軽薄の代償

マロニエ君が福岡市在住であることは折りに触れ書いてきました。

国内の住みたい街ランキングみたいなものでは、いつもそこそこ上位に選ばれ、人口増加率に至っては全国1位だそうで、暮らすには良い街だと思いますが、マロニエ君にとっての不満は、小さくてもいいから深いもののあるピアノ専門店が知る限りないこと。
そういう店がないというのは、そういう文化的風土がないということでもあります。

それは、いま始まったことではなく、昔からピアノ店に関しては不毛の地というか、慢性的に恵まれない街でしたし、今後も好転することは…ないでしょうね。
以前は駅前にヤマハの立派なビルがあって、地下にはホールや練習室があり1階ショールームにはヤマハの全機種が揃うなど、それなりの活況を呈していたのですが、数年前に姿を消してしまいました。
さらに市内一番の繁華街にも、マロニエ君が子供の頃からなじみのあったヤマハの中核店舗がありましたが、こちらもビルそのものの建て替えとなり、福岡シンフォニーホールのあるビルの地下に移転してしまい、いらいすっかり足が遠のきました。

カワイは、市内中心部から車で30分ほどのところに郊外型の店舗があり、今もいちおう大半の機種の展示と併設サロンがありますが、わざわざ車を飛ばしてまで行く理由もなく、要するにそういうものだけなのです。
あとは一応スタインウェイの正規代理店というのもあるにはあり、近年は島村楽器のクラシック店というピアノ専門店舗がヤフオクドーム近くのマークイズ内にオープンしていましたが、コロナの影響か、気がついたときには別の楽器の展示場に変わってしまっていました。

ベヒシュタインなどの旧ユーロピアノ系列のピアノを扱う店も以前はあったのですが、気がつけば郊外へ引っ越し、しだいに内容も変質、これ以外にもピアノ専門店というのが点在はしているけれど、いずれも共通しているのは売れ筋である国産量産品に絞った商品構成で、その中古ピアノを主力商品とする店がいくつかある程度。
店主が職人気質で、音や調整にこだわり、マニア心を満たすようなディープな店はおよそ見当たりません。

つまり、ここでマロニエ君がイメージしているピアノ店というのは、技術中心で職人さんがいつも調整や仕上げを黙々とやっているような、できればちょっとした工房も併設されたような、派手ではないけど技術で勝負をかけているようなピアノ店のこと。

以下は妄想。
マロニエ君のイメージするピアノ店というのは、繁華街の真っ只中ではなく、街の中心からわずかに外れた場所に静かに佇んでいて、表に車が数台止められて、まずもって落ち着いた大人の雰囲気。
そして、ピアノ教室の影などがチラチラしないこと。
店主もしくは店の技術者さんは、信念と謙虚さをもってピアノを修理や調整をやっていて、そこにあるピアノは美しく磨き上げられ、キチンと手が入れられており、輸入ピアノとか普段目にしない珍しいメーカーのピアノなどが、技術者の愛情と管理のもとで整備され、新しいオーナーを静かに焦らず待っている。
店内には静謐な空気が流れ、木と膠の混ざったような臭いがたちこめて、技術者もしくは店番のような方が、静かに近づいてくる。
はじめは控えめだが、しだいに緊張がほぐれ、徐々にではあるけれどもその技術者もしくは店のスタンスやこだわりのポイントなどが伝わってくる。

半ば無理解を承知でやっているようなストイシズムがその店の質と良心をいよいよ際立たせている。
…と、こんな店がひとつでもあればいいのですが、どう探してもないものはない。

福岡というのは明るいけれど軽さが好きで、真面目に努力や忍耐を重ねて一つの道を極めるといったことに重きをおく空気が悲しいまでに希薄です。
それが持ち味でもあり、歴史はとてつもなく古いけれど、古すぎてそれを証拠立てる重厚な歴史遺産や観光名所のたぐいもほとんどありません。
唯一の世界遺産は、沖ノ島という余人が近づくことさえできないの遠く離れた島ぐらいで、県民でも自分の目で見たことのある人はほとんどいないでしょう。

楽しく飲み食いして、おしゃべりをして、陽気にほどほどの暮らしをするというDNAがあり、そのせいか芸能関係者などは多数輩出しているけれど、芸術家やひとかどの政治家、学者など真っ当な大物となると、答えに窮するほどいなくなります。
元総理にして財務大臣もあの方ですからね…。
ホールもしかり。それなりものもは数えればいくつもあるし、大相撲や博多座の歌舞伎や演劇などもあるといえばあるけれど、どれも風格に乏しく、落ち着いた文化の香りに身を浸せるようなところは…あるとは言い難いのです。

なので普段暮らすにはいいけれど、いざ本物を求めたい場合は期待できません。
そのかわり、空港は近いというか市内にあって、例えば東京便は下手なバスより便数が多いぐらいだから飛行機に飛び乗るほうが手っ取り早い。
これはピアノ店にかぎらず、真摯で深いものの根付かない福岡という土地柄ゆえの問題とも思うので、その点では他の地区が羨ましいことも少なくなく、遠くへ出掛けた折にはできるだけその地域のピアノ店を覗いてみたくなるという体質ができてしまったように思います。
とはいえ、このコロナ禍ではそれもできなくなって久しいですけれど。
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ハンマーの重さ

いつだったか、あるピアノ好きの方との話の中で、ハンマーや弦の交換についての話題で盛り上がりました。
とはいえ互いに技術者ではないため、拙い体験談等を述べ合ったにすぎませんが、自分でも話をしながら、苦い体験の記憶が断片的に蘇りました。

実はそれよりももっと前、ある修復専門家の方と話をしていたら、ハンマーの交換で最も注意すべきは、一にも二にも「重量」であると力説されたことがあります。
もちろんハンマーのメーカーや品質、取り付けるピアノの個性に合ったものをチョイスすることも大切だけれど、まずもってハンマーの重さがオリジナルと揃っていないことには始まらないのだそうで、ここが最も基本中の基本とのことでした。

そこさえ外さなければあとはどうにでも…とまでは言われなかったけれど、主意としては、概ねそう取れなくはないニュアンスでした。
逆に、そこを見誤ってオリジナルよりも重いハンマーを付けてしまったら、タッチはたちまち重く沈み、楽器としてのバランスを損なう深刻な事態を招く由。

その方はレストアにかけては屈指のスペシャリストなので、古今東西のあらゆるピアノを数えきれないほど手がけてこられているだけに、非常に重みのある言葉でしたが、同時に、聞きながら背中にじんわりと寒いものが走りました。

これにはマロニエ君も苦い経験があって、大昔ではないけれど、過去にあるピアノの弦とハンマーその他の交換を懇意にしていた技術者さんに依頼したことがありました。
その際、マロニエ君は整音に関する本を読んだことから、一般にあまり知られていない某社のハンマーを付けて欲しいと希望しました。
このハンマーは、強い熱を加えずプレスされる柔らかめのハンマーで、羊毛もいいものを使っているというので、今どきのカチカチのハンマーが叩き出すキツい音が嫌なので、すでに日本での取扱店も調べてあったし、ぜひこれを取り付けたい旨をお願いしました。

ところがその技術者さんは断じてNo!で、「自分が一度も使ったことのない未知のハンマーをいきなりお客さんのピアノにつけることはできません!」と一蹴され、その意志はたいそう固く、とりつく島もないという感じでした。
技術者としての良心と責任意識から、そんな冒険はできないというのが主な言い分でした。

冒険も何も、ピアノの持主が自分の意志でこのハンマーにして欲しいと言っているのだから、もし失敗であってもそれはこちらの責任であるのだから、シンプルにそうしてくれればいいのにと思うのですが、技術者というのは妙なところで面倒くさいもの。

頑として拒絶の考えである以上、無理強いするわけにもいかず、結局こちらも折れてよくあるドイツのハンマーを使うことになりましたが、注文はいうまでもなく技術者さんがされ、それを取り付けられました。
ところが、タッチがやけに重くなり、それは何をどうしても調整では解決せず、やがて重すぎるハンマーに起因した症状というのが浮かび上がってきたのには、さすがに深い落胆を覚えました。
自分の希望を諦め、ドイツ製ハンマーに応じたのは、ある種の安全策のためだったのに…。

技術者さんもハンマーの重さに原因があることは認識されていたようなので、「どうしてこのハンマーにされたんですか?」と聞いたら、「これしかなかったから!」と事も無げに言われた時の驚きといったらありませんでした。
上記の「未知のハンマーをいきなりお客さんのピアノにつけることはできない!」という技術者としての強い責任意識のアピールと、このいささか杜撰なハンマーのチョイスの仕方は、どうしても噛み合わないものでした。

解決のために出来ることといえば、鍵盤に鉛を追加するか、新しいハンマーを軽くなるまで削るか、より軽いハンマーへ再交換するか、というようなところまで追い込まれました。
普通は鉛調整をするのかもしれませんが、そのピアノはシングルスプリングのアクションだったので、それでなくても俊敏性がやや劣るところへ、さらに鉛を追加すればますます鈍くなる懸念があり、かといってせっかくの新品ハンマーを削って小さくしてしまうというのも抵抗があり、まして再び別の新品ハンマーに交換というのは費用的にも気持的にもできないから、悩んだ末に採った手段は、ウイペンをダブルスプリング式に全交換するというものでした。

…。
それでも、結果は期待するレベルには至らず、ついには別の高名な技術者さんに見て頂くまでに発展しましたが、問題は他にもあったらしく(具体的なことは控えますが)そういう部分は素人にはわかりません。
おかげでかなり挽回はできたけれど、それでも根本的なものは尚残り、ついに完全解決には至りませんでした。
まさに「ボタンの掛け違え」の言葉のとおり、はじめの一歩を誤ってしまうと、あとからどんなに小細工を重ねてもダメだという、いい教訓になりました。

そのピアノは別の理由で手放すことになりましたが、思い返せば冒頭の修復専門家の方がおっしゃる言葉そのままの経験をしていたというわけです。

もう過ぎた話で、いい経験と勉強をさせてもらったと思っています。
ハンマー交換は重さに対する注意が最重要であること、これは決して忘れません。

追記;ここ最近、ときどきネットで目にしますが、古いNYスタインウェイでオーバーホール済みのものの中に、マロニエ君がはじめに希望していた某社のハンマーが付けられているものが何台かありました。
商品説明にもそのことが触れられており、とても良質なハンマーであると記されています。それを見るにつけ、もしあのときこれを付けていたら、どんなものになっていただろうかと今でも思ったりします。
もちろん、適正な重さを踏まえての話ですが。
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シンメル椅子

暇つぶしにヤフオクを見ていたら、シンメルの椅子という珍品が目に止まりました。

シンメルはドイツ最大のピアノメーカーとされており、車でいうとフォルクスワーゲンみたいなものでしょうか?

日本ではドイツピアノといえばいくつかの最高級クラスばかりが有名で、それ以下の価格帯は国内大手メーカーが一手に担っているので、シンメルは出会うチャンスは極めて少ないようです。
2〜3度、ちょっと触ったぐらいの経験しかありませんが、ヤマハでいうとSシリーズ、カワイならSKシリーズぐらいのピアノメーカーというイメージで、おぼろげな記憶ではドイツ製品らしい堅実で確かなピアノという感じだったような。

マロニエ君は個人的に、いわゆる高級メーカーのセカンドブランドというのはピアノにかぎらず嫌いだから、その辺を狙うのであればシンメルなどはよほど検討の余地あるメーカーじゃないかと思いますが、どうこう言えるほど詳しくもないので、あくまでイメージですが…。

あ、今回は椅子の話でしたので、そちらに戻ります。
出品されていたのは背もたれのないコンサートベンチ風のデザインで、色は茶系、座面はベロアのファブリック、足には細かい溝などが丁寧に彫り込まれており、中古ですが目立ったキズや痛みなく、使用感もなくはないけれど大切に使われたのか、全体的にいい感じでした。
高さ調整は、よくある丸いつまみではなく、手動の鉛筆削り機の取っ手のようなものを回すタイプで、それがまた繊細な感じでした。

オークションの終了は深夜でしたが、狙ってしまうと朝からそわそわします。
幸いあまり注目されていなかったようで、当方を含めて4件の入札の結果、望外に安く落札することができました。
ただ、送料のみで5000円以上!とずいぶんかかりましたが、物が大きく出品者の方が遠方で、まさに列島縦断という感じだったので、そこはやむを得ないところでした。

開梱してみると、足は取り外された状態だったので、まずは組立作業。
あれ?と思ったのは、どこにもSCHIMMELという表記がなく、この点については確認する手立てがありませんが、細部の造りや木目の塗装も美しく、座面は4/5/4と13個のボタンで止められており、ファブリックの感じもしっかりしたものでした。
というわけで、思いがけず良い買い物ができたと満足しています。

ところが、まったく問題がないわけではなく、マロニエ君は椅子の高さが低い方なのですが、この椅子は最低でも少し高めで、そこに若干の残念さがありました。
しかし、足は上記のように装飾も施されているし、下部にはそれぞれ金具までついているような作りなので、これを切り落とすのも気が引けるから少しガマンするか、どうしても低くしたい場合は木工職人さんにでも相談してみるか…。
ただ、座り心地はファブリックだけにとてもよく、ある意味、革よりも好ましい感触です。

ちなみに、車のシートでも部屋のソファーでも、素材は「本皮」が最高級と思っている人が昨今とても多いようですが、本当のフォーマルというか格式あるものは昔からファブリックであり、例えがいささか大げさですが皇居や国会の椅子、歴代天皇の御料車などはシート素材は伝統的にファブリックしか使われず、決して皮は使われません。

1980年代ぐらいまでのベンツは、内装やシートの素材で最も格上なのは目の詰まったベロア仕様で、レザーはその下の扱いでしたが、時流には逆らえないのかレザー人気には抗しきれず、現在ベロア仕様は姿を消したみたいです。
ファブリックのいいところは、表面の当たりがいかにも優しいことと、革のように滑らないので包み込まれるような安定感があります。

皮のシートのあのヒヤッと冷たい感じと滑る性質は、皮は高級というイメージに掻き消されるのか不思議なほど問題にされませんが。
そういえば象牙鍵盤が珍重されるのは、希少性もさることながら、その風合いや汗を吸って滑らないという実利も兼ねているようですが、かたや滑るレザーを大好きだったりするのは笑ってしまいます。
いずれにしろ、これらは生き物の犠牲の上に成り立つものであることも、当節なら考慮すべきかもしれません。

〜なーんて、自分はヤフオクで中古品をお安く買っておきながら、こんなエラそうな話をするのは甚だ滑稽で、もし他者がそういうことを書いていたら、マロニエ君もまちがいなくそう思うと思います。
それはそうなんですが、ともかく皮というのは、本来の格式としては最上ではないということを書いておきたかったしだいです。

シンメル椅子-1
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不思議な本

大手書店で『私のベヒシュタイン物語』という多数の人たちによるエッセイをまとめた一冊が目に止まり、ちょっと迷ったけれど、新品(未読本?)のようであるにもかかわらず、割引されていることもあり買って読んでみました。

実は、ずいぶん昔でしたが『ベヒシュタイン物語』というのがあって、詳しいことは覚えていませんが、ベヒシュタインの素晴らしさを伝えるにあたり、やたらとスタインウェイが通俗ピアノの代表として引き合いに出され、その対比としてベヒシュタインがいかに素晴らしいかという文体で綴られている印象が強くて、読後感としてはスタインウェイとの違いだけがベヒシュタインの存在価値であるかのような印象しか残りませんでした。

個人的に思うところでは、世界の銘器と呼ばれるものは、それぞれに代えがたい魅力があるのだから、広い視野で客観的に捉えたものでないと本当の魅力は伝えられないはずですが、ピアノにかぎらず、ひとつのもの以外を認めたがらない感性というのはどうもいただけません。
どの世界にも特定のブランドを熱烈に支持される専門家がおられますが、残念ながらあまりに思いの強さばかりが前に出て、どこか宗教チックになってしまい却って引いてしまう場合があります。

有名なライバルを引き合いに出して優位性を説くというやり方はネガティブキャンペーンのようで、どこぞの国の大統領選ならともかく、日本ではあまり馴染まない方法だと思いますが、主張に熱が入りすぎたのか?とそのときは思ってしまった次第。
ちなみに店によっても違いはありますが、総じてベヒシュタイン関連の人達は、いささか説明過多というイメージが昔から強い印象があります。
いい音というのは説明され論破されるものではなく、感じるものだと思いますが。

本の話に戻ります。
『私のベヒシュタイン物語』は個々の人たちの思い入れや体験が一冊にまとめられたもののようで、ユーザーの立場からの話ということでそこに興味を覚えたのでした。

ところがいざページをめくってみると、使われなくなったピアノが見出され、有志によって、どのように復活に至ったかという経緯など、ベヒシュタインというピアノじたいの個性や魅力についてではないような話がいくつも続きました。
大半は大戦前に作られたベヒシュタインが、それぞれの運命と偶然によって、現在日本のどこそこのホールにある、自分は運命的にそれに関わった、素晴らしい人とのご縁も出来た、有名音楽家が来て弾いて褒めた、そのピアノを中心に毎年イベントをやっている、満席になった、子どもたちがどうしたこうした〜といったような話の羅列だったことは、縁もゆかりもない関係者だけに生じた感動談をながながと聞かされているようで、あれえ?という感じでした。

また、古いピアノ故にメンテや修理の必要がある個体が多いようで、そこで輸入元の有名技術者さんや社長さんなどの協力を得たことが、たいへんな感動に値することのように書かれていますが、こういっては申し訳ないけれど、会社は利潤追求、技術によって対価を得ることも普通にビジネスであるし、ことさら特筆大書するようなことではないと思うのですが、それをベヒシュタインが引き会わせてくれた格別のご縁とばかりに書かれていたり、あるいは某大学にベヒシュタインがあるとしながら、大半はピアノとはあまりかかわりのない大学のイベントの意義と解説のようなものであったりと、どこが『私のベヒシュタイン物語』なのかよくわからなかったりで、だんだん気持ちがついて行けなくなりました。

善意の皆様には甚だ申し訳ないような気もしますが、これは無料で配布される冊子ではないのだから、そういうものを延々と読まされる身にもなって欲しいと思いました。

ともかく、そういう話が一冊のうちの半分以上にもわたってページを占め、そのあとにようやく個人でベヒシュタインや系列ブランドのホフマンを購入した人たちによるリアルな内容となり、こちらのほうが直接弾く人の体験に基づいており、よほど興味ぶかく読むことができましたが、それらはほんの僅かでした。

また、直接の内容とは関係ないかもしれませんが、なぜかこの本には、日本語の間違いや誤植の類があまりにも多く、ハードカバーで装丁され、カバーや帯もついて1,980円也で一般に販売される書籍である以上は、もう少し校正校閲にもしっかりと留意されないと、書物としてのクオリティはもちろん、ベヒシュタインのイメージにも障るのでは?と感じました。

とはいえ、タイトルだけに釣られて、あまり内容を吟味することもせず買ってしまったという点で、要するに見極め不足の自己責任でもあるとも言えそうです。
それはそうと、ベヒシュタインといえば判で押したように出てくるドビュッシーの「あの」言葉は、こうも多用されると却って無粋で、もういいかげんに勘弁してほしいものです。
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またもテレビで…

もうお腹いっぱいになっていた筈なのに、ショパン・コンクールの番組がまたもNHKで制作・放送され、やっぱり無視できない情けなさで不本意ながらも見てしまうことに…。
ただし、気がついたのが放送開始後、約30分経ったころで、新聞で見つけてすぐ録画したので、2時間番組のうち1時間半しか見られませんでした。

今回は日本人出場者にフォーカスするのではなく、コンクール全体を捉えた番組構成で、その点ではこれまでとは違った面白さがありました。
スタジオには男女のNHK司会者と、審査員をつとめたピアニスト、小説家の平野啓一郎さん、そして現地でコンクールを聴いたという若手ジャーナリスト、計5人によるお話と進行、さらにその折々に演奏の様子を紹介していくというものでした。

ちなみに、平野さんといえばショパンとサンドとドラクロワらを中心とした、ショパンの晩年から死までの数年間を描いた小説『葬送』の作者で、むろんマロニエ君も読みましたが、当時のパリの空気や芸術家のありさまが活き活きと描き出されており、4冊にもおよぶ長編力作ですが、非常に充実した作品であることは、ご存じの方も多かろうと思います。
とりわけショパンやドラクロワの芸術家としての活動の様子、さらにはそれらを取り巻く人物を、体温を感じるぐらいリアルに目の前に蘇らせた手腕や、史実の綿密かつ膨大な調査力、さらには死に至るまでのショパンの筆舌に尽くしがたい病との戦いなどが克明に描かれ、知らないことも数多く、この小説から得るものは非常に大きい稀有な作品でもありました。

番組の話に戻ると、コンクールも終わって一定の時間が経過したいま、コンクール全体を総括するようなものでしたが、なんだか結果に評価が後から追加されたような印象もあり、しかもテレビ特有の表面的なもので、聞くに値する自分の見解をゆるぎなく仰るのは平野さんただひとりで、職業柄もあるのでしょうがさすがだと思いました。
あとは正直どうでもいいようなものばかりで、やたらと褒め称えてさえいれば間違いないという感じで、いかにも現代のテレビらしい無難なきれいごとだけの世界でした。

あれこれ出てきた演奏については、個人的には10月に毎夜聴いていたときの評価が覆ることはなく、不思議なまでに同じ印象で、当時感じたことを再確認するにとどまりました。

ここではあえて固有名詞は出しませんが、当時からいいなと思っていた人は、やはり今回見てもそう感じたし、変だな…とか、どこがいいの?過大評価じゃない?と思うものは、やはりどんなにスタジオで賞賛されても(中には「会場でも話題になるほどの名演だった」などといわれても)、個人的にはまったく同意できないし、さほどピアノに深く入り込んでいない多くの視聴者はこんな言葉のやり取りを鵜呑みにしてしまうのかと思うと…なんだか危うい感じを覚えました。

時代とともに「ショパンの演奏も変わる」ということは当然だと思いますが、それが精密技術による楽譜の再構築のようになって、演奏者の自由な感性が羽ばたく余地が著しく狭められているとしたら、それこそコンクールという競技化/スポーツ化の弊害ではないかと感じます。
芸術の世界まで民主化・平均化の波が押し寄せているようですが、逆に世界の統治情勢はエゴと覇権主義が横行し、その民主主義さえかなりヒビが入っているという現実は皮肉です。

芸術が内包する真髄を追い求めることより、加点の得られる対策された解像度の高い演奏が主流となってしまうのはいかがなものか。
有無を言わさぬ音楽の喜びとか、人の内奥に触れてくるような、あるいは魂を揺さぶられ、心の痛みさえも美しく転嫁されるような演奏はかげをひそめ、審査員という独特な権力集団に頭をなでられるようなものをどれだけ提示できるかが問題。
ショパンには特有の言語があり、それをどれだけ雄弁に語れるかが問題だと思っていましたが、その点もかなり変質している気がします。

言語という言葉が出たついでに感じたことを言っておくと、件の平野さんはやはり小説家という言語と思索のプロだけあって、自分の感性、切り口、話の説得力はもちろんですが、思考のベースが圧倒的に広いから、彼の言葉には、ちょっとしたことにも真実と明快さと深さを感じるし、この点は他の人を圧倒していました。

一般に音楽だけをやってきた人は専門分野においては立派だけれども、その話はどれもがどこかで聞いたような言葉の使い回しであるし、独特の匂いや調子があるだけで、視野の狭さを感じないわけにはいきません。とりわけ社会学的な要素が欠落しており、ただピアノ道の家元のコメントのようで魅力を感じません。
こうして同じ場所・同じテーマでの話を聞いてみると、小説家というのは思索や感じたことを言葉とするのに無駄がなく、しかも思考の原野が断然広い。よって他者とはまるで脳の使い方が違うなぁというのが、明確な差となって現れていました。

あの差を見ると、マロニエ君がもしどちらかになれるとしたら、意外かもしれませんが小説家のほうがいいなあと思ってしまいました。
そもそも音楽はマロニエ君にとっては趣味としては最高ですが、プロの音楽家になりたいとはどうしても思わないのです。
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おぞましさ!

ネット動画をあてどもなく見ていると、運悪く、個人的に不愉快に感じる投稿に行き当たりました。
そして見なきゃいいのに、見てしまったのです。

それは不要になったピアノを、処分費用を安く済ませるために、なんと自分で解体し廃棄するというもの。

ピアノが不要となって処分するというのは珍しいことではありませんが、業者に問い合わせをしたところ値は付かず、逆に引取料として数万円…という金額を提示され、そんな出費になるなら「自分で解体して火葬場送りにする」という宣言のもと、その作業経過を動画にしてアップしているというものでした。

興味のない人にしてみたら、ピアノはジャマな粗大ゴミなのかもしれません。
とはいえ、個人レベルでそれを破壊しつくして処分行為に及ぶこと、さらにはそれをオモシロ動画としてアップするという文化の心のかけらもない感性には、嫌悪感と残酷性のみを覚えました。

その対象となったピアノは、見るからにどうしようもないようなオンボロなどではなく、むしろじゅうぶんにキレイな感じの、つやつやした木目のアップライト(しかもメーカーは今はなき日本の優良メーカー!)で、その家では不要品かもしれませんが、楽器として廃棄するようなものではなく、まだまだ使えそうに見えるいい感じのものでした。
マロニエ君の身近だったら、解体処分なんてあまりに可哀想で、後先考えずにもらってくるかもしれません。

撮影者の男性と、作業を手伝う知人らしき男性が、なんの躊躇もないまま、平然と会話をしながら作業はスタート。
ピアノの知識もないようで、手順も何もないまま手当たりしだいにネジというネジを外し「あ、これ真鍮なんだ!」「真鍮ってメルカリで売ればカネになるか?」みたいな会話とともに、作業は情容赦なく進み、アクションも外さずに鍵盤をボコボコ引き抜いたり、フタでも何でも外れたら無意味な歓声を上げるなど、それはもう目を背けたくなるようなもので、動悸を覚えました。
真鍮ネジでメルカリという発想があるのなら、ピアノ殺害という道ではなく、どうして「タダで差し上げます」ぐらいのことはできなかったのかと思います。

解体のほうは、室内でできる事が終わると、外のベランダのようなところに運び出され、よりハードな段階に突入。
弦はすべてバチバチに切断され、電動ノコで鍵盤蓋から何から羊羹でも切るように何もかもがザクザクに切り刻まれてしまい、ピアノに対して何の感情もない、興味のかけらもない人だからこそ出来ることでしょうけど、それってすさまじいもんだと思いました。
ふと、バラバラ殺人ってこんなものだろうか…と思ってしまうようなもの。

ピアノってダンパーが外されると、ちょっとした衝撃にも響板がゴーンとかガーンとか不気味な響きを発するのが、まるで断末魔の叫び声のようです。

もちろん、いかにマロニエ君だって、すべてのピアノが人から愛されるものだなんて、そんなお花畑みたいなことは思ってはいませんが、とはいえ物には物の、誰が決めたわけでもない値打ちとか、さすがにやってはいけないことといった、暗黙のルールというか節度みたいなものは「ある」と思うのですが…。

もちろん、業者さんは最終処分にあたってはやっていることかもしれませんが、それは人の目に触れない場所での職務としての作業であり、自分の家のピアノをおもしろがって、ゲタゲタ笑いながらやることではなかろうと思います。
まして、その様子が動画に撮られてネットに公開されるとは、このピアノもよくよく所有者に恵まれなかったというほかありません。
おそらく、いつの時期かまでは、その家のだれかが弾いていたピアノでしょうに、ただ使わなくなりその処分代の倹約というだけの理由で、こんな野蛮な行為がスイスイ出来るというあたりが、余計にむごたらしい気がしました。

医者でも自分の家族の手術はできないとか、やはり人間にはそういった感情ってあるものだと思っていました。
ペットの殺処分に嫌悪感を抱きながら、牛肉や豚肉をとくに残酷という意識もなしに食べていたりするわけで、そういう意味では人間は矛盾だらけとは思います。
でも、それらが処分されるときの現場は、普通の人の目には触れられないようになっているのはせめてもの配慮でしょう。

ピアノは冷徹に見れば所詮はモノであって、それを所有者の意志でどうしようが、法に触れないかぎりは自由なんだといえばそうなんでしょうけど、どうしようもなくおぞましい気がしてなりませんでした。

動画の最後に、処分にかかった費用は2000円強というような数字がドーンと出ましたが、こんな残虐行為を敢行しておいて、これだけ安く済んだよ!ということが、そんなにもジマンすることなのか…。
もちろん、人でも物でも最後というのはあるわけですが、そこに「終わり方」というのはあると思います。

関連動画でピアノを解体するというものは他にも出てきましたが、それは役目を終えた古いピアノが、静かに分解されて寿命を全うしたという納得感があり、まだしも「尊厳死」という感じのするものでしたが、それに引き換え、この解体は不幸にも愉快犯に殺害されたという感じでした。
それも、あろうことか近親者の手にかかって!!!

