2つのオペラ

このところテレビ放映されたオペラを2つ観ました。
…正確には1つとちょっとと云うべきかもしれません。

ひとつはボリショイ劇場で上演されたグリンカのオペラ『ルスランとリュドミラ』。
序曲ばかり有名なわりには、一度も本編を観たことがなかったのでこれはいい機会と思って見始めたところ、どうしようもなく自分の好みとは相容れないものが強烈だったために、全体で4時間に迫るオペラの、わずか30分を観ただけで放擲してしまいました。

これでもかとばかりのくどすぎる豪華な舞台には優雅さの気配もなく、音楽もなんの喜びも感じられないもので、とりあえずDVDには録画して、いつかそのうちまた…という状態にはしたものの、たぶん観ることはないでしょう。
ちなみに開始前の解説によると、初演に臨席したロシア皇帝ニコライ一世もこの作品が気に入らず、途中退席してしまった由で、いかにもと思いました。

いっぽう、6年という期間をかけて全面改修成ったボリショイ劇場ですが、建造物はともかくとして、新たにスタートした新しい舞台の数々には共通したものがあって、これがどうしようもなくマロニエ君の趣味ではありません。

以前も同劇場の新しい『眠りの森の美女』をやっていましたが、このルスランとリュドミラと同様の違和感を感じました。とくにやみくもに豪華絢爛を狙い、深みや落ち着きといったもののかけらもないド派手な装置や衣装は、目が疲れ、神経に障ります。新しいということを何か履き違えている気がしてなりません。

もうひとつはフランスのエクサン・プロバンス音楽祭2011で収録された『椿姫』でした。
マロニエ君は実はこの演目の名を見ただけで、あまりにもベタなオペラすぎて観る気がしないところですが、エクサン・プロバンスという名前にやや惹かれてつい観てしまいました。

というのもこのオペラの有名なアリア「プロヴァンスの海と陸」の、そのプロバンスで上演された椿姫ということになるわけですね。椿姫の恋人であるアルフレードはプロバンスの出身という設定で、第2幕ではヴィオレッタとの愛に溺れた生活を送る息子を取り返しに来たアルフレードの父親が、故郷を思い出せという諭しの意味を込めながらこの叙情的な美しいアリアを歌います。
あらためて聴いてみると、しかしこのアリアはやはり泣かせる名曲だと思いましたが、椿姫そのものが、全編にわたって名曲のぎっしり詰まった詰め合わせのようだと思わずにはいられませんでした。

ナタリー・デセイの椿姫、アルフレードはチャールズ・カストロノーヴォと現在のスター歌手が揃います。さらにはアルフレードの父親はフランスの名歌手リュドヴィク・テジエ、しかもフランスで上演されるオペラなのにオーケストラはなぜかロンドン交響楽団というものでした。

ジャン・フランソア・シヴァディエによる演出は、ご多分に漏れず舞台設定を現代に置き換えた簡略なもので、マロニエ君はこの手のオペラ演出を余り好みません。
やはり筋立てや出演者のキャラクターが、現代にそのまま置き換えるには随所に齟齬を生み、違和感があり、説得力がないからで、それは音楽においても舞台上の進行との密接感が損なわれるからです。

このような現代仕立ての演出の裏には、伝統的なクラシックな舞台を作り上げるためのコストの問題があるらしく、非日常の享楽であるべきオペラの世界までもコストダウンかと思います。
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楽器と名前

ストラディヴァリやグァルネリのようなクレモナの由緒あるオールドヴァイオリンには、それぞれに来歴やかつての所有者にちなんださまざまな名前が付いています。

そのうちの一挺である「メシア」は数あるストラディヴァリウスの中でも、ひときわ有名な楽器で、それは300年もの年月をほとんど使い込まれることもなく、現在もほぼ作られた当時のような新品に近い状態にある貴重なストラディヴァリウスとして世界的にその名と存在を轟かせています。
「メシア」の存在は少しでもヴァイオリンに興味のある人なら、まず大抵はご存じの方が多いと思われますし、マロニエ君ももちろんその存在や写真などではお馴染みのヴァイオリンでした。

現在もイギリスの博物館の所有で、依然として演奏されることもなくその美しい状態を保っているようですが、その美しさと引き換えに現在も沈黙を守っているわけで、まずその音色を聴いた人はいないといういわく付きのヴァイオリンです。

高橋博志著の『バイオリンの謎──迷宮への誘い』を読んでいると思いがけないことが書かれていました。それは「メシア」という名前の由来についてでした。

19世紀のイタリアの楽器商であるルイジ・タシリオはこの美しいストラディヴァリウスの存在を知って、当時の所有者でヴァイオリンのコレクターでもあったサラブーエ伯爵に直談判して、ついにこの楽器を買い取ることに成功します。
普段はパリやロンドンで楽器を売り歩くタシリオですが、この楽器ばかりは決して売らないばかりか、人に見せることすらしなかったそうです。自慢話ばかりを聞かされた友人が「君のヴァイオリンはメシア(救世主)のようだ。常に待ち望まれているが、決して現れない。」と皮肉ったことが、この名の由来なんだそうです。

あの有名な「メシア」はそういうわけで付いた名前かということを知って、ただただ、へええと思ってしまいました。

ピアノはヴァイオリンのような謎めいた楽器ではありませんけれども、古いヴィンテージピアノなどには、このような一台ごとの名前をつけると、それはそれで面白いかもしれないと思います。

そう考えると、自分のピアノにもなにかそれらしき根拠を探し出して、いかにもそれらしき名前をつけるのも一興ではという気がしてしまいました。自分のピアノにどんな名前をつけようと何と呼ぼうと、それはこっちの勝手というものですからね!
巷ではスタインウェイを「うちのスタちゃん」などと云うのが流行っているそうですが、せっかくならもうちょっと踏み込んだ、雰囲気のある個性的な名前を考えてやったほうが個々の楽器には相応しいような気もします。

名前というのは不思議なもので、モノにも名前をつけることでぐっと親密感が増し、いかにも自分だけの所有物という気分が高まるものです。こういうことは度を超すとたちまちヘンタイ的ですが、まあ、ひとつふたつの楽器に名前をつけるくらいなら罪もないはずです。

みなさんも気が向いたらピアノに素敵な名前をつけてみられたらどうでしょう?
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基本は同じでも

先週末はフランス車のクラブミーティングがあってこれに参加しましたが、この日はとくに同一車種が集合するというテーマが設けられ、とくに該当する車種だけでも5台が集まりました。

さて、同一車種が5台とは云っても、実は1台として同じ仕様はなく、エンジン、ボディ形状、サスペンション、A/T、生産時期などがすべて異なり、各車のテストドライブではそれぞれの違いが体感できて、貴重な体験となりました。

クルマ好きが集まっての「車前会議」が思う様できて、なおかつ自由に試乗もできる環境ということで、昔からしばしば利用している福岡市西区の大きな運動公園の駐車場が今回も会場となりました。
ここは広大な敷地があって、出入り自由な駐車場も第3まである余裕の施設で、おまけに駐車場は美しい芝生になっているので、このような目的には恰好の場所となっています。

同一車種であるために、5台の基本的な成り立ちはもちろん共通していますが、上記のような仕様の違いは車にとって無視できない違いを生み出しており、一長一短、それぞれに個性があって、こんなにも違うものかと思いました。

なんとなく、これはピアノにも共通していると思われることでした。
基本が同じ設計のピアノでも、材質や使われるパーツの仕様、技術者の違い、管理の仕方によってほとんど別物といっていい差異が生じるのは、むしろ車どころではないという気もします。

とくにピアノで大きいのは技術者の技量と仕事に対する姿勢、そして管理による優劣だろうと考えられます。
ピアノは車のような純然たる工業製品でなく、楽器というデリケートかつ曖昧な植物のような部分を多く内包しているため、技術者の技術力とセンスに多くを委ねられているわけです。

車や電気製品なら機能も明確で、故障や不調は明瞭な現象としてあらわれますが、ピアノのコンディションはきわめて微妙な領域で、判断そのものからして専門的になるので、どこからを好ましからざる状況だと判断するかは価値観によるところもあって大変難しいところといえるでしょう。

好調不調のみならず、そこには好みの問題も加味され、これを受け止めつつ常時ある一定の好ましさに維持するのは、もっぱら技術者の腕ということになりますし、どこまで要求し納得するかは使い手の精妙なるセンサーに頼るしかありません。
さらには、いかに使い手が一定の要求をしても、一向にそれを解さず、あるいは面倒臭がって仕事として着手しない技術者が少なくないのも現実ですし、逆にそういう領域にまで踏み込んだ高度な調整を施しても、まったくその価値に鈍感な使い手もいたりと、このあたりがピアノという楽器のもつ難しさなのかもしれないという気がしてしまいます。

車ぐらいの分かりやすさがあれば、必然的にもっと素晴らしいピアノの数も増えることだろうと思います。
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H.J.リム-3

思いがけずマイブームになってしまったH.J.リムは、驚くべきことに、なんとベートーヴェンのソナタ全集(ただし第19番、第20番を除く)を完成させているといいますから、もしかしたら、この若いピアニストが、ウー・パイクでコケてしまった韓国人のベートーヴェンで名誉挽回するのかもしれず、懲りもせず購入検討中です。
発売は5月下旬(つまり間もなく)の由。

ちなみにネットで見るジャケットには「BEETHOVEN COMPLETE PIANO SONATAS」と書かれていますが、上記の2曲が抜けているにもかかわらずCOMPLETEと書くのは、ソナタは30曲と見なしているという意味なんだろうかと思いました。
たしかにこの2曲はソナチネだといわれたらそうなんですが…。

ともかく優等生タイプもしくはコンクールタイプの多い今の時代に、このような個性溢れる情熱的なピアニストが出現したことを素直に喜びたいこの頃です。

最後になりましたが、使用ピアノについて。
ライナーノートのデータによれば、この演奏はすべてスイスでおこなわれ、ピアノはヤマハのCFXが使われています。ピアノに関しては過日のチャイコフスキーのコンチェルト同様に、やはりちょっと違和感があって、まったくマロニエ君の好みではなかった点は残念でした。

やはりというべきは、CFXは非常に美しい音のピアノだとは思いますが、いかんせん表現の幅が感じられません。大曲や壮大なエネルギーを表現する作品や演奏になると、たちまちピアノがついていかないという印象がますます拭いきれなくなりました。
整音や響きの環境の加減もあるとは思いますが、強烈な変ロ長調の和音で開始されるハンマークラヴィーアの出だしを聴いたら、このピアノの懐の浅さがいきなり飛び出してくるようでした。
フォルテ以上になったときの楽器の許容量が不足しているのか、この領域ではこのピアノの持つ美しさが出てこないばかりか、いかにも苦しげな音に聞こえます。
金属的というよりは、ほとんどガラス繊維が発するような薄くて肉感のない音で、ときに悲鳴のように聞こえてきて、それがいっそうH.J.リムの演奏を誤解させるもとにもなったように感じました。
音そのものがもつヒステリックで破綻した感じが、まるで演奏者のそれであるかのようにも聞こえます。

H.J.リムがベートーヴェンの録音にCFXを使った意味はわかるような気がします。
いかにも先端的で多感な彼女のピアニズムには、いわゆるドイツ系のピアノよりはヤマハのような新しい感性で作られたピアノのほうが相応しいだろうというのは理解できるところです。
とりわけ軽さとスピード感はヤマハの優秀なアクションだけが達成できる領域かもしれません。

というわけで、このところのいろいろな演奏を聴いて、CFXの弱点も少し露見してきたように感じているところです。はじめは感心したメゾフォルテまでの美しさにくらべて、フォルテ以上になるといきなりアゴをだしてしまうのはいかにも情けない。さらに言うと、その美しさには憂いとか陰翳がなく、いかにも単調でイージーな美しさであることがやや気にかかります。
ここまで高性能なピアノを作ったからには、却ってあと一歩の深さ豊かさがないところが悔やまれます。
今の状態では、俗に言う「大きな小型ピアノ」の域を出ないという印象ということになるでしょうか。

このCDのレーベルはEMIですが録音はなかなかよかったと思います。
すくなくと駄作続きのDECCAなんかにくらべると、まったく次元の異なるクオリティを有していると思いますし、それだけに演奏の新の魅力や価値、ピアノの性能などもよく聞き取ることができたように思います。
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日曜剪定

夏を前にして、植木の剪定を頼まなくてはと思っていたところ、友人が「おもしろそうだから切ってやる」と言い出したことがきっかけで、まずは自分達でやってみることになりました。

平凡な植木ですが、それでも年月と共にだんだん大木然とした風体になり、せっかく刈り込みをしていても、一年も経つと枝葉はすっかり伸びて生い茂り、気がついたときにはかなり暑苦しい状態になってしまいます。
植物の生命力、とりわけ春先の樹木の繁茂は目を見張るものがあり、日ごとに確実に日陰の量を増大させてくるのは脅威的ですらあります。植物の成長には目に見える動きもなければ、むろん音もなく、それでいて全体が同時進行的に生きているので、そのぶんのえもいわれぬ不気味さを感じます。

…しかしものは考えようで、震災以降は深刻な節電が叫ばれるご時世となり、去年あたりからでしょうか「緑のカーテン」などという言葉を良く耳にするようになったので、今年は枝葉が伸びることを逆手にとって、少しでも暑さしのぎになればとやや前向きに考えるようにもなりました。

とは云っても、本格的な夏になれば、多少の木陰があろうがなかろうが、暑いことには変わりはないでしょうが、それでも直射日光に焼かれ続けるよりは僅かな違いはある筈で、気休め程度にはなるのかもしれません。
とはいえ放っておいたらとんでもないことになるのはわかっているので、やっぱり少しは手を入れないとこのまま伸び放題に委せるわけにもいきません。

マロニエ君は自慢じゃありませんが、まるでアウトドア派じゃないし、土いじりも植木いじりもべつに好きではないので、剪定が楽しいなどという意識は皆無なのですが、それでも最低限やらざるを得ないものは仕方がありません。本来なら本職に委ねるべきところですが、幸い友人が酔狂なことを言ってくれるので運動を兼ねて遊び半分にやってみることになりました。

友人が木に登ることを前提に、命綱なんぞというものを持ってきたのには一驚しましたが、万一のことがあったら取り返しがつかないし責任が取れないので、そんなものが必要なところへ登るのは絶対にないように言い含めて、手近にできるところから植木屋の真似事のようなことを始めました。

我が家には電動ノコギリの類は恐いのでひとつもなく、折り畳み式のノコギリと剪定用の大きな鋏で不要な枝葉を切り落とすなどしましたが、これが意外にもスイスイと良く切れるのは感心します。

日曜はとりあえず2回目の作業となり、のべ数4、5時間の作業でだいぶ見た感じはスッキリしましたが、あと1回は来てもらわなくてはならないようです。
それはいいとしても、あちこちの木の下には切り落とされた枝や葉が山のように積み上げられて、さてこれをどう処分するかが目下の課題です。
これまでの経験では、植木屋に頼んでも支払う金額の過半を占めるのは切った枝葉の処理に要する費用だと云っていましたし、今どきはこれを焚き火にして灰にしてしまうこともできません。

いろんなことが窮屈な時代になったものですが、ともかくいい運動になりました。
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続・ハンマー実験

ずいぶん長いこと抱えていた音への不満が、ハンマーをたったひとつ取り替えてみただけで大きく変化するなんて、当たり前かもしれませんが、正直言って思ってもみないことでした。

今ついているハンマー(純正)も決していいものではないだろうとは思っていたものの、その原因はもっと広範囲にわたっているだろう…つまりボディなど別の部分にも広がっていることだろうと思っていたわけで、要は「このピアノはこんなもの…」という諦めが先行して、単純なこの結果にかなり驚いてしまいました。

調律時に引き出されるアクションを見るたびに、そこにずらりと並ぶハンマーがやや小ぶりではないか?という一抹の疑いは常に抱えていたのですが、やはりその点は間違いではなかったようで、おととい調律師さんが持ってこられたレンナーのハンマーは全体に少し大きいようでした。

ただしここで解決の兆しを見せたのは音の問題だけで、ハンマーの変化(とくに質量)によってタッチなどはまったく変わってしまうわけでその問題が残ります。ハンマーのわずかなサイズの増大でも、確実にタッチは重くなり、それに見合うバランスを取るには鉛詰めなどあれこれの調整を必要とするわけで、つまりこのハンマーがただちに我がピアノに向いているかどうかというのは、よくよく慎重な検討と判断を必要とすることのようです。

というわけで、もとのハンマーに戻されることになり、調律師さんはせっせと整音作業をやっておられます。
しかし、マロニエ君にしてみれば、ひとつだけ付け替えたハンマーが生み出す厚みのある音にすっかり惚れ込んでしまって、いまさら好みでもないこれまでのハンマーにいくら整音なんかしたってムダなような気分に陥ってしまいますが、せっかくやってもらっているものをそうも言えません…。

さて、そのレンナーのハンマーはといえば、机の上に置かれた小さな段ボール箱の中に、ちゃんと一台分が揃っており、しかも、特に使う予定はないというところがなんとも悩ましいではありませんか。
なんでも、自分の工房にあるコンサートなどに使っているピアノ(セミコン)のために取り寄せたものだそうですが、好みとは合わなかった為に、アベル(別のメーカー)のハンマーに再び付け替えてしまったので、このハンマー一式は宙に浮いている状態らしいのです。

マロニエ君にしてみれば、現状に比べたら遙かにいい音だったので、もうこれでいいから交換して欲しいと思ったのは自然な流れでした。
しかし、調律師さんというのはどなたもそうですが、技術者としての自分の拘りや厳格な判断基準をもっているもので、すぐに「はい承知」というわけにはいかないようです。

タッチの問題やら、万一気に入らなかった場合に元に戻せるようにする処置のこととか、さまざまなお考えがあるらしく、こちらからすればなかなかじれったいものです。
それでも易々と引き下がるマロニエ君ではありませんので、せいぜい説き伏せて、なんとかこのハンマーを使えないかと迫ったところ、とりあえず検討してくださることになりました。

ということで突如降って湧いたようなハンマー交換作戦となりそうです。
はてさて、どうなりますことやら…。
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ハンマー実験

約半年ぶりでしょうか、カワイのグランドの調律に来てもらいました。

このピアノ、かねてよりマロニエ君としてはいささか気に入らない点があり、それは奥行き 2m以上と図体はそれなりに大きいくせに音にもうひとつ深みがないということでしょうか。
以前はそれを各所の調整の積み上げによって解決できないものかと考えていましたが、さんざんあれこれやってもらったもののあまり変わらず、要はこのピアノが持っている声の問題だろうということに結論づけて、最近ではほとんど諦めの境地に達していました。

