楽器と天候

今年の夏の異常気象といったらありませんね。
梅雨明けというのも言葉の上だけで、実際は夏全体が熱帯地域の雨期さながらです。これほど鬱陶しい天候に覆われたことは、過去にもちょっとなかったように思います。

通常なら梅雨が明けると、おおむね強い陽射しによる夏日が続き、その暑さにぐったりするというのが例年のパターンですが、今年は晴れ間そのものが無いに等しい状態です。

数日に一度、本来の夏らしい陽射しがあると、思わずなつかしいものを見るようでそれだけでパッと気分も明るくなりますが、それも1〜2時間もすると怪しくなり、ウソのようにあたりは暗くなってザーッと雨が容赦なく降り始める。

考えてみれば今年の夏、一日でも安定して晴れた日があったかどうか…たぶんなかったように思います。まだ夏が終わったわけではないけれど、新聞やネットの週間予報はいつ見ても曇り/雨マークがズラリと並んでいて、これを見るだけでウンザリします。

マロニエ君はもともと夏は好きなほうではないし、これといって野外活動をするわけではありませんが、それでもお天気というものが日々の生活の中でいかに大きい影響があるかということを、今年の夏ほど切実に感じたことはなかったように思います。

広島をはじめ、痛ましい被害が出たところもあるとおり、地鳴りのするような猛烈な雨が夜中じゅう降り続いて、かなり恐怖を感じたことも幾度かありました。

こんな状況ですから除湿器にも休む間がありません。
我がディアパソンは、予想以上に湿度に左右されやすいピアノであることもこの夏しみじみとわかりました。
エアコン+除湿器でガードしていても、終日激しい雨が降り続くとさすがに調律も乱れぎみになり、焦点の定まらない鳴り方をします。あるときなど、ちょっとした油断から半日ほど除湿器の水を捨て忘れて止まっていたことがありましたが、そのときは変なうねりが出てくるほど大きく乱れてしまいました。

あわてて除湿器のスイッチを入れたことはいうまでもありませんが、驚いたのはその後で、一夜明けて湿度も元に戻ることでピアノの狂いもかなりのところまで回復しており、これにはちょっと感動しました。このような変化と復元は、理屈ではわかっていても、自分でその一部始終を体験してみるとやそれなりの感慨があるものです。

外部からホールなどに運び込んだピアノが開梱されると、急激な温度差などでせっかく調整されていたピアノが狂ってしまい、数時間たつと自然に元に戻るという話をよく耳にします。そのとき技術者は何もしないで「待つこと」が必要のようで、ピアノがステージの環境に馴染まないことには何をしても無駄だというのが実感としてわかります。

こういう環境の変化に楽器がプラスにもマイナスにも反応して、調子を崩したり復調したりというようなことに接すると、これも生の楽器ならではの魅力だと思います。

スイッチさえ入れれば季節も調律も関係ない電子ピアノは確かに便利でしょうが、このように維持管理に一定の手間暇がかかるところも楽器と付き合う上での面白さではないかと思います。

天候不順で楽器が調子を崩すのはむろん困りますが、そうかといって、もし降っても照っても、夏でも冬でも、温度にも湿度にも、なんら影響を受けないピアノがあるとしたら、それはそれでつまらないだろうと思います。
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宮崎国際音楽祭

今年の宮崎国際音楽祭から、総監督である徳永二男のヴァイオリン、野平一郎のピアノでシュニトケのヴァイオリンソナタ第1番と、漆原啓子、川田知子、鈴木康浩、古川展生による弦楽四重奏とソプラノの波多野睦美による、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番が放映されました。

いずれも12音で書かれた20世紀の作品ですが、これが思いのほかおもしろい作品で、終始集中して楽しむことができました。

いずれも徳永氏の解説で述べられたとおり、演奏される機会は極めて少ないものの興味深い作品で、シュニトケのヴァイオリンソナタ第1番は「芸術音楽と軽音楽が融合し、さらには映画音楽やジャズの要素まで混ざり込んでいる」というものでしたが、かといって決して娯楽一辺倒のものではありません。

またシェーンベルクの弦楽四重奏曲は全4楽章からなり、彼の30代中頃の作品ですが、なんと第3/4楽章にはソプラノが加わるという驚きの作品でした。徳永氏によれば、第1楽章ではまだ調性音楽の要素を留めているものの、これが第2楽章以降に進むに従い、次第にそれが危うくなって12音音楽に到達するということで、この一曲の中で、19世紀後期ロマン派の調性音楽から20世紀に台頭する無調の音楽への変遷が凝縮されているようでした。

シュニトケのソナタでは、聴き込んだ曲ではないので断定的なことは云えませんが、徳永、野平両氏の演奏は四角四面すぎて、まあ立派ではあるけれど、個人的にはもう少し表現の幅を持った雄弁なアーティキュレーションがほしかったと思いました。
とはいえ、まずは充分に楽しめたことは収穫でした。

続くシェーンベルクの弦楽四重奏曲では、まず上記4人によるクァルテットのアンサンブルが見事で、いまさらながら日本人の演奏精度の高さを感じずにはいられません。
第3楽章からは、背後の椅子に控えていた波多野さんが前に出て、朗々と、そしてどこか怪しげな世界を歌い上げます。

第1楽章からしてどこか荒廃した地の果てを垣間見るような空気感があふれ、それが後半への布石となるのか、ソプラノの登場によってさらに決定的なものへと展開していくようです。
ただ、独特な魅力ある作品だとは感じつつも、ソプラノが加わって以降というもの、マロニエ君の耳には歌曲としか認識ができず、これを弦楽四重奏として受け取るほど自分の耳が鍛えられてはいないことを実感します。まあ良い音楽であることの前では、音楽形式の枠組みがどうかということは大したことではありませんが。

全編を通じて感じたことは、東京の演奏会などより、演奏者もこころなしか気合いが入っているようで、音楽というものは奏者の気合いとか本気度で、その魅力はまるで変わってしまいます。
冷めたような義務的な演奏が横溢するなか、音楽への情熱と作品の真髄を聴衆に伝えようとする意気込みはなによりも大切で、その点で今回の演奏は大変立派なものだと思いました。

ピアノは20数年前にこの文化施設竣工時に収められたと想像される、ちょっと古いスタインウェイですが、これがまたなかなか音に深みと艶のあるピアノで、この時期が本当にスタインウェイらしい音をもっていた最後の世代ではないかという気にさせられます。

良いピアノというのは、聴いていて、一音一音に重みがあり、個性と艶があり、それだけでも聴くに値するものだということをいまさらながら感じました。
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下味つきピアノ

古い録音などを聴いていると、つくづくピアノの音が今とは違うことを痛感させられます。
うわべの派手さを追い求めず、質実剛健でありながら、腹の底からピアノが力強くふくよかに鳴っていることがわかります。

その点では、現代人のピアノの音色に対する好みは、明るくブリリアントな音であることで、これがほとんど当然のような尺度になっているようです。

この点ばかりが強調される陰で、基音は痩せ細り、楽器としての器は萎んでしまっているのに、ムラのない甘ったるい音を出すピアノがもてはやされ、賞味期限を過ぎたら迷わず新しいのに買い換えるのが正しいといわんばかりです。
しかも、もともと賞味するに値するほどの音でもないのが笑止です。

この流れをつくったのはやはり利益優先の企業体質のようにも思いますし、高級ピアノに追いつけ追い越せとダッシュをかけてきた日本のメーカーにも責任の一端はあるのかもしれません。

今や覇者であるスタインウェイでさえ理想的なピアノ作りの道筋が怪しくなって久しく、この先さらにどうなっていくのかと思わずにはいられません。

個人的な印象ですが、今のピアノの大半は、いわばはじめら下味の付いた売出用の食材みたいで、しかもその味が本当に好ましいものであるかどうかも疑わしく、奏者の表現に対する意欲や情熱を大いにスポイルしているように思われます。

だいいち、あらかじめ下味の付いたピアノの音色なんて、どことなく不気味です。
それを「いい音」だと感じているうちはいいのでしょうが、いったんその不自然に気がついてしまうともうノーサンキューで、ここから後戻りはなかなかできません。

まるで、ピアノが揉み手をして擦り寄ってくるようで、「あなたはただキーを押すだけ。あとはこちらで上手くやっておきますよ。」とでもいわれているようです。

その点では、佳き時代のピアノはまったく奏者に媚びを売りませんが、そのかわりに楽器と共に音楽をする喜びやいろんなアイデアを与えてくれるようです。
むろん前もって砂糖をまぶしたような甘味もなければ、貼り付けた笑顔みたいな変な明るさもなく、すべては作品と演奏によって表現されるものという楽器としての本分を備えているということでしょう。

現在のピアノの「おもてなし」に慣れた人が古いピアノを弾くと、くだらない欠点とか愛想のない無骨さばかりを感じてしまい、いい面がすぐには理解出来ない可能性があります。しかし、そういうピアノでいろんな表現をして音楽が姿をあらわしたときの深い説得力というものは、現代のピアノとは比較にならないほど純粋で濃密なものがあります。

もう一度原点回帰して、ピアノ音はあくまでも実直な性格に留めおいて、あとは甘いも辛いも演奏によって表現されるべきものという基本に立ち帰ってほしいものです。

そもそもピアノメーカーなんて、経営が大変なほど大きくなること自体が間違っているのではないかと思います。むろん小さければやっていけるというものでもないでしょうけれど…。
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ケフェレック

今年の5月、王子ホールで行われたアンヌ・ケフェレック・ピアノリサイタルを録画からみてみました。

曲目は、演奏順にショパンのレント・コン・グラン・エスプレッシオーネ、幻想即興曲、子守歌、舟歌、リストの悲しみのゴンドラ第2番、波を渡るパオラの聖フランシス、ドビュッシーの月の光、ヘンデルのメヌエット。

やはりというべきか、この人は大曲より、小品を弾くことで作品に可憐な真珠のような輝きを与えるタイプだと思いました。ただ大曲でも、波を渡るパオラの聖フランシスはよく弾き込まれていて感心させられ、逆に舟歌などは作品の重量が意図的に削り落とされたような印象でした。
幻想即興曲は全体に雑な印象で、これほど誰でもが知っている曲は、弾く側もそれなりの準備がなくては却って不利になると思われます。いっぽうドビュッシーやヘンデルでは、ケフェレックの小兵故のハンディが出ず、もっぱら彼女のセンスの良さで聴かせる佳演でした。

月の光は、技術的にも困難ではなく、これまた超有名曲のわりには満足のいく演奏がなかなかない作品だと思いますが、ケフェレックのそれはフランス人らしい趣味の良さと、いわばネイティブの響きが俄然光りました。
しっとり歌う部分とサラリと流す部分、音を滲ませる部分と個々の音の輝きを強調する部分、アクセントをつけてはならない部分とつけるべき部分の見極めなどがいちいち的を得ているのは、さすがというべきで、この曲を弾く、多くの人が学ぶところの多い演奏でした。

ショパンは全体にあまりにさらさら流しすぎて、せっかくの凝った響きや音型がすっとばされていくようで、もうすこしショパンが作品に込めたひとつひとつの端正な言葉とか精緻の限りをつくした音の組み立ての妙を味わわせてほしいという不満が残ります。

その点で、リストは演奏者に与えられた自由度が比較にならないほど広いことを実感します。
白状するなら、どちらかというとマロニエ君はあまりリストが好きなほうではないというか、率直にいうと苦手なのですが、その中では、この日弾かれた2曲は比較的嫌いではないほうの作品です。

むろんリストが音楽史の中で果たした功績の大きさ、とりわけピアノを語る上では欠くべからざる存在というのはわかっていても、理屈でなしに苦手なものはやっぱり苦手なのです。

画家にもありますが、並外れた才能と卓越した筆致力はあるとしても、片っ端から多作乱作するタイプというのがあって、なんだかそういう要素を感じます。フェルメールのように作品が少ないのも残念ですが、やたらと数ばかりが必要というものでもありません。
レスリー・ハワードというピアニストがリストのピアノ作品録音をしていますが、その数なんとCD約100枚ですから驚くべき作品数で、これでは個々の作品に手間暇をかけているわけにもいかなくなるでしょうね。

詳しい方からは叱られるかもしれませんが、この2曲も終始大げさで芝居がかったようで、リストの作品にはある種のいかがわしさを感じてしまうのです。ものものしいわりに途中で何をいいたいのやらわからない意味不明な時間が長く続き、ようやくなにかが見えてきたと思ったらそれが押し寄せるクライマックスと解放といういつものパターン。

よくわからないのは、フランス人というのはおよそフランス趣味とはかけ離れたリストを採り上げる機会が意外に多いという点です。メルセデス・ベンツとか、もっと昔はキャディラックなどを口では大いに軽蔑しながら、実際はそれらをとても好むという一面をもっていましたから、同じようなものかとも思います。
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乱乱

クラシック不況というのをやたら耳にする昨今ですが、そんな実情を表しているように感じるのが、西洋音楽の本拠地であるウィーンやパリで近年催される一見派手な野外コンサートです。

ベルリンフィルなどは以前からやってはいましたし、イタリアでもヴェローナの野外オペラなどがありますが、ここ最近の新しい野外コンサートは、どうも趣が少々違っているように感じられて仕方がありません。

先日もエッシェンバッハ指揮のウィーンフィルで、『シェーンブルン夏の夜のコンサート2014』というのをやっていましたが、こう言っては何ですが、派手さだけが売り物の大イベントというだけで、およそ良質の音楽を聴くためのコンサートとは思えません。

あのシェーンブルン宮殿を上品とは言いかねるライティングで染め上げ、オーケストラの入る透明屋根の小屋とその周辺の作りは、ほとんど安っぽいサーカスのようで、ウィーンの至宝であるウィーンフィルがこんなことをやらざるをえない状況というのが、なにより現在のクラシック音楽の置かれた状況を物語っているようです。

プログラムの中ほどにリヒャルト・シュトラウスのブルレスケがあって、ピアノは〝またしても〟ラン・ランでした。
オーケストラも指揮者も、そしてピアニストも、だれも本気で演奏している気配はなく、この異色の作品が、お気楽で平面的な音の羅列に終わっていることに驚かされます。
この難曲を安全に進めるためか、テンポもマロニエ君の耳には遅めでキレがなく、ラン・ランも以前にくらべてもいよいよその演奏は粗製濫造の気配を帯びてきたように感じます。

エッフェル塔の下で似たような野外イベントがあったときもやはりラン・ランがソリストで、この時のラヴェルのコンチェルトはほとんど破綻していて、それなのに、なんでこの人ばかりにオファーがあるのか不思議でなりません。
もはや演奏の質や音楽性などどうでもよく、ただ知名度のあるタレントであることだけが必要ということなのでしょう。

シェーンブルン夏の夜のコンサートで驚いたのは、ピアノの詰まったような、音とはいえないような音でした。
よく見ると、鍵盤サイドの右手(客席側)に水滴のようなものがあって、よくよく目を凝らしてみると、やはりそれはまぎれもなく水滴であったのは「まさか!」という感じでした。
ピアノが置かれる前縁は雨が降り込んでくるのか、ボディもあきらかに濡れてサイドのSTEINWAY&SONSの文字のあたりはキラキラ光っているほどで、さらには大屋根の傾斜に沿って水滴がザーッと斜め下に落ちているのも確認できました。

マロニエ君も数多くスタインウェイを使ったコンサートや映像を見てきましたが、ピアノが雨に濡れながら演奏される光景は初めて見ましたし、なんというか…とても嫌なものを見てしまった気分でした。
きっと今のピアノは材質も昔のそれとは違い、おまけにボディ、響板、フレームなど大半の部分がほとんどコーティングのような分厚い塗装をされていて、もしかすると濡れても大した問題ではないのかもしれません。…が、やっぱり見ていて強い嫌悪感を覚えました。

のろのろテンポのブルレスケのあとは、アンコールにモーツァルトのトルコ行進曲を弾きましたが、こちらは打って変わって超ハイスピードの、ほとんどやけっぱちみたいな演奏で、名前を乱乱と変えたほうがいいような、そんな雑な演奏ぶりでした。

宮殿の庭に陣取る大勢のオーディエンスは、おそらく本気で音楽を聴きにきた人々ではなく、大半が観光客などであろうとは思います。
世の中、むろん経済発展は大切ですが、だからといって文化がここまで身を落として蹂躙されるのは納得がいきません。
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現代の優位性

楽器としてのピアノの質が材質と製造の手間暇につきるのだとすると、現代のピアノの優位性は無いと云うことなのか…。

優れたピアノを作るための基本的要素が、好ましい材料(天然資源)と、それを理想的に組み上げる人の手間暇(人件費)だとすると、いずれも今の時代に背を向けるような、効率重視の価値観にはまるでそぐわないものであることは明らかです。

手間暇に関しては、あとから技術者の努力によってまだしも挽回できる部分があるとしても、材質に関しては生まれもつものなので打つ手がありません。

とりわけボディを構成する材料は、そのピアノの生涯にわたる価値と個性を決定するもので、これはいったん作られてしまうと後手を差し込む余地がありません。したがって粗悪な木材や代用品など安価なまがい物で作るという方針である以上、どれほどの高度な技術を投入しようとも、本質に於いていいピアノができる筈はないと見るべきでしょう。

したがって木材や羊毛など優良品の確保が難しい現代では、ピアノの品質低下は当然の成り行きと云えます。この点に於いては少量生産のごく一握りの例外を除いて、ほぼすべてのピアノに見られる傾向だといえるでしょう。

どれほど技術の粋を凝らしても、好ましくない素材や工法で作られたピアノは、表面的な美しさや弾きやすさで一時の気を引くだけです。無機質で優秀な工業製品としての色合いが強まり、楽器の要素を大胆に手放してしまっているという事実は否めません。

ピアノには、天然素材を必要とするという前提が横たわっている限り、いかにテクノロジーが飛躍を遂げようとも、黄金期のそれを凌駕することは本質に於いてないのでしょう。

では、黄金期のピアノより現代のほうが優れている面がまるきりゼロかというと、必ずしもそうとも思いません。

たとえば廉価品のピアノに関して云えば、実はマロニエ君もよくは知らないのですが、昔のピアノの安物ときたらそれはそれは酷いものがあったようです。技術者が唖然とするような構造であったり、ほとんど冗談みたいなちゃちな作りのピアノも多々あったと云いますから、その点で云えば、すくなくとも量産ピアノの構造や品質は飛躍的に上がっているように思います。

高級品まで含めた範囲で云うなら、現代のほうが優れているだろうと思える部分は鍵盤からアクションに至るセクション、すなわち機械的部分ではないかと推察できます。アクションは要するに小さくて精密なパーツの集合体であり、それらの正確な作動は、つまるところ箇々のパーツの精度に行き当たります。

こればかりは、手作りや職人芸を尊ぶことより、機械による均一で精巧なパーツであることがなにより重要な分野だと考えられるからです。その点ではコンピュータによる正確な図面、さらには人の手の及ばぬ精巧無比の仕事をする工作機械の登場によって、昔とは比較にならないレベルへと向上した筈です。

おそらく昔のピアニストは、アクションやタッチに関してはかなりの妥協を強いられていたのではないかと思われますし、グールドなども現代のアクションがあれば晩年のピアノ選びの苦労はなかったのではと思われます。

と、ここまでは技術者的見地の話ですが、では、あまりにむらのない、限りなく完璧に近い理想のアクションがあったとして、それが即、芸術的演奏に直結するのかというと、これはまた別の話のような気がするわけで、かくも楽器とは難しいものということでしょう。
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Bの魅力

ラ・フォル・ジュルネ音楽祭の音楽監督、ルネ・マルタンによるレーベル「MIRARE」からリリースされる、アダム・ラルームというピアニストの弾くブラームスの作品集のCDを購入しました。

中を開けてみると、ジャケットの最後の頁に掲載されている写真は、以前から見覚えのあるもので、「ああここか」と期待とも落胆ともつかない思いが込み上げてきました。
見覚えというのは、以前買ったアンヌ・ケフェレックによるヘンデルやヌーブルジェのハンマークラヴィールのCDがここで収録されたもので、フランスのヴィルファヴァール農場 (la Ferme de Villefavard) というホールに於ける録音です。

農場という言葉から推察されるように、見るからに巨大な納屋だか倉庫だかを音楽ホールに作り替えたとおぼしき施設で、レンガの壁とむき出しの梁などがいかにも無造作で、おもしろいといえばおもしろいけれど、こういう危うい取り合わせには絶妙なセンスが必要で、ヨーロッパならではのものだと思います。

彼の地では、それだけの文化的土壌を拠り所として「なるほど」と感じるものがありますが、近ごろは日本でも田舎の古い家屋などを改修し、そこで拙い商売やイベント開催といった事が流行っているようですが、あれはどうも個人的には馴染めません。
むろん中には稀にいいものもあるのかもしれませんが、多くはコンセプトもなにもない素人の趣味の延長のような趣で、当事者だけの自己満足の域を出ていない印象です。


話が逸れましたが、ヴィルファヴァール農場のホールには比較的新しいスタインウェイのBがあって、音響の素晴らしさなどから、ここでいろいろなコンサートや録音が行われているようです。

響きはたしかにクリアでひろがりのある素晴らしいものだと感じますが、ピアノの音があまりにブリリアントなキラキラ系の音で陰翳がなく、それがちょっと好みではありません。
ひとつひとつの音が磨かれたように美しいのは結構なようですが、まるで屈託のない美人みたいな音で弾かれると、どことなく作品が浅薄な奥行きのないものに感じてしまいます。また、ピアニストの演奏から出てくる表現の妙なども聞こえづらく、俗っぽく聞こえてしまうのは残念な気がします。

