれに相手を立てて譲り合い、何度も互いに拍手を送り合う姿は、もちろんそれは奥ゆかしくて素敵なことではあるけれど、何度も何度も「あなたが、あなたが」の譲り合いのゼスチャーを繰り返れると、さすがにくどい感じを受けました。
デュオなんだから、もっと普通に、二人並んで素直に答礼してもらったほうが、拍手する側も嬉しいのではないか?と私は思います。

再放送から-1

BSプレミアムのクラシック倶楽部では再放送もよくあって、一度目は見過ごしていたものなど、あらたに聴いてみるきっかけになることも珍しくありません。

▼キーシン
2021年のザルツブルク音楽祭からキーシンのリサイタルが放送され、これは以前フルバージョンを視たような覚えがありましたが、抜粋が放送されたので再びその演奏に接することに。
ベルクのソナタ、ほかにフレンニコフ、ガーシュウィンと、オーストリア、ロシア、アメリカをまわってショパンに至り、アンコールは自作のドデカフォニック・タンゴとかいうもの。

なんだかよくわからないプログラムで、私自身ベルクなどは苦手な上、さらにキーシンとベルクというのもしっくり来ない気がするし、フレンニコフやガーシュインはあまり気を入れて聞く気になれず、ショパンに至っても意外やその気分が切り替わることはありませんでした。
充実した演奏というものは、演奏家と、作品と、鑑賞者の3つの要素が円満な形になった時だと思いますが、残念ながらそのようには思えない齟齬があり、それはついに一度も解消されることはなかったように感じました。

12歳で世界に衝撃を走らせたキーシンも、このとき概ね50歳と知ると、それだけ時が流れたことを知らされます。
真の天才は、若くして異常に老成して完成されており、青年期を過ぎても良くも悪くもあまり変わらないという研究もあるようですが、たしかに彼の音楽はある地点で止まっている感じを受けなくもありません。
10代から青年期にかけては、眩いばかりに溢れる天与の才と、多感で痛々しいまでの感受性に吐露しながらストレートに弾いていて、それがキーシンの抗し難い魅力であったけれど、それ以降は妙に深沈的になって、それが却って普遍性を失っていった気がします。

50歳になるキーシンのピアノは、彼自身はウソのない真摯な演奏をしているのだろうけれど、いち鑑賞者の立場でいうと、やけにねっとりこってり、重ったるいイントネーションにとめどなく付き合わされているようでした。
ところどころにはキーシンならではの充実した色艶があるし、可憐な旋律の歌い上げも健在だけれど、全体にはいささか胃もたれするところがあり、近年よく耳にする若い演奏家が、さほど個性的ではないにせよ、力まないスッキリした演奏を聴かせていることとも、知らぬ間に対照的なコントラストを生じさせているかもしれません。

キーシンといえば現役ピアニストの中では最高位にあるひとりで、一般論的にいうと年齢的にも充実しきった時期にある筈ですが、なぜか焦点が少しずれてしまっているように感じるのは、素地がすばらしいだけに惜しいような気がします。

芸術家は強烈な自我やエゴの塊であると同時に、自分の芸術そのものに対しては、だれより厳しく謙虚である必要があるものだけれど、どこか独りよがりで、問い返しをしない、頑固で話の通じない人といったイメージ。
アンナ・カントール女史が亡き今、彼に率直な意見をいう人がいないのかなぁ?と思うけれど、いまさら先生の助言を必要とする歳でもありませんし。
彼ほどの天分に恵まれたピアノの天使が、どことなく浮いているように感じてしまうのは私だけでしょうか?

ピアニストに限ったことではありませんが、人間は地位が高くなればなるほどイエスマンに囲まれるから、より客観的で、ときに耳の痛い意見が耳に届くことが大切なところだと思います。

キーシンがどうであるかは知りませんが、ふとそういうことを考えてしまいました。

ブルース・リウ

ビデオの録画がたまるとハードディスクの容量がなくなるため、ときどき整理して大掃除します。

その折に見たひとつが、「題名のない音楽会」からブルース・リウがスタジオに招かれた回でした。
MCとの雑談や質問などを交えつつ弾いたのは3曲、ショパンの幻想即興曲、チャイコフスキーの四季から「舟歌」と「松雪草」。

演奏はショパン・コンクールの時の記憶そのままで、それに驚いたというのも変な言い方ですが…。
というのも、むかしの印象というのは勘違いや誤解をしていることもあるし、コンクールという縛りが外れてその人本来の音楽表現が放たれたり、ステージ経験を積むことで磨きがかかったり、良くも悪くも素顔が出たり、変化していることも少なくないからです。

ところがこの時の演奏は、曲は違うけれど印象として3年前のワルシャワとほとんどなにも変わっていないものでした。
恵まれた大きな手の持ち主だし、なにしろショパン・コンクールの覇者なのだから、好き嫌いにかかわらず、場所を移してあらためて聴いてみれば、その栄冠にふさわしいものがあるだろうと予想しました。

しかし、聞こえてくる演奏は、ピアノとピアニストと曲がもうひとつ融け合っていないのか、こんな小品でもなにか表現がはっきりせず、コンクール本選の協奏曲でも、思わず滑稽に感じるところなどもありましたが、すべてがそのままという印象。
ひとつ具体的にいうと、彼のアーティキュレーションは迷い気味でメリハリがなく、おまけにパッパッとスタッカートのように切る癖があったり。

本人の話すところでは、コンクール後は世界中を巡り、空港とホテルと会場の3ヶ所を回る生活に明け暮れているそうで、ピアニストとして充分に忙しい日々を送っているようだから、下世話な言い方をすると「じゅうぶん稼いで喰って行けてる」らしく、社会的には成立しているわけで、だから多くがこの方向を目指すらしいこともわかるけれど、やはり納得はできません。

ただ、ピアノではあまり評価できなかったけれど、人間的にはとても真っ当で、落ち着きのある好青年でした。
ほどよい礼節と笑顔とやさしみがあり、人として魅力的だった点は思いがけず好感をもちました。
ことに日本人は、どこか陰気なくせに文化人ぶって、その振る舞いも言葉も演技くさいのを見慣れていることもあって、彼の柔和で、いかにも自然体なところが、とても新鮮に映りました。

…なのですが、やはり彼はピアニストなのだから、肝心なことはピアノを弾いてこそであって、そこのところがもうひとつ評価できにくいのは、なんとも残念でした。

ピアノ以外ではレースや手品が好きだそうで、その手品というのをやってくれましたが、トランプを使ったもので、見ていてそのタネはわかったように思えたのですが、まぁそこに触れるのは無粋というものだから書かないでおきます。

それと、以下は番組についての苦言ですが、冒頭、彼を紹介する際に使われた言葉に何度も「エッ!?」となりました。
ショパン・コンクールの覇者ということだからか、「世界最高峰」「世界一のピアニスト!」「それでは世界一の演奏を」と何度も断言的に言ったし、画面上の文字にもされたのです。

記録や数値で評価されるアスリートと間違えているのか、世界一と決めつける根拠はなんですか?
では、彼以外のピアニストは、すくなくとも世界二位以下なのですか?
メディアによるこういう不見識も、コンクール至上主義を後押しする力となっているのだと思うと、情けないばかり。

しかも「題名のない音楽会」は音楽に特化した長寿番組なのだから、その不注意には唖然とするばかり。
ついでにいうと、スタジオはいつも昭和風のお花まみれのセットで、そのダサいことといったら見ているだけで恥ずかしく、あんなところで弾かされるのでは出演者が気の毒です。
MCの質問もあまりにわざとらしい幼稚でくだらないもので、そこまでレベルを下げるのはゲストと視聴者の両方が馬鹿されているようで、少し考えて欲しい気がしました。

新年おめでとうございます

本年もよろしくお願い致します。


昨日、大晦日の夜19時ごろ、すなわちあと5時間足らずで年が明けるというときに、せわしげに宅急便が届きました。
開けてみると、なんと7枚ものCDが入っており、そこにはお手紙も添えられていました。

ピアニストの草野政眞さんから届けられたもので、ご自身のアーカイブをお作りの由は伺っていましたが、これは試作段階のもので正式なものは少し違ったものになるとのこと。

一面識もない、一介のアマチュアにすぎない私のような者に、このような貴重なCDをお送りくださるとは、なんとありがたいことかと深謝しながらさっそくVoi.1をプレーヤーに入れてライナーノートを手に開いたところ、我が目を疑いました。

そこには何年も前、草野政眞さんの演奏をYouTubeで聴いて感激したときに書いたブログの文章が冒頭より転載されており、しかも当時は自分の一人称を「マロニエ君」などと我ながら気持ちの悪い言い方をしながら、甚だ無責任なことを書き散らしたもの。

それがまさかピアニストご本人の目に触れるなどまったくの想定外であったし、そもそもブログという次々に更新していく性質のものであることもあって、感じたままを勝手放題に書きつけたものだったから、見るのが怖くていまだに目が通せない状態です。

「顔から火が出る」とはこのことで、顔の皮膚の表面がいきなり発火するようで、同時に胸の奥が寒く落ちてゆくようで、恥ずかしさと申し訳なさで、鳴り出した演奏もしばらく耳に入りませんでした。
すぐにご本人にメールすると、そういわずに…というような内容の返事が返ってきましたが、もうできあがっているものだからどうしようもありません。

調べると2017年だったようで、草野政眞さんの存在を知った時、ご自身のHPからCDを購入したことから、奥様とメールを交わすようにはなっていましたが、その中でいつだったか私のブログのことに触れられたことがあり、使ってもいいかどうかのお尋ねがあました。
もしお役に立つことがあるならどうぞなどと迂闊にも返答していたものが、まさかこんなことになるなど思っていなかったので、とても光栄なことではあるけれど、それよりも驚きと恐縮でいたたまれないような気持ちになりました。

このピアニストにつては、いずれまた触れていきたいとは思いますが、日本人ピアニストとは思えぬスケールの大きさ、技巧、熱量、そして演奏に対する峻厳なスタンスを持つ方ですが、なぜか、どうしてなのか、その理由はわからないけれど、日本では適切な評価を受けることのないまま今日に至っているという不条理が横たわっています。

いかに突出した実力があっても、一定のコマーシャリズムにのらなければスターピアニストとして遇されないということなのか、ご本人がそういう俗事に関わりたくないということなのか、いずれにしろ、こういう本物のピアニストの存在に気づいて、発掘して、光を当てるという積極的な網をはらなかった日本の音楽界に、あらためて失望するきっかけとなりました。

私自身はじめて聴いたとき身震いしたことをいまでも生々しく覚えており、そのときの興奮に任せて書いたものが時間を経てお目に留まったのか…、むろんCD購入時もブログのブの字も言わなかったのですが、これがいわゆるネットの恐ろしさというものなのか、滅多なことは書けないとの戒めにもなりました。

草野さんの演奏に接して、惜しみない賛辞を贈ったのは、伝説の巨匠として名高いシューラ・チェルカスキーだったそうです。

チェルカスキーのみならず、ホフマンやホロヴィッツのような、絢爛たる演奏で聴衆を酔わせ、演奏が放つ一期一会の音の魔力に身を委ねるといったスタイルが、本質的に日本人の肌に合わないのか?と思ったりしますが、どうもそのあたりのことはよくわかりません。

少なくとも、日本における演奏評価の基準は、ありふれたピアノ教育の延長線上に実を結ぶつるんとした果実のような、どこかイジケたところのある小粒なもののほうが性に合うのかもしれません。

ご存じない方は、今からでもYouTubeで検索してみてください。
数は多くはないけれど、驚くような演奏がでてきますよ!

年末ですね

腰を痛めて4ヶ月が経過。
鎮痛剤を飲みながら病院に通い、人生2回目のMRIも撮りましたが、どうも明確にこれだという結論は得られません。
手術という方法もあるようですが、医師もとくにこれをすすめる風でもなく、はっきり断定する要素も曖昧なまま漫然と手術するなんぞまっぴらごめんです。

最近は何かにつけSNSだYouTubeだという時代になったので、個人でもある程度踏み込んだ情報が得られやすくなりました。
もちろんそこは虚実さまざまだから、できるだけ多くの情報に接した上で、自分の中に残ったものだけが判断材料になります。
腰痛に関する動画はいくつ視たかわかりませんが、要するにその原因というのはとても複雑で、曖昧で、とりわけ個人差が多く、到底短時間の診察ぐらいで特定できるものではないということ。

私も途中で病院を変え、外科専門病院の、整形外科の、さらに脊椎専門のドクターの診断を仰ぎましたが、それでもはっきりこれだという結論へは至りませんでした。
画像を見ながら「…だろう」「…とみてもいいかもしれません」という言葉が並び、それで躰にメスを入れる勇気など私にはとてもありません。
この種の手術は成功しない例が多いようで、だいたいここだろうという画像判断に引きずられて行われるから、多くは原因の核心には迫れていないケースが多いようです。

最近では、一時より少し良くなった感じもあるし、この状態とのつきあい方も少し上手になりました。
痛いことは痛いけれど、なんとか車に乗ったり、買い物に行ったり、少しずつ机についてこのような駄文をひねってみたりするようにもなりましたが、さてピアノの前への復帰はなかなか果たせません。

私ごときが、復帰などという言葉もどこかおこがましいけれど、自分でもあきれるばかりに弾けなくなりました。
以前は弾けていたという意味ではなく、以前の自分と、現在の自分を比較しての、相対的な話です。

では、少しずつでも弾くことで取り返すという手もあるかもしれませんが、取り返したところでたかが知れいるし、そのために努力を重ねることが、正直言って煩わしいのです。

そんな調子だから、自室のピアノもゼロではないけれどほとんど使わなくなり、しかし鍵盤蓋は開けていたいから、高音域と低音域のキーにはうっすらと埃が被ってしまっている有様。
調律もずいぶん長くとやっていませんでしたが、自分が弾かないのは勝手だけれど、それでピアノの状態を悪くするのは、そこはやはり楽器に対して申し訳ない気がするから、ついに先日調律をお願いしました。

久しぶりだったのでずいぶん熱心にやっていただきましたが、殆どを弱音ペダルをL字に踏んだ状態、つまりフェルトの幕を下ろした状態だけで使っていたので弦溝がつかず、今回は整音は最低限にとどめて、それ以外のことに時間を費やしていただきました。

あたり前ですが、久々に調律を終えたピアノに触れると、やはり清々しい喜びがあっていいものだなぁと思いました。

技術者さんとの会話も楽しいもので、立位でそういうことができる程度には快復したということでもあり、以前ならとてもではないけれどそんなこともできませんでした。

私がピアノを弾くことに対して、あまり強い欲求がないのは、もちろん自分が求めるだけの最低限の腕がないからという、至極単純な理由ではあるけれど、もっと具体的にいうと、若い頃からの練習不足で指の開きが足りず、さらに手が小さいということがあると考えています。
私は日本人の中では高身長のほうですが、それに対して手はさほど大きいとはいえず、映像などを見ていても楽に10度届くような人を見ると、ゲンナリしてしまいます。

たとえばショパンのエチュードop.10-1などは、もろに手のサイズがものをいう曲で、それを無理して、必死にかじりつくように練習する情熱もないし、そもそもそんな弾き方では自分がイヤなんです。
そういう浅ましい弾き方をするぐらいなら、弾かないでもよくない?という、まあなにかにつけこういう怠け者の理屈が次々に際限なく浮かんできては、努力を放棄するほうへと常に私の脳髄は働いてしまうのでしょう。

そもそもピアノを弾く人というは、グールドであれ、先回の藤田真央さんであれ、躰のサイズから比較すると、ややアンバランスなぐらい手の大きな人であって、海外では、ピアニストとしての将来を判じる際に、体格や体つきまで考慮されるということを本で読んだことがあり、これは一見残酷なようだけれども、とても重要な事だと思いました。

なんだかんだと屁理屈ばかり並べているようですが、要は、この4ヶ月で、ピアノを弾かない生活にもすっかり慣れてしまったということで、それはそれで苦痛ではないからいいのではないかと思っています。

藤田さんのモーツァルト

2021年のヴェルビエ音楽祭から、藤田真央さんによるモーツァルトのリサイタルの様子が2回にわたって放送されました。
これまで、藤田さんの演奏は積極的とまではいえないまでも、メディア等では折あるごとに注目はしてきました。

とても大きな手の持ち主で、風変わりなテンションにいささか戸惑いつつ、ピアノに向かえば相当に上手い人だというのは言うまでもありません。
その藤田さんの演奏の中でも、モーツァルトはとくに高評価だそうですが、これまでテレビ出演などで部分的に見てきた限りにおいては、どちらかといえばペタッと平坦で、そんなに素晴らしいかなぁ?というぐらいでしかなく、自分の中ではとくに付箋を貼っておきたい対象とまではなりませんでした。

