感情の衰退1

マロニエ君の音楽上の恩師のひとりでもあるフルートの先生から聞いた話ですが、今やコンクールはどこに行っても台頭する韓国勢の独壇場と化しているそうです。
この流れは、マロニエ君はピアノの場合として知っていることでしたが、やはりと言うべきか、それは他の楽器にも同じような現象が起こっているようです。

2009年の浜松国際ピアノコンクールでも韓国のチョ・ソンジンが優勝したのはもちろん、上位6人の中の実に4人を韓国人が占めるという驚くべき結果となったことも記憶に新しいところですし、前回クライバーン・コンクールでも数名の韓国人が実に見事な演奏をしたのは印象的でした。

その先生によれば、コンクールの現場で感じることだそうですが、韓国勢の強味はなによりもその激しい感情表現ということ。韓国人のあの激烈な感情の奔流が音楽にはプラスに作用しているようで、なるほどというしかありません。

めったに見ることはありませんが、韓国の映画などを観ても、その生々しい感情の動きが全体を支配しており、それ故にひじょうに見応えのある作品に仕上がっていると思います。原作にしろ監督にしろ、表現者としての翼を大きく羽ばたかせてのびのびと仕事をやっていると感じられ、ときには羨ましく感じる場合も少なくありません。

すくなくとも芸術面においては、良いものに対する素直な評価と価値基準も、韓国のほうが現在は一枚上手のような気がします。
日本人の能力は世界的にも稀有な民族だと誇りをもって思いますが、いかんせん公平・平等の思想がはびこりすぎて、芸術という、いわば出発からして非平等な世界の核心部分までもを侵食しているような気がします。
だいいち何事にもアマチュアが出しゃばりすぎる社会になり果てています。

これでは、本当に才能ある人物が現れても、それを社会が正しく評価できないことには上手く育つことはできません。
少なくとも日本はすでに認定され定着した評価には従順ですが、新しい芸術的才能に関しては、あまりにも鈍感すぎるような気がします。

同時に大したこともないような人が際限もなく続々と出てきて、結局はつぶし合いとなり、本物の芽まで一緒に摘み取られてしまうことがあると思うのです。

今年おこなわれるチャイコフスキーコンクールも、雑誌の下馬評では、ロシア対韓国という構図が出来上がっているようで、むべなるかなと思います。

日本人は器用でハイクオリティな演奏はできても、メッセージ性や高揚感に乏しく、演奏というものが終局的には表現行為である以上、聴く者の心を掴んで揺り動かすような圧倒的な主体性がなくては花は咲きません。
自己を押し殺して、表現しないことのほうに美徳と価値がある日本ですから、それは当然の成り行きでしょうね。
とりわけその傾向は近年ますます顕著になってきたようで、感情的な表現すら人工的に貼り付けた様子が見えてしまいます。

感情の振幅が小さいということは、おそらく表現者としては決定的なハンディとなるに違いありません。

ところが韓国側から見ると面白い意見があって、韓国のピアノ教育者の代表的な存在のひとりである、韓国芸術総合大学のキム・テジン教授は「平均的に見ると、日本のピアニストは知的であり、韓国は感性的。足して2で割れば完璧なピアニストになる」とも言っています。
これは社交辞令なのか、自分達にないものは輝いて見えるものなのか、真意はわかりません。

マロニエ君から見ると、ナショナリズムの問題は別として、現在の若いピアニストは圧倒的に韓国が上を行っていると思いますが。
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ライプチヒの名器

以前、このブログでも紹介した珍しいコンサートに行ってきました。

福岡市南区の高台に、日時計の丘ホールという名の小さな可愛らしいプライベートギャラリーがあり、そこに1910年製のブリュートナーがあります。
L字形の内部には藤田嗣治、熊谷守一、斎藤真一などの作品が展示されたシンプルで気持ちの良い文化的な空間でした。

ここで管谷怜子さんという地元出身のピアニストによるリサイタルが行われました。
プログラムはバッハのパルティータ第1番、モーツァルトのイ短調のソナタ、それにシューマンの交響的練習曲で、マロニエ君の想像ですが、このドイツ生まれのピアノに敬意を表す意味もあって、すべてドイツ音楽で構成されたのかもしれないと想像しています。

演奏はきわめて丁寧かつ誠実なもので、全体にゆっくりしたテンポと穏やかな表現で弾き進められました。

こんな場所にこんな空間のあることも意外でしたが、さらに意外だったのは、この御歳101歳になるブリュートナーでした。
サイズは見たところでは、おそらく170センチ前後の小さめのグランドでしたが、バッハのパルティータのB-durの軽やかな出だしからして、思いがけなく厚みのある、ふくよかでくっきりした音だったのには思わずハッとさせられました。

まずなにより特徴的なのは、音が太くかつ柔らかなことで、これにより音楽の輪郭にくっきりと明確さが出て、まるでインクをたっぷり含んだ太字の万年質の文字のようなイメージでした。
新しいピアノのなにやら人工的で必死さのある鳴り方に較べると、あくまで自然体で朗々と鳴っているところは、どことなく弦楽器的であり、良質の木が共鳴して作り出されるその純度の高い音は、聴いていて実に心地よいものでした。

パワーそれ自体も相当のものを感じ、とても100年前のピアノだなんて思えません。
仮に同サイズの日本製の新品ピアノを並べて置いても、この鳴りにはとうてい敵わないでしょうね。
昔の人は凄いピアノを作っていたもんだと思うと同時に、このピアノを作った人達は現在もはや一人も生きていない事を思うと、ピアノだけがこうしてすこぶる元気に生き続けているという事が、なんとも不思議でもあり感動的な気分になります。
何度も書くことですが、専門家のくせに「新しいピアノにはパワーがある」なんてことを堂々と言う人は、楽器の意味するパワーというものがまったくわかっていないと思わざるを得ません。

ドイツピアノでは双璧であったベヒシュタインに較べると、ブリュートナーには華やぎがあり、男性的なベヒシュタインに対して、ブリュートナーは女性的な美しさがあるとも言えるでしょうが、その達者な表現力にはまさに世界の名品の名に恥じないものがありました。
とくに交響的練習曲のフィナーレなどに代表される激しいパッセージにおいても、この老ピアノは一切の破綻を見せず、演奏をどこまでもガッチリと受け止めて、あくまでも音楽として鳴り響くところは、そこらのカッコだけの腰砕けのピアノとはどだいものが違うということを思い知らされます。

アンコールには、交響的練習曲に残された遺作の5つの変奏曲(プログラムでは演奏されなかった)から2曲が演奏され、それはそれで楽しめましたが、ブリュートナーと言えばライプチヒですから、できればメンデルスゾーンなどを弾いて欲しかったというのがマロニエ君の正直な気持ちというか、この流れからいえば密かにそうなるような気がしていましたが…。
このピアノで無言歌などを弾いたら、どれほどピッタリだろうかと思わないではいられません。

すっかりこのブリュートナーに魅せられてしまい、無性に戦前の古いピアノが欲しくなりました。
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ダンプチェイサー

この数日はようやく晴れ間が出たものの、先週の雨による湿度の増加は、心身共にぐったりくるものでした。
マロニエ君は自分自身が湿度に強くないので、除湿することは自分自身とピアノを2つながら守ることになるわけですが、さすがに数日間続くべっとりとした雨模様ともなると除湿器の能力にも限界が見えてきます。

もちろん24時間フル稼働で、終日休むことなく回していますが、それでも最終的には60%をなんとか切るぐらいまで迫ってきたのにはイヤになりました。

さすがにピアノも弾いてみると、どこなくぼんやりしているようで、なんとかできないものかと思っています。
そんな折、熱心な調律師のホームページなどを見ていると、複数の技術者がダンプチェイサーというピアノ専用の除湿器具の取り付けを強く推奨していました。

ダンプチェイサー自体は決して新しいものではなく、以前からその名前と存在だけは知っていましたが、なんとなくピンと来なくてそれ以上調べてみようという気持ちになれませんでした。
しかし、ある本の著者などはしきりにこれを「優れもの」と認識して読者に勧めていたりするので、機会があれば見てみたいぐらいに思いつつ、なかなかそんな機会があるはずもなく、以降そのままになっていたものでした。

このダンプチェイサーというのは、棒状のヒーターをピアノの内部に取り付けて、センサーの働きにより湿度が一定以上になると自然にスイッチが入り、湿度が下がれば自動的に停止するというもの。
装置自体も安くてだいたい1万円強から2万円といったところですし、平均的な電気代も200円程度/月というものですから、そこはたいへんリーズナブルだと言えそうです。

ところがピアノへの装着例が示されているのがどれもアップライトピアノばかりで、アップライトの場合は鍵盤下部の蓋を開けた内部にこのダンプチェイサーを左右の側板に長さを合わせ、つっかえ棒のようにして装着するわけですが、あとは蓋をするので区切られた空間となり、なんとなく効果がありそうに思えましたが、グランドの場合は水平の響板下に支柱があり、そのさらに下に取り付けるというもので、これでは機械自体が外部にむき出しとなり、果たしてそれで効果が期待できるものかという疑念が残ります。

もっとも気にかかったのは、要するにヒーターの周辺の空気を熱で温めて対流させて除湿するということは、この機材に近い部分の木材に悪影響はないのだろうかという不安を感じた点です。

そこで親しい技術者にこのダンプチェイサーについて聞いてみると、なんと効果絶大だそうで、付けると付けないとでは大違いという、思いがけなくどっしりとした答えが返ってきました。たとえばある施設の広い場所に置かれている除湿器の使えない環境のピアノは、激しい調律の狂いが多くの人から指摘されていたらしいのですが、これを装着することでピタリと安定してしまったとか。

すでに相当数を取り付けている実績もある由ですが、なんのトラブルもなく、ピアノの保護という観点においてこれは一大発明だと思うと自信をもって言われてしまいました。ただし、木材への悪影響についてはないつもりだけれども、それを数十年単位で判断するとなると、さすがにそこまではわからないというものでした。

唯一の問題点としては、国産とアメリカ製の二種があり、湿度設定が国産では65%、アメリカ製では45%に固定されていて任意の設定が出来ないということだそうです。
というわけで、梅雨を目前にして、さてこれを付けてみるべきか、大いに悩むこのごろです。
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ラ・フォル・ジュルネ3

本来は「英雄」と「皇帝」は作品番号からいえば英雄のほうが若いけれども、一夜のコンサートのバランスという点では順序が逆で、「皇帝」→「英雄」の順であるべきだと思われ、その点はどうにも違和感がありましたが、最後の最後になってその理由がわかりました。

皇帝の終演後、割れんばかりの拍手に応えて何度もステージに現れたピアニストのダルベルトが、最後に紙とマイクをもって現れ、震災の追悼の意味を込めてと自ら説明して、ピアノソナタ第12番の第3楽章の葬送行進曲を弾きました。
残念ながら演奏自体はまったく首を傾げるようなもので、この作品本来の姿からかけ離れたものと感じましたが、ともかくもこれで一夜のコンサートでベートーヴェンの二つの葬送行進曲が演奏されたということになりました。
こういうオチをつけるために「皇帝」を後にまわしたのだろうと了解できました。

この日さらに驚いたことは、コンチェルトで使われたピアノでした。
シンフォニーの演奏中、ピアノはステージ左脇に置かれていましたが、それはツヤツヤのスタインウェイでキャスターは最も新しいタイプの特大サイズのものが金色にギラギラと光っていましたから、てっきりどこかから貸し出されたのか、あるいはこのホールが新規に購入したピアノと思っていました。
「ああ、また例の新しいスタインウェイか…」というわけです。

ところがシンフォニーが終わって、係りの人達によって舞台中央にピアノが移動させられてくると、ひとつピアノに不可解な点があるのに気がつきましたが、そのときはそれほど気にもとめていませんでした。

ピアノの移動が終わって大屋根が開けられ、準備完了となると、例によってコンサートマスターがAの音を出しますが、それがこころなしか色艶がありふっくらしているように感じはしましたが、しかしこの時点ではたった1音ですから、まだなんともわかりませんでした。

ダルベルトが登場し、冒頭の変ホ長調のアルペジョを弾いた途端、あきらかに!?!?と思いました。
最近再三にわたって書いている、新しいスタインウェイの音ではないのです。

でもサイドに書かれた大きな STEINWAY & SONS の文字やマーク、
ここ最近採用され始めた巨大なダブルキャスター、ピカピカに輝くボディなど、おろし立てのようなピアノにしか見えませんが、音はあきらかにちょっと枯れた深みと太さのある昔のスタインウェイの感じで、もうマロニエ君はあきらかに混乱してしまいました。

ところが細部に目を凝らして見てみると、このピアノは新しいピアノではないことが判明し、そのときは思わずアッと声を出しそうになりました。
それでわかったことは、あくまで客席から見た限りですが、察するに30年ぐらい前のスタインウェイで、おそらくはオーバーホールを機に全塗装され、足はまるごと新しいものに取り替えられ、サイドには大きな金文字が加えられたのだろうと思われます。

よく技術者の中には「新しいピアノはパワーがある」と言い、それは裏返せば「古いピアノはパワーがない」という意味になりますが、それはとんでもないことで、新しいピアノよりもよほど力強くオーケストラのトゥッティ(全合奏)の中でも逞しく鳴り響いていたこの事実を、こういうことをいう人達はどう説明するのか聞いてみたいものです。

逆に最近の新しいモデルでは、鳴りが悪くて、とてもこんな力強いコンチェルトは出来なかったと思われます。
鳴らないピアノというのは音じたいが常にどことなく苦しげですが、この鳥栖のピアノは熟れたなんともどっしりした貫禄がありましたし、「ああ昔の演奏会はこういう音だった」と懐かしさまでこみ上げました。

というわけで、いろんな意味でたいへん充実したマロニエ君のラ・フォル・ジュルネ体験でした。
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ラ・フォル・ジュルネ2

ピアノコンサートが終わると直ちに、次の会場である大ホールへ移動します。
この音楽祭の決まりで、いったん外に出て再び中へ入らないといけないのですが、一階ロビー周辺はもう立錐の余地もない大変な人、人、人で、そこへ入りきれない人が外にまで溢れており、前に進むのもやっとです。
おまけにここでは無料の室内楽コンサートまでやっているようで、まさに黒山の人だかり状態。

ちなみにホールのロビーには2台のグランドが大屋根を開けて置かれていますが、一台はヤマハの古いCF、そしてもう一台はなんとあの有名なフッペルのピアノでした。

鳥栖のフッペルといえば第二次大戦末期、特攻隊の若い兵士が、出撃前の最後の休日にやってきてこのピアノで月光などを弾いたという話があまりにも有名ですが、鳥栖市はこの記念すべきピアノの名を冠して「フッペル鳥栖ピアノコンクール」というものまでやっているほど、この鳥栖市にとってまさに宝のような楽器なのでしょう。

思いがけなくそのフッペルを実物として初めて見ることができました。
そうそうあるチャンスではないと思い、顰蹙覚悟で低いけれども舞台らしき台の上にのぼって中を覗くと、たいへん美しく修復されており、しかもけっこうなサイズ(優に2m以上ありそう)なのには驚きました。

昔は日本各地の学校には今では信じられないような世界の名器が無造作にあったのだそうで、福岡の修猷館などもスタインウェイがあったとか、以前も見た古い映像では戦時中女学生がもんぺ姿で歌を歌っているとき伴奏に使っているピアノがベヒシュタインだったりと、日本製ピアノが戦後台頭してくるまでは、学校にはこんなピアノがたくさんあったようです。

コンサートに話は戻ります。
大ホールのコンサートはゲオルグ・チチナゼ指揮によるシンフォニア・ヴァルソヴィア(かの有名なヴァイオリニスト、ユーディ・ネニューインが1984年に創設したポーランドのオーケストラ)で、演目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とピアノ協奏曲第5番「皇帝」というものです。

英雄と皇帝というのも、あまりにベタな感じで笑えましたが、しかし聴きごたえのある2曲であることには確かです。

このコンサートは「大いにマル」で、英雄の出だしの変ホ長調の和音が鳴ったときから、なんというかある種の覇気があって、これは!と思いました。
予想通りに演奏は力強く、たいへん充実したものでした。
これは、とにかく久々に聴けた満足感のある演奏で、オーケストラそのものは特に大したことはないのですが、しかしみんなが気合いを入れて情熱的に演奏するために燃え立つような燃焼感があり、音楽になにより必要な生命感がみなぎります。
そして、この傑作シンフォニーの素晴らしさとあいまって音楽の中に引き込まれ、大いなる感銘を呼び起こすものでした。

当初は第6番「田園」が予定されていましたが、おそらくは(マロニエ君の想像ですが)英雄の第二楽章は葬送行進曲であるため、東北地方大震災の犠牲者の追悼の意味もあってこの曲に変更されたのだと、あとから解釈しました。

ともかく、燃焼して突き抜けた演奏はそれだけで聴く者の心を揺さぶるものがあり、ここ何年もこういう熱い演奏に接したことがなかったように思いますし、おかげで何年分かの溜飲が一気に下がった思いでした。

日本のオーケストラの中でも有名かつ上手いとされていながら、実際は役所仕事みたいなシラけた演奏しかしない高慢な放送局のオーケストラなどとは大違いで、フレーズの盛り上がりやストレッタなどではみんな上半身が反ったり揺れたり、音楽とはこういうもので、音楽家が演奏というものに今ここで打ち込んでいるという姿と音が目の前にありました。

続いて「皇帝」ですが、独奏者がエル=バシャからミシェル・ダルベルトに変更になったのは事前に発表された時点でガッカリでしたし、あいかわらずダルベルトの演奏はマロニエ君の好みではありませんでしたが、それでもこの活き活きとしたオーケストラに支えられ、あるいは触発されて、ダルベルトも非常に力のこもった渾身の演奏をした点についてはよかったと思いました。

ただ、せっかくの充実した演奏でしたが、楽章間に会場全体が盛んに拍手するのは今どきどうかと思いました…。
ごくたまに、あまりの熱演で思わず楽章間に拍手が起こるということはあっても、これはまさにその時の自然な流れから起こるものですが、それではなく、みんな無邪気に一曲ごとに拍手している感じがありありとしていて、挙げ句にはピアノの移動の際にちょっと楽団員が移動するのさえいちいち拍手々々なのには、ちょっといたたまれない気持ちになりました。

もちろんそれだけお客さんが喜んだという意味では大変結構なことだとは思いますけど、クラシックには最低の様式というものがあり、そこはぜひ守って欲しいものです。

都市部ではちょっと考えられない珍現象でした。
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ラ・フォル・ジュルネ1

九州初上陸のラ・フォル・ジュルネ鳥栖2011に行ってきました。
夕方から2つのコンサートを聴きましたが、結果は「大いにバツ」と「大いにマル」のふたつ。

東京で行われるような規模ではなく、わずか2日間の本公演でしたが、それでも3ヶ所の会場で30近いコンサートが行われたのですから、ともかくも画期的な音楽祭だったと思います。

今年のテーマは「ウィーンのベートーヴェン」ということで、すべてベートーヴェン作品が演奏されたようです。

そもそもなんで鳥栖なんだろう?という思いはありましたが、会場に近づくとなにやらあたりだけやたら賑やかで、車をとめるのも大丈夫だろうかと思うほどでしたが、幸いにもなんとか置くことができ、会場へ急ぎます。

敷地内はもう大変な人出で、覗くヒマはありませんでしたが、前庭には各種の屋台などがズラリと居並んでおり、人を掻き分け掻き分け進む様は、まさにお祭り騒ぎのそれでした。

会場は鳥栖市民文化会館で、ここの大・中・小の会場で各種のコンサートが繰り広げられているようでしたが、通常のコンサートと違うのは、同時刻に複数のコンサートが行われるために、目指すコンサートの会場入りを待つ列の後ろを探さなくてはいけないなど、ちょっとした戸惑いもありました。

マロニエ君は2日目の夕方からピアノソナタのコンサートと、オーケストラのコンサートに行きましたが、聴いた順にいうとまずピアノソナタのコンサートですが、これはものの見事に失敗でした。
演奏がともかくお話にならないというか、はっきり言って聞くに値しないものだったと強く感じましたので、あえてピアニストの名前は書きませんし、覚えてもいませんし、調べて書く気にもならなりません。
曲目はピアノソナタ第1番と第23番「熱情」で、ともにヘ短調のソナタです。

マロニエ君が座った席は100人強の会場の、ピアノをコの字形に取り囲む座席配置の中で、ピアノのお尻のほうの席でしたが、ここから真正面によく見えるのがペダルでした。
で、この人、やたらめったらソフトペダルを多用するのはもうそれだけでいただけません。

ソフトペダルは演奏する作品によっては柔らかな弱音や音色を変えるためなどにこれを使うのはわかりますが、タッチで強弱を付けるかわりにこのペダルを踏んでいるようで、どうかするとずーっと踏みっぱなしで、なんなんだと思います。
大まかな印象では全体の半分近くこれを踏んでいたように感じましたが、普通、熱情の前後楽章でこれを踏む場所がどこにあるだろうかと思いませんか?

