楽しむもの

ピアノクラブ(弾き合い)の新年会というのがあり、マロニエ君は会員ではないのですがお招きいただいたので、いいのかなぁと思いながら少しだけ参加させてもらいました。

個人宅でやられているもので、1時間ほど遅れて行ったのですが、近づくにつれピアノの音が漏れ聞こえて「やってるやってる」という感じで歩を進めます。
ドアを開けると、弾いているのはご無沙汰していた顔見知りの方。
短髪、口ヒゲ、逞しい格闘家のような体軀の壮年男性ですが、身をかがめながら可憐な音でドビュッシーのアラベスク第1番を、バスケットから花びらがこぼれ落ちるように弾いていました。

中に入ると横長のテーブルにずらりとご馳走が並び、すでにみなさん勢揃いされ、宴もたけなわといったところ。
その脇にピアノがあり、飲み食いしながらの入れ代わり立ち代わり各人各様の演奏が続いて、ピアノの音が途絶える隙がありません。

みなさん和気あいあい、ピアノを弾くのが楽しくて仕方がないご様子。
さらに、そのピアノの仲間がいることが輪をかけて嬉しくて仕方ないという感じでムンムンでした。
ピアノを弾くことがこれほど楽しいものだということを、むかしむかしのレッスンに通っていた子供の頃に感じることができたら、マロニエ君もどれだけよかっただろうと思いますが、残念なことに真逆の世界でした。

小学校時代から某学院に通っていましたが、そこはピアノの指導の厳しさで当時の九州では随一で、まわりは桐朋や芸大/芸高に進む人がずらりで、院長を頂点に先生方もこわいのなんの…ピアノと恐怖は同義語。
マロニエ君なんぞ、そこでは一二を争う劣等生で練習もせず屋根裏のネズミのように逃げまわっていたので、当然のごとくの有様ですが、今にして思えば、そのぶんピアノ好きの火を消さずに済んだのかもしれません。
小さい頃からのピアノ浸けの体験があだとなり、ものすごく上手いのに音大を卒業するや、すっぱりピアノと手を切ってしまう人もいたりで、それからみれば、下手でも好きでいられるぶんいいかな?とも思ったり。

話が逸れました。
ここのピアノは、このブログでも何度か書いたことのある戦前のハンブルク・スタインウェイのSで、マロニエ君はちょうどその脇に座っていましたが、しばしば床が震えるほどのあっぱれな鳴りにはあらためて感動です。

おまけに、真横でこれだけ鳴っているのに、音質が少しも耳障りでないのはさすがです。
以前、ある場所で、やむを得ずピアノのすぐ側に座ることになったのですが、日本製の定評あるグランドから出るのは脳ミソの奥にまで達するような突き刺さり音で、失神同然になったことがあります。
やはり良い材料で作られた楽器の音は、人間の生理とどこかで折り合いをつけることができるようになっている気がします。

人工乾燥、流れ作業、大量生産、仕上がり精度は超一流というピアノは、楽器じゃなくまさしく製品ですが、やっぱりピアノは楽器であって欲しいもの。

多くの人は、いかにスタインウェイとはいえS155は最小サイズなのだから、それなりの音しか望めないと思っておられる方も多いと思いますが、それはまったくの誤りであることが、こういうピアノの音を聞いたらわかります。

さすがにBあたりとは違うかもしれませんが、低音などもかなりボリュームのある深い音がするあたり、このピアノの音だけを聞いてS/M/O/Aを明確に聞き当てる自信はありません。

なので、いいものを探し当てたらヴィンテージのスタインウェイはやはり恐ろしい力を持ったピアノだと思います。
そのためのお値段とマークは伊達じゃない。
ネット相談では、「スタインウェイのSを買うのは愚かなブランド志向で、そんな予算があるならサイズに余裕のある国産のプレミアムシリーズのほうが良い。ピアノの真価の分かる人はむしろそちらを選ぶ。スタインウェイの価値を発揮するのはB以上」などと、さもわかったようなことを断定的に書いている人がいますが、こういうことを自信たっぷりに書く人の中には技術者を名乗る人も多いのは驚くばかりで、価値感はそれぞれ、どちらが良いなどとは軽々に言えるものではないでしょう。

…また話が逸れてしまいました。
とにかく、ピアノは力んで挑むものではなく、楽しむものということですね。
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ピアノの運動不足

この前の連休、ピアノ好きの方が4名ほど我が家にいらっしゃいました。
みなさん、非常に熱心でピアノを弾くことに格別の喜びをお持ちの方ばかりです。

自宅リビングに置いているグランドは、むかし一大決心をして購入したにもかかわらず、普段ほとんど弾かずに置いているだけという状態が続いています。

年末には1日かけて調律等をやっていただいているので、状態は悪くないはずなのですが、前日ちょっと試弾してみたところ、予想以上にピアノが眠ってしまっている状態でした。
明日はこのピアノを弾きに人が来るというのに、これじゃあいくらなんでもまずいと思い、かなり焦りながら暫く弾き続けました。

いまさらこんなことを書くのもどうかと思いますが、普段自室のシュベスターばかり弾いていると、知らず知らずのうちに指がそれに慣れてしまうらしく、それにも困りました。
ざっくりした言い方をすると、アップライトのタッチの軽い部分と重い部分、グランドのタッチの軽い部分と重い部分は、どうもほとんどが逆になっているようで、加えて慣れというのは恐ろしいもので、やけによそよそしく、弾きにくさのほうが目立ってしまいます。

普段あまり弾かないことが祟って、花に喩えると花びらがかたく閉じてしまっており、アクションにも響きにも渋さがまとわりついてしまい、弾きにくいことといったらありませんでした。
このときはもう時間的な余裕もなかったのですが、なんとかほぐそうという一念で全音域のスケールを繰り返したり、強めの曲をヒーヒー言ってとにかく無理して鳴らし続けたのですが、こうなるとピアノの楽しさはゼロ、テンションは下がり、指や腕はびりびりと疲れてくる始末。
それでも、1時間ほど経ったころ、ようやく少しピアノが鳴ってきたのがわかりました。
鳴ってくるというのは、全体がほぐれてくるのはもちろん、顕著に感じるのは旋律が歌うようになることでもあり、それがわかったときはようやく少しホッとしました。

この日はこれが精一杯。
当日は、5時間ほど滞在され、途中かなりおしゃべりを挟みながらも、交代しながらあれこれ弾いていただいたところ、終わりのほうの一時間ぐらいだったか、聴いていて明らかに鳴り方が変化しているのに気づく瞬間が訪れました。

やれやれと思ったところで、食事に出ることになり、帰宅したのは深夜でした。
それでもなんとなく気になって、翌日まで我慢できずに、そっとキーに触れてみると、アッ!と声を出したくなるほどタッチが軽めに変化していました。
ある程度弾くということはこういうことなのかと、それはわかっているはずだったのに、自分のピアノがわずか2日の間にここまで変化してしまう過程が観察できて、あらためてその必要性を思い知りました。

実は、暮れに調律師さんが来られた折に、タッチが重いと訴えたところ、あれこれやっていただき、ダウンウェイトを計測すると概ね48〜50gというところで、重めといえばいえなくもないけれど規定値になんとか収まっているという感じでした。

マロニエ君は以前、コイツにはこんなものが喜ぶだろうと思われたのか、ダウンウェイト計測用の錘を調律師さんからプレゼントしていただいて、いつもピアノのそばに置いています。
さっそく計測してみると、常用域の4オクターブは中央の4鍵を除いてすべて48gで鍵盤が降りるようになり、3鍵が49g、1鍵だけ50gというところまで数値も変化していました。
さらに、数値だけでなくスカッとした指についてくるタッチになっており、自分のピアノに対するかかわりの薄さが冴えないタッチの第一の原因だったことを悟りました。

これをもし調整だけで解決しようとすれば、再びホールの保守点検メニューのようなことになるのかと思うと、そのための調律師さんの労力、時間、費用などを考えたら「なんたることか!」と思いました。

そういう意味では、この4人の来訪者には心から感謝しなくてはなりません。
というわけで、その後は弾いているのかというと、うーん…。
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氏より育ち

1月3日に書いたブログの続編。
同じ街で、もう一軒のピアノ店にも行ってみました。

ここはスタインウェイ、ファツィオリのような高級品から、ペトロフ、ディアパソン、さらにはウエンドル&ラング、フォイリッヒといったかつてのヨーロッパブランドが現在中国生産されるリーズナブルなものまで、幅広い銘柄を取り扱うピアノ専門店。

ホームページによると、この店がいま最も力説していることが、プレップアップという出荷調整。
この作業を入念に行なうことで、ピアノの音や機構を精密な領域で整え、潜在力を最大限発揮させるという最も正統的な考え方で、それによっていかにピアノが明瞭確実にすばらしいものになるかを実践している店。

アクションという繊細で複雑なしくみを持つピアノにおいて、そのメカニズムの正しい調整がいかに大切かということは、いまさら言うまでもないことですが、なかなかそのように調整されたピアノが少ないのも現実。
たかが調整と思うなかれ、ピアノを生かすも殺すもこれにかかっているといっても過言ではありません。

その最大の難点は、非常に時間のかかる作業の積み上げによってはじめて到達できるもので、すべてが地道な手作業によるものであることと、なかなかその重要性を理解するだけの一般認識がないというところでしょうか。
何日がかりでそれをやったとしても、わかりやすく目に見えるものではなく、やらなくてもとりあえず普通に音は出るし演奏はできるから、それをやりたがらない店がほとんど。

お客さんもそういうことより、価格や値引きを求める人が多いということなどもあるのかもしれません。

アポ無し(購入目的ではないので、当たり前)で行きましたが、若いお店の方が、快く店内あちこちを案内してくださり、最も感銘を受けたのはグランドの展示場でした。
そこにはペトロフ、ウエンドル&ラングのほか2台のディアパソン183cm(新品)などがあり、一台は一本張り仕様でしたが、そのタッチと音の素晴らしさは、エッと声が出るほどすばらしく、思わず息を呑みました。

というか、マロニエ君はかつてこれほどリッチな音となめらかなタッチをもつディアパソンを弾いたことはなく、つい最近もディアパソンのアクションはもったりして時代遅れというようなことを書いたばかりだったこともあり、これにはかなりの衝撃を受けました。

まずなんといっても発音が素晴らしく、濁りもクセもない筋の良い音が、澱みなく軽やかに立ち上がってきます。
その音はディアパソンらしいというよりも、もっと普遍的なピアノの美音で、腰がすわっていて、太くて明晰、なんのストレスもなく朗々と、しかもさも当たり前のように鳴っていました。
タッチは重くも軽くもなく、どのキーもむらなく整い、スカッとしているのにしなやか。
強弱硬軟意のままで、いくらでも弾きたくなる気分にさせてくれるものでした。

その技術者の方とも少しお話ができましたが、大事なことは、鍵盤を抑えて打弦するまでの過程にさまざまな(あってはならない)ブレーキがかかっているから、それを地道な作業でひとつひとつ取り除いているということ。
至極もっともなお話でした。

この出荷調整は人の手でおこなうしかなく、ひじょうに時間をとり、しかもしないならしないでも商品としては成立するため、営業サイドからすれば非効率でコストのかかる作業みなされ、名のある一流ピアノでも、昔ほどプレップアップに時間を書けなくなったという話はよく耳にします。

メーカーや輸入元でさえそういう割り切った方向にかじを切っている中、地方のピアノ店で、ここまでこだわっている店があるということ自体、なんだかかとても感動させられる事実でした。
その甲斐あって、そこに置かれたピアノは値段の問題ではなく、真の意味での高いクオリティをもったピアノになっていました。

もし目隠しをされて、そのディアパソンと、その倍の値段もするような普通のプレミアムピアノを弾いたら、マロニエ君はきっとここのディアパソンを高級ピアノと感じて選ぶだろうと思います。
いわばアスリートが名監督との出会いによってメダルを取れるところまで到達できるようなもの。

本当にいいものに触れたときの感触というのは、いつまでも忘れられない深い記憶となりますが、あのディアパソンの音とタッチの素晴らしさはまさにそれでした。
ピアノにとって精魂込めた調整がいかに大事かは重々わかっているつもりでしたが、あらためてそのことを再認識させられる貴重な体験でした。
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NHKピアノまみれ

1月5日の朝、何気なく新聞のTV番組表を見ているとピアノという文字がフッと目にとまりました。
するとどうでしょう、NHK-BS1の1月5日は、朝の9時から16:30までピアノ三昧とのこと。

09:00〜 空港ピアノ「マルタ島」45分
10:00〜 BS1スペシャル「ショパン・時の詩人たち 第一回国際ピリオド楽器コンクール」110分
00:00〜 BS1スペシャル「もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの戦い〜」110分
14:00〜 駅ピアノ「チェコ・プラハ 特別編」45分
15:00〜 BS1スペシャル「瓦礫(がれき)のピアニスト」50分
16:00〜 駅ピアノ「多民俗都市 アムステルダム」15分
16:15〜 空港ピアノ「音楽とともに シチリア島」15分

という具合に、途中ニュースなどを挟みながら、番組のみで計370分、実に6時間10分にわたって、ピアノ関連の番組が放送されたことになります。BSだからこそできることだとしても、なんたる気前の良さ。

マロニエ君は個人的には、駅/空港ピアノのたぐいはあまり興味が無く、無造作に置かれた一台のピアノを通じてさまざまな人間模様に触れる趣向だろうと思いますが、延々同じことの繰り返しで、テレビで素人の演奏を聴いてまで楽しむ趣味はないので、これはいつも見ません。
続く「ショパン・時の詩人たち 第一回国際ピリオド楽器コンクール」「もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの戦い〜」「瓦礫(がれき)のピアニスト」はいずれもすでに見ていたので、残念ながら個人的に新鮮なものはひとつとしてありませんでした。

とはいえ、せっかく放送されるのだから、なんだかもったいないような気がして、いちおう録画してしまいました。
それにしても、これだけの長時間、NHKがピアノの番組を集めて半日がかりで放送したというのは、ただただ驚くばかり。

娯楽も趣味も多様に広がる時代だからこそ、BSチャンネルでコアなファンのための番組を制作することもできるようになったのでしょうし、昔と違って、ピアノが大人の楽しみとして注目されて、そこそこ人気があるという小さな社会現象ということなのか。

あるいは世の中のほとんどがハイテク浸けになった今日、ローテクの塊で裏ワザや早道のない、地道な練習を積み上げていくしかないピアノが、これまでとは違った方位から注目されているのか、そのあたりのことはよくわかりません。
ただ、マンガにも「ピアノの森」や「ピアノのムシ」、小説にも「羊と鋼の森」や「蜂蜜と遠雷」などピアノを取り扱ったものが続々と登場して映画にまでなるあたり、いったいピアノはどういう捉え方をされているのか、マロニエ君は正直いってさっぱりわかりません。

わからないけれど、それでも何か理由でピアノが少しでも注目されるのは嬉しいことに違いないし、そこに端を発してこのような書籍やTV番組が増えていくのは、ピアノ好きとしてはわくわくではありますね。

それとはまったく逆行しているのがCDの世界?
一時は新しく発売されるCDが多すぎて、その情報を追いかけるだけでも大変だったのが最近ではウソのように激減、ピアニストは星の数ほどいるのに大半はアーティストといえるような存在はほとんどなく、おまけに過去の音源はネットから聴きたい放題で、新譜が売れない条件が皮肉なほど揃っているのか、とにかく異様なほど少なくなりました。

もはや1枚のCDに対して2〜3000円投じて購入するという感覚がなくなったのでしょうけど、このままではプロの音楽の衰退に繋がりはしないかと思うなど、今はとかく変化が急激すぎて疲れます。

と、なんとなくここまで書いていたら、さらに翌日6日の新聞の番組表で再びびっくり!
昨日に続いて、またもBS1で
22:00〜 BS1スペシャル「私は左手のピアニスト〜希望の輝き 世界初のコンクール〜」110分
というのがあり、さっそく録画セットしました。
まだ見ていませんが、これは初めてで楽しみ。

この道の日本を代表する技巧派の智内威雄氏も出演とあり、いやが上にも興味は高まります。
これを加えると2日間で480分、すなわち8時間にも及ぶピアノ番組というわけで、これは大変なお年玉となりました。


これで終わりかと思ったら、さらに7日の23:55から今度はNHK総合で「ピアノの森」がアンコールとして5話連続で放送されるようで、どうなってんの?って感じです。
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小さな一流品

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。


昨年末、中国地方へ出かける機会があり、これはチャンス!とばかりに某ピアノ店を訪れて、ベヒシュタインの小型アップライトに触れることができました。

現在のベヒシュタインのシリーズ構成は3段階のようで、いただいた資料をもとにマロニエ君も確認の意味でおさらいをしておくと以下のような感じでしょうか。
話をすすめる上でいちいちシリーズ名をいうのも面倒なので、シンプルにA、B、Cと分類することに。

A【C.BECHSTEIN コンサート】
ベルリン発祥、歴史あるベヒシュタインの本家本流。
コンサートグランドD-282 以下5種類のグランド、アップライトの王者の名をほしいままにするConcert 8を頂点に5種類のアップライトを構える、このブランドの中心かつ最高のシリーズ。

B【BECHSTEIN アカデミー】
ベヒシュタインを名乗るも、近年加わった廉価シリーズ。
一時はアジアでの生産など曲折があったようだが、現在は「ドイツ製」と明記されている。
ただし、製造業界では他国で部分生産し、本国で最終仕上げをすれば本国製を名乗ることができるというグレーなルールもあるようで、詳細は不明。

C【W.HOFFMANN】
間違っているかもしれないけれど、記憶ではチェコのペトロフで生産されるベヒシュタイン系列の廉価ブランド。
現在はどうなっているか知らないが、B同様どうも生産国/生産会社に関してはスッキリしません。
A/Bが Made in Germany とあるのに対し、Cは Made in Europe だそうで少なくともドイツ製ではないらしい。
スタインウェイはボストンがカワイ、エセックスがパールリバー等、わかりやすいのとは対照的。

シリーズ名は、最近さらにコンサートシリーズ→マイスターピースシリーズ、アカデミーシリーズ→プレミアムシリーズと改称されているとかいう情報もあって、正直いって煩わしさを感じます。
そもそも廉価シリーズをプレミアムというのもどうもなぁ…と思ったり。
ベヒシュタインの特徴は立ち上がりの良いクリアな音なのだから、その製造にまつわる情報もぜひクリアで澄みわたったものにしてほしいもの。


前置きが長引きました。
触れたのは、(A)C.BECHSTEIN コンサートのContur118、(B)BECHSTEIN アカデミーのB.116Accent、(C)W.HOFFMANNはよく覚えていないけれど、たぶんWH114P。
お値段は順に270万円、210万円、156万円。

どれも高さは118cm、116cm、114cmとアップライトの中でもかなりの小型で、下手をすると電子ピアノに近い感じのサイズです。
背が低いだけでなく、前後左右もかなり薄くて細身、その可憐な姿はこれで大丈夫なの?という不安感も正直あるけれど、そこが新鮮な魅力としても眼に映るものでもあり、いずれにしろその儚いような佇まいにまず見入ってしまいます。
ちなみに日本で最も普及しているアップライトのサイズが高さ125〜131cm、奥行き70cm近くと上下前後左右に分厚く、それらに比べると遥かに軽快でモダンな印象。

サイズこそ小さいけれど、(A)の深いつややかな黒の塗装はまるで輪島塗のようで、その作りはこれ以上ないほどのクオリティで美しく、小さくとも高級品然とした独特な存在感を放っていることは、ある種の凄味を感じるほど。

肝心の音は、さすがに腹にズシンと来るようなものではないけれど、一音一音がハッとするほど磨き込まれた美しさで整っており、しかも高い音楽性や品格まで備えており、これはまぎれもなく高級ピアノ。
まるで、小さく作ることに意地と情熱を傾ける職人の工芸作品のようで、中央に小さく輝くC.BECHSTEIN のロゴがやたら誇らしい感じに見えてきます。
このサイズから予想されるような安っぽさや制約とは無縁で、とりわけ影響を受ける低音も破綻がないのはあっぱれで、とにかく音は明快で上質、タッチはどこまでもなめらか。
なぜこんなことができるのか…狐につままれたようでした。
一目惚れしそうで、できることならすぐにでも持って帰りたいような誘惑に駆られました。

その下位に位置するアカデミーシリーズのB.116Accentも、かなり好印象でした。
上位のContur118とくらべても、さほど遜色ないレベルが実現されており、これだけを弾けば十分に満足できるモデルですが、交互に弾くと、たしかに音の深みとか奥行きがややスケールダウンしていることがわかります。

W.HOFFMANNになると、前の2台を弾いた直後ということもあり、はっきりと格の違いを感じます。
はじめのC.BECHSTEINが夢の中にいるとしたら、次のBECHSTEINはその夢が少し浅くなり、HOFFMANNでは残念ながら現実というところでしょうか。

その意味では、(A)(B)(C)はだいたい60万円刻みの価格設定ですが、弾いた感じでは等間隔ではなく(B)は中央より(A)に寄っているようです。
あー、気になるものに触れてしまったなぁ…。
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手早くきれいに!

このところ急に寒さが厳しくなりましたが、早いもので今年も終わりに近づきました。
とくに平成としては最後の年末ですね。

年末ということで、お掃除ネタでおわるのも平凡ですが、まあ平凡で結構。

手早く済ませる、ピアノの塗装面(艶出し仕上げ)のお掃除について。

ピアノ掃除というかお手入れのためのケミカル品で、マロニエ君がどうにも好きになれないのは、メーカーが出しているピアノポリッシュの類で、あれはムラができやすく、きれいに仕上げるにはかなりの熟練を要し、うまく使いこなす前にイヤになってしまうことは以前にも書いた通り。

そこで自分なりにいろいろ試したあげく、ソフト99から出ている「ピアノ家具木製品手入れ剤」がもっとも使いやすく最良と思ってこれを使っていましたが、そうはいってもこれを塗布して磨きあげのはせいぜい半年〜一年に一回。
日常の殆どはホコリを取るだけの作業になりますが、これがなかなかしっくりくるものがありません。

基本は、ハンディタイプのホコリ吸着のモップ程度でいいと思うのですが、細かい部分や隅っこなどにホコリがたまるとなかなか除去するのが難しかったり、モップはモップで定期的に洗ったりする必要があって、それなりに手間がかかります。
また、厳密に言うと、軽いホコリ取り程度だけでは取れないホコリの層がしだいにできてきて、これをきれいにするには、やはりクリーナーを使うしかありません。

今回目をつけたのは、ダイソーなどで売っているフローリング用のワックスシートのたぐいで、売っているものは何種類かありますが、いずれも微量のワックスを染み込ませたクリーニングシートです。
使い捨てタイプで、何種類もありますが、だいたい12枚〜20枚入りぐらい。

もともとは本来の使用目的にそって床や階段を拭いていたところ、思ったよりゴミやホコリを除去するし、仕上がりも期待以上にきれいで、これはもしかしてピアノにいけるんじゃないかと思ったわけです。

ピアノの外側は、エアコン使用が続く時期ということもあってか、意外にホコリがたまり、きれいにしたつもりでもわずか数日でうっすらとホコリが見えてしまいます。

毎日のお掃除に怠りないような方はご参考にならないと思いますが、マロニエ君はピアノの掃除など週に一度するかどうかもあやしい状況で、うっすらホコリが見えるようになってようやく手をつける程度。

さらに、ホコリというのは、取っているつもりでも結局は掻き寄せてあっちへこっちへと移動させているだけということもあり、これを本当に除去するは意外に難しいもの。
とくにピアノはつやつやして平面が多いので、いやが上にもホコリが目立つもの。
さらに加湿器を使用すると、数日でピアノの表面にはうっすらと白い膜のようなものが付着し、これもハンディモップで取れないことはないけれど、もうすこしシャキッとさせたいところ。

このフローリング用のワックスシートは、当然使い捨てなので、ケミカル剤を使ったときのように柔らかい布を準備する必要もないし、モップでさえ定期的に洗濯することを考えたら、本当に簡単便利です。
おまけに薄いワックス効果もあって、細部までホコリを残さず簡単にきれいになるので、かなり使えると思いました。

ピアノを拭いた後は、ついでに部屋の中のあちこちをちょこちょこと拭いておけば、あちこちがきれいになるので今のところいいことずくめです。

もちろん、これは「ピアノ用」ではないので、自己責任にてお願いします。
ピアノがきれいになったところで、今年も終わりになるようです。
それでは来年もよろしくお願い致します。
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マルセル・メイエ

時代の流れに反抗し(ているわけでもないけど)、あくまで音源はCDにこだわり続けているマロニエ君です。

最近購入したCDで圧倒的に素晴らしく感激ひとしおだったのは、20世紀の前半から中頃にかけて活躍したフランスのマルセル・メイエのスタジオ録音集成という17枚からなるボックスセット。

ネットにあるCDの説明によれば、1897-1958の生涯。
パリ音楽院でマルグリット・ロンやコルトーの教えを受け16歳で卒業。
ラヴェルやドビュッシーの多くの曲の初演者であり、サティやフランス6人組、コクトーやピカソ、ディアギレフなどと音楽以外の芸術家とも深い関わりがあったらしく、フランスの最も輝く時代とともに生きたピアニスト。

つい先日、ギーゼキングのバッハでぶったまげて何日間もそればかり聴いて過ごしていたというのに、それをつい横にやってしまうような魅力ある素晴らしいメイエのピアノに驚きのため息が止まりません。
実をいうと17枚を聴くのにひと月ちかくかかりました。
なぜならあまりに素晴らしすぎて、繰り返し聴くものだから、なかなか次のCDに交換ということになりません。

しかも、17枚とはいっても、すべてCD収録時間ギリギリの80分近い収録となっているので、LP時代でいうと倍近い枚数になっていたものだろうと思われます。
それが、こうしてCDの小さくて簡素な箱に入れられ、一枚あたり定価でも200円ちょっとで買えるのですから、大変な時代になったものです。

