薄い塗装

前回書ききれなかったこと。
出演した女性ピアニストによって、ホロヴィッツのピアノでトロイメライが弾かれる間、カメラがサイドからじわじわとスローで左に寄りましたが、そのときボディサイドに反射する黒い塗装の中に木目のようなものが見えたような気がしました。

ニューヨークスタインウェイは通常は黒のヘアライン仕上げ(ステンレスとかによくある一定方向に研磨された光沢のない仕上がり)という塗装で、これは通常の塗装よりも薄く仕上げてあると聞いていますが、この100年前のピアノでは、さらに塗装の質や厚みが違っているのではないか…というような印象をもちました。

テレビ画面から受けた印象ではきわめて塗装が薄い感じで、楽器としてはもしかするとより理想に近いものがあるのかもしれないという印象でした。
率直に言うと、工作で木工品にサーッと塗装したぐらいで、けっして綺麗な仕上げではないし、むしろ粗末な感じさえ与えますが、そうなっているとすればピアノとして理想を追求する上での理由があるようにも解釈できるのです。

ニューヨークスタインウェイのきさくで軽やかな鳴りを成立させる要素の一つに、この薄い塗装があるのかもしれず、とりわけこのホロヴィッツのピアノでは、とりわけ独特なものを感じました。そういえば思い出したけれど、ゼルキンのカーネギーホールライブのレコードジャケットも、これと同様の、塗装としてはみすぼらしい炭のかたまりみたいな塗装でした。

通常のハンブルクやその他大勢の艶出し塗装を、寒さや外敵から身を守ってくれる冬服に例えると、ニューヨークは明らかに春物?
薄いコットンのシャツにチノパンを履いているぐらいな感じで、これは響きに大いに関係するだろうと思います。

そのぶん温湿度変化にも敏感になるでしょうし、油断をするとすぐに風邪をひいたりと体調管理が難しくなるだろうから、一長一短あるかもしれませんが、究極の音を求めるなら極めて大きな要素という気がします。

もしマロニエ君が好き放題に道楽のできるような富豪だったら、好みのピアノだけを置いた小さなホールを作りたいとかなんとか、いろんな空想をして遊んでみますが、今なら、最も気に入った時代のスタインウェイを購入し、いったん塗装を全部落としてしまい、最低限の処理だけで鳴らしてみるかもしれません。

いわばTシャツと短パン、靴下もはかないぐらいの軽装にすると、はたしてどんな響きになるのか。

そういえば、つい先だってもあるお宅におじゃまして、そこのシュタイングレーバーをちょっとだけ弾かせていただきましたが、これがサイズを無視したような鳴りで感心したばかりでした。

もともとのピアノがいいのはもちろんですが、さらにこのピアノの塗装が、下地の木目が地模様のように見える黒の塗装で、これもきっと薄いのだろうと思いました。
漆塗りのような分厚い塗装というのは、いかにもリッチな美しさがあるし手入れが楽。さらにはボディをさまざまな環境の変化や傷から守るというメリットがあるからか、どこれもこれも樹脂コートのようなピカピカ塗装ですが、純粋に楽器としては好ましくない厚着のような気がします。

ピアノ全体を弦楽器のニスのような、薄い最低限の塗装で覆ったら、基礎体力がぐっと向上すると思います。
同時に、戦前のスタインウェイなどは、そのあたりも知り尽くしていて、各所の天然素材から仕上げまで最良の楽器を作っていたのだろうということが偲ばれます。

そういう観点からいうと、少なくとも通年管理の行き届いたピアノ庫をもつ音楽専用ホールでは、木肌に薄い塗装をしただけのまさにコンサート仕様のピアノを設置したらどうかと思いました。
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「簡単に弾けそう」

テレビの某音楽番組で、「ピアノの巨匠と…」というようなタイトルで、男女二人の日本人ピアニストがスタジオに招かれての放送回がありました。

女性は日本国内限定で有名な中年の方、男性はよく知らない若い人でした。
ピアノがメインで、ピアニスト二人が登場したからには、それなりのなにかテーマをもった企画と思いきや、なんだったのかよくわからない漠然とした内容に、思わず「なにこれ?」と思ってしまいました。

司会を担当するヴァイオリニストが、それぞれに「最も影響を受けたピアニストはだれですか?」というような平凡な質問をしたところ、その答えは平凡きわまりないもので、女性ピアニストは「ルビンシュタイン」で男性は「ミケランジェリ」という、定番すぎる答えにも唖然。

番組企画のシナリオなのか、本心からそうなのかわかりませんが、マロニエ君としてははっきりいってズッコケました。さらにその後に出てきたもうひとつの名前がホロヴィッツで、はいはいというだけ。
もし、おなじ質問をエマールや内田光子にしたら、へええというような名前と、一聴に値する理由説明があることでしょう。

で、スタジオの女性ピアニスト曰く、昔のLPを持ってきたといってそれをかざしながら「私はルビンシュタインの弾くポロネーズを、寝る前に部屋を真っ暗にして、ステレオで、大音量でかけて毎晩寝てた」といい、思わず「ホントに?」と思いました。
いくつの頃の話か知らないけれど、毎晩?寝る時間に大音量?針は自分で上る方式だったの?ステレオは朝まで電源入りっぱなしだったの?などといくらでもつっこみを入れたくなります。

もちろんルビンシュタインもミケランジェリも大変なピアノの巨匠であることに異論はないけれど、いやしくもピアニストを生業として、この世界に長年首を突っ込んでやっている以上、もうすこし専門的な内容が欲しかったのです。
より正確にいうなら、ルビンシュタインでもミケランジェリでもいいのだけれど、なるほどと納得させられるようなピアニストならではの理由や根拠があっていい気がして、ただのアマチュアのような言いっぷりに驚いたのかもしれません。

そのうち、女性ピアニストが超有名曲をへんな調子で弾き、なんでその曲をそのタイミングで弾くのかもわからなかったし、またちょっとおしゃべりになり、続いて男性ピアニストがラヴェルを彈かれました(センスの良い演奏だとは思いました)。

このあと、スタジオセットの中に置かれたピアノ(ハンブルクスタインウェイD)が画面上は何の前触れもなくすり替えられ、一見したところさっきのに比べてずいぶんくたびれた感じのニューヨークのDに変わっていました。

ホロヴィッツが使ったという有名な楽器で、ああそのためにホロヴィッツの名前を出して後半に繋いだのかという見え見えの流れです。
二人のピアニストも嬉しそうに触ってみましたが、印象はもっぱらキーが軽いということばかりで、音色や響きに関するコメントは何ひとつありませんでした。
それどころか、女性のほうは、このピアノなら「なんかパリパリ弾くのすごい簡単に弾けそう」「かーるいかるい、どんな難しいのもフルフルフルって行けそう」「車で言ったら改造車ですよね」と、ホロヴィッツの演奏には楽器のほうにも特種な秘密があった…とも取れるコメントには少々驚きました。

最後に、ホロヴィッツがアンコールでよく弾いたシューマンのトロイメライを、女性ピアニストのほうが弾きました。お顔は恍惚の表情でしたが、ただ音符を弾いただけでした。
まさかこのピアノも、後年日本に連れて行かれてこんな使われ方をするとは思ってもみなかったのではと思うと、なんとなくその年をとった枯れた感じのシャープな姿の中に、ひとひらの哀れを感じてしまいました。
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これも権力

いま話題騒然のお隣の国の大統領の親友やとりまき達が、権力を私的に乱用したスキャンダルが連日ニュースやワイドショーを賑わせていますが、ふとピアノの業界にも権力の乱用はあることを思い出しました。

業界のある方から聞いたおかしな話です。

ひょんなことからピアノ教師の話になり、某地域の重鎮といわれるような有名な先生がおられて、その先生のピアノの修理(具体的な内容は控えます)を依頼されたときのこと。
その修理をするには、パーツの代金と手間賃がこれこれしかじかという事を伝えると、なんとその重鎮の先生は、あからまさに豆鉄砲をくったような変な表情をされたというのです。

それはこうです。事前に修理代を告げられたということは、この作業がサービスではないということを意味したわけで、それがこの先生の甚だ身勝手なプライドが傷つけられたというのですから、もう笑うに笑えない話です。

当人にしてみれば、ちょっとばかり名の知れた教師であるから、自分と懇意にすることはいろいろメリットもある筈ということなのか、その先生所有のピアノに関することは無料サービスが当然のはず…という感覚になっているのだと思われます。

この手の先生たちにとって良い調律師さんというのは、調律の腕は普通でいいから、それよりは先生サイドに都合のいいように何かと便宜を図ってくれて、腰が低く、まるで秘書か召使いのように気を利かせて動きまわってくれる、コマネズミのような人なんでしょう。
調律を口実に、プラスしてその他の雑用をどれだけ忖度して、しかも「タダで提供」してくれるかがポイント。

コンサートや発表会ともなると、楽器店の営業の人などは当然のように動員され、あらゆる雑用、果てはお客さんの整理誘導から駐車場の係り、どうかすると司会などまでやらされている調律師さんもあるわけで、それはつまり、調律以外はお金の取れないお手伝いに一日を費やすことになるわけで、これほど相手をバカにした話もありません。

そして上記のように技術者として規定の料金を請求することさえまかりならず、それを自ら察しない調律師には以降お声はかからなくなるという理不尽かつばかばかしい世界。
その方はかなりの腕を持った調律師さんなのですが、そんなことはその先生にしてみればどうでもいいことで、もっぱら自分を特別待遇にしなかったことが何にもまして許せないのでしょう。

調律師でも、ピアニストでも、あるいは教師でも、プロなのであれば、その本分における能力とか結果によって評価されるのが本来であるのに、これでは力関係に付け込んだ「たかりの構造」が体質化している言わざるをえません。
程度の差こそあれ、上下左右、まわりの先生がみなやっているから、自分もそういうもんだと思い込んでいる先生もおられるとは思いますが、少しは自分の頭でものを考え、良識に基づいて判断してほしいものです。
まさにゴミみたいな権力の濫用で、見るたび聞くたびとても嫌な気分に襲われます。

現代では、最もコストが高いとされるのが人件費です。
それを、先生やピアニストを名乗るだけで、事実上お金を出すのは年に数回の調律代ぐらい。生徒や知人の紹介を匂わせて人をタダでこき使うのが常態化するのは、大手スーパーなどがメーカーの社員を出向させ、店頭で販売行為などをさせて自前の店員数を減らすような悪辣な行為だということを肝に銘じるべきでしょう。

企業レベルまでいけば、発覚すれば法的処罰や行政指導の対象にもなりますが、たかだかピアノの先生ではそんな社会的制裁を受けることもないでしょうから、ある意味この業界特有の、治る見込みの無い慢性病みたいなものかもしれません。
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目覚めの変化

先日、知人でニューヨークスタインウェイをお持ちの方のお宅へ、ピアノ好きの方と連れ立って遊びに行きました。

ここのピアノに触らせていただくのは久ぶりですが、その太い鳴りや味わいに感心するばかり。
音にも色気みたいなものが加わって、音楽に理解あるオーナーのもとにあるピアノは、ふれるたびに色艶が増していくようで、逆の場合は楽器が少しずつ荒れていく感じがします。
そういう意味では楽器を活かすも殺すも、やはりオーナー次第ということになるようです。

日々大切にするのも、良い設置環境を作って維持するのも、優秀な技術者を呼ぶのも、すべてはオーナーの意志で決まることですから、やはりそこは大きいというか、すべてです。

よく鳴るニューヨークには、独特の生命感があり楽器が直に語りかけてくれるような温かさを感じます。
このピアノ、以前であれが30分も弾いていると、ボディの木や金属が振動に馴れるのか、明らかに鳴ってきて驚きと興奮を覚えたものですが、今回はその変化に至る時間が短縮され、ものの15分もすると早くも鳴り方が変わってきました。
もちろん、より朗々と鳴ってくるわけで、この反応そのものがすごいと思いました。
まるで寝起きの身体が、だんだんと本来の活気を帯び、血が巡り、体温が上がってくるようです。

ハンブルクでここまで明確に変わるというのはあまり知らないので、アメリカ製とドイツ製の作りの違いや使われる材料の違いによるものかもしれませんが、確かなことは素人にはわかりません。
ただ一点わかる違いは塗装。

1980年代ぐらいまでのハンブルクは黒の艶消し塗装が標準でしたが、それ以降はすべて艶出し塗装となりました。
この艶出し塗装というのがかなり分厚い塗装で、いつだったかエッジ部分が何かにぶつかって塗装が欠けているピアノを見たことがありますが、その塗膜のぶ厚さに驚いた記憶があります。
まるで固いプラスチックでピアノ全体がコーティングされているようで、これでは本来の響きを大いに阻害するだろうと思ったものです。

その点、艶消しのほうが塗装がまだ柔らかだったような印象があるし、さらにニューヨークのそれはむしろ薄さにもこだわっていると聞きます。表面はヘアライン仕上げという繊細かつ節度ある半光沢をもつ処理で、この塗装は見た目は繊細で美しいけれど、傷がつきやすく、部分修復がしにくいという扱いづらさがあり、実際アメリカのホールなどでは、全身キズキズの斬られの与三郎みたいなピアノがめずらしくありません。

でも、それさえ気にしなければ、そのぶんボディの響きなどをよく伝える特性があるようで、好ましい個体では音の伸びがよく、明るく軽やかなトーンが湧き出るようです。

それと今回も実感したことは、すでに何度も書いたことですが、スタインウェイは弾いている本人より、離れて聴いてみるとまるで別のピアノのように音がたっぷりとした美しさで耳に届くのが圧倒的で、やっぱりまたそこに感嘆させられました。

その点、日本のピアノでは、離れてもとくに変化しないならいいほうで、むしろ高級仕様と謳われるモデルの中には、弾いているぶんには尤もらしく取り澄ましたような音が出ているのに、ちょっと距離を置くと、えっ?というほど安っぽい下品な音であることにびっくりすることが…よくあります。

これなどは、まさに弾いている本人だけ気持ちよければいい系のピアノで、スタインウェイとは真逆のピアノだといえるでしょう。ならば自宅で楽しむぶんにはこちらのほうが向いているという理屈も成り立ちそうですが、やはり楽器たるものそれではなにか大事なものが間違っている気がします。
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苦難の道

青柳いづみこ氏の新著、『ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』を読みました。

想像以上に厳しいコンクールの世界、しかるにその覇者といえる人達のこれといってさほどの魅力もない演奏を聴くと、なんだか複雑な気分になるというか、要するにコンクールというのは、つまるところなにかの戦いの場であって、真の音楽家(いろんな意味があるけれど)を発見発掘する場ではないということがはっきりわかりました。

それでも、よほど桁違いの天才とかでない限り、コンクールという手段をもって世の中にデビューせざるを得ない若いピアニストたちが気の毒でもあるし、こういうことを書いたらいけないのかもしれないけれど、ピアノを弾くことを職業になんてするものじゃないということを、嫌でも悟らされる一冊でした。

青柳さんが直接そういうことを書いておられるわけではもちろんないけれど、読んでいてそういうことを最も強く感じたというわけです。
先進国では、昔に比べてピアニストを志す若者が激減していると言われて久しいですが、これは端的に言って、市場原理の前では当然のことなのだろうと思います。

現代は教育システムが進歩充実することで、技術的訓練は科学的かつ合理化が進み「弾ける」レベルの偏差値は上がっているようですが、同時に眩しいようなオーラを放つようなスター級のピアニストというのは存在しなくなりました。
平均が上がって、逆に超弩級の人がいなくなったということですね。

昔はコンクールで「ツーリスト」といわれたらしい、まるきりコンクールのレベルに達していない人が観光客気分(実際そうかどうかは別として)で出場するような「弾けていない」人がいたと聞きますが、そういう手合はほとんどなく(というか事前審査で紛れ込む余地が無いようになっている)、とりわけショパンやチャイコフスキーのような国際的な大舞台でのコンクールになると、その実力は大半が拮抗しているとありました。

解釈の問題、審査員の主観、コンクールの傾向など、本人にもわからないような僅かな差によって、次のラウンドに進めたり進めなかったり、コンクール毎に顔ぶれは入れ替わる由で、ほとんど理不尽に近い世界だとも感じます。

あるていど予測していたことではあったけれど、こうしてあちこちのコンクールに足を運び取材した人が、著書に記述されているのをみると、なんだかもう単純にウンザリしてしまいました。

何事においてもそうだけれども、時の経過とレヴェルアップによって、創設時の目的や精神が置き去りにされたというか、かけ離れた現状となってしまうのは、いたしかたのないことなのかもしれません。

ショパンコンクールに関しても、申し込みをしてコンクールを受けるには、まず書類とDVD審査、春にワルシャワ行われる予備予選、秋の本選は第一次予選、第二次予選、第三次予選、グランドファイナルと、これだけを見ても6つの厳しい選考をくぐり抜けていかなくてはならないようで、それがまた想像以上の難関であることが記述から伝わります。

しかも、DVD審査といっても、ただホームビデオかなにかで撮ったものでいいのかと思いきや、その映像・音質のクオリティによって当落が大きく左右されるというので、中にはそのためにホールを借り切り、専門家を呼んで収録してもらう人もいるとかで、その費用も自費で賄わなくてはならないとは、出だしからもうぐったり疲れてしまいます。
幼少期から練習に明け暮れ、音大を経て、世界的なコンクールに出場しようかとなるところまで到達するのさえ並大抵のことではないのに、そのための準備、練習、無数のレッスン、費用、そしてコンクールに出るためのDVD作りひとつにもこれだけの労力が必要とは、考えただけでも頭がクラクラしそうでした。

さらにコンテスタント(コンクールを受ける人)や教師は、常に新しい解釈や傾向を採り入れながら、受かるための訓練を続けていくだけでなく、海外へあちこち遠征し、審査員への顔つなぎや自分の演奏アピールなどまでやっているというのですから、「なにそれ?」というのが率直なところです。

じっさいのステージアーティストになる人達は、若い頃から、こういう世俗的な努力も一切怠ることなく、それでいて演奏の腕も磨き、レパートリーも増やし、コンクールに出て、それでも大半は努力に見合った結果は得られないほうが多いのだから、やるせないものだと思います。

「どんな世界でも五十歩百歩」という人もあるかもしれませんし、実際そうかもしれません。
しかし、マロニエ君の夢か妄想かもしれないけれど、楽器を弾く人はもう少しきちんと才能を見極められるチャンスがあって、その実力で正当に評価される世の中であって欲しいと、やはり思ってしまいます。
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ふたつのマツーエフ

BSプレミアムシアターで、今年だったか、インドのムンバイで行なわれた「メータ、80才記念コンサート」みたいなものが放映されました。もう消去してしまったので、タイトルも曲目も正確でないこともありますが、こうもり序曲、ブラームスの二重協奏曲、そして最後はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノは、デニス・マツーエフ。
オーケストラはイスラエル・フィル。

チャイコフスキーは、どう表現したらいいか困ってしまうほどの「爆演」でした。
マツーエフは見た目からしてピアニストというより、何かの格闘家か、重量挙げなど力自慢の選手のようですが、この日のピアノはまったくその風貌にピッタリというか、まるでゴジラがピアノを弾いているような演奏でした。

良い悪いは別にして、ピアノって、あれほどの怪力で叩きのめすことができるものかと思ったし、あまりの暴力的な打鍵に耐えかねて、開始早々中音域の幾つかが、たちまち狂ってしまい、あからさまなうなり音を発していたほどです。
しかも曲が曲なので、叩きつけようと思えば叩きつける場所には事欠きません。

指から手の甲にかけてもじゃもじゃした赤い毛に覆われた猛獣のような手が、情け容赦なくスタインウェイの鍵盤を叩きまくり、ピアノはその度にぶるぶるとボディが揺れていました。

キレイ事を言うつもりは毛頭ないけれど、ピアノが好きで、美しい音楽を愛する者の端くれであるつもりのマロニエ君としては、とてもではないけれどずっと続けて見ることはできませんでした。
とにかく派手に見せるための、力まかせの演奏というものが生理的に受け付けられないし、あのロシア人の巨体から繰り出される暴力的な強打を見ていると、もはやピアノが虐待を受けているようにしか見えませんでした。

早送りに次ぐ早送りで、終楽章のフィナーレを見てみると、このころには頭を一振りするごとに、無数の汗がプロレスの試合みたいにバンバン飛び散って、それは格闘技のリングに近いものでした。
本心から、このままではピアノが壊れるのではないかとハラハラしました。

その数日後のこと、Eテレの「クラシック音楽館」のたまっている録画を見てみると、N響定期公演からヤルヴィの指揮で、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番というのがあり、そのソリストがなんとまたデニス・マツーエフとなっているのは我が目を疑いました。
うわー、これはたまらん!と思いましたが、日本でもあんな演奏をするのかと思い恐る恐る見てみると、メータとのチャイコフスキーと比較すると、一転してほとんど別人とでも言いたくなるような真面目な演奏で、同じピアニストが場所によってこんなに違うものかと、なによりまずそのことにびっくり仰天でした。

もちろんマツーエフが持っている資質はチラホラあるけれど、少なくともプロコフィエフの2番という屈指の難曲を立派に弾こうという真摯な姿勢の見えるしっかりした演奏だったのは、チャイコフスキーとは大違いでした。

おそらくメータの80才記念コンサートでは、お祭り的な要素が多かったことと、開催地もインドであったので、仕向地による違いだったと思われ、事前にそのような打ち合わせや要望も汲んでのことであったのだろうとは想像されますが、それにしても野獣がピアノを壊す気で弾いているかのようなあの光景は、やはりインパクトが強すぎました。

それでもチャイコフスキーでは割れんばかりの拍手で、アンコールではマツーエフによる即興みたいなものが弾かれましたが、これもハデハデで、最後はピアノがぐわんと動いてしまうほどの怪力で締めくくられ、インドの聴衆は大ウケの様子だったので、やはり国や地域によって西洋音楽に対して求めるものが違うのかもしれません。

もし日本であんな演奏をしたら、さすがに受け容れられないだろうと思うと、これでも日本は西洋音楽の歴史が「ある」ほうに入るのかもしれないなぁと思われ、なんだか妙な気分でした。
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先生の趣味?

