森本隼太

園田高弘さんを聴いて、思いがけない感動を得たことを書いたばかりでしたが、今度は若手ピアニストによる嬉しい驚きに出会いました。

こちらも出どころはYouTubeですが、森本隼太さんという18歳のピアニストでいまも海外で修行中の由。
クラバーンのジュニア部門とか、いくつかのコンクールに出場しておられるようですが、それは私にとってはあまり重要ではなく、たとえショパンやチャイコフスキーの優勝者であっても、良いと思えなければそれっきりで、そのへんはあくまで参考程度でしかありません。

森本隼太さんは、2004年生まれの京都出身、だからというわけでもないでしょうが、まるでお寺の小僧さんのような雰囲気、早くから単身イタリアにわたって勉強を続けておられるようです。
今どきは、ただ指が回って大曲/難曲なんでも弾けるぐらいでは、もうなんとも思わなくなってしまっていますが、この森本さんの演奏には、他の人たちとは一線を画す独特の輝きと魅力を感じたのです。
まだ音源も少ないのですが、中でも2021年演奏のシューマンのピアノ協奏曲には衝撃に近いものを感じました。

なにより、ひたむきで清冽、内側から光を発するような演奏に心を打たれます。
正確にきちんと弾かれているのは当然ですが、耳を凝らすと誰の真似でもないこの青年特有の息吹きが切れ目なく機能しており、それは訓練や努力で得ることのできない、この人の生まれ持った細胞そのものでもあるでしょう。

音の冴えわたる感じ、気品、趣味の良さなど、その演奏には天から授かったものの存在を感じます。
たまに音を外すこともあるけれど、それは聴いていればわかることで、おそらく演奏の目的が物理的ノーミスのようなものを目指していないことの現れのように思われます。
小さなミスより作品に対する感興や音楽の流れや起伏を優先している印象が抱ける人は、そう多くはありません。

言い古された表現ですが、充分に知っているはずの曲が、まるで初めて聴くような新鮮さで迫ってくるのは、その演奏がいかに瑞々しく創造的で、何かのコピーではないということだと思われます。

キーシンが出現したときの驚きを少し思い出したり、シューマンの協奏曲という点ではリパッティの端正な熱気を髣髴とさせるような感じがあり、また若くしてハイフェッツに認められた渡辺茂夫さんの演奏なども想起させられました。
それらに共通するのは天才特有の軽やかで大胆、初々しさと老成の同居、そして一途なゆえにどこか痛々しさがつきまとうところでしょうか。

ピアニストの仕事はまず指の技術がなくてははじまりませんが、ほんらい目指すべきものはその向こうにある芸術表現であり、この領域に達した人だけが真のピアニストだろうと私は思っています。
しかし優れた演奏技術があれば、そこに当り障りのない解釈を割り振りしておけばピアニストとしては成立するため、自分の演奏表現のために技術を使っている人というのは多くはなく、この方にはもっとそちらの世界に踏み込んで欲しいものです。

ほかには、なんと14歳の時にピティナのコンペティションでラフマニノフの3番を弾いている動画がありますが、このときの演奏はさすがに気負いすぎで、全体に前のめりな感じでしたが、わずか数年後のシューマンでは何段階も成長された感じでした。
ただし、シューマンはさらに翌年の英国でのコンクール動画もあり、こちらのほうがよりしっかりと着実に弾かれており、そのぶん力強いけれど失われたものもあって、私は日本での演奏がしなやかさにあふれて好みでした。

曲との相性というのもあるので、何もかもがシューマンの協奏曲のように上手くいくとは限らないかもしれませんが、今後を注視していきたいひとりだと思いました。
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なんちゃって

https://www.youtube.com/watch?v=Z_SgfjUaP9w

おお、さすがは中国の富裕層。
白いお部屋に置かれた真っ白のスタインウェイDでお稽古か…と思いきや、なにか違和感を感じて目を凝らしたら、ヤマハのCFではありませんか。
それにしても、よくぞここまでやりますねぇ。
曲も「ため息」というのはシャレをきかせているのか…。

並べられたポケモンなどのぬいぐるみ、マスクにサングラス姿の大人(先生?)、ティンパニ・テーブルもなかなかシュールです。
もしや台湾の可能性もありそうです。
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園田高弘

YouTubeを見ていると、昔のETV特集で『核心へ〜園田高弘』という番組に行き当たりました。
園田高弘さんは戦後日本を代表するピアニストのひとりですが、2004年演奏活動もお盛んな中、突然亡くなられたという印象がいまだに拭えません。
御年76歳だったようです。

この番組は園田氏の70歳を記念するコンサートを軸に取材された番組で、演奏とご自宅でのインタビューなどがほどよく配分された45分の番組、おそらく1998年頃の様子だと思われました。

私は個人的に園田高弘さんの演奏は、好きでも嫌いでもないという位置づけで、特別な感心は寄せていませんでしたが、それでもベートーヴェンのソナタ全集や、晩年に九州交響楽団と全曲録音されたベートーヴェンの協奏曲はじめ、多少のCDはもっているという程度の距離感でした。
当時は熱中すべきピアニストがいろいろあって、とても手が回らないといった感じだったと思います。

そして時代はすっかり変わり、今あらためて接してみると、奇をてらってはいないけれど熱い高揚感があり、ときに全体力を投げ打つような渾身の演奏であったことに心を打たれました。
音に重みと力があって、全体はオーセンティックであるけれど、常に明快さと若々しさに満ちていたことは驚かずにはいられませんでした。
断片的に出てきた曲は、リストのダンテを読んで、シューマンの交響的練習曲などでしたが、いずれも演奏という一発勝負にかける気迫のようなものがひしひしと伝わり、音楽においてこの気迫は決して蔑ろにされてはならないものと痛感しました。

今の若い人たちは、譜面の再現という点にかけては完璧といってもいいような演奏をされるけれど、音符は音楽を書き留める手段であって、その先にある最も大切な目的がないように(私個人は)感じられて虚しさが拭えないことが非常に多く、このぶんではピアニストもAIに取って代わる日も遠くはない気がしています。

それに対して、園田氏の演奏は、いい意味でほんの少し先が見えないところがあって、曲が進むにつれてどういう反応になるか、
いかに解決するかを見守る余地が残されており、それが期待通りだったり、それ以上だったりそうでなかったり。
そのような余地のあるところが、聴くことのワクワク感ではないかと思いました。

また話しぶりも自然で人間味があり、その場で自分が考えたこと感じることが言葉となり、そこにこれまでの生きざまや生涯に裏打ちされた説得力があり、これは演奏にも通じるものでした。

だから、ブーニンを「100年に一人出るかどうかの天才」などと評したのも、おそらくコンクールを目の当たりにした氏はそのときは本当にそう感じて、素直に出た言葉だったと思います。
パリに留学中、もっとも衝撃的だったのはフルトヴェングラー/ベルリン・フィルを聴いたこと、ピアニストではギーゼキング、バックハウス、ケンプとのこと。

園田氏のご自宅は、昔からLPのジャケットになっていたり、雑誌等でも目にすることがありましたが、私としては非常に興味津々の空間で、そこが写真よりも拡大的に映ったのも大いなる収穫でした。
ピアノが4台あり、2台ずつ並んで向かい合わせに、上から見ればきっと揚羽蝶のように置かれています。
ヤマハ、スタインウェイ、ベヒシュタイン、ブリュートナーで、その上や周辺には無数の本や楽譜が積み上がり、壁には作曲家の肖像や美しい絵画が架けられており、その芸術的な雰囲気は何時間でもいたくなるような空間でした。

もう一つ驚いたことは、70歳の記念コンサートでは、ヤマハのCFIIIS(たぶん)が使われていましたが、これまで聴いたことのないような凛として懐の深い、現代的な美しさも持つピアノで、ヤマハにもこんなピアノがあったのかと思うようなピアノでした。
強いて言うなら、ヤマハの個性というより、かなりスタインウェイに近づけたような印象ではあったけれど、しかしあそこまでできれば立派といいたい素晴らしいピアノでした。

ああ、今なら園田さんのコンサートがあれば、喜んで行きたいなぁ…と思ってしまいました。
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ペダルはハード

ヘルニアに関する一連の書き込みを見て、心配してくださった方からお見舞いや励ましのメールをいただくなどして、本当にありがたいことでした。

8月の半ばぐらいから少しずつ改善の兆しが見え始め、9月に入るとピーク時にくらべるとかなりマシになり、まず恐る恐る食事やお茶でも座れるようになりました。
パソコンの前にも短時間なら座ったり、近くの買い物ていどならどうにか車の運転も少しずつできるようになり、ともかく日常生活の体裁だけはなんとか取り戻せるまでになりました。

病気の苦痛に順位はつけられませんが、足腰のトラブルで身体の軸が保てなくなるというのは、生活の根底が崩壊することを意味することで、そこに激痛が長期間襲いかかるとなると、想像以上に苛烈なものだというのが今回イヤというほどわかりました。

このブログがピアノに主軸を置いたものだから仕方ありませんが、ピアノも弾けるようになりましたか?弾かれていますか?というようなお言葉をなんどか頂戴しました。

しかし、私はもともとピアノが好きなことは猛烈に好きですが、「自分で弾く」ことに関してさほど熱心なほうではなかったこともあり、ヘルニアを経験してからは、ますます弾かなくなりました。
まったく弾かない、触りもしない、というわけではありませんが、ピアノに向かう時間は明らかにこれまで以上に少なくなりましたし、まったく触れない日のほうが多いでしょう。

そもそも、誤解を恐れずにいうなら、ピアノというものは、かなり弾ける人が相応しい技術と音楽性を兼備できてこそ弾くものだろうという大前提が自分の中にあるため、そのくくりに入っていない自分がピアノを弾かなくなるといったって、とくにどうということもないとしか思っていなかったところがあったように思います。

実際面でいうなら、椅子に座って随時ペダルを踏むという動作が、思っていたよりはるかに厳しいことだというのを、今回はあらためて自覚させられました。
ピアノといえば多くの方が指のことばかりを考えがちですが、例えば一時間練習した場合、とくに右足はその間中、絶えずペダルを大小長短深浅、ときには微妙なコントロールに注意をはらいながら様々に「連続使用」させられるわけで、これは骨と筋肉と神経にとって相当の負担です。

車の運転にくらべると、ピアノのペダルは踏力においても比較にならないほどハードだし、踏む数はケタ違いに多く、痛めた足腰への負担のかかり方がまるで違います。
車なら、アクセルといっても安全に動かすぐらいならソーッと踏むのがほとんどで、ブレーキだって咄嗟の時を除けばゆっくり踏むだけだし、信号停車中はオートホールドなどを使えば足も休ませられる。
つまり大半が、やわらかにゆっくり踏むか離すかの繰り返しに過ぎません。

それがピアノとなると絶え間なく必要な踏み方で応じなくてはなりません。
踏み方もいろいろで、全開からほんのニュアンスをつける程度に薄く踏む、かと思えば鋭く小刻みに踏むなど、常に自分が出来得る限りの手数とコントロールが要求され、わけてもハーフペダルというのが微妙であるだけ調整のための機微的な筋力を要するなど、容赦ないものであることを知りました。

今ほど回復していない頃、たまにほんの少し座れそうなときがあったりすると、ちょっとだけピアノに向かってみたりしましたが、ペダルのせいで症状はみるみる悪化に転じ、そのままベッドに雪崩れ込んで何時間もウンウンいったものです。

そんなことが2ヶ月以上続いてしまうと、精神的にもピアノのペダルが怖くなってしまったこともあり、自然にピアノから距離ができました。

世の中には、ピアノと見ればとにかく弾きたいという動物的な方もおられて、そういう人なら辛いかもしれませんが、私の場合はごくすんなりと弾かない生活に馴染むことができました。
それでも、これまで弾き貯めたものを失ってしまうのはさすがに惜しいので、少しはピアノに向かうかもしれませんが、それも維持できるかどうか甚だ自信はありません。

プロでなくても、なんでも自在に弾けて楽しめるぐらいの腕があれば、また弾くための努力をすることも価値あることだと思いますが、そもそもが私なんぞの腕では、弾かないほうがいいんじゃないの?と思うほうが強いぐらいだから、そういう意味では気楽なものです。
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プレトニョフのSK

ミハイル・プレトニョフがある時期からシゲルカワイを好んで使うようになったというのは何かで読んだ覚えがありましたが、氏の近年の演奏動画などを見ると、たしかにそれが裏付けられているようです。

YouTubeによれば、ここ最近はずっとカワイ一辺倒のようで、プログラムのようなものにもSHIGERU KAWAIの文字が記されているあたり、カワイも社をあげてピアノを提供/サポートしているのかもしれません。

そもそもヨーロッパなどでは、コンサート会場に必ずしも好ましいピアノがあるわけではなく、ピアノ貸出業者もしくはメーカーのコンサートサービスのようなところが楽器を手配することが少なくないようです。
このほうがピアニストが事前にピアノを選べるという点で、楽器との関係を事前に作れるだろうし、ホール側も無駄にピアノを購入し管理する必要もないから合理的です。

さて、プレトニョフ氏の動画の中で、ひとつ「ん?」と思うものがありました。
ステージにSK-EXが設置されると、さっそく技術者が調整にとりかかるべく鍵盤一式を引き出したところ、見慣れぬ細工が施してあって目が釘付けになりました。
鍵盤は奥のハンマーの下まで伸びる細長い木材で、普段目にしない部分は生木色でアクションへとつながっています。
前後の中心がシーソー運動の支点となり、そこにキーバランスブロック(バランスピンが刺さるところの膨らみ部分)があって、人の指がキーの手前を押せば奥側が持ち上りアクションを反応させ、ハンマーが打弦するのはご存知の通り。

その支点のブロックのやや手前の平坦なところに、小さな四角でやや厚みのある金属のようなものが相当数、貼り付けられていました。
しかも88鍵均等にではなく、位置もバラバラ、キーによってはそれがないものもかなりあって、おそらくはウェイトの一種で、プレトニョフ氏の希望で、キーを軽くする(もしくは整える)ために貼り付けられたものだろうと推察しました。
それはバランスピン(テコ原理の支点)に近い位置であるため、私の想像が間違っていなければウェイトをふやしても戻りが悪くなるリスクが小さいということがあるのかも。
これなら、キー側面に穴を開けて鉛を埋め込むのとは違い、気になるところへ、付けたり外したり増やしたり減らしたり、自在に調整可能というメリットもあるのでしょう。
ピアノを傷つけるわけでもなく、すぐに元に戻せる利点もある。

またバランスピンが刺さる穴の両側に貼り付けられるブッシングクロスも、普通のものとは違い、すべてのクロスがやや上部外側に飛び出しており、これも到底オリジナルには見えなかったので、タッチフィールを好みのものにするための工夫のように見えました。

ほんらいなら、演奏家はこのように楽器にあれこれ手を入れて、自分に合った楽器を演奏するのが理想で、大半の器楽奏者はそうしているはずですが、もう何度も書いてきたように、ピアノはその場で与えられたもので弾くしかなく、妥協が当たり前の世界。
公演先に「自分用ピアノ」を運びこむ人は数えるほどしかいないでしょう。

プレトニョフ氏の弾くSKは氏の所有なのか、あるいはカワイから宣伝を兼ねてプ氏専用ピアノとして提供されているものなのか、それはわからないけれど、往々にしてピアニストは「ピアノは借りものが当たり前」みたいなところがあるから、きっと後者かもしれません。
ちなみにアクションは例の黒い化学素材のままのようでした。

音については、SK-EXは以前より良い意味で洗練されて、クセのないピアノになってきていると思います。
とくに最近の均等明快な音がパンパン鳴るピアノにくらべて、音に肉感というか厚みがあり、一定のまろやかさも備わっているから、少しずつ好まれ始めているのかもしれません。

ちなみにアルゲリッチもときどき弾いているようで、ついにはソロでバッハのパルティータを弾いている動画がありました。
とくに驚いたのは、アルゲリッチはヤマハを弾いても「アルゲリッチの音」になってしまうのに、SK-EXでは明らかに楽器固有の音がはっきり現れており、それが新たな味わいになっているのは新鮮でした。

一般にカワイはヤマハと、ファツィオリはスタインウェイと比べられることが多い気がしますが、ピアノの持ち味からすればシゲルカワイvsファツィオリではないかという気が…。
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三人の111

パソコンの前であれ、食事であれ、とにかく「座る」ということがまったくできない地獄のような生活が2ヶ月以上続き、8月上旬まではほとんど「寝たきり」「ひきこもり」同然の状況になっていました。
このような状態では、すべてのエネルギーが失われ、好きな音楽もまともに聴くこともできず、ひたすら痛みとの戦いに明け暮れる毎日でした。

気力もないまま、申し訳程度にテレビの前に横たわり、漫然と録画の再生ボタンを押すのがせいぜい。
そんな中でのTVでいうと、NHK-BSの早朝番組、クラシック倶楽部ではごく近い時期に3人のピアニストによるベートーヴェンの最後のピアノソナタ c-moll op.111が放映されました(たまたまでしょうけれど)。

集中力もなく、ただ漫然と流し、ぼんやり眺めていただけですが、最近すこしずつ座る練習もはじめたので、そのときの雑駁な感想など。

(1)ロシア出身、幼少期にドイツに移住した、今ヨーロッパで一定の評価を得ているらしいピアニスト。
この人、数年前でしたがゴルトベルク変奏曲とディアベリ変奏曲ともうひとつ忘れたけれど、たしか現代物の3曲をセットでCDリリースするなど相当に野心的で、実際とても上手い人だとは思うけれど、なぜか私の耳にはあまり魅力的に響いてこないので、その後はずっとご無沙汰だった人。
そのご無沙汰の間に、なんとザルツブルク音楽祭に招かれるまでご出世のようで、そのライブ映像だったのですが、この人の演奏の中心にあるのはメカニックであり、それに沿ったピアニズムが中心を成しており、後から解釈を埋め込んでいるような気がします。
全体に演奏都合上の切れ味のようなものが目立ち、テンポは速く、いささかナルシスト的な印象。
数年前にCDから受けた記憶が再び呼び戻されたようで、人は変わらないことを感じました。

(2)日本人でドイツにおいて研鑽を積んだ、実力派と目されるひとり。
大雑把にいうと、国籍や出生国に関係なくドイツで育ったピアニストというのは、あまり自分の好みのタイプではないようで、とくに近年は痛切にそれを感じているところ。かつてはバックハウスやケンプのような人がいたため、その認識が遅れてしまったのかもしれません。
ドイツ流は歌や情よりまず説明的で、縦の構造ばかりが耳について、どうも自分とはそりが合わない気がします。
この人は日本人だけれども、ドイツ育ちの体臭みたいなものがあって、しっかり弾かれてはいるけれど、喜びをもって音楽を奏でているというより、熟練職人の仕事に立ち会っているようで、そのあたりがどうにも気にかかります。
ベートーヴェンならドイツ仕込こそ本流だと言えそうですが、ポーランド人のショパンが必ずしも正解とは思えないものがあるのと、どこか通じるような気がします。

(3)やはり日本人のピアニストで、ドイツ圏に留学経験もあるようだけれど、すこぶる日本的親しみやすさを身上としているような方。
若いころはシューマンのスペシャリストということになっていて、当時CDを数枚購入してみたこともあったけれど、シューマンの心の内奥に迫っているとは思えぬ未消化なもので、ブラームスの協奏曲に至っては目を白黒させた覚えさえあります。
指導者として社会的地位も築かれているようで、ピアニスト=誰もが最高の芸術を目指すわけではないから、こういう人もアリだとは思います(ヘンな意味ではなく)。
解釈もごくありきたりで、創造的なものは潔いほどに感じません。

いずれも満足には達しなかったものの、強いて選ぶなら、変な個性やクセを差し挟むことなく、あくまで平凡に弾いていた(3)が結局はまともに聞こえたという、自分でも甚だ不思議な結果に終わりました。

使用ピアノについて。
(1)はスタインウェイですが、近年ヨーロッパで流行りなのか、大屋根を本来の角度より大きく開いたスタイル。その効果は音にエッジが出るというか、インパクト性が増すということのような気もしますが、それと引き換えに、荒削りで生々しい印象があり、個人的には好きになれません。そういう意味ではオリジナルの角度というのは、そのあたりも熟慮されているんだろう…と思ったり。

(2)ベーゼンドルファーの現代型コンサートグランドである280。昔の275のようにピアノフォルテを思わせる古典的な美しさではなく、現代の要求を盛り込んで作られたモデルであるだけに、モダンピアノらしい要素とパワーを持ちつつ、音色にはベーゼンドルファーらしさも受け継がれている印象。
ただ、ヤマハが親会社という先入観があるからかもしれないけれど、とくに低音などはかすかにヤマハ臭のようなものが聞こえた気もしましたが、私の思い過ごしでかもしれません。

(3)1990年代ぐらいのスタインウェイでとくに感じるところはありませんでした。
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古き佳き

NHKのEテレで放送されているクラシックTVでは、ピアニストの清塚信也氏がMCをつとめられ、会話を交えながら必要に応じてピアノも弾くというスタイル。

この番組は、とくに熱心に見ているわけではないけれど、らららクラシックのころからの録画設定がそのままになっており、自然にたまっているのをたまに視ることがあります。

スタジオの中央奥のやや右手にスタインウェイDが置かれ、清塚氏の定位置はそのピアノの前なので、クルッと方向を変えるだけでピアノが弾けるようになっています。
以前はここで使われるピアノは入れ替わりがあり、艶出しの新しめの楽器と、つや消し仕様の椀木の形状から、おそらく1980年代以前のものと思われる楽器があります。

始めの頃はしばしば入れ替わっていたので、使えるピアノの都合なのか、もしくは曲目等に応じて入れ替えられているのか…ぐらいに思っていましたが、ここ最近は(間違いでなければ)ずっと古いほうのつや消しのほうだけになったように見受けられます。

ということは、やはり清塚氏の好みの問題で、こちらに定着してしまったように感じますが、むろん真相はわかりません。
艶出しのピアノは最新ではないけれど、サイドロゴの大きな我々が最も聴き慣れたタイプのスタインウェイの音で、キラキラしたブリリアントな音のするタイプ。
それに対して、古いほうは、きれいにオーバーホールされ、再塗装もされているのか傷などもなくきれいで、経年でくたびれている感じも一切ないし、足はダブルキャスター用の短いタイプに換装されているなど、製造年が古いというだけで、とても大切に手を入れられたピアノという印象です。

このピアノのほうが出番が多くなったのが、もし清塚氏の意向なんだったらその理由がなへんにあるのか想像するしかありませんが、少なくとも聞いている限りにおいては、こちらのピアノのほうがふくよかで、音そのものの太さがあると思います。
ふくよかというと、キレの良さより柔らかい音とイメージしがちですが、そうではなく、きちんとした輪郭もあるところがさすがという気がします。
はじめからブリリアントを狙っている音ではなく、基音が力強く骨太で、深さがあり、ソフトにも華麗にも、繊細にもパワフルにも、如何ようにも弾き手次第という感じがあって、だれが弾いても輝く音がすぐ出てしまう新しめのピアノとは決定的に違うような印象です。

どちらがいいかは簡単には決められないことでしょう。
昔ながらの良さを好む人達にはこちらが本来の姿で、使っている材料も素晴らしいなどと言い分はたくさんあるでしょうし、むろん私もそちらに近いのですが、その後の、多少キラキラ系の華麗さを前に出したスタインウェイも、やはりこれはこれで抗しがたい魅力があります。
他のメーカーがこれを表面だけを真似たものは、ケバケバしく、耳にうるさいだけというものもありますが、スタインウェイの場合はやはりなんといっても圧倒的な美しさがある点が決定的に違うところでしょう。

ただ、数は少ないけれど本当に弾ける、芸術的な演奏をするピアニストの場合、自在な表現、楽器を思いのままにコントロールできる音色の幅や懐の大きさのある、少し前の楽器のほうが向いているようにも思います。

新しい世代のスタインウェイは、誰が弾いてもそこそこ美しく仕上がるという点で、それも大したものだと思いますし、それを時代が求めたということであれば、そのように変化したというのもわからないでもありませんが…。

むかし関西のスタインウェイ技術者として有名な方が、自分が過去にNHKで聞いた最も良いと思ったスタインウェイは、長いこと体操番組で使われているアレや!とおっしゃって、大いに膝を打ったことを思い出します。
重厚かつ明晰、ピアノからこんな音が出るのか!といいたくなるような美しいその音は、体操の伴奏には不釣り合いなほど冴えわたっており、これぞ他を寄せ付けぬスタインウェイ!というオーラがあったことを私も子供の頃の記憶としてしっかり覚えています。

おそらくピアノ自体は第一線を退いて演奏収録などにはより新しい楽器が使われて、体操番組などで使われる2軍選手として下げ渡されたものかもしれませんが、そちらのほうが素晴らしかったというのも皮肉な話です。

もしピアノが運搬のハンディのない楽器だったら、きっと大半のピアニストは自分の愛器にこだわり抜くだろうし、新しいピアノがいまのように大手を振ることは絶対にないだろうと思います。
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藤田真央

ヘルニアは少しずつ改善に向かっている(と思いたい)ので、毎日数行ずつ書いています。

少し前のプレミアムシアターから、ルツェルン音楽祭2022で藤田真央さんがソリストを務めた、ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番を視聴しました。指揮はリッカルド・シャイー/ルツェルン祝祭管弦楽団。

小柄な体格ゆえかドシッとした安定感は感じないけれど、リスのような俊敏さがあり、この曲の演奏に期待してしまう大技や重厚なロマンティシズムの代わりに、正確で目の細かい音楽として楽しむことができました。

とくに藤田さんの特徴として感じるのは、どんな音楽も決して大上段に構えるのではなく、もったいぶらず、断定せず、自分の感性に従ったものを臆することなく表現していくところは、なるほど新しい演奏の在り方なのかと思いました。

協奏曲ではオーケストラのトゥッティからピアノが引き継いでいく箇所などは、普通ならソリストとしてのインパクトを示したいようなところでしょうが、藤田さんは川が合流するように流麗にピアノが流れ込み、縫い目のない布のように扱われるし、テンポにおいてもアーティキュレーションにおいても、自己主張より連続性を優先させるあたりは、もっと自己顕示的をしようと思えばいくらでもできるのに、それをしないのは注目に値する点かもしれません。

よほどの自信なのか、そこが彼の個性なのかよくはわからないけれど、これはなかなか勇気のいることでしょう。
風貌も話し方も少年のようでありながら、健康的な大きな手をしていて、それが自在かつ正確に鍵盤上を喜々として駆け回るさまは見事という他ありません。

彼の演奏には、泥臭さ汗臭さが微塵もなく、かといって中身のない無機質な演奏でもなく、キレの良さや繊細芸で聴かせるタイプ。
しかも繊細芸で聴かせるタイプは、聴くものに静寂と集中を強要する場合があるけれど、藤田さんの場合はそれもなく、自由に好きな様に聞いてくれという空気を作り出しているところが、とても珍しいように思います。

尤も、全面的に肯定しているわけでもなく、上記のような特徴のためか、深く歌い込んで欲しいところや、メリハリとなるような明確なポイントとなる強い音が欲しいときなど、もうひとつ物足りない面もあって、個人的には何度も繰り返し聴きたくなる感じではなく、いちど聴けば充分です。

とはいえ、何もかも兼ね備えるというわけにはいかないので、その人にしかない良いところを感じられたらそれでいいのかとも思います。
詳しくは知らないけれど、噂によれば、藤田さんの真骨頂はモーツァルトにあるのだそうで、すでにソナタ全集なども出ているようですが、いつか機会があれば聴いてみたいものです。

いくつか動画で見たことはありますが、なるほどと思う時と、首を傾げる時の両方があって、個人的な評価はまだ定まりませんが、大変才能豊かなピアニストであることは間違いないようです。
ただ彼に好感が持てる点は、そつのない解釈やウケ狙いではなく、彼独自のスタンスで演奏しているように見受けられるところでしょうか?
とくに、今どきの若手の中にはことさら無意味な間をとってみせたり、必要もないのにもってまわったような情感表現をする人もすくなくない中、藤田さんはそういうことには目もくれず、我が道を行っているよう見受けられるのは好感が得られました。

