当たり外れ

3月最後の題名のない音楽会で「小菅優が3大作曲家のピアノソナタを弾く音楽会」というのがありました。

ここでの3大作曲家というのは、モーツァルト、ベートヴェン、ショパンとされており、なにしろ30分番組なので、モーツァルトはKV330の第一楽章、ベートーヴェンはテンペストの第三楽章、ショパンは3番のソナタの第四楽章というものでした。

マロニエ君にとって、小菅優さんは日本人ピアニストの中ではご贔屓のピアニストのひとりで、あくまで作曲家と作品を中心に据えて、ご自身は媒介者としての位置を取りながらいきいきした演奏をされる方だという印象を持っています。
もちろん、「うーん…そうかなぁ?」と疑問を感じることもありますが。

それでもマロニエ君が小菅さんのピアノが好きなのは、とにかく人のマネではない自分の解釈と表現を持っておられ、それを臆することなく演奏に反映されるところです。
また、テレビなどでお見かけする限りでは、お人柄も素敵な方で、ピアノを弾く人によくある臭みがなく、いつも謙虚で、自慢気なことをいわれるようなことは聞いたことがありません。

それに、ご当人がピアノを弾くことがとにかく好きだというのが伝わるし、小さい時から単身ドイツに渡るなどされ、ピアニストに必要な度胸やタフさもあるけれど、それが少しも人間的に歪まずに育った感じがあるところなど、好感がもてるのです。才能もあり、ピアニストになるための条件も備えられ、いい意味で健康的という印象。

なぜこんなことを書くかというと、この人はピアノが好きなのか?何のために弾いているのか?といった根本的な疑問を感じてしまうような人が決して少なくないからです。

小菅さんに話を戻すと、この日の三曲はどれもイマイチな印象が残りました。
たしかに小菅さんの演奏なんだけれど、曲の求めるものと解釈が必ずしも合致しているようには聞こえなかったのは少し残念でした。必要以上に曲をドラマチックに仕立てようと、このときはやや力みすぎたのかもしれません。

演奏というのは、楽譜に書かれたことを読み取って、それを作曲家の心情に寄り添いながら実際の音に再現するときに、併せてどこまで演奏者の言葉にもなりえているか…ということじゃないかと思うのですが、この日の小菅さんは自分の言葉が前に出すぎていたように思いました。
とくにモーツァルトは、そんなにメリハリを付けないで、ありのまま軽やかに流れたほうがいいように思ったし、メリハリのたびに曲の流れがあちこち寸断されるなど、作品のもとめるものとちょっとズレているように思われました。

テンペストは、我々が思っているものとはずいぶん違ったもので(もちろん違っていることは大いに構わないし、演奏には新しいものや冒険心も必要ですが)…ちょっと独りよがりかなあ?という印象。
右ペダルが少なめで、縦に区切られる感じがあり、あるときは静かに、そうかと思うと急に激したりと、表情の変化が絶え間なく変化するあたり、そこがベートーヴェン的だといえばああそうですかと云うしかないけれど、個人的にはもう少し横のラインにも一貫したテンポを感じながら、聴く側はその流れの中でさまざまなメッセージを汲み取っていく演奏のほうが、この第三楽章には相応しいような気がしました。
音楽というものはある意味で抽象表現の芸術だと思いますが、どこか演劇みたいでした。

ショパンでも基本的には同じで、この第四楽章はそのまま一息に弾いても充分ドラマティックなのだから、そこに過度の切れ味や意味や表情を加えすぎるのは、マロニエ君の趣味ではありませんでした。
とくに出だしの両手3オクターブの連続は、早すぎで野性的でベートーヴェンの続きかと思ったほど。
小菅さんのピアノの特徴は、小気味良いリズムと熱いテンション、それに伴う大小さまざまな抑揚で、それらが生み出す生命感が魅力なんですが、とはいえ、さほど噴火しなくてもいいと思う場所で、ひっきりなしに噴火と鎮火を繰り返されると、そっちの方が目立ってしまって、かえって曲の形が見えづらくなることがあるのが惜しいというか、もう少し端正な部分もあるといいように思いました。
とくにショパンでは、どんなに速いパッセージでも一音一音の美しさを大切にしてほしいもの。

まあ欲を言えばキリがないし、ツボにはまったらハッとするような素晴らしい演奏をされるわけだから、それを含めてのこのピアニストの魅力だとは思いますし、基本的に音楽に献身する希少なピアニストだという思いは変わりませんので、次を期待します。

逆にいえば、マロニエ君は何でも特徴もなくそつなく弾けるだけのピアニストには興味がなく、出来不出来のある人間臭い人のほうが遥かに好きだし、おもしろいし、魅力的だと思います。

追伸;その後、NHK-クラシック倶楽部では2019年のリサイタルの模様が放送され、そこにもテンペストがプログラムに含まれていましたが、こちらはもちろん全曲で、はるかに素晴らしい出来でした。とくに第三楽章は先日のスタジオ演奏と共通する部分もあるにはあるけれど、第一/二楽章を経て終楽章に到達すると曲が俄然必然性を帯びて、はるかに自然なものでした。それと、この方はやはり大舞台でこそ本領を発揮するタイプかもしれません。とくに冒頭のダカンのクラヴサン曲集第1巻の「かっこう」は何度も聴きたくなるような素晴らしい演奏でした。
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なぜ?

ヤマハのグランドピアノには大別すると3つのシリーズがあり、レギュラーのCXシリーズ、中間グレードのSXシリーズ、最高級のCFシリーズで、スタインウェイのBとお値段も遜色ないCF6の現物にはまだお目にかかったことさえありません。

過日、ある調律師さんによると、これに触れる機会がおありだったらしく、音の良さもさることながら、驚かれたのは昔のピアノのように、チューニングピンが固定されるピン板が、外部にむき出しになっているという点だったようです。
たしかにそれはちょっとした驚きですね!
コンサートグランドのCFXは違うのに、なぜ同じ最高級シリーズのCF4/CF6ではピン板が露出しているタイプなのか。

昔のピアノのピン板部分はフレームの鉄骨も大きくくり抜かれており、板が直接見えるものがほとんどだったようですが、時代の変遷とともに、このスタイルはほとんど姿を消したように思います。
音量やピンの保持力に問題があったのかと勝手な想像はしていましたが、実際のところはよくわかりません。

ベヒシュタインなども、昔はピン板が出ていたピアノばかりでしたが、近年では順次ニューモデルへと切り替えられ、それらはいずれもピン板はフレームの下に隠れて見えない作りになってきているので、てっきりそれが現代の常識かと思っていました。
具体的にその違いがどういう効果をもたらすのかマロニエ君にはわかっておらず、ただなんとなくピン板の見える仕様は旧式で、見えないスタイルが現代流と思い込んでいたので、そこへ、まさかヤマハがCFシリーズという新しい最高ランクのピアノにそういう機構を取り入れるなんて、思いもしないことでした。

ちなみにヤマハの子会社となったベーゼンドルファーは、現行モデルでも、いまだにピン板が露出する方式のようなので、ここらと関係があるんでしょうか。

YouTubeで探すと、こんな弾き比べの動画がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=FL81a7rnD0g

たしかに、いかにも今風な「どうだ!?」といわんばかりのわかりやすいキレイな音ですね。
好みや感じ方は、各人各様だと思いますが、マロニエ君の素直な印象を敢えて述べますと、音のキレイさがいささか前に出過ぎており、試弾した人を納得させるには充分だろうとは思いますが、どこか電子ピアノ的な無機質なキレイさで、さてこれで実際の音楽が奏されたとき、曲に内包される味わいとかこまかな情感を写し取ることができるんだろうか…という感じがします。
ピアノの音をここまでにもってくるMade in JAPANの力ってある意味すごいと思いますが、同時に、そこに西洋発祥の楽器作りという根底があるかぎり、これが限界のような感じがしなくもありません。
かつて「日本人には本物の靴や椅子は作れない」と言われたことがありますが、それは我々の中にある遺伝子や生活様式とは相容れないところにその真髄があるからだというような意味でしたが、似たようなことがピアノにもあるのかと思ったり。

さて、対するベーゼンドルファーはやはり個性的で、このピアノだけにしかない濃密な世界があり、華やぎと暗さとが同居する独特な美しさ、歴史の重み、豪奢なウィーンの香り、あらゆるものが屈折して混在しています。
美しく上品な中に、ほんのわずかに汚らしいものが見え隠れするあたりも、一言では言い表すことのできない、まるでリヒャルト・シュトラウスの退廃的なオペラのようでもあります。

いっぽう、いつも感じることは、弾き比べの場においては案に相違して意外に地味で、控えめで、取り立てて特徴のないような印象を与えてくるのがスタインウェイ。
キラキラだ、派手だといわれるけれど、他社のピアノと並べて直接対決すると意外やもの静かで、明快な主張さえも少ないような印象があります。
とくにそう感じるのはアタック音が控えめで、弦楽器のようなやわらかな響きと重層的なハーモニーに重きを置くような音の出方だと、比較の場において強いインパクト性という点では不利なのかもしれません。

でもスタインウェイのすごいところは、曲になったとき音楽として最も成熟した落ち着きとまとまりがあるところで、そこがピアノとしてサマになるという点ではないかと思います。
音としての純粋な美しさという点でいっても、必ずしも一番ではないかもしれないけれど、スタインウェイにしかない奥深い心地よさがあっていつまで聴いても飽きないし、耳も神経も疲れないのも深い秘密がありそうです。
耳に直接というよりは、人の気分や感覚を通して、からだ全体に聞こえてくるという感じ。

マロニエ君は真に美しいものには、複雑と収束、精神性、清濁さまざまな要素を兼ね備え、互いに意味を持ちながら高みに達したときに到達する領域の景色だと思うので、ただ雑味を取り払い、無キズでピカピカに磨き上げたものとは似て非なるものだと思うのです。


ちなみにCF6って、カタログを見ている時からかなり不思議な点があります。
それはグランドの特徴である3本の足の前の2本の取り付け位置(とくに見えやすい右側など)ちょっとアンバランスなほど前に寄せてつけられている点。
ビジュアルとしてはいささか異様な感じをうけるのも事実ですが、これほどの高級機種でのことだから、なにか根拠があるのだろうとは思われ、その「理由」をいつかぜひ知りたいもの。

それにしても、まったく同じYAMAHAのロゴが付いた、まったく同サイズのピアノで、C6Xで324万円、S6Xでほぼ2倍の594万円、CF6でさらに2倍以上の1364万円と、C6Xを4台分でもまだ足りない価格設定なんて、こんな大胆なメーカーは世界広しといえどもおそらくないような気がします。
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バラードとは

少し前ですが、クラシック倶楽部で広瀬悦子さんのベートーヴェンのテンペストとショパンのバラードの第1番/第4番、モシュコフスキの作品が放映されました。
昨年の12月に武蔵の文化会館で無観客収録されたもののようです。

広瀬さんといえば、過日書いたリャプノフの超絶技巧練習曲とか、モシュコフスキの作品集、グリンカの編曲集など普通とはちょっと違うマイナーな曲を見事に演奏されるピアニストというイメージでしたが、その広瀬さんが今回はがらりと方向を変えて有名どころを弾かれるんだなあと思いました。

テンペストは個人的にはとくに印象に残るほどではなかったけれど、つづくショパンの2曲のバラードではちょっとした衝撃を受けました。
事前のインタビューでも「ショパンは祖国愛が強く不幸な人生を送った人。バラード4番の頃にはワルシャワがロシアに侵攻されて親しい友人や恩師をなくしたという報に接し、深い悲しみの中で書いたもの。心の内にある悲しみや怒り、絶望などをピアノの音に表していると思う」というようなことをおっしゃっていましたが、実際にそれら2つのバラードの演奏を聴くにつけ、その言葉がひしひしと胸にこみ上げるものがあり、しかもショパンとしても繊細で美しい部類の演奏でした。

普通、ショパンのバラードというとワルツやノクターン的なものと違って、上級者向けもしくは演奏会用のピアニスティックな作品というイメージがありましたが、ここで聴くバラードには、そのようなイメージとは違って、他のショパンの作品とは何の別け隔てもない同一線上にあるものだということがはっきりとわかり、まずその点が新鮮でもありショックでもあり、それを体現できる広瀬さんの解釈にも感心もしました。

人の心の深い悲しみや憂いが、ショパン独特の美しい旋律や和声を伴って切々と(むしろ静かに)訴えてくるようで、これはまさにショパンならではの叙事詩であり、作曲時の心の有り様を、これまで耳にしていたものよりさらに濃厚に音楽に写し取られた稀有な作品らしいということが、この歳になってはじめて知ったような気がして、しばし呆然となり、この数日というものそれが頭から離れませんでした。

演奏そのものは、静かで丁寧で深いけれど騒がない。
随所に心の動きとドラマがあり、それらを可能な限り敏感にすくい取っていくようなもので、ショパンのバラードとはそういうものだったのか?と思うと、これまで抱いていた曲のイメージが崩れ、あらためて修正しなくてはならないもののように思えました。
さらに感心したのは、細部に懲りすぎるとパーツのつなぎ合わせのようになることがありますが、いかにもフランス流の横の線と優美な流れの中に必然的にディテールが収まって、それらが互いに繋がっているので、ショパン特有の憂いに満ちた美しさが結果として増しているのは唸らされます。
これまでは、ノクターンなどはいかにも繊細で腫れ物に触るように弾いても、バラードやスケルツォ、エチュード、ソナタとなるとバリバリと技巧中心の演奏となり、ある種逞しさをもって弾くのが常道のようにされていましたが、そういう捉え方にも一石を投じられたように感じました。
まるでルーブルにでもありそうな、人間の嘆きのひとコマを描いた、深い色調の絵画をショパンの音の筆致で見せられたようでした。

これは大変なことになったと思い、さっそくCDを調べてみると、2010年にバラード全曲がリリースされているものの、購入しようにも品切れや取り寄せであったり、入手困難なようです。

尤もCDは10年以上も前の演奏で、今回のクラシック倶楽部の演奏はつい先日のもの、その年月の間により熟成されて今日の姿に到達したものだとすると、仮にCDを手にできたとしても、今回と同様の感銘が得られるものかどうかは保証の限りではありませんが。

正直いうと、これまでの広瀬さんの演奏は、どちらかというとマイナーな技巧的な曲を苦もなく鮮やかにものにしていくタイプでもう一つマロニエ君の好みではなかったのですが、ショパンに対してこんな深いアプローチができる人だったとは露知らずで、今後は見る目を変えなければいけないという気がしています。

CDのネットショップのレビューなどでは「ショパンなどより、広瀬さんにはもっと近代的な曲を弾いて欲しい…」というような書き込みがありましたが、マロニエ君はこの2曲のバラードを聴いてしまった上は、ショパンの録音を増やして欲しいと思います。

初見や暗譜が得意で、技巧を兼ね備えた人なら、埋もれた難曲を掘り起こして世に紹介することも意義ある仕事だとは思うけれど、ショパンのバラードのような超有名曲を、まったく既成概念に囚われない独自の解釈で問い直し、しかも自然な説得力をもって弾くというのは非常に難しいことだと思うし、それをやってのける広瀬さんには舌を巻くばかりでした。
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知られざる逸品

日本のピアノブランドというと、近年では事実上ヤマハとカワイの2社だけで、そこにディアパソンがコバンザメみたいにへばりついているぐらいですね(厳密にはもう少しないこともないようですが)。
しかし、昔は国内だけでも信じられないほどたくさんのピアノメーカーが存在していたようで──ヘンなものもあったでしょうけど──中には今では考えられないほどの逸品も生み出されていたようです。

好事家の間で知られているのはシュベスター、クロイツェル、イースタイン、オオハシとか、それ以外にも、アトラスやフクヤマ、アポロなどパッと思いつくだけでもまあいろいろありました。
その数たるや想像を絶するほどで、それらの名前やロゴの写真を集めた「日本のピアノメーカーとブランド」という一冊の本が出ているほどですが、そのほとんどが消失してしまったという事実には、時代の容赦ない残酷さを感じます。

さて、あるピアノ好きの知人からの情報で、某所にワグナーピアノというのがあって、それを所有者が手放したがっているという話を聞かされました。
なんとその方は、わざわざ新幹線に乗ってそのピアノを見てこられたとのこと。

正直言って、マロニエ君もワグナーピアノというのはアップライトで名前ぐらいは見たことがあったような気がする程度で、音の印象もなく、はじめは「へ〜ぇ…」ぐらいな感じでしたが、しだいにわかってきたことがありました。

ワグナーピアノはもともと広島にあった東洋楽器製造株式会社で製造されたピアノで、1955年の創業、敷地1万坪の地所に工場があったものの不幸にして火災に遭い、1964年わずか10年足らずで廃業となっているようです。
その後、ワグナーブランドは浜松の東洋楽器製作所(似たような名前で、アポロなどを製造するメーカー)に引き継がれたようですが、ピアノ自体は広島時代のものとはまったく別物だそうです。

さて、当該のピアノは1960年製、すなわち広島時代のワグナーピアノで、しかも驚くべきは希少なグランドなのでした。

写真が送られてきましたが、塗装が当時よく使われたというカシュー(人工漆のようなもの?)であるために、大屋根にこそ派手なひび割れがあるような状態でしたが、内部は、フレーム、響板、弦など、とても60年前のピアノとは信じられないほどきれいな状態が保たれているようでした。
さらにかなり黄ばんでいるけれど象牙鍵盤で、試弾されたところずいぶん力強く鳴っていたとかで、そのせいか蓋を完全に閉め、カバーで覆って使われていたとのこと。
内部の写真で驚いたのは、フレームの亀甲形の穴や鮮やかなブルーのフェルトなど、パッと見たところブリュートナーといった感じで、それを手本に設計製造されたピアノであることは疑う余地が無いようです。

マロニエ君がこの話を聞いた時点では、この知人が譲り受ける前提で話が流れているようでしたが、そこへたまたまシュベスターのオーバーホール済みのグランドというのがでてきたため、急旋回でそちらを購入されることになり、そのワグナーピアノは突如フリーの状態になりました。
値段を聞くとびっくりするほどお安く、ついムラムラっとしてくるではありませんか!

さっそく古いピアノに詳しい調律師さんに連絡したところ、さらにその方の先輩に当たる調律師さんがワグナーピアノにかなりお詳しいとのことで、またまたびっくり。
マロニエ君もよく知る方だったので、さっそく電話してみると、それはもう絶賛の嵐で、日本にもかつてはすごいピアノがあったのだということを情熱的に語られ、その素晴らしさをひとしきり伝えられました。
特徴としては、いわゆる甘い音のピアノではなく、腹の底から湧き上がるような力強い鳴りで、要するに重厚なピアノとのこと。
甘さは弾き方によって表現するようになっているそうで、それは戦前のスタインウェイなどもみんなそうで、昔のクラシック専用のピアノの多くがそういう音だったというのは何かで読んだ覚えがあります。

ただし、その調律師さんが語られるのは、あくまで広島で製造されたワグナーピアノのことで、とりわけグランドは希少で楽器としての価値は極めて高いけれど、リセール時のニーズは期待できないとのことで、そこが理由で、過去にもずいぶん多くの良質なピアノが廃棄されたとのことでした。
なので、そこさえ覚悟できるなら、ぜひ買う価値があるピアノだと、それはもう力強く勧められました。

この時点で、気分はかなり盛り上がりましたし、マロニエ君はリセールバリューなんてなくてもなんら問題じゃないのは言うまでもありません。
…問題はそこではなく、すでに我が家にはピアノが数台あることと、そのワグナーピアノは遠方にあるうえに現在2階に置かれているらしいこともあって、ユニック使用を含む安くもない運送料、大屋根の塗り直し、象牙の漂白〜ぐらいで済めばいいけれど、いかに中がきれいとはいっても60年前のピアノとなるとやるべきことは少なくないはずで、そういうことをあれこれ考えていると、気がついた時には神経がヘトヘトに疲れてしまいました。
高揚感と不安がごちゃまぜになって、一種の興奮状態に陥ったのでしょうね。

そんなすごい鳴りのピアノってどんなものかぜひ知りたいし、興味はつきませんが、そのために購入までするの?という自問。
一晩寝てよくよく冷静に考えてみたら、さすがにもう一台増やす(しかもどこまで手がかかるかわからないもの)なんて、やはり無謀にもほどがあると気がつく理性もでてきて、熟考した結果、あきらめることにしました。
フルートマニアの友人は、銘器をたくさん押し入れにため込んで悦に入っているけれど、ピアノはそうはいきません。

それを調律師さん伝えるべく電話したら、なんと「だったら私が買います!」と一切の迷いもなく言われ、広島製ワグナーに対する思いの深さには並々ならぬものがあるようで、驚きとともになんとも不思議な感銘を受けました。
でもそれが一番ですよね!
そういうピアノは、マロニエ君のような素人がケチくさい修理をしながら中途半端に維持するより、その価値を熟知しているプロの方の所有となって、その技術を惜しみなく注いで仕上げられるのが相応しいことは自明です。

というわけで、物事が最も相応しいところへ収まるのは、なんとも爽快なものです。
いつになるのか知りませんが、福岡に届いたら、もちろん見せていただくつもりで、ひとつ楽しみができました。
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続・変化のあれこれ

[スタインウェイの変化]
近年は長年不変だったスタインウェイのディテールの形状などが変更されているのは、以前にも書いた通りです。
とりわけハンブルクではボディサイドの大屋根の留め具がなくなり、突き上げ棒はNY風の華奢な2段階式(以前は3段階式)のものに変わり、譜面台も昔のRX時代のカワイのような、いたって平凡なものになってしまったようです。

さらに気づく方はいあまりおられないのかもしれませんが、マロニエ君としては最もイヤなのは、美しかった足の形状が微妙に変わって、アジア製ピアノのような大味なデザインになってしまったことです。
「ピアノは音が問題で、そんな些細なことは本質とは無関係」とする方のほうが大多数だろうと思いますが、世界の一流品というのは見た目のデザインも極めてのもので、細かな部分も大切だというのがマロニエ君の意見です。
スタインウェイの外観上の魅力のひとつに、ステージ上に置いたときのスレンダーな美しさがあり、そこにはまるでロシアのバレリーナのような足の美しさも寄与していただけに、造形が気になる人にとっては、まさしく改悪であり残念としかいいようがありません。
美術館は内部で作品を見せる建築物だから、競技場はそこでスポーツが問題なくできれば、外観はなんでもいいという人はいないと思いますが、それと同じです。

ニューヨーク・スタインウェイは、詳しいことはわからないけれども最近ではボディは艶出しが多くなり、工程が近代化されたのか、仕上がりじたいはだいぶきれいになった気もします。
またいくつかの映像では、ボデイ内側に、ついにハンブルクと同様の木目の化粧板が貼られる(以前はヘアライン仕上げの黒のままで、ピアノ全体がやや無愛想でしたが)ようになるなど、見た目の華やかさにも配慮し始めたのでしょうか。
ただし、これは一部のピアノだけなのか、標準化されたのか、そこのところは未確認。

先に書いたハンブルクの変化といい、片やこのニューヨークの変化といい、なんとなくこの両者の隔たりを少なくして、その溝を埋めようという試みのようにも思えますが、どうなんでしょう。
ただ、たまたまマロニエ君が見た動画では、新しくゴージャスにもなったニューヨーク・スタインウェイであっても、音は依然として馥郁として柔らかく、むしろ往時のスタインウェイの本質を残しているのはこちらではないか?とさえ思いました。

むかし以上にキッパリ鳴らしている気配のハンブルクに対して、ニューヨークがより本来のピアノの本質を深めていくのだとしたら、それは興味深いことではありますが…なにしろ情報不足で断定的なことはまだ言えません。

[人の変化]
今どきの人の変化でいうと、やはりというべきか、ネット上はかなり荒れ気味な印象を受けます。
マロニエ君にはピアノとクルマの2つのホームページともブログともつかないものがあり、それぞれクラブ入会という項目があって、たまに質問や入会の問い合わせみたいなものをいただきます。

中には、入会希望というのに名前も名乗らず、雑な感じで要件のみ二行ぐらいのものが何かのついでのように書かれていたりで呆気にとられることもあったり。
まあ、今どきはそんなことぐらいでいちいち動じてはいけないのでしょうが、それでも、こういう出方をされるほうが気構えができるだけ、まだマシだったりします。

もっと不快な後味が残るのは、はじめは一定の礼儀と丁寧さをただよわせ、さもちゃんとした人間であるかのようにアピールされているにもかかわらず、多少の説明など書いて返信すると、いきなりそれっきりになったりするパターン。
おそらく、説明内容が先方のニーズに合わなかったというようなことだろうと推察されますが、はじめとは打って変わって、一言の挨拶もないまま無視して終わるというもの。
こちらだって、返信メールをするのにも一定のエネルギーと時間は要するのだから、それが仮に質問者のニーズに合わないものだったとしても、普通だったら何か一言ぐらい返してしかるべきと思うのですが。

このように、善良で誠実ぶった態度と、不誠実なエゴが裏表になっているのは、そのギャップがおおきいぶん不快感も増大します。
この態度のギャップ、おそらくは入会してお付き合いが始まることを想定して、まずはよく思われておきたい、印象を良くしておきたいという自分本位の思惑が働くためで、だから予想と違ったものとわかるや、その瞬間、即ゴミ箱行きというのがありありと見て取れます。

これだから、今どきは出来る限り人付き合い(とくにネット経由の)はしたくありません。
それは偏見でもなんでもなく、ネットというのは、相手の素性もバックボーンもわからないから、その両者をつなぐものはネットの文字だけで、それがいつなんどき、フッと切れるかわからない義理もへったくれもない世界。

さらに、折からのコロナ禍で、人はこれまで以上に他者との関わりが減り、孤独化し、精神的にも風通しが悪くなっているから、この先はもっとおかしな方向へと加速していくことが予測され、よくよく覚悟しておく必要がありそうです。
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変化のあれこれ

辻井伸行のピアノ、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮で、2012年サンクトペテルグルクで行われた白夜の音楽祭?だったか、そういうものを映像で見ました。
曲はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。

すでに8年前の演奏会の様子で、DVDなどにもなっているようですが、マロニエ君は今回初めてそれを見る機会があったわけですが、これがなかなかの熱演で聴き応えがあり、感銘を受けました。

なにより驚いたのは辻井さんのエネルギッシュで頼もしいピアノでした。
いつもの彼は安定したテクニックで美しい演奏はされる反面、もうひとつ迫真性というか、厳しさや踏み込みが足りず、もう一押しあればというところを感じるのですが、このときはロシアの音楽祭で、指揮はゲルギエフ、オーケストラも聴衆もロシア人に囲まれてチャイコフスキーを弾くということになると、格別の気合が入るのでしょうけど、少なくとも最近テレビなどで目にする国内外の演奏会ではここまで集中力を高めたものはそうお目にかかったことがありません。
やはり本場がもつ空気なのか、本気で挑んだものは違うというのがハッキリ出ていたように思いました。

辻井さんは、ここぞというときにガツンとほしいパンチや激しさ、あるいは人の心をいざなうような溜めやデリケートな深い歌いこみががほしいときに、スララと抜けていくところがありますが、そういう物足りなさがこの演奏では殆どなく、終始力強くコッテリ感もあり、コンチェルトのソリストとしてじゅうぶん満足感の得られる演奏を繰り広げていました。
こういう演奏は、いつもできるものではないのでしょうね。

伝統的に、何事も重厚かつロマンティックなロシアで、いつも通りの演奏をしていたのでは充分な喝采は得られないという判断が働いたのか、そのあたりのことはわかりませんが、とにかく立派な演奏でした。

