オールソン&尾高

ずいぶん久しぶりにギャリック・オールソンの演奏を映像で見ました。

先日放送されたBSのオーケストラライブでのN響定期公演で、ショパンのピアノ協奏曲の2番を弾いていましたが、ステージに現れたオールソンはもうすっかりおじいさんになっていて月日の流れを感じます。

演奏はいかにも手の内に入ったベテランのそれという印象で、ショパンコンクールに優勝したときから早40年以上が経過しており、彼の身体がショパンの演奏を覚え込んでいるといったように見えました。

まったく自己顕示欲のない、とても誠実な演奏でその点は感服しますが、惜しむらくはコンサートピアニストとしての存在感や華がないことでしょう。それでも、この世代のアメリカ人としてはよくぞここまでショパンの音楽に真摯なスタンスで己を捧げてきたものだと思います。
普通なら、ショパンコンクールにアメリカ人として初めて優勝し、それ以降のキャリアを積み上げるとなれば、もう少し華やかなピアニストを目指して喝采を得ることはいくらでもできただろうと思いますが、決してその道には進まず、節度をもった、良心的な活動一筋に努めてきたことには、人間的に敬意を払いたいところです。

尤もそれがオールソンの信念によって厳しく選び取られた結果だったのか、それともそういう道を進むことのほうが性に合っていたから自然にそうなったのか、そこのところはわかりませんが。

今回、オールソンの姿に接してみてあらためて思ったのは、大変な偉丈夫だということで、この点はまぎれもないアメリカ人だと思わずにはいられません。身長も高く恰幅も大変立派で、そのいかにも優しげな表情と相俟ってまるでサンタクロースのように見えました。彼を前にすると、ピアノもどことなく小さくなったようで、なんとなく身をかがめるようにして弾いているのが印象的でした。

ショパンの音楽を彼なりの細やかさでひじょうに注意深く、さらにはこの体格から来るところもあると思うのですが、常に遠慮がちに弾いているという風に見えました。音もその体格から期待されるような太く逞しいものではなくて、むしろ肉付きのない、さっぱりした音色だったことが少し気にかかりました。

全体にはこの人なりの首尾一貫したものがあって、安心して聴いていられるものでしたが、強いて云うならあまりにもおとなしくて善良すぎるきらいがあり、ショパンにはもう少し洗練や洒落っ気やエゴが欲しいものだと思いました。


指揮はN響の正指揮者である尾高忠明氏でしたが、これが思いがけずなかなかの演奏で驚きました。
普通なら、ピアノ協奏曲の中でも、とりわけオーケストレーションの脆弱さを指摘されるショパン、しかもより詩的な2番とくればオーケストラは大半において甘美に歌うピアノの伴奏をやっているだけといったところですが、そんなオーケストラがハッとするほど美しく、しかも聴いていて自分の好みにごく近いもので、やわらかでメリハリがあり、潤った感じに鳴り響いたのはまったく意外でした。

オーケストラはいつもと変わらぬN響ですから、これはひとえに尾高氏の音楽性とセンスの良さに負うものだと思う他はありません。告白するなら、オールソンのピアノもそこそこにオーケストラについ耳を傾けてしまうことしばしばで、ショパンのピアノ協奏曲でオーケストラのほうを有り難く聴いたというのは初めての経験だったように思います。
この美しいオーケストラに支えられて、オールソンもさぞ満足だっただろうと思います。
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カタログ比較-追記

このような場所で価格の話をするのもどうかとは思いますが、前回価格のことに少々触れたついでに、参考までに一例を書いておきますと、ヤマハの現行モデルには奥行き212cmのグランドが3種類も存在し、価格は次の通りです。C、S、CFというシリーズ名は、平たく云えば梅、竹、松とでも思っておけばいいでしょう。

C6=2,730,000円
S6=5,040,000円(Cの約1.8倍)
CF6=13,200,000円(Cの約4.8倍)
というわけで、まったく同じサイズのヤマハグランドピアノ(外装はいずれも黒艶出し)であっても、グレードによってこれほどの価格差があるのは、単純に驚くほかありません。C6とCF6では、同じメーカーの同じサイズのグランドピアノでありながら、価格はほとんど5倍、差額だけで10,470,000円にも達するわけですから、誰だって驚くでしょう。

これはCF6がよほど高級なピアノだという印象を与えると同時に、じゃあC6はよほど廉価品なのか…という気分にもなってしまいますね。世界広しといえども、同じメーカーの、同じマークの入ったピアノが、グレードの違いによってここまで猛烈な価格差があるというのは、少なくともマロニエ君の知る限りではヤマハ以外には無いように思います。

また、CFシリーズとSシリーズはひとつのカタログにまとめられていますが、それでも価格は同サイズで約2.5倍となり、これもかなり強烈です。そこで生じる疑問としては、何がどう違うのかということだと思いますが、その価格差に対する説明らしきものはどこにも見あたりませんでした。

要は「材料と手間暇」ということに尽きるのかもしれませんが、それにしても…。
これが稀少なオールドヴァイオリンとか骨董の世界ならともかく、れっきとした現行生産品の話なのですから、その価格は製品の価値を裏付けるはずのものであり、そのためにも、もう少し具体的な説明によって納得させてほしいものだと思うのはマロニエ君だけでしょうか?


おもしろかったのは、ヤマハ、カワイ両者に共通した巻末のピアノのお手入れに関する記述ですが、ピアノにとって望ましい環境は、
カワイでは「室温15-25℃、湿度50-70%」とあるのに対して、ヤマハは「夏季:20-30℃/湿度40-70%、冬季:10-20℃/湿度35-65%」と夏冬二段階に分かれている点でした。
いずれも湿度に関してはかなり許容量が広いなあというのが印象的でした。

壁から10-15cm離して設置するようにというのは共通していますが、へぇ…と思ったのは弦のテンション(張られる力の強さ)に関してで、ヤマハは「弦1本あたり90kgの力が張られています」とあるのに対して、カワイでは「1本あたり80kgの力が掛けられています」という記述でした。

昔からスタインウェイの張弦は比較的テンションが低いことで有名ですが、現行のヤマハCF&SシリーズとカワイSKシリーズでは、一本あたり10kgもの違いがあるとは意外でした。これを全弦数(平均約230本)の合計にしてみると相当の差になるでしょうね。
一般論としてテンションが低い方が設計に余裕があり、耐久力もあるとされますが、最近のピアノではどうなのでしょう…。
いずれにしろカタログを見ているといろいろと発見があっておもしろいものです。
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カタログ比較

ヤマハの知り合いの営業の方にお願いしてCFシリーズのカタログを入手しました。
さんざん眺め回したあげく、さてこれをシゲルカワイのカタログを比較してみるとなかなか面白い違いが出てくることに気がつきました。

本来はレギュラーシリーズも比較するといいのかもしれませんが、そこまでするのは面倒臭いし、どうせカタログの上だけなんだから、ここは気前よく上級シリーズ同士を較べました。

共通していることは、A4版の横開きのオールカラーで、カワイは表紙を含む28頁に対してヤマハは24頁と若干ながら薄いようです。
いずれも豪華さや高級感を強調したもので、重厚さを全面に押し出している点は甲乙つけがたいものがあるようです。

ヤマハはCFシリーズとSシリーズ、併せて5機種が紹介されているのに対して、カワイもSK-2,3,5,6,7という5機種が掲載されていますが、その重点の置き方にはいささか違いがあるようです。
カワイが新SKシリーズ全体を紹介説明する、ある意味でオーソドックスなカタログであるのに対して、ヤマハは頂点に君臨するコンサートグランドのCFXの存在をメインにして焦点が合わせられているようで、よりイメージ戦略的だという印象です。

それを裏付けることとして、ヤマハではピアノの機構や技術的な解説はほとんどなく、あっても必要最小限に留められて、専らエモーショナルで抽象的な文章が全体を包んでいます。
マロニエ君などにしてみれば、CFIIISからCFXへの移行についてはどのような点で変化・進歩をしたのか、あるいはCFシリーズは具体的にどういうところがどう素晴らしいのかという点についてメーカーとしての主張が欲しいと思いましたが、そういう個別の説明はほとんどありません。
主に美しい写真を見せて、それに沿うような観念的な文章がナレーションのように添えられているだけで、あとは見る者がイメージするものに委ねるというところでしょうか。

これに対して、カワイのカタログではヤマハに較べると文字が多いことが特徴で、文章もより具体的で、わかりやすい説明が必要に応じて記載されています。
もちろんそこはあくまでもカタログですから、専門的になりすぎるようなことは一切ありませんが、その許される範囲の中でのきちんとした技術解説もあって、こちらのほうがいろいろな面から商品を知る手がかりになるという点では、見応え・読み応えがあるように感じました。

ヤマハは技術的なことはいうなれば舞台裏のことであって、カタログは広告の延長のようにイメージ主導に徹しているのかもしれませんし、その点はカワイのほうがカタログはカタログらしく作るという生真面目な一面があらわれているようでもありました。

ただし、ヤマハの敢えて多くを語らない戦略は一応わかるものの、いささか納得できないものが残ります。例えばCFシリーズとSシリーズはよほど意識しないとわからないほど黒バックのほとんど同じ意匠による連続するページによって連ねられていますが、驚くべきはその価格差です。

この両シリーズにはサイズの共通した奥行き212cmと191cmのモデルがそれぞれ存在していますが、価格はCFシリーズはSシリーズの実に2.5倍以上!!!というとてつもない開きがあって、思わず口あんぐりになってしまいます。
カタログの表紙には恭しく「PREMIUM PIANOS」と書かれていますが、同じプレミアムピアノでもこれだけの甚だしい価格差については、見る側としてはもう少々説明が欲しいと思いました。
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リシッツァ

こんなくだらないブログでも読んでくださる方がいらっしゃることは、ありがたいような申し訳ないような気分です。先ごろは北海道の方から、ヴァレンティーナ・リシッツァというピアニストをどう思いますか?というメールをいただきました。

>私の素人耳には、型に囚われない自由な音を出すピアニストに聴こえるのです。
>ところが、日本のメディアには完全に無視されている人です。
>この人には目ぼしいコンクール歴がありません。

というような事が書かれています。(引用のお断り済み)

リシッツァというピアニストはマロニエ君もYouTubeで見た覚えのあるピアニストだったので、名前を見たときにあの女性ではないか?と思ったのですが、あらためて動画を見てみるとやはりそうでした。

長いストレートの金髪を腰のあたりまで垂らしながら、ものすごい技巧で難曲をものともせず演奏しているその姿は、どこかジャクリーヌ・デュ・プレを思い出させられますが、調べるとウクライナはキエフの出身で現在42歳とのことです。
その指さばきの見事なことは驚くばかりで、とくにラフマニノフやショスタコーヴィチなどの大曲難曲で本領を発揮するピアニストのようです。そして、このメールの方がおっしゃるように、実力からすれば応分の評価を得られているようにも思えません。

このメールが契機となって、マロニエ君も動画サイトでいくつかの演奏に触れましたが、その限りの印象でいうならリシッツァの魅力はコンクール歴がないという経歴が示す通り、こうあらねばならないという時流や制約からほとんど遮断されたところに存在しているように思います。自然児が自分の感性の命じるままに反応しているようで、彼女の飾らぬ心に触れるような演奏だと感じました。
それでは、よほど自己流の破天荒な演奏をしているみたいですが、そんなことは決してなく、きちんとした音楽の法則や様式を踏まえた上で、あくまでも自分に正直な自然な演奏をしているのだと思います。

今どきのありふれたピアニストと違うのは、既存のアカデミックな解釈やアーティキレーションに盲従することなく、あくまでも自分が作品に対して抱いたインスピレーションによって演奏し、音楽を発生させているということだろうと思います。これは本来、音楽家としてはむしろ自然の法則に適ってようにも思うのですが、世の中がコンクール至上主義になってしまってからというもの、訓練の過程で「点の取れる演奏」を徹底的に身につけさせるという傾向があり、その結果若い演奏家の中から面白い個性が出てこなくなってきたことで、逆にこういう人が珍しい存在のようになってしまっているのかもしれません。

事実コンクールでは自分の色や表現を出し過ぎたために敗退することも多いのだそうで、その結果、教師も生徒も個人の個性や主観という、本来芸術の中核を成す部分に重きを置かず、ひたすら審査員に受け容れられる演奏を身につけるために奮励努力するのですから、その結果は推して知るべしです。

その点ではリシッツァという女性は、自分の作り出す演奏だけを元手に果敢に勝負をかけているピアニストのようで、それに値する才能も度胸も自我もあって実にあっぱれな生き方だと思います。そういう意味では単なるピアニストというよりはクリエイティブな芸術家のひとりだと云うべきかもしれません。

日本で評価されないのは、知名度が低く、いわゆるタレント性がないこと、そしてコンクール歴というわかりやすい肩書きを持たない故だろうと思います。さらにいうなら彼女の得意のレパートリーには重厚長大な難曲が多く、そこも日本人にはやや向いていないのかもしれません。
他国のことは知りませんが、少なくとも日本の聴衆ほど発信された情報のいいなりになるのも珍しく、マスコミの注目を集め、チケットをさばき、CDを買わせるには、コマーシャリズムと手を結ぶしかないのでしょう。

評判に靡かず、頑として自分の耳だけを信じるという人は専門家もしくはよほどのマニアということになり、これはほとんど絶滅危惧種みたいなものです。

リシッツァには、どこかそういう不遇を背負ったアーティストの悲哀のようなものがあり、そこがまた彼女の支持者には堪らないところかもしれません。
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音を望む

小冊子「ピアノの本」をパラパラやっていると、イタリア人ピアニストにして徳島文理大学音楽学部長であるジュゼッペ・マリオッティ氏のインタビューが掲載されていました。

氏は自身がベーゼンドルファー・アーティストでもあるため、主にこのピアノを中心とした話になっていましたが、曰く、ピアニストにとって「音をつくる」ことは容易なことではないし、学習者でも音をつくるところから始めなければならないと述べています。

ヴァイオリンやフルートなどの楽器では、はじめから音をつくることと同時に練習を進めて行くのに対して、「ピアノは正しい音程のきれいな音が簡単に出るので、音をつくることへの意識が希薄になる」とおっしゃっていますが、これはいまさらのように御意!だと思わせられました。

マリオッティ氏の友人のドイツ人ピアニストは生徒に「音を望みなさい」としばしば言うそうです。
音を望むということは、マロニエ君の解釈では実際の楽器が発音するよりも前に、どのような音を出すかをイメージして極力それに近づくように気持ちを入れて演奏するということだと思いますし、この手順を身につけるということは、そのままどのような演奏をするかというイメージにも繋がるような気がします。

しかし、これは意外と日本人には苦手なことのようで、プロのピアニストはひとまず別としても、アマチュアの演奏に数多く接してみると、ほとんどの人が音色のイメージというものをまったく持たないまま、ピアノの音はキーを押せば出るものとして油断しきっており、そういうことよりも、ひたすら難曲に挑戦しては運動的に弾くことにばかりにエネルギーを注ぎ込んでいるようです。
そこには音色どころか、解釈も曲調も二の次で、とにかく最後まで無事に弾き通すことだけが全目的のように必死に指を動かしているように見受けられます。

マリオッティ氏の言葉にもずいぶん思い当たることがあり、「日本人は体を硬くして、ピアノの鍵盤を叩くように弾く傾向があるので、肩や腕、手首、指の緊張を解いてリラックスして弾けるようになるといい…」とのことです。

日本人がある独特な弾き方をするのは、ひとつには日本のピアノにも原因があるのかもしれないと思わなくもありません。日本のピアノは間違いなく良くできた楽器だと思いますが、強いて言うなら音色の微妙な感じ分けやタッチコントロールの妙技をあまり要求せず、誰が弾いてもそこそこに演奏できるようになっています。
これはこれで我々のような下手くそにはありがたいことではありますが、やはり楽器である以上、そこには音色に対する審美眼とか演奏表現に対する敏感さや厳しさがあるほうが、より素晴らしい演奏を育むことにもなると思います。

人間の能力というものは、必要を感じないことには、無惨なほど無頓着となり、ついには開発されないままに終わってしまいますから、汚いタッチをしたら汚い音が出てしまうピアノに接することで、より美しい音をつくる必要を身をもって体験するのかもしれません。

驚いたことに徳島文理大学には大小合わせて9台ものベーゼンドルファーがあるのだそうで、このようなタッチに対して非常にデリケートかつ厳格な楽器に触れながら勉強できることは、将来的にも大いに役立つ貴重な修行になるだろうと思われてちょっと驚いてしまいました。
家庭での親のしつけと同じで、成長期に叩き込まれたものは、その人の深いところに根を下ろして一生をついて廻るものだけに、こうした体験の出来る学生は幸せですね。
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雨にまみれて

全国的に水の被害が出ていますが、北部九州も日曜日は明け方から夕方まで滅多にないほどの猛烈な雨でした。

雨足は終始強く、おまけに雨間というものがまるでなく、よくぞ上空にはこれだけの雨があるもんだと感心するほど、降って、降って、降りまくりでした。
深夜のニュースによれば九州の多いところでは300ミリの雨だったとか。

そんな日に、チケットを買っていたものだから九響のコンサートを聴くために宗像まで車で往復するという、マロニエ君のような怠け者にしてみれば、とてつもない行動をした一日でした。
朝からただ事ではない激しい雨模様で、これはよほど断念しようかと何度も思ってみたものの、この日登場する白石光隆さんの演奏を聴くことを以前から楽しみにしていたことでもあるし、彼はそれほどメジャーなピアニストでもないため、今回を逃すと次はいつまた聴けるかわからないという思いもあって、手許にはチケットがあるし、思い切って車のエンジンをかけました。

福岡市の中心部から会場の宗像ユリックスまでは距離にすれば30kmほどですが、普段より早めにお昼を済ませて、15時の開演に間に合うよう到着するにはかなり厳しい時間的スケジュールになります。

なにしろこの悪天候である上に、途中には新たな渋滞ポイントとして予想されるイケアと新規オープンしたイオンモールがあるので、遠回りになることを承知で高速で迂回するなどしながら、なんとか開演20分前に会場入りすることができたものの、出発から到着までの一時間半近く、一瞬も衰えることのない強い雨足には参りました。オーディオの音も邪魔になるほどの、ルーフやフロントガラスを雨滴が叩きつけるバシャバシャいう音、路面から水を巻き上げる音、せわしいワイパーの動きだけでもいいかげん疲れました。

濡れた合羽や傘をまとめつつ席について開演を待ちますが、こんなお天気にもかかわらずほとんど満席に近いのは驚きでした。
曲目はバッハ=レーガーの「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」に始まり、続いてベートーヴェンの「皇帝」で、白石さんの登場となります。

これまでCDでのベートーヴェンのソナタで感嘆していたほか、TVでもトランペットリサイタルのピアノなどで見ていましたが、とても品の良い丁寧な演奏であるし、やはり上手いというのが印象的でした。
ただし、ご本人の性格的なところもあると思いますが、どちらかというと穏やかなキッチリタイプの演奏で、個人的には、そこへもう一押しの迫りがあるならさらに好ましいように感じました。
でも、自己顕示欲のない、とてもきれいなピアノでした。