これはケフェレックのヘンデルでも同じような印象がありました。
このディスクは極めて高い評価を得ているようですが、マロニエ君にはキラキラした音の羅列ばかりが耳について、演奏そのものへ意識を向けるのに難渋した記憶があります。
(ヌーブルジェはベートーヴェンの収録に際してはヤマハを運び入れているようですが)

それはそれとして、スタインウェイのBは完結した個性を有する素晴らしいピアノだと思います。音の輝きや表現性はそのままに、全般に響きがコンパクトで、これが弾く側にも目配りが利いて扱いやすいのか、いわゆるまとまりが良いと評される所以だと思います。

B型で収録されたCDというのは滅多にありませんが、ピアニストがより内的な表現を目指す、あるいはDの響きが過剰というような場合に、これはひとつの賢明な選択のようにも思います。
音色自体もピアノのサイズからくる軽さと親密感があり、コッテリ系を嫌うフランス人などは状況に応じてこちらを好んでも不思議ではないと思います。

オーケストラでいうと室内管弦楽団のようなキレの良さで、よりピアノらしくもあり軽い身のこなしが身上というところかもしれません。
大規模なステージではDが欲しいところですが、このように静寂の中へマイクを立てて行われる録音では、Bは私的でデリケートな音楽作りを可能にしてくれるのかもしれません。
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コスト戦争

ピアノ選びや優劣論で話題となるのが、品質に関するものではないかと思います。

音色の好みを別とするなら、ピアノの品質とは何が違うかといえば、優れた設計、使用される材料の質、そして製造・仕上げの手間暇につきるのではないかと思います。

極めて夢を削ぐ話ではありますが、ピアノという楽器は、非常に多くの制約と妥協の中で産声を上げている製品ということは間違いありません。それは主に需要とコストという実利的な問題に縛られ、それらは絶え間なくピアノ生産の在り方と方向性に重くのしかかる最重要課題だからです。

多少なりとも最高級品に許されるのは、まずはコストの余裕でしょうが、それとても「金に糸目はつけない」というようなものとは程遠い、常に厳しい制約がかかっている枠内での相対的な話です。

さらに制約のレベルが一気に引き上げられるのが量産ピアノです。
どれほど有名メーカーの高品質な製品とは云っても、それは表向きのこと。根底にある製造上の思想は、「いかに徹底して安く作るか」というひと言につきるのだと思います。
言い換えれば、ブランド力を損なわないギリギリのラインで、どこまで品質を落とすことができるか、その限界点を探ることが量産ピアノ製造の最大の使命であり、そのためのあらゆる試行錯誤がおこなわれていると云っても過言ではないでしょう。

日本の大手メーカーは、とりわけ優良な量産ピアノ作りの面では、世界的にも先駆者の部類であることは自他共に認めるところです。その技術力は大変なもので、現在ではありとあらゆるノウハウを知悉しているはずです。

「ブランド力を損なわずどこまで品質を落とすことができるか」という、高度な課題に日々取り組んでいるということは、逆に云えば、良いピアノはどうやったらできるかと云うことも、彼らは百も承知のはずです。

真に芸術的なピアノということになれば容易なことではないにしても、普及品のピアノをそこそこランクアップさせる程度ならわけもないことです。
すべてが必要最低限の品質で作られているとすれば、そこにわずかでも付加価値を作り出すのは造作もないことでしょう。

好ましい材料をふんだんに使って、手間暇を惜しまず、細心の注意を払って組み立て、いかようにも時間をかけて調整すれば、設計に欠陥でもない限り、それなりのピアノには間違いなく仕上がる筈です。

とりわけ、理想的な響板と旧来の工法によるフレームなどは今日のピアノの多くが手放してしまったものでしょうし、木材やハンマーのフェルトなどもしかりで、かなりの部分は解明できていても、それが実践で使えないだけという状態だろうと思います。

彼らの叡智は利益率の良い、優秀な商品を作ることへ多くのエネルギーが注ぎ込まれているというのが現実ですが、これはピアノに限らず、工業製品というものには、コストに対する非道なまでの要求がついてまわり、現場と営業サイドとの確執は、常に後者が勝利であるようです。

イタリアのFなどがこれほど躍進できているのも、現代は真の意味での高級ピアノ不在の時代環境だからこそ、そこにあえて手間暇のかかる正攻法を貫いてみせた鮮烈さの結果だとも感じてしまいます。
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廃物利用は美徳?

以前にも少し触れましたが、最近の普及品ハンマーには、意図的にかなりの固さに仕上げられているものがあるようです。

これまで長らくマロニエ君の抱いてきた認識では、新しいハンマーはフェルトが柔軟で、弦溝も付いていないため、どうしてもはじめは音に芯がなく、鳴りもイマイチという期間を耐えてて過ごさねばならないというものでした。

そのため仕上げの整音では、弦の当たる部分にコテをあてるとか、適宜硬化剤などを用いるなどして、できるだけ明晰な音に近づけるよう、まずは技術者が尽力する。それが及ばない部分については、しばらく弾き込んでいくことで、徐々に本来の鳴りにもっていくという流れで、要はある程度の時が必要なものだと思っていたのです。

ところが最近のハンマーの中には、新品でもカッチカチの、はじめから硬質な音を出すものがあることは知りませんでした。よほど巻きが固いのかと思いきや、そうではないらしく、質の良くないフェルトを固形物のように固めてしまっているようです。

これじゃあ技術者の整音も高度な意味でのそれではなくなり、ただ硬い肉を突いたり叩いたりして柔らかくするような作業になるような気がしてしまいます…。

使い古したハンマーが、整音してもすぐにペチャッとした耳障りな音に戻ってしまうように、フェルトそのものに本来あるべきしなやかさがないとすれば、音質はもちろん賞味期限もたかがしれているでしょう。深みのある音などは望むほうが無理というべきですが、作る側も、使う側も、それをじゅうぶん承知の上なのかもしれません。

取りつけるピアノの品質もそこそこなのにもってきて、いきなり派手な音が出るし、価格も安い、×年ぐらい保てばいいとなれば、それで良しということなのか。

ピアノメーカーにしてみればそこそこの時期で買い換えてもらうためにも、ひょっとすると最近はこういうハンマーのほうがある意味主流なのかもしれません。
考えてみれば、新品ピアノでも、昔のようにモコモコ音しか出ないものは最近はまずお目にかかりません。自動打鍵機のような機械のお陰かとも思っていましたが、どうやらそればかりではないのでしょう。
新しいうちから、いかにも滑舌の良さげな明るくパリッとした音がいとも安易に出るのは、こういうハンマーで鳴らしているということなのか…。尤もハンマーに限らず、ボディや響板などもほぼ似たような品質で全体のバランスがとれているとすれば、別の意味ですごく良くできているということでもあり、そのあたりの技術力というのは大変なものなのかもしれません。

さらに、お客さんは弾いてみたときの、短時間で受ける印象が購入への重要な決め手になるでしょうから、売る側にしてみれば1年ガマンして弾いてくださいなどという悠長なことは云っていられないんでしょうね。

また天然資源は軒並み品薄で量産には適さず、価格も高値安定となれば、昔だったら検査ではねられて使わなかったようなものでも、今は加工して徹底的に使うのが常識なのだと思われます。ということは、響板はじめあらゆる部位も、およそ似たようなレベルだと考えていいのかもしれません。

大概のことなら廃物利用は美徳かもしれませんが、楽器作りもそれがあてはまるのかどうか…マロニエ君にはなんとも云えません。
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出しゃばりすぎない

2006年に「ピアニスト休止宣言」をしたミハイル・プレトミョフが、シゲルカワイとの出会いをきっかけに活動再開に至ったことは以前に書きました。

彼は今年5月、ピアニストとして久々の来日を果たし、そのことに関する本人のコメントが音楽の友の最新号のグラビアに掲載されていました。

それによれば、ピアニスト休止宣言をした理由を『当時のどのピアノの音にも我慢できなくなり、ピアニスト活動を止めました。けれども私はあるとき偶然にシゲルカワイに出会った』と語っています。

そして、シゲルカワイについては『このピアノは私がずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない、そして繊細きわまりない音色をもっていました。そして何より私が100%コントロールできるポテンシャルがあって、しかもそれが自然。このピアノなくしてピアニストとしての私はありません。』
…とのこと。

プレトニョフほどのメジャーピアニストが活動の休止宣言したにもかかわらず、日本製の優れたピアノとの出会いが再開するきっかけとなったとなれば、もちろん日本人としてはそこを喜びたいわけですが、これを読んで、なんというか…その理由というのが…もうひとつ手放しで喜べるようなものかどうかよくわからない気がしました。

「どのピアノの音にも我慢できなくなり」に対して「ずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない」というのは、どう受け止めればいいのか…。ピアノはピアニストの道具なんだから、分をわきまえてよけいな主張はするなという意味にも受け取れます。
これは考えてみるとプレトニョフが指揮活動に重点を置いてきたことにも関係があるのだろうか…と思ってみたりもしました。『私が100%コントロールできるポテンシャル』というのもしかりで、ちょっと悪い言い方をすれば、優秀なオーケストラは指揮者の指令通りに音楽を生み出す集団でもあるし、しかも団員一人ひとりが意志と技術をもって指揮者の意に添って演奏すれば、かなり高い要求を満たすことはできるでしょう。

ただ、カラヤンのような極端な例もあるように、指揮者は往々にして権力者と揶揄されます。権力は魔物であって、しだいにイエスマンを求めるようになり、その体質が個性あるピアノさえも彼の意向に背くものになっていったということなのかとも勘ぐってしまいました。

日本のピアノが褒められるのは嬉しいとしても、褒められている内容が最も肝心なところでしょう。シゲルカワイはピアノがでしゃばるほどの個性が無く、その点が素直で大変よろしいと、まるで命令通りにせっせと働く従順な社員がワンマン社長から頭を撫でられているみたいで、少しでも出過ぎたことがあったなら、たちまちお払い箱になるのかという気がします。

ふと家臣を道具としか見なさない織田信長を連想しましたが、はてプレトニョフに信長ほどの稀代の独創性や異才があるのかどうか…。

どうせなら、気に入った理由がもっと積極的にそのピアノの個性や魅力であってほしい気がして、これではまるで、自分のじゃまにならない程度に控え目で地味なピアノがいいといっているように解釈してしまうマロニエ君はへそ曲がりなんでしょうか?

個人的には、SK-EXより、その前のEXのほうがある意味でまとまりがあったようにも思いましたし「でしゃばりすぎない良さ」もむしろこちらのような気がしますが、それはともかく、マエストロはSK-EXを「ういやつじゃ」とお気に召したということのようです。

でも、あまり、でしゃばる云々を言い出したら、突き詰めればマエストロの演奏だって、作曲者から同じことを云われかねません。ベートーヴェンの第4協奏曲などはプレトニョフの解釈がでしゃばりまくりだったという印象しかないのですが…まあ自分はいいんでしょうね。
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リストの番組

先週のこと、BSジャパンで『フランツ・リストの栄光と謎 〜なぜ史上最高のピアニストと言われるのか〜』という2時間番組があり、大抵こういうものは見逃してしまうマロニエ君ですが、このときは運良く直前に気付いて録画することができました。

俳優の中村雅俊氏がナビゲーター役としてヨーロッパに赴き、リストの軌跡を追うというもので、この番組は生誕200年を記念した2011年の制作、今回はその再放送だったようです。
中村氏には適度な存在感と節度感があり、訪問先でも物怖じせず自然、よく頑張られたと思いました。

民放でこういう番組をやるのは珍しいこともあり、いちおう最後まで見ましたが、構成がいまひとつというか、ただあちこちに行ってはそこで待ち受ける人の話を軽く聞いて、ところどころで演奏を差し挟むという繰り返しで、期待したほどのものでもありませんでした。

こういうものを作らせると、やっぱりNHKは一枚も二枚もうわ手で、まずは中心となる主題があり、構成や監修が格段にしっかりしていることを痛感します。視る者の興味をうまく誘導する作りになっており、ところどころで深い部分に迫ったりしながら、番組進行がダレたり冗長になったりすることがないのが逆にわかります。
最大の違いは、ひとことで云えばクオリティで、番組制作にかける綿密な事前調査と企画力、さらにはお金と時間のかけ方がまったく違うということが如実に現れてくるようです。

その制作費に関連することで思い出しましたが、出だしからして映像に不可解な細工が施されているのが目につきました。冒頭の映像はピアニストによるラ・カンパネラの演奏の様子でしたが、このときのピアノはベヒシュタインだったものの、鍵盤蓋のロゴは遠目にもぼかしが入れられ、ピアノメーカーがわからないようになっています。

その後は、何度もスタインウェイが出てきましたが、ある一瞬を除いて、それ以外はすべて徹底的にロゴにはぼかしが入れられ、これらピアノメーカーの名は出さないという意志が働いているようでした。今やNHKでさえピアノメーカーのロゴは隠さない時代になっているというのに、このぼかしはちょっと異様でした。

ところが驚いたのはその後で、訪問先の音楽院などにあるヤマハにはぼかしはなく、二台並んでいるとなりのスタインウェイはしっかりぼかしを入れるという念の入れようです。その後、別の場所でもヤマハは堂々とロゴが写し出され、この露骨なまでの「差別」には恐れ入りました。さらには歴史的なピアノとして登場したベーゼンドルファーもぼかしは入りませんでしたが、2007年以降はベーゼンはヤマハの子会社なのでこちらはオッケーということがわかりやすいほどわかります。

エンディングのクレジットなどを見てもヤマハの名が出てくることはありませんでしたが、これはもう明らかにヤマハの意向が働いていることは明々白々です。
さらにいうと、なぜそれほど不自然なまでに他社の名を隠蔽しなくてはいけないのか、その偏狭さには驚くばかりです。

いまさらそんなことをしなくても、リストが存命中にヤマハを弾いたわけでなし、欧米にはスタインウェイはじめいろいろなピアノがあるのは現実なんですから、歴史的名器に混ざってヤマハも数多く見ることができるということのほうが、むしろヤマハの国際性が感じられて、よほど視る人の印象もいいと思うのですが…。

こういうことをあまり過度にやりすぎると、むしろ逆効果にしかならず、却ってこの世界に冠たるメーカーが未成熟な幼児的体質をもっているように見えて残念でした。
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初期モデルが最高?

ふとしたきっかけで、さる知人から聞いた意外な話を思い出しました。

それによると、なんとピアノは「初期モデルこそ買い!」なのだそうです。

「初期モデル」というものは、例えば車のような機械ものでは敬遠すべきが常識であって、これを最初に聞いたとき、どういう意味なのか皆目わかりませんでした。

車では、新型にフルチェンジしたモデルなど、見てくれや数々の機構こそ新しさが満載ですが、その裏に製品としての不安定や、初期トラブルを多く抱えており、これを買うのは大枚はたいてメーカーのモルモットになるようなものだという共通認識があります。

メーカーではかなりの走行実験などを繰り返していますが、それでも実際に市場に投入され、多くのユーザーが使ってみることではじめてわかってくるものがたくさんあります。
とりわけ現代の車はコストと効率のせめぎ合いでぎりぎりに作られており、耐久性などもミニマムスペックで登場するとも云われています。

実際に車が販売され、ユーザーが使った結果がデータとして上がってきて、ここから対策が講じられて、必要が認められれば改良され、以降の生産にも反映されます。
必要に応じて、すでに販売された車にも問題箇所は改良パーツに交換されたり、もっと酷い場合にはリコールなどの対象にもなるわけで、自動車マニアでもこだわりの強い人達は、新型発表から最低2年は様子見をするというのがこの世界の常識でした。

そしてモデル末期は乗り味も向上し、最も完成度が高く、モデルによっては初期型と最終モデルでは基本は同じ車でも、別物のように磨かれています。洗練され、併せて信頼性もアップしているというわけで、マニアの中には、わざわざモデルチェンジ直前のモデルを狙い打ちに購入したりする人も少なくありませんでした。

ところが、ピアノでは「初期モデルこそ買い」という、車とは真逆の定理があるのはいかなることなのか。その根拠を聞いてみると、なるほどと納得させられるものでした。

ピアノの基本構造は100年以上前に完成形に達したもので、早い話が車のように新しい設計や機能が次々に投入されるわけでもなく、言葉ではニューモデルなどといっても、機構上の新しさなんてたかがしれています。

それでも、ごくたまにはシリーズ名がちょっと変わったり、プレミアムモデルが追加されたりということはあるわけで、その際メーカーは新シリーズの高評価を獲得する目的で、シリーズ出始めのモデルは、とくに入念に作られているということらしいのです。

はじめに高い評判を得ておくことが、その後の売れ行きに影響するのだそうで、だからピアノの場合は新型が出てしばらくの間のモデルは、格別気合いの入った出来映えなのだとか。

そこでの違いは材料であったり仕上げの手間などであったりするのでしょうが、たしかにピアノが基本の設計から変更になることなんて、そうめったにあることではなく、あとは材質や、製造時・製造後の手間(コスト)のかけ方が大きくものを云うようです。

すなわち発売初期に頑張っておいて、あとは少しずつ手を抜いていくということだろうかと思いますが、たしかにピアノはそれを少しずつやられても、なかなかバレない性質の製品ですから、これは大いに考えられる話だと思いました。

そういえば、デビュー当時より明らかに質が落ちてきたと感じるピアノが思い浮かぶので、やはりそうなのかもしれません。
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ハンマーの違いは

ピアノのハンマーには様々な種類があるようですが、実際の違いとはいかなるものなのか…。
プロの技術者でさえ、この点を明確に把握している人は果たしてどれだけおられるのかと思われ、ましてや一般のピアノユーザーがそれを具体的に知る術はないに等しいでしょう。

多くの場合、名の通ったメーカーのものならまずは安心だろう、さらに価格の高いものほど上質だろうという、しょせんは「だろう、だろう」の世界ではないでしょうか。

ヤマハのような大メーカーはフェルトのみを輸入して、木部への巻き加工などは自社で行って自社製ハンマーとするそうですが、他のメーカーはどうなのか…。
カワイは、レギュラーモデルをベースに、海外メーカーの響板やイギリスのロイヤルジョージ社のハンマーを装着したモデルも販売しています。そうなるとレギュラー品はそれよりは劣っているような印象を受けてしまうユーザーも少なくないでしょうが、実際のところどの程度の違いなのか…。

このロイヤルジョージ・ハンマーは、以前ネット上で見かけたところでは、日本のフェルトメーカーがブランドごと傘下に納めて日本で作っているようでもあり、そうなると日本製ということになるのか。そのあたりの詳細は一向に明らかにされず、表向きは英国から輸入された特別なハンマーですよというイメージになっていますが、よくわかりません。

使用する響板によって音が決定的に違うのは当然としても、ハンマーの場合はものによって具体的にどういう変化が起こってくるものか、イメージとしてはわかるようでも、実際はわかっているとは言い難い状況だと個人的には思います。もちろん大きさの違いや巻きの硬軟からくる違いがあるのは当然としても、同サイズで同じような固さのフェルトの場合、あとは音質にどのような影響が出るものなのか、その微妙なところがもう一歩踏み込んだかたちで知りたいものです。

羊毛の質の良し悪しというのが当然ありますが、実際にそれが音としてどの程度の違いとして現れてくるのか、オーディオのアンプやスピーカーのように付け替えて比較するわけにもいかないので、これは容易に判断のつくものではありません。

羊毛といえば、これをハンマーに成形する際、高温で加工するのだそうですが、その高熱によって羊毛の質が落ちるとも云われます。そこで少量生産のメーカーでは、ローヒートプレスという昔ながらの方法で羊毛の繊維を傷めないように作られたハンマーがあるようですが、製造に手間がかかるために量産には向かず高級品とされているようです。

逆に安いハンマーの中には、低質な羊毛をやたらガチガチに固めただけのようなものもあって、それは木材における自然乾燥と人工乾燥、あるいは一枚板と集成材の関係にも通じるものがあるように感じます。

ピアノの音は、ボディや響板などがもたらす複合的なものでしかなく、ハンマーの違いだけを音として独立して知ることはできません。取りつけるピアノとの相性や技術者のセンスもあるでしょう。
とくにハンマーはその品質に加えて、針刺しなどヴォイシングの技術に負うところもあり、それにより結果は一変するでしょうから、どこまでが純粋なハンマーの品質によるものかを判じるのは、少なくとも一般人にとってその手立てはほとんど閉ざされたも同然で、やっぱり「だろう、だろう」になってしまいます。

なんとなくイメージするのは書道に於ける筆です。
一本百円かそこらのものから、何十万もする逸品までありますが、百円の筆でもちゃんと字が書けるという点では、それなりの機能は持っているわけです。
最高と最低の判別は容易でも、もっとも需要が多い中間レベルの優劣判断というのは極めて難しいところでしょう。
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主治医さがし

ピアノが好きな知人で、マロニエ君とはまったく違う地域に在住される方が、昨年、東奔西走の末にめでたく中古グランドピアノを購入されました。
購入にあたって、弦やハンマーなど主立った消耗品が交換され、その上での納入ということになったようです。

納入後の調律も終わり、これからいよいよ自分好みのピアノに育てるべく、春ごろから主治医さがしが始まった様子でしたが、なかなかこれだという人が見つからないようです。
まったくのエリア違いから紹介もできず、せめてマロニエ君もネット検索を一時期お手伝いしましたが、これもやってみると簡単ではないことを痛感しました。

