軽い!

楽しくありたいブログに、体の不調のことなど書いても意味がないし、だいいち無粋であり敢えて触れていませんでしたが、マロニエ君は今年の夏頃から少し膝の痛みを感じるようになり、整形外科など医療機関にもいちおう行ってみました。
これといって明確な原因もわからず、レントゲンを見ても幸い大したことでもないというわけで、その後は放置状態に。

主だった原因を強いて探すなら、運動不足と年齢的なもの、あとはストレスといったところが専門家のおおよその結論。
ただ、車の運転やピアノのペダル操作が、たまにつらい時があり、この先ピアノと車という人生2つの楽しみを取り上げられる時がくるのかと思うと、これはさすがに困ったことになったと思いました。

これで初めてわかったことですが、車のペダル操作に比べると、ピアノのそれは比較にならないほどの骨と関節と筋肉の労働であるということ。

さらにいうと、車のアクセルはなにしろ軽くて、そっと踏んで発進し、あとは交通状況に応じて離したり少し踏み足したりと、その動きもおだやかなものですが、ピアノのペダルときたら、ペダルじたいがかなり重く踏みごたえがある上に、その微妙な力加減や頻度というか踏む回数という点では、車とはおよそ比較にならないほどの運動量であることを知りました。

そもそも、車のアクセルはわずかな操作に終始すればいいのに対して、ピアノはまるで小動物のように絶え間なく踏んだり離したり、場合によっては小刻みにつつくような動きが必要で、しかもペダルもかなりの踏力を要することが判明、かくしてピアノは膝にとってはかなりハードな楽器であることを今ごろになって知りました。

幸いそれほひどい症状ではないから、注意してやれば弾けなくはないけれども、マロニエ君の場合、ピアノは純然たる趣味であるし、レッスンに通っているわけでも人前で弾くといった目的があるわけでもないので、弾かないならいつまでも無制限に弾かないで済んでしまいます。
そんなわけで自室のアップライトは気が向いたら触ることはあっても、リビングに鎮座しているグランドはほとんど手付かずの状態が続いていました。
しかも、そのグランドのペダルは標準的なものよりもやや重めで、技術者の方に聞いたら、中のスプリングを交換するとかあれこれの対策をいくつかおっしゃっていましたが、どうせ劇的に軽くなるわけじゃなし、面倒臭いこともあってついそのままに。

それを知人に話していたら、先日遊びに寄っていただいた折、なんとわざわざペダルの補助装置というのをお持ちくださっており、目の前に現れたそれは、金属製の手のひらにのるほどの小さな器具でした。
そういえば、こういうものがあることはネットか何かで見たような覚えはありますが、現物を見るのも触るのもこれが初めて。
それをペダルに差し込み、上からネジを閉めるだけで装着完了。

たったこれだけのことなのに、なんたることか、ウソみたいに軽くなっているではありませんか!
キツネにつままれているようでしたが、何回踏んでも、あっけないばかりに軽くて、どうしてこんなことができるのか、わけがわかりませんでした。
もともとのペダルにその装置を取り付けるから、踏む位置が約6cmほど手前に出てくるため、テコの原理でそうなるのか?とも思いますが、それにしてもその変化というのがあまりにも強烈で、こちらの頭のほうがついていけない感じでしたが、頭がついてこれなくても実際に重さはこれまでの数分の一というレベルになっているのですから、楽であることだけは紛れもない事実。

それにしても、なぜこんなに劇的に軽くなるのか、いまだに謎です。
テコの法則にくわえて、その装置じたいのわずかな重さも関係があるのかも…など思いを巡らすばかり。
もしそうだとするなら、これは鍵盤の法則を思い出させるもので、短いグランドより大型のほうが鍵盤も長くなり、そのほうが軽くコントロールもしやすいというのに似ているし、あるいは装置じたいの重さも一役買っているとしたら、これは鍵盤の鉛調整のようで、ピアノとはかくも微妙なバランスの上に成り立つ世界なのかと思う他ありませんでした。

いずれにしろ、思いがけなく良い物を教えていただきました。
あまりの効果に驚愕し、すぐに自分でも購入しようと思っていたら、なんともうひとつあるからどうぞ使ってくださいという望外のご厚意をいただき、とんでもないと思ったけれど、頑としてそのように仰るものだから、ついにはお言葉に甘えて使わせていただくことになりました。
かなり疎遠になっていたグランドですが、おかげで少し寄りを戻せるかもしれません。
なんともありがたいことでした。

ペダルの重さが気になる方は、断然オススメです。
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リシャール=アムラン

久しぶりにネットからCDを購入しました。

これという明確な理由があるわけではなく、とくに欲しいと思うCDがさほどなかったことと、すでにあるCDの中から聴き直しをするだけでも途方もない数があって聴くものがなくて困っているわけではないし、一番大きいのは新しい演奏家に対する期待が持てないことかもしれません。

また、慢性的なCD不況故か、リリースされる新譜も激減しており、店舗でもネットでも新譜コーナーには何ヶ月も同じものが並んでいたりと、この先どうなるのか?…といった感じです。
以前は、毎月続々と新譜がリリースされ、興味に任せて買っていたらとてもじゃないけど経済的に追いつかないほどでしたので、この業界も大変な時代になったということがよくわかります。

実際、若いピアニストでも興味を覚える人(つまりCDが出たら買ってみようと思えるという意味)というのはほとんどなく、大体の想像はつくし、もうどうでもいいというのが正直なところ。
そんな中で、わずかに注目していたのが2015年のショパンコンクールで2位になった、カナダのシャルル・リシャール=アムランで、彼のCDはショパン・アルバム(コンクールライヴではないもの)とケベック・ライヴの2枚はそれなりの愛聴盤になっています。

現代の要求を満たす、楽譜に忠実で強すぎない個性の中に、この人のそこはかとない暖か味と親密さがあり、けっして外面をなぞっただけのものではないものを聞き取ることができる、数少ないピアニストだと感じています。

とくにケベック・ライヴに収録されたベートーヴェンのop.55の2つのロンドとエネスコのソナタは、ショパン以外で見せるアムランの好ましい音楽性が窺えるものだと思います。
テクニック的にも申し分なく、しかもそれが決して前面に出ることはなく、あくまでも表現のバックボーンとして控えていることが好ましく、常に信頼感の高い演奏を期待できるのは、聴いていてなにより心地よく感じています。

さて、このアムランはそのショパンコンクールの決勝では2番のコンチェルトを弾きました。
このコンクールでは、決勝で2番を弾いたら優勝できないというジンクスがあるらしく、それを唯一破ったのがダン・タイ・ソンで、入賞後のインタビューで「なぜ2番を弾いたのか?」という質問に、アムランは「1番はまだ弾いたことがなかったから…」というふうに答え、「いずれ1番も練習しなくてはいけない」と言っていましたが、それから3年後の2018年に、そのショパンの2つのコンチェルトを録音したようです。
指揮はケント・ナガノ、モントリオール交響楽団。

前置きが長くなりましたが、今回購入したうちの1枚がこれでした。
添えられた帯には「アムランの芳醇なるショパン。ナガノ&OSMとの情熱のライヴ!」とあるものの、聴くなりキョトンとするほど整いすぎて、まさかライヴだなんて想像もできないようなキッチリすぎる完成度でした。

決して悪い演奏ではないけれど、演奏自体も録音を前提とした安全運転で、マロニエ君にはこれをやられると気分がいっぺんにシラケてしまいます。
演奏というのは、ワクワク感を失って額縁の中の写真のようになった瞬間にその価値がなくなると個人的には思っていますが、こういうものが好きな人もいるのでしょうが、個人的にはとてもがっかりしました。

リシャール=アムランという人は、自分を認めさせようという押し付けがなく、おっとりした人柄からくるかのような好感度の高さがあるけれど、このCDでよくわかったことは、でもキレの良さなどはもう少しあった方がいいということでしょうか。
それから、はじめのショパンのアルバムの時から少し気になっていたけれど、装飾音がいつもドライで情緒がないことは、今回もやはり気にかかりました。
とくにショパンの装飾音は、それが非常に重要な表情の鍵にもなるので、この点は残念な気がします。
初めに感じたことは、時間が経過しても曲が変わっても同じ印象が引き継がれてしまうのは、やはり人それぞれの話し方のようなもので、深いところで持っているクセなんだなぁ…と思います。

それでも全体としてみれば、今の若手の中では好きなほうのピアニストになるとは思います。
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シンプルで見えるもの

最近、つくづく感じることですが、ピアノを弾く上で極めて大切なこととして、音数の少ないスローな曲をいかに人の心を惹きつけるよう美しく演奏できるかということ。

これはアマチュアはもとより、プロのピアニストでもできていないことが多く、そもそも、そこに重きが置かれていないことを折にふれて感じます。
大事なことはもっぱら派手な、機械的な技巧ばかり。

技巧といえば、難曲を弾いてのける逞しい超絶技巧のことだと考えられており、そのあたりの思い込みはどれだけ時間が経っても変化の兆しさえありません。
シンプルな曲を美しく弾くことも、自分の演奏に対して常に判断の耳を持つことも技巧であり、タッチや歌いまわしや音色の変化を適切に使い分けることも技巧だと思いますが、それを建前としてではなく、心底そう思っている人というのはかなり少ないでしょう。

ピアノを弾く人の言葉からも、聞こえてくるのは「かっこいい曲」などというワードだったりして、それはほとんどが有名どころの大曲難曲を弾けることであって、そのための鍛えられた技術がほしいだけ。

たしかに、指が早く正確に確実に力強く動こくことは大切で、それなくしては音楽も演奏もはじまらないというのも事実。
だとしても、それだけしか見えていないことは、音楽をする上で致命的なことではないかと思います。
自分の技量に少し余裕をもてる曲を、美しく歌うように演奏するための努力や工夫をすることには、実際にはほとんどの人が関心がなく、仮にそうしたいと思っても、そのために何をどうしたらいいのか、いまさらわからない。
その点、機械的練習は、気力と環境さえあれば、一日何時間でもがむしゃら一本道で訓練を続けることが可能。


アマチュアばかりではなく、プロのピアニストでも同じような問題が見て取れることはしばしばで、いま注目される日本人の旬のピアニストといえば、だいたいあのへんか…と思う顔ぶれが5人〜10人以下ぐらい浮かびます。

この中で「音数の少ないスローな曲」を、センスよく美しく、聴く人の心の綾に触れるような繊細な情感と注意をもって適切に弾ける人がどれだけいるかと考えたら、かなり疑わしくなる。

キーシンが12歳でデビューして、ショパンの2つの協奏曲を見事に弾いたことで世界は驚愕しましたが、そのときにアンコールで弾いた憂いに満ちたマズルカ2曲と、スピードの中に悲しみが走るワルツの演奏は、12歳の少年とは信じられない人の心の奥底に迫ったもので、まさに大人顔負け、震えが出るものでした。

このところ、ピアノはスポーツ競技の別バージョンのようにして、コンクールを舞台にしたアニメや映画が盛んで、先日もとある番組でそれをテーマに出演者やピアニストがスタジオにゲスト出演。
いまや、ピアニストもこういう映像作品の演奏担当ピアニストに抜擢されることがブランドになるらしく、それからして演奏家の世界も時代に翻弄されているようです。

そのうちのひとりが、とある番組でドビュッシーの「月の光」を弾いていたけどよくなかったと知人から聞き、録画していたのでさっそく視てみたところ、なるほど!というべきダサくてピントの外れた演奏で驚きました。
有名な出だしは、やたら粘っこく間をとって一音々々意味ありげに行くかと思うと、急に意味不明に激しく燃え上がったり、ある部分はあっという間に通過してみたり、なんじゃこりゃ?と思いました。

好意的に見ても、まるで説明的に弾かれたシューマンみたいな演奏で、およそドビュッシーとかフランス音楽は一瞬も聴こえてきませんでした。
この人は、現在日本を代表するピアニストのひとりで、マロニエ君もベートーヴェンの協奏曲などはわりに好印象をもって聴いていただけに、こんな程度のものだったのか…とがっかりでした。

それだけ、ゆっくりしたシンプルな曲というのはその人の音楽上の正体を露呈してしまいます。
プロのピアニストにとって「月の光」なんて、技術的には取るに足らないものでしょうけど、それだけにその人の美意識やセンス、音楽的育ちやイントネーションなどがあからさまに見えてしまいます。

以前、アンヌ・ケフェレックが来日公演で弾いた同曲の夢見るような美しさがむしょうに恋しくなりました。

今どきのピアニストは演奏精度という点では一定のこだわりを持っているらしいけれど、ほぼ共通していることは、音楽が横の線になって流れてゆく生命力が弱いし、ここぞというツボにもはまらず、常に縦割りで拍とハーモニーが淡々と支配するだけ。

せっかく音楽を聴こうとしているのだから、ストレートに音楽を聴かせてほしいものです。
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アニメは苦手

マロニエ君の苦手なもののひとつにアニメがあります。

子供の頃は藤子不二雄だトムとジェリーだと、ずいぶん熱心に見ていましたが、最近の日本のサブカルチャーとして世界からも高く評価されているという最近のアニメは、きっと素晴らしいのだろうけれど、どうも我が身には馴染まないようです。

夜中にテレビなどでもよくやっていますが、ろくに見たこともないし、ジブリというのも言葉はよく耳にはしていたけれど、それが何であるのかも、実を言うとつい最近知りました。

というようなわけで、かなり話題になった『ピアノの森』もまったく見たことがなく、せっかくピアノがメインだというのにあまり見ようとも思いませんでした。
いつだったかNHKで再放送があるというので、「一度ぐらい」という思いから、念のために録画だけはしていましたが、見るほうはなかなか腰が上がらず、この夏ぐらいから一大決心の末にポツポツと見はじめました。

根本的にマロニエ君はアニメの楽しみ方というのを知らないし、慣れていないせいか、どうしても違和感や突っ込みどころのほうが意識のセンサーに引っかかり、いちいちそうなる自分が鬱陶しくさえ感じます。

これはアニメであって、映画でも現実でもないのだから、つべこべいわずに大きなところで愉しめばいいと自分に言い聞かせつつ、その単純なことがなかなか難しく、昔のアニメよりどこが優れているのかもすぐにはわかりません。

ひとつにはリアリティとファンタジーのバランスにも問題があるのでは?と思ってみたりします。
『ピアノの森』は出てくるピアノとかホールなど、特定のものはやけに正確に描写されているかと思えば、それ以外はかなりデフォルメされたアニメ調だったりと画調がまず一定でなく、中途半端にリアルすぎるんだろうと思います。
ショパンコンクールでのワルシャワフィルハーモニーホール、スタインウェイやヤマハなど、現実そのものをそのまま写しとったような絵柄がバンバン出てくるあたりも、この作品の魅力であるのかもしれないけれど、妙な生々しさも含んでいて、リアルならリアルに統一して欲しい気持ちになります。

テーマ曲がショパンのop.10-1というところは新鮮でよかったけれど、この作品のタイトルでもあるところの、森の中にスタインウェイDが捨ててあるという設定だけでも、湿度は? 雨が降ったら? …などと、アニメ鑑賞者としては甚だ無粋なことなんでしょうが、そっちが気になって仕方ない。

それと、あれ、絵はうまいんですか?
ごくたまに本当に曲のとおりに指が動いて、よくそこまで研究されているなぁと驚くシーンもあったけれど、全体としてはアニメというわりに静止画がやけに多く、演奏中の人物も、それを固唾を呑んで聴き入る聴衆も、ほとんどが静止画で、セリフや音楽だけが進行するのは、ちょっとした驚きでした。
今どきのことだから、昔に比べてよほど精巧緻密に絵が動くのかと思ったら、こうも静止画が多用されるのかとびっくりしましたが、考えてみれば絵を動かすことがアニメにとってコストに直結することだと思えば、静止画が多いのはコスト削減ということなのかもと、なんとなく残念な納得の仕方をしてしまいましたが、せっかくアニメを見ているのにそういう裏事情を考えることじたいがもう楽しくない。
いずれにしろ、こうなると、声優のセリフつき紙芝居&ときどき動くものと思ってしまうし、動いても画面の中の小さな一カ所だけであったり、焦る人物の眉毛だけがピリピリと動いたりで、昔のアニメのほうがよほど自然で滑らかだったのでは?と思いました。

また、演奏を担当しているのは現役の若い人気ピアニストだということで、その3人をスタジオに招いて演奏とトークの混ざった番組をアニメ本編より先に見ていました。
ならば、演奏はよほど本格的なものかと期待していたのですが、アニメの中で聴こえてくるのは、どれも線の細い、縮こまったような演奏ばかりで、どういう意図で演奏されているのかマロニエ君にはまったく意味不明。

せかっくアニメなんだから、演奏ももっと表現が強調されたものであってもいいような気がするのですが、全然そうではない。
そもそもアニメとはなにがリアルでなにが誇張されるのか、その線引もまったく不明。

そのあたりのことがさっぱりわからず、ことほどさようにアニメに入り込めないマロニエ君というわけです。
やっぱりアニメはドラえもんとかちびまる子ちゃんがしっくりくるマロニエ君でした。
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ズンとラー

ロシアを代表すバレエ団といえば、いわずとしれた「ボリショイ・バレエ」と「マリインスキー・バレエ」。

マリインスキーバレエというのが本来の名称ですが、ソ連時代は「キーロフ・バレエ」として知られており、むかしマロニエ君が子供の頃に来日公演をやっていた時代は、少なくとも日本では「レニングラード・バレエ」の名で親しまれていました。

そのマリインスキー・バレエの附属学校として有名なのがワガノワ・バレエ・アカデミー。
ここに入学するには、本人はもとより、両親の家系までさかのぼって、バレエにふさわしい体格の持ち主か、太る体質の心配はないかまで調べられ、さらに入学後も太ってきたら退学になるという徹底ぶりというのは、以前からかなり有名な話でした。

NHKのBSプレミアムで、この学校の男子生徒に密着し、迫り来る卒業試験から各バレエ団の入団オーディションまでを追ったドキュメントが放送されました。

5〜6人の男子学生がその対象で、校長(元ダンサーのニコライ・ツィスカリーゼ)自ら彼らに対して連日熱い指導が続けられます。

そこにはクラストップの有望株と目されて、すでにプロ並みのしっとりした表現力を身に着けた者、あるいは長身と甘いルックスに恵まれるも今ひとつステージのプロになるための気構えの足りない者など、いろいろな生徒がいます。
その中にアロンという、英国人の父と日本人の母を持つ青年がいて、非常に努力家で優秀な生徒でしたが、周りに比べると、やはり手足の長さが不足気味、身長もやや低めで、それが彼のハンディになっていました。

目鼻立ちや雰囲気にはさほど日本人っぽさはないように見えますが、いざ白いタイツを履き、ロシアや北欧などの青年と並んで練習に励むと、やはり日本人のDNAの存在を感じないわけにはいかず、日本人のコンプレックスの根底にあるものは、ひとことで言うなら体格に行き着くのではないかということをあらためて感じずにはいられませんでした。

顔も濃い顔立ちで、普通に街にいればむしろラテン系の良い部類のようにも見えそうですが、なにしろロシアバレエの精鋭が集まる場所というのは、たとえ学校でも、すべてにおいて基準が違います。

そのアロン君、日本的なのは体格だけではありませんでした。
お母さんが日本人というだけで、英国生まれの英国育ちで日本語も番組中はひとこともじゃべらないほどヨーロッパ人だし、その踊りはとてもうまいのだけれど、どこか日本らしさがあって、のびのびとした流れや軽さがありません。

すると指導にあたるツィスカリーゼ校長が、なんとも鋭いコメントを浴びせました。

曰く、「日本人の歌い方の「ズン!」という感じで踊っている、もっと「ラー!」という感じで踊りなさい。」
まったく仰せのとおりでした。
アロン君に限ったことではなく、日本人のバレエは技術はとっても上手くなっているけれど、この「ズン!」という感じはいまだにつきまとっているのは、精神の奥深くにある何かが作用しているように感じます。

テクニックがテクニックで留まり、決まりのポーズやステップを覚えて並べていくだけで、体の動きが開放された軽やかな踊りとして見えません。
やはり日本人が自己主張が気質として弱いため、高度なテクニックの獲得までが目的になっている気がします。

そのテクニックが表現の手段として用いられるステージに至らない。
なぜかと考えますが、日本人は生まれながらに自己表現は慎むように遠慮するように育ってきて、だから気がついたときには表現したいものがない、もしくは小さいからではと思います。
行き着く先は、磨き上げたテクニックだけを拠り所にするという結果になるのではないかと思いました。

言われた方のアロン君は、「日本の歌も知らないし…」と困惑していましたが、その日本らしさは無意識に踊りに出てしまうもの、これぞ先祖から受け継いだ遺伝子のなせるものか?と思いました。
これは器楽の演奏にも同じことが感じられます。

器楽は肉体そのものを見せるパフォーマンスではないから、いくぶんマシとは思うけれど、やはり「ラー!」ではなく「ズン!」であるし、さらにいうなら歌ってさえいないことも珍しくありません。
日本人のパフォーマンスというのは、どこか真似事のようで暗くて閉鎖的に感じることが多いです。
ヴァイオリンなどでは、マロニエ君の個人的印象でいうと比較的関西圏から優れた演奏家が出るように思いますが、関西は日本の中では最も自己主張の強い地域性ということが関係しているのかもしれません。
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時代の音

当たり前なのかもしれませんが、ピアノの音というのも時代とともに少しずつ変化していくもの。

他の工業製品のように絶えず新型が出てくる世界ではないけれど、ピアノもとりまく社会環境、時代の好みや価値観、弾く人のニーズによって変化していくようです。

〜ということぐらいはわかっていましたが、最近はひしひしとそれを感じ始めています。

それが、毎年少しずつ変化しているのか、ある程度のスパンや区切りで大きく変わるのか、そのあたりは定かではないけれど、たとえば10年単位で見てみると、大雑把な世代というものがあることに気づきます。

例えばハンブルク・スタインウェイでは、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代とそれぞれの時代の音があって、古いほど太くて素朴な音、新しくなるほど華やかさが増す一方で、腹の底から鳴るようなパワーは痩せてゆき、その流れはとどこまで行くのか…という印象があります。

とりわけ昨年あたりからの新型は、なんとなく本質的なところまで変わってしまったようで、表面的には「いかにも鮮やかによく鳴っているよね」といわんばかりにパンパン音が出るキャラクターですが、その実、ますます懐の深さや、表現の可能性の幅はなくなり、整った製品然としたピアノになっているようにも感じます。

味わいだの、陰翳だの、真のパワーだのという深く奥まったこと(すなわちピアノの音の美の本質)をとやかく論じるより、新しい液晶画面のように、明るくクリヤーでインパクトのあるもののほうが、ウケるということだとも思えます。
そうしないと、大コンクールという国際舞台でもピアノも選ばれるチャンスを逸するということかもしれません。

もちろん大コンクールでコンテスタントに選ばれることがそんなに大切なのか?と思うけれど、そういう考え自体がきっともう古いのであって、メーカーにとってはこれが最優先であろうし、だからもうブレーキが掛からない。
どれだけ本物であるか時間をかけて出る答えより、パッとすぐに結果が出ることのほうが優先される時代。

ヤマハはCFXが登場して10年ぐらいになるのでしょうか?
はじめはいかにも歯切れよく、リッチで上質な音が楽々と出るピアノというイメージでした。
当初は演奏会で聞いても、モーツァルトまでぐらいの作品であれば、場合によってはスタインウェイより好ましいかも…と思えるような瞬間もあるピアノでしたが、その後はまた少しずつ違うものになっていった印象。
個人的なCFXの印象では、年々音の肉付きが薄くなり、懐も浅くなってきた気がします。

実は、こんなことを書いたのは、ちょっとしたショックを受けたから。
最近プレーヤーのそばに置いているCDがかなり聴き飽きてきたので、なにかないかと棚をゴソゴソやっていたら、フランスのピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェによるベートーヴェンのハンマークラヴィーアが出てきたので、これを聴いてみることに。
久しぶりでしたが、その鮮やかな演奏もさることながら、ピアノの音にはかなり驚きました。

録音は2008年にフランスで行われたもので、ピアノはヤマハCFIIISなのですが、これが「今の耳」で聴いてみると、なかなかいい音しているのには、かなり驚きました。
大人っぽく、しっとりしていて、深いものがあり、ある種の品位すら備えていました。

10年前ならなんとも思わなかったCFIIISの音が、こんなにも好印象となって聴こえてくるのは、それだけ最近のコンサートピアノ全体の音質が変わってきているからにほかなりません。

一時代前はヤマハもこういうピアノを作っていたんだと思うと、いろいろと考えさせられるところがありました。

いまや最新工法によるスタイリッシュなタワーマンションばかりが注目されがちですが、一時代前のずっしりとした作りの高級マンションの良さみたいな違いがしみじみ伝わってくるようでした。

いずれにしろ「重厚」というものは手が抜けず、裏付けるコストがかかるから、もう時代に合わないのでしょうね。
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つづき

パリの様変わりは、おそらくはパリだけのことではないのでしょう。
いつからということはわからないけれど、ヨーロッパはどこもかつての輝きを失っている気がします。

マロニエ君はとりあえずパリの状況に仰天して別の友人にその話題したところ、彼の知る学生でヨーロッパに留学経験のある人は、大抵何度かは強盗被害みたいなものに遭っているのが普通!?だと言われてしまい、「だったら、治安に関しては北京や上海のほうがはるかに安全では?」と言うと、「もちろん!」とこともなげに言われてしまいました。
まるでこちらの認識が遅れているかのように!