これは今どきの情報過多で、過当競争が激しい時代にあっては、なかなかできることではないと思います。
強いて言うなら、モーツァルトで確かな立ち位置を築きながら、片やラフマニノフの3番のような重量級の演奏もこなしているのは、軽量ピアニストに見られないためのバランス取りというか、防衛策なのかもしれませんが。

何かで見たけれど、ヨーロッパにある彼のアパートでは、ベヒシュタインの中型アップライトを使っておいでのようで「おお!」と思いました。
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ファブリーニの本−3

いささかしつこいようですが、もうひとつピアノの話題で記憶に残ったものとしては、次のような一文が。

19世紀から20世紀にかけてヨーロッパには素晴らしいピアノメーカーがいくつもあったけれど、アジア大手の台頭によって押しつぶされ、ピアノの音の均一化が避けられなくなってしまった、と。
均一化については頷けるものの、アジアの大手のせいでヨーロッパの伝統的なピアノが押しつぶされたというのは、正確にはどうでしょう?
個人的には、大戦後の時代変化によって多くの伝統的なピアノメーカーが生息できるだけの需要がなくなり、(とても残念ですが)淘汰された結果であって、アジア勢(おそらく日本)の台頭はその後ではないかと思います。

均一化については、日本人のピアノ関係者の方々は、美しく芸術的な音質や響きのことより、パーツの「精度」とか、なにかにつけ「均一化」ということを金科玉条のように信じ込んでおられる印象はあります。
おそらくそういう価値観に基づいた教育を叩きこまれて技術者になったのでしょうし、もともと日本人は「揃える」といったたぐいは民族的に好きで得意なところですから。
そこでいう均一とは全音域のことでもあるだろうし、タッチやアクションのことでもあり、高品質大量生産が手工業に打ち勝つことを是とするもので、日本人はこういうわかりやすい正義を与えられると俄然本領発揮です。

低音から高音までむらなく整えられていることは大筋で大事とは思うけれど、言われるほど均一が絶対的に正しいことなのかどうか、以前から疑問でしたのでここは膝を打つ思いでした。

スタインウェイなどはセクションごとに音質が異なり、個人的にはそれがまた素晴らしいと思っています。
各音には個性があり、極端に言えばところどころの隣り合う音の個性がむしろ違っていたりするけれど、それが曲になるとなんとも言えない深みを帯びたりところにも西洋的な魅力を感じていたので、均一というものの価値がどうもわかりません。
弦楽器に例えるなら、もしコントラバスからヴァイオリンまでのすべての音域を均一にまかなえるものがあったら、そのほうがいいのか?というと、私はとてもそうは思いませんし、それぞれの楽器の個性があればこそ、多層的な魅力になっていると思います。

ピアノはオーケストラのような楽器だと喩えられることがありますが、だとするならむしろ過度に均一であってはならないような気がするし、様々な要素を内包しているからこそ計り知れない魅力や可能性を秘めているとも思うのです。
音域によって張弦されたセクションが変わったり、芯線が巻線になったら、音質が変わるのは当然で、それを最大限活かすのがピアノづくりの極意じゃないか?という思いが拭えず、ただスムーズな音の高低だけに整えることは、ただきれいにまとまっただけのものにしかならないような気がします。

実際そのような方向で作られたピアノに触れると、ある一面においては感心はしてもやはりあまり面白くはないし、想像力が掻き立てられず、なにやらピアノの表現力そのものが小さく限定されてしまったような気がしました。

ショパンが、人間の指はどれも同じではなく長さも構造も違い、それぞれに個性があるのだからスケールでもロ長調やホ長調などが自然で、逆にハ長調が一番難しいといったように、各音域はそれぞれの個性を隠そうとしないほうが、演奏した時にさまざまな色合いや雰囲気が立ち現れるように思います。

最後にもう一つ思い出しましたが、ファブリーニ氏によれば調律は上手か下手ではなく、美しいかどうかで判断すべきとあり、これには大いに膝を打つ思いがしました。
もちろん、ある程度以上の次元でのお話だと思いますが、ただ定規で計ったようなカチカチの調律をすることを正しいと思っている調律士さんがいらっしゃいますが、心に訴える美しい調律であってほしいものです。
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ファブリーニの本−2

前回書ききれなかったことなど。
個人的に意外な印象があとに残ったことがありました。

ピアノといえば一にも二にも音こそが最重要だと思っていましたが、弾き手にとって直に演奏を左右する主役は実は思っていた以上にタッチかもしれないということ(決して音が二の次という意味ではないけれど)。

音は極論すれば楽器生来のもの、すなわち固有のもので、それを最良最大に活かすことが限界であり、それ以上その個体が持っているものを望むことはできないし、どうしても容認できない場合はピアノ本体を取り替えるしかない。
それに比べればタッチは入力の変換装置であり物理領域であるから、精緻な技術をもつ技術者しだいでは極上を目指すことも不可能ではない可能性を感じます。

自分のピアノへのこだわりが強く、常になにかしらの不満や悩みがつきない場合、大抵は音色/響き/タッチなど複数の要素がないまぜになっていることが解決への明確性を阻んでいるのかもしれません。
とりあえず音色や響きのことは横に置いて、徹底的な整調、つまり鍵盤からアクションまわりの可動部分の質的向上に注力して、ここを極限まで高めてみるのは意味のあることではないか?
そのためには高度な技術はもちろん、消耗品などもためらわず交換して、誤解を恐れずにいうならメーカーが求める以上の厳しい基準に高めることで、鍵盤からアクションに至る動きを繊細かつ徹底して滑らかなものにすることができるかもしれません。

そして、もしやそれをやっているのがファブリーニ氏だろうか?という考えも頭をよぎりました。

タッチがこの上ないものとなれば、音や響きに対して格段に寛大になれるような気もします。
逆にいえば、いい音がしていてもタッチが足を引っ張り邪魔をして、いい音として正しく認識できない場合もあるかもしれません。
この極上タッチを実現するためには、その重要性を理解し、実行してくれる技術者さんの存在が問題となりますが、これがなかなかの難関かもしれません。
技術者というのは自信やプライドがあるもので、自分の流儀が出来上がっているとそれを崩すのは容易ではない。
こちらがいくら要求しても「音はタッチに左右され、タッチは音に左右される」「それぞれが関連し影響し合ってのタッチであり音であるので、切り離して考えることはできない」などと意味深長ことをいわれたあげく、中にはタッチの問題を整音や調律で解決しようとする、甚だありがたくない独善的な方も現実にいらっしゃいます。

それを断固否定すれば決裂にもなりかねないので、「少し良くなった気がします…」などと心にもないことを言ってお引き取り願い、技術者さんは解決できたと勘違いされるのがオチ。
この手合にかかると、延々とお茶を濁されるだけで、いつまでも問題は解決しません。

メカニカルな領域は四の五の言わずに、物理的なものとして潔く割りきって作業にあたっていただきたいものです。
真の美音は、このような音以前の手間暇のかかった基盤の上に支えられているべきものかも…という気がしたのは事実です。

プロがここぞという勝負の演奏をするときなどはともかく、普段のピアノライフを真に豊かなものとして充実させるためには、自分の思い描いた通りになるタッチというものは、これまで考えてい以上に大切だということをそっと教えられた気がしています。
そういう意識が芽生えただけでも、この本を読んだ価値があったような気がします。
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ファブリーニの本

このブログで知り合った方で、折にふれ興味深い情報を寄せてくださるご親切な方がいらっしゃいます。
今回はファブリーニの本が出ているというもので、すぐにAmazonから購入して読みました。

ファブリーニについては、ピアノ/ピアニスト好きの方なら今更説明するまでもない、イタリアを拠点に世界のステージをピアノ付きで飛び回る有名ピアノ技術者。
その顧客はまさに一流ピアニストが名を連ねるもので、多くのコンサートや録音にファブリーニのピアノが使われているのはご存じの方も少なくないでしょう。
とりわけミケランジェリのように楽器に対するこだわりが尋常でなく、そのためコンサートのキャンセルすら厭わなかった鬼才のピアノを担当していたことや、やはり楽器に対する要求の強いポリーニの御用達でもあるなど、ピアノ技術界の有名人でしょう。

ポリーニやシフの演奏動画を見ると、側面のSTEINWAY&SONSの文字の下には「Fabbrini」のロゴが映り、ありきたりなスタインウェイではないことを主張しています。

いつだったか、まだ若い頃のジャン=マルク・ルイサダが来日時のインタビューの中で、「自分は先日ファブリーニのピアノを弾く幸運に恵まれた」「ヨーロッパでは彼のピアノを弾けるということは、ピアニストにとってステイタスなんだ」というようなことを言っていたような覚えがあります。

そんなファブリーニ氏が書いた本というわけで、いやが上にも期待は高まりワクワクしながら読み始めたのですが、意外なことにピアノという楽器に関する氏の考えや技術的な言及は少なめで、もっぱら自分と名だたるピアニストたちの交流録のような内容でした。
素人ながら氏の専門分野における極意や美意識などを少しでも知りたかったので、予想とはやや方向性が違っていましたが、もちろん面白かったのも事実です。

驚いたことに、ファブリーニ氏はこれまでにスタインウェイのD(コンサートグランド)だけで約200台!を購入したのだそうで、スタインウェイ社は2008年にファブリーニ氏の名前入り記念デカールが響板に貼り込まれた記念モデルまで製作したというのですから、その猛烈な数に仰天させられました。
200台というのは過去数十年間での総数で、平常何台ほどのDが待機しているのかは知らないけれど、それから15年が経過していることを考えると、その数はさらに更新されているんでしょうね。
名だたるピアニストとの関係が増えれば、その要望を満たすピアノを提供するためにそこまでしなくてはいけないものなのか…私などにはおよそ想像もつきません。
しばしばピアノの入れ替えも行われているようですし、さらにはステージで使ったピアノを、ピアニストやコンサートを聴いた人が購入希望してくることもあるようで、そうなると同業者との軋轢などが発生するのは万国共通で、敵が多いというようなことも少し触れられています。
ファブリーニ氏の店はスタインウェイの代理店も兼ねているようで、同業者にしてみればこんなやり手が近くにいたらたまったものではないでしょうね。

エピソードのひとつで、ハンブルクのスタインウェイにB型を4台買うつもりで行ったところ、使われた木材のロットでつながりがあることがわかり、試しているうち全部を持ち帰りたくなり、交渉の結果(といったって、お互いビジネスだから一台でもたくさん売りたいわけでしょうが)10台買うことになったといういきさつなどが書かれていたりで、この辺になってくるとやや意味がわかりませんでした。
B型はいわゆる家庭や小規模スペース用のピアノだから、本格的なコンサート用の貸出にはならないことを考えると、主には販売目的の仕入れと思われますが、スタインウェイというそもそもの銘器に、さらにファブリーニというブランドがコラボされれば、10台仕入れても売れる算段があるということでしょう。

とはいえ、本のタイトルは『ピアノ調律師の工具カバン』となっており、そのタイトルに対して内容はいささか「ビジネスの成功本」的な後味は残りました。
ピアニストたちのかかわりにしても、フランツ・モアの『ピアノの巨匠たちとともに』のほうが味わい深く面白かったように思います。

とはいえ、一読しただけで片付けてしまうのもどこか納得の行かないところもあり、念のため始めからもう一度読み返してみましたが、
ピアノに対することがまったく書かれていないわけではなく、そこから見えてきたものは、ファブリーニピアノの主な特徴はタッチにあるらしいことが少しわかった気がしました。
もちろん調律や整音にもさまざまな工夫をこらしているようですが、それ以上にタッチ重視のようで、アクションの存在を忘れさせるような、なるなめらかで意のままになるタッチに仕上げることがファブリーニピアノの一丁目一番地であるような印象が残りました。

これは単にキーが軽いとか重いとかではなく、弾き手の指先(あるいはイメージ?)が弦と直結しているかのように正確に反映されること、つまり奏者と楽器が一体化するような感覚を目指しているのかもしれません。
終演後のニキタ・マガロフから「今日はアクション無しで弾けたよ、と言われたのが私にとっての最高の賛辞だった」とあるのも、そこが最大のポイントだということでしょう。
考えてみれば、キーが多少重かろうが軽かろうが、徹底してなめらかでコントロールしやすいピアノには有無を言わさぬ上質感と親密性があり、喜びと興奮と演奏のイマジネーションが広がるものだから、それは当然ステージ演奏を本業とするピアニストにとって、これに優る心強さと安心感はないのだろうと思います。

上記のルイサダが、その後ヤマハを使うようになったのは、もしやファブリーニのピアノがもつアクションの心地よさがきっかけでは?などと勝手な想像をしたりしています。
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メイソン&ハムリン

YouTubeで、日本ではなかなかお目にかかれないピアノの紹介動画に行き当たりました。
メイソン&ハムリンのModel 50というアップライトピアノです。

メイソン&ハムリンは説明するまでもない、アメリカの名門メーカーで、スタインウェイはじめボールドウィン、チッカリングなどと覇を競ったピアノというイメージですが、日本ではアメリカ製のピアノはほとんど国内で流通しておらず、スタインウェイ以外はほとんど触ったことがなく、じっさいの感触などはよくわかりません。

産業革命以降、ピアノに大音量やパワーが求められるようになってから、家内工業的な製作方法であったピアノ製造は、堅牢な金属フレームや外板の強力な曲げや圧着製法など工業力を必要とする生産品目になったと背景もあってか、19世紀後半からアメリカがピアノ生産大国だったようです。
とくに大ホールの多いアメリカのような環境では、広大な空間に轟くパワーが必要とされ、石造りのサロンのような空間がメインだったヨーロッパとは、ピアノに対する要求も背景も違っていたのでしょう。

というわけでかつてアメリカは世界に冠たるピアノ生産国となり、そんなアメリカのピアノ黄金期を代表するブランドの一角を担っていたのがメイソン&ハムリンです。
私はメイソン&ハムリンに触れたことは一度もありませんが、数少ないレコード/CDなどで聴いた限りではNYスタインウェイと互角に渡り合えるピアノという印象がありました。しっとり感があり、やや雑みのあるボールドウィンより音や響きのクオリティは優っているのでは?と感じることも何度かありました。

メイソン&ハムリンのグランドの写真では、響板の張力を調整するための金属装置が裏側の支柱と響板の間に装着されており、その効果がどのようなものかはわからないけれど、いずれにしろ様々な工夫を凝らして素晴らしいピアノを作ろうという各社の意気込みがあふれていたことが察せられます。

さて、そのModel 50というのはアップライトで高さは127cmですが、YouTubeを通して聴く限りにおいては、温かく語りかけてくるような落ち着きがあり、やわらかい音色と伸びやかさがあり低音も重厚、くわえて良い意味でのアメリカらしいおおらかさがあり、こういうピアノを聞くとヨーロッパのピアノはもちろん素晴らしいけれど、やさしみというより緊張感みたいなものがあるようにも思ってしまいます。

このピアノが鳴り出すと、ふわんとあたりの空気が動きだすというか、音楽の楽しさに誘い込まれていくようで、これはタダモノではないかも…と感じました。実物に触れても同様に思えるかどうかはわかりませんが、聴いている限りにおいては、ふくよかな心地よさが漂ってくるようです。

なんとなく新品のような気配があり、だとするといまだにこんなピアノが作られているということ自体、驚くべきことだと思いました。
楽器とはそもそもそういうものでなければならないのではと思うというか、楽器の本質というものを失っていないというか、大半のピアノはその逆で、華やかなようでいてカサカサの乾燥肌みたいなピアノのなんと多いことか!

ちなみに、グランドの写真にあった響板のテンション調整のための装置は、なんとこのアップライトにも装着されており、さらに背後の支柱はこれまで見たことがないほど堅牢で、両サイドを入れると、6本もの太い支柱が縦に並ぶさまは圧巻です。

アップライトの支柱といえばX型のものがグロトリアンにあり、これを模して一時期高級機にX支柱を取り入れたのがヤマハでしたが、その効果の程はどうなんでしょう?
あくまで聞いた話ですが、アップライトピアノで重要なのは天地方向の強度だそうで、X型支柱の効果には賛否両論あり、少なくとも他のメーカーでは縦支柱以外は見たことありません。
しかも、高級品ほど支柱の数が多くて太く、安いものはその逆のようで、やはり縦の支柱こそが大事という説は、このメイソン&ハムリンの裏側を見ると、納得してしまうようでした。

その後、YouTubeでこのModel 50を検索するといくつか出てきましたが、さほどと思えないものもあったのも事実で、もしかすると潜在力はあるけれど調整がずさんなのでは?という気がしなくもありませんでした。
またグランドの紹介動画でおや?と思ったのは、メイソン&ハムリンはカワイのような非木材の真っ黒なアクションを使っており、アメリカという国は妙に贅沢なところがあるかと思えば、合理化のためにドライに割り切ってしまう、ふたつの面を併せ持っているようなイメージがあります。

価格を調べてみると$35000強で、ちなみにボストンの同サイズが$16400と、その倍以上もするピアノなので、それなりの高級品なのかもしれません。
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やわらかい

一週間ほど自宅に不在だったため、すっかり書き込みの間隔が空いてしまいました。

隣県のピアノ店のご主人から、50年ほど前のスタインウェイDを仕上げたので、いちど触ってみてくださいというありがたいお申し出があったこともあり、先日ちょっとだけ立ち寄って触らせていただきました。

そこにあったのは、ある意味懐かしいディテールをもつD型でした。
ちょうど70年台から80年台に切り替わる時代のピアノで、鍵盤蓋のロゴは現在のものより全体に太字で、足にはダブルキャスターもなければサイドロゴも入っていないものの、椀木やフレームなどはそれ以降の現在と同様の形状となっているなど、まさに過渡期のモデルだったように思います。

このピアノは、近年亡くなられた有名な某ピアニストの個人所有だったそうで、そのためホールのピアノのような外観上の傷みはなく、安全な場所で大事にされたピアノという印象でした。

アクションはオリジナルのものと、この店のご主人が独自に作った「入れ替え用」の2つがあり、これはこの店の昔からの流儀で、ピアニストの好みで適宜使い分けることができるようになっています。
さっそく音を出してみると、少なくとも80年代からこちらの耳慣れた華やかな音ではなく、人によっては地味と感じるような優しい感じのするピアノで、スタインウェイのDといえばおおよそこんな感じという感覚があるものですが、音を出した途端、その範疇に入っていないのはちょっと戸惑うほどでした。

その時点で入っている鍵盤〜アクション一式は新たに作られたものなので、よけいそうなのかどうかはわからないけれど、とにかく柔らかで慎ましさを感じさせる音は意外でもあったし、正直いうとこれでコンサートができるのか?と思うほど。
ご主人のありがたいお申し出により「オリジナルのアクションも弾いてみてください」というわけで、ものの数分で鍵盤一式をごっそり入れ替えてみるとことに。
こちらは長年にわたりこのピアノを鳴らしてきたものなので、多少それらしい音がするのかと思っていたら、こちらも意外なことに似たような感じで、ハンマーが旧いぶん、より輪郭が曖昧なような感じがあり、ようするにそういう性格のピアノなんだなと思いました。
もちろん、硬めのハンマーで鳴らせばそれなりの音で鳴ってくるのだろうとは思いますが、それよりもピアノそのものの核となる性格みたいなものを感じさせられました。

個々のご主人曰く、どんなにあれこれやろうとも、そのピアノが生まれ持っている個性や器は変えられないということで、そのあたりもピアノというのは面白いもんだと思いました。
このピアノに触れてみて感じたことですが、いわゆる我々が「スタインウェイサウンド」と思っているあの輝かしい音は、半生記も前の時代背景の中で、いまほど細やかな整備や消耗品の交換などもされず、ただ使うに任せてハンマーは硬くなり、やがてギラついた音になっていたのでしょうか?
しかもスタインウェイともなると潜在力が違うので、それはそれで銘器の音として魅了されていたのかもしれないな…などと想像がぐるぐる回りました。

おそらくは調整を重ねながら、新しいハンマーも弾き込まれて馴染んでくると、より深みのあるトーンが出てくるような気もしますが、実際のところどうなるのかはわかりません。

いずれにしても、この時代以降のスタインウェイはよりダイレクトにブリリアントな方向に舵を切り、またそれが時代の求めでもあったでしょうから、そちらの道へ進むことに拍車がかかったのだろうと思います。
とくにハンブルクはその傾向が強く、まだニューヨークのほうが一定のクラシックなスタンスが守られていたのかもしれません。

ただ、面白いのは、どの時代のどのスタインウェイに触れてみても、直接的な音はいろいろあるけれど、本質的な部分のスタインウェイらしさというのはまったく変わっておらず、こういうことを血脈というのか、なんとも不思議なような面白いような気がしました。

スタインウェイは弾く人と聴く人では、ピアノが発する音が大きく異るということは、これまでにも再三書いてきたことですが、もしこのピアノを何処かのホールのステージに上げてコンサートをやったら、今回の印象とはまたぜんぜん違うものになるのかもしれません。

たとえば某メーカーのピアノなどは、狭い空間で聴いたらそれなりの悪くないものに聴こえるけれど、コンサートに使ったらいっぺんにアラが見えてしまうようなことがあるので、やはり本物というのは秘めたる力がどこまで破綻しないかと言えるような気もします。

こんなことを書いていて思い出しましたが、昔のピアニストの演奏を聴いていると、ピアノの音は絶えずキラキラしているわけではなく、音にも底知れない厚みがあったように思いますし「スタインウェイを弾きこなせるか…」という事もよく言われたものでした。
現代のスタインウェイは誰が弾いいても美しい音が泉のようにこんこんと湧いてきますが、昔はそうではなく、それなりの人がそれなりの演奏をした時に、ようやくピアノの真価も出てくるように多層的に作られていたのかもしれません。
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ハオチェン・チャン

クラシック音楽館の4月2日の放送は、今年3年ぶりに来日したというトゥガン・ソフィエフの指揮で、ブラームスのピアノ協奏曲第2番/ベートーヴェンの交響曲第4番が放送されました。
ソリストは2009年のクライバーンコンクールで辻井伸行と同時優勝した、中国のハオチェン・チャン。

全体として、細部までしっかり弾き込まれたクリアな演奏で、全体として見事なものだったという印象。
とくにブラームスの協奏曲はシンフォニックな要素が求められ、若書きの第1番と同様、ピアノ付き交響曲と言ってもいいような作風でで、演奏時間も50分前後と数あるピアノ協奏曲の中でも最も演奏時間の長い部類であることは有名です。

その長さも納得のきわめて素晴らしい作品であえるにもかかわらず、コンクールでブラームスを選択すると入賞できないなどというジンクスもまことしやかに囁かれており、コンクールという審査員も聴衆も次々に演奏を聴かなければならない疲労感の中で、この長大な協奏曲に付き合わされるのがウンザリなのだそうで、笑うに笑えない話です。

それは余談として、ほんとうに素晴らしい作品であるのは誰もが知るところです。
ハオチェン・チャンは従来のこの第2番のいぶし銀のようなイメージ(第1番よりは明るい曲調だとしても)ではなく、華やかさを絶やさないピアノコンチェルトとしてのアプローチなのか、ときにチャイコフスキーあたりを髣髴とさせる瞬間もあったほどピアノの存在と輪郭ががはっきりしていたように思いました。

そういう意味では、いわゆるブラームス臭がプンプンするような演奏とは感じなかったけれど、古いものに新しい照明をあてて、これまで見ることのなかった新鮮な景色があったように感じ、これはこれで一つのやり方だろうという気はしました。
これまでブラームスといえば、佳き時代の都会のシックで陰鬱な夜みたいな、どこかあやふやで仄暗い大人のトーンが聞きどころだったけれども、どちらかと言うと古典の要素を踏まえつつもリメイクされたアップデート版という感じでしょうか。
どうしても不足しているように感じたのは、光と影のコントラストの交差なのか、特にブラームスでは影の表現は大事だと思うだけに、その点が少し平坦過ぎたようにも思えたり…。
とはいえ、いかなる場所も隅々まで危なげなく弾き込まれ疾走感があり、いかにも一流のクオリティをもって演奏されているあたりはN響にも通じるようで、そういう意味でもこの両者は相性が良いような気がしました。

ちなみに、中国人ピアニストを視聴するたび共通して感じるのは、よく鍛え込まれたテクニックとメンタルの強さが見事に合体している点が強みなのかどの人も自信たっぷりで、ときに快楽的なほどの自我表出を堂々とやってのけるあたりに毎回独特な印象を受けてしまいます。
演奏じたいもしっかりしたものではあるけれど、それは欧米風でもなければ東洋的な繊細さというのでもなく、表情の付け方などもためらいとか痛みなどのデリカシーの妙よりは、中国という風土と訓練によって身についた演技的なものを感じるときがあります。

演奏中は、顔の表情も百面相のように変化めまぐるしく、笑ったり怒ったり、陶酔や喜びに浸っているかと思えば、一瞬にして予期せぬ恐怖に身構えて目をむくような表情になったり、ついそちらに目が行ったり。
どうかすると目は怒っているのに口元は笑っていたり、あるいは難しいパッセージでもまったく手元を見ることなく、空を見つめながら忘我の境地のようになるなど、幼少期からの指導法がまるで違うのかもしれません。
その代表格がラン・ランでしょう。

ハオチェン・チャンの場合はラン・ランよりはよほど抑制的ではあるけれど、見ていればそれらの要素はやはり随所にあって、そこは中国人ピアニストに共通して流れるDNAなのかと思います。ただし、音だけを聴いているとさほど違和感はなく、素直に立派な演奏といって差し支えないと思ったことも事実です。

冒頭インタビューによれば、ハオチェン・チャンはこのところブラームスに傾倒しているのだそうで、アンコールにはop117-1が弾かれましたが、長大なコンチェルトを聴き終えたあとに涼しいデザートを振る舞われたようで、「ああ、なんという美しい曲か!」と素直に思いました。
こういう気持ちにさせるというのは、やっぱり演奏が素晴らしかったという証でもあるでしょう。

この印象もあってか、またもコンチェルトから聴いてみた(3回目)のですが、いささかこちらの耳が少し固定観念に囚われていたのか、明晰でメリハリのあるいい演奏だと思えてくるようになりました。
よってハオチェン・チャンは、現代のピアニストとしてはかなり好ましい一人だというのが、個人的にはやや回り道をした気もしますが、その挙句に到達した結論となりました。
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完成度

BSプレミアムでシャルル・リシャール・アムランによる昨年末の来日公演の様子が放送されました。

会場は東京オペラシティ、曲目は55分の番組内では2つのノクターンop.27と24の前奏曲op.28で、むろん実際のコンサートではこれだけではなかったでしょう。

この人は2015年の第17回ショパンコンクールで第2位に輝く実力者で、このときの優勝は韓国のチョ・ソンジン。
度の強い眼鏡とふっくらしたクマさん体型もあってか、温厚な雰囲気があり、飾らないピアノを弾く人で、そこが当時から印象的でした。
それと、今どきの多くの若手ピアニストたちが、コンクール後に実際の演奏活動が始まると、手のひらを返したようにショパンを避けるような振る舞いになっていく傾向があり、それはショパンのピアニストとしてのイメージを剥がそうとする狙いもあるのかもしれませんが、あまり度が過ぎると好意的に見えないようになるのは私だけでしょうか?

