松田理奈

NHKのクラシック倶楽部で、岡山県新見市公開派遣~松田理奈バイオリン・リサイタル~というのをやっていました。
なんだかよく意味のわからないようなタイトルですが、岡山県の北西部にある新見市という山間の田舎町でおこなわれたコンサートの様子が放送されました。

演奏の前に町の様子が映像で流されましたが、山を背景に瓦屋根の民家ばかりがひっそりと建ち並ぶ風景の村といったほうがいいようなところで、ビルらしき物などひとつもないような、静かそうで美しいところでしたが、そんなところにも立派な文化施設があり、ステージにはスタインウェイのコンサートグランドがあるのはいかにも日本という感じです。こういう光景にきっと外国人はびっくりするのでしょうね。

松田理奈さんは横浜市出身のヴァイオリニストとのことで、マロニエ君は先日のカヴァコスに引き続き、初めて聴くヴァイオリニストでした。
よくあるポチャッとした感じの女性で、とくにどうということもなく聴き始めましたが、最初のルクレールのソナタが鳴り出したとたん、その瑞々しく流れるようなヴァイオリンの音にいきなり引き込まれました。

良く書くことですが、いかにも感動のない、テストでそつなく良い点の取れるようなキズのない優等生型ではなく、自分の感性が機能して、思い切りのよい、鮮度の高い演奏をする人でした。
なによりも好ましいのは、そこでやっている演奏は、最終的に人から教えられたものではなく、あくまでも自分の感じたままがストレートに表現されていて、そこにある命の躍動を感じ取り、作品と共に呼吸をすることで生きた音楽になっていることでした。

わずかなミスを恐れることで、音楽が矮小化され、何の喜びも魅力もないのに偏差値だけ高いことを見せつけようとやたら難易度の高い作品がただ弾けるだけという構図には飽き飽きしていますが、この松田理奈さんは、その点でまったく逆を行く自分の感性と言葉を持った演奏家だと思いました。

音は太く、艶やかで、とくに全身でおそれることなく活き活きと演奏する姿は気持ちのよいもので、聴いている側も音楽に乗ることができて、聴く喜びが得られますし、本来音楽の存在意義とはそのような喜びがなくしてなんのためのものかと思います。

全般的に好ましい演奏でしたが、とくに冒頭のルクレールや、ストラヴィンスキーのイタリア組曲などは出色の出来だったと思います。

後半はカッチーニのアヴェマリア、コルンゴルトやクライスラーの小品と続きましたが、非常に安定感がある演奏でありながら、今ここで演奏しているという人間味があって、次はどうなるかという期待感を聴く側に抱かせるのはなかなか日本人にはいないタイプの素晴らしい演奏家だと思いました。
惜しいのはフレーズの歌い回しや引き継ぎに、ややくどいところが散見され、このあたりがもう少しスマートに流れると演奏はもっと質の高いものになるように感じました。

アリス・紗良・オットもそうでしたが、この松田理奈さんもロングドレスの下から覗く両足は裸足で、やはり器楽奏者はできるだけ自然に近いかたちのほうが思い切って開放的に演奏できるのだろうと思います。

このコンサートで唯一残念だったのはピアニストで、はじめから名前も覚えていませんが、ショボショボした痩せたタッチの演奏で、ヴァイオリンがどんなに盛り上がり熱を帯びても、ピアノパートがそれに呼応するということは皆無で、ただ義務的に黒子のように伴奏しているだけでした。

そんな調子でしたが、ピアノ自体はそう古くはないようですが、厚みのある響きを持ったなかなか良い楽器だと思いました。
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NHKの変化

金曜日のBSプレミアムで、旅のチカラ「“私のピアノ”が生まれた町へ ~矢野顕子ドイツ・ハンブルク~」という番組が放送されました。

ニューヨーク在住のミュージシャン、矢野顕子さんがニューヨーク郊外の「パンプキン」という名の自分のスタジオに、プロピアノ(ニューヨークにあるピアノの貸出業/販売の有名店)で中古でみつけたハンブルク・スタインウェイのBをお持ちのことは、以前から雑誌などで知っていました。

番組は、そのお気に入りのピアノのルーツを探るべく、ドイツ・ハンブルクへ赴いてスタインウェイの工場を尋ねるというものでした。ただ、なんとなく奇異に映ったのは、ニューヨークといえばスタインウェイが19世紀に起業し、有名な本社のある街であるにもかかわらず、そういう本拠地という背景を飛び越えて、敢えてドイツのスタインウェイに取材を敢行するというもので、ここがまず驚きでした。

また、あのお堅いNHKとしては、はっきりと「スタインウェイ」というメーカー名を言葉にも文字にもしましたし、番組中での矢野さんもその名前を特別な意味をもって何度も口にしていました。
このようなことは以前のNHKなら絶対に考えられないことで、ニュースおよび特別の事情のない限り特定の民間企業の名前を出すなどあり得ませんでした。とりわけマロニエ君が子供のころなどは、そのへんの厳しさはほとんど異常とも思えるものだった記憶があります。

例えばスタジオで収録される「ピアノのおけいこ」などはもちろん、ホールで開かれるコンサートの様子でも、ピアノは大抵スタインウェイでしたが、そのメーカー名は決して映しませんでした。とはいっても、ピアノはお稽古であれコンサートであれ、演奏者の手元を映さないというわけにはいきませんから、その対策として、黒い紙を貼ったり、スタジオやNHKホールのピアノにはSTEINWAY&SONSの文字を消して、その代わりに、変なレース模様のようなものを入れて美しく塗装までされていたのですから、その徹底ぶりは呆れるばかりでした。

さすがに最近ではそこまですることはなくなって、はるかに柔軟にはなったと思っていましたが、こういう番組が作られるようになるとは時代は変わったもんだと痛感させられました。

同じ会社でもハンブルクの工場は、ニューヨークのそれとは雰囲気がずいぶん違います。やはりドイツというべきか、明るく整然としていて清潔感も漂いますが、この点、ニューヨークはもっと労働者の作業場というカオスとワイルドさがありました。

番組後半では、創業者のヘンリー・スタインウェイの生まれ故郷にまで足を伸ばし、彼の家が厳寒の森の中で仕事をする炭焼き職人だったということで、幼い頃から木というものに囲まれ、それを知悉して育ったという生い立ちが紹介されました。
ヘンリーがピアノを作った頃にはこの森にも樹齢200年のスプルースがたくさんあったそうですが、今では貴重な存在となっているようです。

またハンブルクのスタインウェイでも21世紀に入ってからは、ドイツの法律で楽器製作のための森林伐採が規制されたためにニューヨークと同じアラスカスプルースに切り替えられたという話は聞いていましたが、ハンブルクのファクトリーでも「響板はピアノの魂」などといいながらも、アラスカスプルースであることを認める発言をしていました。

昔に較べていろいろ云われますが、スタインウェイの工場はそれでもいまだに手作り工程の多い工房に近いものがあり、その点、いつぞや見た日本や中国のピアノ工場は、まさに「工場そのもの」であり、楽器製作と云うよりも工業の現場であったことが思い出されます。

番組中頃で矢野さんがある演奏家の家を尋ねるシーンがありましたが、ドアを入ると家人が第二次大戦中に作られたという傷だらけのスタインウェイでシューベルトのソナタD.894の第一楽章を弾いていて、それに合わせて矢野さんがメロディーを歌うシーンがありましたが、そのなんとも言い難い美しさが最も印象に残っています。
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レオニダス・カヴァコス

少し前の放送だったようですが、録画していたNHK音楽祭2012から、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団の公演をようやく観てみました。

プログラムはメシアン:キリストの昇天、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス)、プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調。

中でも、初めて観るヴァイオリン独奏のレオニダス・カヴァコスは、こういってはなんですが、見るからに陰鬱な印象で、長身痩躯で黒のチャイナ服のみたいなものを着ており、むさ苦しい髭面に長い黒髪、黒縁のメガネといった、なんとも風変わりな様子で、ステージに現れたときはまったく期待感らしきものがおこらない人だと感じました。

ところが静かな冒頭から、ヴァイオリンの入りを聴いてしばらくすると、んん…これは!と思いました。
あきらかにこちらへ伝わってくる何かがあるのです。
今どきのありきたりな演奏者からはなかなか聴かれない、深いもの、奥行きのようなものがありました。

とりわけ耳を奪われたのは、肉感のある美しい音が間断なく流れだし、しかも聴く者の気持ちの中へと自然な力をもって染み入ってくるもので、まったく機械的でない、いかにも生身の人間によって紡がれるといった演奏は、密度ある音楽の息吹に満ちていました。
演奏姿勢は直立不動でほとんど変化らしいものがなく、いわゆる激しさとか生命の燃焼といった印象は受けませんが、それでいて彼の演奏は一瞬も聴く者の耳を離れることがなく、ゆるぎないテクニックに裏打ちされた、きわめて集中力の高いリリックなものであったのは思いがけないことでした。

カヴァコスという奏者がきわめて質の高い音楽を内包して、作品の演奏に誠実に挑んでいることを理解するのに大した時間はかかりませんでした。

実を云うと、マロニエ君はシベリウスのヴァイオリンコンチェルトは巷での評価のわりには、それこそ何十回聴いても、いまひとつピンと来るモノがなく、いまいち好きになれなかった曲のひとつでしたが、今回のカヴァコスの演奏によって、多少大げさに云うならば、はじめてこの曲の価値と魅力がわかったような気がしました。こういう体験はなによりも自分自身が嬉しいものです。

しかし、この作品は、少なくとも1、2楽章はコンチェルトと云うよりは、連綿たるソロヴァイオリンの独白をオーケストラ伴奏つきでやっているようなものだと改めて思いました。
もちろんこういう作品の在り方もユニークでおもしろいと思いますし、なんとなくスタイルとしてはサンサーンスの2番のピアノコンチェルトなんかを思い起こしてしまいました。

カヴァコスのみならず、ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団もマロニエ君の好きなタイプのオーケストラでした。というか、もともとマロニエ君はロシアのオーケストラは以前から嫌いではないのです。

小さな事に拘泥せず、厚みのある音で聴く者の心を大きく揺さぶるロシア的な演奏は、いかにも音楽を聴く喜びに身を委ねることができ、大船に乗って大海を進むような心地よさがあります。
そのぶんアンサンブルはそこそこで、ときどきあちこちずれたりすることもありますが、それもご愛敬で、音楽を奏する上で最も大切なものは何かという本質をしっかり見据えているところが共感できるのです。

驚いたことには、マリインスキー管弦楽団の分厚い響きはあのむやみに広いNHKホールでも十分にその魅力と迫力を発揮することができていたことで、これにくらべるとここをホームグラウンドとする最近のN響などは、とにかく音も音楽も痩せていて、ただただ緻密なアンサンブルのようなことにばかり終始しているように思われました。

ソロの演奏家も同様で、力のない細い音を出して、無意味にディテールにばかりにこだわって一貫性を犠牲にしてでも、評論家受けのする狭義での正しい演奏をするのが流行なのかと思います。
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猫足

このところ、ちょっとしたきっかけがあって中古のアップライトピアノのことをネットであれこれ調べていると、やはりここにもいろいろな事実があるらしいことが少しずつ分かってきたように感じます。

当然ながら主流はヤマハとカワイで、比較的新しいピアノが中古市場に出回っているようですが、ひとつハッキリと発見したことは、少なくとも黒が限りなく当たり前のグランドに較べると、色物というか、いわゆる木目調ピアノの占める割合がアップライトのほうが遙かに高いようです。

サイズはいろいろありますが、アップライトの場合は床の専有面積はどれもほとんど変わりませんから、もっぱら背の高さの違いということになり、マロニエ君だったら当然響板も広く弦も長い最大サイズの131cmを選ぶでしょうが、なぜか小さいものが人気だったりと不思議な世界です。逆に言うと、アップライトで敢えて小さいサイズを購入される方というのは、どういう基準でそうなるのか知りたいところです。

そんな折、遠方からピアノのお好きな来客があったので、ある工房に遊びに行きましたが、そこのご主人の話はマロニエ君にとってはまったく思いもよらない意外なものでした。

とりあえずアップライトに限っての話ですが、いわゆる「猫足」という例のカーブのついた前足を持つピアノが断然人気があり、そのぶん値段も高くなるのだそうで、これにはもうただビックリ。
マロニエ君はあくまで個人的な好みとしてですが、あのアップライトの猫足というのはまったくなんとも思わないといいますか、まあもっとハッキリ言ってしまうとむしろ好きではないですし、そうでないストレートな足のほうが凛々しくスマートで好ましいと感じます。

とりわけ昔ヤマハにあったW102という、アメリカン・ウォルナット/ローズウッドの艶消し仕上げのモデルなどは、数少ないマロニエ君の好みのアップライトなんですが、ここのご主人にいわせると、このあたりも猫足でないために値段は少々安めとのことで、その価値観には驚愕するしかありませんでした。

唐突ですが、マロニエ君はマグロのトロなんかが大の苦手で、大トロなど見るのもイヤ、あんなギラギラした脂のかたまりみたいな身なんかだれが食べるものかというクチで、食べるのは赤身かせいぜい程良い中トロまでですが、世の中の好みと、それに沿った価格差はまるで合点がいかないことを思い出してしまいました。

猫足に話を戻しますが、あまり驚いたので人気の理由を聞くと、ひとこと「決めるのはたいてい奥さんだから」なんだそうです。…。
ということは、あの猫足は、よほど女性のお好みということなのかもしれませんが、女性にとって猫足のどこがそんなにいいのかマロニエ君はまったくわかりません。

それに対して、グランドの猫足は別物という気がします。
グランドの場合は、バレリーナのように、三本の足がそのままデザインの大きな要素を担っており、あの特徴的なボディのカーブとも相俟って、いわばピアノ全体の佇まいを決定します。猫足ピアノの多くは、それに合わせてそれ以外の部分も細やかな手が入れられ、ときに細工や彫り物まであって、たしかに独特の優雅さを醸し出しているので、これを好むのはわかります。

しかし、アップライトの場合、基本はほとんどデザインとも言えないような鈍重で無骨な四角い箱であり、そこへ鍵盤がせり出しているだけ。その鍵盤の両脇から下に伸びる小さな足だけがちょっと猫足になったからといって、それがなに?と思いますが、まあそれでも価値がある人にとってはあるのでしょうね。
しかも、それだけで中古価格まで違うのだそうで、ときに格下のピアノが猫足という理由だけでワンランク上のピアノの価格を飛び越すこともあるというのはまったく呆れる他はなく、それが世に言うお客様のニーズというものかとも思いました。

ニーズがあれば相場も上がるというのは世の常なのでしょうが、しかし…いやしくもピアノであり楽器であるわけですから、色やデザインも大事なのはもちろんわかりますが、やはり第一には音や楽器としての潜在力を優先して選びたいものです。
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すぐれもの

日曜大工の大型店をうろうろしていると、思いがけないものが目に止まりました。

各種の磨き剤が集められた売り場では、普通の店には置いていないような各目的に応じたさまざまな専用品がズラリと並んでいますが、そんな中に『ピアノ 家具 木製品 手入れ剤』というのがあり、とくにピアノというひときわ文字がドカンと大きく描かれていて「ん?」と思わず手にとって見てみました。

「美しい艶を与え、汚れやキズから守る!」とあり、ピアノ専用品というわけではないらしく、用途は光沢塗装をした木製家具には広く使えるようなことが書いてあり、メーカーを見るとソフト99とありました。

ソフト99は各種のケミカルクリーニング剤を出している会社で、車のワックスやコーティング剤に興味を持った人なら、その名を知らない人はまずいないほどの名の通ったメーカーです。

歯磨きより少し小さいぐらいのチューブ入りで、価格も500円ぐらいだったので、これはおもしろそうだと思いましたし、なによりこんな偶然はただならぬことのようで、マロニエ君としては買わずに素通りするというような無粋な振る舞いはできないという、半ば義務感のようなものまで感じながら購入したのはいうまでもありません。

裏面の使用法を見ても、グランドピアノの鍵盤蓋のところを布で拭いているところを写した写真があったりと、やはりピアノ専用ではないにしても、メインはピアノ用のようで、その他の類似製品にも応用できるというもののようです。

柔らかい布でうすく塗りのばすと汚れが取れて艶が出るとあり、塗布後2〜3分後、よくからぶきして仕上げるように指示されています。さっそく指示通りに柔らかい布で塗りのばし、2〜3分後に拭き上げるとちょっとムラが出て仕上がりが思わしくありません。そこで、塗りのばして間を置かず、すぐに別の布(メリヤスシャツ)で拭き上げると、今度はものの見事にきれいになりました。

このように書かれた使用方法と実体の違いはよくあることで、マロニエ君は長年洗車に凝っていたのでこの手の応用は利くのですが、説明書にあるからといって「2〜3分後」にこだわっているときれいな仕上がりは望めないでしょう。

さて、仕上がりですが自然でやわらかな艶が出て、かなり好ましいものだと思いました。
だいたいこの手のつや出しは、艶がわざとらしくて下品になったり、塗りムラが出て施行が難しい場合も珍しくないのですが、この製品はその点ではなかなか上品な仕上がりで好感が持てました。
ちなみに製品名は「FURNITURE POLISH」ですが、ほとんど目立たないようにしか書かれていません。

主な成分はシリコンとワックスというごくオーソドックスなものですが、その配分がいいのか仕上がりはなかなかきれいです。マロニエ君は最近こそ使ったことはありませんが、昔はピアノメーカーが出しているピアノシリコンみたいなクリーニング剤を使っていましたけれども、これがもう、なかなか思ったようにならず、脂っぽいしへんなムラが出たりと却って嫌な気分になることが多かったために、その後はすっかり使わなくなり、車用のケミカル品を流用したりしていました。

マロニエ君の場合、この手の製品でポイントとなるのは、仕上がりの清楚な美しさと作業性の良さです。これですっかり印象を良くしたものだから、ヤマハなどのお手入れ剤も俄に試してみたくなりました。
が、いったんこの手のものを試し出すと、結局あるものすべてみたいな感じになる危険もあり、自分の性格が恐いので、よくよく考えた上でやってみるべきですね。
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許光俊氏の著書

許光俊氏の著書『世界最高のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、あちこちにこの方なりのおもしろい考察があり、たちまち読み終えてしまいました。

各章ごとに、世界で現在トップクラスで活躍するピアニストたちが取り上げられているのですが、最後の2章は「中国のピアニスト」と「それ以外の名ピアニストたち」という括りになっています。

当然ながらこの方なりの感じ方や趣味があり、マロニエ君も全面賛成というわけではなかったものの、許氏の書いておられることは概ね納得のいくものでした。

中でもラン・ランの評価などは大いに膝を打つものばかりでした。

ラン・ランの場合に限らず確かなことは、真の意味で優れたピアニスト・音楽家であるということは、入場券の料金や満席具合とはまったく一致しないということ、さらにはこの点(チケットの売れるピアニスト)と芸術家としての実力との乖離は年々悪化傾向にあるとさえマロニエ君は思います。
興行主からみればコンサートはビジネスなので、チケットの捌けるタレントであることは最良で、だからラン・ランなどは世界中どこでも満席にできるタレントは、チケット売りで苦労の絶えない音楽事務所からすれば神様のような存在なんでしょうね。

日本人にもその手の、本来のピアニスト・芸術家としての力量とはちょっと違ったところで話題を掴んだ人が人々の関心を呼び、チケットはいつも法外なほど完売になるというような現象をこのところ目撃させられています。

また、チケット問題でなく、人気のユンディ・リもレイフ・オヴェ・アンスネスもきわめて低評価でまったく同感。

おかしくて思わず声を上げそうになったのはアルフレート・ブレンデルについてでした。
マロニエ君はこの人が功なり名遂げて、最高級の称賛を浴びるようになったときから一定の疑問を抱き、この人の弾き方のある部分のクセなどは嫌悪感すら感じていたひとりだったので、この稿はとくに快哉を叫びたいほどでした。
一部引用。
『この人には、美的感覚が決定的に欠けていると思う。ダサいリズム、スムーズでない抑揚、汚い響き、とにかく悲しくなるほど感覚的に恵まれていない人だと思う。〜略〜 知的ではあるが肝心な音楽的才能がなかったのが彼の決定的な弱点だった。また、それに気づかぬ人が多いのが、クラシック界の不幸だった。』

この部分を目にしただけでも、この本を買った価値があったと思いました。

しかし、問題はブレンデルどころではない、少なくともマロニエ君などにはおよそ理解不能なピアニストが世界的にもぞくぞくと出てくる最近の傾向には戸惑いを禁じ得ません。
例えばカティア・ブニアティシヴィリも最近出てきた人ですが、美人で指はよくまわる人のようですが、どう聴いていてなにも感じられない。本当にそこになにもないという印象。
パッと見はいかにも情熱的な音楽をやっているような雰囲気だけは出していますが、音は弱く、いかにも疲れないよう省エネ運転で弾いているだけという印象。主張も言葉もなければメリハリもない、マロニエ君に云わせればまるで音楽的だとは思われないのですが、昨年も来日してクレーメルらとチャイコフスキーの偉大なトリオをやっていましたが、あんな名曲をもってしてもまったく退屈の極みで、耐えられずにとうとう途中でやめました。