断じてああいう行為は容認できるものではありません。

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ときどきメールを頂きますが、思わず膝を打つようなものがありました。
ひとりで読むのはもったいないので、掲載許可を求めたところ快諾していただいたので、以下ご紹介します。


へんな動画おおいですもんね。
世の中なんだか、みょうな合理主義精神がはびこってへきえきしてます。
「断捨離」なんてことばがもてはやされたり・・・
もちろん、いらないものに囲まれていたらいろいろ困った問題が起こる。それは否定しませんし、持ち物は多すぎないほうが精神衛生上も好ましい、とも思います。
でも、いっぽうで、長年ともに時をすごした品物を「捨てる」という行為に なんの躊躇も抵抗も感じない、ましてや破壊してそれを成果と見なすとしたら、それは精神の退廃であると思います。「無用の用」ということだってあるし、そうじゃなくても、物を捨てる、という行為は、そのものにまつわるいろんな思いを捨て去る、ということでもあるわけですから。そこになにも感じない、ただ、「せいせいした」としか感じないひとはわたしはおそろしいと思います。
そのようなひとたちは、人間に対しても「こいつはじぶんの役に立つか?こいつとつきあってるとなにか得することがあるか?」と、そういった観点でしか向き合わないに違いありません。
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今年も終わり

早いもので今年ももうあと少しで終わろうとしています。

この2年、コロナに翻弄されるばかりで、しかもまだ終わったわけでもない。
政府などは「熱物に懲りて…」なのか、ここへきてやたら慎重な姿勢を崩しませんが、どうもウイルス自体は弱毒化しているという意見もあって、マロニエ君はそちらに希望を繋ぎたいと思っているところです。

今年の秋にはショパンコンクールが1年遅れで開催され、ご丁寧にネット中継などあるものだから、今回ほどこれに夜ごと時間を取られたことはなかったし、見れば見るほどコンクールってなんだろう?その功罪とは?…というような後味ばかりが残りました。
そして、他国のことは知らないけれど、日本国内ではメディアなど普段はピアノなど目もくれないくせに、上位入賞という結果だけには食い付いて騒ぎ立てるというあの様相にも辟易しましたね。

もうお腹いっぱいと思っていたら、25日の夜にNHKがまたもトドメの番組をやっていて、だったら止せばいいのに、つい録画して見てしまいましたが、いまやピアニストもアスリートと同様、純然たる競技人というのがマロニエ君の結論です。
古代ローマの剣闘士の時代から、人間はこういうものが本質的に好きなんでしょうね。
その番組の感想は…もうさすがにやめておきます。


今年は、偶然も重なり、知人のピアノ好きの方や技術者さんとの間で沸き起こった相乗作用もあって、ネットでひょっこり出てきたお値打ちピアノを身近で3台もゲットするという、今後もおそらくないであろう急展開がありました。
東京蒲田時代のシュベスターグランド、1955年から広島でわずか9年間製造された超レアのワグナーグランド、さらにはイースタインのトップモデルたるB型の初期モデルです。

外観こそキズもあれば、長い年月を経てきた風格満点ですが、どれも誇張なしに本当の楽器の音がして、ボディ全体が鳴り震えるような力強さが健在だったり、あるいは弾く人の息遣いまで寄り添ってくれるような反応だったり、現在国内で販売されるいかなるモデルも、このように人と楽器が一体化するような喜びを提供できるピアノは、果たしてどれほどあるだろうか…と思います。
現代のピアノは機械精度としてはかつてない領域に達しているのかもしれませんが、悲しいかなハイテクや合理化の影があまりに強く、ただきれいで正確な音階が出るだけなら、電子ピアノと大差ない気もするのです。

マロニエ君が思うに楽器に大切なことは、よく鳴る、音が美しい、など基本は当たり前ですが、なによりそこに存在することが嬉しくて、つい触れてたくなる、音を出したくなる、そんな気にさせてくれるものであることじゃないかと思います。
温かい体温みたいなものが欲しいのに、現代のピアノはその点がどうも逆というか、まるで冷え性の人のような気がします。

佳き時代の欲しいピアノはまだありますが、ピアノ趣味の最大の障壁になっているのは、ひとえにあのサイズにほかなりません。
そのお陰でなんとか踏みとどまざるをえないのは事実で、もしピアノがヴァイオリンやフルートぐらいの大きさだったら、大変なことになっていたように思います。

そのサイズは設置場所のみならず、運送費問題も引き起こし、もしどこかでお宝発見しても、移動だけで相当な出費となることは避けられません。
もしこれに置き場問題がなく、自分の交通費だけでひょいと手に持って帰ってこられるようなものだったらと思うと我ながら恐ろしく、ピアノのあのサイズと重量が圧倒的なブレーキの役割になっているのは間違いなく、結局はそこに救われているのかもと思います。

骨董などの蒐集好きの方が、自宅はガラクタであふれかえり、時にそのための倉庫まで建てるなんて話がありますが、ピアノの場合は10cm動かすのも自由にならないサイズと重量ですから、そこに救われているのかもしれません。

それでは良いお年をお迎えください。
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本物とは

楽器としてのピアノをマニアックな側面から捉えて楽しむという方は、そう多くはないと思います。
ピアノを購入する人の大半は、お稽古の道具として「間違いのない、失敗のない、ちゃんとしたもの」を買いたいということから、有名メーカーの新品、もしくはそちら寄りの中古ピアノを買われるというパターンが大半だと思われます。

そもそも、「間違いのない、失敗のない、ちゃんとしたもの」というのが何を差すのかわからないし、どういう基準でそう認識されているのかもわかりません。逆に、その思い込みこそ「間違いで、失敗を多く含み、ちゃんとしたピアノじゃない」とも思うのですが、まあそれは各人の自由な価値観だから、あまり踏み込むべきことではないのでしょうけれど。

ここからが本題ですが、よろず趣味としての醍醐味はどこにあるかというと、ジャンルを超えてほぼ確定していることは、その王道は「中古にある」ということはマニアの世界ではほぼ確定している観があります。
中古というのは価格が安いだけでなく、時の検証が済んだ、それぞれの黄金時代の作品を手にできるということでもあると思います。

日本は各人の価値観を確立することがないままに、安易な「横並び精神」と「新品文化」の社会なので、車でも、建造物でも、価値のあるものまでバンバン処分しては新しいものに更新するのが「良い事」であり、それができることが「贅沢」と信じて疑わぬ価値観とメンタリティを持っていますが、これは文化的に非常に貧しいものを感じます。

ピアノを購入するにあたっても、中古というだけで毛嫌いするのは、それは使いふるしの、人の手垢のついたオンボロで、新品が買えない人がガマンして買うものというイメージがあるようです。
むろん、ものによってそういう一面があることもわからないではないですが、いささか極端すぎでは?
往々にしてそういう考えの持ち主は文化意識の少ない、本物を知らない人だったりするともマロニエ君は(勝手に)思っています。

ジーンズだって、たったいま縫製工場で出来上がったばかりのものは、オシャレを本当にわかった人はあまり好まないでしょうし、それが好ましく体に馴染むまでは、かなり長い間履き続けてしなやかさや味わいが加わっていくことが必要です。
それが面倒だから、ヴィンテージ品は希少性も後押ししてべらぼうな価格になったり、新品でもあるていどのダメージをくわえたものなども多数見かけるようになりました。

さしもの日本人もジーンスでは理解できても、ピアノになると一転して古いものに対しては無知で無理解です。
その道の権威あるお墨付きを与えられた骨董ぐらいになれば別なんでしょうけど。

マロニエ君がなぜ中古ピアノに楽器としての醍醐味があると思っているかというと、そもそもピアノというのは構造的に完成の域に達して一世紀以上経過しており、機能的なハンディはほとんどないこと、音に直結する材料は昔のものが格段に良いこと、さらには、昔のピアノと今のそれでは生まれた時代のバックボーンが違っており、作り手の志が楽器の中に息づいており、ここは見過ごすことはできません。

また、佳き時代のピアノには上手く熟成されたものもあるし、それまで弾かれてきた歴史もあり、自分がそれを引き継ぐという意味合いや風情もあります。
しかるに、これを単なる中古品とか安物と見るのであれば、クラシック音楽なんてそもそも作品だって古ものもいいところだし、アコースティックピアノなんて今どき時代離れしたローテクの塊でもあるわけで、しかも新しいピアノは合理化のために楽器として好ましくない材料が容赦なく用いられ、ベニヤの響板でも音は出るようなので、外観がピカピカして高級品然としていれば幻惑はされても、楽器の真の響きと呼べるものはやせ細っています。
そこに目を向けることもなく、少しでも新しい物を求めるのはメーカーの販売戦略に見事に乗っているようにしか思えません。

ちなみに、先日もあるところでY社のかなり古い(4〜50年ほど前の製造)グランドにほんの少し触れることができましたが、消耗品は交換されているようでしたが、これが思ってもみないようないいピアノで驚きでした。
Y社独特の、パンチとボリュームの反応ばかりで耳が疲れてしまうような「あの音」ではなく、繊細さがあり、音も可憐で美しく、無遠慮にこちらに鋭い音を差し込んでくることもなく、これにはびっくりしました。
もし目隠しをされていたらY社のグランドと言い当てる事はできなかったかもしれません。

むろん古いというだけで中には価値を疑うようなものがあることも否定はしませんし、古ければなんでもOKなわけでないことは言うまでもありません。
しかし、その中に稀に極上の「お宝」が埋もれていることもこれまた事実で、これを探しだすのはまさにマニアの真骨頂であり、実際に弾いても、その魅力は現在の新品が到底かなわないものがありますが、にもかかわらず粗大ゴミ同然の無理解に凝り固まった方がおられるのは、こちらからすれば逆にお気の毒に思えます。

古いピアノを買うこととは(自分がそうじゃないからわかりませんが)、そんなにも抵抗感があって忌み嫌うものでしょうかね。
それをいったらストラディヴァリなんて300年も前の中古ですが、あれはいいらしいのは…たぶん途方もなくお高くて超絶ブランドだからでしょう。
マロニエ君なら、ろくな材料も使わずに作られたピアノ(のようなもの)を大枚叩いて買うほうが、製造過程もわからない得体のしれないものを食べさせられているようで、価格的にも内容的にもよほど勇気が要りますが。
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スターのつもり

いまどきの日本のピアニストのヘンな型破り路線というか、突飛な振る舞いについてはいろいろと思うところはありますが、時代も変わり、生き残りも厳しく、従来通りの演奏活動だけではダメだという現実があることもわからないではないし、保守的な音楽ファンには受け容れがたいようなことでも厭わずやっていかなくてはいけないということもあると諦めはつけています。

そのために、どんな手段を使ってでも売名に励むのも、もうそれはそれでかなり慣れました。
ひと時代前なら絶対あり得なかったような陳腐なことでも、今はそんな掟もなにも崩れ去り、なんでもアリなのでしょうし、次々に新企画を打っては、忙しく飛び回るチャンスをゲットした人が勝ちだということでしょう。

なので、少々のことではもう驚かないと腹を括っていたはずなのに、やはり目にすればストレスが胸の奥から湧き上がってくるような、嫌悪をもよおすようなものが次々に出現してくるのも事実で、どんなに頭を切り替えを試みようとも、現実のほうが常にそれをはるか飛び越えていくような勢いです。

あるイケメンピアニストと呼ばれる方がおられ(どう見てもイケメンとは思えませんが、そういうことになっているらしい!)、その演奏は何ら魅力のないもので、ピアニストとしてはせいぜい3流というところ。
こういう人は、演奏のみで身を立てていくのはまずもって難しいだろうと思いますが、だからこそよけいに、とんでもないことを思いつくものかもしれません。

この方が、芸能人に混じってバラエティー番組などいろいろとメディアに顔を出しているのはうすうす知っていましたが、やっていることは従来のピアニストとはかけ離れた暴走やうわべの笑い取りで、自身を異色で型破りなピアニストとして位置づけ、気取らない愉快なイメージで目立とうという魂胆がばればれ。
あるときなど、自身のリサイタルのバックステージにカメラを入れ、もう出番が近いというのに、直前まで熱中しているのは楽譜のチェックなどではなく、スマホのゲームというなんとも安っぽい演出。
やがて開演時間が来たと告げられると、仕方なくそれを中断して颯爽とステージに向かい、さてもバリバリと難曲を弾いて戻ってきてはケロリとしているという余裕のパフォーマンスで、これはもう笑いではなく、チケットを買って会場に足を運んでくださるお客さんに失礼としか思えませんでした。

さらに最近の番組では、東京の某有名ホールでのリサイタルの様子が放映されましたが、この方のコンサートの半分はお得意のトークなんだそうで、ステージに登場し、ピアノに近づいていく段階からそれははじまっていて、いきなりマイク片手にお客さんを小バカにしたような言葉を投げかけたり、おかしくもないギャグを次々にとばしたりと、ピアノ漫談かなにかを目指しているのかしらないけれど、その光景は一種異様なものでした。

この方は「イケメンピアニストで、トークが上手く笑いがあふれ、お客さんが楽しめる」ということになっているらしいけれど、マロニエ君に言わせると、芸人としてはまったくのシロウトなので、ただのえげつない言葉や態度の連発なだけで、ギャグとしてもすべりっぱなし。
それでもご当人は笑いを取ろうと必死に飛ばしまくっていますが、あまりウケているようでもなく、まったく笑いになっていない。

誰かの言葉ですが、「人から笑われるのは簡単でも、人を笑わすのは簡単なことではない」とは、まったくそのとおりで、笑いをナメちゃいけないし、プロの芸人さんたちはそのために日々どれほどの精進を重ねているかご存知ですか?と問いたくなります。
笑いを喚起するのは、ユーモアのセンスであり、着眼点の妙であり、人の心の綾とか隙間にスルリとうまく滑り込んで、スキッとしたオチがなくてはならず、強引に捩じこむようにして取る笑いほど見苦しいものはなく、却って辛い気分にさせられてしまいます。

むかしアメリカにVictor Borgeという人がいましたが、ピアニスト級の腕前のあるコメディアンで、今でもYouTubeなどでも多数、彼の見事なパフォーマンスを見ることができますが、ピアノはちゃんと弾けるけれど本物の笑いに徹しており、正に洗練されたプロの芸。
ピアノ一本で行かないなら、それなりのキッチリした修行を積んで、出直してほしいものです。

ちなみに、あれでよくお客さんも来るものだと思うし、一流ホールがよくぞこんな催しのために会場を使わせるものだという点にも驚きました。
テクノロジーの進歩には目をみはるものがあるようですが、文化の面ではことごとく本物が失われていくのは、なんともったいない無残なことかと思わずにはいられません。


ついでといってはなんですが、すこしだけ。
ショパンコンクール優勝のブルール・リウが11月に初来日して、N響とショパンの1番を演奏している様子が放送されましたが、個人的にあの時下した評価は覆るどころか、より一層深まるばかりでした。
コンクールでないぶん、より自由に弾いていたといえるのかもしれないけれど、マロニエ君の耳には、それは自由というより精気のない弛緩でしかなく、およそ魂が感じられないものでした。
いうまでもありませんが、これはべつに力強くバリバリ弾けということではなく、極上の音色と研ぎ澄まされた表現を駆使して、その人なりの最良の演奏を披露するという意味ですけれども、マロニエ君にはこの方の優勝というのが、ますますわからなくなりました。

本当は昔の巨匠のCDでも聴いてみようと思っていたのに、またこんなネタに時間を費やしてしまいました。
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「ヴィンテージ」

今年、縁あって我が家にやってきた極めて希少な広島製ワグナーピアノ。
これを、製造から60年経過していることもあり、勝手に「ヴィンテージピアノ」だと思っていましたが、よくよく考えてみると「ヴィンテージ」という言葉はそう容易く使ってはいけないルールがあることを思い出しました(ジャンルにもよるのでしょうが)。

現代人は古くて価値あるものには、安易にこの言葉を使いがちですが、車でも、ワインでも、ジーンズでも、そこは厳格な区分があって、勝手にヴィンテージを名乗ることは許されない場合があるようです。

ヴァイオリンでもアマティやストラド、グァルネリなどを総称して「オールドイタリアン」などと言いますが、それも正確にはいついつまでに作られたものというような括りがおそらくはあるはずで、ただ古いからといって勝手な解釈で呼称してはいけないのがこの世界の決まり事。

ピアノの場合、そういう明確な規定があるのかどうか、考えてみるとマロニエ君はまったく知りません。
古いスタインウェイだけを扱う某ピアノ店が、左サイドに大きく「ART VINTAGE STEINWAY」などと書いて佳き時代の逸品であることをアピールされていますが、その明確な線引というのはどこなのか?

車の世界でいうと、物の本によれば英語の大権威であるオクスフォード英語辞典にはヴィンテージカーの定義として「1919年から1930年の間に作られた自動車のこと」で、もうひとつの大権威であるケンブリッジ英語辞典にも同様のことが記されているんだそうです。
つまりこれ以外を「ヴィンテージカー」と呼ぶことは許されないという意味でもあるらしいのです。
さらに、1901年から1918年までに作られた自動車はエドワーディアン、逆に1931年から1939年に作られた自動車はポスト・ヴィンテージと呼ばれる由。

ところが、近ごろは昭和の頃のケンメリとかレビンとかサバンナが人気急上昇中だそうで、自動車雑誌の中でこれらに「ヴィンテージ」と安易に呼んで紹介していることに、ある自動車デザイナー氏が憤慨していました。

海外では、古いものの価値をしっかりと認識し、手をかけながら大切に保存していくという思想やジャンルがしっかりと根を張っており、それはとりもなおさず人間の作り出した歴史へのリスペクトでしょう。
後世の人間はこれを受け継ぐ義務があり、これがひとつの文化であり文化意識として確立されているように思います。
いっぽう長く深遠な歴史を有するにもかかわらず、それを惜しげもなくバンバン打ち捨ててしまうのが日本人でしょう。

戦後のアメリカ式消費文化の影響なのかどうかは、そのあたりはわかりませんが…。

古いものは大半はガラクタ同然(実際それも少なくはないけれど)でその価値の正しい見極めをせず、目先の金銭的価値や経済効率、さらには新しい物への信仰や崇拝から、すぐに廃棄したり買い換えたりを平気で繰り返し、なんであれ新しいほうをエラいとする日本人を恥ずかしく思いますが、恥ずかしいだけではなく、価値あるものを認める感性や眼力がなく、さらに市場がそれを後押しするように、金額のつかないものはガラクタであるという短絡思考です。
「なんでも鑑定団」のような番組が流行るのも、ひとつには自分の判断力のなさから、すべては専門家の金銭的判定に委ねるという体質が、あのようなバラエティ番組を支えているのだと思います。

それはさておき、ピアノにもし時代区分がもしあるのなら、ぜひその明瞭な区分を知りたいところです。
もちろん、そういうことがピアノにあるのかどうかもわかりませんけれど。

とくにマロニエ君が知りたいのは、フォルテピアノとか並行弦の頃のことではなく、金属フレームで交差弦を持った19世紀後半からの、近代ピアノになってからの区分です。
なんとなく、勝手なイメージで自分の中で区切りになっているのは、交差弦になってから第一次世界大戦のころまで、次いで第二次世界大戦まで、戦後は1970年代ごろまでで、さらに20世紀末まで、それ以降〜という感じですが、これはあくまでもいろいろなピアノに触ってきたささやかな経験による、個人的な印象でしかありません。

冒頭の話に戻ると、モノによってそういう厳格な決まりがあるものとそうでないものがあるようなので、少なくともクルマの場合はいささか厳格過ぎるようにも感じますが、ピアノの場合はざっくり言って半世紀以上経ったらヴィンテージかクラシックか…ともかく一つの区分はされていいような気はします。

そもそも、日本市場で古いピアノが売れないというのは、ピアノをクルマや電気製品と同様に消費財と捉えて、音や品質を真摯に検討することなく、有名メーカーの新品が最良最善とされるからで、これはメーカーの戦略でもあるとは思いますが、だとすれば世の中はそれにまんまと乗せられているということでもある。
さらには購入者の相談相手となる先生や調律師さんなどは、非常に狭い価値観でしかものを見ることができず、ピアノは消耗品で、新しいもののほうがすべてにおいて間違いない、というステレオタイプのアドバイスしかしないことも責任重大だと思います。

よって購入者の無知や文化意識の欠如は一向に是正されることなく、ピアノの価値判断については間違いだらけのものが横行、ついでにもうひとついうなら、日本のピアノの隆盛は品質より大量生産による安価な大衆路線で、安定した製品であることをもって成し遂げられたものだから、職人の魂が作り出した楽器は影に隠れてなかなか日の目を見ない。
大手の最新工場のラインから流れ作業で生まれてくる優秀な工業製品という側面が強いため、ますます個々の楽器の価値を見極めて大切にするという思想が育まれなかったともいえるでしょうね。

そうはいっても、数少ない職人の魂を注ぎ込まれたような価値あるピアノまでもが廃棄処分の塵に消えたという話には胸が痛みます。
ヴィンテージといえるかどうかは別にしても、古き良きピアノが、正しい評価を受けられるよう願うこのごろです。
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技術エリート

コンクール至上主義の時代に生まれ育った世代は、どんな曲でもクリアに弾きこなす能力があるようで、それ自体は結構なことだと思うけれど、音楽の命ともいうべき「情」が通っていない印象が、どれだけ聴いてみてもやはり払拭できません。

音楽に対する自分の心情や感性を表そうとせず、誰からも嫌われない標準語のような方向で平均化されたものになるのは、この時代やむを得ないと言ってしまえばそれまでですが、そもそも生の音楽でそんな平均化をすることが正義とは思えず、今はそういう環境なのだからしばらくはどうにもならないでしょう。

環境といえば、全体の技術レベルが押し上げられた要因も、環境によるものの効果が大きいと思われます。
まわりがどんどん弾けるようになり、しかも若年化してくると、それは有無をいわさず出来て当たり前の基準になるからで、これは昔の人が書いた字を見ても、ルネッサンスの絵画を見ても、ある程度の環境が醸成されると嫌でも向上するのは世の常でしょう。
低下も同様で、現代人の書く文字の下手さかげんは驚愕すべきものがあり、テレビなどでフリップに字を書くというシーンがありますが、いい世代の人達でも(それが大臣クラスの政治家であれ、なにかの識者であれ)恐ろしいばかりの悪筆で、昔は字が上手い人はそれだけで尊敬され、下手なのは恥だったけれど、今はまったく問題にされないようで、これも環境のなせるわざだと思います。

話を戻します。
技術も音楽作りも、いまは情報がすべてを凌ぐ時代だから、当然の帰結として演奏家が作品から感じるセンシティブなものとか本音なんてものは余計なものとして排除しながら訓練され、規格品みたいな演奏をする人が育てられ、そのスタイルが大手を振っています。
もしかすると、社会もそれ以上のものを求めていないのかもしれませんね。

文化の低下には歯止めがかからず、音楽上の目利きとしての鑑識眼も失われ、興味もこだわりもないから、権威あるコンクールで選ばれた結論だけが情報として送られてくれば、それが人気や集客の根拠となりコンサートの企画をばらまいてビジネスにする…という図式。

ただでさえあらゆるストレスにまみれるこの時代に、ピアノ演奏ひとつを聴くにも、芸術的なそれは望み得ず、世俗的な競争に勝ち抜いたエリートのショーにお付き合いさせられるだけで、普通に音楽や演奏を聴いて心の楽しみとすることもかなり難しくなっているのかも。

ピアニストも生き抜くためには演奏能力だけでなく、時代を常にキャッチし先取りする能力を求められ、企画力や発信力を備えることで大衆を惹きつけるプロデュース能力など、そんな世俗に長けた総合力をもった人だけが生き残れるようです。
誰とは言いませんが、最近ではYouTubeの画面を開いても、数人の同じような顔ばかりがズラリと候補に上がってくるのには正直ウンザリしてしまいますが、ウンザリするほどアピールできているということでもあるでしょうし、この流れは当分終わらないのでしょう。
その仕掛けをするのは、本人なのか、傍にいる人か、企画会社なのかはしらないけれど、TVなどにも頻繁に顔を出せるように手を尽くし、かつ番組の意向に沿ったTV用のふるまいをしっかり心得て、さらには新企画にも果敢に挑戦して常に話題をアップデートする…といった、大衆のニーズに敏感で常に先手を打つように発信していかなくちゃいけないような印象です。

その表れかと思うのは、ライバルでもある同業者同士とのミョー?な仲良しぶり。
あれを単純にほほえましいと見る向きもあるのでしょうが、マロニエ君は見ていてとても不自然で、本当に仲良しならそれは結構なことですが、自分の活動枠を広げるために誰からも足を引っ張られないようあまねく友好的にふるまっているような、したたかな戦略のように見えてしまいます。
これも今風の知恵なのかもしれないけれど、どうも打算的なシナリオがあるようにしか見えず、なにもかもが裏がありそうで甚だ気持ち悪いわけです。

ほんらい同業者というのは(良し悪しの問題ではなく)どちらかろいえば不仲なもので、ライバルであるのに、あまりにもみんながニコニコ仲良しです!仲間です!みたいな感じにされると、そこだけ真に受けるほどこちらもウブでもないので逆にシラケます。

だいたい、真の芸術を追い求める者同士というのは宿命的に妥協しがたいものがあるはずですが、ビジネスの同業者であれば利害のために仲良しの演技ぐらい容易いことなのかも。

そんな大手広告会社の敏腕社員みたいなスタンスの人の演奏なんて、それだけで聴きたいとは思いませんが、こういうことをグチグチ言うこと自体がもう古いんだと一刀両断されるのかもしれません。
先日もあるピアニストが大コンクールで好成績を勝ち取ったばかりだというのに、その余韻も冷めやらぬうちから「次は指揮の勉強を開始する」のだそうで、すでにこの人の知名度でオーケストラまで作って社長に就任しているというのにはのけぞりました。
どこぞのIT企業のCEOばりの、けたたましいテンポと多角経営ぶりを「すばらしい能力と向上心」とみるのか、自分の能力を札びらを切るように乱用する「いやらしさ」と見るかは人それぞれだろうと思います。

要は音楽も、芸術文化のジャンルから芸能ビジネスの世界にシフトしているのは間違いないと思います。

でも、マロニエ君はやっぱり俗世間に疎いような天才が、ひとたび演奏行為になるととてつもないものを持っていて尋常ならざるものを発揮する、あるいはそんな天才級の人じゃなくても、演奏に最善を尽くし音楽にひたすら奉仕するような、そんな人の演奏が聴きたいのです。
これはきっと死ぬまで変わらないと思います。
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TVを見て

ショパンコンクールと反田恭平さんについては、もう充分に書いたので終わりにしたつもりでしたが、 そんなタイミングでNHK-BSプレミアムで『反田恭平 ショパンコンクールを語る』という番組があったので、ならばもちろん見ないわけにはいかないし、見れば見たでしつこいようですがその感想など。

これまで反田さんについて書いてきたことで訂正したいことは自分としては特にないので、そのあたりは極力重複しないようにしながら、今回の番組を見て感じたことを中心に書いてみたいと思います。

1時間45分という長時間ものでしたが、第一次予選で80人からスタートする国際コンクールであるにも関わらず、徹頭徹尾反田さんひとりに特化した内容で、テレビ番組というものは作り方次第でどうにでもなるものではあるとしても、競い合った他者すべてを遮断して、それによって何かに触れなかったという印象があり、これは正直いって不自然だと思いました。

視聴者としては、反田さんという気鋭の人物がどのような環境で、どんなコンテスタントたちと競って第2位という結果を獲得したのか、それをも凌ぐ優勝者とはどんなピアニストなのか、他のピアニストはどういう演奏をしたのか、さらにはすぐ下に小林愛実さんという4位の日本人がいたことも一言も語られないというもので、なにか作為的な方針の作りだったように感じました。
そこには、そうせざるを得ない理由があったのだろうと却って勘ぐってしまいますが、その点もこれまでに述べてきたことなので、ここではもういいでしょう。
ただ、真実に迫らずにきれいなことだけを並べるという世の風潮は、ますます強まっているように思います。

反田さんは喜びの部分だけをほがらかに語っていたけれど、内心では憤懣やるかたない悔しさもあったのではないかと思いますが、これはあくまでマロニエ君の想像なので、本当のところはわかりませんが。
しかし、もし仮にそうだとすると、それを受け容れて明るく前を向いている彼は、とても立派だったと思います。

さて、反田さんの魅力は、いまさらいうまでもなく突出して上手いことではあるけれど、決してそれだけではないことは多くの人が感じていることでしょう。
一般に日本人でプロを目指してピアノをやってきた人というのは、概ね共通した独特の雰囲気があり、とくに男性に限っていうと、だいたいひ弱で、気取ったイメージで、プライドが高くておまけにクラい…といったら叱られそうですね。
中には、ことさら専門的なことを言ってみせたり、あるいは妙な「天然」ぶりを強調した振る舞いをしたり、要は自分がいかにこれ一筋に打ち込んで、留学して、ああしてこうしてという、普通の人とは違うんだという、特別感を出すことがひとつのスタイル。
それでも、それに見合うだけの演奏をなさるならともかく、大半はひとことでいってイヤミなアピールにほかならず、見ているこっちが疲れてくることも少なくありません。

その点、反田さんは普通の健康男子で、いい意味での野趣がありざっくばらん、ごく普通の口調で、普通に話が出来る雰囲気を持っておられるところがこの世界では新鮮で、この点もウケている理由でしょう。
必要以上に威張ることも、行き過ぎた自己アピールをすることもなく、至って常識的なのだけれど、これがピアノ弾きという種族には意外に難しい。

コンクール対策にも自ら語り、それは相当なものだったようで、ワルシャワには4年住み、曲目の選定にあたっては過去2回の出場者と、成績と、そこで何を弾かれたのかということを徹底的に調べ上げたのだそうで、それは実に800曲にも及んだのだとか。
プログラム構成も評価の対象とは思うけれど、こういうところから曲を選択するというやり方は、いささか馴染めないものでした。
これは今どき国際コンクールを受けるにあたって、一定の結果を残すためには正しいことなのかもしれないけれど、個人的にはこの発言には危惧を感じました。
なぜなら、そのやり方はこの先の日本のピアノ教育界には多大な影響を及ぼすだろうと思われるし、すべては対策こそが最優先され、それが正義として標準化されていくのかと思うと、複雑な気分にならざるを得ません。

ショパンコンクールが尋常一様なコンクールでないことは先刻承知ですが、出場対策もそこまで先鋭化しなくてはならないというのが、もうこの段階から気持ち的についていけないし、マロニエ君はやはりそれよりは、多少の考慮はあるとしても与えられた条件の中から自分が好きな曲、弾きたい曲、得意な曲を選び出し、それに全力を尽くす…そういうものであって欲しい。
もちろん、コンクールだから結果を出さなきゃ始まらないといえば、それはたしかにそうなんですが…。
これは現場を知らない、シロウトの単なる甘っちょろい理想論かもしれないけれど、ただ、ひとつだけ圧倒的に自信をもって言えることは、だれよりショパン自身がこういうことは最も嫌いだろう、ショパンの精神に反するものだろう…という気がしてなりません。

動画配信で何度も見た反田さんの演奏をあらためて番組内で聴いてみて、やはりそこにはしたたかな準備を重ねてきた者だけが到達する、最高度の技が披露される特別な様子を感じることは出来たけけれど、それはショパンの世界に身を委ねて酔いしれるものではなく、あくまでも世界最高権威のピアノコンクールでのパフォーマンスであり、ご本人も「ピアノのオリンピックでありワールドカップ」と仰っていましたが、まさにそのフィールドで展開された競技のひとコマであると思いました。

ちなみに、例えばですが1980年の映像を見ると、このとき優勝するダン・タイ・ソンの演奏は、音も朗々と鳴り響き、作品が有する自然な山坂やドラマを聴く者は一緒に辿ることができる、音楽上の熱いハートがありますが、そういうものは21世紀以降は完全に消滅したように感じます。

ところで、以前から反田さんは誰かに似ていらっしゃるような気がするのに、それがだれだか一向に思い出せずに悶々としてきましたが、この番組をテレビで見ながら、フッとわかったのは聖徳太子でした。
古いお札で親しんだあの飛鳥時代の人物がピアノを弾いているみたいで、だから反田さんにはどこか日本人の意識の奥底にある懐かしさみたいなものが呼び覚まされてくるのかもしれません。


これでアップしようと思っていたら、翌日夜22時から、今度はNHKのクローズアップ現代で再びショパンコンクールをやるというので、さっそく録画して見てみると、こちらは帰国した小林愛実さんをスタジオに招いて、彼女と反田さんは幼なじみでもあるという二人の挑戦を軸に、小林さんに比較的スポットを当て、反田さんは折りに触れ出てくるといった内容でした。
前日が反田さんオンリーの内容だったので、これで少しはバランスを取ったというところでしょうか。
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受賞者リサイタル

ワルシャワではショパン・コンクールの最後の締めくくりとして、受賞者によるリサイタルというのが行われたようで、反田恭平さんの演奏動画を見たので、いまさらですが少し。

なんども繰り返して恐縮ですが、やはり個人的にさほど好みのタイプの演奏家ではないけれど、そんな個人的な問題はさておいて、日本人離れした大器ぶりを遺憾なく見せつけられるのは確かです。

最も印象に残るのは、それを支える抜群のテクニックと専門家ウケしそうなキメキメの仕上がり。
めっぽう指が回るというだけの人ならいるけれど、反田さんにはそこに日本人サイズを超えるスケールの大きさがあり、国際舞台に於いてもある種の風格さえ感じることのできる日本人ピアニストが出現したという点で、これは素直に注目に値するものがあると思います。
スポーツでも、オペラやバレエでも、すべて日本人は日本人固有の肉体的およびメンタルによって規定されてしまうようなハンディがあり、スタート地点から劣勢を感じざるを得ないような場面を、私たちはこれまでどれだけ見てきたことか。

それを感じなくて済むというだけでも気分がいいのが、大谷翔平選手でありピアノでは反田恭平という人の登場だろうと思います。
外国人に混じって戦う場で、なんらハラハラしないですむ日本人というのは、そうはいません。

恵まれた大きくふっくらとした観音様のような手、その無駄のない動きは美しく、ピアノという大きな楽器に振り回されず、楽に弾いているあたりも頼もしささえ感じるもの。

特に今回は、ホールの隅々まで力強くかつ柔らかく鳴り響かせるために20キロもの筋肉と贅肉をバランスよくつけた由で、まるでアスリートの体づくりさながらですが、考えてみればピアニストもアスリートの一面を併せ持っているわけで、驚きつつも納得でした。
果たして、その効果は絶大というべきで、コンクール本選の時よりも、この受賞者リサイタルでのほうが(録音の関係か、もしくは精神的な余裕か?)その音の充実した鳴りっぷりをはっきりと感じることができ、ひとりのピアニストの姿として際立って頼もしく感動的でさえありました。

会場がワルシャワ・フィルハーモニーではないため、ピアノも例の478ではなく、それよりほんの少し古いスタインウェイでしたが、専門家に言わせると色いろあるかもしれませんが、マロニエ君の耳には遥かに音楽性の豊かな深いものをもったピアノで、ピアニストの演奏をより芸術的なコクのあるものに表現していたように思います。
コンクールで使われたピアノは、とにかく音がクリアではあったものの芸術的とはあまり感じなかったのに対し、こちらのスタインウェイはクリアという面では少し譲るかもしれないけれど、大人っぽく懐の深いものがあり、演奏を聴くには好ましい楽器だったように思います。


かように反田さんは稀有な逸材には間違いないけれど、やはり気になる点もあって、その演奏は聴いていてなぜかしら気分的にピタッとこないことが多いのも個人的にはあって、演奏が見事なだけ、それがよけいにひっかかります。
いつもメガネレンズの内側にまで汗がポタポタ落ちるほどの熱演なんだけれど、こちらの耳に届いてくる演奏は情熱的というより説明的な立派さで、曲のディテールの処理や追い込み方にも、聴く者の心を掴んで離さないよう応えてくれとはいえないもどかしさがあり、自分の演奏能力の秀逸さを磨き抜いて披露することの方に興味があるのかな?という感じを受けることがしばしば。
そのまま一気に疾走し、雪崩れ込んでほしいようなところでも、強いて冷静なコントロールを入れ直したりするのは、ときに聴く側はシラケてしまうものですが、そんな期待に反する弾き方をするのが彼なりの別の意味のアピールなのか?

