完璧な非音楽的演奏

一昨日のクラシック音楽館では、現在世界最高齢の指揮者となったマエストロ、ブロムシュテット(97才!)によるNHK定期公演の様子でした。
プログラムはシベリウス、ニールセンなどの北欧プログラムでしたが、冒頭のインタビューでは短いお話の中にさすがは巨匠というべき内容が語られ、とても印象に残りました。

それは概ね以下の様なものでした。

▶自分(ブロムシュテット氏)の毎日は宗教に特徴づけられていて、祈りに始まり祈りに終わる。
宗教は完全を目指し、よって自分も音楽に完全を目指している。
そのために度重なるリハーサルをするが、しかし自分が目指しているのはきれいな演奏ではない。
しばしばオーディションには、よく教育された完璧な演奏をする音楽家がやってくる。
テンポもボウイングも呼吸も完璧、でも私の心には響かない。
私に対して個人的に近づいてこない、いわば匿名の演奏だ。
完璧を求めるあまり、自分を隠してしまう、それは非音楽的な演奏にしかならない。
大切なのは常に最善をつくすこと。

…まったくもって膝を打つようなお言葉でした。

いつ頃から、世の演奏の趨勢がこんなふうになったのかはわからないが、しだいしだいにそうなったように思われ、少なくとも21世紀になってからは、そういうスタイルが明確に台頭しはじめ、個性的な芸術的な演奏はアウトサイダーのごときに扱われ、中心から外されてしまったように思います。

いかに音楽だ芸術だといえども、認められ評価されなくては始まらないから、無駄なリスクを避けた出世の早道として、その価値が高まったのでは?
ステージデビューのための最も効果的な早道はコンクール入賞で、そのためにはまず好みの割れるような個性を封じること、審査システムを知悉し、それに沿った完璧な演奏で点の稼ぐよう挑むことが、最も効率的というわけでしょう。

それが知れわたるや、世界中がワッとこの完璧スタイルを目指すようになり、そのために長い時間はかからなかったように思えるのは、20世紀とは次元の違う情報新時代に入った結果だろうと思われます。

ピアノの世界でわかりやすいのもやはりコンクールで、ショパンコンクールでいうと、個人的に「あれ?」と感じはじめたのは、2000年のユンデイ・リの優勝からではなかったか?と思います。
技巧として弾けているだけで、無味乾燥だとしか思えなかったものを、彼の演奏は完璧だ!とやたら大絶賛して憚らない人もいたりして、とくにピアノ学習者の中の比較的腕自慢の人などにそういう人がいたのを覚えています。

さらにその10年後、アブデーエワが優勝した時は、その方向性はいよいよ決定的で堅固なものになったと感じるようになり、自分の心は固く厳しく封印し、ただひたすら楽譜通りの演奏に徹する、指令や規律に滅私的に従う軍人のような姿は、聴いていて息が詰まるような気がしたものです。
音楽という生き物が命を奪われ、無表情で動かない造り物のように思えました。
もちろん、私の耳にそう聞こえただけで、アブデーエワ本人が「心を固く厳しく封印している」かどうかはわかりませんけれども。

その後、彼女のリサイタルに行った時は、さらに強くそれを印象付けられて、自分がなんのために今この席に座っているのか、ステージ上ピアノからなんのために音が出ているのか、皆目わからないといいたいもので、頭がフラフラするような思いだったのにもかかわらず、またも賞賛する人がいて、やはりピアノ演奏に連なる方の意見だったのは驚きでした。

また近年、好成績で入賞した日本人に至っては、コンクール対策として、これまでの同コンクールにおける上位入賞者の演奏曲目となどを徹底的に調べ上げ、それをデータ化し、高い評価が期待できそうな選曲をしたということをテレビ特集の中で、自信ありげに語られたことは非常に印象的であったし、ショッキングでもありました。
なるほどコンクールは戦いの場であるから、出場するからには勝ちを狙って挑むという言い分には一理も二理もあることは承知ですが、でも、こういう価値基準が音楽の世界にも必要以上に浸透し、当然のようになるのかと思うとゾッとするようで、強い危機と恐怖を覚えたことも事実でした。

さて、ブロムシュテットによるN響定期のあとは、今年度のN響定期の中からもっとも印象に残るコンサートはどれだったかという人気投票が行われた由で、その上位3位までが紹介され、その1位の演奏が放送されましたが、この結果にもきわめて驚かされ、もはや、否応なしに、世の中は私などの考えるものとは全く違う方向に向けて、どんどん動き出してしまっているということを思い知らされました。

トリフォノフ-2

前回は、ドキュメントだけを見て、それに続く演奏会の様子は見ないで書いていたけれど、少しは演奏を聴かなくてはダメだろうと思い直し、今年のサントリーホールでのコンサートの様子をいちおう聴いてみることにしました。
よっこらしょと再生ボタンを押したところ、ドキュメントで見るよりは例のヒゲも多少は整えられ、シャワーでも浴びてきたのか、だいぶこざっぱりした感じ。

ラモーのクラヴサン曲集やモーツァルト、メンデルスゾーンなどはいつものごとくでときめかなかったのが、ベートーヴェンに至って状況が一変しました。
この日のメインと思しきハンマークラヴィア・ソナタは、始まるやいなや「ん?」となって、いままでになくこちらに迫るものを感じて、思わず集中力が高まりました。

たっぷりとした幅というか、堂に入った恰幅のある演奏で、開始早々から新鮮な印象を覚えたのです。
ベートーヴェンらしい雄渾さがありながら、ただ力で押し切るのではなく随所にデリカシーが息づき、それが的を射ているため曲と演奏が落ちるところへ落ちて、嵌まるところへ嵌まっていくあたりは、視界が開けてゆくようで、多少誇張的にいうなら、フルトヴェングラーなどを連想させるところがあり、こういうこともあるのか!と思いました。

概して多くのピアニストの場合、ハンマークラヴィアという巨峰へ挑むにあたり、さまざまに気負いがあるのは当然としても、この巨きく難解さも内包した作品をできるだけ我が手に掴もうと、説明的圧縮的に弾く人が少なくないように感じますが、トリフォノフはそういうものにはまるで関心がないのか、その場その瞬間をじっくりとあらわし、どれだけ時間を費やそうとも、一向お構いなしに作品を通して吐露することを厭わず、それが細部の魅力を大いに際だたせていたのは、立派だったと感じました。
ピアノ・ソナタというよりシンフォニーようでもあり、もっぱらファンタジーをもって牽引されていくようなやり方に好感と驚きがありました。

ただ、第2楽章は思ったほどではなく、トリフォノフ自身かロシア人故かはわからないけれど、遊びとか諧謔的な表現は得意ではない感じも。
さらに長大な第3楽章は、トリフォノフの世界と相性が合ったのか、そこにひとつの幽玄な世界が現出して、たなびくような弱音が果てしもなく続く様子が、後期の弦楽四重奏を想起させたりで、これはこれだなぁと言う気が…。
第4楽章はやや混沌とし、疲れもあるのか、しだいにスタート時点にあった軸がだんだん崩れていくようでもあったけれど、それでも退屈することなしに聴き終えることができたのは思いもよらないことでした。

今回の収穫は初めてトリフォノフの演奏を楽しむことができたことと、加えて、即興の名人といわれたベートーヴェンの一面を実感的にわかりやすく感じられたことかもしれません。
とくに第3楽章では、ちょうど心に憂いのある人の話が長引いて、本人も止めようとするもどうにも制御できず、いよいよ和声が収束に向かおうとすると、またあちらこちらへと話が広がる方へ動き出してしまって、脆くて、淡い、淋しげな独白が延々と続くあたりは、傷んだ心があてどなく延々とさまよい続けるようで、それがベートーヴェン的でもあったし、それを演奏として変にまとめようと処理することをせず、包み隠さず露わに伝える演奏だったと思いました。

第3〜4楽章は、ベートーヴェン自身もこれという設計や構成があったのかどうかは知りませんが、イメージとしてはどこか行き当たりばったりで、それを後から何度もお得意の推敲で仕上げて、いずれとも言えない曖昧なものを音符として確定させたのだろうという感じがあり、それを耳で体験することができたのは、これはひとえにこのピアニストのおかげだろうと思いました。

残念だったのは、あとで聴き返しても、やはり第1楽章が断然素晴らしく迷いなく仕上がった演奏であったのに対して、2/3/4はやや生煮えの印象だったことです。が、しかし、同時に作品自体も、それほど完成度が高いものとは思えないところがあって、作曲者自身も疲労困憊のあげく終わりへと漕ぎつけるようでもあり、そういうところが感じられたことも今回の演奏の魅力だったのだろうと思います。

前回の続きでいうと、トリフォノフはとくに前髪がおどろくほど長く、しかも演奏に没入すればするだけ背中を丸めて前かがみになるため、どうかすると手の甲へ毛先が接触するようで、やはり刺激的なビジュアルでした。

ピアノはファツィオリのF278で、ハンマークラヴィアのような曲ではこのピアノの特徴であるパステルな音色と、地響きのするような低音はまるでコントラバスのようで、なるほど現代のスタインウェイではこういう味は出なかったのかもしれないと思いました。

シューベルティアーデ

BSのプレミアムシアターでピレシュを中心とした、『シューベルティアーデ』の様子が放映されました。
会場はパリのフィルハーモニー・ド・パリ。

ステージのやや左にピアノが置かれ、その傍らには、テーブルを囲んで椅子に腰掛けた男女パフォーマー達が訳ありげな様子に佇み、聴く楽しみにほどよい視覚の楽しみを加えた、なかなか面白いアイデアだと思いました。

クラシックのコンサートは(わけてもソロの演奏では)、ステージ上にソリストがポツンと居てひたすら演奏に打ち込み、それを身じろぎもせず聴くというのが当たり前で、これはちょっとした加減で一転、耐え難い苦行にもなるスタイルです。
演奏者以外に見るものがなく、時に集中力が切れたり、魅力的な音楽がかえって損ねられたり、変な違和感に襲われたりといったことがしばしばあるのも告白しなければなりません。

同じ曲でも、たとえば映画の中で効果的に用いられたりすると、その感動たるや何倍にも膨れ上がって鳥肌が立ち、ひとつのパッセージが心の内に深く迫ってくることがあります。
素晴らしい作品を、素晴らしい演奏によって披露されても、どうも虚しい退嬰的な時間のように感じることが私はないといえばウソになり、そもそも音楽はもう少しほぐれた雰囲気の中で聴けたらというのは、しばしば思うところだったのですが、この時の試みは、そのひとつの回答のような気がしたのです。

そのパフォーマーたちの動きは、まるでお能のように、その動きは極めてスローな最低限の動きで、決して音楽を邪魔するようなものでなかったことも好感が持てました。

個人的にコラボなどに代表される表層的な合体行為あまり好まないけれど、あくまで音楽を聴くことに主軸が置かれ、しかし音楽一辺倒の退屈さをガス抜きできる手立てとしての、こういうスタイルはなかなかいいなぁと感心しました。

印象に残ったのは、冬の旅からの二曲、弦楽四重奏曲の「死と乙女」──これは圧巻の演奏でした──、最後のピアノ・ソナタD.960のあの絶望の淵に落とし込まれる第二楽章で、上半身裸体の男性が金属の翼をつけた扮装で、ピアニストの背後まで迫ってくるのは、まるで天使か死神かわからないけれども息をのむ演出でした。

出演は、ピレシュの他に、イグナシ・カンブラ/トーマス・エンコ(ピアノ)、トーマス・ハンフリーズ(バリトン)、エルメス四重奏団。

ピレシュは、いかにも良心的な音楽作りで、とくにピアノソナタはかなり弾き込んでいると思われ、見事な演奏ではあったけれど、やはり気になるのは、どこか清貧的で、みずみずしさの要素は不足気味に感じます。
かと思うと、それにしてはドラマティックな表現は随所にあって、その際には他に見られるような抑制感がなく、ちょっと大げさな芝居っ気のある節回しは過大に聞こえることがしばしば。

気になるといえば、ピレシュ独特のタッチも何度聴いても気にかかり、注意深く丁寧に奏してほしい箇所でも、手を上げて、上からタッタッタッタッという、音色の配慮を欠いた雑な音が頻繁に出てくるのは、ほかが素晴らしいだけに目立つ気がします。

ほかの二人のピアニストも、おそらくはピレシュの弟子と思われ、それはこのタッタッタッタッという音や、手首から先全体を使う独特な奏法が、ピレシュのそれとそっくりで、そこまで師匠の奏法を踏襲する必要があるのか?は疑問。
まず第一に、ピレシュの奏法は小柄な体格と小さな手のサイズをカバーするために編み出されたものと考えられるので、普通の手のサイズをもった男性ピアニストまで同じ弾き方をして、わざわざ叩くような音を出すのは、なぜだかわからない。

ピレシュは何年か前に引退宣言をしたけれど、相変わらずステージに立っていて、私の印象だけかもしれませんが、ご贔屓だったヤマハを弾く姿は目にすることがなくなり、専らスタインウェイばかり弾いているようです。

ブッフビンダー

先日のEテレ、クラシック音楽館は前半がブラームスのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノはルドルフ・ブッフビンダー、指揮はファビオ・ルイージ/NHK交響楽団。

ブッフビンダーはウィーンを拠点とするピアニストで現在70代の後半。
ドイツ系音楽のスペシャリストとして数えられる人ですが、個人的には特に強い印象をもった記憶はあまりなく、いわゆる「中堅」という言葉がこれほどピッタリくる人はないイメージです。

際立った魅力も感じないがイヤミもないというところで、ウィーン系のピアニストというと、ティル・フェルナーとか近いところではヴンダーといった名前が浮かびますが、いずれも自身の個性表出より音楽への奉仕に重きをおくタイプの人で、そこがウィーン流なのか?とも思います。

とくにフェルナーの細部に至るまで神経のかよった端正な演奏は舌を巻くところで、様式感を重んじつつ、そこにあふれる清潔な美しさは印象的。

ブッフビンダーはウィーン系でもまた趣が異なりますし、そもそもウィーン系なのかどうかもわからない。
CDなど何枚かは持っているけれど購入当時に幾度か聴いただけで、自分にとってさほど重要な存在にならないまま、以降は手に取ることもほとんどなくなってしまいました。

氏のプロフィールや得意なレパートリーから期待するような、構造感とか折り目正しさというわけでもないし、その音楽には感覚重視の印象もあり、どこか線の細さを感じます。

よって、やはり「中堅」としか思えないのだけれど、最近ではお歳も重ねられたこともあるのか、いつしか「巨匠」へと格上げされているようです。

今回のブラームスでは、テンポが速めで、そうすることでこの長大な作品をまとまりよく聴かせられるということもあるのかもしれないけれど、もう少ししっとりじっくり聴きたい派には、いささか性急で肌理の粗さが目立ちました。

この作品は長いだけでなく結構な技巧を要するところへ、このテンポ設定も重なったのか、あまり上質な演奏とは思えないものになってしまったのはとても残念でした。
キズのない演奏が大事などとは思いませんが、そういう不備を補って余りある何か大事なものが聴こえてこなかった…というのが私の印象。

さらに追い打ちをかけたのが、最近の機能性抜群のN響の乱れのない演奏で、ピアノとオケがとりわけ対等密接な関係性をもつこの作品においては、ソリストの弱点が否応なく暴かれてしまうようで皮肉な対照でもありました。

そういうことをしばし忘れて楽しめたのは第2楽章。
夢見るような美しい世界の広がりは陶酔的で、そういう趣味の良い叙情美はブラームスの独壇場となるのもしばしば。
この緩徐楽章ではさしものブッフビンダーもほぼ適正なテンポで弾いてくれましたし、時おり特定のバスを深く響かせてくるあたりは、この作品をよく知っているらしいことを感じさせるところではありました。

そして、第2楽章が終わって第3楽章に入る間の取り方は、この曲を聴くときにいつも注目してしまうポイントですが、ほんの一息間を置くだけで、その集中と余韻を切れさせぬところで、決然とピアノのソロが鳴り出したのはホッとさせられました。

ここで、本当の休息をとってしまって、客席からゴホゴホ咳払いなどが出てくるのは、この作品においては適当とは思われませんから。

稼ぐか芸術か

少し前のこと、民放の音楽長寿番組で、立て続けに現代日本を代表する世代のピアニストたちが様々出演されました。
どの方の演奏も指さばきは安定し、なにかが決定的に悪いわけではないけれど、良いとも思わない、いつものスタイルでした。

年齢も経歴も必ずしも同じではないのに、不思議なほど肌触りやあとに残る印象が似ているあたり、まさに大同小異という言葉を思い起こします。

楽譜通りにそつなく弾けているけれど、耳を凝らすと、それぞれに肝心な点でおかしなことをやっている。
わかりやすく云うと、ツボにハマらず、ピントはずれ、歌うべきところで歌うことなく、素通りするかと思うと、思わぬところで意味不明な間をとったり。

指は確かだから、さも完成されているように見えても、作品と演奏者が特別親密な関係になったときだけに発酵する濃密さみたいなものはなく、その場だけ笑顔をかわして会話しているような、ひどく他人行儀なウソっぽさを感じます。
現代人がお得意の、良好な関係の演技をしているだけといった印象。

よって、そつのない演奏に終始し、魅力的な演奏で酔わせてくれることもない。

これが演奏における現代様式なのかとおもうと、気分が自分の中のどこの引き出しに収まることができずに彷徨い、慢性的な倦怠感のようなものに包まれます。

たとえば、いまやモーツァルトの世界的名手のように言われる人などもおいでのようだけれど、何度聴いてみても私にはとてもそのような価値ある演奏とは思えず、そもそも芸術性というものが感じられません。

指もよく動くし、譜読みも早く何でも弾けるのだろうから、むかしならさしずめナクソスレーベル御用達のピアニストぐらいで?

聴く側が演奏に触れるときに期待するものは、作品そのものの世界に浸ってみたいということの他に、演奏者ごとの表現や問いかけに接してみたい、美しさにハッとさせられたい、慰めと悦びで満たされたい、あるいは激しく打ちのめされ翻弄されたいというような思いがあるのですが、この世代の演奏からはほとんど受け取った覚えがない。

なるほど天才なのかもしれないけれど、どれも一様に軽く、小動物の戯れのようで有難味がなく、作品が生きあがってくるとは言い難い。
モーツァルトならやっぱり内田光子のほうが断然好きだなぁと思ったり。

モーツァルトといえば、別の、話題の多い二人のピアニストが出演して、2台のピアノのためのソナタの第3楽章を弾かれましたが、これにもまたかなり唖然とさせられました。

最終楽章というのは、大半はテンポも速く生き生きとして、それまで旅してきた各楽章の意味を引き継いで、まとめるようでもあるし祝祭的でもあるし後片付け的な意味もあるもので、この曲もまさにそういう作りです。

ところが、楽しく浮き立つような要素は私の耳には皆無であったばかりか、ふてぶてしいまでに落ち着き払い、まるで別の曲の第一楽章を聞いているようでした。

もうすこし踏み込んで言うと、作品に対して気持ちが入っていないことが見えてしまっており、曲の表情付けから何からすべてが外形的作為的、ただ人気に慢心し、聴衆を軽く見て、番組の予定をこなしている不誠実なタレントのように見えました。
もしかしたら、ろくに練習もせず、間に合わせ的に本番で弾いたといわれても驚きませんし、この人達ならそれも可能なのでしょう。

終わったら楽屋で着替えて、お付や関係者と次の事務連絡をして、出待ちのファンに対応することもなく、待ち受けるハイヤーにサッと乗ってホールを後にするんだろうなという光景が目に浮かぶようでした。

昔の演奏家は、根を詰めて作品と対峙し、納得した時だけステージに上げるというようなことをやっていましたから、好みはあるにせよ、いちおうは聴く価値のあるものでした。

でも、今そんなことをしていたら、ライバルにどんどん仕事を取られるし、極限まで突き詰めた演奏をしてもしなくても、大半の人にはどうせわからない、芸術家として苦しみに喘ぎながらごく一部の理解者に賞賛されることより、演奏タレントと割りきって忙しく飛び回り、拍手とギャラにまみれるほうが、楽しいし時代の価値にも合っているんでしょうね。

クラコヴィアク

BSのクラシック倶楽部録画から『歴史的楽器が奏でるショパンの調べ〜名ピアニストたちと18世紀オーケストラ〜』を視聴。
2024年3月11日、東京オペラシティ・コンサートホール、ピアノは川口成彦/トマシュ・リッテル。

ショパンはオーケストラ付きの作品として、2つの協奏曲以外には、ラ・チ・ダレム変奏曲op.2、ポーランド民謡による幻想曲op.13、クラコヴィアクop.14、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズop.22があるのみ。
いずれも初期の作品で、20歳前に書かれていますが、すでにショパンの作風は見事に確立されているのは信じ難いほどで、歴史に残る天才とは恐ろしいものだと思います。

現在は、残念なことに協奏曲以外はめったなことでは演奏機会がありません。
op.22はピアノソロとして演奏されるし、op.2はやはりソロでブルース・リウがショパンコンクールで弾いたのが記憶に新しいところですが、op.13とop.14は演奏機会はめったにありません。

録音も少なく、私のイチオシはクラウディオ・アラウのもので、生演奏では未だ聴く機会に恵まれていません。
op.13とop.14は演奏時間もほぼ同じで、作品内容としても個人的には双璧だと思うのですが、それでもなんとなくop.14のほうが一段高い評価であるような印象。
随所に美しいノクターン的な要素があるop.13より、活気あるロンド形式のop.14のほうが演奏映えするのかもしれませんが、いずれも非常にショパンらしい魅力的な作品だと思います。

今回はop.13を川口さん、op.14をトマシュ・リッテルさんが演奏されましたが、リッテルさんによるクラコヴィアクが大変素晴らしかったことが印象的で感銘を受けました。
ピアノはタイトルが示すようにフォルテピアノが使われ、現代のパワフルかつ洗練されたピアノに慣らされている耳には、どうしてもやや頼りなく感じることがあるのも正直なところですが、リッテルさんの演奏はそのようなことをすっかり忘れさせるほど濃密で、躍動し、新しい発見がありました。
さらにいうなら、ショパンへの敬意と注意深さも終始途絶えることがなく、作品と演奏が一体のものとなり、聴く悦びを堪能させてくれるものでした。

あらためて感じたことですが、良い演奏というのは作品に対する表現のピントが合っており、すべてが意味をもった言葉となって、こちらの全身へ流れ込んでくるような心地よさがある。

もちろん事前にしっかりと準備されているだろうし、細部も細かく検討されたものでしょうが、さらに本番では霊感を失わず、今そこで音楽が生まれてくるような反応があり、それがさらに次の反応へと繋がって、まるで音符が自分の意志で動き出しているかのように感じました。
聴衆をこの状態に引っ張りこむことができるかどうか、それが演奏家の真の実力ではないかと思います。

最近は、クリアで正確だけど感動できない演奏が主流となっているので、若い世代にも稀にこういう人がいるのかと、久しぶりの満足を得た思いでした。

残り時間は18世紀オーケストラによるモーツァルトの40番でしたが、古楽オーケストラの活き活きした軽快な演奏はわかるのですが、私個人としては昔から抵抗を感じるのは、そこここでしばしば繰り返される強烈なクレッシェンドやアクセントで、あれがどうにも脅迫的で、当時は本当にそういう演奏だったのかなぁ?と思ってしまいます。

窮屈になる時代

コンサートに行く頻度はめっきり減りましたが、その理由はいろいろあるけれど、ざっくりした理由としては、聴いてみたい演奏家の激減、演奏スタイルの変化により結果が見えていてワクワク感がない、地方公演での演奏の質、残響ばかり強くて音が混濁するホール、などがあります。

…が、そればかりでなく、コンサート会場に流れる空気も、昔の自由な、楽しい雰囲気は失われ、最近はますます悪い方向に強化される方向だと聞きます。

例えばホールに行くと、いまどきの人手不足というのに、エントランス前後から多くの職員があちこちに立って、お客さんを案内するという名のもと、実は厳しく行動は監視され、なにか見張られているような気配を感じます。

座席に行くにも、その経路さえも関係者からやんわり管理されているのか、なんとなく自由にウロチョロできない雰囲気。
ようやく座席につくと、こんどは「開園に際しまして…」のたぐいの注意放送が降り注ぎます。

録音/撮影はダメ、携帯電話の電源を切る、演奏中の出入りはダメ、花束を渡すのもダメ、プログラムなどの紙類は落とすと周囲のご迷惑になるから注意しろ、など、次から次です。
内容的には当然のことではあるけれど、せっかくこれからいい音楽を聞こうという期待に身をおいているのに、頭の上を流れるアナウンスは、あれもダメこれもダメのダメダメづくしで、まるでこちらがコンサートのマナーを知らない野蛮人のようで、しかもそれが何度も何度も無遠慮に繰り返されます。

ようやく注意が終わったかと思ったら、次は「ただいまロビーで☓☓のCDを発売しております」「終演後はサイン会を予定しております」「どうぞ本日の記念に…」と一転して商売の話に切り替わり、これがまた何度もしつこくてイヤになります。

お手洗いに行くにも、楽屋へ通じるルートなど、いかめしい制服のガードマンが棒立ちで、何様でもあるまいにと思うし、ことほどさようにその息苦しさといったら、なにげに不快感を感じるのみ。

主催者側、ホール側にしてみれば、もちろん言い分はいくらでもあるのでしょうが、アナウンスはじめ流れる空気がどこか高圧的で、チケットを買って楽しみに来たはずの気分はこういうことから少しずつ息苦しくなり、それがが積み重なるうちに楽しい気持ちは減退して、不愉快になっていきます。

だいたい、入り口から入っても、何人ものスタッフから「いらっしゃいませ」帰りは「ありがとうございました」を言われるけれど、飛行機やホテルじゃあるまいし、こっちは音楽を聴きに来て、終わっから帰っているだけであって、そこにいちいちそん挨拶は無用だし、どこかなんだか鬱陶しくて仕方なく、もうすこしサッパリできないものかと思います。

いまどきなので、万一に備えてのトラブル対策というか、外形的な安全を張り巡らせているだけで、来場者のためというより自分達のためという印象しかありません。
時代も変わり、客層も変わったといえば、そのひとことで終わりますが、なんだか福袋の行列と大差ない扱いを受けているような…。

何度も聴きたいか

最近はいろいろコメントを頂いて、ありがたいやら嬉しいやら。

少し前、近ごろのピアニストついて「指がよく回って、上手だなとは思いますが、何度も聴きたいとは思わない」という意味のことを仰っていました。
これはおおいに共感するところがあり、どれほど見事な指さばきであっても、それだけでは感動的な演奏とはならず、感動の不在は演奏家として、これこそ最大の、そして「決定的に残念」なところだと思うのです。