以前もラフマニノフの3番など、やたら大曲難曲を弾くだけはスルスルと弾くようですが、本当にそれだけ。なんだかピアノの世界もだんだんスポーツ化してきているんじゃないかと感じますね。
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続・重めのタッチ

自宅のピアノのタッチが適度に重いというのは、とりわけピアニストには有効なのではないかとあらためて感じているところです。
ピアニストのピアノはアマチュアの愛好品とは違いますし、大抵は複数のピアノを所有していらっしゃる方が多いと思われますので、一台は専ら練習機としての位置付けであることも有効ではないかと思います。

そして練習用ピアノは日頃からやや重めにしておくほうが、現代のやたら弾きやすい軽めのピアノばかり弾いて、それが知らず知らずのうちに基準になってしまうのは何かと危険も増すような気がします。本番となれば楽器もかわり、柔軟な対応も迫られるわけですが、これが最終的には指の逞しさにもかなり依存する要素のようにも思うのです。

その点、少し重い鍵盤に慣れた指は、軽い鍵盤のピアノに接しても比較的楽に対応できますし、その余力でいろんなコントロールができるなど、結果的にある種の自信になったり、思いがけない表現やアイデアを試してみることさえできますが、逆の場合は大変です。
軽いタッチに甘やかされた指はいざというときなかなかいうことを聞かず、滞りなく弾き通すだけでも大変でしょうし、出てくる音は芯のない変化に乏しいものにしかなりません。

聞いた話ですが、ピアニストの中にはやたらと繊細ぶって、ほんの少しでも重めのタッチのピアノを弾くと「こんなピアノでは、ぼくは、手を壊してしまいそうだ…」などと大仰に云われる方もおられて楽器店の人を慌てさせたりするんだそうですが、いやしくもプロのピアニストで、その程度のことで手を壊すなんて、一体なにが云いたいのかと思います。
グレン・グールドが云うのならわかりますけど。

ピアニストという職業は、一般にどれぐらい認識されているかどうかはわかりませんが、端から見るより極めて苛酷な、心身をすり減らす重労働であり、これに要するストレスは並大抵ではないと思います。
基本的な体力や精神の問題、繊細かつタフな指先の運動能力、暗譜や解釈はもちろん、最終的にどういう表現をしてお客さんに聴いてもらうかという最も大切な課題など、書き始めたらキリがない。

少なくとも人間の能力の極限部分をほとんど削るようにしておこなうパフォーマンスであることは間違いないと思われます。そんな極限の場において、最終的に頼れるものは才能と練習しかないわけでしょう。

そういうときに、会場のピアノが弾きにくいなどの問題があるとしたら大問題ですが、ピアニストの辛いところはここで文句がいえないばかりか、お客さんにはいっさいの弁解無しに結果だけをキッパリ聴かせなくてはなりません。
そんなとき、ただ楽な軽いタッチのピアノでばかり練習していた指が頼りになるかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

また、こういうことを言うとすぐに誤解をする人が出てきます。
日頃から重いピアノでばかり弾いていれと、筋力的には逞しくなっても、繊細な表現ができなくなるとか、叩くクセがつくというものですが、それはとんでもない間違いだと思います。音楽に限りませんが、チマチマした小さいことばかりすることがデリケートなのではなく、必要とあらばどうにでも対応できる本物の力量と幅広さを持つことでこそ、真に自在な、活き活きとした、時に人の心を鷲づかみにするような演奏ができるのだと思います。

リヒテルやアルゲリッチは基本的に美音で聴かせるタイプのピアニストではありませんが、彼らがしばしば聴かせる弱音の妙技は人間業を超えたものがあり、それはあの強靱この上ない指の中から作り出されているものだと云うことは忘れるべきではないでしょう。

マロニエ君のような下手クソの経験では説得力もありませんが、タッチを重くしたピアノを半年弾いた後のほうが、自分なりによりレンジの広い雄弁な演奏をするようになったと(自分だけは)思いますし、繊細さの領域に限ってももっと気持ちを注ぐようになりました。
これは間違いありません。
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ヤマハの衝撃

日曜はヤマハの営業の方からのお招きで、新しいグランドのレギュラーシリーズであるCXシリーズのサロンコンサートがあるというので、これに行ってきました。
お馴染みのヤマハビルの地下のeサロンのステージ上には、いつものCFIIIにかわって、新型のC7Xが置かれていました。

ニューモデルの解説などがあるのかと思いきや、そういうものはなく、女性の方の簡単なご挨拶の後、宮本いずみさんという女性ピアニストが登場され、モーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシー、ショパンの名曲を弾かれました。

なんでも、この方はこちらの地元の方ではないようで、通常の演奏のほかに浜松で開発中のピアノの試奏も仕事としてやっておられる由で、演奏の合間にときおり挟み込まれる短いトークの中で、「このピアノには私の声も入っています」というようなことを言われていました。

このピアノの楽器としての感想/とりわけピアニストの演奏に関しては、マロニエ君はよく理解できないものでありましたので、今回は敢えてコメントは控えます。
ただ、コンサートのあとでピアノの中を少し覗いてみると、フレームをはじめ、内部の作りの巧緻な美しさにはいよいよ磨きがかかっていることは間違いなく、いかにも「日本の工業製品の作りの美しさ」という点では見るに値する出来映えだと思います。
良くも悪くも、昔の手作りピアノとは異次元の、高精度の極みのような作りは目にも眩しいばかりで、日本の技術力を見せつけられているようでした。


それよりも、終演後、営業の方から耳にした話は驚天動地な内容でした。
一階のショールームに立ち寄ってカタログなどをいただいていたときのこと、その営業の方は「ここも3月いっぱいです…」といわれ、マロニエ君は咄嗟にその意味が呑み込めませんでした。
ここはヤマハのビルで、博多駅前の一等地にあり、福岡のみならず西日本地区のヤマハピアノの一大拠点として長年親しまれた場所です。

問い返しなどをしながら、このショールームが3月いっぱいで終わりを迎えるということはひとまずわかったものの、てっきりどこかへ移転でもするのだろうかと思っていたら、そうではなく、ビル自体が売却され、代替のショールームを作る計画もないとのこと。
そのぶん教室などを、より充実させるなどの方策はとられるとのことですが、この駅前のヤマハのプライドともいうべき美しいショールームは、消えて無くなるということがようやくにしてわかり、大きなショックを受けました。

このショールームはとりわけグランドはいつ何時でも、ほぼカタログにあるフルラインナップに近いピアノがズラリと並び、九州におけるヤマハの大看板的スペースでした。
さらに地下にはこの日もおこなわれたように、コンサートや各種講演会など、音楽に関する使い勝手のよいイベント会場としても稀少かつありがたい存在でしたから、福岡およびその近郊の人達は、一気にこれらの場所までも失ってしまうことになるわけです。

今後は天神にあるヤマハが、ピアノでも中心的なショップになるようですが、なんとも残念としか言葉が見つかりません。
先の選挙では、自民党が大勝し、アベノミクスなどという言葉も飛び交うようになり、せっかくこれから好景気の兆しも見えてきたというのに、このヤマハの決断はあまりにも辛すぎるものです。
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重めのタッチで半年

先日は、今年始めて調律師さんがタッチの件で来宅されました。
といっても、あまり具体的なことはブログには書かないようにと釘を差されていますから、こまかいことは控えます。

この調律師さん、マロニエ君の部屋の『実験室』にも書いたように、我が家のカワイのグランドを実験室ととらえて、マロニエ君の出す無理難題をなんとか克服すべく、まったく画期的な方法を考え出してくださるありがたい方です。

繰り返しになりますが、ハンマーヘッドのフェルトの下の木部前後に小さな鉛のおもりを両面テープで貼り付けるというもので、タッチが慢性的に軽すぎた我が家のカワイの場合は1鍵あたり約1gのおもり追加をしたわけです。
この部分の重さの増減は、鍵盤側ではなんと5倍に相当するわけで、ハンマー側で1g重くなれば、仮にキーのダウンウェイトが46gのピアノであれば51gへと一気に増加するというものです。

この結果、タッチが重くなったことは当然としても、副産物として音色までかなり変わり、好き嫌いはあるだろうと思いますが、音にエネルギー感が増して非常に迫力のあるものになりました。単純に言うと張りのあるガッツのある音になったわけで、長年ヤワな、か弱い音色だったピアノが、一気にベートーヴェンまでを表現できそうな迫力を備えることになったことは大いなる驚きでした。

いま流行のブリリアントでキラキラ系の音が好きな人には好まれないかもしれませんが、昔のドイツ系ピアノのような(といえば言い過ぎですが)、はるかにガッチリとした、良い意味での男性的な音が出てきます。

それはいいとしても、さすがに一夜にしてタッチが5g重くなるということは、なまりきっていたマロニエ君の指にとってはほとんどイジメに等しく、まさに鉄のゲタ状態であることは以前も書いた通りでした。
とくに初めの2〜3日はハッキリ失敗だったと思うほど、弾く気になれない(というか弾けない)ピアノになってしまっていましたが、この施行をしたピアノ技術者さんのすごいところは、そういう場合の対処の事も十分考慮しての方策であることです。

というのは、鉛は小さく、ハンマーヘッドのフェルトすぐ下の木部の前後に強力両面テープで貼っているだけなので、元に戻したいときには、これを剥がし取るだけで特殊技術も何もないのです。素人でもすぐにそれができるということで、つまりピアノを一切痛めないというところが最も画期的な点(なんだそうです)。

人間とは不思議なもので、「いつでもすぐに元に戻せる」ということがわかると妙に安心して、もう一日もう一日とその鉄のゲタ状態で我慢して弾いていたのですが、ひと月も過ぎた頃からでしたでしょうか、あまりそういった苦しさを感じなくなり、指への抵抗感はさらに減少を続け、その後はまったくこれが普通になってしまいました。
あまりに「普通」になったので、まさか両面テープが剥がれて鉛が下に落ちたのではないかと思うほどまで自分にとって自然なものになったのはまったく驚くべき事で、「人間ってすごいなあ」というわけです。

この日、約半年以上ぶりにアクションが引き出されると、果たして件の鉛はひとつとして脱落することなく、きれいに健気にくっついていました。
善意に捉えると、それだけマロニエ君のようなしょうもない指でも、毎日の積み重ねによって間違いなく鍛えられ逞しくなるというわけです。
逆に、ピアノのタッチは軽い方が弾きやすいなんて目先のことばかりいっていると、しまいにはそのピアノしか弾けなくなるのみならず、ショボショボした芯のない打鍵しかできなくなるのは間違いないと思われます。

電子ピアノだけで練習している人の演奏で感じることは、とても努力はしていらっしゃるとは思うのですが、やはり深みとか表現の幅がとても小さいということです。これはご本人が悪いのではなく、道具の性能がそこまでのものでしかないから当然のことで、本物のピアノに移行した人でも、なかなかこの染みついたクセは直りにくいようです。それを考えると、とくに白紙から体が覚える子供にはぜひとも本物を弾かせたいもので、「まだ子供だから電子ピアノでも…」という発想はまったくわかっちゃいないと思います。
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らららのピアノ特集

先日のNHK日曜夜の「らららクラシック」ではピアノ特集第2弾というのをやっていました。

番組では、現役のピアニストをいくつかのグループに分け、それぞれの特徴に合わせながら紹介していくという趣向でしたが、トップバッターは「圧倒的技巧グループ」というもので、演奏技術の極限に挑み続けるピアニストだそうで、ここで紹介されたのはロシアの格闘技選手みたいなピアニスト、デニス・マツーエフと、もうひとりはなんとピエール・ロラン・エマールということで、いきなりこの「なぜ?」な取り合わせに絶句してしました。

エマールはむろん大変な技巧の持ち主であることに異論はありませんが、かといって圧倒的技巧が看板のピアニストだなんてマロニエ君は一度も思ったことはありません。出だしからして番組に対する信頼を一気に失いました。

次は「知的洞察グループ」で、楽譜の研究を徹底的におこない、定番の作品にも新たな光りを当て観客にも発見の喜びをもたらすということで、ここではアンドラーシュ・シフひとりが紹介されていました。
この人選はなるほど間違いではなく、少し前ならブレンデルなどもこの範疇に入るピアニストであったことは間違いないでしょうね。むしろエマールはこちらに分類すべきだったとも思いますし、内田光子やピリスもそのタイプでしょう。

さらに次は「独走的独創グループ」で、伝統にとらわれず独自の音楽を作り上げ、観客に未知の世界を体験させるということでは、なんとラン・ランとファジル・サイが紹介されました。
サイには確かにこの括りは適切で大いに納得できますが、ラン・ランとは一体どういう判断なのかまったくわかりませんでした。彼の音楽に独自性なんてものがいささかなりともあるなどとは思えませんし、雑伎団的な目先の演奏で人を惹きつける点などは、せいぜい技巧グループで十分でしょう。また現存するこの分野の最高峰といえばマルタ・アルゲリッチの筈ですが、彼女の名前すら挙がらなかったのは到底納得できませんでした。ソロをなかなか弾かないというハンディはありますけれども。

次は「コンクールの覇者」ということで、ショパン・コンクールの優勝者であるユリアンナ・アヴデーエワとチャイコフスキーの覇者であるダニール・トリフォノフが紹介されました。
アヴデーエワの弾く、リスト編曲によるタンホイザー序曲は何度聴いても実に見事なものでしたが、トリフォノフには演奏家としてのなんら指針が見受けられず、このときの映像でのこうもり序曲は、ただの指の早回し競争みたいでテレビゲーム大会に興じる子供のようで、マロニエ君にはまったく感銘を受ける要因が皆無でした。

ちなみに、ファイジル・サイは数年前の来日時にNHKのスタジオで収録されたムソルグスキーの展覧会の絵の終曲が紹介されましたが、逞しい体格と、余裕にあふれたテクニック、すさまじいエネルギー、確信的な音楽へのアプローチなどは他を寄せ付けぬ圧倒的なモノがあり、この強烈さは、ふと在りし日のフリードリヒ・グルダを彷彿とさせるような何かを感じたのはマロニエ君だけでしょうか。
彼はNHKのスタジオにはたくさんあるはずのスタインウェイの中から、おそらくはディテールなどから察するに1970年代のDを弾いていましたが、現代のそれに較べると、明らかにイージーな楽器ではない厳しさと暗めの輝きがあり、こういう力量のあるピアニストはこういう楽器を好むのだろうという気がしました。

最後は昨年のポリーニの来日公演から、ベートーヴェンのop.110が全曲流れましたが、これについてはすでに何度も書いていますので割愛します。
また、メインゲストであった中村紘子さんのトークもあいかわらず健在で、番組冒頭で「これまでに何人ぐらいのピアニストを聴かれましたか?」という司会者の質問に「そうですね、数えたことがないんですが、1万までは行かないと思いますが…」すると司会者が「7、8000人は優に超える」「そうですね」という珍妙なやりとりがあり、なーんだ、ちゃんと数えてるじゃん!と思いました。

この日は、不思議なほど登場するピアニストに女性や日本人の名前が挙がらなかったのは、何かが影響したからだろうかと感じた人は多かったか少なかったか…どうでしょう。
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丘の上のバッハ

福岡市のやや南にある小さなホールで現在進行中のシリーズ、バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会第2回に行ってきました。

会場はもはやお馴染みの感がある日時計の丘ホールで、ここには1910年製の御歳103歳のブリュートナーが常備されていることは折に触れ述べてきた通り。バッハといえばライプチヒで、そのライプチヒで製造されるブリュートナーでバッハを奏するということには、明瞭かつ格別な意味があるようです。

演奏者はこのシリーズをたったお一人で果敢に挑戦しておられる管谷怜子さんで、この日は平均律第一巻の後半、すなわち第13番から第24番が披露されました。

いつもながら安定感のある達者な演奏で、癖がなくのびやかに音楽が展開していくところは、管谷さんの演奏に接するたびに感じるところです。いかにも朗々とした美しい書体のようなピアノで、それはこの方の生来の美点だろうと思われ、非常に素晴らしいピアニストだと思います。欲を出すなら、バッハにはさらに確信に満ちたリズムと音運びがより前面に出てきてほしいところで、ややふわりとした腰高な印象があったとも思いますが、もちろん全体はたいへん見事なものでした。

それにしても、バッハの平均律を通して弾くということがいかに大変なことかという事をまざまざと見せつけられたようでした。そもそもピアノのソロが息つく暇もない一人舞台というところへもってきて、バッハのみのプログラムというのはさらにその厳しさが狭いところへ、より押し詰められているような気がします。

通常CDなどでは平均律クラヴィーア曲集はほぼ例外なく第一巻、第二巻ともに各二枚組(合計四枚)の構成となっており、ちょうどCD一枚ずつに振り分けたコンサートとなっていますが、いかに耳慣れた曲でも、コンサートで通して弾くチャンスというのはそうざらにあるものではなく、実際よりも体感時間が長く感じられたようで、本当にお疲れ様でしたという気になりました。

マロニエ君は幸運にも最前列の席で聞くことができましたが、ここのブリュートナーは聴くたびにその音色には少しずつ変化があるようで、この日はいかにもブリュートナーらしい、ふくよかさの中に細いけれども艶というか芯が入った音で、ときにモダンピアノであり、ときにフォルテピアノにもなる変わり身のあるところが、バッハという偉大な作品を奏でられることで楽器も最良の面を見せているようでした。

コンサートは17時開演。演奏が始まったときにはピアノの上部にある大きな正方形に近い採光窓から見る空は淡い灰色をしていましたが、休憩後の第19番がはじまるころには美しいコバルトブルーになり、その後演奏が進むにつれて濃紺へと深さを増していくのはなんともいえない趣がありました。
最後のロ短調の長いフーガが弾かれているころには、ピアノの大屋根とほとんどかわらないまでの漆黒へと変化していったのは驚きに値する効果がありました。
この空の色の変化を音楽の進行と共に刻々と味わい楽しむことができたのは、まったく思いがけない自然の演出のようで、受ける感銘が増したのはいうまでもありません。

この日は演奏者の管谷さんはじめ、ホールのご夫妻、ヤマハの営業の方や知人、以前在籍していたピアノクラブのリーダーとも久しぶりに会うことができ、しばし雑談などをすることができました。

日時計の丘は、ここ数年で広く認知され、福岡の小規模な音楽サロンとしては随一の存在になっていると思われますが、素晴らしい絵画コレクションにかこまれた瀟洒な空間は趣味も良く、音響も望ましいもので、至極当然なのかもしれません。
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アリス・紗良・オット

昨年のNHK音楽祭の様子が放送されていますが、13日は巨匠ロリン・マゼールの登場でした。
プログラムはベートーヴェンのレオノーレ第3番とグリーグのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの第4交響曲というもので、ピアノは現在人気(らしい)アリス・紗良・オットでした。

マゼールはむかしマロニエ君の好きな指揮者の一人でしたが、さすがにずいぶんお年を召したようで、それに伴ってか、音楽にやや張りがなくなり(N響というこもあってか…)、テンポも全体的にゆったりしたものになっているようでした。

きっと開催者はじゅうぶんわかっているはずなのに、あえて音響の悪い巨大なNHKホールをこうしたイベントに使うのは、やはりそのキャパシティからくる収入面としか考えられませんが、あいかわらず音が散って散々でした。あそこは本来「紅白歌合戦専用ホール」というか、少なくともクラシックに使うのは本当に止めて欲しいものです。

アリス・紗良・オットはどちらかというとビジュアル系で売っているピアニストというイメージでしたが、トレードマークの長い黒髪をバッサリ半分ぐらいに切っており、なんとなく別人のようでした。
たしかに可愛いといえばそうなのかもしれませんが、いわゆるアーティストとしてのオーラのようなものは微塵もなく、とくに髪を切った姿はどちらかというとそのへんのおねえちゃんというか、せいぜい朝の連続ドラマの主人公ぐらいな印象しかマロニエ君にはありません。

それに、どうでもいいようなことですが、左右両方の指には無骨な指輪を1つずつ嵌めており、マロニエ君はピアニストでオシャレ目的のリングを付けるようなセンスはあまり好きではありません。
どうでもいいようなことついでにもうひとつつけ加えると、この日のオットはブルーのロングドレスの下から出た足はなんと裸足!だったということで、こちらはなんとなくその理由がわかる気がしました。革靴は微妙なペダル操作がラフになるのみならず、下手をするとズルッと滑ってしまうことがあるので、裸足ぐらい確かなものはないでしょう。

この日はNHK音楽祭ということで、ステージの縁は全幅にわたって花々が飾られていましたから、足の部分はそれに隠れて生では気が付かない人も多かったことと思いますが、カーテンコールの時にはわざわざカメラが裸足部分をアップしているぐらいでしたから、よほど異例のことだったのかも。
それにしても、足が裸足なのに指には左右リングというのもよくわかりません。

