翌週は…

前回書いたテレビ番組『恋するクラシック』の翌週の放送も見てみました。

今回は印象的なメロディで親しまれ、さまざまなジャンルにも用いられるベートーヴェンの悲愴の第2楽章が冒頭で取り上げられました。
オリジナルのピアノ演奏は前回と同じく佐田詠夢さんによるものでしたが、今回はやや残念なことに「月の光」のときのような好印象ばかりというわけにはいかなかった気がします。

全体に歌いこみが浅く、作品の実像や深みという部分では足りないものが随所に感じられ、どちらかというとアマチュアに近い感じの、軽いデザートみたいな演奏でした。
これがこの方のピアノのスタイルなのかも知れず、それが前回は「月の光」というフランス音楽でたまたまマッチしていたのかもしれません。

さて、今回はそのことを書こうと思ったのではなく、意外な発見をしたのでそれを。
この演奏時、通常の譜面立てではなく、角度をより寝かせた感じの見慣れぬ譜面台が使われていたので、おそらくひと通りの練習と暗譜はできているんだけど、まったく楽譜なしではやや不安という時などに、こういう楽譜の置き方をするのだろうと推察。

音符のひとつひとつをしっかり見るわけではないので、きっちり楽譜を立てるほどではないけれど、視線の先に楽譜があれば演奏の道しるべになって安心でもある…というほどのものでしょう。
またその程度のものなら、通常より寝せて視覚的にもあまり目立たないほうが聴くほうにもありがたいのは言うまでもありません。

しかし、これは普通はあまり存在しない、水平よりやや起きた程度の角度であるし、そもそも譜面台そのものがノーマルのものとは別物だったので、おそらく手製のものかなにかだろう…ぐらいに考えてさほど気にも止めていませんでした。

しかし、色は黒のつや消しで、手前と奥にはそれぞれカーブがついていたりと、簡単に日曜大工でできるようなものではなく、それなりに本格的に製作されたような感じです。
そんなとき、カメラが斜め上からゆったりと動いていくシーンのときに、思わぬものを発見!
その見慣れぬ譜面台の右の隅には、うっすらと金の文字で「FAZIOLI」と書かれていたのです。

ということは、FAZIOLIがこのような譜面台も製造しているのだろうと、とりあえず考えました。
でも、使われているピアノはスタインウェイのDで、その中にFAZIOLIの文字があることがとても奇異な感じに映りました。
まあ、たかだか譜面台ですから、役に立つなら何を使おうといいといえばいいわけですが、世界のコンクールなどではあれだけ熾烈な戦いを繰り広げているライバル同士でもあることを少しでも知っていると、やっぱり違和感はありました。

ただ、いずれにしても、譜面台にまでわざわざFAZIOLIのロゴを入れる必要があるのかというのが率直なところで、それだけ自社の名を徹底して書いておきたいということかもしれません。


後半はヴァイオリニストの松田理奈さんが登場し、イザイの無伴奏ソナタの一部と、フランクのヴァイオリン・ソナタの第4楽章を演奏されましたが、演奏後の司会の小倉さんの質問に、いともあっさりと、これらの曲は「それほど難しいというわけではない」ということが暴露され、これはマロニエ君も大変意外でした。

とくにイザイの無伴奏ソナタは、どれもいかにも演奏至難なヴァイオリン曲という強烈なイメージがありましたし、マロニエ君はヴァイオリンはまったく弾けないので、「エエッ、そうなの?」と単純に驚くばかりでした。
曰く、いかにも難しそうに聞こえるけれど、イザイはヴァイオリニストでもあったので意外に弾きやすいかたちに書かれているとのことだったし、フランクのほうでは、ピアノのほうが圧倒的に音数も多く、「演奏はピアノのほうが大変だと思います」とあっけらかんとおっしゃったのには、演奏家なのにえらく気前のいい発言をする人だなぁと妙に感心しました。

佐田詠夢さんもピアノ弾きとしての虫がつい騒いだのか、「私もこの曲を弾いたことありますけど…難しいですよね」と発言する場面もありましたが、マロニエ君は、この方とフランクのヴァイオリン・ソナタがどう考えても結びつきませんでした。
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月の光と革命

民放のBSで『恋するクラシック』というタイトルの、クラシック音楽をネタにする番組があることを発見、さっそく録画してみました。

司会は小倉智昭氏と佐田詠夢さんという女性で、番組そのものはクラシック音楽を身近で親しみやすいものにするためか、使われた歌やドラマから紹介するなど、とくに印象的な内容ではないと感じました。
ただ、ひとつだけそう悪くはないと思ったことが。

ドビュッシーの「月の光」をその司会の佐田詠夢さんが演奏したのですが、これが思いがけずきれいでした。
まったく知らないタレント風の人ですが肩書にはピアニストとあり、調べてみるとさだまさし氏のお嬢さんとのことで、へーという感じ。

ピアニストとしてどうかという事はさておいても、まあたしかにまったくの素人というレベルではなく、本格的にピアノを学んだ人のようではあり安定した技術をお持ちでした。
しかし、驚いたのはむろんその技術ではなく、彼女の「月の光」が新鮮さをもった鑑賞に堪える演奏だったことでした。

一般的に「月の光」というと、必要以上に夢見がちに、デリケートに、淡いニュアンスを意識して過度な演奏をする人がほとんどですが、佐田さんの演奏にはそれがなく、全体にやや早めのテンポで、無用な感傷を排した、すっきりした演奏だったところにセンスを感じました。
特に後半は、輝く音の粒が流れ下るようで、ちょっとアンリ・バルダの演奏を思い出すような、要するに目先のお涙頂戴ではないところで、この美しい小品を魅力ある音楽として聴かせてくれたのは意外でした。

