ロシアの今

BSのN響の定期公演で、ロシアのニコライ・ルガンスキーがプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を弾いていました。
この人はかつてロシアのバッハ弾きとしてその名を馳せたタチアナ・ニコラーエワ女史の弟子に当たる人で、ロシア系ピアニストの特徴であるたくましい指のメカニックを持った人というのは確かなようでした。

すでにエラートレーベルからCDなども数多く出ていて、お得意のラフマニノフなど何枚かは手許に持っていますが、買って何度か聴いてみると、以降はパッタリと手に取ることはなくなりました。いらい、ただ危なげなく弾いているだけで、それ以上の何かがないというのがこの人のイメージでしたが、それが間違いでなかったことを、この放送でもあらためて確認することになりました。

あの難しいプロコフィエフのピアノ協奏曲を確かな指さばきによってそれなりには弾いていましたが、不思議なほどそれだけで、なんの感銘も個性もない、見た目ばかりで味のない宴会用の食べ物みたいでした。
さらに言うと若干リズム感がよくないことが、演奏という時間の流れの中で、あちこちにわずかな歪みが生じるところも気にかかりました。

もともとロシアのピアニストというのは、タッチが深く、和音には厚みがあり、ときに強引なくらい感情を露わに音楽をこってりと歌い上げるのが特徴で、それが深い感激を覚えることもあれば、ときにはげんなりすることもありますが、全体には器が大きく、率直で人間くさい演奏をするのが常道でした。

然るに、このルガンスキーはまったく肉感のない痩せぎすのような音楽で、聴いていてどこに重点が置かれているのやらまったくわからない演奏で、それでそのまま終わってしまいました。
ピアニストとしてステージ演奏をする以上、素晴らしい技術をもっているのは当たり前としても、その上でその人なりの練り込まれた固有の音楽が聞こえてこないことには聴く意味がないと思います。

時代も変わって、ロシアもこういう味の薄い、コレステロールゼロみたいなピアニストが出てくるのかと思ってしまいました。

それに時を同じくして、昨年リニューアルされたボリショイ劇場のシリーズで、ボリショイバレエの「眠りの森の美女」も放映されましたが、これも中身はルガンスキーと同じでした。眩いばかりに生まれ変わった劇場、さらには一気に新しく豪奢に作り替えられた装置や派手すぎる衣装など、表向きはたいそう新しく立派になっていましたが、踊りのほうは現在の看板スターであるスヴェトラーナ・ザハロワ演じるオーロラ姫も、技術は立派ですがなんの感銘も得られないもので、ただ決められた難しい振付を次々に消化しているだけという感じでしかなく、こちらにも落胆させられました。

主役のオーロラ姫は16歳という設定ですから、踊り手はその若くて愛くるしい様を表現し、バレエとして踊り演じなければなりませんが、暗くてねっとりした大人の踊りで、老けた女性が娘の借り着をしているようでした。
昔は同劇場のオーケストラもピアノと同様、迫力のある分厚い響きでロマンティックにぐいぐい鳴っていたものですが、これもまたすっかり筋力の落ちたアスリートのようで、火が消えたようなつまらない演奏で、これじゃあチャイコフスキーもご不満だろうと思います。

いまは世界的に、なんでも人の手で作り出す昔ながらのものは文化芸術はもとより、ありとあらゆるものが質が落ちて小さくなっていることは否定しようもありません。
そのくせ、表面的にはより鮮やかで先鋭的で、人の目を惹きつけはしますが、実体はスカスカの軽い内容でしかないのは甚だ残念でおもしろくありません。
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音楽の話

金曜夜はピアニストの望月未希矢さんが主催する「音楽の話」に参加しました。
全6回のシリーズで、今回で4回目とのこと。

会場は赤坂のベニールカフェという趣味の良い喫茶店で、今回はショパンを中心にした演奏と話でしたが、店内は所狭しと椅子が並び、それでも次々にお客さんがやって来るほどの盛況ぶりでした。

まずは簡単な挨拶につづいてノクターンを一曲演奏するところから始まり、ショパンの生い立ちに沿って、わかりやすく話がすすめられました。
ピアノ演奏のほかには、スピーカーを繋いだパソコンからの出力で、チェロソナタの第3楽章やフィールドのノクターン、あるいはショパンが愛していたベッリーニのノルマのアリアなどを聞きながら話が進みます。

ショパンの作風には歌謡性が濃厚ということで、それまでの古典派との作風の違いや和声の特徴なども語られて、なるほどという話をあれこれ聞くことができました。
しかもそれがお堅い勉強のようにならず、望月さんの穏やかなお人柄故だと思われますが、あくまでもサロン的な楽しみの延長として、参加者がこのような話や音楽に触れられるというのは、とても新鮮な感じを覚えました。

会場となったベニールカフェのサイズもちょうどよく、温かな雰囲気の店内に、望月さんを中心としたやわらかな時間が流れていて、とても心地よい1時間だったのが印象的でした。

欲を言うと、お客さんの作り出す雰囲気がどうしても硬くなりがちで、できればもう少しほぐれて自然な感じがあったらもっと良かっただろうと思いますし、そのほうが望月さんも話をしたりピアノを弾くにあたって、やりやすいのではないかという印象でした。
話や演奏をきくことに傾注するあまり、あまりにも一同が身じろぎもせず、かたく息を殺したようになるのは日本人がしばしば陥りがちな状況ですが、もう少しリラックスした気配が聞く側にもあると、さらに楽しさが増すだろうと思いました。
もちろんガヤガヤして、集中力が阻害されるようでは困りますけれども。

近年はトーク&コンサートというスタイルこそ盛んですが、実際はお客さんに媚びただけのつまらないトークを聞かせられることが圧倒的に多く、会場もホールではなかなかしっくりきません。
それなら、いっそこのような親密な空間で静かに珈琲など飲みながら、気負わずに生の音楽に触れるというのは、これこそまさにコンサートホールではできないことで、意外にありそうでなかったスタイルじゃないかと思いました。

望月さんは演奏や音楽に対する造詣が深いのはもちろんですが、お若いのに、奇を衒ったところのない非常にまっとうな日本語を使われる方で、自然体で、ものの感じ方や考え方なども非常に共感を覚える点があるのですが、最近ではむしろ珍しい部類の方といえるかもしれません。

さて、このシリーズは同じ会場で毎月第3金曜日に行われており、3月はドビュッシー、4月は最終回で武満徹とビートルズだそうです。
http://www.mikiyamochizuki.com/blog/
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楽譜の版

同じ作曲家の作品でも、出版社や校訂者によってさまざまな版があるのはよく知られています。

演奏者によっては自分はどの版を使っているか、事前に明示する人などもいますし、コンクールなどは指定の楽譜があったりと、この同曲異版をめぐってはあれこれの事情があるようです。

マロニエ君はこの問題を、大事ではないとは決して思いませんけれども、実際の演奏結果の要素の9割以上はその演奏家の本質的な音楽性に拠るものだと思っています。
ましてや素人のピアノ弾きが知ったかぶりをしてどうのこうのと言うのは失笑してしまいますし、無数にある音符のひとつがどうしたこうしたといって、とくにどうとも思いません。

ピアノの先生などで、趣味でやっている生徒が楽譜を買う際に、さも尤もらしく版の指定などをうるさくいう人がいるそうで、オススメ程度ならともかくも、それじゃなくてはダメだというような主張は少々ナンセンスだと思います。
真実そう信じての事なら、その先生のおっしゃる根拠を具体的に伺いたいものです。
もちろんショパンコンクールに出場するような人が、指定のナショナルエディションを使うというような場合は別ですけども。

繰り返しますが、どの版を使うかがまったく無頓着でいいとは決して思いません。
しかし、それを言っている人がどれだけその違いを理解しているかとなると、甚だ疑問で、ほとんどナンセンスの領域である場合が少なくないと感じるのが率直なところであって、大半の人はそれ以前の段階でもっと磨くべきものがあると思います。
ほんとうにそれを言うのであれば、実際に何冊も買ってみて、弾いてみながら丹念に検証してみるぐらいの覚悟と裏付けが必要だと思うのですが。
さらに、この版の問題は研究の進捗によっても変わってくるもので、優劣を決するのは非常に難しい問題でしょう。

外国にはどれだけいいかげんな楽譜があるのかは知りませんが、少なくとも日本で現在売られているようなものであれば、だいたい信頼性もある程度あり、そんなことに拘るよりは、与えられた楽譜からどれだけ充実した練習をして、より品位ある音楽的な演奏をするかということに心血を注ぐほうがよほど重要だと思うわけです。

たしかに版によってはちょっとした音が違っているとか、装飾音の入れ方、強弱の指示の有無、指使いやフレーズのかかり具合などが異なる場合がありますが、それらを問題とするよりも、もっと先にやることがありはしないかと言いたいわけです。
もっと基本的な作品の解釈や、数多くの優れた演奏を聴くことなど、弾く人の基本的な音楽性を磨く姿勢の方が百倍も重要だと思います。

マロニエ君も曲によっては何冊もの異なる版の楽譜を持っているものもありますが、とくにショパンなどでは本当に自分が納得できるものはどれかと言われたら、即答できるものはなく、数種類からのブレンドのようなものになるし、それも要は自分の主観に左右されます。
どうもそういうことを言いたがる人は、それが高尚で玄人っぽいことだと思っているのかもしれません。

そもそも、音楽的な人は、どの版の楽譜を使っても音楽的に弾けるわけで、基本はそういうものだということを忘れてはいけない気がします。
いくら高価で権威ある楽譜を持っていても、要は弾く人そのものに土台となるべき音楽性がないことには、ただ無神経に指運動的に弾いてしまうのなら、どの版を使ったってさほどの意味は感じません。
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新しいSK

ごく最近、カワイから届いたDMによると、「SK現行商品最終チャンス」と銘打って2台のSK-2と1台のSK-3が最後の販売をする旨のチラシが同封されていました。

現行商品最終ということは、当然モデルチェンジしたことを意味するわけで、さっそくカワイのホームページを見たところ、やはりモデルチェンジはしているようでしたが、製品サイトはうやうやしく「3月公開予定」だそうでガッカリです。
そんなに勿体ぶって、どんな変化を遂げているのかと思いますが、なにもポルシェじゃあるまいし、ピアノなんだから外側のデザインが大きく変わることもないだろうにと思いました。

ところが、封筒の中に入っていた小さなリフレットのようなものを見ていると、ありました!
一枚だけ、ほんの小さな写真で新しいSK-7を斜め上から撮った写真がありますが、それによるとすぐにわかったのはボディの内側に貼られる化粧板が、これまでのベーゼンドルファー風の垂直方向の木目模様(これは良かった)に代わって、ファツィオリ風の雲みたいなウニュウニュした木目模様になっています。

これは音とは直接関係のない部分ですが、いささか豪華趣味というか、率直にいって成金趣味的で、ファツィオリでさえあの木目は好きではなかったのですが、それをカワイというメーカーそのものも華がないのに、いやあ…ちょっとミスマッチじゃないかと思いますね。
上級機種だろうがなんだろうが、カワイにはちょっと似合わない印象ですけれども、やはり新型ではさらに一層の高級路線を目指しているのでしょうね。
価格も全体に約1割値上げされていて、SK-7ではついに600万を超えています。

さらに変わったのは、以前からあまりにセンスがないと思っていた、まるでカレー粉を混ぜたような、どちらかというと安っぽい金色に塗装されていた???なフレームの色が、今風の赤味のあるヤマハやスタインウェイに通じる色になり、これはようやく当然の色に落ち着いたというべきで、ホッと安心です。

Master Piano Artisan なる開発技術者の言葉によれば、調律師は声楽家だそうで(なるほど!)、新しいシゲルカワイには声楽家としての発想を採り入れたとありました。
「歌うピアノ」になっているのだそうで、「輪郭をはっきり」させるとありますが、これはあきらかにヤマハのCFシリーズの路線を意識した処置だと思われます。

まったくマロニエ君の想像ですが、この言葉通りならば、新シリーズは明確な進化を遂げているのだろうという気がします。というのも、一昨年のショパンコンクールのSK-EXでは、あきらかに従来の同型とは一線を画した明るく甘い音色でしたので、この頃から試験的にそういう方向のピアノ作りを密かに進めていたものと思われます。

かつての巨人vs阪神ではありませんが、これでヤマハvsカワイの上級ピアノバトルもいよいよ佳境を迎える時期に来たということのようで、こうでなくっちゃ面白くありません。
おそらくカワイのほうがコストパフォーマンスでは圧倒的に上を行くわけでしょうから、どこまでCF4とCF6のクラスに対して半分の価格で追いまくるのか、楽しみです。

ただし、あんまりよくなると現行のSKシリーズのユーザーは心穏やかではないでしょうが、まあそれは仕方ないでしょうし、マロニエ君もどっちみち自分は関係ないので専ら気楽に高見の見物です。
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ベルリンのハプニング

昨年大晦日のベルリンフィル・ジルヴェスターコンサートがBSのプレミアムシアターで放映されました。
以前は大晦日の夜中に生中継されていましたが、最近はないなあ…と思っていたところでした。
もしかすると生中継のほうは他の有料チャンネルかネットなどでやっているのかもしれませんが、そのあたりはとんと疎いマロニエ君にはわかりません。

会場は「カラヤンサーカス」の異名を持つベルリンフィルハーモニーのホールで、今回はエフゲーニ・キーシンをソリストに迎えて、グリーグのピアノ協奏曲がメインであったほか、前後にドヴォルザーク、グリーグ、ラヴェル、ストラヴィンスキー、Rシュトラウスなどの管弦楽曲が取り上げられました。
指揮は当然のように首席指揮者兼芸術監督のサイモン・ラトルです。

このベルリンフィルのジルヴェスターコンサート、いつごろからか映像には女子アナ風の司会がつくようになり、演奏の合間の折々にその女性が会場をバックにおしゃべりをします。
ドヴォルザークのスラブ舞曲、グリーグの交響的舞曲に続いてグリーグのピアノ協奏曲が始まりますが、その際にもこの女子アナ(たぶんドイツの)が出てきてキーシンのことなどペラペラしゃべっているとき、画面の脇でおかしな事が起こっているのに気付きました。

背後に映り込んだステージ上では、予めそこに置かれていたピアノのフタを開けるべく、体格のいいおじさんがでてきて前のフタを開け、つづいて大屋根を開けようとしますが、さてこれがどうしても開かないというハプニングが起きました。
そのおじさんは、何度も腰をかがめてはヤッとばかりに力を込めるのですが大屋根は頑として開かないので、ついには会場からどよめきの混じった笑いまで起こりましたが、それに刺激されて焦ったのか、おじさんはいよいよ力を入れたらしく、勢い余ってピアノ本体の位置までずれてしまいました。
それでも依然として大屋根は開きません。

これにはわけがあって、スタインウェイはじめとする多くのコンサートグランドでは、運搬時に大屋根がふいに開かないようにするためにL字形の金具が装着されており、それがかけられていることは見ていてすぐに察しがつきました。ボディ側面のカーブのところにそのための丸いテニスボールぐらいのノブがついているのでご存じのかたも多いと思いますが、このおじさんはそういうことがまったく分かっていない気配でした。

女子アナはこの異常に気付いたようでしたが、チラッと後ろを振り返りつつ自分のトークを続けます。その間もフタは開かずに、ついに様子がおかしいと察した他のスタッフが駆けつけてきて、ようやくノブが回されたようで、ここで大屋根はやっと開いてめでたしめでたしでした。
しかし、舞台奥へ向かってややずれてしまったピアノの位置を元に戻すことはされないままに…。

たぶん興奮していて、そんなことには気付きもしなかったのでしょう。
ほどなくキーシンが登場。彼は気の毒にもこの位置のままで演奏しましたが、それはそれとして、まことに筋目のよい美しい見事な演奏でした。

それにしても、これがもし日本だったら、ピアノの管理を含めた準備や設営などは、臆病なぐらい丁寧の上にも丁寧に行われるはずで、フタの止め具の事も知らないような人間が本番でひょこひょこ出てきて、力任せに開けようとするなどはちょっと考えられない事だと思いました。
何事においても真面目で整然として、高いクオリティで鳴らすドイツといえども、このような未熟なハプニングが起こるわけで、逆にいえば日本人のキメの細やかさこそ例外なのかもしれません。

さてその止め具は金属ですが、おそらくあれだけ男性の体力で猛然たる力を何度もかけられたら、それを取りつけられている土台はボディ側も大屋根側も木なので、とくに大屋根側などはそれなりの損傷があるかもしれません。あーあ。
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弾くほどに鳴る

過日はピアノ好きの知人と共に、県内にお住まいのあるピアノマニアの方を尋ねてお宅をお邪魔しました。

マロニエ君のまわりには輸入ピアノのユーザーが何人かいらっしゃいますが、この方はやや珍しいニューヨーク・スタインウェイをお持ちです。
昨年の暮れぐらいに調律その他の調整をされたということで、一緒に行った方が弾き出すと、なんとも淡く可憐な音色が出てきたのには思わずハッとさせられるようでした。

一般的なイメージとしては、ハンブルク・スタインウェイのほうがドイツ的で落ち着いた音色で、対してニューヨーク・スタインウェイはもっと明るく派手で、しかも硬質な音であるように考えられているふしがありますが、実際はさにあらず、ニューヨークのほうがやや線が細く、そして格段にやわらかい音色を持っています。
日本のピアノやスタインウェイでもハンブルク製に慣れた人の耳には、この音色と発音特性の関係から一見ちょっともの足りないように感じられることもあるようですが、話はそう単純ではありません。

たしかに弾いている当人の耳にはそれほどガンガン鳴っているようには感じられないのですが、少し距離をおくと非常にボディがよく鳴って音が通り、心底から楽器が響いているのがやがてわかってくるのがニューヨーク・スタインウェイの特徴のひとつだと思います。

その証拠に、同行した知人が仕事の連絡で携帯を使うため、ちょっと部屋を出て電話をはじめたところ、ほとんどピアノの音量が変わらず、さらに離れたらしいのですが、漏れ出てくるピアノの音量はほとんど変化しないので大いに焦ったらしく、相手が仕事の関係であったためにちょっとまずかった…と心配しなくてはいけないぐらいだったそうです。

「遠鳴り」で定評のあるスタインウェイは、思いがけずこんなところでもその優秀性が証明されたようでしたが、逆にいうと家庭用のピアノとしては、弾いている本人には手応えよく鳴ってくれて、しかも周囲にはあまり音の通っていかないピアノのほうが、騒音問題という実情には合っているかもしれません。

そういう意味ではスタインウェイはサイズを問わず、楽器の性格としては人に聴かせるためのピアノだということは明らかで、そこが今流に言うとまさに「プロ仕様」のピアノだといえるでしょう。

さて、ピアノ遊びというのは時間の経つのが早いもので、あっという間に時計の針が進んでしまいます。
弾きはじめから2時間ぐらい経ったときでしょうか、ハッと気がつくとピアノの音が大きく変化していることに一同驚きました。はじめの可憐な音色は遙かに影を潜めて、太いのびのびとした音が泉のように湧いてきて、むしろ逞しいとさえ言っていい力強い響きに変わっていました。

日本製のピアノでも1時間も弾いていると鳴りがこなれてくるというのは感じることがありますが、これほどあからさまな変化が起こるのは、いやはやすごいもんだと感心させられました。まさに良質の木材とフレームが弾かれることでしだいに目を醒ましてぐんぐん鳴り出すのは、まるで楽器が掛け値なしに生き物のようでした。

こういう状態を知ってしまうと、一流品であればあるほど、例えば店に置いてあるピアノをちょっとさわってみるぐらいでは、とてもその実力の全貌は見えないということになるでしょう。
とくにもし購入を検討するときなどは、お店の人を説き伏せて1時間でも弾いてみると、そこから受ける印象や判断はずいぶん違ったものになってくると思います。

日本のピアノは製品としてはまったくよくできてはいるものの、状況によってここまで変化するという経験は一度もなく、それだけコンディションが安定しているといえばそうなのかもしれませんが、楽器とは本来、このようにセンシティヴで演奏者をわくわくさせるものであってほしいと思いました。
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小林愛実

先週、小林愛実さんのリサイタルの様子がNHKで放送されました。

この人は現在16歳で、ずいぶん早熟なようですが、音楽の世界ではよくあることで、本物のコンサートアーティストになる人は10代で頭角をあらわすぐらいでなくてはやっていけません。
マロニエ君の記憶では、彼女はインターネットの動画サイトのYoutubeで、子供のころの演奏がずいぶん投稿されて話題になったように思います。
まだ補助ペダルの要るような小さな童女が、オーケストラをバックにモーツァルトのコンチェルトなどを大人顔負けに堂々と身をくねらせながら弾いてみせる姿に、ずいぶん多くの人がアクセスして話題になったようにも聞きました。

その彼女も成長して10代前半でリサイタルを行うようになり、現在は桐朋の学生で演奏を続けながらもさらなる修練を続けているようです。

いきなり好みの話で申し訳ないのですが、これまでにも何度か見て聴いた経験では、マロニエ君はさほど好きなタイプではなく、実際にも彼女の演奏にはいろいろな意見がうごめいているというようにも聞いています。

もちろん上手いのは確かですが、弾いている構えが、いかにも音楽に入魂しているという様子ではあるものの、独特なものがあって、このあたりなども意見の分かれるところだと思われます。