『題名のない音楽会』で反田恭平がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を演奏しました。

以前も書いたように、来月にはイタリアでレコーディングした同曲のCDが発売されるというタイミングでもあり、反田氏にとっていま最も力を入れ弾き込んだ1曲だろうと思います。

大いに期待して聴きましたが、しっかりとした見事な演奏ではあったけれど、どこか以前のような、精緻な演奏の奥底に光る本能的な生々しさが減って、より注意深く多くを語ろうと意識して、慎重に弾いている感じを受けました。

演奏中、反田氏はモスクワ音楽院でこの曲を、ラフマニノフの得意とする先生から猛特訓を受けたというような字幕が出ましたが、先日の『情熱大陸』では、ヴォスクレセンスキー教授にこの曲のレッスンを受けているシーンがあったので、それが彼のことなのか、あるいはまた別の先生なのか、そのあたりのことはよくわかりませんが、要するにかなり人の意見の入った演奏であるようにマロニエ君の耳には聴こえたことは事実でした。

パーツパーツで聴いてみると、たしかによく練られていているなとは思うけれど、反田氏の最大の魅力であるはずの作品を一刀両断にする鮮烈さや、内側から滲み出る熱いパッションがやや細くなり、少し普通のピアニスト風に、効果を周到に寄せてきたように感じてしまった点は甚だ残念でした。

反田氏にアドバイスしたのが誰であるかはどうでもいいけれど、アドバイスという範囲を超えて、演奏者の個性より指導者の音楽的趣味が前に出すぎているとしたら、それは指導というより干渉ではないかと思うし、聴いていて、他者による注文を盛り込めるだけ盛り込んだような窮屈さを感じました。

一過性の音楽に、あまりに多くを語ろうとすると、細かな聴きどころは増えるかもしれませんが、推進力や燃焼感が薄れるのは考えものです。

反田氏が本心から、ああいう演奏をしたかったのだとはマロニエ君は思えなかったし、その点ではあれは彼の本音の演奏ではないだろうと勝手に受け取りました。
マロニエ君としては、この先、彼がそのあたりの制限から本当に開放された時、さて本物の芸術的な演奏がそこにあらわれるか、あるいはただの恣意的な独りよがりな表現に留まるのか、そこは今後も注視していきたいところです。

ピアノはイタリアでの同曲のレコーディングのときのように古いピアノが使われることも、あるいは反田氏が東京でしばしば弾いているホロヴィッツのピアノでもなく、会場備え付けの普通のスタインウェイだったことはすこし残念でしたが、まあそのあたりはいろいろな事情も絡んでいるでしょうから、そういつも思い通りにはできないでしょう。

それにしても、反田氏のやや大きくて伸びやかな手は見ているだけでも魅力的です。
とくに左サイドのカメラがとらえた左手はことのほか美しいもので、この手を見ただけで、反田氏がピアノを弾くことは運命づけられていたことだということを諒解せずにはいられません。
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最近の番組から

最近テレビでみたもの。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響定期公演から、パーヴォの盟友とされるピアニストのラルス・フォークトのソリストによるモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。
何度も書いているように、マロニエ君はこのラルス・フォークトのピアノは好みではなく、残念ながら彼の魅力がなんなのかわからないし、パーヴォ・ヤルヴィほどの指揮者がなぜ彼をそこまで高く買ってしばしば登用するのかもわかりません。
とくにモーツァルトのピアノ協奏曲第27番といえば、KV595という番号からもわかるように、彼の最晩年の傑作の一つで、最後のピアノ協奏曲であって、これはそれ以前の作品を演奏するよりも、一層の繊細さと思慮深さが要求される作品でしょう。

モーツァルトは最も人間味にあふれる作曲家であるにもかかわらず、その演奏は、まるで天上から降り注いでくるような、美しさとに繊細さに満ちていなくてはならないと思うという点で、一音一音の変化に敏感でない、汗臭い、労働的な演奏は(とりわけ晩年の透明な世界には)ふさわしくありません。

ラルス・フォークトはどうみても繊細な感性や磨きこまれた音で聴かせるピアノではないし、どちらかというといかつい表情付けなどで押し切るタイプ。
果たしてどうなるのかと思っていたら、予想よりはいくらかおとなしく丁寧に弾いていたようで、覚悟していたほどではなかったのはひとまず胸をなでおろしました。

最近いやなのは、番組制作側の意図なのだとは思うけれど、演奏者にあれこれと大した意味もないようなことを喋らせることで、その点ではヤルヴィも毎回しゃべっているし、ラルス・フォークトもしゃべらされているものとも思いますが、どうもこの手は空虚な感じがあって、話の内容と演奏とがあまり結びつかないことが少なくないように感じます。

マロニエ君の場合はいつも録画で見ているので、それなら早送りすればいいのですが、いちおうどんなことをしゃべるのかとつい聞いてしまうふがいない自分にも嫌になります。それを聞いて、演奏を聴いて、その結果あれこれと不平不満をのべるのですから、我ながらご苦労なことですが。


辻井伸行が、オルフェウス室内管弦楽団とセントラルパークの野外コンサートに出演する2時間のドキュメント。

例によって、辻井さんはくったくのないテンションでコンサート以外でも、訪問地のあちこちを訪ね歩きますが、世界中のどこに行っても、そこにピアノがあるかぎり必ず弾くのがこの方のスタイルのようで、それは今回のニューヨークでも例外ではありませんでした。

まあ視聴者もそれを期待しているのですから基本的にはありがたいことだと捉えるべきですが、生まれて初めてのジャズバー体験として、本場のジャズを聴きに行っても、途中から参加という趣向で、やはりここでも演奏に加わりました。
マロニエ君には想像もつかない大変な度胸ですが、それがあってこそコンサートピアニストというものはやっていけるものかもしれません。ここでは珍しいことに(アメリカならではというべきか)ボールドウィンのグランドが使われていました。

それ以外にも、ニューヨーク在住の日本人タップダンサーのスタジオを訪ねました。
お名前は忘れましたが、この世界ではずいぶん有名な方だということでした。
勧められるとなんにでも興味を示す辻井さんは、すぐにタップダンスにも挑戦したあと、今度は傍らにあるピアノを弾き、それに合わせてこのダンサーが即興でタップをつけていくということで、ピアノとタップダンスのコラボとなりました。

ところが、曲は展覧会の絵からラ・カンパネラになり、ダンサーはピアノが鳴っている間中、見ている方が心配になるほど激しいタップを続けますが、途中から引っ込みがつかなくなっているようでもあり、曲が終わらないと止められないようでもあり、これは見ていて少し辛くなってしまいました。

弾き終わった辻井さんも、着ていた黒いシャツが汗でべっとりと濡れしてしまうほどで、これまさに二人によるスポーツで、要するに何だったのか…まるで意味の分からないまま終了。

番組ではオルフェウス室内管弦楽団とのリハーサル、セントラルパークでの本番、ともに地産品?でもあるニューヨーク・スタインウェイが使われましたが、2台とも新しめのピアノであるにもかかわらず、リハーサルのピアノはまるで鼻が詰まったような音で、いまだにこういうピアノがあるのかと思った反面、本番でのピアノは黒の艶出し仕上げの、より輪郭のある音のするピアノでした。

ニューヨーク・スタインウェイには巷間言われるような個体差やムラがやはりあるようで、調整の余地も大きいというのが納得できました。使われて、調整を繰り返しながら、時間をかけて整っていくピアノだということなのでしょう。
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弾く喜び

先日、某所でのリサイタルを終えられたばかりのあるピアニストの方が来宅されました。

しばらく雑談などが続きましたが、せっかくの機会であるし、少し前に我が家のピアノも過日保守点検メニューも済ませていることでもあり、ちょっと弾いていただきました。

今回の調整は音色の面でとても上手くいっていて、現在はかなりご機嫌な状態だと思うのですが、ピアノは弾く当人にとってはピアノとの距離が近すぎて、本当の音色を聴くことがきないのは残念な点です。
とくにスタインウェイのような遠鳴りを特徴とするピアノでは、至近距離ではむしろある種の雑音のほうが目立ったりということもあるくらいですが、ピアノから数メートル離れただけで、まったく別のピアノではないかと思うほど見事に収束した美しい音が聴こえることはこれまでにも経験済みです。

自分が弾いている限り、そのピアノの一番いい音を聴けないというのは皮肉なことで、少し離れた場所から、しかもピアニストの演奏を聴けるとなれば一石二鳥というわけです。
バッハからショパン、ムソルグスキーまでいろいろと弾いてもらいましたが、演奏はもちろんですが、ピアノが自分で言うのもなんですが予想以上に素晴らしい音でつい聴き入ってしまいました。
その音は、演奏者はもちろんですが、技術者の方にもあらためて感謝の念を抱かずにはいられないものでした。

つくづくと思うことは、ピアノも弦楽器のようにタッチによって音を作ってこそ、音の真価が出てくるというごく当たり前のこと。
「ピアノは猫がのっても音が出る」などといわれますが、むろんそれで良い音が出るはずもなく、素人でも本能的に音を作ろうとする人と、そういうことにはまったく無頓着に音符を追うだけの人がいます。

話し方でも訓練された発声で澄んだ聞き取りやすい声で話すのと、ベタッとした地声で話すのとでは雲泥の差があるように、いい音を鳴らすというのは、それ自体がすでに音楽的行為だと思います。

とくに名器と言われるピアノになればなるだけ、タッチによる音色やニュアンスの差がはっきりと音にあらわれ、日本製のピアノのほうがその点はまだいくらか寛容かもしれません。さらに電子ピアノになると、タッチによる汚い音というのがまったく存在しないので、その点ではやはりアコースティックピアノは奥が深いと思います。

弾いてくださったピアニストはとくにタッチや音にも配慮の行き届いた演奏をされるので、この点でもいうことなしで、ついステージで聴いているような錯覚を覚えました。

さて、マロニエ君はこのピアニストによる先日のリサイタルのアンコールと、東京でのライブCDの最後に収録された、ヴィルヘルム・ケンプ編曲によるバッハのコラールにすっかり魅せられてしまい、この10日ほどこれの練習に取り組んでいます。

僅か2ページほどの作品ですが、編曲ものというのはオリジナルとはまた違った難しさがあり、広く音の飛ぶ内声を左右どっちの指でとったらいいのかなど、わからないことも満載。
おまけにもともとの下手くそや、なかなか暗譜ができないなど、たったこれだけの曲をさらうのに、なんでこうも難渋しなくちゃいけないのかと思うと、さすがに情けなくなります。
もういいかげん暗譜してもよさそうなものが歳を重ねるほど難しく、さらに編曲作品特有の弾きにくさも追い打ちをかけて、ばかみたいに同じ所で間違えたりと、つくづく自分が嫌になります。

それでも今度ばかりは曲の魅力に抗しきれず、普通なら一日で放り出してしまうところを、めずらしく踏ん張っています。踏ん張ればそのぶんどうかなるのかといえば、そうとばかりも言えない気もするけれど、やめれば弾けないのははっきりしているので、もう少しがんばってみるつもりです。

いい演奏というだけなら、お気に入りのCDを鳴らせば済む話ですが、やはり苦労してでも自分の手からその音楽を紡ぎだすというのは格別で、自分の気持ちや指の動き一つでそのつど音楽に表情が宿ったり失敗したりと、これこそがささやかでも弾く喜びなのだと痛感します。
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眩しい才能

先日の『情熱大陸』では新進ピアニストの反田恭平が採り上げられました。
いつも見る番組ではないのに、新聞のテレビ欄を眺めていると「ピアニスト」「反田恭平」という文字が運良く目にとまり、録画しておいたものです。

反田氏はマロニエ君もそれなりに注目しているピアニストで、以前このブログにも書いたことがありますが、なによりその逞しいテクニックと直感、びくびくしない弾きっぷりが特徴だと思います。

ピアニストとしてのアスリート的な部分も大きな魅力で、ユジャ・ワンと同系統といえるかもしれません。
番組では、反田氏は自らを「サムライ」と称し、だから長い髪を武士の惣髪に重ねているのかとも思いつつ、番組を見ながらこれまでのピアニストとは少しばかり様子のちがう、良い意味での孤独性さえ感じました。

有名なヴォスクレセンスキー教授が来日の折に反田氏の演奏を聴き、その勧めによってモスクワ音楽院に留学して2年が経つようでした。
ところが父親の猛反対もあったらしく、この2年間は奨学金生としてモスクワで学んでいるといい、その奨学金支給も今月で終わり、来月からは「実費」というシーンがあり、反田氏としては早く自立したいという考えを抱いているようでした。

帰国しても、明るく歓迎する母親とは対照的に、ピアノに反対している父とはほとんど会話もありません。

多くのピアノ学習者と違って、反田氏はまわりの誰でもない、自分がピアノを弾いて世に立っていきたいという強い情熱があり、この父との対立も彼の前に立ちはだかる大きな障害のようにも見えます。
結局、彼はモスクワ音楽院で学び続けることを断念し、そのぶんより挑戦的にピアニストとしての活動を強めていく覚悟を決めているように見えました。

恋愛でも、むかしは本物の大恋愛が存在したのは、現代では考えられないような困難が幾重にも存在したからで、そういう壁を打破し乗り越えようとするときに、人間は尋常ならざる力が湧き上がってくるのではないかと思います。
その点では、周囲から褒められ良好な環境をいくらでも与えられる人より、反田氏のようなある意味逆境にいる人のほうが、よじ登っていこうとする精神的な強みがあり、大成できる可能性も高いと感じました。
むろん相応の才能があっての話ではありますが。

この番組の中で、ひときわマロニエ君が注目し、納得したシーンがありました。
イタリアのホールでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をレコーディングすべく、会場に現われた反田氏は、ステージに据えられた新しいスタインウェイを触るなり、これが気に入らないようでした。
「ピアノが寝ている」「きれいすぎる」といい、舞台の裏部屋のようなところにある古くて誰も弾かなくなったというスタインウェイを弾いてみて、こちらを所望しました。

1970年代のピアノで、もうだれも弾くことはないとばかりに奥まったところに置かれていましたが、何人ものスタッフによってステージへと押し出され、ステージで弾いてみてこのピアノを使うことを迷いなく決定。
なぜこちらのピアノを選んだのかという質問に、「直感」と短く答えたあと「こっちのピアノのほうが自分の引出しをいろいろ使えそうだから」というようなことを言っていました。

テレビのスピーカー越しにも、こちらのピアノのほうが音にばらつきがあり、伸びがなかったり、悪く言うとくたびれた感があるものの、新しいピアノにはない渋い味わいがあるようです。
おそらくこのピアノの欠点については反田氏は自分の演奏によってカバーできるという自信があったのでしょうし、それよりも一番大事なことは何かということを見誤らない、お若いのにずいぶんもののわかった青年じゃないかと思いました。

前述の奨学金のことなどもあり、ここで独り立ちしたい反田氏にとっては、この録音はとりわけ勝負をかけるものだったに違いありません。
そこで弾くピアノが、どのキーをどんなふうに弾いても「パァーン」と小奇麗な音が出るだけの新しいピアノでは、自分の思い描くような勝負はできないと直感的に感じたのかもしれません。

日本では、ホロヴィッツが弾いていたという古いスタインウェイをコンサートやレコーディングにも使った経験がある反田氏なので、楽器に対する感性も鍛えられ、それらの経験も見事に生かされているのだろうと思いました。

ピアニストはつべこべいわず、会場にあるピアノに即応して弾かなくてはならないという宿命を負っていますが、誰も彼もがおろしたてのような新しいスタインウェイこそがベストだと思い込んでいるような現状には日頃から疑問を感じます。
楽器に対してなんという無定見かと嘆きにも似た気分でしたので、反田氏のこの反応と選択には見ているこちらまで溜飲の下がる思いでした。

モスクワでの師匠であるヴォスクレセンスキー教授がさすがだと思ったのは、「彼には爆発的な気質がある」などと高く認めながらも「でも、単調なテンポの曲を表現するのはまだまだだね」と評した点で、マロニエ君もいつだったかNHKの番組で反田氏の雨だれを聴いたときは、まさに「まだまだ」だと思いました。
しかし、久々にこれからが楽しみになるような眩しい才能が日本から出たことを嬉しく思います。
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ハルラー

先日、知人ととりとめもない雑談をしている中で、たまたま作家の話になり、「…村上春樹とか読まれますか?」とやや慎重な調子で質問されました。

こんなとき、普通なら相手の反応を見ながら徐々に答えを探るものかもしれませんが、「いいえ、まったく!」とむしろキッパリと答えてしまいました。
マロニエ君は村上氏の著作は一冊も持っていませんし、数年前、かなり話題になったときに本屋で30分ぐらい立ち読みしてみて、まったく自分の求める世界でなかったし、いらい手にしたこともなかったからです。

するとその方は「ああよかった、私も読まないです。」と言い、さらに「むしろあの人の作品を好きな人も苦手です。」ということで、どうやらそのあたりが一致しているらしいことに、お互いに安堵した感じになりました。

ところが、これに端を発して、話は思いもかけないような方向へと向かって行きました。
会話調は面倒臭いので省略しますが、主に以下のようなものでした。

村上春樹氏の熱心なファンは「ハルラー」と呼ばれ、さらにその中の、若い世代の中には、いまさらスターバックスが大好きだったりする人達がいるようですが、これだけではなんのことだかさっぱりわかりませんよね。

その人達はコーヒーといえばスターバックスで、それはシアトルズコーヒーでもタリーズでもダメなんだそうで、スタバを一種のブランドとして捉えているのかもしれません。

知人曰く、スタバの客層の中には「ハルラー」もしくは、そのご同類が確実に存在するようで、ときに医大生や若い医療関係者である率がかなり高く、スタバをいうなれば自己アピールの場として利用しているというのです。

ハルラーはスタバの混みあった店内の、あの喧騒の中で、わざと人に聞かせるための語句を混ぜ込んだ会話をし、自分達が医療関係もしくはその他社会的エリートに属する人種であることを周囲にことさらアピールするといいます。
それには小道具も必要で、テーブルの上に置かれるのは医学書などの専門書、難解な哲学書、あるいはビーエムやレクサスなどのキーホルダーをマークが見えるように上を向けて置いたり、ときに指でくるくる回すなどして自己主張を展開するというのです。
俄には信じがたいようですが、持ち物や言動によって自分達はエリートだよという信号を送っているわけでしょうし、じっさいそれで寄ってくる側の人間もいるというのですから驚きです。

世の中にはそんな手合はいるとしても、ごく少数では?と問い返しますが、「とても多いです!」という断固たる自信に満ちた答えが返ってきて、嘘をいうような人ではないだけに衝撃的でした。

その中でも、とりわけ自信がある人達は、外のテラス席に陣取って、思い思いの自己アピールをするのだそうで、彼らの手には最新のアップル製品などと並んで、村上作品が重要な位置を占めているらしいのです。
とりわけ新しいものは価値が高いようで、Macも村上作品も新作発売日にスタバにいけば、そこには必ずと言っていいほどそれを手にした人達がいて、「家に帰る時間が待てずに、今ここで読んでいるところ」という表現になっているのだとか。

そもそも何のためにそんなご苦労なことをやっているのかというと、そういう特別感を醸しだすことで男女の出会いもあれば、自称エリート達はこういう場を使って「お仲間」を探しているのだとか。
もちろん周囲に対する単なる見せつけで楽しんでいる一面もあるのでしょう。
では、何をするための仲間?と思いますが、自分達はケチな一般庶民とは違うのだから、同種で群れたいという意識もあるらしく、お互いに声をかけたいかけられたいという欲望が渦巻いているというのです。

もともとマロニエ君はその手の価値観をもった種族にはひときわ嫌悪感があって、本来なら一歩も近づきたくはありませんが、しかしそこまで突き抜けているのなら怖いもの見たさというか、一見の価値ありというわけで、ちょっと見てみたくもなりました。

とくに繁華街の中にある店舗ではそれが甚だしいようで、実はマロニエ君はそこに何度も行ったことがあるのに、一向にそんな気配には気づかず、ただ馬鹿正直に紙コップ入りの熱いコーヒーを飲むばかりで終わっていました。何たる不覚。
自称ヤジウマとしては、機会があればぜひそのあたりを観察してみたいと楽しみにしています。
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モスクワ音楽院

新聞のテレビ欄を見ていると、ふと「~モスクワ」という文字が目に止まりました。

『世界ふれあい街歩き』という番組で、モスクワ市街を周遊するものがあって、なんとなく録画しておきました。
行ったことのある人はともかく、普通はモスクワというと目にできる光景は大抵クレムリンや赤の広場などで、それ以外の街の様子がどうなっているか知らないし、ほとんど見たことがない。

最近は、動画サイトで車載カメラによる衝突映像などからロシアの一般的な風景も昔より目にするチャンスが増えましたが、それらはいずれもロシアならではのいかにも荒っぽい事故やトラックが衝突横転する様子などで、こちらもついそれにばかり気を取られつつ、全体的な印象としてはまあとにかくどこもかしこもやたら広くて、こう言ってはなんですが街中でもあまりきれいとは言いかねる荒涼とした風景が広がっているという印象です。

それでも、モスクワはなにしろあの大国ロシアの首都であるし、NHKのカメラがきちんと撮影したらいったいどういう街なのか、素朴な興味がありました。

果たして、ソ連が崩壊して四半世紀が経ったモスクワの町並みというのは、昔を知っているわけではないけれど、その頃からあまり変わっていないように見えたし、かなり地味で寂しげな街という印象で、そういう意味では少々驚きました。
改革開放以来のすさまじい発展を繰り返す中国の都市とは、まるきり対照的。

おもしろかったのは、マロニエ君にとってはやはり音楽関連で、なんとモスクワ音楽院がでてきたシーンでした。

道端の公園のようなところにチャイコフスキーの銅像があり、その下のベンチで4人の若い男女がしゃべっています。
カメラが近づいて声がけすると、彼らは傍らにある音楽院の生徒で、ピアノの練習をするため、教室が空くのを待っているところだといいます。

番組も彼らについていくことになり、威厳ある建物の、しかしずいぶんと小さなドアから中に入ると石造りの階段があって、そこを登って行くと、ずんずんと音楽院の内部へと潜入していきます。

モスクワ音楽院といえばチャイコフスキー・コンクールの本選会場であるばかりでなく、あの有名な大ホールでは、これまでいったいどれだけの名演が繰り広げられ、世界のコンサート史の一端を担っている重要な場所であるかを思うと、さすがにこの時はドキドキしました。

小ホールの入口というところでは、偉大な卒業としてラフマニノフなどの名を刻したプレートがズラリと並んでいたりと、やはりずっしり重い歴史が幾重にも刻まれていることを感じます。
教室に入ってみると、まったくさりげなくポンと新しめのスタインウェイDが置かれていて、ここにはそんな部屋がいくらでもありそうでした。これを生徒は自由に使えるのだそうで、ピアノは2台の部屋も3台の部屋もあるよね…などと軽く言っています。さっきの生徒ひとりがさっそくピアノの前に座り、弾き始めたのはさすがはロシア、バラキレフのイスラメイでした。
ピアノの音は酷使のせいかビラビラでしたが、でもなんかやっぱりすごい。

彼らが言うには、自分だけでは常に客観的に聴けるわけではないから互いに助言を頼むのだそうで、友人の意見が必要とのこと。至極もっともな意見ですがそんな当たり前のことに、ドキッとさせられる記憶が蘇りました。
それは、日本のトップとされる音大を出たピアニストが言っていたことで、(日本の)音大で最も嫌われることは「人の演奏に意見をいうこと」なんだそうで、だからそれは互いにタブーとされているという、とーってもヘンな現実です。さらには自分の好きなピアニストの名さえも言わないようにする(相手がそのピアニストを好きではなかった場合のことを考えて気を遣う)というのですから、その遠慮の度合には呆れてしまいます。

日本人の演奏能力がどれだけ上がっても、彼我の違いはこういう根本的なところにあるのだなあと思わずにはいられない一場面でした。

モスクワ音楽院で個人的には最も驚いたのは、廊下に長大なコンサートグランドが足を外された状態で、無造作に立てかけられたりしていることでした。それも場所によってはサンドイッチみたいに2台重ねてしかも前後にも2列、計4台がまるでただの大きな荷物みたいにゴロゴロ置かれているなど、「うひゃー」な光景でした。

ビデオで録画していたので、繰り返し注意深く見てみると支柱の形状やサウンドベルの位置から、それらはスタインウェイDであることが判明。また別の場所にはブリュートナーのフルコンが同じように立てかけられていたりと、やはりここはとてつもない所だと興味津々で、なんだかわくわくして胸が踊りました。
こんなところ思うさま探検できたら、どんなに楽しいことか…。
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もこもこ音

ユーラ・マルグリスは楽器にもかなり積極的な興味を示すピアニストで、シュタイングレーバーのピアノに弱音器を装着してシューベルトの作品などを入れたCDも出しており、このブログにも書いた記憶があります。

その第二弾ともいうべきCDがあって、そうとは知らず、アルゲリッチとのデュオがあるために購入してみたところ、よくみれば全10曲中、9曲までがマルグリスのソロで、デュオは最後のムソルグスキー:禿山の一夜(マルグリスによる2台ピアノ版)のみというものでした。

本来ならこんなCDの在り方は大いに憤慨するところですが、アルゲリッチは例外なので仕方ありません。
以前マルグリスが別府のアルゲリッチ音楽祭(たぶん第1回)に参加したときにも、この禿山の一夜を二人で演奏していますが、その後この曲のCDらしきものはなく、十数年経ってようやくそれが手に入ったことになります。

ところで、この弱音器付のシュタイングレーバーはシューベルトの時とおそらく同じ仕様で、よく見ればレーベルもシューベルトのときと同じOEHMS。
弦の下で待機する帯状のフェルトが、ピアニストの操作(たぶんペダル)によって打弦点まで移動し、それによりハンマーはフェルト越しに打弦することになるというもの。
かゆい背中を、直に手で掻くのか、服の上から掻くかの違いみたいなものでしょうか。

ライナーノートには、アルゲリッチがこのマルグリスの消音器がもたらす音の効果を賞賛している一文が、直筆のまま掲載されており、おそらく彼女もこのピアノを試してみたことが推察されます。「ピアノの色彩や能力が増した」というような意味のことが書かれているようです。
まあ、なんでもすぐに褒めまくるアルゲリッチのことですから、大いに社交辞令も入っているものと思いますが。

たしかにその効果は明確で、これを使った音はハッとするほどまろやかになり、このような劇的変化はこれまでの弱音ペダルではとても達成し得なかったものであることは間違いありません。
ただ、しかし、その差があまりに大きく、使用時と不使用時の落差が却って気になることも事実。

通常の弱音ペダルではハンマーの弦溝をわずかにずらすことで、伸びの良いやわらかなトーンを出すものですが、このマルグリスが弾くシュタイングレーバーは、それどころではない変化がONとOFFという感じで起こり、マロニエ君の耳にはある種の違和感が残ります。
もちろんチェンバロやオルガンのストップもそうではないかといわれれば、そうなのですが、慣れの問題もあってモダンピアノではこれだけ大きな音色の変化には聴き手の耳がついていけないのかもしれません。

とくにシュタイングレーバーは弾きこまれると、かなり生粋のドイツピアノといった風情でエッジの立った音がするので、そこへいきなりフェルトが差し込まれることで、唐突にこもった音になったようにしか聞こえないのです。

マルグリスのソロではこのシュタイングレーバーが使われますが、最後のアルゲリッチとのデュオではあっさりスタインウェイになっていて、データによると録音はいずれも2014年のルガーノ音楽祭でのもの。
アルゲリッチもそんなに褒めそやすなら自分も弾けばいいのにと思いますが、どこまで本心かもわからないし、アーティストとピアノメーカーの関係、その他諸々の制約や契約上の縛りもあって、事はそう簡単ではないのかもしれませんが。

おそらく会場や録音環境も似ていると思われますが、一枚のCDでシュタイングレーバーからスタインウェイにかわると、思った以上にぜんぜん違った世界が広がります。
シュタイングレーバーは言うまでもなく素晴らしい第一級のピアノですが、生まれもった個性がまったく異なるため、続けて聴いていると喩えは悪いかもしれませんが、まるで田舎から都会に戻ってきたような感覚でした。
スタインウェイはやはり洗練された美しいトーンで、慣れの問題もあるのでしょうが、これが鳴り出すとやっぱりホッとするような気になってしまうのも偽らざるところです。

いつだったか、2台ピアノで違う楽器を使うことでブレンドの面白みがあるというようなことを書きましたが、その点で云うと、いっそシュタイングレーバーとスタインウェイを組み合わせるとどうなるのか、いっそそれで弾いて欲しかった気がします。
きっとかなり面白いものになるような気がします。
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保守点検

今年は年明けからなにかと慌ただしいことが続いて、ピアノの調整もまったくのゼロというわけではなかったものの、ほぼ放置に近い状況が続いてずっと気がかりでもあり、ずるずると引きずる憂鬱の種でもありました。
そうこうするうちに梅雨になり、あれこれの都合もあってさらに延期が続き、このたびようやく本格的な調整の手を入ることができ、やっと大仕事が済んだというところです

