聖トーマス教会合唱団

NHKのBSで放送されるプレミアムシアターは、音楽に関する興味深い映像を見ることのできる貴重な番組ですが、過日放映された「聖トーマス教会合唱団のドキュメンタリー~心と口と行(おこな)いと命~」は、とりわけ心に迫るものがありました。

バッハといえばライプツィヒ、ライプツィヒといえばバッハ。
ほかにもメンデルスゾーン、ブリュートナー、そしてゲヴァントハウス管弦楽団であり、バッハが音楽監督としてつとめ、彼の墓もそこにある聖トーマス教会といった連想をしてしまうほど、この地はバッハの音楽とその魂が地中深くまで染み込んでいるような印象です。

聖トーマス教会合唱団はなんと創立800年!!なのだそうで、そこに在籍する9~18歳の少年たちの寄宿生活と音楽への献身ぶりにカメラが入りました。

各地から集まった少年というよりは子供達の中から、厳しく選ばれた者だけがこの歴史的な合唱団への入団を許されますが、その栄誉と引き換えに、10歳になるかならぬかの若さで、住み慣れた我が家と両親に別れを告げて、この合唱団の仲間との生活に入らなくてはなりません。

ホームシックに耐えながら、彼らはトーマス校での勉学と歌の練習に明け暮れます。厳しい寄宿生活には楽しさもあるけれども、いわゆる個人のプライバシーとか自由といったものとはほとんど無縁で、厳しい集団生活のルールの中に組み入れられます。
新入生の直接の面倒を見るのは上級生の役割で、いろいろな指導から生活の世話をやく兄の役目まで、この合唱団のメンバーが第二の家族となり、寝食を共にしながら、バッハの音楽を中心とする厳格な音楽生活を送るのは驚きでした。

こんなに幼い少年の頃から寄宿生活を強いられ、同時に荘厳かつ豊饒なバッハの音楽の中に身を置いて10年間を過ごすというのは、人生経験として途方もないことだと思います。
もうそれだけで人々の尊敬を集める立派な音楽家であり、卒業間近の青年達は二十歳前というのに皆おだやかな大人のような眼差しをしており、高い人格教養まで身につけているようでした。
謹厳な先生達の面々、聖トーマス教会の圧倒的建築、周辺の威厳に満ちた街の景色、美しい、まるで絵のような森や植物など、とにかくあまりにもなにもかもが違っていて圧倒される他はありません。

どこがどうというような次元の話ではなく、そこにある空気、差し込む光、すべてのものが独特で、根底に流れる精神的価値がまったく違うのは、いわば世界が違うことでもあり、ドイツには今でもこういう部分があることに感嘆しました。
西洋音楽は、国境や地域を越えて広がった共通文化となりましたが、それでも、その地に生まれ育ったものでなくてはわからない機微や領域というものがあるのは確かだと思います。

唐突ですが、今回のオリンピックでは日本の男子柔道が史上初の金メダルなしという結果に終わったのだそうですが、その要因として、日本人は「一本」に拘るからという意見がありました。
でも、柔道のことなど何も知らないマロニエ君から見ても、柔道をするなら一本に拘るのは理屈抜きに当然だろうと思います。それが今後、もし、国際試合に勝つために、判定基準に合わせて、ちびちびと小技のポイントばかりを掻き集めていくような柔道になるとしたら、それは一気に柔道の本質的な精神と魅力を失うような気がします。

聖トーマス教会合唱団のバッハには、歴史の遺物をただ敬うだけではない、まさにその本質と魅力が今も受け継がれて脈々と流れているようでした。
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史上二位の炎暑

過日はある方のお宅へ伺うことになっていましたが、あいにくこの日は福岡の観測史上に記されるほどの炎暑となり、午前中から気温はみるみる上昇、午後にはついに史上二位の37.5℃に達するほどの苛烈さでした。
ここまでくると、見慣れた景色もどことなく違ってくるようで、とりわけ目に映るものの色がぎらぎらと腐敗寸前のように生々しくざらついて見えるような暑さでした。

途中寄るところがあり、いったん車を置いて外に出ると、まるでフライパンの上に降り立ったようで、頭はボーッとするし、身体の動きも明らかに鈍くなる感じがしますね。
車に戻るって何気なく見たルームミラーに映る自分の顔が、短時間のうちに赤く火照っているのがはっきりわかりました。

以前にも思ったことですが、夏の中でも本当に猛烈に暑い日というのは、誰もができるだけ外出を控えるようで、意外にも道を走る車の数も普段より少な目でがらんとしていますし、我が家の周辺も昨日今日は普段にも増して深閑としているようです。

おそらくはその所為だと思われますが、目的地のお宅まで向かっているつもりが、いつもより車が少ないために予想したよりスイスイと進んでしまうし、そんなときに限っていつもは決まって赤信号になる交差点などでも、陽炎の立ちのぼる無人の青信号だったりして、それでまた車は先へ先へと進んでしまいます。

あまり早く着くのもどうかと思い、さらにゆっくり走りますが、こんなときは何をしても車が止まることがありません。急ぐときに限って渋滞にはまり、にっちもさっちも行かなくなるのとまるで正反対の状況ですが、往々にしてこういうものですね。


夕方、おいとまして車に戻り、走り出してしばらくするとなにやら目の前で物がドサッと落ちてきました。
あまりにも咄嗟のことで、何事か一瞬状況を呑み込めませんでしたが、オンダッシュのカーナビのスタンド部分がこの異常な暑さのせいで吸着力が弱まっているところへ車が動き出したらしく、赤信号が青に変わって発進したときの加速の勢いで、カーナビがいきなり手前側に倒れてきたのでした。

反射的に片手で抑えて完全落下こそ免れましたが、ひとりで運転中とあってはなす術もなく、とりあえず次の信号で停車するまでこのまま走るしかありません。片手にハンドル、もう片方には落ちかかったカーナビ、それを背中を浮かしながら運転している自分が滑稽でたまりません。
ところが、こんなときにも往きと同様で、一刻も早く止まって欲しいのに、信号は信じられないぐらい次々に青信号という皮肉の連鎖となり、可笑しさ半分、思わず叫び出したくなりました。

ようやく止まったのは、2キロほども先で、記憶では5つほどの青信号の交差点を不本意ながらスルーさせられた挙げ句のことで、そこでなんとか吸盤部分を付け直すことができました。

それにしても、今年の暑さは異常な気がします。
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内村航平

オリンピックもほとんど熱心に観ることのないマロニエ君ではありますが、唯一、体操の内村航平選手の演技だけは見たいものだと思っていたところ、昨日の夜中、「今やっている」と教えられてようやく途中からですが、ライブで見ることができました。
おまけに結果は金メダルですから文句なしです。

彼はひとことで云うなら「天才」だと思います。
むろん他のどの選手も、ここまでくるにはずば抜けた才能と努力があったのは云うまでもありませんが、内村選手には、そういったありきたりな要素ではとても収まりきれないものを以前から感じていました。

努力努力の積み重ねも尊いものですが、一観戦者として演技を見る場合、マロニエ君はなにか突き抜けた天才的なものに触れることに喜びを感じ、そこに非日常的な感銘と刺激を受けたいと思うわけです。

これは音楽であれ美術であれ、天才という、どうにもならない、常人が越えがたい領域に住むことを許された者だけが放つ、一種独特な輝きに魅せられるときの快楽みたいなものが身についているからかもしれません。

内村選手はその佇まいや、顔の表情からして他の選手とはまったく違ったものを感じます。
いつもどことなく伏し目がちで、一見無表情のように見えますが、それが却って彼独特の激しい内面の表れのようでもあり、燃えたぎる闘志の裏返しのようにも解釈してみたりします。
同時に彼のそこはかとない静けさのようなものが、天才特有の孤独性のようにも感じられる…。

スポーツ選手特有の汗くさい、動物的な、ぎらぎらした感じがあまりなく、いつも淡々と自分自身と向き合っているような気配も、並の選手には見られない特徴でしょう。

演技自体の専門的なことはまったくわかりませんが、素人目に感じることは、他の人と比較して動きが非常に軽やかで大きく、閃きがあり、ひとつひとつの動きの緻密さと全体の躍動が有機的に自然につながっていることでしょうか。
無理を重ねて苦しみ抜いている印象がなく、乗れば乗るほど演技が凄味を増し、むしろ解放へと向っていくところにも彼の尋常ではない天分を感じます。

今回はそれでも、オリンピックということもあってか、全体として慎重確実な演技でまとめる意志が働いていたようですが、いつだったか、国内での大会で見せた鉄棒の脅威的な迫力とスピードなどは、恐ろしいようなものがあり、その実力は底知れぬものがあるのでしょう。

彼こそ金メダルに相応しいとは思っていましたが、やはりオリンピックの本番というのはなにが起こるかわかりませんから、ともかくも、その通りの結果が出てホッとしているところです。
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節約リバウンド

少し前の新聞に、「節約はダイエットと似ている」という内容の記事が掲載されていました。

それによると、長引く景気低迷で、どの家庭も何かしらの節約はしているだろうけれども、節約にはリバウンドというダイエットと同様の反動があるのだそうで、無理な節約を続けると「自分へのご褒美」などと言い訳して結局は無駄遣いするのが悪しき典型なんだそうです。

取材に応えた人物は『やってはいけない節約』という本を出版したフィナンシャルプランナー(?)の男性で、危ない節約として代表される4つパターンが表にして記載されていました。
要約して書くと、
(1)スーパーなどの買い物先のすべてのポイントカードをためる
(2)徹底的にクレジットカードのポイントをためる
(3)家族に節約を強要する
(4)雑誌等の節約術をうのみにして実践する

これらの節約で危ない理由は、
(1)ポイントはオマケと考えるべきで、もっと安い店で買うほうがお得
(2)カードはお金を使っている実感が稀薄で、しかるにポイント目的にカードを使うのは危険
(3)無理強いされた節約はストレスを生み、やがてリバウンドという大きな出費を招く
(4)節約に力を入れすぎて、仕事など本来大切な事がおそろかになったりと、本末転倒の事態が起こる

という事だそうです。
これに対して、当たり前のこととして粛々と行える「習慣化された節約」が最も効果があるのだそうですが、マロニエ君に言わせれば、これも個人差によるところが大きいような気がします。
節約などと口では簡単に言ってみても、行き着くところは個人の感性とか価値観、ひいては人生観が問題となってくるのであって、その意義の軽重には個人差があり、極端に云うとそういうことが好きで自然に身に付いている人と、そうでない人がいると思われます。

マロニエ君などはお金もないのに節約が苦手で困りますが、ときどき人格の中にまで節約精神が深く根をおろしているような人を見ると、とても驚くことがあるものです。
こういう人は、必要な節約というよりは、そもそも支出をする事自体が苦痛のようで、だから節約は半ば喜びでさえあり、ごく自然に楽に実践できるのに対して、不本意にやっている人は苦痛を伴うのですから、似たようなことをするにもストレスの量で大差がつくわけで、これもひとえに個人差だと思います。
そして、苦痛の人はリバウンドの恐怖が待ち受けているということでしょう。

思い出しましたが、かのJ.S.バッハは大変な吝嗇家(つまりケチ)で、収入には充分恵まれていたにもかかわらず、何事も節約で通したのだそうです。五線紙の使い方にもそれはあらわれているそうで、手書き稿を研究家が見ると、他の作曲家とは比較にならないほど音符もビチビチに詰めて書いているし、曲のおわりに余白ができると、そこへまったく別の曲の冒頭を書き込んだりしたのだそうです。

音楽の世界ではほとんど神にも等しいようなバッハですが、それが実際に生身の人間として存在し、勤勉で、節約家で、収入の額などに強い拘りがあり、子供が20人もいたなんて聞くと、なんとなくイメージがまとまらないものですね。
バッハとは対極に位置する浪費家タイプの大天才がモーツァルトだそうです。
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静けさの中から

わりに最近出た本ですが、スーザン・トムズ著『静けさの中から〜ピアニストの四季』を読みました。

スーザン・トムズはイギリスのピアニストでありながら、すでに何冊かの本を出版するほどの文筆家としての顔も持っているようです。
女性として初めてケンブリッジ大学キングス・カレッジに学んだというインテリだそうで、またピアニストとしても極めて高い評価を得ているらしく、ソロのほか、フロレスタン・トリオのメンバーとしても多忙な演奏活動をおこなっているそうです。CDも室内楽などでかなりの数が出ているとのことですが、残念ながらマロニエ君はまだこの人のピアノを聴いたことはありません。

ピアニストにして文筆家といえば、日本では青柳いづみこさんをまっ先に思い出しますが、世の中には大変な能力の持ち主というのがいるもので、どちらかひとつでも通常なかなか出来ないことを、ふたつながら高い次元でやってのける人間がいるということが驚きです。

この本は、いわゆる随筆で、彼女が日々の生活や演奏旅行の折々に書きためられたものが本として出版されたものですが、その内容の面白いこと、強く共感すること、教えられることが満載で、大いに満足でしたが、もうひとつびっくりしたのが翻訳の素晴らしさでした。

訳者はなんとロンドン在住の日本人ピアニスト、小川典子さんで、彼女がこの本を読んでいたく感銘を受け、すぐに自分が翻訳をしたい!という気持ちになったといいます。
この衝動から、すぐにスーザン女史にその旨を申し出たのだそうで、めでたく諒解が得られ、日本語版の出版への運びとなり、やがてそれが書店に並んで、現在の我々の手に届くようになったということです。

ピアニストとしての小川典子さんはマロニエ君は実は良く知りません。CDも棚を探せばたしか1、2枚はあったと思いますし、リサイタルにも一度行きましたが、とくにどうというほどの印象はありませんでした。
しかし、この本の文章の素晴らしさに触れることで、こちらの側から小川さんの人並み外れた能力を見た気がしました。

なによりそこに綴られた日本語は、力まずして雄弁、適切な語彙、自然なリズムを伴いながら、どこにも不自然なところがないまま、もとが英語で書かれたものであることを忘れさせてしまうような、心地よい品位のある文章で、頗る快適に、楽しんで読み終えることだできました。

以前、このブログで、技術系の専門書で、愚直すぎて読みにくい翻訳文のことを書いたことがありましたが、まさしくそれとは正反対にある、活き活きとした流れるような日本語での訳文に触れることができたのは、望外の驚きでした。
小川さんによる巻末のあとがきによれば、彼女の翻訳作業には、もうひとり春秋社のプロによる編集の手を経ていたのだそうで、やはりそれだけの手間暇をかけなくては本当に淀みのない美しい文章は生まれないということを痛感しました。
もちろん原文を綴ったスーザン・トムズ女史のずば抜けた頭脳と感性、小川さんの広い意味での語学力があってのことではありますが、さらに編集によって丁寧に磨かれることで、ようやくこの本ができあがったのだということをしみじみと思うのです。

あたかも、ピアノが優秀な技術者の手をかけられればかけられるだけ素晴らしくなっていくように。
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氷ドロボウ

ちょっとした事情と流れから、福岡市の郊外にあるスーパーで買い物をして帰ることになりました。

自宅まではやや距離があり、この季節なので、レジを通ったあとサービスで備え付けられている氷をビニール袋に入れようと製氷器の前に行くと、そこには身をかがめて氷を袋にせっせと詰めている男性がいました。
中年のごくごく普通の、いたって善良な感じの男性です。

繰り返しスコップを氷に差し込んでは、かなりの量を袋に詰め込んでいるようで、ちょっと違和感がありましたがやがて終わったので、その後に続いてマロニエ君も氷を袋に入れますが、買ったものが傷まないための保冷が目的ですから、その量もたかがしれています。

適当に入れ終わって、製氷器の扉を閉めようとすると、さっきの男性が近づいてきて「あ、いいですよ。」と言うので、なにかと思ったら、またさっきと同じように氷をザクザク取り始めました。

マロニエ君はすぐ脇のテーブルで買ったモノを持参した袋に入れていると、その男性は目の前に戻ってきて、同じテーブルに置かれた発砲スチロールの大きな箱の中へビニール袋へ詰めた氷を入れていますが、なんとその中にはズラリと同じ状態の氷ばかりが入っています。そして、またもピッと袋を一枚とって製氷器の前に戻り、繰り返し氷を袋へせっせと掻き込んでいます。

その製氷器の上には特大サイズの警告の紙が何枚も貼られていて、「クーラーボックスなどで氷を持ち帰らないように」といった類の注意書きが嫌でも目に入るよう大書してあるのですが、その男性の態度はまったくそんなことは意に介する風でもなく、むしろ淡々とした調子で、氷を袋に詰めて上部を縛っては箱の中へとどんどん投入していきます。

しかもその男性の周辺には、ここで買い物をしたらしい形跡はなにひとつなく、来店したのは氷を持ち去る事だけが目的というのがしだいに明らかになってきました。
こういう不逞の輩がいるから店のほうでも困ってこんな派手な貼り紙をしているのだと思いますが、そんなことはまるで知ったことではないという態度で、ひたすら氷を発砲スチロールの箱の中へ移す作業だけが続きます。

やがてその箱は蓋が閉まらないほどの氷であふれ、もはやこれで終わりと思いきや、今度は目の前の閉鎖中のレジに悠然と向かい、そこに置かれている店名が印刷されたレジ袋の大きいのをサッと取ってきて、今度はそっちにビニール袋入りの氷を入れ始めました。

その態度たるや、なんの悪びれたところもなく、製氷器の前ではときどき他のお客さんに「どうぞ」などとわざとらしく身をよけて順番をゆずったりしながら、あくまで悠然と氷の盗み出し作業に専念しており、その慣れた感じからしても、到底これが初めてではない常習犯であろうと思われました。

店の氷を大量に盗んでいることに加えて、そのナメたようなふてぶてしい態度に、すでにこちらの心中は穏やかであろうはずもなく、気分は不快感でムカムカしてくる始末です。
…とはいうものの、今どき本人に直接注意する勇気もないし、いきなり逆ギレされちゃ敵いません。

しかし、このまま捨て置くのも業腹なので、店を出るとき、レジの店員さんに「氷泥棒がいますよ、ものすごい量を今持ち去ろうとしていますよ。」と伝えました。
店員さんは目が点になって、ひとこと「ありがとうございます…」といったきりマロニエ君は店を出ました。その店員さんはすぐにレジを離れて動き始めたようでしたが、さてそのあとどうなったかまでは見届けませんでした。

それにしても、あんなに大量の氷を盗んでいったい何にするのだろうと思いましたが、おそらくはこれから釣りにでも行くのだろうとしか思えませんでした。
そこは海がわりに近いのです。
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行ってみたい!

