YouTubeサマサマ

ピアノネタではないのですが、メカがまるでダメのマロニエ君にとっては極めて異例なことながら、CDプレーヤーの修理のようなことをやってみたので、ちょっとそのお話。

某所で使っているヤマハのアンプ内蔵式CDコンポ。
購入して15年以上になるもので、このところCDの読み込みが不安定になり、ついには「動かなくなりました」ということ。
試してみると、何度やってもウンウン言いながらディスクを認識せず、あきらかに故障でした。

決して高級品ではないけれど、中ぐらいのものだったので、同等品に買い換えるにはそれなりの出費となるし(すでにヤマハはもうこの手は作っていないらしい)、個人的に使うものならあれこれの代替案もあるものの、これを使っている場所はそうもいかないので、どうしてもこのような普通のものでないと困ります。

まずはメーカーに修理依頼することを考えましたが、サービス受付の電話番号をしらべたり、修理依頼にも直ぐにじは人と話ができない疲れる電話システムや都合のすり合わせなど、要するに手間と時間のかか手順が待っているし、おまけに結果如何にかかわらず出張費用などが発生したり、物を送らないといけなかったり、それらを考えただけでもウンザリ。
しかも年代物となるとさんざん待たされたあげく「パーツがなく修理できません」とか、もしくは新品に買い換えたほうがいいような高額な修理見積もりとなる可能性もあり、それを思うと気が進みませんでした。

ならばメーカーではなく、オーディオ専門店に修理依頼してはどうかと思いネットで調べてみると、いくつか受け付けてくれそうなショップはあるにはあるものの、これがメーカー以上に怪しげな雰囲気。
とりわけ目についたのは、専門店ということで、やたら高そうな機器の写真ばかりがズラリだったり。

ダメモトで一件だけ電話してみると、いかにも専門家ぶったズケズケした話し方で、たたみかけるように「まず、型番を教えてください」と言った具合で、しかも修理代金は1万円からのスタートで、故障内容によってだいたい数万になることもあります!と、やや圧迫的な響きがあって、予めそれぐらいかかる覚悟をしておくように…といわんばかりの態度でした。
その話し方だけでも御免被りたいし、最低料金で済むことはまずないだろうと思われ、それでも修理依頼する気にはなれませんでした。

その上、「これってクリーナー用のディスクは試されましたぁ?」「いいえ」「まず、それやってくだい!それで治ることもありますから、まずそれやってからですね」と、やることをやなさい。それでダメだった時に修理のことを考えるのが順序だよと言わんばかりで、まったく先方のペースで…ここはボツ。

そこでアッと思いついたのがYouTubeで、機器の型番を入れて「CDを読み込まない」という文言で検索すると、さまざまな修理の様子がアップされており、しかもわかったことは、多くの場合、CD情報を読み込むピックアップレンズというのを、ただ磨くだけで回復するというケースが多数ありました。
それでダメな場合には、レンズそのものを交換するなど、次の手段になるようでした。

というわけで、何度か動画を見て、慣れないドライバーを引っ張りだして、おそるおそる分解してみることに。
カバーが外れると、中は思ったより空洞で、底にある基盤はホコリだらけ。
問題のピックアップレンズには上部のカバーなどがじゃまで、なかなかそこへ到達できないし、それ以上分解したら元に戻す自信がないので、カバーの横から綿棒を突っ込んでちょこちょこ動かしていたら、何度かやっているうち薄茶色のホコリの塊のようなものが先端に引っかかってきてびっくり。
さらにレンズのあたりを繰り返し綿棒で動かしていると、やがて綿棒に汚れがつかないようになり、そこで試しに電源を入れてCDを挿入してみると、これまでの不調はウソみたいにスムーズになり、やすらかにディスクを認識、何事もなかったように再生するようになりました。

これだけで修理完了とはさすがに思いませんが、さしあたり自分でできるのはこれぐらいと思って、バラしたパーツを注意深く元に戻してスピーカーにつなぐと、問題なくディスクは再生され、左右のスピーカーから当たり前に音が出て「ヤッター!」となりました。
最低料金1万円どころか、使ったのはドライバーと綿棒の4〜5本だけ。

これまでなら、なんとなく寿命だろうと考えて買い替えになったところですが、故障の原因は、さしあたり長年の使用でたまったレンズの汚れだけで、それさえ取り除けばまだしばらくは使えそうでした。
こんな微々たることで危うく新しいセットを購入するなど冗談じゃないし、こんな些細な事から世の中の裏側を見てしまったようです。
まさにYouTubeサマサマでした。
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続・知名度がすべて

前回の続きをもう少し。
国内の小規模の良心的なピアノメーカーが、適切な評価も与えら得ぬまま消滅してしまったことは、残念というような言葉では足りません。
その無念さの中には、日本のピアノをとりまく無理解への恨みも滲んでいるかもしれません。

ピアノビジネスにかつてのような隆盛が二度と来ないであろうことは、もちろんわかっています。
しかし、一部の伝統工芸が辛うじて生きながらえている程度に、その命脈はかすかに保たれるべきではなかったかと思うのです。

いかなる分野でも、小規模でも良い物が生み出されて、一定の支持者のもとに届けられるということさえ立ちいかなくなるのは、市場にも大きな責任があります。大手の製品でなければ二束三文、場合によっては処分料を求めるなど、こういう扱いを受けてはマイナーメーカーの生きる道はないでしょう。
市場原理に沿った結果というのは容易いけれど、認めるべき立場の人達の大半が、大手の側についたということも見逃せません。

司馬遼太郎の小説などにたまに出てくる、「間口は狭いが、堅実な商いをやっている老舗」というような描写がありますが、こういう小規模でもしっかりしたものが立行かない世の中というのは、個人的に好まないし、強大な大国的なものしか生き残れないという息苦しさを感じます。

有名メーカーの表面だけ滑稽なほどピカピカした、音の出る家具か電気製品みたいなものがほしい人はそれでいいけれど、そういうものを好まない価値観を持った人達へのささやかな門戸さえ次々に閉ざされ、選択の余地さえないというのは、これこそ文化的貧しさの証ではないかと思います。

すでに何度も言ってきたことですが、ピアノの特殊性は、他の楽器に例を見ないほど重厚長大で、ゆえに持ち運びができないという決定的な宿命を背負っていることで、このことがまず弾く人と楽器の関係を引き離し、関心をも奪った要因ではないかと思います。
いつも自分の愛器と一緒にいいられる弦や管の人達の、楽器によせる愛着やこだわりに比べると、ピアノを弾く人にとってのピアノとは、それはもう無残なものです。

「もしもピアノが弾けたなら」ではないけれど「もしもピアノが持ち運べたら」、やはりピアノを弾く人も楽器へのこだわりは必然的に高まることは日を見るよりも明らかです。

数ある器楽奏者の中で、ピアニストだけがいつも身体一つで移動して、行き先にあるピアノを是非もなく使ってベストを尽くさなければいけないのは、考えてみれば異様なことですよね。
まずこれが、自分のピアノにこだわってみても無意味と考えるようになる、はじめの第一歩だろうと思います。

さらに、ピアノは楽器の中でも、機械としての要素、工業製品としての側面が大きいから、ここがまた大手の作るものに信頼が集まりやすく、そういう要素のことごとくが大手にとって幸運だった気がします。
ピアノにかぎらず、人間の身体よりも大きいモノというのは、えてしてそういう傾向があるのかもしれません。
これは、どこか車にも似ており、大手メーカーの生産なら安心だけど、もし名も知らぬ小さな町工場が気の利いた車を作ったとしても、それが認められ支持されることは甚だ難しいと思いますが、それとどこか似ているように思います。

それでも、普通なら優れたものは、時間がかかったとしてもやがて少しずつでも認められ、価値が出てくるのが普通ですが、ピアノに関してはまるでそういう空気がなく、これほどまで徹底して日本における手作りピアノが衰退(というか消滅ですね)するというのは、日本人の西洋音楽に対する、本質的なところの限界をも感じます。
できるのは、せいぜいスポーツの覇者になるように鍛錬し、海外コンクールで上位入賞を果たすところまでで、音楽を自分の実生活に溶け込ませ共存させることは、おそらくこの先もできない。
すなわち西洋のクラシック音楽を自然な楽しみとして受け入れることが、どうしてもできない。

少量手作りというのは、日本人にとってはどこの馬の骨ともしれない、下手をすれば失敗や後悔の可能性が高いものとしてしか捉えられないのでしょうし、なにしろ人と同じマークのついた定評のあるものを好む民族ですから、流れに反してでも自分だけの価値を見出すなんてことは最も体質に合わないことなのかもしれません。
文化芸術の一番の栄養は、「これは素晴らしいという気づき」にあると思うのですが、それは時として大勢に逆らうことでもあり、川の流れに背を向けることは、審美眼と信念と気骨が要りますからね

よって日本には楽器としてのピアノ文化は育たないと思うのですが、その一方で、ショパン・コンクールのステージには4社あるピアノメーカーのうちの2つが日本製というのは、このトリックはなんなのかと思います。
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知名度がすべて

先日、日本の某手作りをピアノを愛用されている知人の方から、いろいろと情報満載のメールをいただきました。

固有名詞や具体的なことは避けますが、ついに日本国内で、良質の材料を使った手作りピアノはほぼ絶滅したということが書かれており、いまさらですがフッとため息です。いつかは購買層の世代も変わり、価値あるものが一定程度見直され、わずかでも立ち上がる時が来ればと思っていましたが、ピアノというのはとりわけ評価や再発見が難しいものかもしれません。
一部の専門家や好事家は別として、一般的には…。

なぜこんなことになったのか、専門家に言わせればいろいろな要因を並べ立てるのかもしれませんが、マロニエ君が個人的に感じるのは、日本人の右へ倣えの民族性と、日本のピアノ音楽教育の常識が大元になっているのではないかということ。

日本は当たり前ですが、西洋音楽の伝統がないまま、文化の模倣として始めた国。
それも明治からと云いたいところですが、本格始動したのは戦後の復興期からでしょう。
大戦前からピアノを触っていたような人は、一握りの特別な人達であって、多くは戦後の高度経済成長とともに、子供にもピアノという文化を身につけさせようという機運の高まりによって、日本独特のピアノ文化が花開きます。
そこで注目すべきは、ベルトコンベアにのせた大量生産方式で作られた国産ピアノが、そのブームの中心であり標準機として使われたこと。

その波にあやかるべく、日本には信じられないほど夥しい数の大小ピアノメーカーがあったようですが、無論それらのすべてが良質ピアノだったとは到底いえません。
中には時流に乗って一儲けしてやろうという動機から、音楽もろくにわからない人達の手によって製造されたピアノもたくさんあったでしょうし、当然劣悪な品質のものもあったはずです。

そんな中、未知の階段を駆け上がるように、初めてピアノを買うとなれば品質や音色の判断力などあるはずもなく、多くの場合はピアノという夢を買うことだけで一大事だったと思います。
当時、ピアノが大量生産品か、クラフトマンシップによって生み出される名品かなど、考えた人は一般にほとんどいなかったと思われますが、ではそれが過去の話かといえばそうでもなく、現代においても、半世紀前と大差ない状況のように思います。

これといった根拠もないまま、大手の有名メーカーだけが信頼できるもので、その他多くは二級三級扱いという構図が知らず知らずの間に出来上がります。いや、そういう認識が意図的に作られたのかもしれません。
くわえて、大手は力にものいわせて全国津々浦々まで販売店を配置、さらには音楽教室まで展開し、その先生たちも師弟関係を装った準営業マンみたいなものだから、これらが覇権を握り、中小は品質如何にかかわらず淘汰されるのは必然だったでしょう。

つまり、日本では、ピアノといえば欧米では考えられなかった大量生産品が標準であり、ピアノの優劣に対する感性がほとんど育たなかったという背景があると思うのです。
これは楽器の優劣を考えることさえ、情報が遮断されていたも同然かもしれません。

いいものとは大手の作る大衆品で、音や響きの優劣を探ろうとも考えようともせず、ほとんど思考停止状態で、ひたすらブランド名だけがものをいう世界。
これでは、小規模生産の良品など出る幕がありません。

どんなに誠実な良品であろうとも、まるで見向きもされないという不条理。
これでは、志ある製作者たちもやってられないという絶望感に打ちひしがれたことと思います。

どんなに良心的な商売をやろうにも、巨大ショッピングモールには敵わないという、あの感じですね。
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泣けました

YouTubeをあれこれやっていると、アレクセイ・ゴルラッチがベヒシュタインでショパンを弾いている動画がいくつかありました。

スケルツォの2番、ベルスーズ、いくつかのマズルカなどでしたが、これがすばらしかった。
隅々までこまやかな神経が行きわたった品位のある美しい演奏であることに、嬉しい驚きをもって、思わず聴き惚れてしまいました。
ショパン演奏として趣味がよく、磨きぬかれた適切なタッチ、丁寧な語り、しかも、準備された台本通りという感じもなく、表情や語りかけなど今そこで紡ぎ出される音楽の息遣いがあって、久々に好ましいものを聴いたように思いました。

ショパンコンクールで聴くいろいろな演奏は見事だけれども、どうにも素直に気持ちが乗っていけないものが常に払拭できずにいましたが、マロニエ君はこういうショパンが好きだということを、あらためて確認できました。
よく準備されているけれども、このピアニストの持ったもの、感じたことが素直に投映されたものであり、本音を排して決められた計画通りに演奏されるショパンとは、根本的に意味の違う本物の語りが聴かれました。

ひとつひとつの音形が必然的に響き合い、ごく自然に現れては、さまよい、逡巡し、解決され、また次の山を迎えるいくさま、そのどれもにかすかな吐息のような感情の息遣いが常に息づいており、それが聴く者の心を深いところで慰め、現れ、悲しみを共感するようです。
さらに大切な点は、演奏者が細部のちょっとした間合いや緩急などに、奏者がそのように感じ、非常に大事に取り扱っている点などが、聴いているこちらが伝わり、なにかを受け取ったように気持ちになれるところが音楽を聴く上でのキモではないかと思います。

これは、少しでも踏み外すと崩壊しそうなところが、ギリギリで掬い取られてそうならずに保たれて、危うい緊張感の中から細い穴を通り抜けてくるように伝わってくるところなどで、いやはや感心しました。

また、ベヒシュタインによるショパンというのもさほどピンとくるものはなかったのですが、あらためて聴いてみると、なかなか悪くないと思いました。低音がやや素朴すぎるように感じない時もありましたが、概ね好ましく思いました。
特に次高音あたりの美しい音色と一音一音が可憐に語りかけるような特性が、ショパンに意外に相性がいいことにも気づきました。
それで思い出しましたが、いつだったかドビュッシーの本に書かれていましたで、ベヒシュタインとプレイエルは、アーキテクチャーが繋がっている、意外な血縁関係にもあるということで、ああ、なるほど、そういうことかと思いました。

むろんなによりもゴルラッチの演奏が素晴らしいわけですが、それがこのベヒシュタインが下から支え、どちらかというとベートーヴェン的な演奏の多いスケルツォ2番が、これほど繊細で物悲しく、深い憂いをもって耳に入ってくるのは、たぶん初めて聴いたような気がしました。
こんな表現は他のピアノでは出せないものかもしれないし、ずっと聴いていると耳も馴染んできて、気がついたときにはベヒシュタインが軽やかに歌うフランスピアノのように聴こえてくるのですから、人間の耳とは不思議なものです。

この人は、あまり聴いたことはなかっただけに、こんなにも素晴らしい面を持った人だったのかと思いつつ、たしかむかし浜松コンクールで優勝した人だったと思ってウィキベディアを見てみると、なんと…彼もウクライナのキーウ出身とあり、先にウクライナ出身の音楽家のことを書いたばかりだったので、なにかに打たれたような気分でした。

いまや、ポーランドでさえコンクール仕様のニュアンスを失った正確一本のショパンが横行する中、こんな好ましいショパンを効かせてくれるピアニストがいて、もしやあの戦火の中のウクライナに今もいるのかと思うと、いやが上にもショパン自身の運命とも重なるようで、胸が締め付けられるような気持ちになりました。
ウクライナの男性は子どもと高齢者を除くと、国外にも出られないようだし、出られてもウクライナに生を受けた人間の多くは祖国を離れるようなことはないのだろうから、彼はどうしているんだろうと無性に思います。

この演奏は2017年にベルリンで行われたようですが、その繊細な美しさと悲しみ、ときに慟哭に満ち、あたかも今のウクライナを予見した静かな叫びとそのものように聴こえてきて、思わず涙を誘いました。
さらには、このような繊細な感受性に満ちた磨きぬかれたタッチによる演奏なら、ショパンが聴いても満足するのではないか?という気がします。泣けました
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響板の掃除

グランドピアノの響板の掃除はどのようにやっておられますか?
…というか、そもそもあんなややこしい部分を掃除しようと思われる方じたい、ほとんどおられないかもしれませんが。

難しい掃除の中でも、グランドピアノの響板はかなり高難度なもののひとつじゃないかと思います。
掃除といっても、ホコリ取りがせいぜいですが、そのせいぜい程度でもなかなかできません。
なにしろ響板の上には、巷間いわれるごとく230本もの弦がびっしり張られ、しかも一部は交差までしているから、一見しただけでも、その下を掃除するなどほとんど不可能に思えます。

そのせいか、ホコリや汚れがたまるに任せて、いっさい手付かずとなり、極端な場合はそれが何十年にもおよんで響板が灰色のじゅうたんのようになっているような状態のピアノもあれば、音量の問題からか、カバーを被せて大屋根を一切開けない、したがって汚れることもあまりないというような方もおいでのようです。
マロニエ君としてはそのいずれも好まずで、ほどほどに開けるときは開けたいし、響板の掃除も簡単に出来るならしたいというのが正直なところですが、その方法となるとこれぞという方法がなかなかありません。

そのためのアイデア商品のたぐいも、まったくないこともないようで、知人が購入されたというのがT字型の専用器具で、これを弦の間から差し込み、それを動かす(おそらく引いたり回したり)ことでホコリをとっていくというものらしい。
調律師さんにもこれと似たようなものをお持ちの方がおられて、少しやっていただいたこともあり、そのうちこういうのを入手して時間をかけてやるしかないか…と思っていました。

ところが、人それぞれで、別の調律師さんはまったく違った器具をお持ちでした。
ビョンビョンとたわむ弾力のある薄い金属の細い棒で、先端に布を巻き付け「私はこういうのでやりますけど…」といわれて、見るなりこれだと!と思い、さっそく注文していただくことになりました。

すぐに手配してくださり、持ってきていただいたので、まずは使ってみることに。
先のほうに細長い穴があいており、おそらくここにやわらかい布などを通して使うのだろうと思われます。
はじめはホコリも多いだろうからと、フローリング用のドライシートを使ってみることにし、そのシートを穴にくぐらせますが、それが万一まずい場所で外れることを恐れてホッチキスでとめてから、作業をはじめました。
グランドの場合、後部の低音側は、比較的響板と弦の隙間の大きい部分があるので、ここらから差し込んで作業を進めますが、これはかなり効果的なようで、適当に前後左右に動かしてみると、シートには思った以上のゴミやホコリを付着させて戻ってきます。

しかし問題もあり、このクニャクニャ棒は幅が1cm強、長さが61cmほどで、後部から差し込んでも長さが足りず、とくに高音側ではどうしても到達できないエリアがあるのです。
とはいえ問題は長さだけなので、これはなんとか長さを継ぎ足すなどして工夫が出来るかもしれません。

本来は乾いた化学雑巾のたぐいを使うのが良さそうなので、長さ問題が解決したら、より本格的にやってみたいと思案中です。

調律師さんの中には100円ショップの掃除具のいろいろを自分なりに組み合わせて、独自の響板ホコリ取りにするなど、要するにアイデア次第なんだなと思います。

あとは考えただけでも疲れそうなのが、チューニングピンまわりの掃除。
ピンがあり、弦が巻かれ、それらがびっしり並んでいるので、ハタキや掃除機をかけたところでうわべのホコリが取れるだけで細かいところは綺麗にならず、あそこは綿棒かなにかで根気よくやるしかないのかもしれません。

尤もこんなことを考えるのは、きっと日本人だけかもしれません。
海外のピアノのお掃除事情がどうなのかまったく知りませんが、カメラの入る大物ピアニストの演奏会であっても、ステージのピアノは信じられないほど手垢だらけだったりで、目立つところだけでも少しぐらい拭けばよさそうなものを…と思うことがありますが、このあたりは国民性なのか、日本人のほうがおかしいのか。

その日本は、すでにじゅうぶんピカピカのピアノを、開演直前には技術者らしき人が最後の最後までネルの布のようなもので磨き上げるなど、これはこれで却ってやり過ぎでどうかと思います。
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ウクライナの音楽家

ロシアによるウクライナ侵攻から3ヶ月を過ぎました。

当初はわずか数日で首都キーウを楽々と制圧し、ゼレンスキー政権を倒すつもりだったようですが、蓋を開けてみればウクライナ軍の抵抗は凄まじく、先進諸外国のサポートも予想外のもので、プ大統領も、こんなことになるなんて夢にも思っていなかったようです。
あの物事をすべて恐怖と武力で片付けようというロシアなんぞ、まともな話し合いが通じる相手ではなく、武力は武力を持って押し返されることが一番こたえるでしょうが、現場で意に沿わない戦闘行為をさせられるロシア兵も気の毒です。

とはいえ、ウクライナが各都市で破壊されたむごたらしい傷跡は正視するのもしんどいほどで、日々届けられる瓦礫の山と地獄絵図は目を覆うばかり。わかっているはずの戦争の恐ろしさを、改めて生々しく目に焼き付けられます。

さて、これまで、ただ一括りにロシアだと思っていたものが、実はウクライナの人や物だということがいろいろわかり、この悲惨な状況の中で、新たに覚えたことも少なくないように思います。
ソ連時代から有名な飛行機のアントノフも、中国に転売された空母「遼寧」も、有名なロシア料理とされていたボルシチもウクライナだったり。

ここはピアノと音楽に関するブログなので、音楽家に限っていうと、漠然と(しかし疑いもなく)ロシア人だと思っていた人がそうでないことも次々にわかり、とりわけウクライナには音楽史に残る大巨匠が綺羅星のごとく多いことに、驚愕させられます。

▶ウラディーミル・ホロヴィッツ、▶ダヴィッド・オイストラフ、▶スヴャトスラフ・リヒテル、▶エミール・ギレリスなど、いずれも並大抵の存在ではない超大物がウクライナの生まれであることは、いまこの状況の中で知ると本当に驚かされます。

そういえば、ホロヴィッツがウクライナ生まれというのは文字で見た覚えがありましたが、オイストラフ、リヒテル、ギレリスと続くともはや唖然とするしかなく、「ウソでしょ!」の世界になってしまいます。
そういえばリヒテルの有名なライブ録音に「オデッサリサイタル」というのがありますが、ああそれも祖国での演奏会だったのか…と今ごろ思ったり。
…で、ちょっと調べてみると、
古いところでは、伝説のピアニスト▶パハマンもウクライナ出身。
また日本でのピアノ教育に多大な貢献をした▶レオ・シロタ、ピアノ教育といえばロシアピニズムの祖のひとりである▶ゲンリヒ・ネイガウス(ブーニンのおじいさん)、古い世代は演奏会にも行ったと聞くヴァイオリンの▶エルマン、レコードも多い▶ナタン・ミルシテイン、おなじみの▶アイザック・スターン、オイストラフ以来の大物と称された▶レオニード・コーガン。

ピアニストに戻ると、テクニシャンで有名な▶シモン・バレル、また101才と長寿で、東京のカザルスホールの柿落しでカザルスゆかりのピアニストとして90歳目前で来日し、その素晴らしさで衝撃を与えた▶ミエチスラフ・ホルショフスキーもウクライナの出身。

また、現代でも人気の作曲家兼ピアニストだった▶ニコライ・カプースチン、作曲家といえば、ロマン派の音楽にスラヴ的な暗い情熱を流しこんだような▶セルゲイ・ボルトエヴィツキもウクライナ・ハリコフの人でした。

日本での録音も多数ある、しっかりした打鍵で揺るぎない演奏を聴かせる▶セルゲイ・エデルマン、またモスクワのグネーシン音楽院(キーシンやアブデーエワを輩出した名門校)の卒業演奏でバッハのゴルトベルク変奏曲を弾いて注目を集め、その後CDも発売された▶コンスタンチン・リフシッツは、現在も来日を繰り返しているピアニスト。

ざっと簡単に調べただけでもこれだけザラザラと出てきて、しかも、そのどれもが世界級の大物ばかりで、その次点レベルの人を含めると、途方もない数に及ぶはずで、人口が日本の1/3ぐらいなのに、これだけの傑物が出るとはただただ驚くのみ。

ロシアという大国は音楽やバレエでも凄みを見せつけてきましたが、その内情を知れば、いかにウクライナなどの周辺国の力もあったんだなぁという気がします(むかしキエフ・バレエというのにも行ったことがあります)。
聞くところでは、かつての共産主義陣営は、西側に対してそのイデオロギーの優位性を示す手段のひとつとして、芸術面においても猛烈に注力して結果はご存知の通りですが、これだけ濃密な関係にあった同じ民族同士が、21世紀の今、むごたらしい破壊と殺戮を繰り広げているとは、その現実の前になかなか認識が追いつきません。
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移転先から

WAGNER PIANOが我が家から某音楽サロンに移転して、その後どうなったか。
結論から先にいうと、こちらのオーナー(Mさん)は、この方がこんなにも喜ばれることがあるのか!と驚くほどの深い喜びようでした。

Mさんは、さる高名なピアニストのお弟子さんのひとりですが、近年はどういうわけかほとんどご自分がピアノを触ることはなくなったとご本人から聞いていました。
正直、それがなぜなのかはわからないし、その理由を聞くのも躊躇われたので、そこは敢えて触れないで過ごしていました。

ところが、WAGNERが移転することになってからというもの、それ以前とはあきらかに様子が異なっているようでした。
早い話が、このピアノをとても気に入っておられるということになるのですが、そこにはただ単にピアノが気に入ったということとも少し違って、この方を長らく覆っていたいろいろな要素が、雪が次々に溶け出すように剥がれ落ちていったようでした。
WAGNERが大きなきっかけとなって、再びピアノを弾こうという意欲がよみがえってきたことはまずもって何よりでした。

今年亡くなられたお母上は、ピアノに触れようともされなかったMさんの姿を見ながら、何度かピアノを弾いてほしいと言われたそうですが、それでも頑として弾かれることはなかったらしいので、余人には窺い知れない何かがあったのでしょう。
ピアノを弾くことに対する扉はかたく閉ざされてしまって、それが実に16年ほども続いたというのですから、驚くほかありません。
その開かずの金庫みたいな心の扉を、WAGNER があっさり開けてしまったわけで、これはマロニエ君の想像もはるかに超えるものでした。
まるで人が変わったように毎日ピアノの前に座られ、あれこれの楽譜を取り出しては弾いてみている!と電話口の向こうで言われるのを聞きながら、当初は多少弾かれるきっかけにもなればいいな…とも思ってはいましたが、予想をはるかに超える反応にこちらのほうが驚いたぐらいです。

いまさらですが楽器の力というのは如何に大きいかということを思い知らされました。
それは単に音がきれいだとかよく鳴るとかいった表面的なことだけでない、もっと人の心の奥深いものを引き寄せるような「何か」の力が作用しているに違いありません。

このピアノは、以前にも書きましたが、マロニエ君の知人のピアノマニアの方が広島県内で売りに出されているのをネットで見つけられ、すぐに新幹線に飛び乗って見に行かれたことが事の始まりでした。
私もWAGNERというのは、後年の浜松の東洋ピアノのものをぼんやりと認識していたぐらいで、ここから泥縄式に広島で製造された元祖WAGNER PIANOのことを調べて知りました。

その方は、このピアノの鳴りに感銘を受け、手に入れる前提で、整備のできる工房調べなどまでされたようですが、別の有名手作りピアノのOH済みというのが出てきて、結局そちらを買われることになり、結果としてWAGNERはFreeの状態となりました。
私も迷いましたが、あまりにもWAGNER PIANOに無知で、見に行くにはあまりに遠いので正直まごつきました。
古いピアノの得意な技術者さんに電話したところ、それだったら某さん(現在の所有者である調律師の方)がWAGNERのことはご存知ということで、その方に尋ねたら「広島製のWAGNERはそれは素晴らしいピアノです。今風の甘い音ではないがものすごくよく鳴る。買われるならおすすめします。」といわれました。
そして、「もし誰も買い手がないときは自分が買います!どんな状態でも構わない!」といわれたことが決定的となり、それからひと月後ぐらいだったでしょうか、ついにWAGNERは関門海峡を渡って福岡にやってきたのでした。

運送会社の倉庫内で数日にわたり整備をされ、驚くばかりに朗々と鳴り響いたことは以前にも書きました。
この調律師さんの見立てでは、日本の隠れた銘器であるにもかかわらず、ブランド力がないから下手をすると廃棄されるおそれがある…ということでピアノを守るためにゲットされたようで、とくに置くあてもなく(このあたりがこの技術者さんの面白いところなのですが)、結果的に我が家でしばらく拝借することになり、今だから本心をあかせば、ゆくゆくは買い取らせていただきたいと思っていました。

それが思わぬところから現在の展開になり、話はトントン拍子に進み、結果的に新たな住処を得たというわけで、かなり数奇な運命を辿っているピアノだといえそうな気がします。

Mさんは、少し前から恩師が所有されるドイツ製の有名ブランドのピアノを買わないかと打診されたことがあった由ですが、どうしてもそういう気になれずにお茶を濁していたのだとか。
「WAGNERがやってきたのは、自分にとってそういう運命だったから」というのはいささかこじつけの感も免れませんが、とはいえ、いわゆる「赤い糸」みたいなものがあったのかもしれません。
まるで何かがはじけるように気分が変わり、これまでの十数年とは別人のように毎日弾いておられるとのことで、もう少し早ければお母上も喜ばれただろうにと思います。

WAGNERが運び出されて数日後のある夜電話があり、鍵盤蓋の隙間からえんぴつを落としてしまったとのこと、取り出そうと鍵盤蓋を外そうとしたが外れないということでした。それは当然で、WAGNERの鍵盤蓋はちょっと特殊な作りで、ヤマハカワイのようには外れないので、仕方がないからドライブがてら取りに行ってあげました。
そのついでに私がちょっと弾いてみることで、Mさんは少し離れてWAGNERの音や響きを耳にされることになったのですが、このピアノは距離をおいてもほとんど音量が変わらず、聴く側に回ってあらためてWAGNERの底力を理解され、さらにさらに惚れ込まれたようでした。

まさか、これほどのことになるとは思いませんでしたが、結果から見て、これはその方にとっても、ピアノにとっても、地域にとっても、そしてもちろん所有者の技術者さんにとっても、第一発見者のTさんにとっても、最良の結果だったように感じられ、我ながらなんと上手い思いつきだったかと嬉しく思っているところです。

これから先、このWAGNERがどんなストーリーを紡いでいくのか、楽しみです。
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佳き時代の響き