今回は思うところあって、はじめての調律師さんにやっていただきました。
これまでお世話になった方々は、むろん言葉では書ききれないほど素晴らしい方ですが、今回は視点を変える意味もあり、この方にお願いしてみようということになりました。

おそらく九州では皆さんよくご存じの方と思われますが、あまりくどくど書くことで差し障りがあってもいけないので、これ以上は止めておきます。
というのも、この業界はきわめて狭い世界なので、どこでどう話が曲がって伝わらないとも限らないし、本来ならばたかだかマロニエ君のピアノ1台を誰がどうしたなどと吹けば飛ぶような些事なのですが、それでもしお世話になった方に要らぬ不快やご迷惑をかけてはいけないと、それだけは常に心がけているところです。
ただ、言い訳のようですが、自分のピアノはあくまでも自分の自由であるわけで、義理や柵に足を取られてその自由を失うことはしたくないという考えがあります。


さて、事前にタッチに関する事など主な内容を相談したところ、スタインウェイのコンサートチューナーということもあり、まずはホールでやっている保守点検にあたることをやってみては…ということで、このなんでもないような当たり前の提案に大いに納得。
というわけで、初回にふさわしく保守点検メニューをお願いすることになりました。

前日の夕方、下見を兼ねて来宅され、1時間ほどピアノ状態を簡単に確認された上で、翌日の本番となりました。

アクションを外し、鍵盤を外し、鍵盤の高さからなにからを規定値に揃えて、さらに各種の調整作業が丸一日続きました。
朝の10時からスタートして、終わったのは夜の8時半だったので、単純計算でも10時間半!
まるでマラソンのようだといいたいけれど、マラソンだって2時間強なので、その4倍というわけです。

午後に遅い昼食をとるため、40分ほどピアノの前を離れられた以外は、ほとんど休憩なしでの連続作業で、あらためてこの仕事の大変さと、技術者の方の忍耐強さに感服しました。
保守点検はほんらい2日で行う作業ですが、それを1日でやろうというわけで、さぞかし大変だったことでしょう。

神経を使う繊細な作業である一方、アクションの載った大きく重い鍵盤を何度も出したり入れたりの繰り返しなどは、かなりの重労働であることも痛感させられます。

終わった時には本当に「お疲れ様でした」という気分です。

これでも本来の項目のうちの9割ぐらいまでしかできなかったとのことで、残りは次回に持ち越しということになりそうですが、ともかくもタッチや音がきれいに整って一安心でした。
とくに音質はきわめて素直な美しさにあふれていて、弾きながら思わず陶然となってしまいます。

こうなると、自分一人がつまらぬ弾き方をしてだんだん乱れていくのがもったいなくて、きれいなものをできるだけ汚したくないといった守りの気分に陥ってしまうのが我ながらダメだなと思います。

マロニエ君は根が貧乏症なのか、車でも内外をバッチリ洗車してしまうと、その状態をすこしでも長く維持したくなり、しばらくはあまり乗らなくなってしまうこともあったりと、却って思い切って使えなくなるところがあります。
そんなに惜しがらずに、良い状態を大いに楽しまなくてはといつも反省するのですが、美しい状態というのに変な執着があって、これを乗り越えるのがなかなか難しいものです。
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決め手なし

しばらく前に、クラシック倶楽部で数回にわたってショパンコンクール・入賞者ガラというのをやっていましたので、視聴してみました。

ショパンコンクールの入賞者であることでコンサートをやっているわけだから、彼らががショパンを弾くのは当たり前としても、ふとピアニストにとって、弾くのが最も怖い作曲家は、昔ならモーツァルト、今はショパンではないかと思いました。

どの人を聴いてもしっとりツボにはまらず、深いところから「ショパンが鳴っている」と思えるものがないのは、いまさら彼らだけでもありません。
ショパンは最もメジャーなピアノレパートリーなので、誰も彼もいちおうは弾くけれど、本当にショパンに触れた気にさせてくれる演奏はというと嫌になるくらい少ないのが現実です。

人から「ショパンの☓☓のCDを買いたいんだけど、誰のがオススメ?」というようなことを聞かれることがときどきありますが、そこそこのものは山のようにあれども、パッとオススメできるものほとんどないというのもまたショパンです。

ずいぶん前に、ケンプのショパンについて書いた覚えがありますが、ああいった謙虚さとか無私な心というものがショパンには必要であるのに、時代はますますそれとは逆の方向に向いているような気がします。
だって、なんにつけても自分々々の時代ですから。

ショパン特有の複雑なのに澄みわたる響きの創出、強すぎず弱すぎずの美的均整のとれたアプローチ、適切かつ印象的なルバートとやり過ぎない洗練、都会的な情の処理、常に怠ることを許容しない詩情と理知のバランス、軽妙な話術のような駆け引きなど、ショパンを弾くにはショパン独特の理解と配慮が要求されると思います。

誤解しないでいただきたいのはケンプのショパンが最高だとは思っていないということ。
ただ、おしなべてドイツ物が得意な人はショパンはわりに苦手で、ブレンデルもわずかにショパンを録音していますが、むかし買ったけれど凄まじい違和感があって二度と聞きませんでしたし、シフも映像でちょっと聴いたことがあったけれど、むしろ彼のキャリアの足しにはならない演奏だった記憶があります。
コロリオフもショパンのCDを少し出しているようですが、聴いてみようという意欲は湧きません。

アルゲリッチもショパンとは相性が悪く、娘の撮った映画ではステージ直前、やけにイライラする彼女に向かって秘書のよう男性が「今日はショパンを引くからさ」というような言葉を投げかけます。

少なくとも、オールマイティなピアニストがプログラムの中に他の作曲家と同列に差し込むといった程度では、とてもではないけれどショパンがその演奏に降りてくるということはない…。

昔から「ショパン弾き」という言葉がありますが、それはちょっと誤解され、軽く扱われたきらいもありますが、一面においてはそれぐらい専門性をもって取り扱わなくてはいけないほど難しい作曲家だと思います。

とくに聴いていられないのは、若手から中堅に至るピアニストの中には技巧と暗譜にものをいわせて、表向きは普通に弾けますよ的な、要点のずれたペラペラな演奏を平然とやっているときです。

今の若い世代は日常生活でもルールだけは素直に守りますが、音楽でも同様のようで、譜面上の表面的ルールはよく守るけれど、なぜそうなったのかという根拠とかいきさつには興味がない。ルールを守ってただクリアなだけの処理に終始し、表情やイントネーションまで借り物のようで、そこそこの仕上がりになっているぶん、かえって全部がウソっぽく聞こえます。

ショパン・コンクールの入奏者たちの演奏を聴いていても、ひとつひとつが悪くはないけれど、なんらかの真実に触れるようなものがないのは、きっと時代のせいなのでしょうね。
それでも敢えて選ぶなら、やや薄味で整い過ぎではあるけれどリシャール=アムランでした。
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追悼番組から

賛否両論あったけれど、中村紘子さんは日本のピアノ界ではともかくも大きな存在感を放つ方でした。

カラヤンや小澤征爾がそうであるように、とくに音楽に興味のない人でも、「中村紘子」という名前は大抵の人が知っている。こういう人は、そうざらにはいるものではありません。
中村さんの場合は日本国内限定ではあるけれど、その有名度は圧倒的で、今後はなかなかこういう人は現れそうにもありません。

近年、深刻なご病気をされたということは聞いていたけれど、先月の下旬、亡くなられたというニュースに接したときは、やはり胸がドキン!とするような衝撃がありました。
中村さんは、ピアノの腕前とか演奏そのものという以前に、とにかく華のある方で、なにかというと世間の注目を集めてしまう、生来のスターの要素を持った人だったと思います。

また彼女は戦後の高度経済成長という時代までも味方につけることができた、非常に恵まれていた方だったとも思います。

つい先日のことでしたが、NHKの追悼番組で『中村紘子さんの残したもの』という90分のドキュメンタリーが放送されましたが、お若いころのチャイコフスキーの協奏曲や英雄ポロネーズ、わずか数年前のサントリーホールでのバッハ、NHKのピアノのおけいこでの指導の様子など、いろいろな映像が紹介されました。

中でも最も興味をもって聴いたのは、中村さんが16歳のとき、N響初の海外公演のソリストとして抜擢され、公演先の一つであるロンドンで撮影されたショパンの1番を弾いたときのフィルムでした。
これまでにも、何度か部分的に見たことはあったけれど、今回は第一楽章がノーカットで放送されました。

残念なことに、ピントのずれたようなボケボケのモノクロ映像ですが、振袖姿の高校生だった中村さんは、堂々たるソリストを務めており、その瑞々しい演奏にはいろんな意味で驚かされました。
音楽的にも非常に真っ当で、後年のようなエグさのある特徴はどこにも見当たりません。
というか、ほとんど別人でした。
終始一貫しているし、テンポもよく、オーケストラとも調和しながら演奏が心地よくノッているのが印象的でした。

とくに全体が横の線で流れるように端然と弾き進められていくあたりは、どこかフランス的でもあり、これはもしかしたら安川加寿子さんの影響が当時の日本のピアノ界に色濃くあったのだろうか…等々、いろいろと想像しないではいられないものでした。
個人的に知る限りでは中村紘子さんのこれは最高の演奏ではないかと思います。

もしこのままの方向で成長していたら、あるいはどんなピアニストになったのだろうとも思いますが、ジュリアードに行ったこと、ホロヴィッツの魔性に魂を奪われたことなどが、なんらかの変化をもたらしたのかもしれません。

そういえば、むかしテレビでホロヴィッツの奏法を筑紫哲也氏や映画監督の篠田正浩氏を前に、ピアノを弾きながら解説していたこともありましたから、よほど熱狂的なファンで研究されていたのかもしれません。
彼女がプログラムに選ぶショパンの作品なども、どちらかというとホロヴィッツ好みのものが多かったりするのは、やはりかなりの影響があったのではと推察します。

中村さんのいない自宅が映し出されましたが、弾き手を失ったピアノが咲き乱れる花々の中でじっと喪に服しているようでした。


それにしても、今年の春からこちら、ずいぶんといろんな方が亡くなりましたし、お若い方が多いことも目立ちました。
中村紘子さん以外にも、ぱっと思い出すだけでも、永六輔さん、大橋巨泉さん、蜷川幸雄さん、鳩山邦夫さん、千代の富士さんなど…。
自分自身の周りでも、直接間接いろいろと思いがけないお別れが次々に続いて気味が悪いほどでした。

今年の猛暑は例年になく厳しいものでもあるし、せいぜい身体に気をつけて、まじめに生きていかなくては…などと柄にもないことを思ったりしているこの頃です。
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小菅優

クラシック倶楽部から、樫本大進、小菅優、クラウディオ・ボルケスの3人によるトリオコンサートで、ベートーヴェンのピアノトリオ第1番op.1-1全曲とゴーストの第2楽章が放映されました。

ピアノトリオは演奏時間の長いものが多く、たったこれだけで55分の番組は一杯になるようです。

小菅優については、これまで折々に注目はしてきたけれど、今どきにしては元気のいいピアニストとは思いつつも、なんだかもう一つ決め手がない感じで、それ以上に興味が進みませんでした。
CDも少しだけ持っていますが、ずいぶん若い頃のリストの超絶技巧練習曲などいくつかあるものの、これといった強い印象はありませんでした。キレの良い演奏をする人ではあるようですが、残念なことにくぐもったような音がいつも気になってしまいます。

マロニエ君は音の美しさというか、音そのものに演奏上の必然的な声を帯びた凝縮された音を出してくれないと、どうも惹きつけられないところがあるようで、その点彼女は活気ある演奏をするわりには、この点がどうも冴えないという印象でした。

ところが、今回の演奏はそれさえも気にならないほどの素晴らしいものでした。
まず、とてもよくさらわれてすべてに見通しがきいて、熱いエネルギーと細心の注意深さが両立しながら隅々にまで行き届いて、聴く者の耳を捉えて離さず、音楽は一瞬たりとも弛緩するところがない。

冒頭の変ホ長調のアルペジョからして、弾むようで繊細、以降も小菅さんのピアノはヴァイオリンとチェロの間を、器用に、そして柔軟に飛び回り、それでいて決してピアノだけが表に出るということなく見事なアンサンブルに徹していたと思います。
それでも、ピアノはひときわ強く輝いていており、この日はまさにピアノが主役だったと思いました。

小菅さんの個性というか魅力のひとつは、最近のクラシックの演奏家としては珍しいほどリズム感に優れ、拍を疎かにしない点だろうと思います。
まず作品の求めるテンポや適切なアーティキュレーションを見極め、そのための不便不都合はすべて自分の側で背負って変な辻褄合わせをしないという、演奏家としての良心があり、これは最近では珍しいことだと思います。

おそらくそのあたりはご当人もかなりこだわっているというか、彼女の演奏を成立させる要素として譲れないところがあるのだろうと推察されますが、小菅優のピアノには常に良い意味での緊張感があり、いきいきしたメリハリがみなぎっていると思います。
指もまことに小気味良く動き、そこにリズム感の良さもあいまって、このベートーヴェンのop.1-1という文字通り若書きの作品が、目の前にみずみずしい姿を顕してくるようで、ときにロマンティック、ときにモーツァルトのようで、退屈する暇もないないまま一気に進んでいきました。

小菅さんの素晴らしさにすっかり感心して、気がついたら樫本大進とボルケスのヴァイオリンとチェロはあまり注意して聴いていなかったけれど、お二人とも輝くピアノをしっかり支えるような安定感のある演奏だったと思います。

どうしても小菅さんの話に戻ってしまいますが、彼女の演奏はどれを聴いても溌剌として熱気があり、それでいて日本的な繊細さも併せ持つ人であるという点で、無機質で正確なだけの日本人ピアニストが多い中、あれだけ音楽に集中できるのは貴重な存在だといえるでしょう。

少し感じたことは、手首を細かく上下させることで鋭利なリズムを刻んでいるようで、これが彼女特有の深みのない乾いた音の原因ではないかとは思いました。
よりしなやかな指先の圧力によってタッチ・発音するようになれば、今の何倍も輝くような音になると思うのですが、まあマロニエ君は専門家ではないのであまりそういうことには言及しないほうがいいかもしれません。

この人には、さらにいろいろな経験を積んで、さらに成長して欲しいと期待をかけています。
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体格からくるもの

何事においても身体的条件というのはあるわけで、コンサートピアニストにもそれは該当すると思います。

先日のギャリック・オールソン、そのあとに聴いたロジェ・ムラロのラヴェル、いずれも大きなピアノが少し小さく見えるような大男でしたが、彼らの演奏から出てくる音のある部分には共通したものがあります。
それは大雑把に云うと体格による力が強すぎて、ピアノの音の最も美しい部分をはみ出してしまうというもの。

さらに言うと、やはりあまりに大柄な人は、やはりどこか繊細さに対する感性が違うのか、大きな背中を丸めて小さな刺繍のようなことをやっているみたいだったりで、どうもピントが合わず、聴いていてつまらないというか、おさまるところにおさまっていないものに接しているような違和感がつきまといます。

逆に、小兵ピアニストにも特徴があります。

あくまでマロニエ君の好みとしてですが、極端に小柄なピアニストも、見ていて心底いいなぁとおもえるような人はあまりいないし、いるかもしれませんが、少なくともパッと思いつくような名前はありません。

それは楽器に対するバランスの問題につきるのだと思います。あまりに小柄だとハンディを補強しようとしてきつい音になり、弾き方や音楽もやけに攻撃的になったり…。
そうそう、書きながら唯一思い出した、小柄でも認めざるをえないピアニストとしてはラローチャがいましたが、その彼女でも音の問題は例外とはならず、やはり鋭角的で多少叩きつけるようなところがありました。

彼女のお得意のスペイン物においては、作品が情熱的で奔放なのでそれがマッチして説得力を帯びることも少なくなかったけれど、ベートーヴェンやモーツァルト、ショパンなどになると、やっぱり彼女の音質やタッチが気になったものです。
とくにコンチェルトになると一層力むためか、叩き出すフォルテが連続し、ずいぶん昔の来日公演では皇帝を演奏中に弦を切るというハプニングもあったほど、手首から先を硬直したように固め、落下速度にものをいわせて叩くので、弦にかかるストレスも大きいのかもしれません。

また小柄な人は、いわば小さなメカニズムで音を出すためか、表現の自由度が狭まり、楽器を朗々と鳴らすことが難しいように思われます。全体への目配りが疎かになると、音楽もどうしてもせかせかした小さなものになります。

もちろん個人差や例外はあることはいうまでもありませんが。
それを承知で、マロニエ君の好みをあえて大別していうなら、身長170~180cm台前半ぐらいの、どちらかというと標準から少し痩せ型の体格をもった男性ピアニストの音を好んでいるような気がします。
女性でも音の美しい方はおられますが、身長はせめて160cm以上ないと、みずみずしい美音はなかなか出せないような気がするのですが、こんなことを書くと叱られそうな気もします。
あくまで一般的平均的な話として捉えていただけると幸いです。

ただ、いずれにしても小柄な女性(男性)がちょこんとコンサートグランドの前に座って、悲壮感を漂わせながら腕や頭をふりながら熱演するのは、聴いているほうまで苦しみを背負わされるような気になるので、できればあまり聴きたくありません。
これと同じように、ピアノが小さく見える大男による、フォルテのたびにピアノの大屋根がゆらゆら揺れるような演奏も好きではないのです。

これ、楽器のほうのピアノにもいいサイズというのがあるのと同じです。
コンサートグランドも280cm越えてしまうと、持て余し気味のゆるい楽器になるし、小さなグランドピアノは、小型犬のようにワンワンと吠えまくってうるさいのと似ている気がします。

もちろん、中にはスタインウェイのS型のように、そんな常識をまったく寄せ付けない例外もあるにはありますが…。
例外といえば、ラフマニノフは偉大なる例外のひとりなのかもしれませんね。
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CFXの魅力

先日のEテレ『クラシック音楽館』では、尾高忠明指揮による5月のN響定期のもようが放送され、小曽根真/チック・コリアのピアノでモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲が注目でした。

このコンサートの会場はコンチェルトなどではいつも音が散ってしまうNHKホールだったものの、まったくそれが気にならないほど録音が好ましいもので、クリアかつ音量もあり、やはりこういう録音はやろうと思えばいくらでもできるんだということを証明しているようでした。
クラシックのコンサートというと、やたら小さく詰まったような音で録る場合が多いのは勘違いも甚だしく、ひとえに音楽的なセンスの問題だと思われます。

演奏自体は例によって、随所にジャズのテイストや即興を盛り込んだもので、今回はそれがわりに上手く行っているように感じられ、モーツァルトの原曲をぎりぎり損なうことなく、意外性に富んだ楽しめるアレンジになっているように思いました。
この点は、チック・コリアの采配なのかとも思いますが、そのあたりのことはよくわかりません。

ピアノは二人ともヤマハのアーティストだけに、当然のようにヤマハ。
CFXが2台、大屋根を外された状態で並べられると、いかにも日本製品らしい作りの美しさが際立っているし、大屋根はないほうが2台ピアノの場合、1台だけ外さず開けているいる状態より響きが均等になって好ましく思えます。
好ましいといえば、このときのCFXはとてもいい感じで、このピアノが出て5年以上経つと思いますが、マロニエ君は初めて心から美しいと感じることができました。

そう感じられたについては、録音、演奏、曲、調整などあまたの要素が相まってのこととは思いますが、ピアノそのものもムラなくレスポンスに優れ、明るくブリリアントで爽快感さえありました。
深みのある音ではないけれど、いかにも新しいピアノだけがもつ若々しい音でした。

またこの二人のピアニストは、タッチもわりに一定でダイナミックレンジが少なく、曲がモーツァルトということもあってか、花びらのような音の立ち上がりの良さもあって、CFXのもっとも良いところがでていたように思いました。
重量級の曲になると底付き感を見せたりすることがしばしばであったCFXですが、モーツァルトなどを明るく演奏するには最適なピアノなのかもしれません。

残念だったのは、ピアニストが両者ともタッチの切れがもたついていたこと。
とくにチック・コリアは、かなりのテクニックでならした人かと思っていたら、あれ?と思うような部分がないでもなく、さすがにお年なのかとも思いました。

小曽根さんを聴いていつも思うことは、今どきのピアニストとしてはテクニックは必要最小限でしかないけれど、それでもクラシックの演奏家が持ちあわせない、演奏というものが一過性の冒険で、純粋率直に楽しむことの意味を体験させてくれる点だと思います。
とくにそれをクラシックのステージで実践することは、失ってしまったものをぱっと取り出して見せられているような新鮮さがあって、なぜクラシックの演奏というのは、ああも必要以上に退屈なものにしてしまうのか、そのあたりは考えさせられてしまいます。

旧来のクラシックファンに向かってそういう問題提起をしているだけでも、小曽根さんの貢献は大きいというべきかもしれません。

ついでなので残念な点も書かせてもらうと、小曽根さんがつくづく日本人だと思うのは、彼のビジュアル。
お顔立ちがとっても和風ですが、いまどきヘアースタイルひとつでも、もうすこし彼が素敵に見えるものがありそうなものだと思うし、衣装があまりにダサいのは毎回感じるところです。

このときも昔のカーテンみたいな野暮ったいエンジ色のシャツで、しかも生地に少し光沢があるあたりは、まるで昭和のパジャマでも着ているみたいでした。
とりあえず、そこらのH&Mあたりで上下買ってきて着るだけでもよほど素敵になるような気が…。
とりわけジャズの世界ではスタイリッシュというのはとても大切な要素だろうと思われるので、この点はなんとか、もう少しオシャレというか彼の持ち味が引き立つようなビジュアルにされると、演奏の魅力もおおいにアップする気がします。

つい余計なことも書きましたが、全体を通じてなんとなく印象の良い演奏で、つい2度続けて見てしまいました。
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百年企業

こないだの日曜だったか、民放BSで『市川染五郎が見た あっぱれ百年企業 ~これぞニッポンの仕事~』という2時間番組があり、そこで取り上げられた3社のトップバッターがヤマハ株式会社でした。

今は浜松ではなく、掛川にあるピアノ工場を染五郎さんが訪ねます。
広大な敷地の中にあるショールームのような建物に入ると、きれいに磨かれた自動ドアが開くなり、現社長の中田卓也氏が深々とお辞儀をしながらのお出迎え。
その中田氏のかたわらにはグランドピアノ型の電子ピアノが置かれていて、開口一番「これが私も開発に参加したピアノです!」といって、得意満面のご様子。

とはいっても、ここはヤマハ株式会社の本拠地なのだから、そこでいきなり電子ピアノというのは違和感を覚えました。
もしかするとこれが今のヤマハの最も代表する看板商品なのかもしれないけれど、やはり世界のヤマハを標榜する以上は、まずは電子ではなくアコースティックピアノであってほしかったと思います。

番組としては、電子楽器としてここまで発展したピアノが、元を辿れば明治時代のこの1台のオルガンから始まりましたという、社史を振り返る流れだったようですが、だとしても納得できない感覚は払拭できませんでした。

どうぞどうぞ!と促されて染五郎さんがポンポンと音を出しますが、テレビのスピーカーを通しても、いかにも電子ピアノらしい音が聞こえるものです。とくに電子ピアノは、最初に出た瞬間の音より、そのあとの余韻のところに人工合成された不自然を感じます。

そのあとで、社長自らも「展覧会の絵」のプロムナードの一節をちょちょっと弾かれました。
出迎えでのいかにも腰の低そうなお辞儀や物腰、若くてカジュアルで、あくまでフレンドリーに話しをされる様子、そして製品の開発にも参加するほどの技術者でもあること、おまけに少しは演奏もできるのですよということまで、冒頭のわずか1分ちょっとの間にこの方のプロフィールの要点を圧縮して披露されたという感じ。

社長さんのアピールはいいけれど、この一場面を見ただけでも、世の中は電子ピアノが圧倒的主流で、ヤマハ自身が生ピアノをさほど重要視していないかのような感じを受けたことは、どうも出鼻をくじかれた気分でした。

そのあとは創始者である山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理を頼まれたのが始まりで…というストーリーが再現ドラマによってしばらく続きます。
途中で、調律の簡単な説明がありましたが、染五郎さんがいかにもおっかなびっくりの手つきで自らチューニングハンマーを回し、うねりというか音の変化を感じてみせるあたりは、いかにも無理があるなぁ…という印象。

こう言っては申し訳ないけれど、あの一種独特な雰囲気をもつ歌舞伎役者と西洋音楽のグランドピアノというのは、どう見ても相容れないというか接合点が見当たらず、全然溶け合わない様子は想像以上で、妙なところでびっくりしました。
人でもモノでも、ふさわしい場所や相手を得たときにはじめて本来の輝きを得るものですね。

後半は、バックにCFXが置かれた場所で、染五郎さんと社長の対談ということになりましたが、とくに深い話はなく、楽器作りと歌舞伎の世界を比較しながらという、なんだか取ってつけたようなわざとらしい対話がつづきました。
現社長は、いわゆる旧来の社長然とした物腰態度をいっさいとらず、たえず笑顔、他者と同じ目線をもつ仲間のような人物であることをそうとう意識されているようにお見受けしました。

ただし、やや行き過ぎの面もあり、染五郎さんのちょっとした言葉にも、過大に頷いたり感心したりと反応してみせるあたりは、まるで役者に話を聞きに行ったアナウンサーのようでした。とくに関係もないのに、いちいち「歌舞伎の世界では…」とそちらに置き換えて話を振るのも、きまってこの社長さんのほうでした。
まるで威張らない腰の低い自分を「自慢しているように」見えるのはマロニエ君の目がおかしいのか…。