いっそオーバーホールでもして、弦やハンマーを新品に取り替えればまた違った結果もでるかもしれないものの、さすがにそこまでする状態でもなく、いうなればどっちつかずの状況にいたわけです。
通常の調律はともかくとして、マロニエ君がいつも調律師さんにお願いしているのは、専らタッチと音色の問題でしたが、思いがけなくこの点に関して興味深い実験をしてもらうことになりました。

すでに製造から20有余年が経過していることでもあり、とりわけハンマーはとうに賞味期限を過ぎているものと思っていましたが、調律師さんに云わせると必ずしもそうではないらしく、要はこのハンマーのもともとの性格だろうという見立てでした。

さて、その実験というのは、ほぼ新品同様のレンナー製(ドイツの老舗メーカー)ハンマーを持参してくださり、ハンマーの違いでどうなるか、試しにひとつだけシャンクごと取り替えてくれました。
果たして、その音はこれまでこのピアノで一度も聴いたことのなかったような、太くて厚みのある力強い音が現れ、まわりの薄っぺらな音とはまるで違っているのは率直に驚きでした。実際にハンマーのサイズもひとまわり大きいし新しいぶんパワーと柔軟性を併せ持っているのでしょう。
従来どちらかというと音色に明るさのなかったカワイが、この機種からややブリリアントな方向を目指していたようですが、そのためにやや小ぶりで俊敏なハンマーを採用していたらしく、それがマロニエ君の常々感じていた不満に繋がっていたのだと考えて差し支えないようでした。

これにより、とりあえずの問題点はボディや弦ではなく、専らハンマーにあるということが裏付けられたことになりました。予想外の音が出て小躍りしているマロニエ君を尻目に、「じゃあ元に戻しますね」といわれて大きく落胆したのはいうまでもありません。

調律師さんとしては、不満の原因がどこにあるのかを確かめただけでもこのような実験をした意義があったと考えているようですが、マロニエ君にしてみれば味見だけさせてもらって、望外の美味に喜んでいるところでサッとお皿を下げてしまわれるごとくです。

合計4時間に及んだあれこれの作業は終了して帰って行かれましたが、これは悩ましいことになったと思い始めたのはいうまでもありません。

映画『ピアノマニア』でせっかく届いたハンマーが予定していたものより細いので、急遽手配をし直すというワンシーンがなぜかふと頭をよぎりました。

元に戻すのが忍びなかったのか、ひとつだけつけたレンナーのハンマーはひとまず付いたままにしてあります。…いつまでもこの状態にしておくわけにもいきませんけれど。
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難しい季節

このところやや落ち着いた感じもしなくはないものの、まだまだ今の季節は体調の思わしくない人が多いようですね。

マロニエ君もその例に漏れませんが、だいいちの問題はなんとも安定しない移り気な気温です。
暑くなったかと思うとまた少し肌寒さがあったり、そうかと思うとまた逆戻りしたり…。
しかもその暑さ寒さがいかにも中途半端で、明瞭に暑いとか寒いとかいうのではない範囲での寒暖差が発生するわけで、これがくせものです。

毎日の天気もころころと変化を繰り返すだけでなく、一日のうちでも朝夕など時間帯によって予想しなかったような温度差が生じて、こういうときにうっかりすると風邪をひきそうになりますし、それでなくても身体の調整機能がついていけません。

呆れてしまうのは、自宅にいても、部屋によってまったくバラバラな温度で、同日同時刻でもやや蒸し暑いような部屋もあれば、一転して肌寒くて上からシャツを一枚羽織りたくなるような部屋もあったりと、これはよほど気を引き締めてかからないといけません。

どこのお宅でもそうかもしれませんが、やはり二階のほうが直射日光にも近いぶん温度が上昇するものでしょうか。そうかと思うと二階でも廊下は涼しかったりするし、パソコンや電気機器の多い部屋はそれだけでも温度が微妙に違います。

それに追い打ちをかけるように、湿度にも上下の乱れがあり、個人差もあるとは思いますが、この湿度の不安定というのも体調管理の邪魔をする要因だと思われます。
まだまだあります。
この季節は中国大陸から黄砂がつぎつぎにやってきては街を汚し、車に降り積もり、人々の呼吸器にまで悪さをしているようで、マイナス要因が多岐に渡ることもこの季節を乗り切ることの難しさだろうと思います。

あまたの植物が一斉に芽吹く季節というものは、それだけ大自然の有無を言わさぬ力というものがあり、人の体の中にあるいろいろな要素も併せて芽吹かせてしまうようで、これにはもちろんマイナスの要因も含まれるであろうため、余計なものまで発芽発達して、結果として体調を崩すのではないかと思うのですが、実際のところはどうなんでしょう。

すでにピアノを置いている部屋では除湿器が日によって動き始めていますが、例年よりも取れる水の量が少なく感じるのは、合計3台取りつけているダンプチェイサーのせいだろうか…などと考えているところです。
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昨年のウチダ

少し前にBSプレミアムで昨年の内田光子の様子が放映されました。

ザルツブルク音楽祭2011からの室内楽コンサートと、3月にミュンヘン・ガスタイクホールで行われたバイエルン放送交響楽団演奏会からベートーヴェンの第3協奏曲で、指揮はマリス・ヤンソンスでした。

ザルツブルク音楽祭ではマーク・スタインバーグ、クレメンス・ハーゲンとの共演でシューベルトの三重奏曲「ノットゥルノ」ではじまり、これは高いクオリティ感にあふれた見事な演奏でした。
続いてはイアン・ボストリッジとの共演で、シューマンの詩人の恋でしたが、ウチダにはシューベルトのほうがはるかにマッチングがいい印象があり、シューマンではロマンティックな「揺れ」みたいなものが不足しており、肝心な部分での歌い込みの熱っぽさとか線の太さがなく、ややドライな印象を受けました。

ボストリッジの歌は、ひとつひとつのフレーズやアクセントがしつこすぎて、深くえぐるような表現に持っていこうという狙いなのかもしれませんが、ちょっとやり過ぎに感じられてあまり好みではありませんでした。

いっぽうのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、これも期待ほどの演奏には感じられませんでしたし、ウチダと共演すると、オーケストラのほうでも彼女の妙技を邪魔してはいけないと考えるのか、妙に力感のないエネルギー感の乏しい演奏だったのが気にかかった点です。

ウチダのピアノはいまさら云うまでもありませんが、繊細優美で格調高いことが世界でも認められているのはもちろんですが、あまりに拘りが強すぎて、あるいは己に没入しすぎて、あちこちで曲の全体像を見失いがちになることが多すぎるのは相変わらずでした。(本人はそうは思っていないのでしょうけれど)
随所に余人には到底真似のできない息を呑むような美しさがある反面、前に進むべき音楽がしばしば停滞し、彼女の独りよがりに陥って、聴く者にしばしば忍耐を強いるのはやはり疲れてしまいます。

それでも、どうかするとこれ以上ないというほどドンピシャリにピントの合った瞬間があり、理想的な優美な音楽を聴かせるあたりが、この人の抗しがたい魅力なのかもしれません。

それと、つくづくと思ったのはベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも第3番はまさに作風の上でも、ベートーヴェンが独自の個性を確立したエポックな作品ですが、演奏するのは極めて難しいものであることも再確認したところです。

曲の規模や構想の大きさのわりには音数が少な目で、大胆さと繊細さの平衡感覚がよほど緻密な人でないと、この作品をベートーヴェンらしく鳴らし切るのは大変だろうと思います。細部の表現性に拘泥するよりも、ぼってりとある意味泥臭く弾ける人のほうが向いている曲のような気もします。
第2楽章は5曲の協奏曲中随一ともいえそうな魅力と芸術性にあふれたもので、ふとこのラルゴのために前後楽章が置かれているような気さえしてしまいます。

少なくともウチダにとっては第4番のほうが遙かに彼女のテンペラメントに合った曲という気がしました。
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新SKシリーズ発表会

天神のレソラNTT夢天神ホールにて、カワイの新SKシリーズのレセプション・イベントがおこなわれ、お招きをいただいたので参加してきました。

この建物は、下にアメリカの高級デパート、バーニーズ・ニューヨークがある、現在の天神界隈でも最も新しい注目スポットという場所で、このような会場で新SKシリーズのイベントを行うということは、カワイもなかなか思い切ったことをやるものだと思いました。

街中の最も中心的な場所で新機種の発表会をするということは、いつものショールームにただピアノとカタログを置いておくのとはまた違ったインパクトもあり、売る側にも士気高揚の効果があるのかもしれません。

受付を済ませると、記念品の入った袋一式と自分のフルネームを書かれた名札を受け取りますが、こんなものを胸につけるのも恥ずかしいのでどうしようかと思いつつ、みなさんそうしていらっしゃるのでやむを得ずマロニエ君もつけることに。

5FのレソラNTT夢天神ホールには新品のSKシリーズが何台も展示され、さらにホールのステージには新SK-6が誇らしげに鎮座しています。
予定通りにお歴々のスピーチがおこなわれた後は、地元のピアニスト和田悌さんによる演奏が40分ほど行われ、それに続いて立食パーティという式次で、このパーティのスタートと同時にステージを含めどのピアノも自由に試弾できるという趣向でした。

個人的には、期待していた技術的な内容に踏み込んだ説明はほとんどなく、この点は非常に残念でした。
表現力アップのために鍵盤を2センチ長くしていることは再三強調されましたが、これにともなって全面的な設計変更かと思っていたら、やや疑問な点もいくつか残り、これは後日確認したい課題となりました。

会場はカワイの従業員の方々が勢揃いという感じもあり、お客さんのほうもカワイを愛奏する大学の先生はじめ、ピアノの先生などが主たるメンバーだったようにも感じました。

聞くところでは、新SKシリーズが販売が好調なのか、もともとの生産台数が少ないのか、はっきりとした理由まではわかりませんが、ともかく台数が足りないということでした。
ちなみにステージにあった新SK-6は、この後太宰府のショールームに置かれるのかと思っていたら、そうではなくすぐに大阪へ移動とのこと。
このピアノはコンサートで聴く限りはもうひとつ鳴りが硬いようで、これは楽器が新しい故のことかもしれません。直感的に新SKシリーズのベストバイはSK-2、SK-3、せいぜいSK-5あたりではないかという漠たる印象を持ちましたが、これはもちろんマロニエ君の個人的な感想です。

いずれにしろ、この価格帯では最高ランクのピアノだと云うことはほぼ間違いないという印象には変わりありませんでしたし、カワイもそのあたりはじゅうぶんに認識しているのだろうと思います。

いただいた袋を開けてみると、浜松のお菓子で「音合わせ」という名の、袋にピアノの鍵盤のついた焼き菓子が入っており、まるで調律師が名付け親のようなその拘りぶりというか、いかにも浜松ならではという感じについ微笑んでしまいました。
日本のピアノの聖地である浜松にも、また行ってみたいものです。
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ピアノ三昧な一日

福岡市南区にある瀟洒なギャラリーを兼ねたホール、日時計の丘でおこなわれた望月未希矢さんのピアノリサイタルに行きました。

曲はバッハのフランス組曲第6番、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番ほか。
望月さんのピアノは決して力まない自然体が身上で、清流が静かに流れ下るような演奏が印象でした。冒頭のバッハから羽根のように軽い響きの織りなす美しい音楽が会場を満たし、バッハの作品をこれほど幸福感をもって弾けるのだということを初めて体験したような気分になりました。

この小さなホールのいつもながらのふわりとした美しい響きと、1世紀を生き抜いて尚現役として音楽を紡ぎ続けるブリュートナーの美しい音色にもいまさらのように深い心地よさと覚えました。
ブリュートナーとバッハは、ライプチヒという共通項で結ばれているわけですが、なるほどこのピアノはバッハを弾くには最良の楽器のひとつと言えるのかもしれませんし、実際に耳で聴いてもそう感じずにはいられないものがこのピアノの中には密かに息づいているようでした。

バッハでは旋律にふっくらとした輪郭線が表れ、ベートーヴェンではときにフォルテピアノを思わせるものがあって、その音を聴いているだけでも飽きることがありません。
上部の窓から入る自然光がやわらかに会場を明るく照らし出す中を、心地よい音楽に包まれながら、ときに木の床を伝わってくるピアノの響きの振動が足の裏にまで伝ってくるとき、まるで自分が鳴り響く音楽の中心に身を置いているような気分になることしばしばでした。

終演後は、この日のピアニストやホールのオーナーや偶然お会いした知人らとしばし歓談して、まことに心豊かな時間を過ごすことができました。

オーナー氏の談によれば、なんでも今年の夏を皮切りに10年間にわたってバッハの鍵盤楽器のための作品の全曲演奏をおこなうという、まことに壮大なる企画が進みつつあるのだそうで、これはまた楽しみなことになってきたようです。

この日は昨年遠方に移り住んだ知人が折良く福岡に来ていましたので、コンサートの後は一緒に行った知人のご自宅へお邪魔して、ご自慢の素晴らしいスタインウェイピアノを弾かせていただきながら歓談して、外に出たときは陽が落ちて真っ暗になっているほど時間の経つのも忘れて長居をしてしまいました。

これでお開きになることなく、さらには食事にまでなだれ込み、尽きぬ話題で大いに盛り上がり、深夜遅くの帰宅と相成りました。
まさに丸一日、ピアノ三昧な一日でありました。
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H.J.リム-2

はじめはかなり違和感を感じたH.J.リムですが、繰り返し聴いているうちに、こちらの受け止め方もあるときから急旋回して、これはやっぱり面白いピアニストだと気付くようになりました。
逆に言うと、違和感を感じながらも何度も聞かせるだけのオーラがこの演奏にはあったということでもあると思われます。

その演奏の第一の特徴は、とにもかくにも灼けつくような生命感にあふれていることですが、同時に驚くべきはその例外的な集中力の高さだと感じました。この点は天賦のものがあるのは明らかで、およそ勉学や努力で成し遂げられる種類のものではなく、彼女が持って生まれたものでしょう。
ひとたび曲が始まると、どの曲に於いても彼女の並外れた感性が留まることなく動き回り、まさに曲それ自体が生き物であることをまざまざと思い知らされます。
そして一瞬もひるむことなく、終わりをめがけて一気呵成に前進していく様は圧巻で、聴く者は彼女の音楽の流れの中で彼女が辿っていく喜怒哀楽を味わい、共に呼吸をさせられます。

音楽作品というものが、そこに生まれ立ってから終結するまでを、これほど直截的に克明に描き出す演奏家はなかなかお目に掛かったことがありません。
唯一の存在といえば、あのアルゲリッチでしょう。

「どう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえない」と初めのうち思ったのも偽らざるところでしたが、にもかかわらず、何度も繰り返し聴くうちに、しだいに彼女が感じて表したい世界がわかってくるのは非常に面白い、ぞくぞくするような体験でした。
ひとつ言えることは、H.J.リムというピアニストは間違いなく、ただの演奏家ではなく独立したひとりのまぎれもない芸術家だということです。

はじめ違和感のほうが先行してしまったのは、ひとえにマロニエ君の能力不足だと恥じるところですが、やはり天才というものは初めから確固とした個性の導きによって高い完成度に達しているために、恐れを知らず、既存のものと適当に折れ合いながら徐々に自己表出していくといった、いうなれば処世術を知らないというわけでしょう。
それがまた、さまざまな反発や抵抗感を招くのかもしれません。

ひじょうにフレッシュで生々しい楽想にあふれている点が、何度も演奏されてきた使い込んだ鋳型のような解釈にきれいに収まっている演奏とは異なり、新しく独自に生まれたものは当然そんなものとはは無関係で、そういう馴染みの無さが耳をも拒絶してしまったとも言えるような気がします。

そんな決まりきった慣習から耳が解放されてくると、もう何が真実かなんてわからなくなり、むしろベートーヴェンの頭の中にはじめに浮かんだ楽想とは、むしろこういうものではなかったのか?…という疑念すら湧いてくる始末です。
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ボストンブルー

とあるピアノ店から届いたDMを見てちょっとびっくりしました。

ボストンピアノが発売20周年を記念した初の記念限定モデルの案内で、そこには紺色にペイントされたボストンのグランドピアノが大きく写っていました。
白いピアノというのはありますが、それ以外は、ふつうピアノといえば黒か木目というのが半ば常識で、そんな既成概念にパッとひとふり水をかけるような新鮮さでした。

ごく稀には白以外にも赤や緑の原色に塗られたポップなピアノを写真などで見ることはありますが、それらは到底普通の家庭やコンサートの会場で使う感じではありません。
ところがこの紺色というのは、むしろ黒に近いシックな感じの中に、黒にはないやわらかさと華やかさのようなものがあって、意外に悪くないじゃないかと思いました。

これを見て思い出したのが、本で読んだずいぶん昔の話ですが、アンドレ・クリュイタンス率いるパリ管弦楽団が初来日してついに日本のステージに登場したときに、なによりも当時の日本人をアッと驚かせたのは、オーケストラのメンバー全員が黒ではなく紺色の燕尾服を着ていたということだったそうです。

当時の(今も多少はそうかもしれませんが)常識では燕尾服は疑いもなく黒というのが当たり前で、こんな意表をつくようなことをやってのけるとは、さすがはフランス!と感嘆したのだとか。

ステージのピアノは黒が圧倒的主流ですが、浜離宮朝日ホールには木目のスタインウェイDもあるし、先日見たNHKのクラシック倶楽部でジョン・ケージの特集でスタジオに現れたのも渋い木目のD型でした。

モノはピアノですから、あまり派手なのはどうかと思いますが、このボストンブルーのような上品な色ならば、ピアノにも多少いろんな色がでてきてもいいような気がしました。
このボストンブルーの限定モデルは5種類のグランドと3種類のアップライトの各20台で、合計160台が製作されるようですが、塗装はなんと「ドイツの工場で仕上げられる」と記されていましたから、ボディをわざわざドイツに送って、また日本へ送り返してくるということなのか…だとしたら大変な手間ですね。

よく読むと「スタインウェイピアノの艶出塗装仕上げと同じクオリティの塗装を使い…」とありますが、スタインウェイの工場でという記述ではなく、ならば優れた塗装は日本でも十分可能なはずで、なぜそうまでしてドイツの工場なのかはどうも理由や経緯がよくわかりません。

まあそれはともかくとしても、思いがけなくきれいな色のピアノで、機会があればぜひ実物の佇まいを見てみたいところです。
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H.J.リム

『韓国生まれの24歳、独特な演奏スタイルと類まれなカリスマ性をもつ魅力あふれるこのピアニストは、12歳でピアノ修行のため単身パリへ渡り、韓国の家族に自分の演奏を聴かせるため、ユーチューブに演奏姿をアップしたところ、たちまち話題となり50万ビューを記録。それが音楽関係者の目にとまり、EMIクラシックスからデビューが決定しました。』