小さな会場故か、ピアノはヤマハのS6でしたが、これがまたなんと言っていいか…。
少なくともマロニエ君にはその良さがまったく理解しかねるピアノで、帰ってカタログを見ると同サイズであるC6の倍近い504万円!もするのには驚き、何かの間違いではないか?と思いました。

よくCシリーズとは違うようなことを尤もらしく言う人がいますが、マロニエ君の耳にはまったくそれはわかりませんでした。カタログにも何がどういいのか、なにひとつ明確な記述も説明もないところが不思議ですが、それでこの猛烈な価格差はどう納得すればいいのだろうと思います。

高音がキンキンいう割りには低音が貧弱で、ゴンとかガンとかいうだけの音がいっぱいありました。
あれでプレミアムグレードという位置付けだそうですが、マロニエ君ならレギュラーシリーズのC6か、いっそC3でも充分だと思われました。

以前もちょっとしたコンサートでS6の音を聴いたときにも似たような印象だったことを思い出しましたが、このときはたまたまだろうぐらいに思っていましたけれど、やはりたまたまなんかではありませんでした。
少なくともヤマハほど厳格な品質管理の行き届いたメーカーの製品なら、そんな当たりはずれはないでしょう。

C6とS6の違いのわかる人のご意見をぜひとも拝聴してみたいものです。
とりあえず今日はここまで。
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練習会でした

昨日はピアノサークルの練習会でした。
今回はリーダー殿がゴールデンウィークで不在のため、マロニエ君が幹事役を代行しての開催でした。
とはいっても会場の予約や告知以外に何をしたというわけでもありませんが。

会場は市内のグランドピアノのある喫茶店で、そこを貸し切って使わせていただきましたが、普段の定例会とはまた違った雰囲気を楽しむことができました。
この喫茶店は音楽を主体にした店で、小さなコンサートなども随時おこなわれており、貸し切りで使うほかに、一般のお客さんの入店もOKの使い方であれば会場費はなんと無料!になるのですが、喫茶店利用が目的で来られた普通のお客さんを前にして、我々のようなシロウト集団が練習会をするのは営業妨害になると思われましたので、敢えて貸し切りでの利用となりました。

この店のピアノはわりに新しいヤマハのC5で、とても素晴らしいピアノでしたが、ふだん弾き慣れないヤマハのタッチにすっかり戸惑ってしまい、最後までこれに慣れることができませんでした。
ここの近くにある、定例会で何度か使ったことのあるスペースのC3もまったく同様のタッチであったことを弾いていて思い出しましたから、やはりこれがヤマハの標準的なタッチだろうと思われます。

あとからわかったことですが、今回は10人の参加者のうちの実に5人がカワイのグランドのユーザーで、これもなにかの必然か偶然か、そこのところはよくわかりませんが、みなさんピアノに関してはほぼ同意見であることが妙に納得できました。

マロニエ君も昔はともかく、今は普段はカワイに触れることが最も多いので、日本では最もポピュラーなはずのヤマハのタッチに戸惑いますし、出てくる音とのバランスの関係にもよく馴染めないようになってしまっていることに、我ながら驚いてしまいます。

目の前の文字が「K.KAWAI」じゃないことが落ち着かず、あの肉厚なYAMAHAの文字を見ただけで勝手の違うよその人みたいな気がしてしまいますし、これはきっと逆の場合もそうなんだろうなと思います。

そう考えると、どこのピアノでも待ったナシに弾かざるを得ず、しかもそれで自分の力を示さなくてはならないプロのピアニストというのは、本当に大変なことをやっているのだと思ってしまいます。

練習会終了後の懇親会は近くのホテルでバイキングとなりましたが、そこの宴会場の脇に置かれたピアノもヤマハで、このところ場所探しをしたほとんどの会場がヤマハでしたから、その一般的な普及率の高さは、とうていカワイの及ぶところではないようです。

もうひとつ感じたことは、マロニエ君みたいにメチャメチャ緊張するタイプの人間にとっては、会場は狭い方がよけいに緊張の度合いは高まるようで、広い方がまだいくらかマシということがわかってきました。
とはいっても、どっちみち緊張することに変わりはないのですが。
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真相はいずこに

あるピアノ技術者のブログを読んで「へぇぇ、そうだったのか」と思わせられる書き込みが目につきました。
やはりというか、思いがけなく感じていた疑問が解けたようでした。

ショパンコンクールでヤマハのCFXを弾いて優勝した、ロシアのユリアンナ・アブデーエヴァですが、これは同時にヤマハのピアノを弾いた優勝者が現れたという事でも同社にとって有史以来の初の快挙だったわけで、しかもその約半年前に発表された新開発のコンサートグランドがいきなり世界的コンクールでいわば金メダルをとったようなわけで、ヤマハの喜びようは大変なものだろうと思っていました。

当時の予想では、さぞかしこれからは広告やカタログにもそのことが大々的に打ち出されるものだろうと思っていましたし、それはマロニエ君だけでなく業界の人達もおしなべて同様の見方をされていたようでした。

ところがその後のヤマハの広告には、アブデーエヴァのアの字も、ショパンコンクールのシの字もまったく出てこないのは大いに予想外という他ありませんでした。通常ならたぶんこんなことは考えられないことで、かつてヤマハが広告にリヒテルをしつこいほど使い続けたことを考えると、「どうしちゃったの!?」と言いたくなるような静けさで、それは今だに続いています。

アブデーエヴァは優勝直後に2度来日し、一度はN響との共演、続いてワルシャワフィルとコンクールのファイナリスト達で回るガラコンサートでしたが、なんと彼女はスタインウェイばかりを弾きました。

はじめは「NHKホールは外部からピアノの持ち込みはさせないらしい」などの憶測も飛び交いましたが、ヤマハを弾かない状況は他のホールでもずっと続きました。
そして、冒頭の技術者の裏情報によれば、なんとアブデーエヴァ自身の意志によって、優勝後は使うピアノを変更したのだそうで、優勝直後にそれをするのは非常に思い切ったことだということも書かれていました。
しかも公演地は他ならぬ日本ですから、当然ヤマハもピアノを準備していたらしいのですが、これを退けてスタインウェイを使ったとのことで、そんな手の平を返したような豹変があるのかとただただ驚きです。

コンクール直後の海外公演で、しかもヤマハの生まれ故郷である日本の舞台で敢えてそれを弾かないというぐらいなら、なぜコンクールでは一次から一貫してヤマハを弾き続けたのかと思いますし、普通に考えれば、アブデーエヴァだってヤマハには恩義のひとつもありそうな気もしますし、ましてや優勝後初の日本での演奏なのですから(あくまで普通に考えればです)。

単純にアブデーエヴァがヤマハよりスタインウェイのほうを好きになったと見るのはあまりに稚拙な解釈という気がして、ここには我々にはうかがいしれない諸事情がありそうな気がします。
とくに企業間の暗闘には筆舌に尽くしがたい激しいものがあり、それに伴ってコンクール自体にも暗い噂がたったことが過去に何度もありましたから、今回もまた水面下でのいろいろな駆け引きがあり、これは要するにその結果だということもじゅうぶん可能性がありそうです。

楽器の業界も、舞台裏は魑魅魍魎の棲むドロドロの世界だと聞きますから、我々のようにただ音がどうのなんて勝手なことを言って楽しんでいるだけではすまされないものが絡んでいるのはまぎれもないこと。
結局、世の中って、どこも現実は決してきれいなものではありません。

好きなことは趣味にして、勝手なことを言っているのが一番ですね。
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管理意識の欠落

昨日は午後からむしむしすると思ったら、夕方から雨となりさっそく除湿器を回しています。

有名メーカーのセレクションセンターなどは常時、湿度は47%、温度は24℃に維持されているそうですから、これを一応の理想基準として自分のピアノの管理の参考にしたらいいと思いますが、なかなかそこまではできません。
マロニエ君の場合は湿度は50%前後、気温は20〜25℃といったところですが、就寝時は部屋が無人になるためにエアコンは止めますので、朝までは若干の寒暖差がおこるのはやむを得ないところです。

しかし、このピアノ管理というのは実は素人のピアノ好きのほうがよほどちゃんとしているくらいで、ピアノの先生やピアニストの中には、まったく信じられないような酷い人が多いのは、知る限りでもそうですし、人から聞く話でも同様のことは際限なく聞こえてくるものです。
いわばピアノの専門家の所有でありながら、ほとんど虐待とでもいいたくなる扱いのピアノは少なくありません。

ピアノの先生というのは、表現が難しいですがいろんな意味に於いて視野が狭く、本当に先生として尊敬できる人物、演奏の技量、音楽的な造詣、楽器の知識などを兼ね備えている人なんて、まさに文字通りの一握りの別格例外的存在です。

ピアニストはピアノの先生よりも演奏を本分にしているだけ、ピアノを弾くための単なる指のスポーツ的テクニックだけは先生よりも上だと言えるでしょうが、それ以外は大した差もなく、ピアニストでもピアノの事を何も知らない、ただの道具としか思っていない人のほうが圧倒的に多いようです…残念なことに。

タッチなども、極論すれば、たぶん重いか軽いか以外の判別能力は実はほとんどないでしょう。
ピアノの評価も派手な大きな音がするピアノを良しとして、少し地味でも本当に美しい音を出すようなピアノの良さがわからず、言下に「鳴らない」などと言ってしまうなど朝飯前。
レッスン室ではグランドピアノの真下に電気ストーブを入れているとか、ピアノの上に花瓶を置くなどという話はゴロゴロですし、メトロノームはあっても湿度計はなく、ましてやピアノのために除湿器を回すなんてことはあり得ないような人が大半です。

そうかと思うと、ピアノにはいつも重々しいカバーがかけてあったり、毎度毎度キーのフェルトカバーを置いたり取ったりすることだけはぬかりなかったりと、いったいどういう部分を大事にしているのか理解に苦しみます。

ピアノの管理とは限らなくても、世の中には湿度に対してそうとう無頓着な人が多くて、この点ではどちらかというと敏感なマロニエ君などは驚くことが少なくありません。
ベタついた湿度の中で平然としている人を見ると、思わず野蛮人のように見えてしまいます。

リサイタルをするようなピアニストでさえ、梅雨の時期にもエアコンを入れず、雨が降っていてもかまわず窓を開けて平気で練習するといった冗談みたいなことをするという、正にウソみたいな本当の話があるのです。
こんな無神経な人が、リサイタルをすることだけには異常に熱心だったりするわけですが、そんな人の演奏は聴きたいとも思いません。

そんな驚くべき管理の悪さは棚に上げて、たまさか調律師が来ると、後日どこどこの音がおかしいだのと日ごろの自分の管理は棚に上げて、お金を払ったとたんにクレームだけはつけたりするようで、調律師もたまったものではありません。

あれ?ピアノの管理のつもりがつい脱線してしまいました。
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昔のスタインウェイ

クリダのCDを聴いてもうひとつ、思いがけない収穫だったのはピアノの音です。
この一連の録音は1960年代の終わりから70年の中頃にかけておこなわれていますが、この時代のスタインウェイのなんと濃密な音がすることか!

昔はマロニエ君の耳に馴染んだ市民会館のスタインウェイなども、ああこういう音だったというのを思い出します。
変に人工的なところのない温かみのある音でありながら、強さと輝きもしっかりあって、そこはスタインウェイならではしたたかな迫真力みたいなものがビシッと張りつめているわけで、今どきの腰の弱いキラキラ系の音とは、根底にあるものがまったく違うことがわかります。

この時代のスタインウェイの音を聴いたことが、ピアノの音に対する深い原体験となって、そこからスタインウェイのファンになった人はとても多いだろうと思います。むろんマロニエ君もその一人です。

ひとつ確信できることは、現在のスタインウェイよりも木の音の占める比率が強いということ。
上質な木が作り出す音がまずしっかりあって、それを例のフレームの鳴りにブレンドして華麗に演出していることがわかりますが、今は逆で、さほどでもない木の音をフレームの鳴りでカバーしているだけで、だから厚みのない量産品の音なんだと思います。

クリダのCDを聴いている時期に、これも偶然ですがNHKのクラシック倶楽部という番組を録画している中から、ある日本人ピアニストのコンサートを聴きました。
このピアニスト、ちかごろショパン絡みでちょっと話題の人みたい(不覚にもCDまで買ってしまった)ですが、まったく何ひとつとして良いところが感じられませんでしたので、敢えて名前は書きませんが、この人のコンサートが出身地の関係なのか、NHK名古屋のスタジオコンサートでおこなわれたものでした。

このNHK名古屋のスタジオ収録で使われたスタインウェイは、鍵盤両サイドの腕木の形状やフレーム上のエンボス文字の位置などから、少なくとも30年以上前のピアノであることがわかります。
残念ながらこのピアニストの演奏は病人のようで音楽性も感じられず、とてもクリダのように美しくピアノを鳴らすことは出来ない人でしたが、それでも聞こえてくるその音はこの時代のスタインウェイ特有のあのなつかしい凛とした音でした。

総じてこの時代のスタインウェイには本物だけがもつ気品と真の深みがあり、いまさらながら感銘を覚えます。
音の濃密さと輪郭、電気でも流れているような圧倒的な低音などは、まさに本来のスタインウェイのそれで、新しいスタインウェイをまったく歯牙にもかけない極端な人もおられたりするのが、こういう音を聴くと、やっぱりちょっとその気持ちもわかるような気もしました。

こういうピアノが作れなくなってしまっている現実にも空虚なため息がでるばかりです。
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またもお買い上げ

懇意のピアノ店から連絡があり、カワイのグランドが入ってきて調正が済んだので弾きに来てくださいといわれて、ピアノを欲しがっている友人を連れてに見に行ったのですが、そのピアノはRX-2 ITという特別モデルで、イタリアのチレサの響板を使った、いわばヨーロッパの血が混ざったカワイでした。

12年ほど前のピアノですが、まだまだ若々しくてピカピカした状態でした。
アクションは、カワイのグランドが樹脂製のアクションになる直前の、木製による最後の時期という点がさらにポイントでした。
カワイの樹脂製のアクションには賛否両論あって、一時はずいぶん技術者からの苦情も上がったようですが、カワイはそれにも屈せずに樹脂製のアクションを製造し続け、現在はそれが2世代目に発展して黒いカーボン系ものになり、強度を増しやや軽量化なども果たしているようです。
しかし、技術者の中にはこれを従来の木製に戻す試みなどもやっていますので、そこには様々な長短の理由があるのだと思われますし、やはり一長一短があるのだろうとは思います。

しかし、他のメーカーが一向にこのカワイの革新技術に追従しないのは、やはりまだ木製のほうがいいという考え方も根強いことの表れかもしれません。
マロニエ君は正直なところ、本当にいいものなら素材が何だって構いませんが、現段階ではやはり木製のほうがいくらか安心というか、やはりピアノには木製アクションのほうが情緒的にも収まりが良いような気がするのも事実です。
かといって、そこに大したこだわりはありません。

さてそのチレサの響板のRX-2、ここのご主人の高い技術力あってのことですが、なかなか素晴らしいピアノであったのは予想以上でした。若干キーが重いという点はやや気になりましたが、これはカワイのグランドが生来持つ特徴のようで、タッチの俊敏性を損なうことなくこれを解決していくのは技術者泣かせの課題のようです。

しかし、音にはレギュラーモデルにはないやや明るめの基音と、そこから立ち上る響きに立体感があるのが印象的でした。
技術者の整音技術にも大いに負うところがあるものの、音には太さと輪郭、芯と肉付きがあり、好ましいものでした。
さらには通常の響板のモデルよりも音にずんとした深みがあって、これはキーの重ささえ解決したらSKシリーズ寄りのピアノになるような気さえしたほどです。

これがエッと思うような値段だったので、ピアノ好きならだれだって気分はふらっとしてしまいます。
友人はかなりこのピアノにふらついている様子で、これは買うだろうな…と思っていたら、ご店主が先を制して2〜3日考えた方がいいですよと逆に言われ、この日はいったん引き上げることになりました。
そして後日、案の定、買う決断は変わらず、その旨連絡をしたそうです。

短期間の間にEX、RX-3、RX-2 ITと、やたらカワイにご縁がありますが、どれも素晴らしいピアノで、つくづくカワイはいいなあという思いを新たにしています。

それにしても、このところマロニエ君のまわりではピアノを買う人が続いてしまって、自分もつい買いたい虫が疼いてくるようです。
あー、ピアノが買いたい!
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ピアノの嫁入り

今年のまだ寒かった頃、友人が海外からピアノを購入することになったのですが、彼はそのために部屋の引っ越しもして、迎え入れの準備を万全に整えるべく長い時間を費やしていたようです。
そしてその準備も整い、ついにピアノは搬入の日を迎え、めでたく所定の位置に収まったようです。

100年は保つと言われているS社のピアノですが、製造から10年ほどの新しい楽器で、聞くところでは、まだまだ弾き込みさえ必要な状態のようで、厳密には中古ピアノでありながらも、これから育てていくべき子供のような歳のピアノだったようです。

このピアノはマロニエ君懇意のピアノ店を通じて日本へ輸入されたのですが、てっきり船便でくるのかと思っていたら、購入決定から早々に手続きが進み、サッと空輸されてきたのには驚きました。
最近のコンテナは昔のそれとは違って密閉性なども向上していていて傷みが少ないと聞きますが、それでも洋上で幾日も過ごすことを考えると、航空便は速いし、リスクが少なく、短期間のうちに日本に到着し、数日後にはさらにお店までやってきたのは驚きでした。

むしろ日本に届いてからのほうが、迎え入れの準備に時間がかかり、その間このピアノは販売店の店頭で開梱され、入念な調整を受けた後、ピアノ運送会社の倉庫に居を移して嫁ぐその日を待っていたようです。

そして搬入日が満を持して一昨日のことだったらしく、果たして彼は前夜よく眠れたのでしょうか?
自分が思い定めたグランドピアノがいよいよ自分の許にやって来るというのは、やはり男性からすればお嫁さんがやってくるような高ぶりがあるのではないかと思います。

マンションの上階までクレーンで吊って上げたそうですが、見ていてずいぶん緊張したそうです。
マロニエ君もクレーン搬入を何度か経験していますが、グランドピアノが空高く宙づりにされるのは、本当にハラハラして心臓によくないものがあります。
いま何かあったらすべては終わりだと思いたくなるような瞬間が幾度もあるものですし、とりわけ最近のように地震が多発していると、そういう不安もさらに迫ってくるでしょう。

現に輸送中の事故でピアノがダメになったというのは、決して珍しい話でもなく、たとえばグールドが晩年にヤマハのCFIIを使ったのも、ある時期チェンバロで録音したのも、元はといえば彼愛用のスタインウェイ(大半の録音はこのピアノで演奏されたもの)が輸送中に落とされて、スタインウェイ本社の懸命の修復にもかかわらず、最終的には以前の状態を取り戻すことができなかったためだと言われています。
それぐらいクレーンでピアノを吊るというのは100%安心できない、リスクのつきまとう作業ですが、それでも持って上がれないところにピアノを搬入するにはやむを得ない方法なのだと思われます。
ともかく無事におさまって、めでたしめでたしでした。

さっそくにも写真を見たいと頼んだら、すぐに送ってくれましたが、いやはやなんとも立派なピアノが部屋の真ん中にドカンと座って(立って?)いました。
よほどのことがなければ、たぶんこのピアノは彼のこれからの人生にずっと付き合っていくことになるのでしょうから、まさにこの日は記念すべき一日だったと思います。
ピアノを買うというのは、やはり他のものとはなにか違って、人の情感が揺さぶられる何かがあり、こちらまでウズウズしてきます。
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心の豊かさ

過日は知人からのお招きをいただき、ご自宅にお邪魔させていただきました。

そこは一戸建ての住宅ではなく、戦後間もなく建てられたという大型団地ですが、内部はとても美しくリフォームというかイノベーションというのでしょうか、ともかくそういう改装を施されてとても快適な居住空間になっています。

知人はここの住人であるわけですが、そこになんと普通サイズのグランドピアノを数年前に購入しています。
外からクレーンで吊ってベランダから納入されたらしく、このとき、近隣住人や管理者への事前の許可などは敢えて得ることはしないで、購入後にその旨の挨拶をされたらしいのですが、その手際の良さと英断が功を奏してか、この数年間というものクレームらしきものもなく、ごく平穏に、しかもピアノのある充実した心豊かな生活を楽しんでおられるのが一目見てわかりました。

今どきですから、集合住宅の場合はちょっとしたテクニックというべきものが必要で、ヘタに正面切って事前の許可を得ようなどとしようものなら、却って藪蛇になるだけで、どっちみちいい顔されるはずのないピアノに対して、正式に「はいどうぞ」と言われることはまず無理だと思われます。
別の知人は、ピアノ可の条件でマンションを探したところ、なかなか思うようには事が運びませんでした。
最終的にはどうにか決まったものの、かなり時間もかかったようでしたし、そのために不必要な広さや部屋数であることも受け容れて妥協しなくてはいけなかったと聞いています。

さて、普通は団地にグランドピアノというと、いかにもミスマッチのように思われがちですが、子供のある家族などならともかく、そうでなければいざ置いてみれば、必ずしもそうとは限りません。
今回の知人のお宅でも、思った以上にピアノはきれいに定位置に収まり、なかなか良い雰囲気を醸し出していました。
やはりピアノのある空間はいいものです。

この方は、ここで音を出すのを夜8時までと決め、それ以降は消音機能で練習されているとか。
それでも、文句が出るところでは出るでしょうから、この方の場合、たまたま近隣の方の理解に恵まれたということも現実的にはあるとは思いますが、やはりそこはお互いの理解と気遣いと譲歩があればこそだろうと思われます。

ピアノはカワイのグランドでしたが、人間に喩えるならまだまだ幼稚園か小学校の低学年ぐらいの歳で、すべてはこれからという新しいものでした。中音域から高音に至る音色は、ふくよかさの中にもキチンとした骨格があって、変な癖のようなものがまったくない、とてもきれいな音を出すピアノでした。
このサイズの日本製ピアノは、どうかするとえげつない音になることがありますが、良い場合のカワイには、そういう一面がないところがやっぱりいいなあと感じ入ってしまいました。
低音もごく自然で、中音域からきれいな繋がりを持っていて、どんな曲にも対応できる幅広さと普遍性をそなえていると思います。

