腰を痛めて4ヶ月が経過。
鎮痛剤を飲みながら病院に通い、人生2回目のMRIも撮りましたが、どうも明確にこれだという結論は得られません。
手術という方法もあるようですが、医師もとくにこれをすすめる風でもなく、はっきり断定する要素も曖昧なまま漫然と手術するなんぞまっぴらごめんです。
最近は何かにつけSNSだYouTubeだという時代になったので、個人でもある程度踏み込んだ情報が得られやすくなりました。
もちろんそこは虚実さまざまだから、できるだけ多くの情報に接した上で、自分の中に残ったものだけが判断材料になります。
腰痛に関する動画はいくつ視たかわかりませんが、要するにその原因というのはとても複雑で、曖昧で、とりわけ個人差が多く、到底短時間の診察ぐらいで特定できるものではないということ。
私も途中で病院を変え、外科専門病院の、整形外科の、さらに脊椎専門のドクターの診断を仰ぎましたが、それでもはっきりこれだという結論へは至りませんでした。
画像を見ながら「…だろう」「…とみてもいいかもしれません」という言葉が並び、それで躰にメスを入れる勇気など私にはとてもありません。
この種の手術は成功しない例が多いようで、だいたいここだろうという画像判断に引きずられて行われるから、多くは原因の核心には迫れていないケースが多いようです。
最近では、一時より少し良くなった感じもあるし、この状態とのつきあい方も少し上手になりました。
痛いことは痛いけれど、なんとか車に乗ったり、買い物に行ったり、少しずつ机についてこのような駄文をひねってみたりするようにもなりましたが、さてピアノの前への復帰はなかなか果たせません。
私ごときが、復帰などという言葉もどこかおこがましいけれど、自分でもあきれるばかりに弾けなくなりました。
以前は弾けていたという意味ではなく、以前の自分と、現在の自分を比較しての、相対的な話です。
では、少しずつでも弾くことで取り返すという手もあるかもしれませんが、取り返したところでたかが知れいるし、そのために努力を重ねることが、正直言って煩わしいのです。
そんな調子だから、自室のピアノもゼロではないけれどほとんど使わなくなり、しかし鍵盤蓋は開けていたいから、高音域と低音域のキーにはうっすらと埃が被ってしまっている有様。
調律もずいぶん長くとやっていませんでしたが、自分が弾かないのは勝手だけれど、それでピアノの状態を悪くするのは、そこはやはり楽器に対して申し訳ない気がするから、ついに先日調律をお願いしました。
久しぶりだったのでずいぶん熱心にやっていただきましたが、殆どを弱音ペダルをL字に踏んだ状態、つまりフェルトの幕を下ろした状態だけで使っていたので弦溝がつかず、今回は整音は最低限にとどめて、それ以外のことに時間を費やしていただきました。
あたり前ですが、久々に調律を終えたピアノに触れると、やはり清々しい喜びがあっていいものだなぁと思いました。
技術者さんとの会話も楽しいもので、立位でそういうことができる程度には快復したということでもあり、以前ならとてもではないけれどそんなこともできませんでした。
私がピアノを弾くことに対して、あまり強い欲求がないのは、もちろん自分が求めるだけの最低限の腕がないからという、至極単純な理由ではあるけれど、もっと具体的にいうと、若い頃からの練習不足で指の開きが足りず、さらに手が小さいということがあると考えています。
私は日本人の中では高身長のほうですが、それに対して手はさほど大きいとはいえず、映像などを見ていても楽に10度届くような人を見ると、ゲンナリしてしまいます。
たとえばショパンのエチュードop.10-1などは、もろに手のサイズがものをいう曲で、それを無理して、必死にかじりつくように練習する情熱もないし、そもそもそんな弾き方では自分がイヤなんです。
そういう浅ましい弾き方をするぐらいなら、弾かないでもよくない?という、まあなにかにつけこういう怠け者の理屈が次々に際限なく浮かんできては、努力を放棄するほうへと常に私の脳髄は働いてしまうのでしょう。
そもそもピアノを弾く人というは、グールドであれ、先回の藤田真央さんであれ、躰のサイズから比較すると、ややアンバランスなぐらい手の大きな人であって、海外では、ピアニストとしての将来を判じる際に、体格や体つきまで考慮されるということを本で読んだことがあり、これは一見残酷なようだけれども、とても重要な事だと思いました。
なんだかんだと屁理屈ばかり並べているようですが、要は、この4ヶ月で、ピアノを弾かない生活にもすっかり慣れてしまったということで、それはそれで苦痛ではないからいいのではないかと思っています。