ベーゼンは頑丈

過日、あるピアノリサイタルでのトークで聞いた話を少々。

この日のプログラムは主にロマン派のピアノ曲がひとつの主題のもとに配され、当時のいろいろな音楽事情やそれに絡む作曲家の恋愛話などが興味深く語られました。

マロニエ君は基本的にトーク付きのコンサートというのは好きではなく、できることなら演奏者は演奏のみに専念してもらいたいところですが、これも時代の風潮というべきか、旧来のスタイルは今どきの人にとっては甚だ無愛想でつまらないものと感じられるのかもしれません。

トークといってもいろいろで、それこそ人によって様々です。
演奏を補佐するようにトークをほどよく織り込みながら、お話と演奏をバランスよく進めていかれる方もなくはないものの、大半は内心「こんなトークを聞くために、今ここに座っているわけではないんだけど…」と、ついため息が出るような、紋切り型の話をくどくどされる方も少なくありません。きっとご本人もトークをするのが不本意なんだろうと思いますが、そういう人の話は聞いているほうも楽しめないのは当然です。

逆に、本業は演奏家であるのに、妙にトークずれしてしまって、変に笑いを取ろうとするような人などもあり、そんなときは聞かされているこっちの方がなにかいたたまれない気持になるものです。

前置きが長くなりましたが、この時のトークは珍しく楽しいもので、演奏家のトークというものは演奏以上にその人が出てしまうものだとも思います。

さて、リストの話題になったときのこと、思いもかけない言葉がピアニストの口から出てきて、おやと思いました。
若い頃のリストはまさに超人気ピアニストで、それは彼の美貌と圧倒的な当時随一の超絶技巧による華麗なピアノ演奏にありました。まさにスーパースターです。
そのリストのリサイタル会場には常時2〜3台のピアノが置かれていて、それはリストの激しい演奏に楽器が耐えられず、演奏中にピアノが壊れてしまうので、そのために数台のピアノがいつも準備されていたようです。

この日のピアニストが言われるには、そんなリストの激しい演奏にも持ちこたえる頑丈なピアノを作ったのがあのベーゼンドルファーだったということでした。(このことは、9月半ばのこのブログにも書きました)

いまでこそベーゼンドルファーは、貴族的なウィンナトーンをもつ繊細優雅なピアノとされており、スタインウェイやヤマハとは生まれも目指すところもまったく違いますよという高貴なイメージになっていますが、歴史を紐解けばどうもそういうことばかりでもないようです。

このピアニストが言われることに説得力があったのは、リストの時代には頑丈さこそが身上だったベーゼンドルファーは、他のピアノに比べてフレームなどもとりわけ強固で頑健に作られている由で、それは今日のモデルにも受け継がれているので、皆さんも機会があったらぜひ中を覗いて見てくださいと言われるのです。

通常ベーゼンドルファーは、楽器としての素晴らしさもさることながら、工芸品としての仕上げのクオリティでも見せるピアノでもあるので、ついそっちにばかりに目が向いてしまいますが、実際はずいぶん頑丈そうなフレームをしていて、ブリッジも縦横に伸びていますし、太いネジなどもバンバン打ち込まれています。エクステリアデザインも、頑丈さから来たピアノといえば確かにそうだと思われます(例外は今はなき優美なModel275)。
ベーゼンドルファー=ウィーンの伝統に根差した気品あふれるピアノという強いイメージが刷り込まれているので、そういう固定観念をもって見ていた自分にハタと気がつきました。

それとは別に近年感じていたことは、ベーゼンといえば「やわらかな木の音がするピアノ」というイメージが長らく定着していますが、そちらのほうは最近は少しずつ印象が変化してきているところではありました。
というのも、ベーゼンで多く耳にするのは意外にも鋭い金属的な音のするピアノが多く、個体によっては音がつき刺さってくるようで耳が疲れることがあるように感じます。

ウィンナトーンなどと云われると、ウィーンフィルやムジークフェライン、シェーンブルン宮殿などをつい連想して、それだけでもうなにやらありがたくて評価の対象ではないような気になってしまっています。
そんなウィンナトーンのピアノの筆頭であるベーゼンで耳が疲れるなど、こっちの耳がおかしいのだろう…ぐらいに思ってもみたのですが、でもやっぱり感じるものは感じるわけで、あまり硬質な、きつい感じの音がすると、んー…という印象をもってしまいます。

伝統あるものに敬意を払い尊重することは大切ですが、同時に自分の感性に対しては常に正直でなくてはいけないと思います。
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事務用品で代用

一般的にみなさんどうなのかは知りませんが、少なくともマロニエ君が自分でピアノを弾くにあたって、音やタッチのことは別とすれば、もっとも嫌なのは滑りやすい鍵盤です。

鍵盤が滑りやすいということは、むやみにミスタッチの誘因となるばかりでなく、そればかりに気を遣って、安心して弾く楽しみが得られません。滑りやすい鍵盤のせいで、しなくてもいいミスをするのは本当にいやなものです。
そもそも自分が下手クソなのは致し方ないことで、いまさらこの点を嘆いてもはじまりませんが、最低限自分のもっている甚だ乏しい演奏能力さえ指が滑ることで大きくスポイルされてしまうのは、ひとえに滑りやすい鍵盤のせいで、これは甚だおもしろくありません。

とりわけ質の良くない象牙鍵盤が弾き込まれると、表面は異様なほどサラサラスベスベになり、指先を適度に止めるという性質が完全に失われてしまいます。
現在、我が家で愛奏しているディアパソンは、幸いにもこの点ではそこそこの象牙のようで、それほど悪くはないのですが、マロニエ君の手や指が脂性でも汗っかきでもないためか、やはりやや滑り気味です。

滑るといえば、黒鍵の黒檀も、見た感じや指先の触れる感触こそ良いけれども、こと滑りやすさという点ではむしろプラスチック以下だというのが正直な印象です。
これがさらにスタインウェイなどの外国製ピアノになると、欧米人の太い指を想定して、黒鍵の間に指が入るように日本製ピアノより黒鍵がひとまわり細く作られているので、滑りやすい感触と細さの相乗作用によって、これがまたかなり弾きにくいのは事実です。

見てくれや質感を別にすれば、少なくともマロニエ君にとって最も安心できるのは白鍵も黒鍵も、あの安っぽいただの白黒の無味乾燥なプラスチック鍵盤ということになります。
よほど高級品が体に合わないというということなのかもしれませんが…。

これまでにも、市販の肌水などで手を揉むなどして試してみましたが、それなりでしかなく、決定的な解決策はありません。
即効性と一瞬の効力という点でいうなら、圧倒的なのは、名前はわかりませんが、オフィスなどで紙を数えるときなどに指が滑らないように指先にちょっとつける事務用品が文具店に売っていますが、あれは効果てきめんです。

ただし、この事務用としてつくられたケミカル品は、指先に硬いジェル状のそれを塗りつけて弾くとしばらくはまったく爽快なのですが、悲しいかなものの数分でその効果が失われてしまうことです。この製品で、もっと持続力があるものがあれば、例え値段は十倍してもマロニエ君は躊躇なく購入するでしょう。

それでも、ないよりはマシというわけで、譜面台の端にはいつもこの丸い容器に入ったピンクの事務用品を置いていますが、これをつけるたびに他の人はどうしておられるのだろうとしみじみ思ってしまいます。

よくレストランのお盆などに、載せた食器が滑らないように、ややネチャッとした素材で出来たものがありますが、まあさすがに鍵盤をそんな素材で作るわけにもいかないでしょうけれど、やはり滑りすぎが嫌な人のためのなんらかの対策グッズが、ピアノメーカーから開発されても良さそうな気がします。滑らない鍵盤は好ましいタッチに匹敵するほどの、演奏者にとって重要なファクターだと思うのですが、どうしてその手がまったく出てこないのか、こればっかりは不思議でしかたありません。

「持続力のある指先もしくは鍵盤滑り止め剤」みたいなものを開発したら、かなり売れると思うのですが…。
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二度目の終焉

もう十日以上前のことですが、検索にヒットしたネットニュースを見ていると、ショッキングな内容が目に飛び込んできました。

このところ不振が続いていたパリの名門ピアノメーカー、プレイエルがピアノ製造を停止する旨を発表したということです。
数年前にやはり販売不振を理由にアップライトの製造を中止し、近年はグランドのみの製造になっていましたが、それも有名デザイナーとのコラボで、凝った外装を持つヴィジュアルが前面に押し出されたもので、なんとなく楽器の魅力というより嗜好品的な方向を目指しているイメージだったのですが、それが最後の延命策だったのかと思います。

記事によれば、現代はピアノメーカーにとっては非常に厳しい時代で、ドイツ・ピアノ製造者連盟のマネジングディレクター、シュトロー氏によれば「ドイツ国内のピアノメーカー数社は厳しい競争に直面して、最高級品に焦点を当てている」と述べたそうです。
ドイツでさえそうなのだから、一部のファンからのみ好まれるフランスのメーカーともなれば、このような成り行きも当然ということでしょうか…。

これは、第一には世の中のニーズが様変わりし、アナログの象徴たるピアノに対する需要が著しく落ち込んでいることに加えて、1990年代以降は、日本に加えて中国の参入によって、高品質低価格のピアノがヨーロッパの市場を席巻したためのようでもありました。

そもそもクラシック音楽じたいが衰退傾向にある時代に、もはやヨーロッパの中堅メーカーが生き残る術はないということなのか…。欧米人は日本人が考える以上にドライなのだそうで、よほどの富裕層でもない限り、寛容な買い物はしないのでしょうね。
「最高級品に焦点を当てている」というのは、要はそれ以外では勝負にならないという意味でしょう。

といっても、スタインウェイでさえ、またしても身売りされてしまったし、ベーゼンもヤマハ傘下になり、もはや品質や名声だけではピアノ製造会社は生き残りができない時代は、ますますその厳しさがエスカレートしているようです。

考えてみればピアノというのは、製造する側から見れば中途半端な製品で、工業力や設備投資、最低の人員などを必要とする、楽器と工業製品のはざまに位置するものともいえるでしょう。
工房規模で一流品を作り出すことはまったく不可能ではないのかもしれませんが、なかなか困難で、仮にどんなにすばらしい楽器でも演奏家はそれを持って歩くわけにもいかず、ここがまた市場としての需要を作り出す要素としては中途半端です。

その点、弦楽器などは極端な話、天才的な名工であれば一人でも製作は可能で、本当に良いものなら演奏家などが放ってはおかないでしょう。
しかしピアノは、その重く大きな図体から「そこそこでいい」という習慣ができてしまっており、演奏者の求める要求も弦楽器のように高度なものではないということがピアノの運命を決定してしまっているのかもしれません。

ピアノメーカーもやみくもには必要ないと思いますが、少なくともプレイエルほどのメーカーなら、小規模でもなんとか存続できる程度のゆとりはある時代であってほしいものですが、なかなかそう上手い具合にはいかないようです。
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気負わぬ演奏

過日は、福岡出身のピアニスト、木村綾子ピアノリサイタルがあって、ご案内を受けたので行ってきました。
現在は大阪音楽大学で指導にあたっておられ、福岡ではなかなかコンサートの機会がないのですが、それでもときどきこうしてリサイタルをされるのは嬉しいことです。

マロニエ君は以前この方のお母上に大変お世話になったことがあり、ご実家が拙宅から近いこともあって長いことお付き合いがあります。

ここのお嬢さんが木村綾子さんというピアニストなのですが、これがもう大変な腕達者で、ほとんど男勝りとでも言っていい確かな一流の技巧をお持ちです。

音楽的にも、衒いのない正攻法のごまかしのないもので、どこにも変な小細工やウケ狙いがなく、あくまでも楽譜に書かれたことを、慌てず迷わず、しっかりと腰を据えつつ、過度に作品を追い込むことなく客観的に弾かれるスタイルがこの方の特徴です。

長年ドイツに留学されていたこともあるとは思いますが、この方の生来持っておられるものとドイツ音楽はまことに相性がよく、まるで自然な呼吸のようで、確かな構造感が決して崩れることのないまま悠々とその音楽の翼を広げていきます。

そんなドイツ物の中でも、際立って相性抜群に思われるのがブラームスで、あの重厚なのに捕らえどころのない本質、分厚い和声の中をさまようロマン、暗さの中に見え隠れする甘く儚い旋律の断片、作品ごとに掴みがたい曲想などが、この方の手にかかるとあっけないほどに明確なフォルムをもって明瞭な姿をあらわす様は、いつもながら感心させられます。

今回はop.116の幻想曲集が演奏されましたが、これを聴いただけでも行った甲斐があったというものでした。

ピアノを弾くことによほど天性のものがあるのか、こういう人を見ていると、通常はピアノリサイタルという、演奏者にとてつもない負荷のかかる行為が、大した労苦もなしにできるらしいといった印象を受けてしまいます。コンサートはこの方の生活のところどころに自然に存在するもので、それを普通にやっているだけといった、至って日常的な風情です。

そのためか、ギチギチに練習して、隅々まで精度を上げるべく収斂された演奏という苦しさがなく、もっと大らかで、悲壮感も緊迫もなしに、自然にピアノを弾いておられるという伸びやかさが感じられます。
もちろんきっちり練習されていないはずはないのですが、その苦労が少しも表に出ないところがプロというもので、良い意味で、常に余力を残した演奏というのは心地良いものです。実力以上のことを無理にやろうとして聴く側まで疲れさせてしまうということがなく、安心感をもって楽曲に耳を委ねることができるのは立派だというほかありません。

これは、ひとつには木村さんが大変な才能に恵まれたピアニストであるのは当然としても、さらにはその人間性やメンタリティに於いても、常に謙虚で偉ぶらない姿勢が感じられ、その点が聴いていて伝わってくるのは、この方だけがもつ独特の心地よさのような気がします。
演奏に最善を尽くすことと、功名心に縁取られた演奏は似て非なるものです。

どんな難曲を弾くにも自然体が損なわれず、それでいて演奏は構成的にも技巧的にも収まるべきところにビシッと収まっており、これは多くのピアニストがこうありたいところでしょう。
ある意味、こういう無欲で腹の据わった芸当というのは多くのピアニストはなかなかできることではなく、その真摯なのに肩肘張らない演奏は、聴くたびに感心してしまいます。

トークがまたおもしろく、私はピアニストでございますといった気負いがまるでなく、普通の人の感性で淡々と素朴な話をされるのがしばしば笑いを誘います。しかるに、いったんピアノに向かうと呆れるばかりの見事な演奏が繰り広げられるのですから、ある意味で不思議なピアニストです。
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続・左手ピアニスト

左手ピアニスト、智内威雄さんの番組で、冒頭から聞こえてきたピアノの音は、普通とはちょっと違う、燦然とした響きのパワーをもっており、のっけからおやっと思いました。

カメラがピアノに近づくと「ああ、そういうことか」とすぐにわかりましたが、これは神戸の有名ピアノ店所有のニューヨーク・スタインウェイで、いわゆるヴィンテージピアノです。ずいぶん昔にはスタインウェイ社の貸出用に使われていたという来歴をもつ1925年製のDですが、やはりこの時代のニューヨーク・スタインウェイはすごいなあと思います。

何がすごいかと云えば、単純明解、良く鳴るということです。
鳴りがいいから音にも力があり、敢えて派手な音造りをする必要もないようで、太くてどこまでも伸びていきそうな音が朗々と響き渡ります。昔のピアノの音色には、変な味付けがされていない楽器としての純粋さがあるように思います。いわば豊かな自然から生まれたおいしい食材のようなもので、ごまかしがないところが素晴らしい。

もちろん素材としての味は濃厚ですが、それはけっして添加物の味ではありません。
演奏され、ピアニストの技量によって繰り出される音楽の要求に応えるための音であり、その領域に特定の色の付いた音が出しゃばってくることはありません。

その点、現代のピアノは、パッと見は音もタッチもきれいに整っていますが、全体に小ぶりで器が小さい上に、いかにもの味付けをされている傾向があります。いとも簡単に甘くブリリアントな耳触りの良い音が出るようになっており、こういう感じはウケはいいのかもしれませんが、その音色には奥行きも陰翳もないし、弾き込まれて熟成されるであろう感じなども見受けられず、今目の前にあるものが最高の状態という感じです。アコースティックピアノなのに、まるで電子ピアノのような無機質の偽装的な美しさがあるばかりで、音色はあらかじめ固定されてしまっている。

しかし、これでは演奏によって作り出されるべきものを、予め楽器のほうで勝手に決定されてしまって、演奏者から、音色や響きを演奏努力によって作り出す余地さえ奪っているようなもので、悪い言い方をすれば演奏の邪魔をしているとも感じます。

智内さんのご自宅(もしくは個人の練習室)には、新品のように美しくリニューアルされているものの、戦前のニューヨーク・スタインウェイの小さめのグランドがあって、楽器の音にも独自のこだわりをお持ちの方のようにお見受けしました。

また、神戸のあるホールで開催された智内さんのコンサートの映像では、古いヤマハのCFIII(たぶん)を使ったものもありましたが、これが意外なほど渋みのあるいい音だったことは驚きでした。過日書いた広島での小曽根真さんのときと同じく、マロニエ君はこの頃のヤマハのほうが音が実直かつ厳しさがあり、ピアノ自体にも強靱さがあって、はるかに観賞に堪える音のするピアノだと思います。

スタインウェイに話を戻すと、智内さんが通って練習を続け、コンサートにもその特別なピアノを運び込む神戸のピアノ店がしばしば登場しました。ここはマロニエ君も何度か訪れたことがありますが、この店にある年代物のスタインウェイは、どれもその老齢とは逆行するような溌剌としたパワーを漲らせており、「ピアノはヴァイオリンと違って純粋な消耗品」などという流説がここではまるきり通用しません。

マロニエ君は決して懐古趣味ではありませんが、ピアノはやっぱり昔のものの方が全般的に素晴らしいという印象は、このところますます強まるばかりです。
もちろん、個体差もあれば、例外となるメーカーもあるとは思いますが、時代の流れとして全体を見た場合、概観すればそういう現実があると個人的には思っています。
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左手のピアニスト

NHKのETV特集で、『左手のピアニスト~もうひとつのピアノ・レッスン~』という番組が放送されました。
智内威雄さんという、現在37歳のピアニストに焦点を当てたもので、20代前半のころ、留学先のドイツで突然「局所性ジストニア」という難病に襲われ、右手のコントロールが効かなくなったことから、苦悩を乗り越え左手のピアニストに転向したという方でした。

注目すべきは、どうやら、この方がただ単に左手のピアニストというだけでは終わらない能力の持ち主であるというところのようです。
左手ピアノは、両手ピアノとは奏法も聴かせ方も異なるため、左手ピアノ固有の奏法や表現を独自に研究、弟子および他者への指導、埋もれた楽曲の発掘、さらにはコンサートなどを通じての、いわば市場の開拓といったら言葉が適当かどうかわかりませんが、左手ピアノの魅力を世に知らしめることまでを視野に含む、トータルな活動を精力的にこなす方でした。

ラヴェルやプロコフィエフの左手の協奏曲などが、第1次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱によって作曲されたことは有名ですが、番組の解説によると、左手ピアノのための作品はなんと300年前から存在し、数千曲もの左手のピアノ作品が作られていたというのは驚くべきことでした。

しかも現在は、これらの作品の大半が弾かれることのないまま埋もれた状態になっているのだそうで、そうなると楽譜を見つけるのも容易なことではないようです。

どれほど優れた作品であっても、それが演奏され、音として聴くことができなければ、その存在意義は無いに等しいものになるわけで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲の価値を見出したり、メンデルスゾーンがバッハそのものの価値を広く世に広めるきっかけを作ったように、数多くの陽の目を見ない楽曲には、ときどきこのような熱心な個人の力によって、再び陽の目をみるチャンスが巡ってくるものなのかもしれません。

その智内さんの演奏はまったく見事なもので、いわゆる左手ピアノにありがちな、ひ弱さや物足りなさの要素は皆無。いかにも筋の通った、堂々たる佇まいの音楽として、充実感をもって演奏される様子には感嘆すら覚えました。
テクニックも大変なもので、あるコンサートで共演したフランス人のなんとかいうピアニストとは格段の違いを感じさせられます。

さらには、智内さんがピアニストとしてだけでなく、ネットを駆使して演奏技法を公開したり、左手ピアノの勉強会のようなことを開催したり、子供のために編曲をしたりと、とにかく広い意味での才人であることに異論はありませんが、番組の随所にはけっこう役者だなあと思わせられるシーンも少なくなく、さらにはその考え方や言葉などを通じて、なかなかの野心家のようにも感じられ、こういう人は何をやらせても事を為し遂げるのだろうと感心させられてしまいました。

ルックスもなかなかで、声もよく、色白のおだやかな優男のようでありながら、その眼光は常に鋭く、まさに隙のない意志の人なのだということが、まるで倍音のように伝わってきたのはマロニエ君だけでしょうか…。

左手ピアノでありながら、有名な日本人の御大の名が一度も出てこなかったのも偶然かどうかはわかりませんが、ともかく、これぐらいの才とスタミナのある人でなければ、今の時代にひとつの分野を再確立させることなどできないのだろうと、なんとなくトータルで了解してしまいました。
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プレイエルP280

これまで購入したCDの中には、聴いてみるとまったく期待はずれで、一聴してそのままどこかに埋もれてしまうものが少なくありません。
もったいない話ですが、CDは聴いて気に入らないから返品というわけにもいかないので、こういうCDもいつしか嵩んでくるという面があることは事実です。

そんなものの中から久しぶりに再挑戦というわけでもありませんが、ふと思い出して、もういちど清新な気分で聴いてみようと引っ張り出すことがあるのですが、そんな敗者復活戦で陽の目を見るCDは滅多になく、大抵はやはり初めの印象が蘇ってくるだけに終わります。

そんなもののひとつに、「プレイエル・ピアノを、サル・プレイエルで」というタイトルで、デルフィーヌ・リゼという女性ピアニストの弾くシューマン、ベートーヴェン、リスト、プロコフィエフ、ショパンなどを収めたCDがあり、これを再度聴いてみることに。

これはいうまでもなく、現代のプレイエルのコンサートグランドによる録音がほとんどない中で、その音を聴いてみることのできる貴重なCDとして買ったもので、演奏や曲目は二の次です。

プレイエルというと、マロニエ君はやはりコルトーのCDに代表される昔のプレイエルには惹かれるところが大きいのは事実です。戦前から1940年ぐらいまでのプレイエルが持つ、あの独特の軽さと、華麗で艶やかで享楽的な音色はいかにもパリのピアノというもので、田舎風の要素がまるでありません。

その後のプレイエルはドイツ資本に売られるなど、事実上プレイエルの遺伝子を持ったピアノは消滅したも同然でしたが、21世紀の初頭だったか、ふたたびフランス国内で再興します。
この新しいプレイエルの音を賞讃する意見にはあまり触れたことがありませんが、そのナインナップの中にはP280というコンサートグランドまで含まれているのは大いに期待をもたせるものでした。

ところが、なかなかその音に触れ得るチャンスがなく、そんな中でこのCDはある意味で最も待ち望んでいたものでした。しかし、スピーカーから出てくる音はどうにもパッとしないもので、期待が高かっただけに肩すかしをくらったようでした。