趣味のいい、野暮ったさのない演奏だったと思います。
この曲はアマチュアにもよく弾かれる、悪く云えば手垢だらけになってしまった作品で、プロのピアニストでも「月の光」で聞く者の耳をその音楽に向けさせることは簡単なことではありません。
これぐらい有名曲ともなると、「あー、またこれか」という意識が先に立ってしまうもので、そんなマイナスの意識を引き戻して、本来の美しさを聴かせるということは至難です。

それ以外の演奏はどうなのか…聴いたことがないのでわかりませんが、少なくとも「月の光」は洒落た演奏だったと思います。

ところがその直後、番組ではプロのイケメンピアニストという人が登場。
プロなので名を伏せる必要はないのだけれど、あえて書かないことにします。

手始めにショパンの「革命」を弾かれましたが、これがもうコメントのしようもないもので、直前の「月の光」の美しい余韻はあとかたもなくかき消され、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされてしまったような印象でした。
これほど有名な曲なのにまったく曲が聴こえてこないし、ただ音符を早く(しかも雑に)弾いているだけで、強弱のつけ方もアーティキュレーションもまったく意味不明の、ただのがさつスポーツのような弾き方。
…というか、本物のスポーツのほうが実はよほど緻密で、それなりの丁寧さもデリカシーも必要とされるのではないかと思います。

音楽家というより、いわゆるテレビに出るためのひとつの指芸ということかもしれません。

その後、ピアノからゲスト席へ場所を移して、小倉氏の問いかけなどに導かれるまま、今どきのトークを妙に馴れた感じで展開。
すると、非常に優しげなソフトな語り口ではあるし、話の持って行き方や聞かせ方も巧みで、少なくともゴトゴトしたピアノよりトークのほうがよほどなめらかで、なんだかとても皮肉な感じでした。
内容はほぼ自分の自慢であったけれど、基本的に穏やかかつ低姿勢で、表面的な言葉づかいやマナーが悪くないために、スルスルと言葉が進み、ちゃっかり言いたいことを言ってしまって、しかも悪印象を抱かれないで終わりという手腕に、呆れるというか感心するばかりでした。

これを「話術」というのであれば、この人はピアノよりよほどトークのほうが(それも数段)お上手だとお見受けしました。この方は、ご自分のトークのようにピアノを弾いたら、それだけでずっと良い演奏になると思います。

話のあと再びピアノの前に座り、ラ・カンパネラを演奏されましたが、いたたまれない気分になり停止ボタンを押しました。
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日本のピアノの本

ピアノに関する書籍というと、教本や作品に関するものが大半で、ピアノという楽器そのものを取り扱った本というのは非常に限られます。

そんな中、『日本のピアノメーカーとブランド ~およそ200メーカーと400ブランドを検証する~』という新刊があることをネットで知り、さっそくAmazonで注文しました。
著者は三浦啓市氏、発行元は按可社、定価は4,000円+税というもので安くはないけれど、マロニエ君としてはやはりこれは買うしかないと思い、迷わずクリックすることに。

届いた本は、今どきA4サイズという雑誌並みに大きな本で、付録として「日本のピアノメーカー年表(生産台数推移付き)」という一覧表も付いていました。
内容は、明治以来、日本には約200社にものぼるピアノメーカーが現れ、その大半が消えていったという歴史があり、それを可能な限り取りまとめた一冊でした。

前半は、日本のピアノメーカー、一社ごとの紹介。
そのほとんどが消滅したとはいえ、現役を含むそれらをひとつひとつ見ていると、大小これほどたくさんのピアノメーカーが誕生し、ピアノを製造したという足跡に触れるだけでも、まったく驚きに値するものでした。

後半は、各ブランドごとのカラー写真や社名、ブランド名がアルファベット順にこまかく並べられた部分となり、一社で複数のブランドを生産していた場合も少なくないため、こちらは実に400ブランドに達するというのですから、かつての日本は紛れもなくピアノ生産大国だったことの証左となる本だと言っても過言ではありません。

歴史上、ピアノ生産大国と知られるドイツやアメリカでは果たしてどれくらいの数になるのか、機会があればぜひ知りたいものだと思うと同時に、明治維新までほとんど西洋音楽の歴史もなかった東洋の日本が、いかなる理由でこれほどまでにピアノ製造に熱中したのか、それはマロニエ君にはまったくの謎ですね。

日本人が、これほど多くのピアノブランドを必要とするほど音楽好きとも思えないので、ここまでメーカー数ブランド数が増えた背景には何があったのだろうと社会学として考えてしまいます。

ひとつにはピアノを作るには、バイオリンのように職工ひとりで事足りるものではなく、生産設備や会社組織といった、いわば最低限の産業構造を必要とする楽器であり、ピアノ製造に将来を夢見た人達が集まったこと。
あるいは大きくて見栄えのするピアノは、家が一軒建つほど高価であったという過去があり、それを買い求めることはある時期までは人々の豊かさの象徴でもあり、ステータスシンボルでもあっただろうことなどが頭に浮かびました。

それにしても、ページをパラパラやっているだけでも、その途方もない数のメーカーとブランドが存在したことは、紛れも無い事実。
しかも、そのほとんどが消滅したというのは、いっときの夢ではないけれども、ちょっと信じられないような、なにか時代のむごさのようなものを感じないわけにはいきません。

もし家にドラえもんがいたら、タイムマシンに乗って一社ずつまわってみたいものです。

そこに掲載されるメーカーのほとんどすべてが倒産や廃業に追い込まれ、貴重な資料も失われていることから、できるだけそれを追跡し、まとめ上げたという、非常に貴重な本でした。

