C3+アベル

先日のこと、とある技術者さんがアベルのハンマーを使うなどしてオーバーホールされたC3があり、交換から半年が経過したということで、これを触らせていただくべくお邪魔してきました。

ピアノ自体は50年ほど前のものだそうですが、内外はピカピカに仕上げられているし、多くの消耗品は交換され、どこを覗いてもすこぶるきれいで好ましい感じの佇まいは、むしろ若々しい感じのものでした。

いきなり驚いたのはその鳴りのパワーで、昔のピアノは違うというのはやはり思い込みではない!というのが最初の印象でした。
どこがどう違うのかわからないけれど、材料などが現在のピアノより上級品が使われているのと、製造時の手間のかけ方が違うのでしょう。現代のピアノより明らかに鳴りが太く、器が大きいことに唸りました。
この器というのは実は非常に大切な点で、今のピアノは、一見キレイな音はするけれど、昔ならあり得なかったような先端テクノロジーの力なのか、精密に極限まで鳴らされているぶん「今まさにピークで、この先の伸びしろは期待できそうにないな…」という感じを受けるのですが、そういうものとはまったく違うもの。

さらにハンマーが良品に交換されて丁寧に整音されているため、よくあるY社のものより明らかにふくよかになっている点もハッとさせられます。
ちなみに、ふくよかというのはモコモコ音ではなく、ハキハキはしているけれど、あのよくある針金の入ったようなキツい音ではないのが嬉しいところです。
アベルのハンマーが具体的にどういいのかは、マロニエ君なんぞにはわかりません。
イメージで言うならレンナーのほうが重厚でアベルのほうが少し明るめなのかもしれないけれど、等級もいろいろあるようだし、技術者の整音のやり方によっても変わってくるので、一概にどうとは言えない話です。

ちなみにマロニエ君は、ピアノの個性に合った良質なハンマーであれば、メーカーなどなんでも良いという考えで、ブランドに拘る気持ちはまったくなく、いい感じの音が出るならメーカーなんてなんでもいい派です。

さて、このアベルのハンマーはというと、Y社の純正よりも全体にフェルトの密度が高いのだそうで、そのぶん交換前よりも重くなり、それはタッチの重さにも影響するため、木の部分を削るなどの工夫を凝らされているようでした。
その効果は充分で、弾いている感じは至って軽快、このピアノの潜在力をあますことなく発揮するまでに見事に仕上げられていると思いました。

やはり、技術者の方がご自身の工房で時間をかけて仕上げられたピアノに共通するのは、音の上品さやタッチの素晴らしさです。
軽快なのにしっとりした質感があり、コントロール性にもすぐれたとても素晴らしいものですが、これは良質なタッチに欠かせない消耗品類が交換されていることと、時間制限のある出張修理ではないぶん、納得行くまで何度でも調整を繰り返された努力とこだわりの結晶だからでしょう。

やはりピアノは細かい調整の積み重ねがあってはじめて快適で上質な音や弾き心地となり、それはまさに人の手によってしか到達することはできない領域であることは疑う余地がありません。

というわけでC3としては最上の部類に属するピアノだと思いましたが、ここまで丁寧なメンテを受けたピアノであるからこそ、このピアノの生まれもった個性もより克明になるという一面も感じました。
たとえば、昔から感じていたことですが、Y社のピアノは低音域(とくに巻線部分)に特徴があり、それはこのブランドの全体の品質やクオリティからすれば、相対的に弱い部分ではないかと感じます。
このピアノもこれだけ入念な手が入れられ、弦も新しいものに張り替えられていますが、それでも巻線部分にはそこが残っており、このあたりは少々の部品交換や調整ぐらいではどうにもならないことなんでしょうね。

私見ですが、海外の優秀なピアノとか、国産でも僅かに存在した優れたピアノは、どれも低音域が深く美しく、弾き手を陶然とさせるような魅力があるのですが、Y社の場合は低音になるにしたがい音にキレがなくなり、雑味のある振動でビンビンいう感じ…。
低音域は音楽の土台であり支えともいえる部分でもあるので、きわめて重要な部分だと思うのですが、弦やハンマーも交換され、これだけ惜しみなく手が入れられたピアノであっても、そのあたりはかなり頑固なように見受けられました。

C3は大量生産のピアノなので、あまり細かい要求をしても仕方がないといえばそれまでですが、低音の美しさに関しては(モデル差はあるとしても)K社のほうがまだ優れている気がします。
また、単音はきれいでも、曲となって音数が増えたり、和音になって幾つもの音が同時に鳴る、あるいはフォルテになると、音や響きが暴れ気味となり、まとまりづらくなっていくのを感じます。
一流と評されるピアノでは、そういうシーンになればなるだけ音はむしろ収束していくところがあり、和声の色あいや厚みが増し、全体のフォルムがしっかり浮かび上がるように思うのですが、これはひとつにはY社のピアノの音に透明感がないからかなあ?とも思いました。

音に透明感があれば色のついたフィルムを重ね合わせるように、音同士が絡んだときにさまざまな色や響きを作り出せるものですが、その要素が少ないと、音と音が融和せずに混濁してくるのではないかと思いました。

余談ですが、マロニエ君はこのピアノの鳴りの良さやパワーには素直に感心したのですが、試弾に来られた方の幾人か(特に女性)は、なんと「鳴りがイマイチ」といった方向の感想を漏らされたらしく、これにはもうびっくり仰天で、さすがにその技術者さんも静かな苦笑いのご様子でした。
おそらく、日頃からわめき散らすようなピアノに慣れておいでの方だとしたら、このように上品にまとめられたピアノが「もの足りない」と感じてしまうのかもしれず、人間の慣れとはそういうものか…と思いましたね。

日頃どんな状態の楽器に接しているかというのは、だから大切なんだと思います。
これは「好み」とは似て非なることですね。
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前回の続き?

Y社のピアノは、大量生産の道具としては、その価格も含めると天下無敵といって差し支えないもの。
楽器の世界に、TOYOTA的な信頼性を持ち込んだ手腕は世界が認めるところのようですが、ただ弾く人がそんなことをいちいち考えているわけでもないでしょう。
まして、自分のピアノを「コスパが一番」などと日頃から割りきっているとも思えず、時間とともに、このメーカーのピアノとさよならする人と、ますますそれ以外のピアノを受け付けなくなってのめり込む人とに分かれていくような気がします。

このメーカーのピアノを製品としてではなく、純粋に楽器としての評価をくだす場合、音質や表現力には疑問を覚えるし、あまりに企業臭・機械臭が強く、ちょっとした違和感を覚えている人は、多くのピアノを知る人ならあるていどいらっしゃるかもしれません。
各モデルや個体差はあっても、Y社のピアノは全般的に音がキツく(人によっては)ものの数分で耳や神経が疲れるし、ピアノと弾き手の間に通い合うものがどうしても希薄な印象です。
変な例えですが、せっかくデートをしていて、表面的にはいかにも上手くいっているのに、ほんのちょっとした気持ちに気がついてくれないとか、ささやかな心情を受け止めてもらえないなど、情の薄い人みたいな気がするのです。

酷使されてもへこたれず、たくましさやパンチはあるけれど、いっぽうでキーに触れて音を出すだけでも喜びを感じるといった喜びとか、楽器への愛情を捧げる対象としては、無機質さが立ちはだかっている。

先に登場されたAさんは、別メーカーのグランドが来てからというもの、Yピアノを弾かなくなられ、たまに弾くと「喧嘩ピアノ」になるという、言い得て妙な名言まで残される始末で、はやくも売却さえ検討中だとか。
一台だけだとなんとか保っていたものが、もう一台別のものが来ることで、その良さも欠点もくっきり浮かび上がるというパターンでしょう。

日ごろから同じメーカーのピアノだけに接していると、ピアノの音とはそういうものと思ってしまい、音色や発音の美しさとはなにか、演奏を左右するニュアンスや感性が大切ということに興味を感じなくなる危険を感じます。
しかも、国内はY社のピアノがあまねく行き渡っているから、どこに行っても本質においては同じタイプのピアノで、違った個性のピアノに触れるチャンスというのはそう多くはありません。

こうなると、別メーカーのピアノを弾いても、人間には慣れというものがあるから、違和感のほうが先に立って良さが理解できなかったり、スタミナ定食よろしくピアノはやっぱりガッツリ弾きごたえがあって、ハデで満腹できるほうがいい〜と感じられる向きは非常に多いと聞きます。
気がついた時には、音に対する敏感さを失い、表面的なテクニックばかりに気を取られてしまうようですが、これは付き合ってきたピアノにも責任の多くがあって、個人を責められないものがあるだろうとも思います。

まるで会社のマニュアルを叩き込まれた接客業の人と会話しているようでもあり、一見快適で頼もしく感じることはあっても、むこうはあくまで仕事対応であって、それで心を通わせたいと願うほうが筋違いみたいなもの。
良いピアノは、音が美しいことや、楽器としての機能はむろんですが、加えてよき友人や伴侶といった感じを与えてくれ(ときには拒絶もされ)、奏者の音楽性を育む要素を持っているかどうか、ただ音を出すだけでも喜びや楽しさがあるか、単なる大声でワイワイ盛り上がるだけでなく、しっとりと心に染み渡るように、あるいは澄んだ音でいかに遠くまで響かせられるかなどが大切だとマロニエ君は考えます。

Y社のピアノに日常的に接する人は、弾く人も、先生も、技術者さんさえも、それ以外を受け付けなくなっている場合が珍しくなく、もはやため息しかでません。
これは、一種の隔離社会のようなもの。

日本人はもともと世界的に見ても、珍しいほど繊細な感受性をもった民族だと思いますが、ピアノの音に関してだけはそれがまるで発揮されていないように思います。
それは無機質な楽器に接しすぎたせいで、聞き分けるべき耳や感性が錆びついてしまっているからだと思います。
おっと、気がついたらアップライトもグランドもないお話になってしまっていました。
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Y社のUP

過日の「技術者もいろいろ」「それから」で書かせていただたAさんは、日本のY社のアップライトもお持ちだそうです。
Y社のアップライトの中には、マロニエ君の経験でもキーが軽いというよりむしろペタペタで(すべてとはいいませんが)、タッチ感とかコントロール性に乏しいような個体が多い印象があります。
小さな子供にも弾けるための配慮なのか、電子ピアノから自然に移行できるようになのか、あるいはそれ以外か、その理由は定かではありませんが、あれが標準になると他のピアノを弾くときしんどい思いをするかもしれません。

AさんのところにあるY社のアップライトのタッチがどのようなものかは、マロニエ君は知る由もないけれど、一般論でいえばやはりかなり軽い方なんだろうなあという想像はしてしまいます。
そこへ、普通より重めのタッチのグランドがやってくれば、指のクセはついているし、人間というのはどうしたって相対的なものだから、その差がより衝撃的なものとなるのは避けられないかもしれません。

Aさんによると、Y社のピアノは「音は素敵な音がするけれど、飽きてくる」とあり、この点についてはマロニエ君も同感です。
Y社のピアノは量産品としてはすばらしくよく出来ており、音は滑舌がよく明晰、巻線の音域で意外に独特なクセやトーンはあるけれど、トータルで道具としての出来、とりわけコスパとしてみれば最高ランクの製品としての評価を得るのは異論の余地はないでしょう。

これを支えているのは、なにより工作精度の高さと、作りの正確さによる恩恵だろうと思います。
大量生産にもかかわらず、ピアノのアクションを構成するパーツ類の精度の高さはトップクラスと言っても過言ではないのだそうで、複数の技術者さん達によれば、修理もしやすく、交換の必要な部品など注文して届いたものをポンと取り替えれば終わりだそうで、そんなピアノは後にも先にもY社だけだとか。
通常の外国製のピアノなどは、たとえ高級品でもなにかしらの加工や技が必要らしく、そういうことをひとつをとってもY社のピアノの、修理のことまで考慮して作られた卓越した製品力が窺えます。

さらに、酷使にもへこたれない耐久力、大量生産としては圧倒的な精度、音も繊細ではないけれどバンバン良く鳴り、パワー(と感じるようなもの)もあって弾く人をそこそこ満足させる要素を持っているのが特徴。
車でいうとトヨタに匹敵する信頼性で、アフリカでも中東でも、地の果ての厳寒の地でも、そこを走り回る汚れたRVやトラックには決まってTOYOTAの文字があるように、Y社のピアノは世界のどこに持って行っても、その高いクオリティは賞賛されるに違いないでしょう。

ただ、車でも、電気製品でも、ピアノでそうですが、単なる印象ではありますが、多くの日本製品というのはここで頭打ちという感じがしてなりません。
ある程度の高みに行っていながら、それ以上の領域を突き破って新しい物を作るとか、独自の境地を開拓するとか、そういうことが見受けられない。

コスパは最高でも、それだけでは寂しいものがあります。
デザインもダサいし、モダンな佇まいもないし、ハンディなしに世界と勝負できるものは、ゼロではないかもしれないけれど、殆ど無いようにしか思えません。

マロニエ君はべつに輸入物の崇拝者でもないし、日本人だから日本製品を誇りと喜びをもって使いたいのだけれど、その領域に達する「何か」がないと感じるし、そう感じている人は大勢いらっしゃるのではないかと思います。
日本製品は大衆普及化という意味において、ある時代に多大な貢献をしたと思いますが、なぜか、そこで止まってしまうのは悲しい気分になりますね。
とくにその分野にご近所の大国が日の出の勢いとなった今日、日本のものづくりも根本的な見直しが必要だと思うのですが、すでに出来上がってしまった企業や組織の体質などは、そこにびっしりと利権の果実がぶらさがっていて、動脈硬化して、時宜に応じた変革は難しいのかもしれませんね。

とくにマロニエ君からみて日本製品の悲しい点は「センスがない」ことですね。
情報を寄せ集めてつくった中途半端なものか、たまに大胆なことをしたら、子供っぽいマンガみたいなものになるだけ。
たまにセンスあるものが出てきても、ほとんど企画段階で潰され、否定され、製品化されてきた時にはぶざまでダサダサなものになってしまう、なんとも不思議な文化。

暴論かもしれませんが、これはもしかしたら、日本人の顔立ちや体格にも由来しているのか?と思ったりします。
もし平均身長があと10cm高くて、手足がシャーッと長く、顔が小さい民族なら、作り出される製品の雰囲気も自ずと変わってくるような気がするんですけどね。

あれ…?
Y社のUPピアノの話だったはずが、すっかり脱線してしまいました。
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やわらかさの保持

ピアノの調律をすると、パッと音が明るくなって音粒も上品に整い、あの気持ちの良さはなんとも言えないものです。

しかし、その気持の良さは儚いもので、切り花がしおれるようにしだいに失われていくもの。
どれぐらい保つかは、温湿度管理や、弾き方、弾く時間など様々に左右されるとしても、だんだん崩れていくのは(程度の差こそあれ)ピアノの宿命ですね。

さて、その、ピアノの状態が好ましくなくなってきたと感じる要因は、いろいろあるように思います。
音程やユニゾンが狂ってくるということもあるけれど、意外に要因として大きいのは音質の変化ではないかと思うのです。

弾いていれば弦溝は深くなり、優しげな膜がかかったような音がだんだんはがれて、節度のない、キツい感じになってくると「ああ、調律しなきゃ!」と思うのではないでしょうか。
つまり、音の硬軟が変化することのほうが耳障りとなって、言葉では「調律」というけれど、実際には音のキツさを消す「整音」のほうが心地よさに寄与する部分は大きいのでは?と思ったりするこの頃です。
たとえば、音の固さが不揃いになってしまったピアノに、一切整音はせず、ただ調律だけをやればピッチは整ったとしても、それでどれほど満足が得られるかといえば甚だ疑問です。

で、以前にも少し書いたことがあったように記憶していますが、ハンマー硬化剤の逆の効果がある「軟化剤」というのがあることを聞いたことがあり、これの経験のある技術者さんが「まだ実験段階なのでお客様のピアノではできません」といわれるのを拝み倒して試しにやってみてもらったことがあります。
その経過も含めてのお話ですが、この軟化剤の効果というのは思った以上のものがあり、キンキンしない音の保持力がとても長く続くのです。

かといって、音の腰や輪郭がなくなったりというような弊害もありません。
(むろん、硬化剤と同様、技術者さんの経験に基づいて適正に使用された場合でしょうが)

例えば、音を柔らかくすることは、固くなった弦溝を剥ったりハンマーに針を入れることでもかなり効果はありますが、悲しいかな一時的で、弾いていればしだいに元に戻ってしまいます。
極端な喩えですが、寝る前に枕をほぐしてみても、朝起きた時にはペチャンコになってしまっているようなもの。

もちろん針刺しは、単に音の硬軟だけでなく、ピアノの音に骨格や品位を与えるための奥深い作業で、もちろん同等に論じているわけではないことはしっかりお断りしておきたいのですが、さしあたり、表面的な意味でのやわらかな音の保持という点だけでいうと、軟化剤による持続性にはかないません。

ひとことで言うなら、洗濯に使う柔軟剤と同じようなものと思えばいいようで、出来上がりはふっくら優しく、しかもそれは一晩で元に戻ることない、あれです。

この軟化剤のお陰で、次の調律まで抱く不満が格段に減じられることは驚くに値するものだと思いました。
次回調律までのスパンが半年なり1年だとして、針刺しだけでは、すぐに硬化してくるはずの音が、数ヶ月間続くのですから、これをどう見るのかはピアノの所有者の価値観しだいだろうと思います。

仮に年に1回の調律として、その大半が音質の乱れがきわめて少なくて済み、気持ちよく弾ける時間が圧倒的に長く保てるのなら、こちらのほうがいいと思わる方は多いのではないかと思います。
もちろん、高級ピアノやコンサートグランドでは軽々にそういうこともできませんが、家庭で普通に使うピアノにはかなりの威力があり、音が気になって調律をせき立てられる要素が激減すると思います。

ただ、ピアノによって(メーカーによって)は軟化剤の効果を得にくいものもあるようで、メーカー名は申しませんが、そういうハンマーはよほど質が悪いか、製造時から意図的にガチガチにされているんでしょうね。
どれを弾いても、キツい音がするのも頷けるというものです。

いずれにしろキンキン音はいけません。
それだけで耳が疲れて楽しくなくなります。
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若林顕

若林顕さんの演奏をクラシック倶楽部で視聴しました。
とても良かった。

昨年2020年11月、武蔵野市民文化会館大ホールで収録されたもの(おそらく無人)で、曲目はラフマニノフの楽興の時 op.61-1と4、それにショパンの24のプレリュード。

若林さんというピアニストは、もちろん以前からお名前は知っているし、あの特徴的なヘアースタイルは藤井一興さんと並んでなかなか強い印象を残します。
その実演には一度も接したことはないものの、どちらかというと冒険を排したキチッとしたもので、いかにもあの時代の芸大出身のピアニストという印象があったぐらいで、個人的にはさほど注目の対象ではありませんでした。

たぶんCDも1枚あるかないかで、それがなんだったかも思い出せません。
記憶にあるのは、もっとお若いころ、ピアノ以外で好きなことは?という雑誌での質問に「友人とプロレス観戦に行くこと」という答えが、妙におかしいような気がしたことぐらいでした。

さて今回の演奏ですが、はじめのラフマニノフからしてオッと思わせるものがありました。
今どきの基準から言えば、指さばきがとくだん鮮やかというわけでもなく、淡々とピアノに向かっておられますが、いま聴いてみればそれなりの味はあり、なにより落ち着いた風格みたいなものが漂っていて、そういうことはすぐにこちらに伝わってくるので聴く方も少しもセカセカした気にならずに済むし、ラフマニノフを丁寧に克明に描き出していました。

若い人のように、やたらスイスイ回る指先だけで薄い演奏をするのとは違って、その演奏には滋味があり、人間の大人の自然な存在感と呼吸があって、だから曲の言わんとするところがスッと入ってくるような演奏でした。

もっとラフマニノフが聴きたいと思ったけれど、ショパンになりました。
この方はもともとショパンという雰囲気ではないようなイメージでしたが、やはりこの人のお人柄から来るものか、自然で安定して聴いていられる演奏が続き、尖った何かで惹きつけられるタイプではないけれども、肩肘張らず違和感もなく聴き続けていられるので、あらためて聴く気になれないほど耳タコになってしまった24のプレリュードを、新鮮な気分でじっくりと聴かせてもらうことができました。

全体の曲調としては、マロニエ君の印象としてはポリーニのそれが解釈のベースになっている感じがして、「ああ、あの時代を過ごしてきた人なんだなぁ」と思いました。
むろん若林さんならではの感じ方や捉え方というものがより前にあるから、自分の演奏になっているし、この方らしいオーソドックスな方向で、他と争わない心地よさが支配していましたが、それでもポリーニの作ったフォルムがこの人の深いところに沈んでいるようには思いました。
むろんポリーニのようにメカニカルではなく、ずっと柔らかでショパンを感じさせる演奏でしたが。

感心すべきは、決して楽譜を疎かにはしていないけれど、聴かせるためのメロディや要点要所がくっきりしており、正しい句読点のついた心地よい朗読のようであり、そこがベテランならではの懐の深い聴かせどころなんでしょう。
さらに要所では低音をしっかりと力強く鳴らすあたりは、聴く側にとっても納得感とメリハリがついて心地よく、どこか懐かしくもあり、こういうものは無くなってみて初めて気づく隠し味みたいなもので、楽譜に書いてあることでもなく、今の若手にはつくづくない部分だなぁと感じるところでもありました。
若い世代は本当にお上手だけれど、楽譜をスキャンして音にしているだけみたい、作品の中のここが好きだとかここに思い入れがあるという箇所が少しも感じられず、曲が耳を素通りしていくようで深い満足が得られません。

ついでながら、このときのピアノもマロニエ君の好みでした。
弾き方もあるのかもしれないし、調律にあたった技術者さんが素晴らしかったのかもしれないけれど、全体は柔らかいのに、中音から次高音はなまめかしく、低音は震えるような迫力で鳴り響く、どちらかというと1970年代までのスタインウェイを思い起こさせるようでした。
もちろん、そんな古い年代のピアノではありませんでしたが、新しめのものでもこういう個体があるのか!と思わせる雰囲気がありました。
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それから

Aさんのピアノですが、漱石の小説のタイトルみたいですが「それから」どうなったか。

素晴らしい技術者の方のご登場と尽力によって、見事に整い、鍵盤もぜんぜん軽くなって弾きやすくなったとのことで、こちらも胸をなでおろしました。

ご報告によると、実に9時間に及ぶ作業だったようで、ハンマーの弦合わせからピンの磨きなど、大半は基本に沿った点検や調整にじっくり取り組まれたようです。
本来なら新品なのだから、これらは出荷調整でなされるべきことで、それをお客さんや技術者が別途にやらなくてはいけないというのが間違っていると思いますが、それが悲しいかなここ最近の趨勢のようです。

「鍵盤に指を置いたときの頑なな衝撃に近い重さがなくなった」とのことで、これは鍵盤が下に降りる初期の動き出しが特に渋かったのだろうと思われ、こういうのは弾きにくさの典型ですね。
やはりメーカーもしくは販売店の責任として、せっかく高いお金を出して購入したお客さんを失望させることのないよう、最低限の仕事はやるべきではないかと思いますし、それが製造者・販売者たるものの良心だと思うんですけどね。
とりわけ日本はそういう部分のクオリティの優秀さが世界に認められた国だった筈だと思うのですが、それはもはや過去の話ということでしょうか?

