リストの生誕200年

昨年のショパン/シューマンの生誕200年に続いて、2011年はリストのそれにあたるようです。

生誕200年や没後何年というのが音楽の本質にどれだけ意味のあるかどうかはともかく、少なくとも音楽ビジネスの世界ではそこにあれこれと理由付けをして企画が出来るという点では、いい節目になるのだろうと思われます。

しかし現実には昨年の生誕200年も注目の大半はショパンであって、シューマンはほとんど不当とも言えるほど陰にまわってしまったというか、ショパンの圧倒的な存在感の前ではさしものシューマンもなす術がなかったという感じでした。
シューマンの不幸はショパンというあまりにも眩しすぎるスターと生誕年が同年であったことにつきるわけで、これが一年でもずれていればまた違った結果になったという気がしなくもありません。
そういう意味で、リストは大物に喰われる心配はないようですが、ショパンの翌年ということで、少しはその余波が残っているのではないかと思われますし、リスト単独で注目を集めるほど現代人の意識にとって彼が大物かと言えばいささか疑問の余地も残ります。

リストはいうまでもなく、ロマン派のピアノレパートリーとしてはほぼ中心の一角をしめる音楽歴史上(とりわけピアノ音楽、演奏技巧、リサイタルの在り方、楽器の発達史など)の超大物ではああることは間違いありません。しかし一般的にモーツァルトやショパンに較べてどれだけの神通力があるかたいえば甚だ疑問です。
作品もピアノ曲だけでもまことに夥しい量ですが玉石混淆。

とくにリストの場合、その膨大な作品数に対して有名な曲はきわめて少数で、一般的に知られている作品はほとんど一割程度じゃないか…ぐらいに思います。これがショパンの場合は大半の作品が広く知られて親しまれているわけで、あまりにも対照的ですね。

実はマロニエ君自身も、リストはそれほど好きな作曲家ではなく、よく聴く曲はせいぜいCD4〜5枚に収まる範囲で、それ以外は何かのついでやよほど気が向かなければなかなか積極的に聴こうという意欲はわきません。
リサイタルの演目としては、後半などにリストを少し入れておくのはプログラムの華として効果的だとは思いますが、演目の中心になるような作品はソナタなど多くはないというのが実情のような気もします。
ごく一部の、例えばバラード第2番とかペトラルカのソネット、詩的で宗教的な調べ、超絶技巧練習曲のうちのいくつかなど(ほかにもありますが)、真に深い芸術性に溢れた、それを聞くことで深く心が慰められ真の喜びを与えられるような作品は一部だという印象はいまだに免れません。

これらの曲はしかし、いわゆるショパンの作品のように一般受けするような曲でもなく、有名なのはラ・カンパネラや愛の夢、メフィストワルツ、ハンガリー狂詩曲の2/6/12番、リゴレットパラフレーズ、ピアノ協奏曲第1番あたりではないでしょうか。

リスト弾きと言えば思い出すのは、ジョルジュ・シフラ、ホルヘ・ボレット、フランス・クリダなどですが、そのあたりのことは長くなりますので、また別の機会に書きます。
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クン付けサン付け

テレビなどでよく耳にすることですが、すでに若くして一芸に秀で、社会的にも認知された人物に対して、まわりの人間が自分のほうがただ年長というだけで、先輩ぶった上から目線の呼びかけ方やトークをするのは基本的に好きではありません。

もちろん長幼の序は儒教精神の大切な概念ですが、それを目的外に乱用悪用するのはどうかと思います。
もともとこの傾向の祖は、現東京都知事の石原慎太郎氏であったように思うのですが、自分の生年月日を根拠に小泉さんを現役総理の時代から「純ちゃんは…」とコメントし、彼はありとあらゆる政府の要人を「クン」呼ばわりします。

こういうちょっとした合法的無礼行為と悪習はあっという間に巷に広まり、スポーツ選手あがりの解説員などは、時代が違っただけで自分よりもはるかに上位のスター選手であっても、年長を盾にして上から「クン」付けで呼び始めました。

音楽の世界にもそれは伝染病のように広がり、多くの関係者などは(単なる雇われ人まで)わざとのように例えば「辻井クン」と彼を必要以上に目下扱いして、僅かでも一瞬でも自分が上に位置するという物言いをして快感を得ているように見えてしまいます。
マロニエ君のまわりでも留学帰りの若いピアニストなどを、大した仲でもないくせに「クン」で呼ぶ人のなんと多いことか! 相手が若くして立派になればなるほど、その人をクン付けで呼ぶことに、かすかな快感と復讐の念を働かせているようにしか見えません。
極めて偏狭かつ無教養が生み出す、いわば人間の狡猾な部分を見るようです。

とくに相手の親に対してまで本人をクン付けで呼ぶのは、端から見てるとただ単にその人が嫌な感じにしか見えないものですが、ご当人はまるで「まだまだ私から見ればただの若者としか捉えていないよ」「これっぽっちも恐れ入ってはいないんだよ」といういじわるなメッセージが込められているかのようです。
自分を大きく見せようという心理でクンづけで呼んでいるその人が、しかし却って心の狭いコンプレックスの塊のようにしか見えません。

テレビなどでも相手が大物だったり有名人だったりすればするほど、あえてクン付けで呼んでいるのは、自分が同等もしくはその上にいるんだとアピールしているようで、なんとも浅ましい人物にしか見えません。
クン付けでサマになるのは、せいぜい昔の学校の先生とか、同級生などでないとダメだと思います。

そうかと思うと、逆で驚くのは芸能界などです。
昔は俳優でも芸能人でも芸人でも、呼び捨てにするのは当たり前でした。
これは別に相手を見下しているわけではなく、有名人というものは一般人からみれば直接お付き合いする生きた人間関係の対象ではなく、ただ単に名前を覚えてそれを口にする、そういう単純なものでした。
したがって失礼でもなんでもない単なる慣習だったはずです。

それが今では誰でも彼でも不気味なほどサン付けで呼ばれるのが義務化されているようです。
芸能界は異常なほどお互いをサンもしくは年下の場合はクン/ちゃんで呼び合うことが慣習化され、その名がクイズの答えであっても決して手を抜かないその徹底ぶりは、まるで軍隊みたいです。

とくにお笑い芸人などはサンをつけたその時点でもはやお笑いではなくなります。
明石家さんまでもビートたけしでも、さんま、たけし、と言う対象であってはじめて笑えるのであって、いちいち「さんまさん」「たけしさん」では、笑ってやる気にもなれません。

ではよほど礼儀正しく丁寧なのかと思えば、皇室報道などではその言葉遣いの非礼で出鱈目なことなどは呆れるばかりです。

現代はなんでも平等の権利の建前だけを、状況や事柄に関わりなく振りかざす歪な時代で、もはやTPOもなく、日本語の絶妙のセンスなどは死に絶えたも同然な気がします。
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競争心?

昨日のブログを書いてみてふと思ったのですが、常日ごろ自分のあまり意識していなかった事実に気が付きました。

マロニエ君はつまらないことで憤慨することは多いものの、人との競争心はあまりなく、むしろ必要量さえも欠落しているというか、かなり弱い方だと思っています。
そのせいで人生も負け組に甘んじているわけで、人との競争心がエネルギーとなって何かに挑戦したり奮起しようというようなガッツに欠けるのは事実ですし、この「ぴあのピア」の立ち上がりが遅いのも、ひとつにはそのせいだろうとも思っています。

でも、そんな自分にもやっぱり競争心というのは探せばあるようで、それが自分の職業とか人生設計、せめてピアノとかならまだ良かったのですが、そっちはからきしダメでかけらもありません。
では、何に対して競争心があるのかというと、ほとんどバカバカしいとしか言いようのない駐車場の場所取りとか、出入口のちょっとした順番みたいなものにはこれがあることにハッと気付き、そういう自分を認識できたことは思いがけないことでした。
むろん、つくづくバカで幼児性だなあと思いますが。

考えてみると車の多い駐車場などに行くと、条件反射的に俄然自分が燃えてきているのが、静かに振り返ってみたらわかりましたし、やみくもに頑張ろうとする自分をそこに見出すことができるのは、大いなる発見でしたが、なんとも滑稽でもあります。
駐車スペースの場所取りなどは、ほとんど無意識のうちにこれを「戦い」だと思っていますし、それは他のことのように投げ出すことも避けることも、いち早くあきらめることもなく、一人前に社会参加して自分も互角に他者と戦っていることに気が付きました。

車の運転にもそういうところがあって、変な割り込みなどをされるとか前の車がトロい走り方をしていることに関しては、他の事のように寛容ではいられません。車線の多い道路では、いかに自分だけが賢く先まで見通しを立てて、車線を選びながらいち早く走り抜けることが出来るかを、必要以上にいつも情熱的に考えてしまいます。

その状態に突入したときの緊張と、上手くいったときの過剰な喜びは、そのなによりの証拠だと思います。
なぜそうなのかは自分でもさっぱりわかりませんが、きっと遺伝子の中にポロンと組み込まれているのだろうと思います。とはいっても両親共にまったくそういう性質ではないんですけどもね。

むかし「ハンドルを握ると人が変わる」という言葉がありましたが、もしかしたらその一種かもしれません。
だから、昨日のように一回の買い物で、駐車場内で二度おいしいことがあると、尋常ではない喜びを覚えるのでしょう。
たしかに似たようなことをマロニエ君ほど喜ぶ人は他はあまりいないようにも思えます。

まあ、競争心といえばまだいっぱしですが、ただ単に幼稚というだけの事かもしれませんが。
こんなくだらないことでも本人にしてみれば、自分の中で競争心がちゃんと機能しているということを知ったという点ではちょっと嬉しいのですが。
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くだらん満足

以前も書きましたが駐車場というのは、その気で眺めるといろんな光景を目にするもので、自分自身が一喜一憂することもあると同時に、そこに小さな人間模様が観察できて意外におもしろい場所とも言えそうです。

昨日も行きつけのスーパーに行くと、例によって駐車場も混み合っていましたが、入口から遠い場所以外はほぼびっしりと車が並んでいて空きがありません。
このところの寒さと時おり降る雨ですから、みんな遠くへ置いて歩くのはイヤなのでしょうし、むろんマロニエ君も同じです。

ちょうど今にも出そうな車が目に止まり、見ると助手席の女性は準備万端整っているようですが、運転席の男性がもぞもぞしています。こちらが待っているのがわかったようで、案の定ぐずぐずパフォが始まりました。助手席の女性のほうがむしろこちらを気にかけてくれているようでした。

やたらゆったりした動きで、やっとシートベルトを着けましたが、なんのなんの、まだ動きそうにはありません。引っぱるだけ引っぱっているというあからさまな意志が伝わってくるようで、ああまたか…と思っていると、5台ぐらい先の車がスルリと出ていきました。
そっちのほうが入口は近いし、やったぁ!とばかりに、一気にそこへ移動してサッサと車を止めました。

止め終わって車を降りようとする頃、さっきの車は動き出して前を通って出口のほうへ向かいましたが、まあこっちはより良い場所にありつけたわけで、えらく満足な気分です(子供ですね)。

さて、買い物が終わって、車に戻ろうとすると目の前をいきなり大きなワンボックスタイプのワゴンが逆走していきます。しかもマロニエ君の車の隣が空いており、そこを狙っているようでした。

ところがマロニエ君の車の隣のスペースは、たまたま後ろに植木がある関係で、奥行きが浅く、そこだけ「軽」と地面に書かれた軽自動車専用スペースなのですが、そこへその大きなワゴン車を突っ込むべく、ルール違反の逆走までしてきて必死のバック駐車が始まりました。
駐車場内は一般公道ではないものの、それでも逆走というのはちょっと怖いものがあります。
しかもなにしろ隣なので、その車のバック駐車が終わるまでこちらは助手席のドアも開けられずに寒い中をじっと待っていました。

しかしどう足掻いても軽の場所に大型ワゴンですから、フロント部分が大きくはみ出して、とてもこのままではマズかろうという感じです。すると出ていこうとするこちらの気配に気付いて、場所を一台右に移動しようと思ったらしく、運転席の女性は針のような目つきでこちらをチラチラ見はじめました。
逆走してきて、さんざん周りを待たせた上に、今度はこっちへ狙いを定めたようです。

まあマロニエ君にしてみれば自分の駐車場でもないし、そもそも勿体ぶって動かないのはすごくイヤなことだと普段から思っているので、早々に動き始めました。ちなみにここは右に出る方角の一方通行です。
右にハンドルを切りながら動き出すと、そのワゴン車の駐車が済むまで動けずに待っていたボルボのワゴンの運転者と目が合いました。マロニエ君には「俺がそこに置くから」という意思表示のように見えました。
こちらも瞬間的に了解した気になり、それを受けてなんとなく普通よりゆっくりした感じで駐車スペースから出たところ、ワゴンの女性が動くよりも先にそのボルボがスッとこちらへ前進してくるのがわかりました。

果たしてワゴンの逆走女性は、さっきとは逆に自分が今後は進路をふさがれて、めでたくそのボルボがマロニエ君の出た後に駐車すべくすみやかに駐車態勢をとりました。

このあと軽の場所からはみ出したワゴンがどうしたかは知りませんが、マロニエ君にしてみれば二度にわたっておもしろいタイミングに恵まれて、こういうくだらないことに大満足して家に帰りました。
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河村尚子

河村尚子さんは、おそらくいま日本で売り出し中の新人ピアニストという位置付けでしょう。
幼少期からドイツに渡り、ハノーファー音楽芸術大学に進み多数のコンクールに出場したとあるので、ずっとドイツで育ったということなんでしょうか。
何であったか忘れましたが、わりに評判がいいというような噂も聞こえてきていました。

昨年11月だったか福岡でもちょうどこの人のリサイタルがあり、できれば行ってみようかと迷っていたのですが、結局どうしても都合が付かずに聴けませんでした。

するといいタイミングにNHKの放送で、昨年紀尾井ホールで行われた河村尚子ピアノリサイタルが放映されました。曲はシューマンのクライスレリアーナ、ショパンの華麗な変奏曲など。

解釈はオーソドックスでその点ではすんなり聴くことができました。
直球勝負的な演奏で、今どきよくあるつまらない小細工や名演の寄せ集め的なことをしないところは好ましく思えましたが、表現の多様性に欠けるのことがクライスレリアーナの2曲目以降から明瞭になりました。とてもよく弾き込まれている感じは受けましたが、残念なことにこの曲に必要な幻想性や文学的な奥行き、あるいは抽象表現がなく、あくまでもひとつの楽曲としてのみ捉えられているように思います。

また、テクニック的には今どきのピアニストとしてはごく平均的なレベルにとどまるというか、強いていうならややこの点は弱いように思いました。ミスが多かった点はまだマロニエ君は許せるのですが、基本的なタッチコントロールが不十分で、シューマンの音楽に必要な立体交差するような響きがまったく表現できないことは、この人の最も大きな問題点のように感じられました。

ドイツでみっちり教育を受けているらしいこと、また、内的な表現をしようと努めているらしいのはわかるのですが、曲の表情や息づかいなどの解釈あるいは表現の要素となるものが、ごく単純な喜怒哀楽の入れ替わりのみで処理されていくのもやや浅薄な感じが否めません。
幅の広さを持った音楽家というよりは、いかにもピアノ一筋でやってきた人という狭さを感じてしまいます。

ステージマナーも外国仕込みといわれればそれまでですが、いかにも大振りで、本物の音楽家でございというちょっとふてぶてしいまでの表情や所作が気になるところ。べつに、いつもニコニコして両手を前で握って可愛らしくお辞儀…などとはまったく思いませんが、それにしてもニヤリと会場を睨め回すような目つきや、両手は肩の付け根からブラブラさせるような動きは、いささか日本人の仕草としてはマッチングが悪いようにも思いました。

なによりも、ピアノの女性独特の気合いの入り方と怖さがあって、ポスターのあのあどけない少女のような雰囲気とはまったく違う人のように見えました。
この河村さんに限らず、頻繁に使う写真が実際のイメージとはあまりにもかけ離れているのは、見る者にはひとつの印象を覆すものとなり、却ってマイナスではないかと思いますが。
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エストニア

エストニアという名のピアノをご存じでしょうか?
旧ソ連時代、ロシアでは最も代表的な自国のピアノで、連邦内の大半の音楽学校やコンサート会場ではこのピアノが広く使われているということは耳にしていましたし、現在でも世界中の多くのロシア大使館にはこのピアノが設置されているといわれています。
(ちなみに20年以上前、マロニエ君が東京の麻布台にあるソ連大使館で行われたコンサートに行ったときは、ピアノはエストニアでなくヤマハのCSでした。)

マロニエ君は長いことこのピアノのことをロシア製ピアノだと疑いもせずに思いこんでいましたが、エストニアはその名の通り、現在のエストニアで製造されるピアノで、国名がそのままピアノの名前にもなっているというわけです。そして旧西側世界ではほとんど馴染みのないメーカーでもあります。
旧ソ連時代はエストニアも連邦の中に組み込まれていたので、ソ連製ピアノという括りになっていましたが、ソ連崩壊以降、諸国には独立の気運が高まり、バルト三国のひとつであったエストニアも1991年に独立を果たし、現在では主権国家となっていますから、もはや「ロシアのピアノ」という捉え方はできなくなりました。

理屈はそうなのですが、マロニエ君はいまだに「エストニアはロシアのピアノ」というイメージがなかなか払拭できません。

そのエストニアが、まさか日本で販売されているなどとは夢にも思っていませんでしたが、なんと広島の浜松ピアノ社の手によって輸入販売されているということを知って大変驚きました。
これを知ったきっかけは、広島のある教会へ、このエストニアピアノのコンサートグランドを2台納品したということが、この店の社長のブログに書かれていることが目に止まったことでした。
教会にピアノというのはよくあることですが、それがコンサートグランドで、しかも2台で、おまけにメーカーがエストニアとくればいやが上にも興味を覚えずにはいられません。

さっそくお店に問い合わせをしたところ、社長直々にまことにご丁重なお返事をいただきました。
それによると、エストニアピアノの社長とは個人的にお知り合いなのだそうで、現在日本では唯一この浜松ピアノ社が輸入販売をしておられるらしく、店頭にも一台グランドが展示されているというのですから、これは非常に貴重で特筆すべきことでしょう。

エストニアのグランドは168、190、274の3種類という意外なほどシンプルな陣容ですが、価格もいわゆる高級輸入ピアノの約半額といったところのようですから、それほど高くはないようです(もちろん絶対額は高いですが)。
勝手な想像で、価格やその成り立ちなどから、好敵手はチェコのペトロフあたりだろうか…と思いますがどうなんでしょう。

マロニエ君は一度もこのピアノの実物を見たこともなければ、ましてや音を聴いたこともないので、はたしてどんなピアノか興味津々というところです。なにしろロシアで最も広く愛用されたピアノということで、その音色はやはりロシア的な重厚でロマンティックなものだろうかなどと想像をめぐらせてしまいます。
YouTubeでエストニアピアノの音を聞いた限りでは、音の伸びが良いのが印象的で、思ったよりも遙かにクセのない、良い意味での普遍性があって、誰もが受け容れられるとても美しい音色のピアノだと感じました。現代性とやわらかさを兼ね備えるという意味では新しいヤマハに通じるものがあるようにも感じましたが、なにしろYouTubeで聞いただけですから、あくまで大雑把な印象ですが。
ここでの比較で言うならペトロフのほうが野性的で、エストニアはより洗練された印象でした。

超絶技巧の第一人者として有名な名匠マルク・アンドレ・アムランは、コンサートや録音にはスタインウェイを使ういっぽうで、自宅のピアノとしてエストニアのコンサートグランドを購入したという話を以前聞いたことがありますから、やはりこのピアノならではの独特な個性や魅力があるのだろうと思われます。

それでなくても、旧ソ連のころからの伝統あるメーカーというのは、なんだかそれだけで謎めいていて、そそるものがあります。昔のロシアの巨匠達は皆、このピアノで腕を磨いて大成していったのかと思うと、あの偉大なロシアピアニズムを支えたピアノとして、とてつもないノスタルジーさえ感じてしまいます。
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征爾とユンディ