昨年6月から11ヶ月間、我が家に逗留してくれたワグナーピアノですが、旅立って行くと部屋がガランとしてしまい、寂しくもありますが、行き先は長年の知り合いであるし、意義のあるところへ行ったのだから不思議に前向きな気分です。

そもそも、ワグナーなきあとも自分にとっては分不相応なピアノがあって、それでさえ使いこなしているとはおよそ言い難い状況で、毎日ピアノに触れる平均時間でいうなら10分/日ぐらいでしょうか。
これでワグナーがあると、まったく触れない日がいくらでも増えて、今あるピアノにも申し訳ないというものです。

大人からピアノを始めた方でも、日々かなりの練習を課しておられる方が珍しくないというのに、これじゃあ楽器の良し悪しをどうこういう資格もありません。
我が家でピアノを弾くのは私だけなので、台数があるだけ各ピアノはより眠りに入るだけで、いくらピアノが好きでもなんだかひとりで欲張っているだけでは楽器にも申し訳なく、いい機会だったと思っています。

というわけなので今後、マロニエ君が新たにピアノを買うなんてことは実際にはまずないと思いますが、それはそれとして、このワグナー体験を経てますますピアノへの認識が変わったことは事実です。

もしも、なにかとてつもない無い間違いでも起こって、万々が一にもピアノを買うようなことがあれば、この先は迷いなく古き佳き時代のピアノを選ぶと思います。
音が出ると、まわりの空気がフワンと伸び縮みするような、あの感じ。
無理なく、太く鳴り、それでいて耳に心地よく、全身が美音に包まれるような、あの感覚を知ってしまうと、外観はどんなにピカピカでも生命感のない「ピアノのような音」が無機質に出てくる今どきのピアノは、もう欲しくはありません。

どんなに評判が良かろうとも、そもそもコストダウンされた素材で作られたピアノを、最新テクノロジーの力で遮二無二鳴らして、見た目も音も表面だけキレイなピアノでは、真の喜びや安らぎは得られない。

もちろん新しいピアノを全否定するつもりはなく、中にはまだじゅうぶんに素晴らしいものがあることもわかっています。
とくに均一で、ブリリアントで、整った、甘い音のするピアノ。
新緑のように若々しく、音の息の長さ(伸び)という点では新しいピアノに分がある場合もあるかもしれません。
さらに、精度の上がった、アクションがもたらす精緻な感触や自在感という点では、新品ならではのものがあることも認めます。

しかし、音を出すだけでも嬉しくなるような、その響きを聴くだけでも深いものに触れているような、その楽器の長い生涯の一時期に関わっているようなピアノの魅力というのは、今のマロニエ君にとっては、何物にも代えがたい魅力があることを知ってしまったような気がします。

ピアノが指のオリンピック競技の訓練のためなら、その訓練に適した道具というものもあると思います。
そんなほんわかしたピアノを使うのは適していないだろうし、それだったら新しい量産品でガンガンやるのがいいのかもしれませんが、楽しみに徹するなら好きなピアノに触れる喜び、美しい音と響きに身を浸す快楽を得たいなら、そういう楽器を選ぶしかありません。

ピアノをオールドバイオリンに喩えると、必ずといっていいほど「ピアノとバイオリンは違う、わかってない、比較することはできない」と正論らしきことをまくし立てる方がいらっしゃることもよく承知しています。
簡単にいうと、バイオリンは弾いて鳴らして熟成させて完成され、耐久性という点でも息の長い楽器、対するピアノは弦のテンションが高く消耗品で新しい物がいいという考え方ですが、マロニエ君はこれには真っ向から反対です。

バイオリンが楽器として長寿であることはそうだとしても、その性能を維持するために、常にどれだけのメンテや維持管理(そのためのコスト)を必要としているか、それでも未来永劫ということはなく、数あるストラドやグァルネリとはいえ、将来は必ず寿命が来ると言われています。
ピアノも同様で、それぐらいの維持を心がければ、いいものなら100年経ってもどうってことありません。

それでも大型犬より小型犬のほうが長生きするように、平均寿命はピアノのほうが短いかもしれませんが、その程度の差だと思います。

お借りしていた広島製ワグナーも60歳ほどでしたが、弦もハンマーもオリジナルで、アクションだけは少々の消耗感がありましたが、鳴りっぷりという点では、現代のピアノを打ち負かすほどで、大事に使って、ときどき手を入れてあげれば100年なんて軽く行けそうな気がします。

もともとの品質にもよりますが、ピアノの寿命を必要以上に短く言うのは、新しいピアノを売る必要のある企業の思惑が相当入っていると思われますが、まあメーカーも慈善事業じゃないからそれもわからなくはありません。
ただ、古くていいものを慈しむように使うというのは、本当にいいものだし、心が豊かになることがよくわかりましたが、それはワグナーピアノのおかげでもあると同時に自分が歳をとったからなのかもしれません。
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旅立ち

昨年6月よりお借りしていたワグナーピアノですが、ついに我が家を離れることになり、数日前すでに搬出されていきました。

所有者のである技術者さんは、何の見返りもなしに、快くピアノを貸してくださっていることからもわかるように、今どき珍しいほど人情に篤くサッパリした御方で、私が望むなら「いつまででも、どうぞ使ってください」と仰ってくださっていたので、それに甘えてズルズルとお借りし、いらい自由に弾かせていただいていました。

ただ、この方の真意としては、1960年代広島で9年間だけ作られたワグナーピアノの素晴らしさを、少しでも多くの人に楽しんでもらいたいというお考えがあることは承知していたので、その意味では現状はマロニエ君が独占している状態であるのが心苦しくもありました。
いっそ買い取らせていただくか(それに応じられるかどうかはわからないけれど)、もしふさわしい場所があったなら移動も考えなくてはならないだろう…というような思いはいつも漠然と頭の片隅にありました。

そして、そのふさわしいと思われる場所へと行くことになったのです。
福岡市の西隣にある某市の駅の近くで、ショパンの名を冠した音楽スペースのようなことをやっておられるMさんという旧い付き合いの方がおられるのですが、数週間ほど前、数年ぶりに機会があってお尋ねしたことで突然そのイメージが膨らんだのです。
今まで、なぜここを思いつかなかったのか自分でもよくわかりませんが。

表通りに面したマンションの1階部分で、表向きはカフェにはなっているものの、とくに営業熱心という感じもなく、実際はMさんの音楽室みたいなもので、そこでピアノのレッスンをされたり、地域の文化スペースのようなことにも使われているようで、その実態はなかなかひとことでは言い表せません。

ここにはヤマハの非常に古いG3があり、ワグナーとは同世代でもあるしサイズも近いので、2台ピアノというのもいいのでは?と思いました。
問題は、ここのMさんはご自身の好みや物事を納得するということに独特な感覚をお持ちの方なので、気に入らないピアノを置くといったようなことは決してされるはずもなく、まずはワグナーを触ってもらうことが第一と思い、後日我が家に来ていただくことになりました。

来宅されて、しばらく音を出すようなことをされましたが、あまりはっきりと感想を言われず、むしろ妙に口数が減ってしまい、どうかな?と思っていると、ようやく出てきたのは「こういう音を望んでいた」「…出会ってしまった感じがする」「こういうことか…」というような、かなりお気に召したらしい言葉がポツリポツリと聞こえ始めてきました。
要するに、気に入られただけでなく、感情のなにかが揺れ動いたのか、却って言葉少なになっていたという感じでした。

「こういう音がいい」といわれるのは、たとえば中低音のズンとした腰の座った音だったり、高音側も輝くばかりにはっきりしているけれど、決してキンキンしていないあたりも驚かれたようでした。
また、ワグナーが遠鳴りする楽器というのは前にも書いた覚えがありますが、ピアノからできるだけ離れて聴いてみても、その音量にはほとんど変化がなく、あらためてさすがだと思いました。

聞くところでは、帰宅されたあともずっとワグナーに触れたことがきっかけで、遠いむかし、ご両親が自分に買い与えてくれた量産品ではないピアノのことなどのあれこれが、しばらくのあいだ頭を駆け巡っていたとのことでした。
人をそういう気持ちにさせる何かが、やはりワグナーピアノにはあるということだろうと思いますし、これは、どんなによく出来ていても量産品には望めない不思議なパワーだと思います。

というわけで置いてみたいという結論に達したようでしたが、そうなれば、まずは所有者である技術者さん会う必要があるだろうということで、私がその機会をセッティングするよう頼まれました。
さっそく連絡をとって、今回のいきさつから話したのですが、あっけにとられるほどの快諾をされたばかりか、私がそれがいいと思うなら自由にやってください、すべて任せます、相手の方のこともおおよその説明でわかったので、わざわざ会う機会を作る必要もないから、そちらの都合で、移動でもなんでも好きなようにしてください。
ピアノが移動したら、自分が調整に行くし、その時にその方に会うのが非常に楽しみであるというようなことで、所有者としてもったいぶるようなところは微塵もなく、その粋なふるまいにはいまさらのように感服した次第でした。

ひとつ条件があるとすれば、この希少なピアノの価値がわからず(あるいは多少わかったにしても)、その楽器の良さを楽しむのではなく、やたらとガチャガチャ弾くような人には使ってほしくないというものでしたが、その点は私を全面的に信頼してくださっており、そのあたりも併せて強く信頼をしていただいていたのはありがたいことでした。

通常なら、ピアノを貸す(それもほとんど幻に近いようなレアな銘器)ともなるとなおさら、どういう相手か会って面談して、あれこれの条件やら説明やら、所有者として貸借の取り交わしをするのが一般的でしょうし、今どきは昔以上にそういう面は堅苦しいものになっていると思いますが、そんなものは「一切すっ飛ばして構わない」とのことで、それはもう見事なものでした。
いうまでもなく、ワグナーピアノに対する思い入れはかなり強いものがあるにもかかわらず…なのですから。

こういう方は昔でもそうざらにはいらっしゃいませんでしたが、今どきはもうほとんど絶滅危惧種の部類で、本当の粋とかスマートというものは、一種の胆力と覚悟と信頼が裏打ちされた、流れの美しさの賜物であり、つべこべ言わず、あとはスッパリと人に下駄を預けるというもので、まるで本で読んだ勝海舟のようだなあと思いました。
マロニエ君もできることならこうありたいもんだと思います(無理ですが)。

というわけで、11ヶ月間、我が家に逗留してくれたワグナーピアノですが、3日前に旅立って行きました。
60年も前に、こんな素晴らしいピアノがあったということじたいが驚きであったし、いろいろなことを教えてくれた素晴らしいピアノで、得難い貴重な体験でした。
快く貸してくださった調律師さん、さらにはこのピアノを探してきたTさんに改めてお礼を申し上げます。
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フェイクとは

音楽=生演奏という原則至上主義とでもいうべきか、録音はとりわけある種の人達には、音楽として「まがい物である」という扱いを受けることが少なくありません。
音楽は一期一会のものであり、一瞬ごとの明滅であり反応であるのに、それを何回も演奏し、できの良い物を選ぶことが非音楽的で邪道だと映るようです。

何度も録り直して最良のテイクを選び、キズの修正やときには継ぎはぎもするし、音質も機械的人工的にいかようにも調整するなど、完成品として仕上げる過程が、ある角度から見るとフェイクだとみなされ、とても信頼できるものではない!というわけです。

しかし、マロニエ君は決してそうは思いません。
とりわけセッション録音が、ステージでやるようなありのままのパフォーマンスではないといっても、べつにAIが演奏しているわけではなく、演奏する側も生身の人間だから、そのつど出来不出来が生じるのは当たり前で、録音というものを一つの作品と捉えれば、それにあたって最良のものを選ぶのは当然ではないかとさえ思います。

有名な写真家でも、作品としての一枚を得るために何十何百というとてつもない数のシャッターを切って、その中からこれという一枚を選び出す、書道家でも納得がいくまで何枚も書いたり、陶芸家でもひとつの釜の中からこれだというものはあればいいほうで、そういうことは多くの人が知っていることだと思います。
それと同じことだと思うのですが、なぜ音楽だけが、そういう面に過度に厳しく、やり直し即ニセモノ扱いされるのがわかりません。

最良のテイクを好ましい音質で聴けるのなら別にそれで構わないし、ライブの迫真の演奏というものももちろん魅力的ですが、そのぶんキズがあったり、音質の問題、強烈な魅力があると同時に不完全な面があったりもして、一長一短です。
あの歴史的にも有名なホロヴィッツの1965年のカムバックリサイタルでも、長年そのライブ録音とされていたものは、実は修正があちこちに施されているものだったことが明らかとなり、近年そのオリジナル音源のCDも発売されましたが、これまで聞いたことのなかったようなオッと思うようなミスタッチなどがあって、やはり生演奏というのは、そういうものだと思いました。
それをレコードとして発売する以上、修正されることがそんなに悪いこととは思いませんし、当時あのままでは発売できなかっただろうというのも頷けます。

また、アルゲリッチ、クレーメル、マイスキーが東京でおこなったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのピアノトリオも、ライブ録音として発売されていますが、NHKで放送されたコンサートでの演奏と、このときのライブとしてグラモフォンから発売されたものでは、出だしのテンポから大きく異なっており、聞いたところでは深夜にずいぶん時間をかけて録り直し作業も行われたとかで、これはライブをもとに修正パーツをセッション録音で作って仕上げられたものといった印象です。

CDは繰り返しての鑑賞に堪えるものである必要もあり、音楽的な活気は大切ですが、必ずしも偶然性の高い一発勝負的な演奏でなくてもいい。
たしかに、生でしか伝わらないものがあるというのもむろん否定はしませんが、生では伝わらないものが録音からは得られるということも多々あるのも事実で、何を求めるかは個人の価値観の問題でもあるように思います。
また、いかに生の楽器の音が素晴らしいという原則だけを唱えても、実際には好ましくない楽器/演奏/音響などのマイナス要因から逃れることは簡単ではなく、生だからというのが、すべてに優先されるほど圧倒的などという感覚こそ一種の幻想じゃないかと思います。

いずれにしろ、あとから手を入れるというのは、他のジャンルでは当たり前なのに、音楽だけはそれがフェイクのように扱われるのは、不当な扱いと言わざるを得ません。
その点でいうと、グレン・グールドはコンサート活動から早々に引退して、録音芸術にピアニストとしての大半を捧げましたが、これも彼にとっての必然であり、非常に納得の行く姿勢であるけれど、あまりに時代に先んじ革新的すぎて異端扱いをされたのは残念でなりません。

録音否定派は、録音では陰でどんなことでも可能などと尤もらしいことをいいますが、だったらグールドの弾く新たなレパートリーが、技術によって出てきてもおかしくないはずですが、そんなことはまだ実現もしていません。
たしか一度、それに類するものが実験的に行われましたが、まるで覇気も生命感も情感もない、聴くに堪えない代物でした。

また、修正やなにかがそんなにダメで、それをしたらニセモノだというのなら、絵でも小説でも、衆人環視の中で一気に制作して、あとから訂正してはならない、それをしたらフェイクだという論理も成り立ちそうな気がしますが、むろんそんなことはあるはずがありません。

前回書いた、生演奏派の人達の言い分としては、一貫して録音で聴くものは人工的でフェイクだといいますが、それをいうなら、今の若い世代の演奏は、たしかに自分の身体を使って弾いているけれど、聴く人の心を揺さぶるような情感が薄く、演奏としては限りなくフェイクっぽいのです。
「演奏は時代とともに変化するもの」のは当然ですが、正確でやたら解像度だけを上げただけの、活字みたいな無表情な演奏のほうが、音楽の存在価値としてよほど問題のような気がします。

私達は音楽を聞くことによって、夢(ときに地獄ということもある)の世界を旅したいわけで、ただ個人の能力や演奏技術自慢のお付き合いをさせられるのは、これこそ音楽の本質から逸脱したものだと思います。
つまり、生か録音かなどより、より深刻な問題は他にあると思うのですが…。

マロニエ君の理想としては、作品が演奏によって生まれ出て、目の前に立ちあらわれてくるものに包まれるような演奏ですが、現代の演奏の主流は、楽譜をいかに正確に音でコピーするか…というあたりで目指すものが停止してしまっているように感じて、それでは音の奔流に身を委ねるとか酔いしれるということができないのです。
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見えてしまう

前回に関連しますが、生のコンサートに魅力がなくなったのは、もうひとつ、時代との関わりもあるように思います。

たとえば、今の若手の演奏家。
演奏能力という点では、それはもう昔では考えられないまでに優秀で上手い人がずらりと揃っていますが、それはハーバードや東大卒の職業エリートのようで、シンプルに芸術家と思えるような人はほとんど見当たりません。
音楽のためにのみ献身し、聴衆のために全身全霊でもって演奏に挑み、ときには身を持ち崩すような人がどれだけいるか?といえば、正直答えに窮しますし、そこに時代の価値の変化を感じてしまいます。
自分の音楽的純度あるいは芸術性保持のためにコンサートの数を制限しているような人がいるでしょうか?

クラシック音楽の世界は、世界的に衰退が叫ばれているにもかかわらず、世の中は不思議なもので、コンクールで名を挙げたり、YouTube等で有名になると、有名人ブランドのレッテルみたいなものが貼られて、一転してステージの依頼が殺到し、いうなれば売れっ子芸者のようにひっきりなしにお座敷がかかるようなもの。

プロである以上、有名であるとか入賞歴ということも、ある程度は必要というのはわからないではないけれど、何事も度が過ぎるとおかしなことになり、その難関を通過できた一握りの人だけには、ネットでもテレビでもそれ一色となります。
こういう現象は、「これもご時世」と割り切って一定の理解はしているつもりですが、それでもやはり首を傾げてしまいます。
人は時代に背を向ける訳にはいかないから、全否定するつもりもありませんが、いわゆるほんらいの音楽家であるとか芸術家というのとは、かなり目指すものの違う、職業的成功者のようなものになっているようにも感じます。

こうなると、どれだけ深い感銘に値する演奏かどうかということより、どれほどの多忙に耐えられるか、どれだけ先々までスケジュールが決まっているかが成功のバロメーターとなり、それをクリアできる能力の持ち主が人がスゴイということになる。

また、レパートリーの増やし方にも、一定の見識とか節度のようなものがおよそ感じられないことが多く、能力にあかせて片っ端から弾いていくといった姿勢にも、どうしようもない違和感を覚えてしまいます。

いかに過密スケジュールの中、あらゆるレパートリーを携えて各地を駆けずり回るかの「体力・メンタル勝負」のような色彩を帯びており、そんなハードな活動の中で、たまたま自分の住む街のホールに来るからといって、それを素直に聴きたいというような純な気にはマロニエ君は到底なれないし、相手も生身の人間だから、実際に全力投球で演奏しているとは思えないようなものに何度も接した経験もあり、そんなギャラの荒稼ぎ旅のカモになんかなるものか!という気になります。

というわけで、マロニエ君は決して生演奏を否定するつもりはないけれど、従来のような気分でコンサートに行く気持ちにはなれないし、かといって上記のような新しいスタイルの演奏に無邪気に喜びを見出すまで、自分を変革することもできないでいるわけです。

そりゃあもし、今タイムマシンがあって、最盛期のホロヴィッツやグールドの演奏が聴けるなら、どんな無理をしてでも行きたいと思うし、ラフマニノフやショパンの演奏も身悶えするほど聴いてみたいです。
しかし、現在おこなわれているコンサートは、もし行ってもどういうものであるか、悲しいかなおおよそ見えてしまうのです。

コンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要することで、気軽に家にいるのとは違います。
時間に縛られ、それ中心に移動し、車を止めて、開演を持って、演奏中は身動きもせず、食事の時間も変わるし、あれこれ言い出すとキリがありません。
それでも行きたい気になるのは、マロニエ君にとってはワクワク感であり、期待であり、一種の高揚と勢いであるから、それが無いとどんなに指の達者な人であろうとわざわざ行こうという気にはなりません。
だからスピーカーの前が一番自由で快適になるんだと思います。
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実演の実情

実演 vs 録音の問題は音楽を鑑賞するにあたっての永遠のテーマで、ここでもすでに何度か触れたテーマで恐縮ですが…。
原則的に実演こそが音楽本来の姿であることに異存はないし、ましてそれを否定するつもりはありませんが、現実はなかなかこの理屈どおりにはいかない面もあることも押さえておきたいのです。

マロニエ君にとって、音楽で最も大切なものは作品と演奏の高度な合体から受け取る喜びであり、さらにはそれを享受できる音質および自身の好みにつきると思います。

よって実演がいくら本来のものといっても、当たり前ですが実演ならなんでもいいわけじゃない。
アマチュアの演奏をどれだけ聴いたところで、純音楽的な喜びにはほど遠いことは致し方のないことであるし、プロとされる演奏家であっても、自分にとって好ましくない演奏では、これもまた満足とはなりません。

いわゆる趣味の音楽愛好者にとって、音楽は自由で勝手な喜びの対象なのだから、気に染まない演奏を聴かせられることほど苦痛なことはなく、ましてそれが実演ともなると、椅子に座って身動きがとれないだけでもエコノミークラス症候群になるようで、非常に大きなストレスとして我が身に跳ね返ってきます。
実演推奨派の人に言わせれば、目の前で今まさに演奏され、楽器から出てくる生の音を聴くことに絶対的な価値をおかれているようですが、マロニエ君の場合、気に入らないものがどれほど目の前で演奏されても、ただの苦痛でしかなく、今おかれている状況から解放されて、はやく家に帰りたいと願うばかりです。

音楽(というか演奏)は最初の数秒、少し寛大に云ってもはじめの5分、最大限譲歩してもはじめの一曲でほぼ決まってしまうもの。この間に得た印象が覆ることはまったくのゼロとはいわないまでも、ほぼ間違いなく終わりまで延々と続くものです。

普段からあまり音楽を聴かないような人は、急にCDなどを聴かせられるより、コンサート会場に出かけて実演に接することで目の前に広がる雰囲気を楽しんだり、もしかすると感動まで得ることができるのかもしれませんし、それはそれで一つの事例としてわかるような気もします。
しかし何事も深入りすればするだけ人間はわがままになり、満足を得るストライクゾーンは狭くなって、事は単純にはいかなくなるものです。

音楽関連の書籍を見ていても、専門家の中には「自分は基本的に録音されたものを好む」と公言して憚らない人がいらっしゃいますし、その理由の多くは、コンサートでは決して得られない質の高い音質や磨き上げられた演奏、ホールの空間では聞きとれない細やかな演奏の精妙な部分に触れるには、録音されたものが最良だと考えられているからのようで、マロニエ君もまったく同感です。

とはいえ、実際には実演も録音も、それぞれピンからキリまであるわけで、単純な優劣はつけられないものですが。

優れた録音は、演奏、作品、楽器などが何拍子も揃っており、その中から最良と判断されたテイクが選ばれます。録音も一流のプロデューサーの采配のもと、優秀なスタッフによって最良の仕事がなされれば(そうでないことも多々ありますが)、これ自体がひとつの作品といえるかもしれません。

たしかに、実演には実演でしかない魅力があるけれども、同時に実演ならではの欠点も数多くあるわけで、まずはホールの問題があります。
ホールはいうまでもなく響きを作り増幅させるという点ではまぎれもなく、もうひとつの楽器でしょう。
これ如何によってコンサートの印象はかなり変わります。

現実問題として、音響的に好ましいホールというのは全体のわずか一握りに過ぎませんし、その好ましいホールで好ましいコンサートがあるのかというと、これがまたなかなかそうでもない。
大半は、不明瞭で美しくない残響のホールがほとんどで、そこでイマイチ真剣味に欠ける魅力的でない演奏を延々2時間、じっとガマンして聴かされるのが現実の行き着く先です。

また、以前にも書いたことですが、下手な音響設計のようなことをされるようになってからのワンワンいうホールより、昔の多目的ホールのほうが、ピアノにはよほどクリアで好ましかったように思います。

要するに、実演実演といったって、現実はそういうものだということだと思うのです。
そして、実際にそんな実演に接するたび、好ましい録音を自宅で聴くことの爽快さと意義深さを再認識させられることになるわけです。
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シック

ブックオフでたまたま目について面白そうだなと思い、『パリのエレガンス ルールブック』という一冊を読んでいるところです。
著者はジェヌヴィエーヴ・アントワーヌ・ダリオーというニナリッチのオートクチュールサロンの支配人を務めた、服飾のエキスパートです。

内容は、パリのファッションのさまざまな約束事を平易な文体で書かれた本ですが、そこにはファッションだけではない、この花の都に流れる高度な文化やそこに暮らす人達の精神や価値観が垣間見られるもので、非常に面白いし、共感できることが多く、いちいち膝を打ち、ときにへぇと驚きながら読んでいるところです。

例えば、高価だという理由だけで、ドレッシーなアンサンブルにワニ革のハンドバッグを持っている女性を見るとがっかりするとあり、値段の高い爬虫類は、ほんらいスポーツや旅行の時に身につけるものであること。
つまりこの手の素材は遊びの時のくだけたものであって、午後5時を過ぎたら使わないものというような、しごく真っ当な(しかし多くの人が知らない)ことが書かれています。

読みながら、むかし母が嘆息していたことを思い出しました。
今ほど、きもの文化がまだ廃れていない時代、いざというときには女性は和服を着る方もまだ少しはいらっしゃいましたが、中年以上の女性の間で、なぜか大島紬が高級品の代表のようにもてはやされ、奮発してそれを買ったはいいけれど、そのお値段故にこれがよそ行きになってしまい、ほんらい染の着物を着るべき場面に、大島を意気込んで着ていく人が少なくないのは、なんとも片腹痛いとこぼしていました。

どんなに高価だろうと、紬というのはほんらい普段着もしくはその延長であり、それをあらたまった場面に着ていくなんぞ無知をさらすようなものというわけです。
普段にさり気なく着るからこその贅沢品であり、ブランド物の高価なジーンズをフォーマルな場に履いていくようなものでしょう。

決まり事というのは、それ自体が文化であり、それをよくわかった人がしっかりした土台の上に程よく崩しを入れるのは構いませんが、まったく無知で、値段だけに頼って間違ったことをやらかしてしまうのは滑稽ですね。

ほかにも、街中で白いバッグや靴を用いることの違和感、アクセサリーをつけすぎてクリスマスツリーのようになっている人、白髪を嫌がって毛染めしたものの、年齢を重ねた顔を真っ黒い髪が縁取ることのおかしさなど、尤もなことが次々に書かれており、いちいち取り上げているとキリがありません。

さて、パリに欠かせない概念として「シック」というのがあります。
シックとは、さりげない優雅さに欠くことのできない要素で、エレガンスよりも少々知性が要求されるもの、とあります。
シックを理解できるのは、すでにある程度の文化と教養が身についている人達で、生まれつき備わっている場合もあり、神の恵みで「美貌や財産とは関係がない」というようなことがはっきり書かれています。

おもしろいのは、そのわかりやすくかつ痛烈な例で、思わず声を上げて笑ってしまいました。

「ケネディ一家はシックですが、トルーマン一家はシックではありません。」
「ダイアナ元皇太子妃はシックですが、アン王女はシックではありません。」
「マレーネ・ディートリッヒやグレタ・ガルボはシックですが、リタ・ヘイワースやエイザベス・テイラーは、その美貌にもかかわらずシックではありません。」
とあり、まさに膝を打つようです。

これに倣っていうなら、マロニエ君が音楽でまず思う浮かぶのは、
「ショパンはシックですが、リストはシックではありません。」
「ブラームスはシックですが、ドヴォルザークはシックではありません。」
「スタインウェイやファツィオリはシックですが、ヤマハやカワイはシックではありません。」
「務川慧悟はシックですが、反田恭平はシックではありません。」

〜この調子で言い出すと際限なくありますが、ま、やめておきます。
とくに日本人ピアニストでは、シックといえる人を探すほうが難しいことに愕然としました。

いや、ピアニストにかぎらず、私から見るとあの小澤征爾でさえ、個人的にどうしてもシックとは思えません。
とりわけ近年の日本の音楽家は、才能や実力という点ではもはや相当なものをもっているにもかかわらず、多くがこのシックというセンス、もっというなら美や洗練に対する絶対音感が抜け落ちているから、それを技巧その他の「能力」で補填しているのだろうと思います。

これは、ほかのジャンルを考えても、残念なほど符合します。
それでいうと、自分で見たわけではむろんないけれど、少なくとも明治ぐらいまでの日本人は、いまよりよほどシックだったんじゃないかという気がしてなりません。
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衝撃と感銘

先日の日曜のこと、知人の用に同行して山口に行くことになりました。

用が済むのがちょうどお昼過ぎになる予定で、現地で昼食をとることになりそうな流れでしたが、見知らぬ土地でのお店など分かるはずもないので、旧来の知り合いである山口の調律師さんに朝電話をしてオススメはないか聞いてみたら、「それなら、僕がよくお昼を食べに置く店に、☓☓峠というのがありますよ」と教えていただいたので、他に選択肢があるわけでもなし、ごく自然にそこに行くことになりました。
注文を済ませて一息ついていると、視界にその調律師さんと似た感じの方がおられるので、地域の特徴にはそういうところがあるものなので、似た人がいるなぁ…と思っていました。

が、それにしてもあまりに良く似ていて、あれ?…と思っていると、向うもこちらに気づかれて、なんとその調律師さんご本人!で、この日も本当にお昼を食べに来られているとのことでした。
ちょっとむこうの席に行って、ひと通り挨拶や話などをすると、よかったらあとでお店の方に寄ってくださいとのこと。

ただ、この時の二人の同伴者はピアノとはまったく無関係の人達だったので、どうかな…と思いましたが「せっかくなんだから行きましょうよ!」と快諾してしてもらえて、食事が済んでからちょっとだけ立ち寄る事になりました。

この調律師さんというのは、昔から音の求道者として少しは有名で、数々のコンサートや録音現場をこなしてきた人で、そのためには東京のホールまで自分のピアノを持ち込むことも厭わない方です。
(各ホールには厳しい規定があって、ホール所有のスタインウェイなどは指定業者以外は触ってはいけないというのがほとんどで、理想の音を実現するためにはピアノを持ち込む他ないのです)

すでに何枚ものCDもあり、先ごろ惜しくも亡くなられた杉谷昭子さんのベートーヴェンのソナタ全集の録音も、すべてこの方が手がけたピアノが使われていますし、一般の書店に並ぶ書籍も出しておられ、いわばピアノの音の追求をライフワークとされる方です。
しかし、あまりにそれ一筋の職人気質のため、時代の波に乗ったり、広く人脈を築いて宣伝につとめるといった方面はまるで苦手のようで、ややマイナーな立ち位置に甘んじておられるようですが、ご本人はそんな事は意に介さずで、ひたすら最高の音を求める姿勢には、昔も今も少しの迷いもないようです。

我々が尋ねた直前にも、ロシアのピアニスト、パーヴェル・ネルセシアンのコンサートも東京その他で終わったばかりとのことで、そのステージで使われたというスタインウェイのD-274も戻ってきていました。
ネルセシアン氏もこの方のピアノが昔から大変お気に入りで、そのピアノで録音したCDがロシアでも発売されているとか。

「ぜひちょっと弾いてみてください」といわれて、そのDのカバーがズルズル外し始められたので、もちろん興味はあるけれど、ピアノと無関係の二人はいるし、ちょっと困ったなと思いましたが、ここで遠慮していては折角のチャンスを逃すことになるので、腹をくくって少し弾いてみると、音を出すなり「なにこれ!」と思わずにはいられないような、すごいとしか言いようのない華麗な鳴りで、全身がヒリヒリするようでした。
ネルセシアンのような完璧なテクニックを有するピアニストが行ったコンサートの余韻がまだピアノにも残っている感じでした。

タッチも音も思いのまま、そしてなによりコンサートグランドとしての力強さといい、これぞ申し分のない、ステージから数百人に向かって聴かせるためのピアノだというのがいやがうえにも伝わります。
近頃はスタインウェイといっても、以前よりも常識的なまろやかな音に調整されたピアノも少なくありませんが、このピアノは比較的新しい個体ですが、全身の隅々までが抜けるように鳴り響いており、少し前のスタインウェイのような深みと輝きもあるし、低音などは中世の鐘が豪奢に鳴り響くようで、もうクラクラになるほどでした。

世の中は、スタインウェイ一強に異論を唱えて、中には「きらい」という向きもあるし、ファツィオリの濃密な音もとても特別なものがあるとは思ったけれど、こういうピアノに接すると、そういう事がすべて吹き飛んで、やはりこれ以外にはない!という、有無を言わさぬ圧倒的なものがありました。
いまでもその感激は、耳に、指先に、生々しく残っています。

小さな店にもかかわらず、このときは、この貸出用のD以外にも、整備中でダンパーの外されたニューヨークのDと、その脇には横置きにされたハンブルクのDと、計3台のD-274があって、やはりここは普通のところではないと思いました。

この方は、常に独自の調律法とホールで鳴り渡るピアノの音の美しさを生涯追求している方で、いわゆるオーソドックスな調律調整を無難にこなす人ではないため、それを高く評価する熱烈な支持者がいる反面、まったく邪道扱いする人達に分かれるようですが、それぞれに言い分はあるだろうし、いずれにも一理あって間違っていないのだろうけれど、ただ、ものごと結果がすべてという観点でいうなら、ああしてコンサート用に仕上げたピアノに触れてみると、ただもう圧倒されて痺れてしまうようで、もし自分がリサイタルをするようなピアニストだったら、こういうピアノを使いたいだろうなと思いました。

この方がやられていることがすべて正しいなどというつもりはないし、まして盲信するつもりもないけれど、最高の技術の世界というものは、既存のやり方に飽きたらず、常に新しい地平を求める探究心が必要なはずで、それを失ったら、ものごとは少しも進歩しないだろうと思います。
ノーベル賞をもらうような人達も、きっと似たようなブレない信念と強烈な探究心があり、孤独で、常に人から馬鹿にされるようなところから偉大な発明がでてくるもので、そういう意味では尊敬に値する技術者さんであることは間違いないと思います。
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何が起こったのか?