オットはそのスレンダーな体型に似合わず、手首から先はまるで男性のように大きく骨太な手をしています。メカニックもそれなりに確かなものをもっているようで、いわゆる技巧派的要素も備えているという位置付けなのかもしれませんが、残念なことにその演奏にはなんの主張も考察も情感も感じられず、ただ学生のように練習して暗譜して弾いているという印象しかありませんでした。

お顔に不釣り合いなガッシリした長い指には、指運動としての逞しさはありますが、肝心の演奏は彼女の体型のように痩せていて潤いがなく、音にも肉付きがまったくないと感じました。
オットには男性ファンが多いようですから、こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、でも彼女は芸能人ではなくピアニストなのですから、そこは彼女の奏でる音楽を中心に見るべきだと思うのです。

これから先のピアニストが、可愛いアイドル的な顔をしながら難曲をつぎつぎに弾ければいいというのであればこのままでもいいのかもしれませんが、やはり最終的には演奏によって聴衆を納得させないことには長続きはしないだろうと思いましたし、またそうでなくてはならないとマロニエ君は強く思うわけです。

非常に残念だと思ったのは、第1楽章では硬さがあったものの次第に調子を上げてきたにもかかわらず、終楽章では老いたマゼールのちょっとやりすぎな大仰なテンポに足を取られて、ふたたびそのノリが失われてしまったことでした。
もしかしたらいいものを持っている人かもしれないので、もっともっと精進して欲しいものだと思いました。
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ジョン・リル

過日、NHKのクラシック倶楽部でジョン・リルの昨年の日本公演の様子が放送されました。

この人はベートーヴェンを得意とするイギリスの中堅どころだと思われますし、我が家のCD棚にも彼の演奏によるベートーヴェンのピアノソナタ全集がたしか一組あったはずです。

もう長いこと聴いていませんでしたし、これまでにもとくにどうという印象もなく、たしか格安だったことが理由でその全集を買ったような記憶があるくらいで、今後もおそらく積極的に聴くことはないでしょう。

ステージにあらわれたリルはもうすっかりおじいさんになっていましたが、イギリス人演奏家らしい良くも悪くも節度があり、際立った個性も強い魅力もない、まさに普通のピアニストだと思われ、それ故に彼の演奏の特色などはまったく記憶にありませんでした。そんなリルの演奏の様子を見てみて、やはりその印象の通りで人は変わらないなあ…というのが率直なところでした。

お定まりに、この日は最後の三つのソナタを演奏したようですが、テレビでは放送時間の関係でop.109とop.111の2曲だけが紹介されました。

決定的に何か問題があるわけではないけれども、とくにプラスに評価すべきものもマロニエ君にはまったく見あたりませんでした。技術的にも見るべきものはなく、CDを出したりツアーに出かけたりするギリギリのランクといったところでしょうか。

まず最も気になったのが、キャリアのわりに解釈の底が浅く、まるで表現に奥行きというものが感じられませんでした。これはとりわけベートーヴェン弾きとしてはなんとしても気になる点です。
さらには音の色数が少なく、表現にも陰翳が乏しくて、ただ音の大小とテンポの緩急だけで成り立っている音楽で、作品に横たわる精神性に触れて聴く者が心を打たれ、高揚するというようなことがほとんどありませんでした。

ただ、二曲とも、なにしろ曲があまりに偉大ですから、どんな弾き方であれ、一通りその音並びを聴くだけでもある一定の感銘というものはないわけではありませんが、しかしそこにはより理想的な演奏を常に頭の中で鳴らしている自分が確実にいるわけで、この演奏ひとつに委ねてその世界に浸り込むということは到底できないと思われました。

こう云っては申し訳ないけれども、とくに最後のソナタop.111では、どこか素人が弾いているような見通しの甘さがあって、この点は大いに残念でした。この曲はマロニエ君の私見では第2楽章がメインであって、第1楽章はそれを導入するための激しい動機のようなものに過ぎないと思っています。

第1楽章の最後の音の響きが途切れぬまま、かすかに残響している中に第2楽章のハ長調の和音が鳴らされたときには「なるほど、こういう解釈もあるのか」と一瞬感心されられましたが、その第2楽章の主題があまりにテンポが遅く、間延びがして、この静謐な美を堪能することができませんでした。
とくにこの楽章の冒頭ではリピートを繰り返しながら少しずつ先に進みますが、そのリピートが煩わしくて「ああ、また繰り返しか…」とダルい気がするのは演奏に問題があるのだと言わざるを得ません。

この主題は大切だからといってあまりに表情を付けたりまわりくどいテンポで弾くと、却ってそこに在るべき品格と荘重さが失われてしまうので、これはよほど心して清新な気持ちで取り扱うべき部分だと思いました。

「二軍」というのは野球の用語かもしれませんが、どんな世界にもこの二軍というのはあるのであって、ジョン・リルの演奏を聴いていると、まさにピアニストにおける生涯二軍選手という感じがつきまといました。
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調律師さんの共通点

これまで出逢ってきた調律師(本来はピアノテクニシャンというべきですが)の方々は、年齢も性格も出身も活動地も各々違うのに、その職業がそうさせるのか、彼らにはどこか共通した特徴のようなものがあるようです。

調律師さんというのは、ごく一部の例外を除くと、おおむねとても控え目で、どちらかというとちょっと地味な感じの雰囲気の方が平均的だと思います。さらに腰も低いなら言葉もかなり丁寧で、その点じゃちょっとやり過ぎなぐらいに感じることも少なくありません。

マロニエ君に言わせると、ピアノの調律師というのは技術者としても専門性の高い高度な職人なのだから、そこまでする必要があるのかと思わせられるほど低姿勢に徹して用心深い人が多い気がしますが、そこにもそうなって行った必然性のようなものはあるのだろうと察しています。

ところが、この調律師さん達の多くは初めの印象とは裏腹に、お会いして少し時間が経過して空気が和んでくると、大半の方はかなりの話し好きという、そのギャップにはいつもながら驚かされてしまいます。
専門的な説明に端を発して、その後は仕事には関係ないような四方山話にまで際限なく話題が発展するのは調律師さんの場合は決して珍しくはありません。

マロニエ君などは調律師さんと話をするのはとても好きですし楽しいので一向に構いませんし、加えてこんな雑談の中から勉強させてもらったことも少なくないので個人的には歓迎なのですが、だれもかもがそうだとは限らないかもしれません。
もちろんだから相手によりけりだとは思いますが。

職業人として気の毒だと感じる点は、非常に高度な仕事をされている、あるいはしなくてはならないにもかかわらず、それを正しく理解し評価する側の水準がかなり低いということです。
人間は自分の能力が正しく評価され理解されたいという願望は誰しももっているもので、これはまったく正当な欲求だと思います。

ところが、どんなに込み入った高等技術を駆使しても、そこそこにお茶を濁したような仕事をしても、多くの場合、どう良くなったのかもよくわからないまま、ただ形式的に調律をしてもらったこと以外に評価らしいものもされずに、規定の料金をもらって帰るだけという寂寥感に苛まれることも多いだろうと思います。

調律師さんが普通とちょっと違うのは、どんなに低姿勢でソフトに振る舞っても元は職人だからということなのかもしれませんが、それだけ話し好きというわりには、いわゆる基本的に社交性というものが欠落していて、どちらかというと人付き合いも苦手という印象を受けることが多いような気がします。
あれだけみなさん話し好きなのに社交性がないという点が、いかにも不思議です。

もうひとつはその盛んな話っぷりとは裏腹に、メールの返信などは直接会ったときとはまるで別人のように素っ気なく、メールでも返ってくるのはほとんどツイッター並みの最小限の文章だったりするのは甚だ不思議です。もちろんそうでない人もいらっしゃいますけどかなり少数派です。

そこにはやはり調律師という職業柄、知らず知らずに身に付いた特徴のようなものがあるのでしょうね。というか、逆に考えれば、調律を依頼するお客さんのほうの性質もあるから彼等をそんなふうにさせてしまっているのかもしれません。
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追記の追記で最後

ポリーニの日本公演の様子を見てみて、今回あらためて思ったことは、彼は実はとても音量の大きなピアニストだという事でした。これはよく考えてみると新発見に近いものだったと思います。

同じボリュームでも、ポリーニの演奏になると音の鳴るパワーが全体に違うことがわかりました。
ポリーニは甘くやわらかな音のピアノに向かって、全体に均等に分厚い音を朗々と鳴らしますが、そのタッチ特性からくる発音に一定の品位がある上に、楽器にもうるさい彼はメタリックな音のするピアノを好みませんから、それらが合体して粗さのない、非常に充実したオーケストラ的な響きになるのだろうと思います。

若い頃のポリーニのリサイタルには何度も足を運びましたが、とにかくその圧倒的英雄的演奏に打ちのめされて、毎回上気した気分と深いため息を漏らしながら帰途についたものです。たった一台のピアノから、あれほど充実した響きと演奏を聴かされて、まるで何らかの記録樹立者が汗まみれになって目の前にいて、それを見守り熱狂する我々観衆というような感動と興奮を味わえることこそ、ポリーニの生演奏の特色であり最高の魅力でした。

それは煎じ詰めれば、彼のピアノ演奏が際立ったものであるのは当然としても、聴衆を圧倒する要素のひとつにあの音量があったとは気が付きませんでした。おそらく、通常の人なら音量が大きい場合に不可避的につきまとう音の割れや粗さが彼の音には微塵もないために、ただ演奏が筋肉的にしなやかで、ずば抜けたテクニックと迫真性ばかりに浸っていたように思います。

ポリーニは20世紀後半を代表する最高級のピアニストのひとりであったことは云うまでもありませんが、強いて不満を云うならば、彼の演奏には歌の要素やポリフォニックな要素が稀薄だというところでしょう。むしろピアノ全体を均等に充実感をもって鳴らし切ることと、正当で流麗な解釈、それを構造学的な美学志向で積み上げていくタイプのピアニストでした。

この点でもうひとつ気付いたのは、ある程度歳を取ってからのポリーニの指先です。関節が非常に固く、おまけに爪がおそろしいまでに上に反っています。
このジャンルの草分け的存在であり大御所でもある、御木本澄子さんの説によれば、芯のある強靱な音を楽に出せるピアニストの指に必要なものは固く固まった第一&第二関節なのだそうで、ケザ・アンダの指などはほとんどこの部分の関節は動かないまでに固まっているのだそうです。

ポリーニのあの独特なやわらかさを兼ね備えた甘くて強靱な美音は、まずはこの固い関節がタッチの土台を支えているからこそだと思いました。
また一般論として、肉付きと潤いのある美しい音色を出そうとすると、上からキーを高速で叩きつけるのではなく、ほとんどキーに接地している指を加速度的に静かに力強く押し下げていくしかないと思いますが、ポリーニの美音と迫力あるボリュームの両立は、彼がその奏法を用いながら、さらに類い希な指(特に指先)の強靱な力の賜物だと思われます。

この奏法であれだけの大音量を出すという演奏形態を長年続けてきたために、彼の指先はあのように上に反り上がってしまったものだろうと思いました。


気が付けばこれが今年最後のブログになってしまったようで、あわてて年内にアップします。
お付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。
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ポリーニ追記

今回のポリーニの来日公演、実際は知りませんが、少なくともテレビ放送ではベートーヴェンの5つのソナタが演奏され、出来映えは大同小異という印象でしたが、強いて云うなら27番がよかったとマロニエ君には思われ、逆にテレーゼ(24番)などは、どこか未消化で雑な感じがしました。

それに対して最後の三つのソナタ(30番、31番、32番)は、個人的に満足は得られないものの、ともかくよく弾き込んできた曲のようではあり、身体が曲を運動として覚えているという印象でした。
しかし、残念なことにこの神聖とも呼びたい、孤高の三曲を、いかにもあっけらかんと、しかもとても速いスピードでせわしなく弾き飛ばすというのは、まったく理解の及ぶところではありませんでした。

中期までのソナタなら、場合によってはあるいはこういうアプローチもあるかもしれませんが、深淵の極みでもある後期の三曲、それも今や巨匠というべき大ベテランが聴衆とテレビカメラに向かって聴かせる演奏としては残るものは失意のみで、甚だしい疑問を感じたというのが偽らざるところでした。

リズムには安定感がなく、音楽的な意味や表現とは無関係の部分でむやみにテンポが崩れるのは、聴く側にしてみるとどうにも不安で落ち着きのない演奏にしか聞こえません。まるでさっさと演奏を済ませて早くホテルに帰りたくて、急いで済ませようとしているかのようでした。
何をそんなに焦っているのか、何をそんなに落ち着きがないのか、最後の最後までわかりませんでした。
次のフレーズへの変わり目などはとくにつんのめるようで、前のフレーズの終わりの部分がいつもぞんざいになってしまうのは、いかにも演奏クオリティが低くなり残念です。

とりわけ後期のソナタになによりも不可欠な精神性、もっというなら音による形而上的な世界とはまるで無縁で、ただピアニスティックに豪華絢爛に弾いているだけ(それもかなり荒っぽく、昔より腕が落ちただけ)という印象しか残りません。

それでも、日本人は昔からポリーニが好きで、こんな演奏でも拍手喝采!スタンディングオーべーションになるのですから、演奏そのものの質というよりは、今、目の前で、生のポリーニ様が演奏していて、その場に高額なチケット代を支払って自分も立ち会っているという状況そのものを楽しんでいるのかもしれません。
もはやポリーニ自身が日本ではブランド化しているみたいでした。

ピアノはいつものようにファブリーニのスタインウェイを持ち込んでいましたが、24番27番では、これまでのポリーニではまず聴いたことのないようなぎらついた俗っぽい音で、これはどうした訳かと首を捻りました。ポリーニの音はポリーニの演奏によって作られている面も大きいのだろうと思っていただけに、このピアノのおよそ上品とは言い難い音には、さすがのポリーニの演奏をもってしても覆い隠すことができないらしく意外でした。

日が変わって、最後の三つのソナタのときは、それよりもはるかにまともな角の取れた音になっていて、音色という点ではポリーニのそれになっていたように思います。
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ポリーニ来日公演

今秋サントリーホールで行われたマウリツィオ・ポリーニ日本公演~ポリーニ・パースペクティブ2012の様子がBSプレミアムで4時間にわたって放映されました。

マンゾーニの「イル・ルモーレ・デル・テンポ(時のざわめき)~ビオラ、クラリネット、打楽器、ソプラノ、ピアノのための~」からはじまり、ところどころにポリーニがソロで出てくるというものでした。

この一連のコンサートは、そこに一貫した主題を与えるのが好きなポリーニらしく、ベートーヴェンの存命中のコンサートでは常に新しい音楽が演奏されていたという点に着目して、ベートーヴェンのソナタと現代音楽を組み合わせながら進行するという主旨のプログラム構成でした。

今回はポリーニの息子のダニエーレ・ポリーニ氏も来日し、父のインタビューの傍らに座ってときどき似たようなことを話していたほか、ステージではシャリーノの謝肉祭から3曲を日本初演する機会を得ていたようです。

ポリーニは現代音楽ではシュトックハウゼンのピアノ曲を2曲を弾いたのみで、それ以外はベートーヴェンの5つのソナタ、第24番、第27番、そして最後の三つのピアノソナタを演奏しました。

さて、このときのポリーニのことを書くのはずいぶん悩みました。
それはさしものポリーニ様をもってしても、そこで聞こえてきたものは、どう善意に解釈しようにも、もはや良い演奏とは思えなかったからなのです。しかし、彼を批判することはピアニストの世界では、なんだか神を批判するような印象があるから、やはり躊躇してしまいます。

しかしプロの世界、それも世界最高級のレヴェルの芸術家なのですから、やはり彼らは自分の作品(演奏家の場合は演奏)に厳しい批判を受けることも、その地位に科せられた責務だと思いますので、あえて控え目に書かせてもらおうという結論に達しました。

ポリーニの肉体の衰えはかなり前から感じていましたが、それはいかに天才とはいえ生身の人間である以上、だれでも歳を取り老いていくのですからやむを得ないことです。ただ、最高級の芸術家たるものは肉体の衰えと引き換えに、内的な深まりや人生経験の少ない若者には到底真似のできないような奥深い世界への踏み込みや高みへの到達など、ベテランならではの境地を期待するものですが、少なくともマロニエ君の耳にはそのようなものは一切聞こえてくることなく、何かがピタリと止まってしまっているような印象でした。

インタビューではどんなことに対しても、自説を展開し、歴史まで丹念に紐解いて論理的にながながと講釈をしますが、それほどの斬新な内容とも思われませんでしたし、とくにベートーヴェンの後期の作品に対する解説も、ピアノ曲以外の作品まで持ち出してあれこれとかなりやっていましたが、実際のステージでの演奏は、そういうこととはなんの関連性も見出せないような、こう言っては申し訳ないですが、むしろ表面的なものにしか感じられなかったのは非常に残念でした。

ベートーヴェンの音楽を聴いた後に残る、魂が高揚した挙げ句に浄化されたような気持ちになることもできませんでしたし、老いたとはいえこれほどの大ピアニストの演奏に接して、何かしらの感銘らしきものを受けるということもなく、ただただ若き日のアポロンのようなポリーニの残像を自分なりにせっせと追いかけるのが精一杯でした。
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音にフォーカス

月刊誌『ピアノの本』では、このところ連続してヤマハの技術者の方を取り上げた記事が載っていて、マロニエ君も特に楽しみな連載コーナーなのですが、11月号は酒井武さんというヤマハアーティストサービス東京に在籍する方でした。

過日NHKのクラシック倶楽部で放映されたニコライ・ホジャイノフはヤマハCFXを使って好ましい演奏をしていましたが、記事にはホジャイノフと酒井氏のツーショットも掲載されていますから、日頃からコンサートの第一線で活躍されるヤマハ選りすぐりの技術者であるだろうことは容易に推察できます。(ホジャイノフは、この来日時にはCD収録もしたようです。)

ところで、この酒井氏の経歴で目についたのは、ある時期に「本社工場・特機制作室」という部署へ異動されたと書かれている点でした。ヤマハピアノの本社工場・特機制作室とは何をするところなのか…というのが率直な疑問で、マロニエ君なりにあれこれと察しがつかないでもありませんが、それは想像の域を出ませんから、それを敢えてここで書いたところで意味はないでしょう。
まあ、ともかくも、ヤマハにはそういう、なんとなく秘密めいた想像をかき立てる部署があるということは確かなようです。

今回の酒井氏の言葉にも、いろいろと含蓄のあるものがありました。
たとえば、調律師としての感性を磨くための心がけは?という問いに対しては、「生活のすべてにおける感動する気持ちが大切〜略〜些細なことにも五感を働かせて“感じる”ことで、センスや自分自身を磨いていく」というものでした。
ピアノを細かく調整して、芸術的な音を作り出すような職人が、仕事以外ではごくありふれたラフな気分で生活していたのでは、そういう至高の領域での仕事はできないということでしょう。タッチや音色の微細な違いを感じ分け、より良いものを作り出す能力は、まず自分自身がよほど性能の良いセンサーそのものである必要があるのでしょう。
そして、この高性能なセンサーと合体するかのように、ピアノ技術者としての専門的かつトータルな能力があるのだと思います。

マロニエ君もパッと思い起こしてみても、ピアノ技術者の皆さんはいうまでもなくそれぞれの個性をお持ちですが、わけても一流と感じる人達は、皆非常に繊細な感性の持ち主です。
この点に例外はないとマロニエ君は断定する自信があります。

もうひとつ興味深いお言葉は「楽器に入りすぎて視野が狭まり、思い込みによる調律をしてはいけません。」とあり、演奏を聴いていると、調律師という仕事柄どうしても“音”にフォーカスしてしまうことが多いのだそうで、これは技術者の方は多分にそういう方向に流れるだろうと思っていました。「しかし、聴きながら“音”への意識が消えるほどに良い音楽が流れていたとき、振り返るとそれはまさに“良い音”が鳴っている瞬間だったと気がつく」とあり、これこそ大いに膝を打つ言葉でありました。

調律師の中にはなかなかの能力をもっておられるけれども、自分の音造りに拘ってそのことに集中するあまり、逆に音楽的でないピアノになってしまうという例もマロニエ君はずいぶん見ています。
こうなると調律師が作り出した音や調律が主役で、ピアノは素材、ピアニストはただそれを弾いて聴かせる演奏係のようになってしまいます。

楽器は重要だけれども、あくまでも演奏を音にし、音楽を奏でるための道具という域を出ることは許されないと思います。パッと聴いた感じはいかに華麗で美しいものであっても、そればかりが無遠慮に前面にでるようでは結局音楽や演奏は二の次で、あとには疲れだけが残るものです。

本当に一流というべきピアノ技術者の方の仕事は、ピアニストや作品を最大限引き立てるようなものであり、楽器としての分をわきまえていなくてはならず、あくまで演奏や音楽を得てはじめて完成するという余地のようなものを残していなくてはならないと思います。
それでいて音や響きは美しく解放されて、印象深くなくてはならず、演奏者をしっかり支えてイマジネーションをかき立てるようなものでなくてはならないわけで、非常に奥深くて難しい、まさに専門領域の仕事であるといわなければならないでしょう。