衛星ハイビジョン放送では過去の優れたドキュメント番組の再放送をしきりにやっていますが、『征爾とユンディ』というのは、以前見ていましたがもう一度見てみました。

テレビ番組といえども、読書と同じで、2度目には初回とはいくぶん違った印象を持つものです。
以前は見落としていたことや、制作者の意図がようやく理解できたりと、2度目は見る側にも余裕があるのでより細かい点まで目が行き届くようです。

この番組は、ユンディ・リがショパンコンクールに優勝して数年後、世界的な演奏活動も軌道に乗ってきたころ、小沢征爾の指揮するベルリンフィルと初共演をする数日間をドキュメントとして追ったもので、曲も難曲中の難曲として知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番に挑みます。

しかし、番組構成の主軸はユンディのほうにあり、ベルリンフィルとのリハーサルの様子などを随所に織り込みながら、もっぱら彼の生い立ちなどが多く語られました。小さな頃はアコーディオンを習っていたのをピアノに転向し、しだいに才能を顕し、中国で一番という但昭義先生の指導を仰ぐようになってさらに才能を開かせたユンディは、ついに世界の大舞台ショパンコンクールの覇者にまで上り詰めます。

子供のころからの写真がたくさん出てきましたが、どれもなかなか可愛らしく、彼はピアノの才能もさることながら、小さい頃から中国人としてはかなりの器量良しであったようです。しかもランランのような、いかにもベタな中国人というよりは、どこか西欧的な繊細な雰囲気も漂わせたルックスである点も、国際的なステージ人としては強い武器になっていることでしょう。

ユンディの「出世」によって家族の生活は一変し、もともと化粧をしない中国人女性(最近は少しは変わってきているようですが)の中にあって、お母さんはえらく強めのメイク(まだ馴れていない様子)などをして服装もあれこれと今風にオシャレをしています。
祖父母のほうは見るからに中国の一般的な年輩者という感じでしたが、昔と違ってほとんど孫に会えなくなったと、海外を拠点に演奏旅行に明け暮れる遠い存在となったユンディのことを半ば戸惑いながら話しているのが印象的でした。

ベンツの最新のSクラスをユンディ自ら運転して、高級料理店に一家で赴き、きらめくような個室の席で一羽丸ごとの北京ダックを数人の給仕人のサービスによって切り分けられて、それを忙しくしゃべりながらむしゃむしゃ食べるシーンなどは、見るからに中国の富裕層のそれで、彼がいかにピアノという手段でそれを獲得し、家族までもその恩恵に与らせているかをまざまざと見るようでした。

ユンディがピアノのこけら落としをした北京の中国国家大劇院は途方もない建物で、こういう贅を尽くしたホールなども恐らくあちこちにできているいるのでしょう。なにしろ現在中国でピアノの練習に励む子供の数は、実に3000万人!!というのですから、いやはや恐るべき規模であることは間違いありません。
そりゃあ、ヤマハもカワイもスタインウェイも、多少のことは目をつむってでも中国へビジネスチャンスを求めるのは無理もないでしょうね。
そしてこういう希有な市場規模をもっているからこそ、経済至上主義の現在にあって、世界各国は中国に対して断固たる態度が取れないという困った問題を抱えているのだと思います。

いっぽう、ベルリンフィルハーモニー(ホール)で驚いたのは、スタインウェイのD(コンサートグランド)がウソみたいにごろごろあることでした。ピアノ選びということもあってかステージ上には4台、通路のようなところやちょっとした控え室みたいなところにもあちこちポンポン置いてあって、演奏者の個室にはB型ぐらいのがありました。

残念だったのはせっかくのベルリンフィルとの共演の場面が少しもまとまって見ることができなかった点で、いかにドキュメントとはいえ、やはり二人は音楽家なのですから、その本業の場面をちょっとぐらい(2〜3分でもいいので)落ち着いて見せて欲しいものです。
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あきらめないで!

年末年始にかけての長引く悪天候は、過去に経験したことのないものです。
昨日は本当に久しぶりに雨のない一日となりましたが、それもいつなんどき崩れ去るか、もはやまったく信用できません。

年末年始も雨や雪の降らなかった日はありませんでした。
当然ながら車のワイパーも毎日使わない日はないということになります。
以前、このブログでワイパー復活のウラ技をご紹介しましたが、マロニエ君自身もそれをいつもやっていて、ここ半年以上も本来なら交換するはずのワイパーブレードをまだ気持ちよく使っています。

ワイパーの掻き取り能力が落ちるのはゴムの劣化もありますが、多くの場合、実はゴムに付着したゴミや汚れが原因というのが前回書いたことでした。もちろんワイパーブレードの劣化は時間および使用状況・保管状況にもよりますが、汚れの除去によって車庫保管の車の場合は確実に二倍は長持ちするというのは間違いありません。

そこへ更に効果的な方法を発見して最近悦に入っているところです。
それは市販のピッチクリーナーを使うというものです。

というのもマロニエ君の車は常識的にはワイパーブレードを交換すべき時期を過ぎても、上記の方法でずっと延命してしてきたのですが、さすがにそろそろ交換する予定で、すでにパーツの準備も出来ています。
ところが雪は降る、みぞれは降る毎日なので、こんな時期に新品をつけてもただ傷むだけと思い、なかなかそれに着手するのもためらわれて延び延びになっているわけです。
さて、ピッチクリーナーというのはカーショップでもホームセンターでも簡単に安く手に入るもので、スプレー式のやさしい油落とし剤です。安いモノならヘヤースプレーよりも太くて大きな缶がわずか300円ぐらいで売っています。
これは油を落とすだけでなく、シリコンによる潤滑効果もあるので、塗装面など使うとツルツルになります。

これをウエスにつけて、軽くフロントガラスにのばして拭き上げます。
続いてそのクリーナーのついている部分でワイパーブレードの汚れを落とすようにゴムを掴んで何往復かさせました。

するとなんと、ガラスとワイパーゴムの両方の油膜などが取れた、もしくは少なくなったお陰で、圧倒的になめらかできれいな視界が確保されました。だいたい雪やみぞれなどはワイパーでは完全には掻ききれないのが普通ですが、この処理をした後では、確実に僅かな水滴まで除去されていき、ワイパーが動くのが楽しくなるようです。
まるでガラスまで新品になったようで、気分も爽快になってしまいます。

おそらくはシリコンのお陰でガラスとワイパーゴム双方の潤滑性が向上したことと、さらにはゴムに潤いが出たのではないかと思っています。
TVコマーシャルじゃありませんが、「あなたのワイパー、あきらめないで!」とでも言いたくなります。

ピッチクリーナーもこの程度の使い方なら、何年も保ちますから、ご興味のある方はぜひやってみてください。
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みんなのショパン2

「みんなのショパン」は残りの第3部を見て、合計4時間半の番組を完食しました。

全編を通じて印象に残ったもののひとつは第1部で演奏されたピアノ協奏曲第1番で、小学生から高校生までの子ども達で構成された「東京ジュニアオーケストラソサエティ」というオーケストラが、思いがけず素晴らしい演奏をしたのは驚きでした。
中途半端なプロのオーケストラよりよほど音楽性もあり、繊細で瑞々しい魅力があったのは大したものです。
中には本当にまだ子供なのに利口な眼差しでちゃんとヴァイオリンを弾いていたり、子供用の小さなチェロで演奏していたりしますが、聞こえてくる演奏は本当に立派なもので、あっぱれでした。

この3部に至って中村紘子女史のご登場でしたが、例のごとくの演奏で見る者をいろんな意味で楽しませてくれたようです。彼女の演奏の時だけ画面はうっすらと淡いフィルターみたいなもののかかった映像になったのも妙でした。
他のピアニストのときはすべてハイビジョン特有の鮮明映像でしたが、よほど女史からの特別注文があったのかどうかはわかりませんが、ここだけちょっとアナログ時代の映像のようでした。
あいかわらず紘子女史だけのこだわりのようで、椅子は一般的なコンサートベンチではなく、背もたれ付きの例のお稽古風の椅子で、これを最高の位置までギンギンに上げているところも健在でした。

また番組ではまったくピアノが弾けないというお笑いタレント、チュートリアルの徳井氏が、仲道郁代さんを先生に、一ヶ月間猛特訓し、仕事の合間にも練習に練習を重ねて別れの曲(中間部は無し)を披露しましたが、楽譜は読めない、指は動かないという条件の中でなんとかこれをやり遂げたのは大したもの。まさに努力賞でした。

ブーニンやブレハッチなど、多くのピアニストによるスタジオ演奏が披露されましたが、圧倒的な存在感と芸術性を示したのはダン・タイソンでした。
傑作バルカローレとスケルツォの2番を弾きましたが、ひとりかけ離れた格調高い演奏は、ようやくここに至って「本物」が登場したという印象。
音楽の抑揚や息づかい、落ち着き、音節の運びや対比などにも必然性があり、さすがでした。

番組で使われたピアノは大半がスタインウェイでしたが、一部にヤマハのCFXも登場。
やはり以前のヤマハとは別次元の鳴りをしていて、高度な工業製品から一流の楽器へシフトしたという印象です。
確認しただけでも3台のスタインウェイDとヤマハのCFX、さらには番組冒頭に三台のピアノで弾かれたショパンメドレーみたいなものの中には2台のスタインウェイのBに混じって、ヤマハのCF6(新しいCFシリーズの212cmのモデル)があったのは予想外で、テレビとはいえCF6を見たのは初めてです。

番組ではアンケートを受けつけており、一番好きなショパンの作品の第一位は英雄ポロネーズに決しました。
最後に横山幸雄氏がこれを演奏しましたが、これもまたハイスピード演奏で、横山氏の指が達者なのはわかっても、全体はまるで疾走する新幹線の窓から見る景色のようで、曲を味わっているヒマはありませんでした。
小刻みに頭を左右に振りながら手早く弾いていくその姿は、まるで寿司職人が俎の前で忙しく働いているようでした。

決して内容の濃いものではありませんでしたけれども、それでもじゅうぶんに楽しめた4時間半でした。
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みんなのショパン

昨年10月にNHKで放映された「みんなのショパン」という番組が、正月番組のアンコール用に再編成され、約4時間半が3分割されて再放送されました。
昨年観ていなかったので、これはチャンスとばかりに録画しました。

そのうちの2つまで見たのですが、笑ってしまったのはショパンの生前、楽譜が出版されるときに出版社が勝手に曲に名前を付けて売り出そうとするので、ショパンはそれが許せなくて怒り心頭だったということでした。

それもそのはず、作品9のノクターン(第1番〜第3番)は「セーヌのさざめき」とかいう陳腐な名前を付けられそうになったとかで、気分としてはまったくわからないでもないものの、つくづくそんな恥ずかしい名前にならなくてよかったと思うばかりです。
名前というのはあったほうが一般ウケはするのでしょうから、少しでも売れて欲しい出版社としてはそういう小細工をしたいのはわかりますが、しかしかえって曲のイメージが限定され、作品本来の価値や広がりを妨げるようになるでしょう。

もう一つショパンが激怒したというのがあって、スケルツォの第1番を「地獄の宴」とされそうになったらしく、これはいくらなんでもひどいですね。たしかに冒頭の高音部の強烈な和音を皮切りに下から次々と湧き起こってくる激情の連続は不気味といえば不気味ですが、では中間部のこの世のものとも思えないあの美しいポーランドの歌の旋律はどう説明するのだろうかと思います。地獄の対極である天国でしょうか。

こんな調子なら、スケルツォは有名な第2番冒頭のアルペジョなども「悪魔の宴」とでも言えそうですし、激しいオクターブの三番も「恐怖の宴」とでもなりそうで、かろうじて4番だけがスリラー系から免れそうです。

スタジオにはピアニストのお歴々も座っていらっしゃいましたが、ではその「地獄の宴」の冒頭部分をちょっと弾いてみてくださいといわれて、ピアニストの山本貴志氏がピアノの前に進み出ました。するといきなりすさまじい前傾姿勢と表情でこの曲の冒頭を弾きはじめ、てっきり「地獄の宴」に似つかわしいパフォーマンスで視聴者にサービスしているのかと思いました。
というのも、実はマロニエ君は山本貴志氏は映像を見るのは初めてだったのです。

ところがその後で遺作のノクターンを通して弾きましたが、たったあれっぽっちの曲を弾くにも「恐怖の宴」のときと変わらない(すごく真剣なのでしょうけれど)、今にも叫び出さんばかりの嶮しい表情で、まるで曲に挑みかからんばかりのその迫真の姿は、どうにも笑いをこらえることができませんでした。

背中はおばあさんのように曲がり、その背中より顔のほうが低いぐらいの姿勢ですから、ともかく尋常なものではありません。口や鼻はほとんど手の甲に触れんばかりで、ずっと必死の形相ですからお腹でもこわして苦しんでいるようです。鍵盤蓋がなかったら、アクションの中へスポッと頭が入っていくみたいでした。
ところが、いったんピアノを離れると、憑きものが落ちたように穏やかな笑顔が魅力的な青年でした。

これとは対照的に、バラードやエチュードを弾いた横山幸雄氏は、淡々と、作品の細部に拘泥することなく、しかもやたらハイスピードで飛ばしまくりです。でもすごく汗っかきみたいですね。

ちょっといただけなかったのは、華道家とかいう、えらく地味で和風な顔なのに髪だけは長い金髪の不思議な御仁で、出てくるなりあたり構わず猛烈にしゃべりまくり、明らかに浮いてしまっているのが生放送なぶん隠せません。
おじさんの自己顕示欲とおばさんの逞しさの両方を兼ね備えているようでしたが、司会の女性が明らかにこの人を無視して番組を進行させたのは拍手ものでした。
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ホロヴィッツ

もうひとつ、ホロヴィッツの名で思い出しましたが、ホロヴィッツが1983年に初来日した時、チケットの発売は前々から告知されたものではなく、新聞かなにかで突如「明日発売」というふうに発表されました。

それでそのチケットを求めて多くの人が何時間という行列に挑むことになりました。
あの中村紘子さんは、ジュリアードの留学時代に、ステージから遠ざかったホロヴィッツが12年間の沈黙を破って行われた1965年のカムバックリサイタルを聴いていますが、そのときもチケットを手に入れるために若さとジュリアードの友人達との楽しさも加勢して、文字通り徹夜で並んでチケットを買ったそうです。

寒い外に長時間行列する人々を気遣って、ワンダ夫人(トスカニーニの娘で、恐妻ぶりで世界的に有名な夫人)が紙コップに温かいコーヒーを振る舞ったとか。ある人が彼女に向かって謝意を述べるとともに「12時間待っています」というと、夫人はこう答えたとか、「そう?私は12年まったのよ」。

お膝元のニューヨークでさえこうなのですから、日本にいながらにしてマエストロのほうからやって来てくれるのなら、少々の行列ぐらいは当然といえば当然なのかもしれませんし、ましてや行列文化発祥の地の東京ならなおさらでしょうが、マロニエ君はとにかくこの行列というのが理由如何に問わず嫌いなので、この時ホロヴィッツは聴けませんでした。
会場は神南のNHKホール、チケットはピアノリサイタルとしては空前のプライス5万円というものでした。

演奏はなにかの薬の飲み過ぎとやらで惨憺たるものだったことは周知の通りで、ほどなく放映されたテレビでその様子を見て悲痛な気持ちになったことを良く覚えています。とくにシューマンの謝肉祭は当時のホロヴィッツのレパートリーにはないものでしたから、その点でも期待は何倍にも高まっていましたが、始まってみるや謝肉祭もなにもあったものではありませんでした。
当時の日本人は今と違ってまだ元気が良かったので、拍手の「ブラヴォー!」に混じって「ドロボー!」という声があちこちから飛び交ったそうです。ピアノリサイタルのチケット代は世界のトップアーティストでもせいぜい1万円以内、スカラ座やウィーン国立歌劇場の総引越公演でも3万円代の時代での、ピアノリサイタルで5万円ですからね。

ところが友人の一人がこのリサイタルと、3年後の昭和女子大人見記念講堂でやったときも両方を聴いていて、それだけでなく、なんとホロヴィッツ本人に会い、プログラムにサインまでもらったというのですから呆れてしまいます。
来日時のホロヴィッツは、ロック歌手ほどではないにしても、とてもファンが楽屋口で待ち構えてサインをねだるというようなことが可能な相手ではなく、そんなことは夢のまた夢、完全警備の中、包み込まれるようにして会場を後にしたといいます。
ではどうしたのかと言えば、ホロヴィッツ一行が夕食を終えてホテルに戻ってくるのを、宿泊していたホテルオークラのロビーでじっと待ちかまえていたんだそうです。

するとついにホロヴィッツが現れたそうで、果敢にも歩み寄ってサインを求めたところ、周囲の制止を振り切って意外にも気軽に応じてくれたとのこと。
しかもです、一度ならず二度も同じ方法でホロヴィッツを待ちかまえ、その都度サインもしてもらったというのですから、むこうも少し覚えてしまったようで、いやはや阿呆の行動力というのは恐ろしいものです。
ついでに二言三言演奏について意見を言ったというので、それを聞いたマロニエ君はその図々しいクソ度胸のなせる技にひっくり返りそうになりました。
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キャンセルの思い出

きのうNHKホールのことでホロヴィッツとミケランジェリという名前を出したことで思い出しましたが、マロニエ君はコンサートの会場玄関まで行っておきながら、いきなりの公演キャンセルに遭遇し、相当楽しみにしていたリサイタルを聴き逃した苦い思い出が2つあります。

ひとつはミケランジェリです。
もう20年以上も前のこと、ミケランジェリをついに生で聴けるというので、まさに意気揚々と会場へ赴いたところ、あたりが不思議なほど静かでちょっとした違和感を覚えました。見るとNHKホールの玄関に張り紙がしてあって、何人もの人達がそれをじっと見上げていました。
詳しい文言は忘れましたが、大意は「ミケランジェリ氏の納得できるコンディションが整えられない為、やむを得ず本日のリサイタルは中止と決定されました。誠に申し訳ありません云々」というような意味でした。
茫然自失とはこのことで、目の前がいきなりポッカリと空洞になったようなあの気分は今も忘れられません。当時からミケランジェリはキャンセル率が高いことで有名でしたが、ああこういうことか…とそれが我が身に降りかかった現実を認識しつつふらふらと引き返すしかなく、伯母夫婦と仕方なく食事をして帰ったことを覚えています。

あとから耳にした話では、わざわざドイツから持ってきたスタインウェイの調整に満足がいかず、時間的に解決できる見通しがたたなかったために、ミケランジェリが当夜の演奏を拒否したということでしたが、数日後のリサイタルは実行されたようでした。
もうひとつはアルゲリッチ。
2000年ごろのこと、すっかりソロリサイタルをしなくなったアルゲリッチが久々にサントリーホールでそれをやるということで、争奪戦の末にチケットを取り、この頃は東京を引き払っていたので、そのために飛行機で上京し、サントリーホールなのでアークヒルズ内の全日空ホテルを取って挑んだリサイタルでしたが、到着後ホテルの部屋で一息ついた後、期待に胸を膨らませながらおもむろに会場へ行ったら、開場時間を過ぎているというのに玄関は閉ざされ、その前に江戸時代の幕府のお布令のように一枚の紙が張り出してありました。
なんでもアルゲリッチが風邪をひいてしまい、高熱があり、医者の判断もあって、今日と明日のリサイタルは中止となった旨の内容でした。

まさしく目の前が真っ暗になり、もしや自分はこんなことのためにお金と時間と労力を使って、飛行機に乗り、ホテルに泊まる準備までして今ここへやって来たのかと思うと、もう情けなくてその場に座り込みたい気分でした。