どうしても入手できなかったと見えて、ところどころに写真が空欄のままになっているブランドがありますが、このような資料性の高い本の出現によって、さらに現物が発見・確認などされることを望むばかりです。
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ポゴレリチ

誰でも苦手なピアニストや演奏家がいるものと思います。
マロニエ君の場合、ピアニストで言えばイーヴォ・ポゴレリチなどがその一人です。

べつに強烈に嫌いというわけではないけれど、少なくとも積極的に聴こうという気にはなれない、どちらかというとつい敬遠してしまう人。
1980年のショパンコンクールで独自の解釈が受け容れられず、それに憤慨したアルゲリッチが審査を途中放棄したことはあまりに有名で、良い悪いは別にしてそれほど独特の演奏をする人であるのは間違いありません。

たしか初来日の時だったか、日比谷公会堂でのリサイタルにも行きましたが、背の高い長髪の青年がわざとじゃないかと思うほどゆっくり歩いて出てきたこと、演奏も同様で、独特のテンポと解釈に終始していました。
とても上手い人だというのはわかったけれど、自分の好みではないと悟ったことも事実で、彼のCDなどもほとんど持っていません。

いらい、ポゴレリチはマロニエ君の苦手なピニストとして区分けされ、演奏会にも行かずCDも買わず、彼自信もそれほど積極的に活動するような人でもないこともあってか、その演奏を久しく耳にすることはありませんでした。

そのポゴレリチがBSのクラシック倶楽部に登場!
昨年来日した折に収録されたもので、通常のホールやスタジオではなく、奈良市の正暦寺福寿院客殿での演奏ということで、あいかわらず独自の道を歩み続けていることが再認識させられます。

番組は毎回55分ですが、ポゴレリチが境内やなにかをあちこちを散策するシーンが多くて、なかなか演奏にはならず、やっとピアノのある場所にカメラが来たかと思うと、大屋根を外したスタインウェイDが畳の上の赤毛氈の上にポンと置かれており、ようやく演奏開始。

いきなりハイドンのソナタ(Hpb.XVI)の第2楽章というので、ちょっと面食らいましたが、その後もクレメンティのソナタからやはり第2楽章、ショパンのハ短調のポロネーズとホ長調の最晩年のノクターン、ラフマニノフの楽興の時から第5番、最後にシベリウスの悲しいワルツというもので、本人なりにはなにか考えあっての選曲なんだろうけど、聴く側にしてみるとてんで意味不明といった印象。

全体として感じたのはやはりポゴレリチはポゴレリチだったということ。
テンポもあいかわらず遅めですが、テンポそのものというより、やたらと重くて暗い音楽に接したという印象ばかりがあとに残ります。
テンポそのものがゆっくりしていても、そこに明瞭な歌があったり、美しいアーティキュレーションの処理によっては、ちっとも遅さを感じさせない演奏もあるけれど、ポゴレリチの場合は、遅いことにくわえてタッチは深く、いちいち立ち止まってはまた動き出すような演奏なので、マロニエ君には聴くのがちょっときついなあというところ。

演奏スタイルには線の音楽とか、構造の音楽とか、いろいろなスタイルや表現があるけれど、この人の演奏をあえて言うなら「止まる音楽」でしょうか。

個人的に一番いいと思ったのはラフマニノフで、それは作品が重く悲劇的な演奏をどこまでも受け容れるものだからだろうと単純に思いました。

マロニエ君の好みで言わせていただくなら、悲しみの表現でも、さりげなさや美しい表現の向こうにじんわりにじみ出てくるようなところに悲しみが宿ればいいと思うのですが、ポゴレリチの場合は、あまりにも直接的なド直球の悲しみの言葉そのものみたいな表現を強引に押し付けられている感じ。

かつてのショパンコンクールでこれだけの才能に0点を付けたことに憤慨したアルゲリッチの気持ちも大いにわかるけれど、彼の演奏に拒絶反応示した側の気持ちも少しわかるような気がしました。
要するに40年近く経って、今も彼はそのままで、それがポゴレリチなんですね。

それとすでに書いたことがあることですが、個人的にはやはり日本のお寺などで行われる西洋音楽の演奏というのは、否定するつもりはないけれど本質的に好きではありません。やっている当人は文化の枠を超えた美しい環境の中で、型にとらわれない独自の試みをやっているつもりだと思いますが、それはいささか自己満足にすぎないのではと思います。

それぞれの名刹に刻まれた歴史の重み、風格ある建築や見事に手入れされたお庭、そこに込められた文化的背景や精神などが収斂されてはじめて成立している世界。
そこへスタインウェイをポンと運び込んで西洋音楽を奏でることに、マロニエ君の耳目にはどうしても文化の融合というものが見い出せず、ひたすら違和感を感じるばかりです。
じゃあベルサイユやサンピエトロ大聖堂でお能や文楽をやったら素晴らしいかと言われたら…やっぱり思わないのです。
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再調整

シュベスターの2回目の調整の時、ハンマーのファイリングをやってもらったおかげで、すっかり音が明るくなり全体的にも元気を取り戻したかに思えたのですが、その後、予想外の変化が。

前回書いたようにファイリングのあと音に輪郭をつけるためのコテあては、とりあえずやらずに済ませたのですが、それからわずか数日後のこと。
日ごとに音がやや硬めの派手な音になっていき、こんなにも短期間でこれほど変化するとは、これまでの経験でもあまりなかったことなので、ただもうびっくりすることに。

マロニエ君が素人判断しても仕方ないのですが、おそらくは打弦部分だけは新しい面がでてある種のしなやかさを取り戻したものの、ハンマー全体には長いことほとんど針が入っていなかったので、ハンマーの柔軟性というか弾力が比較的なくなっているところへ、新しい弦溝ができるに従って音がみるみる硬くなったのではないかと思いました。

考えてみれば、あれやこれやとやることが山積で、なかなか整音にまで至らなかったために、この点が手薄になっていたことは考えられます。
さらには、技術者さんにしてみても、ファイリングした際にコテあてをやらないことになり、最近のカチカチのハンマーに比べたら、このピアノのそれは比較的柔軟性があったので、針刺しまでに思いが至らなかったのかもしれません。
でも実際にはこのハンマーなりに、そろそろ針刺しが必要な時期であったことはあるのでは?