決して悪い音ではないのです。ただ、昔のプレイエルが持っていた明快な個性に比べると、非常に優等生的で、このメーカーに対して期待していたものはほとんどありません。
さすがにフランスピアノだけあって野暮臭い鈍重さはなく、基本的に柔らかい響きと、基音の美しさで聴かせるピアノだとは思います。

ある技術者の方から聞いた話によると、このP280は実はドイツのシュタイングレーバーで生産委託されているものだそうで、聞いたときは大変驚きましたが、考えてみれば工房規模の、いわば弱小ピアノメーカーで中途半端なものを無理してつくるより、シュタイングレーバーのような確かな技術を持つ会社に丸投げしたほうがいいということかもしれません。

これは自分で確認できた話ではありませんが、相手は好い加減なことをいう方ではないので、それが事実だとすると、このP280はピアノとしての潜在力はいいものがありそうに感じるものの、その音はどこかおっかなびっくりの至って消極的なものとしか思えません。ドイツ製ピアノの土台の上に、フランス風の味付けをしたという辻褄あわせが、本来のこのブランドらしい突き抜けたような個性の表出を妨げているのかもしれません。

逆にいうとシュタイングレーバーに、小ぶりのやわらかなハンマーを取りつけて、それっぽい整音をしたらこんな音になるのかとも思いますが、いずれにしろ、本当にプレイエルのコンサートグランドというのであれば、まずなによりもショパンコンクールのステージに復帰してほしいものです。

追記;先ほどシュタイングレーバーを販売するお店の方からメールをいただき、シュタイングレーバー社はプレイエル社から依頼されたため、P280の設計をしただけで、生産はしていないということでした。
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音響の憂鬱

前回の「音響」ということで思い出しましたが、少し前、久しぶりにピアノリサイタルに行きました。久しぶりであるだけに多少の期待も込めながら席に座りました。

あえて個々の固有名詞は使いませんが、会場は福岡在住で多少なりとも音楽に関心のある人なら誰でも知っている、かなり稼働率の高い小さなホールです。

交通の便と260席というサイズからここを利用する演奏者は多く、小規模のコンサートはこのホールがその需要の大半を握っているといっても過言ではありません。
しかしその音響の酷さは以前から悪評高く、マロニエ君自身もこの点で最も行きたくないホールのひとつなのですが、それでも、これに替わる使いやすい小ホールがないという現状を背景に、オープンから約20年を経過して尚、ここばかりが頻繁に使われています。

その理由は専らロケーションで、少し郊外にいけばもっと良いホールはいくつもあるのですが、もともと集客の見込めないクラシックでは、場所が少しでも不便になるともうそれだけで人の足は向きません。従って音響に多少の問題があろうと、都心にあるこのホールばかりが利用されるという状況が生まれてしまうようです。

その音響ですが、何度行っても慣れるどころか、そのたびに「うわぁ、これほどだったか!」と新鮮なショックを受け、終演の頃にはフラフラになるほど神経が疲れてしまいます。
壁などのホールの内装材は、見た目には木材らしきものが使われており、いちおう尤もらしい姿形にはなっているものの、そこで耳にする音はおよそ美しい音楽のそれとはかけ離れた衝撃音の滝壺にでもいるようです。

知人によれば「あそこは古楽器とかギターのリサイタルがせいぜい」といいますが、まさにその通りで、ピアノリサイタルともなると、まるで温泉の大浴場にスタインウェイを置いて弾いているようで、その音はまさに暴風雨のごとくホール内を暴れまくります。

この日は、あまつさえピアノのコンディションも芳しくなく、品性の欠片もない音がビンビンと出てくるばかり。ピアノを聴く期待と喜びは一気に苦痛の2時間へと暗転です。
こうなるとスタインウェイの特性が裏目に出て、荒れた倍音が神経を逆撫でするのは拷問のようでした。よほど途中で帰ろうかとも思いましたが、そうもできない事情もあって最後までこの苦行になんとか耐え抜き、終演後は足早に会場を飛び出しました。
帰宅後はすぐに食事をして、そのままベッドに倒れ込みましたが、誇張でなく本当にそれほど疲れてしまったのです。

ピアニストはテクニシャンを自負しているのかもしれませんが、ほとんど格闘技のようにパワーで押しまくり、力でねじ伏せて拍手喝采を取りつけるやり方は、まるでスポーツ系だと思いました。
ほんらいプロの音楽家は、ホールの響きとピアノの状態を察知して、可能な限りそれにかなったやり方で最良の演奏を聴衆に提供すべきですが、弾ける人は弾けるところを見せつけて会場を圧倒し、夜ごとヒーローにならなくては気が済まないものなのかもしれません。

コンサートにも後味というものがありますが、なんとなく良い気分になって帰路に就くことは、なんと難しいことかと思わずにはいられません。

念のために言い添えておきますと、マロニエ君はこんなブログを書いてはいますが、実際にはホールもピアノも演奏も、決して厳しいことを言い立てるタイプではないのです。そこそこのものであればじゅうぶんで、単純に満足できますし、だいいちそのほうがずっと自分が幸せというものです。

理想を追い求めるのは、常に不満の充溢する嶮しい道を進むことで、マロニエ君はとてもそんな道に耐えていくだけの気概も胆力も能力もありません。
ただ、それでも、じぶんがいやなものはいやで、そこにウソはつきたくないというだけのことです。
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ヤン・リシェツキ

カナダの若手ピアニスト、ヤン・リシェツキのピアノリサイタルの様子を録画で観ました。
1995年生まれで、一昨年2011年の来日公演ですから、このときわずか16歳というのは驚くべきですが、その風貌はというと、とてもそんな歳とは思えない長身の金髪青年で、ピアノがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫ぶりでした。

リシェツキの存在は数年前から時折聞こえていましたが、いわゆる天才少年というものは、音楽の世界では決して珍しいものではありませんし、世界的演奏家は大半が天才だといっても過言ではないかもしれません。
ただし、その天才にもランクというものがあるようですが。

マロニエ君はショパン協会公認とかいうポーランドお墨付きのCDで、彼がワルシャワでショパンの2つの協奏曲を弾いたライブ盤を購入していましたが、そこに聴く印象では、技術的にも立派で滞りなく弾き進められているし、それが14歳の少年であることを考えると、もちろん大したものだとは思いましたが、では本当に心底驚いたのかといえば、実はそれほどの何かはなかったというのが偽らざるところでした。
その昔、同じくこの2曲による12歳のキーシンのデビューライヴ録音を聴いたときの、驚愕と衝撃には較べるべくもなく、往々にして第一級の天才というものは、聴いている大人の心の深い綾のようなところにまで迫る真実とオーラを有しているものです。

リシェツキのこのCDは、もうずいぶん長いこと聴いていないので記憶も曖昧ですが、そんな真の天才少年少女にみられる、ナイーヴな感性の支配によって切々と語られる純潔な詩情と憂いに、聴く者の心が大きく揺さぶられるような要素は乏しく、どちらかというと常套的・優等生的な演奏だったという印象だったことは覚えています。

そのCDいらい、はじめて接するリシェツキでした。
曲目は、バッハの平均律第二巻から嬰ヘ短調のプレリュード(フーガはなし)ではじまり、メンデルスゾーンの厳格な変奏曲、ショパンの作品25のエチュード。

全体の印象として、凡庸かつ平坦なものしか感じられませんでした。一般的なピアノ演奏技術の習熟という意味において、彼が並外れて早熟な能力をもつ青年であるという点では異論はありませんが、それ以上のもの、すなわち演奏芸術としての何らかの価値を聴く者が受け取るまでには至らなかったというのが偽らざるところでしょうか。

若くて純真な感性の独白が音楽を通して語られ、したたり落ちるのではなく、意志的に構成された、思索的な演奏である点がむしろ音楽として中途半端となり、却って彼の年齢からくる未熟さを露呈してしまうようで、修行半ばにしてステージに出てきてしまったという印象。
また、このリシェツキに限ったことではありませんが、若い演奏家にしばしば見られるのは、芸術家としての成熟を深めることより、チケットの売れる演奏家として出世することのほうに意欲が注がれ、音楽に対する率直な憧憬とか尊崇の念が不足するのか、指は動いても空疎な感覚がつきまとう点でしょうか。なんであっても構いませんが、そこに真実の裏打ちがない演奏の多いことは非常に気になります。

ピアノはヤマハCFXでしたが、少ない音を普通に弾くぶんにはとてもよく鳴っているという印象があるのに、音数が増えて折り重なったり、強い重低音を多用する場面になると収束性に乏しく、ショパンのエチュードop.25の10、11、12番で連続して出てくる激情的な部分、あるいはフォルテが主体となり強いタッチが交錯する場面では楽器の性能が頭打ちになってしまうようで、ダイナミックレンジの狭さを感じてしまいました。
個体差であればとは思いますが…もうすこし懐の深さが欲しいものです。
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軽さの意味

最近は中古ピアノもネット動画で宣伝する店が増えて、店主もしくは店員が自ら出演し、折々の在庫ピアノを紹介するというスタイルが流行ってきているようです。
これは、今ではすっかり有名な関西の業者がはじめたやり方で、それが他社へもしだいに広がっているというところでしょうか。

この手の宣伝動画は概ねパターンが決まっており、まず簡単な挨拶に続いて紹介するピアノの概要の説明、状態、続いて音出しや演奏がおこなわれることで、それがどんなピアノであるかをざっと知ることができるという点では、差し当たってのきっかけになることは確かでしょう。もちろん購入を検討するときは店に出向いて現物確認をする必要があるのは当然としても、すくなくともアピールの第一歩という目的には有効な方法なのかもしれません。

そのネット動画をみていると、ちょっと興味深い事がありました。
あるピアノ店で、1980年のヤマハのC7(1980年)とディアパソンの210E(1979年)の2台を比較しながら紹介する動画がありました。

よく見ているとこの2台には、それぞれのピアノの譜面台には機種やサイズ/価格などを記したカードが添えられていますが、ヤマハのC7は奥行きがこの当時のものは223cm、ディアパソンの210Eは210cm(実際は211cm)ですが、重量表記はC7は415kg、210Eは250kgとなっています。
この250kgというのは明らかな誤表示と思われ、これは一般的にアップライトの重量です。210Eは通常370kgとされていますので、単なる間違いだろうと思います。

よって210Eは370kgと考えるとしても、C7と210Eの長さの差が12cmであるのに対して、重量差は45kgということになります。ちなみに現行のヤマハのC7XとC6Xでは全長の差が15cmであるのに対して、重量はわずか10kgの違いにすぎません。

ではのこり35kgの差は何なのか。
もちろんこの二台は設計自体が異なりますから単純比較をすることが適当かどうかは異論の余地があるところだとは思いますが、強いて云えばおそらくピアノを構成する材質の違いではないかと思われます。接着剤を多用する合板や人工素材は、無垢の木材よりもはるかに重量が嵩むとされています。つまり合板は接着樹脂と木材をミックスしたものと考えるべきで、これは重い上に、音の伝達性が劣るのはいうまでもありません。

もちろんディアパソンとて合板を使っていないはずはありません。しかし、ひとくちに合板といってもいろいろでしょうし、使用比率の違いなどもあろうかと思われます。ヤマハのピアノは昔から長らく付き合ってきましたが、天板の開閉をはじめ手触り的にも重量が重いピアノというイメージがあって、それはいまだに拭えません。
最新の現行モデルを調べてみても、ヤマハのC6X(212cm)は405kgであるのに対し、カワイのGX-6(214cm)は382kgとなっており、ヤマハのほうが若干小さいにもかかわらず重量は23kgも重いということがわかります。

コンサートグランドでは、むかしのヤマハとスタインウェイでは、なんと100kgもの重量差がありましたが(全長はほとんど同じにもかかわらずスタインウェイが軽い)、これも構造的なものと材質的なものだと思われます。
ただし初代からCFIIIまでがずっと580kgだったものが、単なる発展型に過ぎないCFIII-Sになると突如500kgと一気に80kgも軽くなり、そんなことがあるものだろうか…と思ってしまいます。

ちなみにストラディヴァリウスを弾いた経験のある人の著述によると、まず驚くのは手に持ったときの「軽さ」だったと云いますから、楽器は基本的には軽い方が好ましいという原理があるのかもしれません。
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紙一枚の差

ピアノの調整は奥に行けばいくほど、非常に繊細で緻密な領域であることはいまさら云うまでもありません。以前もタッチの軽すぎるカワイのグランドのハンマー部分に、わずか0.5gの鉛片を貼り付けただけで、タッチが激変したばかりか、音質までもがはっきりと力強くなり、まさに一挙両得だったことは既に書いた通りです。

それと似たことがあったことをふと思い出しました。

少し前に、ディアパソンの調律に来ていただいたときのことですが、そのころはまだ交換した弦もハンマーも馴染みが足りず、もうひとつ鳴りがパッとしないように感じていたのですが、その対策としてあれこれの手を入れてもらいました。

そのひとつで、通常はかくれて見えませんが、キーの下には緑色の丸いフェルトが敷かれており、これが打鍵によって降りてきたキーを受け止めるようになっています。そして、さらにそのフェルトの下には同じ直径のフロントパンチングペーパーという丸い紙が複数枚敷かれています。
この紙には厚さによる違いがあり、技術者さんはその都度必要に応じてこの紙の厚さや枚数を入れ換えながら、キーのわずかな深さを調整しますが、それは同時に音にも密接な関係があるようです。

紙の厚さは何種類もあるのですが、驚かされるのはその違いはまさにミクロの世界で、普通の厚紙ぐらいのものから、本当に極薄の、わずかな鼻息でも飛んでしまうほどペラペラのものまであり、こんなもの一枚あるなしでタッチが変わるとは、俄には信じがたいような気になるものです。

そんな中で、もう少し力強い音が出るようにと、技術者さんは主だった(というか必要と判断された)部分を、おおむね0.2mm薄くされました。
薄くするということは、つまりキーの沈み込みが0.2mmぶん深くなるということですが、通常キーが上下に動くのは10mm前後、つまり約1cmですから、そこでたかだか0.2mmの違いがどれほどの意味があるのか?と考えてしまいますが、それがピアノ調整の世界ではきわめて大きな意味をもつようです。

「0.2mmはこれです」と抜き取った小さなドーナツ状の紙を触ってみても、ただの薄い紙でしかなく、こんなもので何かが変化するとしても、たかがしれていると思うのが普通です。

しかし技術者さんは、黙々と作業を続け、いろいろな色(色によって厚さが違う)のパンチングペーパーを出したり入れたりと、その変更・調整に余念がありません。

どれくらい経った頃だったか、その作業が終わり「ちょっと弾いてみてください」といわれ、これがマロニエ君はいつも嫌なのですが、そんなことも云っていられないんので、素直に従って弾いてみると、なんと僅かではあるものの、でも明らかに前とは違っています。

たったの0.2mmの違いが、紙を触ってもわからなかったものが、ピアノの鍵盤の動きとしてなら明瞭にその差を感じることができることは驚きです。具体的に何ミリということでなく、感覚的にあきらかにキーが少し深くなっていることが体感できるし、さらに驚くべきは明らかに音にメリハリが出て、力強さが加わっていることでした。
あんな小さな薄っぺらな紙一枚の差が、これほどピアノのタッチや音色まで変化させるとは、実際に体験みてみると呆れるばかりで、いまさらながら楽器の調整というものが、いかにデリケートな領域であるかを再認識させられました。

それだけにひとたび調整の方向を誤れば、まさにピアノはあらぬ方向を彷徨うことになり、技術者の能力の一つは、問題の原因は何であるかを、短時間のうちに的確に見極めることだと思います。見当違いのことをいくら熱心にやられても、望む効果は得られず、だから世の中には潜在力は高いものがある筈なのに、どこか冴えないピアノが多いのだろうとも思われるわけです。

ピアノは高級品になればなるほど、出荷調整にも優秀な技術者の手間と時間が惜しみなくかけられるようですが、このフロントパンチングペーパーの厚さひとつをとっても、ほんの僅かなことが大きな違いになる世界では、製品としていくら完成していても、楽器としてはまったくの未完成で、各所のこまやかな調整が滞りなく行きわたっていなければ、その真価は決して発揮できないことがあらためてわかります。

そういう意味では、普通のピアノでも、技術者の正しい調整を受ければ受けるだけ、そのピアノはある見方においては高級ピアノだとみなすこともできるのかもしれません。
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古いヤマハ

前回書き切れませんでしたが、この広島の「平和の祈り」コンサートで使われたピアノは、思いもかけないヤマハの古いピアノでした。

かなり前の、たぶんCFIIIの初期型か何かで、コンサートグランドにもかかわらず足元はダブルキャスターでもなく、サイドのロゴマークもない時代のピアノで、フレームの穴の形状も丸ではない、この一時期のCFだけにみられる細長い開口部の大きなタイプのピアノでした。

さて、この古いCF、正確なことはネットで調べればわかるかもしれませんが(面倒臭いので調べてはいませんが)、たぶん30年ぐらい前のピアノではないかという気がします。
テレビ収録も入る、小曽根氏のような有名ピアニストが出演するようなコンサートで、こういう古い日本製ピアノが使われることは非常に珍しいことなので、その点はマロニエ君などは却っておもしろい気分になりました。

日本では、都市部の一定規模のホールと名の付くところには、たいていスタインウェイなどがあるものですが、わざわざこういうピアノを使うこと自体が、よほど特殊な事情があったのかと思います。このホールのホームページによると、ここには他にスタインウェイもカワイもあるようで、したがってなんらかの意図があって選ばれたヤマハということのようです。

その事情がなんであるかは別にして、この時代のヤマハは、何年か前にもリサイタルで1度聴いたことがありますが、マロニエ君は意外に嫌いではありません。それは、今どきのブリリアント系のキラキラ輝くような音ではなく、はるかに実直な音がして、ともかく真面目に作られたピアノという感じがあるからです。さらには後年のヤマハと違ってどんなフォルテッシモでも音が割れるなどの破綻が少なく、強靱な演奏にもしっかり耐え抜くだけの逞しさももっています。

こういうピアノのほうが、一面においては演奏や音楽に集中でき、聴いていて耳も疲れません。
だいいち主役は音楽であり演奏であるのに、あまりピアノ自体がキンキラして出しゃばるのは、タレントと勘違いした女子アナみたいで、むしろ目障り耳障りなることしばしばです。

この広島のピアノも、さすがに音の伸びがなかったり、古さ故の短所もあるにはありましたが、ではそれでこの日のコンサートの足をどこか引っぱったかというと、けっしてそんなことはなかったと思います。たしかに音の伸びはあったほうがいいに決まっています。でも、それよりも音の実質のほうがもっと大切だと思います。結局のところ、あまり表面的な華やかさではなく、ピアノはどっしりとピアノらしいのが一番だとあらためて感じました。

ブリリアント系のキラキラ音は、指の弱いアマチュアなどが家で弾くぶんにはいかにもきれいな音という感じで楽しめるかもしれませんが、プロのピアニストがコンサートの本番で弾くと、どうかするとうるさくもなるし、音符が不明瞭になったり表現力やパワーが逆に失われて、本来の演奏の妙が伝わらない危険もあるとマロニエ君は思っています。

ダブルキャスターでないコンサートグランドも久しぶりに見ましたが、やはり本来の姿はこうあるべきだと思いました。むかしスタインウェイが1980年代ぐらいから巨大なダブルキャスターを装着するようになったとき、そのあまりの無骨さ醜さに驚倒したものです。さらにはそれ以前のモデルまで次々に足を切断され、この下品なダブルキャスターが取りつけられて行くのには血の気が引いた覚えがありますが、慣れとは恐ろしいもので今ではすっかりこれがフルコンのデザインの一部に溶け込んでしまいましたね。
最近は、さらに転がり性能のよい、しかしビジュアル的にはもっと醜いキャスターがつけられていますが、あれはまだ目が慣れません。

コンサートグランドはその役目上、頻繁な移動が必要ですから、移動しやすい機能は致し方ないとしても、肝心の音に関しては、今どきの表面ばかり華やかな音造りは、もう少しどうにかならないものかと思います。
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音楽の本能

広島交響楽団による「平和の祈り」というコンサートが、今年の平和記念式典前日にあたる8月5日、平和記念公園内にある広島国際会議場フェニックスホールで行われ、その様子がつい先日クラシック音楽館で放送されました。

コープランドの「静かな街」で始まり、続いてショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、ピアノは小曽根真、トランペットはベネズエラ出身のフランシスコ・フローレス、指揮は秋山和慶。

実はここまでしか見ていないので、ここまでの印象となりますが、「静かな街」ではイングリッシュホルンとトランペットをソリストとした作品、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番もトランペットが重要な位置を占める作品なので、いずれもこのフランシスコ・フローレスが演奏しました。

ピアノの小曽根真は今や言わずとしれた有名な日本人ジャズピアニストで、その活動はときどきクラシックにも足を伸ばし、以前もモーツァルトのピアノ協奏曲ジュノムなどを弾いて、とくに鮮やかな演奏というものとは違うけれど、クラシックのピアニストからは決して聴くことのできない味わいがあって、へええと思った記憶がありました。

今回のショスタコーヴィチでも、指さばきは明らかにクラシックのそれとは違い、どこかおっかなびっくりした様子があって、やはり畑違いのパフォーマンスという感じは拭えませんが、しかしそれで終わらないところに小曽根真の本当の価値があるようです。
ただ譜面通りに正確に弾くだけのカサカサしたピアニストとはまったく違い、どこかたどたどしくもある語り口のなかに、音楽に対する温かな情感がこもっていて、それこそが彼の魅力なんだと思いました。
技術や知識や経歴に偏りすぎて、音楽ほんらいの単純な楽しさや喜びを失いつつあるクラシックの世界に対するさりげないアンチテーゼのようにも感じられました。

第4楽章のカデンツァでは、得意のジャズテイストが織り込まれ、まあとにかく聴いている側としては飽きるということがありません。

しかし、本当の驚きはこのあとでした。
ショスタコーヴィチが終わってカーテンコールの末に、小曽根氏が客席に向かって「これらか皆さんを南米にお連れします」とやわらかに語りかけ、アンコールとしてピアノとトランペットによる演奏が始まりました。

これが大変な魅力に溢れたもので、それまではどこか冷静に見ていたマロニエ君も、思わず身を乗り出して本気で聴いてしまいました。詳しくは知りませんが、字幕によればラウロ作曲の「ナターリャ」「アンドレイナ」、フェスト作曲の「セレスタ」の三曲で、いずれもラテンアメリカの作曲家なのでしょうが、それらが切れ目なくメドレーのような形で演奏され、ここに至って小曽根氏も本来の力を発揮、フローレス氏も全身でリズムに乗って、二人とも何かから解放されたように自由で自然な演奏となりました。

曲がまたどれもすばらしく、ラテン的な哀愁と官能が交錯する悩ましいばかりの音楽で、否応なく圧倒されてしまい、この望外の演奏にただただ感激してしまいました。日本人的倫理観でいうならば、明日はこの記念公園内で恒例の平和記念式典があるのかと思うと、よく主催者が認めたなあと思うほど、ちょっと危ない感じさえ漂うものでしたが、ともかく、これはしばらく忘れられない演奏になりそうです。

音楽を聴く喜びを、根底からリセットされてしまうようで、マロニエ君にとってはまったく予想だにしなかった衝撃でしたし、クラシックの演奏家がどんなに偉そうなことをいっても敗北を感じるのでは?と思われるような、音楽の本能に触れて酔いしれた6分弱でした。
むろん、われんばかりの拍手でした。
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チョ・ソンジン