何度も聴きたい演奏は、聴いた人の心になにか深いものを残していくもの。
聴くことで、何かが呼び起こされたり、慰められたり、悦びになったり、なんらかの精神と結び合うところに音楽を聞く意味があるように思います。

楽器用語ふうに言うと「心が共振する演奏」ということになるのでしょうか?
一度聴いたら、それで終わってしまう演奏は、強いていうなら「消費」であり、どれほど体裁は整っていても人の感覚を揺り動かすパワーはありません。

フォーレ四重奏団という素晴らしく魅力的なピアノ四重奏団がありますが、その演奏を聴いたアルゲリッチは「何度も聴きたくなる演奏」と言ったそうで、これこそが演奏家に最も求められることであり、つまり最高の賛辞なんだと思いました。

今日のコンサート現場では、まずなによりもチケットが完売になることが評価の尺度でしょう。
どれほど芸術的な素晴らしい演奏をしても、人が集まらなければ意味がないというのも、きわめて現実的な問題ということは否定しません。

だからといって、コンクールに出て、武功を上げて、メディアに数多く露出して、なにより「売れる」ことに目的が絞られ、肝心の演奏は全体の一部のようになっているのを見ていると、やはり辛いものがあります。

演奏家も有名になったらなったで、世渡りというか人気商売の海を泳がされ、俗世のことに目配りができなければ置いて行かれるし、しかも演奏もしなくちゃいけないとなると大変だろうとは思います。
真の芸術家を目指すことより、まずは自分のマネージメントや有効な企画を打っていくことが大事で、それに長けた人や組織に付いて、指示通りに動くだけでも一苦労でしょう。

そうなると、ある種ナイーブな演奏とは似て非なるものになってしまうのも、やむなきところもあるだろうことは、世情に沿って考えたらわかるような気がしました。
そりゃあ、みなさん小粒にもなりますよ。

ベルリン・フィル

Eテレのクラシック音楽館から、昨年のベルリン・フィル日本公演の様子が放映されましたが、さらに現代の演奏傾向をまざまざと思い知らされることとなりました。

指揮はキリル・ペトレンコ、演奏曲目はモーツァルトの交響曲第29番、ベルクのオーケストラのための3つの小品、ブラームスの交響曲第4番。
ベルリン・フィルをを批判することは、きっと神を批判するようなものかもしれないけれど、アマチュアの個人的な印象なので敢えて言わせていただくと、残念ながら好みの演奏ではなく、上手さばかりを鼻にかけた高性能マシンのような、イヤミな演奏というように私は受け取りました。
いかにも手慣れて、曲全体をすべて見通し、細部を熟知し、なにもかもが彼らの手の中で飼い慣らされているといわんばかりで、必要以上にスムーズで、音楽的にも完璧で、破綻などまったくないのはご想像のとおりです。
反面、以外に音色のや表現の変化はなく、どの曲のどの箇所も一本調子で、ところどころに出てくるフォルテなどはどこか威嚇的な感じに聞こえるのも、聴衆に凄みを与えるよう狙っているように聞こえました。

音楽を聴くにあたり、未知なるものへの期待や、演奏者の生身の反応などを体験する喜びなどは感じられぬまま、あまりに手際よく小ざっぱりまとめられ過ぎると、音楽が、脂肪のない小さなかたまりのようになってしまうようでした。
音楽のすばらしさを伝えることより、自分達の上手さを誇示することのほうが、前に出ている感覚。

いまのベルリン・フィルを、ニキシュやフルトヴェングラーが聞いたならなんというか、タイムマシンはないけれど、せめてChatGPTにでも聞いてみたいものです。

音楽を聴く意義や楽しみとして、聴き手の想像力を掻き立てるようなものであって欲しいけれど、ベルリン・フィルのそれはあまりにも仕上げられすぎて、これ以外にない、あるはずないだろう…という調子で迫られ、これならどんな人が指揮台に立ってもほぼ似たようなことになるのでは…。

日本人の文化的なメンタルは、謙虚で、曖昧で、はかなくて、ゆらぎがあって、受け止め手の感性が最後を補完することで完成するといった、いわば精神的作法があるように思いますが、ああも自信たっぷりに言い切られ、すべてを断定されてしまうところは、どうしても相容れないところかもしれません。

もちろん、あれだけの人数が一糸乱れぬ演奏で終始できるという点では、素直に驚きで、そこには一種の畏れさえ感じますが、強いていえば弦の音色などはときに圧迫的で、悲鳴のように聞こえる時があり、そんなにカリカリしないで、もうすこし穏やかに行けないものか…と至って素朴なことを思います。

モーツァルトの29番の第一楽章など、モーツァルトの中でもとくにおっとりと温かい曲調だし、ブラームスの4番もいきなり深い悲しみの主題ではじまるシンフォニーですが、いずれもベルリン・フィルというエリート集団によってすべてが処理され、まるでハイテク工場の目もくらむような生産過程を見せられるようで、音楽を聴く喜びとは趣の異なるもののような気がしました。

すでに百年以上にわたって世界の頂点に立ち続け、その実力のほどは世界中が認めているのだから、もう少し泰然と構えて、奥深いところにあるものを聴かせて欲しいのですが、当節は少しでも手を緩めれば、その地位も危ぶまれるというようなことがあるのか。
あるいは私が求めているようなものはもはや時代遅れで、聴衆もあのような演奏を好み求めているのか、そのあたりは判然としません。

ベルリン・フィルに限ったことではありませんが、最近の演奏の上手さについては驚かされるばかりですが、同時に演奏者達が音楽を喜びとしているかどうかが疑わしく、高度な技能保有者が、ただ仕事として、仕上がったものを反復しているだけのように感じるのは、なんだかやるせないものがあります。

そういえば、本間ひろむ著の『日本のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、衝撃的なことが書かれていました。
現代のピアノを専攻している学生世代は、CDプレーヤーもTVも持たず、音楽はスマホかPCで主にYouTubeで鑑賞し、グールドやアルゲリッチを知らなかったりする学生が多いのには驚くとあり、これは読みながら、やはりショックでした。

変化もここまで凄まじいものになると、音楽というものの概念や存在価値はもとより、演奏スタイルも大きく変わってくるのでしょうから、なんだかもう頭がクラクラしてしまいます。
そのうち「AIの演奏でも充分!」という日が、ほんとうにやってくるのかもしれません。
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低体温演奏

アンスネスの皇帝を視聴して、今回は言い様のない不思議な印象が後に残りました。
ベートーヴェンの皇帝という、自分のからだの細胞の中まで浸透しているような曲が、ふいになんだかとても奇異な感じに聞こえてしまったのです。
演奏自体はピアノ/オーケストラ共にたいへん立派なものであったにもかかわらず…。
それを私ごときが、下手な文章をひねり回してみても、なかなか伝えられそうにないから書かないつもりでしたが、あえて少しだけ触れてみます。

ひとことだけいうなら、今の演奏スタイルと、時代と、作品の、あれこれの何かがちょっとズレて、齟齬が生じているような感覚に囚われたのかもしれません。
「皇帝」は「肯定」とさえ云いたくなるような作品で、祝祭的な要素も帯びているから、そういう曲にはそれなりの演奏のありかたというのがあるはずで、それらの要素が馴染んでいない違和感みたいなものを感じたのかもしれません。
今どきのスタイルに沿って、客観的に、端正に、理知的に、ちりひとつなく丁寧に掃除をしたような演奏すればいいのかという疑問で、もうすこし単純な力強さや推進力が前に出るような演奏であったほうが、この音楽には似つかわしいのではなかろうかと思いました。

小さな傷やミスに拘泥せず、一つの目的地に向かって迷いなく信じる方向へ突き進んだとき真価が出る…ベートーヴェンにはそういう作品がいくつもあるように思います。
もし、黄金期のクイーンが汗一つ垂らさず、練習に練習を重ね、最高のアンサンブルとバランスをもって「ボヘミアン・ラプソディ」をひんやりした工芸品のような美しさで演奏したとしたらどうでしょう?
まず間違いなく、あの熱狂はなくなり、後世まで語り継がれるようなものにはならなかったはずです。

そういう意味では、いささか誇張が過ぎるかもしれませんが、皇帝は多少の野性味や熱量が伴わないと作品の本質を見失ってしまうようで、そんな危うい境目のようなものをこのとき見てしまったのかもしれません。
単なる慣れの問題で、こちらの耳が新しい演奏スタイルについていけないだけなのかもしれませんが。

熱狂ということなら、1980年頃のアバドとポリーニによる皇帝のすさまじい放送録音がありましたが、まるで最高最強の剣闘士が汗みずくになって極限の剣さばきを見せているようで、そこに居合わせた聴衆の驚きと興奮とが相俟ってホールの中に火柱が立つような演奏でした。
これを音楽的にあれこれいうのは無粋というもので、やり過ぎの面もあったでしょう。
でも、そこには音楽が本源的に必要とする、人間の素朴な本能とか快楽を気の済むまで揺さぶり刺激してくれるものであったと思います。

誤解しないでいただきたいのは、だからこういうものじゃなかったからつまらなかったと単純に言いたいわけではありません。
ただ、音楽にはもっといろいろな演奏(演奏の自由)があっていいはずで、現代のクラシック音楽はますます固定化された演奏スタイルによる締め付けが強くなり、演奏者の率直な表現や創造力といったものが、きびしく制限されていないだろうかと思うのです。

音楽を聴いて、演奏に立ち会って、非日常の感興と喜びに身を浸し、精神が時空を飛ぶように開放され、なにか溜飲の下がるような体験をすることは、きわめて大事な事だと思うのです。

ようは、クラシック音楽がつまらないのではなく、クラシック音楽の演奏上の暗黙のトレンドが、感動や喜びを奪っているのかもしれない、そんな気がしているこの頃です。
多くの演奏は一見どれも見事で、その高水準には驚くべきものがありますが、それをただステージ上で反復再現するだけで各地を飛び回るような演奏では、人の心を喜びや充実感で満腹にすることはできないでしょう。
その場かぎりの出来事のような、一度現れてはすぐに消え去ってしまう一発勝負にかける演奏、即興性、ある意味でのリスクや挑戦が含まれる演奏こそ魅力的ですが、現代の演奏にはおよそそういうものが抜き取られている気がするわけです。

よく仕上がって隅々までぬかりなく整えられているけれど、どこか企画品みたいな気配のする演奏を繰り返すことは、さしあったって拍手喝采は得られたとしても、一方でこれほどすばらしい音楽芸術の世界をどんどん窮屈なものに変質させ、やせ細らせてしまっているような気がするのです。
もちろん、これはアンスネスのことというより、現代の演奏全般に感じていることというべきでしょう。
その点では、アンスネスはまだしも体温のある演奏だと感じますから、こういってしまうと、なんだか矛盾しているようですが、たまたま彼の皇帝を聞いたことから、勝手に発展して、そんなことを考えてしまいました。
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悲愴

数年に一度ぐらいでしょうか、無性にチャイコフスキーを聴きたくなるときがあって、しばらくはドップリになります。
今回はシンフォニーを中心とする管弦楽曲に限定して、主に4番からはじめ、もっとも繰り返し聴いたのはテンペストとマンフレッド交響曲のCDだったのは自分でも意外でした。

個人的に、チャイコフスキーの管弦楽作品では指揮者/オーケストラだけはこだわりたいところで、ひとことでいうと、ロシアの演奏じゃないとイヤなのです。
西側のハイクオリティのオーケストラによって知的に鳴らされるチャイコフスキーはシャープすぎ、無用なエッジが効いていたり、情や哀愁に身を任せたいところを、わざわざ構造的に解像度を高くしたりすると、それが仇となって逆に俗っぽく、あるいは味わいを損なって、かえって泥臭いだけの音楽になってしまうよう感じます。
今どきの、なにもかもスキャンしてあばくような演奏は、とりわけチャイコフスキーには向かないよう感じます。

ロシアのオーケストラでいいのは、音とアンサンブルがふくよかで、なにより情感が豊かで、必要以上に細部を追い詰めない…それでこそチャイコフスキーの世界に浸れます。
そのバランスを保ったときに聴こえてくるチャイコフスキーは、優雅で官能的だと思います。

チャイコフスキーといえば、一部の音楽愛好家の中では低俗音楽との烙印を押して、まったく取り合おうともしない方がおられます。
むろん人の好みは自由ですが、そこにチャイコフスキーあるいはピアノにおけるショパンをあえて避けることが「通」だといわんばかりの狙いが透けて見えるときがあって、そういう捉え方のほうがむしろ俗っぽいなぁと思います。

話は戻って、私のお気に入りはなにかというと、プレトニョフ指揮/ロシアナショナルフィル。
少なくともチャイコフスキーに関してはこれがあれば、もうなにもいらないというほど満足しています。

たしかにムラヴィンスキーの名演や、現代の巨匠でいえばゲルギエフなどもありますが、ムラヴィンスキーはあまりにも立派でブロンズ彫刻のようだし、ゲルギエフはやや自己顕示欲が強くて、チャイコフスキーの世界に浸りたいという目的からすると、ちょっと違うのです。

ところで第6番「悲愴」についてはさまざまなエピソードがあるようで、私は多くは知らないものの「第4楽章は鬱病の人が聴いたら発狂する危ない音楽」などといわれていた覚えがあります。
たしかにあの、恥も外聞もなく痛ましい感じを吐露した第4楽章は特異な存在とは思いますが、今回あらためて聴いてみて感じたところは、その問題は別の楽章との関係も大きいのではないか?と感じました。

鬱病の人に悪いのはむしろ第1楽章と第3楽章で、これらは全編を通じて神経衰弱的な不安定感が脈打っているように感じます。
第1楽章ではあの執拗に繰り返される第一主題がいやでも耳に食い込んでくるし、そうかと思えば突如として爆弾でも炸裂するような発作的な展開部となり、曲がどこに行くかも迷走しているようで、この感じはなかなかついていけません。

第2楽章は気を取り直したのか、いかにも優美なチャイコフスキーらしさにあふれて軸が定まっており、まるで美しいコールドバレエのような情景が目に浮かぶようです。

第3楽章になると、さらに興が乗って陽気になってきますが、周囲から浮いていることにも気づかず、やみくもにはしゃいでしゃべりまくる人のようで、それが却って悲しげな印象を覚えます。さらにエスカレートを続けて、どんどん高いところに登っていき、ついに最後は一気に転落してしまうのは、まるで上昇角度がつきすぎた飛行機が失速して墜落するよう。

そしてあの第4楽章が場面転換のように登場する。
各楽章の内容もさることながら、その4つの楽章の組み合わせが作り出すものが極めて不安定で、精神的に深く追い詰められた痛々しさ危うさを感じてしまいます。

随所に感嘆すべき魅力があふれているのは聞けば聞くほど感じるのも事実で、これが最後の大作にして最高傑作ともいわれるけれど、彼の才能はいささかも衰えていないことがわかります。
とりわけ悲劇性・特異性ばかりが注目される第4楽章ですが、しっかり聴いてみると、人間の避けがたい悲しみや諦念をこれほど赤裸々に、美しい音楽にしたという点であらためて感銘を受けました。

余談ですが、ロシアナショナルフィルはもともとプレトニョフが1990年頃に創設したオーケストラとされていましたが、現在はCDが出るわけでもなく、プレトニョフ自身も指揮をしているのかどうかは知らないけれど、近年はまたピアノに向かっているようにも見えるのは、あの国のことだから何か事情があったのだろうか?と思ったり…。
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脱ライバル

近ごろ日本の若手有名ピアニストの皆さんの活動で目につくことのひとつは、2台ピアノなど、さまざまな組み合わせによる共演が目立つところでしょうか?

これまでなら、多くのプロ(とりわけ実力あるソロアーティストや、話題の演奏家)などの同業者同士は、少なくとも表立って交流したり、ステージやメディアで共演することは非常に稀であるのが普通で、人気・実力も上がるほどライバルとなり近づくことさえない印象があり、世の中もなんとなくそういうものだと自然に思っていたように思います。

それ故、驚きとして印象深いのは、1970年代だったかカーネギーホールで史上最大のコンサートというのがあり、ホロヴィッツやフィッシャー=ディスカウ、ロストロポーヴィチ、アイザック・スターン、バーンスタインなどが同じ舞台に立ったことは「奇跡じゃないか!?」というほどの事件でした。
それほど音楽の分野ではソロアーティスト同士の共演(弦などのアンサンブルを除く)というのは、少なくとも一般人に見えるかたちではゼロとは言わないまでもほとんどなかったように思いますし、とくにピアニストはその傾向が強かったと思います。

それを打ち破ったのがアルゲリッチで、彼女が多くのソリストはじめ、ピアニストとも連弾や2台ピアノなどで共演をはじめたのは、それじたいがちょっとした驚きだった覚えがあります。
彼女の場合はとにかくソロがいやで、誰かと一緒だったらステージに出るという特殊事情による副産物だったのかもしれませんが、結果的に演奏家間の風通しを良くするきっかけになったように思います。

最近はそのあたりの常識がさらに進化/常態化したのか、違った側面からの動きなのか真相はわかりませんが、少なくとも日本の名だたる若手演奏達は互いに垣根を超えて、あらゆる組み合わせでこだわりなく演奏し合っており、コンサートという名のイベントとして盛り上げる戦略なのかもしれないけれど、いずれにしろそれが今のトレンドのようです。

もはやかつてのような圧倒的なスターや巨匠など、カリスマ性を持った大物がいなくなったことも時代背景としてあるのでしょう。
そもそもそういう大スターや巨匠というものは、時代の求めによって現れてくるもので、逆に言えば現代はそういうものをさほど望んでいないということなのかもしれません。

さらに演奏者の技術的レベルが向上して、なんでも弾けて当たり前の時代だから技術的に少々のことでは興味を掻き立てられることはなくなり、同時に弾く側も聴く側も音楽的芸術的深度の追求は薄まって、もっとカジュアルで芸能人やスポーツ選手感覚に近いものとして捉えられているようにも感じます。

少なくとも今はクラシックのコンサートといっても、御大層に構えていられるご時世ではないことも、このようなスタイルが生まれてきた背景としてあるような気がします。
名のある若手演奏家達は、互いの知名度や人気を今風にいえばシェアして、クラシックのコンサートそのものを新しい手段で活性化しているという事かもしれませんし、これからの時代はそれもアリなのかもしれません。

先日見た『題名のない音楽会』でも、2台ピアノ特集で角野隼人&小林愛実、小曽根真&藤田真央、反田恭平&藤田真央と言った具合に次から次へと組み合わせが変わっていたし、ピアニストも同業者に対してライバルからお友達に変質したようで、結果的に昔とはずいぶん違ったもんだと思います。

同業者として仲良しというのは基本的に結構なことではありますが、一般人にすればある種の特別を求めたい人達が、みんな平和に仲良しですよという在り方は、どこかしっくりこないものを感じる自分がいることも正直なところ。
炸裂する個性、エゴと芸術の危うさ、ヒリヒリするようなライバル関係、すれ違うだけでも火花が散るようなスリルも、我々が彼らに求める特別のひとつですが、今の世代はそういうものは端から求めていないのかもしれません。

老若男女だれもがストレスまみれであるこのご時世に、ライバル同士が確執の炎を上げ続けるのも疲れるだろうし、そのままだと潰し合いになる可能性もあるなら、いっそフツーに仲良くしていたほうが消耗も少ないし、演奏機会という市場規模も拡大できるとなれば結局はメリットも多く、総合的に得策なのかもしれません。
これもいま流行りの「効率化」「費用対効果」と思えば納得がいくし、もっと生々しい言葉を使えば「新しいビジネスモデル」なのかもしれません。

若い世代はこういう波に上手に乗っているようですが、それよりも上の世代になると、そう簡単に方向転換できるものではないでしょうし、なにかと難しい時代になったのかもしれません。
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続・TVから

昨年末に書いたピアノ関連のTV番組の感想続編ですが、あまり年始めにふさわしい話題とも思わないけれど、敢えて書いてみました。

【NHKショパン国際コンクールのドキュメント(再放送)】
12月のいつだったかNHK-BSのプレミアムシアターの後半で放送されたもので、私自身コンクールが終わってほどなくして放送された折には一度見ている番組。
ピアニストで審査員もつとめられた海老彰子さん、ショパンに造詣が深いとされる作家の平野啓一郎さん、音楽ジャーナリストで2021年のショパンコンクール全日程を取材したという高坂はる香さん、さらには自らピアノ好きと称するNHKアナウンサー2人による進行によって、映像/演奏を交えながらコンクールを振り返るという番組。

プレミアムシアターは毎回録画設定しており、せっかく入っているなら暇つぶしにもう一度見てみようかと再生ボタンを押しましたが、実をいうとはじめの30分足らで妙なストレスを感じはじめてやめてしまいました。
理由はいまさらくどくど書く必要もないので細かくは省きますが、簡単にいうと全体に同意しかねるところが多く、評価の傾向としても自分の価値観とは相容れないものが中心になっており、のみならず、なんというか…こちらの判断基準にまで踏み込まれてくるようで、今どきはこれがショパンなんだ、これが新しくて良いんだ、それがわからなければ時代遅れの耳の持ち主だと、いわば判断のアップデートを迫られるようで、要は今風にいうなら「価値ハラ」を受けるような感じがあって疲れるのです。
自分がさほどいいと思わないものを、皆さんこぞってこれでもかと褒めちぎるのもしんどいのです。

オリンピックやFIFAワールドカップのように競技としてはっきり勝ち負けが吹っ切れた世界なら構いませんが、主観や情感など芸術性が問われるべきピアノ演奏において、この「競技」はコンクールという枠を超えて、音楽シーン全体の価値観の変容にも一定の影響があるようにさえ感じるのです。

番組始めのあたりに、みなさんの押しの演奏は?というのがあり、平野氏が今回のコンクールで弾かれた優勝者のop.25-4を挙げました。「自分はショパンのエチュードといえばポリーニの世代だが」と前置きしながら、ますます解像度が上がってショパンの音楽の構造がよく見え、デジタル的なまでにクリアな演奏となり、左手と右手のコンビネーションがわかる…「ポリーニのエチュードは金字塔として変わらないが、その先があったのかと思った」というようなことを言われ、これも実際の演奏が流れましたが、私はすこしも感銘を覚えず、だからなに?としか思いませんでした。
あげくに「ショパンの演奏が50年の間にこんなに進歩したのか…」というようなことを堂々と仰るのには、強い違和感を感じましたし、海老さんのコメントも全般的に技巧目線で、同様の印象でした。

確かにクリアというならそうかもしれませんが、それがそんなに価値あることとも思えないし、むしろ音楽的にはやせ細って平坦で、ショパン作品に求めたい香り立つようなニュアンスもなく、スマホの早打ちのように終始せかせかした感じで、背中を丸めゲームにでも没頭するかのように上半身を小刻みに上下させる姿も違和感を覚えたり…。

より美しく、より芸術的な方向へ深化するなら大歓迎ですが、デジタル機器ではあるまいし、私は一人の音楽愛好家として、ある種一定の明晰さは求めたいけれど「解像度」という言葉自体も無機質でちょっとそぐわない気がしました。
むろんこれは、ものの喩えとしての表現かもしれませんが、そのままの概念のようでもあり、ある種の本質を孕んでいるような気がしてどうにもひっかかるのです。
技術や楽曲分析が向上するのは結構ですが、人間臭さを失ってまでそれを求めたいとは思いません。

【ブーニンの復活コンサート完全版】
9年ぶりに八ヶ岳で行われたコンサートで、シューマンの色とりどりの作品(小品とも)op.99の全曲版。
身体的に様々な不調に襲われ、再起をかけて実に9年ぶりに公開演奏に挑んだ演奏。
そんな開演直前ともなればどれだけナーバスになっているのかとおもいきや、控室にいたブーニン氏は優雅な笑みとともに、夫人と連れ立って通路をゆったりと進んでステージに向かう姿は印象的で、やはりこの人は独特な存在だと思いました。

演奏は率直に言って、かつての奔放で思うままにピアノと戯れていたブーニンではないことが悲しくはあるけれど、それでも随所のアーティキュレーションとか、ちょっと溜めて歌い込むポイントをむしろスカッとクールに処理されるあたり、かつて聞いた覚えのあるブーニンの語り口を垣間見るところがはっきりあって、ああこの人はこれだった!と思いました。
人間の感性は生涯不変という話はやはり間違いないようです。

世界にはあまたのピアニストがいるけれど、あの何事にも動じない、貴族的ともいいたい所作や笑顔、自然な語り口、なにより彼が醸しだす繊細さ、それでいて超然としたあの誇り高い雰囲気は比べるものがない、この人だけの世界があるようです。
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余技のピアノ

先日、ある方からLINEを通じてYouTubeの動画が送られてきました。
モーツァルトのコンチェルトですが、ピアノは大屋根を外してステージの左隅におかれ、そこから指揮をしながらピアノを弾くという風変わりなことをプレトニョフがやっていました。

この人は、若い頃は新進気鋭のピアニストとして来日していて何度か聴いた事がありますが、それはもうすさまじいばかりのテクニシャンで、それが少しも嫌味でなく、ただあっけにとられたことばかりが記憶に残っています。
編曲もお得意のようで、当時から「くるみ割り人形」の数曲をソロ・ピアノ用に自身で編曲したものをプログラムに入れていたりしました。

当時はソ連時代の終わりの頃で、当時のソ連にはテクニシャンは掃いて捨てるほどいたと思われますが、その中でも若いプレトニョフのそれは頭一つ出ているといっていいもので、しかもロシア人としては細身の華奢な体つきにもかかわらず、ピアノに向かうや想像もつかないようなパワーが炸裂して、聴衆を圧倒していました。
これはうまくすれば、世界のトップクラスのピアニストの一人になる逸材かもしれない…とさえ思いましたが、いつごろからか指揮のほうに進みはじめ、ついにはロシア・ナショナルフィルというのを自ら作り、指揮者として率いていくことが本格化したようで、ピアニストはやめたのかと思っていました。

ロシア・ナショナルフィルはドイツ・グラモフォンから次々にCDが発売され、チャイコフスキーの交響曲などはなかなかよろしく、リリースされるたびにせっせと買い集めていたほどです。

すっかり指揮者に鞍替えしてしまったのかと思っていたら、やはりときどきはピアノも弾いているようでした。
しかし後年聴いた彼のピアノは、若い頃のそれとはすっかり変わっており、なにか自分なりの境地に到達したと言わんばかりのクセのあるものになってしまってあまり好みではなかったけれど、中にはブリュートナーを使ってのベートーヴェンのピアノ協奏曲のようなものがあったりで、楽器への興味からCDを購入したりはしていましたが、ピアニストとしてはかつてとはほとんど別人でした。

前置きが長くなりましたが、ピアニスト出身で指揮台にのぼるようになった人というのがときどきおられますが、これらにはある共通点を感じます。
まずピアニストとして名を馳せて、その次の段階として指揮者としてもそれなりに認められてくると、成功すればより大きな名声が得られるのかもしれないし、音楽的にもより幅広いものを経験していくのだろうとは思います。
それはそれで結構なことなのでしょうが、ピアニストとしての輝き自体は鈍るという代償は避けられません。