これは韓国人ピアニスト、H.J.リムのレビューの文章ですが、なんとなく仕組まれた感じの内容という気がしなくはないものの、意志的な表情をした強い眼差しがこちらを見つめているジャケットにつられて買ってしまいました。

2枚組のベートーヴェンのソナタで、29,11,26,4,9,10,13,14番の順に収められています。
冒頭の29番はすなわち「ハンマークラヴィーア」ですが、その出だしの変ロ長調の強烈な和音からいきなりぶったまげました。

極めて情熱的で、その思い切りの良さといったら唖然とするばかりで、いわゆるベートーヴェンらしく重層的に構築された堅固な音楽にしようというのではなく、H.J.リムという女性の感性だけでグイグイとドライブしている演奏でした。
マロニエ君は技巧的にも解釈の点においても、ただ整然とキチンとしているだけで、創意や冒険のない臆病一本の退屈な演奏は好きではないので、個性的な演奏には寛容なつもりですが、それでもはじめはとても自分の耳と感覚がついていけず、なんという品位のないベートーヴェンか!と感じたのがファーストインプレッションでした。

その場その場の閃きだけで野放図に演奏しているみたいで、まるでこのピアノ音楽史上に輝く大伽藍のようなソナタが、ガチャガチャしたリストでも聴いているようで、これはちょっといただけない気がしたものです。
さらに気になるのはテンポの揺れといえば聞こえは良いけれども、あきらかにリズムが乱れていると思われるところが随所にあって、表現と併せてほとんど破綻に近いものがあるとも感じました。

すぐには受け容れることができない演奏ではあったものの、しかしこともあろうにベートーヴェンのソナタをこれだけ自在に崩しながら自分の流儀で処理していく感覚と度胸には、とにもかくにも一定の評価を下すべき女性が現れたのだと感じたのも、これまた正直なところでした。
全体をとりあえず3回ずつぐらい聴きましたが、だんだん慣れてくる面もあるし、やはりちょっとやり過ぎだと思うところもあって、評価はなかなか難しいというのが正直なところです。

それにしても、やはり最も驚くべきはハンマークラヴィーアで、この長大なソナタが目もさめる手さばきで処理されていくのは瞠目に値し、長いことピアノ音楽史に屹立する大魔神のように思っていたソナタが、想像外に引き締まったスリム体型でなまめかしく目の前に現れてくるのは思わずドキマギしてしまいます。
マロニエ君の耳にはどう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえませんが、それでも音楽の要である生命感をないがしろにせず、どこを切り取ってもパッと血が吹き出るように命の感触に満ちているのは大いに評価したい点だと思います。
それにこの恐れの無さはどこから来るのかと思わずにはいられません。

実を言うと、マロニエ君は、現代の韓国はかつてのロシアとはまた違った個性で優秀なピアニストを輩出するピアニスト生産国のように思っていたところですが、そこへまた凄い個性が出てきたもんだと感嘆しているところです。
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ららら♪クラシック

日曜夜のN響アワーの後継番組とでもいうべき「ららら♪クラシック」。
先日の放送ではピアノが特集され、テーマは「もっと自由にピアノ」というもので、ショパンの名曲が主役ということになっていました。

メインゲストは小曽根真さんで、はじめに加羽沢美濃さんとの2台のピアノによる「ららら♪流ショパン」というアレンジ&即興ものでスタートしました。

小曽根真さんはこのところクラシックの領域にも関心を広げているということらしく、このあとでもop.17のマズルカをジャズ風にアレンジしたものが演奏されましたが、マロニエ君は実をいうとこの手合いがどうももうひとつ馴染めません。
ジャズピアノそのものはとても好きだし本当に素晴らしいと思うのですが(詳しくはありませんが)、クラシックの曲を素材にしてジャズ流にアレンジするというのが、たぶん自分の趣味には合わないのだと思います。
小曽根さんもたどたどしくクラシックのことをしゃべるよりは、やっぱり手の内に入った本職のジャズのことを語っている話こそ聞いてみたいと思いました。

ちなみにドミンゴやカレーラスが、ポピュラーソングなんかを胸を張りだしてアリアのように単調に歌うのも、なんかしっくりこないものを感じますし、それらはやはり本家本流の人がふさわしく歌ったほうが表現力も勝り、よほど素晴らしいと感じることと、これはどこかで通じているような気も…。

このようなジャンルを跨いだパフォーマンスを、いまどきはコラボとかなんとか、いろんな言葉で表現するようで、とりわけジャズには昔からある流儀のようですけれど。
おもしろいといえばそうなんですが、ショパンなどはやっぱりオリジナルで聞きたいという気分のほうがどうしてもまさってしまいますし、個人的には棲み分けのキチッとされた安定した世界のほうが自分は好きだなあと思いました。もちろん例外はありますけど。

そのオリジナルでは、なんと昨春若くして亡くなったタチアナ・シェバノワ女史の晩年の映像が出てきたことにも驚きましたし、15歳で初来日した折の天才少年キーシンの映像も実になつかしく思い出しながら見ることができました。
百合の花のような危うい気配を漂わせた痩身の美少年が、ときに顔を紅潮させながらショパンをまるで自分自身のことのように弾くむかしの姿を久しぶりに見ることができました。後半の協奏曲は昨年40歳の映像で、いやあ、どっぷりと肉も付いて貫禄じゅうぶん、初来日のときの2倍はあろうかという印象でしたね。

片やスタジオでは、古いスタインウェイのアクションを取り出して、その複雑な機械部分の大まかな様子や、キーに与えられた力がさまざまなからくりを経てハンマーの動きに変換される様子などが紹介され、この部分ひとつとってもピアノがいかに他の楽器とは違った精密機械の側面を持っているかということが、ごく簡単ではありましたが映像と共に説明されたのは実に珍しいことでした。

印象的だったのは、冒頭の2台ピアノによる即興演奏のときに映し出された上から撮影されたピアノ内部の映像で、互い違いに置かれた2台のCFXのフレームやボディなどから発してくる作りの美しさには目を見張るものがあり、音の好みなどはさておくとしても、このヤマハの最新鋭モデルの製品としてのクオリティの高さ、いかにも日本製品らしいその水も漏らさぬ高品質と眩しいまでの輝きには思わず唸りました。
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自分で評価

過日書いたCD「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」のライナーノートには、ピアニスト・コレぺティートア・作曲家である三ツ石潤司氏が文章を寄せているのですが、そこに書かれたものはなにも特別な事ではないけれども、大いに同意できるものでした。

とりわけ現代は音楽家の演奏もしくは音楽そのものをどれだけ評価しているかという問題提起には、強く共感させられました。
曰く、コンクールの入賞歴、著名な教育機関での成績、ハンディキャップの克服など、音楽外のことに囚われているというわけで、「どうして──略──自分自身が音楽に本当に耳を傾けて、自分自身で芸術家の音楽を評価しようとしないのだろう。」とあり、これにはまったく同感です。

いやしくも音楽好きであるならば、音楽や演奏は、予備知識よりもまずは自分の耳で聴いて、そこに自分なりの評価や好みを与えるのが至極真っ当な在り方だと思われます。

たしかにプロのコンサートやCD販売はビジネスですから、どんなに優れた演奏をする人であっても、なるほど少しは有名でなんらかの魅力がなければ始まらないでしょう。
だからといって、演奏の質よりとにかく有名度のほうがはるかに重要視されている現状には、さすがに呆れかえってしまいます。有名ということは、そんなにもすべてに優先するほど大事なことなのか!と。
尤もこれは音楽に限ったことではありませんが。

もちろん少しは存在が知られなくては、普通の人が演奏を聴くチャンスもないというものですが、有名になるきっかけそのものが、その人の本業ではない要素に根ざしていたりするのはどうしようもない虚しさを感じてしまうもの。せめてステージに立ったりCDを出すようになれば、そこから先は演奏内容によって評価が下されるべきだと思いますが、現実はかなり違った要素で事は進行しているようです。

どんなに質の高い見事な演奏をしても、最終的にそれを認められるという拠り所がなくては演奏する側にしても精進のし甲斐がないわけで、結局はそれが演奏の質、あるいはコンサートの質を高めることにも直結することだと信じたいところです。

しかしながら、現実にはコンクール歴や容姿を元手にして、いかに巧みなコマーシャリズムに乗るかということが成功の鍵を握っているようで、聴衆が自分の耳で聴いて判断するという最も本来的なことが、あまりにも失われているように思われます。
芸術の世界こそ真の実力主義であるべきところを、それほどとも思われないような一部の顔ぶればかりが、あいもかわらず少ない市場を牛耳っているのはどうにも納得がいきません。

そんなことを思っていたら、お次はやたら世間ズレしたジュニアが出てきて、目下たいへんな勢いで売り出し中のようです。すでになにもかも心得たような笑顔、いかにも今風な計算された口調や振る舞いには、演奏家のタレント化もついにここまできたのかと思わずゾッとしてしまいました。
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続・皿交換

目の前で盛大におこなわれる皿交換は、悪いことではないかもしれませんが、同席者に一定の何かの感触を与えるという事実。

もちろんパフェなんかをちょっと一口ぐらいならどうということもありませんが、ある程度食べ進んだ皿をそのままドカッと交換するのは、どこか凄味があり、目の前でやられるとちょっとヒエッと思ってしまいます。

こう感じるのは、かねがねマロニエ君だけではないはずだと思っていましたが、この点を余人に確認したことはありませんでした。
そこであらためて友人などに折あるごとに聞いてみると、案の定、イヤでたまらない、あれはやめてほしい(中には笑える)という人が数人いましたね。しかも口々に待ってましたとばかりその事に関する、これまでにたまりにたまった不平不満をぶちまけはじめます。
夫婦でも「自分達は絶対しない!」と断言する人もいて、ははぁやっぱりなあと思いました。

特につらくなるのは、麺類や丼物、中にはカレーライスまでも食べている途中で器ごと交換する人達で、こういうことにめっぽう弱い友人のひとりは「カレーライスなんて、自分が食べていても途中で汚い感じに思えてくるのに、ましてや…」とガクガクしながら言っており、なるほどなあと納得しつつ笑えました。

これがもし欧米人あたりなら、どうせ彼らは公衆の面前で平気で抱き合うような民族性ですから、あるいはサマになるのかどうかわかりませんが、少なくとも日本人には向かないというか、それを目の前で見せられるのはできれば御免被りたいものです。

そもそも日本人は、むしろそういうことははしたない事として厳に慎む側の民族で、人前では内外(うちそと)の区別をつけるというけじめといいましょうか、分別あるメンタリティにこそ日本人の品性や美しさがあらわれているとマロニエ君は思うのです。
そんな日本人でも許せるとすれば、子供か、せいぜい二十歳前後までで、あとはちょっと…。

失笑なのは、絵になりそうな美男美女ならまだしも、むしろその逆の人達にかぎって街中でもことさらべたべたして歩いてみたり、こういう皿交換みたいな行為をやりたがるようで、何かそれが心理的な空白の埋め合わせであったり、精神的な取り戻しをしているのでは?とも思います。
もしかしたら、心理の奥底には、そういう行為を他者に見られているということに一種の満足を感じているのかもしれないというような気がしなくもありません。

だとすると皿交換も一種の心理的要因を含んだ行動ということになるのかもしれず、だからこそ見ているほうも「わっ」と思ってしまうのかもしれませんね。
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皿交換

「食べ方」に関する事は、意外に気にかかる場合があるものです。

この手のことは、あまり神経質になってはいけないのでつとめて大雑把な気分を維持するように心がけていますが、それでも、これだけはちょっと…と(内心で)ため息が出るものがあります。

よく夫婦やカップルなどで行われる行為で、互いに別の料理を注文しておいて、途中まで食べた皿をあるタイミングで互いに交換してその続きを食べるというものですが、あれは見る側としては、ちょっとなぁ…という感じです。
当人達にしてみれば、途中でチェンジすればお互い二度おいしいということかもしれまないし、さらには好き嫌いや量の調整もできるということか、はたまた気分的にそういう行為そのものを楽しんでいるのか…。

ご当人達は夫婦であれなんであれ、特定のカップルということで、世間もこれをごく自然なノープロブレムな行為として受け止め、周囲の目からも許容されているというふうに思っているのか、あるいはさりげない主張の要素を含んでいるのか、そこのところはよくわかりません。

しかし、同席者にとっては本人達が思っている以上に、ある種の抵抗感を覚えている人が多いことは事実のようです。

まあ、よほど若くて初々しい二人が可愛くやっていれば、まだいくらか絵にもなるというものですが、どっかりした中年以上のペアがこれを人前で堂々とやってしまうのは、他人にとってその光景はどうででょう…。

ときには夫婦親子兄弟が縦横無尽に食べ物をやったりとったりしているファミリーなどもいて、まあそれだけ仲が良くて結構だと云えばそれまでかもしれませんが、他人と同席する食事の席上でカップルがこれをやってしまうと、場合によっては抵抗感を喚起させるだけでなく、単純なマナーの点からいってもそうそう褒められたものではないような気がします。
この行為は、「する人達」と「しない人達」にハッキリと二分されていて、一種のクセとかというか生活習慣といえばそうなのかもしれません。しかし、こういう事を他人の面前でためらいもなく平然とやってのける人というのは、どちらかというと美意識とデリカシーに欠けるような気がします。

また、付き合ってまだ日も浅い、しかし決して年齢的には若くもないカップルなんかが、いきなり目の前でこんなことをやってくれるのもギョッとするものです。
それまで他人がやってるのをさんざん見せつけられて、よほど羨ましかったのか、今度は見られる番!とばかりにそれをやってみせるのが快感なのか…想像もあれこれと飛び回ります。

いっぽう熟年夫婦などにこれをやられると、こちらは内心で思わず固まってしまいますが、もはやそれが常態化しているのか、あらんかぎりのものがせわしく二度三度と往復することも珍しくなく、こっちは唖然としつつ、いつしか食欲まで減退してくるものです。
ご当人達は夫婦なんだから、そんなの普通でしょう!いちいち気にするほうがおかしい!…といった感覚なのかもしれませんが、あれは率直に言って、同席者はそうとう違和感があるのは事実です。
もちろん、気にならない人は一向に平気なのかもしれませんけれども、気になる人も決して少なくはないようです。

今どきは「人とお鍋をつつきたくない」という神経質な人さえ少なくないご時世ですが、食事中の皿交換も目の当たりにすると、変な覚悟みたいなものをさせられる気分です。
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長尾洋史さん

久しぶりにギャンブル買いしたCDが大当たりでした。

「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」というタイトルで、実は長尾洋史さんというピアニストの演奏はもちろん、お名前さえも知りませんでした。
にもかかわらず、アルバムに収められたリストのバッハ変奏曲(カンタータ《泣き、嘆き、憂い、おののき》の主題による変奏曲)と、後半のマックス・レーガーのバッハの主題による変奏曲とフーガの組み合わせに惹かれてしまい、どうしても聴いてみないではいられなくなりました。

これは国内版の3000円級のCDなので、すでに何度も書いているように、マロニエ君は今どき内容の分からない日本人演奏家のCDを最高額クラスの代価を払ってまで冒険してみようという気は普段はあまりありません。

しかし、このCDにはなぜかしら売り場を離れがたいものを感じ、ついには購入することに決しました。惹かれた理由は主に選曲とCDの醸し出す雰囲気だったと思います。
果たして聴いてみると、これがなかなかの掘り出し物だったわけで、こういうときの喜びというのは一種独特なものがあるものです。

まずこの長尾洋史さん、抜群にしっかりした指さばきと知性を二つながら備わっていて、その音楽作りの巧緻なことは大変なものでした。むかし「マロニエ君の部屋」で日本人ピアニストには隠れた逸材が少なからずいるというような意味のことを書いたことがありますが、まさにそのひとりというわけで、こういう内容ならまったく惜しくない投資だったと大満足でした。

最初にジャケットを見たときに惹きつけられたとおり(顔写真さえない渋い色調のもの)、このアルバムのメインはリストのバッハ変奏曲と、レーガーの作品であることは間違いありません。両者共に普段よく弾かれる曲ではないものの、難解難曲として知られる作品ですが、これらを長尾氏はまったくなんの矛盾も無理もないまま、自然なピアノ曲として見事に演奏されている手腕には驚くばかりでした。この両曲の名演に対して、リストの「ペトラルカのソネット3曲」と「孤独の中の神の祝福」はやや表現の幅の狭い優等生的演奏で、もうひとつ詩的な深さと躍動が欲しかったという印象。

ライナーノートにある三ツ石潤司氏の文章によれば、この長尾氏の演奏は「てにおはや句読点のうちかたの誤りがない」とありましたが、この点はまったく同感でした。
この点に間違いがあると、たちまち作品は本来の立ち姿を失ってしまいます。マロニエ君としては、これに「イントネーション」の要素を加えたいと思います。いくら正確で達者な演奏ができても、イントネーションが違っていると、音楽がニュアンスの異なる訛りで語られてしまうようで、その魅力も半減してしまうものです。これは結構外国人演奏家にも頻繁に見られる特徴で、その点では却って日本人のほうがそんな訛りのない美しい標準語の演奏をすることが少なくありません。

録音はきめの細かい、ある種の美しさはありましたが、全体に小ぶりな、広がり感の薄い録音だった点は少々残念でした。そうでなかったらさらにこのピアニストの魅力が何割も上積みされたことだろうと思われますし、こういう録音に接するとつくづくと演奏家というものは、自分の演奏能力だけでは解決のつかない問題を抱えているようで、それがマイナスに出たときは甚だ気の毒だと思います。

もうひとつ、ピアノの調律はなかなかの仕事だったと思います。
新しめのハンブルク・スタインウェイから、思いがけなく低音域のビブラートするような豊饒な響きなどが聞かれて、はじめこの低音域を聞いたときは一瞬ニューヨーク・スタインウェイでは?と思ったほどでした。
やはり楽器としてのピアノの生殺与奪の権を握っているのは調律師だと思いました。

もちろん演奏の見事さ素晴らしさに勝るものはありませんが。
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ありそうでない物2

もうひとつ誰かにぜひ作って欲しいものがあります。
こちらもグランドピアノで使う譜面立てに関する物なんでが、前回のものとはまったく逆の使い道になるものです。

夜など、大屋根をすべて閉じた状態のときに、ほんのちょっとだけ遠慮がちに弾きたくなることがあるのですが、時間的にも状況的にも、音は出来るだけ小さく、弾き方もきわめて抑制した小さな音しか出しません。

そんなとき、暗譜していればいいのでしょうが、楽譜がないのはどうにも困りもので、この点をどうにかしたいわけなのです。
マロニエ君は椅子が低めなことと、目もあまり良くないために、楽譜をピアノの上に水平においた状態ではとてもじゃありませんが音符を見ることはできません。たまにこのスタイルで楽譜をチラチラ見ながら軽く弾いているピアニストの姿などを見ますが、あんなこと、とてもじゃありませんが自分にできる芸当ではないわけです。