この人のピアノを聴いていて、演奏の最も中心をなしているものはなにかといえば、それはセンスだと思いました。
ただ、センスという言葉で誤解されたくないのは、センスというとすぐにファッション的な意味合いや、繊細でオシャレ的な意味合いで受け取られることが多いのですが、そうではなく、演奏スタンスというか価値感という点で、しっかりしたスタイルの見切りがついている、あるいは楽譜を音楽的言語にいかに美しくデフォルメできるか…というふうに思っていただけると幸いです。

あまり枝葉末節にこだわらず、音楽の本質、開始から発展し収束に向かって終りを迎える個々の作品の短い生涯を再現するにあたって、最も大事にすべきものはなにかということを、この人の演奏はよく示してくれるように思います。
なので、もしメイエの演奏を聴いて何か影響を受けるとすると、それは直接の解釈とかアーティキュレーションではなく、音楽を自分流にどう捉えるかという本質であり、自分ならピアノの前に座ってどんな演奏を旨とするか、それをシンプルに考えるヒントにあるということではないかと思います。

現代の凡庸な演奏家の多くは、楽譜に正確に、完璧に弾けているというアピールばかりを詰め込みすぎて、肝心の「音楽」が本来の精彩を失い、聴き心地の悪いものになっている演奏で溢れています。
場所々々ではいかにも立派なように聴こえるけれど、全体として通すと詩もなければドラマもない、要するに何の魅力もない、音楽の神様が一瞥もくれないような演奏。
その真逆にあるものがメイエの演奏にはぎっしり凝縮されているわけです。

必要以上にもったいぶるようなことはせず、表現表情も過度にならず、それ以上は聴き手の感性に委ねられた、聴き手の感性を呼び起こす演奏なんですね。直接的にエグい表現などはまったくなく、どちらかというと毅然として澄みわたっている。
そのなんとも微妙なところが最高なんです。

技巧もそのまま現代でも第一線で通用するほど見事であるけれど、まったくそれを見せつけるような自慢や強調はゼロ。
ましてや楽譜に対する忠実ぶりを正義のように押し付けてくるわけでもないし、戦前のピアニストありがちな恣意的で独善的なものとも見事なまでに区別された、楽譜に批准した知的な演奏であることは衝撃でした。

どれを聴いても活気に満ち、音楽があるがままのように生きている。
昔はこういう人が自分の生きるべき場所に生きることができ、なすべきことがなされたこと、そんな当たり前が素晴らしいと思いました。
それは時代の力でもあり、まわりにいた多くの芸術家たちとの相乗作用もあって、このような演奏を生み出し支える大きな養分になったことでしょう。

今のピアニストは、ピュアな芸術家として生きるには、時代がなかなかその味方をしてくれないようです。
ひたすら技術と暗記のトレーニングに明け暮れ、あとはコンクールというレースに出てせっせと営業活動するなんて…それを外から軽蔑するのは簡単ですが、気の毒なこととも思います。
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コンサートベンチ2

油圧式ベンチのメリットは、従来のもののように木と金属をネジで止める構造ではなく、座面のクッション部以外はほぼ金属のみで構成され、ベースは溶接一体式なので、捻じれや軋みが出る要素が圧倒的に少ないというところにあるようです。
しかも簡単なレバー操作で、油圧式の座面がサッと上下するので、丸いノブを延々ぐるぐる回す必要がないのは画期的。

数社から類似品が出ているようですが、外観からはなかなか見分けがつかず、イタリア製とかスペイン製などとあるだけで、実際に座り比べのできるような店もなく、ピアノの椅子がないわけでもないので、しばらく静観することに。

イドラウ社というスペインのメーカーを知るようになったのもこの頃で、ファツィオリなどはイドラウ社のベンチを使っているようで、以前の「バルツかジャンセンか」の時代は過ぎ去り、ランザーニ、ディスカチャーチ、アンデクシンガーなどのメーカー名も次第に広がってきたように思います。

そもそもマロニエ君はピアノにこだわるなら、それを弾くための椅子はとても重要という考えで、靴にこだわるのとどこか通じているかもしれません。
どんなに素晴らしいピアノでも、椅子がサービスのしょぼい廉価品では、座り心地はむろんのこと、ビジュアルとしてもキマらない感じがするのです。
普通のピアノでも、コンサートベンチを置いただけでたちまち風格が漂い景色が変わるし、使い心地においても安定感があって快適なので、個人的にはコンサートベンチはピアノの如何にかかわらず強くオススメします。

ところが、ピアノにはこだわっても椅子には一向に関心を向けない方って多いんですね。
この何年かの間に、知り合いなどでピアノを買われた方が何人かおられ、そのたびに椅子はいいのを買ったほうがいいとアドバイスしますが、そうされたのは約半分。
買われた方は、みなさん例外なく「買ってよかった」「気がつかなかった」といわれ、その余裕ある座り心地を日々実感されているようです。
実際、コンサートベンチは一度使うと、おそらく二度ともとには戻れないもので、見た感じもいかにも本物といった重厚感があふれて、ピアノはもちろん部屋の雰囲気まで一気に引き立ちます。

かくいうマロニエ君も、自室のシュベスターにもはじめに買ったコンサートベンチを使っていますが、アップライトでもとても似合いますが、それを見た調律師さんも「アップライトでこういう椅子を使われる方はいないですね」とのこと。
ちょっとしたことで、練習にも身が入るんですけどね…。
アップライトにカバーを掛け、普及品の椅子を置くと、それだけで「子供にピアノやらせてます」的な雰囲気で、むこうからおかずの臭いがしてきそうですが、コンサートベンチひとつでまったく違った世界になります。

さて、油圧式ベンチですが、それほどお高いものではなくだいたい10万円前後で、その中ではイドラウがややお安いぐらいでしたが、日本のイトーシンからも似たようなものが発売され、こちらは価格は約半分。
なんでもドイツのヤーン社のOEM生産品ということのようですが、なんかカタチが好みじゃなくてこれはボツ。

で、イタリア製とやらもどこで売っているのかもよくわからないし、そうなるとイドラウかなあと思っていたところ、ドイツのアンデクシンガー製があることがわかり、お値段はほんのちょっと高めですが、ドイツ製の椅子はひとつもないのでその点でも惹かれました。
調べていくと評価も高く、ベーゼンドルファーの取扱店や、ファツィオリも油圧ベンチに関してはアンデクシンガーを推奨しているようなので、結局これを買うことに決めました。

それが最近届いてさっそく使っているのですが、さすがはドイツ製だからか、あるいは油圧ベンチ全般がそうなのかはわかりませんが、腰を下ろすとギョッとするほどしっかりしており、まさに床に固定でもしたように微動だにしないのはかなり驚きました。
加えて高さ調整の簡単さは群を抜いており、この点で重宝されていたトムソン椅子でもいちいち後ろに回って上げ下げしなくてはいけなかったものが、油圧ベンチは座ったままサッと微調整もできて、とくに奏者が入れ替わるコンクールや発表会などでは、もはやこれに勝るものはなく、その手のイベントには必須アイテムではないかと思います。

そうは言っても、うちでピアノを弾くのはマロニエ君のみで、高さ調整も一度すればほとんどする必要もなく、さほど役に立っているとも言えませんが、ピアノを弾くお客さんがみえたときには役に立つことでしょう。
現在グランドの前にはランザーニとアンデクシンガーのベンチが2つ並んで、なんとなく自己満足。

後からネットで知ったことですが、ランザーニ社は社長の死去に伴って会社自体が廃業した!とのことで、もはや購入できなくなっているとのこと、思いがけなくコレクターズアイテムになってしまったようです。

追記:文中の日本製と思っていた油圧ベンチは、ネットでよくよく調べたら近隣国での生産品でした。うっかり日本製と勘違いするところでした。
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コンサートベンチ

必要もないのに、意味もなく欲しくなるものってありませんか?

マロニエ君にもそんなものがいくつかあって困りますが、その中の一つがピアノの椅子。
中でも欲しくなるのはコンサートベンチ、すなわちコンサートのステージでも使われる椅子のこと。

たしか20年ぐらい前のこと、それまで使っていた普通のダサいピアノ椅子に我慢できなくなり、よくわからないまま日本のピアノ椅子では有名メーカーのコンサートベンチを購入。
当時は注文制で、座面を本皮、足の部分を黒のつや消し仕上げで購入しましたが、これが見た目はたいそう重厚で立派なんですが、一年もしないうちにギシギシと雑音が出始めて憤慨。

で、次に買ったのが、ヤフオクで見つけたカワイ純正のコンサートベンチで、ピアノメーカーがコンサートで使うものなら間違いないだろうと思ったのですが、その期待もあえなく裏切られて、こっちははじめから雑音があって前回以上に落胆。
これは中古品だったものの、そんなに使われたとは思えない美品で、大きさ重量ともに立派だし、サイドには小さなKAWAIのエンブレム付きであるにもかかわらず、盛大にギシギシいうのはびっくりでした。

調律師さんが、調律に来られたついでにCRC(潤滑剤)を吹きつけたり、一度は自宅に持ち帰って各所を増し締めしたりとかなり奮闘してくれましたが、音が消えるのはしばらくの間で、そのうち再発しはじめて、時間経過とともに完全に元に戻るのには閉口させられました。
そのうちこの2つに関してはあきらめてしまい、やっぱり日本製はダメだと思い、輸入物を狙うことに。

一時代前までのコンサートベンチは、ヤマハはヤマハ製、カワイはカワイ製を使い、スタインウェイやベーゼンドルファーではドイツのバルツ製、あるいはアメリカのポール・ジャンセン製というのが定番でした。
バルツはいかにも高品質な感じはあるものの、古いメルセデスみたいな実直なで遊びの一つもないデザインがあまり好きになれず、対してジャンセンのほうがデザインが好ましく、価格も少し安いこともあってか、当時のコンサートの多くがこれでした。

というわけで、次はポール・ジャンセンだと心に決めていたのに、さる輸入ピアノ店のオーナーにして技術者の方によると、ポール・ジャンセンも所詮はアメリカ製品で、いずれ雑音が出始めるのは避けがたいとのこと。
その時点ではジャンセンのベンチにはかなり思い入れもあり、聞いたのがいよいよ購入する直前のことだったので少なからずショックを受けました。
でもまあ、安くもないものを期待をこめて買った後に3たび裏切られるよりは、事前にわかってよかったと思い直すことに。

というわけで、では雑音が出ないという観点から最もオススメのコンサートベンチはなにかと尋ねたら、即座に「イタリアのランザーニ製でしょう」との回答でした。
イタリア製は車好きの経験から、デザインやスピリットは認めるとしても、品質に関しては大いに疑問符がつくイメージがあったので、俄には信じ難い気もしましたが、その方は抜きん出て知識が豊富で信頼のおける方であったし、自信をもって推挙されるので結局それを購入することになりました。

当時ようやくこのベンチがコンサートで使われはじめた頃で、側面に赤いラインが2本入り、座面ステッチにも赤い糸が使われるあたりいかにもイタリアンで、すでにポリーニなどが使っていたし、ホールにも結構あるようで今でもときどき見かけます。
そのころ、このランザーニのコンサートベンチを取り扱っているのは松尾楽器商会だったので、ここから購入。

送られてきたそれは、これまでの2つのコンサートベンチにくらべて明らかにガッシリしているし、かなり重く、たしかに作りもかなり堅牢、どんなに重心移動してもミシリとも言わず、まずこの点においてはかつてない頼もしさがありました。
いやな雑音からも解放されたのはよかったけれど、強いていうなら座面のクッションの沈み込みがほとんどない平坦な作りなので、厚みのあるクッションの感じがないのは少し残念でした。

でもとりあえずこれで落ち着いたことでもあり、部屋にコンサートベンチばかりごろごろしていても仕方がないので、カワイ製のものは人にあげて整理をつけたころ、今度は油圧式のベンチがちらほら出始めました。
はじめは「骨組みだけの変な椅子」としか思わなかったけれど、コンサートでもこの油圧式のベンチがしばしば目につくようになり、実際に楽器店で腰を下ろしてみると、これまでのものとは違った心地よさがあって良さを認めざるを得なくなります。

慣れの問題もあって、見た感じはさほど好きにはなれなかったけれど、抜群の安定性、レバーひとつの高さ調整のしやすさなど、とくに機能面では有利なんだろうと納得し、早い話が今度はこれが欲しくなったというわけです。

続く。
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ディアくまもん

熊本は福岡からはおよそ100km少々で、近いといえば近く、遠いといえば遠いところ。
東京からいうとちょうど御殿場ぐらいの距離で、行こうと思えばいつでも行けるものの、気軽にサッと往復する距離でもない微妙な距離でしょうか。

たまたま所用で熊本に行くことになったので、これは好機とばかりに予定より早く出発して、とあるピアノ店におじゃますることに。
市内中心部の幹線道路に面した店舗で、ここが珍しいのはディアパソンを販売のメインとしているところです。

ご店主自らご対応くださり、いろいろと興味深いお話を伺い、店内のピアノもほんの少し触らせていただきました。
ディアパソンといえばマロニエ君も3年前まで自宅で使っていたこともあり、とても親しみ感じるピアノですが、一般的な認知度はヤマハ/カワイという巨大勢力の前では、あくまでもマイナーブランドという位置づけ。

それでも、この数十年で日本国内の多くのピアノブランドが次々に消滅してしまったことを思えば、生みの親である大橋幡岩さんがブランドごとカワイ楽器に譲渡していたことが幸いして、今日まそのブランドは保たれ、少数でも生産されているのはまさに奇跡的といっていいかもしれません。

とはいえ近年のモデルは順次整理が進み、大橋氏が設計した3種のグランドはついに183cmのひとつを残すだけになってしまいました。
さらには今年のことだったと思いますが、カワイ傘下の子会社として運営されていた株式会社ディアパソンが、ついに統合されてしまったようです。
これによりディアパソンとしての独自性はさらに制限を受けることになるのか、あるいは新たな道が拓けていくきっかけになるのか、マロニエ君ごときにわかるはずもないけれど、むろん後者であることを願うばかりです。

会社の話なんぞするのは無粋なので、ピアノの話に戻ると、ディアパソンは現在でも一部のファンにとっては、なかなかの人気ピアノなんだそうで、ご店主曰く「モデルによっては生産が追いつかず、注文したものがやっと届くというような状況」というのですから、これは意外な驚きでした。
そんな好調な売れ行きの裏には、ディアパソンに惚れ込んだ販売店が、熱心にその魅力を説いていくことに日々奮闘されているという、いわば草の根の努力あってのことと思われ、そこはまさにそういう店なのだと思われます。

むかしのように「良い物さえ作っていれば、お客さんは必ずついてくる!」というような法則は崩れ、どんなに優れたものでも、それをいかに周知させ、果敢に良さを説いていくか、これに尽きる時代ですから大変です。
特にピアノはヤマハ/カワイという両横綱を相手に、ディアパソンという平幕が金星を勝ち取らねばならないのですから、ご店主の努力と情熱は並大抵のものではないと推察されます。

店内には4台のグランドがあり、新品では定番の183cmと猫足の164cm、レッスン室で使われているのはディアパソンとボストンいずれも奥行きが178cmというものでした。

3台のディアパソンには明確に共通する特徴があり、それは音とタッチだと思いました。
ディアパソンは昔から広告に「純粋な中立音」と謳っていますが、中立音というのがこういう音なのかどうかはわからないけれど、その音には飾り気のない素朴な味わいとズシッとした重みがあって、どちらかというと昔気質のピアノだと思います。
タッチも同様で、今どきの軽やかなアクションではなく、やや重めのタッチできちんと弾かされる感じでしょうか。

驚くのは、ディアパソン伝統のオリジナルではないモデル、すなわちカワイベースの164cmや178cmでさえ、骨太なディアパソンの音がしっかりすることで、決してマークを貼り替えただけではない、ディアパソンらしい音の特徴がしっかりと保持されていることでした。
ボディや響板は同じだとすると、この「らしさ」はどこからくるものなのか、おおいに興味を覚えるところです。

少なくともカワイと違うのは、今だに木製アクションを搭載していることや、ハンマーなどのパーツが違うということはあるかもしれませんが、それだけでああもディアパソンの音になってしまうものなのか、これは非常に不思議でした。
個人的な印象でディアパソンを人間に喩えるなら、根は優しいけれど心にもない作り笑いや耳障りのいいトークなどは苦手な正直者で、長く付きうならこっちというタイプだと思います。

ただし、アクションに関してだけは、もう少し今どきの新しさを採り入れて欲しいというのが正直なところ。
さすがにヘルツ式にはなってはいるのでしょうが、依然としてボテッと重く、指の入力に対してアクションの反応にわずかな齟齬があるのは少々の慣れを要します。
マロニエ君もこのタッチに関してだけは、ディアパソンを所有しているころ、ずいぶんと調律師さんにお願いして改善を試みましたが、それにも限界があり、かなりのところまでは持って行けたと思いますが、根本的な解決には至りませんでした。

カワイの樹脂製のアクションになるとしたら素直には喜べないとしても、少なくとも現代的なストレスのないアクションが組み込まれたら、それだけでもディアパソンの魅力が倍増して、理解者・支持者(要するにお客さん)が一気に広がるのではないかと思います。

個人的な好みをいうと、ピアノ店には営業マンが何人もいるような規模は必要なく、この店のようにご店主自ら一つのブランドに精通し、業界に確かな人脈をもち、その魅力をひとりひとりに説きながらファンの裾野を広げていくというスタイルが理想的で、楽器はそもそも本来そういう世界ではないかと思います。
聞けば、遠方からでもディアパソンに興味のある方はわざわざここを訪ねて来られるそうで、結果として納入先は九州全体に広がっている由、納品時の写真を収めたものという分厚いアルバムがその事実を雄弁に物語っていました。

ディアパソンあるかぎりますます頑張っていただきたい貴重なお店でした。
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ガラクタ漁り

古本店の中古CDはクラシックなどほん少しあるだけで、期待もしていなかったところ、たまたま面白いもの(しかも廃盤)がまぎれていたことで、ビギナーズラックだったと考えるべきなのに、つい味をしめて二度三度覗いてしまいました。

当然、そんな偶然が続くはずもなく、結果は玉石混交、失敗も少なくありません。
いいものについてはあらためて書いてもいいけれど、中には安さゆえに冒険心と欲に煽られて、普段だったら買わないようなものにまでついつい手を出してしまいます。

もちろん、興味を覚えたものはそれなりにいちおうは吟味して買っているつもりですが、しょせんはガラクタ漁りであって、ヘンなものをいくつか買ってしまいました。

掘り出し物も中にはあるから、勝敗は五分五分だとしても、五分五分ということは結局いいものを倍の値段で買っているようなもので、ま、せこい遊びとして、それはそれで楽しんでいます。

いくつかご紹介。
名も知らぬドイツ人ピアニストによるショパンの14のワルツというのがあって、いまさらショパンのワルツでもないけれど、裏に記された小さな文字に興味がわきました。
演奏者の名前のすぐわきに(Bechstein)という文字があり、ベヒシュタインによるショパンというのはどういうものか聞いてみたくなり購入。
ところが、これがもうウソー!と声を出したくなるような下手な演奏で、おまけに録音もぜんぜんパッとしないもので、1曲めでやめようかと思ったけれど、それじゃあまりに悔しいから一度だけ我慢して最後まで聴きましたが、それでハイ終わり。

むかし天才などと言われて有名だった日本人によるヴァイオリン名曲集。
若いころ、来日中のコーガンの目に止まり、彼が教えることになってソ連に行って研鑽を積み、帰国後は有名な画家と結婚した方。
この人は名前ばかり知っていて、まともに演奏を聴いたことがなかったからいいチャンスと思ったけれど、これがもうやたら古臭い、昭和の空気がどんよりただよい、日本人がここまで弾いてますよ!というだけのもので、とてもその演奏に乗って曲が羽根を広げるようなものではない。
当時のソ連にはただ上手い人なら日本とは比較にならないほどごろごろしていただろうし、コーガンほどの巨匠がこの人のどこにそんなに惚れ込んだのかと頭をひねるばかり。

ウェルテ・ミニョンの大いなる遺産ー19世紀後半の名ピニストたち。
あとからわかったけれど、ウェルテ・ミニョンは昔のピアノ自動演奏装置のことで、それを知らなかったばかりにすっかり騙されました。古いレコードのコレクターぐらいに思っていたのです。
マロニエ君は昔からピアノロールなどの自動演奏というのが嫌いで、これで録音したCDなどは決して買わないのですが、購入して中を見てはじめてそうだと判明。それをアメリカのブッシュ&レーンというピアノに取り付けて、往年の巨匠たち、すなわちプーニョ、パハマン、ザウアー、パデレフスキなど総勢8人によるショパン演奏でした。
この装置がどれほど正確に記録/再現能力があるのかは知らないけれど、聴こえてくる演奏は、どれも信じられないほど不正確で、大雑把で、あちこち好き勝手に改竄された演奏。技術的にもその名声にふさわしいとは到底いいがたく、そういう時代だったということは踏まえるにせよ、ひととおり聴くだけでもストレスを伴うものでした。
大半はメチャクチャといいたいような演奏で、最もまともだったのは日本にも馴染みのあるレオニード・クロイツァーの革命で、8人中たったひとりまともな人に会ったような印象でした。
ブッシュ&レーンというピアノも、良く鳴ってはいるようだけれど、鋭いばかりの耳障りな音で演奏と相まってかなりストレスがたまりました。

ジェシー・ノーマンのシューベルト歌曲集。
例によって神々しい、ビロードのような美しい声だけど、シューベルトの音楽がやけにものものしくゴージャスにされているようで、なんだか釈然としませんでした。個人的にはもう少し、簡潔な美しさの中に聴くシューベルトのほうがしっくりくるし好みです。
もちろん歌手としては途方もない存在であるのは疑いようもないけれど、ミスマッチなものでも無抵抗に有り難がっていた時代があったことを思い出しました。

「安物買いの銭失い」とはまさにこのことだと思いますが、趣味や楽しみにはムダはつきもの。
ムダや失敗のない趣味なんてあり得ないのだから、それをふくめて楽しんでいると勝手にオチをつけています。
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カテゴリー: CD | タグ:

島村クラシック店

島村楽器は毎年、博多駅ターミナルビル内のイベントホールで大規模な「ピアノフェスタ」というのをやっていましたが、気がつけば天神でも開催されるようになり、7月に続いて11月も「ピアノフェスタ福岡2018winter」というのをやっているというので、せっかくなので連休中に覗いてきました。

駐車場がどこも満車なので、空きが出てくる18時近くに行ってみると、会場はえらく静かな雰囲気でした。
お客さんよりお店の人の数のほうが圧倒的に多く、これじゃあ気の弱いマロニエ君は音なんぞ出せません。
とはいっても、グランドに関しては置かれているのは大半がヤマハ、それも売れ筋のC3の中古が5台とか、それ以外もこれといって興味を覚えるようなものは今回は見当たりません。

営業のお姉さんがほどよい感じで話しかけてきますが、その会話の中に「今度、ももち店というのがオープンしまして、そちらには…」というので、ん?なに?と思ったら、これが思いがけない情報でした。

ソフトバンクホークスの本拠地であるヤフオクドームの目の前の商業施設が新しく建て替えられて、マークイズという商業施設に生まれ変わってオープンしたというニュースをテレビでやっていましたが、そこに島村楽器の福岡ももち店ができて、アコースティックピアノを専門に扱う「クラシック店」ができたというのですからびっくり。

だいたいマロニエ君は、この手の商業施設というのにあまり興味はなく、どれだけ鳴り物入りで新しくできたとて、しょせんは似たりよったりの同じような店がまたかという感じで入るだけで、もういいかげんあきあきしているので、まず行ってみる気はなかったし、もし行くことはあっても当分先だろうぐらいに思っていました。
まさかそこに、島村楽器の「クラシック店」ができているとは知りませんでした。

オープンからまだ数日、しかもはじめての連休とあって相当の人出のようだけれど、夜になれば多少は人も減って車も置けるかもと思い、聞いた勢いでそちらに向かってみることに。
近づくと、19時というのにやはり人も車も多いようで、誘導にしたがってドーム前をぐるぐるとまわらされたあげくにやっと立体駐車場に車を止め、施設に踏み入れると、いやあものすごい人の波。

思った以上に大きな施設のようで、どこになにがあるのかさっぱりわかりません。
これは探すのが大変と思っていたら、駐車棟から渡り廊下を渡ったところが施設の3階にあたり、島村楽器もちょうどこのフロアにあり、わりにすぐ見つかりました。
パッと見たところは、あちこちのショッピングモールでよく目にする島村楽器の店舗なのですが、中に奥深く伸びた一角があって、壁で仕切られた向こうにはグランドピアノがずらりと並んでいました。

入って行くと、表の喧騒からは隔絶されたエリアとなり、ボストン、スタインウェイ、ヤマハ、スタインベルクなど、グランドだけでも8台ぐらいはあったような気がします。アップライトはたぶんそれ以上でしょう。

最も印象的だったのは、3台あるボストンのグランドの中で最大のGP-215。
そのタッチはまるでとろけるようで、適度な抵抗が実になめらか、上質なもので包み込まれるようにキーが沈みます。
しかも決して鈍重ではなく、返りも俊敏、まったく思いのままに弾けるのは驚きでした。

指というのは必ずしも常に最適な動きやコントロールができているわけではないから、そこには当然ばらつきがあるわけですが、それをこの鍵盤+アクションはうまく吸収してくれて、まるで高級車のサスペンションのように凸凹を呑み込んでくれます。
それでいて必用な強弱や表情はイメージしたままに付けられるし、トリルなどもより細かいことが可能で、これにはいきなり感心させられました。
これまでにもボストンはちょこちょこ触れたことはあったものの、とくだんの印象はなく、GP-215に触れたのは今回がはじめてでした。記憶とはあまりにもかけ離れた印象のピアノだったのはちょっと衝撃で、やはり最大モデルだけあって、作りや調整なども別格なんだろうという印象を受けました。

音もじゅうぶんに満足できるだけのものがあり、このサイズで400万円強というのは、ほかを見渡すと相当すごいことかもしれません。
それと、より高価なSK-6やヤマハのS6が、行き着くところはやっぱり「日本のピアノの音だなぁ」と思うのに対し、ボストンは違う血が流れているとマロニエ君は思いました。

ボストンGP-215と向い合せに置かれていたのがスタインウェイ。
新品のように見事にリビルドされたBですが、フレームの穴の周りには丸いイボイボがあって戦前のモデル。
聞けば1933年製との事でしたが、弾いた感じも実に若々しく元気によく鳴っていました。
サイドには、Dと同じサイズの特大ロゴが埋め込まれていて、えらくそれがキラキラ光っているのは、ちょっとやり過ぎでは?と思いましたが、お値段も相当なもので、それを買われる方は、その証がほしいのかもしれませんね。

いずれにしろ面白いピアノスペースが一つ増えたし、この常設店舗のほうがよほど上質でわくわくする「ピアノフェスタ」でした。
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ピアノのレクサス

知人からお誘いいただき、カワイのショールーム内に併設された小さなホールにシゲルカワイのコンサートグランド(SK-EX)が期間限定で置かれていて、ひとり30分弾けるというので、行ってきました。

あるていど予想はしていたけれど、今どきのテイストですべてが完璧に整えられた、まさにピアノのレクサスとでもいったところでしょうか。
たしかによく作られており、製品としては素晴らしいとは思うけれど、楽器としての生命感とか血の通った感じはなく、熱くなれないところがいかにも今っぽいなあと思いました。
至って機械的で、現代のハイテク技術で正確無比に作られた豪華なお城みたいな感じ。

いかにも新品然としていたので、おそらく最新もしくはそれに近いモデルだと思われましたが、これといったクセもムラもない、全音域にわたって見事に整いまくっていました。
あまりに整いすぎて、かつてはEXなどにあったカワイの特徴らしきものまで跡形もなく消えてしまっており、もしブラインドテストでもされたら、メーカーを言いあてることはかなり難しいだろうと思いました。

これまではやや野暮ったいところも含めてカワイらしさがいろいろありましたが、いつの間にここまで宗旨替えしたのか、たいそう洗練されて、昔のカワイから思えば隔世の感がありました。

今どきの製品としては最高ランクに列せられるコンサートピアノだというのはわかるのですが、ひたすら他社のコンサートピアノと肩を並べること、嫌う要素を残さないように徹したという感じ。
音も「きれい」ではあるが、「美しい」という言葉を使うときの深くて底知れぬ世界とは違います。

当節は、良好な人間関係を築くためには自我を出さないことが肝要なようですが、まさかそれがピアノにまで求められるようになったのかと思うと、なんとも寂しい限りです。
個性やインパクトは評価が分かれるから危険で、それらを排し、コンクールの檜舞台でまんべんなく点数が稼げるピアノ?