ピアノ業界に限ったことではありませんが、ブログなどでそこそこ好印象が得られても、それはあくまでネット上でのことで、実際に会って、顔を見て話をしてみないことには人というのはわかりません。
また、ひとくちに技術者(一般にいうピアノ調律師)といっても、技術の巧拙だけでなく、人柄、流儀、価値観、料金等々が実にさまざまで、要するに当たり外れがあるのも事実です。

長いスパンで釣り糸を垂れておけば、いつの日か自分が求める技術者と出会うこともあるかもしれませんが、これを短期集中的に探し、しかもハズレがないようにするとなると、これは一筋縄ではいきません。

そもそも技術者のHPやブログなどは宣伝目的であることがほとんどで、当然いいことしか書かれていないのは業種を問わず同じでしょう。さらに信頼できる業界筋の話によれば、本当に一流のピアノ技術者として周囲から認知されている人は、決してネット上には出てこない(一部例外あり)というジンクスがあるそうです。
それもあって、その人達の自意識としては、HPを持たないことが逆のステータスでもあるそうで、こうなるとますますもって主治医さがしは困難を極めます。

すでに、これまでにも数名の有名無名の技術者が下見にやって来たそうですが、各人でその見立てや価格にも少なくない違いがあったり、人間的にソリが合わないなど、決め手を欠いているとのこと。

ブログとはかけ離れた雰囲気であったり、技術者としての見識を疑うような発言、買ったばかりというのにいきなり別のピアノのセールスをする、やたら部品交換を必要と言い立てる、あるいはしっかりと自分の自慢話ばかりして帰った…等々で、どれも決め手に欠ける方のオンパレードのようでした。

さらに驚いたのは、費用もそれなりのものになるため、よく検討したいと伝えたら、いきなり逆ギレされた、あるいは穏やかな人が他の技術者の話題になったとたん態度を一変したなど、ちょっと信じがたいような内容が続いたことです。

いまや医師でも患者への丁寧な説明が求められ、セカンドオピニオンなども快く受け容れる時代であるのに、ピアノの技術者の世界では、素人は専門家の云うことに盲目的に従って当たり前といった旧態依然とした体質が根底に流れているのだろうかとも思います。

専門分野というものは、一般人がわからない世界だけに、なにより信頼できる人柄であることは特に大切な要素になります。
人によっては、相手が素人となると、専門知識を武器に成り行きをコントロールしようとする傾向が往々にしてあるのも否定できません。ご当人はアドバイスだといいたいところでしょうが、コントロールとアドバイスは似て非なるもの。
ここで言っておきたいことは、人は専門知識がなくても、自分がコントロールを受ける対象になると、本能的にそれを察知する能力があること、さらにそこに必ずしも専門知識は要らないということです。

つまり専門家が思うほど、シロウトは実はバカではありません。
専門知識はなくても、どこかが変、なにかが腑に落ちない、腰は低いが印象が良くない、言行一致していないなど、危険を知らせるシグナルが心の奥で点滅することが時として発生し、そんなときは潔くやめておいたほうが賢明です。

相手が専門家でも決して言いなりになることなく、自分の「勘働き」というのもは大事にすべきだというのがマロニエ君の持論です。
自分の勘に背いて、欲望を先行させたり、理屈を後付けしたようなとき、大抵は失敗しているなぁと自分で思うのです。
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日本製表示

先日、久しぶりにヤマハに行くと、書籍売場の配置が変わっており、グランドピアノのすぐ傍まで音楽書が並ぶようになっていました。

C6Xの置かれたすぐ脇の棚を見ていると、ふとピアノの低音側の足の側面になにか金色の文字が書かれていることに気付きました。

何だろうと近づいて見ると、小さめの金文字で「Made in Japan」とありました。
ヤマハピアノは、云われなくても日本製だと思うのが普通で、だれもが日本の楽器の聖地である浜松およびその周辺で製造されているものと長らく思い込んでいたものです。

さて、いつごろからだったか、中国製などのピアノが尤もらしいヨーロッパ風のブランドを名乗って安価に販売され、営業マンの強引な口車に乗せられてこれを買ってしまい、あとから大後悔というような話もずいぶんありました。
その後は、やっぱり日本製のピアノが安心という認識が広がってきたものの、今度はその日本製の出自が怪しくなってきたということなのか…。

人件費など製造コストの問題から、近年は日本の大手メーカーのピアノまでも、一部はアジアに生産拠点を移すなどして、いわゆる日本製ではない日本ブランドのピアノが逆輸入されるようになっているそうですが、なかなかそんな裏事情まで詳しくはわからないものです。
本来、製造物には生産国表示が義務づけられていますが、ピアノは素材が輸入品であったりするためか、必ずしもこれがわかりやすく明示されているとは言い難い状況が続いています。

エセックスやウエンドル&ラングなども、中国製のピアノですが、そのことを隠してはいないにしても、正面切って明示されているとも思えません。少なくとも、その点についてはそう積極的には触れないでおきたいという売り手側の本音を感じてしまいます。
尤も、中国製を言いたくないのは、なにもピアノに限ったことでもありませんが。

ヤマハなども一部のアップライトなどはアジア工場製だったりすることが次第に知られるようになりましたが、そうなると全製品が疑いの目をもってみられることにもなるのかもしれません。

また、日本製であっても、内部のパーツやアッセンブリーは輸入品である場合も少なくないわけで、これはヨーロッパ製ピアノにも同様のことが云えるようです。要は世界中のピアノが世界中のパーツを使って作られているということでもあり、こうなると純粋に○○製と言い切ることはどのピアノに於いても難しくなっているようです。

そう厳密な話でなくても、主にどこで製造されているかという点では、日本の大手のグランドは日本製のようで、そこのところを明確にするためにも上記のような「Made in Japan」の文字がピアノ本体に明記されるようになったのだろうと思われます。
これはこれで、日本製ということがはっきりするのかもしれませんが、裏を返せば日本製じゃないヤマハピアノがありますよとメーカーが認めているようにも感じられました。
ともかくそんな時代になったということでしょう。

ちなみに、過日書いた「黒檀調天然木」の黒鍵は、新品のC6XやC5Xで見る限り、一時のような安物チックな代物ではなく、とても立派で、一見したところでは黒檀と見紛うばかりの仕上がりになっており、この点は驚きとともに認識をあらためなくてはと思いました。

ただし、先々の経年変化でどうなるのかまではわかりませんが…。
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輸出で流出

海外における日本製ピアノの人気は、日本人が考えるものよりも、ずっと高いもののようです。

日本製ピアノは、日本国内ではべつにどうということもない普通の存在ですが、ひとたび海外に出ると事情は一変。とくにアジアではヤマハやカワイは中古でも高級品としての高いステータスを有して、ダントツの人気だとか。

だからかどうか不明ですが、朝、新聞を見るたびに驚くことは、ピアノ買い取りのためのド派手な広告が数日に1度というハイペースで掲載されていることです。
しかもその大きさたるや、全面広告(新聞の1ページをすべて使った大きさ)で、これほどの巨大広告をこれほど頻繁に繰り返し掲載するというのは、ちょっと異様というか、ただならぬ威力を感じてしまいます。

新聞広告の掲載料は安くはありません。
通常、全面広告はよほどの大企業などが、たまに出すことがある程度で、おいそれと掲載できるようなものではない。
ちなみにネットで広告料を調べてすぐにでてきたのが日経新聞で、全国版の朝刊での全面広告料は、なんと1回2千万を超えています。(ちなみに我が家は日経ではありませんが)

もちろん新聞社によっても、地域によっても、あるいは掲載の回数によっても多少の違いはあるようですが、いずれにしろとてつもない金額であることは間違いありません。

ピアノ買い取りはいうまでもなく、家庭などで弾かれなくなったり、いろいろな事情からピアノを手放す人からピアノを安く買い取って(中にはタダ、もしくは処分料を請求されるケースもある由)、その大半が近隣国などへ輸出するための、いわば商品仕入れです。
それがこれほどの広告料を払ってでも成り立っていくと云うことは、相当大きなビジネスであろうことは察しがつくというものです。

この中古ピアノ輸出業者も大小あるらしく、中には単なるピアノ販売店だったところがピアノ輸出業に転じたというようなケースもあるようです。市場規模が縮小するいっぽうの日本国内で地味な商売をするよりは、よほど利益も上がってやり甲斐があるということなのでしょう。

とくにアジア諸国では、日本のピアノは高級ブランド品であり、中古でも圧倒的な人気があるようです。日本ではもうひとつその実感はありませんが、中国でピアノ店などを覗いた経験でも、そこで見る日本のピアノは特別な存在感があり、その人気のほどをひしひしと感じることができます。

日本で売れないものが他国では超人気となってバンバン売れるとなれば、それっとばかりに中古ピアノの輸出ビジネスに人が群がり、夥しい数の日本製ピアノが海を渡っていったようです。
さすがにピークを過ぎた観もありますが、上記のような新聞広告を数日に一度は目にさせられると、依然としてその流れは止まっていないようにも思います。

この怒濤のような中古ピアノ輸出の煽りから、まるで伐採のし過ぎで森がはげ山になるように、日本ではとくに中古ピアノの流通量がかなり減ってしまっているようです。
当然のように需給バランスで価格は上がり、とりわけグランドはいまや業者間の卸価格が高騰しているという話さえ聞きます。

売れる相手に売るというのはビジネスの厳しい掟であって、そこに感傷を差し挟む余地はないのでしょう。しかし国内の中古ピアノが枯渇して価格変動をおこしてしまうまで海外へ売り尽くすというのは、どことなくやりきれないものを感じます。
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過熱するコラボ

BSプレミアムシアターで、今年4月ジャズピアニストの小曽根真氏が、ニューヨークのエイブリーフィッシャーホールのコンサートに出演し、ラプソディ・イン・ブルーを弾く様子を見ました。

エイブリーフィッシャーホールはニューヨークフィルの本拠地で、当然オーケストラはニューヨークフィル、指揮はアラン・ギルバート。当然といえば、ピアノも当然のようにヤマハでした。

マロニエ君は小曽根氏のジャズに於ける実力がどれ程のものか、わかりませんし、知りません。
ただ、数年前モーツァルトのジュノーム(ピアノ協奏曲第9番)ではじめてこの人のクラシックの演奏を聴き、折ある事にクラシックにも手をつけているのはよく知られているとおりです。
その後はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、そして今回のガーシュウィンを聴くことになりましたし、ネットの情報では、ドイツではラフマニノフのパガニーニ狂詩曲まで弾いたとか。

最初のモーツァルトのジュノームでは、珍しさもあってそれなりに面白く聴くことができましたが、ショスタコーヴィチではピアノがあれほど華々しく活躍する曲であるのに、いやに引っ込み思案な演奏だった印象があります。
そして、今回のガーシュウィンではさらに慎重な、失言のないコメントみたいな演奏で、とてもジャズピアニストのノリの良いテンションで引っぱっていくというような気配は見られませんでした。
なにより演奏者がいま目の前で音楽を楽しんでいるという様子がなく、ひたすら安全運転に徹していたのはがっかりです。

それなのに、ときどき指揮者と満面の笑みでアイコンタクトをとったりするのが、なんだかとてもわざとらしく見えてしまいました。

こういう畑違いのピアニストが登場する以上は、少しぐらいルールからはみ出してもいいから、クラシックの演奏家にはないビート感とかパッションを期待しがちですが、ものの見事に当てが外れました。果たしてニューヨークの聴衆の本音はどうなのかと思います。

曲のあちらこちらには小曽根氏の即興演奏のようなものがカデンツァとして盛り込まれていましたが、前後の脈絡がなく、それなのに、すべては「台本」に入っていることのように感じます。しかもそれが何カ所にもあって、冗長で、ラプソディ・イン・ブルーとはかけ離れた時間になってしまったようで疑問でした。

ジャズピアニストの中にも本当に上手い人がいるのは事実で、小曽根氏の憧れとも聞くオスカー・ピーターソンなどは、それこそ信じられないような圧倒的な指さばきと安定感で、それが天性の音楽性と結びつくものだから聴く者を一気に音楽の世界に連れ去ってしまいます。
キース・ジャレットのバッハにも驚嘆したし、チック・コリアの演奏にも舌を巻きました。

せめてそういうジャズの魅力の香りぐらいはあってもいいのではないかと思うところですが、小曽根氏のピアノは、少なくともクラシックを弾く限りに於いてはむしろ活気がなく、個人的には退屈してしまいます。

それをまた「絶賛の嵐」というような最上級の賛辞で褒めまくりにされるのが今風です。
当節はその道のスペシャリストが高度な仕事をしても正統な評価はされず、人も集まらないので、主催者も話題性という観点からコラボなどに頼っているということなのか…。

ただアンコールになると、人を楽しませる術を知っている人だということはわかりますし、本人も俄然本領発揮という趣でした。そういう意味ではなるほどエンターテイナーなのかもしれませんが、クラシックは伝統的に演奏そのものが勝負という一面がどうしてもあるので、その点ではいかにも苦しげに見えてしまいます。

コンサートって、やはりいろんな意味で難しいもののようですね。
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本来の作法

モーストリー・クラシックの6月号をパラパラやっていると、へぇという記事に目が止まりました。

2006年、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲をライブで収録した後、ピアニストとしての活動休止宣言をしていたプレトニョフが、モスクワ音楽院にあるシゲルカワイ(SK)-EXとの出会をきっかけに、再びピアノを弾く気になったというものです。

ロシアのピアニストで指揮者のミハイル・プレトニョフは、1978年のチャイコフスキーコンクールのピアノ部門で優勝、初来日公演にも行きましたが、そのテクニックは凄まじいばかりで、演奏内容もきわめて充実しており、ただただ驚嘆させられた記憶があります。

これは近い将来、間違いなく世界有数の第一級ピアニストの一人になるだろうと確信したほどです。ところが何年たっても期待ほどの活躍でもないように思っていたら、ロシアナショナルフィルを創設して、もっぱら指揮活動に打ち込むようになり、「ああ…そっちに行ったのか」と思っていました。

ピアニストとしてあれほどの天分を持ちながら、オーケストラを作って指揮に転ずるとは、ご当人はやり甲斐のあることをやっているのだとは思いつつ、ピアニストとしての活躍に期待していた側からすれば少々残念な気がしてたものです。

ところがそのプレトニョフ率いるロシアナショナルフィルは望外の演奏をやりだして、ドイツグラモフォンから次々にロシアもののCDがリリースされました。チャイコフスキーやラフマニノフのシンフォニーなど、かなりの数を購入した覚えがあります。
まったくピアノを弾いていないわけでもなかったようですが、オーケストラの責任者ともなればピアニストをやっている時間はないのだろうと思っていると、伝え聞くところでは、近年は自分が弾きたいと思うピアノ(楽器)がなくなってしまったことがピアニストとしての活動を減ずる大きな要因になっている旨の発言をしたようです。

その証拠に、2006年のベートーヴェンのピアノ協奏曲では、普段なかなか表舞台に登場することの少ないブリュートナーのコンサートグランドが使われています。聴いた感じでは、まあ楽器も演奏もそれなりという感じでしたが…。

プレトニョフがこの録音の後にピアニスト休止宣言をしたということは、ブリュートナーさえも彼の満足を得ることはできなかったということのようにも解釈できます。

そんなプレトニョフにSK-EXとの邂逅があり、昨年はそれが契機となってモスクワでリサイタルをやった由、よほどの惚れ込みようと思われます。その後はロシアナショナルフィルとの来日でカワイの竜洋工場を訪れ、そこでなんらかの約束ができたのかもしれません。

雑誌によれば今年5月には7年ぶりのアジアでのピアニスト再開ツアーを行う(すでに終了?)とのことで、カワイのサポートのもとにリサイタルやコンチェルトなどが予定されているということが記されていました。

マロニエ君はSK-EXによるコンサートは何度も聴いていますが、コンサートグランドとしては率直に云ってそれほどのピアノとも思っていませんが、それはそれとして、ピアニストが楽器にこだわるというのは非常に大切な事であるし、それが当たり前だと思います。
演奏家がこれだと思う楽器で演奏し、それを聴衆に聴かせるということは、少々大げさに云うなら演奏家たるものの「本来の作法」だとも思います。

例えばヴァイオリニストが身ひとつで移動して、各所で本番直前にはじめて触れるホール所有のヴァイオリンで演奏するなんて、そんな非常識はおよそ考えられませんが、ピアニストは実際にそれをやっているわけです。すべてはピアノの大きさに起因する物理的困難、さらにはそれが経済的困難へとつながり、多くのピアニストは理想の楽器で演奏することを断念させられ、楽器への愛情さえも稀薄になってしまっているように…。

でも、本来は人に聴かせるコンサートというものは、それぐらいの手間暇をかけるものであって欲しいと思います。
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ティル・フェルナー

ことしの2月、サントリーホールで行われたN響定期公演から、ネヴィル・マリナー指揮のモーツァルト・プロによる演奏会の模様が放送されました。

前後の交響曲の間に、ピアノ協奏曲第22番KV482が挟まれました。
ピアノはウィーンの新鋭(中堅?)、ティル・フェルナー。

この曲はマロニエ君がモーツァルトのピアノ協奏曲の中でもとくに好きな作品のひとつで、この時期はフィガロの作曲もしていたためか、どこかオペラ的でもあり、フィガロの折々の場面を連想させるような部分も個人的にはあると感じています。

ネヴィル・マリナーの指揮は、とくに深いものを感じさせるのではないけれども、音楽がいつも機嫌よく、流れるような美しさに彩られています。
なにかというと演奏様式だの解釈だのということが前に出てくる最近では、単純にこういう心地よい素直な演奏というのもたまにはいいなあと思いますし、理屈抜きにホッとさせられるものがあります。

そんなオーケストラと共演したティル・フェルナーですが、その見事な演奏には久しぶりに満足を覚えました。
気品があって、折り目正しく、それでいてちっとも教科書的な演奏ではない新鮮さに満ちていました。最近はただ弾くだけではダメだからといわんばかりに、なにやら無理に個性的な演奏や解釈を提示して、聴く者の印象に食い込もうとする人が少なくありませんが、フェルナーの演奏はまったくそういった邪念がなく、ひたすらモーツァルトの世界に敬意を表しながら自らの重要な役割を見事に果たしたという印象でした。

モーツァルト独特な、和声進行ひとつ、スケールひとつ、あるいはたった一音で、音楽の表情や方向がガラリと変わるような、単純なようで実は重要なポイントも、ごく自然で丁寧に表現してくれるので、なんの違和感もなしにモーツァルトの音楽に身を委ねることができました。

音の粒立ちもよく、ひとつひとつの音符が明瞭ながら、全体の流れもきちんと保持されている。よくよく検討され準備されていながら、あくまで自然で軽やかに聞こえなくてはならないという、このバランスこそモーツァルトの難しさのひとつとも云えるでしょう。
それを見事に両立させたフェルナーのピアノは稀有な存在だと思います。

アンコールでは一転してリストの巡礼の年から一曲を披露しましたが、こちらも非常に節度のある、美しい演奏でした。フェルナーについてはあれこれと聴いた経験はないし、おそらく何でも来い!というタイプではないと思いますが、まことに好感の持てる、素晴らしいピアニストであり音楽家だと深く感銘を受けました。
まだこういうピアニストが存在するというのは嬉しいことです。

ピアノはスタインウェイで、今やウィーンのピアニストが来日してモーツァルトを弾くというのに、それでもベーゼンドルファーのお呼びはかからないのかと思うと、これも時代かと考えさせられました。

そのスタインウェイは、まさにこの一曲のために調整されたといわんばかりのソフトに徹した音造りのされたもので、ときにちょっとやり過ぎでは?と思えるほどのほんわかしたピアノでした。
深読みすれば、サントリーホールも新しいスタインウェイが納入されているようなので、第一線を退いたピアノには調整の自由度がぐっと広がったということかも…と思ってしまいました。
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最良の嫁ぎ先

10年ぐらい前だったか、友人が当時幼稚園ぐらいの子どものためにピアノを買いたいということで、ヤマハの小型アップライトを知り合いのピアノ店を通じてお世話したことがありました。

ところが、その子があまりピアノを弾くこともないまま月日は流れて、今年は高校に通う歳となり、もう要らないから手放したいということになりました。
マロニエ君としても購入時にお世話した経緯もあったので購入した店にその意向を伝えてみたものの、買い取り価格は相当安いものでしかなく、それならばということで欲しい人を当たってみることになりました。

その友人宅は遠方ということもあり、その後そのピアノがどういう使われ方をしたかは知りませんでしたし、たしか小型の木目ピアノだったことを覚えているぐらいでした。

手放すことになってから、そのピアノの写真が送られてきたのですが、そこに写っているのは、ザウターなどにありそうな明るい木目の、小さくてなんとも愛らしい素敵な姿でした。
高さも最小限で、デザインもシンプルで明快、良い意味で日本のピアノ臭さがない、いかにも垢抜けた感じ。インテリアとしてもまことに好ましく、見るなりその魅力的な姿に引き込まれてしまいました。

もちろん、買ってくれそうな相手がいればお世話はするとして、こんな可愛いピアノなら、音は二の次で自分で欲しいなぁ…などといけない思いがふつふつと湧き上がりました。それからというもの、ずいぶん空想を巡らせましたが、結局どこをどう考えてもマロニエ君宅にこのピアノをそれらしく置く場所はないことを悟ります。