社長さんのほうはたっぷりとご尊顔を拝しましたが、ヤマハにカメラが入ったからには、楽器の製造現場をもう少しみせてほしかったのですが、それはほとんどなかったのは残念としかいいようがありません。
現在のヤマハはなんと100種類以上の楽器を作る世界的にも非常に珍しい「総合楽器製造会社」なのだそうで、弦楽器・管楽器の制作現場なども見たかったですね。

せっかくBSで番組を作るなら、もっとコアな部分に踏み込んだものにしてほしいものです。
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ふたを閉めて

このHPやっているお陰もあって、ピアノがお好きな方からメールをいただき、それがご縁となって、以降電話やメールのやり取りをするようになった方というのが、ごく僅かですがおられます。
そのうちの、福岡にお住まいの某氏と久しぶりにお会いすることになりました。

この方とお会いするのは二度目ですが、今回はマロニエ君の自宅に来ていただいて、中華の出前をとって食事などしながら、夕方から深夜まで音楽談義で過ごしました。

とても楽しいひとときで、ピアニストの話が多くを占めましたが、とりわけ印象的だったのは、すぐ脇にあるピアノを弾くということは、互いにほとんどなかったことです。

ひとくちに「ピアノ好き」といっても、ほとんどの人は「ピアノを弾くこと」が好きで、ピアノ好き→優れたピアニストの演奏に関心がある→つまり音楽好き…という図式はまったく通用しません。
ピアノは弾いても、それが終わるとピアノとはまったく関係ない雑談ばかりが延々と続き、音楽の話などしないのがこの世界では普通なのです。
マロニエ君もはじめはこの実態に驚愕しましたが、音楽やピアノの話に興じるほうがよほど特種で異端らしいのです。

通常の趣味の世界では、その道の最高峰がいかなるものか、あるいはもろもろの情報には嫌でも関心があるし敏感になるもので、テニスをやっている人がウインブルドンにぜんぜん無関心とか、世界ランキング上位の選手の名前も知らないなどというのはほぼあり得ないだろうと思うのですが、ピアノに関しては…それが「普通」なのです。

では、ピアノ趣味の人は普段なにをやっているのかというと、ただ教室などで習っている目の前の曲をマスターするまで練習し、それを発表会という晴れの舞台で弾くという、えらくシンプルな一本道にエネルギーを注ぐということの繰り返し。
真の芸術的演奏とはいかなるものか、あるいは膨大にある優れた楽曲を少しでも知りたい…というような方面にはあまり欲求がないというか、ほぼ無関心に近いのはまったく信じられないのですが、それが現実。

そしてパフォーマンスとしてかっこいい系の有名曲を弾くことが練習するにあたっての最大のモチベーションで、おそらくはラ・カンパネラとか英雄ポロネーズを発表会で弾くことが最高目標なんでしょうね。
音楽というより、単なる自己実現のカタチがたまたまピアノなんだろうと思われます。
もし仮にあこがれの英雄(第6番)に挑んだにしても、前後のポロネーズ、すなわちあの魅力的な第5番、あるいは晩年の最高傑作のひとつである第7番がどんな曲かなんてことは、まったく関心もない。

マロニエ君はべつに頭から発表会を否定しようというような考えではありません。
正直に云うと、個人的にはあの系統は好きではないし共感もできかねますが、そこにもきっとなんらかの意味はあるのだろうと思うし、それを好きだというのも自由なわけで、カラオケで熱唱するのが好きで、それに入れ込む自由があるのと同じです。
ただ、自由ではあるけれど、日々ピアノにふれ、何らかの作品を奏しながら、それでも音楽そのものにほとんど見向きもせず、ピアノが趣味という口実の道具に使われているように見受けられることについては、そこに発生する違和感まで消し去ることはできません。

あっと…もともとそんなことをくどくど書くつもりではなかったわけで、話は戻り、冒頭のその方とはいろいろとしゃべったり、お持ちのiPadからさまざまなピアニストの演奏や動画を見せていただくなどしているうちに、瞬く間に時は過ぎました。

普通は共通の趣味人同士が集うと、顔を合わせるなりたちまちその世界に入って、何時間でも疲れ知らずでしゃべっていられるものですが、ピアノの場合はこんな当たり前なことが、こんなにも稀有な事だというのをあらためて痛感しました。

今はなき往年の巨匠の演奏から、名も知らぬ才能ある子どもの演奏まで、ネット上には貴重な音源と映像が多数存在しており、この日は珍しい映像をいくつも見て聴いて堪能することができました。とくに人にはそれぞれ好みがあって、この人のこれが好きとか、これがたまらないというようなこともたくさんあって、大いに共感できること、そうでないことなど人の好みを聞いているのも面白いものでした。

話は尽きず、お開きになったのはもう少しで日をまたぐ時刻になりました。
ピアノは弾いてこそピアノという一面があるのもわからないではないけれど、かといってシロウトがやみくもに弾くばかりでは耳がくたびれるばかりです。
趣味として奥深いところで遊んでみるには、むしろピアノのふたは閉めておいたほうが面白いというのもひとつあるように思います。
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練習を楽しむ才能

このブロクを読んでメールを下さった方で、同じく福岡市在住の方がいらっしゃいます。

とても個性的な方で、いわゆる一般的平均的な考えの持ち主ではありませんが、自分の感性と価値観を信じる生き方を静かに実践しておられる方とでも言えばいいでしょうか。いわゆるポピュリズム精神に重きを置かないためか、こういう人はとりわけ現代では異端児的で、ちょっと変わってる人というような位置づけになるようですが、なにかというと定見もなく、浅薄で迎合的な発想しかできない人間が大多数な中、まことにアッパレであることはいうまでもありません。

この方とはしばしばメールのやり取りもあり、電話でもずいぶん話して、いわば関係の「実績」を積んだことから、先日ついにその方のお宅に訪問することになり、思いがけなく食事までごちそうになってしまいました。
人間性もさることながら、むこうも男性だったのでお宅に行って二人で会うということもできたわけで、これがもし女性だったらそう気易くお尋ねするとこもできなかったかもしれません。

食事がすむと、ピアノのある部屋に案内されました。
いちおう個人情報という面にもあたるのかもしれませんし、今時のことなので、どんなピアノかというような具体的な記述は控えておきますが、とにかく普段ここでどのような練習をしているのかということをつぶさに説明していただき、ピアノの上達にかける情熱にはただただ圧倒される思いでした。

この方は大人になってからピアノを始められ、職業柄、別分野でひとつの事を極められている方なので、修行にはまず「基本」が大切であることをよくご存知らしく、基本なくしては何事もはじまらないし、しっかりした基本の上にこそ、とりどりの花も咲けば応用もきくという至極もっともなお考えらしいのはさすがです。

というわけで、もっか猛練習の毎日を送られているようですが、その練習というのが半端ではありませんでした。
曲は簡単なバッハの小品やブルグミュラーなどに過ぎませんが、単なる指練習であるハノンだけでも1時間2時間やってもまったく苦にならないのだそうで、後半は話をしながら指だけは休むことなくハノン練習で指はずっと上ったり下りたりしているという、これまでに見たこともない独特の光景でした。
さらに夜も更けると電気のキーボードに移行して、これで音を出さずに指練習を継続、車にも職場にも同じキーボードがある由で、僅かな時間を見つけてはハノンで指を動かすという、お仕事とその他生活の隙間にはすべてピアノの練習が入れ込まれているような毎日を過ごされているようです。
しかもそれが苦にならないどころか、「楽しい」のだそうですから恐れ入りました。

根っから練習嫌いのマロニエ君にしてみれば、自分とは真逆の人物が、目の前で真逆のことをやって見せながら嬉々としているのですから、これはもう、とてつもないものを見てしまった気分でした。

練習というのはしなくちゃいけないからするものだと思っていたマロニエ君でしたが、中には練習そのものを楽しむという方がおられて、これは仕事でも勉強でも同じでしょうが、嫌々やるのと楽しんでやるのとでは、もうそれだけで嫌々組はかないっこないわけです。

で、驚き、呆れ、圧倒されたマロニエ君でしたが、逆に心配なことも頭をよぎりました。
あまりの過剰練習からピアニストへの道を断念したシューマンのように、やり過ぎて手を壊しては元も子もないので、それだけは注意されたほうがいいのでは…と言いましたが、もちろん危ないと感じた時はすぐに止めて休ませているから心配には及ばないと、その点もぬかりはないようでした。
マロニエ君など、ろくに弾けもしないくせにショパンのエチュードなどやっていると、指というより手首から肘にかけての筋肉が無理をしてしまうのか、かなり痛くなって怖くなることがしばしばです。

そこは根性ナシのマロニエ君なので直ぐにやめてしまいますが、これを弾き続けることで克服しようなどと思って強引にやっていると、いつか手を壊してしまう可能性も低くはないでしょう。

いずれにしろ、およそ音楽とも言えないハノンのような無機質な練習をあれだけ楽しく積めるというのは、いやはや羨ましいというほかはありませんし、それで楽しめることそのものも「才能」だと思います。

考えてみれば、もともとピアニストなどは、ステージでの演奏など氷山の一角であって、いわば人生の時間の大半を練習につぎ込む職業でもあるわけで、やはりこれは練習のできるメンタリティを持っていることが必要で、それも重要な才能のひとつだと思います。
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苦手な音

地震の話は気が滅入るのでピアノの話に戻ります。

過日、ウゴルスキの音の美しさについて書いたばかりでしたが、このCDは単独でも持っているけれど、たまたま近くにあったグラモフォンのブラームス全集の中からピアノソナタを取り出して聴いたものでした。

で、なんとはなしにその続きを聴いてみようと続く番号のCDを見ると、主題と変奏(弦楽六重奏の第二楽章のピアノ版)、シューマンの主題による変奏曲、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガで、演奏はダニエル・バレンボイムと記されています。
たしか前にもこの全集を聞いている時、バレンボイムのピアノは苦手なのでこのディスクはすっ飛ばした記憶がよみがえったのですが、今回はどんなものか聴いてみることにしました。

果たして、身構えていた以上にバレンボイムの「音」がまさにいきなりスピーカーから飛び出してきて、わっ!と思いましたが、とりあえず一度だけでも最後まで聴いてみることに。

音楽的にもまったく自分には合わないし、どこか力ずくというか、ただ弾けよがしに弾いているだけとしか思えないものでした。まるで昔むかしの音大生が、ただ力んで弾いているだけといった風情で、よくこれで天才ピアニストが務まったものだと思います。
さらにその音は、マロニエ君が苦手としてきたまぎれもない「あの音」で、いつも音がペシャっとつぶれたようで、しかもその中に硬い針金が入ったようなツンツンしており、どうしたらこんな音ばかり出るのか不思議なくらいでした。

資料を見ると1972年の録音のようですから、すでに40年以上前の演奏で、おそらく30歳ぐらいだったのでしょうが、基本的に演奏というものは人の声のようなもので生涯変わらないということがよくわかります。

彼が指揮を始めたことは、むろんそれに値する天分があったなど複合的な理由からだろうと思いますが、その中にはピアノ一本でやっていくだけの力というか、ピアニスト業だけで生涯聴衆を惹きつけるだけの魅力には乏しいことを本能的に感じていたからだろうと勝手ながら思います。

調律師の故・辻文明さんは「一流のピニストにはソノリティがあるものだ」というような意味のことを言われたと、何かで読んだ記憶がありますが、たしかに、世界的に第一級のピアニストともなると、「その人固有の音」というのが明瞭に存在し、楽器の個性とか優れた調整による差を飛び越えてしまうことが珍しくありません。

最も甚だしいのがホロヴィッツで、彼は晩年になって日本やヨーロッパにも出かけて演奏するようになりましたが、ロンドンだったか練習用のハンブルク・スタインウェイを弾いたり、ロシアではスクリャービンの生家にあった古いピアノで弾いている映像がありますが、その音はまぎれもない「ホロヴィッツの音」になっていることには、ただただ舌を巻くばかり。
彼のあの独特な音は、ホロヴィッツのために厳選されたニューヨーク・スタインウェイだからこそのものだと思い込んでいたマロニエ君は、それ以前に、どんなピアノでも彼がひとたびキーに触れれば「あの音」になることを知り、強い衝撃を受けたものでした。

また近年はすっかりスタインウェイばかりを弾くアルゲリッチも、もう少し若い頃は、日本公演でもヤマハを弾くことが幾度かありましたが、そこで聞こえてくる音は(実演でも)ヤマハもスタインウェイも関係ないほど「アルゲリッチの音」でした。
むかしVHDディスクというのがあって、ヨーロッパで収録された「アルゲリッチコンサート」では、ラヴェルの夜のガスパールをヤマハで弾いていますが、これもピアノメーカー云々が問題でないほど彼女にしか出せないあの音だったので、ピアノが完全に道具にまわっていることが歴然です。

その点でいうと、グールドの晩年の録音のいくつかはヤマハで録音されていることは周知の事実ですが、とりわけ名演として名高いゴルトベルクは、マロニエ君には、その素晴らしい演奏にもかかわらずヤマハの音が耳についてしまって、これがグールドの魅力の幾分かをスポイルしているように聴こえるのは、かえすがえすも残念な気がします。

しかしこれはあくまで珍しい例というべきで、普通はこのクラスのピアニストになると、専ら本人のソノリティが前に出るので楽器の違いはマロニエ君個人はあまり気になりません。
そういう意味で、バレンボイムの音は個人的にどうしても受け付けないし、あの音は彼の奏法と音楽が、ピアノというきわめてセンシティヴな楽器によって精緻に投映されたものだろうと思うと、それを可能にするピアノという楽器にも感心してしまいます。
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距離をおくと

過日ピアノ関連の来客があり、ディアパソンをしばらくお互いに弾きながら、その音色を確認するということができました。

ピアノの音は場所によって聴こえ方が変わるにもかかわらず、演奏する者はその場所を変えることはできません。
せいぜい大屋根の開閉か、譜面台を立てるか倒すかぐらいなもので、音を出す人間が場所を変えて聴くということは絶対不可能という物理的事情がありますね。

どんなに慣れ親しんだピアノでも、ピアノから距離をおき、客観的にその音を聴いてみるためには、必然的に別の人が演奏している間だけあれこれと場所を移動してみるしかないのですが、この日はそれがかなり自由にできました。

そこでいまさらのようにわかったことは、演奏者にとっては鍵盤前に座るというあのポジションは、音響的にはかなり好ましくはない場所のようだということでした。

ピアノからわずか1mでも離れると、もうそれだけで聴こえてくる音は変わるし、2m、3mと距離を変えるたびにさらに聴こえ方はいろいろな表情を現しながら変化します。また、離れた場所でも椅子に座るか立つかでもおもしろいほどその聴こえ方はころころと変わり、こんなにも違うのかと呆れてしまいました。ある程度はわかっていたつもりだったのに、あらためてその変化の大きさには驚きとおもしろさと新鮮さを感じてしまいました。

少し離れた位置で聴くということは、考えてみれば調律のときにそれがないではないけれど、やはり調律と演奏はまったく別のことであるし、楽器は曲になったときに真価をあらわすわけで、やはりどんなに優しいものでもいいから曲を弾いてもらわないことには、「音」をたしかめることは出来ないと思いました。

それともうひとつ、当たり前というか、わかりきったことを再確認したという点でいうなら、少なくともグランドピアノは(とく大屋根を開けた状態であれば)、楽器のサイドから聴くのが最高であることを痛感させられました。
いわゆるコンサートでステージ上に置かれたあの向きで聴くのは、やはり正しいようですね。

ふだん自分のピアノは自分が弾くだけだから、このようにサイドからそのピアノが出す音を曲として聴くことがないのは、ピアノの所有者として、なんという残念無念なことだろうかと思わずにはいられません。
どんなに素敵な車に乗っていても、それが街中を疾走していく姿を、ハンドルを握るドライバーは決して見ることができないのと同じです。

なぜこのようなことをわざわざ書くのかというと、手前味噌で恐縮ですが、それほど自分で弾いているときにはわからなかった音や響きが想像していたよりすばらしく、ばかみたいな話ですが、思わず自分のピアノに陶然となってしまったからなのです。
さらにわかったこととしては、床と並行のボディより、わずかでもいいから耳が上に位置するほうがいいということ。

耳の位置が低すぎると、響板から発せられる音の大半が大屋根から反射されたものばかりになるのか、やや輪郭がぼやけるようで、中腰から立ったぐらいの、つまりすこし中のフレームが見えるぐらいのほうが断然いいこともわかりました。

要するにそのピアノにとっての特等席は、楽器から少し離れた場所であるということで、その最たるものはステージです。(ただしピアノのお腹が見えるほど低い座席ではなく、最低でもフレームの高さ以上であるべきだと思いますが。)
ステージのピアノを弾くと、音は会場の音響効果と広い空間のせいで風のように客席側に飛んでいってしまい、むしろあまり音が出ていないように感じることもありますが、あにはからんや客席ではかなりの音量と美音で鳴り響いており、そのギャップに驚嘆したことも何度かありました。

それなのに、ピアニスト(というか演奏家)は絶対に自分の演奏を客席から聴くことができないのは皮肉なものですが、そのことは家庭のピアノでも、次元は違っても同様のことがあるというのは発見でした。
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録画から

早いもので今年ももう3月ですね。

このところTV録画で見たコンサート等の様子から。

アリス=彩良・オットとフランチェスコ・トリスターノのデュオリサイタル。
ドイツの何処かのホールで収録されたライブでしたが、出てくる音声が今どきおそろしくデッドだったのはかなり驚きました。

まるでただ部屋に2台のピアノを置いて弾いているような音で、優れた音響に馴らされた耳には、あまりに窮屈で最後までこの音に慣れることはできませんでした。
また、二人ともとても偏差値の高いピアニストなのだろうとは思うけれど、残念なことに味わいとかニュアンスというものがなく、ただ楽譜のとおりに正確に指が動いていますね…という印象。

最近のクラシックの演奏会は、慢性不況でもあり、ただ良質な音楽的な演奏をしているだけでは成り立たないという実情はもちろんあるとは思いますが、それにしても演奏家がやたら「見せる」という面を意識しているらしいことが目に付くのは個人的にはどうも馴染めません。
ドレス、髪型、指にはたくさんの指輪をはめて、弾くときの表情もピアニストというよりは、どちらかというと女優のよう。

ピアノはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせでしたが、上記のような詰まったような音があるばかりで、こちらも真剣に聴く気になれずとくに感想はもてませんでした。ただ、ステージ真上からのカメラアングルがあり、2台とも大屋根を外した状態なので、構造がよく見えました。
驚いたことには、ぱっと目にはまるで同じピアノのように見えることでした。

全体のサイズはもちろん、とくにフレームの骨格や丸い穴の数や位置などほとんど同じで、この2台が別のメーカーの製品ということじたいが信じられないくらいでした。以前はヤマハのフレームは独自の形状でしたが、CFXからはそれが変更され、ますますスタインウェイ風になっているようです。

じつはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせが、偶然もうひとつあり、小曽根真がアラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと昨年大晦日に演奏した『動物の謝肉祭』が、やはりこの2社の組み合わせでした。

もちろんCFXを弾いたのは小曽根真であることはいうまでもありません。
このときはなんとか言うアメリカ人男性がナレーションを務め、開始前と曲と曲の間に、いかにもアメリカ的テイストの芝居がかったトークが挟まれ、その鬱陶しさときたらかなり強烈なものでした。
メインは音楽なのかトークのほうか、まるでわからなくなるほど長いし押し付けがましくて、ウケと笑いと拍手を要求してくるのはウンザリで、録画なので早送りで飛ばすしかありませんでした。

ところで、小曽根真の演奏はどこがそんなにいいのか…マロニエ君は正直さっぱりで、これは皮肉ではなく、わかる方がおられれば教えてほしいぐらいです。
個人的な印象としては、本業のジャズでもあまりキレがないように感じるし、クラシックではやはりあんまり上手くないという印象が拭えません。
何年か前にモーツァルトのジュノームを弾いたときは、たしかにあれはあれで一回は新鮮でへぇぇと感じたことは覚えているけれど、こうもつぎつぎにクラシックのステージに登場するとなると、申し訳ないけれどふつうの評価にもさらされてくるのは避けられない気がするところ。

とりわけ不思議なのは、ノリやリズム感が身上のジャズメンであるはずなのに、その肝心のリズム感がなく、メリハリに欠け、むしろあちらこちらでモタついてしまう場面が散見されるのは不思議で仕方ありません。
ジャズでもクラシックでも、この人の演奏にはある種の「鈍さ」を感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

そうれともうひとつ。
題名のない音楽界では辻井伸行がベートーヴェンの皇帝を弾いていましたが、なんだかんだといっても彼はまぎれもなく天才で、人前で演奏するだけの値打ちがあり、シャンプーのコマーシャルみたいな言い方ですが、「リッチで自然でツヤのある」ピアノを弾く人だと思いました。

彼のピアノには努力だけでは決して身につかないスター性と独自性があり、あの輝きはやっぱり並み居るピアニストの中でも頭一つ出た存在だと思いました。
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弾きやすさの質

つい先日のこと、所用で隣県まで出かけた折、予定が早く済んでしまいぽかんと時間ができたものだから、悩みました(だって行っても見せてもらうだけですから)が、当地のスタインウェイ代理店にお邪魔させてもらいました。

マロニエ君は普段から、購入予定もないのにお店を訪ね歩いてピアノの試弾をしたり、同様にひやかしで車の試乗をしたりするのはあまり好きではないので、極力それはしないよう控えているつもりです。
…が、このときはつい禁を破って行ってしまったというわけです。

人によっては、やたらとこれを繰り返し、弾いたり乗ったり延々しゃべったりして、それを一方的に楽しんでいる人もいるのですが、お店側にしてみればいい迷惑で、遊び場にされては困るというもの。
というわけで、マロニエ君は車の試乗などをするのもせいぜい年に1度あるかないかです。

と、基本的にはそういう考えなのですが、このときはちょうど時間にも空白ができて、試しにナビで位置確認をしたところ、わずか2キロほどのところでもあり、誘惑に負けてついルート案内を押してしまいました。

むろん他のお客さんなどがいらっしゃれば早々に退散するつもりでしたが、幸いにもそのような状況でもなく、来意を伝えるとお店側はたいそう快く迎えてくださいました。

まず通されたのは、2階にある展示室で、そこには内外のセレクトされた美しいアップライトピアノが壁際に並べられ、中央には新品のスタインウェイのBとO、ボストンの小型のグランドが置かれています。
「さあ、どうぞ」といわれて「それでは」とばかりに弾き始めるほどにマロニエ君は度胸も腕もありませんから、軽くスケールを弾いてみる程度にしていましたが、有り難いことにお店の人はこちらが心置きなく指弾できるようにとの計らいからか、早々に姿を消してくださいました。
おかげで、ほんのちょっと(5分ぐらい)BとOの2台を弾いてみたのですが、この2台の「あっとおどろく弾きやすさ」ときたら衝撃的で、これがスタインウェイのタッチかと頭の中の尺度を書き換えなくてはいけないほど好ましいものでした。
まさに目からウロコです。

このときは技術者でもある由のご主人は不在でしたが、店におられた奥さんがとてもピアノに詳しい方で、さっそくこのピアノの思いがけないタッチの素晴らしさを興奮気味に告げたのはいうまでもありません。
マロニエ君があまりにショックを受けているからなのか、少し笑っておられるようでしたが、本当にそれぐらいこれまでのスタインウェイとは違う、軽く、素直で、何の違和感もない、思いのままの理想的なタッチでした。

しかも印象的だったのは、その2台はなにも特別な仕様ではなく、あくまでも現在のスタインウェイの「スタンダードな状態です」ということ。

これは、とりもなおさずこの店の技術力が優れていることもあるでしょうし、そもそも生産段階におけるパーツの正確さ、組み付け精度の面などがずいぶんと進歩してきているのだろうと思いました。
近頃のスタインウェイの、音としては平坦ではあるけれど、いかにもシームレスというか均等な鳴りを聴いても、こういうタッチであることは合点がいくところでもあります。

お店には別室にもう1台10年ほどまえのO型があるということで見せていただきましたが、こちらも実によく調整された素晴らしいピアノでありましたが、新品の2台に較べると、軽く正確で、一瞬の隙もなく反応する「驚異的な弾きやすさ」ではやや及ばないところも感じますので、やはり最新のスタインウェイは、機械的精度という点でかなりヤマハに肉薄してきているのかもしれないと思いました。

いくら音が良くても、タッチが思わしくなく、もたついたりコントロールしづらいなどの問題があると弾く楽しみも半減ですが、その点では、現在のスタインウェイはかつてのような重厚な味わいはなくなったかわりに、ストレスフリーな弾き心地を弾き手に提供しているのかもしれません。
弾くものにとっては、最上の快適感の中で弾けるということは、これはこれで大いなる魅力だと感じ入った次第でした。

躊躇しながら訪ねたものの、大いなる収穫を得て、感嘆しつつ帰途につきました。
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優柔不断に

我がディアパソンは、度重なる調整の甲斐あって、かねてより懸案であった軽快なタッチが達成できたことは大願成就というところでした。
繰り返えすようですが、技術者のもつ技術力に加え、各ピアノにはメーカーごとの個性や癖があるため、それを熟知した技術者さんの手に委ねるかどうかで結果は大きく違ったものになることをあらためて認識したところです。

仕上げには音色も整えていただいたことで完成度を増してくると、これまであまり感じなかった部分が見えてきて、我が家のディアパソン210Eの場合は、鳴りというかパワー感がやや不足気味という面を感じるようになりました。
一部例外を除くと、多くのピアノはオーバーホールすることで鳴りが悪くなることがよくあるようで、それなのか、もともとこのモデルがそういう性格であるのか判然としないものの、できればあとちょっとだけ鳴りの豊かさみたいなものがあればなぁというのが偽らざるところです。