また、非常に意外だったことは、ロシアのサンクトペテルブルクであるにもかかわらず、ステージに置かれたピアノはニューヨーク・スタインウェイで、これがまたなかなかの好印象なピアノでした。
細かいことを言えば完璧ではないのかもしれないけれど、基本が太く良く鳴るピアノで、ひとつひとつの音が研ぎ澄まされ磨きこまれたというものではないけれど、ピアニストの熱気や気迫にダイレクトに反応してくるという点では、実になんともコンサートピアノらしいもので、いつも行儀よくつややかな音を安定供給するハンブルクとは、いささか性格が異なる印象でした。

ピアノというものは、ただ美音で整っていればいいというものではないことを聴くたびに教えてくれるような気がするのが他ならぬニューヨーク・スタインウェイですが、どうも肝心のピアニストと技術者がそこのところを理解せず、リッチで整った音でよく鳴るだけのピアノをステージにあげてしまうのはなんとかならないものかと思うばかり。

マロニエ君はヴァイオリンのことはわからないけれど、一般的な知名度ではストラディヴァリウスであるのに対して、演奏家はより力強く野趣も持ち合わせるグァルネリ・デル・ジェスを好むのも、もしかしたら少し共通する要因なのかなぁとも思ったり。

しなやかさと野趣があり、どこまで責めても破綻せずピアニストより前に出ることなく、底知れぬ感じでついていくニューヨーク・スタインウェイの強靭な魅力は独特で、ヨーロッパや日本でももっと聴ける機会が増えたら良いのに…と思います。

辻井さん、スタインウェイ、それぞれに変化があって久々に楽しめました。
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C3+アベル

先日のこと、とある技術者さんがアベルのハンマーを使うなどしてオーバーホールされたC3があり、交換から半年が経過したということで、これを触らせていただくべくお邪魔してきました。

ピアノ自体は50年ほど前のものだそうですが、内外はピカピカに仕上げられているし、多くの消耗品は交換され、どこを覗いてもすこぶるきれいで好ましい感じの佇まいは、むしろ若々しい感じのものでした。

いきなり驚いたのはその鳴りのパワーで、昔のピアノは違うというのはやはり思い込みではない!というのが最初の印象でした。
どこがどう違うのかわからないけれど、材料などが現在のピアノより上級品が使われているのと、製造時の手間のかけ方が違うのでしょう。現代のピアノより明らかに鳴りが太く、器が大きいことに唸りました。
この器というのは実は非常に大切な点で、今のピアノは、一見キレイな音はするけれど、昔ならあり得なかったような先端テクノロジーの力なのか、精密に極限まで鳴らされているぶん「今まさにピークで、この先の伸びしろは期待できそうにないな…」という感じを受けるのですが、そういうものとはまったく違うもの。

さらにハンマーが良品に交換されて丁寧に整音されているため、よくあるY社のものより明らかにふくよかになっている点もハッとさせられます。
ちなみに、ふくよかというのはモコモコ音ではなく、ハキハキはしているけれど、あのよくある針金の入ったようなキツい音ではないのが嬉しいところです。
アベルのハンマーが具体的にどういいのかは、マロニエ君なんぞにはわかりません。
イメージで言うならレンナーのほうが重厚でアベルのほうが少し明るめなのかもしれないけれど、等級もいろいろあるようだし、技術者の整音のやり方によっても変わってくるので、一概にどうとは言えない話です。

ちなみにマロニエ君は、ピアノの個性に合った良質なハンマーであれば、メーカーなどなんでも良いという考えで、ブランドに拘る気持ちはまったくなく、いい感じの音が出るならメーカーなんてなんでもいい派です。

さて、このアベルのハンマーはというと、Y社の純正よりも全体にフェルトの密度が高いのだそうで、そのぶん交換前よりも重くなり、それはタッチの重さにも影響するため、木の部分を削るなどの工夫を凝らされているようでした。
その効果は充分で、弾いている感じは至って軽快、このピアノの潜在力をあますことなく発揮するまでに見事に仕上げられていると思いました。

やはり、技術者の方がご自身の工房で時間をかけて仕上げられたピアノに共通するのは、音の上品さやタッチの素晴らしさです。
軽快なのにしっとりした質感があり、コントロール性にもすぐれたとても素晴らしいものですが、これは良質なタッチに欠かせない消耗品類が交換されていることと、時間制限のある出張修理ではないぶん、納得行くまで何度でも調整を繰り返された努力とこだわりの結晶だからでしょう。

やはりピアノは細かい調整の積み重ねがあってはじめて快適で上質な音や弾き心地となり、それはまさに人の手によってしか到達することはできない領域であることは疑う余地がありません。

というわけでC3としては最上の部類に属するピアノだと思いましたが、ここまで丁寧なメンテを受けたピアノであるからこそ、このピアノの生まれもった個性もより克明になるという一面も感じました。
たとえば、昔から感じていたことですが、Y社のピアノは低音域(とくに巻線部分)に特徴があり、それはこのブランドの全体の品質やクオリティからすれば、相対的に弱い部分ではないかと感じます。
このピアノもこれだけ入念な手が入れられ、弦も新しいものに張り替えられていますが、それでも巻線部分にはそこが残っており、このあたりは少々の部品交換や調整ぐらいではどうにもならないことなんでしょうね。

私見ですが、海外の優秀なピアノとか、国産でも僅かに存在した優れたピアノは、どれも低音域が深く美しく、弾き手を陶然とさせるような魅力があるのですが、Y社の場合は低音になるにしたがい音にキレがなくなり、雑味のある振動でビンビンいう感じ…。
低音域は音楽の土台であり支えともいえる部分でもあるので、きわめて重要な部分だと思うのですが、弦やハンマーも交換され、これだけ惜しみなく手が入れられたピアノであっても、そのあたりはかなり頑固なように見受けられました。

C3は大量生産のピアノなので、あまり細かい要求をしても仕方がないといえばそれまでですが、低音の美しさに関しては(モデル差はあるとしても)K社のほうがまだ優れている気がします。
また、単音はきれいでも、曲となって音数が増えたり、和音になって幾つもの音が同時に鳴る、あるいはフォルテになると、音や響きが暴れ気味となり、まとまりづらくなっていくのを感じます。
一流と評されるピアノでは、そういうシーンになればなるだけ音はむしろ収束していくところがあり、和声の色あいや厚みが増し、全体のフォルムがしっかり浮かび上がるように思うのですが、これはひとつにはY社のピアノの音に透明感がないからかなあ?とも思いました。

音に透明感があれば色のついたフィルムを重ね合わせるように、音同士が絡んだときにさまざまな色や響きを作り出せるものですが、その要素が少ないと、音と音が融和せずに混濁してくるのではないかと思いました。

余談ですが、マロニエ君はこのピアノの鳴りの良さやパワーには素直に感心したのですが、試弾に来られた方の幾人か(特に女性)は、なんと「鳴りがイマイチ」といった方向の感想を漏らされたらしく、これにはもうびっくり仰天で、さすがにその技術者さんも静かな苦笑いのご様子でした。
おそらく、日頃からわめき散らすようなピアノに慣れておいでの方だとしたら、このように上品にまとめられたピアノが「もの足りない」と感じてしまうのかもしれず、人間の慣れとはそういうものか…と思いましたね。

日頃どんな状態の楽器に接しているかというのは、だから大切なんだと思います。
これは「好み」とは似て非なることですね。
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1.5%

最近は音楽不況(とりわけクラシックは深刻)のあおりで、昔のようにCDが次から次にリリースされることもなくなり、それもあってか、若いピアニストに関しては、以前に比べてかなり疎くなった気がします。
考えてみれば、マロニエ君が新しいピアニストを知る手段は、☓☓コンクールに優勝などといった情報もあるけれど、その演奏を知るには新しく出てくるCDの中から興味を覚えたものを購入し、それを繰り返し聴いてみるという流れだったようで、気がつくといつのまにやらそういう流れが止まってしまっているようです。

今どきの人は、動画やコンクールの実況配信などを見て、スポーツの応援でもするようにファンになったりするようですが、動画は同じものを何度も見ることはなく、自分の腹に入れるにはCDを買って繰り返し聞かないとわからないものがあります。
さらには、むろん実演でしかわからないものもあるでしょうね。

CDに話を戻すと、今やよほどの大家でもさっぱり売れないのだそうで、とうにビジネスとしては成り立たなくなっているようです。
ネットの普及で、音楽も有難味とか重みを失って、じっくり付き合う対象ではなくなり、ただ消費する対象に格下げになったことが原因だろうと思います。

幼少期からいろいろなことを犠牲にして、ひたすら修業に打ち込んで勉強を続け、コンクールに入賞するなど、それなりのキャリアを積んでも、世間から妥当な評価を受けることも困難で、演奏機会も与えられない若者がたくさんいるのだろうと思うと胸が痛むし、だからもうやってられないと悟ってクラシック音楽の道なんて志す人は激減しているというのも頷けます。

そこに追い打ちをかけるように、ネット上にはユーチューバーという種族がいて、ピアノも例外ではなくまさに玉石混交の世界。
中には本当に上手くて才能もあって、感心するような人も一握りはいるけれど、多くは言葉にするのも憚られるような下品な見世物で、やれチャンネル登録だの再生回数だのを稼ぐために、これでもかという奇抜なアイデアを駆使し、目立ちたい一心でネタとしてピアノを弾くのですから、「今はそういう時代で、こういう新しい方法もある」といえばそれまでですが、敢えて全否定こそしませんが肯定もできません。

誰もが、いとも簡単に世界中に動画や主張を発信できるというテクノロジーは、それ自体は大変なことだけれど、正直言って、そんなものは「なくていい」「ないほうがいい」というのがマロニエ君の結論です。
まともなものの価値がなくなり、花壇は踏み荒らされ、目立つことで再生回数の数字がバロメーターで、それが世の中のうねりになると、もう止めようがない。

しかも、音楽という小さな一分野にかぎらず、政治でも経済でも、それによって世の中が真の恩恵を享受するに至ったかというと、人はより孤独になり、心は荒れ放題というのが実態でしょう。

鑑賞する側にもある程度の成熟が求められるのがクラシックの世界ですが、聴衆だってこんなにいろんな物に囲まれて、不安の中で生きているというのに、クラシック音楽だけはこつこつと旧来の方法で鑑賞眼を高めるなんていう暇もなければ、気分にもなれないでしょう。

ちなみに、最近見たある映画で言っていましたが「世界中のすべての音楽配信の中で、クラシックの占める割合はわずか1.5%で、それも聴衆の高齢化が進んでさらに低下している」んだそうです。はぁぁ。

ネット時代の到来前には、想像もできなかった現実がいま目の前にあるということです。
それでも演奏家の中にはなんとか踏ん張っている人もいるけれど、若いピアニストの中には演技で「天然キャラ」「才能ある人はちょっと違う」というのをアピールしようと、わざと外れたことを言ったり、小さな失言をしてみせたり、生理的に受け付けないような不気味な人もいたりして、見るたびに鳥肌が立ちます。
それに比べれば反田恭平さんや辻井伸行さんは、まだ清々しさがある。

いま音楽を楽しむには、こういうホラー映画のような森だか深海だかをかき分けながら、ようやく数少ないまともなものを探し当てなくてはならないというストレスのかかる作業が必要で、昔のようにある程度セレクトされたものの中から選べばいいということはできなくなったのは疲れますね。

そういう意味では自分が若い頃には、最高(と思える)のものに囲まれていつも感動して過ごすことができたわけで、いい時代に生まれたらしいことをしみじみ痛感するこの頃です。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

前回の続き?

Y社のピアノは、大量生産の道具としては、その価格も含めると天下無敵といって差し支えないもの。
楽器の世界に、TOYOTA的な信頼性を持ち込んだ手腕は世界が認めるところのようですが、ただ弾く人がそんなことをいちいち考えているわけでもないでしょう。
まして、自分のピアノを「コスパが一番」などと日頃から割りきっているとも思えず、時間とともに、このメーカーのピアノとさよならする人と、ますますそれ以外のピアノを受け付けなくなってのめり込む人とに分かれていくような気がします。

このメーカーのピアノを製品としてではなく、純粋に楽器としての評価をくだす場合、音質や表現力には疑問を覚えるし、あまりに企業臭・機械臭が強く、ちょっとした違和感を覚えている人は、多くのピアノを知る人ならあるていどいらっしゃるかもしれません。
各モデルや個体差はあっても、Y社のピアノは全般的に音がキツく(人によっては)ものの数分で耳や神経が疲れるし、ピアノと弾き手の間に通い合うものがどうしても希薄な印象です。
変な例えですが、せっかくデートをしていて、表面的にはいかにも上手くいっているのに、ほんのちょっとした気持ちに気がついてくれないとか、ささやかな心情を受け止めてもらえないなど、情の薄い人みたいな気がするのです。

酷使されてもへこたれず、たくましさやパンチはあるけれど、いっぽうでキーに触れて音を出すだけでも喜びを感じるといった喜びとか、楽器への愛情を捧げる対象としては、無機質さが立ちはだかっている。

先に登場されたAさんは、別メーカーのグランドが来てからというもの、Yピアノを弾かなくなられ、たまに弾くと「喧嘩ピアノ」になるという、言い得て妙な名言まで残される始末で、はやくも売却さえ検討中だとか。
一台だけだとなんとか保っていたものが、もう一台別のものが来ることで、その良さも欠点もくっきり浮かび上がるというパターンでしょう。

日ごろから同じメーカーのピアノだけに接していると、ピアノの音とはそういうものと思ってしまい、音色や発音の美しさとはなにか、演奏を左右するニュアンスや感性が大切ということに興味を感じなくなる危険を感じます。
しかも、国内はY社のピアノがあまねく行き渡っているから、どこに行っても本質においては同じタイプのピアノで、違った個性のピアノに触れるチャンスというのはそう多くはありません。

こうなると、別メーカーのピアノを弾いても、人間には慣れというものがあるから、違和感のほうが先に立って良さが理解できなかったり、スタミナ定食よろしくピアノはやっぱりガッツリ弾きごたえがあって、ハデで満腹できるほうがいい〜と感じられる向きは非常に多いと聞きます。
気がついた時には、音に対する敏感さを失い、表面的なテクニックばかりに気を取られてしまうようですが、これは付き合ってきたピアノにも責任の多くがあって、個人を責められないものがあるだろうとも思います。

まるで会社のマニュアルを叩き込まれた接客業の人と会話しているようでもあり、一見快適で頼もしく感じることはあっても、むこうはあくまで仕事対応であって、それで心を通わせたいと願うほうが筋違いみたいなもの。
良いピアノは、音が美しいことや、楽器としての機能はむろんですが、加えてよき友人や伴侶といった感じを与えてくれ(ときには拒絶もされ)、奏者の音楽性を育む要素を持っているかどうか、ただ音を出すだけでも喜びや楽しさがあるか、単なる大声でワイワイ盛り上がるだけでなく、しっとりと心に染み渡るように、あるいは澄んだ音でいかに遠くまで響かせられるかなどが大切だとマロニエ君は考えます。

Y社のピアノに日常的に接する人は、弾く人も、先生も、技術者さんさえも、それ以外を受け付けなくなっている場合が珍しくなく、もはやため息しかでません。
これは、一種の隔離社会のようなもの。

日本人はもともと世界的に見ても、珍しいほど繊細な感受性をもった民族だと思いますが、ピアノの音に関してだけはそれがまるで発揮されていないように思います。
それは無機質な楽器に接しすぎたせいで、聞き分けるべき耳や感性が錆びついてしまっているからだと思います。
おっと、気がついたらアップライトもグランドもないお話になってしまっていました。
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Y社のUP

過日の「技術者もいろいろ」「それから」で書かせていただたAさんは、日本のY社のアップライトもお持ちだそうです。
Y社のアップライトの中には、マロニエ君の経験でもキーが軽いというよりむしろペタペタで(すべてとはいいませんが)、タッチ感とかコントロール性に乏しいような個体が多い印象があります。
小さな子供にも弾けるための配慮なのか、電子ピアノから自然に移行できるようになのか、あるいはそれ以外か、その理由は定かではありませんが、あれが標準になると他のピアノを弾くときしんどい思いをするかもしれません。

AさんのところにあるY社のアップライトのタッチがどのようなものかは、マロニエ君は知る由もないけれど、一般論でいえばやはりかなり軽い方なんだろうなあという想像はしてしまいます。
そこへ、普通より重めのタッチのグランドがやってくれば、指のクセはついているし、人間というのはどうしたって相対的なものだから、その差がより衝撃的なものとなるのは避けられないかもしれません。

Aさんによると、Y社のピアノは「音は素敵な音がするけれど、飽きてくる」とあり、この点についてはマロニエ君も同感です。
Y社のピアノは量産品としてはすばらしくよく出来ており、音は滑舌がよく明晰、巻線の音域で意外に独特なクセやトーンはあるけれど、トータルで道具としての出来、とりわけコスパとしてみれば最高ランクの製品としての評価を得るのは異論の余地はないでしょう。

これを支えているのは、なにより工作精度の高さと、作りの正確さによる恩恵だろうと思います。
大量生産にもかかわらず、ピアノのアクションを構成するパーツ類の精度の高さはトップクラスと言っても過言ではないのだそうで、複数の技術者さん達によれば、修理もしやすく、交換の必要な部品など注文して届いたものをポンと取り替えれば終わりだそうで、そんなピアノは後にも先にもY社だけだとか。
通常の外国製のピアノなどは、たとえ高級品でもなにかしらの加工や技が必要らしく、そういうことをひとつをとってもY社のピアノの、修理のことまで考慮して作られた卓越した製品力が窺えます。

さらに、酷使にもへこたれない耐久力、大量生産としては圧倒的な精度、音も繊細ではないけれどバンバン良く鳴り、パワー(と感じるようなもの)もあって弾く人をそこそこ満足させる要素を持っているのが特徴。
車でいうとトヨタに匹敵する信頼性で、アフリカでも中東でも、地の果ての厳寒の地でも、そこを走り回る汚れたRVやトラックには決まってTOYOTAの文字があるように、Y社のピアノは世界のどこに持って行っても、その高いクオリティは賞賛されるに違いないでしょう。

ただ、車でも、電気製品でも、ピアノでそうですが、単なる印象ではありますが、多くの日本製品というのはここで頭打ちという感じがしてなりません。
ある程度の高みに行っていながら、それ以上の領域を突き破って新しい物を作るとか、独自の境地を開拓するとか、そういうことが見受けられない。

コスパは最高でも、それだけでは寂しいものがあります。
デザインもダサいし、モダンな佇まいもないし、ハンディなしに世界と勝負できるものは、ゼロではないかもしれないけれど、殆ど無いようにしか思えません。

マロニエ君はべつに輸入物の崇拝者でもないし、日本人だから日本製品を誇りと喜びをもって使いたいのだけれど、その領域に達する「何か」がないと感じるし、そう感じている人は大勢いらっしゃるのではないかと思います。
日本製品は大衆普及化という意味において、ある時代に多大な貢献をしたと思いますが、なぜか、そこで止まってしまうのは悲しい気分になりますね。
とくにその分野にご近所の大国が日の出の勢いとなった今日、日本のものづくりも根本的な見直しが必要だと思うのですが、すでに出来上がってしまった企業や組織の体質などは、そこにびっしりと利権の果実がぶらさがっていて、動脈硬化して、時宜に応じた変革は難しいのかもしれませんね。

とくにマロニエ君からみて日本製品の悲しい点は「センスがない」ことですね。
情報を寄せ集めてつくった中途半端なものか、たまに大胆なことをしたら、子供っぽいマンガみたいなものになるだけ。
たまにセンスあるものが出てきても、ほとんど企画段階で潰され、否定され、製品化されてきた時にはぶざまでダサダサなものになってしまう、なんとも不思議な文化。

暴論かもしれませんが、これはもしかしたら、日本人の顔立ちや体格にも由来しているのか?と思ったりします。
もし平均身長があと10cm高くて、手足がシャーッと長く、顔が小さい民族なら、作り出される製品の雰囲気も自ずと変わってくるような気がするんですけどね。

あれ…?
Y社のUPピアノの話だったはずが、すっかり脱線してしまいました。
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やわらかさの保持

ピアノの調律をすると、パッと音が明るくなって音粒も上品に整い、あの気持ちの良さはなんとも言えないものです。

しかし、その気持の良さは儚いもので、切り花がしおれるようにしだいに失われていくもの。
どれぐらい保つかは、温湿度管理や、弾き方、弾く時間など様々に左右されるとしても、だんだん崩れていくのは(程度の差こそあれ)ピアノの宿命ですね。

さて、その、ピアノの状態が好ましくなくなってきたと感じる要因は、いろいろあるように思います。
音程やユニゾンが狂ってくるということもあるけれど、意外に要因として大きいのは音質の変化ではないかと思うのです。

弾いていれば弦溝は深くなり、優しげな膜がかかったような音がだんだんはがれて、節度のない、キツい感じになってくると「ああ、調律しなきゃ!」と思うのではないでしょうか。
つまり、音の硬軟が変化することのほうが耳障りとなって、言葉では「調律」というけれど、実際には音のキツさを消す「整音」のほうが心地よさに寄与する部分は大きいのでは?と思ったりするこの頃です。
たとえば、音の固さが不揃いになってしまったピアノに、一切整音はせず、ただ調律だけをやればピッチは整ったとしても、それでどれほど満足が得られるかといえば甚だ疑問です。

で、以前にも少し書いたことがあったように記憶していますが、ハンマー硬化剤の逆の効果がある「軟化剤」というのがあることを聞いたことがあり、これの経験のある技術者さんが「まだ実験段階なのでお客様のピアノではできません」といわれるのを拝み倒して試しにやってみてもらったことがあります。
その経過も含めてのお話ですが、この軟化剤の効果というのは思った以上のものがあり、キンキンしない音の保持力がとても長く続くのです。

かといって、音の腰や輪郭がなくなったりというような弊害もありません。
(むろん、硬化剤と同様、技術者さんの経験に基づいて適正に使用された場合でしょうが)

例えば、音を柔らかくすることは、固くなった弦溝を剥ったりハンマーに針を入れることでもかなり効果はありますが、悲しいかな一時的で、弾いていればしだいに元に戻ってしまいます。
極端な喩えですが、寝る前に枕をほぐしてみても、朝起きた時にはペチャンコになってしまっているようなもの。

もちろん針刺しは、単に音の硬軟だけでなく、ピアノの音に骨格や品位を与えるための奥深い作業で、もちろん同等に論じているわけではないことはしっかりお断りしておきたいのですが、さしあたり、表面的な意味でのやわらかな音の保持という点だけでいうと、軟化剤による持続性にはかないません。

ひとことで言うなら、洗濯に使う柔軟剤と同じようなものと思えばいいようで、出来上がりはふっくら優しく、しかもそれは一晩で元に戻ることない、あれです。

この軟化剤のお陰で、次の調律まで抱く不満が格段に減じられることは驚くに値するものだと思いました。
次回調律までのスパンが半年なり1年だとして、針刺しだけでは、すぐに硬化してくるはずの音が、数ヶ月間続くのですから、これをどう見るのかはピアノの所有者の価値観しだいだろうと思います。

仮に年に1回の調律として、その大半が音質の乱れがきわめて少なくて済み、気持ちよく弾ける時間が圧倒的に長く保てるのなら、こちらのほうがいいと思わる方は多いのではないかと思います。
もちろん、高級ピアノやコンサートグランドでは軽々にそういうこともできませんが、家庭で普通に使うピアノにはかなりの威力があり、音が気になって調律をせき立てられる要素が激減すると思います。

ただ、ピアノによって(メーカーによって)は軟化剤の効果を得にくいものもあるようで、メーカー名は申しませんが、そういうハンマーはよほど質が悪いか、製造時から意図的にガチガチにされているんでしょうね。
どれを弾いても、キツい音がするのも頷けるというものです。

いずれにしろキンキン音はいけません。
それだけで耳が疲れて楽しくなくなります。
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若林顕

若林顕さんの演奏をクラシック倶楽部で視聴しました。
とても良かった。

昨年2020年11月、武蔵野市民文化会館大ホールで収録されたもの(おそらく無人)で、曲目はラフマニノフの楽興の時 op.61-1と4、それにショパンの24のプレリュード。

若林さんというピアニストは、もちろん以前からお名前は知っているし、あの特徴的なヘアースタイルは藤井一興さんと並んでなかなか強い印象を残します。
その実演には一度も接したことはないものの、どちらかというと冒険を排したキチッとしたもので、いかにもあの時代の芸大出身のピアニストという印象があったぐらいで、個人的にはさほど注目の対象ではありませんでした。

たぶんCDも1枚あるかないかで、それがなんだったかも思い出せません。
記憶にあるのは、もっとお若いころ、ピアノ以外で好きなことは?という雑誌での質問に「友人とプロレス観戦に行くこと」という答えが、妙におかしいような気がしたことぐらいでした。

さて今回の演奏ですが、はじめのラフマニノフからしてオッと思わせるものがありました。
今どきの基準から言えば、指さばきがとくだん鮮やかというわけでもなく、淡々とピアノに向かっておられますが、いま聴いてみればそれなりの味はあり、なにより落ち着いた風格みたいなものが漂っていて、そういうことはすぐにこちらに伝わってくるので聴く方も少しもセカセカした気にならずに済むし、ラフマニノフを丁寧に克明に描き出していました。

若い人のように、やたらスイスイ回る指先だけで薄い演奏をするのとは違って、その演奏には滋味があり、人間の大人の自然な存在感と呼吸があって、だから曲の言わんとするところがスッと入ってくるような演奏でした。

もっとラフマニノフが聴きたいと思ったけれど、ショパンになりました。
この方はもともとショパンという雰囲気ではないようなイメージでしたが、やはりこの人のお人柄から来るものか、自然で安定して聴いていられる演奏が続き、尖った何かで惹きつけられるタイプではないけれども、肩肘張らず違和感もなく聴き続けていられるので、あらためて聴く気になれないほど耳タコになってしまった24のプレリュードを、新鮮な気分でじっくりと聴かせてもらうことができました。

全体の曲調としては、マロニエ君の印象としてはポリーニのそれが解釈のベースになっている感じがして、「ああ、あの時代を過ごしてきた人なんだなぁ」と思いました。
むろん若林さんならではの感じ方や捉え方というものがより前にあるから、自分の演奏になっているし、この方らしいオーソドックスな方向で、他と争わない心地よさが支配していましたが、それでもポリーニの作ったフォルムがこの人の深いところに沈んでいるようには思いました。
むろんポリーニのようにメカニカルではなく、ずっと柔らかでショパンを感じさせる演奏でしたが。

感心すべきは、決して楽譜を疎かにはしていないけれど、聴かせるためのメロディや要点要所がくっきりしており、正しい句読点のついた心地よい朗読のようであり、そこがベテランならではの懐の深い聴かせどころなんでしょう。
さらに要所では低音をしっかりと力強く鳴らすあたりは、聴く側にとっても納得感とメリハリがついて心地よく、どこか懐かしくもあり、こういうものは無くなってみて初めて気づく隠し味みたいなもので、楽譜に書いてあることでもなく、今の若手にはつくづくない部分だなぁと感じるところでもありました。
若い世代は本当にお上手だけれど、楽譜をスキャンして音にしているだけみたい、作品の中のここが好きだとかここに思い入れがあるという箇所が少しも感じられず、曲が耳を素通りしていくようで深い満足が得られません。

ついでながら、このときのピアノもマロニエ君の好みでした。
弾き方もあるのかもしれないし、調律にあたった技術者さんが素晴らしかったのかもしれないけれど、全体は柔らかいのに、中音から次高音はなまめかしく、低音は震えるような迫力で鳴り響く、どちらかというと1970年代までのスタインウェイを思い起こさせるようでした。
もちろん、そんな古い年代のピアノではありませんでしたが、新しめのものでもこういう個体があるのか!と思わせる雰囲気がありました。
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それから

Aさんのピアノですが、漱石の小説のタイトルみたいですが「それから」どうなったか。

素晴らしい技術者の方のご登場と尽力によって、見事に整い、鍵盤もぜんぜん軽くなって弾きやすくなったとのことで、こちらも胸をなでおろしました。

ご報告によると、実に9時間に及ぶ作業だったようで、ハンマーの弦合わせからピンの磨きなど、大半は基本に沿った点検や調整にじっくり取り組まれたようです。
本来なら新品なのだから、これらは出荷調整でなされるべきことで、それをお客さんや技術者が別途にやらなくてはいけないというのが間違っていると思いますが、それが悲しいかなここ最近の趨勢のようです。

「鍵盤に指を置いたときの頑なな衝撃に近い重さがなくなった」とのことで、これは鍵盤が下に降りる初期の動き出しが特に渋かったのだろうと思われ、こういうのは弾きにくさの典型ですね。
やはりメーカーもしくは販売店の責任として、せっかく高いお金を出して購入したお客さんを失望させることのないよう、最低限の仕事はやるべきではないかと思いますし、それが製造者・販売者たるものの良心だと思うんですけどね。
とりわけ日本はそういう部分のクオリティの優秀さが世界に認められた国だった筈だと思うのですが、それはもはや過去の話ということでしょうか?