SK-EXといえば、むかし楽器フェアの会場が池袋から横浜に変わったころ、ほとんど試作品みたなSK-EXをちょっとだけ触ったことがありますが、えらくスタインウェイを意識した感じで、それがいいかどうかはともかく、作り手の気迫みたいなもの伝わってくるピアノであったような記憶があります。
EXにくらべてブリリアンスとパワーがあきらかに増していて、そこには欠点やはみ出しもあったかもしれないけれど、とにかく熱いものはありました。

それとは対照的に、今回弾かせてもらったSK-EXは、徹底的なリサーチのもとにネガ潰しされつくしたのか、あえて主張めいたことはせず、デジタル一眼カメラのようなクリアーな面だけを出すように作られたピアノという印象でした。
コンクールと同様、今どきは個性は必ずしも長所とならない時代、このSK-EXはむしろその点を注意しながら作りましたよ!というのが前に出ていて、コンサートグランドならぬコンクールグランドとでもいいたくなる、そんなピアノでした。

今回はカワイショップの企画のお陰で、無料で弾かせていただくことができたもの。
タダで弾かせてもらっておいて、言いたいことだけ言うのは甚だ申し訳ない気もするのですが、だからといって心にもないことは書けないし、これはあくまでもアマチュアのピアノ好きの戯れ言なので、何卒お許しいただきたいところです。
こういう機会を作ってくださったカワイショップのご厚意には深く感謝しています。

蛇足ですが、今回も思ったのは、カワイのフルコンって、なんであんなにボディの側板がぶ厚いんだろう?ということ。
思わずミニカーでも並べたくなるほどで、そういえば昔から、カワイは響板も厚めなんだとか。
カワイは熱いかどうかはともかく「厚い」ことは今も確かに受け継がれているようです。
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夢の2時間

今どきスタインウェイDを備えているホールなんて、日本国内のいたるところにごろごろしていますが、そのほとんどがハンブルク製で、ニューヨーク製のあるホールはほんの数えるほどしかありません。
100台中1台ニューヨークがあるかどうかでは…。
ましてハンブルクとニューヨーク、両方を備えているホールはそうあるものではないでしょう。

そのきわめて珍しいホールが、なんと福岡県内の小さな町にあるのです。
バブル真っ只中に作られたと思われ、コンサートさえやっているのかどうか疑わしいような山の麓みたいなところにそれはあり、今だったらあり得ないことでしょう。
しかも町立の文化施設なんですから驚きます。

そこが開館30周年を記念して、所有するスタインウェイを弾かせてくれるイベントをやっているという貴重な情報が知人からもたらされました。
通常、ホールのスタインウェイを弾くリレーイベントみたいなものはあるけれど、あれはひとりわすか数分という制限付きで、老若男女が次から次へと順番に弾いていくというスタイル。

ところが驚いたことにこのホールでは2時間ずつの割当てで、料金も俄には信じられないほどお安いものでした。
ただし、ステージの反響板と空調はなしというもの。
さっそく予約の電話してみると、希望する日にすんなり予約が取れ、15時から17時までの2時間がキープできました。

このとき、ピアノはハンブルクとニューヨークのいずれを使うかを尋ねられるので、迷うことなく触れるチャンスの少ないニューヨークを希望しました。

福岡市内からかなり距離があり、車でおよそ2時間弱で到着、すぐに受付をして申し訳ないほどお安い料金を支払うと、担当の方が先導してしずしずとホールへと案内してくれます。
ステージには希望通りにニューヨークのDが準備されており、こんな本格的なホールでこれから2時間弾くのかと思うと、嬉しいような畏れ多いような、なんとも複雑な気分になるものですね。

そのスタインウェイは、まるで「私」が来るのをじっと待っていてくれたように見えました。
蓋は全て閉じられており自分で大屋根まですべて開け、軽くキーに触ってみると、ワッと迫ってくるような鳴りの良さが瞬間的に伝わってきて、これはタダモノではないというのが第一印象。
ここで臆していても始まらないので意を決し、バッハから少しずつ曲を弾いていきましたが、その充実した鳴りと音の美しさは、これまでのニューヨークのイメージまでも塗り替えるような素晴らしいもので、陳腐な表現をするならいっぺんで恋に落ちるようなピアノでした。

何を弾いてもピアノが包み込むように助けてくれるし、本来はニューヨークの弱点でもあるはずのアクションの感触もまったく問題なく、思ったことが思った通りにできて、ささやくような弱音から炸裂するフォルテ、声部の歌い分けや意図した表情付けまで、あくまで自分のできる範囲ではあるけれど、まったくもって自由自在でした。

場所やピアノが変わると、その緊張から、家では「できる」ことが「できない」ということは、ピアノを弾く者にしばしば襲いかかることですが、このとき不思議なぐらいそれはなく、自分の指先から極上の美音がホールの響きに合わさってすらすらと最高のサウンドに変換されていくさまは、ゾクゾクするようで弾きながら陶然となるばかり。
実はこの日、本来ないはずの反響板も設置されていて、それもあってホール本来の響きも併せて経験できたのだと思います。

4冊ほど準備していた楽譜の中の数曲もじきに終わり、あとは思いつくままにずっと弾いていましたが、途中休憩もせず、2時間がサーッとすぎてしまったことは自分でもびっくりでした。
時間的には一夜のリサイタル分ぐらいは優に弾いたことになり、ピアニストはこうした高揚感が病みつきになって、苦しい練習も厭わずにコンサートをしたくなるんだろうなぁと、ちょっとだけその心情の一端が見えたようでした。

これで座席にお客さんがいて、そこそこの演奏ができて、拍手喝采となれば、そりゃあ気持ちいいでしょうし達成感があるでしょうね。

とにかくピアノは申し分ないし、ホールは600席なのでピアノには最適なサイズ。
ホールの残響というのがこれまた麻薬的で、演奏が何割増しかで音楽的に嵩上げされるし、多少のアラも隠してくれることがよくわかりました。

このニューヨークは、ハンブルクにくらべるといい意味での野趣がありましたが、それは決して粗さというのでもなく、ほどよい色艶もちゃんともっていたし、低音などはボディがぶるぶる震えるほど鳴りまくっていました。
またニューヨークには軽めの淡い音のするピアノも少なくないけれど、ここのピアノには意外なほどの濃密さがあり、中音も豊かでたっぷりしており、ちょっと痩せ気味になる次高音域も青白い刀身のような切れ味をもって華麗に鳴りわたり、どこまでもよく歌いよく鳴ってくれました。
この時代のスタインウェイには他を寄せ付けいない圧倒的な凄みがあり、それを維持するだけのふさわしい管理がされている点もまったくもって驚きでした。

舞台袖を入ったところにはハンブルクも置かれており、シリアルナンバーを見ると、2台ともちょうど30年前の製造で、よけいな味付けや小細工をされていない、まさに好ましかった最後の時期のスタインウェイの真価を堪能することができました。

終わって外に出たときは、なんかわけもなく「あー…」って感じで、あまりに素晴らしい時間を終えたあとの虚脱感だったような気がします。
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アップライトの魅力-2

前回に引き続き、アップライトピアノの魅力について。

現実的な住環境の中での使ってみると、アップライトはスペース効率において優れているのみならず、弾いた感じにもアップライトならではの良さがあることも次第にわかってきて、むやみにグランドはいい、アップライトはその下、という単純な図式がマロニエ君の中ではやや崩れつつあります。

《音の特徴》
アップライトは弦と響板が床に対して直角に立っており、音の発生源が弾く側の全身にまんべんなく近い位置にあるためだと思われますが、グランドよりも音の立ち上がりがよく、より身近にピアノの音に接することができるという独特な気持ち良さがあって、この感触はグランドではなかなか得られないものではないかと思うのです。
よってアップライト特有の迫力というのがあるし、自分の出している音のニュアンスや強弱に対しても敏感にチェックができるという点では、曲を仕上げる際に、よりデリケートな部分にまで意識が行き届くという面があるように思います。

《タッチ》
もちろんタッチは理想的とはいえませんが、慣れてくるとそれほど不満にも感じなくなるし、音もよく聴けて、丁寧な練習をするにはアップライトというのは思ったより有効なものだと思うのです。
とくに繊細なタッチコントロールがグランドより難しいため、アップライトであえてそこを練習することは、より精度の高い練習にもなり、悪いばかりではないと感じます。

《気分》
心理的なことをいうと、グランドの場合、奥に向かって広がる空間が寒々しく虚しく感じることがあるのに対して、アップライトでは床から頭のあたりまで縦にピアノで、そのすぐ向こうは壁なので、これが妙な安心感と落ち着きを覚えます。
感覚は個人差もあるとは思いますが、グランドの下の空間なんて、考えてみればちょっと不気味で、冬とかは必ずしもいい感じはしません。

また、弾く気まんまんのときはともかく、はじめの譜読みや、フィンガリングを決めて練習を重ねていく段階では、個人的にはアップライトのほうが環境的にじっくり取り組めるし、こじんまりした楽しさがあって、これってけっこう大事なことではないかと思うのです。

もちろんこれはマロニエ君のように趣味でとろとろと弾いて楽しむ場合の話であって、プロのピアニストやコンクールを目指すような方はアスリート的勝負の要素もかなりあるから、そんな甘っちょろいことを言ったり思ったりしているヒマはないでしょうけれど…。

《音》
音は個々のピアノによって千差万別なので一概には言えませんが、これだけは言っておきたいこととして、一般に思われているほどグランドがどれもこれも素晴らしくてアップライトを凌駕しているわけではないということ。
とくに小型グランドでは低音の巻線部分などはかなり情けない音しか出ないものはたくさんあるし、それに比べてもはるかに大人びたキザな低音を出すアップライトもあるあたり、巷のイメージほどなにもかもグランドがエライわけではないし、場合によってはアップライトが勝っているところもあるので、そこは正しい認識と冷静な判断が必要だろうと思います。

それに誤解を恐れずにいうと、ピアノの練習はいつもいつも弾きやすい素晴らしい楽器でばかりやるのが、すべての面で効果があるとは言い難い面もあるという事実。できる限りいろいろと楽器を変えて弾くほうがゆるぎないものがあり、いつも同じ部屋、同じ楽器でばかり弾いていると、場所やピアノが変わっただけで狼狽してしまうことがある。
ピアノを奏するというのは、非常にセンシティブな行為なので、楽器が変わってもすぐ対応できる柔軟性をもつことも非常に重要だと思います。

実際に使ってみると、アップライトもかなり魅力的な存在だということが身をもってわかりました。
大型高級車が常にいいわけではなく、日常生活のなかでは、取り回しの良い小型車がしっくりくる場面があるように、それぞれの得意分野があるというところでしょうか。
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アップライトの魅力-1

自室にシュベスターのアップライトピアノを置いてから2年近くになりますが、はじめの半年ほどは良くも悪くもその印象があれこれと変わりました。
それはアップライトピアノという機構に対してでもあったし、シュベスターというメーカーに対する評価でもあり、とにかくいろいろなことに感じるものや思うところがさまざまあって、それが定まるまで一定の慣れみたいなものが必要だったのかもしれません。
ピアノ自体もはじめはどこか不安定さがあり、調整なども何度も繰り返しましたが、今年になってからでしょうか、落ち着きが出てきて、それなりの艶やかさがでてきたようにも感じます。
そういう時間を経ながら、自分自身のピアノへの接し方も少し変わりました。

ピアノとしての機能とか楽器としての潜在的な能力でいうとグランドのほうが優れているのは論をまたないことで、とくにアクション構造の違いからくるタッチについては、いまさらここで言うまでもないこと。
ほんらいピアノとはグランドのことであり、グランドのかたちで創り出され発展したものだから、こちらのほうが楽器として自然であるのはいうまでもなく、アップライトはそれを敢えて縦置きにした、いうなれば妥協の産物です。

しかし、自室という自由空間で普段からピアノに気軽に触れられるようになると、タッチはともかく、限られたスペースにともかくもピアノを置けるというのは、現実問題としては大きな魅力として実感しています。
しかもアップライトは単に設置に要するスペースが小さいというだけでなく、壁に寄せて、見るからにきれいに収まるというのも魅力だといえるでしょう。
グランドはそれなりのスペースがあればもちろんこれに勝るものはないけれども、単に部屋に収める物体としてはやはり大きく、おまけにカタチも特種で、ふたつの直線とS字カーブをもつ変則的な形状であるため、これを落ち着きある感じに収めるのは至難の技。

加えて、鍵盤のある手前側は演奏するだけでなく、整調や整音で鍵盤からアクション一式が無理なく出し入れできるだけの余地を残しておく必要があり、そのためには鍵盤から手前に1m近い空間を取られることもあり、どうしてもグランドを置くとなると、部屋の景色はピアノ中心ということになるのは避けられません。

さらに3本の足の間には中途半端な空間が残りますが、ここは美観の点でも響きのためにも、できることならなにも置かずに空けておくほうが望ましく、その点では大屋根の上も同様。
上下いずれも使いみちのない空間の生まれることもグランドの場合は避けられない。

その点ではアップライトは配置する上でのムダや割り切れなさがなく、すっきりカチッと収まるべきところに収まるという点では精神衛生上も大変よろしいことを日々実感します。

見た目に対する印象も、時間とともにずいぶん変わりました。
以前のグランドを見慣れた目では、ただの四角い箱から鍵盤が飛び出しているだけで、なんと無粋なものかと思うばかりでしたが、毎日一緒にすごしているとだんだんに良さが見えるようになり、愛着さえわいてくるのですから人の感覚なんて勝手なものです。
部屋全体として眺めると、これはこれでとても好ましく、見方によってはグランドがいかにも無遠慮な感じでデンと鎮座する姿より、よほど節度と慎みがあって、雰囲気もよろしいことが最近になってわかるようになりました。

グランドに対してアップライトはすべてが劣り、妥協の産物という偏見と思い込みやがあったのだと今は思えますし、それを取り去るにはかなり時間もかかったと思いますが、そのかいあってアップライトも大いに興味の対象になりました。
もちろん楽器単体でみればグランドの優位性が揺らぐことはないけれど、日常生活という現実の中で、限られたスペースその他に折り合いをつけながらピアノに親しむためには、アップライトというのはかなり優れたものではないかと思うこの頃です。

適切な使い分けができれば、それぞれが最高の役割を使い手にもたらすわけで、何にしても決めつけはいけませんね。
アップライトピアノは、インテリアとしてもなかなか素敵な存在ですが、そのためにはダサいカバーや椅子などでぶち壊しになることもありますので、細かい点が意外に要注意ですが…。
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月の光

今年はドビュッシーの没後100年ということで、なんとはなしに彼の名前や音楽を耳にする機会が多いような気がします。

話は繋がらないようですが、いつだったか古本店に行った折、期待もせず楽譜コーナーを見たら、たまたまピアノ名曲選というようなものがあり、内容はほとんど楽譜としては持っている曲ばかりでしたが、ふだん思いもかけないようなセレクトで40曲ぐらい一冊に集められているところが面白そうでした。
しかもほとんど使用感もなくきれいで、価格はなんと200円ほどだったので試しに買ってみました。

マロニエ君は自分のつまらぬこだわりがあって、この手の名曲選・名曲集のたぐいはほとんど持っていません。
欲しい楽譜を買うときは、その作曲家の普通の楽譜を買うので、たった1曲のためでも必ずその全曲譜を買うのが流儀で、そうやっていると長年のあいだに自然にあらかたのものは揃ってしまいます。

この名曲選でおもしろかったのは、いろいろな作曲家の曲が詰め合わせみたいになっていて、普段の自分からは思いつかないような曲にぽろっと出会うことができ、たまにはこういう楽譜も面白いなぁと思いました。

そこでドビュッシーですが、「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」「レントよりも遅く」とか「夢」で、今わざわざ楽譜を取り出そうとは思わないものでも、パッと目の前にあれば、自分の指でちょっと弾いてみようか…というチャンスになるんですね。

ちょっと触ってみて感じたことは、ドビュッシーというのは緻密に仕上げられたショパンなどとはまた違った考察と注意が必要で、音楽以外の幅広いセンスまで要求する作曲家だとあらためて思いました。
とりわけ音色や間の選び方には、ドビュッシー独特のものが必要。

例えば有名な「月の光」でいうと、これを弾く人は、まずこれがフランス音楽であること、しかも「月の光」というタイトルにはどこか日本人も好む静謐な世界を想起させられ、そういう雰囲気を込められた演奏が目立ちます。
とくにドビュッシーというと印象派などという言葉がちらつくのか、モネの絵のようにやけにフワフワと淡い調子で弾こうとする人がいますが、それを重視するあまり、とくに開始から10数小節までの音符の刻みが非常に曖昧となる演奏が目立ちます。

「月の光」は拍子や小節の区切りが感じにくいぶん、裏できちっと拍を守ることが求められ、しかも表向きはそれをいささかも感じさせることなくドビュッシーのニュアンスを描き出すことは、かなり難しい作品だと思いました。
そのためか、多くはリズムの歪んだ恣意的なディテールばかりが目立つ演奏が横行しています。

ピアニストでも、これを真の意味での正しい姿で、しかも微妙なニュアンスを含ませながら、最終的には楽譜など存在しないかのように弾ける人は非常に少ないのではないかと思います。

音数もさほど多いわけでもなく、やり直しの効かない確かな筆致と、あちこちに広がる空白を意味あるものとして聴かせなくてはならない至難な作品。
そうなると、ただ譜読みが得意で指がまわるだけで弾ける曲ではないということになり、ショパンのノクターンop.9-2のように、この超有名曲を真に美しく、鑑賞に堪えるように新鮮さをもって奏するのは、容易なことではないと思いました。
私見ですが、「月の光」は温かい演奏ではダメ、かといって冷たい演奏でもダメ、表情過多でもダメ、でも無表情でももちろんダメ。その間隙を抜群のセンスですり抜けるような演奏でないといけない。
腕の立つ人なら「喜びの島」でも弾いておいたほうが、よほど安全でしょう。

プロのピアニストでも、この簡単な「月の光」を聴けば、その人の音楽的な思慮、美意識、センス、性格や官能性までもが露わになってしまうような気がします。
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いやはや…

某日某所、あるピアノのコンサートに行ったのですが、その会場のピアノがあまりに冴えないもので、いまどきこういうこともあるのかとびっくりしました。

そこは多目的スペースなどではなく、プロの音楽家のための施設であるし、ピアノも世界的ブランドのコンサートグランドであるだけに、その驚きたるやいやが上にも大きなものになります。

あれではピアニストも思い通りの演奏はできなかったと思うし、聴かされる側にとっても、およそピアノの音や響きを楽しむという期待からかけ離れたものになりました。
作品の素晴らしさ、演奏の魅力、コンサート会場で生演奏につつまれる喜び、そういうなにもかもがピアノによって多くが堰き止められてしまったようで、欲求不満と不快感ばかりが募りました。

良い音楽を我々聴衆側が受け取るのは、優れた演奏はもちろん、楽器という媒介あってこそであり、そのためにはまず一定水準をもった楽器の音が聴こえてくるという基本が満たされない限り伝わりようもないし、それが阻害されるということは、それだけでかなり精神的に疲労してしまうものだというのがよくわかりました。

なによりも気の毒なのは、本番へ向けて準備をし、練習を重ね、全力を賭して当日を迎えてステージに立つピアニストであって、そのすべてを託すべきピアノに問題ありでは、なんと報われないことかと胸が痛みました。
こんなことならメーカーは何でもいいから、まともなピアノを弾かれたらずいぶん違っていただろうと思うと、ただただ気の毒というか残念でした。

休憩時間には、すぐ近くにおられた知り合いの方が「ぼくの耳がおかしいのかもしれないけれど、この会場とピアノがどうも合っていない気がする…」と言われました。
きっと、多くの人が違和感を持たれたことだろうと思います。

どういうピアノかというか、まず単純にピアノがまるで鳴らない。
音はうるおいなく痩せこけ、普通に弾いてもショボショボしているし、fやffになると音が割れて、ペチャンとした衝撃音になるだけ。
ピアノの音の美しさはもとより、本来あるべきパワーも響きもまったく失われていました。

ある人は「あそこのピアノは古い感じがした」となどといっているらしいのですが、それほど古いピアノでもなく、適切な調整と管理がされていれば十分に現役として通用する筈の、本来は立派なピアノ。
いずれにしろ、みんながなにかしら違和感を持っているようです。

休憩時間によく知る調律師さんに会ったので、思わずややトーンを落として「あのピアノ…」と言いかけたところ、その方はこちらの言いたいことを十分以上に察しておられるようで、ゆっくり頷いて、その表情が異様なほどの笑顔になりました。
あれこれの言葉より、その無言の笑顔がすべてを語っていました。

ピアノの業界も、いろんなことが渦巻くデリケートな世界というのはそれとなく知っていますが、どのような理由があるにせよ、その結果として迷惑を被っているのは演奏者であり聴衆なのですから、こんな状況はとても納得できません。
ピアノが泣いています。
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ギーゼキングのバッハ

自分でも意外でしたが、よくよく考えてみたらこれまでにギーゼキングのバッハというのは、なぜかご縁がなく聴いたことがありませんでした。
あれだけモーツァルトやラヴェル、ドビュッシーなど長年にわたって聴いてきたのに!