主催者によるチケット代の払い戻しと、次の公演が決定したときには優先的にチケットを取るための手続きが小ホール(サントリーの小ホールは固定シートのないホテルの宴会場のようなところ)でおこなわれており、意識は半ば遠退くような状態のままその手続きを機械的にして、トボトボとホテルの部屋に戻りました。
しばし呆然とした後、友人に電話をかけまくり、そのうちの一人が車で迎えに来てくれて、どこに行ったかも忘れましたが食事に行って、精一杯の憂さ晴らしをするしかなかった苦い経験でした。

その半年後か翌年(詳しくは忘れましたが)、アルゲリッチは会場をすみだトリフォニーホールに場所を変えてついにソロ演奏をおこないましたが、このときには優先的にチケットが購入できる連絡は来たものの、まだ前回の徒労のショックが癒えておらず、しかもソロはコンサートの前半のみということで、この時はさすがにまた行こうという気は起きませんでした。

ところが、このときのソロ演奏のライブ録音が、なんと主催者の自主制作盤としてCD化され、しかも許しがたいことには特定の人達にだけタダで配られ、一般発売はまったくされなかったために、これがまたマニア垂涎の貴重品としてヤフーオークションなどで途方もない高値をつけることになりました。
滅多に出てはきませんでしたが、出品されるやすごい金額で落札されていき、なんとしても聴きたいという抑えがたい思いばかりが募りました。ついにアルゲリッチの好きな友人と共同購入しようということになって入札をして、たった1枚のCDを7万円強で手に入れるという、いま考えると暴挙というかアホみたいなことをしてしまいました。

この頃に較べたら、マロニエ君も年を取ってずいぶんおとなしくなったものだと思います。
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コメント紹介

「福岡から」さんからコメントをいただきましたので、以下ご紹介します。

 厳しいご意見ですが、私は教育テレビは見てなかったので、さっき第二第三楽章だけ教育テレビのクラシック・ハイライト2010で見ました。
 私はショパコンはストリーム放送された分はすべて聞きましたが、この演奏は非常に良く無いです。そもそも雑にひっぱたいて居まように見えますが音量がでていないので、イライラしているように見えました。
 そこで、懇意にしている某ピアニストに聞きました。彼女は放映された生演奏を聞いているので、先日は良かったとだけ言っていましたが、よくよく聞きだすとピアノとオケは合って居なかった、とのことです。
 あそこのスタインウェイは鳴らないし、NHKホール自体が鳴らない上にN響自体がピーコンではテンポや音量をあわせることができない、というかもともと指揮者の振るとおりに演奏しない、コンチェルトに合わせる気が乏しいというか訓練ができていない楽団なのでご機嫌はよくなかったようで、カーテンコールもすぐ引っ込んだそうです。
 もともとN響はデュトワが来るまで過去ゲスト指揮者やアーチストとの折り合いが非常に悪く(ロシア系有名なアーチストはN響と演奏したがらないし録音もまったくない不思議なオケなのでコンチェルトのサンプルとしては適当でないと思います。というか、マロニエさんもN響のコンチェルトのCDなど見たことがないと思いますが、そもそも無いし有名なアーチストはN響と殆どコンチェルトしないのが実情です。
 というわけでこんど福岡に来るらしいので、それを聞いての再度の記事を書かれたらどうでしょうか。福岡はちょっと残響過大ですがピアノはヤマハでオケはワルシャワとコンクールと同じ条件ですのでそれはそれでまた違う演奏が聞けるんじゃ無いでしょうか。
 ところで今回もピアノの持ち込みで一悶着あったと思われます。というか過去NHKホールにピアノ持込むのは原則できないのですが、過去第12回チャイコン優勝者の上原彩子のピーコンのときとスタジオパークでヤマハを持ち込む時に業界ではちょっといsた話題になっていました。

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マロニエ君より
 おっしゃる通り、N響は不思議なオーケストラというのは同感ですし、CDもほとんどありませんね。一時期かなりいいときもあったと思いますが、ここ数年はまた官僚組織みたいなオーケストラになってしまったように感じます。音楽を演奏するというより、まるで役人が義務で仕事をしているようです。
 NHKホールは紅白歌合戦からコロッケのモノマネショーまで、なんでもやる3500人収容の文字通り多目的大ホールですから、音響の良かろうはずはありませんが、N響の問題、ホールの問題、ピアノの問題を差し引いてもあれは…。もしそれが一定以上のものに整えば、めでたくアヴデーエヴァが別人のようにめざましい演奏をするとも思えませんが。
 それに日本人から見ればヨーロッパは西洋音楽の本場ですが、実際には彼の地のホール事情、オーケストラ事情、ピアノ事情、さらには聴衆の態度に至るまで、それは日本人の想像を絶するほど劣悪なものが多いのだそうで、逆に日本ほど見事にそれが整っている国はないと聞きますから、そんな厳しい土壌で逞しく育った(ましてやロシアの)ピアニストが、少々のことでへこたれるような軟弱者とは思えません。先日の演奏には、彼女の否定しがたい本質が出ていたのは間違いないと思いますし、彼女がもし本物なら、その輝きの片鱗ぐらいは見えたはずとも思いますが。
 たしかにワルシャワフィルとヤマハによるコンサートなら多少は違う結果が出るかもしれませんが、マロニエ君はそこに希望を託して行ってみようという熱意はもはや失いました。
 それにしてもNHKホールはピアノ持ち込みが出来ないというのであれば、それは到底納得できない理屈の通らないルールですよね。ヴァイオリニストに自分のヴァイオリンを持ち込むのもダメというのと同じ事で、それは演奏するピアニストが決めるべき事ですから、まったく筋が通らないというか不可解。
現実にNHKホールでは過去にホロヴィッツやミケランジェリのリサイタルを、そのためにわざわざ持ち込まれたピアノでおこなっていますが、彼らは原則が適用されない「別格」ということでしょうか。
 ところで「ピーコン」とは?・・前後の脈絡から察するにピアノ協奏曲のことだろうかと思いましたが。
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CD事始め

いつもながらマロニエ君のお正月はこれといって行事らしい行事もありません。
そんな中でささやかな年頭行事としては、元日に最初に音を出すCDは何にするかということで、毎年ちょっとだけ厳粛な気分で考えます。

自分の部屋では時間のある限り音楽漬けのマロニエ君としては、やはり何を聴いて一年をスタートさせるかは、どうでもいいようでよくない事なのです、気分的に。
昨年はドビュッシーの交響詩「海」で一年の夜明を飾ってスタートしましたが、今年はもう少しガチッとしたもので行きたいイメージでした。

こういうときにクラシック音楽というのは、あまりにも曲が無尽蔵にありすぎて、逆にひとつを選ぶというのは大変です。とりあえず年のはじめということで、壮大な調性であるハ長調で始まりたいと思いましたが、だからといってあまりに仰々しいものも、これまたなんとなく気分じゃありません。
それで最終的に決まったのはベートーヴェンの交響曲第1番 作品21。

指揮者とオケを何にするかも悩みどころでしたが、定番であるフルトヴェングラーは、あまりにも定番過ぎることと、マロニエ君の持っているCDは音質がかなり劣りボツ。イッセルシュテット、ヴァント、アバド、その他いろいろと考えてみた末、年の初めには適度に華麗でストレートな演奏が好ましく思われ、このところ見直しているカラヤン/ベルリンフィルにしました。

第一楽章の短い序章に続いて、開始される第一主題の高らかな幕開け、グングンと前に進む推進力は年の初めに相応しく満足できましたし、第9で年末を過ごす日本人には、振り出しにリセットするような点でも好都合に思われました。
カラヤン/ベルリンフィルの音というのは独特で、非常にゴージャスでありながらまろやかです。
音楽的には賛否両論ですが、一貫した迷いのない明解な方向性を持っているという点では聴いていて安心感があります。もちろん現在の潮流とも違うし、真の深みや芸術性となると疑問の余地もありますが、イベント的娯楽的な用い方にはカラヤンは打ってつけです。

現今の演奏が、みんなとても上手いんだけれども、どこかアカデミックな要素を含でいるかのごとく振る舞いながら、実は商業主義的という矛盾するへんてこりんなもので、どうもストレートに楽しめないものになってくると、却ってカラヤンのような昔の帝王の演奏というのは単純明快で心地良いのです。
もちろん不純さという点においては、カラヤンは人格的に人後に落ちない音楽家ですが、それでも彼の音楽そのものはある種の純粋性と一本貫かれたものがあるのです。人はそれを通俗と呼ぶかもしれませんが、聴く者をとりあえず満腹にしてくれるという点で、マロニエ君からみるとカラヤンは今日では却ってデパートの買い物のようなホッとできるものを提供してくれるような気がしています。

アヴデーエヴァのショパンに象徴されるように、最近の若い演奏家はどこか不可解なものを感じさせすぎるので、もういいかげん彼らの演奏を追いかけるのも疲れてきたように思います。
べつに音楽の専門家でもなんでもないのだから、もっと自分の好みに忠実に、好きなものだけを聴いて音楽本来の魅力に浸っていたいと思います。
こんなことを考えていると、なんだか急にベームのフィガロなんかが聴きたくなってきます。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

ついにこのブログで二度目の元日を迎えることができました。
二年目の初日としては今年の抱負などを語るべきところでしょうが、なかなかこれという確たる目標や展望もないのがお恥ずかしいところです。強いて言うなら、まずはなによりも開店休業状態のこのピアノ雑学クラブをなんとか活動体にもっていくことでしょう。

ともかく一度、みなさんと顔を合わせて、それからということでもいいのではないかと思っています。
今年こそは、このべったりと座り込んで動かない牛みたいなクラブの腰を上げさせて、ゆっくりでもいいから前進させてみたいというのが一番の課題でしょうか。

また「ブログ」と「マロニエ君の部屋」については、できるだけこれまでのペースを維持したいとは思っていますが、むろん自信はありません。しかし自分ができるところまでは精一杯がんばる所存です。

つきましては、マロニエ君の部屋の「はじめに」のところにも書いていることですが、ネットという場であることを十分承知した上で、やはり自分らしい、ウソのない、本音のところを制約幅ギリギリのところまで迫って書いていきたいと思います。
それは、誰からもクレームをつけられないことを是としたような、安全でそつのない、きれい事ばかりを散りばめたような薄気味悪い文章ほど、無意味で、読者を退屈させバカにしたものはないとマロニエ君は平生から感じているからです。

無数無限に存在する夥しい数のブログの中から、あえてこのブログあるいはホームページへ立ち寄ってくださった方には、せめてなにか一点でもおもしろい実のあることをお伝えしたいという気持ちで書いているつもりです。
もちろん結果的にそうなっているかどうかは甚だ疑問ですが、少なくとも気持ちはそうだということです。

また今後もブログのコメントは原則公開しておりませんので、その点では失礼もあろうかと思いますが、何卒ご理解ご容赦いただきたいと思いますし、ご意見はあくまでもメールでお願いしたいと思います。

ちょうど一年前の今日、ブログをはじめるにあたっては、あらゆる批判や嫌がらせにさらされるだろうという一定の覚悟はしていたものの、それは嬉しい誤算で、その手のコメントはほとんどなく、これはマロニエ君の日ごろの行いがよほど良いのか(!?)、ありがたくも理解ある寛大な読者に恵まれた故だと、深く深く皆様に感謝しているところです。

年頭に当たり、もう少し気の利いた挨拶もあろうかと思いますが、まあマロニエ君としてはこれが現在の正直なところです。

どうそ今年もよろしくお付き合いくださいますようお願い致します。
マロニエ君
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一年の終わりに

今年の元日から書き始めたブログですが、ついに一年が経ち、とりあえず途中で放り出さずに大晦日を迎えられることができて、ひとまずホッとしています。

これもひとえに、こんなくだらないブログをお読みいただく奇特な方がいてくださったお陰で、まったく工夫もない平凡な言い方ですが、心より御礼申し上げます。

実をいいますとマロニエ君はその昔、ブログなどむしろ馬鹿にしていたくちで、有名人でもなにかの専門家でもない、一介の人間がネットという手段を使ってブログという名の日記を書くなど、たいそうな思い上がりの露出趣味だと思っていました。
しかし、ぴあのピアのホームページをはじめる以上はある一定の慣習にも従い、曲げるところは曲げて、世間とのある程度の折り合いをつけるべきだという考えも次第に芽生えはじめました。

マロニエ君はこれといって得意なものもありませんが、とりわけネットだのホームページだのということが殊のほか苦手で、何をするにも友人知人の教えや助けに依存するばかりです。
昔、パソコンの使いはじめの頃も手取り足取り、何かトラブルが起きようものなら大騒ぎでした。
そんなデジタルオンチですから、むろんホームページを作るなどという大それたことは、当然できるわけがありませんでしたが、友人というものはありがたいもので、ホームページ作りに根気よく手を貸してくれました。

自分じゃできないくせに、つまらないこだわりだけはあるマロニエ君としては、デザインまで人任せにするのでは気が済みません。そこで、ホームページのいわば「容器」だけを作ってもらって、そこに自分で作ったパターンや撮ってきた写真をひとつひとつ入れ込んでいくという、まるで子供の手を引いてもらうような手間暇のかかる作業が始まりましたが、もちろん結果は見ての通りで笑ってしまいます。

まあ、やっていると少しずつ更新の仕方などはわかってきましたので、現在は友人の手はほとんど借りずに澄んでいますが、まだまだです。

その友人が、いうなればマロニエ君のホームページの師匠というわけですが、その師匠が言うには、「ホームページを作る以上はブログを書かなきゃダメだ」というので、はじめは断固拒否していたのですが、「いまどきホームページを作ってブログがないなんて話にもならない」と一蹴されて、ずいぶん悩んだ末に今年の元日に一大決心をしてスタートさせました。
そして、さらにその師匠が言うには、「ブログは基本的に毎日更新するもので、たまにぐらいでは誰も見てくれなくなる」と脅しをかけられました。曰く「せっかく見に来てくれた人がいても、なにも更新されていなかったら、だんだん見てもらえないホームページになってしまう」というのです。

他のことなら大いに反発するのですが、ホームページばかりは師匠の言う通りにしなくては仕方がなく、それで、だんだん奮起して書くようになりました。とくに今年も後半になると、ブログ書きが日課のようになってきました。
ご承知の通り内容は甚だお恥ずかしい限りのものばかりですが、それでも、少なくともピアノの練習よりはよほど根気よく取り組んだつもりで、それはひとえに見てくださる方がおられるということが気持ちの上でずいぶん後押しになりました。

この先、いつバタンと倒れるかはわかりませんが、続けられるだけは続けていくつもりですので、どうぞ来年もよろしくお付き合いのほどお願い致します。
望外のご高覧をいただき、本当にありがとうございました。
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号外です

一日にふたつブログをアップするのは初めてです。

メーピーさんからコメントをいただきましたが、コメントは公開しておりませんのでこちらでご紹介させていただきます。ご紹介が遅くなりたいへん申し訳ありません。

巷で褒めまくりのアヴテーエヴァの演奏に同意できないのはマロニエ君だけかと思っていましたが、このようにご賛同くださる方がおられ、安心しているところです。

最近の社会風潮なのか、率直な感想というものがどんどん抑圧され、人間の率直さそれ自体が悪のように捉えられているような気がします。歯の浮くようなきれい事ばかりを口にしたり書いたりすることが「大人のふるまい」とされる暗い欺瞞の時代にあって、音楽ぐらいはせめて本音で語られ、人の魂を揺さぶり、心を慰めるものであって欲しいものです。

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はじめまして。
マロニエ君様のアヴデエーワ評、まさしく私が思っていたそのままです。
私が書いたのか?と思ったほど。

音楽は歌である、まさにそれに尽きると思うのです。
それもプリミティブな意味での歌、声を使って何かを伝える為の歌が彼女の演奏からは感じられませんでした。

>解釈は演奏表現の根底を成すあくまで骨格であり

>練習の過程で自分の中で楽譜は収斂され消化され、演奏者の肉となり、いざ本番では、いかにも自然発生するような演奏に周到に到達することが必要

こちらのご意見に深く深くうなずきました。
そして、

>音楽は歌であり生き物であり、その都度生まれてくるものという大原則

このお言葉。私が音楽で一番大切だと思っていることです。
プリミティブな段階での歌は、声の抑揚、リズムによって感情を表現するためのものだったはず。
彼女はなにを伝えようと思っているのでしょう。
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何かありましたらHPからメールをください。
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メールの功罪

仕事であれプライベートであれ、今どきは携帯やパソコンのメールを使うことがとても多いものです。
ところが、このメールのやりとりというものに対する感覚が、マロニエ君と世間一般では、どこか食い違っているのかもしれない…と思うことがときどきあります。

もしかしたら自分のほうがメールを使う際の、バランス感覚というものがもうひとつわかっていないのかもしれませんし、むろん上手く使えているというような自信はありませんから、こちらがおかしいのかもしれません。

その上で言うと、基本的にマロニエ君の認識としては、メールは文字として記録が残る点や、電話のように見えない相手の状況やタイミングを斟酌する必要もなく、随時いつでも送信できるというメリットがあること。さらには一定のパソコン環境さえ整えていれば、あとはタダで好きなだけ送受信が出来るという点もメールの持つ大きな利点であるのはいまさら言うまでもありません。
携帯メールも電話会社やプランによっては似たような利点があるようですね。

ただし、ときどき困惑することがあって、例えば一人の相手と送受信をしているときの話の比重の置き方や、終了のさせ方です。
場合によっては一往復でおわることもありますし、何度かのやり取りが続くこともあることは皆さんも経験済みのことと思います。

マロニエ君としては、PCメールは紙に書く手紙やハガキほど形式にはまったものではなく(携帯メールはなおさら)、利便性優先の気軽なものとは思いつつ、それでもやはり基本的には一定の配慮や情操をもってやり取りをすべきだと思って書いていますが、どうも最近ではそういった部分にも疑問を感じる点が多く、よりドライにやり取りすることが主流のような気配を感じることしばしばです。

よくあるパターンとしては、こちらとしては常識的にあと1回は相手からなんらかの反応があるだろうと思っていたり、やり取りがまだ終結していないと思われる状態の中で、結局それっきりになってしまうということがあったり、内容が例えばこちらが重視している話題がパッと切り捨てられて、あっけなく別の話になるようなことがよくあります。

論外なのは、返事をしないとか、おそろしく遅いタイミングでポロッと返事がきたり、ひとつの問いに対する回答に何日もかかったりと、これが昔通りに電話なら、ものの何分あるいは何秒で済むことが、メールであるがためにやたらと時間と手間暇がかかり、メール特有の不便とストレスを感じてしまったりすることがあります。
返事がないのは相手の確たる意志と見るべきか、ただのぐうたらなのか、送信トラブルか、ハッキリできないことが精神的に疲れます。あるいは話が勝手に割愛されるのはそのことには相手が興味がないとこちらが察しをつけなくてはいけないのかなどと、ともかくむやみに気ばかり回して、いずれにしろ電話だけの時代にはなかった無駄な神経の疲労・消耗があるものです。

メールの出現は、便利な反面、不自由になったのは、たかだか「電話をする」というだけの行為にも昔よりも格段に慎重になり、やたら躊躇するようになったことです。電話はよほど気心の知れた相手でないと、迷惑かもしれない、好ましくないタイミングかもしれないというような脅迫観念に迫られて、もはや昔のように無邪気に電話できなくなり、そのぶん人との距離感ができたというのは最大の減点ポイントだと思います。
今やメールが主で、電話は特別もしくは緊急用という位置付けではないでしょうか。

結果として電話が本来の電話の機能を果たさず、まずはメールという前段を踏んでからという、却って手間のかかることになった面もあるように思います。
要するに便利なはずのものが幅を利かせすぎて、逆に不便を作り出したという典型かもしれませんね。
そしてもっと恐ろしいのは、慢性的に人との交流が希薄になるということではないでしょうか。
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赤い糸

