藤田さんのモーツァルト

2021年のヴェルビエ音楽祭から、藤田真央さんによるモーツァルトのリサイタルの様子が2回にわたって放送されました。
これまで、藤田さんの演奏は積極的とまではいえないまでも、メディア等では折あるごとに注目はしてきました。

とても大きな手の持ち主で、風変わりなテンションにいささか戸惑いつつ、ピアノに向かえば相当に上手い人だというのは言うまでもありません。
その藤田さんの演奏の中でも、モーツァルトはとくに高評価だそうですが、これまでテレビ出演などで部分的に見てきた限りにおいては、どちらかといえばペタッと平坦で、そんなに素晴らしいかなぁ?というぐらいでしかなく、自分の中ではとくに付箋を貼っておきたい対象とまではなりませんでした。

そういう前提があったところで、今回はじめて彼のモーツァルトをまとめて2時間近く聴いてみることになったわけですが、これまでと同様の部分もあるものの、その素晴らしさに納得させられる点も大いにあって、多少印象を書き換えることになりました。
やはり、本番の演奏をまとめて聴くというのは大切で、藤田さん自身もテレビ番組でのおしゃべりの傍らでちょっと弾いてみせるのと、ヴェルビエ音楽祭のソロステージとでは、気合の入り方も違って当然というもの。

結論からいうと、これは藤田さんにしか弾けない、特別な光を放つ演奏に違いないと思ったし、大いに感銘を受ける場面も随所にちらばっていました。

ただし、本質的に感じたことは、とにかく「技巧の人」だということ。
その技巧というのが、派手派手しい、ヒーロー的なものではなく、繊細で緻密、弱音領域でのこまやかな指回りで真価を発揮するタイプの稀有な技巧で、この点で大変なものがありました。

ピアノを弾く人なら、弱音の音を揃えて正確に弾くことがいかに困難であるかは、だれでも知っていることです。
その点で、藤田さんのまったく軸のぶれない正確かつ目もくらむばかりの技巧には並大抵ではないものがあり、さらに息の長い持続力まで兼ね備えて、それじたいがすでに「天才の技」だろうと思います。
これは、どれだけ練習を積んでも得られない、まさに天性のもの。

人間の指の動きというより、むしろリスのような小動物が高所などを躊躇なく自在に駆けまわる四肢の動きのようで、信じられないスピードで縦横に、いかなる危険領域でも喜々として軽やかに駆けまわる指さばきは、モーツァルトという対象を得て遺憾なく発揮され、これは一聴する値するものでした。
とりわけプロのピアニストがこれを目にしたら、狼狽するような見事さ。

モーツァルトのソナタは、ピアニストの指の技術を丸裸にしてしまうところがあって、そのわりにさほど演奏効果の上がるものではないためか、ここに敢えて踏み込んでいくピアニストはそう多くはありません。

そんな中、難解なパズルを楽しそうにサラサラと解くような演奏は、まさにモーツァルト固有の難しさにピッタリと嵌ったのでしょう。

純粋に音楽的にいうなら、正直なところ、とくだん傑出したものだとは思わなかったけれど、なにしろあれだけの特殊な技巧を備えていれば、モーツァルトといえども如何ようにも仕上げられるだろう思われました。
音の多いパッセージなどでは、それらが無数の眩い輝きとなって流れ出すため、光の帯が降り注いでくるようで、他ではちょっと得難いような爽快感がありました。

テンポは全体に早めで、できればもう少し落ち着いて聴かせて欲しいところですが、藤田さんの才能と演奏の魅力を結晶化するには、おそらくこの速度が必要なのかもしれません。
そのかわり、そんなスピードでもまったく乱れを知らないその指は、世界を驚かすにも充分で、それを体験するところにこのピアニストの値打ちがあるのだろうと思いました。

世の中は、一つ覚えのように「技術より音楽性」「芸術表現のためのテクニック」などと、分かり切ったお題目を唱えて、それが逆転することを否としますが、技術そのものも、ある段階を突破すると、それそのものが魅力と存在感を示す場合もあるし、同時に「技術それ自体が芸術的領域に達する」ということもあるわけで、このような技巧で弾かれる藤田さんのモーツァルトが高い評価を得たということは、至極尤もなことだったと納得できました。

まさか!

偶然をもうひとつ。
録画設定しているTV番組は、視る機会のほうがはるかに少ないから溜まっていく一方で、HDの容量確保のためときどき整理が必要で、タイトルだけ見て消したり、ときに少し見てみたり。

『新・美の巨人』6月22日放送分は、建築界のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」をとった山本理顕氏が手がけた横浜市立子安小学校が採り上げられていました。

建築のことはよくわからないけれど、見るのはとても面白い。
ここは全校生徒が1000人を超える大きな学校で、それを前提とした機能的な建築のようでした。
体育館に集合というと、全校生徒はわずか10分ほどで体育館に集まる事ができる由、これはL字型をした校舎に抱かれるように体育館があり、二方向から最短距離で体育館と繋がれているためだとか。

学校の体育館といえばステージがあり、ステージにはピアノがあるのがごく当たり前。
この時も舞台の下手のほうにカバーのかかったグランドピアノらしきものがあって、それは小さく画面の端に数秒しか映らないのに、悲しい習性でついチェックをしてしまいます。

一般的に日本の公立の小学校ならばヤマハかカワイ以外はあり得ないという先入観があり、ほとんど関心は寄せていなかったところ、足の形状に「ん?」と目が行きました。
足の下部には金色の薄い受け皿のようなものが嵌めこまれており、そのすぐ下がキャスター。