たまたま店頭で、ドイツグラモフォンによるギーゼキングのバッハ全集という7枚組のセットが目に止まり、「これはなに!?」ということになって直ちに購入。

平均律全曲、6つのパルティータ、フランス風序曲、2声3声のインヴェンション、そのたイタリア協奏曲や半音階的幻想曲その他で、ボーナストラックとして戦時下のライブとして有名な、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルとのシューマンのピアノ協奏曲が収められています。

録音データによると、CD7枚におよぶバッハは1950年の1月から6月にかけて放送用として収録されたもので、正式なレコードとして残されたものではないのかも。
もともとギーゼキングは譜読みが得意な人としても有名で、移動中に読んだ楽譜を到着後すぐに演奏したとか、驚くべき数の初演をしたことでも知られていますから、これぐらいのことは普通にやってのける人なのかもしれませんが、やはり凡人としては驚くばかり。

また、本当かどうかは知らないけれど、ギーゼキングという人はあまりになんでも易易と弾けるものだから、練習量もかなり少なく、録音に関してもあまり真面目さがなかったというようなことが伝えられています。

そのせいかどうかはわからないけれど、はじめに平均律第一巻を聴いたところ、あまりパッとせず、ただ弾いているだけという感じがして、バッハはあまり好きじゃなかったのかなぁ?ぐらいの印象を持ちました。
ところが途中からだんだん訴えるものが出始めて、それ以降はいかにもギーゼキングらしい、力まずサラッとした語り口の中に、ツボだけはカチッと押さえていく魅力的なものに変化して(ように感じた)、以降は終わりまでとても素晴らしい演奏で聴き終えることができました。

二度目三度目と繰り返すうちに、凄みのようなものすら感じるようになり、初めの印象は見事にひっくり返りました。
思うに、最近の演奏家はバッハの平均律などというと、この競争社会の中で録音として残す以上、出来得る限りの最高クオリティの演奏を目指し、熟考を重ね何度も録り直しなどして、まさに正装し威儀を正して写真を取るような演奏になります。

ところがこのギーゼキングときたら、ごく気軽な調子とは言わないまでも、その演奏には気負いなどというものはまるで感じられない、演奏そのものが脱力している稀有なもの。そのあまりにもサラッとした感じが、はじめ耳が慣れず、パッとしないような印象になったのだろうと思います。
で、ひとたび耳が慣れていよいよ聴こえてきたのは、アッと驚くような信じられないようなものすごい演奏で、アルゲリッチも真っ青な驚異的な指さばきと、それを一切ひけらかすことのないスマートな表現によって、めくるめくバッハの世界が際限もなく続きます。

自分ではギーゼキングはそれなりに知っているつもりのピアニストだったのが、この一連のバッハを聴いたことで改めて衝撃を受け、これほどの天才とは思いませんでした。
その人間業とも思えない音の奔流は圧巻という他はなく、しかもすべてが自然で自由自在!
すっかりハマってしまいました。

曲によって出来不出来があったり、ミスが散見されるあたり、それほど真面目に録音したものではないことが察せられ、それでもこれほどの演奏になってしまうのかと思うと、却ってその凄さが引き立ってゾクゾクっとしてしまいます。

しかも才をひけらかすでもなく、淡々と(しかし恐るべき推進力をもって)進行し、それが途方もない濃密さにあふれている。
これだけの天才がさも自然のような姿をしているという点では、モーツァルト以外にはちょっと思いつきません。

これからも長く聴いていきたいCDになりそうです。
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版より大事なもの

楽譜選びについてよく耳にすることですが、先生から❍❍版を買いなさい、ショパンなら❍❍版じゃなきゃダメというような指示を受けることが少なくないとか。
それは基本として大事なことではないと云うつもりはないけれど、もっと大切なことは、いかに有意義な練習を重ね、解釈を極め、深く美しく演奏するか、聴く人にとっても喜びとなるような演奏を目指すことではないかと思います。

楽譜って経験的にこれはダメというような粗悪品はめったにないから、普通に売っているものを普通に使うぶんには充分だというのがマロニエ君の持論です。
昔から受け継がれているものも多く、それはそれなりで、そうそう決定的に間違ったことが書いてあるわけでもなく、別に先生が言われるほどの必要性をマロニエ君は感じません。

もちろん音大生やコンクールを受けるような何かの条件下にあれば、ショパンなら使用楽譜はナショナルエディションという指定があって、それに沿った準備をしなくてはいけないでしょう。
しかし、少なくともテクニックも不足ぎみの大多数のアマチュアが、大人の余技としてピアノをやる場合、先生の役割というのはいかに演奏を通じて音楽の表情を作るか、そのためのツボや要所はどこにあるか、また陥りがちな悪いクセを正すにはどうすべきか、そういうことのほうがよほど重要だと思うのです。

どうせ楽譜を買うのに、よりオススメの版の楽譜を買うようにアドバイスするのは結構ですが、ではその先生達はどの版のどこがマズくて、オススメの版ならどういうふうにいいのか、具体的に説明できる人はどれぐらいいらっしゃるのか、それほど「わかって言ってるの?」って思うのです。

昨今は楽譜も作曲者の直筆譜や資料を検証し、そこから掘り起こしたまさに原典主義であって、それは一面において正しいことではあるけれども、個人的にはいささか行き過ぎた風潮であるとも思うし、奏者の主観や解釈の介入を否定し、プロの演奏家でさえ自己を抑えて学術的な流れに従おうという流れにも疑問を持っています。

少し前のいろいろな版には、とくにアマチュアが弾くぶんには校訂者による親切なヒントがあったり、美しい演奏として仕上げるための有効な指示が添えられていたりで、これはこれで別に悪くないと思うのです。

ところが、そこまでこだわって最新トレンドに沿った楽譜を買わせるわりには、その指導内容は杜撰で、ただ音符通りに鍵盤を押さえているだけで、せいぜい強弱の指導をするぐらい。
作品や音楽に関する言及、あるいは音楽的に奏するためのヒントや理由やテクニック指導はなく、物理的に指を動かせるようになったら「次の曲」になることがあまりに多いという現実。
指導の具体的内容を聞くと、そんなことのためにレッスン料を払って通っているのかと驚くばかりだったり…。

曲の譜読みをして練習を重ねる、ひと通りの暗譜ができる、なんとか音符通りに動くようになる、そうしたら、そこからがいよいよ音楽を深めるための入り口にようやく立つことができた段階で、一番大事なことはまさにこれからというところで「次」というのは、アマチュアを見くびっているのか、はたまたその先にある芸術領域については指導する自信がないとしか思えません。

生徒のほうもそこまで望んでいないということもあるかもしれないので、そこで先生と生徒の関係が成立しているのだったらそれでいいのかもしれないけれど、だったらなぜ版にこだわってわざわざ高額な輸入楽譜などを買わせるのか、そのあたりの意味がまったくわかりません。

青澤唯夫著の『ショパンを弾く』の中で、ホルヘ・ボレットの言葉が引用されていますが、一部を要約すると「まず楽譜を忠実に勉強して、メカニック的に完璧に弾けるようにする。二三週間後にまたレッスンをし、以前よりよく弾けていたら、一度くずかごに捨てて(つまりそれらを忘れて)、あたかも自分が書いたように演奏させる」という意味のことが述べられています。

これはあくまでも一例にすぎないけれど、いい演奏というのは、そうやって深いところにあるものを繰り返し探し求めて、自分なりの答えを見つけ出すことであって、暗譜して指を動かすだけでは決して深化はしないと思います。

マロニエ君としては、使用楽譜がいかなる版であろうとも、それをもとに仕上げのクオリティを徹底して向上させること、自分の力の範囲でこれ以上はムリというところまで極めることのほうが圧倒的に大事だと思うのです。
繰り返しますが、版がなんでもいいと言っているのではないけれど、それに値する高度な指導がなされているのか、もっと大事なことは他にあるのでは?と言いたいわけです。
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有名曲を並べると

過日のこと、友人と立ち寄った古本屋で、ショパンとジョルジュ・サンドのことを綴った1冊の本が目に止まりました。

まだ読んではいないのですが、アシュケナージとアルゲリッチによる76分におよぶCD付きで、傷みはほとんどないのに価格はわずか186円!だったので、ろくに吟味もせず買ってしまいました。

とりあえず先にCDを聴いてみることに。
曲目は、ある程度予想はしていたものの「うわあ!」と思うほど超有名曲ばかりで、大半が「雨だれ」「子犬」「革命」「幻想即興曲」といったたぐいの曲ばかりベタベタに並んだものでした。
第1曲目がワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」とくれば、およそどんなものかご理解いただけるでしょう。

ま、ほとんどタダみたいな感じのものだから、どういうものでも割りきっているつもりでしたが、聴き進むうちに思いがけない状況に陥ったことは想像外でした。

どの曲もよく知るものというか、大半は下手なりにも自分で弾いてみたことのある曲なのに、こうしておみやげ屋の店先みたいに並べられてみると、ある種独特な雰囲気が出てくると言ったらいいのか、ひとことでいうと独特の俗っぽいイヤ〜な感じに聴こえてしまい、これには参りました。

それぞれの曲のひとつひとつは素晴らしい作品であるのに、抜きん出てポピュラーというだけで脈絡もなく並べられ、手当たり次第に聴こえてくると、もうそれだけでひどく日本的な妙ちくりんな世界になるんですね。

2曲目はノクターン第2番、続いて別れの曲、幻想即興曲、さらには遺作のノクターンとなっていくあたり、なんだか皮膚の表面がむず痒くなって体中に広がっていくようです。
まるでルノワールの複製画でも飾った、レースだらけの部屋にでも通され、へんな花柄のカップで紅茶でも勧められた気分。

この調子がずっと続いて、15曲目がバルカローレで終わります。
とくに前半はアシュケナージが7曲続き、こういう場合、彼の中庸な演奏が裏目に出るのか、ほとんど安っぽいムード音楽が聴こえてくるようで、だったらいっそ本物のムード音楽ならいいのに、なまじそれがショパンであるだけに、却って始末に負えない感じになっています。

とはいえ、作品や演奏に手が加えられているわけでもなく、ただ単に曲のセレクトと並べ方によるものだけで、こんなにも印象が変わってしまうというのは「本当に驚き」でした。
世にショパン嫌いという人は少なくないけれど、マロニエ君はどうもそれが今ひとつ理解し難いところがあったのですが、仮にこういう角度から見るショパンなら、たしかに納得ではありました。

こんなCDを聴いたら、きっと多くの人がショパンを手垢まみれの通俗作曲家のように思えてしまうだろうから、かえって罪作りではないかと思います。
すくなくともあれだけの高貴かつ濃密に結晶化されたショパンの世界はわからなくなっていたように思うわけです。

ピアニスト(あるいはレコード会社)が魅力あるアルバムとしてセレクトしたショパンアルバムというのはあるし、それでとくにどうとも思わなかったのですが、それらとは明らかに似て非なるもの。
このタイプの独特な強烈さがあることを知っただけでも勉強になった気はします。

折しもこのところ、アルトゥール・モレイラ・リマ(ブラジルのピアニスト 1965年ショパンコンクール第2位)のショパンが聴いてみたくなり、むろん廃盤なのでアマゾンなどを探したところ、あるのはいずれも上記と似たような内容の「名曲集」ばかりで、今回の経験に懲りて購入意欲が失せてしまいました。

のみならず、本も読む意欲が半減していまいましたが、とりあえず読んではみるつもりです。
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プロの資格

ピアニスト中井正子著『パリの香り、夢みるピアノ』というのを読みました。
パリ音楽院に留学された経験をあれこれ綴ったもので、少女趣味的な淡いタイトルから想像するより、はるかに読み応えのあるしっかりした内容の一冊でした。

70年代の頃のパリをはじめヨーロッパの雰囲気がよく出ており、飽きることなく一気に読みました。
カサド夫人である原千恵子さんとの交流、パリ音楽院の教授陣のイヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエらによるハイレベルのレッスン、また同じクラスにロラン・エマールやロジェ・ムラロなどがいたというのも驚きでした。

その中で印象に残ったもののひとつとして、中井さんがパリでとあるサロンコンサートを終えた時、その場にいた原千恵子さんがお客さんに向かって「どうだった?」と問いかけたというくだり。
原千恵子さん曰く「演奏家っていうのはね、人がどう思ったかを知らなくちゃいけないのよ。その人がちゃんと演奏を聞けているかどうか、正しいか正しくないかは関係ないの。自分が弾いたものに対して相手がどう思ったか知っておきなさい」と言われたとありました。

これは原千恵子さんが長年ヨーロッパで暮らし、夫のカサド氏から鍛えられ、そのような文化の真っ只中におられたからこそ身についたことだと思いますが、マロニエ君の知るかぎりでも、ヨーロッパ人はちょっとしたものから料理、日常の諸々のことまで、「あなたはどう思う?」「あなたは何が好き?」と意見を求めてくることがとても多いし、自分の意見を語るのが当たり前。

その真逆が日本人。
考えがあっても、感じることがあっても、意見を言いたくても、空気を読んで口をつぐむことが慎ましさであり美徳で、今ではそれが大人の常識として浸透してしまっているその感覚。
自分の意見は言わない、言える環境がない、言ったら浮いた存在になる、これは日本生まれ日本育ちの日本人であるマロニエ君から見ても違和感があり、ほとんど病的な感じがします。

そんな社会の延長線上にあるのだろうとは思うけれど、それは思わぬところにまで波及しています。
それはいうまでもなく、プロの分野。
ここでも、個人の意見や感想は、その暗黙の空気感によって見事に封殺され、それらは口にしないことが当然で、演奏家に対しても本音は隠して、「素晴らしかった」などヘラヘラと表面的な賛辞を挨拶として述べるのみ。

少なくともプロの芸術家の端くれともなれば、自分の作品やパフォーマンスに対する意見を聞きたいと思うのは当然というか、文化に携わる者はそれを欲することがほとんど「本能」の筈だと思うのですが、それが日本ではそうじゃないことに、いまだに驚きます。
かつて、日本人の演奏家から「どうでしたか?」という質問をされり「あなたの意見を聞かせてほしい」といった言葉を聞いたことは一度もありません。
これって、実はめちゃめちゃおかしいことではないですか?

いやしくもプロとしてステージで演奏するというパフォーマンスをやっておきながら、聴いた人にまったく意見を求めない、むしろ聞きたくないという気配があり、非常に歪んだ感覚で、これは異常なことだと断じざるを得ません。

そもそも感想というのはただの賞賛でも批判でもなく、どういうふうに受け止められたかということでもあるし、自分の演奏上の長所短所を知ることにも繋がります。いわば自分の演奏に関する重要な情報源です。

そこに耳を貸そうともせず、興味もなく、むしろフタをしようというのであれば、そもそもなんのために人前で演奏行為に及ぶのか、その根本がわからなくなります。
ただ、目立ちたいだけ?自慢?実績作り?

音楽が間違いなく行き詰まりを見せていることはいろいろな理由があるでしょうが、ひとつにはこのような演奏家自身の閉塞状況、真に良い演奏を目指し、音楽ファンを楽しませようという本気がないことも大きいように思います。
日本の演奏家は、意見を言われるのはイヤ。でもステージに立って賞賛はだけはされたいという、甚だ身勝手で一方的な欲求をもっているのは間違いありません。

これでは本物の演奏家など育つわけがありません。
アマチュアの発表会ならお義理の拍手だけで終わって構いませんが、プロの演奏家はもっと自分の演奏に責任をもつべきで、その責任をもつということは、もちろん良い演奏をすることではあるけれど、聴いた人の忌憚のない感想を求めなければ責任を果たしたとはいえない気がします。

聴いた人がどう感じたか、良くても悪くても、気にならないのかと思いますし、それが聞きたくないほど嫌ならば人前で演奏なんてする資格はないと思います。
それでは今どきの、親から一度も怒られたことのない子どもと同じで、聴いた人の意見を受け付けないプロは、プロではないということです。
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イケメン◯◯

昔は「美人何々」というのがよくあったけれど、最近ではどんなジャンルにも「イケメン何々」のオンパレード。

社会の建前として、人の容姿を問題にすることに対する賛否はあるでしょうが、現実には人の心の中では、それはかなり重要な要因となることは間違いないこと。
直接的なイケメンとは違うけれど、例えばその代表は総理大臣。

政治手腕や思想や、しっかりした能力がなくてはむろん困るし、リーダーとしての人間的魅力も必要ですが、要は国の顔であり、国際社会で世界の目にさらされて仕事をするのですから、やはりビジュアルというのは大事です。
誰とは言いませんが、過去の日本の総理には、サミットに行ったり外国の首脳と並ぶだけでも恥ずかしくなるような(それだけで負けたような気になる)人が、少なくともマロニエ君の記憶でも何人もおられたので、まずその点では、安倍さんはそういう気持ちにならずにすむのはありがたい。

ただ、一般社会のいろいろな分野の、本当にどうでもいいような場合にまで、いちいちイケメン何々というのはなんなのか…と思ってしまうのも事実。
もちろん見てくれがよく魅力的であるならそれに越したことはないけれど、それも場合によりけりで、本業に直接関わりのない場合に、むやみにこれをつけるのはいかがなものかと思うことがあります。

ことろで、イケメンってなんのこと?おもに顔?それとも醸し出す雰囲気を含むトータルなもの?
マロニエ君にいわせれば、男子の場合、そこには体格もあるのではないかと思います。
どんなに立派なお顔でも、肩幅の狭い貧相なボディに大きな頭部がドカンと乗っていたのでは、あまりイケメンとは言い難い気も。
大谷選手がアメリカに行っても目を引くのは、むろんその天才的な戦力故であるのはもちろんだけれども、加えてあの日本人離れしたのびのびした体格は見るたびに感心させられ、あれを見ると一瞬でも日本人の体格コンプレックスを忘れていられるところが嬉しいです。

ところで、マロニエ君のような昭和生まれの人間から見れば、今どきのイケメンの基準というものが理解不能である場合が少なくなく、そもそもその判断は少し甘すぎやしないか、いくらなんでもおかしいんじゃないかと思うことがしばしばです。

美人の基準も源氏物語のころからすれば全然違っているらしいから、人の美醜に関するものさしは時代とともに変化して、イケメンの基準もここ数十年でかなり違ってきているのかもしれません。

それはともかく、クラシックの演奏家にいちいちそれをくっつけるのはどうなんでしょう?
不況にあえぐ音楽事務所やレコード会社が、少しでもプラスの特徴になることをアピールしたいのだとすれば、まあそこはビジネスなんだからわからなくもないけれど、でもやっぱりこの分野は演奏こそが第一であって、そこに注目のポイントがあると思うのです。
ではまったくビジュアルが無関係かといえば、それはそうではなく、演奏の素晴らしさを納得させるだけの存在感とか芸術的な雰囲気みたいなものは必要だろうと思います。
強いていうなら、オーラのようなものとでも言えばいいんでしょうか。

少なくともクラシックの演奏家に対して芸能人の延長線上的なノリで、やたらとイケメンの文字が踊るのはちょっといただけません。
少し前に書いた、ピアニストの実川風さんも「イケメンピアニスト」として紹介されましたが、たしかにこの方はそう言われても違和感はなく、いちおう納得ができました。

でも、それ以外でイケメンと言われて、え、どこが?とびっくりするような人だったり、痩せこけた不気味な植物のようだったりと、基準そのものに唖然とすることが少なくありません。

ただ、これだけははっきり言っておきたいことは、美人バイオリスニストだのイケメンピアニストだのということは、却って彼らの足を引っ張ることになりはしないかと思います。
かのアルゲリッチのような美人でさえ、美人ピアニストなどという言葉で売りだしたわけではなく、ごく若いころに「鍵盤のカラス」といわれたぐらいで、あとはあの美貌で語られることはなく、本物の天才は、美人でも美人とは言われなくて済むものだというのがわかります。
逆にちょっとぐらい容姿が良くても、それをプラス要素として強調されているうちは、演奏家として中途半端だということでしょう。
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お寺とピアノ

日本のお寺や神社で行われるクラシックコンサートは、否定しているわけではないけれど、あくまでも個人的な感覚から言わせてもらうとあまり好みではないことは以前何度か書きました。

今は何事も物珍しさや耳目を集めることが優先され、異なるジャンルを組み合わせるコラボがブームのようですが、お寺で西洋音楽のコンサートというのもそういった発想に基づくものが発祥ではないかと思います。
大半が仏教や神道である日本人が、何の抵抗もなくクリスマスやハロウィンを楽しむという世界的に見れば変わったお国柄なので、その許容量からすればこれしきのこと朝飯前なのかもしれませんが…。

ただ、西洋のクラシック音楽というものが、根っこにキリスト教が通底していることを思うと、マロニエ君としてはそれを仏教や神道の施設内で演奏してその音楽を鳴り響かせることが、理屈ではなしに抵抗があるわけです。
そもそもお寺や神社でクラシック音楽を聴いたからといって、そのどこが素晴らしいのかが素朴にわからない。
異なる文化の融合であるとか、なにかひとつでも感覚に落ちるところがあればまだしも、ひたすら違和感しか感じないのです。

それぞれが素晴らしいからといって、異質なものを安易に組み合わせることは、下手をすればどこか冒涜的な色あいを帯びる恐れさえあり、個人的には関係者だけの自己満足ではないかと思うのです。

それにつらなる話かどうかはわからないけれど、知人がとある大型ピアノ店に行ったときに聞いてきた話によると、中古のスタインウェイのコンサートグランドを購入するのは、宗教関連が少なくないのだとか。

それってどういうこと?って思いました。
お寺の本堂にスタインウェイDを置くのか、あるいは宗教家の個人的趣味なのか…。

それを解明する手がかりになるかどうかわからないけれども、お寺とピアノの組み合わせを偶然にもテレビで目にしたので、うわぁ!と思わず食い入るように見てしまいました。

某所の由緒ある由のお寺には、高台に付設された広い墓所があり、その管理室という建物に入って行くと浴室に温泉がひかれていたりするほか、そこには総檜造りというホールがあって、そのステージにはスタインウェイDとベーゼンドルファーが置かれていていました。

ここをドヤドヤと訪ねて行ったのは、名前は知りませんがテレビで顔を見たことのある4〜5人のお笑いタレントの一団で、彼らを迎えるご住職がえらく気さくで、芸人さんたちに調子を合わせながらピアノに近づき「これはドイツのスタインウェイというピアノです!」と言い出し、「プロが使うものです」さらには「これで家が一軒建ちます」などと自慢しながら、慣れない手つきで蓋を開けて、大屋根の支え棒の刺し場所もおぼつかないご様子。

もちろん安いものではないでしょうけれども、剃髪して、いちいち合掌のしぐさをする和尚さんが口にする言葉としては「家が一軒建つ」などとは大げさだし、いささか世俗臭が強すぎではないかという感じが否めませんでした。

そのピアノは1960〜1970年代のダブルキャスターになる以前の時代のもの。
塗装は新品のように塗り替えられており、その際に入れられたのか、当時のスタインウェイにはない大きなサイドロゴがついているのがいかにもな感じだし、しかもかなりまちがった低い位置に付いていて、それが却って中古ピアノといった感じを強調する結果となり、非常に「残念な感じ」に映りました。

さらにタレントさんのひとりが音を出してみて「うわー」とか言っていたけど、くたびれた弦が交換されていないのか明らかに伸びのない音で、要するに世界の二大銘器がおかれているという、ブランド性こそが大事なのかもしれません。

この墓所の横のホールでは、しばしば演奏家を招いてコンサートが開催され、その収益を貯めて某基金に寄付しているとのこと。
その際の「僅かばかりですが」という言葉が妙に意味深で、コンサートの収益そのものが僅かなのか、あるいはその中から本当に僅かばかりを寄付というのことなのか、どっちにも取れる言い方だったのが苦笑を誘いました。

結構立派なホールでしたが、もしあそこでバッハの宗教音楽なんかやろうとしたら、OKが出るんだろうか?
一流ピアノにも、実にさまざまな生涯があるんだなぁと思いました。
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本物は気持ちイイ

音楽評論はじめ、音楽関係の著述家の中にはマロニエ君がとくに好んでいる人は何人かいらっしゃいますが、そのうちの一人が青柳いづみこさん。
いまさらいうまでもなく、ピアニストと文筆業という二足のわらじを実現しておられ、しかもそれぞれにおいて高いレベルのお仕事を積み上げておられるのですから、その才には驚くばかり。

普通ならどちらか一つでもなかなか難しいことなのに、それを二つも成就させるとは!
二つの道に手を出すことは、どっちつかずになる恐れがあるいっぽう、うまく組み合わされば相乗作用が起こって、より注目を集めるということも稀にあるということが、この青柳さんの成功を見ているとわかります。

さらに青柳さんはドビュッシー研究者としても知られており、何かひとつのスペシャリストになるということは、活動の大きな背骨になるから大切なんでしょうね。
マロニエ君も青柳さんの著作は全部とは言わないまでも、それに近いぐらいはだいたいは読んでいますが、ドビュッシー研究で培われたものが随所で役立っていることを強く感じます。

研究対象であるだけに、ドビュッシーに関する造詣の深さは大変なものだし、自身がピアニストである強味から、ピアニストに関するいろいろな評論は、いま日本人でこれだけ緻密な分析力を持ち、闊達な文章に表現できる人はそうはいないだろうと思われます。
演奏と著述、そのどちらも大変素晴らしいものではあるけれど、マロニエ君の私見でいうと、著述のほうがより格上のお仕事となっているように思います。

CDも書作と同じく「全部」ではないけれど、ほぼ主要なものは購入して聴いています。
とくにドビュッシーについては青柳さんにとって半ば義務でもあるのか、ソロ・ピアノ曲はほぼ網羅されていますが、CDの演奏に関する限り、どれも信頼度が高く素敵な演奏だけれども、決定盤といえるほどの最上クラスというわけでもなく、どちらかというと曲によってムラがあるような印象があります。

一番びっくりしたのは「浮遊するワルツ」というアルバムに収められたショパンのワルツのいくつかで、これはまったくマロニエ君の理解の外にあるもので、ショパンのある意味本場であるパリのセンスからも距離を感じるもの。
とはいえ、適当にお茶を濁したような無難なだけの演奏をされるより、自分の趣味と合わなくても、びっくりさせられても、演奏者自身の感性と考えに裏付けられたものであるほうがよほどマシというもの。
合わないものは合わない、そのかわり抜群にいいものにも出会える、これが演奏芸術の醍醐味でしょう。

さて、わりに最近ですが、NHKの『らららクラシック』でドビュッシーの「子供の領分」が取り上げられたときに、ゲスト解説者兼演奏者としてスタジオにやってきたのが、この青柳いづみこさんでした。
番組の趣旨に合わせて、あまり専門性の高い解説ではなく、わかりやすく平明なお話をされていましたが、どんなに砕いて楽しくお話されても、その背後には確固たる知識と研究の裏付けがあって、当たり前ですがさすがだと思いました。

常連解説者として、よく大衆作曲家のような人(名前も覚えていません)が出てきては、やたら馴れ馴れしい口調で、さっき思いついたような根拠も疑わしい俗っぽい解説を、さも知ったような顔で述べたり、あるときはモーツァルトと自分をただ「作曲家」という言葉だけで、まるで同列のような言い方をするなど、見ているほうがいたたまれないような気持ちになることがしばしばだったこともあり、たまに青柳さんのような本物の方が出演されると、一気に番組の格も上がり、気持ちまでホッとさせられます。

子供の領分の最終曲の「ゴリウォークのケークウォーク」の中に、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲の冒頭の動機が込められており、しかもそれを茶化しているなんてことは、言われるまでまったく気づきもしないことでした。

番組の終わり近くで、スタジオのピアノでゴリウォークのケークウォークを通して弾かれましたが、少しだけリズムにクセなのか崩れなのか、細かいところまではわからないけれども、聴いていて僅かな違和感があって、それがやや首を傾げました。
おそらくフランス流にデフォルメされた、流れるような演奏を狙っておられるのだろうとは思うけれど、どこか辻褄の合っていないような後味が残るのが気になりました。
それでも、物事を極める人というのは本質的に気持ちが良いものです。
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小菅優

久しぶりにピアノリサイタルに出かけました。
小菅優ピアノリサイタルで「火」をテーマにした珍しいプログラムでした。

マロニエ君がコンサートに行かなくなった主な理由はいくつかありますが、その中には、ニュアンスなどまるで伝わらない劣悪なホールの音響、聴いてみたいと素直に思えるような演奏家の激減、さらには飽き飽きするようなプログラムはもういいというようなものも含まれています。

その点で、小菅さんは実演には接したことがないものの、ちょっと聴いてみたいと思わせるものがあったことと、FFGホールという福岡ではピアノリサイタルには最も適した会場であったこと、さらにはめったにないレーガーやストラヴィンスキーのプログラムであることでした。