もともとピアノは十分以上に弾けるわけだから、ときどきはピアノも弾く、あるいは二足のわらじで両方のステージに立つ人がいますが、個人的にはこれらの人のピアノはどうもあまり好きにはなれないのです。
その一番の理由は、悲しいかなピアノが余技的になってしまって、演奏に気迫がないというか、鬼気迫る集中力というのがなく、どこか弛緩しています。

バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハなどもだいたい同じように感じます。
実際問題として、オーケストラの指揮台に立ち大勢の団員を束ねていくことは、それだけでも並大抵のことではない筈で、時間などどれだけあっても足りないことでしょう。
勢いピアニストだけでやっている人に比べたら、ピアノに向かう時間もエネルギーも大幅にカットされているのは間違いありません。
ピアニストというのはどんなに天才でも、端的に言えば「生涯を練習に費す」ようなものですが、それをやっていない結果がはっきりと演奏に出ており、昔の名声の余技として見せられても、真の演奏感動からは遠ざかったものになります。

どんなに才能豊かな人でも、世界の一流ピアニストの座に棲み続けることは、他の仕事と掛け持ちでできることではないし、そこで求められる妙技や魅力は、それ一筋に打ち込んでいる人の演奏からのみ、滴り落ちるように出てくるものであって、マルチな才能で維持できるものとは思えません。

コルトーはワーグナーの指揮をしたり、ポリーニも一時期指揮に色気を出してロッシーニのオペラをCDとしてリリースしたりしていますが、そちらが本業になることはついになかったのは、なんと幸いなことだったかと思います。
バーンスタインもサヴァリッシュも相当ピアノが弾けた人ですが、とはいえ専業ピアニストにはやっぱり叶いませんから、決してステージでは弾かなかったアバドなんて、却って立派だなぁ…と思ってしまいます。
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泣けました

YouTubeをあれこれやっていると、アレクセイ・ゴルラッチがベヒシュタインでショパンを弾いている動画がいくつかありました。

スケルツォの2番、ベルスーズ、いくつかのマズルカなどでしたが、これがすばらしかった。
隅々までこまやかな神経が行きわたった品位のある美しい演奏であることに、嬉しい驚きをもって、思わず聴き惚れてしまいました。
ショパン演奏として趣味がよく、磨きぬかれた適切なタッチ、丁寧な語り、しかも、準備された台本通りという感じもなく、表情や語りかけなど今そこで紡ぎ出される音楽の息遣いがあって、久々に好ましいものを聴いたように思いました。

ショパンコンクールで聴くいろいろな演奏は見事だけれども、どうにも素直に気持ちが乗っていけないものが常に払拭できずにいましたが、マロニエ君はこういうショパンが好きだということを、あらためて確認できました。
よく準備されているけれども、このピアニストの持ったもの、感じたことが素直に投映されたものであり、本音を排して決められた計画通りに演奏されるショパンとは、根本的に意味の違う本物の語りが聴かれました。

ひとつひとつの音形が必然的に響き合い、ごく自然に現れては、さまよい、逡巡し、解決され、また次の山を迎えるいくさま、そのどれもにかすかな吐息のような感情の息遣いが常に息づいており、それが聴く者の心を深いところで慰め、現れ、悲しみを共感するようです。
さらに大切な点は、演奏者が細部のちょっとした間合いや緩急などに、奏者がそのように感じ、非常に大事に取り扱っている点などが、聴いているこちらが伝わり、なにかを受け取ったように気持ちになれるところが音楽を聴く上でのキモではないかと思います。

これは、少しでも踏み外すと崩壊しそうなところが、ギリギリで掬い取られてそうならずに保たれて、危うい緊張感の中から細い穴を通り抜けてくるように伝わってくるところなどで、いやはや感心しました。

また、ベヒシュタインによるショパンというのもさほどピンとくるものはなかったのですが、あらためて聴いてみると、なかなか悪くないと思いました。低音がやや素朴すぎるように感じない時もありましたが、概ね好ましく思いました。
特に次高音あたりの美しい音色と一音一音が可憐に語りかけるような特性が、ショパンに意外に相性がいいことにも気づきました。
それで思い出しましたが、いつだったかドビュッシーの本に書かれていましたで、ベヒシュタインとプレイエルは、アーキテクチャーが繋がっている、意外な血縁関係にもあるということで、ああ、なるほど、そういうことかと思いました。

むろんなによりもゴルラッチの演奏が素晴らしいわけですが、それがこのベヒシュタインが下から支え、どちらかというとベートーヴェン的な演奏の多いスケルツォ2番が、これほど繊細で物悲しく、深い憂いをもって耳に入ってくるのは、たぶん初めて聴いたような気がしました。
こんな表現は他のピアノでは出せないものかもしれないし、ずっと聴いていると耳も馴染んできて、気がついたときにはベヒシュタインが軽やかに歌うフランスピアノのように聴こえてくるのですから、人間の耳とは不思議なものです。

この人は、あまり聴いたことはなかっただけに、こんなにも素晴らしい面を持った人だったのかと思いつつ、たしかむかし浜松コンクールで優勝した人だったと思ってウィキベディアを見てみると、なんと…彼もウクライナのキーウ出身とあり、先にウクライナ出身の音楽家のことを書いたばかりだったので、なにかに打たれたような気分でした。

いまや、ポーランドでさえコンクール仕様のニュアンスを失った正確一本のショパンが横行する中、こんな好ましいショパンを効かせてくれるピアニストがいて、もしやあの戦火の中のウクライナに今もいるのかと思うと、いやが上にもショパン自身の運命とも重なるようで、胸が締め付けられるような気持ちになりました。
ウクライナの男性は子どもと高齢者を除くと、国外にも出られないようだし、出られてもウクライナに生を受けた人間の多くは祖国を離れるようなことはないのだろうから、彼はどうしているんだろうと無性に思います。

この演奏は2017年にベルリンで行われたようですが、その繊細な美しさと悲しみ、ときに慟哭に満ち、あたかも今のウクライナを予見した静かな叫びとそのものように聴こえてきて、思わず涙を誘いました。
さらには、このような繊細な感受性に満ちた磨きぬかれたタッチによる演奏なら、ショパンが聴いても満足するのではないか?という気がします。泣けました
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ウクライナの音楽家

ロシアによるウクライナ侵攻から3ヶ月を過ぎました。

当初はわずか数日で首都キーウを楽々と制圧し、ゼレンスキー政権を倒すつもりだったようですが、蓋を開けてみればウクライナ軍の抵抗は凄まじく、先進諸外国のサポートも予想外のもので、プ大統領も、こんなことになるなんて夢にも思っていなかったようです。
あの物事をすべて恐怖と武力で片付けようというロシアなんぞ、まともな話し合いが通じる相手ではなく、武力は武力を持って押し返されることが一番こたえるでしょうが、現場で意に沿わない戦闘行為をさせられるロシア兵も気の毒です。

とはいえ、ウクライナが各都市で破壊されたむごたらしい傷跡は正視するのもしんどいほどで、日々届けられる瓦礫の山と地獄絵図は目を覆うばかり。わかっているはずの戦争の恐ろしさを、改めて生々しく目に焼き付けられます。

さて、これまで、ただ一括りにロシアだと思っていたものが、実はウクライナの人や物だということがいろいろわかり、この悲惨な状況の中で、新たに覚えたことも少なくないように思います。
ソ連時代から有名な飛行機のアントノフも、中国に転売された空母「遼寧」も、有名なロシア料理とされていたボルシチもウクライナだったり。

ここはピアノと音楽に関するブログなので、音楽家に限っていうと、漠然と(しかし疑いもなく)ロシア人だと思っていた人がそうでないことも次々にわかり、とりわけウクライナには音楽史に残る大巨匠が綺羅星のごとく多いことに、驚愕させられます。

▶ウラディーミル・ホロヴィッツ、▶ダヴィッド・オイストラフ、▶スヴャトスラフ・リヒテル、▶エミール・ギレリスなど、いずれも並大抵の存在ではない超大物がウクライナの生まれであることは、いまこの状況の中で知ると本当に驚かされます。

そういえば、ホロヴィッツがウクライナ生まれというのは文字で見た覚えがありましたが、オイストラフ、リヒテル、ギレリスと続くともはや唖然とするしかなく、「ウソでしょ!」の世界になってしまいます。
そういえばリヒテルの有名なライブ録音に「オデッサリサイタル」というのがありますが、ああそれも祖国での演奏会だったのか…と今ごろ思ったり。
…で、ちょっと調べてみると、
古いところでは、伝説のピアニスト▶パハマンもウクライナ出身。
また日本でのピアノ教育に多大な貢献をした▶レオ・シロタ、ピアノ教育といえばロシアピニズムの祖のひとりである▶ゲンリヒ・ネイガウス(ブーニンのおじいさん)、古い世代は演奏会にも行ったと聞くヴァイオリンの▶エルマン、レコードも多い▶ナタン・ミルシテイン、おなじみの▶アイザック・スターン、オイストラフ以来の大物と称された▶レオニード・コーガン。

ピアニストに戻ると、テクニシャンで有名な▶シモン・バレル、また101才と長寿で、東京のカザルスホールの柿落しでカザルスゆかりのピアニストとして90歳目前で来日し、その素晴らしさで衝撃を与えた▶ミエチスラフ・ホルショフスキーもウクライナの出身。

また、現代でも人気の作曲家兼ピアニストだった▶ニコライ・カプースチン、作曲家といえば、ロマン派の音楽にスラヴ的な暗い情熱を流しこんだような▶セルゲイ・ボルトエヴィツキもウクライナ・ハリコフの人でした。

日本での録音も多数ある、しっかりした打鍵で揺るぎない演奏を聴かせる▶セルゲイ・エデルマン、またモスクワのグネーシン音楽院(キーシンやアブデーエワを輩出した名門校)の卒業演奏でバッハのゴルトベルク変奏曲を弾いて注目を集め、その後CDも発売された▶コンスタンチン・リフシッツは、現在も来日を繰り返しているピアニスト。

ざっと簡単に調べただけでもこれだけザラザラと出てきて、しかも、そのどれもが世界級の大物ばかりで、その次点レベルの人を含めると、途方もない数に及ぶはずで、人口が日本の1/3ぐらいなのに、これだけの傑物が出るとはただただ驚くのみ。

ロシアという大国は音楽やバレエでも凄みを見せつけてきましたが、その内情を知れば、いかにウクライナなどの周辺国の力もあったんだなぁという気がします(むかしキエフ・バレエというのにも行ったことがあります)。
聞くところでは、かつての共産主義陣営は、西側に対してそのイデオロギーの優位性を示す手段のひとつとして、芸術面においても猛烈に注力して結果はご存知の通りですが、これだけ濃密な関係にあった同じ民族同士が、21世紀の今、むごたらしい破壊と殺戮を繰り広げているとは、その現実の前になかなか認識が追いつきません。
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フェイクとは

音楽=生演奏という原則至上主義とでもいうべきか、録音はとりわけある種の人達には、音楽として「まがい物である」という扱いを受けることが少なくありません。
音楽は一期一会のものであり、一瞬ごとの明滅であり反応であるのに、それを何回も演奏し、できの良い物を選ぶことが非音楽的で邪道だと映るようです。

何度も録り直して最良のテイクを選び、キズの修正やときには継ぎはぎもするし、音質も機械的人工的にいかようにも調整するなど、完成品として仕上げる過程が、ある角度から見るとフェイクだとみなされ、とても信頼できるものではない!というわけです。

しかし、マロニエ君は決してそうは思いません。
とりわけセッション録音が、ステージでやるようなありのままのパフォーマンスではないといっても、べつにAIが演奏しているわけではなく、演奏する側も生身の人間だから、そのつど出来不出来が生じるのは当たり前で、録音というものを一つの作品と捉えれば、それにあたって最良のものを選ぶのは当然ではないかとさえ思います。

有名な写真家でも、作品としての一枚を得るために何十何百というとてつもない数のシャッターを切って、その中からこれという一枚を選び出す、書道家でも納得がいくまで何枚も書いたり、陶芸家でもひとつの釜の中からこれだというものはあればいいほうで、そういうことは多くの人が知っていることだと思います。
それと同じことだと思うのですが、なぜ音楽だけが、そういう面に過度に厳しく、やり直し即ニセモノ扱いされるのがわかりません。

最良のテイクを好ましい音質で聴けるのなら別にそれで構わないし、ライブの迫真の演奏というものももちろん魅力的ですが、そのぶんキズがあったり、音質の問題、強烈な魅力があると同時に不完全な面があったりもして、一長一短です。
あの歴史的にも有名なホロヴィッツの1965年のカムバックリサイタルでも、長年そのライブ録音とされていたものは、実は修正があちこちに施されているものだったことが明らかとなり、近年そのオリジナル音源のCDも発売されましたが、これまで聞いたことのなかったようなオッと思うようなミスタッチなどがあって、やはり生演奏というのは、そういうものだと思いました。
それをレコードとして発売する以上、修正されることがそんなに悪いこととは思いませんし、当時あのままでは発売できなかっただろうというのも頷けます。

また、アルゲリッチ、クレーメル、マイスキーが東京でおこなったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのピアノトリオも、ライブ録音として発売されていますが、NHKで放送されたコンサートでの演奏と、このときのライブとしてグラモフォンから発売されたものでは、出だしのテンポから大きく異なっており、聞いたところでは深夜にずいぶん時間をかけて録り直し作業も行われたとかで、これはライブをもとに修正パーツをセッション録音で作って仕上げられたものといった印象です。

CDは繰り返しての鑑賞に堪えるものである必要もあり、音楽的な活気は大切ですが、必ずしも偶然性の高い一発勝負的な演奏でなくてもいい。
たしかに、生でしか伝わらないものがあるというのもむろん否定はしませんが、生では伝わらないものが録音からは得られるということも多々あるのも事実で、何を求めるかは個人の価値観の問題でもあるように思います。
また、いかに生の楽器の音が素晴らしいという原則だけを唱えても、実際には好ましくない楽器/演奏/音響などのマイナス要因から逃れることは簡単ではなく、生だからというのが、すべてに優先されるほど圧倒的などという感覚こそ一種の幻想じゃないかと思います。

いずれにしろ、あとから手を入れるというのは、他のジャンルでは当たり前なのに、音楽だけはそれがフェイクのように扱われるのは、不当な扱いと言わざるを得ません。
その点でいうと、グレン・グールドはコンサート活動から早々に引退して、録音芸術にピアニストとしての大半を捧げましたが、これも彼にとっての必然であり、非常に納得の行く姿勢であるけれど、あまりに時代に先んじ革新的すぎて異端扱いをされたのは残念でなりません。

録音否定派は、録音では陰でどんなことでも可能などと尤もらしいことをいいますが、だったらグールドの弾く新たなレパートリーが、技術によって出てきてもおかしくないはずですが、そんなことはまだ実現もしていません。
たしか一度、それに類するものが実験的に行われましたが、まるで覇気も生命感も情感もない、聴くに堪えない代物でした。

また、修正やなにかがそんなにダメで、それをしたらニセモノだというのなら、絵でも小説でも、衆人環視の中で一気に制作して、あとから訂正してはならない、それをしたらフェイクだという論理も成り立ちそうな気がしますが、むろんそんなことはあるはずがありません。

前回書いた、生演奏派の人達の言い分としては、一貫して録音で聴くものは人工的でフェイクだといいますが、それをいうなら、今の若い世代の演奏は、たしかに自分の身体を使って弾いているけれど、聴く人の心を揺さぶるような情感が薄く、演奏としては限りなくフェイクっぽいのです。
「演奏は時代とともに変化するもの」のは当然ですが、正確でやたら解像度だけを上げただけの、活字みたいな無表情な演奏のほうが、音楽の存在価値としてよほど問題のような気がします。

私達は音楽を聞くことによって、夢(ときに地獄ということもある)の世界を旅したいわけで、ただ個人の能力や演奏技術自慢のお付き合いをさせられるのは、これこそ音楽の本質から逸脱したものだと思います。
つまり、生か録音かなどより、より深刻な問題は他にあると思うのですが…。

マロニエ君の理想としては、作品が演奏によって生まれ出て、目の前に立ちあらわれてくるものに包まれるような演奏ですが、現代の演奏の主流は、楽譜をいかに正確に音でコピーするか…というあたりで目指すものが停止してしまっているように感じて、それでは音の奔流に身を委ねるとか酔いしれるということができないのです。
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見えてしまう

前回に関連しますが、生のコンサートに魅力がなくなったのは、もうひとつ、時代との関わりもあるように思います。

たとえば、今の若手の演奏家。
演奏能力という点では、それはもう昔では考えられないまでに優秀で上手い人がずらりと揃っていますが、それはハーバードや東大卒の職業エリートのようで、シンプルに芸術家と思えるような人はほとんど見当たりません。
音楽のためにのみ献身し、聴衆のために全身全霊でもって演奏に挑み、ときには身を持ち崩すような人がどれだけいるか?といえば、正直答えに窮しますし、そこに時代の価値の変化を感じてしまいます。
自分の音楽的純度あるいは芸術性保持のためにコンサートの数を制限しているような人がいるでしょうか?

クラシック音楽の世界は、世界的に衰退が叫ばれているにもかかわらず、世の中は不思議なもので、コンクールで名を挙げたり、YouTube等で有名になると、有名人ブランドのレッテルみたいなものが貼られて、一転してステージの依頼が殺到し、いうなれば売れっ子芸者のようにひっきりなしにお座敷がかかるようなもの。

プロである以上、有名であるとか入賞歴ということも、ある程度は必要というのはわからないではないけれど、何事も度が過ぎるとおかしなことになり、その難関を通過できた一握りの人だけには、ネットでもテレビでもそれ一色となります。
こういう現象は、「これもご時世」と割り切って一定の理解はしているつもりですが、それでもやはり首を傾げてしまいます。
人は時代に背を向ける訳にはいかないから、全否定するつもりもありませんが、いわゆるほんらいの音楽家であるとか芸術家というのとは、かなり目指すものの違う、職業的成功者のようなものになっているようにも感じます。

こうなると、どれだけ深い感銘に値する演奏かどうかということより、どれほどの多忙に耐えられるか、どれだけ先々までスケジュールが決まっているかが成功のバロメーターとなり、それをクリアできる能力の持ち主が人がスゴイということになる。

また、レパートリーの増やし方にも、一定の見識とか節度のようなものがおよそ感じられないことが多く、能力にあかせて片っ端から弾いていくといった姿勢にも、どうしようもない違和感を覚えてしまいます。

いかに過密スケジュールの中、あらゆるレパートリーを携えて各地を駆けずり回るかの「体力・メンタル勝負」のような色彩を帯びており、そんなハードな活動の中で、たまたま自分の住む街のホールに来るからといって、それを素直に聴きたいというような純な気にはマロニエ君は到底なれないし、相手も生身の人間だから、実際に全力投球で演奏しているとは思えないようなものに何度も接した経験もあり、そんなギャラの荒稼ぎ旅のカモになんかなるものか!という気になります。

というわけで、マロニエ君は決して生演奏を否定するつもりはないけれど、従来のような気分でコンサートに行く気持ちにはなれないし、かといって上記のような新しいスタイルの演奏に無邪気に喜びを見出すまで、自分を変革することもできないでいるわけです。

そりゃあもし、今タイムマシンがあって、最盛期のホロヴィッツやグールドの演奏が聴けるなら、どんな無理をしてでも行きたいと思うし、ラフマニノフやショパンの演奏も身悶えするほど聴いてみたいです。
しかし、現在おこなわれているコンサートは、もし行ってもどういうものであるか、悲しいかなおおよそ見えてしまうのです。

コンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要することで、気軽に家にいるのとは違います。
時間に縛られ、それ中心に移動し、車を止めて、開演を持って、演奏中は身動きもせず、食事の時間も変わるし、あれこれ言い出すとキリがありません。
それでも行きたい気になるのは、マロニエ君にとってはワクワク感であり、期待であり、一種の高揚と勢いであるから、それが無いとどんなに指の達者な人であろうとわざわざ行こうという気にはなりません。
だからスピーカーの前が一番自由で快適になるんだと思います。
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実演の実情

実演 vs 録音の問題は音楽を鑑賞するにあたっての永遠のテーマで、ここでもすでに何度か触れたテーマで恐縮ですが…。
原則的に実演こそが音楽本来の姿であることに異存はないし、ましてそれを否定するつもりはありませんが、現実はなかなかこの理屈どおりにはいかない面もあることも押さえておきたいのです。

マロニエ君にとって、音楽で最も大切なものは作品と演奏の高度な合体から受け取る喜びであり、さらにはそれを享受できる音質および自身の好みにつきると思います。

よって実演がいくら本来のものといっても、当たり前ですが実演ならなんでもいいわけじゃない。
アマチュアの演奏をどれだけ聴いたところで、純音楽的な喜びにはほど遠いことは致し方のないことであるし、プロとされる演奏家であっても、自分にとって好ましくない演奏では、これもまた満足とはなりません。

いわゆる趣味の音楽愛好者にとって、音楽は自由で勝手な喜びの対象なのだから、気に染まない演奏を聴かせられることほど苦痛なことはなく、ましてそれが実演ともなると、椅子に座って身動きがとれないだけでもエコノミークラス症候群になるようで、非常に大きなストレスとして我が身に跳ね返ってきます。
実演推奨派の人に言わせれば、目の前で今まさに演奏され、楽器から出てくる生の音を聴くことに絶対的な価値をおかれているようですが、マロニエ君の場合、気に入らないものがどれほど目の前で演奏されても、ただの苦痛でしかなく、今おかれている状況から解放されて、はやく家に帰りたいと願うばかりです。

音楽(というか演奏)は最初の数秒、少し寛大に云ってもはじめの5分、最大限譲歩してもはじめの一曲でほぼ決まってしまうもの。この間に得た印象が覆ることはまったくのゼロとはいわないまでも、ほぼ間違いなく終わりまで延々と続くものです。

普段からあまり音楽を聴かないような人は、急にCDなどを聴かせられるより、コンサート会場に出かけて実演に接することで目の前に広がる雰囲気を楽しんだり、もしかすると感動まで得ることができるのかもしれませんし、それはそれで一つの事例としてわかるような気もします。
しかし何事も深入りすればするだけ人間はわがままになり、満足を得るストライクゾーンは狭くなって、事は単純にはいかなくなるものです。

音楽関連の書籍を見ていても、専門家の中には「自分は基本的に録音されたものを好む」と公言して憚らない人がいらっしゃいますし、その理由の多くは、コンサートでは決して得られない質の高い音質や磨き上げられた演奏、ホールの空間では聞きとれない細やかな演奏の精妙な部分に触れるには、録音されたものが最良だと考えられているからのようで、マロニエ君もまったく同感です。

とはいえ、実際には実演も録音も、それぞれピンからキリまであるわけで、単純な優劣はつけられないものですが。

優れた録音は、演奏、作品、楽器などが何拍子も揃っており、その中から最良と判断されたテイクが選ばれます。録音も一流のプロデューサーの采配のもと、優秀なスタッフによって最良の仕事がなされれば(そうでないことも多々ありますが)、これ自体がひとつの作品といえるかもしれません。

たしかに、実演には実演でしかない魅力があるけれども、同時に実演ならではの欠点も数多くあるわけで、まずはホールの問題があります。
ホールはいうまでもなく響きを作り増幅させるという点ではまぎれもなく、もうひとつの楽器でしょう。
これ如何によってコンサートの印象はかなり変わります。

現実問題として、音響的に好ましいホールというのは全体のわずか一握りに過ぎませんし、その好ましいホールで好ましいコンサートがあるのかというと、これがまたなかなかそうでもない。
大半は、不明瞭で美しくない残響のホールがほとんどで、そこでイマイチ真剣味に欠ける魅力的でない演奏を延々2時間、じっとガマンして聴かされるのが現実の行き着く先です。

また、以前にも書いたことですが、下手な音響設計のようなことをされるようになってからのワンワンいうホールより、昔の多目的ホールのほうが、ピアノにはよほどクリアで好ましかったように思います。

要するに、実演実演といったって、現実はそういうものだということだと思うのです。
そして、実際にそんな実演に接するたび、好ましい録音を自宅で聴くことの爽快さと意義深さを再認識させられることになるわけです。
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ショパンの版

『ショパンの楽譜、どの版を選べばいいのか?』(岡部玲子著)という一冊があることを知り、さっそくネットで購入してこのお正月にひととおり読んでみました。

版の問題は、ショパンを熱心に弾かれる方の間で長らく問題とされ、その違いやベストは何かを知りたいと疑問に対する、これはいわば解説書のようなもので、これが決定版という書き方はされておらず、あくまで弾く人が主体的に決めるべきと結ばれています。
著者の方の研究は尊敬に値するもので、価値ある一冊だと感じましたが、弾く人が主体的に選ぶには同曲異版を何冊も使い比べて自分なりの結論を出さなくてはいけないということでもあり、それはそれで大変です。

それでも、この本を読んだおかげで、自分が想像していたものの空洞部分を補填することができ、版の違いというのが実際どの程度のものか、あるいはどういう経緯でそういう事象に至ったか、よりくわしく知ることができたように思います。
それは「初版出版の経緯(出版された国による差異)」「ショパン自身によるレッスン中の書き込み等」「研究者やピアニストによる改変や実践的なアドバイスが後年付加されたもの」「自筆研究に基づく原典主義」などあれこれの要因があること、さらにはショパンの書き癖とか、版による表記方法の統一化によるものなど、あらゆる要素が絡み合っていることがあらためてわかりました。

率直な印象としては、どれが絶対ということもなく、常に疑問や曖昧さがつきまとうのがショパンの楽譜で、そこへ演奏者や時代の好みも絡んでくるわけで、無理にひとつの結論を出す必要はないというか、個人的には現状のままでいいんだろうと思いますし、同時にナショナルエディションが中心的権威を占めようとする現在の風潮には若干の抵抗を覚えます
マロニエ君も書棚を見ればパデレフスキ版、ウィーン原典版、ペータース版、ヘンレ版、ブライトコップフ版、音楽の友版、全音版、春秋社版、そしてナショナルエディションなど、曲によってなんの統一性もなく混在していますが、気分的(音楽的にというニュアンスも含んで)に落ち着くのは個人的にはパデレフスキ版です。
コルトー版はほんの少しはあるかもしれないけれど、多くは立ち読みするだけで、いいなぁと思いながら別のものを買ってしまうのは、おそらく価格的に割高だからというのもあるのかも。