そこで、ピアノの上に簡単にパッと置けるシンプルな楽譜立てがあればいいのにと以前から思っています。できればごく単純な構造の折り畳み式で、小さくて軽くて、普段は足元か近くの棚にでもポンと置いておけるぐらいのもので、ぎりぎり一冊の楽譜が立てられたらそれでじゅうぶんです。

写真立ての応用みたいなものでもいいし、はじめから角度の付いたものでもいいから、要は下にフェルトを貼り付けてピアノに傷を付けないようにしておけば、こういうものがあると便利だろうと思います。

ちょっと頑張れば自分でも作ることが出来るかもしれないので、いつか挑戦してみようかと思いながら、材料の調達が面倒臭くてつい延び延びになっていますが、こういうアイデア商品もだれかが作れば重宝する人は結構いるような気がします。

飾り皿を立てるための、左右90度に開くスタンドがありますが、あれにちょっと小さなベニヤ板の一枚でも置いておけば、そこに楽譜を置くことも可能かもしれませんが、それじゃあまりにも不恰好だし、もう少しは見栄えのいいものを作ってみたいところです。

課題としては、決してゴテゴテせず、いかにシンプルな構造に到達できるかがポイントだと思っています。
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ありそうでない物

グランドピアノはアップライトにくらべると決定的に不便な点があるものです。

それは楽譜立てを使うには大屋根の前の部分を、後ろに向けてヨイショと開ける必要があり、これをしないとその中にある楽譜立てを使うことは出来ません。
その点では、大半のアップライトは鍵盤蓋の内側に小さな楽譜立てがあるので、ひょいと指先でそれをひらいてそこに楽譜を置けば済むわけですし、しかもこちらのほうが楽譜を置く位置が低く、見ながら弾くという動作にはより自然な態勢が取れるのです。
その点グランドは、ちょっとした一手間があるわけで、これが意外に面倒臭いわけです。
とくに弾き終えたとき、不精者のマロニエ君などは、楽譜を全部閉じて、ピアノから片づけて、譜面台を倒して、元ある場所に押し込んで、さらには開けた大屋根の一部を手前に向かって閉めるという一連の動作は、ついついサボりがちになってしまいます。

だいいちそのままにしておいたほうが、またいつでも練習再開できるし、なにかと都合がいいわけです。
しかし同時に困ることもあるわけで、それはピアノの内部の、大屋根の前部分を開けた一部分にだけ集中してホコリが溜まってしまうわけで、ここにはフレームから突き出た無数のチューニングピン、奥にはダンパー、その下にはハンマーなどピアノの中でもとくに複雑な部分がこれでもかとばかりに集中しています。

これを開けっ放しにするのは、少し程度ならともかく、常時この状態にしておくのは、やはりゴミやホコリの問題を考えるとさすがに躊躇われてしまいます。
ピアノの先生など人によっては、譜面台をピアノから抜き出して、全閉にした大屋根のさらに上にそれを置いて使うというスタイルをとる方も昔からあるのですが、これはでは音は籠もってめちゃめちゃ悪いし、だいいち、ただでさえ高い位置にある楽譜はさらに数センチ上部移動してしまい、マロニエ君などは椅子が低めなこともあって、とてもじゃないですが楽譜が見づらくて仕方がありません。

そこへアイデア商品というわけで、ホコリ防止のためのボードのようなものを楽譜立ての下一面にセットするものがあるようですが、実はまだ本物を見たことがありません。
問い合わせをしたところでは、実はこれには2種類あって、透明のアクリル板でできたものと、黒っぽい木製風のボードがあるようで、中が透けて見えるのがいいのか、黒い板で覆ってしまうのがいいかは好みの問題のようです。

ただし最大の問題は、ホコリ防止には役立っても、副作用として音の響をかなり阻害するわけで、そこがネックとなって実はまだ購入していません。譜面立ての前後のちょっとした位置や角度の差でも音質はかなり変わるのに、ここを一面すっぽり板で覆ってしまうことによる響きの弊害はいかばかりかと思わずにはいられません。
なぜ少しでも音響面を考慮した製品にしないのかが疑問です。

できたらここに薄い布を貼ったようなホコリよけがあればいいと思うのですが、そういうものは一向に見かけたことがありません。誰かが開発したら、これこそ購入したいところです。
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弾き込み乗り込み

車とピアノには共通するところがいろいろありますが、このところ感じているのは次のようなことです。

どちらも酷使すればそれだけへたって消耗してしまうし、逆に使い方が足りないと力がなくなり、いろいろな動きや反応が鈍くなって、たちまち精彩を失ってしまうということ。

この数日、仕事上、天神で美術関係の小さなイベントをやっていることもあり、普段よりなにかと車に乗る機会も増えていますが、そこに折良く一連の整備が完了したマロニエ君の古女房ともいうべきフランス車を3日ほど集中的に使ってみました。

この車はふだんあまり積極的に乗ることはないし、乗ってもたいがい近い距離を行って帰ってくるだけというパターンが多かったので、これだけ集中して続けざまに乗ってみるのは本当に久しぶりでした。
すると2日目の後半ぐらいから、あきらかに乗り味が変わってきました。

全体がこなれて、サスペンションの動きもより細やかで滑らかになるし、エンジンパワーの出方もより緻密さを増してレスポンシブになり、3日目には別の車のようにたおやかで軽く乗りやすくなりました。そうなると相乗作用で、こちらももっと乗りたくなるわけです。

この好ましい状態を維持するには、(きちんとした整備をした上で)いろんな部位の動きが硬化しないインターバルでしばしば車を無理なく動かすことに尽きると思います。逆に言うと、勤め人で平日はまったく車に乗らず、週末にだけ乗っているというパターンの人も多いことだろうと思いますが、こういう乗り方では、いつも車は本領を発揮しないままに終わってしまい、その車が本来もっている本当の良さはあまり感じないままということも少なからずあるように思われます。

まったく同様なのがピアノで、普段ほとんど弾かれないピアノというのは、本来の調子を出すには一定の弾き込みが必要になります。さらにピアノは、弾き込みと併せて調律などの調整が必要となり、その調整と楽器の鳴り出すタイミングをピッタリとベストにもっていくのは車よりもかなり至難の技だと思います。

もっとも典型的なのが出番の少ないホールのピアノで、ふだん何ヶ月も眠っているようなピアノを、急に楽器庫から引っぱり出して本番の数時間前に調律しても、とても本調子を取り戻すには至りません。
ここがまた車と似ていて、ピアノの場合も、最低でも2、3日かけて適度に弾き込みをやったら見違えるようになると思いますし、当然ながらもっと長い周期でやればさらに好ましい結果が出るはずです。

逆にわずか1日で本調子に持っていこうというのは好ましいことではなく、あまり拙速にガンガン動かしたり弾いたりしても望むような結果は得られないと経験からも思います。そこは決して無理をせず、少しずつ時間をかけて目を覚ませていくのが何よりも大切で、いわば解凍技術の差のようなものだろうと思います。
長いこと休養していたアスリートに、いきなり「明日試合に出ろ!」といって鬼のごときトレーニングをしても無理なのと同じです。

マロニエ君が好きなのは、自分のピアノをピアニストなどにある程度弾いてもらって、そのあとに「いただきます」とばかりに弾いてみるときで、大抵ワッとびっくりするほど良く鳴る状態になっているものです。まさに全身が暖まってパッチリ目を醒めしている状態です。

これにもまた、車にも似たところがあって、そこそこ飛ばして走ってきた高速道路を降りた直後に、一般道に出て信号停車などのあとでスッといつものようにアクセルを踏んだときの、その反応の鋭さ、力強さ、軽快感は、近所のお買い物ドライブなどでは到底味わうことのできない、まさに性能が出尽くしているノリノリの状態で、これは結局われわれ人間の身体や健康にもおおいに通じるものがあるようです。
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新SKシリーズなど

いつかそのうちに機会があればと思っていたのですが、新しいシゲルカワイ(SKシリーズ)に触れるチャンスは意外にも早く訪れました。

知人が自宅のピアノの買い換えを検討していて、SKシリーズも見ておこうということからカワイのショールームに行くことになり、新しいSK-2、SK-3、SK-5、さらには貸し出し用のSK-EXにも触れることが出来ました。

新シリーズで印象的だったのは、これまで通りのしっとり感にあふれたタッチに加えて、コントロールの自由度が増していたこと、あるいは音色にもある種の鮮明さが加わったことで、この新しいSKシリーズはどれを選んでも後悔することのないプレミアムシリーズとして、より深い輝きを増していると感じました。

タッチは、ただ単にしっとりというのではなく、軽快さと滑らかさが両立したもので、奏者のわずかな意志もすかさず捉えて反応してくる感触がとりわけ印象的で、風がそよぐようなショパンの旋律から、まったくのノーペダルで奏するバッハまで、幅広い要求に対して、ストレスなく敏感に対処できるピアノになっており感銘を受けました。

タッチと並んで印象的だったのは、次高音部がよりメロディアスになり、隣り合う音同士が切れ目なく繋がっていくようで、まさに歌心が一段とアップしている点も驚きでした。

新しい3機種には、SKシリーズ特有のほの暗い音色の中に、これまでになかった澄んだ輝きのようなものが出てきて、やはり熟成を増したのは間違いないようです。
中途半端な高級ピアノを買うぐらいなら、いっそ割り切って(というのも語弊がありますが)SKシリーズにしたほうがどれだけ賢い選択だかわかりませんし、そのほうが後悔はしないだろうと思います。

SK-EXはマロニエ君的には、まったくの開発途上にあるピアノだと思いました。
全体にやわらかい音色と穏やかな響きをもつピアノでしたが、ステージで聴衆のために鳴り響くコンサートグランドとしては、どうみてもブリリアンスと表現の幅が不足しており、あくまでも個人的な印象ですが、これなら出来の良い従来型のEXのほうがまだ好ましいと思わざるを得ませんでした。
やはりコンサートグランドというのは求める要求があまりに高すぎて、製作も難しい機種なのかもしれません。

従来型にくらべて、よほどパワーアップされているものと思っていたら、この点も肩すかしをくらうほど控え目で、もしもスタインウェイのような遠鳴りの能力を秘めているのだとしたらともかく、少なくとも間近で弾いたり聴いたりする限りに於いては、ただやさしい性格の大型犬みたいで、一向にキレも迫りもないのはまったく意外でした。

いつもなにかとお世話になり、マロニエ君宅にもしばしば来てくださる営業の方によると、来月は天神で新しいSKシリーズのお披露目会というかレセプションが行われるらしく、これにご招待してくださるそうなので、ぜひとも行ってみるつもりです。
もし開発者の説明など聞けるのであれば楽しみです。
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春の嵐

春の嵐という言葉がありますが、昨日は明け方から大変な荒れ模様で、ほうぼうの木々は互い違いに枝を激しく揺らし続けていました。

いつもながら我が家の周辺は多くが他所から飛ばされてきた葉っぱや小枝にまみれてしまいます。
目についたのは、多くの葉っぱだけでなくつい最近出てきたばかりの新芽が無惨に引きちぎられるようにして至るところに散らばっていることでした。よほどの強風突風が吹き荒れたものとみえて、その飛んできた新芽の生々しい香りがむやみにむせ返るようです。

このところのお天気は日ごとにコロコロと変わり、洗車などしようにもタイミングが掴めず、やっと実行したらまた雨でトホホです。

おだやかな秋にくらべると、春はそのうららかなイメージをよそに、遙かにあらあらしい野生を併せ持っている気がしますし、いつも書いているようですがマロニエ君自身はこの季節がどうしても苦手です。

こういう季節は人の心もその天候のように意外にやわらかではなくなるのかもしれず、なんとなく世の中の景色までささくれて見える気がしますが、他の人の目にはどのように映っているんでしょうね。

マロニエ君には、このところ立て続けに起こる悲惨な交通事故や、理解の及ばない異常な事件なども、ひとつには春という尋常ならざる季節が悪さをしているのではないか?と、どこかで自然の摂理が関係しているようにも感じてしまいます。


この荒れ模様の中を、昨日は福岡空港に新鋭のボーイング787がテストフライトで飛来したようです。
胴体や翼にカーボンなどの新素材を多用したこの新鋭機ですが、機体の35%を日本で製造していることで、ニュースでは「準国産機」という言い方をしているのがへぇと思いました。

幅広い翼を大きく左右弓なりにしならせながら悠然と滑走路に降りてくるときの姿こそ、この787の最も特徴的な姿だろうと思います。
来月からANAで東京便などで運行開始するのだそうで、昨日の飛来は地上支援やボーディングブリッジのフィッティングなどの確認のためなのだとか。

それにしても、世界中の航空会社が機体の塗装デザインを新装していく中で、ANAはまだまだ!と言わんばかりに現在のブルー基調のペイントが刷新されないのは理由がよくわかりません。
個人的にはどちらかというと固いビジネスライクな印象ですが、これはたしか767が就航したときからのデザインでしたから、かれこれ30年間ANAの機体はこの衣装を纏っていることになりますが、せっかく話題の新鋭機にはちょっと古臭いなあという印象でした。

できれば787の登場を機にお色直しをしてもよかったように思いますが、今どきは航空会社も価格競争こそが戦のメインで、機体のペイントなんてどうでもいいということかもしれません。
なんにしろ情緒などというものが後回しにされる、おもしろさのない時代になりました。
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意図された行列

見ただけでウンザリさせられる人気店の行列ですが、とくにスイーツ関連のそれは土日などは普段の数倍にもなるようです。

ひとつの行列が、また別の行列を生み出すようで、ときにデパ地下内などは何カ所もの行列が発生、ほうぼうの通路をのたうちまわって、通行にまで支障が出ることも珍しくありません。

さて、人から聞いた話ですが、ケーキ類を買おうとしたものの目指す店は行列状態で、それに嫌気がさして普段から行列のない別の店に行ったそうです。ところがこちらもハッと気がつくと、ずらりと人が行列していることがわかったそうです。すぐにわからなかったのは、列の先頭がお店のショーケースから数メートル離れた場所にあったためとのこと。

しかも見た感じでは誰も買い物をしている気配がなく、一見したところではガラガラに見えたのだそうです。お店では若い女性の販売員に混ざって、一人の店長らしき中年男性が采配を振っているようで、行列のほうをちょろちょろ見ながら「はい、では販売してください!」といって、販売員に列の先頭をショーケースのほうへ誘導させたとか。

ちなみにこの店は、ことさら特別な店というわけでも人気店というわけでもなく、何年も前からこのデパ地下の同じ場所にずっとある、ごく普通のケーキ店だそうです。
もうおわかりだと思いますが、こうしてわざと先頭位置をずらして販売をストップし、お客さんを立たせて待たせることで、それがいかにも人気店の行列であるかのように状況をいわばねつ造しているというわけです。この人は、たまたまそのちょっとした舞台裏の様子を偶然見て憤慨した別のお客さん同士の会話からそれに気付いたのだそうです。
もちろん、いまさら列の最後尾に廻って並ばなかったのはいうまでもありません。

昔からサクラというのはありますが、なんとそれを本物のお客さんを使ってやるというのは初めて聞いたような気がしました。
商売人にとって、なによりも大切でありがたいはずのお客さんを、そんなことに利用して販売可能な状態でありながら、意図的に立って待たせるとは、なんたることかと思いました。

人気が人気が呼び、行列が行列を呼ぶという人の心理作用があるのはわかりますが、だったらバイトでも雇って並ばせるなりするべきで、本物のお客さんを人寄せの演出に利用して、立たせたまま不必要にお待たせをするなんぞ、客商売の禁じ手という他はなく、まったく驚く他はありません。

こんなことが行われているなんて、デパート側は知っているのか、あるいは知っていて黙認しているのか、今どきのことですからわかったもんじゃないと思いました。
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武満ハカセ

6回のシリーズで行われた望月未希矢さんのお話とピアノによる「音楽の話」の「武満徹とビートルズ」に行きました。

このシリーズの最終回でもあるし、武満の音楽は普段あまり積極的に聴くことはないので、ほとんど知識らしいものもなく、これはいい勉強のチャンスだという意味もあって聴講に行ったわけです。
初めに武満の編曲によるギターソロによるビートルズ作品、次いで望月さんの演奏で武満の初期のピアノ作品(後年に書き改められた)が演奏され、メインはお名前は失念しましたが、武満徹を師と仰ぐあまり武満博士のようなものになってしまったという御方の講義でしたが、武満の生まれた時代や、文化的な背景の変遷を交えながら彼の生き様が駆け足で語られて、とても面白く話を聞くことができました。

ピアノ作品では雨の樹素描などがたまに演奏会で取り上げられることはあるものの、よほど積極的に聴こうという意志がない限り耳にする機会も少ないので、このように武満に的を絞って演奏やお話をきくことは、とても新鮮な経験になりました。

あらためて感じたことは、武満の音楽はやはり日本的だという印象をもったことで、西洋の音楽のように音を時間の流れとして聴くのではなく、一瞬一瞬の音そのものを端的に聴くという新鮮な体験をするようでした。
音を聴くことによって、その音が存在する空間や空気までも同等に感じることがひとつの特徴ではないかと思いました。もしかしたら依存し合う音と静寂の関係性をセットにして聴いているのかもしれません。

武満博士の話によると、武満氏の耳には普段の我々が何の注意も払わないようなあらゆる音、生活の中に絶えず発生する雑音さえも音楽に聞こえるのだそうで、地下鉄も車輌の発するさまざまな音はオーケストラであり、それが通る地下トンネルは音響のあるホールなのだそうで、芸術家の感受性と創造力が、いかに凡人のそれとは違うかということを思い知らされるようでした。

武満博士は武満を崇拝するあまり、機会ある事にイベントを企画し、講演し、武満の芸術世界を少しでも広めることに御身を捧げていらっしゃるご様子でした。
話っぷりもいかにも手慣れたもので、これはもう昨日今日はじめたトークでないことは聞き始めるなりわかりました。構成もじゅうぶんに考慮されているようですし、資料は次々に手際よく手許に引き寄せられて、必要なページが瞬時に開いて要領よく示されるなど、まったく無駄というものがありません。
話の途中にはちょっとしたメロディを慣れた感じに口ずさんだり、はたまたピアノで弾いたりと、間断なく繰り出される説明は聞く者を飽きさせる隙間もないほどにまさに武満一色!一気呵成のトークでした。

その淀みない調子に、おもわず有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の主人公の芸者の語り上手を思いだしてしまいました。
それだけの熟練のトークであったにもかかわらず、終わってみると、さっとカウンターの隅の席に戻ってひとり静かに佇んでいらっしゃるのは、まるで出を終えた役者が舞台から戻ったあとの、楽屋でのひとときのようで、これはもう立派なパフォーマーなのだということがわかりました。