コンサートは3部に分かれており、
【第1部】
チャイコフスキー:《四季》より1月「炉ばたにて」
レーガー:《暖炉のそばでみる夢》より、第3、5、7、10、12番
リスト(シュタルク編):プロメテウス
【第2部】
ドビュッシー:燃える炭火に照らされた夕べ、前奏曲集第2巻より「花火」
スクリャービン:悪魔的詩曲、詩曲「炎に向かって」
【第3部】
ファリャ:《恋は魔術師》より、きつね火の踊り、火祭の踊り
ストラヴィンスキー:バレエ《火の鳥》より6曲

小菅さんの素晴らしいところは、今どき巷にあふれているスタイル、すなわち他者の演奏スタイルの寄せ集めではなしに、あくまでもこの人の感性を通して出てくる演奏の実体があり、その意味でニセモノではない点。
これは冒頭のチャイコフスキーを聴いただけでもすぐに感じました。

くわえて抜群のリズム感とメリハリにあふれ、音楽を自分の技巧その他の理由によって停滞させることがなく、どの作品もひとつの生命体と捉えて一気呵成に弾き進んでいくところでしょうか。
それはそのあとの難曲でも遺憾なく発揮されるこのピアニストの美点でした。

どの曲においても解釈やアーティキュレーションに確信があり、恐れなくピアノに向かっているからこそ可能な燃焼感があるのが印象的で素晴らしい。
中途半端な解釈を繋ぎ合わせて、辻褄あわせや言い訳だらけのつまらないピアニストが多い中、この点は抜きん出た存在だと思います。
さらには技巧の点でも危なげない指さばきで、この日のようなしんどいプログラムでもほとんど乱れることなく、一貫してホットに弾き通せる抜群の能力があることはしっかりと確認できました。

並大抵ではない高い能力をお持ちのピアニストであることは間違いありません。

気になった点を敢えていうと、終始音楽に没入して活き活きと演奏されているけれど、悲しいかな音に重みと芯がない。
緊張感あふれる際立ったリズム感、それを支える身体の動きなどは、ほとんどアスリートに近いような抜群の運動神経があり、敏捷な小動物のように両腕と指が自在に鍵盤上を駆け巡るさまは特筆すべきものがあると思いました。
けれども、いくら小気味良く駆けまわっても音に芯がないから、音が分離して聴こえてこないことがしばしばで、せっかくリズムや呼吸がすばらしいのに明晰さが損なわれ、音楽がしっかり刻印されないまま終わってしまうのを感じました。
巻き舌の多すぎる、アメリカ人の早口の話し方のように。

小菅さんの音に関しては、小柄ながらもしっかりした体格や、ピアノのためには充分と思えるだけの肉のついた腕からすれば、意外なほどその音には期待するだけの厚みがないのは、おそらくは手が小さいことと、手首から先の骨格が柔らかすぎるのではないかと想像しました。
手首から先の(すなわち指の)関節が柔らかいと、それが無用のクッションになって、いざというときにしっかりした音の出ないピアニストはわりに最近目立ち、ラン・ランやユジャ・ワンなどもどちらかというとそのタイプだろうと思われます。

それにしても、あれだけ耳慣れない、しかも難曲ばかりをきっちりと仕上げて、暗譜でリサイタルで弾くというのは並大抵のことではない、その能力には素直に脱帽です。

惜しいのは、けっして表現は決して小さくないのに、それが聴衆にとって大きな印象へと繋がっていないところで、なぜか心に刺さりません。
堂々たる小動物とでも言えばいいのか、あとひとつふたつの問題がクリアできたら、もっと大きな存在になられるような気がしてなりませんでした。
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テンポ

テンポというものは、なにも音楽だけのものではないのは当たり前で、話し方や、行動、思考回路などすべての人間の行動原理と深く結びついているもの。

それがわかりやすく出るのが、まず話し方、あるいは仕事や作業の手順、料理の手際とか車の運転のような気がします。
さすがにマロニエ君も最近の運転は、無謀な動きの自転車など路上に怖いものがあまりに多すぎて、以前よりはぐんとスピードが落ちましたが、それでもメリハリみたいなものがないと気が済まない部分があります。

たとえばスピードには本能に直に訴えてくる魅力があり、決して暴走行為的な意味ではなく、ドライビングがもたらす痛快さにずいぶん楽しんだ時期がありました。
車に興味のない人や運転が好きではない人は、そう急がなくても何分も変わりはしないといったことを言われますが、べつに急いでいるのではなく、爽快なスピードや機敏な動きで車を操ることを楽しんでいるわけで、これはある意味で音楽と相通ずる本質を有しているように思います。

音楽にも和声の法則や導音といったものがあるように、車の動きにも「こうなったら、必ずこうなる」という法則やシーンはいくらでもあるのですが、最近の道路環境ではどうもそういうことが崩壊しつつあるように思います。
狭い道で離合する際は、その場の状況に応じて、どちらがどう動くのが最も合理的かを互いにすぐ了解しあうとか、二車線あって、前にのろのろ走る車があれば、流れの良いレーンに車線変更するのは、マロニエ君にすれば音階でシになればどうしてもドに行き着くのと同じ意味を持っていますが、そういう感覚のまったく無いらしいドライバーがここ最近かなり増えました。

あまりに周囲から浮いたような交通状況に無頓着な動きで、よほど運転に不慣れな高齢者などかと思いきや、追い抜きざまにチラッと見るとやたら若い男性が真面目な顔で運転していたりしてエエエ!と驚くことがありますが、さすがに最近はそのタイプにもだんだん慣れてはきました。

いっぽう、若い人の演奏で、テンポ感や呼吸感、センシティブな反応の欠如を感じるのは、根底にあるものがきっとこういう無反応な運転をするのと同じでは?と感じることがしばしばあります。
演奏技術は文句なく素晴らしいのに、冒険もはみ出しもなく、借り物のような表情をつけるだけで、まるで語りになっていないのは、やはり感覚や本能から湧き出るものが欠けるせいなのか。

世の中はスピード社会などというけれど、逆にやけにのんびりした人が多いのもマロニエ君にしてみれば不思議です。
やたらとスローテンポで、ひとことするのにかなり時間がかかったりするパターンも少なくない。

同時に、マロニエ君は自分ではせっかちな面があるというのも認識するところ。

メールの返信など、人によっては間に何日も置いて、忘れたころにいただくことがありますが、こういうテンポ感が苦手で、べつに急ぐ内容ではなし、むろん相手が悪いわけでは決してないのですが、自分との波長が噛み合わず、無用のストレスを感じてしまったりはしょっちゅうです。

たとえば、今度会いましょうとか食事しようとなった時も、マロニエ君はできることならすぐに日にちを決めてしまいたいし、それも基本なるべく早い時期が好ましいのですが、これがまたやたらと気の長い人がいらっしゃいます。
もちろんお互いの都合にもよるけれど、人によっては「今月は忙しいので来月の…」とか、ただちょっと食事でもしましょうというだけなのにひと月も先の予定にされる人がいて、そういうとき内心ではもうすっかり意欲が失せて、じゃいいです!と言えるものなら言いたい、そんな性格だったり。

物事には気分的にも鮮度の落ちない、ほどほどのタイミングってものがあり、昔のほうが「鉄は熱いうちに打て」だの「善は急げ」だのと、キビキビしたテンポを大事にする風潮がありましたが、今はちょっとした約束ひとつするにも、なんだか手続きがややこしくて、言葉ひとつにも妙に注意して譲り合わなくてはならず、こうなると当然ノリが悪くなってしまうのは否めません。

なので、たまに時代劇などで、江戸っ子の意味もなく短気で、毒舌で、年中青筋立てて怒っているような、ほとんど感性だけで生きているような人がいますが、その滑稽な中にもどこか懐かしさや共感を覚えてしまいます。
もうすこし生き生きできたら、世の中もずいぶん楽しいものになるだろうにという気がします。
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似合いの音

音楽評論家の故・宇野功芳氏が、著書『クラシックの聴き方』の中での山﨑浩太郎氏との対談で、バレンボイムのベートーヴェン交響曲全集について触れておられました。
「すごく褒める人もいるが、僕は全然買わない。」としていて、さらに「とくに何があるかというと何もないし、響き自体が汚い。意味がない。」と手厳しく続きます。
オケはベルリン・シュターツカペレですが、山崎氏も批判的で、要約すると「シカゴ響のような機能性の高いオケを使わず、響きを整えられないシュターツカペレのような雑然とした響きがベートヴェン的だとバレンボイムは考えている気がする。様式の模倣に過ぎず安易」というようなことを言っておられます。

とくに宇野氏の主張は、バレンボイムのピアノにもそっくりそのまま当てはまることで、マロニエ君は昔からなぜ彼があのように一定の評価を得て、第一線の演奏家として生きながらえていられるのかがまったくわかりませんでした。
お好きな方には申し訳ないけれども、何もない、響き(音)が汚い、意味がない、はピアノでもまったく同様。

上記の交響曲全集は、バレンボイムの価値がわからないマロニエ君としては、指揮なら多少マシなのか?と思って、ずいぶん前に買ってみたようなあまりはっきりしない記憶があったので、CD棚を探してみるとやはり「あった」ので、我ながらずいぶん奇特な買い物をしたもんだと呆れながら、はてさてどんなものか恐る恐るプレーヤーに入れてみました。
全部を聴く気は到底ないので、とりあえず「英雄」を鳴らしてみると、宇野氏の言われる以上にまったく真摯な姿勢の感じられない、作品の表面だけをなぞったような、やる気あるの?これを褒める人がいるの?と思うような腑抜けな演奏に仰天。
神経にもあまりよくないので、第一楽章の途中でやめてしまい、CDは再び棚の奥深くへと戻しました。

ただし、この対談の言葉の中に、ちょっと気になるものがあったのも事実。
それは「雑然とした響きがベートヴェン的…」というもので、この対談では、それがバレンボイムの選択の誤りとして述べられてはいたものの、マロニエ君としては「場合によりけりだけど、それはあるかも」という思いが頭をよぎりました。

ピアノの場合、現代の整った美音のスタインウェイで奏されるベートーヴェンは、その音楽の内容とか特有の書法に対して、あまりに整然としたスマートなトーンすぎて、なにか物足りないものが残ることも個人的には感じていました。
かといって、バックハウスのようにベーゼンドルファーを使えばいいのかといえば、そうとも思わない。
グルダは昔はベーゼンドルファーでよくベートーヴェンを弾いていたようだけれど、録音ではスタインウェイだし、シフは全集の中で曲に応じてスタインウェイとベーゼンを使い分けているし、敢えてベヒシュタインを使うピアニストもちらほらいる。

そこでふと思い出したのが、オーストラリア(オーストリアではない!)の手作りピアノメーカー、スチュアート&サンズを使ったベートーヴェンのピアノソナタ/協奏曲全集。
演奏はジェラルド・ウィレムス(ジェラール・ウィレム?)で、非常に正統的な安定した演奏ですが、注目すべきはその音色です。

久々に聴いてみたら、むろん演奏にもよるだろうけれども、概してベートーヴェンにはこういうオーガニック野菜みたいな音のほうが単純にサマになると思いました。
一聴したところはドイツピアノのような感じが色濃く、個人的な印象としては、ブリュートナーとベーゼンドルファーを合わせたような感じで、基本的には木の音がするけれど、ほわんと柔らかい音ではなく、むしろエッジの効いた鋭く切り込む感じのピアノ。
さらには、ほどよく野暮ったさが感じられる音で、都会的なスタインウェイはじめ、今どきのヤマハやファツィオリとは真逆の、自然派ピアノとでも呼びたくなる音です。

あまりに整った美音ずくしで奏でられるベートーヴェンには、どこか落ち着かないフォーマルウェアで締めつけられたようなよそよそしさがあるけれど、スチュアート&サンズで弾かれるとそういう違和感がなく、より自然にベートーヴェンの世界に入っていける心地よさがありました。

やはり人それぞれ似合いの服や家や車があるように、似合いの音というのがあるんだなぁと感じたしだい。
それにしても、バレンボイムっていったいなんだろう?

ちなみにスチュアート&サンズ(Stuart&Sons)はたしか97鍵で奥行きも290cmぐらいある手作りで木目の大型ピアノで、マロニエ君は昔、結構苦労してこのCDを手に入れましたが、今はYouTubeなどでも音を聴くことが可能になりましたので、よろしかったらどうぞ。
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楽器か道具か

ピアノは本当に素晴らしいものなのに、我々のまわりには、とかく驚くような、ピアノの素晴らしさを蹂躙するような話がたくさん転がっているのはどういうわけでしょう。

ちなみにここに取り上げるのは、主にピアノを弾く事に関する人達であって、技術者は含みません。
つまり演奏者と指導者、さらにはそれに連なる学習者ということになるでしょうか。

今回言いたい驚きの中心テーマは、自分が弾く楽器に対する異常なまでの愛のなさです。
むろん、今どきのテレビ風の言い訳をしておくなら、中にはそうではない人ももちろんおられることは言うまでもないけれど、もっぱら大多数の人、すなわち圧倒的主流派のお話です。
みなさん楽器を楽器とも思わず、管理らしい管理もせず、ぞんざいに弾きまくり酷使しまくって、それが当たり前のように平然としている人がほとんどです。

さらに驚くべきは、ピアニストや教師の中には、過去に自分は何台のピアノを弾きつぶしたなどということを得意げに語る人もいて、それのどこがエライのか?と思わざるを得ません。
ピアノという大きくて強いものを、自分はねじ伏せた、勝利した、というような気分なのか。
これはもう立派な武勇伝であり、名うての剣士が、打ち倒した敵の数を自慢しているようで、その人達にとってはもはやピアノは戦うべき敵なのかもしれません。

ピアノという楽器が、大半が孤独な鍛錬に時を費やし、技術習得の困難な楽器であるために生まれた歪んだ現象のようにも思えます。

ほかにも原因はいろいろ考えられます。
いつもいうことですが、ピアノはあの大きさと重量ゆえに持ち歩きができず、「そこにあるピアノ」をいやでも弾かなくてはならないから、どんなものでも不服に思わず弾くことを要求されるもの。

ただ、そうだとしても、だから自分の楽器はどうでもいいということにはならないのが普通だろうと思います。
自分の楽器へのこだわりと愛で培われたものが、別のピアノでの演奏においても必ず役立てられるはずで、愛がなければ、その他のさまざまな感情も表現も実を結ばない。

もうひとつ大きな原因だと思うのは、海外のことは知らないから日本国内に限っていうと、日本の大量生産ピアノが及ぼした影響。
どんなに製品として優秀で、どれほど信頼性が高くても、しょせんは機械や道具としての存在価値しか示さず、徹底して無表情なピアノに愛が生まれないのも当然といえば当然。
多くの楽器が発する「ともに歌う音楽の相棒」という擬人化の余地がないばかりか、ときにふてぶてしく憎らしく見えたりと、とうてい愛情を注ぐ対象にならないこと。

せいぜいが、それにまつわる過去の出来事や家族のことなど、思い出が彩りをくわえているだけで、そこにピアノがたまたまあったというだけ。これは、そのピアノそのものに対する愛情とは似て非なるもので、単なる思い出の小道具にすぎない。

かくいうマロニエ君にも、そういう人を非難する資格もない過去があります。
幼稚園のころから弾いたピアノは、中学生のときに一度買い換えたので、成人するまでに2台のピアノと付き合い、それはいずれもヤマハでしたが、たしかに自分のピアノに対しての愛着は自分でも驚くほどありませんでした。
次のピアノに買い換える際も、手許に残しておきたいというような気持ちは皆無で、下取りで運びだされたときはせいせいするようでしたから、車でも長く乗ると古女房みたいになってくるのに、これってなんだろうと思います。

先日も知人から間接的に聞いた話が深いため息を誘いました。

ひとりは若いピアニストで、某サロンで小さなソロコンサートがありお付き合いで行ったそうですが、その人にどんなピアノが好きかと尋ねたところ、「ピアノにはまったく興味がなく、どんなピアノでも構わない」と即答されたというのですから唖然です。
ピアニストは弾くことに忙しく、ピアノの好みなんて言ってるヒマはないよというポーズなのか、なにかの強がりなのか諦めなのか、真意は図りかねますが、なんだかやりきれない気分になってしまいます。

またあるピアノ弾きの方は、ドイツ製のヴィンテージピアノ(とても状態のいい、現役としても十分使用可能な素晴らしい楽器)を前に、ろくに弾きもせぬまま「趣味ならいいけれど、自分が弾けばたちまち壊れてしまうだろう」というコメントを残して行かれたとか。
その方は日本製の頑丈が自慢のピアノをお使いだそうですが、格闘技ではあるまいし、苦笑しか出ませんでした。
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演奏の意味

テレビ場組『恋するクラシック』でピアニストの実川風(じつかわかおる)さんがゲスト出演され、実はマロニエ君はこの方をこのとき初めて知りました。
この番組じたいが演奏をじっくり聴かせるものではないので、いつも演奏はかなり制約を受けたものになります。

このときは、ショパンの子犬のワルツとベートーヴェンのワルトシュタインの第1楽章が、スタジオのピアノで演奏されましたが、子犬はこれといって特徴のない、いかにも今どきの演奏。
ワルトシュタインは、それに比べると遥かにこの人の演奏の特徴をキャッチ出来るだけの分量と要素が見られました。
今どきの若い人の中では、ところどころにメリハリはあるし、ベートーヴェンらしい強弱もちょっとあるところは、まずはじめに感じたこと。

しかし、やはりこの世代の特徴も多く見受けられ、自分の解釈や感性を問うことより、ミスなく型通りに弾くことに演奏エネルギーの中心が置かれ、個性と呼べるまでに至っている何かはほとんど感じられませんでした。
ああまたか…と思うのは、音楽が演奏を通じて呼吸をしておらず、なにか指先の細工仕事のように曲が進み、常にせかせかした気分にさせられる点。

どんなにスピードのある演奏でも、そこに作品上の意味と高揚感が伴わなくては意味がなく、自分だけ突っ走る自転車みたいでは、ただはやく目的地に到達することだけが目的のようにしか聞こえません。
聴く側はその途中に繰り広げられる、さまざまな出来事や景色のうつりかわりを、演奏者の解釈やテンペラメントやセンスで見せてほしいもの。
こういう無機質なスタイルがなぜこれほどまでに若い人の間(というか指導者を含めて)に浸透してしまったのか、コンクール世代の後遺症なのか、情報浸けの副作用なのか、理由はともかく、せっかくの演奏能力をもっと有効に使ってほしいものだと思うし、実際なぜそうしないのか不思議です。

その対極の頂にいるのが、たとえば内田光子で、その一音足りともゆるがせにしない姿勢、品格、説得力、音楽の鼓動、そういう真に芸術たりうる演奏。こういう探求の道のあることをもっともっと深いところまで考えてほしいもんだと思います。

それでも、若いピアニストが続々と出てくるのは驚くべきことではあるけれど、どこかよく出来た大量生産のピアノのようで、音楽家としての熟成が足りないということを感じるばかり。
少なくとも、顔や名前より先に、その演奏が記憶に残るような人が出てきてほしいし、その演奏を継続して聴くため、顔と名前を覚えようとする、そういう順序であってほしいもの。

いま言っていることは、べつに実川さんだけのことではないのは言うまでもなく、彼はむしろ同世代の中ではまだ音楽的実感をもっているほうだとは思いますが、それでもまだまだ足りない。

演奏中のテロップには、今後はベートーヴェンのソナタ全曲を録音したいというようなことが文字で流れましたが(いくら時代が変わったとはいっても)ちょっとそれは口にするのが早過ぎるのではないかというのが率直なところ。

昔はベートーヴェンのソナタ全集を録音するということは、ピアニストとしてはかなり大それたことで、誰にでも許されることではなかった。
むろん技術的に弾けるかどうかの問題ではなく、作品に込められた内容を表現でき得るかどうかという、芸術家としての成熟や適性を厳しく問われました。
今では信じられないことですが、中期以降のソナタなど、そもそも女性が弾くものではないというような考えさえあって──中にはエリー・ナイのような人もいたけれど──概してそういった空気があった(それがいいとも正しいともマロニエ君はもちろん思わないけれど)という歴史的背景があったということぐらいは頭の隅に留め置いていいことだとは思います。

指揮者の世界も同様で、むかしのドイツでは中堅ぐらいの指揮者になっても、ベートーヴェンを振るチャンスなどめったになく、とりわけ第九などは一生振る機会などないと思っていたところ、日本からの招聘など外国から第九を依頼されると、本人が感激に震えたというような話も聞いた覚えがあります。

これらはいささか権威が大手を振りすぎている時代の空気のようにも思えますが、ベートーヴェンというものはそれだけ高く聳える山だということに充分な敬意をはらい、少なくとも修行時代に弾くのとは違って、プロとして録音なりコンサートで取り上げる場合は、ぜひ居住まいを正して取り組んで欲しいし、まして全曲ともなると、あまり安易に取り扱わないでほしいというのが個人的な希望です。

今は演奏の是非よりも能力が問われる時代なので、技術があって、暗譜力があれば、はいそれでステージ、はい録音という流れになるのかもしれないけれど、それって意味があるのかと思います。
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アレクサンドル・トラーゼ

たまっているクラシック倶楽部の録画から、今年トッパンホールで行われたアレクサンドル・トラーゼのリサイタルを視聴しました。
曲目はハイドンのソナタ第49番変ホ長調、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章をカデンツァを含めてトラーゼ自身が編曲したもの、さらに2台ピアノによるピアノ協奏曲第3番の第3楽章。

本来なら、この手の外国人の(わけても旧ソ連系の重量級という言うべき人の)リサイタルとあらば、すぐにでも聴いてみようとする筈ですが、このトラーゼというピアニストはあまりよくは知らないというか、ずい分前に期待を込めてゲルギエフとの共演(オケはどこだったかわすれた)でプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDを購入、ロシア人(当時はそう思っていたが、トラーゼはジョージア人)によるネイティブな演奏を期待していたところ、それはまったく当方の期待に反するものでした。

具体的にどうだったかは忘れたし、そのためにわざわざCDを探し出して確認してみようというほどの熱意もないからそれはしないけれど、とにかくちょっと変わっているというか、ピアニストの個性なのか耳に逆らう変なクセのようなものばかりが目立った、すんなり曲を聴き進むことができないことに甚だしく落胆し、たしか全曲聴かずに放置した記憶があります。

「こういう演奏を期待して買ったわけではなかったのに!」という典型のようなCDでした。

なので、どうせ自分の好みではないだろうという先入観があり、つい先延ばしになっていたのです。

トラーゼ氏は番組内でインタビューに答え、正確ではありませんが、ざっと以下のようなことを言っていました。
「最近つくづく思うが、私は演奏そのものには興味がない」
「私の心を引きつけるのは、曲に秘められたストーリーを語ることだ」
「ハイドンのソナタ(この日演奏する曲)は、恋愛関係にあった女性歌手に献呈されたもの」
などといって第2楽章などを弾いてみせる。
「(作曲家の意図やストーリーを語ることは)間違っている事もあるかもしれないが、ただ音符をならべるだけの演奏より楽しんでもらえることは確か」
〜等々、この人なりに作品に込められたものを聴く人に伝えたいということが、人一倍あるらしいことはわかります。

ただし、ではトラーゼの演奏を聴いて、それが具合よく実現できているかといえば、残念ながらマロニエ君は成功しているとは思えませんでした。

冒頭のハイドンでは表情過多で、曲が必要とする軽快さや洒脱の味わいがまったく失われているというか、もしかしたら本来の曲とは少し違ったものに変質してはいないかという疑問さえ感じます。
トラーゼのいうストーリー展開も語りも、話としてはわかるけれど、古典派には、古典派なりのスタイルというものがあって、表現はその一定の枠の中で行われるべきものと思います。
古典派に限らず、音楽には音楽独自の語法というものがあり、さまざまな要素は音楽的デフォルメをもって間接的に表現されるべきで、言葉そのもののようなあまりに生々しい直接表現はマロニエ君は好みではありません。

トラーゼの演奏は、まるで一言一句が大げさな芝居のセリフのようで、ひとつひとつに意味を被せすぎ、音楽に必要な横のラインが随所で寸断されてしまうのは賛同しかねるもので、あれをもってハイドンの言いたかったこととは、マロニエ君にはとうてい思えませんでした。

次のプロコフィエフの編曲は、やたらと長ったらしく恥ずかしいほどもったいぶった曲でしたが、ただ第2協奏曲のモチーフを散りばめた即興演奏のようでもあり、コンサートに行って現場の空気を吸いながらこれを聴かされたらそれなりの魅力があるのかもしれないけれど、テレビで冷静に見る限りでは、あまり意味の分からないものでした。

最後のプロコフィエフ、ピアノ協奏曲第3番の第3楽章は愛弟子である韓国人の女性にもう一台のピアノでオーケストラパートを弾かせての演奏でしたが、旧世代のロシア系ピアニストを彷彿とさせる炸裂するフォルテなどが多用されるものの、テンポや曲の運び、アーティキュレーションなど、いずれも鈍重で恣意的、スピードの出ない旧式な戦車みたいな印象でした。
ただ、大きな音は出せる人で、低音域のそれはたしかに迫力があり、薄くてサラサラの演奏が大手を振る現代では、溜飲の下がるような瞬間もなくはないけれど、でもやっぱりそれだけでは困るのです。

指の分離もあまり良くないのか、個々の音のキレが良くないことと、特に右手が歌わないのは終始気になるところ。
こういう演奏に触れてみると、巷で言うほど好きではないソコロフなども、やはりあれはまったく次元の異なる第一級のピアニストであることを思い知らされました。

会場はトッパンホール、ピアノは二台ともスタインウェイDでしたが、トラーゼはソロでもコンチェルトでも手前のピアノを弾きました。
キャスターの感じからして奥のピアノのほうが新しいようで、勝手な想像ですが、やはり新しい個体のほうが鳴りが不足するというか、ピアノとしてのスケールが小さいのだろうか…ともかく相対的に古いほうがトラーゼの好みに合ったのかもしれません。

実際の演奏会では、コンチェルトは全楽章、他に戦争ソナタも演奏されたようです。
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若手の問題

