レインセンサーの害

「便利が不便」ということがよくありますが、いま使っているワープロソフトなども親切設計のつもりだろうと思われることが、却って使用者の自由がきかずに煩わしい思いをすることがあったりします。

最近痛感したのは、ある車のフロントウインドウを見たときで、昼間はまったくわからないものの、夜、対向車や街中の光を通して見ると、一面に昔のレコード盤のようにワイパーによる掻きキズが入っていて思わずゾクッとしてしまいました。
古いくたびれた車ならそういうこともあるとは思いますが、その他の部分はとてもきれいな車だっただけに、フロントウインドウの夥しいキズはいっそう目立っていました。

小雨だったこともあり、その原因がその車に装備されているレインセンサー付きのワイパーにあることは明瞭で、ほぼ間違いないと思われました。
レインセンサーというのは、普通の間欠ワイパーの機能を表向きは進化させたもので、ガラスに装着されたセンサーが雨滴の量などを感知して、それに応じてワイパーを動かすというシステムなのですが、これがマロニエ君は大嫌いです。

その理由は、やたらめったら必要もないのにワイパーが動きまくって、しかもその動きに一定のリズムがないので気分的に落ち着かないことと、たいして水滴もないのにワイパーがせわしなく動くことで、じわじわとガラスにキズを付けてしまうというわけで、なにひとついいことがありません。

そもそもマロニエ君はキズの付いたフロントウインドウというのが性格的に我慢できません。
先に書いたように昼間はほとんどわかりませんが、ワイパーの過剰使用によるガラスのキズは実は深刻で、だいいち夜間の安全運転の妨げにもなると思われます。

一般的な認識で言うと、ワイパーはゴム製品で、相手はガラスなので、これを普通に使うぶんにはキズが付くなんて考えたこともない人が大半だろうと思いますが、これが実は大間違いなのです。
車のワイパーは高速道路などでも使えるように、ガラスへの圧着力はかなり強いものでもあり、作動スピードもかなり速いので、ガラス面に水滴がじゅうぶんあればそれがクッションになってまだいいのですが、雨が少なければ単なる摩擦運動になるだけです。

よく見かけるのは、ほとんど雨は降っていないのに、赤信号中で停止中などもワイパーを動かしっぱなしにして平然としている人ですが、マロニエ君にしてみればあんなのは他人事ながら見ているだけで気になって仕方がありません。

レインセンサー付きのワイパーはこういうことを避けて、適宜必要なときに必要なだけワイパーを動かすというシステムであるはずですが、その設定プログラムはどのメーカーも過剰過敏に動かしすぎて、却って車に害を及ぼしているということです。あれなら従来の間欠ワイパーのほうがよほど単純でスッキリしていたように思います。

もうひとつ気をつけなければならないのは、意外に思われるかもしれませんが、ワイパーのゴムの部分というのは、実はボディを洗車するよりも頻繁に掃除しなくてはいけない部分だということ。
というのは、このゴム部分には常に小さな砂やホコリが蓄積されており、とりわけ野外駐車の車ではそれが激しいようですが、そういう目に見えない砂や鉄粉みたいなものをゴム部分にしこたまのせたまま、雨が降るとワイパーのスイッチが入り、ガラス面を猛然と往復しはじめます。
もうおわかりと思いますが、こういうことの繰り返しによってガラスには無惨なワイパーの掻き傷が徐々に増えていくわけで、ガラスの傷はいったんついてしまうと、とてもシロウトの手におえるものではなく、専門の業者に依頼して研磨してもらうか、最悪の場合はガラスごと交換するしかありません。

こうならないためには、ワイパーのゴム部分を濡れ雑巾で拭いてきれいにしておくことと、必要以上にワイパーを作動させないという心得があればすこぶる効果的です。マロニエ君は昔からこれを忠実にやっているので、十年以上乗った車でも、ワイパーによる掻き傷はまずありませんし、これはそんなに大変なことでもないのでオススメです。

ガラスがきれいというのは安全にも役立つし、無条件に気持ちがいいものです。
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かけこみ需要

つい先ごろ発売されたばかりの新しいシゲルカワイのカタログを入手しました。
カワイの営業の方がコンサートのチケットを届けに寄ってくださるついでに、新型のカタログが欲しいとお願いしておいたのです。

今回の新モデルでは、なんとピアノの全長が全5モデルにわたって2cm長くなっています(SK-5のみ3cm延長)が、どうやらそれに伴って鍵盤延長という楽器の根本に関わる改良が行われているようです。
一般にフルコンが弾きやすいとされるのは、その豊潤な響きもさることながら、長い鍵盤にもその大きな要因があるといわれていますが、それは指先が弾いた位置から支点までの距離が長いぶん、微妙なコントロールの幅があるというセオリーに裏付けられています。

鍵盤の奥の長さはふだん目に見える部分ではありませんが、小さなグランドほど鍵盤から支点までの距離が短くなり、コントロールの可能性という面においては不利になることは否めないわけですが、これを新SKシリーズでは全機種にわたってその長さを延長するというのは、単なる既存モデルの改良では済まない、ピアノの基本的なサイズ変更にまで及ぶことで、これはかなり大がかりで思い切ったモデルチェンジと言えるのだろうと思われます。

それだけメーカーが本気でこのピアノの改良に取り組んだということでもあり、それだけ価格も概ね10~15%値上がりしていますが、これだけ根本的に改良されたモデルチェンジならば納得できるものだという気がします。

これだけのことをやられたら、さぞかし従来型のSKシリーズのユーザーは心穏やかではないだろうと思われましたが、マロニエ君を最も驚かせたのは、なんと、この機に値上がり前の旧モデルの新品在庫品を求める声がかなり強かったという…?!?…な話でした。
もちろんモノを買うときに、(とりわけ高額商品では)出費は高いより安いほうがいいことはわかりますが、それはあくまでモノが同じである場合の話ではないかと思います。
単純な値上がりというのならわかりますが、これほど本格的にテコ入れされた新モデルの登場によって発生する値上がりであるなら、そこには相応の根拠というか裏付けがあるわけで、もし自分が「新品のSKシリーズ」を購入する立場であったなら、そんな時期にわざわざ旧モデルを買おうだなんてたぶん思わないでしょう。

レギュラーモデルではなく、敢えてSKシリーズを買おうというような人が、なぜ新モデルは値上がりしているのか、その理由をまったく知らないとも考えにくいのですが、やはり値上がりするということから、その内容云々よりも今のうちに駆け込み購入しようという単純な消費者心理が働いてしまうものなんでしょうか?
値上がり前に買っておけば何か得するような気分になっているのだとしたら、お米やバターじゃあるまいし、この場合はちょっと驚きです。繰り返しますが、その得するというのはモノが同じだという前提のもとでしか成り立たないと思います。

たしかに最低でも26万円、SK-7では実に84万もの値上がりではありますが、どっちみちもともと安いものでもないし、どうせ思い切って買う一生ものに近い高額なピアノであれば、へんなところでケチって悔いを残すよりも、妥協のない良いものを手に入れたいとマロニエ君なら思います。
とくに今回は、先に述べたように鍵盤の長さやボディサイズという、あとからではどうにもできない明瞭な違いがあるのであれば、マロニエ君だったら絶対額よりもその実質のほうを重視すると思います。
値札の数字ではなく、真実お得なのは何かという問題です。

本当に欲しいもので、それだけのお金が出せるのなら、そこで一割ぐらい上がっても、変更された内容を考えれば大した問題ではないような気がするのですが…。

すでにショールームにはSK-2とSK-3がきているとのことですから、そのうちちょっと触りに行ってみたいと思います。
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自転車の横暴

昨日の午後、車を運転中のこと。
幹線道路から斜めに道が折れる信号のない交差点があるのですが、そこを曲がろうとしたところ、まったく突如として猛然と走ってきた自転車と危うくニアミスになりました。

マロニエ君は自慢ではありませんが、ここ最近は車を運転をしていて最も注意していることは何かというと、それは一にも二にも自転車に尽きるといっても過言ではありません。
最近の道路で、この自転車ほど傍若無人で恐いものはなく、日頃からそれを深く心に刻んでいますので、いささかも気を緩めることなく注意をしています。

それはもちろん自転車の為でもあるけれども、正直を云うと、車はどんなに自分が正しくても、いったん自転車なんかと接触事故が発生しようものなら「加害者という名の被害者」にさせられるという理不尽きわまりない立場に立たされるという認識を持っているからです。
要するに、こう言っては身も蓋もありませんが、何よりも「自分のため」に自転車には過剰なぐらい注意をしているのです。

そんなマロニエ君ですが、このときはそれらしい自転車の姿はなく、ゆるゆると車を斜めに左折させようとしたところ、まるで鳥のようなものすごいスピードの自転車が後方から突如現れて、マロニエ君の車とその自転車が一瞬ですが避け合ったという次第でした。
曲がる前にそんな自転車の姿は認知できませんでしたから、きっと直前に脇道から急に出てきたのかもしれません。
もちろんこちらも徐行に近いスピードでしたから、ただちに停車したのはいうまでもありません。

果たして、その無謀なる自転車に乗っていたのは40歳前後の欧米人男性でした。
お互いに危険回避して止まっただけでしたが、その男性はいきなりこちら側にまわってきて、窓を開けろと云うゼスチャーを両手ではじめました。
そのまま無視して走り去っても良かったのですが、そういうことは好きではないのでとりあえず窓を開けると、その欧米人男性はいきなりマロニエ君の車のドアミラーを指先で鋭く小突きながら「ココヲヨクミテクダサイ!」と云いました。

街中の歩道であるにもかかわらず、まったく無茶苦茶な乗り方をしたのはどっちだ!と思い、「はあ!?」と問い返すと、さらに重ねてまたミラーをコンコン小突きながら「コ、コ、ヲ、ヨ、ク、ミ、テ、ク、ダ、サ、イ!」と言うではありませんか。
語尾に「ください」はついていますが、口調としてはいかにも昂然とした調子で、まるで自分は一切悪くないというニュアンスでしたからこちらもさすがにカッときて「大きなお世話!」といって車を発進しました。

次の交差点でミラーを見ると、汚い指先で小突きまわされたおかげで、ミラーはあらぬ方向を向いており、よほど不潔な身体だったのか、見るも汚ない指紋だらけにされてしまっていました。

自転車の無謀運転はここ最近の日本人の悪しき特色かと思っていたら、それをも上回るこんなアホな外国人がいるとは、驚くとともにしばらくのあいだ不快感が収まらずにムカムカしてしまいました。
人にミラーを見ろなんて云う前に、自分こそ少しは周囲の安全に配慮しろと思いましたね。

ましてやよその国に来ておいて、何たる思い上がった態度かと呆れかえるばかり。
まったくバカとしか云いようのない逆ギレ外国人との出会いでした。

それはそれとして、あらためて気を引き締めて運転しなくてはと再認識した次第です。
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ニュウニュウ

中国はいまやピアノ&ピアニスト大国という一面を持っているようです。

おそろしく指がまわるという意味では、ユジャ・ワン、ラン・ランをはじめとする現在の中国勢は圧倒的なものがあると思われ、指芸人とでもいうべき運動能力と、その鍛えられたメカニックという点では大したもんだと思いつつ、どこか上海雑技団的すごさしか感じられず、マロニエ君としては音楽家本来の価値と存在理由を感じさせる人は、これまでの中国人ピアニストではほとんどいなかったというのが偽らざるところでした。

すくなくともその人によって奏でられる音楽に耳をすませ、心を通わせたいと思わせるピアニストは、マロニエ君の趣味に照らしては、中国人ピアニストには該当する人がいないというのが率直な印象です。

ところが過日のBSプレミアムで放映されたニュウニュウの演奏は、そういう中国人ピアニストへのイメージを払拭させる、初めてのものだったのは嬉しい驚きでした。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏会で、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲の2曲を演奏しましたが、知的で品がよく、すみずみまでキチッと神経の行き届いたまったく見事な演奏で、音楽的にもマロニエ君の知る限り稀有な中国人ピアニストだと思います。

ニュウニュウは以前このブログで書いた「ピアノの島」があるアモイ市の出身のようですから、まさに出るべき場所から出た天才だということなのかもしれません。
12歳のときに録音したショパンのエチュードは、ピアノの状態も録音も優れない上に、演奏自体もやや若さにまかせた未熟さが感じられてもうひとつ感心しませんでしたが、あれからわずか2年、音楽的にもすっかり深まりを見せていたのは、いかにこの少年が着実な成長をしているかということを物語っているようです。

これら2つのきわめて技巧的な曲をまったく危なげなく、豊かな音楽性にあふれ、しかも知的な抑制もきいた演奏をしたのは、これまでの中国人とは一線を画したクオリティの高さだったと思いました。内容のある演奏をする人にふさわしく、その演奏時の雰囲気や凛々しく引き締まった表情にも、いかにも内側から滲み出るものが溢れ、ただのびっくり少年とはまったくわけが違います。

しかも彼はまだ14歳!なのですから、その天才ぶりも第一級のものでしょう。
この歳にして、彼は極めて高い集中力を保ちながら、演奏を通じて音楽そのものに一途に奉仕している姿が非常に印象的でした。
その類い希な天分もさることながら、彼を教える教授陣の優秀さも証明されているようです。

ニュウニュウの秀演とは対照的に、兵庫芸術文化センター管弦楽団というのは初めて聴きましたが、今をときめく佐渡裕氏のタクトをもってしても、力量不足は覆いようもなく、ニュウニュウが弾いている以外の曲になると、申し訳ないけれどもちょっと聴こうという意欲が湧きませんでした。
冒頭のプルチネルラ(ストラヴィンスキー)も、こんな踊りと勢いにあふれた曲なのに、活気も喜びもなく、どうしようもなくテンションが落ちてしまうのはなんとも残念でした。

というわけで、ひたすらニュウニュウひとりを聴くためのコンサートだったようで、今後おおいに注目すべきピアニストの一人にリストアップすべきだと思っていた矢先、今年の夏には福岡でもリサイタルをするようで、ぜひ聴きに行きたいものだと思っています。
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タワーレコードが

ある意味で最も恐れていたことのひとつが穏やかながら起こりました。

天神のCDショップの中心的存在であったタワーレコードが10日ほど閉店して改装中とありましたので、単純にリニューアルしているものとばかり思っていたところ、再開して店内に入ってみるとほとんど何も変わっていないことに「おやっ」と思いました。
クラシックの売り場は最上階の5階ですので、いつものように3階からエスカレーターに乗って上階に向かったところ、なんと4階から上のエスカレーターは止まっていて、乗り口に小さなロープが張られており、「これより先は関係者以外はご遠慮云々」の札が立っていました。

そうです、主にジャズとクラシックの売り場だった5階は無くなったということをこのとき察知しました。
そこですぐに思ったのが、売り場の統合で、4階売り場を見渡してみると、向こうの奥まったところに「CLASSICAL」の文字がかろうじて見えました。「ああ、やはり…」と思いつつ、すぐにそっちへ行きましたが、果たしてずいぶん狭苦しい感じになって、クラシックというジャンルそのものはかろうじて残ってはいたものの、これまでのような広々した売り場と落ち着いた雰囲気は見事になくなってしまったのです。

棚の高さは以前よりもいくぶん高めのものになり、品揃え自体は極端に減らされたという印象ではありませんでしたが、これまでのゆったりとした売り場は召し上げられて、階下で他のジャンルとルームシェアさせられてしまったという印象は拭えません。

たしかに平日などはいつ行ってもがらんとしており、これだけの天神の一等地でそれに見合った収益をあげているようには思えなかったことは事実でしたし、いつの日か悪い方へと状況が変わるのでは?という思いは頭のどこかにあったので、まあ考えようによっては店そのもの、あるいはクラシックというジャンルじたいが撤退してしまわなかったことを良しとしなくてはいけないのかもしれません。

それはわかっているのですが、先日はさすがにいきなりだったもので、失望感のほうが大きく、ちょっとCD散策してみようかというような気分がすっかり失われてしまって、とりあえずは詳しくは見ないまま踵を返しました。
ちかいうちに再度行ってみて、気持ちを切り替えて詳しく見てみることになりますが、たしかにこれだけネットが発達して、音楽ビジネス自体も曲のダウンロードなど、CDという商品を購入すること自体も少なくなっているそうですし、わけてもクラシックなどはすっかり少数派になってしまっていますから、経営側にしてみればやむなき判断だったのだと思われます。

単純な話、これまでは3つのフロアでやっていた商売を、2つのフロアに圧縮してしまったというわけですが、たしかにあの広さの賃貸料だけでもたいへんなものだったと思われます。

以前は、天神には他にもHMVや山野楽器はじめいくつものCD店があちこちにあって、さて今日はどれに行こうかな?なんていう余裕に満ちた感覚だったものですが、いま思えば遠いむかしの夢のような時代だったということのようです。
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省エネ運転の効果

省エネ運転についてマロニエ君の経験から…。

これでも人並みに省エネ運転にはいろいろ挑戦してはみましたが、結果を言うと現実的にはかなり効果が薄いと言わざるを得ないのが率直なところです。

例えば燃費を良くするためには、アクセルを少し踏んでソロソロと加速するということが巷間いわれますが、これもよほど効果的にやらないと、街中などでは逆にいつもアクセルを踏んだ状態が長引いて、常に小さな加速をしているという時間ばかりが増えてしまいます。
加速をするということは、巡行時よりもエンジンのより強いパワーを必要とするので、このときにガソリンを多く使うのはたしかにその通りでしょう。しかし、アクセルの踏みしろばかりを浅くすると、例えば静止状態から時速50キロまで到達するのにもより時間がかかります。
こういう運転ばかりしていると、よほどの田舎道等ならいいでしょうけど、ゴー&ストップの連続である市街地などでは車はいつでも絶えず加速している状態で、これじゃあ一向に燃費が良くなるとは思えません。

そこで燃費などまったく気にせずに、ごく普通に運転して、発進時にはアクセルも普通に踏んでみると、当たり前ですがサッと加速するから、あとはほとんどアクセルは踏むか踏まないかの巡行状態に入ります。このサッと加速してあとは一定速度に入るというのも、決して燃費が悪いわけではなく、結局省エネ運転をしてみたときとほとんど燃費に変化らしい変化はあらわれませんでした。

これは例えば一部の軽自動車などが、小さなエンジンに対して重く大きなボディを背負いすぎて、エンジンはいつも休みなく過大に働かされて、結果として期待とは程遠い消費燃料を要するということと同じような理屈だろうと思います。

やはり本当の省エネ運転というのは、エンジンの出力やトルクカーブをなどの科学的根拠に基づいた上で、その車の性能に合わせて、最も合理的・効率的な運転をしたときに効果が出るのであって、素人がただケチケチ気分で省エネ運転をやってみても、実際にはほとんど効果らしい効果はないとマロニエ君は自分の体験からみています。

また、マロニエ君の友人には大学の先生で毎日のように遠方の数箇所の学校へと東奔西走しているロングツアラーがいますが、彼はいわゆる省エネとは真逆の運転であるのに、その燃費は意外にもいいのです。聞いてみると高速でも一般道でも、アクセルを踏むときは大抵ガンガン踏んでいるといいまますが、それでなんと下手な省エネ運転よりよほどいいぐらいの燃費を叩き出しているのですから、現実というのはえてしてこんなものだということです。

要は省エネといっても、ただアクセルをちびちび踏むことだけではない、合理的な速度や無駄のないメリハリのあるアクセルワークによる運転をすることが最も現実的で、それこそが理にかなっている気がします。

それに、あまり省エネ運転を意識的にやっていると、たいした効果もないばかりか、人間の気分のほうがすっかり覇気がなくなり、消極的で後ろ向きなしみったれた吝嗇家のようになり、それでは社会の生産性も上がらず、ひいては景気も回復しないという気がするのですが。
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省エネ運転のつもり

以前に若い男性のトロトロ運転が目立つことを書きましたが、それに関してつい最近、テレビニュースでさらに驚くべき情報を入手しました。

異様に遅いスピードで走る人達が最近路上に増えていることはやはり確かなようで、なんと、その中にはひたすら省エネ運転を実行しているという一派もあるのだそうです。
たしかに燃料を減らさないために、急加速などをしない、あるいはアクセルを踏み込む必要をできるだけ減らすために、スピードもできるだけユルユルした一定した速度で走るというものですが、そのみみっちさには呆れかえりました。

アクセルを踏みすぎず、極力一定速度で走り続けることが燃費を良くするのはそうだとしても、そのために速度を変えずにまわりに迷惑をかけるような流れのないマイペースの運転をするのでは、これは自分だけ止まろうとしない自己中の自転車の走りと基本的に共通したものがあると思います。

ちなみに自転車の傍若無人の走りの原因のひとつが、いったんスピードを落とすと、旧に復するのにまた自分の足でペダルを漕いで力が要るからという側面があると思われます。
車もこの部分がガソリンを消費するところだから、できるだけ速度を落とさずケチケチ走ろうというところなんでしょう。

さらに驚いたのは、そのチンタラ運転による退屈をしのぐために、あろうことか運転中に携帯の端末などをいじりはじめるというものでした。これでは二重の危険運転というべきで、それで事故でも起こした日には、燃費がどうのどころではない大事になるというのに!