ショパンを弾くだけではない、オールマイティなピアニストの資質があることを誇示するあの感じは、今どきのピアニスト自己アピール術という感じが前に出て、ショパンコンクールを出世の階段として利用しただけというしたたかな感じがあり、またこのパターンだな…としか思えなくなりました。

その点ではリシャール・アムランは、他の作曲家の作品も弾くけれど、ショパンは重要なレパートリーという姿勢を崩していないような印象があり、必要以上に野心的でない素直さには好感を持っていました。
そもそも、ショパンコンクールに出場して上位入賞した人に聴衆がショパンを求めるのは至極自然なことで、決してオールショパンである必要はないけれど、プログラムの一角にショパンを入れ込むのは、自分の経歴に対するある種のマナーのような気がします。

中には、ショパンコンクールに何年もかけて周到に準備/出場し上位入賞を果たしながら、今度はピアニストとしてやっていくかどうかもわからない、自分の一番やりたいことは◯◯だ…などと言ってのける人もいたりで、自分の能力をひけらかして世の中を弄ぶのはいかがなものかと思うこのごろだったり。

…さて、アムランですが、彼が出場したコンクールから早いもので8年が経過したことになります。
私はこの人の演奏には、ファンというほどではないけれど一定の好感を持っていましたし、この人が優勝でもよかったのにと思ったこともありました。
その後はCDも数枚購入しましたが、耳を凝らして聴いてみると、意外やイメージよりもドライで詩情がもっとあってもいいように感じるところがしばしばです。
とくに今回の来日公演の演奏では、その点が一層目立ったようでこれは残念な点でした。

アムランに限ったことではありませんが、ショパンコンクールで演奏するということは大変な緊張もあるだろうけれど、やはりその一音一音に当落がかかった真剣勝負であるし、そのための準備も尋常なものではないでしょう。
本人はもとより、周りの指導者たちとのチームによってこのすごいエネルギーを投じて磨き込まれた入魂の演奏であるためか、その後のコンサートで見せる演奏は、もちろん余裕とか深まりとかいい面もあるけれど、どこか真剣度が足りないし、新しいレパートリーに関しては完成度の低さを感じてしまうことが少なくありません。

これはコンクールでの演奏が最高と言っているわけでは決してないけれども、コンクールにフォーカスして練習を積み重ねたものには特別に仕上がった輝きがあるわけで、それに対して同じ弾き手でも通常のコンサートでの演奏とは小さくない溝があるように思います。
他のピアニストでも、コンクールからずいぶん経ってリリースされたショパンのCD(コンクールでは弾かなかった曲)を期待して聴いてみて、あまりの完成度の違いに驚いたこともあります。
それがコンクールのような勝負の場ではできなかったことを表現しようとしているなら、こちらも大いに拝聴するところですが、数を揃えるために雑で生煮えのような演奏が次々に出てくると、その幻滅はたとえようもありません。

今回のアムランがまったくそうだったというのではないけれど、やはり詰めの甘い部分が放置されっぱなしのように聴こえたり、ショパンの演奏様式とか外してはならないポイントからズレたものを感じたりすると、むしろこれがこの人の正直な姿なのかと思って、いささか戸惑いを覚えたのも事実。

アムランのショパンは、全体としては一定のクオリティで保証されているけれど、その実、期待するほど詩的に語りかけるものがなく、意外に配慮に乏しい事務的な処理だったりするのは、どうしようもなく醒めた気分になってしまいます。

ピアノはショパンコンクールでもそうであったようにヤマハで、よほどお気に召したんでしょうね。
音はTVなので厳密なところまではわかりませんでしたが、新型のCFXでした。
見分けるポイントは、大屋根の蝶番が3個になり、外板サイドに取っ手のあるL字フックがないタイプでした。
またTVには映りませんでしたが、フレームも大幅に形状変更されているようです。

全体として、日本のピアノは世代交代する度に外国語が流暢になっていくようですが、願わくばステージ上でのヤマハのボテッとした鈍重なスタイルはなんとかならないものかと思います。
日本製だからといって、なにもピアノでまで胴長短足の日本人体型を貫かなくても…と思うのですが。
一番の問題は前屋根が折れるポイントが後ろすぎで、あと2cm浅ければずいぶん違うと思うのですが、ステージに凛と立って視線を集めるコンサートグランドは、見た目のフォルムの美しさも非常に問われると私は思います。
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向上と退化

このところ、音質もさほど良いとはいえない昔の演奏に耳を傾けることが少なくありません。
理由を考えてみると、現代の演奏はどこか作られたような、ウソっぽさを感じることが多く、昔の演奏にはそういう疑念がない点で、演奏者の本音に触れられるからかもしれません。

とはいえ、新しい世代の演奏もそこそこ積極的に聴いているつもりです。
日本人でもこの数年でワッと増えたように感じますから、あの世界も大変でしょう。
若い世代のピアニストは、いまさら繰り返すまでもないけれど、不自然に完成されておりピカピカで聴いていて見事とは思うけれど、心を掴まれたいのにそうならないまま淡々と進み、ついには後に何も残らないのです。
これは言い換えるなら「もう一度聴いてみたいと思わない」ということかもしれません。
演奏を通じて自分が価値とするものを世の中に投げてみる、あるいは批判覚悟で問うてみるという、とりわけ芸術には必要な個の尊厳のための頑固さとか偏執的なエゴがまったくないのは、まるで売上チャートに合わせた規格品みたいな感じがどうしても拭えません。

評判のいいチェーン店の商品のように安定はしているけれど、マイナスになり得る要素を排除し、わずかなキズや落ち度も消し去って、キラキラに整っているだけの首尾一貫しない演奏。まるで音楽をネタにしたエリートの成功物語に付き合わされているような印象と言ったら言い過ぎでしょうか?

おそらく彼らにも言い分があって、これだけ平均技術が上がりライバルが増えれば、自分の頑なさをアピールして失敗するより、手堅くミスを侵さず、嫌われず、タレントとしての存在力を高めることに注力しなくてはいけないのかもしれません。
一部の鍛えられた耳を持った人をターゲットに芸術性で勝負しても、それは現代が求める価値とは齟齬があり、技巧や入賞歴や、やみくもなレパートリーの量、メディアへの露出、果てはSNSのフォロワー数などが尺度となって、誰にでもすぐにわかるものでなくてはならない。
要するにスーパーマンであることが最も大事なのかも。

私の旧弊な耳には、匿名的な活字印刷したような演奏にしか聴こえず、その演奏から誰の演奏と言い当てることはできません。

海外のピアニストも同様で、だれもが不安のない技術を備え、淡々と既定の演奏をやっているのだから、はじめから終わりまで見通せるようで、ワクワク感がないのも当然ですが、音楽がワクワク感を失うのは大問題という気がします。

これは楽器としてのピアノにも似ていて、昔のピアノは品質も個性も様々で、高級品は夢見るほど素晴らしく中には怪しげな魔力さえ漂っていたりしましたが、大半のピアノメーカーは淘汰され、残ったメーカーはこれという欠点を徹底的に潰して量産品としての改善に努め、標準的な間違いのないものを作っているように見えます。
今は一流品とされるブランドでもコストと利益が最優先で、素晴らしいピアノを作ることに心血を注ぐなどという理想はなく、ビジネスとして与えられた枠の中で、誰からも嫌われないものを、職人不要なマシンを多用しながら、故障しない自動車を作るように製造しているように感じます。
もはやピアノも工場のハイテクの気配はあっても、熟練の職人や工房の匂いがしないのは当然というわけです。

現代のピアニストの演奏は、印刷された楽譜の存在をイメージさせすぎるように感じます。
多くの奏者は聞き分けよくそれらを正確に伝えてくるけれど、それが本心からその人の感じ取った音楽になっているかとなると甚だ疑問で、それも徹底し過ぎると音の商品といった印象があります。
その点、昔の演奏は演奏者の感性を通し、身体をかけめぐったあげくに作品が昇華され、それぞれの言葉や表現となって聴く者へ届けられてくる気がします。そこには演奏者の体温があり、汗があり、吐息があり、喜怒哀楽が作品を通して翻訳され、山あり谷あり立体感があって、血の通った起承転結を感じます。
結果、何を聞いても同じように聞こえるのではなく、作品の姿形も、作曲者が伝えたかったこともダイレクトになる気がします。
要するに作品が奏者と肉体化しているので、楽譜を感じさせないんだと思います。

同時に、現代の精巧な演奏には及ばない点や、場合によっては違和感やどうみても間違いなど、出来不出来もあるけれど、何のために音楽を聴くのかという点では、前世代の演奏のほうが純粋で、音楽のあるべき姿ではないかと感じるこの頃です。
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厳しい現実

以下に書くことはあくまでも筆者個人に限ったことなので、まずその点を明確にお断りしておきたいと思います。

楽器(私の場合はピアノ)を奏でることの楽しさはいまさら言うまでもなく、その大いなる喜びや魅力は自分の半生を通じてよく承知しているつもりです。
とりわけピアノという楽器の美しい音や万能性、さらに無限ともいえる膨大かつ偉大なレパートリー、それを自分自身の手で音にするのは他のいかなることからも得られない、まさに代え難い喜びがあるものです。

そもそも好みのピアノは見ているだけでも快いし、ましてキーに触れて音が出すとなると、自分ひとりのために楽器は反応し、鳴動し、その生の音に全身が包まれる感触、さらにそこから曲になっていく喜びはまさにピアノを弾く醍醐味。
そんな基本は決して変わらないけれど、その喜びと背中合わせに、ピアノを弾くことで常に付きまとってくる虚しさみたいなものからも逃れられない負の感覚が貼り付いているのも私の場合は紛れもない事実です。

その一番の理由は?というと、どんなに練習しても(〜ろくに練習もしない人間がこの言葉を使う資格もありませんが)、基本的な自分の演奏技量にはどうにもならない限界があり、これが分厚い壁となって行く手を阻み、そこを打破することは不可能だという事実があることです。
子供の頃に、ろくに練習もせずいい加減に過ごしてしまったツケが、はっきりとこの結果にでていることは疑いようがないわけで、自業自得なのはむろんわかっていますが…。

ピアノほど技術向上のための短い成長期を取り逃してしまうと、後からどうあがいても基本力が上達しないものは、そうはないように思います。
技術と名のつくものはおしなべてそうなのかもしれませんが…。
私などは生来の意思薄弱な人間だから、技術の向上がまったく見込めないことに、無償の努力を注ぎ練習に打ち込むことは、やはりどんな言葉を並べてみたところでモチベーションは上げられません。
「どんなに下手でもいいから、一曲を心をこめて弾く事が大切」「自分の技量に応じて楽しめるのがピアノの魅力」といった慰めの言葉は山ほどあってむろんその通りでしょう。だからといって心底からそんな気にはなれないのも事実です。

弾きたい曲が自在に弾ける世界には手が届かず、やむを得ず自分の技術に見合ったレベルの曲を幾日も(ときに何ヶ月も)辛抱強く練習するしかなく、それが全く楽しくなくはないけれど、やはり楽しさの幅は大きく制限され、欲求が満たされることより、不満の増幅のほうが勝るわけです。
技術的に大したことない曲を一つ仕上げるにも、日々の努力と練習に勤しまざるをえず、加えて昔は自分なりにできていた暗譜さえ明らかに記憶力が減退しており、自分の求めているピアノへのイメージから離れていくのをイヤでも感じるこのごろ。

こういう厳然たる事実が年とともに、よりはっきり鮮明に見えてくるようで、そうなればなるだけささやかな練習をするのも以前にも増して億劫になり、勢いピアノに向かう時間も意欲も弱くなっていくようです。
そもそも練習というのは、それそのものに才能と意志力と忍耐が必要だし、ある程度の若さや体力的なもの、そして向上するという喜びの後押しも必要なんだと思います。

ピアノを趣味でやっている人の中には、自分の技量にはさほど頓着せずコツコツと練習し、レッスンに通い、それを喜びとできる方もおいでのようだし、近隣の騒音問題などがなければいくらでも弾いていたいという方も少なくなく、これには感心もするけれど、個人的にはそんな気持ちはほとんど信じられないのです。
中には、それでも練習を積み重ねれば、技術は向上すると本気で信じている方もおられるようで、それは結構なことですが、私は逆立ちしてもそんな希望は抱けないし、自分の考えが嬉しいほうに間違っているとも思えない。

ピアノの演奏技術は、いろいろな見方があるにせよ遅くとも十代までで大枠は決まってしまい、それ以降はどんなに努力をしても大きく変わることはないでしょう。

思うにピアノの演奏技術向上というのは身長が伸びるのと同じようなもので、伸びる時期に(効果的な訓練をすれば)ぐんぐん進み、それでもどこかの時点で残酷なまでにバタッと止まってしまうもの。

世の中には、つべこべ言わずにきちんと頑張り通して何かを成し遂げる御方もおられますが、「ヨーシ自分も!」というような気概というか、ある種の執念がまるきりないのが我ながら情けない限りです。
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聴き応え

いつものTV視聴から。

▲アンヌ・ケフェレック
来日公演からシューベルトの最後のソナタD960と同じくベートヴェンのop.111。
時間の関係でシューベルトは第1/4楽章のみ、ベートーヴェンは全曲でしたが、普通に考えればシューベルトはまだしも、このフランスの小柄な閨秀ピアニストが弾くには、ベートーヴェンの最後のソナタなどいささか荷が勝ちすぎやしないか…という予断があったのですが、それは私の浅はかな間違いでした。
一般的に、最後の…と名のつくソナタなどになると、どうしても精神性の表出を意識しているようで、大上段に構えて大仕事に挑んでいるといった演奏になりがちですが、ケフェレックのそれはいささか趣の異なるもので、そういう過剰な気構えなしに、ケレン味なく、曲を曲らしく、正にありのままであるため、それが逆に極めて深い説得力をもっていたことは驚きでした。
長年の研究や解釈の手垢があまり付かない、作品の自然な姿をそのまま描き出し、力むことではない音楽としての美しさの中から精神的な奥深さのようなものを、聴くものが恭しく押し付けられるのではなく、自然に自由に受け取るという手筈になっているような演奏。
凡庸なピアニストは、作品の背景や深いところを見落としているという批判を恐れるあまり、必要以上に難問を解読するように振る舞い、そして形而上学的なものへ到達したことを見せねばならぬと奮闘するため、あるがままの姿が逆に見落とされてしまっているようにも気づきました。
しかも、ケフェレックは決して曲を小さく弾いたわけでもなければ、フランス的な軽妙な感性の中に落とし込んだのでもなかった印象をもちました。
耳にしたのは、あくまで自然な語りであり、こういう弾き方もあるのかと唸らされたとともに、おそらくこの人にしかできない演奏なのだろうと深い感銘を覚えました。
とかく現代の情報過多の時代にあって、ピアニストも頭でっかちになり、高尚さを狙いすぎて、却ってありきたりな聞き飽きた、つまり通俗的な演奏になっていることを大いに反省すべきだろうと思います。
「楽譜にすべてが書かれている」という言葉がありますが、現代のピアニストの多くはなるほど楽譜に正確ではあるけれど、同時に情報や環境にきつく縛られているという意味で、甚だ退屈かつ凡庸な演奏に陥りすぎていることを、ケフェレックの演奏はまざまざと感じさせるもので、この録画はなかなか消去できそうにありません。

▲イリーナ・メジューエワ
長く日本に住むこのロシアのピアニストは、その華奢な風貌とは裏腹に、重厚かつ正統的なピアノを聴かせる実力派で、私はこの人のお陰でメトネルのピアノ曲にずいぶん親しむきっかけを作ってもらった(主にCD)と思っています。
いまや日本語も達者で、昔の謙虚さを失っていない頃の慎ましい日本人のような語り口で、その内容と併せてまずもって驚かされました。
この日はラフマニノフ・プログラムで、使われるピアノもラフマニノフが10年ほど自宅で使っていたというニューヨークスタインウェイのDで、現在は東京のピアノ貸出会社が所有しているようです。
メジューエワ氏もこのピアノを通じて、ラフマニノフからいろいろな教えを受けているような心地がするというような、畏敬の念に満ちた意味のことを語っておられました。
楽器としての内部は充分な修復や手入れがなされているようですが、外観は意図的に手を付けられていないようで傷みもかなりあるけれど、それが歴史を感じさせる凄みとなり、とりわけ目を引いたのは鍵盤蓋に残る無数の生々しい傷あとでした。
それも引っかき傷のような軽いものではなく、おそらくは巨大な手の持ち主としても有名だったラフマニノフの爪や指先が激しく衝突していたのか、木肌がえぐれて木の地肌が銃痕のように無数にできてしまっており、生きていたラフマニノフの息吹を感じさせないではおかない壮絶な証拠のようでした。
とりわけニューヨークスタインウェイ(アメリカのピアノ全般?)は、ハンブルクやその他の標準的なピアノに比べて、キー(特に白鍵)がわずかに短かかったので、いよいよラフマニノフにとっては指先が鍵盤蓋につっかえて仕方がなかったのかもしれません。

メジューエワの演奏は派手さで人の気を引くものではなく「滅私奉公」という古い言葉を連想してしまうような誠実さというか、礼儀正しさみたいなものを感じます。
かといって、いわゆる退屈な先生タイプではなく、楽器をよく鳴らす厚みがあり、同時にロマンティックなので、聴く側も集中力が途切れないのは稀な存在だと思います。
テンポも許容できる範囲でのやや遅めの設定で、圧倒的な疾走感などはないかわりに、細かいディテールを漏らさず聴くには、こういう演奏をしてもらえると、じっくりと作品に触れることができるのは好ましく思います。
とくにソナタ第2番はラフマニノフのピアノ曲の中でも、代表作であるだけでなく、ひときわ壮大かつ官能的な作品である気がしました。
ピアノ自体にも生命感があって、奏者と楽器が常になにかのやりとりをしているよう。

つくづく現代のピアノの大半は、音を出すための無機質な装置になってしまったように感じないではいられませんでした。
とくに低音域の豊かな響きなどは比類無いものがあったし、弾けばピアノが反応しているという独特な感じは、楽器の最も大切なところではないかと思います。
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もろもろ

あいも変わらず、テレビ番組から。

▲坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes
新年に放送された、坂本氏がNHKのスタジオで収録したピアノソロ演奏。
大病をされて以降、コンサートは体力を要するため、ゆったりとこのようなスタイルの収録となったというようなことをご本人がコメントされていました。
そもそも私は、坂本龍一氏のお顔と名前はむろん知っているけれど、具体的にどのようなミュージシャンなのかほとんど知りません。
若い頃はYMOというユニットで活躍されていたこと、映画『ラスト・エンペラー』では音楽と、俳優としても満州国の甘粕正彦を演じたことぐらいが知っていることのほとんどで、それ以外は実はよくわからないままなのです。

よくわからないという点では、今回視聴した演奏も作品も恥ずかしながら同様でした。
坂本氏のファンの方からは呆れられるかもしれませんが、この番組でのピアノ演奏を聴いた限りでは、慈しむようにゆるやかに弾き進められているものの、どれも似たような漠然とした感じがあるばかりでした。

強いていうなら、昔のスタイリッシュとされた頃の時代の空気というか価値観を思い出すようで、日本が日本的じゃないものを目指しはじめた頃って、こんな感じだったようなぼんやりした記憶が呼び覚まされたような。

この方は(ご自身でも言っておられましたが)ピアニストではなく、作曲や創作表現のためにピアノが最も手近にある楽器ということで、それを必要に応じて触っておられるということのようですが、もしピアニストだったらかなりの武器になったことだろうと思わせる大きくて立派な手をしておられるのが印象的でした。

ピアノはCFX以前のやや古いヤマハで、そこから聞こえてくる音はヤマハそのもの!といった感じの、まるでスパゲッティナポリタンみたいな洋風和物というか、あの懐かしい日本的なピアノの音でした。
NHKのスタジオならスタインウェイなどいくらでもあったでしょうに、それをあえてこのヤマハを使われたあたりも、坂本氏のこだわりなのか、あるいはそれ以外の事情が潜んでいるのか、そのあたりはまったくわかりませんが…。

▲舘野泉 鬼が弾く 86歳、新たな音楽への挑戦
とにもかくにも、へこたれないこの方のエネルギーに恐れ入りました。
お名前の通り、そのつきないエネルギーはこんこんと湧き出る泉のように。
66歳でコンサート終了後に脳溢血で倒れられてから、早いもので20年。
以降は左手のピアニストへと転身され、そこから再スタートを切って精力的にコンサートをされていたのもすごいなと思うけれど、コロナで全世界のコンサートが中止となり、大きな空白期間を余儀なくされたのは舘野氏も例外ではなかったようです。
そうして、ようやく世の中が動き始め、86歳にして「鬼の学校」というピアノ四重奏の新曲で久々のコンサートをするというドキュメント。
以前より一回りお年を召されたようで、移動は車椅子だったりするけれど、ピアノを弾くことへの情熱は一向に衰える気配がなく、もはやこの方にとって、ピアノに向かうことは人間が呼吸し心臓が動いているのと同じようなものなんでしょう。

ご自宅はフィンランドのヘルシンキと東京の二ケ所にあり、一年の半分ずつを両所で過ごしていらっしゃる由。
ちょうど東京滞在中にコロナ禍となったようで、海外への移動もままならず、その年齢と自由とはいえない身体での一人暮らしを余儀なくされ、近所への買い物は電動のカートに乗って出かけ、食事の準備からなにからお一人でこなしておいでだとか。

以前の番組では、この東京のご自宅には高齢のお母上がいらしたけれど、もはやその様子もなく、それでも例の淡々とした調子で前向きに毎日を受け容れ、ピアノに向い、どうしたらあんなふうになれるのかと思うばかり。
もともとの出来が違うんだといえばそれっきりだけれど、100分の1でもあのしなやかにして頑健なものが自分にあったらと、ただただ羨ましく思いますね。
ピアノだ音楽だというより、生きるということの価値や人生訓になりました。

▲蛇足
TVではないけれど、週刊誌ネタとして思うところがあったのは、現在最も注目を集める日本人ピアニストが、新年早々、同じコンクールに出場したお相手と結婚されたという話題。
あまりに出来過ぎの観があり、それがむしろ不自然な印象だったけれど、別に贔屓のピアニストではないし、人生すべてをしたたかに計画的に押し進めるこの方であれば、そう驚くことでもなかろうと思いました。
そうしたら、ほどなくして新聞の週間文春の広告に、この人はすでに外国人との離婚歴があるとあり、とたんにすべての辻褄が合って腹に落ちた気分で、さすがは文春砲と感服。
ネット検索したら、とてもここには書けないような事がゾロゾロ出てきて、いよいよ納得。
他人様のプライベートをとやかくいうつもりはないけれど、いつもどこかに感じてていた違和感が、パズルのピースがついに埋まって一つの形が見渡せたような納得感がありました。

まあ…ピアニストといっても昔の芸術家特有の破天荒とはまるで趣が違うし、こんなスキャンダルもうまく着こなしていかれることでしょう。
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良いお年を

年末に目に止まったTV番組から。

【辻井伸行in河口湖ピアノフェスティバル2022】
このフェスタは毎年恒例なのかどうかは知らないけれど、過去にも同じものが開催されていたので、少なくともこれが初めてではないのでしょう。
辻井さんが中心のようですが、ご多分に漏れず、そこに集まってくるゲスト演奏家の方がいろいろいらっしゃるようです。
加古隆さんはたしか以前も見たような気がしますが、この方は徹底してベーゼンドルファーしか弾かないということなのか、今回も加古さんの演奏時にはそれが準備されていました。
演奏されたのは、曲の名前は知らないけれどNHKの「映像の世紀」でお馴染みのもの。

ジャズの山下洋輔氏のお顔もあり、ラプソディ・イン・ブルーを弾かれていたけれど、私の耳にはときどきそれらしきものが聞こえてくるぐらいで、大半は山下氏お得意の爆発系の即興演奏のような上ったり下ったりが多く、そのときはパワフルだけれど、両手オクターブのあの有名な主題の旋律部分になると突如勢いが落ちて、指もなんだかおぼつかない感じになるあたりは別人みたいで不思議でした。

最後は辻井さんのソロでラヴェルのピアノ協奏曲。
野外会場という条件も加味して考えるべきだろうとは思いつつも、かつての辻井さんからはあまり聞かれなかった、ことさら派手なテクニシャンであることをアピールしようとする印象で、テンポもやたらセカセカしているし、なにより技巧を前面に押し出したような感じのアスリート風の演奏であったのは、彼の意外な一面を見たようでした。
そもそも、この方の演奏はそういう「ガンガン弾けますよ系」とは一線を画したピュアな魅力が、いささか表現が平坦ではあっても全体として清潔であるし辻褄が合っているように思っていたので、どうされたんだろう?という感じが残りました。

第一楽章がまずもってそんな感じだったので、せめて第二楽章では辻井さんらしい美しさのきらめきが堪能できるのかと思ったら、放送時間の関係からかこれは惜しげも無くカットされ、そのまま派手で賑やかな第三楽章へと繋げられていたのはびっくりでした。
どうしてもカットするのであれば、第一楽章をカットし、せめて第二楽章〜第三楽章という具合にはできなかったものか…と思うんですけどね。

今や国内に限っても、ピアニストの世界は相当に上手い人が次から次へと出てきて混雑気味だからか、さしもの辻井さんも無垢なだけではダメだと思って少しマッチョ系に舵を切りだしたということなのか、たまたま今回はその場のノリでそうなったというだけのことなのか、真相はわかりませんが。
ああ見えて、あんがい勝負心はしっかり強いお方なのかもしれないとも思いましたが、コンサートピアニストとしてあの位置を保持していくぐらいですから、それぐらいの逞しさは当然だといわれればそうなんでしょう。

【フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して〜スペイン・マヨルカ島への旅〜】
フジコさんが、ショパンとジョルジュ・サンドが訪れたことで有名なマヨルカ島を旅するということで、それに密着した90分のドキュメント。
これまでフジコさんのお歳は発表されてこなかったので詳しい年齢は知りませんでしたが、この番組で初めて90歳になられるということを知り、率直にお若いなぁと驚きました。
久しぶりに映像で見たフジコさんは、なるほど歩行器をつかって歩いておられ、ステージに出るにも介添えの方が付いておられるようで、自分を含めて当たり前ですが、世の中はみんなまた一段と歳をとったのだということを思い知らされるようでした。
それは前述の山下洋輔氏についても同様でしたが。

パリの自宅からは、友人の車でスペインまで南下し、そこからフェリーに乗り換えてマヨルカ島を目指します。

マヨルカ島では、リサイタルまで組み込まれて、現地の音楽院のホールでお馴染みの曲を弾かれていました。
テレビカメラが入っているということもあるのかどうか知らないけれど、同行者はもちろん行く先々の方まで、皆さんがマイペースなフジコさんに対して、非常に親切に接しておられるのは印象的でした。

ところで、フジコさんほど好き嫌いの別れるピアニストもいないと思いますが、私は実はそんなに嫌ってもいないし、とくにファンということもありません。
嫌っている人にいわせれば突っ込みどころ満載でしょうし、それはもちろんわかるのですが、それでもこの人にしかない美しさというのがあるのだから、あんなにも憤慨せず、こんな人が一人ぐらいいてもいいと個人的には思うのです。
とりわけ、時を経るにしたがってどんどん増殖されていく、確実に安定した演奏のできる、高性能工業製品みたいなピアニストだらけのこの時代に、まるでつるつるに使い込まれたアンティーク家具のようなフジコさんの演奏には、理屈抜きに人間がホッとさせられる本質が息づいていると私は思うのです。

聴いていると、明らかな譜読みの間違いや行き過ぎた自己流で乗り切ることもあったりで、たしかにギョッとする瞬間もないではないけれど、それをいまさら青筋立てて言ってみてもナンセンスという気にさせられます。
フジコさんの演奏は、なにより音が美しく、センスもそれなりで一つの世界があり、演奏そのものだけではなしに、人の心の中にあるなつかしいものに触れられる数少ない機会なのでは?と思います。
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ガルシア・ガルシア

先日の『題名のない音楽会』で、マルティン・ガルシア・ガルシアさんが出演しました。
昨年のショパンコンクールで第3位に輝いた、スペインのピアニストです。

スタジオ収録で、演奏曲目はバッハの平均律第1巻より第1番、ショパンのワルツ第4番、モンポウの「歌と踊り」第6番、ラフマニノフの「サロン小品集」よりワルツ。

番組でも話題にされていましたが、演奏中はご自身も声を出して共に歌い、良い意味での天真爛漫さが魅力。
トークでも人懐っこい笑顔を決して絶やさず、常に楽しげに振る舞うその様子は、いかにもラテンのピアニストというイメージに溢れており、この天性の明るさは日本人やロシア人にはおよそないもので、世界は広くお国柄や個人の資質も実にさまざまという事実を感じずにはいられません。

体格も立派でややぽっちゃり系、そこにさらに特大の手が加わり、その指は15度!開くのだそうで、これはドからオクターブ先のソまで届くというわけで、こんな人から見ればピアノも我々が相対するものとは同じであるはずがなく、一回りも二回りも小さなものなんだろうなぁ…と思います。

指もただ長いというだけでなく、大理石の彫刻のようにがっしりとした骨格にしっかりした肉付きがあり、見ためのバランス上ピアノに最適サイズとは思えないほど立派で、体格差というのは如何ともし難いものだということをいまさらながら感じます。
大谷選手とて、その並外れた天分と努力に加えて、それをあの秀でた体格が支えているのですから、そりゃあかないっこないと思います。

なにより注目させられたのはガルシア氏の出す音。
どっしりした体格と、その大きく逞しい指から出てくるそれは、すべての音がいやが上にも冴えわたっており、芯のある音が泉のごとく出てくるのは呆れるばかり。しかし、強いて言うなら全体に音量ベースが強すぎのように思われるところがあり、我が家のテレビのせいかもしれないけれど、ときどき音が割れ気味になるのも致し方無いのかと思います。

音楽的には、クラシックの演奏者が失いがちな躍動や楽しさや明るさが支配しており、それは稀有な価値だと思うけれど、裏を返せば深く繊細なものを覗き見るような部分であるとか、かすかなニュアンスに息を詰めて触れるといった類のものとは違う気がしました。
たった今、躍動や明るさと書いたばかりですが、通称「猫のワルツ」とされるワルツの4番などは、意外に重めで、リズム感や軽さや洒脱がさほど発揮されなかったのは意外でした。
ショパンコンクールで3位にはなったものの、実はショパン向きの人ではないようにも思います。

いずれにしろ、現代の若手ピアニストの多くが建前重視の演奏に終始するあまり「草食系」の音しか出さなくなってしまった背景を考えると、いささかやり過ぎな面もあるにせよ、たまにはこんなビシッとした硬質な音を出せるピアニストがいるということも、それはそれでみるべき点があるように感じました。

ピアノはショパン・コンクールの時もそうだったけれど、この番組でもファツィオリを弾いていました。
その点についても質問があり、「いろんな理由でファツィオリを使っている」「僕が歌うことにもつながりがある」というようなことをいっていましたが、この「いろんな理由」は意味深長な気がしました。
私は聴いていて、彼の強い打鍵を支えるのは、ファツィオリのソフトな音作りがあるのでは?と感じました。

ガルシア氏の強い打鍵では、現代の標準的なエッジの立ったパリッと鳴るピアノで弾いたら、メーカーに関係なくバランスが崩れてしまうのではないかと思うし、始終そこに気を遣っていてはノリが悪くなり、ストレートな演奏の妨げになるのかもしれません。
「ファツィオリの音や響きが好み」と率直に言ったわけでもなく、「いろんな理由」「歌うことにもつながりがある」というあたり、彼の生まれ持った強いタッチと「つながりがある」ような気がしました。
これはもちろん個人的な憶測に過ぎませんが。

ちなみにガルシア氏は日本びいきで、母国でも日本料理を食べ、最近婚約されたお相手も日本人だそうです。
グルダ、シフ、ブーニンなど、日本人と結婚する男性ピアニストも結構いるんだなあと思います。
さらにガルシア・ガルシアという名前は、ご両親の苗字がおふたりともガルシアで、そのためにこの名前になったのだとか。
とすると、スペインは両親の苗字を並べるのが普通なんでしょうか?