自宅でお預かりしている貴重な広島製ワグナーですが、早いもので運び込んでから10ヶ月が経とうとしています。

いらい、最もよく弾いているのがこのピアノですが、それはなにより触りたくなる魅力があるから。
部屋のスペースの関係から、もう一台のグランドと前後互い違いに向き合うよう近づけて置いていますが、ワグナーは若干高さが低めで、そのために前屋根を開けるともう一台に干渉してしまうため、そこにいつもマットのようなものをあてがっています。

小さなキャスターと、インシュレーターもペラっと薄いプラスチック製のものであることも、さらにその点を助長しているようでもあるし、そもそもやはりボデイ全体が若干低めであることも間違いないようです。
思い起こせば大橋デザインのディアパソンも似た感じだったので、昔のピアノは概ねそういうものだったのかもしれません。
これは古い日本製ピアノだけの特徴なのか、海外のものも同様なのか、そのあたりをしっかり確認したことはありませんが。

最近のことですが、たまたま出向いたホームセンターで別のものを探しているとき、直径12cm、厚さ12mmほどの、丸い木のパーツがあるのが目に止まり、とっさにワグナーピアノのことが頭に浮かんだのでこれを3枚買って帰り、後日インシュレーターの下に敷いてみました。
インシュレーターのほうがわずかに直径が大きいので、丸板はほんの少し内側に隠れるような感じです。
ピアノほど大きな楽器でも、全体がわずか約1cm上がるだけで、なんとなく違った印象になるもので、鍵盤の高さはむしろ好ましい感じですが、困るのはペダルも上にあがり、少し勝手が違う感じになったり。

まあそのへんは、慣れの問題もあるでしょうし、どうしてもイヤならペダルの下に板でも敷けば済むことですが。

本題はここからで、実はそれどころではない副産物的な変化があったのです。
その小さな丸板を敷いたことで、あきらかにそれ以前より鳴りのパワーが向上し、この思いがけない変化に驚くと同時に、これはいったいどういうことなのか?

それまではカーペット敷の床の上に、プラスチックのインシュレーターをかませてキャスターが載っていたわけですが、その下に小さな板が介在したことで、ピアノの鳴り方にどのような作用をもたらすのかマロニエ君にはてんでわかりません。
わからないけれど、それ以前よりもあきらかに力強い鳴りになっており、これは勘違いでなしに間違いなく起こった変化だと思うのです。

この手のことに研究熱心な技術者の中には、インシュレーターの素材や形状にこだわって、しまいには独自の考えを反映させた製品まで作っているようなケースも見た覚えがあるし、たしか昔のディアパソンには(音のための)高級素材を使った、ずいぶん高価なインシュレーターがあったようにも記憶しています。
正直いって、それらはまったく根拠の無いこと…とまでは思わないけれど、一度借りて使ってみたこともありますが効果についてはほとんどわからず終いでした。

ところが、今回のように思いがけずハッキリした変化を経験してしまうと、インシュレーターというか、床とのピアノの接触方法に着目して研究する人の言い分にも一理あるんだろうという気がしてきました。機械モノ全般に言えることとして、ある理論や方策がすべての場合に等しく効果があるとは思えませんが、特定の条件とか、個体との相性など、なんらかの偶然が重なった時には、思わぬ効果が表出することも事実だろうと思います。

車でいうとアーシングだとか、最近では静電気の除電による性能向上といったことが叫ばれていて、マロニエ君もやってみたけれど、意識すればそうかな?と思える程度のもので、決して劇的な効果ではありません。
車は絶対数がピアノの比ではないから昔からこの手のマニアや研究者も多く、性能向上のためのあらゆるアイデアと試行錯誤が繰り返されてきましたし、多くのアイテムが製品化されて販売もされましたが、効果はあるようなないような微妙なものが大半で、それをオカルトだと冷笑する向きも多いのです。

それでいうと、マロニエ君は昔からインシュレーターなんぞに音質や響きの違いを求めるなんて、オカルトだと思っていたわけですが、さすがに今回の変化は、そうとばかりも言えない変化を体験してしまったわけです。

一般に、この手の効果は、微々たるものであるために数日経つと耳や感覚も慣れてしまい、やがて違いも感じなくなるものですが、今回ばかりは数日経過しても、あきらかに力強く、明晰に鳴るようになっているのは間違いない(と感じる)ので、やはりなんらかの作用があったのだろうと思われます。

ではどのピアノにも同じ効果があるか?といえば、それはわからないし、むろんオススメもできません。
今回の件は、たまたま我が家固有の条件にスポンとはまった、きわめて偶然性の高い結果だろうとは思っていますが、ごくまれにこういうことがあるんだということはわかり、貴重な体験ができました。

その後に来宅された調律師さんにそのことを伝えると、それは時々「ある」ことで、2台並んでいるピアノに同じことをしても明確な効果があるピアノと、鈍感でまったく変化のないピアノもあるとのことでした。
あるピアノのオーナーは、その変化に感激して、しばらくこれで弾きたいから申し訳ないが今日は調律はせず、このままにしておいて欲しいというたっての要望で、なにもしないで帰ってこられたこともあったとか。
簡単に説明のできない不思議な事ってあるもんだと思いました。

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つきあい方

ピアノの良し悪しに対する判断基準というのはいろいろあって、シンプルに言い表すことは難しいと思いますが、あえていうなら、ピアノはいい音質で、力強く、よく鳴るというのは、楽器としてのポテンシャルの基本だと思います。

それも側鳴りではなく、ピアノから離れても、さほど音量に変化のないような、音の飛行距離が長いという特質をもっていること。
弾いている当人は手応えがあって気分良く弾けているつもりでも、少し離れると一向に聴き応えのない、スカスカなピアノというのは経験的に少なくありません。

まずは、そういうピアノとしての健康でしっかりした声帯というかボディをもっていることと、そこに優秀でコントローラブルなアクションが備わっていれば、まずは合格ということではないかと思います。

広島製ワグナーピアノは相変わらず、よく通る音と衰えを知らない鳴りで元気満々ですが、強いていうならアクションの老朽化といった問題がないといったらウソになり、シングルスプリングのゆったりした反応や、消耗品の摩耗等によるとおもわれる注意深いタッチを必要とする若干のハンディがあり、新しいピアノのようにタッチも思いのまま弾力的に受け入れてくれるような甘えは通用しません。
それでもつい弾きたくなり、自然にワグナーへ吸い寄せられるのは、ウソやごまかしのない楽器だけがもつ魅力に満ちているからだと思います。

物理的/機械的な観点からいえば、これをある程度解消することは相応の手を入れれば可能でしょう。
交換すべき消耗品を取り替えて、本来の機能や感触を回復することは技術的にも正しいことで、マロニエ君も長いことそう信じてきましたが、このピアノの所有者である技術者さんはじめ、それに近い方の意見によれば、あまり細かいことに目くじらを立てず、古いものはふるいものとして、それなりに付き合っていく良さというのもあるというわけで、なるほど一理あるということに日々理解を深められたように思います。

車でもピアノでも、日本人は少しでも傷があれば修理に出すなど、ちょっとした不具合にも不寛容で、なんでもネガ潰しして新しくしてしまうことばかりに価値を置いています。
そこまでして、さてどういう使い方をしているのかといえば、車なら平凡な日常の買い物とか、子供の送り迎えとか、たまにドライブぐらいなもので、さほど完璧を要するようなことでもないことが大多数でしょう。
これは自戒を込めての話ですが、モノをそれらしく使い切ることなく、ただモノの段階で終わっているから、そういう意識の持ち方になるのだろうと思います。

はじめ、すぐには受け容れられないことでしたが、最近は「それはそれとして穏やかに付き合っていく」ことにも、得難い価値があり味わいがあることをしだいに理解できて来たように思います。
ここがあそこがとケチを付けるのは簡単ですが、そこばかりに意識が向いている間は楽しんでおらず、心は少しも豊かではなく、大袈裟に言うなら不幸な状態にあるわけです。

人間、長らくしみついた感覚やクセは容易に変えられるものではありませんが、私はワグナーピアノのおかげで、欠点にあまり目くじらを立てず、他に代えがたい魅力のほうへ意識をまわして楽しむということを、ほんの少しではあっても覚えたような、もっと大袈裟に言うと学んだ気がします。
しかもそれを覚えると、意外に楽になり、楽しさの比率も増えていくので、これは大事なことだなあ…とこの歳になって思っているところです。

もちろんワグナーピアノは借り物だから、マロニエ君の独断で勝手なことはできないという足枷はあるのだけれど、昔の自分なら早々に買い取るなどして、より良くするためと信じて、あれこれ手を入れて始終悩んでいたことだろうと思いますが、今の自分なら、かりに自分の所有であっても同様のスタンスで向き合うことができるだろうと、少し思います。

それに気づくのに、いささか遅すぎという感もありますが、遅すぎたとて気づかないよりはマシというもの。
本当に大事なことは何か?を静かに考えてみると、あれもこれも間違っていやしないか…と思われることのなんと多いことでしょう。
それに気づかせてくれた御方とワグナーピアノには、ひたすら感謝の念を覚えます。

「良いピアノはいろんなことを教えてくれる」というのは本当ですね。
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拘束カード

ひとつ前に書いた「複数の技術者とのお付き合い」を阻む要因はいくつかありそうです。
これは以前にも触れたことがあるので、重複する内容になるかもしれませんが、その点はご容赦願います。

世の中には、ただの習慣に過ぎないことを変えられない人というのが意外に多く、現在の技術者さんにむやみに義理立てして、多少の不満があってもその人と添い遂げんばかりにお付き合いを続けられ、別の技術者さんに依頼することをまるで人道にもとる裏切りのごとく思っておられる人がいらっしゃいます。
えっ?…最良の関係を作って添い遂げるべきは、弾き手とピアノのほうであって、技術者さんはそれを補佐する役目では。

それも驚くのは、これぞという技術を見込んでのことではなく、たまたまピアノを買った時に楽器店から来られていらいの付き合いであるとか、だれそれさんの紹介であるとかで、それを変えるのは失礼に当たる!からからできない、みたいな感覚らしいのです。

じゃあ、あなたはどんなヤブ医者でも「失礼だから」という理由で、他の病院に行くことを拒み、本来の健康を後回しにしてもいいのですか?と聞きたくなります。
自分の身体は自分で守らなくてはいけないように、自分のピアノのコンディションもまったく同様の筈です。

それができない縛りのひとつに、あの忌まわしい「調律カード」があるのでは?
あれがあるばかりに、技術者さんもピアノの蓋を開けるなり、それを真っ先に確認する人も少なくなく、もちろんいつ頃、だれが整備したかということを知る手がかりになることは否定しませんが、ピアノのコンディションを中心に考えた場合、本当に有効な手がかりになっているとは思えません。

プロたるものそんなものを見なくても、目の前にあるピアノの現状を把握し、何をすべきか適確な判断を下し、より良い状態にするのが仕事なのですから、仕事内容としてはほとんど関係ないと思います。

むしろ技術者さんが自分はこれだけ継続してやったんだという記録であり、別の技術車さんにとっては前にどんな人が来ていたのかという好奇心を満たすための記録であり、べつに細かい作業内容が記されているわけでもないのだから、技術的にそれが役に立つことはまずないとしか思えず、マロニエ君はあんなものはまやかしだと思っています。

もし役に立っているとすれば、定期調律に行っている技術者さんにとって、あのカードがあることで自分以外の技術者が入ってくる危険を阻止する効果があり、そこに別の人の名前が入れば、お客さんの「裏切り」を知ることになってしまう。
そんな気まずいことは避けたいから、技術者さんは変えられない、変える以上は現在の方とは完全に縁を切る覚悟でなくてはならないような深刻な問題になり、そうなると優しい日本人は「これまでお世話になったんだから…」というような気になって、よほどのことがない限り、ほぼ半永久的なお付き合いが決まってしまいます。

せいぜいが、ピアノをあまり弾かなくなって、それを理由に調律から遠のくことが唯一の別離のチャンスとなるぐらい。
こんな精神的な縛りがあるなんて、なんだか、バカバカしいと思いませんか?

そんなものをなくすためには、あの「調律カード」を引き抜いて、代わりに自分でノートなどに記録し、もしカードは?と聞かれたら「あれは要りません」とアッサリいえばいいのでは?
まれに同サイズで自分の「調律カード」を作って持っている人もいますが、それもお店のポイントカードを断るように、サラッと「要りません」といえばそれで済む話です。
もう少し勇気があれば「他の方に頼むことがあるかもしれないので、無いほうがいいんです」といえば、きっと技術者さんは内心少し驚いて、これは手を抜いたら自分も切られるかもしれないと、頑張ってくださるかもしれませんよ。

前も書いたと思いますが、あんなものがあるのは国産ピアノだけで、輸入ピアノにはありません。
表向きピアノのための記録ということになっているようですが、秘められた真の理由は、記入により定期調律を怠らせないようにするためと、他の技術車に乗り換えさせないための、どちらにしろ拘束カードだと思います。
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技術者の差

技術者さんの腕の差というのは、純粋な技術の巧拙のことはもちろんですが、それをどう用い、どう活かす人であるかによって結果は大いに違ってくるもの。ピアノは音だけでなくこまごましたことまで一人の方にお願いしなくてはならないこともあり、単純に判断するのは難しいところがあると思います。

高い技術を持っている人でも、自身の判断であれこれ省略してしまう方から、やれるだけのことは精一杯やるという誠実タイプまで、いろいろいらっしゃいます。
また技術はそこそこでも、アイデア精神が旺盛で、しっかり考えて解決に導く方、自分のやり方に固執する割には大した結果の上がらない方、常識的な時間内で目覚ましいばかりに仕上げる方など、本当に十人十色だと思います。

マロニエ君が思うに、もちろん高い技術は必要なことは当然としても、それだけでは充分ともいえず、あとは応用力や問題解決のための方策の引き出しをたくさん持っている方、それらを一言で言うなら、やはり誠実で柔らかい考えの持ち主であることとセンスの問題、これに尽きると思うのです。

例えば、ある人はペダルからの異音に悩まれ、それが何度技術者さんに訴えても原因の特定が難しく、芳しい結果が上がらぬまま、ほぼお手上げというところで終わり、ながらくそのまま我慢しながら使わざるを得なかったとか。
整調調律整音にかけてはとても上手い人で、かなりの自信家でしたが…。
しかし、そのピアノだけを弾くしかない持ち主にしてみれば、弾くたびにベダルの雑音が気に障って仕方がない。

そこで、別の技術車さんを呼ばれることになりました。
というのも、何度やっても解決できない人は、発想や方法に限界があるから、これまでの繰り返しで解決は見込めないと思ったからです。
で、別の技術者さんを紹介しました。

こちらはとにかく真面目一筋な仕事をされ、性格的にも非常におだやかなお人柄。
結果はというと、なんとこの方は初回訪問で見事にそのペダルの異音を直してしまわれたのです。その原因は具体的になるので書きませんが、固定観念にとらわれない静かな原因究明の成果だろうと思います。

音に関しては先の技術者さんにはやや敵わないようですが、ピアノ技術というのは総合的なものでもあるので、こういうケースを見ると技術者さんのチョイスというのも決して簡単ではないことがわかります。

また、あるグランドピアノは子供が触る環境にあるため、時に鍵をかけておく必要もあるのですが、鍵をまわしても、なぜかフックの先があらぬところに微妙に干渉して、どうしてもカギをかけることが出来ません。
これも技術者さんに幾度かお願いしたものの、ピアノのカギ部分はボデイに完璧に面一で埋め込まれているために調整する幅がありません。よって解決は「無理ですね」という宣告を受けて終わりました。

しかしどうしても鍵をする必要に迫られ、別のボディの修復などをやっておられる技術者さんに相談して来ていただくと、前屋根の鍵穴が付いている木の棒をネジを緩めて外し、再び組み付けますが、これをやると完璧には前と同じ位置にはならないのだとか、
しかし前框にあるパーツの方は完全固定で動かしようがないので、どうなるのかと思ったら、今度は前屋根と大屋根をつなぐロングヒンジを凝視し始め、そこでわかったことは経年変化により、その長い棒状の金属部分と屋根の位置が微妙にズレてきていることを発見。

それらを外して、ほんの僅かではあるけれどきれいに調整して組み付けると、これら2つの作業により、鍵は見事に使えるようになりめでたく解決の運びとなったのです。
1980年代のピアノであるために、微妙な経年変化でこういうことはままあるのだそうで、こういうことは適確な原因究明と処置なくして解決はあり得ず、やはりそれぞれの得意分野というか、これは経験や性格などを含む奥の深い問題だとも思いました。

もちろんピアノ技術者さんは、第一には音でありタッチであり、そのピアノの最大限の良さを引き出して弾く人の喜びを満たし、楽器の健康を保つことが最大使命ではありますが、でも、それだけでも困ることも実際はあるというわけです。
ピアノに限りませんが、できない人は経験に乏しく、やわらかい発想力がない、そのためにピントのズレたことでいじりまわして、時間はかかって物は痛み、芳しからざる結果にしか至りません。

マロニエ君としては、技術車さんは、お一人に義理立てしいても何もいいことはないということで、何人かの技術者さんと同時並行的に上手にお付き合いされることをオススメします。
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軽薄の代償

マロニエ君が福岡市在住であることは折りに触れ書いてきました。

国内の住みたい街ランキングみたいなものでは、いつもそこそこ上位に選ばれ、人口増加率に至っては全国1位だそうで、暮らすには良い街だと思いますが、マロニエ君にとっての不満は、小さくてもいいから深いもののあるピアノ専門店が知る限りないこと。
そういう店がないというのは、そういう文化的風土がないということでもあります。

それは、いま始まったことではなく、昔からピアノ店に関しては不毛の地というか、慢性的に恵まれない街でしたし、今後も好転することは…ないでしょうね。
以前は駅前にヤマハの立派なビルがあって、地下にはホールや練習室があり1階ショールームにはヤマハの全機種が揃うなど、それなりの活況を呈していたのですが、数年前に姿を消してしまいました。
さらに市内一番の繁華街にも、マロニエ君が子供の頃からなじみのあったヤマハの中核店舗がありましたが、こちらもビルそのものの建て替えとなり、福岡シンフォニーホールのあるビルの地下に移転してしまい、いらいすっかり足が遠のきました。

カワイは、市内中心部から車で30分ほどのところに郊外型の店舗があり、今もいちおう大半の機種の展示と併設サロンがありますが、わざわざ車を飛ばしてまで行く理由もなく、要するにそういうものだけなのです。
あとは一応スタインウェイの正規代理店というのもあるにはあり、近年は島村楽器のクラシック店というピアノ専門店舗がヤフオクドーム近くのマークイズ内にオープンしていましたが、コロナの影響か、気がついたときには別の楽器の展示場に変わってしまっていました。

ベヒシュタインなどの旧ユーロピアノ系列のピアノを扱う店も以前はあったのですが、気がつけば郊外へ引っ越し、しだいに内容も変質、これ以外にもピアノ専門店というのが点在はしているけれど、いずれも共通しているのは売れ筋である国産量産品に絞った商品構成で、その中古ピアノを主力商品とする店がいくつかある程度。
店主が職人気質で、音や調整にこだわり、マニア心を満たすようなディープな店はおよそ見当たりません。

つまり、ここでマロニエ君がイメージしているピアノ店というのは、技術中心で職人さんがいつも調整や仕上げを黙々とやっているような、できればちょっとした工房も併設されたような、派手ではないけど技術で勝負をかけているようなピアノ店のこと。

以下は妄想。
マロニエ君のイメージするピアノ店というのは、繁華街の真っ只中ではなく、街の中心からわずかに外れた場所に静かに佇んでいて、表に車が数台止められて、まずもって落ち着いた大人の雰囲気。
そして、ピアノ教室の影などがチラチラしないこと。
店主もしくは店の技術者さんは、信念と謙虚さをもってピアノを修理や調整をやっていて、そこにあるピアノは美しく磨き上げられ、キチンと手が入れられており、輸入ピアノとか普段目にしない珍しいメーカーのピアノなどが、技術者の愛情と管理のもとで整備され、新しいオーナーを静かに焦らず待っている。
店内には静謐な空気が流れ、木と膠の混ざったような臭いがたちこめて、技術者もしくは店番のような方が、静かに近づいてくる。
はじめは控えめだが、しだいに緊張がほぐれ、徐々にではあるけれどもその技術者もしくは店のスタンスやこだわりのポイントなどが伝わってくる。

半ば無理解を承知でやっているようなストイシズムがその店の質と良心をいよいよ際立たせている。
…と、こんな店がひとつでもあればいいのですが、どう探してもないものはない。

福岡というのは明るいけれど軽さが好きで、真面目に努力や忍耐を重ねて一つの道を極めるといったことに重きをおく空気が悲しいまでに希薄です。
それが持ち味でもあり、歴史はとてつもなく古いけれど、古すぎてそれを証拠立てる重厚な歴史遺産や観光名所のたぐいもほとんどありません。
唯一の世界遺産は、沖ノ島という余人が近づくことさえできないの遠く離れた島ぐらいで、県民でも自分の目で見たことのある人はほとんどいないでしょう。

楽しく飲み食いして、おしゃべりをして、陽気にほどほどの暮らしをするというDNAがあり、そのせいか芸能関係者などは多数輩出しているけれど、芸術家やひとかどの政治家、学者など真っ当な大物となると、答えに窮するほどいなくなります。
元総理にして財務大臣もあの方ですからね…。
ホールもしかり。それなりものもは数えればいくつもあるし、大相撲や博多座の歌舞伎や演劇などもあるといえばあるけれど、どれも風格に乏しく、落ち着いた文化の香りに身を浸せるようなところは…あるとは言い難いのです。

なので普段暮らすにはいいけれど、いざ本物を求めたい場合は期待できません。
そのかわり、空港は近いというか市内にあって、例えば東京便は下手なバスより便数が多いぐらいだから飛行機に飛び乗るほうが手っ取り早い。
これはピアノ店にかぎらず、真摯で深いものの根付かない福岡という土地柄ゆえの問題とも思うので、その点では他の地区が羨ましいことも少なくなく、遠くへ出掛けた折にはできるだけその地域のピアノ店を覗いてみたくなるという体質ができてしまったように思います。
とはいえ、このコロナ禍ではそれもできなくなって久しいですけれど。
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悪魔

このところ、コロナが吹っ飛ぶほどのニュースといえば、いうまでもなくロシア軍によるウクライナ侵攻ですね。
現在進行形のこのニュースは、私達の常識をはるかに飛び越えるもので、まさに悪魔の所業としかいいようがありません。

どれだけの人々が地獄の苦しみを味わおうが、歴史ある街を破壊しようがお構いなしで、一切譲歩しないその姿勢は、人間とはここまで残虐になれるものかという究極のケースを見せられる思いです。
同時代に生きる者として目を背けてはいけないのでしょうけれど、ニュースを見るのも体力が要り、しんどくて、ときどき消してしまいます。

適切な言葉はみつからないけれど、シンプルに言っても胸が悪くなり、猛烈に気分が悪い。

もちろん、現地の人達は気分が悪いどころではなく、自分達の国が大国の泥靴で踏み荒らされ、街は武力で破壊され、命の危険にさらされているわけですが。

武力で攻め込んだ上に、これでもかこれでもかと過酷な要求を突き付けながら、インフラを破壊し、市井の人々を容赦なく苦しめ殺害も厭わぬやり方は、凶悪犯罪どころではない異次元の歴史的な非道行為。
プの言い分は、ウクライナ政府がナチでありロシア人を迫害から救済しているのだそうで笑止千万、もう自分が何を言って何をやっているかもわかっていないのか。

ロシアでも反戦デモなどが頻発しているようですが、少しでも批判や反戦を声にしようものなら、容赦なく拘束される。
マスコミも規制の前では報道をやめざるを得ない。
外国企業はなだれを打ってロシアでの業務を取りやめているし、株は暴落ですでに紙切れ同然、通貨も下落し銀行も破綻、国際的な信用どころではないというのに、なにをもってそこまで残虐非道なことをするのか、これは後々必ず知りたいこと。

そんな中で唯一輝くのは、戦力や物量では圧倒的に劣るウクライナ側の勇猛果敢な戦いっぷりで、あのロシア軍を相手に予想に反して望外の抵抗を示せていること。
欧米は武器や物資の援助のみならず、グリーンベレーなどの旧軍人エリートによる戦略家などを派遣してるようで、ウクライナ軍の善戦ぶりにプもかなりイラついているらしいのはせめてもの救い。
それはまったく結構なことだけれど、そのぶん現場では若いロシア兵士が落命していることも事実。
さらに、その焦り故にまさかの核兵器使用につながらないよう祈るのみ。

いすれにしろ、ウクライナは言うに及ばず、ロシアの国民も大変な被害者であることは間違いありません。
ウクライナが片付けば、プはバルト三国にまで手を広げるという見立てもあり、まずは世界の知恵と勇気を総動員して、なんとかこの狂気を食い止めてほしいものです。
そうでなくては、この惨禍は地球規模に波及して、あんな人間ひとりのために、この先世界はどうなるのか…。

ここでけじめをつけないと、ハイ、次は中国による台湾および東シナ海侵攻なんてことになったら…。

そんな中、YouTubeで驚愕しました。
なんと、ロシア出身の天才ピアニスト、キーシンがこの蛮行を痛烈に非難。
最後は「血に飢えた犯罪者」と結んでいます。

https://www.youtube.com/watch?v=gZx8nLr51JA
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ハンマーの重さ

いつだったか、あるピアノ好きの方との話の中で、ハンマーや弦の交換についての話題で盛り上がりました。
とはいえ互いに技術者ではないため、拙い体験談等を述べ合ったにすぎませんが、自分でも話をしながら、苦い体験の記憶が断片的に蘇りました。

実はそれよりももっと前、ある修復専門家の方と話をしていたら、ハンマーの交換で最も注意すべきは、一にも二にも「重量」であると力説されたことがあります。
もちろんハンマーのメーカーや品質、取り付けるピアノの個性に合ったものをチョイスすることも大切だけれど、まずもってハンマーの重さがオリジナルと揃っていないことには始まらないのだそうで、ここが最も基本中の基本とのことでした。

そこさえ外さなければあとはどうにでも…とまでは言われなかったけれど、主意としては、概ねそう取れなくはないニュアンスでした。
逆に、そこを見誤ってオリジナルよりも重いハンマーを付けてしまったら、タッチはたちまち重く沈み、楽器としてのバランスを損なう深刻な事態を招く由。

その方はレストアにかけては屈指のスペシャリストなので、古今東西のあらゆるピアノを数えきれないほど手がけてこられているだけに、非常に重みのある言葉でしたが、同時に、聞きながら背中にじんわりと寒いものが走りました。

これにはマロニエ君も苦い経験があって、大昔ではないけれど、過去にあるピアノの弦とハンマーその他の交換を懇意にしていた技術者さんに依頼したことがありました。
その際、マロニエ君は整音に関する本を読んだことから、一般にあまり知られていない某社のハンマーを付けて欲しいと希望しました。
このハンマーは、強い熱を加えずプレスされる柔らかめのハンマーで、羊毛もいいものを使っているというので、今どきのカチカチのハンマーが叩き出すキツい音が嫌なので、すでに日本での取扱店も調べてあったし、ぜひこれを取り付けたい旨をお願いしました。

ところがその技術者さんは断じてNo!で、「自分が一度も使ったことのない未知のハンマーをいきなりお客さんのピアノにつけることはできません!」と一蹴され、その意志はたいそう固く、とりつく島もないという感じでした。
技術者としての良心と責任意識から、そんな冒険はできないというのが主な言い分でした。

冒険も何も、ピアノの持主が自分の意志でこのハンマーにして欲しいと言っているのだから、もし失敗であってもそれはこちらの責任であるのだから、シンプルにそうしてくれればいいのにと思うのですが、技術者というのは妙なところで面倒くさいもの。

頑として拒絶の考えである以上、無理強いするわけにもいかず、結局こちらも折れてよくあるドイツのハンマーを使うことになりましたが、注文はいうまでもなく技術者さんがされ、それを取り付けられました。
ところが、タッチがやけに重くなり、それは何をどうしても調整では解決せず、やがて重すぎるハンマーに起因した症状というのが浮かび上がってきたのには、さすがに深い落胆を覚えました。
自分の希望を諦め、ドイツ製ハンマーに応じたのは、ある種の安全策のためだったのに…。

技術者さんもハンマーの重さに原因があることは認識されていたようなので、「どうしてこのハンマーにされたんですか?」と聞いたら、「これしかなかったから!」と事も無げに言われた時の驚きといったらありませんでした。
上記の「未知のハンマーをいきなりお客さんのピアノにつけることはできない!」という技術者としての強い責任意識のアピールと、このいささか杜撰なハンマーのチョイスの仕方は、どうしても噛み合わないものでした。

解決のために出来ることといえば、鍵盤に鉛を追加するか、新しいハンマーを軽くなるまで削るか、より軽いハンマーへ再交換するか、というようなところまで追い込まれました。
普通は鉛調整をするのかもしれませんが、そのピアノはシングルスプリングのアクションだったので、それでなくても俊敏性がやや劣るところへ、さらに鉛を追加すればますます鈍くなる懸念があり、かといってせっかくの新品ハンマーを削って小さくしてしまうというのも抵抗があり、まして再び別の新品ハンマーに交換というのは費用的にも気持的にもできないから、悩んだ末に採った手段は、ウイペンをダブルスプリング式に全交換するというものでした。

…。
それでも、結果は期待するレベルには至らず、ついには別の高名な技術者さんに見て頂くまでに発展しましたが、問題は他にもあったらしく(具体的なことは控えますが)そういう部分は素人にはわかりません。
おかげでかなり挽回はできたけれど、それでも根本的なものは尚残り、ついに完全解決には至りませんでした。
まさに「ボタンの掛け違え」の言葉のとおり、はじめの一歩を誤ってしまうと、あとからどんなに小細工を重ねてもダメだという、いい教訓になりました。

そのピアノは別の理由で手放すことになりましたが、思い返せば冒頭の修復専門家の方がおっしゃる言葉そのままの経験をしていたというわけです。

もう過ぎた話で、いい経験と勉強をさせてもらったと思っています。
ハンマー交換は重さに対する注意が最重要であること、これは決して忘れません。

追記;ここ最近、ときどきネットで目にしますが、古いNYスタインウェイでオーバーホール済みのものの中に、マロニエ君がはじめに希望していた某社のハンマーが付けられているものが何台かありました。
商品説明にもそのことが触れられており、とても良質なハンマーであると記されています。それを見るにつけ、もしあのときこれを付けていたら、どんなものになっていただろうかと今でも思ったりします。
もちろん、適正な重さを踏まえての話ですが。
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狙いのズレ?