過日、長らく独身だった友人がようやく結婚することになり、親に会わせるために帰省しました。
マロニエ君と同年代ですから、晩婚もいいところです。

音楽の先生にも彼女を連れて挨拶に行くので、よかったらぜひ来てくれと言われて、マロニエ君も興味しんしんで会ってみたかったので先生宅に伺いました。

果たして友人は彼女を連れて現れましたが、やはり結婚するような二人というのは、傍目にも収まりがいいもんだと思いました。なんでこの二人は付き合っているんだろう?と思うような光景がよくあるもんですが、そういうのは大抵ダメになったり別れてしまったりで、結局は結婚には至りません。
あるいは、上手くいっているように見える場合でも、一定の期間内に結婚へジャンプしなかった場合も、やっぱり破綻するケースがありますね。

その点、結婚するような二人というのは、音楽のように一定のテンポと流れと展開があって、最終的に落ち着くべきところに落ち着くもののようです。
ちなみにこの二人は出会いからわずか4ヶ月で結婚が決まりました。
特別な理由もなく何年もダラダラと付き合っているような場合は、逆にチャンスを逸してしまって、そのうちどちらかが愛想を尽かして終わったりしますから、出会いから結婚までエネルギーを絶やさない流れというのは非常に大事だと思います。

マロニエ君の別の友人には、10年も付き合って長年一緒に暮らした挙げ句、突然あっけなく別れてしまうカップルなどがいて、こっちのほうがビックリ仰天することがあるものです。

結婚する二人、あるいは結婚した人を見ていると、こちらが内心で思うところはいろいろあっても、結局はバランスが取れているもので、だからこそ結婚という人生の一大事業を成し遂げられるのだろうと思います。
結婚する二人というのはおかしなもので、互いの欠点がそれほど気にならなかったり、大した我慢でなしに自然に許せたりするようで、第三者のほうがよほどびっくりするような事にも平然としている場合が多く、ただもう呆れ返ることしばしばですが、これこそ相性というものでしょうね。
そういう驚きを持って眺めることのできるとき、月並みですが「赤い糸」という言葉を思い出してしまいます。

この友人に限らず、結婚を決断した二人というのは、人生で最も前向きな表情をしているように思えます。
互いに人生を共にする相手ができたということで、ほどよい緊張と幸福が交錯して、何をするにも輝きがあり、充実した時間を慈しむように過ごしているようです。
なんでも自然に前向きに捉えることのできる、人生のなかでもごく短い時間のようです。

これがひとたび結婚して一年もすれば、こんな充実した様子というのは煙のように消え去って、祭りの後のような素面が二人を隈取ってしまうのでしょうが、さらにそれを乗り越えたときに、正真正銘の夫婦になるような気がします。
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N響アワー

昨日のN響アワーでは、今年秋のショパンコンクールで優勝したユリアンナ・アヴデーエヴァが早々に来日、シャルル・デュトワ指揮のN響とショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した様子が放映されました。

同コンクールのウェブ中継では、ちょこちょこ観る範囲ではどうしてもこの人の演奏には興味が持てなくて、実はまともに最後まで聴いたことがありませんでしたので、このN響アワーの録画ではじめて協奏曲を全曲通して聴きました。

マロニエ君が敬愛するアルゲリッチもたまたま東京でのコンサートの為に来日中だったこともあり、日本でのアヴデーエヴァの記者会見にも同席して素晴らしいピアニストだと褒めていましたし、このN響のコンサートではNHKホールの客席にも彼女の姿があり、盛んな拍手を送っていました。
アルゲリッチ以来実に45年ぶりの女性優勝者ということにもなにか特別な意識があるのでしょうか。

また番組では小山実稚恵さんがスタジオにゲスト出演していましたが、小山さんのあのシャープで鮮やかなピアノの指さばきとは正反対の、たどたどしいトークでアヴデーエヴァの演奏の特徴と優れた点などを述べていましたが、曰く、よく練られていて、一音一音よく考えられて、完成度があって、常に自分の100%近い演奏ができる等々、話だけ聞いているとなんとも素晴らしい傑出したピアニストといった説明でした。

しかし、他の人にとってどんなに素晴らしいピアニストのかは知りませんが、まったくマロニエ君の好みからは大きく逸れた、たったこの一曲を聴き通すだけでもずいぶん辛抱力の要る演奏でした。はっきり言うとどの角度から聴いても好きにはなれません。

どこがそんなに素晴らしいのか、わかる人にぜひとも具体的に指摘して教えて欲しいものです。
解釈がどうのとしきりにいわれますが、解釈は演奏表現の根底を成すあくまで骨格であり、そればかりが論文のように前面に出て、生の音楽の活き活きとした感興を忘れた演奏は御免被りたいものです。
アヴデーエヴァの演奏はまず無骨で、ショパンの流れるような美の奔流に逆らい、繊細な感受性とその底に流れる激しい情熱に対して、あまりにも無頓着すぎるように思います。タッチも繊細さがそうあるわけでもないのにやたら弱音やノンレガートを多用し、ピアノはちっとも一貫して鳴りません。
音楽も時間や流れや前後の関連性がなく、全体がばらばらなものを便宜的に並べただけという印象です。

音楽は歌であり生き物であり、その都度生まれてくるものという大原則が死滅しているようでした。
それと、楽譜の存在を強く感じさせる演奏で、たしかに音楽家はまず楽譜から作品に入るのはそうだとしても、練習の過程で自分の中で楽譜は収斂され消化され、演奏者の肉となり、いざ本番では、いかにも自然発生するような演奏に周到に到達することが必要ではないかと思います。
まあ、言い立つとキリがないのでこれぐらいで止めましょう。

ちなみに史上初めてヤマハを弾いて優勝したアヴデーエヴァは、さだめしヤマハの専属にでもなるのかと思っていたら、NHKホールではスタインウェイを弾いていましたから、いろんな事情があるのでしょうね。
ただし現在の彼女にはCFXのふくよかな音のほうが合っていると思いました。

おかしかったのは主催者側からの要請があったのか、ステージに現れたアヴデーエヴァはショパンコンクールの時とまったく同じ服装で、黒い男みたいなスーツと中の白いブラウスまでどう見ても同じものだったのは、「あの感動の再現!」みたいな主催者の思惑が透けて見えるようで、却って笑えました。
演奏はノーサンキューですが、顔は童顔で、優しいあどけない目つきをしていて、人間性はおおらかで好感の持てる感じに見えました。

ちなみに最近はショパンもナショナルエディションが流行とみえて、オーケストラもいち早くこのバージョンを使っているようですが、あれもちょっと…です。
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外出中止

このところの寒さと天候の悪さにはほとほと参ります。
曇天と雨の連続で、ちょっと晴れたかに思えても数時間後にはまた雨です。

今日の午後、外出先で小雨がちらついてきたと思ったら、そのまま本格的な雨となり、霙となり、帰宅後ついには雪になりました。
夜は食事の約束があったのですが、出かける一時間前になって先方から電話があり、雪が積もってきているというではありませんか。まさかと思って外を見ると、わずか30分ぐらいの間に一気に雪に変わって、気温が低いものだからそのまま解けずに積もっていったようです。
一度は様子を見ることにしましたが、あたり一面は見る間に真っ白になってきたので、さすがに外出は中止することになりました。

マロニエ君は昔、神戸の六甲山で一晩のうちに雪に降られ、やむを得ず車で慎重に下山していたところ、おっかなびっくりの歩むような速度であったにもかかわらず、坂のためスリップしてコントロールが効かなくなり、車の左の前輪が側溝に落ちてしまったことがあります。
たまたま通りがかった地元の人の親切に助けられて、なんとか車を路上に戻し、チェーンを買いに行くなどして数時間かけて恐怖と戦いながらともかく下まで降り、傷ついた車をフェリーに乗せて帰ったという苦い思い出があります。
いらいそれがトラウマとなり、雪の中では金輪際運転しないことを心に誓っていましたので、路上に積もりはじめた雪を見ただけですっかりびびってしまいました。

西日本というか九州の人間は基本的に雪との付き合い方を知りませんので、下手なことはしない方がとにかく賢明です。
ちょうど外出を取りやめた直後、テレビニュースでは昨夜東北で雪に閉じこめられた車の一団が、食べ物もないまま、車中で一晩過ごしたなどというニュースをやっていましたが、みんな意外にケロリとしているのにはさすがだと恐れ入りました。やはり日ごろの環境と鍛え方が違うのでしょうね。

ほどなく九州自動車道の一部と福岡都市高速の全線が通行止めになりましたが、北海道などでは雪でも高速道路を使うようですから、いやあもう、まったく信じられません。

お陰で「坂の上の雲」と「N響アワー」を録画しているために諦めていたフィギュアスケート女子フリーをまだら観することができました。べつにフィギュアスケートのファンというわけでもないのですが、やってればなんとなく観てしまいます。
優勝は安藤美姫でしたけれども、質の高い、気品のある演技と人を惹きつける魅力という点において、断じて浅田麻央が上だと感じました。
それにしても、あんなに大勢の観客とテレビカメラをはじめ無数のレンズに囲まれて、場内が固唾を呑む中で、ひとり一発勝負の氷の世界に挑み出ていく彼女達のメンタル面を思うと想像を絶するものがあります。

その凄さを思えば、マロニエ君が人前でピアノを弾くのがどうのこうのなんて泣き言は、ものの数にもあたらなくて自分でも笑ってしまいますが、笑ってみたところでどうなるもんでもなく、つける薬がないのは自分でもどうしようもありません。
メンタルのトレーニングというのは、場合によっては最もやっかいな難物かもしれません。

外を見ると、とりあえず降雪は止まっているものの、まだ道路にはシャーベット状の雪が残っています。
一昨日の悲惨なワゴン車の転落事故も、有名なピアノ店のすぐ隣の池だったのにはさすがにびっくりしました!

今夜あたり灯油も買わなくてはと思っていましたが、危ないことは止めにして、ブログ書きでもやっているところです。
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思慮なき駐車場

暮れも押し詰まって、街中どこに行っても人で溢れ、道路は車で慢性渋滞の毎日です。
いつも行きつけのスーパーも例外ではなく、そこそこの広さのある駐車場もさすがに満車状態で、空きスペースを求めてぐるぐるさまよっている車もあれば、じっと通路脇に停車して空くのを待っている車もあります。

こんなとき自分も空きを探しつつ、人の行動をみていると理解に苦しむというか、笑ってしまうようなことが多々あるものです。
例えば、駐車場の中は一方通行なのですが、一台出そうな車があると、すぐ前で待機していた車はすかさずその後に駐車しようと色めき立ってくるのがわかります。とくに混み合うときはうかうかしていると、後ろから来た車にまんまと入れられてしまうことがあるので、必死なのはとりあえずわかります。

しかし、待っている場所が、これから出ていく車が通り抜けていくべき通路上なので、じゃまになって出るに出られない状態になっています。待っている車は空いたらすかさずそこにバックで入れようと身構えており、少しでも先へ移動すると後の車にとられそうになると不安なのか、ともかく待っている場所が到底まずいことになかなか気付きません。
やむなく少し前にずれてやっとのことでひとつ空きができると、あまりに焦って止めようとするものだから、てんでバック開始の場所と方角が悪くて、もう車はメチャメチャな方角を向いて収拾がつかなくなります。

ただ単にバックして、すみやかに空きスペースに車を入れるという、それだけの行為が、思いもよらない大ごとに発展し、切り返しに切り返しを重ねて、見ているこっちが疲れるほどの苦心惨憺の末に、ようやく車は狙った場所に収まりご同慶の至りというところですが、あれではもうへとへとで買い物をするエネルギーが残っているだろうかと心配になってしまいます。

別のケースでは、駐車場出口のすぐ脇の駐車スペースに空きができたところ、折良くやってきた軽自動車が「おお、ラッキー!」とばかりにそこに入れようと思ったらしいのですが、なぜかこれまたわざわざ苦労して、バック駐車が始まります。しかしそこは進行方向にむかって自然に前向きに止められる場所であるばかりか、出るときのことを考えるなら、頭から突っ込んでおいたほうが、出るときもそのままの態勢でバックすれば、車は少し向きを変えるだけで自然に出口を向く態勢になるのですが、不思議にバックで駐車することにこだわりがあるようです。
そうまでしてバックで入れても、今度は出るときにまた何度も切り返しをしなくてはならなくなるのが明白なのですが、どうしてそんな単純なことに気が付かないのか、がむしゃらにバック駐車をやっているのは、一途というべきか、まったくもうご苦労様というほかありません。

そうかと思うと、今度はマロニエ君が買い物がすんで出口の車列に並んでいると、横から場内を逆走してきたおばさんが無理矢理にマロニエ君の前に割り込もうとします。
一周して列の最後尾に付くのがよほど嫌だったのでしょうが、いやに頑張るので根負けして入れてやりました。

全般的に言えることは、我欲だけが一人歩きして、ちっとも全体のことや合理的な判断をしようという思考がまったく働いていないように感じます。自分のこと、たった今のこと、目の前のこと、人に場所を取られるな、駐車はバックで、というようなことしか意識がないようで、それらを統括すべき思考力は完全に停止しているようです。

こういうおばさんやおねえさん達ですが、いったん店内に入ると、まるで別人のようにあれこれと知恵をめぐらせて賢い買い物をするのかと思うと、無性に滑稽な気分になりました。
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クリスマスの予定

昔ほどではないにせよ、巷ではやはり12月24/25日はクリスマスイブとクリスマスということになっていますが、いかがお過ごしでしょう。
「なっています」というのもおかしな言い方ですが、それは大半の人にとって、いまどきクリスマスなんてほとんどなんの関係のない2日間ですし、大半の日本人はキリスト教徒でもないので、ますます他人事になった観があります。

むしろマロニエ君が子供のころから学生時代ぐらいまでのほうが、宗教上の意味などとはまるで無関係に「クリスマスは楽しい特別な日」というイメージがありました。
そのころはクリスマスイブなどは、恋人とどうやって過ごすかということが、なによりも重要なことのように捉えられている風潮がかなり強くあり、彼氏彼女のいない人は、なんとしてもクリスマスまでに相手を探すというような意気込みで、バカバカしいけれども、とにかく大きな節目というかイベント日であったように記憶しています。

そのような流れで、クリスマスは最低でも家族、理想的には恋人と過ごすものという暗黙の認識が、多くの日本人の、とりわけ若い世代に浸透し、深く根をおろしたのはバブル崩壊前あたりまでのある時期だったように思います。
商業界もこの時期を絶好のビジネスチャンスと捉えるのは至極当然で、仏教徒もなにも一緒くたになってクリスマスという名の二日間を迎えていましたし、カップルはプレゼントの交換から、ホテルや高級レストランのクリスマスディナーなどの予約取りに熱中、ひどいのになると半年も前から予約獲得すべく大真面目に挑んでいた青年などもいたのです。

その風潮も極まれば、自分の予定表のクリスマスイブが空欄というのは相当の恥辱で、人として恥ずかしいことであるかのように追いつめられて、必死にその空欄を埋めることに奔走していた女性などもウヨウヨしていました。

それでも尚、この時期に恋人や特定の相手(すなわちクリスマスをロマンティックに過ごす相手)のいない人は、覚悟を決めてじっと息を殺すように声も立てず、ひたすらこの時期が通り過ぎるのを待ちました。まるで恋人達だけのためにある神聖で美しい時期の、自分は部外者であるかのように。
今から考えると笑ってしまうような話ですが、ある意味では今なんかよりもよほどみんな純情な面があったし、社会のほうもどことなくこんなことをやっていられた余裕があったといえるかもしれませんね。

さて、昔からこういう風潮には、どうにも反抗しなくてはいられない性格のマロニエ君は、あえてこの季節に仲間内で集まったり出かけたりする計画を立てることに打って出ました。恋人と過ごすのが大事な人はお呼びじゃない、お暇な人はどうぞ!というわけです。
するとどうでしょう、この季節はみんな忙しいものだとばかり思っていたら、ぞくぞくと参加者が現れて、会は大盛況となりました。しかもその空白を埋めてくれたということで感謝までされて、それみたことかと大満足でした。
いらい毎年のように続けていましたが、要するに大半の人は、この二日間は普段よりもずっと都合がつきやすいということまで判明しました。暮れの忙しい時期に、ぽんとブラックホールのようにここは空いているのです。

現在でもこの名残だけはまだあるようで、自分はともかく他の人はクリスマスは忙しいもの、予定が入っているものとして遠慮をする心理が働き、決してその日だけは誘いをかけないし、電話さえもしないという、これまた暗黙の了解が多くの人にはあるようです。
予定がないのは自分だけという思いから尻込みし、気を遣っているつもりのようです。
マロニエ君の経験でも、友人知人なども普段より連絡を手控えてくれているようです──全然その必要はないのに。

今年あたり、久しぶりにこのクリスマス招集をピアノサークルの面々にでもかけてみようかと思っていましたが、ばたばたしているうちに計画が立てきれず、つい当日を迎えてしまいました。
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省エネオイル

マロニエ君は普段の足代わりには日本車のコンパクトカーに乗っています。
実はこの手の車を買ったのは今の車がはじめてなのですが、これがもう想像以上に使い勝手が良く、小さいことそれ自体がすでに立派な性能だということがわかりました。
今後もこのクラスの車の圧倒的な実用性と、まるで自分の手足のように自在に泳ぎ回ることのできる魅力は、ちょっと捨てがたいものがあると確信するまでになりました。

良い点を挙げるとキリがないのですが、逆に大きい車のほうが勝る点のほうが数えるほどしかなく、なるほどコンパクトカーが巷で絶大な支持を得ていることが身をもってわかりました。
その良い点のひとつが燃費の良さと、ガソリンもレギュラーで事足りる点です。
小食で粗食にも耐え、故障とは無縁でいられるのは日本車の面目躍如といったところです。

さて、ふた月ほど前にオイル交換をするついでに、ちょっとこれまで挑戦したことのないオイルを入れてみました。0W-20という非常に柔らかい粘度のオイルで、いわゆる「省エネタイプ」のオイルです。

エンジンオイルというのもいったん凝り出すとキリのない世界なのですが、これまでは昔の悪いクセで、そんな車でもないのにモチュールというフランスの高級オイルを使っていました。
ところが、案の定これといった良さも大して感じないまま交換時期を迎えてしまい、次はおおいに方向転換してやろうと目論んでいました。

そこで、敢えてディーラーを避け、カーショップに出かけてオイル選びをはじめ、その結果、あるメーカーの省エネオイルを入れてみたというわけです。
オイルで省エネということは、簡単に言えば、サラサラのオイルを使うことで、エンジン内部のフリクションという一種の抵抗を軽減することでエンジンを軽く回して燃費を稼ごうという考え方です。

ピアノで言うなら、キーが軽くなれば指の負担が減るのと同じ理屈ですね。
重いキーの場合、そのぶんかかる指の負担が、エンジンで言うとガソリンを喰っているのとおなじことなわけです。
理屈はそうなのですが、だいたいエンジンオイルで省エネなんていうのは言葉ほど実をあげることはなかなかなくて、大半が僅差の世界、気分ばかりという結果に終わることも珍しくはありません。

ところが交換直後からエンジンのフケが軽くなり、以降二ヶ月ほど走った結果、何度給油してもおよそ1割がた燃費が間違いなく向上していることがわかり、その明確な結果に大いに満足しました。
現代のように、すでに極限まで効率を追求されつくして製品化される車の世界で、たかだかエンジンオイルで燃費が1割変わるというのは現実的にはかなり大変な事なのです。

肥満体の人がダイエットしたら靴の減り方が少なくなったというような微々たるものですが、しかし靴の減り方が少なくなるまでダイエットするというのも、考えてみればやっぱり大変なことですよね。
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ルーツは美しい音?