それにしても、部屋にグランドピアノのある眺めというのは、他に代え難い、豊かな文化性みたいなものがあふれていて、そこには非常に上質な空気が流れているように感じますから不思議です。
別項でも書きましたが、ピアノは現代の実利的尺度で見るなら、重くて場所をとるローテクのかたまりですが、そのグランドピアノが作り出す空間の質感というものは、たとえそこにどんなに高価なパソコンやAV機材等を並べたとしても達成することはできない、主の精神生活の豊かさみたいなものが溢れています。

同行した知人も、あの光景にはちょっと刺激を受けたと言っていましたが、たしかにそれはよくわかるような気がします。そのうちそのうち…と躊躇ばかりせずに、一日でも早くこういう環境を整えるための決心と行動をした人から先に、本当の豊かさと喜びを日常の中で享受することができるのだなあと思いました。

ピアノはもちろん演奏されているときもいいものですが、ふたが閉じられて、静かに佇んでいる姿もこれまたなかなかいいものだとマロニエ君の目には映ってしまいます。

いろんな制約の多い今の社会では、諸事情あって普段は電子ピアノ、レッスンや発表会などでどうにか本物ピアノに触れるというパターンがあり、それはそれでやむを得ないことではありますが、こうして本物ピアノを生活の中に迎え入れ、その空間で毎日呼吸している人の満足と充実度の高さというのはやはり格別で、この満足は電気製品では到底及ぶ領域のものではないようです。
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某所のスタインウェイ

昨日書いた、とあるのホールの続き。

スタインウェイは事実上、まっさらの新品といって差し支えない状態でした。
いかにも今のドイツの工業製品というに相応しい、生産品としてはほぼ完全なもののように見えましたが、昔と違って見えない部分にコストの問題などを抱えているのも事実で、不思議にこのピアノは心を揺さぶられるものがありません。どうしても興奮できないというか、このピアノと駆け落ちしたいという気にならないのです。

もちろん新しいということはピアノとしてはハンディとして考慮すべき点ですから、これをもって結論めいたことは決して言えませんが、やはり最近のスタインウェイの特徴がここでも見えたのは事実で、かつての強烈な個性や魅力、聴く者を圧倒する強靱な鳴り、コクのある音色は影を潜め、薄味で、作り手が製造精度やネガ潰しにばかり腐心しているように感じます。
最近ショパンコンクールのライブを相当量聴きましたが、そこで聴くスタインウェイも根底がまったく同じ音でしたから、やはりこれは今のスタインウェイの特長であることは間違いなく、CDでも、TVでも、実物でも全部同じ音がします。その代わりといってはなんでしょうけど、品質管理・当たりはずれの無さは猛烈に上がっているようで、もはやスタインウェイも事実上カタログで注文していいピアノになったのかもしれません。

まるで今のドイツの高級車みたいで、美しい作りや高性能と厳しい割り切りがひとつのものの中に共存し、だれが乗っても触ってもその性能の8割方までは必ず楽しめる、そんな利益の上がる生産品を作り出すことを旨としている感じです。
昔の超一流のスポーツカーやピアノには、それを使いこなせるまでは修行して出直して来い!とでもいったような、使い手におもねらない気高さと近づき難さなど、本物だけがもつ凄味と、実際それだけの裏付けがありました。
今は、お客様優先でイージーに楽しめる保証付きの製品を目指しているんでしょう。

ピアニストに喩えると、もちろん演奏に際してミスタッチなどはないほうがいいに決まっていますが、そんなことよりもっと大事なものがあるという演奏を臆せずすることで聴く人に深い感銘を与える人と、音楽的には凡庸でこれといった特徴も魅力もないけれど、指はとにかく達者でミスタッチなどしないで常に安定した演奏ができ、結局、総合点でコンクールに優勝したりするタイプがあるものです。

新しいスタインウェイがいささか後者のような要素を帯びてきたと感じているのは、決してマロニエ君だけではないと思いますが、残念ながらそれをまたしても確認してしまったという結果でした。
確信犯的に、周到に材料の質から何から割り振りされていて、はじめから器が決まっていて、限界が見えているピアノという感じが頭から拭えません。昔のように何か得体のしれないものの力によって腹の底から鳴っているという、思わず鳥肌が立つような、あのスタインウェイの真髄や凄味はもはや過去のもののようです。

かつて、世界中のどれだけの人が、このスタインウェイの魔力の虜になったことでしょう。
業界人の中にはしかし、これを単なる懐古趣味やマニアの思いこみであるかのように言い抜ける人がいますが、本当にピアノがわかる人なら本心からそう思っているとは到底考えられません。
あきらかに以前のスタインウェイにはピアノの魔神のごとき魂みたいななものが宿っていたのは事実です。

しかし、さすがにアクションなどは新しいぶんしなやかで、ピアニッシモのコントロールなどは思いのままでしたし、ダンパーペダルなども極めて抵抗が少なく滑らかで、こういうところはさすがだと思いました。

スタインウェイは今も内部の細かい仕様変更などをしていると聞きますが、今回のピアノは心なしかこれまでよりキーがわずかに深くなっているようにも感じました。

蛇足ながら、この1〜2年ぐらい前から採用されだした新しいキャスター(足についている金属の大型車輪)は、同じものがベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、シュタイングレーバー、プレイエルなどにも装着されており、これだけ数社のコンサートグランドに採用されるからには、よほど機能が優れているのかもしれませんが、見た感じはなんとも不恰好で、せっかくの美人がゴツイ軍用靴でも履かされているようで、強い違和感を覚えます。

ヤマハ、カワイ、ファツィオリなどがまだこのタイプではないのは、せめてホッとするところです。
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某所のベーゼンドルファー

ピアノ好きの知人のお誘いを受けて、とあるホールへピアノを弾きに行ってきました。
ここは昨年秋にスタインウェイのDが導入されて、以前からあったベーゼンドルファー275とヤマハCFに加えて3台体制となったようです。
ステージに行ってみるとスタインウェイとベーゼンドルファーの2台が準備されていました。

ここのベーゼンドルファーを弾くのは二度目ですが、以前はかなり調整から遠ざかっているといった状態で、とても本来の実力とは思えないコンディションでしたが、今回は見違えるほど入念に調整されていて、むろん調律だけでなく、音色からタッチまで、すべてに調整の手が入っていることは触れるなりわかって、そのあまりの違いにびっくりしました。

スタインウェイもそうでしたが、両方ともどうやら調律仕立てホヤホヤみたいな印象で、今回はよほどタイミングが良かったのだと思います。
二人で行って、交代で2時間ゆっくり弾いてきました。

ベーゼンドルファーはまろやかさが上積みされて、タッチの感触も均一で心地よく、いかにもシャンとした身なりの人みたいな雰囲気にあふれていたので、以前よりも格段に弾きやすい感じを受けました。
マロニエ君はベーゼンドルファーではどうしてもショパンなどを弾く気にはなれないので、シューベルトのソナタなど、この楽器に敬意を表して相応しい曲の楽譜を持参してこのヴィーンの名器を堪能させてもらいました。

そこで感じたことは、調整はかなり入念にされているとは思ったものの、なぜかタッチコントロールによる音色の変化など、音楽性という点においてはそれほど敏感なピアノにはなっていない印象だったのはちょっと意外でした。無造作にパラパラと弾く分には以前よりたしかに格段に弾きやすいのですが、これぞベーゼンドルファーという弱音域の表現力などはあまりなく、どちらかというと一本調子なピアノであったのはどうしたことかと首を傾げるばかりです。
まあ、このほうが一般ウケはするのかもしれませんが、少なくともタッチや弾き方によって音色を作り音楽を表現するという余地があまりないように感じました。

これは調整した人が上手すぎて、あまりにも立派に調整してしまったために、変な言い方ですがそれによってピアノが一ヶ所に固定され完成しすぎてしまい、最終的には演奏者に下駄を預けるといったところのない、安全指向のピアノになっていたように感じました。
どう表現を誇張してみても、あまりピアノがついてこないのは意外でした。

それはマロニエ君の腕がないからだ!とお叱りを受けそうで、もちろんそれはそうなんですが、でも下手クソほど実は表現力のあるピアノはある意味で恐い存在で、いいかげんな弾き方をしようものなら、そんなアラがいっぺんにバレてしまうほど、一流の楽器というのは元来敏感なものなのですが…。
しかし恐いけれども、気を入れて、心を込めてしっかり弾くと、ピタッとピアノがついてくる、これが本来の名器だと思うのですが、もしかしたら日本のピアノ向きの調整だったのかもしれません。

少なくともベーゼンドルファー特有の、優雅の中にかすかな下品さみたいなものがチラチラする、そんな瀬戸際を演奏者の裁量で楽しむスリルはなく、ピアノ全体が優等生的にグッと安全圏内に移動させられたようでした。

それにしても、いまさらながらこのベーゼンドルファー275の、見た目の華やいだ美しさには、ほとほと感心させられ、見るたびにため息が洩れてしまいます。
チェンバロのようなカーブ、薄いリム(外枠)、赤味の入った弦楽器のような色のフレームとそこに開けられた無数の大きな穴、芯線部分もすべて一本張弦で、何もかもが手間暇かけて、軽く薄くデリケートに作られているようです。

スタインウェイはピアノとして最高の実用楽器ですが、こちらはまさに贅沢品という趣で、見ているだけで目の保養になります。でも弾いた感じは、ちょっと優等生的で、もう少し裏表があるのが本来のピアノの姿では?と思いました。
もちろん全体としては気品あふれるピアノだったのは言うまでもありませんが、そのわずかのところが楽器の世界は難しいもんだと思います。
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珍会場コンサート

偶然にも、5月に福岡市内でおこなわれる非常に珍しい会場でのコンサートの情報を得ましたのでお知らせします。問い合わせ先の電話番号も記述すべきか迷いましたが、いずれもすでに公表されている情報なので敢えて書きました。

(1)【管谷怜子 ピアノリサイタル】
会場:日時計の丘ホール(福岡市南区柏原3-34-41 TEL092-566-8964)
   http://hidokei.org/
日時:2011年5月15日(日) 開演15:00
価格2,000円(税込)
お問い合わせ TEL 090-1192-0158
〈プログラム〉
バッハ:パルティータ 第1番 BWV825
モーツァルト:ピアノソナタ 第9番 K.310
シューマン:交響的練習曲 Op.13

(2)【高橋 加寿子 ピアノリサイタル】
会場:みのりの杜ホール(福岡市南区桧原2-47-25荒川邸敷地内)
日時:2011年5月25日(水) 開場10:30 開演11:00
価格1,000円(税込)
お問い合わせ TEL 090-7921-5000(野田)/090-3074-5771(五條)
〈プログラム〉
バッハ:平均率よりプレリュードとフーガ ニ短調BWV874
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
ショパン:幻想即興曲・エチュードOp10-5「黒鍵」・Op10-12「革命」
ノクターンOp9-3ロ長調・ワルツOp64-3・グランドワルツOp42
高橋 加寿子氏のプロフィール
16歳で単身英国留学 パーセルスクール(高校)、ギルドホール芸術大学にてピアノ演奏家コース終了
同大学にて演奏家リサイタルディプロマを首席で取得
ロイヤルカレッジオブミュージック演奏家ディプロマ取得
ロイヤルアカデミーオブミュージック演奏家ディプロマ取得
オックスフォード ピアノコンクール優勝

(1)の「日時計の丘ホール」はマロニエ君も行ったことがありませんが、ホームページによると福岡市南区柏原にある「小さなギャラリー、小さなホール、小さな図書館」と銘打った可愛らしい施設のようです、写真を見ているとぜひ一度訪れてみたくなります。
ここにはなんと1910年製のブリュートナーのグランドがあり、このピアノを使ってのコンサートのようですから、ありきたりの会場、ありきたりのピアノに食傷気味の方にはおもしろいコンサートかもしれません。
ブリュートナーはライプチヒのピアノで戦後は東ドイツに属しましたが、西のベヒシュタインと覇を競ったピアノともいえるでしょう。
ライプチヒといえばバッハですから、プログラムもこのドイツの名器に合わせたものなのかもしれません。

(2)はこのブログの2011.1.21にご紹介したホールで、個人の邸宅内とは思えない瀟洒な美しいホールで、しかもスタインウェイのコンサートグランドがあるという思いがけない会場です。
開演が11時ということで、これもまた普通とは違って意表を突いたような時間帯で、平日のこの時間に行くのはなかなか難しく、これに行けるのは限られた人になるとは思いますが、ともかくそういうコンサートが予定されているということのようです。

行かれる場合は、事前のアクセス調査が必要になると思いますが、マロニエ君も都合が許せばできるだけ行ってみたいと思っています。
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現代の巨匠

少し前に放映されたアンドラーシュ・シフの映像で、昨年のライプチヒ・バッハ音楽祭におけるコンサートから、改革派教会でおこなわれた演奏(フランス組曲全6曲、フランス風序曲、イタリア協奏曲)にあまりにも深い感銘を受けてしまい、2度ほど通して視聴してみましたが、いやぁ…これは本当に出色の出来だと思いました。
そしておそらく、今後もそうそう出てくることはないレヴェルの演奏だと思います。

彼は間違いなく現在、世界最高のバッハ弾きの一人であると同時に、現在ピアニストとしても最も脂ののった絶頂期にある旬のピアニストであるのは間違いないでしょう。
シフが比較的若い頃に入れたバッハ全集は聴いていましたし、シューベルトの全集などでもその並々ならぬ実力は見せていましたが、これほど高度な演奏をするに至ったことはまったく驚くべきことだと思います。
このところ、シフは一気に深まりを見せ、芸術家としてずいぶん高いところに昇っていったようで、いつの間にあんな凄い人になったのかと驚くばかりです。

バッハ作品には欠かせない各声部の動きが、必要に応じて、ときに即興性をもって、これほど自在に飛び交うように歌い合い絡み合い、それでいて全体が極めてまとまりのある音楽として次々と流れ出てくる様は、ただもう喜びと敬服に浸るばかりです。

しかもこれだけの量のバッハ作品(約2時間半)をすべて暗譜で、密度をもって、闊達朗々と弾いてのけるのですから、もはや人間業ではないという気がしました。

バッハといえばひたすら正しく、峻厳に、しかめ面して弾くか、あとはかなり崩した感じか、いっそモダンなアプローチでこれを処理しようという演奏家などが目立ちますが、シフはそのいずれでもなく、つねに伸びやかで、歌心があり、やりすぎない節度と道義があり、精神性が高いのに鮮烈でもあり、まるでこの人自身がひとつの高い境地に達しているようです。
彼のバッハは正統的でありながら、堅苦しさのない自然体で、音の輪郭が明晰で聴いていて飽きるということがまったくありません。

また事前の準備も相当にしているとみえて、録音も優秀だし、指も一切の迷いなくめくるめく動いて、確信に満ちた音楽が活き活きと必然的に流れていきます。
注目すべきは会場である改革派教会にはかなり強い残響があるようで、そのためかどうかはわかりませんが、シフはすべての曲を一切ペダルなしで弾き通しました。しかし目を閉じて聴いているかぎりでは、とてもそうとは思えない充実した美しい響きが燦々と降り注いでくるばかりでした。

我が意を得たりと思ったのは、ここで使われたピアノはそう古い楽器でこそありませんでしたが、新品とは程遠い楽器で、黒鍵の黒檀は手前部分が光っているぐらいまで、相当に使い込まれている年季の入ったピアノだったのが印象的でした。むろん調整も見事のひと言。
マロニエ君の部屋の「新しさの価値と熟成の価値」で書いたように、こういう感動的な演奏には、まっさらの新品ピアノなど考えただけでもミスマッチです。
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広島にCFX

このホームページ宛に、広島市安芸区民文化センターホールからご連絡をいただき、ヤマハの最新鋭コンサートグランドCFX(昨年のショパンコンクールで優勝が演奏したものと同型)が3月より同ホールに導入されたそうです。

なんと気前の良いことに、一般の人でもホールを借りればこのピアノが使えるということで使用料を調べてみると、時間区分によりますが3時間単位で、2万円強〜4万円弱というところで、ピアノサークルなどに使うにはもってこいだと思いました。
さすがに広島まで行くことはできませんが、こういうホールを地元に持っている人達がうらやましい限りです。

この広島のホールの案内を見ているとCFIIISからの買い換えのようで、今後はこうしてヤマハのコンサートグランドを設置していたホールがピアノを買い換えるたびにCFXにアップしていくのかと思うと、これはなかなかすごいことになるような気がします。

ホールの運営母体の多くが公共機関なので、ヤマハの納入実績さえあれば今後は必然的にCFXになるということなんでしょうね。価格的にはずいぶんと値上がりしていますけれども、そこはまあ公共施設ともなればハンコひとつで済んでしまう世界なのか、あるいは予算をうるさく検討するガチガチの世界なのか、そこのところはマロニエ君にはさっぱりわかりませんが。

ただ、いずれにしてもスタインウェイのDとほぼ同レベルにまで高騰したCFXの販売価格ですから、今後はあらゆるホールが、スタインウェイに較べて「安いから」という理由でヤマハになることはなくなり、専らお役所などが大好きな納入実績以外では、ピアノの優劣でのみで決することになるわけでしょうから、そのへんも含めて今後どんな展開になっていくかが興味深いところでもあります。

地域のプライドをかけたようなお飾りホールならピアノも何台も納入されるわけで問題はないでしょうが、地域ごとの生涯学習センターとか区民ホール、町民ホールのレベルでは、もし価格で選ぶならカワイのEX(SK-EXとは別でCFXの約半額)のみという事になりますね。
ちなみにほとんど納入実績がないディアパソンのコンサートグランドはEXよりもう少し安かったのですが、すでにホームページ内からも姿を消しているようですから、やはりカワイだけということになるのでしょう。

地域ごとの公民館に毛の生えたぐらいのホールには大抵ヤマハのCF〜CFIIISがありますが、これが今後CFXになっていくのだとすると、なんだかちょっと異様な気がしなくもありません。

パッと見はヤマハがコンサートグランドを一機種に絞ったことで選択の余地が無くなり、CFXが必要であってもなくてもこれが納入されるようにも見えますが、同時に二機種あるカワイにも、あるいはほとんど同価格帯となったスタインウェイにもビジネスチャンスが広がったということなのかもしれませんね。

尤も、あまり立派なピアノが不釣り合いな場所に納められて、現実にはせいぜいピアノ教室の発表会やコーラスの伴奏ぐらいしか出番がないといった惨めな生涯を過ごすことを考えると、この手の施設に納入されるピアノには、なんとも偲びがたいものも感じてしまいます。

尤も、販売する側にしてみれば、一台でも多く売って利益を上げなければならない厳しいビジネスの現場にあって、そんなきれい事は言ってられないことかもしれませんが…。
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趣味の効用

土曜はピアノサークルの定例会でした。
今回は仕事もバタバタ続きで、そうでなくてもろくな準備などできないマロニエ君ですが、更に輪をかけて練習が出来なかったので、短い曲でお茶を濁しました。

年度末ということもあってか、いつもよりは若干少な目の参加者数ではありましたが、そのぶんよりアットホームな雰囲気になって、与えられた3時間をゆったりと楽しく過ごすことが出来ました。
時間の余裕があったので、何人かは同じ曲を再挑戦といったこともされていました。

おかしかったのは、リーダー殿が今レッスンでやっているということでバッハのインベンションの第1番を弾きはじめたのですが、なんともなつかしい曲だったので、マロニエ君も楽譜を借りて今でも弾けるかどうか挑戦してみたのですが、それに続いて大半の皆さんが久しぶりに(中には30年ぶり!という人も)この1曲を、代わる代わる弾きはじめたのには笑ってしまいました。

こうやって一同がひとつの曲を代わる代わるに弾いてみるというのは、なんだかまるで試験のようでもあり、こんなこともピアノ遊びのひとつの在り方だと思われて、とても楽しいひとときでした。

プログラムではクラシック部門では圧倒的にショパンが多かったものの、入会されたときからシューマンだけを一途に弾き続ける方もいらっしゃいます。やはり自分の好きな作曲家というのは相性がいいものだし、いったんひとりの作曲家にのめり込むと次々に他の作品まで弾いてみたくなるというのがよくわかります。
マロニエ君にもいろいろな作曲家とそんな時期があり、むろんシューマンにずいぶんと熱中した時期もありました(とはいえ、まともに人前で披露できるのようなものはありませんが)。

定例会終了後の懇親会がまたいやに盛り上がって、長時間に及ぶのがここ最近の特徴のようになってしまっていますが、春が近いからなのか、こころなしか皆さんウキウキした感じにも見えました。
今回は会場の都合で懇親会の場所はファミレスだったのですが、0時を回っても誰も席を立とうとはせず、家に帰り着いたのはとうとう1時半になってしまい、昨夜はさすがにブログを更新する気力もありませんでした。
なんだか長時間席を占領してお店にも申し訳ないような気もしましたが、途中でデザートの注文もしたし…まあなんとか堪忍していただきたいところです。

さらに今週末にはお花見会もあり、みなさんずいぶんと盛り上がっているようです。
近い将来には阿蘇にあるグランドピアノのあるペンションへ行こうかというようなお泊まり案まであり、来月の定例会のあとゴールデンウィークには練習会と、あれこれ計画が目白押しのようです。