この点を技術者さんに相談しますが、「ではまた見てみましょう」と快く言ってくださいます。
しかし、これはピアノとして根本のことだとも考えられるので、例えばすでにやっている弦合わせや整音をくりかえしても、それで解決できるとも思えず、結局まだお願いするには至っていません。

あえて単純な言い方をすると、ピアノ技術者がピアノにほどこす各種の作業というものは、煎じ詰めればタッチや音程や音色などの「乱れ」を細心の注意をはらいながら「整える」ことに尽きるだろうとマロニエ君は思っています。
その整え方に、技術や経験が問われ、限りない深さがあり、ひいては技術者各人の人柄やセンスまで表れる匠の世界というのは間違いありませんが、しかし設計者や製作者ではないということも事実でしょう。

ピアノ技術者(つまり調律師)はピアノのコンディションを最良最善の状態へと整えることが仕事のメインであって、楽器が生まれもっている個性やポテンシャルそのものは、さすがの技術者も変えることはできない(だろう)と思うわけです。

よってこの点は打つ手はないだろうと半ばあきらめ気分でいたわけですが、あるときのこと、ネット上で不思議なものを見つけました。

いちおう固有名詞は避けておきますが、それは、もう一歩ピアノが鳴ってくれないと感じるピアノをより鳴るようにするための器具だと説明されていました。
写真をみると「貼るだけのお灸」みたいな形で、木と金属で作られているもののようです。
これを響板とフレームの間へ差し挟むことで響板の響きをフレームへ伝達させ、ピアノをより一層鳴らす効果があるといいうものだとか。

これは果たして、ヴァイオリンの魂柱みたいなものなのか、あるいはスタインウェイのサウンドベル(これが正しく何なのか未だにわかっていないのですが)のような理論のものなのか…。それはともかく、もしもそれで一定の成果が得られるのなら一つの方法かもしれないと思ったわけです。

販売元は関東のピアノ工房のようでしたが、電話で問い合わせたところでは、効果は確かに「ある」とのこと。ただし、それは人によっても感じ方は違うでしょうし、ピアノによっても相性や効果の大小相違はあるのではと思いました。

価格は税込み32400円で、取り付けも出張のついでなど都合が合えば合計で4万円ぐらいとのことでした。
効果があって満足が得られればいいけれど、もしそれほどでもないと感じた時にキャンセルができるかどうかとなると、雰囲気的にそれはできないようでした。

きもち変わったかな?…というぐらいで、それ以上ではない場合、むしろこちらの耳が悪いから…みたいな展開になるのも心配ではあるし、たとえばインシュレーターでも安物と高級品では響きが違うといえば違うけれども、その違いは非常に微妙なものでしかないのがほとんどです。
ようするに最悪の場合、費用というか投資はいっさい無駄になることも厭わないという覚悟をしなくちゃいけないわけで、利用者や客観的な情報の不足もあって、ひとまず保留にしました。

ちなみに、器具を差し込むというあたりのフレームの穴から指を入れてみると、響板とフレームの隙間はせいぜい2cmあるかないかぐらいで、そうすると写真で見たそのパーツは、女性のイヤリングの片方ぐらいであることがわかります。
一概に、モノの値段は小さいから安い、大きいから高いというものでもないけれど、確認もできないまま購入するしかなく、その結果がはかばかしくない場合でも返品がきかないとなると、かなり迷ったのですが、ついに最後の決断がつきませんでした。

弦やハンマーのように、一度使ったら二度と売り物にならないような商品なら、キャンセルできないというのもわかるのですが…。
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田崎悦子

BSクラシック倶楽部で、昨年11月に東京文化会館少ホールで行なわれた田崎悦子ピアノリサイタルの模様が放送されました。

田崎悦子さんの実演は聴いたことはないのですが、CDは何枚か持っていて、バッハのパルティータなどは厳さの中に鬼気迫るような生命感が満ちていてとてもよく、ずいぶん聴いたCDでした。

このところCD店で目についていたのは、この方の新譜で、なんとブラームスのop.117/118/119、ベートーヴェンのop.109/110/111、シューベルトのD.958/959/960というこの上なく濃厚な作品を集め入れた、4枚組のアルバムでした。

なんと思い切ったCDか!というのが正直な印象で、昔ならこういう選曲はよほどの大家でもできなかったことかもしれません。
同時に、この三人の作曲家最晩年の象徴的な傑作ばかりを、3つずつ組み合わせて並べましたという、音楽的必然性のなさが見え隠れする印象もないではありません。
でもまあ、これはこれで面白いので、本当なら買ってみたいところでしたが、6480円ともなると安くもないし、それでも敢えて買うにはよほど内容に期待できるところがなければ…という面があり、まだ買っていないところにこの放送でしたから、まさにうってつけのタイミングだったわけです。

まずはベートーヴェンの最後のソナタ。
ステージにあるピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、これまでの田崎さんの、どこか自分を追い込んでいくような熱っぽい演奏の印象からすると、この選択は「???」という感じでしたが、その杞憂は開始早々現実のものとなりました。

冒頭の激しいオクターブとそれに続く和音は、なにやら虚しく、ずいぶんと頼りなげにほわんと響きました。
正直いうと、このベートーヴェンは少し予想外で、CDをリリースするからにはよほど手の内に入った、説得力のある演奏が期待できるのだろうという気がしていたのですが、少なくとも111では熟成不足という印象を免れないものでした。
また意外なことに、技術的にもずいぶん危なっかしい場所が散見され、この崇高なソナタを堪能するまでには至らなかったというのが正気なところ。それに追い打ちをかけるようにベーゼンの先の細い体質が浮き彫りとなり、残念ながらベートーヴェンの作品の姿を描ききることが苦手なように感じました。

ピアニストとピアノ、いずれの要素によるものかはともかく、何かが表現として伝わってくることはないまま、どこかハラハラさせられながら111は終わりました。

それが多少なりとも挽回したのは、時間の関係で第一楽章のみだったシューベルトのD.960で、ベートーヴェンに較べてはるかに自然で弾き込まれている様子がみなぎります。このピアニストの奥深いところまでこの作品が根を下ろしていることがわかり、印象は好転しました。
暗譜と練習成果に依存するのではなく、弾き手に作品が深く刻み込まれているおかげで つぎつぎに曲が自発性を持って展開します。

さらにはピアノもシューベルトとベーゼンは仲がいいようで、ベートーヴェンのときに感じたようなハンディはずっと後方へ退きました。

ベーゼンドルファーというピアノは、それ自体とても魅力的で個性的で、その丁寧な造りには工芸的な美しささえあるけれど、これ一台で演奏会をまんべんなくカヴァーしていくのは難しいなぁ…という気がしてしまうのは、今回も例外ではありませんでした。
この楽器でなくては出せない美しさや絶妙のニュアンスがあるのは確かだけれど、同時にダイナミクスやオーケストラ的な広がり、モダンピアノに求められるパワーやメリハリなど、多くの制限制約を受けることも実感させられます。

田崎さんはいわゆるハイフィンガー奏法なのか、いつも手の甲を立て、指はハンマーのように忙しく上下する様子は、思えば、昔の日本人はみんなこんな弾き方をしていたなあと、まるで昭和の思い出にふれたような懐かしい気がしました。
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もうひとつの戦い

NHKのBS1で『もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い〜』が放送されました。

これまでコンクールのドキュメントというと、演奏者側にフォーカスするのが常道で、コンクールにかける意気込みやバックステージの様子など、悲喜こもごもの人生模様を密着取材するものと相場が決まっていました。

ところが、今回は公式ピアノとして楽器を提供するピアノメーカーおよび調律師に密着するという、視点を変えたドキュメントである点が最大の特徴で、途中10分間のニュースを挟んで、実質100分に及ぶ大きなドキュメンタリーでしたから、その規模と内容からみて、これまでには(ほとんど)なかったものではなかったかと思います。

テレビ番組の情報などに疎いマロニエ君は、だいたいいつも、後から気が付くなり人から聞くなりしてガッカリなのですが、今回はたまたま当日の新聞で気がついたおかげで、あやうく見逃さずに済みました。
こんな珍しい番組を見せないのもあんまり可哀想なので、今回ぐらい教えてやるかというピアノの神様のお計らいだったのかもしれません。

前半は主にファツィオリとカワイ、後半はヤマハが中心になっていて、スタインウェイは必要に応じて最小限出てくるだけでしたが、とくにスタインウェイ以外の調律師が全員日本人というのも注目すべき点だろうと思います。

ヤマハとカワイは日本のピアノだから日本人調律師が当たり前のようにも思いますが、だったらファツィオリはイタリア人調律師のはずであるし、もし本当に必要ならヤマハもカワイも外国人技術者を雇うのかもしれません。それだけ、日本人の調律師がいかに優秀であるかをこの現実が如実に物語っているとマロニエ君は解釈しています。

さて、近年あちこちのコンクールでも健闘している由のファツィオリは、今回のショパンコンクールでは戦略の誤り(と言いたくはないけれど)から弾く人はたったの一人だけ、しかも一次で敗退するという結果でしたが、現在のファツィオリを支える越智さんの奮闘ぶりが窺えるものでした。

ショパンにふさわしい温かな深みのある音作りをしたことが裏目に出てしまい、ほかの三社がパンパン音の出るブリリアント系の音と軽いタッチであったことから、ピアノ選びでは皆がそっちに流れてしまいます。そこで、急遽派手めの音を出すアクションに差し替えることで、限られた時間内にピアノの性格を修正しますが、時すでに遅しといった状況でした。
しかし、よく頑張られたと思いました。

カワイは小宮山さんというベテランの技術者が取り仕切っておられ、ピアノの調整管理以外にも演奏者へのメンタル面のケアまで、幅広いお世話をひたすら献身的にされていたのが印象的でした。フィルハーモニーホール内には通称「カワイ食堂」といわれるお茶やおやつのある小部屋まで準備されており、そこはコンクールの喧騒から逃げ込むことのできる、安らぎの空間なんだとか。

しかし一次、二次、三次、本選と進む中、最後の本選でカワイを弾く人はいなくなり、そこからはヤマハとスタインウェイ2社の戦いとなります。

ファツィオリの越智さん、カワイの小宮山さん いずれも技術者であり楽器を中心とするこじんまりとした陣営で奮闘しておられたのに対し、ヤマハはまるで印象が異なりました。
ヤマハは人員の数からして遥かに多く、見るからに勝つことにこだわる企業戦士といった雰囲気が漂います。
まさにショパンコンクールでヤマハのピアノを勝たせるための精鋭軍団という感じで、周到綿密な準備と、水も漏らさぬ体制で挑んでいるのでしょう。

各メーカーいずれも真剣勝負であることはもちろんですが、その中でもヤマハの人達の独特な戦士ぶりは際立っており、ときにテレビ画面からでさえ言い知れぬ圧力を感じるほどで、こういう一種独特なエネルギーが今日の世界に冠たるヤマハを作り上げたのかとも思います。

ファツィオリも、カワイも、各々コンテスタントのための練習用の場所とピアノなどを準備はしていましたが、ヤマハはまず参加者(78人)が宿泊するホテルの全室に、80台の電子ピアノを貸出しするなど、ひゃあ!という感じでした。
また、いついかなるときも、ヤマハのスタッフは統制的に動いており、カメラに向かって言葉を選びながらコメントする人から、何かというと必死にメモばかり取っている人など、組織力がずば抜けていることもよくわかりました。

ステージ上でも、何人ものスーツ姿の男性達がわっとピアノを取り囲んでしきりになにかやっている光景は、一人で黙々と仕事をする調律師のあの孤独でストイックな光景ではなく、まるで最先端のハイテクマシンのメンテナンス集団みたいでした。

はじめは本戦出場の10人中3人がスタインウェイ、7人がヤマハということでしたが、直前になって2人がスタインウェイへとピアノを変えたことで5対5となり、優勝したチョ・ソンジンが弾いたのはスタインウェイでした。

大相撲で「気がつけば白鵬の優勝…」というフレーズが解説によく出てきますが、気がつけばスタインウェイで今年のショパンコンクールは終わったというところでしょうか。

それにしても、コンテスタントはもちろん、ピアノメーカーも途方もないエネルギーをつぎ込んでコンクールに挑んでいるわけで、それを見るだけであれこれ言っていられる野次馬は、なんと気楽なものかと我ながら思いつつ、番組終了時には深いため息が出るばかりでした。
いずれにしても、とても面白い番組でした。
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さらにひと手間

タッチが軽く生まれ変わったディアパソンでしたが、喜びもつかの間、想定外の変化が待っていました。

本当に軽くてごきげんな状態にあったのは、厳密にいうとはじめの一日のみで、その後は弾くにつれ、時間が経つにつれ、しだいにまたも粘りのようなものが出てきて、ちょっと様子がおかしくなってきたのです。
「ん?」とは思っているうち、数日後にはあきらかに状態が変わっていることを認識せざるを得ないまでの状態に後退してしまいました。

かといって、完全に昔のタッチに戻ったわけではないものの、軽やかさは潮が引くがごとくみるみる失われてしまったのは事実でした。ダウンウェイトを量るとおしなべて数グラム増加しており、やはりなんらかの変化が起きているようです。
ちなみにダウンウェイトを量る錘は、このピアノをOHしてくださった技術者さんが昔プレゼントしてくださったもので、こういうものがあると、なにかと重宝します。

さっそくBさんに報告すると、すぐに様子を見てくださることに。
果たして、ほぼ全域にわたって粘りのようなものがでているのは、キーを触るなり確認・同意され、さっそく再調整がはじまります。

概ねの見立ては次のようなものでした。

キャプスタンと接するウィペンのヒール部分のフェルトが、キャプスタン位置の修正によって、これまで接触していなかった毛羽立った弾力のあるフェルトの一部を含んでいたため、そこが使われ始めたことで短時間で凹んでしまい、結果的に打弦距離が伸びるなどして変化を起こしたのではないかということですが、あくまで推測の域を出ず断定ではありません。

結局、打弦距離などはたらきと言われる部分の再調整などをあれこれされたようです。

で、3度目の正直ではないですが、再び軽快なタッチを取り戻し、それから一週間ほど経ちますが、今度はとても落ち着いているようです。

タッチも音色も整ったことで、現在はとてもまとまりのあるピアノになりました。
ダイナミックでもゴージャスでもない、むしろ渋みのある控えめな音ですが、これまでが音色がバラバラでまとまらないイメージもあるディアパソンでしたので、いまはかなり端正なフリをして取り澄ましているようにも見えます。

細かい点をあげつらえばキリがないけれど、いちおうの完成形にかなり近づいたと思います。
これでもマロニエ君はあまり深追いはしない質なので、とりあえず満足ですし、やはりBさんのお仕事は見事だと思います。

それにしても、ピアノのタッチというものは、いまさらながら繊細精妙な領域で、各部のフェルトのわずかな馴染みひとつでも全体のタッチ感に思わぬ影響があるなどは驚きでした。
こういう経験は、日常のあれこれの場面においてもものを見る目が変わるようで、たとえば料理でも、素材の切り方、わずかな火加減、調味料のほんのひとふりでたちまち味は変わり、ひいては全体の印象を左右するということにも繋がるような気がします。


さて、昨夜は車仲間のお茶会があり、まったく同じ型の車でも、わずかな製造年の違いなどによって、微妙な、しかし明らかな乗り味の違いがあるのはなぜかということが話題になりました。
その中で一人が言うには、設計からスペック、タイヤやホイールのサイズまでまったく同一であっても、例えばホイール(アルミ)のデザインが違うことで、アルミ素材の違いがあったり、形状の違いから回転時の質量のバランスが微妙に違う、あるいはそもそも重さが僅かでも違えば、それは即ハンドリングや乗り味に影響する可能性があるというのです。

車のバネ下重量(サスペンションに取り付けられるタイヤやブレーキ装置などの重さ)は、一説によれば車体側の重量の15倍に匹敵するといわれており、これはピアノのハンマーの重量が、鍵盤側では5倍に増幅されるのと似ています。やはりすべての複雑で精密な機構というものは、わずかの違いや変化が、思いもよらぬ結果となって現れることは「ある」ようです。

ディアパソンに話を戻すと、タッチの問題なども考慮していることもあって、現在はどちらかというとこじんまりとした穏やかなピアノになっていますが、奥行き210cmのピアノという点からいうなら、もうひとつ腹に響くものが足りていないようにも感じます。
しかし、ディアパソンの醍醐味は、変な色付けのされていない、素材そのものの味を味わう料理のようなものだと思います。それをいうなら、果たして使われた素材がどれほどのものかという疑問もあり、いうまでもなくこのピアノは高級品ではありません。

それでも、現代のピアノが化学調味料満載の味付けによる、コンビニスイーツみたいな設計された味だとすると、ディアパソンには化学によるトリックはなく、素朴で普及品なりの本物であることは間違いなく、だからこそ気持ちがホッとさせられるピアノなのだろうと思います。
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ショパンの本

書店で『ショパンの本 DVD付』というのが目に止まりました。
これは音楽之友社から出ているムックで、この手はどちらかというとあまりそそられないマロニエ君ですが、今回はパラパラやって読んでみたい気になり買ってみることに。

ちなみに、ムックとはWikipediaによれば「雑誌と書籍を合わせた性格の刊行物で、magazineとbookの混成語、和製英語。」とあります。へええ。

本自体は、ショパンの生涯のダイジェストからはじまり、主要作品の解説、エディションや装飾音などについての記述など、ひとつひとつが深く掘り下げているわけではないけれど、ちょっと読むぶんにはそれなりに面白くできていると思います。
とりあえず半分ほど読んだところで、とくに印象に残ったのは矢代秋雄さんの「私のショパン」という文章で、ショパンをピアニズムや響きの美しさでばかり捉えるのは間違いで、その卓越した作曲技法や構成力のすばらしさ、対位法の手腕に高い価値を認める内容はさすがだと思いました。
言い古された安全な内容を、ただ並べ替えるだけのありふれた音楽評論家とはまったく違った、作曲家という創造者としての独自の視点と考えには、学ぶ点が多々ありました。

そうこうしているうちに、付属で綴じられたDVDがスムースにページを繰るにもじゃまになるし、その内容はどんなものだろうかと思い、読むのを一時中断してこっちを見てみることに。

果たしてピアニストの高橋多佳子さんによる演奏と、上記のショパンの一生のダイジェストをさらにダイジェストしたようなものの組み合わせで約60分の音と映像でした。

冒頭、ショパンの生家の写真を背景に初期のポロネーズが流れてきますが、そのピアノの音にぎょっとしてしまいました。かなりギラついた派手な感じの音で、ピアノは調整の仕方や演奏される環境によって音はかなり変わるものだとしても、まずスタインウェイとは思えないし、ベーゼンドルファーはさらに違う、ベヒシュタインのようなドイツ臭さもないし、むろんプレイエルでもない。
消去法でファツィオリか…とも思いましたが、残念ながらその短時間ではついにわかりませんでした。

で、そうこうしているうちにピアノごと演奏シーンが映しだされましたが、なんとそこにあるのはヤマハのCFXで「うわあ、そういうことか!」と思いました。なぜかヤマハというのはまったく念頭になかったので、答えを知ってみれば「なるほど」と思いましたが、あとからそんなことを言っても遅いですね。

善意に解釈すると、ショパンを意識した甘酸っぱい音作りがなされたのかもしれません。
戦前のプレイエルが、ふわっとやわらかな軽い響きの中で、一種独特の、腐敗しかけた果物のような甘い音を出し、それがショパンの音楽に見事にマッチングするのですが、しかしそういう複雑な音色とも違った印象でした。

さて、このDVDを見ていて、ふと目が釘付けになったことがありました。
カメラが鍵盤近くまで寄るシーンが何度かあり、ゆっくりした曲のときにそこで見えた鍵盤の動きです。

ヤマハのCFXなので必然的にピアノも新しいし、鍵盤は一分の隙もなく完璧な一直線に並んでおり、弾かれたキーだけがえらく従順に軽々と下にさがるかと思うと、指の力が抜けたとたん、一気にサッと元に戻ります。
これ、ごく当たり前のことを書いているようですが、その当たり前の動きをつぶさに観察していると、なんだか恐ろしいまでに磨きぬかれた、洗練の極致に達した精巧さというものの凄味をひしひしと感じずにはいられませんでした。

下に降りるときも、ただストンと下に落ちるのではなく、奏者の力加減を常に斟酌しながら、それが正確なタッチの動きとして反映されていて、まるで人間の指とキーのメカニズムがつながっているような動きと言ったらいいでしょうか。
さらに驚くべきは、返り=すなわち鍵盤が元の高さに復帰しようとする動きで、その際のこれ以上でも以下でもないというまさに適正な素早さといったら、見ているだけでほれぼれするような美しい動きで、「指に吸いつくような」とはまさにこういうことなんだと思いました。

マロニエ君はCFXは弾いたことはありませんが、視覚的にこれほど弾きやすそうな様子がこぼれ出ている映像は初めて見たような気がします。
これだけでもこの本を買った甲斐がありました。

音には好みなど主観の部分もあり、単純な優劣を決めるのは難しいものですが、その点でいうと、奏者の意のままになるアクションおよび鍵盤周りというのは、優劣の明快な領域ではないかと思います。
とりわけヤマハのアクションは、おそらく世界最高の精度を持つ逸品なのだろうとあらためて感じ入ったしだいで、ヤマハピアノを買うことの中には、ヤマハの優秀なアクションを手に入れるという意味も大きいのかもしれません。
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ショパンコンクールのピアノ

今年はショパン・コンクールの年だったにもかかわらず、詳しい日程などもよく知らないうちにコンクールは始まり、そして終わっていました。

ネットニュースで韓国のチョ・ソンジンが優勝というニュースを見るにおよんで、ああ彼か…と思うと同時に、ソンジンは日本でもかなりコンサートなどをやっていたこともあり、ショパンコンクールからまったく未知の新人が登場したという新鮮味もないのはいささか残念でもあります。
ですが、最近はすでにステージの経験も積んだセミプロのような同じ顔ぶれが著名コンクールを渡り歩くのが常のようでもあり、まあそういうところか…と思うことに。

終了しているのに今更という感じもありましたが、逐一配信されているはずの動画を探してみると、コンクールのホームページには行き当たったものの、最近はサイトの作りも大掛かりなわりに、単純に動画を見ることが意外に容易ではないようです。

こういうことの得意な人には雑作もないことかもしれないが、めっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、あれこれ苦労している間に興が削がれてきて、だんだんどうでもいいような気になってきたりで大変です。

コンクール自体が終了して、サイトの内容も日ごとに変わっているのどうかわかりませんが、あるとき、出場者と使用ピアノが記された表のようなものを見ることができました(もう一度見ようと思っても、もうわかりません)。それによると例の4社のピアノのうち、今年はヤマハとスタインウェイが大半を占め、カワイはほんの僅か、ファツィオリに至っては一人か二人で、後半の出番は皆無だったようです。

以前どこかのコンクールでは、ファツィオリに人気が集中したというようなことも聞きましたがが、今回はまた一転どうしたわけなのでしょう。

せめて限られた動画だけでも見てみようと、たまたまあった第1次で8人ぐらい出てくる4時間ちょっとの映像があったので、それをかい摘んで見てみました。果たしてそこに聴くヤマハ、スタインウェイ、カワイの順で出てきたピアノは、どれもかなりきわどい感じでマロニエ君の好みとは程遠いものでした。

共通しているのは、コンクール用の特別仕様なのか、やたらパンパン鳴るばかりで深みのない、どちらかというと電子ピアノ的な音で、とくにヤマハなどはいささか疲れてくる感じの音に聴こえますが、そのヤマハを選ぶ人がずいぶん多かったようです。
スタインウェイも似たような傾向で、キーを押せばたちまち会場内に鳴りまくるといった感じで、馥郁たる響きやタッチによる音色の妙などというものは感じられません。
カワイはそこにちょっと東欧的な郷愁のようなものがあるけれど、基本的には似た感じで、3台とも極限までチューンナップされたコンクール用マシンのようなイメージでした。
極端な話、コンクールの間だけ保てばいいというような考え方なのかもしれません。

こうなると、ファツィオリはどんな音だったのか、いちおう聴いてみたくなったものの、これがなかなかうまくいきません。

あれこれ探しているうちに、どなたかのブログに行き当たり、コンクールのピアノを担当した技術者にインタビューというのがあって、それを読んでいると、ファツィオリの有名な日本人技術者によれば、ショパンらしくあたたかい音に調整したアクションと、もうひとつチャイコフスキーコンクールで使ったアクションを準備していたところ、他社のピアノの傾向からショパン用のアクションは陽の目を見なかったというようなコメントが目に止まりました。

ピアノメーカーも戦いというのはわかりますし、出る以上は選ばれて弾かれないことにははじまらないのもわかります。でも、それがあまりに過熱してしまうと、それぞれのピアノの本来の持ち味というより、ショパンコンクール仕様の特別ピアノの戦いという限定枠バトルという感じで、そう割り切っておけばいいのかもしれませんが、なんとなくマロニエ君は釈然としないものも残ります。

もちろん企業たるもの、きれい事では立ち行かないのが世の常ですが、理想のピアノの追求というものとは、少し方向が違っているような印象を覚えます。むろん現地で聴けば素晴らしいものかもしれませんが。

気になったのは、あれだけ製品に自信満々だったファツィオリは、more powerをもとめて早くもフレームなどのモデルチェンジを敢行したとのことで、奇しくもマロニエ君がパワーピアノだと感じたチャイコフスキーコンクールでのファツィオリはそのニュータイプだったそうで、どうりでと納得でした。

コンサートグランドたるもの、大きなホールでオーケストラにも伍して使われるピアノなので、力強い鳴りというのもわかるけれれど、だんだんラグビー選手のようなマッチョピアノになっていくとしたら、個人的には嬉しいことではありません。

どんなピアノが選ばれるのか、どんなピアニストがどんな演奏で入賞するのか、どんな絵や小説が賞をとるのか、すべてはまず情報戦というか、それに特化した戦いの色合いを帯びてきているこの頃、やたらと先鋭化するばかりで、どうも素直に楽しめないものになってしまったようです。
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軽くなりました!