関東にあるヨーロッパピアノの輸入販売会社が発行する情報誌が久々に送られてきました。
なんでも、ずいぶん長いこと休刊していたものが、このほど復活したのだそうです。

読んでいると、そこに興味深い記事がありました。
一人の調律師の問題提起です。
調律師が10人いれば10の音色ができるといわれるが、それは何故か。そしてその原因はどこにあるのか。
うなりの聴き方、ハンマーの動かし方など、この問題を突きとめようという試みです。

ただ音を合わせただけでも、調律師には結果的に固有の音色というものがあるわけで、その不思議に迫ろうということのようです。

調律の作業では調律師の左右両手にそれぞれの役目があり、左手は鍵盤を叩いて音を出し、その音を聞きながら右手がチューニングハンマーを動かして音を合わせていくというものです。

そこで、5人の調律師が集まってひとつの実験をしたそうです。
(1)1人がチューニングハンマーを担当し、残る4人がそれぞれ音を出す。
(2)1人が音を出し、残る4人がそれぞれチューニングハンマーを動かす。

果たしてその結果は、(1)の4人が音を出す場合に、4人それぞれの音になったというのですから、これはすごい実験結果だとマロニエ君も思わず唸ってしまいました。

このレポートを書いた技術者の方によると、この結果を受けて、調律師が出す良い音とは、突き詰めればピアノを弾く人の良い音の出し方とイコールでなければならないということがわかり、そこに深い衝撃を受けたということでした。
つまり調律師は左手で良い音が出せなければ、いかにチューニングハンマーを持つ右手のテクニックが優れていてもダメなんだということが結論づけられていました。
その結果、その人はいい音を出すためにピアノ奏法をまじめに学ぶレッスンを受けられているとのことです。
まさに技術者らしい理詰めの思考ですね。

言われてみればなるほどという話で、これにはマロニエ君もきわめて新鮮な衝撃を受けたわけです。
経験的にも、調律の時にしょぼしょぼした音を出す人はあまり上手いと思ったことがないですし、逆にあまりにガンガンやる人は音色のニュアンスに乏しいことが多いような気がします。

また、この話は、ピアノの奏法や音楽性にも当てはまることだとも思いました。

いくら指が達者に動いて難しい曲が弾ける人でも、美しい音とそうでない音を聞きわける耳を持っていなければ、そもそも美しい音を出そうという意志も意欲も生まれず、そのためのテクニックにも磨きがかかりません。
より正確に言うなら、音楽が必要としている音が出せたときは、その先の演奏が有機的に乗ってくるものですし、それに反応していろいろな音楽的な展開が起こります。

ピアノを弾く上で、必要な音を必要な場所で適切に出せることは非常に重要かつ高度なテクニックなのですが、なかなかそれを理解し認識している人は少ないようです。
ピアニストでも音にかなり無頓着な人は少なくありませんし、さらにそれがアマチュアになるといよいよ拍車がかかり、ピアノを結局のところ指先の難しいスポーツのように捉えて、ただ難曲を表面上達者に弾くことに目標をおいている人が多いのは否定できません。
しかし、ピアノを弾く醍醐味はその先にこそあるのに、なんともももったいないことだと思います。
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生ピアノ=グランドピアノ?

昨日、我が家に来宅した知人は、おもしろいことを言い残して帰りました。
その人もこのホームページを見てくれているそうで、なんともありがたいことなのですが、曰く、ピアノのことで「マロニエ君が書いている通り…」といわれたので、いきなり何のことかと思ったら、No.62の「ピアノビジネスの変化」の中で述べている今の中古ピアノの市場でのニーズと実情に関することで、アップライトは飽和状態、さらには極端なグランドのタマ不足ということに繋がる話でした。

その人はもちろん業者ではなく、純粋な趣味で大人になってからピアノをはじめた人なのですが、目下電子ピアノで熱心な練習をやっているものの、いずれ現在のマンションを出て、生ピアノ(これ、変な言葉ですね)購入を目論んでいるようです。その際「アップライトには興味が持てない」「まったく眼中にない」とはっきり言い切ったのには、さすがのマロニエ君も驚かされてしまいました。

その人によると、電子ピアノで練習している人の心理としては、せっかく生ピアノを買うというのにアップライトでは、イメージ的に期待するほどの差(寸法や姿形など)がないのだそうで、したがって気分も盛り上がらないらしいのです。
それだったら安くて手軽で便利な電子ピアノでガマンするということになるのだそうです。
その人の中では「生ピアノ=グランドピアノ」という図式が出来上がっているらしく、いずれは…と思い定めて目標にする対象としてはアップライトは性能のことはともかく、まずイメージとしても魅力に乏しいようで、やはり何をおいてもグランドピアノの堂々としたオーラのある姿と存在感は人の心を惹きつけて止まないようです。

まさにこれ、現在の中古ピアノ店の在庫状況にも符合する話で、購入者のニーズが電子ピアノかグランドかという両極に別れてしまい、どうもアップライトは宙に浮いてあまり人気がないようです。
まさに『帯に短し襷に長し』といったところでしょうか。

その人が先日、関東に出向いたついでに、ある大手楽器店のピアノセンターのようなところに立ち寄ったところ、そこには世界の名器名品がズラリと並んでいたそうです。
多くが中古ピアノのようですが、店長とおぼしき人に「これらは以前はどんな人が使っていたピアノなんですか?」と質問したところ、「それは前オーナーの方へ差し障りがあるので申し上げられませんが、取り扱っているのはすべてワンオーナーです!」とキッパリ言い切ったとか。
それを聞くなり、マロニエ君はそれはあまりにも見え透いたウソで、しかも必要のないウソだと思いました。

そもそもワンオーナーなんてまるで中古車屋みたいな言葉を使うようですが、マロニエ君はその会社が海外から中古ピアノを仕入れて販売しているのは知っていましたし、オーバーホールされた数十年前のピアノ、なかには7〜80年も昔のヴィンテージピアノも何台も混ざっていますが、自分の歳よりも遙かに上の、しかも長年海外にあったピアノを「すべてワンオーナー!」などと言い切るとは、なにを根拠に…と思いますし、いったい何のためにそんなことを言うのかと思います。

中古ピアノは個々の楽器の状態やリビルド品の場合はその作業の質や仕上がりの優劣、音色や、タッチや、響きが問題なのであって、それらが申し分なければ別に複数のオーナーの手を経てきた物であっても一向に構わないわけですし、仮にワンオーナーであっても物がよくなければ、そんな経歴などなんの助けにもなりません。
でもきっと、店長などという人物にそうキッパリ言われると、なるほどと納得してしまうお客さんもいるのかもしれませんし、だからこういう発言も効果があるということなのかもしれません。

まあ、どのみちビジネスはきれい事じゃありませんが、でも、ウソはよくないですね。
人の気持ちというのは、ひとつウソをつかれると何もかもがウソのような憶測が走り、結局そんな店は避けてしまうようになりますから。
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音楽ビジネスの祖

カラヤンついでに思い出しましたが、ものの本によると、かのヘルベルト・フォン・カラヤンは、現代の音楽ビジネスにおけるあらゆる意味での先駆者だったようです。

指揮者という職業を超えて、まるで帝国の為政者のようにふるまい、手兵ベルリンフィルはもちろんのこと、ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場、サルツブルク音楽祭、ベルリン国立歌劇場、ミラノスカラ座、ウィーン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団など名だたるオーケストラや歌劇場の総監督や首席指揮者の地位を同時進行的に我がものとし、ついにはサルツブルク復活祭音楽祭という、音楽歴史上初の演奏者個人の企画による音楽祭まで立ち上げるなど、ありとあらゆる点でその権勢をほしいままにしたことは有名です。

また、ベルリンフィルの前任者であったフルトヴェングラーやチェリビダッケが録音に対して冷淡もしくはほとんど無視同然だったのに対して、カラヤンは積極的に(というより異常なまでに)この録音媒体を駆使して、生涯を通じて膨大なレコーディングを行います。

さらには音楽映像、CD、レーザーディスクなど新しいメディアにも常に積極的に取り組み、他の追従を許さぬ猛烈な取組がなされました。
今では当たり前といえる、音楽に於ける「ビジュアル系アーティスト」とか、製作することが定着して久しい「プロモーションビデオ」なども、その源流を辿って行くと、なんとカラヤンがその創始者だそうで、これらはみな彼の病的な自己顕示欲から生み出されたものという事実には驚かされます。

また「美しく、頼もしい、才能豊かな、超一流の英雄的な指揮者」というイメージ維持のために、指揮台だけにとどまらず、スポーツカーや飛行機を操縦し、ヨットに乗り込み、オートバイにまで跨って、その全知全能ぶりを知らしめ、自分のスーパースターとしてのイメージ作りに励んだというのですから、呆れてしまいます。

プライベートも抜け目なく、自分が世に出て確固とした地位を得るまでは、大富豪の娘と結婚して妻の資金を使いたいだけ使ったあげく離婚、その後自分が今度は莫大な冨を築いた後は、逆に自分が財産をはぎ取られないよう、わざわざ終生離婚の出来ないヴァチカンで結婚して財産の保全をするなど、その周到な計算能力といったら凡人には目がまわるようです。

カラヤンほどの人物になりながら、レコードのジャケットは言うに及ばず、ちょっとした新聞・雑誌に掲載する写真まですべて本人が徹底的な検閲を行い、それを実行しなかったカメラマンは終生出入り禁止になるなど、まあとにかくその空恐ろしいようなエネルギーは常人の理解の及ぶところではないようです。

録音に編集という専門的な技術を採り入れたのもやはりカラヤンが最初で、良いところの寄せ集めで完璧なレコードを作り上げるという手法を築き上げたわけです。そのせいで音楽はいうなればつぎはぎのモザイクのようになってしまうわけですが、そんなことは屁の合羽で、専らカラヤンの考える「完璧な美」のみを求め続けたようです。

これ以外にも、カラヤンが作り出した音楽ビジネスの手法というのはたくさんあって、良くも悪くも並大抵の人間ではないことだけは確かなようです。
現代の音楽家が、なんらかのかたちでもって「音だけで勝負しない」ようになってしまった風潮の源泉を探ると、結局はカラヤン大先生に行き着くようで、まったく功罪の判定もしかねる、しかしとてつもない巨人であることだけは間違いないようです。
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カラヤンとバーンスタイン

新聞の文化欄によると、今は亡き指揮界の巨星バーンスタインとカラヤンは、没後20年を経て尚もライバル関係にあるのだそうです。
もちろん生前そうであったのは世界中がよく知るところですが、死後これだけの年月を経てなおもCDが確実に売れ続けるというのはやはり並大抵の事ではありませんね。

生前のライバル形勢としては、ヨーロッパのカラヤンに対して、本来、西洋音楽の分野では真っ向勝負は不利なはずのアメリカの巨匠として、バーンスタインは奇蹟的に大きな存在だったように思います。

二人に共通しているのは活躍した時代と、指揮者という最もシンボリックな地位、並外れたピアノの腕前、そして両者共に容姿にまで恵まれ、存在そのものもスター性を通り越したカリスマ性のようなものが備わっていたことなどでしょうね。それがヨーロッパとアメリカ、それぞれの象徴的存在として対峙したのですから、もうこれはどうにもならない宿命だったような気がします。

これだけの圧倒的な大物になると、熱烈なファンがいるいっぽうで嫌いという人の数も世界的な規模でいるわけで、マロニエ君も実は両者共にあまり好きではありません。とくにバーンスタインはどうしてもその音楽に馴染めず、指揮をするときのあのハリウッド俳優のようなアメリカアメリカしたねちゃねちゃとした姿までゾゾッとしてしまいます。

ふと思い出したのですがバーンスタインが手兵ニューヨークフィルを相手に、自身がピアノを弾いてガーシュインのラプソディー・イン・ブルーを弾いている映像があり、ここでなんとベヒシュタインを使っているのは見ものです。
作曲者、オーケストラ、指揮者、ピアニストと、このアメリカのづくしみたいな世界のまっただ中に、突如ベヒシュタインが置かれ、これ以上ないようなドイツピアノの爆音を鳴り響かせながらガーシュインの世界を骨太に描きます。
ドイツピアノのいかにも男性的な無骨な響きがオーケストラをバックに轟くのはなかなかの快感です。

いっぽうのカラヤンはしかし、コンサートでは決してピアノは弾きませんでしたが、その膨大な仕事量は驚くに値するものでしょう。
カラヤンについては一時ほど嫌いではなくなっているマロニエ君なのですが、それはあの明解で華麗な演奏の見事さもさることながら、あの時代にだけあったゴージャスな時代の息吹をカラヤンの演奏を通じて追体験できるからです。70年代に絶頂期を迎えるひとつの時代の波というのは、まことに豪奢で華麗で一流どころが勢揃いして、一流のものとそれ以外がはっきりと区分けされていて、あれはあれで嫌いではありませんでした。

彼らのCDは最近になって次々にセット化・ボックス化されて割安価格で発売されるので、安く手に入れて網羅的に聴くことができるのは、ありがたいようなもったいないような話です。

マロニエ君も以前カラヤンのCDのボックス物をいくつか購入しましたが、4セット合計で200枚!を超えるCDがごく短期間のうちに手に入ったものだから、いやはや一通り聴くだけでも大変でした。それでも聴いたのは7割ぐらいで、すべてはまだ聴きおおせていません。
バーンスタインも同様のものが出てきているようですが、さすがにこちらは遠慮しようと思います。
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定例会と忘年会

今日はピアノサークルの今年最後の定例会と忘年会でした。
いつもながら皆さんにお会いして、それぞれの演奏を拝聴し、いろいろなおしゃべりと食事を楽しむ、たいへん充実した一日でした。

毎回感心するのは、皆さんよく練習されいろんな曲に果敢に取り組み、それを人前で発表するということを絶え間なくやっておられるというその目的意識や実行力には素直に頭が下がります。
聞けばいまだにハノンなどの訓練も怠りなくやっておられるようで、マロニエ君みたいな怠け者にとってはハハアと感心するほかありません。

また、こうしたサークル/クラブの類に属することが、きちんとした練習を積み直す格好の機会になるらしく、忙しい合間を見つけては練習に打ち込んでおられるようですが、ぜんぜんそういう前向きな刺激に結びつかず、定例会も近いというのにピアノをまったく弾かない日も珍しくないマロニエ君としては、ただただ自分を恥じ入るばかりです。
子供のころレッスンに通っている時分から、これ以上ないという恐ろしい先生と、最難関の音高音大を目指して必死に付いていく他の学院の生徒さんに混じって、そんな環境にいても尚なまけることをやめず、まさに曲芸のように時間をかいくぐってきたマロニエ君の体質は、死ぬまで直りそうにはありません。
「三つ子の魂、百まで」といいますが、まさにあれですね。

いまさら言うまでもなく、ピアノは本当に好きなのですが、そんなに好きなんだったら捻り鉢巻きしてでも練習に精進すればいいようなものですが、それとこれとは別なんですね…悲しいことに。

ところで、今日は新しい参加者の方で、マロニエ君の顔見知りの方が思いがけなくおられたのには驚きました。
調律師の方など、この世界は狭いということにもさすがに最近慣れては来ましたが、いまだにこういう想定外のことがあるのはピアノの世界独特の特徴だと思います。
以前お会いしたときは独身でしたが、今日はきれいな奥さんと一緒で、めでたくご結婚されたのもわかっていろいろと話ができました。

もうひとつ驚いたのは、このサークルのメンバーの中には、住まいがご近所の方の比率がきわめて高く、今日もまたひとり、カーナビの同じ画面に入ってしまうぐらいの距離の場所におられることがわかりました。
遠くからいらっしゃる方も多い中、メンバー全体の人数からすると一割以上ですから、やはり驚きです。

今回は忘年会も豪華なもので、ホテルのレストランでそれは行われましたが、広いテーブルにのりきれないほどのご馳走が次々に運ばれて、決して小食ではないマロニエ君も、まさにこれ以上ない強烈な満腹状態となりました。

帰りは途中まで皆さんと一緒に歩きましたが、一年前を考えると、人の輪が一段と強く大きく結ばれていることがウソみたいで、いやはや趣味というものは本当に素晴らしいものだと思います。
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ワイパーの再生方法

12月というのに雨が多く、はっきりしない天候が続きますね。

ところで、皆さんは車のワイパーのブレード(ゴムの部分)はどれぐらいの期間で交換されますか?
これは当然ながら消耗品で、使っていくうち水滴の掻き取り効果が落ちてきて、きれいにかききれず小さな水滴が残ったり、幾状もの筋ができたりと、ゴムの劣化からくる性能低下は基本的に避けられません。
とりわけ青空駐車された車のワイパーはそれだけ劣化が早いともいえると思いますが、それにしても新品時のあの気持ちのよい感触はあまりにも短命だと感じられませんか。

そこで、たいへん簡単で、お金のかからない効果バツグンの復活法をお教えしましょう。
ブレードを交換したばかりのときの、あの気持ちのよい使い心地が簡単に蘇りますし、マロニエ君自身、これで交換のインターバルが倍ぐらいには伸びました。

ワイパーの性能が劣っていくのは、基本的にはゴムの劣化ということがありますが、実はそれよりも別の事情によって拭き取り性能は早々にダメになっていくのです。
その別の事情というのは、ゴムに付着したゴミや汚れです。

経験のある方もいらっしゃると思いますが、洗車などをしたついでにワイパーのゴム部分を雑巾などで拭くと、布に真っ黒い墨のような汚れの筋が付着すると思います。実はこれがワイパーのゴムに積もり積もったゴミのかたまりで、これがわるさをしてきれいな吹き上げを妨げているわけです。
これが甚だしくなると、ゴムがダメになったと判断して交換する人も多いと思いますしマロニエ君自身も長いことそうでした。
ところがこれ、ゴム自体はまだ弾性があって元気なのに、たまったゴミのせいで劣化だと誤認され、交換という間違った判断に至ってしまうわけで、なんとももったいない話です。

さて、その復活法ですが、なんてことはありません。
雑巾でも布でも構いませんので、ワイパーのゴム部分を掴むようにして軽くスーッと拭いてみてください。
すると真っ黒な筋状の汚れが付着するはずです。そこでゴムが布に当たる部分をちょっと変えて、これを何度も繰り返してやってみてください。
何度かやっているうちに黒い汚れが薄くなっていき、最後にはまったく布に汚れが付かなくなります。
そのときが堆積した汚れがなくなったというわけで、これでワイパーは新品の時の状態に限りなく近づきます。

果たして、雨の日にワイパーを動かしてみると、新品同様の一滴も残さないそのきれいな掻き取り性能に感激するはずです。施工は洗車時でもかまいませんが、できればワイパーと使うとき、つまり雨天時走る直前にやってみると効果絶大です。ついでに簡単にガラス面も拭くとこちらもゴミが取れて、ますますきれいに掻き取れます。
気持ちが良いだけでなく、きれいな視界は安全運転にも多いに役立ちますよ。
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オピッツのベートーヴェン

ゲルハルト・オピッツのピアノリサイタルに行きました。
オール・ベートーヴェン・プロで第15番「田園」、第18番、第26番「告別」、第21番「ワルトシュタイン」の4曲でしたが、前半と後半では印象が大きく異なるコンサートでした。

前半の第15番「田園」と第18番はいずれも非常によく弾き込まれており、ベートーヴェンの語法をよくわきまえた理性的で誠実さのあふれた演奏でした。しかし、後半の告別とワルトシュタインでは躍動と迫真の大いなる欠如をもって、こちらはあれっと思うほどパッとしないものでした。
前半はどちらかというとリリックな作品なので、それがオピッツの演奏に向いているのでしょう。

彼はとても真面目な演奏家だと思いますが、全体に抑制感のある小振りなベートーヴェンで、喩えて言うならフルオーケストラではなく、小編成の室内オーケストラのような重量感の乏しい演奏でしたから、まずもってベートーヴェンを聴いたという実感があまり得られませんでした。

後半、告別の第一楽章の時点からちょっと変だなという印象が芽生えたのですが、どうもこういう曲はあまりお得意ではないようです。しかし、ブレンデルが引退した現在、中堅で数少ない「ベートーヴェン弾き」で鳴らしたオピッツですから、お得意でないでは済まされないものを感じました。
ワルトシュタインのような壮大な曲でも、なぜか小さく小さく弾いてしまうので一向にドラマティックではなく、却ってストレスが溜まってしまいました。

とくにワルトシュタインは今年買ったバックハウスのベルリンライブの鬼気迫る演奏に魅せられて、すっかりその虜になっていたこともあり、そのあまりな落差に呆然とするばかりで、ドイツ人がこんなにもベートーヴェンを矮小化したような弾き方をするのはちょっと納得がいきませんでした。

