BSプレミアムのクラシック倶楽部では再放送もよくあって、一度目は見過ごしていたものなど、あらたに聴いてみるきっかけになることも珍しくありません。
▼キーシン
2021年のザルツブルク音楽祭からキーシンのリサイタルが放送され、これは以前フルバージョンを視たような覚えがありましたが、抜粋が放送されたので再びその演奏に接することに。
ベルクのソナタ、ほかにフレンニコフ、ガーシュウィンと、オーストリア、ロシア、アメリカをまわってショパンに至り、アンコールは自作のドデカフォニック・タンゴとかいうもの。
なんだかよくわからないプログラムで、私自身ベルクなどは苦手な上、さらにキーシンとベルクというのもしっくり来ない気がするし、フレンニコフやガーシュインはあまり気を入れて聞く気になれず、ショパンに至っても意外やその気分が切り替わることはありませんでした。
充実した演奏というものは、演奏家と、作品と、鑑賞者の3つの要素が円満な形になった時だと思いますが、残念ながらそのようには思えない齟齬があり、それはついに一度も解消されることはなかったように感じました。
12歳で世界に衝撃を走らせたキーシンも、このとき概ね50歳と知ると、それだけ時が流れたことを知らされます。
真の天才は、若くして異常に老成して完成されており、青年期を過ぎても良くも悪くもあまり変わらないという研究もあるようですが、たしかに彼の音楽はある地点で止まっている感じを受けなくもありません。
10代から青年期にかけては、眩いばかりに溢れる天与の才と、多感で痛々しいまでの感受性に吐露しながらストレートに弾いていて、それがキーシンの抗し難い魅力であったけれど、それ以降は妙に深沈的になって、それが却って普遍性を失っていった気がします。
50歳になるキーシンのピアノは、彼自身はウソのない真摯な演奏をしているのだろうけれど、いち鑑賞者の立場でいうと、やけにねっとりこってり、重ったるいイントネーションにとめどなく付き合わされているようでした。
ところどころにはキーシンならではの充実した色艶があるし、可憐な旋律の歌い上げも健在だけれど、全体にはいささか胃もたれするところがあり、近年よく耳にする若い演奏家が、さほど個性的ではないにせよ、力まないスッキリした演奏を聴かせていることとも、知らぬ間に対照的なコントラストを生じさせているかもしれません。
キーシンといえば現役ピアニストの中では最高位にあるひとりで、一般論的にいうと年齢的にも充実しきった時期にある筈ですが、なぜか焦点が少しずれてしまっているように感じるのは、素地がすばらしいだけに惜しいような気がします。
芸術家は強烈な自我やエゴの塊であると同時に、自分の芸術そのものに対しては、だれより厳しく謙虚である必要があるものだけれど、どこか独りよがりで、問い返しをしない、頑固で話の通じない人といったイメージ。
アンナ・カントール女史が亡き今、彼に率直な意見をいう人がいないのかなぁ?と思うけれど、いまさら先生の助言を必要とする歳でもありませんし。
彼ほどの天分に恵まれたピアノの天使が、どことなく浮いているように感じてしまうのは私だけでしょうか?
ピアニストに限ったことではありませんが、人間は地位が高くなればなるほどイエスマンに囲まれるから、より客観的で、ときに耳の痛い意見が耳に届くことが大切なところだと思います。
キーシンがどうであるかは知りませんが、ふとそういうことを考えてしまいました。