お陰で武満の活躍のあらましが簡単ではありますが把握することが出来て、これから武満へ関心を持つ基礎というか、興味の土台みたいなものを作っていただいたという印象です。
ともかく大変有意義な時間で、また武満博士のお話を聞ける機会があるときはぜひ拝聴したいものです。
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ティーレマン

昨日書いた、ティーレマン指揮のドレスデン国立管弦楽団&ポリーニの続きを少々。
というのもオーケストラにはまったく失望させられました。

いまさら云うまでもなく、ブラームスのピアノ協奏曲は2曲ともピアノ独奏つきのシンフォニーといわれるほど、オーケストラの果たすべき責任は重大で、当然ながらその規模も並のコンチェルトのときとは違います。
オーケストラの重層的な音楽の中で、必要に応じてピアノが登場してくるわけで、この作品では通常のコンチェルトよりもオーケストラとピアノが密な関係を保ちながらこの壮大な音楽を紡ぎ出さなくてはなりません。

ところが、冒頭の悲劇的な出だしからピアノが入ってくるまでのオーケストラを聴いて、なんだこれは?と思ってしまいました。いかにもわざとらしいことはやっているようだけれども、音楽に実がなく、アンサンブルはバラバラで、とりわけ弦の響きのお粗末なことは驚きでした。

ドレスデン国立管弦楽団といえばドイツ屈指の名門オーケストラのひとつですから、オーケストラが悪いとも決めつけられず、やはりこれはティーレマンの指揮の責任かと思われました。

ティーレマンは世間の評判はすこぶる高いようで、今年からドレスデン国立管弦楽団の常任指揮者だか芸術監督だか、ともかくそんなような地位に就いています。しかし、実際は賛否両論甚だしい指揮者で、彼を近来稀に見る天才、圧倒的な名演、ピリオド楽器演奏の逆を行く英雄のように捉えて、果てはフルトヴェングラーの再来!?とまで崇める人もいることには驚きます。
いっぽうで、虚仮威しの音楽、商業主義で、音楽的センスがまったくない、チケットがタダでも聴きたくない指揮者だとこき下ろす人達も少なからずいるようですが、まさに真っ二つといった感じです。

マロニエ君は彼が楽壇の第一線に登場しはじめて、ドイツグラモフォンからCDがリリースされたころから傍観してきましたが、どうもこの人にはもうひとつ興味が抱けず、数枚買ってみたCDもまったくこちらの魂の琴線に触れることがないもので、ほとんどまともに聴いたことがありませんでした。
評価できるほどたくさん聴いたわけではありませんが、ひとことで言うなら、構えはたいそう立派なようになっているけれども、音楽がまるで活きていない印象でした。

この協奏曲でも、ブラームスの悲哀もロマンも情感の綾も感じられない、ただ上辺だけを整えたような(とても整っているとも思いませんでしたが)演奏にはほとほとガッカリで、なぜこういう人が評判なのかさっぱりわかりませんでした。
要するに、彼は指揮を通じてなにがしたいのか、そこのところがまったく意味不明という感じしかありませんでした。老いたとはいえ、ポリーニがよく彼と共演することを承諾したなあと思うと同時に、このオーケストラの演奏をブラームスが聴いたらどう感じただろうか思わずにはいられませんでした。
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ポリーニの今

先日BSプレミアムシアターで放映されたティーレマン指揮のドレスデン国立管弦楽団と共演したポリーニの映像はちょっと衝撃的でした。
曲はブラームスのピアノ協奏曲第1番。

まずなんといっても、あのポリーニがこれほど歳をとって、どこからみても完全なおじいさんになっていることでした。
舞台袖から出てくるときの歩き方や、表情なども、もうすっかり変わってしまいました。
人間は老いるのは誰しも当然ですが、若き日のいかにもピアノ新時代のヒーロー然としたイメージが強烈だったポリーニ、ひとつの時代を作り、既成の価値観さえ塗り替えてしまった技巧のピアニストが、加齢によってここまでになるのかと、さすがにちょっと悲しくなりました。

老人といっても、彼は1942年生まれですから、たかだか70歳なわけで、いまどきこの年齢ならもっと若々しくしている人も多いし、たとえばアラウやルビンシュタインの70歳なんて最盛期だったことを思うと、ポリーニの衰えにはどうしても衝撃という言葉が浮かんでしまいます。

身体もずいぶんちっちゃくなってしまって、大柄なティーレマンと一緒に登場するとほとんどポリーニには見えませんでしたし、所作のすべてがお年寄りのそれでした。
もしかしたらなにか深刻な病気でもしたのかもしれません。

昔のポリーニといえばグールドと並んで、その椅子の極端な低さは有名で、求める「低さ」のためにはポールジャンセンの立派な椅子の足を下から数センチ、惜しげもなく切り落としてしまうことで、その異様に低い椅子に腰を下ろしては、あの圧巻きわまりない演奏をしていたものです。

ところが近年はだんだんと椅子の位置が高くなってきており、これも体力低下の表れかと思っていたものでした。とりわけこの日のブラームスでは、ランザーニ社のコンサートベンチをかなり上まで上げているのは我が目を疑うほどでした。たまたま我が家にもまったく同じものがあるのですが、マロニエ君の3倍ぐらいの高さで、ほとんど小柄な女性並みの高さなのには、これが歳を取ったとはいえ同一人物だろうかと思わずにはいられませんでした。

演奏も相応の衰えはありましたが、それでもなんとか立派に威厳を持って弾き終えることができたのは、さすがに長年のキャリアだなあと思わせられるところです。
やはり老いても天下のポリーニだと思うのは、明晰な美しい音、適度に重厚、適度にスマートで、気品があり、終わってみればやはりそこには一定の満足感を覚えるところでしょう。

ピアノはポリーニ御指名のファブリーニのスタインウェイでしたが、ポリーニの好みにきちんと調整された、やはり通常のスタインウェイとはちょっと違う色彩感に富むピアノだったと思います。
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エゴ運転の横行

最近、どうも変だと思い始めていた交通マナーの異変は、ついに確信へとかわりました。
今回は自転車ではなく、車同士の話です。

マロニエ君をして確信を持つまでに変化したのは、あらゆる場合の割り込みのタイミングです。
以前なら絶対にアウトだったタイミングでの車線変更や駐車場等から道路への流入で、目の前に入り込んでくる車がものすごい勢いで増えたのは間違いありません。
当然、こちらは減速し、ひどい場合はブレーキを踏んで車間距離を取り直さなくてはならず、これ、以前なら大変な顰蹙ものの動きでしたが、最近は当たり前のようになってきて、いつどこから目の前に車が出てくるかわからず、以前のように安定した気分で運転することは、できなくなりました。

最近は、たしかにみんな運転が平均して下手になり、おまけに例の省エネ運転とか活きた状況の読めない人が増えたお陰で、絶対的速度はたしかに遅くなったと思います。しかし、車の動きには従来のドライバー同士にはあった暗黙の了解の中での現場のルールみたいなものが消え去ってしまって、割り込みであれノロノロであれ、もはや何でもアリの混沌とした状況になっていると思います。

それを察して、助手席にいる家人や友人なども、左から出てくる車の動きなどが、見ていて恐くて仕方がないらしく、しばしば「わー」とか「こわい」「あぶない」という声を上げています。

むかしはそんな動きをするのは下手くそか図々しいドライバーであって、クラクションを鳴らされて恐縮したりという光景がありましたが、今はどんなに「ウソ!それはないだろう!」という強引な割り込みをされても、こっちが驚いてクラクションを鳴らそうものなら、向こうのほうが怒り出し、逆ギレしてしまいます。
自分がなにをしたからという原因には考えが及ばず、ただただクラクションを鳴らされたという、その事に腹を立て、鳴らしたこちらを睨みつけたりするのですから、たまったものじゃありません。

さらには、最近ではタクシーまでこういうルール無視の自己中運転をするようになりましたから、もはや終わったなと思っています。

それに、今どきのことなので、どういう人がハンドルを握っているかわからないという危険性も、以前より遙かに高いものになっています。ささいなことで路上トラブルにでもなり、なんらかの被害にでも遭おうものならたまったものではないので、最近ではできるだけおとなしくするよう心がけています。
どんなタイミングでもどんな動きをしてくるかわからない、ちょっとでも車間距離があれば、横の車は幅寄せに近い要領で割り込んでくる可能性が常にあるということを意識に織り込んで、一層の安全運転にこれ努めるようにしています。

おまけに今どきのドライバーは慢性的な自転車の恐怖にもさらされているのですから、いまや本当に「気を抜く」といっては運転の場合は語弊があるかもしれませんが、ある一定のリズムと流れの中で心地よく運転するということは、ほとんど不可能になりました。

どうかハンドルを握られるみなさんも、くれぐれも注意して運転されてくださいね。
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中ホール向き?

BSのN響コンサートで、今年の2月に行われたコンサートから、デニス・マツーエフをソリストにチャイコフスキーの第1協奏曲他が放映されました。

とくに関心もないピアニストだったのですが、ステージに置かれたピアノがヤマハのCFXだったので、ちょっと見てみる気になりました。

所々を早回しにしつつも最後まで聴きましたが、結果からいうとやはりこのピアノのある一面が見えてきたように感じましたが、基本的には以前から感じているところに大きな変化はありません。
前モデル(CFIIIS)に比べると、長足の進歩がある点では間違いないものの、このピアノにはいわゆる逞しさとか懐の深さという要素はあまり感じられず、とりわけ大ホールに於けるチャイコフスキーのコンチェルトといった類の使い方には不向きだと思いました。

CFXの特徴は、いわば日本的気品であり、雅な懐石料理のような美しさであると思います。
轟くような響きよりもピアニッシモでの歌心、ダイナミズムよりはデリカシーといった方向に華があり、せいぜいが室内楽からソロ、コンチェルトならモーツァルトやショパンとその周辺あたりだろうと思います。

ベートーヴェンでもせいぜい4番までで、皇帝はどうでしょう…。
少なくともロシアものはミスマッチで、先代に比べて格段に美しくなった色彩感なども、こういう状況下ではその能力が発揮できず、マツーエフのスポーツ的な単純なフォルテッシモなどにも応えきれません。なにもかもが想定以上で楽器が付いていけないという印象です。

このピアノを聴いていてふと思い出したのが昔のトヨタのマーク2やクラウンクラスの車種でした。
街中での乗り心地、静かさ、精度の高い作り、軽快なアクセルレスポンスなど、いずれをとっても文句なく良くできていてこの上なく快適なんだけれども、いわゆる日本仕様車で、山道は苦手、高速道路でも法定速度まではすこぶる快適なのに、それ以上飛ばすとたちまち限界がきてしまうというものです。
いっぽう、こういうシチュエーションになると、街中では多少の硬さやごつさが指摘されていたドイツ車など、いわゆるヨーロッパ勢が形勢逆転して本来の高性能を発揮するということがままありました。

それはいささか極端かもしれませんが、CFXはあまり逞し過ぎない指でふさわしい曲をほがらかに弾くには最良の面を見せるようですが、限界を超えるとたちまち音も響きも底ついた感じが出てしまい、意外に表現の幅に制約があることがわかります。
つまりは、ある範囲内での使い方をするぶんには、もしかしたら世界一かもと思わせるほどの優れたピアノですが、いわゆる幅広い能力を持った懐の深い全方位的な万能選手ではないということで、オーケストラでいうといわゆるフルオーケストラではなく、せいぜい趣味の良い演奏を聴かせる室内管弦楽団といったところでしょうか。

これって昔のフランスピアノみたいな感じもしなくもありません。
プレイエルやエラールでロシア音楽やベートーヴェンを熱情的に弾いたとしても、作品が求める本来の味がでることはまずありません。

これらの制約がなくなったときこそCFXは世界第一級のピアノになるだろうと思われますが、他ならぬヤマハの技術を持ってすれば、それは十分可能だと思いますから、この先が楽しみです。
裏を返せば、いまだ過渡期のピアノだということかもしれません。
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両方大盛り

昨夜は親しい知人が集まって、ささやかな食事会となりました。
食事会といっても、行ったのは話題のちゃんぽん屋で、土曜の夜ともあって狭くない店内は見事に満席でした。

ここのメニューはちゃんぽんのみという潔さですが、量とトッピングには多少種類があり、量的には小盛りちゃんぽん、ちゃんぽん、野菜大盛り、麺大盛り、両方大盛りという5段階になっています。

4人のうち3人は通常のちゃんぽんでしたが、一人は今しがたリコーダーを吹いてきたとかで、よほどお腹が空いていたのか、なんと最大の「両方大盛り」を注文したのには一同瞠目しました。
この店は、通常のちゃんぽんでもかなりのボリュームがあるので、大半の人はノーマルで事足りるのだろうと思われますが、両方大盛りを注文する瞬間はちょっとこちらまでなにか快感めいたものを感じました。

オーダーを受けに来たお店の人が、大盛りでよろしいですか?(大丈夫?)みたいなことを確認されましたが、彼の決意は変わりません。

果たして運ばれてきた両方大盛りは、その盛り上がった野菜の山の大きさと高さが、あとの3人のものとは格段の違いがあり、まさに周囲を見下ろす横綱のような貫禄でした。
もちろん立派に完食して店を出ました。

別の一人は、比較的最近、運転免許を取ってドライブをはじめたらしく、いつもはマロニエ君が駅などでピックアップすることが多かったのですが、この日はさても見事に一人で運転して、ニヤリとばかりに約束の場所に現れました。
ちゃんと初心者マークをつけているのがいかにも律儀でしたが、運転は慎重さの中にも音楽家らしいスムーズさがあったように感じました。

食事の後、お茶をしているとつい時間も遅くなってしまいましたが、帰り道の信号で横に並んだところ、一切横を向くでもなく、真剣に前方を注視している様子で、さっきまでキャッキャと笑っていた人が別人のように真面目に見えました。

深夜はやはり交通量が少なく、それでも街中は明るいし、どこに行くにもスイスイと到達できてストレスが溜まりませんね。
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バラードの背景

青澤唯夫著の「ショパン──優雅なる激情」を何とはなしに通読しましたが、後半の作品解説の部分で、思わず鳥肌が立つような文章に出会い、なんとも形容しがたい鮮烈な気分に襲われました。

たとえばこれ。
『昔、リトアニアの深い森の湖にまつわる神秘的な謎を解こうと決心した勇敢な騎士がいて、湖に大きな網を投げて引き揚げてみると、なかに美しい姫君が入っていた。姫の話によれば、その昔この湖畔も立派な町であった。あるときロシアとの戦争が起き、女たちは捕らわれの身になるよりは死を、と神に祈った。たちまち大地震が起きて城も町もみんな湖中に没した。女たちは水蓮に化身して、手をふれる者たちを呪った。その水の国の姫君は、同族の出である騎士に危害を加えようとはせず、これ以上湖の神秘をあばくでないと言って、水のなかにすがたを消した』

いったい誰が何について語られたものかというと、ショパンと同郷の亡命詩人アダム・ミツキェヴィチの詩の内容で、彼はポーランドでバラードが文学的形式として取り上げられるようになった19世紀初頭にそのジャンルの頂点を築いたといいます。
そしてショパンはミツキェヴィチの詩にインスピレーションを得て一連のバラードを作曲したと伝えられているそうです。

上の詩はバラード第2番の背景にある物語として、ミツキェヴィチの「ヴィリス湖」の概要が紹介されていました。
曲を思い出してみると、まったく納得できる曲想と内容であることがたちまちわかって、「へええ、なるほどなあ…」と納得してしまう気分になりました。
美しい第一主題の旋律のあとに突如湧き起こる、激情の上り下りはそんな悲劇を意味していたのかと思わせられます。
この第2番のバラードはシューマンに捧げられ、その返礼としてシューマンは「クライスレリアーナ」をショパンに贈ったのだとか。いずれも文学に触発されたピアノ曲の傑作というわけですね。

さらにもっと驚くのはバラード第1番についての物語。
『リトアニアが十字軍に敗れて独立を失い、七歳の王子コンラード・ワーレンロットは捕虜となった。敵方の首領の養子として成長した彼はやがて十字軍きっての勇敢な騎士となって、首領に選ばれる。そこで彼は知略をめぐらし、母国リトアニアを独立させることに成功するが、自分自身は十字軍の裏切り者として処刑される』

どうです?
思わずゾッとするほどの内容的な符合で、これまで何十年、何百回かそれ以上聴いてきたこの曲の、曲想や各所の旋律や運び、起伏の意味などが、純音学的に捉えてきた抽象的なドラマに代わって、これほどありありとした物語性を帯びていたのかと思うと、いかにも頷けるその内容に、ほとんど戦慄してしまいました。
しかも驚くべきは具体的な情景表現ではなく、徹底した精神的描写である点。

冒頭から最後の一音に至るまで、ショパンにしてはえらく英雄的であり同時に深い哀愁と悲劇性に満ちたこの曲の中心は、こういう宿命を辿らされた王子の心情と悲劇であるというのはまったく驚きでした。
こちらにしてみれば、ショパンの作品として純音学的に接してきたものが、突如このような背景となる話が降って湧いたようでもありますが、これは今後、この曲に触れる折に切り離して音だけを聴くことはできなくなってしまったかもしれません。

尤も、著者もいっていますが、ショパンのバラードは決して標題音楽ではなく、情景をリアルに活写したものではなく、あくまでも根底にある「イメージ」であり、そこにショパンが着想を得たにすぎないという間接的な捉え方をすることを忘れてはならないでしょう。
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ベビーカー

あるビルの、地下2階から4階の駐車場へ上るべく、エレベーターへと向かったら一足先にちょっと個性的な感じのおばさんが一人エレベーター前で待っていました。
ザンギリ頭でまったく化粧気がなく、服装も男性的な感じでした。

2台あるエレベーターは両方とも今しがた上に向かったばかりという生憎なタイミングで、これはかなり待つことになると覚悟を決めました。
待つことが嫌いなマロニエ君としては、たかがこんなことが相当な気構えです。

かなり覚悟してかかると、意外にもサーッと一気に降りてくる場合もたまにあるので、その意外性に期待したのですが、この日はさにあらず、2台とも7階8階まで上がってしまい、しかもくだりも各駅停車に近いような動きでさんざんじらされました。

そして待ちに待ったあげく、ついに右側のエレベーターが地下2階に到着して扉が開き、中の2人の男性が降りると、そのおばさんが乗るのは自分が一番だという感じで一瞬身構えました。たしかにマロニエ君よりも一足早く来て待っていたのですから、そこは当然と思って一歩控えた感じでそのおばさんが先に一歩動いたそのとき、いきなりマロニエ君の前へ横に腕を出して、まるで交通整理のような仕草で人の動きを堰き止めておいて、「ベビーカーはお先にドーゾ、ドーゾ!」とあたりに響き渡るような身体に似合わぬ大きな声を発したのには驚きました。