現代の車にはエコドライブのためのインジケーターの類がついている場合が多く、エコ運転ができているときには緑のランプが点いたり、アクセルの踏み加減に応じて瞬間燃費をいちいち表示するものなどがあり、たしかに人間はそういうものがあるとそれに何らかの影響をうけることはわかります。

しかし、その倹約運転を最優先するあまり、始終他車に迷惑をかけたり危険運転になったりするというのは本末転倒も甚だしく、それを若い男性がこぞって(しかも自主的に)やっているかと思うと、なんと薄気味悪いことかと思います。

安全が疎かになっているということを意識して尚、倹約運転をやっているのならその神経は大したものですし、それさえもわからない無神経ということもありそうで、いずれにしろ救いがたいというべきです。

お気の毒といえばそうなんですが、バブルの崩壊以降に育った人達の財布の紐の堅さときたら呆れるばかりで、堅実といえば聞こえはいいですが、暗くて陰気くさい老人のようで、ほとんど人生にダイナミズムというものがなく、当然ながら思考力までみみっちいことにばかり働かせているのは驚くばかりです。

不本意でも必要があってやむを得ずする倹約と、倹約そのものが血液となり細胞となって人格を形成している場合では、まったく性質が違うと思うのですが…。
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メールと電話

電話で会話すればなんの問題もなくスムーズにいくことが、メールであるがためにつまづいたり誤解が発生したり、なんらかのストレスの原因になることってあるものです。

常々、マロニエ君は現代人のストレスや暗さの原因の一端は、直接人と触れ合わないメールなどのせいではないかと考えています。

ネットの功罪などを言い立てるキリがありませんが、少なくとも連絡手段としてのメールの普及は、数知れない利点がある反面、その利便性の副作用として犠牲になったものも甚大だというのがマロニエ君の見解です。

その点で、電話は顔は見えなくても少なくともナマの会話ですから、双方の言葉の調子やニュアンス、テンション、笑いなどの様々な人間的要素を総合しながら伝えることができますが、メールはそうはいきません。

思いがけないタイミングで、思いがけない内容のメールを受け取ったときの不快感というのは、意外に見過ごすことのできない深刻さがあります。
同じ人間が、同じ内容を伝えるにも、電話とメールでは受ける側の印象には雲泥の差があると思います。

少なくともメールではよほど誤解されないようにするためには、表現や言葉遣いも相手に媚びるほど、過剰な気を遣わなければならないことも少なくなく、もっぱら安全確実なことだけを書くようになり、直接会話にある一種の危ないスレスレの会話の楽しさなんて望むべくもありませんが、ここにこそ、人の感性やバランス感覚などの機知が潜んでたはずです。
もちろん文字情報を正しく伝える、内容を記録として残すなどの場合は別ですが、闇雲にメールへの依存度が高まってしまっているのは否定できません。

そういうわけで、マロニエ君は電話でもメールでもどちらでもいいと判断する場合は、ほとんど迷うことなく電話にする主義です。

そもそも連絡手段の大半をメールに依存している人というのは、活きた人間関係を重要と考えず、メールという一方的な連絡手段のほうが性にあっているのだと思われますが、そのぶん直接の会話でしか得られないものや確かな人間関係を構築が難しいという、慢性病的な一大欠陥が横たわっていることには気付いていないようです。
ひとくちにいうと、すべての連絡を抵抗なくメールでするような人には、信頼できる友人知人(あるいはビジネスの相手でも)はまずできないと思われますが、巷ではこういう人ほど友達を求め、それを数多くキープしたがるというのですから、その意識のズレには苦笑させられます。

つい先日も、あることで受け取ったメールが金銭絡みのオヤッと思うような思い違いのある内容でした。そこですかさず電話で直接話したところ、案ずるより産むが安しの喩えの通り、お互いの認識はたちまち確認できて事なきを得ました。
しかしこれをもしこちらもメールで返していたら、いちいち細かいことを説明しながら文章を書くのは骨が折れるばかりでなく、その往復にはそれなりの時間も費やして、その間は嫌な時を過ごすことになるのは目に見えています。

それが電話で明るく話をすればあっという間に事済みになるのですから、だいいち時間効率も圧倒的にすぐれているし、ついでに相手とはちょっと無駄口のひとつも交わしておけば、言うことなしのめでたしめでたしです。

現代人はメールをはじめとする便利なツールに囲まれて、人間性を喪失してまでそれを使いこなすことにエネルギーを費やして、日々精神的に孤独になっていることはもはや疑いようがありません。
きちんとした挨拶ができない、相手に対する本当の気配りや礼儀がない、大胆さがない、生きた人間の魅力がない、敬語と謙譲語のしなやかな使い分けができない…などなど、これらは人との関わりという点が稀薄になっていることの明らかな病症だと思われます。

電話でなくメールにする人の理由として最大のものは、「相手に迷惑をかけないから」ということのようですが、少なくともマロニエ君に限っていえば、どんなに悪いタイミングでかかってきても、それで電話の主を迷惑だなんて思ったことはないし、メールより嬉しいことは間違いありません。
というわけで、これからも可能な限り「電話主義」で行きたいものです。
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予期せぬ進歩

我が家のガレージで使っているホースとリールのセットは、もうかれこれ20年以上前のもので、ほとんど骨董の領域に到達しているようなものですが、ただ水を撒いたり洗車をしたりするのに不都合がないので、ずっとこれを使い続けてきたところでした。

ところがこの一年ぐらいでしょうか、リールへの繋ぎの部分とか、あちこちから僅かですが水漏れを起こすようになりました。漏れ自体はわずかでもリールの角度によってはこちらに小さな水流が向かってくることもあり、いつもその方角をあっちへ向けながら使っていましたが、だんだんと漏れが悪化してきたのを見かねて、ついに(というほどのものでもないのですが)これを買い換えることにしました。

ホームセンターにいくと数種類おいていましたが、単なるホースなのでとくにこれといって性能を求めるわけでもなく、一番安い20mのセットでじゅうぶんだと判断して買うことにしました。
本当はホースとリールだけのセットでいいのですが、今どきはどれもシャワーとかジェットなどの水流が換えられるガンタイプの蛇口がついているようで、本来これは要らないと思ったのですが、セットで値段も安いし購入しました。

さっそく古いホースのセットを長年ぶりに外して新しいものを取りつけましたが、たかだかホースでも、新しいものは気持ちがいいもんだと思いながら取り付け作業を行いました。

切り替え式のシャワーがあまり好きではないのは、ずいぶん昔に庭のホースでこれを付けたところ、ホースやリールのつなぎ目のあちこちから、高い水圧に負けて糸状の水漏れが発生し、かえってあたりはびちゃびちゃになってしまったり、一年もすると蛇口そのものが壊れてしまうなど、まったくいい印象がなかったので、ガレージでもこの手の蛇口は使わないでいたわけです。

ところが、取り付けが終わっていざ水道を捻ってみると、新しいせいもあるのかもしれませんが、むかし経験したたぐいの水漏れなどはまったくその気配すらなく、至ってスムーズで当たり前のようにスイスイ使えることが判明しました。
しかも、シャワー/霧/ジェット/拡散という4つのパターンのどれもがむらなくきれいに噴射されるところも、そのいかにも鮮やかな様子につい驚いてしまいました。

さらに感心したのは、従来のホースよりも直径がほんの僅かに細くなっていて、水道の蛇口を捻る量もこれまでとは比較にならないほど少量で済むことでした。
要するにこんなホースひとつとっても知らぬ間に技術が進歩し、初歩的な水漏れなどが克服されるなどの品質の向上と、さらには水量の省エネ設計が徹底しているのだということがわかりました。

ジェットに至ってはほんの僅かの水量でも、なにかを突き刺してしまいそうな勢いで、まるで武器のように鋭い一直線の水が躊躇なく飛び出してくるのにはびっくりです。
この悪天候なのでまさか洗車をするわけにもいきませんが、ともかくさっそく何かで試してみたくなり、ガレージ用のサイクロンクリーナーの中のフィルターやスポンジを、どーだ!とばかりに洗ってやりました。

とりわけ蛇腹状のフィルターに詰まっていたネズミ色のホコリの堆積物は、あっという間に吹っ飛ばされて、久しぶりにほんらいの清潔な状態に戻ることができたようです。

旧来のものがなつかしく思われることも少なくないこのごろですが、こういう道具などの分野は本当に新しいものは良くなっていて、しかも値段も安いとくれば、ただただありがたいばかりです。
すっかり感心して、別の場所にももうひとセット買いたくなりました。
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ウインドウォッシャー

土曜の午後のこと、車の混み合う市内の片側二車線の幹線道路で信号待ちをしていると、突如として一斉に水滴が降ってきたので、にわか雨か?と一瞬思ったのですが、すぐにその感じからして雨ではないことはわかりました。

では、近くのビルの屋上からでも水が降ってきたのかとも思いましたが、それでは方向が違うし、咄嗟にあたりを見まわしたところ、すぐに犯人がわかりました。
この日は久々の青空だというのに、右側車線の斜め前で同じく信号停車している黒っぽく背の高い軽自動車が、ウインドウォッシャーをびゅーびゅー出しながらワイパーを動かしています。

おそらく窓が汚れていたので、ウインドウォッシャー&ワイパーを使って窓をきれいにしていたのでしょう。
しかし、そのウォッシャー液のノズルがあらぬ方向を向いているらしく(大抵の車が角度を変えられます)、それが信号停車中のまわりの車にちょっとした噴水のように飛び散っているのですから、雨天でのことならともかく、晴れた日にこんな迷惑な話はありません。

しかもその車、何度もその操作を繰り返していて、こちらが呆れているその間にも、繰り返しウォッシャー液が飛んでくるのですからたまりません。
それも水道水などならまだしも、ウォッシャー液は大抵は薄い洗剤の入った液ですから、これが他車の塗装面にふりかかれば、下手をするとへんな染みなどを作ってしまう恐れもなくはありません。

すぐに降りていって止めるように言いに行こうかと思ってシートベルトを外した瞬間、信号が青になり断念。
ところが、次の赤信号でまた同じ位置関係で再び停車することになりましたが、な、なんと、またやっていて、さらにはリアウインドウまでじゃーじゃーウォッシャー液を出しながらしきりにワイパーを動かしています。

今度こそ!とばかりにすかさず車を降りて、斜め前の車の助手席側に走り寄り、幸いドアの窓ガラスが開いていましたので、「ちょっと、その水を飛ばすのはやめてください!水がまわりに飛んでほかの車はずぶ濡れですよ!」と言ったら、運転しているのは、ちょっと漫画チックな感じのメイクをした若い女性でしたが、はじめはポカンとして意味がわからないようでした。
繰り返し説明するとようやく事の次第がわかったららしく、「すいません…」と言って止めましたが、いやはや…とんだ迷惑を被りました。
その後、他所に寄って帰宅してから、ガレージでさっそく窓やボディを軽くふきとりました。
もちろんそのころにはすっかり乾いていましたが、窓ガラスなどが点々と浴びせられたウォッシャー液の跡が残っていて、なんでこんなことをしなくちゃいけない羽目になったのかというところですが、まあ、事故にでも遭ったと思えば腹立ちも収まるというものでした。

それにしても、ウォッシャー液というものは、ノズルの位置がきちんと窓の方向に調整されているのはもちろんとしても、できるだけお天気の良い日中などは使うべきではないと思いますし、それでもどうしても使うなら、周囲に迷惑をかける可能性があるので、前後左右に車がいない場所でやってほしいものです。
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パイクのブラームス

なぜか日本での認知度と人気は今ひとつですが、クン=ウー・パイクという偉大な韓国人ピアニストがいます。
すでに60代半ばに達する年齢で、韓国ではこの巨匠の存在を知らない人はまずいないということですが、それはどこ人ということでなく演奏を聴けば当然だろうと思います。

実力に比べるとCDなどは決して多くはなく、印象に残るものとしてはプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲などがありますが、それはもう圧倒的な演奏で聴くたびに唸らされます。
最近ではついにベートーヴェンのピアノソナタ全集が出たようですが、デッカというメジャーレーベルにもかかわらず、なかなかどこの店でも売られてはいないのがまったく腑に落ちません。

それ以外でのパイクのCDとしては、2009年の録音でグラモフォンからブラームスのピアノ協奏曲第1番(エリアフ・インバル指揮チェコフィル)が出ていて当然のように購入しましたが、これがまた期待にたがわぬ素晴らしい演奏でした。
パイクのピアノはまずなんと言っても、いかにも男性ピアニストらしい雄々しく重厚なピアニズムと他を圧するテクニックがあり、音楽はあくまでも正統派というべき解釈に徹していますが、正統派という言葉につきもののアカデミックで秀才肌であるとか面白味の無さとは無縁の、10回聴けば10回感動できる、真の実力と本物だけがもつ内面から滲み出るような魅力を具えた稀有な存在だと思います。

一般的に、ブラームスのピアノ協奏曲第1番はどうしても曲の大きさが奏者の負担になっているような演奏、あるいはあまりにも管弦楽曲的な要素を帯びすぎた説明的な演奏が少なくありませんが、パイク&インバルの演奏では、まさにこれ以上ないというバランスが取れており、良い意味でストレートで、曲の偉大さやオーケストラ作品としての重要性、そしてピアノ協奏曲としてのソリストの立ち位置がすこぶる明確になっている、まったく最良の演奏だと思いました。
さらには新鮮味もありながらオーソドックスな安心感もあり、すでに何度聴いたかわかりません。
これまでの同曲のベストはロシアのマリア・グリンベルクが遺した二種類のライブ録音だとマロニエ君は思ってきましたが、久々にそれを忘れさせる名盤が登場したことに深い喜びを感じているこの頃です。

この曲は演奏時間が長いことと、聴衆に満足を与える演奏がとくに困難なためか、普段の演奏会でも取り上げられることはほとんどありませんが、数多いピアノ協奏曲の中でも何本?かの指に入る傑作だと思いますし、もしマロニエ君がピアニストだったら、どんなに演奏の機会が少なくても絶対にレパートリーにしたい一曲であることは間違いありません。
そしてこのパイクのCDを聴くことによって、その思いを再確認させられました。

そういえばこの曲でふと思い出しましたが、以前、あるピアニストと話をする機会があって、その方がこの曲を二台のピアノで弾いたということだったので、マロニエ君はこの作品の素晴らしさに対する思いを話したところ、その人はまったくこの曲の価値がわかっておらず、ただ長大なだけの、ブラームスの駄作のように言ってのけたのには、それこそ内心でひっくり返らんばかりに驚きました。
自分で実際に弾いてみてさえ、その値打ちがわからないような人に何を言っても無駄だと思って、こちらもそれ以上なにも言いませんでしたが、こういう人もいるのかという強烈な印象はいまだに記憶に残っています。

パイクの話に戻ると、併録された「自作の主題による変奏曲op.21-1」と「主題と変奏(弦楽六重奏曲op.18に基づく)」も聴きごたえじゅうぶんのまったく見事な演奏!
主題と変奏などは、ピアノソロでありながらあの弦楽六重奏の息吹をありありと表現しきっているのは、思わずため息がもれてしまいました。
なんとかしてベートーヴェンの全集を入手するほかないようです。
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熾烈な競争

仕事の関係で印刷を依頼することがときどきあるのですが、近ごろのネットで注文する印刷業界の価格競争には凄まじいものがあるようです。

ネットが発達する以前の印刷業界を知る者にとっては、これこそまさに「価格破壊」と呼ぶに相応しいもので、日本中の大半の印刷会社が低価格をめぐって熾烈な競争を繰り広げるか、さもなくば廃業などに追い込まれているようです。

ひと時代前までは、印刷は中国が断然安いので、大手企業などの大量の印刷物や出版物は運送コストをかけてでもそちらのほうが安くつくので、国内の印刷業界は大変な状況らしいという話を聞いたことがありました。
そんな時期からさらに年月を経て、今では国内の印刷業もすべてではないかもしれませんが、この価格競争に打って出て、マロニエ君の手許だけでも、数社の激安店がリストアップされており、安い魅力には勝てずにこれをよく使っています。

しかも驚くべきは、昔ながらの「安かろう、悪かろう」ではなく、本当に高品質な製品がきちんと納入されてくるので、いやはやこれも時代かと驚くばかりです。

そのかわり、昔の印刷屋のような手間暇かけた手法ではなく、原稿はすべて発注者のほうで完成させなくてはならず、それなりにビジュアル系のソフトなども使いこなさなくてはならないという点もありますが、それさえクリアすれば、本当に信じられないような低価格で、従来の価格のものと遜色ない美しい印刷が仕上がってくるのですから、驚くやら、ありがたいやらです。

また一色刷と二色刷、さらにはカラー印刷という点でも、価格は大きく差が出るというのもこれまでの印刷の常識でしたが、今ではフルカラーが半ば当たり前のようで、さほどの違いはありません。これはおそらく印刷機が以前とは比較にならないほど発達、高性能になったためだろうと思われます。

まあ、利用者としては安いことは無条件にありがたいことなので、とりあえず歓迎なのは間違いありませんが、しかしこういう競争をやっていかなくてはならない今の厳しい世の中という観点で考えてみると、なにやら恐ろしいような気がするのも事実です。
しかも、相手はネットですから、日本中どこの印刷屋であってもハンディなくライバルとなるわけで、昔なら必然的に距離の近い、付き合いのある印刷屋であることは当たり前でしたが、そういう条件も無情に撤廃されたということでしょう。

現にマロニエ君がネットで利用している印刷会社も、ものによって価格と得意分野が異なるために数社を使っていますが、京都、名古屋というふうに、すべて遠方の会社で、もちろん社員とは一面識もないわけですから、利用しながらときおり驚いているところです。
先日も、ポストカードを作るのに、あるギャラリーの紹介で安い印刷会社(もちろんネットの)というのを紹介されましたが、同じ条件でも別会社を調べてみると価格はさらにその3分の1ほどだったりと、その凄まじさときたら大変なものです。

自分が利用していて言うのも憚られますが、ネットというのは社会をおそろしく厳しい、極限の競争を強いるものへと変えてしまったのは間違いないような気がします。
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浜松ピアノ社