後半は同じくベートーヴェンの「運命」でしたが、久々に聴いた九響はやっぱり九響でした。
迫力はあるけれども、全体に粗さが目立ち、とりわけ弦の音色にはなんとなく細かい砂粒でも噛み込んだようなざらつきがあって、やわらかさ、艶やかさに欠けており、いささかうるさい感じに聞こえました。
アンサンブルにもより高度なクオリティが欲しいところですが、ここから先のもう一段二段というのが難しいところなのでしょう。

ピアノは新しいスタインウェイで、この日の悪天候のせいもあるとは思いたいものですが、鳴りが芳しくなく、白石さんの敏腕をもってしてもピアノの音はしばしばオーケストラに掻き消され、まったく精彩がないのは聴いていてなんとももどかしいような気分でした。

終演後はロビーで白石さんのサイン会がある由で、新しくリリースされたハンマークラヴィーアなどのアルバムが目を惹きましたが、そこに白石さんの姿はまだなく時間がかかりそうでした。外を見るとさらに激しい雨足で、帰路のことを考えるとなんだか気が急いて、結果的に後ろ髪を引かれる思いで傘を開き、横殴りの雨の中を駐車場へ向かいました。

ともかく無事に帰宅できてやれやれというところですが、今思えば、やっぱりCDを買って少し待ってでもサインしてもらえばよかったなあ…と思っているところです。
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ノリントンの世界

日曜朝のBSプレミアムのオーケストラライブには、このところ3週続けてロジャー・ノリントンがN響定期公演に登場しています。

曲目はお得意のベートーヴェンがほとんどですが、最後にはブラームスの2番(交響曲)もやっていました。
面白かったのは4月14日のNHKホールでの演奏会で、マルティン・ヘルムヒェン(ピアノ)、ヴェロニカ・エーベルレ(バイオリン)、石坂団十郎(チェロ)をソリストにしたベートーヴェンの三重協奏曲で、これはなかなかの演奏だったと思います。

マルティン・ヘルムヒェンはドイツの若手で、以前もたしかN響と皇帝を弾いていたことがありましたが、その時は気持ちばかりが先走っていささか独りよがりという感じでしたが、今回はピアノパートも軽いためかとても精気のある適切な演奏をしていましたし、ヴェロニカ・エーベルレはソリストの中心的な重しの役割という印象でした。
石坂団十郎は確かドイツ人とのハーフですが、まるで歌舞伎役者のようなその名前に恥じない、なかなかの美男ぶりで、なんだかステージ上に一人だけ俳優がいるようでした。

ノリントンの音楽はいわゆるピリオド奏法でテンポも遅めですが、どこか磊落で、彼なりの解釈と信念が通っており、マロニエ君の好みではありませんが、しかし確信に満ちた音楽というものは、それはそれで聴いていて心地よく安心感があるものです。

また、4月25日のサントリーでの演奏会では河村尚子をソリストに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が演奏されましたが、これが実に見事な演奏で非常に満足でした。

正直言うと、マロニエ君はこれまで河村尚子さんの演奏にはあまり良い印象がなく、以前これもまた皇帝を演奏した折に、あまりに曲の性格にそぐわない自己満足的な演奏にがっかりして、それをこのブログに書いた覚えがありますが、それが今度の4番ではまるで別人でした。

まずなんと言っても感心したのは、ノリントンの演奏様式に則った、バランスの良い演奏で、ほとんどビブラートをしない古典的演奏スタイルによるオーケストラとのマッチングは素晴らしいものでした。しかも音楽には一貫性があって、呼吸も良く合っており、妙にもったいぶって自分を押し出そうとする以前の振る舞いはまったく影をひそめて、いかにも音楽の流れを第一に置いた姿勢は立派だったと思います。

おそらくはノリントンという大家の監視が厳しく効いていて、勝手を許さなかったということもあったのでしょうし、事前の打ち合わせと練習もよほど尽くされた結果だと思いますが、だからこそ、先のトリプルコンチェルト同様に聴く側が違和感なく音楽に身を委ねることができたのだろうと思われます。
そういう意味では、音楽上の民主主義的な指揮者は結果的にダメな場合が多いし、近ごろは練習不足の本番が多すぎるようです。

河村さんはベートーヴェンの偉大な、しかも繊細優美なこの作品の大半をノンレガートを多用して極めて美しく、かつ熱情をもって弾ききり、こういう演奏をやってのける能力があったのかと、一気にこのピアニストを見る目が変わりました。

印象的だったのは、上記いずれの演奏会でも、ピアノは大屋根を外して、オーケストラの中に縦に差し込んで、ノリントン氏はピアノのお尻ちかくに立って指揮をしていましたが、まさに彼の音楽世界にオケもソリストも一体となって参加協力しているのは好ましい印象でした。

さらにおやっと思ったのは、いずれもピアノはスタインウェイでしたが、あきらかに発音が古典的な、どこかピリオド楽器を思わせる不思議な調整だったことで、そこまで徹底してノリントンの音楽的趣向が貫かれているのはすごいもんだと思いました。
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復元か新造か

つい先日、あるスタインウェイディーラーから送られてきたDMによると、1878年製の「The Curve」という名のニューヨークで製造されたスタインウェイのA型が、メーカー自身の手で修復されて販売されているというもので、なんとケースとフレーム以外の主要パーツはすべて新品に交換されている旨が記されています。

単純計算しても134年前のピアノというわけですが、修復というよりは骨組み以外は新規作り直しという感じで、楽器の機械的な耐久性という意味ではなんの心配もなく購入することができるということでしょう。
当然ながら、ボディやフレームにも新品と見紛うばかりの修復がされていると思われますので、旧き佳き時代のピアノとして見る者の目も楽しませるでしょうし、今やこのような選択肢もあるというのはなにやら夢があるような気になるものです。

たとえ世界屈指の老舗ブランドといえども、現今のピアノに使われる材質の低下、それに伴う音色の変化などに納得できない諸兄には、このようなヴェンテージピアノをメーカー自身がリニューアルすることによって、新品に準じるような品質で手にできるということ…一見そんな風にも思われますが、厳密にはその解釈の仕方は微妙なのかもしれません。

ともかくリニューアルの施工者がメーカー自身というのなら、一般論としての価値や作業に対する信頼も高いでしょうし、それでいて価格もハンブルクのA型新品より3割近く安いようですから、こういうピアノに魅力を感じる人にとっては朗報でしょう。

ただし、強いて言うなら、新しく取り替えられた響板やハンマーフェルトの質が、1878年当時と同じという事はあり得ず、少なくともその質的観点において、当時のものと同等級品であるかといえばそれは厳密には疑問です。枯れきったよれよれの響板が新しいものに交換されれば、差し当たり良い面はたくさんあるでしょうが、ではすべてがマルかといえば、事はそう簡単ではないようにも思います。

また作業の質や流儀にも今昔の違いがあるでしょうから、現代の工法に馴れた人の手で、どこまで当時の状態の忠実な再現ができるのだろうとも思います。仕上がった状態を、もし昔の職人が見たら納得するかどうか…。まあそういう意味合いも含めて、おおらかに解釈できる人のためのピアノと云うことになるのかもしれませんね。

やみくもに古いものは良くて新しいものはダメだと決めつけるつもりは毛頭ありませんが、おそらく19世紀後半であれば、良いピアノを作るための優れた木材などは、当時の社会は今とは較べるべくもない恵まれた時代だったことは確かです。

聞くところによれば、現在ドイツなどは環境保護の目的で森林伐採は厳しく制限され、ピアノ造りのための木の入手も思うにまかせないという状況だそうですが、そんな時代に新品より安く販売されるリニューアルピアノのために、オリジナルに匹敵する稀少材が響板に使われるとは考えにくいし、それはハンマーフェルトも同様だろうと思います。

さすれば、スペックの似た現代のエンジンを積んだクラシックカーのようなものだと思えばいいのかもしれません。そう割り切れば、パーツの精度などは上がっているはずで、もしかしたら部分的な性能ではオリジナルをむしろ凌ぐ可能性さえもあるでしょうね。
これはつまり、新旧のハイブリッドピアノと考えれば理解しやすい気がします。
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あいまいな国境

楽器メーカーのゼネラルマネージャー兼技術者として海外で長く活躍された方をお招きして、ピアノが好きな顔ぶれと食事をしながらあれこれの話を伺うことができました。

ピアノビジネスの黄金時代は過ぎ去って久しく、今はメーカーも生産台数も激減、さらにはアジアの新興勢力の台頭によりピアノ業界の様々な情勢にも、かつては思いもよらなかったような変化が起こっているようです。

少し前に、チェコのペトロフピアノの社長さんが「ペトロフはすべてヨーロッパ製」と発言されたらしいという事を書いたところ、さるピアノ技術者の方から「建前はそうなっているけれども、一部に中国の部品を使っている」ということを教えていただきました。

どんな世界にも表と裏があるようで、様々な事実は、事柄によってセールスポイントにされたり、はたまた積極的に語られないなどいろいろのようです。

考えてみれば、日本のピアノでもヤマハがヨーロッパのハンマーフェルトを輸入して自社工場で加工して使っているとか、カワイにも機種によってはイタリアのチレサの響板やロイヤルジョージのハンマーを使ったモデルもあるし、両者共に多くのモデルはアラスカスプルースを使うなど、海外からの輸入品を必要に応じて使っていることは昔から当たり前です。

こう考えると、純粋に一社は言うに及ばず、一国、もしくはひとつのエリア内だけで産出された材料を使って一台のピアノを作り上げると云うことのほうが、もはや難しいのかもしれません。
フランスのプレイエルに至ってはコンサートグランドのP280は、丸々ドイツのシュタイングレーバーに生産委託しているというし、そのシュタイングレーバーやシンメルは以前から日本製のアクションを使っているとのことで、その実情は様々なようです。

純アメリカ産モーターサイクルとして名高いハーレーダヴィッドソンも、そのホイールは長らく日本のエンケイなんだそうですし、多くのヨーロッパ車が日本のデンソーのエアコンやアイシン製オートマチックトランスミッションを載せているのは今や普通のことで、イギリスのミニに至ってはBMW製で既にドイツ車に分類されているなど、驚かされると同時に、ときに我々はそれを「安心材料」として捉えている場合さえあるほどです。

エセックスが中国で作られ、ボストンもディアパソンもカワイ製、ユニクロもアップル製品も中国製だし、要するに今や政治的な国境線を遙かに跨いで、さまざまなビジネスが自在に往来しながら効率的に成り立っていると云うことだと思います。驚いたのは、ニューヨーク・スタインウェイの純正ハンマーは日本の有名なハンマーメーカーが作っているという話まであるらしく、中には虚実入り混じっている部分もあるかもしれませんが、マロニエ君はこれを追求しようとは思いません。
ことほどさように物づくりの現場においては良いと判断されれば(品質であれ価格であれ)、現代の製造業はどこからでもなんでも調達してくるのが当たり前になったということを、我々は認識すべき時代になったことは間違いないようです。

とりわけピアノ製造のようにきわめて存立の難しいビジネスでは、理想論ばかりを振りかざしていても仕方がなく、相互に補助し合い、需給を生み出すことでコストや品質を維持するのは自然でしょう。

まあ、日本などは食糧自給率が40%と、ピアノなんぞのことをつべこべいう前に、自分達の食べ物の心配をしろということになるのかもしれませんが。
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チャイコフスキーガラ

昨年のチャイコフスキーコンクールの優勝者のうち、声楽を除くピアノ、ヴァイオリン、チェロの優勝者(および最高位)によるガラコンサートの様子をテレビから。
今年4月に行われた日本公演のうち、サントリーホールでの23日のコンサートです。

それぞれダニール・トリフォノフ、セルゲイ・ドガージン、ナレク・アフナジャリャンという3人でしたが、最も好感を持ったのはヴァイオリンのドガージンで、ロシア的な厚みのある情感の豊かさが印象的でした。

しかし全体としては、3人とももうひとつ演奏家としての存在感がなく、世界的コンクールを征した青年達とは思えない精彩に欠けた演奏だったことは残念でした。おまけに合わせものでのトリフォノフは練習不足が露わで、コンサートの企画ばかりが先行して肝心の準備が追いついていないのはちょっと感心しません。

最近の欧米の若い演奏家全般の特徴としては、音楽に対する情熱やエネルギーがどうも以前より痩せていて、ビート感などはむしろ弛緩して劣ってきているように感じることがしばしばです。
全体を見通したがっちりした構成力、その上での率直な感情表出などの聴かせどころなど、音楽を聴く上での醍醐味がないことが大変気にかかります。よく言えば小さく整った優等生タイプで、悪く云えば強引なぐらいの喜怒哀楽の波しぶきなどもはやありません。

自分が表現したい何かではなく、書かれた通りの音符を音に再現し、無事に弾き終えることに目的があるようで、だから聴き手に伝わってくるメッセージ性がない(あるいは薄い)。ただ練習を重ねたパーツとパーツがネックレスのように繋がっているようで、これでは聴くほうも音楽に乗ろうにも乗れません。
具体的な傾向としては全体に確信と流れがなく、それなのに速いパッセージに差しかかるとやたら急いで見せたり、反対に、間の取り方などはさも恭しげで意味深ぶって、そこがまたウソっぽい。

現代は、科学の裏付けのある合理的なメソードが発達しているので、練習を開始した子供の中から難しい曲を弾けるようになる人は昔より高い確率で出てくるはずですが、それと引き換えにオーラのある天才の出現は久しくお目にかからなくなりました。
とくに欧米は音楽を志す人そのものが激減しているそうで、つまり畑が狭くなり、育てる種の数が少なくなれば、それだけ光り輝く才能が出にくくなるのもやむを得ない事でしょう。
これでは楽器を習う子供の数が桁違いに多いアジア勢が優勢なのも当然だと思います。


トリフォノフは一昨年のショパンコンクールのときからファツィオリにご執心のようで、この日もサントリーのステージにはF278が置かれていました。

右斜め上からのアングルで映したときのフレームや弦やチューニングピンなどの工芸品のような美しさは印象的ですが、楽器としての危うさみたいなものがない。ディテールの造形も鈍重で、全体のフォルムはとても大味ですね。
ピアノを造形で語っても仕方ありませんが、音は華やかですが硬くて立体感に乏しく、しばらくすると耳が疲れてくる感じに聞こえました。

遠鳴りのスタインウェイをホールで弾くと、むしろ音は小さめなぐらいな印象がありますが、その点でファツィオリは弾いているピアニストに力強い手応えを与えるのかもしれません。やはり好みの分かれるピアノだと思いました。
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ヴンダーの日本公演

2年前のショパンコンクールで第2位だったインゴルフ・ヴンダーの、今年4月の日本公演の模様が放送され、録画をようやく見ました。

紀尾井ホールでのリサイタルで、リストの超絶技巧練習曲から「夕べの調べ」、ショパンのピアノソナタ第3番とアンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズというものでした。

率直に云って、なんということもない、むしろ凡庸な、まるで手応えのない演奏でした。
普通はショパンコンクールで第2位という成績なら、好みはさて置くとしても、指のメカニックだけでも大変なものであはずですが、テンポもどこかふらついて腰が定まらず、ミスをどうこう云うつもりはないけれどもミスが多く、この人の大きくない器が見えてしまって、なんだか肩すかしをくらったような印象でした。
全般的に覇気がなく、楽器を鳴らし切ることもできていないのは、デリケートな音楽表現をやっているのとは全く別の事で、聴いていてだんだんに欲求不満が募りました。

音楽の完成度もさほど感じられず、彼が果たしてどのような芸術表現を目指しているのか、さっぱり不明でした。
見ようによっては、まるで軽くリハーサルでもやっているようで、こういう弾き方なら、ピアノもさぞ消耗しないだろうと思います。

この人はコンクールの時には聴衆に人気があったというような話を聞いた覚えがありましたが、このリサイタルを聴いた限りでは、到底そのような片鱗さえ感じられませんでしたし、むしろ惹きつけられるものがないことのほうを感じてしまいます。この人の聴き所がなへんにあるのか、わかる人には教えて欲しいものです。

見た感じは人の良さそうな青年で、映画「アマデウス」でモーツァルトに扮したトム・ハルスのような感じです。演奏しながら細かく表情を変化させながら、いかにもひとつひとつを表現し納得しながら演奏を進めているといった趣ですが、実際に出てくる音はあまりそういうふうには聞こえません。

たしかコンクールが終わって程なくして、上位入賞者達が揃って来日してガラコンサートのようなものがあり、その様子もTVで放送されましたが、このときヴンダーはコンチェルトではなく、幻想ポロネーズを弾いたものの、別にこれといった感銘も受けなかったことをこのブログにも書いたような記憶があります。
やはり第一印象というものは意外に正確で、それが覆ることは滅多にありませんね。

これで2位というのはちょっと承服できかねるところですが、聞くところでは彼はハラシェヴィッチ(1955年の優勝者でポーランドのピアノ界の大物のひとり)の弟子らしいので、そのあたりになにか影響があったのか、詳しいことはわかりませんが、コンクールには常に裏表があるようです。
直接の関連はないかもしれませんが、4位のボジャノフがえらく憤慨して表彰式に出なかったというのもなんとなくわかるような気がしました。

その点で、優勝したアブデーエワは通常のリサイタルではコンクール時よりもさらに見事な演奏を披露し、彼女が優勝したことはピアニストとしての潜在力の点からも、とりあえず正しかったのだと今更ながら思うところです。
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名器は蘇る

夕方、時間が空いて、ちょっとうたた寝をしていると、5分も経ったかどうかというタイミングで電話がけたたましく鳴りました。

さるピアノ店のご主人からで、昨年秋にそのお店を訪問した際に、古くてくたびれた感じのニューヨーク・スタインウェイのM型が置いてあり、見た目も芳しくなく中はホコリにまみれて、調整もほとんど無きに等しい状態であったので、とくに意に止めることもしていませんでした。

ただ目の前にあるというだけの理由で、いちおう弾く真似のような事はしてみましたが、古くてくたびれたピアノというだけで、オーバーホールの素材にはなるだろうけれども、現状においては特に感想らしいものはありませんでした。

正直を云うと、個人的にはこれだったら日本製の新品の気に入ったものを買ったほうがどれほどいいかと思いました。それでもスタインウェイだからそれなりの値段はするのだろうし、果たしてこのままで買う人がいるんだろうか…と思ったほどでした。

そのピアノを、さすがにその状態ではいけないとここの社長さん(技術者)が思われたのか、はじめからそのつもりだったのかは知りませんが、ともかく今年に入ってオーバーホールに着手したという事は聞いていました。

マロニエ君がピアノの話なら喜ぶというのを知ってかどうか、別に買うわけでもないのに、とにかくそのオーバーホールの進捗を逐一報告してくださり、とりわけハンマーをニューヨーク・スタインウェイの純正に交換したことによる楽器の著しい変化については、熱の入った説明をたびたび(電話で)聞いていました。

ちなみに、スタインウェイのハンマーといってもハンブルク用はレンナーのスタインウェイ用で、フェルトの巻きが硬く、それを整音(針差し)によってほぐしながら音を作っていくのですが、ニューヨーク用ではまったく逆で、比較的やわらかく巻かれたフェルトに適宜硬化剤を染み込ませながら、輪郭のある音を作っていくという手法がとられます。