パユのモーツァルトを褒められなかったばかりなのに、また似たようなことを書くのもどうかと思いましたが、まあ主観的事実だからお許しいただくとして、同じくNHKのクラシック音楽館で、かなり前に放送録画していたものをやっと見たので、そこからの感想など。

6月のN響定期公演で、チョン・ミョンフン指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番とマーラーの交響曲第5番というプログラム。ソリストはチョ・ソンジンで、この人は何年か前に浜松コンクールで優勝した韓国の若者ですが、伝え聞くところではわりに良いというような話で、実はマロニエ君は韓国には意外に好きなタイプのピアニストが多いので、そういう点からも機会があれば一度聴いてみたいものだと思っていました。

知人が主催する音楽好きの集まりで、そこに居合わせた年配の方が云われるには、福岡で行われたあるオーケストラの演奏会にこのチョ・ソンジンが出演し、ショパンの第1番を弾いたとのこと。その解釈といいテンポといいその方は大変満足であったという話を聞いたことがあったこともなんとなく覚えていました。

チョ・ソンジンは浜松コンクールで優勝したためか、わりに日本でのステージチャンスが多いようですが、マロニエ君は残念ながら彼のピアノは1音たりとも聴いたことがなく、今回が初めてということになりました。

前回、N響とモーツァルトは相容れないものがあると長年マロニエ君が感じてきたことを書いたばかりで、その印象は今でも変化はありませんが、しかし指揮がチョン・ミョンフンともなると、明らかにいつものN響のモーツァルトとは違った水準に達しているのは、さすがに指揮者の力だなあ!とこのときばかりは感心させられました。
それはこのハ長調の協奏曲の出だしを聴くなり感じるところで、演奏の良し悪しや好みは、だいたいのところはじめの1分以内に結論が出てしまうようです。

さて、今回一番の興味の対象であったチョ・ソンジンですが、こちらはその出だしからして、んんん?と思いましたが、残念ながら最後までその印象が覆ることはなく、いささか期待が大きすぎたというべきか、はっきり言ってマロニエ君としてはいささか同意しかねるタイプのピアニストでありました。

あくまで個人的な印象ですが、「ピアノの上手い少年」という域を出ておらず、モーツァルトの語法というものがまったくわかっていないで弾いているように見えました。どんな曲も同じスタンスで彼は譜面をさらって、せっせとレパートリーを増やし、お呼びのかかるステージに出ていくのでしょうか。

曲のいたるところで意味ありげな表情とか強弱をつけてはみせますが、いちいち的が外れて聞こえてしまうし、全体としても表面的でまったく深いところのない、感銘とは程遠い演奏。曲の内奥にまったく迫ったところがないし、音色やタッチのコントロールなども感じられず、強弱のみ。とくに第3楽章は飛ばしすぎの運動会のようでした。
それなのに、顔の表情だけはえらく大げさで、いかにも作品内に潜んでいる大事なものを感じながら弾いていますよという風情ですが、それは内なるものがつい顔に出てしまうというより、専ら観賞用のパフォーマンスのようでもあり、どことなく彼はラン・ランを追いかけているのかとも思ってしまいました。

パユと共通していたのは、チョ・ソンジンも非常に線の細い演奏家ということで、聴く者をその音楽世界にいざない引き込む力が感じられません。彼より優れたピアニストは韓国にはごろごろしているし、これなら、ピアノの名手としても有名なチョン・ミョンフンが自らピアノも弾いて、振り弾きしたほうが遙かに素晴らしい演奏になったことだろうと思います。

はたして韓国内での評価はどうなのだろうと思いますが、韓流スターの中には、日本でしか人気がない俳優もいるとか。まだとても若いし(19歳)、きっと才能はあるのだろうと思うので、ともかくもっと精進してほしいと思いました。
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優雅さの裏で

有名音楽雑誌のモーストリー・クラシックの9月号は『スタインウェイとピアノの名器』と銘打った、世界の一流ピアノに焦点を当てた巻頭特集が組まれていました。

以前にも同誌では『ピアノの王者スタインウェイ』という特集があり、内容的にはその焼き直しでは?という気もしましたが、それでもこういう表紙を見るとつい買わずにはいられません。

今回はスタインウェイオンリーではないために、それ以外のピアノについてもいろいろと触れられていますが、そのなかでもベーゼンドルファーに関する記事はマロニエ君にとって、非常に興味深いものでした。

ベーゼンドルファーというと、ウィーンの名器であることはもちろん、貴族的で、優雅な音色と佇まいの別格的なピアノであり、厳選された材料を手間のかかる伝統工法で制作される最高品質の楽器であること、さらにはどことなく近寄りがたい貴族御用達の工芸品でもあるような、とにかく何かにつけて特別で、孤高のピアノというイメージがありました。

製造番号も通常のシリアルナンバーではなく、作曲家の作品番号と同じくオーパス番号であらわされるなど、通常のピアノという概念を超えた、それ自体がまるで芸術品のようでもあり、ある人など「そもそもベーゼンドルファーなんて、庶民が買うピアノじゃないですよ!」とまで言わしめるような、そんなイメージを一新に纏っているピアノであり会社だったような気がします。

量産ピアノとはかけ離れた手の込んだ作り、少ない生産台数などは、およそガツガツしたビジネスとは無縁で、とりわけ昔は王侯貴族をはじめ裕福な一握りの顧客だけを相手に、それにふさわしい最高級ピアノを悠々と提供してきたのだろうと思うのはきっとマロニエ君だけではないはずです。

ところが、この特集にあるベーゼンドルファーの小史によれば、創始者のイグナツ・ベーゼンドルファーは「才長けた経営者であり商人でもあった」のだそうで、経営拡大のために「まず狙いを定めた」のがあのリストで、彼の強靱な奏法に耐えるピアノがなかなか存在しないことに目をつけ、それにぴったりのピアノを製作して進呈するという思い切ったやり方で、当時のピアノのスーパースターであるリストからベーゼンドルファーを贔屓にしてもらうという手段に出るのだそうです。
それだけに留まらず(ベーゼンドルファーが品質の良いピアノであったことはあるにせよ)、販路拡大をめざして東欧諸国や北イタリアを含む広大な地域を支配していたオーストリア帝国の各地、さらにドイツ、フランス、イギリスにまで積極的なセールスを展開したとあります。

また、リストのような名だたるピアニストが演奏旅行をおこなう際、会場のピアノの銘柄や質がまちまちだったことにも目をつけて、ヨーロッパの主要演奏会場にベーゼンドルファーが置かれるように計らい、こういうシステムの先駆者でもあったようで、とにかくきわめて野心的な商売人であり、それを可能にする才気の持ち主だったというのは驚きでした。

また、イグナツの息子のルードヴィヒは父の会社を受け継ぎ、さらなる工場の大規模化を敢行。その快進撃は止まらないようです。あの有名なウィーンの学友協会の新会館がオープンして、そこへ引っ越した学友協会の音楽院へもさっそくベーゼンドルファーを寄贈、そして優秀な学生にもベーゼンドルファーをプレゼント、さらに新開館のホールにもベーゼンドルファーを置いてもらう、さらにさらにそこを会場としてベーゼンドルファー・国際ピアノコンクールを創設という、逞しい商魂と抜け目の無さで、まるで現代のサクセスストーリーを聞いているようでした。
まだまだあります。
ウィーンの中心街にあった名門貴族のリヒテンシュタイン家の宮殿を間借りしてショールームをオープン、その後はその宮殿の一部を改造してベーゼンドルファー・ザール(ホール)を建設、まだありますがもうここらでやめておきましょう。

少なくとも、これが設立から19世紀後半までのベーゼンドルファー社がやってきた経営であり、それは現在のブランドイメージとはまるでかけ離れたものだったことを知って驚かされました。
もちろんビジネスである以上それを悪いというのではありませんが、あまりにも抱いていたイメージとは違っていて、たおやかな貴婦人だとばかり思っていた人が、実は手段を選ばぬ猛烈ビジネスのやり手社長だったと知らされたみたいで、その過去の事実にちょっとばかりびっくりしたというわけです。
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調律の価値

NHKのクラシック音楽の番組で、ある地方都市で行われた演奏会の様子が放映されました。
ピアニストは現在日本国内でしだいにその名を聞く機会が増えてきた方ですが、今回はその方の演奏の話ではありません。

ピアノにとって調律とはいかに大切であるかを、たかだかテレビを通じてではありますが、痛いほど感じたコンサートだったので、このことを書いてみようと思います。
内容がきわどい要素を含むため、特定の固有名詞は一切控えることとします。

この会場にあったスタインウェイは、ディテールの特徴からして、20数年経過したD(コンサートグランド)で、手荒に使われた様子も、頻繁なステージで酷使された様子もないもので、こういうことは不思議に映像からもわかるものです。

第一曲がはじまり、まず感じたことは、この時代のスタインウェイは、明らかに現在のものとは音のクオリティが異なり、それを言葉にするのは難しいですが、まず簡単に云うなら重厚で音に密度があって、底知れぬ奥の深さみたいなものがあります。
どんな巨匠の演奏でも、テクニシャンの超絶技巧にも、まったく臆することなく応じることのできる懐の深さと頼もしさを生まれながらにもっているという印象。

とりわけ今の楽器との差異を痛切に感じさせられるのは、音に太さとコクがあること、あるいは低音域の迫力とパワーで、このあたりはスタインウェイの有無を言わさぬ価値が、まだはっきりとしたかたちで残っていた時代ということを実感させられます。こういう音を聞くと、やはりむかし抱いていたスタインウェイへの強い尊敬と憧れの理由が、決して一時の勘違いではなかったことが痛切に証明されるようです。
「昔のスタインウェイをお好みの方もいらっしゃるようですが、我々専門家の目から見ればピアノとしては現在の新品の方がむしろ良くなっている」などという話は、楽器店の技術者や輸入元の責任者がどんなに熱弁をふるおうとも、ビジネスの上での詭弁としか聞こえません。

利害の絡んだ専門家といわれる人の話を信じるか、自分の耳を信じるかの問題です。

このホールのスタインウェイに話をもどすと、これが自分が本当に好きだった最高の時代のスタインウェイとは云わないまでも、その特徴をかなり色濃く残した時代のピアノであることは、もうそれだけで嬉しくなりました。
しかし、しばらく聞いていると、せっかくの素晴らしい時代のスタインウェイであるのに、まるで迫ってくるはずの何ものもないことに違和感を覚えはじめます。ピアニストも熱演を繰り広げているのですが、それが即座に結果として反映されないことに、多少の焦りがあるようにも感じられました。

それが今回書きたかったことですが、これはひとえに調律の責任だと思いました。
まったく冴えがなく、音楽に対するなんら配慮のない無味乾燥なもので、音は解放どころか、完全に閉じてしまってなんの表現力もないものでした。
どんな調律が良いのかは、マロニエ君ごときが云えるようなことではありませんが、すくなくとも演奏という入力を雄弁な歌へと変換することで、有り体にいえば、聴衆の心にじかに訴えかけるような「語る力」を楽器に与えることでしょう。

さらに技術者も一流どころになれば、調律に際し、ピアニストの奏法やプログラムにまで細やかな考慮が及ぶことで演奏をサポートするわけです。
当然ながら、ピアニストの足を引っぱるような調律であってはならないわけですが、今回の調律はまったく凡庸な、音楽への愛情のかけらもないもので、音はどれもがしんなりとうなだれているようでした。

おそらくはあまり使われることのないピアノで、調律師もコンサートの経験の乏しい方だったのだろうと思わざるを得ませんでしたが、あんなに立派な楽器があって、なんと惜しいことかと思うばかりでした。ホール専属でも、競争の少ない地方などでは、きっちり音程を合わせることだけが良い調律だと本気で思っている調律師さんもいらっしゃるのが現実なのかもしれません。

素晴らしく調律されたピアノは、その第一音を聴いたときから音楽の息吹に溢れていて、わくわくさせられるものがあるし、音が解放され朗々と会場に鳴り響くので、必然的に演奏のノリも良くなり、それだけ聴衆も幸せになるわけで、調律師というものは、それだけの重責を負わされているということになるわけです。
マロニエ君に云わせると、良い調律とは、音が出る度に、空間にわずかな風が舞うような…そんな気がするものかもしれません。
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興味がない!

過日読了した本、高木裕著『今のピアノでショパンは弾けない』(日本経済新聞出版社)の中に次のような記述があり、仰天させられました。

「有名私立音大のピアノ科の教授から聞いた話です。教え子に(略)上手いピアニストのコンサートに行きなさいと言っても行かない。どうも興味がないようだ。仕方なく、これはというコンサートに無理やり連れて行っても、そのピアニストのどこが上手いのかわからずに、周りが拍手するのでつられて自分も拍手する。上手いピアニストのここが上手いとわかったら、うちの音大では5本の指に入るんですよ…と嘆いていました。」

???
まさかウソではないのでしょうから、やっぱり事実なのでしょうが、まったく開いた口がふさがらないとはこのことで、ここまで今の若い人は感じることも情熱を燃やすこともなくなってしまったのかと思います。
そんなに上手い人の演奏にも興味がないほどどうでもいいのだったら、その学生は、そもそもなんのためにピアノなんてやって、尤もらしく音大にまで行っているのかと思います。しかもこれは特殊な一人の話ではなしに、全体がそうだと言っているわけで、そんな人間がいくら練習して、難曲をマスターして、留学してコンクールで入賞しようとも、所詮は聴く者の心を打つ演奏なんてできるわけがないでしょう。

昔は、いかなるジャンルでも、芸術に携わる人間が集まれば、いろいろな作品などに対する批評や論争で議論沸騰し、さらに昔の血気盛んな芸術家の卵たちは見解の相違から殴り合いになることさえあるくらい真剣だったと聞きます。お互いの批評精神が審美眼として厳しく問われ、論争の絶える間はなかったのは、芸術家およびその予備軍は常に鋭敏な感性が問われたからでしょう。
そしてともかくも純粋だったのですね。

少なくとも自分達のやっていることの、最高峰に属する一流といわれる人達の仕事に興味がないなんてことは、逆立ちしてもマロニエ君には理解できません。

これはサッカー選手を目指して学生チームで奮闘しながら、ワールドカップにはまったく興味がないようなもので、そんなことってあるでしょうか?
あまたのアスリートが血のにじむような努力と練習を重ねながら、オリンピックには無関心なんてことがあるでしょうか?

そういうことが、いやしくも音楽の道を志し、幼少時から専門教育を受け、来るべき時には海外留学したり、コンクールにでも出ようという人達の間で普通の感性だというのなら、その心の裡はまったく謎でしかありません。
自分はそれだけのことをしてきた、あるいはできるんだという単なるアクセサリーなのでしょうか。あるいは卒業したら、その経歴をひっさげて芸能界にでもデビューするのでしょうか。いずれにしろ、そんな人達に音楽の世界を汚して欲しくないと思いました。

ピアノを弾くことを特に高尚なことだなどとは思いませんが、少なくとも芸術に対する畏敬の念とか、より素晴らしい音楽表現を目指して音楽に接する情熱がなく、醒めていることが当たり前のようになっているのはいかがなものかと思います。

高尚とはいわずとも、少なくとも音楽の持つ美と毒とその魔力に魅せられて、どうにも始末のつけようがないような人にこそ、芸術家はふさわしいものであって、ただ単にコンクール歴を重ねることが目的のような人は、もうそんなまだるっこしい事はしないで、せっせと勉学に励んで一流大学にでも行き、しかるべき職業に就くほうがよほどせいせいするというものです。
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エルガーのバッハ

NHKのクラシック音楽館でのN響定期公演から、下野竜也指揮でバッハ=エルガー編曲の幻想曲とフーガBWV537とシューマンのピアノ協奏曲、ホルストの惑星が演奏されました。
ピアノはアルゼンチンン出身で1990年にジュネーブコンクールで第1位のネルソン・ゲルナー。

ゲルナーのピアノは、繊細で彼の音楽的誠実さを感じるものではあるものの、いささか弱々しくもあり、見るからに迫力やパワーのない「この人だいじょうぶ?」といいたくなるような線の細いピアニストでした。
コンチェルトだからといってむやみに鳴らしまくるのがいいなんて暴論を吐くつもりはありませんが、やはりそこにはソリストとしてのある一定のスタミナ感はもっていただかないとちょっと困るなあ…という気がしたのも正直なところです。
必要とあらば力強い演奏も自在な人が、敢えて繊細さを選び取って行う演奏と、それしかできないからそれでやってるというのは本質的に違ってくるでしょう。

とくに第1楽章では、コンチェルトというよりまるでサロン演奏のようで、彼方に広がるNHKホールの巨大空間をこの人は一体どういう風に感じているのだろうと思いました。
もちろん、豪快華麗に弾くだけがピアニストではないのは当然ですし、そういうものよりもっと内的な表現の出来るピアニストの方が本来尊敬に値するとマロニエ君も日頃から思っていることも念のため言い添えておきたいところです。

しかしゲルナーのピアノは、そういう内的表現というよりは、まるで自宅の練習室で音を落として弾いているつもりでは?と思えるほど小さなアンサンブル的な音で、どうみてもNHKホールという3000人級の会場にはそぐわず、演奏の良し悪し以前に違和感を覚えてしまいました。

いやしくもプロの音楽家たるもの、自分の演奏する曲目や、共演者、さらには会場の大きさなどを本能的に察知して、ある程度それに即した演奏ができるのもプロとしての責務であり、その面の判断や柔軟性はステージ人には常に求められる点だと思います。

それでも印象的だったことは、この人には音楽には一定の清らかな美しさがあるということで、表現そのものは品がよく、こまやかな美しさがあったことは彼の持ち前なのだろうと思います。ただし、このままではなかなかプロのピアニストとして安定してやって行くには、あまりにもスター性もパンチもなさすぎで、コンサートピアニストとして一定の支持を得ることは容易ではないだろうとも思いました。

さて、このシューマンの前に演奏されたのがバッハ(エルガー編曲)の幻想曲とフーガBWV537で、これは本来はオルガンのために書かれた作品ですが、この編曲版を聴くのは初めてだったので、どんなものかとりあえず初物を楽しむことができました。
が、しかし、結論から云うと、まったくマロニエ君の好みではなく、バッハ作品をまるでブルックナーでも演奏するような大編成オーケストラで聴かされること自体、まずいきなり違和感がありました。
また編曲のありかたにもよるのでしょうが、マロニエ君の耳にはほとんどこの作品がバッハとして聞こえてくることはなく、後期ロマン派や、どうかすると脂したたるロシア音楽のようにも聞こえてしまいました。

「バッハはどのような楽器で演奏してもバッハである」というのは昔から云われた言葉で、ある時期にはプレイバッハが流行ったり、電子楽器によるバッハが出てきたりもしたし、だからこそ現代のモダンピアノで演奏する鍵盤楽器の作品もマロニエ君としてはいささかの違和感無しに聴いていられたものでしたが、さすがに、このエルガー版はその限りではありませんでした。

かのストコフスキーの時代にはこういう編曲も盛んで、聴衆のほうもそれを好んでいたのかもしれませんが、ピリオド楽器全盛の今日にあって、切れ味の良い鮮やかな演奏に耳が慣れてきているのか、こういう想定外の豪華客船のようなバッハというものが逆にひどく古臭い、時代錯誤的なものでしかないように聞こえてしまいました。
もちろん否定しているのではなく、これはこれで価値あるものと捉えるべきだと思うのですが、少なくとも自分の好みからはかけ離れたものだったという話です。
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完璧の限界

前々回、内田光子のシューマンのことを書いていて思い出したのですが、彼女の録音はもちろんのこと、世界中のコンサートにも同行しているのは、ハンブルク・スタインウェイの看板ピアノテクニシャンであるジョージ・アンマンです。

彼は、現在のこの業界では知らぬ者のいない、いわばカリスマ的なピアノテクニシャンで、ショパンコンクールなどでも、いざというときは彼が万難を排してワルシャワに駆けつけ、他者では及ばないような調整を見事やってのけてピアノを輝かせるといった、もっか最高技術の持ち主といった存在とされているようです。内田とアンマンの関係も、内田のほうが彼の技術に惚れ込んで現在のような関係ができているということを聞いたことがあります。

福岡でのリサイタルでもアンマン氏は同行していた由で、その音をきくことができましたが、それは内田のCDで聴かれるものと、まったく同じ「あの音」であり、最近のCDは、音などは人工的に加工ができるから信頼できないということで非難する人がありますが、マロニエ君は断じてそうは思いません。技術的な可能性としては驚くようなことがいろいろ可能でも、それは真実をより良く適切に伝えるための手段として使われているようで、少なくともメジャーレーベルでは原音に忠実になるよう計らわれているようで、結果的にはかなり真実を伝えていると思います。

もちろん、録音現場で聴く演奏とCDの音では違いはあるとしても、それは環境の違いからくるものであって、CDは加工によって切り刻まれた整形美人のように、まったく別物という意味ではなく、そこに発生するものをより完成度の高い商品として仕上げていると思うのです。

さて、そのジョージ・アンマンですが、たしかにその音は美しく、見方によっては完璧といってもいいのかもしれません。彼の手にかかると、スタインウェイのような個性的なピアノも見事に飼い慣らされた従順な馬のようになり、音や響きにもムラがなく、すべてが過不足無く揃って、尚かつそのひとつひとつの音も甘く美しいもので、とりあえず「恐れ入りました」という感じです。

しかし、実はマロニエ君はこういう調律は見事だと思うし尊重もするけれども、好みとしてどうかとなると実はそれほど双手をあげて好みとは云えないものがあるのです。それは、あまりに完璧なもの特有のつまらなさ、それ故の狭さ、そこから何かを予感して受け取る側が楽しむ余地・余白というものが摘み取られてしまい、バカボンのパパではありませんが「これでいいのだ!」と上から押しつけられているような気がします。

マロニエ君は音楽はもちろん、何事も押しつけられるということが嫌いで、それは自分が自分の意志や感性を介して自由に楽しむという喜びやイマジネーションを奪われてしまうからかもしれません。

おかしな喩えですが、ジョージ・アンマンの手がけたピアノは、スタインウェイがヤマハのような均一さを欲しがっているようにも感じるし、同時にヤマハはスタインウェイのようなブリリアンスと強靱さを欲しがって、互いに相手の個性が羨ましくて仕方がないというような印象を持ってしまいます。

メーカーのことはさておくとしても、新しいピアノ、見事な調整というものは、キズのない最高級の献上品のようで、それはそれで素晴らしいものかもしれませんが、そういうもの特有のつまらなさ、閉塞感のようなものをつい感じてしまうわけなのです。
もちろん、くたびれたピアノや下手な調整がいいと云っているのではないことは言い添える必要もないことですが、少なくともある種の「危うさ」「際どさ」というものを常にどこかに秘めているものを求めているのはたしかなようです。

きっと個人的な好みとしては、そこそこの顔立ちに最高のメイクをして、今の瞬間だけを不当に美しく見せるようなやり方にどこか嘘っぽさを感じてしまい、それよりも、たしかな目鼻立ちの美人が、そこそこの化粧やすっぴんでも美しいなぁ…と感じたり発見したりするときのほうが自分には合っているし、根底のしっかりしたものが鷹揚に構えている姿のほうが性に合っているんだろうと思います。
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ピアノフェスタ2