少なくとも20世紀までの、文化の中心である憧れのヨーロッパというものは、実際にはかなり失われてしまっているようで、留学などするにしても、治安に関してはかなりの覚悟が必要とのことで本当にびっくりしました。

曰く、テレビなどでよくある街角歩きのような番組では、切り取って編集し、いいところだけを作り上げるだけの由。
出演するタレントなどは、一見自由に動き回っているようにみえるけれど、スタッフなど常に周りから守られて、撮影隊も集団で行動するため、それがひとつの防御形態になっており、表面だけを見て気軽に個人旅行などをするのはリスクが有るとのこと。
べつに行く予定もなかったけれど、マロニエ君のような全身油断まみれのような甘ちゃんが立ち入るところではないようです。

こうなる背景のひとつは、移民問題や、あまりに行き過ぎた経済至上主義が世界中に蔓延した結果だというのはあると思います。
なにかといえば経済々々と、世界中そのことばかり。
そうなってくると、文化や芸術は直接的にお金になるものではないから、どうしても二の次になり、価値観の多様化とあいまってじわじわと価値を失い、価値を失えば豊かだった土壌は痩せて、新しい芽は出ないばかりか既存のものまで次々に枯れていくだけということなのかと思います。

そういえば、10年ぐらい?前のことですが、新聞紙上である記事を見たことを思い出しました。
福岡県出身の油彩画家の方で、長年パリで活躍して来られたという方で、年齢的にもまさに活動の絶頂期というタイミングで、パリのアトリエを引き払い、故郷の福岡県のどこか(お名前も場所も忘れました)に戻ってきたので、それを機に個展を開くという記事が載っていました。

その方のインタビューがありましたが、細かいことは忘れたけれど、その方が若いころ渡仏した頃からすると、近年のパリのあまりの変質ぶりに大いに落胆させられた。
年々芸術的な雰囲気が失われ、殺伐として、パリはもうあのパリではなくなった。
これ以上、自分がそこに留まる意味を感じられなくなったため、この度の帰郷となったという意味のことが述べられていました。

この記事を見た時は、へぇ…とは思いつつ、芸術家特有のちょっとしたことへのこだわりや気まぐれ、あるいは失礼ながら自分自身の行き詰まりもあるのでは…ぐらいに思っていました。

しかし、昔からパリの芸術と文化をリスペクトしていたその友人の、100年の恋も覚めたようなその様子を見て、これはやはり本当らしいと思うに至りました。


このところ日本への外国人観光客がずいぶん増えているようで、しかも多くがまた訪れたいという好印象を抱いて帰っていくとのことで結構なことではあるけれど、マロニエ君は正直いって不思議でなりませんでした。

日本のどこがそんなにいいんだろう?と日本人がこう言ってしまっちゃおしまいですが、まず安全で、人もそう危なくはないというだけでも日本の魅力なのかと、なんだか思いもしなかったことから納得できたような気になりました。

昨日もニュースで、海外からの旅行客が日本で落し物をしたところ、届け出があって戻ってきたというようなことを絶賛していましたが、こういうことが世界から見れば文化なのか?
ついには、遺失物を本国の持ち主へ送り返すビジネスも開始されるとかで、たしかに日本ならではのことかもしれませんね。
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最近のパリ

最近のパリの話というのを、久しぶりに会った友人から聞きましたが、かなりショッキングな内容でした。

一年ほど前にパリに行って戻ってきたとき、「我々が知るパリはもうどこにもない…」というようなことを電話で言っていたので、「またまた、大げさな!」と思っていたのですが、今回じかに詳しく聞いてみたところ、そこから語られる数々の話には少なからず驚かされるものがありました。

普通パリといえば「花の都パリ」という言葉が思い浮かぶように、芸術、美食、ファッション、その他もろもろの文化にかけては歴史的にも世界の中心として君臨した街。
パリを愛した芸術家は数知れず、その美しい街並み、すべてのものに息づくシックで斬新なセンスなど、マロニエ君もずいぶん昔に行ったパリはまさにそういう場所でした。

ところが近年の状況はさにあらず、街は殺伐とし、いわゆるパリジャン、パリジェンヌの大半は姿を消し、まったく似つかわしくない違った様子の人達でパリの街は溢れかえっているといいます。

ありとあらゆることに変化が起きており、例えば、かつては街のいたるところにあった美しい菓子店など、どこを見渡しても一気に払いのけられたように無くなり、かろうじて残る店も、商品は日持ちのする魅力ないものに合理化され、さらには昼食時間帯にはマックよろしく、パン(パン屋ではないのに)に何かを挟んだテイクアウト用の軽食を販売するなど、もはや伝統的なパリの気の利いた繊細なスタイルの多くは、ゼロではないだけで大半は消滅しているのだとか。

街角で土産として売っていたエクレアには「I LOVE YOU」の英字が踊り、地元の人々の優雅な生活を感じさせるものはことごとく消えているとかで、街全体は殺伐としているといいます。
ランドマークである凱旋門、エッフェル塔、オペラ座といった建造物はあるものの、でもそれだけで、街全体はほとんどスラム化しているといいます。
思わず涙しそうなノートルダム寺院の大火災は、こうしたパリの変化を象徴した惨事だったような気もしてきます。

なにより強く訴えていたのは、美しいパリのイメージとはかけ離れた治安の悪さで、いたるところにどこから来たのかわからないような怖そうな人達がたむろしているから、ただ歩いて通過することさえたじろいでしまうため、街歩きなんぞしたくてもできない状況だとか。

いっぽうルーブルやオルセーなどの美術館は、いずれもアジアの大国の人達でテーマパークのようにごった返し、有名作品の前ではワイワイガヤガヤ大声が飛び交い、揉み合うようにして自撮り棒で写真をとるなど、名画の世界に浸ることなどまったく不可能だとか。
日本の美術館のように静かに作品を鑑賞できるところは、アメリカのことは知らないけれど、もしかしたら日本ぐらいではないか…ともこぼしていました。

さらに驚くべき事件が追い打ちをかけます。
そもそも、この旅にはクリニャンクールの蚤の市にあるらしい楽器店に行く企みがあったというので、またバカなことを!とは思いました。
家族にも内緒でまとまった現金を持っていたらしいのですが、オペラ座近くのメトロの駅階段を登っていたところで、日中、突然背後から襲われ、有無を言わさず背中のリュックのファスナーを開けて現金を強奪されたというのです!!!
まさに一瞬のことで為す術もなく、さいわい現金は2つに分けていたため、1つは無事だったものの、その被害たるや笑っては済まされないような額で、聞いているこちらが心臓はバクバク、頭はクラクラしてきました。

警察に飛び込んでも訴えるだけの語学力もないし、上記のような街の状況からしても、取り返すことなど不可能だと悟って、被害届も出さなかったというのです。
それからというものさらに気を引き締め、リュックは背中ではなく体の前に提げるなどして全身注意の鎧を固めていたにもかかわらず、後日なんと再び歩いているところを物盗りに襲われ、今度は必死に防御して被害はなかったというのですが、相手は複数の場合が多いから、下手をすれば物陰に連れ込まれて命の危険さえあることを肌で感じたそうです。

帰国していろいろな人に話したところ、フランスに限らないそうで、スペインではターゲットを路地裏に連れ込み、口元を殴って前歯を折られてパニックになっているところで、身ぐるみ剥がれるという手口が多いのだそうで、今どきのヨーロッパとはそんなにも恐ろしいところなのかと驚愕しました。

この友人は、ロッシーニではないけれど音楽と美食を心から愛するため、一人旅のくせに高級レストランに行くことも目的で、それでも意地でいくつかの有名店には行ったというのですが、さすがに店内はどこも安全だったけれど、食事が済んで一歩店を出ると、とたんに再び恐ろしい危険と緊張感が広がり、要するに街全体が一瞬も気の抜けない無法地帯のようになっているということのようです

これがパリの現在の姿だなんて、考えたくはないですね。
近年日本のアニメがパリでも大人気などという話を聞いて首をひねっていましたが、環境自体がこれだけ変わっているということも考慮しなくてはいけないのかもしれません。

その友人は、佳き時代の終わりの頃から4回ほどパリに行ったけれど、もう二度と行くつもりはないそうです。
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ブラウティハム

むかしと違って、何を聞いてもドキドキワクワクさせられることが極端に少なくなった、いわば演奏家の生態系が変わってしまったかのような今どきの演奏。
技術的な平均点はいくら向上しても、喜びや感銘を覚える演奏には縁遠くなるばかり。

そんなあきらめ気分の中、ひさびさに面白いというか、なるほどと頷ける演奏に接しました。

Eテレのクラシック音楽館の中からエド・テ・ワールト指揮によるN響定期公演で、冒頭がベートーヴェンの皇帝だったのですが、ピアノはロナウド・ブラウティハム。
オランダ出身のフォルテピアノ奏者として、旬の活躍をしているらしい人で、近くベートーヴェンの協奏曲全集もリリースされる予定ですが、ピアノは普通にスタインウェイのD。
(全集はフォルテピアノ使用の由)
その普通がとっても普通じゃないので、まずここで驚きました。

A・シュタイアーのときがそうであったように、フォルテピアノの奏者がモダンピアノを弾くと、どこか借りもののようなところが出てしまうことが往々にしてあるので、さほどの期待はせず視聴開始となりました。

ところが、その危惧は嬉しいほうに裏切られて、これまでに聴いたことのないような、センシティブな美しさに満ちた演奏に接することになりました。
とりわけ皇帝のような耳タコの超有名曲で、いまさら新鮮な感動を覚えるような演奏をするというのは生易しいことではありません。

なんといっても、聴いていて形骸化したスタイルではなく、音楽そのものの美しさが滲み出てくるのは強く印象に残りました。
もともとベートーヴェンの音楽は誇大妄想的で、葛藤や困難があって、それを克服する過程を音楽芸術にしたようなところがあるけれど、ブラウティハムはそこに意識過剰になることがないのか、曲本来がもつ純音楽的な部分をすっきりと聴かせてくれるようで、おかげでベートーヴェンの音楽に内在する純粋美を堪能させてもらえた気分でした。

特に皇帝でのソリストはヒーロー的な演奏をするのが常套的であるため、そうではない演奏となると貧弱で食い足りないものになりがちです。
ところが、この演奏は、そういうものとは根本的に別物。
深い考察や裏付けがきちんとしたところからでてくる音楽なので、そのような不満にはまったく繋がらなかったばかりか、これまで何百回聴いてきても気づかなかった一面を気づかせてくれたりで、これにはちょっと驚きでした。

それと、これまでの印象でいうと、一部の古楽器奏者には、自分達こそ正しいことをやっているんだという押しつけがあって、モダン楽器演奏の向こうを張るようなイメージがありましたが、ブラウティハムの演奏はそういう臭みがなく、ごく自然に耳を預けられる魅力がありました。

彼は決してピアノを叩かないけれど、それが決して弱々しくも偽善的でもなく、むしろ多くのモダンの演奏家よりも音楽そのものに対するパッションがあって、その上で、常にピアノを音楽の中に調和させようとするからか、音の大きくない演奏でも深い説得力があり、舌を巻きました。
ピアノがどうかすると弦楽器のようであったり、皇帝がまるで4番のようにエレガントに聴こえる瞬間が幾度もあって、とにかく美しい演奏でした。

今どきのピアニストによる、指だけまわって、型に流し込んだだけの簡単仕上げで、なんのありがたみもドラマもない、アウトレット商品みたいな演奏の氾濫はもうこりごりです。

アンコールでは「エリーゼのために」が弾かれ、そこでもわざとらしい表情を付けるなど作為が皆無の、節度ある自然なアプローチが、まるで初めて聴く曲のようだったし、2つの中間部も、これほど必然的に流れていくさまは初めて聴いたような気がして唸りました。

ベートーヴェンは、実はとっても優美な音楽ということを教えられました。
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定義と機会

前回の記述で、ハンマー交換に関連して思ったこと。
それは、ピアノのオーバーホールの定義とは?そもそもなにをもってオーバーホールと云えるのか?ということ。
その基準を明確に示すものはおそらくなく、ハンマーと弦とチューニングピンを交換するだけでもそう言ってしまうことがあるようですし、かくいうマロニエ君もずいぶん昔は単純にそんな風に思っていたこともありました。

当然それには異論もあり、それなら「ハンマーと弦とチューニングピンを交換済み」とすべきだとする意見は尤もで、オーバーホールというからにはもっと広範な意味が含まれて然るべき。

では、どこまでやったらオーバーホールと言っていいのかとなると、ピアノの状態にもよるでしょうし、技術者の考え方にもよるでしょうから、これは答えに窮する問題ですね。

アクションや鍵盤まわりのほぼすべての消耗品を新品に換える、ダンパーのフェルトも交換、弦を外しフレームを外して塗装、響板のニスを剥がして補修までやって、なんならボディの塗装まですべてやり変えることもあるし、中にはピン板を作り直したり、響板そのものまで張り替えるということもあることを考えると、これは正直いってどこまでという線引は簡単にできるようなことではありません。

やるとなれば際限がないし、厳密なことを言い始めたら、鍵盤も鉛を入れたり抜いたりで痩せて傷だらけだから新造し、アクションも新品にするならそれにこしたことはない。
すべてのクロスやバックチェックも交換もしくは張替えて、なんなら金属パーツも交換。
そうなると、本当に何もかもということになり、最後に残るのは、ボディとフレームぐらいになるのであって、そうなると完璧なオーバーホールというのを超えてしまって、新造の要素が勝ったピアノになってしまう気がしないでもありません。

では、そこまですれば最高の音が約束されているかといえば、それは別の話で、陶芸が釜から出してみるまでわからないというのと同様、オーバーホールもやってみるまでわからない、あるいはそこから数年経ってみないとわからないという面があり、なかなかおいそれと手が出せるものではないでしょう。
とくに作業をする人の腕前にも大きく左右されると聞きますし、さらにいえばそれを受け取って、弾いて、管理していく側にも責任の一端がありそうです。

加えて費用の面でも、やればやるだけ値は嵩み、そうなるとよほどの高級ピアノであるとか歴史的な価値がある等、ごく一握りの特別なピアノだけがこの超若返り術を受けることができるわけで、一般的な量産ピアノではほぼありえない話になってしまいます。

わけても量産ピアノの場合、コストとの厳しい睨み合いになり、最低限の消耗品の交換に留めることが現実的なオーバーホールということになりそうです。
それでもそれなりの費用となるので、日本ではとくに高級品ではない国産ピアノのオーナーでそこまでする理解と覚悟をもって作業依頼される方は、ゼロとは言わないまでも、普通はおられないと思います。

それでなくても日本人は基本的に新しい物が好きで、古いものを手入れをしながら使うという文化や習慣が薄く、住まいも、クルマも、そしてピアノも、経済さえ許せば買い換えに勝るものなしという感性なので、そこまでするなら倍の金額を出しても買い替えを選ぶように思います。
かくして、ピアノは下取りに出されることに。

量産ピアノが大修理を受けるのは、大抵の場合、いったん所有者の手を離れたこのときのような気がします。
おどろくばかりの安値で買い取りされたピアノが、消耗パーツを交換して再生品として美しく仕上げられ、そこに利益が上積みされて、新品を買うより安い…ぐらいの微妙なプライスで販売される場合。

そう考えると、日本でピアノのオーバーホール(のようなこと)がおこなわれるケースの大半は、所有者を失ったピアノが、再び商品価値を与えられる場合ということになるのかもしれません。
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続・軟化剤

〜前回の続き。
軟化剤というものを初めて使ってもらい、約2週間経ってみて感じるところは、少なくともハンマーフェルトの柔軟性復活のためにはこれはかなり有効ではないか、ということでした。

ひとくちにピアノといっても立ち位置はいろいろです。
コストを惜しまず理想を追求できるのはステージ用など一握りに過ぎず、多くは、言葉は悪いですが妥協的も必要という状況に置かれたものだろうと思います。
で、ここでは、あくまで普通に気持よく使えればいいというピアノに関しての話。

普通に気持よくとはいっても、ハンマーもある程度使い込まれていくと賞味期限が迫ってくるのは当然で、正攻法で言うとハンマー交換になるのでしょうし、それを機にピアノ本体を買い替えに仕向けるのがメーカーの狙うところでしょう。
まるで「ハンマーフェルトの寿命がピアノ本体の寿命」であるかのようで、車でいうと「タイヤが減ったら車ごと買い換えてください」みたいな感じで、さすがに車でそれは通用しませんが、ピアノは…。
これもすごいとは思いますが、まあ企業とはどのみちそのようなもの。

もしハンマー交換になったとしても、決して安くはない費用(少なくとも安い中古アップライトが一台買えるぐらい?)がかかるし、馴染むまでには調整だなんだと手間がかかり、普通の機械のように壊れたパーツを交換してハイ終わり!というようなわけには行きません。
シャンクやローラーはどうなるのか、周辺の消耗品もこまごまとあったりすると、そこをどうするか、これはもう判断を含めて簡単なことではないでしょう。

軟化剤はそういう場面での、ある種の救いの神だと思いました。
もちろん、それですべてが解決ではないけれど、差し当たり目の前に迫った問題を、一定期間先送りにするぐらいのことはできると思います。

しかしピアノの技術の中では、軟化剤の使用はほぼ聞いたことがなく、意図的に無視されているのか、よほど研究熱心な技術者の方でないとこれを試してみようということにはならない空気みたいなものを感じます。

大半の方は、言い方は悪いかもしれないけれど、技術的に主流ではない手段を敢えて使って、万一批判の対象にでもなろうものなら仕事にも支障をきたすという心配も働くのか、君子危うきに近寄らずで、あえてそんなものに手を出さないという判断かと思われます。

深読みすると、軟化剤はもしかすると、業界ではかなり疎まれる薬剤かもしれません。
なぜなら、あまりにも手軽かつ効果的にハンマーフェルトの延命措置となり得るので、これが一般的に浸透したら、そりゃあ好ましくないことも出てくるでしょうし。

マロニエ君はいうまでもなく業界の人間ではないので、純粋に軟化剤の印象をいうと、かなり効き目は高く、かつ耐久力もあると思います。
古いフェルトの場合、針刺しによる音の軟化は一時的に針穴を開けてクッションを作っても、フェルトじたいの柔軟性が落ちているので、その効果も短命で、ぺちゃんこの枕を手でほぐしてもすぐ元に戻るような感じがあります。
その点、軟化剤はフェルトの弾力そのものを復活させるので、しなやかさが増すという感じがあり、針刺しとはまったく違います。
少なくとも、硬化剤で固めるのにくらべたら、軟化剤で柔らかさを出すほうが、まだナチュラルかなとも思えるし、2週間ほど近くたってもとくに衰える(もとの硬い音に戻る)こともないのは、やはり「すごくない?」って思います。

おまけに、圧倒的に簡単かつ安価で、調整のやり直しなども必要ない。
ハンマーを交換するとなれば作業だけでも大変な上に、新しいハンマーに合わせた各種調整がフルコースで必要となり、費用もさることながら、その時間や労力は並大抵のものではありません。

交換か、買い替えか、そのままガマンか、その三択に迫られたとき、とりあえずこの軟化剤でしのぎながら、ゆっくり考えるにはちょうどいいと思います。
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軟化剤

ピアノの整音に使われる手段の一つとして硬化剤があります。

使い方も技術者によって違いはあるようですが、薄めた硬化剤をハンマーヘッドの要所に塗布してフェルトに硬さを与え、音の華やかさや輪郭を出すためのもの。

硬化剤の功罪についてはいろいろあるようで、中にはこれを好まず一切使わないというポリシーの技術者さんもおられます。
せっかく弾力のあるフェルトに液剤を染みこませて、カチカチにしてしまうのだから、シロウトが考えてもさほど好ましいことのようには思えませんが、そこはあくまで使い方次第であり、経験と技術に負うところが大きいだろうと思います。

さて、マロニエ君は以前、ある遠方の技術者の方から硬化剤の逆の作用をもつ「軟化剤」なるものがあることを聞いていたので、機会あるごとに技術者さんにそのことを聞いてみると、話には聞くけど使ったことはないという方がほとんどで、中には存在自体をご存じない方もおられました。

あるとき「持っています」という調律師さんがおられたので、聞いてみるとご自身の工房で所有しているピアノでは使ってみたことがあるけれど、あくまでテスト段階とのこと。

話が前後しますが、我が家には話題にするほどもないような、古いカワイのGS-50というグランドがあり、さほど酷使したピアノではないものの、製造から30数年が経過してさすがにハンマーもややお疲れ気味のところがあり、そうかといってハンマー交換が必要というには至っておらず、そこまでする熱意もありません。

なので、このピアノに軟化剤を使ったらいいのでは?という考えは以前からあり、それをやってくれそうな技術者の方が見当たらずという状況が続いていたところへ、この方が「使用歴あり」ということがわかり、さっそくやってみてほしい旨を伝えました。
しかし、未だ上記のような段階で実践にはまだまだと、なかなか色よい返事は得られませんでした。
テスト段階のものを、お客さんのピアノに使うわけにはいかないということらしいのですが、聞いていると、これまで試してみた限りではそう悪い印象ではないらしいこともわかってきました。

では、このピアノを実験台に使ってくださいと言ってみたものの、そういう訳にはいかないとの反応で、そりゃそうかもしれませんが、マロニエ君があまりしつこく食い下がるものだから、では自分の工房にあるピアノで使っていましばらく観察してみるので、お待ちをということになりました。

調律師さんというのは職業柄なにか作業をするにあたって、おしなべて慎重な方が多いのですが、中でもこの方はさらにもう一段二段思慮深いらしく、そこまでしなくても…というほど、何をするにも慎重の上にも慎重を期されるようで、数ヶ月待つことになりました。

というわけで、半分忘れかけた頃にご連絡があり、使う量やハンマーのどこに塗布するか、時間経過とともにどうなるかなど、さまざまに実験をされたようで、そこで一定の結果を確認されたのか、本当によろしいのであれば少しずつやってみましょうか…ということになりました。

作業はというと、これがあっけないぐらい簡単で、アクション一式を引き出してハンマーの狙った場所に塗っていくというか、液をわずかに落としていくというもの。
初回は、中音域から次高音ぐらいまでまさに微量でお試しということになり、その日は放置して翌日音を出してみてくださいということでこの日は終わり。

翌日、どうなっているかと期待しつつ音を出してみると、たしかに音にまろやかな膜がうっすら加わっており、その確かな効果を確認できました。
しかし、あまりに微量だったためか、変化はあまりにも僅かで、さっそく報告するとともに次は少し量を増やしていただくようお願いしました。

というわけで、二回目となり前回より少し量を増やして使っていただき、前回同様、一晩置いて弾いてみると、今度はかなりまろやかな音質に変化しており、これは相当な効果のあることを実感しました。

シロウトの印象でいうと、針差しで得られた柔らかさには、固いものが針でほぐされた、技術者の経験と技が作り出すふくよかさと、咲き誇る花もいずれは萎んでいくような一種の儚い美しさがありますが、軟化剤の柔らかさはもっと極めが細かく、まんべんなく柔らかさが出た感じで、すぐに元に戻りそうな感じもありません。

よって、音を創造的に「作る」という面では針刺しにはかなわないかもしれませんが、延命措置としては、これはかなり有効な手段なのかもしれません。
しばらく耐久性なども観察してみるつもりです。
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シリアルナンバーの見方

『ホロヴィッツ・ピアノの秘密 調律師がピアノをプロデュースする』(著者:高木裕 音楽之友社)という本を読んだところ、この本の中心的内容ではないけれど、長らくもやもやしていたものが解明される一節がありました。

スタインウェイ・ピアノのシリアルナンバーに関する記述で、実際に製造されたという年とシリアルナンバーがどうしても咬み合わないことがあり、疑問を感じていたものが解決することに。

具体的にいいますと、新品として仕入れた店が正確な記録として主張する製造年は、シリアルナンバーが示すものより1年以上新しいことがあり、このわずかな食い違いはなんだろうと思っていました。
べつに大したことではないし、こちらも業者でもないのでとくに深入りはせず、それで終わっていました。

スタインウェイ社のサイトなどを見ると、シリアルナンバーと製造年の対照表がありますが、その見方に関するガイドはなく、実はそこで重大な間違いがあったことが判明。

例えば553123(架空の数字)というピアノがあるとします。
表には、
554000 2000年
549600 1999年

というふうに書かれているので、554000より少し若い番号ということで、1999年製造のピアノなんだな…と判断していました。
これはマロニエ君のみならず、多くの技術者の方やディーラーなど専門家の方も、ほぼ同様だと思います。

ところが、この本を読んで思わず「えっ!」と驚いたのは、なんと、これらの対照表が示すのは
その年の「製造開始番号(Strarting Number)ではなく、Ending Number」とありました。
つまり、数字は「この番号から」ではなく「この番号まで」を表していて、それより「若い番号」が、その年の製造年となるので、553123であれば製造年は2000年ということになります。

これは「ニューヨーク本社の調律師ですら勘違いしている人が多い」のだそうで、ここを明確に説明されていることは、大きな収穫でした。
この説明によって、世の中の多くのスタインウェイは1〜2歳若返ったことになりそうです。
ちなみに数字は区切りであって生産台数ではないとのこと。


この本に書かれているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて製造されたニューヨークスタインウェイがいかに素晴しいもので、ピアノ史の中でも、それらがピークともいうべき楽器であるということが、全編を通じて述べられています。
その中の一台が、ホロヴィッツが初来日時にもってきたCD75というピアノで、現在は日本にあり、ほかに19世紀末のDなど、著者が代表を務める会社所有のピアノで、逸品揃いとのこと。

20世紀後半から現在に至るまでのピアノは、しだいに商業主義の要素を呑まされて、本来あるべき理想的なピアノとは言いがたいものになってきている面があることも頷けます。

この本を読むと、あらためてその音を聴かずにはいられなくなり、このところすっかり聴かなくなっていたホロヴィッツのCDを立て続けに5〜6枚ほど聴いてみました。
いずれも、1965年カムバックリサイタル以降のカーネギーホールでのライブ録音です。

ホロヴィッツのピアノは調整がかなり特殊だったらしく、とくに軽く俊敏なタッチにこだわったようですが、実際の音として聴いた場合どうなのかを確認してみたくなったというわけです。
果たして、耳慣れたハンブルクとはまったく別物で、風のような軽やかさと炸裂が同居し、魔性があり、その絢爛たる響きは、もう二度とこんなピアノは作れないだろうと思うものですが、ではそれが好みか…となると、そこはまた別の話。

触れたらパッと血が吹き出しそうな、刃物みたいな印象で、ホロヴィッツという、ニューヨークに棲む亡命ロシア人にしてカリスマ・ピアニストが紡ぎ出すデモーニッシュな音の魔術としてはうってつけだと思いますが、純粋に一台のピアノとして聴いた場合、ヒリヒリしすぎて必ずしも自分の好みは別として、これがホロヴィッツの好んだ音ということは確かなようです。

さらに上の世代のヨゼフ・ホフマンもニューヨーク・スタインウェイを弾いた大巨匠ですが、ホフマンの音はもっと厚みがあってふっくらしており、必ずしもホロヴィッツの好むピアノだけが、当時のスタインウェイを代表する音かどうかは疑問の余地がありそうでした。
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OHHASHIの本