現在は東北の震災のために日本中が喪に服したような空気に包まれていますし、それはもちろんマロニエ君も人並みにそういう気持ちは持っていますが、だからといって毎日暗い顔をしておとなしくするばかりでは何も始まらないし、それでも人間は生きていくのですから、元気を出して前に進むからには、多少の楽しみというのは許される範囲で必要だと思います。

まあ、しばしば呑み歩いては散財し、夜ごと体にアルコールを染み込ませている道楽に較べれば、所詮ピアノサークルのお遊びなんて可愛いものですし、それで好きなことに集中できて、同時にリフレッシュできるとくれば至って健全なものですね。
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ショパンコンクールのピアノ

地震関連のコメントは一区切りつけることにします。

以前ブログで書いた通り、マロニエ君の知人に、昨年のショパンコンクールに行って一次から決勝まで聴いたというサムライがいるのですが、その方から会場で連日配られるというコンクールのライブCDをお借りし、いらい毎夜自室はさながらコンクール会場となって連日のショパン漬けとなりました。

ライブとは言っても、連日繰り返される8時間ほどの演奏の中から約1時間にまとめられたCDで、これがソロだけで17枚あります。
演奏はいうまでもなくいろいろですが、どの演奏もいわゆる「本気モード」では共通しており、このコンクールに出場するほどの腕を持った人が渾身の演奏をすれば、大半が聴くに値するものになるということも概ねわかりました。
アヴデーエワなども、日本でのしらけたような演奏には大きな失望を覚えましたが、コンクールでは別人のように丁寧で熱っぽい演奏をしていたのは驚きです。

ご承知の通り、このコンクールではスタインウェイ、ヤマハ、カワイに加えて今回からファツィオリが参加し、4社のピアノが公式ピアノとして使用されましたが、これらのCDから得た印象をざっと書いてみます。

カワイ SK-EX
従来のシゲルカワイには見られなかったような、ショパン的なやわらかで甘やかな音造りが施され、かなりそれは達成されていますが、その奥にはカワイ独特の実直さが潜んでいるのもわかります。
このピアノが生まれ持つ本質は現代性とか華やかさではないかもしれませんが、極めて良質な、信頼に足るピアノだという印象です。別の言い方をすると良い意味での旧き佳き時代のピアノのような趣がなくもありません。
本来ならもうこれでも充分素晴らしく、あの河合小市氏などがこのピアノを見たなら、その素晴らしさには驚嘆することでしょうが、それでも強いて言うなら、現代のコンサートピアノとしてはやや画竜点睛を欠く部分がないでもなく、願わくはあと一歩の音の輪郭と明晰、ゆるぎない個性があれば申し分ないと思います。

ヤマハ CFX
従来型に対して最も著しく躍進したのはヤマハで、その成長は大変なものだと思いました。
これまでの進歩の速度からすれば、まるで一気に二つ三つ山を飛び越したようで、とりわけ中音から次高音にかけての太くて明解な音は4台中随一だったように思います。しかし、相対的に低音域が弱く、大地に足を踏ん張るような構成力には欠ける気がします。
ショパンやフランス物にはもってこいかもしれませんが、中期以降のベートーヴェン、あるいはラフマニノフなど、壮大でシンフォニックな要素を必要とする作品ではどうだろうと思います。
基本的にはアクロスで聴いたときと同じ印象で、音色は上品で、よけいな色が付いておらず、軽さやムラのなさを重視するフランス人がヤマハを好むのがわかります。
もしもエラールが現代のモダンピアノを作るなら、こんなピアノが理想かもしれません。

スタインウェイ D274
聴き慣れた音色、響き、低音の迫力と華やかな高音部など、すべてがバランスよく融合しており、いかにもムダのない音響配分、ぶれない哲学と落ち着きを感じます。
やや下半身の弱いヤマハにくらべると、足腰(低音域)もしっかりした筋肉質で、音域ごとに個性のあるダイナミックレンジが十全に広がっていて演奏表現を巧みに支えています。
舞台映えのする輝かしい音の美しさもさることながら、最終的な音楽としてのまとまりの良さもさすがでした。
しかし、全体的に新しい世代のスタインウェイはややダシの味が薄くなったという印象は、やはりここでも確認できました。

ファツィオリ F278
これまで聴いたどこか詰まったようなファツィオリではなく、突き抜けたような感じの極彩色に鳴り響くラファエロの絵画のようなピアノ。
一音一音はとても艶があり華やかですが、収束性に乏しいのか、やや表面的。
美術的観点では申し分ないものの文学的要素・内的表現といった部分はいささか苦手という気がします。
非常に濃厚で美しい瞬間がある反面、ピアノが前に出過ぎて、ややうるさく感じることもあり、しっとりと深く聴かせるピアノではないように感じましたが、あまりにポピュラーになりすぎたスタインウェイに抵抗を感じて、こういうピアノを好む人もいるでしょう。
ゴージャスな音色、色彩の絢爛さはありますが、ヤマハのほうが端正で気品があり、感覚的にもより先を行く感じです。
イタリアと日本の文化的背景の違いを感じます。

とはいえこの4台はどれも本当に素晴らしく、いずれも現時点での究極のピアノであることは間違いないようです。
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シフのベートーヴェン

先日のNHK芸術劇場では、アンドラーシュ・シフの来日公演の様子が放映されましたが、これが実にたいへんなものでした。
曲目は近年のシフが取り組み、CDも全集として完結したベートーヴェンのソナタで、しかもなんと、最後の3つのソナタですから、曲目を新聞で見ただけでもゾクゾクさせられます。

シフによると、この3つのソナタは3つでひとつの世界を構成しているので、ひとまとまりに演奏してこそ意味があると言い、コンサートでは途中休憩もなしに3曲が続けて演奏され、Op.109、Op.110、Op.111の間では椅子を立つこともなく、あらかじめ会場に通達されていたのか聴衆の拍手もないという徹底ぶりでした。

マロニエ君もこの晩年のソナタは3つセットで聞くことのほうが多く、この3曲によるCDも多いし、ブレンデルやポリーニなど、多くのベートーヴェン弾きがこの3曲だけのコンサートなどもやっていて、プログラム自体は決して珍しいものではありませんが、しかし休憩も拍手もなく一気に全部続けて演奏するというのは、たしかにあまりなかったように思います。

ベートーヴェンの全ピアノソナタの中での最高傑作といえば、人によっては熱情やワルトシュタイン、あるいはその革新性や規模の点でハンマークラヴィールという意見もあるでしょうが、マロニエ君はなんといってもこの最後の3つのソナタだとかねてから思っています。圧倒的に。

「今夜テレビでこの最後の3つのソナタがある」と思うだけで、昼間からもうそわそわしてしまうほどこの3曲には格別な思い入れがあり、おそらくはピアノソナタとしては空前絶後のまさに金字塔だろうと思います。
娯楽であった音楽が芸術に高められ、しかも崇高なる精神領域へとそれが登りつめたのはこの3曲であり、ハンマークラヴィールはいわばその3つの頂きの前に建てられた大伽藍、Op.101はさらにその聖域に入る門という気がします。

何気ない感じで始まるOp.109の第一楽章、激しい第二楽章を経て、第三楽章でははやくもベートーヴェン得意の主題と変奏が孤高の芸術手法によって展開され尽くされます。続くOp.110でも始まりはごくシンプルですが、忽ちにして天上的なアルペジオの上下に発展。そして短く炸裂する第二楽章ののち、第三楽章では有名な嘆きの歌とフーガがそれぞれ形を変えて二度表れますが、これはまるでバッハの平均律・前奏曲とフーガの発展であるかのような印象です。
そして最後のOp.111ではもっともベートーヴェンらしい激しいハ短調で幕が開きます。運命や悲愴、コリオラン序曲、第3ピアノ協奏曲、合唱幻想曲などはいずれもハ短調ですから、いかにこれがベートーヴェンらしい調性かが窺えます。
そしてあの天を仰ぎ、この世の地平を見渡し、すべての許しと終焉をかたりつくすような最後の楽章となり、こちらもベートーヴェンの得意とする壮大なハ長調。この第二楽章のことなどをマロニエ君ごときがあれこれと書くだけでも、あの崇高な作品に対して不敬な気がしますのでもうこれ以上妙なことを書くのは止します。

シフの演奏は、ベートーヴェンに於いては必ずしもマロニエ君は肯定的なばかりではなく、異論反論も多々ありますが、しかし、なにしろこの桁違いの神憑り的な作品を誠実に聴かせてくれただけでも頭を下げたくなるのが正直なところです。
始めは3曲続けて演奏というのは疲れるだろうかという危惧もありましたが、始まってみるとあっという間の70分でした。

そして、まさかOp.111のあとにアンコールを弾くことはあるまいと思っていたら(なぜなら弾くべき曲がないからです)、その予想はあっさりと裏切られました。
バッハの平均律第2巻のハ長調の前奏曲とフーガが演奏されましたが、この選曲がOp.111のあとのアンコール曲として相応しいかどうかは別にして、その見事なことといったらありませんでした。すごいです。
ああ、東京にはこんなコンサートがあるところがうらやましいと思います。

会場は紀尾井ホールで、マロニエ君はここのスタインウェイが以前からお気に入りなのですが、この点もやはり相変わらずの素晴らしいピアノでした。
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音霊のひびきに

ずいぶん前にNHKで放送された『こころの時代 音霊のひびきに』という番組を録画で見ました。
ピアニストの遠藤郁子さんがショパンのピアノソロ作品全曲演奏会を8回に分けて芸大の奏楽堂で行っているのを捉えて、番組では現在の遠藤さんの心境やショパンへの取り組みをじっくりと1時間語るという充実した内容でした。

芸高から芸大に進み、1965年のショパンコンクールに出場したことを機に、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカの内弟子として5年間ポーランドで厳しい修行に明け暮れたこと、次いでパリでペルルミュテールに師事したこと、帰国後は38歳も年上の相手と結婚し、普通の主婦以上にこなしたという主婦業、高齢の夫の病と介護、大学での指導、さらにはコンサートと息を付くひまも寝る時間もないという想像を絶する激務を続けるうちに、ついには身も心もボロボロになったこと。
その挙げ句、自身が乳ガンの宣告を受け、手術から闘病、リハビリにいたる心の移ろいなどを淡々と、しかし彼女のピアノのごとく、しっかりと腰の座った明晰な言葉で語り尽くしました。

それにしても彼女のショパンに対する真摯(というよりはほとんど宗教的)な姿勢、書き残した作品、音符のひとつひとつを「ショパンの遺言」であると捉え、分析の深さや尋常ならざる思い入れには素直に敬服したという印象でした。
最終的に、その演奏に自分が同意できるかどうかは別としても、少なくとも彼女が信じ、言わんとしていることは理解できることばかりです。

そしてなにより、質素な暮らしの中でひたすら音楽に献身し、自らの精神世界と音楽を融合させながら誇りを持って生きているという姿勢が圧倒的な力を持ってこちら側に迫ってくるようでした。
昔はいやしくも芸術家と言われるような人なら、なにかしらこういうところはあったものですが、現代ではすっかり見なくなって絶滅同然のように感じる今日、久しぶりに本物の芸術家、あるいは尊厳ある人間そのもののあるべき姿を見せられたような気がしました。

マロニエ君は遠藤郁子のピアノは嫌いではありませんが、さりとて大ファンというほどでもありません。
しかし、そんな好き嫌い以前に文化芸術のエリアに身を置いた人間の、凛としたその姿を、過去の本などではなく、現役の人間の声として触れることが出来たのはまったく溜飲の下がる思いでした。

話のすべてを肯定的に受け止めたわけではありませんでしたが、少なくともこの人にはこの人が到達したところの哲学と精神世界があり、形而上学的な世界を求めて今も彷徨っているということだけはよくわかりました。

実を言うと、マロニエ君はこの人の気味の悪い日本人形のような出で立ちでピアノを弾くセンスだけはどうしても拒絶感がありましたし、そういう奇抜な衣装を好むというセンスには最後のところで拭いきれない違和感があったのですが、今回の映像ではずいぶん印象が違っていました。

変な和服は相変わらずでしたが、白髪が増えた髪をアップに結ったことで却って気品と真っ当な威厳がそなわったようでした。
以前はまるで童女のような真っ黒のおかっぱ頭に、創作着物のような、いわゆる日本の伝統呉服とは大きく懸け離れた衣装でしたから、一種の不気味さがあり、まるで岸田劉生の麗子像がピアノを弾いているようでした。

遠藤郁子はずいぶん前からレコーディングやコンサートにはカワイをよく使うピアニストでしたが、やはり現在の連続演奏会にもシゲルカワイのEXを使っていましたから、よほど彼女が求める音があるのだろうかと思います。
しかし主に話の舞台だった自宅では、最低でも3〜40年前のスタインウェイを使っており、ときどきあれこれのパッセージを弾いてくれますが、その音は昔のスタインウェイ独特のツンとしたあの時代の音でした。

こういう人にいてもらわないことには、今の軽薄な商業主義に乗ったピアニストだけが幅を利かせるなんて、もううんざりですから、ますます頑張っていただきたいものです。
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集客の要素

世の中の多様化はあらゆる分野にその影響を及ぼし、むろん音楽の世界も例外ではありません。
とりわけクラシックなどは、その寒風の最も風上に置かれているのかもしれません。

これにはいろんな要素が絡んでいるので、マロニエ君ごときが簡単に事を決めつけることはできませんが、ひとつには世の中に余裕がなくなり、コンサートに行くためのいろんな意味でのゆとりがなくなってきたこと。もうひとつは二流以下のコンサートが一時期あまりにも大量に溢れ出し、巷に蔓延しすぎて市場がぬかるんでしまったツケが今まわってきているような気がします。

人間は肝心なことは忘れっぽくても、嫌な体験、苦痛の記憶、退屈の苦しみなどは意外といつまでも覚えているものです。つまらない展覧会に行ったり、つまらない本を読んで途中で投げ出したり、つまらないコンサートに行って不本意な拍手をしてくたびれて帰ってきた経験などは、わりといつまでも残って深いところにその記憶が沈殿しています。すくなくともマロニエ君の場合はそうです。

本来、享楽と感銘と世界に浸りたくて期待したものが、逆に不愉快と苦痛になって裏切られると、その失望体験はそれをむしろ避けて遠ざけるようになります。そこが人間が生きるために何がなんでも必要な衣食住とは根本的に違うところかもしれません。

こういう経験がひとつの時代を広く覆い尽くしたために、人はコンサートなどにも以前のような期待感を抱けなくなったような気もするのです。同時に世の中は日を追うごとに刺激過剰になり、普通のただ良質なコンサートぐらいでは物足りないと感じるようになったのでしょう。
演奏家も音楽や芸術に一途に専心してればいいという時代ではなくなり、なにか大衆の耳目を集めるような特徴を持っていなくては、ただ質の高い演奏を披露するというだけでは、ほとんど訴求力がないのでしょう。

異国で不遇の生活を強いられたというピアニストがひょんなことから人々の注目を浴び、それが大ブームになったあたりから、演奏家に対するタレント性や、背後に背負っている人生ドラマとか同情を誘う要素等が必要とされるといった傾向に、一気に加速がついたような気がします。

本来の演奏や音楽の質はほどほどに、演奏家はまず人々から注目を集める何らかの意味でのタレントであることが要求されるようになりました。有名コンクールに優勝した純真な若者がなかなか良い演奏をするぐらいに思っていたら、たちまち超売れっ子タレントに祭り上げられ、いまや全国どこでもチケットは即日完売という現状には、ちょっとついていけません。年末のリサイタルなど見ていると成長がすっかり鈍り、演奏もやや荒れてきたように感じてしまいました。せっかくの才能が惜しいことです。

いっぽうで、そんな何かの要素を持ち合わせない「普通の」演奏家は、あれこれとアイデアを探し回って目立つことをしてみたり、一風かわった形態のコンサートなどが雨後の竹の子のように出てきているようです。

いろいろ言ってもキリがありませんが、一例をあげると古いお寺の本堂や庭などに場所を変えて、伝統的な日本の寺院と西洋音楽のコラボといった、さも尤もらしいコンセプトを掲げつつ、なんの意味も見出せないようなコンサートが企画されたり、あるいは古い木造建築の中で座布団を敷いて聞くクラシックなど、見ていてあまり説得力のない、どれも芸術的必然や深みのない思いつきだけの企画が多いという気がしてなりません。
文化とか融合とか、つける言葉は便利なものがいくらでもあるでしょうが、そこに流れる本質にはなかなか心から共鳴できるような、なにか圧倒的なもの、真の感銘を呼ぶようなものは感じられないのです。

自作だというスポーツみたいな曲をひっさげてヨーロッパまで遠征する異色の経歴を持つピアニストとか、外国人が作務衣を着て、いかにも日本になじんだフリをしてみせたり、いろいろありますが、なんだか表面的なパフォーマンスにしか思えないのは残念なことです。
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日本初のピアニスト

世の中には先を行き過ぎてしまったような人が稀にいるものです。

日本で最初のピアニストとしては久野久(1886~1925)と小倉末子(1891~1944)が有名ですが、ある新聞記事を読んでいると小倉末子という人はたいへんな人だったように思いました。
年は久野久のほうが5歳ほど上だったようですが、まあこの時代のピアノ演奏家としてはほとんど意味のないほどの違いです。

小倉末子は二十歳で東京音楽学校(現芸大)に入学しますが、翌年1912年には中退してベルリンに留学しますが、わずか2年ほどで第一次世界大戦が勃発し、日本とドイツの国交断絶状態により、さらにアメリカへ渡ります。

はじめニューヨークに滞在しますが、そこでコンサートに出演したところ大絶賛、ニューヨークタイムズにも賞賛されて、なんと以降のコンサート契約を得ており、さらにはシカゴ・ヘラルド紙でも大絶賛され、ついにはメトロポリタン音楽学校から招聘されることになります。
24歳という若さで、ここのピアノ科の教授に就任しているのですから驚くよりほかありません。
小倉末子は世界で認められた初めての日本人ピアニストということになるようです。

これは現代であってもかなりの快挙といえますが、それまで日本には西洋音楽の下地などないに等しい明治時代で、ピアノを学ぶというだけでも今からは想像も出来ないような特別なことであったはずなのに、しかもこれほどの快進撃を続けたとは、ただもう唖然とするばかり。

唖然といえば、1916年(大正5年)に帰国した際には、300年のピアノ音楽の歴史を一人で弾くという途方もない内容の連続演奏会を敢行しており、そのプログラムにはバロック作品から、なんとこの時代にシェーンベルクまで弾いたというのですから、にわかには信じられないような話です。
さらには一夜にピアノ協奏曲を3曲弾くこともあったそうで、100年近くも前にこんなスーパー級の日本人ピアニストがいて、こんなものすごい演奏会をしていたとは…。

久野久と小倉末子は日本最初のピアニストとして、二人セットのようにして名前だけは目にすることがあり、二人して東京音楽学校の教授であったことぐらいしか知りませんでしたけれども、いやはや、こんなにも凄腕の、凄まじく進んだ人だったとは思いもしませんでした。

ピアノほど幼年期の経験がものをいう世界もありませんが、小倉末子は大垣藩士の流れをくむ生まれだったそうですが、5歳のときに災害で両親を亡くし、神戸の兄に引き取られます。兄は貿易商で財を成した人であったことから家にはドイツ製のピアノがあり、その妻がドイツ人で末子にピアノの手ほどきをしたことが、末子のピアノを弾くきっかけだったとか。

そういう偶然の環境があったにしても、まったく時代を取り違えたようなそのめざましい活躍は、やはり天才だったのだろうと思わずにはいられません。彼女にはなんとなくある種の悲壮感を感じてしまうのは、世に出る時代があまりに早すぎて、時代が彼女の価値を正しく受け止めきれなかったことのような気がします。
残念なことに第二次大戦中に、時局故に東京音楽学校を退職させられ、その後53歳という若さで亡くなっていますが、もし生きていれば間違いなく戦後の日本のピアノ界を強い力で牽引したであろうことは間違いないでしょう。

末子は独身であったこともあって彼女のことを語り継ぐものが少ないというのも残念なことですが、近年では出身校である神戸女子学院が彼女の軌跡を追っているらしく、アメリカからはたくさんの資料が見つかっているとのことですから、さらに詳しい事がわかるかもしれません。

どんな演奏をしたのか、もし録音があればぜひとも聴いてみたいものです。
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演出過多?