今回のピアノフェスタは、知人からお誘いを受けたことがきっかけで赴いたものでしたが、いささかの訳があって他のお客さんの少ない時間帯に見せていただくことができました。

輸入ピアノのうちの何台かは触る程度のことはしてみましたが、先に書いたようにどれもオーバーホールの出来たてホヤホヤみたいな状態で、本来の音や性能水準に到達しているとはとても思えず、よってあまり積極的に興味が持てなかったことと、やはりどうしても弾いてみたいピアノの人気というのは有名ブランドに人が集中してしまうため、そういう状況ではマロニエ君はいつも気分的に引いてしまうところがあるのです。

多くの外国製高級ピアノの前はこのときの為にかどうかはしりませんが、楽譜まで持参して、たいそう熱心に弾かれている人達があり、そういう光景を見ると、いっぺんに気分が萎えてしまい、それが終わるチャンスをうかがって、椅子が空くと同時にすっ飛んでいくような「がんばり」がどうしてもわかないのです。

いっぽうで、国産グランドのエリアはてんでがら空きで、こちらのほうが静かでもあるし、なんとなくそちらをブラブラしていると、なんと今年は2台の中古ディアパソンが持ち込まれていることに一驚しました。
しかも、そのうちの一台はディアパソンの中でも稀少なDR211で、マロニエ君が今年購入した210Eとまったく同サイズ(奥行き211cm)のピアノですから興味津々でした。これは生産されたオオハシモデルの最後の時代のピアノで、基本的な設計は210Eとほとんど同じだと考えられます。

こちらは誰もいないのを幸いに183と211に触ってみましたが、ピアノとしての状態は決して悪くないと思われましたが、意外にもディアパソンらしさのない軽くて細い音がして、あまりグッと来るものはありませんでした。
とりわけマロニエ君の関心の中心は211にあるのはいうまでもなく、こちらをより多く触らせてもらいましたが、同じサイズと構造のモデルでも昔のものとは何かが決定的に違っているような印象を持ちました。それが何であるかはわかりませんが、よりカワイ的と云ったらいいのか、どちらかというと淡泊で深みのない音になっており、ディアパソン特有のあのズッシリした鳴りとパワー、楽器としての奥行きみたいなものはあまり感じられなかったのは意外でした。

アクションもこの時代にはヘルツ式になっているため、現代的ではあり、バリバリ弾かれる方などはこちらを好む方も多いだろうと思いますが、しっとりとしたセンシティヴなタッチや、楽器との対話を楽しみたいなら、マロニエ君はシュワンダーの方が好ましいとあらためて思いました。
ただし、ヘルツになってもキーが重いのはあいかわらずなのは不思議でした。

音の特徴やタッチに意識が集中しすぎて、何年式であるかを確認するのをうっかり忘れてしまいましたが、やはり、多くのピアノが辿らされた運命と同じく、製造年が新しくなるだけ木の質は落ちているという印象は拭い切れませんでした。
マロニエ君の購入したおおよそ35年前の210Eは個人売買での購入で、あまり使われている印象はなかったものの、ピアノの置かれていた環境や状態はお世辞にも褒められたものではありませんでしたが、それでも基本的には今と変わらない深みと味わいは持っていましたから、ピアノが根底のところにもっている基本は、いかなる環境にあろうとも意外に変わらないのだと思いました。

なんだか、お店の商品と自分のピアノを比較しているような感じの文章になっているかもしれませんが、努々そういう意図ではなく、同じメーカーの同じピアノであっても「時代」によって予想以上の違いがあるということが再確認できたということです。

そういう意味では、たとえばヤマハやカワイの中古ピアノを買われる方がおられるとして、サイズの違いばかりにこだわらず、同サイズでも年式による音の本質的な違いにも留意すべきではと思います。
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ピアノフェスタ1

毎年夏、博多駅ターミナル内にあるJRの大展示場で行われる島村楽器主催によるピアノフェスタに今年も知人らと行ってきました。

楽器販売が低迷する時節柄、大手メーカーのショールームさえも撤退を余儀なくされるなど、ピアノを取り巻く厳しい状況が続く中、とりわけマニアックなピアノ店が少ない福岡では、質・量いずれの点に於いてもこれほど多くのピアノが一堂に集められ、大々的に展示販売される催しは唯一無二のものとなっています。

会場入口からは、いつもながら電子ピアノが無数に並べられていて、きっと素晴らしい製品はあるのだろうとは思いつつ、どうしてもアコースティックピアノの展示エリアに足が向かってしまうのは、個人的に興味の比重が異なるため、毎回素通りになるのは仕方がないようです。

スタインウェイをはじめとする、海外のブランドがズラリと並ぶ中、今年は日本製のグランドもこれまでよりかなり数多く展示されていたように思いました。
珍しいところではグロトリアンやシンメル、古いベヒシュタインなども見受けられましたが、輸入物ではやはりスタインウェイが最も数が多く、記憶ちがいでなければD/C/B/A/O/M/Sのすべてのサイズが揃っており、ほとんどが美しく仕上げられたオールドの再生品だったようです。

島村楽器の扱う中古ピアノの良い点は、高級機でも大半がオーバーホールをされていることで、消耗品の交換はもちろん、外装なども多くが塗装をやり変えてあるので、いかにも中古品というマイナス印象を受けなくて済むことでしょうか。もちろんすべてではないかもしれませんが、多くの個体がこのような状態で販売されているようですし、価格的にも、絶対額は安くはないけれども、あくまでも常識的な納得できる価格である点もこの全国に販売網を持つ大手楽器店の強味なのかもしれません。

ただし、オーバーホールされたピアノに共通して感じられたことは、調整は明らかに未完の状態で、まだ本来の性能を発揮しているとは思えず、これから音を作って開いていくという余地が残っていることでした(意図的にそういう状態でとどめられているのかもしれませんが)。
個人的にはもっと調整の仕上がった澄んだ美しい音や響きを聴きたいところですが、それは購入されたお客さんだけが自分の好みを交えながらじっくりと熟成していく過程を楽しまれる、密かなる権利というところなのかもしれません。

しかし、それは同時にそれぞれのピアノがこの先の弾き込みや調整如何によって、どんなふうに成長していくかをある程度イメージできるかどうかという大きな課題を突きつけられているようで、これはよほどの経験者か目利きでなければその見通しを立てることは相当難しいことでもあり、やはり楽器購入は何がどう転んでも容易なことではないということを実感しました。

それにしても、毎年これだけ大量のピアノを関東から運んで展示会をされるということ、さらにはそれがすでに3年も連続しておこなわれているということだけでも、我々のようなピアノ好きとっては大変ありがたい唯一の催しであるわけで、素直に感謝するべきだと思いました。
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主治医繋がり

先日、あるピアニストの方とお話をする機会があって、たまたま話題が調律やピアノ管理に関することに及びました。
すべてではないものの、多くのピアニストは自分の弾くピアノという楽器に関して、本気で関心を寄せている人というのはそう多くはないので、この方は非常に珍しいと思い、ちょっと嬉しくなりました。

ピアノにまつわるさまざまな要素は、どれもが単独で語ることができないほどそれぞれの要素が互いに絡み合い、関係し合い、依存し合っている面が多く、これはいいはじめるとキリがなく、マロニエ君ごときでは言い尽くすこともできません。

例えばどんなに素晴らしい楽器でも、弾く人の音楽性や美意識しだいではその良さはほとんど出てきませんし、ピアノの置かれている場所の環境など管理状態が悪くてもダメ。調整などの技術面での技量や意識レベル。さらにはそれらが揃ったにしても、ピアノが鳴る部屋や音響という問題もあって、これらのことを考えはじめると、とても理想的な状態を作り出すなど、少なくとも通常は不可能に近いものがあると思われます。

しかし、そんな諸要素の中のどれか1つか2つでも持ち主がそこを理解して保守に努め、改善できるものは改善したりすると、それだけでも状況は大きく異なります。
その方はとある極めて優秀な技術者さんとの出会いによって、ピアノに対する接し方やスタンスに変化が起こり、ついには弾き方まで変わったとおっしゃるのですから、やはり技術者というものの存在の大きさを感じずにはいられません。
とりわけ調律はその要素がきわめて大きい部分を占め、ピアノの機械的な技術面でも調律ほどピンキリの世界もないというのがマロニエ君のこれまでの経験から得た結論です。

整調、整音、調律はどれが欠けてもいけないものですが、とりわけ調律は技術者側におけるセンスと才能が最も顕著に発揮される領域で、これはいうなれば技術領域から芸術領域に移行していく次元だといっていいと思います。

整調整音が上手くいっているとしても、調律こそが最終的に楽器に魂を吹き込む作業といいますか、極論すれば、それによって音の出る機械から真の楽器に変貌できるかどうかの分かれ目になると思うのですが、この点がなかなか理解が得られないところのようです。
一般的に調律といえば、ただ2時間弱ぐらいピッチを合わせて、ついでに気がついたところをちょこちょこっとサービス調整してハイ終わり。代金をもらって「ありがとうございました」と言って去っていくというのが大多数でしょうし、ピアノオーナーのほうも調律とはそんなものと思っている人のほうが圧倒的に多いようです。さらには、ピアノの先生や演奏の専門家でさえ、ピアノだけはほとんど素人並の認識しかない場合が決して珍しくないのです。

ですから、その方は大変珍しい方だなあとマロニエ君は思ったわけです。
同時にコンサートなどで方々に行かれる先にあるピアノの管理の悪さには、ずいぶんと辟易されているようで、この点はほとんど諦めムードでした。
同じ福岡の方だったので、そんな素晴らしいピアノ技術者の方が、やはりひそかにいらっしゃるんだなあと内心思いつつ、敢えてお名前は聞かないで話をしていたら、さりげなく向こうのほうからその方の名前を云われたのですが、なんと我が家の主治医のおひとりだったのにはびっくり仰天。
やっぱり世間は狭いというべきでしょうか。

この技術者の方は、別にスーパードクターのように威張っているわけではないけれど、非常に強いこだわりと自我をおもちの方で、ある意味気難しく、頼まれればどこにでもヒョイヒョイ行かれる方ではないので、マロニエ君としても我が家に来ていただけるのは幸いとしても、軽々しく人にご紹介はできないと思っていました。
そういうこともあって、数少ないその方繋がりのピアニストと知り合うことができたことは、不思議なご縁と嬉しさを感じたところです。
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正しきお姉様

ひと月以上前のNHKのクラシック音楽館で放映されていたN響定期公演から、ヴィクトリア・ムローヴァのヴァイオリンで、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏されたときの映像を見てみました。指揮はピーター・ウンジャン。

ムローヴァはロシア出身で、年齢も現在50代半ばと、演奏家として今最も脂ののりきった時期にある世界屈指のヴァイオリニストといって間違いないでしょう。
昔からマロニエ君は熱烈なファンというのではないものの、ときどきこの人のCDを買ったりして、「そこそこのお付き合い」をしてきたという自分勝手なイメージがあります。

その演奏は「誠実」のひと言に尽きるもので、バッハなどで最良の面を見せる反面、ドラマティックな曲ではともするとあまりに端正にすぎて、情感に揺さぶられてはみ出すようなところもなく、見事だけれどもどこか食い足り無さが残ったりすることもしばしばです。
ロシア出身のヴァイオリニストといえばオイストラフを筆頭に、コーガン、クレーメル、レーピン、ヴェンゲーロフなど、いずれもエネルギッシュかつ濃厚な演奏をする人達が主流ですが、そんな中でムローヴァは、突如あらわれたスッキリ味のオーガニック料理を出すお店のようで、それは彼女のルックスにさえ見て取ることができます。

長身痩躯の金髪女性が、スッとヴァイオリンを構えて、淡々と演奏を進めていく様はとてもロシア出身の演奏家というイメージではないし、とりたてて味わい深いというのもちょっと違うような、なにか独特の、それでいて非常にまともで信頼性の高い演奏に終始し、一箇所たりともおろそかにされることはないく、彼女の音楽に対する厳しい姿勢が窺われるのは見事というほかはありません。
耳を凝らして聴いていると、非常に深いところにあるものを汲み上げていることも伝わりますが、彼女は決してそれをこれみよがしに表現しようとはしないのです。

とりわけ最近では、ガット弦を用いて演奏するなど、古楽的な方向にも目を向けているようで、この人の美質は本来そちらにあるのかもしれません。
さて、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲は、終始一貫した、まったくぶれるところのない、いかにもムローヴァらしい快演ではあったものの、曲が曲なので、やはりそこにはマロニエ君個人としては、もうすこし大胆な表現性、陰翳感やえぐりの要素とか、エレガンスと毒々しさの対比などが欲しくなるところでした。

このショスタコーヴィチの演奏を聴いてまっ先に思い出したのは、もうずいぶん昔のことですが、小沢征爾指揮でムローヴァがソリストを努めたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をCDを買ったことがありましたが、マロニエ君もまだずいぶん若かったこともあり、そのあまりの端正な無印良品みたいな演奏には大いに落胆を覚えたことでした。

最近ではピアノのアンデルジェフスキと共演したブラームスのソナタ全3曲がありますが、こちらもやはりムローヴァらしいきちんと整理整頓された解釈と遺漏なき準備によって展開される良識的演奏で、この素晴らしい作品をじっくり耳を澄ませて集中して勉強するにはいいけれども、作品や演奏をストレートに楽しむにはちょっと違う気がするところもあり、やはりどこかもうひとつ聴く者を惹きつける何かがないという印象は変わりませんでした。
ソロでは個性全開のアンデルジェフスキも、このCDではムローヴァの解釈に敬意を表してか、至って常識的に節度を保って弾いているのが、お姉様に頭があがらない弟のようで微笑ましくもありました。

と、こんなことを書いているうちに、マロニエ君としたことが、ムローヴァのバッハの無伴奏パルティータとソナタのCDを買っていなかったことに気が付き、これぞ彼女の本領発揮だろうと想像しているだけに、はやいところなんとか入手しなくてはと思いますが、この「つい忘れさせる」というのがムローヴァらしいところなのかもしれません。
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ラベック姉妹

多くの皆さんもきっと同様ではないかと思いますが、いわゆる人間の第一印象といいましょうか、初めに受けたイメージや、そこから発生した好みというものは、これが意外なことに自分が考えている以上に正確で、途中で覆るなんてことは非常に稀というかむしろ例外的です。

大半の場合においては、何十年経ってもその印象が変わることはまずないのが自分を振り返っての結果ですし、少なくとも自分という主体においては、ある意味、第一印象ほどぶれがない信用度の高い情報は他にないように思います。

マロニエ君にとっては、ピアノのラベック姉妹がそのひとつで、彼女達が楽壇に華々しく登場したのはもうかなり昔のことでしたが、そのころから何度かその演奏を聴いてみましたが、彼女達の何がどんな風にいいのか、当時からまったく理解ができませんでした。

ビジュアルとしては美しいフランスの女性ピアノデュオで、姉妹であるにもかかわらず二人のキャラクターはまったく異なり、お姉さんは饒舌で、演奏の様子もジャズマンのように情熱的で野性的、片や妹はもの静かで黒髪を垂らしたひっそりとしたタイプ。

それはさておいても、その演奏には、マロニエ君は初めて聴いたときから、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかいうものが不気味なほど発生せず、ひとことで云うなら「何も、本当になんにも」感じませんでした。フランス人の演奏家にはいろいろなタイプがいて、初めは違和感を感じても、なるほどそういうことかと、好みとは違ってもこの人が何をやりたいのかや、どういうところを目指しているかということは、日本人以上に強いメッセージ性をもっているので、だいたいわかってくるものです。
それがこの姉妹の演奏には、まったくなにも感じるところができないし、ま、どうでもいいようなことですがずっと自分なりにひっかかっていたように思います。

つい先日、久しぶりにそのラベック姉妹を見たのです。
NHKのクラシック音楽館でデュビュニョンという現代作曲家による「2台のピアノと2つのオーケストラのための協奏曲“バトルフィールド”作品54」というものが日本初演されました。
なんでもラベック姉妹の委嘱によって作曲されたものらしく、2台のピアノとオーケストラが舞台上で二手に分かれ、しかもこの音楽は戦争であると公言し、それぞれが「戦う」というのですから、これはなかなかおもしろい試みじゃないかと思いました。
ピアニストはそれぞれの軍を率いる隊長という設定なのだとか。

指揮はビシュコフで、初めて聴く異色の作品であるにもかかわらず、ピアノが鳴り出すと昔の印象がまざまざと蘇り、早い話が、曲がどうとか、楽器編成の面白さがどうということなどもそっちのけで、とにかくまたあの「何もない、何も感じない」演奏が延々と続き、かなり我慢してみましたが、とうとうこらえきれずに途中で止めてしまいました。

お姉さんのほうは、左足でパッタパッタとリズムをとりながら、獲物に噛みつくような表情をしばしば見せながら、オンガクしてます的な弾き方をし、妹のほうは常に冷静沈着、何があろうと淡々と指だけを動かしているようで、両人共に見た感じも音楽的必然がないのであまり惹きつけられるものがないし、何より肝心なその演奏はというと、マロニエ君にとっては好きも嫌いもない、ひたすら退屈というので、本当に不思議なデュオだと思いました。

ラベック姉妹の魅力がどこにあるのか、おわかりの方がいらっしゃれば教えて欲しいような気もしますが、そうはいってもたかだかマロニエ君にとっては趣味の世界のことですから、人から教わってまでこの姉妹の演奏の魅力を追求する必要もないというのが正直なところです。
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趣味の条件

先日、ピアノ趣味の同好の士を募ることの難しさを書きましたが、それはひとくちにピアノといっても、その楽しみ方があまりに多岐に渡っているため、まとまりを取ることが非常に困難という、ピアノの特殊性があるという意味のことでした。

それはそれとして、趣味道というものは可能なら仲間が集い、その魅力はもちろんのこと、苦楽や悲喜劇をも楽しく語り合って共感を得、同好の士との親睦を深めつつ情報交換にもこれ努めるなどがその醍醐味だということに今でも異論はありません。

そのいっぽうで、専ら人前で弾くことが好きな人という種族もあるわけで、これはあくまでも聴く人(もしくは見てくれる人)を必要とするのが、マロニエ君に云わせれば通常の趣味道とはちょっと趣が異なるような気がします。こういう人の中には、家にも立派なピアノがあり、その気になれば存分にそれを弾くことも可能であるにもかかわらず、それでは精神的に飽き足らないようです。

それも拙いながらも人に聴かせたいという純粋な動機ならまだ微笑ましいと解釈もできるのですが、人前で弾いている自分やそれに伴うある種の緊張や興奮の虜となり、それがために自分が主役となるための互助会的関係で人と繋がっているというのは、純粋な音楽の演奏動機とは似て非なるもののように感じます。

そうはいっても反社会的行為でない限りは、個人の自由であることはいうまでもなく、その範囲内でどのように楽しみを見出そうとも、それは咎められるものではないでしょう。ただ、ピアノのある場所を借りて互いに何時間も取り憑かれたようにただ弾きまくるということが、果たして趣味といえるかどうかとなると、少なくともマロニエ君には甚だ疑問です。

趣味というものに、附帯的に仲間がいるということは嬉しいことであり、心強いことでもありますが、そもそも趣味の根本にあるものは突き詰めれば「孤独」ではないかと思います。
もちろんスポーツなど、集団であることが必要とされるものも中にはありますが、それはレクレーションであったりイベントであったりで、マロニエ君の認識で云うところの趣味の概念からいえば、趣味というものはもう少し違った精神世界であるし、基本的には仲間がひとりもいなくてもじゅうぶん楽しめるという自分自身の基盤を持っていないと趣味とは呼びたくないというこだわりが自分にはあるようです。

その上で、好ましい仲間がいれば、もちろんそれに越したことはありませんし、そこから趣味の道も人間関係も広がればこんな幸福なことはないわけです。
ただ、同じピアノでも、互いに弾き合うイベントや教室の発表会だけを唯一最大の目標にするようでは、これは趣味人としてもずいぶん浅瀬ばかりを這い回る遊び方のように思います。もちろんそれを否定しているわけではないですが。

繰り返しますが、趣味というものは基本的にひとりでじっと楽んで、それでじゅうぶん愉快でなくては本物じゃないというのがマロニエ君の持論です。同時に、どんな楽しみ方があっていいとは思いますけれども、そこに一筋の純粋さが貫かれていなくてはマロニエ君自身はおもしろくないわけです。

マロニエ君は理屈抜きに人と関わることは人一倍好きですが、趣味の合わない人と趣味を語り、不本意に価値観や歩調を合わせることはまったく不本意で、正直疲れてしまいます。
きっと自分が一番好きなことは、他者から土足で踏み荒らされることが嫌で、自分にとって理想の形態で温存しておきたいという防衛本能が働いているのかもしれません。
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ピアノ趣味の困難

これまでに、いくつもの趣味のクラブに属したことがあり、中でも車のクラブはいったい幾つ入ったかわかりません。既存のクラブに入会したのはもちろん、自分が発起人となって作ったものもいくつかあり、その中のひとつは設立から20年以上を経て、今尚存在しているほどで、最盛期には実に200人近い会員数を誇りました。この間、多くの素晴らしい人達と出会ってきたことを思うと、趣味というものの素晴らしさをこれほど切実に感じたこともありません。

そんな趣味のクラブには慣れっこの筈のマロニエ君ですが、その多くの経験をもってしても、入っても、作っても、どうしても上手くいかないものがあり、それが何を隠そうピアノのクラブなのです。

ピアノのクラブでは既存のクラブに入会したものの価値観が合わずに退会したものがあるほか、自分でもこの「ぴあのピア」を立ち上げて作ってみたものの、さてどう動いて良いのやら、ピアノに関してだけはまったく動きの取り方がわからないし、運営方法が皆目掴めないという状態が今尚続いています。
もちろん、マロニエ君の力不足、能力不足、努力が足りないと云われたらその通りなのですが…。

趣味のクラブというものは、いまさら云うまでもなく、趣味を同じくする者同士がつどい、その苦楽を共にし、語り合い、情報交換に興じ、そしてなによりもその素晴らしさを深く共感し合えるところにあり、さらにそこから趣味人同士の友誼や連帯が生まれて、それを軸にした人間関係が構築されていくところに醍醐味があると思います。

しかし、ピアノに関してだけはその趣味性という点に於いても、まるでつかみどころが無く、いっかな焦点さえ定まりません。ひとつの主題の元に全体がゆるやかに結束することが、ピアノほど困難な世界も経験的に珍しいというのが偽らざるマロニエ君の実感です。

それというのも、ひとくちにピアノと云っても、自分が弾くことがが好きな人、音楽が好きでピアノにも興味がある人、いろいろなピアニストや楽曲に強く興味を覚える人、はたまた楽器そのものへ興味を持つ人など、そこには、そのアプローチにはおよそまとまりというものがないわけで、これは裏を返せば、ピアノは弾くけど音楽にそれほど関心はない、CDは買わない、コンサートには行かない、楽器の個性や構造なんてどうでもいい、電子ピアノでじゅうぶんという、まさに十人十色の接し方があるということです。

さらには「弾くことが好き」な人も、その内容はさまざまで、愛聴する曲をなんとか自分でも演奏しようと努力をしつつ楽しむ人、ある程度技術に自信があって難易度の高い曲を弾くことにプライドを持っている人、とにかく有名どころの通俗的な曲を自分で弾いてみたくて練習に励む人、ピアノなんて安い電子ピアノで充分という人、いや絶対に生ピアノに限るという考えの人、あるいはとにかく人前で弾くのが快感でステージチャンスを欲しがっている人、中にはピアノといえば女性が多いと当て込んで、ピアノは二の次で彼女探しに来る人など、まあとにかく書いていたらキリがありません。