この社長さんによると、やはりニューヨーク・スタインウェイ用の純正ハンマーは楽器生来の個性に合っているという当たり前のような事実をいまさらのように強く体感された由で、弦も張り替え、塗装もやり直して、以前とは見た目も音も、まるで別物のようになったという話でした。
そして今回の電話によると、ある事情からこのピアノを吹き抜けのある天井の高い場所に設置してみたところ、アッと驚くような美しい響きが鳴りわたったのだそうで、「あれはなかなかのピアノだった!」と電話口で多少興奮気味に話されました。
つい「みにくいアヒルの子」の話を思い出しましたが、ともかくオーバーホールと調整と、置く場所によって、およそ同じピアノとは信じられないような違いが生じるという現実を、自分が案内をするからマロニエ君にもそこに行って、ぜひとも体験して欲しいというお話でした。

たいへん魅力的なお誘いで、近くならすぐにでも行きますが、そこは博多から新幹線で行くような場所ですから、いかにピアノ馬鹿のマロニエ君といえども二つ返事で行くわけにはいきませんが、やはり再び命を吹き込まれたスタインウェイというのは、元がどんなに古くてみすぼらしくても、ものすごい潜在力を秘めているんだなあと思わせられる話でした。
まだ自分でじかに触ったわけではありませんが、これが巷で云われるスタインウェイの復元力というものなのかと思うと、どんなものやらつい確かめてみたくなるものです。
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巻き線の名人

岡山の浜松ピアノ店の通信誌からもうひとつ興味深い話を。

浜松にある、巻き線の名人がおられる工場取材というものでした。
ピアノの低音部は、芯線に銅線を巻き付けた「巻き線」が使われることはよく知られていますが、この巻き方がとても重要であるにもかかわらず、現在では生産効率とコストの関係でしょうか、機械巻きが圧倒的に主流となっているようです。
しかし、本当にすぐれた巻き線は、名人の手巻きによるものだと云われています。

この道の名人に冨田さんという御歳67になられる方がいらっしゃるそうで、小学校の高学年の頃からこの仕事に携わり、すでに仕事歴60年近いという大ベテランだそうです。

どんなピアノでも気持ちのよい低音を確保するためには、巻き線の品質が重要だそうで、植田さんのお店では新品のピアノであっても、より良い響きを求めてこの冨田さんの巻き線に交換することがあるそうですし、修理の際の弦交換の場合はいつもこれを使っておられるそうです。

この名人冨田さんの談で、なるほど!と思ったのは、『ピアノの弦というものは、弦の材質もさることながら、同じピアノでも張る弦の太さで張力が変わり、張力が変わると音色も響き具合も変わる』というものでした。
品質はまあ当然としても、太さで張力が変わり、そこから音色や響きにも違いが出るというのは気がつきませんが、云われてみれば確かにそうだろうと、おおいに得心のいく気分でした。

現在の巻き線は機械巻きが圧倒的主流で、ピアノの聖地浜松でさえ、この手巻きのできる技術者が極端に少なくなっているのだそうです。さらにはその少ない技術者の方々は皆さん年配の方ばかりで、この分野の若い技術者が育っていないというのが現状とのこと。
これはつまり、将来、手巻きによる優れた巻き線は、よほどでないと手に入らなくなることが予想されます。

現代のピアノは製品としての精度はとても高いし、中にはなるほどよく鳴るものもあるようですが、いわゆる馥郁たる豊かな響きを持った、自然でおっとりしたピアノが生まれなくなってしまったという事を、こうした事実が裏付けているようでもあり、とても残念でなりません。

現代社会はどのようなジャンルでも効率や平均値は猛烈に向上しましたが、それは同時に一握りの輝ける「本物」を失ってしまうことでもあるような気がします。
その波が文化や芸術までも容赦なく呑み込んでしまうのは、どうにかして食い止めて欲しいところですが、時すでに遅しといった観があるようです。
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ペトロフと中国

岡山の浜松ピアノ店から、ここの植田さんとおっしゃる社長さんが書かれる「もっとピアノを楽しもう通信」という通信誌をいつも送ってくださいますが、今回も興味深い記述があれこれとありました。

このピアノ店の取扱いブランドのひとつであるペトロフの本社に視察に行かれたようですが、社長のペトロフさんが強調されるには、「ペトロフピアノはすべてヨーロッパ製である」ということだったとか。これは最近のヨーロッパピアノは一部の高級品を除くと、その多くがヨーロッパ圏外で作られるようになったということの証左でもあるようです。

そしておそらくその大半は、アジアの労働賃金の安い国々で作られているであろうことが推察できます。部分的なものから完成品に至るまで、そのやり方はメーカーによって様々だと思いますが、ともかくペトロフのような純ヨーロッパ産ピアノというのはずいぶん少なくなっているのは確かなようです。


もうひとつ紹介されていたのは、中国は大連から大学のピアノの先生が岡山のお店に来られて、中古のカワイを2台買って行かれたとのことでした。
そこでの話によると「中国製のピアノはすぐ壊れるし、中国にはまともなピアノ技術者がいないようで、中身にまったく手が入っていないのでダメ」とのことでした。

そのため、納入調律には「旅費・宿泊費を負担するので、ぜひ大連まで来て欲しい」という依頼まであったそうです。その先生の話によると、中国ではヤマハとカワイのブランド価値はほとんど同じで、国立大学の大半はカワイで色は黒が人気だそうです。
たしか中国の音大教授の間では、シゲルカワイを所有することがステータスになっているという話も思い出しましたが、なるほどそんな背景があるのかと納得です。

以前、別の方から聞いたところでは、中国製のピアノといっても品質はピンキリだそうで、外国メーカーによる技術や品質の管理も行き届いてかなり優秀なものもある反面、本当にどうしようもない粗悪品も珍しくないようで、まさに玉石混淆のようです。
ただし、マロニエ君も何度か中国に行った経験では、店に並んでいるピアノはどれも、およそ調整などとは程遠いという感じで、それは中国には高等技能をもったピアノ技術者がほとんどいないであろうし、美しいピアノの音の尺度もあまりないと思われ、その必要も未だ認識もされていないことをひしひしと感じさせるものでした。

どの街の、どの楽器店も、ホテルのピアノも、かろうじて音階のようなものだけはあるビラビラな音で、グランドもアップライトもあったものじゃありませんでした。
そんな中国のピアノ店でごくたまに見かけるヤマハやカワイは、それはもう大変な高級品という感じに見えたことを思い出しました。
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貧しい時代

昨日書いた音楽雑誌ですが、なにかこう…かすかに無常感を覚えるものとして繋がっていくことに、そのグラビアに見るウェイルホールのスタインウェイにもその要素を発見しました。

件の邦人のニューヨークでのリサイタルでは、ご当地のニューヨーク・スタインウェイが使われたようで、新しいモデルのようですが、なんとニューヨーク製の特徴である凝ったディテールのデザインにも、さらなる簡略化が進んでいました。
もはや、かつての威厳は感じられず、なんとなくしまりのないのっぺりした印象でした。

戦前のモデルに較べると、基本は同じなのに、その時代毎に装飾的なラインやデザインの大事な部分がだんだんに姿を消して行き、現在ではもうほとんどボストンピアノに近い感じにまで細部が省略されて、すっかりドライなデザインになってしまったようです。

むろん、ピアノは外観ではなく、音が勝負というのはわかっていますが、これほどはっきりとコストダウンの証を見せられると、音に関する部分だけは「昔通り」なんて夢見たいなことはとても思えません。
尤も、今はホロヴィッツやグールドのような超大物がいるわけでもなく、コンサートの世界も大衆化・平均化が進んだことも事実。それに呼応するように楽器であるピアノもかつてのような「特別」なものである必要はなく、製造・販売のビジネスが成り立つことこそが大儀であり、要するに商品としてはその程度で良いという企業判断と解釈すべきなのかもしれません。

まあそれが仮に正解だとするならば、なんとも虚しい現実なわけで、願わくは思い過ごしであってほしいものです。

その点に関しては、まだなんとか見た目の面目を保っているのはハンブルクです。
ハンブルクのほうは少なくとも外見上は、それほどの簡略化は今のところ見られませんが、内容に関しては風の噂では相当厳しいコストダウンの実体を耳にしますし、にもかかわらず最近ではアメリカのコンサートでも、以前とは比較にならないほどハンブルク製が使われることが多くなっており、そのあたり、一体どういう事情なのかと思ってしまいます。

米独両所のスタインウェイは、パーツに関しても以前より共通品がかなり増えたとも聞きますし、近年はついにハンブルクも響板にアラスカ産のスプルースを使うようになったらしく、ニューヨークは伝統のラッカー&ヘアライン仕上げの他に、黒の艶だし仕上げのピアノもかなり作っているようで、そこまで互いにおなじことをするのなら、そのうち製品統合でもするんじゃないかと思います。

来年は奇しくもスタインウェイ社の創業160年周年でもありますが、一台のピアノを作り上げるのに切り詰められた合理化やコスト削減は、おそらく歴史上最も厳しい時代ではないかとも思います。

まあ、要するに、金に糸目を付けないというのは極端としても、こだわりをもった製作者の良心の塊のような優れた楽器造りなどというものは、今のご時世にあってはほとんど夢まぼろしに等しいということなのかもしれません。
厳しい条件や限られたコストの中から、いかに割り切って、精一杯のものを作り出すかが現代の生産現場の最大のテーマなのだろうと思われますが、文化にとっては実に貧しい時代というわけです。
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ホールもブランド

書店で音楽雑誌を立ち読みしていると、ある日本人ピアニストがカーネギーホールデビューを果たしたということで、巻頭のカラーグラビアで大々的に紹介されていました。

さらにはその流れなのか、表紙もその人で、カーネギーホールとニューヨーク名物のイエローキャブ(タクシー)をバックに余裕の笑顔で写っていらっしゃいました。
まさに世界に冠たるこの街を実力で制覇したといった英雄のような趣です。

普通カーネギーホールというと、ホロヴィッツやニューヨークフィルで有名な「あの」カーネギーホールかと思いますが、実はカーネギーホールには大小3つのホールがあり、日本人の多くがコンサートをやっているのはウェイルホールという最小のホールのようです。

世界中のだれもがイメージするカーネギーホールといえば、あまりにも有名なメインホールのことだろうと思われ、ここは2800席を超す歴史的大ホールです。
19世紀末のこけら落としにはチャイコフスキーが指揮台に立ったことや、多くの名曲の初演(例えばドヴォルザークの交響曲「新世界より」など)がおこなわれるなど、まさに数々の伝説を生み出したホールです。

ピアニストに限っても、ラフマニノフやホフマン、ルービンシュタインなど音楽歴史上の綺羅星たちがこのステージに立って熱狂的な喝采を受けるなど、まさに100年以上にわたり音楽の歴史が刻まれた場所です。

さて、カーネギーホールとは云っても、ウェイルホールは座席数268と、規模の点でもメインホールのわずか10分の1以下の規模で、これで「カーネギーホールデビュー」というのも、まあ言葉の上ではウソではないかもしれませんが、ちょっとどうなんだろうか…と率直な感覚として思ってしまいます。
260席規模のホールというのはマロニエ君の地元にも有名なのがありますが、ニューヨークどころか日本の地方都市の尺度でも、それはもうかなり狭くて小さいところです。

現在のカーネギーホールは市の非営利運営だそうで、お金を出せば誰でも借りられて、さらに料金はどうかした日本のホールよりも安いぐらいだそうで、実際には無名に近い日本人演奏家なども箔を付けるため続々とこのウェイルホールでコンサートをやっているという話もあります。
そんな実態を知ると、ここでリサイタルをやったからといって、有名雑誌までもがそんな過大表現に荷担しているようでもあり、かなり異様な感じを覚えてしまいました。

これだから今の世の中、信用できません。
かつての歴史や権威性がブランドと化して、合法的に大安売りされるといった事例は枚挙にいとまがなく、なんとなくいたたまれない気分になってしまいます。

個人的には、カーネギーのウェイルホールで小さなリサイタルをするよりも、日本国内でも、例えば東京なら、サントリーホールや東京文化会館の大ホールでピアノリサイタルをすることのほうが、遙かに一人の演奏家としての真の実力と人気が厳しく問われると思いますが。
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愛情物語

いつだったかタイロン・パワーとキム・ノヴァーク主演の名画『愛情物語』をやっていたので、録画しておいたのを観てみました。

子供のころに一度見た覚えがうっすらありましたが、主人公がポピュラー音楽のピアニストで、やたらデレデレしたアメリカ映画ということ以外、とくに記憶はありませんでした。
1956年の公開ですから、すでに56年も前の映画で、最もアメリカが豊かだった時代ということなのかもしれません。ウィキペディアをみると主人公のエディ・デューチンはなんと実在のピアニストで、その生涯を描いた映画だということは恥ずかしながら今回初めて知りました。

あらためて感銘を受けたのは、この映画の実際のピアノ演奏をしているのがあのカーメン・キャバレロで、彼はクラシック出身のポピュラー音楽のピアニストですが、昔は何度か来日もしたし、まさにこの分野で一世を風靡した大ピアニストだったことをなつかしく思い出しました。

最近でこそ、さっぱり聴くこともなくなったキャバレロのピアノですが、久々にこの映画で彼の演奏を聴いて、その達者な、正真正銘のプロの演奏には舌を巻きました。指の確かさのみならず、その音楽は腰の座った確信に満ちあふれ、心地よいビート感や人の吐息のような部分まで表現できる歌い回しが実に見事。まさにピアノを自在に操って聴く者の感情を誘う歌心に溢れているし、同時にその華麗という他はないピアニズムにも感心してしまいました。

タイロン・パワーもたしかある程度ピアノが弾ける人で、実際に音は出していないようですが、曲に合わせてピアノを弾く姿や指先の動きを巧みに演じてみせたのは、やはりまったく弾けない俳優にはできない芸当だったと思います。

映画の作り自体は、もうこれ以上ないというベタベタのアメリカ映画で、その感性にはさすがに赤面することしばしばでしたが、きっと当時のアメリカ人はこういうものを理想的な愛情表現だと感じていたのだろうかと思います。

画面に出てきたピアノはボールドウィンが多かったものの、一部にはニューヨーク・スタインウェイも見かけることがありましたが、実際の音に聞こえるピアノが何だったのかはわかりません。
ただ、この当時のピアノ特有の、今では望むべくもない温かな太い響きには思わず引き込まれてしまい、こんなピアノを弾いてみたいという気になります。

今から見てヴィンテージともいえそうな時代には、ボールドウィンやメイソン&ハムリンなど、アメリカのピアノにも我々が思っている以上の素晴らしいピアノがあったのかもしれません。

今でもそんな豊かな感じのするピアノがアメリカには数多く残っているのかもしれません。
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EX-L登場!

新シリーズに移行したシゲルカワイ(SKシリーズ)では、EXは果たしてどのようになるのか、刷新されるのか、別の流れなのか、その動きをなんとなく傍観していたのですが、なんと、SK-EXはすでにラインナップから消えていることがわかりました。

はじめにあれっ?と思ったのは、北九州にまもなくオープンするひびしんホールですが、そこには3社のピアノが納入されるということで、スタインウェイDとヤマハのCFX(九州初納入?)、そしてカワイのコンサートグランドが納入される由でした。
カワイのピアノ開きのコンサートのチラシを見ていると、及川浩治さんの演奏でピアノのお披露目リサイタルが催されるものの、ピアノは単に『KAWAI EX』としか記載されていません。

てっきり、スタインウェイDとヤマハCFXを入れるので、カワイは格落ちの従来型EXなのかと思っていたところ、どうもそうではないようでした。

シゲルカワイの新しいカタログにもSK-EXの姿はなく、あくまでSK-7がシリーズ最高機種として扱われており、それはホームページを見ても同様で、SKシリーズとしてはSK-2からSK-7に至る5機種で完結しています。ところがその横のコンサートグランドには『EX-L』という見慣れぬ文字があり、???と思ってそこをクリックしてみると、なんとEX-Lという名の新しいコンサートグランドが登場しており、ボディ垂直面の内側には新SKと同様のバーズアイの木目が貼られた、新SKシリーズで先行した仕様になっています。

価格もヤマハとまったく同じ19,950,000円!
さらには全長も新SKと同様に2cm伸びて278cmになっています。
しかし、なによりも最も驚いたことは、SK-EXの場合はサイドにまで入れられたくねくねしたムカデみたいなロゴと、何の意味も見出せないピアノ形のなかにSKという二文字を入れただけの稚拙なマークが廃止され、伝統的な「K.KAWAI」がドカンと復活している点でした。

K.KAWAIは言うまでもなくカワイ楽器の創設者にしてピアノ設計者の河合小市を意味するもので、これは昔からカワイのグランドピアノだけに与えられた表記でした。そしてこの新しいコンサートグランドでは、サイドにはシンプルにKAWAIの文字が遠目にも見えるように大きく輝いており、もともとこうあるべきだと以前から思っていたので、そのことは「マロニエ君の部屋」にも書いている通りでしたが、まるで願いが叶ったようでした。

これをもって、カワイのグランドピアノの頂点に位置する旗艦モデルは、あくまでもK.KAWAIであるというヒエラルキーになり、シゲルカワイはレギュラーモデルの脇に立つスペシャルシリーズという位置付けになったようです。
海外のコンクールでも、あのロゴマークだけはどうしようもなく恥ずかしかったので、今後は堂々と、あらゆるシーンで胸を張って活躍して欲しいものだと思います。
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吉田秀和翁

音楽評論の大御所にして最長老であった吉田秀和さんが亡くなられたそうです。
御歳98だったとのこと、まさに天寿を全うされたわけでしょう。

最後まで現役を貫かれたことは驚くべきで、レコード芸術の評論をはじめ、氏の文章には長きにわたってどれだけ触れてきたか自分でも見当がつきません。
テレビにも折に触れて出演されましたが、老境に入ってからドイツ人の奥さんが亡くなったときは生きる希望を失い、自殺も考えたというほどの衝撃だったというようなことも語られていたのが今も印象に残っています。

それでもやがてお仕事に復帰され、執筆活動はもとよりNHKラジオの番組(題名は忘れました)は40年以上にも渡って継続して番組作りから司会までこなされるなど、その深い教養と尽きぬエネルギーにはただただ敬服していたものです。

また東京芸大と並び立つ、日本屈指の音大である桐朋学園は、この吉田さんや斎藤秀雄さんの尽力によって「子供のための音楽教室」としてスタートし、吉田さんはここの初代室長を務められるなど、いわば桐朋の生みの親でもあるといえるでしょう。
ここから小沢征爾、中村紘子など後の日本の主だった音楽家が数多く巣立っていったのは有名な話です。

私事で恐縮ですが、マロニエ君が子供の時、この桐朋の「子供のための音楽教室」の福岡での分校のようなところで音楽の勉強の真似事のようなことができたのはとても懐かしい思い出です。

吉田さんが日本の音楽界に与えた功績はとても簡単には言い表すことのできない規模のもので、優秀なオーケストラとして名高い水戸室内管弦楽団を結成したり、音楽を超えたジャンルにまで及ぶ吉田秀和賞の創設など、言い出すと知らないことまで含めてとてつもないものだろうと思います。

しかし、マロニエ君が最も吉田さんの仕事として尊敬尊重していたのは、やはり音楽評論という氏の本業の部分であって、その人柄そのもののような穏やかで格調高い文章、音楽評論という場において日本語の美しさをも同時に紡いで表現されたその文体は、気品に満ちた独特の吉田節のようなものがあり、これは誰にも真似のできないものだったと思います。