物理的にどうにか置けたにしても、やはりピアノは弾かれることが前提ですから、ただ物置のようなところに放り込むわけにもいきません。ピアノにはピアノに相応しい、それなりのしつらえというものが必要ですが、それは現状では無理でした。
まあ下手に置き場所があってはろくなことになりませんので、これは幸いだったと見るべきかもしれません。

そんな折、ピアノが好きなある友人と電話でしゃべっていて、ついこのピアノの話になりました。マロニエ君はただの雑談のつもりでしたが、電話の向こうの相手は、たちまちこの話に乗ってきたのは思いがけないことでした。
その人はすでに好ましいグランドを持っており、距離も遠いので、まったく対象外だったのですが、マロニエ君にも変な気持ちが起こったように、本当にピアノが好きな人は、要らなくても欲しいという気持ちが湧き上がるのも自然な心情でしょう。マニアというものは、無駄なもの、不必要なものに、ナンセンスな情熱を傾けて喜ぶ種族のことでもありますから、これはちっとも不思議ではないのです。
ならばというわけで写真を送ると、その気持ちにはいよいよ拍車がかかり、「ぜひ欲しい」「買う」「決定」というところまでいきました。

しかし、翌日になって自宅の置き場所を検討した結果、どうしても床暖房の上にしか該当するスペースがないことが判明したらしく、床暖房はピアノの大敵でもあり、この一点で諦めることになりました。

これがバイオリンやフルートなら、置き場所の苦労はありません。この点がいかに小型アップライトとはいってもピアノという楽器の生まれもつ不自由さだと思います。

その後、このピアノはこれからピアノをはじめるかわいい姉弟のもとへ嫁ぐことになりました。
まあ、冷静に考えれば、マニアからペット飼いされるより、それが一番良かったと思います。
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量産品

このところ立て続けに真新しいスタインウェイによるコンサートの様子をテレビで見ました。

ひとつは京都市交響楽団の定期公演から、ニコライ・ルガンスキーによるラフマニノフの2番、もうひとつは北海道北見市公開収録による、宮田大チェロ・リサイタルで、ピアノはフランスのジュリアン・ジェルネ。

いずれも、今流行の巨大ダブルキャスターを装備した、ピッカピカのスタインウェイですが、京都と北海道と場所もホールも、ピアノもピアニストも、録音も違うし、なにより協奏曲とチェロとのデュオという編成もまったく異なるという、むしろ共通項を見出すことのほうが難しい2つでした。

マロニエ君の持論ですが、実演主義の方からは叱られそうですが、どんなに条件が異なっても、楽器や演奏家の本質は、意外にも機械はよく捉えている場合が珍しくなく、そこで抱いた印象は実演に接してもほとんど変わらないという自分なりの経験があります。
もちろん大雑把なものではありますが、でも、これを修正しなくてはいけないような事例がほとんどないのも正直なところです。

さて、この二つのコンサートで使われたスタインウェイは、その本質において、マロニエ君の耳にはほとんど同じという印象でした。それだけ近年は製品のばらつきも極力抑えられ、それだけ意図した通りの均等な製品が着々と生み出されているということでもあり、これは同時に欠点さえも見事なまでに共通しているように思いました。

まず往年のスタインウェイ固有のカリスマ性はもはや無く、ピアノとしてのオーラとパワーはかなり薄められ、コンパクトになったピアノという印象。
まるでかつての大女優が、普通の美人になった感じでしょうか。
スタインウェイとしての名残はあるとしても、音の美しさも表面的で機械的。だんだんに無個性な、日本製ピアノともかなり似通った性格のピアノになっていると思います。

とりわけハンブルク製にもアラスカスプルースが使われるようになってからは、音に輝きとコクがなくなり、深い響きや透明感、音と音が重なってくるときの立体的な迫真性みたいなものが、もうほとんど感じられません。
昔のスタインウェイはたとえ拙い演奏でも、どこか刃物にでも触るような興奮と、底知れないポテンシャルに畏れさえ感じたものですが、その点では普通の優秀なピアノに過ぎなくなった気がします。

コンチェルトなどでオーケストラのトゥッティの中から突き抜けて聞こえてくるスタインウェイの逞しさと美しさが合体したあのサウンドは、すっかり痩せ細ってもどかしさすら覚えます。
ラフマニノフの第二楽章のカデンツァでは、最も低いH音から上昇する属七のアルペジョがありますが、昔のスタインウェイはここで鐘が鳴るようなとてつもない音を出したものですが、今回のピアノはゴン…という普通のピアノの音でしかなく、あまりのことに悲しくなりました。
チェロとのデュオでは、マイクが近かったせいもあって、よりダイレクトな音が聞かれましたが、深みのないブリリアント系の音色が耳障りであったこともあり、一緒に見ていた家人はこのピアノは○○○?と日本製のメーカーの名前をつぶやきました。

最近のスタインウェイはたまに実物に接しても、仕上がりの完璧な美しさには驚かされます。でもそれは、職人の丹精が作り出した美しさではなく、無機質で機械的なものです。その音と同様に工業製品としての生まれであることを感じてしまうのは寂しさを感じてしまいます。

ここまで書いたところで、さらにブフビンダーがN響と共演したモーツァルトの20番を聴きましたが、またまた同じ印象で、立て続けに3度驚くことになりました。会場はサントリーホールですが、ここも新しいピアノに変わっており、モーツァルトであるにもかかわらず、ピアノが鳴らず、まるで蓋を閉めて弾いているみたいでした。
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ムラロと偉丈夫

今年の1月にトッパンホールで行われたロジェ・ムラロによる、ラヴェルのピアノ作品全曲演奏会の中から、クープランの墓、夜のガスパールなどがクラシック倶楽部で放映されました。

先に書いた「まるでスポーツ」はこれがきっかけとなった文章でした。

ムラロ氏は演奏に先立って、インタビューでラヴェルには音の明晰さが必要だと語っていましたが、その演奏を聴いてみて、彼の云う明晰と、聴く側がその演奏から感じる明晰との間には、いささか隔たりがあるように感じました。

全体にシャープさがなくもっさりしていて、ラヴェルに不可欠と思えるクールさとか、ガラスの光を眺めるような趣は、マロニエ君にはまったく感じられませんでした。というか、そもそもこのムラロ氏がフランス人であるというのも、どこか納得できないような田園風の雰囲気であり、その演奏でしたので、セヴラックならともかくラヴェルはちょっと…という感じです。

少なくとも、まったくマロニエ君のセンスとは相容れないラヴェルで、感性が合わないと1時間弱の番組を見るだけでもそれなりに忍耐になります。実際のコンサートはというと午後3時から6時45分終了予定とあり、うひゃあ!という感じです。

プロフィールでは『パリでのメシアン《幼な子イエスにそそぐ20の眼差し》を演奏の際に作曲家本人から激賞され、メシアン作品演奏の第一人者として認められた。』とあり、日本でも同曲の全曲演奏会をおこなったとありますが…ちょっとイメージできません。
テクニックにおいても、岩場のような堅牢さはあるけれど、音楽表現のためのあらゆるテクニックが準備されている人とは、このときは到底感じられませんでした。
聴いた限りでは「明晰さ」よりはむしろ「鈍さ」を感じる演奏だったというのが率直なところ。

ミスタッチも多く、べつにミスタッチをどうこういうつもりはないのですが、それは純然たるミスというより、あきらかな準備不足からくるものであると感じられ、やはり全曲演奏などろくなことがないと思ってしまうのです。

ところで、その明晰さにも繋がることですが、ムラロはコンサートグランドがひとまわり小さく見えるような偉丈夫で、長身かつそのガッシリした骨格は、まるでアメリカあたりの消防隊長のようで、ピアニストにはいささか過剰なもののように感じました。
こういう体格の人に共通するのは、そのビッグサイズの身体を少々持て余し気味なのか、背中を大きく曲げ、いつも遠慮がちで、その表現やタッチは抑制方向にばかり注意が向いているような、ある種のもどかしさみたいなものが演奏全般を覆ってしまいます。

その抑制が災いしてか、ピアノの音もどこか張りや緊迫がなく、モッサリした感じになってしまうのは彼ひとりではないように思いました。
偉丈夫のピアニストとして最も有名なのはかのラフマニノフでしょうが、まあ彼は別として、クライバーン、ブレンデル、現役ピアニストで頭に浮かぶのは、ルサージュ、ベレゾフスキー、パイク、リシェツキなどですが、やはりいずれも音楽が大味です。音にも鮮烈さや色彩感が乏しく、もっぱら強弱のコントロールと矮小化された解釈、それを骨格だけで演奏しているように感じてしまいます。

変な言い方をすると、その大柄な体格でピアノが制圧されているかのようです。
私見ながら、ピアノに限っては、ほんのわずかにピアノのほうが勝っていて、それをピアニストがなんとか克服しようとする関係性であるほうが、結果として魅力的な演奏になるような気がします。
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新たな一面

ゴールデンウィークは多くの方が旅行などに行かれるのでしょうが、マロニエ君の連休はいつもながら至って平凡なものでした。

普段できない掃除やらなにやら、とりとめのないことを少しずつでもやっていくのも、地味ではありますが、それはそれで結構たのしかったするものです。

マロニエ君の自宅は福岡市の動植物園の近くなのですが、こどもの日を含む連休中には無料開放日などもあって、折りよく天候にも恵まれ、大変な人出で賑わいました。
自分がどこへもいかずとも、近所がそんな人出で盛り上がっていると、なんだかそれだけで満腹してしまって、何かに参加したかのような錯覚に陥るようです。

現在福岡市の動物園では、随時リニューアルが進められているうえ、民間企業にお勤めだった方がイベントの企画を手がけておられる由で、次々に新しい魅力的な催しが打ち出され、以前にはなかったような活況を呈しているようです。

ちょうどそんな中、午後から数名のお客さんがあるので近くにケーキでも買いに行こうとしましたが、通りに出ると大変な渋滞で、往復にも普段より時間がかかりました。駐車場はどこも満車で、みなさん車が置けずに焦っておられて、なかなか関係ない車でさえ通してくれなかったりで大変でした。


お客さんというのは、マロニエ君宅の古いカワイのGS-50というグランドを、ちょっとしたきっかけでコンサートチューナーの方に10時間近く調整していただいたところ、想像以上の結果が出たのでその試弾にピアノの知人が来てくれたのでした。

このカワイのGS-50は製造後、既に30年近くが経過しており、それほど酷使しているわけではないのでなんとか今でも使える状態ではありますが、本当なら弦やハンマーなどの消耗品はそろそろ取り替えた方が望ましいことはむろん認識しています。
そんなピアノですから、いまさらあれこれと手を加える価値があるのかといえば甚だ疑問ではありましたが、ある技術者の方との出会いがあって、差し当たりこのピアノをやっていただくことになったものです。

いまさらですが、技術者の中にもいろいろなタイプの方がおられます。
特定のピアノだけを手がけるスペシャリストの方、どんなピアノでも獣医のようにやさしく面倒を見る方、ステージ上の音造りにこだわりを持つ方、むやみにお金をかけずに最良の妥協点を探る方、タッチや音色のためにはあらゆる創意工夫を試みる方、満遍なくバランスを取ることを最良とする方、基本に忠実できっちり定規で測ったような調律をされる方、儲けは二の次でとにかく自分が納得できる仕事を旨とする方、料金が第一でやったことすべてを有料の仕事に換算する方、入手できない部品は作ってでも正しく根本から再生する方、調律師という名の通り調律以外は何一つされない方など、まさに千差万別だと思います。

この方は、他県で多くのホールのピアノの管理をしておられるだけあって、ピアノを「改造」するというようなことは(条件的に許されないからか)されずに、あくまで目の前の状況の中から最良の状態を引き出すというところに猛烈な拘りと情熱を持っておられます。

というわけで、ピアノの状態としては「現状」を変えずに、こつこつと小さな調整の見直しやセッティングの再構築などの微細な作業の積み重ねによって、そのピアノの最良の面を探し出し、それがときには新しい命を吹き込むことにもなるようです。
さて「新しい命」とまでは云いませんが、我がカワイも、記憶にある限りでの最良の状態を与えられて、このピアノにこんな一面があったのかというような素敵なピアノになりました。

一番の特徴は、まずとてものびやかで健康的になり、ひとまわりパワーが増したことと、併せて落ち着きまで出たことです。音には上品さが備わり、キンキン鳴る反対の、馥郁とした響きの中にしっとりした音の芯があり、やわらかさの中からメロディラインが明瞭に出るピアノになりました。
また、パワーが増したのに、繊細さの表現もより自在になっているのは望外のことでした。要は表現の幅が強弱両側に広がったと考えれば納得がいく気がします。

自分で弾いてもこれらのことは感じていましたが、ピアノは他の人に弾いてもらうことにより、より客観的に聴くことができるものです。
もともとが大したピアノではないという諦めがあるだけに、よくぞこのピアノをここまで復活させてくれたもんだと感心させられました。とくにコンサートの仕事をしておられるせいか、整音と調律はコンサートピアノのそれに通じるテイストがあって、しっとりした落ち着きと華やかさが同居し、全体の構成感みたいなものがうまくバランスしているのは感心させられました。

「ピアノはおもしろい」といまさらのように思いました。
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楽器か機械か

近ごろではピアノ作りに於ける価値基準のようなもの、つまり「最良のピアノ」というものの定義も、昔にくらべるとかなり変質してきているように思われます。

とくにハイテクのめざましい進歩の恩恵から、ピアノ作りに於いても、精度の面では飛躍的に増したことは間違いないでしょう。
優れた工作技術、コンピューター制御の普及によって、手作業をはるかに凌ぐ均質なパーツが苦もなく生まれ、その集積によって正確な機構が組み上がるのは、ピアノのような夥しい数のパーツの集合体である楽器にとっては、精度という面では圧倒的に有利となります。

我々は「手作り」という言葉に弱いところがありますが、これをむやみに有り難がるのは間違いだと思います。最新の機械技術によって誤差を極力排除した正確なパーツが制作されるのであれば、それに越したことはないわけです。そういう精度の高いパーツを作るのは機械のほうが上手いのなら、へんなこだわりは棄てて機械に任せたほうがいいでしょう。

問題なのは、さてどこまでを機械に任せるかということです。
いったんハイテクの恩恵を知ると、なかなか逆戻りはできません。「ここまで」という良心的な一線を引くのは至難の技で、そこにコストや利益が絡んでくればなおさらです。あれもこれもとそのハイテク介入の範囲は広がっていくことになり、その果てにあるものは冷たい機械としてのピアノの姿であり音だと思います。

もちろん、手作りでばらつきのあるピアノがいいピアノだとも思いません。
ただ、製品としての正確で均等均質な物づくりというものは、しだいに本来の物づくりの在り方から乖離して、とりわけ楽器の場合は本質から逸脱していくという危険を孕んでいます。
これが機械的には完璧に近いけれども、楽器としての生命感を失ったピアノが増殖していく大きな要因だと思います。

ピアノの世界にこの流れを持ち込んだのは他ならぬ日本の大メーカーだと思いますが、それが今や他国の第一級のピアノ作りにも悪しき影を落としているような気がします。

現在世界には、凋落していく銘ブランドを尻目に、これこそ最高級ピアノとばかりに躍進し、しだいに認知されているピアノもあり、一部の人達には極めて高い評価をされているいっぽうで、まったく逆の評価をする一派もあるようです。
その人達に言わせると、煎じ詰めれば機械としてのピアノの音でしかないということで、これはマロニエ君も似たような印象を以前からもっていました。

たしかに、製品として隙のない仕上がりで、機能も音も現代の基準を楽々と満たし、見た目にも輝くばかりの高級感にあふれていて立派ですが、ただ、そのことと、最高の楽器というのは、やはり最後のどこかで着地点が微妙に違うもののように感じます。

これらの何が一番違うのかというと、それは陳腐な言葉ではありますが、やはり「感動できない」ということにつきると思います。レクサスのようなピアノが最高級の楽器という風に単純に分類されることにどうしても抵抗があるのです。

よい楽器は、音や響きが美しいことは当然ですが、弾き手も聴き手も、作品世界に忽ちいざなわれ、心が溶けて奪われていくようなもの、あるいはわなわなと震えるようなものではないでしょうか。
どんなにひとつひとつの要素が立派でも、つまるところ人に感銘を与えない楽器は、血の通わない機械の美しさや完全性を押しつけられるようで、マロニエ君は良い楽器とは思えません。
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理想のタッチ

日曜はピアノ趣味の知人らと誘い合わせて、とある個人ホールのピアノを弾きに行ってきました。

ここにはベヒシュタインのグランド(M/P 192cm)があります。
M/Pは、現代のやや複雑なベヒシュタインのモデル構成の中でも、このメーカーの正当な系譜を引き継ぐ、真性ベヒシュタイン・ラインナップの一台です。

同時に、ベヒシュタインの中でも新しい世代に属し、それに伴って現代的なアーキテクチュアをもつモデルで、伝統のむき出しのピン板はフレームに隠され、華やかな倍音を得るため駒とヒッチピンの間にはデュープレックス・システムまで与えられた、いうなればスタインウェイ流儀に刷新された新世代のベヒシュタインです。

新しいベヒシュタインというのはそうそう触れるチャンスがないために、詳細な比較はできませんが、時代の好みと要求にも応えるピアノになっていながら、根底にはベヒシュタインらしいトーンが残されていて、現役のピアノとしてこのブランドが存続していくには、こういうふうになるんだろうなあという予想通りのピアノだと思いました。

これより前の世代のベヒシュタイングランドは(戦前の旧い世代は別として)、どうかすると素晴らしい同社のアップライトにやや水をあけられた観があったのも事実なので、マロニエ君としてはいちおうは正常進化したと解釈できます。しかし、伝統的なベヒシュタインのファンの中には、こうした方向転換へ大いに異論を感じる向きも多いことだろうと思います。

さて、音はもちろんそれなりに美しいものでしたが、調整の乱れもあって、とりたてて印象に残るほどのものでもないというのが偽らざるところでした。このピアノのサイズとブランドを考えれば、あれぐらいの音がするのは当然だろうという範囲に留まりました。

それとは対照的に、この日の印象としてたったひとつ、しかも強烈に残ったものは、その素晴らしいタッチ感でした。

このタッチにこそ深い感銘を受け、マロニエ君としては、これぞ理想のタッチだと唸りました。
軽やかなのに、しっとりとした感触が決して失われず、なめらかでコントローラブル。強弱緩急が思いのままのタッチとは、まさにこういうフィールのことをいうのでしょう。

通常、軽いタッチになると、どうしても単なるイージー指向な軽さで安っぽくなり、弾き心地も音も浅薄になってしまう危険があります。つまり弾いていて喜びを感じない、ペラペラな深みのないピアノへと堕落してしまいます。そればかりか、軽さが災いして逆にコントロールの難しさが出てくることも少なくありません。

コントロール性を確保するには、軽さの中にも密度感のあるしっとりした動きと、弾き手のタッチの変化やイメージにきちっと寄り添うように追従してくる「必要な抵抗」がなくてはなりません。
がさつな鍵盤/アクションをただ軽くしても、それはただ電子ピアノのようなタッチになるだけで、ピアノを弾く本当の手応えと快感は得られません。

そういう意味ではこのベヒシュタインはまさに第一級のピアノであり、極上のフィールをもっていることにかなり驚かされました。
まるでキーの奥では美しい筋肉が動いているみたいで、その意味では、スタインウェイもタッチにはどこか妥協的な部分があり、このような高みには達していないと思います。

タッチ以外にも、ふたの開閉や突き上げ棒の動きのひとつひとつにしっとりした好ましい手応えがあり、これはドイツの高級車の操作感にも通じるものがあります。

今後、マロニエ君がタッチというものを感じる際・考える際に、このベヒシュタインのタッチは折に触れて思い起こされ、ひとつの基準・ひとつの尺度になる気がします。

そういうものに触れられたという一点でも、遠路はるばる行った甲斐がありました。
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内田の3番

過日のBSプレミアムシアターでは、英国ロイヤルバレエのドン・キホーテ全幕のあとの余り時間を埋めるように、ミュンヘンのガスタイクでおこなわれた、マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団の演奏会のもようが放映されました。

ソリストは内田光子で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。

ものものしい序奏のあとに出てくる両手のユニゾンによるハ短調のスケールは、経験的にこの曲のソリストの演奏の在り方を、これでほぼ決定付けるものだと思います。
この上昇スケールとそれに続くオクターブの第一主題が、何らかの理由で収まらなかった演奏は、以降もほぼ間違いなくその印象を引きずっていくという点で、非常に決定的な部分だと思われ、いわばソロの見通しがついてしまうほど重要な意味をもっている…といえば大げさすぎるでしょうか。

いまさらですが、内田の演奏は音量がミニマムというか、場所によっては完全に不足していて、せっかくのきめの細かい演奏も、こういう曲ではあまりその魅力が発揮されるとは思えません。
ベートーヴェンの5曲の中でも、最も内田に向いているのは4番で、逆に3番はザンデルリンクと入れたCDもまるで納得できないものでしたが、今回はそれとは多少違った演奏ではあったものの、もうひとつという印象でした。

5曲中、最も繊細かつセンシティヴなのは4番、そして最も力強さが求められるのは皇帝のイメージがありますが、それはむしろ華麗さとかぶっている面もあるのでは…。皇帝にくらべて和音や重音の少ない3番ですが、それでいて骨格の確かさが要求されるため、マロニエ君の主観ですが、音楽として形にするのが難しいのも皇帝より3番ではないかという気がします。