いつもながら情報には疎いマロニエ君ですが、またも人から教えていただいて『OHHASHI 幻の国産ピアノ“オオハシ”を求めて いい音をいつまでも』という本が出ていることを知り、さっそく購入/読了しました。

本棚には『父子二代のピアノ 人 技あればこそ、技 人ありてこそ OHHASHI』というのがあるので、大橋ピアノに関する書籍はこれで二冊目となりますが、発行は新旧いずれも創英社/三省堂書店となっており、これはどうも偶然の一致ではないのでしょう。

大橋幡岩という日本のピアノ史の巨星が成し得たとてつもない数/量の仕事、人柄、その足跡、大橋ピアノ研究所の設立に至る経緯などが簡潔に述べられ、あらためて日本のピアノ界にとって避けて通ることのできない、極めて歴史的な存在であったことがわかります。

読むほどにピアノを作るために生まれてきたような人物ということが伝わり、日本楽器(現ヤマハ)、小野ピアノ、山葉ピアノ研究所、浜松楽器、大橋ピアノ研究所と折々に居場所を変えながら、どこにいってもその冴え渡る能力は常に輝きを失わず、10代前半から84歳で亡くなるまで生涯現役、まさにカリスマであったようです。

また、ピアノだけでなく、工作機械なども多数設計している由で、その能力はピアノという範囲にとどまりません。
目の前に必要や課題があれば当然とばかりに学び、頭が働き、たちどころになんでも作り出して問題を克服できるという、ものづくりの天分に溢れかえった人だったと思います。

ただ根っからの職人であり理想主義であるため、ピアノ製造においても妥協を嫌い、手を抜かず、とことんまでやり抜く厳しい姿勢は、当然ながら利益を優先したい会社と意見が合わなくなり、そのたびに辞職を繰り返し、最後に行き着く先が自身の大橋ピアノ研究所の設立だったことも、まさに必然以外のなにものでもないでしょう。

大橋幡岩はピアノ製作の天才であり、職人原理主義みたいな人だったのかもしれません。
彼に決定的な影響を与えたのはベヒシュタインであり、日本楽器が招聘した技術者であるシュレーゲルによる薫陶は生涯にわたってその根幹を成したようです。

驚くべき仕事は数知れず、通常のピアノ設計/製作以外にも、ピアニストの豊増昇氏の依頼でベーゼンドルファー用の幅の狭い鍵盤一式を作ったり、通常のアップライトの鍵盤の下に、引き出し式でもう一段細い鍵盤が格納された二段鍵盤、あるいは日本楽器時代には奥行き120cmの超小型グランドピアノを試作していたり、戦時統制下ではグライダーのプロペラから部品まで、とにかくなんでもできる万能の製作者なんですね。

また彼は若い頃から「記録魔」だったようで、生涯にわたって書き留められた膨大な資料が残っており、いまだに完全な整理はできていないとのこと、どこを見渡しても、この人は尋常一様な人物ではなかったようです。

幡岩の死後、わずか15年ほどで息子で後継者の巌が急逝したことで、OHHASHIピアノ研究所(いわば)が廃業に追い込まれたことは、残念というありきたりな言葉では言い表すことができない、やるせないような喪失感を覚えます。

たいへん興味深く読ませてもらいましたが、興味深い故の不満も残りました。
というのも、わずか全212ページのうち、大橋幡岩や大橋巌、およびOHHASHIピアノに関する著述は138ページまで、それ以降は24ページにわたってごく一般的なピアノの仕組みの解説となり、さらにデータ、資料が続く構成になっていました。

できればもう少し詳細に、大橋父子や、その手から生まれたピアノに関する深いところを深掘りしていただき、細かく知りたかったところですが、さほど分厚い本でもない中で、本編ともいえる部分は全体のわずか65%に過ぎなかったのは、いかにも残念でというか、「えー、もう終わりー?」というのが正直なところでした。
とくにピアノ関連の本ならいくらでもある「ピアノの仕組み」の章など、あえてこの貴重なOHHASHI本の中に入れ込む必要があったのか疑問です。

また、タイトルはOHHASHIかもしれないけれど、大橋幡岩の名器であるホルーゲルや、いまだにその名が引き継がれて生産されているディアパソンについても、もっと詳細な取材を通して切り込んで欲しかったと思います。
浜松楽器に時代に生まれたディアパソンが、どのような経緯や条件のもとでカワイに生産委託されていったのか、また同じディアパソンでも、浜松楽器時代とカワイでは、どういう特徴や違いがあるかなども、もっと突っ込んだところを書いて欲しかったと思いますので、続編でも出れば嬉しいです。

この本を書かれたのは、ピアニスト/音楽ライターという肩書の長井進之介さんという方です。
まったく存じあげず、ネットで検索してみると、ラジオDJなどマルチな活動をしておられるようで、野球のイチローをインドア派にしたような感じで、いろいろなことに挑戦をされているご様子にお見受けしました。
このような本を上梓されただけでもピアノファンとしては感謝です。


もう少しで読了するというタイミングで、知り合いの技術者さんから電話で聞いた話では、大橋の甥御さんという方が浜松におられてピアノに関わる技術のお仕事をされており、その仕事ぶりは高い信頼に値する見事なものだそうで、幡岩のDNAが実はまだ完全には絶えていないことを知り、なんだかホッとしたような嬉しいような気になりました。
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砂の器の設定

松本清張原作の『砂の器』はすでに何度も映画やドラマに繰り返される名作で、異なるキャストやそのつど時代背景などが変えられて、これまでにいくつものバージョンを観た記憶があります。

今年もフジテレビの開局60週年ドラマとして3月に放映されていたものを録画していて、最近ようやく見たのですがが、山田洋次さんなども制作に参加しているためか、細部が細かく作り込まれており(賛否両論あるようですが)、マロニエ君はわりにおもしろくできていると思いました。

当節はウィキペディアという便利なものがあるので、『砂の器』を調べてみると、テレビドラマだけでも6回も作られ、そしてこの作品を決定的にしたのは、やはり加藤剛主演の映画だったように思います。

『砂の器』というといつも思い出すのは、何十年も前のことですが親戚の女性が大真面目に発した一言。

当時はマロニエ君は、まさに軍隊的とでもいうべき厳しさで有名な音楽院のピアノのレッスンに通っており、当時はピアノの先生といえば暴君や独裁者は決して珍しいものではなく、まして高名な大先生ともなると、その仰せは天のお布令にも等しいものでした。
朝から晩まで、学校以外は一切の言い訳は通らないほどピアノ中心の生活を要求されていたものです。

当時はピアノのためといえば、それは生活のすべてに優先されるのが当然であり、学校のテストなどを理由に練習を怠ろうものなら、親子呼び出されて大目玉となるような時代でしたし、下レッスンの大勢の先生方も日頃から院長の存在にはピリピリの状態で、今どきの生徒をお客さん扱いする感性から言えば、まさに隔世の感がありました。

それでだれからも文句が出ることはなかったのですから、時代というのはすごいもんだと思います。
今だったらパワハラだなんだと、とうてい受け入れられるものではないでしょう。

親戚の女性は、そんな状況をいつも聞かされては呆れ返り、ピアノなんて子供にやらせるものじゃないと思っていたらしいので、そういう下地があるところへ『砂の器』を観たため、登場する親子が、故郷を追われて住む場所もないような放浪の幼年期を送っていたにもかかわらず、なぜか大人になったらピアノが弾ける人という設定がどうにも納得が行かないらしく、普通の安定した家庭でもピアノをやるのはあれほど大変というのに、いつの間にどうやってピアノの練習をしたんだろう?…と、そればかりが気になり、最後までそれが気になって仕方がなかったと言っていました。

そう聞かされて、マロニエ君も後年見たところ、父子が故郷を追われるようにして出奔し、悲しい放浪の身であった人物が、いきなり世間で注目の天才作曲家でピアノの名手になっているという、説得力のない展開には面食らったものでした。
映画なんだから、些事を気にせず楽しばそれでいいわけだけれど、いくらフィクションでも、あまりに説得力がないというのはマロニエ君も同感でした。

そのあたりが、最新のドラマ版では丁寧にフォローされており、幼少期からピアノが得意で発表会などにしばしば出場していたという設定に変わり、孤児院や養子先を経ながら、ついには日本のグレン・グールド?!?!と言われた山奥に隠棲するという天才ピアニストのもとにたどり着き、その人のもとで徹底的に腕を磨いたことになっていました。
これもかなり違和感がないわけではないけれど、それでもなんとか幼少時代からピアノをやっていて、音楽の才能があったという説明にはなっていたようです。

さらにいうなら、あの「宿命」という映画音楽のようなピアノ協奏曲のような、なんとも不思議な自作自演のコンサート、そういうものってどこかで開催されているのだろうか、これもかなり疑問です。


このところ、テレビCMなどを見ていても、グランドピアノがでてくるものがやたら増えてきている気がします。
また、いつだったか番組名はわからないけど、NHKでスタジオにヤマハのCFXと最小グランドの二台を並べ、「価格が1900万円と115万円の音の違い」みたいなことをやっていて、ホーという感じでした。

なぜ今ピアノが採り上げられる機会が増えたのかはわかりませんが、これだけあらゆることにハイテクが絡むと、ローテクの塊で、弾かれて音を出すこと以外に一切の機能がないくせに大きく重いグランドピアノという反時代的なものが、逆に面白がられているのかと思ったり。
アニメ『ピアノの森』の影響もあるのか…、今度は『蜂蜜と遠雷』も映画化されるようで、スポーツの延長で競い合いがウケているのか、そのあたりマロニエ君にはさっぱりわかりません。
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好きなピアノを-2

前回、一般のピアノ購入者だけでなく、ピアノ先生や技術者の方も専門的立場の意見として、YKが最も妥当な選択だと考えていることを思い出したので、もう少し。

何年も前のことですが、ある技術者さんとの間で、ピアノの評価が決定的に食い違いがあることを知って、内心非常に驚いた事がありました。

ある場所に貴重なハンドメイドのピアノがあって、それを所有者の方のご厚意で弾かせてもらったことがあるのですが、それはいわゆるYKのような量産ピアノにはない歌心、自然に広がるような響き、色の濃淡、心を通わす優しみがあって、それだけで楽しく、いつまでも弾いていたようなピアノでした。
ピアノとしての機能も充分で、いわゆるピアノという名の器具ではなく、本物の楽器といった趣がありました。

ところが、その技術者さんは至って冷淡というか、このピアノの良さをほとんど認めていないといった様子で、YKのような品質には及ばないと断じる発言がぽろぽろ出てきました。
所有者はご不在でしたので、技術の方も忌憚なく感想を言える状況だったのです。

低評価の理由は、音が均一でないとか、造りが曖昧でYのようにきっちりしていないなど、製品としての品質がまず気にかかるといった様子でした。
YKばかり触っている技術者さんは、どうしてもそれが当たり前となり、作りの精度や音が揃っているかということが判断のポイントのようで、そこに固執し、音質や表現力を一歩離れて判断してみようという気がないらしい印象をもちました。

もちろんある程度均一に整っていることは大事だけれども、そもそもの音質そのもの、曲が流れだしたときにどれだけ音楽的に歌える楽器かどうかのほうが重要で、人工的に味つけされた無機質な音がいくら整っていても、個人的にはそんなにありがたくはありません。

しかし技術者の方は、どうしても自分の職業上身についたポイントにフォーカスされて、そんな日常の習慣を急に変えることは難しいのかもしれないとは思いました。
また、専門家としての自負もおありだろうし、高名なピアニストなどが言うことならともかく、一介の音楽愛好家の意見や感想は、技術のことがわからないマニアのたわごとのように感じるのかもしれませんね。

たしかに技術者サイドで云えば、YK、とりわけYの製品は、仕事もしやすいようで技術者さんを悩ませるような問題もトラブルも皆無に近いのでしょうし、仮にあっても対処がしやすい、しかも音は揃ってよく出て、作りも機能も良いとなれば、評価が高くなるのも分からないではありません。

でも、技術者さんにとって仕事がしやすくても、無機質無表情な音がどれほど揃っていても、喜びがなければ意味がないし、それで本当に音楽をする心が育まれるのか、それが重要な点だと思います。
個人的には、簡単な曲を弾いているだけでも、そこに曲の世界が広がり、ニュアンスがにじみ出てくるような楽器であることが重要だと思うのですが、これはYK支持者にはいくら言ってもキレイゴトに聞こえるのか、なかなか届きません。

それと、技術者さんは半年か一年おきにやって来て、数時間そのピアノと接するだけで、終われば次のピアノにかかわるから、まあそんな安全第一みたいなことも言っていられるのかもしれませんが、弾くほうは年中そのピアノと付き合うわけで、そうなると表現力や喜びや楽しさは、何にも代えがたい最重要項目です。

キーに触れ、音を出すだけでちょっと嬉しくなるようなピアノ、そんなピアノで日々練習することの大切さは、そういうピアノと過ごしてみないとわからない。
ピアノというのはなかなか比較する対象もチャンスもないから、そこに気づかないまま長い期間をすごしてしまうことになり、かくいうマロニエ君も自分がそれに気づき始めたのは二十歳を過ぎてからのことでした。

今どきはみなさんコンビニ弁当やファミレスの食べ物などに含まれるという添加物への心配とか、食材の産地やオーガニックといったことにはかなりこだわりがあるのに、なぜかピアノとなるとずいぶん寛容だなあと思うばかり。

たしかに情報は極端に少ないし、専門家と称する方々やシェフに類するみなさんがこぞってコンビニやファミレスやレトルト食品を大絶賛して、街の小さな手料理を出すお店をけちょんけちょんにけなしまくるのですから、聞いたほうは「そういうものか」と思ってしまうのだろうとは思いますが…。

ピアノは人の言いなりではなく、本当に気に入ったものを側に置きたいものです。
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好きなピアノを

先日、知人と話題になったこと。
外国のことはわからないけれど、少なくとも日本では、どうしてピアノといえば大手の量産品、もしくは海外の高級有名ブランド、そのいずれしか売れないのか。

おそらく多くの人達はピアノを楽器として捉えるのではなく、車のような品質もしくはブランド性を求めているのではないかと思いました。
「楽器として捉える」なんて言ってみても、掴みどころがなく、「いい音」などといってみても基準がない。
ピアノ店に行ってもYかKばかり並んでいれば、しょせんはその中での相対的なもので、おおよそこんなものだと思ってしまうだけでしょう。

正直ボストンがどんな品質/位置づけなのかもわからないし、ディアパソンでさえも長年カワイが作ってきたにもかかわらず、マイナーブランドという括りから抜け出すには至らず、聞いたこともないという人のほうが圧倒的多数。

その判断となる耳を養うには、ひたすら多くを経験するしかありませんが、それも実際問題としてなかなか難しい。
仮の話ですが、もしもコンビニのデザート(便利で美味しいですが)しか食べたことがない人がいるとすると、味覚がそれに慣らされてしまって、突然手作りケーキなどを食べても、素直にそれを美味しいと感じることができるかどうか…。
要は耳を鍛える環境がほとんどないというのはあると思います。

YKであふれる店内に、もしぽつんと名も知れないピアノがあったとしても、不安しか感じないのはわかります。
逆にいかにYKが世間で認められ、多くの人がこれを選んできたということで頭のなかは整理され、買うならやっぱりYKの中からということになるような気がします。

ネットの質問コーナーなどを見ていると、回答者のYKがいいという異様なまでの偏重と思い込みには驚かされます。

まれにシュベスターその他に関心を持った人がいても、YKばかり触り慣れた技術者が出てきては全否定の嵐で、「手作りピアノなんて云うと聞こえはいいが、要するに町工場でトンカチで作っているようなものだから、品質のばらつきがあるし、リスクが高いからオススメはできません。もし音が気に入って、リスクがあることまでしっかり理解された上で買われるぶんはいいかもしれませんが、自分ならたぶん買わないです。」…みたいなことをいわれたら、そりゃあ大半の人はびびってやめてしまうでしょう。
「とんだ粗悪品をつかまされるところだった。やっぱり専門家の意見を聞いみるべき。」となり、せっかく開きかけた感性は潰されて、YKをお買い上げとなる。

でも、ばらつきが多いとかリスクがあるとか、見てきたようなことをいいますが、実際にどれだけの数を触り、経験した上で言ってるの?って思います。
YKでも、管理状態しだいでボロボロで、中古品では裁判に発展するような事案もあるとかで、当然ながらケースバイケースだと思います。
そのあたり、とくに技術者は現場を見てきた経験をもとに言いたい放題、「壊れても保証はないし、長く使われることを考えたら、品質が安定してオススメできるのはやっぱりYKということになりますね。」などと、まるで購入後数年で使えなくなる怪しい粗悪品でも買うように言うのですから驚きます。
こういう大手偏重の価値感が、日本の小さな良心的なピアノメーカーを駆逐してしまったようにも思います。

ピアノを楽器として見ようとする気持ちのかけらもなく、ただの工業製品としてしか捉えないのは、ピアニストなら片っ端から暗譜で弾けることだけを自慢にする御仁と同じようなもので、これほど魅力のない退屈なものはありません。

そもそも、昔の外車やパソコンじゃあるまいし、壊れるって何が壊れるんでしょう?
天下のヤマハだってアップライトのなんとかいうパーツは壊れたり切れたりするのが普通らしいし、グランドでもボンセンと言って巻線の弦が経年でダメになることもよくあることなのに、それらはまったく糾弾の対象になりません。

マロニエ君も過去何十年も、いろいろなピアノと付き合ってきましたが、自分の管理の悪さが原因のコンディションの悪化とか、消耗品の消耗以外で、壊れた、もしくは使うに値しない状態になってしまったということは一度もなく、技術者の言うリスクとはなんなのかいまだに不明です。
自分が使うピアノぐらい、一般論に縛られず、好きなものを側に置くことが最も大切だと思いますし、失敗しないため云々という言葉を聞きますが、それで好きでもないピアノを買ってしまうことのほうが、よほど深刻な失敗だと思うんですけどね。
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挫折で自慢

人の心の中には、自分をよく見せたいという欲望が潜んでいる…それ自体は珍しいことではありません。

中にはそういう野心も邪念なく、一切を飾らず清々しく生きておいでの方もあるけれど、多くの俗人は程度の差こそあれ、つい自分を飾ってしまうことはあるもので、それじたいを責められるものではないでしょう。

ただ、その意味するところや性質によって、笑って済ませられることもあれば、聞いていてあまり気持ちのよくないものもあるような気がします。

ピアノの世界にもいろいろあって、大半は書くわけにもいかないことばかりですが、このブログのネタ選びという観点から、ひとつを注意しながら書いてみることに。

世の中には、ピアニストをはじめ、先生からアマチュアまで、それなりに難曲を弾かれる方はたくさんいらっしゃるようですが、巧拙さまざまであるだけのことで、それだけではどうということもありません。
少なくとも譜面が読めて指が動くという点では、初心者より技術として上手いことは事実でしょう。
ところが、そこからとんでもない大風呂敷というか、いくらなんでもそれは止めたほうが…と思うような内容の発言があったりして、マロニエ君も直接/間接ふくめて、ひっくり返りそうな話をいくつも耳にしています。

たとえばそのひとつ、言葉はそれぞれですが、意味としては、
「自分にはむかし、芸大を受験して失敗したという、敗北の過去がある」というもの。

要するに、若いころ、結果はしくじったけれども東京芸大を受験した事があるという、コインの裏表みたいな意味を含んだお話。
すなわち、遠いむかしの自分には、芸大を受験するに値する実力があったんだという自己申告ですが、聞かされるほうは急に変なけむりでも吹きかけられるような心地です。

記憶にある数名の中で、その話が信用できたのは、たったひとりだけ。
やや下位の音大に行かれ、芸大で教えておられた高名な教師の直弟子となり、その後は長年にわたってリサイタルを続けておられるピアニストで、自主制作ながらCDも相当数あり、その演奏や話の前後からもこそに違和感がないことは、まあ納得できるものでした。

それ以外は…なんといったらいいか、ハッキリ言って万引きの現場でも見てしまったような感じ。
人より多少の難曲が弾けたり、いちおうどこかの音大を出て先生をやっているというような人の口から、ふいに、この手の言葉が出ることは非常に驚きで、たまらずその場から逃げ出したいような気分になるもの。

表向きは「受験に失敗した敗者である」という、我が身の不名誉をあえて告白するという立て付けになっているあたりが、まずもって悪質かつ甘いと感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

むかしのことで、もう時効でもあろうから話してもいいだろうといわんばかりに、自嘲気味な調子で語られるこの甚だしく野放図な発言。
失敗談という形式を借りて、芸大というブランドを無断使用しているようでもあり、そこに容赦なく流れ出すアンバランスは、オチのないジョークを聞かされたようです。

「落ちた」んだから、卒業名簿を繰られる心配もないし、昔の失敗した受験の証拠など、どこにもないということなのか。
そういうのはお止めになったほうがいいと思うんですけどね…。
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長江鋼琴

チャイコフスキーコンクールでの衝撃デビューとなった中国製ピアノの「長江」。

その音は実際の空間ではどんな鳴り方をするのかわからないけれど、少なくともネット動画で聴く限りは、ちょっと前のハンブルクスタインウェイ風で、強いていうなら、現在のスタインウェイよりもやや重みのある感じさえあるような…。

全体のプロポーションはもちろん、椀木の微妙な形状、他社に比べてやや上下に薄いボディの側板から支柱がはみ出ているあたりまでそっくりだし、突上棒なんてハンブルクスタインウェイそのものという感じです。

それでもしや…と思ったこと。
それは長江ピアノの登場と、スタインウェイのマイナーチェンジには、因果関係があるのでは?ということ。

あくまでマロニエ君の個人的な想像の範囲を出ませんが、長江が世に出てくることを察知したスタインウェイが、差別化のためにディテールの変更したということも、まったく考えられないことではないような気が…。
折しも、スタインウェイはニューヨーク製とハンブルク製の共通化という、二重の意味合いもあったのかもしれません。

新しいハンブルクのDには、ハンブルクだけの伝統であった大屋根を止めるL字のフックが無くなり、それにより、もともと無いニューヨークとの共通化にもなるでしょうし、長江との差別化という副産物にもなる。
突上棒もニューヨーク風の二段式に形状を変えたので、長江が三段式のハンブルクデザインをいただく。

長江のほうは、前足がやけに前方寄りになっていると書きましたが、これはスタインウェイのコピーじゃないんだというアリバイ作りのための、意図的な位置ずらしではないかと思うのですが、これもあくまで想像。

コンクールのステージなので、譜面立てのデザインがわからずネットで探したら、あー、やっぱりハンブルクスタインウェイのスタイルで、これもスタインウェイのほうが形を変えてしまっています。

この真相は那辺にあるのか、似すぎることを嫌がってスタインウェイのほうが形を変えて逃げているのか、あるいは両社である種の合意が裏で成立しているものなのか、疑いだしたらキリがありません。

そもそも、中国のピアノといえばパールリバーとかハイルンなどしか有名どころは知らなかったところへ、いきなり長江というブランドが世界のステージに躍り出てきて、きっと業界でも驚きが広がっていることでしょう。

調べると、どうやら2009年の創業のようで、わずか10年で国際コンクールの公式ピアノに認められたあたりも、いかにも中国らしい巨費投入と技術模倣によるタマモノなのか、常識ではあり得ないスピードですね。

長江ピアノのサイトを見ると、意外なことに人民元での価格が出ており、円換算すると、188cmモデルが約500万円、212cmモデルが約580万円、275cmモデルが約1550万円となり、なんか微妙なプライスですね。
前2つの価格からすれば、275cmも900万円台ぐらいでは?という気もしますが、コンサートピアノが安すぎると面子に関わるからあえて高く設定されているのか、そのぶん品質も違うのか…どうなんでしょう。

因みにこの3モデルは、それぞれスタインウェイのA型、B型、D型にほぼ該当するサイズで、やはり直球で中国版スタインウェイのようです。
ま、F-35の模造品といわれるステルス戦闘機まで堂々と作って飛ばして配備してしまうお国ですから、それに比べれば、たかだかピアノなんぞ驚くにはあたらないのかもしれませんが…やっぱり驚きました。

いずれにしろ、ピアノの世界も相当へんな事になってきているようです。
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思わぬ衝撃

第16回チャイコフスキー・コンクールが終わったようですね。

いまや、ネットを通じて実況映像を楽しむこともできるようですが、もはや世界が驚くような特別な逸材が出るとも思えず、出たなら出たで、あとからで結構という感じで、最近になってようやくその演奏動画の幾つかに接しました。

想像通りみんなよく弾けて、多少の好き嫌いはあるとしても、その中で優勝者が頭一つ抜きん出ていたらしいというのも納得できました。
ただ、このコンクールでフランス人の優勝というのは記憶にあるかぎりはじめてのような気もしたし、ファイナルでチャイコフスキーの協奏曲は王道の第1番ではなく、第2番を弾いたのもフランス人らしいような気がしました。

なんとはなしに感じることは、コンクールのスタイルは昔から変わらないのかもしれないけれど、そこに漂う空気はますます競技の世界大会という感じで、表現もアーティキュレーションも指定された範囲をはみ出すことなく、求められるエレメントに沿って、いかにそれを完璧にクリアできるかというのがポイントのようで、まったくワクワク感がありません。

この場からとてつもない天才とか、聴いたこともなかったような個性の持ち主があらわれることはあり得ず、上位数人ほどの順位が今回はどう入れ替わるかを見届けるためのイベントなのでしょう。
少なくとも稀有な芸術家がセンセーショナルに発掘される場ではないことは確かでしょう。

現代では、才能と教師と環境にめぐまれ、どれほどピアノがスペシャル級に上手くなっても、その先に待っているのはコンクールという「試合」であって、そこで戦い勝つことがキャリアの確立であり、いずれにしろ音楽の純粋な追求なんかではないのが現実。
コンクール出場は就活だから、メジャーコンクールで栄冠を取るまで、若い盛りの時期を年中コンクールを渡り歩いて心身をすり減らさなくてはならないわけで、それを考えるとお気の毒なような気がします。


ネットでつまみ食い的に見ただけですが、ピアノへの印象は、ますます各社のピアノは似てきたということ。
とくに落胆したのはスタインウェイで、昨年あたりから始まったモデルチェンジにより、見た目もずいぶん簡素化された姿になり、実際その音も、奥行きのない表面的インパクトばかりを狙った印象。

ヒョロッとした突き上げ棒の形状、あいまいな形状の足など、伝統的なメリハリの効いた重厚なディテールはなくなり、どこかアジア製の汎用品でもくっつけたようで、かなり軽い姿になってしまい、スタインウェイをそうしてしまった時代を恨むしかないのかもしれません。

今回なんといっても「うわっ!」と声が出るほど驚いたのは、なんと、中国製のピアノが公式採用されていることでした。
中国人のピアニストが弾いているピアノのボディ内側の化粧板が明るい色合いのバーズアイというのか、ウニュウニュしたものだったので、はじめはカワイかな?ぐらいに思ったのですが、カメラが寄っていくとカワイではなく、ファツィオリでもなく、むろんスタインウェイでもヤマハでもなく、なにこれ???と思っていると、手元が映しだされた瞬間我が目を疑いました。

そこに映し出されたのは、鍵盤蓋とサイドのロゴに毛筆で書いたような「長江」の文字でした!
ピアノに漢字とは、中国人ならやりそうなことではあるけれど、現実にそれを目にすると(しかもチャイコフスキー・コンクールのステージ上で)、あまりにすごすぎて頭がくらくらしそうでした。
しかもそのロゴデザインには英文字のYangtze Riverと毛筆の長江の文字が組み合わされて「Yangtze 長江 River」となっていて、左右バランスもばらばら。
中国人のセンス、すごすぎます!