反田さんの演奏の特徴は、曖昧なもののないその引き締まった作り込みにあるようで、自らを律して日々修行に励む、道場の塾頭のような演奏というべきなのかもしれません。
あのヘアースタイルだけでなく、演奏も「サムライ」というわけでしょうか。
同時に、どんなに硬派な人でも、男性はたいてい一皮むけばロマンティックで、叙情性があり、女性とはまた違った繊細さやこだわりがあるものですが、そこが希薄に感じさせてしまうものを感じます。
例えていえば、彼女や奥さんが最もわかって欲しい気持ちとか訴えたいポイントを、どうしても受け付けきれず背中を向けてしまう彼氏や旦那さんみたいで、それがこのピアニストの欠けているところのように思うけれど、もう一回転して、今じゃそれが魅力となっているのかもしれません。

どうやら詩的な人ではないらしいと感じたのは、アンコールで弾かれたシューマン=リストの「献呈」や、グリーグの抒情小曲集から「トロルハンゲンの婚礼の日」などは、最後に歌心もあるんだよとアピールしたかったのか、歌い込みやため方などが少々やり過ぎでわざとらしく、曲のフォルムが崩れそうなところもあったりで、そのへんのバランス感覚についてはやはり疑問として残りました。

極論すれば、ショパンは美意識と洗練、センスとバランスの世界だから、それを備えていないとしっくりこない後味が残るのも納得できたようでもありました。
聴くところによればコンクール出場を念頭に置いて6年がかりで準備し、ショパンの作法を学んだというようなことも仰っていましたが、それでも、どうしてもショパンとは相容れない溶け合わないところがあるのは、これはもうどうしようもないことだろうと思います。

どの曲もまったく見事に弾かれはするものの、ショパンのあの高貴な香りとか、細緻な織物のような美、そこはかとないニュアンスなどがさほど聴こえてくることはなく、これを「ただ楽譜に書かれたものを立派に弾いただけ」と言うつもりはありませんが、反田さんとショパンとは、どんなに歩み寄ろうと教えを受け、努力を重ねても、これ以上のお近づきはムリという壁があるとしか思えません。
そもそもショパンを分かる人は、その点にさほどの努力は必要としないもので、本能的に自分の裡にある何かと照応して自然に理解できてしまうものという気もします。

それでも、マロニエ君はいまでも他の人の演奏と聴き比べてみても、あの中では反田さんが一番だったと思います。
それはショパンコンクールの意義が、ただ単にショパンを上手く弾くというだけでなく、プロのピアニストとしての実力や将来の可能性までもを見据えて評価するというようなことが言われているからです。

これから日本をはじめ、上位入賞者達によってガラ・コンサートのたぐいがあちこちで繰り返されるのでしょうが、1位の人も、2位の反田さんがあれだけの鉄壁の演奏をしながらいつも至近距離にいるとなると、優勝者としてさらにそれより上を求められるプレッシャーを思うと気の毒なような気もしなくもありません。
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やっぱり

プレミアムシアターやクラシック音楽館に登場する演奏家たち(とくに壮年期以上のピアニスト)は、このところショパンコンクールにどっぷり浸かっていた感覚からすると、本来の自由な場所に戻ってきたような安堵を感じたばかりか、逆にある種の新鮮ささえ覚えました。

まずなにより落ち着きがあり、当たり前のように音楽が漂ってくるあたり「ああ、やっぱりさすがだな!」というのが偽らざる素直な感想でした。
なんといっても、そこは自己表現の場であり勝ち負けのためのむやみな緊張はないので、大人のプロが紡ぎだす音や語りがありがたく、やっていることが若い人とは本質的なところで微妙に違うように感じました。

もちろんその中でも好みはいろいろですが、中にはまったく成長の跡のない方もおられ、30年以上も前に有名コンクールに入賞された人などは、その当時から感じていた固有の癖とか表現がドライで好きになれなかったのが、これだけの長い年月を経て少しは味わい深くなっているかとおもいきや、呆気にとられるほど昔そのままで、こんなにも人の演奏とは変わらないものか!と驚かされたり。

中にはそういうお方もいらっしゃるけれど、全体としてはコンクールからは遠ざかった世代のピアニストたちは、それぞれに円熟して、若い指さばきだけでないもの、新入ピアニストを寄せ付けない味わいがあるというのが率直な感想でした。

とはいえこの人達も、若い頃は同様の非難に晒されての今があり、俯瞰すれば世代ごとに同じことの繰り返しだと言われれば、そうとも言えるのかもしれませんが。

逆に今の若い方達の美点はというと、個人的にはクリアさじゃないかと思います。
生まれた時から当たり前のようにパソコンが有り、液晶テレビでデジタル放送の鮮明画面を普通に見て育った人達は、めくるめく情報を背負いながら、ああした鮮やかなきれいな演奏をするようになるのかもしれません。
ではそれが、聴いた人の心を打つのか…というとまったく別問題で、ここにもっと素直で豊かな情感が加わってくれば素晴らしい演奏になりそうですが、なかなかそう都合良くはいかないようです。

コンクールは言うまでもなく勝負の場であり、その競っている部分が昔に比べて平均技巧が上がり、いっぽう超弩級の天才や大スターのような人はまずいなくなり、枝葉末節の戦いに変化しているように感じます。
これを簡単に「今回はハイレベルの戦いです!」などというのにも抵抗があります。
そのためか、誤解を恐れずに言うと、若い方の演奏能力は見事だけれど、音楽として自然に心を託せないところがあり、全体があまりに対策的で、コンクール用に加工されたものといった感覚がつきまといます。
せっかくの見事な演奏でも、そこはかとなくウソやキレイゴトに覆われた、その人の感性としては信頼感の薄い感じを拭い去ることがどうしてもできない。

情報社会の時代だから、本来の自分ではなく、これをやったらどうなるかという結果から逆算して演奏しているなと感じるところがあり、解釈の寄せ集めといった感じがあって感性の一貫性がなく、悪く言えば注意のつぎはぎのような演奏。
それがこれでもか!とばかりにやれる人が「すごい人」ということになる。
当然つきぬけた魅力には乏しく、それではどうしても訴える力が弱まるのは致し方なく、聴衆も専門的なことはプロには及ばないとしても、心に刺さってくるものがあるかどうかはわかっているはずでしょう。

むろん尋常ならざる努力を積み上げて出場されたコンテスタントの方々の才能と努力には敬服の念は惜しみませんが、コンクールの動画をみていると、フィギュアスケート重要大会のあの空気とか、地方から勝ち抜いて上に登っていく甲子園みたいなものとだぶってしまい、いうなればピアノ演奏を競技イベント化して見せている気配が昔よりも強くなったように感じるのです。
だからこそ世界的な注目を集めるという効果も生まれているのかもしれませんが。

印象的だったのは、モスクワ音楽院の重鎮であるヴォスクレセンスキー教授がTVインタビューに答えて「現代のピアニストはコンクールに出ないとやっていけない」というようなことを仰っていたことでした。
それは、これからピアニストになるための実際的な現実を素直に述べられたわけでしょうが、ピアニストも要するにコンクール歴がすべてを決する「肩書社会」であり、人の決めた「権威社会」になったということで、そのために過酷な難関をくぐり抜けた有能な戦士のような人だけがそのお墨付きを手にできるわけで、これは一面ではわかる気もするけれど、しがない音楽ファンとしてはやっぱり気持ちはついていけません。
どれだけ素晴らしい演奏ができても、コンクール覇者でないと、ただの無名のピアノ弾きでしかないという意味にも取れるとしたら、ピアニストさえも現代的格差社会という感じです。

なのでコンクールというのは、昔以上に必要とされるものとなり廃れることはないんでしょうね。
そして結果に関する不満や、審査に対する不信感は昔からつきもので、大半の人が納得できた結果というのは必ずしも多くはないような気がします。
審査員として予定されていたマルタ・アルゲリッチとネルソン・フレイレの直前のキャンセル(なんとフレイレはその後死去!)がなかったら、結果は違ったものになっていただろうとマロニエ君は今でも強く考えています。

そこでふと思ったのですが、日本の(自民党)総裁選に議員票と党員票があるように、審査員の評価は主軸としながらも、一部に聴衆票というのも入れてみるのはどうかと思います。
全体の評価の中の、せめて数分の一は聴衆の評価も反映するというもの。
これは裁判における裁判員のようなものでもあるし、なにより、コンテスタントが自立してコンサートをやる場合、チケットを買ってくれるのは審査員ではなく、個々の聴衆なんですから。
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テレビでもピアノ

今年はショパン・コンクール開催で、ピアノネタに相乗りということもあるのか、このひと月ほどでしょうか、TVでもピアノ関連の番組が目白押しだったように感じます。

Eテレの『クラシック音楽館』は、もともとN響定期公演などをメインとする番組ですが、邦人作曲家のピアノ作品を集めた「日本のピアノ」や翌週には「ショパン・コンクールのレジェンドたち」といういずれもピアノに深くフォーカスした2時間でした。

日曜深夜のBS『プレミアムシアター』でもピアノ特集があって、「ザルツブルク音楽祭2021 キーシンリサイタル」「アルゲリッチ&バレンボイム デュオ・リサイタル」、「ツィメルマンの皇帝」「ホロヴィッツ・イン・モスクワ」などが一挙に4時間以上放送されました。

早朝のクラシック倶楽部では、覚えているだけでも江口玲、松田華音、清水和音、クン・ウー・パイク、アンドラーシュ・シフ、小山実稚恵、若林顕、広瀬悦子、務川慧悟、藤田真央、さらにはショパンコンクールにちなんで反田恭平、小林愛実と続きました(敬称略、再放送を含む)など、たて続けでした。
まだあったかもしれませんが(もう思い出せない、少なくともこんなにも集中的にピアノが採り上げられたことは、これまであまりなかったように思います。
そのほかにも『題名のない音楽会』や『CLASSIC TV』なども、やたらピアノを取り扱った内容が多かっようですが、とても網羅はできません。
見た範囲でいうと、内容的には玉石混交で、感銘を受けるものからくだらないと思うものまで、さまざまありましたが、おしなべての感想としては、若い方の演奏はメカニカルで解像度が高いあたりは今風ではあるけれど、どうしても音楽として乗っていけない壁が必ずあり、片やベテランの演奏はときにヘンなときもあるけれど、概ねそのあたりはさすがだなと思います。

『クラシック音楽館』の「日本のピアノ」では、今日ほとんど演奏されることのない昔の邦人作曲家によるピアノ作品(それも特に協奏曲)が現在若手のホープとして活躍する日本人ピアニスト達の闊達な演奏によって3曲紹介されましたが、これらは、なるほど先の大戦前後にかけて書かれた日本作曲界の歴史的意義としては注目すべきものがあるようです。
そんな時代に書き上げられていたという先人作曲家たちの奮励努力には頭が下がるものの、個人的に聴いた感覚としてはおよそ理解不能で、ところどころには赤面するようなところも感じるなど、こんにち演奏される機会がほとんどないのもやむを得ないというのが率直な印象でした。

美術品ならただ見れば済むし、文学なら興味のある人は読めばいいわけですが、音楽の場合は演奏されてはじめて音となるため演奏者と練習が必要となり、さらに協奏曲でオーケストラまで動員するとなると、その多大なエネルギーは簡単なことではなく、これは直接的な収益を求めないで済むNHKにしかできないことだろうなあと思いました。

「日本のピアノ」というからには、楽器としての日本のピアノ発達史にも少し触れて欲しかったのですが、そちらはまったくなかったのは残念でした。
いまやショパン・コンクールの公式ピアノ4メーカーのうち、その半分が日本製ピアノなのだから、それは素直に驚くべきことで、そこに至る日本のピアノ産業の発展や変遷などを辿って検証してみることは意味のあることだと思うのですが。

とくに西洋音楽の素地のない東洋の果ての海に浮かぶ小さな島国が、ピアノという大掛かりな、ただ音階が出ればいいというものではない精妙複雑な西洋楽器の製造に着手し、いつしか一大産業にまで成し得たというのは注目に値することで、これは大げさに言うなら奇跡に近いものがあるのでは?と思うので、それは番組のテーマとしても充分に耐えうるものだと思われ、いつかじっくり採り上げてほしいものです。

それも、できれば現役の大手メーカーだけではなく、消えていった数多の優良なメーカーにも歴史としての光を当ててほしいものです。
日本人はなにかというと「決して忘れてはいけない…」というような言葉を乱発しますが、だったらヤマハカワイだけではない幾多のメーカーや開発者が、いかにしのぎを削って日本のピアノ製造をものにしていったのかということを忘れないためにも、一度きちんと整理してNHKの番としても残して欲しいと思います。
NHKにはファミリーヒストリーという著名人の家系や出自を、本人さえも知らないことまで徹底的に調べ抜いて紹介する番組がありますが、ああいう感じで日本のピアノ発展史もわかりやすく紐解いてもらえたら、かなりおもしろいものになるだろうという気がします。
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離れる時期

このところ、ピアノを弾くのがこれまで以上に気乗りしなくなってしまい、かなり遠ざかり気味かな?といったところです。

というのも、ショパン・コンクールの動画をちょこちょこ見ていると、つい止められなくなって、場合によっては1〜2時間(ときにそれ以上)PCの前に釘付けとなり、気がついたらトイレに立つのも腰がイタタとなるような始末。

だからそっちに時間を取られているというのではなく、あれこれのコンテスタントの鮮やかな指さばきを次から次へこちらの時間が足りないほど大量に見ていると、そのレベルにいつの間にか慣れてしまい、ピアノを弾くとは本来こういうものだというおぼろげな基準ができてしまいます。

それに引き換え、我に返れば(そんなことははじめからわかっちゃいるけど)そのチンタラオロオロ弾いているピアノなんて、アホらしくなって「やってられない!」という気になってしまうのです。

もちろんそんなことは、いまさら言わなくてもアタリマエで分かりきったことだし、日頃から巨匠はじめ世界のトップの演奏にも日常的に触れているわけだから、とくに今回の動画配信がそう驚くには当たらないというのが普通の理屈です。
それはそうなんだけれど、自分より遥か若い人たちが、かわるがわるにあれだけの高度な演奏を当然のように繰り広げ、それを手を伸ばせば触れられそうな鮮明画像で繰り返し見せつけられていると、いまさらながら、下手な自分がただ「好き」というだけで鍵盤に未練がましく食い下がっていることが、無性にナンセンスというかバカバカしくなるのです。

とくに普段とはまた違う環境でこれだけ集中的に大量の演奏に接し、半ばその世界に入り込んでしまうと、自分のやっている練習なんて、いくら個人の楽しみだなんだと御託を並べてみても、人間そんなにきれいさっぱり割り切れるものでもないから、「あー、やめたやめた!」という気にもなるのです。
そうはならない、強いお方もたくさんおいでと思いますが、マロニエ君は弱いのです。
どれだけ練習しても(しないくせにこういうことを言うのもいけませんが)、どうせこの歳で上手くなるわけはないし、楽しみという言葉のついた欺瞞であり浪費だなぁという思いに苛まれます。

ルーブルなどに行くと(現在はどうか知りませんが)、人目もはばからず画材を広げて堂々と模写なんぞしている人がたくさんいて、その強靭なメンタルに驚きますが、ある日本の画家が言ったことですが、ヨーロッパ人はあんなにも圧倒的な作品を前にして、よくもまあへこたれることもなく自分も絵を描こうなんて思えるもんだ、自分はあんなものをあれだけ見せられたらつくづく嫌になるだけ…というのを聞いたことがあります。

ピカソは父親も絵描きだったけれど、我が子の天才を目の当たりにして自らの筆を折ったという話は有名ですが、それが普通じゃないかと思います。

すごいものを見て衝撃を受けるということは、折りに触れあることですが、アマチュアピアノ弾きの中には、自分がどんな演奏をしているかが一向におわかりにならず、一流ピアニストの演奏会に行こうが、それこそショパン・コンクールの動画を見ようが、まったく別のことのように捉え「あの人達はプロだから」とばかりにあっさり片付けて、自分とピアノの関係性は一切変わらないでいられる、という人が結構いらっしゃることに、これはこれで驚きます。

むしろ世界のトップ連中と自分を関連づけてショック受けたりすることのほうがよほどおこがましい、思い上がりも甚だしいというふうに考える人もいるでしょうけど、マロニエ君にしてみれば、すごいものに接してなにも影響を受けないで通過してしまう人のほうがその100倍もすごいんじゃない?と思うのです。
ショックを受ける、自分が嫌になるというのは、べつに自分と彼らを同列に比較しているわけではなく、ピアノを弾く、あるいは絵なら絵を描くということの本物の世界とはいかなるものかということを、問答無用に眼の前に突き付けられて、その現実の残酷さを思い知り、そのつど打ちひしがれ、その残りのいくばくかは勉強になっているという事でなんです。

ショパン・コンクールの動画を見ていると、自分でも弾いた(というのもおこがましいので、弾く真似事をしたと言っておきましょう)覚えのある曲がたくさん出てきますが、それらは彼らにとって、あまた準備すべき膨大な演奏曲目の中のほんの一部にすぎず、それをあんな衆人監視の中で、高いクオリティをもって弾き通せるという現実の意味するものってやっぱりあるわけで、わかっちゃいてもやっぱり嫌になりますよ。

あれはあれ、で、自分のくだらん練習はちゃんとやろう、なんてヒョイとスマホのアプリを切り替えるようにはできません。
尤も、そんなもの見ても見なくても、もともとマロニエ君は「ちゃんと練習」なんてしないのだから、こんなぼやきをすること事態さらにナンセンスといえばそれもまたそうなんですが、やっぱり気分というのは厄介なもので、ピアノを弾くというのは、ああいうことなんだなという感覚からの回復は、しばらく難しそうです。

ピアニストにもいろいろなタイプがあって、演奏の様子を見て「ああ、自分も弾きたくなってきた…」と思わせてくださるお方もいらっしゃいますが、いっぽう、グールドなんて見た日には、あらゆる意味でおよそ人間ワザではないし、凡人に対する皮肉と高笑いが聞こえてきそうで、ピアノなんて天才以外が軽々しく触ってはいけないものだったんだ、どうもすみません…と思ってしまいます。

〜とかなんとかいいながら、では、まったくピアノに触っていないというほど頑ななものではありませんし、また少しずつ戻るんだろうと思いますが、今はそういう濃淡の片側に振れているということです。
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ショパンコンクール-ピアノ編

コンクールに使われるピアノにも、昔とは隔世の感を感じます。

ピアノがコンクールの舞台で求められる要素も出尽くしたのか、各メーカーもそれに沿ったマシンを送り込んでくるようで、ずいぶん横並び的でクセがなく、そのあまりに整然とした感じは感心半分、つまらなさ半分といったところ。
あえて冒険は避けて、確実に点を取りに行く野心的なコンテスタントから選んでもらわなくてはいけないから、楽器もこうなるんだと言われたらそれまでなんですが。

今回の布陣は、スタインウェイD(2台)、ヤマハCFX、カワイSK-EX、ファツィオリF278の5台だったようですが、ざっくり言えばどれも極端な差はなく、少なくとも昔の「スタインウェイか、ベーゼンドルファーか」みたいな違いはなく、こうなるともう僅差の中の、ほんのちょっとした違いでしかないような印象です。

スタインウェイにはシリアル番号の下3桁が300と479という2台があり、479のほうがやわらかな深みのある音、300のほうが華やかでキラキラ系〜というような違いを感じました。
〜あくまでPCで聴いた感じで、会場で実物の音を聴いたらどうなのかわかりませんが。
300のほうは、以前の別会場での予選(予備予選?)の映像では真上からのアングルがあり、それで驚いたのは高音側の2つのセクション(アグラフが無くなる部分)には、ものすごい量の止音のためのフェルトが不気味なまでに挟み込まれていて、これはよほど訳ありなのかな?とも思いました。
それでスタインウェイがもう一台追加されたのか?と勘ぐりたくもなりますが、真相はわかりません。

とはいえスタインウェイも近ごろはかなり優等生タイプで、ヤマハはちょっと庶民的?、カワイは以前の純朴なトーンが修正されて洗練方向に、ファツィオリは前回のショパンらしい音作りが裏目に出たことの反省から何か対策されたのかもしれないけれど、どこか響きがこもるというか、もう一皮むけてほしいような感じがしました。

動画をチラ見している限りでは、選ばれるのは圧倒的にスタインウェイ、ついで前半はヤマハでしたがなんと2次で敗退、カワイとファツィオリを選ぶ人はときどきいるという感じでした。
ところが、優勝者が使ったのはファツィオリでしたから、見事に前回の雪辱を果たしたというべきでしょう。

カワイは何人かロシア人も弾いていたけれど、これはプレトニョフ先生がご贔屓ということが効いているのか?
新しいSK-EXもカワイのサロンでしばらく触ったことがあるけれど、以前のカワイ臭はかなり除去されているあたりは、相当な努力の跡が感じられたものでしたが、コンクールの舞台での音を耳を凝らして聞いていると、華やか系のヤマハより上質で気品を感じる瞬間も多々あり、全体としては他のピアノに遜色ないものへ仕上がっているように思います。

あとは、イメージもあるんでしょうね。
コンテスタントにすれば過去の実績や他者のチョイスも気になるはずで、前回まではカワイとファツィオリは優勝者を出しておらず、人間だからどうしてもそういったことまで考えてしまうところもあるだろうと思います。
今回の優勝でファツィオリの信頼性が上がるのか、たまたまなのか…。
二回目の挑戦だったホジャイノフは、以前はヤマハを弾いていましたが、今回はスタインウェイになっていたりと、使われるピアノにも時の運みたいなものがあるんでしょうか。

今回の優勝者がファツィオリだったことから、入賞者のガラ・コンサートでは2位以下の人もピアノ交換はなく、全員がファツィオリを弾いていましたが、違う人が代わる代わる弾くとよくわかりますが、ふくよかな上品なピアノである部分と、どうも音が抜け切れないもどかしさみたいなものと、両面を感じました。
重ね着したシャツをあと一枚脱いだらいいような感じ…。
ただプレリュード終曲の最後の最低音部のDの3連打などは美しく、こういうところにファツィオリの品質が出ているように思いました。

ついでに、ピアノオタク的などうでもいいことを付け加えると、ヤマハのCFXは目に見える細かなところが変わっていました。
大屋根の縁の部分に付けられる装飾の段は、これまでは普通とは逆方向(逆台形)につけられていたのがCFXのさりげない特徴でしたが、今回は段そのものがなくなっており、ただの板切れみたいな素っ気ない形状になっているのは些細なことだけれど驚きました。
さらに、CFの時代からCFXまで、ヤマハのコンサートグランドの大屋根の蝶番(開閉のための左サイドに並ぶ金属部品)は長らく手前に2つ、中央と後部に1つずつ、計4つが使われていましたが、それが3つに減らされており、さらに大屋根を留めるL字型のフックもなくなっています。
簡略化なのでしょうが、まさか、ショパンコンクールの舞台に持って行く勝負をかけた一台に、たかだかそんなことでコストダウンというのも不思議で、これらは何を意味しているのか。

いっぽう、SK-EXでは側板内側の化粧版が遠目にあまりに地味なのでご自慢のバーズアイではなくなったのか?と思いましたが、よく見ると目の細かいバーズアイのようでもあり、これははっきりと確認は取れませんでした。
ただ、この部分は昔の人が着物の羽織の裏地に凝ったように、さりげない贅沢で目を楽しませる部分だから、もう少しわかりやすいものにしたらと思います。
わかりやすいといえば逆もあって、大屋根の蝶番はカワイは4つですが、それがイヤでも目に飛び込んでくるようなハデハデしい形状のものになっており、これは本来できるだけ目立たない工夫をした方がいいものだと思うのですが、それをあんな金ピカの寺院みたいにするセンスというのはよくわかりません。

カワイのセンスでマロニエ君が好きなのはフェルトの色。他のピアノがいずれも原色のハデな赤を使っているのに対して、カワイ(SK)のそれはちょっとくすんだ感じの大人の色で、これはフレームやボディの色とも調和して品格を感じていいなと思います。

〜以上、今回のショパンコンクールについてはひとまずこれで一区切りとします。
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終わりました

ショパンコンクールがついに終わりました。

勝者はマロニエ君としてはいささか意外な人でしたが、審査結果については昔から物議を醸すのもこのコンクールの伝統だったなぁと思い出し、よくわからない価値観がはびこっているらしいことがあらためてわかったような気がしました。

やはり不可解なのは、何をどう審査しているのかということが不透明なこと。
演奏芸術の判断を透明化するなんてできるわけがないと切り返されそうですが、マロニエ君が感じるのは判断が演奏の可否一つに絞られているのか、それ以外の要素も入り組んでいるのかという点で不透明さを感じます。

純粋にショパンらしさか、好き嫌いの分かれない優等生か、飛び抜けた技術か、ピアニストとしての将来性か。
さらには人種や国籍や師弟関係なども絡んでいるのかも。
まあ、そのどれもであるし、どれでもない、ということなんでしょうね。
せめて、判断基準をブラックボックス化せず、誰が何位になった主たる理由ぐらいは聞きたいところです。

マロニエ君の見るところ、ピアニストとしての器の大きさと質感でいうと、反田さんが一番だっただろうと思います。

ただ、気になる点もないではなく、とくにファイナルでは「準備したものを本番で失敗せずに成果を出す」という一点に関して言えば、それは素晴らしい演奏だったようで、ご本人からもそんなふうなコメントがありました。
しかし、個人的にはソロの時と違って、コンチェルトでは、これまで反田さんに感じてきたある種他を圧するような印象が少し薄く、全体的に作品が求めるものとは少し齟齬があるように感じるなど、反田流がつきまといました。
それでも上手いから、ぬかりない準備と抜きん出た技術力によって、それなりにキメてはみせたという印象。
協奏曲では、そこがより顕在化して、ショパンはそっと席を外すのではないかという感じは受けました。

つまるところ、やはり反田さんの本領はショパンではなく、自然に備わっているものと勉強して身につけたものの違いみたいなものが、やはり最後に出てしまったのでは?と個人的には感じました。
人間関係でもそうですが、なぜかソリの合わない人というのはいるもので、それはどちらのせいでもなく、世の中には常にそういうことはあるもので仕方のないことだとは思います。

周知のように、ショパンのコンチェルトは2曲とも20歳頃の作品で、したたるような感受性が切々と織りなす、繊細巧緻なこわれやすい美の世界。それでいてオーケストラとの恊演だから、ある程度の華麗さも求められる。

この曲が有する悲しいまでの美しさ、儚さ、品格、固有のノーブルな響き。
後期の作品ならあるていどのクオリティと精神的な深いものをもって丁寧に仕上げれば、なんとかなる作品もあるかもしれないけれど、若いころの作品にはよりピュアなもの、傷つきやすい感受性に導かれるような一途で献身的で演奏であることが必要なように思います。

反田さんに話を移すと、どうしてもショパン独特の美の連なりとか移ろいや機微に敏感というより、やや分析的すぎたこと、この稀有な天才に対するシンプルな共感性や謙虚さの不足を違うもので補おうと努力されていたように見受けられました。

そのいっぽう、ピアノからオーケストラへと引き渡していく瞬間など、どうだ!といわんばかりに何度も手を上げたり空を回したりと、その振る舞いがやや過剰でオレ様的に見えてしまう審査員や聴衆もあったのではないかと、気になる場面もあったり。

気になるといえば、あれだけ上手いのに、全体の流れという点では必ずしも聞き手を乗せてくれる人ではなく、要所要所でビシッとキメていくことのほうに重きが置かれて、曲の気分に反するようなときがあり、そこらがもう少し自然に素直に聴けるようになったらと思います。

場所も日本じゃないのだから、謙虚さを滲ませるばかりがプラスとは思わないけれど、ショパンの音楽、そして保守勢力の強い審査員のお歴々を認めさせるには、もう少し「音楽的な育ちの良さ」みたいなものは必要だったかもしれないとも思います。

優勝者(ブルース・リウ)は、恥ずかしながら毎夜の時間的な制約の中で、ほとんどノーマークの人だったから、優勝と聞いて「え、だれそれ?」という感じで、あらためて動画を見てみたところ、お顔だけは覚えがあり、演奏もきれいだったけれど優勝に値する器とは思えず、最後にこういうオチになるから、やっぱり私はコンクールなんて嫌いです。
ブレハッチ、チョ・ソンジン、そして今回の方といい、何だかショパンの名の下にピアノの優等生を探す会みたいでもあり、ま、もういいやって感じです。
今回は、柄にもなくズルズルと毎晩コンクールウォッチを続けてしまったマロニエ君でしたが、あー、やめたやめた!というか…ま、終わったんですけどね。

最後に。
反田さんは個人的には好んで贔屓にしたいタイプのピアニストではないけれど、上手いし光るものがある人である事には疑いなく、しかもこういう国際コンクールになれば、オリンピックと同じでナショナリズムが刺激されて、やはり反田さんには日本人初の優勝者になって欲しかったし、その資格は充分にあると今も思っているだけに、2位という結果はただただ残念でなりません。
それも、優勝者の演奏を聞いて「ああ、これじゃ仕方ないな…」と納得させられる2位であるならサッパリ諦めもつくというものですが、そうでもないぶん後味のいいものにはなりませんでした。

ご当人はずいぶんと喜んでおいでのようですが…内心はさぞ悔しいことだったろうと思います。

ただ、反田さんのような型破りなピアニストには、今後の長い演奏活動を考えると、優勝というピカピカの栄冠をまっすぐ与えられることより、2位に甘んじる悔しさのほうが、さらなる奮起のためのいい養分になるのかもしれませんね。
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動画配信を見て…3

ショパン・コンクールの3次が終わり、決勝への日本人出場者も決定したようです。

反田さん小林愛美さんのお二人はまあそうかな…というものだったし、外国人については、あれこれいうほどつぶさに見ていないので詳しくはわからないけれど、何度か見た人に関してはほぼそんなもんだろうと思うもので、いまのところとくに異論は感じない、妥当な結果じゃないかと思います。