久しぶりにCDをまとめ買いしました。
まとめ買いというのは、それで割引率が良くなるからなのですが。

その中のひとつは、サン=サーンスのピアノ曲集、ピアニストはイタリア人のマリオ・パトゥッツィという人であまり知らない人だし、とくべつサン=サーンスのピアノソロが聴きたいというわけではなかったけれど、使われているピアノが1923年のプレイエルとジャケットに大書されており、そこにつられての購入でした。

期待を込めて再生ボタンを押したところ、出てくる音は予想に反していやにまろやかな音でしたが、せっかく買ったのだからと何度も繰り返して聴きましたが、さすがはプレイエル!と思うものはふわんとした響きと上品な音色だけで、もっと妖しい魅力を期待していたのでやや肩透かしをくらった気分。

その理由として想像されたのは、現代流にあまりにも徹底して調整された新品ピアノのようで、ハンマーもおそらく交換済みでしょうし、今風に均一な音作りがなされた結果という感じで、これはピアノの基本の調整方法としては正しいのかもしれないけれど、精度を凝らしてまとめ上げることをやり過ぎた感じがあり、それではこの時代のプレイエルの魅力は却って隠れてしまっているような気がしてなりませんでした。

誤解を恐れずに言うと、戦前のプレイエルに現代の精密な調整を駆使して、少しの傷やムラをも消し去ることがどこまで正しいのかマロニエ君にはわからないし、いい意味でのアバウトさとか大胆さも封じられているような気がしてなりません。
姫路城が大修理の後、漂白剤で洗濯したように真っ白になり、線やカーブなどはあり得ないほど完璧なラインになったけれど、それで却って味わいや風格を失ったように個人的には感じたことなどを連想して思い出しました。

スイスのルガーノでセッション録音されているようですが、こういう音質を求めたのであればなにもわざわざプレイエルを使う必要はなかったのではと思うのですが、しかしこのCDはジャケットにも「PLAYED ON A 1923 PLEYEL」と記され、この楽器を使ったところが特徴のようだから、やはりプレイエルへのこだわりはあったことは確かなようです。

では何が正しいプレイエルかをマロニエ君ごときが正確にわかっているとも言い難く、良し悪しを決めつけるつもりはありませんが、でも…なんとはなしに直感として「なにか大事なところが違っているのではないか…」というのが残るのです。

とくにフランスのものは、他に類を見ない洗練された感性と美意識が危ういところで成立しているものが多く、それをドイツや日本式の理詰め一筋の方法論で、整然とアイロンを掛けたように処理することは、本当に正しいことなのかはわかりません。

マロニエ君にとってのプレイエルの原点は、コルトーによる一連の録音ですが、ああいうシックで華やか、可憐かと思えばどこか酒場の匂いもしたり、明るく軽やかさでありながら、そのすぐとなりにシリアスな憂いが張り付いているような、美しさの中に屈折した要素が絡みこんだ音がプレイエルで、それを現代の録音で聴きたいのですが、これがなかなか実現しません。

というのも、他にも何枚か現代に録音されたプレイエルのCDは持っていますが、どれも似たり寄ったりで、やはりそこには時代の反映があり、ピアノ技術者にしろ、背後に控える技術者達にしろ、どうしてもキズやムラを嫌って除去しないといられないのだろうと思います。

マロニエ君はCDを聴く際のボリュームは平生やや絞り気味ですが、最後の手段として試しに大きくしてみたら、ここではじめてフワンとした響きにプレイエルらしさというか、フランスピアノならではの独特の香りを感じることがはじめてできました。
しかし個人的にはこれだけでは食い足りなくて、このピアノの魅力は音そのものの陰影や屈折にあると思うことに変わりはなく、ここに聴くプレイエルもより弾き込んでいけば、やがて旨味成分が出てくるのかもしれません。

数少ない例外は、東京の某ピアノ店がプレイエル(たしか3bis)を販売目的で動画にしてアップしているものがありますが、これが本当に素晴らしく、やはり中には、マロニエ君のイメージ通りの個体もあるんだなぁ…と思いますが、それが優れたピアニストの演奏+楽曲+CDというそろった形ではまだありません。
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カテゴリー: CD | タグ:

シンメル椅子

暇つぶしにヤフオクを見ていたら、シンメルの椅子という珍品が目に止まりました。

シンメルはドイツ最大のピアノメーカーとされており、車でいうとフォルクスワーゲンみたいなものでしょうか?

日本ではドイツピアノといえばいくつかの最高級クラスばかりが有名で、それ以下の価格帯は国内大手メーカーが一手に担っているので、シンメルは出会うチャンスは極めて少ないようです。
2〜3度、ちょっと触ったぐらいの経験しかありませんが、ヤマハでいうとSシリーズ、カワイならSKシリーズぐらいのピアノメーカーというイメージで、おぼろげな記憶ではドイツ製品らしい堅実で確かなピアノという感じだったような。

マロニエ君は個人的に、いわゆる高級メーカーのセカンドブランドというのはピアノにかぎらず嫌いだから、その辺を狙うのであればシンメルなどはよほど検討の余地あるメーカーじゃないかと思いますが、どうこう言えるほど詳しくもないので、あくまでイメージですが…。

あ、今回は椅子の話でしたので、そちらに戻ります。
出品されていたのは背もたれのないコンサートベンチ風のデザインで、色は茶系、座面はベロアのファブリック、足には細かい溝などが丁寧に彫り込まれており、中古ですが目立ったキズや痛みなく、使用感もなくはないけれど大切に使われたのか、全体的にいい感じでした。
高さ調整は、よくある丸いつまみではなく、手動の鉛筆削り機の取っ手のようなものを回すタイプで、それがまた繊細な感じでした。

オークションの終了は深夜でしたが、狙ってしまうと朝からそわそわします。
幸いあまり注目されていなかったようで、当方を含めて4件の入札の結果、望外に安く落札することができました。
ただ、送料のみで5000円以上!とずいぶんかかりましたが、物が大きく出品者の方が遠方で、まさに列島縦断という感じだったので、そこはやむを得ないところでした。

開梱してみると、足は取り外された状態だったので、まずは組立作業。
あれ?と思ったのは、どこにもSCHIMMELという表記がなく、この点については確認する手立てがありませんが、細部の造りや木目の塗装も美しく、座面は4/5/4と13個のボタンで止められており、ファブリックの感じもしっかりしたものでした。
というわけで、思いがけず良い買い物ができたと満足しています。

ところが、まったく問題がないわけではなく、マロニエ君は椅子の高さが低い方なのですが、この椅子は最低でも少し高めで、そこに若干の残念さがありました。
しかし、足は上記のように装飾も施されているし、下部にはそれぞれ金具までついているような作りなので、これを切り落とすのも気が引けるから少しガマンするか、どうしても低くしたい場合は木工職人さんにでも相談してみるか…。
ただ、座り心地はファブリックだけにとてもよく、ある意味、革よりも好ましい感触です。

ちなみに、車のシートでも部屋のソファーでも、素材は「本皮」が最高級と思っている人が昨今とても多いようですが、本当のフォーマルというか格式あるものは昔からファブリックであり、例えがいささか大げさですが皇居や国会の椅子、歴代天皇の御料車などはシート素材は伝統的にファブリックしか使われず、決して皮は使われません。

1980年代ぐらいまでのベンツは、内装やシートの素材で最も格上なのは目の詰まったベロア仕様で、レザーはその下の扱いでしたが、時流には逆らえないのかレザー人気には抗しきれず、現在ベロア仕様は姿を消したみたいです。
ファブリックのいいところは、表面の当たりがいかにも優しいことと、革のように滑らないので包み込まれるような安定感があります。

皮のシートのあのヒヤッと冷たい感じと滑る性質は、皮は高級というイメージに掻き消されるのか不思議なほど問題にされませんが。
そういえば象牙鍵盤が珍重されるのは、希少性もさることながら、その風合いや汗を吸って滑らないという実利も兼ねているようですが、かたや滑るレザーを大好きだったりするのは笑ってしまいます。
いずれにしろ、これらは生き物の犠牲の上に成り立つものであることも、当節なら考慮すべきかもしれません。

〜なーんて、自分はヤフオクで中古品をお安く買っておきながら、こんなエラそうな話をするのは甚だ滑稽で、もし他者がそういうことを書いていたら、マロニエ君もまちがいなくそう思うと思います。
それはそうなんですが、ともかく皮というのは、本来の格式としては最上ではないということを書いておきたかったしだいです。

シンメル椅子-1
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駐車の向き

前回書ききれなかったことで、駐車場でも「えっ?」というようなことがあったで、追記を。
今回の接種会場であるクルーズセンターは、文字通りクルーズ船寄港を受け入れるための施設なので、大きな駐車場の白線の区割りは観光バス用のサイズになっており、普通車には長さも幅もてんで合いません。

駐車場にあてられたのは、要は大型送迎バスの待機場所のようなもので、だから普通車にとっては地面がアスファルトというだけの、ただの広い空き地のようなもの。
GoogleMapの航空写真で確認すると、大型バスが50台くらい止められる広さです。

すでに止まっているクルマ数台も建物入口に近いほうに適当な間隔でパラパラっと置かれていましたが、駐車場の入口から数人の誘導員がいて、こんなに広いのになぜか自由な場所に止められそうにはありません。
誘導員の指示で手招きされるまま奥に進み、ここへと示された場所へ前向きに止めると、すかさず横に近づいてきたので窓をあけると「バックでお願いします!」とやり直しを命じられたわけです。
えっ、なんで?

何度も繰り返しますが、はじめ場所を間違えたのかと思うほどガラガラで、そんな状況でどこに停めようと、どうでもいいような環境で、わけても止め方が前向きだろうが後ろ向きだろうが何の意味もない状況。
それなのに、一度置いたものをわざわざ向きを180°回転させて止め直しをさせるというのはいったい何なのか、どう考えても合理的な理由が見つかりません。
ただヒマだから意味のない指示をして、人を従わせて楽しんでいるようにしか思えません。
あるいはこの係員には「駐車はバックで」という思い込みがあって、そこに前進で止める車があると、それは異端として目に映り、個人的な情緒を乱されたということなのか。

駐車の向きというのは、塀や壁を排ガスで汚さないなど、ワケがあって向きを指定して置かせる場合もないではないけれど、ここでは車の数に対してあまりに広すぎる駐車場で、駐車枠もなく、やり直しを命じてまでバックで止めさせる必要はどこを見渡してもまるでわからないし、その後ろにはフェンスがあって、一本の道があって、さらに向こうには冬の寒い海があるだけ。

そもそも普通車なら100台以上は置けそうなところに、車はわずか5〜6台しかいないのに、この人達はいったい何がしたいのか、マロニエ君は性格的にこういう馬鹿げたことを言われるまま従うということが、普通の人以上に苦痛に感じる性格かもしれません。

ついでながら、日本人は駐車というと「バックで止めるもの」という固定観念というか、それがまるで「駐車の作法」であるかのように思っている人って相当多いと思います。

理由はいくつか考えられますが、たとえば狭い駐車場にキチンと止めるにはバックで置いたほうが、置き方も慎重になるし、物理的にも方向蛇(左右に動くタイヤ)が後であるほうが狭い場所では効率よく置くことが可能というのはわかります。
また、多くの駐車場には車止めがあって、そこにタイヤが当たると、前後のオーバーハングの関係から、車種によっては車の後部がやや飛び出すということもあるけれど、それはあくまで車種によって逆もあるから普遍的な問題ではない。
(ちなみにクルーズセンターのこの広場には車止めなんてまったくありません、念のため)

それよりもマロニエ君が感じていることは、こう言っては申し訳ないけれど、運転の下手な人にとっては駐車は苦手な事の一つで、教習所時代から「駐車はバックで」と刷り込まれて練習し、駐車といえば疑いもなくバックで止めるということが習慣化しているのでは?とも思います。
そのほうが出るときに楽という考えもあるでしょうが、これって難しいことを先に済ませておきましょうという程度のことでしかない。

むしろ前向きに止めて、出庫時にバックで出るほうが、駐車枠内に置くように狙いを定める必要がなく(つまり適当でよく)、要は車がスペースから出られさえすればそれでいいわけだから、このほうが楽でもあるので、どちらが良いかは駐車環境にもより、臨機応変に考えれば良いこと。
単純な話、バックで左右の車に注意しながら枠内へ左右均等に、かつ平行にキチッと収めるより、前向きにスパッと止めたほうがよほど楽なことも多いのですが、たったこれだけのことがこの国ではなかなか理解されない。

近頃の駐車場というのは不気味なほどだれもかれもがバックで駐車しており、なんだか不気味です。

新しい車には駐車アシストのような機能もあるから、ますますバックでの駐車は常識になるのかもしれませんが、とにもかくにもやみくもに「駐車はバックで」という暗黙のルールが染み込んでいるのは間違いない。
ここには日本人お得意の横並び精神も加勢して、みんながバックで止めているからそうしなくちゃいけない、ひいてはバック駐車はキチンとした止め方、前進駐車は行儀の悪い止め方というような気分もあるのかもしれないと思うと、なんだかゾッとします。

だからかどうかは知らないけれど、先のクルーズセンターのように、だだっ広いガラガラの環境でも、一旦置いたものをわざわざ逆向きに置き直しをさせるというのは、当方が「行儀の悪い止め方をした」と思われた可能性もあるのかと思うと、勘違い&邪道も甚だしく、今風に言うと「パワハラ」ではないのか。

実はこの状況、昔だったら「なんのためにバックで止めなくてはいけないのか?」「そうすることにどういう意味があるんですか?」とすかさず問い正すところですが、近頃ではなんでも従っておいたほうが面倒臭くないとか、どうせ納得できるようなアンサーは得られない、さらには普通に質問をしても逆にクレーマーのような変人のレッテルを貼られるのがオチで、正義正論よりも自分の身を守ること、ストレスを避けることを優先するようになり、甚だ不本意な習慣が身についているので黙って従いましたが、今思えば、やはりなぜか?という質問ぐらいはしておくべきだったと後悔しています。

こんなブログにまでくどくどと書くということは、結局はストレス回避はできていないということですからね。
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3回目ワクチン

3回目のワクチン接種、打たずに済むならそれに越したことはないけれど、いまだ収束方向というわけでもないし、迷ったあげくやはり打っておくことにしました。

各メディアによれば、3回目接種にあたってはファイザー希望が圧倒的で、全体の9割ほどに達しているそうですが、こうなった要因のひとつは1〜2回目接種のとき、モデルナの副反応が強いう情報が広く知れわたったためだとか。

一方で、3回目については交互接種の有効性も謳われており、効果の高い組み合わせの一覧表によれば、ファイザー+ファイザー+モデルナというのが最も抗体量が高くなるとあり、東京都下の某市ではこのことを市長と医師が顔出しして、その有効性をくわしく説いたところ市民の理解が得られて、そこでは80%以上の人が3回目にモデルナを選択したという事例もあるとか。

もともとワクチンなんて進んで打ちたくはないけれど仕方なく打つのだから、せめて少しでも効果の高いほうがいいと思い、前2回がファイザーだったので、今回はモデルナを選択したわけです。

送られてきた接種券を見ると、ファイザーは近くの接種会場や病院でも受けられるのに対し、モデルナはマロニエ君の居住エリアではクルーズセンターという博多港の埠頭の最も先にある場所まで行かなくてはなりません。
距離もあり、公共交通機関利用の人は無料シャトルバスなども運行されているようですが、そこは自分の車だからとくに問題ではありませんでしたが。

ネット予約をして会場に行ってみると、もしや場所を間違ったのではないか?…と思うほどガラガラ状態なのにまず驚かされました(それから数日後、この会場は予約なしでも接種が受けられるようになった由)。
このクルーズセンターというのはかつて外国(主に中国)からの巨大なクルーズ船の寄港地として頻繁に使われていた施設ですが、コロナ以降はそんなクルーズ船もすっかりなくなり、そこが接種会場として当てられているようです。

10分以上早めに着いたので、予約時間まで待たされるだろうと思っていたら、それもなく、受け付けなど笑ってしまうほどスイスイと進み、あれよあれよという感じで接種となり、すぐに15分間の待機時間に入りました。
前回に比べて、あまりにも人(被接種者)が少なくスピーディに進んで呆気にとられながら、はるか前方に目に入ったのは、出口付近にマイナンバーカードを作るための受付コーナーらしきものがあること。
いつかは作らないといけないと思いつつ、面倒なのでまだ手をつけていなかったのでいいかも…などと思っていたら、そこへまた狙ったようなタイミングでその担当係の方が説明に来られて「まだお済みでなかったら、お帰りにあちらで簡単に手続きが可能ですので、よかったらぜひ」と薦められました。
時間もあったし、ここでマイナンバーカードの手続きも終わるのなら一石二鳥とというわけで、そちらも無事に済ませて、なんだかラッキー!みたいな気分でした。

とはいうものの、TVなどでは菅政権に比べて岸田さんはワクチン接種も進まないなどと言われていますが、実際の接種会場の様子はというと(モデルナということもあるとは思いますが)、こんなにもガラガラで不思議な感じでした。

さて、心配した副反応ですが、3回目はさほどでもないと言われていたし、実際打った当日は打たれた部位に筋肉痛がある程度で、とくにどうということもなかったのでこれで終わった…と思っていたら翌日になって発熱、午前中からみるみる倦怠感が強まり、丸一日静かに休んですごすハメに。
幸いなことに、それは一日のみで、三日目にはスッキリ普通の状態に戻りましたが、そのあたりは個人差もあるのでしょうね。

余談ですが、お役所のすることとはなんとバカバカしいものかと感じる光景もチラホラ。
会場内での行動は、一挙手一投足が監獄のように厳しく監視され、すべて係員の指示通りに動かなくてはならず、ある程度は理解しますが、一部は明らかに必要を逸脱しているという印象もありました。

たとえば、接種後の15分待機するにも、椅子は広大なスペースに一脚ずつ前後左右に間隔をおいて置かれていますが、ほぼ空席なので、どこに座ってもいいようなものだし、人と距離を取るという観点からいえば、できるだけバラバラに座ったほうがいいはずなのに、杓子定規に手前左からキッチリ順番に詰めて座るよう指示され、はっきり「こちらに」と指示されるし、その椅子に行こうとするにも歩く順路まで「こちらからお願いします」と言うあたり、なにか変な圧力がこもっています。
しかし、そこは通路でも何でもなく、ただの椅子と椅子の間であり、そんなことはまったく無意味なこと。
人もいないのだから、どの隙間から行こうと自由であるはずなのに、遮二無二「こちらから」とむやみに従わせるのは明らかにやりすぎで、それは係員が仕事という大義のもとでどうでもいい事まですべて自分の指示通りに人を動かして、密かに楽しんでいるなと感じられるもので、それには頑として従いませんでした。

また、横の壁際にあるトイレに行くにも「必ず係員へ手を上げてお伝え下さい」と念を押され、しかたがないのでそうしたら、わざとらしくサッと近づいてきて恭しげに手を伸ばし、そのトイレを示しながら「はい、では、あちらの右側へお進みください」ときた。見ればトイレは入口が左右に分かれ、左は女性用、右は男性用なのだから右に行くのは当たり前で、こういうバカバカしいことを真顔でやられると、はじめこそ内心で滑稽にも思っていたものでも、だんだん癇に障ってくるものです。
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巨匠たちの…おまけ

書くかどうか迷いましたが、少しだけ。

世の評判は別にして、個人レベルでは苦手なピアニストというのは、誰しもあるはずです。
とはいえ、それが歴史的な大ピアニストともなると、その評価は定着し、燦然と輝き、ファンも多いぶん、こんなところに書くこともためらわれますが、まったくマロニエ君の個人的な好みということで、敢えて書いてみることに。

巨匠たちの遺したショパンのCDを順次聴いていると、ボックスの一番下の部分から3枚出てきたのが、アルトゥール・ルビンシュタインでした。
ポロネーズ集とマズルカ集でしたが、残念ながらマロニエ君にはその良さが見い出せないまま、今回もまた深い溜息とともに終わり、正直いって3枚のCDを聴き通すだけでも意志力が必要でした。
以前も聴いて苦手だったため、ボックスの一番奥にしまいこんだことも思い出しました。

時代もあるのか、この方、ポーランド出身のピアニストといわれるけれど、なぜショパンに対してあのようなルノワールの絵画みたいなアプローチになるのか、疑問はますます深まるばかり。
たったいま「時代」と書きましたが、しかし、ここに書き連ねてきたピアニスト達は世代的にさほどかけ離れた人達ではなく、そのぶんルビンシュタインの演奏の特異性が浮き立つようでもありました。

1960年台以降の彼はまだしも円満な福々しい音になったけれど、ここに収められているのはすべて第2次大戦前の若いころの演奏ですが、どれを聞いてもえらくキツい音で、音色や表情を凝らして音楽を創りだそうとしているデリカシーがマロニエ君にとってはまったく感じられないのです。

どれを聴いても同じ調子で、各作品への思慮や慎み深さとか作品の機微に触れるような儚さなど感じられず、ただ楽譜を片っ端からじゃんじゃん弾いただけのように聴こえ、通俗という言葉が悪いなら、エンターテイナーのようで、もしかするとこの人は音楽をそういうものに変質させるほうでの第一人者ではなかったのか?とさえ思います。
大衆にとってピアノの華麗な大スターであり、氏もそういう立ち位置が性に合っていたのでしょうから、客席とステージはまさにwinwinの関係で、それが疑問もなく喜ばれた時代だったのかもしれませんが。

ルビンシュタインはどこに行ってもハリウッド・スター並みの人気で、その周りには人が群がり、そこになぜか「20世紀最大のショパン弾き」というイメージも加わって長年持ち上げられたためか、ショパンの音楽はある種イメージの齟齬があるまま、長らく放置された時代が続いたといえるかもしれません。
このところ、いろいろな昔の巨匠のショパンを立て続けに聴いて、それぞれのショパンへのアプローチに耳を傾けてきたわけですが、ルビンシュタインは全般的に打鍵が強く、ところどころに申し訳程度に強弱があるぐらいで、平明でブリリアント、彼の享楽的な生き様などが華を添えるように大衆の心を掴んで天下が続いたというのも、たまたま何かの条件が揃ったということでしょうね。

ルビンシュタインを取り扱った本だったと思いますが、あるとき氏がショパンの手のモデルにサインをしてくれと頼まれたところ、「私がショパンの手にサイン?そんなことはできないよ、出来るのはハートを入れることだけ」といかにも謙虚なような事を言って、そこに小さなハートを書いている写真が掲載されていましたが、ルビンシュタインの魅力というのは、演奏よりも、人間としてそういう場面でサッと人を唸らせ、人々の心をつかんで印象づけ、のちのちまで語り継がれるような振る舞いとはなにかを心得ていたのだろうと思いす。
彼によるさまざまなジョークや幾多の言葉とかエピソードの中にもそういうものはたくさんあって、いかにも大物然とした知己に富んでおり、ルビンシュタインという大スターの人物像を脇から強力にサポートしていたのだろうし、大衆も大いに湧いて感激し舌を巻いた…そんな関係だったんだろうと思います。

彼が偉大なピアニストということはそうなんだろうと思いますが、個人的にはショパンをあんなにも徹底して詩情や陰影のない、まるで陽気なイタリア音楽みたいにあっけらかんと弾かれてしまうと、なにかたまらないものが胸にこみ上げてくるのです。
くわえて若い頃は、打楽器的な打鍵の強さがあって一音一音が刺さるようで、それだけでも疲れます。

この巨匠をしてこの弾き方は、当時の影響力の大きさからすれば、日本などのピアノ教育現場にも一定の影響を及ぼしてしまったのではないかとつい思ったり。
現に一時代もてはやされた日本の有名ピアニストなどは、大衆ウケがなによりもお好きだったようで、かなりこの手の巨匠たちの影響があったのではないかと思われてなりません。

いっときほどではないにせよ、いまだにルビンシュタインをピアノ界の巨星のごとく尊敬し奉る人たちがおいででしょうが、個人的にはどこがそんなに魅力的なのか、一部はわかるようでもありますが、やはり謎なのです。
彼の手にかかると、ショパンのみならず大半は娯楽のようになってしまう印象ですが、かくいうマロニエ君も子供の頃は、そう選択肢もないこともあって、彼の演奏はずいぶん聴いて育ったのも事実で、いま思い返せば複雑な気分になりますね。

後で思い出したので、追記しておきますが、マロニエ君が最も好きなルビンシュタインの笑える言葉。
「やっとわかった、異教徒とは、何が異教徒なのかわからない者が異教徒なんだ!」…なるほどね。
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不思議な本

大手書店で『私のベヒシュタイン物語』という多数の人たちによるエッセイをまとめた一冊が目に止まり、ちょっと迷ったけれど、新品(未読本?)のようであるにもかかわらず、割引されていることもあり買って読んでみました。

実は、ずいぶん昔でしたが『ベヒシュタイン物語』というのがあって、詳しいことは覚えていませんが、ベヒシュタインの素晴らしさを伝えるにあたり、やたらとスタインウェイが通俗ピアノの代表として引き合いに出され、その対比としてベヒシュタインがいかに素晴らしいかという文体で綴られている印象が強くて、読後感としてはスタインウェイとの違いだけがベヒシュタインの存在価値であるかのような印象しか残りませんでした。

個人的に思うところでは、世界の銘器と呼ばれるものは、それぞれに代えがたい魅力があるのだから、広い視野で客観的に捉えたものでないと本当の魅力は伝えられないはずですが、ピアノにかぎらず、ひとつのもの以外を認めたがらない感性というのはどうもいただけません。
どの世界にも特定のブランドを熱烈に支持される専門家がおられますが、残念ながらあまりに思いの強さばかりが前に出て、どこか宗教チックになってしまい却って引いてしまう場合があります。

有名なライバルを引き合いに出して優位性を説くというやり方はネガティブキャンペーンのようで、どこぞの国の大統領選ならともかく、日本ではあまり馴染まない方法だと思いますが、主張に熱が入りすぎたのか?とそのときは思ってしまった次第。
ちなみに店によっても違いはありますが、総じてベヒシュタイン関連の人達は、いささか説明過多というイメージが昔から強い印象があります。
いい音というのは説明され論破されるものではなく、感じるものだと思いますが。

本の話に戻ります。
『私のベヒシュタイン物語』は個々の人たちの思い入れや体験が一冊にまとめられたもののようで、ユーザーの立場からの話ということでそこに興味を覚えたのでした。

ところがいざページをめくってみると、使われなくなったピアノが見出され、有志によって、どのように復活に至ったかという経緯など、ベヒシュタインというピアノじたいの個性や魅力についてではないような話がいくつも続きました。
大半は大戦前に作られたベヒシュタインが、それぞれの運命と偶然によって、現在日本のどこそこのホールにある、自分は運命的にそれに関わった、素晴らしい人とのご縁も出来た、有名音楽家が来て弾いて褒めた、そのピアノを中心に毎年イベントをやっている、満席になった、子どもたちがどうしたこうした〜といったような話の羅列だったことは、縁もゆかりもない関係者だけに生じた感動談をながながと聞かされているようで、あれえ?という感じでした。

また、古いピアノ故にメンテや修理の必要がある個体が多いようで、そこで輸入元の有名技術者さんや社長さんなどの協力を得たことが、たいへんな感動に値することのように書かれていますが、こういっては申し訳ないけれど、会社は利潤追求、技術によって対価を得ることも普通にビジネスであるし、ことさら特筆大書するようなことではないと思うのですが、それをベヒシュタインが引き会わせてくれた格別のご縁とばかりに書かれていたり、あるいは某大学にベヒシュタインがあるとしながら、大半はピアノとはあまりかかわりのない大学のイベントの意義と解説のようなものであったりと、どこが『私のベヒシュタイン物語』なのかよくわからなかったりで、だんだん気持ちがついて行けなくなりました。

善意の皆様には甚だ申し訳ないような気もしますが、これは無料で配布される冊子ではないのだから、そういうものを延々と読まされる身にもなって欲しいと思いました。

ともかく、そういう話が一冊のうちの半分以上にもわたってページを占め、そのあとにようやく個人でベヒシュタインや系列ブランドのホフマンを購入した人たちによるリアルな内容となり、こちらのほうが直接弾く人の体験に基づいており、よほど興味ぶかく読むことができましたが、それらはほんの僅かでした。

また、直接の内容とは関係ないかもしれませんが、なぜかこの本には、日本語の間違いや誤植の類があまりにも多く、ハードカバーで装丁され、カバーや帯もついて1,980円也で一般に販売される書籍である以上は、もう少し校正校閲にもしっかりと留意されないと、書物としてのクオリティはもちろん、ベヒシュタインのイメージにも障るのでは?と感じました。