内田のピアノは、最大のウリである繊細さの輝きに、このところやや翳りが出ているように感じてしまいます。以前のような、ハッと息を呑むようなこの人ならではのデリカシーの極限を味わうような楽しみが薄れ、演奏の冴えのようなものがだいぶ変質してきたようにも感じます。
作品に対する異常なまでのこだわりと熱気という点でも、以前の内田はとてもこんなものではなかったように思うのはマロニエ君だけでしょうか…。

彼女がその弛まぬ努力によって打ち立てた名声が、近年は少々無理を強いる結果を招いたのではないかという心配が頭をよぎります。

ところで、マロニエ君はこれまで折に触れ書いてきたように、日本人の女性ピアニストの多くが好む、フランス人形みたいなお姫様スタイルは、演奏家としての品位に欠ける俗悪趣味としか言いようがなく、どうにもいただけません。そのいっぽうで、これとは真逆の内田の独特の出で立ちにも、これはこれで見るたびに小さな衝撃を感じてしまいます。

とりわけ、ここ数年はいつも同じスタイルで、上半身はインナーの上に、超スケスケの生地で縫われたジャケットともシャツともつかない、なんとも摩訶不思議なものを着ています。

まるで海中をたゆたうクラゲか、はたまた養蜂業者が着る防護服のようでもあり、同じものの色違いを何色も確認しているので、きっと何着もお持ちなんだろうと思います。
こういつも同じデザインだということは、よほどのお気に入りということでしょうが、何度見ても大昔のSF映画のようで、不思議としかいいようのない衣装です。
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今ごろ象牙

これまでマロニエ君は、折あるごとに象牙鍵盤の機能面に疑問を訴えてきました。

とりわけ多くの人から入れ替わり弾かれる環境にあるピアノの場合、想像以上に酷使され、腕自慢が力の限りを鍵盤にぶつけるような使われ方をするのでしょう。
そのエネルギーをもろに受け、象牙の表面は擦れて艶を失い、同時におそろしいまでに滑りやすい状態になるようです。ほとんどテフロン加工のフライパンの新品みたいで、指先がどこに滑っていくか予想もつきません。

当然、無用無数のミスタッチが発生し、それを防ごうと身体中あちこち突っ張ることで支えてしまいます。まったく脂汗がでるようで、もはやピアノを弾く楽しみどころではありません。

こういうピアノに何台か触れて恐怖体験をしてしまうと、普通のプラスティック鍵盤は、たしかに見た目こそ芸能人の付け歯みたいな真っ白で、味も素っ気もないけれど、差し当たりどれだけ安心かと思ったのも事実でした。

ところが、昨年から使っているディアパソン210Eは象牙鍵盤であるにもかかわらず、幸いなるかな上記のような弾き手を困らせる要素はまったくありません。思い起こせば納品してしばらくは少し滑りやすさを感じていたものの、その後はすっかり我が手に馴染み、1年が経過して、今では仄かな愛着さえ感じながらこのやや黄ばんだ鍵盤に触れる日々といった状況です。

その挙げ句には「やっぱり象牙鍵盤はいいなぁ…」などと思ってしまうのですから、なんと人間は勝手なものかと我ながら呆れてしまいます。
というわけで今は象牙鍵盤の風合いを楽しむまでになり、ついにホームページの表紙に写真まで出してしまいました。

考えてみると長年使ったヤマハも、一時的に使ったディアパソン170Eも象牙鍵盤だったものの、そんな恐怖体験はありませんでした。ということは、酷使の問題もさることながら、品質もあるのでは…と思わなくもありません。
そうはいってもディアパソンのようなブランドが特上品を使うとも思えないので、これは時代によって、使用できた象牙の品質に差があったのではないかと思います。

1970年代ぐらいまでは、とくに意識せずとも普通にいいものが手に入った佳き時代だったと思います。この時代の日本メーカーはアップライトでさえ上級モデルには象牙鍵盤を使っていたほどですから、いかに今とは事情が違っていたかが忍ばれます。

不可解なのは白鍵が象牙でも、黒鍵は普通のフェノール(プラスチックのようなもの)だったりします。マロニエ君のディアパソンも同様でしたが、このあまりの中途半端さはいったいどういう判断なのかと思います。

1年前までは鍵盤の材質にそれほどこだわりはなかったものの、象牙の白鍵には黒檀の黒鍵が当然のように組み合わされるものという認識でしたから、オーバーホールのついでに黒檀に交換してもらいました。
純粋に手触りという点では、白鍵が象牙であることより、黒鍵が黒檀であることのほうが、プラスチックが木材になるわけですから、その感触の差は大きいという気がします。

木の感触はいいのですが、最近のピアノに多く使われる「黒檀調天然木」というのは、これがまた不可解です。見るからにテカテカしてまがい物っぽく、あれは一体なんなのかと思います。だいたい「何々調」というのは、すでに本物ではないということです。

話を象牙に戻すと、あれだけ「象牙は無意味」みたいなことを書き連ねたあげくに、馴染めばやっぱり見た目もフィールも悪くないと思いはじめた自分が、節操なく自説に背くようで恥ずかしいです。
それでも「鍵盤は象牙に限る」というまでの思い込みはありませんが、象牙は象牙の良さがあるとは思えるようになりました。
でももし、あの「つるつるのすってんころりん象牙」ならプラスチックのほうがいいと今でも思います。
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どんだけぇ?

最近、あるピアニストに関する本を読了しました。
著者はピアニストと文筆家という、いわば二足のわらじを履く有名な方で、マロニエ君はこれまでにその方のCD・著作いずれにもずいぶん触れてきたつもりです。

ずいぶん触れたということは、両分野に於いてもそれだけの実力を認識し、一定の共感や価値を感じているからにほかなりませんが、ひとつにはこの人の着眼点に面白さを感じているのかもしれません。

ただ、以前から感じていたこの方の書かれる文章に対する違和感もないでもなく、それが今回の本ではより決定的になりました。公に活動している方ではあるし、CDも本も、すべてマロニエ君が自費で購入している物ばかりなので、別に名前を伏せる必要もないとは思いますが、すぐにわかることですし、まあここではやめておこうと思います。

本のタイトルを書くのも躊躇われましたが、そうそうなにもかも黒く塗りつぶすような記述ではお読みいただく方にも失礼なので、せめてそれは白状します。
タイトルは『グレン・グールド』で、これはもう説明するまでもない、音楽歴史上に大書されるべき20世紀後半に活躍した異色の大ピアニストです。

ピアニスト関連の書籍では、グールド研究に関する本は突出して数が多く、いわばグールド本はこのジャンルの激戦区といえそうです。そこへ敢えて名乗りを挙げたからには、よほど新しい内容や独自の切り口があるのだろうという期待を込めてページをめくりました。

ある程度、その期待を満足させるものはあったし、よく調査と準備がなされていると感心もしましたから、大きくは購読して得るものはありました。

ただ、この著者自身がピアニストということと、文筆業との折り合いがついていないのか、あるいはこの人そのものの持ち味なのか、読んでいてうっすらとした違和感を覚える(マロニエ君だけだと思いますが)ことが多いのは気にかかります。
これまでにも他のピアニストを題材とした著作をいろいろ出されており、そこには書き手が現役ピアニストでもあることが、他の音楽評論家などとは決定的に異なる個性であり強味にもなっています。いわば現場経験を持つ者としての専門性が駆使され「同業者(この表現が多い)」にしかわからない視点から、専門的具体的な分析や考察が作品の随所に散りばめられています。

しかし、マロニエ君にいわせると相手は天才どころか宇宙人ではないかと思えるほどの桁違いなピアニストで、そんなグールドを語るのに、折々に自分というピアニストの体験などが随所に出てくるのは、「同業者」という言葉とともに、なかなかの度胸だなぁと思ってしまいます。

もちろんそれが悪いと言っているのではありませんが、もし自分なら絶対にできない(しない)ことだけに、読みながら小骨があちこちにひっかかるような抵抗感を感じてしまうのです。

ピアニスト&文筆家という二足のわらじが成り立っていることは、それに見合った才能あればこそで、この点は素直に敬服しています。ただ、グールドと自分をピアニストというだけで同業者として(さりげなく、あるいは分析する上で必要だからということで)語ってしまう部分が散見できるのは、いかにそれが正当な論理展開だとしても、感覚の問題としてそのまま素直に読み進む気持ちにはなれませんでした。

とくに後半はだんだん筆が迷走してくるようで、グールドの身体条件や奏法を自分の修行経験などを交えながら執拗なまでに分解分析を繰り返すのは、くどさを感じさせ、まるでこの天才の弱点や欠陥を暴き出すことに熱中しているようで、いささか食傷気味にもなりました。

他のピアニストに関する著作にも同様の印象があり、現役ピアニストを名乗りながら、文筆家としてペンを持ち、同業者斬りをしているような印象が前に出てしまうのは、才能のある方だけに甚だ残念なことだと思います。
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京響の魅力

NHKのクラシック音楽館で京都市交響楽団の定期公演の様子が放映されました。

冒頭の紹介によると、常任指揮者に広上淳一さん就任されてからオーケストラの魅力がアップし、「かつてない人気を集めて」おり「定期会員の数もこの数年で倍近くにふえている」ということです。
チケット販売も好調の由で、今日のようなクラシック離れ/コンサート不況をよそに、なんと1年3ヶ月連続のチケット完売、現在も記録更新を続けているとか。

曲目は、前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でソリストはニコライ・ルガンスキー、後半はマーラーの交響曲第1番「巨人」という大曲2つです。

来場者によると、京響の魅力は「団員がみんな楽しそうに演奏している」「活き活きして、いろいろな外国のオーケストラも聴いているが、ぜんぜん遜色ない」「京響のほうがすごいなと思うことがある」「京都の宝です」などと、評判も上々のようでした。

こんなふうに聞かされると、いやが上にも期待をしてしまいますが、残念ながらはじめのラフマニノフはあんまりいいとは思いませんでした。
ただし、これは専らルガンスキーのピアノに責任があるようで、あまり音楽的な演奏とは感じられませんでした。なによりマロニエ君の好みでないのは歌わない技巧的な演奏で、随所にある粘っこさも、わざわざ取って付けた表情という感じで、聴く喜びが感じられません。

強靱な音を要する箇所では、ばんばんピアノを叩く奏法で、音に潤いや肉付きがなく、突き刺さるような音の連続となり、どちらかというとスポーツ的な腕前だけが前面に出ているようにしか感じられませんでした。彼は、バッハとショスタコーヴィチの名手でもあったタチアナ・ニコラーエワのお弟子さんですが、ロマンティックな師匠とはなにもかもが違うようです。

そのためかどうかはわかりませんが、京響も期待したほどではなく、全体に精彩を欠いた演奏だったことにがっかりしました。

ところが、マーラーになると状況は一変します。
冒頭に寄せられたコメントも、マーラーに至ってようやく納得できるものになり、活き活きして柔軟な演奏が繰り広げられました。「巨人」はマーラーの中では親しみやすい作品かもしれませんが、あまりマロニエ君好みの曲ではなく、なんだか田舎臭い交響曲というイメージがあります。

ところが広上淳一&京響は、この作品から魅力を損なうことなく、泥臭さだけを抜き取って、清新でみずみずしく演奏したのはちょっと意外でした。解釈もアンサンブルも見事。
ちなみに、広上氏のリハーサルは音楽用語をあまり使わず、日常の言葉や情景に喩えるのが上手いのだそうです。そして各奏者に自分の考えを強要するのではなく、自由度を与えるというスタンスが楽員にやる気をおこさせているようでした。

比喩が上手い指揮者としてまっ先に思い出すのはカルロス・クライバーですが、彼は楽員に自由は許しませんでした。ただ、音楽的イメージや演奏上のポイントを瞬時に何かに喩えて表現できることは、指揮者の伝達テクニックとしては非常に有効かつ重要なものだと思います。

なにをするにも「楽しそうに」というのは極めて大切なことで、そもそもこの広上氏の指揮ぶりが、音楽することの楽しさを全身で表現しているようです。
まさか京都だからということもないのでしょうが、広上氏の風貌はまるで古刹の僧侶が洋装して指揮台に上がってきたようでもあります。小柄な身体のすべてと、豊かな表情を駆使して、常に燃え立つように指揮をされている姿は、音楽に対する真摯な姿であるとともにどこか愛嬌があり、多くの人を惹きつけるなにかを備えているようです。

広上氏の指揮はたえず音楽のために常に全力を注ぎ込んで躍動し、そのエネルギッシュな姿は、どことなく今は亡きショルティを彷彿とさせるようでした。
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カツァリス

浜松のアクトシティで3月7日に行われたばかりのシプリアン・カツァリスのピアノリサイタルの様子がクラシック倶楽部で放送されました。

カツァリスはマロニエ君が昔から苦手とするピアニストで、その名声がどこからくるものなのか、彼の真価はなんなのか、何度聴いてもわかりません。
若い頃からテクニシャンで鳴らした人のようですが、マロニエ君にはこの人が本当の意味でそうだとは思えませんし、音楽的にも好感をもって聴けるところがほとんどありません。好感でなくても、この人なりの音楽に対する心はこうなんだろうというものが見えてこないわけです。

以前、カーネギーホールで行われたショパンの生誕200年かなにかのリサイタルなどは、まるで記念碑的な名演のように書かれた文章も目にしたことがあり、だったらもう一度、虚心に聴いてみようとライブCDを買ったこともありました。
しかし、聞こえてくる演奏は、まるで身体が受けつけないものを無理に食べさせられるようで、最後まで聴くこともないままディスクを取り出し、その後はこのCDを見かけることもないので、よほどどこかへ放擲してしまったらしく、自分でも確たる記憶がありません。

そんなカツァリスなので、かえって恐いもの見たさで再生ボタンを押してしまいました。
あらたなアイデアなのか、近年はコンサートのはじめに「即興演奏」をするということで、日本の「さくらさくら」を皮切りに、オリンピック等で使われた世界の有名なクラシックの旋律をメドレーで流すという、まるで観光地の土産品みたいなものが弾かれました。
こういうものが「即興演奏」というのもちょっと不思議でした。

続いてシューベルトの3つのピアノ曲から第2番、そのあとはカツァリス編曲によるリストのピアノ協奏曲第2番というもので、リストが一番良かったようにも感じつつ、やっぱり今回も最後まで自分がもちませんでした。

クラシックの作品を対象にしてはいるものの、印象としてはクラシックのピアニストというより、ピアノ芸というイメージです。音数の多い作品をサラサラとさも手慣れた感じに弾き進みますが、その手慣れた感じを見せることがステージの目的のようにも感じてしまいます。

タッチは全般に非常に浅めで、すべての曲はせいぜいフォルテからピアノぐらいの狭いレンジで処理されてしまうようで、まるで自動演奏のような平坦さを感じてしまいます。少なくとも真剣に耳を澄ます音楽ではないと(マロニエ君は)思いますし、とりわけこの特徴的な浅いタッチは、超絶技巧とやらを売りにする裏で、手に疲労をため込まないための秘策なんでしょうか。
どの曲を弾いても同じ調子の、意味のないおしゃべりみたいな音楽であるためか、シューベルトなどは品位のない、ひどく俗っぽい感じを受けてしまいました。

ただ、ピアノファンとして面白いのは、この人はスタインウェイがあまり好きではないようで、日本ではヤマハを弾くし、以前も書いた記憶がありますが、ショパンのピアノ協奏曲第2番をスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、シュタイングレーバーという4種類のピアノを使って録音し、そのCDも発売されています。
これほど面白いことをやってくれるピアニストはまずいないので、その試みは大いに歓迎なのですが、肝心の演奏が表面的で俗っぽいため、そちらが気になってピアノを楽しむことはついにできません。

今回のコンサートでは、場所も浜松であるためか、当然のようにヤマハCFXが使われていました。
上記のようにカツァリスは決して多様なタッチは用いず、常に一定の軽い弾き方に徹しているので、ある意味でCFXの美しい部分だけが出せたコンサートだったと言えるのかもしれません。
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見切り性能

マロニエ君の部屋の『ディアパソン210E-7』に少し連なることですが、ピアノに限らず、楽器の表現力というものは、予め限界を作るべきではないというのが、マロニエ君の考えるところです。
言い換えるなら、常に無限へ向かってその表現の扉は開いていて欲しいと思うのです。

もちろん、そんなことを言ってみたところで、現実に限界はあるし、それどころかマロニエ君の稚拙なピアノの腕前を考えれば、どんなにその点に磨きをかけてみたところで、その真価を発揮させることはできないかもしれません。…いや、間違いなくできません。

ただ、たとえ自分の腕前ではできないことでも、できる人が弾いたときにはちゃんとそれに応えられるだけの潜在力というのはもっていて欲しいという拘りがあるのです。

軽く小さなハンマーのもたらす功罪として、昔の日本車を思い出しました。
現在はよく知りませんが、少なくともある時期までの日本車は、街中を走るには並ぶもののないほど快適で静かで高級感たっぷりなのに、ひとたび山道や高速道路を本気で走ると、いっぺんにぼろが出てヨーロッパの大衆車にも遥か及ばないという現実がありました。

ワインディングロードではよろよろと腰くだけになり、法定速度を超える高速では、その挙動はまったくだらしないものでした。街中でのジェントルな振る舞いとは別物のごとく、120km/h以上出すと安定性も操縦性も破綻へ向かい、騒音も一気に増大するというような車が多く存在しました。これは基本的な技術力というより、日本の道路法規に定められた道路環境や、高速道路の最高速度が100km/hであることから、常用域さえ乗りやすく快適であればよいとばかりに、それ以上の性能をはじめから切り捨てた結果であったようです。

かたや欧州車は、日本車の静かな安楽椅子みたいな快適さはないけれども、山道や高速では一段と腰の座った乗り心地となり、いざとなれば最高速度でも安心して巡行することができました。こそには彼我のバックグラウンドの違い、さらには価値観の相違が浮き彫りになりました。

要は性能の焦点をどこに向けるかという、きわめて重要な本質論だと思います。
もちろん音の可能性さえあれば弾きにくくてもいいなどというつもりはありません。しかし、弾きやすければ音は二の次とも思えないわけです。運動的な弾きやすさの代償に、草食系の薄っぺらですぐに音が割れてしまうようなピアノを弾いても、結局は楽しくもなんともありません。

ピアノはまずなにより弾きやすく、音は小綺麗にまとまっていればいいというのも、そういうニーズがあるのならひとつの在り方かもしれず、べつに否定しようとは思いません。
しかし、少なくとも弾き手とピアノと音楽という関係性に重きを置く場合は、こういう価値観は少なくともマロニエ君個人は賛同しかねるわけです。

簡単には弾かれてくれない骨太のピアノのほうが、弾く者を鍛え、喜びを与えてくれる時が必ずやってくるという信念といったら大げさですけれども、そういう考えがあることは確かです。

平生スーパーの野菜などをひどく下に見るかと思うと、こういう安易で底の浅い、いわばビニール栽培のようなピアノにはまるで無抵抗な感覚というのはよくわかりません。
マロニエ君なら、野菜はスーパーでもいいけれど、ピアノはオーガニックなものと過ごしたいと思います。どんなに秀逸でも、突き詰めれば機械でしかないピアノがあるいっぽう、欠点もあるけれども楽器と呼びたいピアノもあるわけで、やっぱり楽器がいいなぁ!と思うのです。
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楽器解体新書2

前回書き切れなかった、もうひとつ。

それはピアノのハンマーの材質を、本来のフェルト以外のものを代用して使ってみたら、さてどんな音になるのかという実験です。

まず(1)通常のフェルト、次に(2)発砲ウレタン、なんと(3)段ボール、笑ってしまった(4)消しゴム、そして(5)革、そしてなぜか(6)紙粘土という素材が使われ、それぞれがきれいにハンマーのかたちに成形されて、ちゃんとシャンクの端に取りつけられ、アクション機構を介して打弦されるというものです。

この6種類がそれぞれクリックひとつで音を聞くことが出来るようになっていて、その下には解説も付記されています。

発砲ウレタンは、フェルトよりも軽い素材とありますが、そのぶんアタックの力がなく、覇気のない弱々しい音しかしません。
段ボールも質量が足りないのか、頼りない音で、表面が硬いためかやわらかさとはまったく逆のピチピチという硬質な音がするだけ。
消しゴムは、コメントに「重さがあるので期待しましたが、予想外に小さな音」とある通り、ショボイ音しかしません。きっと弾力がありすぎて、打弦したときに消しゴムが弦に食い込んで、弦の振動を阻害してしまっているのだろうと思います。
一番良かったのは、「細かく切って何層にも巻いた」という革で、これがダントツによかったと思います。コメントでは「適度な弾力があって、性質がフェルトに近いのかも…」とありました。
紙粘土は、重くて硬いので、チャンチャンした音でピアノの音とはいえません。コメントでは「大正琴のよう」とありました。さらには重さが災いして連打性にも劣るということでした。

人によってはばかばかしいと思われるかもしれませんが、マロニエ君は実に楽しい実験だと感じます。またフェルトがいかに適切な素材であることがひしひしと感じられ、手間ひまをかけてこういうことをしてみせる技術者さんは好きだなあと思ってしまいます。

上記の結果からすると、新しい素材でも、革のような適度な固さをもつものと組み合わせるなどして追求を重ねると、これは存外いいハンマーが出来るのでは?という思いに駆られてしまいました。