ポーランドのヤコブ・コシュリク氏は入っているし、前回末尾に書いた「中国系カナダ人」とは、JJ Jun Li Buiという人で、顔立ちが東洋系であることとLiという文字が入っていることで勝手に中国系だろうと思っただけで、もしかしたら韓国系かもしれませんが、いずれにしろ、それは大して重要なことではないですね。
名前の読み方もよくわからないし、何かでチラッと見たのはダン・タイ・ソンのお弟子さんでわずか17歳とのことですが、曲のツボを外さない演奏は、なるほどね…と思いました。
この人はずっとカワイを弾いていましたが、決勝でもそのままカワイでいくのか、ピアノを替えるのか?
ピアニストというのはある程度出来上がると、あとはそうそう成長はしないものですが、17歳ならこの先数年はまだスケール感が広がる伸びしろは充分ありそうです。

YouTubeには、動画配信の他に、コンクール関連の解説風のものが無数にあって皆さんの熱心さにはびっくりですが、今どきらしいというか、多くの動画で語られるのはあれもこれも褒めちぎりで、要するに何が言いたいのかちっともわからないものばかり。
コンテスタントやそのファンに気を遣っているのか、下手なことを言って予想が外れたら恥をかくという用心なのか、そのあたりよくわかりませんが、ま、それは余談です。

マロニエ君は、別に予想して当ててやろうと言うような気持ちなんてまるでないし、またこのコンクール関連に限らず、すべて自分が感じたことをひたすら正直に書いているだけで、それが結果に反しようが、予想が外れようが、大方の意見とは相容れないものだろうが、そんなことは一向にかまわないし、そういうことに斟酌したり安全を踏んでおこうなどとするつもりも毛頭ありません。
これだけはこのブログの一貫したスタンスですので、念のため。

ところで、決勝進出枠が10人だったものが12人に拡大されたんだそうで、これはちょっと増やし過ぎじゃないの?というのが率直な印象でしたが、そのぶん敗者復活の可能性も広がるのかもしれないし、ポーランドの国家をあげての大イベントが少しでも長く続くための方策なのかな?などとあれこれ想像は尽きません。
以前はオーケストラと共演できるのは6人でしたから、2倍になったというわけですね。

ただ、決勝は協奏曲の1番か2番かのいずれかで、圧倒的に1番を弾く人が多いから、いかにあの魅力的な名曲といえども、そうそう何回もあの「シ、ミーレミーソ、シ、シ、シ…」を繰り返して聴かされたんではたまらない気もします。
もう、この際だから、決勝でも演奏曲目を増やしたらどうかと思います。
「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」と「ドン・ジョバンニの変奏曲」はソロでも弾いている人がいたから、たとえば「ポーランド民謡による幻想曲」と「クラコヴィアク」をセットで演奏しても良い、というのはどうかと思ったり。


少し戻って、3次の演奏を視聴しましたが、反田恭平さんはなかなか見事で、黒光りのするような凄みもありました。
テクニック、風格、細部に至るまでの磨き込みなど、完全に頭一つ出ているように思ったし、ピアノも楽々と太く鳴っているし、コントロールも思いのまま、なにもかもがワンランク次元が違うなと感じました。

小林愛実さんは、全体に注意深さが行き過ぎた感じで、前に「端正で気品すら感じる」というようなことを書きましたが、上半身を動かさない修行みたいで、さすがにちょっとやりすぎじゃないか…という感じも受けました。
おまけに、24の前奏曲では曲数も多いのに、曲ごとにそのつどしっかり区切って整えてからようやく次に進んでいくというのが、この作品にふさわしい弾き方なのか?と疑問でした。
個人的には、この作品にはもう少し各曲のキャラクターの対比や即興性、さらにいうなら全体で一つの曲のかたまりという雰囲気もほしく、あまりにひとつひとつを慎重に片付けていく様子に疲れてきましたが、やはり演奏家という立場の人は、聴く人を疲労させてはいけないのではないか?と思います。

YouTubeというのはありがたいもので、何度でも繰り返して任意に楽しむことができますが、小林さんと反田さんは共にスタインウェイの479を弾いていますが、出てくる音の違いには愕然とするばかりです。
とくに重量感や腰の座った鳴らし方では、飛行機でいうと737と777ぐらいの違いがあり、小柄な方というのはハンディがあって、そこは如何ともし難いものがあるように思います。

意外だったのは、演奏後のインタビューで反田さんは「やりたいことができなかった、あとで号泣した」なんていう意外な発言があるかと思えば、小林さんはあんなにも用心深い演奏だったにもかかわらず「1次、2次と楽しめなかったものが、3次で初めて音楽を楽しめた」と仰るあたり、なにがなんだかさっぱりわかりませんでした。
穿って見れば小林さんは、ソロが終わっての釈明のようにも聞こえるし、反田さんは大逆転を見据えた布石のようにも思えなくもないですが、まあ、そこをあまり深くつついても意味ないことで、決勝の演奏そのものに注目すべきですね。

今日は、ショパンの命日だったんですね。
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動画配信を見て… 2

ショパンコンクールのことを書いてみたことで、自分自身も少し興味がでてきて、その後も少しずつ見るようになりました。

繰り返すようですが、全員なんて到底不可能なので、とりあえず日本人数人(敬称略)の断片的な印象。

[反田恭平]器が大きいことや厚みのある技巧は申し分なく、ソリストとしての押し出し感もあり、独特の野趣までもが魅力になっている人。
音楽作りは緻密で周到、演奏そのものはクオリティが高い健康男子的。
これまでの日本人ピアニストに比べ、なにかと規格外であるのが新鮮で頼もしく、そのスケール感のある手さばきは爽快ですらあるが、逆にシンプルなものを温かく歌い上げて聴くものの心をいざないうような力はもうひとつか?
普段の言動からピアノを演奏する姿勢まで、わざとらしさがなく、この人なりの自然と必然が確固としてあって、その物怖じしない様子まで含めて新しい時代の到来を感じさせる。
ただ、ショパン演奏者として適正かどうかは、やや疑問の余地はあるようで、だからこそ今回ショパンに取り組んでいることが、一つの挑戦のようにも思える。

[角野隼人]音大などを経ず、主にYouTubeで有名になった異才の持ち主で、独特のセンスがあり、編曲や即興など幅広い才能をお持ちの、今まさに時代の寵児たらんとする人。
通常の音楽教育路線を歩んできた人とは一味違う才気とおもしろさがあって、ともかくその人気は絶大だとか。
そんな絶大な人気者に対して苦言を呈するのは躊躇されるが、あえて批判を覚悟でいうなら、指もよく動くしテクニックも相当のものがあることに異論はないものの、あらためて同じ舞台で他の人と聴き比べてみると、やはり音楽一筋でやってきた人とは違うところ…こういう言い方をしていいかどうかわからないが「猛烈に上手いアマチュア」という感じがどこか漂い、プロの演奏としてはもうひとつしっくりこないものが常についてまわって、個人的にはそこが気になる。
たとえばスケルツォの1番とかエチュードop.25-11などで見られる、速いパッセージでの分離の良い爽快な指さばきなどは一聴に値するものではあるけれど、聴いていて立体的なメリハリや曲進行の見通しのようなものがもうひとつで、また、タッチや音色のコントロールなどもやや平坦な感じ。
マロニエ君は、ピアニストになる人が幼少の頃からピアノ一筋で人間的にも偏った育ち方をして、音大に行って、留学して、…というお定まりのコースを歩むべきなどとは微塵も思わないし、だいいちそういうステレオタイプはむしろ嫌いなんですが、現実にそういう人達と比べてみると、これ一筋にやってきた人達の持つ鍛え込み(好きな言葉ではないけれど)がやや足りないと感じたりする。

[牛田智大]小さい頃から注目され、たしか浜松コンクールでも好成績を収めた人。
とても上手いのだろうし、どれもそつなくまとめてはみせるけれど、なにか意識し過ぎなのか、やや表面的。
曲の深いところに迫るものが薄く、音もドライで、聴いていてなんだか妙な苦しさが伴います。
この人の信じているもの、感じているものが何なのかがもうひとつよく伝わらず、ピアニストとして大成するためのエネルギーばかりを感じてしまうのは…私だけでしょうか?
もちろん、それを言えば他の人も概ね同様ではあるだろうけれど、この方にはとりわけそれをダイレクトに感じるし、それが演奏の魅力を翳らせてくるようで、惜しいような気がするのは見方が意地悪だったらごめんなさい。
むかしから、日本には日本だけで活躍する国内専用ピアニストみたいな人がいるけれど、彼もそのタイプかも。
お顔もカワイイし、キュッとした笑顔も決して忘れないようですし。
 
[小林愛実]小さい頃から注目された人といえば牛田さん以上のお方と思うけれど、潜在力がひとまわり違っていたような印象。
これまで長らくは、上手いんだろうけれどいかにも日本人的な技術偏重タイプの演奏や、上半身を曲げたり反らせたりの大仰な動きなどが苦手だったけれど、今回のショパンコンクールではまったく別人のように抑制的で、端正ですらあり、こんな変貌もあるんだなぁと唸ってしまったが、逆にムリしすぎていないかと心配になったり。
それでも、そのへんが変わってくると演奏にも連動してくるのか、よけいな力技の誇示が影を潜め、あるべきものがあるべきところにあるといった心地よいものになり、一度あったものをここまで作り変えるのは、ご本人も指導者も相当な努力だっただろうと思われる。
ただ、残念なのはタッチや音色のことではなく、全体の音量がいかにも軽量で、それがこういう大コンクールではどうなんだろうと思ってしまいます。
1次か2次かわからないけれど、スケルツォの4番などは素晴らしい演奏だったけれど、幻想ポロネーズは慎重なばかりでこの曲に求められる荘重さがなかったし、アンダンテスピアナートと…でも、どこかピントが合っていなかったような印象をもちました。

[ヤコブ・コシュリク]ひとりだけ外国人を入れると、下馬評での優勝候補と目される人だとか…へぇぇ。
なるほど上手いし、完全武装のような演奏は高評化に繋がるだろうし、ましてポーランド人ともなれば優勝筆頭候補なんだろうけれど、個人的には好きなタイプのピアニストではない。
昔の例を出すなら、ギャリック・オールソンがそうであったように、あまりに大柄なピアニストというのはどこか共通するものがあって、すべてを手の内に収め込んで内向きに処理してしまうようなところがあって、精神的身体的にギリギリのところに寄せていくような体当たり的なスリルがなかったり。
自分の好みでいうと、とりわけショパンでは痩身のピアニストが全神経と趣味の良さで内的ななにかを告白するようなものが好きだから、こういうピアノが小さく見えるような人によるショパンというのは、個人的な好みとしてときめきません。
いずれにしろ安定した大物だなぁと思っていたら、2ndステージの演奏ではかなり不調で精彩を欠き、おや?これはわからないな…という気もしてきたり。

コンクールの方は後半に入り、いよいよ精鋭たちばかりの戦いになってくるようですね。
名前はわかりませんが、中国系カナダ人みたいな人も悪くなかった印象でしたが、3次には入っているんだろうか…。
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動画配信を見て…

ショパンコンクールの続きが始まり、会場もいつものワルシャワ・フィルハーモニーになると、いよいよ始まったんだな!という感じがしますね。

演奏の様子はネット配信されるので、このところち夜中にチラチラと見たりはしていますが、あくまでほんの一部。
これをまともに見ていたら長い時間を取るし集中力も続かないので、これを欠かさず見ているという方がいらっしゃるというのを聞くと尊敬してしまいます。
マロニエ君には、とてもそこまでの頑張りはなく、この人はあまり…などとと思ったら、それを辛抱強く最後まで聴き通すなんてことは性格的にできません。そりゃ、会場にいて、目の前で生演奏なら仕方ないですが、自宅のパソコンの前では到底ムリ。

それを思えば、審査員に求められるのは、公正な判断力や将来の見極めの能力はもちろんですが、まず「忍耐力」なんだなと思います。
いかにショパンの作品が香り立つような傑作揃いだとしても、もうすでに隅の隅まで聴き尽くした曲を、弾く人が変わるたびに何度も何度も繰り返し聴くなんてことは、マロニエ君にはおよそ考えられません。

さて、コンテスタントの演奏についてですが、これはもちろん皆さん立派なものであるし、なによりあの大舞台で、しかも今後の人生を大いに左右する運命と緊張の中でしっかり弾き切るだけの、その技術とメンタルの逞しさに、まず素朴に感服するのが偽らざるところです。
演奏から感じるのは、加点が得られる/得られない演奏とはどういうものかが徹底して研究され、考え抜かれ、おそらくは教師などのチーム単位で練習に励んだ末にこのステージを迎えていると思うと、これはまさにピアノのオリンピック。

いや、オリンピック以上にやっかいなのは、技術の巧拙が数値で出るものではなく、各審査員の主観や心証や好みに拠るところが少なくなく、さらにはアスリートと違って演奏家としての活躍年数は何倍も長く、その長い年月を、このコンクール結果を背負っていくことになると思うと、それは想像を絶する世界だろうと思います。

演奏は芸術であり競技でもあるという不可思議なもので、減点リスクを避けようとするとどうしても無個性化に収斂され、個人差が小さく詰まってきているのも近年の特徴だろうと思います。
個性は極力排除され、見事なまでに磨きぬかれた現代的コンクール用の演奏マナーが中心となり、面白みという点では薄い気がします。
せいぜい、その中で、相対的にちょっと上手い人、ちょっとダメかなと思える人がいるくらいで、まさに伯仲した勝負というのがつまらないといえばつまらない、逆にすごいといえばすごいとも言えるもの。
(ただし、個人的にはそういうオリンピック選手みたいに科学的・分析的に鍛え上げられ、戦いを勝ち抜いてきた強靭な戦士のようなピアニストの演奏に、本物の喜びや慰めが得られるかというと甚だ疑問であるし、そもそもそんな演奏がショパンの精神に適っているかといえばさらに疑問は募りますが、これはもうひとつのお祭りイベントだから、いまさらそんなことを考えても始まりません)

冒頭にも記したようにマロニエ君のような怠け者は、配信動画を全部見るなんてもちろん無理ですが、それでもつまみ食い的に見ていて感じるのは、各人の醸し出すオーラの有無など、ステージにあらわれた瞬間からあれこれ感じてしまうのも正直なところです。
ブラインドテストではないから、やはりコンサートピアニストとして耐えうるなんらかの要素も評価の対象になるだろうと思います。

個別の評価は、なにしろあまり見ていないので、する資格もありませんが、二回目の出場である小林愛実さんがずいぶんな変貌を遂げていることには驚きました。演奏する姿も過剰な動きや表情などがなくなってある種の品位さえ備わっていたし、演奏も繊細さとメリハリが見事に配分されたもので、完成度の高いプロの演奏だと思いました。

反田さんも注目株なので見てみましたが、彼はワルシャワの舞台でも目立ちますね。
恵まれた手のサイズや無駄のない動きなどにも余裕を感じるし、いい意味でのあのふてぶてしいまでの存在感やちょっとワルっぽい感じなど、かつての日本人出場者にはなかったものがあるようです。
演奏は、他に抜きん出ていると感じる時と、ちょっとノリが悪いなと感じる時の両方がありました。
あれだけ上手ければ優勝もあり得ると以前も書きましたが、強いていうと、彼の生来持っている感覚とショパンの作品が求めるそれは、微妙に食い違っているように感じるときもあるので、そのあたりがこの先どうなっていくのかとは思います。
アンダンテスピアナートと華麗なポロネーズの後半などは、終わりに向かって曲が佳境に入っていくのに高揚感と推進力がもうひとつ希薄で、あまりにもひとつひとつを確実にキメようとする感じが出すぎて、そのたびに疾走感が途切れたり、一気に行ってほしいところで一呼吸入れて冷静さを呼び戻すあたり、個人的にはすこし残念だったような気がします。

それでも最有力候補の一人という思いは変わりませんが。
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大井和郎

自室のオーディオ周辺にあるCDもいいかげん聴き飽きてきたので、ちょっと違ったものが聴いてみたくなり、CDの棚を見ていたところ、もう何年も手にしなかった大井和郎さんのリストのCDが目に止まりました。

これを買った当時は、さほど惹きつけられるというほどではなかったので、数回聴いただけであとはどこか行方不明みたいな感じだったのですが、数年ぶりに聴いてみると、知らず知らずのうちに自分を取り巻く音楽環境も変わってきているせいか、ここに聴かれる実直な演奏には、妙な安心感と懐かしさみたいなものがあり、それが却って新鮮さを伴って聴こえてきて心地よくなり、それからの数日はこればかり聴きました。

マロニエ君は何度か書いたことがあるかもしれませんが、リストの偉大さというのは自分なりにわかっているつもりで、やはりわかっていないのか、要は趣味が合わないというか、あるところまで行くとどうしてもそれ以上は気持ちが進めません。
膨大な作品の中にはきわめて芸術性の高い曲も存在し、それには他には代えがたい価値と魅力があと思うけれど、同時にマロニエ君がもっとも苦手とする類の有名曲が多くあったり、あるいはやたら技巧的なサーカスのような曲が際限もなくあったりと、自分にとって好ましい曲だけをピックアップする作業も面倒なので、どうしてもリストは疎遠になってしまいます。

久々に聴いた大井さんのアルバムは「リスト 巡礼の年 子守唄」と題するもので、まずホッとすることはマロニエ君が聴きたくないと思っている作品が一つたりとも入っていないことで、さらには大井さんの演奏はいささかも奇をてらわないストレートなもので、どの曲にも正面からまっすぐに向き合っておられる点が、以前よりもことさら嬉しく感じられます。

いろんな手段やアプローチによって何かを狙うようなことはなく、きちんとした美しい文字を見るように曲をストレスなく聴けるというのは、なんと心地よいものかと思います。
厚みも重みもあるし、自然に曲が語りかけてくるような表情もしっかりあって、聴き応えも充実感もじゅうぶん。
あまり意識したことはなかったけれど、マロニエ君は大井さんのCDはほかにも数枚持っていて、とくに好きなピアニスト!として意識したことはなかったけれど、いくつかのリストのほかはハチャトリアンのピアノ曲集があったりと、選曲も独特なので、結局は数枚は買っていたようです。

大井さんに限らず、一見地味でスター然としたピアニストではないかもしれないけれど、こういう信頼感のあるピアニストが、その演奏によって支持され、実力に見合った活躍のできる音楽環境がもっと自然にあればどんなにいいだろうと思います。
コロナとは関係なく、真っ当なピアニストが、真っ当な活躍をできる環境は、ますます失われているようで、マロニエ君の思い違いなら嬉しい思い違いですが…。

大井さんのCDに話を戻すと、この方はマロニエ君の知る限りでは、ベーゼンドルファーを好まれるピアニストで、おそらく私が持っているその他のCDもいずれもそうだったように思います。
たまに聞くと、これはこれで気分も変わっていいなぁと思いました。

今のピアノは良くも悪くもあまりに洗練されきれいすぎて、目指す方向や個性も似たり寄ったりで各社の個性の違いの幅は狭まり、それがひいては芸術表現の幅までもを失っているんじゃないか?という気がします。
もっと率直言うなら、高級電子ピアノのように一糸乱れぬ整った音の出るアコースティック・ピアノというか、本物が電子音に寄って行っているような逆の感じさえあって、だから差し当たりの音は均質できれいだけと、ただそれだけで、演奏によってなにか奥深いものが取り出してこられるような余地がありません。
ピアノに限りませんが、あまりに洗練され過ぎると必要な養分まで失ってしまい、喜びとか感銘といったようなものまでなくなったように思います。
ベーゼンドルファーもヤマハが親会社になって以降は次々に新型が出て、それらはどうなのかわかりませんが、それ以前のモデルにはこのピアノならではの個性というか明確な特徴があったことも再確認できました。

スタインウェイはじめ、今どきのコンサートピアノが淀みないビビッドな音を遠くに飛ばすことに主眼をおいているとしたら、ベーゼンドルファーはボトボトと大粒の水滴が落ちてくるようなところがあり、これはこれでいかにもピアノらしい素朴さがあって、心地よく楽しむことができました。

ベーゼンドルファーというと、やれウィンナートーンだとか、木の音だとか、貴婦人のよう、人の声に近いなどと言われます。
それもそうだろうと思いますが、加えてマロニエ君の印象としては、コンサートピアノに関しては独特の危うさのある美音で、一歩間違ったら毒々しさにもなり兼ねない、その危険地帯で見事にとどまってみせる特徴的な音だと思います。
そのギリギリまで寄せながら留める術を知っているのが、さすがはウィーンの凄さだと思うし、それによってベーゼンドルファーらしい、ただきれいというのとは異質の、ある種の不健康なものの混ざった魅惑の音が成立しているのかもしれない…と思います。
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嫌いで好き

マロニエ君は、あらためて言うまでもなくピアノが好きで、楽器自体も、一流ピアニストの演奏を聴くことも、作品そのものに関心をもって自ら弾くことも、どれもがすべて好きなのに、悲しいかな子供の頃から筋金入りの練習嫌いで、三つ子の魂百までの言葉の通り、それは今でもまったく変わりません。

弾くことが好きといっても、ピアノの場合、弾く=練習であるのは不可分のこと。
世の中には天才的な人とか、フランスの音楽教育などでは特に初見能力がずば抜けているようで、楽譜を見るなりサラサラ弾けて、そんな場所からはじめられる人だったら、さぞ練習も楽しいだろうなあと羨むばかりですが、そんな譜読みの才能もないマロニエ君などは、地道にひとつひとつの音符を必至に追いかけながら、スローな練習をトボトボと重ねる他ありません。

それでも性懲りもなく挑戦して、まあそれなりに曲がましくなったときの喜びはたとえようもありません。
ただ、最近は暗譜能力が退化したことは非常に情けないことで、当然そのぶんの練習効率も下がります。

若い頃はある程度やっていれば、さして苦労もなく暗譜もいちおうはできていましたが、50も過ぎるとすっかりその力まで減退し、むかしなら指が曲の動きを覚えていくと共に暗譜もできていたものが、最近ではよほど繰り返したものでさえ、記憶に自信のない箇所が必ずどこかに出現して、いつまでも楽譜を閉じられないのは情けない限りで、それでうんざりしてピアノの前を離れることも。

また、本当は基礎練習は欠かせないことなので、ハノンのような指練習とか、全音階4オクターブ両手のスケールを弾くとかしなくてはいけないのでしょうけれど、そんなのはまっぴらごめんで、すべてすっ飛ばしですから、上達しないのも当然といえば当然。
それと、ハノンなどの練習をしないのは、それが嫌いなだけでなく、ピアノの(特にハンマー)を大事にしようと思ったら、同じ音域の白鍵だけを繰り返し消耗させることになり、それで楽器としてのバランスを崩していくのも併せて気になるのです。
車好きが、キツイ段差などを極力避けながら走ることで、サスペンションのブッシュなどのダメージを避けるのと同じ発想ですね。

ピアノの練習で不可欠なのは、合理的かつ自分にとって最適なフィンガリングは最も重要なことのひとつで、信頼できる楽譜を基調にしながら、その上で自分に適した指使いを考えていかなくてはいけませんが、これがまた面倒くさい。
また、弾きやすさだけを探し出せばいいかというと必ずしもそうではなく、やはり音楽である以上、その場所場所においてどういう指使いで弾くことが、その曲に最適なアーティキュレーションあるいはニュアンスやイントネーションを可能にするかということも関係するから、それが即座に整理できないマロニエ君はどうしても試行錯誤となり、自分の心もとない指の都合とできるだけ音楽的な意味を損なわないような最良の妥協点を探す必要があり、稀に楽しいこともあるけれど、大抵は疲れてきて「…今日はもうやめた」となります。
それと、一番いやなのが部分練習であり、片手練習で、これを怠るとゆるぎなく弾けません。

こういうイヤだイヤだの局面をいくつも乗り越えたその向こう側にしか、少しなりとも弾けるようになったときの喜びの地平は広がらないので、(お上手方はそんなご苦労はないのかもしれませんが)ピアノを弾いて楽しむというのは、なんという手間暇と忍耐に対して、やっと得られるわずかなご褒美であることかと思います。

で、ただ一人、任意で、これを日々積み重ねるというのも、なかなかモチベーションが続くものではないから、多くの人はレッスンに通ったり、発表会などを目標に設定したり、あるいは弾き合いのサークルのたぐいに属したりするのでしょうが、マロニエ君というのは幾重にも困ったヤツで、そういうものがどうしても好みではないし、まして人前演奏なんてこれっぽっちもする気がないので、単純にいつまでに仕上げるとお尻を切られることもなく、上記のような慢性型練習嫌いと相まって打つ手なしなのです。

そんなふざけたやり方でも、マロニエ君がピアノを「弾く」ということを細々でも続けている、あるいはそのために上記のような七面倒臭い練習をろうそくの火のようにでも継続しているのは、やはり音楽とピアノがどうしようもなく好きという本能があるからに他なりません。

さらには、滅多にありませんが、ごく稀に自分なりに上手く(技術的というよりは音楽的に自分が求めているように)弾けてしまう時があって、そんな時にはひとり感動して陶然となり、思わず目頭が熱くなることがあるのですが、そういう時はしばらくは曲の世界から現実に戻ることもできにくくなるほど一種のアホ状態になることがあります。
こういう、めったに訪れない偶然がごく稀にあるものだから、その魔力にやられてやめられないのだろうと思います。

何ら生産的なことでもないし、一切人様のお役に立つことでもなく、100%とムダといえば返す言葉もない。
まして進歩しているか退化しているかもわからないけれど、それでも自己満足で続けているということでしょうか。
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聞こえてくるもの-2

どうでもいいような、前回の続きです。

むかし何かで読んだ記憶があるのですが、CD等を聴くにあたって、ひとりのピアニストの演奏や音楽に対して、真剣に耳を傾けたいときには、オーディオの音量は必要最小限に絞るべしとありました。
そうすることによって、音圧や迫力で誤魔化されることなく、ピアニストの有する演奏フォルムとか構成力、音色やダイナミクスの相対性が明瞭化され、細部や表現の機微、テクニック等、演奏者の本質がより見えやすいというものでした。

当時、大きめの音にしてその音の奔流に身を任せるようにして聴く快感はもちろんあったけれど、夜間など小さい音で聴く時に「ハッ」と思うようなものが聴こえてくることが何度もあり、見えなかったものがスッと姿を現すような感じを受けるような瞬間があることを経験していたので、それは経験的にすぐ納得できました。

これを演奏する側で、生来理解していたのがショパンではないかと思います。
数々の文献で伝えられるショパン本人の演奏とは、音が小さめで陰影に富み、繊細な音色変化やデリカシーを極めた精緻で気品にあふれるタッチ、霊感に満ちた歌わせ方などを身上としたようです。
当然、大会場を好まず、ほどよいサイズのサロンでの演奏にこだわったのも、自明のことだと思われます。

この法則(といっていいかどうかわかりませんが)は現代の音響に優れたホールと高性能なコンサートグランドをもってしても、基本は変わらないものがあると思います。

なんであれ、大きすぎる音は、それを聴く側の判断を鈍らせるという思いは変わりません。
楽器の良し悪しや、調整の結果についても同じで、本当に見事な腕を有する調律師さんは、大抵ごく小さな音で調律されるあたりにも、それは見て取れる気がします。
逆にフォルテやフォルテシモを多用して調律される方は、音のどこにピントを合わせて調律されるのかと思いますが、素人のマロニエ君がそれを言っても詮無いことでしょう。

もしもマロニエ君がピアノ技術者だったら、条件が許せば、最終チェックの中にもう一つ項目を増やして、蓋類を全閉にして音を聞いてチェックするということをするかもしれません。

また、ピアノの蓋すべてを閉じた状態の音というのは、音響的にどうこうというのを別にして、個人的にはこれはこれの良さみたいなものがあって、決して嫌いではないのです。
もちろん楽器本来の音としては、大屋根まで開けた状態のことであるのは言うまでもありませんが。
ただ、現実的にテレビドラマのセットじゃあるまいしグランドの大屋根はもちろん、アップライトの屋根なども開けた状態なんて、こんな状態で常用するなんてあるわけがない。
なので、フタ類を閉じた時の音も日常では結構重要なものになると思うわけです。

くわえて今日の社会では、近隣への騒音問題も生活マナーとして配慮が求められる中、せめて一定の割合だけでも閉じた状態で弾くことはそれほど間違いでもないだろうと思うのです。
そのとき最大の問題は楽譜立てがないことですが、これは以前にも書いたので多くは繰り返しませんが、音を最小化するため譜面台じたいを閉じた前屋根の上に置いて弾かれる方もありますが、個人的にあれだけはイヤなんです。
なぜなら、あの形にする(あるいは元に戻す)のは結構面倒だから、いったんそれにしたらマロニエ君の性格上それっきりになり、前屋根を開けることはまずなくなるはずで、それではせっかくのピアノが開かずのピアノ状態になってしまう可能性大で、それは絶対にしたくない。
だいいち見た目もヘンな獅子舞のようで不格好なことこの上なく、さらに多くの場合ここに暑苦しいカバーが挟まれ、ピアノの上はそこらじゅう楽譜やチラシなどが積み上がる。
こうなるとピアノの上はちょうどいいな物置きの場となり、鉛筆や消しゴム、可愛くもない小間物など、無いほうが絶対いいようなモノがごちゃごちゃ集まって、みっともないし、せっかくのグランドの意味も半減。

さらに、ただでさえ高い位置にあるグランドの譜面台は、このスタイルによって、さらに何センチも上へと移動することになり、椅子の低いマロニエ君など考えただけでも首が痛くなりそうで、これだけは断じて御免被りたいわけです。

何度も話が放浪してとりとめもない文章になってしまっていますが、要は繊細な音にこそ敏感になり、常に聞き耳を立てることは、通常の演奏中の音色にも注力する習慣にもなるので、決して悪いことではないと思うわけです。
せっかく練習を積んで曲をなんとか弾けるようになっても、自分の出している音が曲調にマッチしているかどうかに気づいたり考えたりする人は、意外と少ないように思いますが、音に対する自分のセンサーはどの角度から見ても大切だと思います。
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聞こえてくるもの-1

調律その他が終わって、技術者の方が帰られたあと、しばらくして落ち着いて弾いてみた時に「あれ?」と感じることってありませんか?
調律師さんと一緒にひととおり確認し、納得したはずなのに、自分ひとりになってみるとどうも少し違っていたような…見落としていたものが今ごろになって発覚してくるような、あの感じ。

この原因はいろいろあると思うのですが、まず思いつくことのひとつが、作業時と普段との、ピアノの状態はじめ、こちらの感じ方もなにかいつもとは違いがあるように思います。

調律師さんが作業をされるときは、鍵盤蓋も譜面台もピアノ本体から外されて、屋根は全開、左右の拍子木も下口棒(鍵盤下の細長い棒状のパーツ)もなく、棚板の上に鍵盤一式がむき出しに載っているだけの状態なので、音は盛大にあちこちから溢れでて、いきなりオープンカーにでも乗せられるようなもの。
それで「ちょっと弾いてみてください」などといわれても、普段とはまるで違うわけで、判断に困ることしばしばなのです。

ピアノは音が出てくる方向や抜け方が違うだけで、音質やタッチ感まで印象がコロコロ変わるので、この特殊な状態で判断しろと言われても、ざっくりしたことはともかく、平常時に重要になってくる細かな事に関しての判断というのはどだい無理な話。

これがもしステージで、数時間後にコンサートというならそれで結構なんでしょうが、素人が自宅でトロトロ弾くにあたって、進んでこの大げさな状態にすることはまずないし、仮にあるにしても鍵盤蓋や拍子木(鍵盤両脇の木のブロック)まで外すことはありません。

前屋根も開けない状態、すなわちグランドの場合、鍵盤蓋以外はすべてを閉じた状態で弾くと、当然ながら音量は最もおとなしく、鳴りも本来のものとは言えないわけですが、でも「だからこそ聞こえてくるもの」というのもあるように思うのです。
音はくぐもって、ボリュームも当然落ちますが、全閉状態にすることは生々しい直接音が遮断され、そのピアノが発する音のある面の真実を繊細に聞き取れるということは「ある」ように思うのです。