そういう前提があったところで、今回はじめて彼のモーツァルトをまとめて2時間近く聴いてみることになったわけですが、これまでと同様の部分もあるものの、その素晴らしさに納得させられる点も大いにあって、多少印象を書き換えることになりました。
やはり、本番の演奏をまとめて聴くというのは大切で、藤田さん自身もテレビ番組でのおしゃべりの傍らでちょっと弾いてみせるのと、ヴェルビエ音楽祭のソロステージとでは、気合の入り方も違って当然というもの。

結論からいうと、これは藤田さんにしか弾けない、特別な光を放つ演奏に違いないと思ったし、大いに感銘を受ける場面も随所にちらばっていました。

ただし、本質的に感じたことは、とにかく「技巧の人」だということ。
その技巧というのが、派手派手しい、ヒーロー的なものではなく、繊細で緻密、弱音領域でのこまやかな指回りで真価を発揮するタイプの稀有な技巧で、この点で大変なものがありました。

ピアノを弾く人なら、弱音の音を揃えて正確に弾くことがいかに困難であるかは、だれでも知っていることです。
その点で、藤田さんのまったく軸のぶれない正確かつ目もくらむばかりの技巧には並大抵ではないものがあり、さらに息の長い持続力まで兼ね備えて、それじたいがすでに「天才の技」だろうと思います。
これは、どれだけ練習を積んでも得られない、まさに天性のもの。

人間の指の動きというより、むしろリスのような小動物が高所などを躊躇なく自在に駆けまわる四肢の動きのようで、信じられないスピードで縦横に、いかなる危険領域でも喜々として軽やかに駆けまわる指さばきは、モーツァルトという対象を得て遺憾なく発揮され、これは一聴する値するものでした。
とりわけプロのピアニストがこれを目にしたら、狼狽するような見事さ。

モーツァルトのソナタは、ピアニストの指の技術を丸裸にしてしまうところがあって、そのわりにさほど演奏効果の上がるものではないためか、ここに敢えて踏み込んでいくピアニストはそう多くはありません。

そんな中、難解なパズルを楽しそうにサラサラと解くような演奏は、まさにモーツァルト固有の難しさにピッタリと嵌ったのでしょう。

純粋に音楽的にいうなら、正直なところ、とくだん傑出したものだとは思わなかったけれど、なにしろあれだけの特殊な技巧を備えていれば、モーツァルトといえども如何ようにも仕上げられるだろう思われました。
音の多いパッセージなどでは、それらが無数の眩い輝きとなって流れ出すため、光の帯が降り注いでくるようで、他ではちょっと得難いような爽快感がありました。

テンポは全体に早めで、できればもう少し落ち着いて聴かせて欲しいところですが、藤田さんの才能と演奏の魅力を結晶化するには、おそらくこの速度が必要なのかもしれません。
そのかわり、そんなスピードでもまったく乱れを知らないその指は、世界を驚かすにも充分で、それを体験するところにこのピアニストの値打ちがあるのだろうと思いました。

世の中は、一つ覚えのように「技術より音楽性」「芸術表現のためのテクニック」などと、分かり切ったお題目を唱えて、それが逆転することを否としますが、技術そのものも、ある段階を突破すると、それそのものが魅力と存在感を示す場合もあるし、同時に「技術それ自体が芸術的領域に達する」ということもあるわけで、このような技巧で弾かれる藤田さんのモーツァルトが高い評価を得たということは、至極尤もなことだったと納得できました。

プロフィール

コンサートに行くと必ず手にするプログラムノート。
これを開くと、びっしりと書かれた演奏者のプロフィールを目にして、まともに読む気にもなれないことが少なくありません。

演奏者本人や主催者側にしてみれば大事なことなのだろうけれど、やたら細かいことまで綿々と書かれているのは、それを手にする側にとってはほとんどどうでもいいようなことばかりで、本当に意味をなしているようには思えません。
あまり細かいことまで書かれているのは書類のようで、思いつく限り書けることは細大漏らさず書いたという切迫感さえ感じることも。

それだけ苦労して研鑽を積んできたということだとしても、過剰なアピールに気持ちが引いてしまうようで、そこから演奏を楽しむという期待感より、なにやらお気の毒な感じさえ漂ってしまいます。
あれもこれも書いておきたい、訴えたいという自己主張だけが独り歩きして、逆にどこか貧しい感じを与えてしまうことも少なくありません。
ああいうプロフィールを目にして、なるほどそうかと感心して、より一層ありがたい気持ちで演奏を聴けた…などという人はまずお目にかかったことはないし、これまで多くの人とその話題になったことがありますが、異口同音の冷笑的な意見が返ってくるだけです。

ご当人の努力は大変なものだったろうし、ご家族はじめ、まわりの人にしてみれば、少しでもその軌跡や活動実績を伝えることで応援してほしい、あるいはこれだけの実力があるのだから、どうぞそのつもりで聴いて欲しいというのは、人情としてはわかるけれど、音楽というものは、そんな個人の事情や訴えを押し込まれた上で聞かされるものではなかろうと思うのです。
とりわけプロの世界では結果が勝負で、くだくだしい退屈なプロフィールは、書く側と読む側の埋めがたい大きな溝を感じるのです。

ぜひそのあたりを冷静に考慮され、もっと効果的な内容と量にとどめておいて、あとは本人の演奏と聴く人の受け止めに任せるべきだろうと思います。
なるほど、現代は純粋に演奏の質が、常に正しく評価されているかといえば、そうともいえないところがあるのも事実です。
だからといってプロフィールを大盛り山盛りにしたら効果があるのかといえば、決してそうはなりません!

余談ながら、パリ音楽院などに行った人のプロフィールには、だれもかれもが「プルミエ・プリ獲得」と書かれており、これは普通の感覚でいうと一等賞であり主席、つまり卒業者内で一番だったというような印象ですが、実際のプルミエ・プリはどうやら成績優秀ぐらいな区分のようで、プルミエ・プリが何人もいるということのようです。
プルミエ・プリでないのにそう書けば詐称になるから、まったくウソとは思わないまでも、それにしてもパリでは日本人のそれが異様に多いのを訝しく思っていたので、調べてみて納得でした。

プロフィールの結びの常套句でよく見かける言葉に、「その活躍は世界的な注目を集めている」といったような、ほとんど夢でも見ているような御大層な言葉が、何ら躊躇なくすらすらと書かれています。
少しばかり海外のコンクールを渡り歩いたり、国際線の飛行機に乗ったりすれば「世界的な活躍」となるのではないのだから、もうそろそろそのような誇大表現は慎むべきだと思います。
言葉本来の意味に立ち返るなら「世界的や活躍や注目」ということが、果たしてどういうことなのか、もう少し正直に真面目に考えて欲しいと思います。

スピーチは短いほうが喜ばれるように、プロフィールも大いにダイエットが推奨され、できれば激ヤセしたほうが、よほど好感をもって温かく聴いてもらえるのではないか?と思います。


ついでに思い出しましたが、最近、知人との雑談で大いに話題に上りましたが、名刺の肩書にも同様の事例があるということ。
あれもこれもと、役職や兼任している事業名などをびっしり書いて並べて、どうかするとそれは裏面にまで及ぶことがあるようで、こういうものを見て、真から感心したり尊敬したりする人などいるとは到底思えません。

要は、ご当人の抑えがたい猛烈な自己顕示欲が小さな名刺の中で炸裂しているだけで、見たほうは呆れて、世間からは嗤われているのに、ご本人は一向に気づかないという滑稽な構図です。

完璧な非音楽的演奏

一昨日のクラシック音楽館では、現在世界最高齢の指揮者となったマエストロ、ブロムシュテット(97才!)によるNHK定期公演の様子でした。
プログラムはシベリウス、ニールセンなどの北欧プログラムでしたが、冒頭のインタビューでは短いお話の中にさすがは巨匠というべき内容が語られ、とても印象に残りました。

それは概ね以下の様なものでした。

▶自分(ブロムシュテット氏)の毎日は宗教に特徴づけられていて、祈りに始まり祈りに終わる。
宗教は完全を目指し、よって自分も音楽に完全を目指している。
そのために度重なるリハーサルをするが、しかし自分が目指しているのはきれいな演奏ではない。
しばしばオーディションには、よく教育された完璧な演奏をする音楽家がやってくる。
テンポもボウイングも呼吸も完璧、でも私の心には響かない。
私に対して個人的に近づいてこない、いわば匿名の演奏だ。
完璧を求めるあまり、自分を隠してしまう、それは非音楽的な演奏にしかならない。
大切なのは常に最善をつくすこと。

…まったくもって膝を打つようなお言葉でした。

いつ頃から、世の演奏の趨勢がこんなふうになったのかはわからないが、しだいしだいにそうなったように思われ、少なくとも21世紀になってからは、そういうスタイルが明確に台頭しはじめ、個性的な芸術的な演奏はアウトサイダーのごときに扱われ、中心から外されてしまったように思います。

いかに音楽だ芸術だといえども、認められ評価されなくては始まらないから、無駄なリスクを避けた出世の早道として、その価値が高まったのでは?
ステージデビューのための最も効果的な早道はコンクール入賞で、そのためにはまず好みの割れるような個性を封じること、審査システムを知悉し、それに沿った完璧な演奏で点の稼ぐよう挑むことが、最も効率的というわけでしょう。

それが知れわたるや、世界中がワッとこの完璧スタイルを目指すようになり、そのために長い時間はかからなかったように思えるのは、20世紀とは次元の違う情報新時代に入った結果だろうと思われます。

ピアノの世界でわかりやすいのもやはりコンクールで、ショパンコンクールでいうと、個人的に「あれ?」と感じはじめたのは、2000年のユンデイ・リの優勝からではなかったか?と思います。
技巧として弾けているだけで、無味乾燥だとしか思えなかったものを、彼の演奏は完璧だ!とやたら大絶賛して憚らない人もいたりして、とくにピアノ学習者の中の比較的腕自慢の人などにそういう人がいたのを覚えています。

さらにその10年後、アブデーエワが優勝した時は、その方向性はいよいよ決定的で堅固なものになったと感じるようになり、自分の心は固く厳しく封印し、ただひたすら楽譜通りの演奏に徹する、指令や規律に滅私的に従う軍人のような姿は、聴いていて息が詰まるような気がしたものです。
音楽という生き物が命を奪われ、無表情で動かない造り物のように思えました。
もちろん、私の耳にそう聞こえただけで、アブデーエワ本人が「心を固く厳しく封印している」かどうかはわかりませんけれども。

その後、彼女のリサイタルに行った時は、さらに強くそれを印象付けられて、自分がなんのために今この席に座っているのか、ステージ上ピアノからなんのために音が出ているのか、皆目わからないといいたいもので、頭がフラフラするような思いだったのにもかかわらず、またも賞賛する人がいて、やはりピアノ演奏に連なる方の意見だったのは驚きでした。

また近年、好成績で入賞した日本人に至っては、コンクール対策として、これまでの同コンクールにおける上位入賞者の演奏曲目となどを徹底的に調べ上げ、それをデータ化し、高い評価が期待できそうな選曲をしたということをテレビ特集の中で、自信ありげに語られたことは非常に印象的であったし、ショッキングでもありました。
なるほどコンクールは戦いの場であるから、出場するからには勝ちを狙って挑むという言い分には一理も二理もあることは承知ですが、でも、こういう価値基準が音楽の世界にも必要以上に浸透し、当然のようになるのかと思うとゾッとするようで、強い危機と恐怖を覚えたことも事実でした。

さて、ブロムシュテットによるN響定期のあとは、今年度のN響定期の中からもっとも印象に残るコンサートはどれだったかという人気投票が行われた由で、その上位3位までが紹介され、その1位の演奏が放送されましたが、この結果にもきわめて驚かされ、もはや、否応なしに、世の中は私などの考えるものとは全く違う方向に向けて、どんどん動き出してしまっているということを思い知らされました。

トリフォノフ-2

前回は、ドキュメントだけを見て、それに続く演奏会の様子は見ないで書いていたけれど、少しは演奏を聴かなくてはダメだろうと思い直し、今年のサントリーホールでのコンサートの様子をいちおう聴いてみることにしました。
よっこらしょと再生ボタンを押したところ、ドキュメントで見るよりは例のヒゲも多少は整えられ、シャワーでも浴びてきたのか、だいぶこざっぱりした感じ。

ラモーのクラヴサン曲集やモーツァルト、メンデルスゾーンなどはいつものごとくでときめかなかったのが、ベートーヴェンに至って状況が一変しました。
この日のメインと思しきハンマークラヴィア・ソナタは、始まるやいなや「ん?」となって、いままでになくこちらに迫るものを感じて、思わず集中力が高まりました。

たっぷりとした幅というか、堂に入った恰幅のある演奏で、開始早々から新鮮な印象を覚えたのです。
ベートーヴェンらしい雄渾さがありながら、ただ力で押し切るのではなく随所にデリカシーが息づき、それが的を射ているため曲と演奏が落ちるところへ落ちて、嵌まるところへ嵌まっていくあたりは、視界が開けてゆくようで、多少誇張的にいうなら、フルトヴェングラーなどを連想させるところがあり、こういうこともあるのか!と思いました。

概して多くのピアニストの場合、ハンマークラヴィアという巨峰へ挑むにあたり、さまざまに気負いがあるのは当然としても、この巨きく難解さも内包した作品をできるだけ我が手に掴もうと、説明的圧縮的に弾く人が少なくないように感じますが、トリフォノフはそういうものにはまるで関心がないのか、その場その瞬間をじっくりとあらわし、どれだけ時間を費やそうとも、一向お構いなしに作品を通して吐露することを厭わず、それが細部の魅力を大いに際だたせていたのは、立派だったと感じました。
ピアノ・ソナタというよりシンフォニーようでもあり、もっぱらファンタジーをもって牽引されていくようなやり方に好感と驚きがありました。

ただ、第2楽章は思ったほどではなく、トリフォノフ自身かロシア人故かはわからないけれど、遊びとか諧謔的な表現は得意ではない感じも。
さらに長大な第3楽章は、トリフォノフの世界と相性が合ったのか、そこにひとつの幽玄な世界が現出して、たなびくような弱音が果てしもなく続く様子が、後期の弦楽四重奏を想起させたりで、これはこれだなぁと言う気が…。
第4楽章はやや混沌とし、疲れもあるのか、しだいにスタート時点にあった軸がだんだん崩れていくようでもあったけれど、それでも退屈することなしに聴き終えることができたのは思いもよらないことでした。

今回の収穫は初めてトリフォノフの演奏を楽しむことができたことと、加えて、即興の名人といわれたベートーヴェンの一面を実感的にわかりやすく感じられたことかもしれません。
とくに第3楽章では、ちょうど心に憂いのある人の話が長引いて、本人も止めようとするもどうにも制御できず、いよいよ和声が収束に向かおうとすると、またあちらこちらへと話が広がる方へ動き出してしまって、脆くて、淡い、淋しげな独白が延々と続くあたりは、傷んだ心があてどなく延々とさまよい続けるようで、それがベートーヴェン的でもあったし、それを演奏として変にまとめようと処理することをせず、包み隠さず露わに伝える演奏だったと思いました。

第3〜4楽章は、ベートーヴェン自身もこれという設計や構成があったのかどうかは知りませんが、イメージとしてはどこか行き当たりばったりで、それを後から何度もお得意の推敲で仕上げて、いずれとも言えない曖昧なものを音符として確定させたのだろうという感じがあり、それを耳で体験することができたのは、これはひとえにこのピアニストのおかげだろうと思いました。

残念だったのは、あとで聴き返しても、やはり第1楽章が断然素晴らしく迷いなく仕上がった演奏であったのに対して、2/3/4はやや生煮えの印象だったことです。が、しかし、同時に作品自体も、それほど完成度が高いものとは思えないところがあって、作曲者自身も疲労困憊のあげく終わりへと漕ぎつけるようでもあり、そういうところが感じられたことも今回の演奏の魅力だったのだろうと思います。

前回の続きでいうと、トリフォノフはとくに前髪がおどろくほど長く、しかも演奏に没入すればするだけ背中を丸めて前かがみになるため、どうかすると手の甲へ毛先が接触するようで、やはり刺激的なビジュアルでした。

ピアノはファツィオリのF278で、ハンマークラヴィアのような曲ではこのピアノの特徴であるパステルな音色と、地響きのするような低音はまるでコントラバスのようで、なるほど現代のスタインウェイではこういう味は出なかったのかもしれないと思いました。

トリフォノフ見るたび

腰の具合が長引いて、座る姿勢が保ちにくいのですっかりご無沙汰してしまいました。

すこし前、BSプレミアムでダニール・トリフォノフのドキュメント映像が放送されました。

正直いうと、私はトリフォノフの演奏のどこがそんなにも素晴らしいのか、あまりよくわからず、それでも絶賛する向きもあるようで、少しでもそれを掴みたい気持ちもあってこの映像と向き合いました。

あんなに言葉を尽くされ、焦点を当ててドキュメントフィルムになるということは、こちらにそれを解する耳がないといえばそれまでですが、置き去りにされたような気分にもなるのです。
演奏への理解が最優先ではあるけれど、彼の風貌もどちらかというと苦手であることも、そこに拍車をかけているかもしれません。

2010年のショパンコンクールに上位入賞して、しばらくはロシアの美青年といった風な感じでいたけれど、演奏の様子はちょっと独特なところがあるし、加えて近年は髭を生やしたことで、そのイメージはますます特異なものになりました。

たかがヒゲぐらい、外国人男性なら今どき少しも珍しいことではないけれど、トリフォノフはそれがやけに特徴的に映るのは私だけでしょうか?