枕だって、なにもしなければ一晩で頭の形にペチャっと圧縮されていきますから、ときどき向きを変えたり指先でほぐしたりするわけで、理屈としてはそんなものだろうと勝手に想像。

というわけで、またか?と思われそうではあったけれど、やむを得ず調律師さんに連絡して事情説明すると、数日後に三たび来てくださる段取りをつけていただきました。

直ちに整音作業かと思ったら、アクションを外して床において、ライトを当ててまずは細かい点検。
前回できていなかった部分なのか、場所はよくわからないけれどハンマーシャンクの奥にあるネジをずっと締めていく作業をしばらくされてから、ようやく針刺しが始まりました。

針刺しは弾き手の好みも大いに関係してくるので、少しずつやっては音の柔らかさを確認しながら、これぐらいというのを決めます。
3回ぐらい繰り返して、柔らかさの基準が定まると、そこから全体の針刺しが始まります。
とはいっても音の硬軟は音域によっても変わってくるので、低音はそれほど必要ないというと、調律師さんも同意見で、低音域にはある程度のパンチとキレがないと収まりが悪いのでほどほどでやめることに。
また、次高音から高音にかけては、少しインパクト性が必要となる由で、こちらはそういう音が作られていくようでした。

今回はこの針刺しだけなのでそれほど時間はかからない見込みだったものの、この技術者さんもやりだすと止まらないタイプで、マロニエ君としてももちろんお願いする以上は納得されるまでやっていただくことにしているので、2時間ぐらいの予定が3時間半となってしまいました。

果たして結果は、嬉しいことにとても好ましいものになりました。
その音は、キツすぎる角が取れて、馥郁とした音の中にも芯がきちんとあり、節度あるまろやかさで、おもわずニヤリとする感じにまとまりました。

もちろん弾いていけばまた硬くはなっていくでしょうが、とりあえず満足できるレベルに到達できたことは、とりあえずめでたいことでした。
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神様のブレーキ

きっとご同様の方がいらっしゃるだろうと思いますが、とくに目的があるわけでもないのにネット通販のあれこれやヤフオクなどを見てしまうことがよくあり、これはもう半ば習慣化してしまっています。

自分の興味のあるいくつかの対象をひととおり見てしまうのですが、中にはそんなに頻繁ではないけれど、むろんピアノも含まれます。

ピアノに関していうと、マロニエ君なりの一つの基準は、年代が古めのもの、あとはヤマハカワイはあまり興味がなく、それ以外の「珍品」を無意識のうちに探しているように思います。
なぜなら、見るだけなら圧倒的にそっちのほうが楽しいから。

ピアノに関してはあまり頻繁に見ないのは、他の商品と違ってほとんどと言っていいほど動きがなく、終了すれば再出品の繰り返しで目新しさに乏しいから、たまにしか見ません。
ところが今回目に止まってしまったのは興味のないはずのヤマハで、それは50年ほど前のアップライトでした。

おそらくは写真から伝わってくる、なにかインスピレーションのようなものだったと思われます。
外観はサペリ仕様で、木目が上から床近くに向かって力強く垂直に通っているのが大胆で、色も弦楽器のような赤みを帯びた深味のあるものでした。
そしてなにより惹きつけられたのは、全体からじんわりと醸し出される、佳き時代のピアノだけがもっていた堂々とした風格が写真にあふれていたことでしょうか。

このピアノは決して装飾的なモデルではないのに、細部のちょっとした部分まで凝っていて、板と板の継ぎ目であるとか足の上下などには、きれいな土台のように見える段が丁寧につけられているなど、いたるところに木工職人の技と手間暇と美しさを見ることができました。
機能的には一枚の板でも済むところへ、デザイン上のメリハリや重みになる窪みやライン、段差などがあちこちに施されることは、ピアノが単なる音階を出す道具ではなく、楽器としての威厳、調度品としての佇まいまでも疎かにしないという表現のようでもあるし、そこになんともいえぬ温かみや作り手の良心を感じるのです。

現在のピアノは(ヤマハに限らず)そういう、木工的な装飾などは極限まで排除され、板類も足もただの板切れや棒に機械塗装して、効率よく組み立てただけで、製品の冷たさや無機質な量産品という事実をいやでも感じてしまいます。

さて、そのオークションにあったヤマハは高さ131cmの大型で、かなり長いこと調律をされていないらしいものの、内部はまったく荒れたところが見あたらず、撮影された場所にずっと置かれていただけということが偲ばれました。
価格はなんと7万円台というお安さで、これに送料および内外装の仕上げなど、これぐらいの手間と金額をかければかなりよくなるだろう…などと勝手な妄想をするのはなんとも楽しいもの。
実は妄想というだけでなく、よりリアルにこれが欲しくなったのは事実でした。
しかし、なにしろピアノにはあの大きさと重さと置き場問題がイヤでも付きまとうので、「これ買ってみようかな!?」という軽い遊びに至ることはまず許されません。