意外なことに、音は、ロゴほど異様ではなく、まあそれなりの違和感はない程度のもっともらしいピアノの音ではありましたが、全体のフォルムはスタインウェイDのコピー(フレームはなんとなくSK-EX風?)という感じで、今の中国はすべてこのノリで世界を呑み込もうとしていることを、いやが上にも思い知らされました。

弾いているのは、中国人ピアニストだけのようにも見えましたが、さぞかしそうせざるを得ない事情があったのでしょう。
こんなピアノを見ると、なんかいろいろなことが頭をよぎってもういけません。
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イースタイン

最近、とあるきっかけで一人の熱心なピアノファンの方と接点ができました。
驚いたことに同じ福岡都市圏内にお住まい、小学校のお子さんがいらっしゃる女性ですが、この方は弾くことはもとより楽器としてのピアノに深い関心をお持ちで、さらに知識もきわめて豊富で驚いているところです。

4月に東京に行ったとき、何人もの女性技術者とお会いして、その並々ならぬ実力に舌を巻いたものでしたが、マニアの分野にもこういう方がいらっしゃるのを知り、驚きはさらに倍増しています。
性別でものを言ってはいけない時代ですが、うかうかしていたら男性は本当に置いてけぼりを食らうことになりそうです。

ごく最近もメールのやり取りの中で、イースタインが話題となり、以下のようなメールがサラッと届きました。
これはもうマロニエ君ひとりで読むのはもったいないと判断し、ご了解を得て一部ご紹介します。

***
イースタインのGP(250型 200型 O型)を設計された杵淵直知さんの本にも、日本のピアノは日本的発声〜フォルテで喉を詰め、良く言えば日本的なさびみたいなものがある、童謡等の幼児の時代から喉を詰めた固い声を張り上げて歌う音に耳が慣らされてしまう、室内に於いても畳は美しい響きを吸い取り、がらんどうに近い天井も障子も音に旨味を与えるどころか外に逃げてしまう、機械的には世界の一流品に匹敵しながら音だけはどうしてこうなのか、日本民族の生活環境がそうさせるのではないか…等記されてました。

この杵淵さんは幡岩さんに師事しグロトリアンやスタインウェイ工場で技術を学ばれた後に帰国され日本で活躍されたそうですが、54歳の若さで脳溢血で急逝されています。
以前、あるピアノ店の調律師さんに聞いたのですが、調律は息を止めて音を合わせるから酸欠になって血管系の病気になりやすい、周りにもそれで急死した人が数人いるとのことでした。
だから昔は無理して一日4件調律にまわっていたそうですが、今は2件しかしないようにしているそうです。
ピアノが好きであれば、一日ピアノを扱えて羨ましいなぁー等と呑気に考えておりましたが、実はとても大変な仕事なのだと思いました。
長い時間メンテナンスされる技術者の方もいらっしゃると仰ってましたので…素人ながらも少し心配な気もいたします。

杵淵さんの本の中で響板についての記載もありました。
日本は現在(1970年代)エゾ松を使ったピアノは殆ど見当たらない、エゾ松は音に伸びがあり粘りもある。一般的日本人は日本製のものよりもアラスカのスプルースを輸入している、とした方が高級感があって喜ぶ…とのことでした。

響板の乾燥工程も他メーカーの乾燥室を見学したら、最も大切な時間という材料を使わなかったから経年による組織変化等の思いも及ばなかったのであろう、呆気に取られた、干大根と生大根で同じ干したものでも味は全く違うというわかりやすい例えもありました。

やはり音というのはそれまでの過程により良くも悪くも明瞭に反応してくれるのですね。とても興味深いです。
手工芸品が採算度外視になるのも仕方ないかと思いますが、贅沢ですが楽器は手工芸品であってほしいとも思ってしまいます。

イースタインは特に九州は殆ど存在してなさそうですね。
東洋のスタインウェイを目指して作られたとも記されておりました。
日本の高度な技術を戦争の為ではなく平和の為に作られたと聞いて素晴らしいと思いました。
U型はリットミューラーという名のピアノを参考に初のアップライトとして開発したモデル…とありました。工場の宇都宮の地名からUを取ったようです。

B型はブリュートナーのBの頭文字から来ているもので、(チューニングピンの埋め込んである鉄骨部分がくり抜かれ、真鍮製の板を埋め込んでいるのを模倣している)大橋デザインのディアパソンGPに弾いた感じが似ているとのことでした。
アップライトではB型が一番いいみたいですね。
因みにT型というのはB型をベーゼン仕様に設計変更したもの(設計した人の頭文字)だそうです。
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たかが電話

昔にくらべて大きく様変わりしたことは実にいろいろあるけれど、たとえば電話のかけ方もそのひとつでは。

各自が携帯電話を持つようになったことで、いつでも誰とでも自由自在に話ができるようになるとばかり思っていたら、結果からいうと、却って暗黙の制限みたいなものが生まれ、電話は昔よりよほどハードルが高いものになった印象があります。

電話するには、相応の理由、はっきりした要件、緊急を要する場合等でないかぎり、昔みたいに気軽にひょいひょい電話をするということは「してはならない」「しないことがマナー」みたいな空気が蔓延しています。

そもそも昔の通信手段は電話か郵便ぐらいだったから、電話の役割そのものが広かったといえるのかもしれませんが、現代はメールだなんだと選択肢が増えたぶん、電話で直接話をするのは身内もしくはよほど親しい人だけのように格上げされ、いきなり電話をするのは一種の不心得者であるかのような雰囲気に。

電話をするには、前もってメールやLINEなどの文字情報の往来段階があり、相手側からも応諾の確認が取れ、その結果として電話をすることへ扉が開き、晴れて相手の声を聞くことができるという段階を踏む必要もあり、さらには時間帯を気にし、仕事中、移動中、食事中等々何かの最中であってはならないという気を回しに回すうち、やがてだんだん面倒臭くなる。

それもあって、文字で済むことは、自分のペースで書いて送っておけば事足りるわけだからそれで済んでしまうし、だから人と人はますます会話をしなくなるのでしょう。

こうして個人の時間とプライバシーは守られる代わりに、みんなが付き合い下手となり、却って疎遠を招き、もしかするとひきこもりなどの増加もこういう社会風潮も一因では?と思ったり。

暗黙のルールというのは、誰がどうしろといったものではなく、気づかぬうちに常識と思っていたものが変質していくものらしく、それにはただ従うしかありません。

暗黙のルールといえば、着信記録に気がついてこちらからコールバックすると、相手が出ないためやむを得ず電話を切ると、すぐその相手からかかってくるというパターンがあって、それが一人に限らずわりによくあるので、ふと気がついたこと…。
それは、元は自分がかけた電話だから、コールバックしてくれた相手に電話代を負担させては申し訳ないということもあるらしく、その着信にはあえて出ず、しかも「いま」なら相手も電話で話せる状態だろうから、すぐにかけ直すということのようです。

たしかに、こまやかな気遣いだとは思うし、ちょっとしたマナーなのかもしれませんが、なにもそこまで気を遣わなくてはいけないものか?というのも正直なところです。
たかだか電話ぐらい、もっと気ままにかけたらいいじゃないかとも思うのですが、いまの世の中なかなかそうはいかないようです。

また今流行りなのか、通話開始から5分か10分か忘れましたが、それ以内なら無料、それを過ぎると有料みたいな電話があるようで、会話中しだいに落ち着きのない調子になり、いやにせわしげに切ったり、ついには「ちょ、ちょっとかけ直していいですか?」となって、あれもマロニエ君は好きではないですね。

それだとわかれば、こちらは話し放題のプランなのでいくらでもかけ直しますが、わからないと微妙に調子がヘンだったりして、ご当人も安さの代償として気が気でないだろうし、なんだかややこしい世の中になったものです。

もちろん安いことはそれ自体が意味があるし、自分もそういう恩恵には浴して生きている訳だから、そこだけエラそうにいう資格はないけれども、いずれにしろ潤いがないなぁと思います。
そもそも潤いというものは、ちょっと無駄なものとか、ないならないでもいいようなところから滲み出てくるものだと思うし、そこが実はとても大切だと思うのですが、今どきのように極限的な合理性の追求が是とされる時代は、そんなことはなかなか通用しないようです。

それでも尚くじけず、自分の自然な感性を踏みつけるようにして頑張らなくちゃいけない現代人は辛いですね。
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ネタ探し

…ときどき思うこと。
自分で言うのもなんですが、そもそもブログって何のために書いているのだろうと。

言葉の上で尤もらしい理屈はいくらでも付けられますが、マロニエ君の場合、ひとことで言うなら自分の心にあることを、たとえ一人でも読んでくださる方があるなら伝えたいという、くだらぬ自己満足というのが一番近いような、もっと言うなら、なにげない日常でいろいろと見聞きしたり、考えたり、おもしろかったり、感動したり、落胆したり…まあそんなようなことを自分だけで抱えておくのが性格的にしんどく、人に話すツールとして使っているのかもしれません。

世の中にはいろんな人がいて、人に喋ったり伝えたりすることにさしたる価値を感じず、自分の中で処理・廃棄してしまうことが自然にできる人もいらっしゃるようですが、マロニエ君にはそれは無理というもので、人に喋ったり話をしないことがストレスになってしまいます。
そういう意味では、自分を開放しているだけかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

世の中の空気は年々制約の多いものになり、昔に比べると、人と自由闊達にワイワイしゃべるとか、本音で意見交換するなどという機会は激減し、その内容もその場限りの表面的なものになっていく気がします。
なにより、ネットやスマホの普及により、人と人とのナマの付き合いみたいなものは、まさに絶滅の嬉々に瀕しているよう感じられます。
はじめから、そういう時代に育ってきた若い人は現在のスタイルを抵抗なく受け容れられるのかもしれませんが、昭和生まれの生々しい時代を生きてきた者にとって、途中からルールが変わり、四方を規制の壁で囲まれるよう変更を強いられるのは、非常に窮屈で息苦しさを覚えるのも正直なところ。

ブログはそんな息苦しさの中にあって、せめてもの換気のためのささやかな小窓のようにも思います。

ただ、いくら「ささやかな小窓」などと言っても、ネットに掲載するということは、不特定多数の人がアクセスできる場であるのだから、誰でも見ることができるという点においては、やはり大それたことでもあり、ときどき怖くなることがあるのも事実です。

そうはいっても、こんなくだらないものを心配するほど見ていただけるはずもないわけだから、やはりごくささやかな小窓であることは実態として間違いないわけですが、それでもネットはネットなのだから、やはり一定の注意を払う必要はあるわけです。

ブログで一番大切で、しかも困るのは、ネタ選びです。
私信ではなく、ネット上に書き込みをするということは、いくら読む人はほとんどいないだろうとはいっても、それがゼロではない以上、なんでも思いつくまま書くわけにもいきません。

ここがネタ探しの難しいところで、本当に書きたいこと、拙いながらも文章にして人に伝えたいというようなことは、実際にはどれもこれも書けないことばかり。

そうかといって、当り障りのないつまらぬ日常のことなど書いても、それこそ意味が無いし、その隙間を漂う、微妙なネタ探しというのは、けっこう難しいのです。

とりわけピアノのネタは、業界ネタが多くて言えないことのオンパレード。
なので、ネタには事欠かなくても、書けることはほんのわずかという話を、ついネタにしてしまいました。
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ストリートピアノ

ちかごろ、ストリートピアノというのか大変な盛り上がりをみせているようですね。

そもそもの発祥はどこなのか…海外なのか、そのあたりは知りませんが、とりわけこの1〜2年ぐらいは日本国内でも、雨後のたけのこのように数が増えているようで、そうなると次から次でいまさらながら日本って流行りものに弱いんだなぁと思います。

マロニエ君は数年前NHKのドキュメント72時間とかいう番組で、宮崎市の商業施設の一角に置かれたピアノが取り上げられたことでその存在を知ったと記憶していますが、本物にお目にかかったことはまだ一度もありません。
海外でも、駅や空港などに置かれたピアノを、通りがかりの人がおもいおもいに弾いて楽しむ様子が、よくテレビで流れているので、どうやらこれは世界的なブームでもあるのでしょう。

これに使われるピアノの多くが、弾かれなくなり処分に困り、粗大ゴミに限りなく近づいた、先のないピアノの再利用といった一面があるあたりは、廃物利用で多くの人が楽しめるという点では画期的なことかもしれません。
マロニエ君的には突っ込みどころもないではないけれど、こういう遊び心の領域にあまり目くじらを立てることは無粋というものだから、これはこれで素直に楽しい気分で眺めていればいいものだと思っています。

楽器の設置環境としては、かなり厳しい場所にピアノを置くということや、あまりに派手なペイントやラッピングが施されるというのは、単純に「わー!」とは思うけれども、かといって、黒や木目のピアノをそのままポツンと置いても、場所柄地味で雰囲気も暗いだけというのもわからないではないし、ポップに仕上げるのも致し方のないことかもしれません。

それでもピアノはピアノであって、Tシャツではないのだから、あまりにド派手なペイントなどを見ると、さすがにちょっと…と思うこともありますが、一方で今どきのなんでも禁止、なんでもダメ、とりわけ音の出るものにとっては甚だ肩身の狭い世の中で「どうぞ自由に弾いてください!」というのは、ずいぶん気前のいいものにも感じます。

だれがどう弾いてもいいのがストリートピアノのルールでしょうけど、個人的にはそこにも暗黙のルールがあるような気がします。
まずはやはり楽器に著しくストレスを掛けるような弾き方をしないなど、まあ常識レベルのことでもありますが、もう一つは、そこそこ弾ける人が、ここぞとばかりに腕自慢のための演奏をするのは適しない気がします。

もちろんストリートピアノというものが、誰でも自由に弾いていいという建付けである以上、巧拙不問なのがいうまでもないけれど、中には周囲の視線を意識し過ぎるほど意識しながら、難曲大曲をバリバリ弾く光景をYouTubeなどで見たことあり、あれってどうなの?って思いましたね。
妙に浮いていて、周りもよほど拍手喝采かとおもいきや、意外にそうでもなく、熱演し終わった奏者が「あれ?」みたいなこともあって失笑したり。

そういう人がこういう場所を使って過度な自慢を繰り広げると、その狙いが周りにも伝わってしまうようで、結果的に期待するほどの効果が上がらないんでしょう。

本人がカッコイイと思ってやっていることが、実はカッコ悪くて、むしろ周囲の意識が逆流しているときって、いたたまれなさとザマミロという気分がミックスになります。
上手くても下手でも、なにかしらのピュアなものが伴わないとストリートピアノの意味が無いような気がします。
いっそプロフェッショナルのピアニストが弾いてくれたらいいかもしれないけれど、「難曲が弾けるシロウト」というのが一番やっかいです。


今年の春頃だったか、小池さんの肝いりなのか、東京都庁の展望室には一般から寄贈されたグランドに草間彌生さんの水玉模様を貼り付けた「おもいでピアノ」なるものが登場したこともあってか、テレビニュースなどでストリートピアノの事が特集されていました。

引っ越しを機に、ピアノを手放すことを余儀なくされた女性にスポットを当て、半生をともに過ごしたというピアノをストリートピアノに提供するというもの。
「我が子を里親に出す心境」なんだそうで、なるほどと思いました。

番組によれば40年前には31万台売れていたピアノは、現在ではわずか1万3千台ほどになったというのですから、その落差は凄まじいものがあるんですね。
時代や価値感の変化はもとより、近隣への騒音問題は如何ともしがたいものがあり、音の出るものというのは喫煙並みに肩身の狭いものなのかもしれません。
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ガブリリュク

日曜夜のEテレ・クラシック音楽館で放映された今年のN響定期から。
アレクサンダー・ガブリリュクのピアノ、パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を視聴しました。

ガブリリュクは昔、浜松コンクールで優勝した人だったけれど、マロニエ君はあまり興味をそそられなかった人で、コンクール終了からほどない時期だったと思いますが、ベートーヴェンの月光が入ったCDがリリースされ、それを買って聴いたことがあるぐらいでした。
それがあまり好みではなかったこともあり、それっきりで、たぶん彼の演奏を聴くのはそれ以来か、クラシック倶楽部などで聴いたのかもしれないけれど、ほとんど記憶らしいものがなく、事実上初めて聴くのに近い感じでした。

さて、これが思ったよりもよかった。
いい意味で「今どき」の演奏ではなかったため、つい「早送り」も「停止ボタン」も押すことがないまま最後まで聴き入ってしまいました。
考えてみたら、ラフマニノフの2番をじっくり通して聴いたのもずいぶん久々だったような気がしますが、曲も演奏もずいぶん懐かしいものに触れたような良さがあり、昔ならごく普通だったものが、今どきは新鮮なものに感じるようになったことをはっきり認識させられました。

力強いタッチ、大きくて厚みのある手、余裕のある技巧、見せつけのためのヘンな誇張やわざとらしさのない、ストレートな喜怒哀楽を含んだ話を聞くようで、必要な場所に必要なパンチもあれば、リリックなところはそのようになるメリハリもあって、それだけでも心地よく感じるものです。

今どきの若いピアニストでうんざりしていることを繰り返すと、線が細く、楽器が鳴らず、なにも感じていないのに感じている素振りをところどころに入れたり、あるいは完成された解釈やアーティキュレーションをコピペのように用いる。
さらに自己顕示のための見せ所はいくつか設けて、意味もなく音楽の流れを停滞さるなど、そういう首尾一貫しないものの寄せ集めだから当然演奏としての辻褄は合っていないけれど、指はほとんどミスもなく動くため、曲は終わりまで進み無事終了ということにはなる。

その点ガブリリュクは、とくにどこがどうというような特筆すべきことはないけれど、情熱と活気を伴いつつ、真っ当なテンポにのってぐんぐん前に進んでいくだけでも快適でした。

とくにライブでのコンチェルトの場合、ソロとオケがピッタリ合うことは建前としては必要だけれども、それだけで良いのかといえばマロニエ君はどこかそうは思えませんし、あまり小ぎれいにまとまり過ぎると室内楽のようになってしまうこともしばしば。
やはりソロ対オーケストラという形態を考えると、節度は必要だけれども、即興性やわずかなズレやはみ出しであるとか、ほんの心もちソロが全体を引っ張っていくような、生命感を感じる演奏をマロニエ君は好みます。
興がノッて、ときに飛ばしすぎの危険を感じるほど、推進力をもって進むときの気持ちよさは、協奏曲を聴くときのちょっとした醍醐味のようにも思うのです。

ガブリリュクの演奏は、今どきのシラけた演奏のもやもやを吹き飛ばしてくれるような、筋の通った演奏でした。
突っ込みどころもないわけではなく、彼の演奏のすべてを肯定するには至らなかったものの、一回の演奏としては、単純に満腹感を得られる演奏でしたし、ステージの演奏の魅力というものは、まずはこういうところからではないかと思います。
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大事なこと

このネット社会ではピアノ販売も例外ではないようで、すべてではないかもしれませんが、多くのピアノ店はネットをなんかのかたちで活用されているのは今更いうまでもないことでしょう。

過日行かせてもらったヴィンテージピアノ専門の某工房では、仕上がったピアノはすべて、ご店主と昵懇の間柄という男性のピアノの先生が工房内でじっくり試奏され、それを動画撮影してホームページにアップするというスタイルを取られています。

この方は、この工房との関係からか、夥しい数のヴィンテージピアノを経験されている由で、いわゆる普通の「ピアノの先生」といったイメージではなく、ヴィンテージピアノの専門家のような風情が漂っています。

しっかりしたタッチで、音は温もりがあって明朗、それぞれのピアノに対して変に弾き手の個性を入れず、ストレートにきちんと弾かれるそのスタンスは安心感さえ覚えます。

先日のこと、工房のご厚意で仕上がったピアノの動画DVDが送られてきました。
なんでも、いつもは演奏の様子だけを撮影されるのを、工房スタッフの方のアイデアでカメラを回しっぱなしにしてみたというので、演奏の合間に交わされる雑談の様子やその内容まで視聴することができました。

感心したのは、やはりというべきか、それぞれのピアノの特徴や美点をすぐに感じ取って、それを大事にするような演奏が自然にできてしまっている点。
ピアノ店の動画だから、あえてそういうことを心がけているというようなわざとらしさはまったくなく、長年の経験から本能的に楽器の個性を感じ取り、すんなりとそれを踏まえた演奏になるという感じでした。

これは楽器を奏する者としては、ある意味では当たり前のことであり、楽器のコンディションや個性に反応しながら弾いていくというのはきわめて重要かつ自然なことのはずですが、実はピアノの世界でこの当たり前はなかなかない事で、この面ではおそろしく鈍感な弾き手が多いのも現実でしょう。

どんなピアノかなどお構いなしにやたらと弾くだけの人って、ほかの楽器に比べて、ピアノはとても多いと思います。
演奏するにあたり、楽器のことを考えない人は、同じように作品のこともあまり考えていなくて、ただ自分が取り組んでいる課題(曲)を技術として弾き通すことばかりに全エネルギーを注いでいる。

楽器は自分にとって弾きやすいか、そうでないか…要するに道具でしかなく、楽器を慈しみ対話して、そのピアノが喜ぶような演奏をしようとする人って、本当に稀だと思います。

対人関係においても、相手の反応や場の空気を読みつつ柔軟に対応できる人と、そんなことはお構いなしに一方的にしゃべりったり自慢したりする人がいますが、ピアノの場合、残念ながら後者のほうがはるかに多い気がします。


話が逸れましたが、この先生がおっしゃるには、ヴィンテージピアノはバンバン弾くのじゃなく、繊細に弾くことが大切、それぞれのピアノの光るところを探すこと、振動を感じること、きれいにではなく気持よくピアノが響くところを探って弾くことが大事だと、さりげない雑談の中で語っておられ、いちいち御尤も。
しかしそれは、ヴィンテージピアノに限ったことではなく、新しいピアノを弾くときにも、そっくりそのまま当てはまることだと思うのです。
ただそれがヴィンテージピアノにおいては、より顕著に楽器が求めてくるというだけで、楽器に相対する心得としては同じことだと思いました。

佳き時代のヴィンテージピアノは、弾き方しだいで本当に美しい、心にしみるような音で歌ってくれる反面、ぞんざいで無理強いをすると、たちまちそれが音として出てしまうなど、適当にお茶を濁してはくれません。
現代の量産ピアノはその点で、汚く弾けば汚く鳴るという面が薄いから、良くも悪くも表現のレンジが狭く、演奏を芸術として磨き高めるには楽器が厳しい教師とはなり得ないかもしれません。
常にセンシティブな感覚を身につけるというだけでも、ヴィンテージピアノっていい勉強になると思います。

また、大いに共感したのは、その先生によれば大曲を弾くより、シンプルな曲を弾くほうがピアノの良さもわかりやすいというようなことを言われていましたが、そもそもシンプルな曲を美しく弾くことのできない人が、どんなに大曲難曲を弾けたところで、当人の自己満足以外ほとんど意味を見出せません。

むかしある集まりにいたとき、ひとりだけ自分の技量を心得て、ギロックの小品を徹底的に練習して、さても見事に鑑賞に堪える演奏として弾く人がいましたが、こういう人こそ素晴らしいと思うし今でも記憶に残っています。

要するに、大事なことはどこにあるかという問題であり、価値感は人格をあらわすものだと思います。
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ホール拝見

福岡市から南へ40数キロほど南下すると久留米市があります。
人口30万ほどの街ですが、古くから医学の街でもあり、ブリジストンタイヤの創業の地でもあるし、一方で青木繁や坂本繁二郎のような多くの画家を排出した地でもあります。

市内にはブリジストンの石橋正二郎氏が寄贈した石橋文化センターがあり、東京のブリジストン美術館と連携した日本有数の美術コレクションを展示する石橋美術館ほか、石橋文化ホールなどがあり、ブリジストンの躍進と地元への貢献を肌で感じることができる場所です。

その久留米市に、2016年だったか久留米シティプラザという複合施設が街の中心部に作られました。
古くからあった百貨店の跡地と、それに隣接する六ツ門広場という広いイベントスペースを潰して作られた大掛かりな文化施設のようです。

写真で見る限り、ずいぶん立派なホールで、一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか情報も伝わらず、ネットで調べてもこれというコンサートなどはあまりないようで、行く機会が見つからない状態だったですが、知人が久留米市市民オーケストラというアマチュアオケの後援のようなことをやっているとかで、そのオケの定期演奏会があると聞き、ホールを見るには良いチャンスだと思って行ってみることに。

久留米市のまさにど真ん中、街並みの中でも目立つ建物は二棟に分かれ、しっかりとした地下駐車場があり、外から見ても建物内に入っても、これはずいぶんがんばったなぁ…と思ってしまうほど立派なもので、まるでバブル時代にタイムスリップしたような感覚に陥りました。
全体の規模、エントランスやロビーなどの広々した作り、さらにメインのホールはおよそ1500人収容の、細部まで凝った意匠が散りばめられた贅沢な仕上げで、見ているだけで圧倒されるものがありました。