ファツィオリについては、今回見ていて一つ発見したのは、フレーム(弦を張る金属の骨組み)の中で、打弦点のやや手前にある、鍵盤とほぼ平行になっている部分がありますが、そこだけ上部が黒に塗られているように見えたのですが、これはどういう意味があるのだろうと?と思いました。
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修理はピンキリ

『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』という本があり、以前購入していたものですが、あらためて本棚から取り出して見直してみました。
これはジョン=ポール・ウィリアムズというイギリスのピアノ技術者による著作で、日本では元井夏彦氏という方の翻訳により、ヤマハミュージックメディアより出版されている、カラー写真が多用された美しい本です。

本来なら、ヤマハが出版するピアノ関連の本であれば、参考写真もヤマハピアノが徹底して使われるはずですが、これは海外で出版されたものの日本語版なのでそうもいかなかったのか、おかげで様々なメーカーのピアノが出てくるのが面白く、強烈な自社愛のヤマハにしては珍しく理解なのか忍耐なのか、微妙なところはわからないけれどその点でも興味を引きました。

内容は主に「ピアノの歴史と発展」「ピアノメーカー総覧」「メンテナンス」という三部にわけられており、メンテナンスの章では認識を新たにする記述が散見されました。

例えば、ピアノの修理には「レストア」「リビルド」「リコンディション」というように分けられるとあります。
レストアやリビルドは、ざっくりとオーバーホールというような言葉で、その意味することろを深く考えることもないままに適当に使っていましたが、どうやら日本にはそのあたりの明確な区分がないようにも感じます。

説明によればおもに以下のようになるようです。
▲レストア
レストアの定義は「原型に近い状態に戻すこと」とありますので、おそらくオリジナルを毀損せず本来の姿や内容を忠実に復元するというものでしょう。
長年弾かれてきたもの、放置されていたもの、乱暴に扱われたもの、気候変化や戦争を経たものなどをオリジナルの状態を保ちながら楽器を補強することだそうで、古いピアノのレストアは現代のピアノを作ることではない由。
歴史的価値に重きを置くということでもあるようです。
使用される部材もその楽器の作られた年代の木材、フェルトや弦も当時の素材や製法を考慮しながら、慎重かつ丁寧に再現することで、いうなれば美術館の修復に似たようなものと思えばいいのかもしれないと思いました。

▲リビルド
リビルドは、楽器を元の状態またはそれ以上の状態に再生するために行われ、部品も最小単位まで分解する必要があり、ひとつひとつをきれいにし、不備があれば修理もしくは新品と交換するため、費用もかなり高額となり、品質の高い貴重な楽器に行うのがふさわしいとあります。
塗装、響板、フレームからネジ一本まで、これでもかと徹底しているので、昔の姿を偲ぶ要素も見い出せません。
楽器店に行くと、戦前などかなり古い時代のピアノでありながら、いわれなければ新品と見まごうばかりに内部に至るまで眩いばかりにピカピカにされ、かなり強気な金額で販売されているのを見かけることがありますが、あれがリビルドなんでしょう。

▲リコンディション
経済的または技術的理由から、完全なオーバーホールができない場合、消耗の激しい箇所のみ処置を行うことで、コストを抑え、適正に機能するピアノに修復することのようです。必ずしも楽器を完全に分解することはなく、部品は必要に応じて掃除、修理、再配置され、どうしても交換する必要があるもの以外は再利用される。
各種調整やハンマーの形成など、手掛ける項目は多岐にわたるようで、個人的なイメージとしてはホールのピアノの保守点検のようなもの、もしくはその延長ではないかと思いました。
ところが、実際には必要な箇所さえ省略された、甚だ不完全なものが多いことも否定できません。

我々が、安易にオーバーホールと呼んでいるものは、弦やハンマーに代表される消耗品の交換を中心としたリコンディションであって、正確に言うならリビルドとリコンディションの間にあるように感じました。

リビルドはかなりの費用と時間的な余裕を必要とするので、楽器の価値などおいそれとは着手できることではありません。
ただ、仮に100年経ったピアノを、たった今、工場で出来上がったばかりのようにピカピカギラギラにしてしまうのは、その美しさや技術には感心しますが、諸手を上げて賛同する気にもなれません。
というのも、あまりに過剰なリビルドは、そのピアノの生まれた時代や経てきた歴史まで消し去ってしまうようで、商品としてはアリなのかもしれませんが、センスとしては個人的には違和感が拭えないことも事実です。

過度に傷んだもの汚いものはさすがに好みませんが、古くて好ましいピアノには相応の歴史を感じるものであって欲しいし、そこをどう見るかは所有者や修復する人の価値観や美意識に大きく委ねられていると思います。
もし興福寺の阿修羅像が真新しいピカピカ状態になったら…それはもう完全な別物となってしまうでしょう。
古いピアノの魅力や音を楽しむには、そのピアノの歴史や個性を受け容れて楽しみ、そこに自らも参加していくことではないかと個人的には思います。

だからといって機能的に問題があっては困るので、そこはきちんと健康体に整備された上でのことですが。
よく耳にするのが、「ハンマーを換えた」「弦も換えた」というけれど、それ以外は手付かずで、本来はタッチコントロールに直結する各種フェルトやローラーなど、細かい点まで配慮されないことには、いつまでも満足行く結果は得られないと思います。
むろんコストの掛かることなので、できるだけ切り詰めたいというのはわかりますが、中途半端なことをして延々と不満が続くことがいちばんもったいない気がします。
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現代の価値観

ピアニスト兼著述家として独自の地位を得ている青柳いづみこ氏ですが、2015年のショパンコンクールをリポートした『ショパン・コンクール』(中公新書)があるというのに、2021年大会についても『ショパン・コンクール見聞録』(集英社新書)なるものが早くも刊行されており、この方の切り口はおおよその察しがつく気がして迷いましたが、敢えて購入して読んでみました。

ここでは、内容についてはいちいち触れることはしません。
全体としての読後感は、もし青柳氏のいうことが正しいのであれば、私はもうピアノ演奏の鑑賞者の立場さえ、今の時代の尺度や価値観に合わないことを悟り、また自分の意に反してまで合わせようとも思いません。

以前であれば、ピアニストや演奏に関する本を読めば、概ねその言わんとするところは理解できるし、同意できる内容は濃淡の差こそあれ数多くありましたが、今回の一冊を読むと、書いてある事があまりに自分が感じたこととかけ離れたもので埋め尽くされており、要するに時代はすっかり変わったのだと認識しないわけにはいきませんでした。

そもそもショパン・コンクールといっても、20世紀までのそれと、今日では世情も価値観も人々の好みや求めも違うことじたいは否定しません。
ひとことでいうなら、非常に可視的で表面的なものになったと思います。
もはやショパンと言っても、コルトーのような演奏でないことはわかるけれど、ロマンティックであったり主情的であったり、詩情豊かなものであることさえ、ほんの僅かでもコンクールの求めからはみ出すとマイナスとなり、がんじがらめの制約の中で、いかにも今風な優秀なパフォーマンスが出来た人だけがピックアップされ、加点を得てファイナルに進み、そして栄冠を勝ち取るというシステム。
しかるに、その基準はというと明確さを欠き、ふらふらと常に微妙に動いていて、まるで訳がわからない。

このことは今回が初めてではなく、以前から薄々感じてきたことではあったけれど、この本を読むことで審査の舞台裏なども垣間見ることができ、審査員の顔ぶれや時の運も大きく、要は世界最高峰のピアノイベントとしての色合いだけが強まり、馬鹿らしい気分になりました。

そもそも私は近年のショパン・コンクールの優勝者についても、心底納得した事がありません。
建前では、伝統的なショパニストを選ぶとしながら、ピアニストとしての総合力や将来性にも目配りしたともあるし、そうかと思えばショパンとしての伝統や作法、スタイルを備えていないとかで落とされたり、使用楽譜の問題、装飾音のちょっとしたことまで、重箱の隅をつつくような問題があったりと、複雑でそのつど基準が変わり、あいまいで不透明。

今回は各コンテスタントについての印象を私ごときが述べるつもりはないけれど、優勝者というのは一人しかいないので、それは特定されますが、あれをもって600人とも言われる応募総数の中から選びぬかれた、このコンクールの優勝者にふさわしいものとは私個人はとうてい思えない。
きっと、審査の現場では大モメになったのかと思いきや、彼の優勝は審査員の中では圧倒的なものだったらしく、それひとつとってもまったくわけがわかりません。
この本を読みながらあらためて動画も確認してみましたが、やはり首をひねるばかりで、優勝を逃した人の中にはピアニストとして格が違うというべき優れた人もいたのはいよいよ複雑な気分に陥りました。

では、ショパニストとしてはよほど際立っていたかといえば、そうとも思えず、ショパンに不可欠な洗練された美の世界やニュアンスに富む磨きぬかれた語りが際立つわけでもなく、大事なところでむしろダサいし、どうしても訛りの抜けない地方出身者が、一生懸命背を丸めて弾いているようでした。
演奏の背後に師匠の影がチラチラするのも気になりました。

私の耳には、大半の人の演奏は「しっかり受験準備をしてきました」的なもので、ニュアンスやファンタジー、つまり音楽としての昇華が乏しく、何度でも聴きたいというシンプルな音楽鑑賞者としての感情が呼び起こされないのです。
個別の演奏についても、☓☓が何次で弾いた☓☓は審査員の某が涙を流すほどで、コンクール史に残る名演などという記述が出てきますが、私にはむしろいやな演奏だったし、なにがいいとされるのか皆目わからないものだったりで、ここまで自分の感じたことと評価が噛み合わないということは、「もうどうでもいいや」という虚しさばかりが残るだけでした。

楽器(ピアノ)の音も時代とともに変わっていくように、ピアニストの演奏も同様だと思うし、それは時代の流れの中で当然のこと。
しかし、音楽というものの根本的な役割は、聴くものに音楽以外では得られない喜びや充実感、美しいものに触れ、精神あるいは感性が特別な体験をすることだと思うのですが、ここに書かれているコンクールの実状は、まるで上場企業のどれを製品化するかの戦略会議の舞台裏の話のようで、およそ私なんぞの求めているものとは掛け離れたものとしか言いようがありません。

他の世界と同様、コンクールも審査員の総合点で事が決する以上、魅力ある稀有な天才より、誰からも嫌われない優秀で無難な人が有利だという法則がここにもいきているようで、優勝は5年に一人きりとなれば、もしかしたら政治家の選挙以上の票集めが必要かもしれません。
これでは、真の芸術は死に絶えるでしょう。
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ブーニン−2

ブーニンの健康がよくない…というかすかな噂は耳にしていましたが、これほどとは思いませんでした。
この番組によれば身体の故障からピアノを弾くことが困難になるというピアニストとしてこれ以上ない不運に見まわれ、さらには遺伝的な糖尿病で左足の切断の必要まで迫られたのだそうで、大変おどろき深く胸が痛みました。

だれしも足の切断なんて耐え難い衝撃以外のなにものでもなく、ましてピアニストにとって、足はペダル操作には欠かせないもの。
夫人のすさまじい努力によって、ついにドイツでこの病の権威に行き当たり、切断せず足の骨を一部切除し、そこをつなげるという大術が行われ、からくも足の切断という最悪の事態を免れたとのこと。

かつての、まるで子供が喜々として遊ぶがごとくピアノを自在に操っていたあのブーニンが、知らぬ間にこのような悲劇に直面していたとは、ただもう驚くほかありませんでした。
番組は、そんな彼が最後のステージから9年ぶりに人前での演奏に挑むというもので、そこにいたる日々を追ったものでした。

曲目は子供の頃に弾いたという、シューマンの「色とりどりの作品」op.99。
ご本人も「左手が昔のように動かない」と仰っていたけれど、ピアノに向かっても、顔や雰囲気はまぎれもないブーニンであるのに、その演奏は信じられないばかりに心許なく、「色とりどりの作品」のシューマンらしい夢見るような第一曲だけでも正直ハラハラさせられました。

9年ぶりのコンサートは小さな会場である八ヶ岳高原音楽堂で行われ、その様子が一部流れましたが、見ているこちらまで言いようのない緊迫感が迫りました。

ブーニンの人生に欠くべからざる存在は長年彼を支える夫人で、ジャーナリストとしての自身の仕事を抱えながらというけれど、多くはブーニンを支えることがメインでしょうし、身のまわりのお世話から、味や盛り付けの美しさにまでこだわるブーニン好みの食事の準備まで、それはもう常人の域を超えた献身ぶりで、ただただ頭が下がりました。

ブーニンは見るところ、夫人を心から愛すエレガントでやさしい人のようですが、それでもやはり取り扱いの難しい天才肌であることも確かなようです。
古い日本の言葉でいうなら、これぞまさに「賢夫人」というべきでしょう。
そんな夫人をもってしても、八ヶ岳高原音楽堂での久々の演奏にあたっては、袖で見守りつつも目には涙がにじんで、寿命の縮まるような思いだったようで、それも当然だろうと思いました。

どうにかコンサートも終了し、これで終わりと思ったら、なんとその後、東京の昭和女子大人見記念講堂(昔はよくコンサートがあり、ホロヴィッツの2度めの来日公演もたしかここでは?)でコンサートが行われたようで、さらに来年は全国ツアー!?というのですから、これにはいささか耳を疑いました。

様々な苦難を乗り越えて、再びステージへ立つというのは立派なことだと思います。
しかし昨今のピアニストはますますテクニカルな面でレベルアップされており、そんな中どういう演奏をするというのか…。
そもそもブーニンというピアニスト自体が、音楽を通じて深く語りかけるというよりは、キレのいいテクニックや多少傲慢でも類まれな推進力で聴かせるタイプのピアニストだったので、よくわからなくなりました。

その一方で、今どきの日本の聴衆はコンサートに行って音楽や演奏がもたらす純粋な感銘を求める人はごく少数派で、大半は人気や経歴、話題性などに大きく左右され、さらに義経の判官贔屓ではないけれど、その背後にハンディや感動物語がくっついていることが大好きということに、近年とあるピアニストの登場いらい気付かされました。

全国ツアーが組まれる以上、今のブーニン氏ひとりの思いつきでできることではなく、きっとそれを支える背後の算段あってのことなんでしょう。
現代人の悪い癖で、疑い始めると、先日の番組もその前宣伝の意味合いもあったのでは?、すべては計算されたものだったのでは?という疑念が広がってしまい、ブーニン氏には申し訳ないことですが、それもあるような気がして完全否定ができません。

率直に言って、来年の全国ツアーにチケットを買っていく人たちが、もし健康に歳を重ねてきたブーニンだったら果たして行くのか?
この疑問はどうしても払拭できません。

むろんコンサートをやろうという人がいて、それに喜んでチケットを買って行く人が大勢いて、結果として収益が上がり興行が成り立つのなら、まわりがとやかくいうことではないかもしれませんが、どうしても悪趣味にしか思えないのです。
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ブーニン−1

つい先週のこと、NHKのBSで『それでも私はピアノを弾く〜』という現在のブーニンを扱った番組が放送されました。
1985年のショパン・コンクールの優勝者で、音楽ファンを超えて時の人にもなったスタニスラフ・ブーニン。

当時のコンクールには、大勢の日本人出場者が束になって参加し、スポーツでいうならさしずめ日本選手団のようで、その団長のように目されたのが故園田高弘氏でした。
このときはNHKのカメラも(おそらく初めて)密着し、楽器の分野でも日本のヤマハとカワイが公式ピアノとして採用されたのもこの年からで、1985年というのは日本にとって大きな節目にもなった年だといえそうです。
現地でブーニンの鮮烈な演奏を目の当たりにした園田氏はいたく感銘されたご様子で、ブーニンを「100年に一人出るか出ないかの逸材」だと、最大級の賞賛を述べられ、実際に会場でも抜きん出た実力と存在感で、圧倒的な人気とともに栄冠を勝ち得たようでした。

NHKの番組が園田氏のコメントとともに放映されるや、日本での人気はウナギ登りとなり、その後来日した際は大フィーバーが巻き起こり、チケットは即完売、ついには国技館でコンサートをするなどブーニン・フィーバーとなって、クラシックのコンサートとしては前代未聞の熱狂が列島を駆け巡りました。
しかしそれは、あくまで一時的なもので、長続きはしなかったようです。

ブーニンはその後、ドイツに亡命、日本人女性と結婚し、それなりの演奏活動はしていたようですが、世界の第一線をキープし続けるにはもうひとつ磨き込みの足りないものがあるのは確かで、人気は次第に下降。
折しも、ソ連からはキーシン、レーピン、ヴェンゲーロフといった、ブーニンより一世代下の超弩級の天才少年達が現れて、その陰に隠れたという不運も重なったように思います。

私も二度ほどブーニンのリサイタルに行きましたが、この人ならではの魅力があることは認めるものの、全体としてはやや独りよがりの、さほど練りこまれてるとは思えない直感に任せたイメージが強く、心から感銘を得るといったものとは少し違うピアニストという印象をもちました。よく言えば従来のルールを破ったロックスターのような奔放さ、悪く言えば勝手放題とも受け取れる演奏は、安定した人気が長続きするには至らなかったようです。

とくに2度めは、わざわざファツィオリのF308を持ち回ってのコンサートでしたが、そこまでのこだわりが伝わってくる演奏とは感じられず、いろんな疑問が残ったのも事実です。
やがてブーニンはヨーロッパではさほどの評価は得られなくなり、ついには「日本限定のピアニスト」といった風説まで流れたほどで、彼の築いた輝かしいキャリアや天賦の才、スター性を考えると、もうすこし違った道はなかったのか?と思うばかり。

ただ、なんともエレガントな貴族的なステージマナーであったことは印象に残っています。
彼は偉大なピアニストを輩出するロシアで、父は有名なスタニスラフ・ネイガウス、祖父に至ってはロシアンピアニズムの祖のひとりであるゲインリヒ・ネイガウスで、いわばロシアピアノ界の血統を受け継ぐプリンスでもあり、そのような自負があの高貴なふるまいにつながっていたのかもしれません。

当時購入したCDした中には、ショパンコンクールの決勝でのコンチェルトとは別に、コンクールの翌年に日本でN響と共演したライブ(ショパンの1番)もあったけれど、コンクールから解き放たれてこれ以上ないほど奔放な演奏となり、突っ込みどころも満載でしょうが、最近の優等生だらけの演奏に比べて、なんと爽快で面白い時代だったかと思います。

指揮の外山雄三氏が、細かい言葉は忘れましたが意味としては「全体として賛同はできないが、しかし、ときどきハッとするような美しさが聞こてくる」といったのが、良くも悪くもブーニンというピアニストの真実であり魅力だろうと思います。
今回、数十年ぶりで聴いてみましたが、いやはや凄まじいものであったし、どこまでもテクニックと感覚が中心ではあっても、それは決して力づくの大技ではなく、常に繊細さが支配しているところに独特の魅力があるのだと思いました。

こんな奔放ずくめのブーニンが伝統的なショパンコンクールに優勝したということは、前回の1980年に巻き起こった有名なポゴレリチ事件での反動もあったのでは?…と勘ぐりたくなるような気もしますが、どうなんでしょうね。
楽譜に忠実なショパニストを選び出すという伝統的な規範に従うだけでは、やがてコンクールそのものが行き詰まるという考え方が前回のスキャンダルから引きずられ、5年後にブーニンのような異端の優勝者を産み落としたのかも。
これはあくまで個人的な憶測にすぎませんが。

あのころのブーニンの演奏を聴いていると、今の若いピアニストはあまりに不正直で、本音を偽り、コンクールに受かりたいがために冒険心も反抗心も、研ぎ澄まされた感性も、なにもかもを失って、出世街道まっしぐらのレースに挑んでいるように思います…。
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ヘンな話

前出の文章を書いたのは実をいうと一年ほど前で、そのまま放置していたものでしたが、そのピアノのことがTVニュースで採り上げられたのです。

私の原体験となった福岡市民会館のスタインウェイが修復されるということで地元TVのニュースに出てきたと教えられ、そのことにまず大変驚きました。

先にも書いたように、時代とともに新しいホールが数か所作られたことで、クラシックのコンサートはほとんどそちらへ移行してしまい、市民会館でピアノを聴くということは(少なくとも私にとっては)皆無となり、もう何十年と行く機会もなくなりました。
昔は、オーケストラからバレエ公演、ピアノリサイタルまで、ほとんど市民会館だったので、ピアノといえば必ずといっていいほどこのスタインウェイでした。

個人的にあまりにも印象の深いピアノだったので、ときおりあのピアノは今はどうなったんだろう…と思うことはありましたが、おそらくは買い換えられ、もはや消息不明なんだろうと思っていました。

ありがたいもので、現在は見逃したニュースもネットで追いかけることができるので、その報道内容もわかりましたが、そのピアノは1963年製のDで、市民会館のピアノとして多くの巨匠たちによって演奏され、フレームには40人弱ものサインがぎっしり書き込まれていたことは今回はじめて知り、ニュース映像からもルビンシュタイン、ギレリス、アラウ、ケンプなどのサインが確認できました。

関係者の証言によると、1980年代に近くにできた別の施設に移され、長らくオーケストラの練習用ピアノなどとして使われていたものの、老朽化のため2007年以降は倉庫に保管されていたとのこと。
多くのサインがあったからだろうと思われますが、歴史的価値をもつピアノとして修復されることになったというのがニュースとして採り上げられたようです。
今後一年ほどかけて修復され、来秋にはお披露目コンサート、その後は福岡市美術館に収蔵されて定期的に使用されるとのこと。

無慈悲に廃棄されることもあると考えれば、修復されて生きながらえることができるというところまではまことに結構なお話ですが、その費用を聞いて思わず背筋に寒いものが走りました。
なんと1800万円!という強烈なもので、何かの間違いでは?と思いました。
これをクラウドファンディングや企業からの支援を募って賄うのだとか…。
しかも、そういう意味合いなら修復作業は地元でやるべきでは?と思いますが、ピアノはすでに埼玉へと運ばれているとのこと、もうなにがなんだかわかりません。

そこで知り合いの技術者さん(関東の方)に聞いてみると、その手のピアノの修復費用は(おかしなことだけれども)そのピアノの新品価格から算出されることになっているのだそうで、具体的にどこをどう修理したからという、個別の作業を積み上げて算出されるものではないのだとか。
これはあんまりではないか!と思いましたが、とにかく業界ではそういうことになっているのだそうで、そんな慣習がまかり通るとは二度びっくりでした。
日本よりもよほどピアノの修復をやっているはずの欧米ではどうなのか、そのあたりの事情はわからないけれど、どう考えてもこんなやり方が通用するのは日本だけではないか?という気もしてきます。

今回は、歴史的なピアノを修復することに意味があるわけですが、普通なら1800万といえば、すばらしい状態の同型の中古が買えるわけで、バランス的に見ても納得がいきません。
納得がいかないといえば、なんで埼玉なのかもわからず、その関東在住の技術者の方も、埼玉でとくに思い当たるところは無いとのこと、ますます不思議です。

個人的なイメージでは、どんなに徹底的に修理をしたとしても、せいぜい1/3程度じゃないかと思うんですが…。
このTVニュース動画は時間経過により、すでに視聴できなくなっていましたが、7月29日付けのNHK NEWS WEBには現在も1800万円という数字付きでこのニュースを確認することができます。

というわけで、なんだか素直に喜べない、スッキリしない話でした。
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原体験

ピアノの音も時代とともに少しずつ変化するものと感じつつ、そもそも自分が理想とするピアノの音の原体験は何だったかと考えてみることがありますが、まず自宅にあったピアノでないことだけは確かです。
…どころか、幼いころから自宅にあったヤマハのG2は中学になるぐらいまで弾いたのに、なにひとつ懐かしさもないし、鍵盤蓋のやけに大きなロゴ(現在のものとは違います)が見るたびに気に触っていたこと以外、ほとんど思い出すことさえできません。

むしろ、とくにこれという基準もないくせに、生意気にもこのピアノの音は「好きじゃない」とずっと思っていて、子供って物事を直感的に捉えるんだなあとつい笑ってしまいます。

可能性としては、自宅で親がレコードをかけていた巨匠達の音も知らず知らずに耳に入っていたかもしれませんが、とはいえ、そのときはまだ楽器としてのピアノを意識するには至っていません。

実物の生のピアノの音で、あまりにも自宅のそれとはかけ離れた異次元のスタインウェイに衝撃を受け、魅了され、畏れおののくようになったのは、小学生に上がったころからちょくちょくコンサートに行くようになり、その大半は、客席からしばしば耳にすることになる福岡市民会館のピアノでした。
1970年代、高度成長や大阪万博という時代もあってか、今では信じられないような巨匠たちがこの舞台に登場し、心に残るコンサート体験をすることができた佳き時代でした。