一曲だけだったアンコールには悲愴の第2楽章が演奏されましたが、これがなかなかの好演で、今夜一番の出来ではなかろうかと思ったほどでした。このあまりにも聴き慣れた、ほとんど新鮮味さえ失いかねない曲から、何か強く訴えるものが立ちのぼり、その素晴らしさに思いがけない感銘を受けました。

マロニエ君の知り合いが言うには、一夜のコンサートで一曲でもハッとするものがあれば、それでよしとすべきなんだそうですから、まあ前半にもところどころにいいものがあったし、これで良しとすべきでしょう。

会場であるアクロス福岡シンフォニーホールにピアノを聴きに行ったのは、10月のブレハッチ以来のことでしたが、この会場にあるスタインウェイは現在、きわめて素晴らしい状態にあると前回に続いて思いました。
うるさい技術者の人に言わせるとどうだかわかりませんけれども、マロニエ君の好みとしては、普通のホールのピアノとしてはほぼ理想に近いものを感じます。

音色は、最近のスタインウェイとも違う密度感があり、それでいて甘く透明。すでに15年ほどを経過した楽器ですが、こういうピアノを自分の地元で聴ける現在を非常に嬉しく思います。
これが2台あるうちのどちらかはわかりませんが、ともかく今のうちに素晴らしいピアニストにいろいろと弾いて欲しいものです。
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クロウトシロウト

ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんが、いわゆる従来型の音楽専業の演奏家ではなく、テレビなどのメディアにも幅広く登場するタレント型音楽家で、さらにはウリにしているのが男前なサバサバした性格や、いったん口を開くと毒舌の連発というのも薄々知っていましたが、まともに見たことがなかったので、テレビの番組欄でそれらしい放送があることを知り録画して見てみました。

番組の女性タレントと有名司会者が、北海道の田舎で行われる高嶋ちさ子のコンサートに同行するというもので、二人がいる場所へ真っ赤のポルシェ・ボクスターが屋根を開けた状態で現れ、それを運転しているのが高嶋ちさ子といういかにもな演出で始まりました。
車を降りた彼女はいかにも番組慣れした態度で二人と合流し、途中農園に寄って新鮮なトウモロコシやトマトをかじったり、牧場で馬に乗ったりと寄り道をしながらコンサートの会場へ向かいます。

会場で待っていたのは高嶋ちさ子の両親で、意外や、このお父さんはなかなかのキャラで味のあるおもしろい人だと思いましたし、脇にいらっしゃるお母さんもそれなりの可笑しさがありました。
その点では、高嶋ちさ子のほうがよりパンチを効かせておもしろいことをしようとしているようですが練れがなく、作為的で、さすがお父さんは年の功だと言えそうです。

お笑いだって、笑いをとりたいのなら、そこは緻密なアンサンブルが必要でしょうに、音楽家なのになんでもちょっとしたタイミングがずれるのは要所のキレが悪い印象です。
毒舌もどれほどかと思っていたら、これまたまったくの期待はずれで、ただ下品な単語を発するのが毒舌ではないと思うのですが…。

後半はスタジオに場所を移しての展開となりましたが、その登場の仕方がまたテレビならではのものでした。
「高嶋ちさ子 12人のヴァイオリニスト」という一団が登場し、彼女を中心にV字形に並んで「剣の舞」を演奏。
若い女性ヴァイオリニストが12人並んで、有名曲を演奏してみせたからといってそれが何?という感じで、どこが魅力なのかまるきりわかりませんでしたが、最近はなにかとビジュアル系とやらで、こういうことが本当にウケる世の中なのでしょうか?画面にはしきりに公演日などが出ていましたが行く人がいるのでしょうね。
パンツ姿で演奏しているその様子は、顔立ちといい、骨太で大柄な体格といい、楽器を構えるその姿は、まるで汗の似合うアスリートのようでした。

マロニエ君は器楽演奏者がテレビタレントまがいの振る舞いをすることに決して賛成はしませんが、それはそれとして、テレビタレントとして見るならやはりどうしようもなく素人で、間が悪く、輝きがありません。
ヴァイオリニストとしてならタレント性があるように見えるのかもしれませんが、ではいったん芸能人の中に入ってあれこれやり出すと、そこはやはり本物の芸人には到底及びませんね。

彼女に限らず、現代はすべての領域において、その道の素人がプロの領域に進出して、結果どこにも「本物」がいなくなってしまったようです。あんな活動をするのに、果たして1億もするストラディヴァリウスが必要なのだろうかと思うのはマロニエ君だけではないはずだと思いました。
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夢の話

ずいぶん昔のことですが、三島由紀夫がエッセーか何かの中で『自分の見た夢の話を人にしゃべって聞かせることほど、愚かしくつまらないものはない。』という意味のことを書いていて、激しく共感した覚えがあります。
いらいマロニエ君は決して人に夢の話をしないよう心に誓って今日に至っています。

今朝がた、我ながらあまりにも奇妙な夢を見たことから、この話を思い出してしまいました。

そもそも夢を見るのは眠りが浅いときであって、本当に熟睡しているときは夢は見ないものといわれます。
ある雑誌の巻頭言を読んでいると、そこの編集長が、さる人の体調管理の指導に従ったところ熟睡できるようになりすっかり夢を見なくなったというのです。より健康で充実した毎日を送れるようになり、仕事にもますます情熱的に取り組めるようになったという書き出しだったように思います。

これは裏を返せば、夢をしばしば見る人は不健康で、無為な毎日を過ごすと言われているような気がしましたが、果たして医学的にはそうかもしれません。しかしマロニエ君は、自分を肯定するつもりは毛頭ないものの、早寝早起きで快食快便、よく働きアウトドア大好きというような人とはどうもそりが合わないところがあります。
べつに遅寝遅起きで怠惰でひきこもりの人が好きだというわけではありませんが、お百姓じゃあるまいし、あまりに健康的な人というのはどこかグロテスクで、精神も健康の度が過ぎると却って動物的な気がします。

そんなことはどうでもいいのですが、夢の話をなんのためらいもなくする人というのも、どこか鈍い神経の持ち主であることが多いように感じます。

夢の話をする人の、まるで世にもおもしろいとっておきの話でもあるかのようなあの表情や話しぶり、たいてい内容は奇想天外で自分が野放図なまでに主人公で、無意味で理屈に合わないことの連続。
嬉々として話ながら一人でウケている姿がどうしようもなく浮いて見えてしまうのです。

しかも、聞かされる側は、話す当人と同等の興味を示すものと既定されており、そんな身に覚えのない前提を立てられて勝手なことを朗々と弁じ立てられるのは困惑の極みで、どんな顔をしていればいいのかもわからなくなります。
おまけに、夢の話ばかりは真実不在の無法地帯で、どこをどう作り替えようと、ストーリーをねつ造しようと勝手放題で咎められることもなく、夢という一言のもとにすべてが許されることが、よけいに聞いていて苦しくなるわけです。
夢の話では頭に「なぜか…」という言葉が乱用され、ここが笑いどころだと察せられても、気がひきつって、どうしても相手が満足するだけ笑うサービスができません。

もちろん一発芸的な、ものの10秒以内で終わるような夢の話なら罪もないのですが、ストーリー性を帯びて懇々と語られると、なんともやりきれなくなるものです。

考えてみれば、普通におもしろい話のできる人は夢の話などしませんし、それはおそらく本能的につまらないと知っているからだろうと思います。
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偽造楽器

マロニエ君の友人にはフルートが好きで、いまだ独身であるのをいいことに、何本ものフルートを収拾している馬鹿者がいます。
それもありきたりのフルートではなく、パウエル、ヘインズ、ハンミッヒ、ルイロット、ムラマツといった世界に冠たるメーカー品ばかりです。

ところがフルートのような小さな楽器というのは、価値の高いとされる昔の名工の作品など、いわゆるヴィンテージ楽器になるとニセモノをつかまされるという危険性が付きまといます。
完全な模造品もあれば、中にはニセモノではないものの、いくつかの本物の楽器のセクションをつなぎ合わせただけといったいかがわしいものなど、なにかしら疑念の残るものがあったり、あるいは何人ものオーナーの手を経るうちに勝手な改造がほどこされていたりと、このあたりになると実に怪しい、人間不信になるようなダーティな世界に突入してしまいます。

さらに恐ろしさもケタが違うのはヴァイオリンなどの弦楽器で、よほど出所やルーツが確かなものでないと、うっかりニセモノに天文学的大金を支払って購入するなんてこともあるわけです。
現実にストラディヴァリウスやグァルネリといった名を語る精巧なコピー楽器も出回っているとかで、どうかすると鳴りも本物並みのものさえあったりするとかで、虚実入り交じる、まったく恐ろしい世界のようです。一挺が途方もない金額の世界ですから、さぞやニセモノ作りにも熱が入るということでしょう。

その点では、ピアノ好きは自分の楽器が持ち運びできないという決定的なハンディがある反面、まさかピアノのニセモノなどというのはないから、その点ではずいぶんと健全な世界だと思っていました。
恐いのはせいぜい好い加減な修理をされたブランド楽器が、本来の能力を発揮できないような出鱈目な状態で、高値で販売されるというぐらいのもので、楽器本体がニセモノなんていうのは見たことも聞いたこともありませんでした。

ところが、つい最近聞いたのですが、ある技術者の方の話によると、スタインウェイの模造品というのがあって、現にその方がそれを一度買ってしまい、手許に届いてニセモノとわかり大騒ぎになったことがあるという話でした。これにはさすがのマロニエ君も、まさかそんな事があるのかと驚いてしまいました。
それは楽器に無知な人の仲介によってアメリカから輸入されたピアノだったそうなのですが、鍵盤蓋のロゴマークはもちろんのこと、フレームにまでちゃんとそれらしい立体的な文字まであるという手の込んだものだったそうです。

仲介者も含めて騙されたということが判明し、なにがなんでもその人が責任をとろうとしたらしいのですが、悪意でないことは明白だったので、結局双方で痛み分けということになり、そのピアノはそれを承知の上で購入した人があったとか。
可笑しいのは、その偽スタインウェイが、そう悪くはないそれなりのピアノだったということでした。

こんな話を聞いてしまうと、そのうち、ご近所の大国あたりからこういう冗談みたいなピアノが出てくることも、可能性としてはじゅうぶんあり得そうな話ですね。現に冒頭の友人のフルートコレクションの中には、ヘルムート・ハンミッヒのスタイルを真似ただけの、例の国の粗悪品もあるということです。
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島村楽器

天神に出たついでに、久しく行っていなかった島村楽器を覗いてみました。
このビルの同じフロアには以前、銀座山野楽器が入っていて、マロニエ君もずいぶんCDを買ったものですが、すでに撤退して久しく、いまはその面影もありません。

山野が出店していた場所のすぐ近くに島村楽器ができたのはいつごろのことだったでしょうか。
そのころはポピュラー音楽系の楽器などがメインでしたが、その後売り場を拡大してピアノなどを置くようになりました。

ずいぶん久しぶりでしたが、その理由のひとつは商業施設ビルの5階にあるためわざわざそこへ上がらねばならず、通りすがりにちょっと立ち寄る感じというわけにはいかないためです。
知らぬ間に売り場面積はいよいよ拡大したようで、とりわけギター関連の商品の充実は著しく、まさしくぎっしりと並べられていて、これは以前に書いたパルコに出店している何とかいう楽器店の向こうを張った処置だろうかと思われました。

そのすぐ隣がピアノと電子ピアノと、あとはヴァイオリンやフルート、楽譜など、片方のポピュラー系に対してこちらがクラシック系というような感じになっています。
マロニエ君は元来こちらにしか興味がないものの、しかしギター関連の品数もただ事ではない数なので、思わず店内を一巡してみましたが、いやはや色とりどりのさまざまなギターなどが立錐の余地もないほど展示されている様は壮観でした。

ピアノ関連の売り場とは壁一枚隔てており、いちおうの区別がしてあります。
こちらのほうがとくに売り場面積が増えているようで、平面には実にさまざまな電子ピアノがズラリと置かれており、本物のいわゆる生ピアノは何台あったか詳しくはわかりませんが、少なくともグランドは2台ありました。

一台はプレンバーガーの新品で、もう一台はスタインウェイのS(奥行き155cmの最小グランド)が展示してあり、これはシリアル番号から察するに実に70年ほどの前のピアノですが、見たところ完全なオーバーホールがされていて、塗装もなにもかもがピカピカで、何も知らない人が見れば新品と思うような美しい仕上がりでした(もちろんこれは見た限りの話です)。
タッチや音は弾いてみないとわかりませんが、店のちょっと奥には店員が3〜4人じっと待ちかまえているのがわかったので、とてもそんなことをする勇気はありません。

とくにピアノ関連の売り場というのはお客さんが少ないので、一人でも入店するとたちまち注目の的になってしまいますが、できることならもう少しだけ自由に商品を見られる雰囲気を与えてくれたらと思います。あまりにも「待ちかまえている」といった格好なので、あれではよほど気の強い人か図太い神経の持ち主、あるいは買う気満々の人でなければ、ゆっくり見て回って、ましてや音を出してみるなんて事はできませんから、もしマロニエ君が経営者ならちょっとスタンスを変えてみるかもしれません。

まあ、そうはいっても、こっちは見るだけなので、よけいにそこのところが痛切に感じられてしまうのかもしれませんが…。それでもそのスタインウェイのSがあまりにきれいな仕上がりだったので、ちょっと感心してジロジロみていると、店員の中から一人の女性が、まるで意を決したナンパ師のように決然とこちらに歩み寄ってくるのがわかりました。
「グランドピアノをお探しですか?」と声をかけられてしまいました。

「ちょっと見せていただいているだけです」と答えたら、どうぞ!と笑顔で少し距離を置いてくれました。
でも結局は話しかけられたお陰でザウター(南ドイツのピアノメーカー)のオールカラーの分厚くて立派なカタログをもらってしまいましたので、結果的にはラッキーでした。

この島村楽器は関東ではかなり輸入物のピアノ販売にも力の入った会社なので、できることならせめてグランドを5〜6台は置いてほしいところです。というのは、いくら店構えが大きくてもグランドが2台ではいわゆる専門店というイメージには至らず、たんに主力の電子ピアノの脇に本物の高級品もいちおう置いてますよという印象しか抱けません。
それが一定数まとまればお客側にもインパクトとなり、専門店としての認識も得られ、ひとつの勢力にもなるような気がしますが…そのためには天神の一等地では難しいかもしれませんね。
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駐車場劇場

駐車場といえば、おかしな話を思い出しました。

過日、天神のいつも利用するソラリアビルの駐車場に車を止めようと入りましたが、いつになく混んでいてなかなか空きがなく、通常より上の階まで来てしまいました。

ある車がヘッドライトをつけているので、さすがにその車は出るのだろうと思い、近くで待機していましたが、待てど暮らせど動く気配がありません。
また例の意地悪かと思って少し近づくと、車内で60ぐらいの男性が携帯電話をいじっていましたが、マロニエ君と視線が合うなりヘッドライトが誤解のもとだと気が付いたとみえて、パッとライトを消してしまいました。

そのうち、別の場所が空いたので、そこに止めて車を降り、エレベーターホールに向かいましたが、さっきのおじさんはまだ車内で携帯を操作中でした。

さて、それから約1時間半後、用事が済んで車に戻るとまだその車がいるので、「まだいるんだ…」と思ったと同時に、なにやらただ事ではない様子の人の声が響いてきました。

声の方向はその車の後ろの壁のあたりからで、いつの間にか女性が現れていましたが、その女性相手にさっきのおじさんがたいそう興奮した様子で必死に詰め寄り、大声で文句を言っています。
直感で、痴話げんかであることがわかりましたが、根が野次馬のマロニエ君ですからこういうことは当事者には悪いのですが嬉しくなるほうで、こりゃあなんともジャストタイミングなところに出くわしたもんだと咄嗟に我が身の幸運を思い、できるだけ気づかれないよう、自分の車までの長くはない距離を、まるで時間を惜しむように歩きました。

こちらの好奇心とは裏腹に、当人達はかなり深刻な様子で、言葉の感じからどうやら女性に別の愛人がいるようで、そのためにそのおじさんは自分のお金まで勝手に使われて、怒り心頭して張り込みを決行し、ついにこの女性をキャッチしたという、まさにそんな場面のようしでした。
思いがけない出来事に遭遇し、はじめはこちらもつい興奮してしまいましたが、事情がわかるにつれだんだんそのおじさんが可哀想になりました。
こういう場面で男が、腹をくくった女性に挑んでも負け戦になることは目に見えています。

マロニエ君が自分の車に乗ってエンジンをかけるころには女性のほうがサッとその場を離れ去り、おじさんは仕方なく一人自分のベンツに乗り込みました。
ベンツの立派な顔が泣いているようでした。

「俺は一生懸命オマエに尽くしてきた!」「あの金はどうしたのか!」「ここで何時間待ったと思ってるのか!」というおじさんの切羽詰まった声がいつまでも耳に残りました。
いらいその駐車場に行くと、そのおじさんはその後どうしたんだろうと思い出してしまいます。
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駐車場の暗闘

土日など非常に混み合った駐車場では現代人の嫌な習性を目にすることがよくあります。

満車状態の場合、どこか出ていく車はないものかとほうぼうで待機している車があるのは、どこでもよく目にする光景です。
駐車場内が一方通行になっているところも珍しくありませんが、ある場所から車が出ていって空きができると、こちらもそこに止めようとするわけですが、いきなり向こうから逆走してきて、強引に場所を取られたりすることがあります。

みんな空くのをじっと待っているのに、なんともお行儀のいい話です。
だいたいそんな事をするのは、ゴテゴテ飾りを付けた御神輿みたいな軽自動車か、はたまたいかにも中古で買って、派手なパーツだけくっつけて乗り回しているような年式遅れの「新車の時は高級車だった車」などがよくありますね。
それよりも気分的にいやなのは、買い物袋などをさげて車に戻ったにもかかわらず、乗ってから異様なほど時間をかけてまるで動こうとしない、明らかにいじわるな性格の人が少なくないということです。

こちらが待っていて、出たらそこに止めようと思っているというのが状況的に向こうにもわかるから、なおさら、どうでもいいようなことで最大限時間を取ってなかなか動こうとしません。
後ろを向いて荷物の整理のようなことをしたり、子供の世話のようなことをしたり、バッグの中をいじりまわしてみたり、まあとにかくいろんなことがはじまります。
ひどいのになると、さあいよいよもう終わりだろうと思いきや、今度は携帯電話をチェックしはじめたりします。こうやって動かないいじわるをするのは女性のほうが多く、このときの粘りは大したものです。

もういい!と思ってこちらも場所を変えたりすると、意地悪の対象がなくなってつまらないのか、あっけなく動き始めたりしますから、余裕があるときはこちらもテクニックとして一度姿を消してみせたりします。

とくにひどいのは、一見普通の主婦層で、だいたいユニクロかなにかのパンツをはいていて、小中学生ぐらいの子供がいて、表情も普通にしててもどこかイライラしているような、あのタイプですね。
たいていワンボックスやワゴンタイプなど、どう見ても「あなたには大きすぎるのでは…」と言いたくなるような車を顎を突き出して二階から運転するみたいに乗っています。

あるとき、180度方針転換して相手に一声話しかけてみる作戦にでました。
車に戻ってきた人へ窓越しに「すみません、出られますか?」ときくと、一瞬意外な顔をしますが、なんとも素直に「はい、でます!」と返事して、車に乗るなりえらく速やかに車を発進させてくれます。

みんな根は悪い人ではないのでしょうが、それだけに人の心理というのは、ほんとうにちょっとしたことなんですね。
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松葉ぼうき

「松葉箒(全国的には「熊手」というようですが、博多では昔からこう呼びます)」はどこにでも売っている落ち葉を掻き集めるための箒ですが、これにも良し悪しがあるのです。
これまではホームセンターなどで買ってきたものを普通に使っていましたが、あるとき知り合いから一本の松葉箒をもらいました。