過日、広島まで行ったついでに、浜松ピアノ社を訪ねました。
街の中心部である本通という広島一番の繁華街のど真ん中で、いかにも老舗然とした感じの佇まいでした。

人通りの多い外の賑やかさとは一転して、店内に入ると楽器店特有の落ち着いた空気と静寂がたちこめています。
一階と二階にはスタインウェイをはじめ、輸入物を中心とした珍しいピアノが所狭しとならんでいるのは圧巻ですし、今回は行きませんでしたが、さらに上階にはスタインウェイのDを備えた小さなホールもあるようです。

運良くここの社長さんがおられ、来意を告げると快く店内を案内してくださいました。
一階は普通のスタインウェイのB型と、同じくB型でありながら、ボディのデザインはスタインウェイの創始者であるハインリヒ・シュタインヴェクがアメリカに渡る前のドイツ時代に完成させたピアノを模したものになっており、これはなんと世界に5台ほどしかないという稀少品でした。
中は10数年前のB型だそうで、フレームなども現行品と同じものでしたから、普通のスタインウェイとして使える上に、古色蒼然としたその造形を楽しむことができるようです。

店内中央にある螺旋階段を上ると、チッカリングの古いグランドや、木目のボストンのグランドが二台、それに他店ではまず見ることのできないエストニアなどが展示されていました。

エストニアは以前も書いたことがありますが、旧ソ連時代に自国のピアノとしてソ連中で親しまれたブランドですが、ペレストロイカ以降はエストニアが主権国家として独立します。もともとこの国の名を冠したメーカーですから、必然的に現在はロシア製ピアノという位置付けではなくなったようです。
社長さんはどのピアノも「どうぞ弾いてみてください」と言ってくださいますが、マロニエ君はなかなか弾くことができない性分で遠慮していましたが、このエストニアだけはかつて一度も触ったことがなく、実物を見たのさえ初めてで、こればかりは湧き起こる興味を抑えることができずに、ついにちょっと弾かせていただくことになりました。

まず印象的だったことは、とても良く鳴るパワーのあるピアノだということ。
この日あったのは奥行き168センチのグランドでしたが、とてもそんなサイズとは思えない迫力がありました。
見ると、鍵盤の両脇も幅が広く、中低音弦が張られるお尻の部分も普通のピアノよりずいぶん幅広になっていて、人間で言えば「安産型」の体型とでもいうのでしょうか。
ともかく全体に横幅が広く取ってあるために、当然ながら響板の面積も普通の170センチクラスのグランドよりかなり広いものになっていると思われます。

音はいわゆる都会的な音とは違い、味わいのある実直な音色で、いわゆる洗練されたピアノではないけれども、そのぶん深く心に訴える非常に魅力のある音だと思いました。
とはいってもペトロフほど泥臭くもなく、しぶさと素直さのある、とても好ましい音色だという印象でした。
それでいて基本的によく鳴るし、弾いていてとても心地よいピアノで、いかにも良い材料を使ってつくられたピアノだけがもつ楽器としての豊かさがあったように思います。
素朴だけれどしっかりダシのきいた料理みたいで、こういうピアノはマロニエ君はとても好きです。

ここの社長さんはマロニエ君と同年代だと思われましたが、とても親切で、本当にピアノが好きな方という感じでした。また機会があればぜひとも再訪してみたいものです。
とても素敵なお店でしたし、こういうピアノ店が地元にある広島の人達がとても羨ましく感じながらお店を後にしました。
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高速道路で

先日、ここ最近ではめずらしく高速道路を長距離走りました。
広島までの日帰り往復で、どうしても車の必要があったので新幹線というわけにはいきませんでしたが、ひさびさの片道300キロ、往復600キロはけっこう骨身にこたえました。

昔はそれなりにやれていたことで、東京ー福岡を車で一気に走破なんてこともときどきやっていましたが、最近は歳のせいももちろんあるでしょうし、なにしろこういうことは心身共に慣れていないとダメですね。

久しぶりだと緊張と眠気のバランス取りがうまくいかずに、さすがにぐったりきました。
よく若いお父さんが子供の運動会に参加して、まだまだやれるつもりでいきなり走ったのはいいけれど、日ごろの運動不足から転んだり足がもつれたりということがよくあると聞きますが、似たようなものでしょうか。

早朝に出発して、昼前後に広島市内で用件を済ませて、ついでなのでちょっとピアノ屋さんに寄ってから帰途につきましたが、延々と走って来た道をまた引き返すというのがどうにも性に合わず、うんざりしてしまいます。
これがさらに関西にでも向けて走っていくのならまた気分も違うかもしれません。

それにしても印象的だったのは、以前に較べて高速を走る車の全体的な速度もわりに落ち着いていて、穏やかに淡々と走っている車が圧倒的多数でした。土曜だったせいか、あるいは流通業界も不況なのか、以前なら高速はトラック専用道路か?とでもいいたくなるほどの大型トラックも数が少なくて、ドライブそのものはわりに快適に過ごすことができました。

中国自動車道では、今年のいつだったか、福岡のフェラーリ愛好家達が集団で大事故を起こしたと思われる箇所も通過しましたが、下関から西のルートは高速道路にもかかわらずカーブと勾配の変化がかなり続くので、雨上がりの早朝にこういう場所であんな大パワーのスポーツカーがフルスロットルを与えながら疾走していれば、アクシデントが起こるであろうことはじゅうぶん想像できました。
とくに仲間同士で走ると、いよいよテンションは上がるのが人間でしょうから恐いですね。

恐いといえば、帰りの九州自動車道で、ものすごい女性ドライバーがいて驚きました。
土曜の夕方ともなると、福岡が近づくにつれ交通量も俄然増えてきて、とりわけ若宮ー古賀インター間はトリッキーな下りカーブが続く箇所で、ここはいつも通るたびに運転も慎重になるルートです。このときは車が多くて追い越し車線も前後ずらりと連なって100km/h前後ぐらいで流れていましたが、突如赤い普通のコンパクトカーがマロニエ君の後ろにビタッとくっつきました。
しかも充分な車間距離をとらずにいよいよ近づいてくるので、なんだこれは?と思ってバックミラーを見ると、それは若い小柄な女性が一人で運転している車でした。
それでも前に行こうとする気迫のほうが勝っているらしく、ときおりバックミラーに写るその女性の表情までわかるぐらいまでピッタリと後ろについています。

さらにはイライラしているのか小刻みに車が左右にも揺れていて、これはちょっと…まともな走り方とは思えませんでしたので、早く走行車線に逃げ込みたいところでしたが、走行車線も前後車がつながっていてなかなか左に寄る余地がありません。
そのうち隙間を見つけてどうにか左によけると、その赤い車の女性はすかさず加速して、さらに次の車のうしろに同じように張り付きましたが、そのうち左右どちらの車線も関係なしに、とにかくちょっとでも早いほうへジグザグに車線変更しては周りの車を煽るだけ煽って、とうとう視界から消え去っていきました。

相当危険率の高い運転で、ましてや高速道路ですから見ているだけでヒヤヒヤもので、いま事故が起これば確実にこちらにもとばっちりを被るという状況でしたから、その赤い車がいなくなってホッとさせられましたが、あんな無謀極まる車の巻き添えになったらたまったもんじゃありません。
それにしても凄い女性ドライバーがいるもんだと思い知らされました。
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ホールの実情

ホールとピアノの音の関係というものはそれとなく観察としていると、お似合いの好ましいカップルが出会うように難しいもんだとあらためて思いました。
そして、概して言える不思議な現象というのがあって、少なくとも福岡に限って言えば、それなりのコンサートをこなす有名ホールでは、どこもそれぞれに音響がよろしくないほうが多いし、むしろちょっと郊外のホールなどに思いがけなく素晴らしいものがあったりするというのが現実です。

音響のよくないホールでも、一部にはそういう意見を管理者側が汲み上げて改修作業がなされ、いくぶん聴きやすくなったものもあり、そういう場合はひと安堵というべきでしょうが、しかし、良くないものを後から手を加えて改善策を講じたものと、はじめから良い音に生まれついたホールというのでは、根本に超えがたい違いがあるようです。
そういう意味ではホールというのも立派な楽器だと言うべきかもしれません。

昨年、機会があって行ったホールもそれなりに名の通ったホールで、その規模、内装の色調やセンスなどもなかなかのものとお見受けしましたが、シロウトのマロニエ君の耳にさえ音響が良よろしくない。
この場合は、やたら響きすぎるだけの音楽専用ホール風の響きとは少し違って、音に芯が無く、パァーっとばらけて散ってしまう感じの音響でした。
どこに原因があるのかなんてマロニエ君にはわかりませんし、見た感じはたいへん立派な感じの良いホールであるだけに残念というか、音響というものはやはり難しいものなんだなあと思わずにはいられませんでした。

このホールで聴いたのはピアノリサイタルだったのですが、音が響いていないことはないけれども、その響きに方向性と流れがなく、楽器から出た音に流れがなくバラバラになってしまい、いうなれば伸びやかさと収束性に欠けるものだったわけです。
ただし、簡単には良し悪しを断定できないことも経験的にあるのです。
マロニエ君はここで何度もいろいろな楽器の演奏を聴いたわけではなく、この響きが恒常的なものかどうかはわかりません。もしかするとただ単にピアノの位置が悪かったということも考えられます。

以前に何度か、ピアノリサイタルのステージのセッティングに立ち会ったことがありますが、ステージ上のピアノはその位置を手前か奥に少し変えるだけで客席に到達する音がコロコロ変わります。ちょうど映写機のピントをスクリーンに向かって合わせるようなものでしょうか。
理想的には客席に耳の良い責任者がいて、ピアニストがピアノを弾きながら、10センチぐらいずつ位置を変化させていくと最良の音響スポットが見つかるはずですが、もちろんホールによってはどうしようもないところもあるわけで、限られた条件内で調律師やピアニストは最良の判断をして、これだという位置決めをしてほしいものです。

ホールといえば、マロニエ君のような車族にしてみれば、市の近郊ならどこでもいいので、いろんなよいホールでコンサートを聴きたいと思うのですが、一般的には電車やバスのアクセスが悪いと集客が見込めず、どうしても街中の決まりきったところばかりが使われることになるようです。
郊外に点在する素晴らしいホールも少しはそれらしく使わなくてはもったいないと思うのですが…。
せっかく良いホールを作っても、場所が悪いことを理由にほとんど永久にこれといった本物のコンサートが行われないのでは、いったいなんのために巨費を投じてそうした施設を作り、さらには高額な管理費をかけて維持いるのかという気がします。

こういう郊外型施設ではホール主催のイベントなどが最大のコンサートのようですが、それでも関係者は怖がってなかなか大きなことをしません。せいぜい二流芸能人の歌謡ショーとか地元のアマチュアオーケストラ、よくわからない合唱団など、どっちつかずの催しばかりというのでは、ホールは箱物作りで潤うゼネコンの金儲けに利用されただけとなるでしょう。

そういうホール同士が連携して、ラフォル・ジュルネのような安くて良質の音楽が聴ける音楽祭などをやってみるなどしたらどうか…なんて思いますが。
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ようこそ

ご縁があって、昨年二度ほどコンサートで聴いたピアニストの方が我が家に練習に来られました。

春に東京などでベートーヴェンの協奏曲を弾かれるとのことで、しばらく雑談をしたあと、さっそくピアノに向かわれました。
せっかくなのではじめに第1楽章、終わりに第3楽章を聴かせていただき、途中こちらは仕事に戻りましたが、非常にしなやかなテクニックがもたらす、趣味の良い演奏で、ひさびさに間近に聴く秀演に感銘を覚えました。

やはりステージに立つピアニストというのは、当然ですがシロウトとは次元が異なります。
時間が無くて眠った状態に等しい我が家のピアノでしたが、そんなことはものともせずに非常に安定した確かな演奏を繰り広げられました。
すみずみまで神経の行き届いた緻密さと伸びやかさが同居した演奏です。
呼吸が自然で、聴く者に余計な緊張やストレスを与えず、すっきりと曲を聴かせるところも見事でしたし、作品そのものが持つ自発的な流れにも決して逆らわないというのがこの方の演奏の魅力だと思いました。
もちろん、それはサラサラした安全運転というのとはまったく違う、ビシッとメリハリもきいていて、必要な場所ではしっかりパワーもあるので聴きごたえがあって、ストレートに音楽がこちらへ向かってくるのです。

最近は指運動だけはいやに効率よく訓練されたピアニストが少なくありませんが、音楽は尤もらしいけれども表面的で必然性のない、音楽の本質をまったく感じさせない無機質な表現である事は珍しくありません。そんな中で、この方は音楽性や歌い込みにも確かな裏付けがあり、こちらが期待した通りの同意できる音楽を丁寧に描出させるという意味では、むしろ稀有な存在だと思いました。

作品が要求することを、ごく自然に受け容れて自分自身の感興と指の動きと呼吸に組み入れるというのは、当たり前のようでいて、実は最も難しいことです。

技術的に上手い人というのは沢山いても、演奏が終わってみて、また聴いてみたいと心に思わせるピアニストとなると、これは滅多にいないものです。
その一点においても、この方は注目に値する存在だと思います。

3時間ほど練習されてお帰りになりましたが、その後にピアノに触れると、ピアニストに集中して弾かれたおかげで、楽器が完全にあたたまっていて、とてもよく「鳴る」状態になっていました。
こちらも思わずうれしくなって30分ほど弾いてしまいましたが、コンサートでも後半のほうがどんどんピアノが鳴ってくるのと同じ現象ですね。

久々に上手い人に鳴らしてもらって、ピアノもストレス解消ができたことでしょう。
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ロシアの今

BSのN響の定期公演で、ロシアのニコライ・ルガンスキーがプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を弾いていました。
この人はかつてロシアのバッハ弾きとしてその名を馳せたタチアナ・ニコラーエワ女史の弟子に当たる人で、ロシア系ピアニストの特徴であるたくましい指のメカニックを持った人というのは確かなようでした。

すでにエラートレーベルからCDなども数多く出ていて、お得意のラフマニノフなど何枚かは手許に持っていますが、買って何度か聴いてみると、以降はパッタリと手に取ることはなくなりました。いらい、ただ危なげなく弾いているだけで、それ以上の何かがないというのがこの人のイメージでしたが、それが間違いでなかったことを、この放送でもあらためて確認することになりました。

あの難しいプロコフィエフのピアノ協奏曲を確かな指さばきによってそれなりには弾いていましたが、不思議なほどそれだけで、なんの感銘も個性もない、見た目ばかりで味のない宴会用の食べ物みたいでした。
さらに言うと若干リズム感がよくないことが、演奏という時間の流れの中で、あちこちにわずかな歪みが生じるところも気にかかりました。

もともとロシアのピアニストというのは、タッチが深く、和音には厚みがあり、ときに強引なくらい感情を露わに音楽をこってりと歌い上げるのが特徴で、それが深い感激を覚えることもあれば、ときにはげんなりすることもありますが、全体には器が大きく、率直で人間くさい演奏をするのが常道でした。

然るに、このルガンスキーはまったく肉感のない痩せぎすのような音楽で、聴いていてどこに重点が置かれているのやらまったくわからない演奏で、それでそのまま終わってしまいました。
ピアニストとしてステージ演奏をする以上、素晴らしい技術をもっているのは当たり前としても、その上でその人なりの練り込まれた固有の音楽が聞こえてこないことには聴く意味がないと思います。

時代も変わって、ロシアもこういう味の薄い、コレステロールゼロみたいなピアニストが出てくるのかと思ってしまいました。

それに時を同じくして、昨年リニューアルされたボリショイ劇場のシリーズで、ボリショイバレエの「眠りの森の美女」も放映されましたが、これも中身はルガンスキーと同じでした。眩いばかりに生まれ変わった劇場、さらには一気に新しく豪奢に作り替えられた装置や派手すぎる衣装など、表向きはたいそう新しく立派になっていましたが、踊りのほうは現在の看板スターであるスヴェトラーナ・ザハロワ演じるオーロラ姫も、技術は立派ですがなんの感銘も得られないもので、ただ決められた難しい振付を次々に消化しているだけという感じでしかなく、こちらにも落胆させられました。

主役のオーロラ姫は16歳という設定ですから、踊り手はその若くて愛くるしい様を表現し、バレエとして踊り演じなければなりませんが、暗くてねっとりした大人の踊りで、老けた女性が娘の借り着をしているようでした。
昔は同劇場のオーケストラもピアノと同様、迫力のある分厚い響きでロマンティックにぐいぐい鳴っていたものですが、これもまたすっかり筋力の落ちたアスリートのようで、火が消えたようなつまらない演奏で、これじゃあチャイコフスキーもご不満だろうと思います。

いまは世界的に、なんでも人の手で作り出す昔ながらのものは文化芸術はもとより、ありとあらゆるものが質が落ちて小さくなっていることは否定しようもありません。
そのくせ、表面的にはより鮮やかで先鋭的で、人の目を惹きつけはしますが、実体はスカスカの軽い内容でしかないのは甚だ残念でおもしろくありません。
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今どき営業マン

先々週の祝日のことですが、ふと思い出しましたので書いています。
このところ友人の車購入の協力をしていることは以前書きましたが、該当する車が北九州のある輸入車ディーラーの中古車在庫としてあることがわかり見に行ってみようということになりました。

事前にディーラーに電話したところ、間違いなく車はあるという確認がとれましたので、福岡から見に行くことを伝えて、電話に出た営業マンの名前を聞き、時間の約束をした上で北九州を目指しました。

ちなみに北九州のその店は福岡からは70キロほどで、高速を利用してもトータルで1時間半ぐらいかかります。

ディーラーに到着すると、すかさず女性従業員がこっちに近づいてきて、満面の笑顔で「いらっしゃいませ」と言ってきます。電話に出た営業マンの名を告げてショールームで待っていると、ほどなくして若いお兄さんが現れて、型通りの挨拶をして、名刺を差し出します。
なんとなく、自信の無さそうな視点の定まらないお兄さんが、習った通りのことを一生懸命やっている感じで、いま思えばこの時点から少し不安感はありました。

その彼によると、車は別の展示場のほうに置いているため、そちらへご案内しますので少しお待ちくださいといわれ、ほどなくして準備されたお店の車に乗り込みました。
約5分ほどとのことですが、これが思った以上に遠いのにまず驚きました。

ようやく目指す展示場に着いたものの、ちょっと見渡した限りでは目指す車は見あたりませんでしたので、この時点でさらに違和感が募りはじめていました。
その営業マンは車を降りるなり、首をあっち伸ばしこっち伸ばしして車を探しているようですが、どこにもそれらしき車はなく、必死に手許の資料を黙々と繰っていますが、こっちにはほとんど配慮らしき言葉もありません。
だいいち、この段階で車を探すということ自体が驚きです。

ときどき「あれ…」といったようなつぶやきだけが聞こえますが、もうお客さんへの対処はなど、彼の頭の中ではまったく吹っ飛んでいるようでした。
そのうちこのセンターの女性スタッフに声をかけてしきりに話をしていますが、これといった答えはでないようで、信じがたいことにその女性と二人してクルマ探しが始まりました。
その間、我々は寒風吹きすさぶ中を広い戸外にほったらかしにされ、これではたまらないので、とうとう事務所のようなところへ自ら避難しましたが、その営業マンはどうしていいかわからないようで、それを見ているこっちのほうが情けない気になりました。

それから10分ほどして、結果的に車はさらに別の場所にあるにはあったものの、そこは単なる保管エリアのようなところで、まわりは他の車にギチギチに挟まれていて、さらには分厚いホコリを被ったままで、とてもお客さんに見せるというようなシロモノではありませんでした。