9月の中旬からスタートした調律師Bさんによるタッチの改善作業は早くも5回目を迎えました。

ピアノの調整というものは、やりだすと際限がないものですが、いちおうの山も見えてきたことでもあり、マロニエ君としては願わくはここらで一区切り(終りという意味ではなく、あくまでも区切り)をつけていただければと考えて、できれば整音と調律までやっていただきたいとお願いしてみました。

今回はキャプスタン位置修正後、未完となっていた調整作業の続きが第一の目的でしたが、このさい調律もしてもらって、いちどきれいに整った音で弾いてみたくなったのです。
その結果を含めながら先に進みたいという目論見です。

今回は約4時間ほどの作業となりましたが、その結果はというと、懸案であったタッチ改善は大成功で、長年背負ってきた荷を下ろしたように軽快になり、めでたくこのピアノのオーバーホール以来、最も弾きやすい均一なタッチを獲得するに至りました。

さらに整音と調律がなされたことで、これまでとはかなり違った表情をみせるピアノへと変貌し、ついにここまで来たか!と思うと、その長かった道のりは感慨もひとしおでした。

ダウンウェイトを計ってみると、概ね50g未満となっており、もはやスタインウェイ並の数値です。
もともと重い部類に属するディアパソンとしては、これは望外のものであるし、タッチの感触も軽快で、フレーズの終りなど手首を上へ抜いていくような局面でも、細やかにきちんと表現できるものになったことは予想以上でした。

なにより特筆大書すべきは、鍵盤の鉛調整であるとか、ハンマーを軽いものに交換もしくは整形によって軽くするなどの方法は一切とられていないという点です。
以前にも書いたように、ずれていたキャプスタンの位置を修正した以外は、ひたすら各部各所の調整によって達成されたもので、これはピアノの整調において、最もオーセンティックなやり方であったと思います。

マロニエ君は、Bさんの技術者としての思慮深さと、結果に対して尊敬と感謝の念を禁じえません。やはり中途半端に諦めてはいけないということであり、単に嬉しいだけでなく、いい勉強にもなったというのが率直なところです。

重く暑苦しいタッチに慣れてしまったためか、はじめは戸惑うほど楽々とキーが沈み、かつ速やかに元に戻ります。しかもpやppもなめらかでコントローラブルであることは、Bさんの技術の奥深さと技術者魂をまざまざと感じます。

軽くてもストンと一瞬で下に落ちてしまうタッチでは、強弱や音色のコントロールがしづらく楽しくありませんが、入力に対していかようにも反応してくれるタッチは、自分の体とアクションがダイレクトにつながっているみたいで、とくに装飾音などがきれいにキマってくれたりすると、弾いていて俄然楽しくなります。

実はマロニエ君は、以前にも経験があったのですが、冴えないタッチを改善するための策としては、特にこれという特効薬のような技法があるのではなく、セオリー通りのきちんとした調整を忍耐強く積み上げることによって、ようやく達成できるものということを理解したことがありました。
そうはいっても、ピアノの調整はプロの専門領域なので、技術者の方の判断こそが決め手となり、持ち主は何の手出しもできません。そのためにこういう難所を越えられないまま、ずっと弾きにくい状態が続いているピアノはものすごくたくさんあるはずです。

そういう意味では、ホールのピアノの保守点検などは、いわば調整領域のオーバーホールみたいなところを含んでいると思われ、これは確かに必要なんだということが痛感させられます。

我が家のディアパソンでは、結果として対症療法的な解決ばかりを探っていたのかもしれず、かくなる上はタッチレールというアシスト装置の取り付けすら考えていたわけで、今回は、そのタッチレールを取り付けるかどうかを判断する、最終確認という意味もあったので、きわどいところだったという気もします。

ではこれで終りかというと、どうでしょう…そうでもあるような…ないような、問題がないわけではないけれど、あまりそういうことにばかり気持ちが行っていると、一番大切な「ピアノを楽しむ」という部分が置き去りになってしまうので、しばらくはこの状態を楽しむべきだと思っているところです。

持ち主が楽しめば楽しむだけ、当人はむろんのこと、ピアノも幸せであるし、なにより技術者さんも腕をふるってくださった甲斐があるというものですから。
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『ピアノのムシ』3

『ピアノのムシ』の中に描かれているあれこれの内容は、多くのピアノ技術者および業界が抱える内なる心情が澱のように堆積していること、すなわちピアノを取り巻くの社会の恒常的不条理をマンガという手段を得て、おもしろおかしくフィクション化したものだと思います。

主人公の蛭田は、とてもではないけれど実社会では通用しそうにない不適合人物として描かれながらも、このマンガの中の真実を伝えるナビゲーターとして縦横に動き回ります。ここでの蛭田のワルキャラは、いわば意図された偽悪趣味なのであって、本当のワルはいずこやという点が、まるで対旋律のように流れており、これこそがこのマンガの核心であることは明白でしょう。

大手メーカーと小さな販売店の関係。あるいは販売店同士の戦い。
いたるところに見え隠れする卑怯で悪辣な手口。
ホールの官僚的な管理体制と、そこにつけこんで結託する指定業者の壁。
すべてを調律師のせいにするピアニストはじめピアノを弾く人達。
無理難題をサディスティックに押し付けてくる大メーカーや各関係者。
実力もないのに勘違いでピアノを弾くピアニスト。

いっぽうで、専門性を武器にお客にウソをも吹き込んで、無用の修理や買い替えを迫る技術者。
楽器の特質を知らず、却ってピアノをダメにしてしまう技術者。

とりわけお門違いの要求やクレームをつけてくる演奏者側のくだりは、マロニエ君も伝え聞いて知っていることも少くないし、いずこも同じらしいことを痛感させられます。

また調律師ばかりが被害者というのでもなく、これ自体もピンキリで、ピアノの修理に疎い客が、悪徳技術者に弄ばれることにも警鐘を鳴らしています。これをして「調律師と詐欺師は紙一重」だとまで言い切っているのは痛烈です。
調律師の個人的な悪行もあれば、メーカーの営業サイドの思惑を背負わされたケースもあり、まあどんな世界でも油断はできないということですね。

各場面で発射される蛭田の暴言の中には、実はとても聞き逃すことのできない、物事の深いところを突いた言葉が散見されます(具体的には書くのは控えますが)。
蛭田は、楽器メーカー、大手販売店、ホール、ピアノのユーザー、ピアニスト、ピアノ教師、さらには今どきの同業者など、ピアノ業界を生きていく上で避けては通れないもろもろの人物の大半を、一様に見下して軽蔑しているのでしょう。

しかも、それが本質においては勝手な決めつけではなく、蛭田の主張のほうがよほど常識的で、正当な根拠のある場合が多く、いちいちニヤリとさせられます。
それを蛭田というはみ出し者のキャラクター、さらには一見無謀な態度にかぶせながら、実はちゃっかり真実を語っているあたりは、なるほどマンガの世界にはこういう表現方法があるのかと感心してしまいます。

蛭田の痛烈な罵詈雑言の数々は、まともな技術者なら一度は言ってやりたい誘惑(衝動?)にかられる本音であり、場合によっては「叫び」なんだろうと思います。

蛭田には、調律師の国家資格もなければ、エメリッヒ(おそらくスタインウェイ)の認定技術者でもなく、調律師の協会すら所属していません。
肩書なんぞ「うそっぱち」というところでしょう。
実力ひとつで勝負しているまさに一匹狼というわけですが、その勝負にすら積極的ではなく、ほとんど世捨て人同然の生き方をする中で、唯一熱中するのが格闘技観戦というのもわかる気がします。
自分の身を置く世界には何ひとつ希望はないという諦観の表れかもしれません。

そういえば、マロニエ君の知る調律師さんの中にも、ピアノの音や響きには人一倍のこだわりがありながら、いわゆる群れをなさず、趣味はなんとボクシングという猛者がおられるのを思い出しました。
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うたかたの軽快

位置のズレたキャプスタンを調整するため、ディアパソンの鍵盤一式を持ち帰っていただいて1週間余、作業は無事に終わったとのことで、いよいよ「矯正」されて戻ってくる日を迎えました。

我が家は外の入り口から玄関まで階段があり、調律師さんと二人、これをエッサエッサと抱えて上まで登るのはなかなかに骨の折れる力仕事です。無事にピアノ前の椅子に置いて手を離したときは、両肩が上下するほど息遣いも荒くなりました。

近ごろは女性のコンサートチューナーも増えていると聞きますが、さらに奥行きのあるフルコン用の鍵盤一式を自在に動かせないとこの仕事はできないでしょうから、かなり大変だろうなあと思ったり。

さてさて、果たしてどんな結果になるか興味津々ですが、さすがにマロニエ君も、この領域は期待した通りに右から左に事が進むことはなかなかないことを自分なりに経験してきているので、単純にさあこれで解決というようには思わないぐらいの覚悟は一応ついています。

それでも、ズレていたものが正しい位置に戻ったことによる良さはきっとあるはずなので、期待はまず半分ぐらいに抑えながらキーに触れてみると、ん?!?
ホ、かるい!
少なくともこのピアノと過ごした数年の中で、一度も経験したことのなかった軽さに到達できていることに、嬉しいとも驚いたともつかない、むしろじんわりした達成感が遅れてやってくるような…不思議な気分になりました。

長らく預けていたこともあって、あれこれのチェックや調整もしていただいたようで、この軽さがキャプスタンの位置の修正のみによるものではなかろうと思いますが、とにかく、軽くなったことは間違いなく今眼の前にある事実なわけで、ひとまずは大願成就というところで胸を撫で下ろしました。

マロニエ君としては、ひとまずこれで充ーー分満足なのですが、調律師さんとしては、仕上げた鍵盤一式をポンとピアノへ放り込んでハイ終わりというわけにもいかないようで、ここからまたピアノに合わせてさらなる現場調整と相成ったのはいうまでもありません。

こちらは何はともあれ、軽くなったことばかりを喜んでいるわけですが、聴けば鍵盤がやや深めになっているとかで、工房での作業時の状態と、実際のピアノの棚板に置いた状態では微妙な違いが出てくるのだそうで、要するにそのあたりの調整作業に取りかかられました。

しばらくののち、一区切りついたところで弾いてみると、ん?んんん?
軽くなったはずタッチがまた少しネチャっとしてきたようで、さっきのはつかの間の喜びだったのかと思いました。
調律師さんももちろんこの変化はすぐに感じ取られ、その後もあれこれの調整をされましたが、あいにくとこの日は時間切れとなり、少し挽回したところでまた次回へ持ち越しということになりました。

不思議なのは、最低音から五度ぐらいの間はひじょうに軽やかなのに、そこから上になると、しだいに変な粘りみたいなものが出てくるという状況です。一度はひじょうに軽快になったことは事実だったので、状態としてはそこまできていると思われ、再度の調整に期待することになりました。
本音をいうと、軽くなったところで微調整はそこそこにして、整音と調律をしてもらって、ひとまず気持よく弾いてみたいものですが、要はここらが自宅での作業の限界を感じます。我が家がクレーンの必要ない環境なら、ピアノごと調律師さんに預けたいところです。


余談ですが、季刊誌『考える人』の2009年春号に掲載された松尾楽器の技術部長の方の談よると、整音に使うピッカーの針は通常3本なのに対して、この方がフェルトの幅に沿ってより均等にゆるませるために針数をふやしたピッカーを作ってみたところ、良い結果がでたというようなことが書かれています。

雑談中、たまたまそんな話になったところ、「あ、私も自分で作って持ってます」と無造作に工具かばんをゴソゴソされて、果たして何本もの「それ」が目の前に出てきたのにはびっくりでした。

技術者というのは皆さんすごいもんだとあらためて思いました。
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『ピアノのムシ』2

マンガ『ピアノのムシ』は、順調に読み進んでいますが、いろいろな意味で感心させられるものでした。

まず読み始めから驚くのは、主人公がピアノ技術者というだけあって、いたるところでアクションや弦や鍵盤など、絵にすることが極めて困難と思われるピアノの内部構造が頻出し、それはほとんどごまかしもなく、あきれるばかりに正確に丁寧に描かれていることです。アップライトの上下前板を外したところひとつ描くのも並大抵の手間ではないでしょう。
この点だけでも、漫画家というのは秀でた画力はもちろん、たいへんな忍耐労働ということがわかります。

また、ピアノを口実にした成功物語やラブストーリーの類ではなく、各章が独立したピアノ技術上あるいは業界に巻き起こるあれこれの裏実情のたぐいが話のネタになっており、勢いかなり専門性の高い内容となっている点にも驚かずにはいられません。

マロニエ君などのピアノ好きが喜ぶのは当然としても、世間一般を見渡せば、ピアノなんてほとんど誰も興味のないものであるし、ましてその調律がどうしたこうしたなんて意識したことさえないでしょう。そんな世間を相手に、このマンガが訴え問いかけて行くものは何のか?さらにはメインターゲットとなる読者はだれかという疑問が終始つきまといます。
たしかにマロニエ君を含む一部の好事家や調律師さんなど業界関係者にはおもしろいととしても、まさかそんな超少数派を相手に、雑誌に連載するマンガとして成り立っていくものだろうかと不思議な気分。

もし自分なら、まったく興味のないジャンルで意味もわからない専門的なことの羅列だったら、きっとページを繰る気もしないでしょう。しかるに連載が継続し、順次単行本(現在6巻まで刊行)になっているのですから、果たしてその購読層というのはどういう人達なのか…まあここが最大の不思議です。

また、一読するなりわかりますが、そのストーリー立てやそこで取り沙汰されている内容は、とても一漫画家の書けるようなものではなく、よほど専門家が張り付いて指南と確認を繰り返しているに違いないと思っていましたが、巻末のページに取材協力をした調律師さんやピアノ店などの名前が列記されており、やはり!と納得でした。

巷ではよく「マンガの影響で」とか「あれはもともとマンガがルーツ」などというような話を耳にすることがありますが、その流れでいうと、これを読んで、一流調律師を目指す若者が出てくるのでしょうか?…だとしたら、それはそれでおもしろいと思います。というのも、普通に調律学校や養成所などにいってそれなりの技術者になるより、どうせやるなら始めから一流を目指して挑むというのは大事なことだと思うからです。

マロニエ君の認識では、おしなべてマンガの主人公というのは、何らかのかたちで「英雄」である場合が多いのだろうと思われますが、その点でいうと、主人公である調律師の蛭田は、業界(とりわけ技術者)の間で作り上げられた一種の「英雄」なのだろうという気がします。

物事に拘束されず、昼から酒を飲み、超のつく無礼者、相手が誰であろうと言いたい放題、仕事も選びたい放題、嫌なものはイヤだと完膚なきまでに拒絶しまくる、正道から外れた一匹狼、それでいて技術者としての腕は突出して天才的で、おそろしく繊細な耳を持ち、どんな難題難所でもたちどころに原因を突き止め解決してしまうという、いわばカリスマ的超一流調律師とくれば、(数々の振る舞いはともかく)これはもう調律師の理想の姿でありましょう。

並外れた才能と実力ゆえに、人の顔色をうかがうこともなく、組織の一因として汲々とすることもなく、三船敏郎演ずる素浪人のように、哀愁を秘めつつ好きなように生きていくニヒルなサムライの姿に通じるのかもしれません。

これは裏を返せば、蛭田の取っている行動は、世の調律師さんのの置かれた忍従の世界を、逆写しにしているようにも受け取れます。
忍従のちゃぶ台をひっくり返すように展開されていく一流調律師の目の前に広がる数々の出来事、それがこの『ピアノのムシ』なんだろうと思いますし、そんな奇想天外が許されることこそマンガの醍醐味というところでしょう。

それにしても、繰り返すようですが、よくぞこんなマンガが出てきたもんだとその僥倖には素直に驚き、素直に喜びたいと思います。
ありきたりの発想では商売もままならない世の中、ニッチ商品なる言葉を初めて聞いたのがいつ頃の事だったわすれましたが、これはまさにマンガのニッチ作品なのかもしれません。
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『ピアノのムシ』

以前から書こうと思いつつ、つい書きそびれていたこと。

マロニエ君は本はそれなりに買うものの、マンガは日本の誇るサブカルチャーなどと云われていますが、基本的に興味がありません。
ただ、いつも行く福岡のジュンク堂書店は、4Fが音楽書や芸術関連の売り場なので、1Fからエレベーターで直行し、そこから下りながら他のフロアにも立ち寄るというのがいつものパターン。

4Fでエレベーターのドアが開くと、そこはものすごい量のマンガ本売り場で、狭い通路を左に右にとすり抜けたむこうが音楽書や美術書のエリアとなっているため、よく通る場所ではあったのです。

最近はクラシック音楽やピアノを題材にしたマンガもあるようで、その最たるものが「のだめ」だったのかどうか…よく知りませんが、楽譜やCDまでマンガから派生したアイテムが目につくようになり、もはや「ピアノ」という単語の入ったタイトルぐらいでは反応しなくなっていました。
ところが、あるとき本の表紙を見せるように並べられた棚を通りかかったとき、一冊のマンガ本の表紙には、グランドピアノを真上から見たアングルで男性が調律をしている様子が描かれているのが目に入りました。しかもそれが、やけに精巧な筆致で、フレームの構造およびチューニングピンの並び加減から、描かれているのはスタインウェイDであることが明白でした。
「えっ、これは何…?」って思ったわけです。

フレームに「D」と記されるところが「E」となっているのは、まさに内容がフィクションであるための配慮で、歌舞伎では忠臣蔵の大石内蔵助が大星由良之助になるようなものでしょう。
これがマロニエ君が荒川三喜夫氏の作である『ピアノのムシ』を認識したはじまりでした。

そういえば、アマゾンで書籍を検索する折にも、近ごろは関連書籍として「ピアノの…」というタイトルのマンガが多数表示されてくるし、それもいつしか数種あることもわかってきていたので、いったいどんなものなんだろう?…ぐらいは思っていましたが、もともとマンガを読む習慣がないこともあって、ずっと手を付けずにきたというのが正直なところです。

さらに店頭ではマンガは透明のビニールでガードされて中を見ることができず、「見るには買うしかない」ことも出遅れの原因となりました。

話は戻りますが、その表紙の絵ではアクションを手前に引き出したところで、そもそも、あんなややこしいものをマンガの絵として描こうだなんて、考えただけでも大変そうでゾッとしますが、それが実に精巧に描かれているのは一驚させられました。
察するに、これは弾く人を主人公としたメランコリーな恋愛や感動ストーリーではなく、あくまで調律師を主軸とした作品のようで、帯には「ピアノに真の調律を施す唯一の男」などと大書されており、さすがにここまでくると興味を覚えずにはいられません。

「買ってみようか…」という気持ちと「いやいや、バカバカしいかも」という思いが入り乱れて、とりあえず時間もなく、この日買うべき本もあったので、このときはひとまず止めました。

その後はちょっと忘れていたのですが、アマゾンを開くと、過去に検索したものや、頼みもしないのにさらに関連した商品が延々と提案されるのは皆さんもご存知の通りで、その中に再び『ピアノのムシ』があらわれました。
いちど興味が湧いたものは、どうも、その興味が湧いたときの反応まで記憶されるものらしく、書店であの表紙を見たときの気分が蘇り、やっぱり買ってみようかという気に。

こうなると、書店に出向いて、あの膨大な量のマンガ本の中から1冊を探す億劫を考えたら、とくにアマゾンなどは1クリックですべての手続きが済むのですから、ついにポチッとやってしまいました。

こうして、我が家のポストに『ピアノのムシ』第1巻が届き、以降続々と増えているところです。
感想はまたあらためて書くことに。
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もう少し弾く…

「できれば、もう少し弾いてください」
先日ディアパソンの続きの調整にこられた調律師さんは、帰りしなマロニエ君にこう云われました。

以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、よろず機械ものというのは、適度に使うことで好ましいコンディションを維持できるものだということを、今また、あらためて感じさせられています。
人の体や脳も同様で、これが関係ないのはデジタルの世界だけかもしれないですね。

むろん使うといっても酷使ではいけないし、機能に逆らう過度な使い方もいけない。
逆に使い方が足りない、あるいは放ったらかしというのも、消耗がないというだけでこれまた良いことはありません。

最も良い例が家屋で、人のいなくなった家というのは、恐ろしいスピードで荒れ果て、朽ちていくのは誰でもよく知るところです。人が住んで使われることで、家はその命脈を保っている典型だと思います。

これはピアノにもある程度通じることです。
ピアノも長年ほったらかしにされると、弦はさび、フェルト類は虫食いの餌食になり、可動部分は動かなくなるかしなやかさを失ってしまうのはよく知られています。かといって教室や練習室にあるピアノのように、休みなくガンガン酷使されるのも傷みは激しいようで、バランスよく使うというのは意外に難しいもの。

マロニエ君宅のピアノはそのどちらでもないけれど、強いていうなら、弾き方が足りないのは間違いないと自覚しています。もともとの練習嫌いと、技術的な限界、さらには趣味ゆえの自由が合わさって、つい弾かなくなることが多いのです。

楽譜を見て、パッと弾けるような人ならともかく、マロニエ君などはひとつの曲を(自分なりに)仕上げるだけでも、相当の努力を要します。しかも遅々として上達せず、それをやっているうちにテンションは落ち、別の曲に気移りし、結局どれもこれもが食い散らしているだけで、なにひとつものになっていないというお恥ずかしい状態です。

知人の中には、ひとつの曲を半年から一年をかけてさらって仕上げていくという努力一筋の方もいらっしゃいますが、あんなことは逆立ちしてもムリ。見ていて、ただただ感心するばかりで、「よし、自分もがんばろう!」などという心境にはとてもじゃないけどなれません。
むしろ、どうしたらあんな一途なことが出来るのか不思議なだけで、むろん自分のがんばりのなさもホトホトいやになるのですが、そこまでしなくちゃいけないと思うと、ますますピアノから遠ざかってしまいます。

心を入れ替えて、一つの曲の練習に没頭するなどということは到底できそうにもないし、だいいち自分には似合いません。たぶん死ぬまで無理で、これがマロニエ君の弾き手としてのスタイル(といえるようなものではないけれど)だと諦めています。

根底には、いまさらこの歳で、ねじり鉢巻で練習したところでたかが知れているし、根本的に上手くなれるわけはないのだから!という怠け者特有の理屈があるのですが、どこかではこれはそう悪い考えでもないとも思っています。

話が逸れましたが、だからピアノにはあれこれこだわるくせして、実際どれくらい弾いているのかというと、毎日平均すると5分~10分弾かれているに過ぎないというのが実のところですし、それも厳密に言えばダラダラ音を出しているだけで、「弾いている」と胸を張って言えるようなものでもない。

で、冒頭の話にもどれば、これではやはり使い方が少なく、楽器の状態としても理想ではないと思うわけです。本当ならきちんと弾いて使って、その上で技術者さんにあれこれ要求するのが順序というものでしょう。

ところがごく最近のこと、たまたま楽譜が目についたので、ショパンのマズルカを1番から順々にたどたどしく弾いていると、ちょっとおもしろくなって、珍しく2時間ほど弾いたのですが、後半はピアノがとても軽々と鳴ってきたし、アクションも動きが良くなったように感じました。

また30分以上弾くと、弾かないから日ごとに硬化してくるように感じていた指も、いくらかほぐれて活気が戻り、ちょっとは動きも良くなるし、そのぶん自由がきいて脱力もできてくるのが我ながらわかって、こういうときはさすがに嬉しくなってしまいます。
この壁を突破すると、いささか誇張的な言葉でいうなら陶然となれる世界が広がるわけです。

普段からきちんと練習を積んでいるような人は、いつもこの「楽しい領域」に出入りしていて、だから練習もモリモリ進むものと思われますが、マロニエ君の場合、滅多なことではこの状況は訪れてくれません。何ヶ月に一度あるかないかの貴重な時間ですが、たしかにこの刹那、やっぱり練習もしなくちゃいけないし、楽器も弾かなくてはと思うのは嘘偽りのないところです。

そうなんですが、その気分が持続しているのはせいぜい翌日ぐらいまでで、それも前日より弱くなっていて、3日目にはきれいに元に戻ってしまいます。マロニエ君自身がそうなってしまうのは一向に構わないけれど、それにつれて、ちょっぴり花ひらいたかに思えたピアノが、また少しずつ眠そうになってくるのはもったいない気がします。

谷崎潤一郎の何かの文章の中に「怠惰というのは東洋人特有のもの」というような意味のことが書かれていて、読んだときはたいそう意外に思った記憶がありますが、その点で言うとマロニエ君はまぎれもなく東洋人なんだということになるんだろうなぁと思います。
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まんべんなく

使いすぎる害と、使わなさすぎる害。

来る日も来る日もふたは閉じたままの使われないピアノも哀れですが、逆にあまりに繁忙を極めるピアノというのも、どこかブラック企業に就職した人のような痛々しさを感じることがあります。

先日もある調律師さんからお電話をいただいて、近くのファミレスでお茶をしていたときのこと。
この方は、福岡のあるホールの保守管理をされているのですが、今年も弦とハンマーの交換をされたらしく、驚いてしまいました。