グラミー賞受賞の内田光子さんから、「世界で認められる日本人ピアニスト」繋がりで思い出しましたが、つい先日のテレビで、昨秋スイスの有名コンクールで見事優勝した日本人の女性が留学先から里帰りするのを追いかけたドキュメント番組を見ましたが、番組プロデューサーのセンスなのか本人の意向なのか、そのあたりのことはわかりませんが、マロニエ君的にはあまりいただけない内容でがっかりでした。

まず第一に、ピアノの演奏場面がほとんどなく、これだけの栄冠を勝ち取っても家に帰れば普通の女の子という日常のほうに焦点を当てたかったのかもしれませんが、いずれにしても有名国際コンクール優勝こそが注目すべき事実なのですから、やはりそのことや演奏を中心におくべきではないかと思いました。

ほんの数秒ていど流れたコンクール本選でのラヴェルのコンチェルト(両手の)は、覇気があって鮮やかで、なかなか見事なものだと思いましたから、できればせめてもうちょっと聴いてみたかったのですが、そういう場面は信じられないぐらいわずかで、あとは地元でのどうでもいいような場面が延々と映し出させるのはなんなのだろうかと思います。

出身校に凱旋訪問して後輩達から大歓迎を受けるシーンや、長年お世話になった恩師を訪ねるというあたりは、この手の番組のお約束ともいうべきものでしょうが、そのわずかな演奏から受けた好印象とは裏腹に、ガクッときたのは本人のコメントで「自分の演奏を聴いてくれた人の中に、わずかでも辛いことや悲しいことを少しでも忘れてくれる瞬間があれば、それはすごいことだと思う…」などと、今どきいいかげん聞き飽きたようなセリフで、この人なりの独自の考えや言葉が出てこなかったのはとても残念でした。

さらに見ていて説得力がなかったのは、コンクール出場中に祖母が亡くなったことをコンクール終了まで家族が敢えて伝えなかったというのですが、祖母の死に想いを馳せ、それで帰省中はまったくにピアノが弾けなくなるというくだりはいったいどういうことかと思うばかり。
ピアノの前に座っても鍵盤にまったく触れようとしないシーンなどが、いかにも芸術家がなにかにぶつかって苦悶しているという感じに映し出されますが、いくらなんでも演出過多では…。
祖母の死を重く受け止めることは大切ですが、伝統ある大コンクールに優勝して初めての凱旋帰国なのですから、もう少し素直に喜んで、地元で待ち受ける人々に少しはその演奏を披露するのがこれからステージに立つ者のせめてもの務めだろうにと思いますが。

帰国の前日になってようやくピアノに向かったその姿を、家族がそっとビデオで撮影していたということで、番組終盤にその映像が流されましたが、そこでついに弾き始めたピアノから出てきた音は、なんと祖母がよく口ずさんでいた歌だった!というもので、このあまりに仕組まれたようなお安いオチの付け方には、見ているこっちは、なんともやるせないお寒い気分になるしかありました。

小さい頃からピアノの猛練習に明け暮れ、単身ヨーロッパに留学し、来る日も来る日もなめし革のように鍛えられ、ついには大コンクールを制覇するまでに至った人なんて、良くも悪くもとてもそんな弱々しいおセンチな感性の持ち主であろう筈がないと思うのですが…。
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グラミー賞

今年のグラミー賞の受賞者には日本人が4人含まれていたそうで、一昨日のテレビはこれを大いに報じているようでした。
そのうちの一人が意外なことにピアニストの内田光子さんで、対象となったディスクはクリーヴランド管弦楽団を振り弾きしてやったモーツァルトの23番と24番の協奏曲だそうで、へええ、と思いました。

グラミー賞というのは言葉だけは良く耳にするものの、それがどういうものかは恥ずかしながらマロニエ君はよく知りませんでしたので、ネットで調べてみると、要するにアメリカの音楽ビジネスに貢献したアーティストを讃える目的に作られたもので、分かりやすく言うなら、日本でいうレコード大賞みたいなもののように解釈しましたが、もしかしたら間違っているかもしれません。

まあ内田光子さんが受賞したことはおめでたいことですが、マロニエ君はこのディスクは持っていますけれども、そんなに売れるほどのものとも、内容が際立って優れているとも正直思えないものでしたのでちょっと意外でした。

内田光子の同曲でいうと、20年以上前にジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団とやったシリーズのほうが、マロニエ君としてはアンサンブルの軽妙かつ緻密である点は断然上だし、覇気も高揚感も抜群で、はるかにこっちが優れていると思っています。
モーツァルトといえばウチダといわれた人だけに、あの名演があるにもかかわらず彼女が敢えて再録するにはそれなりの芸術的理由があるのだろうと思って大いに期待して買いましたが、いささか肩すかしを食らった印象でしたので、それに続く同じメンバーによる20/27番はまだ購入もしていません。

受賞の理由があまりよくわからなかったものの、ひとつにはクリーヴランド管弦楽団というアメリカのオーケストラと演奏したことが有利に働いたのでしょうか?

蛇足ながら、内田光子がモーツァルトで再録すべきは、協奏曲ではなく、ソナタ全集のほうだと断じて思いますし、同様のことを誰だったか有名な評論家も言っていましたから、やっぱり!と激しく思った記憶があります。
ソナタ全集は、どう聴いても、彼女の本領が発揮できている演奏とは言い難く、その後、サントリーホールで行われたリサイタルのライブCDは、この全集とは比較にならない素晴らしさがあります。

ところが本人はこのソナタ全集で充分であるという認識らしく、これは到底納得できるものではありませんが、えてして芸術家の自己評価には、ときにびっくりするようなことを言っていることがあるもんです。
アルゲリッチもかつて、あの名演の誉れ高い、アバド/ロンドン交響楽団との共演によるショパンとリストの協奏曲の録音について、「あれは嫌い!」と言下に退けてこの演奏に心酔してきたファンを驚かせた事がありました。

内田光子でいうと、ザンデルリンクの指揮によるベートーヴェンの協奏曲全集も、肝心の3番4番の出来が悪いのはいまだに納得できないというか残念というか、こういうものこそ、やり直しをしてほしいと思うのですが、なかなかこちらの思った通りにはいかないようです。
4番についてはメータとやったライブのDVDはこれまたCDとは別物のような素晴らしい演奏でしたから、そういう演奏ができる人でさえ、必ずしも最高の録音を残し切れていない状況は、我々からするとやきもきさせられます。

まあ、なんであれ、日本人ピアニストが世界で認められるのは結構なことです。
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ディアパソンの力

過日は、機会があってピアノの知り合いのお宅にお邪魔しました。

この方は今では珍しいディアパソンのグランドをお持ちで、そのピアノを見せていただきました。
マンションの中に防音室を組み込まれ、その中に要領よくピアノが鎮座しています。

聞けば、30年ほど前のピアノということですが、とてもそうは見えない、どちらかというと新品に近いような感じるのする美しいピアノでした。
この時代のディアパソンには、まだいくらか設計者である大橋幡岩さんの思想がピアノに残っていて、低音弦の下のフレームには「Ohhashi Design」の文字が誇らしげに記されています。

ちょっと触らせてもらいましたが、やはりヤマハ/カワイとは根本的に違う、ひじょうに立ち上がりの鋭い音が特徴で、いかにもディアパソンらしい明解な鳴り方をするのが印象的でした。
大橋氏は戦前からベヒシュタインを自らの理想としていた日本のピアノ界の巨星ですが、その理念に基づいて設計されたこの大橋モデルには、譜面台の形や足のデザインにもベヒシュタインの流れが汲み取れますし、現在ではグランドピアノではほぼ常識ともなったデュープレックス・スケール・システムをもたず、余計な倍音を鳴らさずに、よりピアノ本来が持つ純粋音を尊重するという考え方だと言えるでしょう。

これはいわば、過剰な調理をせず、素材の旨味を極力活かしたシンプルな料理に似ているのではないではないでしょうか。

とくに現代の平均的な新しいピアノに較べると、ピアノ本体が生まれ持った鳴る力が非常に強く、パワーのあるピアノだと思いました。パワーというのは誤解されがちですが、ただ単に大きな音が出るという事にとどまらず、楽器全体がとても良く響いて楽々と音が出ているという意味です。
ひとの声でも、聞き取りにくい発声の人、細くてくぐもった声の人、無理に大きな声を出す人など、実にいろいろですが、中には生来の通りのいい太い声を持った人というのがいます。
たとえば俳優でいえば武田鉄也氏などは、そういう部類の力まずして通りのいい太い声を出す人だと思います。

そうタイプの太い実直な音がするピアノというのは、なかなかお目にかかれなくなったように思います。
とりわけ印象的だったのは、183cmというサイズにもかかわらず低音域にもかなりの迫力があり、マロニエ君はこれよりもサイズは大きくても、あまり鳴らないピアノをたくさん知っていますから、やはりディアパソンは注目に値するピアノだと再認識しました。
とくにこのピアノの張りのある音色や発音特性はドイツ音楽との相性が抜群で、そのためだけにも所有する価値があるかもしれません。

そのあとは神谷郁代女史の弾くバッハをCDで聴かせていただき、そのディスクの一部にイタリア協奏曲をヤマハのCFIIISとニューヨーク・スタインウェイのDとベーゼンドルファーのModel275の3台で弾き比べをしたものがありましたが、ヤマハはとてもよく調整されているものの根本にあるものは我々の耳に親しんだ響きで、とりあえず普通に聴ける音色。ベーゼンドルファーはこの会場のピアノはとくに上品な音色を持ったピアノで、ベーゼンドルファーはどうかすると逆に蓮っ葉な音になってしまう場合がありますが、そういうところのない、気品溢れる繊細で華やかな響きでした。これに対して、一番特徴的だったのはスタインウェイで、このピアノだけはまったく同じ会場/同じ条件で収録されているにもかかわらず、音が遙か上から立体的に降ってくるのが明らかで、やはりホールのような環境で鳴らしてみると、このピアノだけが持つ独特の音響特性がいかに際立ったものであるかが一目瞭然でした。

ピアノの好きな者同士で話をしていると尽きることがなく、時間の経つのも忘れてしまい、ずいぶん遅くにおいとますることになりました。
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楽器の王様

NHKのクラシック倶楽部では、面白い企画がときどきあります。
最近の放送で印象的だったのは、ピアニストでチェンバリストでもある大井浩明氏による「時代楽器で弾くベートーヴェン」でした。これはタイトルが示す通りにベートーヴェンをさまざまなフォルテピアノを使って聴くというもので、彼はピアノという楽器のまさに開発途上に生きた作曲家であったことから、時期によって様々に楽器がかわり、そのつど新しい楽器や音域に触発されて次々に傑作を生み出したことは良く知られています。

クラシック倶楽部は週末を除いて毎日放送されている55分の番組ですが、多くはコンサートのライブ収録ですが、ときどきスタジオコンサートなどの企画物が紛れ込んでいます。
今回の番組はとりわけ贅沢なもので、一時間足らずの番組のために、スタジオには実に年代やスタイルの異なる6台ものフォルテピアノが結集、それらを時代や楽器の特徴に沿って相応しい曲が演奏されるというものでした。

中にはほとんど音らしい音もしないような古いクラヴィコードで小さなソナタを弾くなど、ちょっと笑ってしまうようなものもありましたが、一番の聞き物は、冒頭に演奏されたリスト編曲による英雄交響曲の第1楽章と、最後に演奏された晩年の弦楽四重奏曲op.133からの大フーガのピアノソロ版でした。
大井氏によると、できるだけ広範囲の作品を紹介すべく、敢えてハンマークラヴィーアのフーガではなく、最晩年の作である大フーガを選んだということでしたが、いやはや見ているだけで頭の痛くなるような弾きにくそうな長大なフーガを淡々と弾いてのけたのには、世の中にはすごい人がいるもんだと思わせられました。
大井氏の腕前はそれはもう大変見事なものでしたし、更に驚くのは彼のピアノは独学で、はじめは理系の大学に行ったという異色の経歴の持ち主なのですから恐れ入るばかりです。

大フーガはオーケストラの弦楽合奏でもごく稀に演奏されることがありますが、フーガのような多声部の作品は、編成や楽器を変えてもちゃんと音楽になるところがすごいもんだと思います。

いっぽう冒頭の英雄は、いかにもベートーヴェンここにありという熱気プンプンで、フォルテピアノであるためか、普通のピアノよりも却って違和感なく自然に聴けたのは意外でした。オーケストラで聴くよりも構造が明解となり、ベートーヴェンのあのとことんまで各テーマをしつこく追いかけ回す執念深さがよくわかります。
しかもそれが抜きんでた芸術作品になっているのですから、いまさらながら驚くほかありません。

フォルテピアノは比較的後期のものでも、全体のサイズはとても小さく、さらにまた大井氏の恰幅が立派なので、いよいよ小振りで華奢な楽器に見えました。
音もとても小さめで、あれではなかなかコンサートホールで演奏するのはむずかしいだろうと思いますが、逆にあのような小楽器こそ、現代の響きすぎる音響の小ホールなら、わりと相性がいいのかもしれないとも感じます。

音色の美しさなどの評価はともかく、やはりフォルテピアノの音というのはいかにも過渡期的な音で、早々に完成されてしまった弦楽器に較べて、鍵盤楽器は発展が遅れたというか、どうしても産業革命の到来を待つよりほかになかったという印象をあらためて強く感じました。

あるピアニストが「現代のピアノはモーツァルトやショパンの時代のピアノに較べれば、さしずめ超高級車かF1マシンのようなものだ」と言いましたが、こうして何台ものフォルテピアノをきいてみれば、それが実感としてひしひしと伝わってくるものです。
ほんとうにそれぐらいの差があるのも頷けるようで、ラフマニノフなどは今と同じ性能のピアノで作曲しましたが、バッハやモーツァルトから現代曲までを一台ですんなりとまかなえる現代のピアノは、まさに巷間言われる「楽器の王様」であることは間違いないようです。
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生涯現役

ピアニストの長岡純子さんが亡くなられたのを知ったのは、確か先週の新聞記事でした。
享年82歳、最後まで現役で昨年もリサイタルをされたようでしたが、実を言うとマロニエ君はその演奏を聴いたことがありませんでした。

かすかにお名前と以前CDのジャケットもしくは雑誌で写真を見たことがあるくらいで、ほとんどその演奏に触れるチャンスがなかったことが今思えばたいへん残念でした。
長岡さんは芸大時代にはあのレオニード・クロイツァーに師事した世代のピアニストの一人で、日本人ピアニストとしては原智恵子、安川加寿子などの次にくる世代ということになります。
卒業後はN響と共演してデビューしたものの、1960年代にオランダに移住されたこともあって、日本ではもうひとつ馴染みのないピアニストだったのかもしれません。

オランダではユトレヒト音楽院の教授なども務められ、とくにベートーヴェンやシューマンには定評があったといわれ、なんと80歳のときに演奏されたベートーヴェンの3番の協奏曲は高い評価を得てCD化もされているらしいので、ぜひいつか聴いてみたいものです。

さて、マロニエ君はNHKのクラシック倶楽部はいつも録画して好きなときに見ているのですが、先週の放送分で、なんとこの長岡純子さんのリサイタルが含まれていたので、オッと思ってさっそく見てみました。
すると、収録されている津田ホールでの演奏会は、信じ難いことに昨年の12月12日、そして亡くなったのが1月18日ですから、これは亡くなるわずか一ヶ月と少し前のリサイタルということになります。

放送された曲目はバッハ(ブゾーニ編曲)のシャコンヌとベートーヴェンのワルトシュタインという、どちらも若い人でも身構えるような大曲でした。
もちろん若者のような体力の余裕こそありませんが、確信に満ちた気品ある演奏はまことに見事なもので、非常に勉強にもなる味わいのある演奏でした。

壮大華麗なワルトシュタインを、まるで4番の協奏曲のように優雅に、格調高く演奏され、その確かな解釈に裏付けられた美しさは絶対に近ごろの演奏から聴かれるものではなく、長岡さんの生涯の長く深い足取りが圧縮されているようでした。
それにしても、豊かな経験と深い信念から紡ぎ出されるその凛とした演奏を聴いていると、まさかこのひと月少し後に亡くなるなんて、まったく信じられない思いでした。
バックハウスは最後の演奏会から7日後に亡くなりましたから、そういうこともあることはわかってはいても、実際に長岡さんの鮮明な演奏の映像を見ていると、この事実がウソのような気がしてなりません。

なんでも12月7日には協奏曲も予定されていたらしいのですが、こちらは体調不良でキャンセルとなり、その5日後のこのリサイタルは、もしかすると無理をおしてステージに立たれたのかもしれないですね。
演奏会後に体調を崩し、入院されていたんだそうです。

最後に弾かれた美しいトロイメライは、文字通り最後の別れの演奏となったようです。

それにしても、園田高広氏が突然のように亡くなった頃からでしょうか、戦前生まれの日本人ピアニストがめっきりと減ってしまったように思いますが、これでまたひとり、貴重なピアニストが天に召されたということです。
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志の問題だそうで

約一年ぶりにピアノの調律に来てもらいました。
本来はもう少し短い期間で来てもらえばいいのですが、技術者の方の腕がいいことと、マロニエ君がそんなにピアノを酷使していないこと(要は練習していない)、さらには湿温度管理はわりにやっているので、そんな事情が複合的に作用して調律の保ちがわりにいいため、この程度のペースでやってもらっています。

作業中は可能な限り子供のように横にはり付いて見ていますが、見るたびにピアノ技術者の仕事というのは大変な仕事で、いわば「静かで緻密な重労働」だと思います。
今回はタッチの調整から調律、整音までをひととおりやってもらって計5時間を超す作業となりました。
それでもしょせんは出張先での作業ですから、かなり圧縮した作業となるのはやむを得ません。

いつもながら調整の終わったピアノを弾くのは、いかにも清新な気分にあふれて気持ちのいいものです。
電子ピアノは調律の必要がないかわりに、この気分ばかりは味わえないはずです。

作業中はいろいろなおもしろい話が聞けるのも楽しみのひとつです。
その中にあったひとつ、「結局のところ、ピアノ技術者は技術の優劣よりも、志のほうがよほど重要」という言葉は、ピアノ技術者の現実を表すいかにも意味深長な言葉でした。
曰く、一定以上の技術を持った人であれば、あとはどこまでの仕事とするか、悪く言えば、どうせ大したこともわからない素人を相手にどのあたりまで手をつけ、どのぐらいで切り上げるかということになってくるのだそうで、手を抜こうと思ったらいかようにも手を抜ける仕事なんだそうです。

考えてみれば、車の整備などと違い、それで人身事故が起こるでもなし、医者の手抜き治療なら健康被害などを恐れるところでしょうが、ピアノの場合、どっちにしろ人に危害が及んで訴訟されるような心配はないわけですからね。
現実にそういう志の低い技術者は実はとても多いらしく、ある意味気持ちはわかるそうですが、恐いのはそれを長くやっていると、いつしか自分の仕事の質が低下していることが自分でもわからなくなってくるんだそうです。

マロニエ君の経験でも、だいたい人当たりが良すぎたり、話の上手すぎる技術者は食わせ者で、自分の技術不足やごまかしを言葉や好印象で補足して、幻惑しようという思惑があるようにも感じます。
控え目ぶった話し方はしていても、要は自慢トークの連発で、他の技術者の悪口を悪口ではないような言葉を使ってちゃんと言い、自分こそは人柄も良く、謙虚で技術も本物と思わせるよう巧みに誘導します。さらに相手の不安を煽りながら、まんまと信頼をとり付けようとするテクニックですね。
だいたいこの手合いは名刺にも肩書き満載で、マロニエ君はそんな人こそ信用しません。

ピアノ技術者の腕は、その人が手がけたピアノでしか判断することはできません。
しかし、多くの場合は、調律を依頼する側は専門家でもないので、ちゃんとしたルートから派遣されてきた、ネクタイをきちんと締めた、礼儀正しい、腰の低い人ならば、それで間違いないと思ってしまいがちで、そこがなんとも始末に悪いところです。

しかし、マロニエ君の経験で言うなら、本物の技術者はどこか磊落で、自分があり、技術はあっても人あしらいはそんなに上手くはないものです。
ピアノ技術者に限りませんが、本当に実力のある人は自分からあれこれとアピールしなくても余裕があり、人間的にも自然体です。逆にやたら親切ごかしな人や、過剰な用心家などはマロニエ君は疑います。

礼儀正しさと不自然な低姿勢は似て非なるものですから、そのあたりをよく観察してみるべきですね。
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緊張緩和

ピアノ演奏に関する本を読んでいると、おもしろいことが書いてありました。

ステージに上がる、あるいは人前でピアノを弾くときに緊張するのはマロニエ君のみならず、多くの人が体験されていることだと思いますが、この緊張という名の魔物は最悪の場合、せっかく練習で仕上げた演奏が本番では崩壊し、その力の半分も披露できないままメチャメチャになるという、努力が水泡に帰すことに繋がります。

緊張は精神のみならず、体の機能にも直接悪影響を与えるので上手くいかなくなるのだそうです。
まず緊張によって体そのものが硬直して動きが鈍り、血行が悪くなり、自宅では考えられないようなミスに繋がっていくようです。具体的には、途中で止まってしまう、暗譜を忘れてしまう、想像を絶するような甚だしいミスを犯す、曲が途中で飛んでしまうなどの「演奏事故」が起こるものです。

最近はスポーツの分野でも、本番での緊張に関する研究が進んでいるらしく、メンタルトレーニングの重要性が広く流布されているそうです。
それもそのはず、フィギュアスケートのジャンプなど、その技術を習得するだけでも並大抵ではないはずですが、それを衆人環視の本番で確実に決めなくてはなんの意味もないわけで、本番に強くなるという訓練も相当に重要だろうと思います。

この本に書かれているピアノ演奏上の対策は、ごく一般的なことではありましたが、対策として関連した3つの方法が紹介されていました。
1つめはどんな体操でもいいから本番の直前に柔軟体操をするというもの。全身がうまくストレッチされると気分が良くなり、血行が良くなり、リラックスできるとか。
2つめは諸事情で直前の柔軟体操ができそうにもない状況では、体中に力を筋肉を緊張させ、その後一気に力を抜くというのを数回繰り返すと、緊張した筋肉部分の血行が良くなる。肩を上げた状態で20〜30秒保って一気に力を抜くと、肩こりも取れるしとても効果的だとか。
3つめは大きく息を吸って、しばらく止めてから一気に息を吐くということを数回繰り返す。あまり急いでやってはいけない。あくまでもゆっくりやること。

このほかには精神安定剤を服用というのもひとつの方法としてありました。
知り合いの医師によると、最近の安定剤はとてもよくできていて副作用もなく、べつに精神疾患でなくとも、あがり性の人が会議の前とか結婚式のスピーチの前などにポンと一錠飲むという、至って手軽な服用の仕方をする人も最近は非常に多いのだそうです。