某音楽番組で、日本人の若いピアニストがゲストとして登場されました。

子供のころから天才と評されて、ずいぶん話題をさらった人ですが、マロニエ君に言わせると日本のピアノ教育システムが生み出した典型のような人。
それがそのまま優れたピアニストかといえばまた別で、演奏家としての特別な魅力やオーラを感じるかどうかは人によって受け取り方が違うと思いますが、マロニエ君はまったく興味がわきません。
国際コンクールでは狙い通りの結果は出せなかったようですが、最近はCDなども出て、その方なりの活躍を本格始動されているのかもしれません。

番組MCから紹介を受けてまず1曲。
その後、場所を移してこれまでの経歴を中心とするかたちで雑談をし、再びピアノの前に進んで、もう1曲弾かれました。
いずれもロマン派を代表する作曲家による、超有名曲でした。

いまさらながら思ったことは、現代の演奏家は、まず聞く人を音楽の喜びを伝え導くことが大きな使命であること、いやそれ以前に弾く人が音楽への奉仕者ということを忘れているということ。
それを考えることもなく、受験競争のように技巧の卓越と仕上げのレベルアップだけできたのでは?ということで、これは指導者にも大きな責任があると感じます。
要するに、至難な曲の技術的に見事に弾き、それで膨大なレパートリーを抱えているだけ。

これは決してこの方に限った話ではありません。
多くの若い人の演奏には、作品から真の魅力を探しだし奏でることへの使命や、言い換えると音楽に対する愛情があまり感じられず、すでにあるものを、自分の能力(技巧と暗記力)を自慢する手段として使っているだけという気がしてなりません。
早い話が、自分のセンスの投映もないし、演奏には喜びや冒険やあそびがどこにもない。

当然ながら、情的にはかなりドライといって構わないでしょう。
さらにいやになるのは、曲の流れが断ち切られてしまうほどこれみよがしの間をとったり、まったく自然さを欠いた表情のようなものをわざわざ付け加えたり、意味のない虚飾などの連続で、これでは聴く人の感銘が得られるわけがない。
そんなもので人に感銘感動を与えられるほど人の心が動くはずはなく、ただ器用な演奏処理みたいなものをどんなに見せられても、本当のファンなど生まれるはずもない。

多くの人達が聴きたいものは、演奏者が自分の感性と信念からこうだと信じているウソのない音楽であり、そのひとなりの精神世界と作品のいってみれば最も幸福なコラボ。
そういうものに裏付けられたものが、ようやく本物の演奏と呼べるものだと思うのです。
音楽は小さな曲でも音による物語や旅でなくてはいけないわけで、その物語の世界に、演奏者の才能と感性で案内してほしいわけで、べつに偏差値的な能力自慢の目撃者になりたいわけではない。

別の番組では、スタジオで4人の演奏家による、日本の音楽祭を紹介するというのがありました。
チェロの御大、ヴァイオリンのベテラン、ハープの第一人者、そして若き俊英ヴァイオリンのホープでした。

ここで感じたのは、お話をさせると、どうしようもなく年配の方々は話に恰幅があって聞いていて楽しいし、自然で、言葉選びにもお顔の表情にも余裕があります。
一瞬一瞬の気持ちや内容は言葉と一体のものとなり、ほどよい抑揚をもってスラスラとお話が続きます。ところが最も若い某氏になると、とたんに語り口は硬直し、言葉も少なく苦しげで、結局は中味のないステレオタイプのコメントで終わってしまいます。
おそらく単純な演奏技巧でいうと、彼はこの場にいる先輩方の誰にも負けるどころか、もしかしたら1番かもしれませんが、お話を通じての人間力となると、年齢以上の差が開いてしまうのを痛烈に感じました。

どんなにテクニックが上手くて、初見も暗譜もお手のもので、なんでもヒョイと弾ける能力があっても、演奏者としての魅力はそれ以外のものと合体させたものでなければ真の魅力にはなりません。
上記のピアニストにも通じる、若い人たちの抱える、もっとも重大な問題点をまざまざと見せつけられた気がしました。

テクニックが向上したのと引き換えに、生身の人間のアーティキュレーションが著しく落ちていることでしょうか。
表現したいものがたくさんあるのにテクニックがついてこないのは悲しいけれど、テクニックがあるのに表現すべきものがないことは、もっとはるかに悲しい気がします。
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ときには刺激を

とある休日、以前ピアノを通じて親しくしていた方々が、お揃いで我が家にいらっしゃいました。

中には実に数年ぶりにお会いする方もあり、懐かしい限りでした。
挨拶もそこそこに、やはりこの顔ぶれはピアノを弾いてこそということもあり、さっそく演奏が始まりますが、ひとり始まれば、次から次へと回りだし、まるでプチ発表会の様相となりました。

皆さん、ピアノを弾くことに格別の喜びを感じておられて、日々の練習を怠らず、レッスンに通い、発表会その他で人前での演奏もかなり頻繁にやっておられる方ばかり。
口々に「緊張する!」と言われますが、なかなかしっかりした演奏をされることに感心させられます。

ピアノを弾くことは、自分自身が楽しいのだから、自分一人で弾いて楽しんでいればいいというのが、趣味としてのマロニエ君の基本スタンスで、それは昔も今も変わりません。
しかし、現実にこうしてアマチュアながら人前での演奏に臨んで、緊張と喜びに身を投じつつもピアノに向かい、楽しさと真剣さが同居する様子を目の当たりにしてみると、それはそれで価値のあることだと感じたのも事実でした。

人によって、曲も違えば、弾き方も違い、同じピアノが弾き手によっていかようにも変わってくるあたり、こうした遊びの中にも気付かされるピアノの奥の深さのような気がしました。
目の前で弾かれるピアノの音に身を委ね、のんびりくつろぐのも悪くないものです。

マロニエ君は普段、自分の好きなCDを聴き散らすばかりで、これといって目的を持って練習することはありません。
せいぜい、そのときときに弾いてみたい曲の中から、技術的に自分でもなんとかなりそうなものを探しだしては、だらだらと練習の真似ごとのようなことをやるだけ。
レッスンに通っているわけでも、なにか人前で弾くという機会があるわけでもなく、こういう状況ではどうしたって練習にも身が入りません。

基本的にはそれでいいと思っており、たいして弾けもしないものを、いまさらこの歳で目標を作ってまで遮二無二やらなくちゃいけない理由はないし、身が入らないなら入らないなりに楽しんでいられれば、それでいいという考えです。

と、普段はそうなのですが、この日、何人もの方が代わる代わるにピアノに向かい、とても熱心に弾かれている様子を見ていると、自分のそんな怠惰なあり方がちょっと恥ずかしくなるようでもありました。

だからというわけでもないけれど、ただシンプルにピアノを弾くということに素直な刺激を受けたと思われますが、この日を境に、マロニエ君にしては珍しくピアノに向かう時間が長くなりました。
すると、不思議なことがいくつか起こりました。

まず、ピアノというのは弾けば弾くほど調子が上がり──とはいってもいまさら上手くなるわけではなく、要は弾くことに集中度が増していくぐらいの意味で、ありていにいえば弾けば弾くほど楽しくなってくるということでした。
これまでは、まったくピアノに触りもしない日がいくらでもあり、触っても5分ぐらいというのはごく日常でしたが、少し続けて弾きだすと、それだけ自分が曲の中に没入し、それがピアノを離れても意識として残るようになって、そうするとまた弾いて、あれこれの表現やアイデアを試したり、なにかを解決したくなったりといった衝動にかられてくる。
そういう一連の行為や気分がだんだんおもしろくなるわけです。

下手は下手なりに、音楽にこだわってくると、理想の表現を求めて繰り返し弾いてみることが(自己満足といえども)こんなに楽しいことだったことを、このところ実感として忘れていたように思いました。
それを思い出させてくれて、ピアノに向かう時間が長くなっただけでも、この訪問者の方々にはお礼を言わなければならないと思っています。

それと、当たり前かもしれませんが、弾けば弾いただけ自分なりに指がほぐれて、少しずつ自分の体がピアノと仲良くなってくように感じるのは、ほんの僅かであってもやはり嬉しいものです。
当面の目標としては、目の前にある数曲の仕上げ(仕上がらないだろうけど)と、新しい曲をいくつかものにしたい(できないだろうけど)と思っているところです。

何年ぶりかで、ピアノに集中していると1時間なんてパッと過ぎてしまう感覚を、久々に味わっています。
CDで胸のすくような素晴らしい名演に接するのもいいけれど、やはり下手でも自分の意志で楽器を鳴らすのは、他に代えがたい格別なものがあることは間違いないようです。
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その後どうなる?

最近見た、ピアノ関連のTV番組から。

Eテレ『若手ピアニストの頂上決戦〜第86回日本音楽コンクール・ドキュメント〜』と題する、同コンクールのピアノ部門に密着したNHKのドキュメント。
202人が出場する第1次予選から始まり、いきなり47人に絞られての第2次予選、さらにわずか9人となる第3次予選、本選出場は4人で競われるというもの。

よく「コンクールは第1次が最も面白い」といわれますが、まさにそれが納得という感じが垣間見られました。
音大などの学生はもちろんのこと、中には会社員で休暇をとってコンクールに出場する人もいたりと、この第1次の様子は少しでしたが、なにやらとてもおもしろそうでした。
後半に進むに従って、精鋭ばかりが残っていくけれど、同時にある程度どんなものかもわかってくるのに対し、第1次はどんな人が出てくるやら楽しいというかドキドキ感もあって、もし自分が見に行くなら絶対これだと思いました。

第1次は演奏時間も短く、わずか10分。
その演奏如何で150人以上の人達が一斉に落とされてしまいます。
ところが、なんと会場のトッパンホールの客席は審査員はどこにいるの?と思うほど超ガラガラで、一般の人の入場はできないのだろうかと思ってしまいます。
それに対し、オペラシティで行われる決勝となると大ホールは満席で、チケットは売り切れというのですから、優勝者が出る場面を見てみたいというのもわかるけど、いささか偏り過ぎというか不思議な気がしました。

1位と2位はマロニエ君も予想していた通りで、ショパンコンクールのような大コンクールでは結果に納得のいかないこともしばしばありますが、この点では思い通りで満足できました。

ただ別の感想も抱きました。
このコンクールに出場されるような方は、当然ながら相当な腕前を持っておられて、普通のシロウトが徒歩から始まってせいぜいスクーターぐらいだとすると、新幹線ぐらいの差があると思いますが、ではそれでさらに世界的なコンクールに挑んで栄冠が勝ち取れるかといえば疑問であるし、ましてプロのピアニストになれるのかといえば、それはまったく別の話で、本当の意味でのピアニストになれる人は、その新幹線に対して飛行機か、場合によってはマッハで飛ぶ戦闘機ぐらいのレベルにならなくてはいけないわけです。

そうなると、なまじ才能があって、精進して、なんでも弾けるような腕前が備わったばかりに、引くに引けない状況になることがあるはずで、多くの人達はその先どうなるのかと思いました。
中には両親も応援に来られていて「30歳まで、あと2〜3年は見守ろうと思います」というようなことを言われたりと、家族を挙げての挑戦であることがわかります。
あれだけ弾けるようになるためには、どれだけの努力があったかを思うと胸が痛くなりました。


題名のない音楽会では『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』と銘打った、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
ソリストは、ショパンやチャイコフスキーで2位になったルーカス・ゲニューシャスで、マロニエ君にはまったく好みの合わない演奏。

やけに含みをもったような、さも自信ありげな弾きっぷりでしたが、テンポは遅く、躍動は断ち切られ、フォルテッシモを期待するところがヒュッと弱音になったり、かなり違和感を覚える演奏でした。

外面的な効果や慣例を廃して、徹底したコントロールされた新たな解釈を提示したつもりかもしれないけれど、マロニエ君にはまったく意味不明理解不能で、なんだかヘンなものを食べさせられて胃もたれをおこすようでした。

ゲニューシャスは作曲者と同じロシア人でもあるし、たしかかの名伯楽ヴェラ・ゴルノスターエワのお孫さんでもあり、ロシアピアノ界でもいわばサラブレッドであるはずですが、それ故こういう演奏もまかり通るということなのか…。

この番組のタイトルの『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』とは、どういう意味なのか、どこでどう熱くなればいいのか最後までさっぱりわからず、ぽつんとひとり取り残されているような気分を味わいました。
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最新スタインウェイ

最新のスタインウェイDはディテールなどがいろいろ変わったようで──それも必ずしも好ましくない方向のような気配のするところが気になります。

あてもなくYouTubeを見ていると、海外でのアルゲリッチの今年のコンサートの様子がアップされていました。
珍しくソロで『子供の情景』を弾いていますが、ステージには2台ピアノが向かい合わせに置かれており、あくまで2台ピアノのコンサートの中の一部として演奏されたソロだと思われました。

使われているピアノは疑いもなくスタインウェイのDだろうと思っていたところ、どうも音の感じが違います。
とくに違いを感じたのが発音の部分とでもいいましょうか。
よく耳に馴染んだスタインウェイは、どちらかというとやや遅めに立ち上がった音がターンと伸びていく感じがありますが、このピアノははじめからやけにハキハキと反応して、滑舌の良さをことさらアピールしてくるような感じ。

はじめはよほど腕利きの技術者が、スペシャルな仕上げをしたピアノかとも思いましたが、聴いていて、どうもそれだけではないような違和感を感じました。
で、「このピアノはなんだろう?」と疑いだしてチェックしてみますが、画質がよくない上、ステージの照明も黒基調でどちらかというとダークな雰囲気。さらにカメラワークも雑で、画面はアルゲリッチが中心であれこれのアングルや遠近の変化が少ないため、こんな大事なときに、もどかしいほど確認が取れませんでした。

こうなってくると、こちらもついムキになってなんとか確証を掴んでやろうと凝視することになり、せっかくソロを弾いているアルゲリッチには申し訳ないけれど、ほとんど演奏そっちのけで、音とピアノのディテールばかりに神経を集中させました。
結果は曖昧な部分を多く残しますが、視覚的にほぼはっきりしたことは以下のとおり。

1)別メーカーのピアノの可能性も疑ったけれど、いくつかの要素からやはりスタインウェイであるし、おそらくはハンブルク製。

2)最も目についたのは、長年(ことによっては100年以上?)にわたり当たり前だったボデイサイドにあった丸いノブ(大屋根のストッパー操作用。これはCとDに装着されるもので、B以下は非装着)がなくなり、そのため大屋根側に付けられていた受け側の金色の金具もなくなっていることでした。
これは、昔からニューヨーク製にはなく、スタインウェイではハンブルク製だけの特徴でした。

3)また、ハンブルク製ではおなじみのスタイルだった、突き上げ棒(大屋根を開けたときに支える棒)のデザインもまったく変わっていました。従来は下に行くに従って途中で1段階太くなり、ボデイの付け根に近づいたところでさらに幅広になるというもので、その太くなっている中に半開用の短いスタンドが格納され、そのまた下部にさらに低くて小さなスタンドというふうに、計3種のスタンドが美しくひとつにまとめられていたのですが、これがまったく違ったデザインになり、粗い画像でなんとか確認できたところでは、ニューヨーク製の突き上げ棒に酷似した感じでした。しかも高さは2段階に減らされているようにも見えました。

4)最も確認が難しく、はっきりわからなかったのが譜面立てのデザイン。
これも従来の左右上部に正方形がくっついたようなハンブルクの長年変わらぬデザインだったものが、どうも違うものになっている印象でしたが、その形状まではついにわからず、これまでのものとは違うということだけが、かろうじてわかりました。

音については現時点で断定は避けますが、パソコンを通じての印象でいうと、軽く弾いても簡単にパァーンとブリリアントな音が出るもので、メーカーがそういう方向のピアノを作り始めたんだという印象を受けました。
一見インパクトがあり、華やかなようですが、密度感とか深み、あるいは奥行きといったものとは違った、いかにも今どきのすべてのものに通じるうわべの効果を狙ったという印象。
さも鳴っているようですが「美しい」というのとはちょっと違い、表現の幅は一気に狭まり、ピアノ本来のスタミナはむしろ減っているのではと思いました。

海外のコンクールなどで選ばれ弾いてもらうには、ライバルの台頭もあって、このように単純明快な効果を狙ったピアノ作りにギアチェンジしたのだろうかと想像を巡らせるばかり。
たぶん他社の追撃をかわすための、スタインウェイなりの戦略転換なのかもしれません。

ずい分前に、それまで「最善か無か」のスローガンを掲げて我が道を行っていたベンツが、時代の波に押し切られてトヨタから多くを学びはじめたときのような、なんともやるせない気分になりました。
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ナゾ

自室のシュベスターにちょっと意外なことが起こりました。

ある技術者の方が来られ、この日はピアノを見ていただくだけだったため、何の手も入れられなかったのですが、帰られたあとで思わぬ変化があってびっくりすることに。

というのも、マロニエ君はもともとピアノの上に物を置くのはきらいで、グランドではなにも置かないようにしていますが、自室のアップライトではさすがにそこまで徹底できず、楽譜をあれこれを約20冊ぐらい置いて、思いつくままに手を伸ばしては譜面台に置くという感じにしています。

なので、その技術者さんが見えたときは、上の蓋を開けたりできるよう楽譜類をひとまとめにして、床の一箇所に置いていました。
はじめは上を開けただけでしたが、結局は前面上部の垂直の板と、鍵盤蓋を全部とって見られることになりました。

繰り返しますが、このときは何も作業をされることなく、ただ見たり音を出したりするだけで、ネジ1つも回されたわけではなく、最後にきちんと元の状態に戻して、あとは別室で雑談を少ししてお帰りになっただけです。
ところが、そのあと、なにげなく弾いてみると、なんだかよくわからないけれどいつもとちょっと様子が違いました。
すぐわかったのは、低音セクションが普段より力強く鳴っていること。

はじめは「ん?」「なんで?」という感じだったのですが、あきらかにこれまでよりビシッと鳴っているのがわかりました。
このところ、少しずつ練習しているショパンのマズルカを弾いてみますが、やはりバスを鳴らしたときの厚みが違っていて「エエエ!?」となりました。

はじめはマロニエ君がちょっと部屋を出た間に、技術者の方がなにか技でもかけられたのか…とも思いましたが、まさか黙ってそんなことをされるとはとても思えません。
で、その技術者さんが来られる前と後では何か違っていることはないかを、急いで考えました。

見渡してみたところ、ただひとつ目についたのは楽譜。
技術者さんが帰られたあと、床においていた楽譜の束をヨイショと抱え上げて、そのままピアノの左上にドサッと載せていました。
まさかこれ?と思い、それらを右側(高音側)に置きかえて弾いてみると、なんと低音のパワーははっきりと元の鳴り方にもどりました。
まさか…こんなことがあるなんて聞いたこともないし、とくにアップライト前面の蓋とか上部なんて、いうなればただの囲いにすぎず、開閉以外に音や鳴りという点において、そんな影響があるなんて思えません。

でも、それで変わったのは事実なので、それからというもの、高さ20cmほどの楽譜の塊を、左上に置いたり真ん中においたり、床に下ろしてみたりと、ハアハアいいながらずいぶん実験しました。
ところが、それを何度もやっているうちに、はじめの変化はなくなって行きました。

来宅された技術者さんにも電話して事の顛末を伝えましたが、むろん何一つ心当たりはないばかりか、そういう事例は聞いたことがないということで、そりゃあそうだろう…あれは単なる錯覚だったのか?とも思いましたが、でも、変化したときのあの「感動」は今でもしっかりと覚えています。

それいらい変化はなく、幸いなことにパワーはあるほうで定着しているようです。
むろん、原因はなにひとつ分からずじまいのまま。
思いもよらない出来事でしたが、こういう謎めいたことも手作り楽器ならではの面白さだと思うことにしました。
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冒険のお値段

5月に某ショッピングモールのピアノ展示販売会でグランフィール装着のピアノに触れて、そのタッチ感の素晴らしさ、コントロール性の大幅アップに感激したことはすでに書きました。

アップライトピアノの小さな革命といってもいいもので、自室のシュベスターに取り付けたいのはやまやまですが、なにしろその価格は税別20万円以上で、ちょっとした中古アップライトがもう一台買えてしまうほどの金額なので、やはりちょっと迷ってしまいます。

モールに出店していた楽器店のホームページを見ると、そこの展示場に行けば再度試弾できることがわかり、もう一度試してみたいと思って電話してみたところ、折よくグランフィールを取り付けられたという技術者の方が電話に出られ、説明もしていただけるとのことで後日行ってみることになりました。

ずらりと並ぶアップライトピアノの中に、1台だけグランフィール付きがあり、おそらく展示会にあったものと思われました。
ピアノの常で、モールの広い空間と一般的な展示室では印象の異なる点こそあったものの、概して好印象であることは変わりありません。
ところが、そのとなりには瓜二つと言ってもいいほとんど同じ機種のグランフィールが「ついていない」のピアノが並んでおり、グランフィールの有無を弾き比べることができたのですが、これはこれで悪くないタッチ感があり、その差は価格相応とまでは言えない気がしてきました。

ここで考慮すべきは、ピアノのタッチのように微妙なところがものをいう場合、並んでいるピアノを弾き比べることは必ずしもプラスばかりとは限らず、却って判断が乱れてわかりにくくなることがあることです。
そもそもタッチ感というのはある程度の時間をかけて弾いたときに、わずかなことが積もり積もって大きな違いとなって出てくることがあり、やたらあれこれ触ったりするだけで、簡単に結論を出せるようなものでもないようです。
例えば椅子などもそうですが、ショールームや売り場でいくら掛け比べしても、真の評価が下せるのは購入して何時間も何日も使ったときに判明するものだったりするように。

それだけグランフィールは奥の深い機構であることも事実でしょう。

付ければたぶん弾くのが数倍楽しくなると思いますし、中にはこれならグランドは要らないという人もいるかも。
とくにアップライト特有のあの上品とはいえないアバウトなタッチと、デリカシーに欠ける発音が好みでない人にとっては、目からウロコでしょう。
ピアノを弾く楽しさや気持ちよさが上乗せされることや、グランドへの買い替えと比較すれば安いという考えも成り立ちますが、現実の施工内容と価格を考えると、その判断はまさに人それぞれの価値観しだいというところ。

そもそもアップライトピアノというものは、ほんらい横が自然であるべきものを縦にするにあたり、無理を重ねた妥協の産物なので、生まれながらに構造上の欠陥があると思います。
早くから改良の余地のない完成形にまで行き着いたグランドアクションに対し、アップライトのそれは、改良できるのもならどしどしやってほしいところで、グランフィールはアップライトのアクションの欠陥や制約を補うアシスト機能といってもいいのかもしれません。

アップライトのアクションにはダブルエスケープメントがないせいか、なにかというとグランドに比べて連打性能のことばかりが強調されますが、マロニエ君はそんな超高速連打などあまりできないし、そこにはとくだんの不自由は感じていません。
それより大きく問題としたいのは、弱音域のコントロール性や、軽やかな装飾音の入れやすさ、音色の微妙な濃淡とか表情付けに対するセンシティブな反応であって、これらは場合によっては音よりも重視するところなのですが、アップライトではついワッと大きな音になったり、ベチャッとした音質になったり、音色変化に対する反応やコントロールの幅が狭いことには不満を感じます。

グランフィールはその点で、アップライト特有のクセや不自然さがかなり消えて、弾く人のイメージそのままに自在なコントロールが可能なタッチになっていることは、驚くべき画期的な発明だと思います。

ただし、今回わかった最も重要なことは、あくまで元になるピアノのタッチが基本となるので、グランフィールを取り付けるといっても、それぞれのピアノの状態からのスタートとなり、装着後の効果も各ピアノによって異なるということ。
その点でいうと、ヤマハは音に関してはいろいろな好みや評価があるものの、アクションのクオリティに関してはやっぱり一流だと思います。

その一流の上に取り付けられたグランフィールの効果が、どのピアノにもあてはまるものではなく、各メーカーの各ピアノによっても結果に差がでるのは当然といえば当然で、ここは見落としてはならないところ。
ただ、そうなると自分のピアノで結果がどうなるかは付けてみないとわからないということになり、一定の冒険心と覚悟は必要で、それにはやっぱりこのお値段は気軽に踏み出せるものではありません。
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スペシャル?

ネットなどを見ていると、技術者が仕上げたカスタムピアノとかスペシャル仕様というようなピアノがたまに目に止まりますが、これってどうなんでしょう?

外観に関することもあるかとは思いますが、ここでいいたいのは中古ピアノを商品として仕上げたりリニューアルする際に、弦やハンマーなどを純正ではない輸入物のブランド品に交換して、独自の調整を施すことでオリジナルよりもワンランク上の音を目指したというもの。
なるほどという気もしないではないけど、本当に言うほどの効果があるものでしょうか?