ただ、弾きにくさもこの日を境に終わったようです。
「もう(弾くのを)止めようと思ってフタをしても、また弾きたくて、音色が聞きたくなるピアノへと変貌した」とのことで、こういう話を聞くと、その変化の様子と喜びが伝わってくるようで、人ごとながら嬉しくなります。

さらにAさんは、なかなか表現力に長けたお方のようで、タッチだけでなく、音の変化についても報告してくださいました。
マロニエ君が要約させていただきますと、
「ベヒシュタイン風の太い鳴りが、スマートな都会的な鳴りになって驚いている」
「田舎者がニューヨークに出て美容室に行ったら、今流行りのスタインウェイカットにしてもらった」
というような響きになっているとのこと。
さらに「(前回の)調律では、こんな垢抜け感、全くありませんでした」と続きます。

Aさんは、本当にピアノの良し悪しがわかるお方で、なんと適確な表現かと感心しました。
そして、すぐれた技術者さんのお仕事って、こういうことなんですよね。

多くの日本のピアノは、ベチャッとして、日本のどこにでもある街並みを思わせるような音がするものですが、それはピアノの個性とばかりは言えないものがあるらしいことは以前から感じていました。
日本人の平均的な調律師さんが調律(もしくは整音)をされると、音程などはキチンと合わせられますが、音色や響きといった部分は、鉢が大きく背の低い、いわゆる日本人体型になる場合が多く、一部の優秀な技術者さん達だけがそこを抜けだして、のびやかな美しい骨格をもつダンサーのような音になるもの。

これは、技術の問題というより音に対する感性の問題ではないかと思います。
これまでにどういうピアノに接してこられたか、どういう環境で修行をされたか、どれだけ一流の音と演奏に関心をもっているか、それを汲み取り手掛けるピアノにどこまで反映させる能力があるか、そこに尽きるのではないか。
このあたりは、やはり依頼してみないとわからないことなので、そこに調律師さん選びというのがピアノを弾く側のやっかいな問題があるように思います。

そういう意味でも、この技術者さんはとてもセンスのある方だったんでしょうね。

加えて、とてもお人柄も素晴らしい方だったそうで、そういう方と出会えたことにも喜んでおられましたが、もし、前回書いた某技術者に依頼された場合のことを考えると、すべてが逆だっただろうと思われてゾッとします。

マロニエ君の印象としては、後ろ盾のないフリーの技術者さんは、自身の腕と評判のみで勝負されており、プライドをもってお仕事される方が多いように思います(もちろんそうでない場合もありますが)。
個別の案件に対して、どこまでやるか、どれだけ手間と時間をかけるか、依頼者と自分だけで自由に決められるのも強みですね。
いっぽうメーカーや販売店に属する技術者は、あくまで会社の方針に沿って仕事をせざるを得ず、よほど理解ある会社なら別ですが、多くの場合、時間のかかる面倒な作業はできないなど、あれこれの制約に縛られておられるというような話も耳にします。

というわけで玉石混交、判断の難しい世界であることは間違いないようです。
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技術者もいろいろ

長年こんなブログをやっていると、思いがけないメールを頂くことがあります。
ピアノ購入にまつわるお悩みや、何らかのアドバイスを求める内容だったりといろいろですが、もとよりマロニエ君は一介のアマチュアに過ぎず、まともにお答えするような資格もなければ責任ももてません。

また、ピアノには好みや主観が介在する部分も少なくないので、一概にこれが正しいとは言いかねることも多く、答えも一つでないことがたくさんあります(もちろん明らかに☓ということはありますが)。
例えば、猛練習に耐えて音大受験やコンクールに出る人が必要とするピアノと、趣味で好きな音楽を奏でてその音色を楽しみ心の癒やしにしたいというような人では、ピアノに対する要求やイメージも違うでしょう。
なので、あくまでも「自分だったらどうするか」というレベルで雑談的に返信させていただくだけですが、それでもご参考の一助になれば幸いと思っています。

そんな中で、最近ちょっと驚くような事があったので、ご当人の了解を得て少しご紹介。
その方のことをAさんとしておきます。
Aさんは某メーカーのグランドピアノを新品で購入され、その音にはとても満足されているものの、タッチが重くて弾きにくいのでこれをなんとかしたいというご相談のメールでした。

マロニエ君は約2年ほど前、それとまったく同じモデルの新品に触れる機会がありましたが、たしかにタッチは重くしかも雑で、ほどなく納品するというのに驚いたのですが、さらにその数カ月後、とある地方のピアノ店でまたしても同じモデル(こちらも新品)がありましたが、これが同じピアノとは俄には信じられないほどしなやかで上質なタッチで、音は腰がすわりビシッとキマっていて、こんなこともあるのかと二度びっくりでした。
この差は、志ある技術者さんによる高度な調整の賜物であることは明白で、ピアノを生かすも殺すも調整しだい技術者しだいということを痛感させられました。

で、返信内容としては、いきなり鉛調整ではなく、まずは信頼できる技術者さんによって入念な点検と調整をやってみて、それでもダメでやむを得ない場合は、鉛調整などの段階に進まれるのがいいのでは?と書きました。

ところが、Aさんもいろいろ調べておられたようで、ある技術者のサイトに辿り着かれ、そこに書かれたタッチ改善策に強く興味を示されたようでした。
その内容と地域などから、もしや某氏では?というのが頭をかすめたのでAさんに尋ねてみると、やはりそうでした。
(マロニエ君はエリアも違いますが、知人が一度依頼しており、印象はすこぶる芳しくないもので、具体的なことは避けますが「二度と頼まない!」ということでした)

某氏への依頼は止したほうがいいのでは?と伝えましたが、サイト内で展開されるその尤もらしい記述にかなり期待をされておられるご様子で、こちらの助言もはじめはなかなか届きませんでした。
その後の報告で、なにより驚いたのはその費用で、タッチ調整だけで、中古の安いアップライトが一台買えそうなすさまじい金額に唖然とさせられ、しかもそれはAさんのピアノを一度も見ることも触ることもせずに伝えられたようです。

その後、Aさんが質問などのメールをされると、今度は逆ギレのような攻撃的な長文メールが送られてくる始末で、そこに書かれているのは、Aさんのピアノに対する誤認をさんざんなじったあげく、自分の書いた文章を10回は繰り返して熟読しろと記されていたのは我が目を疑いました。

これは関東地区での話ですが、この競争社会の中ではときどきある悪しきパターンのような気も。
一方的な主張を展開し、自分はプライドの高い本物の職人で、徹底して強気に出ることは自信の裏付けがあるかのごとく振る舞い、ともすれば埋もれがちな大都会で生き抜く手段として棲息するタイプ。
まるでドラマにでも出てきそうな気難しい職人気質…の模倣ですね。
でも、模倣は模倣ゆえ、ともすればやり過ぎるもので、どんどん過激になっていく。

気に入らない客には「帰れ!」と怒鳴る頑固オヤジのラーメン屋でもあるまいに…と言いたいところですが、ラーメンならせいぜい千円かそこらでしょうけど、この場合はその何百倍の値段ですから笑って済ませるわけにもいきません。

そもそもマロニエ君の見るところでは、どんな世界でも、自信がある人ほど穏やかで幅があり、それのない人に限っていたずらに強気の態度に出るもの。ピアノの技術者の方でも一流になればなるほど、おだやかで、謙虚で、お人柄もよく、相手の要望にもしっかり耳を傾けながら素晴らしい仕事をされるもの。
むろん法外な請求などもありません。

請求といえば極め付きは、一方的に○日○曜日までと期限を切って、それを過ぎてキャンセルした場合、全額の70%を請求するというものでした。その理由は、そのために空けておいたスケジュールに穴が開くというのが言い分らしいのですが、これはたった数日間の話で、そもそも何も予定などなかったとしか思えません。

結局Aさんは、先述のピアノ店に連絡された結果、出張ができない代わりに信頼できる技術者さんを紹介されたとかで、某氏のほうは「期限」の直前でキャンセルされたそうで、マロニエ君としても安心しました。

近年、ピアノの出荷調整が著しく省略されている由で、少しでもいいものを届けようという志を失い、ひたすらコストのことしか考えないメーカーの方針もまた、このような悪辣なビジネスを生み出す要因にもなっているような気がします。

ピアノに限らず、やたら高額な費用や一方的な主張を押し付けてくるのは、まず怪しいと思っておいたほうがいいようです。
くれぐれもご注意ください!
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仕上げる価値

マロニエ君がピアノを弾くのは、いうまでもなく自分の楽しみのためであり、発表会に代表される人前演奏にも一切参加しないので、これといって目標や義務のたぐいも一切なく、もっぱら気持ちの赴くままにピアノに触れているだけです。

むかし、ピアノ弾き合いを目的としたサークルに参加していた頃は、毎月何らかの曲をひとつ仕上げて人前で演奏するというサイクルの中に入ったことで、その数年間は自分なりにそこそこ練習したことを覚えています。
とくに、この手のアマチュアサークルでは、毎月毎回、同じ人が同じ曲を弾くということが常態化しており、これは率直に言って聴く側にとっても倦怠を誘い、いかがなものかという印象があったので、せめて自分は同じ曲は弾かないという目標を定め、マイルールとしました。

そうなると、必然的に練習も必要となり、むかし弾いたことのある曲でも人前で演奏するとなれば、やはりはじめから終わりまで問題を洗い出し、修正と練習を加える必要があるし、新曲ともなるとそれはもう自分なりにかなり追い込まれて練習したものです。

でも、やはり自分には人前演奏は根本的に合わないということを悟るに至って退会、以前ののんべんだらりとした世界に舞い戻ってきたわけです。

それでも、今は、いかに自分個人の自由な楽しみとはいえ、手を付けた以上はある程度は仕上げたいと思うようになり、なんでも遊びで譜面を追い弾き散らすだけではピアノにも、作品にも、そして自分にもマズいだろうと思うようになり、去年あたりからはそれなりに「仕上げる」ということを目標とするよう進歩(?)しました。

で、具体的な曲名はあまり明かしたくはないのだけれど、いい曲やりたい曲はいくらでもある中で、自然に吸い寄せられるように楽譜を広げてしまうのは、ショパンのマズルカです。
ショパンのマズルカは50数曲、短い断片に近いようなものから、数ページにおよぶ大曲まであって、マズルカ以外の有名曲が遥か及ばないような深い芸術性を有するものがいくつも存在します。

これまでにも結構やったつもりですが、ちょっと思いつきで弾くには難しくて避けていたものの、やはりそうもいかなくなったのが有名なop.59の3曲。
ショパンコンクールでも昔からよく弾かれる、マズルカのひとつの頂点とでもいうべき作品で、弾き手のいろいろなものが試される難曲です。

はじめはop.59-1 a-mollだけやってみることにしたのですが、これが聴くと弾くとでは大違いで、譜読みの段階からウンザリして、以前、何度も初見で弾いてみてビビってやめたことを思い出しましたが、今回はそこを乗り越えてみようという気分が珍しく湧きました。
それはいいけれど、表向きa-mollなんていったって、それはごくはじめのうちだけ、あっという間に際限のない転調ワールドに突入、途中で迷子になるがごとく、今自分が何調で弾いているのさえわからなくなるような感覚。
途中も後期作品特有の多声部的な作りになっており、暗譜なんてとても無理だと思うし、本来なら途中で投げ出すところですが、今回ばかりは意地になって続けた結果、まあまあ曲がましく聞こえるようになるまでになりました。

でも、欲というのは出てくるもので、ひとつがそれなりにまとまってくると、その次にあるop.59-2 As-durにも目移りし出しますが、op.59-1に取り組んだ後は少しは弾きやすいような感じがして、しばらくこの2曲をさらっていました。
するとさらに欲が出るのか、長いこと我が耳はop.59のマズルカといえば、ほとんどを3曲続けるのが自然と言わんばかりに聴い込んできているので、ついにop.59-3 fis-mollにも手を出し始める羽目に!

ところが、これがマズルカにしては最長レベルの5ページもある上に、難しさでも一番の難物で、指さえシャッシャと動くならバラードの3番などのほうがよほど弾きやすいような気がしなくもないほど。
その点でいうと英雄ポロネーズなんて、筋力とスタミナさえあればずいぶん単純。

本当なら、マロニエ君のような怠け者はop.59-3なんてまず手を付けないのだけれど、3曲がセットという固定されたイメージがあるものだから、とうとうこれにも突入してしまって頑張っております。
おかしいのは、単独でもマロニエ君レベルにとってはじゅうぶん難しいop.59-2は、1と3に挟まれるかたちで、いつの間にかそれなりに弾けるようになってしまい、たまには必死な練習も無意味じゃないなぁ…と思ったところです。

この3曲が、ササッと弾けるようになればいいなぁ…。
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清水和音

クラシック倶楽部で清水和音さんのピアノが放映されました。
今年の9月、NHKホールで収録されたものらしく、おそらく無観客で収録されたもののように感じました。

曲目はシューマン/子供の情景、ショパン/バラード第4番、リスト/ペトラルカのソネット第1曲、ベートーヴェン/ソナタ第30番。

非常に上手い人だけど、昔からマロニエ君にとっては好みのタイプではなく、その演奏を聴くのは実に久しぶりでしたが、良くも悪くもこの人らしい健在ぶりを確認できるものでした。
和音さんの演奏を視聴するたびに呆れるのは、その手の動き。
世界中さがしても、彼ほど指の動きが必要最小限で事足りて、本当にこれで弾けるのか?というようなわずかな動きしかないのは呆れるばかりで、ビジュアルとしてはまったく見ごたえがない(逆にあるけれど)ばかり。にもかかわらずあれだけ充実した響きが出せるのは、よほど手の重みや筋肉が特別のものなのか、格別な奏法なのかそのあたりは謎ですね。

最近の若いピアニストたちが、今どきのお手軽なイケメンみたいに、軽くて薄めの音で、さらさらとなんでも弾きこなすのを聞いていると、まるで大手のインテリアチェーン店の商品を見ているようで、なんとも言い難いような気分になるばかりですが、和音さんのピアノはそれとはまったく逆の、良い意味で昔風の分厚い上質なカーペットのようで、この点は旧世代の重みを感じます。

最新の新しいピアノでも、あれだけ厚みのある美しい音を引き出せるのは素直に大したものだと思うし、近ごろはなにかにつけコストダウンされた楽器のせいにしていた事も多かったけれど、とはいえ、やはり弾き手・弾き方によってかなり変わってくる面も大きいということもわかりました。
さらに付け加えると、和音さんの音は柔らかで美しく、それでいていざとなればパワーもあれば明晰でもあるのに、いかなる場合も決してピアノを叫ばせないのは大したものだと思うし、この点は立派だと思いました。

ピアノを弾く技術に関しては、この人には天から授かったものが備わっているように思います。

さて、ここからは少々不満ですが、それだけの素晴らしい技術的な資質を備えていながら、聴いていてちっとも楽しくない点も清水和音さんって、相変わらずだと思いました。
とくにそれを痛切に感じたのは子供の情景で、美しい絵本か詩集のようなこの曲集を、ただ次から次へと楽譜の棒読みのように工夫なく演奏されてしまうのはやりきれなさがあり、ただシューマンのピアノ曲のひとつを自分流に弾いて通り過ぎただけという印象。

その点では、以降の3曲は高度な技巧を要する曲で、中でもショパンのバラード4番は、あれだけの演奏至難な曲を、なんら困難も破綻も感じさせないまま、当たり前のように弾けてしまうのは、それはそれで聴くに値するものでした。とくに後半部分もさあ難所が来たぞという構えもなく、整然と見事に終結してしまうところはさすがというほかありません。
まさにプロの演奏としての商品価値があるといった趣ですが、しかし音楽には必須であるはずの即興性とか味わいは個人的にはまったく感じません。
ペトラルカのソネットはもう少し情感が前に出てもいいかと思いますが、そうではないぶん端正な演奏でした。

最後のベートーヴェンは、この曲では叙情的なようでいて、どこか不安定な演奏が多い中、まったくぶれない腰の座った確かさが光り、長い第3楽章が佳境に入っても演奏は一貫して乱れず、お見事というものでした。

ただ、やはりこの人は徹頭徹尾技術の人であるという印象が拭えず、どんな曲でも間違いなく安定して弾いてくれるであろう頼もしさがある反面、曲が内包する高揚とか慰めとか問に対する答え、山場へ向かって迫るといったドラマがなく、どこまでも技術によってまとめ上げられた音楽に聴こえてしまいます。
これが、この人なりの考えの結果かもしれないけれど、聴いていてどうしても心情を託せないもどかしさが常につきまとってきます。
「楽譜にすべてが書いてある」がこの方の口癖で、いかにも尤もなようですがマロニエ君はそれには疑問を感じます。

楽譜にすべてが書いてあるのなら、もはやAIにまかせてもいいことになるでしょうけれど、マロニエ君としてはあくまで作品があり、その上に演奏者の芸術性が介在することで、ようやく音楽は成り立つものだと思いたいのです。
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心地よい音

真夜中3時頃のNHK総合では、映像とBGMだけが流れることあり、ヨーロッパの街並みだったり、ロワールのお城だったり、どこかの美しい景色だったり。
そのなかに映像詩『やまとの季節 七十二候』というのがあって、ゆったりとしたピアノの演奏とともに、リラクゼーション的な映像が流されているのを何度か目にしました。

ときどき演奏シーンが映りますが、ここで使われているピアノはどこにあるもので、どういう経緯でこのピアノなのかは知らないけれど、それは見るからにたいそう古い、外観のデザインも違う古色蒼然たるスタイルの19世紀のものでは?と思うようなスタインウェイでした。

かなり古いことは確かですがが、これがなかなか美しい艶っぽい音なのには「へえ」と思いました。
昔のピアノの音の美しさというのは、言葉でうまく表現できませんが、そもそも根本からして違う感じがあり、過度な洗練を加えられることのない素朴な艶と美しさを感じます。

むろん、古いピアノならなんでも良くて新しいピアノはすべてダメと言うつもりはないし、そもそもマロニエ君に懐古趣味はないことをしっかりお断りした上で、先入観なしに耳に入ってくる音として、美しいものは美しいという、ただそれだけの話。

古いピアノって、周りの空気をふわっと動かすような独特の鳴り方があって、そこに温かみがあってやわらかい。自然で正味のもので、それゆえ気持ちに理屈でなしに入ってくる「何か」をもっているように思います。
何が理由でそうなるのかはわかりませんが、まるで大自然の法則に適っているような心地よさを感じます。

昔のピアノは、木材やフェルトなど天然素材の質、あるいは自然乾燥など手間(すなわち人件費)のかけ方が格段に違うなどと言われているのはいまさらですが、ハンマーなどは消耗すれば交換もされるだろうし、それ以外にもなにか根本的な違いがあるんだろうと思います。

たとえばイメージするのは、熟練の技と勘など、創り手の技や熱意など、今では望み得ないものが詰まっているいるのではないかと思います。
こういうことをいうと、理論家の方は「そんなあやふやで根拠の無いものを良しとするのはナンセンス」、ピアノ作りには客観的に機械が勝るところも多いのも事実で、美化された理想と根性論のようなものだけではいいものはできないと言われる方も実際におられます。
たしかにそれも一理あるでしょうけど、マロニエ君は楽器作りにおいては、すべてがそうとも思えず、良い楽器になるために随所に込められた熟練者の勘や技が積み上がって到達する、摩訶不思議な領域というものは「ある」と思います。

現代のピアノは、上質の天然素材が自由に使えないだけでなく、効率重視によって直接音とは関係のないとされる部分には、人工の、あるいは人工に近いような部材が容赦なく使われているらしく、さらにハイテクによって量産家具のように寸分の狂いなく正確に組み上げられていくので、きれいだけど楽器としては失うものも少なくないはず。
たとえ人の手に委ねる部分があるにしても、それはごく一部の作業員(職人ではなく)の機械的な手作業であって、全体を統括するものはあくまでもハイテク。

あらゆる設計/製造の技術で言えば、昔とは比較するのも愚かしいほど進歩しているけれど、その技術が良いことにだけ使われているかといえばとんでもないことで、大半はコストダウンのためのごまかしなど、使う人のことを置き去りにした効率術にこそバンバン活かされ、表面だけ尤もらしくきれいに整えた製品であるのが大半です。

そんなご時世に、ピアノだけが例外であるわけがない。
一点の曇りもキズもない塗装、無機質なほど完璧に整った大小さまざまなパーツ、機械化によって成し遂げられた均一な組み上げ術、一説によると整音まで機械がやっているそうで、これで宣伝文句だけはやれ無限の表現性だの人の心だ感銘だと美辞麗句が踊っても、そうはならないのが当たり前。

一見きれいなようでも、つまるところは液晶画面のような無機質な音にも、それは出ていますね。
現代のピアノはいかにも音やタッチが揃って、さも尤もらしくしていますが、やっぱり楽器というよりは装置という感じです。
そういう音に慣らされた耳でも、やっぱり本物の音を聞くと、とても懐かしいような、ホッとするような、それでいてとても新鮮な心地になります。
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ラジオ

普段、家でラジオを聞くことはなく、自宅にはその装置さえありません。
べつに特別な理由はないのだけれど、昔からラジオを聞くという習慣が、なぜか身につかなかったからだと思います。

したがって、ラジオを耳にするのは車の中でCDにちょっと飽きたとき、ちょっとスイッチを入れてみるぐらいで、まれに気分を変えてNHK-FMのクラシックは聴くことがある…という程度です。

いつだったか番組名もわからないけれど、夜、なにげなくラジオに切り替えたらミケランジェリの特集のようなものが放送されており、途中から目的地に着くまでの30分ぐらい聴きました。
なぜかマロニエ君は、昔からミケランジェリはとてつもないピアニストだとは思うものの、まるで荘重なフレスコ画でも見ているみたいだし、不気味なほどひんやりした感じがして、好みから云うと進んで聴きたい人ではありませんでした。
一度だけ、実演を聴くチャンスがあったのですが、会場のNHKホールに行くと、妙に閑散としてなんだかあたりの様子がおかしく、入口近くに立てかけられた小さな掲示板に目をやると、今日の演奏会は本人の体調不良でキャンセルになった由の文字が並んでました。

いくら好みのピアニストではないとはいえ、やはりあれほどの世紀のピアニストです。
ついにその生演奏に接するという高ぶる期待で出かけて行ったらキャンセルで、ホールの建物にも入ることなくすごすごと引き返す時のあのやりきれない気持は今もって忘れられません。
当日、NHKのラジオではキャンセルの告知をしていたそうですが、もちろん知らずに会場まで行ったのでした。
表向き体調不良というようなことが書かれていても、ミケランジェリの場合、到底それを鵜呑みにする気にはなれませんでした。
楽器の問題か、あるいは、演奏会をやるような気分にはなれなかったという、そういったことだろうと思ったし、この人の演奏会に足を運ぶ以上、キャンセルのリスクは覚悟すべきだと承知ではあったけれど、いざ自分がその状況に立たされると、やっぱりやるせないような、行き場のない感情がふつふつと湧き上がってきたことも覚えています。

ずいぶん後になって知ったところでは、やはり楽器の問題だったらしいというようなことが音楽雑誌に書かれており、その尋常ならざるこだわりがミケランジェリのピアノ芸術を成立させているわけでもあるけれど、同時に彼ほどのピアニストなら、それなりの素晴らしい楽器と技術者が揃っていたことは疑いようもなく、それでも何かが気に入らずにキャンセルするということに、ある種の凄みと、バカバカしさみたいなものとが、コインの裏表みたいに感じたものです。

冒頭のラジオに話を戻すと、ミケランジェリの演奏で残っている音源にはやけに古いものや放送録音の類など、録音条件がきわめてバラバラで、出自の怪しい、聞くに堪えないようなものも数多くある印象ですが、まれに鮮明で良好な音として捉えられたものもあったりして、このとき流されたチェリビダッケとの共演でベートーヴェンの皇帝の第一楽章は、それはもうゾクッとくるようなものでした。

1969年の北欧での演奏か何かですが、演奏もさることながら、驚いたのはピアノの音。
美しい鐘の音のように鳴り響く低音、中音以上はやわらかで明晰、太字の万年筆のような優美さがあり、後年のスタインウェイのように痩せて肉の薄いキラキラ音で聴かせるものとはまるで異なる世界。
おそらくは戦後のハンブルクスタインウェイの黄金時代の楽器で、そこにさらにミケランジェリのような狂気的なこだわりが加味されると、こういう音になるんだと思いました。

ふと思ったのは、ファツィオリの目指している音ってこういうものじゃないか?…ということ。
ただし、やっぱりこの時代のスタインウェイは、素材も理念も何もかもが首尾一貫しており、本物だけが有する説得力と孤高の世界がありました。
本当にいいものには有無を言わさぬ、何か圧倒的なものがあるということを認めないわけにはいかないものでした。
この演奏から50年余、音楽を演奏する側、聴く側、いずれも本質においては何一つ進歩していない(むしろ後退)というのが率直なところ。

マロニエ君がミケランジェリを苦手とするのは、楽器そのものがもつ音の温かさと不自然なぐらいの美しさ、それに対して陶器のようにひんやり冷たい血の気のない演奏、その2つの要素の温度差があまりに激しくてついていけず、聴いていてしんどくなるからだと思います。
ちなみにポリーニは、とくに絶頂期のそれは専ら男性的なテクニックの濫費に身を委ねていれば満腹できるので、鑑賞の楽しみとしてはずっと楽ですね。
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演奏環境

最近しきりに思うこと。
それは、クラシックのコンサートというのはオーケストラのような規模は別として、ソロから室内楽ぐらいまでの規模の演奏会をホールでやるということに、漠然とした疑問というか、違和感みたいなものを感じはじめるようになりました。

もしマロニエ君が全て自由にやれるとしたら、どっちにしろクラシックは大勢の人がこぞってやってくるようなジャンルではないのだから、少なくとも器楽の演奏会はホールを抜けだして、19世紀のスタイルに回帰してもいいのではないかと妄想してみたりしています。

ショパンの時代のように、広さはよくわからないけれどもサロンがあって、ピアノがあって、そこを来場者は適当に椅子をおいて、演奏者をゆるやかに取り囲むようにして演奏を聴く、こういうスタイルに憧れます。

できれば椅子も疲れない、肘掛けがあるような少しまともなものがいいし、それを真珠のネックレスみたいにきれいに並べるのではなく、ある程度ランダムに置いて、微調整は各人がやるぐらいの「ゆるさ」があるとどんなにいいかと思います。
人数も、100人からせいぜい200人程度といった数でいいのでは?