ついでながら、この本でも紹介されていることですが、大半の人が人前でのピアノ演奏に緊張を覚える中、「緊張しない人」というのも少数は存在するらしく、その特徴は「人に注目されるのが好きな人」なんだそうです。こういう人は緊張というよりも、むしろ至福の時なのでしょう。
咄嗟にいくつかの顔が脳裏に浮かび、なるほどなあと納得して、思わず笑ってしまいました。

いやはや、マロニエ君からみればこんな人は、ほとんど外国人にも匹敵する異人種のようで、その精神構造の違いたるや驚くばかりですが、一面においては羨ましいのも事実です。
緊張するのも快感に酔いしれるのも、根拠や実体があるものではなく、要は本人の認識の問題ですからね。
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十人十色

やれやれ、無事にピアノサークルが終わりました。
とりあえず途中で止まらずに弾けただけでも良しとしたいところです。

いつもながら皆さんの演奏を聴いていると、弾く人によって一台のピアノから様々な音色や表現が出てくるのは実に興味深いところでした。
プロの演奏家のコンサートでは、(グループ演奏会などは別として)演奏者が入れ替わることは通常はないので、こんな聴き較べはできませんが、本当にひとりひとり音が違うのは、いつも聴くたびにおもしろいもんだなあと思ってしまいますし、いまさらのように美しい音色を響かせることは容易なことではないと思います。
強いて言うなら、より難曲に挑戦する人のほうが純粋な音色に対するこだわりは少ないかもしれません。

会場のピアノはヤマハのC3で、これは非常にポピュラーなピアノですし、どうかするとヤマハは「誰が弾いても同じ音がする」などといわれますが、そのヤマハをもってしても全然ちがいます。
明確で肉づきのある音を出す人、やわらかな印象画家の色彩のような音を出す人、強い打楽器的な音の人など十人十色とはこのことでしょうか。

れっきとした表現行為のひとつである音楽は、当然ながらそれぞれの人柄やいろいろなものが色濃く反映されてくるので、奏者が入れ替わり立ち替わり弾くピアノを聴くというのは、飽くことのない独特のおもしろさがあるもんだとあらためて思いました。
もちろんその中には自分も弾くという試練もありますが、それでも他では得られない魅力があるわけです。

いまだに緊張がなくなることはないものの、それでも一年以上ピアノサークルに参加し続けてみて、いま振り返ってみると、はじめの頃のような極度の緊張でほとんど窒息しそうな頃を思い出せば、さすがにほんの少しだけ慣れてきたようにも思われなくもありません。
もちろん、とても「慣れてきた」などという言葉を使えるようなレベルではまったくありませんが、それでも一年前の自分にくらべたら、ほんの少しは鍛えられたようにも思います。
マロニエ君みたいなどうしようもない性格でも、否応なしに鍛えられれば、たとえわずか数ミリでも差が生じるということに、自分でも驚いています。

だからなんなんだ?といわれればそれまでですが、やはりささやかでも何かに挑戦するということは意義深いことだと思い知ったこの一年強でした。

それ以上に皆さんとお会いして親交を深めることはなによりも楽しく有意義なことで、懇親会もレストランのライトが落ちるまで大いに盛り上がりましたし、さらに数名で二次会へと発展して、家に帰り着いたのは1時を大幅に過ぎてしまっていました。

時間が経てば経つほど話題は深まり、いよいよ色彩を放って、夜がふけるのも忘れます。
会話というのは面白いもので、雑談のキャッチボールをする絶好のサイズはどうやら3〜4人というところのようで、懇親会の席でも、そういう単位の中で次々に参加者の顔ぶれや組み合わせが変わっていたのはその表れのような気がします。
二次会ではいよいよ話は熱を帯びるばかりで、放っておけばいつまで続いたか知れたものじゃありません。
一人の方が翌朝6時半起床ということで、ようやく席を立って帰宅したところです。
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ついに当日

ついに満足な練習もできずにピアノサークル当日を迎えました。

まあこれがいつものことですから、取り立てて問題にするようなことではないのですが、やはりきちんと練習する習慣と、その実行力があればどんなにいいだろう…などと思うだけは思います。
しかし、いまさら自分を変えられるはずもなく、そんなできもしないことをグダグダ思ってみたところでどうにもなりません。

ピアノの練習で他の人(もちろんレベルの高くないアマチュアの話として)でまずはじめに感心するのは、ひとつの曲をずっと練習し続ける根気というのがみなさんおありのようで、その点からしてああ自分はダメだ!と思ってしまうわけです。

マロニエ君にとってはひとつの曲だけをずっと続けて練習するというのも難儀で、すぐにあちこちに脱線してしまいます。
ちゃんと弾けてそうなるならまだいいでしょうが、できないクセにそうなるから困るのです。
集中力に欠けるというかなんというか、要は性格でしょうけれど、なまじ曲だけはわりに良く知っているものだから、たとえばショパンのなにか一曲をさらっているとするとそれひとつに集中することができず、ついついその前後の曲まで弾いてみたくなったり、或いは同じ調性の別の曲、あるいは同時代の別作品などに流れていったりして、そんなことをだらだらしているものだから、気が付いたときには肝心の練習はできずじまいで終わったりの繰り返しなわけです。
ピアノの周りに楽譜をたくさん積み上げているのもいけないのかもしれません。

楽譜といえば、ひとつだけ、これは別に自分が正しいという意味でいうわけではありませんが、ピアノサークルで目につくのは、楽譜がどちらかというとコピーであったり、ピアノピースであったりする場合がかなり多く、一冊の楽譜として使っておられる方のほうが少数派だということです。

話の中にもそういう印象があり、自分が練習する曲だけを買うなり安易にコピーするなりしてすませるのは、たしかに簡単で、安上がりで、場所も取らず、持ち運びも軽くて便利で、メリットは多いのかもしれませんが、本来的な言い方をすると、楽譜は半永久的に繰り返し使うものなので、ピアノを趣味として弾いていく以上、楽譜はある程度まとまった形で持っておいたほうが良いと思うのです。

たとえばベートーヴェンのソナタのどれかを弾くとして、とくにそれが有名曲であれば、その一曲だけをピースで買えば事足りるということかもしれませんが、それをソナタ全集の楽譜で持っていれば、前後にどんな作品があったかを知ることも弾いてみることもできるわけで、その作曲家に対する興味や認識もはるかに深まるはずです。
将来また別のソナタを弾くかもしれませんし、とにかく楽譜は折に触れて揃えていたほうがいいと思います。

…話が逸れました。
そんなことより自分のことですが、もうこれ以上は練習しません。
というのも、なまじっか練習が未完なものをあわてて練習名目で触りちらすと、かろうじて形になっていた部分まで、修正の余波を被って崩れてしまう可能性さえあるので、却って危険かもしれないからです。
怠け者には怠け者なりの理屈があるものですね。指使いも間違っているもの、あるいはよりよい運指を思いついたとしても、いまさら本番でパッと実践できるだけの腕も時間もなく、まあそれなりの状態で挑まざるを得ません。

はてさてどんなことに相成ることやらトホホですが、皆さんに会えて、楽しい時間が過ごせればそれがなによりということです。
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明日はピアノサークル

まだ先だと思っていたピアノサークルの定例会がどんどん近づき、ついに明日になりました。
今回も小品を一曲弾くつもりにしていますが、やはり緊張の前倒しというか、やはりどこかに憂鬱な意識があって、それが終わることに目下の目標があるような気分であることは否めません。

人前演奏が苦手で、昨年はとうとう苦痛の域まで達したためにいちど見学参加したことがありました。
自分が弾かなくて良いというのは、それはもう確かに気楽で、表向きはのびのびと快適に過ごすことができました。
しかし、ではそれで心底楽しめたのかといえば、それはどうも微妙でした。

人が次々にピアノを弾いているところを見ていると、やっぱり自分も弾きたくなってくる条件反射みたいなものが間違いなく自分の心の内にあるらしいことにも少し気が付きました。
まあ、テレビで美味しいものの番組などやっていると、思わずお腹が空くようなものでしょう。

「人前では弾きたくないが、ピアノそれ自体は触発されて弾きたくなってくる」というわけです。
それとピアノサークルに参加するということは、たとえ毎回必ずではなくていいから、やはり自分も演奏参加してこそ、こうした集まりに名を連ねる根本的な意義があるような気がします。
上手くは言えませんが、やはり一度はピアノの前に進み出て、同じ苦楽を共にするということにでもなるのでしょうか?

そういうことを考えるようになって前回からまた少し弾くようになり、今回も定例会を目前に緊張を増しているところです。
そのかわり、できるだけ自分に負担が少なくてすむような曲にはなると思いますが、まあそれがどんなに短い一曲であってもいいので、弾くと弾かないとでは、そこに大きな差があるような気がしてきたのです。

そこで、この数日は暇を見つけては練習をしているのですが、人前で弾くと思うと、小品だろうがなんだろうが、一度たりとも満足に弾けないのにはほとほと自分でも参ります。
これじゃあ本番で上手くいくわけがありませんが、まあそれならそれで仕方がないですし、べつにここで前もって言い訳をしておこうというような、そんな魂胆ではありません。

今の心情と事実をありのままに書いているだけですが、とにかくピアノサークルに入ったことで、これまでのように自分一人で楽しむだけなら絶対しなかったであろう種類の練習も否応なしにするようになり、それだけでも自分なりに大変プラスになったとは思いますから、その一点をとってもサークルへの参加は意味があることだったといまさらのように振り返っているところです。
いまさらながら思い知ったのは、そこそこ弾いて放置するのと、あと一歩二歩踏み込んで仕上げに持っていくのとでは、大変な違いがあるということでしょうか。

それと、ピアノサークルを通じて新しい友人知人ができたことは、もちろん最大の収穫ですが、悲しいかな私と同年代の方は少なく、大多数が下の世代になるので、できるだけみなさんのお邪魔をしないよう控え目を心がけないとと思っているところです。

嬉しいのは、最近は懇親会の食事の質が上がってきているようなので、食べること第一のマロニエ君にとってはそこがまた大きなポイントになりかけているところです。
いささか浅ましいようですが、でもしかし、飲み食いが楽しくなきゃ本物じゃありませんからね。
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個人ホール

今日は珍しいコンサートに行きました。
ヤマハでチラシを見て興味を覚え、赴いたピアノのコンサートです。
内容は大分出身という知らないピアニストのリサイタル。

そもそも何に惹かれたかというと、その会場でした。
南区にあるという「みのりの杜ホール」というこれまで一度も見たことも聞いたこともない会場なので、チケットも安かったし、どんなところか見物がてら行ってみることにしました。
あらかじめ主催者に電話で問い合わせをしたところによると、なんでも会場は個人の自宅の別棟に作られたホールとのことで、ますます興味が湧いてきて、普通だったらプライベートホールをただ拝見というわけにもいきませんが、公に発表されたコンサートであれば何憚ることなく行くことが出来ますから。

市の中心部からやや南に位置する場所にあるそこは、カーナビがなければちょっとわからないような入り組んだ住宅街の中で、なるほど大きな敷地のお宅のようです。
駐車場もあるのでそこに車を置かせてもらって、まるでよそのお宅に入るような感じで玄関を入ると間違いなくそこは今夜開かれるコンサートの会場でした。

玄関を入ると、美しい木の感触のある会場が奥にあり、中へ入ると床はきれいなフローリング。椅子がピアノのほうへ向けてずらりと並べられていますが、思った以上に立派なところでした。
しかもピアノはハンブルク・スタインウェイのD型であるのに二度ビックリ。

場所が不慣れな上に、18時半開演ということで、夕方のラッシュアワーになる可能性もあるので早めに出かけたところ、予定よりも少し早く到着し、まだお客さんはまばらでした。
そのスタインウェイはとてもきれいなピアノで、開演前にちょっと拝見したところ20年ぐらい前のもののようで、フレームには野島稔氏のサインなどがありました。

個人でこんな空間を作って、オーナーは人知れず音楽家を招いては楽しんでいらっしゃるのでしょうか。
見たところ50人ぐらいは収容できそうな感じでした。

前半はコントルダンス、ノクターン、マズルカ、バラードなどショパンが弾かれ、後半はドビュッシーの数曲を経て、武満の雨の樹素描II、メシアンの幼子イエスにそそぐ20の眼差しから第20曲「愛の教会の眼差し」が演奏されました。
とくに演奏に感想はありませんが、この夜一番の聴きものはメシアンであったのは論を待たないと思われます。
音楽を通してまさに宗教の一場面に立ち会っているかのようで、これ一曲でも聴けて良かったと思いました。

ピアノに関しては感じるところはありましたが、公開された有料のコンサートとはいえ、個人の持ち物である可能性を考えるなら、やはりあれこれと印象を述べるのは遠慮しておきます。

演奏がすべて終了して帰ろうと席を立ったとき、一人の方からふいに話しかけられました。
見るとピアノサークルのメンバーの方で、長らく参加されていなかった方の姿がそこにありましたが、マロニエ君の姿を見つけてお声をかけてくださったようでした。
この方はピアノもお上手ですが、とてもおもしろいタロット占いをされるので、またぜひ占いを見せてくださいとリクエストしておきました。
この日はお勤め先の方と来られていたようですが、全体的な客層はみなさんなんらかの繋がりのある方ばかりが大半を占めているという、マイナーコンサート特有のいかにもな感じでした。

それにしても、今日はめったにない体験が出来ました。
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クローンみたいな他人

世の中には、赤の他人でもまるで双子のように似ている人がいるというのを知ったのは、ピアノニストの小菅優さんをはじめて見たときからでした。
マロニエ君の友人に小菅優さんと瓜二つの女性がいて、その昔、彼女は同じ仲間内のクラブ員でした。

折あれば良く顔を合わせる人だったので、彼女の顔はよくよくインプットされているのですが、とにかくその彼女と小菅優さんとは気味が悪いほどそっくりなのです。

友人のほうは既に結婚して子供もできたので、以前のようにしばしば顔を合わせる機会はなくなりましたが、CD店などに行ってふいに小菅優さんの顔写真のついたジャケットをみると、それだけでいまだにギョッとさせられます。
顔はもちろん、大まかな体つきとか、醸し出す雰囲気までそっくりなので、一瞬その友人本人がCDを出しているように見えるのです。

もっともその人はピアノはまったく弾けません。
でももし「実は双子の姉妹がいて、彼女はピアニスト」と言われれば、すぐに信用したでしょう。
彼女は三人姉妹の末っ子で、上の二人のお姉さんにも会ったことがありますが、なんのなんの小菅優にくらべたらまったく他人ほどの顔をしています。
さて、マロニエ君はいつもNHKのクラシック倶楽部という番組を録画しているので、時間のあるときによく見るのですが、近ごろその中に樫本大進・川本嘉子・趙静・小菅優によるピアノ四重奏演奏会というのがありました。

普通だと写真で似ているように見えても、動く姿などを見ていればその違いがだんだんはっきりしてくるものですが、小菅優さんに限っては、まったくそういう段階に押し出されるということがありません。
今回もまた、あらためて映像を見てみて、やはりこの似かたはただ事ではないと思いました。

昔から、世の中には自分とそっくりな人が3人(でしたか?)いる、などといわれますが、もし自分とこれほどそっくりな人がいたとしたら、マロニエ君はとてもじゃないですが気持ち悪くてかないませんから、まちがっても会いたくはありませんね。

ところで、小菅優さんは、その演奏する姿がいつも情熱的で、音楽にノリノリのような激しい燃焼感を伴っているように見えるわりには、音がいつもくぐもっていて不思議というか、もうひとつはっきりした音が出ないピアニストのように感じていましたが、今回の映像でも同様の印象を受けました。
カーネギーホールのライブや小沢征爾とのメンデルスゾーンのコンチェルトを入れたCDも買いましたが、やはり音がモコモコしていて、ふわふわに柔らかいハンマーで鳴らしているピアノのような感じです。
柔らかいだけなら結構ですが、明らかに鳴らないのはストレスです。

よほど非力な人なんだろうかとも思いますが…とてもそういうふうにも見えませんし、なんだかとっても不思議なピアニストです。
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アヴデーエヴァが使うピアノ

最新の音楽の友誌によると、アヴデーエヴァの初来日の様子がグラビアで紹介されていました。

12月4/5日に行われたNHK交響楽団との共演については大変な褒め方で、以前ならこういう文章は違和感を覚えたはずですが、最近ではすっかり醒めて捉えるようになりました。音楽の友といえば日本で最も有名なクラシックの音楽雑誌ですが、それ以前に多くの広告などを背負った商業誌なのですから、カラーで紹介される巻頭記事は事実がどうであれ肯定的なものでなくてはならないということでしょうか…。

しかし、何事もこういう感じに素人が業界事情を察したような見方をしなくてはいけないことは、世の中の傾向としては好ましいこととは思いませんし、テレビのインタビューなどでもこうした言い方を事情通ぶって展開する一般人が増えたように思います。
こういう現実にだんだん馴れてきたマロニエ君ですが、さらにそこには意外な事実がありました。

NHK交響楽団との共演でアヴデーエヴァがスタインウェイを弾いた事情については、ブログの読者の方からコメントで「NHKホールはピアノの持ち込み使用ができないから」という、まことに不可思議な不文律があるためということを教えていただきました。NHKというのは一種独特の組織なので或いはそういうこともあるのでしょう。

ところが、急遽リサイタルが決定したらしく、12月8日、会場は東京オペラシティのコンサートホールで行われたようですが、そのリサイタルの写真を見ると、なんと、またしてもCFXではなくスタインウェイを弾いているのです。
まさか東京オペラシティまでピアノの持ち込みができないとも思えませんので、何があったのか考え込んでしまいましたが、これ以上は想像ですから遠慮します。

そもそもホールのピアノにまつわるルールというのは、ホールの備品であるピアノは専属の調律師以外には触らせない、あるいはピアニストが自分の好む調律師を希望する場合は調律のみでアクションその他には一切手をつけず、場合によっては専属調律師が立ち合いをする(変なことをしないように目を光らせている)という、まことに厳しいルールがありますが、しかしピアノそのものの持ち込みができないというのは普通ありません。

ホールのピアノ管理については上記のような業界事情から、こだわりのあるピアニストや技術者は自分のピアノを準備して、それを全国どこへでも運んでコンサートをやっているという少数派も中にはいるわけです。これならホールの楽器ではないのですから、誰が調整しようがホール側は口出しできませんし、そもそもホールは基本的にホールという場所と空間を時間貸しするのが商売なのであって、楽器の持ち込みなどには関与しない(できない)のが普通です。
こういうことを前提に考えても、アヴデーエヴァがなぜリサイタル(NHKホールではない会場)でもCFXを弾かなかったのかということについては、マロニエ君は業界人でもなんでもないのでまったくわかりません。
ただ、ひとつ不思議に思っていたのは、ショパンコンクールが終わった後も、ヤマハはCFXの広告にヤマハ演奏者が優勝という事実をひとことも伝えてきませんので、これはまたずいぶんと控えめなことだと思っていました。
むしろ「それしきのことでは騒がないよ」というお高くとまった沈黙のメッセージかとも思っていましたが、かつてリヒテルが存命中は何かと言えばリヒテルリヒテルと、うんざりするほど広告でそれを謳っていたころを思い出すとずいぶんな変わり様だと思っていたところでしたが…。

その音楽の友最新号には、中ほどにCFXに関する記事もありましたが、開発者の談によれば支柱から響板の強度を増して響きを重視、フレームも新設計ということにくわえて、従来のものより柔らかいハンマーを使っているとありました。これはまったく頷けることで、CFXはピアノが良く鳴るのに音がふくよかという一大特徴があると感じていました。

これはピアノ設計としては理想形であって、その逆、つまり鳴らない楽器を固いハンマーでカリカリと鳴らすのはまったくいただけないやり方です。ピアノに限った話ではありませんが、楽器というものはまずもって本体が楽々と鳴るという事、これに勝るものはありません。
またコンサートでCFXを聴いてみたものです。
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リスト弾き

考えてみればリストという作曲家ほど、わかりやすいようでわかりにくい、明解なようで難解な、最も通俗的なようでそうでもないところもある作曲家も珍しい気がします。

そんなリストですから生誕200年と言っても、やはりショパンのようなわけにはいかないのは明らかでしょう。

前回往年のリスト弾きの名前を挙げましたが、現在はだれもがあまりにもオールマイティなピアニストを目指すので、特定の時代や作曲家だけを得意とする○○弾きという人はほとんどいなくなったようですね。
リストと同じハンガリー出身のジョルジュ・シフラは超絶技巧をウリにするリスト弾きでしたし、リストの作品を広く世界に広めるには大きな貢献をした人です。でもこの人は超絶技巧をウリにしながらもとても純粋な心をもった人でもあったようで、ショパンなどにもそれなりの名演を残しています。
たしか晩年はまだ初期の頃のヤマハCFを愛奏していました。

リストと言えば強烈だったのは、ラザール・ベルマンの超絶技巧練習曲です。
リヒテルやギレリスでロシアピアノ界の圧倒的な凄さを見せつけられていたところへ、またぞろこんな怪物がいるのかと思わせたのが、人間業とは思えないベルマンのこのレコードでした。
こんな恐ろしいまでの腕を持ちながら、ほうぼうのレコード会社に自分を売り込むなど、大変な苦労をしたというのですから、当時のソ連の社会というのは想像を絶するきびしいものだったことがわかります。
西側へデビューしてからは来日もしましたが、思ったほどの盛り上がりはなかったように思います。