ソロリサイタルはもちろん、オーケストラとの共演でも、ピアノといえば決まってこのスタインウェイが使われました。
ダブルキャスターどころかピアノ用の台車もない時代、幾人ものスタッフ達によって力づくで押し出されてステージ中央に据え付けられ、コンサートマスターが中央のAを出すだけでも、その音は甘い蜜のような響きがあって、そのたびにドキッ!としていたのを覚えています。
自宅にあるのがピアノなら、これはもうピアノとは思えないような異次元の世界で、この時代の一連の体験が私の中でスタインウェイサウンドに対する強烈なイメージの基礎を作ったのは疑いの余地はありません。

ネットで調べてみると福岡市民会館は1963年の開館とあるので、竣工時に納められたピアノだったのだろうと思いますが、当時は主だったコンサートの多くがこの市民会館でおこなわれ、今から思うと信じられないようなビッグネームがステージに現れ、そのつどこのピアノの音に接し、いつのまにかマロニエ君にとってのスタインウェイとしての基準となっていったように思われます。
ほかにも数カ所スタインウェイのあるホールはあるにはあったけれど、これぞというコンサートは圧倒的に市民会館が多く、それ以外の印象は不思議なほどありません。

今と違って、管理も万全とは思えないし、ボディの角など傷だらけ、弾きこまれて音もかなり派手目のものにはなっていたけれど、まるで名工の手になる日本刀のような、妖しい輝きに満ちた音が底のほうから鳴ってくる様は、いま聞いたらどう感じるかわからないけれど、当時は完全にノックアウトされていました。
とりわけ低音には底知れぬ深さがあり、ラフマニノフのコンチェルトの第2番第2楽章のカデンツァにある最低音などは、まさに中世の鐘を打ったごとくの轟音が鳴り響き、これは現代のスタインウェイでもゴンという感じでしかないことを思うと、やはり昔のピアノは、材料やフレームの製法などの重要な部分がずいぶん違っていたのだろうと思われます。

クライバーンやリヒテル、マリア・カラス、あるいは殷誠忠というテクニシャンのソロでピアノ協奏曲「黄河」という、なんとも不気味な中国作品を初めて耳にしたのも、数多くのロシアバレエ公演に接したのも、この市民会館でした。
時が流れ、より贅を凝らしたホールが次々登場することによって、市民会館でのクラシックのコンサートはすっかりなくなりましたが、60年代前半に建てられた残響など大して考慮にもなかったであろう多目的ホールだったにもかかわらず、ここのスタインウェイはまさに極上の音を鳴り響かせ聴衆を魅了していたわけです。

後年、大阪のシンフォニーホールの登場あたりから、各地に音楽専用ホールというのが作られるようになり、その初期のものは残響という名の下に、中にはただ音が暴れまわるだけの響きとなっているものもあったりで、それに比べれば多少デッドでも、クリアに音が聞こえるよくできた多目的ホールのほうが、個人的にはよほど好ましく思います。
とくにピアノでは。

市民会館は、もう長いこと行っていないので確かではないけれども、多目的ホールの中ではそれほど音質が悪い記憶もなく、数々の名演とそこにあったスタインウェイのリッチでパワフルな美しいトーンを耳にできた経験は、いまも心の奥深いところに残っています。

私は子供のころ、本物の巨匠の実演に触れることのできた佳き時代に、ぎりぎり間に合うよう生まれることができたのは幸運だったと思います。
今のように誰もかれもがむやみにステージに立てるような時代ではなく、コンサートといえば必然的に一流もしくは超一流のアーティストが当たり前だった時代というのは、いま考えればなんとありがたいことだったか!と思います。
何度も行った安川加寿子さんの演奏など、ことさら有り難みも感じないまま聴いていたのは、いま思うとなんというもったいないことをしたか!と思いますが、ともかくそんな時代だったんですね。

ポリーニやアルゲリッチの初来日では、当時はまた知名度もさほどではなく、市民会館より遥かに小さい明治生命ホールだったのですから隔世の感があります。
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天空の村のピアノ

NHKのBS1で『天空の村のピアノ』という2018年イギリス制作のドキュメント番組があり(再放送だったようですが)録画していたのを
見てみました。
ロンドンのピアノ店の店主にして調律師のデズモンド氏は、あるお客さんからヒマラヤ山中の学校にピアノを届けたいが運べるかという相談をもちかけられます。通常ならそんな途方もない運搬を個人レベルでそれをやろうなんてあり得ないでしょう。
ところが、それを自身の人生の最後の大仕事と感じたのか、熟慮の末に引き受ける決断を下して、その道中たるや想像を絶するほど過酷を極め、ついには成し遂げるまでの密着映像でした。

ロンドンからなんと8000km、標高は富士山より高い4000m、車が行けるのははるか手前までで、そこから先はヤクという牛のような動物に背負わせて運ぶというのが当初の計画だったようです。
持っていくピアノは、さすがはロンドンというべきか、ジョン・ブロードウッドのさほど大きくないアップライトで、まずは事前の入念な整備がなされ、それを現地の麓へ送ったあとは、山岳路を運びやすいよう、青空の下でなんとバラバラに解体し、弦もすべて緩められて、パーツごとの運搬にして個々の負担を減らし、到着後に再び組み立てるという方法が採られます。

それでもピアノはピアノ、そんなに大きなモデルではなかったけれど、フレームだけでも50kg以上あるらしく、いずれにしろこの峻険な山々を踏破するには、並大抵の荷物でないことには変わりありません。

これから進むべきヒマラヤの景色たるや、神の領域であるかのような壮大かつ桁違いのスケールで、その果てしない威容は人間にとっては無慈悲の象徴のようにも見え、神々しいのか悪魔的なのかわからなくなるようなもの。
まるで異星の景色でも見せられるようで、遥か高くに峻険な稜線が幾重にも連なり、およそ日本人なんぞには馴染みのない、地球上にこんなところがあるのか…というような気の遠くなるような光景でした。
目指す場所は、あの峰のその向こうの向こう…みたいな感じで、そこまで自分の足で行くだけでも想像外で、ましてピアノを運ぶなんて命の危険すら感じます。

一定のところまで車で行くと、その先に道路はなく、おまけに頼みの運搬役のはずだったヤクというちょっと牛のような動物は想像よりもずっと小型だったようで、分解したといってもとうていピアノを背負わせられるような動物じゃないことがわかり、デズモンドはこの方法による運搬を即座に断念。
かくなる上は気の遠くなるような彼方の目的地まで、現地スタッフを交えた人力によって運搬するしかないという展開。

ロンドンから同行した人が数人と、現地の協力者が10人ぐらいはいたかどうか。
普通なら、この状況を見た瞬間に諦めて帰ってくるところでしょうが、番組のカメラが入っているからか、当人たちの意志に峻烈なものがあったからかは知りませんが、とにかく人の手足で一歩一歩この途方もない道程を、分解したピアノを担いて行くことになります。

途中の運搬の様子は見ているだけでも苦しくなり、フレームは数人がかりで担いて、ときに山の斜面を滑り降りるようになったり、それはもう映像を見ているだけでヘトヘトになるようでした。

目指すリシェ村に到着したのは徒歩による出発から7〜8日目のこと。
この山間の小さな村の人々からは大歓迎を受け、ピアノが来たことで子どもたちが無邪気に喜び踊る脇の建物で、翌日から組立作業が始まり、2日後にピアノの形になりました。
大人や子どもたちが見守る中、組み上がったピアノをデズモンド氏は音を出し、リストの「ため息」の一節を弾いていましたが、はっきりいってため息どころではない、凄まじい地獄のミッションでした。
大人も子供もピアノを初めて見るという人も多く、この一台がこれからどれだけの役割を果すのか、はかりしれないものがあるのでしょう。

私だったら、費用を募って、ペリコプターでガーッと一気に運んだら…というような身も蓋もない発想しかありませんが、そうではないところに人間のドラマが生まれるんでしょう。
実際、デズモンド氏はじめ多くの協力者、村の人々や子どもたちなど、この一台のピアノをめぐって計り知れない交流が芽生え、人生の一ページに深く刻まれたことは想像に難くありません。

計画から1年、実行に1ヶ月かかるという大変なプロジェクトで、学校内のピアノが置かれた建物は「サー・デズモンド音楽堂」と名づけられました。
デズモンド氏は届けることで終わりではなく、なんと、亡くなる2018年まで毎年調律に訪れたんだそうです。

ひとりの女性が言っていましたが、この地の人たちの生活にはお金もあまり必要なく、みな心がきれいで純粋で、互いに仲良く生活をしているが、将来に向けて道路建設も始まっているらしく、いつの日かそれが完成すればさまざまなものが流入し、そうしたら村の人の心も変わってしまうだろう、それが心配…と言っていたのが印象に残りました。
…たしかにそうだろうと思います。
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『楢山節考』

WAGNER PIANOを囲んで集まったとき、あれこれの雑談の中で所有者のベテラン技術者さんが仰るには、かつて志しの高い日本の製作者たちが作り上げた銘器というのは、昔はそこそこあったものの、大手に比べて品質ではなく知名度やブランド力が劣るせいで「売れないガラクタ」に分類され、廃棄という憂き目にあう悲劇的なピアノも少なくなかったという話をされていました。

購入を決める際に、ブランド性が一定の効力を発揮するというのは一応はわかるけれど、ピアノの場合はあまりにもそれが極端で、買い手のほとんどは音や響きの判断基準が未熟であるため(わからないから)、日本の流通市場では大手の大量生産のピアノが「信頼に足る標準品」として信頼感まで独占し、その他は楽器としての真価を確かめることもないまま姿を消していったピアノが少なくないことは、なんとも残念無念な話です。
さらには日本人固有の「横並び精神」もそれに拍車をかけていることでしょう。
「関係者のオススメ」を鵜呑みにし、「人と同じもの」「評価の定まった定番」を買っておけば安心という民族性。

さらには、ピアノも消耗品として家電製品のように買い換えるのが理想という価値観。
丁寧な修復を受け、売買の対象として色褪せることなく100年でも使われ続けるには、スタインウェイやベーゼンドルファー級のブランド力がなければ、打ち捨てられる運命であるようです。

そんな無知が招いた残酷な話は昔のことかと思っていたら、ごく最近ネットを見ていると、某所で美しい音で弾く者/聴く者を魅了していた大変貴重なピアノが、なんと廃棄処分されたという事実を知るに至って、驚倒しました。
どうやらピン板の傷みがあったようで、それが廃棄の理由のようでした。

そのピアノは日本のピアノ史に残る高名な設計者による逸品で、私も何度か触れさせていただいたことがありましたが、甘く美しい音が印象的で、おまけにコンサートで使用されても充分に耐えうるだけの底力も持ち合わせていた、所有者にとっても自慢のピアノで非売品でした。
ピン板の傷みというのは確かに深刻なことですが、それで廃棄という最悪の決断が下されたのは貴重なピアノなだけに、いささか極端すぎやしないかと非常にショックでした。

そもそも、日本では弦やハンマーは交換しても、ピン板を交換するという習慣がほとんどないのかもしれません。
これは、日本の大多数のピアノは大量生産品であるため、修理して長く使うより新しい物に買い換えることが正いとされ、ましてフレームの下にあるピン板は交換不可のように言われていた時期もありました。
本当にそうなのかどうかは、素人の私にはわかりません。
しかし欧米では、ピアノリペアの際、ピン板交換はごく普通に行われることで特別なことではないようですから、日本だけの特別事情なのかもしれません。

海外ではピン板交換は必要に応じて行われる作業の一つにすぎず、リペア用の新しいピン板がごく普通に売られているのだそうで、技術者はそれをピアノごとの形状に合わせてカットし、適切な位置に穴を開けて新しいピンを打ち込んで弦を張っていくようです。
ヨーロッパのピアノリペアを数多く手掛ける工房で、私もそのリペア用のピン板を見せてもらったことがありますが、何層にも重ねられた分厚い板で、フレームまで外す修理なら、もうひと手間という感じでした。

廃棄の結論に至ったのは、リペア用のピン板がたやすく手に入る情報がなかったのかもしれないし、あるいは別の事情によるものかもしれず、正確なことは知る由もありません。
やむを得ぬ事情があってのこととは思いたいけれど、ピアノを長く使うための技術を生業とする方が、なんというむごいことをされるのかと思ったし、あまつさえその様子をわざわざネット上で公開するという神経はとても理解が及びません。

そこに至った事情や判断は、他人が詮索することではないとしても、ただひとつ間違いないことは、歴史的価値もあり、魅力的な音を奏でていた貴重な素晴らしいピアノが、他でもない持ち主の手によって死刑執行されたという厳然たる事実で、この記事を目にしたときは本当にショックで身体が震えるようでした。

ピアノは電動ノコで解体され、ビニール袋に入れられた写真の衝撃は当分おさまりそうもありません。
それならリペアをする方にあげても良かったのでは?と思うのですが。
いずれにしろ、日本のピアノ史の一台である文化遺産ともいうべきピアノをこのように処分してしまうということは、ほんとうに驚きであり衝撃でした。

この残酷な事実を知ってとっさに思い出したのは、深沢七郎の『楢山節考』でした。
むかしとある山間の貧村では、食い扶持を減らすため、親が老いて働けなくなると子が背負って山の奥深くに、自分の親を生きながら捨てに行くという、身の毛もよだつ風習を描いた小説です(読む気もしません)。
もちろん、老いたのは親ではなく、ピアノですけれど。
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WAGNERの一夜

我が家で1年近く弾かせていただいたWAGNER PIANOは、次の場所(某音楽サロン)に移ってはや数ヶ月、そこのオーナーの方の心を鷲掴みにしているようです。
大げさではなくこのピアノとの出会ったことを「人生が変わった!」と真顔で語られるほど。

音楽に関わることは続けておられましたが、聞けばもう長いことご自身でピアノに向かうことからは遠ざかられていました。
その理由はくわしく知りませんが、WAGNERが来てからというもの、人が変わったように毎日のようにピアノに向かわれているらしく、本物の楽器というのはそういう力があることをストレートに感じさせられます。

先週のこと。
そのサロンに、所有者である技術者さんと、サロンオーナー、さらにはWAGNER PIANOの第一発見者である某氏と、私の4人で食事をしつつ楽しい宴席が設けられました。

夕方のスタートでしたが、あっという間に深夜になるほど、瞬く間に時が過ぎていきました。
WAGNER PIANOがなければ、まず同席することはなかったであろうこの4人は、縁結びであるWAGNERを背に、さまざまな話に興じました。
食事やおしゃべりが楽しかったのはもちろんですが、なにより強烈な印象として残るのは、やはりこのピアノの類まれな素晴らしさに触れて、もう十分にわかっているつもりのはずだったのに、またもその新鮮な魅力に圧倒されました。

やわらかな響き、立体的に立ちのぼる馥郁たる音が、何の無理も苦労もなく、音の強弱にかかわらず、豊かな陽光のように部屋中を包みます。
さらに、以前にも書きましたが、部屋のどこにいても同じ音量で聴こえてくるばかりか、すこし離れたほうがより美しく鳴ってくるあたりは、ただもう驚くしかありません。

こんなピアノは、少なくとも日本製に限定するなら、どこを探してもまずないだろうと思います。
素晴らしいピアノの条件とは、卓越した設計、最良の材料、熟練の技、コスト度外視の作り手の志など、いくつもの条件がバランスよく整う必要がありますが、それだけなら昔のピアノ作りはそういう好条件を満たしたものは、今とは違いそれほど難しいことではなかったようにも思われますが、では同時代に入念に作れられたピアノがどれも素晴らしいのかといえば、さすがにそれはないだろうと思います。
おそらくWAGNERの素晴らしさには、つくり手さえ予期しなかった何か…、ある種の偶然も味方しているのでは?と思うほど、格別なものがあるように思います。
その格別さがどんなものであるかを文章にできたらいいのですが、なかなかそのような文才もないのがもどかしいばかりです。

本などを読んでいると思い起こされるのは、昔のピアノは今のように甘さやブリリアントな味付けはされず、線の太い力強さがあり、ありのままの素朴で正直なピアノの音をもっているようです。
とくに戦前のピアノにはそういう傾向があったように思います。

変な味付けがないぶん、音色や表現についてはもっぱら演奏者に委ねられており、だからこそ弾く者の想像力やアイデアを要求させるのだと思います。
そういう意味では、現代のピアノは基本的な音にすでに色や味がつけらており、それが演奏の可能性をある程度規定してしまうようでもあるし、音色変化に対する感覚が鍛えられないのでは?という一抹の不安も感じます。

ここにはもう一台ヤマハの古いG3があるのですが、そのピアノとのあまりの違いには…おののくしかありませんでした。

私は正直にいうと、プロ/アマを問わず、自分のセンスに合わない演奏をあまり長時間聴かされるのは、おそらく普通の人の何倍も苦手だと思います。それは同意できない弾き方もあるけれど、音もよくある一般的なピアノの場合、化学調味料まみれのようなウソっぽい音が神経に障ってストレスとなり疲れるのです。

ところがWAGNERの音や響きは、まったくその逆で、その音に身を委ねている時間が喜びであり、少しでも長く聴いていたような気になります。
音の出方も、ピアノからこちらへ向かって矢が飛んで来るようなものではなく、そこらの空気が瞬時に音に変わってしまうようで、そういう状態に自分自身が体ごと包まれていることが、えも言われぬ快感なのです。
所有者である技術者さんが「できるだけたくさんの方にこの音を聴いて欲しい」といわれるのは、あらためて納得です。

やわらかいふくよかな音というと、こじんまりした小さな音であったり、輪郭のないぼやけた音であったり、激しい曲に向かない小粒なピアノといったような、おとなしいピアノだと思っている方は少なく無いのではと思いますが、そういうイメージがいかに誤りであるかがWAGNERを聴いたらいっぺんでわかるでしょう。
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イタリアのBECHSTEIN-4

予想通りというべきか、思いがけなくというべきか、やはり一台目のBECHSTEINはとにかくいい感じでした。
このぶんなら、これに決定するだろうと思っていたのですが…。

思わぬところから、難しい問題が起きました。
購入後のメンテを依頼する目的で、たまたま目にしたというローマ市内のピアノ店にご夫妻お揃いで行かれたところ、「古いものは(とくにグランドは)修理などが大変である」「ねずみの死骸があったりする」「音程が低くて思うように弾けないかも」「遠方からでは運送費用や事故の危険もある」などとさんざんマイナスな話を浴びせられたあげく、ドイツピアノが好きならということで、そのショップにあるペトロフを勧めてきたんだとか。

それですっかり意気消沈されたようで、とくにご主人は古いピアノへ懐疑心が高まったようです。
とくにこういう話は、理屈に弱い男性脳のほうが打撃を受けるものでしょう。
たしかに、ピアノは専門性の高いものだから、技術のプロから具体的にあれこれと否定的な要素を並べられたら、大半の人は反論もできず、相手側の一方的な話の独壇場になる。
ほんの僅かなことでも、さも一大事のように大げさに、専門家が豊富な現場経験として言うのですから、この状況になると為す術はなく、心はボコボコにされていまします。

しかし、私にいわせれば、肝心なことは購入時の見立てであって、そんな話をさほど真に受ける必要はないと経験的に思うし、昨年は立て続けに私の身近で3台もの古いピアノ(業界的にはガラクタとされるものも含む)を買ったにもかかわらず、入念な整備によってどの一台も問題なく、新し目の量産ピアノには到底望み得ない芳しい音で弾き手を魅了しています。

この手のショップは(日本でもそうですが)考え得る最悪のケースを想定してバンバン不安感を煽ってくるので、それを聞かされた側は大半は諦めてしまうというパターンです。
もちろんそれらが全て嘘だと言うつもりはありませんが、それは本当いひどい状態の場合であって、それを可能性として尤もらしく迫って来られると、不安にかられて自分が考えていたことは間違いだったようだ…という気になります。

おまけに、それは本当に購入者の為を思ってというより、あれこれのリスクを並べ立てて脅しておいて、ちゃっかり自分の店から買わせたいだけのことで、商売優先の言い草だと心得るべきでしょう。むろん相手も商売ですから、それが罪とも間違ともいえませんが。
ただ同じピアノが、もしも自分の店の在庫としてあったなら、チョチョッと手を入れて、クリーニングなど見栄えを良くして、数倍の値段で売りつけることでしょう。

しかも、そこへペトロフを勧めてくるあたり、お客側にしてみればいい迷惑で、それがたまたま気に入ればいいけれど、ショップの言うことを信じたばかりに、望まないピアノを買う羽目になり、それを毎日弾くストレスともなれば取り返しがつきません。

それにしてもドイツピアノが好きならペトロフは?なんて話、初めて聞きました。
ペトロフは私に言わせると、完全にスラブ系のピアノで、ドイツ系とは似て非なるもの。
要するに、ショップにしてみれば今にもピアノを買いそうなお客が来て、他で買おうとしているのだから、そうはさせじと専門家の助言として言葉巧みに誘導し、自分のショップの在庫を買わせたい…それだけでしょう。

これは日本でもそうですが、だいたい、何でも危険だといい、悪い事例をすべてのように言い立てて、必要以上に慎重さをアピールしてくる店に限って、そこにあるピアノはどれほどかと思いきや、私に言わせれば別段どうということもない、平々凡々としたもので、ようはありきたりなピアノをコストをのかからない範囲でササッと整備して、外観などを磨き上げた程度で、口ほどのもんじゃありませんけどね、ハッキリ言って。
「なるほど、これは素晴らしい」と思うピアノを置いているのは、ごくごく一握りにすぎません。

今にして思えば、甘かったと思うのは、そのご夫妻はショップに行くにあたり、お目当てのピアノの写真や音源を持って行かれたそうですが、向こうは一台でも自分の在庫をさばきたいわけですから、そんな話を持ってこられて「ほうほう、それは素晴らしい!ぜひお買いなさい!あとはうちに任せて!」なんて言うはずが無いですからね。
そこはもっとシビアに考えて止めるべきだったと反省しました。

この一件で、いったん足踏み状態になり、私もこれはダメかな?とも思ったのですが、旦那さんの説得にも成功されて、ついに購入を決断されたというメールが届きました。
すでに所有者にもその旨連絡されて、あとは自宅への到着を待つばかりというところでしょう。
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イタリアのBECHSTEIN-3

報告第3弾。
夏のヨーロッパは軒並みバカンスの時期に入ってしまうため、その間はなにもかもが止まってしまうようです。
ピアノの売買情報からコンタクトをとられても、多くの方は自宅を離れていたりで、バカンスが終わって戻ってくるまでは事の進捗がさして望めないようです。

このあたりは、頭ではわかっていても日本に生まれ育った我々には馴染めないところです。
ようやく、少しずつ写真やビデオは届きだしたようで、そのつど送ってくださるので、私も見せて(聴かせて)いただく光栄に与っています。

2 ▶前回書いた5台のBECHSTEINのうち、2台目のビデオが届いたとのことで、先月末に見せていただきましたが、音はまあまあというか、先に聴いていた3台目(B 200cm)に比べると、ずっとよくて輪郭のある音であったし、Bが決して小型というわけではありませんが、C(220cm)には明らかにそれよりも広がりと深いものがあって、やはりピアノの奥行きというのは有無を言わさぬものがあることを実感しました。(稀にサイズが意味をなさず、より小型のほうがバランスがいいという場合もありますが)
ただ写真やビデオでは、弦などはかなり古びた感じがあって、どうもパッとしませんでした。
中でも最大の問題は、このピアノははじめから響板割れがあることがアナウンスされており「ピアニストでもない限り普通に使うぶんには問題ない」とのことですが、数カ所ビデオからもわかるほどパックリ割れており、ここまでくるとさすがに厳しいものを感じ、これから弾くためのピアノというより、修復素材としての個体として捉えるべきだろうと思いました。
それなりの音は出ているし、しっかり手を入れればいいものになる可能性は大きいと感じますが、そのためには購入額の数倍の費用と数ヶ月単位の時を要するので、すぐに弾きたいという購入者の求めには不向きだろうと思いました。

1 ▶そして、こちらもようやくバカンスが終わったのか、個人的に一番期待していた一台目のCの音源が届きました。ビデオかと思ったら「音源」だけでしたが、このところたて続けに聴かせていただいた5台の中では、最も自然で、馥郁とした中にもほどよいメリハリもあり、好ましく感じるものでした。
現在このピアノは弾かれることがなくなったのか、写真ではあまたの荷物類と一緒になって、小部屋のようなところに押し込められているような感じではあるけれど、ピアノとしては5台中、最も健康でしっかりしている印象。
しかも、その環境にもめげず音そのものがソフトさを失っておらず、ガンガン使い込まれて疲弊しているような感じは受けませんでした。

また念の為に、ピン板の状態を確認すべくセクションごとに接写したものをリクエストして送ってもらいましたが、それも見る限りとてもきれいでヒビ一本もなく、この点でも好印象に拍車がかかり、見ているこちらのほうが欲しくなってくるようでした。
その他の4台は、ピン板が写っているものはピンの根元にわずかにひび割れのようなものがあったり、響板やフレームも年月相応に汚れにまみれていたりで、みるからに苦労しそうなものも正直ありました。

それに比べればこのCの状態は格別で、実際現物を目の前にしたらどんな問題が潜んでるのかはわかりませんが、ピアノに限らず物の程度の良し悪しというのは、やはり醸し出す雰囲気に顕れるものだと思いますし、私自身もそこを頼りにこれまでやって来ましたが、それで大ハズレしたということは一度もありません。
それほど、直感というものは最も信頼に足るサインだと信じていますし、第一印象というのは何年経ってもまず変わらないものです。
とはいえ責任が持てることでもないので、人様にお薦めはできないけれど、もし自分なら迷うことなくこれを買うだろうと思います。
その上で、万が一ダメだったら、また売ればいいさぐらいの感覚ですから「絶対失敗したくない人」には向きませんが。

ここでいまだに不思議なのは、なぜはじめの試弾の時に好印象が得られなかったのかという点ですが、本当のところはご本人にしかわからないけれど、おそらくその時の固有の状況もあってのことでしょうし、放置されたピアノというのは調律も乱れ気味で、お店に並んでいるピアノとはずいぶん雰囲気も違うでしょう。まして、多くの荷物とともに物置のようなところに置かれていたという状況なども、気持ちが下がる方へ針が振れたのかもしれません。

私などは、そういう状況のほうがいかにもお宝発見的な雰囲気も加味されて、むしろワクワク感が増して燃えるだろうと思いますが、そのあたりは各人各様なので、マイナスの結果になったのだろうと思います。

余談ながら、ピアノには当てはまらないことかもしれませんが、貴重な価値のあるクルマの世界では、古い倉庫や田舎の納屋などで打ち捨てられたような状態で発見された時の姿のほうがむしろ好まれたりして、この場合、洗ってはいけないんだとか。
数年前に日本のどこかで、汚れや泥にまみれて発見されたフェラーリの稀少なアルミボディのデイトナは世界を揺るがす発見で、汚れが堆積した発見時の姿を保ったまま海外のオークションに出品され、とてつもない高値で落札されただけでなく、その発見時の姿のままのミニカーまでつくられるなど、貴重品の世界というのは、なんとも特殊な価値基準まであるようです。

だからピアノもそれと同じというつもりは毛頭ありませんが、少なくとも埋もれた状態のBECHSTEINを発掘したと思えば、私などよけいワクワクするものですが、これはいささかマニアックすぎるでしょうか?
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イタリアのBECHSTEIN-2

先月終わりに書いた「イタリアのBECHSTEIN」から、ほぼひと月が経過しました。
その後もBECHSTEINの情報が続々ともたらされ、さすがは本場とあらためて驚かされるばかり。

1 ▶まずは写真を掲載していたC型(220cm)を見に行かれたようです。
うっすら埃をかぶっている状態で、調律もかなり狂っていたなどで、そのときは好印象には至らなかったとのことで残念な結果でした。
話だけでは、正直、それぐらい大したことではないのでは?という気もしましたが、その場でしかわからない何かがあったのかもしれず、ピアノのような大きな買い物には、人それぞれのエモーショナルなものが深く関わるので、その大事なところは現場でないとわかりません。
ちなみに、試弾の際、所有者など複数の方がすぐ側で見ていたなどの悪条件も重なったようです。
せめて4〜5分は退室して自由に弾かせてほしいものですが、そういう引っ込み思案なことを考えるのは日本人だけでしょうか?