音の不揃いや、変な雑音や、キメ細かいところの鳴り方などは、あまりあけすけな状態だと却って目立たなくなったり掻き消されたり。
技術者さんの中には、こんなことをいうと一笑に付される方もおいでかもしれませんが、少なくともマロニエ君はそう感じるのです。
調律や整音をするときに楽器を全開にするというのは、作業上の基本だろうし、そうでなくてはならない理由のほうが圧倒的に多く、だからそうするのは当然なわけですが、でも、全閉にしてこそ聞こえてくるものの中にも、なにか大事なものが潜んでいるような気がするわけで、それが冒頭に感じる「あれ?」じゃないかと思うのです。

そういう経験が何度かあったものだから、こんなになにもかも開いていてはわからないというような事をいうと、調律師さんはすぐに察して、拍子木、下口棒、鍵盤蓋、譜面台を全部取り付けてくださいます。
で、弾いてみて、なにか感じるものがあればそれを伝えると「わかりました」となって、手直しのためにまたそれらをひとつひとつ外すことになります。
とくに鍵盤蓋や譜面台を付けたり外したりとなると、キズをつけないよう、取り扱いにも置き場にも留意しながらの作業となり、そこからまた椅子を後ろへずらしてアクション一式を引っ張りだして、針刺しをしたり、あれこれのネジを緩めての追加作業となり、それが終わったら、またひとつひとつを取り付けて、試弾という途方もない作業の繰り返しになります。

こうなってくると、マロニエ君は甚だ気が弱いので、それを何度も繰り返させるほどの泰然とした神経は持ち合わせていないし、だいいちそこまでのものを求めるほどの何様でもあるまいに、しだいに申し訳なくなって「はい、これで結構です」と言ってしまうのです。
もっと厳密にいうと、申し訳ないだけではなく、そういう要求に値しない自分ごときが、なんどもなんども労力を要するやり直しを求めることは、おそらく技術者さんにとっては滑稽だろうと思うし、もしマロニエ君がそちらの立場だったら、きっとそんな気持ちになってしまうだろうことを想像すると、もう耐えられなくなり、そこそこに打ち切ってしまうのです。

それに、あれこれと細かい注文をつけて果たしてそうなったところで、弾いていれば、時が経てば、いずれまた変わってくるのだから、大筋で自分の求めることが達成されていれば、もうそれでじゅうぶんだろうと思うようにしています。
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酷使するには

YouTubeであれこれ動画を見ていると、学生だかピアニストだかわからないけれど、ヨーロッパに暮らす今風の日本人がピアノレンタルのためのピアノ選びのために、あるピアノ店を尋ねるというのがありました。

すると、その店の人も日本人で、さまざまなピアノを試しながら雑談するシーンがありました。
確か、ピアノはヤマハとカワイとかなり古いスタインウェイだったかな。

その二人の会話の中に、膝を打つようなやり取りが。
このブログを書くにあたり、もう一度見なおしてみようと思ったのですが、もうわかりませんでしたし、そうむきになって探すほどのものでもないので、細かい点で正確ではないところもあろうかと思いますがお許しください。

PCのスピーカーからでも、ヤマハとカワイはよく整った溌剌とした感じの音だったのに対して、古いとはいえスタインウェイは全く違っており、人間でいうとまず教養ある大人というか、もっと深いところから湧き上がってくるやような落ち着いた音で、その一点だけでもこれが西洋の一流品なんだなと思いました。
弾くという入力に対して、構造から発する単純な反応だけでなく、そこに楽器としての何か深い受け止めみたいなものが介在している感じがあり、そこが本物たる所以なんだろうと思いました。

ところが、その試奏者がいうには、コンクール前などは日に10時間ぐらい弾くんだそうで、そうなってくるとあまりいいピアノというのも酷使による消耗などを考えるともったいないというようなことを言われ、店の方もそこは同感の様子で、消耗品等のパーツの値段がまるで違うからそれはありますね、みたいな感じの会話でした。
で、さらにうろ覚なのですが、お店の人が言うには、できれば練習用と仕上げ用のピアノは区別したらいいというようなことを言われていたのが記憶に残っています。
これはマロニエ君もかねがね思っていたことだったので「だよね~!」と思ったわけです。

趣味で良いピアノを手に入れて、ほどほどに弾いて楽しむような使い方ならいいけれど、試験だコンクールだというような人達の場合、それを指の訓練から曲の練習まで、あらゆることに酷使すれば、当然ピアノはみるみる消耗してしまい、はっきりいってもったいないだけ。

もちろん反対意見があるのは承知です。
日ごろから良いピアノに触れるメリットは…といった一般論・正論はわかっているけれど、とはいえ、それをタクシーみたいに酷使して数年でダメにしてしまうようなら、個人的にはもったいないとしか思いません。

その技術者さんも、ピアノの消耗品は車のタイヤが走れば擦り減るのと同じ…みたいなことを仰ってましたが、そこから連想するのは、ドリフトやサーキットでの限界的なドライビングの腕を磨くのには、スピンやクラッシュの事を考えて、それなりの練習用車両を使うのが常道で、いきなりポルシェやフェラーリを使うなんてことは普通はないと思います。
(ドバイあたりの大富豪なんかだったら知りませんが)

よって練習用ピアノはオンボロでいいと短絡的なことを言うつもりはありませんが、どこかで割り切って目的に適ったものでいいというのは、現実的にやはりあるんじゃないかと思うし、良い楽器にはそれに応じた敬意を払ったつきあい方というのがあるだろうとも思うわけです。

ちなみに、その動画主さんは、あれこれ試し弾きしながらカワイを「男性的な音」といい、スタインウェイを「中性的」と評されたのはなるほどと思いました。
ヤマハの音に「女性的」というコメントは無かったけれど、その流れで言わせてもらえば、ヤマハって強いて言えば、勝ち気でパワフルな女性の声のような音だなぁとも思います。

カワイのまろやかな音が男性の声なら、音の中に針金でも入っていそうな鋭いヤマハの音は、それなりのインパクトもあるので、これじゃないと満足されない方もおいでのようで、そういう人達には、カワイの深さとか、まろやかさをもった音には物足りなさしか感じられないらしく、そういう話はずいぶん耳にしました。

ちなみにマロニエ君は、幼少期から成人以降までの多感な時期を含む長期間を2台のヤマハ(中学の時に一度買い換えました)にお世話になって来ましたが、それでも、ついに馴染めず愛着も持てないままのお別れとなりました。
少なくとも国内では、ヤマハはピアノのスタンダードのようになっていますが、マロニエ君にいわせるとかなり個性の強いピアノといえるんじゃないかと思いますし、ほんとうは違う好みの方も実は多くいらっしゃるのでは?という気もします。
それでも、これほどピアノ=ヤマハというような基準が出来上がってしまうと、それを打破するのはよほどの意志力がないと難しいものがありそうですね。

なんだか途中から話が変わってしまったようですが、いつものことであしからず。
敢えて本題に戻ると、練習で酷使するにはヤマハは少々のことではへこたれないという意味で、機械としては向いているのかもしれませんね。
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自分の感性で-2

ずいぶん昔、学生だったころ、まだお元気だった頃の岡本太郎画伯が講演においでになったことがありますが、そこで力説されていたことは、芸術作品に相対するときに大切なのは自分の感覚の反応であり、それに正直になることだというようなことでした。
「人がなんと言おうと、関係ないんだ」「わかるとかわからないじゃなく、何かを自分で感じることなんだ」「それが他の人と違っていてもいい、大いにかまわない!」「そこを恐れちゃいけない!」というような言葉の連発で、多少極端な感じもありましたが、仰せの内容は概ね頷けることばかりでした。

おかしかったのは「日本人は絵を見るときに真っ先にどこを見るかというというとサインを見る」「美しい焼き物を見てもその姿を鑑賞しようとせず、すぐに裏返して銘を確認したがる」「ヘタクソな絵だなあ、なんだこんなもの!」と思っていたらピカソと聞いたとたん「ヘエ〜、ホオ〜!」と手のひらを返したように感心してありがたがる、こんな馬鹿げたことはないんだというような熱弁でしたが、まったく同感でしたが、それは今も一向に廃れていない事実だと思います。

ピアノ選びに話を戻すと、いきなり自分の好みとか言われても、雲をつかむようなものかもしれません。
とはいえ、他人の評価、ブランドへの過度な依存ばかりではダメで、大切なことは弾き比べでしょう。
それをしなければ、日本のピアノ選びには敷かれたレールがあって、まずは大御所のヤマハがあって、ちょっと下にカワイ、でもシゲルカワイは特別でこれだけはヤマハより上、みたいなヒエラルキーがあり、ほぼ選択の余地なく決まってしまいます。

ただ、一部の聞き慣れないブランドのピアノの中には、生産国さえ怪しげなものもあったりするので、本当に粗悪品では困りますが、まずは先入観なしに自分の五感で体験してみて心地良いと感じる楽器をパートナーとして選ぶという基本姿勢があるかどうか、これに尽きるのではと思います。
それが怪しげなものかどうかの調査は、その後でネットなどでやればいい。
とにかく自分でいろんなピアノを可能な限り触れてみて、比較してみないことには始まりません。

日本人の癖ですが、冒険心が薄いというか、むしろこれを嫌がり、おもしろみのない評価だけが高いらしいものを疑問も感じずに欲しがる傾向があると思います。

どんなに変なピアノでも、よしんばポンコツでも、素晴らしい先生がおられて、音楽が好きで、適切な練習を積めば、それがピアノのせいで何かがダメになるなんてことはマロニエ君にはおよそ考えらません。

では、良いピアノとはどんなピアノか?
音がいいこと、弾き心地がいいこと、表現力云々などの通り一遍のことはもちろんあります。
でも、それより大切なのはピアノが嫌いにならないピアノであることだと思います。
なぜわざわざこんな事をいうかというと、そういうピアノがあまりに多く(おまけに信頼も勝ち得て)横行しているから、よほどの意志がなければ、ほぼそういうピアノを買うハメになってしまうのです。

もうすこし具体的にいうなら、弾く人の気分を楽しくさせるピアノ、暇さえあれば触れていたい気にさせるピアノ、どこか生き物みたいで友達のようなピアノ、シンプルに愛着を覚えるようなピアノ、音を出すだけでも喜びで心が慰められ、ますます音楽やピアノを弾くことが好きになるようなピアノ、人の幸福の感情にそっと触れてくるようなピアノ。

悪いピアノはいうまでもなくその逆で、人の感情と交わらずいつも乖離したもの、無機質で機械的で無表情で、耳や神経が疲れる音を無遠慮に出して、結局たのしくないから、最終的にピアノを嫌いにさせてしまうようなピアノです。
しかも、多くの先生方はそんな装置みたいなピアノを「よく鳴る、弾き応えのある一流品」だと思い込み、それがすべての基準となっていて、別のピアノの良ささえもわからなくなってしまっている…のみならず自信をもってダメ出しまでしてしまうのですから、こうなると打つ手はありません。
鳴るピアノというのは、ただギャンギャンいうだけのピアノじゃないということぐらい、せめてお分かりいただきたいものですが、とても無理なので、、やはりピアノ選びはそういう人達は介在させずに、自分で時間をかけて選ぶべきだと思います。

たしかに人に聞いたほうが早いし、簡単かもしれませんが、お気に入りのピアノは恋人を探すぐらいのつもりで頑張ったら、必ずそれだけの価値のあることだと思いますよ。
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自分の感性で-1

楽器として価値あるピアノを選ぶとは、どういうことなのかあらためて考えてみました。
おそらく、多くの方が自分の好みで選ぶという、普通のことをされていないのではないか?と思ってしまうからです。

これが別に電気製品ぐらいなら、他者のオススメや口コミで決めてもいいけれど、ピアノはそう頻繁に買い換えるものでもないし、しかもピアノ次第で、それを弾く人のその後の音楽への関わり方にも大きな影響を与えてしまうものなので、ただ道具として使うのか、楽器と付き合っていくのか、その在り方はさまざまだろうと思います。

自分の好みや感性に合う、これぞという対象が決まっていれば結構なことですが、多くの場合、ピアノを買うといっても、はっきりしているのは予算ぐらいで、さしあたりどれを買って良いのかわからないというケースが少なくない。
それにもう一つの問題は、いろいろなピアノを弾き比べるところのできるピアノ店があまりにも少ないということで、購入者にとっては非常に不幸なことだと思います。
ヤマハもカワイもあるのは自社製のピアノだけで、違いはサイズとグレードと価格の違いだけですから、それじゃあ本当の比較になりませんしね。

それとマロニエ君が感じることは、そもそもピアノを買う動機の多くは、子供がピアノのおけいこを始めたからとか、あるいは電子ピアノからアコースティックピアノにアップグレードしようというようなお勉強目的で、シンプルに音楽もしくはピアノのある生活を楽しむためという一番大事なものがごっそり抜け落ちている感じ。
しかも、このお堅い感じが日本人は好きですよね。
練習して結果を出すための大事な道具だから、シロウトの勝手な好き嫌いではダメで「専門家から見ても間違いないと言われるような、後悔しない、確かなものを買っておきたい」という、一見真面目な皮を被った欲張りが優先され、だから先生や経験者の意見に重きを置くという流れが生まれるのだろうと思います。

先生に相談する人の心理とは、相手は文字通りピアノを教えてくれる専門家なのだから、楽器選びについても詳しいハズで、そのアドバイスに従っておけば間違いないというどうしようもない先入観があり、これがまずもって間違った道に入ってしまう最初の第一歩のように思います。

むろん、先生にも楽器に通じた素晴らしい方はおいでなのですが、しかしそれは極めて例外的なケースであり、大半はピアノの本当の良し悪しなんぞには甚だ疎い方がほとんどで、分かる人の割合は白いライオンが生まれるよりも稀でしょう。

これはピアノだけに見られる珍現象で、他の楽器の場合は楽器の目利きからメンテも自分でやるし、持ち運びもできるから楽器に対する愛着とか、興味や知識が必然的に豊富ですが、ピアノの場合は自分じゃ1cmも動かせないもので、いつも神社の鳥居みたいに同じ場所にデンと身構えているだけ。
内部の調整はお金を払って専門家に頼むだけ。
したがって、常に体だけ移動して楽器はそこにあるものを否応なく使うというスタイルなので、楽器に対する愛情や興味が育たず、いうなれば学校にある運動器具ぐらいの感じじゃないでしょうか?
だからそうやって長年過ごしてきたピアノの先生に楽器の相談などしても、これほどムダなことはなく、むしろトンチンカンな意見によって自分のピアノ選びを邪魔されるだけ。この実態をご存じない方はびっくりされると思いますが、マロニエ君の経験から言えばこれはまぎれもない現実なのです。

ピアノ選びというのは道具選びという側面も少しはあるとしても、大事なことは長いお付き合いのパートナー選びでもあるわけで、だったら恋人やペットを選ぶのにいちいち人に相談して、その通りのものに決定するんですか?といいたいわけです。

ピアノの購入というのはもっと気軽で、直感的で、楽しい気持ちから事を進めていいんじゃないかと思います。
肩肘張らず、あれこれつまらないことに欲張らず、生活を豊かにするためのツールとして、ほがらかにピアノを買ってみようかという気分や環境こそが大切では?

これを買っておけば、上達して本格的な曲を弾くようになっても耐えうる性能を有しているとか、将来買い替えの場合にもこのメーカーなら手放す際も需要があるとか、あるいは教室や先生が使っているものと同じブランドにすることばかりに安心感を覚える、といった価値基準しかなく、先生、技術者、知人や経験者、楽器店の営業マン、ネットの口コミなど、要は人の意見ばかり。
そうなるのは「失敗したくない」という思いに執着しすぎる。

そもそも、ピアノなんてよほど得体のしれないヘンなものでもない限り、明確に失敗なんてことはないし、業者さんは「故障したら?保証は?…」なんて購入者にすれば気になるようなことを仰るけれど、ピアノは昔の輸入車じゃあるまいし、まず故障なんてしませんし、もしも問題が起こったとしても、爆発するわけじゃなし直せばいいだけのこと。

ネットのQ&Aなどを見ていると、取るに足らないようなことが、さももっともらしくネチネチと書き綴られていますが、大半は無知な人を脅して、翻弄して、自分の価値観を押し付けて楽しんでいるようにしか思えません。
あげくに、有名メーカーの新品を買うことが最良で、これに勝る事はないかのごとく言われるのは、あまりにも視野の狭いお話です。
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これはもしや…

この時期に何故?と思うような異様な長雨が続き、コロナとの二重苦で堪りません。

さて、昨年の予定だったショパンコンクールが始まった由で、本選は二ヶ月後という、これまでにないパターンのようですね。
会場も、おなじみのワルシャワ・フィルハーモニーではなく、どこかは知りませんが(調べればわかるんでしょうけど)、よりコンパクトな会場で、ずいぶん雰囲気が違うようです。

皆さんよく動画を見ておられるようですが、マロニエ君はコンクールというものがもともと性に合わないので殆ど見ませんが、そうはいってもショパン・コンクールというのはやっぱり特別だから、それなりの興味はあるけれど、絶えず配信動画を見守ろうというまでの熱意はないので、ときどき思い出したように該当する動画を探しだしては、まだら見をする程度です。

今回注目の日本人出場者は、うわさによれば、反田恭平さんと、ユーチューブで人気の角野隼人さん、それに二度目の挑戦である小林愛実さんでしょうか。

何かの書き込みで「反田恭平さんの演奏がすごかった」というような事を目にしたので、どんなものか聴いてみたくて動画を探しましたが、この手のことがひどく苦手なマロニエ君は、なかなか見つけることができず、昨日ようやくその動画にありつきました。
曲目はノクターンop.62-1、エチュードop.10-8/25-5、マズルカop.56、バラードNo.2。
ベタな曲を上手く回避した、巧みな選曲ですね。

なるほど、反田さんの従来の演奏にくらべるとグッと丁寧さが加わり、はじめのノクターンなどはそれが極まって聴いていることらも苦しいような印象がありましたが、これをなんとか持ちこたえ、次のエチュードになると彼の忍耐がいくぶん解放されたような感じがありました。全体に反田調を封印したコンクール用の演奏で挑んでおられたようですが、途中から少し疲れが出てきたのか、最後のバラードでは彼の本性らしきものもチラチラと出ていたようにも感じました。
これは悪いと言っているのではなく、人によっては「乗ってきた」とみる向きもあるかもしれませんが、マロニエ君には疲労から制御力が少し緩んだようにも感じられました。
それも当然で、世界が注視する中、ショパンコンクールという最高権威の場で弾くというのは並大抵のことではないし、しかもやり直しの効かない一発勝負、おまけに期待の星ともなるとその重圧は尋常なものじゃないだろうと思います。
拭いても拭いてもすぐにまた額にあふれ出てくる珠のような汗がそれを裏付けているように見えました。

率直な印象として(個人的に好みのショパンではないけれど)、これは、もしかしたら彼が日本人初の優勝者になるかもしれないと予感させるものがあり、予選段階から日本人でそんなことを感じたのはこれまでで初めてでした。

というのも、ショパンコンクールというものは、つまるところは圧倒的テクニックが判断の大勢を占める世界だと思うからです。
ただ、その圧倒的テクニックをいかにショパンの作品の現代的枠組みと作法からはみ出さないよう、礼儀正しく用いることができたか、そこに尽きるんだろうと思います。
現代的というのはショパンコンクール向けと言い換えてもいいけれど、昔風のショパンらしい繊細で儚く、詩的で即興性にあふれた表現というものが重要な価値ではなくなり、許される範囲でより華麗にピアニスティックに、そして偏った個性や型破りな解釈などがなく、普遍性をもった完成度とリアリティにあふれた演奏であることだろうと思います。

つまり表向きなんと言おうとも現実にはテクニックが第一、さらにそれをショパンの作品上に問題を起こさないような統御力を兼ね備えたテクニックで安定して弾き進めることができれば勝ち残っていけるのだろうし、最終的に輝き抜ければ優勝できると思うのです。
そのためには審査員の反感を買わないスタイルを遵守することも大切でしょう。

その点では、反田さんはこれらの要件をかなり満たしている人のようで、タフなメンタルもお持ちのようだし、なにより安心感さえ覚えるへこたれないテクニックの裏付けは、これまで常にどこか不安を伴ってしまう日本人にはなかったものかもしれません。
そこが全体として頭一つ出ており、だからこれはもしかして優勝もあるんじゃないかと思ったわけです。
その一例が、並のピアニストなら自分のテクニックをいかに滞りなく発揮されるかに心血を注ぐわけで、疲れてくるとそこに乱れが出たりするものですが、本当に弾ける人というのは逆で、持てる技巧を音楽的な仕上がりのためにセーブすることのほうへもエネルギーを振り向ける。そのため、疲れたり気が緩んだりすると、その制御が危うくなってつい技巧が疾走してしまうわけで、反田さんの場合も後半は少しそれを感じたわけです。
もちろん、それは問題にならない程度のものではありましたが。

彼は(叱られるかもしれないけれど)決して美しいとはいえないちょっとアウトロー的な異質な風貌と、ピアノにうってつけの大きな手がもたらす技巧的優雅など、ビジュアルのインパクト性にも事欠かず、いうなれば不思議なスター性があり、これらは他の日本人出場者のだれもが及ぼない要素となっているようにも思います。

ネットによると、すでに予選は終わって結果が出ているようですが、反田さんは当然としても、なんと13人!もの日本人が通過していることに、相変わらずの苦笑を禁じえませんでした。
端から優勝など目指さず、ピアノに打ち込んできた自分の思い出作りに出場する人が多いのは日本は世界随一で、故中村紘子さんも著書の中で、そのような心持ちでワルシャワにやってくることに目を丸くしたようなことを書いておられたことを思い出します。

もちろん、コンクールじたいが応募資格さえ満たせれば誰が出てもいいものではあるのだけれど、「小さい頃からのあこがれで、ワルシャワのあの舞台で弾けただけでも感激ですぅ…」みたいな言葉を残して、大半が去っていくのは、個人的にはなんだか奇妙にしか思えません。

今回は本選が二ヶ月後というのは、それだけ練習時間がたっぷり与えられたわけでもあり、それだけに後半はより高度な戦いになるのかもしれません。
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ピアノはピアノ?

このところ、技術者さんとの会話やピアノ好きの方とのメールのやりとりを総合すると、近年のピアノがいかに安価に、使い捨ての道具のように割り切って作られているかを、あらためて再確認させられました。
楽器としての価値をスッパリと見切って、原価と生産効率の追求が再優先、もはや格安家具に近いものと考えておいたほうがいいようです。
ちなみにこれは日本のピアノメーカーの話であり、海外メーカーのことはよくわかりませんが、こちらもウワサでは高級品でも驚くような事実もあるようですが…。

まず大前提として言えることは、「ピアノの大半は木で出来ている」というほぼ常識であったはずのものは、すでにして早い時期に崩れ去ったということがあるようです。

大きなものではボディの主たる構成部分から、果ては小さなパーツに至るまで、我々が「木で出来ている」と信じて疑わなかったものは、安価な合板やMDF(木のクズやチップを使って整形したもので、ホームセンターなどで安く売っているもの)が当然のごとく使われるのは常識、それらが厳密に木であるか否かは議論の余地はあるとしても、少なくとも普通の人が普通にイメージするような「木」ではないことは確かなようです。
そして、そういう事実に今さらいちいち驚いたり嘆息したりするほうが、時代遅れのウブで無知といったところまで事態は進んでいるようで、技術者さんでさえすべての方が認識されているわけではないようです。
(場合によっては、塗装屋さんなどのほうが詳しいこともあるようです)

木のしなりが命のハンマーシャンク(ハンマーヘッドに繋がる細い棒)や鍵盤は辛うじて木ではあるものの、ある方の指摘によれば、鍵盤などは一枚の無垢材ではなく、なんと継ぎ接ぎだらけの成型材を、鍵盤のカタチにカットされたものが使われ(写真なども見せていただきました)、まるで年度末の道路工事の補修後のように、並べられた鍵盤のあちこちに違う色や木目が混在しているのが見られます。
しかも鍵盤の縦方向ならまだしも、横方向!?!にもこれがあり、強度や重量バランスなどシロウト目にも不安を覚えるようなもので、これはもはや楽器として末永く大事にするに値するようなものではなく、音階の出る安価な家具やインテリアに近いものとして割り切っていたほうがいいのかもしれません。

ちなみに、これは名も知れぬアジア製などではなく、れっきとした有名メーカーのピアノの話です。

ただし、一説には無垢材には変形などのリスクもあるようで、中には強度や変形防止という正当な目的の場合もあるのかもしれませんが(ピン板などがそうであるように)、それにしてはあまりにも不自然で、どう見てもコストダウンであることは疑いようのないものです。
さらに驚くべきは、少なくとも1980年代バブルの頃にはこういう手法による製造は始まっていたようで、バブルの時代といえば後先考えずに高級品をバンバン作っては右から左に売れていたという狂乱の時代かと思っていたら、こういうごまかしのアイデアや技が着々と発展進行していた時期のようで、その点では根本的にこちらの認識が間違っていたとも言えそうです。
バブル時代とは、金儲けのためにはどんなことでもアリというのが正当化され、良心も誠実さもどこかへ吹っ飛んでいた時代なんだと認識を改めるべきなのかもしれません。

以前書いた、響板(打鍵がピアノの音に変換される、楽器として最も要の部分)がベニヤの積層材というのも写真を見ましたが、これがまたホームセンター並のベニヤのようで、ひどいのではカモフラージュのための木目シールさえも貼っていない開き直りみたいなピアノまであり、そんな冗談みたいな素材の寄せ集めでも、一定の工業技術をもって組み立てさえすれば、ともかくはピアノらしき音にはなることは、ひとつ勉強になりました。

以前、とある演奏会でピアノの音があまりにひどくて「響板はベニヤかと思うほど」と書いたことがありましたが、いま思えばそれは本当にベニヤだったのかもしれないと思います。

蝦夷松だ、シレサだ、どこそこのスプルースだ、自然乾燥だというようなことは、一部の音質向上を追い求める別次元だけの話で、普通にピアノの音らしきものが出ればいいだけなら、これでじゅうぶんという考え方なんでしょうし、それに対してクレームも出ないし、もし不満な人は高級品をドーゾということでしょう。
表面だけきれいに塗装され、そこに有名メーカーのロゴが光っていて、メカニズムの不具合さえなければ、それで安心するのでしょうね。
考えてみれば、数万円のヴァイオリンだってそれなりの音が出て、いちおうの演奏機能は有するわけだから、ピアノも同様ということならわかりやすいですよね。

いくつか目にした写真などは、そんな現実を嘆いた技術者さんがそっと写真をアップされているものだったりで、所有者にはとても伝えられないでしょうし、そういう実態を常に自分の胸に収めておかなくてはいけないというのは、志ある技術者ほどストレスで、ブログなどで少しずつ吐露されているような気がします。

そもそも冷静に見れば、今どきはピアノなんぞ生活必需品どころか、騒音を撒き散らす迷惑品。
防音室やサイレント機能は必要でも、楽器本体に隠された事実がなんであれ、ほとんどだれも興味はないのでしょうね。

考えてみれば、世の中ほとんどのものが効率化とコストの波に晒されているというのに、ピアノだけはピアノらしく作られていると思っている事のほうが、むしろおめでたい幻想だといわれれば一言もありません。
ただ、それならそれで、「人工木材使用」など、もう少し事実を明かせばまだ救われますが、現代のピアノはあまりにも秘密や虚飾が多すぎですね…。
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旧型新型

NHKには硬軟あわせて、クラシック音楽を取り扱う番組がいろいろとありますが、その最も入門風の番組のひとつが終了し、それに代わる新しい番組が、タイトルもMCも一新してスタートしたようです。

はじめは、これが「あれの後継番組」ということにすら気づかず、建前としては「後継番組ではない」という前提なのかもしれませんが、事実上はやはり後継でしょう。
マロニエ君に言わせるとその内容というのは、あきらかに以前のものより見劣りの甚だしいものになりました。

MCである某演奏家は前番組にもしばしばゲスト出演され、タレント顔負けのテレビ的トーク術やふるまいが番組制作者の目に止まって、ついにひとつの番組を任されるまでにご出世あそばしたということなのか。

数回ほど視ましたが、あまりのつまらなさに我慢の限界を感じ、ついには録画リストからも外すことに。
クラシック音楽を主軸にくだいてわかりやすく楽しい番組にするという番組のありかたは結構なことだと思うけれど、どう考えても前の番組のほうがはるかに楽しめたし、シンプルながら内容があり、そこから学ぶべき点も多々ありました。
そんな美点が新番組では大胆にえぐり取られ、ただ大衆に媚びるようなようなものになり、テレビ界のことは知らないけれど、目先のウケ狙いばかりで、MC役の俗っぽさが中心の番組にしか見えません。
スタジオの装置もやたらごちゃごちゃと雑貨屋のようで、目にうるさく、視線も内容も焦点が定まらず、こうなってくると番組が何をいいたいのかさえも、もはやわからないけれど…まあそれはこれぐらいで。


話題を変えて、先週は知人が購入したイースタインのBが、整備というか調整にもあらかた一区切りがついたということで、見せていただくことになり、現在ピアノが置かれている倉庫に行ってきました。
技術者さんの惜しみない尽力の甲斐あって、なかなか好ましい、生まれの良いピアノであることがより鮮明となり、やはり昔のピアノは誓って懐古趣味ではなく素晴らしい資質があったということを再確認することに。

長旅を経て届いたばかりのときは、まだどこかよそよそしい感じもあったし、なにしろ60年という長い年月を過ごしてきたピアノでもあり、近年はほとんど弾かれることもなくなっていたとかで、深い眠りから未だ醒めずという印象も少なくありませんでした。
それでも、その中からなんとも美しい上品な声が聞こえてきたことは、以前にも書いたとおりです。

それが、こういった古い良質なピアノがお好きな技術者さんが腕まくりされて、数日にわたる入念な整備・調整を受けることで、往時を偲ばせるような輝きを、かなりいい線まで取り戻したという感じでした。

このイースタインも、我が家でお預かりしているワグナーも、ともに約60年を経過したピアノですが、弦もハンマーも新品時のもののようですが(酷使されなかったということもあるかもしれませんが)それでとくに不足はなく、麗しい美音を響かせて、今も人を楽しませてくれています。
少しお歳は召したけれど、まだまだ充分に美しく、上品な言葉遣いや所作の美しさは健在といった感じです。

この2台、実はここで書くのがちょっと憚られるような破格値でした。
それに運送費や整備を加算しても、普通の中古ピアノよりお安いプライスでした。
にもかかわらず、ちょっと他には代えられないような素晴らしい本物の音を奏でており、これって何なんだろう…と考えさせられるものが大いにありました。

これよりも比較にならないほど高額の、しかも、まともに木材さえ充分に使っていないような工業製品としてのピアノが、その実体に反して信頼と支持を集めて堂々と売買されるという事実。
世の中にはこういうことはいくらでもあるんだと言われればそれっきりですが、だとしてもあまりに釈然としないものがあることを、あらためて学んだような気もします。

とりわけ、最近のピアノを構成する材料の質の低下は、巷間思われているどころではなく、「低下」という言葉さえ適当ではないないほどのものになっているようです。

いつだったかTVニュースでウナギがとれないからといって、ナマズや魚のすり身をそれに見立てて、いかにもそれっぽく、タレをつけて蒲焼きにしてご飯の上にのっけて、それを「おいしい!ほとんどわからない!」などといって楽しげに食べている様子を見たことがありますが、ふいにそんなことを思い出しました。
それをわかって楽しむぶんにはいいけれど、そうとは知らされずに食べさせられて、そこにウナギと同じ値段を要求されたんじゃたまりませんよね。
ただし、そうなると「ピアノの定義とは何か?」という事になって、そこを法的に突き詰めればこちらが負けるのかもしれませんけどね…。
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楽譜を新調-補筆

先回、楽譜のことを書いたのでそれにまつわること。

マズルカの楽譜を新調したパデレフスキ版は、製本は日本で行われたものだったので、むかしの輸入品のような品質(紙質も悪く、破れやすかったり、どうかするとページが外れたり)からすれば、ずいぶんキチンとしたきれいな本です。
それでも、本としてはまったく問題がないわけでもない。

紙の綴じ方の大事なところに歪みみたいなものがあるのか、どんなに強く、何度ギュウギュウに開いても、いつしかぺら〜んとめくれてきたりと、つまらないところで使いにくい。
また、国内出版社の楽譜は印字・印刷が鮮明で見やすいのに対して、パデレフスキ版は、全体にぼやっとしていて、これが日本並みにきれいだったらどんなにいいだろうと思います。

その点では輸入物はあまりきれいじゃないことのほうが多く、中でもフランスの楽譜などは音符は小さく、おまけに何度もコピーを重ねたように不鮮明で、まるで際どい筋から手に入った極秘文書のよう。よくあんなもので売り物になるなぁと思うし、最近は買わないけれど昔のペータース版などは、紙はバサバサであっという間にぼろぼろになり、一冊などはついに真ん中から真っ二つにちぎれてしまったりと、それはもう惨憺たるものでした。

また出版社によっては、糊がはみ出して、ページによってはそのはみ出した糊部分をわずかに破りながら開かざるを得ないものがあったりと、まあとにかく満足なもののほうが少ない印象があります。
そういう意味では日本の楽譜は、海外物に比して日本製品がいかに良心的な作りかと思わせる確かなクオリティがあり、楽譜ひとつからでも、あまたの日本製品が海外で高い評価を得ている理由がわかる気がします。
その点では、印字の鮮明さやページの美しさ、製本の確かさ、妥当な金額と内容の信頼性というトータルでは、ウィーン原典版などは総合点は高いですが、あれも日本で製本されているものなので、これも日本製と見るべきか?