演奏されたのはショパンのソナタ第2番と、ベートーヴェンの「熱情」という大曲二つでしたが、見ているよりも出てくる音の方がより常識的で、まあそれなりだったと思います。
ただし、現在でもまだ体は小さく、椅子をよほど高くして、上体はピアノに覆い被さるように自信たっぷりに力演しますが、ピアノはもうひとつ鳴りきらないところが残念と言うべきで、これはあと数年して骨格ができてくるとだいぶ余裕が出るのかもしれないと思います。

マロニエ君がひとつ感心したのは、今どきのピアニストにしては全身でぶつかっていく迫りのある演奏をするという点で、多くの若いピアニストが感情のないビニールハウスの野菜のようなきれいだけどコクのない演奏をする中で、小林愛実さんは作品に込められた真実をえぐり出そうという覚悟のある、きれい事ではない演奏をしていると感じました。

そのためにミスタッチもあるし、演奏する上でもかなり危ないこともしますが、それがある種の緊迫感をも併せ持っており、少なくとも表現者たるもの、そういうギリギリのところを攻めないでは、なんのために演奏という表現行為をするのかわからないとも言えるでしょう。
この点では、現在の多くの若手の演奏は周到な計算ずくで、スピードなどはあっても音楽そのものが持つべき勢いとか生々しさがなく、聞いている人間が共に呼吸し、ときに高揚感を伴いながら頂点へ向かっていくような迫力がありません。

愛実さんはその点は、多少の泥臭さはあるけれども、ともかく自分の感性に従って、必要な表現を恐れずに挑むのは立派だと思いましたし、生きた音に生命力を吹き込まず、きれいな家具を並べただけみたいな演奏に比べたら、どれだけいいかと思いました。
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レオンハルトとワイセンベルク

ついこの間、一世を風靡したピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(引退していた)が亡くなったということを耳にしたばかりでしたが、昨日の朝刊ではチェンバロ&オルガンの大物であるグスタフ・レオンハルトが亡くなったというニュースを目にしました。

マロニエ君は、もちろんこのレオンハルトのCDなどはそれなりに持ってはいますが、取り立ててファンというほどではありませんでした。
それはあまりにも正統派然としたその演奏や活躍の立派さ、存在そのものの大きさのイメージが先行して、音楽を聴くというというよりは、まるで石造りのガチガチの荘重な門の前に立たされているようで、それ以上の何かしら意欲がわく余地がなかったように思います。

しかし、彼はピリオド楽器による演奏の推進者でもあり、ひとつの流れを作った一人だと言わなければなりませんし、なによりバッハを中心とする演奏活動の数々、録音、さらには教育に果たしたその功績の大きさは計り知れないものがあったと思います。
バッハなどのCDでは、誰の演奏を買って良いかわからないときは、ひとまずレオンハルトを買っておけば間違いない、そんな人ですが、あまりにそうであるがためにちょっと個人的には引いてしまった観がありました。

バッハといえば、ワイセンベルクもロマン派の作品などをクールに演奏する傍らで、バッハはかなり盛んに取り上げた作曲家でした。
むかし実演も聴きましたが、当時としては先進的でテクニカルな演奏をすることで頭角をあらわし、そのいかにも男性的な風貌と剣術の遣い手のようなピアニズムは時代の最先端をいくものでした。

いかにもシャープに引き締まったその演奏は、それ以前の名演の数々を古臭いと思わせる力があり、同時にそは賛否両論があったと思われます。

一切の甘さとか叙情性を排除した、モダン建築のような切れ味あふれる演奏は一時期かなりもてはやされて、ついには日本のコマーシャルにも出演するほどのスター性を兼ね備えた人だったことを思い出します。

マロニエ君が子供のころに聴いたリサイタルでは、地方公演にまで古いニューヨーク・スタインウェイを運び込んでの演奏会だったことは、今でも強く印象に残っています。
プログラムはバッハやラフマニノフを弾いたことぐらいで具体的な曲目は思い出せませんが、背筋をスッと伸ばして、どんな難所やフォルテッシモになっても、まったく上半身を揺らさないで微動だにせず、スピードがあり、どうだといわんばかりにカッコ良く弾いていた姿が思い出されます。

久々に彼のバッハを聴いてみましたが、ちょっと聴いているのが恥ずかしくなるようで、まるでむかし流行したファッションをいまの目で見ると思わず赤面するような、そんな気分になりました。
まあこれも、いま振り返ると「時代」だったんだと思います。

音楽的にはなんの共通点もない二人の歳を調べてみると、レオンハルトは83歳、ワイセンベルクは82歳と、まさしく同じ世代だったことがとても意外でした。
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プロムス2011

先日、ロンドン名物のプロムス2011のラストナイトをBSでやっていましたが、いやはやその規模たるや、年々巨大化していくようで久しぶりに見て驚きました。
面白いといえば面白いし、ちょっとウンザリするのも事実ですね。

これはいうまでもなくじっくり音楽を聴くためのコンサートではなく、クラシック音楽を用いたロンドンのお祭りであって、演奏や音楽の良否は二の次だと思います。
まあ、完全にイギリス版の紅白歌合戦みたいなもんですね。

空中から撮影される楕円形のロイヤルアルバートホールは、立錐の余地もないほどの人で埋め尽くされ、豪華な照明の効果とも相俟って、会場それ自体がまるで輝く宝石のようです。

ピーター・マクスウェル・デーヴィスの「慈悲深い音楽」という合唱曲で始まり、バルトークの「中国の不思議な役人」やブリテンの「青少年の管弦楽入門」など、ともかくあれこれの音楽が演奏されますが、個人的にはスーザン・バロックの歌う「楽劇『神々のたそがれ』から、ブリュンヒルデの自己犠牲の場面」がもっとも良かったと思いました。

スーザン・バロックはRシュトラウスやワーグナーを得意とするイギリスの名花ですが、その劇的で力強い美声は、6000人の聴衆で埋め尽くす巨大会場に轟きわたるという感じでした。
すっかりその歌声に満足していたら、お次はラン・ランの登場で、リストのピアノ協奏曲とショパンの華麗な大ポロネーズを演奏。

こう言っちゃなんですが、まったくのお祭り用の芸人ピアニストの演奏で、その音楽性・芸術性の正味の値打ちはいかなるものかは、おそらく大半の人が了解していることだろうと思いますし、それがわからないヨーロッパではないはずですが、それでもこういう人にお座敷がかかるご時世だということでしょう。

この人はいわゆる臆するということのない、鋼鉄のような心臓の持ち主で、派手で巨大なイベントになればなるだけ本人もノリノリになってくるという、恐るべきタフな性格なんでしょうね。
いちいち気に障る滑稽な表情や、音楽の語り口は、わざとらしいしなをつくるようで、ほとんど猥褻ささえ感じてしまいます。もっと単純にスポーツのようにカラリと弾き通せばまだしものこと、まあやたらめったら伸ばしたり引っぱったり無意味なピアニッシモを多用したりと、これでもかとばかりに音楽表現のようなことをやってみせるのがいよいよいただけません。

この人の演奏を見ていると、音楽に酔いしれているのではなく、派手な舞台で派手なパフォーマンスをやっている自分自身に酔いしれ、その快感に痺れきっているようです。
ショパンでもリストでも、どこもかしこもねばねばにしてしまって、間延びして、まったく音楽に生命が吹き込まれないのは疲れるほどで、当然ながらオーケストラの団員もガマンして職務を全うしているのがわかります。

それにしても、このプロムスも今どきの風をまともに受けて、あまりにド派手なイベント性が表に出過ぎているのは、ちょっとやり過ぎの感が否めませんでした。昔はどうだったか、マロニエ君はこの手の催しはあまり興味がないので詳しいことは知りませんが、もう少し自然さがあったように記憶しています。

今はハイドパークやらロンドン以外の他のいくつもの会場と結んでの多元イベントとなり、専らその規模を太らせることにのみエネルギーが費やされているような印象で、その目の眩むような途方もないスケールは、クラシックの音楽イベントという本質からはるか逸脱しているような印象でした。
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実験結果

『バイオリン名器の音色、現代モノと大差なし?』

Yahooのニュースを見ていると、上記のような見出しが目に止まりました。

読売新聞による 1月4日(水)の配信で、
『何億円もすることで有名なバイオリンの名器「ストラディバリウス」や「ガルネリ」は、現代のバイオリンと大差ないとする意外な実験結果を仏パリ大学の研究者らが3日、米科学アカデミー紀要で発表した。』
とあり、実はこんなことじゃないかと薄々は思っていたところ、あらためてこういう文章を読むとやはり驚かされるものです。
引用を続けると、
『研究チームは、2010年、米インディアナ州で開かれた国際コンテストに集まった21人のバイオリニストに協力してもらい、楽器がよく見えないよう眼鏡をかけたうえで、18世紀に作られたストラディバリウスや、現代の最高級バイオリンなど計6丁を演奏してもらった。どれが一番いい音か尋ねたところ、安い現代のバイオリンの方が評価が高く、ストラディバリウスなどはむしろ評価が低かった。』とのことでした。

最後は、『研究チームは「今後は、演奏者が楽器をどう評価しているかの研究に集中した方が得策」と、名器の歴史や値段が影響している可能性を指摘している。』と締めくくられていますが、これはきっと大きな波紋を呼ぶのではないかと思います。

ヴァイオリニストの間でも、もしかすると我々が思っている以上に新作を評価・信頼して弾いているのかもしれません。
というのも、やはりイタリアのオールドヴァイオリンなどはその素晴らしさはじゅうぶん認めつつも、どう考えてもあの価格は異常としか思えず、それほどの価値があるのかという点で疑問に感じておいでの方は少なくないと思います。

さらにはこれだけ科学技術が進んだ現在でも、300年前のクレモナの名器を凌げないというのも解せない話です。美術品なら話は別ですが、ヴァイオリンはあれほど単純構造の、「使われて、音を出す」という機能を持った楽器なのですから、ちょっとそこは不思議です。

世界的に有名な日本人の名工の著書によると、歴史的にも楽器として完成されて久しいヴァイオリン作りにおいては、最高の楽器作りとは、究極的には「完璧な模倣を目指す」以外にないと語られています。

それと、マロニエ君などにしてみれば、そこまで神経質に新旧のヴァイオリンの音色の質に厳格にこだわるのなら、ピアノでも現行品のすっかりペラペラになってしまった音は、なぜ昔の楽器と比べられないのかと単純に思いますが。
こういうと、決まって「ピアノは金属フレームにものすごい力で張弦してあるので、弦楽器とは違う」という尤もらしいお説が出てくるのですが、それは100年単位でみた場合の話であって、ピアノでも今のピアノよりも少し古い楽器のほうが遙かに力強くて麗しく、圧倒的に芳醇な音がすることは、実際には多くの人が大きな声では言わなくても、内心では認めることだと思います。

新しいヴァイオリンの良さが認められるのと同様に、少し古い時代のピアノの本当の素晴らしさも正しく認めてほしいものです。
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ピアノ遊び初め

昨日は数名のピアノの知人が我が家に遊びに来てくれました。

これという目的もなく、個人的な知り合いが集ってピアノを弾いたりおしゃべりをしたり、ちょっと飲み食いをしたりという3時間半でした。

各々が現在練習中の曲を弾いたり、2台ピアノをやってみるなど、とくにどうということもないピアノ遊びをだらだらやっていると、あっという間に時間が経ってしまうのはいつものことです。
とくにそのうちの2人は、共に3月に大舞台での発表会を控えていて、そのための練習には余念がないようでした。

さて、調律の時以外、大屋根を開けることは普段まずないマロニエ君ですが、お正月ぐらい気前よく開けてみようじゃないかと思ってご開帳と相成りましたが、当たり前ですが、普段とはちがった生々しいけれども却って柔らかくもある音が聞こえてくるものだなぁと思いました。
タッチなども、開けるフタの面積がふえるほど軽く自然になり、音も抜けが良くなり、やはりこれがピアノ本来の姿かと思いますが、でもなかなか普段からそうして弾く勇気はありません。

あらためて感じ入ったことは、同じピアノでも弾く人によって、それこそまったく別の楽器のように音が違うことで、このあたりがアコースティック楽器独特の面白味だと再確認しました。
さらには人もそれぞれで、袋いっぱい楽譜を持ってくる人もいれば、一冊も持ってこない人もあるなど、人はそれぞれ個性があって、こういう点も実に面白いもんだと思いました。

マロニエ君は自分の家&ピアノということもあり、2台ピアノ以外はほとんど弾かずに聴く方に徹しましたが、自分のピアノを弾いてもらって聴くのは自分のピアノを客観視できるいいチャンスでした。

一緒に外に出たときは、もう完全な夜になっていて、それから食事に行こうとしたのですが、目指すお店はどこもまだ開店していないのには寒空の下で弱りました。不本意ながら、ほとんどファミレスになりかけたのですが、あるインド料理のお店がかろうじて営業しており、そこへ行ってたらふく食べてお開きとなりました。

今日来られた1人が珍しくバッハの練習中だということで、マロニエ君もはばかりながらバッハの練習を再開しようかという気にちょっとだけなりました。新年明けてバッハに取り組むというのも、どこか清澄な気分があっていいものですね。

日が経つごとに、お正月の空気の濃さが少しずつ薄まってくるようで、どこかホッとするようです。
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加湿なう

ピアノの管理で一番大切なことは何かといわれたら、やはり日頃の温湿度管理で、ピアノが暮らす毎日毎日の環境がいかなるものであるかということに尽きるような気がします。

どんなに名器を購入しても、どんな名人に調整をしてもらっても、ピアノを置いている場所の、日々の環境が好ましくないものであるならば、コンディションは坂道を転げるように低下していくものです。
ところがこれがなかなか理解されないようです。

世の中には立派な家を建て、経済に余裕のある趣味人は私的なホールまで建てて、そこに素晴らしいピアノを買い込むところまではされる方があるのですが、そこかはじまる毎日の管理ということになると、それを深く理解し実行している人のほうが圧倒的少数だというのが実情のようです。

それは、ひとつにはピアノが繊細な楽器だということが頭ではわかっていても、その楽器をどちらかというと家具などと同じような感覚で分類しているのではないかと思います。
第一そのほうが何事においても都合がいいからで、毎日使う場所ならともかく、普段使わないような空間を、ただピアノだけのために空調管理するのは、使わない水を流しっぱなしにするようなもんで、なかなかできることではありません。

そこでマロニエ君は、ピアノという楽器を半ば植物のように捉えるといいのでは?と思います。
もちろん目に見えて芽が出たり萎れて枯れたりということはありませんが、この植物をイメージして内部で同様の様々な変化が起こっているぐらいのことなら、なんとか想像できなくもないでしょう。

さて、一年の大半で活躍している我が家の除湿器ですが、さすがにここ連日のような寒波の到来でヒーターの活躍が甚だしくなると、湿度はついに40を切ることがしばしばになりはじめました。
「これはまずい!」と思って加湿器を出そうとしましたが、古い大振りな加湿器を引っぱりだしてくるのも気が進まず、とりあえず量販店で安い小型の加湿器を買ってきました。

ピアノの場合、湿度は高いほうばかりが問題にされることが多いようですが(日本では)、乾燥のし過ぎは、多湿よりも実は被害が大きいといわれます。
さすがにフェルト関係は大丈夫でしょうが、一番の懸念は響板で、乾燥しすぎるとここに深刻な影響を与え、最悪の場合、割れたりすることもあるといいますからある意味、多湿より恐ろしいですね。

ピアノにとって最悪なのは床暖房などというように、一番の敵は過乾燥で、この点は人の肌のコンディションと同じですが、ピアノの響板はまさか保湿クリームを塗るわけにもいきませんから、やはりよほどの注意が必要だと思われます。

というわけで、このところ毎日、加湿器の水を補充するのが日課になってしまいました。
家人などは、日ごろマロニエ君が除湿でわあわあ言っているかと思ったら、今度は一転して加湿機を買い込んできたりして、しかもそれらはいずれも人間のためでなく、もっぱらピアノのためである点に呆れ果て、「よくまあ、お世話が行き届きますねぇ」などとからかわれています。

からかわれようと皮肉られようと、なんのその、こればかりは自分が気になるものだから、いちおう一生懸命やっているところですが、それで人間様の快適と肌のケアも兼ねられればせめてもの救いです。
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コンサートを振り返る

ぶーたんの今年9月以降、ざっと思い出してもピアノがらみのコンサートだけで8回ほど行ったことになりますが、今後はもう少し数を減そうと思っていつつ、とりあえずちょっと振り返ってみました。

《9月3日 横山幸雄》
宗像ユリックスハーモニーホールでのレクチャー&コンサート。せっかくのレクチャーがほとんど聞き取りのできないボソボソとした張りのない話し声だったのは甚だ残念。大勢の前でピアノのレクチャーをするのなら、それにふさわしい語り口と内容であるべきではと思った。後半のコンサートではホールのベーゼンドルファーとスタインウェイを弾き分けるという面白い趣向は楽しめたが、演奏は全般的にドライであざやかな事務処理のようだった。

《9月29日 フィリップ・ジュジアーノ》
市内某所でのプライヴェートコンサート。コンサートは会場や使用楽器に負うところも大きいという問題を痛感。彼なりの誠実な演奏だったのだろうとは思うが、真の魅力はまったく伝わらない。やはりこういう人はもう少し持てる翼を広げるだけの諸条件が欲しいことを痛切に感じる。余興だかご愛嬌だか定かでないが、ピアノ以外のズブの素人の演奏まで登場したのは驚きだったし、どうしようもなく痛々しかった。

《10月8日 川島基》
久々の福銀ホール。カワイ楽器が主催であるだけに、シゲルカワイ(SK-EX)を持ち込んでのコンサート。演奏は小品では素晴らしいものがあったが、大曲になるとやたらと飛ばしまくる傾向があるのには疑問。技巧的な部分はより速く通過することが価値ではない。よいところがある人だと思ったので、もう少し落ち着いて音楽に心を通わせる落ち着いた演奏家になってほしい。ピアノは画竜点睛を欠く状態というべきか。

《10月14日 近藤嘉宏&青柳晋》
前半は二人のソロ、後半は2台ピアノによるリスト編曲のベートーヴェンの「第九」だったが、ほとんどこれを聴くために行ったようなもの。偉大な作品は演奏形態を変えても偉大さは変わらないことに大いに感激する。かなり入魂の演奏だった点は評価したい。同じメーカー、サイズ、製造時期のピアノだがあまりにも個性が違うことに驚かされる。技術者も同じだから、意図的に楽器の性格を変えているということなのか…。

《10月24日 クシシュトフ・ヤブウォンスキ》
いわゆる洗練されたショパンとは対極にある、ポーランドの旧式なショパン演奏。というのも現在の若手はポーランド人でもずいぶんメンタリティが異なってきており、この人ももはや旧世代のようだ。いかにも名のあるピアニストらしい重戦車のような圧倒的なテクニックには素直に感激する。表情は温和だがグランドピアノが小さく見えるような偉丈夫であったことも印象的。

《11月8日 ラズモフスキー弦楽四重奏団&管谷玲子》
8回の中では、マロニエ君がもっとも感激したコンサートで、管谷さんのブラームスのピアノ五重奏曲はしなやかで気品とメリハリが両立した名演だった。賭け事にハマる人の心理は、勝ったときの快感が忘れられないのだそうだが、コンサートも同様ではないかと思われる。これぞという演奏に行き当たったときの快感が、また無駄なコンサートに足を運ばせるのだろう。それだけの感銘を覚える演奏だったということ。

《11月12日 田澤明子&西村乃里》
お二人(ヴァイオリンとピアノ)とも確かな技術に支えられた、きわめて誠実な演奏だったが、演奏よりは会場とピアノに大いに疑問の残るコンサートだった。せっかくの瀟洒な音楽ホールであるにもかかわらず、響きが文字通りゼロで、むしろ壁という壁は音を吸い込むように作られているらしい。ピアノも超一流品だが意図的に響かないようにされた?不思議な調整で、ともかくも不思議ずくめの空間。

《12月1日 ミハウ・カロル・シマノフスキ》
福岡国際会議場というコンサートが本領でない、大規模で立派だけれども文化の香りのない、文字通り「会議場」でのコンサート。若いポーランドのピアニストはむろん立派な腕前があり、それなりに弾いてはいたが音楽の核心には未だ迫りきれなかった。聴き手の心に食い入ってこない器用なばかりの演奏は、この人に限らない若い演奏家の今後の課題だろうか。ここに棲む、時を寝て過ごすばかりのスタインウェイも気の毒。

こうして振り返るとやれやれという印象です。
コンサートというのは、本来は音楽を聴いて楽しむため、目の前の演奏を通じて喜びの瞬間を得るために、わざわざ時間を割いて出かけていくわけですが、現実はとても疲れてしまって、帰宅したときはいつもヘトヘトです。

開演前から延べ2時間以上(どうかすると3時間)、狭い座席に身じろぎもできずに固定されて坐骨は軋み、目は疲れ、耳や神経は演奏に集中させられるわけで、コンサートという言葉の響きとは裏腹に、心身共にけっこうハードな状況に置かれて後悔することも少なくありません。
義務でもないのに、我ながらまったくご苦労なことです。
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演奏の真実味

プラッツの演奏を聴くと、いかに演奏者が曲との距離を親密にとっているかが実感されました。
距離というよりも、作品と演奏はほとんど一体のもので、自分自身とほとんど不可分の領域に達しているのは大したものですし、だから演奏に真実がある。
しかし、いまの若い世代は自分の心と作品の情感が重なり合うまで演奏を醸成させるというようなことはとてもやっていられないし、だいいちそういう境地を欲してもいないでしょう。