中には派手な音造りをすることが自分の拘りであり、他者とは違う自己主張のように思い込んでいる人もいますが、この手は初めは美味しいような気がするものの、すぐに飽きてしまう底の浅い料理みたいなもんです。
要は「音にフォーカス」するのではなく「音楽にフォーカス」すべきだということで、これはまったく似て非なるもので、後者を達成するのは大変なことだろうと思います。
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2台のスタインウェイ

タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートでは、2人のピアニスト、すなわちピーター・ゼルキンとエマニュエル・アックスが登場しました。

ピーターがベートーヴェンの合唱幻想曲をトリで弾いたのは前回書いた通りでしたが、アックスのほうはハイドンのピアノ協奏曲のニ長調から2、3楽章を演奏しましたが、この両者は、同じ日の同じ会場ながら、オーケストラも違えば、使うピアノもまったくの別物が準備されていました。

アックスのほうはハンブルクのDで、それもおよそアメリカとは思えないような繊細で、純度の高い美しい音を出すピアノで、まずこの点は良い意味でとても意外でした。
というのも、以前のアメリカではハンブルク・スタインウェイでもニューヨーク的な音造りをされたピアノが珍しくなく、アメリカ人の感性の基準にある整音や調律とは、こういう音なのかと驚いたことがありました。

それでも以前のアメリカではハンブルクは稀少で、大抵のステージに置かれるピアノはほぼ間違いなくニューヨーク・スタインウェイだったものですが、近年はどのような理由からかはわかりませんが、ハンブルク製も続々とアメリカ大陸に上陸しているようで、聖地ともいうべきカーネギーホールでも今はハンブルクが弾かれることが少なくないようです。キーシンやポリーニなどはいうに及ばず、最近おこなわれたという辻井伸行さんのカーネギーホール・リサイタルでもステージに置かれているのはハンブルクのようでした。

アメリカ人で意識的積極的にハンブルク製を使うようになった最初のアメリカ人ピアニストは、マロニエ君の印象ではマレイ・ペライアだったように思います。アメリカ人の中にもハンブルクの持つ落ち着きと潤いのあるブリリアンスを好む人達がいるという流れの走りだったと思います。

いっぽう、今回のタングルウッド音楽祭でもピーター・ゼルキンはニューヨークを使っていました。
それも最近数が増えてきた艶出し塗装のニューヨークです。私見ですが、ニューヨーク・スタインウェイってどうしようもないほど艶出し塗装が似合わないピアノで、無理に気に沿わない礼服を着せられている気の毒な人みたいな印象があります。
ただし、見ていてああニューヨークだなと思われるのは、その塗装の質があまりよろしくないという点でしょうか。とくにピアニストの手をアップすべくカメラが寄ると、最近のカメラ映像と液晶テレビの相乗作用で鍵盤蓋の塗装の質まで手に取るようにわかるのですが、あきらかに塗装の質がハンブルクに較べて劣っているのがわかります。

逆に、ニューヨークの面目躍如とでもいうべきは低音のさざ波のような豊かさで、これは現在のハンブルクが失ったものがこちらにはまだ残っているような気がします。ただし欠点も欠点のまま残っていて、たとえば次高音あたりになると音のムラが激しくなり、音によってはほとんど鳴りと呼べないような状態のものまで混ざっていて、このあたりが格別の素晴らしさがあるにもかかわらず、ニューヨーク・スタインウェイの全体としての評価の下げてしまっている部分のように思われます。

おや?と思ったのは、真上からのアングルのシーンが何度が映し出されましたが、どうやらこのピアノはスタインウェイ社のコンサート部の貸し出し用のピアノと思われ、フレーム前縁のモデル名とシリアルナンバーが記されている三角形部分には、通常の6桁のシリアルナンバーはなく、代わりに「D」の文字に寄ったところに3桁の数字が記されていました。
想像ですが、コンサート部の貸し出しの年季が晴れて、外部に売却されるときに通常のシリアルナンバーへと書き直されるのではないかと思いましたが…これはあくまでも想像です。

それはともかく、アメリカのコンサートではなにかというと飽きもせずアックスやP・ゼルキンがいまだに出てくるようですが、もっと違った輝く才能もどしどし登場させて欲しいものです。
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ピーター・ゼルキン

先日のBSプレミアムでは、タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートの様子が放映されました。
出演者もさまざまで、ボストン交響楽団、タングルウッド音楽センター・オーケストラ、エマニュエル・アックス、ヨーヨー・マ、アンネ・ゾフィー・ムター、ピーター・ゼルキン、デーヴィッド・ジンマン、その他のスター達が入れ替わり立ち替わり演奏を披露しましたが、トリを務めたのはなんとマロニエ君にとってある意味鬼門でもあるピーター・ゼルキンをソリストとしたベートーヴェンの合唱幻想曲でした。

「やはり」というべきか、出だしから、マロニエ君にはまったく理解不能なピーターの演奏が始まり、私はこの人のピアノは何度聴いても、ご当人がどういう演奏をしたいのかまったくわかりません。ただ単に自分の好みではないということに留まらず、むしろ疑問と抵抗感ばかりが増してくるのが自分でも抑えられません。

テンポが遅いだけならまだしものこと、音楽であるにもかかわらずマロニエ君の耳にはリズムも語りもまるで恣意的な、一口でいうとめちゃめちゃなものとしか捉えられないのです。
指も何か病気なのではと思うほど動かないし、あちこちに?!?という意味不明なヘンな間があったり、聴いているこちらはまったく波長がズレてしまうばかりです。そればかりか、あきらかに鳴らない音なども頻発したりと、これではピアニストとしての基本さえ疑います。
それに、なにかというと打鍵した指を弦楽器奏者のヴィブラートのようにプルプル震わせる、あの仕草も神経に障ります。これをやるのは日本人有名女性ピアニストにもいらっしゃって見ていて鳥肌が立ちます。

さらにこのピーター・ゼルキンで驚くのは、彼を表現者として絶賛するファンがとても多いことで、彼の欠点には目もくれず、彼こそ真の芸術家というような調子の褒め言葉を濫発させるのには、いつもながら驚いてしまいます。
彼の価値がわからないということは、音楽そのものの真価がわからないとでも言いたげな論調で、まったく呆れるばかり。
まるでピアノは勝手にワガママにのろのろと下手に思いつきのようフラフラに弾いた方が、よほど芸術家扱いされるかのごとくです。

実はマロニエ君には苦い思い出があって、そこそこ親しくしていた関東在住のあるピアニストと雑談をしているときに、たまたまピーター・ゼルキンの話が出たのですが、私はあまり好きではないというような意味のことを言ったら、みるみるその人の態度が変わり、それ以降のお付き合いにまで距離ができてしまったことを思い出してしまいます。

しかし、今回もあらためて大編成の合唱幻想曲を聴いてみて、前半のピアノソロの部分なども、その遅いテンポをはじめとしてまったく彼個人の自己満足としか思えず、聴衆の顔にも明らかに退屈と困惑の表情が見て取れましたし、名門ボストン響のメンバー達もテンションが下がりまくりで、ともかくこのコンサートの最後だから無事に終わらせようとしているようにしか見受けられませんでした。
後半の歌手達の出だしなども、ピーターの勝手なテンポとフラフラのリズムのせいで、おっかなびっくりで歌っているのが明らかです。

それでも素晴らしい人にとっては素晴らしいのかもしれませんし、そこは主観なのでもちろんご自由ですが、マロニエ君の耳目には、ひどく鈍感で空気の読めない、偉大な父と自分の個性表出に汲々としてきただけの、歪んだエゴイストにしか見えませんでした。
フルオーケストラと6人の歌手、それをとりまく合唱団は、たったひとりのこのワガママ老人のようなピアニストのせいで、本来の実力とは程遠い演奏を余儀なくされたという印象を拭うことはできませんでした。
指揮者のジンマンにしたところで、彼の鮮烈デビューはキレの良い、まるでモーツァルトのようなシャキシャキとしたベートーヴェンだったものですが、当然ながら別人のような、まるでピアニストを指揮者という立場から介護でもしているような棒でした。

これだけ大勢の音楽が出揃っていながら、演奏には覇気がなく、とくにピアノパートではこんな肯定的な有名曲にもかかわらず、ふと何を聴いているのかさえわからないような箇所があちこちにありました。
むかし、交通標語に『荷崩れ一台、迷惑千台。』というのがありましたが、この合唱幻想曲はまったくそんな印象でした。
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らららの辻井さん

先々週でしたか、NHK日曜夜の音楽番組『らららクラシック』に辻井伸行さんがメインで出演されました。
辻井さんの映像や演奏は、クライバーンコンクールでの優勝以降、折あるごとに接する機会が増えたことは多くの方々も同様のことだろうと思います。それも僅か3年あまりのことですが、もともとお若いせいもあるのか、見るたびに少しずつ感じが変わってくるところがあるように思います。

食べることが大好きというご本人の言葉にもありましたが、一時はかなり恰幅も良くなって「おや、大丈夫?」と思ったときもありましたが、先日見たところではそれほどでもなくなり、逆にどことなく少し大人っぽさみたいなものが加わったような気がしました。

さらに変化を感じたのは、その演奏でした。
辻井さんは今どき稀少な超売れっ子のコンサートピアニストのようですから、年間のステージの回数だけでも相当の数にのぼるものと思いますが、そういう場数や経験からくるものなのか、あるいはもっと奥深い辻井さん自身の内面から湧き出るものなのか、それはわかりませんけれども、以前に較べるとよりブリリアントでピアニスティックな演奏になっているように感じられて少々驚かされました。

それは番組のはじめに、スタジオで弾かれたショパンの革命にも端的にあらわれていたように思います。その後、番組が進行するにしたがって以前の映像などもいろいろ紹介されましたが、そこにあるのはたしかに以前の辻井さんらしい清楚であっさりした演奏でしたから、やはりなにか変化が起きているとマロニエ君は思いました。

もし今後、辻井さんがより華やかで力強いピアニスティックな方向の演奏にシフトしていかれるとしたら、きっと賛否が分かれるところかもしれません。昨年のN響とのチャイコフスキーなどはまだ以前の辻井さんという印象ですが、スタジオでの革命やラ・カンパネラ、あるいは最近のコンサートでの自作の映画音楽『神様のカルテ』などでは、ちょっと新しい辻井伸行を聴いた気がしました。

いっぽう、スタジオでの司会者とのやりとりなどを聞いていても、辻井さんの話にはとてもなつかしいような率直さがあり、これは今では逆に新鮮というか、ときにはちょっとハラハラするような発言が多いのもこの方の個性であるし魅力なのかもしれません。

すでに世界の著名な指揮者など一流の音楽家達との共演も重ねておられるわけで、当然といえば当然なのかもしれませんが、どんなに世界的な人物や先輩の名前などが出てきても、その都度、テレビ放送という場に於いても臆せず「ぜひ共演してみたいですね」とか、ご自身が作曲されることにも絡んで偉大な作曲家の話が出る度に「僕もそういうふうに…」という、現代人の標準的感性からすれば、かなり思い切りのいいフレーズが、自然な笑顔とともにサラリと出てくるのはドキッとしてしまいます。

これは辻井さんの純粋な心のありようと飾らない真っ正直な人柄はもちろん、彼がいかに心温かな人達に囲まれた豊かで恵まれた毎日を過ごしておられるかという事実を端的に裏付けているようで、どことなく羨ましいような気さえしてきます。
それに例によって、折り目角目のある美しい日本語を自然に話されることも、マロニエ君の耳には彼のピアノ同様、奇を衒わずまともであるということに、まず新鮮な心地よさを感じるところです。

一般的には、相当の天分や実力を持ってしても、そうそう無邪気な発言を自然にしてしまうと、俗人は無防備と考えるほうが先行して、とても恐くてできないことでしょう。
現代人は何かと計算高く、用心深くなりすぎて、まず大半のことでは本音を漏らさないクセが身に付き、それはほとんど常態化していますから、それだけでも率直に振る舞うことのできる辻井さんが眩しく感じられるのかもしれません。
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偏見

ネット上にはいろんな質問や相談事を受け付けるところがあり、ピアノのことも結構取り上げられています。随時さまざまな回答者が登場しては思い思いの持論を展開していて、それは読む側も楽しいものです。

面白い質問&回答がたくさんありますが、そのうちのひとつに、スタインウェイの一番小さなグランドとヤマハのSシリーズだったらどちらを目標(購入するための)にすべきかという相談がありました。

この両者、価格はかなり違っていますが、スタインウェイでは最小モデルに対して、片やヤマハのプレミアムシリーズであり、サイズでいうと中型というところで、総合的見地からどっちがいいかというわけでしょう。

多くの回答者からさまざまな書き込みがあり、それを読んでいると面白いことがたくさん書いてあるのですが、そんな中に、この手の回答でよく目にする、いかにも正論のような論調ではあるけれども、ちょっと首を捻りたくなる主張があり、それはほかでもときどき見かけるお説です。

曰く、ピアノで最も大事なことは調整の問題であって、とくに調整如何によってピアノはどうにでも変わるのであるから、従ってブランドに頼ってはいけないという、とりあえず本質を突いたかのような意見です。
管理と調整がいかに大切であるかは、むろんマロニエ君も日頃から痛感していることで、調整の巧拙はいわばピアノの生殺与奪の権を握っているといっても過言ではないと思います。

ところが、この手の質問の回答者の多くに見られる傾向は、スタインウェイではなぜか調整は悪いであろうという予断と偏見があり、そこへ「ヤマハでも丁寧に調整されたものはじゅうぶん素晴らしい」のであって、従って問題はメーカーではない!という論理を展開される片がいらっしゃいます。
さらには「調子のいいヤマハは不調のスタインウェイを凌ぐ」的な発言もみられますが、調整の良否は個々の楽器の状態にすぎず、こういう較べ方はちょっとフェアでない気がします。

不可解なのはどうして同じコンディションでの比較をしないのかということです。
大事な点はそれぞれ理想的に調整されたスタインウェイとヤマハ(機種はともかく)を比較して、果たしてどちらがよいかという話になるべきで、不調のスタインウェイを基準として、だからそれを欲しがるのは名前だけが頼りのブランド指向では?…などと言ってもナンセンスだと思うのです。

調整はどんなピアノでも例外なく必要なものであるのは論を待ちません。
それぞれのメーカーのピアノが最も理想的な調整を受けて、その持てる能力を十全に発揮できている状態で比較したときに、果たしてどちらが弾く人にとって価格を含めた総合的価値があるかという点で冷静な判断をすべきだと思います。

スタインウェイというのは圧倒的なブランド力があるためか、どうかすると必要以上に叩かれるという一面はあるように思います。たしかにマロニエ君も、いつもトップに君臨して、それが当然みたいな在り方というのは人でも物でも嫌いで、ある種の反発さえ覚えますが、それでもその実力がいかなるのものかという点はやはり固定観念や偏見抜きに、真価を正しく理解する必要が大いにあると思います。

偏見を取り払って公正な判断ができたときにようやく見えてくるものこそが個性であり好みでしょう。
それがつまりは自分との相性だと思うのですが。
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メールのご紹介

ベーゼンドルファーに携わるヤマハの方から下記のようなメールをいただきました。
ヤマハ自身がピアノの製作会社であるにもかかわらず、この老舗の親会社となってからも、ウィーンの名器の伝統工法と志は大切に受け継がれているようで、さらにはヤマハの社員の方まで、こうしてベーゼンドルファーを熱愛していらっしゃることは、このメーカーの最も幸せで偉大なところだと思われます。

ぜひともこのブログでもご紹介したく、ご当人様の了解を得ましたので下記の通りその文面を掲載致します。この方は現在ウィーンに来ておられる由、ウィーンからのメールとなりました。
個人名のみ控えますが、それ以外は、改行なども一切手を加えず「オリジナル」のままお届け致します。

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突然にメイルを差し上げて失礼します。 時にこのブログを拝見し、
内容の濃さにいつも感心しております。 

私はヤマハに勤務するものですが、2008年初めよりベーゼンドルファーに
関わっております。 当初、ヤマハが経営することに、ベーゼンドルファーが
変わってしまうのではと、多くの方が心配されました。 

しかし、自信を持って言えることは、ベーゼンドルファーの独特な音色を
維持することを第一義に考え、現在も開発から製造まで
オーストリアのベーゼンドルファー本社で全てを執り行っていることです。
逆に言えば、ヤマハの一番恐れることは、ベーゼンドルファーの
性格が変わってしまうことです。 此れからもウィーンの至宝と呼ばれる
ベーゼンドルファーを、しっかり守って行きたく存じます。

お書きになったようにインペリアルは100年以上の歴史を持つモデルですが、
これ以外にも現行モデルの中、170/200/225も100年以上も
継続して生産しています。

今年発表した155も基本的な構造は、伝統的なベーゼンドルファーの
製造方法を踏襲しております。 例えば支柱の構造や材質、
側板の組立て方や材質、アクション、鍵盤など。 尚、鍵盤やアクションは
170と同じであり、サイズから来る演奏性を犠牲にしていません。

また、肝心な音は小型ピアノとは思えない豊かなものになりました。
これは製造方法が他の大きなモデルと同様なため、当たり前のことかも
しれませんが。 

こんな風に書きますと自慢話になってしまい恐縮です。 ただ、
ベーゼンドルファーの独特な音色に魅かれると、仕事を離れても
つい声が大きくなってしまいます。 

残念ながら、九州にベーゼンドルファー特約店が無く、試弾して頂く
機会が少ないかと思います。 ただ、八女市オリナス八女ホールに
ベーゼンドルファー280が昨年納品されました。 それ以来、八女市では
ベーゼンドルファーを大変愛して下さり、これはとても嬉しく思っております。

勝手にベーゼンドルファーのことばかり書いてしまいましたこと、
どうぞお許し下さい。 東京にお越しならば、是非声を掛けて下さい。
中野坂上のショー・ルームをご案内したく存じます。 また、
ベーゼンドルファーに関してご意見があれば、どうぞお聞かせ下さい。

宜しくお願い申し上げます。
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調整が目指すもの

連日におよぶスピーカー作りを一休みして、週末は再び知人のスタインウェイの調整を見学させてもらいました。
このピアノは、もともと大変素晴らしい楽器なのですが、オーナーがこのピアノにかける期待にはキリがないご様子で、さらに上を目指して素晴らしいピアノにしたいというその熱意はたいへんなものがあり、より高度な調整を求めていらっしゃるようです。

前回と同じピアノ技術者さんで、この日はやはり各所の調整や針刺し、とくに弦の鳴りをよりよくするための作業などが進められましたが、技術者さんが仰るには、やり出すと調整の余地はまだまだ大いにあるのだそうで、今後(果たしていつまでかわかりませんが)を楽しみにして欲しいというものでした。

確か前回が8時間ほど、今回も5時間ほどが作業に費やされましたが、ピアノの調整というのは精妙を極め、しかも部品点数が多いということもあってなにかと時間がかかるし、明快な答えがあるわけでもないため、これで終わりということのない無限の世界だということを再認識させられました。

とりあえずこの日の作業終了後にマロニエ君も少し触らせてもらいましたが、その変化には一瞬面食らうほどで、たしかに音には芯と色艶が出ているし、以前よりもたくましさみたいなものが前に出てきたように思います。さらにはよりダイナミックレンジの大きな演奏表現をした場合に、ピアノが無理なくついてくるという点でも、音の出方の限界を後方へ押しやったのだろうと思われます。

しかし、楽器というものが極めてデリケートで難しいところは、以前このピアノがもっていたある種のまとまり感みたいなものもあったように思い出され、あれはあれでよかったなぁ…なんてことを感じなくもありませんでした。
ピアノも云ってみれば一台ずつに「人格」があり、そこにいろいろな個性がうごめいているのだと思います。生まれながらに持った性格もあれば、あとから技術者によって意図的与えられる性格もあるでしょう。

たしかに、基本的なところから正しい調整がされることは非常に大切で、変なクセのあるピアノだったら一度ご破算といいますか、一旦リセットされたようになる場合も多く、とりあえず楽器としての健康な土台みたいなものが新しく打ち立てられるというのは、作業の流れとして順当なところだろうと思います。

しかし、それ以前にあった、そこはかとないやさしみや味わいみたいなものはひとまず洗い流されてしまって、ちょっと残念さも残ったりと、このあたりが人の主観や印象の難しいところです。しかし、新たに鍛え直されて健康なたくましさが出てきたことはやはり歓迎すべきで、弦の鳴りから細かく調整されたことで、さらにサイズを上回るパワーが出たのも事実でしょう。

ただし発音が溌剌とはしているけれど、どんなときでも背筋を伸ばして、正しい発声法で一直線に歌っている人のようで、マロニエ君はそこにもう少し陰翳があるほうを好む気がします。
音色そのものはいじっていないので同じ方向の音にあるといわれますが、総体としてのピアノと見た場合、後述する要素を含めて前とはあきらかに別物に変化してしまったというのがマロニエ君の印象です。

もともとよく鳴っていたピアノでしたから、それがさらにパワフルに鳴るようになることは技術者サイドで見れば順調かつ正常な進化なんだろうとは思いますが、弾く側にしてみると、心に触れる「何か」を残しておいてほしいのも事実かもしれません。