とはいえ、タイトルだけに釣られて、あまり内容を吟味することもせず買ってしまったという点で、要するに見極め不足の自己責任でもあるとも言えそうです。
それはそうと、ベヒシュタインといえば判で押したように出てくるドビュッシーの「あの」言葉は、こうも多用されると却って無粋で、もういいかげんに勘弁してほしいものです。
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またもテレビで…

もうお腹いっぱいになっていた筈なのに、ショパン・コンクールの番組がまたもNHKで制作・放送され、やっぱり無視できない情けなさで不本意ながらも見てしまうことに…。
ただし、気がついたのが放送開始後、約30分経ったころで、新聞で見つけてすぐ録画したので、2時間番組のうち1時間半しか見られませんでした。

今回は日本人出場者にフォーカスするのではなく、コンクール全体を捉えた番組構成で、その点ではこれまでとは違った面白さがありました。
スタジオには男女のNHK司会者と、審査員をつとめたピアニスト、小説家の平野啓一郎さん、そして現地でコンクールを聴いたという若手ジャーナリスト、計5人によるお話と進行、さらにその折々に演奏の様子を紹介していくというものでした。

ちなみに、平野さんといえばショパンとサンドとドラクロワらを中心とした、ショパンの晩年から死までの数年間を描いた小説『葬送』の作者で、むろんマロニエ君も読みましたが、当時のパリの空気や芸術家のありさまが活き活きと描き出されており、4冊にもおよぶ長編力作ですが、非常に充実した作品であることは、ご存じの方も多かろうと思います。
とりわけショパンやドラクロワの芸術家としての活動の様子、さらにはそれらを取り巻く人物を、体温を感じるぐらいリアルに目の前に蘇らせた手腕や、史実の綿密かつ膨大な調査力、さらには死に至るまでのショパンの筆舌に尽くしがたい病との戦いなどが克明に描かれ、知らないことも数多く、この小説から得るものは非常に大きい稀有な作品でもありました。

番組の話に戻ると、コンクールも終わって一定の時間が経過したいま、コンクール全体を総括するようなものでしたが、なんだか結果に評価が後から追加されたような印象もあり、しかもテレビ特有の表面的なもので、聞くに値する自分の見解をゆるぎなく仰るのは平野さんただひとりで、職業柄もあるのでしょうがさすがだと思いました。
あとは正直どうでもいいようなものばかりで、やたらと褒め称えてさえいれば間違いないという感じで、いかにも現代のテレビらしい無難なきれいごとだけの世界でした。

あれこれ出てきた演奏については、個人的には10月に毎夜聴いていたときの評価が覆ることはなく、不思議なまでに同じ印象で、当時感じたことを再確認するにとどまりました。

ここではあえて固有名詞は出しませんが、当時からいいなと思っていた人は、やはり今回見てもそう感じたし、変だな…とか、どこがいいの?過大評価じゃない?と思うものは、やはりどんなにスタジオで賞賛されても(中には「会場でも話題になるほどの名演だった」などといわれても)、個人的にはまったく同意できないし、さほどピアノに深く入り込んでいない多くの視聴者はこんな言葉のやり取りを鵜呑みにしてしまうのかと思うと…なんだか危うい感じを覚えました。

時代とともに「ショパンの演奏も変わる」ということは当然だと思いますが、それが精密技術による楽譜の再構築のようになって、演奏者の自由な感性が羽ばたく余地が著しく狭められているとしたら、それこそコンクールという競技化/スポーツ化の弊害ではないかと感じます。
芸術の世界まで民主化・平均化の波が押し寄せているようですが、逆に世界の統治情勢はエゴと覇権主義が横行し、その民主主義さえかなりヒビが入っているという現実は皮肉です。

芸術が内包する真髄を追い求めることより、加点の得られる対策された解像度の高い演奏が主流となってしまうのはいかがなものか。
有無を言わさぬ音楽の喜びとか、人の内奥に触れてくるような、あるいは魂を揺さぶられ、心の痛みさえも美しく転嫁されるような演奏はかげをひそめ、審査員という独特な権力集団に頭をなでられるようなものをどれだけ提示できるかが問題。
ショパンには特有の言語があり、それをどれだけ雄弁に語れるかが問題だと思っていましたが、その点もかなり変質している気がします。

言語という言葉が出たついでに感じたことを言っておくと、件の平野さんはやはり小説家という言語と思索のプロだけあって、自分の感性、切り口、話の説得力はもちろんですが、思考のベースが圧倒的に広いから、彼の言葉には、ちょっとしたことにも真実と明快さと深さを感じるし、この点は他の人を圧倒していました。

一般に音楽だけをやってきた人は専門分野においては立派だけれども、その話はどれもがどこかで聞いたような言葉の使い回しであるし、独特の匂いや調子があるだけで、視野の狭さを感じないわけにはいきません。とりわけ社会学的な要素が欠落しており、ただピアノ道の家元のコメントのようで魅力を感じません。
こうして同じ場所・同じテーマでの話を聞いてみると、小説家というのは思索や感じたことを言葉とするのに無駄がなく、しかも思考の原野が断然広い。よって他者とはまるで脳の使い方が違うなぁというのが、明確な差となって現れていました。

あの差を見ると、マロニエ君がもしどちらかになれるとしたら、意外かもしれませんが小説家のほうがいいなあと思ってしまいました。
そもそも音楽はマロニエ君にとっては趣味としては最高ですが、プロの音楽家になりたいとはどうしても思わないのです。
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巨匠たちのショパン-2

シモン・バレル。
ロシアからアメリカに亡命したピアニストで、1947/1949年のカーネギーホールのライブですが、まず音があまりよろしくない。
昔から、ロシアのピニストは技巧が優先される演奏だったことを窺わせる演奏で、大半の曲は疾風のように早いテンポで弾き上げられていきます。
なんとか当たり前に聞こえるのは幻想曲やop.27-2のノクターンぐらいなもので、黒鍵や即興曲第1番などは、まるで一人レースみたいに極限的なスピードで、車だったらいっぺんでパトカーに赤色灯を回されるような、暴走運転的でこれはやり過ぎとは思うけれど、この時代の自由な雰囲気の中で、ピアニストが自分の個性としてそうしていたことはなんとなくわかるし、不思議にあまり不快感はありませんでした。
この時代は、40代のホロヴィッツなども同じステージに立っていたかと思うと、なんという時代かと思いますね。

ベンノ・モイセイヴィッチ
この人もロシア出身のピアニストで、一世を風靡とまで言えるかどうか、その正確なところまではしらないけれど、ともかく歴史に名を残すピアニストには違いなく、ラフマニノフを得意として親交もあったようです。
やはり当時としてはテクニシャンだろうと思われるし、随所にエレガントな表現などもあるものの、ショパンとしては全体に平凡、24の前奏曲などは詩情に乏しく聴こえるし24曲のキャラクターの弾き分けがさほど感じられませんが、スケルツォやバルカローレになると技巧がものを言うところもあるからか、まとまってくる感じ。
では、ただお堅く弾いているだけかというと、決してそうではないし繊細な部分もきちんとあって決して悪く無いんだけれど、なぜか気がつくと集中が途切れてしまうものがあります。
礼儀正しさみたいなものが全体を覆っていて、演奏から何か深く染み入ってくるようなものが薄いもどかしさがあり、ベテランピアニストが長年の演奏経験から熟練の手さばきを披露しているだけという印象を受けるのはマロニエ君だけだろうか?と思ったり。

アルフレッド・コルトー
20世紀前半の言わずと知れたショパン弾きの代表格。
音が流れだした途端に漂いだす強烈なニュアンスに惹き込まれ、ショパン演奏として一世を風靡したことに納得、その実像がありありと目の前に立ち現れてくるようです。
もちろん、しばしば言われたことで、あれ?っと思うところや、これはちょっとヘンでは?というところもあるけれど、でも、ところどころに「これ以外にない」と思わせる揺るぎない決定的な瞬間があって、聴き手はそれで完全にノックアウトされてしまう。
なにより心地いいのは、ショパンに揉み手して、忖度して、なにがなんでも歩み寄り、作品のご機嫌を取ろうとするのではなく、この人の主観が、精巧なパーツがピッタリと適合するように、作品と同化している、いわば借り物ではない点。
そのぶん溌剌として、確信があって、説得力が強い。

モーリッツ・ローゼンタール
コルトーより少し年長のポーランドのピアニストで、20世紀前半ショパン弾きといわれたひとり?
陶酔感にみちたショパンで、今日ではまず聴くことのできない主情が前面に遠慮なく出た演奏であるが、さりながら特異なことはなにもないという名演。
ひたすらショパンに忠誠を誓ったかのような演奏スタンスで、しかも本質的にもほとんど古臭さがないのは驚くばかり。注意深く、デリカシーに富み、それでいて非常によく歌い、様式感もしっかりしている。
ポーランド人ピアニストによるショパンとしては、現代のそれよりもよほど洗練された印象。ただし、都会的かというと必ずしもそれはなく、そこはコルトーが一枚上手かもしれないが、歴史的なショパン演奏としては一聴に値する美しい演奏。

ウラディーミル・ホロヴィッツ
聴き慣れた大戦以降の演奏ではなく、1930〜1936年の演奏であるために、ホロヴィッツとしてはとにかく若々しさが最も印象的に聴こえてくる。4曲のエチュード、3曲のマズルカとスケルツォ第4番だが、ホロヴィッツといえども、若い頃はこんなにキチンと弾いていたのかと思うほどオーソドックスな演奏で「らしさ」はときどき感じる程度、後年では彼の看板でもあったデモーニッシュな印象はさほどでもない。
ただ、その尋常ではない指さばきの確かさと輝きは、やはり桁外れのピアニストであることをいまさらながら思い知らされ、いかなる部分においてもなんの苦もなくサラリと乗り越えていける特別な技巧には、舌を巻くばかり。
ショパン演奏としてどうかということより、この天才の凄さにため息が出るばかりでした。
ふと、近代ピアニズムの夜明けは、この人からではないか?と思ったり。
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おぞましさ!

ネット動画をあてどもなく見ていると、運悪く、個人的に不愉快に感じる投稿に行き当たりました。
そして見なきゃいいのに、見てしまったのです。

それは不要になったピアノを、処分費用を安く済ませるために、なんと自分で解体し廃棄するというもの。

ピアノが不要となって処分するというのは珍しいことではありませんが、業者に問い合わせをしたところ値は付かず、逆に引取料として数万円…という金額を提示され、そんな出費になるなら「自分で解体して火葬場送りにする」という宣言のもと、その作業経過を動画にしてアップしているというものでした。

興味のない人にしてみたら、ピアノはジャマな粗大ゴミなのかもしれません。
とはいえ、個人レベルでそれを破壊しつくして処分行為に及ぶこと、さらにはそれをオモシロ動画としてアップするという文化の心のかけらもない感性には、嫌悪感と残酷性のみを覚えました。

その対象となったピアノは、見るからにどうしようもないようなオンボロなどではなく、むしろじゅうぶんにキレイな感じの、つやつやした木目のアップライト(しかもメーカーは今はなき日本の優良メーカー!)で、その家では不要品かもしれませんが、楽器として廃棄するようなものではなく、まだまだ使えそうに見えるいい感じのものでした。
マロニエ君の身近だったら、解体処分なんてあまりに可哀想で、後先考えずにもらってくるかもしれません。

撮影者の男性と、作業を手伝う知人らしき男性が、なんの躊躇もないまま、平然と会話をしながら作業はスタート。
ピアノの知識もないようで、手順も何もないまま手当たりしだいにネジというネジを外し「あ、これ真鍮なんだ!」「真鍮ってメルカリで売ればカネになるか?」みたいな会話とともに、作業は情容赦なく進み、アクションも外さずに鍵盤をボコボコ引き抜いたり、フタでも何でも外れたら無意味な歓声を上げるなど、それはもう目を背けたくなるようなもので、動悸を覚えました。
真鍮ネジでメルカリという発想があるのなら、ピアノ殺害という道ではなく、どうして「タダで差し上げます」ぐらいのことはできなかったのかと思います。

解体のほうは、室内でできる事が終わると、外のベランダのようなところに運び出され、よりハードな段階に突入。
弦はすべてバチバチに切断され、電動ノコで鍵盤蓋から何から羊羹でも切るように何もかもがザクザクに切り刻まれてしまい、ピアノに対して何の感情もない、興味のかけらもない人だからこそ出来ることでしょうけど、それってすさまじいもんだと思いました。
ふと、バラバラ殺人ってこんなものだろうか…と思ってしまうようなもの。

ピアノってダンパーが外されると、ちょっとした衝撃にも響板がゴーンとかガーンとか不気味な響きを発するのが、まるで断末魔の叫び声のようです。

もちろん、いかにマロニエ君だって、すべてのピアノが人から愛されるものだなんて、そんなお花畑みたいなことは思ってはいませんが、とはいえ物には物の、誰が決めたわけでもない値打ちとか、さすがにやってはいけないことといった、暗黙のルールというか節度みたいなものは「ある」と思うのですが…。

もちろん、業者さんは最終処分にあたってはやっていることかもしれませんが、それは人の目に触れない場所での職務としての作業であり、自分の家のピアノをおもしろがって、ゲタゲタ笑いながらやることではなかろうと思います。
まして、その様子が動画に撮られてネットに公開されるとは、このピアノもよくよく所有者に恵まれなかったというほかありません。
おそらく、いつの時期かまでは、その家のだれかが弾いていたピアノでしょうに、ただ使わなくなりその処分代の倹約というだけの理由で、こんな野蛮な行為がスイスイ出来るというあたりが、余計にむごたらしい気がしました。

医者でも自分の家族の手術はできないとか、やはり人間にはそういった感情ってあるものだと思っていました。
ペットの殺処分に嫌悪感を抱きながら、牛肉や豚肉をとくに残酷という意識もなしに食べていたりするわけで、そういう意味では人間は矛盾だらけとは思います。
でも、それらが処分されるときの現場は、普通の人の目には触れられないようになっているのはせめてもの配慮でしょう。

ピアノは冷徹に見れば所詮はモノであって、それを所有者の意志でどうしようが、法に触れないかぎりは自由なんだといえばそうなんでしょうけど、どうしようもなくおぞましい気がしてなりませんでした。

動画の最後に、処分にかかった費用は2000円強というような数字がドーンと出ましたが、こんな残虐行為を敢行しておいて、これだけ安く済んだよ!ということが、そんなにもジマンすることなのか…。
もちろん、人でも物でも最後というのはあるわけですが、そこに「終わり方」というのはあると思います。

関連動画でピアノを解体するというものは他にも出てきましたが、それは役目を終えた古いピアノが、静かに分解されて寿命を全うしたという納得感があり、まだしも「尊厳死」という感じのするものでしたが、それに引き換え、この解体は不幸にも愉快犯に殺害されたという感じでした。
それも、あろうことか近親者の手にかかって!!!

断じてああいう行為は容認できるものではありません。

*********

ときどきメールを頂きますが、思わず膝を打つようなものがありました。
ひとりで読むのはもったいないので、掲載許可を求めたところ快諾していただいたので、以下ご紹介します。


へんな動画おおいですもんね。
世の中なんだか、みょうな合理主義精神がはびこってへきえきしてます。
「断捨離」なんてことばがもてはやされたり・・・
もちろん、いらないものに囲まれていたらいろいろ困った問題が起こる。それは否定しませんし、持ち物は多すぎないほうが精神衛生上も好ましい、とも思います。
でも、いっぽうで、長年ともに時をすごした品物を「捨てる」という行為に なんの躊躇も抵抗も感じない、ましてや破壊してそれを成果と見なすとしたら、それは精神の退廃であると思います。「無用の用」ということだってあるし、そうじゃなくても、物を捨てる、という行為は、そのものにまつわるいろんな思いを捨て去る、ということでもあるわけですから。そこになにも感じない、ただ、「せいせいした」としか感じないひとはわたしはおそろしいと思います。
そのようなひとたちは、人間に対しても「こいつはじぶんの役に立つか?こいつとつきあってるとなにか得することがあるか?」と、そういった観点でしか向き合わないに違いありません。
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巨匠たちのショパン-1

ショパンコンクール以降、あまりにも現代の演奏を聴きすぎてしんどくなり、しばし昔に戻ってみることにして、ブリリアントレーベルのショパン全集を取り出してみました。
全30枚のCDボックスセットですが、No.18以降は歴史的ピアニストによるショパン演奏になっています。
昔の演奏は、個性もあり、キズも、ヘンな癖や表現もあるけれど、音楽への深い世界というものがしっかりしているのか、ともかく現代人のここまでやるか?というような計算高さのようなものがなく、演奏者の正直な心に触れられるようで、その点だけでもホッとします。

[ラフマニノフ]が2番のソナタを弾いていたりしますが、これひとつを聴いても彼がピニストとしてもとてつもない巨人で、ショパンにはあまりに尺が大きすぎるのか、表現も雄渾に過ぎてなにか規格が合っていないようなところがあり、すべてがケタ違いのピアニストという印象を受けました。
それもなにか意表をつくことをしようというのではなく、彼自身の内側からいやがうえにも湧き上がるものがあり、しかもそこにはゾクッとするようなデモーニッシュな魔物がうごめいているようで、なんだかちょっと恐ろしいような気になりました。
一聴の価値はあるとは思うけれども、マロニエ君にとっては、そう何度も好んで聴きたいショパンというのとは少し違う、これは別世界です。
おなじCDに収められている[ブライロフスキー]の演奏が、ずいぶん常識的な現実の世界に戻ってきたように聞こえました。

まだ、たった3枚しか聴いていませんが、その中で非常に意外な感じを受けたのが、[ゴドフスキー]の演奏でした。
もともとゴドフスキーをどうこう語れるほどにはよく知らないけれども、この人の名を聴いてすぐに思い浮かべるのは、超絶技巧を用いた多くの編曲や自作で、J.シュトラウスのワルツなどは、聴いているだけでも分厚い技巧を要する、じっとりと汗が滲んできそうなそうもの。とくにショパンのエチュードをもとに、大幅に手を加えてさらに演奏至難にした53の練習曲などはいただけない気がするけれど、とにかくこの時代背景もあるでしょうし、超絶技巧を誇る魔性の人というイメージでした。
そんな強烈なイメージばかりが先行して、考えてみたらこれまでじっくりこの人の演奏を聴いたとは言えず、ましてショパンをどんなふうに弾くかなど、さして関心を持たないままにきたような気がします。

ところが聴こえてきたのは、およそそんなイメージとは裏腹のデリケートな演奏で、「えっ、ゴドフスキーってこういうピアニストだったの?」というものでした。
曲目はop.9-2から始まるノクターンが10曲、それにソナタの2番。
ショパンに対する最上の敬意を払った、繊細で丁寧な語りが切れ目なく続き、あんなとてつもない編曲をやってしまう人とはまるで結びつかず、困惑さえ覚えるほど。
たとえば冒頭第1曲に収められた、あの有名な変ホ長調のノクターンも、ひたすら美しく深い吐息を漏らさずにはいられない演奏で、よほどショパンが好きだったに違いないこと、さらには作品に対する深い愛情と理解があったことを、これひとつを聞いただけでも感じさせられました。
これは1928年の演奏で、90年以上も前のものですが、なんとも素晴らしいものでした。

続いて聴いたのは[ソロモン]。
この人はベートーヴェンなどでそれなりに馴染みのあるピアニストですが、さすがは歴史に残る巨匠というだけあって、ショパンを弾かせてもそれはそれできちんと弾きこなす力を備えた持った人で、違和感なく安心して聴けるタイプの演奏。
マロニエ君が知らないだけかもしれないけれど、この時代のイギリスの音楽家というのはさほど輝けるイメージはなく、その中ではソロモンはかなり有名でもあり数少ない存在だったと言えるのでは。
イギリスの演奏家の多くに見られる特徴のように思いますが、演奏者自身の感覚や個性を前面に出すのではなく、あくまで作品に対して礼節と調和をもった、そつのない演奏スタイルというか、よく言えば誠実で信頼性が高いけれど、いまひとつ強い魅力があればと思わせてしまうところがあり、物足りなさを感じさせないでもないけれど、とはいえ、ごまかしのないしっかりしたテクニックの上に、どの曲も形良い花を手堅く咲かせるという意味では、尊敬に値する立派なピアニストだと思います。

なかでも印象に残ったのはベルスーズ(子守唄)で、これ以上ないほど落ち着いていて、全体にたっぷり深く響いていてやわらかな調子が全体に貫かれ、日常とは距離を置いたかのような空気がゆっくりとやわらかに流れていくさまは、やはり大したものだと思いました。
ショパンのベルスーズは、いかに装飾音を見事に弾けるかを見せつけるような演奏の多い中、ソロモンのようにエレガントに徹した演奏は逆に新鮮でした。

続く[リパッティ]は、その流れ出る音からして天才然とした光に満ちていて、ハッとさせられるよう。
くわえて、あの有名なワルツ集に聴かれるよう、全体にこの人の生まれ持った洒脱さが溢れており、ショパンに耳を傾けているつもりが、気がつくと、いつのまにやらリパッティの世界に引き寄せられている。
耳を凝らすと、リパッティ自身のセンスの好ましさ、切れ味よいピアニズムが主軸となって、必ずしもショパン的ではない瞬間も散見されるけれど、魅力にあふれた鮮やかな仕上がりによって、まったくそのように聴こえないばかりか、むしろショパンに直に触れているような気になってしまうところが、このピアニストのカリスマ性だろうと思います。

ブザンソンの告別演奏家では力尽きてついに演奏されなかったop.34のAs-durのワルツも収められていましたが、出だしからものすごいスピードと華麗さで開始され、これがもし同じテンポで、別の腕自慢のピアニストがやったならいっぺんでまゆをひそめられるだろうに、リパッティの手にかかるとそれがむしろ垢抜けた、目から鼻に抜けるような趣味の良い演奏のように聴こえてしまうあたり、やはり大したものだと思いました。
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ショパンの版

『ショパンの楽譜、どの版を選べばいいのか?』(岡部玲子著)という一冊があることを知り、さっそくネットで購入してこのお正月にひととおり読んでみました。

版の問題は、ショパンを熱心に弾かれる方の間で長らく問題とされ、その違いやベストは何かを知りたいと疑問に対する、これはいわば解説書のようなもので、これが決定版という書き方はされておらず、あくまで弾く人が主体的に決めるべきと結ばれています。
著者の方の研究は尊敬に値するもので、価値ある一冊だと感じましたが、弾く人が主体的に選ぶには同曲異版を何冊も使い比べて自分なりの結論を出さなくてはいけないということでもあり、それはそれで大変です。

それでも、この本を読んだおかげで、自分が想像していたものの空洞部分を補填することができ、版の違いというのが実際どの程度のものか、あるいはどういう経緯でそういう事象に至ったか、よりくわしく知ることができたように思います。
それは「初版出版の経緯(出版された国による差異)」「ショパン自身によるレッスン中の書き込み等」「研究者やピアニストによる改変や実践的なアドバイスが後年付加されたもの」「自筆研究に基づく原典主義」などあれこれの要因があること、さらにはショパンの書き癖とか、版による表記方法の統一化によるものなど、あらゆる要素が絡み合っていることがあらためてわかりました。

率直な印象としては、どれが絶対ということもなく、常に疑問や曖昧さがつきまとうのがショパンの楽譜で、そこへ演奏者や時代の好みも絡んでくるわけで、無理にひとつの結論を出す必要はないというか、個人的には現状のままでいいんだろうと思いますし、同時にナショナルエディションが中心的権威を占めようとする現在の風潮には若干の抵抗を覚えます
マロニエ君も書棚を見ればパデレフスキ版、ウィーン原典版、ペータース版、ヘンレ版、ブライトコップフ版、音楽の友版、全音版、春秋社版、そしてナショナルエディションなど、曲によってなんの統一性もなく混在していますが、気分的(音楽的にというニュアンスも含んで)に落ち着くのは個人的にはパデレフスキ版です。
コルトー版はほんの少しはあるかもしれないけれど、多くは立ち読みするだけで、いいなぁと思いながら別のものを買ってしまうのは、おそらく価格的に割高だからというのもあるのかも。

さて…。
その上で、あくまで一介の音楽ファン、アマチュアのピアノマニアの戯れ言として、ご批判やお叱りを覚悟で勝手な言わせていただくと、この版問題は木を見て森を見ず的な、どこか本質が置き去りにされた印象を振り払うことのできないものだと長らく感じていましたが、今回この本を読了することでますますその思い強くするようになりました。
版による違いなんか無意味だ!というつもりは毛頭ありませんし、もちろん大切なことです。しかし、それに目くじらを立て大騒ぎしすぎる気がするし、それほどの差が果たしてあるのか?という思いはどうしても拭えません。

なるほど、簡単に答えが得にくいものであるだけに、学者や研究者がテーマとして取り扱うぶんには興味深いことだろうと思われますが、ショパンが生涯をかけて作り上げたあの圧倒的な美しい音楽は、そんな瑣末なことでは微動だにしないものであるし、しかも最新のものは、あまりに学術臭が強く(イメージですが)必ずしも最良だとも思えないのです。
この本によれば、ウィーン原典版やペータース版はすでに独自の新版を準備中なのだそうで、それはナショナルエディションへの異議ではないかとも思われ、却って期待させられるところです。

聴いていて音に違和感のあるものは、やっぱりシンプルに疑問を感じるわけで、仮に自筆譜がそうなっていたと言われても、さすがの天才ショパンだって、わずかなミスぐらいあるでしょうし、もし生きていたらヒョイと書き換えたりするかもしれません。
文章だって校正という作業があるぐらいですから。
最新版で弾かれたものには、以前は美しかったものが、あきらかに「美しくなくなっている」と感じる例をいくつも聴いてきたし、私はその自分の感覚をどうしてもないがしろにはできません。

一部の人達には、こういうことをことさらにこだわってみせる向きがあり、自分はその違いと重要性がわかるんだとばかりに、そういう人達の声というのは妙に強かったりするので敵いません。

ショパンの音楽は、版がどれであれ、あれだけ輝かしい作品が人類に残されたわけで、個人的にはそれで充分ではないかという気持ちのほうがはるかに勝ります。
現在、最新最良とされるエキエル版(ナショナル・エディション)でも、完全無欠とは思えないし、疑問点を断定するには降霊術でもしてショパン本人に聞くしかないようなことも含んでいるようで、ショパンの音楽を演奏する(あるいは鑑賞する)にあたって、そんな重箱の隅をつつくようなことがどこまで重大かと感じるわけです。

版による違いの例を挙げるとキリがありませんが、例えば「異名同音」として、ある版ではEs(変ホ)を、何版はDis(レ♯)と記されている云々、ショパンの自筆譜はどうなっていて、それも書き癖があって…等々。
それによって和声の意味が変わるなどといえば、音楽理論的に言えばそうなるのかもしれないけれど、実際の曲の中にあってそれがどっちであろうが、そんなことは大した問題とは思えないし、どうでもいいし、そんなことより心を打つ美しい演奏を求めるわけです。

まがりなりにもショパンの楽譜に接していると、そういう箇所は随所に出てくるものの、その表記のわずかな違いで弾き方や考えや表現がまったく変わってしまうなんてことは別にありません(プロの方がどうかはわかりませんが)。
個人的にはショパンを奏する当たって最も大切なことは、彼の音楽に対する美意識と趣味を理解することではないかと思います。

24のプレリュード第2番の左手の表記がどうだとか、4/4拍子か2/2拍子かといったことが例に挙げられていましたが、マロニエ君としてはそれは第1番の直後に来るこの曲を直感的に理解できる人なら、冒頭左の内声に意識をおきつつ右の孤独に満ちた旋律が決然と入ってくること、そうなると曲全体は4/4であれ2/2であれ、沈鬱さを込めてなめらかな流れで弾き進むのは必然であり、表示よりも感性が問われるところ。

むろん完全な音の違い(国内の楽譜にはときどきある)などは論外ですが、それ以外の真偽や経緯のわからない微妙なものが多くあるようだから、それはそういうものを含んでいるということでいけないのかと思います。

言ってしまえば、いい演奏のできる人はどの版をつかってもいい演奏になるでしょうし、その素晴らしさは版によるものではなく、演奏行為の深いところからくるものだと思うのです。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

昨年12月、マリア・カラスの本を読んだところ、文中に記されているカラスの初期から黄金期にかけてのオペラを無性に聴きたくなりましたが、持っているものは大した数ではなく、HMVのサイトを見たところ、なんと69枚のBOXセットがありました。
しかも、本来の価格は3万円を超すにもかかわらず、期間限定か何か知らないけれど1万円強(新品)となっており、今を逃してなるものかと慌てふためいて買ってしまいました。
実際に、これまで何度も油断して買い逃したCDがあり、あるときに買わないとダメだという教訓があるのです。
いずれもEMIで正規録音されたものにもかかわらず、一枚あたりおよそ160円ほどですから、ちょっと信じられない買い物です。

数日後、みかん箱ぐらいの段ボールが届き、中を開けると緩衝材に守られるようにして赤の素敵なデザインの大型ボックスが鎮座しており、大量のCDに加えてハードカバーの分厚い本まで付属していて、ページをめくるごとに数多の写真が掲載されており、あらためてカラスの美貌と超弩級のスター性に息を呑みました。
マルタ・アルゲリッチが世に知られ始めた頃、その圧倒的な技巧と美貌から「鍵盤のカラス」と言われたそうですが、それも納得です。

さて、これからはしばらくカラスとのお付き合いが始まりそうですが、数が数なので、他のCDとバランスを取りながら聴き進むことになりそうです。


元日は家でゆっくり過ごすつもりでいたら、友人がイオンモールが開いているらしいと言ってきたので、正月早々イオンモールに行くなんぞなんたる無粋なことか!とも思いましたが、他にこれといって予定もなく、暇つぶしに行ってみることに。

最短のモールではかなりの混雑が予想されたので、自宅から20km以上もある地区をあえて選んで、そちらに向かいました。
ところが、モールに近づくとにわかに道路も混雑が目立ち始め、駐車場に入るだけでも裏ルートを使ったりと一工夫が必要なほどでした。

なんとか運良く車を止めてモール内に踏み入れると思わずゴクリ、かつてここで見たことのない人の群れでごったがえしており、まずこれで怖気づいてしまいました。
とりわけコロナからこちら2年間、人混みというものにもかなり遠ざかった観がありましたし。
とくにお目当ての店があるわけでもなく、とりあえず流れでH&Mに入ってみると、なんとレジに並ぶ人の長蛇の列が尋常なものではなく、これまた見ただけでストレスを感じるほど疲れました。

ウロウロしようにも人人人で、それに圧倒され、気疲れしたので、とりあえずお茶でもしたくなりましたが、そのために距離のあるレストラン街へ人の波をかき分けて行くのも煩わしく、近くのフードコートへ行ってみると、こちらはこちらで空きテーブルを探すだけでももう大変、やっと隅の方にひとつ見つけて腰を下ろしますが、おなじみのミスタードーナツやマクドナルドがこれまたウンザリするような大行列。