ただ、弾きにくさもこの日を境に終わったようです。
「もう(弾くのを)止めようと思ってフタをしても、また弾きたくて、音色が聞きたくなるピアノへと変貌した」とのことで、こういう話を聞くと、その変化の様子と喜びが伝わってくるようで、人ごとながら嬉しくなります。

さらにAさんは、なかなか表現力に長けたお方のようで、タッチだけでなく、音の変化についても報告してくださいました。
マロニエ君が要約させていただきますと、
「ベヒシュタイン風の太い鳴りが、スマートな都会的な鳴りになって驚いている」
「田舎者がニューヨークに出て美容室に行ったら、今流行りのスタインウェイカットにしてもらった」
というような響きになっているとのこと。
さらに「(前回の)調律では、こんな垢抜け感、全くありませんでした」と続きます。

Aさんは、本当にピアノの良し悪しがわかるお方で、なんと適確な表現かと感心しました。
そして、すぐれた技術者さんのお仕事って、こういうことなんですよね。

多くの日本のピアノは、ベチャッとして、日本のどこにでもある街並みを思わせるような音がするものですが、それはピアノの個性とばかりは言えないものがあるらしいことは以前から感じていました。
日本人の平均的な調律師さんが調律(もしくは整音)をされると、音程などはキチンと合わせられますが、音色や響きといった部分は、鉢が大きく背の低い、いわゆる日本人体型になる場合が多く、一部の優秀な技術者さん達だけがそこを抜けだして、のびやかな美しい骨格をもつダンサーのような音になるもの。

これは、技術の問題というより音に対する感性の問題ではないかと思います。
これまでにどういうピアノに接してこられたか、どういう環境で修行をされたか、どれだけ一流の音と演奏に関心をもっているか、それを汲み取り手掛けるピアノにどこまで反映させる能力があるか、そこに尽きるのではないか。
このあたりは、やはり依頼してみないとわからないことなので、そこに調律師さん選びというのがピアノを弾く側のやっかいな問題があるように思います。

そういう意味でも、この技術者さんはとてもセンスのある方だったんでしょうね。

加えて、とてもお人柄も素晴らしい方だったそうで、そういう方と出会えたことにも喜んでおられましたが、もし、前回書いた某技術者に依頼された場合のことを考えると、すべてが逆だっただろうと思われてゾッとします。

マロニエ君の印象としては、後ろ盾のないフリーの技術者さんは、自身の腕と評判のみで勝負されており、プライドをもってお仕事される方が多いように思います(もちろんそうでない場合もありますが)。
個別の案件に対して、どこまでやるか、どれだけ手間と時間をかけるか、依頼者と自分だけで自由に決められるのも強みですね。
いっぽうメーカーや販売店に属する技術者は、あくまで会社の方針に沿って仕事をせざるを得ず、よほど理解ある会社なら別ですが、多くの場合、時間のかかる面倒な作業はできないなど、あれこれの制約に縛られておられるというような話も耳にします。

というわけで玉石混交、判断の難しい世界であることは間違いないようです。
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技術者もいろいろ

長年こんなブログをやっていると、思いがけないメールを頂くことがあります。
ピアノ購入にまつわるお悩みや、何らかのアドバイスを求める内容だったりといろいろですが、もとよりマロニエ君は一介のアマチュアに過ぎず、まともにお答えするような資格もなければ責任ももてません。

また、ピアノには好みや主観が介在する部分も少なくないので、一概にこれが正しいとは言いかねることも多く、答えも一つでないことがたくさんあります(もちろん明らかに☓ということはありますが)。
例えば、猛練習に耐えて音大受験やコンクールに出る人が必要とするピアノと、趣味で好きな音楽を奏でてその音色を楽しみ心の癒やしにしたいというような人では、ピアノに対する要求やイメージも違うでしょう。
なので、あくまでも「自分だったらどうするか」というレベルで雑談的に返信させていただくだけですが、それでもご参考の一助になれば幸いと思っています。

そんな中で、最近ちょっと驚くような事があったので、ご当人の了解を得て少しご紹介。
その方のことをAさんとしておきます。
Aさんは某メーカーのグランドピアノを新品で購入され、その音にはとても満足されているものの、タッチが重くて弾きにくいのでこれをなんとかしたいというご相談のメールでした。

マロニエ君は約2年ほど前、それとまったく同じモデルの新品に触れる機会がありましたが、たしかにタッチは重くしかも雑で、ほどなく納品するというのに驚いたのですが、さらにその数カ月後、とある地方のピアノ店でまたしても同じモデル(こちらも新品)がありましたが、これが同じピアノとは俄には信じられないほどしなやかで上質なタッチで、音は腰がすわりビシッとキマっていて、こんなこともあるのかと二度びっくりでした。
この差は、志ある技術者さんによる高度な調整の賜物であることは明白で、ピアノを生かすも殺すも調整しだい技術者しだいということを痛感させられました。

で、返信内容としては、いきなり鉛調整ではなく、まずは信頼できる技術者さんによって入念な点検と調整をやってみて、それでもダメでやむを得ない場合は、鉛調整などの段階に進まれるのがいいのでは?と書きました。

ところが、Aさんもいろいろ調べておられたようで、ある技術者のサイトに辿り着かれ、そこに書かれたタッチ改善策に強く興味を示されたようでした。
その内容と地域などから、もしや某氏では?というのが頭をかすめたのでAさんに尋ねてみると、やはりそうでした。
(マロニエ君はエリアも違いますが、知人が一度依頼しており、印象はすこぶる芳しくないもので、具体的なことは避けますが「二度と頼まない!」ということでした)

某氏への依頼は止したほうがいいのでは?と伝えましたが、サイト内で展開されるその尤もらしい記述にかなり期待をされておられるご様子で、こちらの助言もはじめはなかなか届きませんでした。
その後の報告で、なにより驚いたのはその費用で、タッチ調整だけで、中古の安いアップライトが一台買えそうなすさまじい金額に唖然とさせられ、しかもそれはAさんのピアノを一度も見ることも触ることもせずに伝えられたようです。

その後、Aさんが質問などのメールをされると、今度は逆ギレのような攻撃的な長文メールが送られてくる始末で、そこに書かれているのは、Aさんのピアノに対する誤認をさんざんなじったあげく、自分の書いた文章を10回は繰り返して熟読しろと記されていたのは我が目を疑いました。

これは関東地区での話ですが、この競争社会の中ではときどきある悪しきパターンのような気も。
一方的な主張を展開し、自分はプライドの高い本物の職人で、徹底して強気に出ることは自信の裏付けがあるかのごとく振る舞い、ともすれば埋もれがちな大都会で生き抜く手段として棲息するタイプ。
まるでドラマにでも出てきそうな気難しい職人気質…の模倣ですね。
でも、模倣は模倣ゆえ、ともすればやり過ぎるもので、どんどん過激になっていく。

気に入らない客には「帰れ!」と怒鳴る頑固オヤジのラーメン屋でもあるまいに…と言いたいところですが、ラーメンならせいぜい千円かそこらでしょうけど、この場合はその何百倍の値段ですから笑って済ませるわけにもいきません。

そもそもマロニエ君の見るところでは、どんな世界でも、自信がある人ほど穏やかで幅があり、それのない人に限っていたずらに強気の態度に出るもの。ピアノの技術者の方でも一流になればなるほど、おだやかで、謙虚で、お人柄もよく、相手の要望にもしっかり耳を傾けながら素晴らしい仕事をされるもの。
むろん法外な請求などもありません。

請求といえば極め付きは、一方的に○日○曜日までと期限を切って、それを過ぎてキャンセルした場合、全額の70%を請求するというものでした。その理由は、そのために空けておいたスケジュールに穴が開くというのが言い分らしいのですが、これはたった数日間の話で、そもそも何も予定などなかったとしか思えません。

結局Aさんは、先述のピアノ店に連絡された結果、出張ができない代わりに信頼できる技術者さんを紹介されたとかで、某氏のほうは「期限」の直前でキャンセルされたそうで、マロニエ君としても安心しました。

近年、ピアノの出荷調整が著しく省略されている由で、少しでもいいものを届けようという志を失い、ひたすらコストのことしか考えないメーカーの方針もまた、このような悪辣なビジネスを生み出す要因にもなっているような気がします。

ピアノに限らず、やたら高額な費用や一方的な主張を押し付けてくるのは、まず怪しいと思っておいたほうがいいようです。
くれぐれもご注意ください!
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イゴール・レヴィット

イゴール・レヴィットというピアニストをご存じですか?

このブログを書くにあたって、ネットでちょっと調べたら、1987年ロシア生まれで、8歳のときにドイツに移住して数々のコンクールに出るなどしながら、今日のキャリアを築いてきた人のようです。

前回「プロのピアニストでも、やたら大曲・難曲好きの人っていますよね。」と書きましたが、まさにそんなひとりという感じを受ける人です。
絶賛の評価もあるようで、マロニエ君個人としてはそのパワフルで逞しいメカニックによる重量級のプログラミングこそがこの人の特徴ではないかと思います。

実は数年前、マロニエ君はこの人のCDをいくつか買ったことがあり、その特徴は例えばバッハのゴルトベルクと、ベートーヴェンのディアベルリ、それにジェフスキの変奏曲とかいう、1曲でも大変な大変奏曲が3曲3枚でセットになっているCDということで、その誇示的な曲目にすっかり乗せられての購入でした。
その後もたしかバッハのパルティータを買った記憶があり、探せばどこかにあるとは思うけど、あまり良く覚えていません。

また見た目もいかにもユダヤ系の人で、ルオーの絵のような濃い顔立ちと真っ黒なヒゲ、ギョロッとした強い眼差しなど、日本人からしたら年齢もわからないような、でもなにかスゴそうで、どんな演奏をする人か興味を掻き立てられたのでした。

しかし、その演奏は、危なげなく弾かれたものではあるけれど、作品を深く掘り下げるというより、弾けるから弾いたという印象がメインで、悪くもないけれど強く惹きつけられることもなく、何度か聴いただけで比較的短い期間で終わりになりました。
何度もくりかえし聴きたい演奏というのは、言葉にするのは難しいけれど、こちらの心がふっと掴まれるような瞬間があるとか、気持ちのある部分を揺さぶってくるようなもの、演奏によってなにかの景色が見てくるようなもの、あるいは刺激的な快さがあるなど、なんでもいいけれどもまた聴きたいと思わせるものがあるかどうかだと思います。

その後、ベートーヴェンの後期の5つのソナタをリリース(これも買ってしまいました!)するなど、この人はCDの選曲にも高級志向で押してくる印象が強くなりました。
聴いた後になにか残るものがないからか、レヴィットへの興味は終わってその存在さえほとんど忘れていたところ、NHKのクラシック倶楽部で彼が登場し、久々にその名前を思い出しました。
2020年のザルツブルク音楽祭に出演しベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲演奏を行ったようで、そこにもやはり彼の高級志向を感じますが、その中からop.110と111が放映されました。

映像でははじめて見たものの、確かなテクニック、メンタル面でも余裕すら感じる自己主張が伝わるもので、とりわけ男性の骨格と筋力が生み出す低音の迫力などはソロの演奏会場で聞けば魅力なのかもしれません。

しかし、その演奏から聞こえてくるものはCDの印象と大差なく、弾く能力にかけてはオリンピックのメダリストのように立派だけれど、それ以上の音楽が語るべき意味とか、演奏者の感興の妙とかが聞こえてくる気がせず、もしかすると、こういうスタイルがこれからの新しい演奏なのか…とも。
ところどころでテクニックにあかして変に遊んでいる(といえば語弊があるだろうけれど)ようなところも垣間見え、音楽ファンなら誰もが耳にこびりつくほど知っていて、しかも高い精神性をもつこれらの曲を、それらしく真摯に鳴り響かせる必要はそれほどない、あるいは流行らないよと言われているようで、あの祝祭大劇場に詰めかけた耳の肥えた聴衆はどう感じたのだろうと思います。

圧倒的な技巧とレパートリーを持って、マシン的にクリアで上手い人というのは世の中には一定数必ずいる(とくに現代は)ものですが、その中での頭一つ出るかどうかの勝負なんでしょうか。なんだって弾けて当たり前、どれだけタフで超人的な能力があるかということが問われるのかもしれません。
まったく、音楽家というより耐久レースの選手のような印象。

多くのコンクールにも出まくって、常に上位にはとどまるけれども、圧倒的な結果は得られない人ってたくさんいるものですが、今は優勝者しても圧倒的な人というのもいないから、しだいに求められるものも変質し、レヴィットのような人が音楽表現の深さより、能力エリートみたいなものでザルツブルク音楽祭のステージにも出演できるのかなぁ?と思ったり。

だいたいバッハのゴルトベルク、ベートーヴェンのディアベルリ、ジェフスキの変奏曲、3曲一組をひとつのCDとしてリリースなんていうのも、あるいはベートーヴェンの後期のソナタをひとまとめに出すなど、もうそれだけで「俺は普通のピアニストトじゃないよ!」と言われているようです。
かくいうマロニエ君もそれに乗せられてCDを3つも買ってしまったクチですけれども。

ちなみにピアノの大屋根は、やはりここでもノーマル以上の角度まで高く開けられており、実際の会場で聴いた経験はありませんが、スピーカーを通して聞こえてくる音は、通常のものより生々しい音の感じがして、あれはなんなのかと思います。
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カテゴリー: CD | タグ:

承認欲求

こんなくだらないブログでも、書くにあたって最も難渋するのはネタ探しであることは、以前もグチったことがあるように記憶しています。
なんでも書きたいことを心のままに書いていいのなら話題にも事欠きませんが、さすがにそういうわけにもいきません。

ネタは大抵、その人が過ごす日々の生活の中にあるもので、そこからどうにか無難なものを拾ってくるわけですが「書くわけにはいかない」ことは、ほとんどはボツになってしまいます。

直感的な比率でいうなら「書けないネタ」のほうが断然多いのは確かで、しかもそっちの方が内容としては遥かに面白いのに、それを捨て去らなくてはいけないのは辛いところです。
おまけにこの一年以上、新型コロナの騒ぎで世の中はすっかり萎んでいるから、素材もより少なくなり、そんな中からネタを探すのは以前よりもずっと難しくなりました。

というわけで、最近のことを少しぼかして書きますと、人間関係でドッと疲れるのはコンプレックスの強い人です。
他人のことに異様に興味を持ち、会話の中に自分のアピールがやたらと差し込まれ、話は空虚な内容の繰り返しだから「またはじまった」というわけです。

本来たのしくあるべき雑談は、話題はなんでも構わないけれど、その場にいる人達が共有して楽しめる内容であるべきですが、そこへ自慢やハッタリの響きが聞こえてくると、内心シラケて疲れてきます。
とりわけ困るのは承認欲求が並外れて強い人。

まわりも大人だから誰も面と向かってツッコミはしないけれど、これをやると、むしろひとり浮いていくだけの逆効果なんですが、悲しいかなご当人はその一番大事なところに気が付かれません。

ピアノにもいろいろありますねぇ。
自分の実力を何段も飛び越えて、自分はそれぐらいの場所にいるんだといわんばかりに難曲大曲に手を付ける人。
いつも取り組んでいる曲といえば「えっ、ウソでしょ!」といいたくなるような、プロ並の御大層な曲ばかり。

難しい曲に魅力ある作品が多いのも事実なので、そんな曲を弾きたいという気持ちはわかるけど、「弾きたい」のと「手をつける」のとでは大違い。それを一切無視して欲求の赴くままゴリゴリと練習するのかなぁ。

でも、当然ながらほとんど弾けていないし、そういう人の演奏ははじめから終わりまで陰惨で、テンポも維持できないから時間も長いし、一刻も早く終わることをひたすら願うのみ。

マロニエ君はいつも思うのは、演奏技術はむろん上手いに越したことはないけれど、大事なことは自分なりに丹精して仕上げたものを演奏に込めること。
手に負えない曲に手を付けると、技術の未熟さがより明確に露呈するだけ。
それでは自分の値打ちを自ら下げているようなもので、人の手垢のついた中古品を買ってでもブランド物を持ちたがるような、なにかたまらない気持ちになるものです。

それもなにも、すべてをひっくるめて「個人の自由」「アマチュアの楽しみ」といってしまえばそれで終わるのだけれど、そんなことをして音楽や自分を貶めることはないのでは?と思ってしまいます。

ちなみにアマチュアでも、音楽が好きで、曲のもつ雰囲気や細部の美しさに敏感で、それをできるだけ表現したいと願っている人も少ないけれどおられて、そういう人の演奏は思い通りには行かなくてもいい瞬間などがあり、その気分だけでも伝わってくるものですが、そういう人は必然的に選曲も自分の技術の限界をわきまえたものになっているのは云うまでもありません。

ま、プロのピアニストでも、やたら大曲・難曲好きの人っていますよね。
普通ならプログラムにメインの一曲として据えるような曲を、わざと何曲も並べて、それをもって注意を引き、自分のレべルの高さを顕示しようとするような人。

しかし、その演奏といえば大抵はただ弾いているだけで、偉大な音楽を聴いたという満足や幸福な後味はひとつもなく、先に述べたような承認欲求にまんまと付き合わされたなぁ…というような疲れだけが残ります。
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演歌

以前、東京芸大に潜入する番組を見たときに、はじめて知ったことがありました。
音楽学部の間では、異性から最も人気のあるのは、楽器別でいうと男性に人気はフルートの女性、女性に人気はチェロをやる男性が圧倒的に人気なんだとか。

チェロはちょうどあのサイズといい、曲線的なカーヴといい、それをうしろから全身で抱きかかえるようにして、ときに愛情深く慈しむように、ときに激しく演奏するのが女性にウケるんだとか。
要するにセクシーだということでしょうし、なるほどねぇ…と思わないでもないけれど、なんだかちょっと生々しい感じを受けたのも事実。

もちろん、音楽はもとより芸術全般に色気やセクシーさは不可欠だけれど、この場合は演奏とか表現性のことではなくて、もっと直截的な響きがあって「ひぇ〜」と思った記憶があります。
あまり良い表現ではないけれど、男性がチェロを無心に弾いている姿はモロにそういう連想をさせるのだと知って、いらいチェロの演奏(とくにソリスト)を目にするとそれを思い出してしまうのは、なんだかおかしいようなウザいようなことを知ってしまったようで困ります。

カザルスやロストロポーヴィチやフルニエには考えもしなかったことですが、ヨーヨー・マになるとあの表情からしてかなり微妙なものが。

さて、いま日本には絶大な人気を誇る男性チェリストの方がおいでのようです。
あえてお名前は申しますまい。

とても上手い方で、音楽作りのあり方もくっきりと明快で切れが良く、それこそエロい力強さもある。
これまでのチェロの穏やかで、どちらかというと後ろに回るイメージからはみ出して、まずなによりメリハリがきいていて表現も大胆でときにくどいほど、とくにソリストとしてこれまでのチェリストにはなかったヴィヴィッドなフォルムを描いて駆け上がってきたという感じ。

デュ・プレのような天才や狂気ではなく、あくまでもこの方の慎ましく誠実そうな人柄の奥にあるらしい男性的なフェロモンみたいなものが、チェロを介して十全に撒き散らしているように思います。
とくにこの方は、温厚で優しげな男性のイメージですが、ひとたびチェロを弾きだすや激しい熱情が露わとなり、そのコントラストも魅力なんでしょうね。

はじめの頃はキリッとした演奏をする、上手い人だなと肯定的に捉えていましたが、正直言うと最近はいささか鼻につく点も感じるように。

これってデジャブというのが適切かどうかわからないけれど、彼のやっていることと人気の根底にあるのは、いつかなにかで見たような気がして、よくよく考えてみると現代的にカタチを変えた演歌だいうこと。

いかにも一途な愛や情熱、嘆きや哀愁をひたすら音楽に注ぎこむ一途な男の姿は、いったんそこに気がつくと、急にお腹いっぱいになるのでした。
ラン・ランがどんなに世界を飛び回っても根底が雑技団的でしか無いように、日本人は観阿弥世阿弥か演歌浪曲のいずれかに行き着きついてしまうものなのか?
行き着くと言うよりは、バックボーンにあるものや遺伝子の問題?
遺伝子にかなったやり方だけら、ごく自然にウケるともいえるのかも。

マロニエ君の知人で、物事を思いもよらない鋭い目線で捉える人がいるのですが、曰く、髭の生やし方でその人の心理的な特徴が表れると力説されたことがありました。
で、きれいに整えられたアゴ髭まではいいけれど、それが上にきて下唇までつなげる人は云々というくだりを思い出しましたが、まさにこの方は控えめではあるけれど下唇までつながるアゴ髭があり、頭髪はサイドは短く刈り込まれているのがやけに生々しく、もちろん眉などお顔のお手入れも相当やっておいでのようで、ご自身のビジュアルのメンテにも相当気を配っておいでということに気が付きました。

テレビ媒体にしばしば登場し、あくまでも主役として派手に激しく演奏し、いったん演奏がおわると、パッとやさしい純朴で謙虚な男性に早変わりになるあたりは、まるで歌舞伎のようで、このあたりがキモなんだと思いました。

松本清張の『黒革の手帖』ではないけれど、「お勉強させていただきます!」と言いたくなります。
ま、どれだけお勉強したって、マロニエ君にはできっこないことですが。
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仕上げる価値

マロニエ君がピアノを弾くのは、いうまでもなく自分の楽しみのためであり、発表会に代表される人前演奏にも一切参加しないので、これといって目標や義務のたぐいも一切なく、もっぱら気持ちの赴くままにピアノに触れているだけです。

むかし、ピアノ弾き合いを目的としたサークルに参加していた頃は、毎月何らかの曲をひとつ仕上げて人前で演奏するというサイクルの中に入ったことで、その数年間は自分なりにそこそこ練習したことを覚えています。
とくに、この手のアマチュアサークルでは、毎月毎回、同じ人が同じ曲を弾くということが常態化しており、これは率直に言って聴く側にとっても倦怠を誘い、いかがなものかという印象があったので、せめて自分は同じ曲は弾かないという目標を定め、マイルールとしました。

そうなると、必然的に練習も必要となり、むかし弾いたことのある曲でも人前で演奏するとなれば、やはりはじめから終わりまで問題を洗い出し、修正と練習を加える必要があるし、新曲ともなるとそれはもう自分なりにかなり追い込まれて練習したものです。

でも、やはり自分には人前演奏は根本的に合わないということを悟るに至って退会、以前ののんべんだらりとした世界に舞い戻ってきたわけです。

それでも、今は、いかに自分個人の自由な楽しみとはいえ、手を付けた以上はある程度は仕上げたいと思うようになり、なんでも遊びで譜面を追い弾き散らすだけではピアノにも、作品にも、そして自分にもマズいだろうと思うようになり、去年あたりからはそれなりに「仕上げる」ということを目標とするよう進歩(?)しました。

で、具体的な曲名はあまり明かしたくはないのだけれど、いい曲やりたい曲はいくらでもある中で、自然に吸い寄せられるように楽譜を広げてしまうのは、ショパンのマズルカです。
ショパンのマズルカは50数曲、短い断片に近いようなものから、数ページにおよぶ大曲まであって、マズルカ以外の有名曲が遥か及ばないような深い芸術性を有するものがいくつも存在します。

これまでにも結構やったつもりですが、ちょっと思いつきで弾くには難しくて避けていたものの、やはりそうもいかなくなったのが有名なop.59の3曲。
ショパンコンクールでも昔からよく弾かれる、マズルカのひとつの頂点とでもいうべき作品で、弾き手のいろいろなものが試される難曲です。

はじめはop.59-1 a-mollだけやってみることにしたのですが、これが聴くと弾くとでは大違いで、譜読みの段階からウンザリして、以前、何度も初見で弾いてみてビビってやめたことを思い出しましたが、今回はそこを乗り越えてみようという気分が珍しく湧きました。
それはいいけれど、表向きa-mollなんていったって、それはごくはじめのうちだけ、あっという間に際限のない転調ワールドに突入、途中で迷子になるがごとく、今自分が何調で弾いているのさえわからなくなるような感覚。
途中も後期作品特有の多声部的な作りになっており、暗譜なんてとても無理だと思うし、本来なら途中で投げ出すところですが、今回ばかりは意地になって続けた結果、まあまあ曲がましく聞こえるようになるまでになりました。

でも、欲というのは出てくるもので、ひとつがそれなりにまとまってくると、その次にあるop.59-2 As-durにも目移りし出しますが、op.59-1に取り組んだ後は少しは弾きやすいような感じがして、しばらくこの2曲をさらっていました。
するとさらに欲が出るのか、長いこと我が耳はop.59のマズルカといえば、ほとんどを3曲続けるのが自然と言わんばかりに聴い込んできているので、ついにop.59-3 fis-mollにも手を出し始める羽目に!

ところが、これがマズルカにしては最長レベルの5ページもある上に、難しさでも一番の難物で、指さえシャッシャと動くならバラードの3番などのほうがよほど弾きやすいような気がしなくもないほど。
その点でいうと英雄ポロネーズなんて、筋力とスタミナさえあればずいぶん単純。

本当なら、マロニエ君のような怠け者はop.59-3なんてまず手を付けないのだけれど、3曲がセットという固定されたイメージがあるものだから、とうとうこれにも突入してしまって頑張っております。
おかしいのは、単独でもマロニエ君レベルにとってはじゅうぶん難しいop.59-2は、1と3に挟まれるかたちで、いつの間にかそれなりに弾けるようになってしまい、たまには必死な練習も無意味じゃないなぁ…と思ったところです。

この3曲が、ササッと弾けるようになればいいなぁ…。
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スマホはあって当然?