また、別物に変化したというもうひとつの大きな要因は、タッチがぐんと重くなったことと、音の立ち上がりを良くしたとのことでしたが、それはたしかに体感できたものの、タッチコントロールがかなり難しくなってしまったことも小さくない驚きでした。
このピアノには比較的大きめのハンマーが付いているようで、重いのはそのためだと云う説明でしたが、もしかすると以前の調整はそのあたりも含めて絶妙の調整(メーカーの設定とは違っていたにしても)がされてたということかもしれません。

このピアノの以前の状態が良くも悪くも職人の感性も含んだセッティングであったのか…そのあたりはマロニエ君のような素人にはわかるはずもありませんが、ただ、あれはあれでひとつの好ましいバランスがあったというのはおぼろげな印象としてのこりました。要するにそれなりの帳尻は合っていたと云うことでしょうか。

ひとつの事に手を付け始めると、そこから全体がドミノ倒しのように変わっていく(変えざるを得ない)のはピアノ調整で日常的にあることです。このあたりは技術者さんの考え方や作業方針にもよるし、弾く人の好みの問題もあり、ひじょうに判断の難しい点だと思いますね。
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ピアニストの意見

音楽雑誌の記事やメーカーのホームページなどでしばしば目にすることですが、楽器メーカーはピアノの新機種の開発、とりわけコンサート用のピアノの製作にあたっては、かなり積極的に外部の人物の意見や感想などの、いわば聞き取り調査を行っている由で、それらを検討し、反映させながら開発を進めていくのだそうです。

中でも重きを置かれるのがピアニストの意見で、メーカーに招いて試弾をしてもらって、その感想や要望、アドバイスなどを拝聴するというもののようです。

では実際の現場でそれがどの程度の重要性をもっているのかということになると、マロニエ君はそれを見たわけではないのでなんともわかりませんが、少なくともそういうことをしばしばやっていると書いてある文章を何度も目にするので、それならそうなのだろうと思っているわけです。

たしかにピアニストこそは実際にピアノを演奏し、訓練された身体と感性を駆使して直接的に楽器を鳴らす現場人という意味で、メーカーとしても一目置くべき格別な存在であるのは頷けます。演奏者なくしてピアノはピアノの価値や魅力を広くあらわす機会はないわけで、だからこの人達の意見は尊重され、深く受け止められるのは当然だろうとも思います。

ただし、まったくマロニエ君の個人的かつ直感的な意見ですが、だからといって、これも度が過ぎるといかがなものかと思わないでもありません。
ピアニストも様々で、本当にピアノのことをわかっている優秀な人も中には少数いらっしゃいますが、逆な場合が実は大多数だという印象があります。何曲を弾きこなすことは得意でも、楽器としてのメカニズムの知識はまったく素人並みで、それでも自分はピアノの専門家という自負があるので、ときにとんちんかんな意見となり、これはよくよく注意すべきでしょう。

いろいろ耳にすることですが、ピアニストのピアノに対する要望というのは、多くがまったく個人的な事情に基づいたものであることが多いし、中にはとんでもないことを真顔でまくし立てる人もいらっしゃるそうです。とりわけホールのピアノにそういう個人的な感性を要求し、場合によっては元に戻せない状態になってもなんの斟酌もないというのはどういうことかと思います。

ましてや、これが普遍性をもった全体の響き、広い意味での音色、様々な特性を持つホールで、いかに理想的に音が構築され、あらゆる環境に適合する最も理想的に音が鳴り響くかという点においては、ピアニストにそれが適切にわからないのは当然です。

別にピアニストに判断力が頭から無いと云っているのではなく、その分野の判断力は、彼らの専門とは似て非なるものだと云いたいわけです。

だいいちピアニストは誰でも、永久に、自分の生演奏を客席で聴くことはできません。
要するにピアニストの好みと都合で作られたピアノというものが、聴衆にとって理想的な楽器であるとはマロニエ君はどうしても思えないわけで、もちろんメーカーがそういう側面だけでピアノを作っているとは思いませんが、あまりそれに翻弄されないほうが、むしろ素晴らしい楽器が生まれるように感じてしまいます。

優秀な専門家達のコンセンサスと科学の力によって、キズのない、上質な、優等生的な楽器を作ることはチームの力でできるかもしれませんが、果たしてそれで聴く者の魂が真に揺さぶられるかというと、大いに疑問の余地あると思います。

やはり、楽器造りはそれそのものが芸術だとマロニエ君は思いますので、すこぶる優秀な、できれば天才級の製作家が、自ら厳しく追求し判断し最終決定することだとしか思えないのです。煌めく楽器造りのためにはどこかにエゴがあってもいいと思うのですが。
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旧時代の設計

過日、ベーゼンドルファー最小の新機種がでたということを書いたことをきっかけに、あらためて同社のホームページを見てみたのですが、そこには意外なことが書かれていました。

Model 280 の説明文の中に、新型は「鍵盤の長さを低音から高音へと変化させ、それに従うハンマーヘッドの重量配分で最適なバランスを実現」とあるのですが、これまでベーゼンドルファーのアクションなどをしげしげと見たことがなくて知らなかったのですが、わざわざそう書いているということは、旧型のModel 275 では鍵盤は92鍵もあるにもかかわらず、鍵盤の長さはすべて同じだったのか!?と思いました。

ふつうグランドピアノの場合、おおよそですが2m未満の小型グランドの場合、鍵盤の長さ(ハンマーまでの長さ)は全音域で大体同じですが、それ以上のピアノでは低音側がより長くなり、さらにはピアノのサイズ(奥行き)に比例するように、鍵盤全体の長さもかなり長いものとなります。
もちろんそれは鍵盤蓋から奥の、普段目にすることのない部分の長さですから、演奏者にはわかりませんが。

確証がないので何型からということは控えますが、スタインウェイでもヤマハでもカワイでも、中型以上では鍵盤長は低音側がより長くなるというは常識で、これはてっきり現代のモダンピアノの国際基準かと思っていました。

そういう意味では、ベーゼンドルファーは旧き佳き部分があり、それ故の美点もあった代わりに、現代のピアノが備えている基準とは異なる点があって、そこを現代の基準を満たすべく見直すという目的もあったのかもしれませんね。
マロニエ君はいまだに新しいシリーズのベーゼンドルファーは弾いたことがありませんが、これまでに何台か触れることのできたModel 275 やインペリアルは、その可憐でピアノフォルテを思わせるような温かで繊細な音色には感銘を受けながらも、現代のホールなどが要求するコンサートピアノとしてパワーという点では、どちらかというとやや弱さみたいなものを感じていました。

もちろんマロニエ君のささやかな経験をもって、ベーゼンドルファーを語る資格があるとは到底思いませんけれども、それぞれの個体差を含めても概ねそのような傾向があったことは、ある程度は間違いないと思ってもいます。

そのあたりを思い出すと、鍵盤の長さなども旧時代の設計だったのかもしれないと考えてみることで、なんとなくあの発音の雰囲気や個性に納得がいくような気がしてきます。

そういう意味では、新しいモデルがどうなっているのかは興味津々です。
福岡県内にもModel 280 を早々に備えている新ホールがありますが、なにぶんにも距離もあるし、開館前の話ではピアノを一般に解放するイベントも検討中とのことでしたが、なかなか腰も上がらないままに時間が流れました。そのイベント自体も実行されているのかどうかわかりませんが、もしやっているようならいつか確かめに行ってみたいところです。
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楽器の受難

今年8月、堀米ゆず子さんの1741年製のグァルネリ・デル・ジェスが、フランクフルト国際空港の税関で課税対象と見なされて押収されたというニュースは衝撃的でしたが、翌9月にはさらに同空港で有希・マヌエラ・ヤンケさんのストラディヴァリウス「ムンツ」が押収されたと聞いたときには、さらに驚かされました。

「ムンツ」は日本音楽財団の所有楽器でヤンケさんに貸与されており、入国の際の必要な書類もすべて揃っていたというのですからいよいよ謎は深まるばかりでした。

それも文化の異なる国や地域であるならまだしも、よりにもよって西洋音楽の中心であるドイツの空港でこのような事案が起こること自体、まったく信じられませんでした。
しかも税関は返還のためには1億円以上の関税支払いを要求しているというのですから、これは一体どういう事なのかと事の真相に疑念と興味を抱いた人も少なくなかったことでしょう。

その後、幸いにして2件とも楽器は無事に返還されるに至った由ですが、これほどの楽器をむざむざ押収されてしまうときの演奏家の心境を考えるといたたまれないものがありました。
背景となる情報はいろいろ流れてきましたが、そのひとつには高額な骨董品を使ったマネーロンダリング(資金洗浄)への警戒があったということで、途方もなく高額なオールドヴァイオリンは恰好の標的にされたということでしょうか。さらには折からの欧州の不況で、税徴収が強化されている現実もあるという話も聞こえてきます。

それにしても、こんな高額な楽器を携えて、世界中を忙しく飛び回らなくてはいけないとは、ヴァイオリニストというのもなんとも因果な商売だなあと思います。
マロニエ君だったら、とてもじゃありませんが、そんな恐ろしい生活は真っ平です。

その点で行くと、ピアニストは我が身ひとつで動けばいいわけで、至って気楽なもんだと思っていたら、ピアノにもすごいことが起こっていたようです。
そこそこ有名な話のようで、知らなかったのはマロニエ君だけかもしれませんが、あの9.11同時多発テロ発生の後、カーネギーホールでおこなわれるツィメルマンのリサイタルのためにニューヨークに送られたハンブルク・スタインウェイのD型が税関で差し押さえられ、そのピアノは返却どころか、なんと当局によって破壊処分されたというのですから驚きました。

破壊された理由は「爆発物の臭いがしたから」という、たったそれだけのことで、詳しく調べられることもないままに処分されてしまったというのです。関係者の話によれば、塗料の臭いが誤解されたのでは?ということですが、なんとも残酷な胸の詰まるような話です。

この当時のアメリカは、どこもかしこもピリピリしていたでしょうし、とりわけ出入国の関連施設は尋常でない緊張があったのはわかりますが、それにしても、そこまで非情かつ手荒なことをしなくてもよかったのでは?と思います。
現役ピアニストの中でも、とりわけ楽器にうるさいツィメルマンがわざわざ選び抜いて送ったピアノですから、とりわけ素晴らしいスタインウェイだったのでしょうが、当局の担当者にしてみればそんなことは知ったこっちゃない!といったところだったのでしょう。

そのスタインウェイに限らず、この時期のアメリカの税関では、似たような理由であれこれの価値あるものがあらぬ疑いをかけられ、この世から失われてしまったんだろうなぁと思うと、ため息が出るばかりです。
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信頼できる技術者

現在、ヤマハのアーティストサービス東京に在籍される曽我紀之さんは、ピリスやカツァリス、仲道郁代さんなど多くのピアニストから絶大な信頼を寄せられるヤマハのピアノ技術者でいらっしゃるようで、マロニエ君もたまに雑誌などでそのお名前を目にすることがありました。
小冊子「ピアノの本」を読んでいると、その曽我さんのインタビューがありました。

それによると、なるほどなぁと思わせられたのが、曽我さんがヤマハのピアノテクニカルアカデミーの学生だった頃に、『調律は愛だ。愛がなければ調律はできない。』というのが口癖の先生がいらしたとのこと。
当時の曽我さんたちは、それを冗談だと思って笑って聞いていたそうですが、今ではその意味がわかるとのこと。

これは素人考えにもなんだか意味するものがわかるような気がします。
調律に愛などと言うと、なんだか意味不明、ふわふわして実際的な裏付けがない言葉のような印象がありますが、調律という仕事は甚だ繊細かつ厳格であるにもかかわらず、ある段階から先はむしろ曖昧な、明快な答えのない感覚世界に身を置くことになるような気がします。
このインタビューでも触れられていましたし、通説でもあるのは、同音3本の弦をまったく同じピッチに合わせると、正確にはなっても、まったくつまらない、味わいのない音になってしまいます。

そこでその3本をわずかにずらすというところに無限性の世界が広がり、味わいや深みや音楽性が左右されるとされていますが、いうまでもなくやり過ぎてはいけないし、その精妙なさじ加減というのはまさに技術者の経験とセンスに基づいているわけです。それは、云ってみれば技術者の仕事が芸術の領域に変化する部分ということかもしれません。
そのごくわずかの繊細な領域をどうするのか、なにを求めてどのように決定するか、その核心となるものをその先生は「愛」と表現されたのだと思います。

この曽我さんの話で驚いたのは、彼には技術者としての理想像となる方がおられたそうで、その方はピアノ技術者ではなく、なんとかつての愛車のメンテナンスをやってくれた自動車整備士なんだそうです。
しかもその愛車というのはマロニエ君が現在も腐れ縁で所有しているのと同じメーカーのフランス車で、信頼性がそれほどでもないところにもってきて非常に独創的な設計なので、なかなかこれを安心して乗り回すことは至難の技なのですが、曽我さんはその人に格別の信頼を寄せていて、「彼がいる限りこの車でどこに出かけても大丈夫だと思っていることに気がついた」のだそうです。
そして、自分もピアノ技術者として、ピアニストにとってそのような存在でありたいと思ったということを語っておられます。

マロニエ君もふと自分のことを考えると、2台それぞれのピアノと、ヘンなフランス車、そのいずれにも非常に信頼に足る素晴らしい技術者がついてくれている幸運を思い出しました。このお三方と出逢うのも決して平坦な道ではなく、回り道に次ぐ回り道を重ねた挙げ句、ついにつかまえた人達です。

この3人がいなくなったら、今のマロニエ君はたちまち不安と絶望の谷底に突き落とされること間違い無しです。お三方ともそれぞれにとても個性あふれる、やや風変わりな方ばかりで、相性の悪い人とは絶対に上手くいかないようなタイプですが、本物の仕事をされる方というのは、えてしてそういうものです。
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Model 155

ベーゼンドルファーは、製品ラインナップを長い時間をかけながら順次新しい設計のモデルに切り替えているようで、現在生産モデルは新旧のモデルが入り乱れているというのはいつか書いたような覚えがあります。

そんな中で最大のインペリアルは古いモデルの生き残りのひとつであると同時に、今尚ベーゼンドルファーのフラッグシップとしての存在でもありますが、あとは(マロニエ君の間違いでなければ)Model 225を残すのみで、それ以外は新しい世代のモデルに切り替わってしまっているようです。

新しいシリーズでは、ベーゼンドルファーの大型ピアノで見られた九十数鍵という低音側の鍵盤もなくなり、現在のコンサートグランドであるModel 280では世界基準の88鍵となるなど、より現実的なモデル展開になってきているようです。いまさら88鍵に減らすというのは、従来の同社の主張はなんだったのかとも思いますが、ある専門業者の方の話によると、さしものベーゼンドルファーも新世代はコストの見直しを受けたモデルだとも言われています。

どんなに世界的な老舗ブランドとはいっても、営利を無視することはできないわけで、それは時勢には逆らえないということでしょう。完全な手作り(であることがすべての面で最上であるかどうかは別として)であり、生産台数も少なく、製造番号も「作品番号」であるなど、高い品質と稀少性こそはベーゼンドルファーの特徴であるわけですが、そんなウィーンの名門にさえ合理化の波が寄せてくるというのは、世相の厳しさを思わずにはいられません。

そんな中にあって、つい先月Model 155という小型サイズのグランドが新登場して、これはスタインウェイでいうSと同じ奥行きが155cmという、かなり小型のグランドピアノです。ヤマハでいうとC1の161cmよりもさらに6cm短く、日本人の考えるグランドピアノのスタンダードとも言うべきC3の186cmに較べると、実に31cmも短いモデルということになり、このあたりがいわゆるグランドピアノの最小クラスということになるようです。

この一番小さなクラスが加わったことで、ベーゼンドルファーのグランドは大きさ別に8種ということになり、そのうちすでに6種が新世代のピアノになっているようです。
合理化がつぶやかれるようになっても、お値段のほうは従来のものと遜色なく、この一番小さなModel 155でさえ外装黒塗り艶出しという基本仕様でも840万円という、大変なプライスがつけられていますが、どんな音がするのやらちょっと聴いてみたいところです。

マロニエ君は以前から思っていることですが、メーカーは各モデルで演奏したCDを音によるカタログとして作ったらいいのではないかと思います。
もちろん楽器のコンディションや録音環境、演奏者によっても差が出ると言われそうですが、しかしそれでもすぐに現物に触れられない人にとっては、ひとつの大きな手がかりにはなる筈です。
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表情過多

昨年6月にパリのサル・プレイエルでおこなわれたパリ管弦楽団演奏会の様子が放送されました。
指揮は日本人の若手で注目を集める(らしい)山田和樹で、曲はルスランとリュドミーラ序曲、ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの悲愴というオールロシアプログラム。

山田さんは芸大の出身で小林研一郎の弟子、2009年のブザンソンコンクールの優勝者とのことで、このコンクールで優勝する日本人は意外に少なくなく、その中で最も有名なのが小沢征爾だろうと思います。

マロニエ君は実は山田さんの指揮を目にするのは(聴くのも)初めてだったのですが、いろいろな感想をもちました。演奏は、現代の若手らしく精緻で隅々にまで神経の行き届いた、いかにもクオリティの高いものだと思いますし、とくにこの日はロシア物とあってか、パリ管も最大級の編成でステージに奏者達があふれていましたが、その演奏は完全に山田さんによって掌握されたもので、どこにも隙のない引き締まった演奏だったと思います。とりわけアンサンブルの見事さは特筆すべきものがあったと思います。

ただ、そこに音楽的な魅力があったかということになると、少なくともマロニエ君にはとくにこれといった格別の印象はなく、悲愴などでは、どこもかしこも、あまりに細部まで注意深く正確に演奏しすぎることで流れが滞り、これほどの有名曲にもかかわらず、却ってどこを聴いているのかわからなくなってくるような瞬間がしばしばありました。
そういう意味では、山田さんに限ったことではないかもしれませんが、今どきの演奏はクオリティ重視のあまり作品の大きな輪郭とか全体像というような点に於いては逆にメリハリの乏しいものに陥ってしまっている気がします。ひたすらきれいに仕上がったピカピカの立派なものを見せられているようで、もっと率直に本能的に音楽を聴いて、その演奏に心がのせられてどこかに連れて行かれるような喜びがない。

ちょっと気になったのは、山田さんの指揮するときのペルソナは、いささか過剰ではないかと思えるような情熱的・陶酔的な表情の連続で、これは少々やりすぎな気がしました。
指揮の仕方もどこか師匠の小林研一郎風ですが、彼の風貌および年齢ではそれが板に付かないためか演技的になり、いちいち目配せして各パートを指さしたり、恍惚や苦悩、歓喜や泣き顔などの連発で、いかにも音楽しているという自意識が相当に働いているようで、あまり好感は得られませんでした。

マロニエ君の私見ですが、そもそも演奏中の仕草や顔の表情が過剰な人というのは、パッと見はいかにも音楽に没頭し、味わい深い誠実な演奏表現をしているように見えがちですが、実際に出てくる音楽とは裏腹な場合が少なくありません。ヨー・ヨー・マ、小山実稚恵、ラン・ランなど、どれも音だけで聴いてみるとそれほどの表情を必要とするほどの熱い演奏とは思えず、むしろビジュアルで強引に聴衆の目を引き寄せる役者のようにも感じてしまいます。
小山さんなども、その表情だけを見ていると、あたかも音楽の内奥に迫り、いかにも深いところに没入しているかのようですが、実際はサバサバと事務仕事でも片づけるようなドライな演奏で、その齟齬のほうに驚かされます。

ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲では、ジャン・イヴ・ティボーデが登場しましたが、このピアニストもこの曲も、昔からあまりマロニエ君の好みではないので、とりあえずお付き合い気分で第1楽章だけ聴きましたが、あとは悲愴へ早送りしてしまいました。
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驚愕の模型

模型を作る人達のことを、俗に「モデラー」というようですが、この人達の作り出す作品の凄さには、子供のころから人一倍強い憧れを持っていたマロニエ君です。
どれほどガラスケースの外側からため息を漏らしたことか…。

マロニエ君はもっぱら完成したものを眺め尽くすのが好きなクチで、とても自分からその世界に入って、自らから挑戦してみようなどと思ったことはありませんでした。これはきっと自分の特性には合わない世界であり、たぶん無理だということを本能的に感じていたからだろうと思います。

それでも、飛行機やお城などの完成模型を欲しいと思ったことは何度あったか。でも完成模型というのはいつも「非売品」で買ったことは一度もありませんし、もし売られることがあっても、相当に高額なものになるに違いないでしょう。
いちおうはプラモデルなども相当数作りましたが、その出来はとても自分が満足できるようなものではありませんし、それでも自分の技術を高めようという思いにはついに至りませんでした。

あるとき、なにげなくネットを見ていると、「ピアノを作ろう!」というブログに行き当たりました。これまでに見たこともないフレーズで、しかも「1/10で」となっているのは、はじめは何のことやらまったく要領を得ませんでした。