フランス・クリダはずいぶん前には頻繁に来日し、やたらめったらリストを弾いていたような記憶がありますが、その後はなぜかステージからはパッタリと姿を消してしまったようです。
クリダのCDは一枚も持っていないので、ずいぶん前に買ってみようと思った時期があったのですが、どこをどう探しても見つかりませんでした。それが今年、リストの主要な作品全集ということで14枚組で発売されることになりましたので、これはぜひとも購入してみるつもりです。
たしかに、こういう普通なら絶対になかったであろう企画物が出てくるところは生誕・没後の年の面白味だろうと思います。

その最たるものは、レスリー・ハワードの演奏によるリストのピアノ作品全集で、これまで分売されていたものが、ついに99枚組!という恐ろしい数のセットとなって発売されることになったようです。
ハワードはこのリストの大全集を作ることをライフワークとしていたそうですが、まさに大願成就というところでしょうし、マロニエ君は全集というものを必ずしも双手をあげて賛成しているわけではないのですが、さすがにここまでくればまさに一大事業で、いやはや大したものだと思います。

これを購入するか否かは大いに悩む点です。
資料的な価値は唯一無二のものがあると思われますが、そもそもそれほど好きでもないリストですから、安くもないこんな強烈な全集を買っても聴き通す自信もないですし。
でも妙に気になる全集であることはたしかなので、もう少し検討してみようと思います。
こういうものは買うべき時に買っておかないと、絶版になったりするのもわかっていますから。
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リストの生誕200年

昨年のショパン/シューマンの生誕200年に続いて、2011年はリストのそれにあたるようです。

生誕200年や没後何年というのが音楽の本質にどれだけ意味のあるかどうかはともかく、少なくとも音楽ビジネスの世界ではそこにあれこれと理由付けをして企画が出来るという点では、いい節目になるのだろうと思われます。

しかし現実には昨年の生誕200年も注目の大半はショパンであって、シューマンはほとんど不当とも言えるほど陰にまわってしまったというか、ショパンの圧倒的な存在感の前ではさしものシューマンもなす術がなかったという感じでした。
シューマンの不幸はショパンというあまりにも眩しすぎるスターと生誕年が同年であったことにつきるわけで、これが一年でもずれていればまた違った結果になったという気がしなくもありません。
そういう意味で、リストは大物に喰われる心配はないようですが、ショパンの翌年ということで、少しはその余波が残っているのではないかと思われますし、リスト単独で注目を集めるほど現代人の意識にとって彼が大物かと言えばいささか疑問の余地も残ります。

リストはいうまでもなく、ロマン派のピアノレパートリーとしてはほぼ中心の一角をしめる音楽歴史上(とりわけピアノ音楽、演奏技巧、リサイタルの在り方、楽器の発達史など)の超大物ではああることは間違いありません。しかし一般的にモーツァルトやショパンに較べてどれだけの神通力があるかたいえば甚だ疑問です。
作品もピアノ曲だけでもまことに夥しい量ですが玉石混淆。

とくにリストの場合、その膨大な作品数に対して有名な曲はきわめて少数で、一般的に知られている作品はほとんど一割程度じゃないか…ぐらいに思います。これがショパンの場合は大半の作品が広く知られて親しまれているわけで、あまりにも対照的ですね。

実はマロニエ君自身も、リストはそれほど好きな作曲家ではなく、よく聴く曲はせいぜいCD4〜5枚に収まる範囲で、それ以外は何かのついでやよほど気が向かなければなかなか積極的に聴こうという意欲はわきません。
リサイタルの演目としては、後半などにリストを少し入れておくのはプログラムの華として効果的だとは思いますが、演目の中心になるような作品はソナタなど多くはないというのが実情のような気もします。
ごく一部の、例えばバラード第2番とかペトラルカのソネット、詩的で宗教的な調べ、超絶技巧練習曲のうちのいくつかなど(ほかにもありますが)、真に深い芸術性に溢れた、それを聞くことで深く心が慰められ真の喜びを与えられるような作品は一部だという印象はいまだに免れません。

これらの曲はしかし、いわゆるショパンの作品のように一般受けするような曲でもなく、有名なのはラ・カンパネラや愛の夢、メフィストワルツ、ハンガリー狂詩曲の2/6/12番、リゴレットパラフレーズ、ピアノ協奏曲第1番あたりではないでしょうか。

リスト弾きと言えば思い出すのは、ジョルジュ・シフラ、ホルヘ・ボレット、フランス・クリダなどですが、そのあたりのことは長くなりますので、また別の機会に書きます。
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河村尚子

河村尚子さんは、おそらくいま日本で売り出し中の新人ピアニストという位置付けでしょう。
幼少期からドイツに渡り、ハノーファー音楽芸術大学に進み多数のコンクールに出場したとあるので、ずっとドイツで育ったということなんでしょうか。
何であったか忘れましたが、わりに評判がいいというような噂も聞こえてきていました。

昨年11月だったか福岡でもちょうどこの人のリサイタルがあり、できれば行ってみようかと迷っていたのですが、結局どうしても都合が付かずに聴けませんでした。

するといいタイミングにNHKの放送で、昨年紀尾井ホールで行われた河村尚子ピアノリサイタルが放映されました。曲はシューマンのクライスレリアーナ、ショパンの華麗な変奏曲など。

解釈はオーソドックスでその点ではすんなり聴くことができました。
直球勝負的な演奏で、今どきよくあるつまらない小細工や名演の寄せ集め的なことをしないところは好ましく思えましたが、表現の多様性に欠けるのことがクライスレリアーナの2曲目以降から明瞭になりました。とてもよく弾き込まれている感じは受けましたが、残念なことにこの曲に必要な幻想性や文学的な奥行き、あるいは抽象表現がなく、あくまでもひとつの楽曲としてのみ捉えられているように思います。

また、テクニック的には今どきのピアニストとしてはごく平均的なレベルにとどまるというか、強いていうならややこの点は弱いように思いました。ミスが多かった点はまだマロニエ君は許せるのですが、基本的なタッチコントロールが不十分で、シューマンの音楽に必要な立体交差するような響きがまったく表現できないことは、この人の最も大きな問題点のように感じられました。

ドイツでみっちり教育を受けているらしいこと、また、内的な表現をしようと努めているらしいのはわかるのですが、曲の表情や息づかいなどの解釈あるいは表現の要素となるものが、ごく単純な喜怒哀楽の入れ替わりのみで処理されていくのもやや浅薄な感じが否めません。
幅の広さを持った音楽家というよりは、いかにもピアノ一筋でやってきた人という狭さを感じてしまいます。

ステージマナーも外国仕込みといわれればそれまでですが、いかにも大振りで、本物の音楽家でございというちょっとふてぶてしいまでの表情や所作が気になるところ。べつに、いつもニコニコして両手を前で握って可愛らしくお辞儀…などとはまったく思いませんが、それにしてもニヤリと会場を睨め回すような目つきや、両手は肩の付け根からブラブラさせるような動きは、いささか日本人の仕草としてはマッチングが悪いようにも思いました。

なによりも、ピアノの女性独特の気合いの入り方と怖さがあって、ポスターのあのあどけない少女のような雰囲気とはまったく違う人のように見えました。
この河村さんに限らず、頻繁に使う写真が実際のイメージとはあまりにもかけ離れているのは、見る者にはひとつの印象を覆すものとなり、却ってマイナスではないかと思いますが。
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エストニア

エストニアという名のピアノをご存じでしょうか?
旧ソ連時代、ロシアでは最も代表的な自国のピアノで、連邦内の大半の音楽学校やコンサート会場ではこのピアノが広く使われているということは耳にしていましたし、現在でも世界中の多くのロシア大使館にはこのピアノが設置されているといわれています。
(ちなみに20年以上前、マロニエ君が東京の麻布台にあるソ連大使館で行われたコンサートに行ったときは、ピアノはエストニアでなくヤマハのCSでした。)

マロニエ君は長いことこのピアノのことをロシア製ピアノだと疑いもせずに思いこんでいましたが、エストニアはその名の通り、現在のエストニアで製造されるピアノで、国名がそのままピアノの名前にもなっているというわけです。そして旧西側世界ではほとんど馴染みのないメーカーでもあります。
旧ソ連時代はエストニアも連邦の中に組み込まれていたので、ソ連製ピアノという括りになっていましたが、ソ連崩壊以降、諸国には独立の気運が高まり、バルト三国のひとつであったエストニアも1991年に独立を果たし、現在では主権国家となっていますから、もはや「ロシアのピアノ」という捉え方はできなくなりました。

理屈はそうなのですが、マロニエ君はいまだに「エストニアはロシアのピアノ」というイメージがなかなか払拭できません。

そのエストニアが、まさか日本で販売されているなどとは夢にも思っていませんでしたが、なんと広島の浜松ピアノ社の手によって輸入販売されているということを知って大変驚きました。
これを知ったきっかけは、広島のある教会へ、このエストニアピアノのコンサートグランドを2台納品したということが、この店の社長のブログに書かれていることが目に止まったことでした。
教会にピアノというのはよくあることですが、それがコンサートグランドで、しかも2台で、おまけにメーカーがエストニアとくればいやが上にも興味を覚えずにはいられません。

さっそくお店に問い合わせをしたところ、社長直々にまことにご丁重なお返事をいただきました。
それによると、エストニアピアノの社長とは個人的にお知り合いなのだそうで、現在日本では唯一この浜松ピアノ社が輸入販売をしておられるらしく、店頭にも一台グランドが展示されているというのですから、これは非常に貴重で特筆すべきことでしょう。

エストニアのグランドは168、190、274の3種類という意外なほどシンプルな陣容ですが、価格もいわゆる高級輸入ピアノの約半額といったところのようですから、それほど高くはないようです(もちろん絶対額は高いですが)。
勝手な想像で、価格やその成り立ちなどから、好敵手はチェコのペトロフあたりだろうか…と思いますがどうなんでしょう。

マロニエ君は一度もこのピアノの実物を見たこともなければ、ましてや音を聴いたこともないので、はたしてどんなピアノか興味津々というところです。なにしろロシアで最も広く愛用されたピアノということで、その音色はやはりロシア的な重厚でロマンティックなものだろうかなどと想像をめぐらせてしまいます。
YouTubeでエストニアピアノの音を聞いた限りでは、音の伸びが良いのが印象的で、思ったよりも遙かにクセのない、良い意味での普遍性があって、誰もが受け容れられるとても美しい音色のピアノだと感じました。現代性とやわらかさを兼ね備えるという意味では新しいヤマハに通じるものがあるようにも感じましたが、なにしろYouTubeで聞いただけですから、あくまで大雑把な印象ですが。
ここでの比較で言うならペトロフのほうが野性的で、エストニアはより洗練された印象でした。

超絶技巧の第一人者として有名な名匠マルク・アンドレ・アムランは、コンサートや録音にはスタインウェイを使ういっぽうで、自宅のピアノとしてエストニアのコンサートグランドを購入したという話を以前聞いたことがありますから、やはりこのピアノならではの独特な個性や魅力があるのだろうと思われます。

それでなくても、旧ソ連のころからの伝統あるメーカーというのは、なんだかそれだけで謎めいていて、そそるものがあります。昔のロシアの巨匠達は皆、このピアノで腕を磨いて大成していったのかと思うと、あの偉大なロシアピアニズムを支えたピアノとして、とてつもないノスタルジーさえ感じてしまいます。
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征爾とユンディ

衛星ハイビジョン放送では過去の優れたドキュメント番組の再放送をしきりにやっていますが、『征爾とユンディ』というのは、以前見ていましたがもう一度見てみました。

テレビ番組といえども、読書と同じで、2度目には初回とはいくぶん違った印象を持つものです。
以前は見落としていたことや、制作者の意図がようやく理解できたりと、2度目は見る側にも余裕があるのでより細かい点まで目が行き届くようです。

この番組は、ユンディ・リがショパンコンクールに優勝して数年後、世界的な演奏活動も軌道に乗ってきたころ、小沢征爾の指揮するベルリンフィルと初共演をする数日間をドキュメントとして追ったもので、曲も難曲中の難曲として知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番に挑みます。

しかし、番組構成の主軸はユンディのほうにあり、ベルリンフィルとのリハーサルの様子などを随所に織り込みながら、もっぱら彼の生い立ちなどが多く語られました。小さな頃はアコーディオンを習っていたのをピアノに転向し、しだいに才能を顕し、中国で一番という但昭義先生の指導を仰ぐようになってさらに才能を開かせたユンディは、ついに世界の大舞台ショパンコンクールの覇者にまで上り詰めます。

子供のころからの写真がたくさん出てきましたが、どれもなかなか可愛らしく、彼はピアノの才能もさることながら、小さい頃から中国人としてはかなりの器量良しであったようです。しかもランランのような、いかにもベタな中国人というよりは、どこか西欧的な繊細な雰囲気も漂わせたルックスである点も、国際的なステージ人としては強い武器になっていることでしょう。

ユンディの「出世」によって家族の生活は一変し、もともと化粧をしない中国人女性(最近は少しは変わってきているようですが)の中にあって、お母さんはえらく強めのメイク(まだ馴れていない様子)などをして服装もあれこれと今風にオシャレをしています。
祖父母のほうは見るからに中国の一般的な年輩者という感じでしたが、昔と違ってほとんど孫に会えなくなったと、海外を拠点に演奏旅行に明け暮れる遠い存在となったユンディのことを半ば戸惑いながら話しているのが印象的でした。

ベンツの最新のSクラスをユンディ自ら運転して、高級料理店に一家で赴き、きらめくような個室の席で一羽丸ごとの北京ダックを数人の給仕人のサービスによって切り分けられて、それを忙しくしゃべりながらむしゃむしゃ食べるシーンなどは、見るからに中国の富裕層のそれで、彼がいかにピアノという手段でそれを獲得し、家族までもその恩恵に与らせているかをまざまざと見るようでした。

ユンディがピアノのこけら落としをした北京の中国国家大劇院は途方もない建物で、こういう贅を尽くしたホールなども恐らくあちこちにできているいるのでしょう。なにしろ現在中国でピアノの練習に励む子供の数は、実に3000万人!!というのですから、いやはや恐るべき規模であることは間違いありません。
そりゃあ、ヤマハもカワイもスタインウェイも、多少のことは目をつむってでも中国へビジネスチャンスを求めるのは無理もないでしょうね。
そしてこういう希有な市場規模をもっているからこそ、経済至上主義の現在にあって、世界各国は中国に対して断固たる態度が取れないという困った問題を抱えているのだと思います。

いっぽう、ベルリンフィルハーモニー(ホール)で驚いたのは、スタインウェイのD(コンサートグランド)がウソみたいにごろごろあることでした。ピアノ選びということもあってかステージ上には4台、通路のようなところやちょっとした控え室みたいなところにもあちこちポンポン置いてあって、演奏者の個室にはB型ぐらいのがありました。

残念だったのはせっかくのベルリンフィルとの共演の場面が少しもまとまって見ることができなかった点で、いかにドキュメントとはいえ、やはり二人は音楽家なのですから、その本業の場面をちょっとぐらい(2〜3分でもいいので)落ち着いて見せて欲しいものです。
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みんなのショパン2

「みんなのショパン」は残りの第3部を見て、合計4時間半の番組を完食しました。

全編を通じて印象に残ったもののひとつは第1部で演奏されたピアノ協奏曲第1番で、小学生から高校生までの子ども達で構成された「東京ジュニアオーケストラソサエティ」というオーケストラが、思いがけず素晴らしい演奏をしたのは驚きでした。
中途半端なプロのオーケストラよりよほど音楽性もあり、繊細で瑞々しい魅力があったのは大したものです。
中には本当にまだ子供なのに利口な眼差しでちゃんとヴァイオリンを弾いていたり、子供用の小さなチェロで演奏していたりしますが、聞こえてくる演奏は本当に立派なもので、あっぱれでした。

この3部に至って中村紘子女史のご登場でしたが、例のごとくの演奏で見る者をいろんな意味で楽しませてくれたようです。彼女の演奏の時だけ画面はうっすらと淡いフィルターみたいなもののかかった映像になったのも妙でした。
他のピアニストのときはすべてハイビジョン特有の鮮明映像でしたが、よほど女史からの特別注文があったのかどうかはわかりませんが、ここだけちょっとアナログ時代の映像のようでした。
あいかわらず紘子女史だけのこだわりのようで、椅子は一般的なコンサートベンチではなく、背もたれ付きの例のお稽古風の椅子で、これを最高の位置までギンギンに上げているところも健在でした。

また番組ではまったくピアノが弾けないというお笑いタレント、チュートリアルの徳井氏が、仲道郁代さんを先生に、一ヶ月間猛特訓し、仕事の合間にも練習に練習を重ねて別れの曲(中間部は無し)を披露しましたが、楽譜は読めない、指は動かないという条件の中でなんとかこれをやり遂げたのは大したもの。まさに努力賞でした。

ブーニンやブレハッチなど、多くのピアニストによるスタジオ演奏が披露されましたが、圧倒的な存在感と芸術性を示したのはダン・タイソンでした。
傑作バルカローレとスケルツォの2番を弾きましたが、ひとりかけ離れた格調高い演奏は、ようやくここに至って「本物」が登場したという印象。
音楽の抑揚や息づかい、落ち着き、音節の運びや対比などにも必然性があり、さすがでした。

番組で使われたピアノは大半がスタインウェイでしたが、一部にヤマハのCFXも登場。
やはり以前のヤマハとは別次元の鳴りをしていて、高度な工業製品から一流の楽器へシフトしたという印象です。
確認しただけでも3台のスタインウェイDとヤマハのCFX、さらには番組冒頭に三台のピアノで弾かれたショパンメドレーみたいなものの中には2台のスタインウェイのBに混じって、ヤマハのCF6(新しいCFシリーズの212cmのモデル)があったのは予想外で、テレビとはいえCF6を見たのは初めてです。

番組ではアンケートを受けつけており、一番好きなショパンの作品の第一位は英雄ポロネーズに決しました。
最後に横山幸雄氏がこれを演奏しましたが、これもまたハイスピード演奏で、横山氏の指が達者なのはわかっても、全体はまるで疾走する新幹線の窓から見る景色のようで、曲を味わっているヒマはありませんでした。
小刻みに頭を左右に振りながら手早く弾いていくその姿は、まるで寿司職人が俎の前で忙しく働いているようでした。

決して内容の濃いものではありませんでしたけれども、それでもじゅうぶんに楽しめた4時間半でした。
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みんなのショパン

昨年10月にNHKで放映された「みんなのショパン」という番組が、正月番組のアンコール用に再編成され、約4時間半が3分割されて再放送されました。
昨年観ていなかったので、これはチャンスとばかりに録画しました。

そのうちの2つまで見たのですが、笑ってしまったのはショパンの生前、楽譜が出版されるときに出版社が勝手に曲に名前を付けて売り出そうとするので、ショパンはそれが許せなくて怒り心頭だったということでした。

それもそのはず、作品9のノクターン(第1番〜第3番)は「セーヌのさざめき」とかいう陳腐な名前を付けられそうになったとかで、気分としてはまったくわからないでもないものの、つくづくそんな恥ずかしい名前にならなくてよかったと思うばかりです。
名前というのはあったほうが一般ウケはするのでしょうから、少しでも売れて欲しい出版社としてはそういう小細工をしたいのはわかりますが、しかしかえって曲のイメージが限定され、作品本来の価値や広がりを妨げるようになるでしょう。

もう一つショパンが激怒したというのがあって、スケルツォの第1番を「地獄の宴」とされそうになったらしく、これはいくらなんでもひどいですね。たしかに冒頭の高音部の強烈な和音を皮切りに下から次々と湧き起こってくる激情の連続は不気味といえば不気味ですが、では中間部のこの世のものとも思えないあの美しいポーランドの歌の旋律はどう説明するのだろうかと思います。地獄の対極である天国でしょうか。

こんな調子なら、スケルツォは有名な第2番冒頭のアルペジョなども「悪魔の宴」とでも言えそうですし、激しいオクターブの三番も「恐怖の宴」とでもなりそうで、かろうじて4番だけがスリラー系から免れそうです。

スタジオにはピアニストのお歴々も座っていらっしゃいましたが、ではその「地獄の宴」の冒頭部分をちょっと弾いてみてくださいといわれて、ピアニストの山本貴志氏がピアノの前に進み出ました。するといきなりすさまじい前傾姿勢と表情でこの曲の冒頭を弾きはじめ、てっきり「地獄の宴」に似つかわしいパフォーマンスで視聴者にサービスしているのかと思いました。
というのも、実はマロニエ君は山本貴志氏は映像を見るのは初めてだったのです。

ところがその後で遺作のノクターンを通して弾きましたが、たったあれっぽっちの曲を弾くにも「恐怖の宴」のときと変わらない(すごく真剣なのでしょうけれど)、今にも叫び出さんばかりの嶮しい表情で、まるで曲に挑みかからんばかりのその迫真の姿は、どうにも笑いをこらえることができませんでした。

背中はおばあさんのように曲がり、その背中より顔のほうが低いぐらいの姿勢ですから、ともかく尋常なものではありません。口や鼻はほとんど手の甲に触れんばかりで、ずっと必死の形相ですからお腹でもこわして苦しんでいるようです。鍵盤蓋がなかったら、アクションの中へスポッと頭が入っていくみたいでした。
ところが、いったんピアノを離れると、憑きものが落ちたように穏やかな笑顔が魅力的な青年でした。

これとは対照的に、バラードやエチュードを弾いた横山幸雄氏は、淡々と、作品の細部に拘泥することなく、しかもやたらハイスピードで飛ばしまくりです。でもすごく汗っかきみたいですね。