さらにヤフオクの場合、中古の楽器を現品確認することなく買うという暴挙になることがほとんどで、そういう行為そのものがかなり邪道であるのは間違いありませんが、そういうことってリスクを含めてマニアとしては妙に楽しいことであるし、もとが安ければ失敗した時の諦めもつくというもの。

ただピアノがあの図体である以上、必要もないのに買って仕上げて遊ぶといったことは、よほど広大な空間の持ち主でもない限りまず不可能です。

マロニエ君の友人にフルートのコレクターがいることは、このブログでも触れたことがありますが、彼などは「銘器」といわれるヴィンテージ品だけでも優に10本以上持っていて、それでもまだあちこちの楽器店に出入りしては、ドイツのハンミッヒだのフランスのルイロットだのと一喜一憂しながら、悩んだ挙句ついまた買ってしまい、家では隠しているんだとか。

ピアノが、こんなふうに自分で持ち運び出来て、家でも隠せるぐらいのものなら、マロニエ君もどれだけそこに熱中するかしれたものではなく、ああこれはきっと神様が与えてくださったブレーキで、却ってよかったのだと思うしかありません。
ちなみにそのヤマハは終了時間までに見事に落札され(ピアノの場合は入札がかからないのがほとんど)ましたので、やはり他の方の目にも止まったんだなぁ…と納得でした。

ちなみに、ヤマハの音質はまさにこのピアノが作られた1970年ごろを境に大きく変わるという印象があります。
少なくとも1960年代までのヤマハは今とはまったく違っていて、あたたかみのある音がふわんと響く優しさで反応してくれるピアノで、マロニエ君は個人的には弾いていてかなり心地よい印象があります。

それ以降は良くも悪くも一気に近代的な、今風の華やかでエッジの立った音になっていきます。
時代がそういう音を要求したということもあるかもしれないし、材質問題や生産効率を突き詰めていくと、どうしてもそっち系の音になるのかもしれません。
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モコモコから脱出

前回の調整で中音域のハンマーが全体に左寄りになっていることが判明、これを正しい位置に戻したら、弦溝の位置が変わってモコモコ音になってしまったことはすでに書いたとおりでした。

弦溝がずれて輪郭がなくなった音は、整えられた柔らかい音とはまったく違い、弾いていても鳴りもバラバラだしストレスがたまり、なにも楽しくありません。
とはいえ、新しい弦溝を刻むべく、ガマンしながら思い毎日少しは弾いてはいましたが、やはり本来の状態とはかけ離れただらしない音がするばかりで、ついに耐えかねて再調整というか、なんとかこの状態を脱すべく、調律師さんに再訪をお願いました。

調律師さんもそのことは充分にわかっておられたようで、前回は時間切れでもあったし、再度来ていただきました。
マロニエ君にはあまりわかりませんでしたが、調律師さんによればそれでも数週間ほど弾いたおかげでだいぶ落ち着いてきているとのこと。なにがどう落ち着いているのかよくわかりませんが、さっそく仕事開始となりました。

今回は、ハンマーが正しい位置に戻ってしばらく弾いたということで、ハンマーの整形をおこなうことに。
ヤスリを使って、一つひとつのハンマーを丁寧に薄く剥いていくことで、おかしくなっている打弦部分の形状を整え、新しい部分を表出させ、そこにコテを当てて音に輪郭を作るという作業プランのようです。

ちなみに我が家のシュベスターがたまたまそうなのか、シュベスターというメーカー全体がそうなのかはわかりませんが、調律師さんによるとハンマーのフェルトはそこそこいいものが付けられているそうで、薄く削られたフェルトはふわふわした雲のような綿状になっています。
一般的にハンマーの材質は近年かなり低下の一途を辿っているようで、とくに普及品ではフェルトを削ると、削りかすが粉状になってザラザラと下に落ちてしまうのはしばしば耳にしていたのですが、これは毛足の短い質の悪い羊毛をがちがちに固めただけだからとのこと。

ハンマーのメーカーはわかりませんでしたが、ともかく今どきのものに比べると弾力もあり、それだけでもまともなものが使われているということではあるようで、今はこんなことでもなんだか嬉しい気になってしまう時代になりました。
この作業が終わるだけでもかなりの時間を要しましたが、次は打弦部分にコテを当てて音に輪郭を出す作業だったのですが、モコモコ音があまりにひどかったためか、ハンマー整形しただけでも目が覚めたように音が明るくきれいになり、マロニエ君はこの時点ですっかり満足してしまいました。

すると「これでいいと思われるのであれば、できればコテはあてないでこのまま弾いていくほうが好ましいです。」ということなので、「じゃあ、これでいいです。」となりました。

そこから、調律をして音を整えるためのいろいろな調整などいろいろやっていただき、この日の作業が終わったのは夜の八時半。作業開始が2時だったので、実に6時間半の作業でした。
しかも、この方はほとんど休憩というのを取られず、お茶などもちょっとした合間にごくごくと飲まれるし、雑談などをしていてもほとんど手は止まらず作業が続きますから、滞在時間と作業時間はきわめて近いものになります。

つい先日の調整が4時間半だったので、今回と合わせると、ひと月内で11時間に迫る作業となりました。
アップライトピアノでこれだけ時間をかけて調整をしてくださる調律師さん、あるいはそれを依頼される方は、あまり多くはないだろうと思いますが、ピアノはやはり調整しだいのものなので、やればやっただけの結果が出て、今回はかなり良くなりました。

この調律師さんは、シュベスターの経験は少ないとのことですが、とても良く鳴るピアノだと褒めていただきました。
低音はかなり迫力があるし、中音には温かい歌心があり、さらに「普通は高音になるに従って音が痩せて伸びがなくなるものだけれど、このピアノにはそれがなく高音域でもちゃんと音が伸びている」んだそうです。

そのあたりは、やはり響板の材質にも拠るところが大きいのではないかと思われます。
人工的な材料を多用して無理に鳴らしているピアノは、すべて計算ずくでMAXでがんばるけれど、実はストレスまみれの人みたいで余裕がありませんが、美しい音楽には自然さやゆとりこそ必要なものだと思うこのごろです。
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何をしてるのか?