吉田秀和といえばあまりにも有名なのが、初来日したホロヴィッツの演奏を聴いて、その休憩時間にテレビインタビューに応じられた際のコメントでした。覚えているのは「彼はもはや骨董品になったな。骨董品は価値のある人には価値があるが、ない人にはもうない。ただしその骨董品にもヒビが入った。もう少し早く聴きたかったな。」というものでした。
まったくの記憶だけで書いているので、多少違っているかもしれませんが、ほぼこのようなコメントだったことを覚えています。

この寸評はたちまち世に喧伝され、ついにはこの神にも等しい世紀の大ピアニストに対していささか不敬ではないか?という論調まであらわれたのを覚えています。しかし、マロニエ君は頑として吉田さんの意見に賛成でしたし、彼はまったく正しいことを言ったのだと思い続けたものでした。

この時のホロヴィッツはそのカリスマ性、伝説的存在、魔性、突然の来日、当時(1983年)5万円也のチケット代など、なにもかもが話題沸騰という状況で、そんな中をついにこの圧倒的巨匠がNHKホールのステージに姿をあらわしました。プログラムにもそれまで彼のレパートリーにはなかったシューマンの謝肉祭があるなど、テレビの前に陣取るこちらも高ぶる期待に胸を躍らせながら、その画面を固唾を呑んで見つめたものです。

しかし、その演奏は呆気にとられるような無惨なもので、この状況にあっては吉田さんのコメントはきわめて妥当で誠実、むしろ知的な抑制さえ利かせたものだったと思いますし、むしろ不自然なほど素晴らしい!と褒めちぎる日本人ピアニストなどの発言のほうがよほど偽善的で、そんなことを平然と言ってのける人の神経のほうを疑ったものです。

今は音楽批評とはいってもいろんな制約に縛られており、おまけに半ばビジネス絡みでやっているようなものですから、大半の批評はマロニエ君はもはや信頼していません。そして最後の良心の象徴であった吉田さんが亡くなられたことで、ますますこの流れに歯止めがかからなるような気がします。

いずれにしろ吉田さんの著作や生き様はいろいろと勉強になった上にずいぶん楽しませてもいただいたわけで、ご冥福をお祈りすると共に謹んで御礼を申し上げたい気分です。
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2つのオペラ

このところテレビ放映されたオペラを2つ観ました。
…正確には1つとちょっとと云うべきかもしれません。

ひとつはボリショイ劇場で上演されたグリンカのオペラ『ルスランとリュドミラ』。
序曲ばかり有名なわりには、一度も本編を観たことがなかったのでこれはいい機会と思って見始めたところ、どうしようもなく自分の好みとは相容れないものが強烈だったために、全体で4時間に迫るオペラの、わずか30分を観ただけで放擲してしまいました。

これでもかとばかりのくどすぎる豪華な舞台には優雅さの気配もなく、音楽もなんの喜びも感じられないもので、とりあえずDVDには録画して、いつかそのうちまた…という状態にはしたものの、たぶん観ることはないでしょう。
ちなみに開始前の解説によると、初演に臨席したロシア皇帝ニコライ一世もこの作品が気に入らず、途中退席してしまった由で、いかにもと思いました。

いっぽう、6年という期間をかけて全面改修成ったボリショイ劇場ですが、建造物はともかくとして、新たにスタートした新しい舞台の数々には共通したものがあって、これがどうしようもなくマロニエ君の趣味ではありません。

以前も同劇場の新しい『眠りの森の美女』をやっていましたが、このルスランとリュドミラと同様の違和感を感じました。とくにやみくもに豪華絢爛を狙い、深みや落ち着きといったもののかけらもないド派手な装置や衣装は、目が疲れ、神経に障ります。新しいということを何か履き違えている気がしてなりません。

もうひとつはフランスのエクサン・プロバンス音楽祭2011で収録された『椿姫』でした。
マロニエ君は実はこの演目の名を見ただけで、あまりにもベタなオペラすぎて観る気がしないところですが、エクサン・プロバンスという名前にやや惹かれてつい観てしまいました。

というのもこのオペラの有名なアリア「プロヴァンスの海と陸」の、そのプロバンスで上演された椿姫ということになるわけですね。椿姫の恋人であるアルフレードはプロバンスの出身という設定で、第2幕ではヴィオレッタとの愛に溺れた生活を送る息子を取り返しに来たアルフレードの父親が、故郷を思い出せという諭しの意味を込めながらこの叙情的な美しいアリアを歌います。
あらためて聴いてみると、しかしこのアリアはやはり泣かせる名曲だと思いましたが、椿姫そのものが、全編にわたって名曲のぎっしり詰まった詰め合わせのようだと思わずにはいられませんでした。

ナタリー・デセイの椿姫、アルフレードはチャールズ・カストロノーヴォと現在のスター歌手が揃います。さらにはアルフレードの父親はフランスの名歌手リュドヴィク・テジエ、しかもフランスで上演されるオペラなのにオーケストラはなぜかロンドン交響楽団というものでした。

ジャン・フランソア・シヴァディエによる演出は、ご多分に漏れず舞台設定を現代に置き換えた簡略なもので、マロニエ君はこの手のオペラ演出を余り好みません。
やはり筋立てや出演者のキャラクターが、現代にそのまま置き換えるには随所に齟齬を生み、違和感があり、説得力がないからで、それは音楽においても舞台上の進行との密接感が損なわれるからです。

このような現代仕立ての演出の裏には、伝統的なクラシックな舞台を作り上げるためのコストの問題があるらしく、非日常の享楽であるべきオペラの世界までもコストダウンかと思います。
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楽器と名前

ストラディヴァリやグァルネリのようなクレモナの由緒あるオールドヴァイオリンには、それぞれに来歴やかつての所有者にちなんださまざまな名前が付いています。

そのうちの一挺である「メシア」は数あるストラディヴァリウスの中でも、ひときわ有名な楽器で、それは300年もの年月をほとんど使い込まれることもなく、現在もほぼ作られた当時のような新品に近い状態にある貴重なストラディヴァリウスとして世界的にその名と存在を轟かせています。
「メシア」の存在は少しでもヴァイオリンに興味のある人なら、まず大抵はご存じの方が多いと思われますし、マロニエ君ももちろんその存在や写真などではお馴染みのヴァイオリンでした。

現在もイギリスの博物館の所有で、依然として演奏されることもなくその美しい状態を保っているようですが、その美しさと引き換えに現在も沈黙を守っているわけで、まずその音色を聴いた人はいないといういわく付きのヴァイオリンです。

高橋博志著の『バイオリンの謎──迷宮への誘い』を読んでいると思いがけないことが書かれていました。それは「メシア」という名前の由来についてでした。

19世紀のイタリアの楽器商であるルイジ・タシリオはこの美しいストラディヴァリウスの存在を知って、当時の所有者でヴァイオリンのコレクターでもあったサラブーエ伯爵に直談判して、ついにこの楽器を買い取ることに成功します。
普段はパリやロンドンで楽器を売り歩くタシリオですが、この楽器ばかりは決して売らないばかりか、人に見せることすらしなかったそうです。自慢話ばかりを聞かされた友人が「君のヴァイオリンはメシア(救世主)のようだ。常に待ち望まれているが、決して現れない。」と皮肉ったことが、この名の由来なんだそうです。

あの有名な「メシア」はそういうわけで付いた名前かということを知って、ただただ、へええと思ってしまいました。

ピアノはヴァイオリンのような謎めいた楽器ではありませんけれども、古いヴィンテージピアノなどには、このような一台ごとの名前をつけると、それはそれで面白いかもしれないと思います。

そう考えると、自分のピアノにもなにかそれらしき根拠を探し出して、いかにもそれらしき名前をつけるのも一興ではという気がしてしまいました。自分のピアノにどんな名前をつけようと何と呼ぼうと、それはこっちの勝手というものですからね!
巷ではスタインウェイを「うちのスタちゃん」などと云うのが流行っているそうですが、せっかくならもうちょっと踏み込んだ、雰囲気のある個性的な名前を考えてやったほうが個々の楽器には相応しいような気もします。

名前というのは不思議なもので、モノにも名前をつけることでぐっと親密感が増し、いかにも自分だけの所有物という気分が高まるものです。こういうことは度を超すとたちまちヘンタイ的ですが、まあ、ひとつふたつの楽器に名前をつけるくらいなら罪もないはずです。

みなさんも気が向いたらピアノに素敵な名前をつけてみられたらどうでしょう?
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基本は同じでも

先週末はフランス車のクラブミーティングがあってこれに参加しましたが、この日はとくに同一車種が集合するというテーマが設けられ、とくに該当する車種だけでも5台が集まりました。

さて、同一車種が5台とは云っても、実は1台として同じ仕様はなく、エンジン、ボディ形状、サスペンション、A/T、生産時期などがすべて異なり、各車のテストドライブではそれぞれの違いが体感できて、貴重な体験となりました。

クルマ好きが集まっての「車前会議」が思う様できて、なおかつ自由に試乗もできる環境ということで、昔からしばしば利用している福岡市西区の大きな運動公園の駐車場が今回も会場となりました。
ここは広大な敷地があって、出入り自由な駐車場も第3まである余裕の施設で、おまけに駐車場は美しい芝生になっているので、このような目的には恰好の場所となっています。

同一車種であるために、5台の基本的な成り立ちはもちろん共通していますが、上記のような仕様の違いは車にとって無視できない違いを生み出しており、一長一短、それぞれに個性があって、こんなにも違うものかと思いました。

なんとなく、これはピアノにも共通していると思われることでした。
基本が同じ設計のピアノでも、材質や使われるパーツの仕様、技術者の違い、管理の仕方によってほとんど別物といっていい差異が生じるのは、むしろ車どころではないという気もします。

とくにピアノで大きいのは技術者の技量と仕事に対する姿勢、そして管理による優劣だろうと考えられます。
ピアノは車のような純然たる工業製品でなく、楽器というデリケートかつ曖昧な植物のような部分を多く内包しているため、技術者の技術力とセンスに多くを委ねられているわけです。

車や電気製品なら機能も明確で、故障や不調は明瞭な現象としてあらわれますが、ピアノのコンディションはきわめて微妙な領域で、判断そのものからして専門的になるので、どこからを好ましからざる状況だと判断するかは価値観によるところもあって大変難しいところといえるでしょう。

好調不調のみならず、そこには好みの問題も加味され、これを受け止めつつ常時ある一定の好ましさに維持するのは、もっぱら技術者の腕ということになりますし、どこまで要求し納得するかは使い手の精妙なるセンサーに頼るしかありません。
さらには、いかに使い手が一定の要求をしても、一向にそれを解さず、あるいは面倒臭がって仕事として着手しない技術者が少なくないのも現実ですし、逆にそういう領域にまで踏み込んだ高度な調整を施しても、まったくその価値に鈍感な使い手もいたりと、このあたりがピアノという楽器のもつ難しさなのかもしれないという気がしてしまいます。

車ぐらいの分かりやすさがあれば、必然的にもっと素晴らしいピアノの数も増えることだろうと思います。
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続・ハンマー実験

ずいぶん長いこと抱えていた音への不満が、ハンマーをたったひとつ取り替えてみただけで大きく変化するなんて、当たり前かもしれませんが、正直言って思ってもみないことでした。

今ついているハンマー(純正)も決していいものではないだろうとは思っていたものの、その原因はもっと広範囲にわたっているだろう…つまりボディなど別の部分にも広がっていることだろうと思っていたわけで、要は「このピアノはこんなもの…」という諦めが先行して、単純なこの結果にかなり驚いてしまいました。

調律時に引き出されるアクションを見るたびに、そこにずらりと並ぶハンマーがやや小ぶりではないか?という一抹の疑いは常に抱えていたのですが、やはりその点は間違いではなかったようで、おととい調律師さんが持ってこられたレンナーのハンマーは全体に少し大きいようでした。

ただしここで解決の兆しを見せたのは音の問題だけで、ハンマーの変化(とくに質量)によってタッチなどはまったく変わってしまうわけでその問題が残ります。ハンマーのわずかなサイズの増大でも、確実にタッチは重くなり、それに見合うバランスを取るには鉛詰めなどあれこれの調整を必要とするわけで、つまりこのハンマーがただちに我がピアノに向いているかどうかというのは、よくよく慎重な検討と判断を必要とすることのようです。

というわけで、もとのハンマーに戻されることになり、調律師さんはせっせと整音作業をやっておられます。
しかし、マロニエ君にしてみれば、ひとつだけ付け替えたハンマーが生み出す厚みのある音にすっかり惚れ込んでしまって、いまさら好みでもないこれまでのハンマーにいくら整音なんかしたってムダなような気分に陥ってしまいますが、せっかくやってもらっているものをそうも言えません…。

さて、そのレンナーのハンマーはといえば、机の上に置かれた小さな段ボール箱の中に、ちゃんと一台分が揃っており、しかも、特に使う予定はないというところがなんとも悩ましいではありませんか。
なんでも、自分の工房にあるコンサートなどに使っているピアノ(セミコン)のために取り寄せたものだそうですが、好みとは合わなかった為に、アベル(別のメーカー)のハンマーに再び付け替えてしまったので、このハンマー一式は宙に浮いている状態らしいのです。

マロニエ君にしてみれば、現状に比べたら遙かにいい音だったので、もうこれでいいから交換して欲しいと思ったのは自然な流れでした。
しかし、調律師さんというのはどなたもそうですが、技術者としての自分の拘りや厳格な判断基準をもっているもので、すぐに「はい承知」というわけにはいかないようです。

タッチの問題やら、万一気に入らなかった場合に元に戻せるようにする処置のこととか、さまざまなお考えがあるらしく、こちらからすればなかなかじれったいものです。
それでも易々と引き下がるマロニエ君ではありませんので、せいぜい説き伏せて、なんとかこのハンマーを使えないかと迫ったところ、とりあえず検討してくださることになりました。

ということで突如降って湧いたようなハンマー交換作戦となりそうです。
はてさて、どうなりますことやら…。
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ハンマー実験

約半年ぶりでしょうか、カワイのグランドの調律に来てもらいました。

このピアノ、かねてよりマロニエ君としてはいささか気に入らない点があり、それは奥行き 2m以上と図体はそれなりに大きいくせに音にもうひとつ深みがないということでしょうか。
以前はそれを各所の調整の積み上げによって解決できないものかと考えていましたが、さんざんあれこれやってもらったもののあまり変わらず、要はこのピアノが持っている声の問題だろうということに結論づけて、最近ではほとんど諦めの境地に達していました。

いっそオーバーホールでもして、弦やハンマーを新品に取り替えればまた違った結果もでるかもしれないものの、さすがにそこまでする状態でもなく、いうなればどっちつかずの状況にいたわけです。
通常の調律はともかくとして、マロニエ君がいつも調律師さんにお願いしているのは、専らタッチと音色の問題でしたが、思いがけなくこの点に関して興味深い実験をしてもらうことになりました。

すでに製造から20有余年が経過していることでもあり、とりわけハンマーはとうに賞味期限を過ぎているものと思っていましたが、調律師さんに云わせると必ずしもそうではないらしく、要はこのハンマーのもともとの性格だろうという見立てでした。

さて、その実験というのは、ほぼ新品同様のレンナー製(ドイツの老舗メーカー)ハンマーを持参してくださり、ハンマーの違いでどうなるか、試しにひとつだけシャンクごと取り替えてくれました。
果たして、その音はこれまでこのピアノで一度も聴いたことのなかったような、太くて厚みのある力強い音が現れ、まわりの薄っぺらな音とはまるで違っているのは率直に驚きでした。実際にハンマーのサイズもひとまわり大きいし新しいぶんパワーと柔軟性を併せ持っているのでしょう。
従来どちらかというと音色に明るさのなかったカワイが、この機種からややブリリアントな方向を目指していたようですが、そのためにやや小ぶりで俊敏なハンマーを採用していたらしく、それがマロニエ君の常々感じていた不満に繋がっていたのだと考えて差し支えないようでした。

これにより、とりあえずの問題点はボディや弦ではなく、専らハンマーにあるということが裏付けられたことになりました。予想外の音が出て小躍りしているマロニエ君を尻目に、「じゃあ元に戻しますね」といわれて大きく落胆したのはいうまでもありません。

調律師さんとしては、不満の原因がどこにあるのかを確かめただけでもこのような実験をした意義があったと考えているようですが、マロニエ君にしてみれば味見だけさせてもらって、望外の美味に喜んでいるところでサッとお皿を下げてしまわれるごとくです。

合計4時間に及んだあれこれの作業は終了して帰って行かれましたが、これは悩ましいことになったと思い始めたのはいうまでもありません。

映画『ピアノマニア』でせっかく届いたハンマーが予定していたものより細いので、急遽手配をし直すというワンシーンがなぜかふと頭をよぎりました。

元に戻すのが忍びなかったのか、ひとつだけつけたレンナーのハンマーはひとまず付いたままにしてあります。…いつまでもこの状態にしておくわけにもいきませんけれど。
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昨年のウチダ

少し前にBSプレミアムで昨年の内田光子の様子が放映されました。

ザルツブルク音楽祭2011からの室内楽コンサートと、3月にミュンヘン・ガスタイクホールで行われたバイエルン放送交響楽団演奏会からベートーヴェンの第3協奏曲で、指揮はマリス・ヤンソンスでした。

ザルツブルク音楽祭ではマーク・スタインバーグ、クレメンス・ハーゲンとの共演でシューベルトの三重奏曲「ノットゥルノ」ではじまり、これは高いクオリティ感にあふれた見事な演奏でした。
続いてはイアン・ボストリッジとの共演で、シューマンの詩人の恋でしたが、ウチダにはシューベルトのほうがはるかにマッチングがいい印象があり、シューマンではロマンティックな「揺れ」みたいなものが不足しており、肝心な部分での歌い込みの熱っぽさとか線の太さがなく、ややドライな印象を受けました。

ボストリッジの歌は、ひとつひとつのフレーズやアクセントがしつこすぎて、深くえぐるような表現に持っていこうという狙いなのかもしれませんが、ちょっとやり過ぎに感じられてあまり好みではありませんでした。

いっぽうのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、これも期待ほどの演奏には感じられませんでしたし、ウチダと共演すると、オーケストラのほうでも彼女の妙技を邪魔してはいけないと考えるのか、妙に力感のないエネルギー感の乏しい演奏だったのが気にかかった点です。

ウチダのピアノはいまさら云うまでもありませんが、繊細優美で格調高いことが世界でも認められているのはもちろんですが、あまりに拘りが強すぎて、あるいは己に没入しすぎて、あちこちで曲の全体像を見失いがちになることが多すぎるのは相変わらずでした。(本人はそうは思っていないのでしょうけれど)
随所に余人には到底真似のできない息を呑むような美しさがある反面、前に進むべき音楽がしばしば停滞し、彼女の独りよがりに陥って、聴く者にしばしば忍耐を強いるのはやはり疲れてしまいます。

それでも、どうかするとこれ以上ないというほどドンピシャリにピントの合った瞬間があり、理想的な優美な音楽を聴かせるあたりが、この人の抗しがたい魅力なのかもしれません。