マロニエ君が嫌なのは、多くのホールは左右がくっついたシートに押し込められ、他人と肩を寄せ合うようにして着座し、肘掛けさえ一本をさりげなくお隣さんと奪い合うようにして使わざるを得ない、あれ。
おまけに、体中に神経を張り詰め、動きも最小にし、声はおろか咳払いひとつでも遠慮がちにしなくてはならず、暗い周りに対し照明の当たったステージを凝視するのは目が非常に疲れるし、これを事実上2時間つづけるのは、相当の疲労というか、心身ともにストレスまみれになります。

おまけに、肝心の演奏が気にいらなかったり、広すぎる会場と、仕組まれた過度な残響のせいで、音はぼやけて細かいニュアンスなど何も伝わってこない。

それなら、残響などほとんど配慮されていなかった昔の多目的ホールのほうがよほどマシな場合は少なくなく、そんな環境で、テクニックにしか興味のないようなピアニストのドライな演奏を聴かされても、当然のように「音楽の喜び」とは程遠いものになるのは必定です。

ピアニストがこういう演奏になるのにはさまざまな要因があり、テクニックという能力の競争、時代の空気、コンクール中心の価値観、聴衆の質の低下など、色いろあるとは思いますが、そのひとつとしてこのようなホール環境もあるのではないかと思います。

広すぎる空間、高いステージの上で照明を当てられての演奏は、聴衆とのコンタクトというよりは、孤独な晒し者という要因のほうが強く、そんな中で、深い愛情や味わいや芸術性を最優先した演奏など、できなくて当たり前という気がします。
聴衆も大事な点はわからないのに、ミスタッチだけはチェックされるとあっては、無味乾燥な印刷みたいな演奏になるのも、わからなくはありません。

というわけで、もっと小さな会場での親密さのある演奏環境が整えば、弾くほうも聴くほうも、はるかに質の高い幸福なものになるようなきがするのですが、それはマロニエ君の幻想でしょうか?
「いい演奏は聴衆が育てるもの」という言葉がむかしあったけれど、それは今も変わらないと思うし、演奏環境も同じじゃないかと思うこの頃です。
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大事なことは…

以前にも似たようなことを書いた覚えがあるので、重複するところはご勘弁を。
ピアノ購入者の中にはびこる「グランド信仰」というのは、相当に根強いものがあります(大人の趣味としてこだわりをもってピアノを買われる方は、ここに書く内容には該当しない人達ですが)。

子供にピアノをやらせている親御さん、音大に行った人とか、先生とか、あるいは技術者であるとか、世間的には「専門家」とされる人達の価値観というのは、ピアノの場合、かなりの固定観念に凝り固まった方が多くおいでのように思います。
それは、ピアノといえばグランドであり、グランドこそがピアノといえるもので、アップライトはまがい物でしょせんは妥協の産物。

置き場の問題と予算さえクリアできるなら、グランドにすべきは当然で、音楽性に乏しい有名量産メーカーのものであれ、まずはグランドか否かが重要、グランドはすべてのアップライトに優るという強烈な思い込み。

「グランドでないと真の上達は見込めない」「試験やコンクールに受からない」とまでされ、そういう人達はどんなに素晴らしいアップライトでも眼中にはなく、グランドでありさえすれば安心されるようです。

彼らの言い分はおおよそ決まっています。
先生はじめ内輪の伝聞によって、一秒間にできる連打の数など構造上の違いがある、早い話がグランドで練習しないと上手くならないというもの。
かくいう人達のほとんどはダブルエスケープメントという言葉すらご存知ないし、そういう人達がグランドのアクションでこそ可能なデリケートな音色の変化やタッチコントロールの妙を追求しているかというと…甚だ疑問に感じます。
さらにアップライトで弾けるのはせいぜい中級曲までで、上を目指すならグランドじゃないと無理というのがほとんど常識となっているのも驚きです。

できることなら、グランドで練習したほうが良いという説を否定しようというつもりはないけれど、美音を生み出すタッチや音楽性には無関心で、ただグランドでガンガン練習さえすれば良い結果が得られるという短絡的な理屈はいかがなものか。
せいぜい言えるのは、たとえばワルトシュタインの冒頭和音のこまやかな連打が、グランドのほうが楽にできるという程度の差でしかなく、弾ける人が弾けば、ショパンのエチュードだって、バラキレフのイスラメイだって、アップライトでも弾けますよ。

あるいは発表会であれコンクールであれ、ホールにあるのは、大抵有名メーカーのフルコンだったりするので、日頃からグランドで練習していないと本番で弾けなくなる!などとまことしやかに言われますが、それをいうならステージ上のコンサートグランドというのは、鍵盤からハンマーまでの長さも違うし、音色、音の出方、ホールの響き方、タッチ、音の放出感やバランスの取り方など、ことごとく違うわけで、それをたかだか家庭用の小型グランドを自宅に備えたからといって、解決するものとも思えないんですけどね。

グランドで育った人とアップライトで育った人とでは、音の出し方がまるで違う!などと尤もらしく言われたりしますが、マロニエ君はまったくそのようには思いません。
それはグランドかアップライトかの差ではなく、音楽的な演奏を目指しているか、美しい音の出せるような鍛錬をしているかどうか、タッチコントロールの必要性を教えてくれる教師か否かの問題のほうがはるかに大きいと思います。

それどころか、だいたいグランドさえ買っておけば安心するような親御さんの子に限って、音色に対する配慮どころか、音量バランスもへったくれもないまま、ただ単調で機械的に、そしてところどころに悪趣味な抑揚をつけて難しい曲を早く弾いたりするだけというのはご存じの方も多いでしょう。わざわざベンツで子供を学校や塾に送り迎えするのと同じとはいいませんが、大事なポイントがいささかズレているようにしか思えません。

思うに最も大事なのは、はっきり言えば価値観や教養など周囲の環境、音楽に対する愛情、美に対する感性、好ましい先生(これが絶滅危惧種並ですが)の指導などであって、それらがバランスよく統合されて育っていれば練習台がアップライトでも云うほどのハンデイがあるとは思いません。
どのみちピアノは持ち歩きはできず、そこにあるさまざまなピアノで弾かざるをえないもの。

昔のロシアのピアニストはところどころ音の出ないような、ピアノとも言えないようなガラクタで練習していたのだし、ダン・タイ・ソンやラファウ・ブレハッチは幼年期からずっとアップライトで育ったそうですが、にもかかわらず両人ともショパン・コンクールの優勝者です。

ちなみに、なにかの本で読んだところではパリの人達は、学習者はもちろん、本物のコンサートピアニストでさえ自宅(大抵はアパルトマン?)ではほとんどがアップライトだそうです。それでも海外からこぞって音楽留学してくるだけの高度な芸術性と演奏家のレベルを維持しているというこの事実ひとつとっても、やみくもにグランドが必要ということは裏付けられているとは思えません。
もちろん買える方は買われたらいいのだけれど、「グランドじゃなきゃダメ!」的な発想は、そこが正にダメだと思うのです。
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アップライトの防音

この数年というもの、マロニエ君がピアノを弾くのは、大半は自室のアップライトになってしまいました。
なぜそうなのか上手く説明はできないけれど、たぶんそのほうが環境その他で気持ちが落ち着くからでしょう。

自分のピアノのことを書くのはあまり気が進まないので、これまでほとんど触れたことはありませんでしたが、昨年、気に入っていたシュベスターを人にお譲りすることになり、ベヒシュタインのMillenium 116Kというやや背の低いアップライトに買い換えました。

このピアノ、その小さめの体軀に似合わず音が凛として、とても良く鳴ります。
「ピアノはグランドが絶対!」と思っているような人に、一石を投じるような意味でもぜひ触れてみて欲しいようなアップライトです。

さて、自室でコソコソ弾くピアノというのは、元気よく鳴ればいいというものでもなく、音量というよりはしっとり美しい音で練習を彩ってほしいものです。
部屋の窓などが防音をしていないこともあり、周囲への音漏れは気になるところなので、そこで思いついたのが自分でできる防音対策で、あれこれ試してみました。

アップライトというのは、大抵の場合、部屋の壁に寄せて置くのが普通ですが、かといってべったり壁にくっつけるわけにもいかないので、我家の場合は壁とピアノの間隔は約7cmほどにしています。

さて、一般にグランドピアノは音が大きく、アップライトはそれよりはずっと控えめと思っておいでの方もいらっしゃるようですが、具体的に音量計で計測したわけではありませんが、実はアップライトも相当の音量があり、グランドに比べて格段に静かとは思いませんし、仮に近隣のご迷惑を考えたら、そこにグランドだアップライトだということより、建物内のどこにピアノがあるかのほうがよほど問題だろうと思います。
そうかといってサイレントシステムなどは絶対に付けたくなく、実は一台サイレント付きのピアノもあるのですが、あれなら弾かなくていいとなってしまいます。

アップライトで最も音が出るのはどこかというと響板がむき出しになっている背面だろうと思います。
ならば、その背面に布地を垂らしてみようと思い立ちました。

まず試してみたのは、綿の粗い生地のテーブルクロス。
これを前屋根(上部の蓋の部分)にひっかけて、そのまま背後へだらんと垂らすというものでしたが、これが意外にも効果があり、あきらかに音が全体にひとまわり静かになりました。

布切れ1枚で、こんなに違いがあるとは思いもしなかったので、これはまず驚きでした。
ならばというわけで、もっと効果のありそうな布はないかとネットで調べた結果、防災用品専門の店に「完全遮光防炎防音遮音暗幕」というのがあり、遮音効果もかなりあって効果的というふれこみだったことと、布幅がいい具合にこちらが必要としているものとほぼ一致していたので、これを注文しました。

届いたのは、布というより「コーヒーをこぼしてもサッとひと拭き」みたいな人工的な素材で、裏には薄くゴムのコーティングのようなものがされており、繊維というより通気性などないシートという感じで重量もそれなりでした。
さっそく前回同様、先端を前屋根の中に差し入れて、残りはうしろに垂らすスタイルで使ってみます。

すると、まあたしかに音はそれなりに小さくなったけれど、遮音効果がある専用品を謳うわりには、前回の綿のテーブルクロスに比べてそれほどでもなく(つまり大差なく)まずこの点で大いにがっかり。

色は黒なので目立たないから見た目もいいから、効果の面では期待ほどはなかったけれどせっかく買ったんだし、しばらくこの状態で使ってみようと思いました。
ところが、それで10分も弾いているとあることに気が付きました。

さほど音量が抑えられたわけでもないのに、音の抜けが悪くなったのか、とりわけ和音などがぐしゃぐしゃした汚い音になりました。
テーブルクロスの時はそんなことはなく、全体の印象はそのまま崩れることなく、バランスよく音がコンパクト化された感じだったのに、この遮音防音シートとやらは、うまく言葉にできませんが、とても気持ちの悪い、早い話が汚い音になりました。
こりゃあダメだと思い、すぐに取り外しました。

その後も、なんか家にあった変なシートのようなものも試したけれど、最初の綿のテーブルクロスが一番よく、もし少し音量を抑えたいという方はぜひお試しを。
背面のどこまで垂らすか、床近くまでか、10cm上げるか20cm上げるかでも音と音量は微妙に変わるので、効果もあるし、楽しいですから、いろいろやってみられるといいかもしれませんよ。
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シュワンダーの真実

あらかた書いて、忘れていた文章がひょっこり出てきました。

今年のはじめ、ヴィンテージピアノの修復家の方にお会いできたので、いろいろとお話を伺いましたが、その中でも長らく完全に勘違いをしていたことがありました。

グランドのアクションについてですが、ウイペンのスプリングにはシングルとダブルがあり、現代のピアノはダブルが主流というのは通説ですね。

シングルのタイプにはそれなりのしっとり感や繊細な表現の可能性があり、バランスよく機能していればこれはこれで好きなのですが、なにぶん調整面の制限があって技術者泣かせのようだし、ハンマー交換などするとその弱点が露わになることも少なくないようです。
それに対して、ダブルスプリングはタッチのある種のデリカシーには乏しかったりすることもあるけれど、個別の調整幅があってキーの戻りなど俊敏性に優れており、機能面では断然こちらのようです。

これについてはマロニエ君もディアパソンを持っていた時代、ハンマー交換後の調整を重ねたもののどうにもうまくいかず、ついにはウイペンをダブルスプリングのタイプに総入替してもらったりと、技術者さんにはずいぶんご苦労をおかけしましたが、おかげでいい経験になりました。

ところで、その名称について。
一般に「シングルスプリングのことをシュワンダー」「ダブルスプリングのことをヘルツ」というのが通称になっており、要するにその名前が即、ウイペンのスプリング形式を表しているという認識でした。

それはマロニエ君のような素人の勝手な思い込みとだけでなく、プロフェッショナルの方もそういう言い方をしばしばされ、一般にはほぼそのように認識されているようです。
試しにネットでそのあたりを検索してみると、技術者のブログなどで、タッチ改善のためにシングルからダブルへとウイペンを交換することを「シュワンダーからヘルツにしました」といったような表現が、複数確認できます。
シュワンダーとヘルツの違いがわかるよう、2つ並べて写真まで添付されていたり。

ところが、この修復家によればそれはまったくの誤りであると、いともあっさり言われました!
シュワンダーとはレンナーとかランガーのように、いわゆるアクションの製造メーカーの名前というにすぎず、シュワンダー→シングルスプリングではないとのこと。
そればかりか、シュワンダーにもダブルスプリングとシングルプリングの両アクションが存在していて、現在もこの方の工房には「シュワンダー製のダブルスプリングのウイペンを搭載したピアノがある」といわれたのには、まさに「ひえ〜!」でした。

また、レンナー・アクションにもシングルスプリング仕様はあったのだそうで、アクションメーカーの名前がスプリング形式の代名詞となるのは、まったくの間違いであるとのこと。
で、ヨーロッパではダブルスプリングのことを「スタインウェイ式」、シングルを「エラール式」と呼んでこれらを区別しているとか。

では、そのスタインウェイ式をヘルツ式というようになったのはなぜなのか?
そこも質問しましたが「それはわからない」とのことで、ネットでも見てみましたが、ヘルツは周波数のことばかりでピアノに関することはついには見つけ出すことができませんでした。
ただ「スタインウェイ式」というからには、昔のスタインウェイ社の誰かが考案したものなんでしょうね。

戦前のベヒシュタインでもダブルスプリング式のピアノがあったそうですが、スタインウェイとの特許かなにかの争いで負けたたため、やむなくシングルに戻ったというような話もありました。
もちろん現代のベヒシュタインはダブルスプリングであるのはいうまでもありませんが、そこに至るにはいろいろな事情や変遷、そして事実誤認があるということですね。

ちなみにシュワンダー(Schwander)は英語読みのようで、フランスではシュヴァンデルというようで、井上さつき著の『ピアノの近代史』(中央公論新社)の中にも、「アルザス出身のジャン・シュヴァンデルはやはりアルザス出身のジョゼフ・エルビュルジュと組み、数々の改良を行い、国際的なアクションメーカーとなった」とあり、1913年には1000名の従業員があり年間10万台のアクションを生産、イギリスやドイツに数多く輸出され、シュヴァンデルのアクションを使っていることはピアノ販売の重要なセールスポイントとなったとも述べられています。

というわけで、今後、シュワンダー/ヘルツという表現は、アクション機構、スプリング形式を示すものではないという認識が必要なようです。
そうかといって、「スタインウェイ式」「エラール式」では日本では違和感もあるでしょうから、せめてダブルスプリング/シングルスプリングというのがいいのかもしれません。
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小菅優

以前のBSプレミシアターでは、ボリショイオペラの公演から、ロシアの最も重いオペラでもある「ボリス・ゴドノフ」が全幕3時間にわたって放映されたところ、その後半は打って変わって「小菅優ピアノリサイタル」という思ってもみない組み合わせでした。

だいたいこのプレミシアターではオーケストラなら、後半も別のオーケストラであったり、バレエはバレエと組み合わされることが多いから、「ボリス・ゴドノフ」と「小菅優ピアノリサイタル」というのは意外な組み合わせで、それにまず驚きました。

とくに日本人ピアニストが、国内で行ったリサイタルがそのままこの番組枠で放映されるというのは、マロニエ君はあまり記憶がありません。
現在日本人で有名なピアニストというと、今どきのいくつかのお定まりの条件を整えた人達が大半で、みなさん技術的には立派に弾かれるけれど、個人的には(非常に残念なことですが)積極的に聴きたいと思うよう方ではありません。

なんといってもその条件の王道はコンクールで、まあこれはオリンピックの金メダリストということ。
ショパン・コンクールの優勝はまだ日本人は取ったことがないけれど、それ以外の著名コンクールでの優勝または上位入賞であること、なんらかのストーリー、あるいは一夜もしくは短期間に記録的なコンサートをして話題作りをする、最近では、タレントとして芸能人たちと肩を並べて手を叩いてキャアキャア言うなど、なんらかの売名もしくは話題作りに成功した人だけがステージチャンスをものにするという、いまさら書くのも飽き飽きした傾向です。

そんな中で小菅優さんが特別なのは、10歳の頃から渡欧し、コンクール歴なしにその実力を認められ今日の地位を得ているというところでしょう。
それだけに本物感があるし、ほかに思い浮かぶのは五嶋みどりとかキーシンでしょうか。

マロニエ君はコンクールをすべて否定するつもりはないし、これはこれである時代に一定の役割は果たしたと思います。
しかし、功罪両面があって、一夜にして楽壇デビューできるというセンセーショナルで魅力的な面はあるけれど、どうしても技術偏重に陥る、どちらかというとスポーツ競技に近いものがある。
それぞれであるはずのものに必ず順位をつける、加点減点対策から個性が抜き取られる、というようなマイナス面も目立ち、コンクールがいくたびも批判にさらされながら、それでも廃れないのは、演奏家を目指す若者にとってはそれが最短コースであるからだろうと思います。

また、コンクールによって、クライバーン、アシュケナージ、ポリーニ、アルゲリッチ、内田光子、ツィメルマンのようなスター級のピアニストが世に送り出されたことも大きかったでしょうね。

とりわけ日本人は、人がなんと言おうと自分は自分、自分の耳目と価値観で判断するということがことのほか苦手だから、コンクールの入賞歴は圧倒的な判断材料になる。


前置きが長くなりましたが、小菅優さんのコンサートは何度か行ったことがありますが、なんといっても音楽中心で、とてもよく準備されており、演奏も迷いがなくハキハキしていて燃焼感もあるし、かといって熱気だけで弾いているのではなく、分析やバランス感覚にもぬかりはない。
細部への気配りやデリカシーも常に機能している。
それから、マロニエ君が素晴らしいと思うのは、多くのピアニストがしないではいられない技術自慢を感じるところがまず無いことでしょうか。

10歳やそこらでリストの超絶技巧練習曲やショパンのエチュードを全曲録音するような人だから、そういう興味も欲望もないまま、音楽に献身できているのかもしれませんが。

近年では、水、火、風、大地をモチーフにした独特なプログラミングでコンサートをしておられますが、これがまたなかなか秀逸な選曲。
多くの場合、チケットを売るために有名曲を中心にしたものか、逆の少数派では演奏家の傲慢とも言えるような作品ばかりを並べてお客さんのことを無視したようなもの、そういうものが多いのに、この小菅さんのシリーズでは、そのバランスもよく、有名曲のあるけれど、そうではないものが過半数で、かならず初めて聴くような作品が随所にあって、これぞ本当に聴き甲斐があります。

小菅優さんの演奏で一つだけ惜しいのは、音にもうひとつ太さと重みがないこと。
体格もしっかりされていて、もっと肉厚な音が出そうなものですが、なぜか軽量で、この点だけは唯一の不満といえます。
音に力(音質やボリュームではなく)がないからか、あれだけ上質な演奏をされているのに、なにかもうひとつ聴く側の耳とか心に受け取って持ち帰るものが実際より軽く終わってしまうようで、これは非常に残念です。

でも、小菅優さんには内田光子に次ぐ、本物の世界的な日本人ピアニストになっていただきたいと思う、マロニエ君からみて唯一の御方です。
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バラエティー

民放TV番組で、以前から何度か目撃したことがありますが、ピアノ経験者の芸能人がスタジオでピアノを弾いてバトルをするという趣向のバラエティーが、季節モノとして定着化しているようですね。

『土曜プレミアム TEPPEN 2020秋 ピアノ絶対女王…』という、すごいタイトルでした。
「TEPPEN」「ピアノ絶対女王」というのが、なにを意味するものかは知らないけれど、つい違和感を感じます。

むろんあれは音楽番組ではなく、ピアノが弾ける芸能人を集めて競わせて順位をつける娯楽番組で、くだらない俳句をどうこう言うようなものと同様で、もとより真面目に視るようなものではないとは思っていますけど。

それは重々わかっていても、ピアノはピアノであり、演奏であり、音楽であるものを「ミス何回で失格」というようなことを堂々とやられると、視聴者の中にも「ピアノはミスなく弾くことが一番大事で、ミスしない人がうまい人!」という認識がTVの強い影響力によって植え付けられ、いつしか本来のコンサートにおいても、同じような尺度で見られてしまうとしたら、一種の危険性を感じてしまいます。

普通のピアノ教師のような人でも、世界的なピアニストのコンサートに行ってさえ、全体の演奏の感想等に触れることのないまま、どこそこでミスしたとか、あそこで音が飛んだとかのアラ探しに熱中あそばし、そういうことを「専門家は気が付きますよ」とか「あの人はさすが、一度もミスをしなかった!」などと自慢気に仰る向きがありますが、これほど恥ずかしい「木を見て森を見ず」式のやりきれないものもありません。
もちろんミスはあるよりないほうがいいけれど、演奏を通じて何をどのように表現したか、美しく感動的に伝えたかということが語られることは、悲しいほど少なかったりします。

まして、TVのゴールデンタイムに、あんなにあからさまにミスの数をカウントして優劣を判じるような番組があるのは、個人的には文化への認識をどんどん押し下げるようなものとしか思えないし、だったら、もっとバカバカしいお笑い番組でもやったほうがどれほどマシかと思います。
しかし、今どきはお笑いであれ芸事であれ、なにかに徹するのではなく、遊びと修練と実力を合体させた半エリート芸のようなものが流行りなのかも。出演者もMC、キャスター、俳優、芸人、なにかの専門家など、すべてがごちゃ混ぜのバラエティーでなくては視聴率がとれないのかもしれません。

日本は何事も先例主義で、ばかばかしい規制だらけ。素晴らしい先進的なものでも認可できない臆病な体質がある反面、文化のような基準のないものに関してはまさに無法地帯、破壊することに何の規制も躊躇もありませんね。


というわけで、マロニエ君はむろん毎回見ることは断じてないし、今回はたまたま目に止まっただけですが、どういうわけかはじめは電子ピアノで演奏、続くフリータイム(だったかな?)というのになると本物のピアノが使われます。

それがまた変わっていて、本物のピアノも前屋根だけを開け、大屋根は閉めた状態という不思議なスタイルでした。
使われるピアノはやはりゴールデンタイムの娯楽番組ということで視聴者への影響力があるのか、メーカー同士の摩擦があるのか、そのあたりの裏事情など知るはずもないけれど、普通、鍵盤蓋にあるべきメーカーロゴは完全に消された無印ピアノでした。

しかも、ボディ全体は1980年代までのスタインウェイのように、つや消し塗装されたコンサートグランドだったことがこの場合いっそう不思議でした。
大屋根を開けるのがピアノの一般的なスタイルであるのに閉めたままで、手元で必ず見えるメーカーロゴを消し、とくに日本製のピアノを馴染みのないつや消し塗装にしてしまうというのは、まるで謎の装甲車のようでした。

でも、そうまでしても、細部の形状等からヤマハのCFIIIもしくはCFIIISであることは明らかでした。
ということは、他メーカーへの配慮、あるいは民放テレビお得意の「自主規制」だったのか、真相はわかりませんが、背後に複雑な事情のあることだけは透けて見えるようでした。

音について。
スマホの画面みたいに、やたらピカピカした音をふりまく近ごろの新世代ピアノとは違い、旧型のCFシリーズが今よりもずっと厚みのある落ち着いた音だったのは印象的でした。
さらに大屋根を開けていないこと、音がまろやかになるといわれるつや消し塗装という条件なども重なっていたのかもしれませんが、ひさびさにピアノらしい音を聴けた感じはありました。
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ベーゼンドルファー280

過日のNHK-Eテレ『クラシック音楽館』では、後半にアンドラーシュ・シフによるベートーヴェンが放映されました。
このコロナの時期、もしや日本においでになるのか、夫人の塩川悠子さんもご一緒でしたが、いかにもNHKのスタジオ収録という感じであったし、新しいベーゼンドルファーを使って「告別」が演奏されました。

ヤマハの子会社となってからのベーゼンドルファーについては賛否さまざまあるようですが、この時のピアノは旧275の後継ともいえる280(うしろにVCというのがつくものもあるようですが、その違いが何であるかはしりません)でしたが、これはこれでとても良いピアノだと思いました。

以前のベーゼンドルファーは、素晴らしく良い時とあまりそうは思えない(マロニエ君の主観)ときのばらつきが多く、ハッとするような純粋でこれ以上ないような美しい音を聴かせることがあるかと思えば、一転して蓮っ葉な品のない音であったり、虚弱な感じで鳴りがイマイチな感じを受けることも珍しくはありませんでした。
また、繊細といえば聞こえはいいですが、とても現代のホールでのソロには向かないというような楽器もあるなど、コンサートピアノとしては不安定という印象を持っていました。
さらに楽器の個性も強く、曲を選ぶところもあって、ピアニストがいつでも安心して弾ける、あるいはまた聴衆が安心して聴けるピアノというには、いささか問題も抱えているようにも思っていました。

それがこの新しい280では、上記のようなマイナス面がかなり克服されており、ベーゼンドルファーのヨーロッパ的なトーンと気品はそのままに、ほどよいパワーと現代性を備え、これなら安心してステージに載せられるピアノになったと思いました。

シフの演奏もこの時は好調で、コンチェルトの全曲演奏とか後期のソナタ、あるいは熱情やワルトシュタインでは物足りない場面もあったけれど、この中期の中では後期寄りの作ともいえる「告別」では、シフの美点が活かされて、ピアノの音とあわせて素敵な演奏が聞けたと思いました。
そういえば、コンチェルトの時のアンコールの「テレーゼ」も非常にチャーミングな演奏で、この人はこういう音数が多すぎず、リリカルな要素を随所に必要とするような曲を弾かせたら、最良の面が出るのだと思います。

それはいいけれど(以前にも書いたことがあること)最近はピアノの大屋根を、本来の角度よりもさらに上まで大きく開けるということが流行っているようで、あれは個人的には賛同しかねます。
そのための茶色の長い棒まであるようで、本来の突上棒を取り外し、付け替えて使うことが今のトレンドなのかどうかしらないけれど、見るからに無様で、大屋根が開かれすぎたピアノは、フォルムも崩れて見ちゃいられません。

アンスネスの日本公演で見たのが始まりでしたが、最近は海外でもしばしば見受けられ、キーシンのような深いタッチの人さえそれで弾いていたりと、これはあきらかに何らかの効果が見込まれてのことだということでしょう。

ピアノを不格好に見せるのが目的のはずはないから、もっぱら音の問題だろうと思います。
従来の角度より広く開けることで、音が上下方向に立体的に広がる、あるいは大屋根に反射して派手さがでるとかエッジの効いた音になるなど、おそらくは様々な実験を通じて何らかの効果が立証されたんでしょうね。

マロニエ君の印象としては、たしかに音が生々しくなり、滑舌が良くなり、いかにもパワーアップしたピアノのようになるといえばいえないこともない。
しかし、音が妙に直線的で、深みがなくなり、ピアノをホールで聞く際の音響としてのゆらぎとか膨らみがなくなるようにも思われます。

今回のシフでは、スタジオ収録にもかかわらず、この茶色くて長い突上棒が使われており、あれはなんだかいやだなぁ…と思います。
心配なのは、これが常態化してくると、メーカーのほうでも忖度して、この長めの突上棒を標準で取り付けてくる可能性があるんじゃないかと思うと、そんなことにだけはなってほしくないものです。

ベーゼンドルファーの280に話を戻すと、これには頑として否定される方(おそらくはヴィンテージのベーゼンドルファーの音をご存知の方でしょう)もおられますが、マロニエ君は決して悪くないと思ったし、このピアノを使ったリサイタルでもあれば、ひさびさにホールに出向いて聴いてみたいもんだと思いました。
とくに最近のように、どのメーカーもコンサートグランドでは無個性化が進んでいる(コンクールのせい?)中で、このピアノには節度は保ちつつも個性があって、フォーマルな気品があり、さすがだと感心しました。

シフはどちらかというと楽器を深く鳴らすようなタイプのピアニストではないので、別のピアニストで、いろいろな作品を聴いてみたいものです。
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決め手は重さ

少し前のことでしたが、ある技術者の方から、至極もっともといいましょうか、大いに納得の行く話を伺いました。
ピアノのハンマー交換をする場合、何に最も留意すべきか?