BSのクラシック倶楽部アラカルトで、一昨年秋のアンスネスの東京でのリサイタルから、シベリウスのソナチネ第1番とドビュッシーの版画を視聴しましたが、ピアノのほうに不可解というか、驚いたことがありました。

このときのアンスネスの来日公演では以前にもこのブログに書いた覚えがありますが、スタインウェイの大屋根が標準よりもずっと高く開けられていることが演奏以上に気になり、(アンスネスの演奏は非常にオーソドックスであることもあって)そちらばかりが記憶に残りました。
大屋根を支える突上棒の先にはエクステンションバーみたいなものが取り付けられて、そのぶん通常よりも大屋根が大きく開かれてピアノが異様な姿になっていることと、やたら音が生々しくパンパン鳴っているのは、今回もやはり同じ印象でした。

ところが、前回うっかり見落としていたことがありました。
よく見ると、ピアノの内部に普段見慣れぬ小さなモノがあって、はじめはスマホのようなものに譜面でも仕込んであるのかとも思ったのですが、カメラが寄っていくと、そうではないことがわかり、さらにはなんだかよくわからない物体がフレームの交差するところや、それ以外にもあちこちに取り付けられており、色や形もさまざま。

平べったいもの、黒い円筒形のようなもの、赤茶色のお鮨ぐらいの小さなものなど、自分の目で確認できただけでも10個はありました。
それが何であるのかは今のところさっぱりわからないものの、大屋根が異様に大きく開かれていることと何か関係しているよう思えてなりません。

音は、しょせんはBDレコーダーに繋いだアンプとスピーカーを通して聞くもので、現場で実演を聴いたわけではないけれど、いつもその状態で聴いている経験からすると、あきらかに大きな音がピアノから出ていることがわかるし、しかもその音はピアノ本来のパワーであるとか鳴りの良さ、あるいはピアニストのタッチがもたらすものというものより、何か意図的に増幅されたもののように聴こえます。
少なくとも昔のピアノが持っていたような深くて豊饒なリッチな音というたぐいではなく、いかにも現代のピアノらしい平坦で整った音が、そのままボリュームアップしたという感じです。

早い話が、マイクを通した音みたいな感じでもあり、果たしてどんなからくりなのか調律師さんあたりに聞いてみるなどして、少し調査してみたいと思っているところですが、いずれにしろこんなものは初めて見た気がします。

番組は、55分の1回で収まりきれなかったものをアラカルトとして放送しているようで、アンスネスのあとはアレクセイ・ヴォロディンのリサイタルからプロコフィエフのバレエ『ロメオとジュリエット』から10の小品が続けて放映されましたが、同じ番組で続けて聴くものだけに、こちらは前半のアンスネスに比べてずいぶん地味でコンパクトな響きに聞こえてしまいました。

もちろんホールも違うし、ピアニストも違いますが、いずれもピアノは新し目のスタインウェイDだし、そこにはなにか大きな違いがあるとしか思えませんでした。

マロニエ君の個人的な想像ですが、アンスネスのリサイタルで使われたピアノ(もしくは装着された装置)は誰かが考え出した、音の増幅のためのからくりなんではなかろうかと思います。
それも、ただマイクを使って電気的にボリュームアップしたというのではなく、もう少し凝ったものなのかもしれません。

そういえば以前お会いしたことのある音楽のお好きな病院の院長先生は、ゲルマニウムの大変な信奉者で、ご自分の体はもちろん大きな病院に置かれていた高級なオーディオ装置やスタインウェイD/ベーゼンのインペリアルに「音のため」ということで、フレームなどゲルマニウムがいたるところに貼り付けてあったことを思い出しました。

そういう類のものなのか、あるいはもっと科学的な裏付けや効果をもった装置なのか、そこらはわかりませんが明らかに音が大きくパワフルになっていたのは事実のようでした。
音を増幅させるということは一概に悪いことだと決めつけることはできないことかもしれないし、そもそも楽器そのものが音を増幅するように作られているものなので、どこまでが許されることなのかはマロニエ君にはわかりません。

なんとなく現時点での印象としては、ピアノがドーピングでもしているような、本来の力ではないものを出している不自然さを感じたことも事実です。
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昨年のバルダ

クラシック倶楽部の録画から、昨年東京文化会館小ホールで行われたアンリ・バルダのピアノリサイタルを視聴しました。

今回の曲目は、お得意のショパンやラヴェルとは打って変わってバッハとシューベルト。
平均律第1巻からNo,1/8/4/19/20という5曲と、シューベルトでは即興曲はD935の全4曲というマロニエ君にとっては意外なもの。

しかし、ステージ上に現れたときから気難しそうなその人は紛れもなくアンリ・バルダ氏で、お辞儀をするとき僅かに笑顔が覗くものの、基本的にはなんだかいつも不平不満の溜まった神経質そうなお方という感じが漂うのもこの人ならでは。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』を読んでいたので、バルダ氏の気難しさがいかに強烈なものであるかをいささか知るだけ、いよいよにそう見えるのかもしれませんが。