その最後尾について、忍耐のあげく麦茶みたいな「コーヒー一杯」を買うだなんてまっぴらごめんなので、立ち去ろうかと思っていると、友人は「マックのアプリある?」というので差し出すと、コーヒーとアップルパイを選んでネットからオーダーし、支払いはそのままPayPayで済ませるという、およそマロニエ君ひとりでは思いもつかないテクニックが展開されました。
すると、なんと店の上部にある電光掲示板に、はやくもスマホ画面に表示された注文番号が反映されています。

よく見ると、レジの右手には商品受け取りのカウンターがあり、わずか前にオーダーしたコーヒーとアップルパイらしきものが早くも準備されたようで、スマホの注文画面を見せると、それらが載ったトレイがあっけなく渡されました。

行列の方を見ると、ほとんど前進しておらず、はじめに見たときの最後尾の人のうしろに二人並んでいるに過ぎないのに、我々のテーブル上にはまぎれもない温かいコーヒーとパイが存在しているのですから、これにはいたく感じ入った次第。

これまで店内飲食でも「ネットで注文」というステッカーがテーブルに貼られていたりして、そうすることにどれほどのメリットがあるのかわからなかったのですが、この大行列を前にして、その迅速な効果をまざまざと見せつけられ感嘆してしまいました。

普通に辛抱強く並んでいる方々がお気の毒のようではあるけれど、申し訳なさと爽快感がない混ぜになった不思議な気分でした。

年頭から誠にくだらない話でしたが、今年もよろしくお付き合いくだされば幸いです。
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今年も終わり

早いもので今年ももうあと少しで終わろうとしています。

この2年、コロナに翻弄されるばかりで、しかもまだ終わったわけでもない。
政府などは「熱物に懲りて…」なのか、ここへきてやたら慎重な姿勢を崩しませんが、どうもウイルス自体は弱毒化しているという意見もあって、マロニエ君はそちらに希望を繋ぎたいと思っているところです。

今年の秋にはショパンコンクールが1年遅れで開催され、ご丁寧にネット中継などあるものだから、今回ほどこれに夜ごと時間を取られたことはなかったし、見れば見るほどコンクールってなんだろう?その功罪とは?…というような後味ばかりが残りました。
そして、他国のことは知らないけれど、日本国内ではメディアなど普段はピアノなど目もくれないくせに、上位入賞という結果だけには食い付いて騒ぎ立てるというあの様相にも辟易しましたね。

もうお腹いっぱいと思っていたら、25日の夜にNHKがまたもトドメの番組をやっていて、だったら止せばいいのに、つい録画して見てしまいましたが、いまやピアニストもアスリートと同様、純然たる競技人というのがマロニエ君の結論です。
古代ローマの剣闘士の時代から、人間はこういうものが本質的に好きなんでしょうね。
その番組の感想は…もうさすがにやめておきます。


今年は、偶然も重なり、知人のピアノ好きの方や技術者さんとの間で沸き起こった相乗作用もあって、ネットでひょっこり出てきたお値打ちピアノを身近で3台もゲットするという、今後もおそらくないであろう急展開がありました。
東京蒲田時代のシュベスターグランド、1955年から広島でわずか9年間製造された超レアのワグナーグランド、さらにはイースタインのトップモデルたるB型の初期モデルです。

外観こそキズもあれば、長い年月を経てきた風格満点ですが、どれも誇張なしに本当の楽器の音がして、ボディ全体が鳴り震えるような力強さが健在だったり、あるいは弾く人の息遣いまで寄り添ってくれるような反応だったり、現在国内で販売されるいかなるモデルも、このように人と楽器が一体化するような喜びを提供できるピアノは、果たしてどれほどあるだろうか…と思います。
現代のピアノは機械精度としてはかつてない領域に達しているのかもしれませんが、悲しいかなハイテクや合理化の影があまりに強く、ただきれいで正確な音階が出るだけなら、電子ピアノと大差ない気もするのです。

マロニエ君が思うに楽器に大切なことは、よく鳴る、音が美しい、など基本は当たり前ですが、なによりそこに存在することが嬉しくて、つい触れてたくなる、音を出したくなる、そんな気にさせてくれるものであることじゃないかと思います。
温かい体温みたいなものが欲しいのに、現代のピアノはその点がどうも逆というか、まるで冷え性の人のような気がします。

佳き時代の欲しいピアノはまだありますが、ピアノ趣味の最大の障壁になっているのは、ひとえにあのサイズにほかなりません。
そのお陰でなんとか踏みとどまざるをえないのは事実で、もしピアノがヴァイオリンやフルートぐらいの大きさだったら、大変なことになっていたように思います。

そのサイズは設置場所のみならず、運送費問題も引き起こし、もしどこかでお宝発見しても、移動だけで相当な出費となることは避けられません。
もしこれに置き場問題がなく、自分の交通費だけでひょいと手に持って帰ってこられるようなものだったらと思うと我ながら恐ろしく、ピアノのあのサイズと重量が圧倒的なブレーキの役割になっているのは間違いなく、結局はそこに救われているのかもと思います。

骨董などの蒐集好きの方が、自宅はガラクタであふれかえり、時にそのための倉庫まで建てるなんて話がありますが、ピアノの場合は10cm動かすのも自由にならないサイズと重量ですから、そこに救われているのかもしれません。

それでは良いお年をお迎えください。
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本物とは

楽器としてのピアノをマニアックな側面から捉えて楽しむという方は、そう多くはないと思います。
ピアノを購入する人の大半は、お稽古の道具として「間違いのない、失敗のない、ちゃんとしたもの」を買いたいということから、有名メーカーの新品、もしくはそちら寄りの中古ピアノを買われるというパターンが大半だと思われます。

そもそも、「間違いのない、失敗のない、ちゃんとしたもの」というのが何を差すのかわからないし、どういう基準でそう認識されているのかもわかりません。逆に、その思い込みこそ「間違いで、失敗を多く含み、ちゃんとしたピアノじゃない」とも思うのですが、まあそれは各人の自由な価値観だから、あまり踏み込むべきことではないのでしょうけれど。

ここからが本題ですが、よろず趣味としての醍醐味はどこにあるかというと、ジャンルを超えてほぼ確定していることは、その王道は「中古にある」ということはマニアの世界ではほぼ確定している観があります。
中古というのは価格が安いだけでなく、時の検証が済んだ、それぞれの黄金時代の作品を手にできるということでもあると思います。

日本は各人の価値観を確立することがないままに、安易な「横並び精神」と「新品文化」の社会なので、車でも、建造物でも、価値のあるものまでバンバン処分しては新しいものに更新するのが「良い事」であり、それができることが「贅沢」と信じて疑わぬ価値観とメンタリティを持っていますが、これは文化的に非常に貧しいものを感じます。

ピアノを購入するにあたっても、中古というだけで毛嫌いするのは、それは使いふるしの、人の手垢のついたオンボロで、新品が買えない人がガマンして買うものというイメージがあるようです。
むろん、ものによってそういう一面があることもわからないではないですが、いささか極端すぎでは?
往々にしてそういう考えの持ち主は文化意識の少ない、本物を知らない人だったりするともマロニエ君は(勝手に)思っています。

ジーンズだって、たったいま縫製工場で出来上がったばかりのものは、オシャレを本当にわかった人はあまり好まないでしょうし、それが好ましく体に馴染むまでは、かなり長い間履き続けてしなやかさや味わいが加わっていくことが必要です。
それが面倒だから、ヴィンテージ品は希少性も後押ししてべらぼうな価格になったり、新品でもあるていどのダメージをくわえたものなども多数見かけるようになりました。

さしもの日本人もジーンスでは理解できても、ピアノになると一転して古いものに対しては無知で無理解です。
その道の権威あるお墨付きを与えられた骨董ぐらいになれば別なんでしょうけど。

マロニエ君がなぜ中古ピアノに楽器としての醍醐味があると思っているかというと、そもそもピアノというのは構造的に完成の域に達して一世紀以上経過しており、機能的なハンディはほとんどないこと、音に直結する材料は昔のものが格段に良いこと、さらには、昔のピアノと今のそれでは生まれた時代のバックボーンが違っており、作り手の志が楽器の中に息づいており、ここは見過ごすことはできません。

また、佳き時代のピアノには上手く熟成されたものもあるし、それまで弾かれてきた歴史もあり、自分がそれを引き継ぐという意味合いや風情もあります。
しかるに、これを単なる中古品とか安物と見るのであれば、クラシック音楽なんてそもそも作品だって古ものもいいところだし、アコースティックピアノなんて今どき時代離れしたローテクの塊でもあるわけで、しかも新しいピアノは合理化のために楽器として好ましくない材料が容赦なく用いられ、ベニヤの響板でも音は出るようなので、外観がピカピカして高級品然としていれば幻惑はされても、楽器の真の響きと呼べるものはやせ細っています。
そこに目を向けることもなく、少しでも新しい物を求めるのはメーカーの販売戦略に見事に乗っているようにしか思えません。

ちなみに、先日もあるところでY社のかなり古い(4〜50年ほど前の製造)グランドにほんの少し触れることができましたが、消耗品は交換されているようでしたが、これが思ってもみないようないいピアノで驚きでした。
Y社独特の、パンチとボリュームの反応ばかりで耳が疲れてしまうような「あの音」ではなく、繊細さがあり、音も可憐で美しく、無遠慮にこちらに鋭い音を差し込んでくることもなく、これにはびっくりしました。
もし目隠しをされていたらY社のグランドと言い当てる事はできなかったかもしれません。

むろん古いというだけで中には価値を疑うようなものがあることも否定はしませんし、古ければなんでもOKなわけでないことは言うまでもありません。
しかし、その中に稀に極上の「お宝」が埋もれていることもこれまた事実で、これを探しだすのはまさにマニアの真骨頂であり、実際に弾いても、その魅力は現在の新品が到底かなわないものがありますが、にもかかわらず粗大ゴミ同然の無理解に凝り固まった方がおられるのは、こちらからすれば逆にお気の毒に思えます。

古いピアノを買うこととは(自分がそうじゃないからわかりませんが)、そんなにも抵抗感があって忌み嫌うものでしょうかね。
それをいったらストラディヴァリなんて300年も前の中古ですが、あれはいいらしいのは…たぶん途方もなくお高くて超絶ブランドだからでしょう。
マロニエ君なら、ろくな材料も使わずに作られたピアノ(のようなもの)を大枚叩いて買うほうが、製造過程もわからない得体のしれないものを食べさせられているようで、価格的にも内容的にもよほど勇気が要りますが。
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スターのつもり

いまどきの日本のピアニストのヘンな型破り路線というか、突飛な振る舞いについてはいろいろと思うところはありますが、時代も変わり、生き残りも厳しく、従来通りの演奏活動だけではダメだという現実があることもわからないではないし、保守的な音楽ファンには受け容れがたいようなことでも厭わずやっていかなくてはいけないということもあると諦めはつけています。

そのために、どんな手段を使ってでも売名に励むのも、もうそれはそれでかなり慣れました。
ひと時代前なら絶対あり得なかったような陳腐なことでも、今はそんな掟もなにも崩れ去り、なんでもアリなのでしょうし、次々に新企画を打っては、忙しく飛び回るチャンスをゲットした人が勝ちだということでしょう。

なので、少々のことではもう驚かないと腹を括っていたはずなのに、やはり目にすればストレスが胸の奥から湧き上がってくるような、嫌悪をもよおすようなものが次々に出現してくるのも事実で、どんなに頭を切り替えを試みようとも、現実のほうが常にそれをはるか飛び越えていくような勢いです。

あるイケメンピアニストと呼ばれる方がおられ(どう見てもイケメンとは思えませんが、そういうことになっているらしい!)、その演奏は何ら魅力のないもので、ピアニストとしてはせいぜい3流というところ。
こういう人は、演奏のみで身を立てていくのはまずもって難しいだろうと思いますが、だからこそよけいに、とんでもないことを思いつくものかもしれません。

この方が、芸能人に混じってバラエティー番組などいろいろとメディアに顔を出しているのはうすうす知っていましたが、やっていることは従来のピアニストとはかけ離れた暴走やうわべの笑い取りで、自身を異色で型破りなピアニストとして位置づけ、気取らない愉快なイメージで目立とうという魂胆がばればれ。
あるときなど、自身のリサイタルのバックステージにカメラを入れ、もう出番が近いというのに、直前まで熱中しているのは楽譜のチェックなどではなく、スマホのゲームというなんとも安っぽい演出。
やがて開演時間が来たと告げられると、仕方なくそれを中断して颯爽とステージに向かい、さてもバリバリと難曲を弾いて戻ってきてはケロリとしているという余裕のパフォーマンスで、これはもう笑いではなく、チケットを買って会場に足を運んでくださるお客さんに失礼としか思えませんでした。

さらに最近の番組では、東京の某有名ホールでのリサイタルの様子が放映されましたが、この方のコンサートの半分はお得意のトークなんだそうで、ステージに登場し、ピアノに近づいていく段階からそれははじまっていて、いきなりマイク片手にお客さんを小バカにしたような言葉を投げかけたり、おかしくもないギャグを次々にとばしたりと、ピアノ漫談かなにかを目指しているのかしらないけれど、その光景は一種異様なものでした。

この方は「イケメンピアニストで、トークが上手く笑いがあふれ、お客さんが楽しめる」ということになっているらしいけれど、マロニエ君に言わせると、芸人としてはまったくのシロウトなので、ただのえげつない言葉や態度の連発なだけで、ギャグとしてもすべりっぱなし。
それでもご当人は笑いを取ろうと必死に飛ばしまくっていますが、あまりウケているようでもなく、まったく笑いになっていない。

誰かの言葉ですが、「人から笑われるのは簡単でも、人を笑わすのは簡単なことではない」とは、まったくそのとおりで、笑いをナメちゃいけないし、プロの芸人さんたちはそのために日々どれほどの精進を重ねているかご存知ですか?と問いたくなります。
笑いを喚起するのは、ユーモアのセンスであり、着眼点の妙であり、人の心の綾とか隙間にスルリとうまく滑り込んで、スキッとしたオチがなくてはならず、強引に捩じこむようにして取る笑いほど見苦しいものはなく、却って辛い気分にさせられてしまいます。

むかしアメリカにVictor Borgeという人がいましたが、ピアニスト級の腕前のあるコメディアンで、今でもYouTubeなどでも多数、彼の見事なパフォーマンスを見ることができますが、ピアノはちゃんと弾けるけれど本物の笑いに徹しており、正に洗練されたプロの芸。
ピアノ一本で行かないなら、それなりのキッチリした修行を積んで、出直してほしいものです。

ちなみに、あれでよくお客さんも来るものだと思うし、一流ホールがよくぞこんな催しのために会場を使わせるものだという点にも驚きました。
テクノロジーの進歩には目をみはるものがあるようですが、文化の面ではことごとく本物が失われていくのは、なんともったいない無残なことかと思わずにはいられません。


ついでといってはなんですが、すこしだけ。
ショパンコンクール優勝のブルール・リウが11月に初来日して、N響とショパンの1番を演奏している様子が放送されましたが、個人的にあの時下した評価は覆るどころか、より一層深まるばかりでした。
コンクールでないぶん、より自由に弾いていたといえるのかもしれないけれど、マロニエ君の耳には、それは自由というより精気のない弛緩でしかなく、およそ魂が感じられないものでした。
いうまでもありませんが、これはべつに力強くバリバリ弾けということではなく、極上の音色と研ぎ澄まされた表現を駆使して、その人なりの最良の演奏を披露するという意味ですけれども、マロニエ君にはこの方の優勝というのが、ますますわからなくなりました。

本当は昔の巨匠のCDでも聴いてみようと思っていたのに、またこんなネタに時間を費やしてしまいました。
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「ヴィンテージ」

今年、縁あって我が家にやってきた極めて希少な広島製ワグナーピアノ。
これを、製造から60年経過していることもあり、勝手に「ヴィンテージピアノ」だと思っていましたが、よくよく考えてみると「ヴィンテージ」という言葉はそう容易く使ってはいけないルールがあることを思い出しました(ジャンルにもよるのでしょうが)。

現代人は古くて価値あるものには、安易にこの言葉を使いがちですが、車でも、ワインでも、ジーンズでも、そこは厳格な区分があって、勝手にヴィンテージを名乗ることは許されない場合があるようです。

ヴァイオリンでもアマティやストラド、グァルネリなどを総称して「オールドイタリアン」などと言いますが、それも正確にはいついつまでに作られたものというような括りがおそらくはあるはずで、ただ古いからといって勝手な解釈で呼称してはいけないのがこの世界の決まり事。

ピアノの場合、そういう明確な規定があるのかどうか、考えてみるとマロニエ君はまったく知りません。
古いスタインウェイだけを扱う某ピアノ店が、左サイドに大きく「ART VINTAGE STEINWAY」などと書いて佳き時代の逸品であることをアピールされていますが、その明確な線引というのはどこなのか?

車の世界でいうと、物の本によれば英語の大権威であるオクスフォード英語辞典にはヴィンテージカーの定義として「1919年から1930年の間に作られた自動車のこと」で、もうひとつの大権威であるケンブリッジ英語辞典にも同様のことが記されているんだそうです。
つまりこれ以外を「ヴィンテージカー」と呼ぶことは許されないという意味でもあるらしいのです。
さらに、1901年から1918年までに作られた自動車はエドワーディアン、逆に1931年から1939年に作られた自動車はポスト・ヴィンテージと呼ばれる由。

ところが、近ごろは昭和の頃のケンメリとかレビンとかサバンナが人気急上昇中だそうで、自動車雑誌の中でこれらに「ヴィンテージ」と安易に呼んで紹介していることに、ある自動車デザイナー氏が憤慨していました。

海外では、古いものの価値をしっかりと認識し、手をかけながら大切に保存していくという思想やジャンルがしっかりと根を張っており、それはとりもなおさず人間の作り出した歴史へのリスペクトでしょう。
後世の人間はこれを受け継ぐ義務があり、これがひとつの文化であり文化意識として確立されているように思います。
いっぽう長く深遠な歴史を有するにもかかわらず、それを惜しげもなくバンバン打ち捨ててしまうのが日本人でしょう。

戦後のアメリカ式消費文化の影響なのかどうかは、そのあたりはわかりませんが…。

古いものは大半はガラクタ同然(実際それも少なくはないけれど)でその価値の正しい見極めをせず、目先の金銭的価値や経済効率、さらには新しい物への信仰や崇拝から、すぐに廃棄したり買い換えたりを平気で繰り返し、なんであれ新しいほうをエラいとする日本人を恥ずかしく思いますが、恥ずかしいだけではなく、価値あるものを認める感性や眼力がなく、さらに市場がそれを後押しするように、金額のつかないものはガラクタであるという短絡思考です。
「なんでも鑑定団」のような番組が流行るのも、ひとつには自分の判断力のなさから、すべては専門家の金銭的判定に委ねるという体質が、あのようなバラエティ番組を支えているのだと思います。

それはさておき、ピアノにもし時代区分がもしあるのなら、ぜひその明瞭な区分を知りたいところです。
もちろん、そういうことがピアノにあるのかどうかもわかりませんけれど。

とくにマロニエ君が知りたいのは、フォルテピアノとか並行弦の頃のことではなく、金属フレームで交差弦を持った19世紀後半からの、近代ピアノになってからの区分です。
なんとなく、勝手なイメージで自分の中で区切りになっているのは、交差弦になってから第一次世界大戦のころまで、次いで第二次世界大戦まで、戦後は1970年代ごろまでで、さらに20世紀末まで、それ以降〜という感じですが、これはあくまでもいろいろなピアノに触ってきたささやかな経験による、個人的な印象でしかありません。

冒頭の話に戻ると、モノによってそういう厳格な決まりがあるものとそうでないものがあるようなので、少なくともクルマの場合はいささか厳格過ぎるようにも感じますが、ピアノの場合はざっくり言って半世紀以上経ったらヴィンテージかクラシックか…ともかく一つの区分はされていいような気はします。

そもそも、日本市場で古いピアノが売れないというのは、ピアノをクルマや電気製品と同様に消費財と捉えて、音や品質を真摯に検討することなく、有名メーカーの新品が最良最善とされるからで、これはメーカーの戦略でもあるとは思いますが、だとすれば世の中はそれにまんまと乗せられているということでもある。
さらには購入者の相談相手となる先生や調律師さんなどは、非常に狭い価値観でしかものを見ることができず、ピアノは消耗品で、新しいもののほうがすべてにおいて間違いない、というステレオタイプのアドバイスしかしないことも責任重大だと思います。

よって購入者の無知や文化意識の欠如は一向に是正されることなく、ピアノの価値判断については間違いだらけのものが横行、ついでにもうひとついうなら、日本のピアノの隆盛は品質より大量生産による安価な大衆路線で、安定した製品であることをもって成し遂げられたものだから、職人の魂が作り出した楽器は影に隠れてなかなか日の目を見ない。
大手の最新工場のラインから流れ作業で生まれてくる優秀な工業製品という側面が強いため、ますます個々の楽器の価値を見極めて大切にするという思想が育まれなかったともいえるでしょうね。

そうはいっても、数少ない職人の魂を注ぎ込まれたような価値あるピアノまでもが廃棄処分の塵に消えたという話には胸が痛みます。
ヴィンテージといえるかどうかは別にしても、古き良きピアノが、正しい評価を受けられるよう願うこのごろです。
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野心解禁?

今回はわざわざお名前を出すのもどうかと思い、敢えて出さないことにしましたが、もちろんわかる人にはわかるお話。

このところ、ショパンコンクールで入賞した人はというと、やたらとメディア出演を繰り返し、まさに日の出の勢いですね。
ちょっとやり過ぎという感じが漂いはじめて、いささか胃もたれがしそうです。

メディアは演奏そのものへの取り扱いではなく、ピアノのオリンピック・メダリストとしてのヒーローのノリだし、くわえてご当人が語るコンクール出場へのストーリーなどがいかにもなもので今の時代に好まれるのか、メディアも食い付きやすいのでしょう。

ところが、最近になってその発言もちょっと首を傾げるようなところが目立ってきて、話の筋道がぶれてきているように感じるところもあり、これはいささか首をひねりたくなりました。

すでにじゅうぶんな知名度も得ていたこの人が、年齢的にも最後のチャンスといえるタイミングでなぜいまさらショパンコンクールにあえて挑戦したのか?というのがよく出てくる質問です。
はじめは、小さいころからの夢の舞台で、あのワルシャワのステージでショパンを演奏することが見果てぬ夢であったというようなことを仰っていましたが、それならばピアノの世界なんだから、もっと早くに出場しても良かったのでは?とコンクールを知る人なら思うはず。

また、長年ピアノを弾いてきた中でショパンというのはとくに好きで、常に自分の心の拠り所であり、どんな局面においてもショパンを弾くと心が慰められ落ち着く、自分にとってはそんな特別なものだったとも。
しかし、ショパンがとくに好きなピアニストかどうかは、いくらかピアノ音楽が好きな人なら聴いていればおおよそ察しがつくもので、この方はショパンはむしろ苦手だろうとお見受けしていたし、あまりなじまないので、さほど好きでもないんだろうなという印象がありました。

だから、この方がショパンコンクールに出場されるということを初めて知った時は「エッ!?」というものだったし、それほどこの方とショパンは(他人から見て)親和性がなく、とても意外だったことをいまでもよく覚えています。
なんといっても、この方はテクニシャンでCDデビューの頃はオールリストだったような気がするし、同時期の別のCDでもシューベルトのソナタなどは、どこか学生が仕方なくで弾いているようで、そういう個性の人だというイメージでした。

この方は大変な野心家のようだから、そんな人がショパンコンクールに出るということは、熟考の末そういうプランが練られたのでしょう。人はだれもが自分の行く末を考えるものだから、それを悪いと言っているのではありませんが、なじまないものとはどうやったってなじまない。

さらに後に知ったことでは、ショパンコンクール出場のためワルシャワのショパン大学に4年も留学し、全方位的な準備を整え、それは肉体改造にまで及んだと知り、ただただ驚きでした。
なにごともやる以上は、徹底して挑むタイプで、それは見上げたことではありますが。

そうはいっても、今年はコンクール出場の年でもあるというのに、オーケストラを株式会社として起業し自ら社長に就任するなど(陰に実務者がいるとしても)およそ音楽家離れのした行動力と野心には驚くほかはありませんでした。

ショパンコンクールについては、あるインタビューでは予選敗退するかもしれないけれどあこがれの舞台でショパンを弾きたかったといったえらく純情なことを言っておられたけれど、ここ最近ではその私設オーケストラを海外へと羽ばたかせるために、無名では相手にされないから、まずは代表の自分が有名になる必要があったんだともいっていたり。
べつに政治家ではないから、うわべの言葉の違いをいちいちあげつらうつもりはないけれど、そのつど発言がコロコロかわるのは、心底にあったのはやはり野心であり言葉は後付であったような印象は残ります。

さらに自身で語るところでは、この人の最終目標は世界に羽ばたく音楽家を育てるための学校を作ることだとか。
そうなると、ピアノを弾き、オーケストラを社長が指揮をし、企画運営をし、メディアの寵児となることも、すべては学校設立のためという建前で事後承認させてしまうようで、その策士ぶりとバイタリティーにはため息しか出ません。
オーケストラ設立の理由については、今は多くのとても上手い子であっても演奏機会が乏しく、それをなんとかしてあげたいという親分肌、学校設立については、海外へ留学するのではなく海外から人が学びに来られるようなものにしたいという教育への欲求、その抱負は、功成り名を遂げた自分が世間にお返しするかのような、私利私欲じゃない崇高なもののように語られます。
本当なのかもしれませんが、どうも、自分の拙い人生経験からしても、あまりにも整いすぎたようなお話で、聞いていてどうもしっくり来ないのです。

まだ今は、演奏家としての謙虚なふるまいとか、物事が熟す時間というのは必要じゃないかと思うんです。
なにも、ポリーニのように優勝しても尚、大半のオファーを断って、ストイックに10年もの勉強に打ち込めと言っているわけじゃありませんが、コンクール終了のわずか一ヶ月やそこらで、これほどの抱負を語って回るのは(世間的に立派に映るのかどうかはしらないけれど)、個人的なセンスとして受け止めきれません。

もちろんクラシックのピアニストといえども、これからはただ旧態依然としたステージ活動をやるだけではなく、新しい発想やプランも必要かもしれませんが、あまり拙速にすぎると、話題性はあっても真の評価や確固とした立ち位置は掴めないような気がします。

いっぽうメディアも、日頃は音楽なんて無視しているくせに、こういう話題にはひきもきらず群がってくるところに、現代のいやらしさを感じます。
いま思えば昔のブーニンフィーバーのほうがまだ可愛気ぐらいあったような気もします。

この人の安定しきった指さばきには注目すべきものがあり、日本人初の優勝者となり得るのか?と思った時期もありましたが、こうも生臭いことが次々にわかってくると、なんだか無性に普通に音楽を聴きたくなってきて、しばらく昔の巨匠の演奏にでも浸ってみようかと思っています。
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技術エリート

コンクール至上主義の時代に生まれ育った世代は、どんな曲でもクリアに弾きこなす能力があるようで、それ自体は結構なことだと思うけれど、音楽の命ともいうべき「情」が通っていない印象が、どれだけ聴いてみてもやはり払拭できません。

音楽に対する自分の心情や感性を表そうとせず、誰からも嫌われない標準語のような方向で平均化されたものになるのは、この時代やむを得ないと言ってしまえばそれまでですが、そもそも生の音楽でそんな平均化をすることが正義とは思えず、今はそういう環境なのだからしばらくはどうにもならないでしょう。

環境といえば、全体の技術レベルが押し上げられた要因も、環境によるものの効果が大きいと思われます。
まわりがどんどん弾けるようになり、しかも若年化してくると、それは有無をいわさず出来て当たり前の基準になるからで、これは昔の人が書いた字を見ても、ルネッサンスの絵画を見ても、ある程度の環境が醸成されると嫌でも向上するのは世の常でしょう。
低下も同様で、現代人の書く文字の下手さかげんは驚愕すべきものがあり、テレビなどでフリップに字を書くというシーンがありますが、いい世代の人達でも(それが大臣クラスの政治家であれ、なにかの識者であれ)恐ろしいばかりの悪筆で、昔は字が上手い人はそれだけで尊敬され、下手なのは恥だったけれど、今はまったく問題にされないようで、これも環境のなせるわざだと思います。

話を戻します。
技術も音楽作りも、いまは情報がすべてを凌ぐ時代だから、当然の帰結として演奏家が作品から感じるセンシティブなものとか本音なんてものは余計なものとして排除しながら訓練され、規格品みたいな演奏をする人が育てられ、そのスタイルが大手を振っています。
もしかすると、社会もそれ以上のものを求めていないのかもしれませんね。

文化の低下には歯止めがかからず、音楽上の目利きとしての鑑識眼も失われ、興味もこだわりもないから、権威あるコンクールで選ばれた結論だけが情報として送られてくれば、それが人気や集客の根拠となりコンサートの企画をばらまいてビジネスにする…という図式。

ただでさえあらゆるストレスにまみれるこの時代に、ピアノ演奏ひとつを聴くにも、芸術的なそれは望み得ず、世俗的な競争に勝ち抜いたエリートのショーにお付き合いさせられるだけで、普通に音楽や演奏を聴いて心の楽しみとすることもかなり難しくなっているのかも。

ピアニストも生き抜くためには演奏能力だけでなく、時代を常にキャッチし先取りする能力を求められ、企画力や発信力を備えることで大衆を惹きつけるプロデュース能力など、そんな世俗に長けた総合力をもった人だけが生き残れるようです。
誰とは言いませんが、最近ではYouTubeの画面を開いても、数人の同じような顔ばかりがズラリと候補に上がってくるのには正直ウンザリしてしまいますが、ウンザリするほどアピールできているということでもあるでしょうし、この流れは当分終わらないのでしょう。
その仕掛けをするのは、本人なのか、傍にいる人か、企画会社なのかはしらないけれど、TVなどにも頻繁に顔を出せるように手を尽くし、かつ番組の意向に沿ったTV用のふるまいをしっかり心得て、さらには新企画にも果敢に挑戦して常に話題をアップデートする…といった、大衆のニーズに敏感で常に先手を打つように発信していかなくちゃいけないような印象です。

その表れかと思うのは、ライバルでもある同業者同士とのミョー?な仲良しぶり。
あれを単純にほほえましいと見る向きもあるのでしょうが、マロニエ君は見ていてとても不自然で、本当に仲良しならそれは結構なことですが、自分の活動枠を広げるために誰からも足を引っ張られないようあまねく友好的にふるまっているような、したたかな戦略のように見えてしまいます。
これも今風の知恵なのかもしれないけれど、どうも打算的なシナリオがあるようにしか見えず、なにもかもが裏がありそうで甚だ気持ち悪いわけです。

ほんらい同業者というのは(良し悪しの問題ではなく)どちらかろいえば不仲なもので、ライバルであるのに、あまりにもみんながニコニコ仲良しです!仲間です!みたいな感じにされると、そこだけ真に受けるほどこちらもウブでもないので逆にシラケます。

だいたい、真の芸術を追い求める者同士というのは宿命的に妥協しがたいものがあるはずですが、ビジネスの同業者であれば利害のために仲良しの演技ぐらい容易いことなのかも。