このフィルムのインタビューでも、わざわざヒゲのことについて質問されているところをみると、やはり外国人から見ても少しそんな印象があるのかなぁ?と思ったり。
思わず答えに興味をもったものの、明確な答えはありませんでした。

トリフォノフのヒゲの生やし方は顔の下半分が真っ黒になるほど盛大なもので、まるでびっしりと蜂の大群かなにかが群がっているよう。

対照的に頭髪はえらく直毛で、細いそうめんが垂れ下がっているようで、それと硬いヒゲとの対比がいよいよ独特に感じます。
さらにロシア人特有のほとんど笑顔のない沈鬱さが加わることで、それはもう怪僧ラスプーチンのよう…。

それを忘れさせるほど演奏に集中できればいいのだけれど、私には残念ながらそうもいかないため、どうしても意識が散って、あれこれと観察に及んでしまうと、やはり気にかかってしまいます。

ピアニストは演奏で勝負するものだから演奏のみで語るべきという大原則はあるわけですが、そうはいってもやはり視覚的な要素も完全に排除はできないというのが、人間の正直な心じゃないかとも思います。

知り合いには、この点を盛大に主張して憚らない人が居ますが、例えばラドゥ・ルプーなどはどれほど演奏が優れていようが、あの風采を見ただけでまったく受け付けない!とバッサリ切り捨ててしまいます。
これはいささか極端と思ったけれど、人の抱く感情はそれぞれだから、それもわからないでもありません。

また、素晴らしい演奏をしても存在感その他で、演奏に見合った地位を得られないピアニストも現実にいるというのは否定できませんし、一時期より下火になった気もしますが、日本人女性演奏者のお姫様スタイルも、やはりビジュアルが引き起こす問題のひとつです。

どれだけ「見た目じゃないんだ!」と言ってみたところで、やっぱりそれは一要素であることも事実でしょう。

宝塚の男役みたいだったアヴデーエワも、基本路線は変わらないけれど、最近では多少やわらかな雰囲気に微修正してきているようにも感じるし、相変わらずなのは、ユジャ・ワンなどでしょうか。
相変わらず水着のような衣装と、床に突き刺さりそうな鋭利で高いヒールの靴をはき、ひょこひょこ歩きでステージに出てくるスタイルはいまもって堅持しているようだけれど、だれであれ、もう少し音楽に集中できるものであったほうが、私などにはありがたいと思います。

谷昴登さん

9月終わりのEテレ・クラシック音楽館では、鹿児島県で45年間続く霧島国際音楽祭のオーケストラによる東京公演の様子が放送されました。
プログラムは、ワーグナー:トリスタンとイゾルデから前奏曲と愛の死、リスト:ピアノ協奏曲第1番、ストラヴィンスキー:春の祭典。

ピアノは谷昴登(たに あきと)さんという、初めて聴く若手でした。
どういう人なのかネットを見ても、近ごろは年齢や出身地があまり書かれないことが多く、これも時代の傾向なのかと思いますが、どうやら北九州市の出身らしいことがかすかにわかりました。
とはいえ、私が経歴で見たいのは、主に年齢と出身地と修行歴ぐらいなもので、問題は演奏であることは云うまでもありません。

リストの協奏曲第1番のピアノの出だしは、有名な両手オクターブの跳躍ですが、今どきにしてはどこか普通とはちがった趣があり、ここからまず「おや?」と思いました。
聴き進むにしたがって、いわゆる通俗的なリスト臭というか、リスト的演歌調ではない、全体に品位を感じる演奏で、今どきの若い人にしては、自分の感じたことを丁寧に表現していく感じが新鮮でした。
少なくとも、ありきたりな演奏情報のコピーで小賢しくまとめ上げたものではなくて、自分の感性の命じるものが前面に出て、その感性に忠実に演奏へと移されている印象を受けたのは好感が持てました。

ときに左右が微妙にずれてでも、バスを強調したりメロディーを際だたせたりするやり方は、最近では珍しいことで、広く跋扈するトレンドに乗らず、こういう人も出てくるようになったのかと思うと、少し救われる気がしました。

どこかまだ、コンチェルトなどの場数が少ない感じは否めなかったけれど、それは初々しさと受け取っておこうと思います。

最近はコンチェルトが終わっても、ソリストは必ずアンコールをすることが常態化しているようで、それもどうかと思う面があるけれど、とはいえ義務は果たしたとばかりにつんと引っ込んでしまうよりは、後にひとつ何か披露されることは楽しみでもあるのも正直なところで、まあ演奏家もサービス業の一面はあるのだから、それも仕方がないと思います。

この時の谷さんもご多分に漏れず、アンコールとしてピアノの前に座りましたが、弾きだしたのはなんと、ペトルーシュカからの3楽章から冒頭の第1楽章で、これはいささか違和感を感じざるを得ませんでした。
説得力のある、上手い説明はできないけれど、個人的なイメージではあれはアンコールに弾くものではないという感覚があって、直前のリストが好感をもって聴き終えたところへ、いきなり腕自慢の調子が混ざってきたのは甚だ残念な流れでした。

好意的に解釈すれば、この後に予定されるオーケストラの曲目が「春の祭典」だったから、ストラヴィンスキー繋がりにしたんだということかもしれませんが、アンコールはあくまで本編の後に付け加えるもので、先駆けるものではないと思うのです。

まあそんなところもあったけれど、リストはいい演奏だったと思ったし、ピアノもサントリーホールなら新しい楽器もあったでしょうに、少し弾き込まれた感じの、やや派手な音のするピアノでした。

最近は、以前より華やかでメタリックな感じのピアノがやや陰をひそめ、新しめの楽器のいかにも粒の揃った、柔らかさのあるピアノが使われるのはいいけれど、どこか精巧なマシンで生産された感じの、電子ピアノ的にあまりに整ったピアノが多く、そこへ今どきの無機質な演奏が加わってくるのは、毒も味もなく、ちっともおもしろくありませんが、久々に楽しめた印象ではありました。

我は巨匠なり

プレトニョフのピアニストとしての動画をいくつか見た感想…。

最近は指揮活動に一区切りついたのか、ピアニストとしての活動がお盛んなようです。

演奏そのものが若いころとはずいぶん様変わりしていることは以前にも書いた記憶がありますが、あらためて見てみて、とりわけ目につくのはステージ上での所作などの様子でした。

どこか不自然なほど、悠然と歩を進めて登場し…かたちだけ聴衆へお辞儀をして…ゆったり椅子に座り…やがて弾き始める、その一連の動作があまりにも大物風に過ぎ「自ら巨匠を気取っている」ように見えて仕方がありません。
そこらの若造と一緒にされちゃ困るよ、格が違うんだよということを、彼自身の態度によって前置きされているようで、少なくとも私個人はあまり好ましい印象とはなりません。

とくに協奏曲では、一同が待ち受けるステージへ、指揮者とともに現れますが、ソロではないぶんいよいよ大物風な気配を漂わせるのか、まったくのマイペースであたりを支配し、悠然自若とした様子を振りまくのがあまりに演技的で、可笑しささえ覚えてしまいます。

これまで、アンドラーシュ・シフのステージマナーにほんの少しその気配を感じていましたが、それどころではない。
今後、初老期を迎えたピアニストたちは、こういう風なハッタリをきかせて自分の生きる道を守っていくのか?と思ってしまって、まるで企業秘密の手の内を見てしまった感じです。

中でも驚いたのは、ベートーヴェンの第3番協奏曲で、約4分ほどのオーケストラの序奏の後に、決然と、両手のハ短調スケールでピアノが始まる、あそこで、ただでさえ芝居がかっている感じがある中、そこでみせた彼の仕草はアッと驚くものでした。

その直前まで、プレトニョフはまるで自分が指揮者であるかのように体ごとオケの方を向いており、なかば自分の出番を忘れたかのようにしています。
いよいよピアノの出番が近づき、オケのド、ド、ドーーーッ…というのが終わっても、一瞬そのままで、「エッ、、、何???」と思ったら、やおらゆっくりピアノの方を向いて、破綻寸前のところでかろうじてピアノを弾き始めます。
いやしくも本番の舞台で、これはいくらなんでも過ぎたパフォーマンスだと思いました。

プレトニョフの演奏は、すでに技術の問題はとうに超越した、高い次元に達しているよというメッセージが、どんなシロウトにもわかる調子で、ことさら一切力まず、淡々と、まるで凡人界へ大事なものを教えてやっているという色の強いものでした。

おかげで、このベートーヴェンらしい野趣も含んだ3番が、どうかすると4番のようなやわらかな音楽に聞こえたことは、ひとつの発見ではあったし、それはそれでひとつの演奏と言えなくはないでしょうが、あまりに計算された自己主張で押し通す様子は、もうちょっと自然であったなら演奏の方向としては必ずしも否定はできないもののようにも思うだけに残念です。
個人的には、演奏者には無心さがほしいのです。

別の動画では、モーツァルトの第24番もあって、こちらもハ短調であることもあって、きわめて似た感じの曲に聞こえてしまい、これがいいことなのかどうなのかは私にはよくわかりませんが。

これらの演奏を聴いていると、なぜプレトニョフがSKを選ぶのかがわかるような気がします。
もっと積極的な演奏で成果を出すスタインウェイでは、なかなかこのようにはいかないのだろうと思うと、たしかに自分に合った楽器選びは大切なことだと思います。
ところ構わずピアノを準備しなくちゃいけないカワイも大変だろうなぁと思います。

シューベルティアーデ

BSのプレミアムシアターでピレシュを中心とした、『シューベルティアーデ』の様子が放映されました。
会場はパリのフィルハーモニー・ド・パリ。

ステージのやや左にピアノが置かれ、その傍らには、テーブルを囲んで椅子に腰掛けた男女パフォーマー達が訳ありげな様子に佇み、聴く楽しみにほどよい視覚の楽しみを加えた、なかなか面白いアイデアだと思いました。

クラシックのコンサートは(わけてもソロの演奏では)、ステージ上にソリストがポツンと居てひたすら演奏に打ち込み、それを身じろぎもせず聴くというのが当たり前で、これはちょっとした加減で一転、耐え難い苦行にもなるスタイルです。
演奏者以外に見るものがなく、時に集中力が切れたり、魅力的な音楽がかえって損ねられたり、変な違和感に襲われたりといったことがしばしばあるのも告白しなければなりません。

同じ曲でも、たとえば映画の中で効果的に用いられたりすると、その感動たるや何倍にも膨れ上がって鳥肌が立ち、ひとつのパッセージが心の内に深く迫ってくることがあります。
素晴らしい作品を、素晴らしい演奏によって披露されても、どうも虚しい退嬰的な時間のように感じることが私はないといえばウソになり、そもそも音楽はもう少しほぐれた雰囲気の中で聴けたらというのは、しばしば思うところだったのですが、この時の試みは、そのひとつの回答のような気がしたのです。

そのパフォーマーたちの動きは、まるでお能のように、その動きは極めてスローな最低限の動きで、決して音楽を邪魔するようなものでなかったことも好感が持てました。

個人的にコラボなどに代表される表層的な合体行為あまり好まないけれど、あくまで音楽を聴くことに主軸が置かれ、しかし音楽一辺倒の退屈さをガス抜きできる手立てとしての、こういうスタイルはなかなかいいなぁと感心しました。

印象に残ったのは、冬の旅からの二曲、弦楽四重奏曲の「死と乙女」──これは圧巻の演奏でした──、最後のピアノ・ソナタD.960のあの絶望の淵に落とし込まれる第二楽章で、上半身裸体の男性が金属の翼をつけた扮装で、ピアニストの背後まで迫ってくるのは、まるで天使か死神かわからないけれども息をのむ演出でした。

出演は、ピレシュの他に、イグナシ・カンブラ/トーマス・エンコ(ピアノ)、トーマス・ハンフリーズ(バリトン)、エルメス四重奏団。

ピレシュは、いかにも良心的な音楽作りで、とくにピアノソナタはかなり弾き込んでいると思われ、見事な演奏ではあったけれど、やはり気になるのは、どこか清貧的で、みずみずしさの要素は不足気味に感じます。
かと思うと、それにしてはドラマティックな表現は随所にあって、その際には他に見られるような抑制感がなく、ちょっと大げさな芝居っ気のある節回しは過大に聞こえることがしばしば。

気になるといえば、ピレシュ独特のタッチも何度聴いても気にかかり、注意深く丁寧に奏してほしい箇所でも、手を上げて、上からタッタッタッタッという、音色の配慮を欠いた雑な音が頻繁に出てくるのは、ほかが素晴らしいだけに目立つ気がします。

ほかの二人のピアニストも、おそらくはピレシュの弟子と思われ、それはこのタッタッタッタッという音や、手首から先全体を使う独特な奏法が、ピレシュのそれとそっくりで、そこまで師匠の奏法を踏襲する必要があるのか?は疑問。
まず第一に、ピレシュの奏法は小柄な体格と小さな手のサイズをカバーするために編み出されたものと考えられるので、普通の手のサイズをもった男性ピアニストまで同じ弾き方をして、わざわざ叩くような音を出すのは、なぜだかわからない。

ピレシュは何年か前に引退宣言をしたけれど、相変わらずステージに立っていて、私の印象だけかもしれませんが、ご贔屓だったヤマハを弾く姿は目にすることがなくなり、専らスタインウェイばかり弾いているようです。

ガジェヴ

このところ、BSのクラシック倶楽部その他で、立て続けにアレクサンダー・ガジェヴの演奏に接しました。
日本では前回ショパンコンクールで、反田さんと2位を分け合ったピアニストというほうがわかりやすいかもしれません。

東京音大を訪ねて学生たちとの対話をしたり、主には同校ホールでの演奏会の様子が収録され、放送は2回に及ぶものでした。
プログラムもずいぶんと狙いのあるもののような雰囲気で、意欲を示した取り組みだったと思われますが、何をどう聴いたらいいのかもうひとつ掴めなかった…というのが個人的に正直なところ。

リスト編曲のベートーヴェン交響曲第7番の第二楽章とか、リストの葬送、スクリャービンのエチュードや黒ミサ、コリリャーノのオスティナートによる幻想曲、ベートーヴェンのエロイカ変奏曲、さらにはショパンのプレリュードから数曲を通常とは逆方向に並べて弾くなど、あれこれと風変わりなものでした。
全体にほの暗い、死の気配を滲ませたようなものだったのかもしれません。

ただ曲を弾くだけのピアニストではないんだぞという、アーティストとしての思索やテーマ性が込められているようでしたが、鈍感な私には音楽的に何をどのように言いたかったのかよくわからなかったし、学生さんたちとの会話も、こう言っては申し訳ないけれどごくありきたりなものにしか思えませんでした。
これとは別に、N響との共演で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番も聴きました。

ガジェヴの演奏については、全体に曲のフォルムがすっきりしており、一定のセンスのある人だとは思うけれど、どれを聴いても一様に彫りの深さが感じられず、もっぱら軽いテイストのピアニストという印象です。
今どきの基準でいうと、とりたてて技巧的というわけでもないし、そうかといって個性的とか、深いオリジナリティや芸術性で勝負しているわけでもなく、要するにこの人でないと、という印象が残らないのは惜しい気がします。
イタリア人で風貌の点からしても、いかにも深沈型の哲学者のような感じに見えますが、おもいのほかあっさりしていて、あえて云うなら軽い水彩画のような演奏のようにも思います。