むしろ今のピアニストが欲しがっていることは、派手なコンクール歴、有名な大物との共演歴、タレント性、人生ドラマなどが生み出す話題性であって、話題性のためには無謀ともいえる全曲演奏の類の記録挑戦者のような行動にも出るようで、まさにアスリート感覚です。

この手のピアニストの演奏を聴いていると、自分の優秀さの誇示やレパートリーの拡大、めぼしい企画へのオファーがあることなどにエネルギーが集中しているようで、演奏はひとくちに言うとどこかウソっぽい。
本当に、心の底からその作品に共鳴して、その作品世界を生きながら演奏しているという実感がなく、ひたすらスケジュールの消化と効率の良い練習に明け暮れているばかりで、それでは心を打つ演奏ができるはずがありません。

それぞれの作品は、まるでたくさんの知り合いのひとりであって、会えば食事をしたり楽しくおしゃべりはするけど、時間になったらサッと終わりにして、もう次の場所で別の人に会っている、そんな印象があるのです。

そんなやり方でも、ピアニストは他人の完成された作品を弾くわけだから、優秀な指さばきでその音符をミスをせずに追っていくことさえできていれば、とりあえず演奏にはなるから、現代ではどうしてもこの面が発達しないと思われます。
そういった意味では、内面的な深い部分の能力が問われないまま未熟な状態でステージに立つという習慣が出来上がっているような気もします。

しかし、昔のピアニストはステージに置かれた1台のピアノ相手に、ひとりでまったくオーケストラに匹敵する仕事をするという気概があったように思いますし、そういうスケールの大きな演奏家としての器と仕込みがあるからこそ、その演奏は観賞に値するものだったのではないかと思います。

昔の演奏家のコンサートでは、それを聴いた人が一生涯忘れ得ないような強い印象とか、ときには衝撃すら与えていたことはそれほど珍しいことではなかったようですが、それはつまりそれに値する大物だけがステージに立つことができるという時代の環境だったからだと思います。

現代は演奏技巧の向上と引き換えに、芸術的真実性はデフレ傾向にあり、ただいかにも練り込まれた解釈やスタイルの規格の枠が、まるでテンプレートのごとくそこらにたくさんあって、若い多くの演奏者は自分の好みに合うものを安易に選び取って型を使っているだけという印象をマロニエ君は免れることはできません。
優れた教師というものも、そういう型を当てはめる効率の良い練習&仕上げの補助をするだけで、心の奥に響く音楽の何たるかを修行させるような往年のスタイルはきっととらないのでしょう。

その人が純粋率直にどう感じて演奏表現を行っているのかということは二の次で、どういう演奏が入試やコンクールで有利で、さらには市場で好まれるかを情報によって分析、それを念頭に置いて、それに合わせて修行しているようで、これじゃあまったくそのへんの企画会社の商品開発と似たような発想といわざるをえません。

まさに安直な商業主義およびそれに準ずるコンサートの氾濫というべきだろうと思います。

昔の演奏家は来日すれば月単位で長く滞在し、その芸術をゆっくり披露して帰っていったようですが、今は空港からホールへ直行、終わればまた別の場所に飛んでいく、「一年の何分の一は飛行機の中」というような時間の中に生きていて、それがエライことのようになっているのは失笑しますね。
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バレンボイムのリスト

「リスト生誕200年記念ガラ、ブーレーズ&バレンボイムのリストへのオマージュ」という映像を見ました。
今年の6月にドイツのフィルハーモニー・エッセンで行われた演奏会の模様で、オーケストラはベルリン国立管弦楽団。

プログラムは、リストとワーグナーの浅からぬ交流にちなんだものと思われますが、この二人の作品を交互に置いたもので、リストでは2つのピアノ協奏曲をバレンボイムがソリストで弾きました。
こう言ってはなんですが、なんの感銘も得られない、実につまらない演奏でした。
指揮者としてのバレンボイムにも賛否両論あるようですが、少なくともピアニストとしてはもうこの人は終わっている人だというのがマロニエ君の率直な感想です。

演奏は粗いし、音は汚いし、南米のピアニストにしては例外的にリズムも弱く、ニュアンスにも乏しい。

70歳目前という年齢ですが、ずいぶん肉体的にも衰えているのか、あるいは指揮活動のせいでピアノの腕が落ちているのか、まともなスピードで演奏することも困難なようで、専らオーケストラとの拍を合わせることに一生懸命なようですが、それは悟られないように、いかにも「オンガクしているよ」というパフォーマンスだけは忘れません。

指揮台にはブーレーズという大物がいるにもかかわらず、何かといえばオーケストラのほうを向いて、さまざまな強い視線を投げかけては、いかにも自分は全体を捉えて演奏しているんだといわんばかりの素振りを執拗に繰り返し、ほとんど意味のない場所でさえいちいち左を向いてオーケストラにコミットしようという仕草が度を超していました。まるで指揮者が二人いるようで、ブーレーズに対してもいささか僭越ではないかと思いました。

この人は昔から音色の美しいピアニストではありませんでしたが、ますますその傾向は強まり、かすれて聴き取れないピアノ&ピアニッシモ、そうかと思うとベチャッと割れたフォルテのどちらかです。

それでは音楽的にどうかといえば、これがまた要するに何が言いたいのかがわからない。
さも意味深な表情付けをしてみたり、テンポを落として荘重に音を広げてみせたりするものの、それが結局どう実を結んでいくのかがさっぱりわかりません。
おそらくこの人自身にもそれはないのだろうと思われるし、演奏になんのビジョンも主題もないということがバレてしまっているわけです。演奏というのは人柄がダイレクトに投影されるものですから、こういうことは覆い隠しようがないわけです。

アンコールではリストのコンソレーションを弾きましたが、最後のピアノ協奏曲第1番のトゥッティによるフィナーレの直後だけに、ガラリと雰囲気を変えようと、ほとんど聴き取れないようなピアニッシモで弾いてみせるのも、いかにも芝居じみた「計算づく」の作戦がバレバレでした。

さすがはドイツというべきか、聴衆も一向に感心した様子がなく、みんな義務的な冷たい拍手をパラパラ送っていましたが、本人がよほどまだ弾きたいのか、さらにもう一曲、忘れられたワルツまで弾きはじめたのには驚きでした。

ピアノはスタインウェイですが、イタリアの名調律家であるファブリーニのピアノで、サイドには彼のロゴマークが入っていましたが、このときはもちろん音はステレオから出して聴いていましたが、べつにどうということもない普通にキチンと調整されただけのピアノという印象しかありませんでした。
とくに悪いとも思わなかったけれども、J・アンマンなどのほうが華があるし、凡庸な感じしか受けませんでした。

この日は遅くなったのでもうお開きにして休みましたが、ほんとうなら口直しに何か違うものでも盛大に聴いてみたいところでした。
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氏より育ち

この秋、知り合うことになったピアニストの方が、ご自宅とは別の練習室で使われるためにピアノを購入され、先ごろ搬入も無事に終わり、触りにきてくださいとのご招待いただいたのでお訪ねしました。

ピアノはディアパソンのリニューアルピアノで、手がけたのはマロニエ君の部屋でも実名を出していますので差し支えないと思いますので書きますと、オオシロピアノによってオーバーホールされ、入念に調整された大橋デザインのグランドピアノです。

ドアの外に立ったときもドビュッシーのプレリュードが聞こえてきましたが、中にお邪魔してしばらくお茶をご馳走になったりして雑談をした後、さっそくにもあれこれと目の前で弾いてくださいました。
こうして間近で聴いてみると、ディアパソンはドビュッシーにもなかなか相性の良いピアノだと思いましたが、思い起こせばドビュッシー自身がベヒシュタインの大変な信奉者であったわけで、そのベヒシュタインを手本としながら数々のピアノ設計をされた名匠、大橋幡岩さんの設計というわけですから、そう考えるとディアパソンとドビュッシーというのもどこか線で繋がっているようです。

他にはショパンのスケルツォを少しと、多くはバッハを弾かれましたが、この方のやわらかなタッチはもちろんですが、それに応えるべくピアノの音の美しいことには深い感銘を覚えました。
同じ日本のピアノでも、決してヤマハやカワイでは聴くことのできない、純粋で凛としたピアノのトーンが部屋中に広がり、まさに音が空中を飛んでいるようです。
ディアパソンで感心させられるのは、音色が純粋であるのに、それが決して弱々しい音にならず、むしろ太い豊かな音であることもこのメーカーの作るピアノの大きな魅力だと思います。

ピアニストを前にマロニエ君ごときがピアノを触るのもどうかと思いましたが、すすめられるままにちょっと触らせていただくと、オオシロピアノの工房にあったときよりも、タッチの均一性などが、一段とアップしていることがわかり、あらためてピアノは技術者の手間暇と磨き込みしだいだという大原則をしみじみと思い起こさずにはいられませんでした。

ピアニッシモの出しやすさ、あるいは打鍵時の発音のタイミングも実に好ましく、よくここまで調整されたものだと思います。この整然とした調整の賜物か、今はご自宅のピアノよりもこちらが気に入っているという言葉も頷けるというものです。
『氏より育ち』という言葉もあるように、調整の行き届いたピアノには独特の品位があって、素直で、きめが細やかで、雄弁なものだと思いますし、それがなにより奏者の演奏意欲を向上させるものです。

この調整の行き届いたディアパソンがそうさせるのか、インベンションなどをさまざまなタッチや表情でアイデア豊かに演奏されましたが、そのデリケートな表現の試みにピアノがよく反応してどこまでもついてくるようで、まさに楽器が演奏者の創意や可能性をあれこれと刺激しているようです。
いうまでもなく、このような現象は、ただ派手な音の出るだけのラフなピアノ(大半がそうですが)ではけっして起こり得ない現象です。

これぞまさに楽器の生まれ持った能力と技術者の精度の高い仕事の融合であり、ひいてはそれが楽器と演奏者の好ましい関係にも直結するわけで、それぞれが持てる能力を最大限引き出し合っている状態だと思います。
まさに良いことづくめの相乗作用で、良い楽器を手許に置くということはことほどさように素晴らしいことだと思いました。

来年にはリサイタルも予定されているようで、楽しみがひとつ増えた気分です。
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ダン・タイ・ソン

NHK音楽祭2011の最後は、待ってましたとばかりにパーヴォ・ヤルヴィ指揮のパリ管弦楽団を迎えました。
ソリストはダン・タイ・ソンで、曲はシューマンのピアノ協奏曲。

ダン・タイ・ソンのシューマンと聞いて、とくだん心躍るものはなかったものの、実際に聴いてみるとこれがなかなかの味わい深い、いい演奏だったのは意外でした。

このシリーズは登場順にベレゾフスキー、カツァリス、河村尚子、キーシンと続きましたが、結果からみてダン・タイ・ソンが圧倒的にピアノの音が美しかった(キーシンは楽器の問題があったと思われます)のは意外でしたね。

冒頭の鋭い和音からそれは印象的で、いかなる部分も甘く透明で、芯があるのに角張らない美音を奏で続けたのは、この点ひとつとってもなかなか立派なものだと思いました。
演奏姿勢は椅子が低く、さらに手首が鍵盤よりやや下に落ちていますが、こういうスタイルの人は肉感のある安定した美音を出すものですが、逆に椅子の高い人は概ね音が汚く、フォルテでも割れてしまうようです。
この椅子の高さと美音の関係性は90%以上に当てはまります。

演奏も全体としては悠然としていながらも、細部のデリカシーにも抜かりはなく、こういうゆっくりと構えたシューマンもあるのかと新たなシューマン像を提示されたという点でも感心させられました。
終始自分なりの解釈があってよく咀嚼されており、そこからなにか大事な物を取り出すように音を出し、穏やかな歌を歌っているのが印象的で、こういう裏付けのある演奏というのは、ひとつひとつの音が意味を持ち、よってどんな解釈でも表現でも、自ずと人の耳を集中させずにはいられないものです。

ダン・タイ・ソンの美点のひとつが、タッチの美しさですが、この点もショパンで鍛えた(かどうかは知りませんが)柔軟な指の動きがもたらす丁寧な指運びは、絶えず美しいピアノの音色を作り出し、第3楽章全域で執拗に繰り返される速いパッセージにおいても、その丁寧なタッチはいささかも質を落とさず、彼の指はいじらしいほど健気で正確にせっせとその責務を全うしました。
まことに聴きごたえのある立派な演奏だったと思いました。

ところが、この日の白眉は最後のパーヴォ・ヤルヴィ&パリ管弦楽団のペトルーシュカというべきでした。
ほぉと驚くような大編成で、第1ヴァイオリンなどはあのNHKホールのステージの手前ギリギリのところまで来るほど壮大なスケールの陣容でした。
パリ管は野卑な音楽にもなりかねないストラヴィンスキーの音楽を、垢抜けたいかにも都会的な鮮やかな感覚で包みました。パリ管弦楽団は長らくエッシェンバッハが首席指揮を努めていましたが、今まさに勢いに乗るヤルヴィの指揮は圧倒的で、オーケストラ自体が新しく生まれ変わったようです。

また感心したのはストラヴィンスキーでは重要な役割を果たす管楽器群の上手いこと!
このペトルーシュカでも管の活躍によって音楽はいよいよ勢いを増し、独特な諧謔的な響きに花が開きます。ピアノも同様で、指揮者の前に縦に置かれたピアノは達者なピアニストによって、この壮大なオーケストラに埋もれることなくこの作品に於ける大役を全うしていました。

感心させられたのは、これだけの編成にもかかわらず、ひとりひとりはまるで室内楽奏者のように上体を揺らしながら熱っぽい演奏をしていたことで、どこかのオーケストラのように仏頂面をして義務のに淡々と演奏をするのとは大違いでした。
さすがにこういう演奏を聴くと、ピアノなんてコンチェルトでもなんだか地味だなあと思えるほど、その眩いばかりの輝きと迫力には圧倒されるものがありました。

素晴らしいピアノを聴かせてくれたダン・タイ・ソンには申し訳ないけれども、終わってみればシューマンはまるでペトルーシュカ前座のような印象でしたし、こういう演奏がまだ存在すること自体、クラシック音楽の将来にもなんだか希望はあるという気がしてきました。
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南紫音

このヴァイオリニストの名前を耳にしたのは、6年前の2005年に若干16歳でロン・ティボー国際コンクールで第2位に入賞したというニュースを聞いたときでした。

そのときは北九州市出身ということで、同じ県ということもあり、身近に素晴らしい才能が出たのだなあとということぐらいで、特にその後はこの人の演奏を聴く機会もないまま時は過ぎていきました。

コンサートのチラシで見た記憶のある、清楚な感じの可愛らしい少女の顔と、いかにもその名前が音楽家になるために仕向けられたようで、こういう組み合わせはマロニエ君はちょっと白けるほうで、逆にあまり興味をそそられることがなくなってしまうのが正直なところでした。
もちろんロン・ティボーで第2位というのは大変な成績ですが、演奏家として本格的に楽壇にデビューするのなら、それぐらいの才能は当たり前だし、昔とは違って日本人も海外の有名コンクールに上位入賞することはさほど珍しいものではなくなっていましたから、まあそのうち聴くことがあるだろうぐらいに思っていました。

最近ではCDが発売されて、すっかり大人っぽくなったジャケットの顔写真を見かけることはありましたが、わざわざ購入する動機ももうひとつなく、その後も演奏を聴くチャンスはありませんでした。

ところがごく最近、それは思わぬところから思わぬ曲目でふってきました。
NHKのクラシック倶楽部で、今年の8月に神奈川のフィリアホールで収録されたばかりの「南紫音ヴァイオリン・リサイタル」が放映されたのです。しかも曲目は驚くなかれ、すべてイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタで、1、2、4、6番となっているのは、我が目を疑うというか、このいかにも強気で挑戦的なプログラムには思わずびっくりました。

イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタはバッハの無伴奏ソナタ/パルティータと並んで、マロニエ君が最も好きなヴァイオリンの作品のひとつですが、ピアノにもこういう作品があればと思うほどの、暗い情念の渦巻く狂気スレスレのところでほとばしる大人のための音楽。よくコンクールの課題曲にはなりますが、これを心底から演奏するとなれば、そんじょそこらのちょっと器用なヴァイオリニストで手に負えるシロモノではありません。
ましてやそれだけを並べたプログラムを、二十歳をちょっと過ぎただけの女性に弾けるのかと思うと、身の程知らずという気持ちがよぎったのは事実で、いささか呆れた気分で「そんなら、聴かせていただきましょうか」という気分で第1番を聴き始めました。

…。
果たしてそれは、こちらが両手をついて頭を下げなければいけないほどのあっぱれなものでした。
この南紫音という人は、見れば可愛い顔をしてますが、えらく激しいものが内在しているようで、ヴァイオリンを構えるとまったく別人のように表情が変わり、あたりはイザイの深い闇の世界がとぐろを巻くようです。
テクニックも大したもので若い女性とは信じられないほどその演奏には腰が座っており、確かな軸が通っていてまったくブレないし、湧き出る音楽はいささかも表面的のきれいごとでなく、すべてが作品の内奥にあるものが彼女の肉体と精神を通して意味を持って湧き上がってくるのは大したもんだと思いました。

このために音楽は一瞬たりともひるむことがなく、高い燃焼感を伴いながら活き活きとその姿をあらわしては聴く者を圧倒するのでした。しかもこれは決して偶然の産物ではなく、4曲のソナタすべてをまったく見事な手さばきとテンションによって、ときには激しく、ときには緻密に、ときには奔放に、なおかつ一貫性をもってぞろりと弾き通したのですから、これはもう唖然呆然とするばかりでした。

最近よくあるタイプの、上辺だけをきれいに整えて、感情表現までもが事前のシナリオで決められているような白けた演奏とは対極にある、まさに理想的な、ヴァイオリンには不可欠の魔性さえ感じる見事としか言いようのない演奏でした。

福岡県からこんなすごいヴァイオリニストが出たなんて、今ごろですが嬉しい驚きで、「実力も恐れ入りましたし、さらには聴かせていただくのが遅くなって、どうもすみませんでした」という気分です。
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福岡国際会議場

ポーランドの若手ピアニスト、ミハウ・カロル・シマノフスキのピアノリサイタルに行きました。

本当を言うと、この人の演奏が聴きたかったというよりは、会場の福岡国際会議場に一度も行ったことがなかったので興味があったことと、さらにはこの日の調律は、我が家のピアノを調整していただいている調律師さんが担当されるということで、会場見物とピアノの音を聴くために出かけて行ったようなものでした。

福岡国際会議場というのは博多駅から海に向かって一直線に行ったところの、博多湾のウォーターフロントに位置する比較的新しい施設です。
すぐとなりにはバレエやオペラなどの大きな出し物の多いサンパレスホールがあり、さらにそのとなりはつい先日まで大相撲の九州場所が行われていた福岡国際センター、逆方向に行くとさらに規模の大きなマリンメッセ福岡があるという、いわば福岡の大型の催し物エリアというべき場所なのです。
やや離れた場所には、なつかしい福岡市民会館もあり、昔はここにどれほど足を運んだことかと思い出されますが、今はクラシックのコンサートなどはほとんどなく、芸能関係等のイベントが行われていないようです。

その中で、マロニエ君は唯一、福岡国際会議場には行ったことがなく、この建物の中に足を踏み入れたのはこの日がはじめてになりました。いつも車の窓越しに見るばかりでしたが、実際行ってみると思ったよりも大きく、大小のホールや会議場が何層にも折り重なるえらくご大層な施設で、用途の大半は学会などの由ですが、会場のメインホールとやらは玄関からはずいぶん距離のある3階にありました。

ここは1000人ほどを収容するホールですが、いかにも多目的に仕様を変えられる作りのようで、この日はコンサート用にステージ奥には反響板などがそれらしく組まれていたものの、どこか薄っぺらで、使用目的に応じて変更自在なステージパターンのひとつにすぎないという印象は否めませんでした。
聞くところでは、さらに奥のスペースと合体させると3000人収容の大会場にもなるのだそうで驚きです。

シートに座った感触じたいは悪くないものの、やけに肘掛けが大きく、逆にシートそのものの幅が狭くて窮屈だと思ったら、なんと肘掛けの内部には折り畳み式のテーブルが格納されており、そのせいでシートがいくぶん狭くなっているようですが、もう少し余裕がないと太り気味の人などはかなり難しいでしょう。
こんな仕掛けひとつとっても、ここがいわゆる普通のホールではなく、あくまで「会議場」であることがわかりました。

そういうわけで、基本的にはコンサートとはあまり縁のないような施設ですが、ちゃんとここ専用のスタインウェイのDがあり、遠目に見た限りではほとんど使われていない感じのピアノで、新しい感じのきれいなピアノでした。

この施設の竣工と同時に収められたピアノで、調律師さん曰く、普段ほとんど使われていない「眠っているピアノ」だそうで、たしかに本来の輝きがまだ出ていない感じではありましたが、それでもこの調律師さん独特の調律の形になっているところはさすがだと思いました。
調律というのはある程度聞き分けができるようになると、それぞれの個性があるのはピアニストに個性があるのと同様です。この方は海外での経験も長いコンサートチューナーなので、我が家になんぞ来ていただいているものの、これが本来のお仕事というわけです。

ところで、この日のピアニストの名がシマノフスキとは、まさにあの作曲家と同じで、作曲家はカロル・マチエイ・シマノフスキ、この日のピアニストはミハウ・カロル・シマノフスキで、あまりにも似すぎた名前なので、もしかしたら末裔か何かだろうかとも思いましたが、プロフィールにはそれらしき文言はなにも見あたらなかったので、たぶん違うのでしょう。

若干23歳の若いピアニストでしたが、良くも悪くもとくにこれという強い印象はありませんでした。
危なげなく指の動く、今どきのピアニストでステージに立つような人なら、まあこれぐらいは弾くんだろうな…という感じでした。
人前でリサイタルをするぐらいの人は、技術的に安定して曲が弾けるのは当然としても、さらに聴いた人の心に何かを残すような演奏ができないことには、本当の音楽家とは言えないかもしれません。
音楽そのものに込める表現性やメッセージ性がという点で、今の若手はその面が弱いのは時代の特徴のようです。
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キーシンの選択?