バルダ氏の指からどんなバッハが紡がれるのかという期待よりも先に、ピアノの前に座った彼は躊躇なく第1番のプレリュードを弾きはじめましたが、なんともそのテンポの早いことに度肝を抜かれました。
はじめはこちらの感覚がついていけないので、追いかけるのに必死という感じになる。

しかし不思議な事に、その異様なテンポも聴き進むにつれ納得させられてくるものがあり、バルダ氏のピアノが今日の大多数のピアニストがやっていることとは、まるで考えもアプローチも違うものだということがわかってくるようです。
まず言えることは、彼は作曲家がバッハだからといって特に気負ったふうでもなく、どの音楽に対しても自分の感性を通して再創造されたものをピアノという楽器を用いて、ためらうことなく表出してくるということ。

それは強い確信に満ち、現代においては幅広い聴き手から好まれるものではないかもしれないけれど、「イヤだったら聴くな」といわれているようでもあるし、「好みに合わせた演奏をするために自分を変えることは絶対しない!」という頑固さがこの人を聴く醍醐味でもあるようです。
今どきの正確一辺倒の演奏に慣れている耳にはある種の怖ささえ感じるほど。
その怖さの中でヒリヒリしながら、彼独特の(そしてフランス的な)美の世界を楽しむことは、この人以外で味わえるものではないようです。

コンクール世代のピアニストたちにとっては、およそ考えられない演奏で、現代のステージではある種の違和感がないではないけれど、そんなことは知ったことではないというご様子で、誰がなんと言おうが自分の感性と美意識を貫き通し、徹底してそれで表現していくという姿は、ピアニストというよりは、より普遍的な芸術家というイメージのほうが強く意識させられる気がします。
特に最近はピアニストという言葉の中にアスリート的要素であったりタレント的要素がより強まっていると感じるマロニエ君ですが、バルダ氏はさすがにそういうものはまったくのゼロで、そういう意味でも数少ない潔いピアニストだと思いました。

後半で聴いたシューベルトも、基本的にはバッハと同様で、サバサバしたテンポ。
しかし決して無機質でも冷たくもなく、そのサバサバの陰に音楽の持つ味わいや息づかいがそっと隠されており、それをチラチラ感じるけれど、表面的には知らん顔で、このピアニストらしい偽悪趣味なのかもしれません。
すべてにこの人のセンスが窺えます。

バルダの音は、スタインウェイで弾いてもどこかフランスのピアノのような、色彩感と華やぎがあります。
こじんまりとしていてシャープに引き締っており、バルダの音楽作りと相まって、それらがさざなみのように折り重なって、まるで美しい鉱石が密集するように響き渡り、ほかのピアニストでは決して聴くことのできない美の世界が堪能できるようです。

音も一見冷たいようだけど、それはパリのような都会人特有の、感情をベタベタ表に出さず、涼しい顔をしてみせる気質が現れており、いわばやせ我慢をする人の内奥にあるだろう心情を察するように聴いていると、このバルダの演奏が一見表面的な華やかさ軽さの奥に、深い心情や彼の人生そのものが見え隠れするようでもありました。
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モコモコ音

自室に置いているシュベスターは、昨年の納品からこっち調律だけは2度ほどやりましたが、納品前の整備を別とすれば、いわゆるきちんとした調整は納品後は一度もやっていませんでした。
いつかそのうちと思いながらのびのびになっていた点検・調整を先日、ようやくやっていただくことになりました。

何度か書いたことではありますが、ひとくちにピアノ技術者と言っても、そこには各人それぞれの得意分野があり、いわゆる一般的な調律師さんから、コンサートチューナー、オーバーホールや修復の得意な方、あるいは塗装などの外装を得意にされる方など、中心になる仕事はそれぞれ微妙に異なります。
あたかもピアノ工場が幾つものセクションに分かれているように、あるいは医師にも専門があるように、技術者にも各人がもっとも力を発揮できる分野というものがあるようです。

もちろん、どの方でも、全体の知識はみなさんお持ちであるし、基本となるセオリーなど共通することも多々あるはずですが、やはり日ごろ最も重心をおいておられる専門領域では、当然ながらより深いものを発揮されます。

そういう意味で、今回はやはり長年お付き合いのある、点検・調整のスペシャリストとマロニエ君が考えている方にお出でいただきました。

とりあえずザッと見ていただいた結果、調律を含む4時間半の作業となりました。
すでに10ヶ月ほど弾いているピアノなので、そろそろ音もハデ目になってきており、そのあたりの見直しを兼ねて、音作りのリクエストなどを入れてみたのですが、結果的にはそれより前になすべき項目が立ちはだかり、今回そこまでは到達できませんでした。

外板をすべて外し、アクションを外し鍵盤をすべて取り除いて、丁寧な掃除から始まりますが、各部の調整などを経ながら後半に差し掛かったとき、「あっ」という小さな声とともに問題が発覚。
よく見ると、弦に対してハンマーが全体に左寄りとなっており、中には右の弦に対してほとんどかするぐらいの位置になっているものもあるなど、さっそくそれらの左右位置の調整となりました。

これはアップライトピアノではよくあることだそうで、正しい位置に戻してもしばらくは元の場所に戻りたがる傾向があり、何度か調整を重ねるうちに本来の位置に定着するとのことで、今回だけでは済まない可能性もあるとのこと。

加えて、調整後はハンマーの左右位置が微妙に変化したために、弦溝の位置がずれてしまい、グランドのウナコルダ・ペダルを踏んだように、音が一斉にこもって柔らかくなり、しばらくはこの状態で弾いてみてくださいとのこと。
これらが定着し、弦溝も定着してからでないと整音をしても意味がないということで、今回そちらは見送られました。