さらに付け加えるなら、たとえ簡単な曲でもいいから、少しでも音楽性あふれる素敵な演奏を目指して、CDを聴いたり、あれこれと工夫をしたり、少しでも自分の理想とする演奏に近づけようと精進する人は意外なほど少数派だと思いました。

趣味の有りようはまさに各人各様で、どのような切り口から楽しんでもそれは個人の自由なのですが、ピアノの場合その実態はあまりに多様を極め、共通点はただひとつ「ピアノ」という単語以外には見あたらず、それでは集まっても、それぞれ別の方向を向き、別のことを考えているようなものでしょう。

これほどまでにその目的や楽しみの中心点が定まらないということは、上記のように「苦楽を共にし、情報交換に興じ、素晴らしさを共感し合う、趣味人同士の連帯」などという趣味人の交流はなかなか生まれようもありません。
ピアノは弾くのも、趣味として集うのも、なかなか難しいものです。
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技術者の音

メールをいただくようになったディアパソンファンの方は、ついにご自分の好みの1台に対象が絞られ、その購入を前提とした交渉を続けておられるようです。

ただ、この方によると、お店によってはとても丁寧に整備されたピアノであっても、なぜかそれがディアパソンが本来持っている個性と、調整の方向が乖離してしまっている(という印象を受ける)ために、せっかくの技術がピアノに必ずしも反映されない場合もあるようでした。

せっかく良いもので、きちんとした工房が併設され、高い技術を有する技術者によって仕上げられたピアノでも、最終的に判断するのは購入者であって、その人の心に触れるものがなければ購入には結びつかないというのは、当たり前といえば当たり前ですが、主観に左右される点も大きいために、技術者側にしてみれば難しいところでもあるのだろうと、この分野の微妙さを感じてしまいます。

あるお店では、Y社のグランドなどと並んでディアパソンも店頭に並べられ、その店の自慢の技術者がずいぶんと腕をふるった調整をされていたようでした。どのピアノもとてもよく調整され、中には望外の響きがあって感激さえしたということでした。
その話は聞いていましたが、ネットからもその音が聴けるとのことで、マロニエ君もさっそく聴いてみました。この時ばかりはさすがにパソコンのスピーカーというわけにもいかないだろうと思い、このところあまり使っていないタイムドメインのLightを引っぱりだして、パソコンに接続して聴いてみましたが、たしかに非常によく整えられたピアノだという印象でした。

同時に、本体や消耗品が平均的なコンディションを持つピアノなら、高度な技術を持った技術者がある程度本気になって手を入れたピアノは、だいたいあれぐらいの音にはなるだろうと思ったことも事実です。
技術者の仕事としてはもちろん素直に敬意を払いますが、同時に、今が調整によって最高ギリギリの状態にあるという断崖絶壁の息苦しさみたいなものもちょっと感じました。このピアノがこれからコンサートで使われるというのなら話は別ですが、お客さんが普通に購入して自宅に運び込むとなると、この特上の状態がはたしてどこまで維持できるのかという逆の心配も頭をよぎります。個人的には、あまり詰めすぎず、もう少し可能性ののりしろというか、どこか余裕を残した調整であるほうが楽器選択もしやすいような気がします。

一流の技術者さんに往々にしてあることですが、各楽器の個性とか性格を重んじることより、ご自分の技術者としての作業上のプライドと信念がまずあって、もちろんそれを正しいことと信じて、結果的にはやや強引かつ一律な調整をされてしまう場合があるとも思います。それでも技術がいいから、ピアノはどれもそれなりのものにはなりはするものの、悲しいかなどれも同じような音になってしまう傾向が見受けられる気がします。

おそらくはその方の中に「理想の音」というものがあって、それが常に仕事を進めるときの指針となっているのだろうと思います。Y社K社のようなピアノであれば、ある意味それもアリで、いい結果が得られることもある程度は間違いないだろうとも思われますが、ディアパソンのようなピアノの場合は、やはり楽器の特性を念頭に置いた上での調整でないと、理屈では正しいことでも、場合によっては裏目に出る場合もあるわけで、本来の能力や魅力が押し殺されてしまう危険性がないとは言い切れません。

どんなにスタインウェイに精通した技術者でも、それがそのままベーゼンドルファーに当てはまるわけではないのと同じようなものでしょうか。航空機はいかに優れたパイロットであっても、機種ごとの免許がなくては操縦できませんが、それは人命がかかっているからで、ピアノで人は死にませんからね。

だれからも平均して評価され、好まれるということももちろん立派なことで、それを技術によって音に具現化するのは簡単なことではありませんが、でも、本当におもしろいもの、尽きない魅力に溢れるものは、なぜか好き嫌いの大きく分かれるものの中に見出すことが多いようにマロニエ君は思いますし、ディアパソンそのひとつだと思います。
願わくば、その特性や長所を理解した調整であってほしいのが我々の願いでもあります。

ディアパソンの最大の弱点は、多くの人がこの素晴らしいピアノに接する機会が、現実的にほとんどないということに尽きるだろうと思います。
接することがなければイイと思うことも、嫌いだと感じることも、両方ないわけですから。
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各店各様

マロニエ君の部屋に書いた、ディアパソンの210Eを購入予定の方とは、その後もずいぶん頻繁に連絡を取るようになりました。その方もディアパソンには格別な惚れ込みようで、購入されるのはもはや時間の問題だという強い意気込みを感じます。ディアパソンを心底気に入っているマロニエ君としては、こういう方の存在は大変うれしい限りです。

ほとんど市場に出回る個体はないに等しいとメーカー自身が言って憚らない210Eですが、ネットの普及とこの方の情熱、そして優秀な調査力の賜物か、数台の候補が挙がってきているのは驚きでした。
価格もバラバラですが、お店のほうも各店各様で、話を聞いているだけで興味深いものを感じてしまいました。

マロニエ君はいうまでもなく、それらのどの一台も現物を見たわけではないので、聞いた話からだけしか判断できませんが、210Eあたりになると必然的に製造後30年前後を経過したピアノということになり、そのコンディションもそれぞれ著しく異なる筈です。
ピアノには生まれながらに個体差があるといいますが、このぐらい古くなると、そんなことよりはこれまでどういう時間を過ごしてきたかのほうが圧倒的に問題であり、どんな所有者からどんな使われ方をしたか、きちんと技術者の手が入れられ大切にされてきたか、学校のような場所で容赦なく酷使されたか、置かれていた場所はどうだったかなど、いうなればピアノが嫁いだ後の環境差こそ問題とみるべきでしょう。
さらに今現在の整備状況や消耗品の状態などが重要な要素として加わります。

聞くところでは、販売価格こそ安いものの、話だけではちょっと躊躇したくなるようなものや、すでに売れ筋から除外されているのか、倉庫内に梱包したまま置かれているだけなのでお店側も詳しいことは確認不足であるなど、この日本の名器の扱われ方も実にさまざまのようです。

さまざまといえば、ピアノ店の在り方も同様で、規模は小さくとも技術で勝負をして、一台一台をきちんとした状態で(もちろん商売なので、採算に合わないことはできないにしても、できるだけ良心的な状態に仕上げて)売っている店があるいっぽう、やたら在庫数にものを云わせ、高級ブランド高額ピアノを前面に押し出している店、あるいはその中間的な性格の店など、お店によってピアノに対するスタンスも大きく異なるのは以前から変わらないようです。

意外なことには、ほとんど何も手を入れずに、酷い(と想像される)コンディションのピアノを売ることにも、いわゆる大型店のほうが畏れ知らずで、しかも価格はその状態に見合ったものとは思えない金額を堂々と提示してくるかと思うと、モノが売れない世相を反映してか、だんだん条件が好転してくるなど、逐一報告していただくお陰で、まるで連続ドラマを見るようにおもしろい思いをさせてもらっています。

聞けば、店によってはメールで問い合わせなどをしても、なかなか返事がないなど、あまり本気度が少ないようなお店があるいっぽう、技術者の工房系のお店などは、メールなどにもすぐに明快な応答があるようで、こういう部分の反応というものはお客さんの心証に大きな影響や先入観を与えてしまうのはやむを得ない要素です。ピアノ販売に限りませんが、問い合わせに対して迅速な対応というのは人間関係の基本だと思わずにいられません。

とりわけディアパソンは、お店によってその捉え方が相当違いますし、極端なところでは仕入れも販売もしないようですが、そのいっぽうで極めて高い評価をしている店があるのも事実で、どうかするとお店の看板商品的(新品)な扱いをしているところもあったりと、考えてみれば、日本のピアノでこれほど評価の別れるブランドも珍しいと思います。
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語る演奏家

先のブログに関連することですが、N響定期公演でベートーヴェンの皇帝を弾いたポール・ルイスは、番組の冒頭でNHKのインタビューに答えていました。

いつごろからだかわかりませんが、昔に比べると、演奏者はインタビューに際してだんだんと音楽学者のような語り口になり、演奏作品について、より学究的な内容を披瀝するのがひとつの風潮であるように思います。
それも、一般の聴衆や視聴者に向けたものというよりは、自分は演奏家であるけれども単なる演奏家ではなく、音楽史や作曲家のことを常に学び、それらと併せて楽曲も深く掘り下げて分析し、しかる後に演奏に挑んでいるのですという姿勢。ただ単に曲を練習しているのではなく、それにつらなる幅広い考察を怠っていないのですよというアピールをされているように感じてしまうことがあります。

もちろんそこには個人差があり、どうかすると専門的な言及が行き過ぎて、ただ単に音楽を楽しんではいけないような印象さえ与えてしまい、逆にクラシックのファンが離れていくのでは?と感じるときも少なくありません。
そうかと思えば、近年流行りのトーク付きのコンサートでは、チケットを買って会場にやってきてくれたお客さんに向かって、ほとんどわかりきったような、いまさらそんな話を聞かされなくても…といいたくなるような初歩的な話を延々と繰り返したりで、どうせ話をするのなら、どうしてもう少し聞いていて楽しめる内容のトークができないものかと思うことがしばしばです。

つまり専門的過ぎるか、初心者向け過ぎるかの二極化に陥っているという印象です。

その点でいうと、この番組冒頭でのポール・ルイスの話はそれほど専門的なものではないのは救いでしたが、「誰でもこの曲を大きな音で弾いてしまうし、それはそのほうが楽だから」とか「協奏曲でありながら室内楽的要素が多く、そこに注意すべき」とか「オーケストラの中の一つの楽器とピアノの対話の部分が多い」など、いかにもブレンデル調の切り口だと思いました。しかし、それが皇帝という名曲の本質にそれほど重要なこととも思われないような事という印象でもありました。

そもそも、演奏家自ら曲目解説をするようになったのは、やはりブレンデルあたりがそのパイオニア的存在であったし、ポリーニや内田光子などを追うように、より若い世代の演奏家もしだいに専門性を帯びた内容に言及するようになり、それがあたかも教養ある演奏家であることを現すひとつのスタイルになっていった観は否めません。

そんな中にも、もう好いかげん聞き飽きた、すでに錆びついたようなコメントがあり、残念ながらポール・ルイス氏もそれを回避することはできなかったようです。
それは「ベートーヴェン(他の作曲家でも同じ)は演奏するたびに新しい発見があります。」というあのフレーズで、これはもはや演奏家のコメントとしては賞味期限切れというべきで、聞いていてなるほどというより、またこれか…としか思えなくなりました。

少し前のアスリートが、オリンピック等の大勝負を前にして「まずは自分自身が楽しみたい」などと、ほとんど決まり文句のように同じことを云っていたことを連想してしまいます。

往年の巨匠バックハウスが『芸術家よ、語るなかれ、演奏せよ』というけだし名言を残していますが、今はまるきりそういった価値観がひっくり返ってしまったのかもしれません。
『芸術家よ、語るべし、演奏する前に』…。
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師匠譲り

Eテレのクラシック音楽館で少し前に録画していたヒュー・ウルフ指揮のNHK交響楽団の定期演奏会から、ポール・ルイスをソリストにベートーヴェンの皇帝を聴きました。

ポール・ルイスはイギリス出身で、ブレンデルの弟子と云うことで有名なようで、そのレパートリーもブレンデルとかなり共通したものがあるようです。とりわけベートーヴェン、シューベルトを中心に置き、後期ロマン派にはあまり積極的でないような点も似ています。尤も、ブレンデルは若い頃にショパンをちょっと録音したり、円熟期にはリストを弾いたりはしていましたけれども。

まずさすがだと思われた点は、ポール・ルイスのピアノは自分は二の次で、あくまでも音楽や作品に奉仕しているという一貫した姿勢が崩れないことで、テンポも非常にまともで、最近流行の意味不明の伸縮工作などは一切なしで、気持ちよく音楽が前進していくところでした。
そのためか、演奏を通じての自己顕示欲をみせつけられることもなく、安心してこの名曲を旅することができました。

ただ、師匠譲りなのはマロニエ君から見れば好ましくない点までそのまま引き継がれているようで、たとえばその音は、音楽表現のための必要最小限の朴訥なもので、ピアノの響きの美しさとか、肉感のある音やニュアンスで聴かせるというところはほとんどありません。

また、あくまでもそのピアニズムは作品の解釈を具現化するだけの手段でしかなく、精緻な音の並びとか、音色を色彩豊かに多様に表現するといったところはありません。そういう意味では良くも悪しくも技巧で聴かせるピアノではなく、そちらの楽しみは諦めなければなりません。

また冒頭のインタビューでは、「皇帝には室内楽的な要素がある」と云っていましたが、それはそうなのかもしれませんが、それを大ホールの本番であまり過度にやりすぎるのもどうかと思いました。皇帝だからといって終始ガンガン弾くのが正しいとは思いませんが、やはり決めるべき場所ではビシッときめてもらわないことにはベートーヴェンが直に鳴り響いているようには聞こえないし、この曲を聴くにあたっての一定の期待も満たされないままに終わってしまいます。

とくにフォルテッシモや、低音に迫力や重量感がないのも、ピアニストとしてもうひとつ食い足りない気分になり、第三楽章の入りなどにも、あの美しい第二楽章からそのまま引き継がれながらも突如変ホ長調の和音の炸裂が欲しいところですが、これといった説得力もないままに、ヒラヒラッとアンサンブル重視の姿勢をとられても、聴いている側は当てが外れるだけでした。

音色の使い分けとか、タッチの妙技によって深い歌い込み、細部に行きわたるデリカシーが少ないために、第二楽章の美しすぎる「歌」もただ通過しただけという感じで、その感動も半減となってしまいます。全体として好ましい演奏であるだけに残念な印象が残ってしまいます。
そうそう、これもブレンデルそっくりだと思ったのは、例えばトリルの弾き方で、マロニエ君の考えではトリルにはトリルのさまざまな弾き方、あるいはそのための音色や意味があると思うのですが、ポール・ルイスのそれは単なる音符のようにタラタラタラタラと平坦で無機質に弾いてしまうところで、ブレンデルにもこうしたところがあったなあと思い出しました。

望外の出来映えだったのはN響で、いつもはどこかしらけたような、予定消化のための義務的な演奏をしているかにみえるこのオーケストラが、この日はいかにも音楽的な、厚みと覇気のある、つまり魅力的な演奏をしてみせたのは驚きでした。指揮のヒュー・ウルフの手腕といえばそうなのかもしれませんが、そうだとしても、いざとなればそれだけの結果が出せる潜在力を持っているということはやはり大したものだと思いました。
日本の誇るオーケーストラにふさわしい、聴く者を音楽の魅力にいざなうような演奏をもっともっとやってほしいものです。
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ベヒシュタインウェイ?

読む人が読めばわかるでしょうから、大した意味もないとは思いつつ、それでも敢えて名前は伏せますが、さる日本人のイケメン(という事になっているらしい)男性ピアニストが、いまベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音進行中で、先ごろ最後の3つのソナタが発売になったようです。

マロニエ君はピアノの音を聞くのが目的で、興味のない演奏家のCDをしぶしぶ買うことがありますが、この人のCDとしては、以前、日本のあるピアノ会社所有のニューヨーク・スタインウェイで演奏したということで、ラヴェルのコンチェルトと夜のガスパールなどのアルバムを買ったことがありました。
そのどことなく幼稚な演奏にはあれれ?とは思ったものの、その時は正味のピアニストというよりも、どちらかというと女性人気から売り出した観のある人だったので、まあこんなところだろうぐらいに思ったものでした。

そんなアイドル系ピアニストの弾くベートーヴェンの最も神聖なソナタなど、普通ならまず絶対に寄りつきもしないところですが、それに寄りつくハメになりました。
この人は、一時期は非常に癖のあるニューヨーク・スタインウェイをコンサートにも録音にも愛用していて、自らその楽器のことをF1などと呼びながら、ネット上にそのピアノを褒め称える文章まで書いていたほどでしたが、しばらくするとパッタリそのような気配はなくなり、録音も常套的なハンブルク・スタインウェイでおこなっているようでした。

ところが、現在のベートーヴェンのソナタ録音にあたっては、なんとベヒシュタインのD280を使用ということで、えらく大胆な方向転換をしたものだと思いましたが、ベヒシュタインで弾くベートーヴェンというのは、バックハウスが晩年におこなったベルリンでのコンサートライブでそのマッチングの良さに感嘆感激していたので、その強烈なイメージがいまだにあって、どうしても聴いてみたくなりました。

とはいえ価格は例によって割引適用無しの3000円で、そこまでして買うのもアホらしいような気分だったのですが、たまたまネット上で見かけたこのCDのレビューによれば、以前はこのピアニストのことをある種の偏見を持っていたけれども、人から進められて聴いてみると、本当に素晴らしい演奏云々…という激賞文でもあったため、ついついマロニエ君も少しばかりのせられてしまいました。

そうは云っても、以前の経験があるので、演奏には過度の期待はしていませんでしたが、まあ音を楽しむぐらいのものはあるのだろうという程度の気持でついに購入してしまいました。やはりどうしてもベヒシュタイン&ベートーヴェンが紡ぎ出すあの感激を現代の録音で聴いてみたい!という欲求に負けたというわけです。

しかし、結果はまったくの失敗で、アーできるものなら返品したい…と思うばかり。
むかし買ったラヴェルの印象がそのまま生々しく蘇るようで、この人はなんにも変わっていないんだなと思うと同時に、曲が曲であるだけに、いっそう分が悪い感じです。
彼はいま何歳になるのか知りませんが、ただ指の動く学生が音符の通りに平面的に弾いているようで、この世の物とは思えぬop.111の第二楽章の後半など無機質な指練習のようで唖然。

ピアノは上記の通りベヒシュタインのD280ですが、どちらかというと普通で、期待したほどベートーヴェンでの相性の良さは感じられませんでした。このピアノはよくよく考えてみると、おそらくはマロニエ君も一度触れたことのある「あのピアノ」だろうと今になって思われます。伝統的なベヒシュタインのピアノ作りを大幅に見直して、今風のデュープレックススケールを装着した新世代のベヒシュタインですが、あきらかにメーカーには迷いのあるピアノだと当時感じたことを思い出しました。

ベヒシュタインほどの老舗ブランドであるにもかかわらず、スタインウェイ風の華やかな音色とパワーをめざしたのでしょうが、結局はこのメーカーの個性を大幅に削り取ったピアノになっているとしかマロニエ君の耳には聞こえませんでした。バックハウスがベルリンで弾いたのは、Eという古いモデルで、その後のENを経て、現在のD280になりますが、モデル表記もまるでスタインウェイのD274そのままで、もう少し工夫はなかったものかと思います。

しかし、逆にいうと、ベヒシュタインと思うから不満も感じるわけで、一台のコンサートグランドとして素直に聴いてみれば、これはこれでなかなか素晴らしいピアノだと思えるのも事実です。とくに過度に洗練されすぎていない点が好ましく、ドイツピアノらしい剛健さの名残なども感じて悪くないとも思いますが、いささかスタインウェイを意識しすぎた観が否めないのは惜しい気がします。
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人前演奏の魔力

人前でなにかのパフォーマンスをすることには、そこに魅力を覚えた人達にとって、抗しがたい強烈な魅力があるのだろうと思われます。

「舞台には魔物が棲んでいる」という言葉は音楽家に限らず、俳優などもしばしば使うフレーズで、どんな失敗や苦労をしても、もうこりごりだと思っても、嫌だ嫌だと言って逃げ出したいと足掻き苦しんでも、舞台が終わったとたん、もう次がやりたくなるのだとか!?