それと、つくづくと思ったのはベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも第3番はまさに作風の上でも、ベートーヴェンが独自の個性を確立したエポックな作品ですが、演奏するのは極めて難しいものであることも再確認したところです。

曲の規模や構想の大きさのわりには音数が少な目で、大胆さと繊細さの平衡感覚がよほど緻密な人でないと、この作品をベートーヴェンらしく鳴らし切るのは大変だろうと思います。細部の表現性に拘泥するよりも、ぼってりとある意味泥臭く弾ける人のほうが向いている曲のような気もします。
第2楽章は5曲の協奏曲中随一ともいえそうな魅力と芸術性にあふれたもので、ふとこのラルゴのために前後楽章が置かれているような気さえしてしまいます。

少なくともウチダにとっては第4番のほうが遙かに彼女のテンペラメントに合った曲という気がしました。
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新SKシリーズ発表会

天神のレソラNTT夢天神ホールにて、カワイの新SKシリーズのレセプション・イベントがおこなわれ、お招きをいただいたので参加してきました。

この建物は、下にアメリカの高級デパート、バーニーズ・ニューヨークがある、現在の天神界隈でも最も新しい注目スポットという場所で、このような会場で新SKシリーズのイベントを行うということは、カワイもなかなか思い切ったことをやるものだと思いました。

街中の最も中心的な場所で新機種の発表会をするということは、いつものショールームにただピアノとカタログを置いておくのとはまた違ったインパクトもあり、売る側にも士気高揚の効果があるのかもしれません。

受付を済ませると、記念品の入った袋一式と自分のフルネームを書かれた名札を受け取りますが、こんなものを胸につけるのも恥ずかしいのでどうしようかと思いつつ、みなさんそうしていらっしゃるのでやむを得ずマロニエ君もつけることに。

5FのレソラNTT夢天神ホールには新品のSKシリーズが何台も展示され、さらにホールのステージには新SK-6が誇らしげに鎮座しています。
予定通りにお歴々のスピーチがおこなわれた後は、地元のピアニスト和田悌さんによる演奏が40分ほど行われ、それに続いて立食パーティという式次で、このパーティのスタートと同時にステージを含めどのピアノも自由に試弾できるという趣向でした。

個人的には、期待していた技術的な内容に踏み込んだ説明はほとんどなく、この点は非常に残念でした。
表現力アップのために鍵盤を2センチ長くしていることは再三強調されましたが、これにともなって全面的な設計変更かと思っていたら、やや疑問な点もいくつか残り、これは後日確認したい課題となりました。

会場はカワイの従業員の方々が勢揃いという感じもあり、お客さんのほうもカワイを愛奏する大学の先生はじめ、ピアノの先生などが主たるメンバーだったようにも感じました。

聞くところでは、新SKシリーズが販売が好調なのか、もともとの生産台数が少ないのか、はっきりとした理由まではわかりませんが、ともかく台数が足りないということでした。
ちなみにステージにあった新SK-6は、この後太宰府のショールームに置かれるのかと思っていたら、そうではなくすぐに大阪へ移動とのこと。
このピアノはコンサートで聴く限りはもうひとつ鳴りが硬いようで、これは楽器が新しい故のことかもしれません。直感的に新SKシリーズのベストバイはSK-2、SK-3、せいぜいSK-5あたりではないかという漠たる印象を持ちましたが、これはもちろんマロニエ君の個人的な感想です。

いずれにしろ、この価格帯では最高ランクのピアノだと云うことはほぼ間違いないという印象には変わりありませんでしたし、カワイもそのあたりはじゅうぶんに認識しているのだろうと思います。

いただいた袋を開けてみると、浜松のお菓子で「音合わせ」という名の、袋にピアノの鍵盤のついた焼き菓子が入っており、まるで調律師が名付け親のようなその拘りぶりというか、いかにも浜松ならではという感じについ微笑んでしまいました。
日本のピアノの聖地である浜松にも、また行ってみたいものです。
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ピアノ三昧な一日

福岡市南区にある瀟洒なギャラリーを兼ねたホール、日時計の丘でおこなわれた望月未希矢さんのピアノリサイタルに行きました。

曲はバッハのフランス組曲第6番、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番ほか。
望月さんのピアノは決して力まない自然体が身上で、清流が静かに流れ下るような演奏が印象でした。冒頭のバッハから羽根のように軽い響きの織りなす美しい音楽が会場を満たし、バッハの作品をこれほど幸福感をもって弾けるのだということを初めて体験したような気分になりました。

この小さなホールのいつもながらのふわりとした美しい響きと、1世紀を生き抜いて尚現役として音楽を紡ぎ続けるブリュートナーの美しい音色にもいまさらのように深い心地よさと覚えました。
ブリュートナーとバッハは、ライプチヒという共通項で結ばれているわけですが、なるほどこのピアノはバッハを弾くには最良の楽器のひとつと言えるのかもしれませんし、実際に耳で聴いてもそう感じずにはいられないものがこのピアノの中には密かに息づいているようでした。

バッハでは旋律にふっくらとした輪郭線が表れ、ベートーヴェンではときにフォルテピアノを思わせるものがあって、その音を聴いているだけでも飽きることがありません。
上部の窓から入る自然光がやわらかに会場を明るく照らし出す中を、心地よい音楽に包まれながら、ときに木の床を伝わってくるピアノの響きの振動が足の裏にまで伝ってくるとき、まるで自分が鳴り響く音楽の中心に身を置いているような気分になることしばしばでした。

終演後は、この日のピアニストやホールのオーナーや偶然お会いした知人らとしばし歓談して、まことに心豊かな時間を過ごすことができました。

オーナー氏の談によれば、なんでも今年の夏を皮切りに10年間にわたってバッハの鍵盤楽器のための作品の全曲演奏をおこなうという、まことに壮大なる企画が進みつつあるのだそうで、これはまた楽しみなことになってきたようです。

この日は昨年遠方に移り住んだ知人が折良く福岡に来ていましたので、コンサートの後は一緒に行った知人のご自宅へお邪魔して、ご自慢の素晴らしいスタインウェイピアノを弾かせていただきながら歓談して、外に出たときは陽が落ちて真っ暗になっているほど時間の経つのも忘れて長居をしてしまいました。

これでお開きになることなく、さらには食事にまでなだれ込み、尽きぬ話題で大いに盛り上がり、深夜遅くの帰宅と相成りました。
まさに丸一日、ピアノ三昧な一日でありました。
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ボストンブルー

とあるピアノ店から届いたDMを見てちょっとびっくりしました。

ボストンピアノが発売20周年を記念した初の記念限定モデルの案内で、そこには紺色にペイントされたボストンのグランドピアノが大きく写っていました。
白いピアノというのはありますが、それ以外は、ふつうピアノといえば黒か木目というのが半ば常識で、そんな既成概念にパッとひとふり水をかけるような新鮮さでした。

ごく稀には白以外にも赤や緑の原色に塗られたポップなピアノを写真などで見ることはありますが、それらは到底普通の家庭やコンサートの会場で使う感じではありません。
ところがこの紺色というのは、むしろ黒に近いシックな感じの中に、黒にはないやわらかさと華やかさのようなものがあって、意外に悪くないじゃないかと思いました。

これを見て思い出したのが、本で読んだずいぶん昔の話ですが、アンドレ・クリュイタンス率いるパリ管弦楽団が初来日してついに日本のステージに登場したときに、なによりも当時の日本人をアッと驚かせたのは、オーケストラのメンバー全員が黒ではなく紺色の燕尾服を着ていたということだったそうです。

当時の(今も多少はそうかもしれませんが)常識では燕尾服は疑いもなく黒というのが当たり前で、こんな意表をつくようなことをやってのけるとは、さすがはフランス!と感嘆したのだとか。

ステージのピアノは黒が圧倒的主流ですが、浜離宮朝日ホールには木目のスタインウェイDもあるし、先日見たNHKのクラシック倶楽部でジョン・ケージの特集でスタジオに現れたのも渋い木目のD型でした。

モノはピアノですから、あまり派手なのはどうかと思いますが、このボストンブルーのような上品な色ならば、ピアノにも多少いろんな色がでてきてもいいような気がしました。
このボストンブルーの限定モデルは5種類のグランドと3種類のアップライトの各20台で、合計160台が製作されるようですが、塗装はなんと「ドイツの工場で仕上げられる」と記されていましたから、ボディをわざわざドイツに送って、また日本へ送り返してくるということなのか…だとしたら大変な手間ですね。

よく読むと「スタインウェイピアノの艶出塗装仕上げと同じクオリティの塗装を使い…」とありますが、スタインウェイの工場でという記述ではなく、ならば優れた塗装は日本でも十分可能なはずで、なぜそうまでしてドイツの工場なのかはどうも理由や経緯がよくわかりません。

まあそれはともかくとしても、思いがけなくきれいな色のピアノで、機会があればぜひ実物の佇まいを見てみたいところです。
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ららら♪クラシック

日曜夜のN響アワーの後継番組とでもいうべき「ららら♪クラシック」。
先日の放送ではピアノが特集され、テーマは「もっと自由にピアノ」というもので、ショパンの名曲が主役ということになっていました。

メインゲストは小曽根真さんで、はじめに加羽沢美濃さんとの2台のピアノによる「ららら♪流ショパン」というアレンジ&即興ものでスタートしました。

小曽根真さんはこのところクラシックの領域にも関心を広げているということらしく、このあとでもop.17のマズルカをジャズ風にアレンジしたものが演奏されましたが、マロニエ君は実をいうとこの手合いがどうももうひとつ馴染めません。
ジャズピアノそのものはとても好きだし本当に素晴らしいと思うのですが(詳しくはありませんが)、クラシックの曲を素材にしてジャズ流にアレンジするというのが、たぶん自分の趣味には合わないのだと思います。
小曽根さんもたどたどしくクラシックのことをしゃべるよりは、やっぱり手の内に入った本職のジャズのことを語っている話こそ聞いてみたいと思いました。

ちなみにドミンゴやカレーラスが、ポピュラーソングなんかを胸を張りだしてアリアのように単調に歌うのも、なんかしっくりこないものを感じますし、それらはやはり本家本流の人がふさわしく歌ったほうが表現力も勝り、よほど素晴らしいと感じることと、これはどこかで通じているような気も…。

このようなジャンルを跨いだパフォーマンスを、いまどきはコラボとかなんとか、いろんな言葉で表現するようで、とりわけジャズには昔からある流儀のようですけれど。
おもしろいといえばそうなんですが、ショパンなどはやっぱりオリジナルで聞きたいという気分のほうがどうしてもまさってしまいますし、個人的には棲み分けのキチッとされた安定した世界のほうが自分は好きだなあと思いました。もちろん例外はありますけど。

そのオリジナルでは、なんと昨春若くして亡くなったタチアナ・シェバノワ女史の晩年の映像が出てきたことにも驚きましたし、15歳で初来日した折の天才少年キーシンの映像も実になつかしく思い出しながら見ることができました。
百合の花のような危うい気配を漂わせた痩身の美少年が、ときに顔を紅潮させながらショパンをまるで自分自身のことのように弾くむかしの姿を久しぶりに見ることができました。後半の協奏曲は昨年40歳の映像で、いやあ、どっぷりと肉も付いて貫禄じゅうぶん、初来日のときの2倍はあろうかという印象でしたね。

片やスタジオでは、古いスタインウェイのアクションを取り出して、その複雑な機械部分の大まかな様子や、キーに与えられた力がさまざまなからくりを経てハンマーの動きに変換される様子などが紹介され、この部分ひとつとってもピアノがいかに他の楽器とは違った精密機械の側面を持っているかということが、ごく簡単ではありましたが映像と共に説明されたのは実に珍しいことでした。

印象的だったのは、冒頭の2台ピアノによる即興演奏のときに映し出された上から撮影されたピアノ内部の映像で、互い違いに置かれた2台のCFXのフレームやボディなどから発してくる作りの美しさには目を見張るものがあり、音の好みなどはさておくとしても、このヤマハの最新鋭モデルの製品としてのクオリティの高さ、いかにも日本製品らしいその水も漏らさぬ高品質と眩しいまでの輝きには思わず唸りました。
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自分で評価

過日書いたCD「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」のライナーノートには、ピアニスト・コレぺティートア・作曲家である三ツ石潤司氏が文章を寄せているのですが、そこに書かれたものはなにも特別な事ではないけれども、大いに同意できるものでした。

とりわけ現代は音楽家の演奏もしくは音楽そのものをどれだけ評価しているかという問題提起には、強く共感させられました。
曰く、コンクールの入賞歴、著名な教育機関での成績、ハンディキャップの克服など、音楽外のことに囚われているというわけで、「どうして──略──自分自身が音楽に本当に耳を傾けて、自分自身で芸術家の音楽を評価しようとしないのだろう。」とあり、これにはまったく同感です。

いやしくも音楽好きであるならば、音楽や演奏は、予備知識よりもまずは自分の耳で聴いて、そこに自分なりの評価や好みを与えるのが至極真っ当な在り方だと思われます。

たしかにプロのコンサートやCD販売はビジネスですから、どんなに優れた演奏をする人であっても、なるほど少しは有名でなんらかの魅力がなければ始まらないでしょう。
だからといって、演奏の質よりとにかく有名度のほうがはるかに重要視されている現状には、さすがに呆れかえってしまいます。有名ということは、そんなにもすべてに優先するほど大事なことなのか!と。
尤もこれは音楽に限ったことではありませんが。

もちろん少しは存在が知られなくては、普通の人が演奏を聴くチャンスもないというものですが、有名になるきっかけそのものが、その人の本業ではない要素に根ざしていたりするのはどうしようもない虚しさを感じてしまうもの。せめてステージに立ったりCDを出すようになれば、そこから先は演奏内容によって評価が下されるべきだと思いますが、現実はかなり違った要素で事は進行しているようです。

どんなに質の高い見事な演奏をしても、最終的にそれを認められるという拠り所がなくては演奏する側にしても精進のし甲斐がないわけで、結局はそれが演奏の質、あるいはコンサートの質を高めることにも直結することだと信じたいところです。

しかしながら、現実にはコンクール歴や容姿を元手にして、いかに巧みなコマーシャリズムに乗るかということが成功の鍵を握っているようで、聴衆が自分の耳で聴いて判断するという最も本来的なことが、あまりにも失われているように思われます。
芸術の世界こそ真の実力主義であるべきところを、それほどとも思われないような一部の顔ぶればかりが、あいもかわらず少ない市場を牛耳っているのはどうにも納得がいきません。

そんなことを思っていたら、お次はやたら世間ズレしたジュニアが出てきて、目下たいへんな勢いで売り出し中のようです。すでになにもかも心得たような笑顔、いかにも今風な計算された口調や振る舞いには、演奏家のタレント化もついにここまできたのかと思わずゾッとしてしまいました。
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ありそうでない物2

もうひとつ誰かにぜひ作って欲しいものがあります。
こちらもグランドピアノで使う譜面立てに関する物なんでが、前回のものとはまったく逆の使い道になるものです。

夜など、大屋根をすべて閉じた状態のときに、ほんのちょっとだけ遠慮がちに弾きたくなることがあるのですが、時間的にも状況的にも、音は出来るだけ小さく、弾き方もきわめて抑制した小さな音しか出しません。

そんなとき、暗譜していればいいのでしょうが、楽譜がないのはどうにも困りもので、この点をどうにかしたいわけなのです。
マロニエ君は椅子が低めなことと、目もあまり良くないために、楽譜をピアノの上に水平においた状態ではとてもじゃありませんが音符を見ることはできません。たまにこのスタイルで楽譜をチラチラ見ながら軽く弾いているピアニストの姿などを見ますが、あんなこと、とてもじゃありませんが自分にできる芸当ではないわけです。

そこで、ピアノの上に簡単にパッと置けるシンプルな楽譜立てがあればいいのにと以前から思っています。できればごく単純な構造の折り畳み式で、小さくて軽くて、普段は足元か近くの棚にでもポンと置いておけるぐらいのもので、ぎりぎり一冊の楽譜が立てられたらそれでじゅうぶんです。

写真立ての応用みたいなものでもいいし、はじめから角度の付いたものでもいいから、要は下にフェルトを貼り付けてピアノに傷を付けないようにしておけば、こういうものがあると便利だろうと思います。

ちょっと頑張れば自分でも作ることが出来るかもしれないので、いつか挑戦してみようかと思いながら、材料の調達が面倒臭くてつい延び延びになっていますが、こういうアイデア商品もだれかが作れば重宝する人は結構いるような気がします。

飾り皿を立てるための、左右90度に開くスタンドがありますが、あれにちょっと小さなベニヤ板の一枚でも置いておけば、そこに楽譜を置くことも可能かもしれませんが、それじゃあまりにも不恰好だし、もう少しは見栄えのいいものを作ってみたいところです。

課題としては、決してゴテゴテせず、いかにシンプルな構造に到達できるかがポイントだと思っています。
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ありそうでない物

グランドピアノはアップライトにくらべると決定的に不便な点があるものです。

それは楽譜立てを使うには大屋根の前の部分を、後ろに向けてヨイショと開ける必要があり、これをしないとその中にある楽譜立てを使うことは出来ません。
その点では、大半のアップライトは鍵盤蓋の内側に小さな楽譜立てがあるので、ひょいと指先でそれをひらいてそこに楽譜を置けば済むわけですし、しかもこちらのほうが楽譜を置く位置が低く、見ながら弾くという動作にはより自然な態勢が取れるのです。
その点グランドは、ちょっとした一手間があるわけで、これが意外に面倒臭いわけです。
とくに弾き終えたとき、不精者のマロニエ君などは、楽譜を全部閉じて、ピアノから片づけて、譜面台を倒して、元ある場所に押し込んで、さらには開けた大屋根の一部を手前に向かって閉めるという一連の動作は、ついついサボりがちになってしまいます。

だいいちそのままにしておいたほうが、またいつでも練習再開できるし、なにかと都合がいいわけです。
しかし同時に困ることもあるわけで、それはピアノの内部の、大屋根の前部分を開けた一部分にだけ集中してホコリが溜まってしまうわけで、ここにはフレームから突き出た無数のチューニングピン、奥にはダンパー、その下にはハンマーなどピアノの中でもとくに複雑な部分がこれでもかとばかりに集中しています。

これを開けっ放しにするのは、少し程度ならともかく、常時この状態にしておくのは、やはりゴミやホコリの問題を考えるとさすがに躊躇われてしまいます。
ピアノの先生など人によっては、譜面台をピアノから抜き出して、全閉にした大屋根のさらに上にそれを置いて使うというスタイルをとる方も昔からあるのですが、これはでは音は籠もってめちゃめちゃ悪いし、だいいち、ただでさえ高い位置にある楽譜はさらに数センチ上部移動してしまい、マロニエ君などは椅子が低めなこともあって、とてもじゃないですが楽譜が見づらくて仕方がありません。

そこへアイデア商品というわけで、ホコリ防止のためのボードのようなものを楽譜立ての下一面にセットするものがあるようですが、実はまだ本物を見たことがありません。
問い合わせをしたところでは、実はこれには2種類あって、透明のアクリル板でできたものと、黒っぽい木製風のボードがあるようで、中が透けて見えるのがいいのか、黒い板で覆ってしまうのがいいかは好みの問題のようです。