サイドの客席はセンター/左右と三方向に別れ、それが互い違いに5階まで続き、ホール全体は赤い色調の木目で張り巡らされており、それが床から舞台の反響板、各階の背後の壁にいたるまで徹底されています。
規模的にいうと、通常の大ホールはだいたい1800〜2000人規模のものが多く、その半分もしくは1/3ぐらいのものが中ホールとされるものが多いですが、1500人というのはその間というか、ちょっと一回り小さな大ホールといったところで、個人的には2000人規模のホールは大きすぎて好きではないので、より好ましいサイズだと思います。

福岡市にもこれぐらいの規模の施設があればいいなぁと思えるもので、音響も節度があり、濁らないクリア感があって、やはり音響設計は日々進化しているのだろうと思いました。
その点、福岡市内にあるメインのコンサートホールは最悪の音響にもかかわらず、改善の気配もなく、会場がここである限りマロニエ君は足を運びたくない筆頭のホールで、自分の地元のホールがこんな有様とは、なんたる不幸かと思うばかり。


この日のコンサートでは、冒頭の「魔弾の射手」序曲に続いて、2曲目がベートーヴェンの「皇帝」で、ピアニストはゲストとして招かれたとおぼしき若手の日本人ピアニストでした。
線の細い、今どき世代のヘルシー弁当のような演奏で、曲は確かに皇帝だけど、ドラマのないさらさら通過していくBGMのようでした。
「皇帝」ぐらいの超有名曲になれば、嫌でも一定のイメージが張り付いており、例えば全盛期のポリーニが汗みずくになり、唸り声を上げ、凱旋するヒーローのごとく弾いた皇帝にくらべたら、そのエネルギーは数分の一に減っていることでしょう。

昔のV8エンジンのベンツSクラスとプリウスぐらいの燃料消費の差がある感じですが、ガソリンなら使うのは少ないほうがいいけれど、聴衆に聴かせるステージ上の音楽まで、こうまで切り詰めてしまう必要があるのか、もはやマロニエ君なんぞにはわかりません。

ただし、思いの外よかったのは第二楽章で、これはかなり美しく弾かれたし、アンコールとしてメンデルスゾーンの無言歌集から「ヴェニスの舟歌」も同様で、柔らかい枝がしだれるようで、この2つが聴けただけでも収穫だと思いました。

オーケストラは、なにぶんにもアマチュアですから、普通の感想を持ってはいけないのでしょう。
みなさんとても熱心に練習されていると思うし、おりおりにあのような立派な会場で定期演奏会があるとなれば、やりがいも感じておられることとも思います。

施設その他を見物してまわっていたので、ホール内に入ったのは開演直前でしたが、なんと1階はほとんど満席で、案内の人から「最前列の右側しかありません」といわれ、あわてて2階に。
それもダメでついに3階まで上がって辛うじて空きを見つけたほどの盛況ぶりでした。

その移動時に感じたのは、センターと左右が段違いになっているためか、それぞれに繋がる通路が、からくり屋敷の迷路のように複雑でわかりにくく、いったん出てもどっちがどうなっているのかまったくわからなくなり、開演時間が迫っていることもあってほとんどパニック寸前でした。
案内の人に聞いても、瞬時に答えられず、これはちょっと凝り過ぎかもしれません。
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時代の流儀

iPadでのメールやLINEなど、いわゆるタッチ画面で文章を書くのが苦手なので、少しまとまった量になると一旦パソコンで書いて、それを自分に送信しコピペして送るのですが、ひょんなことから知人が別売りの便利なキーボードがあることを教えてくれました。

そんなこと常識なのかもしれませんが、マロニエ君はそっちのほうはからきし苦手なので、あれば便利かも…と思い、いわれるままにそのメーカーと機種をアマゾンに注文したところ驚くべきことが。

お昼少し前に注文したものが、なんと5時間後にはそれが届いて、その早業にビビリました。
発送元を見るとアマゾンの千葉県市川市となっていますが、九州にも大きなセンターのようなものがあるらしく、売れ筋のアイテムは揃っているのかもしれません。

それにしても、大変な時代になったものだとあらためて思ったし、これでは店頭販売が年々廃れていくのも仕方ないかと思います。
我が身をふりかえっても、たしかに店舗に足を運んで商品を見て、触って、比べて、その範囲の中から買うという行動が激減してることに気づきます。
現物確認さえあきらめれば、多種多様な中から商品を選ぶことができるし、その選択肢の多さは、とうてい実店舗がかなわないもので、しかも同時に価格の比較もできるとなれば、そちらが主流にならざるを得ません。
さらに、実際に出向く必要がないから、そのための時間も交通費も駐車料金もかからずで、とくに実用品はネット購入ということに(くやしいけれど)なります。

自分も利用しておいて言えた立場ではないけれど、こうして必要最小限の合理的なエネルギーで動いていくから、世の中は一向に活力が出ないような気がするし、ムダがなく安いことが全てに勝る正義のようになっていくことに殺伐とした怖さを感じながら、かくいう自分を含めて後戻りはできないレールの上を進んでいるようで、それがさらに恐ろしさを感じます。

そのうち本当にドローンがお届けに飛んでくる日もくるのかも…。


買い物といえば、先日H&Mでちょっとした安いシャツを買おうとしたら、さんざんレジに並ばされたあげく「袋代が20円かかりますが、よろしいでしょうか?」とにべもなく言われました。
咄嗟のことで、もしそれを拒否してシャツを裸で持ち去るのはさすがにどうかと思ったし、後ろにはレジを待つお客さんが何人も並んでいたので、ここは早く済ませることが大事なような気がして、考える時間もないまま承諾しました。

すると、小さな白いビニール地に赤でH&Mのロゴが入った袋がカウンター上におかれたものの、畳んだシャツ一枚がどうにか入るぐらいの小さなサイズで、こんなちっちゃな袋が20円もするの?と非常にびっくりしたし、なんともいえない不快感を抱きながら支払いを済ませ、店を後にしました。
スーパーのレジ袋だって、まだ大きいのが3円ぐらいで、こんなに小さいペラペラのビニール袋が20円とは、どうにも納得がいきません。

これはひとえに気分の問題で、商品代があと20円高くてもまったく構わないけれど、こういうことはできたらしないでほしいと個人的には思いますが、これも時代と割り切らなくてはいけないのかと思うと、無性に楽しくない気分。
とりわけ、外資系の会社というのは、客の心情などといったものを考慮しないのか、ずいぶんとドライで大胆なことをやるようで、そのあたりはどうにもマロニエ君は馴染めません。

会社側にしてみれば、いくらでも主張や理屈はあるのでしょうが、来店して商品を買ったお客さんに、それを持ち帰るための袋が必要ならを20円よこせというのは、マロニエ君が経営者ならぜったいしないと思う部分。

スーパーの有料レジ袋はさすがにもう当たり前になったので、マイバッグ持参で行くけれど、さすがに服を買うときまでそんな準備をしたくはないし、なんとなく通りがかりに立ち寄って買うということもあるわけで(今回が正にそう)、そのために常時袋のようなものを忍ばせておくなんてまっぴらごめんで、かといってあんな小さな、ゴミ用としても使い道もないような小さなビニール袋に20円出させられるのは、やっぱり納得はしかねます。

ゴミといえば、回収のための有料袋が福岡市の場合、最小サイズが15Lで15円なのですが、それよりも高いなんて、いったいどういうことかと思いました。

最近は、いろいろと理由はあるにせよ、どうにもしっくりしないようなルールがあまりに多いのは、それだけでも人生のいくらかをスポイルされているような気がします。
ひとつひとつは「たかだか!」というレベルのことですが、その「たかだか!」もずんずん積み重ねられたら、意外に大きなものになりますからね。
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非文化

日本人のある指揮者の方が、本の対談の中で、
「日本では西洋の芸術が文化になっていない」というテーマの講演があるといい、「文化とは血の中にあり感覚となっていて生活に密着しているものだが、日本では西洋音楽はまだ文化になっていない。血の中にないから、哲学や思想など頭で考え分析できるもののほうが近づきやすい…」と述べるくだりがあり、フランス音楽への理解が浅いのも「哲学的根拠のようなものを感じさせる音楽でないと、真の芸術ではない、という考えが日本にはある」と発言されており、おおいに膝を打ちました。

西洋の音楽というと、高尚な芸術として一部の人達に愛好されるものという敷居みたいなものがあって、普通にファッションやスポーツなどに接するように、日々の生活の中にごく自然にクラシック音楽が浸透し存在する状態、つまりは文化と呼べる領域にはまったく至らないようです。

世界的に見てもトップレベルではないかと思える、柔軟な感性を持つ日本人。
異国のものをすんなり受け容れ、自分達の生活に採り入れるなどお手のもの。
しかるに、西洋音楽がもたらされて一世紀以上経つというのに、こちらはいまだに専門家や愛好家だけの芸術ジャンルとしてソフトに隔離されており、およそ日常の中に文化として息づいているとは思えません。

例えばコンサートのプログラムにしても、多くの日本人は今だに演奏より曲目にこだわります。
それもただ自分が知っている曲があるかどうか、耳慣れた名曲が含まれているかどうか、問題はいまだにそのあたりを行ったり来たりしてことに唖然とします。

演奏者も、チケットを売るため有名曲を入れるよう主催側から強く要望され、不本意なプログラムにならざるをえないことは少なくないとか。

知っている曲を生で聴きたいというのもわかるけれど、では、知らない曲だとそんなに退屈ですか?というのがマロニエ君の正直なところ。
その人たちが映画や小説や美術館の作品に触れるとき、多くの作品を前もって「知っている」わけではなく、大半は「初見」でも文句は出ないのに、音楽だけは、どうして知っている曲じゃないといけないのかがわからない。

他のものと同じように、ただ楽しみとして自然に芸術に触れ、それを日々の中にやわらかに溶け込ませる、そこがどうも日本人には難しいらしいようです。
必ずやご大層なものになり、高尚で、専門的で、研鑽の対象という捉え方をするのは、楽しむことより身構えて勉強することのほうがしっくりくるからでしょうか。

それを感じるのは、アマチュアのピアノ演奏でも、ほとんどの人は技術的に余裕のもてる曲を選んで表現の美しさを追求することはなく、身の丈以上の大曲難曲に挑もうとする傾向。
これも根っこのところで、音楽を本当に楽しめていないから、演奏というパフォーマンスに重きを置き、そのための練習という技術の世界に迷い込む。
音楽(に限らず芸術を)を心の糧として楽しむことは、人生そのものの在りようやセンスの問題で、人に見せたり自慢したりすることではないから、それはただ練習という一本道というわけにもいかず、一朝一夕には達成できないことかもしれません。

そもそも「楽しみ方」を知らないのが良くも悪くも日本人なのかもしれませんけれど。

技術なら優劣が明確で、そこにヒエラルキーが生まれます。
日本の楽譜には、初級、中級、上級といった区分けがありますが、ああいうのが日本人は好きですね。
自分の感性や経験で判断しないから、人が分類してくれたものに従うほうが楽なのかも。

なので、ピアノ演奏も難易度別の技術と捉え、相撲の番付、将棋の段、算盤の級のような、わかりやすい階段を登ることは好きなようです。
そういえばピアノにはグレードという言葉があるようですが、「グレードを上げる」ことがモチベーションになり、ピアニストやコンクールで奏されるような有名な技巧曲を弾けることが「カッコいい」わけで、それが達成できれば周りから評価され一目置かれるから、それを目指すという図式。

要するに、音楽とは名ばかりで、根底には技術のピラミッドが立っているから、そうなると子供でも弾けるような易しい曲を、いかに美しく演奏するかということとは、まるで別の道になってしまうんですね。

つまり「日本では西洋音楽はまだ文化になっていない」となる所以がそこだと思います。
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制御を聴かせる大器

BSクラシック倶楽部から、今年2月のアブデーエワの日本公演から、ショパンのマズルカOp.7-3/Op.59、ソナタ第3番、シューベルトの楽興の時から第3番。

演奏スタイルは、少し忘れていたものをすっかり思い出すようにアブデーエワ流が健在でした。
年齢的にピアニストとしての黄金期に入ろうかという時期で、彼女が優勝したショパンコンクールからはや9年が経過ですが、特段の深化や変化は個人的には感じませんでした。

緻密な演奏プラン、理性の絶対優先のような演奏は大変立派だけれど、まるで音の講義にでも接しているようで、音楽を聴いているのになぜか音楽がこっちにきてくれず、もどかしさがまとわりつくのも以前とまったく変わりなし。

この人の演奏を聴いていて常に離れることのないのは、遊びのなさと過剰とも思えるコントロールという行為。
コントロールとは音楽を自然に美しく鳴り響かせるために裏で支えるものかと思っていたけれど、アブデーエワのそれはコントロールそのものがむしろ見せどころのようであり、これはある種かたちを変えた技術自慢のようにも思えます。

曲は隅々まで支配され、ピアニストがすべてを手の内に囲い込んでいるような印象を受けるのは、とりわけ女性ピアニストとしては稀有なことだと思うし、それだけ大器であるということでもあるのかもしれません。

マズルカを凛とした音楽として、大曲と同等に取り扱って弾くことは必要なことだとは思うけれど、あそこまで深刻で、息を殺して、まるでベートーヴェンの後期のソナタでも弾くようにやられると、なにかが違うんではないかと思ったり。
個人的にはもう少し力の抜けた、ふわりと浮かんできた詩の断片を音にするような、ショパンのこわれやすい心情がピアノを通して彷徨うようなニュアンスで進んでいくマズルカのほうが好み。

もう少し踏み込んでいうと、どの曲にもそれぞれ冒頭もしくはそれに近い部分に、その作品の顔ともなるべき主題や旋律があって、それがあれこれに展開して帰結するというのが多くの作品の作りだけれど、そのはじめの顔がこの人のピアノではほぼ無表情で、ひたすら説明的かつ慎重に音が並んでいくだけ。
聴いていて、核となるべきフレーズや動機がほとんど掴めないまま先に進んでいくため、つい自分で曲を補足しながら聴くという脳内作業をしており、なんとも収まりの悪い椅子に座っているようで、たえず体を動かしてしまうようなストレスを感じます。

それと、あれだけ長身で恵まれた体格をしているのに、やけに椅子が高いことも気になります。
高い椅子は、大きな音を出したり楽器や作品を支配するには有効かもしれないけれど、うるおいのある美しい音でピアノを深く鳴らすとか、ディテールのしっとりした語り、心の襞に触れるようなニュアンスが失われる気がします。

コンサートピアニストというのは、やはり聴衆に聴かせることが大前提で、それぞれのやり方で音楽的エクスタシーを聴衆が与えられなくては、聴く意味がない気がします。


クラシック音楽館から、真田丸の主題曲の演奏で有名になったヴァイオリニストの三浦文彰さんと、ピアノの江口玲さんによる共演で『三浦文彰☓デジタルアート』と銘打った、東京臨海副都心のチームラボ・ボーダレスで行われた演奏を視聴しました。
ピアノはニューヨーク・スタインウェイのLかO(たぶん)という、すくなくともテレビで見るには珍しい家庭用サイズのもの。

この2人、タイプはまったく違うけれど共通しているのは、きわめてオーソドックスな路線の演奏でありながら、今どきのどこかシラけたところがなく、しっかりと血の通った心にそのつど何かが届いてくる演奏をされることだと思います。
ズシッとした重みと、弾いているという実感があるのは極めて大事なことだし、これがなくてはどれほど素晴らしい技術や解釈であっても聴く気になれないし、演奏家としてまずもって必要なのはここだろうと思います。

家庭用サイズであっても、スタインウェイはしっかりスタインウェイで、とくにニューヨークの個性満載な音でした。
いつ頃の楽器かは知らないけれど、枯れた感じの音色がプログラム中にあったモーツァルトの時代のピアノのように鳴り響き、あまりにもぴったりで唖然としたほど。
モーツァルトのヴァイオリンソナタは、本来ピアノが主役の作品と言われますが、このお二人が演奏されたKV454では、まさに二重奏という感じで、両者ともモダン楽器をモダン奏法で弾いているのに、まるで18世紀の風が吹いてくるようでした。

江口さんは共演ピアニストとしての定評では随一の方ですが、いつ聴いても安定と信頼感にあふれ、その逞しいサポート力は聴くたびにさすがと思わせられる方です。
上手い人の手にかかると、曲のほうが自然にこちらへ寄ってきてくれる感じがします。
聴こうと努力しなくても、すいすい入ってくる演奏って心地いいですね。

そういう意味では非常にこのふたつ、対照的な演奏だと思いました。
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東京ピアノ巡り-おまけ

【銀座山野楽器】
最終日、飛行機が最終便で少し時間があったので、急に思い立って寄ってみることに。

ベヒシュタインConcert 8、スタインウェイV-125、ベーゼンドルファー120、ヤマハSU7をほんの少し触りました。
アップライトの横綱揃い踏みのようで、むろん素晴らしく、音も弾き心地もいかにもという感じに整っているところは、いずれも日本式にお行儀よくさせられて店頭に並んでいる感じ。
輸入物は500万円前後、SU7はヤマハアップライトの最高峰で240万円。

ベヒシュタインとベーゼンドルファーは本来もっとそれぞれの個性や持ち味があっていいような気もしましたが、ここでは端正に整っていることのほうが求められるのか、腕利きシェフの料理というよりは、リッチだけどクセのない一流ホテルのディナーみたいで、それが日本人的な高級品の見せ方なのかと思います。

そんな環境でも個性を隠せないのがスタインウェイとヤマハでした。
スタインウェイはあのブリリアントに通る中音から次高音、美しく引き締った官能的な低音など、ヨコのものがタテになっただけで紛れもないスタインウェイであることに感心させられました。
ヤマハも、さすがにこのへんになるとひじょうに美しく、ヤマハ最高ランクの材料を使い、注意を払いながら作られたヤマハの逸品というのは触れるなりわかりましたが、表情にはやや乏しいことと、低音の巻線部分になるとヤマハらしいビーンという、多くの日本人には耳慣れたあの音がするあたり、やっぱりヤマハにはヤマハの遺伝子があることを痛感しました。

どのピアノにも「ご試弾の際は…」の札が鍵盤上に置かれているので、お店の方に申し出るとすぐに応じていただきましたが、その札を外しながら「いちおう商品ですので、あまり長時間のご試弾はご遠慮いただきたい…」というようなことを言われました。

もとよりそんな気はないし当然の申し渡しとは思いましたが、考えてみれば試弾をいいことに、お店の商品を延々と弾きまくる輩もいるのだろうし、実際そんな被害にも店は遭ってきたのだろうと察せられました。


話は変わり、マロニエ君はかなりの車依存人間なので、東京滞在中もレンタカーを利用しました。
人によっては「エー、東京で車なんて却って不便、こわい、道がわからない、電車のほうが便利、なんでわざわざ!」といったようなことを言われますが、幸い道はだいたい頭に入っているし、駐車場探しなどは多少あるけれど、それでも実際には言われるほど大変でもムダでもなく、なにより車があるのは圧倒的に「楽」です。

昔に比べると東京は車の密度がずいぶん減ったのか、ほとんど渋滞のようなこともなく、昼夜とわずどこにでもスイスイ行けるのでむしろ自由度が広がり、しかも車に乗っている間はシートに座っているから休憩にもなるし、外部と遮断されたプライベート空間でもあり、マロニエ君にとっては快適でしかありません。
これが移動のたびに駅まで歩き、人の波に揉まれて、階段やエスカレーターを上ったり下ったりするのかと思うと、個人的にはとても自信がありません。

とくに夜、気ままに出かけたりドライブもできるのは車があったればこそで、個人的には圧倒的に時間を満喫できます。

夜、日用品を買うのに、豊洲にある大きなホームセンターに行ったり、遠巻きにしか見たことのなかった東京スカイツリーがどれほど高いのか見に行ったり。
こういう気ままな動き方は、電車や地下鉄ではなかなかできません。
その、東京スカイツリーですが、たしかに立派なタワーであることに異存はないけれど、夜の照明で飾られた様子などは上海などを連想してしまい、個人的には東京タワーのほうがずっと好きだなぁと思いました。
エッフェル塔には及ばないけれど、今にして眺めてみればよほど趣があり、昭和生まれにはしっくり来ますね。

以前は週に二〜三回は通っていた目黒通りや環八などは、ずいぶんと景観や雰囲気が変わり、交通量も減ってへえと思ったし、クラビアハウスに行くのに通った第三京浜にいたっては、鄙びた地方の高速道路かと思うほど交通量はガラガラで、これにはかなりびっくり。
以前の東京は、車といえば常に渋滞との戦いで、少しでも進めるルートを考えることに頭をフル回転させながらの運転でしたが、今やどの道もあっけないほど走りやすくなり、ちょっと肩透かしを喰らったようでした。

車を返却した最終日のみ、やむを得ず電車での移動を余儀なくされましたが、マロニエ君にとっては慣れないこともあってやはり大変です。
どこどこへ行くには何線に乗って、どの駅で乗り換えるかなどと考えて、実際、歩き量も疲れ量も倍増。
今はカーナビもあるし、車のほうがはるかに安楽と思いますが、なかなかこの点は賛同者がきわめて少ないのが不思議です。
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東京ピアノ巡り-2

【クラビアハウス】
親しくさせてもらっているピアノ店で、ちょうど見せたいピアノもあるから「ぜひ来てください!」と言っていただき、おじゃますることに。
1902年製というイバッハのアップライトがあり、手の込んだ装飾やデザインなど、威厳ある重厚な佇まいは現代の量産アップライトが組み立て家具のように思えてしまうほどで、昔はアップライトでもここまで手の込んだものを作っていたことに驚きつつ、その背後にある文化にも圧倒されます。
中までしっかりと手が入っており、とくにオーバーダンパーとかいう古い機構などは現代の方式に改められている由で、思いのままのタッチでとても弾きやすいことが印象的。
音はまさにヴィンテージで、枯れた音で芯があるのにふわんと鳴るのが心地よく、ずっと弾いていたいようなピアノでした。

他には明るいマホガニー艶出しのスタインウェイA型(内外ともに新品のように修復されているけれど、実は戦前のモデル)、美しいプレイエルやブロードウッドのグランド、さらには以前あった6本足のベヒシュタインの外装ができ上がっており、その素晴らしさたるや息が止まるほど。
ダークブラウンのボディには、繊細を極めた木工による象嵌細工が惜しげもなく施されていて、あまりの見事さ、装飾模様の上品さなど、もはや美術品といっていいほどで、ただただため息の連続でした。
フレームは外されていて弾ける状態ではなかったけれど、本当に美しいものというのは目にするだけで人を幸福で豊かな気持ちにするもので、やっぱり昔のヨーロッパの文化はとてつもないことを痛感。

届いたばかりという19世紀の終わりごろのスタインウェイBは、内部は凄まじい汚れで、タッチもバラバラ、音もめちゃめちゃでしたが、わき上がるような不思議な生命感があり、とても大きくて深いものをもったピアノでした。
ご主人によると、響板が例外的に素晴らしいものだったから仕入れられたそうで、これを一年ほどかけて仕上げていかれるとのこと。
ほかにもフレームを下ろした同時代のO型?、3年越しの修理が出来きたというベヒシュタインのグランドなど、ヴィンテージピアノは一台一台があまりに見るべき点が多く時間が足りないようでした。

日本に輸入ピアノを扱う店は数あれど、これほど徹底した修理や調整がなされた上で、しかも耳を疑うような良心的な価格で販売するヴィンテージの専門店が日本にあることは、なんと貴重なことかと思います。
『パリ左岸のピアノ工房』という本があったけれど、ふとそんなヨーロッパの良心的なピアノ店が、ひょっこり横浜に舞い降りたという感じです。

【ピアノパッサージュ】
ベヒシュタインの新旧いろいろを中心に、グロトリアンの新品アップライトやヴィンテージの200cmぐらいのグランド、ほかにはスタインウェイが数台、戦前のプレイエルのグランドとアップライト、何台かのペトロフなど。

ベヒシュタインのアップライトの中には小型でもかなり素晴らしいものがあって驚かされますが、なにぶんにもシリーズが煩雑で、どれがどういう位置づけなのか把握するだけでも大変で、さらにシリーズ名も変わったりと、混迷を深めるばかり。
以前は、上級シリーズとレギュラーシリーズでは、鍵盤上の表記が「C.BECHSTEIN」と「BECHSTEIN」というところで区別できていたけれど、現在はレギュラーシリーズも「C」が付くようになってしまい、いよいよわけがわかりません。
もしや意図的に分かりづらくしているのでは?と勘ぐりたくなるほどで、せっかくピアノは素晴らしいのに、シリーズ構成という点ではどことなくトリックのような印象をもってしまうところは、一流メーカーのモデル展開としては疑問を感じるところ。
(むろんこれはメーカー側の問題であって、お店とは関わりないことですが)

とはいえ、ヨーロッパ製の小型アップライトをあれこれと触れさせてもらいました。
それなりものから舌を巻くような極上品まで幅広く、これは実に面白い世界だと思われて、ある意味ではグランドよりマニアックな世界かもしれません。
とりわけ現代のベヒシュタインは、お叱りを承知で言わせてもらうと、魅力的なアップライトの製造に支えられて一流ブランドの名を保っているようにも思われます。
他の追従を許さぬ上質なアップライトを作るいっぽう、グランドではもう一皮むけてほしいもどかしさが残るのは、以前から感じていたことでしたが、今回も同様の印象で、そのあたりは風変わりなメーカーだと思います。

クラビアハウスでも同様でしたが、いまや何人もの女性の技術者が第一線で活躍されていることには、あらためて感銘と頼もしさを覚えました。
昔は技術や職人といえば男性の世界というような固定化されたイメージがあったけれど、それは愚かしい間違いであったことが見事に証明されており、みなさん知識も経験もひじょうに豊富で、さらにはピアノの技術者としての矜持も高く、大したものだと思いました。

なんでも話はサクサクと通じるし、自己顕示欲が強くて自説にこだわる面倒臭い男性より、遥かにサッパリしていてストレート、しかも気概は充分以上なものがあってお見事。
優秀な女性技術者の台頭によって日本のピアノ技術者のレベルはより向上する気がしました。
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東京ピアノ巡り-1

4月中旬、所用で東京に数日間滞在しましたが、折悪しく平日で、とりわけ多くのピアノ店で火/水定休日のところが多いのは残念でした。
そんな中から、こちらの都合と時間を合わせながら、なんとかやりくりしてピアノ店を訪ねました。