マロニエ君も過去に何度かそのたぐいのピアノに触れたことはありますが、おー!と思ったようなことは実は一度もありません。
そもそもその前の状態を知らないし、オーバーホールが必要なほど消耗品類がダメになっているピアノの場合、それらを新しいものに交換しただけでも見違えるようになるはず。
本当にスペシャルと言えるほどの違いがあるのかどうかを確認するためには、新しめのピアノでパーツ交換をしてみることだと思いますが、普通そんなことはしませんから、要するにどの程度の差があるか本当のところはよくわからないというのが実感です。

ハンマーなどは、メーカーによる個性や特徴もあるとは思いますが、それよりも等級というか品質のほうが重要ではないかと思います。
同じメーカーでも安いものから高級品まであり、大事なのはそれぞれのハンマーの品質。

中にはありふれた国産の量産ピアノにレンナーのハンマーを付け、ややダイヤモンド型に整形するだけして「スタインウェイ仕様のハンマー装着」などと書かれ、きっちり手を入れているから実質は世界の名品並みのように変身させているといったような記述を見ることがあります。

もちろんどんなピアノでも使うハンマーは良いものであるのに越したことはないでしょう。
ただ、ピアノの音や性格の根本となるのは当然のことながら設計であり、これで大方の良し悪しや方向性など個性が決まってしまうと思われます。
日本の伝説的なピアノ職人である大橋幡岩氏は、設計図を描いたらそのピアノの音が聴こえてくるとまで言っておられるほど。

設計による根本の器や性格が決まっているピアノに、後からどんなに良質の弦やハンマーを奢ってみたところで、しょせんは気休め程度の変化に留まるのでは?とマロニエ君は思うのです。

いつも書いているように、ピアノを生かすも殺すも技術者と管理しだいという基本は変わりませんが、それは、あくまでピアノが生まれ持っている能力を最良の状態で引き出すということであって、設計そのものの話とは次元が異なります。
設計如何によって各々のピアノ個性や音色や能力は決まるので、ここがやはり楽器としての根本であり、どんなに優秀な技術者であろうとも、設計を凌駕するような魔法みたいなことができるわけでもない。

それほど設計というのは動かしがたいピアノの潜在力と性格を決するものだと思います。
同じ設計の中で、違いが出せる要素は厳密にはいろいろあると思われますが、もっともわかりやすいところでは響板ではないかと思いますし、フレームの鋳造方法などもあるのかも。

響板の良否というのはかなり影響があると思われ、良質な木材を天然乾燥したものと、普及品を人工乾燥したものでは、同じ設計でもかなり音や響きの差がでるのは間違いないと思います。
いい響板だと音に色艶や深味がでるし、伸びがあって柔らか、ボリュームも出ますが、響板の質が劣ると音が人工的で鳴りが痩せていき、スケールの小さい楽器になってしまうのではないかと思います。

ただし、マロニエ君の拙い経験でいうと、基本的な音色や音の性格は、それでも設計に拠るところが大きいのか、材料の質が落ちても、ピアノ全体としての性格や音の傾向みたいなものはあまり変わらない気がします。

同じピアニストが軽くリハーサルで弾いたときと、本番で真剣に弾いた時の差ぐらいで、まあそれも大きな違いといえばそうなんですが、すくなくとも別人が弾くほどの差にはならず、根底は同じところから出てくるものということです。

車でいうと、タイヤやダンパーをちょっと別メーカーのいいものに交換しても、その差はなるほどあるにはあるけれど全体が変わるわけではなく、言ってしまえば自己満足レベルを大きく出ることはないのです。
すくなくとも、腕利きのメカニックがパーツ交換して高度なセッティングをすれば一定の好ましい変化が起こる場合はありますが、だからといって価格が何倍もする高級車並とかポルシェと同等なんてことには、絶対になりません。

ピアノはわかりにくいものだけに、専門家の意見を鵜呑みにしがちですが、それだけに気をつけたほうがいいかもしれませんね。中には技術者自身が素晴らしい良くなったと信じ込んでいるケースもあるので、こうなると判断はいよいよ困難を極めます。
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映画の開始時間

久しぶりに映画館を訪れて感じたこと。

マロニエ君は映画は普通に好きですが、かといって新作にアンテナを立てて公開中の作品をわざわざ見に行くほどの熱はありません。
よってふだんは映画館はまず行きませんので、『羊と鋼の森』を見るために久しぶりに映画館を訪れ、そのときにいろいろと感じるところがあり書くことに。

行ったのはショッピングモール内にあるシネマですが、入場券の購入方法も販売機の液晶画面を迷いながら見て、映画のタイトルや時間、人数、支払い方法などを順次押していくシステムで、こちらは映画を見に来たのに、機械相手に無事にチケットを買えるかどうか、いきなり試されてるようでもあり、終始だれとも口をきくことはありません。
つくづくと、今の世の中はこうして人と関わることが徹底して排除され、相手にするのはいつも液晶画面でありシステムであることを痛感させられます。

上映時間はむろん予めネットで調べてあったし、この発券機でも同じ時間が表示されています。

入り口のソファーで待っていると、各映画の上映時間が近づくたびに上映される部屋の番号と、どれが入場できる時間になったかということがアナウンスされます。
それにしたがってこちらも入場。

ところが、シートに着席して暗いスクリーンに灯が入ると、まずはコマーシャル、上映にあたっての注意などがくどいほど流され、それからというもの延々と洋画・邦画の各予告編や飲食店の宣伝などがいつ果てるともなく続き、目指す本編が始まったのは、本来告知されていた時間を20分もオーバーしており、これにはさすがに憤慨しました。

今どきのことなので、多少の宣伝や予告編があるのはわかるけれど、20分はあんまりです。
こちらはそこに出向いて、お金を払って、見たい映画を見るために来ているわけで、興味もないものを容赦ない大音響とともに延々と見せられることの苦痛はかなりのものでした。

これは映画館をよく知る人にとっては普通のことかもしれないし、慣れていればそれを見越した行動が取れるのかもしれませんが、たまに行くほうはそんなことは知らないし、何時と書かれていれば素直にその通りに受け止めるわけで、実際の上映開始がその20分も後になるなど考えもしませんでした。
同時にこれは、いささか問題ではないかと思いました。

もちろん、コマーシャルや予告編が悪いとまで言う気はないし、特に予告編に関してはそれを今後の参考にされる方も多いかとは思いますから、それはそれで否定するつもりもありません。
ただ、事前情報として、広告を含む上映開始は何時、本編開始は何時ということはもう少し明確にすべきで、今はやりの言葉で言うなら「正しい情報開示が必要」ではないかと思います。

なぜなら、広告や予告編を見るか見ないかは個人の意思によって決められるべきで、そこには選択の自由があり、本編直前に会場入りし、その映画だけを見たいという意向の人もいるわけです。
しかも鑑賞にあたっては定められた料金を払っているのですから、無料垂れ流しのテレビのコマーシャルとは本質的に違うし、ましてそれが断りもなく一方的に20分というのはマロニエ君にとってはまさに拷問に等しいものでした。

こんなことは映画だけであって、コンサートなどは何時開場、何時開演とあれば、当然そのようになっているわけで、開演時間になったらそのホールの今後のコンサートの予定などが延々と紹介されるなんてことはありません。
スポーツ観戦などはほとんどしたことはないけれど、試合開始何時とされながら、その時間になったら、別の競技の宣伝や近くのレストランの紹介などが延々20分もされたら、きっと観客は怒り出すのではないでしょうか。

これは映画だけの悪しき慣習だと言わざるを得ません。
ただ単に、予告編開始何時、本編開始何時、と明記しておいて、予告編が見たい人はその時間に合わせて行けばいいだけの話だと思うのですが。
この点に関しては、まったく罠にはめられたような印象で、その20分のおかげですっかり疲れてしまって、本編の開始時に新鮮な気持ちでスクリーンに相対することができなかったのは、すこぶる不愉快でまんまと騙された気分でした。
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『羊と鋼の森』

話題の映画『羊と鋼の森』、そろそろ終わる頃かと思って観てきました。

この作品、とりわけ調律師さんたちには好評のようで、中には普段映画館などまったく行かないような方までわざわざ足を運ばれていますし、しかも一様に好印象(中には絶賛)を得ているようです。
本業の方々からこれだけ評価されるということは、専門的側面だけでも成功といえるのではないかと思います。

マロニエ君は混雑を嫌って、夜の最終回に行ったところ、優に100人以上は入りそうなシアターに観客はわずか5人という貸し切り状態でした。

全体の印象としては、あの原作を映画にすれば概ねこういうことになるのだろうというもの。
調律師という仕事はピアノ芸術の根底を支える崇高なものでありながら、この職業がときおり出くわす理不尽、正しく評価され理解されることが稀な、孤独と誠実の交錯、ときどき訪れるほのかな喜び、そしてまた厳しい現実へと引き戻される様をよく表していたように思います。

個人的な映画の好みでいうと、ぽつんぽつんとしか台詞のない心情描写風の仕立ては、あまり得意ではありませんでしたが、ピアノ好きとしては見逃せないものだから、いちおう楽しむことはできました。
ただ、映画は読書と違って、2時間の中で役者を動かして表現するもので、映画としての構成やテンポが重要なファクターとなり、いったん始まれば監督はじめ作り手の運転するバスに乗せられることになり、その運びや見せ方が見る側の波長や感性に合うかどうか、それにつきるような気がします。

驚いたのは、リアリティの追求なのか映像上の演出なのか、とにかく画面がストレスになるほど暗く、これには閉口しました。
ビデオにでもなったら違うのか、それともあの暗さやピントの甘さは意図されたものなのか、いずれにしろ普段からテレビやパソコンで明るく鮮明な画面に慣らされている身には、この暗さはきつかった。

暗いといえば、それが良かった部分もありました。
調律師達が所属する楽器店の様子で、誇張して云えばニューヨークの下町みたいなレンガ造りで、相当の年月を経てきたらしい建物。通りから数段上がったところに入口があって、中は暗いけれど重厚な空気が漂っていて、いろいろなピアノが無造作に置かれているあの雰囲気はいいなぁと思いました。
できることならピアノはあのような店で取り扱ってほしいもので、今どきのやたら明るくモダンな展示スペース、ガラスと照明でピカピカした店舗などはまるでブティックか車のショールームみたいで文化のかけらもなく、ピアノを見る場所としては本質的に似合っていないと思うのです。
映画の中のあの店は、ある意味、マロニエ君のピアノ店はこうあってほしいという、ひとつの理想に近いものでした。

また、制作の裏事情は知らないけれど、いち鑑賞者としての率直な印象としては、出てくるピアノのどれもこれもがYAMAHA一色であったのはあまりにも不自然で、唯一の例外は外国人ピアニストのコンサートで「我々が触れられないピアノ」としてほんのちょっと出てきたホールのピアノだけ。

まるで日本で普通に使われているピアノはヤマハのみ!といわんばかりで、これはちょっとやり過ぎというか、カワイ系の人達は見ていて愉快ではないだろうと思いました。上記のように調律師の世界や画面の暗さなど、かなりのリアルさに迫っているように見せながら、出てくるピアノはすべてこの一社に統一というのはいかにも仕組まれた印象が拭えず、スクリーンの中にまでトップ企業の抗えないパワーが介入しているようでした。

そのいっぽう、いくつかの音の中には、ヤマハの音の魅力みたいなものを感じる瞬間があり、インパクトのある強めのアタック音からでてくる直線的で生々しい音は、これまであまり意識しなかったヤマハの良さかもしれないという新鮮さがありました。
もちろん映画の音声は別撮りであるのは常識で、よほど入念に調整され、更には電子技術で化粧された特別な音かもしれませんが。

意外だったのは、グランドに関して言えばヤマハの相当古い時代のピアノが多く、比較的新しかったのは姉妹の自宅のピアノのみで、これもまたリアリティなのか。

リアリティで忘れてはならないのは調律師役の俳優陣の職人的なこまかい動き。
みなさんこの映画のために特別な訓練をされたものと見え、かなり忠実に調律師の所作ができているのは驚きでした。とくに主役の山崎賢人さんと三浦友和さんは、調律師特有のいろんな手つき手さばき、ちょっとした視線の向け方、さらには彼らが漂わせる独特の雰囲気までよく研究されていて、それを演技の中で自然に表現できるとは、俳優というのは大したものだなぁと感心させられました。

いずれにしろ、きわめて珍しい映画であったことは間違いありません。
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弱音での調律

先日、自室のシュベスターで診て欲しいところがあり調律師さんに連絡していたら、出先からの帰りで時間ができたからといって、思ったより数日早く来宅していただきました。

診て欲しかったのは、止音がやや不完全なためにダンパーがかかった後にもわずかに響きが残るというもの。
グランドは上から下にダンパーが降りるので、物理的法則にも適っており、比較的問題が少ないようですが、アップライトでは縦についたダンパーが、縦に張られた弦の振動を止めるために、構造上どうしても無理があり、メーカーを問わずよくある事の由。
これに関しては対策を考えることになり、結論も出ていないので今回は書きません。

ひととおり診た後、ありがたいことに中音域から次高音にかけて手直し程度の軽い調律を自発的にしてくださいました。
ちょっと乱れを整えるという感じで、ずっと会話しながらで、時間的にもそう長いものではありませんでした。

ところがあとでびっくり。
帰られた後、弾いてみるとこれがもうかつてないような、少なくともこのピアノでは初めての、甘くて深みと透明感のある、いつまでも弾いていたいようなとろとろの音になっていたのです。

大袈裟にいうと、ただ指を動かすだけでピアノが勝手に歌ってくれるようで、これには参りました。
いらい数日が経ち、ややその輝きも薄らいできた感じがゼロではないけれど、まだまだその気配は十分残しています。

このピアノを診てくださっている調律師さんは、非常に拘りが強くて丁寧な仕事をされる方ですが、コンサートの仕事をされるだけあって調律にもいろいろなバージョンややり方をお持ちの様子。
ただ、いつもきちんとした調律されるときは、それなりの時間をかけ、調律時に出す音もわりと強めで、基本的にはタッチはフォルテを基調とした調律をされていました。

しかしこのときは、あくまで整え程度だっために、さほど気合も入っていなかったのか、タッチもごく普通のどちらかというとやわらかめでの調律でした。

マロニエ君は、実は、それが良かったのではないかと思っています。
以前、ネットで見た記憶があるのですが、某輸入ピアノのディーラーの調律研修会で、調律というものは突き詰めると、調律時に出す音の強弱やタッチによって結果が大きく変わるということで、調律師はチューニングハンマーだけを回し、音出しは他の人がやるという実験をやっていて、その音の出し方、あるいは別の人が音をだすことで、同じ人でも仕上がりに差がでるというものでした。

それを裏付けるように、某メーカー出身で、ヨーロッパの支店やコンクールの経験の長い技術者の方は、調律時にはpかmpぐらいの小さな音で調律され、フォルテは一瞬たりとも出されません。
はじめは驚き、それで大丈夫だろうかと思いましたが、それで実に見事な美しい調律が出来上がり、この方の調律によるリサイタルも何度か聴きましたが、fffでの破綻もないどころか、平均的なコンサート調律よりむしろ均一感があって、いずれもたいへん見事なものでした。

この方曰く「調律は、そのピアノのもっとも繊細で美しい音によって行うべきもので、可能なら弾く人に音を出してもらいながら調律できるなら、本当はそれがベストだと自分は思う」と言われたのに驚いたものです。

シュベスターがかつてないような美音を出したことが、この時の調律の音の強さにあったのかどうか、確たることはわかりません。
ただ、fやffで調律する人は、それによって破綻しない安定した結果が得られると思っておられるのかもしれないし、実際調律を学ぶ際のセオリーとしてどうなのかは知りませんが、こういうことが起こったということはひとつの事実だと思うのです。

ちなみに電話して、特別なことをされたのかどうか質問してみましたが、それは一切していないとのことで、電話の向こうの調律師さんはこちらが喜んでいるのでそれはよかったという感じでしたが、意外な展開にきょとんとされている感じでした。
マロニエ君があまりワアワアいうものだから、少しは小さい音での調律に興味を感じられたのか、あるいはただご希望通りにということなのか、そこはわかりませんが「じゃあ、今度はそれでやってみましょうか?」と言われましたので、次はぜひそのようにお願いするつもりです。
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再録願望

クラシック倶楽部の放送で、最近のエリザベト・レオンスカヤの演奏に好印象をもったので、機会があればシューベルトなどを聴いてみたいと書いていましたが、そんな折も折、CD店を覗いているとまるでこちらの意向を察してくれたかのように、彼女のシューベルトのBOXセットがワゴンのセール品の中に紛れ込んでいるのを発見して即購入。

WARNER CLASSICSによる6枚組で、2種の4つの即興曲、後期をすべて含む7つのソナタ、さすらい人幻想曲、ピアノ五重奏「ます」というもので、まあまあ主要な作品は押さえられている感じです。
しかも、価格は(正確に忘れましたが)たしか千円代前半ぐらいの、買う側にとっては大変ありがたい反面、演奏者には申し訳ないような破格値でした。

内容はやはり誠実一途な演奏で、どれを聴いても一貫した節度と厳しさと信頼感にあふれており、レオンスカヤのピアニストとしての良識・見識は疑いのないものでした。
ただ、どれもまだ現在にくらべると若い頃の演奏で、録音年を確認したところ1985年〜1997年の演奏で、一番新しいものでも21年、古いものは33年前の演奏ということになります。
もちろんそれでも満足の行くものではありましたが、最近のような表現の幅と自由さみたいなものは少なめで、やや硬い感じもあり、あえて欲をいわせてもらうなら、もうすこし力を抜いた微笑みがほしいというのはありました。

以前からマロニエ君はこのレオンスカヤの真面目一筋みたいな臭いの強すぎる演奏が苦手でしたが、当然ながらそれは曲にもよるわけで、シューベルトにはその折り目正しい演奏スタイルが向いていて、彼女のいい面がストレートに反映できる作品だったといえるでしょう。

そういえば吉田秀和氏が、ある著書の中でホロヴィッツのシューベルトに触れていたのを思い出します。
タイトルも忘れたし、うろ覚えですが、おおよその意味はホロヴィッツが弾くシューベルトを「あまりに作為的、香水がききすぎた感じ」という感じに表現し、「自分はもっとやさしみのある、正確さをもったシューベルトのほうが好み」といったようなことが書かれていたよう記憶しています。

これはまったく同感で、シューベルトというのはやっぱりそういう端正な演奏を好む音楽だと思うし、これをあまりに好き勝手にやられるとシューベルトの世界が崩れてしまいます。
かといって、あまりに細かい意味付けとハイクオリティをやり過ぎたのが内田光子で、全方位に意識を張りつめすぎた結果、聴くほうも強烈な疲労感に襲われ、最後は酸欠状態になりそうでした。

レオンスカヤにはそんな緊迫性はありませんが、もう少し丸く自由になっていただけたらいいと思われ、できることなら今のレオンスカヤにシューベルトの主要作品だけは再録してほしいと強く思います。

再録といえば、やはり評論家の宇野功芳氏は内田光子にモーツァルトのピアノソナタを再録してほしいと書かれていて、これまた激しく同感ですが、どうもその予定はないのだとか。

このように再録してほしいピアニストと作品の組み合わせはいくつかあるのに、なかなかそうはならない一方で、もういいよ!と思うようなものを、しつこく何度も入れる懲りない人もいたりで、どうも聴き手の要求と現実は噛み合っているとは言い難い気がします。
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映画と特集と名簿

宮下奈都原作の『羊と鋼の森』が映画化されたことで、最近は何かとこれが宣伝されていますね。

マロニエ君は本が出てすぐに読みましたが、自分がピアノ好きで調律にも興味を持っているからこそ、まあそれなりに読めましたが、あの内容が一般人ウケするとは思えなかったし、まして映画化されてこれほど話題になるなんて、まるで想像もしていませんでした。

映画化どころか、もし自分が小説家だったら、ピアノ調律師の話なんか書いても誰も興味を示さないだろうというところへ行き着いて書かないと思うのですが、近ごろはマンガの『ピアノのムシ』みたいなものもあるし、何がウケるのかさっぱりわかりません。

もしかすると、小説も漫画も映画も、ありきたりな題材ではもはや注目を浴びないので、たとえ専門性が高くても、これまでだれも手を付けてこなかったジャンルに触れてみせることで世間の耳目を集めるということで、ピアノとか調律といったものも注目されているのか…。

雑誌『ショパン』でも巻頭でこの映画『羊と鋼の森』が大きく特集され、その繋がりで調律に関する記事にもかなりページが割かれていた(ように書店では見えた)ので、普段は立ってパラパラしか見ないのに、今月号は珍しく購入してみることに。

ただ、自宅でじっくり眺めてみると、期待するほど濃い内容でもなく、巻頭グラビアでは8ページにもわたって主役を演じた山崎賢人さんのファン向けとしか思えない、同じスタジオで同じ服を着た写真ばかりが延々と続き、そのあとにあらすじ、登場人物紹介、映画の写真館などのページとなり、なにも音楽雑誌でこんなことをしなくてもと思いました。
こういう芸能情報的なページ作りを得意とする雑誌は他にいくらでもあるはずで(知らないけれど)、『ショパン』ではピアノの雑誌としての独自の専門性をもった部分にフォーカスして欲しかったと思います。

映画紹介・俳優紹介のたぐいは実に24ページにもおよび、そのあとからいよいよ調律に関する記事になりました。
しかし、それらはピアノの専門誌というにはあまりにも初歩的で表面的なことに終始しており、見れば見るほど、買ったことを少し後悔することに。

変な興味をそそったのは、特集の最後に調律師の全国組織である「日本ピアノ調律師協会(通称;ニッピ)」の会員名簿が記載されていることで、ざっと見わたしたところ2千数百名の会員が在籍しておられるようでした。

それでついでにこの協会のHPを見ましたが、何をやっている組織なのか部外者にはよくわからないものでした。
会員になるにはまず技能検定試験の合格者であることが求められ、書類審査があり、会員の推薦が必要、その上で理事会の承認を得るという手順を踏んでいくらしいことが判明。
ただ、どこぞの名門ゴルフクラブやフリーメーソンじゃあるまいし、推薦まで必要とは大仰なことで、なんだかへぇぇ…という感じです。
さらに入会金と年会費が必要で、年会費だけでも32,000円とあり、ここに名を連ねるだけでも調律師さんは毎年税金を払うみたいで大変だなぁ…と思いました。

で、単純計算でも会費だけで年間7000千万円以上(HPでは会員約3000人とあり、その場合約1億円!)の収入となりますが、今どきのことでもあり、果たしてどういった運営・運用・活動をされているんでしょうね。
少なくとも、それだけのことをクリアした人は名刺にこの組織の会員であることが書けるということなのかもしれませんが、いちピアノユーザーとして言わせてもらうと、その人の技術やセンスこそが問題であって、ニッピ会員であるかどうかなんて肩書はまったく問題じゃないし、何も肩書のない人が実は素晴らしい仕事をされることもあり、とくに重要視はしません。
むしろあまり肩書をたくさん書き並べる人は、却ってマロニエ君としては警戒しますけど。

名簿の中にマロニエ君の知る調律師さん達の名を探すと、会員である方のほうがやや多いけれど、大変なテクニシャンでありながらここに属さない方も数名おられて、そのあたりにも各人の方向性やスタンスが垣間見られるようでした。
当然ながら、真の一匹狼を貫く方はここには属さないということなんでしょう。

陶器の酒井田柿右衛門が濁し手の作品で、工房の職人さんの描いたものには「柿右衛門」の文字が入るけれど、自身が手がけた作品には逆に何も書かないこと(文字を入れなくてもわかるだろう、真似できるものではないから名を入れる必要もないという自信の表れ?)を思い出しました。

さらにその後のページでは、『羊と鋼の森』の映画の効果で調律師を志す人が増えるだろうという見立てなのか、調律師養成の学校紹介や広告が続きましたが、たしかに映画の影響というのは小さくないものがあるでしょうから、これがきっかけで調律師になろうと人生の方向を定める若者がいるのかもしれませんね。
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最後のピレシュ

Eテレのクラシック音楽館で、マリア・ジョアン・ピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/NHK交響楽団によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を視聴しました。

最近は、この番組の冒頭、N響コンマスのマロさんが番組ナビゲーターをつとめていますが、あれってどうなんでしょう。
いつも独特のぎらっとした服装で直立不動、トークも硬くこわばったようで、どことなく怖い感じがするのはマロニエ君だけなのか。
トークの専門家ではないことはわかるけど、もうすこしやわらかな語り口にならないものか…。

そのマロさんの解説によると、ピレシュは今年限りでピアニストとしての引退を表明しているんだそうで、これが最後の来日の由。

マロニエ君がピレシュの演奏に始めて接したのは、モーツァルトのソナタ全集。
たしか東京のイイノホールで収録され、DENONから発売されたLPで、これが事実上のレコードデビューみたいなものだったから、ああ、あれから早40年が経ったのかと思うと感慨もひとしおです。

さて、引退を前に演奏されたベートーヴェンの4番ですが、マロニエ君の耳がないのでしょう、残念ながらさして感銘を覚えるようなものではありませんでした。

この人は指の分離がそれほどよくないのか、演奏の滑舌が良くないし、手首から先が見るからに固そうで、それを反映してかいつも内にこもったような音になっていて、彼女の出す音にはオーラのようなものを感じません。
それと、これを言っちゃおしまいかもしれませんが、もともとさほどテクニックのある人ではなかったところへ、お歳を重ねられたこともあってか、聴いていて安心感が失われてハラハラしました。

解釈については、本来この人なりのものがあるようには思うけれど、全体に限られたテクニックが表現を阻んでしまい、きっとご本人もそのあたりはよく承知されているはず…と勝手な想像をしてしまいます。
4番は早い話がスケールとアルペジョで構成されたような、弾く側にすればあやうい曲で、正確な指さばきが一定の品位の中で駆け回ることが要求されますから、ある意味、皇帝よりきちっとしたテクニックが求められるのかもしれません。

ピレシュの音楽は全体にコンパクトかつ虚飾を排したものであり、それがときに説得力をもって心に染みることもあるけれど、もっと大きく余裕ある羽ばたきであって欲しいと感じる局面も多々あり、この4番でも、音楽的にも物理的にももっとしなやかで隅々まで気配りの行き届いた演奏を求めたくなってしまうのが偽らざるところでした。

彼女のピアノが長年描いてきたのは、毒や狂気ではなく、音楽のもつ良識の世界だから、そこにまぎれてそれほど目立たなかったのかもしれませんが、この人は意外に穏やかな人ではなく、演奏もいつもなにかにちょっと怒っているようにマロニエ君には感じられ、ディテールは繊細とはいい難いドライな面があり、必要性のない叩きつけ等が多用されるのは、この人の演奏を聴くたびに感じる不思議な部分でした。

左手の三連音のような伴奏があるところなど、わざとではないかと思うほど機械的に、無表情に奏されることがしばしばあったり、ポルタートやノンレガートなどでも、手首ごと激しく上下させてスタッカートのようにしてしまうなど、決してやわらかなものではない。
もしかしたら、これらはテクニック上の問題かも知れず、名声が力量以上のものになってしまったことに、人知れず苦しんでいたのかもしれないなどと、こう言っては失礼かもしれませんが、ついそんなことを考えさせられてしまうマロニエ君でした。

ただ、それはピレシュが音楽的心情的にドライな人というのではありません。
同じト長調ということもあってか、アンコールではベートーヴェンの6つのバガテルから第5が弾かれましたが、これは初心者でも弾ける美しい小品で、これならテクニックの心配はまったくなく、実に趣味の良い、豊かな情感をたたえた好ましい演奏になっていました。