ただし最大の問題は、ホコリ防止には役立っても、副作用として音の響をかなり阻害するわけで、そこがネックとなって実はまだ購入していません。譜面立ての前後のちょっとした位置や角度の差でも音質はかなり変わるのに、ここを一面すっぽり板で覆ってしまうことによる響きの弊害はいかばかりかと思わずにはいられません。
なぜ少しでも音響面を考慮した製品にしないのかが疑問です。

できたらここに薄い布を貼ったようなホコリよけがあればいいと思うのですが、そういうものは一向に見かけたことがありません。誰かが開発したら、これこそ購入したいところです。
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弾き込み乗り込み

車とピアノには共通するところがいろいろありますが、このところ感じているのは次のようなことです。

どちらも酷使すればそれだけへたって消耗してしまうし、逆に使い方が足りないと力がなくなり、いろいろな動きや反応が鈍くなって、たちまち精彩を失ってしまうということ。

この数日、仕事上、天神で美術関係の小さなイベントをやっていることもあり、普段よりなにかと車に乗る機会も増えていますが、そこに折良く一連の整備が完了したマロニエ君の古女房ともいうべきフランス車を3日ほど集中的に使ってみました。

この車はふだんあまり積極的に乗ることはないし、乗ってもたいがい近い距離を行って帰ってくるだけというパターンが多かったので、これだけ集中して続けざまに乗ってみるのは本当に久しぶりでした。
すると2日目の後半ぐらいから、あきらかに乗り味が変わってきました。

全体がこなれて、サスペンションの動きもより細やかで滑らかになるし、エンジンパワーの出方もより緻密さを増してレスポンシブになり、3日目には別の車のようにたおやかで軽く乗りやすくなりました。そうなると相乗作用で、こちらももっと乗りたくなるわけです。

この好ましい状態を維持するには、(きちんとした整備をした上で)いろんな部位の動きが硬化しないインターバルでしばしば車を無理なく動かすことに尽きると思います。逆に言うと、勤め人で平日はまったく車に乗らず、週末にだけ乗っているというパターンの人も多いことだろうと思いますが、こういう乗り方では、いつも車は本領を発揮しないままに終わってしまい、その車が本来もっている本当の良さはあまり感じないままということも少なからずあるように思われます。

まったく同様なのがピアノで、普段ほとんど弾かれないピアノというのは、本来の調子を出すには一定の弾き込みが必要になります。さらにピアノは、弾き込みと併せて調律などの調整が必要となり、その調整と楽器の鳴り出すタイミングをピッタリとベストにもっていくのは車よりもかなり至難の技だと思います。

もっとも典型的なのが出番の少ないホールのピアノで、ふだん何ヶ月も眠っているようなピアノを、急に楽器庫から引っぱり出して本番の数時間前に調律しても、とても本調子を取り戻すには至りません。
ここがまた車と似ていて、ピアノの場合も、最低でも2、3日かけて適度に弾き込みをやったら見違えるようになると思いますし、当然ながらもっと長い周期でやればさらに好ましい結果が出るはずです。

逆にわずか1日で本調子に持っていこうというのは好ましいことではなく、あまり拙速にガンガン動かしたり弾いたりしても望むような結果は得られないと経験からも思います。そこは決して無理をせず、少しずつ時間をかけて目を覚ませていくのが何よりも大切で、いわば解凍技術の差のようなものだろうと思います。
長いこと休養していたアスリートに、いきなり「明日試合に出ろ!」といって鬼のごときトレーニングをしても無理なのと同じです。

マロニエ君が好きなのは、自分のピアノをピアニストなどにある程度弾いてもらって、そのあとに「いただきます」とばかりに弾いてみるときで、大抵ワッとびっくりするほど良く鳴る状態になっているものです。まさに全身が暖まってパッチリ目を醒めしている状態です。

これにもまた、車にも似たところがあって、そこそこ飛ばして走ってきた高速道路を降りた直後に、一般道に出て信号停車などのあとでスッといつものようにアクセルを踏んだときの、その反応の鋭さ、力強さ、軽快感は、近所のお買い物ドライブなどでは到底味わうことのできない、まさに性能が出尽くしているノリノリの状態で、これは結局われわれ人間の身体や健康にもおおいに通じるものがあるようです。
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新SKシリーズなど

いつかそのうちに機会があればと思っていたのですが、新しいシゲルカワイ(SKシリーズ)に触れるチャンスは意外にも早く訪れました。

知人が自宅のピアノの買い換えを検討していて、SKシリーズも見ておこうということからカワイのショールームに行くことになり、新しいSK-2、SK-3、SK-5、さらには貸し出し用のSK-EXにも触れることが出来ました。

新シリーズで印象的だったのは、これまで通りのしっとり感にあふれたタッチに加えて、コントロールの自由度が増していたこと、あるいは音色にもある種の鮮明さが加わったことで、この新しいSKシリーズはどれを選んでも後悔することのないプレミアムシリーズとして、より深い輝きを増していると感じました。

タッチは、ただ単にしっとりというのではなく、軽快さと滑らかさが両立したもので、奏者のわずかな意志もすかさず捉えて反応してくる感触がとりわけ印象的で、風がそよぐようなショパンの旋律から、まったくのノーペダルで奏するバッハまで、幅広い要求に対して、ストレスなく敏感に対処できるピアノになっており感銘を受けました。

タッチと並んで印象的だったのは、次高音部がよりメロディアスになり、隣り合う音同士が切れ目なく繋がっていくようで、まさに歌心が一段とアップしている点も驚きでした。

新しい3機種には、SKシリーズ特有のほの暗い音色の中に、これまでになかった澄んだ輝きのようなものが出てきて、やはり熟成を増したのは間違いないようです。
中途半端な高級ピアノを買うぐらいなら、いっそ割り切って(というのも語弊がありますが)SKシリーズにしたほうがどれだけ賢い選択だかわかりませんし、そのほうが後悔はしないだろうと思います。

SK-EXはマロニエ君的には、まったくの開発途上にあるピアノだと思いました。
全体にやわらかい音色と穏やかな響きをもつピアノでしたが、ステージで聴衆のために鳴り響くコンサートグランドとしては、どうみてもブリリアンスと表現の幅が不足しており、あくまでも個人的な印象ですが、これなら出来の良い従来型のEXのほうがまだ好ましいと思わざるを得ませんでした。
やはりコンサートグランドというのは求める要求があまりに高すぎて、製作も難しい機種なのかもしれません。

従来型にくらべて、よほどパワーアップされているものと思っていたら、この点も肩すかしをくらうほど控え目で、もしもスタインウェイのような遠鳴りの能力を秘めているのだとしたらともかく、少なくとも間近で弾いたり聴いたりする限りに於いては、ただやさしい性格の大型犬みたいで、一向にキレも迫りもないのはまったく意外でした。

いつもなにかとお世話になり、マロニエ君宅にもしばしば来てくださる営業の方によると、来月は天神で新しいSKシリーズのお披露目会というかレセプションが行われるらしく、これにご招待してくださるそうなので、ぜひとも行ってみるつもりです。
もし開発者の説明など聞けるのであれば楽しみです。
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武満ハカセ

6回のシリーズで行われた望月未希矢さんのお話とピアノによる「音楽の話」の「武満徹とビートルズ」に行きました。

このシリーズの最終回でもあるし、武満の音楽は普段あまり積極的に聴くことはないので、ほとんど知識らしいものもなく、これはいい勉強のチャンスだという意味もあって聴講に行ったわけです。
初めに武満の編曲によるギターソロによるビートルズ作品、次いで望月さんの演奏で武満の初期のピアノ作品(後年に書き改められた)が演奏され、メインはお名前は失念しましたが、武満徹を師と仰ぐあまり武満博士のようなものになってしまったという御方の講義でしたが、武満の生まれた時代や、文化的な背景の変遷を交えながら彼の生き様が駆け足で語られて、とても面白く話を聞くことができました。

ピアノ作品では雨の樹素描などがたまに演奏会で取り上げられることはあるものの、よほど積極的に聴こうという意志がない限り耳にする機会も少ないので、このように武満に的を絞って演奏やお話をきくことは、とても新鮮な経験になりました。

あらためて感じたことは、武満の音楽はやはり日本的だという印象をもったことで、西洋の音楽のように音を時間の流れとして聴くのではなく、一瞬一瞬の音そのものを端的に聴くという新鮮な体験をするようでした。
音を聴くことによって、その音が存在する空間や空気までも同等に感じることがひとつの特徴ではないかと思いました。もしかしたら依存し合う音と静寂の関係性をセットにして聴いているのかもしれません。

武満博士の話によると、武満氏の耳には普段の我々が何の注意も払わないようなあらゆる音、生活の中に絶えず発生する雑音さえも音楽に聞こえるのだそうで、地下鉄も車輌の発するさまざまな音はオーケストラであり、それが通る地下トンネルは音響のあるホールなのだそうで、芸術家の感受性と創造力が、いかに凡人のそれとは違うかということを思い知らされるようでした。

武満博士は武満を崇拝するあまり、機会ある事にイベントを企画し、講演し、武満の芸術世界を少しでも広めることに御身を捧げていらっしゃるご様子でした。
話っぷりもいかにも手慣れたもので、これはもう昨日今日はじめたトークでないことは聞き始めるなりわかりました。構成もじゅうぶんに考慮されているようですし、資料は次々に手際よく手許に引き寄せられて、必要なページが瞬時に開いて要領よく示されるなど、まったく無駄というものがありません。
話の途中にはちょっとしたメロディを慣れた感じに口ずさんだり、はたまたピアノで弾いたりと、間断なく繰り出される説明は聞く者を飽きさせる隙間もないほどにまさに武満一色!一気呵成のトークでした。

その淀みない調子に、おもわず有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の主人公の芸者の語り上手を思いだしてしまいました。
それだけの熟練のトークであったにもかかわらず、終わってみると、さっとカウンターの隅の席に戻ってひとり静かに佇んでいらっしゃるのは、まるで出を終えた役者が舞台から戻ったあとの、楽屋でのひとときのようで、これはもう立派なパフォーマーなのだということがわかりました。

お陰で武満の活躍のあらましが簡単ではありますが把握することが出来て、これから武満へ関心を持つ基礎というか、興味の土台みたいなものを作っていただいたという印象です。
ともかく大変有意義な時間で、また武満博士のお話を聞ける機会があるときはぜひ拝聴したいものです。
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ティーレマン

昨日書いた、ティーレマン指揮のドレスデン国立管弦楽団&ポリーニの続きを少々。
というのもオーケストラにはまったく失望させられました。

いまさら云うまでもなく、ブラームスのピアノ協奏曲は2曲ともピアノ独奏つきのシンフォニーといわれるほど、オーケストラの果たすべき責任は重大で、当然ながらその規模も並のコンチェルトのときとは違います。
オーケストラの重層的な音楽の中で、必要に応じてピアノが登場してくるわけで、この作品では通常のコンチェルトよりもオーケストラとピアノが密な関係を保ちながらこの壮大な音楽を紡ぎ出さなくてはなりません。

ところが、冒頭の悲劇的な出だしからピアノが入ってくるまでのオーケストラを聴いて、なんだこれは?と思ってしまいました。いかにもわざとらしいことはやっているようだけれども、音楽に実がなく、アンサンブルはバラバラで、とりわけ弦の響きのお粗末なことは驚きでした。

ドレスデン国立管弦楽団といえばドイツ屈指の名門オーケストラのひとつですから、オーケストラが悪いとも決めつけられず、やはりこれはティーレマンの指揮の責任かと思われました。

ティーレマンは世間の評判はすこぶる高いようで、今年からドレスデン国立管弦楽団の常任指揮者だか芸術監督だか、ともかくそんなような地位に就いています。しかし、実際は賛否両論甚だしい指揮者で、彼を近来稀に見る天才、圧倒的な名演、ピリオド楽器演奏の逆を行く英雄のように捉えて、果てはフルトヴェングラーの再来!?とまで崇める人もいることには驚きます。
いっぽうで、虚仮威しの音楽、商業主義で、音楽的センスがまったくない、チケットがタダでも聴きたくない指揮者だとこき下ろす人達も少なからずいるようですが、まさに真っ二つといった感じです。

マロニエ君は彼が楽壇の第一線に登場しはじめて、ドイツグラモフォンからCDがリリースされたころから傍観してきましたが、どうもこの人にはもうひとつ興味が抱けず、数枚買ってみたCDもまったくこちらの魂の琴線に触れることがないもので、ほとんどまともに聴いたことがありませんでした。
評価できるほどたくさん聴いたわけではありませんが、ひとことで言うなら、構えはたいそう立派なようになっているけれども、音楽がまるで活きていない印象でした。

この協奏曲でも、ブラームスの悲哀もロマンも情感の綾も感じられない、ただ上辺だけを整えたような(とても整っているとも思いませんでしたが)演奏にはほとほとガッカリで、なぜこういう人が評判なのかさっぱりわかりませんでした。
要するに、彼は指揮を通じてなにがしたいのか、そこのところがまったく意味不明という感じしかありませんでした。老いたとはいえ、ポリーニがよく彼と共演することを承諾したなあと思うと同時に、このオーケストラの演奏をブラームスが聴いたらどう感じただろうか思わずにはいられませんでした。
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ポリーニの今

先日BSプレミアムシアターで放映されたティーレマン指揮のドレスデン国立管弦楽団と共演したポリーニの映像はちょっと衝撃的でした。
曲はブラームスのピアノ協奏曲第1番。

まずなんといっても、あのポリーニがこれほど歳をとって、どこからみても完全なおじいさんになっていることでした。
舞台袖から出てくるときの歩き方や、表情なども、もうすっかり変わってしまいました。
人間は老いるのは誰しも当然ですが、若き日のいかにもピアノ新時代のヒーロー然としたイメージが強烈だったポリーニ、ひとつの時代を作り、既成の価値観さえ塗り替えてしまった技巧のピアニストが、加齢によってここまでになるのかと、さすがにちょっと悲しくなりました。

老人といっても、彼は1942年生まれですから、たかだか70歳なわけで、いまどきこの年齢ならもっと若々しくしている人も多いし、たとえばアラウやルビンシュタインの70歳なんて最盛期だったことを思うと、ポリーニの衰えにはどうしても衝撃という言葉が浮かんでしまいます。

身体もずいぶんちっちゃくなってしまって、大柄なティーレマンと一緒に登場するとほとんどポリーニには見えませんでしたし、所作のすべてがお年寄りのそれでした。
もしかしたらなにか深刻な病気でもしたのかもしれません。

昔のポリーニといえばグールドと並んで、その椅子の極端な低さは有名で、求める「低さ」のためにはポールジャンセンの立派な椅子の足を下から数センチ、惜しげもなく切り落としてしまうことで、その異様に低い椅子に腰を下ろしては、あの圧巻きわまりない演奏をしていたものです。

ところが近年はだんだんと椅子の位置が高くなってきており、これも体力低下の表れかと思っていたものでした。とりわけこの日のブラームスでは、ランザーニ社のコンサートベンチをかなり上まで上げているのは我が目を疑うほどでした。たまたま我が家にもまったく同じものがあるのですが、マロニエ君の3倍ぐらいの高さで、ほとんど小柄な女性並みの高さなのには、これが歳を取ったとはいえ同一人物だろうかと思わずにはいられませんでした。

演奏も相応の衰えはありましたが、それでもなんとか立派に威厳を持って弾き終えることができたのは、さすがに長年のキャリアだなあと思わせられるところです。
やはり老いても天下のポリーニだと思うのは、明晰な美しい音、適度に重厚、適度にスマートで、気品があり、終わってみればやはりそこには一定の満足感を覚えるところでしょう。

ピアノはポリーニ御指名のファブリーニのスタインウェイでしたが、ポリーニの好みにきちんと調整された、やはり通常のスタインウェイとはちょっと違う色彩感に富むピアノだったと思います。
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中ホール向き?

BSのN響コンサートで、今年の2月に行われたコンサートから、デニス・マツーエフをソリストにチャイコフスキーの第1協奏曲他が放映されました。

とくに関心もないピアニストだったのですが、ステージに置かれたピアノがヤマハのCFXだったので、ちょっと見てみる気になりました。

所々を早回しにしつつも最後まで聴きましたが、結果からいうとやはりこのピアノのある一面が見えてきたように感じましたが、基本的には以前から感じているところに大きな変化はありません。
前モデル(CFIIIS)に比べると、長足の進歩がある点では間違いないものの、このピアノにはいわゆる逞しさとか懐の深さという要素はあまり感じられず、とりわけ大ホールに於けるチャイコフスキーのコンチェルトといった類の使い方には不向きだと思いました。

CFXの特徴は、いわば日本的気品であり、雅な懐石料理のような美しさであると思います。
轟くような響きよりもピアニッシモでの歌心、ダイナミズムよりはデリカシーといった方向に華があり、せいぜいが室内楽からソロ、コンチェルトならモーツァルトやショパンとその周辺あたりだろうと思います。

ベートーヴェンでもせいぜい4番までで、皇帝はどうでしょう…。
少なくともロシアものはミスマッチで、先代に比べて格段に美しくなった色彩感なども、こういう状況下ではその能力が発揮できず、マツーエフのスポーツ的な単純なフォルテッシモなどにも応えきれません。なにもかもが想定以上で楽器が付いていけないという印象です。

このピアノを聴いていてふと思い出したのが昔のトヨタのマーク2やクラウンクラスの車種でした。
街中での乗り心地、静かさ、精度の高い作り、軽快なアクセルレスポンスなど、いずれをとっても文句なく良くできていてこの上なく快適なんだけれども、いわゆる日本仕様車で、山道は苦手、高速道路でも法定速度まではすこぶる快適なのに、それ以上飛ばすとたちまち限界がきてしまうというものです。
いっぽう、こういうシチュエーションになると、街中では多少の硬さやごつさが指摘されていたドイツ車など、いわゆるヨーロッパ勢が形勢逆転して本来の高性能を発揮するということがままありました。

それはいささか極端かもしれませんが、CFXはあまり逞し過ぎない指でふさわしい曲をほがらかに弾くには最良の面を見せるようですが、限界を超えるとたちまち音も響きも底ついた感じが出てしまい、意外に表現の幅に制約があることがわかります。
つまりは、ある範囲内での使い方をするぶんには、もしかしたら世界一かもと思わせるほどの優れたピアノですが、いわゆる幅広い能力を持った懐の深い全方位的な万能選手ではないということで、オーケストラでいうといわゆるフルオーケストラではなく、せいぜい趣味の良い演奏を聴かせる室内管弦楽団といったところでしょうか。

これって昔のフランスピアノみたいな感じもしなくもありません。
プレイエルやエラールでロシア音楽やベートーヴェンを熱情的に弾いたとしても、作品が求める本来の味がでることはまずありません。

これらの制約がなくなったときこそCFXは世界第一級のピアノになるだろうと思われますが、他ならぬヤマハの技術を持ってすれば、それは十分可能だと思いますから、この先が楽しみです。
裏を返せば、いまだ過渡期のピアノだということかもしれません。
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バラードの背景

青澤唯夫著の「ショパン──優雅なる激情」を何とはなしに通読しましたが、後半の作品解説の部分で、思わず鳥肌が立つような文章に出会い、なんとも形容しがたい鮮烈な気分に襲われました。