製本や紙質、使いやすさでは、全音楽譜出版社のものはさすがに安定しており、開くのにもさほどの苦労もせずに済むし、それなりのタフさも備えていおり、おそらく使い勝手や耐久性も考慮されているんでしょうね。
音楽之友社もそれに準じるし、総じて日本のものは使いやすく、かつしっかりしている感じでしょうか。
輸入物ではヘンレ版などはさすがはドイツ製故か、まあまあ使いやすく、内容的な信頼度は高いけれど、むかしは今よりも質は劣ったし、例えば海外のものはどうして表紙をもう少し厚手の頑丈なものにしないのかなど不思議です。

とにかく楽譜でいやなのは、クリップで留めるか、他の楽譜で左右を押さえるかしないと、開いた状態がどうしても維持できないもので、弾いている最中に、絶えずそんな余計なエネルギーを使わされるのはゴメンです。中には相当頑固に、まるでこちらに反発してくるような楽譜があって、必要なページを安定して開くだけでも、力の限り押し付けたり、楽譜そのものを逆方向にへし折れるほど強く曲げたりと、ほとんど虐待に近いようなことをあれこれやってみますが、それでもなかなか思い通りにはなりません。

たとえば春秋社の楽譜などは製本が頑丈なのはいいけれど、これが楽に使えるようになるには「数年」はかかり、やっとそうなったときには、楽譜の方ももうヨレヨレです。

これまでにも何度か怒りも極まり、アイロンでもかけてみようかとか、金づちで叩いてみようか、あるいはダンボールに挟んでクルマで踏みつけてみようか…などとあれこれ思ったこともありますが、そこまでしたらさすがに本が壊れそうで、まだ実行には至っていませんが。

楽譜というものは、まず譜面台に置いて必要なページを労せず見られるということが、基本的な機能であるはず。
そんな当たり前のことができないために、なぜこんなよけいな苦労をしなくちゃいけないのかと思うし、これは子供の頃から長年不便に感じていることですが、いらい何十年経とうとも、巷ではどんなに技術革新がおきても、こんな単純なことが旧態依然として変わらないのは、まったく解せません。

最近は、その解決の一つなのか(本物は見たことがありませんが)テレビや動画でよく目にするタブレット端末に楽譜が映しだされ、それをピアノの譜面台のあたりにピョコッと立てて、演奏しながらチョンと指先で触れると先のページに進むようですが、あれもなんだか…。だいいち、必要時に書き込みなんかできるんですかね?

プロのピアニストが、他者との共演とか暗譜が完全でない場合に、補助的に見る程度の事なら便利なのかもしれませんが、個人的に鑑賞者の立場で言わせてもらうなら、本番の演奏でああいうものを使っている光景というのは、偏見かもしれないけれどビジュアルとしてはあまり心地よくはありません。
いま演奏している人が、手はピアノの鍵盤上を動きながら、目は液晶画面ばかりを見ているということが、スマホなどに通じるものがあって肌感覚でいやなんだと思いますが、これがつまり「偏見」なのかもしれませんね。
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楽譜を新調

いつだったか、どうしようもないナマケモノのマロニエ君としては、珍しくショパンの難儀なマズルカ(op.59-1/2/3)を仕上げることを目標にしてさらっていると書きました。
その進捗と成果のほどはおよそ自慢できるようなものではないけれど、柄にもなく久々に頑張ってみるのも悪くないというような気になり、ひところやっていましたが、また最近はモチベーションが降下。
とはいえ、自分にとって少し荷の勝った曲(ここが大事で大曲などはダメ)を丁寧にさらって、細部まで詰めていくというのはとてもためになるということを身をもって実感できました。

それにまつわる楽譜のお話。
我が家の楽譜は安さと手軽さから国内版が少なくなく、これぞというものは気に入った輸入版を買い増ししていました。
ショパンでも大事なものはパレデフスキ版などを使っていたのですが、マズルカは非常に大事なのに国内版の全音版と音楽の友社版と春秋社版しかなく、ここはちょっと油断していました。
マロニエ君はもともとの考えとして、ろくに美しい演奏のための真の研究もしないで、ただ楽譜の版にだけこだわるのは、どこか「木を見て森を見ず」という気がしていたし、むしろ、それにとやかくいう人に限って、音楽の最も大切な作法をわきまえなかったり、版云々とはほど遠い演奏をされるものだから、ますますこの点に反発を覚えるところがありました。
「自分は一定以上のレベルを有し、版の些細な違いを重視するほど専門的なんだ」というポーズの趣があり、それが鼻についてばかばかしいと感じることしばしばでした。

むろん、どの版を使うかが大事じゃないとは言いません。
でも、それ以前にもっと大事なことは、作品の本質や美しさに敏感であることで、どんな版の楽譜からでも、いわばその条件の下で、美しい音楽的な演奏ができるよう努めることのほうがはるかに大事だと思っているし、その基本は今も変わりはありません。
どんな楽譜を使っても、妙なる調べやフレーズの歌いまわし、全体のニュアンスや個々の作曲家の個性をセンスよく捉えて、自分の解釈とし、それを出す音に置き換えることは、版をあれこれいうよりもっと手前にある根本問題だと思うのです。

アンドラーシュ・シフの著書によると、かのアニー・フィッシャーはそういうこと(版)にあまり頓着せず、なんでも弾いていたとあり、しかもそれが彼女の手にかかると、あれだけのかけがえのない素晴らしい演奏となるわけだから、本当に大事なものは作品から何をどのように汲み取るかだと思います。

基本はそういう考えなんですが、さすがにそれまで使っていた全音版は、事細かに見だすと問題も少なくないことが次第に浮かび上がってきました。
校訂を専門家に丸投げしているのか、フィンガリングなどやたら教義的で実際の演奏に即したものとは思えず、必要以上に指を変えたり、特定の動きにこだわったり、なんでわざわざこんなに弾きにくい指使いに固執するのか納得出来ない点も多いように感じました。
音楽の友社版のフィンガリングはこれとは対照的で、およそ工夫というものがなく、本当に作品を美しく弾かせるためには違うような気がしたし、春秋社版に至っては使う気にもなれず、そんなこんなで、これまでの経験から一番好きだったパデレフスキ版を買うことにしました。

今、ショパンの楽譜を新調するなら、多くの人(とくに学校関係者やそれに連なる人たち)はエキエルのナショナルエディションを一押しとするのでしょうし、たしかショパンコンクールなどでもこれが指定でしょう。
いくらかは持っているけれど、あれは…どうもあまり好きになれないのです。

マロニエ君ごときがいうのもおこがましいけれど、ショパンの楽譜としては多くの資料や研究結果の集成として、現在では最高権威のような地位に登りつめ、学術的に見たら最善なのかもしれないけれど、なんだかしっくりこないし、何が何でもショパン解釈の覇権をポーランドが握るんだという執念みたいなもののほうを強く感じてしまいます。
ショパンのセンスや美意識という観点からするといまいち違和感があって、こっちはただ好きで勝手に弾いているだけなんだから、やはり好きなものを買うべきという結論に達して、値段はほとんど同じでしたが、店頭で比較してパデレフスキ版にしました。

さて、そのパデレフスキ版ですが、まずフィンガリングが合理的で、すべてを縛らず、自由なところは自由にさせる。
しかも、装飾音やアクセントなど大事な点はよりショパンらしさが強調できるようなものになっているところなど、さすがだと思います。
音の間違いと思ったところや、数種あってこれが一番いいと感じていたもの、これはおかしいんじゃないか?と疑問に感じていたところ(しかも日本の楽譜はそういうところは、どういうわけか?妙に共通していたり)などが、ほとんどこちらの思惑通りに記されていたりと、同意できる点が多いのはやはり快適で、やっぱりこれにしてよかったと思いました。

それにしても近ごろの楽譜はお高いですね。
昔から楽譜は安いものではなかったけれど、最近は数が出ないのか、ずんと値上がりして薄いものでも数千円したりで、軽い気持ちでの衝動買いはできません。
ヘンレ版のベートーヴェンのソナタを今揃えようとしたら、軽く1万円オーバーですから、おいそれとは買えないものになりました。それでも全ページ数からすれば、まだ安いほうかも。
価格的な理由から、変な国内版を買う人も多いようですが、気持ちはわかります。
いちど隣県の田舎のブックオフで、どういうわけか未使用のヘンレ版の楽譜がズラリと並んでいて、価格も1/3ぐらいだったので、つい目の色変えて、ふつうなら必要ないようなものまで買ったこともあるほど。

ちなみにショパンのマズルカ全集は、ナショナルエディションもパデレフスキ版も、ともに4000円強といったところで、ひきつるほど高額ではありませんでした。
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戦慄の事実

知人から、ヤフオクの中にびっくりな記述があったということで教えていただいたのですが、それは…ちょっと笑い話では済まされない戰慄の内容でした。

書かれたのは、以前からいろいろなピアノの出品を続けておられる技術者の方ですが、おそらくどこにも属さず、ご自身の工房でさまざまなピアノの整備や修理をされ、必要な場合には塗装も施すなどしてコツコツ仕上げては、出来上がったものを順次ヤフオクに出品されているようです。
他では見ることのないような珍しいピアノがあるので、マロニエ君も以前からなんとなく注目していた人です。

その人があるピアノの説明の余談として、次のようなことを書いていました。
古いピアノの「響板の割れ」についてです。

人様の文章なので、そのままコピペというわけにもいかないので、マロニエ君なりに書き換えてご案内すると、まず、古いピアノには響板の割れというのがあるが、それらは衝撃などで物理的に割れているものではないこと。
響板は柾目に切り出された松やスプルース材が貼り合わされて一枚の響板となりますが、これが古くなると木が縮み、その結果、貼り合わされたところにわずかな隙間ができることを「響板割れ」というけれど、これは音にはさほどの影響はないという説明でした。

これを補修するには、隙間部分を整形して(削って広げて)埋め木をしていくわけですが、そのためには全ての弦を外しての大作業となるために、費用も中古ピアノがもう一台買えるほどの金額になる。
なので、響板割れ(言葉が適当とは思いませんが、経年によって生じる隙間)は楽器本来の価値を大きく損ねるものでもなく、あまり気にする必要はありませんよという意味のようです。

で、ここからが本題ですが、さらに余談のようなかたちで響板の話が続き、これが衝撃の内容なのです。
曰く、この方は最近、某大手メーカーの廉価モデルを廃棄するために解体されたそうですが、響板をハンバーで叩いても割れないので、さすがは世界的な某社だと感心していたら、なんとそれは普通のベニヤ合板の上に、いかにも松材の響板であるかのような化粧板が貼られていただけのものだった…とありました。
「まさか!?」と言いたいところですが、マロニエ君は「それはあるかも…」というのが素直な印象でした。
そもそも、この方がネット上で匿名でもないのにわざわざウソを書いているとも思えませんし、同社の化粧板加工や木工技術は世界に冠たるものだから、そういうふうに見せかけて作るなどは造作も無いことでしょう。

ここでは廉価ピアノとあるので、同社のピアノがすべてとはいいませんが、大切な木の繊維を壊してしまう人工乾燥でさえ疑問視されているというのに、ベニア合板の上に松材の化粧板を貼り付けてウソの見た目を作り出すなんざぁ、いやしくも世界に冠たる楽器メーカーが絶対にやってはならないことだと思いますし、もはや近隣他国の粗悪品を云々する資格ももはやありません。

実はマロニエ君は、かねがね某社の近年のピアノの音を「響板がベニヤなんじゃないかと思うような音」と幾度となく口にしてきたものですが、それはあくまで比喩的な表現のつもりで、まさか本当にベニア合板を使っていたなどとはさすがに思わず、せいぜい普通ならハネられてしまうようなものでも、平然と使っているのだろう…ぐらいな程度でした。
しかも廃棄するほどのピアノということは、新しいものとも思えず、ずい分前からやっていたことと思われ、それなりの長い実績があるのでしょう。
世に欠陥住宅というのは裁判沙汰にもなって有名ですが、欠陥ピアノというのは問題にはされません。べつに人命に関わることでもないし、それっぽい音が出てさえいれば問題発覚の恐れもないということなんでしょうか。

何年も前、とある小規模会場の演奏会で、そのメーカーの高級機とされる中型グランド(しかも新しいもの)が使われましたが、これがもうウソみたいにひどい音で、うるさくいくせに鳴らないし、フォルテではたちまち音が割れるなど、聴く喜びとは無縁のピアノで、しかもレギュラーシリーズより遥か高額なモデルということを思うと暗澹たる気分になりました。
また、別の機会では、同社最新中型機種でしたが、これまためっぽう鳴らず、ピアノの周辺でだけ電子ピアノ風の貧弱な音がしており、コストダウンによる弊害がついにここまで来たかとも思いました。
それでも近づいて眺めれば、キラッキラの高級車みたいな完璧な作りで、今どきの見せるためのインテリアとしてなら充分に役目を果たせそうなものでした。

その完璧な見映えの裏に、果たしてどんないかがわしい事実が隠されていることやら、考えるだけでも恐ろしい。

とくに運送屋さんとか塗装屋さんはお詳しいようで、上記のような事実が判明するのは、解体時やめったにない運送事故などで外装の大きな損傷を修理をするときなどに、アッと驚くような事実を目の当たりにされるようです。
音に直接関係ない足や譜面台や大屋根などは木ではなく、人工素材というのはいまや業界の当たり前かもしれませんが、まさか直接的な音の増幅装置でピアノの命ともいえる響板までベニヤ合板を使用し、見える部分には木目の貼りものをするという悪質さに至っては、驚きを通り越して詐欺行為に近いのでは?と思います。

逆に言うなら、しっかりしたピアノの構造とある種のノウハウと工業的に高度な製造過程をもって作れば、響板の材質がなんであってもそれなりの音になるのかもしれないし、現にカーボンの響板とかでもちゃんとピアノの音にはなるというようなものを動画で見たこともあるので、あとはいかにそれをもっともらしい音に整えるかというところに現代の高度な技術が注がれている気もします。

そういえばこのメーカーのカタログには、抽象的な美辞麗句はふんだんに散りばめられてはいても、具体的にどういう響板を使っているかは、これまで一度もはっきりした記述を見たことがありません。
普及品に対してプレミアムは、「より高品質な材質が使われて、弾く人の表現力をさらに…」みたいな言葉ばかりです。
いざというときの訴訟などに備えて、不利になる言葉は一切使わないということのようにも思えてしまいます。

そういうメーカーがあいも変わらず信頼され人気がある一方で、良質の木材を使って真っ当に誠実に作られた昔のマイナーメーカーのピアノは、鼻にも掛けられないままガラクタ同然の扱いを受けるとは、まさにこの世は無常としかいいようがありません。
近い将来、普通のエンジンの車はなくなると言われていますが、木で作られたピアノも同じ運命なのかもしれません。
ますます昔のピアノは大切にしないといけないという思いが強まるこの頃です。
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ワグナー4

ワグナーピアノはすでに書いていますが、オーナーはベテラン技術者さんであり、マロニエ君はあくまでそれをご厚意で拝借しているにすぎませんから、自分のピアノのように、そうそうあれこれと注文をつけるわけにもいきません。

倉庫での作業が早めに終了せざるを得なくなったこともあってか、搬入いらい、我が家に場所を移して二度にわたってずいぶん長時間調整を重ねられ、お陰様でかなりまとまってきたように思います。
二度目の調整の終わりごろ、次高音にちょっと気になるところがあり、そこを少し指摘したところ整えては頂いたのですが、それでももう少しという感じが残りました。

しばらくこれで弾かせていただこうと思いながらも、どうしても気になって恐る恐る連絡してみると、快く応じてくださり、なんと三たび工具カバンを手に訪問してくださいました。
こっちはお借りしている立場というのに…申し訳ないといったらありません!

ピアノに向かうなり、マロニエ君の気になっている点はすぐに了解していただき、さっそく整音が始まりました。
技術者さんもできるだけ納得した状態にしてあげたいという、その広いお心が身にしみます。

はじめはチョチョッと針刺しでもして、すぐに終わるだろうと思っていたら、だんだん作業にも熱が入り、気がついてみるとわずか1オクターブぐらいの整音だったものが、さらに左右に拡大し、2時間ちかく手を休めることなくやってくださって、果たして半音階で試しに鳴らして見られるだけでもハッとするほど、一段と上品な音になりました。

やはり、ピアノというのは整音ひとつでも、技術者さんが正しい方法で入念にやられると、それだけの結果がしっかり出るものだということがあらためてわかります。
しかし、それには技術者さんの手間と時間、すなわちコストがかかることなので、時代とともにそれを容赦なく省く潮流となってきたことは、実力を発揮できないままの状態でユーザーのもとに届けられるピアノが多いということでもあり、これはピアノにとっても弾く側にとっても非常に不幸なことです。

ピアノの入念な調整や仕上げは、極めて大事だけれどそれだけ人手を要し、しかも結果は弾く人全員がすぐに理解できるとは限らないものなので、見方によっては費用対効果が低く、しないならしないでもビジネスは成り立つという割り切った考えに拍車がかかったのでしょうね。
故障ならともかく、今どきのように極限までコスト/効率を追い求める時代には合わない仕事なんだろうと思います。

ところで、これまで書き落としていましたが、ワグナーピアノの驚くべき点はいくつかありますが、そのひとつとして全音域すべてがしっかりと力強く鳴るところだろうと感じます。
普通はグランドと言っても低音になればなるほど巻線特有の情けない音になって、ビーンとかゴンとかいっているだけのピアノもあれば、高音域も最後の1オクターブなどはカチャカチャいうだけで、パワーも音程も減退する場合が多いけれど、ワグナーはその両端まで少しも曖昧になるところなくしっかりした音だし、高音は最後までパチッとした目の覚めるような音が冴えわたり、音程も明快で曖昧なところがありません。

こういう高音域の張りのある美しさは、たとえばラヴェルのピアノ協奏曲の第二楽章の後半など、繊細な音階の美しさが止めどなく続くような曲では(ちゃんと弾ければの話ですが)、明晰とデリカシーが両立して、ハァァとため息が出るようです。

具体的なお名前は出さないでおきますが、フランスで学ばれて一時代を活躍された日本人ピアニスト(今春、天寿を全うされた由)のCDに、2台のプレイエルを使って録音されたドビュッシーのアルバムがあります。
どうやらご自身所有のピアノでもあるようですが、そのうち前奏曲集第一巻の演奏に使われているのは1962年製のプレイエルの小型グランドの由です。

プレイエルは戦後経営難が続いて、1970年代にはドイツのシンメル社に生産移管されて、ついには名ばかりのプレイエルを作るに至りますが、そういう意味では最終期のフランス製だということだろうと思われます。
とはいえ、この時代のプレイエルは苦境に喘いで他社と合併などを繰り返すなどして、これをもって真正プレイエルを名乗るには、いささか疑問視されるところも感じます。

演奏はフランス仕込みのさすがと思えるものですが、ピアノ自体の音はというと、悪くはないけれどとくに見るべき点もなく、かつてのようなフランス的な享楽と憂いが同居しているわけでもなく、響きもごく普通のややくぐもった印象。
それに比べたら、広島製ワグナーは、音色そのものは往時のプレイエルのようななまめかしさや、エラールのような端正さとは違うけれど、少なくとも湧き上がってくるような響きの点など、たとえば「沈める寺」など、こっちのほうがはるかにおもしろいピアノだったかも…などといろいろと想像させてくれます。

広島製ワグナーの生産が途絶えた1960年代あたりから、大手大量生産のピアノの台頭も佳境に入り、その多大な貢献は計り知れないものがあり、とりわけピアノの普及という点では圧倒的だったと思いますが、同時にこういう楽器臭や個性を色濃く感じさせるピアノが生き残っていられる環境が少しでもあったなら、日本のピアノ界も今とはずいぶん違ったものになっていたことだろうと思うこの頃です。
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ワグナーピアノ3

ワグナーピアノ、その後の経過など。
早いもので、このピアノと付き合って二週間以上が経過しました。

現代では、いろんな意味から、おそらくもう作れないだろうという魅力ムンムンのピアノですが、出だしは調整が未完であることなど、音やタッチがもうひとつ揃ってくれればというところもありました。
それが、湿度管理をやっている部屋で数日ほど、弾きながら過ごしていくと、音が一定程度収束していく感じがあり、そのあたりがピアノとはおもしろいなぁと思います。

音のひとつひとつに振動を感じ、響きは水面に雨が落ちるたびに波紋が広がるようで、友人がふと口にした「余韻がある」というのは、どうやらその一言にこのピアノの特徴が集約されたところがあり、興味のない人からの素直な印象というのは意外に核心を付くものがあって感心してしまいます。
また、鳴りのパワーは相当なものがあり、例えば大屋根を全開にせず、前屋根だけを開けて弾くと、奥からこっちへ向かって、風の吹き出し口のように音が一斉にこちらへ押し寄せるようで、それに戸惑うことも。

特徴的であり意外でもあった点のひとつは、昔のピアノは概ねタッチが重いというイメージでしたが、ワグナーはむしろ軽めで、とくに中音から高音にかけてのタッチはハラハラと軽く、そのおかげを被っていかようにも軽い音色が試せるのは、現代のピアノにはちょっと望み得ないところだろうと思います。
それもヤマハのような優秀なアクションが有する軽さとはかなり趣がちがうもので、もっと根源的な部分での軽さは、なにか気持ちを優しく浮き立たせるものがあります。
ちなみにアクションはRenner製。
この軽やかなタッチのおかげで、自分の腕では、かつてできなかったようなことが可能だったりで、ささやくようなトリルや装飾音もスルリと入ってしまうなど、まるで戦前のピアノのようです。

ある夜、今夜こそはと思い定めて少ししっかり弾いていました。
すると、はじめはどこかよそよそしい感じもあったのが、1時間ほども経ったころでしょうか、こんなに古いピアノでもタッチや音がよりほぐれて、楽器全体がこちらに近づいてくるものなんですね。
尤も、まとめて弾くといったって、持久力ナシのマロニエ君には2時間がせいぜいで、これが練習できない最大の問題。
それも恥じ入るばかりではあるけれど、下手なくせして毎日数時間弾きたがるなんぞは甚だしく迷惑行為だと思っているので、ちょうどいいところかもしれません。

とはいえ、これぐらいでも弾いてみるとピアノもさることながら自分の指も明らかに硬さが薄らいでくるので、ずいぶん楽に弾けるようになり、そこに達したときはたしかに嬉しいことも事実ですが、いつもそこにもってくるなんて芸当はゼッタイにムリ。
楽譜を見ながらトロトロと普段弾かないワルトシュタインなんかを通して弾いてみたら、ピアノも指もかなりほぐれて、ああやっぱり日常的に指を鍛えなきゃダメなんだ!とわかりはしますけど…。

ワグナーの話に戻ると、やはりベートーヴェンは壮大な中に緊張ありロマンありで、和音やフォルテなど強烈な一撃が必要なところなんかも随所に出てきますが、そんなときにこのピアノはいかようにも応えてくるのは驚きです。
夜も更けてきたので、さすがに音を落としてあれこれ弾いて、最後はソフトペダルを踏んでショパンのノクターンなどを弾くと、こんなにもやわらかで静謐な世界があったのかと思うほど繊細で、このピアノ、現在のコンディションとしては結構バラバラなところもあるけれど、その潜在力には恐れ入ってしまいます。

今どきの普通のピアノは小利口にまとまってはいるけれど、強烈な一撃など欲しくても底をついて破綻してしまうか、かといって風にそよぐような繊細な表現をしたくても(自分の腕はさておいて)なかなか応じてはくれません。
ワグナーピアノに触れてみると、現代のピアノは一定のところまでは尤もらしくブリリアントな音がでたりしますが、いかに表現の幅や弾き手のイマジネーションがごっそりと失われているかがよくわかります。

いま感じているワグナーの最大の美点は?というと、必ずしも一音一音が美音で素晴らしいというのではないけれど、正味の楽器であること。そして、楽器としての本当の響きとは、いかに魅力的で、楽しくて、気持ち良いことかを理屈抜きに教えてくれるところでしょうか?
この気持ちよさは、止めてもまた弾きたくなる不思議な磁力みたいなものがあり、ちょっと時間があればついまた触れたくなるのです。
ワグナーが来てからというもの、他のピアノたちとはちょっと疎遠になっています。
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イースタインB

このブログの6月9日に「告白」というタイトルで書いた、イースタインの銘器B型は、ワグナーピアノの出現により涙をのんで諦めましたが、「捨てる神あれば拾う神あり」の喩えのとおり、なんとこのピアノを救ってくれる人がいたのです。
お陰で、いったん断った話も復活して、結局現物を拝めることとなりました。

その方は、ワグナーピアノを発見して新幹線に乗って某所まで見に行った方で、かなりのピアノマニアであるだけに当然イースタインにも強い興味がおありで、むろん「響愁のピアノ イースタイン」も熟読されており、細かな点ではマロニエ君よりもずっと詳しく本の内容を覚えておられていたりで、こちらが驚かされることしばしばです。

ご自宅にはすでに2台のピアノがあり、置く場所の問題というより、これ以上はご家族の理解を得ることが難しいという事ではじめはあきらめ気味の様子でしたが、ピアノマニアならイースタインのBというのは、どうしても興味をくすぐるものがあり、破格値であったことと、年々その数は減っていく希少モデルであるだけ、こういうチャンスは一度逃したら次はまずありません。
とくにイースタイン全盛の頃は、現代ほど流通機構が発達していなかったことや、職人中心・品質中心という企業体質で営業力が脆弱だったこともあり、列島の西側にはあまり回ってこなかったピアノで、九州でこれに出会うチャンスはまずないので、リスクは充分承知した上で、ほとんどギャンブルか冒険心だけを頼りに購入に踏み切られた次第でした。

正論を仰る方からすればツッコミどころ満載でしょうが、でも、マニアというのは、こうでなくっちゃ面白くありません!