こういう新素材による開発が進んで、もしも新しい発見が得られるとしたら、フェルト以外のハンマーをもつピアノができないとも限りません。

もちろんフェルトを凌ぐものが簡単に出来るとは思いませんが、技術者、開発者が新しいことへ挑戦するという姿勢はどんな分野でも大切なことです。

良くできた別素材のハンマーを使ったピアノの音、さらにはそれによる演奏なども聴いてみたいし、なんだかとても楽しそうな気もします。
どうせ、ボディはじめあちこちが人工素材が多用されている現代のアコースティックピアノなんですから、いっそ開き直って、新素材ばかりで新時代のピアノも作ってみてはどうでしょう。

今どきはペットボトルの素材で作った服とか、なんでもありなのですから、これも一興というものかもしれませんし、少なくとも電子ピアノよりは夢がある気がするのですが…。
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楽器解体新書

ネットで偶然見つけたのですが、ヤマハのホームページ内には意外におもしろいページが隠されていることを知りました。

「楽器解体新書」といって、いろいろな楽器の仕組みや弾き方の解説などが掲載されていて、そこには「楽器のここに、こういうことをしたらどうなるか?」というような一般向けのわかりやすい実験を紹介するコーナーまであります。

ピアノの覧では、グランドピアノの金属フレームには、いくつもの丸い穴が開けられていますが、それを塞いでみるとどうなるか?というような実験をやっています。
通常の状態と、そこにフタをした状態で、それぞれ和音が鳴らされますが、パソコンスピーカーからの音では明確な差ではないものの、塞がれたほうが広がりのない単調な音になるのはかすかにわかります。

さらにおもしろい実験が2つありました。

そのひとつ。
調律のユニゾン合わせに関する実験で、ピアノの中高音にはひとつの音に対して3本の弦が張られていますが、これは単純に3本をきれいに同じに合わせればいいのかというと、まったくそうではなく、そこに微妙な変化をつけることで、音に色や味わいがでるわけで、それはどういうことかという実験です。

つまり3本をどの程度合わせるか、あるいはどれぐらい微妙にずらすか、それらの差を耳で感じるもので、少しずつ差をつけることで4種類の音が聞けるようになっています。

ひとつは3本がまったく同じピッチに揃えてあり、これはただツーンという感じでおもしろくも何ともない無機質な音。伸びもないし、まったく楽器らしい息づかいもニュアンスもありません。

残る3つは1本を正しいピッチに合わせ、のこる2本はそれぞれ上下にわずかに音をずらして調律されています。このずらし方が3段階あって、それぞれどんな音になるか、その違いを聴いてみるということができるというもので、これは画期的なものだと思います。
ずらしすぎると汚いうねりが出て、まったくいい音とは言いかねるもので、いわゆる調律の狂ったピアノそのものの音でした。

ところが3本のユニゾンのズレがほんのわずかとなる狭い領域では、微妙な味わいや音の伸びなど出てきて、ピアノの音が音楽として歌い始めるスポットが存在しているようです。
揃いすぎればただのつまらない音、ずれすぎれば汚い非音楽的な音、その間のスイートスポットは極めて狭いけれども、ここが腕のふるいどころのようです。

このごくごく狭いスポットの中で、調律師は目指す音をどのようにもっていくか、そこに技術者の経験が問われ、音楽性や美意識があらわれる部分で、しかもこれが絶対正しいというものもありません。
調律をつきつめると芸術領域になるというのもこのためです。

もちろん調律師さんなどは先刻ご承知のきわめて初歩的なものですが、このように簡単な比較として、シロウトが誰でも聞くことができることによって、ユニゾンの合わせかたしだいで楽器の性格や音楽性がくるくる変わってしまうという「基本」が自分の耳で理解できるのは素晴らしいことだと思います。

池上章さんの「そうだったのか」ではありませんが、こうして解っているようで解っていないことを丁寧に噛み砕いて教えてもらえるのは非常に大事なことだと思います。
そういう意味で、さすがはヤマハだなあと感心させられました。

もうひとつは次に書きます。
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献上のメロン

昨年来日したマレイ・ペライアのサントリーホールに於けるコンサートの様子を、BSクラシック倶楽部で見ました。
ペライアはどちらかというと日本に来ることが少ないピアニストですが、これは表現するのが非常に難しいコンサートだと思いました。

音楽の世界では、演奏者のプロフィールは誇大表現するのが普通で、たとえば「世界的に活躍」という言葉は毎度のことで、とても額面通りには受け取れないというのが常識です。
その点で云うと、ペライアはこの言葉と事実が一致する数少ない存在で、世界でも高い位置にランクされるピアニストという点で異論はありません。

マロニエ君自身も、ペライアのCDなどはどれだけ持っているかわからないほど、昔からよく聴いており、ある意味避けては通ることができないピアニストだろうとも思います。

遠い記憶を辿ると、たぶんペライアのCDを初めて聴いたのが、ごく若いころに弾いたシューマンのダヴィッド同盟と幻想小曲集だったような気がします。

ペライアは、徹頭徹尾流暢で、音楽の法則に適った気品ある音の処理、まさに真珠を転がすような粒の揃った潤いのある音並びの美しさには、この人ならではの格別の輝きがあります。細やかな音型の去就や立ち居振る舞いにも秀でており、完成度の高い演奏をする人という点もペライアの特徴だと思います。
ハッとさせられる美しさが随所で光り、音色も瑞々しく艶やかですが、表現の振幅や奥行きという面では、けっして精神性の勝ったピアニストではないという印象があります。

作品の本質に迫るべく、清濁併せもった表現のために技巧を駆使するというのではなく、あくまで美しい精緻なピアニズムが優先され、そこに様々な楽曲の解釈があたかも銘店の幕の内弁当みたいに、寸分の隙もなく端正に並べ込まれていくようです。

何を弾いても語り口が明晰で耳にも快く、どこにも神経に引っ掛かるようなところはないのですが、そこにあるのはいわば音と技巧のビジュアルであり、おまけに常に一定の品位が保たれているので、はじめのうちはそのあたりに惹きつけられてしまうのですが、それから先を求めると忽ち行き止まりになってしまう限界を感じます。

ピアノを弾くのが本当に巧い人だとは思いますが、芸術的表現という点ではそれほど満足が得られるというわけではないというのが昔から感じるところで、今回あらためてそれを再確認させられてしまいました。

この放送で聴いたのはバッハのフランス組曲第4番、ベートーヴェンの熱情、シューベルトの即興曲でしたが、個人的にはバッハ、ベートーヴェンはどうにも消化不良で、かろうじてシューベルトでやや楽しめたという印象でした。
本人がそう望んでいるのかどうかわかりませんが、この人の手にかかると、どんな作品でも体裁良く小綺麗に整い、予定調和的にまとめられた感じを受けてしまいます。

演奏を聴くことで受け取る側が何かを喚起され、さまざまに自由な旅に心を巡らす余地はなく、いずれもこざっぱり完結していて、それを楽しんだら終わりという感覚でしょうか。

半世紀も前に、日本では『献上のメロン』という言葉が比喩として流行ったそうですが、ペライアのピアノはまさにそういう世界を連想させるもので、デパートの高級贈答品のようなイメージです。どこからもクレームの付けようのないキズひとつ無い、見事づくしの出来映え。マロニエ君はどうもこういう相反する要素の絡まない、無菌室みたいな世界は好みではないのです。

インタビューでは指の故障でステージから退いていた期間、ずいぶんとバッハに癒されつつ傾倒し、その後はベートーヴェンのソナタ全曲の楽譜の校訂までやっているとのことですが、「熱情」の各楽章をいちいちハムレットの各情景に例え、実際にそういうイメージを思い浮かべながら弾いていると熱っぽく語るくだりはいささか違和感を覚えました。
音楽から何を連想しようとむろん自由ですが、マロニエ君は本質的に音楽は抽象芸術だと思っているので、そこに行き過ぎた具体的イメージを反映させながら弾くというのは、いささか賛同しかねるものがありました。
もちろん、作曲者自身が特にそのように作品を規定していたり、劇音楽の場合は別ですが。
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好みと資質

クン・ウー・パイクのピアノは以前ならバッハの作品集やフランスもの、リストの作品、あるいはショパンの協奏曲およびピアノとオーケストラのための作品等を聴いていましたが、まあ確かな腕前のピアニストだという印象があるくらいで、それ以上にどうということもないぐらいのイメージで過ごしてきました。

ところがきっかけはなんだったか忘れましたが、プロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDに出会って聴いたところ、その凄まじいばかりの演奏にすっかり圧倒されて、これほどすごい人だったのかとそれまでの中途半端な印象が一気に払拭され、このプロコフィエフがパイク氏の印象の中核を成すことになりました。

ラフマニノフの協奏曲全曲もあり、プロコフィエフほどではないにしろ、これもなかなかのもの。
ところが、その後フォーレのピアノ作品集を聴くと、たしかによくよく考え抜かれた演奏のようではあるけれども、音楽を優先したつもりが過剰な抑制がかかり過ぎたような息苦しさがあり、フォーレの本質とはこういうものだろうか?という印象でした。一部には高く評価されている方もあるようですが、さらりと流せばいいものを必要以上に考えて深刻になっているみたいで、マロニエ君はそれほどのものとは思えませんでした。

それでもプロコフィエフでの衝撃は収まらず、そのころ日本では発売されていなかったデッカによるベートーヴェンのソナタ全集にこそ、この人の本領が込められているのでは?と輸入盤を入手して聴いてみたところ、これがまたどうにもピンとくるものがなくガッカリ。一通りは聴いてみたものの、このときの落胆は決定的で、その後はまったく手を付けていません。

つづくドイツグラモフォンからブラームスの協奏曲第1番と、インテルメッツォなどの作品集が2枚続けてリリースされ、これも聴きましたが協奏曲はそこそこ期待に添うものでしたが、ソロアルバムのほうは悪くはないけれど魅力的でもないという、なんとなくフォーレのアルバムを聴いたときの慎重すぎる感覚を思い出しました。

そんなわけで個人的には評価が乱れるパイクですが、昨年来日した折のトッパンホールでのコンサートの様子がBSで放送されました。このときはオールシューベルトプロという意外なもので、しかもマロニエ君の好きなソナタはひとつもなく、即興曲、楽興の時、3つのピアノ曲からパイクなりの意図で並べられるかたちでの演奏でした。

冒頭のインタビューでは、若い頃にソナタなどの大曲は弾いていたけれど、あるときにシューベルトの歌曲に魅せられることになり、それによってシューベルトへの理解が進んだというような意味のことを穏やかな調子で喋っていました。

しかし実際の演奏では、その言葉がそれほど演奏に反映されているようには思えませんでした。いささか乱暴に云うなら、どれを弾いても同じ調子で、昔のロシアのピアニストのように重く分厚く、それでいて非常に注意深く弾かれるばかりで、シューベルトの作品に込められている可憐な歌とか不条理、サラリとした旋律の中に潜むゾッとするような暗闇など、そういったものがあまり聞こえてこないのは残念でした。

やはりこの人は逞しさで鳴らす重厚長大な協奏曲などが向いているのかもしれないと思いますが、ご当人はそういうレッテルを貼られるのは甚だ不本意のようで、それがどうにも皮肉に思えてなりませんでした。
ひじょうに穏やかな話し方や物腰ですが、実はコンサートグランドがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫で、端的に言ってシューベルトをこんな大男が弾く姿が、なんともミスマッチに思えてしまうものでしたし、実際の演奏もそういう印象でした。
しかも、それが非常に周到に準備された、誠実さのあふれる演奏であるだけに、よけいにミスマッチを痛切に感じられてしまいました。

演奏家は自分の好みも大切だけれど、コンサートに載せる以上は自分の資質に合ったものを演奏しなくてはいけないということを考えさせられます。
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写真登場

このブログを始めるにあたってひとつ心に決めたことがありました。

それは「決して写真に頼らない、文字だけのブログで行く」というものでした。
文才もないくせして、そんなことを考えたのはまったくおこがましい限りですが、そもそも自分のブログを持つということがマロニエ君にとってはすでに充分おこがましいことでしたので、そのついでというところでしょうか。

しかし、今回ついにその自ら立てた掟を破ることになりました。
なぜならまさに「百聞は一見にしかず」というべきテーマに立ち至ったからです。

CD店にある、フリーペーパーなどが置かれた一角で『ぴあクラシック』の表紙が目にとまりました。ベーゼンドルファーのインペリアルを真上から撮した美しい写真だったのですが、いまさらながらその巨大さが醸し出す魁偉な様にはギョッとさせられ、思わず持って帰ってきました。

あらためて見てみると、ヒトデのような不気味な形状のフレームの下には、途方もない広大な響板が前後左右に容赦なく広がっていることを痛感させられました。
音質については好みや主観がありますが、インペリアルは少なくとも図体のわりには声量がないというイメージがあります。にもかかわらず実際にはこれほどの響板を必要とする、まさに規格外のピアノであることにいまさらながらびっくり仰天です。

そこでスタインウェイDとどれほど違うのか、フォトショップを使って重ね合わせてみることに。
同縮尺にすべく、スタインウェイDの黒鍵を横に半分ほど切り落とし、そこへインペリアルと88鍵を揃えるように重ねました。(当然ながらスタインウェイの黒鍵の最低音はBなので、ベーゼンのAsは半分切れています)

bosen-stein.jpg

どうです?
インペリアルの巨大さ、スタインウェイのスリムボディ、いずれもが一目瞭然です。

ふと思い出されたのは、ピアノではなく、なぜか昔の相撲でした。
一時代を築き上げた横綱の千代の富士は、その圧倒的な強さとは裏腹に、その体躯はどちらかというと小兵力士の部類で、このため「小さな大横綱」ともいわれました。
同時代の巨漢力士といえば小錦で、彼はその目を見張るような巨体をいささか持て余し気味でした。
べつにインペリアルを小錦だと云っているのではありませんが、大きさの対比としてパッと思いついてしまいました。

おそらくこの感じでいけば、インペリアルを3台作る分量の響板で、スタインウェイDは楽にもう1台はいけそうな気がします。むろん使う響板は互いに別物ですけれども…。
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響きを引き出す

響きすぎの緩和や防音のための工夫の逆が、音を鳴らすようにするためのものです。

ピアノを鳴らさない特性をもつ部屋というのがあり、床が敷き詰めタイプのカーペットであるとか、壁が布地タイプのクロス、あるいは書架などで壁一面が埋め尽くされているなどの場合、ピアノの音はかなり強く吸収されてしまいます。

これは実を云うとマロニエ君宅の環境がそれに該当し、図らずもある程度の防音効果が得られているとも云えますが、とにかくこれらの要素が重なっているために、響くという要素がまるでありません。

ピアノから出た音は、文字通りそのボディから出ている音だけで、それを増幅させるものはなにもなく、鳴ったそばから虚しく消え去るのみ。ピアノ自体の音を聴くにはよけいな響きや色付けがないぶんごまかしが利かず、繊細な調整の環境としてはいいとも云えるかもしれません。
…とかなんとか云ってみても、快楽的見地でいうと、やっぱりそれではいかにもつまらないのです。

そこで数年前のことですが、一策を講じて、ピアノの下に敷くための木の板を買ってきました。
はじめに買ったのは普通の広い合板で、それを響板の真下にあたる床に置きましたが、まあ心もちという程度で、期待したほど効果は上がりませんでした。無いよりはいい…という程度です。

しばらくそれでお茶を濁したものの、やっぱりもう少し効果がほしくなり、同じく合板ですが表面に簡単な艶出し塗装をされている大型の化粧ボードを購入、縦横にカットしてもらって4枚の板切れにしてもらって置いてみました。するとあきらかに音の立ち上がりがよくなるというか、鮮明さが出て、以前のものよりぐっと効果がありました。

このことから、同じ合板でも表面の処理ひとつで音に影響があることがわかりましたし、試してはいませんが、木の種類、あるいは石やガラスなど、それぞれに響きの違いがあることが予想でしました。

この艶出し塗装をされたボードを床に敷いていたところ、調律に来られた技術者さんから思いもよらない秘策を授けていただきました。マロニエ君としては響板の真下にということで疑いもせずペダルと後ろ足の間に置いていたのですが、それをもっと手前に置いたほうが効果的だというのです。具体的には、ペダルよりも前、鍵盤の真下ぐらいまで板が出てきた方が良く響くというものです。
その技術者さんが言うには「自分の足元より手前まで板を引き寄せる」ところがポイントだとか。

ならばというわけで、さっそくボードを手前に50cmほど移動してみると、なんとアッと思うほど音に輪郭と鮮烈さが加わりました。これはボードをより手前にもってくることで、反射する音が弾く人の耳によりストレートに立ち上がってくるのだろうと思います。

したがって離れて聴いている人の耳にどう変化しているかは未確認ですが、ともかく弾いている当人は、音にキレと輪郭が加わり、弾きごたえが出て断然愉快になりました。

この結果からいえば、ペダルより後ろにボードを置くと、音はある程度反射していると考えられますが、それが奏者の耳に達するには、足元周辺のカーペットなどが尚も邪魔をしているのだろうと思われました。尤も、部屋全体の響きという点では話は別ですが、これは少なくとも奏者がその効果を楽しむことができるという点では絶大な効果がありました。

スピーカーの音調整しかりで、こんなちょっとしたことで思いもよらない変化が起こるのですから、なるほどおもしろいもんだと思いました。

こういう体験してしまうと、それに味をしめてまたあれこれとやってみたくなるものです。
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響きを抑える

ピアノを自宅その他に据える場合、その部屋の環境によって同じピアノの鳴り方がさまざまに変化するのは周知の事実でしょう。

部屋の広さや形状はもちろん、壁の材質、家具との関係などに左右され、厳密にいうならひとつとして同じ環境はないとも云えます。これを一括りに論じることは不可能で、まさに現場対応の分野だろうと思います。

床がフローリングなど堅い素材の場合は、どうしてもカンカンと固めに響いてしまう場合があるようですし、これも単なるフローリング材と本物の木(さらにその種類)の床でかなり違うようです。

また、音への配慮は、純粋に音質・音量の問題だけでなく、近隣への騒音対策として意図的に響きを抑えるという処置を講じられることが現代は非常に多いようです。
その第一歩といいますか、最も基本的なものではピアノの前足と後ろ足の間にあたる床部分にカーペットを敷くことで音を吸収させるというのが一般的です。これで絶対的な音量が劇的に変わるということはありませんが、音の角が取れるという点で、ひとまずまろやかさを出すということかもしれません。

グランドの場合、響板が水平なため音は上下方向に強く出るという性質があり、上にはいちおう開閉できる大屋根がありますが、下は響板の下には支柱と呼ばれる木の梁が伸びているだけでとくにフタのようなものはありません。下から覗けば響板は外部にむき出し状態ですから、大屋根を閉めていれば、あとはここから出る音が最大のものでしょう。アップライトでは背後が同じ状況。

音質や響きの調整の意味で、まずはピアノのお腹の下の床に小さめのカーペットを敷いてみるだけでも、音の響き方はガラリと変わります。それを状況に応じて順次広げていくとか、素材を変えてみることで、いろいろな工夫ができますので、その経過で自分の好みの音がでる素材やサイズを探っていくのも面白いものです。

しかし、これが防音ともなると、やることの目的もレベルも一気に変わりますから、こちらの対策はいっそうハードなものになりますし、究極的には二重窓や防音室ということに行き着くのでしょうが、そこまでのコストはかけずになんとかしたいという人がほとんどだと思います。
知人にもマンションでグランドピアノを置いている方が何人かいらっしゃいますが、その防音の方法はさまざまで、みなさんいろいろと工夫してご近所に気を遣っておられるのがわかります。

また、防音効果を謳ったカーペットやカーテンなども市販されているらしく、それを使って階下への音を和らげようと役立てておられる方がありますが、実際に防音カーペットというのはどれ程の効果があるのか、できればその違いを自分の耳で確認してみたいものです。
そうはいうものの、防音カーペットの効果がどれほどのものか、通常のカーペットとの比較など実際問題としてできないのが実情で、どうしても未確認のまま購入ということになるようです。

ただ、この手合いはお値段のほうも意外に安くもないようで、やはり費用対効果という点では実際の「性能」を知りたいという方は多いと思います。

もっとも効果的な方法としては、アップライトピアノの防音によくある背後を専用の吸音材のようなもので覆ってしまうのと同じで、グランドの場合もこのお腹の下の部分を板や吸音材などで塞いでしまうと、音は劇的に抑えられるようですから、どうしても一定の防音効果が必要な場合はこれは最も効果的だと思われます。

この理論で、より丁寧な作り込みをして、メーカー自ら製品化したのがカワイのピアノマスクで、お腹の下はもちろん、その他の音が漏れ出る箇所を細かく塞いでしまう特注ピアノで、その圧倒的な効果に驚いたことがあります。体感的には「音量は半分以下だろう」という印象でした。
しかも、下部は換気窓のように開閉できるようになっているので、任意に調節できるという点も便利なようです。

ただし、これは本来朗々と鳴らしたい楽器の音を、敢えて押さえ込んでしてしまうというわけで、ピアノには可哀想なことをするようですが、現実の社会生活に於いてはピアノが中心というわけにはいきませんから、近隣への配慮という観点からすればやむを得ないことでエゴは許されません。

できることなら、楽器にではなく、部屋のほうに防音室に迫るぐらいの吸音効果のある対策が、現代の高度な技術を持ってすれば、もっと簡単・安価にできないものかと思います。
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紘子さんのお宅

先月の下旬だったと思いますが、民放のBSで中村紘子さんへのインタビュー番組が1時間ほど放送されました。

港区の古くからある高級マンションに彼女の自宅があり、マロニエ君が東京に居た頃からずっと紘子さんはここにお住まいで、わりにお近くでしたからしばしば近くを車で通っていたものです。