そんな大手広告会社の敏腕社員みたいなスタンスの人の演奏なんて、それだけで聴きたいとは思いませんが、こういうことをグチグチ言うこと自体がもう古いんだと一刀両断されるのかもしれません。
先日もあるピアニストが大コンクールで好成績を勝ち取ったばかりだというのに、その余韻も冷めやらぬうちから「次は指揮の勉強を開始する」のだそうで、すでにこの人の知名度でオーケストラまで作って社長に就任しているというのにはのけぞりました。
どこぞのIT企業のCEOばりの、けたたましいテンポと多角経営ぶりを「すばらしい能力と向上心」とみるのか、自分の能力を札びらを切るように乱用する「いやらしさ」と見るかは人それぞれだろうと思います。

要は音楽も、芸術文化のジャンルから芸能ビジネスの世界にシフトしているのは間違いないと思います。

でも、マロニエ君はやっぱり俗世間に疎いような天才が、ひとたび演奏行為になるととてつもないものを持っていて尋常ならざるものを発揮する、あるいはそんな天才級の人じゃなくても、演奏に最善を尽くし音楽にひたすら奉仕するような、そんな人の演奏が聴きたいのです。
これはきっと死ぬまで変わらないと思います。
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続・オトコの性分

オトコの性分というからには、やはりピアノの技術者さんにもちょっと触れてみたくなり、ほんの一部だけ。

この世界は、技術=男性という昔のイメージを引きずっているためか、まだまだ圧倒的に男性が多く、女性はかなり少ないと感じます。

そんな男性ばかりの中、めったにおられない女性の技術者さんに接する機会がありましたが、やはり前回の医師の例と同様、ここでもはっきりと男女のちがいを感じることに。
ただの雑談なら女性全般はおしゃべりが上手で自然だけれど、仕事や専門分野となると一転して、男性よりよほど口数が抑えられて静かに集中してお仕事をされる印象です。
男性は説明すること自体が好きなのか、専門的なことほど饒舌で嬉々となるけれど、女性は専門的なことは必要なこと以外、なにもかも言葉にする必要はないと感じておられるよう見受けられます。

男性は自分の知識を語ることや、専門家として頼られたりが好きで、一度困難であることを充分伝えた上で自分だから解決できたなど、相手の不安を煽っておいて安心させたりと、とかく自己アピールには余念がありません。
それを含めての雑談のようですが、女性は雑談はあくまで雑談で、仕事とはきっぱり区別されているような潔さがある。
男性は雑談/仕事の境界があやふやで、おまけに自意識みたいなものが常時うごめいており、なにかと自己宣伝に結びつけるのが習慣となっている人が珍しくないと思います。

中には本業の技術より、トーク術のほうがよほど得意な方もおられ、ピアノの技術というのは一般的にすぐわかりにくい面もあるためか、徹底して人当たりのいい誠実一途な演技を貫き、その巧みで耳触りのいいトーク術によって成り立っていることもあったり。
それでもお客さんを良い気持ちにさせて仕事には困らないという、違った意味のテクニシャンもおられ、男のジマンもここまで行けばひとつの才能かもしれません。

そんなことを言いつつも、お陰でどれほど多くの勉強をさせてもらったかわからないのも事実で、感謝もしているのですが、ここで言っているのは感謝とはまた別次元の話ですのでそこは悪しからず。


…と書きながらふと思い出しましたが、技術者さんの専門的な話は、興味ある者にとってはおもしろいことが多いのも事実ですが、それでもマロニエ君が言われてあまり気持ちの良くないワードがあったりします。
それも男性特有のもので、いちいち「名前は言えませんが」「メーカーは言えませんが」「場所は言えませんが」という、言えませんがずくしでお話されるタイプ。
おっとりした方はあまりそれは仰いませんが、こういう前置きが好きな人はだいたい自己愛の強い宣伝大好きさんです。

それも自然なことなら受け入れられるのですが、大半は「え、なんで?」「べつに言ってもいいのでは?!」と思うようなことでも、この「…は言えませんが」がほとんど呼吸のようにクセになってしまっている。

マロニエ君は別になにがなんでもそこを聞きたいというのではなく、こういう話の切り出し方に違和感を覚えるということで、むやみにもったいぶって楽しんでいるようにしか聞こえません。
本当に言えないことなら、そこをうまく迂回して話をする方法はいくらでもあるはずです。

例えば普通に「ある先生のお宅に伺った時に」ですむことを、「これは…ちょっっとお名前は言えませんが、実は先日も、かなり有名な先生なんですが…」とえらく大げさにいうのは、言葉のチョイスのセンスがないばかりか、言えないという言葉を口にする時が、心なしか嬉しそうでささやかな快感が潜んでいるようです。

自分の話は、現場人しか知り得ないとっておきのウラ話で、それを特別に教えてあげましょうという得意の現れで、それを含めて気分がいいんだろうなと感じるわけです。
さらに、自分は知っていることを、目の前の相手は知ることができないという「差」が生まれ、その権限は自分の手中にあり、それを行使できるところに子供の駄菓子ほどの優越感があり、それが見えてしまっていることを、ご当人はまったくお気付きじゃないご様子。

マロニエ君に言わせれば、名詞だけ伏せても具体的な事象をべらべら喋っている段階で、秘守義務はすでに一部破られていると思うのですが。

それと男はビビリさんで保身が身についているから、万が一、自分がその情報漏洩の発信源になることをなによりも恐れ、予防線を張っておくというのも気持ちとしてはわかりますが、それは裏を返せば、こちらが思慮なく安易にバラす可能性があるという危険を前提としており、自分は目の前の人から信用されていないという事実を鼻先につきつけられているようで、これも対人マナーの上では非礼の一種であると思うのです。

言えないことは、言い換えなどの処理を声に出す前に頭の中ですべきで、相手を前に書類を黒く塗りつぶすような発言は良策とは思えませんが、この手のオトコは言えないと言うのが快感だから打つ手なしです。
「そんなに言えないような話なら、はじめから聞かなくて結構です!」と言ってやりたいところですが、実際にはそう切り口上で返すわけにもいかないので、まだそう言ったことはありませんが。

こういう話し方は、分別ある大人のつもりでしょうが、むしろ子供っぽくしか映りません。
えてして、男の用心深さにはそういう幼稚で肝心なものが抜け落ちているところが往々にしてあり、思慮深いつもりがまるで逆になっている場面は少なくありません。
それもこれも、ジマンしたいという邪念のなせる技でしょう。

女性の口からこの「言えませんが」を聞いた覚えはほとんどないのはナゼか?を考えることはおもしろそうです。

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※何気なく読み返したら、ややキツい感じの文章になっていたようで、そんなつもりはなかったのですが、感じていることをできるだけ文章にして説明しているうちに、ついそうなってしまったようです。
とはいえいまさら書き直すのも大変なので「他意はない」ことをお伝えしてそのままにさせていただきます。
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オトコの性分

このところ、あまりにもショパン・コンクール絡みの話が続いたので、気分転換に別の話題を書いてみることに。

マロニエ君も性別上いちおうは男の端くれで、自分のことは横において言うのもナンですが、男というのはおおよそ見渡してみると、かなりしょうもない部分を抱え持っているもんだなぁ…と思うことが少なくありません。

近年は性別でものを言ってはいけない社会になっているから、こんなことをネタにするのはどうかな?とも思いましたが、巷間叫ばれているような差別や権利の内容ではないし、つい最近もそういうことを考えてしまうことがあったので、あえて書いてみることに。

もちろん、ここで言いたいことは全般的な話であって「個人差」があることはもとより承知していますが、あくまで全体としての傾向ということで捉えています。

まず多くの男は、なんらかのかたちでジマンが好きで自己顕示欲があり、(質や規模は別にして)支配や権力が好き、体裁屋でカッコつける、優秀だと思われたい、そのくせ気が小さく心配性、臆病で保身に汲々とし、体面を重んじ、おまけに相当に嫉妬深いということ。
それらを悟られまいと、知性や正論めいたもので必死にカモフラージュする。
その一方純情でロマンティックで、幼稚で、ときにカワイイ部分もあるともいえますが、オタクの要素もあり、どちらにしろ大半の男性はこんな要素のいくつかには必ず当てはまると思います。

象徴的な違いとして何度か感じたことのあるのが、たとえば医師。
繰り返しますが個人差は無視すると、男性医師のほうがむやみに主導権を握りたがり、相手との上下関係にこだわり、自説を押し付け、支配的で、決めつけや驕りがある。
それに対して、女性医師はそういう事柄が男ほど大事ではないのか全般に真面目で、どちらかというと医学に対して謙虚で、治療のために何をすべきかを無駄なく考え、やたら相手の不安や服従心を煽ることが少ないのは助かります。
これは身内の入院などに際しても、何度も感じたことです。

もちろん例外もあって、ずいぶん昔、紹介されて行ったある病院での初診時、予約しているにもかかわらずやたら待たされたあげく、相対した女性医師のあまりの思い上がった態度に驚愕、直ちに診察拒絶して部屋を飛び出し、1Fの受付でさんざん抗議をして帰った記憶があり、そういう事も稀にはあるけれど、全体としては少ないのではと思います。

何事においても、いちいち説明的で知識や経験をひけらかしたいのは圧倒的に男のほう。
説明している自分が上位で、相手が下という、いまさらのように子供っぽい構図にことさら満足を覚えたりするのも、男によく見られる悪い癖で、端的に言えばエラそうにしたい、今風にいうとマウントを取りたがることが体質化習慣化しているらしい。

会社などでも上司やベテランたちが若い人を相手に、景気の良かった昔の話を武勇伝のごとくにしゃべりまくり、あまりに気分がイイもんだから、何度も同じ話を繰り返していることにさえ気づかず、聞かされる側はゲンナリするパターンなどはよくあるみたいですね。
とくに大したことない男ほど、大風呂敷を広げ威張りちらすのはやめられないみたいです。

コロナになる前は、飲食店などでカップルと隣り合うテーブルになったりすることがあり、真横なのでイヤでもその声が耳に入ってくるのですが、「こりゃ、フラれるのも時間の問題だろう」と思うほど自慢トークのオンパレードで、昔話、交友関係、仕事に至るまで、いかに自分が優秀有能で人望が篤く、仕事でもえらく重い役割を担っている、自分は嫌でもいつもそうなってしまうアハハ…みたいなことを一方的にしゃべり続けていたりする場面に何度か遭遇したことがあります。
女性は表面的には楽しげにへえとかなんとか、お追従笑いと相槌で応じていますが、あんなくだらない話を聞かされるほどの苦痛はないだろうし、その点では大半の女性はアホなオトコの想像を遥かに越えて醒めていますから、後日の女子会のネタ収集にされているのが関の山。
しかもそのオトコ、声のトーンからして、どうやら周囲にも意識して聞かせているようなフシもあり、こんなときほど男の愚かさを如実に感じることはありません。

こういうシチュエーションでは、聞こえてくる話の圧力と不快感と滑稽さのごちゃ混ぜなもので固まってしまい、こちら側はいちいち目を白黒させるばかりで、とてもじゃないけれど連れと話をする気分にもなりません。
面白いものを聞かせてもらっているようでもあり、迷惑な不可抗力に行き当たったようでもあり、なんとも表現しがたいものがありますが、いくら面白いと入ってもやはりストレスであることには間違いない。

今どきなら「スカッとジャパン」にでも投稿したいところですが、悲しいかなスカッとするオチがないんですよね。
子供っぽいまではいいとしても、ジマンは本人が狙っているような効果が上がるどころか、むしろ逆作用になるということを知って心に刻むべきですね。
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TVを見て

ショパンコンクールと反田恭平さんについては、もう充分に書いたので終わりにしたつもりでしたが、 そんなタイミングでNHK-BSプレミアムで『反田恭平 ショパンコンクールを語る』という番組があったので、ならばもちろん見ないわけにはいかないし、見れば見たでしつこいようですがその感想など。

これまで反田さんについて書いてきたことで訂正したいことは自分としては特にないので、そのあたりは極力重複しないようにしながら、今回の番組を見て感じたことを中心に書いてみたいと思います。

1時間45分という長時間ものでしたが、第一次予選で80人からスタートする国際コンクールであるにも関わらず、徹頭徹尾反田さんひとりに特化した内容で、テレビ番組というものは作り方次第でどうにでもなるものではあるとしても、競い合った他者すべてを遮断して、それによって何かに触れなかったという印象があり、これは正直いって不自然だと思いました。

視聴者としては、反田さんという気鋭の人物がどのような環境で、どんなコンテスタントたちと競って第2位という結果を獲得したのか、それをも凌ぐ優勝者とはどんなピアニストなのか、他のピアニストはどういう演奏をしたのか、さらにはすぐ下に小林愛実さんという4位の日本人がいたことも一言も語られないというもので、なにか作為的な方針の作りだったように感じました。
そこには、そうせざるを得ない理由があったのだろうと却って勘ぐってしまいますが、その点もこれまでに述べてきたことなので、ここではもういいでしょう。
ただ、真実に迫らずにきれいなことだけを並べるという世の風潮は、ますます強まっているように思います。

反田さんは喜びの部分だけをほがらかに語っていたけれど、内心では憤懣やるかたない悔しさもあったのではないかと思いますが、これはあくまでマロニエ君の想像なので、本当のところはわかりませんが。
しかし、もし仮にそうだとすると、それを受け容れて明るく前を向いている彼は、とても立派だったと思います。

さて、反田さんの魅力は、いまさらいうまでもなく突出して上手いことではあるけれど、決してそれだけではないことは多くの人が感じていることでしょう。
一般に日本人でプロを目指してピアノをやってきた人というのは、概ね共通した独特の雰囲気があり、とくに男性に限っていうと、だいたいひ弱で、気取ったイメージで、プライドが高くておまけにクラい…といったら叱られそうですね。
中には、ことさら専門的なことを言ってみせたり、あるいは妙な「天然」ぶりを強調した振る舞いをしたり、要は自分がいかにこれ一筋に打ち込んで、留学して、ああしてこうしてという、普通の人とは違うんだという、特別感を出すことがひとつのスタイル。
それでも、それに見合うだけの演奏をなさるならともかく、大半はひとことでいってイヤミなアピールにほかならず、見ているこっちが疲れてくることも少なくありません。

その点、反田さんは普通の健康男子で、いい意味での野趣がありざっくばらん、ごく普通の口調で、普通に話が出来る雰囲気を持っておられるところがこの世界では新鮮で、この点もウケている理由でしょう。
必要以上に威張ることも、行き過ぎた自己アピールをすることもなく、至って常識的なのだけれど、これがピアノ弾きという種族には意外に難しい。

コンクール対策にも自ら語り、それは相当なものだったようで、ワルシャワには4年住み、曲目の選定にあたっては過去2回の出場者と、成績と、そこで何を弾かれたのかということを徹底的に調べ上げたのだそうで、それは実に800曲にも及んだのだとか。
プログラム構成も評価の対象とは思うけれど、こういうところから曲を選択するというやり方は、いささか馴染めないものでした。
これは今どき国際コンクールを受けるにあたって、一定の結果を残すためには正しいことなのかもしれないけれど、個人的にはこの発言には危惧を感じました。
なぜなら、そのやり方はこの先の日本のピアノ教育界には多大な影響を及ぼすだろうと思われるし、すべては対策こそが最優先され、それが正義として標準化されていくのかと思うと、複雑な気分にならざるを得ません。

ショパンコンクールが尋常一様なコンクールでないことは先刻承知ですが、出場対策もそこまで先鋭化しなくてはならないというのが、もうこの段階から気持ち的についていけないし、マロニエ君はやはりそれよりは、多少の考慮はあるとしても与えられた条件の中から自分が好きな曲、弾きたい曲、得意な曲を選び出し、それに全力を尽くす…そういうものであって欲しい。
もちろん、コンクールだから結果を出さなきゃ始まらないといえば、それはたしかにそうなんですが…。
これは現場を知らない、シロウトの単なる甘っちょろい理想論かもしれないけれど、ただ、ひとつだけ圧倒的に自信をもって言えることは、だれよりショパン自身がこういうことは最も嫌いだろう、ショパンの精神に反するものだろう…という気がしてなりません。

動画配信で何度も見た反田さんの演奏をあらためて番組内で聴いてみて、やはりそこにはしたたかな準備を重ねてきた者だけが到達する、最高度の技が披露される特別な様子を感じることは出来たけけれど、それはショパンの世界に身を委ねて酔いしれるものではなく、あくまでも世界最高権威のピアノコンクールでのパフォーマンスであり、ご本人も「ピアノのオリンピックでありワールドカップ」と仰っていましたが、まさにそのフィールドで展開された競技のひとコマであると思いました。

ちなみに、例えばですが1980年の映像を見ると、このとき優勝するダン・タイ・ソンの演奏は、音も朗々と鳴り響き、作品が有する自然な山坂やドラマを聴く者は一緒に辿ることができる、音楽上の熱いハートがありますが、そういうものは21世紀以降は完全に消滅したように感じます。

ところで、以前から反田さんは誰かに似ていらっしゃるような気がするのに、それがだれだか一向に思い出せずに悶々としてきましたが、この番組をテレビで見ながら、フッとわかったのは聖徳太子でした。
古いお札で親しんだあの飛鳥時代の人物がピアノを弾いているみたいで、だから反田さんにはどこか日本人の意識の奥底にある懐かしさみたいなものが呼び覚まされてくるのかもしれません。


これでアップしようと思っていたら、翌日夜22時から、今度はNHKのクローズアップ現代で再びショパンコンクールをやるというので、さっそく録画して見てみると、こちらは帰国した小林愛実さんをスタジオに招いて、彼女と反田さんは幼なじみでもあるという二人の挑戦を軸に、小林さんに比較的スポットを当て、反田さんは折りに触れ出てくるといった内容でした。
前日が反田さんオンリーの内容だったので、これで少しはバランスを取ったというところでしょうか。
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受賞者リサイタル

ワルシャワではショパン・コンクールの最後の締めくくりとして、受賞者によるリサイタルというのが行われたようで、反田恭平さんの演奏動画を見たので、いまさらですが少し。

なんども繰り返して恐縮ですが、やはり個人的にさほど好みのタイプの演奏家ではないけれど、そんな個人的な問題はさておいて、日本人離れした大器ぶりを遺憾なく見せつけられるのは確かです。

最も印象に残るのは、それを支える抜群のテクニックと専門家ウケしそうなキメキメの仕上がり。
めっぽう指が回るというだけの人ならいるけれど、反田さんにはそこに日本人サイズを超えるスケールの大きさがあり、国際舞台に於いてもある種の風格さえ感じることのできる日本人ピアニストが出現したという点で、これは素直に注目に値するものがあると思います。
スポーツでも、オペラやバレエでも、すべて日本人は日本人固有の肉体的およびメンタルによって規定されてしまうようなハンディがあり、スタート地点から劣勢を感じざるを得ないような場面を、私たちはこれまでどれだけ見てきたことか。

それを感じなくて済むというだけでも気分がいいのが、大谷翔平選手でありピアノでは反田恭平という人の登場だろうと思います。
外国人に混じって戦う場で、なんらハラハラしないですむ日本人というのは、そうはいません。

恵まれた大きくふっくらとした観音様のような手、その無駄のない動きは美しく、ピアノという大きな楽器に振り回されず、楽に弾いているあたりも頼もしささえ感じるもの。

特に今回は、ホールの隅々まで力強くかつ柔らかく鳴り響かせるために20キロもの筋肉と贅肉をバランスよくつけた由で、まるでアスリートの体づくりさながらですが、考えてみればピアニストもアスリートの一面を併せ持っているわけで、驚きつつも納得でした。
果たして、その効果は絶大というべきで、コンクール本選の時よりも、この受賞者リサイタルでのほうが(録音の関係か、もしくは精神的な余裕か?)その音の充実した鳴りっぷりをはっきりと感じることができ、ひとりのピアニストの姿として際立って頼もしく感動的でさえありました。

会場がワルシャワ・フィルハーモニーではないため、ピアノも例の478ではなく、それよりほんの少し古いスタインウェイでしたが、専門家に言わせると色いろあるかもしれませんが、マロニエ君の耳には遥かに音楽性の豊かな深いものをもったピアノで、ピアニストの演奏をより芸術的なコクのあるものに表現していたように思います。
コンクールで使われたピアノは、とにかく音がクリアではあったものの芸術的とはあまり感じなかったのに対し、こちらのスタインウェイはクリアという面では少し譲るかもしれないけれど、大人っぽく懐の深いものがあり、演奏を聴くには好ましい楽器だったように思います。


かように反田さんは稀有な逸材には間違いないけれど、やはり気になる点もあって、その演奏は聴いていてなぜかしら気分的にピタッとこないことが多いのも個人的にはあって、演奏が見事なだけ、それがよけいにひっかかります。
いつもメガネレンズの内側にまで汗がポタポタ落ちるほどの熱演なんだけれど、こちらの耳に届いてくる演奏は情熱的というより説明的な立派さで、曲のディテールの処理や追い込み方にも、聴く者の心を掴んで離さないよう応えてくれとはいえないもどかしさがあり、自分の演奏能力の秀逸さを磨き抜いて披露することの方に興味があるのかな?という感じを受けることがしばしば。
そのまま一気に疾走し、雪崩れ込んでほしいようなところでも、強いて冷静なコントロールを入れ直したりするのは、ときに聴く側はシラケてしまうものですが、そんな期待に反する弾き方をするのが彼なりの別の意味のアピールなのか?

反田さんの演奏の特徴は、曖昧なもののないその引き締まった作り込みにあるようで、自らを律して日々修行に励む、道場の塾頭のような演奏というべきなのかもしれません。
あのヘアースタイルだけでなく、演奏も「サムライ」というわけでしょうか。
同時に、どんなに硬派な人でも、男性はたいてい一皮むけばロマンティックで、叙情性があり、女性とはまた違った繊細さやこだわりがあるものですが、そこが希薄に感じさせてしまうものを感じます。
例えていえば、彼女や奥さんが最もわかって欲しい気持ちとか訴えたいポイントを、どうしても受け付けきれず背中を向けてしまう彼氏や旦那さんみたいで、それがこのピアニストの欠けているところのように思うけれど、もう一回転して、今じゃそれが魅力となっているのかもしれません。

どうやら詩的な人ではないらしいと感じたのは、アンコールで弾かれたシューマン=リストの「献呈」や、グリーグの抒情小曲集から「トロルハンゲンの婚礼の日」などは、最後に歌心もあるんだよとアピールしたかったのか、歌い込みやため方などが少々やり過ぎでわざとらしく、曲のフォルムが崩れそうなところもあったりで、そのへんのバランス感覚についてはやはり疑問として残りました。

極論すれば、ショパンは美意識と洗練、センスとバランスの世界だから、それを備えていないとしっくりこない後味が残るのも納得できたようでもありました。
聴くところによればコンクール出場を念頭に置いて6年がかりで準備し、ショパンの作法を学んだというようなことも仰っていましたが、それでも、どうしてもショパンとは相容れない溶け合わないところがあるのは、これはもうどうしようもないことだろうと思います。

どの曲もまったく見事に弾かれはするものの、ショパンのあの高貴な香りとか、細緻な織物のような美、そこはかとないニュアンスなどがさほど聴こえてくることはなく、これを「ただ楽譜に書かれたものを立派に弾いただけ」と言うつもりはありませんが、反田さんとショパンとは、どんなに歩み寄ろうと教えを受け、努力を重ねても、これ以上のお近づきはムリという壁があるとしか思えません。
そもそもショパンを分かる人は、その点にさほどの努力は必要としないもので、本能的に自分の裡にある何かと照応して自然に理解できてしまうものという気もします。

それでも、マロニエ君はいまでも他の人の演奏と聴き比べてみても、あの中では反田さんが一番だったと思います。
それはショパンコンクールの意義が、ただ単にショパンを上手く弾くというだけでなく、プロのピアニストとしての実力や将来の可能性までもを見据えて評価するというようなことが言われているからです。

これから日本をはじめ、上位入賞者達によってガラ・コンサートのたぐいがあちこちで繰り返されるのでしょうが、1位の人も、2位の反田さんがあれだけの鉄壁の演奏をしながらいつも至近距離にいるとなると、優勝者としてさらにそれより上を求められるプレッシャーを思うと気の毒なような気もしなくもありません。
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やっぱり

プレミアムシアターやクラシック音楽館に登場する演奏家たち(とくに壮年期以上のピアニスト)は、このところショパンコンクールにどっぷり浸かっていた感覚からすると、本来の自由な場所に戻ってきたような安堵を感じたばかりか、逆にある種の新鮮ささえ覚えました。

まずなにより落ち着きがあり、当たり前のように音楽が漂ってくるあたり「ああ、やっぱりさすがだな!」というのが偽らざる素直な感想でした。
なんといっても、そこは自己表現の場であり勝ち負けのためのむやみな緊張はないので、大人のプロが紡ぎだす音や語りがありがたく、やっていることが若い人とは本質的なところで微妙に違うように感じました。

もちろんその中でも好みはいろいろですが、中にはまったく成長の跡のない方もおられ、30年以上も前に有名コンクールに入賞された人などは、その当時から感じていた固有の癖とか表現がドライで好きになれなかったのが、これだけの長い年月を経て少しは味わい深くなっているかとおもいきや、呆気にとられるほど昔そのままで、こんなにも人の演奏とは変わらないものか!と驚かされたり。

中にはそういうお方もいらっしゃるけれど、全体としてはコンクールからは遠ざかった世代のピアニストたちは、それぞれに円熟して、若い指さばきだけでないもの、新入ピアニストを寄せ付けない味わいがあるというのが率直な感想でした。

とはいえこの人達も、若い頃は同様の非難に晒されての今があり、俯瞰すれば世代ごとに同じことの繰り返しだと言われれば、そうとも言えるのかもしれませんが。

逆に今の若い方達の美点はというと、個人的にはクリアさじゃないかと思います。
生まれた時から当たり前のようにパソコンが有り、液晶テレビでデジタル放送の鮮明画面を普通に見て育った人達は、めくるめく情報を背負いながら、ああした鮮やかなきれいな演奏をするようになるのかもしれません。
ではそれが、聴いた人の心を打つのか…というとまったく別問題で、ここにもっと素直で豊かな情感が加わってくれば素晴らしい演奏になりそうですが、なかなかそう都合良くはいかないようです。

コンクールは言うまでもなく勝負の場であり、その競っている部分が昔に比べて平均技巧が上がり、いっぽう超弩級の天才や大スターのような人はまずいなくなり、枝葉末節の戦いに変化しているように感じます。
これを簡単に「今回はハイレベルの戦いです!」などというのにも抵抗があります。
そのためか、誤解を恐れずに言うと、若い方の演奏能力は見事だけれど、音楽として自然に心を託せないところがあり、全体があまりに対策的で、コンクール用に加工されたものといった感覚がつきまといます。
せっかくの見事な演奏でも、そこはかとなくウソやキレイゴトに覆われた、その人の感性としては信頼感の薄い感じを拭い去ることがどうしてもできない。

情報社会の時代だから、本来の自分ではなく、これをやったらどうなるかという結果から逆算して演奏しているなと感じるところがあり、解釈の寄せ集めといった感じがあって感性の一貫性がなく、悪く言えば注意のつぎはぎのような演奏。
それがこれでもか!とばかりにやれる人が「すごい人」ということになる。
当然つきぬけた魅力には乏しく、それではどうしても訴える力が弱まるのは致し方なく、聴衆も専門的なことはプロには及ばないとしても、心に刺さってくるものがあるかどうかはわかっているはずでしょう。

むろん尋常ならざる努力を積み上げて出場されたコンテスタントの方々の才能と努力には敬服の念は惜しみませんが、コンクールの動画をみていると、フィギュアスケート重要大会のあの空気とか、地方から勝ち抜いて上に登っていく甲子園みたいなものとだぶってしまい、いうなればピアノ演奏を競技イベント化して見せている気配が昔よりも強くなったように感じるのです。
だからこそ世界的な注目を集めるという効果も生まれているのかもしれませんが。

印象的だったのは、モスクワ音楽院の重鎮であるヴォスクレセンスキー教授がTVインタビューに答えて「現代のピアニストはコンクールに出ないとやっていけない」というようなことを仰っていたことでした。
それは、これからピアニストになるための実際的な現実を素直に述べられたわけでしょうが、ピアニストも要するにコンクール歴がすべてを決する「肩書社会」であり、人の決めた「権威社会」になったということで、そのために過酷な難関をくぐり抜けた有能な戦士のような人だけがそのお墨付きを手にできるわけで、これは一面ではわかる気もするけれど、しがない音楽ファンとしてはやっぱり気持ちはついていけません。
どれだけ素晴らしい演奏ができても、コンクール覇者でないと、ただの無名のピアノ弾きでしかないという意味にも取れるとしたら、ピアニストさえも現代的格差社会という感じです。

なのでコンクールというのは、昔以上に必要とされるものとなり廃れることはないんでしょうね。
そして結果に関する不満や、審査に対する不信感は昔からつきもので、大半の人が納得できた結果というのは必ずしも多くはないような気がします。
審査員として予定されていたマルタ・アルゲリッチとネルソン・フレイレの直前のキャンセル(なんとフレイレはその後死去!)がなかったら、結果は違ったものになっていただろうとマロニエ君は今でも強く考えています。

そこでふと思ったのですが、日本の(自民党)総裁選に議員票と党員票があるように、審査員の評価は主軸としながらも、一部に聴衆票というのも入れてみるのはどうかと思います。
全体の評価の中の、せめて数分の一は聴衆の評価も反映するというもの。
これは裁判における裁判員のようなものでもあるし、なにより、コンテスタントが自立してコンサートをやる場合、チケットを買ってくれるのは審査員ではなく、個々の聴衆なんですから。
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テレビでもピアノ

今年はショパン・コンクール開催で、ピアノネタに相乗りということもあるのか、このひと月ほどでしょうか、TVでもピアノ関連の番組が目白押しだったように感じます。

Eテレの『クラシック音楽館』は、もともとN響定期公演などをメインとする番組ですが、邦人作曲家のピアノ作品を集めた「日本のピアノ」や翌週には「ショパン・コンクールのレジェンドたち」といういずれもピアノに深くフォーカスした2時間でした。

日曜深夜のBS『プレミアムシアター』でもピアノ特集があって、「ザルツブルク音楽祭2021 キーシンリサイタル」「アルゲリッチ&バレンボイム デュオ・リサイタル」、「ツィメルマンの皇帝」「ホロヴィッツ・イン・モスクワ」などが一挙に4時間以上放送されました。

早朝のクラシック倶楽部では、覚えているだけでも江口玲、松田華音、清水和音、クン・ウー・パイク、アンドラーシュ・シフ、小山実稚恵、若林顕、広瀬悦子、務川慧悟、藤田真央、さらにはショパンコンクールにちなんで反田恭平、小林愛実と続きました(敬称略、再放送を含む)など、たて続けでした。
まだあったかもしれませんが(もう思い出せない、少なくともこんなにも集中的にピアノが採り上げられたことは、これまであまりなかったように思います。
そのほかにも『題名のない音楽会』や『CLASSIC TV』なども、やたらピアノを取り扱った内容が多かっようですが、とても網羅はできません。
見た範囲でいうと、内容的には玉石混交で、感銘を受けるものからくだらないと思うものまで、さまざまありましたが、おしなべての感想としては、若い方の演奏はメカニカルで解像度が高いあたりは今風ではあるけれど、どうしても音楽として乗っていけない壁が必ずあり、片やベテランの演奏はときにヘンなときもあるけれど、概ねそのあたりはさすがだなと思います。