さっそく見てみると、なんとその方はスタインウェイのD型(コンサートグランド)の1/10のサイズの模型を数年かけて作られたようで、その製作の過程や、完成後の動画などが見られるようになっていましたが、そのあまりにも見事な出来映えには、ただただ驚き、感銘さえ覚えました。
ディテールなどもここまでできるものかと思うほど忠実で、ぱっと見た感じは、写真の撮り方によっては本物に見えてしまう可能性が十二分にあるほど、それは抜群によくできています。

もちろんプラモデルなどではなく、すべて自分で型を取るなどされて、100%手作りによってここまで完成度の高いものが作り出せるという、その技と情熱には驚きと敬服が交錯するばかりです。
ここまで精巧なピアノの模型というのは初めて見ましたが、これまでのマロニエ君の経験では、よくできた車や飛行機の模型でさえ、ディテールの細かな形状が不正確であったり、全体のシルエットにちょっと違和感があったりと「残念」が散見されるのが普通ですが、このスタインウェイにはまったくそういったところがないのです。

なんでも一台完成させるのに5年近くを要されたとのことで、それも驚きですが、その作品は完成後まもなくさるピアニストのところへ行ってしまい、現在は2台目を制作中とのことですが、その制作過程からも窺える見事さにはまったく呆れるほかはありません。

さっそくその作者の方と連絡を取って、リンクの承諾を得ていますので、論より証拠、どうぞみなさんもその素晴らしい作品をみてください。
リンクページの一番下に『ピアノを作ろう!1/10で』というのがあります。
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CXシリーズ

ヤマハのグランドピアノのレギュラーシリーズとして、長年親しまれてきたCシリーズがこのほどモデルチェンジを行い、新たに「CXシリーズ」として発売開始されたようです。

サイズごとの数字がCとXの間に割って入り、C3X、C7Xという呼び方になりました。
外観デザインも何十年ぶりかで変更になり、鍵盤両サイドの椀木の形状はじめ、足やペダル部分のデザインはCFXに準じたものとなっています。個人的にはどう見ても(登場から2年経ちますが)美しさがわからないあのデザインがヤマハの新しいトレンドとなって、今後ラインナップ全体に広がっていくのかと思うと、なんとはなしに複雑な気分になってしまいます。

先週ヤマハに行ったとき、はやくもこの新シリーズの人気サイズになるであろうC3Xの現物を目にしたのですが、正直いってあまりしっくりきませんでした。
しかも一見CFシリーズと同じデザインのように見せていますが、よく見ると椀木(鍵盤の両脇)のカーブはえらく鈍重で、足も、ペダルの周辺も微妙に形が違っており、これはあくまでレギュラーモデルであることを静かに、しかしはっきりと差別化されていることがわかります。
決してCFシリーズと同じディテール形状なのではなく、あくまで「CFシリーズ風に見せかけたもの」でしかないことは事実です。

いずれにしろ、新型の意匠はどことなく、今やヤマハの子会社であるベーゼンドルファー風であり、より直接的に酷似しているのはドイツのグロトリアンのような気がします。
とりわけヤマハのC6Xとグロトリアンの同等サイズ(チャリス)、C7Xと同等サイズ(コンチェルト)は全体のフォルムまでハッとするほど似ているとマロニエ君には思われて仕方がありません。

もうひとつ、C3Xの現物の内部をのぞいてドキッとしたのがフレームの色でした。近年のヤマハのグランドのフレームは、シックで美しい金色だったのですが、それがCXシリーズでは、一気に赤みの強い金になり、この点も弦楽器のニスの色に近いとされるベーゼンドルファーの色づかいをヒントにしたのかとも思ってしまいますが、それにしても色があまりにもハデで、ちょっと戸惑います。

この色、見たときまっ先に連想したのは、ウィーンの出自という名目で、現在は中国のハイルンピアノで生産されている格安ピアノのウエンドル&ラングのそれでした。
ウエンドル&ラングの赤味の強いフレーム色は、中国的なのか、ちょっと日本人には抵抗のある色だと思っていたところへ、なんとヤマハが似たような色になったのは驚きでした。

全体的には、そこここに昔(Cシリーズ)のままの部分も多く、マロニエ君の目には要するにちぐはぐで中途半端な印象でしかなく、なんとなく釈然としないものを感じるばかりでした。
なかでも足の形などは、シンプルというより、ただの3本の棒がボディを支えて、下には車輪がついているだけのようで、その造形の良さや狙いが那辺にあるのか、これはデザインなのかコストダウンなのか、一向に理解できないでいます。

本当にその気があれば、もっとヤマハらしい個性に沿った美しいピアノのデザインというものはいくらでも作り出せたのでは…と思うと残念です。
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診断力

ピアノ好きの知人が、自宅のスタインウェイの調整に新しい技術者の方を呼ばれることになり、その作業の見学にということでマロニエ君もご招待をいただいたので日曜に行ってきました。

狭い業界のことなので、あまり具体的なことは書けませんが、その方はお仕事のベースは福岡ではなく、依頼がある毎にあちこちへと出向いて行かれるとのことでしたが、地元でもいくつものホールピアノを保守管理されている由で、周りからの信頼も厚い方のようでした。

作業開始早々から、あまり張り付いて邪魔をしてもいけないと思い、マロニエ君は4時過ぎぐらいから知人宅へと赴きましたが、到着したときはすでに作業もたけなわといったところでした。
はじめてお会いする技術者さんですが、事前にマロニエ君が行くことは伝わっていたらしく、とても快く受け容れてくださり、作業をしながらいろいろと興味深い話を聞くことができました。

また、このお宅にあるピアノに対する見立てもなるほどと思わせられるところがいくつもあり、当然ながらその診断によって作業計画が立てられ、仕事が進められるのは云うまでもありません。つくづくと思ったことは、技術者たる者のまずもって大切な事は、何が、どこが、どういう風に問題かという状況判断が、いかに短時間で適切に下せるかというところだと思いました。
作業の内容や方向は、すべてこの初期判断に左右されるからです。

どんなに素晴らしい作業技術の持ち主であろうと、事前に問題を正しく見抜く診断能力が機能しなくては、せっかくの技術も意味をなしません。いまだから云いますが、マロニエ君も昔はずいぶん無駄な労力というか、不適切だと思われる作業を繰り返されて、こんな筈では…とさんざん苦しんだこともありました。そんなことをいくら続けても、決して良い結果は得られるものではないのですが、技術者というものは誰しも自分のやり方やプライドがあり、とりわけ名人と言われるような人ほどそうなので、そういうときは無理な要求はせず、思い切って人を変えるしか手立てはありません。

ピアノに限りませんが、技術者が問題点を見誤って、見当違いの作業をしても、依頼者はシロウトでそれを正す力も知識もないまま、納得できない結果を受け容れる以外にありません。少しぐらい疑問点をぶつけても、相手はいちおうプロですから、あれこれと専門用語を並べて抗弁されると、とてもかないませんし、おまけに「仕事」をした以上、依頼者は料金を支払う羽目になるわけで、こういう成り行きは甚だおもしろくありません。

そういう意味では、技術者の技術の第一のポイントは「診断力」であるといっても過言ではないと思われます。これさえ正しければ、結果はそれなりについてくるように思われます。とりわけ専門的に鍛え上げられた鋭い耳と、指先が捉えるタッチの精妙さは(ピアノの演奏はできなくても)、いずれも高度に研ぎ澄まされたカミソリのようでなくてはならないと思いました。

それなくしては、作業の目的も意味も立ちませんし、これを取り違えると核心から外れた作業をせっせとすることになりますが、この日お会いした方は、この点でまずなかなかの鋭い眼力をお持ちのようにお見受けしました。
驚いたことは、調律の奥義の部分になると、使う工具(チューニングハンマー)によって、作り出す音が変わってくるということでした。なんとも不思議ですが、きっとチューニングハンマーにも「タッチ感」みたいなものがあるんでしょうね。

素晴らしいピアノ技術者さんと新たに知り合うことができたことは望外の喜びですし、それはピアノを弾く者にとってはなによりも心強い存在で、有意義な一日でした。
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アヴデーエワ追記

ユリアンナ・アヴデーエワのことを商業主義に走らない本物のピアニストと見受けましたが、それはショパンコンクール後の彼女の動静を見てもわかってくるような気がします。

大半のピアニストはコンクールに入賞して一定の知名度を得たとたん、このときを待っていたとばかりに猛烈なコンサート活動を始動させ、大衆が喜びそうな名曲をひっさげて世界中を飛び回り始めます。中でも優勝者は一層その傾向が強くなります。そして大手のレコード会社からは、一介のコンクール出場者から一躍稼げるピアニストへと転身した証のごとく、いかにもな内容のCDが発売されるのが通例です。

ところが、アヴデーエワにはまったくそのような気配がありません。
コンサートはそれなりにやっているようですが、他の人に較べると、その内容は熟考され数も制限しているように見受けられますし、CDに至っては、まだ彼女の正式な録音と言えるものは皆無で、どこかのレーベルと契約したという話も聞こえてきません。
すでにショパンコンクールの優勝から2年が経つというのに、これは極めて異例のことだといえるでしょう。同コンクールに優勝後、待ち構えるステージに背を向けて、もっぱら自らの研鑽に励んだというポリーニを思い出してしまいます。しかもポリーニのように頑なまでのストイシズムでもないところが、アヴデーエワの自然さを失わない自我を感じさせられます。

とりわけ現代のような過当競争社会の中で、ショパンコンクールに優勝しながら、商業主義を排し、自分のやりたいようなスタイルで納得のいく演奏を続けていくというのは、口で言うのは簡単ですが、実際なかなかできることではありません。それには、よほどのゆるぎない信念が不可欠で、芸術家としての道義のあらわれのようにも思われます。

選ぶピアノもしかりで、ショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾き続けた彼女でしたし、ヤマハを弾いて優勝者が出たというのも同コンクール史上初のできごとでした。折しもヤマハは新型のCFXを作り上げ、国際舞台にデビューさせたとたんヤマハによる優勝でしたから、きっと同社の人達は嬉しさと興奮に身震いしたことでしょう。これから先は、この人がヤマハの広告塔のようになるのかと思うと、内心ちょっとうんざりしましたが、事実はまったく違っていました。
まさかヤマハがさまざなオファーをもちかけなかったというのは、ちょっと常識では考えにくいので、アヴデーエワがそれを望まなかったとしか考えられません。

事実、コンクール直後の来日コンサートをはじめとして、その後のほとんどの日本公演では、さぞかし最高に整えられたCFXが彼女を待ち構えているものと思いきや、なんと予想に反してスタインウェイばかり弾いています。あれだけヤマハを弾いて優勝までしたピアニストが、ヤマハの母国にやって来てスタインウェイを弾くというのも見方によっては挑戦的な光景にさえ見えたものです。
さりとて、まったくヤマハを弾かないというのでもないようで、要するにいろいろな事柄に縛られて、ピアニストとしての自分が無用の制限を受けたくない、楽器もあくまで自由に選びたいということなんだろうと思います。
現に昨年の日本公演の重量級のプログラムなどは、ヤマハではちょっと厳しかっただろうと思われ、スタインウェイであったことはいかにも妥当な選択だった思います。

これはピアニストとして最も理想的というか、本来なら当たり前の在り方だと思いますが、それを実行していくのは並大抵ではない筈で、アヴデーエワがまだ20歳代のようやく後半に差しかかった年齢であることを考えると、ただただ大したものだと思うしかありません。
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感動のアヴデーエワ

一昨年のショパンコンクールの映像やCDを見聞きしてもピンとくるものがなく、さらには優勝後すぐに来日してN響と共演したショパンの1番のコンチェルトを聴いたときには、ますますどこがいいのか理解に苦しんだユリアンナ・アヴデーエワですが、彼女に対する評価が見事にひっくり返りました。

BSで放送された昨年11月の東京オペラシティ・コンサートホールでのリサイタルときたら、そんなマイナスの要因が一夜にして吹っ飛んでしまうほどの圧倒的なものでした。

曲目はラヴェルのソナチネ、プロコフィエフのソナタ第2番、リスト編曲のタンホイザー序曲、チャイコフスキーの瞑想曲。当日はこのほかにもショパンのバルカローレやソナタ第2番を弾いたようですが、テレビで放映されたのはすべてショパン以外の作品で、そこがまたよかったと思われます。

どれもが甲乙つけがたいお見事という他はない演奏で、久々に感銘と驚愕を行ったり来たりしました。やはりロシアは健在というべきか、最近では珍しいほどの大器です。

あたかも太い背骨が貫いているような圧倒的なテクニックが土台にあり、そこに知的で落ち着きのある作品の見通しの良さが広がります。
さらには天性のものとも思える(ラテン的でも野性的でもない)確かなビート感があって、どんな場合にも曲調やテンポが乱れることがまったくない。政治家の口癖ではないけれども、彼女のピアノこそ「ブレない」。

どの曲が特によかったと言おうにも、それがどうしても言えないほど、どの作品も第一級のすぐれた演奏で、まさに彼女は次世代を担うピアニストの中心的な存在になると確信しました。
こういう演奏を聴くと、ショパンコンクールでのパッとしない感じは何だったのだろう…と思いつつ、それでも審査員のお歴々が彼女を優勝者として選び出した判断はまったく正しいものだったと今は断然思えるし、やはり現場に於いてはそれを見極めることができたのだろうと思います。

アヴデーエワに較べたら、彼女以外のファイナリストなんて、ピアニストとしての潜在力としてみたらまったく格が違うと言わざるを得ません。その後別の大コンクールで優勝した青年なども、まったく近づくことさえできないようなクラスの違いをまざまざと感じさせ、成熟した大人の演奏を自分のペースで披露しているのだと思います。

彼女の演奏は、ピアノというよりも、もっと大きな枠組みでの音楽然としたものに溢れていて、器楽奏者というよりも、どことなく演奏を設計監督する指揮者のような印象さえありました。
良い意味での男性的とも云える構成力の素晴らしさがあり、同時に女性ならではのやさしみもあり、あの黒のパンツスーツ姿がようやく納得のいく出で立ちとして了解できるような気になりました。

さらには、いかなる場合にもやわらかさを失わない強靱な深いタッチは呆れるばかりで、どんなにフォルテッシモになっても音が割れることもないし、弱音のコントロールも思うがまま。しかも基本的には、きわめて充実して楽器を鳴らしていて、聴く者を圧倒する力量が漲っていました。芯のない音しか出せないのを、叩きつけない音楽重視の演奏のようなフリをしているあまたのピアニストとはまったく違う、本物の、心と腹の両方に迫ってくる大型ピアニストでありました。

それにしても、他のピアニストは大コンクールに入賞すると、ぞくぞくとメジャーレーベルと契約して新譜が発売されるのに、アヴデーエワはショパンコンクールのライブと、東日本大震災チャリティーのために急遽作られたライブCD以外には、未だこれといった録音がなく、そのあたりからして他の商業主義と手を結びたがるイージーなピアニストとは一線を画していて、あくまでも独自の道を歩んでいるようです。

ああ、実演を聴いてみたい…。
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調律師という言葉

家庭のピアノにおけるピアノの調整について少し補足を。

いまさらですが、ピアノの健康管理に欠かせないのは、技術者による入念な調律・整調・整音の各作業、およびオーナーによるピアノを置く場所の温湿度管理という2つが大きいと思われます。

この際、調律を何年もしないような人は論外として、一般的にピアノに必要なケアといえば年一回の調律だと思い込んでいる人は少なくありませんし、これが大半だろうと思います。
したがって多くのピアノが本格的な整調・整音などの作業を受けないないまま、長年に渡って使われて、やがて消耗していくようです。

この作業がおこなわれないのは、決して技術者の怠慢というわけではありません。
人によっては調律だけを短時間で済ませて、他のことは一切手出しをしないで、さっさと帰ってしまう儲け主義の方もあるとは聞きますが、マロニエ君の知る範囲でこの手の方は皆無で、みなさんピアノに対する理想理念をお持ちの良心的かつ強い技術者魂のある方ばかりです。

整調や整音が正しく理想的におこなわれない理由は、ひとことで言うと、その必要性がピアノの持ち主にほとんど認識されていない点にあると思います。極端な話、これらをまともにやろうとすれば、調律どころではない時間と手間がかかり、料金もそれに応じたものになるので、とても現実的に浸透しないのでしょう。

多くのピアノユーザーの認識は、調律師さんにきてもらってやってもらうのは文字通りの「調律」なのであって、それ以外の調整なんて、ついでにサービスでちょこちょこっとやってもらうもの…ぐらいなものです。
だから調律師さんサイドでも、要請もない、調律以上に大変な仕事をすることはできず、ましてやそのために調律代以外の技術料を請求することもできないというジレンマがあると思われます。
いっそ明確な故障とかなら別ですが、ピアノは少々タッチに問題があっても弾けないということはほとんどなく、整音に関しても同様の範疇にあるので、時間的にもコスト的にも、なかなか仕事として成り立たないというのが現実だろうと思います。

そもそも、まず一番いけないのは「調律師」という言葉ではないでしょうか。
この名称では、あたかも調律だけをする人というイメージで、はじめから仕事内容を規定してしまっているように思います。つまり調律師という言葉の概念が先行して、本来の正しい仕事に制限を与えてしまったということかもしれません。

かくいうマロニエ君も、慣習にならってつい調律師さんと言ったり書いたりしていますが、やはり本来は「ピアノ技術者」もしくは、もうちょっと今風にいうなら「ピアノドクター」などでなくてはいけないような気がします。

英語ではTunerというようですが、そこにはきっと「調律」にとどまらない、もっと広義の意味が含まれているような気がするのですが…。
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調整の賜物

「ニューヨークスタインウェイの音にはドラマがある」ということで思い出しましたが、マロニエ君が塩ビ管スピーカーの音を聴きに行った知人のお宅には、実はニューヨークスタインウェイがあるのです。

この日は、あくまでスピーカーの音を聴かせてもらうことが目的でしたから、前半はそちらに時間を費やしましたが、それがひと心地つくと、やはりピアノも少しということになるのは無理からぬことです。

今回驚いたのは、その著しいピアノの成長ぶりでした。
このピアノは比較的新しい楽器で、以前は、強いて言うならまだ本調子ではない固さと重さみたいなものあり、タッチやペダルのフィールもまだまだ調整の余地があるなという状態でした。
といっても、納入時には調律や調整などをひととおりやっているわけで、それでピアノとして特に何か問題や不都合があるというわけではなく、普通なら取り立てて問題にもならずに楽しいピアノライフが始まるところでしょう。

しかし、オーナー氏は早くもそこに一定の不満要因を見出しており、その言い分はマロニエ君としてもまったく同意できるものでした。
マロニエ君として伝えたアドバイス(といえばおこがましいですが)は、これを解決するには再三にわたって粘り強く調整を依頼して、それでもダメな場合には技術者を変えるぐらいの覚悟をもってあたるということでした。
そもそもピアノの整調(タッチなどアクションや鍵盤の精密な調整)は、家庭のピアノでは慣習として調律の際についでのようにおこなわれることがせいぜいで、それはあくまでもサービス的なものなのでしかなく、当然ながらあまり入念なことはやらないのが普通です。

しかし、ピアノを本当に好ましい、弾いていて幸福を感じるような真の心地よさを実現するための、最良の状態にもっていくには、整調は絶対に疎かにしてはならないことですし、作業のほうもこの分野を本腰を入れてやるとなると、調律どころではない時間と手間がかかります。

そのために、整調を調律時のサービスレベルではなく、それをメインとして作業をして欲しいということを伝えたようで、そのために調律師さんは数回にわたってやって来たそうです。
数回というのは、一回での時間的な限界もあるでしょうし、その後またしばらく弾いてみて感じることや見えてくることもあるからで、どうしても望ましい状態に到るには、とても一日で終わりということにはならないだろうと思います。

そんな経過を経た結果の賜物というべきか、ピアノは見違えるような素晴らしい状態に変身していました。

まずタッチが格段に良くなり、なめらかでしっとり感さえ出ていましたし、以前はちょっと使いづらいところのあったペダルも適正な動きに細かく調整されたらしく、まったく違和感のない動きになっています。
そして、なにより驚いたのは、その深い豊かな音色と響きの素晴らしさでした。
ハンブルクスタインウェイの明快でブリリアントなトーンとはかなり異なるもので、どこにも鋭い音が鳴っているわけではないのに、ピアノ全体が底から鳴っていて、良い意味での昔のピアノのような深みがありました。

このピアノは決してサイズが大きいわけではないのですが、その鳴りのパワーは信じられないほどのものがあり、あらためてすごいもんだと感銘を受けると同時に、このピアノの深いところにある何かが演奏に反映されていくところに触れるにつけ、過日書いた別の技術者の方の「ドラマがある」という言葉の意味が、我が身に迫ってくるような気がしました。

やはり誠実な技術者の手が丹念に入ったピアノは理屈抜きにいいものですし、すぐれた楽器には何物かが棲みついているようです。
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ドラマがある