そのベビーカーはマロニエ君よりも二人ほど後ろにいたのですが、マロニエ君は自分の主義として、車椅子はいかなる場合も優先だと考えますが、ベビーカーはこういう場面でも必ずしも優先されるべき特別な存在だとは思っていません。
もちろん状況にもよりますが、じゅうぶん乗れる状況であれば、とくだんの理由がない限り、お互い様であって、若い親が付いていることではあり、必要以上に優先する必要はないという考えです。

しかるにそのおばさんは、やたら大声を出して、ドアの前に腕まで伸ばして人の動きを阻止しようとするのですから、これはいくらなんでもやり過ぎというもんです。そんなに善行がしたいのなら、他者を巻き込まず自分の順番だけを譲ればいいのであって、それを周りにも有無をいわさず強要するのはまったく不愉快に感じました。

マロニエ君はそのおぼさんの妨害工作には従わず、伸ばした腕をすり抜けるようにして構わず中に乗り込みました。それで文句があるなら受けて立つと思ったからです。
するとベビーカーを「ハイドーゾ、ドーゾ!」と招き入れて、むしろそのベビーカーを押す女性のほうが「すみません」とは言いつつも本当は迷惑そうな感じでしたが、ともかく乗り込むと、すかさずそのおばさんは「何階ですか?」とこれまたエレベーター内で耳に痛いほどの野太い声で聞いてきました。

「3階です…あ、間違えた、2階です、すみません」というと、おばさんはベビーカーの赤ちゃんに向かって「ねー、おかあさん、どこで降りるかしっかりしてもらわなくっちゃ、困るわよねー!」と変わらぬ大声で言って、明らかに不自然な調子が浮き彫りになり、女性も困って苦笑いしながら、一刻も早く解放されたいという雰囲気がありありとしていました。

2階で扉が開くとそのベビーカーとあとの1人も降りてしまい、マロニエ君はそのおばさんとたった2人になりさすがに緊張しましたが、手の平を返したような沈黙で、3階に着くと、ドアがあくやいな、ササッと消えるようにいなくなりました。
なんだかよほど強い足腰を(そして声帯も)お持ちのようでした。
エレベーターというのは見ず知らずの他人と一緒に閉じこめられる箱ですから、やはり恐いですね。
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IKEAの街

夜、友人と東区のほうまで出かけたついでに、ちょっと遠回りして新宮方面まで行ってみることになりました。

新宮は福岡市の北東部に隣接するエリアですが、ここに北欧家具のIKEAが売り場面積において日本最大級だという大きな店舗を作り、オープンを目前に控えています。
べつにIKEAを期待しているわけではありませんが、新宮といえばとくに特徴のあるところでもなかったので、そこに果たしてどんなものが出来るのやら…ぐらいには思ってはいました。
新宮方面に向かって国道を走っていると、いきなり夜目にも鮮やかなブルー地に黄色の太いロゴマークで「IKEA」と大書された特大看板がライトアップされて前方に出現、嫌でもその場所がわかるようになっていました。

看板のある交差点を左に折れると、見通しの良いはるか向こうに、まるで美しい模型のような店舗群が無数のライトとともに浮かび上がり、そのあたりが新造された一帯だということが一目瞭然でした。知らぬ間に、あたり一面は一気に近代的な雰囲気に激変してしまっていることにびっくりです。

近づくにつれて、それらはIKEAだけではなく、駅を中心としてモールの類まで抜け目なく集まってきており、そこらじゅうに出来たてのきれいな新しい道が縦横に何本も伸びています。

主役であるIKEAは新宮駅の真横に陣取っていて、駅舎も以前の姿はよく知りませんが、ずいぶんと新しいもののように思われました。
以前はこれといってなにもなかったような土地に、まっさらの広大な商業施設が、まるで定食のお膳のようにドカンと現れたようで、ほとんど新しい街が出現したかのようでした。

モールの入口には入居テナントの名前が明るい電光とともに表示してありますが、大半がどこかで見た覚えのあるようなものばかりで、とくに新鮮味はありません。こうして同じような店舗があちらこちらと新しい商業施設ができるたびに出店を繰り返すことで、人はどこでも同じような雰囲気の、同じようなモールやお店に行くことになるという、まさに現代の商業形態および消費生活の現実をまざまざと見せつけられるようでした。

いっぽうIKEAでは、夜遅くにもかかわらず、ガラス越しの中には関係者とおぼしき人達がたくさんいて、オープンに向けてあれこれと準備や打ち合わせに余念がないようでした。
車に乗ったままの見物でしたが、店舗自体はいわれるほど巨大にも見えませんでしたが、そのスケールで目を引いたのはむしろ隣接する駐車場のほうでした。
これはちょっとした空港並みというか、かなり広いスペースだと感じましたし、それぞれに簡単な屋根のようなものがあるところが、従来のありきたりな駐車場とはちょっと違った印象を与えました。

オープンしたらしばらくは周辺は渋滞などにさぞかし悩まされるだろうと思いますが、ひと心地ついたころには、まあ一度ぐらいは行ってみようと思います。
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廊下に立たされた

昨日、日本人はルール好きだということを書いたばかりでしたが、ひとつ思い出したことがありました。

先週、ピアノ好きや楽器業界などで話題の映画『ピアノマニア』を観に行ったのですが、上映開始20分ほど前に会場に到着し、チケットを買って目の前のロビーに立っていると、ほどなくこの映画館の従業員の女性がやってきて、「こちらはピアノマニアを上映致します」と、廊下を挟んで左右にある2つのシネマの右側を手で示しながらあたりに聞こえるにアナウンスし始めました。

単に左右あるシネマのうち「こちらですよ」というお知らせかと思ったら、言いながら自ら廊下の中ほどまで進んで、ドアの前に立ち「こちらにお並びください!」と逆らえない感じに言い始め、待っている人達は仕方がないので言われるままにぞろぞろとそちらに移動を開始しました。
すると、その女性の司令はさらに続き「こちらから、“2列に”お並びください」と言って、まごつく一同がきちんと廊下の右の壁寄りに2列縦隊を作るまで、繰り返して「右側に」「2列に」と大きな声で、ほとんど命令的に言ったのにはちょっと驚きました。

その状態では、まだ開場はしておらず、映画を見に来たお客さんは、思いがけず、まるで学校の朝礼かなにかのように薄暗い廊下のドアの前からきちんと並ばせられて、女性の指示通りに2列縦隊を取らされました。

しかもそれですぐに会場入りができるわけではなく、正確に計ったわけではありませんが、その状態で約10分ほどだったと思いますが、そのまま棒立ちの整列状態で待たされました。
いい大人が、自由意志によって料金1800円也を支払ってこれから映画を観ようというのに、このような強制を受けようとは夢にも思わず呆れてしまいましたが、同行者もいたことでもあり、そこで憤慨しても仕方がないので、この場はおとなしく従いましたが、後から考えてもこれはちょっと映画館側もやり過ぎだと思いました。

見方によってはナチに連行されるユダヤ人のようでもあり、(自分を含めてですが)なんとおとなしいアホな人達かとも思いました。
映画館の従業員にしてみれば、自分達の指示ひとつでお客さんをいいように動かして、並ばせたり、待たせたりするほうが都合がいいのかもしれませんが、これでマロニエ君は、この映画館に対する印象がすっかり悪化してしまいました。
せっかく『ピアノマニア』のような珍しい映画を上映してくれたことに感謝していたにもかかわらず、とても見識を欠いた残念なやり方だったと思います。

今どき物事を性別で言ってはいけないのかもしれませんが、とくに女性はこういう事に関して強制力を発揮したがる人や場合が多いようにも感じます。
もちろんこれは映画館側の方針であって、一従業員の一存でやっていることとは思いませんが、それでもそれをためらいもなくズンズンと押し進めていく手際というか、その態度や口調には独特な高慢さというか、人を人とも思わない冷酷さが含まれていたように感じました。

逆にいうと、あの状態で各自が自由にロビーにいて、時間になれば自然な流れで会場入りしたからといって、何が問題なのかと訝しく思うばかりでした。
ちょっとした都合で、人に軽々しく上から目線で指令を出して、まるで囚人のような扱いをするのは、それを取り決める人達の、物の考え方に対する品性を疑ってしまいます。

ついでながら、この『ピアノマニア』の感想は近いうちにマロニエ君の部屋に書くつもりです。
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ルール好き

外国人から見ると、日本人は規則が好きだとよく言われますが、それはたしかに否定できません。

日本人は礼節ある優秀な民族だとは思いますが、個々の人間が、自分の良識や感性、広くは教養によって臨機応変に物事を判断していくよりは、頭上にある規則に従うほうが性にあっているようにも感じます。
この点、自分は違うと言うわけではありませんが、日本人のマロニエ君にさえ、さすがにちょっと首を傾げる部分がしばしばあるのも事実です。

最近目にしたある音楽雑誌によると、近ごろではホールに於いても、花束を客席から直接渡すことを規則で禁じているところがあるとかで、それを受け取ろうとして関係者の手で遮られたキーシンが、帰りしなに「花は直接もらったほうがうれしいものですよ」というコメントを残したという一幕もあったとか。
そもそもクラシックのコンサートで花束を渡すことを禁止するというのも、その文化意識の低さたるや驚きですが、せめてそうまでする理由ぐらい明確にしてほしいものです。
ただ受付に託すだけなら、安くもない花を持って行く人なんていないでしょう。

規則というものは、もちろん社会ルールの維持のためには大いに必要なことは当然ですけれども、これをむやみに乱発するのは感心できません。
規則が昔から大好きなのがお役所や学校ですが、最近ではサービス業が主体のお店などでも、かなり無遠慮に決まりを作って、店員が堂々とそれを盾にした発言をお客さんにするのはまさに主客転倒というべきで、大いに違和感を覚えるところです。

規則というのは人を縛るものである以上、その制定と運用にはよくよくの慎重さをもって取り扱わなければいけないことですが、中には何か面倒があるとすぐにそれを禁ずる規則をお手軽に作ってしまう風潮があるのは、あまりに見識に欠けていると言わざるを得ません。
尤も、自己判断ではできない事柄でも、いったん規則となるとえらく従順になってしまうという場合が多いのも、日本人独特の不思議な性質にもよるのだろうと思います。

その最たるものは、お店のポイント制度などは、もっぱら店側の都合ばかりでルールが定められ、内容も随時ころころ変わり、その都度、客側が従わされることになるのは、まるで権力を振りかざされるような気分です。
しかし、大半の人はそれに異論も唱えずスムーズに従うようで「規則だから仕方がない」と無意識に反応してしまうようですから、これが日本人のDNAなのでしょうか。

ネット通販やソフトの同意規約なども同様で、これを一言一句読む人もめったにいないと思いますが、それをいいことに大半は最終的には店側に都合のいい決まりを列挙して、「同意」という担保をとりつけるのはいかにもな遣り口としか思えません。

また趣味のサークル等でも、この規則をやたらと乱発するところがあり、しかも泥縄式に細かい規則を作っては構成員に申し渡すというケースがあって驚きます。
内容も、ほとんどどうでもいいような、各人の常識に委ねれば済むようなことまで事細かに定められていたりしますから、このあたりは専らリーダーの性格しだいのようです。

永田町を筆頭に、人間は自分がルールを作る側・決める側になるということに、ある種の支配欲を刺激され、言い知れぬ快感があるのかもしれませんね。
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『桜の詩』

つい最近、知人から珍しいCDをいただきました。

なんと、この方のお父上が作詞・作曲をされた歌がプロの手によって編曲され、それをヴォーカルの女性が歌ったものがきちんとした製品としてCD化されているのですが、それをよかったら聴いてみてくださいと託されました。

マロニエ君は普段はクラシックしか聴きません。
べつにクラシック以外を聴かないと決めているのではなく、クラシックがあまりに広く奥深いので、それ以外の音楽ジャンルにまでとても手が回らないというのが偽らざるところなのです。
そして気がついたら、クラシック以外の音楽ジャンルのことはなにも知らず、いまさらCDを買おうにも、どこからどう手をつけていいかもさっぱりなわけです。

ですから、たとえば松田聖子の歌なんかを偶然耳にして、なかなかいいなぁ…と思うこともあれば、ちょっと縁あって聴いたジャズのCDが気に入って、しばらくそれを聴くというようなことはありますけれども、そこからあえて別ジャンルに入っていこうというところまでの意欲はないし、だいいちクラシックだけでもとてもじゃないほど無尽蔵な作品があるので、どうしても馴染みのあるクラシックという図式になってしまいます。

ですから、こうして人からきっかけを与えられた場合がマロニエ君が他の音楽を聴く数少ないチャンスでもあるのですからとても貴重です。

さて、このCDはペンネーム三月わけいさんという方の作品で、『桜の詩』『草原の風』という2曲が入っていましたが、はじまるやいなや、淡いほのぼのとした叙情的な世界が部屋中に広がり、メロディも耳に馴染みやすいゆったりした流れがあって、すっかり感心してしまいました。

印象的だったことは、日本人のこまやかな感性と情景がごく自然な日本語で描写されていて、どこにも作為的な臭いやわざとらしさがないことでした。

日本人は桜というとやたらめったら大げさに捉えがちで、あれが実はマロニエ君は好きではありません。
お花見も今やっているのは本来の在り方からはまるで逸脱したようなもの欲しそうなイメージがあり、気品あふれる桜とことさらな野外宴会の組み合わせが、すっかりこの季節のお馴染みの風景になってしまって、いつしか静かに桜を愛でるという、穏やかで自由な楽しみ方が出来なくなったようにマロニエ君は思うのです。

そんな中で、この『桜の詩』には人の喧噪も宴会もない、ありのままの桜とそこに自分の心を静かに重ねることができるやさしみがあり、このなんでもないことが、むしろ新鮮な感覚でもありました。
押しつけがましさのない、自然な詩情にそよそよとふれることで、人は却って無意識に惹きつけられるものがあるのかもしれません。
http://www.youtube.com/watch?v=MnrhRTupt-g
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ピアノ磨き2

いつだったか、ホームセンターに行ったついでにカー用品を見ていると、この分野も時代とともにずいぶん様変わりしているようです。
昔は生粋のカーマニアというのが珍しくなかったので、手間暇のかかる洗車や、ややこしいカーケアにも労を厭うことなく、専門のショップなどは高額な最高級ワックスだとか何とかいったものが溢れかえっていたものです。
しかし車に対する人々のニーズもしだいに変わり、それに伴ってカーケアの種類や方法も変わっていきました。

例えばワックス入りカーシャンプーみたいなものも出てきて、洗車とワックスがけの手間をひとつにまとめるなど、要するに結果はそこそこでも、作業はできるだけ簡単・短時間なほうがいいという傾向が現れ、次第に数を増し、ひとつの流派が確率されていきました。

さらにその上を行くものに、ウエットティッシュから発想を得たような、水入らずの「おそうじシート」がブームになり、これがカーケアの世界にも入ってきました。
これは最初は女性向けの手軽な洗車用品として登場しましたが、マロニエ君などは、こんな赤ちゃんのお尻拭きみたいなものは一時の思いつきのようなものですぐに姿を消すはずだと踏んでいましたが、結果はまったく逆で、次第に種類や内容もより豊富な製品が揃うようになりました。

出始めは、単にボディの汚れの除去剤を含ませた車用おそうじシートだったものが進化して、今ではワックス入りなどの種類も増えて、中には小キズ消しからコーティングまで一気にやってしまうという一手間で何役みたいなものが並んでいます。
これらを見ているうちに、これはもしかしたらピアノに使えないか…という考えが頭をよぎりました。

価格は300円前後から700円ほどの間で、内容というか、いわば効能も様々のようですが、安くて作業が簡単という点ではどれも共通しています。
とりあえず一番安いベーシックな「ワックス入り」を購入し、恐る恐るピアノに使ってみたところ、予想以上の上々な仕上がりにいたく満足しました。

使い方は、水ぶきして軽くホコリを落とし、シートに含まれる水分(というかワックス?)を軽くのばした後、時を置かずに柔らかい布で拭き上げるという至って簡単なものです。

ポイントは洗車のときと同じで、一度に広い範囲へ拭き広げることはせず、部分ごとに塗っては拭き上げるという作業を繰り返していくことです。
とりあえずサーッと一通りこれで拭き上げてみると、さすがはワックス成分が含まれているだけあって全体がピカピカになり、思わず「おおお!」とばかりに嬉しくなりました。これをもう一度繰り返すと、さらに輝きは増して安定したものになるだろうと思われます。

なにしろ作業自体がえらく簡単で、こんなにあっさりきれいになるなんて!
しかも拭いた後の感触が新品のようにツルツルで、楽譜なんてツーッと滑って行って、そのまま向こうに落ちてしまって慌てたぐらいです。

こうなると、またオバカなマロニエ君のことですから、違った製品をあれこれと買ってみなくては気が済まなくなりそうです。そんなことをする暇があれば、ちょっとでも練習をした方がいいのかもしれませんが、いざとなるとそんなことはどうでもいいわけで、これぞアマチュアの強味というか特権です。

だって弾くことは義務ではないんだもん!いつ中断してもどこからも文句が出るわけではなし、むしろ騒音が減って歓迎されるほうでしょう。
それはいいとしても、磨き事にハマってしまいそうな自分がこわいです。
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ピアノ磨き

黒の艶だし塗装のピアノをお持ちの方は、塗装面のお手入れはどんなふうにやっておられるのでしょう?
楽器店で売っているクリーニング液などを付属のネルの布などにつけて、薄く伸ばしながら拭きあげるというのが一般的な方法だと思います。

ところで、マロニエ君は自分のピアノには一定の考えがあってカバーはしていません。
音の問題もありますが、よくあるあの表は黒で裏には朱赤のネル生地がついた、いかにも学校の音楽室みたいなカバーがどうしても好きになれないのです。とりわけ黒と朱赤という色のコントラストは神経に不快なのです(尤も最近は裏地も黒といういうのもありますが)。
で、カバーをしていないぶん、音もカバーによる妙に籠もったようなものにならなくて済んでいます。

しかし微細なゴミは確実に塗装面(とくに水平面)に降り積もり、そのつど柔らかい布などで除去しますが、よくみると固着してしまう微細な汚れもあり、これは空気中には必ず含まれるものなので、これはなんらかのケミカル製品の助けを借りなくては安全に取り除くことはできません。

マロニエ君は最近でこそすっかり大人しくなりましたが、一時は大変な洗車マニアで、ありとあらゆるケミカル品を使っては試し、当時の我が家のガレージの棚には無数のワックスやコーティング剤がずらりと並んでいたものですが、ピアノの塗装面を見るとちょっとそのあたりの虫が疼いてくるわけです。