とくに気にかかる点としては、音楽では随所に存在する転調や和声や表情が切り替わるポイントというか、部位の取扱いで、明暗や景色を変えるなど、曲中の場面転換に対しての注意深さがあまりなく、いつもそのままススッと通過してしまうところに、どうにも物足りないものを覚えます。
こういう要所は音楽を聴く上での大事なツボであるのに、それがとくにマーキングされないままあっけなく通過してしまうのが、信号のない交差点を速度を落とさず走り去るみたいで、これはどの曲を聞いている場合にも共通して感じるところでした。

また、折々にかなり情熱的な弾き方をすることもあるにもかかわらず、終わってみると、さほど情熱的な演奏に接したような気分が残らず、むしろ淡白な印象だけになってしまうあたりは、なんとも不思議でなりません。
どんなに熱っぽく弾いても、結果的にそういうものしか残らないというのは、要するにこの人の本質が淡白な良さにあるということかもしれません。
本当におしゃれな人は、どんなに泥臭くふるまっても、どこかおしゃれなところが顔を覗かせてしまうように。

ガジェヴは、2015年に浜松コンクールで優勝しており、その時からのご縁なのかどうかしらないけれど、ショパン・コンクールのときも私の記憶違いでなければシゲルカワイを弾いていて、その後来日してTVなどに出演した折にもスタジオでSKを弾いていたけれど、今回はいずれもスタインウェイでした。
ほかならぬSKの祖国である日本であるだけに、なんだか不思議でしたが、宗旨変えしたのか、たまたまなのか、はたまた別な事情があるのか…。

危険

ピアノの話でも音楽のことでもないのですが…ちょっとした恐怖体験をしたので。

私は肌があまり強くないこともあり、ここ数年は入浴時にはオリーブオイルから抽出したという、輸入物で不格好な茶色の石鹸を使っています。
といっても高価なものではなく、この手のものの中では安物の部類で、普通の石鹸よりはわずかに値がはるといった程度のものです。

おかげで肌荒れなどはせずに済んでいるものの、普通の石鹸のように使いやすく面取りなどされていないので、そのぶん使いやすい形にこなれてくるまでが大変で、どうかすると小さくなったもののほうが使いやすいのですが、じきに角が取れてくるとやがて小さい方は出番がなくなります。
しかし捨ててしまうのはどうにも気が進まないし、さりとて大きい方にくっつけようにも平面ではないため、これがまたなかなか思うようになりません。

なにか良い方法はないかとYouTubeを見てみると、「この手の石鹸は大きいので電子レンジで温めて使いやすい大きさにカットできますよ」とか「同時に小さくなった石鹸も容易に接着できます」というのがあったので、「ああ、なるほど!」とひとり合点して、動画をよく見ぬまま小さくなった石鹸を、小皿に乗せてチンすべく、すんなりスイッチを押してしまいました。

その間、キッチンで他事にかまけていると、電子レンジの方から唐突に「ボンッ!!!」という大きな音がしてびっくり仰天。
あわてて駆け寄ると、中はまったく見えないまでに白い煙で充満しており、しかもレンジはまだ作動中なので、恐怖におののきながら必死にスイッチをOFFにし、すぐまたそこから離れました。

なにかしくじってしまったらしいことは明らかで、レンジのドアを開けるのも恐ろしくて躊躇われましたが、だからといってとてもこのままというわけにもいかず、ゴクンと唾を飲み込むようにしておずおずとドアを開けると、凄まじい量の白い煙と鼻を突くような異臭が猛然とこちらへ襲いかかってきました。

キッチンは警報機が作動するのでは?と思うほど容赦なく煙が流れだし、しばらくは近辺の視界が効かないほどで、臭いもかなりのもの、とりあえず最寄りの窓を開けながら、これはえらいことになったという認識が遅れて付いてくるようでした。

意を決してようやく中を覗くと、皿は見事に三つに割れていて、中に置いたはずの小さな石鹸はまるで姿を消しており、代わりにコールタールのようなどぎつい茶色の液体がだらしなくそこらに広がっていました。
割れた皿を取り出そうとすると、これがまた信じられないほどの高温に熱されており、回収作業にはかなりの手間を要することに。

考えてみれば、石鹸は油からできているわけだから、ひとえに自分の短慮を恥じるばかりですが、容易にYouTubeの主張を短絡的に捉え、鵜呑みにしたことにも非があります。

幸い怪我などはありませんでしたが、下手をすれば大事にもなりかねないことで、危ないところでした。
というわけで、馬鹿なことをしたおかげでかなりな危険を感じましたので、私の阿呆さ加減をどうぞお笑いください。

最近のBechstein

腰の加減がまだ思わしくなく、すっかり更新ができていません。

はなはだ不確かながら、ここ最近では、ベヒシュタインの新しいグランドの音がかなり変わってきたように思っていますが、いつ頃からはさらに曖昧で、この一二年のことではないかと思っています。

その対象となるのは、少なくとも戦後からこちら今に続くグランドについてで、とりわけ入念に確認したのは公式動画サイトに相当数アップされている、コンサートグランドであることをまずお断りしておきます。

戦前のベヒシュタインにくらべると、戦後のグランドは(私の乏しい経験によれば)やや武骨な、ドイツ的体臭の強いピアノというイメージがあり、同様の印象をお持ちの方も少なくないだろうと思われます。

もちろんそこが魅力的でもあるわけですが、時代に沿った洗練という面ではやや取り残された観がありました。
戦前の同社グランドの気品ある透明な音色に比べると、いささか朴訥で、ワイマール時代の華麗なベルリンというより、ジゼルに出てくる森の男のような印象がありました。

ベヒシュタインといえば、一つ覚えのようにドビュッシーの有名な言葉が語られ、折々にこの人の作品が演奏されることも少なくありませんが、率直なところ赤ひげのドイツ人がフランス語を話しているような印象が、私にはありました。

低音域など独特な板床を叩くような響きがあるし、全体にも頭が大きく減衰のはかない音(これを「立ち上がりが良い」と表現される)こそがベヒシュタインの特徴とされていたこともあって、そういうものだろう…と思い込んでいました。

ところが、あるとき、はじめてベヒシュタイン・アップライトの最高峰である「コンサート8」に触れたとき「世の中にはこんなにも素晴らしいアップライトがあるのか!」という強い衝撃を受けることとなり、それは今も忘れられません。
品格、繊細さ、深み等々…どれをとっても極上で、さらにはカシミアのようなまろやかなタッチなど、およそケチのつけようのないものでした。

それがきっかけで、ベヒシュタインではむしろアップライトに興味をもつに至ったのですが、どのモデルもコンサート8の流れを汲む端正な音色をもっていて、グランドに感じていたドイツの野暮ったさは皆無でした。
同時に同じメーカーであるのに、グランドとアップライトでこうも音の性質が違うものかと、ますます疑問が募り、ついにはアップライトで実現されているような、清純で色彩的な、澄んだ音のグランドを作ったらいいのに…というようなことを空想するようになりました。

まさかその一念が通じたわけもありませんが、ここ最近のベヒシュタインのグランドは、どうも以前とは様子が違うらしい気がしてきているのです。
といっても、YouTube動画による印象でしかないのは実証性にとぼしく甚だ心もとないところですが、それでもどうやら「変わった」ようで、少なくともこのブログに文章として書いてみようという気になるぐらいの違いを感じるに至りました。
ベヒシュタインらしさを残しつつ、時代が求める要素の見直し作業が行われたのか、以前のような強すぎるドイツ訛りがかなりなくなっています。

これなら、ショパンやドビュッシーでも、違和感なく聴ける気がします。
わかりやすい識別点でいうと、ここ数年で、ベヒシュタインに使われるフェルトの色は、伝統的なモスグリーンから、鮮やかな紺色に変更されいるのが一目瞭然で、新しいグランドに至っては、ついに腕木の伝統的な形状もわずかながら変化しているようです。

今のところ、変化の代償なのか熟成が足りないのか、すこしカジュアルに聴こえる気がしないでもないけれど、これにやがて深みが加わってくるようなら、相当に魅力的な選択肢のひとつになるような気がします。

ご興味のある方は、YouTubeで[C.Bechstein]と検索すると、同名のチャンネルが出てきます。

本場の宝探し

ヨーロッパにお住まいの方から、面白い情報を寄せていただきました。

今どきはどこの国にも売買サイトがあるのは当たり前でしょうが、そこに出品されているピアノはというと、日本とはまるで異なるものが次から次へと出てきて、面白いといったらありません。

その中に、ドイツの伝統ある有名メーカーのグランドで、「ピンも弦も交換されているのに数ヶ月経っても売れない」のがあるらしいとのことで、私もさっそく直に見せていただきました。

お値段は日本円で80万円くらいと、望外の価格でもあるため、あまり細かいことを言い立てるのもどうかとは思いつつ、率直にいうと、一枚目の写真から早くも怪しい気配が漂っているようでした。
ロゴやフレーム、ピン板、譜面台、外装にいたるものまで、多くの部分は違和感にあふれ、本当にそのメーカーのピアノかどうかも疑わしい感じを受けたのです。

100年以上経過しているとはいえ、メジャーブランドのグランドがこんな値段で売られていること自体、どこかおかしいような気もしましたが、その方も興味本位とのことで、とくに購入を検討されているわけではないらしく、あまり真剣に観察する必要もないため却って面白いくらいでした。
ついでにほかも見渡してみると、さすがは本場だけあって多種多様の珍しいピアノがひしめき、音楽文化の歴史と裾野の広さとが如実に窺えました。

これを時間をかけ丁寧にウォッチすれば、中には掘り出し物といえるものもありそうですが、玉石混交であることも否めず、購入となればかなりの眼力が必要だろうと思います。
とくに古いピアノの場合、素人判断で安易に購入してしまうのはかなりの危険を伴うと思っておいたほうがよさそうですが、同時にヒリヒリするようなスリルもありそうで、つい引き寄せられていくのも正直なところ。
もし私みたいな人間がそんな地にいたらどんな目に遭うやら、考えただけでも恐ろしくなります。

日本の中古ピアノ市場といえば、大半がヤマハとカワイで一向におもしろ味がないのに対し、当たり前ですがヨーロッパの土台が違うというか、見ているだけでもわくわくで、それこそため息の出るような美しいピアノから粗大ごみのようなものまで、まさに宝探し気分です。

なんといっても楽しいのは、日本では絶対にあり得ないようなブランドのピアノがかなり意外なお値段ででていたりしますが、同時にかなり危なそうな雰囲気のものもあったりで、免疫のないマニアにとってはかなりの危険地帯でもあると思います。
日本と違って、騙されるときも思いっきりスッパリやられそうです。

腰の加減で、もっかほんの短時間しか椅子に座れないこともあり、ブログの更新もおぼつきませんが、快復したときじっくり見るのが楽しみです。

現代は疲れる

現代のネット社会は多くのことを劇的に便利にしていることは認めるにしても、まったく逆に超不便になったこともあります。

その代表例が電話を使わせない社会となったこと。
電話対応のための人手の確保やそのための人件費の問題などがあるのだろうし、いろいろやむを得ない面もあるだろうことは理解しても、その代償はあまりに大きい気がします。

むかしなら、わからないことがあれば、しかるべきところに電話して言葉で質問すれば簡単かつ短時間で済んでいたことが、まったくそうはいかなくなりました。
そもそも企業でもなんでも、電話番号を秘密情報のごとく隠されているも同然だから、まずこれを探り当てるだけでひと仕事。

ようやくわかっても、高い通話料金のかかる番号だったり、あの手この手で電話そのものを諦めさせようという障壁が設けられているのが見え見えです。

どこかに隠れるようにしてフリーダイヤルの番号があったとしても、こちらが望む担当者と話ができるようになるためには、まったくバカバカしいガイダンスを繰り返し聞かされるし、該当するものが無かったりと、その道はサービスとは程遠いばかりに険しいことは多くの方が経験されていることだと思います。

細分化された目的のところまで辿り着いたかと思うと、こんどは「ただいま電話が込み合っており、このままお待ちいただくか、しばらく経ってからおかけ直し…」となって、これだけ苦労して、エネルギーを費やして、ストレスと闘いながらここまできたのに、かけ直すとなると、またガイダンスからやり直しで、まったく弄ばれている気になります。

電話以外では、なにかのアカウントを取ったり、通販を利用したり、予約をしたり、クーポンを使うなど、入力する場面にしばしば出会いますが、そのたびに入力フォームなるものがあり、この多くが会社都合で不親切だと言わざるを得ません。

例えば、モノを送るのに宅配便の申し込みをして、希望する日に取りに来てもらう必要が生じたとき。
以前なら、どこか適当な営業所に電話すればパパッと済んだことが、今はネット上からの申し込みが主流となっており、これだけなら時代の趨勢として仕方がないかと思いますが、現実にはそう簡単なことではありません。

まず送るものの種類や大きさなどから、どの便を使うべきかを自分で判断し選択しなくてはいけないし、それが間違っていると、予約サイト上の進行や料金など、なにもかもが違ってきます。
したがって、どれが最適で目的に合致しているのか、サイトの説明を読んだり、調べたり、寸法を計ったり、ほとんど宅配便会社の社員の仕事ようなことをさせられるわけで、この手のことは初見で最適なものへ到達することはきわめて難しい。

さらに、ようやくこれだということになって、入力フォームに打ち込みを開始しますが、終わったと思って決定ボタンを押しても、何かが不備だったり、間違っていたり、なんらかのシステム上の要件を満たさないものがあると、あっけなく拒絶されてしまいます。
ここでいいたいことは、何がダメなのかわからないため、そこで延々と時間をとられるのは何なのか?と思います。

いつも思うことですが、慣れない一般人を相手にしているのだから、せめてどこがダメなのか、なぜハネられているのか、これぐらいは利用者に知らせるべきではないかと思います。
今の若い方はそういう苦労もなく、すんなり順応できるのかもしれないけれど、こういうものは老若男女がもっと使いやすいものであるべきだと思いませんか?

マイ・バッハ

『マイ・バッハ 不屈のピアニスト』という2017年ブラジル製作の映画を見ました。
以前からお気に入りに入れてはいたものの、「マイバッハ」というのが車の名前みたいであまりそそられず、ずっとそのままにしていたもの。
ようやく見てみたところ、思ったよりも見応えのある作品でした。

個人的に見るのに時間がかかったのは専らタイトルのせいで、原題を調べるとぜんぜん違うようでした。この映画に限ったことではないけれど、どうしてこんな邦題になるのか?と首をひねることが少なくありません。

以前もアルゲリッチのドキュメント映画で『私こそ音楽!』という、なんとも幼稚で知恵のかけらもない邦題に驚いたものです。
映画にとって、タイトルは非常に重要なものであることはいうまでもなく、邦題をつけるにあたりもう少しセンスのある人はいないのか?と思います。
…いや、センス以前というか、映画の内容を理解しているのか?そもそも映画を見たのか?とさえ勘ぐりたくようなものが少なくありません。

さて『マイ・バッハ 不屈のピアニスト』はブラジルのジョアン・カルロス・マルティンス(1940年生)というピアニストの半生を描いた作品でしたが、あろうことか私はこの人のことをほとんどなにも知りませんでした。

才能あふれるピアニストとして頭角をあらわし、ニューヨークに移り住んで、さあこれから世界に打って出ようとしていた矢先、たまたま目にした有名なサッカーチームの練習に吸い寄せられるように近づき、そこで走り回っているうちに手に大怪我を負ってしまいピアニストの活躍にとんでもない急ブレーキが掛かります。
それでもなんとかリハビリを重ね、徐々に演奏活動も軌道に乗り、名声も復活したかに見えますが、45歳のときに暴漢に襲われ鉄パイプで殴られ、再び大怪我を負うという不運に見舞われ、そんな境涯を果敢に生き続ける姿が描かれています。

映画として面白いかどう以前に、才能あふれるピアニストの身にそのような不幸が襲いかかるという現実は、あまりに残酷で見ちゃいられないものでした。

それにしても、1940年代の南米といえば、アルゲリッチ、バレンボイム、ゲルバー、フレイレなど、とてつもないピアニストが続々と登場してきたのはどういうわけだろうと思います。
さらに世代の枠を外せば、アラウやボレット、フリッター、モンテーロ、作曲家でもヴィラ=ロボスやナザレーなど、挙げていたらキリがないほどで、ひょっとすると北米より音楽の大物は多いのかもしれません。

映画に戻ると、使われるピアノもよく時代考証されており、ずいぶんたくさんの古いピアノが出てきたのは、楽器を楽しむ側面からいっても見どころの多い映画でした。
戦前のベヒシュタインや、いかにもマルティンスが若いころのニューヨーク・スタインウェイなど、ピアノのチョイスもほとんど違和感なく楽しめるものだったことは見事だったと思います。
ほかにもフッペルや名前のわからないピアノがあれこれ出てきて、これだけ多くの珍しいピアノが出てくるという点においても貴重な映画だろうと思います。