ちょっとしたいきさつがあって、昨年12月、車を買い替えました。
これまで乗っていた趣味の車を知人が引き継いでくださることになり、新世代の車(ぜんぜん大したものじゃありませんが)を買いました。

ここで、今どきの世のトレンドというものを車を通じて知らされることに。
この車には、ラジオはかろうじてあるものの、CDプレーヤーもカーナビもなく、カープレイとかいう、自分のスマホを繋いで使ってくださいというもの。

世界のスマホの普及率がどのくらい達したのかしらないけれど、車の購入者なり運転者はスマホを持っていることが前提の作りになっており、ガラケーの人はあっさり切り捨てられています。
海外では日本以上にスマホが普及しているのか、キャッスレス化なども遥かに進んでいるという話も聞くので、菅さんが携帯料金を見直しなどと言っている裏には、もしかしたら通信環境全般で遅れた日本を他の先進国並みにという目論見もあるのかもしれません。

さて、スマホ内の音楽ソースでもって車内に音を出し、ナビゲーションもスマホの地図アプリを繋いで映し出すし、あるときなど停止中電話したら車内のスピーカーから相手の声が出てきておどろくなと、とりあえずまだよくわからないことだらけで、苦手なので試せてもおらず、試そうという意欲も薄く、すべてが後回しに。
こういうことが殊のほか苦手なマロニエ君にとって、こりゃえらいことになったと思いました。

これまで、車の中で聞く音楽は複製したCD-Rを車のプレーヤーにただ突っ込んで聴いていだけだし、家ではCDで聴くのみ、よってスマホの中に音楽は一曲も入っておらず、まずはその音源作りから始める必要に迫られました。

さしあたり、適当に選んだCDを10枚ほど自宅パソコンのiTinesに読み込ませ、それをiPhoneに移し替えることにしたわけですが、今までそんなことやったことがないので、それをどうするかだけでもあれこれ調べて、ヒイヒイいいながらなんとか移し替えはできました。
たったこれだけでも疲れる作業なので、手慣れた方からすればバカみたいに思えるでしょうけど、わからないものはわからないし、知らないものは知らないのだから仕方なく、ぜんぜん楽しくない。
ようやく車に繋いで音出しに成功したと思ったら、はじめに鳴り出したのがゴルトベルク変奏曲。

で、あの有名なアリアが終わり、当然、第一変奏がくると思っていたら、いきなり最後の変奏になり、まずこれで目が点になりました。ベートーヴェンのカルテットなどもいきなり最終楽章から鳴り出すなど、ようするに再生順がおしりからになっているわけで、こんなバカなことはないし、だいいち気持ち悪くて聴いちゃいられませんが、なぜそうなるのか、正しい順番に鳴らすにはどうしたらいいかがまたわからず、先は長そうです。

運転中に不慣れな操作をして事故るわけにもいかないので、赤信号であれこれやってみますが、便利なものって便利になるまではストレス先行で、そこに至るまでのいくつもの波を乗り越えるかどうかが問題ですね。
この手のことが得意な人が見て触れれば、なんでもパパッとたちどころに理解できて、自在に使えていいのかもしれないけれど、だれでもそうとは限らない。
たかだか運転しながら車中で音楽を流す、ただそれだけのことでも大変で、もはや人間は素直な感覚でゆったり生きていくことは許されなくなったんだなぁとしみじみ感じます。

また、スマホとの連結はもちろん、あらゆる操作が中央のタッチパネルに集約されており、エアコンの温度や風量を調整するにも、車両のこまかい設定をするにも、いちいちそのための画面を呼び出してピッピッとやらなくてはなりません。
おまけに音にしろセンサーにしろ安全機能にしろ、なんでもが「設定」ずくめで、身の回りのものがすべてこの「設定」を必要とするのは、自分流にカスタマイズできるという点ではメリットもあるのでしょうが、正直ウンザリもします。

かりに操作になれたとして、じゃあもしこの集中モニターや制御するコンピューターの大元が壊れたらどうなるのか、スマホにしてもありとあらゆる生活のための情報やコンテンツをこれひとつに集中させるのは便利かもしれないけれど、もしこれを落としたり盗まれたりしたらどうなるのか、それを考えるとゾッとします。

よく若い方が「スマホは命より大事!」と空虚な笑いとともに言い放ちますが、命より大事かどうかはともかく、それぐらいこの小さくてズシッと重い機械にすべてが握られ、依存し、支配され、精神的にも頼りきってしまうようにされてしまうのは、概ね間違いないだろうと思います。
幸いなことにマロニエ君は、そこまで依存するほど使いこなすスキルがないことが幸いして、人よりは深みにはハマらず済んでいるのかもしれませんが、それでも外出してスマホを忘れたことに気がつくと、いいしれぬ不安につつまれ、面倒くさくてもできるだけ取りに帰ります。
そうまでして、結果はまったく使わなかったなんてこともあるところをみると、やはり支配されているということでしょうね。
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2021年

あけましておめでとうございます。
昨年は世界中が新型コロナに明け暮れる一年でしたし、それは未だ進行形でもあり、収束の目処も立たないという不安の中で迎える新年となりました。

世の中がそんなふうになると、音楽やピアノに関する話題やこのブログに書きたいようなネタも激減するのはやむなきことで、このブログもいつまで続けられるかわかりません。
少しずつ再開されるコンサートも厳しい制限付きですが、音楽というのは本来ある種ノリの世界なので、そういうことになってくるとますます衰退するのではないかと危惧しています。
とりわけ音楽業界に身を置く人の苦悩は如何ばかりかとお察しします。

意外な現象もあるそうで、さる業界の方から聞いたのですが、ヨーロッパ(とはいっても一部の国かもしれませんが)では、コロナ禍以降、下降気味だったピアノ販売が好調に転じているとか。

これは取りも直さず、ステイホームで家の中の楽しみとしてピアノでも弾こうという事なんだと思いますが、やはりそのあたりがヨーロッパは西洋音楽の発祥の地だけあって、根底にあるものがちがうなぁと思います。
日本人は、どんなにステイホームと言っても、せいぜい大型テレビを買ったり、ふだん作らないような料理をしたりと、過ごし方は様々でしょうけど、少なくともピアノを買って家で弾こうという行動にはつながる人は、極めて少ない気がします。

クラシック音楽にかぎらず、楽器を購入して楽しむということが根本的に文化として身についておらず、わけてもピアノといえば練習だレッスンだと修行のほうが先に来て、その延長の先のほうに一部の人の趣味があるだけ。
生活の中に音楽したり楽器に触れたりということが自然な楽しみとして根を張っていない故だと思います。

それと、生活形態も人々の意識も昔とはずいぶん変わって、多くの人達が、街中の便利のいい機能的なマンションで暮らすのが圧倒的に増えました。
それはいいけれど、同時に世の中の価値観や空気も変容し、俗にいう「不寛容の時代」というものに年々厳しさが増していて、一つの建物のなかに上下左右を別の世帯と壁一枚で仕切られて生活しているための不自由も少なくないようで、なにごともルールづくめとなり、それが行き過ぎた観もあるのか、ずいぶんと窮屈を強いられるようです。

管理する側も、各世帯の自由と幸福を維持するために奮励努力するなんてまっぴらのようで、問題があれば片っ端からルール化し、ルールがあればそれに違反した人には違反者のレッテルを貼り、場合によっては罰するという処置しかしないのがほとんどだとか。

当然、ピアノの音などは糾弾の対象となるものの筆頭で、一人でも迷惑という声が上がったら最後、うるさいと主張する側が守られ優先され、音楽を楽しむ人の権利はまったく顧みられないようです。

これでは、よほど高度な防音対策でもしていない限り、ピアノなど弾けるはずもなく、ピアノ=周囲への遠慮と気遣いというストレスになり「楽しむ」どころではないようです。
よって日本ではピアノを取り巻く環境は年々厳しさを増し、肩身の狭いものになってしまうようで、この流れはなかなか止められないのでしょうね。

尤もピアノひとつが弾けたからといって、コロナの苦しみが解決するわけではありませんけど。

パンデミックや不穏な国際情勢のせいで、世界中が前途多難という印象が拭えませんが、かといって自分だけそこから逃げ出すわけにもいかないので、そんな中でを少しでも楽しくやっていくしかないですね。
2021年がどんな年になるのかわかりませんが、ともかくよろしくお願い致します。
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清水和音

クラシック倶楽部で清水和音さんのピアノが放映されました。
今年の9月、NHKホールで収録されたものらしく、おそらく無観客で収録されたもののように感じました。

曲目はシューマン/子供の情景、ショパン/バラード第4番、リスト/ペトラルカのソネット第1曲、ベートーヴェン/ソナタ第30番。

非常に上手い人だけど、昔からマロニエ君にとっては好みのタイプではなく、その演奏を聴くのは実に久しぶりでしたが、良くも悪くもこの人らしい健在ぶりを確認できるものでした。
和音さんの演奏を視聴するたびに呆れるのは、その手の動き。
世界中さがしても、彼ほど指の動きが必要最小限で事足りて、本当にこれで弾けるのか?というようなわずかな動きしかないのは呆れるばかりで、ビジュアルとしてはまったく見ごたえがない(逆にあるけれど)ばかり。にもかかわらずあれだけ充実した響きが出せるのは、よほど手の重みや筋肉が特別のものなのか、格別な奏法なのかそのあたりは謎ですね。

最近の若いピアニストたちが、今どきのお手軽なイケメンみたいに、軽くて薄めの音で、さらさらとなんでも弾きこなすのを聞いていると、まるで大手のインテリアチェーン店の商品を見ているようで、なんとも言い難いような気分になるばかりですが、和音さんのピアノはそれとはまったく逆の、良い意味で昔風の分厚い上質なカーペットのようで、この点は旧世代の重みを感じます。

最新の新しいピアノでも、あれだけ厚みのある美しい音を引き出せるのは素直に大したものだと思うし、近ごろはなにかにつけコストダウンされた楽器のせいにしていた事も多かったけれど、とはいえ、やはり弾き手・弾き方によってかなり変わってくる面も大きいということもわかりました。
さらに付け加えると、和音さんの音は柔らかで美しく、それでいていざとなればパワーもあれば明晰でもあるのに、いかなる場合も決してピアノを叫ばせないのは大したものだと思うし、この点は立派だと思いました。

ピアノを弾く技術に関しては、この人には天から授かったものが備わっているように思います。

さて、ここからは少々不満ですが、それだけの素晴らしい技術的な資質を備えていながら、聴いていてちっとも楽しくない点も清水和音さんって、相変わらずだと思いました。
とくにそれを痛切に感じたのは子供の情景で、美しい絵本か詩集のようなこの曲集を、ただ次から次へと楽譜の棒読みのように工夫なく演奏されてしまうのはやりきれなさがあり、ただシューマンのピアノ曲のひとつを自分流に弾いて通り過ぎただけという印象。

その点では、以降の3曲は高度な技巧を要する曲で、中でもショパンのバラード4番は、あれだけの演奏至難な曲を、なんら困難も破綻も感じさせないまま、当たり前のように弾けてしまうのは、それはそれで聴くに値するものでした。とくに後半部分もさあ難所が来たぞという構えもなく、整然と見事に終結してしまうところはさすがというほかありません。
まさにプロの演奏としての商品価値があるといった趣ですが、しかし音楽には必須であるはずの即興性とか味わいは個人的にはまったく感じません。
ペトラルカのソネットはもう少し情感が前に出てもいいかと思いますが、そうではないぶん端正な演奏でした。

最後のベートーヴェンは、この曲では叙情的なようでいて、どこか不安定な演奏が多い中、まったくぶれない腰の座った確かさが光り、長い第3楽章が佳境に入っても演奏は一貫して乱れず、お見事というものでした。

ただ、やはりこの人は徹頭徹尾技術の人であるという印象が拭えず、どんな曲でも間違いなく安定して弾いてくれるであろう頼もしさがある反面、曲が内包する高揚とか慰めとか問に対する答え、山場へ向かって迫るといったドラマがなく、どこまでも技術によってまとめ上げられた音楽に聴こえてしまいます。
これが、この人なりの考えの結果かもしれないけれど、聴いていてどうしても心情を託せないもどかしさが常につきまとってきます。
「楽譜にすべてが書いてある」がこの方の口癖で、いかにも尤もなようですがマロニエ君はそれには疑問を感じます。

楽譜にすべてが書いてあるのなら、もはやAIにまかせてもいいことになるでしょうけれど、マロニエ君としてはあくまで作品があり、その上に演奏者の芸術性が介在することで、ようやく音楽は成り立つものだと思いたいのです。
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心地よい音

真夜中3時頃のNHK総合では、映像とBGMだけが流れることあり、ヨーロッパの街並みだったり、ロワールのお城だったり、どこかの美しい景色だったり。
そのなかに映像詩『やまとの季節 七十二候』というのがあって、ゆったりとしたピアノの演奏とともに、リラクゼーション的な映像が流されているのを何度か目にしました。

ときどき演奏シーンが映りますが、ここで使われているピアノはどこにあるもので、どういう経緯でこのピアノなのかは知らないけれど、それは見るからにたいそう古い、外観のデザインも違う古色蒼然たるスタイルの19世紀のものでは?と思うようなスタインウェイでした。

かなり古いことは確かですがが、これがなかなか美しい艶っぽい音なのには「へえ」と思いました。
昔のピアノの音の美しさというのは、言葉でうまく表現できませんが、そもそも根本からして違う感じがあり、過度な洗練を加えられることのない素朴な艶と美しさを感じます。

むろん、古いピアノならなんでも良くて新しいピアノはすべてダメと言うつもりはないし、そもそもマロニエ君に懐古趣味はないことをしっかりお断りした上で、先入観なしに耳に入ってくる音として、美しいものは美しいという、ただそれだけの話。

古いピアノって、周りの空気をふわっと動かすような独特の鳴り方があって、そこに温かみがあってやわらかい。自然で正味のもので、それゆえ気持ちに理屈でなしに入ってくる「何か」をもっているように思います。
何が理由でそうなるのかはわかりませんが、まるで大自然の法則に適っているような心地よさを感じます。

昔のピアノは、木材やフェルトなど天然素材の質、あるいは自然乾燥など手間(すなわち人件費)のかけ方が格段に違うなどと言われているのはいまさらですが、ハンマーなどは消耗すれば交換もされるだろうし、それ以外にもなにか根本的な違いがあるんだろうと思います。

たとえばイメージするのは、熟練の技と勘など、創り手の技や熱意など、今では望み得ないものが詰まっているいるのではないかと思います。
こういうことをいうと、理論家の方は「そんなあやふやで根拠の無いものを良しとするのはナンセンス」、ピアノ作りには客観的に機械が勝るところも多いのも事実で、美化された理想と根性論のようなものだけではいいものはできないと言われる方も実際におられます。
たしかにそれも一理あるでしょうけど、マロニエ君は楽器作りにおいては、すべてがそうとも思えず、良い楽器になるために随所に込められた熟練者の勘や技が積み上がって到達する、摩訶不思議な領域というものは「ある」と思います。

現代のピアノは、上質の天然素材が自由に使えないだけでなく、効率重視によって直接音とは関係のないとされる部分には、人工の、あるいは人工に近いような部材が容赦なく使われているらしく、さらにハイテクによって量産家具のように寸分の狂いなく正確に組み上げられていくので、きれいだけど楽器としては失うものも少なくないはず。
たとえ人の手に委ねる部分があるにしても、それはごく一部の作業員(職人ではなく)の機械的な手作業であって、全体を統括するものはあくまでもハイテク。

あらゆる設計/製造の技術で言えば、昔とは比較するのも愚かしいほど進歩しているけれど、その技術が良いことにだけ使われているかといえばとんでもないことで、大半はコストダウンのためのごまかしなど、使う人のことを置き去りにした効率術にこそバンバン活かされ、表面だけ尤もらしくきれいに整えた製品であるのが大半です。

そんなご時世に、ピアノだけが例外であるわけがない。
一点の曇りもキズもない塗装、無機質なほど完璧に整った大小さまざまなパーツ、機械化によって成し遂げられた均一な組み上げ術、一説によると整音まで機械がやっているそうで、これで宣伝文句だけはやれ無限の表現性だの人の心だ感銘だと美辞麗句が踊っても、そうはならないのが当たり前。

一見きれいなようでも、つまるところは液晶画面のような無機質な音にも、それは出ていますね。
現代のピアノはいかにも音やタッチが揃って、さも尤もらしくしていますが、やっぱり楽器というよりは装置という感じです。
そういう音に慣らされた耳でも、やっぱり本物の音を聞くと、とても懐かしいような、ホッとするような、それでいてとても新鮮な心地になります。
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ラジオ

普段、家でラジオを聞くことはなく、自宅にはその装置さえありません。
べつに特別な理由はないのだけれど、昔からラジオを聞くという習慣が、なぜか身につかなかったからだと思います。

したがって、ラジオを耳にするのは車の中でCDにちょっと飽きたとき、ちょっとスイッチを入れてみるぐらいで、まれに気分を変えてNHK-FMのクラシックは聴くことがある…という程度です。

いつだったか番組名もわからないけれど、夜、なにげなくラジオに切り替えたらミケランジェリの特集のようなものが放送されており、途中から目的地に着くまでの30分ぐらい聴きました。
なぜかマロニエ君は、昔からミケランジェリはとてつもないピアニストだとは思うものの、まるで荘重なフレスコ画でも見ているみたいだし、不気味なほどひんやりした感じがして、好みから云うと進んで聴きたい人ではありませんでした。
一度だけ、実演を聴くチャンスがあったのですが、会場のNHKホールに行くと、妙に閑散としてなんだかあたりの様子がおかしく、入口近くに立てかけられた小さな掲示板に目をやると、今日の演奏会は本人の体調不良でキャンセルになった由の文字が並んでました。

いくら好みのピアニストではないとはいえ、やはりあれほどの世紀のピアニストです。
ついにその生演奏に接するという高ぶる期待で出かけて行ったらキャンセルで、ホールの建物にも入ることなくすごすごと引き返す時のあのやりきれない気持は今もって忘れられません。
当日、NHKのラジオではキャンセルの告知をしていたそうですが、もちろん知らずに会場まで行ったのでした。
表向き体調不良というようなことが書かれていても、ミケランジェリの場合、到底それを鵜呑みにする気にはなれませんでした。
楽器の問題か、あるいは、演奏会をやるような気分にはなれなかったという、そういったことだろうと思ったし、この人の演奏会に足を運ぶ以上、キャンセルのリスクは覚悟すべきだと承知ではあったけれど、いざ自分がその状況に立たされると、やっぱりやるせないような、行き場のない感情がふつふつと湧き上がってきたことも覚えています。

ずいぶん後になって知ったところでは、やはり楽器の問題だったらしいというようなことが音楽雑誌に書かれており、その尋常ならざるこだわりがミケランジェリのピアノ芸術を成立させているわけでもあるけれど、同時に彼ほどのピアニストなら、それなりの素晴らしい楽器と技術者が揃っていたことは疑いようもなく、それでも何かが気に入らずにキャンセルするということに、ある種の凄みと、バカバカしさみたいなものとが、コインの裏表みたいに感じたものです。

冒頭のラジオに話を戻すと、ミケランジェリの演奏で残っている音源にはやけに古いものや放送録音の類など、録音条件がきわめてバラバラで、出自の怪しい、聞くに堪えないようなものも数多くある印象ですが、まれに鮮明で良好な音として捉えられたものもあったりして、このとき流されたチェリビダッケとの共演でベートーヴェンの皇帝の第一楽章は、それはもうゾクッとくるようなものでした。

1969年の北欧での演奏か何かですが、演奏もさることながら、驚いたのはピアノの音。
美しい鐘の音のように鳴り響く低音、中音以上はやわらかで明晰、太字の万年筆のような優美さがあり、後年のスタインウェイのように痩せて肉の薄いキラキラ音で聴かせるものとはまるで異なる世界。
おそらくは戦後のハンブルクスタインウェイの黄金時代の楽器で、そこにさらにミケランジェリのような狂気的なこだわりが加味されると、こういう音になるんだと思いました。

ふと思ったのは、ファツィオリの目指している音ってこういうものじゃないか?…ということ。
ただし、やっぱりこの時代のスタインウェイは、素材も理念も何もかもが首尾一貫しており、本物だけが有する説得力と孤高の世界がありました。
本当にいいものには有無を言わさぬ、何か圧倒的なものがあるということを認めないわけにはいかないものでした。
この演奏から50年余、音楽を演奏する側、聴く側、いずれも本質においては何一つ進歩していない(むしろ後退)というのが率直なところ。

マロニエ君がミケランジェリを苦手とするのは、楽器そのものがもつ音の温かさと不自然なぐらいの美しさ、それに対して陶器のようにひんやり冷たい血の気のない演奏、その2つの要素の温度差があまりに激しくてついていけず、聴いていてしんどくなるからだと思います。
ちなみにポリーニは、とくに絶頂期のそれは専ら男性的なテクニックの濫費に身を委ねていれば満腹できるので、鑑賞の楽しみとしてはずっと楽ですね。
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事実上の終焉かも

前回からの、だらだらした続き。

コロナ禍には関係なく、ホールという空間でのコンサートに、近年に疑問を抱くようになってきたという、これはたんなるマロニエ君個人の印象です。

昔のように巨匠といわれる人やスター級の演奏家が君臨する時代ではなくなり、多少の差はあるとしても全体としてみれば平均化されたピアニストが大半。
訓練法が発達し、合理的に弾くという能力が向上したおかげで、予定されたプログラムをただ予定通りに「普通に、小粒に、コンクール風に」に弾いて済ませることはできるようにはなったけど、その先がない…。
くわえてYouTubeやネット配信などで、音楽や演奏にアクセスする方法もめまぐるしく変わってくると、これまで当たり前と思っていたホールでの演奏会も、質的な変化やなにやらで以前のような意味があるのかどうかさえ疑わしい。

とりわけコンクールで淘汰されてきた人は、難曲でも何でも普通に破綻なくクリアに弾けて当たり前の時代に、わざわざチケットを買ってホールに出掛けて行っても、もはやドキドキ感はなく、コンサートが特別なものではなくなりました。
もう一歩踏み込んでいうなら、今どきのピアニストの演奏は、一期一会の演奏に全身全霊を込めているというより、有名人が本を出版したり各地を講演して回っているような、技能職という色合いが透けて見えるようで、いわば腰の低い通俗人で、芸術家という気がしません。

そもそも、東京などの一部の演奏会を除けば、ほかでは露骨に手抜きの演奏したり、下手な人はやっぱり下手なだけだったりで、いずれにしろ演奏を通じて、何か極められた特別なものに触れることは難しいのです。
そんなものを見て聴くためにわざわざホールに出かけて行っても、喜びや充実とは興奮とは結びつかないものであることは自明で、こうなるのは当然だろうと思います。


昔の巨匠の中には一週間でも10日でも、毎回異なる曲目でリサイタルができるぐらいの膨大なレパートリーがあったとも聞きますが、公開演奏会とは、ほんらい、それぐらいの余力のある人がやるものではないかとも思います。

プログラムに関しては、たとえば半分だけ決めておいて、あとはその時の気分でいろいろ聴かせてくれるようなピアニストと、それが不自然でない規模の会場と雰囲気…、そんなものがあればどんなにいいだろうというようなことを考えたりします。
それもホールのコンサートのように「さあ、聴かせていただきましょう」といった大仰なものでなく、もっとほぐれた雰囲気があればと思うし、音楽って本来そういうものじゃないかと思うようになってきたこの頃です。

そうはいっても、万が一つにも、そういうスタイルが流行ったら、現代の抜け目ないピアニスト達はそれっとばかりにその情報を掴み、陰でシナリオを周到に準備して、それを演技的にやるぐらいのことは朝飯前で、よけいわざとらしくなるだけかもしれませんが。

いずれにしろ、仮にコロナ問題がないとしても、1000人も2000人も入るような巨大ホールで、はるか遠いステージ上の演奏を、左右の方と肩寄せ合って窮屈な体勢で聴いたところで、それがなに?としか思えなくなりました。
現代は何事にもビジネスや利益が絡む社会なのでホール規模のコンサートが当たり前のようになっていますが、やはりあれば本来アメリカのショービジネスのサイズで、クラシック音楽には合致していないように思います。
はるか遠くのステージから、ろくなニュアンスも伝えない残響音の放射で、およそ音楽的とも思えない不明瞭な音を延々2時間も浴びせられるのは、目に合わないメガネをかけて写真や映像を延々と見せられるようなもの。
そもそも残響というのは、主たる音が確固としてあって、脇役でしかないはずのもの。

コンサートの帰り道、なんとも言い難い後味の悪さに苛まれ、ひどい疲れと欲求不満のほうがはるかに大きいのは、実はそうした実際的な苦痛が多々あって、精神と肉体は正直だからだろうと思います。
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演奏環境

最近しきりに思うこと。
それは、クラシックのコンサートというのはオーケストラのような規模は別として、ソロから室内楽ぐらいまでの規模の演奏会をホールでやるということに、漠然とした疑問というか、違和感みたいなものを感じはじめるようになりました。

もしマロニエ君が全て自由にやれるとしたら、どっちにしろクラシックは大勢の人がこぞってやってくるようなジャンルではないのだから、少なくとも器楽の演奏会はホールを抜けだして、19世紀のスタイルに回帰してもいいのではないかと妄想してみたりしています。

ショパンの時代のように、広さはよくわからないけれどもサロンがあって、ピアノがあって、そこを来場者は適当に椅子をおいて、演奏者をゆるやかに取り囲むようにして演奏を聴く、こういうスタイルに憧れます。

できれば椅子も疲れない、肘掛けがあるような少しまともなものがいいし、それを真珠のネックレスみたいにきれいに並べるのではなく、ある程度ランダムに置いて、微調整は各人がやるぐらいの「ゆるさ」があるとどんなにいいかと思います。
人数も、100人からせいぜい200人程度といった数でいいのでは?