実は紘子さんのご主人が大のクルマ好きで、その関係から一度ご自宅へご一緒しましょうか?というお話がありましたが、ある意味興味津々でもあるけれど、なんとなく抵抗もあってグズグズ決断しきれないでいるうちにタイミングを逸して、その話も立ち消えになってしまいました。

ちょっと残念なような、まあそれでよかったような、当時はそんな気分でした。

番組では女性リポーターがこの高級マンションのご自宅を訪問するという趣向で、エレベーターのすぐ脇に玄関ドアがあり、それを開くとあの紘子さんが登場、笑顔で出迎えます。中へと招き入れられ、カメラもそれに続いてお宅の中へ潜入していきます。

玄関を入るなり、とにかく目につくのは、あちらにもこちらにも、たくさんの花々が活けられていることで、まるでなにかの会員制クラブのような雰囲気でした。この色とりどりの花々にとり囲まれた空間というのも、多くの人が中村紘子さんに抱くある種象徴的なイメージのひとつなのかもしれません。

いつも雑誌やテレビで見る、後ろにスタインウェイの置かれたお馴染みのリビングの他に、今回は特別サービスなのか防音設備を整えた練習室にもカメラが入りました。そこは紘子さんのいわば道場というべきスペースで、さすがにストイックな感じがあり、いつもここでさらっていらっしゃるのだそうです。

さて、インタビューの具体的な内容に触れても仕方がないので、ここでは映像からマロニエ君なりに目についた枝葉末節の、甚だくだらない印象を述べますと、意外だったのはピアノの前に置かれた椅子でした。
中村紘子さんは昔からコンサートでは決してコンサートベンチではなく、決まって背もたれのあるトムソン椅子が使われます。しかもそれを子供の発表会のように目一杯最高位置まで引き上げて、座るというよりは、ほとんどその前縁にお尻をちょこっと引っかけるようにして「全身で」ピアノに向かわれますから、よほどこの椅子がお気に召しているのかと思っていました。
ところがご自宅リビングのピアノの前には今流行のガスダンパー式のベンチが置かれ、さらにその脇には、通常のポールジャンセンのコンサートベンチもあって、普段はこれらをお使いだというのが察せられました。
どうやら、あのトムソン椅子は紘子さんのいわば本番用「勝負イス」のようです。

また、いつもお馴染みのリビングのスタインウェイはこれまでにもほとんど全身が映ることはなく、鍵盤付近のロゴが見えるアングルが固定ポジションのようで、この場所から紘子さんがいろいろなコメントを発するのがお定まりのかたちでした。そのピアノの足の太さから察するに、てっきりD型だと思っていましたが、最後の最後にほんの一瞬映ったピアノの全景によるとC型だったのはなんだかとても意外でした。ちなみにDとCは同じ足で、B以下が細くなります。
普通はDではない場合は定番のB型になるのがほとんどですから、Cというのはまたオツなチョイスです。

練習室もスタインウェイでしたが、こちらは艶消しで、おそらくはリビングにあるものよりも古いピアノだろうと思われました。こちらもサイズ的にはBかCのようでしたが、わずかなカメラアングルからは決め手が得られず、どちらかまではわかりませんでした。

今回最も印象的だったのは、さしもの中村女史も発言がずいぶん丸くなっていることで、この方からやや枯れた感じを受けたことは初めてでした。以前だったらとてもこういう言い方はされなかっただろうと思えるところがいくつもあり、ずいぶんと落ち着いた、どこか平穏な感じがしたのは、ああ中村紘子さんも歳を取られたのだなあと思います。
むろん、それだけ自分もまた確実に歳を取っているということでもありますね。
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ピリオド調律?

最近のN響定期公演ではロジャー・ノリントンの指揮が多いようです。
彼の得意なベートーヴェンのみによるレオノーレ第3番、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番というプログラムの演奏会の様子が放映されました。

ピアノはラルス・フォークトで、ノリントンの要求によりこの日もピアノはオーケストラの中に縦に押し込まれ、フォークトは客席に背中を向けるかたちでの演奏となりました。

この日の映像で目についたのは、NHKホールのステージ奥には縦長の巨大な反響板とおぼしきものが5枚立てられていることで、これによってオーケストラの音は一気にクリア感を取り戻し、同時に空間に抜け散ってしまうパワーも以前に比べるとだいぶ出ていたように思います。

とくにステージ奥に横一列に並んだコントラバス群がその反響板の恩恵に与っているためか、低音のずしりとした響きが加わって、レオノーレ第3番ではおやっと思うほどの効果が出ていたようでした。

続くピアノ協奏曲第3番では、長い序奏に続いてピアノがハ短調のスケールで力強く入ってきますが、ここでいきなり肩すかしを喰ったような印象を受けました。
単純に言ってしまえば、まるでピアノが鳴っていないかのような音で、はじめはマイクの位置の問題だろうかとも思いましたが、どうもそうではない。そもそもスタインウェイの平均的トーンすら出ていないし、カサついたまるで色艶のない音には違和感ばかりが先行しますが、ほどなくその理由がわかったような気がしました。

あくまでもマロニエ君の想像の域を出ませんが、ノリントンのピリオド演奏の様式に合わせるように、ピアノもフォルテピアノ的なテイストを与えるべく、意図的にそのような調律がされているのだと理解しました。
同時に、調律でそこまでのことができるという可能性にも感心して、ある種の面白さも感じなくはありませんでしたが、とはいっても、とても自分の好みではないことは紛れもない事実でした。

そこまでするのであれば、いっそ本物のフォルテピアノを使うべきではないかと思いますし、テンポやピリオド奏法や解釈など、作曲当時の諸要素に徹底してこだわるというのであれば、当然ながら会場のサイズにも配慮が必要で、ベートーヴェンがNHKホールのような巨大ホールをイメージしていたとは到底思えません。

枯れた弱々しい伸びのない音を味わいだと云うのであればあるいはそうかもしれません。しかし、一方では骨董的な甚だ貧相な音にも聞こえるわけで、どうにも消化不良気味になるという側面を持つのも事実だと思います。さらに大屋根を外しているので音は上へ散ってしまい、せっかく立てられた反響板もピアノにはほとんど役に立っていないようでした。
いろいろな試みに挑戦することは創造行為に携わる芸術家として見上げたことだと思いますが、結果がある程度好ましいものに到達できていなければ、やっている人達の自己満足のようで、幅広い意味を見出すことはできないのではと考えさせられてしまいました。

ノリントンの好みや方法論によれば、協奏曲でも独奏楽器とオーケストラが融和し一体となって音楽を作り出すことのようで、それは大いに結構なことですが、だからといってピアノ協奏曲に於けるピアノの音がオーケストラの中へ埋没したように音が弱く、p/ppでは聞き取ることさえ苦労するようでは、一体化もいささか行き過ぎではないかというのが正直なところでした。

フォークトの演奏は、基本的なものがしっかりしている反面、ディテールの表情に恣意性と誇張がみられ、音楽が自然な流れからしばしばはみ出すようで、聴いていて心地よく乗っていけない部分があるのが残念だと感じました。
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ピアノポリッシュ

車の艶出し剤のことを書いた流れで思い出しましたが、昔からマロニエ君はピアノの付属品の中に必ずといっていいほど入っている定番商品──ピアノユニコンはどうしても上手く使いきれず好きになれません。

ユニコンという言葉の意味が調べてみてもいまひとつよくわからず、なんとなく成分がシリコンなのかもしれないと思ってボトルを見てみると、案の定、成分表示に「シリコンオイル/非イオン界面活性剤」と記されています。
「汚れや手アカを落とし、つきにくくすると同時に艶を出す」という効果を謳っているので、表面の滑りを良くして輝きを出すという目的からシリコンオイルという判断なのかとも思いますが、能書きはどうであれ、要するに使ってみてこれほど使い方が難しく、仕上がりに満足できないものはないというのが昔からの印象でした。

白い液体を柔らかい布地に含ませてピアノの塗装面に塗り広げるものですが、自分で云うのもおかしいですが、洗車マニアでならしたマロニエ君としては、自分なりの磨き技術を駆使してやってみるものの、どんなに丁寧に拭き上げようと努力しても、あちこちに油性のムラが無惨に広がるばかり。これを無くそうとすると、延々とこの液体を塗りまくってムラを埋めていくことになりますが、結局は油性のベトついたイヤな部分が増えていくだけで、本質的な解決には至りません。

感触もギシギシした油っぽいもので、艶もオイルを浸透させることで得られるコッテリ系のもので、品位のある美しさとは程遠い印象です。
ピアノの表面は斑の艶に覆われ、かえって薄汚れたような感じになってしまいますから、これだったら単純な水拭きか、艶が出したければ自動車用ワックスでもかけたほうがまだいいような気がします。

こういうわけで、メーカーなどから販売されているピアノユニコンの類は一切使わないできましたが、昨年たまたまこのピアノユニコンの新品をいただく機会があり、さすがにもう時代も変わって改良されているだろうという期待を込めて恐る恐る使ってみると、果たして結果はまったく変わらずで、なにひとつ進歩していないことに愕然とさせられました。

車の塗装面のケア剤が日進月歩で驚くばかりの高みに達している事実に比べて、メーカー推奨のピアノユニコンは旧態依然としたものを作り続けているようで、そもそも大半がサービスでつけるだけのピアノ磨き剤なので、より良い品を開発しようという意志も意欲もないということなのか…。

それにしても不思議なのは、実際にこれを使った人達からよくまあクレームがつかないものだということです。とりわけ新品ピアノを購入されたお客さんなどは、真新しい一点の曇りもないピアノにこの艶出し剤を塗りつけることで、直前までの完璧に美しい均質な塗装面は、油による艶とも汚れともつかないような斑状態に変化してしまい、ショックじゃないのだろうかと思います。

その点では、車関係のケア剤は遥かに良品が揃っていますが、これをピアノに応用することは一応目的外使用になるので、自己責任でおやりになる方以外、やはりこういう場でのおすすめはできません。

そこで「ピアノ用」としてマロニエ君が知る唯一の合格点アイテムは、以前も少し書いた覚えがありますが、ソフト99から発売されている『ピアノ・家具・木製品 仕上げ剤』という商品で、これはホームセンターなどで500円ほどで売られているものです。
歯磨きのようなチューブに艶出し剤が入っていて、それを柔らかい布でうすく塗って、さらに着古した下着(メリヤス生地)などで拭き上げていくものです。

これはピアノユニコンとはまったく別次元の美しい仕上がりで、そのための特別な技術も必要とせず、ムラもほとんど出ることなく、どちらかというとクルマのコーティング剤に近い使い方と仕上がりだと思います。
おまけに艶にも節度があってこの点も好ましいものです。そもそもピアノの艶の美しさはやや控え目なものでなくてはならず、むやみに油性系のぎらつきを与えてオートバイみたいに自慢するようなものではないというのがマロニエ君の好みです。
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端正と解放

日曜は、「日時計の丘」という瀟洒なホールがシリーズで開催している、バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会の第4回に行きました。

演奏はこのシリーズを初回から弾き進んでおられる管谷怜子さんで、今回はフランス組曲の第4〜6番、トッカータのBWV913、914、912。
冒頭フランス組曲第4番の開始早々、予想外の静けさとたっぷりしたテンポは意表を突くもので、ハッとさせられましたが、すぐにこれは熟考されたものであることが了解でき、たちどころにこの日の音楽世界にいざなわれます。

まるでこの日のコンサート全体の幕が、この悠揚たるアルマンドの提示によって静かに上がっていくようで、こういう出方をされると、いやが上にもこれから始まる音楽への敬意と期待で胸が膨らみます。

管谷さんの特徴は、まったく衒いのない表現が、澄みわたる完成度をもって聴く者の心に直に響いてくることだと思います。思慮に満ちた端正なアプローチでありながら、その演奏は常にのびやかに解放されており、決して型の中だけで奏でられる小柄な音楽ではないことは特筆すべきことです。

とりわけ弱音の美しさとバランス感覚には目をみはるものがあり、どんなにピアニシモになっても音の肉感が損なわれず、音楽の実相がまったく弛緩することがないため、繊細な部分ならではの音楽の豊かさを感じる喜びに満たされます。そして必要とあらば圧倒的な推進力をもってその演奏が勇躍するさまは感銘を覚えずにはいられません。

フランス組曲では、各舞曲が決然としたテンポ設定で弾きわけられているのが印象的で、良い意味で前後影響し合うことなしにそれぞれが独立しながら隣接しており、だからこそ組曲としての端然とした姿が描き出されていることを実感できました。

トッカータでは、デリカシーとドラマ性、潔さと苛烈さが的確に機能して、若いバッハのほとばしるエネルギーを赤裸々に皮膚感覚で体験するようでした。

アンコールはカプリッチョ「最愛の兄の旅立ちにあたって」。

ピアノはこの会場の1910年製ブリュートナーですが、104歳にしてますます音の重心が座って色艶を増してきており、決して大きくないボディから朗々たる美音が放射されて会場の空間を満たすのは驚くばかりです。
専門家の中には、したり顔で「ピアノは弦楽器と違って完全な消耗品、せいぜいン十年が寿命です」などと断じる人がいますが、ぜひこういうピアノを聴かせてみたいところです。枯れた音色を消耗した音だとみなすなら、ストラディヴァリウスでも消耗品で、決して未来永劫のものではありません。

マロニエ君は古いディアパソンを購入してからというもの、新しいピアノに対する興味が減退する一方で、このような佳き時代の、馥郁とした温かさとパワー、人の情感に寄り添うような多彩な表現力をそなえた「楽器」を感じるピアノがこれまでにも増して魅力的に映るようになりました。
この魅力の前では、多少の鳴りムラや些細な欠点など問題ではありませんし、味のない機械的な音がいくら均質に揃っていてもそこに大きな価値があるようには思えないのです。

それだけ自分が歳をとったということかもしれませんが、やっと身をもってわかってきたような気がします。
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ロバート・レヴィン

過日のツィンマーマンのブラームスに続いて、貯まった録画からノリントン指揮N響、ロバート・レヴィンのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を聴きました。

ノリントンは今日の大きな潮流である古典奏法を用いる指揮者の一人で、一貫してヴィブラートと使わない演奏は好みが分かれるところだと思います。
ロバート・レヴィンはフォルテピアノ奏者として有名な人なので、てっきり古楽器による演奏かと思っていたら、サントリーホールのステージ置かれているのは現代のスタインウェイでした。

それでも普通と違うのは、大屋根が取り払われ、オーケストラの中央に客席にお尻を向けて、縦にピアノが突っ込まれている点で、客席とレヴィン氏の顔が向き合う形になることでした。

ノリントン氏は協奏曲の場合はいつものようにオーケストラの中に入り、ピアノのすぐ横の向かって左から、やはりレヴィン氏と同じく客席側を向いて愉快そうに指揮をします。
開始早々からレヴィン氏はオーケストラに合わせてオブリガート風にというか、とにかく思うままにピアノを弾いており、やがてソロパートになればそれを弾き、そこを通り過ぎればまたオーケストラと一緒に弾いているというもので、まるでバッハの協奏曲のようなスタイルでした。

以前ほどこういうスタイルも珍しくはなくなったとはいうものの、まったくの違和感がないといえば嘘になり、一定の理解と慣れができてきているものの、マロニエ君はいまだに長年慣れ親しんだスタイルのほうが落ち着くのも正直なところです。
しかし、すでに以前ほどの抵抗はないどころか、これはこれで面白いと素直に思えるようになったことも正直なところで、なによりもロバート・レヴィンはモダンピアノを弾かせてもなかなか見事なものでした。

古典奏法の第一の意義は、作曲された時代考証に沿った演奏スタイルを取り入れることで、作曲家がイメージしたオリジナルの姿に近づけることで、その響きや音楽言語も作品本来の声やイントネーションで語らせるということだろうと思います。
テンポやアクセント、楽器の鳴らし方などが違うから、より鮮やかで活力のあるもののように云われますが、マロニエ君は考証や奏法の問題だけには留まらないないという気がします。
それはまず、新しい挑戦をする演奏家達の、音楽に対する覇気や意気込みの違いが大きいのではないかと思います。

今回もレヴィンの演奏を通じて感じたことは、演奏者の音楽に対する最も基本となるスタンスの問題でした。モダン楽器の奏者が十年一日のごとく同じ曲を決まりきったように演奏することで、ある意味、狭さとマンネリが避けられないまでに迫ってきているのに対し、古典奏法の奏者は常に思索的で挑戦的で、音楽の意義と原理に対してより謙虚で敏感であろうとしていることを痛感させられます。
演奏に際して、常に創造性をもって模索を怠らないことは大いに注目すべきであるし、モダン奏者はこの点でいささか怠惰であると感じずにはいられません。

モダン楽器の演奏家は、作品への畏敬の念や音楽が本来もつ愉悦性や率直な魅力を忘れ、自己が先行するなど、やや本道から外れ気味のところへ意識が行っていると感じることがしばしばです。

かといってマロニエ君自身は、ピリオド楽器や古典奏法のすべてを受け入れ切れているとは云えず、やはりモダンのほうに安堵と喜びを感じる部分が多分に残っているのも事実です。
それでも演奏家が音楽と対峙するすずしさや喜びの姿勢が、モダンではやや崩れている、あるいはないがしろにされていると感じるのは否定できず、その点では心地よい時間を楽しめたように思います。
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機械的強味

昨年末、ステファン・パウレロのピアノのことを教えられたことがきっかけで、このところ、いろいろとこのキーワードに触れることになりました。

ステファン・パウレロ氏はピアニストでピアノの設計者、さらにはピアノ製作家でもあるようで、一部では天才技術者とも認識されているようです。
さっそく稀少なCDを購入して、パウレロ氏の設計製作によるピアノの音を聴いてみたのは以前書いた通りですが、とりあえず音の傾向も(自分なりですが)掴めてきたような気がします。

また、彼の設計だという中国生産のウエンドル&ラングやフォイリッヒの218もYoutubeで可能な限り聴いてみました。このふたつと、その製造会社であるハイルンの、少なくとも3つのブランドでこの218モデルを共有しているのは間違いなく、ブランドによって最終的に味付けなどが異なっているのだろうかと思いますが…そこはよくわかりません。

パソコンにタイムドメインのスピーカーを繋いでさんざん聴いてみましたが、たしかに今風の音でよく音が出ていると思われ、まずは率直に感心しました。しかし、もうひとつ惹きつけられるものがなかったことも事実です。

もちろん値段が値段なので、それを分母に考える必要はありますが、低音にはそれなりに轟然とした迫力があるし、中音以上は音の周りに柔らかな響きの膜みたいなものがまとわりついていたりと、なかなかのものだと思ったのも正直なところです。
ただし、なんとなく音の芯が強めで、あくまでもマロニエ君の好みですが、どこかクールといった印象を受けます。それは安い中国製から超高級なフランス製ステファン・パウレロ・ピアノまで、どことなく共通しているようで、設計者が同じというのはこういうことかと妙に納得してしまいました。

そんなとき、携帯に知人からメールがあり、「ステファン・パウレロ氏はかつてヤマハのC3Bも設計したらしい」と書かれており、はじめは驚きましたが次第に合点がいきました。最新のヤマハはよく知りませんが、言われてみれば昔のヤマハと相通じるものを感じていることに気付いたからです。

一台だけを聴いていとパワフルだし、ムラもなく確実な音が出るし、製品としてもそれなりの筋が通っているので、つい納得させられてしまうのですが、時間を置くと、ピアノという楽器を聞いた後の余韻の美しさみたいなものが心に残らない…そんな印象を持ちました。
聴いているときは悪くないと認めつつも、酔いしれるということがなく、感心はしても平常心のままで、それ以上には至りませんでした。

全音域に均質感があり、適度に迫力やパンチがあるので、こういうピアノは短時間の試弾などでインパクトを得やすく、わかりやすい訴求力があるので、広い層からの支持を得られやすいだろうと思います。
まさにヤマハがそうであったように。

218は文字通り奥行きが218cmなので、ヤマハで云うとC6XとC7Xの間ぐらいのサイズです。
価格は日本国内の定価が280万円で、値引き幅もあるようなので、コストパフォーマンスは相当高いと思われます。同工場製のウエンドル&ラングも、最近では国内の優良ピアノ店でもぽつぽつ取扱いがあるようなので、そのあたりを考え合わせると、いわゆる巷にあふれる中国製のデタラメなピアノではないのだろうとも思います。
もしもピアノを好きなだけ買えるような大金持ちなら、どんなものやら試しに買ってみるのもおもしろいでしょうし、一定の興味はそそられます。

ただ、楽器として長い付き合いのできるピアノかどうか、あるいは道具と割り切ってガンガン使うには機械的な耐久性などがどうなのか…このあたりはまったくの未知数でしょう。
実はそのあたりを疑問視する声を間接的に聞いたことがありますが、耐久性はピアノの極めて重要な要素のひとつなので、いくら音がよくて安くてもわずか数年で問題が起こるようでは困ります。
その心配のないことが証明されれば多くの支持を集めるのかもしれません。

その点では、ヤマハの機械的な耐久力が抜群であることは世界にも定評がありますから、とにかく冒険を避けたいという向きにはやはりヤマハは最終的に強いですね。
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正攻法の興奮

貯まっている録画から、ブロムシュテット指揮のNHK交響楽団、ソリストをフランク・ペーター・ツィンマーマンがつとめたブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