なんでも近くに住む老人が好きで作っているというもので、毎年数本ほどもらっているのだそうですが、見た目がまずなんとなく繊細で上品な感じだなあというのが第一印象でした。

ところが驚いたのは実際に使ってみたときの絶妙の感触でした。
箒の先が地面に当たりこちらに引き寄せようとするときに、なんともいえないわずかな弾力があって、やわらかくしなるように作ってあるのです。このしなりがあるために使い心地が良いだけでなく、地面(とくに苔など)を必要以上に傷つけず、使い手も掃くたびに手や肩につたわる小さな感触に丸みが加わって、疲れがとても少ないわけです。

しばらくこれを使ってみて、またもとのホームセンターの松葉箒を使ってみると、そのいかにもラフでがさつな感触にすっかり嫌気がさしました。見た目はいっぱしですが、やたらと固いばかりでしなやかさというものがなく、掃いたあとも粗っぽい感じがします。
使い心地の悪さがあまりに明らかで、いらいこの一本しかない松葉箒を大事に使うようになりました。

ところがつい先日のこと、他の用でホームセンターにいったところ、金属の柄の先に柔らかいプラスチックを使った松葉箒が売っていました。価格は竹のものに較べて3倍ぐらいするし、見た目は柄は緑、先はプラスチック特有のオレンジ色でなんとも趣がありません…というかはっきり言って下品です。
しかし、店の床(フローリング)で感触を試してみたところ、あの手作りの松葉箒にも似た優しい弾性があって、これは良さそうだと感じ、とりあえず買ってみることにしました。

翌日、さっそく期待を込めて試してみたところ、しかし結果は「まあまあ」というレベルに留まりました。
弾性がある点は予想通りよかったのですが、プラスチック特有の感触が竹に較べてなんとも無機質で味がなく、一番の違いはそれまで意識したこともなかったことですが、竹の松葉箒はひと掻きするたびに竹から発せられるシャアシャアという乾いた音がするのに対して、プラスチックはほとんど無音なのです。

たかが落ち葉を掃くための松葉箒にも、実はこういうこまやかな、一見どうでもいいような風情があるわけで、人は無意識のうちにいろんなことを感じているものだということがわかりました。

マロニエ君はこれまで枯葉を掃く箒の音にも風情があるなんて考えてみたこともありませんでしたが、実際にこうして音のしない松葉箒を使ってみると、そういう何気ないことが人の心に伝わる感覚にはとても大切なのだということがわかりました。
たかだか箒ひとつにも味わいというものが、あるいは道具には微妙な使い心地というのがあるようです。
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自己愛性人格障害

精神分析によって一人の音楽家を論じる本を読んでいると、注目すべき記述が目に止まりました。

マロニエ君は以前、ある人物とほとんど不可抗力的に関わりができるハメになり、一目見たときから強烈な苦手意識と嫌悪感が、まるで電流のように全身を走ったのを今でも覚えています。
こういう第一印象はどんな理屈よりも確かなもので、むろん覆ることはありませんでした。

もともと棲む世界のまったく異なる、出会うはずのない人物で、幸いにしてその人とのご縁も既に消滅し、ホッとしているところですが、考えようによっては哀れを誘うところもありました。
むろん具体的なことは一切書きませんが、世の中にはこういう人もいるのかと社会勉強にさえなったというところでしょうか。

さてその本を読んでいると、まさにこの人のことではないかと思えるような下りがあり、一般論としても非常に興味深いことだったので、ちょっとご紹介してみようと思います。

その章では医学的に言う「自己愛性人格障害」という精神科領域の問題を取り扱っており、著者が精神科の現役の医師であるところから、個人的な性格の範疇ですまされるか、あるいは加療を要する精神疾患の領域とみなすかという区分のための症例が、分析的に整理・表現されています。
自己愛性人格障害の診察基準として次の9つの項目を列挙しており、これに5つ以上該当すればこの症状だと医学的に診断認定されるそうです。

1)自分の重要性に関する誇大な感覚。(例:業績や才能を誇示する。十分な業績がないにもかかわらず、自分が優れていると認められることを期待する。)
2)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空間にとらわれている。
3)自分が「特別」であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達にしか理解されない、または関係があるべきだと、と信じている。
4)過剰な賞賛を求める。
5)特権意識、つまり特別有利な計らい、または自分の期待に(他者が)自動的に従うことを理由なく期待する。
6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7)共感の欠如:他人の気持ちや欲求を認識しようとしない。またはそれに気付こうとしない。
8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思いこむ。
9)尊大で傲慢な行動、または態度。

果たして、冒頭の人物は5つどころか、なんとほぼすべてに該当すると思われ、なるほどあれは病理的な根拠のある病気だったのかと思えばいくらか納得もでき、今は陰ながらご同情申し上げるしだいです。

自己愛がとりわけに障害に結びつくのは、「誇大な自己が危機的状況になったとき」だそうです。
簡単に言えば危機的状況になったらなんらかのかたちで大暴れするというわけでしょう。

また、「自分の弱さを隠したい人は威嚇的な言動をとる」さらには「自己愛性人格障害の患者は、自己不信を補強するために誰にでも見えるような外的価値に強く依存する」というのはまったくもってなるほどと思いました。

みなさんのまわりにも程度の差こそあれ、こういう人物がいるかもしれません。
もしお付き合いに苦痛を感じる人がいるときは、ちょっと上記の9項目をチェックしてみられたらどうでしょう?
決して貴方が間違っているのではなく、相手が精神疾患ということがあるようですよ。
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ピアニストは世襲?

最新号のクラシック音楽関連の雑誌は、どれもほとんどショパンコンクールを巻頭で特集しています。
どれか一冊は買おうと思って見くらべてみた結果、その名にかけて力の入った特集を組んだと見えて、雑誌ショパンの12月号が最も読み応えがありそうなので、これを買いました。

音楽の友はややおざなりな感じがするし、先月のスタインウェイ特集で印象を良くしていたモーストリー・クラシックは、予想に反して先月ほど充実した特集とは思えなかったので、いずれも立ち読みだけにしました。

ショパンコンクールの結果についてはいまさらどうこう言うつもりはありませんが、ファイナリストのひとりひとりへのインタビューを読んでいると、ちょっと気になる発言がありました。
今回は2位が2人いるのですが、そのうちのひとり、ロシアのルーカス・ゲニューシャスの発言です。

『いろいろな演奏会のお話もいただけて、自分の求めていたものが得られました。僕はこのコンクールに1位をとるためにきたわけでも、膨大な演奏会契約が欲しくてきたわけでもありませんから。それに「2位」のほうが、もしかしたら音楽業界ではより魅力的な位置かもしれない。』

──???
3つの発言はすべてが矛盾しているように感じますし、それなら自分の求めているものとはなんなのでしょう? しかも2位という結果が出たあとから「1位をとるためにきたわけではない」というようなことを未練がましく言うあたりが、こちらからすればいかにも見苦しい。
「膨大な演奏会契約が欲しくてきたわけでもありません」と言ったかと思うと、「2位のほうが、もしかしたら音楽業界ではより魅力的な位置かも」などと、次々に妙なことを言う青年です。

現代では、個々の演奏家が自らの修行とか音楽芸術に没頭することより、わずか20歳の若さで、こういう建前&業界人のようなことを平然と口にすることも珍しくはないのかもしれません。氾濫する情報をもとに手堅いプランを練り、したたかに自分の進む道を計算しているみたいで、あまりいい気はしませんでした。
すでに今後の自分を音楽ビジネスのタレントとして捉えているのか、若いのになんとも抜け目ないというか、こういう言葉を聞くと、すでにこの人のピアノを聴いてみたいという気が起きなくなってしまいます。

実はこの人、かのヴェラ・ゴルノスターエヴァ(モスクワ音楽院の有名な教授)の孫なのだそうで、本人曰く『僕がピアノをはじめたのは、本当に自然の流れでした。親類縁者、過去までさかのぼって見まわして、家族の90%が音楽家です。たぶん、音楽家でないのは今は2人しかいないかな。この状況になると、音楽家にならないほうが難しい。』と自信満々に言っていますが、サーカスの一座じゃあるまいし、マロニエ君は過去の経験から、こういうたぐいの出身の人というのをあまり信用していません。
代々音楽一家というようなところから出てきた人というのは、一見いかにもサラブレットのようですが、実は意外に大した人はいないものです。

これは政治家や俳優でも二世三世というのがもうひとつダメなのと同じ事のような気がします。
たしかに環境の力によって、人よりも優れた教育を早期に効率的に受けるチャンスも多いので、才能があればそこそこには育つのですが、本物の音楽家や天才というのは(ようするに芸術家は)、どこから出てくるかわからない、いってみれば存在そのものが奇跡的なものなのです。
つまり、とくだんの理由や必然性もないところから突然変異のようにして姿を現す本物の才能というのは、やはりそのスケールがまるで違うというのがマロニエ君の見解です。
音楽一家だの政治家一家だのというのは、ほとんど場合、親を追い越すこともできません。

まあそれが通用するのはせいぜい梨園ぐらいなものでしょうが、こちらもいま騒がしいようですね。
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ピアノの置ける物件

知人がグランドピアノ購入を決断したことはこのブログの11月9日付けで既に書いた通りです。
ピアノはおそらく日本に向っている最中だと思われますが、知人はすでに新しい部屋探しをはじめたようです。

聞くところでは、不動産屋に行ってピアノの置ける物件を探しているという意向を伝えると、何故かグランドかアップライトかをしきりに聞いてくるそうです。
どちらでもピアノはピアノであるはずなのに、思いがけない質問を受けて知人は困惑したらしいですが、仕方がないので「家庭用の小さなグランド」というふうに控えめに答えたとか。

ところがマロニエ君も今になって知ったことですが、ピアノOKのマンションでもグランドはダメというところがあるんだそうです。
理由は明確な根拠があるわけではなく、専らオーナーの意向だとか。やはりグランドピアノというと言葉の響きも手伝って、アップライトより大きくて、本格的で、音もうるさいというイメージなんだろうと思います。

驚いたのはもう一つの理由です。グランドのほうが重量も重いうえに足が3本で、一本当たりにかかる重量が大きくなるというもので、あまりにくだらなくて呆れてしまいました。
現に大きな131cm級のアップライトピアノに比べると、小型のグランドのほうが重量も軽いことがあるわけですし、部屋の隅などに重量物を偏って置くよりは、より床を広く使って満遍なく重量をかける方が構造力学的にも遙かにバランスが良く、結果として傷みも少ないように思いますが。
さらに、きちんとインシュレーター(足の車輪を乗せるお皿)を使えばピンポイント的に重量がかかることもないし、だいいちピアノを置いたぐらいで床がどうかなるなど、いまどきの鉄筋建築でそんなことってあるだろうかと思いますが。

マロニエ君にいわせると、そんなことよりも誰が弾くかという点こそが問題で、ピアニストは論外としても、本格的にピアノを学ぶ子供や受験生・音大生などなら練習量も多く、警戒されるのは当然かもしれませんが、趣味の勤め人が、たまの仕事の休みに1、2時間弾くのならそう目くじらをたてるようなことではなかろうと思います。
もちろん弾く時間帯などの近隣への配慮が大切なことはいうまでもありませんが。

不動産屋によるとその判断は、各物件のオーナーの理解度にかかっているとのことだそうです。
トラブルや床の破損を避けたいという心情はわかりますが、現実的に今、賃貸マンションの入居率は猛烈に低く、家主は入居者の獲得に躍起になっていると聞きますから、あまり厳しいことを言っていては大事なお客さんを逃してしまうことになるようにも思いますけど…。

現にマロニエ君の友人が居住しているマンションは、ほぼ都心部の、電車の駅も歩いて5分という好立地にもかかわらず、みごとに3分の2が空室になっていると聞きます。

ある知り合いなどは、何の相談もせずにマンションにグランドを運び込んで子供が弾いているそうですが、とくになにも問題はないそうですから、すべてとはいいませんが意外と黙ってそうすればすんなりいくということもあるかもしれません。
管理者のほうの心理も、あらたまって許可を求められると、逆に不安になってつべこべ言ってしまうのかもしれませんね。
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ドラマ『球形の荒野』

TVドラマといえばもうひとつ。

先月下旬、フジテレビで2夜連続の松本清張ドラマ『球形の荒野』というのがあり、録画していたので観てみました。
ドラマ自体はマロニエ君にとってはあまり面白いものではなく、やたら冗長なばかりで流れが悪く、なんのために2夜仕立てにしたのかも説得力がなくて、決して出来がいいとは感じませんでした。
ところが本編の内容とは直接関係のない部分で、思いがけず感銘を受けてしまいました。

ドラマは2夜合わせて4時間を超えるもので、内容は太平洋戦争末期、敗戦が色濃くなった日本は隠密裡に敵国側との終戦工作をします。その矢面に立ったことで自らの存在さえも抹消され、やむなく家族と離ればなれになった一人の男とその妻子の苦悩を軸としたストーリーでしたから、わりにシビアで社会性の強い内容でしたが、全編を通じて流された音楽はすべてがバッハであったのは驚きでした。
それもごく一部に無伴奏チェロ組曲と管弦楽に編曲されたシャコンヌがあった他は、大半はグールドのピアノによるバッハだったのはちょっとした聴きごたえがありました。ピアノ協奏曲第1番のニ短調がドラマ全体を支配し、他にもパッと思い出すだけでもゴルトベルク変奏曲、パルティータ、平均律、フーガの技法など、これでもかとばかりのバッハ三昧、グールド三昧の4時間強でした。

クレジットにはバッハの名もグールドの名も一切出てきませんでしたが、グールドの比類ない鮮やかなタッチとセンスはいやが上にもそれとわかりますし、彼の弾く古いニューヨーク・スタインウェイの独特な黄金のハスキーヴォイスにも思わずため息が出るばかりでした。

ドラマを観ながらにしてこれだけグールドを聴くというのは、普段CDで聴くのとはまた違った新鮮さがあり、あらためてこの天才に酔いしれました。とりわけフーガの技法の深遠な美しさは思わずゾッとするようでした。
いまさらながらクラシック音楽、わけてもバッハの偉大さを痛感し、これだけの遺産を過去から受け取っておきながら、今何故クラシック離れなどが起きるのか、まったく理解できないという気になってしまいます。

もう一つは、時代設定が東京オリンピックの開幕直前の1964年というものでしたが、小道具のひとつとして日本を代表するグラフィックデザイナーである亀倉雄策氏の作である、東京オリンピックの公式ポスターが随所にあしらわれていましたが、いま見ても感嘆する他はないその圧倒的な美しさと存在感、和洋を融合させ、簡潔な美の世界を凝縮させた気品と芸術性には深い感銘を新たにしました。
これに較べると、最近のオリンピックのポスターやロゴは似たような書き文字ばかりで、こういう本物の芸術家が大舞台で腕をふるうということがなくなってしまったようです。

テクノロジーの分野はものすごいスピードで進化している現代ですが、芸術の分野は停止どころか、後退しているのではなかろうかとつい思ってしまいました。
振り返れば、バッハもグールドも亀倉雄策も遙か昔の人物ですが、なんとも圧倒的な才能を縦横に駆使して、人を無条件に黙らせるような偉大な仕事をしたのかと思うと、現代の芸術家はあまりにも小さくなったように思います。
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NHKドラマより

ピアノが出てくるという予告に反応して、NHKの『心の糸』というドラマを録画していました。
ところが、内容はてんでマロニエ君の好みではなく、実はまだ最後まで見通してもいません。

主人公の男の子は母親と二人暮らしですが、ピアノが上手く、もっか芸大を目指す高校生で、狭い借家にグランドピアノを置いて練習に励んでいます。
母親はろうあ者で、聞くことも話すこともできないのですが、息子の練習中、床にそっと手を当てて、その振動で息子の弾くピアノを感じ取っています。

母親は息子を立派なピアニストに育てるという一念で、障害者であるにもかかわらず、必死に海産物の工場で身を粉にして働いており、暮らしは決して恵まれてはいません。

そんな中、主人公がピアノのレッスンに行った折、いかにもというツンツンした感じの女の先生が自分のリサイタルのチケットを強制的に買わせるため、各生徒に振り分けているのですが、彼には「(事情を配慮して)普通よりも少なくしてあるから安心して…」といいながら、一枚4000円のチケットをそれでも15枚!渡されます。

主人公はチケット代6万円を先生に払わなくてはならなくなって困り果て、ただでさえ苦労の絶えない母親にそのことを言い出せず、ついアルバイトの募集広告などにも目が止まります。
ところが次の週、主人公がレッスンを休んだために、生徒の身を案じてではなく渡したチケットの件がどうなったかが気になって彼の自宅へ問い合わせのファックスを送り付けます。
それがもとでチケット代が必要なこともレッスンをサボってしまったことも、いっぺんに母親にバレてしまうというシーンがありました。

マロニエ君には、ピアノの先生の悪い面というのが、世間一般でこういうふうに捉えられ、ドラマであるぶん多少の誇張をもって描かれているように思いました。
まあ、これはいささか極端だとは思いますし、リサイタルをするほど「弾ける先生」もめったにいないものですが、それでもある種の核心は突いているように思えました。

しょうもないリサイタルをするような人は、普段だいたい先生をしていて、慢性的に不満を抱え、自己愛と自己顕示欲が強く、人の気持ちも、物事の道理も、社会常識もろくにわからない人物が珍しくなく、発想は常に一方的で、物事を「お互い様」という力学で判断することのできない自己中人間が多いわけです。
リサイタルをするとなれば、自分と関わりのある人間は当然来るものと算段し、そこには基本的に感謝の気持ちも申し訳ないという心遣いもありません。

ピアノが弾けて、生徒の先生で、リサイタルをするのだからエライというわけでしょう。

自分は極力お金は使わず人の為に何かをするということがないのに、他人が自分のためにお金を出したりタダ働きするのは当然という感覚。
そういう社会性の欠落した人物が他人に容赦なく迷惑をかけるという役どころとして、ピアノの先生が起用されたところにプロデューサーの的を得た思惑が感じられ、思わず笑ってしまいました。
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落ち葉の吹き溜まり

うちに来られた方を車まで見送ろうと外へ一緒に玄関を出たところ、ぽつりと「ここはお掃除が大変ですね」と言われてしまいました。
やはりというべきか、これでも決してサボっているわけではないのですが、我が家はほうぼうから落ち葉の集まってくる場所のようで、この季節は家人も日課のごとく毎朝掃き掃除をやっているのですが、それをあざ笑うかのように連日とめどもなく大量の枯葉が落ちてきます。
午前中きれいに掃いても、夕方にはびっしりと次の葉が落ちています。

こう書くと、まるで広い庭でもあるかのようですが、そうではなくて、隣の家には幸か不幸か、めったにないような大きな木が何本もあり、それがマロニエ君の家のほうに向かって傘をさしかけたように枝を伸ばしていますし、さらには道を挟んで向かい側は、以前は県の古い団地だったものが、昨年建て替えられて新しいマンションになりましたが、そこの地所内にあった道路沿いに植えられた数本の樹木はそのまま残されました。
建物が変わっても、大きな木が切り倒されずに生き続けることは望ましいことなのですが、そのために数本の木が落とす膨大な量の枯葉が風の具合もあって、どんどん我が家のほうへ吹き寄せられてしまうのです。

今年もはや12月となりましたが、この季節からお正月にかけて落ち葉もいよいよ佳境を迎えます。
我が家のガレージ前は道路から少し奥に引いていることが災いして、そこが皮肉にも吹き溜まりとなり、周辺の落ち葉はわざわざ集められたようにここで止まって、我が家よりも先には行きません。

どうかするとあたり一面枯葉の海で、しかも大半はよそから飛んでくる枯葉なのですからその理不尽たるや甚だしいわけです。
本音を言うと、マンションの管理費の一部で清掃人でも雇ってほしいぐらいなところですが、現実にはそういうわけにもいかないでしょうから、半ば諦めて毎日掻き集めた枯葉を押し込んだポリ袋の数を着々と増やしています。