さて…。
その上で、あくまで一介の音楽ファン、アマチュアのピアノマニアの戯れ言として、ご批判やお叱りを覚悟で勝手な言わせていただくと、この版問題は木を見て森を見ず的な、どこか本質が置き去りにされた印象を振り払うことのできないものだと長らく感じていましたが、今回この本を読了することでますますその思い強くするようになりました。
版による違いなんか無意味だ!というつもりは毛頭ありませんし、もちろん大切なことです。しかし、それに目くじらを立て大騒ぎしすぎる気がするし、それほどの差が果たしてあるのか?という思いはどうしても拭えません。

なるほど、簡単に答えが得にくいものであるだけに、学者や研究者がテーマとして取り扱うぶんには興味深いことだろうと思われますが、ショパンが生涯をかけて作り上げたあの圧倒的な美しい音楽は、そんな瑣末なことでは微動だにしないものであるし、しかも最新のものは、あまりに学術臭が強く(イメージですが)必ずしも最良だとも思えないのです。
この本によれば、ウィーン原典版やペータース版はすでに独自の新版を準備中なのだそうで、それはナショナルエディションへの異議ではないかとも思われ、却って期待させられるところです。

聴いていて音に違和感のあるものは、やっぱりシンプルに疑問を感じるわけで、仮に自筆譜がそうなっていたと言われても、さすがの天才ショパンだって、わずかなミスぐらいあるでしょうし、もし生きていたらヒョイと書き換えたりするかもしれません。
文章だって校正という作業があるぐらいですから。
最新版で弾かれたものには、以前は美しかったものが、あきらかに「美しくなくなっている」と感じる例をいくつも聴いてきたし、私はその自分の感覚をどうしてもないがしろにはできません。

一部の人達には、こういうことをことさらにこだわってみせる向きがあり、自分はその違いと重要性がわかるんだとばかりに、そういう人達の声というのは妙に強かったりするので敵いません。

ショパンの音楽は、版がどれであれ、あれだけ輝かしい作品が人類に残されたわけで、個人的にはそれで充分ではないかという気持ちのほうがはるかに勝ります。
現在、最新最良とされるエキエル版(ナショナル・エディション)でも、完全無欠とは思えないし、疑問点を断定するには降霊術でもしてショパン本人に聞くしかないようなことも含んでいるようで、ショパンの音楽を演奏する(あるいは鑑賞する)にあたって、そんな重箱の隅をつつくようなことがどこまで重大かと感じるわけです。

版による違いの例を挙げるとキリがありませんが、例えば「異名同音」として、ある版ではEs(変ホ)を、何版はDis(レ♯)と記されている云々、ショパンの自筆譜はどうなっていて、それも書き癖があって…等々。
それによって和声の意味が変わるなどといえば、音楽理論的に言えばそうなるのかもしれないけれど、実際の曲の中にあってそれがどっちであろうが、そんなことは大した問題とは思えないし、どうでもいいし、そんなことより心を打つ美しい演奏を求めるわけです。

まがりなりにもショパンの楽譜に接していると、そういう箇所は随所に出てくるものの、その表記のわずかな違いで弾き方や考えや表現がまったく変わってしまうなんてことは別にありません(プロの方がどうかはわかりませんが)。
個人的にはショパンを奏する当たって最も大切なことは、彼の音楽に対する美意識と趣味を理解することではないかと思います。

24のプレリュード第2番の左手の表記がどうだとか、4/4拍子か2/2拍子かといったことが例に挙げられていましたが、マロニエ君としてはそれは第1番の直後に来るこの曲を直感的に理解できる人なら、冒頭左の内声に意識をおきつつ右の孤独に満ちた旋律が決然と入ってくること、そうなると曲全体は4/4であれ2/2であれ、沈鬱さを込めてなめらかな流れで弾き進むのは必然であり、表示よりも感性が問われるところ。

むろん完全な音の違い(国内の楽譜にはときどきある)などは論外ですが、それ以外の真偽や経緯のわからない微妙なものが多くあるようだから、それはそういうものを含んでいるということでいけないのかと思います。

言ってしまえば、いい演奏のできる人はどの版をつかってもいい演奏になるでしょうし、その素晴らしさは版によるものではなく、演奏行為の深いところからくるものだと思うのです。
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アマチュアの義務

かつてN響の第一ヴァイオリンを長年勤められた鶴我裕子さんの愉快なエッセーのことは、以前にも一度書いたような気がしますが、先日またパラパラやっていると、演奏者に対して(評価が)一番やさしいのは意外にも同業者で、褒められて一番嬉しいのもこれまた同業者なんだとか。
さらに批評のプロである評論家がいて、最もイジワルなのがアマチュアだとありました。

これって、はじめは意外なような気もしたけれど、一歩踏み込んで考えてみれば「そうかもしれない」と納得したところです。
同業者は文字通りの同業者だからこその甘さ(内心はともかく)もあれば、明日は我が身という保身的な意味を含む同族意識もあるだろうから、ライバルであるけれど理解し合える人達ですからね。

また、評論家は依頼があり、それで文章を書くことで原稿料を得ているのだから、業界で生きていくための複雑な事情や利害が常に絡み込んでいる立場。おまけに時代も変わり、もはや野村光一や吉田秀和や宇野功芳らが活躍できた時代ではないのだから、「心得た内容」が求められ、評論家による実質宣伝記事こそが歓迎され、それでwinwinの関係にあるような雰囲気がプンプンしています。
よって、各人も自分の役割をじゅうぶん心得て、求められることを書いているだけではないでしょうか…。
表向きは批評のプロであることを示しつつ、褒め言葉を散りばめながら、評論家としてのアリバイ作りのためにもやんわり苦言を呈することもしてみせなど、バランス感覚やあれこれの配慮がさぞ大変だろうとご同情申し上げます。
なんにしても、少なくとも思ったまま感じたままを書いていたら、直ちに業界からつまみ出されてしまうでしょう。

その点、アマチュアは文字通りアマチュアなんだから自由だし、「業界との繋がり」なんぞという弱みも縛りもなく、脅しも通じず、純粋に(そして勝手に)音楽を聞いている立場だから、良く言えば最もピュアな聴き手となるのは自明のこと。
そもそも、最もピュアというのは、裏を返せばそれ自体が厳しく、妥協を知らず、ときに残酷であることも世の常です。
宗教においても最も融通がきかず恐れられるのは原理主義者であるように。
それ故、アマチュアが一番手厳しく、情け容赦ないイジワルになることも必然ですね。

音楽や演奏の発する、それのもっとも純粋な部分のしもべとなり、理想を追い求め、そこから一滴の心の滋養を得んがために、日ごろからどれだけの無駄を費やしていることか。
一文の得にもならないばかりか、むしろ身銭を切って、もしやの瞬間を求めて自由意思によって音楽を聴いているのだから、その評価が厳しくなるのは当然でしょう。
むろん中には、批判のための批判をするようなスノッブで歪んだ心根の輩がいることも事実ですけれど…。

というわけで、同業者というのはつまるところ「足を引っ張る」か「自分のために、相手も褒めておくか」のどちらかである場合が多く、その人達から核心をついた、真の反省や参考に値する評価を得ることは、現実的になかなか難しいのではないかと思います。
コンクールの審査でも、審査員が現役演奏家である場合、本能的に近い将来自分の地位を脅かしそうな人には、いい点を付けないというのは何度か聞いたことがあり、それは審査として間違っているけれども、人間の闇とはそういうものでしょう。

その点、真に信頼に値する批評こそ、実はアマチュアに課せられた役割だとマロニエ君などは思うのですが、世の中というものはアマチュアというものをまずもって下に見る傾向があり、くだらない権威主義が幅を利かせる中で、これが(とりわけ日本では)文化向上の障壁になっていると思います。

例えば、パリの芸術のレベルの高さが奈辺にあるかというと──マロニエ君の想像も多分にありますが、多くの大衆、すなわちアマチュアが下す判断のレベルが高く、彼らは批評家の言うことなど意に介さず、自分の感じたこと受け取ったことがすべて。
すなわち自分達の感性を最大の拠りどころとする総批評家であり、だからそこ彼の地では本物でないと受け入れられない厳しさと信頼性があるのではないかと思います。
この料理は美味しい、まずい、ああだこうだとピーチクパーチクいうように、ごく自然に好き嫌いや感じたことを発言し、当たり前のようにディスカッションを交わす、しかもその大半はアマチュアによるものであって、まず批評家や大勢の意見を確認して、それに従うなんてあるわけがないし、へたをすれば批評家が批評の対象にさえなっていまう。

日本人は芸術を必要以上に高尚で特別なものと捉え、それは特殊な専門領域ように捉えられてしまいますが、それだからダメなんだよねぇ…と思うのです。
どんな人でも自分の好きか嫌いかということ、自分の好みを超越して真に素晴らしいものには感性の何かが反応するというセンサーを持っているのだから、畏れずそれに正直になるべきです。
さらに、いかなる分野であろうと、例えばオタクといえば極端ですが、アマチュアの人達の知識や経験量、その評価の辛辣な厳しさは、生半可なプロなんぞ凌駕してしまう深みと審美眼さえあるでしょう。
本当の批評は、そこに何の利害も絡まない直感に優れた人たちによるものであるべきだとマロニエ君は思います。

かつてアメリカには、演奏家の生殺与奪の権さえもつと恐れられる、批評界に君臨するカリスマ的な御大がいたりしましたが、彼らも結局は陰で薄汚いビジネスが絡んでいたりで、マロニエ君はそんなものはまったく信頼しません。

そのためには頑として自分の意見や感じるところを信じ、権威者の意見を信じないことですが、悲しいかな権威が好きで横並び精神旺盛な日本人にはそこが最も苦手なところ。
聖徳太子の「和をもって尊しとする」のは結構ですが、自分の感じたことも深くしまい込んで必要な意見交換やディスカッションさえできないというのでは、それが本当の「尊い和」であるのかさえ疑問です。
素直な意見を言って的外れだったら笑われないか、無調の音楽を嫌いなどと言おうものなら軽蔑されるのではないか、そういう心配ばかりですが、別に笑われても軽蔑されても構わないじゃないかという腹をくくって欲しい。

マロニエ君は知人などとコンサートに行ったら、休憩時間などではすぐに感想を言いたくてウズウズするのですが、それをいうと大抵は相手の顔に困惑の色が現れ、イチャモンといった捉え方をされるので、しだいに何も言わないよう沈黙するようになりました。
でもこれは悲しいことで、音楽を聞いたり、絵を見たりして、その感想を言ったりするのが鑑賞者の楽しみであるはずなのに、それが相手に迷惑だったり非常識のように捉えられるなんて、ナンセンスの極みだろうと思いますが、それが日本の現状なんですね。
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裸の王様

コンサートに行ったり(最近はあまり行きませんが)、音楽演奏のビデオ等を視聴していていつも感じることは、奏者は自分の演奏に対する疑念や検証とか鍛え込みが少ないのではないか?ということ。
とりわけ他人の意見や感想に耳を傾けるということ。

これは誤解なきようにいうなら、決して大衆的なニーズに耳を傾けるという意味ではありません。
この点はまず明確にしておきたい。
信頼できる人の意見に耳を傾けることによって、自分の演奏にさらなる彫琢と、熟成と、誤りがあれば軌道修正を加えるという意味においての話です。
真の才能の本質的な部分はいわば人格と同じだから、それが本物なら変わるものではないのだから、他者の意見にも耳を貸して自身の芸術を深めるというのは大切なこと。

もっというなら、客観的な意見とか、厳しい評価といった風雨に晒されないものは、芸術とは呼べないのではないか?とさえ思います。

言うまでもないことですが、いわゆる先生と生徒のような関係でのレッスンということではなく、音楽のわかる人、さらにいうなら音楽だけではない信頼できる審美眼の持ち主の意見を聞いて参考にすること、あるいは意見交換するということは、とりわけプロの演奏家にとっては不可欠なことではないかと思います。
ところが、この不可欠と思えることが、現実に実行されているかというと、これが甚だ疑わしく感じられて仕方がありません。

一般論として、若いころやデビューしたての頃にはとても素晴らしい魅力的な演奏をしていた人が、その後少しずつ好ましい道から外れて、軌道修正されないまま放置状態になる、あるいは僅かな欠点と感じていたことが修正されず、むしろ助長され顕著になっていくことがあるのは、なにより残念でなりません。
プロになりステージに経つようになって、俗にいえばエラくなってしまうと、よほど自分から強く求めないかぎり、意見してくれる人がいなくなるからだろうと思います。
これは裸の王様にも通じることかもしれません。

とりわけ日本人の演奏家は、他者からその演奏についてとやかくいわれる(言葉が適当かどうかわかりませんが)のが、なによりも嫌いだそうで、マロニエ君が最も驚く点もここにあるのです。
なんと了見の狭い甘ったれというべきか、演奏家として、プロとして、芸術家として、あまりに意識の低い、真摯な気構えのないただただ驚きます。
チケット代をとって、プロフェッショナルとしてステージに立って、人前で演奏するという大胆なことをやりながら、批評はされたくないとは、これほど身勝手なことがあるだろうかと思います。
実際の演奏を聴き手がどう感じたか、そこに興味が無いなんて、マロニエ君にいわせればそれだけでステージに立つ資格はないと思うのです。

だから日本人の演奏家はどこか自己満足的で、ただ目立ちたくて、チヤホヤされて賞賛されたいだけの、いいとこ取りだけをする種族としてどこか低く見られるわけです。
もしコンサート終演後に楽屋に訪ねて行って「貴方の解釈には賛同できなかった」等々言おうものなら、当人は引きつって不快感を露わにし、聞く耳など持たないでしょうし、意見したほうはクレーマー扱いでその場からつまみ出されるのがオチでしょう。

ひとつには大半の人達は幼少期から、芸術的な環境に身をおいて育ってきておらず、ごく狭いピアノ一筋で社会性もなく、まして教養など及びもつかない教師から、ひたすら技術的な訓練を受けるだけで育ったからだと思います。

このぬるま湯が最も危険です。
なので、パートナーが一番厳しい評論家というような場合はわりに上手く矯正されていくのかもしれませんが。

例えばですが、むかしの芸術家は仲間内でも絶えずディスカッションしたり、たむろする店があったり、ときには喧嘩したりしながら、互いに厳しい批判を浴びせかけながら切磋琢磨していたようです。
芸術家というのは、ある意味でハングリーで打たれ強くなければ、その道を極めることは極めて困難というか、それが高めていくという現実があると思います。
こういう苛酷さは芸術家にとって最も大切な栄養分であるのに、現代ではそういう意味では、ぽかぽか陽気の無人島に暮らしているようなものかもしれません。
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バラードとは

少し前ですが、クラシック倶楽部で広瀬悦子さんのベートーヴェンのテンペストとショパンのバラードの第1番/第4番、モシュコフスキの作品が放映されました。
昨年の12月に武蔵の文化会館で無観客収録されたもののようです。

広瀬さんといえば、過日書いたリャプノフの超絶技巧練習曲とか、モシュコフスキの作品集、グリンカの編曲集など普通とはちょっと違うマイナーな曲を見事に演奏されるピアニストというイメージでしたが、その広瀬さんが今回はがらりと方向を変えて有名どころを弾かれるんだなあと思いました。

テンペストは個人的にはとくに印象に残るほどではなかったけれど、つづくショパンの2曲のバラードではちょっとした衝撃を受けました。
事前のインタビューでも「ショパンは祖国愛が強く不幸な人生を送った人。バラード4番の頃にはワルシャワがロシアに侵攻されて親しい友人や恩師をなくしたという報に接し、深い悲しみの中で書いたもの。心の内にある悲しみや怒り、絶望などをピアノの音に表していると思う」というようなことをおっしゃっていましたが、実際にそれら2つのバラードの演奏を聴くにつけ、その言葉がひしひしと胸にこみ上げるものがあり、しかもショパンとしても繊細で美しい部類の演奏でした。

普通、ショパンのバラードというとワルツやノクターン的なものと違って、上級者向けもしくは演奏会用のピアニスティックな作品というイメージがありましたが、ここで聴くバラードには、そのようなイメージとは違って、他のショパンの作品とは何の別け隔てもない同一線上にあるものだということがはっきりとわかり、まずその点が新鮮でもありショックでもあり、それを体現できる広瀬さんの解釈にも感心もしました。

人の心の深い悲しみや憂いが、ショパン独特の美しい旋律や和声を伴って切々と(むしろ静かに)訴えてくるようで、これはまさにショパンならではの叙事詩であり、作曲時の心の有り様を、これまで耳にしていたものよりさらに濃厚に音楽に写し取られた稀有な作品らしいということが、この歳になってはじめて知ったような気がして、しばし呆然となり、この数日というものそれが頭から離れませんでした。

演奏そのものは、静かで丁寧で深いけれど騒がない。
随所に心の動きとドラマがあり、それらを可能な限り敏感にすくい取っていくようなもので、ショパンのバラードとはそういうものだったのか?と思うと、これまで抱いていた曲のイメージが崩れ、あらためて修正しなくてはならないもののように思えました。
さらに感心したのは、細部に懲りすぎるとパーツのつなぎ合わせのようになることがありますが、いかにもフランス流の横の線と優美な流れの中に必然的にディテールが収まって、それらが互いに繋がっているので、ショパン特有の憂いに満ちた美しさが結果として増しているのは唸らされます。
これまでは、ノクターンなどはいかにも繊細で腫れ物に触るように弾いても、バラードやスケルツォ、エチュード、ソナタとなるとバリバリと技巧中心の演奏となり、ある種逞しさをもって弾くのが常道のようにされていましたが、そういう捉え方にも一石を投じられたように感じました。
まるでルーブルにでもありそうな、人間の嘆きのひとコマを描いた、深い色調の絵画をショパンの音の筆致で見せられたようでした。

これは大変なことになったと思い、さっそくCDを調べてみると、2010年にバラード全曲がリリースされているものの、購入しようにも品切れや取り寄せであったり、入手困難なようです。

尤もCDは10年以上も前の演奏で、今回のクラシック倶楽部の演奏はつい先日のもの、その年月の間により熟成されて今日の姿に到達したものだとすると、仮にCDを手にできたとしても、今回と同様の感銘が得られるものかどうかは保証の限りではありませんが。

正直いうと、これまでの広瀬さんの演奏は、どちらかというとマイナーな技巧的な曲を苦もなく鮮やかにものにしていくタイプでもう一つマロニエ君の好みではなかったのですが、ショパンに対してこんな深いアプローチができる人だったとは露知らずで、今後は見る目を変えなければいけないという気がしています。

CDのネットショップのレビューなどでは「ショパンなどより、広瀬さんにはもっと近代的な曲を弾いて欲しい…」というような書き込みがありましたが、マロニエ君はこの2曲のバラードを聴いてしまった上は、ショパンの録音を増やして欲しいと思います。

初見や暗譜が得意で、技巧を兼ね備えた人なら、埋もれた難曲を掘り起こして世に紹介することも意義ある仕事だとは思うけれど、ショパンのバラードのような超有名曲を、まったく既成概念に囚われない独自の解釈で問い直し、しかも自然な説得力をもって弾くというのは非常に難しいことだと思うし、それをやってのける広瀬さんには舌を巻くばかりでした。
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最近は音楽不況(とりわけクラシックは深刻)のあおりで、昔のようにCDが次から次にリリースされることもなくなり、それもあってか、若いピアニストに関しては、以前に比べてかなり疎くなった気がします。
考えてみれば、マロニエ君が新しいピアニストを知る手段は、☓☓コンクールに優勝などといった情報もあるけれど、その演奏を知るには新しく出てくるCDの中から興味を覚えたものを購入し、それを繰り返し聴いてみるという流れだったようで、気がつくといつのまにやらそういう流れが止まってしまっているようです。

今どきの人は、動画やコンクールの実況配信などを見て、スポーツの応援でもするようにファンになったりするようですが、動画は同じものを何度も見ることはなく、自分の腹に入れるにはCDを買って繰り返し聞かないとわからないものがあります。
さらには、むろん実演でしかわからないものもあるでしょうね。

CDに話を戻すと、今やよほどの大家でもさっぱり売れないのだそうで、とうにビジネスとしては成り立たなくなっているようです。
ネットの普及で、音楽も有難味とか重みを失って、じっくり付き合う対象ではなくなり、ただ消費する対象に格下げになったことが原因だろうと思います。

幼少期からいろいろなことを犠牲にして、ひたすら修業に打ち込んで勉強を続け、コンクールに入賞するなど、それなりのキャリアを積んでも、世間から妥当な評価を受けることも困難で、演奏機会も与えられない若者がたくさんいるのだろうと思うと胸が痛むし、だからもうやってられないと悟ってクラシック音楽の道なんて志す人は激減しているというのも頷けます。

そこに追い打ちをかけるように、ネット上にはユーチューバーという種族がいて、ピアノも例外ではなくまさに玉石混交の世界。
中には本当に上手くて才能もあって、感心するような人も一握りはいるけれど、多くは言葉にするのも憚られるような下品な見世物で、やれチャンネル登録だの再生回数だのを稼ぐために、これでもかという奇抜なアイデアを駆使し、目立ちたい一心でネタとしてピアノを弾くのですから、「今はそういう時代で、こういう新しい方法もある」といえばそれまでですが、敢えて全否定こそしませんが肯定もできません。

誰もが、いとも簡単に世界中に動画や主張を発信できるというテクノロジーは、それ自体は大変なことだけれど、正直言って、そんなものは「なくていい」「ないほうがいい」というのがマロニエ君の結論です。
まともなものの価値がなくなり、花壇は踏み荒らされ、目立つことで再生回数の数字がバロメーターで、それが世の中のうねりになると、もう止めようがない。

しかも、音楽という小さな一分野にかぎらず、政治でも経済でも、それによって世の中が真の恩恵を享受するに至ったかというと、人はより孤独になり、心は荒れ放題というのが実態でしょう。

鑑賞する側にもある程度の成熟が求められるのがクラシックの世界ですが、聴衆だってこんなにいろんな物に囲まれて、不安の中で生きているというのに、クラシック音楽だけはこつこつと旧来の方法で鑑賞眼を高めるなんていう暇もなければ、気分にもなれないでしょう。

ちなみに、最近見たある映画で言っていましたが「世界中のすべての音楽配信の中で、クラシックの占める割合はわずか1.5%で、それも聴衆の高齢化が進んでさらに低下している」んだそうです。はぁぁ。

ネット時代の到来前には、想像もできなかった現実がいま目の前にあるということです。
それでも演奏家の中にはなんとか踏ん張っている人もいるけれど、若いピアニストの中には演技で「天然キャラ」「才能ある人はちょっと違う」というのをアピールしようと、わざと外れたことを言ったり、小さな失言をしてみせたり、生理的に受け付けないような不気味な人もいたりして、見るたびに鳥肌が立ちます。
それに比べれば反田恭平さんや辻井伸行さんは、まだ清々しさがある。

いま音楽を楽しむには、こういうホラー映画のような森だか深海だかをかき分けながら、ようやく数少ないまともなものを探し当てなくてはならないというストレスのかかる作業が必要で、昔のようにある程度セレクトされたものの中から選べばいいということはできなくなったのは疲れますね。

そういう意味では自分が若い頃には、最高(と思える)のものに囲まれていつも感動して過ごすことができたわけで、いい時代に生まれたらしいことをしみじみ痛感するこの頃です。
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事実上の終焉かも

前回からの、だらだらした続き。

コロナ禍には関係なく、ホールという空間でのコンサートに、近年に疑問を抱くようになってきたという、これはたんなるマロニエ君個人の印象です。

昔のように巨匠といわれる人やスター級の演奏家が君臨する時代ではなくなり、多少の差はあるとしても全体としてみれば平均化されたピアニストが大半。
訓練法が発達し、合理的に弾くという能力が向上したおかげで、予定されたプログラムをただ予定通りに「普通に、小粒に、コンクール風に」に弾いて済ませることはできるようにはなったけど、その先がない…。
くわえてYouTubeやネット配信などで、音楽や演奏にアクセスする方法もめまぐるしく変わってくると、これまで当たり前と思っていたホールでの演奏会も、質的な変化やなにやらで以前のような意味があるのかどうかさえ疑わしい。

とりわけコンクールで淘汰されてきた人は、難曲でも何でも普通に破綻なくクリアに弾けて当たり前の時代に、わざわざチケットを買ってホールに出掛けて行っても、もはやドキドキ感はなく、コンサートが特別なものではなくなりました。
もう一歩踏み込んでいうなら、今どきのピアニストの演奏は、一期一会の演奏に全身全霊を込めているというより、有名人が本を出版したり各地を講演して回っているような、技能職という色合いが透けて見えるようで、いわば腰の低い通俗人で、芸術家という気がしません。

そもそも、東京などの一部の演奏会を除けば、ほかでは露骨に手抜きの演奏したり、下手な人はやっぱり下手なだけだったりで、いずれにしろ演奏を通じて、何か極められた特別なものに触れることは難しいのです。
そんなものを見て聴くためにわざわざホールに出かけて行っても、喜びや充実とは興奮とは結びつかないものであることは自明で、こうなるのは当然だろうと思います。


昔の巨匠の中には一週間でも10日でも、毎回異なる曲目でリサイタルができるぐらいの膨大なレパートリーがあったとも聞きますが、公開演奏会とは、ほんらい、それぐらいの余力のある人がやるものではないかとも思います。

プログラムに関しては、たとえば半分だけ決めておいて、あとはその時の気分でいろいろ聴かせてくれるようなピアニストと、それが不自然でない規模の会場と雰囲気…、そんなものがあればどんなにいいだろうというようなことを考えたりします。
それもホールのコンサートのように「さあ、聴かせていただきましょう」といった大仰なものでなく、もっとほぐれた雰囲気があればと思うし、音楽って本来そういうものじゃないかと思うようになってきたこの頃です。

そうはいっても、万が一つにも、そういうスタイルが流行ったら、現代の抜け目ないピアニスト達はそれっとばかりにその情報を掴み、陰でシナリオを周到に準備して、それを演技的にやるぐらいのことは朝飯前で、よけいわざとらしくなるだけかもしれませんが。

いずれにしろ、仮にコロナ問題がないとしても、1000人も2000人も入るような巨大ホールで、はるか遠いステージ上の演奏を、左右の方と肩寄せ合って窮屈な体勢で聴いたところで、それがなに?としか思えなくなりました。
現代は何事にもビジネスや利益が絡む社会なのでホール規模のコンサートが当たり前のようになっていますが、やはりあれば本来アメリカのショービジネスのサイズで、クラシック音楽には合致していないように思います。
はるか遠くのステージから、ろくなニュアンスも伝えない残響音の放射で、およそ音楽的とも思えない不明瞭な音を延々2時間も浴びせられるのは、目に合わないメガネをかけて写真や映像を延々と見せられるようなもの。
そもそも残響というのは、主たる音が確固としてあって、脇役でしかないはずのもの。

コンサートの帰り道、なんとも言い難い後味の悪さに苛まれ、ひどい疲れと欲求不満のほうがはるかに大きいのは、実はそうした実際的な苦痛が多々あって、精神と肉体は正直だからだろうと思います。
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音楽をする意味