普通なら電話して来意を伝えておけば、安いものでもないのですから、車を見やすいようにちょっと表に出すとか、簡単な水洗いをするぐらいのことは当たり前ですが、ごく基本的なことがこれほどまったくできていないのは唖然とするばかりでした。
エンジンすらかけようともせず、ただ車の脇で直立しているのみ。これでは我々も、車をまともに見てみる気も喪失してしまい、気分は一気にしらけて早々に退散することになったのは言うまでもありません。
これが正規ディーラーの看板を揚げている店の対応なのですから、もう笑うしかありません。

あんまりだと思って、少しだけおだやかに思うところを伝えましたが、「申し訳ございません…」をロボットのように繰り返すだけで、まるでそれ以外の言葉を知らないようでした。帰りの車の中でもまったくの無言で、こういう人が車を売るような接客の仕事に就くこと自体が間違いのような気がしました。
おそらく本人は何が悪かったのかさえもわからないのでしょうが、こういうタイプはこのお兄さんに限ったことではなく、けっこう沢山いるような気がします。
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この土日の二日間にわたって福岡地方としては大雪になりました。

降雪地帯ではないので、年に一二度見るかどうかの珍しい光景ですし、地域そのものが雪に慣れていませんから、雪が降るとみんなすぐに外出を見合わせたりするようです。

いまさらですが雪の特長の第一は、まったくの無音だということに驚かされます!
雨なら音や湿度などでわかるということもありますが、雪はまさに忍者のように足音もなく近づいてくるようで、気がついたときにはあたりが薄化粧をしたようになり、ふだん見慣れぬ白い雪が懸命に降り注いでいる光景は心がハッとするようです。

通常、福岡の雪なんてちょっとの時間降るぐらいがせいぜいで、積もるということはまずありませんが、この二日間はそれではなくて、それなりに積もって見事な景色を作り出してくれました。
そして、たまに陽が射してきたときには、その雪の白さを反映して部屋の中までパッと明るくなるのは、なんとなく心の中まで光が照らされるようでした。

とりわけ木々の枝という枝にまんべんなく積もった雪は、まるで冬の枯れ木が一気に満開の桜のようで、静かな華やぎがあり、その思いがけない変化には息を呑むようです。
昨日の朝には、更に夜中の間に積もった雪が太陽の光を受けて溶け出したらしく、家の窓から見ているとバサバサとあちこちの枝から積もった雪の固まりが降り落ちてくるのですが、これが家の周りで間断なく続いている状況はなんとも風情がありました。
降っているときは舞台の一場面のようでしたが、こちらはまさに見事な日本画のごとき美しさでした。

向かいのマンションでは、わずかな雪を掻き集めて一家が雪合戦をやったり小さな雪だるまを作っていましたが、ちょっと見ているとこれがいささかヘンテコな光景でした。

何かというと、若い両親は写真撮影に余念がなく、雪合戦さえもしばしば中断させられて、要するに写真撮影のほうが主たる目的のように見えました。
互いにカメラを持ち替えては、メロンを二つ合わせたぐらいの雪だるまを抱えた子供とパチリ、雪を投げてはまたパチリと、ただ素直に自然に珍しい雪で遊んでいる感じ…というのとはちょっと微妙に違うニュアンスを感じました。

たぶんそれをパソコンに取り込んで、保存したり、ブログやホームページにアップするのだろうという、先の狙いが透けて見えてしまうようで、そう思いはじめると不思議に冬の風物という気配も、一家のほほえましさもすっかり割り引かれてしまい、一家総出でひとつの目的のための証拠作りをしているようにしか見えなくなりました。

こう書いてしまうと、マロニエ君のものを見るレンズが皮肉めいているように思われるかもしれませんね。たしかにそうかもしれません。
それを否定はしませんが、しかしそういうものは不思議に伝わってくるもので、あれはやはり雪ひとつでも有効活用したいという現代人の思考回路というか、行動パターンだったように思います。
まあ、そんなことをこのブログにわざわざ書いているマロニエ君も似たようなものといえばそうかもしれませんが、やはり家族の笑顔や遊びまで、どこかやらせの臭いがするのはがっかりしますね。
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音楽の話

金曜夜はピアニストの望月未希矢さんが主催する「音楽の話」に参加しました。
全6回のシリーズで、今回で4回目とのこと。

会場は赤坂のベニールカフェという趣味の良い喫茶店で、今回はショパンを中心にした演奏と話でしたが、店内は所狭しと椅子が並び、それでも次々にお客さんがやって来るほどの盛況ぶりでした。

まずは簡単な挨拶につづいてノクターンを一曲演奏するところから始まり、ショパンの生い立ちに沿って、わかりやすく話がすすめられました。
ピアノ演奏のほかには、スピーカーを繋いだパソコンからの出力で、チェロソナタの第3楽章やフィールドのノクターン、あるいはショパンが愛していたベッリーニのノルマのアリアなどを聞きながら話が進みます。

ショパンの作風には歌謡性が濃厚ということで、それまでの古典派との作風の違いや和声の特徴なども語られて、なるほどという話をあれこれ聞くことができました。
しかもそれがお堅い勉強のようにならず、望月さんの穏やかなお人柄故だと思われますが、あくまでもサロン的な楽しみの延長として、参加者がこのような話や音楽に触れられるというのは、とても新鮮な感じを覚えました。

会場となったベニールカフェのサイズもちょうどよく、温かな雰囲気の店内に、望月さんを中心としたやわらかな時間が流れていて、とても心地よい1時間だったのが印象的でした。

欲を言うと、お客さんの作り出す雰囲気がどうしても硬くなりがちで、できればもう少しほぐれて自然な感じがあったらもっと良かっただろうと思いますし、そのほうが望月さんも話をしたりピアノを弾くにあたって、やりやすいのではないかという印象でした。
話や演奏をきくことに傾注するあまり、あまりにも一同が身じろぎもせず、かたく息を殺したようになるのは日本人がしばしば陥りがちな状況ですが、もう少しリラックスした気配が聞く側にもあると、さらに楽しさが増すだろうと思いました。
もちろんガヤガヤして、集中力が阻害されるようでは困りますけれども。

近年はトーク&コンサートというスタイルこそ盛んですが、実際はお客さんに媚びただけのつまらないトークを聞かせられることが圧倒的に多く、会場もホールではなかなかしっくりきません。
それなら、いっそこのような親密な空間で静かに珈琲など飲みながら、気負わずに生の音楽に触れるというのは、これこそまさにコンサートホールではできないことで、意外にありそうでなかったスタイルじゃないかと思いました。

望月さんは演奏や音楽に対する造詣が深いのはもちろんですが、お若いのに、奇を衒ったところのない非常にまっとうな日本語を使われる方で、自然体で、ものの感じ方や考え方なども非常に共感を覚える点があるのですが、最近ではむしろ珍しい部類の方といえるかもしれません。

さて、このシリーズは同じ会場で毎月第3金曜日に行われており、3月はドビュッシー、4月は最終回で武満徹とビートルズだそうです。
http://www.mikiyamochizuki.com/blog/
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安城家の舞踏会

山田洋次が選ぶシリーズで『安城家の舞踏会』というのを観てしまいました。
原節子、森雅之、滝沢修などが出演する、終戦後の没落貴族の黄昏れの様子を描いた映画で、当時はそれなりの話題作だったようです。

戦後に平和憲法が発布され、民主主義の名の下にそれまでとは打って変わった平等の世の中が打ち立てられ、それを前にした貴族の悲哀。収入も途絶え、住み慣れた広大な家屋敷を維持することもできない一家は、それぞれの捉え方によって新しい時代といかに折り合いをつけていくかという現実に直面しながら、最後の舞踏会を催します。

その招待客の中には、ヤミ会社の社長で、屋敷を抵当に金を貸している男も含まれていますが、舞踏会の裏で安城家の当主は屋敷を手放すことが耐えられずに哀願を続けますが、この社長はこの屋敷はもはや自分のものだと言って相手にもなりません。

この男は昔、安城家に世話になった過去もあり、その点でも当主は翻意を必死に訴えるのですが、旧秩序の崩壊と時代の流れで世の中の価値は一変し、そのような過去などなんのその、まったく相手にされません。

また、長年この家の運転手として仕えていた男が裸一貫から商売をはじめて財を成し、昔の主家を買い取ろうとするなど、見方によってはこの終戦の時期というのは戦国時代以上の下克上ともいえるようです。
こういう混乱をかいくぐった末に今日のような時代が到来したのだということが偲ばれました。

そんな中、無気力に生きる安城家長男役の森雅之はいつもだらしなくタバコをくわえ、何事にも無気力、厭世的になり、暇さえあればピアノを弾いていました。

ショパンのエチュードやプレリュードを形ばかり弾いていましたが、密かに遊ばれている女中が、長男の冷淡さに業を煮やして、人目がないのをいいことに、いきなり演奏中のピアノの鍵盤に飛び乗ってお尻をのせつつ気を惹こうとするシーンなどは、当時としてはよほど大胆な演出だったのだろうと思いますが、今の目で見るとあまりにも滑稽で笑ってしまいました。

古い映画というのは、その時代を偲ぶ手がかりにもなって面白いものですね。

いつの時代も、時代が変わることによって、それまで当たり前だとされていた事柄が、そうではなくなるというのは、良いことも多いのかもしれませんが、同時に様々なかたちで計り知れない悲劇も生み出すものだと思いました。

この映画は終戦後わずか2年の、1947年の9月に封切られており、当時は貴族といわず、このような現実がごろごろしていたものと思われます。
世の中がひっくり返るというのは、何にしても大変なことですね。
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発火

最近はマッチを使うなんてことはほとんどない時代になりました。
もはやマッチそのものがないという家庭も多いことだろうと思います。

ところが、へんな言い方ですがマロニエ君はこのマッチというのが嫌いじゃないんです。
というよりも、あのカチッと音のする100円ライターの感触が嫌いだし、ましてや昨年の夏でしたか、規制がかかっていらいますます固くて指に負担がかかり、ちょっと使う気にもなれません。
ちなみにマロニエ君はタバコは吸いませんからこれに使うわけではないのですが…。

ごく平均的日本人と同様で、我が家には宗教心といえるようなものはありませんが、それでもいちおう先祖の仏壇がありますから、ごくごく習慣的にこれを毎朝お線香を立てて拝む真似事のようなことだけはやっています。

そんなことで、マッチを使う機会というのは我が家に限っていえば、まだ少し残っていて、いまだに使っています。

さて、そんなマッチですが、先日びっくりすることがおこりました。
箱から一本取り出して、先に箱を閉めようとした瞬間、どうやらマッチ棒先端の火薬が箱の脇に接触したらしく、いきなりマロニエ君の指の中で着火してしまって、ワッと激しい炎があがりましたが、それはたかだかマッチ一本とは思えないようなものすごい爆発的とでもいいたいような迫力でした。
反射的にそのマッチを放り出してしまいましたが、お陰で左手の中指の右側にほんの小さな火傷をしてしまいました。

自分でもゾッとしたのは、着火した瞬間の強くて勢いのある火力だったせいか、その刹那プーンと鼻についた臭いは、まぎれもなく「肉」の焼ける臭いで、しかもそれが自分の体から発したものだと思うとゾッとしてしまいました。

マッチはどうかすると何度擦ってもなかなか火がつかないこともあるかと思うと、こんなにも思いがけず、ちょっと先が触れただけで轟然と火がつくというのは恐ろしいもので、たかが一本のマッチといえども油断は禁物だということを痛感させられた次第でした。

幸いにも火傷はごくわずかで、今の季節は水道をひねるととびっきりの冷水が出ますから、これで十二分に冷やしたあと、薬を塗って一晩寝たら、翌日はもうかなり治まり、いまではまったく気にならないまでになりましたが、みなさんも火の取扱いには、いまさらですが注意深くされてください。
牙をむいたら恐いです!
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豪華絢爛は大衆向け

ある本を読んでいると興味深いことが書かれていました。

いささか下世話な話ですが、ホテルや料亭などには自ずと格というものがあるのはよく知られている通りで、今どきはミシュランガイドの影響によるものか、なにかといえば星の数などがその尺度のようになっています。
しかし、それらは出版社などの、所詮は給料取りの誰かがチェックをして等級を付けたものであって、マロニエ君はこんなくだらない、かつ信頼に足らないものはないと以前から思っていました。

ホテルなども高い評価を得るためには、いろいろな評価基準をふまえて、予めそれに合わせてクリアできるように作っていくだけで、本当の格式とは思えません。

中には一泊いくらというようなスイートの存在などを披瀝して、それがさも高級であるかのようにアピールしますが、なんとばかばかしいことかと思います。もちろんそんな部屋に泊まりたい人がいて、支払い能力があるのなら泊まればいいでしょうが、それが即高級と思うこと自体が価値観の貧しさの表れのような気がします。
そもそも昔から、必要以上に一流ホテルに拘ったり、スイートルームなどに異常に憧れるのは決まって成り上がりだと言われています。
その人の根底に高級というものの本来の尺度が存在しないので、高額であることにのみ頼るのでしょう。

本に書いてあったのは、高級というものにはそこに息づく精神的な価値の領域があり、また昔からの利用者が自然にそれを受け止めて、誰ともなく認識していることが大切で、決して派手で豪華な作りではないということです。
そして、ホテルであれレストランや料亭であれ、大衆を相手にする店ほど見た目を豪華絢爛に仕立て上げて、もっぱら表面的な作りになっているという事実。本物は表面的な誇示や演出などする必要がないし、高級の中身とは目に見えるものばかりではないので、本物はむしろ地味でそっけないものであるということでした。

今どきの高級ホテルなどは、数十年前の高級ホテルとは違って新しいものが出来るたびにこれでもかという豪華で壮麗なドバイみたいな作りになります。しかし、それがまたいよいよウソっぽいわけです。
料亭然りで、昔のそれは外から見るとなんということもない至って簡素なもので、知らない人は大抵見過ごしてしまうようなひっそりしたものでしたが、今はやはり誰の目にもわかる壮麗で明快な豪華さを表面に出してきます。

例えば、本物の料亭とは間口が狭く奥行きがあり、作りは地味で、中も広くはないが、そこに流れる空気が違うし、お客も店側も要は出入りする人間が違うということです。そして本物の尺度というものは甚だ曖昧で、チェック項目のようにして文字の上に表せるような類のものではないということでしょう。

そして本を見て覚えて行くようなものではなく、生い立ちの中でごく自然に身に付いた者だけが行くものであったはずです。
一流というものの概念には、究極的には一朝一夕には得られない経験と精神性がかかわるわけで、そのためには伝統の裏付けなしに真の高級というものは存在しません。そこでは物質的には逆に簡素であることがむしろ必要だったりもすると思われます。
しかしそういうものとは無縁の大衆感情に訴えるには、物理的、視覚的、金額的なもので表現するしかなく、そこで伝統なんて言ってみてもとても間に合うものではありません。

今はあからさまな競争社会ですから、もっぱらビジネスで成功したような人ばかりが社会の上位に位置することになり、かくして本物は次々に静かに姿を消していくのでしょう。

ふと、ピアノの音も最近のものは奥行きのないブリリアントな方向で、なるほどそんな風潮と経過を辿っているようにも感じてしまいました。
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楽譜の版

同じ作曲家の作品でも、出版社や校訂者によってさまざまな版があるのはよく知られています。

演奏者によっては自分はどの版を使っているか、事前に明示する人などもいますし、コンクールなどは指定の楽譜があったりと、この同曲異版をめぐってはあれこれの事情があるようです。

マロニエ君はこの問題を、大事ではないとは決して思いませんけれども、実際の演奏結果の要素の9割以上はその演奏家の本質的な音楽性に拠るものだと思っています。
ましてや素人のピアノ弾きが知ったかぶりをしてどうのこうのと言うのは失笑してしまいますし、無数にある音符のひとつがどうしたこうしたといって、とくにどうとも思いません。

ピアノの先生などで、趣味でやっている生徒が楽譜を買う際に、さも尤もらしく版の指定などをうるさくいう人がいるそうで、オススメ程度ならともかくも、それじゃなくてはダメだというような主張は少々ナンセンスだと思います。
真実そう信じての事なら、その先生のおっしゃる根拠を具体的に伺いたいものです。
もちろんショパンコンクールに出場するような人が、指定のナショナルエディションを使うというような場合は別ですけども。

繰り返しますが、どの版を使うかがまったく無頓着でいいとは決して思いません。
しかし、それを言っている人がどれだけその違いを理解しているかとなると、甚だ疑問で、ほとんどナンセンスの領域である場合が少なくないと感じるのが率直なところであって、大半の人はそれ以前の段階でもっと磨くべきものがあると思います。
ほんとうにそれを言うのであれば、実際に何冊も買ってみて、弾いてみながら丹念に検証してみるぐらいの覚悟と裏付けが必要だと思うのですが。
さらに、この版の問題は研究の進捗によっても変わってくるもので、優劣を決するのは非常に難しい問題でしょう。

外国にはどれだけいいかげんな楽譜があるのかは知りませんが、少なくとも日本で現在売られているようなものであれば、だいたい信頼性もある程度あり、そんなことに拘るよりは、与えられた楽譜からどれだけ充実した練習をして、より品位ある音楽的な演奏をするかということに心血を注ぐほうがよほど重要だと思うわけです。

たしかに版によってはちょっとした音が違っているとか、装飾音の入れ方、強弱の指示の有無、指使いやフレーズのかかり具合などが異なる場合がありますが、それらを問題とするよりも、もっと先にやることがありはしないかと言いたいわけです。
もっと基本的な作品の解釈や、数多くの優れた演奏を聴くことなど、弾く人の基本的な音楽性を磨く姿勢の方が百倍も重要だと思います。

マロニエ君も曲によっては何冊もの異なる版の楽譜を持っているものもありますが、とくにショパンなどでは本当に自分が納得できるものはどれかと言われたら、即答できるものはなく、数種類からのブレンドのようなものになるし、それも要は自分の主観に左右されます。
どうもそういうことを言いたがる人は、それが高尚で玄人っぽいことだと思っているのかもしれません。

そもそも、音楽的な人は、どの版の楽譜を使っても音楽的に弾けるわけで、基本はそういうものだということを忘れてはいけない気がします。
いくら高価で権威ある楽譜を持っていても、要は弾く人そのものに土台となるべき音楽性がないことには、ただ無神経に指運動的に弾いてしまうのなら、どの版を使ったってさほどの意味は感じません。
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地域性

このところ知人の車探しの手伝いをすることになり、ネットで中古車検索をしながら、あちこちに電話の問い合わせをしましたが、そこでひとつの事実というか現象のようなものが浮かび上がりました。

それは全国の各地域による電話対応の違いでした。
本来なら近場がいいわけですが、良い物を探すためには距離を厭わず探し回るのがクルマ好きですから、そのためには最大市場ともいえる関東地区まで範囲に収めて、以西、東海、関西、四国などまで検索範囲としました。

現に、マロニエ君の友人知人には、良いものが見つかったときには、仕事の休みを取ってわざわざ飛行機に乗って見に行ったり、長距離バスに飛び乗って目指す車屋に赴き、場合によってはその場で現金決済して乗って帰ってくるという猛者なども一人や二人ではありません。
そうまでしてでも自分の欲しい車を購入するという、好事家特有のパワーがあるということかもしれませんが、まあ傍目にはご苦労千万なことだと目に映るでしょうね。

さて、その電話対応ですが、今回電話をしたものに限って言うなら、あきらかに関東地区が突出して対応がよくありませんでした。話しぶりもどこか横柄で上から目線、さらにお客さんに対しても話のイニシアチブは店側が取ろうと微妙に牽制してくるのがわかります。

その点では、関西はやはり商売というものに対する歴史と土壌があるというか気構えがしっかりしているのか、問い合わせに対しては適度に腰も低いし、温かく気さくに応じてくれます。
四国もまあ普通でした。地元の福岡もその点ではまったく問題ありませんでした。