これが思いがけなく見事な演奏でした。気が付いたときには身体の一部を硬直させてまんじりともせずに聴いている自分に気がつきました。硬直というと、なにかよくない事のように思われがちですが、マロニエ君は集中するとつい身体のどこかに妙な力が入ってしまう癖があって、それほど演奏にのめり込んでいたということだろうと思います。
少なくとも、自分にとって本当に素晴らしいと思える演奏を聴いている時間は、とてもリラックスなどできません。

素晴らしい演奏というのは定義が難しく、多種多様です。
ツィンマーマンのヴァイオリンはまさに正攻法の折り目正しいスタイルですが、にもかかわらず決して優等生的でないところが特筆大書すべきだろうと思います。周到に準備され、作品を隅々まで知り尽くしたものだけが可能な演奏でありながら、けっしてマンネリではなく、常に音楽に必要な新鮮さと即興性を孕みながら演奏が展開して行くので、集中が途切れる部分がなく、聴く者にたえず程良い刺激を与え続けてくれるようです。

とりわけ感心したのは厳格さという枠の中で呼吸する生きたリズム感で、これはこの人の生来のものでしょう。とりわけ協奏曲ではオーケストラからソロに引き継がれる部分に些かでも遅れやズレがあると、聴いている側はガクッと気持がシラけるものですが、こういう箇所でのツィンマーマンは聴く者の期待を決して外すことなく、渡されるものを間髪入れず受け取って自分の演奏として繋いでいくので、聴いていて快適この上ありません。

演奏家の中には自分の個性をことさら強調してみたり、新解釈のようなものを披瀝したがる人が少なくありませんが、ツィンマーマンにはそういう要素はまったくの皆無。演奏のフォルムは至って真っ当でありながら、正味の彼自身がそこにあって明瞭、作品と演奏の両方を結束させながら、聴く者を音楽の世界に引き込んでいくやり方は、まったく見事な演奏家の仕事というほかありません。

ひとつだけ意外だったのは、彼の使うヴァイオリンは、はじめストラディヴァリウスだろうと思いつつ、途中からちょっと違うかなあという印象もありました。しかし彼の演奏スタイルからして、グァルネリではないだろうと思うし、f字孔の形もやはりそうではないと思い、楽器についてはまったく確信が持てずに終わりました。
後でネットで調べてみると、ツィンマーマンが現在弾いているヴァイオリンはクライスラーが所有していた1711年製ストラディヴァリウスだということがわかりました。

違うような気がしたのは、ストラドは単純にいうともっと派手な艶っぽい音というイメージがあったのですが、一流のプロには演奏家自身の音というものもあり、やはりヴァイオリンの音はなかなかわかりにくいものだと思いました。
ただ、演奏中に映し出されるそのヴァイオリンは、側板から裏板にかけて「おお!」と思うほど鮮やかな虎目の、いかにもただものではなさそうなヴァイオリンでしたが、その音は見た目ほど華麗ではないような印象だったのです。
ただし、会場はなにぶんにもあの広大で音の散るNHKホールですから、楽器の音を正しく吟味できる環境ではありませんし、だいいちこちらも会場でナマを聴いたわけではありませんけれども。

楽器はともかく、久しぶりに満足のいく素晴らしい演奏に接することができ、思わずテレビ画面に向かって拍手したくなるようでした。
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初期型が最良

正月はこれといった予定もなく過ごしましたが、ピアノ好きの知人達が遊びに来てくれました。

ディアパソンを主に弾いてもらい、やはりタッチの重さは気になったようですが、同時にヤマハやカワイとは一線を画する厚みのある力強い鳴りには意外な印象を持ってもらえたようでした。

いつものことですが、他の人に弾いてもらうことで、自分のピアノを普段とは違った位置から聴くことができるのは大いに楽しみでもあり、同時に評価や反省の材料にもなります。
ピアノに限ったことではないかもしれませんが、楽器の本当の音や響きというものは、少し離れた位置から聴くほうが本来の姿がわかるもので、演奏者が間近で聞く音は必ずしも本物ではないということをあらためて感じます。

来られた方のお一人は長年カワイのグランドを愛用されていましたが、なんと年末に半ば勢いで買い換えたという突然の告白にすっかり驚かされました。
年末にひととおりあちこちで試弾してみたそうですが、最終的にカワイのSKシリーズに絞られていき、数台ずつあったという2、3、5の中からついにSK-5に決定したそうです。

その理由はSK-5がやはり低音にも余裕があるなど、要するに音が断然よかったからという明快なものだったようです。ところがいざマンションの自室に入れてみると、ショールームでの印象とはまるで違ってしまって、今はその点に大いに悩んでいるとのことでしたが、これはままあることで、楽器は出た音を鳴らす空間をも要求するということのようです。

なにしろまだ納品から数日という状態のようで、初回の調律が済んだらお披露目に招待してくれるということになり今から楽しみです。

ところで意外な話を聞きましたが、ある大手メーカー(カワイではない)の方が言われたそうですが、ピアノは新型が出てすぐのものが最も出来がよいという興味深い話でした。
その理由は、ピアノはシリーズの初期型こそが開発者達の理想や意気込みが最も強く注ぎ込まれているらしく、それによって新しい製品の高評価を勝ち得るのだそうです。これがうまく運ばないと以降の販売にも影響してくるから、とくに出始めのモデルには力が入っているというものでした。

これはまったく気が付かないことでしたが、云われてみればたしかに思い当たることがあります。
某コンサートグランドなどはえらく力の入った新型を出して、「ほう!」と思わせるものをもっていましたが、最近ではあきらかに質が落ちてきているんじゃないかという残念な印象を立て続けに抱いていたので、この話が忽ち信憑性を帯びることになりました。
新品ピアノは、普及型も含めて、たしかに発売から時間が経つほどそのピアノの密度みたいなものが薄れてしまい、いわばメーカーの気合いが感じられなくなってくる印象があります。

車などは初期型はセッティングの未消化や想定外のトラブルがあったりと、発売開始直後はいわばプロトタイプに近い側面があってユーザーからは敬遠され、以降数年をかけて対策・改良されたモデル末期がもっとも熟成が進むのでその辺りを狙って買う、もしくは最低でも2年は待つというのが見識あるカーマニアの車選びの通例です。

しかし、ピアノの場合は新しい機構というものはほとんどなく、構造体としては100年以上前に完成されたものを模倣・踏襲・改良しながら作っているに過ぎないので、違いはもっぱら細部のちょっとした設計や工夫程度で、肝心なことは主に材料の質と作り込み精度、さらには出荷調整こそが命だといえるのかもしれず、これはなるほどと思いました。

具体的なモデル名は控えますが、日本のピアノでも同一モデルで古いものと新しいものを比べると、新しいほうは新築の家や新車と同じで新品ならではの気持ち良さのほうに目が行ってしまうものですが、本当に楽器としてよくなっていると心底感じたことがあるかと云われると、あまりないのが実感です。

となると、ピアノは新シリーズがでたら発売直後から一定期間(それが具体的にどれぐらいかはわかりませんが)が旬だということになるようです。
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サムライ

早いもので今年もとうとう大晦日となりました。

残すところあと6日ほどというときに、ひとりのピアノ技術者の方からメールをいただきました。
まっ先に目に飛び込んできたのは「調律は愛」という聞き慣れぬ言葉でした。

この方は大手メーカーの調律師としてその職務に就かれ、また調律師養成機関の講師をつとめておられたという経歴をお持ちのヴェテランチューナーでいらっしゃるようです。
永年勤められた会社を退職され、今は「趣味は調律」と公言しながらお仕事を続けておられる由。

文章をそっくり引用というのも憚られるので、おおよその意味を要約すると、
「調律の世界は奥深くて際限がなく、形として捉えられず、感覚・感性の世界の問題が終局になる。 ピアノが好きでピアノに恋する。ピアノを愛して愛したい。先ずはこの境地に立てなければ技術者としては居場所は無い。」という専ら観念論のようでありながら、その言葉はきわめてキッパリとしたものでした。

その後、引き続いていただいたメールには次のような、こんにち失われて久しい日本人の苦しいまでの精神世界を垣間見るような内容でした。

養成機関の講師時代の信条は、「調律は愛」「実習中のトイレ厳禁」なのだそうで、調律師たるもの午前中の2〜3時間、午後の4〜5時間程度の生理現象コントロールが出来なければ顧客宅訪問などもっての外というのが信条だったとあります。
また「調律師の基本姿勢の心・技・体にわたり厳しく指導」と書かれていて、こんにち我々がこの言葉を耳にするのは、せいぜい大相撲の横綱の条件ぐらいなもので、これが調律師としての心得に用いられるとは思いもよりませんでした。

さらに続きます。この方はすでに40数年の調律師人生を続けられているようですが、丸一日ピアノと付き合う場合でも、仕事先でのトイレは借りられないのだそうです。そのためには「前日から戦闘態勢に入るというか、水分摂取と体調維持に気を使います」とあり、ピアノ技術者として一見過剰とも思えるこの精神訓のごとき気構えにはただただ圧倒されるばかりです。

ピアノの調律や調整をするのに、トイレ云々が作業として直接の問題があるかといえばおそらくないでしょう。しかしそういう覚悟をもって仕事に挑むというスタンスとして見れば、やはりこれは小さくない問題だろうとも思われます。
調律師というよりは調律列士とでもいいたくなるもので、心・技・体と相俟って、まさにチューニングハンマーを持つ日本のサムライを連想させられます。

今の世はあまりにも安易にプライドという言葉を濫用しますが、大抵はつまらぬ見栄やエゴのことに過ぎません。しかし、本来はこういう外に見えない信条や自ら打ち立てた誓いを静かに守り抜くことがプライドではないかと思います。

かつての日本人は、何事においてもこれぐらいの厳しい縛りを課すことによって心を整え、常に誠実に事に相対することが珍しくない民族であったことを思い起こさせられました。
それがいつの間にやら浅ましいばかりに即物的になり、評価軸は損得と勝ち負けだけ、このように目に見えないものに価値を置くということが絶えて久しいように思われます。
自らの使命には整えられた精神を下敷きとして、ある種のストイシズムを伴いながら邁進していくとき、我々日本人は格別の力が発揮されるのだろうと思います。

悲しいかな、かくいうマロニエ君が最もダメなくちなのは自分でもわかっていますが。

多くの教え子の皆さんと再会された時、真っ先に「講師!私お客さまのところでトイレ借りてませんよ」という言葉が聞かれるそうです。はじめに接した先生が口癖のようにされた教えは、生徒のメンタリティの奥深いところへ強い影響を及ぼすもののようです。

そして最後は次のように結ばれていました。
「トイレが近くなったら、、それは引退の潮時と肝に銘じ、今しばし愛を込めてハンマーを握ります。」


今年一年、拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。
どなた様も良い年をお迎えください。
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1874年製と1877年製

エリック・ルサージュとフランク・ブラレイという、当代フランスの中堅ピアニストの代表とも云うべき2人によるモーツァルトのピアノソナタ集を久しぶりに聴いてみました。
曲目は、2台のピアノのためのソナタKV448、4手のためのソナタKV521、KV497という、いずれもモーツァルトのソナタとしては比較的規模の大きい3曲で、生活の拠点をウィーンに移してからのいわば後期かつ絶頂期の作品ばかりです。

演奏そのものは人によって受け取り方はそれぞれだろうと思いますが、マロニエ君の個人的な印象としては、決して悪くはないが、とくに賞讃するほどのものでもないというところです。
フランス人が弾けば、お定まりのようにフランス的云々などという聞き飽きたような感想は云いたくはありませんが、全体的に明るめの溌剌とした華やかさの勝った演奏で、これはこれで結構と思いつつ、そこにもうひとつモーツァルトの音符を美しく際立たせるような緻密さと、同時に(矛盾するようですが)即興性というか多感な遊び心がバランスよく良く織り込まれていればと思ったりします。

とくにモーツァルトの場合、その即興性によるテンポの必然性のある揺れはいいとしても、基本的なリズムの刻みがおろそかになる場面があるのは気になってしまいます。こういう演奏上の骨格にあたるような部分のしっかり感がフランス人は苦手のような印象があり、そういう意味でもフランス的といえばそうなのかもしれません。

さて、このCDで特筆大書すべきは、使われたピアノです。
それぞれ1874年製と1877年製という2台のスタインウェイのコンサートグランドが使われていますが、創業が1853年ですから、そのわずか21年後/24年後のピアノというわけです。
この時代のスタインウェイは現在のものとは大きく異なるピアノで、奥行きもたしか260cmぐらいだったと思います。しかし、わずか後の1880年代には現在まで受け継がれることになる274cmとなり、さらに内部機構も改良を重ねられ、20世紀初頭にはほぼ現在のモデルが完成します。

そういう意味では、創業初期に製造されたスタインウェイの源流とでも云うべき音を聴くことができる貴重なCDというわけです。
楽器に関する詳しい説明はないので、どういう状態のピアノかはわからず、ただ2台ともピアノ蒐集家のクリス・マーヌ氏の所有ということだけが記されていて、響板などが貼り替えられているのかなど、どれだけオリジナルを保っているのかはわかりませんが、CDの音を聴く限りでは、後年のスタインウェイほどの圧倒的なパワーはないけれども、とにかくやわらかで美しい音を出すピアノだということがわかります。

ややフォルテピアノ的な要素も兼ね備えつつ、それでも感心するのは、このごく初期のスタインウェイが、もうすでに確固としたスタインウェイサウンドをもっているということでした。

そして、こういう音を聴くと、昔の楽器の音というのはとにかく耳や神経に優しい点が驚くばかりで、何度聴いても心地よさばかりが残って、また聴きたくなる。その点では非常にリラックス効果もあるというべきで、理屈抜きに「楽器の音」というものを感じます。

それにひきかえ現代のピアノの多くは、ピアノの音のようなものを出す機械という印象を免れません。特徴的なブリリアント系の音も、どこか化学調味料で作られた計算ずくの美味しさみたいで、もうひとつ気持が乗っていけませんし、本当の心地よさとは何かが違うようです。うわべはきれいでもすぐに飽きてしまい、やがてうるさくなって無意識のうちに疲労を感じていることが、昔のピアノの音を聴くとごく自然に気付かされるようです。
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特別なピアノ

知り合いのピアノ技術者さんから教えていただいたのですが、現在、世界で製造されるピアノの中で、本当に特別だと云えるものはわずか数社しかないらしく、そこには三大名器といわれるスタインウェイもベーゼンドルファーもベヒシュタインも含まれていません。

その特別なメーカーは4社で、すべてヨーロッパに集中しており、いずれも小さな会社ばかりです。
その数少ないメーカーのひとつがステファン・パウレロというフランスの小さな会社で、マロニエ君はこのときに初めてこのメーカーを知りました。

過日、フランスの老舗ピアノメーカーであるプレイエルが製造を中止したということを書いたばかりで、ついにフランス製ピアノの火が消えてしまったと思っていたところ、思いがけないところに思いがけないかたちでフランスのピアノがいまなお棲息していることを知り、たいへん驚かされました。

さっそくホームページを探したところ、たしかにその会社のサイトが見つかり、ずいぶんとマニアックなメーカーのような印象を受けました。
外観はひと時代前のハンブルク・スタインウェイに瓜二つで、はじめはファブリーニのようなスタインウェイベースのスペシャルピアノかと思ったほどです。

中型グランドとコンサートグランドがあり、なんとそれぞれに交叉弦と並行弦のモデルがあるのが驚きでした。いまさら並行弦に拘るというのはどういう意図なのかと興味津々です。

サイト内にはステファン・パウレロ・ピアノを使った数種のCDが紹介されており、クリックすれば短時間のみ音が聞けるようになっていますが、なんとかして手に入れたくなりネットで検索してみると、アマゾンなどで辛うじて引っ掛かってくるものがありました。
こういうときは、ネットの威力をまざまざと思い知らされ、昔だったらとてもではないけれどもそんなCDを海外から探し出して個人が簡単に手に入れるなどという離れ業は不可能だったに違いありません。

さっそく届いたCDの包みをひらいて、はやる気持ちを抑えながらプレーヤーにのせる瞬間というのは、何度経験してもわくわくさせられます。
果たしてステファン・パウレロのピアノはパワーもあるし、まず印象的だったのは、まとまり感のある完成度の高いピアノという点でした。多くの工房規模のピアノには、この上なく上質な美音を聞かせる一面があるかと思うと、ある種の未熟さみたいなものが解決されずに放置されているように感じることが少なくありませんが、このピアノはそういうアンバランスがなく、よほど設計が優秀なのだろうと思いました。
ホームページの図によれば、支柱の形状には独特なカーブなどがあるなど、随所に独創性があるようですが、音そのものは今風の至って普通の感じだったのはちょっと肩すかしをくらったようでした。

その技術者さんが海外のお知り合いなどへ問い合わせをされたところによれば、ここ20年ぐらい、年に3台ぐらいのペースで作られているそうで、これは生産というより、限りなく趣味か道楽に近いスタンスのようにも思われます。
もともとはステファン・パウレロ氏はピアノ設計者として有名だったのだそうで、他社からもいろいろなピアノの設計依頼があるようです。

生産を中止したプレイエルの中型グランドもステファン・パウレロの設計だったようですし、中国製のピアノにもここの設計によるピアノがいくつかあるようです。もしそれが高度な生産クオリティで設計者の意図に忠実に作られているとすれば、かなりコストパフォーマンスの高いピアノが期待できそうです。
ただしピアノ(というか楽器は)はエモーショナルな要素を多分に含むものなので、中国製ということに抵抗感がなければの話ですが…。

本家ステファン・パウレロのピアノは、ヨーロッパならともかく日本ではまず本物の音を聴ける機会など今後もまずないでしょうね。
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Fの成長

先日たまたま買った2枚のピアノのCD(バケッティのマルチェロ:ピアノソナタ集 ベクテレフのスクリャービン:練習曲集)は、いずれもファツィオリのピアノが使われており、スクリャービンはその旨の表記があったので購入前からわかっていましたが、もう一枚は中を開けてみてそうだとわかり、その偶然に驚きました。

これまでに主にCDで聴いてきた数々のファツィオリの印象をベースにしながら、今回あらたに2枚のCDを聴いてみての個人的な印象を少し。

ファツィオリが現在生産されるピアノの中でも、最上ランクに位置する一流品であることには異論はありませんし、事実そうなのだろうと思います。

ファツィオリは材料その他すべてにこだわったピアノといわれ、その音にはある種の濃厚な色彩と密度感があり、こういう音はコストダウンの思想からは決して生まれ得ないものであることは聴いていても容易に頷けるところです。
アップライトを作らず、大量生産にもシフトせず、あくまでも納得のいく工法で良心的な楽器造りを貫いているという点でも、ほんらい高級ピアノの生産とはこうあるべきだというスタイルを示している数少ないメーカーのようです。

ただ、まったく個人的な好みで云うと、ファツィオリは聴いていて、ピアノを聴く喜びというか心地よさが不思議に稀薄で、これは何が原因だろうかというのが、いつも聴きながら感じる疑問です。その音の美しさと、生きた音楽としての脈動には、いささかの乖離があるのか…。
ひとつひとつの音は、よく練り込まれ、磨かれて、じゅうぶん美しいにもかかわらず、表現が上手くないのですが、楽器として息が詰まっている感じが拭えません。

音は美しいけれど、響きに開放感がないのかとも思いますが、あくまで個人的な印象で決定的なことはわかりません。音量もずいぶんあるようで、以前、知り合いの技術者さんがファツィオリのピアノを調律するときは耳栓をして作業をすると云っていたことも思い出しましたが、とにかく音がかなり大きなピアノだろうというのは聴いていてそれとなく感じます。

ところが、マロニエ君の印象では、それだけの音質音量に見合った響きの飛距離が不足しているのか、ストンと落ちてしまう紙飛行機のような印象です。(これは音の伸びのことではありません)
楽器の音は、発音された音そのものも重要ですが、それが空気に乗って飛翔するところに聴く者は酔いしれ、味わいとか心地よさ、ポエムもファンタジーも激情も、その広がる響きの中に姿をあらわし、ひいては音楽として精神が旅をするものではないかという気がします。

この点では、ずいぶんと品質も落ちてしまったスタインウェイなどは、この響きの特性と開放感によって、辛うじてそのブランド力を維持しているようにも思います。

マロニエ君にとってはファツィオリが新興メーカーであるどうかなど、まったく問題とはしませんが、結果から見て、やはり歴史あるメーカーは深いところにあるどうしようもない何かが違うのだろうかとも思います。
以前はあまり良さのわからなかったベヒシュタインのDなども、最近になってそれなりに素晴らしいと思えるようになりましたし、シュタイングレーバーなどは能楽のような精神的高貴を感じます。

それぞれに個性というか哲学のようなものを感じますが、ファツィオリにはもうひとつこの楽器ならではの顔がわからない。ファツィオリの濃厚さがコクになり、あの豪奢が頽廃の陰を帯びたとき、本当の一流品になるのかもしれませんが、今はまだ一生懸命というか、頂点を目指してひた走っているという印象のほうを強く感じてしまいます。

それでも、とくに最近のモデルの傾向なのか、この2枚のCDに聴くファツィオリは以前よりもしなやかさが勝り、素直に感心させられる面が多々あったことも事実です。いずれもファツィオリの所有のようで、とくにスクリャービンで使われた楽器は同社の貸出用らしく、これまで数多く聴いたものの中ではとくに風格や余韻もあって最良の楽器という気がしました。
いずれもF278で、これがベストバランスのような気もします。

F308はイタリアお得意の12気筒スーパーカーみたいな印象でしょうか。
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