たぶん20年以上経ったスタインウェイDですが、これまでにも何度か弦とハンマーは交換されており、稼働率の高いホールのピアノというのは、こうも消耗が激しいのかと思うばかりです。

年がら年中、本番のステージとして、力の限りを尽くすピアニストによって本気で演奏されるピアノは、見方によってはピアノ冥利に尽きるとも言えそうですが、リハーサルから含めると、そのピアノが鳴っている時間と密度は恐ろしいほどのものだろうと思いました。

同じスタインウェイDでも、殆ど使われることもないまま何年もピアノ庫で眠っている個体があるかと思えば、このようにひっきりなしに使わ続けるピアノもあるわけで、同じ工場で製造出荷された同じモデルでも、行先によって本当にさまざまな生涯を送るようです。

どちらが幸せかといえば、それはもちろん頻繁に使われたピアノのほうだと思いますが、そうはいってもあまりの酷使で数年おきに弦やハンマーを交換されるとなると、なんとはなしに可哀想な気もしてしまいます。
しかも、ホールで本番に供されるピアノともなると「言い訳」は通用しないことから、換えたてのハンマーでもいきなり豊麗で熟成した音でなくてはならず、勢い不本意な調整もしなくてはいけないとのこと。
使われるピアノにも、それなりの大変さはあるようです。

先日、マロニエ君の乗るフランス車のパーツのサプライヤーの方と電話でしゃべっていると、話題は古い車の維持管理に及び、その方いわく、「結局は、なんだかんだ言っても、やたら走行距離の多い車と高速などで猛烈に飛ばす人の車というのは、どうしようもなく傷んでいますね」と云われました。

一般的には、遠出もせず渋滞などでノロノロ運転ばかりさせられる車は気の毒で、その点でいうと、ヨーロッパ大陸に生息する車達は大陸間の移動や旅行に供され、高速道路などを縦横無尽に駆けまわって幸せなイメージですが、現実はどうやらそういいことばかりでもないようです。
全力を振り絞るように使われた時間の多い機械は、それだけ至る所にストレスがかかっているというのは、まぎれもない事実のようです。

それがそのまま、そっくりピアノにあてはまるかどうかはわかりません。
でも、稼働率の高いホールのピアノは高速道路や山道を飛ばしまくった車に、レッスン室のピアノはタクシーのように昼夜休みなく走り回る多走行車といったイメージと重なり、消耗もそれなりに激しいことは間違いないでしょうね。

むろんそれはそれで意味のあることなので、決して否定しているわけではありませんが、なんでもぬるま湯式の感覚で、自分のピアノとの使われ方のあまりの違いを考えると、ついこういうことを考えてしまうのです。

そういえば知人のピアノ好きで、大人になってピアノをはじめ、好ましい時代のスタインウェイをもっているひとりは「自分はハノンはやりたくない」というのです。
その理由というのが普通とは違っていて、「ハノンは特定の音域の白鍵ばかり使っておこなう指の訓練なので、あんなものを毎日15分とか30分とかやっていたら、弾かれる白鍵のハンマーばかり傷んでしまって、楽器としておかしなことになるから嫌だ」というのですが、これはマロニエ君もまったく同様のことを考えていたので、へぇぇ同じことを考える人もいるのか!と大いに共感したものです。

だったら黒鍵を交えて半音階全音域でやっていけばいいのでしょうけど、それはまた相当難しいことになるので、なかなかそうもいきません。
だいたいこういうことを考えてあれこれ悩むのは決まって男のようで、女性はあまり気にならない領域のことなのかもしれませんが…。
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ディアパソン続き

Bさんの初回診断によれば、ダウンウエイトの数値じたいが極端に重いというものでもないということで、差し当たり基本的なところから整えていくべきということでした。

そこで、まずは建築でいうところの基礎工事をしっかりやるということです。まあこれは調律師さんならどなたでも異口同音におっしゃることではありますが、特に今回は早急に見直すべき部分がそこここに確認されたことも事実でした。
基礎がしっかりしていないことには何も先に進めないというわけで、至極ごもっともなことです。

というわけで、初回は正しい土台を作るための「整調」に5時間近くを費やされましたが、それでもまだ時間が充分とはいえず、こちらの都合で時間切れとなったため、また後日続きをやっていただくことで、とりあえずこの日は一区切りつけていただきました。

マロニエ君は、ピアノの調整中にちょっと弾いてみてくださいといわれても、普段と違って大屋根は開いているし、譜面台はなく、鍵盤蓋も左右の拍子木も外されて、いたるところから音がドバドバ出てくるため、これだけ違う条件の中で僅かな違いを感じとるのは、あまり自信がありません。
大きな違いはわかっても、繊細なところ(しかも、そこが非常に肝心なところ)はすぐにはわからないので、帰られた後しばらく弾いてみるのが恒例ですが、まずはずいぶん弾きやすくなったことは確かでした。
一番の目的であるタッチが軽くなったわけではないけれど、その動きに滑らかさと好ましい質感がでていることはよくわかり、これまでのタッチがいくぶん高級になったという感じです。

機構や消耗品を入れ替えるのではなく、整調のみによってタッチに高級感を作り出すというのは、考えてみるとかなり大変なことではないかと思いました。ただ軽くとか早くとか、動かないものを動くようにするのとは違い、高級なフィールというのは繊細な事々の積み上げでしか成し得ないもので、この点にまず感心しました。

翌日、現段階での感想を報告しようと電話したついでに、全体的な印象というか評価を聞いてみました。
というのも、マロニエ君は現在のディアパソンは個性やポテンシャルとしては気に入っているけれど、その音色はもう一つ納得できないものがあったので、この点をディアパソンのスペシャリストとしてはどうお考えか聞いてみました。
しかし、それはなかなか言われません。
長所ならすんなり言えても、その逆は言いにくいのだろうと推察され、そこをあえて忌憚なく言っていただきたいと頼むと、ようやくこちらの心情を理解され率直な感想を聞くことができました。その内容はマロニエ君が感じていることとほぼ同じもので、この点でも大いに納得できました。

こういう印象が一致していないと、今後の進展にも不安が残りますが、そういう意味でも却って安心感が得られました。

余談ながら、マロニエ君は新たな調律師さんにお願いする際には、普段面倒を見てもらっている調律師さんにも必ず事前にお断りを入れて、了解を得るようにしています。現在の調律師さんも、タッチ問題に悩む先代調律師さんが別の方に「セカンドオピニオンを聞いて欲しい」と言われたことがきっかけでした。
というわけで、今回も快く承諾していただき、その方がどういうことをされるか興味があるので後日ぜひ教えてほしいということで、マロニエ君のピアノは、こうしていつも、いろいろな技術者の方に触っていただくようになっています。

中には調律師さんとの関係をよほど特別で厳粛なものと思っておられるのか、かなりの不満があるにもかかわらず、まるで江戸時代の貞操観念のごとく、じっと耐えに耐えながら、ピアノの操を守られる方も結構いらっしゃいます。
しかし、そんなことは甚だしい時代錯誤だとマロニエ君は思います。車の整備でもケースバイケースで、オーナーの判断でディーラーに行ったり専門ショップに行ったりと、そこは所有者の全く自由裁量の領域であるはずです。
その点では楽器メンテの世界はというと、多少の閉鎖性があるともいえるでしょうが、それなりのマナーを守っていれば基本は自由であるはずで、それでも機嫌を損じるような調律師さんなら、もともと大したことない方だと思います。

Bさんは仕事に関しては信念があり厳しさが漲っているけれど、同時にとても気さくで正直で愛嬌のある素晴らしいお人柄の方でいらっしゃる点も併せて嬉しい点でした。技術者である以上は、むろん技術が大事なのは当然としても、やはりそこはお互いに生身の人間なので、人としての波長も合えばそれに越したことはありません。

素晴らしい方との出会いは無条件に嬉しいもの、今後のディアパソンの変化が楽しみです。
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4台ピアノ

ディアパソンの続きを書こうと思っていましたが、ちょっと珍しいコンサートに行ってきたので、そちらを先に。

「浜松国際ピアノアカデミー 第20回開催記念コンサートシリーズ ピアノの饗宴 ピアニッシシモ!!」という長たらしいタイトルのコンサートで、なにがどうピアニッシシモなのかよくわかりませんが、要は過去にこのアカデミーを受講した経歴を持つピアニスト4名が出演されて、それぞれがカワイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、スタインウェイという4台のピアノを弾くという趣向でした。

同じ会場で、違う銘柄のピアノを聴き比べることができるというのは、めったにないことなので、これは行くしかない!と覚悟を決めた次第。会場はアクロス福岡シンフォニーホール。

ちなみに、聞いたところではカワイのみSK-EXが持ち込まれ、残り3台はホールのピアノが使われたようです。

トップはカワイですが、演奏開始早々、このホールの野放図な音響にはいきなりのカウンターパンチというか、あらためて度肝を抜かれました。
音響といえば言葉はもっともらしいけれど、要はだだっ広い空間で音は乱反響を繰り返すばかりで、響きの美しさとか収束感などはみじんもありません。ピアノの音は盛大なエコーがかかったようで、はっきり言って何を聞いているのかさえわからないほどで、よくもまああれで苦情が出ないものだと思います。

ホールというより、銭湯か温泉の大浴場にピアノを置いて弾いているようで、聴き手の耳に到達するのは、ピアノから発せられた音があちらこちらで暴れまわったあげくのピンボケ写真みたいなもの。音楽の輪郭もあやふやで、むろんピアニストのタッチの妙などもほとんどが霧の中で伝わらず、ただ音が団子状になって聞こえてくるだけ。
あれだったら古い市民会館で聴いたほうが、よほどマシです。

第一曲が始まった時、「これはえらいことになった…」と思いましたが、とりあえず忍耐しかありません。…というか、これだからコンサートは行きたくないのです。なんでお金を払って、時間を使って、そのあげく「忍耐」にエネルギーを費やさなきゃいけないのか、これは単純素朴な疑問ですね。

というわけでエコーまみれの音の中から、そのピアノの音色をイマジネーションを働かせて探すしかありませんが、カワイはブリリアンスとパワーを重視しているのか、音の中にある暗いものと華やかなものが相容れず、まだその決着がついていないという印象でした。
ちなみに、カワイはホームページによればフラッグシップはEX-Lに変更されているにもかかわらず、いまだSKシリーズがステージで活躍しているのはどういうわけなのか…。今年開催されたチャイコフスキーコンクールでもカワイはSK-EXでしたから、EX-LとSK-EXの違いがよくわかりません。もしかしたら…いやいや憶測はやめておきましょう。

次に弾かれたのはベーゼンドルファー・インペリアル。カワイの後だけあって音に輪郭と透明感があるのが印象的で、やはりこのピアノ固有の美の世界があることが頷けます。ただ、音色の変化が乏しいのか(確かなことはわかりませんが)、しばらく聴いていると、その艶やかな音にも少々飽きてくる…といったらベーゼンのファンの方に叱られそうですが、マロニエ君の耳にはいささか一本調子に聞こえてしまいます。
もちろん好みもあるでしょうが、マロニエ君はもう少し美音の中にも陰影がある方が好きだなぁと思ってしまいます。

後半最初はヤマハ。最新のCFXでなはく、おそらくCFIIISだろうと思いますが、これが意外に好印象でした。カワイとベーゼンを聴いた耳には、音の構成というかまとまりがそれなりにあるためか、演奏におさまりがつくようです。個人的にはヤマハのコンサートグランドは現代の好みを追いすぎたCFXよりは、少し前のピアノのほうが懐もそれなりに深いものがあり、きれいに調整されていればこれはこれだと思います。
それでも随所で聴こえてくるのは、日本人の耳に深く浸透した、あのヤマハの音ではありますが。

最後はスタインウェイでしたが、こうして順に聴き比べてくると、やはり一台だけ次元が違うというのが偽らざるところでした。ピアノの音に必要な各音域の美しさ、深み、フォルム、バランス、強靭さなどは、やはり抜きん出ていることが一聴するなりわかります。とりわけ重音やフォルテになるほど音が引き締まり、破綻や乱れとは無縁になっていくあたりはさすがという他ありません。
また、異論もあろうかとは思いますが、どのピアノより音はやわらかなのにヤワではなく、シャープな中に甘いトーンが混在します。
偽善的でダサい木の響きでもなければ、神経に障るような金属音とも全く違う、スタインウェイだけの孤高のサウンドが広がると、不思議な安堵と快感を覚えます。
スタインウェイの音はこうしたいくつもの要素が複雑に折り重なることで達成された、まったく独自の境地だと思いました。

最後は4台揃って、ミヨーの4台のピアノのための組曲「パリ」から数曲が演奏されましたが、そこには混沌とした騒音のかたまりがあるばかりで、熱心に弾いてくださったピアニストには申し訳ないけれど、どことなく喜劇的でした。
こんなにもホールの響きが演奏者の足を引っ張るとは、出るのはため息ばかりです。
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好きという強み

調律師のAさんとのご縁がきっかけとなって、福岡にディアパソンを得意とされる、知る人ぞ知る技術者さんがおられることを教えていただいたのは、ずいぶん前のことでした。

「ディアパソンなら自分はBさんが一番だと思います。」と静かに、しかし自信をもって迷いなく言われたことがとても印象的でした。
どんなふうにいいのか聞いてみると、「とにかく丁寧で、Bさんが調整したピアノはとても弾きやすい。あの方はすごいと思います。」と事もなげにいわれました。言っているご本人もれっきとした調律師さんなのですから、同業者がそこまで太鼓判を押すというのは、よほどであろうと思いました。

マロニエ君のディアパソンはというと、懸案のタッチの重さを含む問題は未だ解消には至らず、それがあって、音色などの詰めの調整ももうひとつその気になれないという状態です。それでも今どきのピアノにくらべると、本質においてはそれなりに楽しいものだから、なんとなく現状でお茶を濁してきたというのが正直なところ。
しかし、別のピアノの調律などがパリッとできたりすると、やはりディアパソンのコンディションはタッチを含めて、とても本来のものとは言いがたい事は認識せざるを得ません。

また、以前書いたようにタッチレールというキーを軽くするための製品があることも、関東のピアノ店の方がわざわざ教えてくださり、一時はこれの装着をかなり真剣に考えました。
しかし、ここはやはり基本的なことをもう一度洗い直してしてみることが先決で、それらのことをやりつくし、万策尽きた時にそのタッチレールも使うべきだろうという結論に達しました。

連休中に再度調整をお願いするはずだった調律師さんが、たまたまこの時期の予定が確定できない状況になったということで延期になり、ならばこの際、思い切ってディアパソンがお得意のBさんに一度診ていただき、ご意見を伺えたらと思いました。

そういう流れでAさんを通じてBさんへ連絡していただきました。
「話はしているので、どうぞいつでも電話をしてみてください。」と番号を教えていただき、さっそくお電話したのは言うまでもありません。

電話に出られたBさんは、とてもあたたかで礼節あふれるお人柄という印象でした。
さっそくこちらのピアノの状況と希望を電話で伝えられるだけ伝えると、「どこまでご期待に応えられるかはわかりませんが、ともかく一度見せていただきましょう」ということになり、日時を約束することに。

さて、ここからはちょっとウソみたいな話ですが、そのBさんが来られるわずか2日前というタイミングで、まったく見知らぬ方からメールをいただきました。
メールの主は、ありがたいことにこのくだらないブログを読んでくださっている方らしく、その方もディアパソンのグランドをお持ちで、福岡市に隣接する市にお住まいの方でした。文面によると「(自分は)いい調律師さんに恵まれていて、その方は某区のBさんという方で「ディアパソン大好き」で、お客さんもディアパソンの愛用者が多いようです。」と書かれているのにはびっくり!

マロニエ君もBさんとは一度電話で話しただけで、まだお会いしたこともなく、たまたま名前だけの一致ということもあるかもとは思いましたが、メールの方とは翌日電話で話をする機会を得て、やはりBさんは同一人物であることが判明し、先方も驚かれているようでした。
やはりこのBさん、ディアパソンにはかなり精通した方のようで、ますます期待は高まりました。

約束の日時、ついにBさんがいらっしゃいました。
実際にお会いして、さっそくピアノを診てもらいつつこれまでの経緯を説明します。

非常に驚いたことには、電話でごく簡単に説明しておいた話から、タッチに関するあれこれの可能性を想定され、そのための部品や道具などを幾つも準備されていたことで、どれもがこれまでの調律師さんとは一味も二味も違っており、しかもそれがかなり核心に迫ったものであるだけに驚いてしまいました。
こういうところに技術者としてのスタンスというか、心構えのようなものが表れているようでした。

それらをひとつひとつ書きたいところですが、それはとりあえずここでは控えておきます。

Bさんのやり方は、ピアノを触って、考えて、また触って、またじっと考えるということを繰り返され、しだいに方向性が収束していったのか、「どこに問題があるか」「作業の手順として何を優先するか」、そして「今日はなにをやるか」ということが見えてきたようでした。

何度も「…ちょっと考えさせてください」とおっしゃるあたり、静かに自問自答しておられる様子です。

以前、医者の娘だった友人が、「いい皮膚科のお医者さんっていうのは、患部をジーッと時間をかけて観察する人なんだって…」と言っていたのをふと思い出しました。
パッと見て、即断即決して、対症療法的な作業をされると、却って本質的な解決が遠のいてしまい、こちらにとっては一番困るのですが、その点でもBさんはずいぶん違うように感じました。

さらには「ディアパソンが好き」というのはなにより強みです。
いかに優れた技術でも、それを嫌いなものへ仕方なく向けるのと、好きなものへ向けるのとでは、結果は格段の違いが生じる筈ですから。
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で、つけました。

いよいよアマゾンにでも注文しようか、あるいはダンプチェイサー肯定派の調律師さんに連絡して購入を打診してみようかと迷っていたときのことでした。

別件で物置で探しものをしていると、壁の隅から、なんと、使っていないダンプチェイサーが思いがけなくワンセットそっくり出てきました。
探しものそっちのけで驚いたのはいうまでもありません。

で、よくよく考えたら、別のピアノに縦横2つ付けていた時期があり、それを乾燥の進む冬場にその片方を外してみたとき、床に放っておいたら、家人に片付けるように言われて、とりあえずという感じで物置に放り込んでいたのをすっかり忘れていたのです。
あやうく「購入する」をクリックしていたかも…と思うと、おマヌケもいいところですが、ともかく危ないところでした。

ひゃー、嬉しや!とばかりに、さっそくディアパソンへ取り付けることに。

本当は梅雨から夏場での急激な状態の変化を避けるため、あえて湿度の少ない冬場に取り付けて、徐々に慣らしていくことを推奨している技術者さんもおられ、その慎重を期する姿勢には敬意を覚えますが、マロニエ君ときたら低血圧なクセにめっぽう短気で、ゆっくり構えて待つというようなことが大の苦手です。
冬まで待って、取り付けて、その効果が出るのは来年の梅雨以降だなんて、とてもじゃありませんが、そんなに待っていられるか!というわけで、そこは強行突破して取り付けることに。

ピアノ下部のペダルのすぐ後ろぐらいの位置で、左右二ヶ所の支柱へ針金を通して、鍵盤と並行になる向きに吊り下げます。
針金で吊り下げるのは、このほうが作業じたいも簡単であるし、ピアノに無用な加工をしなくて済むので、マロニエ君は必ずこの方法を採っています。

その点では、調律師さんは仕事なので、キチッと作業として仕上げるためにも、そのための費用を取ってビシッと取り付け作業される方がほとんどのようです。調律師さんにとってはそれも商売のうちなので仕方ないですが、本当はいきなり固定せず、あれこれ場所を変えて試してみるのもいいと思います。

頼んで取り付けてもらう場合、「見えない場所だから」ということで、付属の取付パーツを使ってピアノ本体へネジ止めされることになりますが、実はマロニエ君はあれがイヤで、見えない場所でもピアノのリムや支柱にネジ穴を開けるなんて、理屈なしにとにかく感覚的に受け容れられないのです。

それもあるし、そもそもダンプチェイサーの取り付けなんて、いわゆる「取り付け」のうちにも入らないもので、わざわざ作業代を払って人に頼むような種類のものではありません。
それに支柱から、物干し竿のように針金で吊り下げるだけなら、気が変われば、また別の位置や方向に付け替えも簡単で、高さも自分が納得の行くように調整できます。

さて、結果はというと、取り付けたのは夜だったのですが、翌日夕方にはハッキリとした違いがあらわれたのには、さすがのマロニエ君も予想以上でした。まず音に芯が出たというか、艶が出たというか、ややピンボケ気味になっていた音色に精気が戻りました。さらにはアクションの動きが若干スムーズになり、その相乗作用でずいぶんといい感じになりました。

もちろん激変というようなものではなく、微妙な違いでしかありません。
しかし、ピアノにとってはこの微妙な違いでかなり世界がかわるものです。

それともうひとつ確かなことは、閉ざされた箱のなかに取り付けるアップライトならともかく、外部にむき出しになるグランドでは効果は期待できない、「あんなものは気休めだ」という説がありますが、それは完全な誤りで、効果にいくらかの差はあるにせよ、グランドでもかなり有効だということは確かです。
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賛否両論2

前回、飛び入りで「エンブレム騒動」を書いたので、前々回からの続きを。

ある調律師さんがダンプチェイサーに否定的ということで、それはそれでひとつの見解なのでしょうから、お考えはしっかり承っておこうと思いました。

よって、あえて反論する必要もないし、それでもこちらの気が変わらなければ自分で入手すればいいこと。
で、ご意見をふまえてよくよく再検討してみましたが、やはりディアパソンにダンプチェイサーをつけるという考えは変わりませんでした。

いい忘れていましたが、この調律師さんがダンプチェイサーの装着例として目にされたものの一つが、グランドのアクションのすぐ上というか、要するに鍵盤奥のボティ内部にこれを取り付けたピアノだったようで、それがよくない結果になっていたというものでしたので、それはそれで納得でした。

アップライトの場合、ダンプチェイサーをピアノの内部に取り付けますが、位置的には鍵盤よりずっと下で、アクションとはずいぶん距離もありますが、グランドでは、アクションやピン板に接近した極端に狭い空間ということになり、これはたしかにやり過ぎだろうと思います。
ダンプチェイサーは、あくまで補助的かつ間接的に用いるべきで、何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。

マロニエ君はグランドで下に吊るすカタチ以外の使い方の経験はありませんが、そのやり方ならば効果は上々で、実際に使った人からもよくないという類の話は聞いたことがありません。

なにより自分で数年間使ってみて一定の効果があることと、これによる音の悪化というものは、今のところまったく感じられませんが、わずかの変化を感じきれていないという可能性もむろん否定はできません。
少なくとも使用経験の範囲では、気づくほどの悪影響はなかったと言っていいと思います。
いずれにしろ調律が狂いにくい状態が保持できるということは、基本として、ピアノにとってそう悪いことではないと考えるわけです。

そもそもホールのピアノ庫のような特別な環境ならいざしらず、通常、ピアノは日本の四季の移り変わりや温湿度の変化、それに伴うエアコンやらなにやらで、冷え冷えサラサラになったかと思うと数日留守で猛烈な温湿度にさらされるとか、人がいる間の暖房と夜中の凍てつく冷気がくるくる入れ替ったりと、すでにかなりの悪条件にさらされているのですから、いまさらダンプチェイサーの副作用を問題視しても意味があるのかと思ってしまいます。

むしろ、これほど安く簡単にピアノへの悪影響を緩和できるダンプチェイサーは、やっぱり利用価値は大きいと思われ、ここはピアノのために何が良いかを、トータルで考えることが大事ではないかと思った次第。

それと前後して、以前マロニエ君がおすすめしたことでグランドピアノにダンプチェイサーを使っている知人と電話で話をする機会がありましたが、ちょっとニンマリする話を聞きました。
その方のところへは、松尾系のとても優秀な調律師さんが来られているとのことですが、その調律師さんはピアノにダンプチェイサーが取り付けられていることについて、はじめはあまり肯定的な反応ではなかったとのこと。

装着前に相談すればおそらく反対された口でしょうが、既に付いていたものなので、ご自分としては懐疑的という程度のニュアンスで、とくに目立ったコメントはなかったそうです。ところが、定期的にそのピアノを調律するようになり、知人いわく、「うちは温湿度管理が必ずしも理想的ではない」にもかかわらず、調律の狂いが少ないことが少し意外だったようで、ポツリと「これ(ダンプチェイサー)が効果あるんでしょうかねぇ…」というようなことを言われたそうです。

「ほほう、やっとこの人も効果がわかってきたか」と内心ほくそえんだのだとか。
というわけで、ダンプチェイサーはその信奉者でなくても、一定の効果は確認できるもののようではあるようです。
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賛否両論1

技術者と呼ばれる人達は、それぞれに持論や流儀をお持ちです。

マロニエ君はピアノに限らず技術者というものを尊重しているので、やり方やこだわりもそれぞれで、要はどれが正しくてどれが間違いというものではないと考えています。
いろいろな価値観や性格、目指すもの、細部に見え隠れする妙技、考え方の違いなどが決して一律なものではないところが興味深く、まして容易に正誤優劣を付けられる世界ではないというのが率直なところ。

わけてもピアノは、もともと精密かつ巧緻な世界であり、加えて楽器特有の幅やあいまいさがあり、どれが絶対ということがありません。ひとつの事柄に対する意見や解決法も各人各様で、ときに唖然とするほど意見が真逆であったり、それはときに凄まじいばかりです。