マロニエ君が嫌なのは、多くのホールは左右がくっついたシートに押し込められ、他人と肩を寄せ合うようにして着座し、肘掛けさえ一本をさりげなくお隣さんと奪い合うようにして使わざるを得ない、あれ。
おまけに、体中に神経を張り詰め、動きも最小にし、声はおろか咳払いひとつでも遠慮がちにしなくてはならず、暗い周りに対し照明の当たったステージを凝視するのは目が非常に疲れるし、これを事実上2時間つづけるのは、相当の疲労というか、心身ともにストレスまみれになります。

おまけに、肝心の演奏が気にいらなかったり、広すぎる会場と、仕組まれた過度な残響のせいで、音はぼやけて細かいニュアンスなど何も伝わってこない。

それなら、残響などほとんど配慮されていなかった昔の多目的ホールのほうがよほどマシな場合は少なくなく、そんな環境で、テクニックにしか興味のないようなピアニストのドライな演奏を聴かされても、当然のように「音楽の喜び」とは程遠いものになるのは必定です。

ピアニストがこういう演奏になるのにはさまざまな要因があり、テクニックという能力の競争、時代の空気、コンクール中心の価値観、聴衆の質の低下など、色いろあるとは思いますが、そのひとつとしてこのようなホール環境もあるのではないかと思います。

広すぎる空間、高いステージの上で照明を当てられての演奏は、聴衆とのコンタクトというよりは、孤独な晒し者という要因のほうが強く、そんな中で、深い愛情や味わいや芸術性を最優先した演奏など、できなくて当たり前という気がします。
聴衆も大事な点はわからないのに、ミスタッチだけはチェックされるとあっては、無味乾燥な印刷みたいな演奏になるのも、わからなくはありません。

というわけで、もっと小さな会場での親密さのある演奏環境が整えば、弾くほうも聴くほうも、はるかに質の高い幸福なものになるようなきがするのですが、それはマロニエ君の幻想でしょうか?
「いい演奏は聴衆が育てるもの」という言葉がむかしあったけれど、それは今も変わらないと思うし、演奏環境も同じじゃないかと思うこの頃です。
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広瀬悦子

少し前のことですが、広瀬悦子さんのCDを初めて買いました。
曲目はリャプノフの『超絶技巧練習曲』(全12曲)。

超絶技巧練習曲といえば誰もが思い浮かべるのはリストですが、最近知ったところでは、リストはもともとこれをすべての調性で書くつもりであったものの、結果的にはそれは果たせず半分の12曲で終わったのだとか。

すべての調性で書かれた作品としては、バッハの平均律、ショパンやショスタコーヴィチの24の前奏曲等がよく知られますが、平均律はハ長調/ハ短調、嬰ハ長調/嬰ハ短調と順次上がっていくのに対し、24の前奏曲はハ長調/イ短調という平行調、そして5度ずつ上がってト長調/ホ短調と進んでいく。
いっぽう、リストの超絶技巧練習曲はハ長調/イ短調という平行調に進むものの、次にくるのはフラットがひとつ増えてヘ長調/ニ短調、さらにフラットふたつの変ロ長調/ト短調という具合に、フラットが増えていく作りになっています。
「なっています」なんて前から知っているみたいに書いていますが、言われてみてたしかにそうなっている!と最近気がついたしだい。

これを引き継ぐかたちで、同じく超絶技巧練習曲を12曲書いたのがロシアのセルゲイ・リャプノフ(1859-1924)。
リャプノフはシャープが6つの嬰ヘ長調/嬰ニ短調から出発し、ひとつずつ減っていき、最後にト長調/ホ短調に行き着くというもの。

このリャプノフの超絶技巧練習曲じたいが初めて聴くものでしたが、一曲々々が聴き応えのある重量級の難曲で、むろん楽譜は持っていませんが、耳にしただけでも最高難度を要求する曲集であることが察せられます。
ライナーノートによれば、「ピアノ書法と構想の両面でショパンとリストの練習曲集に比肩するクオリティを誇っており、さらに演奏の難易度とヴィルトゥオジティの点では、この二人の先輩作曲家の練習曲集をしのいでいる。」とあり、そうだろうという感じでした。
作風は、繰り返し聴きながら、かつライナーノートを参考にしながら云うと、ロシア5人組、とりわけバラキレフの影響が濃厚で、ドビュッシーやスクリャービンと同時代の作曲家と思うと、革新的な試みや書法で新地を切り開くのではなく、保守的な作風なのかもしれません。

リストを思わせる部分は随所にあるものの、曲としての明快さがいまひとつ掴めず、ロシア的な暗さの中で重々しく唸ったり旋回したりで、リャプノフならではの独創性というのがもうひとつ判然としない印象はありました。

広瀬悦子さんは、これまで特に注目したことはなかったけれど、これだけの曲をなんの不満もなく聴かせて、自分のものにして録音までするというのは、素直に大したものだと感心させられます。
この人は、よく知られた名曲に新たな息吹を吹き込んだり、演奏を通じて聴くものに直接語りかけてくるようなタイプのピアニストではないけれど、これだけのずば抜けた能力があるので、こういう知られざる作品を紹介するのにはうってつけの方だろうと思います。

「パリ高等音楽院を審査員全員一致の首席で卒業」とあるので、フランス系の特徴である譜読みがよほど得意なんだろうと想像しますが、恵まれた長い指、何でも弾きこなせる高度なメカニック、どこか孤独を感じさせるひやっとする雰囲気。
昔、ミヒャエル(マイケル)・ポンティという埋もれた作品を次々に掘り起こしては録音して紹介する達者なピアニストがいましたが、広瀬さんにはぜひともその現代版になっていただきたいような気がします。

ご本人もそういう方向性を自覚しておられるのか、バラキレフ、アルカン、モシェレスなどの作品を多く採り上げておられるようで、埋もれた、もしくは埋もれがちな作品を呼び戻すためにもピアニストの中にはこういう人も必ず必要なのであって、今後の活躍にも期待したくなる気分です。
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大事なことは…

以前にも似たようなことを書いた覚えがあるので、重複するところはご勘弁を。
ピアノ購入者の中にはびこる「グランド信仰」というのは、相当に根強いものがあります(大人の趣味としてこだわりをもってピアノを買われる方は、ここに書く内容には該当しない人達ですが)。

子供にピアノをやらせている親御さん、音大に行った人とか、先生とか、あるいは技術者であるとか、世間的には「専門家」とされる人達の価値観というのは、ピアノの場合、かなりの固定観念に凝り固まった方が多くおいでのように思います。
それは、ピアノといえばグランドであり、グランドこそがピアノといえるもので、アップライトはまがい物でしょせんは妥協の産物。

置き場の問題と予算さえクリアできるなら、グランドにすべきは当然で、音楽性に乏しい有名量産メーカーのものであれ、まずはグランドか否かが重要、グランドはすべてのアップライトに優るという強烈な思い込み。

「グランドでないと真の上達は見込めない」「試験やコンクールに受からない」とまでされ、そういう人達はどんなに素晴らしいアップライトでも眼中にはなく、グランドでありさえすれば安心されるようです。

彼らの言い分はおおよそ決まっています。
先生はじめ内輪の伝聞によって、一秒間にできる連打の数など構造上の違いがある、早い話がグランドで練習しないと上手くならないというもの。
かくいう人達のほとんどはダブルエスケープメントという言葉すらご存知ないし、そういう人達がグランドのアクションでこそ可能なデリケートな音色の変化やタッチコントロールの妙を追求しているかというと…甚だ疑問に感じます。
さらにアップライトで弾けるのはせいぜい中級曲までで、上を目指すならグランドじゃないと無理というのがほとんど常識となっているのも驚きです。

できることなら、グランドで練習したほうが良いという説を否定しようというつもりはないけれど、美音を生み出すタッチや音楽性には無関心で、ただグランドでガンガン練習さえすれば良い結果が得られるという短絡的な理屈はいかがなものか。
せいぜい言えるのは、たとえばワルトシュタインの冒頭和音のこまやかな連打が、グランドのほうが楽にできるという程度の差でしかなく、弾ける人が弾けば、ショパンのエチュードだって、バラキレフのイスラメイだって、アップライトでも弾けますよ。

あるいは発表会であれコンクールであれ、ホールにあるのは、大抵有名メーカーのフルコンだったりするので、日頃からグランドで練習していないと本番で弾けなくなる!などとまことしやかに言われますが、それをいうならステージ上のコンサートグランドというのは、鍵盤からハンマーまでの長さも違うし、音色、音の出方、ホールの響き方、タッチ、音の放出感やバランスの取り方など、ことごとく違うわけで、それをたかだか家庭用の小型グランドを自宅に備えたからといって、解決するものとも思えないんですけどね。

グランドで育った人とアップライトで育った人とでは、音の出し方がまるで違う!などと尤もらしく言われたりしますが、マロニエ君はまったくそのようには思いません。
それはグランドかアップライトかの差ではなく、音楽的な演奏を目指しているか、美しい音の出せるような鍛錬をしているかどうか、タッチコントロールの必要性を教えてくれる教師か否かの問題のほうがはるかに大きいと思います。

それどころか、だいたいグランドさえ買っておけば安心するような親御さんの子に限って、音色に対する配慮どころか、音量バランスもへったくれもないまま、ただ単調で機械的に、そしてところどころに悪趣味な抑揚をつけて難しい曲を早く弾いたりするだけというのはご存じの方も多いでしょう。わざわざベンツで子供を学校や塾に送り迎えするのと同じとはいいませんが、大事なポイントがいささかズレているようにしか思えません。

思うに最も大事なのは、はっきり言えば価値観や教養など周囲の環境、音楽に対する愛情、美に対する感性、好ましい先生(これが絶滅危惧種並ですが)の指導などであって、それらがバランスよく統合されて育っていれば練習台がアップライトでも云うほどのハンデイがあるとは思いません。
どのみちピアノは持ち歩きはできず、そこにあるさまざまなピアノで弾かざるをえないもの。

昔のロシアのピアニストはところどころ音の出ないような、ピアノとも言えないようなガラクタで練習していたのだし、ダン・タイ・ソンやラファウ・ブレハッチは幼年期からずっとアップライトで育ったそうですが、にもかかわらず両人ともショパン・コンクールの優勝者です。

ちなみに、なにかの本で読んだところではパリの人達は、学習者はもちろん、本物のコンサートピアニストでさえ自宅(大抵はアパルトマン?)ではほとんどがアップライトだそうです。それでも海外からこぞって音楽留学してくるだけの高度な芸術性と演奏家のレベルを維持しているというこの事実ひとつとっても、やみくもにグランドが必要ということは裏付けられているとは思えません。
もちろん買える方は買われたらいいのだけれど、「グランドじゃなきゃダメ!」的な発想は、そこが正にダメだと思うのです。
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アップライトの防音

この数年というもの、マロニエ君がピアノを弾くのは、大半は自室のアップライトになってしまいました。
なぜそうなのか上手く説明はできないけれど、たぶんそのほうが環境その他で気持ちが落ち着くからでしょう。

自分のピアノのことを書くのはあまり気が進まないので、これまでほとんど触れたことはありませんでしたが、昨年、気に入っていたシュベスターを人にお譲りすることになり、ベヒシュタインのMillenium 116Kというやや背の低いアップライトに買い換えました。

このピアノ、その小さめの体軀に似合わず音が凛として、とても良く鳴ります。
「ピアノはグランドが絶対!」と思っているような人に、一石を投じるような意味でもぜひ触れてみて欲しいようなアップライトです。

さて、自室でコソコソ弾くピアノというのは、元気よく鳴ればいいというものでもなく、音量というよりはしっとり美しい音で練習を彩ってほしいものです。
部屋の窓などが防音をしていないこともあり、周囲への音漏れは気になるところなので、そこで思いついたのが自分でできる防音対策で、あれこれ試してみました。

アップライトというのは、大抵の場合、部屋の壁に寄せて置くのが普通ですが、かといってべったり壁にくっつけるわけにもいかないので、我家の場合は壁とピアノの間隔は約7cmほどにしています。

さて、一般にグランドピアノは音が大きく、アップライトはそれよりはずっと控えめと思っておいでの方もいらっしゃるようですが、具体的に音量計で計測したわけではありませんが、実はアップライトも相当の音量があり、グランドに比べて格段に静かとは思いませんし、仮に近隣のご迷惑を考えたら、そこにグランドだアップライトだということより、建物内のどこにピアノがあるかのほうがよほど問題だろうと思います。
そうかといってサイレントシステムなどは絶対に付けたくなく、実は一台サイレント付きのピアノもあるのですが、あれなら弾かなくていいとなってしまいます。

アップライトで最も音が出るのはどこかというと響板がむき出しになっている背面だろうと思います。
ならば、その背面に布地を垂らしてみようと思い立ちました。

まず試してみたのは、綿の粗い生地のテーブルクロス。
これを前屋根(上部の蓋の部分)にひっかけて、そのまま背後へだらんと垂らすというものでしたが、これが意外にも効果があり、あきらかに音が全体にひとまわり静かになりました。

布切れ1枚で、こんなに違いがあるとは思いもしなかったので、これはまず驚きでした。
ならばというわけで、もっと効果のありそうな布はないかとネットで調べた結果、防災用品専門の店に「完全遮光防炎防音遮音暗幕」というのがあり、遮音効果もかなりあって効果的というふれこみだったことと、布幅がいい具合にこちらが必要としているものとほぼ一致していたので、これを注文しました。

届いたのは、布というより「コーヒーをこぼしてもサッとひと拭き」みたいな人工的な素材で、裏には薄くゴムのコーティングのようなものがされており、繊維というより通気性などないシートという感じで重量もそれなりでした。
さっそく前回同様、先端を前屋根の中に差し入れて、残りはうしろに垂らすスタイルで使ってみます。

すると、まあたしかに音はそれなりに小さくなったけれど、遮音効果がある専用品を謳うわりには、前回の綿のテーブルクロスに比べてそれほどでもなく(つまり大差なく)まずこの点で大いにがっかり。

色は黒なので目立たないから見た目もいいから、効果の面では期待ほどはなかったけれどせっかく買ったんだし、しばらくこの状態で使ってみようと思いました。
ところが、それで10分も弾いているとあることに気が付きました。

さほど音量が抑えられたわけでもないのに、音の抜けが悪くなったのか、とりわけ和音などがぐしゃぐしゃした汚い音になりました。
テーブルクロスの時はそんなことはなく、全体の印象はそのまま崩れることなく、バランスよく音がコンパクト化された感じだったのに、この遮音防音シートとやらは、うまく言葉にできませんが、とても気持ちの悪い、早い話が汚い音になりました。
こりゃあダメだと思い、すぐに取り外しました。

その後も、なんか家にあった変なシートのようなものも試したけれど、最初の綿のテーブルクロスが一番よく、もし少し音量を抑えたいという方はぜひお試しを。
背面のどこまで垂らすか、床近くまでか、10cm上げるか20cm上げるかでも音と音量は微妙に変わるので、効果もあるし、楽しいですから、いろいろやってみられるといいかもしれませんよ。
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シュワンダーの真実

あらかた書いて、忘れていた文章がひょっこり出てきました。

今年のはじめ、ヴィンテージピアノの修復家の方にお会いできたので、いろいろとお話を伺いましたが、その中でも長らく完全に勘違いをしていたことがありました。

グランドのアクションについてですが、ウイペンのスプリングにはシングルとダブルがあり、現代のピアノはダブルが主流というのは通説ですね。

シングルのタイプにはそれなりのしっとり感や繊細な表現の可能性があり、バランスよく機能していればこれはこれで好きなのですが、なにぶん調整面の制限があって技術者泣かせのようだし、ハンマー交換などするとその弱点が露わになることも少なくないようです。
それに対して、ダブルスプリングはタッチのある種のデリカシーには乏しかったりすることもあるけれど、個別の調整幅があってキーの戻りなど俊敏性に優れており、機能面では断然こちらのようです。

これについてはマロニエ君もディアパソンを持っていた時代、ハンマー交換後の調整を重ねたもののどうにもうまくいかず、ついにはウイペンをダブルスプリングのタイプに総入替してもらったりと、技術者さんにはずいぶんご苦労をおかけしましたが、おかげでいい経験になりました。

ところで、その名称について。
一般に「シングルスプリングのことをシュワンダー」「ダブルスプリングのことをヘルツ」というのが通称になっており、要するにその名前が即、ウイペンのスプリング形式を表しているという認識でした。

それはマロニエ君のような素人の勝手な思い込みとだけでなく、プロフェッショナルの方もそういう言い方をしばしばされ、一般にはほぼそのように認識されているようです。
試しにネットでそのあたりを検索してみると、技術者のブログなどで、タッチ改善のためにシングルからダブルへとウイペンを交換することを「シュワンダーからヘルツにしました」といったような表現が、複数確認できます。
シュワンダーとヘルツの違いがわかるよう、2つ並べて写真まで添付されていたり。

ところが、この修復家によればそれはまったくの誤りであると、いともあっさり言われました!
シュワンダーとはレンナーとかランガーのように、いわゆるアクションの製造メーカーの名前というにすぎず、シュワンダー→シングルスプリングではないとのこと。
そればかりか、シュワンダーにもダブルスプリングとシングルプリングの両アクションが存在していて、現在もこの方の工房には「シュワンダー製のダブルスプリングのウイペンを搭載したピアノがある」といわれたのには、まさに「ひえ〜!」でした。

また、レンナー・アクションにもシングルスプリング仕様はあったのだそうで、アクションメーカーの名前がスプリング形式の代名詞となるのは、まったくの間違いであるとのこと。
で、ヨーロッパではダブルスプリングのことを「スタインウェイ式」、シングルを「エラール式」と呼んでこれらを区別しているとか。

では、そのスタインウェイ式をヘルツ式というようになったのはなぜなのか?
そこも質問しましたが「それはわからない」とのことで、ネットでも見てみましたが、ヘルツは周波数のことばかりでピアノに関することはついには見つけ出すことができませんでした。
ただ「スタインウェイ式」というからには、昔のスタインウェイ社の誰かが考案したものなんでしょうね。

戦前のベヒシュタインでもダブルスプリング式のピアノがあったそうですが、スタインウェイとの特許かなにかの争いで負けたたため、やむなくシングルに戻ったというような話もありました。
もちろん現代のベヒシュタインはダブルスプリングであるのはいうまでもありませんが、そこに至るにはいろいろな事情や変遷、そして事実誤認があるということですね。

ちなみにシュワンダー(Schwander)は英語読みのようで、フランスではシュヴァンデルというようで、井上さつき著の『ピアノの近代史』(中央公論新社)の中にも、「アルザス出身のジャン・シュヴァンデルはやはりアルザス出身のジョゼフ・エルビュルジュと組み、数々の改良を行い、国際的なアクションメーカーとなった」とあり、1913年には1000名の従業員があり年間10万台のアクションを生産、イギリスやドイツに数多く輸出され、シュヴァンデルのアクションを使っていることはピアノ販売の重要なセールスポイントとなったとも述べられています。

というわけで、今後、シュワンダー/ヘルツという表現は、アクション機構、スプリング形式を示すものではないという認識が必要なようです。
そうかといって、「スタインウェイ式」「エラール式」では日本では違和感もあるでしょうから、せめてダブルスプリング/シングルスプリングというのがいいのかもしれません。
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歪んだ自己顕示

つい最近、フルートマニアの友人から聞いたこと。

彼はさほどの演奏もできないのにモダンフルート(古楽器ではない、現代様式の金属のフルート)のコレクターで、ムラマツ、ヘインズ、ハンミッヒ、ルイロットなどいくつもの名器をコレクションしているお馬鹿なのですが、まあその点ではマロニエ君も(コレクションこそできませんが)ほぼ同類であることはかねがね書いてきたとおりです。

さて、フルートのような管楽器や弦楽器は定期的にメンテに出して、調整したり、消耗品の交換をしたり、時に解体修理をしたりと定期的なプロのケアを必要とするようで、楽器と名のつくものはおしなべてそういうものであるようです。

それを請け負う職人さんにも様々な名人・才人・奇人のたぐいが多々おいでのようで、修理のやり方ひとつにも各人各様の流儀と価値観・手法・巧拙があり、どこの誰に頼むかは難しいところのようです。
技術者のセンスや考え方、持ち主との相性や好みなどが幾重にも絡みあい、単純な答えがないあたりもピアノ技術者と同様だなあと思います。
いや、ピアノより楽器が小さく繊細なぶん、技術者の施した仕事の影響を受ける要素も多いのかもしれず、技術者選びはさらに困難を極めるといえるのかもしれません。

ヴィンテージの楽器が得意な人(ピアノと違って、そこには真贋の鑑定やそれに伴う金銭問題も含む由)から、メーカー系の定める基準にそって、マニュアル通りの整備を目指す人まで様々で、よって依頼する楽器によっても使い分けが必要なようです。

驚いたのは、さる名人とされる職人某さんの談によると、修理や調整にはよほどの自信とプライドがあるからか、自分が手がけた楽器(それも名器と言われるもので、そのへんのお稽古用の楽器ではない貴重な銘器!)に、自分が技術者としてその楽器に関わったという証を残すために、どこか所有者には見えないところに自分なりの印を入れるのだそうで、早い話が自分だけにわかる「キズをつける」のだそうで、これには仰天しました。

この方は、これを友人へさも誇らしげに語ったというけれど、マロニエ君は聞いていいてまったくいい気持ちはしませんでしたし、これは職人さんがやってはいけない道義の問題ではないでしょうか?
もし自分がそんなフルートの銘器の所有者で、わずかでもそういう印(キズ)を入れられたと知ったら、マロニエ君はとてもイヤだし容認できないだろうなと思いました。
唯一許されるとすれば、それは製作者のみ。昔のピアノには内部の何処かに墨文字で製作者の署名があったりしましたが、それはオーナーに内緒でキズをつけるというような陰湿なものではなく、堂々と名前や日付が書かれていただけ。

たかだか修理や整備をしたらかといって、所有者に無断で「キズ入れ」とは、どのような理由をつけようとも、他人の価値ある所有物に勝手に自分の印を刻み込むなんぞ、思い上がりも甚だしく、マロニエ君は聞いたそばから憤慨しました。
もし記録として純粋に必要なら写真を撮ってシリアル番号と仕事内容などを記録するなど、別の方法もあろうかと思いますが、楽器本体に消せない印を入れるのは自己顕示も甚だしい行為だと思いました。

骨董の世界などは、本体のお値打ちはもちろん、箱書きや添えられた古文書が示す来歴、時には包んだ布切れなどまでが骨董としての価値を決定することもあるようで、さらに歴史を加える場合には、箱ごと入るさらに大型の箱を作って新たな箱書きをするといったことをするようですが、喩えて言うなら、鑑定家が自分の手を経たからといって貴重な志野茶碗や織部や乾山の作品に、自分だけがわかるキズを入れるようなもので、そんな冒涜的な話は聞いたこともありません。

こういうことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、どんなに名人であっても、楽器の技術者さんは裏方の存在であって、自分を表立って表現する仕事ではありません。
…だからこそ、そういう歪んだ願望を抱く御仁も出てくるのかもしれませんが。

そういう行為には、どこか倒錯的な心理さえ垣間見える気がしてゾッとしてしまいます。

あんがいストラディバリやグァルネリの中を開けたら、そんなものだらけかもしれず、だからああいうオールド楽器の世界って素晴らしさとオカルトやホラーが背中合わせなのかもしれません。
人の悪意や怨念が渦巻いたとき、音に魔力が加わるものなのか?!?
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GoToなんたら

巷ではGoToキャンペーンだのGoToイートだのでかなり話題ですね。

でも…、ある知人が先日関東からやってきたのですが、その行動にはいささかの疑問も。
結論からいうと、日程、行動、店選び、要するにその行動の大半がこの手の「特典」をゲットすることが中心…といって悪いなら優先のようになり、まわりはそのために動かざるを得なかったのです。

もちろん、目の前にある特典はゲットしたい、使いたい、無駄にならないようにしたいという気持ちは大いにわかります。
それでもやっぱり思ったことは、そこにも自ずと節度というのはあるわけで、それ中心に行動するというのには違和感がありました。
ホテルにチェックインするといくら分かのチケット(かなにか)貰えるけど、地元で2日間しか使えない。
あるいは、食事をしようとGoToイートを使うにも事前予約が必要で、しかも対象店はかなり限られて、マロニエ君は店選びには関与しなかったけれど、聞くところによると多くは居酒屋のようなところだったりで、単なる食事では選ぶだけでも一苦労。

また店があるエリアは、繁華街のど真ん中で公共交通機関ならともかく、車族にはアクセスも悪く、空き駐車場を探しまわる心配もある。
おまけに食事の開始時間も、病院食よりも早い時刻のコース料理しかなかったなど、なんだか全部がもうバラバラで、なんのために何をしているんだろう?という印象でした。
駐車場も混みあうエリアなので、置けるかどうかの心配もあった(幸い苦労せず置けましたが)、GoToパーキングはないのだから、駐車料金はコース料理が終わるまでバッチリかかってくると、トータルで何がお得なのかもよくわからない。

更には、地元でポイントだかキャッシュバックだかしらないけれど、それを使うためだけのためにお店に行って「使う」ことが条件らしく、それを中心にした行動でした。
ポイントを最後の一滴残さず使い果たすとなれば、それなりのがんばりも要る。

コロナ禍が産み落とした経済活性化のためのシステムであることはわかるけれど、なんだか人間の内側に潜むガツガツした浅ましさが一気に吹き出物のように出てくるような感じで、コロナももちろん困るけど、全体として、ますます変な世の中になったもんだと思いました。
そこには人間が持っている浅ましさと、システムを利用し尽くすというゲーム的な感覚がないまぜになった、独特な闘志みたいなものがありました。
すべてを網羅的に使い切ることが、まるで頭脳明晰な勝者ででもあるかのように。

もちろん、そうはいっても、かくいうマロニエ君だって、自分がその恩恵に与る立場に立てば、できるだけ利用したいとはむろん思うとは思います。
でも、そのために周りの人の都合や流れもなにも、すべてがこれが優先事項になるというのは、べつにきれい事をいうつもりはないけれど、どこかヘンな気もしました。

逆にマロニエ君が東京などに行って、知人が集まって会ってくれるとなったら、もちろん使えるものは使うけど、とてもそのGoToだなんだを使い切ることをメインにして、予定の大半を組み立てるような度胸は幸か不幸か持ち合わせていませんね。

繰り返しますが、マロニエ君とて目の前にあって、すんなり使えるなら使いたいとは思います。
できることなら使える店であってほしいとも願うでしょう。
でも、そのために他者をあっちだこっちだと振り回すなら、適当なところで切り捨てると思います。

尤も、今の若い世代の人達だったら、驚くにも当たらないようなことなのかもしれませんが、それは全員が若くて、それそのものを楽しむ場でないとサマにならないというか、いい年してそんなことに血道を上げるのは、やっぱり個人的にはいただけません。

「あーあ、損したけど、ま、いいや!」ぐらいの緩さのある人がいいですね。
それにしても、コロナは収まるどころかヨーロッパでは再び猛威を振るい出し、東京や北海道でも心配な数字が発表されているようで、この冬、どんなことになっていくのか、まだまだ明るい気持ちにはなれないようです。
アメリカの大統領選挙ももう目の前ですね。
どんな世の中になるのやら…。
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小菅優

以前のBSプレミシアターでは、ボリショイオペラの公演から、ロシアの最も重いオペラでもある「ボリス・ゴドノフ」が全幕3時間にわたって放映されたところ、その後半は打って変わって「小菅優ピアノリサイタル」という思ってもみない組み合わせでした。

だいたいこのプレミシアターではオーケストラなら、後半も別のオーケストラであったり、バレエはバレエと組み合わされることが多いから、「ボリス・ゴドノフ」と「小菅優ピアノリサイタル」というのは意外な組み合わせで、それにまず驚きました。

とくに日本人ピアニストが、国内で行ったリサイタルがそのままこの番組枠で放映されるというのは、マロニエ君はあまり記憶がありません。
現在日本人で有名なピアニストというと、今どきのいくつかのお定まりの条件を整えた人達が大半で、みなさん技術的には立派に弾かれるけれど、個人的には(非常に残念なことですが)積極的に聴きたいと思うよう方ではありません。

なんといってもその条件の王道はコンクールで、まあこれはオリンピックの金メダリストということ。
ショパン・コンクールの優勝はまだ日本人は取ったことがないけれど、それ以外の著名コンクールでの優勝または上位入賞であること、なんらかのストーリー、あるいは一夜もしくは短期間に記録的なコンサートをして話題作りをする、最近では、タレントとして芸能人たちと肩を並べて手を叩いてキャアキャア言うなど、なんらかの売名もしくは話題作りに成功した人だけがステージチャンスをものにするという、いまさら書くのも飽き飽きした傾向です。

そんな中で小菅優さんが特別なのは、10歳の頃から渡欧し、コンクール歴なしにその実力を認められ今日の地位を得ているというところでしょう。
それだけに本物感があるし、ほかに思い浮かぶのは五嶋みどりとかキーシンでしょうか。

マロニエ君はコンクールをすべて否定するつもりはないし、これはこれである時代に一定の役割は果たしたと思います。
しかし、功罪両面があって、一夜にして楽壇デビューできるというセンセーショナルで魅力的な面はあるけれど、どうしても技術偏重に陥る、どちらかというとスポーツ競技に近いものがある。
それぞれであるはずのものに必ず順位をつける、加点減点対策から個性が抜き取られる、というようなマイナス面も目立ち、コンクールがいくたびも批判にさらされながら、それでも廃れないのは、演奏家を目指す若者にとってはそれが最短コースであるからだろうと思います。

また、コンクールによって、クライバーン、アシュケナージ、ポリーニ、アルゲリッチ、内田光子、ツィメルマンのようなスター級のピアニストが世に送り出されたことも大きかったでしょうね。

とりわけ日本人は、人がなんと言おうと自分は自分、自分の耳目と価値観で判断するということがことのほか苦手だから、コンクールの入賞歴は圧倒的な判断材料になる。


前置きが長くなりましたが、小菅優さんのコンサートは何度か行ったことがありますが、なんといっても音楽中心で、とてもよく準備されており、演奏も迷いがなくハキハキしていて燃焼感もあるし、かといって熱気だけで弾いているのではなく、分析やバランス感覚にもぬかりはない。
細部への気配りやデリカシーも常に機能している。
それから、マロニエ君が素晴らしいと思うのは、多くのピアニストがしないではいられない技術自慢を感じるところがまず無いことでしょうか。