いまや中国は世界最大のピアノ生産国であるばかりでなく、ピアノを習う子供の数も桁違いに多く、それは必然的に世界最大のピアニスト生産国ということになるのかもしれません。

ラン・ラン、ユジャ・ワン、ニュウニュウ、ユンディ・リなどはみな逞しいメカニックの持ち主で、ここ当分は、この国からスターピアニストが登場してくる状況が続くのだろうと思われます。
現在の学習者の数は、一説には2000万人とも3000万人とも言われますので、それはもう途方もない数であることに間違いなく、世界中の権威あるコンクールには中国人が大挙して参加してくるのは当然の成り行きなのでしょうね。

かたや欧米ではピアノを幼時より始めて音楽家を目指すという流れが、ここ20年ぐらいでずいぶん変わったと聞いています。まず根底には欧米における若者のクラシック離れの風潮に歯止めがかからず、多くの若者はより実利的になってステージから客席へと移動してしまったと言われます。
つまり音楽を演奏する側から、観賞する側に、自分達の居場所を変えてしまったというわけでしょう。

それに変わって台頭したのがアジア勢で、いまや中国を筆頭に韓国なども、次から次へと傑出した才能を世界のステージへ送り出しているようです。

そんな中国ですから、当然ながら大都市では楽器フェアだのピアノフェアだのといった見本市の類が開かれているようで、しかもそこは中国のやることですから、その規模も大きなものであるらしく、マロニエ君もいつかは一度行ってみたいものだと思っているところです。

そんな中国のピアノフェアですが、最近ネットで偶然にもその様子を捉えた写真を見かけたのですが、それはやはり期待にたがわぬ驚愕の光景でした。
まずピアノは黒というような、固定したイメージのある日本とは真逆の世界がそこにはあり、無数に並べられたあれこれのピアノはアップライトもグランドも、まるで遊園地かおもちゃ売り場の商品のようにカラフルな原色であるばかりでなく、それぞれのピアノには、奇抜などという言葉では足りないほどの、度肝を抜くアイデアや様々な趣向が凝らされ、あらんかぎりの装飾の数々が散りばめられていたりします。

少し前にヨーロッパのツートンのピアノのことを書きましたが、ここにあるのはそんな生易しいものではありません。
赤、青、黄などの原色に塗って模様があるぐらいは当たり前、グランドピアノ全身が陶器の絵柄のようなもので埋め尽くされていたり、全身ヒョウ柄のピアノだったり、極め付きはさすがに展示用とは思いますが、UFOらしき物体の一部がくり抜かれてそこに鍵盤がついていたり、ロケットかスペースシャトルのような形のグランドピアノで後ろのエンジンの部分がかろうじて鍵盤になっているなど、その発想は日本人が逆立ちしてもできないものばかりで、その底抜けな無邪気さにはただもう楽しんで笑うしかなく、世界中でこんなおもしろピアノフェアが見られるのは中国をおいて他ではまず絶対ないでしょう。

中国といえば、いうまでもなく日本の隣国で、漢字や仏教なども中国から伝わったものであるし、だいいち同じ東洋人ということで、肌の色から顔立ちなども近似していますから、つい東洋という共通点があるように思いがちですが、マロニエ君に言わせれば、かの民族は最も日本人とはかけ離れた、欧米よりもさらに遠いところにあっても不思議ではないほどの異国のそれであり、とくにそのメンタリティは悉く我々とは根本から違ったものを持っているようです。

その最たるもののひとつは美意識に関するジャンルで、これはもう我々にはまったく理解の及ばない世界があり、美術の世界などでも、彼らの作り出すものには何度腰を抜かすほど驚いたかわかりません。

いつの日か、機会があれば恐いもの見たさに、ぜひ覗いてみたいものです。
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梅雨のおきみやげ

ようやく梅雨が明けたのはいいのですが、我が家の庭には、今年の梅雨の途中からたいそう不気味なものが現れています。

はじめてそれを見たときは、朝方から激しく降り続く雨でうっすらとぼやけた視界の向こうに、いやに生々しい白っぽい物体が浮かび上がっているようで、目の錯覚かと思いつつゾッとしたものです。

以前、お隣との境界線近くにわりに大きな木があったのですが、どうしたわけかその木は隣家の敷地へばかり枝を伸ばし、落ち葉はもちろんのこと、これ以上成長しては隣家に多大な迷惑がかかるために、やむを得ず引き抜いてしまうことになりました。

とはいって胴回りが1m以上はありそうな木だったため到底素人で手に負えるものではなく、植木屋さんを呼んでその旨を伝えました。ところが、これぐらいの木になると地中にも相当強い根が張っていて、専門家をもってしても簡単に引き抜くなどできわけがないと、当方の無知を薄笑いされるほど。どうしてもやるというのなら重機などを使った相当大がかりな作業になるといわれました。

しかし、まるでお隣の敷地に寄りかかるごとく盛大に太い枝々を伸ばしている状態をこれ以上放置するわけにもいかず、引き抜くのは無理だから、そういう事情なら切ってしまうこと勧められ、やむを得ずそうすることになりました。

果たして植木屋さんが切ったのは(いまだにその理由はわかりませんが)、地面から1メートルぐらいの部分で、おかげでその後は太い切り株というよりは、もっと背の高い、奇妙な太い木のオブジェみたいな恰好で我が家の庭の隅に居残ることになりました。

それから数年間というのはとくにこれという変化はなく、ときどきあらぬ方向から新芽が出てくるので、まだ生きているらしいとは思いつつ、そんな新芽をそのままにしていると、気がついたときにはまた手遅れになることになるので、早め切ってしまいます。

この切断された太い木は、目立たない普通の木の色をしていましたが、今年の梅雨も半ばに差しかかった頃、ある朝、気がつくとハッとするほど白くなっていて、それもちょっとやそっとの変化ではなく、まるで人の手で色をかけたようなあからさまな白色に変わっています。

まずは、ただ驚き、とっさに何かこの長雨のせいだろうと推量しましたが、なんとなく近づくのも薄気味悪いのでうっちゃっていましたが、数日後やはり気になり、思い切って傍まで見に行ってみることにしました。
近づくにつれて、それは想像以上の不気味な様子に変化していることがはっきりしてきて、思わず肌が粟粒立ちました。

全体にびっしりと分厚くて白いスポンジのような物体が覆い被さり、嫌だったけれど、おそるおそる指先で押すとかすかな弾力がありました。
きっと変な種類のキノコかカビか、とにかく今年の厳しい梅雨がもたらした熱帯雨林みたいな環境のせいで、そんなようなものがこの背の高い切り株を覆いつくしてしまったのだろうと直感しました。

こんなもの、どうしたらいいものか…何ひとつ対策も考えも浮かばず、仕方なくそのままにしていますが、部屋の窓から見ると、梅雨の明けた強い陽射しの下に、まるで巨大な怪物の骨がゴロンと庭の向こうに置かれているようです。
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速読はエライ?

週末の昼間だったか、なにげなくテレビをつけてみると、ある女優さんが数人のアナウンサーらしき人達に囲まれて話をするというスタイルの番組をやっていました。

すると、同じドラマで共演する別の女優さんからメッセージのような映像が流され、そこで「○○さんは雑学にとても詳しくて撮影の合間などにいつもいろいろ教えていただいてます」というようなことが語られました。

それがきっかけとなって、スタジオではこの女優さんは雑学知識が豊富だということに話題が転じて、実は大変な読書家だということが視聴者に紹介されました。
読書家というのは大変結構なことで、今どき感心な人だなぁとはじめは思いました。

そもそも読書家になったきっかけというのが、優秀なきょうだいの末っ子であったらしい彼女は、少しでもなにかの知識を披瀝することで自分を主張し、いわば出来の良いきょうだいをやっつけるために、知識の情報源としてあれこれの本を読み出したのだそうです。

ちょっと変な動機だなとは思いましたが、それは子供の時分のことではあるし、たとえどのようなきっかけからであろうと、本をよく読むようになるというのは素晴らしいことだと、この時点ではまだマロニエ君は好意的に捉えていました。

ところが、だんだん話は思わぬ方向へ向かい始めます。
この女優さんは大人になってからも読書家であることは変わらず、司会者の手許には事前の情報があるのか、今でも相当お読みになるんでしょう?というようなことを話しかけながら、童話に至るまでのあれこれの本をひと月に200冊ぐらい読まれるそうですね、というと、なんとなくその場にどよめきが起こりました。

その女優さんは、謙虚そうに「いえいえ、今は忙しいのでそこまでは…」といいつつも、大筋は否定せず、時間さえあればそれぐらいのペースで読めますよということを暗に匂わせました。
すると、その場にいた数名はいかにも感心した態度を露わにし、かたわらにいた女性が話を引き取って「だいたい、読書家の人って、読むのが早いんですよねぇ…」と、本は早く、たくさん読むことが価値であるかのように、この女優さんの速読の能力を褒めちぎりました。

以前にも、別の番組でこちらは男性のコメンテイターでしたが、やはり一日に本を4、5冊ぐらい読んでいるというようなことをさも誇らしげに言っていたのを思い出しますし、書店に行くと速読ができるようになるためのHow to本が何冊も集められているコーナーを見た覚えもあります。

でも、マロニエ君から見ると、本を読むのに速読なんて基本的な読書の姿勢として価値があるとは到底思えません。現代人は何をするにも忙しくて、時間がなくて、本を読むにもスピードが必要ということなのか、理由はどうだかしりませんが、本を読むのさえそんなに急がなくてはいけないものかと思います。

とりわけ文学書を速読なんぞしようものなら、その人の教養さえも疑いたくなります。
作家の書いた文章をゆっくりと味わい、しばしその世界に身を委ねることがマロニエ君にとっての読書です。
いってみれば、本は読みたいから読むのであって、その結果として言葉や、知識や、思想や、その他の文化意識が身に付いてくるものだと思っていましたが、はじめから情報収集のために目的を絞って速読でむやみにあれこれの本を読み漁って、それで私は読書家でございますと言われても、それはまったく別の次元の話のようにしか聞こえません。

それでも、今どきは、こういう人が一般的には有能な勉強家ということになるのかもしれませんが、なんとなく寂しい気がします。
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ホジャイノフ

ロシアの若手ピアニスト、ニコライ・ホジャイノフのリサイタルがBSで放映され、やっとその録画を見ました。

今年の4月19日に行われた日本公演の様子で、会場は武蔵野市民文化会館小ホール。
曲目はプロコフィエフのソナタ第7番、ショパンのバラード第2番、シューベルト幻想曲さすらい人で、初めのプロコフィエフの演奏が始まってすぐに、これはなにかありそうだと直感しました。

全体に実のある、流れの美しい演奏で、戦争ソナタでさえも非常に澄んだ叙情性を保ちながらこの暗いソナタの内奥に迫りました。全体的に3つの楽章が自然と繋がっているような演奏で、プロコフィエフの蔭のある香りのようなものが、叩きつけるような攻撃的な表現でなしに、気負わず自然に(しかも濃密に)描き出してみせるその手腕は若いのに大したものだと思いました。

さすらい人でも詩情が豊かで、衒いのない、自然に逆らわない流れが印象的でした。しかも繊細さや作品の意味などをわざと誇張してみせるようなことはせずに、攻めるべきところはどんどん攻めながら果敢に弾いているのですが、その合間からシューベルトの作品が持つ悲しみがひしひしと伝わってくるのは見事だったと思います。

彼はまだ20歳で、モスクワの学生とのことですが、すでにはっきりとした自己を持っており、単なる訓練の成果をステージ上で再現しているのではなく、音楽の内側にあるものを自分の知性と感性を通して表現しているピアニストでした。
テクニックなども立派なものですが、いかなる場合も音楽上の都合と意味が最優先され、そのために僅かなミスをすることもありますが、ひたすらキズのないだけの無機質で説明的な演奏ばかり聴かされることの多いなかで、ホジャイノフの内的な裏付けのある演奏を聴いていると、そんなことはほとんど問題ではなく、純粋にこの人の演奏を聴く喜びが味わえたように思いました。

唯一残念だったのは、真ん中で弾いたショパンで、これだけは評価がぐんと下がりました。
合間のインタビューでは、バラードの2番が持つ静寂と激しさのコントラストが好きだというようなことを言っていましたが、それを表現しようとしているのはわかるものの、作品とのピントが合っているとは言い難く、このバラードの本来の姿があまり聞こえてこなかったのが残念でした。他の作品であれだけ見事な演奏をしているわけですから、おそらく彼の資質とショパンの音楽がうまく噛み合わないだけかもしれません。

ショパンの作品は本当にたくさんの人が弾きますが、実際にショパンと相性のいいピアニストというのは滅多にいないことがまたも証明されてしまったようでした。ショパンは演奏者の多様な個性に対してあまり寛容ではありませんから、そこにちょっとでも齟齬があると作品が拒絶反応をしてしまうようです。

このホジャイノフは、2年前のショパンコンクールでファイナルまで進みながら、入賞できなかったのですが、それはこのバラードひとつを聴いてもわかるような気がしました。
どんなに優れた演奏家にも作品との相性というものがあり、彼は今のままでも十二分に素晴らしい演奏家だと思いますし、ピアノのレパートリーは膨大ですから、今後が非常に楽しみな逸材だと思いました。

ピアノはヤマハのCFXでしたが、印象はこれまでしばしば述べてきたことと変わりはありませんので、とりあえずおなじことを繰り返すのは控えますが、陰翳が無く不満が残ります。
ただし、シューベルトのような曲では、このピアノの良い部分がでるように思います。
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都市高速環状線

福岡都市高速道路の環状線がついに全線開通しました。

とはいうものの、これまで福重JCTの繋ぎのところで一部未開通部分が残っているだけでしたから、今回開通したのはわずか1kmにも満たない区間に過ぎません。
それでも、これまではいったん下の道に降りて、すぐ先のランプへ再び入るという乗り継ぎをしなくてはならなかったことを思うと、そんな必要が一切なくなり、これをもって環状線としてきれいに完成したわけで、ずいぶん長かった工事期間を思うとやれやれという感じです。

なにも開通の当日早々、勇んで走る必要もなかったのですが、ちょうど休みで友人と行ってみることになり、夕食後とりあえず外回りを走ってみました。

日本の都市高速道路で環状線があるのは首都高速都心、阪神高速1号、名古屋高速都心に次いで福岡都市高速が4番目とのことですが、内回り外回り、いずれの方向へも走行が可能な環状線ということでは首都高速に次いで全国2番目とのことです。

新しく開通した区間を通るとき、おや?と思ったのは、これまでの福重ランプの降り口のすぐ先に福重JCTが続き、いきなり道が3つに枝分かれするようで紛らわしいことと、さらにはJCTの構造が進行方向に対して左に向かう西九州自動車道へ連なるルートが右の車線で、ほんらいそれよりも右方向に向かうべき天神方面が左の車線によって左右に分かれるということでした。

一度覚えてしまえばいいのかもしれませんが、実際の方角と、自分が進むべき車線の左右の関係がまったく逆というのは、人間の自然の感覚に反することで、これではとっさに間違ってしまうドライバーがいるのではと思われていささか心配になります。直前に気付いて急な車線変更でもしようものなら事故の危険もあり、これはぱっと見た感じは納得のいかない造りではありますが、おそらくいろいろな事情が絡んでこのような構造になったのだろうと思います。

さて、その環状線ですが、首都高速のそれが14.8kmなのに対して、福岡都市高速では35kmと首都高の優に2倍以上という長さになります。
新聞によるとJR山手線が一周ちょうど35kmでほぼこれに匹敵しますが、ひとまわりするのに何分かかるか時計を見ていると、夜で流れがよかったせいもあってか、快調に走って約25分ほどでひとまわりできました。

ただし、言葉では「環状線」と云うものの、途中通過する千鳥橋JCT、月隈JCTでは別方向へ向かうルートのほうが本線の扱いとなっており、環状線へ進むには特に意識してそちらへ積極的に枝分かれしながら走行しなくてはならず、首尾良く走るには安閑とはしていられないという印象を持ちました。

ループ橋を越えたあたりで気付いたのですが、昨夜は夜だというのに博多港には例の超大型客船が入港・停泊しており、船からこぼれ落ちる眩いばかりの無数の光にあふれたその一場面は、周辺の景色まで違って見えるようで、まさにゴージャスな映画のワンシーンを彷彿とさせるようでした。

マロニエ君は特にそういう趣味はありませんが、この景色はさすがに圧倒的で、好きな人にはきっと感に堪えないものがあるだろうと思われます。
だからというわけでもないのでしょうが、昨夜はとりわけ他県ナンバーの車が多く目につきました。
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湿度計の針

昨日はいつにも増して暑苦しい、ムシムシした不快な一日でした。

もともとピアノの為以前に、自分自身が温湿度にめっぽう弱いマロニエ君ですが、今年の厳しい梅雨のお陰で、自分自身が歩く湿度計になったように湿気を肌で感じるようになりました。

部屋に入るなり、現在の湿度がどれくらいか、およその見当がつくようになり、湿度計で確かめるとそれほど外れてもいません。

この蒸し暑いのに用事があって、夕刻天神に出たのですが、その不快感ときたら、最近よく耳にする言葉でいうなら「これまでに経験したことのないような」ものでした。
とりわけ猛烈だったのは湿度の高さで、小雨が降ったり止んだりと、こういうお天気は一定した雨天よりもよほどムシムシするところへ、人の往来で混み合う天神の雑踏の熱気とコンクリートの風通しの悪さが加わると、そこはまったく熱帯ジャングルのようでした。

むしろ外のほうがいくらかまだマシなぐらいで、天神のあちらこちらでは時節柄、節電も実施されているようで、その環境の厳しさは自分の体がおかしくなったのか…と思うほどでした。
場所やエリアによってはエアコンの効いているところと、そうでない部分とが入り交じってまだら状態になっており、ただ歩いているだけでも身体の調節機能もぐらぐらに狂ってしまいそうでした。

早めに用事を済ませてなんとか車に戻り、エンジンをかけると天国のようで、ようやく生き返りました。

帰宅して、ものは試しにピアノの上にある湿度計を外に出してみると、5分もしないうちにたちまち70%を突破しました。
普段そんなところを指したことのない我が家の湿度計に、急激にそんな環境の変化をあたえて壊れてしまわないかという気がしてきて心配になり、早々に屋内へ戻しました。
すると、部屋に戻るなり、湿度計の針はみるみる下がってもとの定位置へ戻ろうとします。

湿度計の反応はよほど遅いものと思い込んでいたところ、状況次第ではこんなにも動きが早いとは予想もしなかったことで、その針の動くのを肉眼で見たのは生まれて初めてのことでした。
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light

少し前にこのホームページの「マロニエ君の部屋」にタイムドメインのYoshii9というスピーカーの事を書きましたが、さすがにすぐに購入という価格でもないので、ひとまず小型で安い、同社の「light」というスピーカーを買い求めました。

マロニエ君の自宅には、普通のステレオ装置はあるものの、夜間など落ち着いて音楽を聴く時間の大半は自室のほうで、そこでは小型のヤマハのCDコンポを使っています。
とくに自慢するような高級機ではありませんが、まったくの安物でもなく、オーディオに興味のないマロニエ君にとっては狭い自室で聴くにはこれで充分だと(今でも)思っています。

しかしYoshii9の純粋でやわらかな美音を耳にしてからというもの、少しでもその手の音に触れてみたいという気持ちがあるのも事実で、それがlightではあまりに格が違うとは思いつつも、ものは試しという気分も手伝って購入にいたりました。

タイムドメインのスピーカーに詳しい調律師さんの談によると、同社のスピーカーを楽しむにはCDのプレーヤーなどは安い簡素なものでいい(というか、安物のほうがいい)とのことなので、量販店に行って3千円もしない中国製のポータブルプレーヤーを買ってきて、さっそくこれに繋げました。

lightは全体が白で形も可愛らしく、どことなくアップルの製品のような品のよさと存在感があります。
スピーカーコーンそのものの直径は4cmにも満たない超ミニサイズで、箱から取り出した感じでは、ほんとうにこんなもので聞くに堪える音が出るものだろうかと思ってしまうほどですが、果たしてそこからなんとも可憐な美音がでてくるところが不思議です。