たとえばこれ。
『昔、リトアニアの深い森の湖にまつわる神秘的な謎を解こうと決心した勇敢な騎士がいて、湖に大きな網を投げて引き揚げてみると、なかに美しい姫君が入っていた。姫の話によれば、その昔この湖畔も立派な町であった。あるときロシアとの戦争が起き、女たちは捕らわれの身になるよりは死を、と神に祈った。たちまち大地震が起きて城も町もみんな湖中に没した。女たちは水蓮に化身して、手をふれる者たちを呪った。その水の国の姫君は、同族の出である騎士に危害を加えようとはせず、これ以上湖の神秘をあばくでないと言って、水のなかにすがたを消した』

いったい誰が何について語られたものかというと、ショパンと同郷の亡命詩人アダム・ミツキェヴィチの詩の内容で、彼はポーランドでバラードが文学的形式として取り上げられるようになった19世紀初頭にそのジャンルの頂点を築いたといいます。
そしてショパンはミツキェヴィチの詩にインスピレーションを得て一連のバラードを作曲したと伝えられているそうです。

上の詩はバラード第2番の背景にある物語として、ミツキェヴィチの「ヴィリス湖」の概要が紹介されていました。
曲を思い出してみると、まったく納得できる曲想と内容であることがたちまちわかって、「へええ、なるほどなあ…」と納得してしまう気分になりました。
美しい第一主題の旋律のあとに突如湧き起こる、激情の上り下りはそんな悲劇を意味していたのかと思わせられます。
この第2番のバラードはシューマンに捧げられ、その返礼としてシューマンは「クライスレリアーナ」をショパンに贈ったのだとか。いずれも文学に触発されたピアノ曲の傑作というわけですね。

さらにもっと驚くのはバラード第1番についての物語。
『リトアニアが十字軍に敗れて独立を失い、七歳の王子コンラード・ワーレンロットは捕虜となった。敵方の首領の養子として成長した彼はやがて十字軍きっての勇敢な騎士となって、首領に選ばれる。そこで彼は知略をめぐらし、母国リトアニアを独立させることに成功するが、自分自身は十字軍の裏切り者として処刑される』

どうです?
思わずゾッとするほどの内容的な符合で、これまで何十年、何百回かそれ以上聴いてきたこの曲の、曲想や各所の旋律や運び、起伏の意味などが、純音学的に捉えてきた抽象的なドラマに代わって、これほどありありとした物語性を帯びていたのかと思うと、いかにも頷けるその内容に、ほとんど戦慄してしまいました。
しかも驚くべきは具体的な情景表現ではなく、徹底した精神的描写である点。

冒頭から最後の一音に至るまで、ショパンにしてはえらく英雄的であり同時に深い哀愁と悲劇性に満ちたこの曲の中心は、こういう宿命を辿らされた王子の心情と悲劇であるというのはまったく驚きでした。
こちらにしてみれば、ショパンの作品として純音学的に接してきたものが、突如このような背景となる話が降って湧いたようでもありますが、これは今後、この曲に触れる折に切り離して音だけを聴くことはできなくなってしまったかもしれません。

尤も、著者もいっていますが、ショパンのバラードは決して標題音楽ではなく、情景をリアルに活写したものではなく、あくまでも根底にある「イメージ」であり、そこにショパンが着想を得たにすぎないという間接的な捉え方をすることを忘れてはならないでしょう。
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ピアノ磨き2

いつだったか、ホームセンターに行ったついでにカー用品を見ていると、この分野も時代とともにずいぶん様変わりしているようです。
昔は生粋のカーマニアというのが珍しくなかったので、手間暇のかかる洗車や、ややこしいカーケアにも労を厭うことなく、専門のショップなどは高額な最高級ワックスだとか何とかいったものが溢れかえっていたものです。
しかし車に対する人々のニーズもしだいに変わり、それに伴ってカーケアの種類や方法も変わっていきました。

例えばワックス入りカーシャンプーみたいなものも出てきて、洗車とワックスがけの手間をひとつにまとめるなど、要するに結果はそこそこでも、作業はできるだけ簡単・短時間なほうがいいという傾向が現れ、次第に数を増し、ひとつの流派が確率されていきました。

さらにその上を行くものに、ウエットティッシュから発想を得たような、水入らずの「おそうじシート」がブームになり、これがカーケアの世界にも入ってきました。
これは最初は女性向けの手軽な洗車用品として登場しましたが、マロニエ君などは、こんな赤ちゃんのお尻拭きみたいなものは一時の思いつきのようなものですぐに姿を消すはずだと踏んでいましたが、結果はまったく逆で、次第に種類や内容もより豊富な製品が揃うようになりました。

出始めは、単にボディの汚れの除去剤を含ませた車用おそうじシートだったものが進化して、今ではワックス入りなどの種類も増えて、中には小キズ消しからコーティングまで一気にやってしまうという一手間で何役みたいなものが並んでいます。
これらを見ているうちに、これはもしかしたらピアノに使えないか…という考えが頭をよぎりました。

価格は300円前後から700円ほどの間で、内容というか、いわば効能も様々のようですが、安くて作業が簡単という点ではどれも共通しています。
とりあえず一番安いベーシックな「ワックス入り」を購入し、恐る恐るピアノに使ってみたところ、予想以上の上々な仕上がりにいたく満足しました。

使い方は、水ぶきして軽くホコリを落とし、シートに含まれる水分(というかワックス?)を軽くのばした後、時を置かずに柔らかい布で拭き上げるという至って簡単なものです。

ポイントは洗車のときと同じで、一度に広い範囲へ拭き広げることはせず、部分ごとに塗っては拭き上げるという作業を繰り返していくことです。
とりあえずサーッと一通りこれで拭き上げてみると、さすがはワックス成分が含まれているだけあって全体がピカピカになり、思わず「おおお!」とばかりに嬉しくなりました。これをもう一度繰り返すと、さらに輝きは増して安定したものになるだろうと思われます。

なにしろ作業自体がえらく簡単で、こんなにあっさりきれいになるなんて!
しかも拭いた後の感触が新品のようにツルツルで、楽譜なんてツーッと滑って行って、そのまま向こうに落ちてしまって慌てたぐらいです。

こうなると、またオバカなマロニエ君のことですから、違った製品をあれこれと買ってみなくては気が済まなくなりそうです。そんなことをする暇があれば、ちょっとでも練習をした方がいいのかもしれませんが、いざとなるとそんなことはどうでもいいわけで、これぞアマチュアの強味というか特権です。

だって弾くことは義務ではないんだもん!いつ中断してもどこからも文句が出るわけではなし、むしろ騒音が減って歓迎されるほうでしょう。
それはいいとしても、磨き事にハマってしまいそうな自分がこわいです。
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ピアノ磨き

黒の艶だし塗装のピアノをお持ちの方は、塗装面のお手入れはどんなふうにやっておられるのでしょう?
楽器店で売っているクリーニング液などを付属のネルの布などにつけて、薄く伸ばしながら拭きあげるというのが一般的な方法だと思います。

ところで、マロニエ君は自分のピアノには一定の考えがあってカバーはしていません。
音の問題もありますが、よくあるあの表は黒で裏には朱赤のネル生地がついた、いかにも学校の音楽室みたいなカバーがどうしても好きになれないのです。とりわけ黒と朱赤という色のコントラストは神経に不快なのです(尤も最近は裏地も黒といういうのもありますが)。
で、カバーをしていないぶん、音もカバーによる妙に籠もったようなものにならなくて済んでいます。

しかし微細なゴミは確実に塗装面(とくに水平面)に降り積もり、そのつど柔らかい布などで除去しますが、よくみると固着してしまう微細な汚れもあり、これは空気中には必ず含まれるものなので、これはなんらかのケミカル製品の助けを借りなくては安全に取り除くことはできません。

マロニエ君は最近でこそすっかり大人しくなりましたが、一時は大変な洗車マニアで、ありとあらゆるケミカル品を使っては試し、当時の我が家のガレージの棚には無数のワックスやコーティング剤がずらりと並んでいたものですが、ピアノの塗装面を見るとちょっとそのあたりの虫が疼いてくるわけです。

さて、その洗車のためのケミカル品、とりわけキズ落としや研磨剤、さらにはつや出しに至るまでの薬品は、意外にもピアノに流用できるものがあるとマロニエ君は考えています。まあそれもそのはずで、例えばピアノ業者がキズだらけのピアノを磨き上げるには、車と同様、目の異なるコンパウンドを使い分けながらグラインダーで磨いていくことで、ようはキズのある塗装面を薄く削り取って、美しい平滑な艶を磨いて出しているわけですから、こういうところはまったく同じなんですね。

素人が下手にコンパウンドを使うと却って細かい傷を付けたりくもらせてしまう場合があるので、これはよほど極細の最終仕上げ用以外は使わないほうが無難ですが、なかなか良いのはキズ消しとコーティングの効果がある製品で、これを使って磨くと、ピアノはかなりきれいになります。
ここでもキズ取りには若干ですがコンパウンドが巧妙に混入されており、それが塗装面の汚れを取り除いてきれいに仕上げるのに役に立つわけです。
ちなみに一般的な車用のコーティング剤の場合、同じ製品でも「ダークカラー系用」「淡色/メタリック系用」「ホワイト系用」という3タイプに分かれているのが普通ですが、この違いは何かというとコンパウンドの含有量もしくは粒子の違いで、ダークカラー系が最もキズが目立ちやすいので、そのぶんコンパウンドも最も弱く、効力もソフトなものになっています。

というわけで、黒のピアノには当然ダークカラー系を使うのが順当でしょう。
これで磨くと、ボディに美しい艶が出るし手触りもツルツルになるのはもちろん、くすんでしまった鍵盤蓋のYAMAHAやKAWAIの文字もビカビカの金色がよみがえり、これだけでもなにやらとても新鮮な気分で練習にも励めるというものです。

ただし、これはあくまでマロニエ君の個人的な経験と考えですから、マネされて何か不都合が起こっても責任はとれませんので、いちおう念のため。
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ピアノマニアが福岡へ

「ピアノマニア」という文字通りピアノ好き必見のドキュメンタリー映画が公開されます。
http://www.piano-mania.com/

シュテファン・クニュップファーという、かつてスタインウェイ社で一番と言われた(らしい)ドイツ人調律師を中心に描く、オーストリアとドイツの合作で、マロニエ君もぜひ観たいと思いつつ、なにしろ超マイナー作品のようで、上映も東京・大阪などの、極めて限られたところでしか行われていませんでした。

まさかこれひとつのために泊まりがけで出かけるわけにもいかず、こういうことが東京・大阪の特権かと思っていましたが、なんと、ついに福岡へもやってくるようです。

1月の東京での封切りから現在まで、かろうじて大阪、静岡(浜松があるから?)、名古屋で上映されていたようで、福岡が5番目の上映都市となるようです。

そのうちDVD等ではチャンスがあるかもしれないとは思いつつ、劇場で観るのはほとんど諦めていただけに望外の喜びです。

上映日時は下記の通り。

場所:KBCシネマ
3月31日(土):14:15
4月1日(日):14:15
4月2日(月):14:15/18:30
4月3日(火):14:15/18:30
4月4日(水):14:10/19:10
4月5日(木):14:15/18:30
4月6日(金):14:15/18:30

4月7日以降は未定、延長もあるとのことですが、はじめの一週間の客足によって決するということかもしれません。普通はまずこんな映画を観る人はいないでしょうから、ともかく地元で見られるだけでも御の字です。
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格闘技系?

岡田将ピアノリサイタルに行きました。
福岡の出身、名前は以前から聞いていて、テレビで少し演奏に触れたことはあったものの、実演に接するのは今回が初めてでした。

曲目はベートーヴェンの月光ソナタ、ショパンの3つのマズルカ作品50、バルカローレ、リストの超絶技巧練習曲から1、2、4、5、8、ハンガリー狂詩曲第2番、アンコールは愛の夢と英雄ポロネーズというものでした。
当初は超絶技巧練習曲は全12曲が予定されており、マロニエ君としてはこれが目的で行ったようなものでしたから、曲目の変更を知ったときは大きく落胆しましたが、まあそれは仕方がありません。

岡田氏はテレビではしっかり感のある技巧派という印象があり、実際にも背丈などはそれほどではないものの、がちっとした体型と存在感のある人で、徹頭徹尾、予想以上に重量級のエネルギッシュな演奏を繰り広げました。

第1曲の月光第一楽章の出だしからして、ちょっと粗いなぁという印象があり、ちょっと自分の趣味ではないことにまずは戸惑いましたが、聴き進むうちにこれはこれでこの人の在り方なんだということが分かってきて、それなりに楽しんで聴ける自分を取り戻すことができたように思います。

とりわけ後半のリストは、いかにもこの日のメインという風情で、かのリスト本人のコンサートがそうであったように、あまりに凄まじい熱演に弦が切れるか、ピアノが壊れてしまうのではないかというような地響きのするようなフォルテッシモの連射で、いやはやその技巧と体力だけでも大したもの!という感じでした。

ピアノの演奏芸術を聴くというよりは、ほとんど格闘技でも見ているような感覚で、フェイスもややそれ系の印象がありますね(笑)。まさにオトコのピアノでした。
何事も中途半端はいけませんが、ここまでいくと何か突き抜けたものがあり、そのパワフルな演奏を単純に楽しむことができたのは自分でも不思議に笑ってしまいました。
なんというか、別の感覚でステージを楽しんだという点では退屈もせず、妙な疲労感も覚えず、愉快に帰ってくることができたわけで、こんなコンサートもあるのかとひとつ感心させられました。

最近の世の中は、何事にも元気のない、しょぼしょぼしたものばかりしか見あたりませんが、そんな中で久しぶりに景気のいい、どえらいものを見せて聴かせてもらった気がしました。たしかに音楽的には異論反論はありますが、単純にあのパワーと元気は人を快活にするものがあり、昨今の淀んだような病的な空気ばかり吸っていると、なにか無性に溜飲が下がる思いでした。

お客さんを率直にこういう気分にさせるという点では、岡田氏もさすがは福岡の出身なのかと思えるようで、妙にもってまわったような暗くて意味深な演奏をしたり、だらだらとおざなりなトークで時間稼ぎするようなこともなく、話もサクサクと短かめ、演奏も明快な豚骨味みたいな率直さで、まるで美味しい街の定食屋で餃子や揚げ物などしこたま食べて満腹したような心地よさと爽快感がありました。

このコンサートの主催が日本ショパン協会九州支部(たしか事務局がカワイの中にある)だったためか、ピアノはあいれふホールにわざわざシゲルカワイのEXを持ち込んでの演奏会で、思いがけずあいれふホールのあの独特な強い響きの中でSK-EXを聴く機会に恵まれたわけですが、どう聴いてもマロニエ君の好みではありませんでした。

これは、この日一日だけの印象ではなくて、ホールやピアノ(もちろんピアニストも)が変わってもカワイピアノに共通した印象があって、コンサートで聴くカワイの一番の問題は、音に深みと色気がないこと、別の言い方をすると音に収束性がないことです。
大味で透明感がなく、どこか雑然と割り切ったような音しかしないのは、まさに味のない日本車みたいで、カワイのファンとしてはこれは非常に残念なことだと思います。

家庭用サイズではかなりの高みに達しているかに思えるSKシリーズですが、ことコンサートグランドに関しては、残念ながら及第点に未だ到達せずという印象は拭えません。
これは早急になんとか手を打って欲しいところです。
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楽器を弾く権利!

過日、知り合いのピアニストと食事をした折に、留学時代のヨーロッパの様子など、いろいろおもしろい話を聞かせてもらいました。

驚いたことはドイツやオランダなどは、都市部でも賃貸の物件が少なく、家賃も決して安くないためにこれを確保することがまずもって一苦労だということでした。
とくに学生などは数人でのルームシェアは当たり前だそうで、そのスタイルが逆に社会人の間にさえ広まりつつあるのだとか。はじめは屋根裏部屋のようなところもあったらしく、賃貸物件など供給過剰で空室があふれる日本とはまるきり事情が違うようです。

ピアノで留学しているにもかかわらず、自室にピアノがないことさえあったらしく、アップライトでも確保できたら良しとしなくてはいけないのも、単純にずいぶん厳しいなぁ…と思ってしまいます。
裏を返せば、勉学というものは困難な状況で努力奮闘することも、却って気合いが入るものかもしれませんが。

逆に驚いたのは騒音問題で、この点は、日本は厳しいどころではない、極めて神経質に取り扱われる深刻な問題になっていて、アパートやマンションのような集合住宅ではほとんどが事実上の禁止状態に近く、多くのピアノ弾きの皆さんが最も困難を感じ、周囲には格別の気を遣っておらる最大の問題です。
当然、中にはそれが引っ越しの動機にさえなるほどの、まさに胃の痛くなるような問題に発展することも珍しくはないようです。
ピアノをはじめとする楽器の音は、周囲の人達にとってはとにかく不愉快な騒音だという大前提があるので、その中で曜日や時間帯に気を配りながら、身をすくめるようにしながらピアノを弾いている人が大半ですから、例えヨーロッパといえども、それなりの配慮が必要な問題だろうと思っていました。

ところが、ドイツではなんと人々は楽器を演奏する「権利」があるのだそうで、1日3時間は楽器の音を出しても良いという決まりになっているというのですから、彼我の文化の違いにはただただ唖然とさせられました。
これはまず、音楽に対する本質的な愛情の持ち方が、根底から違うのだなあというのが率直な印象でした。
そのピアニスト氏によると、アパートの隣室の老夫妻などは「むしろどんどん弾いてくれ」とまで言われたのだそうで、おかげで夜もかなり遅くまで気兼ねなく弾くことができたといいます。

そのかわり、午後の1時から3時までは「ルーエ・ツァイト」といって、この時間帯はできるだけ音を出さず、みんなが静かに過ごす時間帯なのだそうで、その時間だけ音出しを控えれば、あとは日本のような楽器の騒音問題は事実上ないに等しいのだそうです。

これはもはや良し悪しの問題ではなく、さすがドイツは音楽の中心国だと、ただただ感心する他ありませんでした。
日本人がわずか百年余の間に、まったく文化背景の異なる西洋音楽をものにして高度な演奏を可能とし、優れたホールや楽器がいくらあまねく整ったなどと言ってはみても、所詮はこういう一般市民の根底に流れている意識レベルが違うということは、これぞまさに歴史と文化、それが染み込んだ土壌というものの違いをまざまざと思い知らされるようでした。

もちろん、かくいうマロニエ君とて、もし自分がマンション暮らしで、近隣からのピアノの音に連日悩まされたら、音楽云々以前に閉口するとは思いますが…。
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久々に…

先週末は、はからずもクラブの活動らしき事を行うことができました。
といっても大げさなものではなく、ごく内輪で食事に行くことになったところからたまたま発展して、新たに入会の連絡をくださった方にも声をかけたところ参加されることになったものです。

参加者は4人、ピアノ好き2人とピアニスト1人、そして楽器メーカーの営業の方1人という布陣で、この顔ぶれだけでもけっこう面白いものだと思いましたし、このぴあのピアが目指した(といってもずいぶん昔ですが)クラブ理念に近いものになったような気がします。

それはプロアマを超越したところにあるピアノを軸とした人間関係の構築であり、本来はもっとこういう交流が盛んになればと思うのですが、なにぶんにも狭い業界の中でいろいろな柵(しがらみ)が網の目のように絡んでいて、そうそう表立ってそういう場所に顔を出せない方も多くいらっしゃるようです。