NHK音楽祭2011「華麗なるピアニストたちの競演」の第4回目は、このシリーズ中最大のスターであるエフゲーニ・キーシンをソリストに迎えるに至りました。

オーケストラはシドニー交響楽団で、指揮はアシュケナージですから、ロシアが生んだ偉大なピアニスト二人が同じ舞台に立つという豪華な顔ぶれであることは間違いありません。
曲目はキーシンが12歳で衝撃的なデビューをしたときに弾いたショパンのピアノ協奏曲第1番。

実はこのキーシン、アシュケナージ、シドニー響、ショパンの1番というのは、過日福岡でもやったのですが、これは一種の勘働きというのでしょうか…さほど意欲が湧かなかったので行かなかったぶん、こうしてテレビで見られるのはいかにも得をした気分でもあります。

尤も、会場はどんな名人・名演をもってしても虚しく音の散ってしまう神南のNHKホールなので、それほどの期待は出来ませんが、まあそれでも片鱗ぐらいはわかるというものです。

紅白歌合戦かと思うようなけばけばしい衣装に身を包んだ男女による、わざとらしくもNHK的な解説部分を早回しして、ステージの映像が映ったとき、いきなり「んん!?」と思いました。
オーケストラを従えるようにステージ中央に置かれたスタインウェイは、ずいぶん古いピアノであることが一目見てわかりました。年代的にいうと映像から判断する限りでは、おそらく20数年〜30年近く前のハンブルク製で、ボディはもちろん当時主流だった黒の艶消し、鍵盤は象牙で遠目にもホワイトニングしたくなるほど黄ばんでいます。

NHKホールぐらいになれば、当然新しいピアノも複数台揃っているはずですが、わざわざこんな古いピアノを引っぱりだしてきたということは、マロニエ君の想像ですが、裏方で練習用などに使われているピアノを弾いて、キーシンがそれを本番で使うことを望んだという以外に考えられません。

マロニエ君もこの年代のスタインウェイはとても好ましく思っているので、さすがはキーシン、ピアノがわかっているなぁ…とはじめは感心したものです。ところが長い序奏を経ていよいよピアノが入ってくると、あれっ?と気分はいきなりコケてしまいました。
中音域などがまるで音になっていないというか、鳴りというにはほど遠い貧弱な音なのです。
いかにもくたびれた感じの、どうかすると昔のピアノフォルテみたいな痩せ細った音だったのはひとたび高まった期待を大いに裏切られました。

これはきっと、新しいピアノの導入によって第一線から退いたピアノが、裏方の練習用などに格下げされてその後もかなり酷使された楽器だろうと思います。
ある程度使われたピアノはオーバーホールなどをすることで充分復活するものですが、そのためにはまとまったコストもかかるし、引退したピアノにそこまでの手間とコストをかけることはされないまま、ただ使われる一方だった楽器を、キーシンが突如「これを弾く」と言い出したに違いありません。

さぞかし技術者などは驚いたことでしょうが、世界のキーシンがそういうのですから仕方なかったのだと思われます。聴いた限りでは、とくに弦の賞味期限などがとっくに終わっているという感じでしたが、それでも低音部などからときおり聞こえてくる鐘を鳴らしたような深くてつややかな音は、今のスタインウェイが失ったものだと思いました。

キーシンの演奏はもちろんその名声に相応しいレヴェルがあったのは言うまでもありませんが、第1楽章などはもうひとつで、この人の昔から癖なのですが、オーケストラとのアンサンブルにはどこか馴染まないものがありました。このへんはどんなに歳を重ね、経験を積んでも一向に直らないようです。
むしろ第2/3楽章のほうがよかったと思いました。

とりわけ右手に単旋律を歌わせるようなときのキーシン節は健在で、こういうときの天使の声のような歌謡性は聴く者の心に染み入るものがあります。
さらには全体に貫かれた気品と華やかさは、キーシンが子供のころから持っている彼の演奏の本質だと思います。

アンコールはスケルツォの2番と子犬のワルツ。
昔とちっとも変わっていない、この人らしい美しいところと幼稚なところが交錯する、それでいて非常に充実感のある魅力にあふれた演奏でした。
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アンデルジェフスキ

話題のピアニスト、ピョートル・アンデルジェフスキが4年前にワルシャワのフィルハーモニーホールで行ったリサイタルの様子を映像で見ました。

曲目はバッハのパルティータの第2番と第1番がプログラムの最初と最後にあって、その間にシマノフスキの仮面劇とシューマンのフモレスケが置かれるという、なかなか個性あふれる異色なものです。

はじめのパルティータ第2番は期待に反してちょっと同意しかねるところの多い演奏で、アンデルジェフスキとはこんなものかとやや落胆しました。演奏家としてやりたいことがあるらしいのはわかるのですが、それがちっとも形になっておらず、完成度がなく、ただあまりに作為的なバッハがそこにあるだけという印象でした。

普通はこういうスタートになると続きを見るのが億劫になるものですが、シマノフスキの仮面はぜひ聴いてみたい曲だったこともあり、とりあえずもう少し我慢して聴いてみることにしました。
すると、いきなりこの人の演奏と作品に一体感が生まれてきて、しかも非常に大きな演奏をするので、思わずこちらのだらけていた体の姿勢まで変わりました。

仮面はシマノフスキの代表的なピアノ曲で、作品としては中期のものです。一般にはスクリャービンやドビュッシーなどに繋がる作風といわれることもあるようですが、リアルな描写性に満ちたそれは幻想的な要素に拘泥していないという点でもシマノフスキ独特なものだと思います。

アンデルジェフスキの演奏からは、なにかムンムンと濃密なものが伝わってくるようで、その逞しいスケール感あふれる演奏には圧倒されっぱなしで、彼の本領はこういうものにあるということを象徴的に示されたようでしたし、では…はじめのバッハはなんだったのだろうと思いました。
続くシューマンのフモレスケも同様の印象で、このとらえどころのない断片の寄せ集めみたいな作品を、実に見事な構造体として重量感をもって描ききったことは、アンデルジェフスキというピアニストの特異な才能を生々しく見せつけられたようでした。
ときにテンポは極限的に遅くなるなど、アゴーギクなども思う存分に揺れ動いて、普通なら容認できないようなところもあるのですが、彼なりの思惑と道筋がしっかりと通っているために、演奏として破綻せず、それはそれで納得させられてしまうのは大した才能だと思います。

アンデルジェフスキの演奏の魅力は、ありきたりな作品解釈の再現ではなく、あくまで彼が綿密に設計した演奏形態の中に作品を落とし込んだ後の結果を聴かされるところにあり、ときには彼のエゴイスティックな部分を含めて、これに身を委ねるところに、このピアニストを聴く、本質的な意味があるのだろうと思います。

もっとも印象的だったのは、現代では指だけはめっぽう回る無個性なピアニストが多い中で、彼は非常に自我の強い、時に傲慢ともいえるような個性的な芸術家であるという点でした。
標準的解釈というものにがんじがらめになり、あくまでも作品から自分の感じ取ったものを表出させるという演奏家本来の使命にさえも異常なまでに臆病な演奏者が多い中、彼ほどそれを恐れず赤裸々に表現してくるピアニストであり、これは時代的にもきわめて稀有な存在だと言えるでしょう。
音楽をとても大きなところから捉えて、それを臆することなく泰然と表現しようという点でも、彼はともかくも大器だと思いました。

ひ弱な演奏が目立つなか、ピアノを非情に力強く男性的に鳴らし切る点においても傑出しており、とりわけこの人の左手の強靱さは目を見張るものがあると思いました。
左があれだけ逞しいことも、音楽のスケール感をいっそう大きくしているのだろうと思われます。

最後に弾いたバッハのパルティータ第1番は、はじめの第2番よりもよほど素晴らしい演奏で、やはり興が乗って、彼の個性とバッハの作品とのピントが合ってきたのだろうと思われました。
久々に聴くに値するものを聴いたという意味に於いて満腹できました。
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先生は音楽が嫌い

昔から長らく変わらない印象ですが、ピアノの先生とかピアニストという人達は、あまり他人のコンサートにはいらっしゃらない気がします。

とりわけピアノの先生などは、そもそも音楽がそれほどお好きではないようで、積極的に好きだという人のほうが珍しいし、コンサートなどほとんど意識にもないというタイプが多いのは驚かされます。
では、よほど込み入った理由があるのかといえば、そうではなく、要するに音楽に対してほとんど無関心という場合が大半なようです。
もちろん中には例外はありますが、それはあくまで例外です。

さらには、ピアノの先生なら仮にコンサートに行くにしてもピアノのコンサートしか行かないし、自分の自由な意志でシンフォニーや室内楽を聴きに行くなんてことは、あまり聞いたことがありません。

だいたい先生がそれでも行くコンサートというのは、出演者などとの絡みがある場合がほとんどで、自分の恩師の系統の人が出るとか、学校や教室などの関連といった色合いばかりで、純粋に自由な立場から、この人の演奏を聴いてみたい、このコンサートに行ってみたいということで、自分のお金でチケットを買って聴きに行くということはあまりないようです。
それで生徒にはチケットを押しつけたりするのですから、ちょっとねぇ…。

以前はマロニエ君も人並みに、あれこれのピアノの先生を知らないわけではありませんでしたが、昔からコンサートでこの先生達にお会いするということはまずないので、そういう意味では安心してホールのロビーなども自由にウロチョロできたものです。
いらい、マロニエ君はピアノ先生とはそんなものというイメージが形成されていったわけです。
「先生」と呼ばれる立場でありながら、これほど音楽や楽器の本質に疎く、もっぱら指運動の難易度と優劣だけに関心が注がれているのは昔も今もあまり変わりないようです。

それに対して、この2年ほどピアノクラブというものに所属してみたら、そこではピアノがなんら義務ではなく、本当に自分の自由な意志から好きで楽しんで弾いているという、まったくそれまでに接触したことのない人達を目撃し、新たなご縁ができることになりました。
趣味なんだから、べつに間違っても下手でもいいから、ともかくピアノを弾いて楽しんで、そこから同好の仲間との交友関係を築くというのは、ある意味ではまことに新鮮な感覚でした。

クラブの人達がいわゆるピアノの先生や、そこにまつわる人達とはまったく違う人種であることを如実にあらわしていることのひとつが、コンサート会場でときどきお会いするということです。
ピアノクラブの人達もマロニエ君と同じように、誰から強要されるでもなく、自分のまったく自由な気持ちからチケットを買って、時間を作って、楽しみでコンサートを聴きに来ているわけで、これは実に素晴らしいことだと思うのです。
まあ本来ならこれはそう感心するほどのことではなく、自分が好きなことならごく当たり前のことなのですけれども、その当たり前と思われることが、ピアノの先生などの世界の人達にはウソみたいに欠落しているのですから、それに比べればやはり感心するのも仕方がないでしょう。

きっと先生達はCDなんかも特定の目的以外ではろくにもっていないはずで、コンサートにも行かない、よい音楽、よい演奏を普段からほとんど遠ざかっていて、なんのために音楽に関わっているのか疑問に感じてしまいます。
たまさかコンサートに行けば、全体の演奏の良し悪しに心を向けるでもなく、あの曲のあそこのところが違っていた!なんてことだけを指摘してご満悦だという話もよく耳にしますね。

プロでもアマチュアでも、音楽に関わりを持つからには、それが心底好きで、良い音楽は少々の無理をしてでも聴きたいという純粋さと意欲だけは失いたくないものです。
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民族による音色の好み

昨日の続きで、「ピアノの本」には、もうひとつ興味深いコメントが載っていました。
あるベテラン調律師の方によると、ピアノの音色に対する趣向が次のように述べられていました。

『アメリカ、ことに西海岸では芯のある明るく突き抜けた音色が好まれ、日本人は除夜の鐘のように澄んだ深みのある音色を好み、ヨーロッパではビッグベンの鐘の音のようなどこか濁りを帯びた柔らかい音色が好まれる』

ほととぎすに喩えた信長、秀吉、家康の話のようで、なるほど象徴的な言葉だなあと思いました。

とくに共感できたのはやはり日本人のそれで、澄んだ深みのある音というのは、いかにもそうだろうと思いますし、自分でもやはり行き着くところそういう音を好んでいる、あるいは無意識のうちにそういう要素で音を判断しているような気がします。
アメリカのような明るく突き抜けたというのは、彼らを見ていると納得できるのですが、日本人とはまったくメンタリティが違うと思いますね。とくに日本は文化的な長い歴史もあって、こと芸術に関して無邪気に明るいものを容認はしません。わびさびなどという精神があるように、どうしてもある種の奥深さと、そこに到達する精神的な清澄さを要求するのだと思います。

アメリカのピアノが芯があるかどうかは疑問ですが、どれも音色そのものというよりは、性格的に明るくフレンドリーなのは、アメリカ人の持つメンタリティの表れだろうと思われますし、いわれてみるとたしかにアメリカピアノには夜のような暗闇はない。
その点、日本のピアノはどれひとつとっても、ある種の暗さが漂っているように感じます。
ハデハデな音を出すヤマハでも、その根底には無彩画のような一種のネクラがある。
その意味では暗さをより上手く使いこなしているのはカワイやディアパソンだと思いますし、ボストンにもこの暗さは少しばかり影を落としているかもしれませんね。

ヨーロッパが濁りを帯びた柔らかい音色というのも頷けます。
とくに彼らが重視するのは音の伸びと倍音ではないかと思いますし、濁りに関しては、これがあるほうを好むというよりは、この点では日本人ほど厳しくないだけじゃないかというのがマロニエ君の印象です。

少々濁っていようとそこはあまり頓着せず、それよりは歌があり、ある種の肉感のようなものがあるピアノのほうが好ましいのだろうと思いますね。
例えばファツィオリがわりに評判がいいらしいのは、そういう理由ではないだろうかとマロニエ君は思うのです。その点では日本人はより精神的要素を求め、ひとつひとつの音にも細やかな美しさや観念を欲しがるので、やはりCFXのようなピアノを作りだしたのだろうと思いますし、一方ではベーゼンドルファーのような繊細な美音を紡ぎ出すピアノを高く評価するのかもしれません。

そういう意味ではアメリカピアノとドイツピアノは両極に位置するピアノで、その両方に拠点を持って国籍不明のようなピアノを製造しているスタインウェイというのは、実におもしろいメーカーだとも思いました。
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音色のひみつ

ヤマハが発行する月刊の小冊子『ピアノの本』を読んでいると、小特集「ベーゼンドルファー音色のひみつ」というのがありました。
簡単な歴史からはじまり、現在もいかに少数のピアノを丁寧に作り続けているかということを説明しています。

ベーゼンドルファーの最も特徴的な面として、木の使い方を挙げていました。
通常は響板のみに使われるスプルースを支柱や側板など、木全体の実に8割にわたりこれを使うとのことで、全体を共鳴体として作り上げるのだそうです。しかもその使い方が独特で、加工する際に無理な圧力をかけて湾曲させるなどせず、削る・接着する・積み重ねるといった木材にストレスのかかりにくい工法がとられているとあります。
ちなみにスプルースは、マツ科トウヒ属の常緑針葉樹で、軽くて弾力性に富み、きめが細かく、加工性に優れているという特徴があり、ピアノだけでなく弦楽器にも使われる、楽器造りには欠かせない素材です。

そんなスプルースをこれだけ多用するということが、ベーゼンドルファー特有のとろみのある優雅な響きを作り出すことに貢献しているのだろうと思われますし、世界広しといえども、これほどスプルースにこだわってピアノを作っているのは、マロニエ君の知る限りではベーゼンドルファー以外にはないように思われます。

ただし、スプルース材を多用したからといって、それが即、より良いピアノになるということではなく、そこにはベーゼンドルファー特有の優れた設計があってのことであるのはいうまでもありません。
逆に木材は適材適所に性質の異なる木を使い分ける方が良いという考えのメーカーも多いはずで、これは一概に良し悪しが決められることではないと思いますが、少なくとも他社では主に響板にしか使わない木を支柱やボディにも使うというのは、単純に贅沢な感じではありますね。

さて、気になったのはグランドピアノの場合は290、225、200、170、という4モデルで現在も100年以上前の設計をほぼそのまま踏襲していて、「これはつまり100年前にこれ以上手の加えようがないところまで改良され尽くしたということ」と主張していますが、その一方で、注目すべき点もあるのです。
というのも、近年はベーゼンドルファーのラインナップにも無視できない変化があらわれてきており、この4モデルの間に位置するモデル、つまり280、214、185はまったくの新設計のモデルということはあまり語られません。

マロニエ君が好きだった275なども、すでにカタログからは姿を消してしまっています。
上記の言葉通りであるならば、「これ以上手の加えようがないところまで改良され尽くした」ピアノを、敢えて新設計のピアノにモデルチェンジするのは矛盾している気がしますが、やはりそこにはいろいろな諸事情があるのだろうと思います。

それは、一説には時代が求めるだけのパワーの増強と、同時に、さしものベーゼンドルファーといえどもコストダウンという、時代が要求する二つの目標を達成するという狙いがあるとも聞こえてきます。
だとしたら、残りの4タイプもこの先、順次生まれ変わるということが予想されますし、今のラインナップはこの点でいかにも不自然で、大きい方から旧・新・旧・新・旧・新・旧というアーキテクチュアの異なるピアノが交互に並んでいるのはなんとも不思議で、これではお客さんも単純にサイズで決めるわけにはいかなくなり、大いに戸惑うのではないかと思います。

マロニエ君からすれば、サイズよりも設計理念の違いのほうがよほど大問題という気がしますが。
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ハンマーのサイズ

日曜は、知り合いのピアノ工房でディアパソンのリニューアルが完成したということでお招きを受け、遊びに行きました。

さらには、今年の9月に帰朝された福岡出身の若いピアニストの方がおられるのですが、その方がこのHPを見てくださっている由で、以前からメールのやり取りなどをしていたところ、教室用のグランドをお探しとのことで、ちょうど同じ日に同じ工房へ行くことになり、現地ではじめてお会いすることになりました。

ご両親といっしょに一足先に来られていましたが、目指すピアノはとても気に入られたような気配でした。
ほんの少しでしたがバッハ、ベートーヴェン、ブラームスなどを弾かれていましたが、これから先、教えることやコンサートなど、徐々にその活動範囲を広げて行かれるようです。
来年はリサイタルなどもされるようで、新しい才能が楽しみです。

さて、ディアパソンはこの工房らしく予定通りにつつがなく仕上がっているようでした。
弾いてみて、何かがもう一つという印象もなくはなかったものの、曰く、弦を張り替えて間もないことと、新品ハンマーを整音をしたばかりなので、もう少し弾き込まれて馴染んでいくとまた変わってくるとのことでした。
開花を待つばかりの芍薬の花のようなピアノでした。

驚いたのは、ここにある非売品のカワイの古いセミコンの変身ぶりでした。
いぜんから柔らかく懐の深い響きで美しい音を出すピアノでしたが、ここのご主人によれば、自分の勉強や試行錯誤のためにハンマーをいじりすぎたとのことでした。
というのも、商品のピアノではそうそう思い切ったことはできないので、そういうことは非売品の自分のピアノでいろいろな試みや勉強をしておられるわけです。そして勉強というのは「壊してもいい」というような限界にまで迫らないことには本当の意味での有益な経験にはならないと思われます。

このピアノのハンマーは、以前一度新品に交換されて、それから何年も経っていなかったのですが、その間にあれこれと整音の実験などを繰り返されたようで、それでついにハンマーの寿命が尽きたようでした。

そのぶん、そのハンマー一式からここのご主人は多くのことを学ばれたようで、新しいハンマーをつけたカワイはまさに一変していて、弾くなりアッと思うほど驚きました。
いままでのやわらかさは土台にあるものの、あきらかに艶と輪郭のある、色っぽい音を出すように生まれ変わっていました。

ハンマーはヘッドの大きさ、シャンクの材質などによって重さが異なり、それによって音色はもちろん、パワー感や音色、タッチの重さまであらゆることが変わってくるようで、そこは「何を求めるか」によって使うハンマーも微妙に変わってくるようです。

細やかなタッチやコントロール性を重視するのであれば、若干小さめ軽めのハンマーを使うことで弾きやすさを実現する、あるいは大型のハンマーならより力強い深い音が出せるというメリットもあるようで、そのへんの判断は実に悩ましい選択のようです。
車のタイヤやオイルのようにパッと交換できならいいでしょうが、ピアノのハンマーは一度取り付けると、普通は10年20年という長い付き合いになりますし、しかもある程度ピアノの個性も決定するので、これは重大です。

スタインウェイなどでも、ここ最近は演奏の俊敏性を優先させて小さめのハンマーが使われているといわれますが、たしかに昔のようなパワーと深さみたいなものはありません。
もちろんピアノの性格は他のいろいろな要素の集積によって決定されることで、たんにハンマーの大小だけでは片づけられることではありませんが、すくなくともハンマーのサイズもその要素のひとつであることは間違いないようです。
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ピアノ五重奏の夕べ