さすがにヤマハのCDコンポに較べるとパワーはなく、ボリュームを大きくするとたちまち音が割れてしまうところなどが残念ですが、このスピーカーに無理のない、やや絞った音で聴いてみると、Yoshii9に通じる(気がするような)音が立体的に立ち現れるのはさすがです。

とりわけ良い意味での生の音がして、演奏者がドラえもんのライトで10分の1ぐらいに縮小されて、近くで演奏しているような気分が味わえるのはこのスピーカーの一番の魅力だろうと思います。
このスピーカーにはアンプも内蔵されているので、なんにでも繋げて手軽に楽しめるのはなかなか便利で、いろいろな可能性があるように思います。

便利なのはいいのですが、マロニエ君には困ったことも起こりました。
当然パソコンに繋ぐこともできるわけで、そうするとiTunesの音源はもちろん、広大な海のごときYouTubeをこのタイムドメインのスピーカーで聴けるようになったのは甚だ困りました。

それからというもの、ひとたび見始めると際限のないYouTubeの魅力が倍増し、真夜中に、たちまち2〜3時間が過ぎ去ってしまうのは新たな悩みの種になりました。
アル中の人が悪いとわかっていながら、あと一杯…あと一杯…と繰り返すように、もう一曲…もう一曲…と深みにはまってしまい、本当に止めてトイレに立とうとすると身体がまるで硬直していて、あちこちの骨がきしむような目に何度も遭いました。

さすがにこれはまずいと思い、できるだけ自重して、これまで通りにコンポでCDを聴くなどしていますが、休日前の夜などはつい誘惑に駆られて始めてしまうと、やはりどんなに短くても2時間はパソコンの前にまんじりともせずに身体を固定することになり、これはどう考えても不健康だと思わずにはいられません。

美しい音が心を慰めるのか、はたまた健康を害するのか、目下わからなくなっている状態です。
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ピアノフェスタ

博多駅のJR九州ホールで開催されるようになった島村楽器のピアノフェスタが今年も3連休に合わせておこなわれ、覗きに行きました。

マロニエ君が行ったのは3日間ある開催期間中の最終日で、この日はザウターピアノの6代目社長ウルリッヒ・ザウター氏による同社の紹介と、ザウターピアノを使った島村楽器のインストラクターによる演奏も聞くことができました。

入口からロビーにかけては電子ピアノの数々、さらにホール内部にはアコースティックピアノが数多く展示されていましたが、最終日の夕刻ということもあってか売約済みのピアノもちらほら目に止まりました。

昨年と違っていたのは、とりわけ輸入物のグランドピアノが数多く並べられているエリアでは、若干の「厳戒態勢」が採られ、ピアノのまわりには物々しい赤い布のテープが張り巡らされて、容易にはピアノへ近づけないように配慮されている点でした。
これらのピアノを見ようとすれば、たとえそれが目の前にあっても、いちいち赤いテープの途切れる地点まで回って、そこから「入場」しなくてはならず、ちょっと煩わしいという印象。

さらにはいずれのピアノにも「試弾ご希望の方は係員に…」という札が鍵盤の上に立てられており、ちょっと音を出してみるのも厳重に管理されている雰囲気でした。

わずかな音出しでも係員に断りを入れなければいけないというのも面倒臭いので、マロニエ君は忽ちどうでもいいような気になりましたが、同行者もあるし、わざわざ駐車場に車を止めて、休日でごった返す苦手な駅の人混みの中を掻き分け掻き分けした挙げ句にやっとここまで辿り着いたのだから、その労苦に対してもやはりちょっとぐらいは音のひとつも聞いてみなくては、なんのためにやって来たのかわかりません。
やむを得ず、近くに立っている係員に許しを請うと、はるか向こうで弾いている人が一人いることを理由に「もうしばらくお待ちください」と制される始末。

こんなにも、どれもこれもが「触れられないピアノフェスタ」というのも、なにやら諒解しがたいものがありましたが、かくいうマロニエ君も覗きに来ただけなので、べつに何か困るわけでもなく、それならばそれで構いません。

ところがその後で状況は一転することになります。
夕刻の1時間、ウルリッヒ・ザウター氏のお話と演奏によるイベントが終了した後は、社長自らステージ上にあるザウターピアノを「みなさん、お時間の許すかぎり、どうぞ弾いてください!」という試弾おすすめの言葉があり、それがきっかけとなって、その場に居合わせた多くの人々は、以降ピアノに自由に触れて歩く許可を得たかたちとなりました。

するとザウターピアノに留まらず、会場にあるピアノが弾かれはじめ、次第に騒然とした雰囲気に変わりました。
さも厳重な感じに張り巡らされていた仕切りの赤いテープも、この時点ですっかりその意味を失って、とくにベヒシュタインやスタインウェイが居並ぶエリアでは、入れ替わり立ち替わり腕に自信のあるらしいピアノ弾きの人達の自由演奏会のような光景と化してしまったのはびっくりでした。

何人もの人が難易度の高い曲をずいぶん熱心に弾いていらっしゃいますが、隣り合わせにズラリと並べられた何台ものピアノがそれぞれの弾き手によって、同時にまったく違う曲を弾かれているカオスが延々と続き、あれでは自分が弾いているピアノの音色や響き具合などわかるはずもありません。

このときに至って、ようやく厳かなる赤いテープの意味が少し理解できた気がしました。
ピアノの展示会では「無礼講」になったが最後、それはもう収拾のつかない状況が繰り広げられてしまい、限られた時間の中で本当に購入を検討する人は、到底その目的が達せられないだろうと思います。

そのあたりのお店の判断も難しいところでしょう。
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強力な助っ人

昨日あたりからようやく少し晴れ間が覗くようになったものの、今年の梅雨が、こんなにも長くて重苦しいものとは想像もしていませんでした。

梅雨の入口あたりから酷使されていた我が家の除湿器ですが、購入後わずか数年にして明確な故障ではないものの、いまひとつ除湿能力に翳りが出てきたように感じていました。

これは以前にも少し書きましたが、これを故障であるかどうかの診断を仰ぎ、もし故障の場合は修理をするとなると、本体をメーカーへ送るなど、その手間暇と時間、さらにはコストを考えるならとてもそんなことを実行する気にはなれず、思い悩んだ末に新しい除湿器を購入しました。

これまでのものよりより除湿力の高い機種を選ぶことで、少しでもその能力に余裕を持たせたいという目論見もありましたし、そのほうがトータルでは得策だろうと判断しました。

マロニエ君はCDなどを購入するときは、巷の評判など人の言うことはまず信じませんが、こと家電製品などを選ぶ場合は一転してネット上のユーザーの評価などを大いに参考させてもらっています。
とくにサイトによっては機種毎の評価や口コミなどが事細かに寄せられており、しかもこういう場所には普通のユーザーからやたら詳しいマニアックな人まで、いろんな人達がたくさんいて、いいことしか書かないメーカーのホームページよりも格段に頼りになるという印象です。

そこでは、さまざまな評価をもとにしながら、これだと思える機種を絞り込むことができるだけでなく、購入の意志が固まれば、そのまま一般の電気店で買うよりかなり安く購入できる点も併せて便利でありがたいところです。

注文すると数日で届き、さっそく使っていますが、これまでの除湿器が本調子ではなかったということもあってか、まったく次元の違う除湿能力にはすっかり満足していると同時に、今年の厳しい梅雨の途中で、この強力な助っ人があらわれたことは本当に幸いでした。

やはり家電製品などは、全般的に新しいもののほうが効率が良く、性能にも余裕があるような気がしますが、確かなことはわかりませんし、耐久性という点に於いては疑問もあるかもしれません。先代ではほとんど休みなく回りっぱなしでかろうじて40%後半を維持していたのが、新機種では、油断すると湿度計の針が30%台になることもあって、ときどきOFFにしたりしていますから、やはり潜在力が違うようです。

この除湿器が稼働しはじめてからほどなくして、北部九州は各地で被害が出るほどの猛烈な雨に見舞われることになり、当然のように家全体、街中全体がジメジメしたジャングルのようで、連日の分厚い雨と高湿な空気に包まれ続けています。しかもそれがとてつもなく長期間にわたっているところが今年の梅雨の厳しさだったように感じますし、未だ終わったわけでもありません。

マロニエ君としては他のことはさておくとしても、ピアノだけはなんとか湿度から保護したいわけで、今年の手強い梅雨を相手になんとかそれができているのは、ひとえにこの新しい除湿器のお陰であって、買って正解だったとしみじみ思っているところです。
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遊びごころ?

最近、新しいピアノが入荷した旨、あるピアノ店から写真付きメールをいただきましたが、そこには荷を解かれたばかりのヨーロッパ製の美しいグランドピアノが写っていました。

以前、マロニエ君もちょっと触らせていただいて好印象を得ていたメーカーのピアノで、より大型のものが入荷してきたようでした。以前のものよりもよりやわらかな音がするとのことです。

今回のピアノの特徴は、その外装の仕上げでした。
黒と木目(赤っぽいブビンガ)のツートンで、木目は主に内側に貼られており、大屋根の内側、ボディ垂直面の内側、譜面台、鍵盤蓋の内側などが派手な木目になっています。

このスタイルはヨーロッパのピアノではときおり目にするものですが、国産ピアノでは一度も見たことがありません。もともと日本人はピアノといえば厳かな黒というイメージがあることに加えて、木目仕様では安くもない追加料金も発生することもあってか、それほど人気があるようには思えません。
ましてやツートンなどとんでもないというところかもしれませんが、たしかカワイなどは輸出向けモデルには、あらゆる色やスタイルの外装がラインナップされていて驚いたこともあります。

ヨーロッパの人達は、ピアノを置く際にもインテリアとの調和を大事にするようで、部屋の雰囲気や他の調度品とのバランスなどにも大いに意を注ぐのは、それだけ自分達の居住空間には東洋人よりも強い拘りと伝統に根ざした美意識があるのだろうと想像します。

そんな中で、この「内側だけ木目」という仕上げのピアノがどのような位置付けなのかは東洋の島国のマロニエ君にはわかりませんが、ひとつの遊び心でもあるような気がします。
蓋を閉めている状態では普通の黒のピアノが、演奏するために蓋を開けると、そこへ強い調子の鮮やかな木目が現れるのは、それだけでも人の心をハッとさせる意外性が込められているように思います。

というのも、このツートン仕上げは、マロニエ君の個人的な印象でいうと、普通の木目ピアノよりもさらに鮮烈な印象を与えるようで、それは主に黒と派手な木目の強いコントラストが生み出す独特な雰囲気のせいなのは間違いないでしょう。まるでネクタイやカマーバンドだけ色物を使ったタキシードのようで、多少の遊び心もありますが、それだけ好き嫌いの分かれるところかもしれません。
ちょっと前に流行った言い方をすると「ちょい悪オヤジ」みたいな感覚でしょうか。

見方によっては一種のエグさみたいなものがあって、そこがこういうセンスの心意気であり魅力だと思うのですが、たぶん日本人にはそのエグさがあまり幅広くは受けないのかもしれません。

しかし、考えてみれば日本人もむかしのほうが遊び心というのもあったようで、地味な羽織の裏地に目もさめるような派手な柄をあしらったり、琳派の絢爛たる屏風や襖絵などをみると、今よりよほど遊びに対するセンスと文化意識があったようにも思われます。

その点では現代のほうがよほど保守的で堅実になってしまった観がありますね。
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好ましい変貌

一昨日の夜は久しぶりの田中正也ピアノリサイタルに行きました。

曲目はショパンの英雄、子守歌、op.48のハ短調のノクターン、ベートーヴェンの熱情、ラヴェルの夜のガスパールからオンディーヌ、ラフマニノフのエチュードタブローop.33-9、スクリャービンの3つの小品、プロコフィエフの7番の戦争ソナタ、アンコールはワーグナー=リストのイゾルデの愛の死、リストのカンパネラという、ずっしりしたものでした。

田中正也さんのピアノはすでに何度も聴いていたので、ある程度の予想はしていたところ、わずか2、3年の間に著しい変化が起こっているのは驚くべきことでした。冒頭の英雄で「んっ?」と思い、ノクターンに至ってそれはやがて確信に変わりました。

10代の半ばからロシアに渡り、モスクワ音楽院で修行され、とりわけパーヴェル・ネルセシアンに師事したことが彼の根底となるピアニズムを決定したという印象があり、良くも悪くもネルセシアン臭を感じないわけにはいかない演奏であったことが、これまで聴いた彼の特徴だったように思います。

ところが今回の田中さんはかなり違っていて、見事に一皮剥けたというか、独りよがりではない客観性が備わり、いずれの作品も磨かれたレンズではっきりと見通せる好ましい演奏に変化しているのには驚きました。
どこか恣意的で自己完結風でもあった演奏が、あきらかに人に向けて聴かせるに演奏になり、説得力のある堂々たる音楽を紡ぐピアニストへ変貌していました。

テクニックは以前から見事なものがありましたが、それに心地よい曲の運びと情感が加わったのは、まさにそこが以前の彼には足りないと思っていたものだっただけに瞠目しました。
さらには、ほどよい緊張とリラックス感の調和が取れており、聴く側もまったく安心してその演奏に身を委ね、彼の演奏に乗って音楽を旅することができました。

ごまかしのない丁寧さがありながら、音は決して痩せることがなく、分厚い響きや、ときには轟音のような力強さも兼ね備えているし、クオリティも高くなかなか立派なものです。

終始ゆるぎのない、筋の通った見事なピアノリサイタルで、過去に聴いた田中正也さんの演奏会中、最もよい出来映えであっただけでなく、おそらくマロニエ君があいれふホールで聴いたコンサートの中でも最高レベルのものだったと思われ、久しぶりにピアノらしいピアノを聴いた気分で会場を後にしました。

そのあいれふホールですが、マロニエ君は後ろから2列目の席で聴きましたが、あいかわらず音が鋭くわめくような響きのホールで、音響的には快適とは言えないものでしたが、これは如何ともしがたいところです。

ピアノはここのスタインウェイで、ちょっと違和感のある調整でしたが、田中さんはそれをものともせず、まったく手抜きのない素晴らしい演奏によってホールやピアノの不備を見事に覆い隠してしまい、途中からそんなこともまったく気にならなくなりました。
逆説的な言い方ですが、少しぐらいの不備があったほうが却って演奏家は真価を発揮しやすいのでは?という気さえしました。完璧に調整されたピアノを、理想的な響きのホールで弾くのでは、なにやらあまりに条件が整いすぎという感じで、弾く方も聴く側もどことなく居心地が悪いようにも思います。

もうひとつ、改めて感銘を受けたのはスタインウェイの底知れない真価でした。少々の不調などものともせず、重量級の曲をどれだけ壮絶に追い込んでも、激しい和音がどれほど折り重なっても、決してピアノが崩れるということがないのは呆れるばかりで、その比類ない音響特性の逞しさは、まさに圧倒的なものがありました。
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オトナを演じる

世の中はすっかりネット社会で、もはやそれなしには何事も立ち行かなくなってしまいました。

テクノロジーの進歩は、それを使う側のあり方が常にこの分野の尽きない副主題であり、優秀で便利な革新技術が生まれれば、それだけ倫理性や節度というものが問題となるは当然ですが、これが難題です。

とりわけネットの普及には、世の中の在り方自体をひっくり返してしまうほどの力があり、今やほとんどすべての物事がネット主導で動いており、現実社会は、それを追認し具体化するだけの場所になり果てているように感じることもままあります。

昔は(といってもたかだかマロニエ君が知っている昔ですが)、何をするにも今にくらべると何かと手間暇がかかり、不便といえば不便でしたが、それは現在の便利を知ってしまった結果そう思うだけで、当時はそれを不便だなどと感じることはほとんどありませんでした。

振り返ればそこにはいいこともたくさんあり、その手間暇の中には、今から思うととても人間的な情緒的な温かみや味わいがあって、昨今、加速度的に失われていく多くの人間臭いものが、ごく自然な手続きとして含有されていたように思います。

もはや生の人間関係すらどことなくネットの延長上にあるようで、直接会っている人との感触においても、ネットのルールや発想から完全には逃れることはできず、そこになにかしら縛られている気配を感じてしまうこともしばしばです。

すくなくともネット上での慣習、パソコンの操作感触や体験が、しだいに人の心の深奥にまで侵食してしまい、現実社会でもその流儀が横行してしまっていると感じることが多々あるのは、とても恐ろしいことのように思います。

人との関係も、なんの縁故もない者同士がネットで出会うなど、そのこと自体にも賛否がありますし、その手の出会いは僅かな例外を除いて大抵は関係が希薄で、ささいなことであっさり終わってしまいます。

それで得心がいったこともあり、だから今の人間関係には、いつかそんな瞬間が来るのではという予感と覚悟を多くの人が本能的にしているようで、よけい表面的に関係が良好であるよう振る舞うことにエネルギーを費やし、口にすることも必然的に無害な当たり障りのない安全なことばかりになるのでしょう。

「ケンカをするのは仲が良い証拠」という言葉はもはや死語に等しく、今どきはケンカはおろか、どこか不自然な感じがするほど良い人ばかりなのは、つまりケンカができないからなんですね。むかしは、ケンカは、煎じ詰めれば「もっと仲良くなるためにすること」ぐらいな認識でいられましたが、いまはちょっとでも関係がつまづくと、まずそれで関係は終了です。

つまり失敗が許されない。双方が理解し許し合うだけの許容量も情愛もない。
しかし生身の人間関係で失敗がないなんてことがあるでしょうか? だから誰もが本音は胸の奥深くにしまい込んで神経をすり減らしてでも偽りの善人を装い、それを徹底して貫くために毎日を芝居のように演じているのだと思います。
そしてその芝居が上手くて持続力のある人のことを、現代では「いい人」とか「オトナ」という尊称で呼ぶようです。

不思議なもので、役者が役になりきるように、そんな芝居でもとにかく毎日やっていればそれに慣れもすれば上達もして、しまいには意識まですっかり立派な人物のような気になるのでしょう。

要は、みんな孤独で、恐くて、ピリピリしているだけのことかもしれません。
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フレイレのショパン

ネルソン・フレイレの弾くショパンのノクターン全集の評判がいいようなので聴いてみました。
2009年12月に録音された2枚組CDで、レーベルはデッカ。

とくにハッとするような何かはないけれど、なるほどどれもがよく錬られた誠実な演奏で、趣味も悪くないし、どこにも嫌なところのない好ましい演奏だと思いました。
とくに自分の主張は二の次で、ひたすら作品に献身している姿は印象的です。

この人はいまさら云うまでもなくブラジル出身の世界的ピアニストで、その信頼性の高い深みのある演奏には以前から定評がありました。それでも若い頃はもう少しはラテン的というか、ときには激しいところもあったように記憶しますが、近年はいよいよ円熟を深めているようです。もともと音楽優先で自己顕示性の少ないピアニストでしたが、その度合いをいよいよ増しているようで、決して作品の姿を崩さず、さすがと思わせられるところが随所にあります。

南米出身でありながら、ヨーロッパの音楽にこれほどまでに正面からひたむきに取り組むピアニストとして思い出されるのはアラウですが、彼らはヨーロッパの生まれでないぶん、よけいに虚心な気持ちで数々の偉大な作品に畏敬の念を覚えながら好ましい解釈を求めて演奏に取り組むのかもしれません。