「ほとんど」と書いたのは、一度だけ、時代もモデルもおかしなタイミングでヤマハが出てきたのは、ほかが見事だっただけに残念でした。
それにしても「マイ・バッハ」ってどういう意図のタイトルなんだか、いまだにわかりません。

おもいで

このところまた腰が痛みだし、パソコンの前に座る時間がを減らさざるを得ず、書き込みが少なくなりました。

安静にしようと、ある随筆を読んでいると、半ば詩のようにやわらかに語られる言葉の中から、昔の情景が自然と目の前に広がってくることが何度かあり、そのたびに遠い昔に連れ戻されるようでした。
幼いころの光景がふわふわとよみがえるのは、なつかしさもあるけれど、どこかもの悲しいのはなぜでしょう…。

生まれてはじめてピアノの先生のところに行った頃のこと。
いわゆる街の先生で、親がなぜその先生につけたのかなど幼稚園の私にはまったくわかりませんでしたが、とくにピアノをさせようというような意思があったとは思えないし、子供の足でも歩いて10分ほどのところにあるというぐらいの、ごく単純な理由だったに違いありません。

先生宅は古い木造の2階建てで、ギィギィときしむ階段を登ると、グランドピアノが二階の板敷きの二間をまたいで前後の足をかけるように置かれていて、後ろ足のほうの床は階段部分にかぶっており、子供心にも不安を覚えたものです。

女の先生で、使われた教本のタイトルは思い出せないけれど、子供の目にもやたらと子供向けの、1ページに音符が一つか二つ大きく書いてあり、ページが進むごとに音符の数が少しずつ増えていくようなもので、これがもう救いようがないほどおもしろくなくて、おそらく1〜2ヶ月通ったあたりで我慢の限界。

私がいやがると、ことさら自由な感性で生きていた父は「いやならやめればいい」と言い出し、母もすんなり「そうね」と同調し、あっけなく止めてしまいました。
それでも誰から強制されるでもなく危なっかしい手つきでレコードを回してはよく聞いていたし、自己流で鍵盤に触れることはやっていたのはピアノは嫌いじゃなかったからだと思います。
自己流で少しずつあれこれ弾くマネごとのようなことをしながら、めちゃくちゃな指使いでエリーゼのためにぐらいを弾けるようになったことは我ながら笑ってしまいます。

コンサートにもよく連れられていったこともあってか、ついに自分から「ピアノを習いたい」と志願したのです。
しかし、それはすでに小学校5年生ぐらいのことで、これがいかにも遅すぎました。

ならばと連れて行かれたのが、泣く子も黙る、超スパルタ音楽院でした。
といっても、あえて厳しいところに入れようというような教育熱からではなく、院長先生と我が家とはちょっとした御縁があったし、ほかにあてもなかったからで、なにごともそんな程度の理由で物事が片付いていく時代でした。

当時、日本のピアノ教育会は井口基成氏がいわば天下人で、他には安川、永井等々いろいろとあったようですが、なにしろ井口先生にはカリスマ性があり、夫人や妹さんまでピアノ教育者として名を馳せた一族で、さらには桐朋の音楽科設立にも寄与した事もあって、当時は他を寄せ付けぬ威光がありました。

…でもそれは東京の話でしょ?と思いがちですが、福岡の院長は基成氏の直弟子たる猛女(先生)で、ご主人が実業家であったこともありそのための音楽院まで作って、飛行機が高名な先生たちをどんどん輸送しました。
まるでドラえもんのどこでもドアのように、そこはまさに井口系のピアノ道場だったのです。

というわけで、そんな環境は私に向いているわけがありません。
それでろくに練習もせず、あれこれと策を弄して逃げまわる数年間を送ったことは過去にも書いたことですが、身近に接する芸大/芸高/桐朋などを受験する生徒の腕前は大したものだったし、発表会ではなんと九州交響楽団が共演することもあり、いま思えば貴重な経験になったとは思っています。

ピアノ受難

パリ・オリンピックが閉幕しました。

パリ大会の開会式・閉会式では、ピアノが様々に登場したようですが、その使われ方には疑問の残るものが多かったように思います。

開会式での激しい雨にさらされてびしょ濡れのピアノが複数あったことはすでに書きましたが、閉会式では、今度はピアノとピアニストが宙吊りにされ、垂直のまま演奏するという驚きの光景を見せられることに。
以前も、フランスでは空中でピアノを弾くという奇想天外なパフォーマンスを動画を見た覚えがありましたが、もともとフランスという国はそういうイカれたことが好きなのか?!?

さらに驚いたことには、今回のオリンピックではピアノを燃やしてしまうパフォーマンスもあったのだそうで、もうそこに至っては見たくもないので動画を探してもいません。
中には「カッコいい」という意見もあるようですが、非難の声も相当あがっているようです。

「開会式では雨に濡れ燃やされたピアノ、閉会式では吊り下げられたり、ピアノの使い方がおかしい」
「ピアノに対して恨みでもあるんか?」
「ひどい」「ピアノがかわいそう」といった意見もネット上にちらほら出ていました。

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の場面を揶揄したり、マリー・アントワネットの首が出たりと、かなり過激な試みも恐れることなく挑戦するという意欲は買うとしても、いささかやり過ぎでは?と思う面が多すぎたののかもしれません。

そもそも、芸術の都として名高いパリで、ピアノという楽器に対してあのような非文化的な扱いをすること自体が、個人的にはその見識のほどを疑ってしまうものがありました。
これが、文化の何たるかもまるで解さないような、成金の野蛮国の所業ならともかく、なにしろパリですからね。
パリにはピアノに関する歴史でもプレイエルがあり、ショパンやドビュッシーが住み暮らし、ロンやコルトーやフランソワがいた街であったことを考えると、やはり今回の振る舞いは納得がいきません。

最後の吊り上げ演奏では、単純な疑問も残ります。グランドピアノの構造は水平であってはじめて機能するもの。
これを縦に吊るした(しかも鍵盤が下)というのは、少しでもグランドのアクションの構造を知る人なら、演奏するのは常識では不可能なはず。

ということは、音源は別にあって、空中で弾いているマネだけしていることも大いにありそうで、これを口パクというのかアテレコというのか適確な言葉はわからないけれど、あまりに意表をつくハデな演出ばかりでは虚しいです。

フランスに限ったことではないけれど、とにかくハデなことをやって注目を集めさえすれば、それが正義という価値観があまりに中心になりすぎていて、まさに炎上商法ですね。
そんなことをしなくても、パリの輝きは世界中が知っていると思いますけどね。

競技や審判に関することでも非難される事柄がずいぶんと多かったようで、今どきのスポーツが純粋公正でさわやかなものとはもとより思っていないけれど、それにしえもマイナス面も数多かったように感じました。

ちなみに宙吊りにされたピアノはヤマハでしたね。

まさか!

偶然をもうひとつ。
録画設定しているTV番組は、視る機会のほうがはるかに少ないから溜まっていく一方で、HDの容量確保のためときどき整理が必要で、タイトルだけ見て消したり、ときに少し見てみたり。

『新・美の巨人』6月22日放送分は、建築界のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」をとった山本理顕氏が手がけた横浜市立子安小学校が採り上げられていました。

建築のことはよくわからないけれど、見るのはとても面白い。
ここは全校生徒が1000人を超える大きな学校で、それを前提とした機能的な建築のようでした。
体育館に集合というと、全校生徒はわずか10分ほどで体育館に集まる事ができる由、これはL字型をした校舎に抱かれるように体育館があり、二方向から最短距離で体育館と繋がれているためだとか。

学校の体育館といえばステージがあり、ステージにはピアノがあるのがごく当たり前。
この時も舞台の下手のほうにカバーのかかったグランドピアノらしきものがあって、それは小さく画面の端に数秒しか映らないのに、悲しい習性でついチェックをしてしまいます。

一般的に日本の公立の小学校ならばヤマハかカワイ以外はあり得ないという先入観があり、ほとんど関心は寄せていなかったところ、足の形状に「ん?」と目が行きました。
足の下部には金色の薄い受け皿のようなものが嵌めこまれており、そのすぐ下がキャスター。

これはヤマハでもカワイでもないし、強いて言うならベヒシュタインとベーゼンドルファーですが、足の形状はあきらかにベーゼンとは違うし、ベヒシュタインならペダルから斜めに伸びるペダルの突かい棒が太い木製ですが、それは細い金属製のようで、そこからこれしかないと考えられたのは「ディアパソン」でした。

全体のサイズはほぼ210cmクラスで、おそらくDR500だろうと思いました。
このサイズの大橋デザインモデルが廃盤になったあとに出た、カワイのRX-6ベースに一本張りにされたモデルで、高音側の外板のカーブが始まる位置がかなり後方であることからも、そのように推察できました。

実はこれ、個人的にものすごく好きなピアノで、根っからのファンにしてみれば「カワイを流用したもので、真のディアパソンではない!」ということになるかもしれません。
ところが、大橋モデルとは違った包容力とまろやかで美しい音色、大人っぽい落ち着きを兼ね備えた、きわめて魅力的なピアノで、もしかしたら個人的には一番好きなディアパソンかもしれません。
しかしこのサイズともなると、そうそう売れるものではなかったのか、早い時期にカタログから落とされた経緯のある、かなりレアなピアノだと思います。

何年も前、ディアパソンをイチオシ!するショップで、「実は一台だけ本社に残っている未使用のDR500があって、ご希望なら販売可能です。」といわれて、かなり心がざわついたことがありますが、さすがに衝動買いするわけにもいかず諦めるしかありませんでした。
ピアノが手に持てるほどのサイズで、お値段も一桁違えば買っていたでしょうけど…。

そんなレアなピアノが、まさか公立の小学校にある!というのも、かなりレアケースだと思いました。
番組で紹介された建築も大変なものだったけれど、思いがけなくピアノのほうに気持ちが向いてしまい、どういう経緯でそういうことになったのか、あれこれ考えを巡らせてしまいました。
勝手にディアパソンのDR500だと決めてかかって書いていますが、もし間違っていたらとんだ赤っ恥ですが!

家族の一員

少し前のこと、民放TVで都市部から遥か遠い、隔絶した山中などで生活する人たちを訪ねて、その生活に密着するという番組があり、あまりのすごさにびっくりして、つい最後まで見てしまいました。
ほかに『ポツンと…』という番組もあるようですが、それとは違う3時間ほどの特集番組でした。

いずれも、自然の中の隔絶された自然の中で暮らす人たちで、中には、山深い集落もない文字通りの一軒家で、小さな子供が何人もいつ一家であったり、高齢でも一人暮らしをする人まで、その逞しさときたら想像を絶するものばかりです。
中には代々の家を守るためという方もおられたけれど、都会生活を投げうって、あえてそんな場所での暮らしを意義あるものとし、自ら選択した人たちの何組か紹介されました。

共通しているのは、どの方もやせ我慢や演技でなく活き活きして、日々の生活のために体を動かし汗をかきながら充実した暮らしを送っておられるように見えました。
電気や水(山の湧き水であったり)はあるけれど、食べ物(とくに野菜)は基本的に大半が自給自足で、みなさん土を耕し、種を蒔き、多種多様な野菜を育てておられ、鶏や牛や山羊などもいれば、同時に子育てまでこなすという忙しさ。

朝から絶え間なく体を動かし、薪をおこして食事を作り、風呂を沸かし、日が落ちれば眠りにつくというもので、とうてい真似のできるものではないけれど、生きるということの本源のようなものに触れた気がしたことも事実でした。
それに、なんとはなしに心地よかったのが、ここではスマホもネットもSNSもなく、俗世の瑣末なことや競争社会のストレスなどの要素がまったくないので、それだけでも不思議な安堵みたいなものを感じてしまいました。

私は自他ともに認める「田舎の生活は無理派」で、運動嫌いで、夜行性で、虫が嫌いで、エアコン依存症で、そういう要素満載なのですが、それでも田舎の生活の魅力というものも、できる人にとっては一理あるんだな…と思わせられました。
なにかにつけて、現代人が当たり前だと思っている便利とは真逆の世界だけれども、旬の野菜だのなんだのと、身近にあるものはどれも新鮮で、大量で、ある種贅沢で、勝手な部分だけはやけに羨ましく感じました。

みなさんいずれも心が広く、自然な笑顔が耐えず、こせこせしたところがなく、わざとらしさのない普通の優しみや安心感があって、考えさせられるところが非常に多かったことは、まったく意外なことでした。

最後に紹介されたのは関東から大分県南部の山の中へやってきたという一家。
山の中腹に佇むまさに一軒家で、その家を自力で修繕しながら生活を始めてようやく一ヶ月というところでした。

家の中は作業のための廃材やらなにやらでごった返していましたが、なんとその片隅の床の上には茶色の杢目のグランドピアノが、後ろ向きに置かれていて、まさかピアノがあるなんて思いもしなかったこともあり、「おお!」っと目を奪われたのはいうまでもありません。

これから床をどうする、お味噌を仕込む、畑に行くなど、あれこれの説明のところどころに、チラチラとそのピアノの一部が写り込むのですが、どういうピアノかはまったくわからずにじりじりしました。
ただ、そこにはどことなく日本のピアノではない気配を感じ、ますます気になって仕方がありません。

ピアノのフォルムが全体にとても細身というか華奢で、枯れた感じさえあり、どちらかというとメタボ体型の日本のピアノではない気もするから、輸入物か、あるいは過去のメーカーのピアノか、もう番組そっちのけでピアノにばかり意識が向きました。

後半、ついに!ピアノが紹介される場面となり、それによれば、ご主人の趣味のためここまで運んできたものだそうで、ついに蓋が開いて演奏が始まりました。
自作の曲で、2歳に満たない一人娘のために作ったという曲を弾かれましたが、ついに最後まで鍵盤蓋のロゴは一切わかりませんでした。

もしやブリュートナー?とも思っていたけれど、腕木の形状が違うし、あれこれの記憶の断片をつなぎあわせた末、おそらくあれはザウターではないか?というのが私の結論でした。確証はありませんが、たぶん。

都会での生活はすべて捨て去ったとのことですが、ピアノは捨てられなかったようで、そーだろうねーと思いました。

…だからなに?といわれたら二の句が告げられませんが、ただそれだけです、ハイ。

オリンピック

パリ五輪が始まりました。

開会式当日はすでに曇天で、やがて晴れてくるのかなぁと思ったらとんでもない、ほどなくして無情にも雨粒が落ちはじめ、さらに時間が経つほどにそれは強く激しいものとなってしまいました。

そんな状況にもめげることなく、ダンスをはじめ渾身のパフォーマンスに打ち込む大勢の人たちが気の毒なほどの猛烈な雨足。
この雨のせいかどうかはわからないけれど、選手たちの乗る船もときに心配になるほど大きく上下に揺れるのがあったり、いやはや、これは大変なことになったようだと思いました。

ダンスや動きがキレッキレで激しいだけに、いつ転倒するのかとハラハラしましたが、ほとんどそういうこともなく、みなさん大したものだなあと感心させられました。

こんな場合にもついつい目が行くのはピアノで、はじめの頃(雨が降り出す直前)、レディー・ガガが歌って弾いていたのはスタインウェイのBかCで、閉めた大屋根の上に譜面台が置かれていましたが、サイドのロゴは黒いテープのようなもので隠されていました。
だれもが知っている、ルイ・ヴィトンのケースなどはあんなに露わに映しても、ピアノのロゴは隠すんだ…と思いました。

この日のピアノネタで最大のものは、フランス人ピアニストのアレクサンドル・カントロフ(2019年のチャイコフスキーで優勝)のソロでした。
ピアノは激しい雨が叩きつける場所に置かれ、大屋根は閉じられているものの、その上部には大粒の水たまりが無数のアメーバのように広がり、カントロフ自身も後には引けないと覚悟を決めているようで雨を浴びながら弾いており、曲はまさかのラヴェルの「水の戯れ」。戯れどころかずぶ濡れで、これにはもう笑うに笑えず、身を捩るような気持ちになりました。

音はしっかり出ていたけれど、普通サイズのグランドで、あれだけ強い雨の中、しかも大屋根を閉じた状態で、あんなにまともな音がでているとはとても思えず、おそらく音源は別にあったのだろうと思いました。
これだけのピアニストに弾かせておいて、手元は一切映らなかったのも不自然で、やはりいろいろ事情がありそうでした。

ちなみに、これほどの大雨でびしょびしょにされたピアノはどこのメーカーかとずいぶん観察しましたが、残念ながらそれを突き止めることはできませんでした。
細部からも特定には至らず、まさかのダミーでは?などと勘ぐったり。

翌日からはさっそく競技が本格化したようですが、はじめに目にしたのは柔道で、選手であれ審判であれ一人の日本人もいないのに「はじめ!」とか「まて!」とかいうのは、なんだか奇妙な感じがするものですね。
フランスでの柔道人気は昔から根強いものがあるらしく、なんと日本よりも競技人口が多いというのは驚きですし、柔道人気はフランスだけでなく世界的で、あのプーチン大統領も黒帯の有段者というのですから、どこがそんなにいいのやら…。

かく言いつつ、我が身を振り返ればヘンなフランス車に30年も乗っているし、フランスの文物もロシア音楽も大好きなので、そこはお互い様というところでしょうか?