その点では、関東地区は大半がそれぞれにムッと来るような出方をするのが目立ちます。
この不景気でろくに売れていないくせに、どこか高飛車で、それが「商品への自信の表れ」「べつにへーこらしなくてもモノが良いんだからそれでいい」という類の変な虚栄心が背後にあり、2/3ぐらいの店がお客さんよりも立ち位置を優勢にしようという、まったく勘違いとしかいいようのない歪んだ流儀のあることがビンビン伝わってきます。

挙げ句の果てには、こちらとしてはごく真っ当で当然のことを質問しても、いちいち不快なような示したあげく「うちを信用してもらうしかない」などと阿呆ではないかというようなことを言い始めます。
こういう言葉は昔からいい加減な車を売りつけるときの中古車業者の常套句ではありましたが、時代が変わって、さらにはこんな不景気になっているというのに、悲しいかな悪しき体質をいまだに引きずっているのは、まるで関東だけがひどく遅れて取り残されているように感じられて驚きでした。

このようなネットの時代に、誰の紹介でもなく、ただ単に検索サイトでヒットした結果で電話しているだけなのですから、キチンと商品説明を受け、あれこれと質問があるのは当たり前であって、いきなり抽象的に「うちを信用しないなら、べつにいいですよ」的な発言をするほうがどうかしています。
まるで、意味もなしにすぐいきり立つ自信のない弱い人のようでした。

東京は車店に限らず、マロニエ君がいるころから全般的にこうした「店側が威張る」といった体質がありましたが、たしかに関東地区は何事も同業のライバルも多いので、それらの中で他店より抜きんでるためには、地道で誠実な努力を重ねるよりは、このような高飛車路線でいくのがある意味で常道&早道でもあったのでしょう。
しかも、こういうことはエリア全体の空気の問題だから、なかなか直らないんですよ」ね。

会社でも学校でも当てはまることですが、「悪しき体質」というものほど、なぜか脈々と受け継がれていくものだということを再確認しました。
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新しいSK

ごく最近、カワイから届いたDMによると、「SK現行商品最終チャンス」と銘打って2台のSK-2と1台のSK-3が最後の販売をする旨のチラシが同封されていました。

現行商品最終ということは、当然モデルチェンジしたことを意味するわけで、さっそくカワイのホームページを見たところ、やはりモデルチェンジはしているようでしたが、製品サイトはうやうやしく「3月公開予定」だそうでガッカリです。
そんなに勿体ぶって、どんな変化を遂げているのかと思いますが、なにもポルシェじゃあるまいし、ピアノなんだから外側のデザインが大きく変わることもないだろうにと思いました。

ところが、封筒の中に入っていた小さなリフレットのようなものを見ていると、ありました!
一枚だけ、ほんの小さな写真で新しいSK-7を斜め上から撮った写真がありますが、それによるとすぐにわかったのはボディの内側に貼られる化粧板が、これまでのベーゼンドルファー風の垂直方向の木目模様(これは良かった)に代わって、ファツィオリ風の雲みたいなウニュウニュした木目模様になっています。

これは音とは直接関係のない部分ですが、いささか豪華趣味というか、率直にいって成金趣味的で、ファツィオリでさえあの木目は好きではなかったのですが、それをカワイというメーカーそのものも華がないのに、いやあ…ちょっとミスマッチじゃないかと思いますね。
上級機種だろうがなんだろうが、カワイにはちょっと似合わない印象ですけれども、やはり新型ではさらに一層の高級路線を目指しているのでしょうね。
価格も全体に約1割値上げされていて、SK-7ではついに600万を超えています。

さらに変わったのは、以前からあまりにセンスがないと思っていた、まるでカレー粉を混ぜたような、どちらかというと安っぽい金色に塗装されていた???なフレームの色が、今風の赤味のあるヤマハやスタインウェイに通じる色になり、これはようやく当然の色に落ち着いたというべきで、ホッと安心です。

Master Piano Artisan なる開発技術者の言葉によれば、調律師は声楽家だそうで(なるほど!)、新しいシゲルカワイには声楽家としての発想を採り入れたとありました。
「歌うピアノ」になっているのだそうで、「輪郭をはっきり」させるとありますが、これはあきらかにヤマハのCFシリーズの路線を意識した処置だと思われます。

まったくマロニエ君の想像ですが、この言葉通りならば、新シリーズは明確な進化を遂げているのだろうという気がします。というのも、一昨年のショパンコンクールのSK-EXでは、あきらかに従来の同型とは一線を画した明るく甘い音色でしたので、この頃から試験的にそういう方向のピアノ作りを密かに進めていたものと思われます。

かつての巨人vs阪神ではありませんが、これでヤマハvsカワイの上級ピアノバトルもいよいよ佳境を迎える時期に来たということのようで、こうでなくっちゃ面白くありません。
おそらくカワイのほうがコストパフォーマンスでは圧倒的に上を行くわけでしょうから、どこまでCF4とCF6のクラスに対して半分の価格で追いまくるのか、楽しみです。

ただし、あんまりよくなると現行のSKシリーズのユーザーは心穏やかではないでしょうが、まあそれは仕方ないでしょうし、マロニエ君もどっちみち自分は関係ないので専ら気楽に高見の見物です。
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最も買ってはいけない車

車のことで調べたいことがあってネットを見ていると、偶然ある人のサイトに辿り着きました。
世の中にはどんな分野にも「達人」というべき人がいるもので、この方は輸入車の販売業をやっている人らしいのですが、実に多種多様な車に文字通り精通してたスペシャリストで、各クルマごとに分けて非常に参考になる濃い内容がたくさん載せられていました。

プロフィールを見ていると、わりに若い人のようでしたが、どうして立派なものです。
自分が好きなことで、それを職業として毎日関わっているというのは、まさに植物が必要な水や栄養をぐんぐん吸い上げるように、知識や経験がとてつもない量蓄積されていくという見本のような人です。

しかも、その方は主に輸入車の中古車販売を自分でやっているらしいので、関わる車種の幅広さも多岐にわたり、特定の新しい車種しか扱わない、ただの月給取りのディーラー営業マンなんかとは、その知識経験の深さと広さには雲泥の差があるようです。

まさに何でも弾ける、昔のアラウとかアシュケナージみたいな感じですね。

あらゆる車の個性や魅力、モデルの変遷、長所短所、経年変化で起こるトラブルの特徴など、つい「なるほど」と思わせられるものばかりで、もうこれだけで立派な本ができるのは間違いありません。

また、中古車販売販売業者として車種の垣根を超えて、日々多種多様な車に触れているということは、それだけ車を見る目、判断力もより正確で信用度の高い客観性が備わっていて、一部の車種を偏愛したり忌避するということもないのです。

読むほどにどの車種においても的確な判断がくだされ、しかも根底にあるクルマ好きの心情がひしひしと伝わってくるので、読み物としてもついやめられないほど面白いものでした。

文章は、車の国籍ごと、さらにはメーカーごとに分類されていて、最後にいよいよマロニエ君所有のフランス車についての記述を開いて読んでみることに。
はじめは楽しく読んでいたところ、我が愛車の名前なども登場してきて、さあ何と書いてあるかと思ったら、車としての孤高の魅力は大いに認められていたものの、故障やパーツ供給、整備の難しさから「最も買ってはいけない車」!?として結論づけられていたのには、覚悟はしていたものの思わず倒れそうになりました。

「むろんその車のことをわかった人がそれを承知で乗るぶんには、他に変わるもののない良い車」というふうに断りは入れてあり、ゆめゆめ甘い覚悟で購入するべきではないという警告でもあるわけですが、やっぱり総論として、できれば避けたいワーストの部類に入れられたというのはトホホでした。

もっともマロニエ君のまわりには、そのトホホを自虐的な楽しみであるかのようにして悲喜こもごもに乗っているオバカも多いので、まあ笑い話がまたひとつ増えたぐらいの感じではありますが、普通の感覚でちょっとオシャレなクルマに乗りたいぐらいな感覚で買おうものなら、それこそとんでもないことになるのは請け合いです。
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復興支援コンサート

東北の震災以来、その復興支援のためのコンサートが数多く開かれました。

それが本来の目的に適った通りであるならば、大変素晴らしい結構なことであるのは言うまでもありません。中には内外の著名な超一流のアーティストがまったくのノーギャラで行った本格派のコンサートなどがいくつもあったようで、そういうものには素直に感謝と敬服の念を覚えます。

しかし、世の中、そう麗しいことばかりであるはずもなく、マロニエ君のような人間の目にはどうも不可思議に映るものも少なくありません。
正直を言うと、中には「復興支援」の文字に違和感を覚えるコンサートがかなりの数含まれている気配を感じてしまいました。

本来の復興支援のためのコンサートというものは、いわゆる有名アーティストが、その自分の集客力を使ってお客さんを集めてコンサートをし、その収益金を被災地/被災者に寄付するというものです。
ところが、震災後にこの復興支援に名を借りた、わけのわからない正体不明のコンサートが無数に開かれた(現在もまだ続いている)のは、偽善的な悪乗りのような気がしてしまいます。

もちろんすべてとは言いません。有名アーティストでなくても、純粋な動機と内容で行われた復興支援コンサートも中にはあったことでしょう。

しかし、チラシを見ただけでも胡散臭い感じのするものもあって、復興支援の名の下に、これ幸いにコンサートを開くということを思いついたものも相当あった気配は否定しようもありません。
いっぱしに「収益金(の一部は)は被災地に寄付」というような文言はあれども、さてそのうちどれだけ寄付するのかさえわかりません。
コンサートに来たお客さんに後日、寄付の明細を報告するわけでもありませんし、極端な話、集まったお金からたった1万円寄付しても、言葉の上ではウソにはなりませんから、この手の合法的で限りなく自己満足に近いコンサートはずいぶん行われたと思います。

事はなにしろ寄付であって義務ではないために、多くがアバウトで、善意善行として追跡調査もされない性質のものであるのは、さらに都合の良いことでしょう。

復興支援の看板をかけさえすれば、自分達のコンサートの恰好の口実にもなるし、演奏機会はできて、社会貢献までやったことになり、おまけにちょっとした小遣い稼ぎにもなれば、見方によってはほとんど一石三鳥の世界かもしれません。
日本人は世界的にも信頼のおける優れた民族で、災害時に略奪や暴動などが起こらないなど、外国人の目には驚くべき長所がある反面、ほとんどなんの関係もないような事にまで「復興支援」などというお題目を立てて、このいわば災害特需にあやかってしまうという、暗くてみみっちいクセは…あると思いますね。

まあ、無名奏者のクラシックコンサートなどは、もともとどう転んでもろくに儲からないものだから、それをネコババといってもたかが知れていますが、そんな限りなくグレーな気配のある復興支援コンサートはまだまだ続いているようです。
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マイペースは強い

いろんな人とお付き合い、もしくは接触があると、いまさらのようにいろいろなタイプの人がいることに感動してしまいます。ここに「感動」という言葉を使うのは不適切のように感じられるかもしれませんが、マロニエ君としてはやはり人は本当にさまざまという意味もあり感動という言葉をおいて他にありません。

そんな中でも痛切に思うのが、何事もマイペースを貫くことができる太い人というのはやはり強いなあと思います。
些細なことが気にならないタイプというか、泰然としている人、おおらかな性格などもあれば、無神経で図太くて鈍感な人というのも少なくありません。
その種類はいろいろでしょうが、なにしろなんでも自分のペースが守れる人、押し通してしまう人というのは、少なくともその部分だけでもおそろしく強いと思います。

人が複数集まる機会というものがあるとして、そういうときについ脇にまわる人と、話の中心に出てくる人というのがありますね。
それも存在感があるとか、話術が巧みなどの理由で自然にそうなるのであればいいとしても、初めからマイペースのトークオンリーで、デリカシーがなく、空気が読めないために中心になる人がいます。けっきょく一種の鈍さから他のことはおかまいなしに自分ばかり押しまくってしゃべってしまう人などがいて、こういう手合いはどうも困ります。

しかも比較的スローテンポな人なんかだと一見出しゃばりのようには見えないので、まわりもすっかりのせられて、ヘタをすると「あの人はいい人、面白い人」などという、まったく的外れな高い評価まで獲得してしまったりする日にゃあ、(面と向かってそれを否定はしませんが)内心はもう驚きと諦めが充満してしまいます。
これも要するに図太くてマイペースが勝ちというわけです。

メールなども、こちらがメールを出してもいつまでも返事が来ない人がいますが、無視されたのかと思っていると忘れたころにひょっこり返信が来ていたりします。
あるいは、「メールは(とくに返信は)一度だけ」と思っている人がいて、返事を返しても、それに再度返信してくることの決して無い人という、人情味のない人も結構いますね。
こういうことはむろんケースバイケースで、延々とやりとりする必要はありませんけれども、いちおうやりとりの上での区切りというのはあるだろうに…と思うのです。

電話も然りで、こちらがかけてもコールバックしない人、電話帳登録している番号以外は出ない人など、昔はなかったような新種の違和感を覚えることはときどきありますね。

社会生活を送るためにはいろんな人の性格や流儀に対して、寛容の気持ちを持って接しなければいけないというのはマロニエ君が常々胸に抱く考えの中心でありますが、それでもちょっとこれは!?と思うようなことが多すぎるのは驚くばかりで(それもここには書けないようなひどいケースも少なくない)、それが冒頭に書いた「感動」なのであって、もはや感動でもしている以外にはないというところなのです。

人は何かと言えば、ちょっと上から目線で「ちょっとしたこと」「くだらないこと」「些細なこと」などと大人ぶって言いますが、マロニエ君は実はこれには猛反対で、人間が日々の生活を快適に送るための生活実体というものは、要するにくだらないこと、ちょっとしたことの連続なのであって、それらがあるていど妥協できる範囲に収まっていないことには、人間関係はやっていけません。
そこで最後に勝つのは視野の狭いマイペースの人なわけです。
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ベルリンのハプニング

昨年大晦日のベルリンフィル・ジルヴェスターコンサートがBSのプレミアムシアターで放映されました。
以前は大晦日の夜中に生中継されていましたが、最近はないなあ…と思っていたところでした。
もしかすると生中継のほうは他の有料チャンネルかネットなどでやっているのかもしれませんが、そのあたりはとんと疎いマロニエ君にはわかりません。

会場は「カラヤンサーカス」の異名を持つベルリンフィルハーモニーのホールで、今回はエフゲーニ・キーシンをソリストに迎えて、グリーグのピアノ協奏曲がメインであったほか、前後にドヴォルザーク、グリーグ、ラヴェル、ストラヴィンスキー、Rシュトラウスなどの管弦楽曲が取り上げられました。
指揮は当然のように首席指揮者兼芸術監督のサイモン・ラトルです。

このベルリンフィルのジルヴェスターコンサート、いつごろからか映像には女子アナ風の司会がつくようになり、演奏の合間の折々にその女性が会場をバックにおしゃべりをします。
ドヴォルザークのスラブ舞曲、グリーグの交響的舞曲に続いてグリーグのピアノ協奏曲が始まりますが、その際にもこの女子アナ(たぶんドイツの)が出てきてキーシンのことなどペラペラしゃべっているとき、画面の脇でおかしな事が起こっているのに気付きました。

背後に映り込んだステージ上では、予めそこに置かれていたピアノのフタを開けるべく、体格のいいおじさんがでてきて前のフタを開け、つづいて大屋根を開けようとしますが、さてこれがどうしても開かないというハプニングが起きました。
そのおじさんは、何度も腰をかがめてはヤッとばかりに力を込めるのですが大屋根は頑として開かないので、ついには会場からどよめきの混じった笑いまで起こりましたが、それに刺激されて焦ったのか、おじさんはいよいよ力を入れたらしく、勢い余ってピアノ本体の位置までずれてしまいました。
それでも依然として大屋根は開きません。

これにはわけがあって、スタインウェイはじめとする多くのコンサートグランドでは、運搬時に大屋根がふいに開かないようにするためにL字形の金具が装着されており、それがかけられていることは見ていてすぐに察しがつきました。ボディ側面のカーブのところにそのための丸いテニスボールぐらいのノブがついているのでご存じのかたも多いと思いますが、このおじさんはそういうことがまったく分かっていない気配でした。

女子アナはこの異常に気付いたようでしたが、チラッと後ろを振り返りつつ自分のトークを続けます。その間もフタは開かずに、ついに様子がおかしいと察した他のスタッフが駆けつけてきて、ようやくノブが回されたようで、ここで大屋根はやっと開いてめでたしめでたしでした。
しかし、舞台奥へ向かってややずれてしまったピアノの位置を元に戻すことはされないままに…。

たぶん興奮していて、そんなことには気付きもしなかったのでしょう。
ほどなくキーシンが登場。彼は気の毒にもこの位置のままで演奏しましたが、それはそれとして、まことに筋目のよい美しい見事な演奏でした。

それにしても、これがもし日本だったら、ピアノの管理を含めた準備や設営などは、臆病なぐらい丁寧の上にも丁寧に行われるはずで、フタの止め具の事も知らないような人間が本番でひょこひょこ出てきて、力任せに開けようとするなどはちょっと考えられない事だと思いました。
何事においても真面目で整然として、高いクオリティで鳴らすドイツといえども、このような未熟なハプニングが起こるわけで、逆にいえば日本人のキメの細やかさこそ例外なのかもしれません。

さてその止め具は金属ですが、おそらくあれだけ男性の体力で猛然たる力を何度もかけられたら、それを取りつけられている土台はボディ側も大屋根側も木なので、とくに大屋根側などはそれなりの損傷があるかもしれません。あーあ。
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MacとWindows

現在世の中で使われているパソコンは、もちろんWindowsのほうが主流だと思いますが、一時はほとんど風前の灯火だったMacも最近では若干盛り返してきたように思います。

マロニエ君は十数年以上にわたってのMacユーザーで、ここ数年は必要もあってしぶしぶWindowsも使っていますが、その使いにくい(マロニエ君にとっては)ことといったらありません。

iPodに続いてiPhoneの登場あたりから、なんとなくアップルの製品自体が一般的に認知されるようになったと思いますが、それ以前はMacユーザーなんて言ったら、まったく変人か物好きな少数派の扱いでした。
パソコンといえばWindowsが常識で、この2つの言葉はほとんど同義語でした。

お店などに行っても、パソコン売り場でなんらかの質問などをすると、店員は当然のようにWindowsを前提とした話しかしないので、それを遮ってMacであることを告げなければなりませんでしたし、相手はそれを聞くなりあからさまに「へぇ」みたいな顔をされたことも一度や二度ではありません。

さらには大型電気店では、はじめから少数派で儲からないマックを切り捨てた店などもあって、そのうち市場からも消えてなくなるのでは?という危惧さえ抱いていたものです。

それがスマートフォンの登場をきっかけに、再び盛り返してきた観があるのはマック派としては喜ばしいことです。

マロニエ君の印象では、少し前までのWindowsのユーザーはMacのことなどまったく念頭にもなく、比較しようとする考えもなかっただろうと思います。Macは値段も高めにもかかわらず、基本のスペックなどはWindowsのほうが上でしたから、いよいよ相手にもされなかったようですね。

そんな中で、マロニエ君のまわりにはいろいろな「モノ」へのこだわりを持つ変人が多いためか、パソコンもMacユーザーが不自然なくらい集中していましたし、Windowsユーザーも買い換えを機に、まるで悪徳商法のようにMacユーザーで取り囲んでMacへ鞍替えさせたりしていました。
そして、その結果は、ただの1人としてそれを後悔した人はいないほど、ひとたびMacを使った人はすっかりその虜になってしまうようです。

その第一は、画面の美しさというか、そこにMac固有の美の世界があり、気品があって可愛らしい。
また、操作が簡単で明快、なんでも直感的に操作できるようになっているほか、ショートカットなどの機能も多く、ほとんど自分とパソコンがある一定のリズムで繋がることができると思います。