10歳やそこらでリストの超絶技巧練習曲やショパンのエチュードを全曲録音するような人だから、そういう興味も欲望もないまま、音楽に献身できているのかもしれませんが。

近年では、水、火、風、大地をモチーフにした独特なプログラミングでコンサートをしておられますが、これがまたなかなか秀逸な選曲。
多くの場合、チケットを売るために有名曲を中心にしたものか、逆の少数派では演奏家の傲慢とも言えるような作品ばかりを並べてお客さんのことを無視したようなもの、そういうものが多いのに、この小菅さんのシリーズでは、そのバランスもよく、有名曲のあるけれど、そうではないものが過半数で、かならず初めて聴くような作品が随所にあって、これぞ本当に聴き甲斐があります。

小菅優さんの演奏で一つだけ惜しいのは、音にもうひとつ太さと重みがないこと。
体格もしっかりされていて、もっと肉厚な音が出そうなものですが、なぜか軽量で、この点だけは唯一の不満といえます。
音に力(音質やボリュームではなく)がないからか、あれだけ上質な演奏をされているのに、なにかもうひとつ聴く側の耳とか心に受け取って持ち帰るものが実際より軽く終わってしまうようで、これは非常に残念です。

でも、小菅優さんには内田光子に次ぐ、本物の世界的な日本人ピアニストになっていただきたいと思う、マロニエ君からみて唯一の御方です。
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音楽をする意味

先日、久々の顔ぶれによるピアノのお客さんがありました。

もう長い付き合いの方々なのですが、まずその中のお一人が弾かれたところ、全体から醸しだされる音や音楽の美しい世界にハッとさせられるものがありました。
別の方も、立派な技術をお持ちにもかかわらず、お子さんのレッスンに触発されてブルグミューラーの25の練習曲を見直し、これを丁寧に弾かれるなど、なにかしら変化が起きているようでした。

おひとりは先生を変わって一からやり直しをされ、音の出し方や体の使い方などをフランスの子供の教本を使ってやっておられる由。
もともときれいなピアノを弾かれる方でしたが、そこに一段と磨きがかかって、一音一音が深く説得力のあるものになっており、演奏の質感も上がっているし、なにより品位が備わっていました。

普通ピアノといえば、楽曲はネタとして用いられ、物理的難易度という面での上を目指すか、名曲アルバム的なベタな曲を目指すのがほとんどすべてといってもいいと思いますが、ごく少数でもこういう人もいるのだということは、ピアノ好きとして嬉しいし感銘を受けました。
音和の少ない、シンプルな曲をいかに美しく、曲の表情やニュアンスをもって弾けるかが大切で、ここをすっ飛ばしてどんなに難しい曲に挑んでも、それでは音楽のふりをした騒音でしかない。
そこのところが、どうしてもわからないのが日本のピアノをやっている人の大半だと感じますし、教育システムを含めた構造全体の問題も大きく、これは半永久的に変わらないでしょうね。

話は飛びますが、昔、キーシンやレーピンが天才少年として来日した1980年台後半、当時東京にいたマロニエ君はせっせと彼らのコンサートに通いつめ、中にはソ連体制派寄りの作曲家であるフレンニコフの協奏曲だけを集めた一夜まであったりで、この天才少年達は今ではもう決して弾かないであろうレパートリーを披露していました。

そんな一連の公演の一環として、ソ連のヴァイオリンの名教師で、ヴァディム・レーピンやマキシム・ヴェンゲーロフを育てたザハール・ブロン氏によるマスタークラスがあって、それにも行きました。
マスタークラスといっても、どこだったか思い出せないような小さな会場だったことしか覚えていません。

そこで3人ぐらいの日本の学生が指導を受けましたが、ただ必死にプロが弾くような難しい曲を格闘するように弾いているだけで、たとえばシベリウスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章なんかをもってくるのですが、伝わってくるのはこの日のための猛練習の跡と、この若さでこれだけの曲をやってますよという自慢だけでした。
はじめに通して聴くだけでも相当の時間を要し、間近にいたブロン氏はしだいに所在なさ気に姿勢を変えたり自分の楽器を触ったりしていて、明らかに気持ちが離れているのが伝わりました。

曲が終わると「非常にすばらしい」という賛辞とともに、ひと通りのレッスンが行われましたが、その内容は曲の表情表現の話に終始していたようで、学生にはどこまで伝わったのか甚だ疑問だったし、他の学生も似たりよったりという感じでした。

で、最後に、締めくくりとしてまだ十代前半!の少年ヴェンゲーロフが出てきて演奏しましたが、彼が弾きだすや世界が一変、音は老成しており、曲が波のうねりのように流れだし、その中で音符はまさに生きて呼吸しているという「根本」にあるものの違いを痛感しました。
ひたすら音符を練習で、毎日何時間も追いかけているだけではこうはいきません。

後日、日本での印象など、ブロン氏へのインタビューが音楽雑誌に載りましたが、そこで記憶にあるのは「日本人はレッスンにもってくる曲が難しすぎる」「もっとシンプルで簡単なものでないと自分の伝えたいことは伝わらない」「その上でいろいろな曲に挑戦すべき」というような意味のことが語られており、大いに膝を打ったことだけは鮮明に覚えています。
音楽に対する心構えやセンス、芸術的な環境なしに、どれだけ技巧的なものが弾けても、ボタンの掛け違えのようなことになり、決して良い演奏はできないというのをやんわりと仰りたかったのだと思います。

その点で、先日の来宅された方は「易しい曲に立ち返って勉強し直す」という、マロニエ君としては日ごろ最も大切だと思っていることを実践されているということで、驚きとともに、なんと素晴らしいことかと思いました。
数曲弾かれましたが、まちがいなく、はっきりとその効果が上がっていました。

聴くだけでも苦痛になるような無神経でダサい弾き方で、さらに難曲大曲になれば苦痛もやるせなさも倍増し、「早く終わって欲しい」としか思わないのが正直なところ。
大事なことはブルグミューラーでもギロックでもいいから、その曲に全身が包まれ、あーもう一度聴きたい!と思わせるような演奏を目指すことだと思います。
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アメリカナイズ

五嶋節さんの本から、話を続けます。

アメリカの音楽学校といえば、真っ先に思い浮かぶのはニューヨークのジュリアードで、同校のヴァイオリン教師といえば、だれでもその名を知っている名伯楽だったドロシー・ディレイ。

パールマンを筆頭に、ヴァイオリンをアメリカで勉強した著名演奏家で、この人の息のかかっていない人はいないのでは?と思えるほどの大きな存在。

ディレイ女史はその知名度にくらべて、とても穏やかな優しい方で、節さんはこの方を尊敬し頼りにしていたようですが、その指導法というのは、一切、命令をしたり人前で叱責したりということがないとのこと。
そればかりか、何でもYESかNOで片付けてしまうアメリカと思いきや、むしろ日本人教師が足元にも及ばないほどの間接表現だそうで、なにひとつ直接的な言葉を使わず、すべては行間を汲み取り、生徒はディレイ先生がなにを言おうとしているのかを、耳を澄ませ、行間を読み、考えなくてはいけないのだとか。

それはともかく、パールマンとかみどりとか、一部の例外を除けば、マロニエ君は概ねディレイ先生が育てたという演奏家というのはあまり好みではありません。
これといってクセも欠点もない、ほどほどにまとまって上手いんだけれども凡庸な演奏で、突出した魅力や芸術性を感じるものではないからです。
とくに感じるのは、演奏に狂気や冒険がないことでしょうか?
かといって清潔一途な演奏というのとも、どこか違うような…。

それが垣間見えたのでは、ディレイ先生による「レッスン診断書のチェック項目」というのがあり、音、リズム、運指法、暗譜、イントネーション、歴史、総譜の暗譜、曲の構成/性格、強弱法/バランス、ペース配分/アンサンブル、弓の移動、ヴィブラート、指板上の左手の移動、アーティキュレーション、整合、音色の出し方、姿勢、ヴァイオリンのはさみ方、弓の持ち方と腕、左手の位置、頭、表情と息つぎなど。

これにくわえて、たとえば協奏曲ではソロに対する聴衆の集中力を上げるため、あえてワンテンポ遅らせて音を出すとか、化粧/衣装の選びから、ステージマナーまですべてを指導するのだとか。

「生徒の個性を活かしながら決して命令はしない」といいながら、これだけの細かい指示を叩きこまれ、しかもジュリアードには上昇志向の塊のような学生がウジャウジャいるのだそうで、それに応えきれない生徒は容赦なくレッスン頻度が減らされ、本には書いてはなかったけれど最後は見捨てられるのだろうと思います。
だから、みんなジュリアード出身の人はどこか同じ匂いがするんだな…と納得できたような一節でした。

優秀な凡人にはプロになるための養成所であり、ステージ人となるための有益な指導かもしれないけれど、特別な感性や才能あふれる若者にとって最良かどうか、マロニエ君は大いに疑問を感じました。

パールマンやみどりのように、それさえも突破するような天才は何があろうと天才のままかもしれませんが、そこで潰れていく才能も少なくない気がしたし、現に何人かは心当たりがあります。

マロニエ君の思い込みかもしれないけれど、音楽でアメリカ留学経験を経てた人って、ステージマナーからコンサートの作り方まで、アメリカ式の型にはまってしまうような気がします。
やたら笑顔で、形式的で、とくに女性はお辞儀の仕方も先に腰が曲がり、その後に顔が遅れてついてくるようなスタイルで、あれはあまり好きにはなれません。
あまりにもみんな同じような感じなので、あんなことまで手取り足取り教えられるのかと思うと、なにか怖いような気もします。

ちなみに、あのキーシンも少年の頃は、いかにも感受性豊かな天才という感じで、ステージマナーもぎこちなく無愛想で、個人的にはそこも好きだったけれど、カーネギーデビューしたあたりから、突然、貼り付けたような笑みをたたえてキュッと男性的なお辞儀をするようになり、それがどう見てもキーシンの自然からでたものではなく、人から教えられた動作のようにしか見えないのです。
確証はないけれど、あれはアメリカで指導されたものじゃないかと個人的には思っており、いまだにキーシンには似合わない仕草だと思うのですが。
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五嶋節物語

古い本ですが、『五嶋節物語 母と神童』(奥田昭則著 小学館)を読んでいます。
こんなブログとはいえ、読了もしないうちから何か書くのはあんまりでは?とも思いましたが、まあ思いつくままに。

五嶋節さんは、言わずと知れた五嶋みどり(弟さんもいましたね)を世界のヴァイオリニストに育て上げたお母さん。五嶋みどりのコンサート終了後の様子をテレビでチラッと見たことがありますが、陽気で気さくな関西の女性という感じで、親子といってもお嬢さんとはずいぶん様子が違うなぁと思った覚えがあります。

なにしろ、二人の我が子をあそこまでにした女性だから並大抵の人ではないだろうと思っていたけれど、この本のページを繰るごとにへぇぇへぇぇと驚くことの連続でした。
なにより驚いたのは、この節さん自身が大変なヴァイオリンの名手だそうで、その演奏はただ上手いというようなものではなく、天才的で、器が大きく、聴く者を魅了するものだったとか。

当然ながら学生時代は優等生タイプではなく、考え方など独自の感覚と存在感があり、普通の生徒とはかなり違ったところのある人だったようで、ヴァイオリンを弾くと圧倒的で、いわゆる天才気質だったとか。
オーケストラに入るのが夢で、相愛学園のオケのコンサートマスターまで務めていたにもかかわらず、当時神のように恐れられて、ときおり指導に来ていたという斎藤秀雄氏による独自の徹底した指導に反発してそこを離れるなど、やはり凡人とは感じ方も行動も違っていたでしょうね

ヴァイオリン奏者としての資質は確かなもので、申し分のないものだったようです。

しかし、家族の反対や時代に阻まれて、本格的な演奏家になる道はどうしても叶わず、その後結婚して生まれたのがみどりなんですね。わずか2歳のころ彼女がピアノなどよりヴァイオリンに興味を示したため、ほんならというわけで徹底的に教えこんだのがこの節さん。
みどりが天才であることに異論を挟む人はいないと思うけれど、子供にとって最も身近な母親が、それだけの天分と尋常ならざる気骨あるスーパー教師なのだから、そりゃあ鬼に金棒でしょう。
当初から一貫して、すべて母から仕込まれたというのも驚きでした。

節さんの演奏を知る人によれば、みどりのほうが完成度は高いけれど演奏は小さいと感じるんだそうで、どんな演奏だったか聴きたくてウズウズするようです。

学生時代は歌謡曲を弾くアルバイトをして、クラシックの訓練だけでは得られない貴重な体験を積んだり、そうかと思えばヴァイオリンから離れて、家出をして、水商売で働いて周りをハラハラさせてみたりと、やることがとにかく奔放で規格外で、まるでデュ・プレやアルゲリッチみたいな、天才特有の匂いを感じます。

それでも、周囲(家族?)の鉄壁の反対は如何ともしがたいものがあり、ついにはプロへの道はあきらめざるを得なかったようで、ご本人はもとより、その演奏によって深い感銘にいざなわれたかもしれない我々にしてみれば、ただ残念というほかありません。

それでも、人間って本質は変わるものではなく、こうと決めたらやり遂げる人だから、英語もできず、多いとはいえない貯金を一切合切もって、10歳のみどりをつれてニューヨークに渡るというような、芝居で言えば「第2幕」といえるような突飛な行動にも繋がったのは間違いなく、このあたりがなにかと常識やリスクに照らし合わせる凡人とは違うところでしょう。

音楽に限らず、芸術/芸術家と名のつく世界には、いわゆる凡人の立ち入る場所はありません。
凡庸な常識の世界ではなく、才能と努力(そして努力を惜しまない才能)、毒と狂気と、突風の吹き荒れる崖っぷちをさまようような苦悩の世界。
そこは、天才という名の常軌を逸した超人だけが棲むべき世界で、そこから紡ぎだされる美の世界を我々凡人は、その美のしずくのおこぼれを得ようと、口を開けて待っているようなものかもしれません。

それにしても関西はヴァイオリニストをよく排出するエリアですね。

五嶋みどりだけでなく、辻久子、神尾真由子、木嶋真優の各氏など、関西はパッと思いつくだけでも大物ヴァイオリニストが何人もいらっしゃいますが、土壌的気質的な何かと関連があるのかもしれません。
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バラエティー

民放TV番組で、以前から何度か目撃したことがありますが、ピアノ経験者の芸能人がスタジオでピアノを弾いてバトルをするという趣向のバラエティーが、季節モノとして定着化しているようですね。

『土曜プレミアム TEPPEN 2020秋 ピアノ絶対女王…』という、すごいタイトルでした。
「TEPPEN」「ピアノ絶対女王」というのが、なにを意味するものかは知らないけれど、つい違和感を感じます。

むろんあれは音楽番組ではなく、ピアノが弾ける芸能人を集めて競わせて順位をつける娯楽番組で、くだらない俳句をどうこう言うようなものと同様で、もとより真面目に視るようなものではないとは思っていますけど。

それは重々わかっていても、ピアノはピアノであり、演奏であり、音楽であるものを「ミス何回で失格」というようなことを堂々とやられると、視聴者の中にも「ピアノはミスなく弾くことが一番大事で、ミスしない人がうまい人!」という認識がTVの強い影響力によって植え付けられ、いつしか本来のコンサートにおいても、同じような尺度で見られてしまうとしたら、一種の危険性を感じてしまいます。

普通のピアノ教師のような人でも、世界的なピアニストのコンサートに行ってさえ、全体の演奏の感想等に触れることのないまま、どこそこでミスしたとか、あそこで音が飛んだとかのアラ探しに熱中あそばし、そういうことを「専門家は気が付きますよ」とか「あの人はさすが、一度もミスをしなかった!」などと自慢気に仰る向きがありますが、これほど恥ずかしい「木を見て森を見ず」式のやりきれないものもありません。
もちろんミスはあるよりないほうがいいけれど、演奏を通じて何をどのように表現したか、美しく感動的に伝えたかということが語られることは、悲しいほど少なかったりします。

まして、TVのゴールデンタイムに、あんなにあからさまにミスの数をカウントして優劣を判じるような番組があるのは、個人的には文化への認識をどんどん押し下げるようなものとしか思えないし、だったら、もっとバカバカしいお笑い番組でもやったほうがどれほどマシかと思います。
しかし、今どきはお笑いであれ芸事であれ、なにかに徹するのではなく、遊びと修練と実力を合体させた半エリート芸のようなものが流行りなのかも。出演者もMC、キャスター、俳優、芸人、なにかの専門家など、すべてがごちゃ混ぜのバラエティーでなくては視聴率がとれないのかもしれません。

日本は何事も先例主義で、ばかばかしい規制だらけ。素晴らしい先進的なものでも認可できない臆病な体質がある反面、文化のような基準のないものに関してはまさに無法地帯、破壊することに何の規制も躊躇もありませんね。


というわけで、マロニエ君はむろん毎回見ることは断じてないし、今回はたまたま目に止まっただけですが、どういうわけかはじめは電子ピアノで演奏、続くフリータイム(だったかな?)というのになると本物のピアノが使われます。

それがまた変わっていて、本物のピアノも前屋根だけを開け、大屋根は閉めた状態という不思議なスタイルでした。
使われるピアノはやはりゴールデンタイムの娯楽番組ということで視聴者への影響力があるのか、メーカー同士の摩擦があるのか、そのあたりの裏事情など知るはずもないけれど、普通、鍵盤蓋にあるべきメーカーロゴは完全に消された無印ピアノでした。

しかも、ボディ全体は1980年代までのスタインウェイのように、つや消し塗装されたコンサートグランドだったことがこの場合いっそう不思議でした。
大屋根を開けるのがピアノの一般的なスタイルであるのに閉めたままで、手元で必ず見えるメーカーロゴを消し、とくに日本製のピアノを馴染みのないつや消し塗装にしてしまうというのは、まるで謎の装甲車のようでした。

でも、そうまでしても、細部の形状等からヤマハのCFIIIもしくはCFIIISであることは明らかでした。
ということは、他メーカーへの配慮、あるいは民放テレビお得意の「自主規制」だったのか、真相はわかりませんが、背後に複雑な事情のあることだけは透けて見えるようでした。

音について。
スマホの画面みたいに、やたらピカピカした音をふりまく近ごろの新世代ピアノとは違い、旧型のCFシリーズが今よりもずっと厚みのある落ち着いた音だったのは印象的でした。
さらに大屋根を開けていないこと、音がまろやかになるといわれるつや消し塗装という条件なども重なっていたのかもしれませんが、ひさびさにピアノらしい音を聴けた感じはありました。
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張り込み

先週の連休最終日に非常に珍しいことがありました。

午前11時半ぐらいだったか、チャイムが鳴ったので出てみると、黒マスク姿のいかつい感じの中肉中背の男性が門前に立っていました。
出て行くと、いきなり警察手帳を見せられて、実はある捜査をおこなっているとか。
もしお願いできるなら我が家の敷地内、南北二方向に入らせてもらって、しばらく見張りをさせていただきたいという要請を受けました。

藪から棒にそんなことを言われてびっくりしたのですが、具体的な説明や言葉を避けながら、とある人物(単独か複数可かは不明)を追っているという事はかろうじてわかりました。
犯罪捜査に協力するのも市民の努めだろうと思い、承諾する前に再度警察手帳を見せてくださいと言ったら、すぐに応じてくれて、いかにも使い込まれた感じの二つ折りの黒い革の手帳を広げてそれらしきものを見せてもらいました。

とはいえ、テレビや映画ぐらいでしか見たことはないから、それが本物かどうかまではわかりませんでしたが、同時に名刺を渡され、県警本部の人らしく、二列に及ぶ長々とした肩書が右横にあって、名前の上に刑事部長とあり、ともかく「どうぞ」ということになりました。

刑事さんなので色のない地味な私服で、車も普通の軽自動車でした。
敷地の南北に別れ、一人は裏庭に通じる通路に身をひそめ、もう一人はガレージ前に車を止めてその中から監視がスタートしました。
「これって、ええっと、なんだっけ…なんだっけ?」と思いながら、やっとのことで「張り込み」という言葉を思い出しました。

我が家は蚊が多いので、蚊取り線香に火をつけてもって行きましたが、「すみません、ありがとうございます。」という簡潔な言葉だけで、それ以上の言葉は一切なく、じっと道路側を見ていました。

むろん、こちらが手伝うこともないわけで、早々に家の中に入りましたが、それからの長いこと長いこと。
やはりドラマのように年配のベテランさんと、若い部下と思しき二人組で、車内と庭を一定時間で交代しているようでした。

でも、じんわりすごいものを見た気はしましたね。
「張り込み」というのは、まさに見ることが仕事で、他にはなにもしないので、ただひたすらそこに30分でも1時間でも自らの存在を消すようにひっそり立っているだけで、見ること以外なにもしないことに、却って近寄りがたいような迫力がありました。
さらに、しっかり目的をもって道路の方角をずっと見ているためか、目元にはえもいわれぬ鋭さがあり、普通の人の表情とはあきらかに違う厳しさがどうしようもなくあたりに漂います。

むろん雑談なんぞする雰囲気も皆無で、こちらもたまに見に行ってはそそくさと引き上げますが、はじめはほんの1時間ぐらいだろうと思っていたところ、お引取りまでに要した時間はきっちり6時間にも及びました。

その間、別にこちらがなにか規制されたわけでもないのだけれど、なんとなく普段とは違って、家の内外をウロウロするのも憚られ、やはり精神的にそわそわするばかりで非常に疲れました。

しかも、最後に大捕り物があったわけでもなく、収穫無しでのまことに静かな終了でした。
6時間も場所貸ししたのだから少しぐらい聞いてもいいだろうと思って、最後に少し話をすると、新手の窃盗だということだけは聞きました。

マロニエ君宅のあたりは市内でも古くからある住宅街で、あまり物騒なことなど聞いたこともなかったので、こんな珍客には大変驚いたわけですが、やはり時代も変わり、コロナ騒ぎなどもあり、いろいろな目に見えない変化とか、人心の乱れが渦巻いているのかもしれません。

それにしても、警察官や刑事さんの仕事の大変さをあらためて痛感しました。
テレビの『警察24時!』みたいな番組は好きなので時々見るのですが、あれはいわば娯楽番組として成り立つよう見どころだけを編集されているものですが、よく「内定一ヶ月」なんてナレーションを聞きますが、実際は半日でもとてつもない重労働だと思いました。

よほどの訓練と忍耐力、それを支える精神力と体力、くわえてある種の慣れみたいなものが備わらないと、とても常人に務まるものではないと思いました。
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保護政策がほしい

バッハのゴルトベルク変奏曲といえば、いまだに真っ先に頭に浮かぶのはグールドの数種の演奏ですが、もっとも有名なものは1955年のものと、1981年に再録されたものでしょう。
(1981年版は演奏に賛否あるようですが、個人的にはピアノの音があまりにもダサくて演奏とそぐわず、そのせいでほとんど聴きません)
ほかには55年版とはかなり違うアプローチで1954年に収録されたものと、ソ連でのライブ録音などもありますがが、いすれにしろグールドの天才ぶりを一夜にして世に知らしめたのがゴルトベルクであり、そこからからこの風変わりな天才はバッハを中心に尋常ならざる演奏と解釈によって、世界中の音楽ファンを驚愕させました。

というわけで、ゴルトベルクはバッハの傑作であると同時にグールドを代表する作品であり、その信じがたいような鮮やかで超モダンなセンス、さらにはかなり演奏至難な作品でもあることもあってか、それ以降のピアニストは畏れをなして、この作品を手がけて録音するといったことはなかなかしませんでした。

そのグールドも1982年にこの世を去り、時間が経つにつれそれもだんだんに時効のようなことになってきたのか、ぽつりぽつりと他のピアニストによるゴルトベルクが出始め、いまではピアニストのみならず、弦楽合奏版からオルガン、アコーディオン、合唱によるものなど、あらゆる形態や楽器でこの不朽の名作が演奏されるようになりました。

ついには店頭でも、バッハコーナーの中にさらにゴルトベルクのコーナーが作られるほどで、グールドがこの曲で世に出たことにあやかる意味もあるのか、ピアニストの中にはデビュー盤としてゴルトベルクをもってくる新進演奏家も何人も現れるまでになりました。
おかげで、マロニエ君の手許には何種類のゴルトベルクのCDがあるかもわからないほどになりました。

その後はCDそのものが時代遅れとなり、リリースしても販売見込みが立たない、あるはゴルトベルクも増えすぎたということもあるのかもしれませんが、CD業界がすっかり斜陽となり、ほとんど火が消えたような状態に。

そんな中、つい最近だと思いますが、ある超有名ピアニストが「満を持して」といわんばかりにこのゴルトベルクをリリースし、すでに販売されているのかどうかも知りませんが、ネットの動画などではそのプロモーションビデオのようなものがさかんにアップされていました。

そもそもマロニエ君はこの人のことを芸術家とも音楽家とも一切思っていないし、わけてもバッハの音楽とは逆立ちしても接点の見いだせないような別種のイメージしかなく、その人がついにここに手を付けたのかと知って、正直ため息しか出ませんでした。
というわけで、そのプロモーションビデオとやらをおそるおそる見てみましたが、相当の覚悟をもって挑んだものの、それでも足りないほどの趣味による演奏で、その不快感を自分でどう始末をつけていいかもわからない状態になりました。

そもそも芸術性のない人ほど前宣伝や(広義の)パフォーマンスに力が入るもの。
ストレス以外のなにものでもない、むやみなスローなテンポで意味ありげなそぶりをするだけして、あとで必ずその反動のように猛烈な速度や技巧を入れ込んだりと、泣き笑いの三文芝居のよう。

はじめのアリアには実に8分近くも時間をかけ、冒頭からお得意の自己顕示欲のかたまりで、あの美しい音楽が、不気味な爬虫類にでもからみつかれているみたいなイメージでした。
そもそもマロニエ君が耐えられない演奏というのは、個性とはおよそ言いかねるものを芸術性であるかのようにすり替える狡さと悪趣味、自分を印象づけるためだけの意味深で嘘っぱちのアーティキュレーションなどで、よくぞあのアリアの清澄な調べを、あそこまで気持悪くできるものだと逆に感心するだけ。

バッハの作品は、誤解を恐れずに言ってしまえば、きちんと誠実に弾くだけでも作品の力によって、それなり聞くに耐える音の織物になるものですが、それをあそこまで無神経な色や表情に塗りかえてしまうとは!