片や隣家からは、様々な枯葉やむろんのこと、春には木の実がコツコツと音を立てるほど落ちてきて、こっちはこっちでその始末だけでもかなりの労働となっています。

今どきはたき火をするのも憚られる時代ですが、我が家の場合、そんなことを言っていたら有料のゴミ袋が何枚あってもキリがなく、枯葉ならばいいだろうと天気の良い日には燃やすしかありません。
たき火の威力は絶大で、45Lのゴミ袋10個ぶんの枯葉が、わずか洗面器一杯分ぐらいの灰になってしまいます。

一度など、向かいが県営住宅だったころに、県の敷地内の木による落ち葉を毎日のように始末しているのだから、せめてゴミ袋ぐらい提供してもいいのではないかと県相手に掛け合ったことがあるのですが、なんとその担当者は、袋を提供する代わりに、ご迷惑ならそれらの木々を全部切ってしまいます!といったので、木を切ることは木を殺すことと同じ事ですよ!と言ってやめさせました。
役人というのは、まったくどうしようもない感性の持ち主です。
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徹子の部屋

有名な長寿番組である「徹子の部屋」にユンディ・リが出るというので、昼間は見られませんから録画していました。

いきなりで恐縮ですが、ひさびさに見た黒柳徹子さんでしたが(外観は例のヘアースタイルと厚化粧ですからわからなかったものの)、知らぬ間にすっかりお年を召したとみえて、彼女の何よりの武器だった、立て板に水のあのスーパートークが、すっかり衰えているのにはちょっとしたショックを覚えました。

人間、歳を取れば体の機能が低下するのは致し方ないとは思いますが、それでもプロが公の場で仕事をする以上は保証すべき一定水準というのはあるはずで、モタついて滑舌の悪い黒柳徹子というのは、なんとも収まりが悪く、かつてはあの機関銃のような一気呵成なトークが売り物だっただけに、見ているこちらが痛々しい気分になってしまいました。
せっかくの記録的な長寿番組ですが、しかしあれではもう引退も遠くはないでしょうね。

いっぽう感心したのはユンディ・リで、マロニエ君は正直言って彼のピアノはあまり好みではないのですが、それはちょっと置いておくとして、非常におだやかで、態度も紳士的。とてもあの大国の御方とは思えぬ上品で控えめな態度は意外で、むしろ地味すぎてオーラがないぐらいな印象でした。

もうひとりの同国の世界的ピアニスト、ラン・ランがなにかにつけ派手で、控えめというのとは真逆のキャラでバンバン売っているのとはあまりに好対照であるのが面白いぐらいで、少なくとも日本人はラン・ランの陽気にはじけたエンターテイナー的な雰囲気より、ユンディ・リのどこか日本人的とも言えるような静かで落ち着いた雰囲気を好むだろうと思います。

マロニエ君はすぐに、相撲に於けるモンゴル出身の両横綱であった朝青龍と白鵬の、あまりにも対照的な個性の違いを思い出したほどです。

番組内では、一曲だけ演奏をするということで、有名なショパンのノクターンのOp.9-2が披露されましたが、スタジオに持ち込まれたピアノが???でした。
これは東京にある主にピアノ貸出を専門にやっている業者所有のハンブルクスタインウェイのDで、この番組のために持ち込まれたものでしょう。ピアノのサイドにはその会社名が書かれていましたが、ここは以前は主にニューヨークスタインウェイの貸出をメインにやっていたからかどうか、そのあたりの詳しいことはわかりませんが、少なくともマロニエ君にはまったくその良さが理解できないピアノでした。

ピアノ自体は見たところ20年前後経ったピアノで、本来なら脂がのって味が出て、とてもいい時期のピアノのはずだと思うのですが、全体に響きも沈みがちで、この点は非常に不可解でした。
もちろんテレビ局のスタジオという場所での演奏ですから、必ずしも好条件とは言えませんが、中音から高音にかけてやたらキンキンするばかりの深みのない音など、とてもこのピアノが本来持っているものとは思えず、調整や音の作り手の感性なのだろうと思いました。

マロニエ君は以前からこの会社のピアノの音はあまり好きではないのですが、よくテレビだのコンサートだのと、立派なピアノのある会場にも、敢えて自社のピアノを持ち込んでいる会社ですから、よほど営業力があるのか、なにか別の事情があるのかはよくわかりませんが…。
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福岡市の銀杏並木

今の季節、車で市内を走っていると、福岡は銀杏並木が縦横に張り巡らされていることがよくわかります。
とくに博多駅周辺の幹線道路はどの通りに出ても見事な銀杏並木が今まさに絶頂の黄色に染まって、見る者に冬の到来を華やかに告げています。

詳しいことは覚えていませんが、3〜4代前の市長さんは、長期政権なだけでこれといった突出した政治力はありませんでしたが、彼が福岡市に残した業績のひとつが、街中に緑をひたすら植え続けたことだと言われていたのを思い出します。
別名「緑の市長」などといわれたように、福岡市内の幹線道路などに相当量の街路樹が植え続けたことは小さな話題ではあったものの、当時は市長としての手腕に欠けるということのほうが問題にされ、木を植えたからといって別にどうということもありませんでした。

しかし、それから30年ちかく経ってみると、はじめはか細かったあちこちの街路樹も、すでに立派な大人の木に成長しており、それが街の美しい景観を際立たせるのに大いに役立っていることが明らかなようです。

とくに銀杏の木は、成長がいいのか既に堂々たる大木となり、それが一斉にいま美しい黄色に変わって、街は季節の色に鮮やかに包まれている感があります。それらの銀杏は一定間隔でどこまでも並んでおり、街のあちこちに華やかな彩りを添えてくれています。
歩道には扇形のかわいらしい無数の黄色の落ち葉がメルヘン画のように降り積もり、見ているだけでもなんとなく楽しげな気分になるものですね。
場所によっては路上がハッとするような黄色に埋め尽くされ、紙吹雪のように分厚く積もっていたりすると、ふと掃いてしまうのがもったいないような気になるものです。

ふつうは銀杏並木などと言えば、一本の通りだけだったりするものですが、博多駅周辺ともなると幹線道路であれば、どこをどう曲がっても、そこにまた延々と銀杏並木が続いているところに驚かされます。
たかが木を植えただけとはいっても、これだけの距離と夥しい数になると、これはこれで大変な偉業であり功績だったのだなあと、今にして感慨深く思うものです。

思えばケヤキ通りのケヤキもずいぶん立派な木になっていますし、大きな街路樹のある街というのは、それだけで街の歴史と格式を表す指標となるものですが、それは一朝一夕につくることのできるものではないからでしょう。
歴史ある都市と、新興の都市の違いは、街路樹の大きさひとつ見てもわかるというわけです。

例えば東京なども、マロニエ君はイメージよりははるかに緑の多い街という認識があるのですが、それは皇居をはじめとする、東京ならではの緑を擁する大型の建造物や公園などが点在するのはもちろんのこと、立派な街路樹が際限なく植えられている点が、さすがだと思うところです。

銀杏並木といえば全国的にも有名な神宮外苑の絵画館前はたしかに立派ですが、実はあれ、銀杏の種類が違っていて、葉がとても大ぶりできれいではなく、いささか風情に欠けるところがあります。
その点でも福岡市の銀杏は、みんなが良く知るかわいいあの銀杏ですから、よけいに愛らしく繊細に見えるのかもしれません。
山の景色を臨まなくても、すっかり季節の気配を満喫した気分ですが、あと一週間ほどが見所でしょうか…。
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天才と家族

昨年のクライバーンコンクールに優勝して以来、辻井伸行さんの人気はますます上がり、彼を取り扱ったドキュメンタリー番組など、もう何本見たことか、その数さえはっきり覚えられないほどです。
最近に限っても、NHKの番組でショパンの軌跡を辿ってマヨルカ島に行くものや、民放ではクライバーンコンクールの優勝者としてアメリカに再上陸し、コンサートに明け暮れる彼の様子などが放映されました。

マロニエ君も辻井伸行と聞くとつい見てしまうわけですが、その一番の理由は彼のあの衒いのない、その名の通りのびのびと我が道を歩み、心底から湧き出てくる希有な音楽の作り手だからだと思います。
すこしも見せつけてやろうという邪心がなく、いきいきと輝く清純そのもののような音楽を耳にできることは、ピアニスト辻井伸行を聴く上で最大の魅力だと思います。

人間的魅力にもあふれ、全盲という大変なハンディがあるにも関わらず、むしろ健常者よりも明るく快活で、良い意味で前向きなところは、むしろこちらのほうが反省させられてしまうことしばしばです。
会話の端々にも彼の人柄のすばらしさが表れ、そしてなによりとてもカワイイ人だと思います。
また彼は、ピアノはもちろんのこと、話す日本語も、非常にまともな美しい日本語である点も、彼の話を聞くときの心地よさになっているように思います。
間違いだらけの日本語が大手を振って氾濫する中で、こういう若い人の口から発せられる、正しい美しい日本語を聞くと、失いかけたものがまだ残っていいるというかすかな希望の念と、一時的にせよホッとする気分になるものです。

その点では彼のお母さんは大変苦労されたとは思いますが、やはり出自が元アナウンサーということもあり、この世界の人達に共通する独特な調子のトークで、いつでも人に聞かせるよう鮮やかに話をされるのが、彼の作り出す音楽の世界とは、ちょっと雰囲気が違うような気もします。

また彼が演奏家として独り立ちしつつある現在、お母さんの付き添いを辞退し、そこには長年自分に付きっきりだったお母さんにはこれまでになかった自分の時間を持ってもらいたいとの気持ちがあるのだそうで、なんとも彼らしい麗しいことだと思っていました。
ところが、やはり今風だなあと思ってしまったのは、息子の付添の手が離れたぶん、ゆっくりと自分の時間を楽しんでいらっしゃるのかと思いきや、今度は自分が主役となって子育てなどをテーマとする講演活動のため演壇に立ち、東奔西走しているという事実にはちょっと戸惑いを感じてしまいます。

元アナウンサーの母上殿にしてみれば、マイクを前に大勢の人に向かって話しをするのは、いわば本能なのかもしれませんし、あるいはよほど仕事がお好きなのかもしれません。
すでにこのお母さんの執筆による本もマロニエ君の知る限りでも2冊出版されていますし、その手際の良さには感心するばかりです。

ちょっとでもチャンスがあれば、それを逞しくビジネスに繋ぐのが現代では最善の価値なのだろうかと思います。
辻井伸行のあの明るい人柄と、その音楽的天分、そしてなによりも彼が紡ぎ出し、歌い上げる輝く音楽のために、身内としてなすべきことはなんだろうかと、つい考えてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。
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電気店の怪

友人達と食事をしていて、ひとりから意外なことを言われました。

というのは、マロニエ君はここ最近のことですが、大きな電気店に行くと体調がおかしくなるのです。
具体的にどういう症状かといいますと、大型電気店に行ってものの5分か10分も経つと決まって全身がチクチクしてくるのです。
しだいにそれはひどくなり、30分も経った頃には全身が針でつつかれるようにチクチクして、ちょっとしたパニックになりそうになります。

テレビ購入のときなどは、なにやかやと時間をとり、都合一時間近く滞在したために、最後は走って外に出るほど症状がひどくなりました。

電気店というのはモワッとした独特な熱さがあるので、はじめは秋口のことでもあり、たまたまそのときの温度のせいだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが、強めにヒーターが効いているところでもそういうことになるわけでもなく、いっぽうで大型電気店に行くと、そう暑くなくてもやはりこの症状が出るので、しだいにこれはちょっとおかしいと思うようになったのです。

つい先日も、びくびくしつつ電気店に入ってみると、やはり数分すると同じ症状が現れ始め、さっさと外に出ましたが、ようやく原因は電気店特有のなにかだとわかりました。

で、マロニエ君はシロウト考えで、これは電気店ならではの製品から放出される、いわゆる電磁波の影響だろうとさももっともらしく結論づけていました。現に電磁波に体がものすごい反応をしてしまう体質の持ち主で、普通に日常生活を送ることもできないほどの人に一度会ったことがあったので、とっさにその人のことを思い出して、その類に違いないと勝手に納得していたのです。

ところが、先日食事をした友人の一人はかなりの家電通(笑)で、まあとにかく家電に詳しいことといったらありません。彼にその事を話すと、即座にそれは電磁波ではないと、ほぼ断定するのです。
曰く、液晶テレビなどは電磁波をまったく出さない由で、その他の製品も電気店にあるもので外部に電磁波を出すようなものは実はほとんど無いはずで、電磁波があったにせよそれはごく微量だと言い切るのです。

それでは原因はなにかといえば、化学製品から発せられる特有の物質が店内に充満しているせいだというのが彼の見解でした。
とりわけ電機店では製造後間もない製品に電源が入っているので、科学的な素材とか製造に使われた各種の接着剤などが電気や熱を帯びることで、体に良くない物質が漂っているのからだということでした。

これは科学的な物質の、とくに新しいものが発する揮発性化学物質に顕著なことらしく、大別するとシックハウス症候群も同系統のもので、こういう物質に人の体が拒絶反応を起こすというものだそうです。
そう言われれば、ふうん、そういうものかと思いました。

大型電気店などそうしょっちゅう行くわけではないものの、用があるときあるわけで、こういう症状が出るとなると困ったもんだと思いますが、こればかりは打つ手がありません。
店員でもしもこういう体質の人がいたら、退職するしかないでしょうね。
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衝撃映像諸行無常

昨日の青蓮院とは打って変わった話題です。

マロニエ君は普段、テレビはあまり見ないほうなのですが、それでも告白すると子供じみた趣味があって、「衝撃映像」の類の番組は嫌いじゃないので、それらしい番組があるときは録画をしておいて、ときどき見ています。

先日録画した番組を見たところ、ちょっと予想したものとは内容が違うのでもう止めようかと思っていたとき、ゴールデンタイムの全国放送番組にもかかわらず「福岡の…」という言葉に反応して、つい何事かと我慢して見るはめになりました。

さてそこに出てきたのは真っ赤な特別なフェラーリに乗ってあらわれたある人物でした。
よくある露出好きなお金持ちの持ち物自慢のような内容で、いきなりそのフェラーリがいくら、今はめている腕時計がいくら、来ているスーツがいくらといった調子で、番組はその億を超えるという特別なフェラーリに同乗して自宅へ行き、さらに驚愕のお宅拝見という流れです。
マロニエ君はこの手の番組は嫌悪感を覚えるので普段なら絶対に見ないのですが、それでも福岡にそんな凄まじい人がいるとは思わなかったために、つい驚いて、怖いもの見たさに見てしまったのです。

自宅は人の住む場所というより、どこかのブランドショップか夜のクラブかと見まごうような強烈な趣味で埋め尽くされており、車も超高級車がズラリと並んでいるあたりも、いかにもこの手の人達のお決まりのパターンです。

広大な敷地内には、メインの建物のほかにも庭を隔てて二つの別棟があり、屋内プールだの高級料理店を出張させ友人を招いてのホームパーティだのと、これでもかという自慢のオンパレードで、スタジオのタレント達もお約束通りに感嘆詞を連発しています。挙げ句にはアメリカに所有しているプライベートジェットでどうのこうのと、こんなことをこれ以上詳しく説明するのもナンセンスですから止めますが、とにかくドバイの金持ちかなにかが突如我々の住む街に現れたという印象でした。

やはりというべきか、この人も借金取りから追われるほどのどん底からのし上がったとのことで…納得です。

ところがあることで(具体的なことは控えますが)、ちょっと心のどこかに、なにか小骨がひっかかるような感じを覚えました。
そこで、さっそくネットの情報やグーグルの衛星写真などで確認したところ、やはり予感は的中。
なんとここは以前マロニエ君の大叔父の家だったところだったのです。この人物が購入後に、昔の純日本式の家屋や庭園を根こそぎ消し去って、ゼロから作り替えたことで出来上がったド派手な家だということがわかり、そのショックには思わず鳥肌が立つほど胸がバクバクしてしまいました。

はじめはてっきり郊外の広い土地にでも建てられたものだろうと思っていたのですが、現実は我が家から車で10分もかからない場所だったわけで、昔の住宅街の奥まったところなので、普段車で通ることはないのです。
よせばいいのにその前を何年ぶりかで通ってみると、テレビで見たあの強烈な家は間違いなくそこにありました。

ここはマロニエ君が子供のころにはよく遊びに行っていた思い出深い家でしたが、その大叔父も5年ほど前に老衰で他界し、その後は遺族がマンション建設をやりかけたものの周囲の反対運動に遭って実現せず、やむなく売りに出されていることは知っていました。
それが結果的にこういう人物の手にわたり、しかもあんな姿に変わってしまったというのは、上手く言葉で表現はできませんが、予想だにしない意味での「衝撃映像」となってしまいました。

もちろん普通にマンションになったとしても昔の家や庭園は無くなってしまうわけですが、あまりにも思いもかけない結末で、平家物語に記された諸行無常とはさてもこういうことかと思いました。
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青蓮院のブリュートナー

友人が新聞の切り抜きをくれました。
マロニエ君がピアノ好きであることを知って、ときどきこういうことをしてくれるのでありがたいことです。

それによると京都の青蓮院(天台宗の寺院)で今月10日、ブリュートナーのグランドピアノを使ったフジコ・ヘミングによる奉納演奏が行われたそうです。
そのブリュートナーは1932年製のもので、青蓮院にこのようなピアノがあるのは先代門主の東伏見慈洽(今年満100歳)がピアノを嗜んだという思いがけない理由があるからのようです。

この東伏見慈洽は久邇宮邦彦王の三男で、香淳皇后(久邇宮良子女王)の弟にあたります。
大叔父である東伏見宮依仁親王に子がなかったために、曲折の末に東伏見宮を継承することになり、戦後の臣籍降下を経て、仏門に入り青蓮院の門主となったようですが、ピアノは昭和7年(22歳のとき)に近衛秀麿指揮の新交響楽団(NHK交響楽団の前身)でハイドンの協奏曲のピアノの録音演奏を行うほどの腕前で、それはCDにも復刻されているとか。
ちなみにこれは、ハイドンのピアノ協奏曲の世界初の録音となったそうです。

慈洽氏(猊下と言うべきか…)は仏門に入ってからもピアノを弾いておられたようで、子息で現門主の慈晃氏によると、ベートーヴェンのワルトシュタインなどの譜めくり役で演奏に随行したこともあるとか。

ところが、このピアノはあるころから経年による疲労が見え始め、いつしか内部はカビが生え、鍵盤を押しても鳴らない音があったり、鍵盤そのものが最初から下がりっぱなしのものがあるなど、ここ20年ぐらいは弾かれない状態になっていたといいます。
それでも慈洽氏がこのピアノを手放さなかったらしく、終戦の直前などは居所を転々として財産をあれこれ処分する中にあっても、このピアノだけは慈洽氏の手元を離れることは決してなかったということです。

そのピアノが製造から80年近く経って、ついに修復を受けることになり、青蓮院の書院からクレーンでつられて搬出され、1年がかりで全面的な修理を受けたというものでした。費用は新品のグランドが一台買えそうな金額になったとか。

それにしても皇族でこのようなピアノの名手がこの時代に存在したということも驚きでした。
しかし思えば、今上天皇はチェロをお弾きになり、東宮殿下もヴィオラを弾かれるのは有名ですから、西洋音楽に対する造詣も深いという一面は日本の皇族の隠れた伝統なのかもしれません。

記事にはマッチ箱ほどの大きさの写真がありましたが、それから察するにこのブリュートナーはコンサートグランドのようで、このピアノ一台で購入当時は小さな家が4軒建ったといわれていたそうです。

以前も岡山かどこかで見事に修復されたグロトリアン・シュタインヴェークをルース・スレンチェンスカ女史を招いてお披露目するという番組をやっていましたが、最近は日本でも高度なピアノ修復の技術が珍しくないものになってきたようですから、こういう由緒あるピアノがあちこちで息を吹き返していくのは嬉しい限りです。
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