それから数日後、その方から連絡があり、九州他県の某ピアノ店に、なんたることか無いはずのイースタインのB型があるという情報で、驚愕したのはいうまでもなく、いてもたってもいられず直近の週末には車を飛ばして見に行きました。
果たして、内外ともとても美しく仕上げられたピアノでしたが、背面を見ると、かなり年季が入ったピアノであることは一目瞭然で、なにより音を出してみたところ、到底これがあの誉れ高きBとは思えないもので、正直あまり心躍るようなピアノではありませんでした。
ちなみにそのB型は、その後早々に成約済みとなっており、これにもびっくり。


さて、件のイースタインは、売主の都合やら何やらで出発も遅れたりしながら、ついに先週福岡の運送会社の倉庫に届いた旨の連絡が入りました。
親しくさせていただいている技術者さんが夜おそく見に行って報告していただきましたが、それによるとひどく荒れているようなピアノではなかったこと、そんなに大きな音ではないけれど優しいきれいな音がしたこと、キャスターにまったくサビがなくスイスイと軽く動くこと、ピンには多少のカビがあったなどと、ざっくりしたことを聞かせてもらいました。

それから次の日曜日、購入者の方と連れ立って、その倉庫にイースタインとの初顔合わせに行きました。
黒のカシューの塗装はいくぶん艶が失われてはいたものの、大きなキズなどはありません。
さすがに背の高い大型モデルで、前後の厚みも充分ある堂々たる体躯のピアノで、なかなか立派な佇まい。上部の左右両端が丸く曲げられ、その内側に切り込みが入れられたように前屋根が開閉するのもB型の特徴で間違いなく、ついに目前にその姿を現したという感じでした。

そして、なにより驚いたのはその音でした。
ジャーンという現代の大量生産ピアノからは決して聞くことのできない、ハッと思うほど温かみのある優しい音、上品な白百合のように可憐で、当時から音の美しさで評判だったというイースタインのBとはこういうピアノだったのかと、いいようのない心静まるような感動に包まれました。
中を覗くとオリジナルと思しきハンマーは、基本的にじゅうぶん本来の形をとどめているものの、弦溝はかなり深く、普通ならこれぐらい弦溝がつくとかなりチャンチャンした音になるはずだと思うのですが、少しもそういう気配がないのは不思議な驚きでした。

その点、上記のBは対象的で、中も見事なまでにクリーニングされていたし、ハンマーも新品と見まごうばかりに丹念に汚れが削り取られて真っ白でしたが、音はというとまるでチェンバロのようで、いま眼の前にあるBとは似ても似つかぬものでした。
個人的には断然こちらのほうが好きだし、おそらくはオリジナルの性格もこちらだろうと個人的には思います。

唯一感じたのは、音がやや小さめで、これは何らかの問題があるのか、調整・整備によって少しは変化するのか、そのあたりのことはわかりませんが、基本的には上品な優しさで弾く人をふんわりと包み込むようなピアノで、ほかの人が弾いていてもいつまでも聴いていたいような音でした。
実際、音質が無神経で、うるさくて、早くやめて欲しい…と思ってしまうようなピアノがあまりにも多いですから。

このイースタインがどこまでどう蘇ってくれるのか、いまからワクワクです。
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ついに来ました

あれよあれよという流れの波に乗るようにして、ついに先週、ワグナーピアノは我が家へとやって来ました。
数週間前まで、予想だにしなかったことで、こんなこともあるのかと驚くばかり。

くだんの調律師さんは、もっと詰めて仕上げようとお考えだったようですが、あいにく作業する場所が運送会社の倉庫内で、奥は無数のピアノがびっしり詰め置かれて立錐の余地もないためか、作業にあてられたスペースというのが、ちょうど搬入搬出口に近いところで、そこへ連日通って作業をやっておられたようです。

ところが運送会社の業務にも支障が出たのか、できるだけ早めに場所を空けてもらえないかと打診されるに及んで、やむなく予定より早めに作業を撃ち切らざるをえなくなったということでした。

60歳のピアノとしては、基本的な状態は望外によかったものの、長い年月を旧所有者のもとでさほどの整備もされずに過ごして来たのでしょうから、入念な調整を受けるのはずいぶん久しぶりのことだっただろうと思われます。
着手すれば少々の時間では足りないところが少なからずあったことは想像に難くありませんが、後半はあいにくと時間切れだったようですが、それでもかなりのところまではやられたようでした。

カシュー塗装故に大屋根などには数条のひび割れなどがあるものの、全体的にはヴィンテージピアノという、なにやらありがたい感じの雰囲気が漂っているお陰でさほど気にもならず、どこを見渡しても不当に荒れたような様子がないのは、このピアノの希少性と相まって、きわめて幸運なことだったと思います。

音は、倉庫で弾いた時より自宅ではよりやわらかな印象ですが、とにかくよく鳴ることに変わりはありません。

たまたま居合わせた友人(ピアノにはまったく興味ナシ)によると、「鳴っている感じがする」さらには「…余韻がある」とかなんとか、意外にも本質を鋭くついた感想を述べてくれました。
前回、このピアノは「側鳴り」ではなく「遠鳴り」するピアノだと書きましたが、やはりそのようで、弾いている本人以上に、付近で聴いていると響きの印象が強いらしく、こちらから感想をもとめるでもなくポロッとそんなことを口にしました。

せっかくワグナーピアノが手許に来たのだから、音などピアノの本質についてもっと語るべきでしょうが、その前にマロニエ君にとって、このピアノで唯一のなかなか解決の難しそうな問題があることがわかりました。
それは象牙鍵盤がツルツルサラサラ滑ることで、打鍵した指が鍵盤にとどまらず、あらぬ方向へと滑るのに戸惑っています。

以前にも書いた覚えがありますが、象牙鍵盤というだけでやたら有難がる方というのは少なくありませんが、マロニエ君に言わせるとこれが素晴らしいのは、あくまで「すべりにくさ」を保っている状態であって、ある程度使い込まれて表面が滑りやすくなると、それはもう恐怖でしかなく、こうなると良質のプラスティック鍵盤のほうが機能的には安心です。
とはいえビジュアルは別で、古いピアノに芸能人の歯のような不自然な白が並ぶより、適度な黄ばみやかすかな地模様と温かみのある象牙鍵盤のほうがむろん雰囲気はいいに決まっていますが…。

ちなみに、象牙鍵盤信奉者というのはマロニエ君が考える以上に相当数おられるようで、たしかにそれもわからないでもありませんが、それなら現代のピアノのポリエステル塗装は、まさにプラスティック鍵盤と同じ感性の産物で、色が黒というだけで味も素っ気もないものではないですか?と問いたくなります。
やたらピカピカするばかりで、無機質で、分厚くて、そこには木の楽器としての手触りも温かみもニュアンスのかけらもありません(尤も、現代のピアノはどこまでまともな木であるかどうかも甚だ疑わしい限りですが)。
あれは塗装というより、何か不都合なことを隠蔽するための樹脂によるカモフラージュでしょう。

これが弦楽器なら、到底許されることではないけれど、ピアノならマルのようです。
それに引き換え、カシュー塗装というのはその塗装越しに気の感触を感じるし、楽器としての趣という観点からすれば、象牙鍵盤に相通じる趣きや風合いがあり、プラスチック鍵盤がイヤだとこだわるなら、塗装だって同じじゃないのか?と思います。

もちろん、古くなるとクラックが入ったり傷がつきやすいなどの問題点はありますが、それでもプラスチック鍵盤を否定する価値観の持ち主なら、ポリエステル塗装を否定しないのは合点がいきません。
ポリエステル塗装の良さといえば、ガラスみたいな硬質な艶でダメージに強く、手入れが簡単なことと、中古ピアノ業者などが再生作業で外装を仕上げる際、機械でバフがけなどをやればキラキラ状態が蘇るので、アフターマケットの世界でも歓迎なんでしょう。

もうひとつ、象牙鍵盤だけにこだわる人なら、黒檀の黒鍵は必須だと思うのですが、それはそうでもなかったりするのがまたまた首をかしげるところ。
昔のピアノの不思議な点は、白鍵には象牙をやけに気前よく使ったくせに、黒鍵は普通の樹脂というのがあまりに多く、このあたりはヘンですね。

一部の人には、貴重な象牙ということだけに目が行って宝飾品のような価値を感じ、ピカピカボディには高級車のようなステータスを求めているのかもしれません。

いつもの悪いクセで話が逸れてしまったので、ワグナーピアノについては少し弾いてからまたまた書くことにします。
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告白

前回/前々回と書いたワグナーピアノは、ベテラン調律師さんがご自身のいわば道楽で購入/整備されたものであることは末尾に記した通りです。
ワグナーピアノという超希少種の出現という、あり得ないことが起こったことに触発されたのか、技術者魂が湧き上がったようにお見受けしました。
平生、プロの世界につきまとうのは趣味と職業を隔てる厳しい線引きであり、何事も金銭的利益になるかどうかで区分されてしまうのを残念なこととは思いながらも、職業なのだから至極当然のことだと納得しています。
それでも、今回のように、ときには素晴らしいピアノのために商売抜きのことでもやってみようじゃないか!という気概と実行力と、専門家としての純粋な興味に突き動かされるという部分をお持ちの方を、やはりマロニエ君は心から尊敬します。

そんなワグナーピアノですが、完成後どうするかについてはまったくのノープランのようで、あれこれ話しをしているうちに、なんと「弾かれるならお貸ししますよ。興味があるなら家に運びましょうか?」という望外のご提案をいただいてびっくり。
お申し出に面食らったのは言うまでもありません。

それを額面通りに受け取っていいものか迷いましたが、あんなピアノをしばらく家で自由に弾けたらいいだろうなあという魅力的なお話には抗し難いものがあり、電話で確認してみるとやはり快諾されるので、ついにはお言葉に甘えて、しばらく我が家で拝借することになりました。
むかしディアパソンがあったときのように、あー、また部屋が2台ピアノになるのか…とも思いましたが、頑張れば置けないこともありません。


実は、白状すると、我ながらまったく呆れ返るような話ですが、このワグナーピアノとほぼ時を同じくして、こちらはこちらである古いピアノを購入しようという企みが進行しており、ほとんど決定に近いところまで話は進んでいたのですが、そんなタイミングでこの降って湧いたようなワグナーピアノ拝借のお話をいただいたのでした。
…で、神経がヘトヘトになるほど悩んだあげく、ワグナーのW600というのは素晴らしいピアノであることに加えて、希少性(イマ風にいうとレア度)という点でもこれに勝るものはなく、マロニエ君が検索した限りでは写真の一枚さえもネット上には出てきません。
まさに幻に近いピアノで、しかもあの美音となれば、今これを逃したら生涯二度とそんなチャンスはないだろうというわけで、その別のピアノは、今回は涙をのんで見送ることになったという裏話まであったのです。

その購入ギリギリまで行っていたピアノはなにかというと、イースタインのB型というアップライトです。
イースタインは1947年に創業された、これまた知る人ぞ知る日本の銘器を製造した東京ピアノ工業という宇都宮に工場があったメーカーで、こちらは広島ワグナーに比べれば、まだいくらかご存じの方もいらっしゃるんじゃないかと思います。
設計開発には杵淵直都・直知親子、大橋幡岩、斎藤義孝・孝親子、福島琢郎その他日本のピアノ史に今も輝き続ける錚々たるメンバーがその名を連ね、数々の銘器を製造してきました。

なかでもB型は、イースタインのアップライトのフラッグシップモデルで、独特な形状の凝ったフレーム、アップライトにもかかわらず一本張りなど、随所にいい音を追求しようとした大物設計者たちの創意と工夫が盛り込まれているのだとか。
採算性よりも良いピアノを作ろうという理念が優先された凝った設計・製法という、今では夢物語みたいなピアノが昔はチラホラあったようです。
佳き時代だったということもあるでしょうが、それでも、あまりに品質第一・技術重視のせいで、会社としては採算性や営業力が脆弱だったようで、これが祟って1973年に倒産してしまいます。
しかし、その理想のピアノづくりを諦めきれない有志たちが再結集し、倒産から4ヶ月後に自主生産組織としてイースタインの製造は再開されることに。
しかし、そこでも「宣伝よりも品質」という体質はまたも引き継がれて、それが徒となったのか、1990年に二度目の廃業を余儀なくされ、イースタインの灯はついに消えてしまったという、日本のピアノ史を語る上で欠くことのできないピアノメーカーでした。

製造最後の一台は、イースタインの価値を知りつくした某楽器店のたっての希望でそこへ収められることになり、希望モデルはやはりB型だったようですが、最後はそのためのフレームが調達できず、別モデルになったとか。
そのあたりのことは早川茂樹著の『響愁のピアノ イースタインに魅せられて』に詳しく述べられています。

また、近年では、荒川三喜男著の漫画『ピアノのムシ 第1巻』でもこのイースタインは実名で登場し、ここで働いていたひとりの職人が、どうしてもイースタインへの思いが断ち切れず、廃業数年後にとある倉庫で人目を忍んで一台のB型を組み上げていたというような話で、それほどこのメーカーのピアノづくりには特別なものがあったようです。

そんなB型が破格値でひょっこり出てきたものだから、思わず頭に血が上ってしまい、写真などでは、年月相応の感じもあったものの、目に見えるダメージは少なく、ハンマーなどはそれほど弾きこまれた様子もないように思われたこと、さらにそのピアノがあるお宅というのが、とある地方の立派な邸宅で、おそらくそこで使われ、後年は長く放置されていたものだろう…と推察されました。
1960年ごろの2本ペダルモデルなので、伝説的な日本ピアノ界の重鎮がまだご存命だった時期でもあるし、イースタインとしてももっとも脂の乗った時期に生まれたピアノではないか?などと勝手な想像をしながら、すっかりその気になって運送費などを調べていたのでした。

そんなタイミングで、ワグナーピアノが目の前に出現し、その妙なる音色にすっかり骨抜きにされてしまったというわけです。
だったら、ワグナーはお借りするものだし、それはそれとしてイースタインのBの話は予定通り進めるということも不可能ではないかもしれないけれど、我が家にはすでにほかにもピアノがあり、さすがに楽器店じゃあるまいし、そんなに家中ピアノだらけにするのも躊躇われ、そもそも置き場も相当の無理をする必要もあって、今回は苦渋の決断で諦めることになりました。

ピアノというのは、なにをするにもそのサイズ、重量、置き場の問題がつきまとうのは他の楽器に比べて大変なハンディだということを今さらのように感じます。
安くもない運送費しかり、これがフルートやヴァイオリンぐらいのサイズなら、迷わずゲットするところですが。
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ワグナーピアノ2

一通り見たあと、おそるおそるキーに触らせていただいたところ、うわっ、なんたる妙なる響き!

既存のピアノでどのメーカーに似ているというような比較ではなく、いい材料(これが現代では大変だけれど)を惜しみなく使い、名人や職人が高い志で、時間と手間ひまを惜しまず真面目に作ったら、こういう格調あるピアノが出来るのだという、一つの事実が具現化され目の前にあるようでした。
今どきのフェイクの要素を多く含んだピアノ風製品とは、まるで目指すところの異なる、本物の世界。

さらに日本のピアノによくある──こう言っては申し訳ないけれど──うるさいだけの側(そば)鳴りでなく、純度の高い音が空間を立体的に飛んでいくのがわかります。
弾いている当人より数メートル離れたほうが、音はむしろはっきりと美しく聞こえるあたりは息を呑むばかりで、これは海外のピアノの一部には見られるものの、日本製ピアノでは個人的にはあまり経験がないので舌を巻きました。

フレームは外観そこブリュートナーを模したよに見えますが、その音は知り得る限りの同時代のブリュートナーよりも、さらに衒いのないピュアなものに感じられ、これはよほどのピアノだという驚きと喜びが終始離れませんでした。

そもそも我々が音として感じるのは、打弦によって出てくる音と、そこから引き継がれていく響きの二つが組み合わさって耳(あるいは五感?)に届いたときに得られる感触でしょうが、このワグナーピアノはそれらがこの上もなく美しく、その音を聴いているだけで心が慰められるようで、こういうものを逸品というのかもしれません。

こんなピアノを日本人が60年も前に作っていたなんて俄には信じられないほどで、もしやこの頃のワグナーが西洋の一流ピアノに最接近していた時期なんじゃないか…。
労せず軽やかに鳴っている(軽い音という意味ではなく)ことは、その場にいた誰もが感じ取ったようで、これは、ただの珍品などではなく、まぎれもない本物の楽器だということを認めないわけにはいかないものでした。

この時点でも調整は半分も終わっていないのだそうで、部品等も注文もされており、完成はまだ先という話でした。
たしかに個別には調整を要するような音も散見できましたが、差し当たりそんなことはどうでもよくなるほど心地よい音で周囲は満たされ、ピアノの音とは、つまりはこういうものなんだろうな…と理屈抜きに伝わって来るようでした。

60歳のピアノだというのに、朗々と鳴るパワーがあり、力まない歌心があり、その上、繊細さや風格も備わっていること、さらには昔のピアノを感じさせるような古さもまったくなく、こんなピアノが存在したことがなぜ語り継がれないのか、不思議でなりませんでした。
それでいうと、とある50年前の定評ある大手のグランドなどは、弦やハンマーが取り替えられてはいても、疲れた響板からくる古さは隠し切れないものがありました。

奥行きが190cmというと、それほど大型のピアノではないけれど、低音は都会の夜みたいに大人っぽい美音で、巻線になるほど安っぽく不甲斐ない音しか出ないピアノとは次元の異なるものでした。
瑞々しい音が広い倉庫じゅうに朗々と、しかも混濁することなく美しく響き渡るあたり、これなら小さな会場であればコンサートにも使えそうで、マロニエ君はお酒のことはわからないけれど、熟成されたヴィンテージのブランデーなど、もしやこういうものだろうか?などと思ったり…。
サイズ的にはスタインウェイのA型クラスですが、できれば同年代のそれと並べてみたいものです。

あの感じをなんと言葉で表現して良いのやら、自分の文章の表現力の拙さが悔しいけれど、ともかくこのワグナーはまぎれもない第一級のピアノであり、かつて日本が(しかも広島という思いがけない土地で)こんなピアノを製造しながら、わずか9年という短命で終わったことに、短い活動期間で夭折してした天才の生涯のようにも感じたり。
広島というと、被爆ピアノのたぐいはよく紹介されるようですが、このワグナーピアノも広島が誇る歴史遺産として語り継いで欲しいものです。

…あまり長居をしても作業のおじゃまだろうと、適当においとましたものの、車に乗っても家に帰り着いても、しばらくは興奮冷めやらずの状態で、ワグナーピアノの美しい音が耳から離れず、この日はその余韻をもてあまし気味に夜遅くまでボーッとしていました。

調律師さんによると、これまでにも価値あるピアノが、値がつかないという理由から、ガラクタ同然に廃棄されたこともずいぶんあったのだそうで、そういうことを聞くとペットの殺処分のような胸の痛みを感じますが、それから考えれば、ともかくもこのワグナーピアノは知人の発見からはじまって、ついには殺処分を免れ、これからもしばらくはその美音を奏でられるだろうと思うと、ひとまず安堵の気持ちで満たされます。

この調律師さんは、専らご自分の満足のためにこの貴重なワグナーピアノを入手され、整備されただけで、流通市場ではどんなに音が良くても、無名のブランドのピアノには値がつかないので、完成した暁には、どこか教会のようなところででも使ってもらったらと考えておられるようでした。
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ワグナーピアノ1

4月1日のこのブログに「知られざる逸品」と題して、ワグナーピアノというまさに知る人ぞ知る、日本製の忘れられた銘器があるらしいことを書きました。

少しおさらいすると、WAGNERというブランドのピアノは数種あり、時代ごとに別のメーカーで同名異品が作られ、それがまず私たちを混乱させます。
その中でも真の逸品としてここで採り上げるのは、広島製(東洋楽器製造株式会社)のワグナーのことです。
この広島のワグナーは1955年〜1964年、火災で工場が消失するまでのわずか9年間だけ製造されたらしく、今ではほとんど幻のピアノと言えそうです。

ちなみに広島の東洋楽器は、磐田でAPPOLOを製造する東洋ピアノ製造株式会社とは別の会社で、三浦啓市著の『日本のピアノメーカーとブランド』によれば「…戦前東京でピアノ製造をしていた広田ピアノの技術陣全員を動員提携し、敷地1万坪に建坪650坪、最新の機械設備工場を擁して創業。つまり(略)東京にあった広田ピアノが、広島県で東洋楽器製造吉島工場として復活したことになる。」と記されています。
しかも、東洋ピアノも後にWAGNERの名を冠したピアノを作っているので、紛らわしいことこの上ありません。

で、その広島製ワグナーですが、知人が売り情報として見つけるや、すぐに広島県東部まで新幹線に乗って見に行ったのが事の始まりでした。
あまりにも知られざるブランドであるためか、あるいは中古でも古すぎるものは敬遠する日本人特有のメンタルのせいなのか、これという買い手はつかなかったようで、その後、曲折を経て、マロニエ君が親しくさせていただいているベテランの調律師さんが購入されることになった…というところまで前回書きました。
この調律師さんはホールのスタインウェイなども手がけられる方ですが、なんとご自宅にも同じワグナーをお持ちで、そちらは再生途中で長らく停滞している由ですが、ともかくワグナーの抜きん出た素晴らしさをよくご存じの由で、メーカーを問わず本当に良いピアノとはどういうものかを知悉される方です。

現在も優秀なピアノ技術者さんは多くおられますが、時代とともに世代交代が進み、かつて日本にも数多く存在したいろいろなピアノもあまりご存じない方がかなり増えてしまっているのは事実のようで、昔はよく見かけたアポロやアトラスやベルトーンはもちろん、シュベスターやクロイツェルでも触ったことがないとか、イースタインに至っては主に東日本を中心に販売されていたためか、名前さえ知らないという方もおられるのが実情のようです。
なにぶん実物がないのだから、これも致し方のないことなんでしょうが、かくいうマロニエ君も、ピアノマニアを自認しながら、この広島製ワグナーについては何も知らなかった一人でした。

というわけで、この極めて希少なワグナーのグランドW600(奥行き190cm)が、ついに関門海峡を超えて先月九州にやってきました。
しばらく運送会社の倉庫に置かれたのち、先週いよいよ開梱され調整が始まったというので、その2日目に見学に行かせてもらいました。

実物と対面した第一印象は、60年前のピアノにしては存外状態がよく、フレーム、響板、アクションなどの肝心のところは見たところ少しも荒れていないようで、むしろ外装のほうがやや傷や塗装のヒビなどが見受けられました。
その佇まいには、現代のピアノには望み得ない、えもいわれぬ風格があり、その立ち姿もほっそりスマートな印象。
輸入物のヴィンテージピアノなども大抵そうですが、現代のピアノを見慣れた目には意外に華奢で、線の細い印象を受けることがときどきありますが、今回もまさにそれでした。

カシュー塗装独特の柔らかな黒が、いかにも上品な艶を放っているのは、ほどよく使い込まれた漆器のようで、現代のピアノのあの厚いプラスチックの膜に覆われたような無機質なピカピカとはまるで違います。
スマートな細い足、ボディ側板には下部に装飾的なラインの一段がつけられて一周していたり、譜面台はプレイエルのように細い直線の板が組み合わされたものであったりと、どこを見ても手の込んだものだし、少数手作りの「楽器」であることがいやが上にも滲み出ているあたり、音を聞く前からその雰囲気に引込まれてしまうようでした。

現代のピアノがやたらめったらピカピカなのは、まるで都合の悪い真実をすべて覆い隠しているように見えてしまうマロニエ君ですが、目の前にあるピアノはすべてが真逆で、どれほどのコストや手間をかけてでも良いものを作ろうとした佳き時代の、作り手の純粋な理念と熱意がそのままこのピアノとなって伝わってくるようです。

亀甲型の穴の空いたフレームはブリュートナーを手本にしたものと思われますが、その状態はどうやらオリジナルのようで、ただ年月相応の風合いがそこにあるだけで傷みらしきものがないことは、このピアノが一度も過酷な環境で過ごすことなく今日まで生きてこられたことを静かに物語っているようでした。

そうそう、マロニエ君はこのピアノで初めて見ましたが、3本弦の張り方に特筆すべき特徴がありました。
高音セクションは一本張りで、その次にくる2つのセクションでは、すべて一音あたり3本の弦のうち、2本はヒッチピンでターンして張られ、残りは一本張りという2+1の張り方になっており、要は一つの弦を隣の音と共有させない作りになっています。
さらに次高音以上では独立型のデュープレックス・スケールの駒があるなど、とにかく凝りに凝った作りになっていて、それだけでも見飽きるということがありませんでした。

…つい長くなり、音の印象などは次回へ。
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危ない世界

いまどきはネットを使った個人売買が盛んで、その代表格といえばヤフオクでしょうが、それ以外もいろいろあって、中には名前は有名でも信頼度がイマイチで、トラブルが頻発する怪しげなものもあるようです。

ごく最近、親しくさせていただいている知人からリアルタイムで聞いて呆れ果てた話ですが、知る人ぞ知る手作りの某日本製グランドピアノ(しかも塗装まで含めたオーバーホール済み)が安く出てきたので、出品された翌日、それを購入すべく出品者と連絡を取られたとか。
すると、すでに試弾を希望をされている方というのがおられ、その人はもし気に入れば、提示された価格にさらに少し上乗せするというようなことを持ちかけているそうで、知人は購入希望を伝えたものの、その人の次になるという返答だったとか。

しかし、その内容はこのサイトの売買システムとは齟齬があり、そもそも話し合いで決するものではなく、単に質問などをするもので、購入に関しては、あくまで購入手続が優先されるもの。

そこで、まず押さえておきたいことは、この手の売買サイトには規約があり、ちょっと要点を抜粋しておきますと以下のとおり。
 

 利用規約
 第11条 (「売ります・あげます」カテゴリの取引)
 1.「売ります・あげます」カテゴリにおける出品者ユーザーと購入者ユーザーの売買契約は、購入者ユーザーが購入手続を完了した時点で、出品者ユーザーと購入者ユーザーとの間に成立するものとします。
 つまり、問い合わせの順番は関係なく、早く購入手続をしたものに優先権がある。

というもので、このサイトはオークションのように価格で競うものではないから、提示された金額でいち早く決済した人が購入できるもので、だからはじめから値段は決まっているのだし、この規約は至極当然のことと納得できるところです。

問い合わせがいくつも寄せられていることを知った知人は、遠方であるため試弾も諦め、早めの決断をして購入手続をするしか方法はないと考えたようで、意を決して購入手続へと進み「決済」まで完了したのだとか。
その勇気ある決断には驚くばかりですが、このピアノをゲットするにはそうするしかないという一択だったようです。
すると同日夕方、売買サイト事務局より「決済を確認した」とのメールも届いたそうで、あとは両者で受け渡しの相談などをするだけです。

売買はルールに基づいて正しく成立したわけですから、知人はさっそく出品者に連絡を取ったものの、なんとまったく連絡が途絶え、その後も何度か続けてメールをするも梨のつぶて状態となり、その日はついに一通も連絡がなかったというのですから、これには驚きを禁じえませんでした。
翌日になり、ようやく出品者から連絡があったところによると、なんと、一方的に「キャンセル」となって画面も消されてしまったらしく、これにはさらに驚きました。

出品者にしてみれば、提示額以上で購入するかもしれない試弾希望の方を待ちたかった、あるいは予想以上に問い合わせがあり金額的にも欲が出たのかもしれませんが、このサイトが定めたルールに何ひとつ違反することなく購入手続を進めた相手に対して、これはあきらかに身勝手で侮辱的なやり方だと思わざるをえません。

オークションのように入札価格によって競い合うものではないのだから、規約に従って「決済」まで完了したにもかかわらず、それでも尚、出品者が購入者を「選別している」ということには、強い違和感と憤りさえ感じました。
仮に「あげます」ということなら、多少は出品者が相手を選ぶということがあってもやむなしかと思われますが、数十万円という大きな金銭の動く売買で、ルール通りに購入手続(決済)をしたにもかかわらず、出品者の意向によってそれを一方的にキャンセルするというのは、あきらかな反則行為でしょう。
聞いているこちらまでムカムカと憤懣やるかたない思いにかられました。

この場合、まず出品者のエゴとルールに対する甘さが窺えます。
このようなネットの売買システムに出品した以上は、そのシステムに従うことは当たり前のこと。
いち早く決済した人(ルール違反などあればともかく)に粛々と売却するのが義務であり、そういう規約の遵守と理解がないのなら、そもそも出品する資格などないとマロニエ君は考えます。
知人は当然納得ができず、サイト事務局にこの顛末を報告したそうですが、あまりにそのようなことが多いためか、ほとんど相手にもされないということだそうで(そこがまた驚きですが)おそらくはその辺りも見越してのキャンセルだったのではと思われます。

ではその支払ったお金はどうなるのかというと、受け渡し完了までサイト運営会社の預かりとなるらしく、不成立の場合は返却されるということらしいので、戻っては来るようですが(当然ですけど)、だとしてもなんともいやな後味の残る話でした。
しかも現在はその掲載の後も残っていないところからすると、サイトの手数料を避けるため、情報ページは消去され、取引は直接取引で行われたものと思われます。
ご立派ですね。

そういえば、何年も前、車を売却しようと同じサイトに出品したところ、連絡を取ってきた人に散々試乗され、気を持たされ、翻弄された挙句、ついには立ち消えになってしまった苦い経験がありました。
ネットの評判を見ると「このサイトは民度が低い」という辛辣な一文があり、なるほどと納得しました。

その点では、ヤフオクは手数料は少々高いけれど、いろいろな点で格段にしっかりしたものだと思います。

【追記】このブログに目を通した当事者の知人から「一部、事実と異なる点がある」という指摘がありました。それによると、知人が連絡した時点で、一足先に試弾希望が入っていたのは間違いないけれど、それとはまた別の人が「ぜひ買いたい。気に入れば◯万円上乗せする」という申し出をされたらしく、それは「知人の連絡よりも後のこと」だから、価格で追い越されたわけで、そこがよけい納得できない気になり、ならばというわけで、一気に購入手続(決済)に至ったということでした。
本人いわく「その人よりも、さらに高額の上乗せを提示すれば買えたのかもしれないけど…」と言われていましたが、それではまるでオークションですよね。要するに、売り主は売買サイトのルールそっちのけで、決済した人をキャンセルにしてでも、少しでも高く買うという人のほうを選んだということでしょう。
もちろん、売る側としては少しでも高くという気持ちはわからないでもありませんが、だったらはじめからヤフオクにでも出品すべきだったと思います。
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福間洸太朗

同じくBSプレミアムのクラシック倶楽部で、今度は福間洸太朗さんのベートーヴェンの視聴。
はじめは馴染みのない「幻想曲」で始まり、続いて「テレーゼ」「失った小銭への怒り」「熱情」。

福間さんのCDは一枚だけ持っているけれど、とにかくスラスラと指のよく回る方で、自身で編曲されたスメタナのモルダウはじめ、いろいろな技巧曲が集められたアルバムで、それらをあまりに右から左に苦もなく弾けてしまうので、なにやら身も蓋もないような、曲が素通りしてしまうような気になってしまったことを覚えています。

ずいぶん若い頃に、これまた演奏至難として名高いアルベニスの「イベリア」全曲のCDまで出すなど、よほどなんでも弾ける方らしいとは思っていたので、そういう方にとってのベートーヴェンなんて技術的には何ということもないものだろうし、おそらくはベートーヴェンイヤーにちなんだ取り組みの一環だろうと思いました。

この方は、マロニエ君のイメージでは、なんといっても爽やか系テクニックの人。
今回もその基本認識は変わらなかったけれど、では技術に明かしてガンガン弾きまくる人かといえば、そうではなくて自己顕示欲があまりないタイプなのか、どこか一歩引いたようなものも感じたり。
演奏スタイルはくせのない標準型で貫かれており、聴いていて何か神経に障るようなものはありません。
香り立つような詩情とか、精妙な歌いまわしとか、精神性みたいなもので聴かせる人ではないけれど、奇をてらわず素直で嫌味がないところが特徴だろうと思います。

この日の演奏でも、なんといってもこの人の魅力は危なげのないテクニックであり、それに支えられた押し付けがましさのない涼し気な演奏で、あえて分類するならフランス系の演奏ということになるのでしょうか?
自分の個性を出さんがため、よけいな表情や主張をつけない人だから、その演奏はストレスなく常にスムーズで、これはこれである種の気持ちよさがあるのも事実だなぁと感じます。

これぐらい手際よく弾かれてしまうと、さすがのベートヴェンにもどこか洗練された美しさを帯びてくるようで、しかも音楽的なメリハリなどはそれなりに気を配られているので、多少軽いものにはなるけれど、後味にもいやなものが残らないのも好感が持てました。

あらためて言うまでもないけれど、マロニエ君はテクニック至上主義ではありません。
それでも、ピアノを演奏するにあたって、とりわけプロのコンサートピアニストにとってのテクニックは、極めて大切な要因であることも間違いなく、現代の技術標準が高いとはいいながら、それでもなんとかギリギリ基準内に収まって弾いている人と、その中でさらに余裕をもって弾ける人との違いがあり、飛び抜けたテクニックを持つ人の演奏は、やはり聴く側としては安心感があって楽だし、悪い使い方をしなければ、テクニックそのものからくる美しさや魅力があることも認めないわけにはいかないと思うのです。

例えば多少なりともピアノに触れたことのある人なら、ベートヴェンのソナタなどを弾いた経験はあるわけで、なかなか思うに任せない箇所というのがあちこちにあって、技術的に苦しい思いをした記憶がある筈ですが、福間さんの手にかかるとそういうあれこれの問題がなかったことになっているようで、苦もなくなめらかに進むことの出来るのには感心させられます。

それと福間さんは、普通のどちらかというと細身の体格の方だと思うけれど、その音は普通に美しく、テクニック、解釈、音色、それからコンサートピアニストとしての容姿など、どれもが非常に高いところで兼ね備えられているという点で、普通に満足満腹させてもらえるピアニストのようです。

なんだか似たような記憶があるように思ったら、思い出したのは菊地裕介さんで、この人も苦もなく数々の難曲をまったく不安なく弾けるという点で、特別な方だと思います。
世界の10本の指に入るような、真の偉大なピアニストというのはそう居るものではありませんが、福間さんや菊地さんのように技術的には楽々とオリンピックレベルの人というのは、やはり大したものだと思います。
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北村朋幹

クラシック倶楽部でまったく未知のピアニストに接しました。
先回の務川さんも初めて音を聞いたわけですが、このときはかすかに名前くらいは聞いた覚えがあったけれど、今回の北村朋幹さんというのは、お名前も何も、知らないづくしの方でした。

コンクールを欠かさずウォッチしているような方ならご存知かもしれませんが、マロニエ君の目に映るコンクールはただの勝ち抜き競技のようで、さらにそれが好きな人というのは、スポーツ観戦と同じように勝敗が分かれるイベントとして見ている感じがして、そういう世界にはますます興味を失います。

で、話を戻すと、曲目はベルクのピアノ・ソナタ作品1とブラームスのソナタ第3番の一部というもの。
最近は放送時間と曲の兼ね合いからなのか、あるいは演奏以外のアピールの場なのかわからないけれど、本人へのインタビューが殆どと言っていいほど盛り込まれているので、その人の話し方とか考え、人間的な持ち味とか雰囲気もほんの少しながら知ることができます。

とはいっても、マロニエ君にとってはそういうものは(まったくと言えばウソになるけれど)多くの場合はあまりどうでもよく、専らどういう演奏をするかということに興味は絞られます。
経歴も同様で、それらは一定の参考になることはあるとしても、やはり興味の中心はその人がどういう音を出し、どういうセンスの演奏をするのか、曲から何を感じ取っているのか、それを伝えるためにテクニックがどれぐらいのものなのか、そういうことがすべてだろうと思います。
どれほどめざましい経歴の持ち主でも、お話が立派でも、演奏が自分の好みに合わなければそそられません。