先日、久々の顔ぶれによるピアノのお客さんがありました。

もう長い付き合いの方々なのですが、まずその中のお一人が弾かれたところ、全体から醸しだされる音や音楽の美しい世界にハッとさせられるものがありました。
別の方も、立派な技術をお持ちにもかかわらず、お子さんのレッスンに触発されてブルグミューラーの25の練習曲を見直し、これを丁寧に弾かれるなど、なにかしら変化が起きているようでした。

おひとりは先生を変わって一からやり直しをされ、音の出し方や体の使い方などをフランスの子供の教本を使ってやっておられる由。
もともときれいなピアノを弾かれる方でしたが、そこに一段と磨きがかかって、一音一音が深く説得力のあるものになっており、演奏の質感も上がっているし、なにより品位が備わっていました。

普通ピアノといえば、楽曲はネタとして用いられ、物理的難易度という面での上を目指すか、名曲アルバム的なベタな曲を目指すのがほとんどすべてといってもいいと思いますが、ごく少数でもこういう人もいるのだということは、ピアノ好きとして嬉しいし感銘を受けました。
音和の少ない、シンプルな曲をいかに美しく、曲の表情やニュアンスをもって弾けるかが大切で、ここをすっ飛ばしてどんなに難しい曲に挑んでも、それでは音楽のふりをした騒音でしかない。
そこのところが、どうしてもわからないのが日本のピアノをやっている人の大半だと感じますし、教育システムを含めた構造全体の問題も大きく、これは半永久的に変わらないでしょうね。

話は飛びますが、昔、キーシンやレーピンが天才少年として来日した1980年台後半、当時東京にいたマロニエ君はせっせと彼らのコンサートに通いつめ、中にはソ連体制派寄りの作曲家であるフレンニコフの協奏曲だけを集めた一夜まであったりで、この天才少年達は今ではもう決して弾かないであろうレパートリーを披露していました。

そんな一連の公演の一環として、ソ連のヴァイオリンの名教師で、ヴァディム・レーピンやマキシム・ヴェンゲーロフを育てたザハール・ブロン氏によるマスタークラスがあって、それにも行きました。
マスタークラスといっても、どこだったか思い出せないような小さな会場だったことしか覚えていません。

そこで3人ぐらいの日本の学生が指導を受けましたが、ただ必死にプロが弾くような難しい曲を格闘するように弾いているだけで、たとえばシベリウスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章なんかをもってくるのですが、伝わってくるのはこの日のための猛練習の跡と、この若さでこれだけの曲をやってますよという自慢だけでした。
はじめに通して聴くだけでも相当の時間を要し、間近にいたブロン氏はしだいに所在なさ気に姿勢を変えたり自分の楽器を触ったりしていて、明らかに気持ちが離れているのが伝わりました。

曲が終わると「非常にすばらしい」という賛辞とともに、ひと通りのレッスンが行われましたが、その内容は曲の表情表現の話に終始していたようで、学生にはどこまで伝わったのか甚だ疑問だったし、他の学生も似たりよったりという感じでした。

で、最後に、締めくくりとしてまだ十代前半!の少年ヴェンゲーロフが出てきて演奏しましたが、彼が弾きだすや世界が一変、音は老成しており、曲が波のうねりのように流れだし、その中で音符はまさに生きて呼吸しているという「根本」にあるものの違いを痛感しました。
ひたすら音符を練習で、毎日何時間も追いかけているだけではこうはいきません。

後日、日本での印象など、ブロン氏へのインタビューが音楽雑誌に載りましたが、そこで記憶にあるのは「日本人はレッスンにもってくる曲が難しすぎる」「もっとシンプルで簡単なものでないと自分の伝えたいことは伝わらない」「その上でいろいろな曲に挑戦すべき」というような意味のことが語られており、大いに膝を打ったことだけは鮮明に覚えています。
音楽に対する心構えやセンス、芸術的な環境なしに、どれだけ技巧的なものが弾けても、ボタンの掛け違えのようなことになり、決して良い演奏はできないというのをやんわりと仰りたかったのだと思います。

その点で、先日の来宅された方は「易しい曲に立ち返って勉強し直す」という、マロニエ君としては日ごろ最も大切だと思っていることを実践されているということで、驚きとともに、なんと素晴らしいことかと思いました。
数曲弾かれましたが、まちがいなく、はっきりとその効果が上がっていました。

聴くだけでも苦痛になるような無神経でダサい弾き方で、さらに難曲大曲になれば苦痛もやるせなさも倍増し、「早く終わって欲しい」としか思わないのが正直なところ。
大事なことはブルグミューラーでもギロックでもいいから、その曲に全身が包まれ、あーもう一度聴きたい!と思わせるような演奏を目指すことだと思います。
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アメリカナイズ

五嶋節さんの本から、話を続けます。

アメリカの音楽学校といえば、真っ先に思い浮かぶのはニューヨークのジュリアードで、同校のヴァイオリン教師といえば、だれでもその名を知っている名伯楽だったドロシー・ディレイ。

パールマンを筆頭に、ヴァイオリンをアメリカで勉強した著名演奏家で、この人の息のかかっていない人はいないのでは?と思えるほどの大きな存在。

ディレイ女史はその知名度にくらべて、とても穏やかな優しい方で、節さんはこの方を尊敬し頼りにしていたようですが、その指導法というのは、一切、命令をしたり人前で叱責したりということがないとのこと。
そればかりか、何でもYESかNOで片付けてしまうアメリカと思いきや、むしろ日本人教師が足元にも及ばないほどの間接表現だそうで、なにひとつ直接的な言葉を使わず、すべては行間を汲み取り、生徒はディレイ先生がなにを言おうとしているのかを、耳を澄ませ、行間を読み、考えなくてはいけないのだとか。

それはともかく、パールマンとかみどりとか、一部の例外を除けば、マロニエ君は概ねディレイ先生が育てたという演奏家というのはあまり好みではありません。
これといってクセも欠点もない、ほどほどにまとまって上手いんだけれども凡庸な演奏で、突出した魅力や芸術性を感じるものではないからです。
とくに感じるのは、演奏に狂気や冒険がないことでしょうか?
かといって清潔一途な演奏というのとも、どこか違うような…。

それが垣間見えたのでは、ディレイ先生による「レッスン診断書のチェック項目」というのがあり、音、リズム、運指法、暗譜、イントネーション、歴史、総譜の暗譜、曲の構成/性格、強弱法/バランス、ペース配分/アンサンブル、弓の移動、ヴィブラート、指板上の左手の移動、アーティキュレーション、整合、音色の出し方、姿勢、ヴァイオリンのはさみ方、弓の持ち方と腕、左手の位置、頭、表情と息つぎなど。

これにくわえて、たとえば協奏曲ではソロに対する聴衆の集中力を上げるため、あえてワンテンポ遅らせて音を出すとか、化粧/衣装の選びから、ステージマナーまですべてを指導するのだとか。

「生徒の個性を活かしながら決して命令はしない」といいながら、これだけの細かい指示を叩きこまれ、しかもジュリアードには上昇志向の塊のような学生がウジャウジャいるのだそうで、それに応えきれない生徒は容赦なくレッスン頻度が減らされ、本には書いてはなかったけれど最後は見捨てられるのだろうと思います。
だから、みんなジュリアード出身の人はどこか同じ匂いがするんだな…と納得できたような一節でした。

優秀な凡人にはプロになるための養成所であり、ステージ人となるための有益な指導かもしれないけれど、特別な感性や才能あふれる若者にとって最良かどうか、マロニエ君は大いに疑問を感じました。

パールマンやみどりのように、それさえも突破するような天才は何があろうと天才のままかもしれませんが、そこで潰れていく才能も少なくない気がしたし、現に何人かは心当たりがあります。

マロニエ君の思い込みかもしれないけれど、音楽でアメリカ留学経験を経てた人って、ステージマナーからコンサートの作り方まで、アメリカ式の型にはまってしまうような気がします。
やたら笑顔で、形式的で、とくに女性はお辞儀の仕方も先に腰が曲がり、その後に顔が遅れてついてくるようなスタイルで、あれはあまり好きにはなれません。
あまりにもみんな同じような感じなので、あんなことまで手取り足取り教えられるのかと思うと、なにか怖いような気もします。

ちなみに、あのキーシンも少年の頃は、いかにも感受性豊かな天才という感じで、ステージマナーもぎこちなく無愛想で、個人的にはそこも好きだったけれど、カーネギーデビューしたあたりから、突然、貼り付けたような笑みをたたえてキュッと男性的なお辞儀をするようになり、それがどう見てもキーシンの自然からでたものではなく、人から教えられた動作のようにしか見えないのです。
確証はないけれど、あれはアメリカで指導されたものじゃないかと個人的には思っており、いまだにキーシンには似合わない仕草だと思うのですが。
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保護政策がほしい

バッハのゴルトベルク変奏曲といえば、いまだに真っ先に頭に浮かぶのはグールドの数種の演奏ですが、もっとも有名なものは1955年のものと、1981年に再録されたものでしょう。
(1981年版は演奏に賛否あるようですが、個人的にはピアノの音があまりにもダサくて演奏とそぐわず、そのせいでほとんど聴きません)
ほかには55年版とはかなり違うアプローチで1954年に収録されたものと、ソ連でのライブ録音などもありますがが、いすれにしろグールドの天才ぶりを一夜にして世に知らしめたのがゴルトベルクであり、そこからからこの風変わりな天才はバッハを中心に尋常ならざる演奏と解釈によって、世界中の音楽ファンを驚愕させました。

というわけで、ゴルトベルクはバッハの傑作であると同時にグールドを代表する作品であり、その信じがたいような鮮やかで超モダンなセンス、さらにはかなり演奏至難な作品でもあることもあってか、それ以降のピアニストは畏れをなして、この作品を手がけて録音するといったことはなかなかしませんでした。

そのグールドも1982年にこの世を去り、時間が経つにつれそれもだんだんに時効のようなことになってきたのか、ぽつりぽつりと他のピアニストによるゴルトベルクが出始め、いまではピアニストのみならず、弦楽合奏版からオルガン、アコーディオン、合唱によるものなど、あらゆる形態や楽器でこの不朽の名作が演奏されるようになりました。

ついには店頭でも、バッハコーナーの中にさらにゴルトベルクのコーナーが作られるほどで、グールドがこの曲で世に出たことにあやかる意味もあるのか、ピアニストの中にはデビュー盤としてゴルトベルクをもってくる新進演奏家も何人も現れるまでになりました。
おかげで、マロニエ君の手許には何種類のゴルトベルクのCDがあるかもわからないほどになりました。

その後はCDそのものが時代遅れとなり、リリースしても販売見込みが立たない、あるはゴルトベルクも増えすぎたということもあるのかもしれませんが、CD業界がすっかり斜陽となり、ほとんど火が消えたような状態に。

そんな中、つい最近だと思いますが、ある超有名ピアニストが「満を持して」といわんばかりにこのゴルトベルクをリリースし、すでに販売されているのかどうかも知りませんが、ネットの動画などではそのプロモーションビデオのようなものがさかんにアップされていました。

そもそもマロニエ君はこの人のことを芸術家とも音楽家とも一切思っていないし、わけてもバッハの音楽とは逆立ちしても接点の見いだせないような別種のイメージしかなく、その人がついにここに手を付けたのかと知って、正直ため息しか出ませんでした。
というわけで、そのプロモーションビデオとやらをおそるおそる見てみましたが、相当の覚悟をもって挑んだものの、それでも足りないほどの趣味による演奏で、その不快感を自分でどう始末をつけていいかもわからない状態になりました。

そもそも芸術性のない人ほど前宣伝や(広義の)パフォーマンスに力が入るもの。
ストレス以外のなにものでもない、むやみなスローなテンポで意味ありげなそぶりをするだけして、あとで必ずその反動のように猛烈な速度や技巧を入れ込んだりと、泣き笑いの三文芝居のよう。

はじめのアリアには実に8分近くも時間をかけ、冒頭からお得意の自己顕示欲のかたまりで、あの美しい音楽が、不気味な爬虫類にでもからみつかれているみたいなイメージでした。
そもそもマロニエ君が耐えられない演奏というのは、個性とはおよそ言いかねるものを芸術性であるかのようにすり替える狡さと悪趣味、自分を印象づけるためだけの意味深で嘘っぱちのアーティキュレーションなどで、よくぞあのアリアの清澄な調べを、あそこまで気持悪くできるものだと逆に感心するだけ。

バッハの作品は、誤解を恐れずに言ってしまえば、きちんと誠実に弾くだけでも作品の力によって、それなり聞くに耐える音の織物になるものですが、それをあそこまで無神経な色や表情に塗りかえてしまうとは!

生まれながらの天才とか、根っから芸術性に恵まれた人というのが、この世の中にはごくまれにいるものですが、今どきはそれらとはおよそかけ離れた人こそが表舞台に堂々と出てくる時代。
突き詰めればビジネスでもあるから、エンターテイメントを提供し商業的に成功していくのは、やむなきことかもしれませんが、芸術の世界でもそれが当然と言わんばかりに中心に居座るのは本当にたまりません。

世界的に有名になって、オファーも途絶えることがなく、チケットも売れるとなれば、もちろんそれは大変なことだと思うし、とりわけその関係者にとっては「音楽性だ芸術だと言ってみても、チケットが売れなきゃどうすんの?」みたいな感覚はあると思うし、それも一定の理解はできます。

でも、少しはそこから外れた真っ当な価値観が生きながらえることもできる、わずかばかりの余地もあってよさそうな気もするんですけどね。
動植物には「絶滅危惧種」などといってビジネス抜きの厳しい保護政策がとられますが、芸術にそれは適用されないのだろうかと思います。
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達筆で雄弁

最近の若手ピアニストの演奏(そんなにいろいろ聴いているわけではないけれど)に思うこと。
昔よりも平均して技術が向上していることは広く言われて久しいことですが、その演奏は現代人の習性ゆえか、音楽そのものよりは露出に重きがおかれ、何か緒をつかんで有名な存在になろうという野心の旺盛さが感じられて仕方ありません。

少し前までは、平均的な技術が向上するのは単純に素晴らしいことだと思っていたけれど、もはや器楽演奏者にとっては弾けて当たり前ということなのか、それ以外のなんらかの要素が問われているようで釈然としません。

効率的によく訓練され、見ていて不安感や苦しさなどないまま、どんな曲でもサラサラと弾いてしまうので、ある意味お見事ではあるでしょうが、一番大事なもの、つまりその人がいま目の前で音楽をやっている、一期一会の演奏に立ち会っているといったような音楽の核心に迫る要素がなく、弾いている自分をビジュアルとして見せている感じさえあったり。

もちろん本番の陰では、人しれぬ練習や努力はあるとは思うけれど、結果として我々が接する演奏には、目の前で奏される音楽より、その人が有名人として認知されるための一手段一場面にうまく付き合わされているだけといった印象がつきまということが、どうしても払拭できないのです。

個性などあってもあるうちに入らないほど微々たるもので、レパートリーも幅広いといえば聞こえはいいけれど、要するに有名どころは概ね準備できているから、いつでもオファーに応じられます!といった感じで、その人が何を得意とするのかも分からないし、どういう時代のどういう音楽に興味の中心を置いているかもまったく不明。

試験やコンクールでやってきた曲から押し広げて、コンサートで求めに応じるための必要な曲を一通りマスターしているという、自分の意志というよりは、まるでプロの課題曲みたいな印象しかないのです。
むかしどんなに難曲と言われた曲でも、あるいは内容的な成熟が伴わないうちは公の場で弾くべきではないといわれたような曲でも、今の人はあっけらかんと弾いてしまうようです。

それだけ「上手くなった」といえば、それはメカニックや暗譜の能力という点ではそうかもしれません。
でも、聴いている側が音楽の喜びに浸って、曲の、あるいは演奏のなんとも言いがたいひだのようなところに触れて酔いしれたり、何度も繰り返し聴いてみたいと思わせるような魅力がないことは、大半に共通していることのように思います。

こういう現象と、あるときフッと重なったことがありました。

最近はテレビ番組の中でクイズ(それもゴールデンタイムにレギュラー化したり、やたら大型番組だったり)がやたら増えてきたように思います。
出演者も昔のように一般人が公募で出てくるようなものじゃなく、一流大学生の軍団あり、あるいは有名大学出身のインテリ芸能人(変な言葉!)と言われるような知識の達人ばかりで、クイズと言っても視聴者参加でほのぼの楽しむようなものではなく、その道の精鋭やプロが頂上決戦するエリート同士の戦いをただぽかんと見るだけ。
そこで繰り広げられるのは当然ながら呆れるばかりの知識量。

そこでマロニエ君が驚くのは知識量だけではなく、回答者がボードに書く文字が信じがたいほど悪筆で汚いこと。
もちろんクイズだから、きれいな字を書く暇はなく、時間勝負の場合もあり、美しい字である必要はないといえばそうなんですが、それでも限度というものがあると思うのです。
ダメ押しではないけれど、筆順(今は「書き順」というそうですね)も冒涜的にめちゃくちゃ。

字の美しさは演奏の美しさと大いに通じるところがあるとマロニエ君は考えていますが、昔の人は、字が下手なことを大いに恥じたし、上手い人はそれだけでまず一目置かれ尊敬されました。

で、これは喩えがいささか極端かもしれませんが、今のピアニストは音楽の文字に例えると、「漢検一級」みたいなものはお持ちかもしれないけれど、それを手で書いた時、一文字一文字がわざとではないか?と思うほど美しくない。

文字には楷書から行書までさまざまあって、基本形の美しさはいうまでもなく、崩していくときにどういう運びや流れで次に繋がっていくかということがとても重要で、ひとつひとつの文字の美しさと、それらが他の文字と並んで共存する場合の、絶妙のバランスや大小、筆圧、収まりの美しさなどがありました。
音楽が一音では成り立たず、旋律や和声を形成するのに似ているのかもしれません。

そういう意味で、昔の人は、単純な読み書きの技術や知識ではなしに、他の文化芸術と無意識に通底した味わいのある文字を書いたと思います。

そういう昨今の文化的時代背景が現代の若手ピアニストの演奏にも表れているような気がしたわけです。
音楽は演奏を通じてはじめて姿をあらわす芸術で、その演奏はもっと「達筆」で「雄弁」あってもらわなくては人の心を揺り動かすことはできないと思うこの頃です。
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Akiko’s Piano

終戦の日の8月15日、NHK-BSのドキュメンタリードラマで『Akiko’s Piano 被爆したピアノが奏でる和音(おと)』という番組が放映されたので、録画を視聴しました。

このピアノは広島の原爆投下によって亡くなった河本明子さんが愛奏していたピアノとして有名なもので、修復もオリジナルを重視して極めて慎重に行われ、すり減ったハンマーもあえて交換しないことで明子さんが弾いていた当時の状態を保持、原爆によってついたキズなどもそのまま残されているもの。

数年前アルゲリッチが広島にやってきた時にもこのピアノを弾いてみた映像があるほか、リシャール・アムランやピーター・ゼルキンなども、当地に赴いた際にこのピアノを弾いているようです。
アメリカ製のアップライトで、昔のピアノらしくやわらかい音のする楽器で、いまどきのビンビンした音の出る無神経なピアノとはまるで違うようです。

番組の大半は有名俳優陣によるドラマで占められ、明子さんが家族とともに戦時下を懸命に過ごし、学校生活を送り、勤労奉仕に駆りだされ、ついに運命の8月6日に爆心地の近くで被爆して、瀕死の状態で歩いて家の近くまで戻って倒れこんでいるところを両親に発見され翌日亡くなるまでが描かれていました。

ピアノのフレームにはそれらしき文字は見当たらなかったけれど、調べてみるとボールドウィン社製のピアノらしく、父君がアメリカから持ち帰られたものだったようです。
当時はピアノなどあろうものなら、金属供出などで没収されるのが普通だったと聞いていますが、よくぞ無事に生きながらえたものだと思うし、そういう強運を持った何か特別なピアノだったんでしょうね。

さて、番組後半では、被爆75年を節目として現代作曲家の藤倉大氏によって作曲された、ピアノ協奏曲第4番Akiko’s Pianoという作品が披露されました。
広島出身の萩原麻未さんがソロを務められ、下野竜也指揮の広島交響楽団で、ステージにはスタインウェイDと明子さんのピアノの2台が並べられ、曲の後半では、静寂の中を萩原さんがお能のようにゆっくりと明子さんのピアノへと移動し、スポットライトの下で続きのソロが弾かれて曲が終わるというもの。

ここから先はあえて勇気を振り絞って書きますが、この作品、マロニエ君には理解も共感も及ばず、ドラマで描かれた明子さんとはまったく異質な印象しか受け取ることができませんでした。
作曲の意図ととして明子さんとそのピアノが主役だと述べられ、「亡くなった人のレクイエムではなく、もし明子さんが生きていたらどんな未来が待っていたかを想像して作曲した」というようなことが語られ、テロップには「Music for Peaceという普遍的なテーマを一人の少女の視点で描く」といった言葉が並びました。
けれども、マロニエ君の旧弊な耳には、果たしてこれが音楽なのか?とさえ思うような奇抜でやたら暗いものにしか聞こえませんでした。

ピアノが好きだった明子さん、ショパンが好きで、戦時中を懸命に生きたけれど、最後は非業の死を遂げることになってしまった明子さん。
明るく聡明で、周囲から愛され、分厚い日記帳が何冊も積み重なるほどの膨大な日記を、流れるような美しい文字で綴って残した明子さん。
藤倉大氏はこれを作曲するにあたりインスピレーションを得るためか、わざわざ明子さんのピアノに触れるために広島までやってきて書き上げた作品とのことで、そういう内容になっているのかもしれないけれど、あいにくと低俗な耳しか持ち合わせないマロニエ君には、作品の価値はわからずじまいでした。

現代音楽の理解者に言わせれば、おそらく素晴らしい作品なのかもしれません。
ピアノは常に旋律とも音型ともつかないような意味深な音を発する中、背後では弦がたえずヒーヒーと鳴っており、ときどきピアノの音が激しくなったり、またそのうち静寂のようなものに包まれる、そんなことの繰り返しのように聞こえました。
いったいどこにピアノ協奏曲Akiko’s Pianoを見い出し感じればいいのやら見当もつきませんでした。

この作品の価値を云々する気はないし、そんな能力もないけれど、放送時間の大半を費やして放映されたドラマでは、明子さんとその家族や友人達は活き活きと描かれ、最後こそ原爆という悲劇に至るものの、それ以外はとくだん悲惨な話というわけでもなく、むしろ戦時中の人々の温かな人間模様がそこにはありました。

藤倉大氏はお顔は覚えがあったけれど、どれだけ気鋭の作曲家でおいでなのかは残念ながら知りません。
いかにも一般人の理解不能を前提としたような作品で、しかも偏見かもしれないけれど、日本人的な書生っぽい主張にあふれた作品のようにしか聞こえませんでした。

会場にわざわざ足を運んで聴きに来られた聴衆のみなさんは、あの作品をどのように感じられたんだろうと心から思います。
原爆投下という残虐行為は許されることではないけれど、でも、明子さんというピアノが好きだった19歳の少女に焦点を当てるのであれば、もう少し別の方法もあったのでは?とも思います。
明子さんは家族や友人(そしてピアノ)に囲まれて、楽しい時間もたくさん過ごされたと思いますが、彼女をあらわす音楽が結局こういうものになるのなら、マロニエ君はどうにもやりきれないものが残ります。

そこに、マロニエ君が現代音楽を介さない無粋者だということが横たわっていることも否定はしません。
しかし「音楽」というものがあれほど素晴らしく魅力的であるのに、その前に「現代」という二文字がくっついたとたん、なぜあのように難解で苦行的なものになってしまうのかが皆目わからないのです。
モーツァルトは、聴いた人間がなにか深い悲しみの中に投げ込まれてしまうような作品をたくさん書いたけれど、表向きは嬉々としていてまったくそんな顔はしていません。
ピカソのゲルニカが表現したものは、壮絶な戦争悲劇ではあるけれど、それをつきぬけたところに圧倒的な芸術作品に接する感動というものがあるし、そんな特別な例を引かずとも現代建築、現代文学、現代アートはいずれもそういう迷路に連れて行かれるようには思えません。

ごく単純な話に戻すと、主役は河本明子さんであり彼女のピアノであり、それは作曲者ご自信も仰っていたこと。
ですが、ピアノが好きでショパンを好んでいたという明子さんが、あの作品を聴いて素直に喜ぶのか?これが最大の疑問といってもいいかもしれません。
これがいつまでも消化しきれずに残ってしまう単純な疑問です。

おまけにこの作品は明子さんにではなく、マルタ・アルゲリッチという当代きってのピアノのスーパースターに捧げられているというあたり、いよいよもって意味不明でした。
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演奏家はエリート?