以下、そのレポートを思いつくまま書いてみます。

【ファツィオリ】
飛び込みで行ったので、ダメモト覚悟でしたが、正午少し前にドアを開けたら真っ暗。
ほぼ留守だろうと思いながら声をかけると、ようやく奥から人の気配がして、暗闇の中から日本語の達者な若い外国人が出てきて、それ以降はきわめて親切に対応していただきました。

ピアノはF212/F228/F278/F308の4種を試しましたが、いずれも素晴らしい弾き心地で、むろんピアノそのものもいいけれど、精妙を極めたすばらしい調整にも驚きました。
F183は一台は売約済み、もう一台は届いたばかりの未調整で、いずれも弾けませんでした。
ちなみに、最小サイズのF156は受注生産で、価格はF183と同額とのこと。

F212/F228はそれぞれすばらしいものであったし、F278/F308の違いは、CDで感じていたこととあまりにも同じで、一般にCDはアテにならないと主張する人は多いけれど、個人的にはかなり信頼に足ることを実感。

あらためて言うまでもなく、あくまで個人的な印象ですが、F308はラインナップ頂上に君臨する、いわば鳳凰のような存在だろうという気がしました。
ご案内いただいた方は、流暢な日本語で、F308がいかに深い潜在力を秘めたピアノであるかをしきりに述べておられたけれど、私には、弾いてみた印象では真の主力はF278だと思いました。

とはいえどのモデルも、とても美しい上質感のある音で、ブリリアントかつまろやかで、クセがなく、弾いていて非常に心地よいことには感銘を受けました。
設計を間違えず、最良の材料と手間ひまを惜しまず作ったら、ピアノはこうなるだろうという正しい公式と答えを見せられる感じでした。

ただ、最終的に着地点が見いだせないのは、なんだろうかと考えました。
ひとつ思ったことは、ファツィオリは自己主張をせず、もしや個性がないことを狙っているのか…ということ。
楽器は演奏のための道具なんだから、だったらそれが理想じゃないかという向きには理想的とも思いますが、個人的にはいつも画竜点睛を欠く感じがつきまとうのも、やはりそのあたりなんだろうと思われます。

楽器は楽器に徹するか、そこに多少の個性が必要か、これはそう簡単に答の出る問題ではないでしょう。
あくまで想像ですが、ファツィオリが目指しているのはファツィオリの音ではなく、もっとシンプルで純粋な「美しいピアノの音」という理想なのかもしれません。
それはそれでアリかもしれず、ある程度それは実現されていて、ファツィオリに比べればヤマハでもヤマハの音がするわけで、ここまで個性を消すことは、もしかしたらものすごいことなのかもしれません。

ちなみにマロニエ君は、個人的には楽器に個性はやはり欲しいし、必要だと考えるほうのタイプで、どこかにわずかな不均衡や野趣を含むものが好みで、あまりに純粋一途なものは苦手かもしれません。

ファツィオリを最も活かすことのできるピアニストはだれかと思ったら、ただひとり思い浮かんだのがミケランジェリでした。
あの、最上のビロードのようなタッチと何層にも弾き分けられる多彩な音色で、病的なまでにこだわり抜いた音の絵画を描いていく手段として、ファツィオリは最高の絵筆になったかもしれない気がしました。

そう考えてみると、ミケランジェリはスタインウェイをかなりファツィオリっぽい、まろやかで濃密な、それでいて楽器が前に出ることのない厳しく制御のかかった独特な音にしていたように思われます。
それなのに…この稀代の天才とファツィオリは、わずかな時代のずれで、ついにすれ違ってしまったことが非常に残念に思われます。

ショールームのピアノに話を戻すと、その素晴らしさを支える要素として忘れてならないのは、精密を極めた調整がもたらすコンディションがファツィオリの素晴らしさの一部になっていることでした。
ずいぶん前、とある楽器店でちょっと触れたF183は、新品であるにもかかわらず、音といいタッチといい、とても価格に見合ったものとは思えないものでしたが、今回のファツィオリはまるきり別物でした。

音のなめらかなバランス、音色の揃い方、繊細でスムーズな思いのままのタッチなど、ふいに訪れたにもかかわらずこれほど常時見事に調整されているのは驚くほかありません。

もともとの美人が、さらにプロのメイクやライティングで輝いている状態なのでしょうけど、もし購入するとなれば、化粧崩れも出るだろうし実生活ではスッピンにもなる。
そのときにどういうピアノになるのか…却って不安になるような調整でした。
ま、買えるはずもないので、そんな心配をする必要もないですが。
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ダルベルトとトラーゼ

BSのクラシック倶楽部アラカルトは、おそらくは個々の演奏家のプログラムから、55分の番組で入りきれなかった演奏を2人づつまとめて放送されるもののようです。
そんな中から、印象に残ったものを。

【ミシェル・ダルベルト】
昨年11月の浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルから、ショパンの幻想曲、ドビュッシーの映像第1集。
いきなりですが、マロニエ君は昔から趣味じゃない人。
この人のピアノはCDを聴いても実演に接しても同じで、その甘いマスクとは裏腹に演奏はどちらかというと無骨、ニュアンスとかデリカシーというものがあまり感じられません。
近年の若い人のように、そつなくきれいに弾くだけの無個性無感動な演奏もどうかとは思うけれど、その点でいうとダルベルトは明らかに昔の世代の自分流を押し通すピアニストでしょう。

フランスのピアニストにときおり見かけられるタイプで、迎合的ではないところはいいけれど、細部にまで神経の行き届いた演奏ではなく、何を聴いても同じ調子で、気持ちが乗れないまま終わってしまいます。
もし違っていたら失礼だけれど、ただ弾きたいものを自分のスタイルで押し通してタイプでしょうけど、そのスタイルがよくわからずこの人なりの聴き所がどこなのかはいまだに掴めません。

ピアノはドビュッシーを意識して準備されたのか、珍しくベヒシュタインでした。
D-280かD-282かはわからないけれど、おそらく新しいものを使う日本のことだから282なのだろうと推測。

D-282というのはマロニエ君の理解の及ばぬピアノで、ベヒシュタインらしい特徴を残しつつ、現代のステージでも通用するコンサートピアノとしてのパワーその他を盛り込んでいるものと想像されますが、どうにもよくわかりません。

ベヒシュタインのカタログを見ていると、ひとつひとつの音の透明感や分離の良さ、和音になったときのハーモニーの美しさなどが特徴だということが随所に謳われているけれど、ショパンの幻想曲のような作品で音数が多く激しい曲調の部分にさしかかると、むしろ音が暴れ出し、あげくに混濁してしまうよう聞こえてしまい、ますます首をひねってしまう始末。

その点では、映像の第一曲のような緩やかな曲では発音のインパクトによる独特な効果があるし、この日は弾かれなかったけれど、たとえばベートーヴェンなどがベヒシュタインに似合うのは、むしろその特性ゆえだろうと思います。
ベートーヴェンは美しく澄んだトーンの音楽ではなく、苦悩や混沌の中から精神の高みへと到達するようなところに聞き所があるようなものだから、楽器も清濁併せ持ったものあるほうがふさわしい。
なので、はじめからスマートに整った響きのスタインウェイなどで弾かれても、もうひとつベートーヴェンらしく聞こえない場合がありますが、ベヒシュタインならばその野性味を駆使して自然に表現できるような気がします。

【アレクサンドル・トラーゼ】
プロコフィエフのソナタ第7番。
これまでに聴いたこともないような、瓦礫がそこらに荒々しくころがっているような、作品が産み落とされた時代の空気がそのままに伝わってくるような演奏でした。
とくに「戦争ソナタ」という名にふさわしく、グロテスクで、生臭く、容赦ない炸裂が何度でも繰り返され、これは本来こういう曲だったのか!と思わせられる瞬間がなんども到来するあたり、思わず聴き入ってしまいました。
以前のこの人のコンサートの様子には???と思うところもあったけれど、ツボにハマればすごい人なのだということも納得。

現代のピアニストの誰もが、この曲をロシアの技巧的なピアノ作品として、ピアニズム主導でスタイリッシュにまとめ上げて弾いてしまうことに対する、一種の警鐘ともとれるようなごつごつしたプロコフィエフで、久々に面白いものが聴けた気がします。
もしかするとまとめるどころか、散乱していなくてはいけない音楽なのかもしれないと思いました。

トラーゼは恰幅もよく、打鍵する力が強いのか、ピアノを鳴らす力も平均的なピアニストより一枚上をいっており、とくに強打ではなくても、すべての一音一音が太くて芯があり、今どきはそれひとつでも印象的。

むろん、大きな音を出せるから良いなどと言うつもりは毛頭ないけれど、現代の多くの若手ピアニストがガラス瓶で育った植物みたいな細い音しか出さなくなったし、昔の人のように全身全霊をこめて楽器に思いのたけをぶつけるというような迫力がありません。
どちらが本来のピアノ演奏として正しいことかどうかはさておいて、聴く側は、節度ある知的で美しい演奏も魅力だけど、時には駆け上るような燃焼感であるとか渾身のパフォーマンスというのは期待するのであって、これは理屈じゃなく本能の問題では。

多くの若手は、ミスをせず、無理をせず、推奨テキストと解釈にしたがって、よく動く指を武器に、ただきれいで正確なだけの演奏を目指すようになってしまい、即興性や冒険心を失っていることには危機感を覚えます。

他の音楽ジャンルではエネルギッシュな興奮に酔いしれることを良しとするいっぽうで、クラシックの演奏だけが精度や解釈ばかりにこだわって、あげく小さな細工物のようになってしまうことに、さすがにもう飽き飽きしてきました。
今どきは何かあると「命の大切さ」ということが叫ばれますが、音楽にも命の大切さは大事であるし、それが我々が音楽を楽しむ際の一丁目一番地ではないかと思うんですけどね。

トラーゼの演奏は、ただ単に面白いだけでなく、時流に対する反抗の精神も秘められているようでした。
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ハイルーセン

浸透潤滑剤というのがあるのをご存知でしょうか?

動かないネジを緩めたり、いろいろな機械の可動部分の動きをズムーズにするシリコンなどの潤滑剤で、スプレー缶で細長いノズルが付いており、説明を見ても「締りや滑りの悪い敷居やサッシ」「カーテンレールの滑り」「タンスの引き出し」「PCマウスの動きがスムーズに」「ハサミの切れ味がよみがえる」などなんでも使えます。

車の世界ではよくあるもので、その最も代表的なのが「呉工業 CRC-556」などで、これはべつに車専用というわけではなく、なにかと使われている方は多いと思います。

「動きの渋くなった扉や戸棚の蝶番」「ギシギシ音の解消」にもよく使われるし、ピアノの調律師さんも道具箱の中にこれが入っているのは何度も見たことがあります。

以前書いた、日本製のコンサートベンチ(ピアノの椅子)のギシギシ音ですが、調整してくださった技術者さんも当然このCRC-556は使われたようですが、これの欠点は、その効果が短命で持続力に欠けるという点にあります。

使う対象にもよりますが、だいたい一週間から10日、ひどい場合は2〜3日で効果がなくなります。

ところが、世の中にはすごいものがあるんですね。
知人の話で、どうやっても消せなかった車の足回りから聞こえてくるキシミ音が、ディーラに出したらものの見事に治った上に再発もしないため、一体どういう修理をしたのかディーラーに聞いそうです。
ところが、はじめはなかなか教えてもらえず、問い詰めてしぶしぶ言ったのがトヨタのハイルーセンEVOという浸透防錆潤滑剤を塗布したということ。

そのディーラーがトヨタではないこともあり、それを使っていたこともなかなか言えなかった理由のようでした。
トヨタの部品販売店に行けば取り寄せてくれますし、アマゾンでも買えるものです。

車のサスペンションのゴムブッシュの境目や取付部などに塗っておくと動きが軽くなめらかになって、乗り心地が良くなるというので、講習をかねてそれをプシュプシュやっては走ってみるというような実験をしましたが、たしかにサスの当たり(とくに初動)が滑らかになり、車全体がスムーズになったかのようでした。

さっそくマロニエ君も購入したのは言うまでもありません。
価格は1缶2000円しないぐらいで、成分は「鉱物油、石油系溶剤、防錆剤」とあるだけですが、無色透明のサラサラした液体です。

はじめは車に使っていましたが、キッチンの食器収納の扉の動きが年々渋くなり、しまいには開閉にともない金切り声のようなとてつもない音を立てるので、「そうだ!」とこのハイルーセンを思い出し、その収納棚の扉を支える3つの蝶番にプシュプシュとやってみました。
結果は、その強烈な音がウソのように消えただけでなく、動きが超スムーズになりすぎて、いつもの力加減だとその扉に埋め込まれたガラスが割れるのではないかというほどの勢いでスパーン!と閉まりました。

それからというもの、家の中にも置くようになり、なにかというとこれを用いました。
それなのに、最も大事な使い道を思いつかなかったのですから、マロニエ君も相当抜けています。

以前、むかし買ったコンサートベンチが何度調整してもらってもギシギシ音が出ると書いたことがありますが、それはあいかわらずで、実をいうともうずいぶん長いことそうなので、半ば慣れてしまっていたのです。

でも、ついにピアニッシモの部分で、ギギッ!となったとき、「あっ、このコンサートベンチにハイルーセンを使ったら!?」ということが頭に降りてきました。
思い立ったら矢も盾もたまらず、大急ぎでそれを持ってきて、よいしょと重いベンチをひっくり返しました。

立派な表に対して、裏は意外に雑な作りで、木枠の中に鉄の骨が2組のX状に組み合わされて、それが伸縮して上下調整をしているようでしたので、その可動部分や木と鉄の接合部のボルトなど、思いつく限り注意深く噴きつけました。
そしてそのまま一晩放置。

翌日、ちょっとした胸の高鳴りを覚えながら裏返ったベンチをもとに戻し、座ってみる、果たしてギシギシ音はものの見事に消えていて、どんなに体重を左右にずらしても、まったく音がしません。
それからひと月以上が経過しましたが、その状態にまったく変化なしです。

自動車雑誌によると、トヨタは下請けメーカーに要求するクオリティも、その他のメーカーとはまるで違うとのことですが、このハイルーセンを使っただけでもそのスゴ味みたいなものを実感せずにはいられませんでした。
これはきっとピアノの内部にも役立つすぐれものだと思いますが、悲しいかなマロニエ君のようなシロウトでは試すことはできません。
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反田さん牛田さん

つい先日、反田さんのショパンについて書きましたが、少し補足。

久しぶりにタワーレコードに立ち寄ったところ、お得意のラフマニノフの新譜が出ており、試聴コーナーにセットされていたので、これこそ本領発揮だろうと思って聴いてみることに。

曲はピアノ協奏曲第3番(ロシア・ナショナルフィル、指揮アレクサンドル・スラドコフスキー)、ソナタ第2番、op.23の前奏曲から2曲。
協奏曲は昨年10月のモスクワ、ソロは同11月に福島音楽堂での録音。

まず驚いたのは、ゆったりしたテンポ感でした。
気になったのは、実際のテンポそのものより、ビート感というか流れの推進力がなく、その場その場を確かなものとするような方向性なのか、どこを切り取ってもきっちり刻印されたように弾いている感じ。
たしかな技巧に恵まれ、せっかくこの3番という壮大な協奏曲を弾いているのに、これまでの反田さんのイメージからすれば、期待するものとはちょっと違うものを見せられているようでした。

もちろん全曲を聴いたわけではないし、店頭のあまり音のいいとはいえないヘッドフォンを通じて聴いただけなので、それで断定的なことは言えないけれども、それでもそこで感じたことというのはあるわけです。

あとに残ったことは、過日のショパンのときと同様、この人はいま何を目指しているのか…ということ。
ショパンコンクールを狙っているのでは?と前に書いたけれど、リストやラフマニノフを得意とし、ショパンも手中に収め、コンクール歴もこの際追加できるものは追加して、ピアニストとしての王道を目指しているんでしょうか。
個人的には、この人はこの人なりの個性や強みを活かして、いい意味での異端であってほしいのですが、もしかすると今の時代はそれを許さず、ディテールを整え、露出を増やし、キャリアや権威を身にまとい、なんとしてでも大物に仕立てあげなくてはいけないのかなぁ…と思います。

浅黒い肌に総髪、鼻の下とアゴにヒゲを生やして、まるで秘術でも使う忍者か、どこかのバーテンダーかマジシャンか、はたまた平氏の落武者のようでもあり、すくなくともピアニストっぽくない風貌も見る人のインパクト感に加勢しているのかも。
くわえてぶっきらぼうな態度がいかにも今どきの男子風で、どこかひ弱で線が細くて、なめらかなトークのできる音大生あたりにはない、野趣がある点も魅力なのかも。
その演奏の特徴はアーティスティックな感性主導かと思いきや、意外なほどエゴはなく、もっぱら健康でシャープで法令遵守タイプなので、サラッと時代の基準に合わせてやっていける人なのかもしれません。


同じ頃、民放BSでは牛田智大さんと小林研一郎さん指揮の読売日本交響楽団による、チャイコフスキーの第1番というのがありました。

この方も現代の若手ピアニスト特有の要素を備えていて、しっかりしたメカニックを備え、この難曲を滞りなく弾けますよということを聴衆と視聴者に、予定通りに示したような演奏でした。
くわえて、きれいな王子様風の雰囲気、甘いマスクと絶やさぬスマイルは反田さんとは正反対。

子供の頃から注目され、浜松コンクールで第2位になるほどだから、もちろん上手いし危なげなく弾けてはいるけれど、プロの演奏会というよりは、どこかコンクール風の雰囲気が拭えず、まだ演奏家としての確定された存在感が足りないのかとも思いました。

なにより感じるのは(牛田さんに限りませんが)、とかく今の若い人の演奏には、作品への敬愛の念とか、そこからインスパイアされた自己主張とか表現の試みというものがなく、むしろそこは排除するほうに育てられてきたという感じがすること。
演奏している当人が、その作品の中に没入して曲が鳴り響くというのではなく、山積みされた楽譜があり、音符や指示があり、それを覚え込んで徹底的に練習して今に至っているという現実が見えてしまいます。

自分がどう感じてどう解釈しているかという要素が見当たらないのは、それが競い合いでは却って裏目にも出る要素だから、消さなくてはいけないのかもしれません。
聴く側も、演奏という名目でのアスリートとしての能力だけを求めているように思えるふしがあり、そのほうがフィギュアスケートみたいでわかりやすいからでしょうか。
過当競争の世の中に生まれ、コンクールがあり、それに沿った指導環境の中で育ってくれば、勝ち抜くにはそうなるのは必然かもしれず、やむを得ぬこととは思いますけど…。

そもそも演奏の最も大事なことは、聴いている人に「また聴きたい」と思わせることだと思いますが、ひょっとすると音楽性だの個性だのを云々することが、すでに時代遅れなのかもしれません。
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歯みがき

早いもので4月となり、平成の御世もあとひと月ですね。

奥歯が少ししみるので、2年ぶりぐらいに歯医者さんに行きました。
ここは治療というか施術というか、ようするに仕事がとても丁寧で、これまでに被せ物などをしても、一度も違和感などを感じたことがなく、治療のための治療は一切せず、人にも自信をもっておすすめできる歯医者さん。

毎度のことながら、歯磨きの大切さを教わり、さらに磨き方をいまさらのようにこまかく教えていただき、決意を新たにしているところですので、少しご紹介を。

まず驚くのは、ブラッシングに際しては、歯磨き粉には一切頼るなという考え方。
以前もこの先生は「私達は、歯磨き粉のチューブ1本使うのに半年ぐらいかかりますよ」といわれたので、またまた大げさな!と思って聞き流していましたが、どうやら本当のようでした。

スーパーや薬局に行くと、いろいろな歯磨き粉がズラリと並んでいて、中にはずいぶん高価で医薬品のような効能を謳っているものなどありますが、何度か使ったこともあるものの効果がよくわからず、いらい、また元に戻って、マロニエ君が使っているのは、だいたい500円前後のもの。

ところがこの歯医者さんがいわれるには、歯磨き粉そのものでどうこうということは、ほとんどないと考えてよろしいとのこと。
むしろ歯磨きで重要なのは、使うブラシと丁寧な磨き方がほとんど全てで、歯磨き粉はただの快感と自己満足のためであり、使わないなら使わないでも一向に構わないとのこと。
つまり、一般で言うところの「石鹸なし/水洗い」でよいというわけです。

大事なことは、先の細いブラシを使って、力を入れずやさしく一本ずつぐらいの気持ちで丁寧にブラッシングすることだそうです。
さらに歯間ブラシを使って歯と歯の間に異物を残さないこと。

難しいのは、「力を入れない」ことで、歯磨きは昔の雑な習慣で、ついゴシゴシやりたくなってしまいますが、それは歯茎を痛めるだけで何一つメリットはなく厳に慎むべしとのこと。
力をかけすぎると、歯茎が傷ついたり下がったりで、知覚過敏や歯槽膿漏の原因になるなどいいことはひとつもなく、そもそも力で歯や口の中をきれいにしようというのがまったくの間違いですね。

試しに先生が歯ブラシを手の甲に当てて「これぐらいの力加減」というのをやられましたが、本当にふわふわっと毛先が優しく当たる程度。

だいたい「歯磨き」という言葉がいけないのではないかと思います。
歯磨きというと、文字通り歯の表面を磨いてピカピカにするイメージですが、肝心なことは歯と歯の間、あるいは歯と歯茎の境目に付着した汚れや異物をていねいに取り除くことであって、これは精密なお掃除だと思います。
しかも、歯は硬いけれど、歯茎はとても傷つきやすい皮膚だということを忘れがちで、結果、歯茎をかなりいたぶっているんですね。

「歯磨き粉はなくてもいいもの」という認識があまり広まると、そちらのビジネスにも支障があるからかほとんど浸透していないのかもしれませんが、なるほど歯磨き粉は大した役割を果たしているわけではないことが実感できてきました。

というわけで、歯磨き粉なしで何度かやってみましたが、…気分的にこれはさすがにダメでした。
いっさい泡がないという感触は、まるで張り合いがないというか、気持ちよさがまったくないというか、ここはやはり先生の言われるように自己満足のために、これまでよりぐっと少量でいいからつけてみると、それでちょうどいいことがわかりました。

歯ブラシを手にするや、ついできるだけ短時間で、一気呵成にガーッと歯磨きをしたい人は昔は多かったと思いますが、いったんそれを捨て去って、たとえば…ピアノできれいな弱音を出すような気持ちでやってみると、ああそういうことか!と思えるようになるもんですね。

はじめの何度かは違和感が先に立ちますが、すぐに慣れてきて、正しい歯磨きが楽しくなりますよ。
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中古CD Vol.3

中古CD、第3弾です。
CDと言っても、新品と中古ではこちらのスタンスもチョイスの基準も違いますが、だからこそ訪れる思いがけなさというか、要は冒険できる点が最大の魅力です。
わずかに以前よりも失敗が少なくなってきたような気もしますが、一番大事なことは勘ですね。

❍【キュイ 25の前奏曲】
ロシア5人組のひとり、チェーザレ・キュイによるピアノのための25の前奏曲。バッハやショパンとは違った順序で全調性をまわり最後に再びハ長調に戻るということで25となる作品。演奏はジェフリー・ビーゲルというアメリカ人のピアニストで、録音もアメリカ・インディアナ州で行われているが、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアル。キュイは本業は軍人で、その余技として作曲をしていたらしいが、その作品はとても余技といえるようなものではない本格派で、しっかりと聴き応えのある悲壮的で重厚な曲調が並ぶ。しかしロシア5人組と他の4人と違うのは、民族臭がなくむしろ西ヨーロッパ的な雰囲気を持つもの。いかにも意味ありげな調子だが、何度も聞いているとそれほどのものにも思えないが、ロマン派の隠れた作曲家という点では十分に通用すると思う。

△【アンドレ・プレヴィン フランス室内楽】プーランクのピアノと管楽器のための六重奏曲、ミヨーの演奏会用組曲「世界の創造」(室内楽版)、サン=サーンスの七重奏曲という字面で見るとやけに本格的でものものしい印象だが、聴いてみると音楽の中に惹きこまれるような作品というよりも、音楽による遊びといった印象。作曲者も三者三様かとおもいきや、どれを聴いても大差無いように聞こえてしまうし、まるで昔のドタバタアニメの効果音楽みたいで、フランス音楽の中にはこういう流派もあるなあということを思い出す。楽しさはあるからたまに聴くのはいいけれども、あくまで気が向いた気だけ楽しむものという一枚。ジャケットデザインは黒バックに青とグレーと赤の太い線だけで顔が描かれたシャレたもので、ほとんどこれで買ったようなもの。

❍【蟹 タブラトゥーラ】リュート奏者のつのだたかし氏を中心とする中世古楽器のグループで、前回、波多野睦美さんの歌に感銘し、その流れで購入したもの。楽器はリュートはじめ、フィドル、リコーダー、パーカッションなど多数で、なんとも不思議な音楽にはじめは大いに戸惑う。古楽器といってもここまでくるとかえって新しくもあり、東洋的なのか西洋的なのかさえわからない。ライナーノートによると結成は1984年とあるので、30年以上の活動実績があるということか。全15曲、そのうち古いものは13世紀のフランスのものなど6曲で、それ以外はメンバーによるオリジナルらしい。耳慣れた主題や動機が幾重にも展開し様々に遍歴し再現して解決するという、いわば音の起承転結ではなく、どちらかというとテンポや旋律の繰り返しが主体の、音楽の原型とはこのようなものだったのかと想わせるもの。こういう音楽に触れられたという点で❍。タイトルの通り蟹の絵をあしらったジャケットがハッとするようなセンスにあふれていて、これを目にするだけでも価値がある。

❍【ヘンゼルト・ピアノ作品集】セルジオ・ガッロによる演奏。ヘンゼルとは19世紀に活躍したドイツロマン派の音楽家で、この時代によくある作曲家兼ピアニスト。リスト、ショパン、シューマン、フンメル、タールベルクらとほぼ同年代の人物だが、その名前も作品ではほとんど耳にすることのないため、珍しいCDとして購入。いずれも耳に馴染みやすい、甘く叙情的なサロン音楽という感じで、ところどころにリストやシューマンを想わせる瞬間があるし、全体としてはこの時代特有の空気を感じる。上記のキュイに比べると、ずいぶん軽い感じがあり、それがロシアとヨーロッパの差のようにも思える。どこか女性作曲家の作品のようにも感じるけれど、ライナーノートにあった写真は、鋭い眼光にチャイコフスキーのような髭の老紳士で、その作品と風貌はギャップを感じることに。ピアノはおそらくスタインウェイだと思うが、温かみのあるふくよかな音が印象的。