ちょっといただけなかったのは、華道家とかいう、えらく地味で和風な顔なのに髪だけは長い金髪の不思議な御仁で、出てくるなりあたり構わず猛烈にしゃべりまくり、明らかに浮いてしまっているのが生放送なぶん隠せません。
おじさんの自己顕示欲とおばさんの逞しさの両方を兼ね備えているようでしたが、司会の女性が明らかにこの人を無視して番組を進行させたのは拍手ものでした。
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ホロヴィッツ

もうひとつ、ホロヴィッツの名で思い出しましたが、ホロヴィッツが1983年に初来日した時、チケットの発売は前々から告知されたものではなく、新聞かなにかで突如「明日発売」というふうに発表されました。

それでそのチケットを求めて多くの人が何時間という行列に挑むことになりました。
あの中村紘子さんは、ジュリアードの留学時代に、ステージから遠ざかったホロヴィッツが12年間の沈黙を破って行われた1965年のカムバックリサイタルを聴いていますが、そのときもチケットを手に入れるために若さとジュリアードの友人達との楽しさも加勢して、文字通り徹夜で並んでチケットを買ったそうです。

寒い外に長時間行列する人々を気遣って、ワンダ夫人(トスカニーニの娘で、恐妻ぶりで世界的に有名な夫人)が紙コップに温かいコーヒーを振る舞ったとか。ある人が彼女に向かって謝意を述べるとともに「12時間待っています」というと、夫人はこう答えたとか、「そう?私は12年まったのよ」。

お膝元のニューヨークでさえこうなのですから、日本にいながらにしてマエストロのほうからやって来てくれるのなら、少々の行列ぐらいは当然といえば当然なのかもしれませんし、ましてや行列文化発祥の地の東京ならなおさらでしょうが、マロニエ君はとにかくこの行列というのが理由如何に問わず嫌いなので、この時ホロヴィッツは聴けませんでした。
会場は神南のNHKホール、チケットはピアノリサイタルとしては空前のプライス5万円というものでした。

演奏はなにかの薬の飲み過ぎとやらで惨憺たるものだったことは周知の通りで、ほどなく放映されたテレビでその様子を見て悲痛な気持ちになったことを良く覚えています。とくにシューマンの謝肉祭は当時のホロヴィッツのレパートリーにはないものでしたから、その点でも期待は何倍にも高まっていましたが、始まってみるや謝肉祭もなにもあったものではありませんでした。
当時の日本人は今と違ってまだ元気が良かったので、拍手の「ブラヴォー!」に混じって「ドロボー!」という声があちこちから飛び交ったそうです。ピアノリサイタルのチケット代は世界のトップアーティストでもせいぜい1万円以内、スカラ座やウィーン国立歌劇場の総引越公演でも3万円代の時代での、ピアノリサイタルで5万円ですからね。

ところが友人の一人がこのリサイタルと、3年後の昭和女子大人見記念講堂でやったときも両方を聴いていて、それだけでなく、なんとホロヴィッツ本人に会い、プログラムにサインまでもらったというのですから呆れてしまいます。
来日時のホロヴィッツは、ロック歌手ほどではないにしても、とてもファンが楽屋口で待ち構えてサインをねだるというようなことが可能な相手ではなく、そんなことは夢のまた夢、完全警備の中、包み込まれるようにして会場を後にしたといいます。
ではどうしたのかと言えば、ホロヴィッツ一行が夕食を終えてホテルに戻ってくるのを、宿泊していたホテルオークラのロビーでじっと待ちかまえていたんだそうです。

するとついにホロヴィッツが現れたそうで、果敢にも歩み寄ってサインを求めたところ、周囲の制止を振り切って意外にも気軽に応じてくれたとのこと。
しかもです、一度ならず二度も同じ方法でホロヴィッツを待ちかまえ、その都度サインもしてもらったというのですから、むこうも少し覚えてしまったようで、いやはや阿呆の行動力というのは恐ろしいものです。
ついでに二言三言演奏について意見を言ったというので、それを聞いたマロニエ君はその図々しいクソ度胸のなせる技にひっくり返りそうになりました。
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キャンセルの思い出

きのうNHKホールのことでホロヴィッツとミケランジェリという名前を出したことで思い出しましたが、マロニエ君はコンサートの会場玄関まで行っておきながら、いきなりの公演キャンセルに遭遇し、相当楽しみにしていたリサイタルを聴き逃した苦い思い出が2つあります。

ひとつはミケランジェリです。
もう20年以上も前のこと、ミケランジェリをついに生で聴けるというので、まさに意気揚々と会場へ赴いたところ、あたりが不思議なほど静かでちょっとした違和感を覚えました。見るとNHKホールの玄関に張り紙がしてあって、何人もの人達がそれをじっと見上げていました。
詳しい文言は忘れましたが、大意は「ミケランジェリ氏の納得できるコンディションが整えられない為、やむを得ず本日のリサイタルは中止と決定されました。誠に申し訳ありません云々」というような意味でした。
茫然自失とはこのことで、目の前がいきなりポッカリと空洞になったようなあの気分は今も忘れられません。当時からミケランジェリはキャンセル率が高いことで有名でしたが、ああこういうことか…とそれが我が身に降りかかった現実を認識しつつふらふらと引き返すしかなく、伯母夫婦と仕方なく食事をして帰ったことを覚えています。

あとから耳にした話では、わざわざドイツから持ってきたスタインウェイの調整に満足がいかず、時間的に解決できる見通しがたたなかったために、ミケランジェリが当夜の演奏を拒否したということでしたが、数日後のリサイタルは実行されたようでした。
もうひとつはアルゲリッチ。
2000年ごろのこと、すっかりソロリサイタルをしなくなったアルゲリッチが久々にサントリーホールでそれをやるということで、争奪戦の末にチケットを取り、この頃は東京を引き払っていたので、そのために飛行機で上京し、サントリーホールなのでアークヒルズ内の全日空ホテルを取って挑んだリサイタルでしたが、到着後ホテルの部屋で一息ついた後、期待に胸を膨らませながらおもむろに会場へ行ったら、開場時間を過ぎているというのに玄関は閉ざされ、その前に江戸時代の幕府のお布令のように一枚の紙が張り出してありました。
なんでもアルゲリッチが風邪をひいてしまい、高熱があり、医者の判断もあって、今日と明日のリサイタルは中止となった旨の内容でした。

まさしく目の前が真っ暗になり、もしや自分はこんなことのためにお金と時間と労力を使って、飛行機に乗り、ホテルに泊まる準備までして今ここへやって来たのかと思うと、もう情けなくてその場に座り込みたい気分でした。

主催者によるチケット代の払い戻しと、次の公演が決定したときには優先的にチケットを取るための手続きが小ホール(サントリーの小ホールは固定シートのないホテルの宴会場のようなところ)でおこなわれており、意識は半ば遠退くような状態のままその手続きを機械的にして、トボトボとホテルの部屋に戻りました。
しばし呆然とした後、友人に電話をかけまくり、そのうちの一人が車で迎えに来てくれて、どこに行ったかも忘れましたが食事に行って、精一杯の憂さ晴らしをするしかなかった苦い経験でした。

その半年後か翌年(詳しくは忘れましたが)、アルゲリッチは会場をすみだトリフォニーホールに場所を変えてついにソロ演奏をおこないましたが、このときには優先的にチケットが購入できる連絡は来たものの、まだ前回の徒労のショックが癒えておらず、しかもソロはコンサートの前半のみということで、この時はさすがにまた行こうという気は起きませんでした。

ところが、このときのソロ演奏のライブ録音が、なんと主催者の自主制作盤としてCD化され、しかも許しがたいことには特定の人達にだけタダで配られ、一般発売はまったくされなかったために、これがまたマニア垂涎の貴重品としてヤフーオークションなどで途方もない高値をつけることになりました。
滅多に出てはきませんでしたが、出品されるやすごい金額で落札されていき、なんとしても聴きたいという抑えがたい思いばかりが募りました。ついにアルゲリッチの好きな友人と共同購入しようということになって入札をして、たった1枚のCDを7万円強で手に入れるという、いま考えると暴挙というかアホみたいなことをしてしまいました。

この頃に較べたら、マロニエ君も年を取ってずいぶんおとなしくなったものだと思います。
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N響アワー

昨日のN響アワーでは、今年秋のショパンコンクールで優勝したユリアンナ・アヴデーエヴァが早々に来日、シャルル・デュトワ指揮のN響とショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した様子が放映されました。

同コンクールのウェブ中継では、ちょこちょこ観る範囲ではどうしてもこの人の演奏には興味が持てなくて、実はまともに最後まで聴いたことがありませんでしたので、このN響アワーの録画ではじめて協奏曲を全曲通して聴きました。

マロニエ君が敬愛するアルゲリッチもたまたま東京でのコンサートの為に来日中だったこともあり、日本でのアヴデーエヴァの記者会見にも同席して素晴らしいピアニストだと褒めていましたし、このN響のコンサートではNHKホールの客席にも彼女の姿があり、盛んな拍手を送っていました。
アルゲリッチ以来実に45年ぶりの女性優勝者ということにもなにか特別な意識があるのでしょうか。

また番組では小山実稚恵さんがスタジオにゲスト出演していましたが、小山さんのあのシャープで鮮やかなピアノの指さばきとは正反対の、たどたどしいトークでアヴデーエヴァの演奏の特徴と優れた点などを述べていましたが、曰く、よく練られていて、一音一音よく考えられて、完成度があって、常に自分の100%近い演奏ができる等々、話だけ聞いているとなんとも素晴らしい傑出したピアニストといった説明でした。

しかし、他の人にとってどんなに素晴らしいピアニストのかは知りませんが、まったくマロニエ君の好みからは大きく逸れた、たったこの一曲を聴き通すだけでもずいぶん辛抱力の要る演奏でした。はっきり言うとどの角度から聴いても好きにはなれません。

どこがそんなに素晴らしいのか、わかる人にぜひとも具体的に指摘して教えて欲しいものです。
解釈がどうのとしきりにいわれますが、解釈は演奏表現の根底を成すあくまで骨格であり、そればかりが論文のように前面に出て、生の音楽の活き活きとした感興を忘れた演奏は御免被りたいものです。
アヴデーエヴァの演奏はまず無骨で、ショパンの流れるような美の奔流に逆らい、繊細な感受性とその底に流れる激しい情熱に対して、あまりにも無頓着すぎるように思います。タッチも繊細さがそうあるわけでもないのにやたら弱音やノンレガートを多用し、ピアノはちっとも一貫して鳴りません。
音楽も時間や流れや前後の関連性がなく、全体がばらばらなものを便宜的に並べただけという印象です。

音楽は歌であり生き物であり、その都度生まれてくるものという大原則が死滅しているようでした。
それと、楽譜の存在を強く感じさせる演奏で、たしかに音楽家はまず楽譜から作品に入るのはそうだとしても、練習の過程で自分の中で楽譜は収斂され消化され、演奏者の肉となり、いざ本番では、いかにも自然発生するような演奏に周到に到達することが必要ではないかと思います。
まあ、言い立つとキリがないのでこれぐらいで止めましょう。

ちなみに史上初めてヤマハを弾いて優勝したアヴデーエヴァは、さだめしヤマハの専属にでもなるのかと思っていたら、NHKホールではスタインウェイを弾いていましたから、いろんな事情があるのでしょうね。
ただし現在の彼女にはCFXのふくよかな音のほうが合っていると思いました。

おかしかったのは主催者側からの要請があったのか、ステージに現れたアヴデーエヴァはショパンコンクールの時とまったく同じ服装で、黒い男みたいなスーツと中の白いブラウスまでどう見ても同じものだったのは、「あの感動の再現!」みたいな主催者の思惑が透けて見えるようで、却って笑えました。
演奏はノーサンキューですが、顔は童顔で、優しいあどけない目つきをしていて、人間性はおおらかで好感の持てる感じに見えました。

ちなみに最近はショパンもナショナルエディションが流行とみえて、オーケストラもいち早くこのバージョンを使っているようですが、あれもちょっと…です。
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ルーツは美しい音?

関東にあるヨーロッパピアノの輸入販売会社が発行する情報誌が久々に送られてきました。
なんでも、ずいぶん長いこと休刊していたものが、このほど復活したのだそうです。

読んでいると、そこに興味深い記事がありました。
一人の調律師の問題提起です。
調律師が10人いれば10の音色ができるといわれるが、それは何故か。そしてその原因はどこにあるのか。
うなりの聴き方、ハンマーの動かし方など、この問題を突きとめようという試みです。

ただ音を合わせただけでも、調律師には結果的に固有の音色というものがあるわけで、その不思議に迫ろうということのようです。

調律の作業では調律師の左右両手にそれぞれの役目があり、左手は鍵盤を叩いて音を出し、その音を聞きながら右手がチューニングハンマーを動かして音を合わせていくというものです。

そこで、5人の調律師が集まってひとつの実験をしたそうです。
(1)1人がチューニングハンマーを担当し、残る4人がそれぞれ音を出す。
(2)1人が音を出し、残る4人がそれぞれチューニングハンマーを動かす。

果たしてその結果は、(1)の4人が音を出す場合に、4人それぞれの音になったというのですから、これはすごい実験結果だとマロニエ君も思わず唸ってしまいました。

このレポートを書いた技術者の方によると、この結果を受けて、調律師が出す良い音とは、突き詰めればピアノを弾く人の良い音の出し方とイコールでなければならないということがわかり、そこに深い衝撃を受けたということでした。
つまり調律師は左手で良い音が出せなければ、いかにチューニングハンマーを持つ右手のテクニックが優れていてもダメなんだということが結論づけられていました。
その結果、その人はいい音を出すためにピアノ奏法をまじめに学ぶレッスンを受けられているとのことです。
まさに技術者らしい理詰めの思考ですね。

言われてみればなるほどという話で、これにはマロニエ君もきわめて新鮮な衝撃を受けたわけです。
経験的にも、調律の時にしょぼしょぼした音を出す人はあまり上手いと思ったことがないですし、逆にあまりにガンガンやる人は音色のニュアンスに乏しいことが多いような気がします。

また、この話は、ピアノの奏法や音楽性にも当てはまることだとも思いました。

いくら指が達者に動いて難しい曲が弾ける人でも、美しい音とそうでない音を聞きわける耳を持っていなければ、そもそも美しい音を出そうという意志も意欲も生まれず、そのためのテクニックにも磨きがかかりません。
より正確に言うなら、音楽が必要としている音が出せたときは、その先の演奏が有機的に乗ってくるものですし、それに反応していろいろな音楽的な展開が起こります。

ピアノを弾く上で、必要な音を必要な場所で適切に出せることは非常に重要かつ高度なテクニックなのですが、なかなかそれを理解し認識している人は少ないようです。
ピアニストでも音にかなり無頓着な人は少なくありませんし、さらにそれがアマチュアになるといよいよ拍車がかかり、ピアノを結局のところ指先の難しいスポーツのように捉えて、ただ難曲を表面上達者に弾くことに目標をおいている人が多いのは否定できません。
しかし、ピアノを弾く醍醐味はその先にこそあるのに、なんともももったいないことだと思います。
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生ピアノ=グランドピアノ?

昨日、我が家に来宅した知人は、おもしろいことを言い残して帰りました。
その人もこのホームページを見てくれているそうで、なんともありがたいことなのですが、曰く、ピアノのことで「マロニエ君が書いている通り…」といわれたので、いきなり何のことかと思ったら、No.62の「ピアノビジネスの変化」の中で述べている今の中古ピアノの市場でのニーズと実情に関することで、アップライトは飽和状態、さらには極端なグランドのタマ不足ということに繋がる話でした。

その人はもちろん業者ではなく、純粋な趣味で大人になってからピアノをはじめた人なのですが、目下電子ピアノで熱心な練習をやっているものの、いずれ現在のマンションを出て、生ピアノ(これ、変な言葉ですね)購入を目論んでいるようです。その際「アップライトには興味が持てない」「まったく眼中にない」とはっきり言い切ったのには、さすがのマロニエ君も驚かされてしまいました。

その人によると、電子ピアノで練習している人の心理としては、せっかく生ピアノを買うというのにアップライトでは、イメージ的に期待するほどの差(寸法や姿形など)がないのだそうで、したがって気分も盛り上がらないらしいのです。
それだったら安くて手軽で便利な電子ピアノでガマンするということになるのだそうです。
その人の中では「生ピアノ=グランドピアノ」という図式が出来上がっているらしく、いずれは…と思い定めて目標にする対象としてはアップライトは性能のことはともかく、まずイメージとしても魅力に乏しいようで、やはり何をおいてもグランドピアノの堂々としたオーラのある姿と存在感は人の心を惹きつけて止まないようです。

まさにこれ、現在の中古ピアノ店の在庫状況にも符合する話で、購入者のニーズが電子ピアノかグランドかという両極に別れてしまい、どうもアップライトは宙に浮いてあまり人気がないようです。
まさに『帯に短し襷に長し』といったところでしょうか。

その人が先日、関東に出向いたついでに、ある大手楽器店のピアノセンターのようなところに立ち寄ったところ、そこには世界の名器名品がズラリと並んでいたそうです。
多くが中古ピアノのようですが、店長とおぼしき人に「これらは以前はどんな人が使っていたピアノなんですか?」と質問したところ、「それは前オーナーの方へ差し障りがあるので申し上げられませんが、取り扱っているのはすべてワンオーナーです!」とキッパリ言い切ったとか。
それを聞くなり、マロニエ君はそれはあまりにも見え透いたウソで、しかも必要のないウソだと思いました。

そもそもワンオーナーなんてまるで中古車屋みたいな言葉を使うようですが、マロニエ君はその会社が海外から中古ピアノを仕入れて販売しているのは知っていましたし、オーバーホールされた数十年前のピアノ、なかには7〜80年も昔のヴィンテージピアノも何台も混ざっていますが、自分の歳よりも遙かに上の、しかも長年海外にあったピアノを「すべてワンオーナー!」などと言い切るとは、なにを根拠に…と思いますし、いったい何のためにそんなことを言うのかと思います。

中古ピアノは個々の楽器の状態やリビルド品の場合はその作業の質や仕上がりの優劣、音色や、タッチや、響きが問題なのであって、それらが申し分なければ別に複数のオーナーの手を経てきた物であっても一向に構わないわけですし、仮にワンオーナーであっても物がよくなければ、そんな経歴などなんの助けにもなりません。
でもきっと、店長などという人物にそうキッパリ言われると、なるほどと納得してしまうお客さんもいるのかもしれませんし、だからこういう発言も効果があるということなのかもしれません。

まあ、どのみちビジネスはきれい事じゃありませんが、でも、ウソはよくないですね。
人の気持ちというのは、ひとつウソをつかれると何もかもがウソのような憶測が走り、結局そんな店は避けてしまうようになりますから。
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定例会と忘年会

今日はピアノサークルの今年最後の定例会と忘年会でした。
いつもながら皆さんにお会いして、それぞれの演奏を拝聴し、いろいろなおしゃべりと食事を楽しむ、たいへん充実した一日でした。

毎回感心するのは、皆さんよく練習されいろんな曲に果敢に取り組み、それを人前で発表するということを絶え間なくやっておられるというその目的意識や実行力には素直に頭が下がります。
聞けばいまだにハノンなどの訓練も怠りなくやっておられるようで、マロニエ君みたいな怠け者にとってはハハアと感心するほかありません。

また、こうしたサークル/クラブの類に属することが、きちんとした練習を積み直す格好の機会になるらしく、忙しい合間を見つけては練習に打ち込んでおられるようですが、ぜんぜんそういう前向きな刺激に結びつかず、定例会も近いというのにピアノをまったく弾かない日も珍しくないマロニエ君としては、ただただ自分を恥じ入るばかりです。
子供のころレッスンに通っている時分から、これ以上ないという恐ろしい先生と、最難関の音高音大を目指して必死に付いていく他の学院の生徒さんに混じって、そんな環境にいても尚なまけることをやめず、まさに曲芸のように時間をかいくぐってきたマロニエ君の体質は、死ぬまで直りそうにはありません。
「三つ子の魂、百まで」といいますが、まさにあれですね。

いまさら言うまでもなく、ピアノは本当に好きなのですが、そんなに好きなんだったら捻り鉢巻きしてでも練習に精進すればいいようなものですが、それとこれとは別なんですね…悲しいことに。

ところで、今日は新しい参加者の方で、マロニエ君の顔見知りの方が思いがけなくおられたのには驚きました。
調律師の方など、この世界は狭いということにもさすがに最近慣れては来ましたが、いまだにこういう想定外のことがあるのはピアノの世界独特の特徴だと思います。
以前お会いしたときは独身でしたが、今日はきれいな奥さんと一緒で、めでたくご結婚されたのもわかっていろいろと話ができました。

もうひとつ驚いたのは、このサークルのメンバーの中には、住まいがご近所の方の比率がきわめて高く、今日もまたひとり、カーナビの同じ画面に入ってしまうぐらいの距離の場所におられることがわかりました。
遠くからいらっしゃる方も多い中、メンバー全体の人数からすると一割以上ですから、やはり驚きです。

今回は忘年会も豪華なもので、ホテルのレストランでそれは行われましたが、広いテーブルにのりきれないほどのご馳走が次々に運ばれて、決して小食ではないマロニエ君も、まさにこれ以上ない強烈な満腹状態となりました。

帰りは途中まで皆さんと一緒に歩きましたが、一年前を考えると、人の輪が一段と強く大きく結ばれていることがウソみたいで、いやはや趣味というものは本当に素晴らしいものだと思います。
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