こういう気分というのは、人前で何かをすることが極端に嫌いなマロニエ君にはなかなか理解の及ぶところではありませんが、折にふれそういう話を耳にする(だけでなく目にする)につれ、果たしてそういうものなんだろうなぁという認識だけは持つようになりました。おそらくは一種の依存症的な、独特な脳神経の作用があるのだろうと思われます。

こうなると客観的実力とは無関係に、我欲と自己愛に溺れ、定期的にステージに立ちたがる人がいて、こちらからみればただ唖然とするばかりなのですが、ある種の人達がこの味を覚えてしまうと、なまなかなことでは止められないようです。まさに毒に侵されたとしか思えない世界です。

たぶんカラオケマニアの熱中ぶりがその最もわかりやすい端的な現れだろうと思います。

ピアノでも、マロニエ君などから見ると、ほとんど常軌を逸しているとしか思えないほど、人前で弾くことに喜びを感じている人達がいるのは、いかにそれが人それぞれの嗜好であり自由だと云ってみたとしても、普通の平衡感覚(とマロニエ君が思っているもの)ではおよそ理解が困難なことだらけです。

こういう人達を見ていると、純粋にピアノが弾きたいのか、人から注目を集めるためにピアノを弾いているのか区別がつきません。その熱意に圧倒された結果は、家でひとりピアノを弾く行為でさえも、なにか自分は変なことをしているのではないかという疑いの気持のようなものが忍び寄ってくるようなときがあるのは困ったものです。
やはりマロニエ君の頭の中には、ピアノなどの人前演奏は、それに値する人だけが行うべき特別な行為だという大原則というか、ほとんど本能みたいなものが強く根を張っていて、どうもこういうことを微笑ましいことと捉えることが難しいのです。

そんなマロニエ君の気分とは裏腹に、人前で弾きたい人の欲望というのは、それはもう並大抵のものではなく、驚くべきことにわざわざそのために時間を工面してはあちこち出かけていって、そのための出費も厭わず、そのささやかなチャンスを逃すまいとします。
そんなに弾きたいなら自宅で思う存分やればいいようなものですが、たぶん根本的にそれとは違う感覚で、恐ろしいことですがオーディエンスのいない自宅では満足できないのでしょう。

こういう点を考えると、こういう心理には、どこかセクシャルな要素さえ絡んでいるようにも思います。
おかしな喩えで恐縮ですが、あちらの趣味のご盛んな人の中には、複雑な心理の絡むところがあり、独特なある一定の条件を満たさないと気分が燃えないのだとか。

ありきたりなエロティックなものではダメで、なにかそこに一種の屈折した条件が整ってはじめて満足を見出しているようなのです。
限られたわずかな状況、ある種の不自由感の中で、その欲望がかすかに報いられる刹那、猛然と気分は高ぶり燃焼してくるのでしょう。
したがって、ピアノを弾くにも、きっとただひとりで自由に無制限に弾くのではダメなようです。
自分以外の人達が見守る中で、時間的にも回数的にも限られた条件下での演奏環境でないと「燃えない」「興奮しない」んだというふうに考えると、少しは理解できるような気がしてきます。

べつにマロニエ君が人前演奏したがる人の気持ちが1%もわからないというのではありませんが、それにしても、あまりにもそれが強烈な人の多いのには驚く意外にありません。

小難しいことは抜きにしても、これは人の心の中にある露出願望のひとつの形体なのだと思われます。
まさかピアノが、そういう願望を満足させる手段にもなり得るということを知ったのはそう古いことではありません。
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ピリスの奏法

今年3月、すみだトリフォニーホールで行われた、ピレシュ&メネゼスのデュオ・リサイタルの録画を見ました。
ピレシュは日本では長らく「ピリス」といっていたポルトガル出身のピアニストで、グラモフォンなどはいまだにCDの表記はピリスで通しているようです。本来はピレシュというのが正しいのかもしれませんが、これまで長いことピリスと云ってきたので、ここでも敢えてその呼び方で書きます。

前半はホセ・アントニオ・メネゼスによるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番で、ピリスはそのあとのベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番で登場しました。

演奏はさすがにある一定のクオリティというか、音楽的な誠実さ、質の高さを感じますが、実際のステージとなるとピリスのピアノはいかんせん軽量コンパクトに過ぎて、CDで聴くような繊細な表現は伝わりません。というか、そもそもこの時はそれほど気合いの入った演奏をしていないという感じだったというほうが正しいかもしれません。
少なくともマロニエ君は、彼女がいま獲得している高い名声に値する演奏をしたようにはどうしても思えないものでした。

それとは別に、この人の演奏を聴いていて、CDなどでも以前から気になっていたことが少しわかったような部分があり、これはこれで収穫でした。

それはピリスの演奏に潜む、ある矛盾についてでした。
弱音域で展開される、目配りの行き届いたデリケートな演奏はたしかに上質なものがあるけれど、フォルテやスタッカート、あるいは弾むようなパッセージになると、たちまち音やリズムが粗雑になり、この人のみせる(聴かせる)芸術性にどこかそぐわない、ちぐはぐな印象を受けるところがあったのです。

それは、少しでも強い音や小刻みなリズムを必要とする場所になると、必ずといっていいほど上から鍵盤を叩くことで、それが音にも反映されていることがわかりました。
それは彼女が小柄で手も小さいということもあるかもしれませんが、ピアノのアクションを含むすべての発音機構はこの点でも非常によくできており、叩いたりはじいたりすれば、正直にそういう音になる。

また、ピリスの場合、叩くときはえらく敏捷に手を上げ下げしていますが、その小さくない上下運動によるロスを取り戻そうとするのか、そのときに若干リズムが乱れ、結果として逆につんのめるように早くなっている気がしました。同時に、これをやるときは注意がそちらに逃げるのか、音楽的な配慮がやや散漫になってしまうのだろうと思われました。

そのためか、弱音のコントロールで非常に高度な演奏表現を達成しているのに、こういう場面では粗い音色と性急なリズムが顔を出し、全体の素晴らしさは感じつつ、どこかもうひとつ引っ掛かる感じが残るのだろうと思います。ピリスは、表向きはいかにも筋の通った高尚な音楽を描き出す数少ない音楽家のようなイメージになっていますが、この点ではまさに技巧上の事情があるのか、矛盾を抱えたピアニストだと思いました。

叩く音は、どうしても硬質な衝撃音となり、音量の問題ではなく、ピアノの音が割れる、もしくは割れ気味になってしまいます。深みのある静謐な弱音コントロールが売りのピリスの演奏の中で、随所にこうした配慮を欠いた音色が紛れ込むのは、他がそうでないだけに一層耳に違和感を与えるのだろうと思います。

小柄で手が小さいと云っても、ラローチャは潤いのある充実した響きを持っていましたし、誰も聞いたことはないけれど、かのショパンも女性のように小さな手であったにもかかわらず、その演奏は一貫して絹のようななめらかさがあったと伝えられていますから、やはりそこは演奏家自身の価値観と美意識によって決定される問題ではないかと思いました。

ピアノはヤマハのCFXですが、どうもこのピアノはデビュー当時のような輝きを感じなくなり、響きがだんだん平凡で薄っぺらになってくるような気がします。ピリス以外でもこのところホジャイノフなどいくつかの演奏で聴きましたが、ちょっとフォルテになるとたちまち限界が見えるようで、そのあたりがいかにもピンポイントで性能を磨いた現代のピアノという印象。生産開始直後の個体はよほど気合いを入れて作られたということかと、つい勘ぐりたくなります…。
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125周年記念ガラ

今年の4月10日、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ125周年記念ガラという催しがあり、この時点では退位間近であったベアトリクス女王と、即位を目前に控えたオラニエ公ご夫妻のご臨席のもと、盛大なコンサートイベントが行われ、その様子がBSのプレミアムシアターで放送されました。

指揮はマリス・ヤンソンス、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、このガラコンサートはワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲で始まりました。
ところが、これは奇妙なほどあっけらかんとした陰翳のない演奏で、およそワーグナーのようには聞こえませんでした。マロニエ君の好みとしては、ワーグナーはもう少し不健康で壮大、そして陶酔的な響きがなくてはそれらしく聞こえないように思いました。

打って変わってトマス・ハンプソン(バリトン)の独唱によるマーラーのさすらう若者の歌などの3曲は、まったく素晴らしいもので、表現力、力強さ、安定感など、どれをとっても立派でした。聴き手が安心して音楽に身を委ねることのできる現代では数少ない音楽家というべきで、作品世界への引き込みが際立っており、大変満足でした。

ああ、なんでこんな場所にまで、この人は必ず出てくるのだろう…と思うのがラン・ランで、朝起きたそのまんまみたいなヘアースタイルで意気揚々と登場し、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章をいちおう演奏。いつもながらの曲芸風で、しかも線の細い響きと、解釈というものが不在のような演奏ですが、彼にはそれは「小さなこと」なのかもしれず、終始「どうだい!」といわんばかりの自信満々なエンターテイナーぶり。スターとしての自分の存在やふるまいを重視して、それでお客さんを喜ばせるというスタンスなんでしょう。ピアニストとしてみるから違和感がありますが、芸人として見れば立派なのかもしれません。

ここ最近、ますます顕著になってきたラン・ランの特徴としては、ちょっとでも空いている左手などを、まるでベテラン・マジシャンの手つきのようにくるくると踊らせて、いかにも演奏に没入している証のように振る舞うなど「見せるピアニスト」としての要素をますます強化しているように感じました。
ほかにも以前からやっていることでは、結構難しいパッセージなどを弾く際など、「ボクにはこんなことなんてことないよ」と言わんばかりに、顔はあえて会場の遠くあたりを見つめるなど、余裕があるから必死になる必要もなくて、つい他のことを考えちゃった、みたいなパフォーマンスで、こんなことを女王の前でも臆せずやってしまう図太さは大したものとしか言いようがありません。

続くチャイコフスキーの弦楽セレナードから「エレジー」では、祝祭アンサンブルと称してウィーンフィル、ベルリンフィル、ミュンヘンフィル、アムステルダムからの団員が集まって演奏しましたが、これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の出す音とはまったく違う、腹の据わったふくよかな響きだったのは、同じ会場でこんなにも違うものかと驚きでした。
その点ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は伝統あるオーケストラではありますが、いささかギスギスした音が気になります。

続くサンサーンスの序奏とロンド・カプリツィオーソではジャニーヌ・ヤンセンという若い女性ヴァイオリニストが登場してきましたが、演奏はやたら気負い立つばかりで粗さがあり、生命感あふれる演奏も魅力は半減というところでした。演奏に熱気というものは必要ですが、そこには品位と必然性が無くては本当の音楽の息吹は伝わらず、マロニエ君の好みではありませんでした。
ソリストとしてラン・ランとはちょうど良いバランスだと感じたところ。

この日のホスト役で、カーテンコールで何度も往き来しては笑顔をふりまくヤンソンスですが、意外にも小柄で、その笑顔の中に覗く白い歯の具合などが誰かに似ていると思ったら、麻生太郎氏にそっくりなのにはびっくりして思わず笑ってしまいました。
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ファツィオリ雑感

前回書いた、昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラで使われたピアノは、ピアニストがトリフォノフということもあってか、ファツィオリのF278がステージに据えられていました。
これまでの印象では、この若いピアニストとイタリアの若いピアノメーカーはずいぶんとWin-Winの関係にあるようですから、それも当然のことだったのかもしれません。

なにぶん演奏が演奏だったおかげで、正直いってピアノどころではなく、もうどうでもいいような気もしましたが、ついでなので少しだけ。

音や響きの印象は以前と変わりませんので省略して、視覚的な印象です。
サイドに書かれたFAZIOLIの文字は、一般的な真鍮の金文字だとステージの照明や反射の具合で見えづらくなることがあるための対策なのか、常にくっきり目立つ白文字となっており、しかも遠目にも判読できやすくするためか、少し肉厚に書かれているのはビジュアルとしてあまりいいとは思えません。

もともとファツィオリのロゴは、デザインの美しさと個性が両立した素晴らしいもので、この点では、新興メーカーとしては出色の出来だと思っていますが、しかしそれはあの繊細でスリムなラインの微妙なバランスがあってのこと。これを少しでも肉厚(しかも白!)にすれば、あの雰囲気はたちまち損なわれるとマロニエ君は感じるわけです(少なくともピアノに彫りこむ文字としては)。

さらにはピアノの左サイド(客席側は右サイド)にまでこの白い肉厚ロゴを入れるのはちょっとくどすぎるし、あまりにも宣伝効果ばかりが表に出てしまい、却って好感度を削ぐような気がします。
この点はヤマハも同様ですが。

三方向にまでメーカー名を入れて、なにがなんでもその名をアピールしたいのなら、いっそ後ろのお尻部分にもタトゥのようにロゴマークを入れて、この際全方位対応にすればどうかと思います。

また細かい点では、ピアノソロの場合、多くは譜面台は外したスタイルで、その譜面台を差し込むためのボディ側のガイド部分が丸見えになりますが、これがいかにも安物っぽいただの金属棒(ファツィオリお得意の純金メッキなどが施されているのかも知れませんが)になっているのは、まるでアジア製の大量生産ピアノみたいでした。
ファツィオリは生産も少数で価格も最高級、何から何まで贅沢ずくめのセレブピアノを標榜し、それに沿った巧みな宣伝にも努めているメーカーのようですが、これはちょっとイメージにそぐわないというか、案外つまらないところで割り切った造り方をするんだなあと思いました。

それにしても、舞台上手(つまりピアノの後方から)のカメラアングルで驚くのは、そのお尻部分の大きさ幅広さで、これは圧巻です。女性で云うなら安産型体型とでもいうべきで、ボディからなにから、徹底して華奢なスリム体型を貫くスタインウェイとは対照的な豊満なプロポーションだと痛感させられます。
たぶん、ファツィオリは響板面積も他社よりかなり広く取る設計なのかもしれません。

使われていた椅子は、見慣れたポールジャンセンでも、バルツでも、ランザーニでもないもので、確認はできていませんが、おそらくはスペインのイドラウ社のコンサートベンチだろうと思います。
ずいぶん肉厚の大ぶりなベンチで、個人的にはあまり好ましくは思いませんでしたが、ファツィオリのむちむちした雰囲気とプロポーションには妙に合っていたと思います。
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ゲーマー?

演奏家としての道義が感じられない演奏というのは今や珍しくもないので、少々のことなら慣れているつもりですが、ひさびさにそんなものでは処理できない演奏に出逢いました。

BSのクラシック倶楽部で昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラというのがあり、ピアノではダニール・トリフォノフがショパンの作品10のエチュード全曲を弾いていました。

あの素晴らしいハ長調の第1番からして、まさに無謀運転のはじまりで、華麗にして精巧なアルベジョの美しい交叉は、ただの粗雑でうるさい上下運動と化し、いきなり度肝を抜かれました。
どの曲も呆れるばかりにぞんざいで、やたら早く指を動かし、高速で弾き飛ばすことだけがエライということしか、この人の感性にはないのでしょう。

まあ、広い世の中にはそんな単純思考のオニイチャンもいるとは思いますが、そんな人があのショパンコンクールで3位となり、続くチャイコフスキーで優勝というのですから、いかにこのところのコンクールの権威が失墜しているとはいえ、ちょっと信じられないというか、この現実をただ時代の波や風潮として受け容れることはマロニエ君にはなかなか困難です。

あれではまずショパンに対してというだけでなく、栄冠を与えてくれたコンクールに対しても、コンサートのチケットを買って聴きに来てくれた聴衆に対しても、さらにはファツィオリのピアノやその様子を収録して放送しているNHKに対しても、礼を失しているのではと思ってしまいました。

中でも最も驚いたのは最後の「革命」で、ただもうめちゃくちゃなロックのステージか、はたまた格闘技でも見ているようで、それを生で聴かされている会場のお客さんの気持ちを思うといたたまれない気分になりました。

その演奏は強引な自己顕示欲の塊で、技巧的な曲では自分の能力をはるか超えたスピードで飛ばしまくり、当然コントロールはできていないし、それで音が抜けようが破綻しようが知ったことではないという様子です。またスローな曲では執拗にネチョネチョした気持ち悪さで、身体のあちこちが痒くなってくるようで、ともかくこの人の音楽的趣味の悪さといったらありません。

ふつう若くして世に出たピアニストには神童といわれる人が多く、彼らはその技巧もさることながら、若さに不釣り合いなほどの老成した音楽性と抜きん出た個性を持っているものですが、トリフォノフはその点ではただの幼稚で凡庸な子供というべきで、むしろ実年齢よりも遙か幼い感じにしか見えません。

ピアノを弾いている姿も、終始背中を丸めて汗だくで遊びに熱中している小学生のようで、最後に弾いた自分の編曲によるJ.シュトラウスの『こうもり』の主題による変奏曲などは、まるでテレビゲームの難易度の高い技を競い合う子供が、嬉々として技のための技を繰り広げて悦に入っている痴呆的な姿のようにしか見えませんでした。

マロニエ君はファツィオリのF278とF308が比較して聴けるという理由とはいえ、たとえ一枚でもこの人のCDを購入して持っているということさえ恥ずかしくなりました。
こんな人がコンサートピアニストとしてやっていけるのだとすれば、今のピアニスト稼業は、ある一面においてはずいぶん甘いんだなぁと思います。

夜中にもかかわらず、口直しならぬ耳直しをしないではいられなくなり、自室に戻るや、とりあえず目についたものの中から関本昌平氏のショパンコンクールライブCDを流してみましたが、なんというまともで立派な演奏かと感銘を新たにしましたし、こういう演奏をする人もいることにとりあえず安堵しました。
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蛮行CM

北米在住の方がおもしろいCM映像を紹介してくださいました。
正確に云うと、おもしろいというよりもおぞましいと云うべきかもしれませんが、GMのキャデラックの開発にどういうわけか使用されたというグランドピアノの破壊シーンです。

いかにアメリカが物質社会・消費社会とは云っても、こういう文化意志の欠落したCMを作るという感性そのものが驚きですし、しかもそれがアメリカで最高の高級車であるキャデラックのCMというのですから、まったく開いた口がふさがりませんでした。
キャデラックのユーザーは、開発や宣伝ためにピアノを破壊しても何も感じない、傲慢な人種だと示しているようなものです。

https://www.youtube.com/watch?v=rwLMOB6s2ps&seo=goo_%7C_Cadillac-Awareness-YouTube_%7C_YT-LUX-ATS-PIANO-DUMMY-TVST_%7C_Dummy_%7C_

こんなものが一般消費者にとって何の役に立つのか、あるいはどういう意味があるのか、さっぱりわかりませんし、彼らは人々が愛でて大切にするものを敢えて踏みにじり破壊することに、一種の快楽と嘲笑的なよろこびをもっているようにさえ感じます。

以前、ふとした偶然からみつけたのですが、アメリカにはいろいろなジャンルの高級品を破壊しまくって楽しむという悪趣味極まりないクラブがあって、その中にはピアノも含まれており、なんとスタインウェイのグランドピアノを鉄の大きなハンマーを手にした数人の会員(?)によってめちゃくちゃに壊すというのがあってさすがに気分が悪くなりました。原型をとどめないまでに無惨に破壊されたピアノの残骸の前で、ヤッタゼ!といった様子で悦に入っている様子には、なんという悪趣味な思い上がった民族かと思いました。

イラク戦争の折にも、イラク人の捕虜に対して宗教上人前で肌をさらすことを戒める彼らを、敢えて全裸にし、まことに破廉恥な行為を集団で強要し、挙げ句に勝ち誇ったようにその前で写真まで撮っていたのは記憶に深く刻まれる出来事でした。

ほかにもピアノでは、Youtubeの投稿映像でアメリカの若者が、家から運び出したピアノをピックアップの荷台に乗せ、それに縄をかけ、ある程度の速度に達したところで一気にピアノを地面に落とし、ロープで引きずられながらピアノはまたたく間にバラバラに崩壊してしまいますが、その様子に若者達は熱狂的な雄叫びをあげ、爆笑を繰り返すというものでした。
まさに西部劇に見る悪党の残忍な仕業そのものです。

アメリカだけではなく、山下洋輔氏も若気の至りだったのかどうかは知りませんが、恥ずべき過去の行為があることはご存じの方も多いと思います。
海辺にグランドピアノを置き、それに灯油か石油かをぶちまけて火をかけて、燃えさかるグランドピアノを山下氏がガンガン弾きまくるという、音楽家として最低のパフォーマンスでした。

ネット動画で探せば、現在でも見ることは可能なはずです。
私はもともと彼のことはあまり興味もなく、好きでも嫌いでもありませんでしたが、それを見てからというもの、いまだにこの蛮行が頭に焼き付いていて彼のことは好きになれません。

マロニエ君は、なにも「ピアノ愛護団体」のようなことを言い立てるつもりは毛頭ありません。
ただ、実用品とは一線を画すべき楽器を粗末にし、ときに破壊さえするという行為は、個人的には食べ物を粗末にする以上にその人の人格や教養を疑われる恥ずかしい行為だと思いますし、理屈でなく体質的感覚的に不快感を覚えてしまいます。

とりわけミュージシャンと名の付く人がそれをするのは許しがたいものがあり、外国のロックグループにもステージ上のピアノに火をつけて、その炎の周りで狂人のように歌い踊るシーンを見た記憶がありますが、なにをどう説明されようともマロニエ君にはその手の行為は受け容れることはできません。

それをGM(ゼネラルモータース:アメリカ最大の自動車会社)がCMとして堂々と広告媒体に載せるのですから、宣伝のためならペットでも虐待するのかと思います。
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上原彩子

今年の3月にサントリーホールで行われた上原彩子さんのピアノリサイタルから、ラフマニノフの前奏曲op.32とリラの花、クライスラー=ラフマニノフ編曲の愛の喜びがBSで放送されました。

このリサイタルは、オール・ラフマニノフという精力的な取り組みだったようです。

上原さんはチャイコフスキーコンクールに優勝したときから、さまざまな噂や憶測が飛び交い、日本人による同コンクールの優勝は史上初ではあったものの、世界的コンクールの優勝者の扱いはあまり受けられなかったような印象があります。そういう事は抜きにしても、マロニエ君はテレビなどで断片的に垣間見るこの人の演奏には、まったく興味が持てず、まさに関心の外といった存在でした。

最近で云うと、ヤマハホールのオープンに伴うコンサートでは、風水の金運ではないのでしょうが全身真っ黄色のドレスを纏い、真新しいホールで最新のCFXを弾いていましたが、そんなお祝いイベントとは思えないネチネチと愚痴るばかりのようなショパンで、ちょっといただけない感じを受け、このときもまともに最後まで聴くには至りませんでした。

ところが、今回のサントリーではプログラムのせいかどうかは自分でもわかりませんが、なぜかちょっと聴いてみる気になったのです。結果から云うと、マロニエ君の好みの演奏ではないにしても、この人なりの良さや持ち味のようなものが少しわかった気がして、そのぶん見直してしまいました。

ラフマニノフが上原さんに合っていたのかもしれませんが、まず今どきの演奏にありがちな薄っぺらい表面的な感じがなく、よほど丹念に準備をされたのか、そこには深いところから滲み出るものがあり、これはこれで説得力のある収まりのついた演奏だと思いました。
見るところ、椅子はかなり高めで、ピアニストとしては小柄な方のようですが、それに反して出てくる音はなかなか堂に入ったもので、最近では珍しいぐらいピアノをよく鳴らし、プロの音色が聴かれたのはまずそれだけでも評価に値するものでした。

上原さん固有の特色としては、音楽に対するスタンスに一種独特な暗さと厳しさが支配しているように思います。今どきのピアニストには珍しい、滾々と湧き出るような深い悲しみと孤独感が立ちこめて、それが少なくともラフマニノフでは、この亡命作曲家の深い哀愁にも重なり、独特な効果となっていたように感じました。
クライスラー原曲の『愛の喜び』でさえ、ほとんど悲しみの音楽のようでした。

音楽に限らず、よろず芸術に携わる者は、自分が幸せいっぱいでは人間的真実の本物の表現者とはなり得ない場合が多いのは紛れもない事実で、あくまでマロニエ君が感じたことですが、この人の心には何かがわだかまっていて、それが演奏上のプラスにもマイナスにもなっているように思いました。

音色の面で感心したのは、音が繊細かつ大胆で潤いがあり、フォルテでも決して音ががさつにならず、常に安定した輝きと重みをもっていることや、各声部の音の強弱のバランス感覚は非常に優れたものがあると思いました。少なくともあの小柄な体つきからは想像も出来ない充実した厚みのあるサウンドが、きっちりコントロールされながら広がり出るのは立派です。

アーティキュレーションも細緻で、東洋人特有の非常に行き届いた配慮のある点はこの人の美点だと思いますが、惜しむらく弾むような色合いやスピード感という点ではあまり期待ができないようで、言い換えるなら作品の喜怒哀楽すべてを自在に表現できるプレーヤーではないように思いました。
したがって自分に合った作品を選ぶことは、上原さんにとっては非常に重要なファクターだと思います。

この日のピアノはまったく素晴らしい朗々と鳴るスタインウェイで、とりあえず文句なしという感じでした。聴くところによると上原さんのご主人は松尾楽器のピアノテクニシャンなのだそうで、もしかしたら、その方の手になる渾身の調整だったのかもしれませんが、これはあくまでマロニエ君の想像であって事実確認はできていません。
いずれにしろ、美しい響きのピアノでした。
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ラルス・フォークト

リッカルド・シャイー指揮のライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の今年2月の演奏会が放送され、曲目はグリーグのピアノ協奏曲(ピアノはラルス・フォークト)とマーラーの交響曲第5番。

会場も、その名の示す通りこのオーケストラのホームグラウンドであるライプチヒ・ゲヴァントハウスですから、通常の定期公演のようなものだろうかとも思いますが、そのあたりの詳細はよくわかりません。

実を云うとマロニエ君がラルス・フォークトの演奏を聞くのは、映像としても音としても初めてだったので、そういう点でも興味津々ではありました。
というのも、このピアニストの存在はずいぶん前から知ってはいましたが、CDのジャケットなどに見る表情があまり恐くて気分が萎えてしまい、それなりの人かもしれないとは思いつつも、つい躊躇してしまっていたので、今回ついにその演奏に触れることが出来たというわけです。