これはヤマハでもカワイでもないし、強いて言うならベヒシュタインとベーゼンドルファーですが、足の形状はあきらかにベーゼンとは違うし、ベヒシュタインならペダルから斜めに伸びるペダルの突かい棒が太い木製ですが、それは細い金属製のようで、そこからこれしかないと考えられたのは「ディアパソン」でした。

全体のサイズはほぼ210cmクラスで、おそらくDR500だろうと思いました。
このサイズの大橋デザインモデルが廃盤になったあとに出た、カワイのRX-6ベースに一本張りにされたモデルで、高音側の外板のカーブが始まる位置がかなり後方であることからも、そのように推察できました。

実はこれ、個人的にものすごく好きなピアノで、根っからのファンにしてみれば「カワイを流用したもので、真のディアパソンではない!」ということになるかもしれません。
ところが、大橋モデルとは違った包容力とまろやかで美しい音色、大人っぽい落ち着きを兼ね備えた、きわめて魅力的なピアノで、もしかしたら個人的には一番好きなディアパソンかもしれません。
しかしこのサイズともなると、そうそう売れるものではなかったのか、早い時期にカタログから落とされた経緯のある、かなりレアなピアノだと思います。

何年も前、ディアパソンをイチオシ!するショップで、「実は一台だけ本社に残っている未使用のDR500があって、ご希望なら販売可能です。」といわれて、かなり心がざわついたことがありますが、さすがに衝動買いするわけにもいかず諦めるしかありませんでした。
ピアノが手に持てるほどのサイズで、お値段も一桁違えば買っていたでしょうけど…。

そんなレアなピアノが、まさか公立の小学校にある!というのも、かなりレアケースだと思いました。
番組で紹介された建築も大変なものだったけれど、思いがけなくピアノのほうに気持ちが向いてしまい、どういう経緯でそういうことになったのか、あれこれ考えを巡らせてしまいました。
勝手にディアパソンのDR500だと決めてかかって書いていますが、もし間違っていたらとんだ赤っ恥ですが!

クラコヴィアク

BSのクラシック倶楽部録画から『歴史的楽器が奏でるショパンの調べ〜名ピアニストたちと18世紀オーケストラ〜』を視聴。
2024年3月11日、東京オペラシティ・コンサートホール、ピアノは川口成彦/トマシュ・リッテル。

ショパンはオーケストラ付きの作品として、2つの協奏曲以外には、ラ・チ・ダレム変奏曲op.2、ポーランド民謡による幻想曲op.13、クラコヴィアクop.14、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズop.22があるのみ。
いずれも初期の作品で、20歳前に書かれていますが、すでにショパンの作風は見事に確立されているのは信じ難いほどで、歴史に残る天才とは恐ろしいものだと思います。

現在は、残念なことに協奏曲以外はめったなことでは演奏機会がありません。
op.22はピアノソロとして演奏されるし、op.2はやはりソロでブルース・リウがショパンコンクールで弾いたのが記憶に新しいところですが、op.13とop.14は演奏機会はめったにありません。

録音も少なく、私のイチオシはクラウディオ・アラウのもので、生演奏では未だ聴く機会に恵まれていません。
op.13とop.14は演奏時間もほぼ同じで、作品内容としても個人的には双璧だと思うのですが、それでもなんとなくop.14のほうが一段高い評価であるような印象。
随所に美しいノクターン的な要素があるop.13より、活気あるロンド形式のop.14のほうが演奏映えするのかもしれませんが、いずれも非常にショパンらしい魅力的な作品だと思います。

今回はop.13を川口さん、op.14をトマシュ・リッテルさんが演奏されましたが、リッテルさんによるクラコヴィアクが大変素晴らしかったことが印象的で感銘を受けました。
ピアノはタイトルが示すようにフォルテピアノが使われ、現代のパワフルかつ洗練されたピアノに慣らされている耳には、どうしてもやや頼りなく感じることがあるのも正直なところですが、リッテルさんの演奏はそのようなことをすっかり忘れさせるほど濃密で、躍動し、新しい発見がありました。
さらにいうなら、ショパンへの敬意と注意深さも終始途絶えることがなく、作品と演奏が一体のものとなり、聴く悦びを堪能させてくれるものでした。

あらためて感じたことですが、良い演奏というのは作品に対する表現のピントが合っており、すべてが意味をもった言葉となって、こちらの全身へ流れ込んでくるような心地よさがある。

もちろん事前にしっかりと準備されているだろうし、細部も細かく検討されたものでしょうが、さらに本番では霊感を失わず、今そこで音楽が生まれてくるような反応があり、それがさらに次の反応へと繋がって、まるで音符が自分の意志で動き出しているかのように感じました。
聴衆をこの状態に引っ張りこむことができるかどうか、それが演奏家の真の実力ではないかと思います。

最近は、クリアで正確だけど感動できない演奏が主流となっているので、若い世代にも稀にこういう人がいるのかと、久しぶりの満足を得た思いでした。

残り時間は18世紀オーケストラによるモーツァルトの40番でしたが、古楽オーケストラの活き活きした軽快な演奏はわかるのですが、私個人としては昔から抵抗を感じるのは、そこここでしばしば繰り返される強烈なクレッシェンドやアクセントで、あれがどうにも脅迫的で、当時は本当にそういう演奏だったのかなぁ?と思ってしまいます。