しかし、このような自分の立ち位置の異なる人達が顔を合わせることによって、お互いに普段知ることのない情報の交換ができるわけで、とても有意義な一日だったと思います。もちろん「有意義」などという真面目くさったことをいうまでもなく、まず単純に楽しかったし、それが最も大事なことだと思いますが。

個別具体的な話の内容は障りがあるのでここでご紹介することはできませんが、やはり仕事の現場というのはどさまざまなことがあるもので、いろいろな人や状況を相手にしなくてはならず、大変だなあ…というのが偽らざるところでした。まあそれはどんな業界にも共通したことで、ことさら楽器業界だけが抱える問題というわけでもないとは思いますが…。

聞いていてため息が出たのは、お付き合いのある教室や先生へのサービスとして、発表会などの折には休日返上でお手伝いに行くというのが業界では常態化しているのようで、なんと、先生のほうからその旨の依頼がある!というのは、いやはや呆れた実情です。
いうなれば人の弱みにつけこんだサービスのたかりのようなもので、別に正義漢ぶるわけじゃありませんが、マロニエ君は昔からこういうことが猛烈に嫌いです。

お医者さんの奥さんが、ただ友人達とどこかへ遊びに行くのに、出入りの製薬会社の人&車を使って遠方まで出かけては、丸一日彼女達に対して奉仕させるとか、デパートの外商担当者に交通事故の後始末までさせるとか、大手の量販店で自前の店員の不足分をメーカーの営業マンなどを売り場で働かせていたなど、要はこれ、弱い者イジメであり、薄汚いゴミみたいなちっぽけな権力の行使にすぎません。

学校や教室で少しばかりそこのメーカーのピアノを使っているからといって、その売買はとうの昔に完了していることなのに、いわばそれを元ネタにして、延々とメーカーの人達が発表会だ何だとお手伝いをさせられ、しかも休日返上でそれをやらされるという現実…。
そのようなまったく筋の違う人達に無償奉仕など頼まなくても、先生達も複数いらして充分に人の手はあるはずなのに、本当にイヤな慣習です。

これだから先生と名のつく人達の中には、相手になんのメリットも対価も与えきれないくせにやたら人使いだけは荒くて、世間からある意味で敬遠され嗤われてしまう人が少なくないのだと思います。
人間関係の根本にあるものはギブ&テイクという原理原則が、まるきりわからない人達です。

それでも営業という立場にある以上、文句も言わずにサービスにこれ努めなくてはいけないわけで、こうなると本当に大変だと思います。

もちろん楽しい話もたくさんあり、いろんな興味深い話を交わすことができて、やはりピアノはいいものだと思いました。
というわけであれこれと話は尽きず、つい深夜まで話し込んでしまいました。
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かけこみ需要

つい先ごろ発売されたばかりの新しいシゲルカワイのカタログを入手しました。
カワイの営業の方がコンサートのチケットを届けに寄ってくださるついでに、新型のカタログが欲しいとお願いしておいたのです。

今回の新モデルでは、なんとピアノの全長が全5モデルにわたって2cm長くなっています(SK-5のみ3cm延長)が、どうやらそれに伴って鍵盤延長という楽器の根本に関わる改良が行われているようです。
一般にフルコンが弾きやすいとされるのは、その豊潤な響きもさることながら、長い鍵盤にもその大きな要因があるといわれていますが、それは指先が弾いた位置から支点までの距離が長いぶん、微妙なコントロールの幅があるというセオリーに裏付けられています。

鍵盤の奥の長さはふだん目に見える部分ではありませんが、小さなグランドほど鍵盤から支点までの距離が短くなり、コントロールの可能性という面においては不利になることは否めないわけですが、これを新SKシリーズでは全機種にわたってその長さを延長するというのは、単なる既存モデルの改良では済まない、ピアノの基本的なサイズ変更にまで及ぶことで、これはかなり大がかりで思い切ったモデルチェンジと言えるのだろうと思われます。

それだけメーカーが本気でこのピアノの改良に取り組んだということでもあり、それだけ価格も概ね10~15%値上がりしていますが、これだけ根本的に改良されたモデルチェンジならば納得できるものだという気がします。

これだけのことをやられたら、さぞかし従来型のSKシリーズのユーザーは心穏やかではないだろうと思われましたが、マロニエ君を最も驚かせたのは、なんと、この機に値上がり前の旧モデルの新品在庫品を求める声がかなり強かったという…?!?…な話でした。
もちろんモノを買うときに、(とりわけ高額商品では)出費は高いより安いほうがいいことはわかりますが、それはあくまでモノが同じである場合の話ではないかと思います。
単純な値上がりというのならわかりますが、これほど本格的にテコ入れされた新モデルの登場によって発生する値上がりであるなら、そこには相応の根拠というか裏付けがあるわけで、もし自分が「新品のSKシリーズ」を購入する立場であったなら、そんな時期にわざわざ旧モデルを買おうだなんてたぶん思わないでしょう。

レギュラーモデルではなく、敢えてSKシリーズを買おうというような人が、なぜ新モデルは値上がりしているのか、その理由をまったく知らないとも考えにくいのですが、やはり値上がりするということから、その内容云々よりも今のうちに駆け込み購入しようという単純な消費者心理が働いてしまうものなんでしょうか?
値上がり前に買っておけば何か得するような気分になっているのだとしたら、お米やバターじゃあるまいし、この場合はちょっと驚きです。繰り返しますが、その得するというのはモノが同じだという前提のもとでしか成り立たないと思います。

たしかに最低でも26万円、SK-7では実に84万もの値上がりではありますが、どっちみちもともと安いものでもないし、どうせ思い切って買う一生ものに近い高額なピアノであれば、へんなところでケチって悔いを残すよりも、妥協のない良いものを手に入れたいとマロニエ君なら思います。
とくに今回は、先に述べたように鍵盤の長さやボディサイズという、あとからではどうにもできない明瞭な違いがあるのであれば、マロニエ君だったら絶対額よりもその実質のほうを重視すると思います。
値札の数字ではなく、真実お得なのは何かという問題です。

本当に欲しいもので、それだけのお金が出せるのなら、そこで一割ぐらい上がっても、変更された内容を考えれば大した問題ではないような気がするのですが…。

すでにショールームにはSK-2とSK-3がきているとのことですから、そのうちちょっと触りに行ってみたいと思います。
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ニュウニュウ

中国はいまやピアノ&ピアニスト大国という一面を持っているようです。

おそろしく指がまわるという意味では、ユジャ・ワン、ラン・ランをはじめとする現在の中国勢は圧倒的なものがあると思われ、指芸人とでもいうべき運動能力と、その鍛えられたメカニックという点では大したもんだと思いつつ、どこか上海雑技団的すごさしか感じられず、マロニエ君としては音楽家本来の価値と存在理由を感じさせる人は、これまでの中国人ピアニストではほとんどいなかったというのが偽らざるところでした。

すくなくともその人によって奏でられる音楽に耳をすませ、心を通わせたいと思わせるピアニストは、マロニエ君の趣味に照らしては、中国人ピアニストには該当する人がいないというのが率直な印象です。

ところが過日のBSプレミアムで放映されたニュウニュウの演奏は、そういう中国人ピアニストへのイメージを払拭させる、初めてのものだったのは嬉しい驚きでした。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏会で、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲の2曲を演奏しましたが、知的で品がよく、すみずみまでキチッと神経の行き届いたまったく見事な演奏で、音楽的にもマロニエ君の知る限り稀有な中国人ピアニストだと思います。

ニュウニュウは以前このブログで書いた「ピアノの島」があるアモイ市の出身のようですから、まさに出るべき場所から出た天才だということなのかもしれません。
12歳のときに録音したショパンのエチュードは、ピアノの状態も録音も優れない上に、演奏自体もやや若さにまかせた未熟さが感じられてもうひとつ感心しませんでしたが、あれからわずか2年、音楽的にもすっかり深まりを見せていたのは、いかにこの少年が着実な成長をしているかということを物語っているようです。

これら2つのきわめて技巧的な曲をまったく危なげなく、豊かな音楽性にあふれ、しかも知的な抑制もきいた演奏をしたのは、これまでの中国人とは一線を画したクオリティの高さだったと思いました。内容のある演奏をする人にふさわしく、その演奏時の雰囲気や凛々しく引き締まった表情にも、いかにも内側から滲み出るものが溢れ、ただのびっくり少年とはまったくわけが違います。

しかも彼はまだ14歳!なのですから、その天才ぶりも第一級のものでしょう。
この歳にして、彼は極めて高い集中力を保ちながら、演奏を通じて音楽そのものに一途に奉仕している姿が非常に印象的でした。
その類い希な天分もさることながら、彼を教える教授陣の優秀さも証明されているようです。

ニュウニュウの秀演とは対照的に、兵庫芸術文化センター管弦楽団というのは初めて聴きましたが、今をときめく佐渡裕氏のタクトをもってしても、力量不足は覆いようもなく、ニュウニュウが弾いている以外の曲になると、申し訳ないけれどもちょっと聴こうという意欲が湧きませんでした。
冒頭のプルチネルラ(ストラヴィンスキー)も、こんな踊りと勢いにあふれた曲なのに、活気も喜びもなく、どうしようもなくテンションが落ちてしまうのはなんとも残念でした。

というわけで、ひたすらニュウニュウひとりを聴くためのコンサートだったようで、今後おおいに注目すべきピアニストの一人にリストアップすべきだと思っていた矢先、今年の夏には福岡でもリサイタルをするようで、ぜひ聴きに行きたいものだと思っています。
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浜松ピアノ社

過日、広島まで行ったついでに、浜松ピアノ社を訪ねました。
街の中心部である本通という広島一番の繁華街のど真ん中で、いかにも老舗然とした感じの佇まいでした。

人通りの多い外の賑やかさとは一転して、店内に入ると楽器店特有の落ち着いた空気と静寂がたちこめています。
一階と二階にはスタインウェイをはじめ、輸入物を中心とした珍しいピアノが所狭しとならんでいるのは圧巻ですし、今回は行きませんでしたが、さらに上階にはスタインウェイのDを備えた小さなホールもあるようです。

運良くここの社長さんがおられ、来意を告げると快く店内を案内してくださいました。
一階は普通のスタインウェイのB型と、同じくB型でありながら、ボディのデザインはスタインウェイの創始者であるハインリヒ・シュタインヴェクがアメリカに渡る前のドイツ時代に完成させたピアノを模したものになっており、これはなんと世界に5台ほどしかないという稀少品でした。
中は10数年前のB型だそうで、フレームなども現行品と同じものでしたから、普通のスタインウェイとして使える上に、古色蒼然としたその造形を楽しむことができるようです。

店内中央にある螺旋階段を上ると、チッカリングの古いグランドや、木目のボストンのグランドが二台、それに他店ではまず見ることのできないエストニアなどが展示されていました。

エストニアは以前も書いたことがありますが、旧ソ連時代に自国のピアノとしてソ連中で親しまれたブランドですが、ペレストロイカ以降はエストニアが主権国家として独立します。もともとこの国の名を冠したメーカーですから、必然的に現在はロシア製ピアノという位置付けではなくなったようです。
社長さんはどのピアノも「どうぞ弾いてみてください」と言ってくださいますが、マロニエ君はなかなか弾くことができない性分で遠慮していましたが、このエストニアだけはかつて一度も触ったことがなく、実物を見たのさえ初めてで、こればかりは湧き起こる興味を抑えることができずに、ついにちょっと弾かせていただくことになりました。

まず印象的だったことは、とても良く鳴るパワーのあるピアノだということ。
この日あったのは奥行き168センチのグランドでしたが、とてもそんなサイズとは思えない迫力がありました。
見ると、鍵盤の両脇も幅が広く、中低音弦が張られるお尻の部分も普通のピアノよりずいぶん幅広になっていて、人間で言えば「安産型」の体型とでもいうのでしょうか。
ともかく全体に横幅が広く取ってあるために、当然ながら響板の面積も普通の170センチクラスのグランドよりかなり広いものになっていると思われます。

音はいわゆる都会的な音とは違い、味わいのある実直な音色で、いわゆる洗練されたピアノではないけれども、そのぶん深く心に訴える非常に魅力のある音だと思いました。
とはいってもペトロフほど泥臭くもなく、しぶさと素直さのある、とても好ましい音色だという印象でした。
それでいて基本的によく鳴るし、弾いていてとても心地よいピアノで、いかにも良い材料を使ってつくられたピアノだけがもつ楽器としての豊かさがあったように思います。
素朴だけれどしっかりダシのきいた料理みたいで、こういうピアノはマロニエ君はとても好きです。

ここの社長さんはマロニエ君と同年代だと思われましたが、とても親切で、本当にピアノが好きな方という感じでした。また機会があればぜひとも再訪してみたいものです。
とても素敵なお店でしたし、こういうピアノ店が地元にある広島の人達がとても羨ましく感じながらお店を後にしました。
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ホールの実情

ホールとピアノの音の関係というものはそれとなく観察としていると、お似合いの好ましいカップルが出会うように難しいもんだとあらためて思いました。
そして、概して言える不思議な現象というのがあって、少なくとも福岡に限って言えば、それなりのコンサートをこなす有名ホールでは、どこもそれぞれに音響がよろしくないほうが多いし、むしろちょっと郊外のホールなどに思いがけなく素晴らしいものがあったりするというのが現実です。

音響のよくないホールでも、一部にはそういう意見を管理者側が汲み上げて改修作業がなされ、いくぶん聴きやすくなったものもあり、そういう場合はひと安堵というべきでしょうが、しかし、良くないものを後から手を加えて改善策を講じたものと、はじめから良い音に生まれついたホールというのでは、根本に超えがたい違いがあるようです。
そういう意味ではホールというのも立派な楽器だと言うべきかもしれません。

昨年、機会があって行ったホールもそれなりに名の通ったホールで、その規模、内装の色調やセンスなどもなかなかのものとお見受けしましたが、シロウトのマロニエ君の耳にさえ音響が良よろしくない。
この場合は、やたら響きすぎるだけの音楽専用ホール風の響きとは少し違って、音に芯が無く、パァーっとばらけて散ってしまう感じの音響でした。
どこに原因があるのかなんてマロニエ君にはわかりませんし、見た感じはたいへん立派な感じの良いホールであるだけに残念というか、音響というものはやはり難しいものなんだなあと思わずにはいられませんでした。

このホールで聴いたのはピアノリサイタルだったのですが、音が響いていないことはないけれども、その響きに方向性と流れがなく、楽器から出た音に流れがなくバラバラになってしまい、いうなれば伸びやかさと収束性に欠けるものだったわけです。
ただし、簡単には良し悪しを断定できないことも経験的にあるのです。
マロニエ君はここで何度もいろいろな楽器の演奏を聴いたわけではなく、この響きが恒常的なものかどうかはわかりません。もしかするとただ単にピアノの位置が悪かったということも考えられます。

以前に何度か、ピアノリサイタルのステージのセッティングに立ち会ったことがありますが、ステージ上のピアノはその位置を手前か奥に少し変えるだけで客席に到達する音がコロコロ変わります。ちょうど映写機のピントをスクリーンに向かって合わせるようなものでしょうか。
理想的には客席に耳の良い責任者がいて、ピアニストがピアノを弾きながら、10センチぐらいずつ位置を変化させていくと最良の音響スポットが見つかるはずですが、もちろんホールによってはどうしようもないところもあるわけで、限られた条件内で調律師やピアニストは最良の判断をして、これだという位置決めをしてほしいものです。

ホールといえば、マロニエ君のような車族にしてみれば、市の近郊ならどこでもいいので、いろんなよいホールでコンサートを聴きたいと思うのですが、一般的には電車やバスのアクセスが悪いと集客が見込めず、どうしても街中の決まりきったところばかりが使われることになるようです。
郊外に点在する素晴らしいホールも少しはそれらしく使わなくてはもったいないと思うのですが…。
せっかく良いホールを作っても、場所が悪いことを理由にほとんど永久にこれといった本物のコンサートが行われないのでは、いったいなんのために巨費を投じてそうした施設を作り、さらには高額な管理費をかけて維持いるのかという気がします。

こういう郊外型施設ではホール主催のイベントなどが最大のコンサートのようですが、それでも関係者は怖がってなかなか大きなことをしません。せいぜい二流芸能人の歌謡ショーとか地元のアマチュアオーケストラ、よくわからない合唱団など、どっちつかずの催しばかりというのでは、ホールは箱物作りで潤うゼネコンの金儲けに利用されただけとなるでしょう。

そういうホール同士が連携して、ラフォル・ジュルネのような安くて良質の音楽が聴ける音楽祭などをやってみるなどしたらどうか…なんて思いますが。
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ようこそ

ご縁があって、昨年二度ほどコンサートで聴いたピアニストの方が我が家に練習に来られました。

春に東京などでベートーヴェンの協奏曲を弾かれるとのことで、しばらく雑談をしたあと、さっそくピアノに向かわれました。
せっかくなのではじめに第1楽章、終わりに第3楽章を聴かせていただき、途中こちらは仕事に戻りましたが、非常にしなやかなテクニックがもたらす、趣味の良い演奏で、ひさびさに間近に聴く秀演に感銘を覚えました。

やはりステージに立つピアニストというのは、当然ですがシロウトとは次元が異なります。
時間が無くて眠った状態に等しい我が家のピアノでしたが、そんなことはものともせずに非常に安定した確かな演奏を繰り広げられました。
すみずみまで神経の行き届いた緻密さと伸びやかさが同居した演奏です。
呼吸が自然で、聴く者に余計な緊張やストレスを与えず、すっきりと曲を聴かせるところも見事でしたし、作品そのものが持つ自発的な流れにも決して逆らわないというのがこの方の演奏の魅力だと思いました。
もちろん、それはサラサラした安全運転というのとはまったく違う、ビシッとメリハリもきいていて、必要な場所ではしっかりパワーもあるので聴きごたえがあって、ストレートに音楽がこちらへ向かってくるのです。

最近は指運動だけはいやに効率よく訓練されたピアニストが少なくありませんが、音楽は尤もらしいけれども表面的で必然性のない、音楽の本質をまったく感じさせない無機質な表現である事は珍しくありません。そんな中で、この方は音楽性や歌い込みにも確かな裏付けがあり、こちらが期待した通りの同意できる音楽を丁寧に描出させるという意味では、むしろ稀有な存在だと思いました。

作品が要求することを、ごく自然に受け容れて自分自身の感興と指の動きと呼吸に組み入れるというのは、当たり前のようでいて、実は最も難しいことです。

技術的に上手い人というのは沢山いても、演奏が終わってみて、また聴いてみたいと心に思わせるピアニストとなると、これは滅多にいないものです。
その一点においても、この方は注目に値する存在だと思います。

3時間ほど練習されてお帰りになりましたが、その後にピアノに触れると、ピアニストに集中して弾かれたおかげで、楽器が完全にあたたまっていて、とてもよく「鳴る」状態になっていました。
こちらも思わずうれしくなって30分ほど弾いてしまいましたが、コンサートでも後半のほうがどんどんピアノが鳴ってくるのと同じ現象ですね。

久々に上手い人に鳴らしてもらって、ピアノもストレス解消ができたことでしょう。
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