この超有名曲は、湧き上がるティンパニの連打の頂点に、独奏ピアノのイ短調の鮮烈な和音が閃光のごとく現れて降りてくることで幕を開けるのが一般的ですが、その一連の和音のありかたが一般的なものとはやや異なり、妙に抑えたような、ちょっと違った意味を持たせたようなものであったことに、冒頭小さな違和感を覚えました。

しかし、聴き進むにつれてこの人なりのスタイルと表現の意志力がはっきりしていることがわかり、次第にその音楽に馴染むことができました。ひとことで云うなら柔と剛が適切に使い分けられながら迷いなく前進し、演奏を通じての自己表出より、専ら音楽に奉仕するタイプの演奏であると思いました。
様々なかたちはあっても、結局は自分自分というタイプの演奏家が多い中で、フォークトはまず音楽を第一に置き、作品をよく咀嚼し、慎重さをもって演奏に望んでいるようでした。根底には音楽に対する情熱があるものの、それを恣意的な方法であらわすことはせず、あくまでも抑制が効き、作品に対する畏敬の念が感じられました。

印象的だったのはピアノが表面に出るべきところと、そうではないところをきっちりと区別し、必要時には潔くオーケストラの裏にまわることで、常に作品のバランスを優先させようと努めているのは好感が持てました。
いわゆる英雄タイプの華々しい演奏でアピールするのではなく、協奏曲の中にあっても内的で繊細な表現が随所に見受けられ、聴く者は集中してそれらに耳を澄ませることを要求するタイプの演奏家であったと思います。

それでいて強さや激しさが必要なところでは作品が要求するだけのことが充分できる器があり、まさにテクニックを音楽表現の手段として適材適所に使っているという点は立派です。だからといって個人的には双手をあげて自分の好みというわけでもないのですが、今後は曲目によってはフォークトのCDなども買ってみるかもしれません。

それにしても、なんとなく感じたのは、ドイツの聴衆というのは一種独特なものがあります。
客席にはほとんど空席もなく、座席は整然とむらなく埋まっていて、しかもほとんどがある一定の年齢の大人ばかり。さらには体のサイズまで揃えたような立派な体格の男女が、きちんとした服装で整然とシートに着席しており、それがいつ見ても微動だにしません。笑顔も私語もなく、一同がカッとステージの方を見守っており、肘掛けも使っていないような姿勢の良さはほとんど軍隊のようで不気味でした。

要は音楽に集中しているという事なのかもしれませんが、東洋の島国の甘ちゃんの目には、このえもいわれぬ雰囲気はどうしようもなく恐いような気がします。
要するにドイツ人というのはそういう民族なのかもしれません。

むかし親しいフランス人が言っていましたが、フランス人とドイツ人は基本的歴史的に仲良しではないのだそうで、明確にドイツ人は嫌いだと言っていました。とくに彼らがビールなどを飲んで騒ぐときや外国に出たときのハメの外し方といったら、それはもう限度がないのだそうで、あの聴衆の姿を見ていると、確かにそういう両極両面が背中合わせになっているのかもしれないと思いました。

ヨーロッパでもとりわけ西側のラテン系の人達とはそりが合わないようでしたが、まあそれも理解できる気がします。しかし、彼らが作り出すもの、わけても音楽や機械や医学などあらゆる分野の優れたものは、この先もずっと世界の尊敬を集めることだろうと思います。

そんな中で見ていると、明るくせっせと指揮をするシャイー(イタリア人)は、ひとりだけヘラヘラしたオッサンのように見えてしまいますから、お国柄というのはまったくおもしろいものだと思います。
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さすがエマール

少し前にクラシック倶楽部で放送され、聴くのが遅れていたピエール・ロラン・エマールの昨年の日本公演から、ドビュッシーの前奏曲集第2巻をようやく観ました。

まず最初に、エマールのような世界の最高ランクであろうピアニストがトッパンホールのようなサイズ(400席強)のホールでコンサートをすることに驚きました。
どうやらこれはホール主催の公演だったようですから、それならまあ納得というところでもありますが、本来ならこのクラスのアーティストともなると、東京ならサントリーホールぐらいのキャパシティ、すなわち二千席規模の会場でコンサートをやるのが普通だろうと思いますし、最低限でも紀尾井ホール(800席)あたりでないと、この現役の最高のピアニストのひとりであるエマールのチケットを買えない人があふれるのは、いかにももったいないという気がしました。

しかし世の中には皮肉というべきか、逆さまなことがいろいろあって、実力も伴わずして分不相応な会場でコンサートをしたがる勘違い派が後を絶たないかと思うと、意外な大物が、意外なところでささやかなコンサートをやったりするのは、なんとも不思議な気がします。

まあ、大物ほど自信があり、余裕があるから、気の向くままどんなことでも平然とやってしまうのでしょうし、その逆は、やたら背伸びをして格式ある会場とか有名共演者と組むことで、我が身に箔を付けるべく躍起になっているということかもしれません。

さて、エマールの演奏は予想通りの見事なもので、堂に入った一流演奏家のそれだけが持つ深い安心感と底光りのするような力があり、確かな演奏に身を委ねていざなわれ、そこに広がり出る美の世界に包まれ満足することができました。
基本的には昨年発売された前奏曲集のCDで馴染んだ演奏であり、エマールらしい知的で抑制の利いた表現ですが、音楽に対する貪欲さと拘りが全体を支えており、久々に「本物」の演奏を聴いた気がしました。
しかもそこにはピリピリと張りつめた過剰な緊張とか、知性が鼻につくということがなく、あくまで音楽を自然な息づかいの中へと巧みに流し込んでくるので、聴く者を疲れさせないのもエマールの見事さだと思います。

さらにいうなら、演奏家も一流になればなるだけ、その人がどういう演奏をしたいのか、どういう風に作品を受け止め、伝えようとしているかということが聴く側に明確かつなめらかに伝わって来て、芸術が表現行為である以上、このメッセージ性はいかなるジャンルであっても最も大切なことであろうと思います。しかし、現実にはそれの出来ていない、名ばかりのニセモノのなんと多いことか!

ピアノはおそらくトッパンホールのスタインウェイだと思いますが、なにしろ調律が見事で、やはり楽器にもうるさいエマールが納得するまで慎重に調整されたピアノだったのだろうと思いました。
基本的に全音域が開放感に満ち、立体感の中に透明な輝きが交錯するようでありながら、音そのものは決してブリリアントな方向を狙ったものではない、いわば非常にまともで品位のあるところが感銘を受けました。低音は太く、ボディがわななくようなたくましさをもった音造りで、マロニエ君の好みの調律でした。

つい先日、グリモーのブラームスを聴いたばかりでしたが、同じフランス人ピアニストでも格が違うとはこのことで、まさに真打ち登場! ゆるぎないテクニックに支えられた他者を寄せ付けない孤高の芸術を、聴く者に提供してくれるのはなんともありがたい気分でした。

ピアニストがピアニストで終わるのではだめで、やはり真の芸術の域に到達しているものでなくてはつまらないとあらためて思いました。
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グリモーのブラームス

毎週、日曜朝にNHKのBSで放送されていた『オーケストラ・ライブ』が4月からの番組編成でなくなり、事実上その代わりとも云うべき番組が、ずいぶん出世して、日曜夜の9時からEテレで2時間、『クラシック音楽館』として始まりました。

マロニエ君はいつも録画を夜中にしか見ませんから、個人的には朝でも夜でも構わないのですが、世界的なクラシック離れの流れの中にあって、これまで早朝にほとんどお義理のように放送されていたクラシックの番組が、日曜夜9〜11時という、このジャンルではまさにゴールデンタイムに復活してきたことは嬉しいことです。

その第一回放送は、デーヴィッド・ジンマン指揮によるN響定期公演で、ブゾーニ:悲しき子守歌やシェーンベルクの浄夜のほか、メインとしてブラームス:ピアノ協奏曲第2番というものでした。
ピアノはエレーヌ・グリモー。

グリモーは20代の後半にブラームスの第1番の協奏曲をCDで出していますが(共演はザンデルリンク指揮ベルリンシュターツカペレ)、それはいかにも曲に呑まれた、このピアニストの器の足りなさと、さらには若さから来る未熟さみたいなものが全面に出てしまうもので、ちょっと成功とは言い難い演奏でした。
それもやむを得ないというべきか、ブラームスのピアノ協奏曲は両曲とも50分前後を要する大曲で、まともに弾き通すだけでも大変です。ましてやそれを説得力のある演奏として、作品の意味や真価を伝え、さらには音楽としての張りを失わずに、聴く者を満足させることは並大抵のことではないので、そもそもピアニストはブラームスのコンチェルトはあまり弾きたがりません。

一説には、コンクールでもブラームスのコンチェルトを弾くとまず優勝は出来ないというジンクスがあるようです。それは音楽的にも技巧的も難しいばかりでなく、その長大さから審査員の心証もよくないし聴衆も疲れて人気が得られないからだそうです。

しかしマロニエ君は、ブラームスのコンチェルトは楽曲として最も好きなランクのピアノ協奏曲に位置するもので、もし自分がコンサートで活躍するような大ピアニストだったなら、主催者の反対を押し切ってでも弾いてみたい曲だと思います。ヴァイオリン協奏曲も同様。

冒頭のインタビューで、グリモーはブラームスの協奏曲は第1番が書かれた25年後に第2番が書かれており、それは偶然自分でも、若い頃にアラウの演奏で第1番に接しその虜になったものの、第2番はもうひとつ掴めず、これが自分にとってなくてはならないものになるにはちょうど25年を要したなどと、なんとも出来過ぎのようなことを喋っていましたが、そこには今の自分がピアニストとして成熟したからこそこの曲を弾く時が来たというニュアンスを言外に(しかも自信たっぷりに)含ませているような印象を持ちました。

「それでは聴かせていただきましょう!」というわけで、じっくり聴いてみました。
開始後しばらくは、それなりに良い演奏だと思いましたが、次第に疲れが見えてくることと、やはりこの人には曲が巨大すぎるというのが偽らざる印象で、とくに後半では、大きなミスをしたというわけではないけれども、かなり無理をしている様子が濃厚になり、演奏としても破綻寸前みたいなところが随所にありました。

もともとグリモーは、フランスのピアニストであるにもかかわらず伝統的なショパンやドビュッシーのような系統の音楽を弾くことに反発し、10代のころからロシア文学に親しみ、音楽もロシア/ドイツ物などを多く取り上げてきたという、いわば重量級作品フェチ少女みたいなところがありました。

まるで、子犬がいつも大型犬に臆せずケンカを挑んでいるようで、それが見ようによってはほほえましくもあるのですが、やはり器というものは如何ともしがたいものがあるようです。
第一、弾いている手つきがどうしようもなく幼児的で、とても世界で活躍するピアニストのそれとは思えないものがあり、とにかくよくここまできたなあ…というのが正直なところですが、それだけ彼女には光るものがあって、あまたいる腕達者に引けを取らないポジションを獲得しているのだと思います。

ブラームスで云うと、グリモーはソナタでも曲が勝ちすぎますが、この作曲家には極めて高い芸術性にあふれた多くの小品集・間奏曲集等があるので、そのあたりでは彼女の本領が発揮されると思います。
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一級ピアノ調律技能士

「ピアノ調律技能士」という言葉をご存じでしょうか?

これまで、ピアノの調律師というものにこれといった明確な資格があるわけではなく、専門学校や養成所で調律の勉強をした人が卒業後社会に出て、メーカーや楽器店の専属になるなどしてプロとしての経験と修行を積み、さらにはフリーの技術者として独立する人などがあるようですが、そこに特段の基準や資格があるわけではありませんでした。
それだけに、逆に技術者としての実力が常に問われるとは思いますが。

これは何かに似ていると思ったら、ピアニストもそうなのであって、音大を卒業したり、コンクールに入賞したり、あるいは才能を認められるなど、各人いろいろ経過はあっても、ピアニストを名乗るのにこれといった資格や免許などの基準はありません。
まあピアニストのほうがさらにその基準は曖昧かもしれませんが。

資格がないというのは音楽に限らず、文士や絵描きも同様で、そのための公的資格などを必要としないのは当たり前といえば当たり前で、それによって人や社会に著しい不利益や損害を与えるわけでもなく、突き詰めていうなら「人命にかかわる仕事ではない」からだろうとも思います。

つまり、なんらかの方法でただ調律の勉強をしただけの人が、現場経験もないまま、いきなり自分は調律師だと称して仕事をしたとしても、これが違法ではないわけです(ただし、そんな人に仕事の依頼はないとは思いますが)。
それだけ技術的な優劣を客観的に判断する基準というものがなかったということでもあり、新規で良い調律師を捜すことは難しい面があったかもしれません。

ところが、この分野に国家資格というものが創設され、社団法人日本ピアノ調律協会の主導のもとで2011年にその第1回となる試験が行われたようです。

1級から3級まであり、受験者は誰しもこの国家資格に挑もうとする以上、目標はむろん1級にある筈ですが、1級の受験資格は「7年以上の実務経験、又はピアノ調律に関する各種養成機関・学校を卒業・修了後5年以上の実務経験を有する者。」と規定されており、それに満たない人は自分の実績に応じたランクでの受験となるのでしょう。

さて、このピアノ調律技能士の試験は予想以上に狭き門のようで、第1回で1級に合格した人は全国でわずかに32人、受験者数は252人で、合格率は実に13.3%だったようです。筆記と実技があるようですが、とくに実技は作業上の時間制限などもあって相当難しいようです。
ちなみに九州からも、多くの名のあるピアノ技術者の皆さん達が試験に臨まれたようですが、結果は全員が不合格という大変厳しい結果に終わったようです。

これは九州の技術者のレベルが低いということではなく、どんな試験にもそのための「情報」と「対策」という側面があるわけで、この点では東京などの大都市圏のほうがそのあたりの有益な情報がまわっていて、受験者に有利に働いたのは否めないということはあったのかもしれません。

さて、我が家の主治医のお一人で、現在ディアパソンの大修理もお願いしている技術者さんも、第1回で不合格となられ、翌年(2012年)秋の第2回に挑まれました。
その結果発表が今春あって見事に合格!されました。なんでも、九州からの合格者はたった2人(一説には1人という話も)だけだったそうで、これにはマロニエ君も自分のことのように喜びました。ちなみに今回は、前回よりもさらに合格率は低く9.1%だったようで、まさに快挙というべき慶事です。

ディアパソンの修理の進捗を見るためにときどき工房を訪れていますが、先日は折りよく合格証書が届いてほどない時期で、さっそく見せていただきました。
御名と共に、「第一級ピアノ調律技能士」と恭しげに書かれており、現厚生大臣・田村憲久氏の署名もある証書でした。

この主治医殿が、昔から事ある毎に次のように言っておられたことをあらためて思い起こします。
『ピアノ技術者で最も大切なことは実は技術ではありません。技術は必要だが、それはある程度の人ならみんな持っている。それよりも、いかに当たり前のことをきちんとやっているか。要はその志こそが問題だと思いますよ』と。

まさに、今回はその志が結実したというべきでしょう。
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インゴルフ・ヴンダー

過日のアヴデーエワでの落胆に引き続いて、NHKのクラシック倶楽部ではインゴルフ・ヴンダーの日本公演から、紀尾井ホールでのモーツァルトのピアノソナタKV.333が放送されており、録画を観てみましたました。

放送そのものはアヴデーエワのリサイタルよりも前だったようですが、マロニエ君が観るのが遅くなったために、こちらを後に続くかたちになったわけです。

このソナタは、出だしの右手による下降旋律をどう弾くかがとても大切で、マロニエ君なら高いところから唐突に、しかもなめらかに降りてくる感じで入ってきて、それを左が優しく受け止めるように、繊細でこわれやすいものを慈しむように弾いて欲しいと願うところですが、いきなり不明瞭で、デリカシーも自然さもない、なんとも心もとないスタートだったことに嫌な予感が走りました。

その後もこの印象は回復することなく、安定感のない、ひどく恣意的なテンポに満ちた美しさの感じられないモーツァルトを聴く羽目になりました。
驚くべきは、ヴンダーはモーツァルトと同じくオーストリアの生まれで、しかも2010年のショパンコンクールでは堂々2位の成績を収めた、かなり高い戦歴を持つピアニストです。

少なくとも、昔ならいやしくもショパンコンクールの上位入賞者というのは、好き嫌いはともかく、世界最高のピアノコンクールの難関をくぐり抜けてきた強者にふさわしい高度な実力を備えており、それなりの演奏が保証されていたように思いますが、最近はそういう常識はもう通用しなくなったのかもしれません。

モーツァルトのソナタをステージで演奏するには、音数が少ないぶん、他の作曲家の作品よりも明確な解釈の方向性を示し、そのピアニストなりに磨き込まれた完成度の高い演奏が要求されるものですが、ヴンダーの演奏は、いったい何を言いたいのかさっぱりわからないし、技巧的にも安定感がなくふらついてばかりで、好み以前の問題として、プロのピアニストの演奏という実感がまるでありませんでした。

テンポや息づかいにも一貫性がなく、フレーズ毎にいちいち稚拙なブレスをする未熟な歌手のようで、聴いていて一向に心地よさが感じられず、もどかしさと倦んだような気分ばかりが募ります。
また、ヴンダーに限ったことではありませんが、マロニエ君はまず楽器を鳴らせない人というのは、それだけで疑問を感じますし、墨のかすれた文字みたいな、潤いのない音ばかりを平然と連ねることが、思索的で知的な内容のある演奏などとは思えません。

ひと時代前は、叩きまくるばかりの運動系ピアニストが問題視され軽んじられたものですが、最近はその逆で、まずは自然な音楽の呼吸と美しく充実した音の必要を見直すべきではないかと思います。
音色のコントロールというのは様々な色数のパレットを持っていて、必要に応じて自在に使い分けができることですが、ヴンダーなどは骨格と肉付きのある豊かな音がそもそも出ておらず、いきおい演奏が貧しい感じになってしまいます。

本来、ピアニストともなると出てくる音自体に輪郭と厚みと輝きが自ずと備わっており、それひとつを取ってもアマチュアとは歴然とした違いがあるものですが、近ごろはタッチも貧弱、音楽の喜怒哀楽や迫真性もなく、ただ訓練によって外国語が話せるように難しい楽譜が読めて、サラサラと練習曲のように弾けるというだけの人が多く、音色的にはほとんどアマチュア上級者のそれと大差ないとしか思えないものです。

アヴデーエワ、ヴンダー、ほかにもトリフォノフなどを聴いていると、もはやコンクールそのものの限界がきてしまっているというのが偽らざるところで、そういえば一流コンクールの権威もとうに失墜してしまっているようですね。これからは、なにかの拍子に才能を認められて世に出てくるような異才の持ち主などにしか芸術家としての期待はもてない気がします。
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技術者しだい

このところ、ついついアップライトにも関心を持ってしまい、すでに二度もこのブログに駄文を書いてしまっているマロニエ君ですが、先ごろ、実になんとも素晴らしい一台に出逢いましたので、その印象かたがたもう少々アップライトネタを書くことにしました。

それはヤマハのUX300、十数年前のヤマハの高級機種とされたモデルで、背後にはX支柱(現在はコスト上の理由から廃止された由)をもつモデルです。外観で特徴となるのはトーンエスケープという鍵盤蓋よりも上に位置する譜面台を手前に引き出すと、その両脇から内部の響きが左右に漏れ出てきて、奏者はより楽器の原音をダイレクトに聴きながら演奏できるというもの、さらには黒のピアノではその譜面台の左右両側にマホガニーの木目が控え目にあしらわれ、それがこのピアノのお洒落なアクセントにもなっています。
このデザインは好評なのか、今もYUS5として生産されているばかりか、それが現行のカタログの表紙にもなっているようです。

話は戻り、このUX300は望外の素晴らしいピアノだったのですが、それはヤマハの高級機種だからというよりも、一人の誠実な技術者が一貫して面倒を見てこられたピアノだからというものでした。
以前のブログに書いたようなアップライトらしさ、ヤマハっぽさ、キンキン音、デリカシーのなさ、安っぽさなどどこにもない、極めて上質で品位のある音を奏でる好ましいピアノであったことは予想以上で、少なからぬ感銘さえ受けました。

おまけにこのピアノはサイレント機能つきで、通常はこの機能を付けるとタッチが少し変になるのは不可避だとされていますが、この点も極めて入念かつギリギリの調整がなされているらしく、そのお陰で言われなければそうとは気づかないばかりか、むしろ普通のアップライトよりもしっとりした好ましいタッチになっていたのは驚くほかはありません。
これぞ技術者の適切な判断と技、そしてなによりピアノに対するセンスが生み出した結果と言うべきで、まさに「ピアノは技術者次第」を地でいくようなピアノでした。

このような上質でしっとりした感じは、外国の高級メーカーのアップライトではときどき接することがありますが、国産ピアノでは少なくともマロニエ君の乏しい経験では、初めての体験だったように思います。

海外の一流メーカーのアップライトは、その設計や作りの見事さもさることながら、調整も入念になされたものが多く、あきらかにこの点にも重きをおいているのは疑いようがありません。それが隅々まで見事に行き渡っているからこそ、一流品を一流品たらしめているともいえるでしょう。

ちなみに、海外の老舗メーカーの造る超高級アップライトは価格も4ー500万といったスペシャル級で、普通ならそれだけ予算があれば大半はグランドに行くはずです。いったいどういう人が買うのだろうと思わずにはいられない一種独特の位置にある超高級品ということになり、それなりのグランドを買うよりある意味よほど贅沢でもあり、勢い展示品もそうたやすくあるものではありません。

当然ながら、そんなに多く触れた経験はないのですが、スタインウェイやベーゼンドルファーなどは、たしかに素晴らしいもので、この両社がアップライトを作ったらこうなるだろうなぁと思わせるものがありますが、しかし個人的にはとりたてて驚愕するほどのものではなく、あくまで軸足はグランドにあるという印象は拭い切れません。

ところが中にはそうでないものもありました。これまでで一番驚いたのはシュタイングレーバーの138というモデルで、とにかく通常のアップライトよりさらにひとまわり背の高いモデルですが、その音には深い森のような芳醇さが漂い、威厳と品格に満ち、その佇まい、音色とタッチはいまだに忘れることができません。2番目に驚いたのはベヒシュタインのコンサート8という同社最大のアップライトで、これまた美しい清純な音色を持った格調高いピアノでした。
ベヒシュタインは、実はアップライト造りが得意なメーカーで、背の低い小さなモデルでも、作りは一分の隙もない高級品のそれですし、実に可憐でクオリティの高い音をしていて、むしろグランドのほうが出来不出来があるようにさえ感じます。

アップライトでも技術者次第、お値段次第でピンキリというところですが、最近驚いたのはヤマハのお店には「中古ピアノをお探しの方へ」的な謳い文句が添えられて、なんと399.000円という新品のアップライトが売られていることでした。
ヤマハ・インドネシア製とのことですが、これが海外の老舗メーカーのように別ブランドにすることもなく、堂々とYAMAHAを名乗って、ヤマハの店頭で他の機種に伍して売られているのですから、ついにこういう時代になったのかと思うばかりです。
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アヴデーエワを聴く