先日、録画の中に、NHKのクラシック音楽館だったか正確ではないけれど「1957年のカラヤン…」というようなタイトルの映像がありました。
同年にベルリン・フィルを率いて来日した折の旧NHKホールにおける演奏会から、ベートヴェン「運命」の第1/3/4楽章が放送されましたが、カラヤンの評価は横に置くとして、理屈ではない、率直な演奏の魅力と、それに触れる喜び・高揚感というものを考えさせられました。

海外の一流オーケストラの来日公演などまだまだ少ない時代において、当時の最高のスターであるカラヤン/ベルリン・フィルともなれば、クラシックにおけるビートルズ公演のようなものでもあったことでしょう。
そんなスターが日本にやってきて、圧倒的な演奏をどうだとばかりに披露することができた時代。

思わず唸ったのは、とにかく明晰明快、流麗で、パワーがあって、そりゃあ、ああいう演奏会に行ったら、だれもが酔いしれ興奮して大半の場合ファンになるでしょうし、CD(当時はレコード)も売れるでしょう。
カラヤンの人となりや、楽曲の解釈、演奏スタイルなど、現代の目から見れば突っ込みどころはあるかもしれないけれど、「音楽は歌である」「音楽はダンスである」という本質を突いた言葉があるように、音楽を聴くということは、まずは「音を浴びる快楽」だとマロニエ君は思います。
音楽によってもたらされる非日常の感銘や陶酔感、非日常を全身で感じることだと思います。

今の演奏は、あまりにテクニカルで、規格品的で、しかも学究的に固まってしまって娯楽や快楽の要素、演奏者の個性や冒険的解釈に対して、あまりに不寛容になったと思います。
演奏家もビジネスの要素が強まり、ライバルが多い中、オファーが来なくなるのが一番怖いから、嫌われないことが第一の演奏に意識が働いているのが見えすぎて、平均化された退屈な演奏になるのは必然。

いっぽう、聴衆の質も下がって、演奏の真価を見極めようとか、微妙なところに宿る芸術性を解する耳を持った人は激減しており、評価は技術と知名度と権威性だけがものをいうようになりました。

技術を磨いて、コンクールに出て上位を勝ち取り、レパートリーを増やして出世街道を歩くのは、ほんらい演奏家というより職業エリートの進むべき道筋。
いまでは、芸能界でさえ東大を筆頭に有名大出身者が幅を利かせる肩書社会。
当然、断崖絶壁に立って、これだというものにかけて一発勝負をする気概や度胸なんぞ失って、できるだけ好き嫌いの分かれない、中庸な演奏に終始することが、次のオファーに繋がるという戦略ばかりが透けて見えて、ちっともエキサイティングじゃありません。

芸術家(といえるかどうかはともかく)でも昔のように暴君的にふるまったりエゴを撒き散らしたり、次々に共演者に手を出して浮名でも流そうものなら、もう一発アウトなじだいですからね。
もちろん、そんな破天荒がいいことだとは思わないけれど、でも優秀有能でみんなに好かれるエリート社員みたいな人の手から、本物の魅力ある、聴く人の心を揺さぶり、天空高く旅させてくれるような演奏ができるかといえば…それは無理だと思います。
ここが、時代と芸術家の折り合いの難しいところでしょう。

すべてにシナリオがあり、最後だけこれみよがしに盛り上げて拍手喝采に持って行くという筋書きでは感動さえもニセモノで、むしろそんなものに乗せられてたまるか!という反抗心が沸き起こるのがせいぜいです。

地方のオーケストラでもとっても上手くなっているし、世界のトップと言われるオケでも、真の感銘を与えるような大した演奏をするわけでもなく、とにかく平均点だけが上がっている。
世界的なスターはいないけど、ちょっとしたピアニストでもラフマニノフの3番をしれっと弾いたりする、そんな時代だから演奏も多くが消費材のようになってしまい、わざわざ録音して残す意味もなくなっている。

聴きに来たお客さんをいい意味で満足させるような演奏、人の心を鷲掴みにして、強い力でぐいぐい山あり谷ありの世界へ引き回してくれるような、そんな体験も、演奏会のもっとも重要な役割だと思うのですが、すべてが変わってしまったようですね。
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スターの条件

8月2日放送の『情熱大陸』はいま日本で旬のピアニストである反田恭平さんによる、このコロナ禍の中で試みる有料音楽配信という新しい音楽活動にスポットを当てたものでした。
多くのプロフェッショナルな音楽家が、コロナのせいで活躍の場を奪い去られる中、反田恭平という新進人気ピアニストが旗手となって新たなスタイルに挑戦しようとする様子をとらえたものです。

それに対する意義や判断力はマロニエ君は持ち合わせないので、そのことをここで書いてみようと言うのではありません。

この番組の内容とは直接の関係はないけれど、あらためて反田恭平さんという人を見ていて、なぜ彼が現在日本でトップの人気があるのかということを考えてみるチャンスになったので、そのことに触れてみたいと思います。

現代は苛烈なまでの大衆社会なので、昔のように芸術的な深みや精神性といったものを果てしなく掘り下げ、追い求め、享受する時代ではなくなりました。
芸術には、芸術家はもちろん、受け手の側にもそれなりの素養と修練と熟成が求められ、そういうことは(残念なことではあるけれど)年々時代に合わなくなり、もはやそういう求めも価値もほぼ喪失されてしまったように思います。

芸術性なんぞといったって、これという基準があるわけでもなし、ごく一握りのわかる人がわかるだけのこと。
そんな少数を相手にしていては、現代の厳しいビジネス第一主義の社会では商売もあがったりになるだけ。

さらに、芸術家といえるような人ならまだしも、クラシックの訓練を積んできたという人達は、全体にどこか浮世離れのした、純粋培養の中でイビツに育った線の細さのようなものがあり、大衆的な人気を博そうにも、まるで訴求力がないしパンチがないし、どこぞの大臣発言じゃないけれどまったくセクシーじゃない。

そこへもってくると、反田恭平さんというのは、およそ聴衆の心が素通りしてしまうような無機質な雰囲気ではなく、どこか昔のEXILEのメンバーか何かのような逞しさや体臭やワルっぽさがあり、いかにも非クラシック的な雰囲気があって、聴き手と同じ目線や感性をもっていそうなイメージが漂っています。
言葉遣いも、長年お偉い先生方との縦社会で培われた、慎重でステレオタイプのお行儀のいい丁寧語を話さず、スノビズムもなく、思ったことを言葉少なにズバリと口にするような今どきの若者の世代臭があります。
おまけに普段はどちらかというと無愛想で、洗練や選民意識を暗示するかのような微笑みもなく、いかにも今どきの健康で朴訥な男子という印象を与えるのだと思います。

ヘアースタイルはちょんまげでお顔はいかにも歴史画にみるような純和風で、まるでお能の落ち武者のようなニヒリズムと気迫があり、いわゆる今どきのキレイ系の目筋の整った無機質なイケメンでもない。
このあたりがまずもって現代では珍しい。

それに加えて一切の危なげのない、シャープで卓越した演奏技術があり、マロニエ君は反田氏の音楽には精神性を感じないけれども、彼がピアノと対峙して見せるその技巧そのものには、まるで剣術の師範代のような収斂された美しさ、すなわち精神性が宿っていると思います。
これは誰の目にもわかるピアニストとしての圧倒的かつ新種の武器であり、彼の一番のピアノ演奏上のウリは、やはり技術の冴えだと思います。
現代は芸術・文化より、経済・スポーツ重視の時代。
人の心の内側を覗き見て表現とするような細やかな陰影とか、一瞬の呼吸や風のひと吹きの中に込められる儚いような芸術性より、この明快で輝く技術こそが、人々の感動を誘い出しゲットするのだと思います。
その技術はあればあるだけいいし、しかもそれはクオリティという仕上げの研磨がかかっていないといけません。

こういう諸々の要素を、一身に集約したピアニスト。
それが反田恭平という人なんだと思います。

おまけに彼には不思議なスター性があって、彼の存在は、人の心の中に刻み込まれるものがある。
俳優でもそうですが、どんなに美男美女でもこれのない人は大成しないし、ビジュアルはイマイチでも、このスター性という摩訶不思議な天からの授かりもので主役を張り、第一線で活躍する人というのがいますが、反田さんはそういう意味でもまさに時代が産んだスターなんだと思います。

彼よりもっとイケメンでピアノも上手い人は探せばいるでしょうけど、それだけじゃもうダメなんですね。
そういう意味では、どんなにコンクールで優秀な成績をおさめるような若者が出てきたとしても、トータルで彼を超えるのは生半可なことではないし、だから反田さんの天下はしばらくは安泰なのだろうと思います。
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AIの音楽

先日のNHKの『らららクラシック』では、なんとも不気味なものを見せられました。
「AI音楽の特集 テクノロジーと音楽」というタイトルで、現在、AIがどれだけ音楽の世界に入ってきているかをざっと紹介する内容でした。

昨年末、AI美空ひばりというのがあったように、AIという技術革新によって、これまで思いもしなかったような可能性が広がっているということのようですが、個人的にはその技術には驚きつつも、どうにも後味のスッキリしないものだけが残りました。

このコロナ禍でリモート合奏するなどの使い方はあると思いますが、ドイツ・フライブルクにある音大では入試もリモートで、海外で演奏するピアノと音大のピアノをAIで繋いで演奏判定をやっており、今後の試験のあり方も変わっていくかも…というようなことで、いきなり唖然。
これで合格したら、そのときは実際にドイツに移り住んで学校に通うのか、そうではないのか、もうまったくわからない。

スタジオでは、グレン・グールドの演奏特徴を盛り込んだAIが、グールドが生前演奏していない曲としてフィッシャーの「音楽のパルナッスム山」から、というのが披露されました。
そのための装置を組み込んだヤマハピアノを使って無人演奏が行われましたが、なんとなくグールド風というだけで、本人が現れて目の前のピアノをかき鳴らしているような感覚になれるのかと思ったら、結果はほど遠いものでした。

なによりもまず、あの天才のオーラがまったくない。
タッチにはエネルギーも熱気もないし、いっさいのはみ出しや冒険がない、ただのきれいなグールド風な音の羅列としか思えないものでした。
名人の演奏とは、その場その瞬間ごとのいわば反応と結果の連続であり、どうなるかわからない未知の部分や毒さえも含んでいるもの。
鑑賞者はその過程にハラハラドキドキするものですが、それがまったくゼロ。

スタジオにゲスト出演していた、この道のエキスパートらしい渋谷慶一郎氏をもってしても「本物には狂気があるから、AIにそれができるようになたらおもしろいことになる」というような意味のことを云われていましたが、それが精一杯の表現だったと思います。

ほかには、やはりヤマハの開発で人工知能合奏システムというものがあり、生のヴァイオリニストのまわりにたくさんのマイクを立て、それを拾って、瞬時に解析しながら傍らのピアノからピアノパートが演奏されるというもので、共演者のテンポや揺らぎなどにも自在に対応するというもの。

演奏したヴァイオリニストも「違和感なく弾けた」とこれを肯定しており、渋谷慶一郎氏なども「音大生はみんな上手くなると思う」とポジティブなことを仰っていました。
たしかに、どんなテンポでも間合いでもAIが文句も言わず合わせてくれて、しかも機械だから疲れ知らずで、無限に付き合ってくれるという点はそうかもしれません。

でも、マロニエ君としては、手段がどうであれ出てくる音は整ってはいるけれど音楽として聴こえず、どうにも受け容れがたいものがあります。
新しい物を受け容れないのは、印象派の画家達が当初まったく見向きもされなかったことや、春の祭典の初演が大ブーイングとなった先例があるように、その真価が理解できず、固定概念に凝り固まった人特有の拒絶反応だと云われそうですが、それとこれとが共通したこととは思えないし、もちろんマロニエ君は固陋な保守派であっても一向に構いません。
いやなものはいやなだけ。

AIが共演者の音を拾って反応するということは、この場合ピアノの演奏が先を走ったり共演者を引っ張ることはなく、あくまでもヴァイオリンの脇役として影のようについてまわるだけとなります。
すると、終始自己中でいいわけで、相手と合わせる技術やセンスというのは磨かれないのでは?

ピアノ伴奏を人に頼む面倒もなく、便利というのはそうかもしれません。
でも芸術って便利なら良いの?という問題にも突き当たります。

また、作曲ソフトなるものもあり、AIが4つの旋律などを候補として提示して、その中から選んでくっつけたり貼り合わせたりするのだそうで、これがスマホアプリのお遊びならいいけれど、作曲家の創作行為の新しい可能性というようなことになってくると、それを肯定し賞賛する言葉や理屈はどれだけつけられても、要はコピペみたいな作品としか思えませんし、こんなことをしていたら、最後は全部AIに任せればいいじゃんということになりはしないかと思います。
今はまだ発展の過程だから生身の人間が主役になっているけれど、やがてAIとAIが合奏し、曲もAIが作るようになり、人間の出る幕はなくなるとしか思えませんでした。

クリエイティブな世界に身を置く人達は、AIのような時代の先端テクノロジーは受け容れるスタンスをとるフリをしないと、視野の狭い頭の凝り固まった人間と思われるのが怖くて、なかなか否定するわけにもいかないのだろうとも思います。

AIに頼めば、バッハのゴルトベルクに100のバリーションを作ることも、ベートーヴェンの交響曲第10番を生み出させたり、ショパンのバラードの第5番でも第6番でも増やすことは可能なんでしょう。
でも、そんなものはおもしろいのは初めだけ、後世に残る遺産になる訳がない。

テクノロジーの進歩という側面では驚嘆はするし、そこに拍手は贈りますが、そんなにすごい能力があるのなら、まずはコロナウイルスの特効薬でも作って欲しいものです。
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どこにいくのか?

21世紀になってからでしょうか、世界の主だった大都市の景観は、いずれも趣のない無国籍風高層ビルが林立する姿に変貌。
はじめは中国やアメリカだけかと思っていたら、世界中のあちこちがどうも似たような調子で、グローバルかなにかは知らないけれど大同小異の眺めに。
道路も街路樹も美しく整えられ、様々な機能も充実し、無数のカメラに監視され、路上はSUVやハイブリッドカー、人々はスマホを手に行き交い、世界のあらゆる情報が瞬時に手に入る今どきの世界。

…。
内田光子&ラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンのピアノ協奏曲を買ったら、オマケなのか抱き合わせなのか、同じくラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲全曲がセットになっていたので、単独ではまず買わないだろうけど、せっかくなのでもちろん聴いてみました。

世界のトップオケとして誉れ高いベルリン・フィルの演奏は、さらに切れ味鋭く鍛え上げられ、かつ時代を強く反映した解像度の高すぎる演奏で、オーケストラがここまで一体感をもってクリアな演奏を繰り広げることにただもうびっくり仰天でした。
昔から「一糸乱れぬ」という表現があるけれど、もはやそんな生ぬるいものではなく、まさにAIが演奏しているのでは?と思うほど「合って」いるし、機能的で、制御自在で、それはもう…どことなく作品を軽んじている気がするほど。
しかもこちらもライブ録音(2015年)だというのだから、もはや開いた口がふさがりません。

最初に聴いたときは、ほとんど恐怖に近いものさえ感じ、すっかりビビッてしまい、CDの箱をヒョイと指先で遠ざけ自分は椅子の背に逃げてしまうほどでした。
でも、気を取り直しながら、恐る恐る何度か聴いてみることになりました。

すごいけれど、CG映像を多用した映画みたいに技術で作品を呑み込んでしなうような胡散臭さがある。
まるでベートーヴェンがあのむさ苦しい肖像画の中から抜けだして、エステに行って、スタイリッシュなスーツに身を包み、最新のメルセデスに乗って、タッチ画面を操作しながら颯爽と疾走していくみたいな世界。

第1番はキュッとまとまっていたけれど、第2番などはもうすこしふくよかさなどもあればいいと思ったし、田園はあまりにスッキリしてせいぜいセントラルパークぐらいの感じだし、英雄や第7番などには、あの恰幅も体臭も除去されて、体脂肪を落とし過ぎで却って貧相に見える筋トレマニアみたいな感じも。

その調子でやるものだから第8番などは、まるで第九の前の序曲のよう。

個人的に最良の出来だと感じたのは第九で、このいささか誇大妄想的な大作に見通しのいいシルエットと構造感が見えてくるようで、場合によってはこういうこともあるんだなぁという感じでしょうか。
ただ、いずれにしろ、どれをとってもスタイリッシュの極みではあるものの、ベートーヴェンって、そんなに遮二無二スタイリッシュにしなきゃいけないんでしょうか?

あざやかな手腕も度が過ぎると、真に迫るものや、人間的な本音とか温か味から遠ざかり、ただ先へ先へと追い立てられているようでした。

これを聴くと、今どきの理想的な演奏傾向のガイドラインが示されているようで、いやでも今どきの現実を思い知らされたような、時代は思ったより遙か先へ行ってしまったことを認識させられたような気分でした。

むかし、クラウディオ・アバドがベルリンフィルの常任指揮者になったとき、カラヤンというしばりからついに抜けだし、解き放たれて、なんという清々しい新しい風が吹きはじめたものかと思ったものですが、いま振り返ってみれば、それさえすっかり古びたフィルム写真を見るような思いがしました。

手作業の演奏までもが、先端テクノロジーを模倣しているようで、これも時代の必然なのかもしれません。
同時に、音楽そのものが目的を見失っているようでもあり、この先、音楽が、演奏が、どうなっていくのか、まるでわからなくなってしまいました。
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違和感

いつだったか「題名のない音楽会」で、葉加瀬太郎氏がヴァイオリンを弾く若い人たちを相手に、プロの演奏者としてやっていけるためのレッスンというかアドバイスをするという内容の放送がありました。

中心となる教えは「今はポップスも弾けないと食っていけない!」とする考え方で、この方はたしかにそっちで成功したかもしれませんが、それが現代一般の標準のように云われるのはどうでしょう。

自作の情熱大陸を題材に、いかにクラシックの演奏作法から離れたノリノリのパフォーマンスとして弾きこなせるかというようなレッスンで、こういう面を習得することが演奏チャンスに繋がるというもの。

いかにももっともなようにも聞こえますが、本当にそうでしょうか?
現在、世界的な潮流としてクラシック音楽が衰退していることは事実ですが、さりとて演奏者がポップスの演奏技術を身につけたからといって「食っていける」ほど事は単純ではないでしょう。

たしかにピアノでいうと、往年のカーメン・キャバレロとか近年では羽田健太郎さんのように、別ジャンルで見事に花を咲かせた人はいますが、それは彼らの才能がもともとそっちに向いていたというだけ。
あの大天才のフリードリヒ・グルダをもってしても、ジャズではついにものになりませんでした。

現実を見据えて「クラシックじゃ食えないからポップスの弾きこなしも必要」というのなら、名もないヴァイオリニストがポップスを上手く弾くからといってチケットが売れるとは思えないし、うっかり別ジャンルに手を付けると、よほど注意しないとその色がついて現実的にはクラシックでの活躍もさらに難しいものになると思います。

演奏の引き出しを増やすというより、限りなく他のジャンルへの宗旨替えを意味するように感じます。
そっちに行った人が、いまさらクロイツェルを感動的に弾いたり、バッハの無伴奏ソナタやパルティータで聴く人の魂に訴えるなどということがあるとは思えません。

また、今回の先生自身が、申し訳ないけれどクラシックでやっていけるタイプとも思えず、アイデアに長け、時流に乗る才覚と運があり、さらには独特の風貌や注目を集めるお相手との結婚など、さまざまな要因が重なって現在のエンターテイナーとしての地位を得ている複合の結果であって、ただポップスも弾けなきゃダメというだけでは全体の半分も説明になっていません。

ヴァイオリンでいえば女性にも多くのテレビに出演し、毒舌トークで名を挙げて、ステージでは女性だけの奇妙な集団演奏の長としてやっている方もおられるようです。
これらの方に共通するのは、まずタレントとしての知名度というか世間の認知がしっかりあり、それを土台に様々なステージ活動が考え出され、あるいは継続できていると見るべきだと思うし、さらにお父上は元大手レコード会社のディレクターという企画マンであるなど、見えない仕掛けがいろいろあるからでしょう。

本当に若者に「食える」ための実践的な助言をするのであれば、まずは広告会社顔負けのアイデアで顔と名前を世間に印象づけ、多くのTV番組等からオファーが来るよう仕向けて、早い話がほぼ芸能人化してお茶の間の中へ入り込み、そのあとで特定のファンにフォーカスした至ってくだけたコンサートをする…とまあ、あえて言葉にすればそういうことではないかと思います。
ピアニストでもなにかというとテレビ出演して、活動の地固めをしておいでの方はいらっしゃいます。

音楽家としての進む道として正しいかどうかは別としても、これとて一朝一夕にできるようなことではなく、この厳しい過当競争の中で本当に稼ごうとするのは、そんなに単純なことではないはずです。
将来のかかる若者の人生に、物事のある一面だけを伝授しても、それだけでは機能しないし無責任だろうと思います。

それと、器楽の演奏にかぎらず、どのジャンルにおいても一途に修業を重ね、はるばる歩んできた道以外のことをしろ、でないと食えないぞといわれたら、それはかなり陵辱的なことであるし、しかもなんの保証があるわけでもないでしょう。
この番組では、そういう意味でのリアリティが欠けていたと思うわけです。

小説家であれ、画家であれ、俳優であれ、その技術や才能を使って本業以外のことをやれと言われるのは(当人が望む場合はべつですが、それがあたかも社会一般の厳しい現実のように断じられるのは)、とてもではないけれど賛成しかねるのです。

音楽に近いところでいうなら、調律師さんにその技術を応用して、農機具の修理も、ご近所のトイレの修理もできないと「今は食っていけないよ!」といわれたら、やはりいい気持ちはしないだけでなく、結局は本業まで傷つけてしまうと思います。

尤も、いまは新型コロナウイルスによって、あらゆるものが危機に瀕していますが…。
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ナショナルエディション

ついに緊急事態宣言は発令される段階に至りました。
福岡県も含まれており、食料ほか生活必需品を買いに行く以外、何もしちゃいけない雰囲気。
日ごろ普通にやっていたことが、ことごとく自粛対象となるようでもあるし、やはりこうなってくるとなにをするにも気持ちが整いません。

こんな中で、くだらんブログなんぞますます読んでくださる方もないとは思うけれど、もともと自己満足ではあるし、家で音楽を聴いたりブログを書くのは、感染リスクのないことなので、行動としてはマルの部類に入るわけで、そう考えると続けられるだけ続けていこうかと思います。


というわけでフランソワ・デュモンのCDから延長する内容。

ブックレットを見ると、ピアニストの名前のすぐ下に、わざわざ楽譜はヤン・エキエルによるナショナルエディションが使われている旨がさも大事なことのように記述されていました。

出ました、ナショナルエディション!
個人的な考えなので思い切って言わせていただくと、このナショナルエディションが唯一絶対のように扱われるようになってから、ショパンの演奏は、一気につまらないものになったような印象が拭えません。

ショパン研究の成果としては、それが最も正しく、原典版という権威を得ているのかもしれないけれど、個人的にはそれがなんだ!?としか思いません。
また、厳密には必ずしも正しいとは結論づけられない、絶対ではないとする意見もあるようで、どことなくポーランドがショパンの正統であるという覇権を握らんがための匂いを感じてしまいます。

ナショナルエディションによる演奏を聴いていると、ところどころに「あれ?」と思うような音が聞こえたりして、率直に言わせてもらうとあまり美しいとは思えません。
学究的には正しいことかもしれないけれど、なんだか違和感があるし、滑らかな音の流れの中に異物が混入している感じがあったりするのに、それがそんなにエライくて価値のあることなのかと思います。

ピアニストは自分の表現の自由までも奪われて、ナショナルエディションに従っています!というような演奏をせざるを得ないようになった印象があります。
ショパンコンクール自体がそれだから、それが世のショパン演奏の正統流派として大手を振り、大股で道路の真ん中を歩いています。
べつにポーランドに楯突くわけではないけれども、ショパンの研究と解釈という分野における強権的なものを感じて、マロニエ君はどうにも賛成しかねるものがあります。

コンクールに出るならまだしも、プロのピアニストが何の版を使おうが自由であるはずなのに、その呪縛と圧力があるのは疑問を感じます。

まだ指揮者のほうがいろいろなシンフォニーをいろいろな版で演奏したりしているけれど、ショパンに関してはそういう選択肢というか、自由は次第になくなっているような雰囲気を感じるのはマロニエ君の取り越し苦労でしょうか?

ショパン自身も演奏するたび、レッスンするたびに、細部を変更したり、書き換えたり、即興的であったり、本人でさえもどれが決定稿ということはなかったと伝えられています。
しかるに、まるで宗教が他派をすべて排撃するように、このナショナルエディションが唯一絶対のごとく君臨するのは個人的には違和感を感じます。

いまやコルトー版などはほとんど邪教のようで、芸術の分野で、そこまで厳しく限定するのは少しおかしくないかと思いますし、そもそも解釈とは突き詰めれば自分版だと思うのですが…。
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チョン・キョンファ

BSのクラシック倶楽部でチョン・キョンファの2018年来日公演の様子を視聴しました。
以前にも放映され、再放送になっているものですが、ようやく再生ボタンを押しました。

チョン・キョンファのヴァイオリンは昔からとくに好きというほどではなかったけれど、この世代では世界的なヴァイオリニストのひとりとして数えられ、避けて通ることはできない存在だったから、折々には聴いてきたように思います。
つややかで洗練された演奏というのとは違うけれど、小さな身体の奥にいつも熱いものがぐつぐつとたぎっていて、演奏家としての誠実さと相まったものがこの人の魅力だったように思います。

彼女もすでに70代になり、若いころのような柔軟性やパンチはないけれど、情熱はまったく衰えずといった様子でした。
音形のひとつひとつに自分なりの意味を見出し、そのすべてに情念とでもいうべきものが込められているのは、最近のあっさりした演奏傾向とは逆を行くもので、断固としてそれを貫いている人だと思います。

ただ、自分でも驚いたことがありました。
それは最近のように、若い世代の演奏家の、ある意味無機質だけれど技巧的によく訓練されたスムーズな演奏が主流となって、好むと好まないとにかかわらず、そういう演奏を耳にすることが頻繁になってくると、不思議なことにチョン・キョンファの演奏がやたら古くさい、前時代的な感じがしたのです。
まるで昔流行ったファッションのようで、いま見るとちょっと「あれー…」みたいな感じ。

シャコンヌの入魂の仕方などは、バッハをあれほど直截に、劇的に、激く打ちつけ、苦しみ、思いのたけを吐き出すように弾いていましたが、マロニエ君のイメージでは、こういう曲はもう少し端正に曲を進めながら、人間の何か深くて激しいものがチラチラと見え隠れするほうがよほど聴く者の心を打つように思います。
バッハというよりは、なにか全身タイツの前衛バレエでもみているような感じでした。

フランクのソナタも、冒頭から一つ一つの音に呼吸と表情がつけられすぎているようで、これが彼女の解釈であり感じ方だと思うけれど、それがあまりにもこまかい刻みで入っていくため、フレーズが小間切れになり、却って曲の流れを損なっているように感じて、なんだか疲れます。

もうすこし力まずに音楽に身を任せたらどうかと思うのですが、こちらがそう思う陰には、先に書いたように最近の演奏傾向というものが──決して肯定はしていないけれど──知らぬ間に作用しているようにも思ったわけで、ちょっと複雑な気分でした。

チョン・キョンファは、おそらくは曲の解釈は入念にやっている筈だけれど、自分の主張のほうが優先されてしまうタイプの人で、若い頃はまだそこに一定の制御もできていたけれど、ある程度歳もとってくると、どうしても自我を抑える力が弱まるもので、結果的に自分に自分がふりまわされているように感じました。

えてしてこういうタイプの演奏家は、音楽に燃焼するのか、自己表出に気を取られてしまうのか、わからなくなるというのはままあることのように思います。

そうはいっても、こういうタイプの演奏家も出てこなくなるのかと思うと、それはそれで残念です。
やはり演奏家というものは「自分はこうだ」というものを一定の約束事の上に表現するのでなければダメで、誰が弾いているのかさっぱりわからないような、ただ上手くてきれいなだけの、規格品みたいな演奏なら聴く価値がありません。
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武家の奥方

BSプレミアム・クラシック倶楽部の録画から、田部京子ピアノリサイタルを視聴。
2019年12月浜離宮朝日ホール、シューマン:子供の情景より4曲、ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番。

田部さんのピアノは、すみずみまで掃除したての部屋みたいにきれいだけれども、どこかひんやりよそよそしさを感じるところが個人的には気になります。
あれほど型くずれもなく、ほとんどミスもなく正確に弾けるということは尊敬に値することですが、音楽・演奏に触れる醍醐味がそれで足りているのかとなると、どうなんでしょう。