フレイレを聴いていつもながら見事だと思うのは、まさに練り上げられた大人の演奏に終始する点で、ときに演奏家の存在感さえも見えなくなるほどです。
昔から感じていることで唯一残念なのは、あと一歩というところの華がないというところでしょうか。
これだけの素晴らしい演奏をしていながら、もうひとつフレイレでなくてはならないという積極的な理由が稀薄な点が、裏返しの特徴なのかもしれません。

もちろん、ここでいう華というのはうわべの派手さという意味ではなく、一人のピアニストとしての存在感とでもいえるかもしれませんが…それは欲というものでしょう。あまたのピアニストの中でこれほど誠実な演奏をする人が今円熟の真っ只中にいることをなにより尊重したいというのがマロニエ君の素直な気持ちです。

このCDに関して特筆すべき残念な点は、やはり最近のデッカ特有のまったく理解に苦しむ音質だったことです。トリフォノフのショパン、プラッツのライヴ、ウー・パイクのベートーヴェンなどすべてに共通した、広がりのない詰まったような音、中音域は衝撃音が突き刺さって来るような不快なあの音だったことは、この美演の真価を何割も割り引いてしまっていると思うと、甚だ残念で仕方がありません。

プロデューサーの名前などを調べると、必ずしも同一人物ではないにもかかわらず、出来上がった音にこれだけの著しい共通点があるということは、よほどデッカではこれを良しとしているのかと、その不可解な疑問はいよいよ深まるばかりです。
しかし、いずれにしてもこれだけ音質に落胆させられることが明瞭にわかってくると、今後はデッカのCDは極力避けるしかないということでしょうか…。
本当に気の毒なのは、優れた演奏をしているこのレーベルのピアニスト達です!
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オープントップバス

福岡には今年の春から、若い市長の肝いりでオープントップバスなるものが運行開始して、市内の要所や都市高速を走り回る昼夜3コースが設定されています。

その名の通りオープントップ、すなわち屋根の空いた2階建てバスで、乗客は爽快な外の風に触れつつ高い位置から下界を睥睨できるという楽しげな遊び目的のバスのようです。

マロニエ君もいつか乗ってみたいと思いつつ、まごまごしているうちに季節は温湿度の上がる時候に突入してしまい、ここしばらくはとても無理なので、また秋口にでもなったら乗ってみたいと思っています。

つい先日の午後、市内のけやき通りを車で走っているとこのオープントップバスに邂逅、しばらく併走することになり、後ろから横からと数分の間この珍しいバスを間近に観察することができました。
後部に乗降のための階段があり、座席はなるほどかなり高い位置に並んでいて、顔にけやき並木の枝葉が触れはしないかと思うほど高く見えました。まだ見慣れぬせいか、ちょっと異様な感じも覚えて、ずいぶん昔にハワイのアロハ航空の737が、飛行中に屋根が吹き飛んだにもかかわらず、そのまま無事に帰還したときの奇妙な姿を思い出してしまいました。

しかしそれよりも、もっと奇妙な感じを覚えたのは実はそのオープン部分でなく、バス全体の動きにありました。
マロニエ君の友人には大変なバスマニアがいて、彼につられてバスに興味を持つようになったもう一人というのもいて、彼らの会話をきいていると、まるでなんのことだかわからないような専門的なことを次々に言い合っています。
そこで聞いたのは、東京などにもオープントップバスというものはあるけれども、これは既存のバス車輌を改造することでオープン化されたものであるのに対し、西鉄が運行する福岡のそれは、はじめからオープントップバスとして製造された専用車輌だというのが大きなポイントのようです。

しかも注目すべきは操舵輪が前後に二つ連なっている点で、つまり左右合わせて4輪つのタイヤがハンドル操作に合わせて左右に動くというものです。
彼らに言わせるとここがポイントで、ベースはバスではなくトラックではないかという推論を抱いたようでした。それもただのトラックではなく、なんと競馬用の馬を運搬するためのトラックというのがあるのだそうで、それがこの4つの操舵輪をもつ車輌だというのです。つまりこれが福岡のオープントップバスのベースではないかというわけです。

そんなことを聞いた上で、今回マロニエ君が実物を見て感じたことは、バスといえばふつうは動きも鷹揚でゆったりした車体の揺れ方をするものですが、このオープントップバスはサスペンションが硬いのか、まるでスポーツカーのように路面状況に応じてその巨体が小刻みにピクピク揺れているのが目につきました。

さらにはこれだけの大型車輌にしては変に加速などもいいし、4つの操舵輪のせいなのか、ハンドリングも鋭く軽快な動きをしているのが肉眼にも明らかでした。けやき通りは上下4車線の道路ですが車線の幅が狭くて普通車でもわりに走りにくい道なのですが、このバスはカーブでもセンターラインを見事にトレースしながら難なくシャープに動いているのがわかります。
この動きを見ただけでも、このオープントップバスの正体がタダモノではないことがわかりました。

いよいよ興味は高まり、秋にはぜひ乗ってみたいもんだと思っています。
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家内工業の音

ピアノの音で、時おり感じることですが、それは良し悪しの問題ではなしに、2つに大別できるのでは?と思うことがあります。
上手く言えませんが、きっちり計算されたメーカーの音と、より感覚的でアバウトさも残す家内工業の音があるということになるでしょうか。

純粋な音の良し悪しとは別に、たとえレギュラー品でもある一定の計算が尽くされたメーカーの音を持ったピアノがある一方で、どんなに素晴らしいとされるものでも、よしんばそれが高額な高級ピアノであっても、家内工業の音というのがあるように思います。これはちょっと聴くぶんにはまことに凛とした美しい音だったりしますが、残念なことにしたたかさというものがなく、いざここ一発というときの強靱さや、トータルな音響として形にならないピアノがあるようにも感じます。

車の改造などに例えると、専門ショップなどの手で個人レベルのチューニングされたものは、パッと目は局部的に効果らしいものがあらわれたりもしますが、トータル的に見た場合、深いところでのバランスや挙動でおかしな事になっていたり、性能に偏りが出たりして、本当に完成された効果を上げるのは、それはもう生半可なことではありません。

その点、メーカーが手がける設計や変更は、おそろしく時間をかけ、いくつもの異なるパーツやセッティングを試して、テストと改良をこれでもかと繰り返したあげくのものですから、その結果は膨大な客観的データやテストなどの裏付けの上にきちんと成り立っているものです。
すなわち街のショップのパーツ交換とは、どだいやっていることのレベルが違うというわけです。

同じことがピアノの音にも感じることがあり、どれほど最良の素材で丹誠込めて作り上げられたピアノであっても、家内工業規模のピアノには手作り的な温もりはあるものの、どこか未解決の要素を感じたり、全体として一貫性に欠けていたりします。

その点でいうと、大メーカーのピアノはそれなりのものでもある種のまとまりというか完成度というものがあり、ある程度、客観的な問題点もクリアされているので、そういう意味では安心していられる面がありますね。
とりわけ観賞を目的としたコンサートや録音ではそれが顕著になります。

大メーカーのピアノは、広い空間での音響特性や各音域のパワーや音色のバランス、強弱のコントラスト、楽曲とのマッチングなど、あらゆる項目が繰り返し厳しくチェックされていると思われますし、問題があれば大がかりな改修が入るでしょう。そのためには多くの有能なスタッフや高額な設備なども欠かせません。必然的に試作品も何台も作ることになりますが、このへんが工房レベルのメーカーでは、どんなに志は高くてもなかなかできないことだと思われます。

家内工業のピアノは材料や作り込みは素晴らしいけれども、弱点は完成度のような気がします。
素人がパラパラっと弾いた程度なら、たとえば中音から次高音にかけてなど、なんとも麗しい上品な音がして思わず感銘を覚えたりしますが、プロのピアニストが本気で弾いたら、思いもよらない弱点が露見することも少なくありません。
プロの演奏には、表現の幅や多様性に対する適応力、重層的な響きにおける崩れのない立体感などが求められますが、そういう場面でどうしても破綻したり腰砕けになってしまうことがあり、それを徹底して調査して、場数を踏んで補強してくるのが大メーカーなのかもしれません。
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翻訳の文章

いま、あるピアノの技術系の本を読んでいます。
買ってすぐに通読して、現在はもう一度確かな理解を得たいと思い、少しずつ再読しているところです。

技術的なことを書かれたいわば専門書で、あえて書名は書きませんが、おかしなことに、この本を読むと催眠術にかかるように眠くなるのです。もっとありのままに云うと、必ずといっていいほど強い睡魔に襲われてしまい、まとまった量を読み通すことがなかなかできません。
実は最初に読んだ時も同様だったのですが、なにしろ内容が専門的なところへこちらはシロウトときているために、他の本ようにスイスイ読み進むというわけにはいかないのだろう…とそのときは単純に思っていました。

でも不思議なのは、内容が理解できないとか面白くないのであれば眠くはなるのもわかりますが、内容はマロニエ君自身も強い関心を持つもので、そこに書かれている内容はむしろ積極的な興味をそそられる面白い内容なのです。

そのうちに、その睡魔の元凶がなへんにあるかついにわかりました。
この本は海外の技術者が書いたもので、それを日本人の同業技術者が翻訳して国内の出版社から発売されたものなのですが、原因はどうやらその文章にあるようです。

翻訳者は、外国語は堪能なのかもしれませんが、あくまで技術者であって少なくとも翻訳の専門家ではないはずです。
外国語ができればその意味を理解することはできるかもしれませんが、それを右から左に日本語に正しく訳しても、なんの面白味もない、味わいのない、どこかおかしな日本語になるだけです。
したがって多くの文学作品などの翻訳を手がける際は、その原文理解はもちろんですが、人並み以上の日本語の能力と文学性、さらには深い教養が必須条件となるのは云うまでもありません。

要は最終的な読者に違和感なく、心地よく、快適に文章を読ませるためには、日本語固有の文章構成、すなわち日本語による思考回路にまで配慮が及んで表現されるよう、述べられた意味と言語特性を一体のものとして奥深いところで取り扱わなくてはいけないのだろうと思います。

ところが、そういうことに重きを置かない人は、書かれた原文の文法および内容の正確な和訳ということが主眼になってしまうのか、読者の心地よさや、述べられた意味やニュアンスを日本語の文章として捉えやすい表現に昇華するという思慮に欠けているのではないかと思います。

言葉や文章というものは、言うなれば各言語固有の律動と抑揚をもっており、そのうねりに乗って語られないことには、読む側はなかなかテンポ良く読み進むことができません。この本の文章は、そういう意味で原文記述には忠実なのかもしれませんが、相互の文章間にしなやかな日本語としての流れと脈絡が欠けているので、数行読むのにもひどく神経が疲れます。

この本が翻訳の専門家の手に委ねられなかった理由はマロニエ君の知るところではありませんが、ピアノ技術者のための専門書であるがために、発行部数もごく限られており、同業の日本人が奮起して訳することになったのではないかと思います。技術者らしい非常に丁寧な仕事ぶりだということは読んでいて伝わってきますが、それだけになおさら残念に思うわけです。
諸事情あったのだろうとは思ってみるものの、価格もかなり高額であった点から云っても、やはりそこには不満が残りました。
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ピニンファリーナ

世界的な自動車デザイナーの大御所であるセルジオ・ピニンファリーナ氏がトリノの自宅で亡くなったそうです。1926年の生まれで享年85歳。

ジウジアーロやベルトーネなど、造形の国イタリアには、数々の自動車デザイナーの巨匠が綺羅星のようにいましたが、そんな中でもピニンファリーナは傑出した存在だったと思います。

その斬新な造形には、モティーフの中に古典的な優雅の要素が息づいており、気品と官能性が結びつき、それが見る者の心を鷲づかみにしていたと思います。

ピニンファリーナのデザインには、きっぱりとした完成された独自の存在感と情感が脈々と流れ、ただの奇抜な挑戦的なデザインとは常に一線を画する孤高の美しさがありました。簡潔だけれども蠱惑的で優美なラインがあって、見る者を虜にし、しかもまったく飽きのこない普遍的な美しさを湛えた造形。それが自動車という機械を命ある有機的な存在へと高めることに、彼ほど貢献した人はいないようにも思います。

自動車という枠を逸脱するようなデザイナーの思い上がりでなしに、まるでモーツァルトのように最良最適の美しさを作り出したその才能と手腕は、まったく芸術家のそれに劣るものではなかったと思います。

マロニエ君も過去に何台かピニンファリーナのデザインによる車を所有したことがありますが、そこには必ずメーカーや車名などのエンブレムとは別に、ピニンファリーナの優雅な書体によるエンブレムが付けられていていて、それがまたマニア心を甚だしくくすぐる要素でした。
洗車してワックスをかけるにも、それがピニンファリーナのボディともなれば、いやが上にも熱が入ったのはいうまでもありません。

デザインがピニンファリーナであることは、ときにその車のメーカーの価値と比肩されるほどに尊ばれる場合も珍しいことではなく、オーナーはそれが車であると同時に、作品であり芸術品であるということを諒解しており、それは並々ならぬプライドと満足にもなりました。

今のデザイナーでこれほどの格別の想いと満足を個々のオーナーに与えて撒き散らすことのできる人がいるかといえば、残念ながらそれは見あたりません。
音楽を含む他のジャンルと同様、自動車デザインの世界も全体の組織レベルは途方もなく大きくなっているようですが、個人のデザイナーで芸術家に匹敵するような世界的大物はいなくなり、とりわけ若い人でそういう位置を受け継ぐような人は出てきていないようです。

セルジオ自身が二代目だった思いますが、さらに息子達が事業を引き継いで、大きなデザインメーカーになり、その後はどうなっているかは知りませんが、時代も変わり、おそらくセルジオの功績によるブランド会社になったのかもしれません。

天才級の煌めくような大物がいなくなり、効率や平均値が上がるばかりの世の中というのは、どうしようもなくつまらないものです。
個々の製品は素晴らしくても、心からわくわくしたり真の感銘を受けるようなことは…もうないようです。
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深い梅雨

今年の梅雨は例年にない厳しさだと感じているマロニエ君ですが、皆さんは、この季節をどのようにお過ごしなのでしょう。

今まさに梅雨の真っ只中にありますが、今年の梅雨ほど重さみたいなものを感じたことはこれまであまりなかったように思います。梅雨というのはその字面を見ただけで、いかにも鬱々としたイメージがあり、夏を迎えるための通過儀礼といった趣がありますが、実際には覚悟ほどもないままにこの時期が過ぎていった年がいくらでもあったように思います。

梅雨に入ってみたものの実際にはそれほど雨は降らず、逆に春よりも晴天が続いたりする「空梅雨」の年も何度もありました。それほどでなくても、数日に一度は必ずほがらかな陽光が差して、梅雨の中休みのようなこともしばしばあるものでした。

ところが、今年の梅雨ときたらまさにその字面通りで、過ごしにくい不快な天候が毎日をすっぽり覆ってしまっており、前線が立ち退く気配もなく、昨日はついに九州各地で深刻な水の被害まで出る始末です。

なんにしてもこの連日の不愉快そのもののような天候は、気分までカビが生えるようで、ここ当分は収束の気配もないままいったいいつまで続くのやら…。

先日など、夜外出した折、玄関を一歩出ると外は風呂場のような蒸し暑さで、ガレージから車を出すと、内外の湿度差からか、いっぺんに車の前後左右の窓は真っ白になってしまい、動き出そうにも何も見えなくなるほどでした。まるで熱帯地方のようです。

ほとんど休むことなく回っているピアノの横の除湿器は、日頃の酷使が祟ってきたのか、どうも本調子ではないようで、タンクに溜まる水量から本来の除湿能力を発揮しているとは思えず、それが追い打ちをかけるように気がかりです。

それでも湿度計の針は50%を超えることのないよう意地で保っていますが、やはりどうもおかしい…。メーカーに電話してみると、果たして「基盤の不良があるかもしれない」とのことですが、そのためには機械ごとメーカーに送って診てもらうことになる由、送料と大まかな修理代を考え合わせると、そんなことをするのもばかばかしいし、だいいち修理を終えて戻ってくるまでの幾日ものあいだ、除湿器なしの状態になるわけで、これは直ちに却下しました。

けっきょくは除湿器を買い直さなくてはいけないのでは?と急遽考えているところですが、わずか数年しか使っていないのにもうダメになるなんて、日本の家電製品も質が落ちたものだと思います。

週間天気予報を見ても、ここ当分は雨と雲のマークばかりで、まったく望みナシと思っていたら、まったく不思議なことに昨日の午後は突然、何日ぶりかでウソのように陽が射してきて驚きました。
しかし、これもほんの一時的なことだろうとすっかり疑い深くなっていたら、やっぱりそうで、一時間もするとまた小雨が降ってきました。
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オールソン&尾高

ずいぶん久しぶりにギャリック・オールソンの演奏を映像で見ました。

先日放送されたBSのオーケストラライブでのN響定期公演で、ショパンのピアノ協奏曲の2番を弾いていましたが、ステージに現れたオールソンはもうすっかりおじいさんになっていて月日の流れを感じます。

演奏はいかにも手の内に入ったベテランのそれという印象で、ショパンコンクールに優勝したときから早40年以上が経過しており、彼の身体がショパンの演奏を覚え込んでいるといったように見えました。

まったく自己顕示欲のない、とても誠実な演奏でその点は感服しますが、惜しむらくはコンサートピアニストとしての存在感や華がないことでしょう。それでも、この世代のアメリカ人としてはよくぞここまでショパンの音楽に真摯なスタンスで己を捧げてきたものだと思います。
普通なら、ショパンコンクールにアメリカ人として初めて優勝し、それ以降のキャリアを積み上げるとなれば、もう少し華やかなピアニストを目指して喝采を得ることはいくらでもできただろうと思いますが、決してその道には進まず、節度をもった、良心的な活動一筋に努めてきたことには、人間的に敬意を払いたいところです。

尤もそれがオールソンの信念によって厳しく選び取られた結果だったのか、それともそういう道を進むことのほうが性に合っていたから自然にそうなったのか、そこのところはわかりませんが。

今回、オールソンの姿に接してみてあらためて思ったのは、大変な偉丈夫だということで、この点はまぎれもないアメリカ人だと思わずにはいられません。身長も高く恰幅も大変立派で、そのいかにも優しげな表情と相俟ってまるでサンタクロースのように見えました。彼を前にすると、ピアノもどことなく小さくなったようで、なんとなく身をかがめるようにして弾いているのが印象的でした。

ショパンの音楽を彼なりの細やかさでひじょうに注意深く、さらにはこの体格から来るところもあると思うのですが、常に遠慮がちに弾いているという風に見えました。音もその体格から期待されるような太く逞しいものではなくて、むしろ肉付きのない、さっぱりした音色だったことが少し気にかかりました。

全体にはこの人なりの首尾一貫したものがあって、安心して聴いていられるものでしたが、強いて云うならあまりにもおとなしくて善良すぎるきらいがあり、ショパンにはもう少し洗練や洒落っ気やエゴが欲しいものだと思いました。


指揮はN響の正指揮者である尾高忠明氏でしたが、これが思いがけずなかなかの演奏で驚きました。
普通なら、ピアノ協奏曲の中でも、とりわけオーケストレーションの脆弱さを指摘されるショパン、しかもより詩的な2番とくればオーケストラは大半において甘美に歌うピアノの伴奏をやっているだけといったところですが、そんなオーケストラがハッとするほど美しく、しかも聴いていて自分の好みにごく近いもので、やわらかでメリハリがあり、潤った感じに鳴り響いたのはまったく意外でした。

オーケストラはいつもと変わらぬN響ですから、これはひとえに尾高氏の音楽性とセンスの良さに負うものだと思う他はありません。告白するなら、オールソンのピアノもそこそこにオーケストラについ耳を傾けてしまうことしばしばで、ショパンのピアノ協奏曲でオーケストラのほうを有り難く聴いたというのは初めての経験だったように思います。
この美しいオーケストラに支えられて、オールソンもさぞ満足だっただろうと思います。
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カタログ比較-追記

このような場所で価格の話をするのもどうかとは思いますが、前回価格のことに少々触れたついでに、参考までに一例を書いておきますと、ヤマハの現行モデルには奥行き212cmのグランドが3種類も存在し、価格は次の通りです。C、S、CFというシリーズ名は、平たく云えば梅、竹、松とでも思っておけばいいでしょう。

C6=2,730,000円
S6=5,040,000円(Cの約1.8倍)
CF6=13,200,000円(Cの約4.8倍)
というわけで、まったく同じサイズのヤマハグランドピアノ(外装はいずれも黒艶出し)であっても、グレードによってこれほどの価格差があるのは、単純に驚くほかありません。C6とCF6では、同じメーカーの同じサイズのグランドピアノでありながら、価格はほとんど5倍、差額だけで10,470,000円にも達するわけですから、誰だって驚くでしょう。

これはCF6がよほど高級なピアノだという印象を与えると同時に、じゃあC6はよほど廉価品なのか…という気分にもなってしまいますね。世界広しといえども、同じメーカーの、同じマークの入ったピアノが、グレードの違いによってここまで猛烈な価格差があるというのは、少なくともマロニエ君の知る限りではヤマハ以外には無いように思います。

また、CFシリーズとSシリーズはひとつのカタログにまとめられていますが、それでも価格は同サイズで約2.5倍となり、これもかなり強烈です。そこで生じる疑問としては、何がどう違うのかということだと思いますが、その価格差に対する説明らしきものはどこにも見あたりませんでした。

要は「材料と手間暇」ということに尽きるのかもしれませんが、それにしても…。
これが稀少なオールドヴァイオリンとか骨董の世界ならともかく、れっきとした現行生産品の話なのですから、その価格は製品の価値を裏付けるはずのものであり、そのためにも、もう少し具体的な説明によって納得させてほしいものだと思うのはマロニエ君だけでしょうか?