△【シャルヴェンカ ピアノ作品集1】19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、ポーランド系ドイツ人の作曲家兼ピアニストの作品。ポーランド系というだけあって、ショパンからの影響を随所に感じるし、ピアノ・ソナタ、即興曲、5つのポーランド舞曲、ポロネーズと曲のスタイルもショパン風。ただし、ポーランドの香りやリズムがそうであっても、ショパンの洗練を極めた美の極致とか触れると壊れるような詩情はなく、才能はあってもあくまで平凡な発想の作品。演奏はセタ・タニエル。このシリーズは確認が取れただけでも第4集まで出ているようだけれど、それを買い揃えたいかといえば…ま、これだけでいいかなという感じ。上記のヘンゼルトと同様、このような普段耳にする機会のない作品に音として触れられることも、中古CDの魅力で、これらを新品で買うことはなかなか難しいだろう。

☓【アマウラ・ビエイラ名演集】セール対商品の中からなんとも変わった雰囲気のCDを発見。ブラジルの作曲家兼ピアニストらしいが知らなかった人なので、ネット検索すると度々来日して280回を超えるコンサートをしているという。くるみ割り人形の編曲から、ドビュッシー、ショパン、リスト、シューベルト、サン=サーンス他自作まで15曲に及ぶアルバム。演奏自体は常套的なもので、とくに変わったところはないけれど、はじめの音が鳴りだ瞬間、その音質に驚愕。まるで自宅でシロウトが録音したかのような、マイクが近くて残響ゼロの音。データをよく見るとサンパウロのスタジオで録音されたもののようだが、クラシックの録音経験の殆ど無い人達によって収録されたものとしか思えなかった。
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ちょい開け

過日、マロニエ君に日本調律師協会の過去のカレンダーを送ってくださった方のメールの中に「ヤマハで言うトップサポート」という言葉が出てきて、不勉強なマロニエ君はすぐになんのことかわからず、さっそく調べてみることに。

判明したことは、アップライトピアノの上部の板をほんの少し開けるための機構。
アップライトの場合、ボディの一番上の水平の板は前屋根と後屋根というものに前後で分割されているのがほぼ一般的で、前屋根は後ろへ向かって180°バタンと開くようになっており、開けた状態では前屋根と後屋根がちょうど重ね合わせるかたち。

マロニエ君はまさかここにカバーをかけるといったことはしていないものの、ついあれこれの楽譜を積み上げてしまって、前屋根をわざわざ開けて弾くことはまずありません。アップライトピアノでは上がちょうど便利な楽譜置場になっているというのは、わりによくある光景ですね。

さて、その「ヤマハで言うトップサポート」とは、ボディ内側に仕組まれた短い棒を立てることで、前屋根をほんのちょっとだけ開けるというもの。
この方のピアノにはそれがあって、そのわずかな開閉の違いがもたらす響きの違いを楽しんでおられるようでした。
シュベスターにないことはご存じで、まずは本を数冊挟むなどして試してみることを薦められたので、すぐに楽譜を床におろし、文庫本を3冊ほどを輪ゴムでまとめて前屋根が3〜5cmほど開くよう、そこに挟んでみました。

さっそく弾いてみると、こんな僅かな事にもかかわらず、思わず「エッ!」といいたくなるほど音の体感差がありました。
なんといってもまず格段にダイナミックでパワフルになり、発音の細かい点までバンバン聞こえてくることに驚かされます。

普通に前屋根を180°開けだだけでは、音は上に抜けていくのか、こんなことはないし、調律時には鍵盤蓋から上下のパネルまで全部外して作業されるので、その状態で音の確認をするときなども、ほとんど何も遮るものがない状態で弾くことはありますが、そのときも音が裸になった感じはあるものの、こんな独特な感覚を味わったことはありませんでした。

まるで、エアコンの吹き出し口の前に立っているように、音がこっちをめがけて一斉に流れだしてくるようで、全身で音を浴びているような感覚です。

音量じたいも上がるほか、低音などは厚みが増して、響板の振動そのものを感じるようで、ときにうるさいぐらいに感じることもありました。
タッチまでまるで反応が良くなったみたいで、こう書くと良い事ずくめのようですが、そうとばかりは言いません。

自分の弾き方のまずさやペダリングの問題点などもはっきり認識できるのは練習にはいいとしても、ちょっと困ったのは、音によって、音色や響き方などに違いやムラがあったり、個々の音に良くも悪くも特徴があることが明瞭となり、ある音は響板の深いところで鳴っているのに、ある音はずいぶん手前に聞こえたり、これまでは気にならなかったようなことなども次々に白日のもとにさらされることでしょうか。

暗がりで素敵な空間と思っていたところが、昼には見えなくていいものまで見えるようでもありますが、それでもやはりおもしろいものだと思います。

数日これで弾いてみて、再び元に戻してみると、とりあえずまとまりというか収まりは良くなるかわりに、なんとなく力ない響きのように感じてしまい、人間の慣れというものは困ったものです。

さらにその方のメールによると、この効果はピアノやメーカーによっても違いがあるのだそうで、ご実家の大手の量産ピアノでは少し改善するぐらいで、さほど音に包まれるような強烈な感じにはならないのだとか。

もしかすると、この前屋根の「チョイ開け」こそが、良いピアノかどうかの判断手段になるのかもしれません。
とくにピアノ選びの時には、チェック項目のひとつに加えてみるのも無駄ではないでしょうし、文庫本をちょっと挟むぐらいなら、お店もやらせてくれるでしょう。
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反田さんのショパン

BSのクラシック倶楽部で、反田恭平さんの最新ショパン演奏が放映されました。
プログラムはアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、マズルカop.56-3、ソナタ第3番。
今年1月の収録で、会場は立川市のチャボヒバホール、ピアノはファツィオリのF308。

現在、ポーランド国立ショパン音楽大学に在籍中だそうで、そこでショパンの研鑽に取り組んでおられるとのこと。

反田さんは、いま最も注目される前途有望な日本人ピアニストのひとりだろうとは思いますが、ことショパンに関しては、彼のピアニズムや持ち味からすると、さほど相性が良いわけではないというイメージがありました。
ショパンよりはリスト、ドビュッシーよりはラヴェル、ドイツものよりロシアものというタイプ。
にもかかわらず、わざわざショパンにフォーカスするのか…と思ったし、もしかすると敢えて苦手なものを克服するという挑戦者の気持ちなのか、はたまた次のショパンコンクールが射程にあるのか。

ご本人の弁によると「7、8歳のころからショパンを弾き始めて、いろいろな作品に出会ったが、どういうふうにショパンを弾くのが正しいのか、ちゃんと学びたくて」とのこと。

このコメント、ちょっとひっかかるのはショパンの弾き方に「正しい」ということがあるのか、マロニエ君にはすこし首を傾げたくなります。
たしかにショパンは、多くの人が弾きたがるわりに、演奏のあり方という点ではきわめて自由度の少ない作曲家であるし、あきらかに「間違った」演奏が氾濫している気がします。
かといって「これが正しい」ということを規定するのは甚だ難しいことで、誰それや権威によって「こうだ」と断じられるようなものではないのではないか…ということ。

更にいうと、ショパンの根っこはポーランドにあるとしても、その高貴とでもいいたい美の結晶のようなピアノの芸術は、もはや国境を遥かに超えた存在だし、父親はフランス系、また祖国を離れて生涯をフランスで過ごし没したことなどを考えると、事はそう単純ではない気がするのです。
とりわけ、それぞれの作品に散りばめられた洗練の極致は、とうていポーランドというヨーロッパの一国のみで育まれ、今もその芸術的主権を出身国だけが握っているとはマロニエ君には思えない。

ショパンらしい演奏とは、ショパンの美意識、センスや好み、様式感を敏感に汲み取り、それがさほどの苦労なく共感できる者だけが体現できることで、つまり本質的には独学に委ねられるべきで、あまり人から事細かに叩き込まれるようなものではないと思うのです。


さて、今どきの、そつなく弾きこなすだけでワクワク感のかけらもないピアニストが多い中、反田さんは久々にナマの肉体から出てくる手応えみたいなものがあって、筋肉質な演奏がその魅力ではないかと思います。
少なくとも彼がピアノの前に座るなら、聴いてみたいという気にさせるだけのものはある。

今回のショパンは、しかし、彼の自然さから何か大事なものが遠のいた感じ。
音楽表現上のコントロールなのか、個人的にはもっと大きな制御のかかった感じを覚えました。
ポーランドで学んだことをよく守り、注意深く弾いているのか、普遍的な意味でのショパンとしてのまとまりと見れば、よくなっているのかもしれないけれど、曲そのものが奏者の体を使って自由に羽ばたいていくような感覚とか、随所に仕込まれた詩的な要所が大きく意味をもって語ってくるような生々しさがなく、楽譜に書き込まれた多くの注意事項をよく守り、よくさらって弾いているという感じが前に出ているようでした。
細部にまで注意を張り巡らすことは大事だけれど、それで音楽の推進力が失われてしまっては、作品も演奏も縮こまってしまうだけで、大ポロネーズなど高揚感をもって弾き切って欲しいところを、なんども冷静に姿勢を撮り直すような感じがあるのは、正しいこととは思えませんでした。

またop.56-3のマズルカは一般的な人気曲ではないけれど、マズルカの中では最大級のもので、個人的にとても好きな作品のひとつですが、その悲しみや移ろいがこまやかに伝えられたとは言いがたく、聴く者の心を揺らす大事なところで、シャシャッと処理されていくあたりなどを目の当たりにすると、やはりショパンとはもともと相性が良くないのではないかと思いました。

とくに反田さんぐらいの方になると、大きくピアニズムというだけでなく、細かい単位での演奏フォームというものがあり、そのフォームがショパンに適合しているとは感じませんでした。

ファツィオリについても書きたかったけれど、だらだらと長くなってしまったので、またいずれ。
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ヤマハのすごさ

遠方に出掛けた折、ヤマハのグランドのうちCXシリーズをほぼ全機種展示しているお店があるというので、ついでといってはなんですが、ちょっと覗かせてもらいました。

ヤマハにはもともとあまり興味はないけれども、現行のCXシリーズは、調律師さんの中には「そこそこいいと思います」というような、一定の評価をされる方もおられます。
日本製品として世界からの評価を得ている量産ピアノという客観的事実を思えば、その最新モデルとはいかなるものか、ちょっと触れてみることも無駄じゃありません。

店内に入ると、うわ、お客さんはゼロ。
お店の方が二人ほどおられて立ち話をしておられましたが、こちらの入店を機にもう一人はどこかに行ってしまわれ、かなり広い店内にはお店の方とマロニエ君の二人きりになりました。
一音出しても店内に響くような静寂の中で、どうぞと言われても「では!」とばかりに試弾をしてしまうような度胸は到底持ち合わせていないので、うわぁ…まいったなぁ…という感じ。

人差し指でぽとんぽとんとやっているだけではどうなるものではないから、おずおずと遠慮がちに断片的に弾いていると、お店の方はこちらの心情を察してか、そっと奥の方へ行ってくださいました。
こういうのも「忖度」というんでしょうか。
とにかく台数が揃っている店で、新品はC1X、C2X、C3X、C5X、C6X、C7Xと横並びし、更にむこうには中古のCFIIIがありました。
ほかにもアップライトなどたくさんあったけれど、とても手が回りません。

というわけで、なんとか新品グランドはひととおり試しました。

もっとも印象に残ったことは、ヤマハというメーカーの恐ろしいまでに計算され尽くした見事な商品構成。
こうして順番に弾き比べていくと、ひとつサイズが大きくなるにつれ、良さがそのぶんだけ確実に加算されていくという事実。
大から小への逆コースもやはり同じ。

だからといって小さいモデルが悪いわけではなく、それでも十分商品として成立して完成されており、買った人はちゃんと満足を得られるようになっているから、決して後悔することはない。
価格の差もそれに準じたもので、どこかの段階で急に高くなるということもなく、マトリョーシカのようにまず大きさの順番があり、そこには納得できる価格差があり、そしてなによりもすごいのは弾き比べてみたとき、少しずつまるで等間隔の階段を一弾ずつ登るようにちょっとずつ良くなっていく、その考えぬかれた性能差を作り出す技術。

たとえば、C3Xを弾いたらそれなりにまとまっているいるけれど、C5Xに移ったら、全体が確実にはっきり、しかしあくまで節度をもって一段良くなる。
さらにC6Xに移るとさらにやわらかさとゆとりが出て、落ち着きが加わり、ここからが大人という感じ。
C7Xに移ると、もうひとつ先が開けて、ブリリアンスが加わりコンサートピアノのエッセンスみたいなものがちょろっと入ってくる。
このあたりの徹底して計算された「差」の出し方は、まさにヤマハの均等な製品づくりにおける陰の実力を見るようで、その見事さが、とてつもないメーカーだと思いました。

少なくともこの日試したグランドは、大きく高価になるほど「良くなる」のであって、そのわかりやすさは、とくに音楽やピアノに精通していない入門者や楽器に疎い先生達などにも、すぐに理解でき体感できるもので、そのサイズ/価格差は誰もが納得できるもの。
その背後に楽器を生み出す工房の気配は感じなかったけれど、巧妙に計算され、最高の工場で生産された日本製品の凄みがありました。

それが楽器作りにふさわしいかどうかは賛否あるとしても、ピアノというものをここまで製品として昇華させたということは、超一流の技術のなせる結果であって、その企業力にはビビリました。

ついでに、中古のCFIIIにもちょっと触りましたが、ヤマハといえどもコンサートグランドというのはまったくの別世界となり、ここではじめて楽器という有機的な感触を受けました。
量産モデルに比べると、格段にものごしがやわらかで底が深く、音もがなり立てず、秘めたる力と慎みがあり、タッチも精妙。
いかようにもお応えしましょうというリッチなおもてなしのよう。

久々にヤマハ一色の時間でしたが、とても貴重な体験になりました。
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またまた中古CD

中古CDの当たり外れは、困ったことにちょっと病みつきになってきたかもしれません。
もともとが、ダメモトでやっていることなので、失敗してもさほどの痛手ではないのですが、それでもみみっちいドキドキ感はあるのです。
前回までの経験として、あまりの激安はやはりゴミになる確率が高いので、そのへんはより注意することに。

△【アルバン・ベルク弦楽四重奏団のモーツァルト】
思い込みかもしれないけれど、モーツァルトの弦楽五重奏曲といえばあのg-moll KV516のような不朽の名作があるにもかかわらず、意外にもこれといったCDがあるようでない印象。アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、1980年代ぐらいからかずいぶん流行った時期があり、マロニエ君もその波にのせられてベートーヴェンの全集など買い揃えたりしたが、技巧的で見事だが、今の耳で聞くとやけに力んでいるようで、そこがいささか古臭くもあり、心から作品の躍動を楽しめるというのとはちょっと雰囲気が違った気がする。五重奏なので、ヴィオラをもう一人加えたもので、この時代特有のやや固く叙情を排した印象だが、とりあえず演奏自体がしっかりしているので聴くには値する。ただし、これでこの作品の核心に触れられるかというといささか疑問が残る。モーツァルトの弦楽五重奏曲でとくに第3番/第4番というのは、何十年来耳にしているから、いかに傑作といえども、そう何度も繰り返して聴く気になれないのが残念。

☓【グールドのリパフォーマンス】
2006年の発売当初からかなり話題だったがどうしても気乗りがせずに買わなかったCD。いわゆる現代のコンピュータ制御による精巧な自動演奏を用いて、1955年のゴルトベルク変奏曲をヤマハのコンサートグランドで再現録音したもの。マロニエ君はそもそも自動ピアノというものが、演奏者と楽器の関係なしに成り立つものである以上、まったく興味がわかないし、それは現代のハイテクをもってしても覆ることはないことを確認することになった。解説文にはこのシステムがいかに優れたものであるかということが縷縷述べられてはいるが、要するに、聴いてみて、まったくの技術屋の機械遊び以外のなにものでもないと思った。タッチは浅く骨抜き、なにより気が入っておらず、うわべだけの霞みたいな演奏は、新録音であろうとサラウンドなんたらであろうと無意味。耐えられずにオリジナルのモノラル録音を鳴らしてみると、いっぺんに目の前が明るくなるような爽快さがあった。モノラルで結構、マロニエ君にとっては精神衛生にもよろしくない1枚。

❍【ドラティのバルトーク】
どんなに音楽が好きでも、あまり馴染みのないまま来てしまった名曲というのは人それぞれあるもので、マロニエ君にとって、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」がまさにそれ。つかみどころのない難解な作品のイメージがあったけれど、いざ腰を据えて聴いてみるとまったくそんなことはなく、わりにすんなり馴染むことができたし、なかなかおもしろい作品でかなりの回数を繰り返し聴くことになった。上記のモーツァルトで述べたように、聴き始めの頃だけにある新鮮さというのは、回を重ね時を経るうちにしだいに失われていくのは如何ともしがたいが、そういう意味でも大いに楽しむことができた。いずれも大変な力作で、良いオーケストラの演奏会で聴くには好ましいだろう作品。そもそもマロニエ君は、マーラーやブルックナーに多くあるように、長大な管弦楽のための作品で、曲の出だしが聞こえにくいような感じで開始されるのが、やたら思わせぶりで泥臭く思ってしまうところがある。

❍【ジョシュ・ガラステギのバレエレッスン用CD】
スペイン出身のピアニストらしいが、マロニエ君はまったく知らなかった人。後でネットで検索すると、バレエのレッスン現場ではバリシニコフの時代からこの分野で有名なピアニストだったらしい。曲はバッハからチャイコフスキー、スペイン物まで有名な曲をバレエスタジオでの練習用に編曲したもので、音楽として鑑賞するものではないけれど、マニア的にはなかなか面白いCDだった。なにより印象的だったのは、一切の記載はないけれど、きめ細やか(これは稀有なこと)でしかも朗々とよく鳴る理想的なニューヨークスタインウェイの音が聴けるという点。個人的な印象で云うと、製品ムラというか平均的なクオリティでいうと圧倒的にハンブルク製だと思うが、ごくたまにある当たりのニューヨークの中にはとてつもない逸品があるようで、まさにその音を聴けるだけでも購入した甲斐があったというもの。ちなみにこれ280円だったけれど、ネット上ではなんと4700円というのにはびっくり。

☓【カテリーナ・ヴァレンテ】
この人のことを知らないマロニエ君は、昔のフォーマルな装いの写真からしててっきりクラシックの歌手だた思い込み、閉店間際、4枚組で500円ということもあってついでに購入。はたして音を出してみると古き良き時代のポピュラーで、いわゆるヨーロッパの歌謡曲だった。自分の無知が招いたことだし、クラシックの棚にあったのも要因。ま、たまに車中などでガラッと気分を変えるのにいいかも。
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カレンダー

日本調律師協会が作られるカレンダーが素晴らしいことは以前のブログに書きました。
月ごとにマニアックなピアノの美しい写真が掲載されていることに驚いたと書いたら、このブログがきっかけで時々メールのやり取りをする方からご連絡がありました。

昔のものもみてみたいと書いたのですが、あくまで機会があればという程度の軽い気持ちだったのですが、その方は手許にあるのでよかったらお送りしましょうか?というありがたいことをお申し出をくださったのです。
なんだか厚かましいような気もしたけれど、見てみたいことは事実だし、せっかくのご厚意なのでお言葉に甘えて送っていただきました。

封筒を開けると、なんと昨年を頭に3年分も入っていてびっくり!
昔の聞いたこともないようなメーカーのピアノが次々に登場するのは見るだけでも価値があり、最後のページには2016年/2017年は「浜松楽器博物館」、2018年/2019年は「武蔵野音楽大学楽器ミュージアム」とあり、大きな組織がきちんと保存しているピアノというわけで納得でした。
つまり、これらは日本に存在しているピアノというわけで、いずれもが過去に何らかの理由で日本にやってきたピアノ達ということになるのでしょう。
昔のほうが数は圧倒的に少ないだろうけれども、マーケテイングだなんだということがないだけに、ピアノにしても多種多様なものが輸入されていたようにも思われ、現代は「多様性の時代」などというけれど、そうとも言い切れない側面もあるような気がしました。

現代の日本で、これだけ多様なメーカーのピアノが入ってきても、まず需要もないだろうし、当のメーカーもなくなったりで、ほとんどが有名ブランドのもので絞められるし、なにより国産量産ピアノの普及によって全国津々浦々まで埋め尽くされ、さらにはそのピアノさえも引き潮となって数を減らしていっているところでしょう。


カレンダーに話を戻すと、毎年いただく海外メーカー系のカレンダーでよく目にするものは、デザインやレイアウトなど制作の経緯は知らないけれど、見るたびに首を傾げるほどセンスがなく、とても使いたくなるようなものではない。
また、今年は日本メーカーのものもたまたま入手しましたが、さらにダサく、見たくもない音楽系タレントのような人の羅列で、いいカレンダーというよりは「ああ、この人達がこの会社と深いつながりがあるんだな」と思えるだけの、自分が使うことはまったくイメージ出来ないようなもの。
どうしてこんな感覚がまかり通るのか、まったくもって理解に苦しみます。

それにひきかえ、この日本調律師協会のカレンダーは本当にすばらしく、普通はカレンダーなど用済みになればゴミ箱行きですが、なかなか捨てる気にもなれません。
どういうカレンダーを作りたいかが明快で、必要以上の狙いが盛り込まれていないことも、却ってこの協会に交換を抱けるし清々しさがあります。
これだけ珍しいピアノを題材にしていれば、いつかネタ切れになるのかもしれないけれど、できるかぎり続けてほしものだ願っています。


近年は、年末といってもカレンダーをいただく機会は少なくなったし、いただいても以前のように単純に部屋に架けて使うということはなくなったのではないでしょうか。
最近は企業や団体なども、カレンダーを作るという恒例行事じたいが激減してるそうで、むかしは筒状に丸められた使わないカレンダーの山が積み上がっていたものですが、ここ最近はそれはすっかりなくなりました。

聞くところによれば、企業も経費節減の折柄、費用ばかりかかってタダで配布しても、大半が使われることなく廃棄されるオリジナルカレンダーというものが、早々に整理の対象になったようです。
いっぽうで、使う側も、絵や写真付きのカレンダーというものが流行らなくなり、実用に徹した文字だけの機能的なカレンダーが好まれ、さらにそれが100円ショップなどで大小様々に売られるものだから、もはや観光写真や見飽きたドガやルノワールの絵がついたようなカレンダーを無抵抗にぶら下げているところなど、ほとんど見なくなったような気がします。

企業カレンダー全盛の頃には、一部にはデザイン優先の気の利いたいいカレンダーもありましたが、全体的傾向としては大同小異、とりわけ音楽関係のそれはセンスがなかったという記憶しかありません。
それでも比較的まともだったのが、グラモフォンのずっしり重い大判カレンダー。
カラヤン、ベーム、ポリーニ、アルゲリッチといったこのレコード会社所属のスター達の写真が12枚、マットな黒ベースに、墨一色で仕上げられたもので、これだけは見るのがちょっと楽しみではありました。

それでも、実際に部屋にかけて使ったことは一二度あるかないかで、結局実用性が低いために使わず、もったいないといって何年もとっておいたりしたものの、最後は廃棄処分に鳴るだけ、それが大半のカレンダーの運命でしょう。

そんな中、日本調律師協会のカレンダーは久々に見るのが楽しい貴重なもので、資料性も高く、これは可能な限り保管していくだけの価値のあるものだと思いました。
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シュベスターのグランド

シュベスターネタで、もうひとつくだらぬことを。

今どきのネット社会では、どなたもそうだろうと思いますが、自分の興味の対象については、必要もないものまでついあれこれ貪欲に見てしまうもの。
ネットというのはそういう意味では、人のガツガツした部分をイヤでも煽ってくるようです。

くだらない、もっと時間を有意義に使うべき、と頭では思うものの、どうしても興味本位に手先が動いてしまい、ばかばかしい検索をしては、自分にとって欲しい情報から連続して関係ないものまで覗き見るというほうが正しいかもしれません。
そんなことをやっている中で、ネット上ではかなり有名なピアノ店に、シュベスターのグランドがありました。

シュベスターのグランドというのは、それ自体がレア物で、サイズもG60という奥行き183cmの一種類のみですが、多くの個体はもうボロボロで、大掛かりな再生作業を必要とするものが大半のようです。
その中に、珍しくかなり状態のいい一台がありました。
見つけたのは昨年秋ごろだったと思います。

このピアノ店のご主人がかなりのトーク名人で、いかにもフレンドリーにわかりやすくハキハキと説明をされ、ピアノもそれなりに弾けていつも簡単なものを肉厚なタッチで弾かれるので、どんな音のするピアノなのかもかなり分かるようになっています。
果たしてそのシュベスターのグランドは、状態もまあまあだし、なによりその音は軽やかなフランスピアノのようで、聴くなり気に入ってしまいました。

その動画は販売を目的としたもので、状態のいいシュベスターのグランドというのはめったにないこともあり、これはすぐに売れるだろうと思っていました。

ところが、予想に反してなかなかそうはならなかったようでした。
おそらく、これからピアノを買うという人の大半は、やはり大手の新品、もしくはそれに近いものに需要が集中するのか、このめったにない魅力的なピアノであってもなかなか買い手が現れず、ずいぶん長いこと動画もアップされたままでした。

大手メーカーのこのサイズなら、遥かに材質も劣り、音もデリカシーのない大雑把なものであっても、世間一般の定評を得ているから人気もあり、需要も多いことを思うと、ピアノは正当な評価を得るのが殊のほか難しい商品だと思わずにはいられません。

置く場所があれば、さっそく見に行って連れて帰りたいくらいですが、さすがにそれはムリ。
いつしか、この動画はマロニエ君にとって「時折見てはその音を聴いて楽しむもの」となり、一週間に一度は見ていたような気がします。

今年になってもその状態は続いていましたが、2月に入ってしばらくした頃だったでしょうか、いつもの様にその店のホームページから商品一覧を見ると、…あれ?
ついにそのシュベスターの動画がなくなっていました。
お店の商品なんだから売れたら、その動画も無くなって当たり前なんですが、なんとはなしにそこに行けば見られるのが普通みたいになっていたので、とつぜん消えてなくなるのは甚だ勝手ではあるものの、とてもショックでした。