福銀ホールで、珍しいコンサートに行きました。
3人の地元のピアニストがウィーン・ラズモフスキー四重奏団を相手に、それぞれドヴォルザーク、シューマン、ブラームスのピアノ五重奏を演奏するというもので、この3曲はこの形体で演奏できるまさに三大名曲といってもいいもので、いわばピアノ五重奏曲の三役揃い踏みといったところでしょう。

お三方ともみなさんよく練習されており、とても整った演奏だったと思います。
福銀ホールの良好な音響と相まって充実したコンサートだと思いましたが、強いて言うなら、このカルテットの演奏は達者だけれども多少荒っぽく強引な面があり、それぞれのピアニストと本当に協調的な演奏をしたとは思えませんでした。
とくに前半のドヴォルザーク、シューマンはそれぞれに良いところがあったのですが、ピアノはそれほど強い指をした演奏というわけでもなかったところ、弦の4人がやや手荒とも言える調子で音楽を押し進める点があったのは、いささか残念でした。

音量の点でもヴァイオリンの二人などは、まるでソロのように遠慮無く鳴らしまくったのが気に掛かり、ピアノが弦楽器の陰に隠れんばかりになっていたのは、自信の表れかもしれませんが少々やりすぎでしょう。
多少指導的な気分も働いての結果かもしれませんが、音楽…わけても室内楽はバランスが崩れると聴く側も快適ではないので、いやしくもウィーンを名乗るのであればそのあたりはもう少し配慮が欲しいものです。
どうかすると弦の音だけで少々うるさいぐらいになる瞬間がありましたが、それでも全体としては歯切れ良くスイスイと前進する佳演だったと思います。

この夜の白眉は、後半の管谷玲子さんのピアノによるブラームスのピアノ五重奏曲で、これは実に見事でした。
テクニックも音楽性も他を圧倒するものがあり、ブラームスの情感をたっぷりと深いところから味わい尽くせる演奏で、これだけの演奏はめったにないものです。
思いがけない感銘を受けることになりました。

とりわけ感心したのは、自己表出よりも終始徹底して音楽に奉仕する演奏家としての謙虚な姿勢が明確で、その深みのある雄弁なピアノにはさすがのカルテットもやや襟を正さざるを得なかったようで、より音楽的な姿勢を強めて演奏していたと思います。この曲ではまったく自然なかたちでピアノが中心に座っていました。
管谷さんのピアノはやわらかな楷書ように清冽で、作品を広い視点から余裕を持って、確かな眼力によって捉えられていると言えるでしょう。
けっして目の前のことに気をとられて全体を見失うことがなく、常に腰が座っていて、しかも必要な場所でのしっかりとしたメリハリもある演奏には思わず唸りました。

ピアノの音色にもこの方独特のものがあって、芯があるのにやわらかい温もりがあって、それがいよいよブラームスの音楽を分厚く豊かに表現するのに貢献していたのは間違いありません。

つい音楽の中に引き込まれて集中していたのでしょう、この曲はほんらい長い曲なのですが、実際よりうんと短く感じてしまいました。逆に退屈すると、短い曲でも長く感じるものです。

終わってみれば、固まったように聴き入っており、こういう演奏に接することはなかなかありません。
本当に才能のある、器のある方だと思いました。

不満タラタラな気分を引きずりながら帰途につくことの多いコンサートですが、めずらしく良い音楽を堪能した気分で、心地よく帰宅することが出来ました。
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ピリスの証言

マロニエ君の部屋のNo.70で書いた「フランスの好み」に関連することで、興味深い文章を目にしました。

たまたま手に取った2年ほど前の音楽の友ですが、その中にマリア・ジョアン・ピリスのインタビュー記事があり、このころ彼女は「後期ショパン作品集」をCDリリースしたばかりの時期でした。
ピリスは以前からヤマハを好んで弾くピアニストの一人であるにもかかわらず、その最新のCDはどういうわけかスタインウェイで録音されており、とくにスタインウェイが好みじゃないということでもないようです。
そして、ヤマハとスタインウェイは、状況によって使い分けているといった印象を受けました。

インタビューでは自分がコンサートに使用するピアノのことにも触れられていましたが、それによると、やはり…と思わせられるのは、ヨーロッパは本当に状態の悪いピアノが多いのだそうで、それは楽器を持ち歩くことのできないピアニストにとっては尽きない悩みであり、頭の痛い問題であるようでした。
とりわけ小柄で手の小さなピリスの場合、状態の悪いピアノと格闘することは普通のピアニスト以上の苦痛の種になるようです。

ヤマハがとくに高い評価を得ているらしいと推察できるコメントとしては、そんなヨーロッパでは調律師の存在がひじょうに大きく、ヤマハは素晴らしいテクニシャンを擁しているから、この点で頼りにしているということでした。
やはり日本人調律師のレベルは世界第一級のようですし、同時に痒いところに手が届くようなサービスで顧客の評価を高めるやり方は、いかにも日本人的なやり方だと思われました。

面白い意見だったのは、日本でのコンサートでは、ホールのアコースティックがとても素晴らしいので、ヤマハのピアノを好んで使っているのだそうで、ヤマハで何も問題を感じないと発言しているわけですが、その微妙なニュアンスが印象的でした。

それに対して、ヨーロッパのホールはアコースティックがひじょうに悪い会場が多いのだそうで、そういう場所ではより大きな音の出るスタインウェイを使わざるを得ないということをはっきり言っています。
これはつまり、ヤマハは好ましいし技術者も素晴らしいが、たくましさがないということになるのでしょうか。

ピリスは今年のメンデルスゾーン音楽祭でも、ベートーヴェンの第3協奏曲をシャイー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団と弾いていますが、ピアノはまたもスタインウェイを使っていました。

少なくともピリスほどのヤマハ愛好者でも、コンサートやレコーディングの現場ではまだ全面的な信頼は寄せていないということのようにも読み取れます。
ヤマハのコンサートグランド(すくなくともCFIIISまで)はこぢんまりとした美しさはあるのの、スタインウェイのようなスケール感や壮麗な音響特性はもうひとつ不足するのでしょう。
同時に、ヤマハを好むフランス人などの演奏を聴いていると、スタインウェイの音色ではときにあまりにも絢爛としすぎて、楽曲や演奏の内面に潜む綾のような部分を描き出すような場面で、やや派手すぎると感じる局面があることもわかるのです。
このことは、オールマイティを誇るスタインウェイの特性の中で、数少ない欠点と言うべき部分なのかもしれません。

音楽を大きく壮麗に語りたい場面、あるいは音響的で強い表現を求める場面では、スタインウェイは他の追従を許さない名器ですが、逆に、華奢で傷つきやすい、私的心情をこまやかに表現したい向きには、日本の製品のもつきめの細かさが有利となるのかもしれません。
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自分だけじゃない

今どきの歌の歌詞のようなタイトルですが、定例会では、皆さんの演奏ぶりをつぶさに見ていると、いつも落ち着いて平然と弾いているように見える方でも、実際はけっこう緊張しておられる様子がわかったのは、いまさらみたいな発見でした。

人前演奏が「超」のつく苦手なマロニエ君としては、自分が弾くところを見られるのが相当イヤなものだから、これまでは人の演奏もまじまじと見てはいけないもの、じっと見るのは失礼で、まるで辛辣な行為のように勝手に思い込んでしまっていたところがあって、実はこれまであまり凝視することはできるだけしなかったのです。

ところが先日の定例会では、ピアノとの距離の問題か、光りの加減か、とにかくごく自然にそれが目に入ってしまい、つい細かいことが見えてしまったというわけです。

すると、一見普通で冷静のように見えても、指先がずいぶん震えていたり、足までわなわなしていたりと、かなりの緊張に襲われている様子がわかりましたし、何度も聞いている人の同じ曲の演奏でも、過去に何度もスイスイと弾けていた人が、そのときに限って崩れたりすることもわかり、ははあ、みんなそうなのか!と思いましたね。

というのも、マロニエ君など、どんなに家ではまあまあ弾ける(もちろん自分なりに)ようになったと思っても、人前というのは特に個人的にそれが苦手ということもあり、想定外のいろんなハプニングに見舞われて、とうてい思ったようには行かないというのが現実なのです。

もちろんミスなどするのは自宅でも毎度のことですけれども、そんな中にも通常の自分ならまずミスしない部分というのも、曲の中にところどころはあるわけですが、そんな大丈夫なはずの部分まで、人前で弾くとまるで悪魔がパッと微笑むようにミスってしまったりで、あれはなんなのかと思います。
そして、そういう思いがけないミスに自分がショックを受けて、更なるパニック連鎖の引き金になるんですね。

それと、崩れてしまう大きな原因のひとつは、音楽というものが宿命的に一発勝負という非情な世界に投げ込まれるからであって、どんなに別のところでそれなりにできたとしても、定められた場所と時間でできなければ、ハイそれでお終いという性質を持っています。それがわかっているものだから、またいやが上にも緊張を誘い込むのだろうと思います。
そういった、音楽が本源的に持っている性質は、プロはもちろん、我々のようなシロウトであっても基本的に同じだと思います。

そういういくつかの要素があれこれと絡み合い交錯することで緊張を誘発し、動かない指はいよいよ固まり、頭は飛んでしまうというわけです。
こうなると、もう一切を放棄して途中で止めたくなるし、こんな情けないヘンなことになるのは自分だけじゃないか?と内心思っていたのですが、その点で言うと、へえ、ほかの人もそうなんだ…ということが少しわかってきて、それで嬉しかったと言っちゃ悪いけれども、なんだか安心したことは事実です。

マロニエ君はちょっとしたことに過剰反応し、すぐにマイナスに影響される面があって、人前というのはもちろんですが、自宅とは照明の感じが違って、他所では鍵盤がパーッと明るく見えてしまうだけでも緊張して、たちまち勘が狂って崩れてしまいます。
小さな事に動じず、どっかり弾けたらどんなにいいかと思いますが、それは夢のまた夢です。
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麗しきディアパソン

文化の日は、ピアノクラブの定例会で、メンバーの方所有のプライヴェートスタジオで行われました。
あいかわらず素晴らしい会場で、これが個人の空間というのは何度行っても驚かされます。

ピアノはディアパソンの新型のDR500という奥行き211センチのモデルで、ヤマハでいうと6サイズ、スタインウェイではB型という、いわばグランドピアノ設計の黄金分割ともいえるサイズです。

数ヶ月前に弾かせていただいたときにもその上品で美しい音色、さらには会場の音響の素晴らしさとのマッチングには深く感銘したものでした。
しかし、今だから言うと、強いていうならピアノのパワーはもう一つあればという印象が残ったことを告白します。

その後、調律師さんを変更されて調整を入れられ、さらに定例会の2日前に再度その方によって調律されたということを聞きましたが、果たしてそのピアノ、目を見張るほどの大きな変化を遂げていました。
音色に豊かな色艶が加わり、好ましい芯が出てきており、さらにもっとも驚いたことには、以前よりもあきらかにひとまわりパワーが増していたことでした。
やわらかさはちっとも損なわずに、逞しさと色気という表現力の要の要素が出てきていました。

まさに第一級のピアノに変貌していましたが、これも場所とピアノが同じであることを考えれば、あとはもう調律師の適切な仕事による効果だと考える以外無いでしょう。

良いピアノというのは弾き心地がよく、演奏者を助けてくれるものですが、まさにそんなピアノでした。

ただ皮肉なもので、以前はこの空間とピアノの響きのバランスが見事に調和していたのですが、ピアノの状態が進化して音量と音の通りが増したため、音響空間としては、ほんの少しですがやや響きすぎる感じになってしまっていたと思います。

オーナーの方もそこには薄々気がついていらっしゃるようで、「もう少しスタジオを吸音してみます」というメールをいただきました。
また大変かもしれませんが、のんびり実験のようにやっていかれるらしく、ピアノが良く鳴るようになったがための対策なら、基本的に喜ばしいことですけどね。

まあ、つくづくと楽器と空間の関係というのも、微妙で難しくてやっかいですが、だからこそまたおもしろいと言えるのかもしれません。

ちなみにこのサイズでは、日本製ピアノだけでも、ヤマハのC6、S6、CF6、カワイのRX-6、SK-6、ボストンのGP-215、同じくディアパソンのDR211(DR500との違いは弦の一本張りか、押し返し張りかの違いのみ)の7種がありますが、このスタジオのDR500は間違いなく最良にランクしていい優れたピアノだと思います。

とくに興味があるのは同じボディと響板を使うカワイのRX-6、ディアパソンのDR211とこのDR500はどのように違ってくるかの比較ですが、そんな機会はまずないでしょう。
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意外に慎重派

「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」、第二週は日本人の登場で、河村尚子さんでした。

この人は最近売り出し中のようで、雑誌やCDなどでもしばしばその顔写真を見かけます。
ドイツ仕込みということだそうで、留学経験やミュンヘン・コンクールに入賞するなどの経歴もあり、いわゆるドイツものが得意ということのようです。

オーケストラはマレク・ヤノフスキ指揮のベルリン放送交響楽団で、曲はベートーヴェンの皇帝。
以前も感じたことでしたが、この人のステージ上の所作はあまりマロニエ君は好みません。
どことなく大ぶりな動作や、あたりを睨め回すような表情の連発で、それを裏付けるだけの音楽が聞こえてくるならまだしも、そのいかにも「オンガクしてる」的な動きばかりが目につきますね。

それに対して、演奏はさほど大きさがありません。ときに繊細な情感があって美しいところもあるけれど、基本的には皇帝のような堂々たる曲を、えらく用心深く弾いてしまったのは、その視覚的イメージとはかけ離れた、普通の慎重型のピアニストのひとりに過ぎないと思いました。
見た感じは押し出しのある、アクの強い表情などもするから、相応の迫力でもありそうなものでしたが、出てくる音楽はえらく控え目な、常に抑制された演奏を最後まで通しました。

そのためか、第2楽章などはまるでモーツァルトのように聞こえる場面もあったりで、よほどこの人は安全第一の慎重派らしいということがわかりました。
演奏のクオリティを上げるのは結構ですが、そのための慎重さのほうが前面に出て音楽の醍醐味みたいなものが損なわれるようでは、本末転倒だと思います。本人にしてみれば「音楽を優先した、コントロールの行き届いた演奏」だというのかもしれませんが。

こういう曲の佳境に入ったところに、あえて繊細な表現をしてみせたり、フォルテッシモが交錯するようなところでも、期待に反するような抑えた弾き方をするのは、聴く者をただ欲求不満にするだけだと思いますし、要するに奏者の自信のなさと指が破綻しないための方便のようにしか見えません。

それと気になったのは、この人はよほどリズム感がないのか、大事なピアノの入りのところで何度もタイミングが一瞬遅れるのが目立ったことです。一番多かったのは第3楽章で、あれではオーケストラも丁々発止で乗れないでしょうね。

この曲は、もちろん音楽的に深いものは必要ですが、同時にある程度勢いで前進しなくちゃいけないところもあるわけで、そういう肝心の箇所にさしかかったときにツボを外されたら聴く側の高揚感もコケてしまいます。
オーケストラも開放的な流れを堰き止められて、弱いピアノに合わせながら演奏しているようなところがあったのは、せっかくこれだけの一流オーケストラなのに残念でした。

こういうことを言っちゃ叱られるかもしれませんが、そもそも皇帝みたいな曲は基本的に器の大きな男性ピアニストがオケと互角のやり取りをしないと形にならないところがあるように思います。
逆にシューマンのコンチェルトなどは男が弾くとどうにもサマにならない感じもします。

もちろん例外はあるのであって、リパッティ/カラヤンのシューマンなどは永遠の名演ですけれども。
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シゲルカワイの疑問

評判が高く、マロニエ君自身も一定の好感をもっていたシゲルカワイ(SKシリーズ)ですが、その印象もだんだん怪しくなってきました。このところ続けて聴いたコンサートやCDからの印象です。

ショールームなどで弾いてみると普通のRXシリーズよりもピアノとしてひとまわり懐が深く、音も太めの渋い音がするし、タッチにもある一定のしっとり感のようなものがあって、さすがにSKシリーズは格が違うらしいと思わせられるものがあるものです。
実はどこか、なにかが引っかかっているのに、それが何であるかまでは明確にわからずにいたわけです。
というのも弾き心地はいいし、RXシリーズより明らかな厚み深みがあるものだから、その長所ばかり気をとられてしまうのでしょう。

一番問題を感じるのは要するに音色の問題です。
ピアノの音は自分で弾いてみないとわからない部分があると同時に、自分で弾いているとわからない性質の要素もあって、人の演奏に耳を傾けることによってはじめて見えてくるものというものがあることは、そういう経験をお持ちの方ならすぐにわかっていただけると思います。

そして、SKシリーズの一番の弱点はこの「人に聴かせる」という部分じゃないかと思います。

ただ単に聴く側にまわると、意外に音色が雑で、あまり芸術的とは言い難い。
ピアノの音にもいろんな種類や傾向があって、現在の主流はやはり明るくブリリアントな方向でしょうが、それでもないし、ではドイツピアノのような渋くて重厚な音という方向もありますが、どうもそういうものでもない。
フランス的な柔らかな響きなどはいよいよもって違います。

ひと言でいうと基本となる音色に色艶がなく、音自体も暗めであるにもかかわらず、今風な華やかさやパワーもありますよという建前を感じるわけで、作り手の思想に一貫したものが感じられません。
ピアノが生来持って生まれたものとは逆の性格付けをしようとしているところに大きな矛盾があるようで、これがこのピアノの最大の問題ではないでしょうか?

コンサートグランドにしても、マロニエ君としては従来のEXのほうがスケールは小さくても音楽的には好ましいということを折に触れて書いてきましたが、やはりその印象は今も変わりません。

小さいサイズのピアノでも、SKシリーズはいかにも高級シリーズという風格は備えていますし、音も堂々としているかに聞こえますが、本当に美しい音楽的な調べを奏でるのは、もしかしたらレギュラーモデルのほうでは?という気がしてきました。

マロニエ君の友人知人もカワイのレギュラーシリーズのユーザーが数名いますが、それぞれに本当に美しい「カワイはいいなぁ」と思わせる音色をもっています。

ところがSKとなると、そういうカワイの独特の美しさとは違った、色艶のない、野太くて荒っぽい響きになっていると感じるのです。これは最高峰のSK-EXでも、それ以外のモデルも同様の印象で、その点じゃシリーズとして一貫しているかもしれませんね。目先の効果としては太くていかにも響板が鳴っているような音はでているけれども、要するにそこから先の奥の世界がない。

本当に優秀なピアノは間近で聴いていると大してきれいには聞こえなくても、少し距離をおくと音が美しい方向に収束されて時に感動さえするものですが、SKシリーズは距離をおくと逆に音色がばらけてしまって、音楽に収拾がつかなくなる。

これは、もしかしたら本来そこまでの能力を想定していない設計のピアノを、無理にグレードアップしたためにどこかで破綻が起きているような印象でもあります。
まるでピアノ工房の職人が作った、チューンナップピアノ的な傾向にあるのではないかと思います。

ピアニストによるSKシリーズ使用のコンサートはパッと思い出すだけでも4~5回は聴いていて、サイズも様々ですが、すべてに共通しているのは音に密度感がなく、暗い感じの音を遮二無二鳴らしているだけという印象でした。
けっきょくカワイの最良の選択は、レギュラーシリーズを家庭などで使うというスタイルなのかもしれません。
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華麗なるピアニスト?