こういうとき、技術者が同行できれば心強いでしょうが、見ず知らずの技術者にいきなり頼めることでもなく、素人の自分が、ひとりで決断するというのは荷が重いことだろうと思います。

他の情報も続々ともたらされました。

2 ▶別のBECHSTEINのCで、さらに古いピアノ。これはハンマーは良好な感じであるし、ウイペンはダブルスプリングに交換済みではあったけれど、かろうじて写っている弦やピンはかなり古い感じで、しかもそのあたりは見せたくないのか写真はなく、おまけに響板割れがあることを初めから告知されている個体でした。
形状からして19世紀のピアノと思われますが、全体にもくすんだ骨董品という趣で、見ていてあまり良さが伝わらない印象でした。
さらに気になったのは正面からのショット。
鍵盤蓋のロゴが字数の多い旧タイプにもかかわらず、その大半が失われ、「C.BECHSTEIN」の位置も不自然で、購入したら苦労するぞと言っているようなピアノでした。

3 ▶ピアノショップが販売する「整備済み」とする200cmのBECHSTEIN B。これは塗装などもパッと目は整えてあって一見きれいに見えますが、ビデオを見た感じでは(想像ですが)古い塗装を完全に落とさず、中途半端な下地に塗り重ねたような怪しげな感じを覚えました。
また、交換済みというハンマーなどはフェルトだけを巻き直したもので(そのこと自体は問題ではありませんが)、形も止め方もあきらかに形がおかしく並びもバラバラ、ペダルはなんとまったく別のピアノ(たぶんヤマハ)のものを強引に取り付けてあるし、鍵盤蓋のロゴは文字が一部欠損していたりと、これまた怪しげな要素がいくつも見て取れるものでした。
にもかかわらず、音はそう悪くもない感じだったのは意外でした。

4 ▶さらに別に個人所有のBというのがあり、これは初めに見た写真では、弦もハンマーも交換済みで、鍵盤一式も大部分が新しいパーツで構成されており、技術者の手間とコストがそれなりに注がれているようで、とても良さそうに見えたのですが、続くビデオや詳細な写真で印象は一変しました。
まずなにより音がボケており、本来のパワーもなく、響板が下がっているのでは?と思いました。
その所有者による演奏動画もあったけれど、とにかく速いスピードでピアノロールのように弾かれるだけで、一音一音の感じはほとんど掴めないものでした。
またハンマーはきれいなものが付いているにもかかわらず、よくよく見てみると、次高音のセクションのみえらく削られて薄くなっており、やはりそのあたりに問題があって試行錯誤を重ねたけれど、諦めた末の売却では?というような疑念さえ持ってしまいました。

5 ▶さらにさらに、トドメとばかりに合唱の練習に使っていたというAが出てきました。これは今回最安値の€2500(約35万円!)で、さすがにあまりきれいではなかったけれど、キレのあるBECHSTEINっぽい音はそこそこしていたので、値段から見ればこれはこれでアリか?とは思いました。ただし、フレームはじめお世辞にもきれいとはいえないし、響板にはパックリと割れがあったので、手を入れるとなると、ほとんどオーバーホールもしくはそれに近いものになることは間違いありません。
電子ピアノにもうちょっと上乗せするぐらいで買えるBECHSTEINとして、迷いなく割り切りができれば、それなりの音は出ているので、価格相応の価値は十分にあるとは思いますが、欲しいか?と問われればあまりそそりません。

そうこうしているうちに、その方は10日ほどお知り合いの方のお宅に滞在されることになった由ですが、そこにはなんとブリュートナーのグランドがあり、これがたいそう素晴らしいらしく、いたくお気に召された様子で、このぶんだとブリュートナーもかなり射程圏内に入ってきた模様です。
すでに、ベヒシュタインと前後してブリュートナーの情報は2件寄せられており、やはりヨーロッパはこの手のピアノの数といい、価格といい、本場の強みを感じないではいられません。

上記の5台のベヒシュタインとブリュートナー計7台は、大半が50万円〜80万円ほどですから驚くばかりです。
そのままでも十分使えるピアノがあればそれに越したことはありませんが、仮に予算を200万円ぐらいに設定して、購入額の残りを修復代に当てたら、さぞや素晴らしいピアノが出来上がるであろうと思われます。
それでも日本で売られている同等品に比べたら1/3ほどで手に入れられるわけで、日本から見れば望外の話です。

このピアノ購入の顛末はまだまだ続きそうなので、またご報告できればと思っています。
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SK-EX補足

SKシリーズは今やカワイピアノの顔であり、世界的にも良品として認められる地位を獲得していると聞きます。

そんなSKシリーズについて、今回はアマチュアのピアノマニアとして、甚だ邪道な、大半の人にとってはどうでもいいであろうマニアックなことを書いてみます。
SKシリーズを目の前にしていつも感心させられるのは、製品としての作りの良さ。
とりわけ各パーツの面や線の一糸乱れぬ正確なこと、くわえて塗装の美しさには目を見張るものがあり、それらが醸しだす高級感は、メーカーがこのシリーズに懸ける意気込みを感じます。
それは高度な木材加工技術によるものなのか、なんらかの下地処理や工法によるものなのかは知らないけれど、とにかく仕上げのきれいさで際立っているのは驚くばかり。

巷では「ざんねんな☓☓」という絵本が流行っていますが、その「ざんねんな」も含めながら言いますと、側板の内側は通常よくある木目の突板(化粧板)ではなく、バーズアイという高級素材が奢られているようですが、これが模様といい色目といい、どうにも中途半端で高級感に効果を上げているようにはどうしても見えません。
模様は小さく色付けは薄いためインパクト性に欠け、遠目には普通よくある木目よりも安っぽく見えてしまうあたり、ファツィオリなどとは対照的でなんとも残念。

それに対して、フレームは以前は青系のあまり魅力的とは言い難い金色でしたが、現在は流行りの赤みの強い色調に切り替えられたようですが、これが思い切ったのでしょうがやり過ぎで、ほとんどオレンジ色みたいな色目。
中国のハイルン、ウェンドル&ラング、フォイリッヒなどがこういう感じで、いささか品位に欠けていただけません。
また、フレームをその色にするのなら、当然そのすぐ脇にくる側板の内側のバーズアイとのカラーバランスを考慮すべきところ、これがまったくなされていないのか、ジャケットとパンツの組み合わせが下手な人の着こなしのよう。

ボディ内側に貼られる木目は、色のルールから言ってもフレームよりも濃い色目であるほうが見た感じも収まりがいい筈なのに、カワイにはそんな色が醸し出す雰囲気に配慮のできる人がいないのでしょうか…。

逆にいいなと思うのは、フェルトの赤の色合いで、多くのピアノが派手な朱色のような赤であるのに対し、SKのそれはややくすんだ感じの深みのある赤になっているのは、抑制的で大人っぽく、これは非常に好ましいものだと感じます。
ただし上記の激しいフレームの色のせいで、その良さもだいぶ埋没してしまっていますが。

全体に、カワイのピアノに感じるのは、とくにコンサートグランドの場合、ディテールも全体も、ちょっとゴツいかな?というイメージが拭えないところでしょうか。
側板もなんでこんなに?と思うほど分厚くて、まるで戦艦大和のよう。
ヤマハも多少そういうところがないでもないけれど、カワイはもう一回り大きく厚ぼったく、なんでも薄めで華奢にできているスタインウェイに比べると、どうしてこうもマッチョに作りたいのか理解できません。

SK-EXは、どうも昔のKG-8の頃のままの基本形状のように見えるし、おそらく痩身なスタインウェイDは、寸法的にはSK-EXの中に前後左右すっぽり収まってしまうと思います。
ピアノは楽器で、楽器には軽やかさが必要なのに、こうもゴツくするという発想じたいが、どうもわかりません。
例えばヴァイオリンをストラディヴァリウスよりやや大きめに肉厚にガッチリ作ったら、頑丈かもしれないけれど音が良くなるなんて誰も思いません。
銘器というのは、おしなべて贅肉をそぎ落とし、技を駆使してギリギリの危ういところで成り立っているものじゃないかと思います。

こんなふうに書くと「ピアノと弦楽器は違うんだ!」という声が聞こえてきそうですが、木の性質を使って音を増幅させ、飛ばすという基本においては、大筋で大差ないと思うのですが。

以前も少し書いたことですが、日本製のピアノは運送業者が喜ぶほどやたら頑丈にできているらしく、対して、海外のピアノの多くは全体が響体という考え方なのか、華奢でボディもユルユルなので気を使うのだとか。
例えばスタインウェイの場合、クレーンで吊るにしても決して支柱にロープなどをかけてはいけない(無知な業者はやってしまっている由)そうですが、そういう繊細で危ういところからあの輝ける力強い音が生まれているとしたら、楽器とはいかにバランスが勝負どころかと思います。

おかしな喩えですが、飛行機は空を飛ぶために軽量化と効率が必須で、そのためには最高難度を極めた必要最小限の作りであることが求められます。それに比べれば頑丈に作るのは簡単です
楽器は空は飛ばないけれど、音は遠くへ飛ばしたいわけで、なにか通じるところがあるような気がするのです。
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Kトーン

8月13日放送の「題名のない音楽会」では、ショパンコンクールで2位を獲得した二人のピアニスト、アレクサンダー・ガジェヴと反田恭平の両氏が揃って出演するという内容でした。

演奏はガジェヴ氏がショパンの前奏曲 嬰ハ短調とドビュッシーの12の練習曲から「組み合わされたアルペジオのために」、反田氏がショパンのノクターンop.62-1。

前奏曲 嬰ハ短調は個人的にもとても好きな作品でありながら、演奏される機会は多くないので、少しばかり期待を込めて聴きましたが、正確で危なげなく整った感じに弾かれはしたものの、この作品に期待してしまうショパンの中でもとりわけ彷徨うようなニュアンスとか詩情みたいなものがもの足りないというか、あくまで楽譜とか音符を感じさせるもの。
この作品にとくに際立つ、出だしからすでに危うさに満ちた即興感、どっちに行くかわからないような転調など、儚さの極地みたいなものを堪能するには至りませんでした。
コンクール出身者の演奏全般に感じるのは、音楽そのものより、演奏行為のための注意深い糸が常に張られているようで、情感に流れず、自然な呼吸とか緊張〜開放といったものが封じられているようで、だから常に四角四面で楽しくなく、心が乗って行かないものをいつも感じさせられます。

むしろ、ドビュッシーのほうがまだ自然に聞けるような気もしましたが、それは私がどうこういうほどドビュッシーのこの作品に馴染んでいないせいかもしれません。

さて、この日注目すべきは、カワイのSK-EXがスタジオに運び込まれて使用された点でした。
ガジェヴ氏はたしか浜松コンクールの頃からカワイを弾いているようで、よほどお気に入りなのか、ショパンコンクールでもSK-EXを弾いているひとりでした。とはいえスタジオまで持って来たのは本人の希望だったのか、あるいはメーカーサイドが積極的だったのかは知らないけれど、とにかくそういうことになっていました。
そのためか、反田氏もこのピアノで演奏。

スタジオで収録されると、また違った面が見えてくるもので、ホールのような広い会場ではわかりにくいものがわかったりするようです。
まず感じたことは、カワイ独特の音のキツさが「まだある」ということでした。
もちろん、見事に調整されたはずのピアノなので、ハンマーが硬いとかそういう表層的ことではなく、ピアノが生来もっている声というか、音の性格というか、そういう部分について言いたいわけですが、立ち上がってくる音の中に、やはり「カワイトーン」があるなぁと思いました。

ヤマハとカワイを比べる際には、パンチと華やかさのヤマハに対して、カワイは温かみのあるまろやかな音と評されており、それはそうだとは思います。でも個人的な印象としては、カワイの音は表面はまろやかであっても、その音の奥には妙に乾いた芯のようなものがあって、CDなどを聴いていると、すぐにはわからないもののだんだんこれが耳についてきて、ちょっと疲れてしまう場合があります。

以前のEXやSK-EXには、もっと純朴な響きがあり、例えばショパンコンクールでもスタインウェイやヤマハ(この両者もずいぶん違いますが)に比べると、いささか泥臭い感じの音で目立っていたものですが、その時代から、このカワイの特徴があって、そこも評価が割れたところだろうと思います。

しかし、その後、方針転換されたのか、ぐっとクリアな方向へ舵を切ってきたように思われて、昨年のショパンコンクールでは、そういう野暮ったさは動画で視聴している限り目立たなくなり、4社のピアノの中でも違和感なくステージで鳴っていたので、カワイのこの特徴はついに消し去られたのかと思っていました。

それが思いがけなく「題名のない音楽会」のスタジオ収録で(ホールに比べれば空間も狭くマイクも近いせいか?)、こまかなことはわかりませんが、その音の要素がまだ残っているように感じました。
「題名のない音楽会」のスタジオ収録は、基本的にスタインウェイで、たまに別のスタインウェイになったり、ヤマハやファツィオリになったりするので、視聴者としてはそれなりに慣れている条件下であるので、やはりそこで演奏開始直後からカワイの特徴を感じてしまったということは、まったくの勘違いでもないのだろうと思います。

まったくの私見ですが、SKは2/3/5までは、わりにほがらかで品格もあり好ましいピアノだと思いますが、6/7になるとメーカーの気合が入るのか、ちょっとやり過ぎなのでは?と思うような気負った感じになり、演出過多というか、逆に疑問の余地が出てくるような印象を持っています。
ましてSK-EXになると、大半の人にとっては観賞用のピアノになるので、その音は純粋に人の耳に届く対象になるわけですが、そのメーカーのDNAというのは、脈々と受け継がれるものだということを感じます。

これを書きながら、思い出したこともありました。
何年も前のことですが、車の中であるロシア人ピアニストによるスクリャービンを流していたときのこと。
このCDはSK-EXを使ってヨーロッパで録音されたものでした。
しばらくすると、それを聞いていた母が「このピアノは何?」と聞いたので、「カワイ」と答えると「いつもと違ってキンキンすると思った」と平然と言ってのけました。
日頃から、私があまりにピアノの音に興味をもっているので、いつの間にか感覚的に特徴をつかんでしまったものと思います。

このキンキンは、ヤマハのあの派手な音とは別種のもので、もう少し奥まったところにある感覚で、カワイに古くから共通するものですが、それが車の中という、雑音も多い中で、大音量でもなく、ピアノの音などにさほどの興味もない人の耳に、ちゃんと伝わってしまうことの驚きを感じたのですが、物事の本質というのは案外そんなシンプルなものだろうとも思いました。

「題名のない音楽会」は次回(20日)も同じ二人による演奏のようです。
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イタリアのBECHSTEIN

インターネットのおかげで、こんなブログを海外で読んでくださる奇特な方がおられて、ときどきメールのやり取りがあったりします。

今回はイタリアにお住まいのTさんのお話。
ひと月ほど前に他所からローマへ引っ越しされたそうで、以前からエラールやプレイエルについてもいろいろな現地情報を聞かせていただいていました。
Tさんは、メールから受ける印象では良い音/本物の音のわかる方で、いまやコスパNo.1として世界中に行き渡っている日本製の大量生産ピアノにはご興味がなく、熟練の職人が相応しい材料を使って作り上げた、佳き時代の奥深いものをもったピアノに惹かれておられるようです。

ただ、ピアノは引っ越しの際の足枷となるので、これまではレンタルピアノなどを利用しておられたようですが、このたびいよいよ購入を検討されるとのことで、今回、そのご相談も兼ねてメールをいただきました。

当たりをつけておられたのは古いベヒシュタインのグランドで、正確な製造年はまだはっきりとはわからないようですが、20世紀初頭に作られたもののようで、写真を見た感じはどうやらCのようで、奥行きは220cm(あるいはそれ以上)ぐらいではないかと思われます。

さて、数枚送ってくださった写真を見る限り、ほどよく使い込まれた感じを残した好ましいもので、第一印象として素晴らしい!と思いました。
私見ですが、いくら佳き時代のものといっても、あまりにボロボロで汚いものはさすがに気が滅入って嫌ですが、かといって古いピアノにこれでもかというリニューアルが施され、隅々まで新品のようにビカビカに仕上げられたものはきれいではあるけれども、なんとなく胡散臭さみたいなものが漂い、ある種の下品さを感じてしまいますが、価格はべらぼうに高いし、いずれにしろ好みではありません。

その点、このベヒシュタインはまことにちょうどいい感じに見えました。現物はイタリアのとある地方にあるのだそうで、近いうちに見に行かれるご予定とのこと。
フレームの穴の周りには大仏様の頭のようにイボイボがあって風格満点、響板も状態は良好とのことだそうです。
所有者とやりとりされているということなので、個人売買なのかもしれませんが、そのお値段はなんと、4500€だそうで、現在のレート換算しても約65万円ぐらい。
何かの間違いでは?!と思うほどで、もし日本ならゼロがひとつ違っても不思議じゃないと思われ、ともかくも驚きました。

もちろん、現物を見て、触って、音を聴いてみなくてはわからないけれど、いずれにしろ信じられないようなお値段であることに間違いないでしょう。
このピアノが特別なのか、ヨーロッパの古いピアノの相場とはそんなものなのか、そのあたりはわかりませんが、日本の中古ピアノ(とくにグランドや輸入物)というのは、なぜあんなに高いのかと思います。

つい先日、夜7時のNHKニュースの後の番組でやっていましたが、現在日本国内の不動産価格は世界から見ると驚くばかりに安いのだそうで、「まるでバーゲンセールのように海外から買われている」と少し警告的な調子で言っていましたが、ピアノは逆のようで、なにがどうなっているのか…まるでわかりません。

そもそも価値ある古いピアノの適正価格がどれぐらいのものかわからないけれど、このベヒシュタインが約65万円というのは、Tさんも「信じられない値段」と言われており、これがヴァイオリンぐらいのサイズならなんとか金策して、買って送っていただきたいぐらいです。

現物の写真です。上手い具合にTさんのお手許にやってくるよう祈っています。

BECHSTEIN.jpg
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3人のベテラン

最近聴いたピアニストの中で、その名声にかかわらずあまり感心できなかったお三人の印象。
近頃はできるだけマイナスなことを書くのはよそうと心がけていますが、これだけはどうしても書いておきたいと思って、敢えてキーボードに向かってみることにしました。

▲マレイ・ペライアのショパン(CD5枚組)
以前買って、聴いて、好みじゃないから、ずっと棚の隅にしまっていたのを何気なく引っ張りだしてみたもの。
内容はざっというと、2つの協奏曲、2番/3番のソナタ、バラード全曲、op.10/25のエチュード全曲、4つの即興曲、舟歌、幻想曲、その他ワルツやマズルカなど。
これほど迷いなく観光用絵ハガキみたいに弾かれたショパンという点で首尾一貫しており、ちょっと他では聴けない。
まるでお値段だけやけに張る、内容よりパッケージに凝ったお菓子の詰め合わせのようで、デパートの贈答品売り場の空虚な世界に連れ込まれたよう。
ショパン独特の美意識も、憂いも、陰影も、洗練も、詩情も、気高さも、なにひとつ受け取ることのないまま、ひたすらに、つやつやしたきれいな音粒の羅列が終始続くのみ。
まるで電子ピアノの自動演奏機能のスイッチを入れたようなショパン。

これほど「きれい」にすればするだけ「真の美しさ」からは後退していくという見本のようで、がんばって5枚聴き通したけれど、もうこの先聴くことはないだろう。バッハでさえ同様の印象だったことを思い出す。
彼の最も好ましい演奏は、若い頃に残した、イギリス室内管弦楽団とのモーツァルトのピアノ協奏曲全集だけで、あれ以外のCDはいつ消えても構わない。

▲バリー・ダグラス(NHK-BS 2022年5月東京)
シューベルトの即興曲D899からc-moll/チャイコフスキーの四季より6月と10月、ムソルグスキー「展覧会の絵」。
ずいぶん昔チャイコフスキー・コンクールに優勝した人で、音楽家にはないタイプのハンサムなんだろうけれど、肝心の演奏にコンサート・ピアニストとしての華がない人。
冒頭インタビューで思ったほど老けてはいなかったこととは意外だったけれど、第一曲のシューベルトからして、やはりこの人らしいというか、あれこれの言葉を探すのが面倒なので一言で終わらせてしまうなら、にぶく垢抜けない演奏。
その点では、チャイコフスキーのほうがさほどこれを感じずに済むが、それは作品の性格のせいと思われる。
後半は「展覧会の絵で、まったく個人的な趣味だけれど、演奏会のメインプログラムにこの曲をデンと据えるようなピアニストがそもそも好みではなく、なにもかもがセンスが合わない。
それにこの人は、チャイコフスキー・コンクール優勝後に演奏開始したころから、この曲や四季を弾いていたようで、あれから40年近く経つとういうのに、新しい境地は開けなかったのか?かと思ったり。
実は、この大曲を聴くのは苦手なので、今回もこれは視聴を遠慮した。

▲マウリツィオ・ポリーニ ベートーヴェン最後の3つのソナタ(2019年ヘラクレスザール)
ポリーニを初来日時から熱狂とともに聞いてきた世代からすると、虚しいばかりの演奏だった。
彼が演奏を本格始動させた1970年代、ペトルーシュカやショパンのエチュードのレコードで世界のピアノ界は激震が走った。なにしろその驚愕の技巧とギリシャ彫刻のような演奏は「完璧」の名のもと、有無を言わさず聴くものをなぎ倒した。とくに実際のコンサートで接する演奏は、レコード以上に燃焼感の加わった圧倒的なもので、大ホールに鳴り渡るピアノ一台とは思えぬ充実した音響の洪水、それを成し遂げたあとの汗みずくの様子など、ピアニストなのか剣闘士なのかわからない、ヒーローそのものだった。
そんなポリーニがわずかな衰えを見せ始めたのは、アバドとベートーヴェンの協奏曲全曲を録音した頃だったと記憶する。
もちろん人はだれでも歳を取るのだから、それ自体は自然なことだが、彼の場合、歳をとり技巧は衰える対価として、より深まった味わいとか芳醇さといったものが出てくることがなく、その解釈はあくまでも若いエネルギーを前提とした70〜80年代そのままで、ただ身体と技巧の衰えばかりが目立ってしまうのがやるせない。いつまでも若いころと同じファッションを身に纏うと、より老いが際だってしまうように。
せっかく後期のソナタを弾いても、これらの作品が内包する精神性の世界へ引き込まれることがなく、ただがむしゃらに、ピアニスティックに、そして若い頃よりももっと咳込んだように前へ前へと、強引に(ときに粗雑に)突き進むばかりで、まるで中期のソナタのように聴こえた。
この人は、この歳になって、いま何を見ているのだろう?

パッセージはろれつが回らず、音は分離が悪く、ペダルは混濁し、気が急くのか必要な間もとらずあちらこちらで暴走気味。
正確無比というポリーニのイメージにはあるまじき、非常に粗雑で荒れた演奏になってしまっているのは、聴いている側の気が滅入ってくるようだ。
それでも時折、ポリーニ独特の重厚にしてクリアな響きが蘇って往時を偲ばせる瞬間もあるにはあったことは付け加えておきたい。

会場は彼の録音の大半が行われてきた、お気に入りのヘラクレスザール、ピアノはファブリーニ、…なんだけど、そんなに無理して若ぶらなくてもというような、バイデン大統領にも感じるけれど老いを隠そうとすると、よけいに老いが目立つものだと思った。
そんなポリーニを視覚で象徴するもの、それは昔は椅子の脚を切り落とすほど着座位置が低かったのに、今はお気に入りらしい赤ラインの入ったランザーニの椅子を、ずいぶん高く上げて演奏しており、これもどうにもしっくりこない。
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ニセモノ

みなさんもよくご存じと思いますが、最近のネットは過去の検索履歴などから、相手の興味の対象と判断された情報や商品が、勝手にどんどん送りつけられてきます。
ヤフオクなども同様で、検索したジャンルはただちに足跡として残るようで、類似の情報などがメールで続々と届きます。

マロニエ君の場合、当然のようにピアノがあり、それらを集めたおしらせメールが届くもののろくに見ませんが、たまたまタイトルにドイツの知る人ぞ知る老舗メーカー名が目に止まり、そのアップライトピアノが、ちょっと信じ難いような低価格で出品されていました。
具体的な名前や金額は避けたほうがいいと思われるので書きませんが、市場価格のおそらく5〜6分の1だろうという強烈な安値で、ちょっとした電子ピアノ並みのお値段です。
さっそく、ピアノマニアのAさんにLINEしたら、「そのピアノはついこの前まで、現在より4倍近い値段で出品されていた」という返信が。

写真によると木目仕上げで、それも日本のピアノではまず目にしないような大振りな柄の木目で、いかにも外国産の外皮という感じであったし、さらに驚いたことには出品地は隣県という偶然も重なり、俄に心がざわつきはじめました。
しかもその価格は「即決」となっているので、誰かがポチッとやればそれで終了というもの。

価格的にはどうにもならない金額ではないけれど、マロニエ君の自宅はグランドなら無理をすればなんとかなるものの、アップライトピアノというのはそのぶんの「壁スペース」がどうしても必要となり、それらはすでにびっしりと本棚やCDの棚で埋め尽くされているため、その点がどうにもならないのです。
スペースさえあれば部屋の中ほどに置けばなんとかなるグランドと違い、アップライトというのはどうしても壁に寄せる必要があり、逆に置き場に困るという一面をもっています。

Aさんに「買いませんか?」とは言ってみるものの、すでにご実家を含めてマニアックなピアノ3台持ちなので、さすがにこれ以上というわけにもいかないだろうし、互いに気になるといったやり取りをしつつ、その日は終わりになりました。

一夜明け、まずは写真をPCに落とし、拡大してにらめっこが続きました。
その結果、疑問に思える点がいくつか挙がりました。
まずはフレーム。弦が交差する三角州のところにあるエンブレムには、その老舗メーカーのロゴが入ってはいるものの、いかにも取って付けたような感じであることと、そのエンブレムの形状や文字などのデザイン/作りが見るからに雑で、こんなものをこの老舗メーカーが作るだろうか?ということ。
また高音側にもそのメーカー名の立体文字があるにはあるけれど、ネットで見るそのメーカーのフレームには、より小型のアップライトでさえ、もっと長い正式名称が恭しく並んでいますが、ヤフオクの方はやけにシンプルに社名のみ。

さらに、オークションの商品説明では、製造年が書かれておらず、どれぐらい経過したピアノであるかもまったくわからない。
なにより不信感を抱いたのは、鍵盤蓋にあるロゴマークが、新旧問わずこれまで見たこともないフォントで風格がまるでない。
ネットで見る同社のピアノは、小型のものでもさすがはドイツ製という凛としたクオリティが感じられるのに対し、このピアノはどことなくユルッとした感じも気になりました。

車で行けない距離ではないので、もし落札されなかったらとりあえず見に行ってみることも考えていましたが、細かい点検をしているうちに少しずつ興奮が冷めていくのがはっきり自覚できました。

ついに終了時間が過ぎましたが、結果的に入札はありませんでした。
商品説明の欄に問い合わせ用の電話番号が書いてあったのも珍しく、ものは試しで電話してみると、対応に出た方は素朴な感じで、現物確認には快く応じてくれましたが、先方は田舎のリサイクルショップだそうで、それですべての合点が行きました。
当然ながらピアノの知識は気持ちいいくらいゼロで、見知らぬメーカーのピアノを抱え込んで持て余しているといった様子でした。

「ヤマハの調律師さんを呼んだことがありますが、よくわからないと言われました」などと、この商品に対して、ぜひ売ろうと言う意気込みが薄いというか、どうせ売れないだろうという諦め気分が話し方に出ていました。
もしこちらが本気で買うとなれば、値引き交渉などもずいぶん可能性のありそうな感じでしたが、いかんせん、ピアノそのものへの疑念が出てしまったために、この話そのものがお流れとなりました。

半分残念、半分ホッとしたといったところで、もしこれが名前通りのピアノであったなら、これまたややこしいことになるわけで、幸いそうならずに済んだわけですが、こんな老舗メーカーの名を語る偽物があるとしたら、これはこれで由々しき問題だと思います。
骨董の鑑定家なども言われることですが、細部の点検も大事だけれども、まずは全体から受ける雰囲気に違和感や疑問を感じたときはやめたほうがいいのだそうで、そこにあれこれ理由をつけて自分を納得させても、結局は失敗に終わるのだそうです。