さて、その洗車のためのケミカル品、とりわけキズ落としや研磨剤、さらにはつや出しに至るまでの薬品は、意外にもピアノに流用できるものがあるとマロニエ君は考えています。まあそれもそのはずで、例えばピアノ業者がキズだらけのピアノを磨き上げるには、車と同様、目の異なるコンパウンドを使い分けながらグラインダーで磨いていくことで、ようはキズのある塗装面を薄く削り取って、美しい平滑な艶を磨いて出しているわけですから、こういうところはまったく同じなんですね。

素人が下手にコンパウンドを使うと却って細かい傷を付けたりくもらせてしまう場合があるので、これはよほど極細の最終仕上げ用以外は使わないほうが無難ですが、なかなか良いのはキズ消しとコーティングの効果がある製品で、これを使って磨くと、ピアノはかなりきれいになります。
ここでもキズ取りには若干ですがコンパウンドが巧妙に混入されており、それが塗装面の汚れを取り除いてきれいに仕上げるのに役に立つわけです。
ちなみに一般的な車用のコーティング剤の場合、同じ製品でも「ダークカラー系用」「淡色/メタリック系用」「ホワイト系用」という3タイプに分かれているのが普通ですが、この違いは何かというとコンパウンドの含有量もしくは粒子の違いで、ダークカラー系が最もキズが目立ちやすいので、そのぶんコンパウンドも最も弱く、効力もソフトなものになっています。

というわけで、黒のピアノには当然ダークカラー系を使うのが順当でしょう。
これで磨くと、ボディに美しい艶が出るし手触りもツルツルになるのはもちろん、くすんでしまった鍵盤蓋のYAMAHAやKAWAIの文字もビカビカの金色がよみがえり、これだけでもなにやらとても新鮮な気分で練習にも励めるというものです。

ただし、これはあくまでマロニエ君の個人的な経験と考えですから、マネされて何か不都合が起こっても責任はとれませんので、いちおう念のため。
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オペラの復活上演

NHKのBSで放送された、ジュゼッペ・スカルラッティの歌劇「愛のあるところ 嫉妬あり」の本編が始まる前に、イントロダクションとしてメーキングのドキュメントがありましたが、これはなかなかに印象深いものでした。

チェコ南部、世界遺産の古都チェスキー・クルムロフにあるチェスキー・クルムロフ城の中にバロック劇場というのがあり、そこでこのオペラが200数十年ぶりに復活するというものでした。

この城の中にあるバロック劇場でのオペラ上演は歴史の中で幾度も途絶えるなど、ときの為政者の意向によってそのつど興亡を繰り返してきたようです。
今回の復活上演では、初演当時のオリジナルを忠実に再現するほか、装置や小道具などもすべて往年のスタイルが用いられました。

驚いたことには、この劇場の緞帳の上げ下げはもちろんのこと、装置の転換など、舞台上のありとあらゆることが手動で行われるというものでした。
舞台下には、無数のロープが張り巡らされ、その端には木で作られた舟の舵取りハンドルのようなもののさらに大きいのがいくつもあって、それを数人の男がせっせと動かすことで、幕が上がったり装置が動いたり、背景が転換されたりと、まさに人力によってすべてが成り立っています。

また照明も電気を使わず、舞台手前の大きな金属の覆いの中にはたくさんの蝋燭が並んでいて、その光りを金属板が舞台方向を照らし返すことで役者の顔や身体を照らします。
またオーケストラピット内も照明はすべて蝋燭で、所狭しと並んだ楽譜や弦楽器に燃え移りはしないかとひやひやするほどでした。

オーケストラといえば、指揮者はもちろん、すべての団員までもが鮮やかな衣装とかつらをつけて、顔には例外なく真っ白な化粧をしています。
意外だったのは、普通のオペラでは客席から見て指揮者が中央で背中を向けて、舞台を見ながら左右に広がるオーケストラを指揮するものですが、ここでは指揮者はピット内の左側に横向きに立って、縦長のオーケストラを指揮しており、昔はこういうスタイルもあったのかと思いました。

もちろん出演者もクラシックな出で立ちで、立ち稽古中にも、古典作品ならではの動きや表情に事細かく注意を払っていて、現代では決して味わうことのできない往年のオペラを楽しむことができました。

照明や手動の道具類がそうであるために、舞台のすべてが喩えようもなくやわらかな光りと空気に包まれており、なんという優しげで美しい空間かと感嘆させられました。
唯一思い出したのは、映画『アマデウス』の中で出てくるフィガロやドン・ジョバンニ、魔笛などの舞台がやはりこういう調子だったことで、近年はピリオド楽器による古楽演奏がこれほど盛んになったぐらいですから、オペラのほうもこのような徹底した古典技法にのっとった手法でやってみるのもひとつの道ではないかと思いました。

それにしてもこのオペラのみならず、城の内外の様子を見るにつけ、ハプスブルク家を中心とする中央ヨーロッパの権勢と、そこに咲き乱れた文化の花々はおよそ想像を絶する桁外れなものだということを、いまさらながら思い知らされた気分でした。
マロニエ君はむやみに古いものを礼賛する趣味はありませんが、こういう「本物」というべきものを見ると、古いものの魅力には現代に比しておよそ底というものがないような気がしました。
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パイクのベートーヴェン

韓国ピアノ界の巨星ともいうべきクン=ウー・パイク。
この人の演奏するプロコフィエフのピアノ協奏曲全集やブラームスの第1協奏曲にマロニエ君はすっかり惚れ込んでしまって、彼が2005年から2007年にかけて作り上げたベートーヴェンのピアノソナタ全集を購入すべく探していることは、以前このブログに書いたばかりでした。

どういうわけか他の演奏者のように、どこの店でも取扱いがあるわけではなく、結局アマゾンで見つけて購入することに。ほどなく届き、はやる気持ちを抑えつつ、最初の一枚をプレーヤーに投じました。

この全集は9枚組で、曲は番号順に並んでいますから、一枚目は第1番ヘ短調から始まり、9枚目の最後は第32番で終わるということになります。
果たしてこれまでのクン=ウー・パイクの数々の名演からすれば、とくだん輝いているようでもない普通の感じでのスタートとなりましたが、いくら聴き進んでも一向にパッとしない演奏であることに否応なく気づきはじめました。
第4番から始まる2枚目でそれはある程度明確になり、3枚目の第7番や悲愴などの茫洋とした演奏を耳にするにいたって、それは甚だ不本意ながら確信へと変わりました。

もちろん曲によって多少の出来不出来があるのは致し方ないとしても、月光の第3楽章では、ある程度のpもしくはmpで上昇すべきアルペジョを、力任せにフォルテで駆け上るに至って、なんだこれは!?と思いました。
このころになると、はっきりと裏切られたという現実を認識していましたが、とりあえず軽く一通りは聴かないことにはせっかく安くもないセットを買ったことでもあり、悔しいので途中棄権はせず、敢えて最後まで聴き続けることにしました。

田園などは比較的よい演奏だったとも思いますが、テンペストや期待のワルトシュタインなども一向に冴えのないただ弾いてるだけといった感じの演奏でした。熱情では急に第3楽章のみやたらとテンポが速くて、これも大いに不自然でしたし、テレーゼなども優美さがまったく不足していました。

後期の入口であるop.101は比較的良かったとも思いますが、続くハンマークラヴィーアでは再び、ただ色艶のない重い演奏に終始します。
9枚目の最後の3つのソナタも、美しいop.109、感動のop.110はあまりに凡庸な演奏でしたし、最後のop.111でも特に大きな違和感や疑問を感じるような演奏ではないものの、これといって酔いしれるようなものではない、ごくありきたりな感じで、この作品が持つ精神的な崇高さをとくに感じることもないまま、ついには9枚のCDを聞き終えました。

ただし、だからといってパイクが他の曲で聴かせた名演の数々を否定するものでもありませんので、これはマロニエ君としては演奏者と作品(この場合は作曲者というべきか)との相性の問題だろうと考えたいところです。今にして思えば、この人はどちらかというと協奏曲(それも大曲、難曲の)に向いているような気もします。
そういえばフォーレのピアノ曲集も高い評判をよそに、マロニエ君の耳には、大男が無理にデリケートな演技をしているようで、ただ眠くなるばかりの演奏だったことをこの期に及んで思い出しました。

ちなみにこのディスクはデッカからのリリースですが、以前も書いたように、この名門ブランドとはちょっと思えないようなモコモコした、まるでクオリティを感じない音しか聞こえてこないことも併せて残念なことでした。
CDの成功は、演奏もさることながらその音質に負うところも大きく、その点でもこの全集ははっきりと失敗だったとマロニエ君は個人的に考えているところです。

最近のパイクのCDがグラモフォンからリリースされているところをみると、デッカの音質ゆえの移行なのかもしれないと、あくまで想像ですけれどもかなり自信を持って思っているところです。

それにしても一枚物のCDでも失敗は良い気分ではないところへ、9枚組のベートーヴェンのソナタ全集がまるごと失敗というのは、さすがに残念無念がズシッと重くのしかかります。
再び手にすることがあるかどうか…ハァ〜です。
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ピアノマニアが福岡へ

「ピアノマニア」という文字通りピアノ好き必見のドキュメンタリー映画が公開されます。
http://www.piano-mania.com/

シュテファン・クニュップファーという、かつてスタインウェイ社で一番と言われた(らしい)ドイツ人調律師を中心に描く、オーストリアとドイツの合作で、マロニエ君もぜひ観たいと思いつつ、なにしろ超マイナー作品のようで、上映も東京・大阪などの、極めて限られたところでしか行われていませんでした。

まさかこれひとつのために泊まりがけで出かけるわけにもいかず、こういうことが東京・大阪の特権かと思っていましたが、なんと、ついに福岡へもやってくるようです。

1月の東京での封切りから現在まで、かろうじて大阪、静岡(浜松があるから?)、名古屋で上映されていたようで、福岡が5番目の上映都市となるようです。

そのうちDVD等ではチャンスがあるかもしれないとは思いつつ、劇場で観るのはほとんど諦めていただけに望外の喜びです。

上映日時は下記の通り。

場所:KBCシネマ
3月31日(土):14:15
4月1日(日):14:15
4月2日(月):14:15/18:30
4月3日(火):14:15/18:30
4月4日(水):14:10/19:10
4月5日(木):14:15/18:30
4月6日(金):14:15/18:30

4月7日以降は未定、延長もあるとのことですが、はじめの一週間の客足によって決するということかもしれません。普通はまずこんな映画を観る人はいないでしょうから、ともかく地元で見られるだけでも御の字です。
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不燃物処理事情2

昨日の燃えないゴミ問題は、後半やや話が脱線しましたが、一般市民にとっては、以前なら普通にタダで処理できていたものが、なんでも有料となり、ものによってはチケットまで購入させられて、さらに引き取りの日時の予約をするなど、とかく手間暇がかかります。

もちろん、ゴミ問題は社会の大事なので、これが有料化されたり物によってはリサイクルの対象とされるところまではやむを得ないことだと思います。

しかし気持ちのどこかで納得できないものがあることも事実で、そんな折、我が家の燃えないゴミが持ち去りにあったところから、あることが閃めいてしまいました。
ゴミとして回収処分される前に、そんなものでも欲しいと思う人の手にすんなり渡るとしたら、それは別に問題ではないだろうと思ったのです。不燃物の回収日に現れる小型トラックの人達は、あれこれと廃品を物色しては必要な物を次々に荷台に放り込んでは立ち去っていきますので、これはもしかしたら、不要な物は門前に置いておけば、場合によっては持っていってくれるかもしれない…と。

まず先月の回収日、マロニエ君宅のガレージには友人のものも含めて、交換済みの車のバッテリーが3個あり、どれもきちんとした紙のパッケージに入っていますが、これを3つ重ねて置いていたところ、果たして翌朝、それらはそのまま同じ場所に置かれたままでした。
やはり自分の考えが甘かったのかと思って、早々にガレージ内に戻しました。

その後ガレージ内の大掃除をして、たくさんの燃えないゴミを控えて、続く今月の回収日を迎えたわけです。
指定の袋に入れたものはそれでいいわけですが、問題は大きく重い鉄の棚枠が二つでした。
これはまさか袋に入れてポイというわけにもいかないので、通常の回収は諦めていたのですが、再挑戦のつもりで夜になってから、ものは試しとばかりにもう一度ゴミと並べて出してみることにしました。前回のバッテリーと違うのは、それぞれに「ゴミです」と大書した張り紙をしておいたことでした。

誰も要らないようなら、またガレージに引っ込めればいいと思ったのです。
これらを門前に出して、夕食を済ませた後、気になったのでなにげなく表を見に行ったら、なんと!その鉄枠だけがものの見事に姿を消していました。門前に置いてからわずか1時間ほどの間の出来事でした。おかしな話ですが、このときマロニエ君はえもいわれぬ不思議な「感動」を味わってしまいました。
やはり自分の直感は間違っていなかったのだと思い、それらは鉄製品ですから、どこかに目方売りなどされるのだろうと思いました。

これは大変なことになった(笑)と思って、さらに続けてバッテリーとフロアジャッキにも「ゴミです」という張り紙をして続けて出しました。
深夜、再び見に行ったときには、やはりこれらもいつの間にかなくなっていて、誰かが自分の意志によって持ち去ったようでした。

そしてさらに感心させられたことは、前回3個の箱入りのバッテリーが持ち去られなかったのは、マロニエ君が廃品であることを明示しなかったからで、彼らにしてみればただそこに置いていただけなら泥棒になる、という区別をキチンとつけたらしいという点でした。
こういうところにも我らが日本人の気質と徳の高さが如実に現れているようでした。
これがもし外国だったら、外に出した途端(欲しい場合は)張り紙のあるなしなど関係なく、何のためらいもなく誰かが持っていってしまうのが当たり前だろうと思います。日本はさすがですね!

それにしても、不必要な物が必要とする人の手に渡っていく。こういう廃品の処理方法もあるのだということを知って、これはこれで立派なリサイクルではないか…というような気がしましたが、こじつけでしょうか?
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不燃物処理事情1

このところ数日をかけて、ガレージ(慢性的な物置と化している)の大掃除を何年ぶりかで行いました。
ガレージという性質上、そこから輩出されるゴミは大半が「もえないゴミ」ということになります。
市が指定している専用のビニール袋に入れて月一回の回収日に出せば大半は問題なく処分できますが、中にはとうていそんなものに入れるわけにもいかない…というものがあります。

たとえば大きな鉄の棚枠とか、大型の室内用フロアランプ、もう使わない大型の油圧式ジャッキ、交換済みのバッテリーなどはとても市の指定の袋には入りませんし、無理して押し込んだところで、たちまち切れたり破れたりということになってしまうでしょう。

さて、以前も書きましたが、燃えないゴミの回収日は、外が暗くなると、表の道は、にわかにリサイクル業者のような人達が軽トラックに乗ってひっきりなしに往来をはじめます。
以前驚いたのは、出していた我が家のゴミを、市の回収業者が来る前に、袋ごと持ち去られてしまったことでした。袋の中は空き瓶や空き缶を中心としたもので、べつに見られて困るようなものはありませんでしたが、そうはいってもなんとも不気味な思いをしたものでした。

彼らはマンションのゴミ収集場所などに躊躇なく入って行き、欲しい物だけを手に戻ってきては、それをポンとトラックの荷台に投げ入れて足早に去っていきます。一晩中これが繰り返されて、あたりは変な賑やかさに満たされるのです。

これ、ひとくちに言うと、彼らは具体的になにを欲しがっているのかまではわかりませんが、とにかく自分達が欲しいと思うものを探し求めてあちこちを回っているようで、その行動力は妙に腰の座ったものがあるように見受けられます。
再利用できるもの、あるいは資源ゴミになるようなものをどこぞに持ち込んで売りさばくのだろうとは思いますが、それ以上のことはわかりませんし、住民としても捨てたものである以上、その行方がどうなろうとも別に知ったことじゃないというわけです。

もちろん世の中には、何事にも厳格で口うるさい人がいますから、こういう事にも異議申し立てや抗議をするような人もいるかもしれませんが、マロニエ君としては我が家の不必要なものが普通に処分できるのであれば、それ以上の不満も文句もありません。

以前驚いたのは(他県でしたが)テレビニュースの特集で、古紙の回収日に市の指定業者以外の個人レベルの人達による古紙類の持ち去り問題が取り上げられ、それこそ何日も地域に密着し、画面にはモザイクをかけながら、えらくご大層に取材していましたが、そのテレビ局の扱い方は、古紙の持ち去りがまるで万引き犯や泥棒を追跡するのと同じようなニュアンスで、これには甚だ首を傾げました。

古紙などは、出す側にしてみれば、邪魔なものが処理してもらえればそれで御の字であって、回収している人が誰であるかなど考えたこともありません。行政の担当者はマイクを向けられて「古紙の処分代も市の貴重な財源です!」などと尤もらしく言っていましたが、見ている側はどうにももうひとつ同調できません。

いくら「持ち去り」などと言葉ではいってみても、もとの所有者はそれらをゴミとして捉えて集積場所に出した以上、すでにその所有権を放棄したわけですから、それを指定業者以外の個人が持ち去ったといってさも大事のごとく糾弾するような性質のものだろうかと思いました。
そんなことを何日も物陰に張り付いて取材する暇があったら、たとえ地方であっても腐りきった役人や政治腐敗、あるいは民間企業であってもそこらに転がっているはずの許しがたい不正行為など、本当に社会問題と呼ぶにふさわしいものこそ存分に取材しろと言いたくなりました。

…以下続く。
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格闘技系?