先週からBSプレミアムで「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」というのをやっています。

この秋に招聘された5人のピアニストによるコンチェルトが紹介されるようで、第一週はボリス・ベレゾフスキーとシプリアン・カツァリスが放映され、その録画を見てみました。

ベレゾフスキーはリストの第1協奏曲を弾きましたが、率直に言ってなんとも粗っぽいだけの演奏で、以前ラ・フォル・ジュルネでショパンの第1協奏曲を弾くのを見て、その大味さにがっかりした記憶が蘇りました。
あのロシアの大男の体格がなにもピアノの音の表現力の幅や豊かさとして役立っておらず、とても一流とはいいかねる雑なだけの演奏でした。これはベレゾフスキー自身の気質からくるものとしか思えないほど、音楽の大事なところをバンバン外れて通過してしまっている、いいところが少しも感じられない演奏でしたね。
そのくせパワーだけは出そうと、第4楽章などは汗みずくになって力演していましたが、この人の魅力がなへんにあるのか、ついにはわからないまま終わりました。
むしろ良かったのはアンコールで弾いたチャイコフスキーの四季から10月で、さすがにロシアの小品などを弾かせると、動物的に大暴れできるところもなく、その静やかなロシア的な旋律がそこはかとない哀愁を帯びて、このときばかりはチャイコフスキーの音楽が聞こえてきたようでした。

カツァリスはモーツァルトの21番の協奏曲ですが、これがまたなんの感銘も得られない表面的なチャラチャラした演奏で、この日はほとほと不満が続きました。この人はもともとマロニエ君にはかなり苦手なピアニストなのですが、やはり指先だけの技術を見せよう見せようと、終始そればかりに腐心しているようで、音楽の内容という面ではまったくの空白という印象でした。
この頃になると、もうすっかり疲れてしまって、最後まで見通すこともできませんでした。
カツァリスはもともと大道芸人のようなピアニストで、マロニエ君は彼を一度も芸術家とは思ったことはありませんが、その彼も寄る年波か、そのサーカス的な指芸にも翳りが見えてきたようでした。
唯一、彼の存在理由を挙げるとしたら、彼はなかなかのピアノマニアらしく、いろいろなピアノを使ってCDなどを作ってくれている点です。ただし、その演奏がこの人自身なので興味も半減ですが。

なつかしかったのはモーツァルトでは御大ネヴィル・マリナーの指揮だったことですが、彼が振ると普段は愛想のないN響でもマリナーのあの馴染みやすい甘い音色になり、流麗で華やかな流れに乗ったモーツァルトが流れ出すのはさすがでした。ちなみに映画『アマデウス』で使われた演奏の指揮をしたのもこのマリナーですが、この巨匠もずいぶんお年を召したようでした。

ピアニストに話を戻すと、こんな二人を呼ぶぐらいなら、日本にはどれだけ素晴らしいピアニストがいることかと思われて、その中途半端に派手さを狙った企画そのものが残念です。おそらくは真の音楽的な価値よりも、海外の有名どころの顔と名前をズラリと並べるほうがウケるということなのかもしれませんが、もうそろそろ日本人も「舶来上等」の思い込みを捨てたらどうかと思います。
それには聴衆も知名度だけに頼らず、輸入物の粗悪品では満足しないという成熟が必要ですが。

現に工業製品などでは、いまや日本製であることが内外でも特別な価値であることが認識されつつあるのですから、外国人をむやみに有り難がらずに、良い音楽を求めるという方向に向いて欲しいものだと思います。
とりわけ日本は上記の二人のような演奏が通用する音楽市場ではあってほしくないと思いました。

ちなみにカツァリスはヤマハのCFXを弾きましたが、モーツァルトのような小ぶりな曲を弾くには、なかなか繊細で品位のある音色で鳴るピアノでした。
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正式購入へ

〜昨日の続き。
この方はずいぶんあちこち日本全国のピアノ店を見て回られたようなのですが、いろんな意味でこれだという決定打になるピアノがなく、そのうちのごく僅かはマロニエ君も同行させていただいたところもありましたが、ピアノ選びは楽しくもあり、同時になかなか難しいものだと思います。

これが日本製の比較的新しいピアノとかであればそのようなことも少ないと思われますが、古い輸入物のピアノとなると、これはもしかしたら危ないもののほうが数が多いと思っておいてもいいくらいで、その中から首尾良く上物を選び出すということは、専門の技術者であってもそう簡単ではないかもしれません。
ましてや我々のような素人がアタリを引き当てるのは相当な難事業だといえるでしょう。

ただ、何事もそうですが、はじめは明確な判断力が持てないかもしれませんが、やはり数をこなしていくうちにだんだんと良否の選別ができるようになっていくものですから、時間さえかけて気長に取り組めば不可能なことではないと思いますね。

しかしスタインウェイなどの中古ともなると、言葉では「数を見ることが大事」などといっても、実際はそう簡単じゃありません。そのへんの中古車店を見て回るのとは訳が違って、至近距離には該当するモノがないのですから、一台二台見るために、とてつもない距離を移動することになりますし、出張のついでにめぼしいピアノ店行かれたり、新幹線や車を使っての長距離遠征もだいぶ敢行されたようでした。

それだけの経験と数を経てこの一台に到達したわけですから、その甲斐もあって、とても良く鳴る健康的で元気のいいピアノです。
しかもこれは、本などにも記されるヴィンテージ・スタインウェイと呼ぶべき戦前のモデルで、人間なら立派に老境に入っているところですが、さすがはスタインウェイというべきか、内外ともにドイツの職人によってまことに美しく、輝くばかりに仕上げられており、古さなどはまったく感じさせません。

さらに驚くべきは、小さいサイズのグランドであるにもかかわらず、出てくる音にも元気と力強さがあって、太くて美しい音が楽々と出てくるのはなにより瞠目させられる点でした。
あまりにも音の勢いが良いので、試しに大屋根を閉めてみたところ、それでも大差というほどの差はなく、さらには上のフタを全部閉めてみたのですが、それでもひるむことなく相当の音量で朗々と鳴りきっているのには呆れました。

ここでしみじみと思ったことは、状態の良い良く鳴るピアノはフタを開けても閉めても、要するに元気良く鳴るものだということで、音に不満がある場合にフタを開けたり閉めたり、あれこれ工夫の必要があるなどは、そもそも基本的な鳴りにどこか問題があるに違いないと思います。
鳴るものはどうやったって鳴るという至極当然の事がわかりました。

ひと月ほど前に戦前のドイツピアノによるコンサートを聴きましたが、そちらも一流メーカーのピアノではありましたが、低音域などは完全に音が死んでいて、ただゴンとかガンとかいうだけでひどくガッカリした印象が強かっただけに、今回のスタインウェイにはまったく驚かされました。
実年齢とは違って、人間でいうと働き盛りの30~40代という感じで、もちろんこちらは完全なオーバーホールがされているということはありますが、それ以上に根本的な品質と設計の違いを痛感させられました。

それにしても、部屋にグランドピアノが鎮座する光景というのは実によいもので、まるきり家の雰囲気がかわったようでした。まさに主役の到来という感じです。
これまで使われたアップライトと向かい合わせに置かれていますが、これからは練習にも身が入ることでしょう。

最後になりましたが、搬入から数日後、正式購入ということになり、晴れてこの家のピアノとなったのでした。
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仮の嫁入り

つい先日、知人の自宅に美しいピアノが搬入されました。
マロニエ君も当日はご招待に与り、午後からお邪魔して、少々弾かせていただきました。

このピアノは、その知人が数年間をかけて、実に30台近くを見て回って、吟味に吟味を重ねたあげくに運び込まれたスタインウェイです。

ここでいう「運び込む」というのは、いわゆる購入によるそれではなく、店頭で聴く響きが果たして自宅へ場所を変えた際にどうなるのかという点を迷っていたところ、店側の責任者の英断によって、それだったら自宅に運び込んでみましょうか?ということとなり、そこで双方の合意が得られたというものでした。

ですから、これは自宅部屋での響きを確認するという目的のための運搬と設置であって、まだ購入を決定したわけではありませんから、ピアノは届いても、まだ店の商品ということになります。

もちろん、それで納得すれば購入するという、大前提が付くのはいうまでもありませんが、こういう方法は客側からはなかなか言い出せるものではないものの、幸いにして店側がそこまで譲歩してきたために思いがけなく実現したものでした。

店側にしても、そういう思い切った手段に出た方が話が早いという目論見があった可能性は十二分にあり、営業サイドとしては、十中八九話は決まったも同然の、事実上はほとんど片道キップで送り出したピアノだっただろうと思われます。
まあそれだけ店側にも自信があったという解釈もできますし、そうすることがギリギリのところまで来ている購入者の決断の、背中をもうひと押しすことにもなると踏んだに違いありません。

正直いって、マロニエ君もそのピアノの音色や鳴りが優れていることは感じていましたし、しかもその良さはピアノ本体がもっているものであって、決して店頭の音響的な条件とか助けによって達成されていることではないことはほとんどわかっていました。
さらには、知人宅のピアノを置く予定の環境も知っていましたから、このピアノがそこへ持っていったとたんに大きく音色や響きが変わるなんてことはないことも容易に想像がつきました。
ただ、決して安い買い物ではないし、当人としては念には念を入れたいと考えることは大いに理解できます。

ときどき耳にする話ですが、ショールームで弾いてみて気に入って購入したピアノだったにもかかわらず、いざ自宅へ届けられて部屋に置いてみると、まったくその良さが損なわれてしまってガッカリという話もありますし、場所が変わってフタを閉めたらタッチまで別のピアノのようになってしまったなんていう笑うに笑えない話もたしかにあるので、できることならこういう順序で購入できるものなら、あとから失望するなんてことはないわけで、多少の手間暇はかかりますが、これはこれでひとつの賢いやり方だと思いました。

別の店で見たピアノでは、店頭での調整とか設置環境によって響きが違うということで、遠方まで数回足を運んだという経緯もありましたが、今回しみじみ思ったことですが、良いもの/それほどでもないものは、あれこれと分析したり理由付けなどしなくても、だいたい初めの5分で決するものですし、もっというならものの10秒ぐらいで勝負はついてしまうように思います。これはピアノに限りませんが。
ピンと来ないものは、やはり何かがあるのであって潔く止めたほうが賢明で、時間をかけたからといって良し悪しの判断が覆ることはまずないし、そのあとにやっていることは、専ら言い訳さがしにすぎないのです。

その点で、このピアノは初っぱなから好印象がずっと崩れずに続いていました。
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発言の自由度

昔の文章に触れるということは、別に文学書でなくても、今の価値観で読むといろいろとおもしろいことがあるものです。
どこが面白いのかというと、今どきのようにやみくもに気を遣って差し障りのない安全なことだけを並べ立てるというウソっぽさがなく、発言そのものがもっと自由で、率直な考えとか物事の事情などがごく普通に述べられている点で、これひとつとっても時代を感じさせられます。

例えば25年前の雑誌「ショパン」を見ると、ピティナの創設者の方の談話が載っていて、そこにはピティナ=社団法人全日本ピアノ指導者協会がどのようにして創設されたのか、どういう事情があって今日のような組織が作られたかという経緯が述べられていました。

もともとはピアノ曲やピアノ学習者のための教材が、すべて海外からの輸入物によって占められていて日本人の手で書かれたものがないという点に疑問を感じ、日本の作曲家の作品を広く知らしめたいという思いが湧き上がったところへ同志が集まり、「東京音楽研究会」という邦人作品の研究団体としてスタートしたのだそうです。
その活動の一環として公開レッスンが始まり、さらにピアノゼミナールや演奏法や指導法の研究会がひらかれ、その研究会へ地方からわざわざ出てくる会員のために、今度は全国に研修の場として支部の枝が広がり、そのときに付けられた名前が「全日本ピアノ指導者協会」なのだそうです。

そんな中、ある時ショッキングな出来事があったというのです。
毎回研究会に参加される地方の先生の自宅へ、この方が招かれたときのこと。
そのお宅には素晴らしい設備が整い、グランドピアノが2台デンとあり、音楽書は本棚にぎっしり、レコードも大変な数があったといいます。

そこで、その先生の生徒さんがブルグミュラーの練習曲全25曲を暗譜で弾いてくれたらしいのですが、ミスリーディングの多さと奏法の未熟なことにショックを受け、毎回研究会に出席しているというだけでこの方は立派な先生だと感じていた自分がハッとした(つまり立派な先生じゃなかった)、ということが歯に衣きせぬ調子で堂々と書いてあるのです。

さらには、その生徒の演奏を見て、それまで自分が一生懸命続けてきた各種の公開セミナーはちっとも役に立っていなかったということを思い知ったともはっきり断じているのです。

こういうことは、今であれば、たとえ事実であっても個人を中傷するだのなんだのという理由から、絶対に書かれないことでしょうし、仮に書いたとしても編集部がマズイと判断して大幅な手直しに介入することでしょう。
果たして、誰から文句のでない、読んでも甚だ面白味のない、パンチに欠ける文章でしかなくなりますし、当然ながらナマな真実性もありません。
何事も昔は率直で迫力があったんだなあと思います。

先の話を続けると、それがきっかけとなって、「同じ課題曲を、同じ位の子どもたちによってコンクールを開催することが、最も先生の実力向上につながる」という結論に達して、はじめはオーディションという名前で始まって、それが発展してあのお馴染みのピティナのピアノコンペティションに成長していくのだそうです。

意外だったのは、このコンクール、もともとは生徒を指導する「先生の実力向上が目的」だったということで、今も基本理念はそうなのかもしれませんが、マロニエ君はピティナとは名前を聞くだけで、自分自身は一切関わりを持ったことがなかったので、このような経緯ははじめて知りました。

つまりピティナのコンクールは、「生徒が先生の代理で戦っている」ということになるのかもしれませんね。
まあそうだとしても、結果としてそれで生徒が立派に育つのであれば何をか言わんやですが。
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懐かしい雰囲気

クシシュトフ・ヤブウォンスキのピアノリサイタルに行きました。

今回はちょっと珍しいコンサートで、会場が通常のコンサートホールではなく、カワイ楽器の太宰府ショップ内で開かれた百数十人規模のコンサートでした。
いつもならグランドピアノが所狭しと並んでいる店舗内は、ものの見事にピアノが片づけられて椅子が整然と並び、正面のカーテンの前にはこの店のシゲルカワイ(SK-6)だけが置かれています。

ヤブウォンスキはポーランド出身のピアニストで、1985年のショパンコンクールで第3位になった実力派で、こういう世界的なピアニストが通常のコンサートホールではなく、このような形でのコンサートをおこなうというのが非常に珍しく感じられて、チケットを購入したのでした。

ちなみに1985年のショパンコンクールといえば、あのブーニンが優勝し、2位がフランスのマルク・ラフォレ、4位が日本の小山実稚恵、5位がフランスのジャン=マルク・ルイサダという、全員が今も現役で活躍している実力者を数多く輩出した年でした。

開演前にお手洗いに行って廊下に出たとき、ドアの真向かいにある控え室(たぶん事務所)の扉が開いていて、そこにヤブウォンスキ氏が立っていて、ある女性の挨拶をにこやかに受けているところでした。
テレビやCDのジャケットで見覚えのあるその顔は、いかにも優しげな笑顔に溢れており、しかもおそろしく長身なのに驚きました。

プログラムはオールショパンで、そのパワフルなポーランドのピアニズムには久々に舌を巻きました。
演奏時間もたっぷりで、19時の開演、アンコールまで終わった時にはほとんど21時半でした。
音楽的にはいささか野暮ったいところがあり、いかにもかつての東側の演奏そのもので、現代的な洗練はありませんし、同意しかねる点も多々ありましたけれども、なにしろ、その圧倒的な迫力と技巧はそれを身近に触れられただけでも充分に行った甲斐があったというものです。

最近のピアニストがいかにも効率的な訓練によって、器用にまとまった演奏ばかりを繰り広げる中で、こういうちょっと昔流の訓練と修行を経た、器の大きい演奏家に接したのは実に久しぶりという気がして、音楽そのものを聴いてどうというよりも、なんとなくその醸し出す雰囲気がひどくなつかしいもののように思えました。

とりわけ強く激しいパッセージやオクターブの連打などは重戦車のようで、しばしば風圧を感じるほど。あきらかに素人のそれとは大きく隔たりのある、いかにもプロらしいプロの技を堪能することが出来ました。
とにかく、まったくなんの心配もなしに聴けるという、大船に乗っているような安心感だけでも、やはりこういう人こそが人前で演奏すべきピアニストと呼べるのではないかと思いました。
昔はコンサートといえば、だいたいこのような格付けの実力者だけがステージに立っていたわけで、好みは別にしても、その大きさから来る聴きごたえとか充実感がありましたが、最近は玉石混淆で見た目から演奏まで素人の延長線上にあるような演奏家が多いことは、それだけでもコンサートというものの意義や感銘を薄くしていると思いました。

ただしヤブウォンスキのショパンは当然ながらポーランドのベタなショパンであり、ある見方をすればこれぞ本物のショパンということになるのかもしれませんが、マロニエ君は残念ながら全く好みではありません。
先述したように、ショパンといえばまっ先にイメージする洗練されたピアノの美の結晶、気品と情熱とデリカシーが共存した他を寄せ付けない世界とはとは無縁の、泥臭い麦わらの香りのするようなショパンで、いわゆるフランス的なショパンとは対極にあるものでしょう。

ステファンスカ、エキエル、ハラシェヴィッチ、ツィメルマンなどに通じるあの雰囲気であり、そう考えるとブレハッチなどはポーランドとはいっても、若いだけずいぶん今風に磨かれているということに気付かされます。

ヤブウォンスキのスタミナあふれる大排気量のエンジンが回っているようなピアノを聴いていると、ショパンよりはベートーヴェンなどのほうがよほど聴いてみたい気がしました。

ピアノに関しては、感じる点は多々あれども、もう今回は止めておきます。
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ヤマハとリスト

ナポリ出身のピアニスト、マリアンジェラ・ヴァカテッロによるリストの超絶技巧練習曲のCDを聴きましたが、残念なるかな、とくにこれといった印象を受けるものではありませんでした。

若い女性のピアニストで、指はよく動きますが、この難曲集を弾いて人に聴かせるにじゅぶんな分厚い表現性とか力量みたいなものには乏しいというのが率直なところでした。曲そのものがもつスケール感や壮麗さが明確にできておらず、ただ技術的にこの作品を勉強してレパートリーになったという感じが拭えません。
本来この12曲はリストの中では無駄が無く表情が多彩、非常に充実した緊張感の高い作品群だと思いますが、悲しいかなどれも演奏が痩せていて、本来の量感に達していないと思いました。

もうひとつ興味深かったことは、このCDは昨年イタリアで収録されていますが、ピアノはヤマハのCFIIISが使用されています。
まあ、音もそれなりで目立った欠点というのはないものの、このCFIIISまでのヤマハは響きのスケール感という点においては、楽器としての器の限界がわかりやすいイメージでした。
いま、フランスをはじめとするヨーロッパではヤマハが多く使われる傾向にあるのは、何度か書いた通りですが、そこで使われるヤマハの特徴のひとつに現代的でオールマイティな音色と均一性と軽さがあります。ただそれが重量級の作品にはあまり向きません。

車の省エネ小型化じゃありませんが、録音技術の発達で音はクリアで克明にとれるから、ピアノ全体のパワーは小さめでも構わないといわんばかりの印象。

リストの作品は、ものによるとも思いますので一概には言えませんが、超絶技巧練習曲は詩的な面もじゅうぶんあるものの、全体としては張りの強いドラマティックな要素も濃厚に圧縮された、かなり精力的な作品だなので、この作品に聴くヤマハの音には、なんとなく中肉中背というか、ただお行儀よくまとまったピアノだという印象が拭えませんでした。
ピアノのパワーがもたらすところの迫りが稀薄で、人を揺さぶるような圧倒的な力がない。

ヤマハがいいのは、ロマン派ではシューマンやショパンまでで、リストになるとヴィルトゥオージティの発露を楽器が懐深く逞しく表現しなくてはなりません。ところが響きの中の骨格に弱さを感じるわけです。
まるで往年の名女優が演じた当たり役を、現代の可愛いけれども線の細い女優さんの主演でリメイクしたようで、まあそれの良し悪しはあるとしても、所詮は軽さばかりが目立ち、黙っていても備わっていた肉厚な重量感・存在感が不足してしまうようなものでしょうか。

そういう意味では、リストはそれ以前の作曲家と違うのは、先端のピアノの性能を縦横無尽にぎりぎりまで使いこなして作曲をしていたのだということが察せられることです。
このところ、日本製のピアノによるピアニストの演奏をあれこれと聴いてみて感じたことは、ヤマハにはもうひとまわりの逞しさと音響的な深みを、カワイには知的洗練を期待したいと思いました。

それでもなんでも、日本のピアノが海外で人気が高いのは、やはりその抜群の信頼性と最高レベルの製造クオリティによる安心感、それに価格がそこそことなれば、総合評価とコストパフォーマンスで選ばれているということのようです。

基本的に西洋人は、どうかすると芸術文化の地平を切り開くようなとてつもないことをやってみせる反面、バッサリと割り切ったようなものの考え方をする場合も少なくないようで、そういう際の合理主義とドライな部分は、我々にはとても及ばない苛烈さがあるようです。
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ゆずれないもの

ある調律師の方のブログでの書き込みがマロニエ君の心を捉えました。

概要は次の通り──歳を取るにつれ、少量でもいいから本当に美味しいものだけを口に入れたいように、音楽も同様となり、だからアマチュアの演奏会は「本当にごめんなさい」というわけだそうです。
つまりアマチュアの演奏は聴きたくない、申し訳ないけれどもこればっかりはもうご遠慮したいというようなことが書いてありました。

しかもこの方は調律師という職業柄、我々のように音楽上の自由な趣味人ではないだけに、そこにはいろんな意味でのしがらみなどもあっての上だろうと思われますから、それをおしてでも敢えてこういう結論に達し、しかもそれをブログに書いて実行するということは、よほどの決断だったのだろうと推察されます。

本来ならば調律師という職業上、ときにはそうした演奏も浮き世の義理で、我慢して聴かざるを得ない立場にある人だろうと思われるのですが、それでもイヤなものはイヤなんだ!と言っているわけです。
これをけしからん!と見る向きもあるかもしれませんが、マロニエ君は思わず喝采を贈りたくなりましたし、このように人には最低譲れないことというのがあるのであって、そのためには頑として信念を通すという姿勢に、久しぶりに清々しい気分にさせられました。

同時に、この方はただ単に調律師という職業だけでなく、ブログではあれこれのCDなどに関する書き込みなども見受けられますから、そのあたりを総合して考えると、これはつまり、よほど音楽がお好きな方ということを証拠立てているようです。

音楽というのは知れば知るほど、聴けば聴くほど、精神はその内奥に迫り、身は震え、耳は肥えてくるもので、そうなるとアマチュアの自己満足演奏なんて聴けたものではないし、たとえプロであってもレベルの低い演奏というのは耐えがたいものになってくるものです。

とりわけクラシックのピアノは、弾く曲は古典の偉大な作品である場合が多く、それらの音楽は大抵一流の演奏家による名演などによって多くの人の耳に深く刻みつけられていたりするわけですから、それをいきなりシロウトが(どんなに一生懸命であっても)自己流の酔っぱらいみたいな調子で弾かれたのでは、聴かされる側はいわば神経的にきついのです。

つまり弾いている人にはなんの遺恨はなくとも、苦痛の池にドボンと放り込まれるがごとくで、塩と砂糖を間違えたような食べ物を口にして美味しいというのは耐えがたいのと同じかもしれません。
そんなものに拍手をおくってひたすら善意の笑顔をたたえているというのは、実はこういう気分を隠し持つ者にしてみれば、ほとんど拷問のように苦しいわけです。