こういうことは技術者さんによっても流儀はいろいろだろうと思われるので、あくまでもお話を伺った技術者さん個人のお考えとして紹介しますが、その方は「ハンマーの重さに対する注意につきる」といわれました。
ふつうハンマー選びというと、レンナーだアベルだというような単純な話になりがちですが、各社とも等級はいろいろあって、一概にどうともいえないようです。

その方が言われるには、それなりの品質のものであればメーカーはそれぞれだし一長一短で、それ以外にも優れたハンマーを作る会社はあるし、さらに取り付けるピアノの年代や相性、弾く人の好みなどとても一概にはいえないようです。

それより、メーカー以上に守る(こだわる?)べきことがあるとすれば、それはハンマーの重量。
これは決して外せない要素だと言われました。
ピアノの設計やアクションの作りに対して、最適な重さのハンマー(シャンクも含むとおもいますが)であるかどうか、この点をその方はもっとも注意されるそうです。
とくに古いピアノなど、データが豊富でないピアノになるとさらにその点は細心の注意が必要らしく、これを誤ると、どれだけいい音がしても、弾きにくくて好かれないピアノになり、ピアノそのものの価値を左右するに至るというのは納得でした。

その点の注意を怠って、安易に有名ブランドハンマーを取り寄せて交換すると、タッチの面で思ったような結果が得られないピアノというのはかなりあるそうで、多くの技術者はこの部分をハンマー交換時のリスクとしているようですが、決してそうではなく技術者がそこをよく認識し注意さえしていればそういう間違いは起こらないとのこと。

我々一般ユーザーにとって、信頼している技術者さんが吟味して仕入れたブランド品のハンマーなら、まさかそれが不適合だったとは思いませんものね。
重すぎるハンマーがつけられてしまったが最後、整調などでいくら小細工を繰り返しても基本的な解決には至らず、気持ちの良くないピアノになり、最悪の場合はピアノそのものが嫌われてしまうこともあるでしょう。
こういう場合、もともとのサイズが違ってしまうぐらい大胆にフェルトを削ってダイエットすれば、その分の効果はあるかと素人考えで思いますが、それではハンマーそのものの価値を毀損するようでもあるし、そもそもの選択ミスをそんなかたちでカバーするのもおかしいですよね。

話は変わるようですが、マロニエ君は無類のクルマ好きでもありますが、通常の好ましい実用車の場合、日常の使用でどの性能が最も乗員に寄与するかというと、それはエンジンでもパワーでも燃費でもなく、日常的な使用範囲における「乗り心地」です。
段差を乗り越えた時のいなし方、揺れの少ない節度感あるボディ制御、駐車場から表通りに出て加速して、流れに乗って走行する際にもっとも気持ちの良く感じる性能は、キチンと腰のある繊細でしなやかなサスペンションです。

これをピアノに当てはめますと、もちろん音や響きも極めて大切ではあるけれど、まずはしっとりと弾きやすく、程良い抵抗とコントロール性を兼ね備えた「上質なタッチ」だと思います。
マロニエ君は、音とタッチのいずれが大事かというと、悩んだあげくの究極の選択ではタッチかなぁ?と思います。
音は元のピアノがよければ優秀な技術者の力を借りてあるていど磨けますが、タッチはなかなかそうはいきません。
打弦距離だのなんだのと調整箇所はいくらもありますが、そもそも重いハンマーが悪さをしている場合、いくら技術者さんが中腰で汗水たらして時間をかけてがんばってくださっても、さほどの劇的変化は起こりません。

ハンマーの重量さえ適正なら、技術者さんも音色やパワーや調律など他のことに労力と時間を使えますが、これがボタンの掛け違えのように、出発の時点で間違っていると、あまり効果のない調整等でお茶を濁す以外にどうすることもできません。
そういうわけで、上記の技術者さんがおっしゃるハンマー交換の場合、最も重要な点は「適正な重さに細心の注意を払う」というのは大いに納得の行くお話でした。

こんなことを言っちゃ怒られるかもしれませんが、そこさえきちんとしていれば、レンナーでもアベルでもRGでも、そんなにワアワアいうような大問題ではないんじゃないかと思いますけどね。
もちろん、フェルトのクズを固めて作ったような安物じゃダメでしょうけど。
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BかCか?

前回に続いて…ということでもないけれど、スタインウェイのグランドピアノの中で、最高にバランスがいいモデルは何か?
これには、昔から技術者はじめ多くの人によってB型だとされている観があり、もはや異を唱えることさえできない定説のようになっています。

B型こそはグランドの理想形。
置く場所と予算さえ許すなら、ぜったいBがいい。
C型より一つ小さいBのほうがバランスがよくピアノとして優れている〜等々、こんな言葉をどれだけ聞いたことでしょう。
そういう声に押されて、B型こそベストと信じて購入された方も少なく無いと思いますし、マロニエ君もそこまで言われると言葉の力もあるから、半ばそういうものか…と思っていた時期もありました。

もちろん折にふれてB型には幾度か触れたことはありますが、素晴らしいピアノであることに異論の余地はむろんないですよ。
低音もそれっぽくよく鳴るし、全体に華やかでキレがあり、中型ピアノならではの軽快さもあり、いかにもスタインウェイらしくてわかりやすく、人気というのも納得です。

個人的な印象としては、Bにはとりわけブリリアントな個体が強く、やわらかで落ち着いた感じのBというのは、たまたまなのかもしれないけれど、新旧いずれもあまり経験した記憶がありません。
小型ピアノには望めない低音の美しさがあるいっぽうで、鍵盤が短い(鍵盤からハンマーまでの距離)のか、入力に対する反応も素早く、一台に求められる要素が凝縮されているのは、まるで取り回しの良い中型高級セダンみたいな感じ。

ただ、聴く側の立場で言わせてもらうと、Bには絶えず「薄い」感じがつきまとうようのは拭えません。
数少ないBによる演奏や録音を聴くと、残念ながらややわめいている感じを受けます。
貫禄ある大人というより、若々しいスリムな青年といった印象。

これまで、Cの評価がBほど高くないためか、さほど注目していませんでしたが、音や響きの印象でいうとCはおっとりしてDの短胴版のようでもあり、対してBは中型グランドのトップモデルといった感じを受けないこともなく、そこには一段の隔たりがあるところが最大の違いではないか?と思いました。
「打てば響く」という反応の良さで言うとBになるのでしょうか。

だとすれば、弾いて痛快なのはBかもしれませんが、鑑賞目的で客席から聴くことを考えたら、マロニエ君はCのほうが好ましいように思います。

青柳いづみこさん(たしかハンブルクBのユーザー)が著書の中でドビュッシーの前奏曲集を演奏するにあたって、どこだったかホールではない会場でピアノを準備する際に、この作品を弾くにはBでは表現できないものがあるのでぜひDを準備して欲しいとリクエストしたという記述があり、その時は「へええ?」と思ったけれど、今なら少しわかる気がします。

一番顕著に感じたのは、キーシンがアメリカの大学内で学生たちに囲まれてショパンのスケルツォを演奏する動画がYouTubeにありますが、そこにあったピアノはハンブルクのBでしたが、キーシンのあの全身全霊を傾けるようなこってりしたタッチの連続放射にピアノがついていかず、ほとんど悲鳴のような感じになったのを見て、さすがのBにもこのような限界があることを思い知らされたものです。

誤解しないでいただきたいのは、それでBを否定しているのではさらさらなく、ピアノはその目的や置く場所によって、さまざまな特性があるのだということが言いたいわけです。
メーカーによるBの説明では、小さいホールやサロンコンサートにも最適というようなことが述べられているけれど、このモデルが本当に素晴らしいのは、むしろ弾いている本人がこの上ない満足を得られるプライベートスペースなのかもしれません。

ピアノの難しいところは、奏者当人が弾きながら感じているものと、鑑賞する側の印象では、必ずしも一致していないと点が少なくないということかもしれません。
その点でBは、プライベートな部屋や空間で我一人弾いて楽しむ(あるいは練習や創作活動など)というシチュエーションにおいて、おそらく右に出るものはないのだろうと思います。

技術的な観点から、BとCのどちらが楽器として優れているかは、マロニエ君ごときにわかるはずもないことですが、鑑賞する立場として好みだけで言わせていただくと、やはりBにはサイズからくる限界を感じます。
やっぱりCの大人っぽい余裕と穏やかさには魅力に感じます。

Bといえばいつも思いだすのが某楽器店にあった戦前のA3(奥行き200cmのモデルで、ちょうどAとBの中間サイズ)で、これがもう「ウソー!?」というほど、パワーがあり溌剌としたいいピアノでした。
店主の談によれば、Bを喰ってしまうからカタログから落とされたモデルだそうですが、その真偽はともかく、ひとついえることはスタインウェイのA188とB211って、サイズが離れすぎている気はします。

ヤマハでいうとC3Xの次はC6Xになるようなもので、5に相当するサイズがないんですが、これはこのままでいいんでしょうかねぇ。
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廃墟でベートーヴェン

ずいぶん前のBSプレミアムシアターで、バレエの後半にアレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタというのがありました。
この人は、前々から非常に時代や流行に聡いピアニストという印象があり、おそらくは今年のベートーヴェンイヤーを見据えて制作されていた映像なんでしょう。

映像の舞台となっているのは、たいそう荒れ果てた廃屋。
今どきのことだから本物か作り物かは知らないけれど、壁も床もボロボロの、白っぽい廃墟の中をタローがゆっくりと歩を進めると、奥まった部屋に、いかにもという感じで白い布が被せられたピアノらしきものがり、その前で立ち尽くす。
場面が変わるとほどなくop.109が鳴り出すというものですが、そのピアノはこの廃屋に合わせてわざと汚れが塗りつけてあるけれど、実は最新スタインウェイC型であるところが苦笑してしまいます。

ここまで芝居がかったことをするのなら、ピアノもそれに応じてヴィンテージを使ってもよかったのでは?と思うし、高価な最新の楽器を演出のためにわざわざ汚してしまうという行為は、そんなに重要なことだろうかとも感じたり。

床も天井も荒れ果て、壁は剥がれ落ち、場所によっては汚水が溜まっているような屋敷に放置されたことになっているピアノですが、その音はというと、新しいピアノ特有の若々しい新緑のような音色と、いかにも整った均一な響きを持っており、この演出があまりにちぐはぐですべてがウソっぽくなっているようでした。

演奏はいかにも現代基準といわんばかりに尤もらしく弾けてはいるけれど、演奏者の個性とか、曲と奏者の間に発生すべき反応、解釈、問いかけ、新しい切り口などはマロニエ君が聴く限りでは見あたらず、ただこの曲の平均的な音が虚しく聞こえてくるだけでした。
長年かけて出来上がったスタイルを模倣するように弾いているのか、定められた規格品みたいな演奏。

大勢の人の研究と時間によって練り上げられた解釈と演奏様式は時代を支配するものだから、それを土台にするのはわかるけれど、そこにピアニスト自身から発せられるメッセージ性、なにか心を震わすような情熱とか、演奏を通じた語りかけがあってこその演奏芸術だと思うのですが、近ごろのピアニストはそういう自我さえないのか、多くの場合、無難に整った(個性という意味では極めて地味な)演奏で済ませてしまうことがあまりに多く、こうしてみんなで演奏をつまらないものにしているように思います。

ちなみにこれは、このピアニストに限ったことではない、近年しばしば感じる問題です。
演奏を聴かせたいのか、こういう映像の中の弾いている自分の姿をアピールしたいのか、音に惹き込まれないからあれこれと余計なことを考えてしまい、しまいにはさっぱりわからなくなります。

ところで、マロニエ君はスタインウェイのC型については多くを知りませんでしたが、技術者や専門家の間ではBこそがベストバランスで、Cはそれには及ばないというようなことがいわれたりしますが、今回のビデオを聴いた限りでは、まったくそのような印象は持ちませんでした。

それどころか、C型とはこんなにも素晴らしいピアノだったのかと、驚きつつ感心してしまって耳を澄ませていましたが、これはほとんどDと遜色ないものだと思いました。

スタインウェイの中でベストバランスモデルとして定評のあるのがB型ですが、実をいうと(演奏を聴くぶんには)個人的にいささか過大評価では?と思うところもあったところ、Cのあまりの違いにはじめはびっくりしつつ、やがては疑いへと変化していきました。

というのも、別の場所できちんとした音源を作り、この廃屋&C型は映像のためのセットではないか?
ネットでいろいろと調べてみましたが、もともと検索力の低いマロニエ君の前にはそれらしき証拠はなにもなく、諦めかけたとき、いつも購入するCDネットショップのサイトをみたら、ちょっと引っかかることが。

アレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタのCDがあり、この廃屋での演奏と思しき映像DVDがセットになっています。
知るかぎりでは、彼はこれまでほとんどベートーヴェンのCDはなく、これは2018年にパリのサル・コロンヌで録音されているもののようで、解説には「付属のDVDには、CDと同内容の全曲演奏映像を収録」とあるので、これはやはりホールにおけるDによる演奏という可能性もあり、ならば納得という感じ。

C型であれだけの音が出てくるとすれば驚き以外のなにものでもなかったけれど、音源が別となると、映像での演奏風景はいわゆる「口パク」ならぬ「指パク」ということになるのでしょうか。
ま、映像作品なんてものはえてしてそういうものなのかもしれないので、あまりそのあたりをとやかく言っても仕方がないのかもしれません。
なんでもフェイクが当たり前の世の中、もはや何を信じていいのかわからない…変な気分です。
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弾き手しだい

たまるいっぽうの録画ですが、その整理を兼ねて見てみることに。
NHK-Eテレのクラシック音楽館をたまたま2つ続けて見たら、そこに登場するピアニストのあまりの違いに笑いました。

そのひとつとは、4月12日放送のN響第1931回定期公演。
ツィモン・バルトのピアノ、指揮はクリストフ・エッシェンバッハで、ブラームスのピアノ協奏曲第2番。
ブラームスのピアノ協奏曲は2曲とも、その長大さに対して、派手な見せ場的なところがないからか、演奏されることは少ないけれど味わい深くとても好きな曲。

冒頭、ツィモン・バルトとエッシェンバッハの会話が流されたけれど、30年来の付き合いだそうで、バルトが若い頃、ピアノか指揮のどちらにするかで悩んでいた時に適切なアドバイスをしてくれた、自分にとっては音楽上の父などと言っていました。
またブラームスの協奏曲に対しても、若いころと今では演奏がいかに変わってきたかなどのコメントが。

さて演奏がはじまると、これまでのN響コンサートではあまり経験のないような違和感が。
あまり細かく言うのはよしますが、マロニエ君に言わせるとおよそプロのピアニストの演奏とは思えぬような違和感の連続で、ジュリアード音楽院出身とのことですが、そこにさえも違和感という感じ。
そもそもエッシェンバッハ自身が、若い頃はあれほど才能にあふれた有名ピアニストであったにもかかわらず、この人のどういうところをそんなに認めているのかがわかりません。

アメリカ国内の風船がいっぱいならんだような音楽イベントとかならとかく、プロのピアニストとしてわざわざ遠い日本へやってきて、テレビ収録が前提のN響と共演し、報酬を得て帰るということ、これも違和感でした。
ちなみに、このツィモン・バルトという人は、ものすごいマッチョな体格と風貌で、YouTubeで検索したら、若い頃はシュワルツネッガー張りの筋肉を見せながらタンクトップ姿でピアノを弾いたりしており、現代はまさに何でもありの時代なんだということをあらためて痛感。

ピアニストとしては逞しすぎる体格が災いするのか、すぐに音が割れてしまいます。
そのためか曲の大部分は抑えめな小さな音で弾いていますが、音に芯はなく音型も不明瞭、常にふがふがしたような演奏になります。
ソロの入るタイミングが変だったり、技術上の都合なのか普通に進めばいいところをやたら伸縮つけたり、ある部分ではラブシーンみたいに過度な表情をつけたりで、すべてがちぐはぐで独りよがりに感じるものでした。
エッシェンバッハはというと無表情にただ両腕を上下させているだけだし、N響の人達も仕方なくじっと楽譜を見ながら仕事をしているといった雰囲気でした。

それでも終わったら優しい日本人はちゃんと拍手はするし、大きな演奏会では「オーッ!」とか叫ぶ役目の人が必ずいるので、ご当人は満足かもしれません。
番組冒頭では、NHKが「アメリカを代表するピアニスト」とアナウンスしましたが、果たしてアメリカでどれだけの人がそう思っているのか、政治家でもないから支持率がでることでもないですけど…。

続いて、3月22日放送のN響第1929回定期公演。
こちらは若干20歳、ロシアのダニエル・ハリトーノフ、指揮はスペインのパブロ・エラス・カサド。
リストのピアノ協奏曲第1番が演奏されましたが、これはなかなか見事な演奏でした。

まずピアノの音がしなやかで肉づきがあって美しい。
同時にピアノって「ここまで」弾く人によって音が変わるのかということは驚くばかり。
さらには、指は文句なく回るし、リズム感もよく、演奏には勢いとメリハリがあり、いまどきの若者にしては妙にシラケた感じもなく、聴き手にも瞬間ごとに燃焼していることが伝わってくるものでした。
音楽的には特段の個性とか深い芸術性といったものは感じなかったけれど、プレーンな心地よさがあり、ストレスなく快適に、さらには演奏というパフォーマンスにも一定の満足を覚えながら聴き進むことができました。

アンコールはやけに技巧的で聴き覚えのない曲だと思ったら、このハリトーノフ自作の「幻想曲」だそうで、いずれにしろ大変な才能の持ち主であることは十分わかりました。

ロシアという国は、政治体制などはともかく、こと音楽のような分野に限っていうなら、いまだにこういう素晴らしい才能にあふれた若者がしっかりと送り出されてくることには感嘆を禁じ得ません。

12歳で衝撃のデビューをして世界を驚愕させたキーシンも来年は50歳!!!
彼がロシアピアニズムの中から出てくる事実上の最後のピアニストかな?などと思っていましたが、とりあえずまだその土壌は枯れてはいないようです。
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Fの真髄は?

ここ最近は、偶然も重なってか、TVでファツィオリを目にする機会が多かったように思います。

反田恭平さんが『題名のない音楽界』のスタジオ収録でもF308を弾いておられたし(おそらくこのために持ち込まれたものでしょう)、クラシック倶楽部では再放送でアンジェラ・ヒューイットの紀尾井ホールでのバッハ・リサイタルでF278。
ほかには、クイズ番組でも「何の曲を演奏しているところでしょう?」という問題で、場所はわからないけれど、使われているのがファツィオリで、この出題場面で使われるピアノは、これまでにも戦前のベヒシュタインとかニューヨークスタインウェイだったりと、かなりマニアックなピアノ揃いで不思議。

さてファツィオリですが、マロニエ君にとっては現在尚これほど難解なピアノもなく、いまだに聴けば聴くほど疑問が深まっていくのは如何ともし難いところです。

それは一言でいうなら、ファツィオリというピアノの個性というか、音の美しさの特徴がつかめないということに尽きます。
最高級の材料が吟味され、職人の手作業によって注意深く作られたピアノだけがもつ上質感というのは感じるけれど、ファツィオリ固有のトーン、いわば楽器がもつ固有の「らしさ」みたいなものがいまだに聞こえないのです。
もしかすると、そういうものはないのかもしれないとさえ思うこのごろ。

マロニエ君は、過去にファツィオリのことを高級ヤマハみたいなイメージと表現したこともあったし、今回の印象ではまたべつのピアノとの共通点をイメージしたけれど、何に似ているというようなことではなく、これぞファツィオリ!というものがいまだに見い出せないのです。
もちろんそこにはマロニエ君の耳が劣っているからということもあるとは思いますが。

表面的なブリリアントな音ではなく、深みとコクのある、まろやかな音を目指していることもわかる気がするし、それは今どきのパンパン鳴らすだけのピアノとは逆の、ピアノ本来の在り方だとも思うのですが、それ以上のものが見えてきません。

音楽発祥の国、イタリアが生み出したピアノで、この国のすべてのアートに通じる色彩や官能や享楽の要素にあふれているのかというと…あまりにも優等生然としていてるのも意外だし、イタリアものに不可欠の「太陽」を感じない。
むしろ特徴のない無国籍風の音に聴こえてしまうたびに、このピアノの核心はなんなのか探しまわるばかりです。

ファツィオリを評して、「イタリアらしく明るい色彩感にあふれたピアノ」というけれど、マロニエ君としては、とくに否定もしないけれども共感と言うまでには至らず、わかる方に教えてほしいものです。

ピアノは楽器であり主役は作品と演奏なので、主張の強すぎるものより、演奏者の黒子に徹するようなものがいいのだという考え方もあるかもしれませんが、個人的にはそこまでの割り切りはできないし、楽器そのものの魅力や美しさというのも音楽を聴くにあたっての楽しみの一つであり、それはおおいに必要なことだとも思うのです。

昨年、東京のショールームでほぼすべてのサイズを触らせていただいたときも、量産ピアノとはまったく次元の異なる濃密さがあり、さらに極上の調整がなされていることもあって、弾いていてこれほど気持ちのいい快適なピアノというのはそうないという貴重な経験ができました。
ただ、それは最高の状態に仕上げられた技術者の腕に負うところも大きいと思われ、その状態が少しでも崩れたときにどういうピアノになるのかというのは興味があります。

海外で収録された動画などを見ていると、必ずしも日本のファツィオリのように最高の調整を受けていないらしいものがあって、中には音もかなり荒れた感じだったりすると、よほど高度な調整を必要とするピアノなのかな?とも感じます。

「名は体を表す」というように、あの素晴らしいFAZIOLIのスタイリッシュなロゴそのものみたいな音を期待していしてしまいますが、やはりマロニエ君にはかなり難解なピアノのようです。
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TVにみるピアノ

NHKのテレビから、ピアノに関すること…。

朝ドラの『エール』(現在進行が止まっている)は音楽家の話だから、折りに触れてピアノが出てきます。
物語上の場所が変わっても、学校でも、レコード会社でも、どこかのステージの場面でも、使われるのはどうやら同じピアノのようで、きっと撮影の都合上、一台を使いまわしているんでしょうね。

ピアノは明らかにスタインウェイのBですが、ロゴが出てくることは一切ないどころか、鍵盤すら出てくることはほとんどなく、いつも斜め横やうしろ姿などばかり。
それはともかく、そのピアノにはきわめて不可解な部分があり、ピアノが映るたびにやたら気になります。

何かというと、ピアノの足の下の部分が、いつも真っ黒な立方体のような大きな箱で覆われており、これがとにかく異様なのです。
そこには、よほど見えてはならないものがあるのかと想像をたくましくしてしまいますが、それは一体何なのか?