生まれながらの天才とか、根っから芸術性に恵まれた人というのが、この世の中にはごくまれにいるものですが、今どきはそれらとはおよそかけ離れた人こそが表舞台に堂々と出てくる時代。
突き詰めればビジネスでもあるから、エンターテイメントを提供し商業的に成功していくのは、やむなきことかもしれませんが、芸術の世界でもそれが当然と言わんばかりに中心に居座るのは本当にたまりません。

世界的に有名になって、オファーも途絶えることがなく、チケットも売れるとなれば、もちろんそれは大変なことだと思うし、とりわけその関係者にとっては「音楽性だ芸術だと言ってみても、チケットが売れなきゃどうすんの?」みたいな感覚はあると思うし、それも一定の理解はできます。

でも、少しはそこから外れた真っ当な価値観が生きながらえることもできる、わずかばかりの余地もあってよさそうな気もするんですけどね。
動植物には「絶滅危惧種」などといってビジネス抜きの厳しい保護政策がとられますが、芸術にそれは適用されないのだろうかと思います。
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ベーゼンドルファー280

過日のNHK-Eテレ『クラシック音楽館』では、後半にアンドラーシュ・シフによるベートーヴェンが放映されました。
このコロナの時期、もしや日本においでになるのか、夫人の塩川悠子さんもご一緒でしたが、いかにもNHKのスタジオ収録という感じであったし、新しいベーゼンドルファーを使って「告別」が演奏されました。

ヤマハの子会社となってからのベーゼンドルファーについては賛否さまざまあるようですが、この時のピアノは旧275の後継ともいえる280(うしろにVCというのがつくものもあるようですが、その違いが何であるかはしりません)でしたが、これはこれでとても良いピアノだと思いました。

以前のベーゼンドルファーは、素晴らしく良い時とあまりそうは思えない(マロニエ君の主観)ときのばらつきが多く、ハッとするような純粋でこれ以上ないような美しい音を聴かせることがあるかと思えば、一転して蓮っ葉な品のない音であったり、虚弱な感じで鳴りがイマイチな感じを受けることも珍しくはありませんでした。
また、繊細といえば聞こえはいいですが、とても現代のホールでのソロには向かないというような楽器もあるなど、コンサートピアノとしては不安定という印象を持っていました。
さらに楽器の個性も強く、曲を選ぶところもあって、ピアニストがいつでも安心して弾ける、あるいはまた聴衆が安心して聴けるピアノというには、いささか問題も抱えているようにも思っていました。

それがこの新しい280では、上記のようなマイナス面がかなり克服されており、ベーゼンドルファーのヨーロッパ的なトーンと気品はそのままに、ほどよいパワーと現代性を備え、これなら安心してステージに載せられるピアノになったと思いました。

シフの演奏もこの時は好調で、コンチェルトの全曲演奏とか後期のソナタ、あるいは熱情やワルトシュタインでは物足りない場面もあったけれど、この中期の中では後期寄りの作ともいえる「告別」では、シフの美点が活かされて、ピアノの音とあわせて素敵な演奏が聞けたと思いました。
そういえば、コンチェルトの時のアンコールの「テレーゼ」も非常にチャーミングな演奏で、この人はこういう音数が多すぎず、リリカルな要素を随所に必要とするような曲を弾かせたら、最良の面が出るのだと思います。

それはいいけれど(以前にも書いたことがあること)最近はピアノの大屋根を、本来の角度よりもさらに上まで大きく開けるということが流行っているようで、あれは個人的には賛同しかねます。
そのための茶色の長い棒まであるようで、本来の突上棒を取り外し、付け替えて使うことが今のトレンドなのかどうかしらないけれど、見るからに無様で、大屋根が開かれすぎたピアノは、フォルムも崩れて見ちゃいられません。

アンスネスの日本公演で見たのが始まりでしたが、最近は海外でもしばしば見受けられ、キーシンのような深いタッチの人さえそれで弾いていたりと、これはあきらかに何らかの効果が見込まれてのことだということでしょう。

ピアノを不格好に見せるのが目的のはずはないから、もっぱら音の問題だろうと思います。
従来の角度より広く開けることで、音が上下方向に立体的に広がる、あるいは大屋根に反射して派手さがでるとかエッジの効いた音になるなど、おそらくは様々な実験を通じて何らかの効果が立証されたんでしょうね。

マロニエ君の印象としては、たしかに音が生々しくなり、滑舌が良くなり、いかにもパワーアップしたピアノのようになるといえばいえないこともない。
しかし、音が妙に直線的で、深みがなくなり、ピアノをホールで聞く際の音響としてのゆらぎとか膨らみがなくなるようにも思われます。

今回のシフでは、スタジオ収録にもかかわらず、この茶色くて長い突上棒が使われており、あれはなんだかいやだなぁ…と思います。
心配なのは、これが常態化してくると、メーカーのほうでも忖度して、この長めの突上棒を標準で取り付けてくる可能性があるんじゃないかと思うと、そんなことにだけはなってほしくないものです。

ベーゼンドルファーの280に話を戻すと、これには頑として否定される方(おそらくはヴィンテージのベーゼンドルファーの音をご存知の方でしょう)もおられますが、マロニエ君は決して悪くないと思ったし、このピアノを使ったリサイタルでもあれば、ひさびさにホールに出向いて聴いてみたいもんだと思いました。
とくに最近のように、どのメーカーもコンサートグランドでは無個性化が進んでいる(コンクールのせい?)中で、このピアノには節度は保ちつつも個性があって、フォーマルな気品があり、さすがだと感心しました。

シフはどちらかというと楽器を深く鳴らすようなタイプのピアニストではないので、別のピアニストで、いろいろな作品を聴いてみたいものです。
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達筆で雄弁

最近の若手ピアニストの演奏(そんなにいろいろ聴いているわけではないけれど)に思うこと。
昔よりも平均して技術が向上していることは広く言われて久しいことですが、その演奏は現代人の習性ゆえか、音楽そのものよりは露出に重きがおかれ、何か緒をつかんで有名な存在になろうという野心の旺盛さが感じられて仕方ありません。

少し前までは、平均的な技術が向上するのは単純に素晴らしいことだと思っていたけれど、もはや器楽演奏者にとっては弾けて当たり前ということなのか、それ以外のなんらかの要素が問われているようで釈然としません。

効率的によく訓練され、見ていて不安感や苦しさなどないまま、どんな曲でもサラサラと弾いてしまうので、ある意味お見事ではあるでしょうが、一番大事なもの、つまりその人がいま目の前で音楽をやっている、一期一会の演奏に立ち会っているといったような音楽の核心に迫る要素がなく、弾いている自分をビジュアルとして見せている感じさえあったり。

もちろん本番の陰では、人しれぬ練習や努力はあるとは思うけれど、結果として我々が接する演奏には、目の前で奏される音楽より、その人が有名人として認知されるための一手段一場面にうまく付き合わされているだけといった印象がつきまということが、どうしても払拭できないのです。

個性などあってもあるうちに入らないほど微々たるもので、レパートリーも幅広いといえば聞こえはいいけれど、要するに有名どころは概ね準備できているから、いつでもオファーに応じられます!といった感じで、その人が何を得意とするのかも分からないし、どういう時代のどういう音楽に興味の中心を置いているかもまったく不明。

試験やコンクールでやってきた曲から押し広げて、コンサートで求めに応じるための必要な曲を一通りマスターしているという、自分の意志というよりは、まるでプロの課題曲みたいな印象しかないのです。
むかしどんなに難曲と言われた曲でも、あるいは内容的な成熟が伴わないうちは公の場で弾くべきではないといわれたような曲でも、今の人はあっけらかんと弾いてしまうようです。

それだけ「上手くなった」といえば、それはメカニックや暗譜の能力という点ではそうかもしれません。
でも、聴いている側が音楽の喜びに浸って、曲の、あるいは演奏のなんとも言いがたいひだのようなところに触れて酔いしれたり、何度も繰り返し聴いてみたいと思わせるような魅力がないことは、大半に共通していることのように思います。

こういう現象と、あるときフッと重なったことがありました。

最近はテレビ番組の中でクイズ(それもゴールデンタイムにレギュラー化したり、やたら大型番組だったり)がやたら増えてきたように思います。
出演者も昔のように一般人が公募で出てくるようなものじゃなく、一流大学生の軍団あり、あるいは有名大学出身のインテリ芸能人(変な言葉!)と言われるような知識の達人ばかりで、クイズと言っても視聴者参加でほのぼの楽しむようなものではなく、その道の精鋭やプロが頂上決戦するエリート同士の戦いをただぽかんと見るだけ。
そこで繰り広げられるのは当然ながら呆れるばかりの知識量。

そこでマロニエ君が驚くのは知識量だけではなく、回答者がボードに書く文字が信じがたいほど悪筆で汚いこと。
もちろんクイズだから、きれいな字を書く暇はなく、時間勝負の場合もあり、美しい字である必要はないといえばそうなんですが、それでも限度というものがあると思うのです。
ダメ押しではないけれど、筆順(今は「書き順」というそうですね)も冒涜的にめちゃくちゃ。

字の美しさは演奏の美しさと大いに通じるところがあるとマロニエ君は考えていますが、昔の人は、字が下手なことを大いに恥じたし、上手い人はそれだけでまず一目置かれ尊敬されました。

で、これは喩えがいささか極端かもしれませんが、今のピアニストは音楽の文字に例えると、「漢検一級」みたいなものはお持ちかもしれないけれど、それを手で書いた時、一文字一文字がわざとではないか?と思うほど美しくない。

文字には楷書から行書までさまざまあって、基本形の美しさはいうまでもなく、崩していくときにどういう運びや流れで次に繋がっていくかということがとても重要で、ひとつひとつの文字の美しさと、それらが他の文字と並んで共存する場合の、絶妙のバランスや大小、筆圧、収まりの美しさなどがありました。
音楽が一音では成り立たず、旋律や和声を形成するのに似ているのかもしれません。

そういう意味で、昔の人は、単純な読み書きの技術や知識ではなしに、他の文化芸術と無意識に通底した味わいのある文字を書いたと思います。

そういう昨今の文化的時代背景が現代の若手ピアニストの演奏にも表れているような気がしたわけです。
音楽は演奏を通じてはじめて姿をあらわす芸術で、その演奏はもっと「達筆」で「雄弁」あってもらわなくては人の心を揺り動かすことはできないと思うこの頃です。
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システム

むかしに比べると、購入するCDの数もだいぶ減りましたが、それでも時々は購入しています。
マロニエ君ももはや古い人間になってしまい、いろいろな新しいテクノロジーが台頭してもついていけませんし、その気もありません。
いまどき嵩張るプラスチックケースに入ったCDを積み上げて、そこから聴きたい1枚をとりだして、そのつどプレーヤーに滑りこませるなんて、もはや古色蒼然たるやり方なのかもしれないけれど、自分はこうでなくては音楽を聴く気分と形が整いません。

今回、某大手の音楽専門ネットショップに注文していたCDは、これまで室内楽以外ほとんどきいたことのないボルトキエヴィキのピアノ作品集でした。
8巻からなるバラ売りものですが、それを注文したのが6月の中頃。

一部は在庫がないようで、海外発注をかけてくれているようですが「なかなか手に入らないので今しばらくお待ち下さい」というメールが数回届いていましたが、あるとき「このCDはあいにく取り寄せができません」という旨のメールが届きました。
具体的には5枚は準備出来ているが、残り3枚が入手困難というわけです。

その時点で「準備出来ているものだけでも購入する」か「すべてをキャンセルするのか」を選ばなくてはならず、マロニエ君はあるだけでも聴いてみたいので、5枚だけでも購入するという選択をしました。

で、数日後には送ってくるものと思っていたら、一向に届かず、おかしいなぁ…と思っていたら近隣のコンビニ留めでそれを自分で取りに行くということになっていたようですが、注文から2ヶ月以上経っていることもあって、そんな認識がまったく頭にありませんでした。
このあたりの注意が悪かったのは専らマロニエ君の責任ということになります。

というのも、これまで購入するCDは長いこと自宅に届いていたので、今回もそうだと思い込み、それ以上の注意をしていなかったのです。
すると、ある日「コンビニでの保管期限を過ぎたのでキャンセル扱いとなりました」というメールが届き、この時点でびっくり仰天、はじめてコンビニ受け取りということに気がついたわけです。
保管期限を見ると、メールを目にした時点で期限失効から12時間が過ぎるかどうかというところでした。
あわてて当該のコンビニに電話すると、その荷物はまだお預かりしていますが、おそらく返品扱いになっているので、お渡しできるかどうか不明、詳細の書かれた紙などを持って来ていただけたら処理をやってはみますとのこと。

というわけで、すぐにそのメールをプリントし、部屋着のままコンビニへと飛び込みました。
幸い電話に出た方がおられたので、すぐに店内のなんとかいう名前の端末に向かって操作をしてくださいましたが、やはり自動的に返品処理となった後で、その端末からはどうすることもできないので、購入者とショップの間でやりとりをして欲しいというわけで、こちらの連絡先を残して一旦帰宅することに。
コンビニ側も回収業者には品物を渡さないですむように言ってみますと、とても協力的でした。

ところが、その発送元のネットショップに連絡しようにも、ご多分に漏れず電話番号が書かれておらず、あせりながらパソコンと格闘した末に、ついにカスタマセンターの電話番号なるものを他から突き止めさっそく電話し、事情を説明しました。
内容はすぐに伝わり、今どきなので、これまでの購入履歴などもわかったようで、あれこれ手を打ってくれたようですが、先方が言うにはいったん回収命令が下ったものに撤回の指示はできないことになっているとのこと。
二ヶ月以上も待っていたCDなので、キャンセルする気は毛頭なく購入したい旨を伝えると、結論としては、いったんこのまま品物を送り返し、しかる後にもう一度発送しますので一週間ほどお待ち下さいということで、それで話は決着しました。

もちろん、その間メール連絡などは来ていたのだろうし、それを一字一句見逃さないための注意を怠ったこちらに責任はすべてあるといえばそうなるわけで、店側はやるべきことはキチンとやったということもわかります。
しかし、現実的には毎日見たくもないようなメールが何十通も来るし、重要なものとそうではないものの取捨選択だけでもひと仕事で、こんな結果を招くほど重要なメールとは思わなかったというのが正直なところ。

いずれにしても品物はもうコンビニまで来ているというのに、それをまたどこか遠く(おそらく関東でしょう)まで返送し、再度送り直すとは、システムには適っていても今どきのコストと効率重視の世の中にあって、なんとバカバカしく無駄なことかと思いました。

ショップに落ち度はないし、コンビニも親切で協力的だったし、2ヶ月強も待ったCDだからマロニエ君としてもキャンセルする気などさらさらない。
寝坊でもして飛行機が離陸してしまったというのならともかく、目の前にある荷物を時間切れというだけで受け取ることさえできないなんて、システムというものがそんなにすべての中心でエライのだとすると、なんだかとてもやりきれない気持ちになりました。

メール確認を怠ったマロニエ君が一番の責任者といえばその通りなのですが、人間は忘れることもミスすることもあるし、保管期限から何日も経過していたというならともかくも、まだ目の前にあるというのに、そういう場合のちょっとした融通さえもきかないのは、率直に言わせてもらえばそのシステム構築にも問題があるのではないかと思いました。

システムというのであれば、(少なくとも品物が回収される前なら)操作によって回収を撤回する機能を追加すればいいじゃないかと思いました。
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決め手は重さ

少し前のことでしたが、ある技術者の方から、至極もっともといいましょうか、大いに納得の行く話を伺いました。
ピアノのハンマー交換をする場合、何に最も留意すべきか?

こういうことは技術者さんによっても流儀はいろいろだろうと思われるので、あくまでもお話を伺った技術者さん個人のお考えとして紹介しますが、その方は「ハンマーの重さに対する注意につきる」といわれました。
ふつうハンマー選びというと、レンナーだアベルだというような単純な話になりがちですが、各社とも等級はいろいろあって、一概にどうともいえないようです。

その方が言われるには、それなりの品質のものであればメーカーはそれぞれだし一長一短で、それ以外にも優れたハンマーを作る会社はあるし、さらに取り付けるピアノの年代や相性、弾く人の好みなどとても一概にはいえないようです。

それより、メーカー以上に守る(こだわる?)べきことがあるとすれば、それはハンマーの重量。
これは決して外せない要素だと言われました。
ピアノの設計やアクションの作りに対して、最適な重さのハンマー(シャンクも含むとおもいますが)であるかどうか、この点をその方はもっとも注意されるそうです。
とくに古いピアノなど、データが豊富でないピアノになるとさらにその点は細心の注意が必要らしく、これを誤ると、どれだけいい音がしても、弾きにくくて好かれないピアノになり、ピアノそのものの価値を左右するに至るというのは納得でした。

その点の注意を怠って、安易に有名ブランドハンマーを取り寄せて交換すると、タッチの面で思ったような結果が得られないピアノというのはかなりあるそうで、多くの技術者はこの部分をハンマー交換時のリスクとしているようですが、決してそうではなく技術者がそこをよく認識し注意さえしていればそういう間違いは起こらないとのこと。

我々一般ユーザーにとって、信頼している技術者さんが吟味して仕入れたブランド品のハンマーなら、まさかそれが不適合だったとは思いませんものね。
重すぎるハンマーがつけられてしまったが最後、整調などでいくら小細工を繰り返しても基本的な解決には至らず、気持ちの良くないピアノになり、最悪の場合はピアノそのものが嫌われてしまうこともあるでしょう。
こういう場合、もともとのサイズが違ってしまうぐらい大胆にフェルトを削ってダイエットすれば、その分の効果はあるかと素人考えで思いますが、それではハンマーそのものの価値を毀損するようでもあるし、そもそもの選択ミスをそんなかたちでカバーするのもおかしいですよね。

話は変わるようですが、マロニエ君は無類のクルマ好きでもありますが、通常の好ましい実用車の場合、日常の使用でどの性能が最も乗員に寄与するかというと、それはエンジンでもパワーでも燃費でもなく、日常的な使用範囲における「乗り心地」です。
段差を乗り越えた時のいなし方、揺れの少ない節度感あるボディ制御、駐車場から表通りに出て加速して、流れに乗って走行する際にもっとも気持ちの良く感じる性能は、キチンと腰のある繊細でしなやかなサスペンションです。

これをピアノに当てはめますと、もちろん音や響きも極めて大切ではあるけれど、まずはしっとりと弾きやすく、程良い抵抗とコントロール性を兼ね備えた「上質なタッチ」だと思います。
マロニエ君は、音とタッチのいずれが大事かというと、悩んだあげくの究極の選択ではタッチかなぁ?と思います。
音は元のピアノがよければ優秀な技術者の力を借りてあるていど磨けますが、タッチはなかなかそうはいきません。
打弦距離だのなんだのと調整箇所はいくらもありますが、そもそも重いハンマーが悪さをしている場合、いくら技術者さんが中腰で汗水たらして時間をかけてがんばってくださっても、さほどの劇的変化は起こりません。

ハンマーの重量さえ適正なら、技術者さんも音色やパワーや調律など他のことに労力と時間を使えますが、これがボタンの掛け違えのように、出発の時点で間違っていると、あまり効果のない調整等でお茶を濁す以外にどうすることもできません。
そういうわけで、上記の技術者さんがおっしゃるハンマー交換の場合、最も重要な点は「適正な重さに細心の注意を払う」というのは大いに納得の行くお話でした。

こんなことを言っちゃ怒られるかもしれませんが、そこさえきちんとしていれば、レンナーでもアベルでもRGでも、そんなにワアワアいうような大問題ではないんじゃないかと思いますけどね。
もちろん、フェルトのクズを固めて作ったような安物じゃダメでしょうけど。
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Akiko’s Piano

終戦の日の8月15日、NHK-BSのドキュメンタリードラマで『Akiko’s Piano 被爆したピアノが奏でる和音(おと)』という番組が放映されたので、録画を視聴しました。

このピアノは広島の原爆投下によって亡くなった河本明子さんが愛奏していたピアノとして有名なもので、修復もオリジナルを重視して極めて慎重に行われ、すり減ったハンマーもあえて交換しないことで明子さんが弾いていた当時の状態を保持、原爆によってついたキズなどもそのまま残されているもの。

数年前アルゲリッチが広島にやってきた時にもこのピアノを弾いてみた映像があるほか、リシャール・アムランやピーター・ゼルキンなども、当地に赴いた際にこのピアノを弾いているようです。
アメリカ製のアップライトで、昔のピアノらしくやわらかい音のする楽器で、いまどきのビンビンした音の出る無神経なピアノとはまるで違うようです。

番組の大半は有名俳優陣によるドラマで占められ、明子さんが家族とともに戦時下を懸命に過ごし、学校生活を送り、勤労奉仕に駆りだされ、ついに運命の8月6日に爆心地の近くで被爆して、瀕死の状態で歩いて家の近くまで戻って倒れこんでいるところを両親に発見され翌日亡くなるまでが描かれていました。

ピアノのフレームにはそれらしき文字は見当たらなかったけれど、調べてみるとボールドウィン社製のピアノらしく、父君がアメリカから持ち帰られたものだったようです。
当時はピアノなどあろうものなら、金属供出などで没収されるのが普通だったと聞いていますが、よくぞ無事に生きながらえたものだと思うし、そういう強運を持った何か特別なピアノだったんでしょうね。

さて、番組後半では、被爆75年を節目として現代作曲家の藤倉大氏によって作曲された、ピアノ協奏曲第4番Akiko’s Pianoという作品が披露されました。
広島出身の萩原麻未さんがソロを務められ、下野竜也指揮の広島交響楽団で、ステージにはスタインウェイDと明子さんのピアノの2台が並べられ、曲の後半では、静寂の中を萩原さんがお能のようにゆっくりと明子さんのピアノへと移動し、スポットライトの下で続きのソロが弾かれて曲が終わるというもの。

ここから先はあえて勇気を振り絞って書きますが、この作品、マロニエ君には理解も共感も及ばず、ドラマで描かれた明子さんとはまったく異質な印象しか受け取ることができませんでした。
作曲の意図ととして明子さんとそのピアノが主役だと述べられ、「亡くなった人のレクイエムではなく、もし明子さんが生きていたらどんな未来が待っていたかを想像して作曲した」というようなことが語られ、テロップには「Music for Peaceという普遍的なテーマを一人の少女の視点で描く」といった言葉が並びました。
けれども、マロニエ君の旧弊な耳には、果たしてこれが音楽なのか?とさえ思うような奇抜でやたら暗いものにしか聞こえませんでした。

ピアノが好きだった明子さん、ショパンが好きで、戦時中を懸命に生きたけれど、最後は非業の死を遂げることになってしまった明子さん。
明るく聡明で、周囲から愛され、分厚い日記帳が何冊も積み重なるほどの膨大な日記を、流れるような美しい文字で綴って残した明子さん。
藤倉大氏はこれを作曲するにあたりインスピレーションを得るためか、わざわざ明子さんのピアノに触れるために広島までやってきて書き上げた作品とのことで、そういう内容になっているのかもしれないけれど、あいにくと低俗な耳しか持ち合わせないマロニエ君には、作品の価値はわからずじまいでした。

現代音楽の理解者に言わせれば、おそらく素晴らしい作品なのかもしれません。
ピアノは常に旋律とも音型ともつかないような意味深な音を発する中、背後では弦がたえずヒーヒーと鳴っており、ときどきピアノの音が激しくなったり、またそのうち静寂のようなものに包まれる、そんなことの繰り返しのように聞こえました。
いったいどこにピアノ協奏曲Akiko’s Pianoを見い出し感じればいいのやら見当もつきませんでした。

この作品の価値を云々する気はないし、そんな能力もないけれど、放送時間の大半を費やして放映されたドラマでは、明子さんとその家族や友人達は活き活きと描かれ、最後こそ原爆という悲劇に至るものの、それ以外はとくだん悲惨な話というわけでもなく、むしろ戦時中の人々の温かな人間模様がそこにはありました。

藤倉大氏はお顔は覚えがあったけれど、どれだけ気鋭の作曲家でおいでなのかは残念ながら知りません。
いかにも一般人の理解不能を前提としたような作品で、しかも偏見かもしれないけれど、日本人的な書生っぽい主張にあふれた作品のようにしか聞こえませんでした。

会場にわざわざ足を運んで聴きに来られた聴衆のみなさんは、あの作品をどのように感じられたんだろうと心から思います。
原爆投下という残虐行為は許されることではないけれど、でも、明子さんというピアノが好きだった19歳の少女に焦点を当てるのであれば、もう少し別の方法もあったのでは?とも思います。
明子さんは家族や友人(そしてピアノ)に囲まれて、楽しい時間もたくさん過ごされたと思いますが、彼女をあらわす音楽が結局こういうものになるのなら、マロニエ君はどうにもやりきれないものが残ります。

そこに、マロニエ君が現代音楽を介さない無粋者だということが横たわっていることも否定はしません。
しかし「音楽」というものがあれほど素晴らしく魅力的であるのに、その前に「現代」という二文字がくっついたとたん、なぜあのように難解で苦行的なものになってしまうのかが皆目わからないのです。
モーツァルトは、聴いた人間がなにか深い悲しみの中に投げ込まれてしまうような作品をたくさん書いたけれど、表向きは嬉々としていてまったくそんな顔はしていません。
ピカソのゲルニカが表現したものは、壮絶な戦争悲劇ではあるけれど、それをつきぬけたところに圧倒的な芸術作品に接する感動というものがあるし、そんな特別な例を引かずとも現代建築、現代文学、現代アートはいずれもそういう迷路に連れて行かれるようには思えません。

ごく単純な話に戻すと、主役は河本明子さんであり彼女のピアノであり、それは作曲者ご自信も仰っていたこと。
ですが、ピアノが好きでショパンを好んでいたという明子さんが、あの作品を聴いて素直に喜ぶのか?これが最大の疑問といってもいいかもしれません。
これがいつまでも消化しきれずに残ってしまう単純な疑問です。

おまけにこの作品は明子さんにではなく、マルタ・アルゲリッチという当代きってのピアノのスーパースターに捧げられているというあたり、いよいよもって意味不明でした。
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演奏家はエリート?

先日、録画の中に、NHKのクラシック音楽館だったか正確ではないけれど「1957年のカラヤン…」というようなタイトルの映像がありました。
同年にベルリン・フィルを率いて来日した折の旧NHKホールにおける演奏会から、ベートヴェン「運命」の第1/3/4楽章が放送されましたが、カラヤンの評価は横に置くとして、理屈ではない、率直な演奏の魅力と、それに触れる喜び・高揚感というものを考えさせられました。

海外の一流オーケストラの来日公演などまだまだ少ない時代において、当時の最高のスターであるカラヤン/ベルリン・フィルともなれば、クラシックにおけるビートルズ公演のようなものでもあったことでしょう。
そんなスターが日本にやってきて、圧倒的な演奏をどうだとばかりに披露することができた時代。

思わず唸ったのは、とにかく明晰明快、流麗で、パワーがあって、そりゃあ、ああいう演奏会に行ったら、だれもが酔いしれ興奮して大半の場合ファンになるでしょうし、CD(当時はレコード)も売れるでしょう。
カラヤンの人となりや、楽曲の解釈、演奏スタイルなど、現代の目から見れば突っ込みどころはあるかもしれないけれど、「音楽は歌である」「音楽はダンスである」という本質を突いた言葉があるように、音楽を聴くということは、まずは「音を浴びる快楽」だとマロニエ君は思います。
音楽によってもたらされる非日常の感銘や陶酔感、非日常を全身で感じることだと思います。

今の演奏は、あまりにテクニカルで、規格品的で、しかも学究的に固まってしまって娯楽や快楽の要素、演奏者の個性や冒険的解釈に対して、あまりに不寛容になったと思います。
演奏家もビジネスの要素が強まり、ライバルが多い中、オファーが来なくなるのが一番怖いから、嫌われないことが第一の演奏に意識が働いているのが見えすぎて、平均化された退屈な演奏になるのは必然。

いっぽう、聴衆の質も下がって、演奏の真価を見極めようとか、微妙なところに宿る芸術性を解する耳を持った人は激減しており、評価は技術と知名度と権威性だけがものをいうようになりました。

技術を磨いて、コンクールに出て上位を勝ち取り、レパートリーを増やして出世街道を歩くのは、ほんらい演奏家というより職業エリートの進むべき道筋。
いまでは、芸能界でさえ東大を筆頭に有名大出身者が幅を利かせる肩書社会。
当然、断崖絶壁に立って、これだというものにかけて一発勝負をする気概や度胸なんぞ失って、できるだけ好き嫌いの分かれない、中庸な演奏に終始することが、次のオファーに繋がるという戦略ばかりが透けて見えて、ちっともエキサイティングじゃありません。

芸術家(といえるかどうかはともかく)でも昔のように暴君的にふるまったりエゴを撒き散らしたり、次々に共演者に手を出して浮名でも流そうものなら、もう一発アウトなじだいですからね。
もちろん、そんな破天荒がいいことだとは思わないけれど、でも優秀有能でみんなに好かれるエリート社員みたいな人の手から、本物の魅力ある、聴く人の心を揺さぶり、天空高く旅させてくれるような演奏ができるかといえば…それは無理だと思います。
ここが、時代と芸術家の折り合いの難しいところでしょう。

すべてにシナリオがあり、最後だけこれみよがしに盛り上げて拍手喝采に持って行くという筋書きでは感動さえもニセモノで、むしろそんなものに乗せられてたまるか!という反抗心が沸き起こるのがせいぜいです。

地方のオーケストラでもとっても上手くなっているし、世界のトップと言われるオケでも、真の感銘を与えるような大した演奏をするわけでもなく、とにかく平均点だけが上がっている。
世界的なスターはいないけど、ちょっとしたピアニストでもラフマニノフの3番をしれっと弾いたりする、そんな時代だから演奏も多くが消費材のようになってしまい、わざわざ録音して残す意味もなくなっている。

聴きに来たお客さんをいい意味で満足させるような演奏、人の心を鷲掴みにして、強い力でぐいぐい山あり谷ありの世界へ引き回してくれるような、そんな体験も、演奏会のもっとも重要な役割だと思うのですが、すべてが変わってしまったようですね。
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BかCか?