それでも、子供の演奏とかならまだ初々しい良い部分があったりしますが、大人のそれには耐え難い変な癖や節回しがあったりで、場合によっては相当に厳しいものであることは確かです。
いっそ思い切り初心者ならまだ諦めもつきますが、始末に負えないのは、中途半端に指が動いて楽譜もいくらか読めるような人の中に、むしろ自己顕示欲さえ窺わせるものがあり、これを前に黙して耐え抜くのはかなり強烈なストレスにさらされることになります。
弾いている本人にお耳汚しですみません…という謙虚な気持ちが表れていたらいくらか救えるのですが。

この調律師さんの言っていることは、本当に尤もなことだと思いました。
ときたま、こういう気骨のある人がいらっしゃるのはなんだかホッとさせられます。
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モーツァルトの極意

『集中力が大事です。どの作曲家でもそうですけど、特にモーツァルトの時は、過敏ではない集中力といいますか…。過敏になってはいけない。ゆったりとしたものが必要な集中力なんです。そこから音の響きができるわけですから、体が緊張していてもいけないし。そういう意味でモーツァルトの演奏は大変です。』

これはずいぶん昔のものではありますが、ピアニストの神谷郁代女史がモーツァルトの演奏に際して語ったもので、さいきん雑誌をパラパラやっているときに偶然これを目にして、それこそアッと声が出るほど激しく同意しました。
…いや、「激しく同意」などというと、まるでさも同じことを認識していたようですが、これは正しい表現ではありません。なんとなくずっと直感的に感じていたものが、明確な言葉を与えられて、考えが整理され、よりはっきりと認識できたというべきでしょう。

それにしても、これは名言です。
これほどモーツァルトの演奏に最も必要な精神的な根底を成すものを的確に見事に表した言葉があっただろうかと思います。まるでその無駄のない言葉そのものがモーツァルトの音楽ようでもあります。

これはすでにひとつの哲学といっても差し支えない言葉であり、モーツァルトへの尊敬と理解をもって弾き重ねた人でなければ表現できるものではありません。弾き手の考察と経験が長い年月の間に蓄積され、そこに自然の息吹が吹き込んで、ついにはこのような真理を導き出すに到達したものと思われます。

マロニエ君はモーツァルトの理想的な演奏(ピアノの)としてまっ先に思い浮かぶのは、ヴァルター・ギーゼキングのモーツァルトですし、ヴァイオリンソナタではハスキル、コンチェルトではロシアの大物、マリア・グリンベルクの24番などがひとつの理想的な極点にあるものだと思っています。

その点では、評価の高いピリスにもある種の固さを感じますし、内田光子などはその極上のクオリティは充分以上に認めつつも、いかにもゆとりのない張りつめた緊張の中で展開されるモーツァルトであることは否定できません。

多くのピアニストがモーツァルトを怖がってなかなか弾こうとしないのも、この神谷女史のいうところの、集中と緊張の明確な区別がつけきれない為だろうと思われるのです。
とりわけモーツァルトのような必要最小限の音で書かれた作品は、一音一音に最大限の意味を持たせようと、あまりに言葉少なく多くを語らねばならないという脅迫観念に苛まれるのだろうと思われます。

神谷女史のお説に依拠すれば、ギーゼキングのモーツァルトなどは、なるほどまったく気負ったところがないばかりか、モーツァルトにおいてさえこの巨匠の磊落な語り口には今更ながら圧倒されてしまいます。
グリンベルク然りで、まさに呼吸と重力に一切逆らうことなく、モーツァルトをありのままにひとつの呼吸として描ききっているのはいまさらながら舌を巻いてしまいます。

どのみちマロニエ君などは、モーツァルトを弾こうなどという大それた考えは持っていませんが、それなりのテクニックと音楽性のあるピアニストであれば、「過敏にならない集中」を旨とすれば、素敵なモーツァルトが演奏できるはずだという気がしてきます。

神谷女史のこの言葉は、どれほどのレッスンにも勝るモーツァルト演奏の極意を授けられたような気がして、なんだかたいそう得をしたような気分になりました。
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2台ピアノの第九

近藤嘉宏&青柳晋の2台のピアノのコンサートに行きました。

前半は両者のソロで、愛の夢だのカンパネラだのと、ひとまずお土産売り場みたいなプログラムが5曲並んでいましたが、それはこの日のあくまでも序章に過ぎません。
メインはリスト編曲によるベートーヴェンの交響曲「第九」で、はっきり時計を見たわけではありませんが、おそらくは1時間を超過する長丁場でした。まあ第九の全楽章ですから、それも当然といえば当然です。

実は、2台のピアノによる第九というのはCDはあるものの、実演で聴いたのは初めてです。
開始直後こそ特段どうということもなく、やはり耳慣れたオーケストラの音に較べたらずいぶん薄く小さいなあという感じでしたが、しだいにつり込まれて、第3楽章の世にも美しい調べに到達したあたりではベートーヴェンの壮大な世界の住人となり、第4楽章ではつい2台ピアノということも忘れて、すっかりこの曲と共に呼吸することに没入させられてしまいました。

近ごろでは、コンサートに行ってもめったなことでは感動が得られなくなってしまっている中で、めずらしくこの言葉を使うに相応しい気分になりましたが、それだけやはり圧倒的な作品でした。
演奏はソロでは近藤氏のほうが幅があって好ましく思いましたが、第九ではプリモを弾いた青柳氏が常に流れをリードしていたようで、近藤氏はむしろ脇に回っている印象でした。

作品が作品だけに、終わったときにはちょっとした感動的な拍手が起こりましたが、さすがにお疲れなのかアンコールはなしで、これで終わりだというアナウンスが早々に流れました。
ピアニストの肉体的疲労だけでなく、聴衆も長い時間聴き続けたということもあるし、そもそも第九のあとに弾くべき曲があるかと言われたら…ちょっと思いつきませんよね。
かてて加えて2台のピアノともなれば、いかにクラシックの膨大なレパートリーをもってしてもそこに据えるべきアンコール曲は皆無だと思われます。

ベートーヴェンはピアノソナタでも同様で、最後のop.111の精神的地平を見るような第2楽章が終わった後に弾くべきアンコールは、ピアニストが最も悩むところだと思われます。
この曲では昨夜同様、一切アンコールを拒絶するピアニストも少なくないほか、日本公演でのシフなどは、熟考の末と思われたのは、バッハの平均律から、op.111と調性を合わせてハ長調で、しかも幕開けの気配に満ちた第1巻ではなく、第2巻のそれを演奏したのはなるほどと思わされました。

昨夜のピアノはソロでもデュオでも両氏の弾いたピアノは固定されていて、ソロでは途中で関係者総出でピアノの入れ替えをおこなったのはちょっと珍しい光景だと思いました。
2台ともスタインウェイのDで、おそらく年代的にも同じものだと思いますが、ピアノの個性なのか調律の違いなのか、そのあたりは判然とはしなかったものの、ともかくずいぶんと音の違うピアノでした。

マロニエ君的には迷いなく片方のピアノが好きで、もう一方はほとんど感心できませんでしたが、それはこれ以上書くのは止しましょう。
座席は12列目のセンターでしたが、この会場の音響がふるわないのはほとほと嫌になりました。
もっと後方であれば多少は違ったのかもしれませんが、常識的な位置としては決して悪い席ではなく、出し物によってはGS席にあたるエリアですから、これはいかにも承服できないことです。

ピアノのアタック音が壁に激突して反射してくるのがあまりにも露骨で、まるで音が卓球かビリヤードの玉の動きみたいで、いわゆる美しい音による心地よさとは無縁です。
これがそのへんの体育館とかであれば致し方ないとしても、ここは地域を代表する本格的なコンサートホールなのですから、ただただ残念というほかありません。
つい数日前に行った福銀ホールは、その点では夢のようでした。
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福銀ホールの変身

土曜は考えてみるとずいぶん久々の福銀ホールだったのですが、会場に入ってリニューアルされていることをはじめて知って驚きました。
なんと座席がすべて一新されおり、ずいぶん立派なブラック基調のシートへリニューアルされているではありませんか! 調べてみると1年以上経っている様子で、それだけご無沙汰だったということでもあり、なぜか誰からもこのことを聞かなかったのです。

このホールの最大の自慢はなによりその素晴らしい音響で、とりわけピアノリサイタルなどには最良の響きを持つホールだと言えることは、以前もこのブログに書いたような気がします。

開館当時はホールの音響というものにそれほど注意が払われない時代だったこともあり、音楽雑誌などでもこのホールの音の素晴らしさが何度も話題になったりしたものですが、それは現在も第一級のレベルとして健在なのは嬉しい限りです。

しかしながら音響以外ではこのホール固有の欠点もあり、福銀本店が天神の一等地という恵まれた立地にありながら、そのホールはやみくもに地下深くにあり、しかも人を下へと運ぶためのエレベーターなどが一切ないため、このホールを訪れる人はまるで音楽を聴くための苦行のように、延々と連なる下り階段の洗礼を受けることになります。
まるで地下鉱脈へでも赴くように黙々と階段を降り続けると、ようやくホールロビーに到達。
ホールの入口にはロダンの考える人(本物で福銀が購入したもの)が鎮座し、その左右両脇の2ヶ所のみから会場に入るわけですが、そこはしかし客席のあくまでも最上部に過ぎず、着席するにはさらに地底へと階段を降り重ねなければなりません。

しかも、設計が古いためか、細かいところが今どきのように人に優しい作りではなく、その会場内の段差の間隔が不規則でバラバラなために、一瞬たりとも気が抜けずに、まるで探検隊のように足元が悪いのです。

この日もマロニエ君の背後で中年の女性が足を引っかけてものの見事に転倒する一幕があり、主催者のほうがそれを聞きつけてきて、ケガなど無かったかどうかなど大変な気の遣いようでした。折しもこのホールでは足元に用心しなくてはとしゃべっていた直後のことで、まったく言葉通りのアクシデントでした。

さらに終演後は、さんざん降りた分だけ今度は上らなくてはならず、ここへ来たときは、帰りは決まって登山感覚で一気呵成に階段を上り続けなくてはならず、地上へ出たときは、それこそ体がじっとりと汗ばみ息はハァハァとなるほどです。
身体的に辛いのは2時間前後ずっと座って音楽を聴くと、それだけでも疲れるし体は動かない状態になっていますが、その態勢からサッと腰を上げていきなりビルの4〜5階分の階段を登るのは相当ハードです。

階段の話ばかりになりましたが、このホールのもうひとつの弱点が、時代故のサイズの小ぶりな貧相な座席で、色も朱色系のあまり趣味のよろしいものとは言いかねるものでした。
それがこの度、見るも立派なシートに変わっており、シート自体も大型化している上に、その間には立派な木製の肘掛けが備わり、余裕もずいぶん生まれたのは目も醒めるような驚きでした。

おそらく座席数は減少したはずですが、掛け心地もよく、以前のことを思うと本当によくなったと、嬉しいような気分になりました。
階段はむろん以前のままですが、このホールの欠点のひとつが見事に改善されたことは間違いありません。

残るは最大の欠点である階段問題ですが、なにしろ大きな銀行なのですから、この際思い切ってエレベーターをつけて欲しいし、高齢者はもちろん体の弱い人にもどうぞ来てくださいという態勢を作って欲しいものです。
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SK-EXのコンサート

昨日は福銀ホールで行われたカワイ楽器主催のピアノリサイタルに行きました。

演奏者は川島基(かわしまもとい)さんというドイツ在住のピアニストでしたが、偶然チラシを見て行ってみる気になりチケットを購入したのですが、驚いたことにはカワイに連絡すると、すぐに自宅に持ってきてくれるサービスの良さで、このあたりに主催者の力量の違いを感じずにはいられませんでした。

おかげでプレイガイドまでわざわざ行く手間が省けただけでなく、チケットぴあなどは、表示されたチケット代金に追加して、安くもない「発券手数料」なるものを一枚毎に取られるのはかねがね納得がいかない気がしていましたから、この点も助かりました。
チケット屋がチケットを売るのは当然なのに、あれは一体なのでしょうね?

さて、このリサイタルはカワイ楽器の主催なので、当然ピアノはカワイで、福銀ホールにはカワイがありませんから、最新(たぶん)のSK-EXを持ち込んでのコンサートでした。

おそらくカワイ楽器所有の貸出用のSK-EXでしょうから、ものが悪いはずもなく、最初の曲(シューベルト=リスト:「春の想い」「君は安らぎ」)が始まったときには、緩やかな曲調だったこともあり、おお、なかなか良いじゃないか!というのが第一印象でした。

しかし、コンサート全体を通じて感じたことは、やはりCDなどで抱いていた印象に戻ってしまい、残念に感じる部分を依然として残しているというのも率直なところでした。

気になるのは、ハンマー中心部にコアを作るという思想なのかもしれませんが、はっきりした打鍵をした際には、音の中に針金でも入っているような強くて好ましからざる芯があることで、そのためかどうかはわかりませんが、全体にツンツンペタペタした印象の音になり、だんだんうるさく感じてきてしまうことです。

ヤマハとはまた違った意味で、もっと深いところからピアノを鳴らして欲しいというのが偽らざる印象です。
というのも、ピアノ自体はそんな音造りはしなくても、非常によく鳴っていると思いましたし、パワーも昔に較べるとかなりあると思いました。
ただし、全体のまとまり感があきらかに欠けており、その点ではヤマハが一歩上を行くような気もします。
そうはいっても潜在力は非常に高いピアノだと思えるだけに、画竜点睛を欠くのごとく、却ってそこが残念に感じるのでしょう。

もう一つは、これはカワイの普及品にまで等しく言えることですが、根本的に音質が暗いのはこのメーカーのピアノの生来の特徴という気がしましたし、この点はSK-EXにまで見事に受け継がれているようです。
ひとくちに言うと、単音で聴く音に、甘さやふくよかさがなく、どこか寂しい響きがあるということ。
ステージで活躍するコンサートグランドには、当然ブリリアントな面も持たせようとしているのでしょうが、地味な目鼻立ちの顔に、無理に派手なメイクをしているようで、どこか不自然さがつきまといます。

ドイツピアノの中には決して甘い明るい音は出さないけれども、毅然とした音色を持っているピアノがいくつかありますが、そういうピアノでもなく、このあたりがカワイの個性がもうひとつはっきりしない点かもしれません。

構造的な音の印象としてはフレームが硬すぎるという感じも…。
このどこか寂しげで冷たい印象が取り払われたときに、カワイの逆転劇は起こるような気がしました。
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ベーゼンとクラヴサン

最近はちょっと変わったCDを聴いています。

演奏がイマイチなので、演奏者の名前は敢えて書きませんが、日本人の女性ピアニストのもので、ドビュッシー、ショパン、ラヴェル、グリーグ、リストなどの作品が弾かれているもの。
なんで買ったのか、よくはもう覚えていませんが、おそらくベーゼンドルファーのインペリアルでなく275を使っている点と、もうひとつはマロニエ君がドビュッシーの中でもとくに好きな作品のひとつである「沈める寺」が入っているので、それが275で演奏されるとどういう感じになるのかという興味があったのだろうと思います。

ところが演奏にがっかりしてそのまま棚の中に放り込んでいたのです。
曲を聴くにも、ピアノの音を味わうにも、演奏がちゃんとしてなくてははじまりません。
それを再挑戦のつもりで、もう一度ひっぱり出して聴いてみる気になったのです。

ピアノ自体は素晴らしい楽器で、コンディションもまことによろしく、艶やかさと気品が両立しており、この点では理想的なベーゼンドルファーではないかと思われます。とくに「沈める寺」で度々登場する低音はスタインウェイとはまた違った金色の鐘のような響きだし、全体にはひじょうに明確な色彩にあふれていたと思います。

ショパンのバルカローレなどもひじょうに美しい世界で、それなりに納得させられるものがあったのは事実ですが、それはこのピアノの調整、とりわけ整音が素晴らしく良くできている点に尽きるという気がしました。
それは、変な言い方ですが、ある意味ベーゼンドルファーらしくない音造りをされていて、このピアノの持つウィーン風のトーンのクセみたいなものがほとんどないために、その音はただひたすら美しいデリケートな楽器のそれになっていたようです。あと一歩ウィーン側に寄ったらショパンは拒絶反応を起こすのではないかと思われます。
そんな中ではラヴェルとリストが最もベーゼンドルファーに相性がいいようにも感じました。

全体としてはとても美しいけれども、根底にフォルテピアノを感じさせる要素があるのも間違いなく、そこがまたベーゼンドルファーが何を(誰が)弾いてもサマになる万能選手ではないことがわかり、そのピアノはその儚い美しさこそが魅力だろうと思われます。

もう一枚は、フランスのジャック・デュフリによるクラヴサンのための作品集で、演奏はインマゼール。
デュフリは1715-1789年の生涯ですから、クープランやラモーの後に続く宮廷音楽・クラヴサンの名手というとこになるでしょう。フランス以外ではバッハとモーツァルトの中間の時代を生きたことになります。
デュフリがもっとも影響を受けたというのがラモーだそうですが、なるほどその曲調はどれもラモー的でもあり、この時代のクラヴサン作品の中ではやはりフランス的な華やぎと、それでいてどこか屈折した享楽が全体を覆っています。

またバッハのような厳格なポリフォニックの作品ではなく、すでにメロディーと伴奏という様式と後に繋がるロマン派的な萌芽も随所に感じることの出来る、聴いていてなかなか面白い作品です。
デュフリの作品は当時の王侯貴族にも受け入れられ人気があったといいますから、当時の貴族社会を偲ぶ手立てとしてもこれは聴いていておもしろいCDだと思いました。
そしてなによりもマロニエ君の耳を惹きつけたのは、そのクラブサン(チェンバロ)の音色でした。

大抵のチェンバロは弦をはじく音が主体で響板がそれを小さく増幅させていますが、ここに聴くチェンバロには思いがけない肉厚な響きがあり、しかも弦楽器のように、響板がぷるぷると振動しいているのが伝わってくるほどのパワーがありました。しかもきわめて色彩的。

ただツンツンと寂しい音しか出さないチェンバロも少なくない中で、ここで用いられている楽器はなんともゴージャスで艶やかな潤いのある音を出すのには驚きました。
1600年代に作られた楽器のコピー楽器で、1973年に作られたものだそうですが、なんとなくその色彩感や華やかさがベーゼンドルファーの響きにも通じるものを感じたところでした。
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仮の嫁入り

日曜は、現在ピアノ購入を検討している知人のご夫妻がマロニエ君宅に来られて、しばらく我が家のピアノを弾いていただきました。
ピアノは(他の楽器もそうかもしれませんが)、自分が弾いているときに耳に聞こえてくる音と、人が弾いている音を少し距離を置いて聞くのではかなり印象が違い、とても客観的に聞くことが出来るので、マロニエ君自身にも大いに楽しめる体験でした。

とくに大屋根を開けることは普段まずないので、こういう機会を幸いに全開にして弾いていただきましたが、普段とはまったく違う自分のピアノの一面を知ることができて有意義でした。

我が家で2時間近く過ごしてから、楽器店に移動。

そこにあるピアノは小型のグランドで、既に弾いたことのあるものではあったものの印象が良かったために再度見に行くことになったのでした。
前回とは別の場所に置かれていたましたから、置かれた環境によってピアノがどのような変化をするか、つまりピアノそのものがもつ基本的な特徴がどの程度のものであるかまで確認することが出来たわけですが、場所が変わってもまったくその長所が衰えることも影を潜めることもなく、はっきりと我々にその力強い魅力を訴えてきたように感じました。

驚いたことには、席を外された奥さんが再び店に戻ってくる際に、遠くまでこのピアノの音が周辺の喧噪を貫いて朗々と鳴り響いてきたとかで、やはりスタインウェイの遠鳴りは大したものだと思いました。

知人は、ついにピアノ自体については概ね納得するに至りましたが、残るはこのピアノを購入して自宅に置いた場合、同様の鳴りや音色がこのまま得られるかという点で悩み始めたところ、この日はたまたま決定権のある営業の人物が先頭に立って対応していたこともあり、だったら家にピアノを入れてみましょうか?という思い切った提案をしてきました。

購入するかどうかもわからない高額なピアノをいきなり自宅に運び入れるというのは、驚きもあり抵抗感もあったようですが、マロニエ君はこれ幸いだと思いました。
まさかこっちからそれを頼むわけにはいきませんが、店側が自発的にそれをやってくれるというのなら、現実的にこれに勝る確かな確認方法はないわけですから、この際そうしてもらったらどうかと、すかさず小声で言いました。

果たしてそのような手続きを取ることとなり、後日このピアノは知人の自宅へと、いわば仮の輿入れをしてくることになりましたが、はてさて結果はどうなりますことやら。

購入すればきっと一生の宝になること間違いなしだとマロニエ君は思いますが、あとは細かな条件的なものもあるのかもしれません。
いつもおなじことを書いて恐縮ですが、ピアノを買うというのは実にいいもんですね!
人の事でも楽しくなってしまいます。
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コンサート会場の規模

ヨーロッパ人の有名ピアニストによるプライベートなコンサートがあり、仲間内と聴きに行ってきました。
雰囲気のある美しい会場で、コンサートも楽しめるものでしたが、その暑さには参りました。

このところエアコン依存症のことを書いていた矢先だっただけに皮肉だったのは、会場の空調が思わしくなく、暑苦しさにめっぽう弱いマロニエ君は、正直音楽なんてどうでもよくなるほどフラフラになってしまいました。なにかの修行のように暑かった。