ブッフビンダー

先日のEテレ、クラシック音楽館は前半がブラームスのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノはルドルフ・ブッフビンダー、指揮はファビオ・ルイージ/NHK交響楽団。

ブッフビンダーはウィーンを拠点とするピアニストで現在70代の後半。
ドイツ系音楽のスペシャリストとして数えられる人ですが、個人的には特に強い印象をもった記憶はあまりなく、いわゆる「中堅」という言葉がこれほどピッタリくる人はないイメージです。

際立った魅力も感じないがイヤミもないというところで、ウィーン系のピアニストというと、ティル・フェルナーとか近いところではヴンダーといった名前が浮かびますが、いずれも自身の個性表出より音楽への奉仕に重きをおくタイプの人で、そこがウィーン流なのか?とも思います。

とくにフェルナーの細部に至るまで神経のかよった端正な演奏は舌を巻くところで、様式感を重んじつつ、そこにあふれる清潔な美しさは印象的。

ブッフビンダーはウィーン系でもまた趣が異なりますし、そもそもウィーン系なのかどうかもわからない。
CDなど何枚かは持っているけれど購入当時に幾度か聴いただけで、自分にとってさほど重要な存在にならないまま、以降は手に取ることもほとんどなくなってしまいました。

氏のプロフィールや得意なレパートリーから期待するような、構造感とか折り目正しさというわけでもないし、その音楽には感覚重視の印象もあり、どこか線の細さを感じます。

よって、やはり「中堅」としか思えないのだけれど、最近ではお歳も重ねられたこともあるのか、いつしか「巨匠」へと格上げされているようです。

今回のブラームスでは、テンポが速めで、そうすることでこの長大な作品をまとまりよく聴かせられるということもあるのかもしれないけれど、もう少ししっとりじっくり聴きたい派には、いささか性急で肌理の粗さが目立ちました。

この作品は長いだけでなく結構な技巧を要するところへ、このテンポ設定も重なったのか、あまり上質な演奏とは思えないものになってしまったのはとても残念でした。
キズのない演奏が大事などとは思いませんが、そういう不備を補って余りある何か大事なものが聴こえてこなかった…というのが私の印象。

さらに追い打ちをかけたのが、最近の機能性抜群のN響の乱れのない演奏で、ピアノとオケがとりわけ対等密接な関係性をもつこの作品においては、ソリストの弱点が否応なく暴かれてしまうようで皮肉な対照でもありました。

そういうことをしばし忘れて楽しめたのは第2楽章。
夢見るような美しい世界の広がりは陶酔的で、そういう趣味の良い叙情美はブラームスの独壇場となるのもしばしば。
この緩徐楽章ではさしものブッフビンダーもほぼ適正なテンポで弾いてくれましたし、時おり特定のバスを深く響かせてくるあたりは、この作品をよく知っているらしいことを感じさせるところではありました。

そして、第2楽章が終わって第3楽章に入る間の取り方は、この曲を聴くときにいつも注目してしまうポイントですが、ほんの一息間を置くだけで、その集中と余韻を切れさせぬところで、決然とピアノのソロが鳴り出したのはホッとさせられました。

ここで、本当の休息をとってしまって、客席からゴホゴホ咳払いなどが出てくるのは、この作品においては適当とは思われませんから。

稼ぐか芸術か

少し前のこと、民放の音楽長寿番組で、立て続けに現代日本を代表する世代のピアニストたちが様々出演されました。
どの方の演奏も指さばきは安定し、なにかが決定的に悪いわけではないけれど、良いとも思わない、いつものスタイルでした。

年齢も経歴も必ずしも同じではないのに、不思議なほど肌触りやあとに残る印象が似ているあたり、まさに大同小異という言葉を思い起こします。

楽譜通りにそつなく弾けているけれど、耳を凝らすと、それぞれに肝心な点でおかしなことをやっている。
わかりやすく云うと、ツボにハマらず、ピントはずれ、歌うべきところで歌うことなく、素通りするかと思うと、思わぬところで意味不明な間をとったり。

指は確かだから、さも完成されているように見えても、作品と演奏者が特別親密な関係になったときだけに発酵する濃密さみたいなものはなく、その場だけ笑顔をかわして会話しているような、ひどく他人行儀なウソっぽさを感じます。
現代人がお得意の、良好な関係の演技をしているだけといった印象。

よって、そつのない演奏に終始し、魅力的な演奏で酔わせてくれることもない。

これが演奏における現代様式なのかとおもうと、気分が自分の中のどこの引き出しに収まることができずに彷徨い、慢性的な倦怠感のようなものに包まれます。

たとえば、いまやモーツァルトの世界的名手のように言われる人などもおいでのようだけれど、何度聴いてみても私にはとてもそのような価値ある演奏とは思えず、そもそも芸術性というものが感じられません。

指もよく動くし、譜読みも早く何でも弾けるのだろうから、むかしならさしずめナクソスレーベル御用達のピアニストぐらいで?

聴く側が演奏に触れるときに期待するものは、作品そのものの世界に浸ってみたいということの他に、演奏者ごとの表現や問いかけに接してみたい、美しさにハッとさせられたい、慰めと悦びで満たされたい、あるいは激しく打ちのめされ翻弄されたいというような思いがあるのですが、この世代の演奏からはほとんど受け取った覚えがない。

なるほど天才なのかもしれないけれど、どれも一様に軽く、小動物の戯れのようで有難味がなく、作品が生きあがってくるとは言い難い。
モーツァルトならやっぱり内田光子のほうが断然好きだなぁと思ったり。

モーツァルトといえば、別の、話題の多い二人のピアニストが出演して、2台のピアノのためのソナタの第3楽章を弾かれましたが、これにもまたかなり唖然とさせられました。

最終楽章というのは、大半はテンポも速く生き生きとして、それまで旅してきた各楽章の意味を引き継いで、まとめるようでもあるし祝祭的でもあるし後片付け的な意味もあるもので、この曲もまさにそういう作りです。

ところが、楽しく浮き立つような要素は私の耳には皆無であったばかりか、ふてぶてしいまでに落ち着き払い、まるで別の曲の第一楽章を聞いているようでした。

もうすこし踏み込んで言うと、作品に対して気持ちが入っていないことが見えてしまっており、曲の表情付けから何からすべてが外形的作為的、ただ人気に慢心し、聴衆を軽く見て、番組の予定をこなしている不誠実なタレントのように見えました。
もしかしたら、ろくに練習もせず、間に合わせ的に本番で弾いたといわれても驚きませんし、この人達ならそれも可能なのでしょう。

終わったら楽屋で着替えて、お付や関係者と次の事務連絡をして、出待ちのファンに対応することもなく、待ち受けるハイヤーにサッと乗ってホールを後にするんだろうなという光景が目に浮かぶようでした。

昔の演奏家は、根を詰めて作品と対峙し、納得した時だけステージに上げるというようなことをやっていましたから、好みはあるにせよ、いちおうは聴く価値のあるものでした。

でも、今そんなことをしていたら、ライバルにどんどん仕事を取られるし、極限まで突き詰めた演奏をしてもしなくても、大半の人にはどうせわからない、芸術家として苦しみに喘ぎながらごく一部の理解者に賞賛されることより、演奏タレントと割りきって忙しく飛び回り、拍手とギャラにまみれるほうが、楽しいし時代の価値にも合っているんでしょうね。

あるある

ピアノには関係ないのですが、現代どこででも遭遇する、あるあるな景色。
先週、クルマの整備でとあるショップに行ったときのこと、1時間ほどの作業の間、併設された待合室で過ごすことに。

そこにはテーブルとイスが、窓に寄せて二セット置かれています。
厳密にいうと、奥には一人用の緊急用みたいな小さなテーブルがあるにはあるけれど、実質的には二つのテーブルと考えて良い設えです。

そこへ入室したとき、すでにお店のスタッフと一人のお客さんが向き合って話し中で、その隣のテーブルが空いていたので座ろうとすると、そのイスに女性用らしきバッグが置かれていて、すぐ脇のキッズスペースでは小さな子がひとりで遊んでいました。
とっさに母親はちょっと席を外しているだけで、二組のお客さんがいるらしいと理解して、やむなく一番奥の小さなテーブルの方へ行って腰掛けましたが、なんとなく落ち着かない席だし、すぐ横では至近距離で人の話し声がしているなど、もってきた本を取り出して読む気にもなれません。

やがて、そのお母さんらしき人が戻ってきましたが、イスに座ることなくキッズスペースで子どもと遊ぶばかりで、バッグはそのまま。
なんとなく、釈然としないものはあったけれど、先客だし仕方ないかと思っていましたが、30分ほどたった頃でしょうか、「領収書は?」とか「次回までには…」などという言葉になり、となりは終わって帰りそうな雰囲気になりました。

そしてついに「ありがとうございました」という言葉とともに、イスから立ち上がったので、空いたらそちらへ移動しようと思っていたら、なんたることか、その後ろの女性と子供もその人の連れ(つまり家族)だったようで、いっぺんに私一人になりました。

普通なら、夫婦と幼児の3人が4人用のテーブルを二つも使う必要はなく、そこへ別の人間が入ってきた時点で、自分のバッグぐらいちょっと引き取って、場所を譲るものだと思いますが、そんな気配はこれっぽっちもありませんでした。
話し中のテーブル(4人がけ)にも空きイスはあったのだから、そちらにちょっと置き換えればいいだけのことですが、状況はまったく動く気配もなく、おまけに横柄さも悪意も見受けられませんから、さらにやりきれないものが残ります。

いま、こういうことがあまりにも多い気がします。
譲り合いの精神とか、お互い様の気持ちとか、そういうものがまったく欠落しているだけで、きっと普通の善人だろうと思われます。
こういうちょっとしたことで、他者へ迷惑やストレスを発生させていることを、もう少し意識するようになってほしいものですが…たぶん無理でしょうね。

ゴミの収集員にむけて袋に「いつもありがとう」と書くとか、海外でのスポーツ観戦の後、みんなできれいに掃除してゴミを持ち帰り、そっと折り鶴を置いていくといった行動に世界が大絶賛!…なんて話も聞きますが、本当に大事なことはもっと手前にあるように思えて、なんだかフーッと大きく深呼吸したくなります。

タブーとの戦い

このところ、更新のエネルギーがふっつり消えて、いろいろなことに迷っています。

ここはピアノを主軸にしたブログだから、単純にピアノおよびそれに連なることを書けばいいのですが、心情としてはなかなかそういう感じにも行かないときがあったりして、あれこれ考えさせられてしまいます。

昔は「たかだか個人ブログ」だからと気軽に考えていましたが、今は個人においても思いもよらないルールが求められ、そう無邪気には構えていられないようで、いちいち慎重にならざるを得ません。

少し大袈裟にいうなら、心の求めるまま、関心の命ずるままに書くと、そのほとんどはアウトの領域に入ってしまいます。
あるいは一生活者であればピアノ以外のことにも無関心ではいられず、以前はそういう時は素直に書いていましたが、そうすることが正しいのかどうかも、最近はよくわからないのです。
また、内容としても、どこまで踏み込んでいいのかいけないのか…といった見極めに多くのエネルギーをさいて、以前よりも言葉や表現にも数倍気を使うようになりました。

世の中は際限なく変化して、価値観や、ルールや、新常識といったものが猛スピードで変容していくから、こちらも時代の空気を嗅ぎ取りながらついて行かなくてはならないし、下手をすると、どんなことから槍玉に上がって不愉快な奈落へ落ち込むかもわからないので、その匙加減が非常に難しくなりました。

以前なら、自分が何ほどの人物でもあるまいし、ただ個人的に思ったことを個人的文章として書くのは、よほど過激なことや社会正義に反しないことであれば構わないだろうと判断していましたが、ネットというものがいよいよ怪物化してきた今日では、どこまでがボーダーラインなのか、正直言ってもうわかりません。

このところ世界で起こっている様々な出来事、プ氏が引き起した侵略戦争、隣国の脅威、北部にある異様な小国、パとイの争い、欧州の混乱、国内でも片づかない永田町の問題、東京都議選等々、そのつど思うことはいろいろあるけれど、それらはピアノとは関係ないし、そもそもそれを考えとしてまとめて文章にするほどの知見もないし、だいいち今どきはタブー(もしくはその可能性がある)とされるものがあまりに多すぎて窒息しそうになります。

もちろん一小市民のささやかな感じ方として書くことはアリかもしれませんが、そんな駄文拙文をわざわざネットに挙げる価値があるとも思えないし、あれこれと考えているうちに、ぽかんと空白地帯が生まれたように感じているこの頃です。

…と、ここまで書いてみたら、少し区切りがついた気もするので、また少しずつ書いてみようかと思います。

生産国の曖昧

3月2日にアップした拙文「共通化-追記」の終わりに、「いつの日か、スタインウェイもどこ製か伏せらてわからなくなる日がくるのかも?といった想像さえしてしまうこの頃です。」と書いたばかりですが、その杞憂はすでに到来しているのでは?…という疑念に駆られる事がありました。

YouTubeでスタインウェイ&サンズ東京を訪ねる動画は複数いろいろ存在しますが、その中に「…ん?」と思うシルエットが映りました。
これまでは、ニューヨーク製(NY)とハンブルク製(HB)を見分けるのはわけもないことで、特殊モデルは別として、近代のレギュラーモデルではそれを見誤ることはありませんでした。

ところが、最近の共通化によって、従来の違いはほぼなくなり、HBスタイルに覆い尽くされてしまいました。
かろうじて残るいくつかの違いのひとつが、大屋根を開けた時のシルエットですが、これは前屋根を開ける(折り曲げる)位置と面積の違いによるもので、その結果はNYのほうが狭くスマートなのが特徴でした。
ちなみにヤマハのコンサートグランドが、ステージ上で鈍重に見えるのも、ほぼ同じ理由からです。

言葉だけではわかりにくいので、図を作ってみました。

AとB、実は奥行きも形状もまったく同じですが、違いは前屋根部分をどこで切り分けているか、それによるカタチと面積のみ。
前屋根の面積が狭いのがA、広いのがBで、たったこれだけのことでピアノのフォルムは大きく違って見えるのです。
感じ方は人それぞれだと思いますが、私はAのほうがスマートで美しく、Bはややボテッとした重い印象となり、ファッションでいうなら、手足が長く見える着こなしと、そうではない場合の、2つの例のように見えませんか?
繰り返しますが、両方とも原形はまったく同じ寸法・形状です。

前置きが長くなりましたが、動画の店舗に並ぶピアノは、手前右のBから大きさ順に並んでいて、奥にあるのがOもしくはMだと思われますが、その大屋根の形がNYの比率のように見えたのです。
しかも上記のように、現在はNYもHB仕様のルックスになっているので、パッと見だけではわかりません。

動画出演者は店員さんと会話をしながらあれこれのモデルを試しますが、なぜかそのピアノには行き当たらないあたり、偶然かもしれないけれど、それがよけい疑念を膨らます要因の一つになりました。
実際には、購入を検討するお客さんには生産国は告知されるのかもしれないから、ここでなにかを断定することはできませんが、以前よりもずっと曖昧になっていることは間違いないような気配です。

いずれにしろ、スタインウェイ級の新品ピアノを買う人にとって、その生産国がドイツかアメリカかは、「どうでもいいこと…ではないだろう」と思うのです。
ジャーナリズム的にいうなら「知る権利の問題」というところでしょうか?