おもしろかったのは、ヤマハ、カワイ両者に共通した巻末のピアノのお手入れに関する記述ですが、ピアノにとって望ましい環境は、
カワイでは「室温15-25℃、湿度50-70%」とあるのに対して、ヤマハは「夏季:20-30℃/湿度40-70%、冬季:10-20℃/湿度35-65%」と夏冬二段階に分かれている点でした。
いずれも湿度に関してはかなり許容量が広いなあというのが印象的でした。

壁から10-15cm離して設置するようにというのは共通していますが、へぇ…と思ったのは弦のテンション(張られる力の強さ)に関してで、ヤマハは「弦1本あたり90kgの力が張られています」とあるのに対して、カワイでは「1本あたり80kgの力が掛けられています」という記述でした。

昔からスタインウェイの張弦は比較的テンションが低いことで有名ですが、現行のヤマハCF&SシリーズとカワイSKシリーズでは、一本あたり10kgもの違いがあるとは意外でした。これを全弦数(平均約230本)の合計にしてみると相当の差になるでしょうね。
一般論としてテンションが低い方が設計に余裕があり、耐久力もあるとされますが、最近のピアノではどうなのでしょう…。
いずれにしろカタログを見ているといろいろと発見があっておもしろいものです。
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カタログ比較

ヤマハの知り合いの営業の方にお願いしてCFシリーズのカタログを入手しました。
さんざん眺め回したあげく、さてこれをシゲルカワイのカタログを比較してみるとなかなか面白い違いが出てくることに気がつきました。

本来はレギュラーシリーズも比較するといいのかもしれませんが、そこまでするのは面倒臭いし、どうせカタログの上だけなんだから、ここは気前よく上級シリーズ同士を較べました。

共通していることは、A4版の横開きのオールカラーで、カワイは表紙を含む28頁に対してヤマハは24頁と若干ながら薄いようです。
いずれも豪華さや高級感を強調したもので、重厚さを全面に押し出している点は甲乙つけがたいものがあるようです。

ヤマハはCFシリーズとSシリーズ、併せて5機種が紹介されているのに対して、カワイもSK-2,3,5,6,7という5機種が掲載されていますが、その重点の置き方にはいささか違いがあるようです。
カワイが新SKシリーズ全体を紹介説明する、ある意味でオーソドックスなカタログであるのに対して、ヤマハは頂点に君臨するコンサートグランドのCFXの存在をメインにして焦点が合わせられているようで、よりイメージ戦略的だという印象です。

それを裏付けることとして、ヤマハではピアノの機構や技術的な解説はほとんどなく、あっても必要最小限に留められて、専らエモーショナルで抽象的な文章が全体を包んでいます。
マロニエ君などにしてみれば、CFIIISからCFXへの移行についてはどのような点で変化・進歩をしたのか、あるいはCFシリーズは具体的にどういうところがどう素晴らしいのかという点についてメーカーとしての主張が欲しいと思いましたが、そういう個別の説明はほとんどありません。
主に美しい写真を見せて、それに沿うような観念的な文章がナレーションのように添えられているだけで、あとは見る者がイメージするものに委ねるというところでしょうか。

これに対して、カワイのカタログではヤマハに較べると文字が多いことが特徴で、文章もより具体的で、わかりやすい説明が必要に応じて記載されています。
もちろんそこはあくまでもカタログですから、専門的になりすぎるようなことは一切ありませんが、その許される範囲の中でのきちんとした技術解説もあって、こちらのほうがいろいろな面から商品を知る手がかりになるという点では、見応え・読み応えがあるように感じました。

ヤマハは技術的なことはいうなれば舞台裏のことであって、カタログは広告の延長のようにイメージ主導に徹しているのかもしれませんし、その点はカワイのほうがカタログはカタログらしく作るという生真面目な一面があらわれているようでもありました。

ただし、ヤマハの敢えて多くを語らない戦略は一応わかるものの、いささか納得できないものが残ります。例えばCFシリーズとSシリーズはよほど意識しないとわからないほど黒バックのほとんど同じ意匠による連続するページによって連ねられていますが、驚くべきはその価格差です。

この両シリーズにはサイズの共通した奥行き212cmと191cmのモデルがそれぞれ存在していますが、価格はCFシリーズはSシリーズの実に2.5倍以上!!!というとてつもない開きがあって、思わず口あんぐりになってしまいます。
カタログの表紙には恭しく「PREMIUM PIANOS」と書かれていますが、同じプレミアムピアノでもこれだけの甚だしい価格差については、見る側としてはもう少々説明が欲しいと思いました。
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リシッツァ

こんなくだらないブログでも読んでくださる方がいらっしゃることは、ありがたいような申し訳ないような気分です。先ごろは北海道の方から、ヴァレンティーナ・リシッツァというピアニストをどう思いますか?というメールをいただきました。

>私の素人耳には、型に囚われない自由な音を出すピアニストに聴こえるのです。
>ところが、日本のメディアには完全に無視されている人です。
>この人には目ぼしいコンクール歴がありません。

というような事が書かれています。(引用のお断り済み)

リシッツァというピアニストはマロニエ君もYouTubeで見た覚えのあるピアニストだったので、名前を見たときにあの女性ではないか?と思ったのですが、あらためて動画を見てみるとやはりそうでした。

長いストレートの金髪を腰のあたりまで垂らしながら、ものすごい技巧で難曲をものともせず演奏しているその姿は、どこかジャクリーヌ・デュ・プレを思い出させられますが、調べるとウクライナはキエフの出身で現在42歳とのことです。
その指さばきの見事なことは驚くばかりで、とくにラフマニノフやショスタコーヴィチなどの大曲難曲で本領を発揮するピアニストのようです。そして、このメールの方がおっしゃるように、実力からすれば応分の評価を得られているようにも思えません。

このメールが契機となって、マロニエ君も動画サイトでいくつかの演奏に触れましたが、その限りの印象でいうならリシッツァの魅力はコンクール歴がないという経歴が示す通り、こうあらねばならないという時流や制約からほとんど遮断されたところに存在しているように思います。自然児が自分の感性の命じるままに反応しているようで、彼女の飾らぬ心に触れるような演奏だと感じました。
それでは、よほど自己流の破天荒な演奏をしているみたいですが、そんなことは決してなく、きちんとした音楽の法則や様式を踏まえた上で、あくまでも自分に正直な自然な演奏をしているのだと思います。

今どきのありふれたピアニストと違うのは、既存のアカデミックな解釈やアーティキレーションに盲従することなく、あくまでも自分が作品に対して抱いたインスピレーションによって演奏し、音楽を発生させているということだろうと思います。これは本来、音楽家としてはむしろ自然の法則に適ってようにも思うのですが、世の中がコンクール至上主義になってしまってからというもの、訓練の過程で「点の取れる演奏」を徹底的に身につけさせるという傾向があり、その結果若い演奏家の中から面白い個性が出てこなくなってきたことで、逆にこういう人が珍しい存在のようになってしまっているのかもしれません。

事実コンクールでは自分の色や表現を出し過ぎたために敗退することも多いのだそうで、その結果、教師も生徒も個人の個性や主観という、本来芸術の中核を成す部分に重きを置かず、ひたすら審査員に受け容れられる演奏を身につけるために奮励努力するのですから、その結果は推して知るべしです。

その点ではリシッツァという女性は、自分の作り出す演奏だけを元手に果敢に勝負をかけているピアニストのようで、それに値する才能も度胸も自我もあって実にあっぱれな生き方だと思います。そういう意味では単なるピアニストというよりはクリエイティブな芸術家のひとりだと云うべきかもしれません。

日本で評価されないのは、知名度が低く、いわゆるタレント性がないこと、そしてコンクール歴というわかりやすい肩書きを持たない故だろうと思います。さらにいうなら彼女の得意のレパートリーには重厚長大な難曲が多く、そこも日本人にはやや向いていないのかもしれません。
他国のことは知りませんが、少なくとも日本の聴衆ほど発信された情報のいいなりになるのも珍しく、マスコミの注目を集め、チケットをさばき、CDを買わせるには、コマーシャリズムと手を結ぶしかないのでしょう。

評判に靡かず、頑として自分の耳だけを信じるという人は専門家もしくはよほどのマニアということになり、これはほとんど絶滅危惧種みたいなものです。

リシッツァには、どこかそういう不遇を背負ったアーティストの悲哀のようなものがあり、そこがまた彼女の支持者には堪らないところかもしれません。
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たかじん委員会

人気テレビ番組に『たかじんのそこまで言って委員会』というのがありますが、これはテレビ嫌いのマロニエ君にしては珍しくよく見る番組です。

この番組の魅力は、折々の時事問題が話のテーマとなって、おなじみの論客達による歯に衣きせぬトークが聞かれるところにあり、さらには大阪発のこの番組は、やしきたかじん氏の意向によって、これだけの全国的な人気番組にもかかわらず「東京では放送しない」という拘りが守られているのも痛快なところです。

元を辿れば東京の出身でもない、現在の東京を構成する多くの人々が、なにかというと東京の威を借りて、ここがすべての中心だと思い込んでいる中で、今や永田町にさえ多大な影響を与えているといわれるたかじん委員会、例の橋下さんもこの番組の出身であるそれが、すべての中心であり発信地であるはずの東京にあからさまに背を向けているというのは、それだけでもユニークです。

むろん公共放送であるかぎり完全な放言の場ではありませんが、かなり辛辣できわどい意見が飛び交うのは毎度のことで、およそ他局や他の番組では不可能と思われる領域をぎりぎりまで攻めていくのは、こんな時代にあってささやかでも溜飲が下がることしばしばです。

そんな中でもなにかと過激な発言を連発する勝谷誠彦氏が、過日の放送で主に次のような発言をしました。
「私は現在でもテロやクーデターは必要だと思っています。ただしそれは武器や暴力によるものではない。現代の最も腐っているものは言論である。その言論界にクーデターを起こす必要があり、そのツールはウェブであって、だから自分は毎日のようにテロ行為をやっている。」

これは彼独特な過激なスパイスを効かせた偽悪的な言い回しであって、テロやクーデターという言葉にはさすがに抵抗を覚えますが、しかしそれでも、彼の言わんとしている意味は大いに頷けました。

もう少し礼節と勇気をもって、自分の考えがごく自然に発言できる本当の意味での健全な世の中になってほしいものですし、それにはまずその道の本職である筈のマスコミに先陣を切って欲しいと思います。
言論が腐るということは、民主主義が腐り、すなわち人間が腐るということを意味しているでしょう。

昨日も永田町はひとつの山場を通過したようですが、見たくもない顔ぶれがデジタル放送の鮮明画像によって映し出され、腰の引けた解説やコメントが流れるだけで、そこに「言論」らしきものは不在です。
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音を望む

小冊子「ピアノの本」をパラパラやっていると、イタリア人ピアニストにして徳島文理大学音楽学部長であるジュゼッペ・マリオッティ氏のインタビューが掲載されていました。

氏は自身がベーゼンドルファー・アーティストでもあるため、主にこのピアノを中心とした話になっていましたが、曰く、ピアニストにとって「音をつくる」ことは容易なことではないし、学習者でも音をつくるところから始めなければならないと述べています。

ヴァイオリンやフルートなどの楽器では、はじめから音をつくることと同時に練習を進めて行くのに対して、「ピアノは正しい音程のきれいな音が簡単に出るので、音をつくることへの意識が希薄になる」とおっしゃっていますが、これはいまさらのように御意!だと思わせられました。

マリオッティ氏の友人のドイツ人ピアニストは生徒に「音を望みなさい」としばしば言うそうです。
音を望むということは、マロニエ君の解釈では実際の楽器が発音するよりも前に、どのような音を出すかをイメージして極力それに近づくように気持ちを入れて演奏するということだと思いますし、この手順を身につけるということは、そのままどのような演奏をするかというイメージにも繋がるような気がします。

しかし、これは意外と日本人には苦手なことのようで、プロのピアニストはひとまず別としても、アマチュアの演奏に数多く接してみると、ほとんどの人が音色のイメージというものをまったく持たないまま、ピアノの音はキーを押せば出るものとして油断しきっており、そういうことよりも、ひたすら難曲に挑戦しては運動的に弾くことにばかりにエネルギーを注ぎ込んでいるようです。
そこには音色どころか、解釈も曲調も二の次で、とにかく最後まで無事に弾き通すことだけが全目的のように必死に指を動かしているように見受けられます。

マリオッティ氏の言葉にもずいぶん思い当たることがあり、「日本人は体を硬くして、ピアノの鍵盤を叩くように弾く傾向があるので、肩や腕、手首、指の緊張を解いてリラックスして弾けるようになるといい…」とのことです。

日本人がある独特な弾き方をするのは、ひとつには日本のピアノにも原因があるのかもしれないと思わなくもありません。日本のピアノは間違いなく良くできた楽器だと思いますが、強いて言うなら音色の微妙な感じ分けやタッチコントロールの妙技をあまり要求せず、誰が弾いてもそこそこに演奏できるようになっています。
これはこれで我々のような下手くそにはありがたいことではありますが、やはり楽器である以上、そこには音色に対する審美眼とか演奏表現に対する敏感さや厳しさがあるほうが、より素晴らしい演奏を育むことにもなると思います。

人間の能力というものは、必要を感じないことには、無惨なほど無頓着となり、ついには開発されないままに終わってしまいますから、汚いタッチをしたら汚い音が出てしまうピアノに接することで、より美しい音をつくる必要を身をもって体験するのかもしれません。

驚いたことに徳島文理大学には大小合わせて9台ものベーゼンドルファーがあるのだそうで、このようなタッチに対して非常にデリケートかつ厳格な楽器に触れながら勉強できることは、将来的にも大いに役立つ貴重な修行になるだろうと思われてちょっと驚いてしまいました。
家庭での親のしつけと同じで、成長期に叩き込まれたものは、その人の深いところに根を下ろして一生をついて廻るものだけに、こうした体験の出来る学生は幸せですね。
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雨にまみれて

全国的に水の被害が出ていますが、北部九州も日曜日は明け方から夕方まで滅多にないほどの猛烈な雨でした。

雨足は終始強く、おまけに雨間というものがまるでなく、よくぞ上空にはこれだけの雨があるもんだと感心するほど、降って、降って、降りまくりでした。
深夜のニュースによれば九州の多いところでは300ミリの雨だったとか。

そんな日に、チケットを買っていたものだから九響のコンサートを聴くために宗像まで車で往復するという、マロニエ君のような怠け者にしてみれば、とてつもない行動をした一日でした。
朝からただ事ではない激しい雨模様で、これはよほど断念しようかと何度も思ってみたものの、この日登場する白石光隆さんの演奏を聴くことを以前から楽しみにしていたことでもあるし、彼はそれほどメジャーなピアニストでもないため、今回を逃すと次はいつまた聴けるかわからないという思いもあって、手許にはチケットがあるし、思い切って車のエンジンをかけました。

福岡市の中心部から会場の宗像ユリックスまでは距離にすれば30kmほどですが、普段より早めにお昼を済ませて、15時の開演に間に合うよう到着するにはかなり厳しい時間的スケジュールになります。

なにしろこの悪天候である上に、途中には新たな渋滞ポイントとして予想されるイケアと新規オープンしたイオンモールがあるので、遠回りになることを承知で高速で迂回するなどしながら、なんとか開演20分前に会場入りすることができたものの、出発から到着までの一時間半近く、一瞬も衰えることのない強い雨足には参りました。オーディオの音も邪魔になるほどの、ルーフやフロントガラスを雨滴が叩きつけるバシャバシャいう音、路面から水を巻き上げる音、せわしいワイパーの動きだけでもいいかげん疲れました。

濡れた合羽や傘をまとめつつ席について開演を待ちますが、こんなお天気にもかかわらずほとんど満席に近いのは驚きでした。
曲目はバッハ=レーガーの「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」に始まり、続いてベートーヴェンの「皇帝」で、白石さんの登場となります。

これまでCDでのベートーヴェンのソナタで感嘆していたほか、TVでもトランペットリサイタルのピアノなどで見ていましたが、とても品の良い丁寧な演奏であるし、やはり上手いというのが印象的でした。
ただし、ご本人の性格的なところもあると思いますが、どちらかというと穏やかなキッチリタイプの演奏で、個人的には、そこへもう一押しの迫りがあるならさらに好ましいように感じました。
でも、自己顕示欲のない、とてもきれいなピアノでした。

後半は同じくベートーヴェンの「運命」でしたが、久々に聴いた九響はやっぱり九響でした。
迫力はあるけれども、全体に粗さが目立ち、とりわけ弦の音色にはなんとなく細かい砂粒でも噛み込んだようなざらつきがあって、やわらかさ、艶やかさに欠けており、いささかうるさい感じに聞こえました。
アンサンブルにもより高度なクオリティが欲しいところですが、ここから先のもう一段二段というのが難しいところなのでしょう。

ピアノは新しいスタインウェイで、この日の悪天候のせいもあるとは思いたいものですが、鳴りが芳しくなく、白石さんの敏腕をもってしてもピアノの音はしばしばオーケストラに掻き消され、まったく精彩がないのは聴いていてなんとももどかしいような気分でした。