その点、Windowsをこの2年ほど使っていますが、いちいちの操作がわかりづらく、いまだに大半のことがわからないことだらけです。とくにわからない事に直面したときの解決率は圧倒的にMacのほうが上で、Windowsではあきらめて匙を投げたことが何度もありました。
パソコンに詳しい人の話によれば、Macは自分の経験から予測や応用など、ある程度のことが自力で解決できるようになっているのに対して、Windowsはひとつひとつに固有の知識がなくては決して解決しないし、前に進めいないようになっているのだとか。

最近ではiPhoneなどに触れることで、Windowsユーザーの中にもアップル製品がもつ魅力の一端を知った人が多いのではないだろうかと思います。
正直言って、Windowsは画面を見ただけでなんとなく荒涼とした陰気な気分になるのですが、その点Macは隅々に至るまで趣味も良く、気持ちを楽しくさせてくれるのです。

たとえばメールやこのブログなども、Windowsではまったく文章を書こうという気にもなりませんので、そういうことはすべて古くなったMacでやっていますが、これもそろそろ買い換えないといけない時期に来ていることを、先日のHDトラブル騒ぎでより明確に意識しはじめました。
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弾くほどに鳴る

過日はピアノ好きの知人と共に、県内にお住まいのあるピアノマニアの方を尋ねてお宅をお邪魔しました。

マロニエ君のまわりには輸入ピアノのユーザーが何人かいらっしゃいますが、この方はやや珍しいニューヨーク・スタインウェイをお持ちです。
昨年の暮れぐらいに調律その他の調整をされたということで、一緒に行った方が弾き出すと、なんとも淡く可憐な音色が出てきたのには思わずハッとさせられるようでした。

一般的なイメージとしては、ハンブルク・スタインウェイのほうがドイツ的で落ち着いた音色で、対してニューヨーク・スタインウェイはもっと明るく派手で、しかも硬質な音であるように考えられているふしがありますが、実際はさにあらず、ニューヨークのほうがやや線が細く、そして格段にやわらかい音色を持っています。
日本のピアノやスタインウェイでもハンブルク製に慣れた人の耳には、この音色と発音特性の関係から一見ちょっともの足りないように感じられることもあるようですが、話はそう単純ではありません。

たしかに弾いている当人の耳にはそれほどガンガン鳴っているようには感じられないのですが、少し距離をおくと非常にボディがよく鳴って音が通り、心底から楽器が響いているのがやがてわかってくるのがニューヨーク・スタインウェイの特徴のひとつだと思います。

その証拠に、同行した知人が仕事の連絡で携帯を使うため、ちょっと部屋を出て電話をはじめたところ、ほとんどピアノの音量が変わらず、さらに離れたらしいのですが、漏れ出てくるピアノの音量はほとんど変化しないので大いに焦ったらしく、相手が仕事の関係であったためにちょっとまずかった…と心配しなくてはいけないぐらいだったそうです。

「遠鳴り」で定評のあるスタインウェイは、思いがけずこんなところでもその優秀性が証明されたようでしたが、逆にいうと家庭用のピアノとしては、弾いている本人には手応えよく鳴ってくれて、しかも周囲にはあまり音の通っていかないピアノのほうが、騒音問題という実情には合っているかもしれません。

そういう意味ではスタインウェイはサイズを問わず、楽器の性格としては人に聴かせるためのピアノだということは明らかで、そこが今流に言うとまさに「プロ仕様」のピアノだといえるでしょう。

さて、ピアノ遊びというのは時間の経つのが早いもので、あっという間に時計の針が進んでしまいます。
弾きはじめから2時間ぐらい経ったときでしょうか、ハッと気がつくとピアノの音が大きく変化していることに一同驚きました。はじめの可憐な音色は遙かに影を潜めて、太いのびのびとした音が泉のように湧いてきて、むしろ逞しいとさえ言っていい力強い響きに変わっていました。

日本製のピアノでも1時間も弾いていると鳴りがこなれてくるというのは感じることがありますが、これほどあからさまな変化が起こるのは、いやはやすごいもんだと感心させられました。まさに良質の木材とフレームが弾かれることでしだいに目を醒ましてぐんぐん鳴り出すのは、まるで楽器が掛け値なしに生き物のようでした。

こういう状態を知ってしまうと、一流品であればあるほど、例えば店に置いてあるピアノをちょっとさわってみるぐらいでは、とてもその実力の全貌は見えないということになるでしょう。
とくにもし購入を検討するときなどは、お店の人を説き伏せて1時間でも弾いてみると、そこから受ける印象や判断はずいぶん違ったものになってくると思います。

日本のピアノは製品としてはまったくよくできてはいるものの、状況によってここまで変化するという経験は一度もなく、それだけコンディションが安定しているといえばそうなのかもしれませんが、楽器とは本来、このようにセンシティヴで演奏者をわくわくさせるものであってほしいと思いました。
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リーダーの資質

昨日の朝刊の一面を見て驚いたこと。

それは、大相撲の理事長に北の湖が返り咲いたという写真付きの記事でした。
昨年まで八百長、賭博、薬物、暴力団との交際など、これでもかとばかりにいろいろなスキャンダルを抱えていた相撲界ですが、放駒理事長の後任に、なんとまたあの北の湖が新理事会の決定によって史上初の再任となったというのは、これはどういうことかと思いました。

北の湖はそもそも、前回の理事長を大麻問題や八百長問題の責任を取って辞めたはずなのに、そんな経緯のある人が再任されるというのはどういうことなのか。

相撲界の諸問題がいちおう沈静化して、ようやく琴奨菊や稀勢の里などの新大関も誕生し、先場所では把瑠都が優勝するなど、まだまだとはいえ、とりあえずここまでどうにか復調した相撲界といえるわけで、それには放駒理事長の断固たる改革断行が大きいと言われていただけに(真相は知りませんが)、まったく寝耳に水の理事長交代にはエエッ!?と声が出るほど驚きました。

北の湖の理事長時代といえば、朝青龍問題や八百長問題など諸問題が続々と噴出して、それに対してなんの対策も打てず、連日マスコミから何を聞かれても一切コメントさえもできずに、仏頂面でのっしのっしと逃げ回るだけの見苦しい姿しか印象にないのはマロニエ君だけではい筈です。

今回の再任決定での会見では「残りの人生をすべて懸ける」などと言っているそうですが、何に対してどう残りの人生をすべて懸けるのかまったくわかりません。
そのあたりの経緯に関してはなにひとつ記述がなく、いよいよ真相は不明です。

北の湖が理事長としてなんのリーダーシップもなく、改革はおろか、問題の処理ひとつできないことは、すでに数年前にイヤというほど証明済みなのであって、こんな人がまたぞろ相撲界の頂点に立つのかと思うと、どうしようもなく暗澹たる気分になってしまいます。
しかも新理事10人による理事会において「全会一致」で決まったというのですから、唖然というほかはなく、何の内情も明かされないのは極めてグレーな空気を感じるばかりです。
新聞にも書かれず、ならばテレビはもちろん言いませんから、真相を知るには週刊誌か新潮45(あるいは2ちゃんねる)あたりに頼るよりほか道はないでしょう。

それでなくても、上に立つ人にはそれなりの器量やリーダーシップはもちろん、それなりの「顔」というか、清新さや明るさが必要であって、あの一年365日苦虫を潰したような顔をした人がいまさら何をしに出てくるのかと思いましたね。
まあ、相撲どころか我が国のリーダーを見ても、野田さん、菅さん、鳩山さん、およびその周辺の顔ぶれを見るたび悪夢でも見ているようで、とにかくもう少し健全になれないものかと思います。

上に立つ人には、多くの人達が感覚的にも、ある程度の共感や納得ができるような人であってもらわないことには、世の中に与える、そのマイナスの影響というのは計り知れないものがあると思います。
景気が一向に改善しないのも、ひとつには暗くて無能なリーダーが悪い波動を振りまいているからという気もします。
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良識の暴落

友人からのメールに『人間関係は面倒くさい』とありましたが、まったく同感です。

常識や良識も時代と共にどんどんおかしな方向に変化しており、近年はほとんどついていけない新種の基準が次々に打ち立てられるようです。
それよりも甚だしいことは既存の常識や礼節が信じがたいペースで暴落している点でしょうか。

例えば、誠実に接すれば相手の心には必ずなにかが通じるというのは、確実にひと時代前の理想化された常識であって、現代ではもはや幻想となりつつあるようです。

どんなに誠実を尽くして接しているつもりでも、それを一向に解さず、専ら無反応で、そのボールをキャッチできない人があまりにも増えすぎている印象があります。
昔に比べると、人の反応というものがまったく違っており、まずおしなべて情の濃度が低いようです。
共通しているのは、とくだんの悪気などはないらしいという点ですが、これが却って困りものです。

以前なら変人というか、ちょっと変わり者に分類されたような人が、だんだん増殖し、群れをなしていつの間にか新しい基軸を作っているのは間違いなく、田中角栄の「数は力」じゃないけれど、けっきょく多数派が主導権を握ってしまい、果てはこちらが異端扱いされるようで頭がクラクラしてきます。

この新手の人達は精神構造そのものが著しく自分本位にできているので、何事においても相手のことを考えたり、自然な人情で発意発想するということが、悪気ではなく能力的にできないようです。
そして情義において非常に消極的であり、実際ほとんど不感症であるといえるでしょう。

自分本位とは自己中ということですが、自己中というと、普通はわがまま放題で身勝手な、強欲な意志の持ち主のようにイメージしますが、このタイプは必ずしもそうだとは言い切れません。本人には何も悪意はないのに、考えついたことや折々の判断など、発想そのものが見事に自己中でしかあり得ないわけです。
そのために自覚も罪の意識もないし、むしろ自分は常識に則って正しいことを普通にしているつもりらしいのですから、どうにも始末に負えません。

こういう救いがたい思考回路を脳内にもっているため、人との自然でしなやかな交流が苦手で、なにをやってもあまり上手く行かない。悪気はないのに、行く先々で小さなクラッシュを起こして孤独に追い込まれるようで、見方によっては非常に気の毒にも見えるのですが、現実にはそう冷静なことも言っていられないほど、こういう人達と関わると様々な被害を被ることにもなるのです。

犬養毅が五・一五事件の際に「話せばわかる」と言ったのは有名ですが、それは幻であって、話してもわからない人は少なくないし、この人達は強いです。
自分は正しいと思い込んでいる人ほど、実際は最も無知で鈍感です。
というか、ある意味において、無知や無自覚、鈍感ほど強いものはありません。

知らないし、感じないのだから、なにごとも平然と自分のペースを押していけるし、それで気が咎めることもコンプレックスに苛まれることもないのですから、これぞ最強!というものです。

有り体に言ってしまえば「話してもわからない」のが人であって、現に、犬養毅もその言葉は聞き入れられずに殺害されました。
話せばわかる人のほうが圧倒的に少数派ですから、ごくたまにそういう人を発見すると小躍りしたくなるほど嬉しくなるマロニエ君ですが、そんなことはめったにあることではなく、平生心の内は重装備で鎧を着ていないととんだ目に遭わされかねない時代になりました。
こういう話が通じる相手との合い言葉は『油断大敵』です。
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あるヴァイオリンの本

最近また、1冊のヴァイオリンの本を読みました。

ヴァイオリンビジネスで成功した日本人が書いた本ですが、敢えてタイトルも著者の名も書かないでおきます。
というのも、読んでいるあいだはもちろんですが、読了後の印象、つまり読み終わってからの後味があまりいいものではないかったからです。
食べ物がそうであるように、この「後味」というものは、その本質を端的に表すものだとマロニエ君は思っています。化学調味料などを多用した料理は、口に入れたときは美味しく感じても、だんだん様子がおかしくなり、後味の悪さにおいて本性をあらわします。

ヴァイオリンの本というのはけっこう面白いので、マロニエ君はこれまでもだいぶあれこれの本を読みましたが、でもしかし、なんとなく執筆者に対する印象が良くない割合がやや高いように思っています。
それは、どんなに御託を並べても、結局ヴァイオリンという特殊な高額商品を使って普通の人間の金銭感覚からかけ離れた、かなり危ないところもある商売をして生きている人達だということが根底にあるからだろうと思われます。

この人達は、どんなに美辞麗句を並べようとも、甚だ根拠のあいまいな、虚実入り乱れる、ヴァイオリンビジネスの荒海をたくましく泳いでいる強者なのですから、そこはやむを得ないことなのでしょう。
もちろんビジネスで成功するのは結構なことですが、ヴァイオリンビジネスはかなり怪しい要素も含んだしたたかなプロの、しかも特殊な専門家の世界で、昔の言葉でいうなら「堅気」のする商売ではないという印象を持つに至りました。

とりわけこの本は、自分の成功自慢の羅列のような本でした。
音楽どころか、まったくヴァイオリンや楽器といったものとは何の関わりもない所にいた人が、ふとした偶然からこの世界に入り、一気にこのビジネスの花を咲かせるにいたるほとんど武勇伝でした(もちろん本人の資質と努力もあるでしょうが)。

とりわけ後半は自己啓発本の様相を帯び、お金の話ばかりに終始するのには閉口させられました。
それも一般人とはかけ離れたケタの数字がページを踊り、毎月の家賃が100万、銀行への返済額も毎月2000万などと、こういうことばかりを書き立てながら、一方では信用や出会いといった言葉が乱舞します。

販売と並行して、買い取りもやっているとのことですが、これも著者に言わせれば「縁切り」ということをしてあげるのが自分の務めだとして、有無をいわさず即金で買い取るのだそうです。
そのためにはかなりの資金も必要だそうですが、大半は所有者の期待を遥かに下回る価格になる由。
率直に言って、ほとんど○○○の世界だと思いました。

即金で買い取るのは、ヴァイオリンを手放す人のいろんな未練や迷いが起こる時間を与えないように、その場で極力短時間で買い取ってしまうという、なんとも冷徹な世界だと思います。
しかも手放す人はたいてい事情のある弱い立場ですから、きっと思いのままでしょうね。

株や不動産ならともかく、ヴァイオリンような小さくて美しい楽器がこういう取引の対象になっていることは、薄々感じてはいましたが、現実社会のやりきれなさを思わずにはいられません。
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怒っている犬

マロニエ君の自宅のとなりの家には一匹のチワワが飼われています。

このチワワはちっちゃくてとても可愛らしいのですが、その見た目とは裏腹に性格はおそろしく獰猛で、何に対してでもことごとく攻撃的で、まるで荒れ狂う武者のような気性をむき出しにするのにはいつもながら呆れてしまいます。

あれでは本人(犬)も気分的にさぞ大変だろうなと思うほど、始終ありとあらゆることに怒りまくっていて、常に本気で、歯をむき出しにして怒りも露わにギャンギャンガウガウ唸ったり叫んだりで、その忙しいことといったらありません。
ネコよりも小さな体ですが、それはもう大変な迫力で、さすがに恐いです。
自分の十倍もある大型犬を見つけても悪態の限りを尽くすように吠えまくり、全身は怒りにわなないて毛並みは荒れて、ネズミ花火のように地面を転げんばかりです。

そのチワワ、ある時期とんと見かけなくなった時期がありました。
しばらくして事情を聞いたところでは、なんと足を骨折して動物病院に入院していたのだそうで、それも二階のベランダから自分で転落したとのこと。
いかに小さなギャング犬といえども、それは可哀想だと思っていると、その転落の顛末がまた驚きでした。

隣の家は二階のベランダにたくさんの植物がおかれていて、奥さんが水をやっているときも、その周りで絶えず道路の往来には神経を尖らせていて、マロニエ君も歩いていて何度頭上から罵声を浴びせるように吠えかけられたかわかりません。
まして犬が通りかかろうものなら、それこそ火のついたような怒りを爆発させていたようですが、あるときその興奮があまりにも苛烈を極めたようで、勢い余って自分から下へ転落したのだそうです。

ここまでくればそのチワワ君の怒りも、ほとんど命がけです。

しばらくするとめでたく退院したようで、またその姿を見るようになり、マロニエ君としては「やあしばらく」という気分でしたが、さて、性格のほうは一向に変化の気配も見られず、あいもわらずこちらを見るや眉間にシワを寄せてひっきりなしにガルルと威嚇してきます。

この家の奥さんがいつもリードをつけて散歩させていますが、そこに人や犬が近づこうものなら、ほとんど後ろ足の二足歩行になるほど興奮して怒りだして敵意むき出しになりますから、さすがの犬好きなマロニエ君をもってしてもこのチワワだけは恐くてまだ頭を撫でたこともありません。

同じ犬種でも、知り合いのピアノ工房にいるチワワは、いつも不安げに目を潤ませて見るからに弱々しいタイプで、ちょっとした物音にも反応して脱兎のごとく逃げていきます。抱き上げると体が小刻みに震えており、やたらビクビクして恐がり屋のようです。

もしかしたら、お隣の年中怒っているチワワもあれは臆病故かもしれず、あんがい根底にあるものは同じなのかもしれません。だとしたら性格の違いで、その表現方法がまるで正反対ということですが、激しく怒る方がはるかにストレスや消耗が多いだろうと思うと、ふと人間も我が身を反省させられるようです。
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波長

人にはそれぞれに「波長」というものがあります。
科学的には2つの山や谷の間にある波動の水平距離のことだそうですが、普通に言うと互いの気持ちや感覚や価値観などの意志の通じ合い具合のことでしょう。

この波長が合わない者同士というのは、ある意味で悲劇です。

これはむろんあらゆる人間関係において言えることですが、ある意味でこの波長ほど大事なものはないと思われます。
波長の相性が悪ければ、お互いに相手のことを大切な相手で好意的に接しよう、前向きに捉えようとどれだけ努力してみても、何かとギクシャクしてつまらない齟齬やつまづきが次々に発生します。
単純にいうと、笑いのツボひとつもこの波長によって決まってくるのです。

波長が合い、価値観や感性が共有できていると、ちょっとした会話でも、実にスムーズで無駄がありませんし、実際に語った言葉以上にさまざまなニュアンスまで伝えることができるでしょう。
その逆に、波長の合わない人とは、概ねの内容は同意できるようなことでも、会話のいちいち、言葉のひとつひとつに快適感がなく、無駄にストレスが発生し、虚しい疲労ばかりが堆積してゆくようです。

スッと行けるはずのものが、必ずどこか引っかかったり、左右に振れたりして、まるで素直に転がっていかないスーパーの半分壊れたカートのようで、どんなに真っ直ぐに押していこうとしても、変なクセがあってどちらかに曲がろうとしたり、キャスターのひとつが動きが悪かったりするようなものです。

波長が合う人同士というのは、お互いに相手の出方がある程度予測できるのが安心なのですが、逆の場合は常に球はどっちを向いて飛んでくるかまるきりわからず、気の休まるときがありません。

困るのは、お互いが真面目にやりとりをしている場合です。
真面目だからこそ逃げ場がないし、そこには好意も読み取れるからそう邪険にもできない。
そうなるといよいよ気分的にも追い込まれてしまいます。

マロニエ君はこういう場合の有為な解説策を知りませんし、それはきっとないのだと思います。
そういう方とは甚だ残念ではあっても、ビジネス以外のお付き合いは極力避けるようにしないと、結局はろくなことはないだろうと思います。

持って生まれた性格、家庭環境、育った地域、時代などさまざまな要因があるでしょう。
「いい人なんだけど…」という言葉がありますが、この言葉が出始めると、要は合わないという意味です。