現代のピアノ生産においては、多くのメーカーで生産国の問題はかなりグレーな領域のようで、それはますます加速していくようですが、「iPhoneは中国製です、それが何か?」みたいに開き直りもピアノではできないのでしょうね。

クラコヴィアク

BSのクラシック倶楽部録画から『歴史的楽器が奏でるショパンの調べ〜名ピアニストたちと18世紀オーケストラ〜』を視聴。
2024年3月11日、東京オペラシティ・コンサートホール、ピアノは川口成彦/トマシュ・リッテル。

ショパンはオーケストラ付きの作品として、2つの協奏曲以外には、ラ・チ・ダレム変奏曲op.2、ポーランド民謡による幻想曲op.13、クラコヴィアクop.14、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズop.22があるのみ。
いずれも初期の作品で、20歳前に書かれていますが、すでにショパンの作風は見事に確立されているのは信じ難いほどで、歴史に残る天才とは恐ろしいものだと思います。

現在は、残念なことに協奏曲以外はめったなことでは演奏機会がありません。
op.22はピアノソロとして演奏されるし、op.2はやはりソロでブルース・リウがショパンコンクールで弾いたのが記憶に新しいところですが、op.13とop.14は演奏機会はめったにありません。

録音も少なく、私のイチオシはクラウディオ・アラウのもので、生演奏では未だ聴く機会に恵まれていません。
op.13とop.14は演奏時間もほぼ同じで、作品内容としても個人的には双璧だと思うのですが、それでもなんとなくop.14のほうが一段高い評価であるような印象。
随所に美しいノクターン的な要素があるop.13より、活気あるロンド形式のop.14のほうが演奏映えするのかもしれませんが、いずれも非常にショパンらしい魅力的な作品だと思います。

今回はop.13を川口さん、op.14をトマシュ・リッテルさんが演奏されましたが、リッテルさんによるクラコヴィアクが大変素晴らしかったことが印象的で感銘を受けました。
ピアノはタイトルが示すようにフォルテピアノが使われ、現代のパワフルかつ洗練されたピアノに慣らされている耳には、どうしてもやや頼りなく感じることがあるのも正直なところですが、リッテルさんの演奏はそのようなことをすっかり忘れさせるほど濃密で、躍動し、新しい発見がありました。
さらにいうなら、ショパンへの敬意と注意深さも終始途絶えることがなく、作品と演奏が一体のものとなり、聴く悦びを堪能させてくれるものでした。

あらためて感じたことですが、良い演奏というのは作品に対する表現のピントが合っており、すべてが意味をもった言葉となって、こちらの全身へ流れ込んでくるような心地よさがある。

もちろん事前にしっかりと準備されているだろうし、細部も細かく検討されたものでしょうが、さらに本番では霊感を失わず、今そこで音楽が生まれてくるような反応があり、それがさらに次の反応へと繋がって、まるで音符が自分の意志で動き出しているかのように感じました。
聴衆をこの状態に引っ張りこむことができるかどうか、それが演奏家の真の実力ではないかと思います。

最近は、クリアで正確だけど感動できない演奏が主流となっているので、若い世代にも稀にこういう人がいるのかと、久しぶりの満足を得た思いでした。

残り時間は18世紀オーケストラによるモーツァルトの40番でしたが、古楽オーケストラの活き活きした軽快な演奏はわかるのですが、私個人としては昔から抵抗を感じるのは、そこここでしばしば繰り返される強烈なクレッシェンドやアクセントで、あれがどうにも脅迫的で、当時は本当にそういう演奏だったのかなぁ?と思ってしまいます。

顔のない処罰

いまやネットがこの世を支配している勢いですが、思いがけないことに遭遇したので、少し長くなりますが、皆様へのご参考になればという意味も含めて書くことに。

実は、この先使う予定のない家財品などがあり知人に相談したところ、買い取りは価格的に不利なので△△△(有名なフリマサイト)での売却を奨められました。
しかし、△△△はこれまで利用経験もなく躊躇するところもあったのですが、家の中の不要品などなんでも気軽に、しかも「きわめて簡単に」出品できるのだそうで、そちらに疎い私としては、この際よい機会かもと思いアドバイスに従う決断をしました。

まずはアカウントを作りで、銀行口座から運転免許証などの身分証明、さらには顔の撮影などまであるのは驚きました。
運転免許証は表と裏を写真に撮って送るだけでなく、動画でゆっくりと指示通りに免許証の角度を変えながら厚みまで見せなければならないし、顔も動画で正面から左右、笑顔まで撮らせるという念の入れようで、いささか驚きましたがなんとか終了。
自分なりに商品の区別したいという考えがあって、別の端末からもうひとつアカウントを作ることにしたため、また同じ手続きを繰り返し、とくに問題なく終わりました。

さっそく出品してみようとアイテムの写真を撮り、価格を決め、簡単な説明などを書いて、いざ出品しようと最後のボタンをタップしますが、最後の最後で先に進めない。
何度やってもダメで、はじめはわけがわからず、どこか自分の手順が間違っているのかもと思うなど、ずいぶんいろいろ試しましたが、なにをどうやっても出品できません。
翌日になってようやくわかったことは、なんと△△△側から利用制限(使えなくする措置)がかけられていたわけですが、その理由は一切示されず、いきなり真っ暗闇に放り込まれたようでした。

どう対処したらいいのかもわからず、知人にも聞きましたがすぐにはわからないし、電話の受付は一切ないこともこの時知り、なぜ利用制限をかけられたのか、八方塞がりで気分は最悪となりました。
制限をかけるのであれば、せめてその理由を告げるのは当然だろうと私は思うのですが、一切なく、ずいぶん傲慢なやり方で、これではただ個人情報を持って行かれただけじゃないか!と思いました。

そうこうするうちに、「一人につきアカウントはひとつという規定がある」ということがわかり、それでハネられているとしか考えられません。
詳しく見れば、そういう事もどこかに書かれているのかもしれませんが、現実的に細かい同意事項のたぐいを、隅々まで一字一句キッチリ目を通す人がどれだけいるか?と思います。
そういう規定があるのなら、2つ目のアカウントを作る過程で、そういう警告が出るとか、手続きが進めないようになっていればいいものを、そういうことは一切ないまますべてが終了したあとに、いきなりバタンとドアを閉められるのは、まるで囮捜査にでも引っかかったようでした。

これを打開するにはアプリ内から問い合わせするしかなく、そこに行き当たるだけでも一苦労でしたが、ようやく該当するページから事情説明の文章を添えて利用制限解除の申請をしたら、すぐに自動返信らしきものが来て、そこには次のように書かれていました。
申請を受け付けました、一週間経っても解除されない場合はそれで終了となり、その理由には答えない、と。

ずいぶん一方的な言い分に心底おどろきましたが、ともかく待ってみるより手立てがなく、心に不愉快なものを抱えた毎日を過ごすハメに。しかし、一週間を過ぎても10日過ぎても解除になることはありませんでした。
ネットの情報によれば、こうなると制限は無期限とみなされ(つまり重罪?)、ほぼ永久に解除されることはないという扱いだそうで、こちらにしてみれば取引のひとつもやっていないのに、これはいささか度が過ぎやしないかと思いました。

知人もずいぶんと骨を折ってくれて、ついにどこからか探し出してきてくれた打開策は、なんと「詫び状を書く」というものでした。
そこには例文があり、これこれしかじかの事情があったこと、もとより悪意はなく、△△△利用を楽しみにしていた自分は大変悲しい思いをしていること、今後気をつける旨の約束、くわえて謝罪の文言が記され、それでも「必ず解除されるわけではありません」という但し書きがついていました。

本来なら「誰がそんなことするか!」と思うけれど、この頃になると相手はもしやAIではないか?という気もしはじめており、だとするならAI相手に意地を張っても仕方ないと思い、最後の手段としてそれに沿うような詫び状を書いて送りました。
すると、なんたることか、送信から数時間後に「解除」の連絡が来たのです!

このような規約の背景には、悪辣なことをする輩や、違法行為、犯罪に繋がるような事案への対策という意味もあることだろうとは思いますし、それはわかります。
だとしても、もう少し穏当なやり方というのはあるはずで、問答無用で処罰的に切り捨てる前に、最低限の説明とステップを踏むべきだと思います。
それがネットだ!今どきだ!というのなら、今どきは、相手に少しでもストレスを与える行為を☓☓ハラスメントなどと名前をつけて厳しく糾弾される時代となっているのだから、△△△のこの強権的なやり方は何かのハラスメントではないのか?と思いました。

なんとか解除にはなったものの、受けたストレスというか心の疲労はかなりのものに積み上がり、現在はまだ出品する気力がわかないでいます。

ディアパソンUP

大屋根の磨きの最中、技術者さんのスマホにはしばしば電話が入るので、その度に作業は中断を余儀なくされますが、すぐ側なのでいやでも話し声が耳に入ります。

どうやら、電話の主は新たにピアノを買うべくお悩み中らしく、数台の候補があるようで、モデル名からそれらはディアパソンのUPのようでした。
この技術者さんはとくにディアパソンに通じておられることもあり、モデルごとの特徴などを丁寧に説明されていますが、なにぶん中古のことなので、現物を見ないではそれ以上はなんともいえないと繰り返し言われています。

話の様子ではその音源はYouTubeにあるらしいのですが、「そんなものじゃわかりません」「答えられません」「現物を見て判断されるしかありませんよ」といったことを何度も言われており、至極尤もなお話です。

サイズや色などから、精一杯の説明をされていましたが、終わりのない会話にだんだん疲れられたのか、ようやく話が済むと深い溜息をつかれました。
おおよそのことはわかったので、ちょっと話を向けてみるとまさにそのとおりでした。
「私でよかったら夜その動画見てみましょうか?」というと、それはありがたいとばかりに折り返して電話されて、電話機を渡されて私もその方と話をして、その夜さっそく見てみることになりました。

それは関西の有名なピアノ店で、なんとディアパソンのUPだけが一気に4台も紹介されているものでした。
1台は猫足の125cm、残る3台は132cmですが、ほとんど黒に見える杢目で枠飾りのついたタイプが2台と、もう一台はプレーンなスタイルのマホガニーのピアノでした。
4台とも状態も悪く無い(ように思える)ピアノで、あとは予算と見た目の好みで選ばれたらいいのでは?と思い、その旨を技術者さんに伝えました。

強いて言うなら、125cmはそれ自体のバランスはいいと思ったものの、3台の132cmに囲まれてしまうと、どうしてもひとまわりスケールの小ささがわかってしまうのは、致し方ないところがありました。
ただし、それはあくまで比較するからであって、125cmも普通にいいピアノだと思ったし、さらに132cmに共通しているのは、あきらかに余裕があり、広がりのようなものを備えているなぁと感じるところでした。

ちなみに、以前から思っていたことですが、ディアパソンのUPの中でもこの黒い杢目+角窓のモデルは、色合いスタイルともに重厚なアンティーク調でえもいわれぬ風格があり、なかなか魅力的な一台だと思っていましたが、あらためて目にして「やっぱりいいなぁ!」と思いました。
さらにこの2台、見た目はまったく同じですが、一台はアグラフ仕様でもう一台は普通のタイプというのも面白い違いでした。

音の差は、個体の差なのか、アグラフの効果なのかはわからなかったけれど、アグラフ仕様のほうが若干ですが音の腰が座っているように感じましたが…大差ではなく、なにしろ動画での判断なので、それ以上のことはいえません。
現物に触ったら印象も多少違ってくるかもしれませんが、最近ではネットで見ただけで中古ピアノを買う方も少なくないのだそうで、良し悪しの問題ではなく、そういう時代になったということのようです。

動画とはいえ、ディアパソンの中古UPを4台同時比較というのは初めてだったこともあり、とても面白い経験でした。

佳き時代の名品

磨きの作業中は、技術者さんとあれこれ雑談する機会にもなりました。

とくに印象に残った話など。
むかしは国内大手のピアノメーカーでも、会社が一丸となって「いいピアノ」を作ろうと云う気概と情熱にあふれていたころがあって、今では考えられないような良質な材料を惜しげも無く使うなど、高い理想を掲げて制作されていたとのことでした。
時代的に云うと、1960年代あたりからのようです。

技術者として、その時代のピアノに触れて感じることは、作り手の熱意が直に伝わってくるとのこと。
「三つ子の魂百までと言われるとおり、いかに志をもって制作され、丁寧に調整を施されて出荷されるまでが大事で、それがピアノの一生を決める」というものでした。

カメラなどでもそうだと聞きますが、昔の逸品には作った職人の手間ひまや息吹が感じられて、工芸としての価値や重みもある。
本物だけが持ち得るもので、価値あるものすべてに通底するようです。

時代も移ろい、あらゆることが変化したいま、ピアノづくりだけがそんなにピュアな精神を保っているはずはありませんが、少なくともそういう時代があったこと知るだけでも大事だし、自分で触れるなりして正しくその価値を評価すべきだと思いますが、ピアノはなぜか冷遇され、なかなか再評価の風が吹きません。

たとえば有名なフリマサイトなどにもピアノは多数出品されていますが、そこでは製造年の新しいものが人気で高値で取引されるのに対し、上記の時代のピアノとなると、それがどんなに贅を尽くされた最高級クラスのものであっても、古いというだけで敬遠され、驚くばかりに安く値付けされてしまい、それでもなかなか買い手がつかないのが現実のようです。

ピアノの価値基準というのはなかなか判断が難しいところがあることも否定できませんが、それにしてもそのあまりの不当評価にはやるせないものを感じます。
まるでクルマのように年式と走行距離とコンディションで…といいたいところですが、実はクルマのほうが熱心なファンが多いせいか旧き佳き時代のものは、とくに近年は価値が見直されています。
いったんその風が吹くと、「こんなものが?」と思うようなものまで連動して価格高騰しています。
古くて希少というだけで、ほとんど見るべきもののない中古車なんぞに比べたら、この時代のピアノは比較にならないほどの高い価値があると思うのですが、悲しいかな市場がまったく反応しない。

もしUPで50〜100万円ぐらいの予算があるなら、新しいというだけでペラペラの「合成ピアノ」を買うより、佳き時代の名品を買ってリニューアルして使ったほうが、どれだけ豊かで実り多いピアノライフが送れるだろう…と思います。

尤も、いまピアノを買う人は、仮に子供にピアノを習わせるというような動機だとすると、その子が成長して独り立ちすると弾く人がいなくなる、あるいは大人になって趣味でピアノを買う人も、その当人が弾かなくなったらたちまちジャマモノ扱いとなり処分されるなど、せいぜい20年ぐらいしか使われないケースが多いのかもしれず、家の中でもピアノを弾くのは特殊な存在で、なかなか生活に自然に根付く存在とはならないようです。

現実はそうだとしても、でもしかし、はじめから使う期間のおしりを切って、それに見合ったものでよいというのも、あまりに寂しい気がするし、だったらいっそピアノなんかやらなくてもいいのでは?