とはいえ、ちょっと面白い体験でしたし、勉強にもなりました。
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続・知名度がすべて

前回の続きをもう少し。
国内の小規模の良心的なピアノメーカーが、適切な評価も与えら得ぬまま消滅してしまったことは、残念というような言葉では足りません。
その無念さの中には、日本のピアノをとりまく無理解への恨みも滲んでいるかもしれません。

ピアノビジネスにかつてのような隆盛が二度と来ないであろうことは、もちろんわかっています。
しかし、一部の伝統工芸が辛うじて生きながらえている程度に、その命脈はかすかに保たれるべきではなかったかと思うのです。

いかなる分野でも、小規模でも良い物が生み出されて、一定の支持者のもとに届けられるということさえ立ちいかなくなるのは、市場にも大きな責任があります。大手の製品でなければ二束三文、場合によっては処分料を求めるなど、こういう扱いを受けてはマイナーメーカーの生きる道はないでしょう。
市場原理に沿った結果というのは容易いけれど、認めるべき立場の人達の大半が、大手の側についたということも見逃せません。

司馬遼太郎の小説などにたまに出てくる、「間口は狭いが、堅実な商いをやっている老舗」というような描写がありますが、こういう小規模でもしっかりしたものが立行かない世の中というのは、個人的に好まないし、強大な大国的なものしか生き残れないという息苦しさを感じます。

有名メーカーの表面だけ滑稽なほどピカピカした、音の出る家具か電気製品みたいなものがほしい人はそれでいいけれど、そういうものを好まない価値観を持った人達へのささやかな門戸さえ次々に閉ざされ、選択の余地さえないというのは、これこそ文化的貧しさの証ではないかと思います。

すでに何度も言ってきたことですが、ピアノの特殊性は、他の楽器に例を見ないほど重厚長大で、ゆえに持ち運びができないという決定的な宿命を背負っていることで、このことがまず弾く人と楽器の関係を引き離し、関心をも奪った要因ではないかと思います。
いつも自分の愛器と一緒にいいられる弦や管の人達の、楽器によせる愛着やこだわりに比べると、ピアノを弾く人にとってのピアノとは、それはもう無残なものです。

「もしもピアノが弾けたなら」ではないけれど「もしもピアノが持ち運べたら」、やはりピアノを弾く人も楽器へのこだわりは必然的に高まることは日を見るよりも明らかです。

数ある器楽奏者の中で、ピアニストだけがいつも身体一つで移動して、行き先にあるピアノを是非もなく使ってベストを尽くさなければいけないのは、考えてみれば異様なことですよね。
まずこれが、自分のピアノにこだわってみても無意味と考えるようになる、はじめの第一歩だろうと思います。

さらに、ピアノは楽器の中でも、機械としての要素、工業製品としての側面が大きいから、ここがまた大手の作るものに信頼が集まりやすく、そういう要素のことごとくが大手にとって幸運だった気がします。
ピアノにかぎらず、人間の身体よりも大きいモノというのは、えてしてそういう傾向があるのかもしれません。
これは、どこか車にも似ており、大手メーカーの生産なら安心だけど、もし名も知らぬ小さな町工場が気の利いた車を作ったとしても、それが認められ支持されることは甚だ難しいと思いますが、それとどこか似ているように思います。

それでも、普通なら優れたものは、時間がかかったとしてもやがて少しずつでも認められ、価値が出てくるのが普通ですが、ピアノに関してはまるでそういう空気がなく、これほどまで徹底して日本における手作りピアノが衰退(というか消滅ですね)するというのは、日本人の西洋音楽に対する、本質的なところの限界をも感じます。
できるのは、せいぜいスポーツの覇者になるように鍛錬し、海外コンクールで上位入賞を果たすところまでで、音楽を自分の実生活に溶け込ませ共存させることは、おそらくこの先もできない。
すなわち西洋のクラシック音楽を自然な楽しみとして受け入れることが、どうしてもできない。

少量手作りというのは、日本人にとってはどこの馬の骨ともしれない、下手をすれば失敗や後悔の可能性が高いものとしてしか捉えられないのでしょうし、なにしろ人と同じマークのついた定評のあるものを好む民族ですから、流れに反してでも自分だけの価値を見出すなんてことは最も体質に合わないことなのかもしれません。
文化芸術の一番の栄養は、「これは素晴らしいという気づき」にあると思うのですが、それは時として大勢に逆らうことでもあり、川の流れに背を向けることは、審美眼と信念と気骨が要りますからね

よって日本には楽器としてのピアノ文化は育たないと思うのですが、その一方で、ショパン・コンクールのステージには4社あるピアノメーカーのうちの2つが日本製というのは、このトリックはなんなのかと思います。
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知名度がすべて

先日、日本の某手作りをピアノを愛用されている知人の方から、いろいろと情報満載のメールをいただきました。

固有名詞や具体的なことは避けますが、ついに日本国内で、良質の材料を使った手作りピアノはほぼ絶滅したということが書かれており、いまさらですがフッとため息です。いつかは購買層の世代も変わり、価値あるものが一定程度見直され、わずかでも立ち上がる時が来ればと思っていましたが、ピアノというのはとりわけ評価や再発見が難しいものかもしれません。
一部の専門家や好事家は別として、一般的には…。

なぜこんなことになったのか、専門家に言わせればいろいろな要因を並べ立てるのかもしれませんが、マロニエ君が個人的に感じるのは、日本人の右へ倣えの民族性と、日本のピアノ音楽教育の常識が大元になっているのではないかということ。

日本は当たり前ですが、西洋音楽の伝統がないまま、文化の模倣として始めた国。
それも明治からと云いたいところですが、本格始動したのは戦後の復興期からでしょう。
大戦前からピアノを触っていたような人は、一握りの特別な人達であって、多くは戦後の高度経済成長とともに、子供にもピアノという文化を身につけさせようという機運の高まりによって、日本独特のピアノ文化が花開きます。
そこで注目すべきは、ベルトコンベアにのせた大量生産方式で作られた国産ピアノが、そのブームの中心であり標準機として使われたこと。

その波にあやかるべく、日本には信じられないほど夥しい数の大小ピアノメーカーがあったようですが、無論それらのすべてが良質ピアノだったとは到底いえません。
中には時流に乗って一儲けしてやろうという動機から、音楽もろくにわからない人達の手によって製造されたピアノもたくさんあったでしょうし、当然劣悪な品質のものもあったはずです。

そんな中、未知の階段を駆け上がるように、初めてピアノを買うとなれば品質や音色の判断力などあるはずもなく、多くの場合はピアノという夢を買うことだけで一大事だったと思います。
当時、ピアノが大量生産品か、クラフトマンシップによって生み出される名品かなど、考えた人は一般にほとんどいなかったと思われますが、ではそれが過去の話かといえばそうでもなく、現代においても、半世紀前と大差ない状況のように思います。

これといった根拠もないまま、大手の有名メーカーだけが信頼できるもので、その他多くは二級三級扱いという構図が知らず知らずの間に出来上がります。いや、そういう認識が意図的に作られたのかもしれません。
くわえて、大手は力にものいわせて全国津々浦々まで販売店を配置、さらには音楽教室まで展開し、その先生たちも師弟関係を装った準営業マンみたいなものだから、これらが覇権を握り、中小は品質如何にかかわらず淘汰されるのは必然だったでしょう。

つまり、日本では、ピアノといえば欧米では考えられなかった大量生産品が標準であり、ピアノの優劣に対する感性がほとんど育たなかったという背景があると思うのです。
これは楽器の優劣を考えることさえ、情報が遮断されていたも同然かもしれません。

いいものとは大手の作る大衆品で、音や響きの優劣を探ろうとも考えようともせず、ほとんど思考停止状態で、ひたすらブランド名だけがものをいう世界。
これでは、小規模生産の良品など出る幕がありません。

どんなに誠実な良品であろうとも、まるで見向きもされないという不条理。
これでは、志ある製作者たちもやってられないという絶望感に打ちひしがれたことと思います。

どんなに良心的な商売をやろうにも、巨大ショッピングモールには敵わないという、あの感じですね。
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響板の掃除

グランドピアノの響板の掃除はどのようにやっておられますか?
…というか、そもそもあんなややこしい部分を掃除しようと思われる方じたい、ほとんどおられないかもしれませんが。

難しい掃除の中でも、グランドピアノの響板はかなり高難度なもののひとつじゃないかと思います。
掃除といっても、ホコリ取りがせいぜいですが、そのせいぜい程度でもなかなかできません。
なにしろ響板の上には、巷間いわれるごとく230本もの弦がびっしり張られ、しかも一部は交差までしているから、一見しただけでも、その下を掃除するなどほとんど不可能に思えます。

そのせいか、ホコリや汚れがたまるに任せて、いっさい手付かずとなり、極端な場合はそれが何十年にもおよんで響板が灰色のじゅうたんのようになっているような状態のピアノもあれば、音量の問題からか、カバーを被せて大屋根を一切開けない、したがって汚れることもあまりないというような方もおいでのようです。
マロニエ君としてはそのいずれも好まずで、ほどほどに開けるときは開けたいし、響板の掃除も簡単に出来るならしたいというのが正直なところですが、その方法となるとこれぞという方法がなかなかありません。

そのためのアイデア商品のたぐいも、まったくないこともないようで、知人が購入されたというのがT字型の専用器具で、これを弦の間から差し込み、それを動かす(おそらく引いたり回したり)ことでホコリをとっていくというものらしい。
調律師さんにもこれと似たようなものをお持ちの方がおられて、少しやっていただいたこともあり、そのうちこういうのを入手して時間をかけてやるしかないか…と思っていました。

ところが、人それぞれで、別の調律師さんはまったく違った器具をお持ちでした。
ビョンビョンとたわむ弾力のある薄い金属の細い棒で、先端に布を巻き付け「私はこういうのでやりますけど…」といわれて、見るなりこれだと!と思い、さっそく注文していただくことになりました。

すぐに手配してくださり、持ってきていただいたので、まずは使ってみることに。
先のほうに細長い穴があいており、おそらくここにやわらかい布などを通して使うのだろうと思われます。
はじめはホコリも多いだろうからと、フローリング用のドライシートを使ってみることにし、そのシートを穴にくぐらせますが、それが万一まずい場所で外れることを恐れてホッチキスでとめてから、作業をはじめました。
グランドの場合、後部の低音側は、比較的響板と弦の隙間の大きい部分があるので、ここらから差し込んで作業を進めますが、これはかなり効果的なようで、適当に前後左右に動かしてみると、シートには思った以上のゴミやホコリを付着させて戻ってきます。

しかし問題もあり、このクニャクニャ棒は幅が1cm強、長さが61cmほどで、後部から差し込んでも長さが足りず、とくに高音側ではどうしても到達できないエリアがあるのです。
とはいえ問題は長さだけなので、これはなんとか長さを継ぎ足すなどして工夫が出来るかもしれません。

本来は乾いた化学雑巾のたぐいを使うのが良さそうなので、長さ問題が解決したら、より本格的にやってみたいと思案中です。

調律師さんの中には100円ショップの掃除具のいろいろを自分なりに組み合わせて、独自の響板ホコリ取りにするなど、要するにアイデア次第なんだなと思います。

あとは考えただけでも疲れそうなのが、チューニングピンまわりの掃除。
ピンがあり、弦が巻かれ、それらがびっしり並んでいるので、ハタキや掃除機をかけたところでうわべのホコリが取れるだけで細かいところは綺麗にならず、あそこは綿棒かなにかで根気よくやるしかないのかもしれません。

尤もこんなことを考えるのは、きっと日本人だけかもしれません。
海外のピアノのお掃除事情がどうなのかまったく知りませんが、カメラの入る大物ピアニストの演奏会であっても、ステージのピアノは信じられないほど手垢だらけだったりで、目立つところだけでも少しぐらい拭けばよさそうなものを…と思うことがありますが、このあたりは国民性なのか、日本人のほうがおかしいのか。

その日本は、すでにじゅうぶんピカピカのピアノを、開演直前には技術者らしき人が最後の最後までネルの布のようなもので磨き上げるなど、これはこれで却ってやり過ぎでどうかと思います。
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移転先から

WAGNER PIANOが我が家から某音楽サロンに移転して、その後どうなったか。
結論から先にいうと、こちらのオーナー(Mさん)は、この方がこんなにも喜ばれることがあるのか!と驚くほどの深い喜びようでした。

Mさんは、さる高名なピアニストのお弟子さんのひとりですが、近年はどういうわけかほとんどご自分がピアノを触ることはなくなったとご本人から聞いていました。
正直、それがなぜなのかはわからないし、その理由を聞くのも躊躇われたので、そこは敢えて触れないで過ごしていました。

ところが、WAGNERが移転することになってからというもの、それ以前とはあきらかに様子が異なっているようでした。
早い話が、このピアノをとても気に入っておられるということになるのですが、そこにはただ単にピアノが気に入ったということとも少し違って、この方を長らく覆っていたいろいろな要素が、雪が次々に溶け出すように剥がれ落ちていったようでした。
WAGNERが大きなきっかけとなって、再びピアノを弾こうという意欲がよみがえってきたことはまずもって何よりでした。

今年亡くなられたお母上は、ピアノに触れようともされなかったMさんの姿を見ながら、何度かピアノを弾いてほしいと言われたそうですが、それでも頑として弾かれることはなかったらしいので、余人には窺い知れない何かがあったのでしょう。
ピアノを弾くことに対する扉はかたく閉ざされてしまって、それが実に16年ほども続いたというのですから、驚くほかありません。
その開かずの金庫みたいな心の扉を、WAGNER があっさり開けてしまったわけで、これはマロニエ君の想像もはるかに超えるものでした。
まるで人が変わったように毎日ピアノの前に座られ、あれこれの楽譜を取り出しては弾いてみている!と電話口の向こうで言われるのを聞きながら、当初は多少弾かれるきっかけにもなればいいな…とも思ってはいましたが、予想をはるかに超える反応にこちらのほうが驚いたぐらいです。

いまさらですが楽器の力というのは如何に大きいかということを思い知らされました。
それは単に音がきれいだとかよく鳴るとかいった表面的なことだけでない、もっと人の心の奥深いものを引き寄せるような「何か」の力が作用しているに違いありません。

このピアノは、以前にも書きましたが、マロニエ君の知人のピアノマニアの方が広島県内で売りに出されているのをネットで見つけられ、すぐに新幹線に飛び乗って見に行かれたことが事の始まりでした。
私もWAGNERというのは、後年の浜松の東洋ピアノのものをぼんやりと認識していたぐらいで、ここから泥縄式に広島で製造された元祖WAGNER PIANOのことを調べて知りました。

その方は、このピアノの鳴りに感銘を受け、手に入れる前提で、整備のできる工房調べなどまでされたようですが、別の有名手作りピアノのOH済みというのが出てきて、結局そちらを買われることになり、結果としてWAGNERはFreeの状態となりました。
私も迷いましたが、あまりにもWAGNER PIANOに無知で、見に行くにはあまりに遠いので正直まごつきました。
古いピアノの得意な技術者さんに電話したところ、それだったら某さん(現在の所有者である調律師の方)がWAGNERのことはご存知ということで、その方に尋ねたら「広島製のWAGNERはそれは素晴らしいピアノです。今風の甘い音ではないがものすごくよく鳴る。買われるならおすすめします。」といわれました。
そして、「もし誰も買い手がないときは自分が買います!どんな状態でも構わない!」といわれたことが決定的となり、それからひと月後ぐらいだったでしょうか、ついにWAGNERは関門海峡を渡って福岡にやってきたのでした。

運送会社の倉庫内で数日にわたり整備をされ、驚くばかりに朗々と鳴り響いたことは以前にも書きました。
この調律師さんの見立てでは、日本の隠れた銘器であるにもかかわらず、ブランド力がないから下手をすると廃棄されるおそれがある…ということでピアノを守るためにゲットされたようで、とくに置くあてもなく(このあたりがこの技術者さんの面白いところなのですが)、結果的に我が家でしばらく拝借することになり、今だから本心をあかせば、ゆくゆくは買い取らせていただきたいと思っていました。

それが思わぬところから現在の展開になり、話はトントン拍子に進み、結果的に新たな住処を得たというわけで、かなり数奇な運命を辿っているピアノだといえそうな気がします。

Mさんは、少し前から恩師が所有されるドイツ製の有名ブランドのピアノを買わないかと打診されたことがあった由ですが、どうしてもそういう気になれずにお茶を濁していたのだとか。
「WAGNERがやってきたのは、自分にとってそういう運命だったから」というのはいささかこじつけの感も免れませんが、とはいえ、いわゆる「赤い糸」みたいなものがあったのかもしれません。
まるで何かがはじけるように気分が変わり、これまでの十数年とは別人のように毎日弾いておられるとのことで、もう少し早ければお母上も喜ばれただろうにと思います。

WAGNERが運び出されて数日後のある夜電話があり、鍵盤蓋の隙間からえんぴつを落としてしまったとのこと、取り出そうと鍵盤蓋を外そうとしたが外れないということでした。それは当然で、WAGNERの鍵盤蓋はちょっと特殊な作りで、ヤマハカワイのようには外れないので、仕方がないからドライブがてら取りに行ってあげました。
そのついでに私がちょっと弾いてみることで、Mさんは少し離れてWAGNERの音や響きを耳にされることになったのですが、このピアノは距離をおいてもほとんど音量が変わらず、聴く側に回ってあらためてWAGNERの底力を理解され、さらにさらに惚れ込まれたようでした。

まさか、これほどのことになるとは思いませんでしたが、結果から見て、これはその方にとっても、ピアノにとっても、地域にとっても、そしてもちろん所有者の技術者さんにとっても、第一発見者のTさんにとっても、最良の結果だったように感じられ、我ながらなんと上手い思いつきだったかと嬉しく思っているところです。

これから先、このWAGNERがどんなストーリーを紡いでいくのか、楽しみです。
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佳き時代の響き

昨年6月から11ヶ月間、我が家に逗留してくれたワグナーピアノですが、旅立って行くと部屋がガランとしてしまい、寂しくもありますが、行き先は長年の知り合いであるし、意義のあるところへ行ったのだから不思議に前向きな気分です。

そもそも、ワグナーなきあとも自分にとっては分不相応なピアノがあって、それでさえ使いこなしているとはおよそ言い難い状況で、毎日ピアノに触れる平均時間でいうなら10分/日ぐらいでしょうか。
これでワグナーがあると、まったく触れない日がいくらでも増えて、今あるピアノにも申し訳ないというものです。

大人からピアノを始めた方でも、日々かなりの練習を課しておられる方が珍しくないというのに、これじゃあ楽器の良し悪しをどうこういう資格もありません。
我が家でピアノを弾くのは私だけなので、台数があるだけ各ピアノはより眠りに入るだけで、いくらピアノが好きでもなんだかひとりで欲張っているだけでは楽器にも申し訳なく、いい機会だったと思っています。

というわけなので今後、マロニエ君が新たにピアノを買うなんてことは実際にはまずないと思いますが、それはそれとして、このワグナー体験を経てますますピアノへの認識が変わったことは事実です。

もしも、なにかとてつもない無い間違いでも起こって、万々が一にもピアノを買うようなことがあれば、この先は迷いなく古き佳き時代のピアノを選ぶと思います。
音が出ると、まわりの空気がフワンと伸び縮みするような、あの感じ。
無理なく、太く鳴り、それでいて耳に心地よく、全身が美音に包まれるような、あの感覚を知ってしまうと、外観はどんなにピカピカでも生命感のない「ピアノのような音」が無機質に出てくる今どきのピアノは、もう欲しくはありません。

どんなに評判が良かろうとも、そもそもコストダウンされた素材で作られたピアノを、最新テクノロジーの力で遮二無二鳴らして、見た目も音も表面だけキレイなピアノでは、真の喜びや安らぎは得られない。

もちろん新しいピアノを全否定するつもりはなく、中にはまだじゅうぶんに素晴らしいものがあることもわかっています。
とくに均一で、ブリリアントで、整った、甘い音のするピアノ。
新緑のように若々しく、音の息の長さ(伸び)という点では新しいピアノに分がある場合もあるかもしれません。
さらに、精度の上がった、アクションがもたらす精緻な感触や自在感という点では、新品ならではのものがあることも認めます。

しかし、音を出すだけでも嬉しくなるような、その響きを聴くだけでも深いものに触れているような、その楽器の長い生涯の一時期に関わっているようなピアノの魅力というのは、今のマロニエ君にとっては、何物にも代えがたい魅力があることを知ってしまったような気がします。

ピアノが指のオリンピック競技の訓練のためなら、その訓練に適した道具というものもあると思います。
そんなほんわかしたピアノを使うのは適していないだろうし、それだったら新しい量産品でガンガンやるのがいいのかもしれませんが、楽しみに徹するなら好きなピアノに触れる喜び、美しい音と響きに身を浸す快楽を得たいなら、そういう楽器を選ぶしかありません。

ピアノをオールドバイオリンに喩えると、必ずといっていいほど「ピアノとバイオリンは違う、わかってない、比較することはできない」と正論らしきことをまくし立てる方がいらっしゃることもよく承知しています。
簡単にいうと、バイオリンは弾いて鳴らして熟成させて完成され、耐久性という点でも息の長い楽器、対するピアノは弦のテンションが高く消耗品で新しい物がいいという考え方ですが、マロニエ君はこれには真っ向から反対です。

バイオリンが楽器として長寿であることはそうだとしても、その性能を維持するために、常にどれだけのメンテや維持管理(そのためのコスト)を必要としているか、それでも未来永劫ということはなく、数あるストラドやグァルネリとはいえ、将来は必ず寿命が来ると言われています。
ピアノも同様で、それぐらいの維持を心がければ、いいものなら100年経ってもどうってことありません。

それでも大型犬より小型犬のほうが長生きするように、平均寿命はピアノのほうが短いかもしれませんが、その程度の差だと思います。

お借りしていた広島製ワグナーも60歳ほどでしたが、弦もハンマーもオリジナルで、アクションだけは少々の消耗感がありましたが、鳴りっぷりという点では、現代のピアノを打ち負かすほどで、大事に使って、ときどき手を入れてあげれば100年なんて軽く行けそうな気がします。

もともとの品質にもよりますが、ピアノの寿命を必要以上に短く言うのは、新しいピアノを売る必要のある企業の思惑が相当入っていると思われますが、まあメーカーも慈善事業じゃないからそれもわからなくはありません。
ただ、古くていいものを慈しむように使うというのは、本当にいいものだし、心が豊かになることがよくわかりましたが、それはワグナーピアノのおかげでもあると同時に自分が歳をとったからなのかもしれません。
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旅立ち

昨年6月よりお借りしていたワグナーピアノですが、ついに我が家を離れることになり、数日前すでに搬出されていきました。

所有者のである技術者さんは、何の見返りもなしに、快くピアノを貸してくださっていることからもわかるように、今どき珍しいほど人情に篤くサッパリした御方で、私が望むなら「いつまででも、どうぞ使ってください」と仰ってくださっていたので、それに甘えてズルズルとお借りし、いらい自由に弾かせていただいていました。

ただ、この方の真意としては、1960年代広島で9年間だけ作られたワグナーピアノの素晴らしさを、少しでも多くの人に楽しんでもらいたいというお考えがあることは承知していたので、その意味では現状はマロニエ君が独占している状態であるのが心苦しくもありました。
いっそ買い取らせていただくか(それに応じられるかどうかはわからないけれど)、もしふさわしい場所があったなら移動も考えなくてはならないだろう…というような思いはいつも漠然と頭の片隅にありました。

そして、そのふさわしいと思われる場所へと行くことになったのです。
福岡市の西隣にある某市の駅の近くで、ショパンの名を冠した音楽スペースのようなことをやっておられるMさんという旧い付き合いの方がおられるのですが、数週間ほど前、数年ぶりに機会があってお尋ねしたことで突然そのイメージが膨らんだのです。
今まで、なぜここを思いつかなかったのか自分でもよくわかりませんが。

表通りに面したマンションの1階部分で、表向きはカフェにはなっているものの、とくに営業熱心という感じもなく、実際はMさんの音楽室みたいなもので、そこでピアノのレッスンをされたり、地域の文化スペースのようなことにも使われているようで、その実態はなかなかひとことでは言い表せません。

ここにはヤマハの非常に古いG3があり、ワグナーとは同世代でもあるしサイズも近いので、2台ピアノというのもいいのでは?と思いました。
問題は、ここのMさんはご自身の好みや物事を納得するということに独特な感覚をお持ちの方なので、気に入らないピアノを置くといったようなことは決してされるはずもなく、まずはワグナーを触ってもらうことが第一と思い、後日我が家に来ていただくことになりました。

来宅されて、しばらく音を出すようなことをされましたが、あまりはっきりと感想を言われず、むしろ妙に口数が減ってしまい、どうかな?と思っていると、ようやく出てきたのは「こういう音を望んでいた」「…出会ってしまった感じがする」「こういうことか…」というような、かなりお気に召したらしい言葉がポツリポツリと聞こえ始めてきました。
要するに、気に入られただけでなく、感情のなにかが揺れ動いたのか、却って言葉少なになっていたという感じでした。

「こういう音がいい」といわれるのは、たとえば中低音のズンとした腰の座った音だったり、高音側も輝くばかりにはっきりしているけれど、決してキンキンしていないあたりも驚かれたようでした。
また、ワグナーが遠鳴りする楽器というのは前にも書いた覚えがありますが、ピアノからできるだけ離れて聴いてみても、その音量にはほとんど変化がなく、あらためてさすがだと思いました。

聞くところでは、帰宅されたあともずっとワグナーに触れたことがきっかけで、遠いむかし、ご両親が自分に買い与えてくれた量産品ではないピアノのことなどのあれこれが、しばらくのあいだ頭を駆け巡っていたとのことでした。
人をそういう気持ちにさせる何かが、やはりワグナーピアノにはあるということだろうと思いますし、これは、どんなによく出来ていても量産品には望めない不思議なパワーだと思います。

というわけで置いてみたいという結論に達したようでしたが、そうなれば、まずは所有者である技術者さん会う必要があるだろうということで、私がその機会をセッティングするよう頼まれました。
さっそく連絡をとって、今回のいきさつから話したのですが、あっけにとられるほどの快諾をされたばかりか、私がそれがいいと思うなら自由にやってください、すべて任せます、相手の方のこともおおよその説明でわかったので、わざわざ会う機会を作る必要もないから、そちらの都合で、移動でもなんでも好きなようにしてください。
ピアノが移動したら、自分が調整に行くし、その時にその方に会うのが非常に楽しみであるというようなことで、所有者としてもったいぶるようなところは微塵もなく、その粋なふるまいにはいまさらのように感服した次第でした。

ひとつ条件があるとすれば、この希少なピアノの価値がわからず(あるいは多少わかったにしても)、その楽器の良さを楽しむのではなく、やたらとガチャガチャ弾くような人には使ってほしくないというものでしたが、その点は私を全面的に信頼してくださっており、そのあたりも併せて強く信頼をしていただいていたのはありがたいことでした。

通常なら、ピアノを貸す(それもほとんど幻に近いようなレアな銘器)ともなるとなおさら、どういう相手か会って面談して、あれこれの条件やら説明やら、所有者として貸借の取り交わしをするのが一般的でしょうし、今どきは昔以上にそういう面は堅苦しいものになっていると思いますが、そんなものは「一切すっ飛ばして構わない」とのことで、それはもう見事なものでした。
いうまでもなく、ワグナーピアノに対する思い入れはかなり強いものがあるにもかかわらず…なのですから。

こういう方は昔でもそうざらにはいらっしゃいませんでしたが、今どきはもうほとんど絶滅危惧種の部類で、本当の粋とかスマートというものは、一種の胆力と覚悟と信頼が裏打ちされた、流れの美しさの賜物であり、つべこべ言わず、あとはスッパリと人に下駄を預けるというもので、まるで本で読んだ勝海舟のようだなあと思いました。
マロニエ君もできることならこうありたいもんだと思います(無理ですが)。