あまりこのあたりに触れているとなかなか本題に入れないので、そこは飛ばして話を進めると、久々ですが、ダンプチェイサー(ピアノの中や下部に取り付けて、湿度を自動調整する棒状の電気製品)に関する話です。
ダンプチェイサーに関しては、マロニエ君自身も数年来の使用経験があり、絶対とまではいわないものの、一定の効果があることは確認済みです。さらには自分の経験をもとに友人知人にも推奨したり、一度など共同購入というかたちで5~6本安くまとめ買いしたことさえありました。

調律師の中では、当然ながらこのダンプチェイサーにおいても賛否両論があり、賛成派のほうの顧客はその熱心な奨めにより多くがこれを購入し取り付けられているのに対し、こういう後付けの機器に関してはやたらと懐疑的スタンスをとる方もおられます。
技術の世界では保守的な人も少くなく、伝統的な技術やセオリーを信奉しているぶん新しいものには拒絶が先に立つのか、その効能より害のほうに目が先んじるようです。これを取り付けることによる弊害をイメージし、中にはすでに取り付けられたものさえ、自説を展開して外してまわるといった方さえあるようです。

では、具体的に何が悪いのかというと、これがあまりはっきりせず、一部だけが乾燥するとか、熱で木材が傷むなどの「可能性」ばかりを説かれますが、もうひとつ説得力がありません。ひとつには技術者としての防御本能なのか、自分があまり知らないもの、検証ができていないものに対しては、とりあず否定してしまうという心理が働くのかもしれません。
(ちなみにダンプチェイサーの作動時の熱は素手で触ってもほんのり暖かいぐらいのソフトなもので、湿度によってON/OFFは自動制御されます)

こういった後付の商品には安直なアイデア先行で効果の疑わしいもの、あるいはピアノ本体に害を及ぼすものもあるでしょう。のみならず便利な機器を安易に頼るようでは、基本を疎かにするお安い技術者という印象さえ与えかねません。だからか、その手のものはすべて「邪道」のように捉えてしまうのかも。

たしかにその手の思いつきみたいな商品はあるでしょうから、そうやすやすと信用はしないほうが安全でしょうし、謳い文句にのせられて、万一お客さんのピアノに害があっては一大事。信頼を旨とする技術者にとっては、よほどの自信がない限り、そんなものに手出ししたくないという意識がはたらくのだろうと思われます。

ただ、ダンプチェイサーは実績のある「本物」のひとつだろうとマロニエ君は思っています。

マロニエ君自身、すでに何年もダンプチェイサーを使っていますが、少なくともそれによる弊害を感じたことは一度もなく、調律の狂いが少ないことはかなり感じていて、できれば付けておいたほうがいいというのが正直なところ。ところが、なぜかディアパソンについてはとくにこれという理由もないまま「そのうちに…」ぐらいの感じだったのです。

そこへ今年の厳しい夏の湿気となり、さすがにピアノが全体にたるんだ感じもあったので、ふとダンプチェイサーを使っていなかったことを思い出し、遅ればせながらこれを購入しようと、さる調律師さんに購入の問い合わせをしました。通販で買っても良かったけれど、近々来られる予定もあるので、だったらついでに持ってきてもらおうかというぐらいの軽い気持ちでした。

すると、「購入はできますが、私はダンプチェイサーはおすすめしません」というメールが届きました。
うわー。来たかぁ、と思いましたが、とりあえずどんなご意見なのか聞いてみようと電話したところ、だいたい次のようなものでした。
「あれは確実に音が痩せる」「響板にヒーターの熱風があたったのと同様になる」「床暖房と同じ」「独特の音になる」「以前は使ってみたこともあるが、今はお客さんにも外すことを薦めています」「グランドは外にむき出しなので効果がないのでは」「アップライトは逆に悲惨なことになる」「やめたほうがいいですよ」「だったら乾燥剤をいれたほうがまだいいですよ」
と、だいたいこんな感じでした。

この方は大変優秀な調律師さんであることは間違いないのですが、ことダンプチェイサーのことは…あまり正確なことをご存知ないのかもしれません。いや、間違っているのはこっちで、もしかしたらそれが正しい可能性もあるかもしれません。

マロニエ君は調律師さんのご意見はいつも尊重するし、謙虚な気持ちでいろいろな教えを請うているつもりです。しかし、だからといって何でも鵜呑みすることは決してせず、最終的には自分の判断を優先させることはよくあります。

だって、自分のピアノなんですから、自分が納得できることをしなくちゃ面白くありません!
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ウナコルダの効用

先日、さる調律師さんから聞いた話。

ピアノのウナコルダ(グランドピアノの左のシフトペダル)の隠れた効果について。
これを踏むと鍵盤全体が右に移動して、3本の弦を打っていたハンマーが2本だけを打つようになることはよく知られています。

曲想やppなど必要に応じてこれを遣うことは一般的で、単純にいうと、鳴らす弦が少なくなるのでそのぶん音が小ぶりになるわけですが、のみならずハンマーの弦溝の位置をわずかにずらすことで、音色の変化をつけることができます。

下手な人がこれを使うと、ただこもったような音になるだけですが、ピアノのペダルは左右ともに、いかにそれを必要量適確に使うことが出来るかのコントロールの妙がポイントでしょう。
ペダル操作は、ある意味、指運動よりよほど繊細な耳と感性が必要で、アマチュアもプロも、ただバンバン弾くことだけが念頭にある人には最も難しい領域だろうと思います。
むろんマロニエ君なんぞはできませんが、それほど精妙かつ重要な領域であることはわかります。

これを天性の美意識と神業的な技巧によって、多彩な音色を自在に創りだすことができた代表格がミケランジェリで、彼のあの濃密な絹織物のような音の世界は、精緻を極めた自在なペダルに負うところも大きいのは間違いありません。

何年か前にラ・フォル・ジュルネの小さな会場で行われたコンサートで、ある女性ピアニストがベートーヴェンの中期ソナタを弾くのに、このシフトペダルをやみくもに使うのには閉口したことがあります。
どう考えてもまずはタッチで表現を変えるべき場所で、いちいちシフトペダルを踏むので、そのつど音色がこもったり鮮明になったりの行ったり来たりだけで、それが肝心の演奏表現に結びついているとはとても思えないものでした。さらにこのピアニストは、ガバッと踏むか、離すか、つまりON/OFFだけの踏み方で、その途中の段階が微塵もないのには呆れました。

あっと…、話が逸れました。
その調律師さんによる通常見落とされているウナコルダの効果とは、これを踏んだ時のほうが音が減衰しにくくなるという、これまで思ってもみなかったことで目からウロコでした。…いや、でも、よくよく考えてみたら、本能的にはまったく感じていないわけではなく、かすかに心当たりのようなものがあるような気も…。深夜などにこのペダルを踏んで遠慮がちに弾くときに、ある独特な心地良さというか豊かさみたいなものがあることは、かすかな自覚がありました。
単に音が小さいとかソフトということ以外に、なにか言い知れぬ心地よさがあったのは、そう言われてみると、この通常より伸びる音のせいだったのかもしれません。

これは音響学的にも証明されていることだそうです。
弦から駒を通して響板に広がって増幅される音は、3本打弦されたときより、2本打弦されたときのほうがエネルギーが小さくて音に変換されるにもやや時間がかかり、それだけ減衰の速度も遅くなるということだそうです。
急峻な山に対して、なだらかな山裾の稜線がどこまでも続くようなものでしょうか。
さらには左の打弦されない弦も隣の弦の振動にひきずられて逆位相に動くのだそうで、これも減衰にしくくなる要素のひとつだとか。

比較に単音を聴いてみたところ、ウナコルダを踏んだときのほうが明らかに音が伸びるのはびっくりでした。

音響学などの専門領域はチンプンカンプンですが、自分なりの印象としては、お寺の鐘なども力任せに叩くより、ほどよい力で突いた方が音がきれいなだけでなくその余韻がいつまでも続くようなものかと思いました。
また、想像ですが、3本弦より、2本弦のほうが音になるパワーが少ないのは当然としても、そのぶん入力に対する響板の面積も、相対的に大きくなるのかとも思いましたが、どうでしょう…。

後日、この件に関する資料を送っていただきましたが、そこにあるグラフによれば、シフトペダルを踏んだ時とそうでないときでは、立ち上がりでは約10dBの差があって当然ペダル無しのほうが音が大きいわけですが、3秒後にはグラフの線はクロスし、右肩下がりに減衰する一方のペダル無しに対して、ペダル有りのほうは70dBあたりを保持して、5秒後には10dB近くもペダルを踏んだ音のほうが大きな音が持続していることに驚かされます。

こうなると、ウナコルダをピアニシモや音色の変化だけでなく、音の持続性という目的をもって巧みに用いることができれば、伸びのある独特な響きや音像を作り出すことができるのだそうです。しかるに、これはプロのピアニストでも知らない人が多く、貴重な表現手段のひとつを知らぬまま演奏していることになるわけです。

尤も、そこまでデリケートな表現を必要とするような、真に創造的なピアニストが果たしてどれくらいいるかとなると、甚だ疑問ですが。
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不思議な演奏

ピアニストには「その人固有の音」があると言われます。
楽器自体がもっている音とはべつに、その人のタッチや演奏の律動が生み出すもうひとつの音色というべきもので、「その人」が弾けばどんなピアノでも「その人の音」になってしまうのは実に興味深いことです。

これを思いがけないところで思い出させられることになったのが小山実稚恵のピアノでした。

今年6月、N響の定期公演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いた映像を見ましたが、好みの問題もあるでしょうし、なかなかコメントが難しいと感じる演奏でした。

昔からですが、この人はどうしても楽器を豊かに鳴らせないピアニストなんだということを、この演奏を聴きながら、沈んでいた記憶がふわっと浮かび上がってくるように思い出しました。
どのピアノを弾いても、CDでも、実演でも、不思議なほど音が痩せて固い音になるのは、まさにこのピアニストの固有の現象だと思います。それを小山さんの音と呼ぶべきかもしれません。

また、どんなに力もうとも、音に厚みや迫力が増してくることはなく、だからいよいよ叩きつけてしまうのか、要するに弾き方に問題があるのだろうと思った次第。

たしか何かの記憶では、芸大時代に名伯楽・田村宏氏に師事したところ、田村氏は「もしかしたら、将来ものになるかもしれない学生」としながらも、指ができていないので、その方面の専門家である御木本澄子さんに一時彼女を預けたということを読んだことがありました。

もしかすると、それでも完全な克服には至らず、現在も何かを引きずっているのか…とも思ったりしますが、むろん確かなことはわかりません。

30年ほど前のチャイコフスキー(コンクール)3位、ショパン4位という受賞歴がこの人の知名度をあげるきっかけになったのでしょうが、小山さんを聴くたびに感じることは、その頃からほとんど何も変わっていないことでしょうか。
年齢的に言っても、多少は演奏が熟成してくるのが普通というか、聴く側もそういう期待をするのが自然だと思うのですが、この人にはそれがほとんど感じられないところにむしろびっくりさせられます。もしかすると多くのファンの方々は小山さんのそんなところを、いつまでも失われない初々しさと好意的に捉えておられるのかもしれません。

弾いているのは確かにチャイコフスキーの1番という超メジャー曲にもかかわらず、ほとんどこの曲を聴いているという実感がなく、とくだんの思い入れもないレパートリーの中の1曲をたまたま今弾いているという印象。
小山さんにとっては初めて国際コンクールの決勝で弾き、さらには冒頭でご本人も言っておられましたが、オーケストラと共演したのもこのときが初めてだったということで、若い時にしっかり弾き込んだ曲らしい、手慣れた演奏だろうと思っていたら、その予想はスルリと外されてしまいました。

とりわけこの曲の大仰な叙情性は敢えて排除されたのか、印刷された音符の世界だけがパチャパチャとひろがる様は不思議です。視覚的には、いかにも演奏に集中し、作品からさまざまなことを感じているといった顔の表情とか、いかにもな両腕を上に上げたりとかのモーションであるのに、聴こえてくる音はというと、驚くほどあっけらかんとした無機質なもので、そのビジュアルと音の差にも戸惑ってしまいます。

そうかと思うと、ところどころで盛大に間をとって「ほら、こんなふうに繊細で大切にすべき箇所ではちゃんと一音一音いつくしむようにやっているでしょう?」といった表現もあるけれど、全体と細部が照応せず、辻褄がまるきり合っていないという印象でした。

いっぽう音楽的に要所と思える部分では、えらくスイスイと素通りしてしまうなど、マロニエ君にはおよそ理解のできない演奏のように聞こえるばかりでした。
それでも、音が自分の好みなら、そちらにだけ耳を傾けるという方法もありますが、それは冒頭に書いたとおりで、要するに何もかもがよくわからないまま終わってしまいました。
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ピアノは優等生

この夏の酷暑のせいで、人だけでなく、機械類まで不具合やトラブルが多発していることを前回書きました。

わけでも車は存外熱に弱く、暑さによって被る機械的ストレスは相当なものだと推察されます。
とりわけ熱害を受けるのは、プラスチックで出来たパーツだとか、ゴム系の素材で作られたホースやベルト関係で、日本の夏は車にとってもかなり過酷な使用環境であることは間違いありません。

車は一部の例外(100%趣味のための車)を除けば、通常は気候に関係なく、春夏秋冬全天候のもとで実用に供されなくてはならないという役目を生まれながらに持っていますが、現実はなかなか理想通りにはいかないようです。

だから完璧に実用品と割り切って、この点では図抜けた信頼性耐久性を誇る日本車に乗っていれば問題はないと思いますが、ここに少しでも感性を求めるとか趣味性を覚えてしまうと、多くの場合、輸入車や旧車など、つまり乗りっぱなしができない車が関心の対象になるわけです。
ヤマハ/カワイの新品より、ヴィンテージピアノに惹かれるようなものでしょう。

時代のせいで、輸入車といえども以前ほど虚弱体質ではなくなってきているのも事実ですが、それでも日本車にくらべればまだまだで、オーナーがボンネットなど一度も開けたこともなく、ただガソリンさえ入れていれば何事もなく走れるというところまでは到達していません。

輸入車でも、車検ごとに好みの新車に買い換えられるようなリッチな方ならあまり問題ないと思いますが、大半はそれなりの懐事情や各車へのこだわりなど、あれこれのいきさつから、手のかかる車を、手をかけながら乗り続けることになると、ここで悲喜劇が巻き起こり、精神的経済的にもかなりの出費や負担が否応なくのしかかります。

あまり比べてみたことはなかったのですが、あらためて考えてみると、クルマ趣味を経験した側から言わせてもらうと、同じ趣味でも、ピアノはなんだかんだいっても本当に手がかかりません。
手がかからないというのは、究極的には維持費がかからないということに言い換えてもいいかもしれません。

ピアノはどんなに細かい調整や整備をやってもらっても、しょせん車とは大変さの次元が違いますし、修理や整備にかかる料金もケタ違いに安いので、そういう意味でオーナーを翻弄しまくり、ときに地獄へ突き落としたりといった大迷惑をかけるとか、経済的苦境に陥れるということはまずないというのが実感です。
モノとしての寿命も次元が違い、長年の使用に耐え、経年変化も軽微。故障なんて無いに等しく、あってもたかが知れています。
よく中古ピアノで「1年間保証付き」などというものがありますが、ピアノで保証を適用するほどの深刻な故障なんてまず考えられませんが、中古車でそんな保証をした日には、場合によってはもう1台買うよりも高額な修理代なんてことはザラですから、売る側はとてもそんなことはしません。

というわけで、ピアノは近隣への騒音問題さえクリアできれば、これほど安全堅実な趣味もないというのがマロニエ君の意見です。せいぜい半年か年1回の調律や調整をやるだけでなんとかなるし、燃料も要らず、保険や税金もないわけで、考えてみたら夢みたいですね。

人間でいうなら、面倒などかけたこともない真面目な優等生と、いつも問題を起こしては騒動になる放蕩息子ぐらいの差があると思います。

でも、ピアノ趣味の人は意外にそのありがたさを知りません。
ピアノの人と話をしていると、わずかな調律代の差であるとか、少しこだわりのある人でも各調整や消耗品の交換と作業代にいくら掛かるかという問題には、かなり細かいシビアな心配をされ、いささか過剰では?と思うほど悩まれます。むろんそれはそれでわかるのですが、内心では「同じ好きなことでも、車の維持費・修理代にくらべたらアナタ、ものの数じゃありませんぜ!」とつい言いたくなってしまいます。

ピアノで最も大金を要するのはオーバーホールぐらいなものですが、それはよほどのことで、日本人のメンタリティからいうとそれぐらいするなら買い換えるほうに向かうようです。
買い換えるお金にはかなり寛大でも、修理や整備にかかる出費となると、一挙に財布の紐が固くなるというのが大方の日本人の感覚なのかもしれません。

日本にも、もう少し道具に対する修理や整備に対する価値観というか、いうなればモノと長く付き合う文化が根づいたら、精神的にももっと豊かになるような気がするのですが…。
京都の街並みの美しさは、ちょっと古くなったらすぐに壊して建て替えたほうが合理的というような、利便性とコスト優先の安直な発想からは決して生まれないものでしょう。
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コンクールのピアノ

今年はチャイコフスキー・コンクールの開催年で、コンクール自体はすでに終了していますが、ネットで演奏動画を見ることができるとは、ありがたい時代になったものです。

むろん全部見るような時間も気力もなく、ちょこちょことかい摘んで見ただけですが、この手の動画と音声も年々精度がアップしているようで、2010年のショパン・コンクールなどに比べて格段の違いがあるように感じました。

カメラワークも巧みになり、鮮明な映像は容赦なくコンテスタントの至近距離へと迫り、指先の動き、吹き出す汗、果ては各人の肌質まで鮮明に見ることが出来るのは、ある意味で会場にいる人以上かもしれません。

音もよく捉えられており、個々のピアノの個性をつぶさに比較することができたのは、大いに収穫だったと思います。

ピアノはハンブルク・スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリという最近のコンクールでは毎度お馴染みの4社。

実はこのような同一の条件下で代るがわるに聴いてみると、これまで抱いてきた印象も修正しなくてはならない部分が出てきたりして、自分なりにとても楽しく有益でした。

オープニングのガラ・コンサートで使われるピアノは、前回2011年の優勝者であるトリフォノフの意向によってファツィオリが使われたようですが、聞くところではスタインウェイ以外の3社は、コンクールのために選りすぐりの1台を最高の技術者とともに現地へ送り込んでくるらしいので、このようなメジャーコンクールのステージで鳴り響くピアノは(コンクール向きということはあるにせよ)基本的には各社の「最高」の音だと考えてもさほど間違いではないだろうと思われます。

ファツィオリに関しては自分なりにさらに理解が得られたといえば言葉が大げさですが、たとえばそのひとつは、このピアノは、そもそも美音は目指していないらしい…と思えること。
4台中、ファツィオリは最も音に馬力があるといえばそうかもしれないけれど、美しく澄んだ高級酒がグラスの中で揺らめくような音色ではなく、他社より粗っぽさが際立ちます。
このピアノは艶やかさ、格調高さ、清楚さといったものより、むしろ汗臭いぐらいのパンチが魅力なのかもしれません。

ファツィオリはイタリアという固定観念があるものだから、どうしてもあの国独特の美意識とか芸術の遺伝子のようなもの、すなわちイタリア的な要素を追い求めて聴こうとするのはマロニエ君だけではなかろうと思われます。しかし、それが却ってこのピアノを判りづらくしてきたのかもしれず、こうしてモスクワ音楽院のステージに置かれ、ロシア人によって奏されるその音を聴くと、豪快を旨とするスタミナ系ピアノだと考えると腑に落ちます。

これに対して、以前ファツィオリとヤマハはどこか通じるものがあるというような意味の印象を記した記憶がありますが、直接比較してみるとずいぶん違っていることにびっくりしました。
ひとつには、ヤマハの音の方向性が従来のものとはかなり変わってきているようでもあり、すでにCFXでさえ、出始めの頃のリリックなテノール歌手みたいな音ではなく、やたらと倍音が嵩んだ、むしろ輪郭に乏しい音になっていはしまいかと思います。
いろいろな味付けが過剰で、結果ミックスジュースみたいになってしまったのかもしれません。

それに較べるとカワイはずっとピアノらしさが残っているようで、まだしも正直なピアノだと思いました。…とはいうものの、あまりに洗練を欠いた音色で、いささか野暮ったく、もう少しどうにかならないものかと思ったことも事実。
それでも一点光るものとか、何か突き抜けた特徴があればいいのでしょうが、要するにカワイでなくてはならない積極的理由がなく、どうしても主役を張れない名脇役みたいなものでしょうか。

こうやって比べて聴いてみると、日頃は不満タラタラで、「もうだめだ」「終わった」と嘆息するばかりのスタインウェイが、やっぱり勝負の場になるとハッキリ優れている点は瞠目させられました。
まずなんといっても、その音は明らかに美しさと気品があり、メリハリがあって雄弁でした。弾かれた音が音楽として収束されていく様子は、やはりこのメーカーが長年一人勝ちをしてきたことが、けっして不当なことではなかったということを証明しているようでした。

以前のような他を寄せ付けない孤高のピアノではないにしても、相対的には依然として最高ブランドの地位を守っていることに、納得という言葉はあまり適当ではないとしても、でも、そういうことなんだという事実はわかった気がしました。

それを反映してか、はたまた別の理由なのか、真相はわかりませんが、今回はヤマハ、カワイ、ファツィオリの出番はずいぶんと少なかった感じでした。
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シャマユとバラーティ

N響定期公演の録画から、ベルトラン・シャマユのピアノでシューマンのピアノ協奏曲を聴きました。

シャマユは近年注目されるフランスの若手で、マロニエ君もすでにシューベルトのさすらい人や、リストの巡礼の年全曲などをずいぶん聴いており、それなりに親しんだ感のあるピアニスト。
ただし、演奏の様子は見たことはなく、この時がはじめてでした。
CDの印象では、趣味の良い演奏に終始して、必要以上に語りすぎたり主張が強いといったことなく、こまやかな感性がバランスよく行き届いた演奏で、耳に心地よいピアニストという印象でした。

節度をもってサラッと行くところがフランス人らしいといえばらしいけれども、シューベルトなどではもうひとつ滋味につながらなかったり、作品の内奥を覗き見るような精神性を求め得る人ではないようですが、繊細で気の利いた演奏をする人というのは確かなようです。
それが最もいいほうに出ていたのが巡礼の年(全曲)で、ペトラルカのソネットのような芸術性の高い作品が含まれるいっぽうで、全体的にはなんだかやけに大仰でワーグナーのようなこの作品にあまり共感を得られないマロニエ君としては、シャマユの演奏はリストの作品に潜む、なんだか誇張的で混沌とした部分がすっきりと整頓され、見通しの良い景色になってくるような心地よさがありました。

そんなシャマユでしたから、シューマンの協奏曲ではリパッティのようなといえば言い過ぎかもしれませんが、均整と節度がおりなす美演のようなものをイメージしていたところ、残念ながらそうではなく、あきらかにピアノが負けて埋没してしまっており予期したような感銘には繋がりませんました。
ところどころに彼らしい語りの美しさも垣間見えはしたものの、全体的には骨格の弱い、いささか心もとないピアニストという印象に終わったのは非常に残念でした。

趣味が良いとか、繊細な表現とか、さまざまな個性があることとは別に、人には生まれ持った器というものがあるようで、その点でシャマユはあくまでもコンパクトに聴かせるサロン系のピアニストであって、腕力も問われる大舞台には向かないようだと思いました。


別の週にはクリストフ・バラーティをソリストに迎えての、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番で、こちらは呆れるばかりにうまい人でした。
とりわけその自在なボウイングには唖然!

正直にいうと、マロニエ君はいくら聴いてももうひとつバルトークというのが自分には馴染みません。
人に言わせると、これ以上ないというほど素晴らしいのだそうですが、なんだか理屈先行の作曲家という頭でっかちな感じも否めませんし、その傑出した作曲技法も、聴く者の五感に直訴してくるものが後回しになっているようで、専門家だけが唸るなにかの設計図のような気がします。
さらには、バルトークがこだわった民謡というのがそもそもマロニエ君好みではなく、どうも相性がよくないというか、客観的には理解できないと見るべきなのかもしれません。

どんな名人の手にかかっても、バルトークが鳴り出すと「早く終わって欲しい」と思ってしまう自分が情けなくもありますが、唯一の救いは、かのグレン・グールドが「20世紀の最も過大評価された作曲家」としてバルトークの名を挙げている点です。

マロニエ君にとってはそんなバルトークですが、バラーティのヴァイオリンにかかっては、なんとかこの「好みではない大曲」を最後までそこそこ楽しむことができたのは、自分でもちょっと意外でした。

なにより腰の座った技巧と、奇をてらわない表現は、この複雑怪奇?な難曲を、ぶれることなしに終始一貫した調子でものの見事に弾いてのけたという点で感銘を受けました。
その音色は常に適確で冴え冴えとしており、NHKホールのような大会場でも、ものともせずに響きわたっていたようです。

アンコールはイザイのヴァイオリン・ソナタ。
この人のイザイはCDでも持っていますが、CDよりずっと落ち着きがあって好ましい印象でした。

調べたところ使用されるヴァイオリンは、1703年のストラディヴァリウス「レディ・ハームズワース」だそうで、それじたいが超一級の楽器のようですが、だとしても小さなヴァイオリンひとつがあれだけ大会場でも朗々と鳴り響くのに、最近の新しいピアノときたら、それこそ泣きたくなるほどふがいない音ばかり聴かせられている現状には、あらためてピアノという楽器の危機を感じずにはいられませんでした。

シャマユの演奏も、ピアノがひと時代前のものであったらずいぶん違っていただろうと思います。
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