「演奏とは、誰のためのものなのか。何を目的とするものなのか。」
こういう素朴な疑問をしみじみ考えさせられるきっかけになりました。

ユリアンナ・アヴデーエワのピアノリサイタルに行きましたが、期待に反する演奏の連続で、虚しい疲労に包まれながら会場を後にしました。

ショパンコンクールの優勝後に初来日した折、N響と共演したショパンの協奏曲第一番では、まるで精彩を欠いたその演奏には大きな落胆を覚えたものの、その一年後のリサイタルでは見事に挽回、ワーグナーのタンホイザー序曲やプロコフィエフのソナタ第2番などの難曲を圧倒的なスケールで弾いたのには度肝を抜かれました。
そして、これこそが彼女の真の実力だと信じ込み、いささか疑問も感じていたショパンコンクールの優勝も当然だったと考え直し、ぜひとも実演に接してみたいと思っていた折の今回のリサイタルでしたから、半ば義務のようにチケットを買った次第。

プログラムはバッハのフランス風序曲、ラヴェルの夜のガスパール、ショパンの2つのノクターン、バラード第1番、3つのマズルカ、スケルツォ第2番、さらにはアンコールではショパンのワルツ、ノクターン、マズルカを弾きました。

全体を通じて云えることは、作品を深く読み解き、知的な大人の音楽として構築するという主旨なのだろうと推察はするものの、あまりに「考え過ぎ」た演奏で、そこには生の演奏に接する喜びはほとんどありませんでした。
冒頭のバッハでいきなり違和感を感じたことは、様式感が無く、度が過ぎたデュナーミクの濫用で、いかにもな音色のコントロールをしているつもりが、やり過ぎで作品の輪郭や躍動感までもが失われてしまい、全体に霞がかかっているようでした。さらには主導権を握るべきリズムに敬意が払われず、これはとくにバッハでは大いなる失策ではないかと思います。お陰でこの全7楽章からなるこの大曲は退屈の極みと化し、のっけから期待は打ち砕かれました。

続く夜のギャスパールは、出だしのソラソソラソソラソこそ、さざ波のような刻みでハッとするものがありましたが、それも束の間、次第にどこもかしこもモッサリしたダサイ演奏でしかないことがわかります。
ラヴェルであれほどいちいち間を取って、さも尤もらしいことを語ろうとするのは、マロニエ君にはまったく理解の及ばないことでした。
終曲で聴きものとなる筈のスカルボでも、終始抑制を効かせた、意志力の勝った、ことさらに冷静沈着で燃えない演奏で、不気味な妖怪などついに現れないうちに曲は終わってしまいました。

かつてのロシアピアニズムの重戦車のごとき轟音の連射と分厚いタッチの伝統への反動からか、この人はやみくもにp、ppを多用し、当然フォルテもしくはフォルテッシモであるべき音まで、敢えてmfぐらいの音しか出さないでおいて、それが「私の解釈ではこうなるのです」と厳かに云われているようでした。
彼女にすれば、メカニックや力業で聴かせないところに重点を置いているということなんでしょうけれども、いくら思索的であるかのような演奏をされても、そこになにがしかの必然性と説得力がなくては芸術的表現として結実しているとはマロニエ君は思いません。
それぞれの個性の違いはありながら、本当に優れたものは個々の好みを超越したところで燦然と輝くものですが、残念ながらアヴデーエワの演奏にはそれは見あたりませんでした。

この人の手にかかると、リピートさえ鬱陶しく、ああまた最初から聴かなくちゃいけないのか…と少々うんざりして体が痛くなってくるようでした。
音楽というものが一期一会の歌であり、踊りであり、時間の燃焼であるというようなファクターがまったくなく、何を弾いても予めきっちりと決まった枠組みがあり、その中で予定通りに自分の考えた解釈や説明のようなものを延々と披露されるのは、音楽と云うよりは、ほとんどこの人独自の理論を発表する学界かなにかに立ち会っているようでした。

開場に入ってまもなく、CD売り場があり、終演後にサイン会があるというアナウンスを聴いて、ミーハーな気分からサインを頂戴すべく一枚購入しましたが、前半が終わった時点で、これはチケットもCDも失敗だったことを悟りました。
それでも、ちゃっかりサインはしてもらいましたから、自分でも苦笑です。

この日はなにかの都合からか、福岡国際会議場メインホール(本来コンサートホールではない)での演奏会ということで、ここでピアノリサイタルを聴くのは二度目ですが、出てくる音がどれも二重三重にだぶって聞こえてくるようで、響きにパワーがなく、つくづくと会場の大切さを痛感しました。

ピアノはヤマハを運び込むような話も事前に耳にしていましたが、フタを開けてみればこの会場備え付けのスタインウェイDで、久々にCFXを聴けるという楽しみは叶いませんでした。見ればこの日の調律師さんは我が家の主治医殿で、なかなかこだわりのある美音を創り上げていらっしゃるようでしたが、なにしろこの音響と???…な演奏でしたから、その真価を味わうこともあまりできなかったのが残念でした。

アヴデーエワに質問が許されるなら、ひとこと次の通り。
「貴女の演奏は、本当に貴女の本心なんでしょうか?」
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アップライトの音

アップライトピアノの音というのは、個々のモデルで多少の違いはあるのは当然としても、基本的なところでは楽器としての構成が同じだからか、ある意味どれも共通したものを感じるところがあります。

また、国産ピアノで云うなら(あくまで大雑把な傾向として)より上級モデルで、且つ製造年が古い方が潜在的に少しなりともやわらかで豊かな音がするのに対し、スタンダードもしくは廉価品、新しいモデルではよりコストダウンの洗礼を受けたものほど、キンキンと耳に立つ、疲れる感じの音質が強まっていくように感じます。

とくに、もともとの品質が大したこともなく、さらに状態の悪いものになると、ほとんどヒステリックといっていいほどの下品な音をまき散らし、ハンマーの中に針金でも入っているんじゃないだろうかと思ってしまいます。
もしも、こういうピアノを「ピアノ」だと思って幼い子供が多感な時期を弾いて過ごしたとしたら、本来の美しい音で満たされる良質のピアノに触れて育つ子供に比べると、両者の受けるであろう影響はきっと恐ろしいほどの隔たりとなるでしょう。

もちろん大人でも同様ですが、子供の方がより深刻な結果にあらわれると思います。
食べ物の好みや言葉遣い、礼儀などもそうですが、幼くして触れるものは計り知れないほど深いところへ浸透し、場合によってはその人が終生持ち続けるほどの基礎体験となることもあるわけで、これは極めて大切な点だと思います。

…それはともかく、国産の大手メーカーのアップライトでいうと、せいぜい1980年代くらいまでの高級機は、今よりもずっと優しい音をしていたと思います。これはひとえに使っている材質が良いとまでは云わないまでも、いくらかまともなものだったし、さらには人の手が今よりいくぶんかかっていたから、そのぶんの正味のピアノにはなっていたのかもしれません。

少なくとも、無理を重ねてカリカリした音を作って、いかにも華やかに鳴っているように見せかけるあざといピアノを作る必要がなかったように思います。ダシをとるのにも、べつに高級品でなくても普通の昆布や鰹節を使って味を出すのと、粉末のダシをパッとひとふりするのとでは、根本的にどうしようもない違いが出るのは当然です。

今はネットのお陰で、いろんなピアノをネット動画で見て聴くことができますが、パソコンの小さなスピーカーというのは意外にも真実を伝える一面があるし、さらに信頼できる良質なスピーカーに繋げば、ほぼ間違いないリアルな音を聞くことができて、あれこれと比較することも可能になりました。

そこで感じたことは、マロニエ君は偏見抜きに自分の好みは少し古いピアノの出す音であることがアップライトに於いても確認できました。もちろん、いつも云うように、あくまでも良好な調整がなされていることが大前提なのはいうまでもなく、この点が不十分であれば古いも新しいもありません。

ただ、現実には大半の個体は調整が不充分で、そういうアップライトピアノには、たとえ高級品であっても一種独特の共通した声のようなものがあり、おそらくは構造的なものからくるのだろうと思いますが、それは状態が悪いものほど甚だしくなるようです。

当たり前のことですが、素晴らしい調整は個々のピアノ本来の能力を可能な限り引き出して、人を心地よく喜びに満たしてしてくれますが、これを怠るとピアノはたちまち欠点をさらけ出し、なんの魅力もないただの騒音発生機になってしまいます。

その点では、誤解を恐れずに云うなら、グランドはまだ腐ってもグランドという面がなくもないようで、アップライトの方が調整不十分による音の崩れは大きいように感じます。そこが潜在力として比較すると、グランドのほうがややタフなものがあるのかもしれません。

そういう意味では常に好ましく美しく調整されていることが、アップライトでは一層重要なのかもしれないという気もしないでもありません。
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ヤマハビルとの別れ

先の日曜は、福岡のヤマハビル内で行われた室内楽などの講習会へ知人から誘っていただき聴講してきました。

数日間行われたシリーズのようで、マロニエ君が聴講したのはN響のコンサートマスターである篠崎史紀氏が自らヴァイオリンを弾きながら、合わせるピアノの指導をするというものでした。
小さな部屋でしたが氏の指導を至近距離で見ることができたのは収穫でした。

しかし、この日はなんとも虚しい気分が終始つきまといました。
それは博多駅前にある大きなヤマハビル自体が今月末をもって閉じられることになり、一階にあるグランドピアノサロン福岡も見納めになるからでした。
全国的にもヤマハのピアノサロンは大幅に縮小されるようで、東京と大阪を残して、それ以外はほぼ似たような処遇になるようです。これで福岡(というか西日本の)のきわめて重要なピアノの拠点が失われることになるのは、まったくもって大きな喪失感を覚えずにはいられません。

講習の帰りに、知人らと一緒にグランドピアノのショールームにもこれが最後という思いで立ち寄りましたが、昨年発表されて間もないCXシリーズがズラリと並んでいる光景もどこかもの悲しく、惜別の気持ちはいよいよ高まるばかりでした。

社員の方々もさぞや無念の思いで最後の日々を過ごしておられるだろうと思いますが、ショールームではコーヒーをご馳走になったことで最後のお別れがゆっくりできたような感じでした。

ピアノには片っ端から触るわけにもいかないので、数台あったC5Xと、C6X、C7X、S6などに触らせてもらいましたが、この中では、マロニエ君の主観では圧倒的にC6Xが素晴らしく、それ以外の機種が遠く霞んで見えるほどの大差があったのは驚く他はありません。
通常、同シリーズであれば、サイズが大きくなるにつれて次第に音に余裕と迫力が増してくるものですが、このC6Xの完成度というかキラリと光る突出のしかたは何なのか…と思うほどでした。

C5XとC7Xには互いに共通したものと、その上でのサイズの違いが自然に感じられますが、C6Xはタッチも音もまったく異なり、DNA自体が違う気がしましたが、これは久々に欲しくなったヤマハでした。
また価格も倍近くも違うS6は、個人的にはどう良いのかがまったく理解できず、目隠しをされたらこの両者は価格が逆なんじゃないかと思ってしまうだろうと思います。

最後の最後に、自分でも欲しいと思えるような好みのヤマハのグランドに触れることができたのは、せめてもの幸いというべきで、マロニエ君の中では良い思い出の中で幕が降りることになりそうです。

聞くところによると、現在のピアノの全販売台数のうち、電子ピアノが実に85%を占めるまでになり、アコースティックピアノはアップライトが10%、グランドはわずかに5%なのだそうで、いわば模造品に本物が駆逐されてしまった観がありますが、見方を変えれば電子ピアノの普及によってピアノを気軽に習う人が増えたという一面もあると解釈できるのかもしれません。

折しも日本は、やっと暗い不況のトンネルの出口が見えつつあり、景気回復の兆しがあらわれ始めたところですから、近い将来、少し郊外でもいいので、もう一度ヤマハのショールームが復活する日の来ることを願わずにはいられません。
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アップライト考

このところ、いささか訳あって国産のアップライトピアノのことを(ネットが中心ではあるものの)しばらく調べていたのですが、わかってきたことがいくつかありました。

もちろん自分ですべて触れてみて確認したことではなく、多くがネット上に書き込まれた情報から得られたものに拠る内容になりますが、それでも多くの技術者の方などの記述を総合すると、ひとつの答えはぼんやり見えてくるような気がしました。

まず国産ピアノの黄金期はいつごろかと云うことですが、それぞれの考え方や見方によるところがあって、ひとくちにいつと断定することは出来ないものの、概ね1970年代からバブル崩壊の時期あたりまでと見る向きが多いような印象がありました。

バブルがはじけた後あたりから、世の中すべての価値が一変します。あらゆるものにコスト重視の厳しさが増して、とりわけ合理化とコストダウンの波というものが最重要課題となるようです。それに追い打ちをかけるように、21世紀になると世界の工場は中国をはじめとする労働賃金の安いアジアに移ってしまい、ピアノ業界もこの流れの直撃を受けたのは間違いありません。
さらには、少なくとも先進国では情報の氾濫によって人々の価値観が多様化するいっぽう、鍵盤楽器の世界では安価で便利な電子ピアノが飛躍的な進歩を遂げて市場を席巻するなど、従来の本物ピアノが生き残って行くには未曾有の厳しさを経験することになります。

ピアノを構成する素材に於いても、一部の超高級機などに例外はあっても、全体的には製造年が新しくなるほど粗悪になり、もはや機械乾燥どころではない次元にまで事は進んでいるようです。具体的には、集成材やプラスティックなどを多用するようになり、ピアノはより工業製品としての色合いを強くしていくようです。

逆に、バブル期までは様々な高級機が登場して、中には木工の美しさなど、ちょっと欲しくなるような手の込んだモデルもありますが、それ以降はメーカーのモデル構成も年を追う毎に余裕が無くなってくるのが見て取れます。

技術者の方々の意見にも二分されるところがあり、例えば1960年代に登場したヤマハアップライトの最高機種と謳われたU7シリーズあたりを最高とする向きがあるいっぽうで、技術者としてより現実的な観点から、よほどひどい廉価モデルでもない限り、製品として新しいモデルの安心を薦める方も少なくありません。

マロニエ君の印象としては、後者はピアノの音を職業的な耳で聞き、機械部分の傷みや消耗品の問題などを考えると、新しい楽器の持つ確かさ、手のかからなさなどを重視して、道具としてコスト的にも機械的にも新しいピアノが好ましいと考えておられるようです。
いっぽうで、前者の主張には、以前の良質の素材が使われた楽器には、素材だけでなく作り手の志も感じられ、楽器としてもそれなりの価値があり、ひいては所有する喜びもあるというものです。その点で、新しいピアノにはプロの目から見ても落胆とため息ばかりが出るということのようです。

概して、前者のほうは人間的に詩情があり多少の音楽的造詣もある方で、後者はより現実的で、専ら技術とコストの関係を正確に割り出すことに長けた人だと思います。両者共に一理ある考えで、いずれのタイプであっても優秀な技術者の方であることに変わりはないと思いますが、要するに基本となる思想が違うんですね。

マロニエ君はいうまでもなく前者の方々の意見に賛同してしまいます。
なぜなら、やはり少し古いピアノの音のほうが、国産ピアノであっても明らかに「楽器の音」がするし、それはつまり音楽になったとき人の耳に心地よいばかりか、音としての芸術が奥深くまで染み込む力をいくらかはもっていると思うからです。

その点、新しいピアノはそれなりのものでも基本は廉価品の音で、それを現代のハイテク技術を駆使してできるだけもっともらしく華やかに聞こえるように、要はごまかしの努力がされているようにしか感じられません。
実は先日もあるお店で新品を見たのですが、一目見るなり、その安っぽさが伝わりました。アップライトでは最大クラスとされる高さ131cmのモデルも何台かありましたが、その佇まいにはきちんと作られたものだけがもつ重み(物理的な重量のことではなく)や風格が皆無で、傍らに置かれた高級電子ピアノと品質の違いを見出すことはついにできませんでした。

上部の蓋にも、なにひとつストッパーも引っかかりもなく、ただ上に抵抗なく開くだけだし、中低音の弦にもアグラフなども一切ありません。良い楽器を作ろうという作り手側の志は微塵も感じられず、そこに信頼あるメーカーの名が変に堂々と刻まれているぶん、なんだかとても虚しい気がしました。

それなら、いっそ良質の中国製の最高級クラスを買ったほうが、まだ潔い気もしますし、楽器としての実体もまだいくらかマシかもしれません。
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調律師ウォッチング

ピアノリサイタルに出かけるときの楽しみは、云うまでもなく素晴らしい演奏をじかに聴くことであり、その音楽に触れることにありますが、脇役的な楽しみとしては、会場のピアノや音響などを味わうという側面もあります。

そしてさらにお菓子のオマケみたいな楽しみとしては、ステージ上で仕事をする調律師さんの動向を観察することもないではありません。
もちろん、開場後の演奏開始までの時間と休憩時間、いずれも調律師がまったくあらわれないことも多いので、この楽しみは毎回というわけではありませんが、ときたま、開演ギリギリまで調律をやっている場合があり、これをつぶさに観察していると、だいたいその日の調律師の様子から、その後どういう行動を取るかがわかってきます。

開場後、お客さんが入ってきても尚、ステージ上のピアノに向かって「いかにも」という趣で調律などをしている人は、ほぼ間違いなく休憩時間にも待ってましたとばかりに再びあらわれて、たかだか15分やそこらの間にも、さも念入りな感じに微調整みたいなことをやるようです。

ある日のコンサート(ずいぶん前なのでそろそろ時効でしょう)でもこの光景を目にすることになり、この方は以前も見かけた記憶がありました。
開演30分も前から薄暗いステージで、ポーンポーンと音を出しては調律をしていますが、開演時間は迫るのに、一向に終わる気配がないと思いきや、もう残り1分か2分という段階になったとき、あらら…ものの見事に作業が終わり、テキパキと鍵盤蓋を取りつけて、道具類をひとまとめに持って袖に消えて行きます。…と、ほどなく開演ブザーが鳴るという、あまりのタイミングのよさには却って違和感を覚えます。

前半の演奏が終わり、ステージの照明が少し落とされて休憩に入ると、ピアノめがけてサッとこの人が再登場してきて、すぐに次高音あたりの調律がはじまりますが、こうなるとまるでピアニストと入れ替わりで出てくる第二の出演者のような印象です。

面白いのはその様子ですが、何秒かに一度ぐらいの頻度でチラチラと客席に視線を走らせているのは、あまりにも自意識過剰というべきで、つい下を向いて小さく笑ってしまいます。
あまりにもチラチラ視線がしばしばなので、果たして仕事に集中しているのか、実は客席の様子のほうに関心があるのか判然としません。

調律の専門的なことはわからないながらも、出ている音がそうまでして再調律を要する状態とも思えないし、その結果、どれほどの違いが出たとも思えません。
この休憩時もフルにその時間を使って「仕事」をし、15分の休憩時間中14分は何かしらピアノをいじっているようで、まあ見方によっては「とても仕事熱心な調律師さん」ということにもなるのでしょう。

コンサートの調律をするということは、調律師としては最も誇らしい姿で、それを一分一秒でも多くの人の目にさらして自分の存在を広く印象づけたいという思惑があるのかもしれませんが、何事にも程度というものがあって、あまりやりすぎると却って滑稽に映ってしまいます。

もちろんそういう俗な自己顕示には無関心な方もおられて、マロニエ君の知るコンサートチューナーでも、よほどの必要がある場合は別として、基本的にはお客さんの入った空間では調律をしないという方針をとられる方も何人もいらっしゃいます。

だいいちギリギリまで調律をするというのは、いかにもその調律は心もとないもののようにマロニエ君などには思えます。ビシッとやるだけのことはやった仕事師は、あとはいさぎよく現場を離れて、主役であるピアニストに下駄を預けるというほうが、よほど粋ってもんだと思います。

どんな世界でもそうでしょうが「出たがり」という人は必ずいるようで、これはひとえに性格的な問題のようですね。
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松田理奈

NHKのクラシック倶楽部で、岡山県新見市公開派遣~松田理奈バイオリン・リサイタル~というのをやっていました。
なんだかよく意味のわからないようなタイトルですが、岡山県の北西部にある新見市という山間の田舎町でおこなわれたコンサートの様子が放送されました。

演奏の前に町の様子が映像で流されましたが、山を背景に瓦屋根の民家ばかりがひっそりと建ち並ぶ風景の村といったほうがいいようなところで、ビルらしき物などひとつもないような、静かそうで美しいところでしたが、そんなところにも立派な文化施設があり、ステージにはスタインウェイのコンサートグランドがあるのはいかにも日本という感じです。こういう光景にきっと外国人はびっくりするのでしょうね。

松田理奈さんは横浜市出身のヴァイオリニストとのことで、マロニエ君は先日のカヴァコスに引き続き、初めて聴くヴァイオリニストでした。
よくあるポチャッとした感じの女性で、とくにどうということもなく聴き始めましたが、最初のルクレールのソナタが鳴り出したとたん、その瑞々しく流れるようなヴァイオリンの音にいきなり引き込まれました。

良く書くことですが、いかにも感動のない、テストでそつなく良い点の取れるようなキズのない優等生型ではなく、自分の感性が機能して、思い切りのよい、鮮度の高い演奏をする人でした。
なによりも好ましいのは、そこでやっている演奏は、最終的に人から教えられたものではなく、あくまでも自分の感じたままがストレートに表現されていて、そこにある命の躍動を感じ取り、作品と共に呼吸をすることで生きた音楽になっていることでした。

わずかなミスを恐れることで、音楽が矮小化され、何の喜びも魅力もないのに偏差値だけ高いことを見せつけようとやたら難易度の高い作品がただ弾けるだけという構図には飽き飽きしていますが、この松田理奈さんは、その点でまったく逆を行く自分の感性と言葉を持った演奏家だと思いました。

音は太く、艶やかで、とくに全身でおそれることなく活き活きと演奏する姿は気持ちのよいもので、聴いている側も音楽に乗ることができて、聴く喜びが得られますし、本来音楽の存在意義とはそのような喜びがなくしてなんのためのものかと思います。

全般的に好ましい演奏でしたが、とくに冒頭のルクレールや、ストラヴィンスキーのイタリア組曲などは出色の出来だったと思います。

後半はカッチーニのアヴェマリア、コルンゴルトやクライスラーの小品と続きましたが、非常に安定感がある演奏でありながら、今ここで演奏しているという人間味があって、次はどうなるかという期待感を聴く側に抱かせるのはなかなか日本人にはいないタイプの素晴らしい演奏家だと思いました。
惜しいのはフレーズの歌い回しや引き継ぎに、ややくどいところが散見され、このあたりがもう少しスマートに流れると演奏はもっと質の高いものになるように感じました。

アリス・紗良・オットもそうでしたが、この松田理奈さんもロングドレスの下から覗く両足は裸足で、やはり器楽奏者はできるだけ自然に近いかたちのほうが思い切って開放的に演奏できるのだろうと思います。

このコンサートで唯一残念だったのはピアニストで、はじめから名前も覚えていませんが、ショボショボした痩せたタッチの演奏で、ヴァイオリンがどんなに盛り上がり熱を帯びても、ピアノパートがそれに呼応するということは皆無で、ただ義務的に黒子のように伴奏しているだけでした。

そんな調子でしたが、ピアノ自体はそう古くはないようですが、厚みのある響きを持ったなかなか良い楽器だと思いました。
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