普通のピアノの足ならべつに見えてマズいわけはないし、わざわざあんな箱状のものを被せて覆い隠すとしたら…唯一考えられるのは、大型のキャスターがついていて、それがドラマ内での昔のピアノの姿として似つかわしくない…とでも判断されたぐらいしか考えられません。

別番組『らららクラシック』では、同じくB型が足元まで写った映像がありましたが、そこにはコンサートグランドほど巨大ではない、やや小ぶりのダブルキャスターがついているので、あの黒い箱の中はおそらくこれだろうと推察されました。
だとしても、そんなに見えてはいけないものとも思えないし、それでも隠すのであれば、もっと控えめにキャスターだけ黒い布で包んで覆うぐらいでもよかったのでは?
とにかくあれは違和感バリバリで、ピアノの足先がかなり大きな真っ黒の箱のなかに3本ともズボッと突っ込んだ姿で、あんなのこれまでに見たこともないものでした。

ふつうはピアノの足なんて注目する人はいないのだろうし、真っ黒の箱だから目立たないという現場の判断だったのかもしれませんが、少数でも気がつく人は必ずいるわけで、その結果は小型のダブルキャスターそのままより何倍も異様な光景になっているとマロニエ君は断言したい。

尾行などのため顔を見られないよう、黒い大きなサングラスをかけ、マスクをして、長い髪のカツラと帽子まで被った姿は、よほど目立って人目につてしまったというようなお笑いのオチがありますが、まさにそんな印象。

東京のNHKには、コンサートグランドなんて何台でもゴロゴロありそうですが、却って普通サイズのグランドとか日本製のピアノは小道具としても一台もないんでしょうか…。


テレビで見たピアノということで、今ふと思い出しましたが、日曜美術館で「ようこそ!私たちの美術館」というのをやっていましたが、京都市京セラ美術館が紹介されたときのこと。

中村大三郎画伯が大正期に描いた「ピアノ」というそこそこ有名な作品がありますが、それはこの美術館の収蔵作品だったことをこのとき初めて知りました。
四曲一隻の大きな屏風に描かれた日本画で、赤い振り袖を着てピアノを弾く女性(中村画伯の夫人の由)が描かれていますが、画面の3/4ほどは大きなグランドピアノが占めるという、ちょっとほかに類を見ない大胆な構図。
鍵盤蓋には「ANT. PETROF」とはっきり書かれており、この絵は昔(2000年前後?)ペトロフの日本輸入元だったRHFセンターのサイトなどでも紹介されていました。

ここに描かれたペトロフは、大正期に地元の人の募金によって小学校に購入されたピアノで、そのピアノがなんと現存しているということでごく短時間でしたが実際のピアノも紹介されました。
足の形状や、大屋根を支える棒にあしらわれた金色の装飾など、まさに絵になったピアノそのものでした。
しかもかなり大型のグランドで、さぞ高かったんでしょうね。

学校にかぎらず、文化に関しては、昔のほうが選択肢がなかったこともあって意外に贅沢だったんだなあと思うこのごろです。
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家ピアノー蛇足

以下は、もはやNHKの番組とは何ら関係ない内容ですが、家のピアノということから違った話をすると、ピアノといえば置き場所さえあるならグランドこそが本家本流みたいな認識があり、「いつかは自宅にグランドピアノを!」といった声は何度か耳にしたことがあります。

でも、本当にグランドが必要かどうかは、各自よく考えてみる必要があるのではと思います。
必要はなくても「ただ、グランドが欲しいー!」というのはもちろんそれはそれでアリですが、ピアノ経験者のアドバイスのようなことに流されて「アップライトはダメ」…と刷り込まれるのはいささか迷惑では。

ピアノをある程度やった人とか先生など、バリバリ弾くだけで音楽や楽器にあまり関心がないような方に限って、なぜか口を揃えて「グランドじゃないとダメ!」みたいなことを言われ、購入予定者に変な影響を与えるのはなんなのかと思います。

たしかにグランドは構造的にもピアノの本来の自然な形であるし、グランドだけがもつ秀逸なアクションなど、機構上のメリットがあるのは事実で、そこに大きく異論はないけれど、音楽専門家を自認する人達のグランド必要論みたいなものを聞くと、どうも価値観に偏りがあり釈然としない印象しかありません。

日本は何事においてもグレードとかクラスとかランクとか、あらかじめ人によって決められた価値が幅を利かせ、それを鵜呑みにし、自分で判断するよりそちらが正しいらしいと思ってしまう。

東大を出たとか、コンクールに優勝したとか、大会社の社長とかいうとすぐに一目置いて、尊敬のレッテルが貼られてそれで終わり。
与えられたヒエラルキーにそうまで無批判で従順なのは、まさに権威主義、ブランド志向ではないか。

すっかりそこに与して、その気になって、ステータスとしての価値も感じながらグランドを買って満足するのであれば、それはそれで意味はあるのかもしれませんが。

ただ、家にグランドピアノを入れるというのは、美的観点からするとある程度上手に置かないと、ピアノがそこで一番エラいもののように鎮座して、却って滑稽になる場合もあるように思うことも。

自宅にグランドピアノが設置された光景で目に浮かぶのは、白もしくは花柄などのクロスが貼られた清潔そうな部屋、淡い色の規格品風のカーテンがあって、床はフローリング。
部屋の雰囲気のためにとても大切な照明は、何の工夫もないシーリングライトの無機質な光で、塾の教室みたいな白。これだけで、聞かなくてもピアノの主がどんな弾き方をするのか想像できるよう。
さらに、椅子やペダルのあたりには却って滑りそうな小さい敷物、部屋のどこかに結婚式のブーケみたいな造花、楽譜棚にはネコなどのかわいい系の置物など。
きわめてレッスン的おけいこ的ではあるけれど、肝心の、音楽のある生活の香りや文化的芸術的な香りは…。

欧米人にはまず絶対にあり得ないセンスで、ひとつひとつのチョイスや配置はこまごまして控えめにもかかわらず、出来上がったものには独特の大胆さがあり、ああいう雰囲気の中で目にするグランドピアノって強烈な違和感を感じるのはマロニエ君だけでしょうか?
とくに日本人は、内装とかインテリアのイメージにはっきりした主張がないのかバラバラで控えめ、と、せめてものアクセントのつもりなのか、いい大人が子供っぽいかわいい系の置物とか、甘ったるいお菓子みたいな世界にしてしまうのはなぜなのか、まったく理解に苦しみます。

前置きが長過ぎましたが、その点で、成熟した大人のセンスで手際よく生活空間に収められたアップライトピアノは、とてもスタイリッシュで、住む人の趣味の良さとか、豊かな人生のワンシーンみたいなものを感じて好ましい。
グランドのようにピアノが中心になっていないのもプラスに働くのかもしれません。

そもそも、家でただ音楽を楽しむのに、そんなにグランドのタッチや音量は必要なのか?
さらに、日本人はピアノを買うのも自然な楽しみとしてではなく、レッスンや、受験や、発表会、趣味の目標など、そこに必ず勉学的な目的をくっつけないと気が済まないようです。
子供のためにピアノを買うというのはよくありますが、なんでその家のピアノライフのスタートを子供が背負わされるのか。
そうではなく、ピアノのある家に子供が生まれ、成長するにつれ自然に触れるようになってきた、じゃあそろそろレッスンにでも行かせてみるか…こういう順序であってほしいと思うんですけど。

だからなのか、自宅のピアノって特別感が強すぎて浮いており、もっと生活の一部としてピアノと普通に仲良くしたらいいと思うのですが、そうなるほど生活の中にピアノや音楽は根を下ろしていないということかもしれません。
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家ピアノ

先日、NHKで『家ピアノ』という番組をやっていました。
コロナ禍で仕事がキャンセルとなり、自宅待機を余儀なくされた音楽家やタレントさんがピアノと過ごす様子を取り扱った番組で、出演したのは東儀秀樹さん、久石譲さん、千住明さん、ふかわりょうさんなど(あとは忘れました)。

その内容じたいは特段どうというものではありませんでしたが、あらためて感じたのは、自宅にピアノがある景色はやはりいいものだということ。
以下、番組とは直接関係ないけれど、そこから感じたことなど。

昔は映画やドラマでも、住まいにピアノがあるという光景はそれほど珍しいものではなかったけれど、時代とともにしだいに姿を消し、今や素敵な住まいのシーンというと、ほぼモデルルームのようなスタイリッシュ調が主流に。

今どきの戸建住宅やタワーマンションの中があんなテイストになっているのかどうか知らないが、そこには住人のセンスとか価値観が投影された個性もなく、インテリアのカタログ写真そのまんまみたいな世界。

むかしは、家に年ごろの子供がいたらピアノを買ってお稽古させるといった単純な構図があって、テレビや応接セットや学習机と同じように、変なカバーがかかったピアノなんかがあって、あのおかずの匂いがしそうな雰囲気もイヤだったけれど、片やいまどきのピアノなんぞ眼中にもないといったカッコだけの世界も行き過ぎでちょっと苦手です。

もはやピアノが顧みられなくなったぶん、今あえてピアノを自宅に置く人というのはやはりそれなりの意思と目的を持ってのことだろうと思います。
少なくともそれが、使いもしない百科事典みたいなピアノでないことは進展なのかも。
でも、マロニエ君が本当に「いいな」と思える光景は、なによりもまず「おけいこ臭」とか「レッスン臭」が一切しないことで、こころ豊かな生活のために家の中に音楽がそばにあって、絵画や本があるようにピアノがあるという自然な雰囲気が感じられるピアノのある光景です。

コロナ禍であらためて再確認したことは、ピアノはまさに家で一人で楽しむことができるということ。
もちろん他の楽器と合わせたり、仲間内で音楽を楽しむのもおおいに結構ですが、基本は一人で楽器といくらでも向き合って楽しめるところが最大の特徴で、これはまさにピアノの特権。

そういう意味では、どれだけピアノ好きを標榜しても、弾くためのモチベーションをレッスンや発表会や弾き合い会などに置いているのは、なんとなく好きの内容がどこか似て非なるものに思えてしまいます。
ピアノを手段にした自己達成とか、人前演奏への挑戦とか、その先にある音楽そのものではない何かの欲求を追い求める人のように感じてしまうわけです。
この匂いのする人としない人では、話をしていても、その密度も楽しさもまったく違います。

そういう人が思いのほか多くてウンザリなのですが、さすがにこの番組で登場された方々は、有名な音楽家であり作曲界であるなど、いずれもそういう匂いがないという点では、見ていて清々しさがありました。

それと、普段テレビで見るピアノの大半は、演奏会の録画やスタジオ収録されたもので、音響的にもそれなりの配慮のされたものですが、今回は自宅や個人的な仕事場などで、久石譲さん、千住明さんはスタインウェイでしたが、やはりこうした状況で聴いても、その音の美しさはさすがと唸るものがあったし、いっぽうヤマハのアップライトでもきれいに調律・整音されたと思われるものがあって、それはやはり気持ちのいい音で鳴っていました。

きれいに整えられたピアノは上品で美しいですね。
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ピアノの近代史-2

企業というのは、どれだけ時を経て巨大化しても、創業者のキャラクターや社風というものはふしぎに残る気がします。
その体質や個性は、良い意味でも逆の意味でも必ず引き継がれて、生物に遺伝子があるのと同様、企業にもDNAがあって脈々と受け継がれるらしいことを感じずにはいられません。

ただし、山葉寅楠という人の影響力はヤマハ一社に収まるものではなく、彼の蒔いた種によって日本のピアノ製造界の方向性、さらにはそれを弾いていく人達のスタンスや価値観のようなものまで、計り知れない影響を及ぼしたように感じるのはいささか大げさでしょうか?

伝統ある一流品がクラフトマンシップによって生み出すところの音色とか音楽性といった、どこか基準も曖昧で捉えどころのないものより、機能の高さ・造りや動作の優秀さ・確実性の高い音を保ちながら、コストパフォーマンスで勝負をかければ価値は明快となり、ピアノには機械物としての側面もあるから、安くて優秀な製品というのはこの業界では画期的なことだったのでしょうね。

今日では世界に知れわたる日本製品の優秀さですが、ピアノはその先駆けのひとつだったのではないかと思います。

環境にも酷使にもへこたれない強靭さがあり、音にはパンチがあって、しかも大量生産で安くいのに高品質で信頼が性高い。
そんなピアノはそれ以前にはなかったのではないかと思います。

まさに寅楠の目論見は大当たりというところでしょう。

初のアメリカ視察においても、彼の目はもっぱら生産方法や量産技術に注がれたようで、あとに人に続く人達が本場のピアノの音や職人の技巧に魅せられ薫陶を受けていたのとは対象的だったような印象で、そこが(個人的に共感はしないけれど)並の人物ではなかったところでもあるのだろうと思います。

さらに驚くべきは、ピアノやオルガンにとどまることなく、ありとあらゆる業種に手を広げて、事業の多角化を貪欲にめざすあたりも、まさに辣腕経営者のそれで、現代ならばさしずめIT企業のCEOといったところでしょうか?
寅楠は紀州藩士の三男で、出自としては武家の生まれだったようですが、紀州といえば紀伊國屋文左衛門を産んだ土地柄でもあり、商いの才覚を生み出す土壌があるのかもしれません。

寅楠がオルガンづくりを決意したのも、修理依頼された舶来オルガンの価格を聞いて驚き、それなら自分がもっと安く作れば大いに儲かるとすかさず反応したようで、なにごとにもピンとひらめいて商機と捉える直感力と実行力は凡人ではないようです。

よってヤマハはビジネスが絶対優先であって、すべての製品にはその厳しい精神が流れていると思います。
どれだけ長く使っても愛着が湧いてくるような、どこかしら愛おしいような部分はないとはいいませんが少なく、いつも無表情で醒めたものを感じます。
利益は二の次にして、理想を追い求めるような甘ちゃんではないのでしょう。

むろん音質も大事にしたとは思うけれど、高い工作精度、耐久性、信頼性などに秀でるほうが実際的で、不特定多数の人が弾く学校や、絶え間ない練習やレッスンによる酷使、その他厳しい環境で使われる場面でのタフネスとなると、おそらくヤマハの右に出るものはない。
中東やアフリカで頼りにされるランクルみたいに、これ以上ない頼もしい製品であることも確かでしょう。


あらためて感じたこと。
以前も少し書いた覚えがありますが、浜松のオルガン修理に駆りだされた山葉寅楠を傍で支え、協力したのが河合喜三郎という人物で、喜三郎は寅楠に対して場所や資材など、さまざまな支援を生涯続けたとありました。
のちに登場する河合小市とは血縁関係にはないとのことですが、日本のピアノ史のこんな第一歩の場面の登場人物の名が、山葉と河合だったというのは、まさに「事実は小説より奇なり」ですね。
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ピアノの近代史-1

『ピアノの近代史──技術革新、世界市場、日本の発展』井上さつき著(中央公論新社)を読みました。
内容としては「ヤマハを中心とするピアノの近代史」といった印象でした。

世界のピアノ史では、まずはじめにお約束のようにイタリアのクリストフォリが強弱のつけられるフォルテピアノを発明したところからはじまりますが、日本のピアノ製造史で必ず述べられるのが、明治の中頃、浜松の小学校にあるオルガンの修理が必要となり、白羽の矢が立ったのが機械修理職人の山葉寅楠だったというところから始まるのがほぼ通例。

この寅楠とオルガンの出会いが日本の楽器製作の夜明けとなり、見よう見まねでのオルガンを作り、それはやがてピアノ製造へとなり、途中世界大戦を経るもののそれでもなお躍進を続け、ついには世界を席巻するまでになる楽器製造のサクセスストーリーとでもいっていいかもしれません。

ただ、マロニエ君のようなピアノマニアとしては、日本のピアノの近代史となれば、今はなきメーカーが生み出した名品などにも少しは触れられているものかと期待していましたが、ここでは専らヤマハとカワイの企業史のような内容でした。
日本のピアノ史を語る以上、触れない訳にはいかないメーカーはいくつかあると思うのですが、そのあたりがスルーされていたのは残念でした。

この本を読み終わって最も強く印象に残ったのは、ヤマハとカワイという二大メーカーは、モデル構成から価格帯まで酷似しているものの、それぞれの創業の精神というか、出発時点での企業理念はかなり違っていたんだなあ…と思われることでしょうか。
ヤマハは創業者のはじめの第一歩から、西洋楽器という非常に高価なものを国産化し大量生産することに大きなビジネスの可能性を見出していたのに対し、カワイの創業者はあくまでクラフトマンシップの職人気質であり、優れたピアノづくりを追求する人だったようです。

山葉寅楠は大正5年に亡くなっており、活躍の大半を明治時代で過ごした人ですが、楽器製造以外にも様々な業種に手を伸ばすマルチな経営者であったのに対し、河合小市はピアノ一筋。
戦時下でピアノが作れないときでも、ヤマハは飛行機のプロペラなどいかようにも時局に対応していたのに対し、カワイはピアノ以外のものを作って窮状をしのぐことも工場を疎開することも嫌がり、ついには空襲により全焼。
戦後ピアノ製造が復活した際は、完成品はすべて小市が検品をして、すこしでも納得がいかないと工場へ押し返したんだとか。

経営者としてどちらが正しいのかはマロニエ君にはわかりませんが、どちらのピアノに心惹かれるかといえば、それはやはり小市のような人の作るピアノであることは偽らざるところ。

そもそも、戦前のヤマハを現場で支えた重要なひとりが「天才小市」と言われた河合小市だったのですから、それもまあ納得です。
そういう違いは、100年の時を経て世界に君臨するピアノメーカーになっても、両社の最も底の部分に流れているものは変わっていないと感じます。

ヤマハが楽器の総合メーカーであるだけでなく、オートバイその他まで幅広く作っているのも、寅楠のキャラクターと無関係とは思えないし、小市のピアノづくりに回帰したというSKシリーズの誕生なども、その精神の現れなのかもしれません。

もちろんどんな世界にも文字にできないような事もたくさんあったでしょうし、企業というのはきれい事では済まない闇の部分もあるから、事はそう単純ではないとは思いますが、何がいいたいかというと企業体質というのは間違いなくあるわけで、それは容易く変わるものではないということと、その製品には必ずその体質・体臭みたいなものが投影されているということでしょうか。

使う側も、そこは知識や理屈ではなしに、肌感覚で感じるものです。
ちなみに、小市のピアノは深くまろやかなトーンで、一時はそれが時代に合わないとされたそうですが、そこに再び回帰し、復活させるべく生まれたのがSKシリーズだそうです。
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世代の響き

録画ではあるものの、このところ立て続けに3世代のスタインウェイによるコンサートをTV録画で触れることになりましたが、わりと短い期間であったため、それぞれの特徴があらためて確認できた気がしています。

少なくとも1960年代ぐらいから近年までに関していうと、大きくは3つに分けることができるように思います。
拙い表現でいまさら音色の特徴をあれこれ言っても始まらないので、今回は東京タワーの番組で見たような、時代の景色に喩えてみます。

1970年代までは雄渾な筆致の油絵のような風景の美しさ、光と闇がおりなす雄大な景色。
寛容で、ふくよかで、しかも力強さがみなぎり、人間臭い幅がある。
ピアノが必要以上に前に出ることはなく、ピアニストの一歩後ろに回っているが、必要とあらばどのような表現にも即応できる度量と潜在力を秘め、底知れぬ可能性がある。

1980年代を過ぎると、しだいに都市化が進み、ビルが建ってきて、飛行機が飛びはじめる感じ。
音色はより透明感を増して、ある種の洗練も経てスタイリッシュに。
音色の個性も整えられ、スタインウェイらしさがより明快に。

次の区切りがいつかはわからいけれど、21世紀とでもしましょうか。
ビルは高層化され、乱立し、一見華やかだけれど、もはや石やレンガ造りの貴重な建築はつぎつぎに建て替えられる。
ライバルの台頭、大衆社会の到来ですべてが競争条理に呑まれ、質より利益の戦いが露骨になり、合理化の気運があらわに。
有名コンクールでは、楽器メーカー側も同時進行的な競いの場になり、本来の音質よりも弾きやすさとか、単なる音の通りとかいったものを重視。

あきらかに音が小さく痩せて、鳴らなくなってコンチェルトなどでは、どんなにピアニストが熱演しても埋もれてしまう印象があります。
もしかすると、機械などで測定すると数値としては「何デシベルある」というようなことで、根拠の無い印象であり思い込みなどと言われるかもしれないけれど、実際そんなことはどうでもいいのです。
楽器というのは、聴いている人に与える印象が概ね真実だと思うのです。

かつてのボディや床を震わすような強烈な鳴りは失われ、他社ライバルと似たようなきれいに整っているだけのピアノになってしまい、よく「今の政治家は小粒になった」といわれるのと同じでは。

…とはいえ、ピアニストもそれじゃ困るような本物もあまり見当たらないから、それでいいといえばそうかもしれないけれど、やはり寂しく残念なことに変わりはありません。

新品から数年がピークで、予め賞味期限が見切られたような雰囲気で、これも時代の必然かと思うと、少なくとも自分はそうなる前の良い時代に生きられ、佳き時代のピアノの音をコンサートやCDで楽しむことができたことを幸運だったと思うしかありません。

たとえばアラウが残した名盤の数々は、演奏が素晴らしいのは言うまでもないけれど、あの太い指でおだやかに鳴らされる美音は、当時の楽器の素晴らしさも一役買っていたと思います。

品質には疑問が残るのに、価格は値上がりする一方で、どうなっていくのかとため息が出るばかりです。
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1970年代のピアノ

BSクラシック倶楽部の録画から、佐藤卓史氏のピアノリサイタルを見てみました。

2018年6月1日、軽井沢大賀ホールでおこなわれた公演で、プログラムはシューベルト:楽興の時、ショパン:幻想即興曲/舟歌/英雄。

よく知らない方なのでネットで調べたら、芸大出身、ドイツなどの留学を経て、コンクールで入賞するなど、いわゆる日本人によくある王道を歩んでこられた方のようでした。
ホームページによれば、ライフワークとしてシューベルトのピアノ曲全曲演奏に取り組んでおられる由。

いかにもその経歴が納得という感じの堅い調子の演奏で、遊び心や微笑みといった要素は感じないけれども、カチッとしたスーツみたいな演奏を求める方には好まれるタイプのピアニストなんでしょうね。
ただ、シューベルトをライフワークとれているようだけれども、個人的にはもっとメロディのラインのおもしろみであったり、デリケートな呼吸の要素に気配りされたシューベルトのほうが聴きたいなぁというのも正直なところ。

ショパンも同様にいかつく、香り立つような要素は見い出せない印象でした。

インタビューでは、シューベルトもショパンも大きな会場で弾くよりは、サロンなど親しい友人などの前で演奏することを好んだ人達だから、このコンサートでも、聴衆の一人ひとりと親密なコンタクトを取るような演奏をしたいし、そのように聞いて欲しい、というようなことを言われていましたが、拙いマロニエ君の耳にはそのような演奏には聞こえず、むしろ大向うを狙った技巧主導型の演奏に思えました。

インタビューでの話の内容と実際の演奏が、合致していないように感じるのはよくあることですが…。


マロニエ君の記憶がまちがっていなければ、ずいぶん昔にミケランジェリが来日公演の折に持ち込んで置いて帰ったスタインウェイというのがあって、この会場のピアノは、それではないかと思いました。
軽井沢大賀ホールには、そういうピアノがあるというようなことを聞いたことがありました。

〜とここでネット調べてみると、やはりそのようでした。
ホームページにはNo.427700で1972年製とありますが、以前このブログ(2019.8.14)で正しいシリアルナンバーはエンディングナンバーとして判断すると、1973年製ということになるのかもしれません。

足などは新しい物に交換されているものの、鍵盤両脇の椀木のカーブの形状なども80年代以降のものとは微妙に異なるし、フレームのダンパーに近いあたりの上部にはエンボスの文字などが配されているのも、この時代までの特徴。

やはり、1970年台までのスタインウェイは、いい意味での素朴さがあり、ふくよかで厚みと太さがあります。
今のピアノは、どんな弾き方をしても華麗なサウンドでそれらしく鳴ってあげますよという一種の媚びがあり、一見奏者を選ばぬ許容量があるかのようですが、裏を返せばやたらピアノが前に出て、ピアニストや演奏を立てるというスタンスが失われている気もします。

その点で、この時代のスタインウェイは、パワーも表現力も非常にスケールの大きなものを秘めているけれど、主役はあくまでもピアニストであり音楽であり、ピアノは一歩引いた位置にあり、その潜在力を引き出すのはピアニストの技量や情熱に任されている感じ。

その点、スタインウェイに限らず今のピアノは表面的に音がきれいすぎて、整いすぎて、表現が悪いけれどそれがウザい。
それに対してこの時代のピアノは、一見おだやかそうにしているけれど、内側にはたくましい骨格と胸板と筋肉をもっており、ピアニストの扱い方ひとつで、詩人にもなればホール全体に嵐をも巻き起こせる可能性を秘めており、コンサートピアノはそうあってほしいものだと思いました。

ピアニストにとっても本当にいい演奏をしようと奮起するのは、やはりこういうピアノが現役を張った時代なのではないかと思いました。
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カレンダー

ベヒシュタインのカレンダーというのがあるようで、先月たまたま手にしました。

ふた月ごと、大小2枚(計12枚)の写真があしらわれたもので、19世紀の工場の様子を描いた銅版画(おそらく)からはじまり、ワーグナー夫妻とリスト、ハンスフォン・フォン・ビューローがベヒシュタインの前で集う様子、ベルリンの国会議事堂に納品される写真、贅の限りを尽くしたヴィクトリア女王のベヒシュタイン、バックハウスとベヒシュタインなど、貴重な絵や写真にすっかり見入ってしまいました。

ロンドンの良質なコンサートが行われる会場として、現在もその権威を保ちながら存在するウィグモア・ホールは、もともとはベヒシュタイン・ホールであったとは!?今回はじめて知って驚きでした。

まさに、このピアノメーカーは、音楽の歴史とともにあったということが窺えるものでした。


これとは対照的だったのが、暮れにいただいたS社のカレンダー。

こちらもふた月ごと、6枚の写真があしらわれたいつものスタイルですが、今回のものはとくにパラパラッと見たときから首を傾げたくなる感じが。

後部ページには『S(ブランド名)のある暮らし』とあり、『世界中の邸宅でご愛用いただいているSピアノの美しい写真を題材に制作いたしました。』と記されています。
しかし、そこにあるのはまるで人の気配など感じないマンションの広告のような光景ばかりで、あまりの無機質な感じはピアノのある心なごむ空間どころではありません。
いまどきは、ちょっとした家電のタカログでも、もっとオシャレでヒューマンなぬくもりの演出は欠かせない要素となっているものですが…。

中でも5/6月と7/8月は際立っており、その言い知れぬ違和感に思わず見入ってしまいました。
すぐにわかったのは、なんとこの2枚のピアノは、アングルからイスの位置までまったく同じ写真で、いわゆる合成画像でした。
今の時代、報道写真でもないのだから、合成というのもアリかもしれません。
しかし、技術的にも、センスにおいても、これはいささか…と思いましたし、隣り合わせに同じ写真を使うというのも、もうちょっと配慮はなかったのかと思います。

部屋とピアノは、それぞれ光の感じも質感も違うし、部屋を写したアングルと、ピアノ写したカメラでは目線の高さがズレているのか、床と鍵盤が並行に見えないあたりは気持ちが悪くなりそうです。
今どきこんなレベルのフェイクがあるのかと、正直おどろきました。

メーカーにしてみれば、ただピアノを見せるのでなく、自社のピアノがさまざまな場所に置かれたイメージによって、ゆくゆくは販売に結びつけようという目論見があるのかもしれません。
とくに現在は何にも優先して新品の販売に的を絞っているのかもしれませんが、それにしてももうすこしやり方はなかったのかと首をひねりました。

それと、甚だ申し訳ないけれど、あれが「世界の邸宅」などとといわれても、本当にそう思う人なんているんでしょうか?
せいぜい海外のTVドラマのセットぐらいなもので、ましてそれがSピアノのイメージを高め、購入への一助になるなんて、とうてい思えませんが…。

ちなみに、今は「邸宅」の概念も変わっているのか、なにかというと総ガラス張りで海が一望できたり、タワーマンションの上層階で夜景が楽しめたり、友人とバーベキューができるみたいなことが贅沢の象徴とされており、ともかく文化のレベルが猛スピードで衰退しているように感じます。
そんなに海と夜景とバーベキューって重要ですかね?