人間の快適なお付き合いには、善意と人柄だけではどうにも解決のつかない深いものがあるようです。
マロニエ君としてはその深い部分を文化性だと呼びたいのです…。
なぜならそれは機微の領域であり、いいかえるなら絶妙さの世界だからです。
それを司るのは繊細な感受性とセンスであって、人はそこのところを解さない限り文化の香りを嗅ぐことはできないと思うわけです。
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韓国映画

人並みに映画が嫌いではないマロニエ君は、このところ映画館に出かけることまではしませんが、たまに友人とDVDの貸し借りをしたり、テレビで放映されたものを録画して見ることはときどきあります。

洋画/邦画いずれも拘りなく見ますから、ハリウッド作品はもちろん、古いフランス映画などもずいぶん観たと思いますし、邦画では小津安二郎から鶴田浩司の任侠物まで、節操なく、おもしろそうなものは手当たりしだいですが、唯一手をつけなかったのは香港映画でした。
あれはろくに見たことはありませんが、どうも体質的に合わないという感じで一度も近づこうとしたこともありません…いまだに。

そもそもアジア映画というのが昔はまるきり見る意欲が湧きませんでしたが、そんな中、次第に面白さに気が付いてきたのが韓国映画で、これはいつごろからかポツポツ見るようになりました。
つい最近もある作品をひとつ観ましたが、だいたいどれもそれなりに楽しめるようになっているのは、いずれも映画のエンターテイメントを心得たプロの作品ということだろうと思います。

マロニエ君が感じるところでは、国を挙げてやっているのかどうかは知りませんが、映画に対する取り組みのテンションやパワーが凄いことと、台本にしろ監督にしろ、あちらでは才能のある人間が本気の仕事をしているように感じます。それなりのセンスもあるし、映画としての切れ味やテンポもある。
クリエイティブな世界までコンセンサスで、臆病で、キレイゴトを前提とする日本では、本当に才能ある人がのびのびと仕事をする環境を整えるのが難しいし、だから才能が育たない。

もう一つは、日本と違って韓国人は「感情」をなによりも優先することかもしれません。
感情というものはきれいなものばかりではなく、喜怒哀楽、清濁、美醜、あらゆるものが激しくうごめくのが当たり前であって、そういう人間的真実が一本貫かれているから、描かれる人物もみな活き活きと人間くさく、観ていておもしろいのだと思います。

出てくる俳優もいわゆる草食系ではなく、とくに主演の男女などはどことなく野性的な色気があるのも魅力だろうと思います。ほんのお隣なのに、どうしてこんなにも違うのかと思います。
韓国では痩せぎすのスッピンみたいな女優が大物ぶっていることもないし、男には男の攻撃的な荒々しさみたいなものがしっかり残っているのも、作品が精彩を帯びている要因だろうと思います。

それと、韓国映画を見ていて感心するのは出てくる俳優達の大半が欧米人並みに体格がいいことです。
それもただモデルのようにむやみに背が高いなどというのではなく、本当にきれいな体型で、それ故に男女が向かい合っただけでも立派な絵になる。

まあ日本人としては、せめてひとまわりと言いたいところですが、実際にはもっと体格がいいから、ビジュアルとしてもサマになってしまうのでしょう。

そういう出演者達が、非常に感情豊かに体当たりで激しく動き回るのですから、なるほど映画も引き立つだろうと思われます。
美しいものと醜悪なもの、愛情深いものと残酷なものを容赦なく対比させるのも、韓国映画が恐れずにやってみせることのひとつで(やり過ぎでうんざりすることはあるものの)たしかに迫力はありますね。
その点は日本人は感情やビジュアルまでも「きれい好き」で、常に箱庭のようにきれいに整理されてしまっているから、ある種の味わいとか繊細さはあるにしても、観る者の心を鷲づかみにするようなパンチはない。

日本人は目的が何のためであっても汚いもの、醜悪なもの、激しいもの、ときに残酷なものを体質的に避けて、小綺麗に文化的にまとめようとする傾向がありますが、そんな制限付きではものごとの表現力はどうしても劣勢に立たされてしまうのは避けられないことでしょう。
音楽の世界でも、非常に優れた演奏家が韓国に多いのは、やはり彼らが広くて深い感情の海を自らの内側に抱えていて、そこから多様で適切な表現をしてくるからではないかと思います。
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見ないで突っ込む

最近、車を運転をしていてつくづく感じるのは、以前にはなかった独特の注意が必要になったということでしょうか…。

とくに変化を感じるのは、若い世代の男性の運転で、ちょっと普通の感覚でいうなら「それはないよ」というぐらいのタイミングで脇道や駐車場から、走っているこちらの前方に出てきたり、あるいは急に車線変更してきて、こちらが急ブレーキ、あるいはブレーキをかけないまでも、思わずヒヤッとして減速して車間距離を取り直さなくてはいけないぐらいの動きをすることです。

しかも、それでだけではありません。
それだけ危ない割り込みをかけてくるからには、あとはどれほどキレの良い動きをするのかと思いきや、前は空いているのに、妙にトロトロと走りはじめるのには、ただもう唖然としてしまいます。

もちろんマロニエ君は安全を第一としているわけですが、この手の人達は、スピードこそ出さないけれども、実際の動きは流れとか常識に逆らう、かなり危険な運転だと思っているわけです。
実際の路上には、周囲の交通状況に応じた円滑な動きというものがあって、そのために必要なものはまず何かというと、刻一刻と変化するシチュエーションへの反応と判断だと思います。

最近ようやく気がついたのは、無理に前方に曲がってくるこの手の車は、いざその運転操作に入る段階では、もうほとんどこちらを見ていないということです。
そしてあとは他力本願、相手も衝突したくはないはずから、そのぶんは減速するだろう…というこちら側にも安全のための対処を期待した運転なわけで、これは車線変更でもまったく同様です。

つまり、心のどこかでは危ないかも…ということを少し認識していて、それを敢えて責任放棄した結果として本能的にこっちを見ないで動いてくるのでしょう。
それだけ男子の運転感覚が鈍っていて、かつ他者に依存した動きだから驚かされることが多いわけで、昔は女性ドライバーにこのタイプ(見ないで突っ込む)がいましたが、今は女性ドライバーのほうがある意味でよほど責任ある動きをしてくれているようにも思います。

いわゆる空気の読めない痴呆運転なのであって、だから変なタイミングで人の前に出てきたり、異常にチンタラしたスピードで平然と中央車線を走り続けたりするわけです。
横に並んで見てみると、いかにもしまりのない表情をしたお兄さんが一人で真っ直ぐ前を見ていたりして、その様子には、もはや腹を立てる値打ちもないという気分になるものです。

とにかくこの手合いは動作が鈍いといったらなく、見通しの良い、まったく安全な角を曲がるだけでも、まるで老人のようにやみくもに動きが鈍く、これは決して安全運転ではなく、こんな感性で運転されたのでは、ある意味で酒酔いや居眠り運転にも匹敵する危険があると感じます。

しかも現実は酒酔いや居眠りでもないのだから、摘発対象にもならないわけで、もはやどうしようもありません。現代では若者の自動車離れが著しいと言われていますが、さてもなるほど、これじゃあ車なんぞ欲しくなるはずもないのは道理だと思いました。
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小林愛実

先週、小林愛実さんのリサイタルの様子がNHKで放送されました。

この人は現在16歳で、ずいぶん早熟なようですが、音楽の世界ではよくあることで、本物のコンサートアーティストになる人は10代で頭角をあらわすぐらいでなくてはやっていけません。
マロニエ君の記憶では、彼女はインターネットの動画サイトのYoutubeで、子供のころの演奏がずいぶん投稿されて話題になったように思います。
まだ補助ペダルの要るような小さな童女が、オーケストラをバックにモーツァルトのコンチェルトなどを大人顔負けに堂々と身をくねらせながら弾いてみせる姿に、ずいぶん多くの人がアクセスして話題になったようにも聞きました。

その彼女も成長して10代前半でリサイタルを行うようになり、現在は桐朋の学生で演奏を続けながらもさらなる修練を続けているようです。

いきなり好みの話で申し訳ないのですが、これまでにも何度か見て聴いた経験では、マロニエ君はさほど好きなタイプではなく、実際にも彼女の演奏にはいろいろな意見がうごめいているというようにも聞いています。

もちろん上手いのは確かですが、弾いている構えが、いかにも音楽に入魂しているという様子ではあるものの、独特なものがあって、このあたりなども意見の分かれるところだと思われます。

演奏されたのはショパンのソナタ第2番と、ベートーヴェンの「熱情」という大曲二つでしたが、見ているよりも出てくる音の方がより常識的で、まあそれなりだったと思います。
ただし、現在でもまだ体は小さく、椅子をよほど高くして、上体はピアノに覆い被さるように自信たっぷりに力演しますが、ピアノはもうひとつ鳴りきらないところが残念と言うべきで、これはあと数年して骨格ができてくるとだいぶ余裕が出るのかもしれないと思います。

マロニエ君がひとつ感心したのは、今どきのピアニストにしては全身でぶつかっていく迫りのある演奏をするという点で、多くの若いピアニストが感情のないビニールハウスの野菜のようなきれいだけどコクのない演奏をする中で、小林愛実さんは作品に込められた真実をえぐり出そうという覚悟のある、きれい事ではない演奏をしていると感じました。

そのためにミスタッチもあるし、演奏する上でもかなり危ないこともしますが、それがある種の緊迫感をも併せ持っており、少なくとも表現者たるもの、そういうギリギリのところを攻めないでは、なんのために演奏という表現行為をするのかわからないとも言えるでしょう。
この点では、現在の多くの若手の演奏は周到な計算ずくで、スピードなどはあっても音楽そのものが持つべき勢いとか生々しさがなく、聞いている人間が共に呼吸し、ときに高揚感を伴いながら頂点へ向かっていくような迫力がありません。

愛実さんはその点は、多少の泥臭さはあるけれども、ともかく自分の感性に従って、必要な表現を恐れずに挑むのは立派だと思いましたし、生きた音に生命力を吹き込まず、きれいな家具を並べただけみたいな演奏に比べたら、どれだけいいかと思いました。
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苦手な靴選び

昔の靴を久しぶりに履いて出かけたら、歩きづらくてえらい目にあったのは以前書きましたが、要は生ゴムの底がカチカチに硬化してしまっているためということが帰宅してようやくわかりました。

ほとんど傷みのない靴だったので、棄てるのも気が引けて靴底の張替にどれぐらいかかるのか調べてみることにして、靴のリペア専門の店に2軒ほど持っていったら、両方とも安くても8千円、高くて1万5千円ぐらいだと言われて、ちょっと考え込んでしまいました。

とくべつ気に入っているものならともかく、あまり履かずに長いこと放っておいたぐらいの靴なので、それほどのこだわりはないし、いっそ新しい靴を購入しようか…という気になりました。
より高くついても、気分よく新品が買えるわけで、それもいいかと思ったわけです。

同時に思い出したのはマロニエ君は靴選びが下手だという事実を忘れていたので、この点は思い出すとうんざりです。
色やデザインは単なる好き嫌いなので問題ないのですが、靴の履き心地というのは店頭で試したぐらいではよくわからず、いざ実用に供してはじめて欠点がわかるという苦い経験がこれまでにも何度かありました。
しかも合わない靴ほど疲れて耐え難いものもないので、その点は妥協できません。

実は、今回も懲りもせずにさっそく一足買ってみたのですが、家に持ち帰って試してみると、なんとサイズがやや大きすぎたことがわかりました。店頭ではちょうどいいと思ったのですが…。もちろん下におろしたわけではないので、すぐ翌日交換にいったものの、あいにくこちらが欲しいサイズが在庫になく、入荷予定もないということで残念ながら返品という次第になりました。

それからしばらくして、次に買った靴は、履きやすいと思ったのに、今度は底の感じがしっくりせずよくないことと、足の甲がやや熱くなる特徴のあることが数時間履いてみてわかりました。
しかし今回はもう下におろしたのでもうどうしようもありません。
ああ…なんでこう靴選びのセンスがないのか、自分でもほとほと情けなくなりました。

マロニエ君の靴選びが尋常なことでは上手く行かないことには、我が家では有名で、家人はもはや一切関わろうともしません。よほど高級な靴を、店員が付きについた状況でじっくり時間をかけて選べば失敗もないのかもしれませんが、靴にそこまで気前よく投資する覚悟もなく、要は中途半端なものを自分の判断だけで買うからこうなるのかと思います。

かくして、またもマロニエ君の靴選びは失敗の巻となり、履かない靴がまた増えただけという、一番もったいなくてばかばかしい結果に終わりました。
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靴の性能

マロニエ君の音楽の先生のお一人は、ご主人が大学の先生ですが、この方はとにかく歩くことが大好きで、家には昔から車もありません。

毎日の通勤を市内の警固から箱崎のキャンパスまで、片道1時間半をかけて何十年も通勤されているというヘビーウォーカーです。往復で3時間、これを毎日と、大学以外にも大抵のところは歩いて行かれるようですから、その距離たるやたいへんなものです。
目と鼻の先でも車で行ってしまうマロニエ君なんかから見たら、人間離れした、ほとんど宇宙人のようにしか見えませんでした。

さてその先生曰く、これだけ日常的に歩くということは、とうぜん靴の傷みや消耗もケタ違いに激しいそうで、年に何度か靴を買い換えておられるようです。
昔は「履きやすい靴」=「高い靴」だったわけで、これだけ歩くからには足に悪い安物靴というわけにはいかないので、靴にかかる出費は相当のものだったそうです。

それが近年になってからというもの、履きやすい、足の疲れない、科学的にも理に適ったウォーキングシューズが出現してからというもの、すっかりこちらに移行して、値段も昔の数万円から、一気に5千円前後で事足りるようになったというのです。

考えてみると、昔はとくに革靴などは、みんなかなり無理をしながら履いていた思い出があり、形状が合わずに足の指にマメができたり、靴屋に補正に出したり、足の小指にテープを巻いたりといろいろやっていたことが思い出されます。ほとんど足を靴に合わせて慣れさせるような一面がありました。

それなりの値段でもこういう調子で、ましてや安物などは推して知るべしという気配でしたね。
ところが今はそういう意味では技術や研究が進んで、足に負担をかけず、軽くて、安いという、昔から見れば夢のような靴がごく当たり前のようになってしまいました。

とりわけウォーキングシューズなどの進歩は目覚ましいものがあり、そのノウハウが逆に革靴などにも活かされているように感じます。その点では靴は科学技術を反映したアイテムでもあり、ものにもよりますが、平均的にみれば新しいもののほうが進歩しているのかもしれません。

とにかくストレスのない快適なものを安価に選べるのは幸せなことだと、その先生はいとも簡単におっしゃいますが…マロニエ君はいまだに靴選びが下手でどうしようもありません。
ああ、靴選びになると気が滅入ってしまいます。
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天守物語

日曜日に録画しておいた新国立劇場の舞台を観ました。

泉鏡花の代表作である『天守物語』ですが、久しぶりに日本語の美しさを堪能しました。
まさに言葉の芸術。

このような作品が日本に存在することが誇りに思えるようでした。

鏡花の台詞は、その発想から言葉の使い方までまったく独創性にあふれ、同時に深い情緒の裏付けがあり、ひと言ひと言が複雑な音符のようで、役者の発する言葉は、まさに厳しい修練の果てに演奏される音楽を聴くようでした。

我々はこんなにも美しくて格調高い日本語という言語をもっているのかと思うと、あらためて唸らされもするし、それを惜しげもなく捨てていく今の世の風潮がこの上なくもったいなくて、うらめしいようでした。
現在の日本人は日本語というとてつもない言語文化の半分はおろか、1割も使っていないような気がしますし、これほど自分達の言語・母国語を大切にしない国民は愚かだと痛烈に思わせられました。

三島由紀夫が鏡花にご執心だったのは有名ですが、とりわけ戯曲作品においてはかなり強い影響を受けていることがわかります。
言葉のもつそれ自体の意味はもちろんこと、その巧緻で意表をつく組み合わせによって、思いもよらない独特な調子を帯びながら極彩色の輝きを放つことを、彼らはその天才によって知り尽くしているのでしょう。
絢爛たる台詞がとめどもなく流れだし、そして音楽同様にあちこちへと転調するようでもあり、まったく感嘆するほかありません。

詩的で装飾的でもある言葉の奢侈は、音楽はもちろん、絵のようでもあり、闇夜にきらめく美しい織物のようでもあり、あっという間の2時間でした。

今回の天守物語は昨年、新国立劇場で上演されたものですが、主演の富姫は現代劇の女形である篠井英介氏が務めましたが、よく頑張ったと思います。
こういう作品ではなによりも言葉を明瞭に、メリハリを持って伝えることが肝心で、その点は出演の皆さんは自分の演技や主張に溺れることなく、作品への畏敬の念があらわれていて好ましかったと思います。

天守物語の舞台は姫路城の天守閣、まさに妖艶な魔物の棲む独特の世界であるために、主演をあえて女形が務めるのは、鏡花の一種異様な世界を現し、中心に据える重しの意味でも望ましいことだと思います。

この作品では板東玉三郎丈の富姫が有名で、舞台はもちろんのこと、自ら監督・主演して映画まで制作しているのですから、現代では玉三郎の富姫というものがこの役のひとつの基準になっているのかもしれません。

このような格調高い豪奢な日本語の世界があるということを、日本人はもっと知るべきだと思いますが、そうはいっても触れる機会がないのだから難しいところです。
とりわけ戯曲は本を読むのも結構ですが、やはり舞台があって、優れた役者の口から活き活きと語られたときにその真価を発揮するものです。
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レオンハルトとワイセンベルク

ついこの間、一世を風靡したピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(引退していた)が亡くなったということを耳にしたばかりでしたが、昨日の朝刊ではチェンバロ&オルガンの大物であるグスタフ・レオンハルトが亡くなったというニュースを目にしました。

マロニエ君は、もちろんこのレオンハルトのCDなどはそれなりに持ってはいますが、取り立ててファンというほどではありませんでした。
それはあまりにも正統派然としたその演奏や活躍の立派さ、存在そのものの大きさのイメージが先行して、音楽を聴くというというよりは、まるで石造りのガチガチの荘重な門の前に立たされているようで、それ以上の何かしら意欲がわく余地がなかったように思います。

しかし、彼はピリオド楽器による演奏の推進者でもあり、ひとつの流れを作った一人だと言わなければなりませんし、なによりバッハを中心とする演奏活動の数々、録音、さらには教育に果たしたその功績の大きさは計り知れないものがあったと思います。
バッハなどのCDでは、誰の演奏を買って良いかわからないときは、ひとまずレオンハルトを買っておけば間違いない、そんな人ですが、あまりにそうであるがためにちょっと個人的には引いてしまった観がありました。

バッハといえば、ワイセンベルクもロマン派の作品などをクールに演奏する傍らで、バッハはかなり盛んに取り上げた作曲家でした。
むかし実演も聴きましたが、当時としては先進的でテクニカルな演奏をすることで頭角をあらわし、そのいかにも男性的な風貌と剣術の遣い手のようなピアニズムは時代の最先端をいくものでした。

いかにもシャープに引き締まったその演奏は、それ以前の名演の数々を古臭いと思わせる力があり、同時にそは賛否両論があったと思われます。

一切の甘さとか叙情性を排除した、モダン建築のような切れ味あふれる演奏は一時期かなりもてはやされて、ついには日本のコマーシャルにも出演するほどのスター性を兼ね備えた人だったことを思い出します。

マロニエ君が子供のころに聴いたリサイタルでは、地方公演にまで古いニューヨーク・スタインウェイを運び込んでの演奏会だったことは、今でも強く印象に残っています。
プログラムはバッハやラフマニノフを弾いたことぐらいで具体的な曲目は思い出せませんが、背筋をスッと伸ばして、どんな難所やフォルテッシモになっても、まったく上半身を揺らさないで微動だにせず、スピードがあり、どうだといわんばかりにカッコ良く弾いていた姿が思い出されます。