ひとつ前にHJ LIMについて書きましたが、なにもかもが真逆とでもいうべきピアニスト。

それはシューマンの第1曲「知らない国々」のようなシンプルな曲がはじまった瞬間からも、ひしひしと伝わります。
たとえば、演奏に欠かせないもののひとつは呼吸だと思うけれど、田部さんのピアノには、むしろ呼吸という生々しいものを消し去ったところにある、なにかの細工物のような、端然とした佇まいといったイメージを覚えます。

慎ましやかで、愚痴をこぼさず、弱音を吐かず、しかも毅然と大きなものに挑んでゆく覚悟が秘められていて、まるでむかしの武家の奥方を思わせるような演奏。

ブラームスの3番のソナタのような曲を選び、準備し、コンサートのプログラムにあげるところにも決然とした気概のようなものを感じるし、何を弾いても終始一貫そのスタンスは変わらない。
解釈もアーティキュレーションも、少しもくせがなくて教科書的で、それをいかなる場合にも艶のある美音が支えている世界、それに徹することが田部さんの演奏家としての責任であり誠意なのかもしれません。

田部さんが楽壇に登場した頃は、大器などという言葉が使われたときもあったけれど、マロニエ君に言わせると、いかにも日本でピアノをやった人の美点を受け継ぐ人のようで、修練を重ねた手習いの成果のような、良い意味での日本人的な注意深い仕事ぶりを見る気がします。

それは見た目にも現れているというべきか、立ち居振る舞い、演奏する姿から衣装、人形のように見事に仕上がったヘアスタイルまで、すべてに細やかで一点のほころびもない完成度があり、これが田部さんの好む世界なんだろうと思われます。

どの曲においても、高い縫製技術で仕上げられたような信頼性がある。
そこには音楽を聴くワクワク感とはべつのもの、…あたかも口数の少ない人の話をじっと聞かされているようで、それはそれでひとつの個性なのかもしれません。
それでも、ブラームスの終楽章では、一種の到達の感動が得られたことは事実でした。


ピアノはそう新しくはない、おそらく1990年前後のスタインウェイのように見えましたが、いいピアノでした。

ネットによれば浜離宮朝日ホールは1992年のオープンとありますから、開館時に納入されたピアノだとすると27〜28年前ということになりますが、軽井沢の大賀ホールのスタインウェイとは明らかに世代が異なり、より現代的な要素を含みながら、それでもまだまだ「らしさ」が強く残っていた時代で、やはり今のものより格段に好みだと思いました。

それにしても、ブラームス・ピアノ・ソナタ第3番というのは、正直いわせてもらうと何回聴いてもダサい作品だと思ってしまいます。
随所にブラームスならではの味わい深い瞬間があるのはわかるけれども、全体を通して聴くと、やたら仰々しいものに付き合わされた気分のほうが勝ってしまい、もしかしてシンフォニーの下書きじゃないのか!?などと思います。

壮年期のポリーニあたりなら、壮大なピアノ作品として納得せざるを得ないような演奏をしたのかもしれませんが。
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シフの協奏曲-2

アンドラーシュ・シフのピアノと指揮による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会。
それなりの予想はしていたものの、個人的にあまり好みの演奏ではありませんでした。
もちろん、高く評価する方もおいでのことだろうと思いますし、ここではあくまでもマロニエ君個人の感想です。

そもそも、なかば習慣的にベートーヴェンに期待するもの…。
たとえば、生々しい苦難と喜び、様式と非様式、改革者にしてロマンチスト、野趣、執拗、到達、炸裂があるかと思えば至福の美酒で酔わされるといったようなものとはどこか違っていました。
いかにもシフ流の、枯山水の境地のごとくで、生臭いベートーヴェンの世界に身を委ねる「あれ」とはずいぶん違いました。

個人的に一番好ましかったのは第2番で、続いて第3番、第4番で、この3曲はよく弾き込まれている印象。
ただし4番では、この典雅を極めた作品にはいささかタッチが荒いため音色への配慮に欠け、あちこちで似つかわしくないキツイ音がしばしば聞こえてくるのが気にかかりました。

いっぽう、第1番/第5番は、曲と演奏のキャラクターが噛み合っていない感じがついに最後まで払拭できずに終わりました。

このふたつは淡々と弾き進めばいいというものでもなく、全体に肯定的な推進力が必要。
あまり曲に乗れていないようであるのに、外面的には達観したような、すべてを見通した哲人が必要なものだけをうやうやしく取り出して見せているような風情があって、いささか独りよがりな印象を覚えました。

また(少なくともベートーヴェンを)レガートで弾くということがよほどお嫌いなのか、全体を通じて、やたらノンレガートもしくはスタッカートばかりで、バッハではよほどなめらかに自然に歌っているのに、なぜか腑に落ちない点でした。

ピアノフォルテ的な響きや表現も念頭に置いてのことかもしれないけれど、モダンピアノでその性能を充分に使い切らないような弾き方をすることに、どこまで意味があるんだろうとも思います。
以前書いた、古楽器奏者のブラウティハムは現代のスタインウェイできわめて美しく第5番を演奏をしていたことが、しばしば思い起こされました。
シフなりによく研究し、熟考を重ねてのことだとは思いますが、要は趣味が合いませんでした。

番組では、随所にシフのインタビューも挿入され、自分がベートーヴェンを弾くまでにいかに長い歳月を要したか、またベートーヴェンの偉大さ難しさ、人生や作品の特徴などを、まるで賢者のように自信たっぷりに解説していましたが、シフ自身は今の状況をとても楽しんでいるようでした。


アンコールには、バッハが聴けるのかと期待していたら、なんとピアノ・ソナタ(テレーゼ)が全曲演奏されました。
この曲を選んだ狙いとしては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番をもって終わり(op.73 1809年)、この第24番がop.78で同じく1809年に書かれたということから、皇帝のすぐあとに連なるピアノ作品という意味合いでもあったのだろうと思います。

もともと2楽章形式の短いソナタではあるものの、それをアンコールですべて弾くというのは意外でしたが、敢えてこの美しいソナタによって2日間の終わりを締めくくるといった意図でもあるのだろうと思われます。
それはともかく、この人はやはりソロのほうが好ましく思え、細かいニュアンスなどではっとさせられる瞬間があることも事実で、どうもコンチェルトでは真価が出ない人だと思いました。

最後になりましたが、使われたピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、超大型ピアノながら内気な性格のようで、ハスキーな小声にくわえて、ほとんどがつんつんとはじくようなタッチで弾かれるためか、このウィーンの名器を堪能するには至りませんでした。

ピアノはステージ中央でやや斜めに置かれ、前屋根をやや浮き上がった角度にするなど、こまかい演出もシフのこだわりだろうかと思われますが、この「ほんの少し斜めに置く」というのはとてもよかったと思います。
通常はソロであれコンチェルトであれ、ピアノはきっちりと横向きに置かれるのはまるで風情がないけれど、わずかに斜めに置くことで、やわらかな感じが出ていたし、雰囲気とはちょっとしたことでずいぶん変わるものだと思いました。
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シフの協奏曲-1

昨年11月、東京オペラシティーで2日間にわたって開催された、アンドラーシュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会の様子がEテレのクラシック音楽館で、2週にわたり放送されました。

実際の演奏会は、一日目が第2番、第3番、第4番、二日目が第1番、第5番というものだったようですが、放送順は逆でした。

その感想をブログに書こうと思っていたので、インタビューから演奏まですべてを視聴しましたが、約4時間という長丁場もさることながら、必ずしもマロニエ君にとって好みの演奏ではなかったこともあり、正直「時の経つのも忘れて楽しむ」というわけにもゆかず、むしろ頑張って見たというのが正直なところ。

まず全体を通しての、率直な印象でいうと、この人は必ずしもベートーヴェン向きの人ではないと思うし、さらには協奏曲向きの人ではないということでしょうか。

バッハのソロであれだけの見事な演奏を聴かせる人だから、シフは現代のピアニストの中でも屈指の存在だとは思うけれども、やはり演奏家というものは、自分に合った作品をもう少し厳選して欲しい…というか「すべき」だと思います。
この人は端然としながら確信にみちた演奏をする反面、曲によってはかなり面食らうような演奏もするから、波長の合った作品では右に出るもののない素晴らしさで聴く者を魅了するけれど、それがいつも期待通りに安定しているわけではありません。

むかしむかし、シフの素晴らしさに気づいたのはメンデルスゾーンの無言歌集であったし、決定的だったのはいうまでもなく一連のバッハ録音でした。
バッハは、ごく初期(録音が)のものは固さと慎重さが隠せなかったけれど、次第にツボにはまってこのピアニストの魅力が滲み出るものとなり、さらに後年2回目のバッハに至っては、各声部は代わる代わるに自在かつ即興的に飛び交い、まさ新境地を打ち立てたと言えるでしょう。
シューベルトのソナタでも、彼の人格そのもののような解釈で朗々と歌い出され、ある種とらえ難いシューベルト作品もシフの手にかかると、明瞭な意味と言語で視界がひらけて、あたかも曲自身の意志で流れ出すようでした。

いっぽう、あれ?と思ったのはモーツァルトがそれほどとは思えないものであったり、スカルラッティなどもいまいちで、こんなにもムラがあるのかと首をかしげることもしばしばでした。
とはいえ、近年の録音や動画で接した一連のバッハの素晴らしさは、そういう不満を吹き飛ばすほど素晴らしいもので、まさにバッハ演奏によって現代の巨匠の位置にまで駆け上がったように思います。

しかしながら、この人は、自分に合ったもの、自分が得意なものだけえは満足しないのか、シューマンなどのロマン派にも手を出し、さらにはベートーヴェン・ソナタ全曲にも挑み始めましたが、どこぞのステーキ店ではないけれど、いささか急速な事業展開をしすぎでは?という気がしなくもありませんでした。
そのうちのいくつかのソナタやディアベッリ変奏曲を聴いてみましたが、個人的にはバッハのような感銘を得るには至りませんでした。

シフ自身は自分のベートーヴェンをどのように思っているのだろうと思います。
世の中には、どんどんレパートリーを増やしていくピアニストもいれば、しだいにレパートリーを特定のものだけに絞って若いころ弾いたものでも弾かなくなってしまう人がいますが、シフは一見とても慎ましいイメージがあるけれど、レパートリーに関しては大胆な挑戦者であることを望んでいるようにも思えます。


とにかく、マロニエ君としては、このピアニストにベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏というのは、さほど食指が動かずCDも未購入でしたが、実際聴いてみて、やはり!というのが率直なところ。

ちなみに、カペラ・アンドレア・バルカというオーケストラは、アンドラーシュ・シフのシフが小舟という意味であることから、それをイタリア語に置き換えてアンドレア・バルカとなっている由。
シフの聖歌隊とでもいうのかどうか知らないけれど、シフの呼びかけで集まる非常設のアンサンブルのようで、名前からして彼が好きにやれる室内オーケストラということなんでしょう。

ネットによれば、今回はベートーヴェンの協奏曲を携えてのアジアツアーというものだったようで、全12公演、うち5回が日本、それ以外は中韓の各都市を回ったようです。
本人の言葉によればソナタの全曲演奏もすでに27回!!!もおこなっているというのですから、誠実で物静かな音楽家というイメージの裏側に、かなりの精力的なマグマがうごめいているのかもしれません。

つい長くなったので、続きは次回に。
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努力という才能

知人からの情報を得て面白い番組を見ました。

音楽やピアノにまったく関心のなかった海苔漁師の52歳の男性が、たまたまテレビでフジコ・ヘミングのラ・カンパネラに出会ったことがきっかけでスイッチが入り、自分もラ・カンパネラを弾きたい!という一大決心をしてピアノを開始。
その7年後、ついにはフジコ・ヘミング本人の前で演奏を果たすというもの。

奥さんがピアノの先生で、家にはグランドピアノがある環境ではあったようですが、「音大出の私でも弾けないのに、あんたに弾けるはずがない!」と一蹴されるも、まったく意思はゆるがず練習開始。
それまで、ピアノの経験は一切なく、酒をのんでは演歌を歌うぐらいなもので、楽譜もまるで読めないという、まさにゼロからのスタートだったとか。

練習方法は、タブレット端末のアプリなのか、音が画面内の鍵盤を光らせるようなものを見ながら、すべてを指の動きに叩き込んで覚えるというやり方で、番組によればまったくの独学というですから信じられません。

さらに驚くのはその尋常ならざる熱意と猛練習ぶり。
なんと毎日8時間、これを7年間、仕事以外のすべてを犠牲にして、全エネルギーをピアノの練習につぎ込み、ついにはこのラ・カンパネラをマスターしたというのですから、開いた口がふさがらないとはこの事です。

ピアノの常識でいうと、50過ぎてまったくの白紙からピアノに触り、いきなりラ・カンパネラという跳躍の多い技巧曲に挑んで、それを7年かかって成し遂げるということは、モチベーションの持続など、いろいろな意味からほぼあり得ないことですが、それをやってのけたこの方の驚異的な熱意と実行力たるや尊敬に値するもの。
とりわけ練習嫌いのマロニエ君には「練習とは、かくも尊いものなのか!!!」と考えさせられました。

それに比べたら、フジコ・ヘミングの前で演奏したかしないかは、個人的には大して重要とは思わず、これは要はテレビ番組の企画だと思いますが、それが企画として成立したのも、この方の奮励努力の末に奇跡的な結果を生み出したことが呼び寄せたことだと思うのです。

長年漁師をされてきたという浅黒く逞しい太い指が、慎重に鍵盤の上に置かれて演奏開始。
あの長い曲を少しもごまかすことなく、すべての動きをひたすら反復し、それを記憶し、自分の体に叩き込むことで立派に最後まで弾き通すということを、まぎれもない現実として多くの人が目撃したわけです。

このカンパネラを聴きながら、一途に努力を継続できることは、それ自体がひとつの才能だと思いました。
脇目もふらず、なにがあろうと、ひたすら努力を続けるのは、強靭な意志力が必要だけど、ただそれだけでできることでもなく、それが長年にわたりへこたれることなく続けられるという、ご当人の適性とかメンタルを含めて、さまざまな条件が揃わなくてはならず、だからこそ「才能の一種」だと思うのです。

マロニエ君はそれがゼロなぶん、この方がよけい輝いて見えました。

それともうひとつ触れないわけにはいかないことが。
それは、この方のラ・カンパネラには、非常にオーソドックスな良さがあり、曲は違和感なく恰幅があり、はっきりと音として作品の姿が見えたこと。
教師であれ、ピアノ愛好家であれ、やたら叩きまくるか、音楽性のかけらもない変な節まわしや意味不明のリズムやアクセントなど、指はどうにか動いても、それがなまじ偉大な作曲家の作品であるぶん冒涜的となり、聞くのはかなりしんどいものがほとんど。
そこには、曲への理解不足、第一級の演奏に対する無知と無関心、音楽経験の浅さ、さらにはこうした技巧曲を弾けるという自慢ばかりが横行している中、この方のカンパネラはなんとまっとうなバランスが保たれていたことか!
ここがマロニエ君にとって一番の驚きだったといってもいいと思います。

殆どの人は、この方がラ・カンパネラを弾けるようになったという、要は、きわめて困難な指の運動と記憶の作業をやり遂げたことに感嘆するかもしれませんが、それはもちろんそうだけれども、出てくる音楽がきわめて正常なものであったことはさらに瞠目させられた次第。

おそらく、フジコ・ヘミングという技術はそれほどではないけれど、とろみのあるずしっとした演奏を繰り返し聴かれたことで、知らず知らずのうちにその特徴までもが、この方の中にしっかり染み込んで根を下ろしていたのではないかと思います。
ピアノは練習しているのに、名演を聴かない(かりに聞いて技術的上手さだけ)人というのがあまりに多く、音楽はまず自分の練習時間と同等かそれ以上に聴きこみ、惚れ込まなければダメだということの証左でもあったように思います。
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アンゲリッシュ

クラシック倶楽部で、今年10月、紀尾井ホールで行われたニコラ・アンゲリッシュのリサイタルの模様を視聴。
曲は、バッハ=ブゾーニのコラール「きたれ、異教徒の救い主よ」とシューマンのクライスレリアーナ。

書くかどうか…実は迷うところではあったのですが、ネタも乏しく、あえて書くことに。

アンゲリッシュという人は、これまで実演を聴いたことはないけれど、いくつかのCDや動画によれば、とくに印象らしいものがない中堅ピアニストということぐらいで、あまり言葉が思い当たらない存在でした。

ところが、ネットでみるとかなりの絶賛ぶりに面食らってしまいます。
とくに宣伝においては、今どきなので、まともに受け取ることもないけれど、別の人のことでは?と思うようなものばかり。
「世界中から引っ張りだこのピアニスト」
「類稀なる鮮烈ピアニズム」
「多くの人に衝撃を与えた」
「アルゲリッチが絶賛!」などと書かれているけれど、彼女は自分が褒めることで他のピアニストを支援するというような使命感があるのか、とにかくだれでもやたらめったら褒めまくる人。
しかも、そのアルゲリッチ自身がインタビューの中で(少なくともマロニエ君が見たものは)アンゲリッシュをほめているのは『スターという感覚はないかもしれないけれど…』と人柄をいっており、演奏そのものを絶賛というようには受け取れませんでした。

プロフィールによると、アンゲリッシュはアメリカ生まれで13歳でパリ国立高等音楽院にいったとあるけれど、マロニエ君の耳には、あまりパリの水で顔を洗った人のようにも聴こえません。

とにかく、どこを切ってもおとなしい優等生のようで、レシピを見ながら真面目に作った料理みたいで、この手はやはりアメリカに多いタイプのような気が…。

この人を聴いていると、ビショップ・コワセヴィッチ、ギャリック・オールソン、エマニュエル・アックスなどに共通するものを感じて、あまりにも平凡、アーティキュレーションが不明瞭で、要するに曲に対してなにをどう目指しているのかも伝わってきません。
それから見れば、クライバーンなどはテールフィン時代のキャディラックのような、ある種の純粋なアメリカの魅力はあったように思います。

アメリカ(出身か育ちかはわからないけれど)という国は、自由のきくエンターテイメントはお得意でも、様式とか約束事の多いクラシックの演奏をもって最高を目指すといったことが体質的に合わない気がするし、その合わないことを努力でやっているからどうしても萎縮するのか、どっちつかずの結果になってしまうような印象。

アメリカ人には世界の超大国としての豊かさやおおらかさが気質としてあり、そこに切羽詰まったものがないからか、クラシックの演奏家でとくに秀逸な人材が育ちにくい国だというイメージがあります。
大戦を逃れて偉大な音楽家が大挙して流入したけれど、それでもどうにもならない壁がある…。

温厚でフレンドリーなのは、仲間として付き合うにはいいのかもしれないけれど、鑑賞として演奏を聴くぶんには(とくにソロは)マロニエ君は相当つらいというか、わざわざ彼である必要が見いだせません。

もちろんアンゲリッシュのような演奏を、奇を衒わず、安心感を持って聴けるとして好まれる方もおいででしょうが、中にはあえてこのタイプの人を賞賛することで、鑑賞者としての自分の慧眼をアピールするというパターンもあったりするから、やはり信じるのは自分の耳しかない。
そういう人達の推奨ネタとして、よくこのタイプの地味で演奏家が推奨される。

そこで混同されがちなのは、真面目で温厚な人柄と演奏評価がごっちゃになること。
個人的にお付き合いする相手ならそれも大事ですが、一介の音楽鑑賞者としは聞こえてくる演奏がすべてだから、ピアニストに演奏以外の要素を求める必要はない。
それより触れれば血がふき出るような才能とか、とにかく音楽のためになにか尋常ではないもの、ときに狂気さえも必要なもの。
プロフェッショナルのステージに凡人の居所はないというのがマロニエ君の考えです。


余談ながら、ネットで見ることのできるアンゲリッシュのプロフィールを見て、かなり驚きました。
出身、学歴、受賞歴はともかく、これまでの共演した指揮者やオーケストラ、ソリスト、参加した音楽祭など、その他さして重要とも思えないようなことまで、信じられない量を書き連ねるのはいかがなものか…。
本人の名前だけでは通用しないことを裏付けているようでもあり、逆効果ではと思いました。

少し話は逸れますが、マロニエ君は名刺に大げさな肩書をズラリと書き並べる人というのが、どうも信用できません。
ご当人にしてみればなによりのご自慢なのでしょうが、見せられた側はハッタリ屋のような印象しか抱けません。

アンゲリッシュがそれだというつもりは毛頭ないけれど、ああいうプロフィールを見たらどうにもシラケてしまい、却って本人の足を引っ張っている気がします。
人にはそれぞれの持って生まれた立ち位置というのがあって、俳優でも、人並み以上の容姿と演技力が備わり人気もあるけど、どうしても主役にはなれない人っていますが、そういうピアニストではないかと思います。
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ニュウニュウのいま

クラシック倶楽部の視聴から。
ニュウニュウ・ピアノリサイタル、プログラムはショパンの即興曲第2番/第3番、ソナタ第2番、スケルツォ第3番、リストのウィーンの夜会。
2019年6月、会場は神奈川県立音楽堂ですが、無観客なので同ホールでの放送用録画かと思われます。

6月といえば、福岡でも同時期に彼のリサイタルがあって、気が向いたらいってみようかと思っていたけれど(結果的には行かなかったのですが)、上記曲目がすべて含まれるものでした。
NHKのカメラの前での演奏であるほうが気合も入っているだろうし、マロニエ君は実演にこだわるタイプではないから、ただ巡業先の中の演奏のひとつを聴くよりむしろ良かったような気も。

中国人ピアニストといえば、すでにラン・ラン、ユンディ・リ、ユジャ・ワンという有名どころが日の出の勢いで活躍しており、ニュウニュウのイメージとしては、彼らよりもうひとつ若い世代のピアニストといったところ。
いずれも技術的には大変なものがあるものの、心を揺さぶられることはあまりない(と個人的に感じる)中国人ピアニストの中で、マロニエ君がずいぶん昔に唯一期待をかけていたのがニュウニュウでした。

10代の前半にEMIから発売されたショパンのエチュード全曲は、細部の煮詰めの甘さや仕上げの完成度など、いろいろと問題はあったにせよ、この難曲を技術的にものともせずに直感的につかみ、一陣の風が吹きぬけるがごとく弾いてのけたところは、ただの雑技や猿真似ではない天性のセンスが感じられました。
まさに中国の新しい天才といった感じで、うまく育って欲しいと願いましたが、その後ジュリアードに行ったと知って「あー…」と思ったものでした。

個人的な印象ですが、これまでにも数々の天才少年少女がジュリアードに行ってしばらくすると、大半はその輝きが曇り、小さくまとめられた退屈な演奏をする人になってしまうのを何度も目にしていたからです。
さらには俗っぽいステージマナーなどまで身につけるのはがっかりでした。
誰かの口真似ではないけれど、セクシーでなくなるというか、才能で一番大事な発光体みたいな部分を切り落とされてしまうような印象。
そうならなかったのは、五嶋みどりぐらいでしょうか?