で、その演奏ですが、まずマロニエ君はベルクのソナタなどは、どうこう言うほど知らないしそもそも理解もできていませんが、それでも聴いたことがないわけではなく、あくまで直感的な印象で云うと、曲が始まってまず感じたこととしては、ずいぶん小さくまとまった演奏というものでした。
録音によるものもあるかもしれないけれど、続くブラームスもほぼ同様で、きれいに整えられ、こまごまと手入れをされた花壇のようで、音楽の大邸宅という感じではありませんでした。

もちろん、なんでも巨大で荘重なものがいいわけではなく、こういう手のひらに乗る繊細な細工物のような仕事をするのは、それこそ日本人の最も得意とする、いわば伝統工芸のようなものでもありますが。

お話の様子では、常に多くの文献に目を通して考察を重ね、それを演奏に活かしておられるそうですから、その深いところで表現されようとするものは、残念なるかなマロニエ君ごときの耳では聞き取ることができなかったかもしれず、だとするとピアニストには申し訳ない気もしますが、少なくとも私はそう感じたというわけです。

ベルクのソナタではすべての音に意味があり、それらには細かい指示があるといった解説、ブラームスのソナタは若い頃に書かれたもので、当時シューマンと出会ってどうしたこうしたと、どちらかというと研究者のようなお話をされるというか、そういう分野を調べることもお好きなようで、ああ、そういえばブレンデルっていたなあ!などと思ったり。
演奏に際して、そういう考証は非常に大切というのは異論の余地はないけれど、あまり文献がどうとか手紙にどう書かれているとか直筆譜がどうというようなことを中心に語る人の演奏というのは、なぜか熱い感動を覚えたり、ストレートな興奮に引っ張っていかれることがあまりないので、そういう講釈を聞いた時点でこちらにある種の偏見ができてしまうのかもしれません。

この演奏は武蔵野市民文化会館で収録されたものですが、ことさら目を引いたのはピアニストが座っている椅子でした。
何らかの理由で通常のコンサートベンチはお好みでないのか、なんと会議室などでよく用いられるスタッキングチェア(積み重ねて収納できる椅子)を三脚重ねた状態で、その上にちょんと座って演奏しておられました。

低い椅子が好きとか、背もたれがほしいとか、その他なんらかの理由で、ピアノ用でないものを使ったりする人はごくたまにいらっしゃいますが、スタッキングチェアを三つ重ねるというのは初めてだったので、思わず目が点になってしまいました。

後日、再度見てみたら、ブラームスはところどころでなるほどと思わられるものがあったし、終楽章などはかなり見通しの良い演奏であったことも確認できました。
ただ、もう少し、透き通るような美しい音だったら…という思いがついてまわり、その点では最後まで不満が残りました。
なんとなく、指揮に転向するピアニストってこういう感じかなぁなどと、ついよけいな事を考えてしまうような異色のピアニストといえるのかもしれません。
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務川慧悟

久々に聴き応えのあるピアニストの演奏に接して満足しました。

BSプレミアムのクラシック倶楽部の録画から、今年2月、相生市文化会館で収録された務川慧悟さんの演奏です。
コンクールが好きな人から飛び出す言葉の中に、このお名前を耳にしたことはかすかな記憶としてはあったけれど、近年ますます興味を失っているコンクールだし、コロナで大型書店などにあまりいかなくなったので、音楽雑誌等を見ることもなく、まったくのノーマーク状態で、今回が務川さんの演奏を初めて聴いたわけです。

曲目は、ドビュッシーの前奏曲集第二巻から第6/5/9/11/12番という5曲、続いてショパンのソナタ第2番、アンコールは務川さんの編曲によるラヴェルのマ・メール・ロワの終曲(本来は連弾)というもの。

冒頭のラヴィーヌ将軍が始まるや、その冴えた音は思わずハッとするほどで、とっさに、よほどピアノと技術者がすばらしいのか…と思ってしまったけれど、それからしばらく、これはピアニストによるものだということに気付かされることになります。

近ごろの若い方にしてはかなり珍しいことだと思うけれども、音に力と芯があるし表現も自在でしなやか、ピアノが深いところから鳴るから、出てくる音楽も明瞭で説得力があり、聴き応えがありました。
昔のやたら叩きつけるような奏法への反省からか、近年ではガンガン弾くことをしなくなったのはいいとしても、その傾向がいいところで止まらずベストポイントを通過してまったと云うべきか、その先に待っていたものはカロリーの不足した、省エネ運転みたいな覇気を失った、うわべだけの軽量な演奏が横行してしまったのはウンザリでした。

なんでもかんでも脂っ濃い揚げ物みたいなおかずはイヤだけど、ガッツリ食べたいときに食べられないような無機質な演奏に接するのは、これほどつまらない、不満の残ることはないわけです。

ついでにいうと、音楽的には熱演しているようでも、悲しいかな音に輝きと重量感がなく、サラサラした草花みたいな音ばかり出す人が多いのは、演奏そのものの魅力を大いに減じるものではないかと思います。

その点、務川さんの演奏は、明晰でよく練り込まれ、コンクールなどにも耐えうるものでありながら、表現としての瞬間の燃焼とか迫りがあり、作品を思慮深く考察された上でのこのピアニストが感じているものや問いかけが伝わって、結果としてきわめて魅力ある演奏だったことは、まるで掘り出し物を見つけたような驚きと嬉しさがこみ上げました。
昨今は指だけはたいそう回るけれど、空虚な規格品のような演奏が多い中で、借り物ではない生身の音楽として、きちっと知と情の均衡のとれたものであるのも望外の驚きでした。

作曲者が書き残した作品に、何も付け加えず、必要なだけの表現するというと、何もしていないということを却って主張するようで、まるで色っぽくない演奏をする弾く人が多いけれど、務川さんの演奏にはそんな裏返しの主張めいたところは微塵もなく、すべてに弾き手の気持ちが入っていて、熱があり、言葉がある演奏でした。

白状すると、ドビュッシーの前奏曲はマロニエ君はさほどではないというか、もちろん嫌いではないけれど、とくに積極的に聴きたいと思う作品でもなかったのですが、務川さんのそれは、一曲々々があたかも美しい絵画のようで、こういう作品だったのか!と再発見させられる素晴らしさ…というか、こちらの曲に対するイメージをご破算にして、あらためて素直な耳で聴き直しているようでした。

ひとことでいうなら、本物に出会ったときに感じる興奮があり、ストンと腹に落ちる演奏でした。
いい演奏とはそういうものだと思うし、そのためには、まずは省エネ運転ではダメだということがわかります。
演奏を通じて聴き手をいざない、作品の世界を旅させてあれこれのものを見せてもらうためには、演奏者にも相応の準備と真剣勝負でなくてはならず、そこれにはご苦労なことですけれど、消耗を伴うパフォーマンスである必要があると思います。

いま流行りのピアニストの中には、サーファーのように人気の大波に乗っかって、芸術家としての取るべき手続きを取らないまま、暗譜と指の動きだけで駆けまわっているような方が何人かいらっしゃいますが、それをここで糾弾するつもりはないけれど、すくなくとも自分はやっぱりこういう取り組み方をする人の演奏を聞くと心が満たされ、ピアノや音楽の素晴らしさを再確認するに至りました。
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当たり外れ

3月最後の題名のない音楽会で「小菅優が3大作曲家のピアノソナタを弾く音楽会」というのがありました。

ここでの3大作曲家というのは、モーツァルト、ベートヴェン、ショパンとされており、なにしろ30分番組なので、モーツァルトはKV330の第一楽章、ベートーヴェンはテンペストの第三楽章、ショパンは3番のソナタの第四楽章というものでした。

マロニエ君にとって、小菅優さんは日本人ピアニストの中ではご贔屓のピアニストのひとりで、あくまで作曲家と作品を中心に据えて、ご自身は媒介者としての位置を取りながらいきいきした演奏をされる方だという印象を持っています。
もちろん、「うーん…そうかなぁ?」と疑問を感じることもありますが。

それでもマロニエ君が小菅さんのピアノが好きなのは、とにかく人のマネではない自分の解釈と表現を持っておられ、それを臆することなく演奏に反映されるところです。
また、テレビなどでお見かけする限りでは、お人柄も素敵な方で、ピアノを弾く人によくある臭みがなく、いつも謙虚で、自慢気なことをいわれるようなことは聞いたことがありません。

それに、ご当人がピアノを弾くことがとにかく好きだというのが伝わるし、小さい時から単身ドイツに渡るなどされ、ピアニストに必要な度胸やタフさもあるけれど、それが少しも人間的に歪まずに育った感じがあるところなど、好感がもてるのです。才能もあり、ピアニストになるための条件も備えられ、いい意味で健康的という印象。

なぜこんなことを書くかというと、この人はピアノが好きなのか?何のために弾いているのか?といった根本的な疑問を感じてしまうような人が決して少なくないからです。

小菅さんに話を戻すと、この日の三曲はどれもイマイチな印象が残りました。
たしかに小菅さんの演奏なんだけれど、曲の求めるものと解釈が必ずしも合致しているようには聞こえなかったのは少し残念でした。必要以上に曲をドラマチックに仕立てようと、このときはやや力みすぎたのかもしれません。

演奏というのは、楽譜に書かれたことを読み取って、それを作曲家の心情に寄り添いながら実際の音に再現するときに、併せてどこまで演奏者の言葉にもなりえているか…ということじゃないかと思うのですが、この日の小菅さんは自分の言葉が前に出すぎていたように思いました。
とくにモーツァルトは、そんなにメリハリを付けないで、ありのまま軽やかに流れたほうがいいように思ったし、メリハリのたびに曲の流れがあちこち寸断されるなど、作品のもとめるものとちょっとズレているように思われました。

テンペストは、我々が思っているものとはずいぶん違ったもので(もちろん違っていることは大いに構わないし、演奏には新しいものや冒険心も必要ですが)…ちょっと独りよがりかなあ?という印象。
右ペダルが少なめで、縦に区切られる感じがあり、あるときは静かに、そうかと思うと急に激したりと、表情の変化が絶え間なく変化するあたり、そこがベートーヴェン的だといえばああそうですかと云うしかないけれど、個人的にはもう少し横のラインにも一貫したテンポを感じながら、聴く側はその流れの中でさまざまなメッセージを汲み取っていく演奏のほうが、この第三楽章には相応しいような気がしました。
音楽というものはある意味で抽象表現の芸術だと思いますが、どこか演劇みたいでした。

ショパンでも基本的には同じで、この第四楽章はそのまま一息に弾いても充分ドラマティックなのだから、そこに過度の切れ味や意味や表情を加えすぎるのは、マロニエ君の趣味ではありませんでした。
とくに出だしの両手3オクターブの連続は、早すぎで野性的でベートーヴェンの続きかと思ったほど。
小菅さんのピアノの特徴は、小気味良いリズムと熱いテンション、それに伴う大小さまざまな抑揚で、それらが生み出す生命感が魅力なんですが、とはいえ、さほど噴火しなくてもいいと思う場所で、ひっきりなしに噴火と鎮火を繰り返されると、そっちの方が目立ってしまって、かえって曲の形が見えづらくなることがあるのが惜しいというか、もう少し端正な部分もあるといいように思いました。
とくにショパンでは、どんなに速いパッセージでも一音一音の美しさを大切にしてほしいもの。

まあ欲を言えばキリがないし、ツボにはまったらハッとするような素晴らしい演奏をされるわけだから、それを含めてのこのピアニストの魅力だとは思いますし、基本的に音楽に献身する希少なピアニストだという思いは変わりませんので、次を期待します。

逆にいえば、マロニエ君は何でも特徴もなくそつなく弾けるだけのピアニストには興味がなく、出来不出来のある人間臭い人のほうが遥かに好きだし、おもしろいし、魅力的だと思います。

追伸;その後、NHK-クラシック倶楽部では2019年のリサイタルの模様が放送され、そこにもテンペストがプログラムに含まれていましたが、こちらはもちろん全曲で、はるかに素晴らしい出来でした。とくに第三楽章は先日のスタジオ演奏と共通する部分もあるにはあるけれど、第一/二楽章を経て終楽章に到達すると曲が俄然必然性を帯びて、はるかに自然なものでした。それと、この方はやはり大舞台でこそ本領を発揮するタイプかもしれません。とくに冒頭のダカンのクラヴサン曲集第1巻の「かっこう」は何度も聴きたくなるような素晴らしい演奏でした。
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なぜ?

ヤマハのグランドピアノには大別すると3つのシリーズがあり、レギュラーのCXシリーズ、中間グレードのSXシリーズ、最高級のCFシリーズで、スタインウェイのBとお値段も遜色ないCF6の現物にはまだお目にかかったことさえありません。

過日、ある調律師さんによると、これに触れる機会がおありだったらしく、音の良さもさることながら、驚かれたのは昔のピアノのように、チューニングピンが固定されるピン板が、外部にむき出しになっているという点だったようです。
たしかにそれはちょっとした驚きですね!
コンサートグランドのCFXは違うのに、なぜ同じ最高級シリーズのCF4/CF6ではピン板が露出しているタイプなのか。

昔のピアノのピン板部分はフレームの鉄骨も大きくくり抜かれており、板が直接見えるものがほとんどだったようですが、時代の変遷とともに、このスタイルはほとんど姿を消したように思います。
音量やピンの保持力に問題があったのかと勝手な想像はしていましたが、実際のところはよくわかりません。

ベヒシュタインなども、昔はピン板が出ていたピアノばかりでしたが、近年では順次ニューモデルへと切り替えられ、それらはいずれもピン板はフレームの下に隠れて見えない作りになってきているので、てっきりそれが現代の常識かと思っていました。
具体的にその違いがどういう効果をもたらすのかマロニエ君にはわかっておらず、ただなんとなくピン板の見える仕様は旧式で、見えないスタイルが現代流と思い込んでいたので、そこへ、まさかヤマハがCFシリーズという新しい最高ランクのピアノにそういう機構を取り入れるなんて、思いもしないことでした。

ちなみにヤマハの子会社となったベーゼンドルファーは、現行モデルでも、いまだにピン板が露出する方式のようなので、ここらと関係があるんでしょうか。

YouTubeで探すと、こんな弾き比べの動画がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=FL81a7rnD0g

たしかに、いかにも今風な「どうだ!?」といわんばかりのわかりやすいキレイな音ですね。
好みや感じ方は、各人各様だと思いますが、マロニエ君の素直な印象を敢えて述べますと、音のキレイさがいささか前に出過ぎており、試弾した人を納得させるには充分だろうとは思いますが、どこか電子ピアノ的な無機質なキレイさで、さてこれで実際の音楽が奏されたとき、曲に内包される味わいとかこまかな情感を写し取ることができるんだろうか…という感じがします。
ピアノの音をここまでにもってくるMade in JAPANの力ってある意味すごいと思いますが、同時に、そこに西洋発祥の楽器作りという根底があるかぎり、これが限界のような感じがしなくもありません。
かつて「日本人には本物の靴や椅子は作れない」と言われたことがありますが、それは我々の中にある遺伝子や生活様式とは相容れないところにその真髄があるからだというような意味でしたが、似たようなことがピアノにもあるのかと思ったり。

さて、対するベーゼンドルファーはやはり個性的で、このピアノだけにしかない濃密な世界があり、華やぎと暗さとが同居する独特な美しさ、歴史の重み、豪奢なウィーンの香り、あらゆるものが屈折して混在しています。
美しく上品な中に、ほんのわずかに汚らしいものが見え隠れするあたりも、一言では言い表すことのできない、まるでリヒャルト・シュトラウスの退廃的なオペラのようでもあります。

いっぽう、いつも感じることは、弾き比べの場においては案に相違して意外に地味で、控えめで、取り立てて特徴のないような印象を与えてくるのがスタインウェイ。
キラキラだ、派手だといわれるけれど、他社のピアノと並べて直接対決すると意外やもの静かで、明快な主張さえも少ないような印象があります。
とくにそう感じるのはアタック音が控えめで、弦楽器のようなやわらかな響きと重層的なハーモニーに重きを置くような音の出方だと、比較の場において強いインパクト性という点では不利なのかもしれません。

でもスタインウェイのすごいところは、曲になったとき音楽として最も成熟した落ち着きとまとまりがあるところで、そこがピアノとしてサマになるという点ではないかと思います。
音としての純粋な美しさという点でいっても、必ずしも一番ではないかもしれないけれど、スタインウェイにしかない奥深い心地よさがあっていつまで聴いても飽きないし、耳も神経も疲れないのも深い秘密がありそうです。
耳に直接というよりは、人の気分や感覚を通して、からだ全体に聞こえてくるという感じ。

マロニエ君は真に美しいものには、複雑と収束、精神性、清濁さまざまな要素を兼ね備え、互いに意味を持ちながら高みに達したときに到達する領域の景色だと思うので、ただ雑味を取り払い、無キズでピカピカに磨き上げたものとは似て非なるものだと思うのです。


ちなみにCF6って、カタログを見ている時からかなり不思議な点があります。
それはグランドの特徴である3本の足の前の2本の取り付け位置(とくに見えやすい右側など)ちょっとアンバランスなほど前に寄せてつけられている点。
ビジュアルとしてはいささか異様な感じをうけるのも事実ですが、これほどの高級機種でのことだから、なにか根拠があるのだろうとは思われ、その「理由」をいつかぜひ知りたいもの。

それにしても、まったく同じYAMAHAのロゴが付いた、まったく同サイズのピアノで、C6Xで324万円、S6Xでほぼ2倍の594万円、CF6でさらに2倍以上の1364万円と、C6Xを4台分でもまだ足りない価格設定なんて、こんな大胆なメーカーは世界広しといえどもおそらくないような気がします。
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知られざる逸品

日本のピアノブランドというと、近年では事実上ヤマハとカワイの2社だけで、そこにディアパソンがコバンザメみたいにへばりついているぐらいですね(厳密にはもう少しないこともないようですが)。
しかし、昔は国内だけでも信じられないほどたくさんのピアノメーカーが存在していたようで──ヘンなものもあったでしょうけど──中には今では考えられないほどの逸品も生み出されていたようです。

好事家の間で知られているのはシュベスター、クロイツェル、イースタイン、オオハシとか、それ以外にも、アトラスやフクヤマ、アポロなどパッと思いつくだけでもまあいろいろありました。
その数たるや想像を絶するほどで、それらの名前やロゴの写真を集めた「日本のピアノメーカーとブランド」という一冊の本が出ているほどですが、そのほとんどが消失してしまったという事実には、時代の容赦ない残酷さを感じます。

さて、あるピアノ好きの知人からの情報で、某所にワグナーピアノというのがあって、それを所有者が手放したがっているという話を聞かされました。
なんとその方は、わざわざ新幹線に乗ってそのピアノを見てこられたとのこと。

正直言って、マロニエ君もワグナーピアノというのはアップライトで名前ぐらいは見たことがあったような気がする程度で、音の印象もなく、はじめは「へ〜ぇ…」ぐらいな感じでしたが、しだいにわかってきたことがありました。

ワグナーピアノはもともと広島にあった東洋楽器製造株式会社で製造されたピアノで、1955年の創業、敷地1万坪の地所に工場があったものの不幸にして火災に遭い、1964年わずか10年足らずで廃業となっているようです。
その後、ワグナーブランドは浜松の東洋楽器製作所(似たような名前で、アポロなどを製造するメーカー)に引き継がれたようですが、ピアノ自体は広島時代のものとはまったく別物だそうです。

さて、当該のピアノは1960年製、すなわち広島時代のワグナーピアノで、しかも驚くべきは希少なグランドなのでした。

写真が送られてきましたが、塗装が当時よく使われたというカシュー(人工漆のようなもの?)であるために、大屋根にこそ派手なひび割れがあるような状態でしたが、内部は、フレーム、響板、弦など、とても60年前のピアノとは信じられないほどきれいな状態が保たれているようでした。
さらにかなり黄ばんでいるけれど象牙鍵盤で、試弾されたところずいぶん力強く鳴っていたとかで、そのせいか蓋を完全に閉め、カバーで覆って使われていたとのこと。
内部の写真で驚いたのは、フレームの亀甲形の穴や鮮やかなブルーのフェルトなど、パッと見たところブリュートナーといった感じで、それを手本に設計製造されたピアノであることは疑う余地が無いようです。

マロニエ君がこの話を聞いた時点では、この知人が譲り受ける前提で話が流れているようでしたが、そこへたまたまシュベスターのオーバーホール済みのグランドというのがでてきたため、急旋回でそちらを購入されることになり、そのワグナーピアノは突如フリーの状態になりました。
値段を聞くとびっくりするほどお安く、ついムラムラっとしてくるではありませんか!

さっそく古いピアノに詳しい調律師さんに連絡したところ、さらにその方の先輩に当たる調律師さんがワグナーピアノにかなりお詳しいとのことで、またまたびっくり。
マロニエ君もよく知る方だったので、さっそく電話してみると、それはもう絶賛の嵐で、日本にもかつてはすごいピアノがあったのだということを情熱的に語られ、その素晴らしさをひとしきり伝えられました。
特徴としては、いわゆる甘い音のピアノではなく、腹の底から湧き上がるような力強い鳴りで、要するに重厚なピアノとのこと。
甘さは弾き方によって表現するようになっているそうで、それは戦前のスタインウェイなどもみんなそうで、昔のクラシック専用のピアノの多くがそういう音だったというのは何かで読んだ覚えがあります。

ただし、その調律師さんが語られるのは、あくまで広島で製造されたワグナーピアノのことで、とりわけグランドは希少で楽器としての価値は極めて高いけれど、リセール時のニーズは期待できないとのことで、そこが理由で、過去にもずいぶん多くの良質なピアノが廃棄されたとのことでした。
なので、そこさえ覚悟できるなら、ぜひ買う価値があるピアノだと、それはもう力強く勧められました。

この時点で、気分はかなり盛り上がりましたし、マロニエ君はリセールバリューなんてなくてもなんら問題じゃないのは言うまでもありません。
…問題はそこではなく、すでに我が家にはピアノが数台あることと、そのワグナーピアノは遠方にあるうえに現在2階に置かれているらしいこともあって、ユニック使用を含む安くもない運送料、大屋根の塗り直し、象牙の漂白〜ぐらいで済めばいいけれど、いかに中がきれいとはいっても60年前のピアノとなるとやるべきことは少なくないはずで、そういうことをあれこれ考えていると、気がついた時には神経がヘトヘトに疲れてしまいました。
高揚感と不安がごちゃまぜになって、一種の興奮状態に陥ったのでしょうね。

そんなすごい鳴りのピアノってどんなものかぜひ知りたいし、興味はつきませんが、そのために購入までするの?という自問。
一晩寝てよくよく冷静に考えてみたら、さすがにもう一台増やす(しかもどこまで手がかかるかわからないもの)なんて、やはり無謀にもほどがあると気がつく理性もでてきて、熟考した結果、あきらめることにしました。
フルートマニアの友人は、銘器をたくさん押し入れにため込んで悦に入っているけれど、ピアノはそうはいきません。

それを調律師さん伝えるべく電話したら、なんと「だったら私が買います!」と一切の迷いもなく言われ、広島製ワグナーに対する思いの深さには並々ならぬものがあるようで、驚きとともになんとも不思議な感銘を受けました。
でもそれが一番ですよね!
そういうピアノは、マロニエ君のような素人がケチくさい修理をしながら中途半端に維持するより、その価値を熟知しているプロの方の所有となって、その技術を惜しみなく注いで仕上げられるのが相応しいことは自明です。

というわけで、物事が最も相応しいところへ収まるのは、なんとも爽快なものです。
いつになるのか知りませんが、福岡に届いたら、もちろん見せていただくつもりで、ひとつ楽しみができました。
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続・変化のあれこれ

[スタインウェイの変化]
近年は長年不変だったスタインウェイのディテールの形状などが変更されているのは、以前にも書いた通りです。
とりわけハンブルクではボディサイドの大屋根の留め具がなくなり、突き上げ棒はNY風の華奢な2段階式(以前は3段階式)のものに変わり、譜面台も昔のRX時代のカワイのような、いたって平凡なものになってしまったようです。

さらに気づく方はいあまりおられないのかもしれませんが、マロニエ君としては最もイヤなのは、美しかった足の形状が微妙に変わって、アジア製ピアノのような大味なデザインになってしまったことです。
「ピアノは音が問題で、そんな些細なことは本質とは無関係」とする方のほうが大多数だろうと思いますが、世界の一流品というのは見た目のデザインも極めてのもので、細かな部分も大切だというのがマロニエ君の意見です。
スタインウェイの外観上の魅力のひとつに、ステージ上に置いたときのスレンダーな美しさがあり、そこにはまるでロシアのバレリーナのような足の美しさも寄与していただけに、造形が気になる人にとっては、まさしく改悪であり残念としかいいようがありません。
美術館は内部で作品を見せる建築物だから、競技場はそこでスポーツが問題なくできれば、外観はなんでもいいという人はいないと思いますが、それと同じです。

ニューヨーク・スタインウェイは、詳しいことはわからないけれども最近ではボディは艶出しが多くなり、工程が近代化されたのか、仕上がりじたいはだいぶきれいになった気もします。
またいくつかの映像では、ボデイ内側に、ついにハンブルクと同様の木目の化粧板が貼られる(以前はヘアライン仕上げの黒のままで、ピアノ全体がやや無愛想でしたが)ようになるなど、見た目の華やかさにも配慮し始めたのでしょうか。
ただし、これは一部のピアノだけなのか、標準化されたのか、そこのところは未確認。

先に書いたハンブルクの変化といい、片やこのニューヨークの変化といい、なんとなくこの両者の隔たりを少なくして、その溝を埋めようという試みのようにも思えますが、どうなんでしょう。
ただ、たまたまマロニエ君が見た動画では、新しくゴージャスにもなったニューヨーク・スタインウェイであっても、音は依然として馥郁として柔らかく、むしろ往時のスタインウェイの本質を残しているのはこちらではないか?とさえ思いました。

むかし以上にキッパリ鳴らしている気配のハンブルクに対して、ニューヨークがより本来のピアノの本質を深めていくのだとしたら、それは興味深いことではありますが…なにしろ情報不足で断定的なことはまだ言えません。

[人の変化]
今どきの人の変化でいうと、やはりというべきか、ネット上はかなり荒れ気味な印象を受けます。
マロニエ君にはピアノとクルマの2つのホームページともブログともつかないものがあり、それぞれクラブ入会という項目があって、たまに質問や入会の問い合わせみたいなものをいただきます。

中には、入会希望というのに名前も名乗らず、雑な感じで要件のみ二行ぐらいのものが何かのついでのように書かれていたりで呆気にとられることもあったり。
まあ、今どきはそんなことぐらいでいちいち動じてはいけないのでしょうが、それでも、こういう出方をされるほうが気構えができるだけ、まだマシだったりします。

もっと不快な後味が残るのは、はじめは一定の礼儀と丁寧さをただよわせ、さもちゃんとした人間であるかのようにアピールされているにもかかわらず、多少の説明など書いて返信すると、いきなりそれっきりになったりするパターン。
おそらく、説明内容が先方のニーズに合わなかったというようなことだろうと推察されますが、はじめとは打って変わって、一言の挨拶もないまま無視して終わるというもの。
こちらだって、返信メールをするのにも一定のエネルギーと時間は要するのだから、それが仮に質問者のニーズに合わないものだったとしても、普通だったら何か一言ぐらい返してしかるべきと思うのですが。

このように、善良で誠実ぶった態度と、不誠実なエゴが裏表になっているのは、そのギャップがおおきいぶん不快感も増大します。
この態度のギャップ、おそらくは入会してお付き合いが始まることを想定して、まずはよく思われておきたい、印象を良くしておきたいという自分本位の思惑が働くためで、だから予想と違ったものとわかるや、その瞬間、即ゴミ箱行きというのがありありと見て取れます。

これだから、今どきは出来る限り人付き合い(とくにネット経由の)はしたくありません。
それは偏見でもなんでもなく、ネットというのは、相手の素性もバックボーンもわからないから、その両者をつなぐものはネットの文字だけで、それがいつなんどき、フッと切れるかわからない義理もへったくれもない世界。

さらに、折からのコロナ禍で、人はこれまで以上に他者との関わりが減り、孤独化し、精神的にも風通しが悪くなっているから、この先はもっとおかしな方向へと加速していくことが予測され、よくよく覚悟しておく必要がありそうです。
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変化のあれこれ

辻井伸行のピアノ、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮で、2012年サンクトペテルグルクで行われた白夜の音楽祭?だったか、そういうものを映像で見ました。
曲はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。

すでに8年前の演奏会の様子で、DVDなどにもなっているようですが、マロニエ君は今回初めてそれを見る機会があったわけですが、これがなかなかの熱演で聴き応えがあり、感銘を受けました。

なにより驚いたのは辻井さんのエネルギッシュで頼もしいピアノでした。
いつもの彼は安定したテクニックで美しい演奏はされる反面、もうひとつ迫真性というか、厳しさや踏み込みが足りず、もう一押しあればというところを感じるのですが、このときはロシアの音楽祭で、指揮はゲルギエフ、オーケストラも聴衆もロシア人に囲まれてチャイコフスキーを弾くということになると、格別の気合が入るのでしょうけど、少なくとも最近テレビなどで目にする国内外の演奏会ではここまで集中力を高めたものはそうお目にかかったことがありません。
やはり本場がもつ空気なのか、本気で挑んだものは違うというのがハッキリ出ていたように思いました。

辻井さんは、ここぞというときにガツンとほしいパンチや激しさ、あるいは人の心をいざなうような溜めやデリケートな深い歌いこみががほしいときに、スララと抜けていくところがありますが、そういう物足りなさがこの演奏では殆どなく、終始力強くコッテリ感もあり、コンチェルトのソリストとしてじゅうぶん満足感の得られる演奏を繰り広げていました。
こういう演奏は、いつもできるものではないのでしょうね。

伝統的に、何事も重厚かつロマンティックなロシアで、いつも通りの演奏をしていたのでは充分な喝采は得られないという判断が働いたのか、そのあたりのことはわかりませんが、とにかく立派な演奏でした。

また、非常に意外だったことは、ロシアのサンクトペテルブルクであるにもかかわらず、ステージに置かれたピアノはニューヨーク・スタインウェイで、これがまたなかなかの好印象なピアノでした。
細かいことを言えば完璧ではないのかもしれないけれど、基本が太く良く鳴るピアノで、ひとつひとつの音が研ぎ澄まされ磨きこまれたというものではないけれど、ピアニストの熱気や気迫にダイレクトに反応してくるという点では、実になんともコンサートピアノらしいもので、いつも行儀よくつややかな音を安定供給するハンブルクとは、いささか性格が異なる印象でした。

ピアノというものは、ただ美音で整っていればいいというものではないことを聴くたびに教えてくれるような気がするのが他ならぬニューヨーク・スタインウェイですが、どうも肝心のピアニストと技術者がそこのところを理解せず、リッチで整った音でよく鳴るだけのピアノをステージにあげてしまうのはなんとかならないものかと思うばかり。

マロニエ君はヴァイオリンのことはわからないけれど、一般的な知名度ではストラディヴァリウスであるのに対して、演奏家はより力強く野趣も持ち合わせるグァルネリ・デル・ジェスを好むのも、もしかしたら少し共通する要因なのかなぁとも思ったり。

しなやかさと野趣があり、どこまで責めても破綻せずピアニストより前に出ることなく、底知れぬ感じでついていくニューヨーク・スタインウェイの強靭な魅力は独特で、ヨーロッパや日本でももっと聴ける機会が増えたら良いのに…と思います。

辻井さん、スタインウェイ、それぞれに変化があって久々に楽しめました。
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