久々に彼のバッハを聴いてみましたが、ちょっと聴いているのが恥ずかしくなるようで、まるでむかし流行したファッションをいまの目で見ると思わず赤面するような、そんな気分になりました。
まあこれも、いま振り返ると「時代」だったんだと思います。

音楽的にはなんの共通点もない二人の歳を調べてみると、レオンハルトは83歳、ワイセンベルクは82歳と、まさしく同じ世代だったことがとても意外でした。
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路上マナーの低下

最近車を運転していて気がつくことのひとつは、路上でドライバー同士が「どうも」程度のちょっとした挨拶をする人が激減したということです。

たとえば狭い路地などで、対向車が向かってくるのが見えたら、無理に進入せずに、その車が通りすぎるまでできるだけ広い場所で待っておくことがあります。

そういうとき、以前ならすれ違いざまに軽くクラクションを鳴らしたり、ちょっと手を上げたり、中には軽く頭を下げる人などがいましたし、マロニエ君も逆の場合は(現在でも)必ずそのように謝意を表現するようにしていますが、最近はこんななちょっとしたやりとりが失われたように感じます。

いやしくもドライバーなら、相手が道の向こうで止まって待っているのは何のためか、わからないはずはないのですが、すれ違いざまにも、ただ冷たくサーッと無表情に通り過ぎていく人がずいぶん多くなりました。
まるで「当然」みたいな趣で、こういうときは、どうしようもなくムッとくるものです。
人間は、あまりにもパソコンや携帯を使いすぎて、こんなふうになったのかとも思います…。

こんな変化にも、考えてみるとプロセスがあり、全般的傾向としてですが、はじめはまず30代ぐらいの女性ドライバーがこの礼無し通行をするようになり、続いてさらに若い男性などがそれに加わってきた印象があります。

そのうち老若男女は入り乱れ、最後にはこの点だけは比較的律儀だったタクシーの運転手までもがこれをするようになり、今では道を譲ったり、相手側の通過を待っていたりしても、なんらかのささやかな挨拶を返してくれる人のほうが確実に少なくなり、まったくやるせない限りです。

あと、その手の無礼者の比率が高いのが高級車のドライバーで、車の威を借りて自分が偉くなったような気分なのは、昔からもちろんいましたが、いよいよそれに拍車がかかってきているようです。
高級車の横柄ぶりについては、マロニエ君の印象では、現在は輸入車系よりも大型のレクサスなどのほうが確実に上を行く印象です。

まあとにかく、今の世の中、ちょっとした「お互い様」とか「すみません」というごく自然な気持ちや、それに連なる表現が、どんな場合にも少なくなったように感じます。

そうかと思えば、耳にする歌の歌詞などは薄気味の悪いほど「ありがとう」というような空虚な言葉のオンパレードだし、店で買い物をしていても、店員のほうが泰然として、お客さんの方が何かといえば店員に「ありがとうございます」を連発したりと、いったいどうなっているのかと思うことしばしばです。

車のドライバーには路上の仁義がなくなったものの、まだ建物のドアの開け閉めやエレベーターなどでは、かろうじて「すみません」というような言葉が交わされますが、この調子では、これもいつなくなってしまうかと心細い限りです。
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薄汚れた画面

兵庫県の現職知事が、今年から始まった大河ドラマの『平清盛』の第一回放送を見て酷評したことが話題になっていたようですね。

テレビを観る習慣の薄いマロニエ君にとっては、毎週ひとつでもドラマを見続けるというのは、結構な義務にもなるので今年の大河も見ないつもりだったのですが、こういうおかしな話題がくっついてくると根が野次馬のマロニエ君としては、ちょっと見てみたくなりました。

我が家のビデオレコーダーには家人のために大河ドラマが録画セットしてあって、幸い消去していなかったので、これは好都合とばかりに再生ボタンを押しました。

結果から先に言うと、知事の発言も尤もだと思いました。
マロニエ君は最近のテレビ特有の、手を伸ばせば人の顔に触れられそうな、あのほとんどプライバシーの侵害のようなシャープな映像は決して好きではないので、多少のフィルターというかノイズの加わったような、すなわちアナログ風のやわらかい画面になることは、今後の方向性のひとつとして好ましいことと思っています。

さすがにニュースやスポーツではそうもいかないでしょうが、ドラマなどはカリカリの鮮明画面より、何らかのフィルターがかかるのは好ましいことだと思われ、NHKのドラマでいうと『龍馬伝』や『坂の上の雲』がそれだったと思います。
とりわけ『龍馬伝』を見たときは、それ以前の、いかにも狭いスタジオのセットにライトを当てて撮影していますと言わんばかりの学芸会的な調子から、落ち着いた雰囲気のある映像に進化したと思ったものです。『坂の上の雲』もほぼ同様。

しかし、今回の『平清盛』は映像それ自体になんの味わいも無く、映像そのものに、なにか作り手が拘っているクオリティがまったく感じられません。
いつもハレーションを起こしているようで人物の顔にはやたら陰が多く、ほこりっぽく、色彩感もない。昔の映画のような渋い美しさのある映像でもなければ、新しいなりのなにか深みや味わいがあるというようにも感じられない、単なるコストダウンのための、手抜きと勘違いのようにしか見えませんでした。
それに、俳優でもなんでも、なんであそこまで汚らしくしないといけないのか説得力がありません。

兵庫県知事がおっしゃるように、「うちのテレビがおかしくなったのかと思うような画面…」というのも頷けるし、なにかのスイッチを押すとパッときれいになるんじゃないかというような、絶えずストレスを感じさせる映像だったと思いました。
知事は「薄汚れた画面」という表現をされたようですが、それも納得で、薄汚れた状況を丁寧に表現している上質な画面と、映像そのものが安っぽく薄汚れているのとは、そもそも大違いです。
そして『平清盛』では、その映像になんらかの美しさがまったく感じられず、斬新なつもりの製作者の自己満足だけが垂れ流されているといった印象しかありません。

ただし、だからといって知事という立場にある公人が、ドラマ作りの内容にまで堂々と言及するのは適当かどうか…。清盛の主な舞台となる兵庫県では、この大河ドラマに合わせて観光客誘致のキャンペーン中だそうで、ドラマへの期待が高すぎて、あの映像では効果が薄いと危機感を募らせたのでしょうか。

このような批判は、一般視聴者の声なら大いに結構だと思いますし、そういうものがあってこそより良い作品が生まれるというものです。
同時に、大河ドラマは特定の県や地域の宣伝目的で存在しているわけではないので、それによる経済効果を過度に期待して、ドラマの仕上がりに文句をつけるとしたら、これは本末転倒というべきではないでしょうか。

というわけでマロニエ君の印象としては、どっちもどっちでは?という気がしました。
第二回まで見ましたが、正直、今後見続けるという自信はもてません。
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威風堂々の歌詞

イギリスのザ・プロムスをことをもう少し。

これがイギリスの音楽の一大イベントであることはまぎれもない事実のようで、2011年で実に117回目の開催だと高らかに言っていましたから、歴史もあるということです。
19世紀末、もともとはふだん音楽に触れることの少ない一般大衆にもコンサートが楽しめるようにとはじめられたものだそうです。

こんにちまで、その精神が受け継がれているといえばそうなのかもしれませんが、ともかく音楽というより、音楽をネタにした壮大なスペクタクルというべきで、そのド派手な催しを見ていることが目的であり価値のようでした。

ラストナイトも後半になると、お約束のエルガーの威風堂々の第1番が鳴り出して、いよいよこのザ・プロムスも終盤のコーダを迎えるようでした。
実はマロニエ君はこの威風堂々第1番のような有名曲は、音楽ばかりが耳に馴染んで、中間部の歌の歌詞など気に留めたこともありませんでしたが、テレビの画面に訳が出てくるものだからそれを読んでいると、その何憚ることのない大国思想には唖然としました。

「神は汝をいよいよ強大に!」「国土はますます広く、広く」「我等が領土は広がっていく!」「さらに祖国を強大にし給え」というような侵略と植民地支配を前提とした歌詞が延々と続き、ロイヤルアルバートホールはむろんのこと、ハイドパークに結集した群衆も一丸となってこの歌を大声で叫ぶように唱和しています。

もちろん、これはすでに古典の作品ということで、いまさらどうこうという思想性もないということかもしれませんが、かつての大英帝国の繁栄と傲慢の極致を音楽にしたものだと思いました。
それをこれだけの規模と熱狂をもって歌い上げ、その様子を全世界に放映するということはちょっと違和感があったのは事実です。
とりわけ日本人は過去の謝罪だの、靖国問題、教科書の表記などとなにかと近隣諸国に気を遣い遠慮することに馴れてしまっているためか、こういう場面を見ると唖然呆然です。

さらに続いて、英国礼賛の愛国歌「ルール・ブリタニア」をスーザン・バロックが戦士の出で立ちで歌い上げるとまた群衆がこれに唱和し、バリー作曲の「エルサレム」、さらにはブリテン編曲による女王を讃える「英国国家」となるころには、マロニエ君の個人的な印象としては、だんだんただのド派手なイベントだと笑ってすませられないようなちょっと独特な空気が会場全体、あるいは野外の群衆からぐいぐいと放出されてくるようでした。

無数のユニオンジャックの旗が力強く振られ、聴衆の熱狂はいよいよその興奮の度を増していく様は、ちょっと危ない感じさえしたのが正直なところです。

恒例だという「指揮者の言葉」でマイクを持つエドワード・ガードナーのひと言ひと言に、聴衆が熱狂を持って反応するのは、ほとんどこれが音楽のイベントなんて忘れてしまいそうでした。
最後は「蛍の光」を会場全体が両隣の人とみんな手をクロスしてつないで熱唱する様は、まるで国粋的な戦勝祈願の集会かなにかのような感じで、さすがにちょっともうついていけないなと思いました。

断っておきますが、マロニエ君は断じて左翼ではありません。
でも、最後はちょっと引いてしまったのは事実です。

熱狂というのは本来は素晴らしいことだと思いますが、その性質と、度を超すと…恐いなと思いました。
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プロムス2011

先日、ロンドン名物のプロムス2011のラストナイトをBSでやっていましたが、いやはやその規模たるや、年々巨大化していくようで久しぶりに見て驚きました。
面白いといえば面白いし、ちょっとウンザリするのも事実ですね。

これはいうまでもなくじっくり音楽を聴くためのコンサートではなく、クラシック音楽を用いたロンドンのお祭りであって、演奏や音楽の良否は二の次だと思います。
まあ、完全にイギリス版の紅白歌合戦みたいなもんですね。

空中から撮影される楕円形のロイヤルアルバートホールは、立錐の余地もないほどの人で埋め尽くされ、豪華な照明の効果とも相俟って、会場それ自体がまるで輝く宝石のようです。

ピーター・マクスウェル・デーヴィスの「慈悲深い音楽」という合唱曲で始まり、バルトークの「中国の不思議な役人」やブリテンの「青少年の管弦楽入門」など、ともかくあれこれの音楽が演奏されますが、個人的にはスーザン・バロックの歌う「楽劇『神々のたそがれ』から、ブリュンヒルデの自己犠牲の場面」がもっとも良かったと思いました。

スーザン・バロックはRシュトラウスやワーグナーを得意とするイギリスの名花ですが、その劇的で力強い美声は、6000人の聴衆で埋め尽くす巨大会場に轟きわたるという感じでした。
すっかりその歌声に満足していたら、お次はラン・ランの登場で、リストのピアノ協奏曲とショパンの華麗な大ポロネーズを演奏。

こう言っちゃなんですが、まったくのお祭り用の芸人ピアニストの演奏で、その音楽性・芸術性の正味の値打ちはいかなるものかは、おそらく大半の人が了解していることだろうと思いますし、それがわからないヨーロッパではないはずですが、それでもこういう人にお座敷がかかるご時世だということでしょう。

この人はいわゆる臆するということのない、鋼鉄のような心臓の持ち主で、派手で巨大なイベントになればなるだけ本人もノリノリになってくるという、恐るべきタフな性格なんでしょうね。
いちいち気に障る滑稽な表情や、音楽の語り口は、わざとらしいしなをつくるようで、ほとんど猥褻ささえ感じてしまいます。もっと単純にスポーツのようにカラリと弾き通せばまだしものこと、まあやたらめったら伸ばしたり引っぱったり無意味なピアニッシモを多用したりと、これでもかとばかりに音楽表現のようなことをやってみせるのがいよいよいただけません。

この人の演奏を見ていると、音楽に酔いしれているのではなく、派手な舞台で派手なパフォーマンスをやっている自分自身に酔いしれ、その快感に痺れきっているようです。
ショパンでもリストでも、どこもかしこもねばねばにしてしまって、間延びして、まったく音楽に生命が吹き込まれないのは疲れるほどで、当然ながらオーケストラの団員もガマンして職務を全うしているのがわかります。

それにしても、このプロムスも今どきの風をまともに受けて、あまりにド派手なイベント性が表に出過ぎているのは、ちょっとやり過ぎの感が否めませんでした。昔はどうだったか、マロニエ君はこの手の催しはあまり興味がないので詳しいことは知りませんが、もう少し自然さがあったように記憶しています。

今はハイドパークやらロンドン以外の他のいくつもの会場と結んでの多元イベントとなり、専らその規模を太らせることにのみエネルギーが費やされているような印象で、その目の眩むような途方もないスケールは、クラシックの音楽イベントという本質からはるか逸脱しているような印象でした。
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君の名は

NHKのBSプレミアムでは、山田洋次が選ぶ日本の映画というようなものをやっていて、面白そうなものがあるときは録画しています。

そこで、かの有名な『君の名は』が放映され、あれだけの有名作品ですが一度も見たことがなかったので、自分の趣味ではないとは思いつつ、どんなものやらと思い、ちょっと観てみました。もともとラジオドラマだったというこの作品は、放送時間になると女性ファンがこれを聞くために、銭湯の女湯が空になるという社会現象まで起こったというのは有名な話です。

東京大空襲のさなか、氏家真知子(岸恵子)と後宮春樹(佐田啓二)は偶然に出会い、共に戦火を逃れるうちに惹かれ合い、翌日数寄屋橋の上で、半年後の同じ日にお互い元気だったら会いましょうという約束をして別れるのですが、これがこのじめじめした慢性病みたいな恋愛物語の発端です。
すれ違いと、当時の倫理観、人間の情念、幸福の観念、運命、嫉妬、他者の目など、さまざまなものに翻弄されて、観る者は止めどもなく巻き起こる苦難の連続にハラハラさせられ、観ているうちに、なんとなく当時爆発的に流行った理由がわかるような気がしてきました。

それは、この映画が当時の自由恋愛(という言葉があった由)を夢見る女性の心理を突いている点と、新旧の時代倫理の端境期に登場した作品であるという点、とくに後年隆盛を迎える昼メロの原点というか元祖のような要素を持っているからだと思います。

お互いに強く惹かれ合っているにも関わらず、様々な運命がこれでもかとばかりに二人を弄びますし、真知子と春樹自身も、今の観点からすればなんとも思い切りの悪いうじうじした人物で、こういうものが流行ったことが、日本では恋愛映画がやや格落ちように捉えられたのも無理はないと思いました。

意外に長い作品で、2時間20分ほどをさんざん引っ張り回したあげく、ついに二人は結ばれるのかと思いきや、最後の最後でまたしても未練を残した形での別離となり、「第一篇 終」となったのには、思わず「うわぁ、こんなものがまだ続くのか!」と思いました。

それでネットで調べてみると、なんとこれ、全三部構成で上映時間は実に6時間を超すというもので、まるでワーグナーの楽劇並の巨編であるのには驚きました。

パリに渡る前の、磨きのかからない状態の岸恵子はまだそれほどとも思えませんでしたが、佐田啓治は息子の中井喜一とは顔の作りがかなりちがう正真正銘の二枚目で、太宰治風の暗い陰のある美男が、いかにもこの陰鬱な役柄にはまっていると思いました。

ここから高度経済成長と歩を共にするように、日本のメロドラマブームが始まったのではないか?という気がしました。
ときおりこういう映画を見るのもいろんな意味で面白いものです。
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不気味なショパン

昨年のことですが、ちょっと冒険して変なCDを買ってみたところ、それは予想を遙かに超える恐ろしいシロモノでした。

ジョバンニ・ベルッチ(ピアノ)、アラン・アルティノグル指揮/モンペリエ国立管弦楽団によるショパンのピアノ協奏曲第1番他ですが、この協奏曲はカール・タウジヒという19世紀を生きたポーランドのピアニストによって編曲されたものがライブで演奏収録されています。

とりわけオーケストラパートに関しては、編曲という範囲を大幅に逸脱しており、耳慣れた旋律が絶えず思わぬ方向に急旋回したり、まったく違う音型が飛び出してくるなど、突飛だけれども諧謔のようにも聞こえず、滑稽というのでもないところが、ある意味タチが悪い。
やたら頭がグラグラしてくるようで、聴いていて笑えないし、むしろその著しい違和感には思わず総毛立って、脳神経がやられてしまうようでした。

三半規管がやられる船酔いのようで、正直言ってかなりの嫌悪感を覚えてしまい、せっかく買ったので一度はガマンして聴こうとしましたが、ついには耐えられず再生を中止してしまいました。
こんなものを買うなど、我ながら酔狂が過ぎたと、その後はCDの山の中にポイと放り出したままでしたが、よほど身に堪えたのか、そのうちジャケットが目に入るのもイヤになり、べつのCDを上に重ねたりして見えないようにしていても、何かの都合でまたこれが一番上に来ていたりして、ついにはベルッチ氏の顔写真がほとんど悪魔的に見えはじめる始末でした。

ただこのブログの文章を書くにあたって、数日前、確認のためもう一度ガマンして聴いてみようと勇気を振り絞って、ついにディスクをトレイにのせて再生ボタンを押しました。
出だしはまるで歴史物の大作映画の始まりのようですが、序奏部は大幅に削除変更というか、ほとんど改ざんされ、驚いている間もないほどピアノは早い段階で出てきます。演奏そのものは、そんなに悪いものではありませんでしたが、はじめはそれさえもわからないほどに拒絶反応が強かったということです。

一度聴いて、大いにショックを受けていただけあって、今度は相当の気構えがあるぶん比較的冷静で、少しは面白く聴いてみることができました。はじめは、なんのためにこんな編曲をしたのか、この作品を通してなにが言いたいのかということが、まったく分からなかったし分かろうともしませんでしたが、少しだけそういうことかと感じる部分もやがてあらわれるまでになりました。

このCDには協奏曲のほかショパン/リスト編:6つのポーランドの歌や、ショパン/ブゾーニ編:ポロネーズ『英雄』/ブゾーニ:ショパンの前奏曲ハ短調による10の変奏曲なども収録されていますが、それらはしかし、なかなか優れた演奏だったと思います。

ジョバンニ・ベルッチという人は情報によると14歳までまったくピアノが弾けなかったにもかかわらず、独学でピアノを学び、15歳でベートーヴェンのソナタ全曲を暗譜で演奏できたという、ウソみたいな伝説の持ち主だそうですが、その真偽のほどはともかく、まあなかなかの演奏ぶりです。

ピアノについての表記は全くないのですが、ソロに関してはどことなくカワイ、コンチェルトではスタインウェイのような印象がありますが、そこはなんともいえません。

ベルッチ自身はイタリア人のようですが、このCDは企画から演奏まですべてフランスで行われたもののようで、こんなものをコンサートで弾いて、CDまで出してやろうというところにフランス人の革新に対する情熱と、恐れ知らずの挑戦的な心意気には圧倒されるようです。
ま、日本人にはちょっとできないことでしょうね。
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