磨き作業に参加-2

二日目はバフ研磨で、電動工具を使うため、私はさすがに遠慮しましたが、何枚もの円形の布をバウムクーヘンのように重ねた部分が高速回転し、そこにコンパウンドの塊のようなもの(名前を失念しました)を当てながら、端から丁寧に磨いていくと、少しずつ艶らしきものが現れてきます。

バフがけは熟練を要する作業で、バフの当て方とか力の加減、動かす方向によって仕上がりを左右するので、見ているぶんには面白かったけれど、集中力を要する大変な作業で、大屋根は面積も広いため時間もかかります。

ひと通りバフ研磨が終わったところで、方々から角度を変えながら仕上がりをチェックし、少しでも磨き足りないところや、磨き目のムラなどがあるとすぐに修正が入って、そういうことが延々と繰り返されます。

これが終わるとピカピカですが、さらにここから極細コンパウンドによる鏡面磨きとなり、ここでは手作業となるため大いに手伝いました。

最後にピアノ本体に取り付けて完成ですが、2日間にわたって12時間ほどかかり、ヘトヘトに疲れましたが、そのぶん普段できない、貴重な経験をさせてもらいました。

これまで「外観だけ磨いて、中の整備はそれほどでもない」などと軽口を叩いていましたが、GPにしろUPにしろ、使用感のあるピアノの外観をきれいに変身させるまでには、実は相当な人手を経ていることが身をもってわかりました。

外観を磨くことをどこかで「ごまかし」のように思う部分もありましたが、これもれっきとした手作業の世界とわかりました。
プロと呼ばれる人たちの作業の丁寧さと、そのための集中と忍耐力には頭が下がります。

素人はワザ云々の前に、何時間でも黙々と同じことをやり続けるだけの忍耐力さえないわけで、やはりプロの仕事というのはすごいものだとあらためて知りました。

学びの多い、貴重な二日間でした。

↑バフ研磨が終わった段階。
ここからコンパウンドによる鏡面磨きと、まだまだ作業は続きます。

磨き作業に参加-1

ある技術者さんとの話の成り行きから、大屋根が傷だらけになったGPの塗装の磨きをお手伝いしてみることになりました。

中古ピアノを取り扱うお店に行くと、かなり古いピアノでも外観は新品のようにピカピカに磨き上げられているのを目にすることがありますが、これは一般人が真似できるような次元のものではないから、その磨き術には強く興味を覚えるところでした。
それをほんの一部でも垣間見る、いいチャンスが到来したわけです。

そのピアノの傷とくすみはかなりのもので、長年カバーもないまま上に物が置かれたりの繰り返しで、素人目にもコンパウンド等で磨いてどうこうなるような生やさしいものではありませんでした。

まず慎重に大屋根を外し、作業スペースに広げられたビニールシート上に移動、さらには大屋根じたいも前後バラバラにされ、小さなゴムパーツなども外しますが、これだけでもかなり手間のかかる作業で、この時点からすでに大変さを予感。

ペーパー(紙やすり)を硬いスポンジにあてがい、水や石鹸を含ませながら表面を削っていきますが、技術者さんが言われるには決して円を描いたりせず、決まった方向にだけ直線的に磨くようにとのこと。

これがいきなりの重労働で、墨汁のような黒い汁がそれらじゅうにあふれるし、準備していたビニールの使い捨て手袋など、あっけなく破れてしまってものの役にも立ちません。

さらに、ペーパーは荒いものから目の細いものへと、順次変えながらひたすらこれを続けます。
おしゃべりはできるけど、手は休められないという作業です。

途中休憩以外はこれだけで数時間を費やし、不慣れな私の疲れ具合も考慮されたのか、残りは後日に持ち越されました。

この時点で、表面はニューヨークスタインウェイのヘアライン仕上げのようになり、個人的にはこれが一番いいなあ…と思うほど雰囲気はガラリと変わってしまいました。

─続く─

窮屈になる時代

コンサートに行く頻度はめっきり減りましたが、その理由はいろいろあるけれど、ざっくりした理由としては、聴いてみたい演奏家の激減、演奏スタイルの変化により結果が見えていてワクワク感がない、地方公演での演奏の質、残響ばかり強くて音が混濁するホール、などがあります。

…が、そればかりでなく、コンサート会場に流れる空気も、昔の自由な、楽しい雰囲気は失われ、最近はますます悪い方向に強化される方向だと聞きます。

例えばホールに行くと、いまどきの人手不足というのに、エントランス前後から多くの職員があちこちに立って、お客さんを案内するという名のもと、実は厳しく行動は監視され、なにか見張られているような気配を感じます。

座席に行くにも、その経路さえも関係者からやんわり管理されているのか、なんとなく自由にウロチョロできない雰囲気。
ようやく座席につくと、こんどは「開園に際しまして…」のたぐいの注意放送が降り注ぎます。

録音/撮影はダメ、携帯電話の電源を切る、演奏中の出入りはダメ、花束を渡すのもダメ、プログラムなどの紙類は落とすと周囲のご迷惑になるから注意しろ、など、次から次です。
内容的には当然のことではあるけれど、せっかくこれからいい音楽を聞こうという期待に身をおいているのに、頭の上を流れるアナウンスは、あれもダメこれもダメのダメダメづくしで、まるでこちらがコンサートのマナーを知らない野蛮人のようで、しかもそれが何度も何度も無遠慮に繰り返されます。

ようやく注意が終わったかと思ったら、次は「ただいまロビーで☓☓のCDを発売しております」「終演後はサイン会を予定しております」「どうぞ本日の記念に…」と一転して商売の話に切り替わり、これがまた何度もしつこくてイヤになります。

お手洗いに行くにも、楽屋へ通じるルートなど、いかめしい制服のガードマンが棒立ちで、何様でもあるまいにと思うし、ことほどさようにその息苦しさといったら、なにげに不快感を感じるのみ。

主催者側、ホール側にしてみれば、もちろん言い分はいくらでもあるのでしょうが、アナウンスはじめ流れる空気がどこか高圧的で、チケットを買って楽しみに来たはずの気分はこういうことから少しずつ息苦しくなり、それがが積み重なるうちに楽しい気持ちは減退して、不愉快になっていきます。

だいたい、入り口から入っても、何人ものスタッフから「いらっしゃいませ」帰りは「ありがとうございました」を言われるけれど、飛行機やホテルじゃあるまいし、こっちは音楽を聴きに来て、終わっから帰っているだけであって、そこにいちいちそん挨拶は無用だし、どこかなんだか鬱陶しくて仕方なく、もうすこしサッパリできないものかと思います。

いまどきなので、万一に備えてのトラブル対策というか、外形的な安全を張り巡らせているだけで、来場者のためというより自分達のためという印象しかありません。
時代も変わり、客層も変わったといえば、そのひとことで終わりますが、なんだか福袋の行列と大差ない扱いを受けているような…。

ヤマハの価値-追記

一部の高級機のことはわからないけれど、ヤマハピアノの中核をなすのは世界の頂点に君臨する量産ピアノで、その高い信頼性や工作精度の確かさはもはや世界の認識。
ヤマハはピアノ界のトヨタといって間違いありません。

とりわけアクションの精度の高さは、他の追随を許さぬものがあり、一説によれば「二位がないほど世界一」なんだとか。
そのためヤマハのアクションを使っているヨーロッパメーカーも存在するらしく、到底かなわないものは、それ自体を使ったほうが得策だという発想でしょう。

ヤマハのアクション技術の高さについては、多くの技術者さんが口をそろえて言われるところで、これについては批判の声を聞いたことがありません。
しかもそれは大量生産品であるとなると二重の驚きでもありますが、よくよく考えてみれば、その高いクオリティは最高級の機械による大量生産だからこそ成し遂げられたことかもしれない…とも思うことがあります。

手作り手作業が価値をもつピアノの世界ですが、手作業なら何でも良いというものでもなく、精度がものをいうパーツなど、高度な機械から生み出されるほうが好ましい部分も確実にある筈で、ヤマハのアクションはまさにその賜物だろうと思います。
その意味で、ヤマハはピアノ生産の新たな地平を切り拓いた偉大なメーカーと思います。

ただ、個人的な好みで云うと、このピアノも他で弾いたGPも同様ですが、アクションという複雑な構造をおよそ感じさせない軽やかなタッチは「弾きやす過ぎて、弾きにくい」とへんな言葉ですが、そう感じるのも事実です。
個人的にはもう少ししっとりした抵抗(重いという意味ではなく)や、弾いている実感が伴うがほうが好みではあります。

良心的な価格、高い品質、パワー、信頼感という点においては、これに勝るピアノはないのではないかと思いました。
しかもそれは西洋音楽の歴史もない、東洋のメーカーから生み出されたのですから、ヤマハの出現はピアノ界にとっては黒船だったことでしょう。

ショパン・コンクールの公式ピアノになったときも「はじめは我々も懐疑的だった」といっていましたが、カワイともどもよくぞそれを突破したものだと思います。

ヤマハの価値

ヤマハのUPピアノを落ち着いて弾く機会がありました。
1996年製のUX300で、X支柱、アグラフ仕様、サイズは131cm、トーンエスケープという譜面台を手前に引き出すタイプで、その両端には縦に木目があしわれた、現在もYUS5として続いているおなじみのスタイル。

ヤマハは子供の頃から20年以上お世話になったので、私の体の深いところにはその経験が残っているようで、眠っていたものがよみがえって懐かしく感じるところが多々ありました。
どのメーカーにも言えることですが、サイズや形状(GPかUPか)や製造年が違っても、ブランドの個性は綿々と引き継がれるものらしく、これは考えてみればきわめて不思議な事だなぁと思います。
いわばピアノのDNAみたいなものでしょうか?

以前、有名ショップでスタインウェイのUPを触らせてもらったとき、あまりにもスタインウェイの音だったことは想像以上で、かなり衝撃的だった記憶があります。

ヤマハに戻ると、やはりGPでもUPでも、そこに通底するものは同じ肌触りであることをまざまざと感じます。
もちろん、各モデルや個々の状態で違いがあるのは当然ですが、ここで言いたいことは、そこに吹きこまれたメーカー独特の世界や手触り、スピリットが同じだということでしょうか。
こういうことをひっくるめて「ブランド」というかもしれません。

ヤマハでなによりも感じるのは、健康な骨格に恵まれたアスリートのような頼もしさと、全音域にわたるヤマハらしいバランスでしょうか。
どの音域も互いの連携がとれており、中音以上での華やかな輝き、低音の太い迫力などいずれもぬかりなく、さらによく出来たアクションに支えられてタッチも軽快、どこをみても死角のない製品で素直に大したものだと思います。

音にはガツっとくる迫力があり、労せずしてよく鳴ってくれますが、あまりに奏者に向けて音が盛大に向けられてくるあたり、これは慣れないと少し戸惑いました。
逆にこれが普通になってしまうと、他のピアノでは物足りなさを感じてしまうのではないか?と心配になるほど。
人間の感覚は、かなりの部分が相対的だから、濃い味付けに慣れている人が薄味の料理を食すと、食べた気がしないようなものかもしれません。

いずれにしても、量産ピアノでこれだけ活気があって、バラつきのない高品質が維持され、耐久力にも整備性にも優れる(らしい)というのは驚くほかはなく、ヤマハが世界を制したのも納得です。

同曲異奏

BSのクラシック倶楽部では、内容がしばしば再放送となることがあります。
CDならば繰り返し聴くけれど、録画のほとんどは消してしまうので、この再放送はちょうどよい感じの「もう一度視聴してみる機会」となっています。

過日は、小林愛実さんとリシャール=アムランさんのショパンが立て続けに再放送されました。
両者ともにショパン・コンクールの上位入賞者ですが、今回は偶然なのか2日連続でおふたりの24のプレリュードを聴けたのは興味深い比較となりました。

小林さんは先のショパン・コンクールでもこの作品を弾かれていますが、今回の演奏はコンクール直前に日本で収録されたもので、ほぼ同じような演奏だと感じました。

隅々までよく仕上げられていることは痛いほど伝わりますが、それは「磨き上げられた」というよりは「徹底したコンクール対策」というほうが強く前に出た印象でした。
チリひとつなく、張りつめたような緊張感、すべてがコントロールされているのはすごいなとは思うものの、聴いている側も息がつまってクタクタに疲れます。
なんとしても上位入賞を果たすという強烈な意気込みというか、日本的な精神芸を見せられるようでした。

コンクール終了後の総括として、優れていた演奏のひとつに彼女のプレリュードが入っていたことは驚きで、こういう演奏が今のショパン・コンクールでは評価されるのか?と驚いたし、反田氏も「彼女のプレリュードは素晴らしかったと思う」とわざわざ言っていたことなど、個人的には目を白黒させられるばかり。

翌日のリシャール=アムランは、見事なまでにすべてが違っていました。
全体にも、細部にも、ほどよい情感とバランス感覚がなめらかに行き渡っており、とにかく自然で安定感があるし、それでいて注意深くショパンの世界は尊重され守られいるのは、さすがでした。
ピアニストが作品を通じて呼吸しているとき、演奏は心地よい音楽となり聞くものを悦びに誘われます。

私見ですが、このop.28は各曲が独立したかたちにはなっているけれど、全体を一つの作品としてとらえることが通例化し、多くのピアニストがそういうアプローチをしているよう感じます。
各曲は見えない糸で繋がった、ショパンの音の回廊のような作品だから、各曲とその間合いをどう取り扱うかは演奏者の任意に委ねられていると感じます。

小林さんの場合、その間合いがあまりに長いため、次の曲との関係性や呼吸感が切れてしまいます。
一曲一曲、一音一音を大切にするあまりか、息を止めんばかりの集中は、どうしても重くなり、丁寧な演奏とはこういうことなのか?と考えさせられてしまいます。

小林愛実さんという才能あふれるピアニストは、以前はもっと天真爛漫に元気よく弾かれていたように思いますが、現在のそれはまるで別人の振る舞いのように感じることがあります。
ご本人の成長と円熟によるものかもしれないけれど、どこか演出され制御された感じが拭えず、私は音楽はもうすこし本音で語ってほしいなと思うタイプなので、建前はもう結構ですから「ぶっちゃけ」でしゃべってくださいと言いたくなります。

ピンの根元

チューニングピンを磨いてみたら、意外にきれいになったことで味をしめ「だったらここも…」と欲が出て、その下のフレーム部分のホコリなどをもう少しきれいにしたくなりました。

しかし、ピンの付け根付近は「掃除不可」といわんばかりに弦が整然と張られており、そのわずか数ミリ下をかいくぐるようにして積もったホコリを取り除くのは相当な難題です。
おまけにフレームと弦の間は数ミリと非常に狭く、道具類を差し込む余地がないから、見れば見るほど心が折れそうになります。

除去したい汚れやホコリはすぐ目の前だというのに、弦が立ちはだかって手出しができないのは、もどかしいと言ったらありません。

その難易度はピン磨きどころではないし、無理をして万が一にも弦に損傷を与えるわけにもゆかず、古典的な方法ではあるけれど、綿棒を使ってみることに。

さっそくダイソーに行って、「普通サイズ」とさらに細い「赤ちゃん用」という二種類を購入。

作業をはじめたものの、思った以上に現場は複雑ではかどらず、作業は遅々として進みません。
進まない理由のひとつは、綿棒は思ったよりも先端の接地面積が小さく、なかなか面として広がらないから細いサインペンをコチョコチョ動かしているようなもの。

あたかもファイリングされたハンマーのようで、先はごくわずかしか当たらず、こんなことをやっていても埒があかないし、仕上がりも好ましいものにはなりそうにない。
そこで、包丁用の砥石に綿棒の先端を当ててこすって、先端をほぐし、細字から太字ぐらいに拡大したらいくらかマシになりました。

しかも弦の下は普通の綿棒では入らないので、ここでは細い赤ちゃん用がずいぶん役立ちました。

あまり根を詰めると腰や肩がやられそうで、少しずつ数日にわけての作業となりました。
とくに満足というほどでもなく、別の方法も考えみようと思っていましたが、良いアイデアも浮かばないし、日が経つとだんだん面倒くさくなりました。

いやはや…ピアノの内部掃除は大変です。

ロゴ

以前、May4569さんからいただいたコメントの中に、ピアノメーカーのロゴと音の関係に触れておられましたが、たしかにそうだな…と思いました。
人は「名前のような人間になる」というのをむかし聞いた覚えがありますが、ピアノもそうかもしれません。

たしかにスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ヤマハ、ブリュートナーなど、多くのピアノではロゴがなんとはなしにその音や楽器の性格まで表しているように感じます。

中には、伝統的な美しいロゴが変更されて、味気ないものになったりすることもあり、非常に残念に思うことも。

昔のグロトリアンは、ほれぼれするほど美しいロゴだったものが、諸事情から変更になったことは仕方ないにしても、それがただ活字を並べただけの無味乾燥なものになっているのは、ピアノが素晴らしいだけに理解できないものがあります。

ブリュートナーも伝統の流麗な筆記体のものがあると思えば、ただの平凡なフォントのものもあるのは、いったいどういう区別なのやら、これまたよくわかりません。

スタイリッシュで目を引くと仰せのファツィオリは、まさにグッドデザインでさすがはイタリアだと思いますが、音とロゴが一致しているか?となると、私にはどこかしっくりこないものが残ります。
このあたりは各人の感じ方にもよりますが、個人的にはもっとあのロゴのような音であってほしいのです。

時代を反映して個性を出さないよう配慮されているようで、まさに今どきのコンテスタントの演奏のように、だれからも幅広く受け容れられて、アンチを生まないための用心深さを感じてしまうところがもどかしく残念です。
今どきはビジネスのことまで周到かつ分析的に考えるから、まさにコンクールと同じで、まんべんなく加点が得られるよう中庸に躾られているのでしょう。
イタリア的な奔放と豪奢を期待していると、やや肩透かしを喰らうようです。

シゲルカワイはピアノの素晴らしさに対して、ロゴはどうなんでしょう。
とくにスタインウェイのライラマークの位置に、ピアノの形をした枠の中にSKの文字が嵌めこまれたアレは何なのか、まるでわからないし、それが鍵盤蓋やサイドはもちろん、なんと突上棒の途中とか、椅子、譜面台にまで入っているのは…??

ベヒシュタインは、以前は笑わないドイツ人みたいな四角四面なゴチック体で、それが一回転して個性のようになっていましたが、最近のロゴは少し細身になり、ちょっとだけ今風になったというか、頑固なお父さんより息子のほうがフレンドリーになったような感じでしょうか。

ヤマハはまさにヤマハであって、海外に行った人が帰りの空港で鶴のマークを見ると安心するそうですが、同様にあのロゴの前に座ると心が落ち着く人も多いのかもしれません。

ピアノにとってのロゴはまさに顔のようなものだから、非常に大切なものだと思います。