少なくともそういう価値観に遠くないカレンダーでした。
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続ピアノカバー

ピアノは内部がこもったり錆びたりという観点から、できるだけカバーをかけないほうがいいというのは、技術者さん等がほぼ口をそろえて言われます。
のみならず、個人的なイメージでは、カバーの生地そのものが湿度を吸い寄せ、含み、内部へ送り込むような気もします。

それと、あのカバー姿のピアノが発するいかにもな日本式の雰囲気もいやで、いかにもピアノを習っている人がいて、その人のみが与えられた課題を練習し、その先には先生や発表会の世界があるといった、あの感じがどうも…。

ピアノの存在によって、音楽が傍にあるというイメージには必ずしもなっておらず、どこか取ってつけたような存在というか、違和感の中で孤立しているよう。
本を読んだり絵を見たりするのと同じように、ピアノがあって音楽を身近に自然に楽しんでいるという気配はあまりない。
むしろお稽古臭が強く、それをより引き立てているものが一連のカバーだと思うのですが、カバーそのものをかける最大の理由はなによりキズ防止とホコリがしないように…なんでしょうね。
多くの日本人は、音色や音質や表現力には寛容でも、キズだ汚れだとなると世界一なぐらい嫌いますね。

少し話は逸れますが、マロニエ君はピアノの保管状況を考える時、最も基本にしているのは自分の体感です。
温度が何度、湿度が何%かという数字も大事ですが、ピアノによい環境というのは人が快適に過ごせる状態と非常に近いものだと思っており、自分が快適ならピアノも同様だろうという勝手なルールです。
個人的に湿度には敏感なほうなので、まず部屋に入って肌で感じ、それから湿度計をみるとだいたい大ハズレはしません。
室温もあまり急激に上下すると身体がきついように、ピアノも同様だと考えています。

年間を通じて、一般家庭でホールのピアノ庫のような環境を作るのはぜったい無理なので、せめて実行可能なやり方としては、この体感方式はそこそこの妥協点ではないかと考えており、我が家ではずっとこの方式です。
あまり頻繁にエアコンのON/OFFなどせず、長時間出かけるときや夜中はともかく、なるべく一定を保つようにしていますし、季節によって除湿/加湿による調整を加えます。

で、この体感方式から判断しても、一般的なカバーのたぐいはピアノが快適だろうとは思えないわけです。
さらに前回書いたように、カバーは個人的にはビジュアル上も抵抗を感じるから、我が家ではどの角度からも使わないし、ピアノを購入するときも必要ないのでお断りします。

以前おどろいたのは、ネット掲示板のようなところで、技術者の方の書き込みでピアノにカバーを掛けるのは断じてよくない、百害あって一利なしと力説されたところ、猛然たる調子で抗議の書き込みがありました。
おおよその意味は「人には住宅事情などそれぞれ問題があり、貴方のいうようにピアノだけを中心に考えることはできない。我が家はリビングにピアノがあり、キッチンから飛散する油など、いやでもカバーを使用せざるを得ず、そういう個々の実情を無視して、一方的に理想ばかりを書き込み、正論として押し付けるのはけしからん!」といったものでした。

まあ、そういわれれば「なるほどと」は思いました。
でも、それでも、マロニエ君ならカバーは掛けません。
焼肉店じゃあるまいし、毎日油が飛び散るような調理をするわけでもなし、換気扇もあるでしょう。
リビングと言ったって、コンロの目と鼻の先にピアノがあるわけではないだろうし、生活の中でわからない程度に飛散する油ぐらいだったら、蓋を閉めておけばいいではないかと思います。

それを言ったら、該当する方は多いはずで、我が家も厳密に言うとキッチンのある空間の延長上にピアノを置いているし、調理で油を使うこともあるけれど、それでカバーが必要となるほど油が飛んだということはないし、厳密にはあるんだというのなら、そこまで厳格にしなくてはいけないのかという疑問も。
それなら、他のあらゆるモノや家具や家電、天井や壁等にも同じことがいえるわけで、それらはよくて、ピアノだけがいけないということでもないだろうにと、もうひとつ納得がいきませんでした。

結局、なんだかんだと理由はあるのでしょうが、要はカバーをしているほうが安心で好きなんだと思います。

以前、とある輸入ピアノ店のサイトを見ていたら、ドイツ製の世界最高のアップライトと言われる某社の最高機種の注文を得て、やがて実物が店に届き、入念な調整の様子などが写真でも紹介され、その気品と風格はため息が出るほどのすばらしいものでした。
ところが、いよいよ購入者のお宅に運び込まれる日を迎え、めでたく所定の位置に据え付けられました!というショットを見て愕然としました。

その世界最高峰のアップライトは、嫁ぎ先へと届けられ、無事に所定の位置に据え付けられたとたん、上部にはきわめて日本的なハーフカバーがかけられてしまい、その高貴だった姿は、たちまち夜のおかずの匂いがしてきそうな庶民的な姿に変身してしまっており、見ているこちらがいたたまれない気分になりました。
高いピアノだから大事にという気持ちはわかるけど、そんなにもピアノカバーというものが必要なのか、なかったらどれほどピアノが傷むとでもいうのか、マロニエ君はどうしてもわかりません。

ピアノカバーでわからないことのオマケは、フェルトをただ細長く切っただけの「キーカバー」というもの。
キーにホコリが付かないためなら単に鍵盤蓋を閉めればいいことだし、そこへあえてあのフェルトを一枚ぺろんとおくのは何なのか、どんな意味や役割があるのか、どう考えても意味不明。

「これからピアノを弾きます」「これで今日のピアノはおしまい」というけじめのための小道具?
あれをキーの上にかけると何がどういいのか、なかったらどのようなマイナスなのか、もしご存じの方がおられたらぜひとも教えていただきたいものです。
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ピアノカバー

普段から常にピアノにカバーを掛けるという習慣というかメンタルは、どうも世界共通のものとは思えない。
詳しいことは知らないけれど、印象としてはあれはどうも日本的な特徴で、そもそも日本人は大事なモノにカバーをかけたりキズの保護をしたりするのが体質として好きというのがあると思います。

これはマロニエ君の知る限り昔から、ピアノの先生、学校、よその家もみんなそうで、我が家もごくはじめの時期だけ付属品の黒いカバーをかけていた時期がありました。

グランドは譜面台のことを書いた時にも少し触れたように、楽器のためにあんな大仰なカバーをかけることの善し悪しにくわえて、なによりあの色がいただけない。
多くのピアノが黒だから、カバーも黒というのはまだわかるとしても、内側は強烈な朱色で、ピアノのカバーにこの二色を組み合わせるということがまず受け容れられず、その激しいコントラストは目にもストレスで、まずあれを見たくないというのがあります。
そのままハロウィンの仮装にでも使えるような毒々しいセンスとしか思えない。

あれは昔からそうだったけれど、誰が決めたことなんでしょうね。
外側が黒なら、どうして中も黒ではいけないのか。
もし表と裏を区別するためなら、そうと分かるぐらいのグレーとかでもよかったと思うし、もっとはっきりさせたいのならオフホワイトでもいいわけで、なぜ時代劇に出てくる吉原の遊女みたいな朱色にする必要があったのか、これが謎です。

某工房でヴィンテージピアノにかけられていたカバーは、ミルクチョコのようなやわらかな茶色で、これならずいぶんいいなあと思ったし、聞けば現在でも普通に売っているものだそうで特別なものではないようでした。
要するに、メーカー(もしかすると日本だけ?)が新品時に付属させるカバーがあの色なんでしょうか…。

いっぽう、アップライトにもカバーをかけるのが日本人は大好きで、カバーをしなくては居ても立ってもいられないのだろうと思います。
アップライトのカバーは一段と工夫が凝らされており多種多様、こうなっては上部の前屋根が開けられることは調律時以外はないんでしょうね。

カーテンなどのように素材や色やデザインが揃い、レース編み調のものから、重々しいベルベット調のものまで実にいろいろあって、あれはもうカバーというよりはピアノに着せる服なのかもしれません。
昔は上部だけを覆うタイプが主流でしたが、そのうち全体をマジシャンのマントのように覆ってしまうものまで登場、それがまたピンクとか淡い色の花柄模様であったり、光沢のあるフリルのたぐいがこれでもかとあしらわれたりしたものだったりと、いずれも壮絶を極めています。

ああいうものに、疑問や抵抗を感じない神経を持ちながら、演奏のほうは素晴らしいというようなことがあるのだろうか?とつい考えてしまいます。
なぜなら、ピアノの演奏とは基礎となる技術と、あとは、アナリーゼだの解釈など踏まえた感興であり、ひとことで言ってしまえばセンスに尽きるのだから。

日本は文化の歴史を見ても、斬新かつ深いところまで追求された美意識の歴史があり、その奥行きと洗練の度合は並のものではなく、西洋に与えた影響も小さくないものがある。
そんな稀有なバックボーンを持ちながら、こういうセンスはどこをどう間違って我々の生活域に流入してきたのか不思議です。
もし、明治以降の西欧化の取り違えの後遺症だとしたら、センスの池に外来種の怪魚でも放り込まれたようなものかもしれません。

少なくとも、写真や映像で見た欧米の家にあるピアノでは、せいぜいちょっとしたオシャレな布が一部にサッとかけられている程度で、ピアノが部屋の雰囲気とまったく自然に調和していて、さすがという感じ。
それにひきかえ日本はというと、部屋は変にシンプル、ピアノがドカンと力士のように鎮座していて、生活と音楽がバラバラというか、ピアノが楽しそうに見えずに浮いており、それが一種独特な雰囲気になっている。

それが「ピアノのある家」みたいなあの和風な感じは、他のものがいくらオシャレになっても変わらずに引き継がれているようで、これは今後もずっと変わらないような気がします。
そこではやっぱりカバーは重要なアイテムなんでしょうね。
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簡単譜面台

率直な実感として、グランドよりアップライトのほうが使いやすいと思うもののひとつが譜面台。

アップライトの大半は、鍵盤蓋を開けると横長のシンプルな形状の譜面台が折りたたまれており、それを手前に倒して楽譜をのせる…たったそれだけ。
手軽なだけでなく、グランドよりも目線が低くて近くにあり、見やすいことも素晴らしい。
ただし、すべてのアップライトがこの方式というわけではなく、中には「トーンエスケープ」とかいって、上前板の一部を手前にガチャッと引き出すと、それが譜面台も兼ねた作りになっていて、さらにその左右の隙間から中の音が出てくるという構造のものがあります。
デザイン性や高級感の演出には良いかもしれないけれど、機能的にはいささか疑問符も…。
メーカーやモデルによっても違うのかもしれないですが、ヤマハのそれは構造上角度にも制限があるから楽譜もかなり角度が立ちぎみで、しかも楽譜を置く足場も浅いしツルツルで、やや使いづらく機能としては問題なしとは言い難いもの。

それと、譜面台使用でこの部分を引き出したからといって、その両脇から中の音がでるのは、マロニエ君にしてみればよけいなお世話であって、できるだけ静かに譜読みをしたいというときに(現実にはそのほうが多い)、これは困るわけです。

譜面台を使うと音が大きくなるという点でいうと、それどころではないのがグランドで、いまさら説明するまでもなくグランドのそれは前屋根を開けた中に格納されており、楽譜を見る=必然的に音は大きくなるという構造。

大屋根と前屋根をすべて閉じた状態がグランドでは最も音が控えめなので、夜間などこの状態でちょっと楽譜を見ながら弾きたいと思ってもなかなかそれはできません。
よく前屋根の上に楽譜を平置きにして弾く人もおられるようですが、マロニエ君かかなり椅子が低いこともあってそれではまず見えないから、どうしても楽譜はあるていど立てたいけれど、前屋根を開けるまでのことはしたくない微妙な気分の時ってありませんか?

ピアノの先生などでよくあるのが、譜面台そのものをピアノ本体から引き抜いて、それを閉じた前屋根の上にのっけて使うというスタイル。
でも、ここからがマロニエ君のこだわりですが、あれは個人的には超ダサくて、まずビジュアル的に許せない。
さらに、いったんそれをすると面倒臭くて今度は前屋根を開けることさえも億劫になるわで、いずれにしろこれだけはぜったいにしたくないのです。
さらにすごいバージョンもあり、外が黒で内側が朱色のあのカバーを、前の方だけ鍵盤に掛からないようにたくし上げ、その上に外した譜面台が載せられて、どことなく黒魔術の祭壇のようになるスタイル。
こうなると、ピアノの上は楽譜はもとより、コンサートのチラシから筆記具、さらには変な置物からよくわからないものまで、ありとあらゆるモノが雑然と積み上がってしまうものらしく、見るもぶざまで暑苦しい姿になり、あれはちょっと見たくもないし、まして自分のピアノでなんて論外。

で、やっとここからが本題ですが、グランドの大屋根&前屋根を閉じた状態で使える簡易型の譜面台が欲しいというのが、マロニエ君の長らくのささやかな希望となりました。
繰り返しますが、中の譜面台を前屋根に載せるのだけはぜったいにしたくない。
あくまでも、夜など一時的な場合のもので、小さくシンプルで、便利で、パッと取り出して使えて、終わったらパッと片付けられるようなもの。

〜といってみても、そんな都合の良いものがあるはずもなく、自作しようかとも思ったけれど自信もないし、いらい数年が経過するうちにしだいに諦めてしまっていました。

それがつい先日のこと、洗面台周辺の器具を探しにニトリに立ち寄ったとき、レジ近くの雑貨を置いている棚に金属を折り曲げただけの、ただの骨組みだけの簡単な商品があって、それは「ワイヤーイーゼル」という名の、絵の額やフォトフレームなどを床やテーブル上に立てておくためのスタンドでした。
サイズは17cm☓17cm☓19cmというコンパクトさ。
価格はわずか300円ほどで、これはもしや?と思い即購入。

下にはキズ防止のためのゴムのようなものまでちゃんと4箇所付いているのも嬉しいところ。
問題は左右の骨組みだけで中央の支えがないから、そのままでは楽譜は背表紙から向こうにストンと倒れますが、そこに板一枚置いておけば問題ありません。
もうひとつ、下の部分にフレームが滑り落ちないよう、わずかなアールがつけられていて、これが楽譜をめくるときに干渉するので、ここもちょっとした板切れでもなんでもいいので置いておけば大丈夫でした。

重さも無いに等しく、使う時だけヒョイと出して、終わればすぐに視界から消せるので、なかなかいいですよ。
長年望んでいたものが、まったく思いがけないところにあったというわけで、嬉しいような、それにしてはずいぶんあっけない結末で拍子抜けした気分でもありました。
ただ、やっぱりグランドの前屋根の上に置く楽譜というのはかなり高い位置で、これで子供なんかがレッスンを受けるのは、上を見上げるようになり大変だろうなぁと思いました。
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ジャン・チャクムル

トルコの若いピアニスト、ジャン・チャクムルの来日公演をBSのクラシック倶楽部で視聴しました。

最近のコンクールというものにほとんど関心がないこともあり、この人が昨年の浜松国際ピアノコンクールの優勝者ということも、この番組ではじめて知りました。
よく考えてみると、NHK制作のこのコンクールのドキュメントがあったのだから、それで覚えていてもよさそうなものですが、この時はある日本人ひとりに異常なほどフォーカスしすぎており、その他のコンテスタントについてはほとんど採り上げられなかったこともあって印象にありませんでした。

それで、はじめて浜松コンクールのことを検索したら、この人が昨年第10回の優勝者であり、このコンクールが3年に一度開催されていることも今回ようやく知りました。
マロニエ君はこれだけピアノが好きで、ピアニストにも興味津々なのにもかかわらず、関心がないところは切り落としたように目が向かないためか、しばしばこういうことが起こります。

今回視聴したコンサートは今年8月にすみだトリフォニーホールで行われたもので、プログラムはメンデルスゾーンのスコットランド・ソナタ、シューベルトのソナタD568、バルトークの組曲「野外で」という、個人的には好ましく感じるものでしたし、プログラミングという段階ですでにピアニストのセンスの一端が窺えるもの。

演奏を聴いて真っ先に感じることは、近頃の若いピアニストにしては呼吸と力の配分があって心地よさがあるということと、出てくる音楽に一定のフォルムと生命感があるということでした。
さらにいうと、演奏に際してわざとらしい自己主張など多くを盛り込むなく、作品の求める自然なテンポやアーティキュレーションを崩さないことは、今どきにしては珍しいタイプだと感じました。

多くの若者は評価のポイントが稼げるような演奏はいかなるものかを心得て弾いているのが透けて見え、必要以上にタメや間をとったり、どうでもいいような価値のないディテールの細部とかを見せつけることに専念しすぎたあげく、肝心の音楽が停滞することがしばしばですが、チャクムルにはそれがなく、心地よい運びで音楽が前進します。

いわゆる最上級の天才的なピアニストの演奏を味わうといったものではないけれど、楽曲の世界を心地よく周遊させてくれる、スマートな案内人のようなピアニストだと思いました。

それを裏付けるように、インタビューでも概ね次のようなことを言っていましたが、チャクムルはある程度その言葉通りの演奏ができている人だと思い、言行一致というか納得できるものでした。
「演奏家はコンサート中に情緒や感覚をそれほど重視しません。フレーズの開始やアクセントの位置、和音の解決などを現実的に考えます。音楽を正しく理解し伝えれば自然と意味が生まれます。演奏家が音楽に意味を吹き込むのではありません。正しい文法で弾けば音楽は自然に立ち上がります。練習や準備を重ね、そこを理解できるようにするのです。音楽の意味をすることと、ひらめきで弾くのとはちがいます。」

個人的には、この領域に留まる演奏というのはさして魅力を感じないことも事実ですが、演奏のプロフェッショナルとしては実際的で、変な自己アピールを押し付けられるよりは、こういう演奏をしてもらったほうがストレスなく快適というのも事実。
こういうピアニストが、知られざる作品を録音したり、実際のステージでも紹介してくれたらいいなぁと思います。


ピアノはカワイのSK-EXが使われていましたが、調べてみると、チャクムルは浜松コンクールの時からこれを弾いて優勝しており、かなりこのピアノを気に入って信頼もしているのでしょう。

実際にチャクムルの演奏や言葉に触れてみると、彼がSK-EXを選ぶというのもわかるような気がします。
マロニエ君もいつだったか最新のSK-EXをゆっくり触らせてもらいましたが、以前のカワイに比べて一段と洗練が進んで、没個性的ではある反面、嫌う要素も少なくなって、よりオールマイティなピアノにアップグレードしていると思いました。
とくに印象的だったのは、今回の演奏を聴いてもそうですが、カワイとしてはかなり雑音が少なくなっており、素朴で牧歌的でもあったものがぐっと都会風なテイストに寄せてきたという印象です。

チャクムルのようなスタンスで演奏をするピアニストにとって、ヤマハは華美にすぎるし、スタインウェイはピアノそのものが前に出すぎるだろうから、そうなると消去法でいってもカワイということになったのだろうと、勝手に想像し、勝手に納得です。

SK(シゲルカワイ)といえば、数年前に購入された知人がいて、先日お宅におじゃましてちょっと触れさせていただきましたが、いい感じに熟成されており、すっかり感心させられました。
「新品時がピーク」といわれる国内産ピアノでは、しっかりと成長しているのは素晴らしいことです。
この価格帯で買えるピアノとしては、かなり有力な存在で、好みにもよりますが有名メーカーのセカンドラインあたりを狙うよりは賢い選択となるのかもしれません。
ただし、あのロゴマークとカーボン素材のアクションに抵抗感がなければ…ですが。
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軽い!

楽しくありたいブログに、体の不調のことなど書いても意味がないし、だいいち無粋であり敢えて触れていませんでしたが、マロニエ君は今年の夏頃から少し膝の痛みを感じるようになり、整形外科など医療機関にもいちおう行ってみました。
これといって明確な原因もわからず、レントゲンを見ても幸い大したことでもないというわけで、その後は放置状態に。

主だった原因を強いて探すなら、運動不足と年齢的なもの、あとはストレスといったところが専門家のおおよその結論。
ただ、車の運転やピアノのペダル操作が、たまにつらい時があり、この先ピアノと車という人生2つの楽しみを取り上げられる時がくるのかと思うと、これはさすがに困ったことになったと思いました。

これで初めてわかったことですが、車のペダル操作に比べると、ピアノのそれは比較にならないほどの骨と関節と筋肉の労働であるということ。

さらにいうと、車のアクセルはなにしろ軽くて、そっと踏んで発進し、あとは交通状況に応じて離したり少し踏み足したりと、その動きもおだやかなものですが、ピアノのペダルときたら、ペダルじたいがかなり重く踏みごたえがある上に、その微妙な力加減や頻度というか踏む回数という点では、車とはおよそ比較にならないほどの運動量であることを知りました。

そもそも、車のアクセルはわずかな操作に終始すればいいのに対して、ピアノはまるで小動物のように絶え間なく踏んだり離したり、場合によっては小刻みにつつくような動きが必要で、しかもペダルもかなりの踏力を要することが判明、かくしてピアノは膝にとってはかなりハードな楽器であることを今ごろになって知りました。

幸いそれほひどい症状ではないから、注意してやれば弾けなくはないけれども、マロニエ君の場合、ピアノは純然たる趣味であるし、レッスンに通っているわけでも人前で弾くといった目的があるわけでもないので、弾かないならいつまでも無制限に弾かないで済んでしまいます。
そんなわけで自室のアップライトは気が向いたら触ることはあっても、リビングに鎮座しているグランドはほとんど手付かずの状態が続いていました。
しかも、そのグランドのペダルは標準的なものよりもやや重めで、技術者の方に聞いたら、中のスプリングを交換するとかあれこれの対策をいくつかおっしゃっていましたが、どうせ劇的に軽くなるわけじゃなし、面倒臭いこともあってついそのままに。

それを知人に話していたら、先日遊びに寄っていただいた折、なんとわざわざペダルの補助装置というのをお持ちくださっており、目の前に現れたそれは、金属製の手のひらにのるほどの小さな器具でした。
そういえば、こういうものがあることはネットか何かで見たような覚えはありますが、現物を見るのも触るのもこれが初めて。
それをペダルに差し込み、上からネジを閉めるだけで装着完了。

たったこれだけのことなのに、なんたることか、ウソみたいに軽くなっているではありませんか!
キツネにつままれているようでしたが、何回踏んでも、あっけないばかりに軽くて、どうしてこんなことができるのか、わけがわかりませんでした。
もともとのペダルにその装置を取り付けるから、踏む位置が約6cmほど手前に出てくるため、テコの原理でそうなるのか?とも思いますが、それにしてもその変化というのがあまりにも強烈で、こちらの頭のほうがついていけない感じでしたが、頭がついてこれなくても実際に重さはこれまでの数分の一というレベルになっているのですから、楽であることだけは紛れもない事実。

それにしても、なぜこんなに劇的に軽くなるのか、いまだに謎です。
テコの法則にくわえて、その装置じたいのわずかな重さも関係があるのかも…など思いを巡らすばかり。
もしそうだとするなら、これは鍵盤の法則を思い出させるもので、短いグランドより大型のほうが鍵盤も長くなり、そのほうが軽くコントロールもしやすいというのに似ているし、あるいは装置じたいの重さも一役買っているとしたら、これは鍵盤の鉛調整のようで、ピアノとはかくも微妙なバランスの上に成り立つ世界なのかと思う他ありませんでした。

いずれにしろ、思いがけなく良い物を教えていただきました。
あまりの効果に驚愕し、すぐに自分でも購入しようと思っていたら、なんともうひとつあるからどうぞ使ってくださいという望外のご厚意をいただき、とんでもないと思ったけれど、頑としてそのように仰るものだから、ついにはお言葉に甘えて使わせていただくことになりました。
かなり疎遠になっていたグランドですが、おかげで少し寄りを戻せるかもしれません。
なんともありがたいことでした。

ペダルの重さが気になる方は、断然オススメです。
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時代の音

当たり前なのかもしれませんが、ピアノの音というのも時代とともに少しずつ変化していくもの。

他の工業製品のように絶えず新型が出てくる世界ではないけれど、ピアノもとりまく社会環境、時代の好みや価値観、弾く人のニーズによって変化していくようです。

〜ということぐらいはわかっていましたが、最近はひしひしとそれを感じ始めています。

それが、毎年少しずつ変化しているのか、ある程度のスパンや区切りで大きく変わるのか、そのあたりは定かではないけれど、たとえば10年単位で見てみると、大雑把な世代というものがあることに気づきます。

例えばハンブルク・スタインウェイでは、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代とそれぞれの時代の音があって、古いほど太くて素朴な音、新しくなるほど華やかさが増す一方で、腹の底から鳴るようなパワーは痩せてゆき、その流れはとどこまで行くのか…という印象があります。

とりわけ昨年あたりからの新型は、なんとなく本質的なところまで変わってしまったようで、表面的には「いかにも鮮やかによく鳴っているよね」といわんばかりにパンパン音が出るキャラクターですが、その実、ますます懐の深さや、表現の可能性の幅はなくなり、整った製品然としたピアノになっているようにも感じます。

味わいだの、陰翳だの、真のパワーだのという深く奥まったこと(すなわちピアノの音の美の本質)をとやかく論じるより、新しい液晶画面のように、明るくクリヤーでインパクトのあるもののほうが、ウケるということだとも思えます。
そうしないと、大コンクールという国際舞台でもピアノも選ばれるチャンスを逸するということかもしれません。

もちろん大コンクールでコンテスタントに選ばれることがそんなに大切なのか?と思うけれど、そういう考え自体がきっともう古いのであって、メーカーにとってはこれが最優先であろうし、だからもうブレーキが掛からない。
どれだけ本物であるか時間をかけて出る答えより、パッとすぐに結果が出ることのほうが優先される時代。

ヤマハはCFXが登場して10年ぐらいになるのでしょうか?
はじめはいかにも歯切れよく、リッチで上質な音が楽々と出るピアノというイメージでした。
当初は演奏会で聞いても、モーツァルトまでぐらいの作品であれば、場合によってはスタインウェイより好ましいかも…と思えるような瞬間もあるピアノでしたが、その後はまた少しずつ違うものになっていった印象。
個人的なCFXの印象では、年々音の肉付きが薄くなり、懐も浅くなってきた気がします。

実は、こんなことを書いたのは、ちょっとしたショックを受けたから。
最近プレーヤーのそばに置いているCDがかなり聴き飽きてきたので、なにかないかと棚をゴソゴソやっていたら、フランスのピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェによるベートーヴェンのハンマークラヴィーアが出てきたので、これを聴いてみることに。
久しぶりでしたが、その鮮やかな演奏もさることながら、ピアノの音にはかなり驚きました。

録音は2008年にフランスで行われたもので、ピアノはヤマハCFIIISなのですが、これが「今の耳」で聴いてみると、なかなかいい音しているのには、かなり驚きました。
大人っぽく、しっとりしていて、深いものがあり、ある種の品位すら備えていました。

10年前ならなんとも思わなかったCFIIISの音が、こんなにも好印象となって聴こえてくるのは、それだけ最近のコンサートピアノ全体の音質が変わってきているからにほかなりません。

一時代前はヤマハもこういうピアノを作っていたんだと思うと、いろいろと考えさせられるところがありました。

いまや最新工法によるスタイリッシュなタワーマンションばかりが注目されがちですが、一時代前のずっしりとした作りの高級マンションの良さみたいな違いがしみじみ伝わってくるようでした。

いずれにしろ「重厚」というものは手が抜けず、裏付けるコストがかかるから、もう時代に合わないのでしょうね。
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定義と機会