冒頭インタビューで、ジュリアードでは舞踊やバレエの友人ができ、彼らから多くのことを学んだと語り、ピアノの演奏も視覚的要素が大切と思うので、演奏には舞踊を取り入れているというような意味のことを語っていました。
ステージに立つ人間である以上、視覚的効果も無視できないというのはわかるけれど、直接的にそれを意識して採り入れるとはどういうことなのか、なんだか嫌な予感が走りました。

で、演奏を視聴してみて感じたことは、音楽家というよりはパフォーマーとして活動の軸足を定めてしまったような印象で、舞踊の要素なんかないほうがいい!としか思いませんでした。
どの曲も危なげなく、よく弾き込まれており、カッチリと仕上がってはいるけれど、そこに生身の、あるいはその瞬間ごとの魅力や表現といったものは感じられず、誰が聴いても大きな不満が出るようなところのない、立派な演奏芸で終わってしまっている印象でした。

また、ニュウニュウに限ったことではありませんが、曲の中に山場や聴きどころのない、全体を破綻なく均等にうまく弾くだけで、ドキッ!とするような魅力的な瞬間といったものがないのは、これからを担う若い演奏家が多く持っている問題点のような気がします。
好きな演奏というのは、ある一カ所もしくは一瞬のために聴き返すようなところがありますが、現在のニュウニュウの演奏は何度も繰り返して聴きたい気持ちにはならないものでした。

音はいささかシャープで温かさが足りないかもしれないけれど、それでもかなりよく楽器を鳴らせる人のようで、この点では上記の4人中随一ではないかと思いました。
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シンプルは至難

BSクラシック倶楽部でスペインの巨匠、ホアキン・アチュカロの演奏に接しました。
この時の放送はアラカルトで、55分の放送時間のうち前半はキアロスクー四重奏団の演奏会だったため、アチュカロの演奏はファリャのスペイン小曲集から2曲と火祭の踊り、アンコールでショパン:ノクターンop.9-2、ドビュッシー:月の光、ショパン:前奏曲No.16というものでした。

ホアキン・アチュカロは日本ではさほど有名なピアニストではなく、マロニエ君も持っているCDで記憶にあるのはシューマンの幻想曲とクライスレリアーナぐらいです。
きわめて真っ当なアプローチの中に、温かな情感が深いところで節度をもって息づいていることと、音が美しく充実していたことが印象的でした。

この演奏会は今年の1月で、その時点で御歳86という高齢であることも驚くべきで、はじめのファリャは、想像よりゆるやかで落ち着いたテンポのなかで進められました。
普通はスペイン物となると、どうしてもスペインを強調した演奏が多く、激しい情熱、そこに差し込む憂いなど、交錯するものが多いけれど、さすがは本家本元というべきか、ことさらそれを強調することはなく、むしろゆったりとエレガントに演奏されたのが新鮮でした。
尤も、壮年期はもっと激しく弾いたのかもしれませんが…。

この30分ほどの演奏の中で、最も感銘を受けたのはショパンのノクターンでした。
きわめてデリケートな、ニュアンスに富んだ美しいショパンの真髄がそこにはありました。
アーティキュレーションの中で揺れるわずかな息遣いがハッとするようで、まさに鳥肌の立つような、泣けてくるような演奏。
決して完璧な演奏というのではないけれど、この一曲を聴けただけでも視聴した価値があったし、これはちょっと消去する訳にはい来ません。

同曲で感激したのは、記憶に残るものでは晩年のホルショフスキーがあったし、CDではリカルド・カストロにもマロニエ君の好きな名演があります。

この変ホ長調 op.9-2 は、ノクターンの中でも最も有名なもので、しかも多くの人が弾けるほど音符としては難しいものではないけれど、理想的な演奏ということになると、さてこれがピアニストでも至難という不思議な曲。
ひととおりの技術を身につけた人なら、音数の多い曲をあざやかな手さばきで弾いておけば、おのずと曲のフォルムは立ち上がりさすがとなりますが、ほんとうに難しいのは、こうしたシンプルで行間は全て自分で処理しなくてはいけない領域だろうと思います。

全般的に見ると、この曲は年齢を重ねないと弾けないものかとも思ってしまいます。
これほどショパンの大事な要素がぎっしりつまった曲というのはそうはないように思われ、親しみやすいメロディーの裏に次々に見落としてはならない要素が現れは消え、多くの弾き手がその多くを処理しきれず表面だけを通過してしまいます。

ショパンのノクターンといえば、遺作の嬰ハ短調 20番とされるものや、ハ短調 13番 op.48-1 などを好む向きもありますが、ある程度きちんと弾けばなんとかなるところがあるのに対し、op.9-2 は演奏上の背骨になるようなものがない危うさがあり、これを繊細かつ適切なニュアンスを保って聴かせるというのはなかなかできることではない。

単純に歌ってもダメ、ルバートやアクセントにもショパンのスタイルが要求され、f にもあくまで抑制を保つなど細心の目配りが必要で、なにか一つ間違えてもたちまち雰囲気が崩れてしまうのは、もしかしたらモーツァルト以上で気が抜けません。
だからといって、あれこれ注意を張り巡らせて弾いていると、今度はその注意と緊張で固くこわばってしまい、まさにあちらを立てればこちらが立たずとなる。

ピアノの難しさというと指のメカニックや超絶技巧、初見や暗譜の能力などばかりに目が行きますが、最後に行き着く難しさはこういうところにあるとマロニエ君は思うのです。

アチュカロはとくに気負ったところもない様子で、ホールの空気をこの曲の静謐な世界でたっぷりと満たしていて、こういう聴かせ方をする人は今後ますますいなくなることでしょう。
月の光も素晴らしかったけれど、やはりショパンのop.9-2が白眉でした。
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シンプルで見えるもの

最近、つくづく感じることですが、ピアノを弾く上で極めて大切なこととして、音数の少ないスローな曲をいかに人の心を惹きつけるよう美しく演奏できるかということ。

これはアマチュアはもとより、プロのピアニストでもできていないことが多く、そもそも、そこに重きが置かれていないことを折にふれて感じます。
大事なことはもっぱら派手な、機械的な技巧ばかり。

技巧といえば、難曲を弾いてのける逞しい超絶技巧のことだと考えられており、そのあたりの思い込みはどれだけ時間が経っても変化の兆しさえありません。
シンプルな曲を美しく弾くことも、自分の演奏に対して常に判断の耳を持つことも技巧であり、タッチや歌いまわしや音色の変化を適切に使い分けることも技巧だと思いますが、それを建前としてではなく、心底そう思っている人というのはかなり少ないでしょう。

ピアノを弾く人の言葉からも、聞こえてくるのは「かっこいい曲」などというワードだったりして、それはほとんどが有名どころの大曲難曲を弾けることであって、そのための鍛えられた技術がほしいだけ。

たしかに、指が早く正確に確実に力強く動こくことは大切で、それなくしては音楽も演奏もはじまらないというのも事実。
だとしても、それだけしか見えていないことは、音楽をする上で致命的なことではないかと思います。
自分の技量に少し余裕をもてる曲を、美しく歌うように演奏するための努力や工夫をすることには、実際にはほとんどの人が関心がなく、仮にそうしたいと思っても、そのために何をどうしたらいいのか、いまさらわからない。
その点、機械的練習は、気力と環境さえあれば、一日何時間でもがむしゃら一本道で訓練を続けることが可能。


アマチュアばかりではなく、プロのピアニストでも同じような問題が見て取れることはしばしばで、いま注目される日本人の旬のピアニストといえば、だいたいあのへんか…と思う顔ぶれが5人〜10人以下ぐらい浮かびます。

この中で「音数の少ないスローな曲」を、センスよく美しく、聴く人の心の綾に触れるような繊細な情感と注意をもって適切に弾ける人がどれだけいるかと考えたら、かなり疑わしくなる。

キーシンが12歳でデビューして、ショパンの2つの協奏曲を見事に弾いたことで世界は驚愕しましたが、そのときにアンコールで弾いた憂いに満ちたマズルカ2曲と、スピードの中に悲しみが走るワルツの演奏は、12歳の少年とは信じられない人の心の奥底に迫ったもので、まさに大人顔負け、震えが出るものでした。

このところ、ピアノはスポーツ競技の別バージョンのようにして、コンクールを舞台にしたアニメや映画が盛んで、先日もとある番組でそれをテーマに出演者やピアニストがスタジオにゲスト出演。
いまや、ピアニストもこういう映像作品の演奏担当ピアニストに抜擢されることがブランドになるらしく、それからして演奏家の世界も時代に翻弄されているようです。

そのうちのひとりが、とある番組でドビュッシーの「月の光」を弾いていたけどよくなかったと知人から聞き、録画していたのでさっそく視てみたところ、なるほど!というべきダサくてピントの外れた演奏で驚きました。
有名な出だしは、やたら粘っこく間をとって一音々々意味ありげに行くかと思うと、急に意味不明に激しく燃え上がったり、ある部分はあっという間に通過してみたり、なんじゃこりゃ?と思いました。

好意的に見ても、まるで説明的に弾かれたシューマンみたいな演奏で、およそドビュッシーとかフランス音楽は一瞬も聴こえてきませんでした。
この人は、現在日本を代表するピアニストのひとりで、マロニエ君もベートーヴェンの協奏曲などはわりに好印象をもって聴いていただけに、こんな程度のものだったのか…とがっかりでした。

それだけ、ゆっくりしたシンプルな曲というのはその人の音楽上の正体を露呈してしまいます。
プロのピアニストにとって「月の光」なんて、技術的には取るに足らないものでしょうけど、それだけにその人の美意識やセンス、音楽的育ちやイントネーションなどがあからさまに見えてしまいます。

以前、アンヌ・ケフェレックが来日公演で弾いた同曲の夢見るような美しさがむしょうに恋しくなりました。

今どきのピアニストは演奏精度という点では一定のこだわりを持っているらしいけれど、ほぼ共通していることは、音楽が横の線になって流れてゆく生命力が弱いし、ここぞというツボにもはまらず、常に縦割りで拍とハーモニーが淡々と支配するだけ。

せっかく音楽を聴こうとしているのだから、ストレートに音楽を聴かせてほしいものです。
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ブラウティハム

むかしと違って、何を聞いてもドキドキワクワクさせられることが極端に少なくなった、いわば演奏家の生態系が変わってしまったかのような今どきの演奏。
技術的な平均点はいくら向上しても、喜びや感銘を覚える演奏には縁遠くなるばかり。

そんなあきらめ気分の中、ひさびさに面白いというか、なるほどと頷ける演奏に接しました。

Eテレのクラシック音楽館の中からエド・テ・ワールト指揮によるN響定期公演で、冒頭がベートーヴェンの皇帝だったのですが、ピアノはロナウド・ブラウティハム。
オランダ出身のフォルテピアノ奏者として、旬の活躍をしているらしい人で、近くベートーヴェンの協奏曲全集もリリースされる予定ですが、ピアノは普通にスタインウェイのD。
(全集はフォルテピアノ使用の由)
その普通がとっても普通じゃないので、まずここで驚きました。

A・シュタイアーのときがそうであったように、フォルテピアノの奏者がモダンピアノを弾くと、どこか借りもののようなところが出てしまうことが往々にしてあるので、さほどの期待はせず視聴開始となりました。

ところが、その危惧は嬉しいほうに裏切られて、これまでに聴いたことのないような、センシティブな美しさに満ちた演奏に接することになりました。
とりわけ皇帝のような耳タコの超有名曲で、いまさら新鮮な感動を覚えるような演奏をするというのは生易しいことではありません。

なんといっても、聴いていて形骸化したスタイルではなく、音楽そのものの美しさが滲み出てくるのは強く印象に残りました。
もともとベートーヴェンの音楽は誇大妄想的で、葛藤や困難があって、それを克服する過程を音楽芸術にしたようなところがあるけれど、ブラウティハムはそこに意識過剰になることがないのか、曲本来がもつ純音楽的な部分をすっきりと聴かせてくれるようで、おかげでベートーヴェンの音楽に内在する純粋美を堪能させてもらえた気分でした。

特に皇帝でのソリストはヒーロー的な演奏をするのが常套的であるため、そうではない演奏となると貧弱で食い足りないものになりがちです。
ところが、この演奏は、そういうものとは根本的に別物。
深い考察や裏付けがきちんとしたところからでてくる音楽なので、そのような不満にはまったく繋がらなかったばかりか、これまで何百回聴いてきても気づかなかった一面を気づかせてくれたりで、これにはちょっと驚きでした。

それと、これまでの印象でいうと、一部の古楽器奏者には、自分達こそ正しいことをやっているんだという押しつけがあって、モダン楽器演奏の向こうを張るようなイメージがありましたが、ブラウティハムの演奏はそういう臭みがなく、ごく自然に耳を預けられる魅力がありました。

彼は決してピアノを叩かないけれど、それが決して弱々しくも偽善的でもなく、むしろ多くのモダンの演奏家よりも音楽そのものに対するパッションがあって、その上で、常にピアノを音楽の中に調和させようとするからか、音の大きくない演奏でも深い説得力があり、舌を巻きました。
ピアノがどうかすると弦楽器のようであったり、皇帝がまるで4番のようにエレガントに聴こえる瞬間が幾度もあって、とにかく美しい演奏でした。

今どきのピアニストによる、指だけまわって、型に流し込んだだけの簡単仕上げで、なんのありがたみもドラマもない、アウトレット商品みたいな演奏の氾濫はもうこりごりです。

アンコールでは「エリーゼのために」が弾かれ、そこでもわざとらしい表情を付けるなど作為が皆無の、節度ある自然なアプローチが、まるで初めて聴く曲のようだったし、2つの中間部も、これほど必然的に流れていくさまは初めて聴いたような気がして唸りました。

ベートーヴェンは、実はとっても優美な音楽ということを教えられました。
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ホール拝見

福岡市から南へ40数キロほど南下すると久留米市があります。
人口30万ほどの街ですが、古くから医学の街でもあり、ブリジストンタイヤの創業の地でもあるし、一方で青木繁や坂本繁二郎のような多くの画家を排出した地でもあります。

市内にはブリジストンの石橋正二郎氏が寄贈した石橋文化センターがあり、東京のブリジストン美術館と連携した日本有数の美術コレクションを展示する石橋美術館ほか、石橋文化ホールなどがあり、ブリジストンの躍進と地元への貢献を肌で感じることができる場所です。

その久留米市に、2016年だったか久留米シティプラザという複合施設が街の中心部に作られました。
古くからあった百貨店の跡地と、それに隣接する六ツ門広場という広いイベントスペースを潰して作られた大掛かりな文化施設のようです。

写真で見る限り、ずいぶん立派なホールで、一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか情報も伝わらず、ネットで調べてもこれというコンサートなどはあまりないようで、行く機会が見つからない状態だったですが、知人が久留米市市民オーケストラというアマチュアオケの後援のようなことをやっているとかで、そのオケの定期演奏会があると聞き、ホールを見るには良いチャンスだと思って行ってみることに。

久留米市のまさにど真ん中、街並みの中でも目立つ建物は二棟に分かれ、しっかりとした地下駐車場があり、外から見ても建物内に入っても、これはずいぶんがんばったなぁ…と思ってしまうほど立派なもので、まるでバブル時代にタイムスリップしたような感覚に陥りました。
全体の規模、エントランスやロビーなどの広々した作り、さらにメインのホールはおよそ1500人収容の、細部まで凝った意匠が散りばめられた贅沢な仕上げで、見ているだけで圧倒されるものがありました。

サイドの客席はセンター/左右と三方向に別れ、それが互い違いに5階まで続き、ホール全体は赤い色調の木目で張り巡らされており、それが床から舞台の反響板、各階の背後の壁にいたるまで徹底されています。
規模的にいうと、通常の大ホールはだいたい1800〜2000人規模のものが多く、その半分もしくは1/3ぐらいのものが中ホールとされるものが多いですが、1500人というのはその間というか、ちょっと一回り小さな大ホールといったところで、個人的には2000人規模のホールは大きすぎて好きではないので、より好ましいサイズだと思います。

福岡市にもこれぐらいの規模の施設があればいいなぁと思えるもので、音響も節度があり、濁らないクリア感があって、やはり音響設計は日々進化しているのだろうと思いました。
その点、福岡市内にあるメインのコンサートホールは最悪の音響にもかかわらず、改善の気配もなく、会場がここである限りマロニエ君は足を運びたくない筆頭のホールで、自分の地元のホールがこんな有様とは、なんたる不幸かと思うばかり。


この日のコンサートでは、冒頭の「魔弾の射手」序曲に続いて、2曲目がベートーヴェンの「皇帝」で、ピアニストはゲストとして招かれたとおぼしき若手の日本人ピアニストでした。
線の細い、今どき世代のヘルシー弁当のような演奏で、曲は確かに皇帝だけど、ドラマのないさらさら通過していくBGMのようでした。
「皇帝」ぐらいの超有名曲になれば、嫌でも一定のイメージが張り付いており、例えば全盛期のポリーニが汗みずくになり、唸り声を上げ、凱旋するヒーローのごとく弾いた皇帝にくらべたら、そのエネルギーは数分の一に減っていることでしょう。

昔のV8エンジンのベンツSクラスとプリウスぐらいの燃料消費の差がある感じですが、ガソリンなら使うのは少ないほうがいいけれど、聴衆に聴かせるステージ上の音楽まで、こうまで切り詰めてしまう必要があるのか、もはやマロニエ君なんぞにはわかりません。

ただし、思いの外よかったのは第二楽章で、これはかなり美しく弾かれたし、アンコールとしてメンデルスゾーンの無言歌集から「ヴェニスの舟歌」も同様で、柔らかい枝がしだれるようで、この2つが聴けただけでも収穫だと思いました。

オーケストラは、なにぶんにもアマチュアですから、普通の感想を持ってはいけないのでしょう。
みなさんとても熱心に練習されていると思うし、おりおりにあのような立派な会場で定期演奏会があるとなれば、やりがいも感じておられることとも思います。

施設その他を見物してまわっていたので、ホール内に入ったのは開演直前でしたが、なんと1階はほとんど満席で、案内の人から「最前列の右側しかありません」といわれ、あわてて2階に。
それもダメでついに3階まで上がって辛うじて空きを見つけたほどの盛況ぶりでした。

その移動時に感じたのは、センターと左右が段違いになっているためか、それぞれに繋がる通路が、からくり屋敷の迷路のように複雑でわかりにくく、いったん出てもどっちがどうなっているのかまったくわからなくなり、開演時間が迫っていることもあってほとんどパニック寸前でした。
案内の人に聞いても、瞬時に答えられず、これはちょっと凝り過ぎかもしれません。
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非文化

日本人のある指揮者の方が、本の対談の中で、
「日本では西洋の芸術が文化になっていない」というテーマの講演があるといい、「文化とは血の中にあり感覚となっていて生活に密着しているものだが、日本では西洋音楽はまだ文化になっていない。血の中にないから、哲学や思想など頭で考え分析できるもののほうが近づきやすい…」と述べるくだりがあり、フランス音楽への理解が浅いのも「哲学的根拠のようなものを感じさせる音楽でないと、真の芸術ではない、という考えが日本にはある」と発言されており、おおいに膝を打ちました。

西洋の音楽というと、高尚な芸術として一部の人達に愛好されるものという敷居みたいなものがあって、普通にファッションやスポーツなどに接するように、日々の生活の中にごく自然にクラシック音楽が浸透し存在する状態、つまりは文化と呼べる領域にはまったく至らないようです。

世界的に見てもトップレベルではないかと思える、柔軟な感性を持つ日本人。
異国のものをすんなり受け容れ、自分達の生活に採り入れるなどお手のもの。
しかるに、西洋音楽がもたらされて一世紀以上経つというのに、こちらはいまだに専門家や愛好家だけの芸術ジャンルとしてソフトに隔離されており、およそ日常の中に文化として息づいているとは思えません。

例えばコンサートのプログラムにしても、多くの日本人は今だに演奏より曲目にこだわります。
それもただ自分が知っている曲があるかどうか、耳慣れた名曲が含まれているかどうか、問題はいまだにそのあたりを行ったり来たりしてことに唖然とします。

演奏者も、チケットを売るため有名曲を入れるよう主催側から強く要望され、不本意なプログラムにならざるをえないことは少なくないとか。

知っている曲を生で聴きたいというのもわかるけれど、では、知らない曲だとそんなに退屈ですか?というのがマロニエ君の正直なところ。
その人たちが映画や小説や美術館の作品に触れるとき、多くの作品を前もって「知っている」わけではなく、大半は「初見」でも文句は出ないのに、音楽だけは、どうして知っている曲じゃないといけないのかがわからない。

他のものと同じように、ただ楽しみとして自然に芸術に触れ、それを日々の中にやわらかに溶け込ませる、そこがどうも日本人には難しいらしいようです。
必ずやご大層なものになり、高尚で、専門的で、研鑽の対象という捉え方をするのは、楽しむことより身構えて勉強することのほうがしっくりくるからでしょうか。

それを感じるのは、アマチュアのピアノ演奏でも、ほとんどの人は技術的に余裕のもてる曲を選んで表現の美しさを追求することはなく、身の丈以上の大曲難曲に挑もうとする傾向。
これも根っこのところで、音楽を本当に楽しめていないから、演奏というパフォーマンスに重きを置き、そのための練習という技術の世界に迷い込む。
音楽(に限らず芸術を)を心の糧として楽しむことは、人生そのものの在りようやセンスの問題で、人に見せたり自慢したりすることではないから、それはただ練習という一本道というわけにもいかず、一朝一夕には達成できないことかもしれません。

そもそも「楽しみ方」を知らないのが良くも悪くも日本人なのかもしれませんけれど。

技術なら優劣が明確で、そこにヒエラルキーが生まれます。
日本の楽譜には、初級、中級、上級といった区分けがありますが、ああいうのが日本人は好きですね。
自分の感性や経験で判断しないから、人が分類してくれたものに従うほうが楽なのかも。

なので、ピアノ演奏も難易度別の技術と捉え、相撲の番付、将棋の段、算盤の級のような、わかりやすい階段を登ることは好きなようです。
そういえばピアノにはグレードという言葉があるようですが、「グレードを上げる」ことがモチベーションになり、ピアニストやコンクールで奏されるような有名な技巧曲を弾けることが「カッコいい」わけで、それが達成できれば周りから評価され一目置かれるから、それを目指すという図式。

要するに、音楽とは名ばかりで、根底には技術のピラミッドが立っているから、そうなると子供でも弾けるような易しい曲を、いかに美しく演奏するかということとは、まるで別の道になってしまうんですね。

つまり「日本では西洋音楽はまだ文化になっていない」となる所以がそこだと思います。
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月の光

今年はドビュッシーの没後100年ということで、なんとはなしに彼の名前や音楽を耳にする機会が多いような気がします。

話は繋がらないようですが、いつだったか古本店に行った折、期待もせず楽譜コーナーを見たら、たまたまピアノ名曲選というようなものがあり、内容はほとんど楽譜としては持っている曲ばかりでしたが、ふだん思いもかけないようなセレクトで40曲ぐらい一冊に集められているところが面白そうでした。
しかもほとんど使用感もなくきれいで、価格はなんと200円ほどだったので試しに買ってみました。

マロニエ君は自分のつまらぬこだわりがあって、この手の名曲選・名曲集のたぐいはほとんど持っていません。
欲しい楽譜を買うときは、その作曲家の普通の楽譜を買うので、たった1曲のためでも必ずその全曲譜を買うのが流儀で、そうやっていると長年のあいだに自然にあらかたのものは揃ってしまいます。

この名曲選でおもしろかったのは、いろいろな作曲家の曲が詰め合わせみたいになっていて、普段の自分からは思いつかないような曲にぽろっと出会うことができ、たまにはこういう楽譜も面白いなぁと思いました。

そこでドビュッシーですが、「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」「レントよりも遅く」とか「夢」で、今わざわざ楽譜を取り出そうとは思わないものでも、パッと目の前にあれば、自分の指でちょっと弾いてみようか…というチャンスになるんですね。

ちょっと触ってみて感じたことは、ドビュッシーというのは緻密に仕上げられたショパンなどとはまた違った考察と注意が必要で、音楽以外の幅広いセンスまで要求する作曲家だとあらためて思いました。
とりわけ音色や間の選び方には、ドビュッシー独特のものが必要。

例えば有名な「月の光」でいうと、これを弾く人は、まずこれがフランス音楽であること、しかも「月の光」というタイトルにはどこか日本人も好む静謐な世界を想起させられ、そういう雰囲気を込められた演奏が目立ちます。
とくにドビュッシーというと印象派などという言葉がちらつくのか、モネの絵のようにやけにフワフワと淡い調子で弾こうとする人がいますが、それを重視するあまり、とくに開始から10数小節までの音符の刻みが非常に曖昧となる演奏が目立ちます。

「月の光」は拍子や小節の区切りが感じにくいぶん、裏できちっと拍を守ることが求められ、しかも表向きはそれをいささかも感じさせることなくドビュッシーのニュアンスを描き出すことは、かなり難しい作品だと思いました。
そのためか、多くはリズムの歪んだ恣意的なディテールばかりが目立つ演奏が横行しています。

ピアニストでも、これを真の意味での正しい姿で、しかも微妙なニュアンスを含ませながら、最終的には楽譜など存在しないかのように弾ける人は非常に少ないのではないかと思います。

音数もさほど多いわけでもなく、やり直しの効かない確かな筆致と、あちこちに広がる空白を意味あるものとして聴かせなくてはならない至難な作品。
そうなると、ただ譜読みが得意で指がまわるだけで弾ける曲ではないということになり、ショパンのノクターンop.9-2のように、この超有名曲を真に美しく、鑑賞に堪えるように新鮮さをもって奏するのは、容易なことではないと思いました。
私見ですが、「月の光」は温かい演奏ではダメ、かといって冷たい演奏でもダメ、表情過多でもダメ、でも無表情でももちろんダメ。その間隙を抜群のセンスですり抜けるような演奏でないといけない。
腕の立つ人なら「喜びの島」でも弾いておいたほうが、よほど安全でしょう。

プロのピアニストでも、この簡単な「月の光」を聴けば、その人の音楽的な思慮、美意識、センス、性格や官能性までもが露わになってしまうような気がします。
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版より大事なもの

楽譜選びについてよく耳にすることですが、先生から❍❍版を買いなさい、ショパンなら❍❍版じゃなきゃダメというような指示を受けることが少なくないとか。
それは基本として大事なことではないと云うつもりはないけれど、もっと大切なことは、いかに有意義な練習を重ね、解釈を極め、深く美しく演奏するか、聴く人にとっても喜びとなるような演奏を目指すことではないかと思います。

楽譜って経験的にこれはダメというような粗悪品はめったにないから、普通に売っているものを普通に使うぶんには充分だというのがマロニエ君の持論です。
昔から受け継がれているものも多く、それはそれなりで、そうそう決定的に間違ったことが書いてあるわけでもなく、別に先生が言われるほどの必要性をマロニエ君は感じません。

もちろん音大生やコンクールを受けるような何かの条件下にあれば、ショパンなら使用楽譜はナショナルエディションという指定があって、それに沿った準備をしなくてはいけないでしょう。
しかし、少なくともテクニックも不足ぎみの大多数のアマチュアが、大人の余技としてピアノをやる場合、先生の役割というのはいかに演奏を通じて音楽の表情を作るか、そのためのツボや要所はどこにあるか、また陥りがちな悪いクセを正すにはどうすべきか、そういうことのほうがよほど重要だと思うのです。

どうせ楽譜を買うのに、よりオススメの版の楽譜を買うようにアドバイスするのは結構ですが、ではその先生達はどの版のどこがマズくて、オススメの版ならどういうふうにいいのか、具体的に説明できる人はどれぐらいいらっしゃるのか、それほど「わかって言ってるの?」って思うのです。

昨今は楽譜も作曲者の直筆譜や資料を検証し、そこから掘り起こしたまさに原典主義であって、それは一面において正しいことではあるけれども、個人的にはいささか行き過ぎた風潮であるとも思うし、奏者の主観や解釈の介入を否定し、プロの演奏家でさえ自己を抑えて学術的な流れに従おうという流れにも疑問を持っています。

少し前のいろいろな版には、とくにアマチュアが弾くぶんには校訂者による親切なヒントがあったり、美しい演奏として仕上げるための有効な指示が添えられていたりで、これはこれで別に悪くないと思うのです。

ところが、そこまでこだわって最新トレンドに沿った楽譜を買わせるわりには、その指導内容は杜撰で、ただ音符通りに鍵盤を押さえているだけで、せいぜい強弱の指導をするぐらい。
作品や音楽に関する言及、あるいは音楽的に奏するためのヒントや理由やテクニック指導はなく、物理的に指を動かせるようになったら「次の曲」になることがあまりに多いという現実。
指導の具体的内容を聞くと、そんなことのためにレッスン料を払って通っているのかと驚くばかりだったり…。

曲の譜読みをして練習を重ねる、ひと通りの暗譜ができる、なんとか音符通りに動くようになる、そうしたら、そこからがいよいよ音楽を深めるための入り口にようやく立つことができた段階で、一番大事なことはまさにこれからというところで「次」というのは、アマチュアを見くびっているのか、はたまたその先にある芸術領域については指導する自信がないとしか思えません。

生徒のほうもそこまで望んでいないということもあるかもしれないので、そこで先生と生徒の関係が成立しているのだったらそれでいいのかもしれないけれど、だったらなぜ版にこだわってわざわざ高額な輸入楽譜などを買わせるのか、そのあたりの意味がまったくわかりません。

青澤唯夫著の『ショパンを弾く』の中で、ホルヘ・ボレットの言葉が引用されていますが、一部を要約すると「まず楽譜を忠実に勉強して、メカニック的に完璧に弾けるようにする。二三週間後にまたレッスンをし、以前よりよく弾けていたら、一度くずかごに捨てて(つまりそれらを忘れて)、あたかも自分が書いたように演奏させる」という意味のことが述べられています。

これはあくまでも一例にすぎないけれど、いい演奏というのは、そうやって深いところにあるものを繰り返し探し求めて、自分なりの答えを見つけ出すことであって、暗譜して指を動かすだけでは決して深化はしないと思います。

マロニエ君としては、使用楽譜がいかなる版であろうとも、それをもとに仕上げのクオリティを徹底して向上させること、自分の力の範囲でこれ以上はムリというところまで極めることのほうが圧倒的に大事だと思うのです。
繰り返しますが、版がなんでもいいと言っているのではないけれど、それに値する高度な指導がなされているのか、もっと大事なことは他にあるのでは?と言いたいわけです。
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