後半には短いドキュメントも放映されて、若い人へのメッセージとして心の音を聴く、芸術を追求するといったご尤もなことを繰り返し述べていましたし、それはご本人も実際にそのように思っておられることだろうと思います。
ただ、実際の演奏が、その言葉を体現したものになっているかといえば、必ずしもそうとはいえないところがあり、そのあたりが演奏というものが常に技術の裏付けを容赦なく要求する行為であるが故の難しいところなのかもしれません。

最後に、1992年の映像でやはりピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/N響、場所もNHKホールという、ピアニスト/指揮者/オーケストラ/会場が同じで、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番の第2/3楽章が放映されましたが、26年前とあってさすがに体力気力に満ちており、こちらはずっと見事な充実感のある演奏でした。
やっぱりこうでなくちゃいけません。
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安い席

以前から非常に不思議に感じていたことのひとつ。

それはコンサートのチケットが安い方から売れていくという現象です。
誰しも出費は安い方がいいのは当然ですが、コンサートにおける最安の席というのは、本当に節約に値するのか。
大抵の場合、ステージからは最も遠く離れた場所であったり、シューボックス型のホールでは、左右いずれかの壁の上部にへばり付いたような席で、しかも音響的にも視覚的にも、どう考えても好ましいとはマロニエ君には思えません。

一般的にいえばコンサートに行くということは、生演奏に立ち合い、それを通じて演奏者の魅力や音楽にじかに触れて、音楽が目の前で紡ぎだされる現場の空気を味わい堪能することにあるのだと思います。
その目的を達成するためには、ホール内のどの席に座るかというのは非常に重要で、聴く位置によって演奏から受ける印象は相当違ったものになります。

たとえば、空席の目立つ自由席の演奏会などで、前半と後半で席を変えてみると、思った以上に印象の違いがあることに驚かされることは一度や二度ではありません。この違いは、演奏者や楽器が変わるのに匹敵するぐらいの差があるといっても過言ではないでしょう。

秀逸な音響をもつ中型以下のホールの中には、どこに座ってもそこそこの音質が楽しめるようなところもごく稀になくはありません。
しかし、多くの場合、座る位置で音響は甚だしく違います。
おしなべて最前列付近は音のバランスが悪いし、壁際であれ天井近くであれ、いわゆる空間の偏った隅っこはいい音がしません。

とりわけ大きなホールになるほど、安い席は音は遠く不鮮明で、場合によっては演奏の良し悪しも何もわからないような、ほとんど遠くの霞んだ景色を眺めるような場合のほうが多いと言ってもいいでしょう。
輪郭さえおぼつかない反射音や残響音ばかりを耳にしながら2時間近く耐えることが、果たして音楽を聴いたと言えるのかどうか。

最安の席というのはだいだいそのあたりになっています。
いうなれば、ちゃんとそれなりの理由があるから安いわけで、コストパフォーマンスは低いというべきでしょう。
それなのに安い席から売れていくというのは、マロニエ君的にはまったく不可解なのです。

たとえば飛行機などの交通手段であれば、窮屈な席でも辛抱さえすれば、目指す目的地へと移動できるという実利があり、これはなるほど安い価値があるでしょう。

でももし、映画館で安い席はピントがボケボケだったりしたなら、それで観る人はまずいないだろうと思います。
映像と違って、音は響きとピンボケの境目がわかりにくいということかもしれませんが。

マロニエ君は何度も書いたように最近コンサートは食傷気味ですが、行く以上はせめて一定の席で聴きたいものです。
少なくとも何を聴いたかよくわからないようなものにチケット代を払うのは、一番もったいないと思うのですが。
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キーシンのベートーヴェン

キーシン初のベートーヴェンのアルバムがドイツ・グラモフォンから昨年発売されましたが、今年になって購入してしばらく聴いてみました。

ドイツ・グラモフォンからは、まだ少年の頃にシューベルのさすらい人などが入ったアルバムや、カラヤンとやったチャイコフスキーの協奏曲などが出ていただけで、その後はRCAなどからリリースされていましたから、久しぶりにこのレーベルに復帰したということになるのでしょうか。

内容はソナタが第3番、第14番「月光」、第23番「熱情」、第26番「告別」、第32番の5曲と、創作主題による32の変奏曲を加えたもので、2枚組となっています。

ただしスタジオ録音ではなく、すべてライブ録音。
しかも一夜のコンサート、もしくは一連のコンサートではなく、10年間にわたるライブ音源の中からかき集めたようなもの。
本人の説明では「私にとってのライブ録音は常にスタジオ録音を上回っています。」ということもあるようで、言葉通りに受け取ればより良い演奏をCDとして残すため、本人の希望を採り入れたということになるのかもしれません。

順不同でソウル/ウィーン/ニューヨーク/アムステルダム/ヴェルヴィエ/モンペリエという具合に、すべてが別の場所で収録されたもので、こういうアルバムの作り方は、現役ピアニストとしては珍しいような気もしました。

これはこれで悪いとは思わないけれど、強いていうなら40代という体力的にも充実しきった年齢にありながら、ひとつのアルバムの中の演奏に10年もの開きがあるというのは、演奏家にはその時期の演奏というものが意識/無意識にかかわらずあるので、できるならもう少し短い期間に圧縮して欲しいという気持ちもないではありません。

その点で云うとポリーニが始めに後期のソナタを入れていらい、その後数十年間をかけてベートーヴェンのソナタ全集を作り上げたのも、あまりに演奏の時期が広がりすぎてしまった結果、全集というものの性質を備えているかどうかさえ疑問に感じました。
いっぽうで、技術と暗譜力にものをいわせて、あまりに一気に全曲録音などしてしまうのも能力自慢と作品軽視みたいで好きではないけれど、できればほどほどのまとまった期間の中で弾いて欲しいという思いがあるのも正直なところです。

そんなことを思いながら、要はスピーカーからからどんな演奏が聴こえてくるのかということに集中したいと思いました。

ピアニストにとってベートーヴェンのソナタは避けては通れぬレパートリーではあるけれど、キーシンとベートーヴェンの相性は必ずしも良くはないと個人的には感じていて、実際聴いてみても、どの曲にも常にちょっとした齟齬というか、パズルのピースがわずかに噛み合っていない感じをやはり受けてしまいました。

暑苦しいほどの壮絶な人生がそのまま作品となっているベートーヴェンと、円熟の時期にさしかかっているとはいえもともと清純無垢な天使の化身のようなキーシンの、叙情そのもののようなピアノには、本質的に相容れないものがあるように感じます。

むろんキーシンらしく、極めて用意周到で一瞬もゆるがせにしない気品あふれる美しい演奏であるのは間違いないし、演奏クオリティの高さとピアニストとしての際立った誠実さを感じるのですが、その結果として演奏があまりに完璧な陶器のようにつややかで、ピアニストと作品の間に横たわる決して合流しない溝のようなものがあることを見てしまう気がしました。

ベートーヴェン的ではない天才が、努力して作曲家に近づこうとしているけれど、それが本質的にしっくりはまらない面があるのを聴いている側は感じるのがもどかしい。

初期のものと最後のソナタではどんな違いがあるのかとも期待したのですが、少なくともマロニエ君の耳には、初期のそれがそれほど初々しくも聴こえなかったし、中期の熱情や告別も含めて、どれも同じような調子に聞こえました。
というか、こういう演奏からは、そういう聴き分けはむしろ難しくなると思われます。

それはどれを弾いてもキーシンが前に出てしまうということかもしれませんが、少なくともベートーヴェンを満喫したという気分にはなれませんでした。
個人的に一番好ましく感じたのは自作の主題による変奏曲で、キーシンらしい破綻というものを知らない嬉々としたピアニズムがここでは遺憾なく発揮されていたと思います。
あまりに深沈として大真面目になっているときより、詩情や感受性の命じるままに嬉々として弾いている時のほうが、キーシンにはずっと似合っているとマロニエ君は思います。
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OHHASHIの210型

目的もなくネットを見ていたら、大橋グランドピアノの210cmというのが出てきて、目を疑いました。

しかも、ピアノ店の商品として「販売中のピアノ」ということがさらに意外で、あまりにも思いがけないことでただもうびっくり仰天したわけです。
それは京都市伏見区のぴあの屋ドットコムというピアノ店。
そこの店主自ら動画に登場して1台1台ピアノを紹介し、音まで聴かせてくれるというもので、ピアノが好きな人ならきっと一度は見られたことがあると思われる特徴的なサイトというかお店です。

「はい、みなさんこんにちわぁ。ぴあの屋ドットコムのいしやまぁです!」というおなじみのフレーズから始まるピアノ紹介は、数をこなすうちに腕が上がったのか、もともとなのかわからないけれど、ちょっとした芸能人のようにそのしゃべりは明快でフレンドリー、まるでこちらに直に話しかけられているような手慣れたもの。
ときどき珍しいピアノが登場することがあり、石山さんの演奏で音も聴けるということもあり、ついあれこれと見てしまうことがあります。

不思議なもので、この店の動画を見ていると、まるで石山さんと知り合いであるかのような錯覚に陥ってきますから、それだけ氏の語りがお上手ということなんでしょうし、ご自分の顔を躊躇なくアップで撮影されるところも、独特の親しみにつながっているのかも。
しかも、内容は簡潔、余計なことをくどくど言わず、誰が見てもわかるように必要なことだけを手短かに、しかもたっぷり親しみを込めて話していかれ、しかも営業的な押し付けがましさがないので、まったくストレスにならないのはこの手の動画としては珍しいことでしょう。

この店のスタイルを真似て、さっそくいくつかのピアノ店でも動画で説明・演奏ということをやっているところがありますが、どれひとつとしてぴあの屋ドットコムを超えるものはなく、いかに石山さんの明るいキャラとトーク術が突出しているかがわかります。

大橋ピアノに話を戻すと、この210型はわずか16台だけが製造されたモデルだそうで、これはもうヴィンテージ・フェラーリも真っ青といった希少性ですね。
「奇跡の入荷」とありましたが、たしかにこのピアノに限ってはそれも頷ける話です。
マロニエ君もむろん現物は見たことがなく、大橋ピアノ研究所の本『父子二代のピアノ 人 技あればこそ、技 人ありてこそ』の冒頭でこの210型の前に腰掛ける晩年の大橋幡岩氏が写っている写真で一部を見たことがあったぐらいで、まさに幻のピアノでした。

それがいま目の前の画面に売り物として掲載され、いつものように動画も準備されているのですから、思いがけないところでこの幻のピアノの音を聴くことができることに思わず興奮。
はやる気持ちを抑えつつ再生ボタンを押しましたが、実際にその音を聴いてみるまでこれほどドキドキワクワクしたピアノは他になかったかもしれません。
とりわけ興味があったのは、マロニエ君自身が以前所有していたのがディアパソンの210Eですから、同じ設計者、同じサイズで、片やカワイ楽器による量産品、片や設計者自らが立ち上げた製造所で最高の材料を使って手作りされたスペシャルモデルで、果たしてその音とはどれほど違うのかというところでもありました。

果たして、その音はというと、記憶にあるディアパソンに酷似しており、自分が持っていたピアノとの違いを探すのに苦労するほどでした。
もちろんパソコンを通じての音なので、現物の響き具合とか音量などがどのぐらいのものか…というところまではわかりませんが、ただ意外にそれでも、基本となるものはわかるものです。
全体のトーンはむろんのこと、低音の一音一音それぞれの鳴り方や特徴までそっくりで、設計者が同じというのはここまで似てしまうものかと、寧ろそっちにびっくりしました。

逆にいうと、カワイは、大橋氏の設計をかなり忠実に再現していたことがわかり、その点は素直に感心してしまいました。
聞いたところではディアパソンの名前と設計を譲渡する際、大橋氏は自分の設計に忠実に制作されることを強く望まれたそうですが、その約束は見事に守られていたのだということを、この幻の大橋ピアノの音が証明しているようでした。
音だけでなく、フェルトやフレームの色も昔のディアパソンそのままで、フェルト全体はちょっとエグイぐらいの緑、その中でアグラフに近い部分や鍵盤蓋の下などところどころが赤という、まるでグッチの配色みたいなところもそのままだし、やや緑がかったフレームの金色もディアパソンと瓜二つでした。

また、ディアパソンの一本張りというのは、大橋氏が採用したものではなく、カワイ傘下に入ったあとで追加されたものと聞いていましたが、たしかに大橋ピアノは幡岩氏が自分の理想を貫いたピアノであるにもかかわらず、弦は一本張りではないことも確認できました。
マロニエ君が持っていたディアパソンも一本張りではなかったことから、あれこそ大橋氏のオリジナルスタイルだったんだといまさらのように懐かしく思えました。

強いて違いをあげるなら、音の伸びだろうと感じました。
ディアパソンと瓜二つの音ですが、その減衰の度合いはゆっくりで、さすがにこれは響板(北海道産エゾマツ)の違いがもたらすものだろうと思われました。量産品との違いが一番出るのが響板なのかもしれません。

さて、この超希少な大橋ピアノ210型のお値段は398万円とあり、それをどう見るかは意見の別れるところかもしれませんが、大橋幡岩という日本のピアノ史に燦然と輝くピアノ職人の天才が最後に自らの名を冠したピアノで、しかも総数16台というその希少性からすれば、これはもう「なんでも鑑定団級の価値」があるわけで、安いのかもしれません。
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個性は普通さ

Eテレの録画から、今年3月サントリーホールでおこなわれたオーケストラアンサンブル金沢の演奏会を視聴しました。

冒頭にプーランクのオーバードがあって、そのあとは3曲のハイドンのシンフォニーという珍しいプログラム。
オーバード(朝の歌)は舞踏協奏曲という、バレエ音楽と言っていいのかどうかしらないけれど、ピアノと小規模オーケストラとの協奏曲のようになっているちょっと風変わりな曲です。

指揮は井上道義、ピアノ独奏は反田恭平。

プーランクといえば多くのピアノ作品がある他、オーケストラ付きではピアノ協奏曲や2台のピアノのための協奏曲は有名で、昔からこのあたりのディスクを買い集めると、大抵このオーバードも含まれており、積極的に聴いたことはないものの、他を聴くと流れで耳にしていたことは何度もありました。

大半がフランス人ピアニストの演奏で、中にはグールドの映像というような珍しいものもあるにはあるけれど、いずれにしろ普段ほとんど演奏される機会はあまりない作品で、マロニエ君もこの曲を現代の演奏(の映像)としてまじまじと視聴したのは初めてだった気がします。

全体的な印象としては、とりあえずきちんと演奏されたというだけでニュアンスに乏しく、正直ちょっと退屈してしまいました。
とくにこの曲の雰囲気とか、書かれた時代背景や大戦前のフランスの匂いのようなものを感じさせるところがなく、クラシックの膨大なレパートリーの中の珍しい一曲をもってきましたというだけの距離感でとどまっているようでした。
それと、これはやはり踊りがあったほうが生きてくる音楽なのかもしれません。

反田さんはいつもながら、きれいな姿勢で、大きな手で、無理なく指や腕を使いながらシャキッとしたピアノを弾かれます。
けれども、その先にあるべき音楽表現の何かを感じるには至らないのが(アンコールのシューマン=リストの「献呈」を含めて)いつももの足りない気分にさせられるのも事実。
この方は、髪を後ろで縛って、黒縁の眼鏡をかけて、一見それが個性的であるかのようでもありますが、実はマロニエ君は逆の見方をしています。
彼のそのようなビジュアルはじめ、ちょっとした彼のしぐさとか印象などにも表れているのは、音楽の世界の外にならいくらでもいそうな、いかにも「今どきの普通の青年」というところがウケているのではないかということ。

幼少期からずっと楽器の修行に明け暮れてきた人には、たいてい独特の雰囲気があって、純粋培養というか、よく言えば繊細、ありていにいえば特殊な人達という感じが漂うのが普通ですが、反田さんにはいい意味でそれがなく、普通にどこでバイトをしても、コンビニにいても、街角でギター片手に歌っていても、すんなりサマになりそうな今どきの若者の感じがあって、そんな人がピアノを弾くときに醸し出すどこかロックな感覚がある。
もちろん、抜群にピアノが上手いことは言うまでもないけれど、ただ抜群にうまいというだけではない…とマロニエ君は思うわけです。

演奏にもその普通さが良い面に働き、かび臭い不健康なところがなく、スケボーのお兄さんがあっと驚くような高難度の技に挑んでは見事成功させるようなおどろきと爽快さが反田さんにはありますね。
変な言い方かもしれないけれど、健康な若者の新陳代謝みたいなものが曲の組み立てにも息づいていて、それが萌える新緑のような若々しさにつながっている感じ。

ただ、ピアニストとしてそれで充分なのかというと、個人的には不満もあるわけで、彼の演奏には聴く人の心にふっと染みこんでくるような語りとか滋味といったものが不足しているのは聴くたびに感じるところ。

それと、物怖じしない健康男子のイメージとは裏腹に、演奏そのものはどちらかというと冒険を排した安全運転で、ときどきメリハリあるだろ?みたいな瞬間はあるけれども、全体としては個性のない優等生といったタイプ。

演奏を技術行為としてではなく、その先のある芸術表現を聴く人に向けて提示し投げかけてみること、ここにご本人がより強い興味を持ってくれたら、この人は器は小さくなさそうだからかなりいい線いくんじゃないかと思います。
そういう意味では、彼はまだまだ技術の人という場所にいると思いますが、まだ若いし、今後の深まりを期待したいところです。
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グランフィール

ピアノがお好きな知人の方から思いがけない情報をいただきました。
福岡の某ショッピングモールに買い物に行かれたところ、イベント会場で近隣の楽器店によるピアノの展示販売会が行われており、その中にヤマハの中古アップライトにグランフィールを装着したものがあった由。
曰く、タッチはピアニッシモが出しやすかったとのこと。

グランフィールは鹿児島県の薩摩川内市にある藤井ピアノサービスのご主人が考案され、特許も取得されたものらしく、アップライトピアノの構造上やむを得ず制約を受けるタッチを、グランドピアノ並みに改善するための発明…といえばいいのでしょうか。
すでに全国のピアノ店の多くがその取り扱い(正確には取り付け)をしているあたり、どんなものか興味津々でした。

実をいうと、何年も前に藤井ピアノサービスを訪れた際、このグランフィール付きのアップライトに触れたことはあったものの、この時はこの店が保有する珍しいピアノのほうに気持ちが向いていて、アップライトのタッチにあまり熱心ではありませんでした。

しかしここ最近は自室でシュベスターのアップライトを弾くようになり、たしかにアップライトのタッチ感は良いとは言えないけれど、アップライトはこういうものだからと諦めてしまえば、それはそれで馴れていたというのが正直なところ。

そこに飛び込んできたグランフィールの情報でしたので、それはぜひ!というわけで、翌日マロニエ君もさっそくそのモールのイベント会場に赴きました。

何台も並べられたアップライトピアノ(UP)の中で1台だけグランフィールを装着したヤマハの中古UPがあり、さっそく触らせていただきましたが、予想を遥かに超えたその効果にはただもうびっくりでした。
人差し指で、単音を出しても違いの片鱗は感じたけれど、周囲を気にしながらちょっと曲を弾くと、えっ、なにこれ!?
まるでUPとは思えぬコントロール性、音色の落ち着きは圧倒的で、わずか数秒で不覚にも感動さえしてしまったのでした。

情報提供者の「ピアニッシモが出しやすい」というのは、要はコントロールが自在ということで、通常のUPの出す音がどこかもうひとつ品位や深味がないのは音そのものではなく、タッチコントロールが効いていないから、いちいち無神経な発音になっている部分が大きいということが、グランフィール付きを弾いてみることでたちまち解明できました。

UPなのにスッキリした好ましいタッチの感触を知ってしまうと、これまでのUPのタッチは常に無用な重さとクセみたいなものに邪魔されていることがいやでもわかります。とくにストロークの上のほうが重く、そのあとはストンと落ちてしまいまい、そのストンと落ちるタッチから出る音が、UP独特のあのバチャッとした表情に乏しい音なんですね。

ピアノそのものは普通のヤマハの中古UPなのに、タッチがグランド並になっただけで表現力はたちまち倍加され、ひとまわりもふたまわりも格上の、やけに落ち着いた大人っぽいピアノのようになってしまうのですから、いかにタッチがピアノとしての価値や魅力を左右しているかを思い知らされ、とても貴重な体験にもなりました。

正直言って、自分で体験してみるまではこれほどとは思っていませんでしたし、わざわざそんな費用と手間をかけるぐらいなら、スパッとグランドにしたほうがいいのでは?裏を返せばUPはしょせんUP、グランドには敵わない…という思い込みがありました。
しかし、現実にこのような好ましいタッチのUPに触れてみれば、当たり前ですがむろんそれに越したことはないのです。

タッチの変なくせがなくなり自由度が増してくると、そこから出てくる音も決して悪くはないように聞こえるし、逆を言えば、グランドだってはっきりいって貧相な安っぽい音を出すものもあれば、そんなショボいグランドよりずっと威厳のある低音なんかを出せるUPもあることを思い出しました。

ともかく、このグランフィールの効果たるやまったく衝撃的で、できればすぐにでも我がシュベスターに装着したいところです。
しかし、その価格を聞くと20万円(税抜き)からだそうで、その効果は充分わかっていてもちょっと考えてしまう金額なのも事実で、少なくともマロニエ君にとっては即決できるようなものではなく、ひとえに価格だけが足を引っ張ってしまいます。
一部の高価な外国製UPはともかく、対象の多くが国産のUPだとすると、もう1台中古ピアノが買えそうなこの価格がネックとなって、付けたいけれど断念される方が多くいらっしゃるのではないでしょうか?

UPの長所は、自分で使ってみると痛感しますが、なんといってもグランドのように場所を取らないことで、さすがのマロニエ君でも、自室にグランドを置こうなどとは思いません。
なので、スペース的にグランドは無理だけど、タッチや表現にはこだわりたいという人には、これは唯一無二の解決策であるのは間違いないようです。
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春は忍耐

春は喜ばしいものだと、心からそう思い、感じ、疑いの余地などないかのように、昔から日本人は刷り込まれています。
でも、マロニエ君はやっぱりどう贔屓目に見ても現実の春はかなり過ごしにくく、おそらくは昔の生活環境からくる刷り込みだろうと思います。

隙間風の多い日本家屋、劣悪で脆弱な暖房手段などに痛めつけられて健康を害し、心も塞ぎこんで、冬が過ぎ去るだけで喜びがあったのでしょう。
しかし現代の多くが密閉性の高い住宅と、快適なエアコンやヒーター、当たり前のような給湯システムなどの快適装置、安価で暖かな衣類など幾重にも守られて生活しているので、昔ほど冬の厳しさに身を犠牲にすることなく済むようになったのは確かでしょう。

そんな現代人にとって、むしろ春は、花粉の飛散、めまぐるしく変化する温湿度や天候など、少なくとも心身の健康に欠かせない「安定した環境」という意味では、冬に比べてずっと厳しく過酷だと思います。
とくに免疫力が低く、ストレスを抱え、自律神経などを痛めた人には、温度調節ひとつとっても春の不快感は甚大なものがあります。
車のオートエアコンも注意深く見ていると、暖房になったり冷房になったりして機械でさえも迷って定まらないんだなぁと思います。
もちろん、マロニエ君は福岡や東京を基準としているので、北海道や沖縄のことはわかりませんが。

温湿度の変化がころころ激しく上下することは、楽器のコンディションにも如実に現れて、冬場よりも今の時期のほうがピアノもやや乱れ気味ですし、人間もマロニエ君の知る限り、周りの老若男女ほぼすべての人がなんらかの体の不調を訴え、小さな子供まで不快感と闘いながら毎日を過ごしています。
だから、春は個人的にはかなり苦手なのですが、なかなかそれが表向きの声としては聞かれません。

今でも冬は悪玉、春は善玉という構図はかわらず、春の優位性は揺らがないようです。
分厚いコートが要らなくなって、桜のような派手な花が咲いて、ゴールデンウィークなどがあるからで日本だけかと思ったら、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、シューマンの交響曲でも春は大いに礼賛の対象として謳われているし、ボッティチェリの至高の名作もプリマヴェーラ(春)であったりしますから、これは洋の東西を問わないものなのか。
また世界情勢でもプラハの春やアラブの春など、体制の変化や雪解けを意味するときにも春という言葉を使いますね。

ともかく古今東西、どれだけ春を持ち上げようとも、マロニエ君はこれだけは賛同できません。
春特有の濁ったような空気とむせるような匂い、暑さと寒さが一緒くたになったみたいな気候、それに続く梅雨が終わるまでは、じっとガマンの4~5ヶ月というわけです。


某番組では、シューマンを得意と自称する女性ピアニストが登場し、詩情の欠片もないトロイメライを奏し、ゲストとして持ち上げられてきゃっきゃとおしゃべりをした後は、再びピアノに向かい、ベートーヴェンの熱情の第3楽章をお弾きになりました。
終始ふらつくテンポ、何を言いたいのかまったくわからない、なぜこの曲を弾きたいのかも、何一つ見えてこないプラスチックの食器みたいな演奏にびっくりしました。
演奏後、司会者からこの熱情を含むこの方のCDが発売されると紹介され、それならよほど弾き込みができているはずなのにと思いましたが、ともかく宣伝も兼ねてのことのようで、やはり今どきはピアノの演奏そのものより、いろんなところで幅広く行動のとれる人であることが必要ということなんでしょう。
その成果かどうかは知らないけれど、こういう変にメディア慣れしたような人が、日本で最高ランクの音大で要職についているというのですから、出るのはため息ばかり。

トロイメライで思い出しましたが、ニコライ・ルガンスキーの日本公演の様子も視聴しました。
子供の情景やショパンの舟歌やバラード第4番といったプログラムでしたが、子供の情景では作品と演奏者の息が合わずあまりいいとは思いませんでしたが、ショパン晩年の2曲では、思ったよりも悪くない演奏で、これは少し意外でした。

ただ、もともとルガンスキーというピアニストがあまり自分の趣味ではないこともあり、ほとんど期待していなかったので、それにしては予想よりもいい演奏だっただけで、では彼のショパンのCDを買うのかといえば、それはないと思います。
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