終演後はロビーで白石さんのサイン会がある由で、新しくリリースされたハンマークラヴィーアなどのアルバムが目を惹きましたが、そこに白石さんの姿はまだなく時間がかかりそうでした。外を見るとさらに激しい雨足で、帰路のことを考えるとなんだか気が急いて、結果的に後ろ髪を引かれる思いで傘を開き、横殴りの雨の中を駐車場へ向かいました。

ともかく無事に帰宅できてやれやれというところですが、今思えば、やっぱりCDを買って少し待ってでもサインしてもらえばよかったなあ…と思っているところです。
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ノリントンの世界

日曜朝のBSプレミアムのオーケストラライブには、このところ3週続けてロジャー・ノリントンがN響定期公演に登場しています。

曲目はお得意のベートーヴェンがほとんどですが、最後にはブラームスの2番(交響曲)もやっていました。
面白かったのは4月14日のNHKホールでの演奏会で、マルティン・ヘルムヒェン(ピアノ)、ヴェロニカ・エーベルレ(バイオリン)、石坂団十郎(チェロ)をソリストにしたベートーヴェンの三重協奏曲で、これはなかなかの演奏だったと思います。

マルティン・ヘルムヒェンはドイツの若手で、以前もたしかN響と皇帝を弾いていたことがありましたが、その時は気持ちばかりが先走っていささか独りよがりという感じでしたが、今回はピアノパートも軽いためかとても精気のある適切な演奏をしていましたし、ヴェロニカ・エーベルレはソリストの中心的な重しの役割という印象でした。
石坂団十郎は確かドイツ人とのハーフですが、まるで歌舞伎役者のようなその名前に恥じない、なかなかの美男ぶりで、なんだかステージ上に一人だけ俳優がいるようでした。

ノリントンの音楽はいわゆるピリオド奏法でテンポも遅めですが、どこか磊落で、彼なりの解釈と信念が通っており、マロニエ君の好みではありませんが、しかし確信に満ちた音楽というものは、それはそれで聴いていて心地よく安心感があるものです。

また、4月25日のサントリーでの演奏会では河村尚子をソリストに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が演奏されましたが、これが実に見事な演奏で非常に満足でした。

正直言うと、マロニエ君はこれまで河村尚子さんの演奏にはあまり良い印象がなく、以前これもまた皇帝を演奏した折に、あまりに曲の性格にそぐわない自己満足的な演奏にがっかりして、それをこのブログに書いた覚えがありますが、それが今度の4番ではまるで別人でした。

まずなんと言っても感心したのは、ノリントンの演奏様式に則った、バランスの良い演奏で、ほとんどビブラートをしない古典的演奏スタイルによるオーケストラとのマッチングは素晴らしいものでした。しかも音楽には一貫性があって、呼吸も良く合っており、妙にもったいぶって自分を押し出そうとする以前の振る舞いはまったく影をひそめて、いかにも音楽の流れを第一に置いた姿勢は立派だったと思います。

おそらくはノリントンという大家の監視が厳しく効いていて、勝手を許さなかったということもあったのでしょうし、事前の打ち合わせと練習もよほど尽くされた結果だと思いますが、だからこそ、先のトリプルコンチェルト同様に聴く側が違和感なく音楽に身を委ねることができたのだろうと思われます。
そういう意味では、音楽上の民主主義的な指揮者は結果的にダメな場合が多いし、近ごろは練習不足の本番が多すぎるようです。

河村さんはベートーヴェンの偉大な、しかも繊細優美なこの作品の大半をノンレガートを多用して極めて美しく、かつ熱情をもって弾ききり、こういう演奏をやってのける能力があったのかと、一気にこのピアニストを見る目が変わりました。

印象的だったのは、上記いずれの演奏会でも、ピアノは大屋根を外して、オーケストラの中に縦に差し込んで、ノリントン氏はピアノのお尻ちかくに立って指揮をしていましたが、まさに彼の音楽世界にオケもソリストも一体となって参加協力しているのは好ましい印象でした。

さらにおやっと思ったのは、いずれもピアノはスタインウェイでしたが、あきらかに発音が古典的な、どこかピリオド楽器を思わせる不思議な調整だったことで、そこまで徹底してノリントンの音楽的趣向が貫かれているのはすごいもんだと思いました。
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巨大客船

昨日の午前中、友人が博多港に巨大客船が入港していることを知らせてきました。
彼は高速バスで職場に向かう途中、都市高速からときおりこの手のクルーズ船が入港していると言っていましたので、また見かけたときは知らせて欲しいと頼んでいたのです。

マロニエ君は、とくに船に興味があるわけではないものの、巨大なクルーズ客船というのを一度も見たことがなかったので、いつかチャンスがあれば一度は現物を拝んでみたいもんだと思っていたのです。

友人の情報では同日午後7時には出発するとのことで、見るならぐずぐずしていられません。
そこで夕方近く、用事にかこつけてちょっと港のほうへ廻って見物に行ってきました。
博多港には大小いくつもの埠頭があり、停泊している旅客ターミナルそのものがある埠頭へ行くよりも、その対岸に位置する埠頭から見た方がいいような気がして、まずはそちらに向かいました。

天神の北にある那ノ津埠頭は、広大な道路とアクション映画さながらの荒涼とした倉庫街のようなところですが、車で走りながら建物の合間から遙かむこうに停泊する巨大船の上部がチラッと見え始めて、その化け物的な大きさに思わず息を呑みました。

この埠頭では、大型トラックが縦横に行き交い、貨物船の荷役作業などがおこなわれている関係者のみのエリアが大半で、なかなか見物に適した場所がありません。
ようやく一箇所、海面に面した場所を見つけて車をとめると、目の前には桁違いに大きい、白い高層ビルを横に倒したような途方もないサイズの船が、その偉容をこちらに向けて静かに停泊していました。

聞きしに勝る大きさ!としか云いようがなく、周りにいる船がまるでコバンザメのようで、他を圧するとはこういうことを云うのかとしみじみ実感しました。
写真を撮るなどした後、ついでなので、停泊している埠頭のほうへも廻ってみましたが、近づくにつれますますその巨大さが露わになります。車を運転しながら手前の景色の向こう側に船の上部が見えてくる感じは、船と云うよりも、ほとんど普通のビルのような趣です。

船首にVoyager of the Seasとあり、帰宅してネットで調べてみると、なんと「1999年就航当時、タイタニックの4倍、QueenElizabeth2世の2倍の大きさを誇る世界最大客船として注目を集めた」とありました。
…どうりで大きい筈です。

さて、大きさは大変なものでしたが、では客船として優美な姿かといえばさにあらずで、漠然とタイタニックのような船を豪華客船のイメージとするなら、そういう美しさとはおよそかけ離れたものというのが率直なところでした。

まるで大型リゾートホテルを海に浮かべたようで、これでもかといわんばかりの構造物が船の床面積いっぱいに、上へ上へと積み重ねられており、パッと見たところでも10階はあるようです。
しかも、こんなにも大きいのに、なんとなく余裕のない、息苦しい、ケチケチした感じに見えました。
人は数千人単位で乗っているらしく、なんだか現代のざわざわした日常生活がそのまま海に浮かんで移動しているようです。
船内の眩く豪華な様子の写真も見ましたが、それもホテルと遊園地とショッピングモールを一緒にして遮二無二押し込んだようで、いわゆる船旅の優雅とは違ったものに見えました。

ちなみにネットのデータによれば、総トン数137,276トン、乗客と乗組員を合わせると約4000人以上にも達し、全長は310mとほぼ東京タワーの高さに匹敵するようです。

ともかく、思いがけなく、とてつもないものを見物できました。
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復元か新造か

つい先日、あるスタインウェイディーラーから送られてきたDMによると、1878年製の「The Curve」という名のニューヨークで製造されたスタインウェイのA型が、メーカー自身の手で修復されて販売されているというもので、なんとケースとフレーム以外の主要パーツはすべて新品に交換されている旨が記されています。

単純計算しても134年前のピアノというわけですが、修復というよりは骨組み以外は新規作り直しという感じで、楽器の機械的な耐久性という意味ではなんの心配もなく購入することができるということでしょう。
当然ながら、ボディやフレームにも新品と見紛うばかりの修復がされていると思われますので、旧き佳き時代のピアノとして見る者の目も楽しませるでしょうし、今やこのような選択肢もあるというのはなにやら夢があるような気になるものです。

たとえ世界屈指の老舗ブランドといえども、現今のピアノに使われる材質の低下、それに伴う音色の変化などに納得できない諸兄には、このようなヴェンテージピアノをメーカー自身がリニューアルすることによって、新品に準じるような品質で手にできるということ…一見そんな風にも思われますが、厳密にはその解釈の仕方は微妙なのかもしれません。

ともかくリニューアルの施工者がメーカー自身というのなら、一般論としての価値や作業に対する信頼も高いでしょうし、それでいて価格もハンブルクのA型新品より3割近く安いようですから、こういうピアノに魅力を感じる人にとっては朗報でしょう。

ただし、強いて言うなら、新しく取り替えられた響板やハンマーフェルトの質が、1878年当時と同じという事はあり得ず、少なくともその質的観点において、当時のものと同等級品であるかといえばそれは厳密には疑問です。枯れきったよれよれの響板が新しいものに交換されれば、差し当たり良い面はたくさんあるでしょうが、ではすべてがマルかといえば、事はそう簡単ではないようにも思います。

また作業の質や流儀にも今昔の違いがあるでしょうから、現代の工法に馴れた人の手で、どこまで当時の状態の忠実な再現ができるのだろうとも思います。仕上がった状態を、もし昔の職人が見たら納得するかどうか…。まあそういう意味合いも含めて、おおらかに解釈できる人のためのピアノと云うことになるのかもしれませんね。

やみくもに古いものは良くて新しいものはダメだと決めつけるつもりは毛頭ありませんが、おそらく19世紀後半であれば、良いピアノを作るための優れた木材などは、当時の社会は今とは較べるべくもない恵まれた時代だったことは確かです。

聞くところによれば、現在ドイツなどは環境保護の目的で森林伐採は厳しく制限され、ピアノ造りのための木の入手も思うにまかせないという状況だそうですが、そんな時代に新品より安く販売されるリニューアルピアノのために、オリジナルに匹敵する稀少材が響板に使われるとは考えにくいし、それはハンマーフェルトも同様だろうと思います。

さすれば、スペックの似た現代のエンジンを積んだクラシックカーのようなものだと思えばいいのかもしれません。そう割り切れば、パーツの精度などは上がっているはずで、もしかしたら部分的な性能ではオリジナルをむしろ凌ぐ可能性さえもあるでしょうね。
これはつまり、新旧のハイブリッドピアノと考えれば理解しやすい気がします。
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あいまいな国境

楽器メーカーのゼネラルマネージャー兼技術者として海外で長く活躍された方をお招きして、ピアノが好きな顔ぶれと食事をしながらあれこれの話を伺うことができました。

ピアノビジネスの黄金時代は過ぎ去って久しく、今はメーカーも生産台数も激減、さらにはアジアの新興勢力の台頭によりピアノ業界の様々な情勢にも、かつては思いもよらなかったような変化が起こっているようです。

少し前に、チェコのペトロフピアノの社長さんが「ペトロフはすべてヨーロッパ製」と発言されたらしいという事を書いたところ、さるピアノ技術者の方から「建前はそうなっているけれども、一部に中国の部品を使っている」ということを教えていただきました。

どんな世界にも表と裏があるようで、様々な事実は、事柄によってセールスポイントにされたり、はたまた積極的に語られないなどいろいろのようです。

考えてみれば、日本のピアノでもヤマハがヨーロッパのハンマーフェルトを輸入して自社工場で加工して使っているとか、カワイにも機種によってはイタリアのチレサの響板やロイヤルジョージのハンマーを使ったモデルもあるし、両者共に多くのモデルはアラスカスプルースを使うなど、海外からの輸入品を必要に応じて使っていることは昔から当たり前です。

こう考えると、純粋に一社は言うに及ばず、一国、もしくはひとつのエリア内だけで産出された材料を使って一台のピアノを作り上げると云うことのほうが、もはや難しいのかもしれません。
フランスのプレイエルに至ってはコンサートグランドのP280は、丸々ドイツのシュタイングレーバーに生産委託しているというし、そのシュタイングレーバーやシンメルは以前から日本製のアクションを使っているとのことで、その実情は様々なようです。

純アメリカ産モーターサイクルとして名高いハーレーダヴィッドソンも、そのホイールは長らく日本のエンケイなんだそうですし、多くのヨーロッパ車が日本のデンソーのエアコンやアイシン製オートマチックトランスミッションを載せているのは今や普通のことで、イギリスのミニに至ってはBMW製で既にドイツ車に分類されているなど、驚かされると同時に、ときに我々はそれを「安心材料」として捉えている場合さえあるほどです。

エセックスが中国で作られ、ボストンもディアパソンもカワイ製、ユニクロもアップル製品も中国製だし、要するに今や政治的な国境線を遙かに跨いで、さまざまなビジネスが自在に往来しながら効率的に成り立っていると云うことだと思います。驚いたのは、ニューヨーク・スタインウェイの純正ハンマーは日本の有名なハンマーメーカーが作っているという話まであるらしく、中には虚実入り混じっている部分もあるかもしれませんが、マロニエ君はこれを追求しようとは思いません。
ことほどさように物づくりの現場においては良いと判断されれば(品質であれ価格であれ)、現代の製造業はどこからでもなんでも調達してくるのが当たり前になったということを、我々は認識すべき時代になったことは間違いないようです。

とりわけピアノ製造のようにきわめて存立の難しいビジネスでは、理想論ばかりを振りかざしていても仕方がなく、相互に補助し合い、需給を生み出すことでコストや品質を維持するのは自然でしょう。

まあ、日本などは食糧自給率が40%と、ピアノなんぞのことをつべこべいう前に、自分達の食べ物の心配をしろということになるのかもしれませんが。
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チャイコフスキーガラ

昨年のチャイコフスキーコンクールの優勝者のうち、声楽を除くピアノ、ヴァイオリン、チェロの優勝者(および最高位)によるガラコンサートの様子をテレビから。
今年4月に行われた日本公演のうち、サントリーホールでの23日のコンサートです。

それぞれダニール・トリフォノフ、セルゲイ・ドガージン、ナレク・アフナジャリャンという3人でしたが、最も好感を持ったのはヴァイオリンのドガージンで、ロシア的な厚みのある情感の豊かさが印象的でした。

しかし全体としては、3人とももうひとつ演奏家としての存在感がなく、世界的コンクールを征した青年達とは思えない精彩に欠けた演奏だったことは残念でした。おまけに合わせものでのトリフォノフは練習不足が露わで、コンサートの企画ばかりが先行して肝心の準備が追いついていないのはちょっと感心しません。

最近の欧米の若い演奏家全般の特徴としては、音楽に対する情熱やエネルギーがどうも以前より痩せていて、ビート感などはむしろ弛緩して劣ってきているように感じることがしばしばです。
全体を見通したがっちりした構成力、その上での率直な感情表出などの聴かせどころなど、音楽を聴く上での醍醐味がないことが大変気にかかります。よく言えば小さく整った優等生タイプで、悪く云えば強引なぐらいの喜怒哀楽の波しぶきなどもはやありません。

自分が表現したい何かではなく、書かれた通りの音符を音に再現し、無事に弾き終えることに目的があるようで、だから聴き手に伝わってくるメッセージ性がない(あるいは薄い)。ただ練習を重ねたパーツとパーツがネックレスのように繋がっているようで、これでは聴くほうも音楽に乗ろうにも乗れません。
具体的な傾向としては全体に確信と流れがなく、それなのに速いパッセージに差しかかるとやたら急いで見せたり、反対に、間の取り方などはさも恭しげで意味深ぶって、そこがまたウソっぽい。

現代は、科学の裏付けのある合理的なメソードが発達しているので、練習を開始した子供の中から難しい曲を弾けるようになる人は昔より高い確率で出てくるはずですが、それと引き換えにオーラのある天才の出現は久しくお目にかからなくなりました。
とくに欧米は音楽を志す人そのものが激減しているそうで、つまり畑が狭くなり、育てる種の数が少なくなれば、それだけ光り輝く才能が出にくくなるのもやむを得ない事でしょう。
これでは楽器を習う子供の数が桁違いに多いアジア勢が優勢なのも当然だと思います。


トリフォノフは一昨年のショパンコンクールのときからファツィオリにご執心のようで、この日もサントリーのステージにはF278が置かれていました。

右斜め上からのアングルで映したときのフレームや弦やチューニングピンなどの工芸品のような美しさは印象的ですが、楽器としての危うさみたいなものがない。ディテールの造形も鈍重で、全体のフォルムはとても大味ですね。
ピアノを造形で語っても仕方ありませんが、音は華やかですが硬くて立体感に乏しく、しばらくすると耳が疲れてくる感じに聞こえました。

遠鳴りのスタインウェイをホールで弾くと、むしろ音は小さめなぐらいな印象がありますが、その点でファツィオリは弾いているピアニストに力強い手応えを与えるのかもしれません。やはり好みの分かれるピアノだと思いました。
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サド侯爵夫人

『サド侯爵夫人』は『鹿鳴館』などと並んで、三島由起夫の戯曲の最高傑作に数えられる作品で、深い交流のあった澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』に着想を得て書かれたものであることは良く知られています。

初演以来、世界的にも高い評価を得て何度も上演を重ねていますが、今年4月に世田谷パブリックシアターで上演された舞台の様子がBSプレミアムで放映されました。

この作品には、サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人をはじめ、わずか6人の女性しか登場せず、当のサド侯爵はいわば影の主役であって舞台上に登場することはありません。

驚いたことには、演出は狂言師の野村萬斎によるもので、能や狂言の手法を取り入れたものということで「言葉による緊縛」などと銘打った公演だったようですが、率直に言って未消化の部分も多く、装置や衣装も同意できない点が多々ありました。
主役の蒼井優は膨大な台詞をよく頑張りましたが、この役に対していささか軽量という印象を免れませんでしたし、奔放で悪徳の擁護者であるサン・フォン伯爵夫人を演じる麻美れいはいささか力みすぎで、役のキャラクターに対して表現過多かつ台詞まわしの雑なところが目立ちました。

しかし、もっとも驚いたのは白石加代子扮するモントルイユ夫人で、しつこいばかりの、もののけのような演技の連続で、あまりにも品位に欠けるという他はありませんでした。表情はいつも大げさに目を剥き、声は始終だみ声を張り上げては不可解なアクセントがつき、中でも驚いたのは、ほとんど台本に書かれた日本語の意味とは無関係にしばしば句読点を打ったり勝手気ままにブレスをしている点でした。
「言葉による緊縛」はこの人には適用されなかったようです。

白石加代子は役柄によっては存在感を示せる強さのある役者なのかもしれませんが、およそ三島作品、わけてもサドのようにパリが舞台の貴族社会が舞台ともなると、まるで場違いな異質な感じが際立って、この芝居の大きな柱のひとつとも云うべき重要な役を江戸時代の怪談語りのように変えてしまい、三島の芸術世界や、作品の本質をまったく見誤っているとしか云いようがありません。

三島の戯曲は、その格調高い絢爛とした日本語の美しさを、言葉の調べのように再現するためにも、役者は複雑な台詞を音楽的かつ明晰にしゃべらねばなりません。同時に並外れた洗練も必要で、その考え抜かれた豪奢な文体に過剰な緩急をつけたり、新劇風の感情表現を加え過ぎたり、恣意的な表現があるとたちまち作品の持つ密度感が損なわれます。
おそらく三島が観たなら、決して満足できない舞台だったに違いないと思いました。