岡田将ピアノリサイタルに行きました。
福岡の出身、名前は以前から聞いていて、テレビで少し演奏に触れたことはあったものの、実演に接するのは今回が初めてでした。

曲目はベートーヴェンの月光ソナタ、ショパンの3つのマズルカ作品50、バルカローレ、リストの超絶技巧練習曲から1、2、4、5、8、ハンガリー狂詩曲第2番、アンコールは愛の夢と英雄ポロネーズというものでした。
当初は超絶技巧練習曲は全12曲が予定されており、マロニエ君としてはこれが目的で行ったようなものでしたから、曲目の変更を知ったときは大きく落胆しましたが、まあそれは仕方がありません。

岡田氏はテレビではしっかり感のある技巧派という印象があり、実際にも背丈などはそれほどではないものの、がちっとした体型と存在感のある人で、徹頭徹尾、予想以上に重量級のエネルギッシュな演奏を繰り広げました。

第1曲の月光第一楽章の出だしからして、ちょっと粗いなぁという印象があり、ちょっと自分の趣味ではないことにまずは戸惑いましたが、聴き進むうちにこれはこれでこの人の在り方なんだということが分かってきて、それなりに楽しんで聴ける自分を取り戻すことができたように思います。

とりわけ後半のリストは、いかにもこの日のメインという風情で、かのリスト本人のコンサートがそうであったように、あまりに凄まじい熱演に弦が切れるか、ピアノが壊れてしまうのではないかというような地響きのするようなフォルテッシモの連射で、いやはやその技巧と体力だけでも大したもの!という感じでした。

ピアノの演奏芸術を聴くというよりは、ほとんど格闘技でも見ているような感覚で、フェイスもややそれ系の印象がありますね(笑)。まさにオトコのピアノでした。
何事も中途半端はいけませんが、ここまでいくと何か突き抜けたものがあり、そのパワフルな演奏を単純に楽しむことができたのは自分でも不思議に笑ってしまいました。
なんというか、別の感覚でステージを楽しんだという点では退屈もせず、妙な疲労感も覚えず、愉快に帰ってくることができたわけで、こんなコンサートもあるのかとひとつ感心させられました。

最近の世の中は、何事にも元気のない、しょぼしょぼしたものばかりしか見あたりませんが、そんな中で久しぶりに景気のいい、どえらいものを見せて聴かせてもらった気がしました。たしかに音楽的には異論反論はありますが、単純にあのパワーと元気は人を快活にするものがあり、昨今の淀んだような病的な空気ばかり吸っていると、なにか無性に溜飲が下がる思いでした。

お客さんを率直にこういう気分にさせるという点では、岡田氏もさすがは福岡の出身なのかと思えるようで、妙にもってまわったような暗くて意味深な演奏をしたり、だらだらとおざなりなトークで時間稼ぎするようなこともなく、話もサクサクと短かめ、演奏も明快な豚骨味みたいな率直さで、まるで美味しい街の定食屋で餃子や揚げ物などしこたま食べて満腹したような心地よさと爽快感がありました。

このコンサートの主催が日本ショパン協会九州支部(たしか事務局がカワイの中にある)だったためか、ピアノはあいれふホールにわざわざシゲルカワイのEXを持ち込んでの演奏会で、思いがけずあいれふホールのあの独特な強い響きの中でSK-EXを聴く機会に恵まれたわけですが、どう聴いてもマロニエ君の好みではありませんでした。

これは、この日一日だけの印象ではなくて、ホールやピアノ(もちろんピアニストも)が変わってもカワイピアノに共通した印象があって、コンサートで聴くカワイの一番の問題は、音に深みと色気がないこと、別の言い方をすると音に収束性がないことです。
大味で透明感がなく、どこか雑然と割り切ったような音しかしないのは、まさに味のない日本車みたいで、カワイのファンとしてはこれは非常に残念なことだと思います。

家庭用サイズではかなりの高みに達しているかに思えるSKシリーズですが、ことコンサートグランドに関しては、残念ながら及第点に未だ到達せずという印象は拭えません。
これは早急になんとか手を打って欲しいところです。
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楽器を弾く権利!

過日、知り合いのピアニストと食事をした折に、留学時代のヨーロッパの様子など、いろいろおもしろい話を聞かせてもらいました。

驚いたことはドイツやオランダなどは、都市部でも賃貸の物件が少なく、家賃も決して安くないためにこれを確保することがまずもって一苦労だということでした。
とくに学生などは数人でのルームシェアは当たり前だそうで、そのスタイルが逆に社会人の間にさえ広まりつつあるのだとか。はじめは屋根裏部屋のようなところもあったらしく、賃貸物件など供給過剰で空室があふれる日本とはまるきり事情が違うようです。

ピアノで留学しているにもかかわらず、自室にピアノがないことさえあったらしく、アップライトでも確保できたら良しとしなくてはいけないのも、単純にずいぶん厳しいなぁ…と思ってしまいます。
裏を返せば、勉学というものは困難な状況で努力奮闘することも、却って気合いが入るものかもしれませんが。

逆に驚いたのは騒音問題で、この点は、日本は厳しいどころではない、極めて神経質に取り扱われる深刻な問題になっていて、アパートやマンションのような集合住宅ではほとんどが事実上の禁止状態に近く、多くのピアノ弾きの皆さんが最も困難を感じ、周囲には格別の気を遣っておらる最大の問題です。
当然、中にはそれが引っ越しの動機にさえなるほどの、まさに胃の痛くなるような問題に発展することも珍しくはないようです。
ピアノをはじめとする楽器の音は、周囲の人達にとってはとにかく不愉快な騒音だという大前提があるので、その中で曜日や時間帯に気を配りながら、身をすくめるようにしながらピアノを弾いている人が大半ですから、例えヨーロッパといえども、それなりの配慮が必要な問題だろうと思っていました。

ところが、ドイツではなんと人々は楽器を演奏する「権利」があるのだそうで、1日3時間は楽器の音を出しても良いという決まりになっているというのですから、彼我の文化の違いにはただただ唖然とさせられました。
これはまず、音楽に対する本質的な愛情の持ち方が、根底から違うのだなあというのが率直な印象でした。
そのピアニスト氏によると、アパートの隣室の老夫妻などは「むしろどんどん弾いてくれ」とまで言われたのだそうで、おかげで夜もかなり遅くまで気兼ねなく弾くことができたといいます。

そのかわり、午後の1時から3時までは「ルーエ・ツァイト」といって、この時間帯はできるだけ音を出さず、みんなが静かに過ごす時間帯なのだそうで、その時間だけ音出しを控えれば、あとは日本のような楽器の騒音問題は事実上ないに等しいのだそうです。

これはもはや良し悪しの問題ではなく、さすがドイツは音楽の中心国だと、ただただ感心する他ありませんでした。
日本人がわずか百年余の間に、まったく文化背景の異なる西洋音楽をものにして高度な演奏を可能とし、優れたホールや楽器がいくらあまねく整ったなどと言ってはみても、所詮はこういう一般市民の根底に流れている意識レベルが違うということは、これぞまさに歴史と文化、それが染み込んだ土壌というものの違いをまざまざと思い知らされるようでした。

もちろん、かくいうマロニエ君とて、もし自分がマンション暮らしで、近隣からのピアノの音に連日悩まされたら、音楽云々以前に閉口するとは思いますが…。
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掃除機2

掃除機の機種選びが始まりました。
電気店などに行ったときの店員さんの話によると、国内メーカーでは掃除機は圧倒的に日立なんだそうで、もちろんそれ以外のメーカーも製品でも大きく性能に差があるわけではないが…ということでした。

また、掃除機にはサイクロン式と紙パック式という二つの大きな流れがあり、まずこれをどちらにするか選択する必要がありました。
サイクロン式の良いところは吸引力が強力で、遠心力でゴミと空気を分けるので排気がきれいという点があるようで、その反面フィルターの掃除や頻繁なゴミ捨てが必要となり、この点で簡便な紙パック式が人気があるともいいます。
いっぽう紙パック式はゴミをパックごと捨てればいいという点はたしかに便利なのですが、排気が臭うことと、純正紙パックは想像以上に値段が高くて、とても毎回ポンポン取り替えるようなものでもないようです。そうなると汚いゴミを掃除機内に残したままにもなるわけで、それはそれで気持ちが悪いので、やはり自分にはサイクロン式が向いているように思いました。

サイクロン式ということには決まったものの、どこのメーカーのどれにするというのを見極めるのは種類も多くてうんざりです。こういうときに大いに参考にもなり役立つのが口コミサイトで、これを見ていると、売れ筋や長所短所がわかりやすくまとめられていて大助かりです。

あれこれと調べた結果、購入したのはけっきょく日立のサイクロン式で、品番などは忘れましたが吸引力が強力とされるもので、ユーザーの評価でもこの点では軒並み最高点を取っている製品です。
しかも現在使っている掃除機(これも偶然日立のサイクロン式)の購入時よりも価格が安くなっている点も予想外に嬉しい点でした。

届いた箱を開けると、全体にこれまでのものより遙かにしっかりしているし、蛇腹状のダクトなどもひとまわり太い作りで、見るからに逞しそうな感じがしました。さっそく試しに使ってみると、その強引とも言いたくなるような強力な吸引力には惚れ惚れさせられました。
先端のブラシもガンガン回って、まるでラジコンカーのように自分から先へ先へと進むので、むしろ右手は軽くぴっぱるぐらいの感じなのにはびっくりしました。以前の機種も同じですが、なにしろパワーが圧倒的に違いました。
軽く部屋を撫で回した後、ゴミを捨ててみると、なんと従来のものよりも格段にゴミ捨てが簡単になっていて、フィルターの掃除などもほとんど必要がないぐらいなのは、技術の進歩とはこういうものかと感動しました。

ここまで簡単であるならば、マロニエ君にとってはいよいよ紙パックである必要はなく、つくづくそちらにしなくてよかったと思いました。微細な塵に関してはティッシュペーパーを挟んでおく方式で、これはサンヨー電気が先頭を切った方式らしく、その後、三菱や東芝、日立などが続いたとそうです。
これによりフィルターの目詰まりが劇的に軽減されたようで、これまで掃除機をかける度にマスクをして付属ブラシでフィルターの掃除をしていたマロニエ君にとっては、嫌な作業から解放されてまったく夢のようです。

楽器と違い、家電はやはり新しいほうが文句なしにいいようです。
ヘッドがダメになった古いほうは、車内の掃除用にガレージに掃除機が欲しいと思っていたところで、本体は健康だし回転ブラシのヘッドは要らないので、ちょうどいい塩梅に収まるべきところへ収まりました。
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掃除機1

ネットが便利なことはいまさらですが、たとえば製品の性能や特徴の比較など、経験者による口コミの書き込みが多いことも購入者にとっては大いに役立つところです。
とりわけ電気製品しかりで、あまりにも多種多様である製品の中から、自分にとって好ましい一台を選び出すというのは、従来ならよほどの人でないと難しい事でしたが、これもネット情報のお陰で、一気にかつ網羅的に調べることができるようになりました。
我が家で10年近く使っている掃除機が、先端のブラシ回転部分の性能低下によって、変な音は出るわ性能は落ちてくるわで、これをいよいよ買い換える必要に迫られました。

近ごろは時代も変わったのか、男が数人集まっても掃除機の話題などが出ることもあり、数年前まではダイソンが掃除機界の革命児のようにもてはやされた時期がありました。その秀でた性能はもちろん、イギリスの会社の製品と云うことや、いかにも日本的ではないそのデザイン、さらには価格もたいそう立派なものであることから、これが一時期特別視されていたように記憶しています。

マロニエ君も一時はこのダイソンの購入を考えたことがありましたが、店頭でテスト機をちょっと手にしてみると、どうも評判ほど素晴らしいとは思えませんでした。もともと掃除が好きなわけでもなく、できるだけ強力かつ楽で簡単に掃除ができる機種が希望(大半の人がそうだと思いますが)でしたが、ダイソンはまずなによりも機械が大きく重く、それだけでもこのマシンを使いこなすイメージができなかったのです。

その後は、日本人向けかどうかは知りませんが、より小型のものが発売されたようですが、それでもとくに魅力的には映らず、値が張る割りにはどうもしっくりこない製品だと思っていましたが、その後はこの高級掃除機のユーザーの声などが聞こえてくるようになり、それらはマロニエ君の直感通り、実はあまり芳しいものではなかったのです。
代表的な意見としては、独自のサイクロン式による吸引力が最後まで変わらないとされる点も、実際にはそれほどの性能は認められないばかりか、やはり重く大きいぶん操作がしづらい、疲れるというような体験談があちこちで散見されるようになりました。

それでも、ダイソンはやはりそれだけの実力のある掃除機だろうと思いますが、もしかすると欧米と日本では、生活様式や住居の広さなどが違うので、日本人が日本で使うという場面ではあまり本領を発揮しない掃除機なのかもしれません。

このダイソン、かなり購入を考えたところまで盛り上がっていたこともあり、その実情を知るや、すっかり醒めてしまって、同時に掃除機の買い換えそのものまで沈静化していまい、以来また数年間そのまま古い掃除機を使い続けることになってしまいました。

いうまでもなくマロニエ君はピアノは好きでも、家電マニアではないので、基本的には掃除機なんてふつうに使えればそれでじゅうぶんなので、家にある掃除機がとりあえずまともに動いている以上は、それでいいや!という感覚でもありました。

使っている掃除機が壊れたら、あるいはよほどこれだというものが出てくれば、そのときは買い換えようというわけです。そうしてついに我が家の掃除機が、ヘッド部分から悲鳴のような異常音を発するに至り、買い換えを余儀なくされる事になり、機種選びが始まりましたが、これで大いに役立ったのが冒頭の家電ネット情報というわけです。
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久々に…

先週末は、はからずもクラブの活動らしき事を行うことができました。
といっても大げさなものではなく、ごく内輪で食事に行くことになったところからたまたま発展して、新たに入会の連絡をくださった方にも声をかけたところ参加されることになったものです。

参加者は4人、ピアノ好き2人とピアニスト1人、そして楽器メーカーの営業の方1人という布陣で、この顔ぶれだけでもけっこう面白いものだと思いましたし、このぴあのピアが目指した(といってもずいぶん昔ですが)クラブ理念に近いものになったような気がします。

それはプロアマを超越したところにあるピアノを軸とした人間関係の構築であり、本来はもっとこういう交流が盛んになればと思うのですが、なにぶんにも狭い業界の中でいろいろな柵(しがらみ)が網の目のように絡んでいて、そうそう表立ってそういう場所に顔を出せない方も多くいらっしゃるようです。

しかし、このような自分の立ち位置の異なる人達が顔を合わせることによって、お互いに普段知ることのない情報の交換ができるわけで、とても有意義な一日だったと思います。もちろん「有意義」などという真面目くさったことをいうまでもなく、まず単純に楽しかったし、それが最も大事なことだと思いますが。

個別具体的な話の内容は障りがあるのでここでご紹介することはできませんが、やはり仕事の現場というのはどさまざまなことがあるもので、いろいろな人や状況を相手にしなくてはならず、大変だなあ…というのが偽らざるところでした。まあそれはどんな業界にも共通したことで、ことさら楽器業界だけが抱える問題というわけでもないとは思いますが…。

聞いていてため息が出たのは、お付き合いのある教室や先生へのサービスとして、発表会などの折には休日返上でお手伝いに行くというのが業界では常態化しているのようで、なんと、先生のほうからその旨の依頼がある!というのは、いやはや呆れた実情です。
いうなれば人の弱みにつけこんだサービスのたかりのようなもので、別に正義漢ぶるわけじゃありませんが、マロニエ君は昔からこういうことが猛烈に嫌いです。

お医者さんの奥さんが、ただ友人達とどこかへ遊びに行くのに、出入りの製薬会社の人&車を使って遠方まで出かけては、丸一日彼女達に対して奉仕させるとか、デパートの外商担当者に交通事故の後始末までさせるとか、大手の量販店で自前の店員の不足分をメーカーの営業マンなどを売り場で働かせていたなど、要はこれ、弱い者イジメであり、薄汚いゴミみたいなちっぽけな権力の行使にすぎません。

学校や教室で少しばかりそこのメーカーのピアノを使っているからといって、その売買はとうの昔に完了していることなのに、いわばそれを元ネタにして、延々とメーカーの人達が発表会だ何だとお手伝いをさせられ、しかも休日返上でそれをやらされるという現実…。
そのようなまったく筋の違う人達に無償奉仕など頼まなくても、先生達も複数いらして充分に人の手はあるはずなのに、本当にイヤな慣習です。

これだから先生と名のつく人達の中には、相手になんのメリットも対価も与えきれないくせにやたら人使いだけは荒くて、世間からある意味で敬遠され嗤われてしまう人が少なくないのだと思います。
人間関係の根本にあるものはギブ&テイクという原理原則が、まるきりわからない人達です。

それでも営業という立場にある以上、文句も言わずにサービスにこれ努めなくてはいけないわけで、こうなると本当に大変だと思います。

もちろん楽しい話もたくさんあり、いろんな興味深い話を交わすことができて、やはりピアノはいいものだと思いました。
というわけであれこれと話は尽きず、つい深夜まで話し込んでしまいました。
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値下げ品争奪

土曜の午後、行きつけのスーパーに食料品の買い物に行ったときのこと。

精肉売り場の前にある、割引品のコーナーに商品が多数投下されて、販売員の女性が割引の赤いシールを貼り始めました。はじめは誰もいませんでしたが、シールを貼り始めたのを察知してか、一人の女性が近づいてきてその大きなボックスを物色しはじめました。

すると一人、また一人と人が寄ってきて、あたりはたちまちちょっとした人だかりができました。
集まってきたのは全員が女性でしたが、シールを貼っている店員さんは、あっという間に両側をお客さんに挟まれて、その人達があまりにもゴソゴソと商品を物色するので、作業さえスムーズにできない状態に陥ったのです。

とくに最近の特徴だと思うのは、それがスーパーであれデパートであれ、ふつうのお店でもそうですが、人の身体の前に手だけをぐーっと伸ばして目指す物をゲットするというやりかたです。
これまでなら、人が何かを見ていれば、とりあえずその人がいる場所は暫定的にその人の空間となり、そこから何かを取りたいときは、その前に人がいなくなってから手を伸ばすというのが暗黙のマナーのようになっていたように思いますが、ここ最近はこの良き習慣はまったく失われたように思います。

人がいようがいまいが、自分が欲しい物がそこにあれば横からぐいぐい手を伸ばして、取りたい物をガッツリ取るということで、これは本来あまり愉快ではない行為だと思いますが、個人の問題ではなく、風潮としてみんなが当然のようにやり始めますから、とてもじゃありませんがかないません。

さて、そのスーパーの精肉割引品のコーナーはというと、その女性店員の前には無数の「手」が上下左右から伸びてきてゴソゴソうごめいているサマは、反対側から見ると、ほとんどヘンタイ的な動きに見えてしまいました。
しかも不気味なことは、これだけ人がいて、みんな必死に値下げ品を物色しているというのに、人の声とか笑顔というものがまるでなく、ただただ無言でラップで覆われた商品がプチプチゴソゴソと触れ合う音だけが静かに聞こえてくるということです。

どの人も、一様に競争心もあるのか大真面目な表情をしていて、こういっちゃなんですが、人間はとても浅ましい生き物だということを如実に見せつけられるような気になって、つい見物してしまいます。
もちろんマロニエ君とて、値下げ品でも処分品でも、あれば喜んで手に取ってみるし、それを買って得したと思うこともしばしばですが、あの無言の争奪戦みたいな状況、ピリピリした緊張にあふれるあの動物的な感じだけはちょっとついていけませんし、この状況の中へ敢えて自分も身を投じる気にはなれません。

いつごろからかは知りませんが、日本人は昔以上に暗くて陰気な民族になり果てたような気がします。
ネットやテレビなどでは、みんないかにも明るく立派なことばかり言いますが、その実、我欲はますます先鋭化されて、そのための勝負心はより白熱したものであることをひしひしと感じるのは、これこそ社会の光りと陰のような気がします。

尤も、ある人に言わせると、人の内面が時代とともに荒れ果てて汚れているからこそ、上辺の言葉は立派なことばかりいうのだそうですが、たしかにその心理構造も納得させられます。
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