不思議なのは、多くの点でアップライトのうちのシュベスターと共通した音の特徴がある点で、同じメーカーだというだけで、グランドとアップライトでは、形状もまるで違うのに、なぜこれほど相通じる音が出せるのかと思います。
たしかにスタインウェイはアップライトでもスタインウェイの音がするし、これって考えてみたらなぜそういうことができるんだろうと思います。

その後、くだんの動画は、未練がましく探してみたら、「嫁いだピアノリスト」というところにまだ存在しているのを見つけたので、とりあえず安心。
さっそくお気に入り登録しました。
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花の命は…

先に書いたシュベスターの調整。
今回のそれは殊のほか上手くいって、音を出すたびにハッとするような喜びを感じるピアノになりました。
手作りとはいえ、しょせん高級品でもないアップライトで、こういう状態が到来することは、そういつもあることではないでしょう。

全体に甘い音色、透明感、倍音、頼もしくキザな低音、さらにはシュベスター特有の憂いを含んだ明るさなど、弾けば曲が響きをまとい表情を作っていくあたり、さも価値のある楽器みたいな気配も加わって、再び階下のグランドには触れない日々が続きました。

このシュベスターは製造年代から言えば40年ぐらい経過したものではあるけれど、その音は大手の大量生産の音とは根底のところで違っており、贔屓目にいうならややヴィンテージ風なところがあり、それを楽しむことがこういうピアノの魅力だと思います。

メーカーに関係なく、ヴィンテージもしくはヴィンテージ風の音に慣れてしまうと、なかなか現代の新しいピアノ(高級品は別として、一般的な量産品の音)を受け入れることは、かなり難しくなるような気がします。
それは、ボディは鳴っていないのに、妙な感じにパワフルで、人工的な整ったような無機質な音がバンバン押し寄せてくるあの感じ。

もちろん価値感は人それぞれなので、一概には言えないけれども、音楽を愛好し、ピアノを喜びの対象として捉える向きには、楽器の発する音というのは、自分の感性に直に訴えてくるものかそうでないかは、その楽しさの質という点において、ずいぶん違ってしまうとマロニエ君は考えます。
どんなに精巧できれいでも、工業力が前面に出ているようなピアノは、どうしても心が癒やされることはなく、弾き手もつい技術に走り、ピアノの音を楽しみ、音楽を紡いで幸せになるという感覚を失っていく気がします。

とくにピアノは楽器を標榜しながら、実際には消費財とみなされて新しい物が幅を利かせ、それが標準という顔をしているし、教師や専門家にもそこに疑いを持つ人はさほど多くはありません。
また技術者も、多くの場合が販売ビジネスにも絡んでいる立場から、なかなか核心には迫らないし、あるいはそれに慣れすぎて、理想の音の基準が変質してしまっている気配がなくもない。

そのあたりは、技術者の方にとってはその技術を顕す対象としてピアノがあるから、日本製の精度の高いピアノ、すなわちクオリティの高い仕事がしやすいピアノはどうしても評価があがるし、ヴィンテージ系のピアノに関しては(一定の味があることは認めつつも)、職人としての本能みたいなものがあって、作りの甘さであるとか、音のムラ、新しいピアノにはないような欠点や衰えがどうしても目につくのだろうと思います。

これは、昔の巨匠たちがもし現代のコンクールに出たら、予選さえ通過できないだろうというのと、同じようなことかもしれません。


さて、シュベスターですが、先の調律で音を柔らかくして欲しいと依頼して、ほぼそのようにしてもらった経緯は前回書きましたが、そのときの仕上がりというのがあまりに完成度が高く、かつ繊細だったので、内心「あー、あとは崩れていくだけだろうな…」という一抹の憂慮がありました。
それから2週間ほどしたら、その精妙の限りを尽くした極上の音は雪景色が溶けていくようにしだいに薄れ、完全とは言わないまでも、かな以前に近い音(の硬さ)に戻ってしまいました。

ちなみにこの方はコンサートチューナーでもあり、一夜のコンサートのためのピアノなら素晴らしいものだったと思いますが、やはり家庭用ピアノの調整では、ある程度の耐久性への考慮という側面も欲しいと思ったりで、難しいところですね。

素人考えでは、単純にもっと針刺しをしてハンマーフェルトを柔らかくすればいいのにと思うけど、そう単純なものでもないのでしょうし、時間経過したハンマーはすでに柔軟性を失っていることもあるでしょう。
いずれにしろ毎月調整を頼むわけにもいかないので、もう少しだけ耐久性のある方法はないものかと思うばかりです。

ちなみにこの方から聞いた話では、有名なM商会の技術者には、なんとシュベスター出身の方がわりにおられるそうで、この思いがけない不思議な話にはきょとんとしてしまいました。
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1勝5敗

古本店で漁る中古CDというのは、やはり良い物に出会う打率は高くはないようです。
もちろんマロニエ君の見極め力が低いから…と言えばそうなんですが。

本来欲しいものや新譜などはネットで新品を購入しますが、よく熟考した上でも失敗はつきもの。

そもそも中古CDは、新品ならまず買うことはないものに敢えて挑戦するわけで、ハイリスクとなるのは必至。
最近もかなり失敗を重ねてしまいました。
5枚中、4枚が失敗(☓)、成功(❍)はたった1枚で、以下の通り。

☓【バッハのピアノ曲】
べつに興味をひくピアニストでもなく、フランス風序曲やイタリア協奏曲など曲もあえて買う必要はないものだったが、ニューヨークでの録音とあり、いかにも大雑把でアメリカチックな雰囲気のCD。マロニエ君は今だにグールドやシェプキンのイメージを引きずっていて、ニューヨーク、バッハ、ピアノとくるとなぜか反応してしまうところがあり、我ながらもうそろそろそんな妄想は捨て去るべきところ。NYスタインウェイの軽やかな響きで聴く現代的なバッハのイメージは見事に裏切られ、モダンのかけらもなく、ピアノの音もどこか重い。ブックレットを見ると、え!?Hamburg Steinway Dとあり、どうりで!と思いつつ、なにひとつ見るべきところのないものでガックリ。

☓【フランクの初期ピアノ曲集】
ナクソスレーベルらしい珍しいアルバム。バラード、4つのシューベルトの歌曲のトランスクリプション、ポーランドの2つの歌による幻想曲、アクス・ラ・シャペルの思い出という内容。出だしからしてどうしようもなくダレてしまう曲、シューベルトの歌曲もただ歌をピアノで弾きましたというだけの感じだし、ポーランド…は聴き覚えのある旋律と思ったらショパンの「ポーランド民謡による幻想曲」のそれだが、ショパンのそれとは雲泥の差で、げんなりするほど退屈。どれも一度聞くのがやっとで、あのピアノ五重奏やヴァイオリンソナタなどを思わせるものはどこにもない。ピアノは音もボワーンとして楽器も調律もまったくみるところナシ。

☓【小沢/サイトウ・キネンの第九】
2002年9月、松本文化会館で行われた演奏会のライブCD。ぜんぜん小沢ファンではないけれど、むかしこの期間限定オーケストラが始まった頃、ブラームスのシンフォニーで聴いた熱気と精緻さが結びついた新鮮な演奏にびっくりした記憶があったので、ベートーヴェンはどうかと購入。果たして、あのブラームスの感動は何だったのかと思うほど無感動。耳をすませばオケの演奏は機能的だし歌手もうまいけれど、総じて覇気がなく、要するになにも迫って来ないし聴く意味が感じられない。会場のいかにも多目的ホール然としたデッドで仕切られたような音響も追い打ちをかけるのか、音に幅がなく縮こまっているようで、がんばって2回聴いたけれど、こういう演奏はとりわけ第九ではしんどい。自宅でCDを聴くのにわざわざこれである必要はなく、フルトヴェングラーでリセットしたくなる。

☓【シフのスカルラッティ】
今を旬とばかりに冴えわたるバッハなど、現代の最も雄弁かつ信頼のおけるピアニストのひとりであるシフ。彼のスカルラッティならさぞやと思ったものの、全体に遊びがなく、固くて艶のない演奏に拍子抜け。スカルラッティの嬉々とした滑舌や色彩とは程遠い、モノクロームな世界。録音もイマイチ。データを見ると1987年の録音で、シフの輝けるピアノを聴くには、もう少し時を待つ必要があったらしい。考えてみれば初回のバッハ全集も途中から急に良くなるところがあって、この人はある時期を境に一気に熟成が進んだと思われる。これはその花開く前の演奏。そういう意味ではスカルラッティも再録を望みたいもので、少なくともこのアルバムに関しては何度も聴こうという気にはなれない。

❍【ひとときの音楽 波多野睦美】
いま注目のメゾソプラノ。歌手といえば一昔前までは華やかなオペラを目指すか、端正なリート系に寄せるかが一般的だったが、この人は中世・ルネサンス期から近現代までの幅広いレパートリーをこなす異色の歌い手。このアルバムでもパーセルを8曲、ほかにヘンデル、モンテヴェルディ、バッハという内容。バックもバロックヴァイオリンの第一人者である寺神戸亮さんはじめその道のスペシャリストが居並び、開始早々、あまりに自然にバロックの時代にいざなわわれる。絹糸のような美しい透明な声、少しもわざとらしさのない様式感、迷いのない澄明な表現で、ともすれば黴臭く聞こえてしまうこれらの曲を、まったく違和感も前提も注釈もなしに、心地よい音楽として聴かせてくれるのは大したものだと思う。ヴィブラートも必要なときにだけ最小限で用いられて装飾音のよう。丁寧で気品があり、かといっていちいち何かを鼻にかけるところもないナチュラルな美がある。すっかり気に入って、何日間もこれ1枚を聴いて過ごした。

たまにこういうことがあるから、ついまたやめられなくなるという繰り返しになるんですね。
考えてみれば5枚で新品一枚分と思えば価格的には許せますが、困るのは聴かないCDがずんずんと積み上がっていくこと。
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マイクロファイバークロス

暮れに、手早くピアノを掃除するには、ダイソーなどにある使い捨てのフローリングワックスシートが意外にいいということを書きました。
まあ急ぐときには悪くはないけれど、でもやっぱり「床用」というのが気持的にひっかかるし、大事なピアノをあまりに安物で軽く済ませるのはいささか罪悪感がないでもなく、あまり常用するのは忍びない気になりました。

そんな折、たまたまピアノ専門の木工の職人さんとお会いする機会があったのですが、その方は作業後の拭き上げには、市販のマイクロファイバークロスをごく普通の感じで使っておられて「え?」と思いました。

マイクロファイバークロスは柔らかいものは傷になることがあるので注意が必要とされ、これは使ってはいけないものと思っていたので、これはまったく思いがけないことでした。
しかし、この方は塗装や補修/磨きなど、いわばその分野の専門家なのでその方のやり方というのは「プロの技」でもあり、それなりの経験があるはずで、実際その方の仕上げられたピアノは、本当にピカピカで見事なのです。

多くの調律師さんがネルのクロスなどを使われている中、この方は慣れた感じでマイクロファイバーを使われるのは驚きで、当然質問をしてみましたが、とくに問題はないとのこと。
注意すべきは、当たり前ですが必要以上に力を入れず、軽く均等にというぐらいで、「(使って)大丈夫ですよ」とサラリといわれたのは意外でした。
へー…そうなんだ…。

で、それから自分でもやってみました。
できるだけ手で触って柔らかいものを選び、水に濡らして固く絞り、ピアノ用のクリーナーを少量クロスになじませて軽く拭いてみると、苦もなくピアノはきれいになります。

水に濡らしたのは、マロニエ君の洗車経験などからしても、乾拭きというのあまり評価できないから。
人によっては乾拭きや毛バタキがダメージが少ないと思い込んでおられる方もありますが、マロニエ君はこれはまったく同意できません。
乾拭きこそ小キズの原因になり、そこになんらかのケミカルでも使おうものなら、伸びは悪くムラになるなど、いいことはなにもない。
それに対して、クロスが少量の水を含んでいることでケミカルを均等に広げ、きれいに仕上げる効果もあるようです。
水を含ませて力の限り固く絞り、そこにほんのすこしクリーナーを含ませる事がポイント。

先日も車のリペアショップの職人さんと話しましたが、やはりワックスやコーティング剤は、極力少量を薄く塗ることが大事と言われましたし、皮膚科の先生も塗り薬はできるだけ薄くと、どうやらこの点はどこも共通しているようです。
慣れないと、効果を期待して、つい多めに使ってしまうものですが、それが却ってダメなんですね。

そういえば思い出しましたが、行きつけの歯医者さんも、歯磨き粉(粉じゃないですが)は、ほんのちょっとをブラシの上にのせるだけでほとんどの人が使いすぎ、「私たちは一本のチューブを使うのに半年ぐらいですよ」と言われて驚いたこともありますから、とにかくどの世界も少ないほうがいいようです。

ただ、車でもピアノでも、大事なのは下地処理。
汚れや埃の積もった状態から、いきなり艶出しというわけにはいかないので、ピアノの場合はホコリ取りのモップ等で軽くホコリを落としてからこの作業をすることでしょうか。

マイクロファイバークロスでのピアノクリーニングは、簡単快適、仕上がりもキリッとした好ましい感じに仕上るので、今はこれが一番という感じです。
今さらこう言ってはなんですが、使い捨てのフローリングワックスシートは薄いので、あれはあれで使いにくさがありますが、クロスなら一定の厚みもあり、面を変えて使って、洗えば何回でも使えるので、今はこれが一番作業性もよく気に入っています。
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少しソフトに

昨年末から持ち越しになっていた、自室のシュベスターの調律をやっていただきました。
主治医の調律師さんは毎回丁寧にやってくださいますが、今回は主に整音をメインとしてお願いし、トータル5時間オーバーの作業となりました。

聞くところによると、一般的にはアップライトのハンマーヘッドは針を入れづらいほど固いものが多いらしいのですが、我が家のシュベスターは珍しいほど柔らかい巻きだそうです。
こういうところにも作り手の音に対する何らかの意図が表れているのでしょう。
柔らかいハンマーといえば、主にアメリカのピアノであるとか、ヨーロッパでも古い時代のピアノがそうでしたが、その後は固いハンマーを針でほぐしながらヴォイシングしていくのが世界的な流れになった印象があり、深くまろやかな音より、エッジのきいたインパクトのある音を時代が求めたのかもしれません。

なので現在は巻の固いハンマーが主流かつ固定化していると思っていたら、ここ最近の日本製の新しいピアノ(グランドを含む)は、どちらかというと以前より柔らかいハンマーが付いているんだそうで、これは意外でした。

もちろん、ただ柔らかいとはいっても、その素材や製法、ハンマーとしての性質はいろいろあるわけで、良質の羊毛で作られた昔の古き良きハンマーとは根本的に違うとしても、新しいピアノのハンマーが以前より柔らかくなってきたというのは、ちょっと意外な話でした。
いわれてみれば、たしかに最近のピアノの音は深味こそないけれど、さほどキンキンした音ではなくなり、ほどよく角のとれた嫌味のない音になっているので、それを可能にしているひとつが柔らかいハンマーなのかもしれません。

シュベスターに戻ると、かなり弾いて少し派手な音になっていたので、ソフトな音にして欲しいという希望を伝えましたが、この調律師さんはかなりのこだわりのある方で、すぐ単純に「はい」というわけにはいきません。
針は一度入れたらもとには戻らないこと、ただソフトにするだけでは音の輪郭がぼやける、フォルテシモが出なくなる、必要な芯までなくなってしまうことなどを考慮され、きわめて慎重に針を入れられました。

入れたら入れたで、隣り合う音のバランスやらなにやらがあり、その都度調整。
さらに外していた上前板/鍵盤蓋を取り付け、前屋根も閉めて音を出すと、我が家のシュベスターは「箱鳴り」がするのだそうで、そうなるとまた少し違ってくるというので、また外して追加作業となり、こんなことをやっていると時間はどんどん過ぎていきます。

このシュベスターはそこそこ良い音を出すピアノだとは思うものの、新しいピアノではないので問題もないではなく、例えば巻線(低音の弦)の中には、ややあやしいものがあったりで、それらは順次解決すべき課題。
問題のある弦は張替えもやむなしかと思いましたが、とりあえず硬化剤を使いながら調律で音を出すという方法が取られたところ、それほど気にならないまでに持ちなおし、もう少し現状で様子見することになりました。
これはあくまで一時しのぎであって、基本的な解決ではありませんが。

硬化剤といえば、中音〜次高音にかけても、ソフトにするためにも上記の音の芯を失わないためなのか、僅かに硬化剤を使いながら音そのものはソフト方向に持っていくという手法が取られ、音作りは単純ではないなあと勉強になりました。
結果は上々でしたが、かなり精妙に仕上がった感じもあるから、その精妙さが崩れるのが惜しくて、この数日はチビチビと美酒を舐めるように弾いてます。


今回、調律さんから、日本ピアノ調律師協会のカレンダーというのをいただきました。
見ると上下に分かれ、上が写真、下がカレンダーというよくある作りで、ひと月ごとの12パターンですが、その写真というのがいずれも博物館級のピアノで「わっ!」というものでした。
しかも大半が名も知らぬような珍品ばかりで写真も非常に美しく、さすがは技術者集団だけのことはあると唸りました。

まさか日本に、こんなにマニアックで素晴らしいピアノのカレンダーがあるなんてちっとも知らず、昔のものも見てみたいです。
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意図不明

コンクールネタでもうひとつ。

今年のNHKは、年初からピアノ関連の番組が多いということを書きましたが、更にそれは続きました。
「『蜜蜂と遠雷』 若きピアニストたちの18日」というもので、第10回浜松ピアノコンクールに密着したドキュメント。

ところどころ、俳優の中川大志さんがピアノの前で、小説『蜜蜂と遠雷』を手に朗読を挟みながら番組が進む構成。

『蜜蜂と遠雷』は、マロニエ君にとって読んだころから、小説として掴みづらく、なにが主題なのかよくわからない作品だったのですが、そんな印象とは裏腹に直木賞と本屋大賞をダブル受賞し、どんどん話題となっていったき、なんだか自分の感覚だけが世間から置いて行かれるようでした。
そもそも『蜜蜂と遠雷』というタイトルからして、もう忘れたけれど、なんだかもってまわった謎解きみたいなわかりにくいもので、要するにピアノということ以外、自分の趣味ではないものづくしでした。

べつに漱石だ谷崎だと旧いものにしがみつく気はないけれど、こういうものが今どきは文学作品として評価されるんだということに困惑したのが偽らざるところでした。

さて、その『蜜蜂と遠雷』を前面に押し出しながら、NHKによる実際のコンクールのドキュメントという作りのようですが、まず事前の率直なイメージとして「60分は短いのでは?」というのが頭をよぎりました。
調律師のショパンコンクール、ピリオド楽器のショパンコンクール、左手のコンクールなど、いずれもここ最近のNHKのそれらは2時間に近いサイズで、60分とわかったときからちょっとへぇ…という感じが。

夕食を外でとっていると、一足先に見られた知人の方からLINEが届き、「牛田智大さん個人のドキュメンタリーのようでした」というもので、???
もうこの時点で見る前から半分腰を折られた気分。
実際に見てみたら、まったくその通りで、彼がメインの番組構成でした。

驚くべきは、決勝進出の6人中、今回は日本人が4人と大健闘し、これはこのコンクール初という快挙であるにもかかわらず、番組は牛田さん以外の誰ひとりとして取り上げることがなかったばかりか、優勝したトルコのジャン・チャクムルさんの演奏さえ完全無視されていたこと。

番組タイトルが「…牛田智大の18日」ならまだしも、「…若きピアニストたちの18日」ですから、これはなかなか納得するのが難しいものでした。

牛田さん以外に唯一取り上げられたのは、3位入賞の韓国のイ・ヒョクさんで、決勝での演奏が少しとホテルの部屋で弟とチェスをやっているシーン、あとは途中で敗退したコンテスタントが、日本のホストファミリーの家族と過ごす様子などが少しあった程度。

べつに牛田さんにどうこう言うつもりはありません。
でも、同じ決勝まで勝ち進んだ日本人の今田篤さん、務川慧悟さん、安並貴史さん、そしてなにより優勝したジャン・チャクムルさんらは、この番組を見たらどう感じるのだろうと思うし、きっといい気持ちはしないでしょう。

ちなみにイ・ヒョクさんは決勝ではラフマニノフの3番を弾いていましたが、あの難曲を弾きつつその落ち着き払った演奏とテクニックは不気味なほどの凄みがありました。
なんと、ヴァイオリンも達者、将来は指揮者になりたいのだそうで、まさに次世代のチョン・ミョンフンとでもいいたくなる存在感がありました。
天才が当たり前の世界というのは、いやはや恐ろしいものです。

ピアノは、ヤマハ、カワイ、スタインウェイの3台。
ですが、浜松はヤマハ/カワイゆかりの街だからでしょうが、昔からこのコンクールではどうもスタインウェイは脇役という感じが否めず、それはそれでアリだと思います。
むしろ、浜松らしくピアノはヤマハ/カワイだけにしたほうがずっと潔い気もしますが、そうはいかないのだろうか。
できれば各社2台ずつ、計4台の中からピアノを選ぶようにしたほうがスッキリしないでしょうか?

驚いたのは、浜松駅の構内にはヤマハのCFXがポンと置かれていて、それで移動中の牛田さんがスーツケースを側においてリストのソナタを弾いていましたが、さすがは浜松、駅ピアノもすごい!と思えるシーンでした。

あとで調べると、優勝者が弾いたのはカワイのSK-EXだったようで、昨年カワイのサロンで同モデルを弾かせてもらって、そのときの感想を「点数が確実に稼げるコンクールグランド」というように書きましたが、まさにその面目を果たしたというか、ご同慶の至りといったところでしょう。
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左手のコンクール

1月6日にBS1で放送された「私は左手のピアニスト〜希望の輝き 世界初のコンクール〜」を見ました。
もたもたしているうちにすでに再放送までされていたようです。

日本でこの分野で有名なのは、フィンランド在住でリサイタル直後に脳梗塞で倒れられ、いらい右手に障害を負われて左手のピアニストに転向された舘野泉さんですが、真の意味で最も脂ののった実力者といえばおそらく智内威雄さんではないかと思います。

以前NHKでも智内さんを取り上げたドキュメントがあり、ドイツ在学中にジストニアを発症し、曲折の末に左手のピアニストになられた方ですが、その実力には舌を巻いた記憶があります。
この方は自身の演奏活動だけでなく、同じく右手に障害を持つピアニストを手助けすべくさまざまな活動もされていて、左手への編曲や、ネット上での演奏技術の公開など左手ピアノのためのマルチな活動をされています。

少なくともマロニエ君の中では、日本の左手のピアニストで真っ先に頭に浮かぶのはこの智内さんだったのですが、番組開始早々、このコンクールの会場が箕面市立メイプルホールという文字が出たとき、以前智内さんの活動拠点が箕面市という記憶があったので、これはもうこの方の存在と尽力により左手のコンクール開催に至ったということを確信しました。

コンクールはプロフェッショナル部門とアマチュア部門に別れ、3日間という短い期間で競われるもの。
プロフェッショナル部門は「左手」というだけで、まさにハイレベルの方ばかりで、多くの方がもともとは両手で弾かれていたにもかかわらず、病気や右手の故障で左へ転向された方がほとんど。

その演奏技術たるや大変なもので、もともと両手を使っても難しいピアノであるのに、それを左手だけで演奏してハンディなしの音楽として聴かせるのですから、これはもう尋常なものではありません。
実際にその演奏の様子は、左手だけがピアノの広い鍵盤上を飛び回り、そのスピードといったら目がついていかない早業であるし、伴奏やベースのハーモニーを鳴らしながら、旋律を繋いでいくというアクロバティックな動きの連続で、見ているこっちがくらくらしそうでした。

梯剛之さんや辻井伸行さんのように全盲であれだけの見事な演奏ををされる方がいるかと思えば、左手だけでこれだけの演奏を実際にされる方が何人もおられるわけで、その想像を絶する能力にはただただ驚嘆するのみ。

スクリャービンの前奏曲とノクターン、ブラームス編曲のバッハのシャコンヌ、ラヴェルの協奏曲などは、左手のための作品としてよく知る圧倒的な傑作ですが、それ以外となると、なかなか作品に恵まれない一面があり、ほとんど無限というほどの作品がある両手に比べると、左手の世界での大きな問題は作品にあるような気がします。

そういえば、以前の智内さんのドキュメントでも、ドイツ楽譜店で左手のための作品の探すシーンがあったし、多くの作曲家が左手のための作品を書いたけれど、ほとんどが忘れられ日の目を見ることなく埋もれてしまっているというようなことを言われていたことを思い出します。

もっと多くの作品が演奏され多くのCD等になって、耳にする機会が増えることを切に期待しています。
左手のピアノの魅力は、限られた音数の中に、いかに濃密な音楽が圧縮されているかにあるし、番組内でも誰かが言っていましたが、両手のものよりさらに熱く激情的でもあることが多いという点では大いに同感です。

はじめちょっと物足りないようなイメージがあるけれど、そこを超えると、左手ピアノには人間のぐつぐついうような情念とかエネルギーがそこここにうねっていて、深遠な世界があり、これはひとつのジャンルだと思います。
たしかに音が多ければいいというものでもなく、ソロよりも、連弾や2台ピアノが優位とは言い切れないのと繋がりがあるかもしれません。

また、ピアノの音も、両手より赤裸々にその良し悪しが出て、楽器の実力も問われる気がします。

楽器のことが出たついでにちょっとだけ触れておくと、ヤマハがコンクールの後援ということもあって、ピアノはヤマハのみでしたが、そこに聴くCFXの音はまったくマロニエ君の好みとは相容れないものでした。
もしかしたら、左手ということを意識した音作りがされた結果なのかどうか、そのあたりのことはまったくわからないけれど、できればもっとオーソドックスで深い音のするピアノで聴いてみたいと個人的には思いました。


オタク的なことを一言付け加えておくと、このコンクールのピアノで気付きましたが、ヤマハCFXは外観デザインで足の形が変更されています。
2015年の登場以来、シンプルかつ直線基調の足でしたが、最新のモデルはそこに穏やかなカーブがつけられているのを確認。
昔もヤマハのグランドの足にはわずかにカーブがついていたし、Sシリーズは逆にふくらはぎのようなぷくっとしたふくらみがあるなど、なぜか足に曲線を使うのがお好きみたいです。
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