それでも、今どきはたえて聞かなくなった美しい日本語の洪水に耳を傾けるのは抗しがたく、とうとう3時間半を超すこの言葉の劇を明け方まで見てしまいました。

昔は感銘を受けた作品ですが、今にして感じることは、いささか長すぎるのではないかという点で、あまりにも装飾的な台詞が延々と続き、さすがに緊張感が途切れるところがあり、ヴァーグナーの影響でも受けたのでは?などとふと思ってしまいました。
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CD漁り

久しぶりにタワーレコードに寄ってみましたが、ワゴンセールなどを物色せずに素通りすることはなかなか困難です。

今回もあれこれとセール品漁りをしたあげく、ついまた博打買いをしてしまいました。
「博打買い」とは、なんの情報も予備知識もないまま、まったく価値のわからないものを、専ら直感だけで購入してしまう事を自分でそう呼んでいます。

ひとつはユーリー・ボグダーノフ(1972年生まれ)によるショパンの2枚組で、ワルツ、バルカローレ、スケルツォ、ソナタ、ポロネーズ、即興曲、エチュード、ノクターン、バラード、マズルカといった、ショパンの作品様式をほぼずらりと取り揃えたような演奏が並んでいます。
曲目はいわゆる名曲集的なものではないものの、すべてが馴染みの作品ばかりで、ピアニストもまったくの未知の人であるほか、「Classical Records」という名の、これまで見たこともないロシアのレーベルで、表記もロシア語だったことが惹かれてしまった一因でした。
かつてのソヴィエト時代のメロディア・レーベルのような、鉄のカーテンの向こう側を覗くようなドキドキ感が蘇って、ちょっとそのロシア製のCDという怪しげなところについ引き寄せられてしまったようです。

調べてみると、ボグダーノフはモスクワ音楽院でタチアナ・ニコラーエワやミハイル・ヴォスクレセンスキーに師事したらしく、ロシアのピアニストにはよくあるタイプの経歴の持ち主のようです。

期待したわりには演奏は至って普通というか、むしろ凡庸といった方がいいかもしれないもので、ロシア的怪しさはさほどありませんでした。むしろロシア的だったのは数曲において途中のつぎはぎが下手なのか、しばしば微妙にピッチが変わるなど、予期せぬ意味での雑味のある点が「らしさ」と云えないこともありませんが、純粋に演奏という意味では、正直言って期待値を満たすものではありませんでした。

もうひとつは、19世紀末に生まれ20世紀に活躍したイギリスの作曲家、ベンジャミン・デイルとヨーク・ボーウェンのピアノ曲のCDですが、こちらはまさにアタリ!でした。
こういうことがあるから博打買いはやめられないのです。

20世紀の作曲家といっても無調の音楽ではなく、ロマン派やドビュッシーの流れをくむ中に独自の新しさが聞こえてくるという、いわば耳に受け容れやすい音楽で、ベンジャミン・デイルのピアノソナタは、決して重々しい作品ではないものの、途中に変奏曲を内包する演奏時間40分を超える大曲で、何度聴いても飽きの来ない佳作だと思いました。
この曲はヨーク・ボーウェンに献呈されているもので、いかにもこの二人の同国同業同時代人同士の信頼関係をあらわしているようでした。

後半はそのヨーク・ボーウェンの小組曲で、こちらは3曲で10分強の作品ですが、即興的なおもしろい個性の溢れる曲集で、これまた存分に楽しむことができました。

演奏は知られざる名曲をレパートリーにしながら独自の活動としている、これもイギリス人ピアニストのダニー・ドライヴァーで、その安定感のある正確で爽やかなテクニックと見通しのよい楽曲の把握力は特別な才能を感じさせるものです。
彼はほかにもヨーク・ボーウェンのソナタ集や、バラキレフの作品、はたまたC.P.E.バッハの作品集などを録音するなど、独自な活動をするピアニストのようでそれらも聴いてみたいものです。
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ヴンダーの日本公演

2年前のショパンコンクールで第2位だったインゴルフ・ヴンダーの、今年4月の日本公演の模様が放送され、録画をようやく見ました。

紀尾井ホールでのリサイタルで、リストの超絶技巧練習曲から「夕べの調べ」、ショパンのピアノソナタ第3番とアンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズというものでした。

率直に云って、なんということもない、むしろ凡庸な、まるで手応えのない演奏でした。
普通はショパンコンクールで第2位という成績なら、好みはさて置くとしても、指のメカニックだけでも大変なものであはずですが、テンポもどこかふらついて腰が定まらず、ミスをどうこう云うつもりはないけれどもミスが多く、この人の大きくない器が見えてしまって、なんだか肩すかしをくらったような印象でした。
全般的に覇気がなく、楽器を鳴らし切ることもできていないのは、デリケートな音楽表現をやっているのとは全く別の事で、聴いていてだんだんに欲求不満が募りました。

音楽の完成度もさほど感じられず、彼が果たしてどのような芸術表現を目指しているのか、さっぱり不明でした。
見ようによっては、まるで軽くリハーサルでもやっているようで、こういう弾き方なら、ピアノもさぞ消耗しないだろうと思います。

この人はコンクールの時には聴衆に人気があったというような話を聞いた覚えがありましたが、このリサイタルを聴いた限りでは、到底そのような片鱗さえ感じられませんでしたし、むしろ惹きつけられるものがないことのほうを感じてしまいます。この人の聴き所がなへんにあるのか、わかる人には教えて欲しいものです。

見た感じは人の良さそうな青年で、映画「アマデウス」でモーツァルトに扮したトム・ハルスのような感じです。演奏しながら細かく表情を変化させながら、いかにもひとつひとつを表現し納得しながら演奏を進めているといった趣ですが、実際に出てくる音はあまりそういうふうには聞こえません。

たしかコンクールが終わって程なくして、上位入賞者達が揃って来日してガラコンサートのようなものがあり、その様子もTVで放送されましたが、このときヴンダーはコンチェルトではなく、幻想ポロネーズを弾いたものの、別にこれといった感銘も受けなかったことをこのブログにも書いたような記憶があります。
やはり第一印象というものは意外に正確で、それが覆ることは滅多にありませんね。

これで2位というのはちょっと承服できかねるところですが、聞くところでは彼はハラシェヴィッチ(1955年の優勝者でポーランドのピアノ界の大物のひとり)の弟子らしいので、そのあたりになにか影響があったのか、詳しいことはわかりませんが、コンクールには常に裏表があるようです。
直接の関連はないかもしれませんが、4位のボジャノフがえらく憤慨して表彰式に出なかったというのもなんとなくわかるような気がしました。

その点で、優勝したアブデーエワは通常のリサイタルではコンクール時よりもさらに見事な演奏を披露し、彼女が優勝したことはピアニストとしての潜在力の点からも、とりあえず正しかったのだと今更ながら思うところです。
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名器は蘇る

夕方、時間が空いて、ちょっとうたた寝をしていると、5分も経ったかどうかというタイミングで電話がけたたましく鳴りました。

さるピアノ店のご主人からで、昨年秋にそのお店を訪問した際に、古くてくたびれた感じのニューヨーク・スタインウェイのM型が置いてあり、見た目も芳しくなく中はホコリにまみれて、調整もほとんど無きに等しい状態であったので、とくに意に止めることもしていませんでした。

ただ目の前にあるというだけの理由で、いちおう弾く真似のような事はしてみましたが、古くてくたびれたピアノというだけで、オーバーホールの素材にはなるだろうけれども、現状においては特に感想らしいものはありませんでした。

正直を云うと、個人的にはこれだったら日本製の新品の気に入ったものを買ったほうがどれほどいいかと思いました。それでもスタインウェイだからそれなりの値段はするのだろうし、果たしてこのままで買う人がいるんだろうか…と思ったほどでした。

そのピアノを、さすがにその状態ではいけないとここの社長さん(技術者)が思われたのか、はじめからそのつもりだったのかは知りませんが、ともかく今年に入ってオーバーホールに着手したという事は聞いていました。

マロニエ君がピアノの話なら喜ぶというのを知ってかどうか、別に買うわけでもないのに、とにかくそのオーバーホールの進捗を逐一報告してくださり、とりわけハンマーをニューヨーク・スタインウェイの純正に交換したことによる楽器の著しい変化については、熱の入った説明をたびたび(電話で)聞いていました。

ちなみに、スタインウェイのハンマーといってもハンブルク用はレンナーのスタインウェイ用で、フェルトの巻きが硬く、それを整音(針差し)によってほぐしながら音を作っていくのですが、ニューヨーク用ではまったく逆で、比較的やわらかく巻かれたフェルトに適宜硬化剤を染み込ませながら、輪郭のある音を作っていくという手法がとられます。

この社長さんによると、やはりニューヨーク・スタインウェイ用の純正ハンマーは楽器生来の個性に合っているという当たり前のような事実をいまさらのように強く体感された由で、弦も張り替え、塗装もやり直して、以前とは見た目も音も、まるで別物のようになったという話でした。
そして今回の電話によると、ある事情からこのピアノを吹き抜けのある天井の高い場所に設置してみたところ、アッと驚くような美しい響きが鳴りわたったのだそうで、「あれはなかなかのピアノだった!」と電話口で多少興奮気味に話されました。
つい「みにくいアヒルの子」の話を思い出しましたが、ともかくオーバーホールと調整と、置く場所によって、およそ同じピアノとは信じられないような違いが生じるという現実を、自分が案内をするからマロニエ君にもそこに行って、ぜひとも体験して欲しいというお話でした。

たいへん魅力的なお誘いで、近くならすぐにでも行きますが、そこは博多から新幹線で行くような場所ですから、いかにピアノ馬鹿のマロニエ君といえども二つ返事で行くわけにはいきませんが、やはり再び命を吹き込まれたスタインウェイというのは、元がどんなに古くてみすぼらしくても、ものすごい潜在力を秘めているんだなあと思わせられる話でした。
まだ自分でじかに触ったわけではありませんが、これが巷で云われるスタインウェイの復元力というものなのかと思うと、どんなものやらつい確かめてみたくなるものです。
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主観で狙い撃ち?

久しぶりの顔ぶれの友人達が集まって食事をしましたが、そこで出た話。

そのうちの一人が最近スピード違反で捕まったんだそうです。
場所は国道3号線の北九州市に近い上り方向だったとか。

いわゆる「ネズミ取り」ですが、よく通る道なので、そこでしばしば取り締りが行われているのは知っていたものの、すぐ前にも同じ速度で走っている車がいたために、その後ろを走っているぶんには大丈夫だろうと高をくくっていたそうです。
ところが実際にネズミ取りはおこなわれており、しかもすぐ前を走る車は捕まらず、後ろを走っていたマロニエ君の友人のほうが赤い旗を振られて停車を命じられたというのです。これにより「前に車がいたら大丈夫」という安全神話はもろくも崩れ去ったことになります。

あきらかに狙い打ちをされた形だったようで、結局はどの車に照準を当てるかという判断はレーダーを操作する警察官個人の判断と意志により決定されるようで、この場合、なんらかの理由、つまり目につきやすい車であるとか左ハンドルというような要素が不利に働くということだろうと考えられるそうです。

現に他に止められていたのは国産の高級乗用車などで、ますますその印象を強くしたと言います。

呆れたのは警察官の対応で、いきなり「すみませーん、ちょーっと速度が出ていたようですねぇ!」と満面の笑顔で第一声をかけながら、車から降ろされ、傍らに止められたマイクロバスのような警察車輌に移動させられる際にも、入口のステップに注意してくれという意味で「ここに、ひとつ段がありますので気を付けてください!」などと、必要以上に腰の低い、まるでどこぞの明るい営業マンのような口ぶりと対応なのは、却って嫌な気がしたそうです。

もちろん、速度違反者ということで警察官が居丈高になったり横柄な態度に出るのは絶対に好ましいことではありませんから、それに比べればマシだといえばそうなのですが、物事には自ずと限度というものがあり、あまりにも取って付けたような低姿勢に出られるのも違和感があるのは聞いていて同感でした。
そんなにまでへつらうような態度が必要なほどの内容なら、初めから取り締まるなと言いたくもなります。

すると別の友人がすかさず解説を差し込んでくれました。
違反検挙の場では、違反そのものを認めないとか、取り締まりの方法自体に問題があるというような言い分によって正当な主張をする人もいれば、いわゆる不当にゴネる人もいるわけで、警察としては極力ソフトな態度に出ることによって警察官および取り締まりそのものへの心証を良くして、できるかぎり素直に違反キップの処理に応じさせ、スムーズにサインさせるようというのが目的なんだそうです。

なるほどそういうことかと一応は思いましたが、どうも何かがどこかが間違っているような気がするのはどうしようもないところです。
それに、同じ速度のスピード超過であっても、やはり先頭を走るのと、それに続くのとでは、やっぱり罪の軽重でいうなら、先頭を走るほうが検挙されて然るべきだと思うのですが…。
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巻き線の名人

岡山の浜松ピアノ店の通信誌からもうひとつ興味深い話を。

浜松にある、巻き線の名人がおられる工場取材というものでした。
ピアノの低音部は、芯線に銅線を巻き付けた「巻き線」が使われることはよく知られていますが、この巻き方がとても重要であるにもかかわらず、現在では生産効率とコストの関係でしょうか、機械巻きが圧倒的に主流となっているようです。
しかし、本当にすぐれた巻き線は、名人の手巻きによるものだと云われています。

この道の名人に冨田さんという御歳67になられる方がいらっしゃるそうで、小学校の高学年の頃からこの仕事に携わり、すでに仕事歴60年近いという大ベテランだそうです。

どんなピアノでも気持ちのよい低音を確保するためには、巻き線の品質が重要だそうで、植田さんのお店では新品のピアノであっても、より良い響きを求めてこの冨田さんの巻き線に交換することがあるそうですし、修理の際の弦交換の場合はいつもこれを使っておられるそうです。

この名人冨田さんの談で、なるほど!と思ったのは、『ピアノの弦というものは、弦の材質もさることながら、同じピアノでも張る弦の太さで張力が変わり、張力が変わると音色も響き具合も変わる』というものでした。
品質はまあ当然としても、太さで張力が変わり、そこから音色や響きにも違いが出るというのは気がつきませんが、云われてみれば確かにそうだろうと、おおいに得心のいく気分でした。

現在の巻き線は機械巻きが圧倒的主流で、ピアノの聖地浜松でさえ、この手巻きのできる技術者が極端に少なくなっているのだそうです。さらにはその少ない技術者の方々は皆さん年配の方ばかりで、この分野の若い技術者が育っていないというのが現状とのこと。
これはつまり、将来、手巻きによる優れた巻き線は、よほどでないと手に入らなくなることが予想されます。

現代のピアノは製品としての精度はとても高いし、中にはなるほどよく鳴るものもあるようですが、いわゆる馥郁たる豊かな響きを持った、自然でおっとりしたピアノが生まれなくなってしまったという事を、こうした事実が裏付けているようでもあり、とても残念でなりません。

現代社会はどのようなジャンルでも効率や平均値は猛烈に向上しましたが、それは同時に一握りの輝ける「本物」を失ってしまうことでもあるような気がします。
その波が文化や芸術までも容赦なく呑み込んでしまうのは、どうにかして食い止めて欲しいところですが、時すでに遅しといった観があるようです。
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ペトロフと中国

岡山の浜松ピアノ店から、ここの植田さんとおっしゃる社長さんが書かれる「もっとピアノを楽しもう通信」という通信誌をいつも送ってくださいますが、今回も興味深い記述があれこれとありました。

このピアノ店の取扱いブランドのひとつであるペトロフの本社に視察に行かれたようですが、社長のペトロフさんが強調されるには、「ペトロフピアノはすべてヨーロッパ製である」ということだったとか。これは最近のヨーロッパピアノは一部の高級品を除くと、その多くがヨーロッパ圏外で作られるようになったということの証左でもあるようです。

そしておそらくその大半は、アジアの労働賃金の安い国々で作られているであろうことが推察できます。部分的なものから完成品に至るまで、そのやり方はメーカーによって様々だと思いますが、ともかくペトロフのような純ヨーロッパ産ピアノというのはずいぶん少なくなっているのは確かなようです。


もうひとつ紹介されていたのは、中国は大連から大学のピアノの先生が岡山のお店に来られて、中古のカワイを2台買って行かれたとのことでした。
そこでの話によると「中国製のピアノはすぐ壊れるし、中国にはまともなピアノ技術者がいないようで、中身にまったく手が入っていないのでダメ」とのことでした。

そのため、納入調律には「旅費・宿泊費を負担するので、ぜひ大連まで来て欲しい」という依頼まであったそうです。その先生の話によると、中国ではヤマハとカワイのブランド価値はほとんど同じで、国立大学の大半はカワイで色は黒が人気だそうです。
たしか中国の音大教授の間では、シゲルカワイを所有することがステータスになっているという話も思い出しましたが、なるほどそんな背景があるのかと納得です。

以前、別の方から聞いたところでは、中国製のピアノといっても品質はピンキリだそうで、外国メーカーによる技術や品質の管理も行き届いてかなり優秀なものもある反面、本当にどうしようもない粗悪品も珍しくないようで、まさに玉石混淆のようです。
ただし、マロニエ君も何度か中国に行った経験では、店に並んでいるピアノはどれも、およそ調整などとは程遠いという感じで、それは中国には高等技能をもったピアノ技術者がほとんどいないであろうし、美しいピアノの音の尺度もあまりないと思われ、その必要も未だ認識もされていないことをひしひしと感じさせるものでした。

どの街の、どの楽器店も、ホテルのピアノも、かろうじて音階のようなものだけはあるビラビラな音で、グランドもアップライトもあったものじゃありませんでした。
そんな中国のピアノ店でごくたまに見かけるヤマハやカワイは、それはもう大変な高級品という感じに見えたことを思い出しました。
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貧しい時代

昨日書いた音楽雑誌ですが、なにかこう…かすかに無常感を覚えるものとして繋がっていくことに、そのグラビアに見るウェイルホールのスタインウェイにもその要素を発見しました。

件の邦人のニューヨークでのリサイタルでは、ご当地のニューヨーク・スタインウェイが使われたようで、新しいモデルのようですが、なんとニューヨーク製の特徴である凝ったディテールのデザインにも、さらなる簡略化が進んでいました。
もはや、かつての威厳は感じられず、なんとなくしまりのないのっぺりした印象でした。

戦前のモデルに較べると、基本は同じなのに、その時代毎に装飾的なラインやデザインの大事な部分がだんだんに姿を消して行き、現在ではもうほとんどボストンピアノに近い感じにまで細部が省略されて、すっかりドライなデザインになってしまったようです。

むろん、ピアノは外観ではなく、音が勝負というのはわかっていますが、これほどはっきりとコストダウンの証を見せられると、音に関する部分だけは「昔通り」なんて夢見たいなことはとても思えません。
尤も、今はホロヴィッツやグールドのような超大物がいるわけでもなく、コンサートの世界も大衆化・平均化が進んだことも事実。それに呼応するように楽器であるピアノもかつてのような「特別」なものである必要はなく、製造・販売のビジネスが成り立つことこそが大儀であり、要するに商品としてはその程度で良いという企業判断と解釈すべきなのかもしれません。