というわけで、11ヶ月間、我が家に逗留してくれたワグナーピアノですが、3日前に旅立って行きました。
60年も前に、こんな素晴らしいピアノがあったということじたいが驚きであったし、いろいろなことを教えてくれた素晴らしいピアノで、得難い貴重な体験でした。
快く貸してくださった調律師さん、さらにはこのピアノを探してきたTさんに改めてお礼を申し上げます。
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衝撃と感銘

先日の日曜のこと、知人の用に同行して山口に行くことになりました。

用が済むのがちょうどお昼過ぎになる予定で、現地で昼食をとることになりそうな流れでしたが、見知らぬ土地でのお店など分かるはずもないので、旧来の知り合いである山口の調律師さんに朝電話をしてオススメはないか聞いてみたら、「それなら、僕がよくお昼を食べに置く店に、☓☓峠というのがありますよ」と教えていただいたので、他に選択肢があるわけでもなし、ごく自然にそこに行くことになりました。
注文を済ませて一息ついていると、視界にその調律師さんと似た感じの方がおられるので、地域の特徴にはそういうところがあるものなので、似た人がいるなぁ…と思っていました。

が、それにしてもあまりに良く似ていて、あれ?…と思っていると、向うもこちらに気づかれて、なんとその調律師さんご本人!で、この日も本当にお昼を食べに来られているとのことでした。
ちょっとむこうの席に行って、ひと通り挨拶や話などをすると、よかったらあとでお店の方に寄ってくださいとのこと。

ただ、この時の二人の同伴者はピアノとはまったく無関係の人達だったので、どうかな…と思いましたが「せっかくなんだから行きましょうよ!」と快諾してしてもらえて、食事が済んでからちょっとだけ立ち寄る事になりました。

この調律師さんというのは、昔から音の求道者として少しは有名で、数々のコンサートや録音現場をこなしてきた人で、そのためには東京のホールまで自分のピアノを持ち込むことも厭わない方です。
(各ホールには厳しい規定があって、ホール所有のスタインウェイなどは指定業者以外は触ってはいけないというのがほとんどで、理想の音を実現するためにはピアノを持ち込む他ないのです)

すでに何枚ものCDもあり、先ごろ惜しくも亡くなられた杉谷昭子さんのベートーヴェンのソナタ全集の録音も、すべてこの方が手がけたピアノが使われていますし、一般の書店に並ぶ書籍も出しておられ、いわばピアノの音の追求をライフワークとされる方です。
しかし、あまりにそれ一筋の職人気質のため、時代の波に乗ったり、広く人脈を築いて宣伝につとめるといった方面はまるで苦手のようで、ややマイナーな立ち位置に甘んじておられるようですが、ご本人はそんな事は意に介さずで、ひたすら最高の音を求める姿勢には、昔も今も少しの迷いもないようです。

我々が尋ねた直前にも、ロシアのピアニスト、パーヴェル・ネルセシアンのコンサートも東京その他で終わったばかりとのことで、そのステージで使われたというスタインウェイのD-274も戻ってきていました。
ネルセシアン氏もこの方のピアノが昔から大変お気に入りで、そのピアノで録音したCDがロシアでも発売されているとか。

「ぜひちょっと弾いてみてください」といわれて、そのDのカバーがズルズル外し始められたので、もちろん興味はあるけれど、ピアノと無関係の二人はいるし、ちょっと困ったなと思いましたが、ここで遠慮していては折角のチャンスを逃すことになるので、腹をくくって少し弾いてみると、音を出すなり「なにこれ!」と思わずにはいられないような、すごいとしか言いようのない華麗な鳴りで、全身がヒリヒリするようでした。
ネルセシアンのような完璧なテクニックを有するピアニストが行ったコンサートの余韻がまだピアノにも残っている感じでした。

タッチも音も思いのまま、そしてなによりコンサートグランドとしての力強さといい、これぞ申し分のない、ステージから数百人に向かって聴かせるためのピアノだというのがいやがうえにも伝わります。
近頃はスタインウェイといっても、以前よりも常識的なまろやかな音に調整されたピアノも少なくありませんが、このピアノは比較的新しい個体ですが、全身の隅々までが抜けるように鳴り響いており、少し前のスタインウェイのような深みと輝きもあるし、低音などは中世の鐘が豪奢に鳴り響くようで、もうクラクラになるほどでした。

世の中は、スタインウェイ一強に異論を唱えて、中には「きらい」という向きもあるし、ファツィオリの濃密な音もとても特別なものがあるとは思ったけれど、こういうピアノに接すると、そういう事がすべて吹き飛んで、やはりこれ以外にはない!という、有無を言わさぬ圧倒的なものがありました。
いまでもその感激は、耳に、指先に、生々しく残っています。

小さな店にもかかわらず、このときは、この貸出用のD以外にも、整備中でダンパーの外されたニューヨークのDと、その脇には横置きにされたハンブルクのDと、計3台のD-274があって、やはりここは普通のところではないと思いました。

この方は、常に独自の調律法とホールで鳴り渡るピアノの音の美しさを生涯追求している方で、いわゆるオーソドックスな調律調整を無難にこなす人ではないため、それを高く評価する熱烈な支持者がいる反面、まったく邪道扱いする人達に分かれるようですが、それぞれに言い分はあるだろうし、いずれにも一理あって間違っていないのだろうけれど、ただ、ものごと結果がすべてという観点でいうなら、ああしてコンサート用に仕上げたピアノに触れてみると、ただもう圧倒されて痺れてしまうようで、もし自分がリサイタルをするようなピアニストだったら、こういうピアノを使いたいだろうなと思いました。

この方がやられていることがすべて正しいなどというつもりはないし、まして盲信するつもりもないけれど、最高の技術の世界というものは、既存のやり方に飽きたらず、常に新しい地平を求める探究心が必要なはずで、それを失ったら、ものごとは少しも進歩しないだろうと思います。
ノーベル賞をもらうような人達も、きっと似たようなブレない信念と強烈な探究心があり、孤独で、常に人から馬鹿にされるようなところから偉大な発明がでてくるもので、そういう意味では尊敬に値する技術者さんであることは間違いないと思います。
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何が起こったのか?

自宅でお預かりしている貴重な広島製ワグナーですが、早いもので運び込んでから10ヶ月が経とうとしています。

いらい、最もよく弾いているのがこのピアノですが、それはなにより触りたくなる魅力があるから。
部屋のスペースの関係から、もう一台のグランドと前後互い違いに向き合うよう近づけて置いていますが、ワグナーは若干高さが低めで、そのために前屋根を開けるともう一台に干渉してしまうため、そこにいつもマットのようなものをあてがっています。

小さなキャスターと、インシュレーターもペラっと薄いプラスチック製のものであることも、さらにその点を助長しているようでもあるし、そもそもやはりボデイ全体が若干低めであることも間違いないようです。
思い起こせば大橋デザインのディアパソンも似た感じだったので、昔のピアノは概ねそういうものだったのかもしれません。
これは古い日本製ピアノだけの特徴なのか、海外のものも同様なのか、そのあたりをしっかり確認したことはありませんが。

最近のことですが、たまたま出向いたホームセンターで別のものを探しているとき、直径12cm、厚さ12mmほどの、丸い木のパーツがあるのが目に止まり、とっさにワグナーピアノのことが頭に浮かんだのでこれを3枚買って帰り、後日インシュレーターの下に敷いてみました。
インシュレーターのほうがわずかに直径が大きいので、丸板はほんの少し内側に隠れるような感じです。
ピアノほど大きな楽器でも、全体がわずか約1cm上がるだけで、なんとなく違った印象になるもので、鍵盤の高さはむしろ好ましい感じですが、困るのはペダルも上にあがり、少し勝手が違う感じになったり。

まあそのへんは、慣れの問題もあるでしょうし、どうしてもイヤならペダルの下に板でも敷けば済むことですが。

本題はここからで、実はそれどころではない副産物的な変化があったのです。
その小さな丸板を敷いたことで、あきらかにそれ以前より鳴りのパワーが向上し、この思いがけない変化に驚くと同時に、これはいったいどういうことなのか?

それまではカーペット敷の床の上に、プラスチックのインシュレーターをかませてキャスターが載っていたわけですが、その下に小さな板が介在したことで、ピアノの鳴り方にどのような作用をもたらすのかマロニエ君にはてんでわかりません。
わからないけれど、それ以前よりもあきらかに力強い鳴りになっており、これは勘違いでなしに間違いなく起こった変化だと思うのです。

この手のことに研究熱心な技術者の中には、インシュレーターの素材や形状にこだわって、しまいには独自の考えを反映させた製品まで作っているようなケースも見た覚えがあるし、たしか昔のディアパソンには(音のための)高級素材を使った、ずいぶん高価なインシュレーターがあったようにも記憶しています。
正直いって、それらはまったく根拠の無いこと…とまでは思わないけれど、一度借りて使ってみたこともありますが効果についてはほとんどわからず終いでした。

ところが、今回のように思いがけずハッキリした変化を経験してしまうと、インシュレーターというか、床とのピアノの接触方法に着目して研究する人の言い分にも一理あるんだろうという気がしてきました。機械モノ全般に言えることとして、ある理論や方策がすべての場合に等しく効果があるとは思えませんが、特定の条件とか、個体との相性など、なんらかの偶然が重なった時には、思わぬ効果が表出することも事実だろうと思います。

車でいうとアーシングだとか、最近では静電気の除電による性能向上といったことが叫ばれていて、マロニエ君もやってみたけれど、意識すればそうかな?と思える程度のもので、決して劇的な効果ではありません。
車は絶対数がピアノの比ではないから昔からこの手のマニアや研究者も多く、性能向上のためのあらゆるアイデアと試行錯誤が繰り返されてきましたし、多くのアイテムが製品化されて販売もされましたが、効果はあるようなないような微妙なものが大半で、それをオカルトだと冷笑する向きも多いのです。

それでいうと、マロニエ君は昔からインシュレーターなんぞに音質や響きの違いを求めるなんて、オカルトだと思っていたわけですが、さすがに今回の変化は、そうとばかりも言えない変化を体験してしまったわけです。

一般に、この手の効果は、微々たるものであるために数日経つと耳や感覚も慣れてしまい、やがて違いも感じなくなるものですが、今回ばかりは数日経過しても、あきらかに力強く、明晰に鳴るようになっているのは間違いない(と感じる)ので、やはりなんらかの作用があったのだろうと思われます。

ではどのピアノにも同じ効果があるか?といえば、それはわからないし、むろんオススメもできません。
今回の件は、たまたま我が家固有の条件にスポンとはまった、きわめて偶然性の高い結果だろうとは思っていますが、ごくまれにこういうことがあるんだということはわかり、貴重な体験ができました。

その後に来宅された調律師さんにそのことを伝えると、それは時々「ある」ことで、2台並んでいるピアノに同じことをしても明確な効果があるピアノと、鈍感でまったく変化のないピアノもあるとのことでした。
あるピアノのオーナーは、その変化に感激して、しばらくこれで弾きたいから申し訳ないが今日は調律はせず、このままにしておいて欲しいというたっての要望で、なにもしないで帰ってこられたこともあったとか。
簡単に説明のできない不思議な事ってあるもんだと思いました。

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つきあい方

ピアノの良し悪しに対する判断基準というのはいろいろあって、シンプルに言い表すことは難しいと思いますが、あえていうなら、ピアノはいい音質で、力強く、よく鳴るというのは、楽器としてのポテンシャルの基本だと思います。

それも側鳴りではなく、ピアノから離れても、さほど音量に変化のないような、音の飛行距離が長いという特質をもっていること。
弾いている当人は手応えがあって気分良く弾けているつもりでも、少し離れると一向に聴き応えのない、スカスカなピアノというのは経験的に少なくありません。

まずは、そういうピアノとしての健康でしっかりした声帯というかボディをもっていることと、そこに優秀でコントローラブルなアクションが備わっていれば、まずは合格ということではないかと思います。

広島製ワグナーピアノは相変わらず、よく通る音と衰えを知らない鳴りで元気満々ですが、強いていうならアクションの老朽化といった問題がないといったらウソになり、シングルスプリングのゆったりした反応や、消耗品の摩耗等によるとおもわれる注意深いタッチを必要とする若干のハンディがあり、新しいピアノのようにタッチも思いのまま弾力的に受け入れてくれるような甘えは通用しません。
それでもつい弾きたくなり、自然にワグナーへ吸い寄せられるのは、ウソやごまかしのない楽器だけがもつ魅力に満ちているからだと思います。

物理的/機械的な観点からいえば、これをある程度解消することは相応の手を入れれば可能でしょう。
交換すべき消耗品を取り替えて、本来の機能や感触を回復することは技術的にも正しいことで、マロニエ君も長いことそう信じてきましたが、このピアノの所有者である技術者さんはじめ、それに近い方の意見によれば、あまり細かいことに目くじらを立てず、古いものはふるいものとして、それなりに付き合っていく良さというのもあるというわけで、なるほど一理あるということに日々理解を深められたように思います。

車でもピアノでも、日本人は少しでも傷があれば修理に出すなど、ちょっとした不具合にも不寛容で、なんでもネガ潰しして新しくしてしまうことばかりに価値を置いています。
そこまでして、さてどういう使い方をしているのかといえば、車なら平凡な日常の買い物とか、子供の送り迎えとか、たまにドライブぐらいなもので、さほど完璧を要するようなことでもないことが大多数でしょう。
これは自戒を込めての話ですが、モノをそれらしく使い切ることなく、ただモノの段階で終わっているから、そういう意識の持ち方になるのだろうと思います。

はじめ、すぐには受け容れられないことでしたが、最近は「それはそれとして穏やかに付き合っていく」ことにも、得難い価値があり味わいがあることをしだいに理解できて来たように思います。
ここがあそこがとケチを付けるのは簡単ですが、そこばかりに意識が向いている間は楽しんでおらず、心は少しも豊かではなく、大袈裟に言うなら不幸な状態にあるわけです。

人間、長らくしみついた感覚やクセは容易に変えられるものではありませんが、私はワグナーピアノのおかげで、欠点にあまり目くじらを立てず、他に代えがたい魅力のほうへ意識をまわして楽しむということを、ほんの少しではあっても覚えたような、もっと大袈裟に言うと学んだ気がします。
しかもそれを覚えると、意外に楽になり、楽しさの比率も増えていくので、これは大事なことだなあ…とこの歳になって思っているところです。

もちろんワグナーピアノは借り物だから、マロニエ君の独断で勝手なことはできないという足枷はあるのだけれど、昔の自分なら早々に買い取るなどして、より良くするためと信じて、あれこれ手を入れて始終悩んでいたことだろうと思いますが、今の自分なら、かりに自分の所有であっても同様のスタンスで向き合うことができるだろうと、少し思います。

それに気づくのに、いささか遅すぎという感もありますが、遅すぎたとて気づかないよりはマシというもの。
本当に大事なことは何か?を静かに考えてみると、あれもこれも間違っていやしないか…と思われることのなんと多いことでしょう。
それに気づかせてくれた御方とワグナーピアノには、ひたすら感謝の念を覚えます。

「良いピアノはいろんなことを教えてくれる」というのは本当ですね。
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拘束カード

ひとつ前に書いた「複数の技術者とのお付き合い」を阻む要因はいくつかありそうです。
これは以前にも触れたことがあるので、重複する内容になるかもしれませんが、その点はご容赦願います。

世の中には、ただの習慣に過ぎないことを変えられない人というのが意外に多く、現在の技術者さんにむやみに義理立てして、多少の不満があってもその人と添い遂げんばかりにお付き合いを続けられ、別の技術者さんに依頼することをまるで人道にもとる裏切りのごとく思っておられる人がいらっしゃいます。
えっ?…最良の関係を作って添い遂げるべきは、弾き手とピアノのほうであって、技術者さんはそれを補佐する役目では。

それも驚くのは、これぞという技術を見込んでのことではなく、たまたまピアノを買った時に楽器店から来られていらいの付き合いであるとか、だれそれさんの紹介であるとかで、それを変えるのは失礼に当たる!からからできない、みたいな感覚らしいのです。

じゃあ、あなたはどんなヤブ医者でも「失礼だから」という理由で、他の病院に行くことを拒み、本来の健康を後回しにしてもいいのですか?と聞きたくなります。
自分の身体は自分で守らなくてはいけないように、自分のピアノのコンディションもまったく同様の筈です。

それができない縛りのひとつに、あの忌まわしい「調律カード」があるのでは?
あれがあるばかりに、技術者さんもピアノの蓋を開けるなり、それを真っ先に確認する人も少なくなく、もちろんいつ頃、だれが整備したかということを知る手がかりになることは否定しませんが、ピアノのコンディションを中心に考えた場合、本当に有効な手がかりになっているとは思えません。

プロたるものそんなものを見なくても、目の前にあるピアノの現状を把握し、何をすべきか適確な判断を下し、より良い状態にするのが仕事なのですから、仕事内容としてはほとんど関係ないと思います。

むしろ技術者さんが自分はこれだけ継続してやったんだという記録であり、別の技術車さんにとっては前にどんな人が来ていたのかという好奇心を満たすための記録であり、べつに細かい作業内容が記されているわけでもないのだから、技術的にそれが役に立つことはまずないとしか思えず、マロニエ君はあんなものはまやかしだと思っています。

もし役に立っているとすれば、定期調律に行っている技術者さんにとって、あのカードがあることで自分以外の技術者が入ってくる危険を阻止する効果があり、そこに別の人の名前が入れば、お客さんの「裏切り」を知ることになってしまう。
そんな気まずいことは避けたいから、技術者さんは変えられない、変える以上は現在の方とは完全に縁を切る覚悟でなくてはならないような深刻な問題になり、そうなると優しい日本人は「これまでお世話になったんだから…」というような気になって、よほどのことがない限り、ほぼ半永久的なお付き合いが決まってしまいます。

せいぜいが、ピアノをあまり弾かなくなって、それを理由に調律から遠のくことが唯一の別離のチャンスとなるぐらい。
こんな精神的な縛りがあるなんて、なんだか、バカバカしいと思いませんか?

そんなものをなくすためには、あの「調律カード」を引き抜いて、代わりに自分でノートなどに記録し、もしカードは?と聞かれたら「あれは要りません」とアッサリいえばいいのでは?
まれに同サイズで自分の「調律カード」を作って持っている人もいますが、それもお店のポイントカードを断るように、サラッと「要りません」といえばそれで済む話です。
もう少し勇気があれば「他の方に頼むことがあるかもしれないので、無いほうがいいんです」といえば、きっと技術者さんは内心少し驚いて、これは手を抜いたら自分も切られるかもしれないと、頑張ってくださるかもしれませんよ。

前も書いたと思いますが、あんなものがあるのは国産ピアノだけで、輸入ピアノにはありません。
表向きピアノのための記録ということになっているようですが、秘められた真の理由は、記入により定期調律を怠らせないようにするためと、他の技術車に乗り換えさせないための、どちらにしろ拘束カードだと思います。
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技術者の差

技術者さんの腕の差というのは、純粋な技術の巧拙のことはもちろんですが、それをどう用い、どう活かす人であるかによって結果は大いに違ってくるもの。ピアノは音だけでなくこまごましたことまで一人の方にお願いしなくてはならないこともあり、単純に判断するのは難しいところがあると思います。

高い技術を持っている人でも、自身の判断であれこれ省略してしまう方から、やれるだけのことは精一杯やるという誠実タイプまで、いろいろいらっしゃいます。
また技術はそこそこでも、アイデア精神が旺盛で、しっかり考えて解決に導く方、自分のやり方に固執する割には大した結果の上がらない方、常識的な時間内で目覚ましいばかりに仕上げる方など、本当に十人十色だと思います。

マロニエ君が思うに、もちろん高い技術は必要なことは当然としても、それだけでは充分ともいえず、あとは応用力や問題解決のための方策の引き出しをたくさん持っている方、それらを一言で言うなら、やはり誠実で柔らかい考えの持ち主であることとセンスの問題、これに尽きると思うのです。

例えば、ある人はペダルからの異音に悩まれ、それが何度技術者さんに訴えても原因の特定が難しく、芳しい結果が上がらぬまま、ほぼお手上げというところで終わり、ながらくそのまま我慢しながら使わざるを得なかったとか。
整調調律整音にかけてはとても上手い人で、かなりの自信家でしたが…。
しかし、そのピアノだけを弾くしかない持ち主にしてみれば、弾くたびにベダルの雑音が気に障って仕方がない。

そこで、別の技術車さんを呼ばれることになりました。
というのも、何度やっても解決できない人は、発想や方法に限界があるから、これまでの繰り返しで解決は見込めないと思ったからです。
で、別の技術者さんを紹介しました。

こちらはとにかく真面目一筋な仕事をされ、性格的にも非常におだやかなお人柄。
結果はというと、なんとこの方は初回訪問で見事にそのペダルの異音を直してしまわれたのです。その原因は具体的になるので書きませんが、固定観念にとらわれない静かな原因究明の成果だろうと思います。

音に関しては先の技術者さんにはやや敵わないようですが、ピアノ技術というのは総合的なものでもあるので、こういうケースを見ると技術者さんのチョイスというのも決して簡単ではないことがわかります。

また、あるグランドピアノは子供が触る環境にあるため、時に鍵をかけておく必要もあるのですが、鍵をまわしても、なぜかフックの先があらぬところに微妙に干渉して、どうしてもカギをかけることが出来ません。
これも技術者さんに幾度かお願いしたものの、ピアノのカギ部分はボデイに完璧に面一で埋め込まれているために調整する幅がありません。よって解決は「無理ですね」という宣告を受けて終わりました。

しかしどうしても鍵をする必要に迫られ、別のボディの修復などをやっておられる技術者さんに相談して来ていただくと、前屋根の鍵穴が付いている木の棒をネジを緩めて外し、再び組み付けますが、これをやると完璧には前と同じ位置にはならないのだとか、
しかし前框にあるパーツの方は完全固定で動かしようがないので、どうなるのかと思ったら、今度は前屋根と大屋根をつなぐロングヒンジを凝視し始め、そこでわかったことは経年変化により、その長い棒状の金属部分と屋根の位置が微妙にズレてきていることを発見。

それらを外して、ほんの僅かではあるけれどきれいに調整して組み付けると、これら2つの作業により、鍵は見事に使えるようになりめでたく解決の運びとなったのです。
1980年代のピアノであるために、微妙な経年変化でこういうことはままあるのだそうで、こういうことは適確な原因究明と処置なくして解決はあり得ず、やはりそれぞれの得意分野というか、これは経験や性格などを含む奥の深い問題だとも思いました。

もちろんピアノ技術者さんは、第一には音でありタッチであり、そのピアノの最大限の良さを引き出して弾く人の喜びを満たし、楽器の健康を保つことが最大使命ではありますが、でも、それだけでも困ることも実際はあるというわけです。
ピアノに限りませんが、できない人は経験に乏しく、やわらかい発想力がない、そのためにピントのズレたことでいじりまわして、時間はかかって物は痛み、芳しからざる結果にしか至りません。

マロニエ君としては、技術車さんは、お一人に義理立てしいても何もいいことはないということで、何人かの技術者さんと同時並行的に上手にお付き合いされることをオススメします。
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軽薄の代償

マロニエ君が福岡市在住であることは折りに触れ書いてきました。

国内の住みたい街ランキングみたいなものでは、いつもそこそこ上位に選ばれ、人口増加率に至っては全国1位だそうで、暮らすには良い街だと思いますが、マロニエ君にとっての不満は、小さくてもいいから深いもののあるピアノ専門店が知る限りないこと。
そういう店がないというのは、そういう文化的風土がないということでもあります。

それは、いま始まったことではなく、昔からピアノ店に関しては不毛の地というか、慢性的に恵まれない街でしたし、今後も好転することは…ないでしょうね。
以前は駅前にヤマハの立派なビルがあって、地下にはホールや練習室があり1階ショールームにはヤマハの全機種が揃うなど、それなりの活況を呈していたのですが、数年前に姿を消してしまいました。
さらに市内一番の繁華街にも、マロニエ君が子供の頃からなじみのあったヤマハの中核店舗がありましたが、こちらもビルそのものの建て替えとなり、福岡シンフォニーホールのあるビルの地下に移転してしまい、いらいすっかり足が遠のきました。

カワイは、市内中心部から車で30分ほどのところに郊外型の店舗があり、今もいちおう大半の機種の展示と併設サロンがありますが、わざわざ車を飛ばしてまで行く理由もなく、要するにそういうものだけなのです。
あとは一応スタインウェイの正規代理店というのもあるにはあり、近年は島村楽器のクラシック店というピアノ専門店舗がヤフオクドーム近くのマークイズ内にオープンしていましたが、コロナの影響か、気がついたときには別の楽器の展示場に変わってしまっていました。

ベヒシュタインなどの旧ユーロピアノ系列のピアノを扱う店も以前はあったのですが、気がつけば郊外へ引っ越し、しだいに内容も変質、これ以外にもピアノ専門店というのが点在はしているけれど、いずれも共通しているのは売れ筋である国産量産品に絞った商品構成で、その中古ピアノを主力商品とする店がいくつかある程度。
店主が職人気質で、音や調整にこだわり、マニア心を満たすようなディープな店はおよそ見当たりません。

つまり、ここでマロニエ君がイメージしているピアノ店というのは、技術中心で職人さんがいつも調整や仕上げを黙々とやっているような、できればちょっとした工房も併設されたような、派手ではないけど技術で勝負をかけているようなピアノ店のこと。

以下は妄想。
マロニエ君のイメージするピアノ店というのは、繁華街の真っ只中ではなく、街の中心からわずかに外れた場所に静かに佇んでいて、表に車が数台止められて、まずもって落ち着いた大人の雰囲気。
そして、ピアノ教室の影などがチラチラしないこと。
店主もしくは店の技術者さんは、信念と謙虚さをもってピアノを修理や調整をやっていて、そこにあるピアノは美しく磨き上げられ、キチンと手が入れられており、輸入ピアノとか普段目にしない珍しいメーカーのピアノなどが、技術者の愛情と管理のもとで整備され、新しいオーナーを静かに焦らず待っている。
店内には静謐な空気が流れ、木と膠の混ざったような臭いがたちこめて、技術者もしくは店番のような方が、静かに近づいてくる。
はじめは控えめだが、しだいに緊張がほぐれ、徐々にではあるけれどもその技術者もしくは店のスタンスやこだわりのポイントなどが伝わってくる。

半ば無理解を承知でやっているようなストイシズムがその店の質と良心をいよいよ際立たせている。
…と、こんな店がひとつでもあればいいのですが、どう探してもないものはない。

福岡というのは明るいけれど軽さが好きで、真面目に努力や忍耐を重ねて一つの道を極めるといったことに重きをおく空気が悲しいまでに希薄です。
それが持ち味でもあり、歴史はとてつもなく古いけれど、古すぎてそれを証拠立てる重厚な歴史遺産や観光名所のたぐいもほとんどありません。
唯一の世界遺産は、沖ノ島という余人が近づくことさえできないの遠く離れた島ぐらいで、県民でも自分の目で見たことのある人はほとんどいないでしょう。

楽しく飲み食いして、おしゃべりをして、陽気にほどほどの暮らしをするというDNAがあり、そのせいか芸能関係者などは多数輩出しているけれど、芸術家やひとかどの政治家、学者など真っ当な大物となると、答えに窮するほどいなくなります。
元総理にして財務大臣もあの方ですからね…。
ホールもしかり。それなりものもは数えればいくつもあるし、大相撲や博多座の歌舞伎や演劇などもあるといえばあるけれど、どれも風格に乏しく、落ち着いた文化の香りに身を浸せるようなところは…あるとは言い難いのです。

なので普段暮らすにはいいけれど、いざ本物を求めたい場合は期待できません。
そのかわり、空港は近いというか市内にあって、例えば東京便は下手なバスより便数が多いぐらいだから飛行機に飛び乗るほうが手っ取り早い。
これはピアノ店にかぎらず、真摯で深いものの根付かない福岡という土地柄ゆえの問題とも思うので、その点では他の地区が羨ましいことも少なくなく、遠くへ出掛けた折にはできるだけその地域のピアノ店を覗いてみたくなるという体質ができてしまったように思います。
とはいえ、このコロナ禍ではそれもできなくなって久しいですけれど。
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