いつも思いついたように電話をいただくピアノ店のご主人にして技術者の方がいらっしゃいますが、この方は昔から米独それぞれのスタインウェイをずっと手がけておられます。

以前はニューヨークのスタインウェイにも、ハンマー交換の際にはご自身の経験と考えに基づいて、敢えてハンブルク用のハンマーを付けるといった、この方なりの工夫をしていらっしゃいました。
いまさらですが、この米独ふたつのスタインウェイには様々な違いがあり、ハンマーもそのひとつで、むしろここは著しく異なる部分といっていいようです。

ドイツ製の硬く巻かれたハンマーを、針刺しでほぐしながら音を作っていくハンブルクスタインウェイに対して、ニューヨーク用の純正ハンマーは巻きそのものがやわらかく、それを奏者が弾き込みながら、時には技術者が硬化剤を使いながら音を作っていくというもので、そもそもの出発点というか、成り立ちそのものがまったく違うハンマー理論に基づいているようです。

この技術者の方がニューヨークスタインウェイにもハンブルクのハンマーを使っていた理由は、とくに聞いたわけではありませんが、マロニエ君の想像では、やはりくっきりとした輪郭のある音を求めた結果ではないかと思っています。
この試みは、ある一定の効果は上がっていたようにも思いますが、では双手をあげて成功だったか?というと、その判定はひじょうに難しく、少なくとも、ある要素を獲得したことの引き換えに、失ったものもあったようにも思いますが、何かを断定することまではマロニエ君にはできません。

それが、いつごろからだったか定かではありませんが、ニューヨーク製にはニューヨーク用の純正ハンマーを使われるようになりました。きっと好ましい状態のオリジナルハンマーをもったニューヨークスタインウェイに触れられたことで何か心に深く触れるところがあったからではないかと思います。

その深く触れるところがなんであったのかはともかく、ニューヨークの純正ハンマーには他に代え難い良い点があることに開眼されたのは確かなようでした。とくにピアノとの相性という点で格別なものがあったらしく、その点への理解をこのところ急速に深められ、最近も一台仕上がったピアノがやはりニューヨーク製で、思いもよらないような独特の響きを醸し出すことに、誰よりもまず、ご自身が深い感銘を受けておられる様子でした。

音にはことのほか拘りがあり、その面での執拗な探求者でもあるこの方は、一気にニューヨーク製の音色の素晴らしさを悟り、お客さんの家にある何度も触れてきたピアノからも、今また新たな感銘を受けておられるようです。
たしかに、人間の感性というものは不思議なもので、理解の扉というものは突然開くようなところがあり、そのあとは雪崩を打つように広まっていくという経験は誰しもあることです。

それからというもの、すっかりニューヨークの音色や響きに魅せられておられるようで、抑えがたい興奮を伴いながら電話口から聞こえた言葉は「ニューヨークの音にはドラマがある!」というものでした。
たしかに全般的に響きがやわらかいぶん、温かみがあり、今どきのキラキラした音とはまったく違う価値観の音であり、音がゆらゆらと立ちのぼっていくのがニューヨークスタインウェイの特徴のひとつだろうと思います。

その店には、すでに次なるB型も到着した由ですが、曰く、そのB型にはそのニューヨーク製が備えているべき味がまったく失われている由。上記の仕上がったピアノと併せて、ぜひ見に来るようにとの再三のお言葉ですので、今度は思い切って行ってみようかと思っています。
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練習用には

我が家のピアノのハンマーヘッドに1gほどのウェイトを追加したことで、タッチ/音色ともに激変して驚いたことはマロニエ君の部屋に書いた通りですが、いらいひと月以上が経過しましたが、予想に反して今でもそのままの状態を続行しています。

音も太くなって気分がいいし、腰砕けな指をわずかなりとも鍛える良いチャンスだとも思っているわけで、ある一面においては、このように楽ではないタッチのピアノで練習するというのも一片の意味はあるように思うこの頃です。

弾きやすいことだけを主眼に置いたピアノでは、練習の中のひとつの要素である肉体的鍛錬という点でいうと、身体は必要以上のことはしないので、目の前にあるピアノが弾きやすい分だけ、指は逞しさを失っていくという事実はあると思うようになりました。
もちろんマロニエ君のようなアマチュアのピアノ好きにとっては、指の逞しさがあろうがなかろうが、大勢に影響はないわけですが、それでも、まがりなりにも弾くという行為に及ぶ上においては、少しでも余裕を持って弾くことが出来るなら、やっぱりそれに越したことはないわけです。

このひと月半というもの、以前よりもずっと重い鍵盤に耐えながら弾いていると、やはりそれだけ指に力が付くらしく、別のピアノを弾いてみたときに、遙かに楽に、余裕を持って弾けるということがわかり、まあこれは至極当然のことではあるでしょうが、やはり身体というものは甘やかさず適度に鍛えなくてはいけないということを痛感した次第です。

もちろんピアノの練習とは指運動だけではなく、フレーズの繊細な歌い方や、デュナーミクにおけるタッチコントロールの多彩さなど、あらゆる要素が複雑に絡み合っているわけですから、一元的な要素だけでものを云うわけにはいかないことはわかっているつもりです。
一例を云うと、長年、鈍感なピアノで練習してきた人は、やはり耳も感性も鈍感なのであって、ドタ靴で走り回るような演奏を疑いもせず繰り広げてしまうことは珍しくありません。自分の出している音を常に聴いて、そこに注意を払う習慣を養うためには、タッチに敏感なデリケートな楽器に慣れ親しんできた人のほうが強味です。
しかし、その点ばかりを音楽原理主義のようにいっていると、やはり指のたくましさは必要最小限に留まり、どうしても筋力に余裕がなくなるのは否めないと、今あらためて思います。

とりわけピアニストは、普段の練習用のピアノがあまりに楽々と弾けてしまう楽器だとすれば、どうしても身体はそのフィールを中心としてしか反応しなくなり、さまざまなピアノにまごつくことなく対応する能力が落ちてしまって、そのぶん本番は辛いものになるでしょう。

ピアノは自分の楽器を持ち歩けないぶん、いろいろな楽器を弾きこなせるだけの、ある意味で図太さみたいなものが必要で、その図太さ、言い換えるなら楽器が変わったときに慌てないだけの余力を養うためにも、練習用のピアノはちょっと弾きにくいぐらいがちょうど良いのかもしれません。

今回のことでわかったことは、軽いキーのピアノから重いほうへと変わるのはかなりの苦痛と忍耐と時間が必要ですが、その逆はまったく楽で、むしろ面白いぐらいにコントローラブルになるというものでした。
ピアノも他の楽器のように、目的に応じて何台も持ち揃えることができればいいのですが、サイズの点だけからも、なかなか難しく悩ましいところのようです。
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ひびしんホール

この夏、北九州市黒崎に新しくオープンした北九州市立ひびしんホールに行きました。

ここには3台の異なるメーカーのコンサートグランドが納入されたようで、7月のオープンに続き一連のピアノ開きのためのコンサートがそれぞれおこなわれ、トップを小曽根真さんがヤマハCFXを、次が小山実稚恵さんでスタインウェイDを、そして今回は最後で及川浩治さんがカワイの新機種EX-Lをお披露目されました。

以下、簡単に感じたところです。

【ホール】大ホールは、今どきのコンサートにちょうど良い800人強のサイズですが、すぐ近く(およそ3kmぐらい?)に同規模の、こちらも「北九州市立」の響ホールがあるにもかかわらず、当節のような景気の低迷とコンサート不況の続く中で、何故いま、このようなホールがもうひとつできたのか、その真相はよくわかりません。

それはそれとして、久しぶりに新しいホールに行くのは興味津々というところでしたが、率直に言って、ちょっと期待はずれなものでした。
その建物は、残念なほうの意味でおそろしく今風で、内も外も、ただパーツを組み上げただけのような無味乾燥なもの。どこをどう見渡しても、低コストに徹したという印象ばかりが目につき、ホールに求める文化的な雰囲気とか有難味のようなものがまったくありません。
その点、ずっしりと作られている響ホールは、何年経っていようが、まるで格が違います。

ホール内にはロビーらしきものもなく、ちょっとリッチな公民館といった風情だと云ったほうが話は早いかもしれません。ホールの内装は木の趣を凝らしたというところだとは思いますが、まるで竹ひごで編んだ虫籠のようで、そのモチーフがステージ上の反響板にまで連続して続くため、大きな虫籠の中央にポンとピアノが置いてあるようで、マロニエ君の目にはちょっと奇異に映りました。

コンサートというよりも、どことなくホタルや浴衣なんかが似合いそうな感じで、ホームページの写真で見るのと、実際に現場で見るそれは、相当イメージが異なるものだというのも痛感。
響きは、取り立てて変な癖やストレスもなく、それなりに素直でよかったとは思いましたし、新しい建物は空調などの効きがよく、その点はこの季節でもあり快適でした。

【ピアノ】カワイのコンサートグランドがシゲルカワイの名を返上し、再びKAWAIを名乗ることになった新機種が今回このホールに納入されたEX-Lです。
それを証明するように、サイドのロゴは鍵盤蓋と同様のがっちりとした書体でシンプルに「KAWAI」となっていますが、以前のいささか安っぽい装飾文字を思い出すと、ようやく本来あるべき姿に落ち着いたようで、この会社の良識的判断にホッとした思いです。

さて肝心の音は、かなりの期待を込めていたのですが、マロニエ君の耳には、従来型に較べてなんら進歩の後がないものでしかなく、これまでとまったく同じようにしか感じられなかったことは甚だ残念でした。 
基本的な音色が暗く(重厚とは違う)、音にザラつきがあるところまで、すべてが引き継がれていて変化らしきものが何も感じられませんでした。

とくに中音域でそれが顕著で、ピアノの個性が決まるともいうべきこの大事な音域が、なんの色気も麗しさもない、濁った水のような音しか出てこないのはどうしてだろうと思います。
それに対して、低音はやや鈍さはあるものの、カワイらしい響きの豊かさとパワーがあり、せめてこの点は評価したいところです。
中音域を中心として、もっと澄んだ音、艶のあるふくよかな音が出たら、格段に良いピアノになると思うのですが、メーカーは不思議なほどそこには目を向けないようです。ちなみに、音の色艶とか美しさというのは、そのピアノのキャラクターに合わない整音をして、耳障りな音にすることとはまったく違うもので、やはり根本的にボディの問題だろうと思われます。

【ピアニスト】については…やめておきます。
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『はじける象牙』

先日書いた、ピアニスト兼文筆家のスーザン・トムズの『静けさの中から〜ピアニストの四季』には、とりどりの面白い文章が満載ですが、その中で、驚いたことのひとつ。

スーザン・トムズはイギリスを代表するピアニストの一人であるばかりか、幅広い知識を持ち合わせたインテリでもあるようで、その深い教養とピアニストとしてのキャリア、そのトータルな文化人としての存在感にも英国の人々は大いに注目しているところのようです。
さらに夫君は音楽学者の由。

そんな、なにもかもを兼ね備えたようなスーザン女史ですが、こと自分のピアノの管理に関する著述では、ちょっと信じられないようなことが本の中で語られていました。
それによると、部屋の環境のせいで、鍵盤の象牙があちこち反り返っているらしく、ひどいものは剥がれしまうという信じられないような現象が起こり、ときにそれ(象牙)が大きな音を立てて部屋の中をすっ飛んでいくのだそうで、ピアノの横にはそれらを拾い集めるお皿まであるとのこと。

スタインウェイ社に連絡をしても、もはや象牙パーツはないとのことで、古いピアノから調達してくるか、ダメな場合には最終的にプラスチックに甘んじるかということ。

ところが、スーザン女史がフランスで19世紀のプレイエルを使ったコンサートをすることになり、その際にずっと付き添ってくれた、古いピアノの修復などに詳しい技術者にこの事を相談したそうです。すると、その技術者曰く、象牙は温湿度の影響は受けにくいもので、原因は象牙ではなく、その下に隠れている木材が伸縮している!ということを知らされるのでした。

スーザン女史は、自分が大きな思い違いをしていたことに気付くのですが、そのピアノはというと、暖炉の側に置いてあるらしいことが書かれています。
なにぶん現場を見たわけではないので、断定的なことはなにも言えませんが、彼女ほど、良心的な演奏活動をこなし、文化人としての深い教養を持ち、コンクールの審査員の中でもひときわ静かな威厳をただよわせて、周囲からも一目おかれているという彼女をもってして、ことピアノの管理となるとこんなものかというのが驚きだったのです。

何枚もの象牙が我慢の限界に達して、音を立てて、空中を飛んで、剥がれ落ちてしまうほどまで、下の鍵盤の木材が盛大に伸縮をしている環境というのは、ピアノにとって、どう考えても尋常ではない状況だと思われます。

この話は、数ある器楽奏者の中でも、ピアニストほど自分の奏する楽器に対して無頓着、もしくは間接的な関心しか寄せていない、あるいは技術者任せの専門領域のような意識でいる人が、なんと潜在的に多いか!という証左のように思いました。
もちろんそうでない人もわずかにはいらっしゃるでしょうし、中にはピアノオタク的なピアニストもいるにはいますが、それはあくまでも「珍しい」ほうで、圧倒的にピアノに対して愛情不足という人が多いというのがマロニエ君の認識です。

しかも驚くべきは、このスーザン女史が、ピアノをただの道具のようにぞんざいに使うようなタイプの人物ではなく、路傍の花にも必ず温かな手を差し伸べるような深い愛情の持ち主ということがこの本を通読してわかるぶん、この章に書かれていることは、より衝撃的な驚きを伴って迫ってくるのでした。
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音の3要素

あるピアノ技術者の方からいただいたメールに、面白いことが書かれていました。

これは「マロニエ君の部屋」の実験室という拙文に関することなのですが、つまるところ、ピアノの音はハンマーの「形」と「硬さ」と「重量」でほとんど決まってしまうということでした。

これはなるほどそうだろうと、素人のマロニエ君も直感的に思いました。
ピアノは、自分で設計して一から製作でもしない限り、既存のピアノに自分なりの音色の変化を与えるには、(調律を別とすれば)行きつくところはハンマーしかなく、そのハンマーとはこの3要素の兼ね合いによって成り立っているわけです。

響板やボディが健康な状態なら、あとはせいぜい弦の違いでしょうが、これは古ければ定評のあるメーカーの製品に張り替えるだけですし、巻き線も名人の巻いたものを張るのがせいぜいで、技術者の感性や技によって音を作り出すというような余地はほとんどないと思われます。もし仮にあったにしても、それはハンマーの3要素ほど劇的なものではないのかもしれません。

ハンマーの形は主にダイヤモンド型、洋ナシ型、たまご型で、その形状からしておおよその音の方向性は察しがつくというものです。ベヒシュタインのボムというドイツ語の発生そのものみたいな音がたまご型ハンマーであるなどは、いかにもイメージそのままで嬉しくなってしまいます。

フェルトの硬さは製造時に硬く巻かれたものと、そうでないものがあるし、あとは技術者が作り出すクッションのさじ加減という、これこそ芸術的な領域によるものだと思われます。

そこへ、今回その重要性がマロニエ君にも痛感できた重量の問題が掛け合わせれてくるのでしょう。
これはハンマーヘッドそのものの重さとそれを支えるシャンクとの合計ですが、たとえ総量は同じでも各部の重さの配分によっても音は当然変わってくるはずです。

あとはハンマーのメーカー固有の個性とか、使用されるフェルトの素材そのものがもつ性質からくる違いもあると思いますし、シャンクのしなりの特性によっても変わるでしょう。

この技術者の方が教えてくださったのですが、アメリカにはデイビッド・スタンウッドさんという、ハンマーの重さとタッチや音色の関係を研究している技術者がいらっしゃるのだそうで、ホームページもあるようです。
(LINKページの「海外のピアノ関連サイト」に掲載済み)

アメリカ人でこういう領域のエキスパートがいるというのは、ちょっと意外な印象を持ちましたが、日本人も本来得意な分野のはずで、実は深いところまで突き進んでいる方がいろいろとおられるのではないかと思います。ただ、あまり表にはあらわれず、そこがまたいかにも日本的なのかもしれません。
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静けさの中から

わりに最近出た本ですが、スーザン・トムズ著『静けさの中から〜ピアニストの四季』を読みました。

スーザン・トムズはイギリスのピアニストでありながら、すでに何冊かの本を出版するほどの文筆家としての顔も持っているようです。
女性として初めてケンブリッジ大学キングス・カレッジに学んだというインテリだそうで、またピアニストとしても極めて高い評価を得ているらしく、ソロのほか、フロレスタン・トリオのメンバーとしても多忙な演奏活動をおこなっているそうです。CDも室内楽などでかなりの数が出ているとのことですが、残念ながらマロニエ君はまだこの人のピアノを聴いたことはありません。

ピアニストにして文筆家といえば、日本では青柳いづみこさんをまっ先に思い出しますが、世の中には大変な能力の持ち主というのがいるもので、どちらかひとつでも通常なかなか出来ないことを、ふたつながら高い次元でやってのける人間がいるということが驚きです。

この本は、いわゆる随筆で、彼女が日々の生活や演奏旅行の折々に書きためられたものが本として出版されたものですが、その内容の面白いこと、強く共感すること、教えられることが満載で、大いに満足でしたが、もうひとつびっくりしたのが翻訳の素晴らしさでした。

訳者はなんとロンドン在住の日本人ピアニスト、小川典子さんで、彼女がこの本を読んでいたく感銘を受け、すぐに自分が翻訳をしたい!という気持ちになったといいます。
この衝動から、すぐにスーザン女史にその旨を申し出たのだそうで、めでたく諒解が得られ、日本語版の出版への運びとなり、やがてそれが書店に並んで、現在の我々の手に届くようになったということです。

ピアニストとしての小川典子さんはマロニエ君は実は良く知りません。CDも棚を探せばたしか1、2枚はあったと思いますし、リサイタルにも一度行きましたが、とくにどうというほどの印象はありませんでした。
しかし、この本の文章の素晴らしさに触れることで、こちらの側から小川さんの人並み外れた能力を見た気がしました。

なによりそこに綴られた日本語は、力まずして雄弁、適切な語彙、自然なリズムを伴いながら、どこにも不自然なところがないまま、もとが英語で書かれたものであることを忘れさせてしまうような、心地よい品位のある文章で、頗る快適に、楽しんで読み終えることだできました。

以前、このブログで、技術系の専門書で、愚直すぎて読みにくい翻訳文のことを書いたことがありましたが、まさしくそれとは正反対にある、活き活きとした流れるような日本語での訳文に触れることができたのは、望外の驚きでした。
小川さんによる巻末のあとがきによれば、彼女の翻訳作業には、もうひとり春秋社のプロによる編集の手を経ていたのだそうで、やはりそれだけの手間暇をかけなくては本当に淀みのない美しい文章は生まれないということを痛感しました。
もちろん原文を綴ったスーザン・トムズ女史のずば抜けた頭脳と感性、小川さんの広い意味での語学力があってのことではありますが、さらに編集によって丁寧に磨かれることで、ようやくこの本ができあがったのだということをしみじみと思うのです。

あたかも、ピアノが優秀な技術者の手をかけられればかけられるだけ素晴らしくなっていくように。
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行ってみたい!