ところで、小さな会場のコンサートには、一般的なホールのそれとは違った味わいがあるといわれますが、定義としてはいちおう理解はしても、ホールのほうが優れている面も多いとは思います。
しかし、巷では普通のホールでのコンサートにめっぽう否定的で、小さなサロンコンサート的なものを必要以上に有り難がって称賛する一派があるのは、いささか考えが偏りすぎじゃないかと思います。

(今回のコンサートとは直接関係はない話ですが)この手の人達の主張としては、音楽とはそもそもそれほど大きな会場で大向こうを唸らすためのものではなく、小さな会場で行われるものこそが、もっとも本来的に正しく、味わい深く、音楽の感動も深く、演奏者の息づかいを直に感じ、生の感動が得られる理想的なもので、それがいかにも贅沢だというようなことを胸を張って言いますし、心底そう信じているようにも見受けられます。

これは、言い分としてはわからないでもない部分もあり、例えばNHKホールとか東京国際フォーラムみたいな巨大会場でピアノなんぞ聴いても、音は虚しく散るばかりで、たしかにこれが本来の姿ではないでしょう。

しかしながら、大きめのホールの演奏会すべてに批判的で、小さな会場のコンサートばかりを最良のものと言い募る主張にも、現実的には大いに疑問の余地ありだと思うわけです。
マロニエ君自身、小さな会場のコンサートにはもうあちこちずいぶん出かけてみましたが、結果として納得できるものであった記憶は、実をいうとほとんどありません。
理由はそのつどさまざまですが、ひとつ共通して言えることは、小さい会場には小さい会場固有の弱点が多々あり、けっして上記のような良いことばかりではないからです。

具体的には、やはり狭いところに人が鮨詰め(一人あたりの前後左右の寸法はホールの固定席より遙かに狭い)となり、息苦しい閉塞感に苛まれること、イスが折り畳みなど小型の簡易品になるので、これにずっと座り続けることの身体的苦痛(骨まで痛くなる)、奏者も含め大抵は同じ高さの平床なので最前列以外は見たくもない他人の後ろ姿ばかりが眼前に迫り、演奏の様子など満足に見えたためしがない、小さな空間では響きらしきものも望めず、楽器との距離が近すぎて音は生々しく演奏が響きによって整えられない、ピアノもほとんどがコンサートに堪えるような楽器ではないなど、現実はやむを得ない妥協と忍耐の連続なわけです。

だからサロンコンサートなんて言葉だけは優雅なようでも、現実には快適なホールにはるかに及ばない厳しい諸要素が少なくないわけです。遊びならどんなに素晴らしいスペースであっても、それがひとたびコンサートともなれば、ちっちゃな空間故の限界が露呈するというのが掛け値のない現実だと感じます。

要するに、普通の住環境でも、なにも豪壮広大な邸宅で暮らしたいとまでは思いませんが、できることならゆとりのあるそこそこの広さをもった住居が望ましいわけで、狭くて小さなマンションこそが理想的で贅沢で味わい深いなんてことはまさかないでしょう。
これと同じで、音楽がゆっくりと翼を広げられるだけの、ゆとりのある場所にまず奏者や楽器を据えてから、しかる後に奏される音楽に身を浸したいものだと思うのです。

そういうわけで、べつにマロニエ君は小さなコンサートというものを頭から否定するものではありませんが、最終的・総合的に最も心地よくコンサートが楽しめるサイズがどれくらいかと考えた場合、一般的に言うところの中ホール(500人〜800人ぐらいな規模)ぐらいで行われるコンサートだろうと、個人的には思うのです。

東京では紀尾井ホールや東京文化会館小ホール、福岡なら福銀ホールぐらいのサイズです。
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電子ピアノのタッチ

ピアノクラブの方から電子ピアノのオススメはないかと尋ねられました。
この方はマンションのご自宅にグランドをお持ちなのですが、練習用に電子ピアノの購入を決心されたようです。

ご当人が試弾してみて、このあたりかなあと思ったのが「カワイ CA13(15万くらい)、同CA63(20万くらい)、ヤマハ CLP440(18万くらい)」だそうで、「指を動かすくらいに練習したいので、あんまり高いのは考えてない」とのことなので、ほぼ下記のような意味の返信をしました。

まず、基本的にマロニエ君は電子ピアノのことはぜんぜんわからないということ。
以前聞いた話では、このジャンルでは断然ローランドなんだそうで、へぇそんなもんかと思うだけです。

ただ、もしも自分が買うとなると、もっぱら情緒的な理由だと思いますが、電子ピアノを楽器に準ずるものと捉えれば、やはり楽器メーカーの製品を買いたくなってしまいます。

電子ピアノで最も大事な点はなにかと考えた場合、電気製品としての機能は横に置くとして、あくまで個人的な印象ではタッチの優劣にこそあると思います。
これが安物になればなるほどプカプカとした安っぽい単純バネの感触に落ちぶれてしまい、高級品ほどタッチのしっとり感や深み、コントロールの幅などがあるようです。
音はどうせ多くはスタインウェイからのサンプリングで、ヤマハ/カワイは自社のコンサートグランドから採っていますが、所詮は電子の音なのでこの点はどうでもいいと言っちゃ語弊がありますが、それよりは物理的なタッチ感がいかに本物のピアノに少しでも近づけているかという点に興味の的を絞ると思います。

その点で言うと、本物のグランドピアノのアクションをほぼ使っているヤマハのグランタッチなどは電子ピアノのいわば究極の姿で、現在はアヴァングランドに受け継がれているようですが、お値段も立派。
グランタッチは以前は中古でもかなり高価で、それでもタマ数のほうが不足しているくらいでしたが、最近は世代が進んだせいか、中古価格も一気に安くなり、どうかするとネットオークションなどで10万円台のものもチラホラ見かけます。もっとも何年も使用された中古の電気製品という意味では、故障の心配もないではないでしょうが。

また、安めの現行品の中から探すなら、私の最近の微々たる経験で言うとカワイの電子ピアノの中に「レットオフフィール」という機能がついた製品が頭に浮かびました。

レットオフというのは、本物のピアノのキーを押し下げたときに、最後のところでカクンと一段クリック感みたいなものがあり、これはレペティションレバーがローラーを介してハンマーを押し上げたときにジャックという部品が脱進してハンマーを解放するときの感触(だと思いますが間違っていたらすみません)ですが、この本物っぽいタッチ感を電子ピアノで作り出している機種があるわけです。
これにより、少しなりとも電子ピアノの味気ないタッチに生ピアノ風の(とくにグランドに顕著なこの感触を)演出しようという試みでしょう。
私なら練習用として割り切って買う電子ピアノなら、専らこの点と価格を重視するような気がします。

調べてみると、候補に挙げておられたCAリーズならCA93という最上級モデルでないと付いていませんが、CN33という機種なら標準価格17万弱の製品にはこれが搭載されてています。

その結果、この方は再度あれこれ試してみられた結果、CN33よりもCA13のほうが実際のタッチが良いと感じられたそうで、ついにこれを購入されたとのこと。
ちなみにCAシリーズは木製鍵盤がウリとのことで、電子ピアノでそれはポイント高いと思いました。
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福岡ピアノクラブ2周年

ピアノクラブの発足2周年の節目に当たる定例会が行われました。

会場はパピオビールームという福岡市が運営する音楽練習場で、そこの大練習室。
この施設を利用するにはすべて抽選での申し込みが必要で、数ヶ月だか半年だか忘れましたが、抽選に参加して、どうにかこの日この会場が当選しての利用というわけです。

大練習室はオーケストラの練習が楽にできる広さがあり、この施設内でも文字通り最大の練習室で、ちょっとしたコンサートなども行われており、ピアノはスタインウェイのDとヤマハのC7があります。
ここのピアノはずいぶん昔(まだ新しい頃)に数回弾いた事があり、そのころはまだ気軽に利用できていたのですが、ここ最近はすべて抽選になるほどの高い利用率の会場であるだけ、ピアノもさぞ酷使されているだろうと思っていましたが、これが思いのほか状態がいいのは嬉しい誤算でした。

この施設が出来た時に収められたピアノで、すでに20年以上経過したはずのピアノですが、なかなか甘い音色と柔らかな響きを持っていて、現在のスタインウェイにはない麗しさがありました。

ただスタインウェイには、このメーカー独特のタッチやフィールがあるために、メンバーの各人ははじめはちょっと弾きづらいというような声も聞こえましたが、マロニエ君に言わせると、むろん完璧とはいいませんが、むしろ良い部類のスタインウェイだったと思いました。
とりわけ公共施設の練習場のピアノとしてはモノも状態も文句なしというべきでしょう。

弾き心地というか、いわゆる弾き易さの点でいうと、たしかに日本のピアノは弾きやすいのも事実で、それが標準になっているのはマロニエ君を含めて多くの日本人がそうだろうと思われますが、ストラディヴァリウスなども初めはどんなに腕達者でもてんで鳴らないのだそうで、その楽器固有の鳴らし方や演奏法を身につけるには、最低でも一ヶ月はかかるといわれますから、ピアノも同様、すべての楽器は本来そういうものだと思われます。

その点では日本の楽器はピアノに限らず、管でも弦でも、あまりにイージーに過ぎるという意見もあるようです。誰が弾いてもだいたい楽々と演奏できるのは、日本製楽器の特徴でそれはそれで素晴らしいのですが、そのぶん何かが鍛えられずに甘やかされているといえば、そうなのかもしれません。

クラブのほうは、定例会が行われる度に新しい方が加わり、いまやかなりの大所帯になってしまっていることが驚くばかりです。

こんな一幕も。
ある方が演奏を終えて席に戻ろうとされたとき、新しく参加された方がその人に歩み寄ってしきりと挨拶をしておられて、一瞬何事かと思いましたが、なんとクラブ員の方が一年前にピアノを新しく買い換えられた時に、前のピアノをネットで売りに出して、そのピアノを買った人が偶然クラブに入ってこられたというわけで、その売買のとき以来はじめて顔を合わされたようでした。

世間は狭いという、まさにそんな光景でした。

いつも通り、定例会終了後は懇親会の会場へと場所を移して、大いに飲み食いして、大いに語り合ってのお開きとなりました。
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この夏の技術者

この夏の間に、期せずして数人のピアノ技術者に直接会ったり、あるいは電話であれこれと話をしたりする機会がありましたが、同じ調律師という職業でも本当にさまざまな方がいらっしゃるものです。
いろいろ障りがあるといけませんので敢えてお名前は伏せますが、接した順番にご紹介。

Aさん。
数年前に知人を通じて紹介された方。多芸で非常に営業熱心な方。我が家のピアノも見ていただいたことがあり、長時間かけて細かい調整などをしていただいたことがあります。ある会場で偶然にお会いしましたが、あいかわらず熱心なお仕事ぶりでした。この方に全幅の信頼を寄せる方も少なくないようで納得です。技術もさることながら、そのいかにも謙虚な態度がお客さんの心を掴んでいるんでしょう。短い時間でしたが久しぶりにあれこれと話ができました。

Bさん。
我が家のピアノの主治医のお一人で、大変真面目で、ホールの保守管理やコンサートの調律などもやっておられる本格派ですが、決して自分の腕をアピールされないところにお人柄が現れています。あくまでもマイペースを守りながら納得のいく仕事をされる方で、多方面からの厚い信頼を獲得されているのも頷けます。とくにオーバーホールなどでは一般的な技術者の3倍近く時間をかけられるようで、仕事に対する情熱とひたむきさは特筆ものです。その人柄のような整然とした調律をされ、ときどき我が家のピアノのことを心配してお電話くださいます。

Cさん。
あるヴィンテージピアノによるリサイタルに行ったところ、そのピアノ状態がいいので感心していたら、なんとこの調律師さんの調律でした。我が家のピアノの調律も以前やっていただいたことがあり、とてもきちんとした素晴らしい仕事をされます。それが高く評価されてのことでしょうが、いろいろなところでお見かけしますが、ご当人は至って控え目な優しい方です。コンサートでお会いした数日後のこと、あることで何十年も前の古い雑誌を見ていたら、この方がまだうんと若いころに小さな写真付きで、対談に出ておられるのを見つけて、偶然の連続にびっくりしました。

Dさん。
この方も我が家の主治医の一人で、全国で広く活躍するかたわら、本を出したり主催コンサートのCDを出したりと、果敢な精神の持ち主で、業界の不正とも戦う闘士の側面を持っておられます。それでいて非常に純粋な心の持ち主で、およそ駆け引きなどのまったくできない直球勝負の方です。この方の音に関するこだわりは並大抵のものではなく、自分が理想とする音色を作り出すためにはあらゆる労苦を厭わないスタンスを長年貫き、この方の支持者は全国に大勢いらっしゃいます。見方によっては風変わりな方でもあるけれど、話していると少年のようでとても味のある愉快な方です。

Eさん。
マロニエ君がある意味最も親しくしてもらっている調律師で、普段から多岐にわたってお世話になっている方。あかるくおおらか、声も大きく、まるで調律師という雰囲気ではありませんが、ひとたびピアノに向かうと別人のように研究熱心で誠実な仕事師に変貌します。なにかと頼りになる技術者で、ちょっと疑問を投げかけるとすぐに飛んできてくれますし、何かがわかればわざわざ専門的な内容でも説明付きで電話をくださったりですが、何事も決して断定されないところが謙虚です。マロニエ君のよき相談相手で師匠でもあります。奥さん共々家族ぐるみのお付き合いがもう長いこと続いています。

Fさん。
以前、このホームページを見て連絡をくださった他県の有名な調律師の方。メインはベーゼンドルファーのようですが、九州のホールにはまだないファツィオリなども経験しておられるなど、いろんな輸入ピアノの経験が豊富な方。我が家のピアノが抱える問題を見に、わざわざ寄ってくださいました。ご自身、ピアノがとてもお好きということで、興味深い話をあれこれと聞かせていただきましたが、やみくもに世間に媚びることのない、自分らしいスタンスをお持ちの方とお見受けしました。海外のメーカーにも自費で留学するなど、ピアノにかける情熱は並々ならぬもので、またゆっくりお会いしたいものです。

存じ上げている技術者の方はもっとおられますが、とりあえずこの夏に接した方々です。
ただピアノが好きと言うだけで、こんなにもたくさんの技術者の方がお付き合いくださり、なんだかマロニエ君のピアノの味方がたくさんいてくださるようで心強い限りです。
篤く々々御礼申し上げます。
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グールドのピアノ

「グレン・グールドのピアノ」という本を読みました。

グールドはその独特なタッチを生かすために、終生自分に合ったピアノしか弾かず、それがおいそれとあるシロモノではないために、気に入ったピアノに対する偏執的な思い入れは尋常なものではなかったことをあらためて知りました。

彼がなによりも求めたものは羽根のように軽い俊敏なタッチで、これを満足させるのがトロントの百貨店の上にあるホールの片隅に眠っていた古びたスタインウェイでした。
グールドはこのCD318というピアノで、あの歴史的遺産とも言っていい膨大な録音の大半を行っています。

1955年に鮮烈なデビューを果たしたゴルトベルク変奏曲は別のスタインウェイだったのですが、これが運送事故で落とされて使えなくなってからというもの、本格的なグールドのピアノ探しがはじまります。
そして長い曲折の末に出会ったのがこのCD318だったわけですが、実はこのピアノ、お役御免になって新しい物と取り替えられる運命にあったピアノだったのです。

ニューヨークのスタインウェイ本社でも、グールドの気に入るピアノがないことにすっかり疲れていたこともあり、この引退したピアノは快くグールドに貸し与えられ、そこからグールドは水を得た魚のように数々の歴史的名盤をこのピアノを使って作りました。

グールドはダイナミックなピアノより、音の澄んだ、キレの良い、アクションなど介在しないかのような軽いタッチをピアノに求めました。驚くべきは1940年代に作られたこのピアノは、グールドの使用当時もハンマーなどが交換された気配がありませんでしたから、ほぼ製造時のオリジナルのピアノを、エドクィストという盲目の天才的な調律師がグールドの要求を満たすよう精妙な調整を繰り返しながら使っていたようです。

しかし後年悪夢は再び訪れ、このかけがえのないCD318がまたしても運送事故によって手の施しようないほどのダメージを受けてしまいます。フレームさえ4ヶ所も亀裂が入るほどの損傷でした。録音は即中止、ピアノはニューヨーク工場に送られ、一年をかけてフレームまで交換してピアノは再生されますが、すでに別のピアノになっており、何をどうしても、以前のような輝きを取り戻すことはなかったのです。

それでも周囲の予測に反してグールドはなおもこのピアノを使い続けるのです。しかしこのピアノの傷みは限界に達し、ついにグールド自身もこのピアノを諦め、あれこれのピアノを試してみますがすべてダメ。そして最後に巡り会ったのがニューヨークのピアノ店に置かれていたヤマハでした。この店の日本人の調律師が手塩にかけて調整していたピアノで、それがようやくグールドのお眼鏡に適い、即購入となります。
そして、死の直前にリリースされた二度目のゴルトベルク変奏曲などがヤマハで収録されました。

ただし、グールドがこだわり続けたのは、なんといってもタッチであり、すなわち軽くて俊敏なアクションであって、音は二の次であったことは忘れてはなりません。音に関してはやはり終生スタインウェイを愛したのだそうです。
この事を巡って、当時のグールドとスタインウェイの間に繰り返された長い軋轢はついに解消されることはなく、ヤマハを選んだ理由も専らそのムラのないアクションにあったようで、やがてこのピアノへの熱はほどなく冷めた由。

たしかに、アメリカのスタインウェイ(とりわけこの時代)の一番の弱点はアクションだと思いますが、これを当時のスタインウェイ社に解決できる人、もしくはその必要を強く認めた人がついにいなかったのは最大の不幸です。

のちにアメリカの調律師でさえ、現在の最先端修復技術があれば事態は違っただろうと言っていますし、当時のグールドの要求を実現してみせる技術者は、実は40年後の日本にこそいるのではとマロニエ君は思いました。
現在の日本人調律師の中には、グールドが求めて止まなかったことを叶えてみせる一流の職人が何人もいるだろうと思うと、タイムマシンに乗せてトロントへ届けてやりたくなりました。
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ピアノは気楽

もし自分が天才的な才能に恵まれて、世界中を駆け回るほどの演奏家になれるとしたら、ピアニストとヴァイオリニストのどちらがいいかと思うことがあります。世界的な奏者になるということはヴァイオリンの場合、当然それに相応しい楽器を必要とする状況が生まれてくることを意味するでしょう。

しかし、オールドヴァイオリンにまつわる本を読めば読むほどそういう世界とかかわるのは御免被りたいというのが正直なところです。
そしてピアノは、ともかくも楽器の面では遙かに健全な世界だと思わずにはいられません。

いまさら言うまでもなく、ピアニストは世界中どこに行っても会場にあるピアノを弾くのが基本ですから、そこに派生する悩みは尽きないわけで、リハーサルなどは寸暇を惜しんで出会ったばかりのピアノに慣れることに全神経を集中するといいます。
ピアノに対していろんな希望や不満があっても、技術者の問題、管理者の理解、時間の制約などが立ちはだかって、ほとんどは諦めムードとなり、残された道はいかにその日与えられたピアノで最良の演奏をするかということになるようです。

あてがいぶちのピアノに対する不安や心配、愛着ある楽器で本番を迎えられない宿命、こういうときにピアニストは、どこへ行こうとも自分の弾き慣れた楽器で演奏できる器楽奏者が心から羨ましくなるといいます。

しかし、何事も一長一短というがごとく、ヴァイオリンの場合、手に入れようにもほとんど不可能と思われるような巨費が立ちはだかります。あるいは大富豪やどこかの財団のようなところから貸与の機会を得るなどして、めでたく名器を弾ける幸運に恵まれたにしても、さてそれを自分自身で持ち歩かねばならず、さまざまな重い責任が生じ、そんな何億円もする腫れのものみたいな荷物を抱えて世界を旅をして回るなんぞまっぴらごめん。
ましてやそれが借り物だなんて、マロニエ君なら考えただけで気が滅入ってしまいます。

実際にあるヴァイオリニストが2挺のオールドヴァイオリンを持って楽屋入りし、1挺を使って演奏中、使われなかったほうの1挺が盗まれたというようなことも起こっているそうです。
しかもそのヴァイオリンが再び世に姿をあらわしたのは、奏者の死後のことだったとか。

貴重品扱いでホテルのフロントなどが預ってくれるかどうかは知りませんが、いずれにしろ四六時中気の休まることがないはずで、とてもじゃありませんがマロニエ君のような神経の持ち主につとまる行動ではありません。
ちょっと食事をする、人と会う、買い物をする、ときには音楽から離れてどこかに遊びに行くこともあるでしょう。
そんなすべての時間でヴァイオリンの安全が頭から離れることはないとしたら、これは正に自分がヴァイオリンの奴隷も同然のような気がします。
しかも相手は軽くて小さな楽器で、簡単に盗めるし、足のひと踏みでぐしゃりと潰れ、マッチ一本でたちまち炭になってしまうようなか弱いものです。楽器の健康管理にも気を遣い、定期的に高額なメンテに出さなくてはいけない、そんなデリケートの塊みたいなものと一緒に過ごすのですから、弾けばたしかに代え難い喜びもあるでしょうが、それ以上に鬱々となりそうです。

こういうことに思いを巡らすと、その点ピアノは、なんとまあ気楽なものか。
多少のガマンもあるにせよ、持って歩く楽器特有の管理などという煩わしさは一切なく、身の回りの物以外は手ぶらで会場に行って、演奏をして、また体ひとつで身軽に帰っていけばいいわけです。
ああ、なんという幸せでしょうか!
これだけでもピアノを選びます。
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