前回の記述で、ハンマー交換に関連して思ったこと。
それは、ピアノのオーバーホールの定義とは?そもそもなにをもってオーバーホールと云えるのか?ということ。
その基準を明確に示すものはおそらくなく、ハンマーと弦とチューニングピンを交換するだけでもそう言ってしまうことがあるようですし、かくいうマロニエ君もずいぶん昔は単純にそんな風に思っていたこともありました。

当然それには異論もあり、それなら「ハンマーと弦とチューニングピンを交換済み」とすべきだとする意見は尤もで、オーバーホールというからにはもっと広範な意味が含まれて然るべき。

では、どこまでやったらオーバーホールと言っていいのかとなると、ピアノの状態にもよるでしょうし、技術者の考え方にもよるでしょうから、これは答えに窮する問題ですね。

アクションや鍵盤まわりのほぼすべての消耗品を新品に換える、ダンパーのフェルトも交換、弦を外しフレームを外して塗装、響板のニスを剥がして補修までやって、なんならボディの塗装まですべてやり変えることもあるし、中にはピン板を作り直したり、響板そのものまで張り替えるということもあることを考えると、これは正直いってどこまでという線引は簡単にできるようなことではありません。

やるとなれば際限がないし、厳密なことを言い始めたら、鍵盤も鉛を入れたり抜いたりで痩せて傷だらけだから新造し、アクションも新品にするならそれにこしたことはない。
すべてのクロスやバックチェックも交換もしくは張替えて、なんなら金属パーツも交換。
そうなると、本当に何もかもということになり、最後に残るのは、ボディとフレームぐらいになるのであって、そうなると完璧なオーバーホールというのを超えてしまって、新造の要素が勝ったピアノになってしまう気がしないでもありません。

では、そこまですれば最高の音が約束されているかといえば、それは別の話で、陶芸が釜から出してみるまでわからないというのと同様、オーバーホールもやってみるまでわからない、あるいはそこから数年経ってみないとわからないという面があり、なかなかおいそれと手が出せるものではないでしょう。
とくに作業をする人の腕前にも大きく左右されると聞きますし、さらにいえばそれを受け取って、弾いて、管理していく側にも責任の一端がありそうです。

加えて費用の面でも、やればやるだけ値は嵩み、そうなるとよほどの高級ピアノであるとか歴史的な価値がある等、ごく一握りの特別なピアノだけがこの超若返り術を受けることができるわけで、一般的な量産ピアノではほぼありえない話になってしまいます。

わけても量産ピアノの場合、コストとの厳しい睨み合いになり、最低限の消耗品の交換に留めることが現実的なオーバーホールということになりそうです。
それでもそれなりの費用となるので、日本ではとくに高級品ではない国産ピアノのオーナーでそこまでする理解と覚悟をもって作業依頼される方は、ゼロとは言わないまでも、普通はおられないと思います。

それでなくても日本人は基本的に新しい物が好きで、古いものを手入れをしながら使うという文化や習慣が薄く、住まいも、クルマも、そしてピアノも、経済さえ許せば買い換えに勝るものなしという感性なので、そこまでするなら倍の金額を出しても買い替えを選ぶように思います。
かくして、ピアノは下取りに出されることに。

量産ピアノが大修理を受けるのは、大抵の場合、いったん所有者の手を離れたこのときのような気がします。
おどろくばかりの安値で買い取りされたピアノが、消耗パーツを交換して再生品として美しく仕上げられ、そこに利益が上積みされて、新品を買うより安い…ぐらいの微妙なプライスで販売される場合。

そう考えると、日本でピアノのオーバーホール(のようなこと)がおこなわれるケースの大半は、所有者を失ったピアノが、再び商品価値を与えられる場合ということになるのかもしれません。
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続・軟化剤

〜前回の続き。
軟化剤というものを初めて使ってもらい、約2週間経ってみて感じるところは、少なくともハンマーフェルトの柔軟性復活のためにはこれはかなり有効ではないか、ということでした。

ひとくちにピアノといっても立ち位置はいろいろです。
コストを惜しまず理想を追求できるのはステージ用など一握りに過ぎず、多くは、言葉は悪いですが妥協的も必要という状況に置かれたものだろうと思います。
で、ここでは、あくまで普通に気持よく使えればいいというピアノに関しての話。

普通に気持よくとはいっても、ハンマーもある程度使い込まれていくと賞味期限が迫ってくるのは当然で、正攻法で言うとハンマー交換になるのでしょうし、それを機にピアノ本体を買い替えに仕向けるのがメーカーの狙うところでしょう。
まるで「ハンマーフェルトの寿命がピアノ本体の寿命」であるかのようで、車でいうと「タイヤが減ったら車ごと買い換えてください」みたいな感じで、さすがに車でそれは通用しませんが、ピアノは…。
これもすごいとは思いますが、まあ企業とはどのみちそのようなもの。

もしハンマー交換になったとしても、決して安くはない費用(少なくとも安い中古アップライトが一台買えるぐらい?)がかかるし、馴染むまでには調整だなんだと手間がかかり、普通の機械のように壊れたパーツを交換してハイ終わり!というようなわけには行きません。
シャンクやローラーはどうなるのか、周辺の消耗品もこまごまとあったりすると、そこをどうするか、これはもう判断を含めて簡単なことではないでしょう。

軟化剤はそういう場面での、ある種の救いの神だと思いました。
もちろん、それですべてが解決ではないけれど、差し当たり目の前に迫った問題を、一定期間先送りにするぐらいのことはできると思います。

しかしピアノの技術の中では、軟化剤の使用はほぼ聞いたことがなく、意図的に無視されているのか、よほど研究熱心な技術者の方でないとこれを試してみようということにはならない空気みたいなものを感じます。

大半の方は、言い方は悪いかもしれないけれど、技術的に主流ではない手段を敢えて使って、万一批判の対象にでもなろうものなら仕事にも支障をきたすという心配も働くのか、君子危うきに近寄らずで、あえてそんなものに手を出さないという判断かと思われます。

深読みすると、軟化剤はもしかすると、業界ではかなり疎まれる薬剤かもしれません。
なぜなら、あまりにも手軽かつ効果的にハンマーフェルトの延命措置となり得るので、これが一般的に浸透したら、そりゃあ好ましくないことも出てくるでしょうし。

マロニエ君はいうまでもなく業界の人間ではないので、純粋に軟化剤の印象をいうと、かなり効き目は高く、かつ耐久力もあると思います。
古いフェルトの場合、針刺しによる音の軟化は一時的に針穴を開けてクッションを作っても、フェルトじたいの柔軟性が落ちているので、その効果も短命で、ぺちゃんこの枕を手でほぐしてもすぐ元に戻るような感じがあります。
その点、軟化剤はフェルトの弾力そのものを復活させるので、しなやかさが増すという感じがあり、針刺しとはまったく違います。
少なくとも、硬化剤で固めるのにくらべたら、軟化剤で柔らかさを出すほうが、まだナチュラルかなとも思えるし、2週間ほど近くたってもとくに衰える(もとの硬い音に戻る)こともないのは、やはり「すごくない?」って思います。

おまけに、圧倒的に簡単かつ安価で、調整のやり直しなども必要ない。
ハンマーを交換するとなれば作業だけでも大変な上に、新しいハンマーに合わせた各種調整がフルコースで必要となり、費用もさることながら、その時間や労力は並大抵のものではありません。

交換か、買い替えか、そのままガマンか、その三択に迫られたとき、とりあえずこの軟化剤でしのぎながら、ゆっくり考えるにはちょうどいいと思います。
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軟化剤

ピアノの整音に使われる手段の一つとして硬化剤があります。

使い方も技術者によって違いはあるようですが、薄めた硬化剤をハンマーヘッドの要所に塗布してフェルトに硬さを与え、音の華やかさや輪郭を出すためのもの。

硬化剤の功罪についてはいろいろあるようで、中にはこれを好まず一切使わないというポリシーの技術者さんもおられます。
せっかく弾力のあるフェルトに液剤を染みこませて、カチカチにしてしまうのだから、シロウトが考えてもさほど好ましいことのようには思えませんが、そこはあくまで使い方次第であり、経験と技術に負うところが大きいだろうと思います。

さて、マロニエ君は以前、ある遠方の技術者の方から硬化剤の逆の作用をもつ「軟化剤」なるものがあることを聞いていたので、機会あるごとに技術者さんにそのことを聞いてみると、話には聞くけど使ったことはないという方がほとんどで、中には存在自体をご存じない方もおられました。

あるとき「持っています」という調律師さんがおられたので、聞いてみるとご自身の工房で所有しているピアノでは使ってみたことがあるけれど、あくまでテスト段階とのこと。

話が前後しますが、我が家には話題にするほどもないような、古いカワイのGS-50というグランドがあり、さほど酷使したピアノではないものの、製造から30数年が経過してさすがにハンマーもややお疲れ気味のところがあり、そうかといってハンマー交換が必要というには至っておらず、そこまでする熱意もありません。

なので、このピアノに軟化剤を使ったらいいのでは?という考えは以前からあり、それをやってくれそうな技術者の方が見当たらずという状況が続いていたところへ、この方が「使用歴あり」ということがわかり、さっそくやってみてほしい旨を伝えました。
しかし、未だ上記のような段階で実践にはまだまだと、なかなか色よい返事は得られませんでした。
テスト段階のものを、お客さんのピアノに使うわけにはいかないということらしいのですが、聞いていると、これまで試してみた限りではそう悪い印象ではないらしいこともわかってきました。

では、このピアノを実験台に使ってくださいと言ってみたものの、そういう訳にはいかないとの反応で、そりゃそうかもしれませんが、マロニエ君があまりしつこく食い下がるものだから、では自分の工房にあるピアノで使っていましばらく観察してみるので、お待ちをということになりました。

調律師さんというのは職業柄なにか作業をするにあたって、おしなべて慎重な方が多いのですが、中でもこの方はさらにもう一段二段思慮深いらしく、そこまでしなくても…というほど、何をするにも慎重の上にも慎重を期されるようで、数ヶ月待つことになりました。

というわけで、半分忘れかけた頃にご連絡があり、使う量やハンマーのどこに塗布するか、時間経過とともにどうなるかなど、さまざまに実験をされたようで、そこで一定の結果を確認されたのか、本当によろしいのであれば少しずつやってみましょうか…ということになりました。

作業はというと、これがあっけないぐらい簡単で、アクション一式を引き出してハンマーの狙った場所に塗っていくというか、液をわずかに落としていくというもの。
初回は、中音域から次高音ぐらいまでまさに微量でお試しということになり、その日は放置して翌日音を出してみてくださいということでこの日は終わり。

翌日、どうなっているかと期待しつつ音を出してみると、たしかに音にまろやかな膜がうっすら加わっており、その確かな効果を確認できました。
しかし、あまりに微量だったためか、変化はあまりにも僅かで、さっそく報告するとともに次は少し量を増やしていただくようお願いしました。

というわけで、二回目となり前回より少し量を増やして使っていただき、前回同様、一晩置いて弾いてみると、今度はかなりまろやかな音質に変化しており、これは相当な効果のあることを実感しました。

シロウトの印象でいうと、針差しで得られた柔らかさには、固いものが針でほぐされた、技術者の経験と技が作り出すふくよかさと、咲き誇る花もいずれは萎んでいくような一種の儚い美しさがありますが、軟化剤の柔らかさはもっと極めが細かく、まんべんなく柔らかさが出た感じで、すぐに元に戻りそうな感じもありません。

よって、音を創造的に「作る」という面では針刺しにはかなわないかもしれませんが、延命措置としては、これはかなり有効な手段なのかもしれません。
しばらく耐久性なども観察してみるつもりです。
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シリアルナンバーの見方

『ホロヴィッツ・ピアノの秘密 調律師がピアノをプロデュースする』(著者:高木裕 音楽之友社)という本を読んだところ、この本の中心的内容ではないけれど、長らくもやもやしていたものが解明される一節がありました。

スタインウェイ・ピアノのシリアルナンバーに関する記述で、実際に製造されたという年とシリアルナンバーがどうしても咬み合わないことがあり、疑問を感じていたものが解決することに。

具体的にいいますと、新品として仕入れた店が正確な記録として主張する製造年は、シリアルナンバーが示すものより1年以上新しいことがあり、このわずかな食い違いはなんだろうと思っていました。
べつに大したことではないし、こちらも業者でもないのでとくに深入りはせず、それで終わっていました。

スタインウェイ社のサイトなどを見ると、シリアルナンバーと製造年の対照表がありますが、その見方に関するガイドはなく、実はそこで重大な間違いがあったことが判明。

例えば553123(架空の数字)というピアノがあるとします。
表には、
554000 2000年
549600 1999年

というふうに書かれているので、554000より少し若い番号ということで、1999年製造のピアノなんだな…と判断していました。
これはマロニエ君のみならず、多くの技術者の方やディーラーなど専門家の方も、ほぼ同様だと思います。

ところが、この本を読んで思わず「えっ!」と驚いたのは、なんと、これらの対照表が示すのは
その年の「製造開始番号(Strarting Number)ではなく、Ending Number」とありました。
つまり、数字は「この番号から」ではなく「この番号まで」を表していて、それより「若い番号」が、その年の製造年となるので、553123であれば製造年は2000年ということになります。

これは「ニューヨーク本社の調律師ですら勘違いしている人が多い」のだそうで、ここを明確に説明されていることは、大きな収穫でした。
この説明によって、世の中の多くのスタインウェイは1〜2歳若返ったことになりそうです。
ちなみに数字は区切りであって生産台数ではないとのこと。


この本に書かれているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて製造されたニューヨークスタインウェイがいかに素晴しいもので、ピアノ史の中でも、それらがピークともいうべき楽器であるということが、全編を通じて述べられています。
その中の一台が、ホロヴィッツが初来日時にもってきたCD75というピアノで、現在は日本にあり、ほかに19世紀末のDなど、著者が代表を務める会社所有のピアノで、逸品揃いとのこと。

20世紀後半から現在に至るまでのピアノは、しだいに商業主義の要素を呑まされて、本来あるべき理想的なピアノとは言いがたいものになってきている面があることも頷けます。

この本を読むと、あらためてその音を聴かずにはいられなくなり、このところすっかり聴かなくなっていたホロヴィッツのCDを立て続けに5〜6枚ほど聴いてみました。
いずれも、1965年カムバックリサイタル以降のカーネギーホールでのライブ録音です。

ホロヴィッツのピアノは調整がかなり特殊だったらしく、とくに軽く俊敏なタッチにこだわったようですが、実際の音として聴いた場合どうなのかを確認してみたくなったというわけです。
果たして、耳慣れたハンブルクとはまったく別物で、風のような軽やかさと炸裂が同居し、魔性があり、その絢爛たる響きは、もう二度とこんなピアノは作れないだろうと思うものですが、ではそれが好みか…となると、そこはまた別の話。

触れたらパッと血が吹き出しそうな、刃物みたいな印象で、ホロヴィッツという、ニューヨークに棲む亡命ロシア人にしてカリスマ・ピアニストが紡ぎ出すデモーニッシュな音の魔術としてはうってつけだと思いますが、純粋に一台のピアノとして聴いた場合、ヒリヒリしすぎて必ずしも自分の好みは別として、これがホロヴィッツの好んだ音ということは確かなようです。

さらに上の世代のヨゼフ・ホフマンもニューヨーク・スタインウェイを弾いた大巨匠ですが、ホフマンの音はもっと厚みがあってふっくらしており、必ずしもホロヴィッツの好むピアノだけが、当時のスタインウェイを代表する音かどうかは疑問の余地がありそうでした。
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OHHASHIの本

いつもながら情報には疎いマロニエ君ですが、またも人から教えていただいて『OHHASHI 幻の国産ピアノ“オオハシ”を求めて いい音をいつまでも』という本が出ていることを知り、さっそく購入/読了しました。

本棚には『父子二代のピアノ 人 技あればこそ、技 人ありてこそ OHHASHI』というのがあるので、大橋ピアノに関する書籍はこれで二冊目となりますが、発行は新旧いずれも創英社/三省堂書店となっており、これはどうも偶然の一致ではないのでしょう。

大橋幡岩という日本のピアノ史の巨星が成し得たとてつもない数/量の仕事、人柄、その足跡、大橋ピアノ研究所の設立に至る経緯などが簡潔に述べられ、あらためて日本のピアノ界にとって避けて通ることのできない、極めて歴史的な存在であったことがわかります。

読むほどにピアノを作るために生まれてきたような人物ということが伝わり、日本楽器(現ヤマハ)、小野ピアノ、山葉ピアノ研究所、浜松楽器、大橋ピアノ研究所と折々に居場所を変えながら、どこにいってもその冴え渡る能力は常に輝きを失わず、10代前半から84歳で亡くなるまで生涯現役、まさにカリスマであったようです。

また、ピアノだけでなく、工作機械なども多数設計している由で、その能力はピアノという範囲にとどまりません。
目の前に必要や課題があれば当然とばかりに学び、頭が働き、たちどころになんでも作り出して問題を克服できるという、ものづくりの天分に溢れかえった人だったと思います。

ただ根っからの職人であり理想主義であるため、ピアノ製造においても妥協を嫌い、手を抜かず、とことんまでやり抜く厳しい姿勢は、当然ながら利益を優先したい会社と意見が合わなくなり、そのたびに辞職を繰り返し、最後に行き着く先が自身の大橋ピアノ研究所の設立だったことも、まさに必然以外のなにものでもないでしょう。

大橋幡岩はピアノ製作の天才であり、職人原理主義みたいな人だったのかもしれません。
彼に決定的な影響を与えたのはベヒシュタインであり、日本楽器が招聘した技術者であるシュレーゲルによる薫陶は生涯にわたってその根幹を成したようです。

驚くべき仕事は数知れず、通常のピアノ設計/製作以外にも、ピアニストの豊増昇氏の依頼でベーゼンドルファー用の幅の狭い鍵盤一式を作ったり、通常のアップライトの鍵盤の下に、引き出し式でもう一段細い鍵盤が格納された二段鍵盤、あるいは日本楽器時代には奥行き120cmの超小型グランドピアノを試作していたり、戦時統制下ではグライダーのプロペラから部品まで、とにかくなんでもできる万能の製作者なんですね。

また彼は若い頃から「記録魔」だったようで、生涯にわたって書き留められた膨大な資料が残っており、いまだに完全な整理はできていないとのこと、どこを見渡しても、この人は尋常一様な人物ではなかったようです。

幡岩の死後、わずか15年ほどで息子で後継者の巌が急逝したことで、OHHASHIピアノ研究所(いわば)が廃業に追い込まれたことは、残念というありきたりな言葉では言い表すことができない、やるせないような喪失感を覚えます。

たいへん興味深く読ませてもらいましたが、興味深い故の不満も残りました。
というのも、わずか全212ページのうち、大橋幡岩や大橋巌、およびOHHASHIピアノに関する著述は138ページまで、それ以降は24ページにわたってごく一般的なピアノの仕組みの解説となり、さらにデータ、資料が続く構成になっていました。

できればもう少し詳細に、大橋父子や、その手から生まれたピアノに関する深いところを深掘りしていただき、細かく知りたかったところですが、さほど分厚い本でもない中で、本編ともいえる部分は全体のわずか65%に過ぎなかったのは、いかにも残念でというか、「えー、もう終わりー?」というのが正直なところでした。
とくにピアノ関連の本ならいくらでもある「ピアノの仕組み」の章など、あえてこの貴重なOHHASHI本の中に入れ込む必要があったのか疑問です。

また、タイトルはOHHASHIかもしれないけれど、大橋幡岩の名器であるホルーゲルや、いまだにその名が引き継がれて生産されているディアパソンについても、もっと詳細な取材を通して切り込んで欲しかったと思います。
浜松楽器に時代に生まれたディアパソンが、どのような経緯や条件のもとでカワイに生産委託されていったのか、また同じディアパソンでも、浜松楽器時代とカワイでは、どういう特徴や違いがあるかなども、もっと突っ込んだところを書いて欲しかったと思いますので、続編でも出れば嬉しいです。

この本を書かれたのは、ピアニスト/音楽ライターという肩書の長井進之介さんという方です。
まったく存じあげず、ネットで検索してみると、ラジオDJなどマルチな活動をしておられるようで、野球のイチローをインドア派にしたような感じで、いろいろなことに挑戦をされているご様子にお見受けしました。
このような本を上梓されただけでもピアノファンとしては感謝です。


もう少しで読了するというタイミングで、知り合いの技術者さんから電話で聞いた話では、大橋の甥御さんという方が浜松におられてピアノに関わる技術のお仕事をされており、その仕事ぶりは高い信頼に値する見事なものだそうで、幡岩のDNAが実はまだ完全には絶えていないことを知り、なんだかホッとしたような嬉しいような気になりました。
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好きなピアノを-2

前回、一般のピアノ購入者だけでなく、ピアノ先生や技術者の方も専門的立場の意見として、YKが最も妥当な選択だと考えていることを思い出したので、もう少し。

何年も前のことですが、ある技術者さんとの間で、ピアノの評価が決定的に食い違いがあることを知って、内心非常に驚いた事がありました。

ある場所に貴重なハンドメイドのピアノがあって、それを所有者の方のご厚意で弾かせてもらったことがあるのですが、それはいわゆるYKのような量産ピアノにはない歌心、自然に広がるような響き、色の濃淡、心を通わす優しみがあって、それだけで楽しく、いつまでも弾いていたようなピアノでした。
ピアノとしての機能も充分で、いわゆるピアノという名の器具ではなく、本物の楽器といった趣がありました。

ところが、その技術者さんは至って冷淡というか、このピアノの良さをほとんど認めていないといった様子で、YKのような品質には及ばないと断じる発言がぽろぽろ出てきました。
所有者はご不在でしたので、技術の方も忌憚なく感想を言える状況だったのです。

低評価の理由は、音が均一でないとか、造りが曖昧でYのようにきっちりしていないなど、製品としての品質がまず気にかかるといった様子でした。
YKばかり触っている技術者さんは、どうしてもそれが当たり前となり、作りの精度や音が揃っているかということが判断のポイントのようで、そこに固執し、音質や表現力を一歩離れて判断してみようという気がないらしい印象をもちました。

もちろんある程度均一に整っていることは大事だけれども、そもそもの音質そのもの、曲が流れだしたときにどれだけ音楽的に歌える楽器かどうかのほうが重要で、人工的に味つけされた無機質な音がいくら整っていても、個人的にはそんなにありがたくはありません。

しかし技術者の方は、どうしても自分の職業上身についたポイントにフォーカスされて、そんな日常の習慣を急に変えることは難しいのかもしれないとは思いました。
また、専門家としての自負もおありだろうし、高名なピアニストなどが言うことならともかく、一介の音楽愛好家の意見や感想は、技術のことがわからないマニアのたわごとのように感じるのかもしれませんね。

たしかに技術者サイドで云えば、YK、とりわけYの製品は、仕事もしやすいようで技術者さんを悩ませるような問題もトラブルも皆無に近いのでしょうし、仮にあっても対処がしやすい、しかも音は揃ってよく出て、作りも機能も良いとなれば、評価が高くなるのも分からないではありません。

でも、技術者さんにとって仕事がしやすくても、無機質無表情な音がどれほど揃っていても、喜びがなければ意味がないし、それで本当に音楽をする心が育まれるのか、それが重要な点だと思います。
個人的には、簡単な曲を弾いているだけでも、そこに曲の世界が広がり、ニュアンスがにじみ出てくるような楽器であることが重要だと思うのですが、これはYK支持者にはいくら言ってもキレイゴトに聞こえるのか、なかなか届きません。

それと、技術者さんは半年か一年おきにやって来て、数時間そのピアノと接するだけで、終われば次のピアノにかかわるから、まあそんな安全第一みたいなことも言っていられるのかもしれませんが、弾くほうは年中そのピアノと付き合うわけで、そうなると表現力や喜びや楽しさは、何にも代えがたい最重要項目です。

キーに触れ、音を出すだけでちょっと嬉しくなるようなピアノ、そんなピアノで日々練習することの大切さは、そういうピアノと過ごしてみないとわからない。
ピアノというのはなかなか比較する対象もチャンスもないから、そこに気づかないまま長い期間をすごしてしまうことになり、かくいうマロニエ君も自分がそれに気づき始めたのは二十歳を過ぎてからのことでした。

今どきはみなさんコンビニ弁当やファミレスの食べ物などに含まれるという添加物への心配とか、食材の産地やオーガニックといったことにはかなりこだわりがあるのに、なぜかピアノとなるとずいぶん寛容だなあと思うばかり。

たしかに情報は極端に少ないし、専門家と称する方々やシェフに類するみなさんがこぞってコンビニやファミレスやレトルト食品を大絶賛して、街の小さな手料理を出すお店をけちょんけちょんにけなしまくるのですから、聞いたほうは「そういうものか」と思ってしまうのだろうとは思いますが…。

ピアノは人の言いなりではなく、本当に気に入ったものを側に置きたいものです。
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好きなピアノを

先日、知人と話題になったこと。
外国のことはわからないけれど、少なくとも日本では、どうしてピアノといえば大手の量産品、もしくは海外の高級有名ブランド、そのいずれしか売れないのか。

おそらく多くの人達はピアノを楽器として捉えるのではなく、車のような品質もしくはブランド性を求めているのではないかと思いました。
「楽器として捉える」なんて言ってみても、掴みどころがなく、「いい音」などといってみても基準がない。
ピアノ店に行ってもYかKばかり並んでいれば、しょせんはその中での相対的なもので、おおよそこんなものだと思ってしまうだけでしょう。

正直ボストンがどんな品質/位置づけなのかもわからないし、ディアパソンでさえも長年カワイが作ってきたにもかかわらず、マイナーブランドという括りから抜け出すには至らず、聞いたこともないという人のほうが圧倒的多数。

その判断となる耳を養うには、ひたすら多くを経験するしかありませんが、それも実際問題としてなかなか難しい。
仮の話ですが、もしもコンビニのデザート(便利で美味しいですが)しか食べたことがない人がいるとすると、味覚がそれに慣らされてしまって、突然手作りケーキなどを食べても、素直にそれを美味しいと感じることができるかどうか…。
要は耳を鍛える環境がほとんどないというのはあると思います。