前回に続いて…ということでもないけれど、スタインウェイのグランドピアノの中で、最高にバランスがいいモデルは何か?
これには、昔から技術者はじめ多くの人によってB型だとされている観があり、もはや異を唱えることさえできない定説のようになっています。

B型こそはグランドの理想形。
置く場所と予算さえ許すなら、ぜったいBがいい。
C型より一つ小さいBのほうがバランスがよくピアノとして優れている〜等々、こんな言葉をどれだけ聞いたことでしょう。
そういう声に押されて、B型こそベストと信じて購入された方も少なく無いと思いますし、マロニエ君もそこまで言われると言葉の力もあるから、半ばそういうものか…と思っていた時期もありました。

もちろん折にふれてB型には幾度か触れたことはありますが、素晴らしいピアノであることに異論の余地はむろんないですよ。
低音もそれっぽくよく鳴るし、全体に華やかでキレがあり、中型ピアノならではの軽快さもあり、いかにもスタインウェイらしくてわかりやすく、人気というのも納得です。

個人的な印象としては、Bにはとりわけブリリアントな個体が強く、やわらかで落ち着いた感じのBというのは、たまたまなのかもしれないけれど、新旧いずれもあまり経験した記憶がありません。
小型ピアノには望めない低音の美しさがあるいっぽうで、鍵盤が短い(鍵盤からハンマーまでの距離)のか、入力に対する反応も素早く、一台に求められる要素が凝縮されているのは、まるで取り回しの良い中型高級セダンみたいな感じ。

ただ、聴く側の立場で言わせてもらうと、Bには絶えず「薄い」感じがつきまとうようのは拭えません。
数少ないBによる演奏や録音を聴くと、残念ながらややわめいている感じを受けます。
貫禄ある大人というより、若々しいスリムな青年といった印象。

これまで、Cの評価がBほど高くないためか、さほど注目していませんでしたが、音や響きの印象でいうとCはおっとりしてDの短胴版のようでもあり、対してBは中型グランドのトップモデルといった感じを受けないこともなく、そこには一段の隔たりがあるところが最大の違いではないか?と思いました。
「打てば響く」という反応の良さで言うとBになるのでしょうか。

だとすれば、弾いて痛快なのはBかもしれませんが、鑑賞目的で客席から聴くことを考えたら、マロニエ君はCのほうが好ましいように思います。

青柳いづみこさん(たしかハンブルクBのユーザー)が著書の中でドビュッシーの前奏曲集を演奏するにあたって、どこだったかホールではない会場でピアノを準備する際に、この作品を弾くにはBでは表現できないものがあるのでぜひDを準備して欲しいとリクエストしたという記述があり、その時は「へええ?」と思ったけれど、今なら少しわかる気がします。

一番顕著に感じたのは、キーシンがアメリカの大学内で学生たちに囲まれてショパンのスケルツォを演奏する動画がYouTubeにありますが、そこにあったピアノはハンブルクのBでしたが、キーシンのあの全身全霊を傾けるようなこってりしたタッチの連続放射にピアノがついていかず、ほとんど悲鳴のような感じになったのを見て、さすがのBにもこのような限界があることを思い知らされたものです。

誤解しないでいただきたいのは、それでBを否定しているのではさらさらなく、ピアノはその目的や置く場所によって、さまざまな特性があるのだということが言いたいわけです。
メーカーによるBの説明では、小さいホールやサロンコンサートにも最適というようなことが述べられているけれど、このモデルが本当に素晴らしいのは、むしろ弾いている本人がこの上ない満足を得られるプライベートスペースなのかもしれません。

ピアノの難しいところは、奏者当人が弾きながら感じているものと、鑑賞する側の印象では、必ずしも一致していないと点が少なくないということかもしれません。
その点でBは、プライベートな部屋や空間で我一人弾いて楽しむ(あるいは練習や創作活動など)というシチュエーションにおいて、おそらく右に出るものはないのだろうと思います。

技術的な観点から、BとCのどちらが楽器として優れているかは、マロニエ君ごときにわかるはずもないことですが、鑑賞する立場として好みだけで言わせていただくと、やはりBにはサイズからくる限界を感じます。
やっぱりCの大人っぽい余裕と穏やかさには魅力に感じます。

Bといえばいつも思いだすのが某楽器店にあった戦前のA3(奥行き200cmのモデルで、ちょうどAとBの中間サイズ)で、これがもう「ウソー!?」というほど、パワーがあり溌剌としたいいピアノでした。
店主の談によれば、Bを喰ってしまうからカタログから落とされたモデルだそうですが、その真偽はともかく、ひとついえることはスタインウェイのA188とB211って、サイズが離れすぎている気はします。

ヤマハでいうとC3Xの次はC6Xになるようなもので、5に相当するサイズがないんですが、これはこのままでいいんでしょうかねぇ。
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廃墟でベートーヴェン

ずいぶん前のBSプレミアムシアターで、バレエの後半にアレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタというのがありました。
この人は、前々から非常に時代や流行に聡いピアニストという印象があり、おそらくは今年のベートーヴェンイヤーを見据えて制作されていた映像なんでしょう。

映像の舞台となっているのは、たいそう荒れ果てた廃屋。
今どきのことだから本物か作り物かは知らないけれど、壁も床もボロボロの、白っぽい廃墟の中をタローがゆっくりと歩を進めると、奥まった部屋に、いかにもという感じで白い布が被せられたピアノらしきものがり、その前で立ち尽くす。
場面が変わるとほどなくop.109が鳴り出すというものですが、そのピアノはこの廃屋に合わせてわざと汚れが塗りつけてあるけれど、実は最新スタインウェイC型であるところが苦笑してしまいます。

ここまで芝居がかったことをするのなら、ピアノもそれに応じてヴィンテージを使ってもよかったのでは?と思うし、高価な最新の楽器を演出のためにわざわざ汚してしまうという行為は、そんなに重要なことだろうかとも感じたり。

床も天井も荒れ果て、壁は剥がれ落ち、場所によっては汚水が溜まっているような屋敷に放置されたことになっているピアノですが、その音はというと、新しいピアノ特有の若々しい新緑のような音色と、いかにも整った均一な響きを持っており、この演出があまりにちぐはぐですべてがウソっぽくなっているようでした。

演奏はいかにも現代基準といわんばかりに尤もらしく弾けてはいるけれど、演奏者の個性とか、曲と奏者の間に発生すべき反応、解釈、問いかけ、新しい切り口などはマロニエ君が聴く限りでは見あたらず、ただこの曲の平均的な音が虚しく聞こえてくるだけでした。
長年かけて出来上がったスタイルを模倣するように弾いているのか、定められた規格品みたいな演奏。

大勢の人の研究と時間によって練り上げられた解釈と演奏様式は時代を支配するものだから、それを土台にするのはわかるけれど、そこにピアニスト自身から発せられるメッセージ性、なにか心を震わすような情熱とか、演奏を通じた語りかけがあってこその演奏芸術だと思うのですが、近ごろのピアニストはそういう自我さえないのか、多くの場合、無難に整った(個性という意味では極めて地味な)演奏で済ませてしまうことがあまりに多く、こうしてみんなで演奏をつまらないものにしているように思います。

ちなみにこれは、このピアニストに限ったことではない、近年しばしば感じる問題です。
演奏を聴かせたいのか、こういう映像の中の弾いている自分の姿をアピールしたいのか、音に惹き込まれないからあれこれと余計なことを考えてしまい、しまいにはさっぱりわからなくなります。

ところで、マロニエ君はスタインウェイのC型については多くを知りませんでしたが、技術者や専門家の間ではBこそがベストバランスで、Cはそれには及ばないというようなことがいわれたりしますが、今回のビデオを聴いた限りでは、まったくそのような印象は持ちませんでした。

それどころか、C型とはこんなにも素晴らしいピアノだったのかと、驚きつつ感心してしまって耳を澄ませていましたが、これはほとんどDと遜色ないものだと思いました。

スタインウェイの中でベストバランスモデルとして定評のあるのがB型ですが、実をいうと(演奏を聴くぶんには)個人的にいささか過大評価では?と思うところもあったところ、Cのあまりの違いにはじめはびっくりしつつ、やがては疑いへと変化していきました。

というのも、別の場所できちんとした音源を作り、この廃屋&C型は映像のためのセットではないか?
ネットでいろいろと調べてみましたが、もともと検索力の低いマロニエ君の前にはそれらしき証拠はなにもなく、諦めかけたとき、いつも購入するCDネットショップのサイトをみたら、ちょっと引っかかることが。

アレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタのCDがあり、この廃屋での演奏と思しき映像DVDがセットになっています。
知るかぎりでは、彼はこれまでほとんどベートーヴェンのCDはなく、これは2018年にパリのサル・コロンヌで録音されているもののようで、解説には「付属のDVDには、CDと同内容の全曲演奏映像を収録」とあるので、これはやはりホールにおけるDによる演奏という可能性もあり、ならば納得という感じ。

C型であれだけの音が出てくるとすれば驚き以外のなにものでもなかったけれど、音源が別となると、映像での演奏風景はいわゆる「口パク」ならぬ「指パク」ということになるのでしょうか。
ま、映像作品なんてものはえてしてそういうものなのかもしれないので、あまりそのあたりをとやかく言っても仕方がないのかもしれません。
なんでもフェイクが当たり前の世の中、もはや何を信じていいのかわからない…変な気分です。
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スターの条件

8月2日放送の『情熱大陸』はいま日本で旬のピアニストである反田恭平さんによる、このコロナ禍の中で試みる有料音楽配信という新しい音楽活動にスポットを当てたものでした。
多くのプロフェッショナルな音楽家が、コロナのせいで活躍の場を奪い去られる中、反田恭平という新進人気ピアニストが旗手となって新たなスタイルに挑戦しようとする様子をとらえたものです。

それに対する意義や判断力はマロニエ君は持ち合わせないので、そのことをここで書いてみようと言うのではありません。

この番組の内容とは直接の関係はないけれど、あらためて反田恭平さんという人を見ていて、なぜ彼が現在日本でトップの人気があるのかということを考えてみるチャンスになったので、そのことに触れてみたいと思います。

現代は苛烈なまでの大衆社会なので、昔のように芸術的な深みや精神性といったものを果てしなく掘り下げ、追い求め、享受する時代ではなくなりました。
芸術には、芸術家はもちろん、受け手の側にもそれなりの素養と修練と熟成が求められ、そういうことは(残念なことではあるけれど)年々時代に合わなくなり、もはやそういう求めも価値もほぼ喪失されてしまったように思います。

芸術性なんぞといったって、これという基準があるわけでもなし、ごく一握りのわかる人がわかるだけのこと。
そんな少数を相手にしていては、現代の厳しいビジネス第一主義の社会では商売もあがったりになるだけ。

さらに、芸術家といえるような人ならまだしも、クラシックの訓練を積んできたという人達は、全体にどこか浮世離れのした、純粋培養の中でイビツに育った線の細さのようなものがあり、大衆的な人気を博そうにも、まるで訴求力がないしパンチがないし、どこぞの大臣発言じゃないけれどまったくセクシーじゃない。

そこへもってくると、反田恭平さんというのは、およそ聴衆の心が素通りしてしまうような無機質な雰囲気ではなく、どこか昔のEXILEのメンバーか何かのような逞しさや体臭やワルっぽさがあり、いかにも非クラシック的な雰囲気があって、聴き手と同じ目線や感性をもっていそうなイメージが漂っています。
言葉遣いも、長年お偉い先生方との縦社会で培われた、慎重でステレオタイプのお行儀のいい丁寧語を話さず、スノビズムもなく、思ったことを言葉少なにズバリと口にするような今どきの若者の世代臭があります。
おまけに普段はどちらかというと無愛想で、洗練や選民意識を暗示するかのような微笑みもなく、いかにも今どきの健康で朴訥な男子という印象を与えるのだと思います。

ヘアースタイルはちょんまげでお顔はいかにも歴史画にみるような純和風で、まるでお能の落ち武者のようなニヒリズムと気迫があり、いわゆる今どきのキレイ系の目筋の整った無機質なイケメンでもない。
このあたりがまずもって現代では珍しい。

それに加えて一切の危なげのない、シャープで卓越した演奏技術があり、マロニエ君は反田氏の音楽には精神性を感じないけれども、彼がピアノと対峙して見せるその技巧そのものには、まるで剣術の師範代のような収斂された美しさ、すなわち精神性が宿っていると思います。
これは誰の目にもわかるピアニストとしての圧倒的かつ新種の武器であり、彼の一番のピアノ演奏上のウリは、やはり技術の冴えだと思います。
現代は芸術・文化より、経済・スポーツ重視の時代。
人の心の内側を覗き見て表現とするような細やかな陰影とか、一瞬の呼吸や風のひと吹きの中に込められる儚いような芸術性より、この明快で輝く技術こそが、人々の感動を誘い出しゲットするのだと思います。
その技術はあればあるだけいいし、しかもそれはクオリティという仕上げの研磨がかかっていないといけません。

こういう諸々の要素を、一身に集約したピアニスト。
それが反田恭平という人なんだと思います。

おまけに彼には不思議なスター性があって、彼の存在は、人の心の中に刻み込まれるものがある。
俳優でもそうですが、どんなに美男美女でもこれのない人は大成しないし、ビジュアルはイマイチでも、このスター性という摩訶不思議な天からの授かりもので主役を張り、第一線で活躍する人というのがいますが、反田さんはそういう意味でもまさに時代が産んだスターなんだと思います。

彼よりもっとイケメンでピアノも上手い人は探せばいるでしょうけど、それだけじゃもうダメなんですね。
そういう意味では、どんなにコンクールで優秀な成績をおさめるような若者が出てきたとしても、トータルで彼を超えるのは生半可なことではないし、だから反田さんの天下はしばらくは安泰なのだろうと思います。
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AIの音楽

先日のNHKの『らららクラシック』では、なんとも不気味なものを見せられました。
「AI音楽の特集 テクノロジーと音楽」というタイトルで、現在、AIがどれだけ音楽の世界に入ってきているかをざっと紹介する内容でした。

昨年末、AI美空ひばりというのがあったように、AIという技術革新によって、これまで思いもしなかったような可能性が広がっているということのようですが、個人的にはその技術には驚きつつも、どうにも後味のスッキリしないものだけが残りました。

このコロナ禍でリモート合奏するなどの使い方はあると思いますが、ドイツ・フライブルクにある音大では入試もリモートで、海外で演奏するピアノと音大のピアノをAIで繋いで演奏判定をやっており、今後の試験のあり方も変わっていくかも…というようなことで、いきなり唖然。
これで合格したら、そのときは実際にドイツに移り住んで学校に通うのか、そうではないのか、もうまったくわからない。

スタジオでは、グレン・グールドの演奏特徴を盛り込んだAIが、グールドが生前演奏していない曲としてフィッシャーの「音楽のパルナッスム山」から、というのが披露されました。
そのための装置を組み込んだヤマハピアノを使って無人演奏が行われましたが、なんとなくグールド風というだけで、本人が現れて目の前のピアノをかき鳴らしているような感覚になれるのかと思ったら、結果はほど遠いものでした。

なによりもまず、あの天才のオーラがまったくない。
タッチにはエネルギーも熱気もないし、いっさいのはみ出しや冒険がない、ただのきれいなグールド風な音の羅列としか思えないものでした。
名人の演奏とは、その場その瞬間ごとのいわば反応と結果の連続であり、どうなるかわからない未知の部分や毒さえも含んでいるもの。
鑑賞者はその過程にハラハラドキドキするものですが、それがまったくゼロ。

スタジオにゲスト出演していた、この道のエキスパートらしい渋谷慶一郎氏をもってしても「本物には狂気があるから、AIにそれができるようになたらおもしろいことになる」というような意味のことを云われていましたが、それが精一杯の表現だったと思います。

ほかには、やはりヤマハの開発で人工知能合奏システムというものがあり、生のヴァイオリニストのまわりにたくさんのマイクを立て、それを拾って、瞬時に解析しながら傍らのピアノからピアノパートが演奏されるというもので、共演者のテンポや揺らぎなどにも自在に対応するというもの。

演奏したヴァイオリニストも「違和感なく弾けた」とこれを肯定しており、渋谷慶一郎氏なども「音大生はみんな上手くなると思う」とポジティブなことを仰っていました。
たしかに、どんなテンポでも間合いでもAIが文句も言わず合わせてくれて、しかも機械だから疲れ知らずで、無限に付き合ってくれるという点はそうかもしれません。

でも、マロニエ君としては、手段がどうであれ出てくる音は整ってはいるけれど音楽として聴こえず、どうにも受け容れがたいものがあります。
新しい物を受け容れないのは、印象派の画家達が当初まったく見向きもされなかったことや、春の祭典の初演が大ブーイングとなった先例があるように、その真価が理解できず、固定概念に凝り固まった人特有の拒絶反応だと云われそうですが、それとこれとが共通したこととは思えないし、もちろんマロニエ君は固陋な保守派であっても一向に構いません。
いやなものはいやなだけ。

AIが共演者の音を拾って反応するということは、この場合ピアノの演奏が先を走ったり共演者を引っ張ることはなく、あくまでもヴァイオリンの脇役として影のようについてまわるだけとなります。
すると、終始自己中でいいわけで、相手と合わせる技術やセンスというのは磨かれないのでは?

ピアノ伴奏を人に頼む面倒もなく、便利というのはそうかもしれません。
でも芸術って便利なら良いの?という問題にも突き当たります。

また、作曲ソフトなるものもあり、AIが4つの旋律などを候補として提示して、その中から選んでくっつけたり貼り合わせたりするのだそうで、これがスマホアプリのお遊びならいいけれど、作曲家の創作行為の新しい可能性というようなことになってくると、それを肯定し賞賛する言葉や理屈はどれだけつけられても、要はコピペみたいな作品としか思えませんし、こんなことをしていたら、最後は全部AIに任せればいいじゃんということになりはしないかと思います。
今はまだ発展の過程だから生身の人間が主役になっているけれど、やがてAIとAIが合奏し、曲もAIが作るようになり、人間の出る幕はなくなるとしか思えませんでした。

クリエイティブな世界に身を置く人達は、AIのような時代の先端テクノロジーは受け容れるスタンスをとるフリをしないと、視野の狭い頭の凝り固まった人間と思われるのが怖くて、なかなか否定するわけにもいかないのだろうとも思います。

AIに頼めば、バッハのゴルトベルクに100のバリーションを作ることも、ベートーヴェンの交響曲第10番を生み出させたり、ショパンのバラードの第5番でも第6番でも増やすことは可能なんでしょう。
でも、そんなものはおもしろいのは初めだけ、後世に残る遺産になる訳がない。

テクノロジーの進歩という側面では驚嘆はするし、そこに拍手は贈りますが、そんなにすごい能力があるのなら、まずはコロナウイルスの特効薬でも作って欲しいものです。
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弾き手しだい

たまるいっぽうの録画ですが、その整理を兼ねて見てみることに。
NHK-Eテレのクラシック音楽館をたまたま2つ続けて見たら、そこに登場するピアニストのあまりの違いに笑いました。

そのひとつとは、4月12日放送のN響第1931回定期公演。
ツィモン・バルトのピアノ、指揮はクリストフ・エッシェンバッハで、ブラームスのピアノ協奏曲第2番。
ブラームスのピアノ協奏曲は2曲とも、その長大さに対して、派手な見せ場的なところがないからか、演奏されることは少ないけれど味わい深くとても好きな曲。

冒頭、ツィモン・バルトとエッシェンバッハの会話が流されたけれど、30年来の付き合いだそうで、バルトが若い頃、ピアノか指揮のどちらにするかで悩んでいた時に適切なアドバイスをしてくれた、自分にとっては音楽上の父などと言っていました。
またブラームスの協奏曲に対しても、若いころと今では演奏がいかに変わってきたかなどのコメントが。

さて演奏がはじまると、これまでのN響コンサートではあまり経験のないような違和感が。
あまり細かく言うのはよしますが、マロニエ君に言わせるとおよそプロのピアニストの演奏とは思えぬような違和感の連続で、ジュリアード音楽院出身とのことですが、そこにさえも違和感という感じ。
そもそもエッシェンバッハ自身が、若い頃はあれほど才能にあふれた有名ピアニストであったにもかかわらず、この人のどういうところをそんなに認めているのかがわかりません。

アメリカ国内の風船がいっぱいならんだような音楽イベントとかならとかく、プロのピアニストとしてわざわざ遠い日本へやってきて、テレビ収録が前提のN響と共演し、報酬を得て帰るということ、これも違和感でした。
ちなみに、このツィモン・バルトという人は、ものすごいマッチョな体格と風貌で、YouTubeで検索したら、若い頃はシュワルツネッガー張りの筋肉を見せながらタンクトップ姿でピアノを弾いたりしており、現代はまさに何でもありの時代なんだということをあらためて痛感。

ピアニストとしては逞しすぎる体格が災いするのか、すぐに音が割れてしまいます。
そのためか曲の大部分は抑えめな小さな音で弾いていますが、音に芯はなく音型も不明瞭、常にふがふがしたような演奏になります。
ソロの入るタイミングが変だったり、技術上の都合なのか普通に進めばいいところをやたら伸縮つけたり、ある部分ではラブシーンみたいに過度な表情をつけたりで、すべてがちぐはぐで独りよがりに感じるものでした。
エッシェンバッハはというと無表情にただ両腕を上下させているだけだし、N響の人達も仕方なくじっと楽譜を見ながら仕事をしているといった雰囲気でした。

それでも終わったら優しい日本人はちゃんと拍手はするし、大きな演奏会では「オーッ!」とか叫ぶ役目の人が必ずいるので、ご当人は満足かもしれません。
番組冒頭では、NHKが「アメリカを代表するピアニスト」とアナウンスしましたが、果たしてアメリカでどれだけの人がそう思っているのか、政治家でもないから支持率がでることでもないですけど…。

続いて、3月22日放送のN響第1929回定期公演。
こちらは若干20歳、ロシアのダニエル・ハリトーノフ、指揮はスペインのパブロ・エラス・カサド。
リストのピアノ協奏曲第1番が演奏されましたが、これはなかなか見事な演奏でした。

まずピアノの音がしなやかで肉づきがあって美しい。
同時にピアノって「ここまで」弾く人によって音が変わるのかということは驚くばかり。
さらには、指は文句なく回るし、リズム感もよく、演奏には勢いとメリハリがあり、いまどきの若者にしては妙にシラケた感じもなく、聴き手にも瞬間ごとに燃焼していることが伝わってくるものでした。
音楽的には特段の個性とか深い芸術性といったものは感じなかったけれど、プレーンな心地よさがあり、ストレスなく快適に、さらには演奏というパフォーマンスにも一定の満足を覚えながら聴き進むことができました。

アンコールはやけに技巧的で聴き覚えのない曲だと思ったら、このハリトーノフ自作の「幻想曲」だそうで、いずれにしろ大変な才能の持ち主であることは十分わかりました。

ロシアという国は、政治体制などはともかく、こと音楽のような分野に限っていうなら、いまだにこういう素晴らしい才能にあふれた若者がしっかりと送り出されてくることには感嘆を禁じ得ません。

12歳で衝撃のデビューをして世界を驚愕させたキーシンも来年は50歳!!!
彼がロシアピアニズムの中から出てくる事実上の最後のピアニストかな?などと思っていましたが、とりあえずまだその土壌は枯れてはいないようです。
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Fの真髄は?

ここ最近は、偶然も重なってか、TVでファツィオリを目にする機会が多かったように思います。

反田恭平さんが『題名のない音楽界』のスタジオ収録でもF308を弾いておられたし(おそらくこのために持ち込まれたものでしょう)、クラシック倶楽部では再放送でアンジェラ・ヒューイットの紀尾井ホールでのバッハ・リサイタルでF278。
ほかには、クイズ番組でも「何の曲を演奏しているところでしょう?」という問題で、場所はわからないけれど、使われているのがファツィオリで、この出題場面で使われるピアノは、これまでにも戦前のベヒシュタインとかニューヨークスタインウェイだったりと、かなりマニアックなピアノ揃いで不思議。

さてファツィオリですが、マロニエ君にとっては現在尚これほど難解なピアノもなく、いまだに聴けば聴くほど疑問が深まっていくのは如何ともし難いところです。

それは一言でいうなら、ファツィオリというピアノの個性というか、音の美しさの特徴がつかめないということに尽きます。
最高級の材料が吟味され、職人の手作業によって注意深く作られたピアノだけがもつ上質感というのは感じるけれど、ファツィオリ固有のトーン、いわば楽器がもつ固有の「らしさ」みたいなものがいまだに聞こえないのです。
もしかすると、そういうものはないのかもしれないとさえ思うこのごろ。

マロニエ君は、過去にファツィオリのことを高級ヤマハみたいなイメージと表現したこともあったし、今回の印象ではまたべつのピアノとの共通点をイメージしたけれど、何に似ているというようなことではなく、これぞファツィオリ!というものがいまだに見い出せないのです。
もちろんそこにはマロニエ君の耳が劣っているからということもあるとは思いますが。

表面的なブリリアントな音ではなく、深みとコクのある、まろやかな音を目指していることもわかる気がするし、それは今どきのパンパン鳴らすだけのピアノとは逆の、ピアノ本来の在り方だとも思うのですが、それ以上のものが見えてきません。

音楽発祥の国、イタリアが生み出したピアノで、この国のすべてのアートに通じる色彩や官能や享楽の要素にあふれているのかというと…あまりにも優等生然としていてるのも意外だし、イタリアものに不可欠の「太陽」を感じない。
むしろ特徴のない無国籍風の音に聴こえてしまうたびに、このピアノの核心はなんなのか探しまわるばかりです。

ファツィオリを評して、「イタリアらしく明るい色彩感にあふれたピアノ」というけれど、マロニエ君としては、とくに否定もしないけれども共感と言うまでには至らず、わかる方に教えてほしいものです。

ピアノは楽器であり主役は作品と演奏なので、主張の強すぎるものより、演奏者の黒子に徹するようなものがいいのだという考え方もあるかもしれませんが、個人的にはそこまでの割り切りはできないし、楽器そのものの魅力や美しさというのも音楽を聴くにあたっての楽しみの一つであり、それはおおいに必要なことだとも思うのです。

昨年、東京のショールームでほぼすべてのサイズを触らせていただいたときも、量産ピアノとはまったく次元の異なる濃密さがあり、さらに極上の調整がなされていることもあって、弾いていてこれほど気持ちのいい快適なピアノというのはそうないという貴重な経験ができました。
ただ、それは最高の状態に仕上げられた技術者の腕に負うところも大きいと思われ、その状態が少しでも崩れたときにどういうピアノになるのかというのは興味があります。

海外で収録された動画などを見ていると、必ずしも日本のファツィオリのように最高の調整を受けていないらしいものがあって、中には音もかなり荒れた感じだったりすると、よほど高度な調整を必要とするピアノなのかな?とも感じます。

「名は体を表す」というように、あの素晴らしいFAZIOLIのスタイリッシュなロゴそのものみたいな音を期待していしてしまいますが、やはりマロニエ君にはかなり難解なピアノのようです。
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