『クラシック音楽館』の「日本のピアノ」では、今日ほとんど演奏されることのない昔の邦人作曲家によるピアノ作品(それも特に協奏曲)が現在若手のホープとして活躍する日本人ピアニスト達の闊達な演奏によって3曲紹介されましたが、これらは、なるほど先の大戦前後にかけて書かれた日本作曲界の歴史的意義としては注目すべきものがあるようです。
そんな時代に書き上げられていたという先人作曲家たちの奮励努力には頭が下がるものの、個人的に聴いた感覚としてはおよそ理解不能で、ところどころには赤面するようなところも感じるなど、こんにち演奏される機会がほとんどないのもやむを得ないというのが率直な印象でした。

美術品ならただ見れば済むし、文学なら興味のある人は読めばいいわけですが、音楽の場合は演奏されてはじめて音となるため演奏者と練習が必要となり、さらに協奏曲でオーケストラまで動員するとなると、その多大なエネルギーは簡単なことではなく、これは直接的な収益を求めないで済むNHKにしかできないことだろうなあと思いました。

「日本のピアノ」というからには、楽器としての日本のピアノ発達史にも少し触れて欲しかったのですが、そちらはまったくなかったのは残念でした。
いまやショパン・コンクールの公式ピアノ4メーカーのうち、その半分が日本製ピアノなのだから、それは素直に驚くべきことで、そこに至る日本のピアノ産業の発展や変遷などを辿って検証してみることは意味のあることだと思うのですが。

とくに西洋音楽の素地のない東洋の果ての海に浮かぶ小さな島国が、ピアノという大掛かりな、ただ音階が出ればいいというものではない精妙複雑な西洋楽器の製造に着手し、いつしか一大産業にまで成し得たというのは注目に値することで、これは大げさに言うなら奇跡に近いものがあるのでは?と思うので、それは番組のテーマとしても充分に耐えうるものだと思われ、いつかじっくり採り上げてほしいものです。

それも、できれば現役の大手メーカーだけではなく、消えていった数多の優良なメーカーにも歴史としての光を当ててほしいものです。
日本人はなにかというと「決して忘れてはいけない…」というような言葉を乱発しますが、だったらヤマハカワイだけではない幾多のメーカーや開発者が、いかにしのぎを削って日本のピアノ製造をものにしていったのかということを忘れないためにも、一度きちんと整理してNHKの番としても残して欲しいと思います。
NHKにはファミリーヒストリーという著名人の家系や出自を、本人さえも知らないことまで徹底的に調べ抜いて紹介する番組がありますが、ああいう感じで日本のピアノ発展史もわかりやすく紐解いてもらえたら、かなりおもしろいものになるだろうという気がします。
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離れる時期

このところ、ピアノを弾くのがこれまで以上に気乗りしなくなってしまい、かなり遠ざかり気味かな?といったところです。

というのも、ショパン・コンクールの動画をちょこちょこ見ていると、つい止められなくなって、場合によっては1〜2時間(ときにそれ以上)PCの前に釘付けとなり、気がついたらトイレに立つのも腰がイタタとなるような始末。

だからそっちに時間を取られているというのではなく、あれこれのコンテスタントの鮮やかな指さばきを次から次へこちらの時間が足りないほど大量に見ていると、そのレベルにいつの間にか慣れてしまい、ピアノを弾くとは本来こういうものだというおぼろげな基準ができてしまいます。

それに引き換え、我に返れば(そんなことははじめからわかっちゃいるけど)そのチンタラオロオロ弾いているピアノなんて、アホらしくなって「やってられない!」という気になってしまうのです。

もちろんそんなことは、いまさら言わなくてもアタリマエで分かりきったことだし、日頃から巨匠はじめ世界のトップの演奏にも日常的に触れているわけだから、とくに今回の動画配信がそう驚くには当たらないというのが普通の理屈です。
それはそうなんだけれど、自分より遥か若い人たちが、かわるがわるにあれだけの高度な演奏を当然のように繰り広げ、それを手を伸ばせば触れられそうな鮮明画像で繰り返し見せつけられていると、いまさらながら、下手な自分がただ「好き」というだけで鍵盤に未練がましく食い下がっていることが、無性にナンセンスというかバカバカしくなるのです。

とくに普段とはまた違う環境でこれだけ集中的に大量の演奏に接し、半ばその世界に入り込んでしまうと、自分のやっている練習なんて、いくら個人の楽しみだなんだと御託を並べてみても、人間そんなにきれいさっぱり割り切れるものでもないから、「あー、やめたやめた!」という気にもなるのです。
そうはならない、強いお方もたくさんおいでと思いますが、マロニエ君は弱いのです。
どれだけ練習しても(しないくせにこういうことを言うのもいけませんが)、どうせこの歳で上手くなるわけはないし、楽しみという言葉のついた欺瞞であり浪費だなぁという思いに苛まれます。

ルーブルなどに行くと(現在はどうか知りませんが)、人目もはばからず画材を広げて堂々と模写なんぞしている人がたくさんいて、その強靭なメンタルに驚きますが、ある日本の画家が言ったことですが、ヨーロッパ人はあんなにも圧倒的な作品を前にして、よくもまあへこたれることもなく自分も絵を描こうなんて思えるもんだ、自分はあんなものをあれだけ見せられたらつくづく嫌になるだけ…というのを聞いたことがあります。

ピカソは父親も絵描きだったけれど、我が子の天才を目の当たりにして自らの筆を折ったという話は有名ですが、それが普通じゃないかと思います。

すごいものを見て衝撃を受けるということは、折りに触れあることですが、アマチュアピアノ弾きの中には、自分がどんな演奏をしているかが一向におわかりにならず、一流ピアニストの演奏会に行こうが、それこそショパン・コンクールの動画を見ようが、まったく別のことのように捉え「あの人達はプロだから」とばかりにあっさり片付けて、自分とピアノの関係性は一切変わらないでいられる、という人が結構いらっしゃることに、これはこれで驚きます。

むしろ世界のトップ連中と自分を関連づけてショック受けたりすることのほうがよほどおこがましい、思い上がりも甚だしいというふうに考える人もいるでしょうけど、マロニエ君にしてみれば、すごいものに接してなにも影響を受けないで通過してしまう人のほうがその100倍もすごいんじゃない?と思うのです。
ショックを受ける、自分が嫌になるというのは、べつに自分と彼らを同列に比較しているわけではなく、ピアノを弾く、あるいは絵なら絵を描くということの本物の世界とはいかなるものかということを、問答無用に眼の前に突き付けられて、その現実の残酷さを思い知り、そのつど打ちひしがれ、その残りのいくばくかは勉強になっているという事でなんです。

ショパン・コンクールの動画を見ていると、自分でも弾いた(というのもおこがましいので、弾く真似事をしたと言っておきましょう)覚えのある曲がたくさん出てきますが、それらは彼らにとって、あまた準備すべき膨大な演奏曲目の中のほんの一部にすぎず、それをあんな衆人監視の中で、高いクオリティをもって弾き通せるという現実の意味するものってやっぱりあるわけで、わかっちゃいてもやっぱり嫌になりますよ。

あれはあれ、で、自分のくだらん練習はちゃんとやろう、なんてヒョイとスマホのアプリを切り替えるようにはできません。
尤も、そんなもの見ても見なくても、もともとマロニエ君は「ちゃんと練習」なんてしないのだから、こんなぼやきをすること事態さらにナンセンスといえばそれもまたそうなんですが、やっぱり気分というのは厄介なもので、ピアノを弾くというのは、ああいうことなんだなという感覚からの回復は、しばらく難しそうです。

ピアニストにもいろいろなタイプがあって、演奏の様子を見て「ああ、自分も弾きたくなってきた…」と思わせてくださるお方もいらっしゃいますが、いっぽう、グールドなんて見た日には、あらゆる意味でおよそ人間ワザではないし、凡人に対する皮肉と高笑いが聞こえてきそうで、ピアノなんて天才以外が軽々しく触ってはいけないものだったんだ、どうもすみません…と思ってしまいます。

〜とかなんとかいいながら、では、まったくピアノに触っていないというほど頑ななものではありませんし、また少しずつ戻るんだろうと思いますが、今はそういう濃淡の片側に振れているということです。
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ショパンコンクール-ピアノ編

コンクールに使われるピアノにも、昔とは隔世の感を感じます。

ピアノがコンクールの舞台で求められる要素も出尽くしたのか、各メーカーもそれに沿ったマシンを送り込んでくるようで、ずいぶん横並び的でクセがなく、そのあまりに整然とした感じは感心半分、つまらなさ半分といったところ。
あえて冒険は避けて、確実に点を取りに行く野心的なコンテスタントから選んでもらわなくてはいけないから、楽器もこうなるんだと言われたらそれまでなんですが。

今回の布陣は、スタインウェイD(2台)、ヤマハCFX、カワイSK-EX、ファツィオリF278の5台だったようですが、ざっくり言えばどれも極端な差はなく、少なくとも昔の「スタインウェイか、ベーゼンドルファーか」みたいな違いはなく、こうなるともう僅差の中の、ほんのちょっとした違いでしかないような印象です。

スタインウェイにはシリアル番号の下3桁が300と479という2台があり、479のほうがやわらかな深みのある音、300のほうが華やかでキラキラ系〜というような違いを感じました。
〜あくまでPCで聴いた感じで、会場で実物の音を聴いたらどうなのかわかりませんが。
300のほうは、以前の別会場での予選(予備予選?)の映像では真上からのアングルがあり、それで驚いたのは高音側の2つのセクション(アグラフが無くなる部分)には、ものすごい量の止音のためのフェルトが不気味なまでに挟み込まれていて、これはよほど訳ありなのかな?とも思いました。
それでスタインウェイがもう一台追加されたのか?と勘ぐりたくもなりますが、真相はわかりません。

とはいえスタインウェイも近ごろはかなり優等生タイプで、ヤマハはちょっと庶民的?、カワイは以前の純朴なトーンが修正されて洗練方向に、ファツィオリは前回のショパンらしい音作りが裏目に出たことの反省から何か対策されたのかもしれないけれど、どこか響きがこもるというか、もう一皮むけてほしいような感じがしました。

動画をチラ見している限りでは、選ばれるのは圧倒的にスタインウェイ、ついで前半はヤマハでしたがなんと2次で敗退、カワイとファツィオリを選ぶ人はときどきいるという感じでした。
ところが、優勝者が使ったのはファツィオリでしたから、見事に前回の雪辱を果たしたというべきでしょう。

カワイは何人かロシア人も弾いていたけれど、これはプレトニョフ先生がご贔屓ということが効いているのか?
新しいSK-EXもカワイのサロンでしばらく触ったことがあるけれど、以前のカワイ臭はかなり除去されているあたりは、相当な努力の跡が感じられたものでしたが、コンクールの舞台での音を耳を凝らして聞いていると、華やか系のヤマハより上質で気品を感じる瞬間も多々あり、全体としては他のピアノに遜色ないものへ仕上がっているように思います。

あとは、イメージもあるんでしょうね。
コンテスタントにすれば過去の実績や他者のチョイスも気になるはずで、前回まではカワイとファツィオリは優勝者を出しておらず、人間だからどうしてもそういったことまで考えてしまうところもあるだろうと思います。
今回の優勝でファツィオリの信頼性が上がるのか、たまたまなのか…。
二回目の挑戦だったホジャイノフは、以前はヤマハを弾いていましたが、今回はスタインウェイになっていたりと、使われるピアノにも時の運みたいなものがあるんでしょうか。

今回の優勝者がファツィオリだったことから、入賞者のガラ・コンサートでは2位以下の人もピアノ交換はなく、全員がファツィオリを弾いていましたが、違う人が代わる代わる弾くとよくわかりますが、ふくよかな上品なピアノである部分と、どうも音が抜け切れないもどかしさみたいなものと、両面を感じました。
重ね着したシャツをあと一枚脱いだらいいような感じ…。
ただプレリュード終曲の最後の最低音部のDの3連打などは美しく、こういうところにファツィオリの品質が出ているように思いました。

ついでに、ピアノオタク的などうでもいいことを付け加えると、ヤマハのCFXは目に見える細かなところが変わっていました。
大屋根の縁の部分に付けられる装飾の段は、これまでは普通とは逆方向(逆台形)につけられていたのがCFXのさりげない特徴でしたが、今回は段そのものがなくなっており、ただの板切れみたいな素っ気ない形状になっているのは些細なことだけれど驚きました。
さらに、CFの時代からCFXまで、ヤマハのコンサートグランドの大屋根の蝶番(開閉のための左サイドに並ぶ金属部品)は長らく手前に2つ、中央と後部に1つずつ、計4つが使われていましたが、それが3つに減らされており、さらに大屋根を留めるL字型のフックもなくなっています。
簡略化なのでしょうが、まさか、ショパンコンクールの舞台に持って行く勝負をかけた一台に、たかだかそんなことでコストダウンというのも不思議で、これらは何を意味しているのか。

いっぽう、SK-EXでは側板内側の化粧版が遠目にあまりに地味なのでご自慢のバーズアイではなくなったのか?と思いましたが、よく見ると目の細かいバーズアイのようでもあり、これははっきりと確認は取れませんでした。
ただ、この部分は昔の人が着物の羽織の裏地に凝ったように、さりげない贅沢で目を楽しませる部分だから、もう少しわかりやすいものにしたらと思います。
わかりやすいといえば逆もあって、大屋根の蝶番はカワイは4つですが、それがイヤでも目に飛び込んでくるようなハデハデしい形状のものになっており、これは本来できるだけ目立たない工夫をした方がいいものだと思うのですが、それをあんな金ピカの寺院みたいにするセンスというのはよくわかりません。

カワイのセンスでマロニエ君が好きなのはフェルトの色。他のピアノがいずれも原色のハデな赤を使っているのに対して、カワイ(SK)のそれはちょっとくすんだ感じの大人の色で、これはフレームやボディの色とも調和して品格を感じていいなと思います。

〜以上、今回のショパンコンクールについてはひとまずこれで一区切りとします。
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終わりました

ショパンコンクールがついに終わりました。

勝者はマロニエ君としてはいささか意外な人でしたが、審査結果については昔から物議を醸すのもこのコンクールの伝統だったなぁと思い出し、よくわからない価値観がはびこっているらしいことがあらためてわかったような気がしました。

やはり不可解なのは、何をどう審査しているのかということが不透明なこと。
演奏芸術の判断を透明化するなんてできるわけがないと切り返されそうですが、マロニエ君が感じるのは判断が演奏の可否一つに絞られているのか、それ以外の要素も入り組んでいるのかという点で不透明さを感じます。

純粋にショパンらしさか、好き嫌いの分かれない優等生か、飛び抜けた技術か、ピアニストとしての将来性か。
さらには人種や国籍や師弟関係なども絡んでいるのかも。
まあ、そのどれもであるし、どれでもない、ということなんでしょうね。
せめて、判断基準をブラックボックス化せず、誰が何位になった主たる理由ぐらいは聞きたいところです。

マロニエ君の見るところ、ピアニストとしての器の大きさと質感でいうと、反田さんが一番だっただろうと思います。

ただ、気になる点もないではなく、とくにファイナルでは「準備したものを本番で失敗せずに成果を出す」という一点に関して言えば、それは素晴らしい演奏だったようで、ご本人からもそんなふうなコメントがありました。
しかし、個人的にはソロの時と違って、コンチェルトでは、これまで反田さんに感じてきたある種他を圧するような印象が少し薄く、全体的に作品が求めるものとは少し齟齬があるように感じるなど、反田流がつきまといました。
それでも上手いから、ぬかりない準備と抜きん出た技術力によって、それなりにキメてはみせたという印象。
協奏曲では、そこがより顕在化して、ショパンはそっと席を外すのではないかという感じは受けました。

つまるところ、やはり反田さんの本領はショパンではなく、自然に備わっているものと勉強して身につけたものの違いみたいなものが、やはり最後に出てしまったのでは?と個人的には感じました。
人間関係でもそうですが、なぜかソリの合わない人というのはいるもので、それはどちらのせいでもなく、世の中には常にそういうことはあるもので仕方のないことだとは思います。

周知のように、ショパンのコンチェルトは2曲とも20歳頃の作品で、したたるような感受性が切々と織りなす、繊細巧緻なこわれやすい美の世界。それでいてオーケストラとの恊演だから、ある程度の華麗さも求められる。

この曲が有する悲しいまでの美しさ、儚さ、品格、固有のノーブルな響き。
後期の作品ならあるていどのクオリティと精神的な深いものをもって丁寧に仕上げれば、なんとかなる作品もあるかもしれないけれど、若いころの作品にはよりピュアなもの、傷つきやすい感受性に導かれるような一途で献身的で演奏であることが必要なように思います。

反田さんに話を移すと、どうしてもショパン独特の美の連なりとか移ろいや機微に敏感というより、やや分析的すぎたこと、この稀有な天才に対するシンプルな共感性や謙虚さの不足を違うもので補おうと努力されていたように見受けられました。

そのいっぽう、ピアノからオーケストラへと引き渡していく瞬間など、どうだ!といわんばかりに何度も手を上げたり空を回したりと、その振る舞いがやや過剰でオレ様的に見えてしまう審査員や聴衆もあったのではないかと、気になる場面もあったり。

気になるといえば、あれだけ上手いのに、全体の流れという点では必ずしも聞き手を乗せてくれる人ではなく、要所要所でビシッとキメていくことのほうに重きが置かれて、曲の気分に反するようなときがあり、そこらがもう少し自然に素直に聴けるようになったらと思います。

場所も日本じゃないのだから、謙虚さを滲ませるばかりがプラスとは思わないけれど、ショパンの音楽、そして保守勢力の強い審査員のお歴々を認めさせるには、もう少し「音楽的な育ちの良さ」みたいなものは必要だったかもしれないとも思います。

優勝者(ブルース・リウ)は、恥ずかしながら毎夜の時間的な制約の中で、ほとんどノーマークの人だったから、優勝と聞いて「え、だれそれ?」という感じで、あらためて動画を見てみたところ、お顔だけは覚えがあり、演奏もきれいだったけれど優勝に値する器とは思えず、最後にこういうオチになるから、やっぱり私はコンクールなんて嫌いです。
ブレハッチ、チョ・ソンジン、そして今回の方といい、何だかショパンの名の下にピアノの優等生を探す会みたいでもあり、ま、もういいやって感じです。
今回は、柄にもなくズルズルと毎晩コンクールウォッチを続けてしまったマロニエ君でしたが、あー、やめたやめた!というか…ま、終わったんですけどね。

最後に。
反田さんは個人的には好んで贔屓にしたいタイプのピアニストではないけれど、上手いし光るものがある人である事には疑いなく、しかもこういう国際コンクールになれば、オリンピックと同じでナショナリズムが刺激されて、やはり反田さんには日本人初の優勝者になって欲しかったし、その資格は充分にあると今も思っているだけに、2位という結果はただただ残念でなりません。
それも、優勝者の演奏を聞いて「ああ、これじゃ仕方ないな…」と納得させられる2位であるならサッパリ諦めもつくというものですが、そうでもないぶん後味のいいものにはなりませんでした。

ご当人はずいぶんと喜んでおいでのようですが…内心はさぞ悔しいことだったろうと思います。

ただ、反田さんのような型破りなピアニストには、今後の長い演奏活動を考えると、優勝というピカピカの栄冠をまっすぐ与えられることより、2位に甘んじる悔しさのほうが、さらなる奮起のためのいい養分になるのかもしれませんね。
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動画配信を見て…3

ショパン・コンクールの3次が終わり、決勝への日本人出場者も決定したようです。

反田さん小林愛美さんのお二人はまあそうかな…というものだったし、外国人については、あれこれいうほどつぶさに見ていないので詳しくはわからないけれど、何度か見た人に関してはほぼそんなもんだろうと思うもので、いまのところとくに異論は感じない、妥当な結果じゃないかと思います。

ポーランドのヤコブ・コシュリク氏は入っているし、前回末尾に書いた「中国系カナダ人」とは、JJ Jun Li Buiという人で、顔立ちが東洋系であることとLiという文字が入っていることで勝手に中国系だろうと思っただけで、もしかしたら韓国系かもしれませんが、いずれにしろ、それは大して重要なことではないですね。
名前の読み方もよくわからないし、何かでチラッと見たのはダン・タイ・ソンのお弟子さんでわずか17歳とのことですが、曲のツボを外さない演奏は、なるほどね…と思いました。
この人はずっとカワイを弾いていましたが、決勝でもそのままカワイでいくのか、ピアノを替えるのか?
ピアニストというのはある程度出来上がると、あとはそうそう成長はしないものですが、17歳ならこの先数年はまだスケール感が広がる伸びしろは充分ありそうです。

YouTubeには、動画配信の他に、コンクール関連の解説風のものが無数にあって皆さんの熱心さにはびっくりですが、今どきらしいというか、多くの動画で語られるのはあれもこれも褒めちぎりで、要するに何が言いたいのかちっともわからないものばかり。
コンテスタントやそのファンに気を遣っているのか、下手なことを言って予想が外れたら恥をかくという用心なのか、そのあたりよくわかりませんが、ま、それは余談です。

マロニエ君は、別に予想して当ててやろうと言うような気持ちなんてまるでないし、またこのコンクール関連に限らず、すべて自分が感じたことをひたすら正直に書いているだけで、それが結果に反しようが、予想が外れようが、大方の意見とは相容れないものだろうが、そんなことは一向にかまわないし、そういうことに斟酌したり安全を踏んでおこうなどとするつもりも毛頭ありません。
これだけはこのブログの一貫したスタンスですので、念のため。

ところで、決勝進出枠が10人だったものが12人に拡大されたんだそうで、これはちょっと増やし過ぎじゃないの?というのが率直な印象でしたが、そのぶん敗者復活の可能性も広がるのかもしれないし、ポーランドの国家をあげての大イベントが少しでも長く続くための方策なのかな?などとあれこれ想像は尽きません。
以前はオーケストラと共演できるのは6人でしたから、2倍になったというわけですね。

ただ、決勝は協奏曲の1番か2番かのいずれかで、圧倒的に1番を弾く人が多いから、いかにあの魅力的な名曲といえども、そうそう何回もあの「シ、ミーレミーソ、シ、シ、シ…」を繰り返して聴かされたんではたまらない気もします。
もう、この際だから、決勝でも演奏曲目を増やしたらどうかと思います。
「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」と「ドン・ジョバンニの変奏曲」はソロでも弾いている人がいたから、たとえば「ポーランド民謡による幻想曲」と「クラコヴィアク」をセットで演奏しても良い、というのはどうかと思ったり。


少し戻って、3次の演奏を視聴しましたが、反田恭平さんはなかなか見事で、黒光りのするような凄みもありました。
テクニック、風格、細部に至るまでの磨き込みなど、完全に頭一つ出ているように思ったし、ピアノも楽々と太く鳴っているし、コントロールも思いのまま、なにもかもがワンランク次元が違うなと感じました。

小林愛実さんは、全体に注意深さが行き過ぎた感じで、前に「端正で気品すら感じる」というようなことを書きましたが、上半身を動かさない修行みたいで、さすがにちょっとやりすぎじゃないか…という感じも受けました。
おまけに、24の前奏曲では曲数も多いのに、曲ごとにそのつどしっかり区切って整えてからようやく次に進んでいくというのが、この作品にふさわしい弾き方なのか?と疑問でした。
個人的には、この作品にはもう少し各曲のキャラクターの対比や即興性、さらにいうなら全体で一つの曲のかたまりという雰囲気もほしく、あまりにひとつひとつを慎重に片付けていく様子に疲れてきましたが、やはり演奏家という立場の人は、聴く人を疲労させてはいけないのではないか?と思います。

YouTubeというのはありがたいもので、何度でも繰り返して任意に楽しむことができますが、小林さんと反田さんは共にスタインウェイの479を弾いていますが、出てくる音の違いには愕然とするばかりです。
とくに重量感や腰の座った鳴らし方では、飛行機でいうと737と777ぐらいの違いがあり、小柄な方というのはハンディがあって、そこは如何ともし難いものがあるように思います。

意外だったのは、演奏後のインタビューで反田さんは「やりたいことができなかった、あとで号泣した」なんていう意外な発言があるかと思えば、小林さんはあんなにも用心深い演奏だったにもかかわらず「1次、2次と楽しめなかったものが、3次で初めて音楽を楽しめた」と仰るあたり、なにがなんだかさっぱりわかりませんでした。
穿って見れば小林さんは、ソロが終わっての釈明のようにも聞こえるし、反田さんは大逆転を見据えた布石のようにも思えなくもないですが、まあ、そこをあまり深くつついても意味ないことで、決勝の演奏そのものに注目すべきですね。

今日は、ショパンの命日だったんですね。
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動画配信を見て… 2

ショパンコンクールのことを書いてみたことで、自分自身も少し興味がでてきて、その後も少しずつ見るようになりました。

繰り返すようですが、全員なんて到底不可能なので、とりあえず日本人数人(敬称略)の断片的な印象。

[反田恭平]器が大きいことや厚みのある技巧は申し分なく、ソリストとしての押し出し感もあり、独特の野趣までもが魅力になっている人。
音楽作りは緻密で周到、演奏そのものはクオリティが高い健康男子的。
これまでの日本人ピアニストに比べ、なにかと規格外であるのが新鮮で頼もしく、そのスケール感のある手さばきは爽快ですらあるが、逆にシンプルなものを温かく歌い上げて聴くものの心をいざないうような力はもうひとつか?
普段の言動からピアノを演奏する姿勢まで、わざとらしさがなく、この人なりの自然と必然が確固としてあって、その物怖じしない様子まで含めて新しい時代の到来を感じさせる。
ただ、ショパン演奏者として適正かどうかは、やや疑問の余地はあるようで、だからこそ今回ショパンに取り組んでいることが、一つの挑戦のようにも思える。

[角野隼人]音大などを経ず、主にYouTubeで有名になった異才の持ち主で、独特のセンスがあり、編曲や即興など幅広い才能をお持ちの、今まさに時代の寵児たらんとする人。
通常の音楽教育路線を歩んできた人とは一味違う才気とおもしろさがあって、ともかくその人気は絶大だとか。
そんな絶大な人気者に対して苦言を呈するのは躊躇されるが、あえて批判を覚悟でいうなら、指もよく動くしテクニックも相当のものがあることに異論はないものの、あらためて同じ舞台で他の人と聴き比べてみると、やはり音楽一筋でやってきた人とは違うところ…こういう言い方をしていいかどうかわからないが「猛烈に上手いアマチュア」という感じがどこか漂い、プロの演奏としてはもうひとつしっくりこないものが常についてまわって、個人的にはそこが気になる。
たとえばスケルツォの1番とかエチュードop.25-11などで見られる、速いパッセージでの分離の良い爽快な指さばきなどは一聴に値するものではあるけれど、聴いていて立体的なメリハリや曲進行の見通しのようなものがもうひとつで、また、タッチや音色のコントロールなどもやや平坦な感じ。
マロニエ君は、ピアニストになる人が幼少の頃からピアノ一筋で人間的にも偏った育ち方をして、音大に行って、留学して、…というお定まりのコースを歩むべきなどとは微塵も思わないし、だいいちそういうステレオタイプはむしろ嫌いなんですが、現実にそういう人達と比べてみると、これ一筋にやってきた人達の持つ鍛え込み(好きな言葉ではないけれど)がやや足りないと感じたりする。

[牛田智大]小さい頃から注目され、たしか浜松コンクールでも好成績を収めた人。
とても上手いのだろうし、どれもそつなくまとめてはみせるけれど、なにか意識し過ぎなのか、やや表面的。
曲の深いところに迫るものが薄く、音もドライで、聴いていてなんだか妙な苦しさが伴います。
この人の信じているもの、感じているものが何なのかがもうひとつよく伝わらず、ピアニストとして大成するためのエネルギーばかりを感じてしまうのは…私だけでしょうか?
もちろん、それを言えば他の人も概ね同様ではあるだろうけれど、この方にはとりわけそれをダイレクトに感じるし、それが演奏の魅力を翳らせてくるようで、惜しいような気がするのは見方が意地悪だったらごめんなさい。
むかしから、日本には日本だけで活躍する国内専用ピアニストみたいな人がいるけれど、彼もそのタイプかも。
お顔もカワイイし、キュッとした笑顔も決して忘れないようですし。
 
[小林愛実]小さい頃から注目された人といえば牛田さん以上のお方と思うけれど、潜在力がひとまわり違っていたような印象。
これまで長らくは、上手いんだろうけれどいかにも日本人的な技術偏重タイプの演奏や、上半身を曲げたり反らせたりの大仰な動きなどが苦手だったけれど、今回のショパンコンクールではまったく別人のように抑制的で、端正ですらあり、こんな変貌もあるんだなぁと唸ってしまったが、逆にムリしすぎていないかと心配になったり。
それでも、そのへんが変わってくると演奏にも連動してくるのか、よけいな力技の誇示が影を潜め、あるべきものがあるべきところにあるといった心地よいものになり、一度あったものをここまで作り変えるのは、ご本人も指導者も相当な努力だっただろうと思われる。
ただ、残念なのはタッチや音色のことではなく、全体の音量がいかにも軽量で、それがこういう大コンクールではどうなんだろうと思ってしまいます。
1次か2次かわからないけれど、スケルツォの4番などは素晴らしい演奏だったけれど、幻想ポロネーズは慎重なばかりでこの曲に求められる荘重さがなかったし、アンダンテスピアナートと…でも、どこかピントが合っていなかったような印象をもちました。

[ヤコブ・コシュリク]ひとりだけ外国人を入れると、下馬評での優勝候補と目される人だとか…へぇぇ。
なるほど上手いし、完全武装のような演奏は高評化に繋がるだろうし、ましてポーランド人ともなれば優勝筆頭候補なんだろうけれど、個人的には好きなタイプのピアニストではない。
昔の例を出すなら、ギャリック・オールソンがそうであったように、あまりに大柄なピアニストというのはどこか共通するものがあって、すべてを手の内に収め込んで内向きに処理してしまうようなところがあって、精神的身体的にギリギリのところに寄せていくような体当たり的なスリルがなかったり。
自分の好みでいうと、とりわけショパンでは痩身のピアニストが全神経と趣味の良さで内的ななにかを告白するようなものが好きだから、こういうピアノが小さく見えるような人によるショパンというのは、個人的な好みとしてときめきません。
いずれにしろ安定した大物だなぁと思っていたら、2ndステージの演奏ではかなり不調で精彩を欠き、おや?これはわからないな…という気もしてきたり。

コンクールの方は後半に入り、いよいよ精鋭たちばかりの戦いになってくるようですね。
名前はわかりませんが、中国系カナダ人みたいな人も悪くなかった印象でしたが、3次には入っているんだろうか…。
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