まあそれが仮に正解だとするならば、なんとも虚しい現実なわけで、願わくは思い過ごしであってほしいものです。

その点に関しては、まだなんとか見た目の面目を保っているのはハンブルクです。
ハンブルクのほうは少なくとも外見上は、それほどの簡略化は今のところ見られませんが、内容に関しては風の噂では相当厳しいコストダウンの実体を耳にしますし、にもかかわらず最近ではアメリカのコンサートでも、以前とは比較にならないほどハンブルク製が使われることが多くなっており、そのあたり、一体どういう事情なのかと思ってしまいます。

米独両所のスタインウェイは、パーツに関しても以前より共通品がかなり増えたとも聞きますし、近年はついにハンブルクも響板にアラスカ産のスプルースを使うようになったらしく、ニューヨークは伝統のラッカー&ヘアライン仕上げの他に、黒の艶だし仕上げのピアノもかなり作っているようで、そこまで互いにおなじことをするのなら、そのうち製品統合でもするんじゃないかと思います。

来年は奇しくもスタインウェイ社の創業160年周年でもありますが、一台のピアノを作り上げるのに切り詰められた合理化やコスト削減は、おそらく歴史上最も厳しい時代ではないかとも思います。

まあ、要するに、金に糸目を付けないというのは極端としても、こだわりをもった製作者の良心の塊のような優れた楽器造りなどというものは、今のご時世にあってはほとんど夢まぼろしに等しいということなのかもしれません。
厳しい条件や限られたコストの中から、いかに割り切って、精一杯のものを作り出すかが現代の生産現場の最大のテーマなのだろうと思われますが、文化にとっては実に貧しい時代というわけです。
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ホールもブランド

書店で音楽雑誌を立ち読みしていると、ある日本人ピアニストがカーネギーホールデビューを果たしたということで、巻頭のカラーグラビアで大々的に紹介されていました。

さらにはその流れなのか、表紙もその人で、カーネギーホールとニューヨーク名物のイエローキャブ(タクシー)をバックに余裕の笑顔で写っていらっしゃいました。
まさに世界に冠たるこの街を実力で制覇したといった英雄のような趣です。

普通カーネギーホールというと、ホロヴィッツやニューヨークフィルで有名な「あの」カーネギーホールかと思いますが、実はカーネギーホールには大小3つのホールがあり、日本人の多くがコンサートをやっているのはウェイルホールという最小のホールのようです。

世界中のだれもがイメージするカーネギーホールといえば、あまりにも有名なメインホールのことだろうと思われ、ここは2800席を超す歴史的大ホールです。
19世紀末のこけら落としにはチャイコフスキーが指揮台に立ったことや、多くの名曲の初演(例えばドヴォルザークの交響曲「新世界より」など)がおこなわれるなど、まさに数々の伝説を生み出したホールです。

ピアニストに限っても、ラフマニノフやホフマン、ルービンシュタインなど音楽歴史上の綺羅星たちがこのステージに立って熱狂的な喝采を受けるなど、まさに100年以上にわたり音楽の歴史が刻まれた場所です。

さて、カーネギーホールとは云っても、ウェイルホールは座席数268と、規模の点でもメインホールのわずか10分の1以下の規模で、これで「カーネギーホールデビュー」というのも、まあ言葉の上ではウソではないかもしれませんが、ちょっとどうなんだろうか…と率直な感覚として思ってしまいます。
260席規模のホールというのはマロニエ君の地元にも有名なのがありますが、ニューヨークどころか日本の地方都市の尺度でも、それはもうかなり狭くて小さいところです。

現在のカーネギーホールは市の非営利運営だそうで、お金を出せば誰でも借りられて、さらに料金はどうかした日本のホールよりも安いぐらいだそうで、実際には無名に近い日本人演奏家なども箔を付けるため続々とこのウェイルホールでコンサートをやっているという話もあります。
そんな実態を知ると、ここでリサイタルをやったからといって、有名雑誌までもがそんな過大表現に荷担しているようでもあり、かなり異様な感じを覚えてしまいました。

これだから今の世の中、信用できません。
かつての歴史や権威性がブランドと化して、合法的に大安売りされるといった事例は枚挙にいとまがなく、なんとなくいたたまれない気分になってしまいます。

個人的には、カーネギーのウェイルホールで小さなリサイタルをするよりも、日本国内でも、例えば東京なら、サントリーホールや東京文化会館の大ホールでピアノリサイタルをすることのほうが、遙かに一人の演奏家としての真の実力と人気が厳しく問われると思いますが。
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なまくら気分

日増しに気温が上がっていくこの頃、この変化がどうも苦手です。
とくに日本では温度と湿度はセットのようにして両方上がっていくので、マロニエ君にとっては甚だしい二重苦となり、なんとなく気分までじりじり蒸発してしまうようです。

世の中には、冬が嫌いで温かくなると木々が芽を出すように元気増大していくひまわりみたいな人がいるものすが、マロニエ君はそれとは真逆の人間で、気温の上昇とともに次第にパワーを奪われていくようで、なんでもだらだらと億劫になっています。
仕事場に買ったノートパソコンも届いたのですが、すぐに使うものなのに初期設定さえも甚だ面倒だし、もう一台自分用に買った最新のマックも、とっくに届いているというのに、まだ箱さえ開けないまま物置に放り込んでいて、このままじゃ使わないうちに型遅れになりそうです。

いまここに書いたことでそれを思い出し、またまた暗澹たる気分になってきました。
こんな時期に内田百聞の阿呆列車を読んでいると、巨匠の味わい深い文章の力もあって、なまくら気分にいよいよ拍車がかかってくるようです。


週末はあるピアニストが遊びに来てくださいました。

ピアニストが来られたら弾かないまま帰すマロニエ君ではありませんから、当然ピアノを弾いてもらいましたが、快くいろいろと聴かせていただきました。
ショパンをいくつかの他は、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスとまさに文字通りのドイツの三大Bがお並びになり、大いに楽しませてもらうことができました。

中でもブラームスでは、マロニエ君の楽譜の中から目敏くコンチェルトを見つけて、近ごろこの1番を弾いてみているとのことで、譜面を広げて少し弾いてもらいました。
これは個人的にも最も好きな協奏曲のひとつです。
ブラームスだけが持つ、仄かな影が差し込むような和声展開の美しには、思わず心が持って行かれるようです。

その後はさらに数名が合流して夕食会となりました。
ピアノは弾くだけでなく、それを基調としながら、あれこれとくだらないことまで楽しく語り合うのも大いなる楽しみのひとつです。

そのうちの一人は、最近より精密なタッチ調整をやってもらったとかで、結果はほぼ満足のいく状態になったということでしたが、ここまで来るにも優に一年以上かかっていますから、やはりピアノは根気よく「育てる」という認識を持って粘り強く接していかなければならない楽器だなあと思います。

この席には不在だった別の友人は、うらやましいことに現在フランス旅行中で、出発前からパリのピアノ工房に連絡を取ったりしている様子だったので、まかりまちがって戦前のプレイエルなんぞを買ってきやしないかとドキドキです。折からのユーロ安ですから、もしかして…。
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愛情物語

いつだったかタイロン・パワーとキム・ノヴァーク主演の名画『愛情物語』をやっていたので、録画しておいたのを観てみました。

子供のころに一度見た覚えがうっすらありましたが、主人公がポピュラー音楽のピアニストで、やたらデレデレしたアメリカ映画ということ以外、とくに記憶はありませんでした。
1956年の公開ですから、すでに56年も前の映画で、最もアメリカが豊かだった時代ということなのかもしれません。ウィキペディアをみると主人公のエディ・デューチンはなんと実在のピアニストで、その生涯を描いた映画だということは恥ずかしながら今回初めて知りました。

あらためて感銘を受けたのは、この映画の実際のピアノ演奏をしているのがあのカーメン・キャバレロで、彼はクラシック出身のポピュラー音楽のピアニストですが、昔は何度か来日もしたし、まさにこの分野で一世を風靡した大ピアニストだったことをなつかしく思い出しました。

最近でこそ、さっぱり聴くこともなくなったキャバレロのピアノですが、久々にこの映画で彼の演奏を聴いて、その達者な、正真正銘のプロの演奏には舌を巻きました。指の確かさのみならず、その音楽は腰の座った確信に満ちあふれ、心地よいビート感や人の吐息のような部分まで表現できる歌い回しが実に見事。まさにピアノを自在に操って聴く者の感情を誘う歌心に溢れているし、同時にその華麗という他はないピアニズムにも感心してしまいました。

タイロン・パワーもたしかある程度ピアノが弾ける人で、実際に音は出していないようですが、曲に合わせてピアノを弾く姿や指先の動きを巧みに演じてみせたのは、やはりまったく弾けない俳優にはできない芸当だったと思います。

映画の作り自体は、もうこれ以上ないというベタベタのアメリカ映画で、その感性にはさすがに赤面することしばしばでしたが、きっと当時のアメリカ人はこういうものを理想的な愛情表現だと感じていたのだろうかと思います。

画面に出てきたピアノはボールドウィンが多かったものの、一部にはニューヨーク・スタインウェイも見かけることがありましたが、実際の音に聞こえるピアノが何だったのかはわかりません。
ただ、この当時のピアノ特有の、今では望むべくもない温かな太い響きには思わず引き込まれてしまい、こんなピアノを弾いてみたいという気になります。

今から見てヴィンテージともいえそうな時代には、ボールドウィンやメイソン&ハムリンなど、アメリカのピアノにも我々が思っている以上の素晴らしいピアノがあったのかもしれません。

今でもそんな豊かな感じのするピアノがアメリカには数多く残っているのかもしれません。
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EX-L登場!

新シリーズに移行したシゲルカワイ(SKシリーズ)では、EXは果たしてどのようになるのか、刷新されるのか、別の流れなのか、その動きをなんとなく傍観していたのですが、なんと、SK-EXはすでにラインナップから消えていることがわかりました。

はじめにあれっ?と思ったのは、北九州にまもなくオープンするひびしんホールですが、そこには3社のピアノが納入されるということで、スタインウェイDとヤマハのCFX(九州初納入?)、そしてカワイのコンサートグランドが納入される由でした。
カワイのピアノ開きのコンサートのチラシを見ていると、及川浩治さんの演奏でピアノのお披露目リサイタルが催されるものの、ピアノは単に『KAWAI EX』としか記載されていません。

てっきり、スタインウェイDとヤマハCFXを入れるので、カワイは格落ちの従来型EXなのかと思っていたところ、どうもそうではないようでした。

シゲルカワイの新しいカタログにもSK-EXの姿はなく、あくまでSK-7がシリーズ最高機種として扱われており、それはホームページを見ても同様で、SKシリーズとしてはSK-2からSK-7に至る5機種で完結しています。ところがその横のコンサートグランドには『EX-L』という見慣れぬ文字があり、???と思ってそこをクリックしてみると、なんとEX-Lという名の新しいコンサートグランドが登場しており、ボディ垂直面の内側には新SKと同様のバーズアイの木目が貼られた、新SKシリーズで先行した仕様になっています。

価格もヤマハとまったく同じ19,950,000円!
さらには全長も新SKと同様に2cm伸びて278cmになっています。
しかし、なによりも最も驚いたことは、SK-EXの場合はサイドにまで入れられたくねくねしたムカデみたいなロゴと、何の意味も見出せないピアノ形のなかにSKという二文字を入れただけの稚拙なマークが廃止され、伝統的な「K.KAWAI」がドカンと復活している点でした。

K.KAWAIは言うまでもなくカワイ楽器の創設者にしてピアノ設計者の河合小市を意味するもので、これは昔からカワイのグランドピアノだけに与えられた表記でした。そしてこの新しいコンサートグランドでは、サイドにはシンプルにKAWAIの文字が遠目にも見えるように大きく輝いており、もともとこうあるべきだと以前から思っていたので、そのことは「マロニエ君の部屋」にも書いている通りでしたが、まるで願いが叶ったようでした。

これをもって、カワイのグランドピアノの頂点に位置する旗艦モデルは、あくまでもK.KAWAIであるというヒエラルキーになり、シゲルカワイはレギュラーモデルの脇に立つスペシャルシリーズという位置付けになったようです。
海外のコンクールでも、あのロゴマークだけはどうしようもなく恥ずかしかったので、今後は堂々と、あらゆるシーンで胸を張って活躍して欲しいものだと思います。
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転勤

世に言う「転勤」というものは、友人知人を通じて身近に接してみると、やはりなかなか厳しいものだなあというのが率直な印象です。
なにしろ行き先もその時期も、自分の意志とは無関係に事は決していくのですから大変であり苛酷です。

ごく最近も親しい友人が東京勤務を命じられ、長年住み慣れた土地を離れることを余儀なくされて、先日お別れ会というほどではないけれども食事などを共にしました。
なんでも、来月の上旬には新しい職場に出社していなくてはならないそうで、この間わずか一ヶ月ほどという慌ただしさですが、それでも内々に教えてくれた上司のお陰で通常よりも早くその事を知り得たのだそうで、本来ならわずか2週間ほどしかないとか。あらためてすごいなあと思いました。

電力会社に勤めている別の友人も、昨年の震災からほどない時期の東京へ移動を命じられて大変驚いたものでした。あまつさえ彼は自宅を新築している最中で、その竣工を待たずして妻子を残して単身上京の運びとなりました。
しばしば帰省しているようではありますが、せっかくの新居ができて早一年が経つというのに、まだまとまった時間をその家で過ごしたこともないらしく、もうしばらくは帰れそうにないというのですから、なんとも気の毒な気分になります。

マロニエ君は職業柄、サラリーマンではないので転勤という上からのお達しによって、突如まったく違う土地へ有無を云わさず引っ越しをさせられるといった事がないために、自分の経験としてその感覚がわかりません。
準備期間らしきものはほとんどなく、しかも命令は絶対でしょうから、まさに生活そのものを竜巻にでも持ち去られるごとくで、それまで築き上げた本人や家族のさまざまな人間関係まで、一気にむしり取られてしまうのは、考えれば考えるほど苛酷なものだと感じます。

今どきは、事柄においては異常な程、さまざまな人の権利が声高に叫ばれる時代になりましたが、どうもこの転勤という社会の慣習だけは一向に変化の兆しがないようです。

そういう意味では、保守的で前時代的でもあり、自らの意志によって一箇所に安定して深く根を下ろした生活を営んでいくことは現実的にできないことでしょうし、サラリーマンになるということは、それを含めた覚悟までがセットのようなものだろうと思います。転勤に関しては昔の武士がいつでも腹を切るがごとく、日頃から転勤命令を想定しておく必要があるのでしょう。

ついでながら、転勤事情にまるきり無知なマロニエ君にしてみれば、とくに根拠もなく、転勤といえば春秋の一定期間におこなわれる事で、とりあえずその時期を過ぎればまた半年はその心配(もしくは希望?)がないものと思っていましたが、これら友人の状況を見ても明白なように、彼らはいずれもいかにも中途半端な時期に移動を命じられているわけで、これは要するにいつ転勤を言い渡されるかは、年がら年中いつでもその可能性があるということらしいというのがわかりました。

慣例に従えば、2、3年でまた移動になる可能性もあるということで、こちらに復帰することもあるでしょうから、それまでしばしのお別れです。
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吉田秀和翁

音楽評論の大御所にして最長老であった吉田秀和さんが亡くなられたそうです。
御歳98だったとのこと、まさに天寿を全うされたわけでしょう。

最後まで現役を貫かれたことは驚くべきで、レコード芸術の評論をはじめ、氏の文章には長きにわたってどれだけ触れてきたか自分でも見当がつきません。
テレビにも折に触れて出演されましたが、老境に入ってからドイツ人の奥さんが亡くなったときは生きる希望を失い、自殺も考えたというほどの衝撃だったというようなことも語られていたのが今も印象に残っています。

それでもやがてお仕事に復帰され、執筆活動はもとよりNHKラジオの番組(題名は忘れました)は40年以上にも渡って継続して番組作りから司会までこなされるなど、その深い教養と尽きぬエネルギーにはただただ敬服していたものです。

また東京芸大と並び立つ、日本屈指の音大である桐朋学園は、この吉田さんや斎藤秀雄さんの尽力によって「子供のための音楽教室」としてスタートし、吉田さんはここの初代室長を務められるなど、いわば桐朋の生みの親でもあるといえるでしょう。
ここから小沢征爾、中村紘子など後の日本の主だった音楽家が数多く巣立っていったのは有名な話です。

私事で恐縮ですが、マロニエ君が子供の時、この桐朋の「子供のための音楽教室」の福岡での分校のようなところで音楽の勉強の真似事のようなことができたのはとても懐かしい思い出です。

吉田さんが日本の音楽界に与えた功績はとても簡単には言い表すことのできない規模のもので、優秀なオーケストラとして名高い水戸室内管弦楽団を結成したり、音楽を超えたジャンルにまで及ぶ吉田秀和賞の創設など、言い出すと知らないことまで含めてとてつもないものだろうと思います。

しかし、マロニエ君が最も吉田さんの仕事として尊敬尊重していたのは、やはり音楽評論という氏の本業の部分であって、その人柄そのもののような穏やかで格調高い文章、音楽評論という場において日本語の美しさをも同時に紡いで表現されたその文体は、気品に満ちた独特の吉田節のようなものがあり、これは誰にも真似のできないものだったと思います。

吉田秀和といえばあまりにも有名なのが、初来日したホロヴィッツの演奏を聴いて、その休憩時間にテレビインタビューに応じられた際のコメントでした。覚えているのは「彼はもはや骨董品になったな。骨董品は価値のある人には価値があるが、ない人にはもうない。ただしその骨董品にもヒビが入った。もう少し早く聴きたかったな。」というものでした。
まったくの記憶だけで書いているので、多少違っているかもしれませんが、ほぼこのようなコメントだったことを覚えています。

この寸評はたちまち世に喧伝され、ついにはこの神にも等しい世紀の大ピアニストに対していささか不敬ではないか?という論調まであらわれたのを覚えています。しかし、マロニエ君は頑として吉田さんの意見に賛成でしたし、彼はまったく正しいことを言ったのだと思い続けたものでした。

この時のホロヴィッツはそのカリスマ性、伝説的存在、魔性、突然の来日、当時(1983年)5万円也のチケット代など、なにもかもが話題沸騰という状況で、そんな中をついにこの圧倒的巨匠がNHKホールのステージに姿をあらわしました。プログラムにもそれまで彼のレパートリーにはなかったシューマンの謝肉祭があるなど、テレビの前に陣取るこちらも高ぶる期待に胸を躍らせながら、その画面を固唾を呑んで見つめたものです。

しかし、その演奏は呆気にとられるような無惨なもので、この状況にあっては吉田さんのコメントはきわめて妥当で誠実、むしろ知的な抑制さえ利かせたものだったと思いますし、むしろ不自然なほど素晴らしい!と褒めちぎる日本人ピアニストなどの発言のほうがよほど偽善的で、そんなことを平然と言ってのける人の神経のほうを疑ったものです。

今は音楽批評とはいってもいろんな制約に縛られており、おまけに半ばビジネス絡みでやっているようなものですから、大半の批評はマロニエ君はもはや信頼していません。そして最後の良心の象徴であった吉田さんが亡くなられたことで、ますますこの流れに歯止めがかからなるような気がします。

いずれにしろ吉田さんの著作や生き様はいろいろと勉強になった上にずいぶん楽しませてもいただいたわけで、ご冥福をお祈りすると共に謹んで御礼を申し上げたい気分です。
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