YKであふれる店内に、もしぽつんと名も知れないピアノがあったとしても、不安しか感じないのはわかります。
逆にいかにYKが世間で認められ、多くの人がこれを選んできたということで頭のなかは整理され、買うならやっぱりYKの中からということになるような気がします。

ネットの質問コーナーなどを見ていると、回答者のYKがいいという異様なまでの偏重と思い込みには驚かされます。

まれにシュベスターその他に関心を持った人がいても、YKばかり触り慣れた技術者が出てきては全否定の嵐で、「手作りピアノなんて云うと聞こえはいいが、要するに町工場でトンカチで作っているようなものだから、品質のばらつきがあるし、リスクが高いからオススメはできません。もし音が気に入って、リスクがあることまでしっかり理解された上で買われるぶんはいいかもしれませんが、自分ならたぶん買わないです。」…みたいなことをいわれたら、そりゃあ大半の人はびびってやめてしまうでしょう。
「とんだ粗悪品をつかまされるところだった。やっぱり専門家の意見を聞いみるべき。」となり、せっかく開きかけた感性は潰されて、YKをお買い上げとなる。

でも、ばらつきが多いとかリスクがあるとか、見てきたようなことをいいますが、実際にどれだけの数を触り、経験した上で言ってるの?って思います。
YKでも、管理状態しだいでボロボロで、中古品では裁判に発展するような事案もあるとかで、当然ながらケースバイケースだと思います。
そのあたり、とくに技術者は現場を見てきた経験をもとに言いたい放題、「壊れても保証はないし、長く使われることを考えたら、品質が安定してオススメできるのはやっぱりYKということになりますね。」などと、まるで購入後数年で使えなくなる怪しい粗悪品でも買うように言うのですから驚きます。
こういう大手偏重の価値感が、日本の小さな良心的なピアノメーカーを駆逐してしまったようにも思います。

ピアノを楽器として見ようとする気持ちのかけらもなく、ただの工業製品としてしか捉えないのは、ピアニストなら片っ端から暗譜で弾けることだけを自慢にする御仁と同じようなもので、これほど魅力のない退屈なものはありません。

そもそも、昔の外車やパソコンじゃあるまいし、壊れるって何が壊れるんでしょう?
天下のヤマハだってアップライトのなんとかいうパーツは壊れたり切れたりするのが普通らしいし、グランドでもボンセンと言って巻線の弦が経年でダメになることもよくあることなのに、それらはまったく糾弾の対象になりません。

マロニエ君も過去何十年も、いろいろなピアノと付き合ってきましたが、自分の管理の悪さが原因のコンディションの悪化とか、消耗品の消耗以外で、壊れた、もしくは使うに値しない状態になってしまったということは一度もなく、技術者の言うリスクとはなんなのかいまだに不明です。
自分が使うピアノぐらい、一般論に縛られず、好きなものを側に置くことが最も大切だと思いますし、失敗しないため云々という言葉を聞きますが、それで好きでもないピアノを買ってしまうことのほうが、よほど深刻な失敗だと思うんですけどね。
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長江鋼琴

チャイコフスキーコンクールでの衝撃デビューとなった中国製ピアノの「長江」。

その音は実際の空間ではどんな鳴り方をするのかわからないけれど、少なくともネット動画で聴く限りは、ちょっと前のハンブルクスタインウェイ風で、強いていうなら、現在のスタインウェイよりもやや重みのある感じさえあるような…。

全体のプロポーションはもちろん、椀木の微妙な形状、他社に比べてやや上下に薄いボディの側板から支柱がはみ出ているあたりまでそっくりだし、突上棒なんてハンブルクスタインウェイそのものという感じです。

それでもしや…と思ったこと。
それは長江ピアノの登場と、スタインウェイのマイナーチェンジには、因果関係があるのでは?ということ。

あくまでマロニエ君の個人的な想像の範囲を出ませんが、長江が世に出てくることを察知したスタインウェイが、差別化のためにディテールの変更したということも、まったく考えられないことではないような気が…。
折しも、スタインウェイはニューヨーク製とハンブルク製の共通化という、二重の意味合いもあったのかもしれません。

新しいハンブルクのDには、ハンブルクだけの伝統であった大屋根を止めるL字のフックが無くなり、それにより、もともと無いニューヨークとの共通化にもなるでしょうし、長江との差別化という副産物にもなる。
突上棒もニューヨーク風の二段式に形状を変えたので、長江が三段式のハンブルクデザインをいただく。

長江のほうは、前足がやけに前方寄りになっていると書きましたが、これはスタインウェイのコピーじゃないんだというアリバイ作りのための、意図的な位置ずらしではないかと思うのですが、これもあくまで想像。

コンクールのステージなので、譜面立てのデザインがわからずネットで探したら、あー、やっぱりハンブルクスタインウェイのスタイルで、これもスタインウェイのほうが形を変えてしまっています。

この真相は那辺にあるのか、似すぎることを嫌がってスタインウェイのほうが形を変えて逃げているのか、あるいは両社である種の合意が裏で成立しているものなのか、疑いだしたらキリがありません。

そもそも、中国のピアノといえばパールリバーとかハイルンなどしか有名どころは知らなかったところへ、いきなり長江というブランドが世界のステージに躍り出てきて、きっと業界でも驚きが広がっていることでしょう。

調べると、どうやら2009年の創業のようで、わずか10年で国際コンクールの公式ピアノに認められたあたりも、いかにも中国らしい巨費投入と技術模倣によるタマモノなのか、常識ではあり得ないスピードですね。

長江ピアノのサイトを見ると、意外なことに人民元での価格が出ており、円換算すると、188cmモデルが約500万円、212cmモデルが約580万円、275cmモデルが約1550万円となり、なんか微妙なプライスですね。
前2つの価格からすれば、275cmも900万円台ぐらいでは?という気もしますが、コンサートピアノが安すぎると面子に関わるからあえて高く設定されているのか、そのぶん品質も違うのか…どうなんでしょう。

因みにこの3モデルは、それぞれスタインウェイのA型、B型、D型にほぼ該当するサイズで、やはり直球で中国版スタインウェイのようです。
ま、F-35の模造品といわれるステルス戦闘機まで堂々と作って飛ばして配備してしまうお国ですから、それに比べれば、たかだかピアノなんぞ驚くにはあたらないのかもしれませんが…やっぱり驚きました。

いずれにしろ、ピアノの世界も相当へんな事になってきているようです。
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思わぬ衝撃

第16回チャイコフスキー・コンクールが終わったようですね。

いまや、ネットを通じて実況映像を楽しむこともできるようですが、もはや世界が驚くような特別な逸材が出るとも思えず、出たなら出たで、あとからで結構という感じで、最近になってようやくその演奏動画の幾つかに接しました。

想像通りみんなよく弾けて、多少の好き嫌いはあるとしても、その中で優勝者が頭一つ抜きん出ていたらしいというのも納得できました。
ただ、このコンクールでフランス人の優勝というのは記憶にあるかぎりはじめてのような気もしたし、ファイナルでチャイコフスキーの協奏曲は王道の第1番ではなく、第2番を弾いたのもフランス人らしいような気がしました。

なんとはなしに感じることは、コンクールのスタイルは昔から変わらないのかもしれないけれど、そこに漂う空気はますます競技の世界大会という感じで、表現もアーティキュレーションも指定された範囲をはみ出すことなく、求められるエレメントに沿って、いかにそれを完璧にクリアできるかというのがポイントのようで、まったくワクワク感がありません。

この場からとてつもない天才とか、聴いたこともなかったような個性の持ち主があらわれることはあり得ず、上位数人ほどの順位が今回はどう入れ替わるかを見届けるためのイベントなのでしょう。
少なくとも稀有な芸術家がセンセーショナルに発掘される場ではないことは確かでしょう。

現代では、才能と教師と環境にめぐまれ、どれほどピアノがスペシャル級に上手くなっても、その先に待っているのはコンクールという「試合」であって、そこで戦い勝つことがキャリアの確立であり、いずれにしろ音楽の純粋な追求なんかではないのが現実。
コンクール出場は就活だから、メジャーコンクールで栄冠を取るまで、若い盛りの時期を年中コンクールを渡り歩いて心身をすり減らさなくてはならないわけで、それを考えるとお気の毒なような気がします。


ネットでつまみ食い的に見ただけですが、ピアノへの印象は、ますます各社のピアノは似てきたということ。
とくに落胆したのはスタインウェイで、昨年あたりから始まったモデルチェンジにより、見た目もずいぶん簡素化された姿になり、実際その音も、奥行きのない表面的インパクトばかりを狙った印象。

ヒョロッとした突き上げ棒の形状、あいまいな形状の足など、伝統的なメリハリの効いた重厚なディテールはなくなり、どこかアジア製の汎用品でもくっつけたようで、かなり軽い姿になってしまい、スタインウェイをそうしてしまった時代を恨むしかないのかもしれません。

今回なんといっても「うわっ!」と声が出るほど驚いたのは、なんと、中国製のピアノが公式採用されていることでした。
中国人のピアニストが弾いているピアノのボディ内側の化粧板が明るい色合いのバーズアイというのか、ウニュウニュしたものだったので、はじめはカワイかな?ぐらいに思ったのですが、カメラが寄っていくとカワイではなく、ファツィオリでもなく、むろんスタインウェイでもヤマハでもなく、なにこれ???と思っていると、手元が映しだされた瞬間我が目を疑いました。

そこに映し出されたのは、鍵盤蓋とサイドのロゴに毛筆で書いたような「長江」の文字でした!
ピアノに漢字とは、中国人ならやりそうなことではあるけれど、現実にそれを目にすると(しかもチャイコフスキー・コンクールのステージ上で)、あまりにすごすぎて頭がくらくらしそうでした。
しかもそのロゴデザインには英文字のYangtze Riverと毛筆の長江の文字が組み合わされて「Yangtze 長江 River」となっていて、左右バランスもばらばら。
中国人のセンス、すごすぎます!

意外なことに、音は、ロゴほど異様ではなく、まあそれなりの違和感はない程度のもっともらしいピアノの音ではありましたが、全体のフォルムはスタインウェイDのコピー(フレームはなんとなくSK-EX風?)という感じで、今の中国はすべてこのノリで世界を呑み込もうとしていることを、いやが上にも思い知らされました。

弾いているのは、中国人ピアニストだけのようにも見えましたが、さぞかしそうせざるを得ない事情があったのでしょう。
こんなピアノを見ると、なんかいろいろなことが頭をよぎってもういけません。
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イースタイン

最近、とあるきっかけで一人の熱心なピアノファンの方と接点ができました。
驚いたことに同じ福岡都市圏内にお住まい、小学校のお子さんがいらっしゃる女性ですが、この方は弾くことはもとより楽器としてのピアノに深い関心をお持ちで、さらに知識もきわめて豊富で驚いているところです。

4月に東京に行ったとき、何人もの女性技術者とお会いして、その並々ならぬ実力に舌を巻いたものでしたが、マニアの分野にもこういう方がいらっしゃるのを知り、驚きはさらに倍増しています。
性別でものを言ってはいけない時代ですが、うかうかしていたら男性は本当に置いてけぼりを食らうことになりそうです。

ごく最近もメールのやり取りの中で、イースタインが話題となり、以下のようなメールがサラッと届きました。
これはもうマロニエ君ひとりで読むのはもったいないと判断し、ご了解を得て一部ご紹介します。

***
イースタインのGP(250型 200型 O型)を設計された杵淵直知さんの本にも、日本のピアノは日本的発声〜フォルテで喉を詰め、良く言えば日本的なさびみたいなものがある、童謡等の幼児の時代から喉を詰めた固い声を張り上げて歌う音に耳が慣らされてしまう、室内に於いても畳は美しい響きを吸い取り、がらんどうに近い天井も障子も音に旨味を与えるどころか外に逃げてしまう、機械的には世界の一流品に匹敵しながら音だけはどうしてこうなのか、日本民族の生活環境がそうさせるのではないか…等記されてました。

この杵淵さんは幡岩さんに師事しグロトリアンやスタインウェイ工場で技術を学ばれた後に帰国され日本で活躍されたそうですが、54歳の若さで脳溢血で急逝されています。
以前、あるピアノ店の調律師さんに聞いたのですが、調律は息を止めて音を合わせるから酸欠になって血管系の病気になりやすい、周りにもそれで急死した人が数人いるとのことでした。
だから昔は無理して一日4件調律にまわっていたそうですが、今は2件しかしないようにしているそうです。
ピアノが好きであれば、一日ピアノを扱えて羨ましいなぁー等と呑気に考えておりましたが、実はとても大変な仕事なのだと思いました。
長い時間メンテナンスされる技術者の方もいらっしゃると仰ってましたので…素人ながらも少し心配な気もいたします。

杵淵さんの本の中で響板についての記載もありました。
日本は現在(1970年代)エゾ松を使ったピアノは殆ど見当たらない、エゾ松は音に伸びがあり粘りもある。一般的日本人は日本製のものよりもアラスカのスプルースを輸入している、とした方が高級感があって喜ぶ…とのことでした。

響板の乾燥工程も他メーカーの乾燥室を見学したら、最も大切な時間という材料を使わなかったから経年による組織変化等の思いも及ばなかったのであろう、呆気に取られた、干大根と生大根で同じ干したものでも味は全く違うというわかりやすい例えもありました。

やはり音というのはそれまでの過程により良くも悪くも明瞭に反応してくれるのですね。とても興味深いです。
手工芸品が採算度外視になるのも仕方ないかと思いますが、贅沢ですが楽器は手工芸品であってほしいとも思ってしまいます。

イースタインは特に九州は殆ど存在してなさそうですね。
東洋のスタインウェイを目指して作られたとも記されておりました。
日本の高度な技術を戦争の為ではなく平和の為に作られたと聞いて素晴らしいと思いました。
U型はリットミューラーという名のピアノを参考に初のアップライトとして開発したモデル…とありました。工場の宇都宮の地名からUを取ったようです。

B型はブリュートナーのBの頭文字から来ているもので、(チューニングピンの埋め込んである鉄骨部分がくり抜かれ、真鍮製の板を埋め込んでいるのを模倣している)大橋デザインのディアパソンGPに弾いた感じが似ているとのことでした。
アップライトではB型が一番いいみたいですね。
因みにT型というのはB型をベーゼン仕様に設計変更したもの(設計した人の頭文字)だそうです。
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ストリートピアノ

ちかごろ、ストリートピアノというのか大変な盛り上がりをみせているようですね。

そもそもの発祥はどこなのか…海外なのか、そのあたりは知りませんが、とりわけこの1〜2年ぐらいは日本国内でも、雨後のたけのこのように数が増えているようで、そうなると次から次でいまさらながら日本って流行りものに弱いんだなぁと思います。

マロニエ君は数年前NHKのドキュメント72時間とかいう番組で、宮崎市の商業施設の一角に置かれたピアノが取り上げられたことでその存在を知ったと記憶していますが、本物にお目にかかったことはまだ一度もありません。
海外でも、駅や空港などに置かれたピアノを、通りがかりの人がおもいおもいに弾いて楽しむ様子が、よくテレビで流れているので、どうやらこれは世界的なブームでもあるのでしょう。

これに使われるピアノの多くが、弾かれなくなり処分に困り、粗大ゴミに限りなく近づいた、先のないピアノの再利用といった一面があるあたりは、廃物利用で多くの人が楽しめるという点では画期的なことかもしれません。
マロニエ君的には突っ込みどころもないではないけれど、こういう遊び心の領域にあまり目くじらを立てることは無粋というものだから、これはこれで素直に楽しい気分で眺めていればいいものだと思っています。

楽器の設置環境としては、かなり厳しい場所にピアノを置くということや、あまりに派手なペイントやラッピングが施されるというのは、単純に「わー!」とは思うけれども、かといって、黒や木目のピアノをそのままポツンと置いても、場所柄地味で雰囲気も暗いだけというのもわからないではないし、ポップに仕上げるのも致し方のないことかもしれません。

それでもピアノはピアノであって、Tシャツではないのだから、あまりにド派手なペイントなどを見ると、さすがにちょっと…と思うこともありますが、一方で今どきのなんでも禁止、なんでもダメ、とりわけ音の出るものにとっては甚だ肩身の狭い世の中で「どうぞ自由に弾いてください!」というのは、ずいぶん気前のいいものにも感じます。

だれがどう弾いてもいいのがストリートピアノのルールでしょうけど、個人的にはそこにも暗黙のルールがあるような気がします。
まずはやはり楽器に著しくストレスを掛けるような弾き方をしないなど、まあ常識レベルのことでもありますが、もう一つは、そこそこ弾ける人が、ここぞとばかりに腕自慢のための演奏をするのは適しない気がします。

もちろんストリートピアノというものが、誰でも自由に弾いていいという建付けである以上、巧拙不問なのがいうまでもないけれど、中には周囲の視線を意識し過ぎるほど意識しながら、難曲大曲をバリバリ弾く光景をYouTubeなどで見たことあり、あれってどうなの?って思いましたね。
妙に浮いていて、周りもよほど拍手喝采かとおもいきや、意外にそうでもなく、熱演し終わった奏者が「あれ?」みたいなこともあって失笑したり。

そういう人がこういう場所を使って過度な自慢を繰り広げると、その狙いが周りにも伝わってしまうようで、結果的に期待するほどの効果が上がらないんでしょう。

本人がカッコイイと思ってやっていることが、実はカッコ悪くて、むしろ周囲の意識が逆流しているときって、いたたまれなさとザマミロという気分がミックスになります。
上手くても下手でも、なにかしらのピュアなものが伴わないとストリートピアノの意味が無いような気がします。
いっそプロフェッショナルのピアニストが弾いてくれたらいいかもしれないけれど、「難曲が弾けるシロウト」というのが一番やっかいです。


今年の春頃だったか、小池さんの肝いりなのか、東京都庁の展望室には一般から寄贈されたグランドに草間彌生さんの水玉模様を貼り付けた「おもいでピアノ」なるものが登場したこともあってか、テレビニュースなどでストリートピアノの事が特集されていました。

引っ越しを機に、ピアノを手放すことを余儀なくされた女性にスポットを当て、半生をともに過ごしたというピアノをストリートピアノに提供するというもの。
「我が子を里親に出す心境」なんだそうで、なるほどと思いました。

番組によれば40年前には31万台売れていたピアノは、現在ではわずか1万3千台ほどになったというのですから、その落差は凄まじいものがあるんですね。
時代や価値感の変化はもとより、近隣への騒音問題は如何ともしがたいものがあり、音の出るものというのは喫煙並みに肩身の狭いものなのかもしれません。
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ガブリリュク

日曜夜のEテレ・クラシック音楽館で放映された今年のN響定期から。
アレクサンダー・ガブリリュクのピアノ、パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を視聴しました。

ガブリリュクは昔、浜松コンクールで優勝した人だったけれど、マロニエ君はあまり興味をそそられなかった人で、コンクール終了からほどない時期だったと思いますが、ベートーヴェンの月光が入ったCDがリリースされ、それを買って聴いたことがあるぐらいでした。
それがあまり好みではなかったこともあり、それっきりで、たぶん彼の演奏を聴くのはそれ以来か、クラシック倶楽部などで聴いたのかもしれないけれど、ほとんど記憶らしいものがなく、事実上初めて聴くのに近い感じでした。

さて、これが思ったよりもよかった。
いい意味で「今どき」の演奏ではなかったため、つい「早送り」も「停止ボタン」も押すことがないまま最後まで聴き入ってしまいました。
考えてみたら、ラフマニノフの2番をじっくり通して聴いたのもずいぶん久々だったような気がしますが、曲も演奏もずいぶん懐かしいものに触れたような良さがあり、昔ならごく普通だったものが、今どきは新鮮なものに感じるようになったことをはっきり認識させられました。

力強いタッチ、大きくて厚みのある手、余裕のある技巧、見せつけのためのヘンな誇張やわざとらしさのない、ストレートな喜怒哀楽を含んだ話を聞くようで、必要な場所に必要なパンチもあれば、リリックなところはそのようになるメリハリもあって、それだけでも心地よく感じるものです。

今どきの若いピアニストでうんざりしていることを繰り返すと、線が細く、楽器が鳴らず、なにも感じていないのに感じている素振りをところどころに入れたり、あるいは完成された解釈やアーティキュレーションをコピペのように用いる。
さらに自己顕示のための見せ所はいくつか設けて、意味もなく音楽の流れを停滞さるなど、そういう首尾一貫しないものの寄せ集めだから当然演奏としての辻褄は合っていないけれど、指はほとんどミスもなく動くため、曲は終わりまで進み無事終了ということにはなる。

その点ガブリリュクは、とくにどこがどうというような特筆すべきことはないけれど、情熱と活気を伴いつつ、真っ当なテンポにのってぐんぐん前に進んでいくだけでも快適でした。

とくにライブでのコンチェルトの場合、ソロとオケがピッタリ合うことは建前としては必要だけれども、それだけで良いのかといえばマロニエ君はどこかそうは思えませんし、あまり小ぎれいにまとまり過ぎると室内楽のようになってしまうこともしばしば。
やはりソロ対オーケストラという形態を考えると、節度は必要だけれども、即興性やわずかなズレやはみ出しであるとか、ほんの心もちソロが全体を引っ張っていくような、生命感を感じる演奏をマロニエ君は好みます。
興がノッて、ときに飛ばしすぎの危険を感じるほど、推進力をもって進むときの気持ちよさは、協奏曲を聴くときのちょっとした醍醐味のようにも思うのです。

ガブリリュクの演奏は、今どきのシラけた演奏のもやもやを吹き飛ばしてくれるような、筋の通った演奏でした。
突っ込みどころもないわけではなく、彼の演奏のすべてを肯定するには至らなかったものの、一回の演奏としては、単純に満腹感を得られる演奏でしたし、ステージの演奏の魅力というものは、まずはこういうところからではないかと思います。
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大事なこと

このネット社会ではピアノ販売も例外ではないようで、すべてではないかもしれませんが、多くのピアノ店はネットをなんかのかたちで活用されているのは今更いうまでもないことでしょう。

過日行かせてもらったヴィンテージピアノ専門の某工房では、仕上がったピアノはすべて、ご店主と昵懇の間柄という男性のピアノの先生が工房内でじっくり試奏され、それを動画撮影してホームページにアップするというスタイルを取られています。

この方は、この工房との関係からか、夥しい数のヴィンテージピアノを経験されている由で、いわゆる普通の「ピアノの先生」といったイメージではなく、ヴィンテージピアノの専門家のような風情が漂っています。

しっかりしたタッチで、音は温もりがあって明朗、それぞれのピアノに対して変に弾き手の個性を入れず、ストレートにきちんと弾かれるそのスタンスは安心感さえ覚えます。

先日のこと、工房のご厚意で仕上がったピアノの動画DVDが送られてきました。
なんでも、いつもは演奏の様子だけを撮影されるのを、工房スタッフの方のアイデアでカメラを回しっぱなしにしてみたというので、演奏の合間に交わされる雑談の様子やその内容まで視聴することができました。

感心したのは、やはりというべきか、それぞれのピアノの特徴や美点をすぐに感じ取って、それを大事にするような演奏が自然にできてしまっている点。
ピアノ店の動画だから、あえてそういうことを心がけているというようなわざとらしさはまったくなく、長年の経験から本能的に楽器の個性を感じ取り、すんなりとそれを踏まえた演奏になるという感じでした。

これは楽器を奏する者としては、ある意味では当たり前のことであり、楽器のコンディションや個性に反応しながら弾いていくというのはきわめて重要かつ自然なことのはずですが、実はピアノの世界でこの当たり前はなかなかない事で、この面ではおそろしく鈍感な弾き手が多いのも現実でしょう。

どんなピアノかなどお構いなしにやたらと弾くだけの人って、ほかの楽器に比べて、ピアノはとても多いと思います。
演奏するにあたり、楽器のことを考えない人は、同じように作品のこともあまり考えていなくて、ただ自分が取り組んでいる課題(曲)を技術として弾き通すことばかりに全エネルギーを注いでいる。

楽器は自分にとって弾きやすいか、そうでないか…要するに道具でしかなく、楽器を慈しみ対話して、そのピアノが喜ぶような演奏をしようとする人って、本当に稀だと思います。

対人関係においても、相手の反応や場の空気を読みつつ柔軟に対応できる人と、そんなことはお構いなしに一方的にしゃべりったり自慢したりする人がいますが、ピアノの場合、残念ながら後者のほうがはるかに多い気がします。


話が逸れましたが、この先生がおっしゃるには、ヴィンテージピアノはバンバン弾くのじゃなく、繊細に弾くことが大切、それぞれのピアノの光るところを探すこと、振動を感じること、きれいにではなく気持よくピアノが響くところを探って弾くことが大事だと、さりげない雑談の中で語っておられ、いちいち御尤も。
しかしそれは、ヴィンテージピアノに限ったことではなく、新しいピアノを弾くときにも、そっくりそのまま当てはまることだと思うのです。
ただそれがヴィンテージピアノにおいては、より顕著に楽器が求めてくるというだけで、楽器に相対する心得としては同じことだと思いました。

佳き時代のヴィンテージピアノは、弾き方しだいで本当に美しい、心にしみるような音で歌ってくれる反面、ぞんざいで無理強いをすると、たちまちそれが音として出てしまうなど、適当にお茶を濁してはくれません。
現代の量産ピアノはその点で、汚く弾けば汚く鳴るという面が薄いから、良くも悪くも表現のレンジが狭く、演奏を芸術として磨き高めるには楽器が厳しい教師とはなり得ないかもしれません。
常にセンシティブな感覚を身につけるというだけでも、ヴィンテージピアノっていい勉強になると思います。

また、大いに共感したのは、その先生によれば大曲を弾くより、シンプルな曲を弾くほうがピアノの良さもわかりやすいというようなことを言われていましたが、そもそもシンプルな曲を美しく弾くことのできない人が、どんなに大曲難曲を弾けたところで、当人の自己満足以外ほとんど意味を見出せません。

むかしある集まりにいたとき、ひとりだけ自分の技量を心得て、ギロックの小品を徹底的に練習して、さても見事に鑑賞に堪える演奏として弾く人がいましたが、こういう人こそ素晴らしいと思うし今でも記憶に残っています。

要するに、大事なことはどこにあるかという問題であり、価値感は人格をあらわすものだと思います。
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