いまや中国は世界最大のピアノ生産国であるばかりでなく、ピアノを習う子供の数も桁違いに多く、それは必然的に世界最大のピアニスト生産国ということになるのかもしれません。

ラン・ラン、ユジャ・ワン、ニュウニュウ、ユンディ・リなどはみな逞しいメカニックの持ち主で、ここ当分は、この国からスターピアニストが登場してくる状況が続くのだろうと思われます。
現在の学習者の数は、一説には2000万人とも3000万人とも言われますので、それはもう途方もない数であることに間違いなく、世界中の権威あるコンクールには中国人が大挙して参加してくるのは当然の成り行きなのでしょうね。

かたや欧米ではピアノを幼時より始めて音楽家を目指すという流れが、ここ20年ぐらいでずいぶん変わったと聞いています。まず根底には欧米における若者のクラシック離れの風潮に歯止めがかからず、多くの若者はより実利的になってステージから客席へと移動してしまったと言われます。
つまり音楽を演奏する側から、観賞する側に、自分達の居場所を変えてしまったというわけでしょう。

それに変わって台頭したのがアジア勢で、いまや中国を筆頭に韓国なども、次から次へと傑出した才能を世界のステージへ送り出しているようです。

そんな中国ですから、当然ながら大都市では楽器フェアだのピアノフェアだのといった見本市の類が開かれているようで、しかもそこは中国のやることですから、その規模も大きなものであるらしく、マロニエ君もいつかは一度行ってみたいものだと思っているところです。

そんな中国のピアノフェアですが、最近ネットで偶然にもその様子を捉えた写真を見かけたのですが、それはやはり期待にたがわぬ驚愕の光景でした。
まずピアノは黒というような、固定したイメージのある日本とは真逆の世界がそこにはあり、無数に並べられたあれこれのピアノはアップライトもグランドも、まるで遊園地かおもちゃ売り場の商品のようにカラフルな原色であるばかりでなく、それぞれのピアノには、奇抜などという言葉では足りないほどの、度肝を抜くアイデアや様々な趣向が凝らされ、あらんかぎりの装飾の数々が散りばめられていたりします。

少し前にヨーロッパのツートンのピアノのことを書きましたが、ここにあるのはそんな生易しいものではありません。
赤、青、黄などの原色に塗って模様があるぐらいは当たり前、グランドピアノ全身が陶器の絵柄のようなもので埋め尽くされていたり、全身ヒョウ柄のピアノだったり、極め付きはさすがに展示用とは思いますが、UFOらしき物体の一部がくり抜かれてそこに鍵盤がついていたり、ロケットかスペースシャトルのような形のグランドピアノで後ろのエンジンの部分がかろうじて鍵盤になっているなど、その発想は日本人が逆立ちしてもできないものばかりで、その底抜けな無邪気さにはただもう楽しんで笑うしかなく、世界中でこんなおもしろピアノフェアが見られるのは中国をおいて他ではまず絶対ないでしょう。

中国といえば、いうまでもなく日本の隣国で、漢字や仏教なども中国から伝わったものであるし、だいいち同じ東洋人ということで、肌の色から顔立ちなども近似していますから、つい東洋という共通点があるように思いがちですが、マロニエ君に言わせれば、かの民族は最も日本人とはかけ離れた、欧米よりもさらに遠いところにあっても不思議ではないほどの異国のそれであり、とくにそのメンタリティは悉く我々とは根本から違ったものを持っているようです。

その最たるもののひとつは美意識に関するジャンルで、これはもう我々にはまったく理解の及ばない世界があり、美術の世界などでも、彼らの作り出すものには何度腰を抜かすほど驚いたかわかりません。

いつの日か、機会があれば恐いもの見たさに、ぜひ覗いてみたいものです。
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ホジャイノフ

ロシアの若手ピアニスト、ニコライ・ホジャイノフのリサイタルがBSで放映され、やっとその録画を見ました。

今年の4月19日に行われた日本公演の様子で、会場は武蔵野市民文化会館小ホール。
曲目はプロコフィエフのソナタ第7番、ショパンのバラード第2番、シューベルト幻想曲さすらい人で、初めのプロコフィエフの演奏が始まってすぐに、これはなにかありそうだと直感しました。

全体に実のある、流れの美しい演奏で、戦争ソナタでさえも非常に澄んだ叙情性を保ちながらこの暗いソナタの内奥に迫りました。全体的に3つの楽章が自然と繋がっているような演奏で、プロコフィエフの蔭のある香りのようなものが、叩きつけるような攻撃的な表現でなしに、気負わず自然に(しかも濃密に)描き出してみせるその手腕は若いのに大したものだと思いました。

さすらい人でも詩情が豊かで、衒いのない、自然に逆らわない流れが印象的でした。しかも繊細さや作品の意味などをわざと誇張してみせるようなことはせずに、攻めるべきところはどんどん攻めながら果敢に弾いているのですが、その合間からシューベルトの作品が持つ悲しみがひしひしと伝わってくるのは見事だったと思います。

彼はまだ20歳で、モスクワの学生とのことですが、すでにはっきりとした自己を持っており、単なる訓練の成果をステージ上で再現しているのではなく、音楽の内側にあるものを自分の知性と感性を通して表現しているピアニストでした。
テクニックなども立派なものですが、いかなる場合も音楽上の都合と意味が最優先され、そのために僅かなミスをすることもありますが、ひたすらキズのないだけの無機質で説明的な演奏ばかり聴かされることの多いなかで、ホジャイノフの内的な裏付けのある演奏を聴いていると、そんなことはほとんど問題ではなく、純粋にこの人の演奏を聴く喜びが味わえたように思いました。

唯一残念だったのは、真ん中で弾いたショパンで、これだけは評価がぐんと下がりました。
合間のインタビューでは、バラードの2番が持つ静寂と激しさのコントラストが好きだというようなことを言っていましたが、それを表現しようとしているのはわかるものの、作品とのピントが合っているとは言い難く、このバラードの本来の姿があまり聞こえてこなかったのが残念でした。他の作品であれだけ見事な演奏をしているわけですから、おそらく彼の資質とショパンの音楽がうまく噛み合わないだけかもしれません。

ショパンの作品は本当にたくさんの人が弾きますが、実際にショパンと相性のいいピアニストというのは滅多にいないことがまたも証明されてしまったようでした。ショパンは演奏者の多様な個性に対してあまり寛容ではありませんから、そこにちょっとでも齟齬があると作品が拒絶反応をしてしまうようです。

このホジャイノフは、2年前のショパンコンクールでファイナルまで進みながら、入賞できなかったのですが、それはこのバラードひとつを聴いてもわかるような気がしました。
どんなに優れた演奏家にも作品との相性というものがあり、彼は今のままでも十二分に素晴らしい演奏家だと思いますし、ピアノのレパートリーは膨大ですから、今後が非常に楽しみな逸材だと思いました。

ピアノはヤマハのCFXでしたが、印象はこれまでしばしば述べてきたことと変わりはありませんので、とりあえずおなじことを繰り返すのは控えますが、陰翳が無く不満が残ります。
ただし、シューベルトのような曲では、このピアノの良い部分がでるように思います。
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ピアノフェスタ

博多駅のJR九州ホールで開催されるようになった島村楽器のピアノフェスタが今年も3連休に合わせておこなわれ、覗きに行きました。

マロニエ君が行ったのは3日間ある開催期間中の最終日で、この日はザウターピアノの6代目社長ウルリッヒ・ザウター氏による同社の紹介と、ザウターピアノを使った島村楽器のインストラクターによる演奏も聞くことができました。

入口からロビーにかけては電子ピアノの数々、さらにホール内部にはアコースティックピアノが数多く展示されていましたが、最終日の夕刻ということもあってか売約済みのピアノもちらほら目に止まりました。

昨年と違っていたのは、とりわけ輸入物のグランドピアノが数多く並べられているエリアでは、若干の「厳戒態勢」が採られ、ピアノのまわりには物々しい赤い布のテープが張り巡らされて、容易にはピアノへ近づけないように配慮されている点でした。
これらのピアノを見ようとすれば、たとえそれが目の前にあっても、いちいち赤いテープの途切れる地点まで回って、そこから「入場」しなくてはならず、ちょっと煩わしいという印象。

さらにはいずれのピアノにも「試弾ご希望の方は係員に…」という札が鍵盤の上に立てられており、ちょっと音を出してみるのも厳重に管理されている雰囲気でした。

わずかな音出しでも係員に断りを入れなければいけないというのも面倒臭いので、マロニエ君は忽ちどうでもいいような気になりましたが、同行者もあるし、わざわざ駐車場に車を止めて、休日でごった返す苦手な駅の人混みの中を掻き分け掻き分けした挙げ句にやっとここまで辿り着いたのだから、その労苦に対してもやはりちょっとぐらいは音のひとつも聞いてみなくては、なんのためにやって来たのかわかりません。
やむを得ず、近くに立っている係員に許しを請うと、はるか向こうで弾いている人が一人いることを理由に「もうしばらくお待ちください」と制される始末。

こんなにも、どれもこれもが「触れられないピアノフェスタ」というのも、なにやら諒解しがたいものがありましたが、かくいうマロニエ君も覗きに来ただけなので、べつに何か困るわけでもなく、それならばそれで構いません。

ところがその後で状況は一転することになります。
夕刻の1時間、ウルリッヒ・ザウター氏のお話と演奏によるイベントが終了した後は、社長自らステージ上にあるザウターピアノを「みなさん、お時間の許すかぎり、どうぞ弾いてください!」という試弾おすすめの言葉があり、それがきっかけとなって、その場に居合わせた多くの人々は、以降ピアノに自由に触れて歩く許可を得たかたちとなりました。

するとザウターピアノに留まらず、会場にあるピアノが弾かれはじめ、次第に騒然とした雰囲気に変わりました。
さも厳重な感じに張り巡らされていた仕切りの赤いテープも、この時点ですっかりその意味を失って、とくにベヒシュタインやスタインウェイが居並ぶエリアでは、入れ替わり立ち替わり腕に自信のあるらしいピアノ弾きの人達の自由演奏会のような光景と化してしまったのはびっくりでした。

何人もの人が難易度の高い曲をずいぶん熱心に弾いていらっしゃいますが、隣り合わせにズラリと並べられた何台ものピアノがそれぞれの弾き手によって、同時にまったく違う曲を弾かれているカオスが延々と続き、あれでは自分が弾いているピアノの音色や響き具合などわかるはずもありません。

このときに至って、ようやく厳かなる赤いテープの意味が少し理解できた気がしました。
ピアノの展示会では「無礼講」になったが最後、それはもう収拾のつかない状況が繰り広げられてしまい、限られた時間の中で本当に購入を検討する人は、到底その目的が達せられないだろうと思います。

そのあたりのお店の判断も難しいところでしょう。
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強力な助っ人

昨日あたりからようやく少し晴れ間が覗くようになったものの、今年の梅雨が、こんなにも長くて重苦しいものとは想像もしていませんでした。

梅雨の入口あたりから酷使されていた我が家の除湿器ですが、購入後わずか数年にして明確な故障ではないものの、いまひとつ除湿能力に翳りが出てきたように感じていました。

これは以前にも少し書きましたが、これを故障であるかどうかの診断を仰ぎ、もし故障の場合は修理をするとなると、本体をメーカーへ送るなど、その手間暇と時間、さらにはコストを考えるならとてもそんなことを実行する気にはなれず、思い悩んだ末に新しい除湿器を購入しました。

これまでのものよりより除湿力の高い機種を選ぶことで、少しでもその能力に余裕を持たせたいという目論見もありましたし、そのほうがトータルでは得策だろうと判断しました。

マロニエ君はCDなどを購入するときは、巷の評判など人の言うことはまず信じませんが、こと家電製品などを選ぶ場合は一転してネット上のユーザーの評価などを大いに参考させてもらっています。
とくにサイトによっては機種毎の評価や口コミなどが事細かに寄せられており、しかもこういう場所には普通のユーザーからやたら詳しいマニアックな人まで、いろんな人達がたくさんいて、いいことしか書かないメーカーのホームページよりも格段に頼りになるという印象です。

そこでは、さまざまな評価をもとにしながら、これだと思える機種を絞り込むことができるだけでなく、購入の意志が固まれば、そのまま一般の電気店で買うよりかなり安く購入できる点も併せて便利でありがたいところです。

注文すると数日で届き、さっそく使っていますが、これまでの除湿器が本調子ではなかったということもあってか、まったく次元の違う除湿能力にはすっかり満足していると同時に、今年の厳しい梅雨の途中で、この強力な助っ人があらわれたことは本当に幸いでした。

やはり家電製品などは、全般的に新しいもののほうが効率が良く、性能にも余裕があるような気がしますが、確かなことはわかりませんし、耐久性という点に於いては疑問もあるかもしれません。先代ではほとんど休みなく回りっぱなしでかろうじて40%後半を維持していたのが、新機種では、油断すると湿度計の針が30%台になることもあって、ときどきOFFにしたりしていますから、やはり潜在力が違うようです。

この除湿器が稼働しはじめてからほどなくして、北部九州は各地で被害が出るほどの猛烈な雨に見舞われることになり、当然のように家全体、街中全体がジメジメしたジャングルのようで、連日の分厚い雨と高湿な空気に包まれ続けています。しかもそれがとてつもなく長期間にわたっているところが今年の梅雨の厳しさだったように感じますし、未だ終わったわけでもありません。

マロニエ君としては他のことはさておくとしても、ピアノだけはなんとか湿度から保護したいわけで、今年の手強い梅雨を相手になんとかそれができているのは、ひとえにこの新しい除湿器のお陰であって、買って正解だったとしみじみ思っているところです。
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遊びごころ?

最近、新しいピアノが入荷した旨、あるピアノ店から写真付きメールをいただきましたが、そこには荷を解かれたばかりのヨーロッパ製の美しいグランドピアノが写っていました。

以前、マロニエ君もちょっと触らせていただいて好印象を得ていたメーカーのピアノで、より大型のものが入荷してきたようでした。以前のものよりもよりやわらかな音がするとのことです。

今回のピアノの特徴は、その外装の仕上げでした。
黒と木目(赤っぽいブビンガ)のツートンで、木目は主に内側に貼られており、大屋根の内側、ボディ垂直面の内側、譜面台、鍵盤蓋の内側などが派手な木目になっています。

このスタイルはヨーロッパのピアノではときおり目にするものですが、国産ピアノでは一度も見たことがありません。もともと日本人はピアノといえば厳かな黒というイメージがあることに加えて、木目仕様では安くもない追加料金も発生することもあってか、それほど人気があるようには思えません。
ましてやツートンなどとんでもないというところかもしれませんが、たしかカワイなどは輸出向けモデルには、あらゆる色やスタイルの外装がラインナップされていて驚いたこともあります。

ヨーロッパの人達は、ピアノを置く際にもインテリアとの調和を大事にするようで、部屋の雰囲気や他の調度品とのバランスなどにも大いに意を注ぐのは、それだけ自分達の居住空間には東洋人よりも強い拘りと伝統に根ざした美意識があるのだろうと想像します。

そんな中で、この「内側だけ木目」という仕上げのピアノがどのような位置付けなのかは東洋の島国のマロニエ君にはわかりませんが、ひとつの遊び心でもあるような気がします。
蓋を閉めている状態では普通の黒のピアノが、演奏するために蓋を開けると、そこへ強い調子の鮮やかな木目が現れるのは、それだけでも人の心をハッとさせる意外性が込められているように思います。

というのも、このツートン仕上げは、マロニエ君の個人的な印象でいうと、普通の木目ピアノよりもさらに鮮烈な印象を与えるようで、それは主に黒と派手な木目の強いコントラストが生み出す独特な雰囲気のせいなのは間違いないでしょう。まるでネクタイやカマーバンドだけ色物を使ったタキシードのようで、多少の遊び心もありますが、それだけ好き嫌いの分かれるところかもしれません。
ちょっと前に流行った言い方をすると「ちょい悪オヤジ」みたいな感覚でしょうか。

見方によっては一種のエグさみたいなものがあって、そこがこういうセンスの心意気であり魅力だと思うのですが、たぶん日本人にはそのエグさがあまり幅広くは受けないのかもしれません。

しかし、考えてみれば日本人もむかしのほうが遊び心というのもあったようで、地味な羽織の裏地に目もさめるような派手な柄をあしらったり、琳派の絢爛たる屏風や襖絵などをみると、今よりよほど遊びに対するセンスと文化意識があったようにも思われます。

その点では現代のほうがよほど保守的で堅実になってしまった観がありますね。
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好ましい変貌

一昨日の夜は久しぶりの田中正也ピアノリサイタルに行きました。

曲目はショパンの英雄、子守歌、op.48のハ短調のノクターン、ベートーヴェンの熱情、ラヴェルの夜のガスパールからオンディーヌ、ラフマニノフのエチュードタブローop.33-9、スクリャービンの3つの小品、プロコフィエフの7番の戦争ソナタ、アンコールはワーグナー=リストのイゾルデの愛の死、リストのカンパネラという、ずっしりしたものでした。

田中正也さんのピアノはすでに何度も聴いていたので、ある程度の予想はしていたところ、わずか2、3年の間に著しい変化が起こっているのは驚くべきことでした。冒頭の英雄で「んっ?」と思い、ノクターンに至ってそれはやがて確信に変わりました。

10代の半ばからロシアに渡り、モスクワ音楽院で修行され、とりわけパーヴェル・ネルセシアンに師事したことが彼の根底となるピアニズムを決定したという印象があり、良くも悪くもネルセシアン臭を感じないわけにはいかない演奏であったことが、これまで聴いた彼の特徴だったように思います。

ところが今回の田中さんはかなり違っていて、見事に一皮剥けたというか、独りよがりではない客観性が備わり、いずれの作品も磨かれたレンズではっきりと見通せる好ましい演奏に変化しているのには驚きました。
どこか恣意的で自己完結風でもあった演奏が、あきらかに人に向けて聴かせるに演奏になり、説得力のある堂々たる音楽を紡ぐピアニストへ変貌していました。

テクニックは以前から見事なものがありましたが、それに心地よい曲の運びと情感が加わったのは、まさにそこが以前の彼には足りないと思っていたものだっただけに瞠目しました。
さらには、ほどよい緊張とリラックス感の調和が取れており、聴く側もまったく安心してその演奏に身を委ね、彼の演奏に乗って音楽を旅することができました。

ごまかしのない丁寧さがありながら、音は決して痩せることがなく、分厚い響きや、ときには轟音のような力強さも兼ね備えているし、クオリティも高くなかなか立派なものです。

終始ゆるぎのない、筋の通った見事なピアノリサイタルで、過去に聴いた田中正也さんの演奏会中、最もよい出来映えであっただけでなく、おそらくマロニエ君があいれふホールで聴いたコンサートの中でも最高レベルのものだったと思われ、久しぶりにピアノらしいピアノを聴いた気分で会場を後にしました。

そのあいれふホールですが、マロニエ君は後ろから2列目の席で聴きましたが、あいかわらず音が鋭くわめくような響きのホールで、音響的には快適とは言えないものでしたが、これは如何ともしがたいところです。

ピアノはここのスタインウェイで、ちょっと違和感のある調整でしたが、田中さんはそれをものともせず、まったく手抜きのない素晴らしい演奏によってホールやピアノの不備を見事に覆い隠してしまい、途中からそんなこともまったく気にならなくなりました。
逆説的な言い方ですが、少しぐらいの不備があったほうが却って演奏家は真価を発揮しやすいのでは?という気さえしました。完璧に調整されたピアノを、理想的な響きのホールで弾くのでは、なにやらあまりに条件が整いすぎという感じで、弾く方も聴く側もどことなく居心地が悪いようにも思います。

もうひとつ、改めて感銘を受けたのはスタインウェイの底知れない真価でした。少々の不調などものともせず、重量級の曲をどれだけ壮絶に追い込んでも、激しい和音がどれほど折り重なっても、決してピアノが崩れるということがないのは呆れるばかりで、その比類ない音響特性の逞しさは、まさに圧倒的なものがありました。
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家内工業の音

ピアノの音で、時おり感じることですが、それは良し悪しの問題ではなしに、2つに大別できるのでは?と思うことがあります。
上手く言えませんが、きっちり計算されたメーカーの音と、より感覚的でアバウトさも残す家内工業の音があるということになるでしょうか。

純粋な音の良し悪しとは別に、たとえレギュラー品でもある一定の計算が尽くされたメーカーの音を持ったピアノがある一方で、どんなに素晴らしいとされるものでも、よしんばそれが高額な高級ピアノであっても、家内工業の音というのがあるように思います。これはちょっと聴くぶんにはまことに凛とした美しい音だったりしますが、残念なことにしたたかさというものがなく、いざここ一発というときの強靱さや、トータルな音響として形にならないピアノがあるようにも感じます。

車の改造などに例えると、専門ショップなどの手で個人レベルのチューニングされたものは、パッと目は局部的に効果らしいものがあらわれたりもしますが、トータル的に見た場合、深いところでのバランスや挙動でおかしな事になっていたり、性能に偏りが出たりして、本当に完成された効果を上げるのは、それはもう生半可なことではありません。

その点、メーカーが手がける設計や変更は、おそろしく時間をかけ、いくつもの異なるパーツやセッティングを試して、テストと改良をこれでもかと繰り返したあげくのものですから、その結果は膨大な客観的データやテストなどの裏付けの上にきちんと成り立っているものです。
すなわち街のショップのパーツ交換とは、どだいやっていることのレベルが違うというわけです。

同じことがピアノの音にも感じることがあり、どれほど最良の素材で丹誠込めて作り上げられたピアノであっても、家内工業規模のピアノには手作り的な温もりはあるものの、どこか未解決の要素を感じたり、全体として一貫性に欠けていたりします。

その点でいうと、大メーカーのピアノはそれなりのものでもある種のまとまりというか完成度というものがあり、ある程度、客観的な問題点もクリアされているので、そういう意味では安心していられる面がありますね。
とりわけ観賞を目的としたコンサートや録音ではそれが顕著になります。

大メーカーのピアノは、広い空間での音響特性や各音域のパワーや音色のバランス、強弱のコントラスト、楽曲とのマッチングなど、あらゆる項目が繰り返し厳しくチェックされていると思われますし、問題があれば大がかりな改修が入るでしょう。そのためには多くの有能なスタッフや高額な設備なども欠かせません。必然的に試作品も何台も作ることになりますが、このへんが工房レベルのメーカーでは、どんなに志は高くてもなかなかできないことだと思われます。

家内工業のピアノは材料や作り込みは素晴らしいけれども、弱点は完成度のような気がします。
素人がパラパラっと弾いた程度なら、たとえば中音から次高音にかけてなど、なんとも麗しい上品な音がして思わず感銘を覚えたりしますが、プロのピアニストが本気で弾いたら、思いもよらない弱点が露見することも少なくありません。
プロの演奏には、表現の幅や多様性に対する適応力、重層的な響きにおける崩れのない立体感などが求められますが、そういう場面でどうしても破綻したり腰砕けになってしまうことがあり、それを徹底して調査して、場数を踏んで補強してくるのが大メーカーなのかもしれません。
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