ハンマーというのは本当に微妙なもので、弦溝がほんのわずかにズレただけで、別のピアノのようになってしまいます。
各部の調整が効いているのか、鳴りそのものはより太くなったようでもあるけれど、なにしろ音がやわらかくなったといえば言葉はいいけれど、モコっとした輪郭のない音になってしまったし、その状態が均等に揃っているわけでもないために、正直あまり気持ちのいい状態ではありません。

これが、普通にきちんと練習される方のように、毎日しっかり弾かれるピアノならそのうちに変わってくるかもしれませんが、マロニエ君はそれほど熱心に弾く方でもないし、このピアノばかりをそれほど短期集中的に弾き込む自信もありません。
ということは、いつまでこの状態が続くのかと思ったら、いささかうんざりもしてきました。

音の好みを少しでもマロニエ君の求めるものに近づけようと、調律時に倍音の取り方などいろいろな例を作っては聞かせて頂きましたが、それによってピアノの性格まで変わってしまうので、あらためて調律というものの重要性を認識することもできました。

ただ音程を合わせるだけなら、一定の勉強をすればできることかもしれませんが、そこから音の響きの色艶濃淡硬軟色彩など、あらゆる要素を3本の弦のバランスによって作っていくのは、これはやっぱり相当に奥の深い仕事だと思います。
そのためには技術や経験が大切なことはいうまでもないけれど、結局、一番大事なことは調律師自身の中にあるセンス、つまり音に対する美的感覚だと思います。

それにしても、柔らかい音とモコモコ音は似て非なるものですね。
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しなやかでしっかり

溜まっているBSクラシック倶楽部の録画から、「マキシミリアン・ホルヌング&河村尚子 デュオリサイタル」を視聴しました。

ホルヌングはドイツを代表する若手チェリストで、やっと30歳を過ぎたあたりで、若手のホープからしだいに円熟期へとら入っていくであろうドイツの演奏家です。
ネットの情報によれば、20代でバイエルン放送交響楽団の首席チェロ奏者を務めたものの、ソロ活動に専念するため2013年に退団したとあり、その後リリースされるCDも賞を獲得するなど、輝かしい活動を着実に重ねているようです。

この日のプログラムは実に面白いというか新鮮なもので、前半はマーラーの「さすらう若者の歌」から4曲をホルヌング自身によってチェロとピアノのために編曲されたもの。
これがなかなかの出来で、マーラーの壮大なスケール感や世界を損なうことなく、見事にピアノとチェロのための作品になっているところは思いがけず驚きでした。

ホルヌングのチェロも見事だったけれど、どうしても習慣的にピアノに目が行ってしまうマロニエ君としては、河村尚子さんの演奏はとりわけ感心させられるものでした。

河村さんは、数年前のデビュー時から折りに触れては聴いていますが、始めの頃はまだ固いところがあったようにも思うし、アクの強いステージマナーや演奏中の所作などがちょっと気になっていたところもありました。
しかし、その後ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番など、この人の好ましい演奏などに接するに従って、次第に印象が変わってきました。

こういうことは個人的には珍しく、マロニエ君の場合、はじめに抱いたときの印象というのは良くも悪くも覆ることはあまりなく、たとえ10年後に聴いても、ああそうだったと思いだしたりして、ほとんどはじめの印象のままなのですが、それが予想を裏切って良い方に変化していくのはとてもうれしくてゾクゾクするものがあります。

まったく逆が、良い印象のものがそうでもないとわかってくるときの気分というのは、まったく裏切られたようで、必要以上にがっかりしてしまいます。

彼女の演奏で、なんと言っても印象深いのは、音楽的フォルムの美しさにあると思います。
その演奏からあらわされる楽曲は、独特の美しいプロポーションをもっており、ディテールまで非常に細かい配慮が行き届いていいます。繊細な歌い込みがある反面、必要なダイナミズムも充分に発揮されており、音だけを聴いているとちょっと日本人が弾いているようには思えないほどスタイリッシュです。
メリハリがあって、知的な解釈と大胆な情念が上手く噛みあうように曲をしっかりとサポートしているのは、聴いていて心地よく、現代的なクオリティ重視の演奏の中にもこれだけの魅力を織り込めるという好例だとも思われます。

とくに彼女は音の点でも、タイトで引き締まってはいるけれど、そこに鍛えられた筋肉のようなダブつかない肉感があって、音に芯があるところも特筆すべき事だと思いました。
というのも、スーパーテクニックや器の大きさを標榜しながら、その実、ピアノを充分に鳴らしきれず、軽いスカスカした音しか出せない人、音の大きさは出せても密度という点ではからきしダメな有名なピアニストが何人もいる中で、河村さんは、音に一定の密度と説得力があるという点では、稀有な存在ではないかと思います。

後半はブラームスのチェロ・ソナタ第2番。
ここでも、河村さんのピアノはしっかりとチェロを支え、ブラームスの渋くて厚みのある音楽世界を、いい意味での現代性を交えながら描き出していたのは久々に感心したというか、心地良い気持ちで聴き進むことができました。
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小さな大器

お正月休みの後半、ピアノの知人の家にお招きいただきました。

そこには、すでに何度かこのブログにも書いていますが、素晴らしいスタインウェイがあるのです。
戦前の楽器で、しかもラインナップ中最も小型のModel-Sなのですが、内外ともに見事な修復がなされ、これが信じられないほど健康的で朗々と良く鳴り、小規模なサロンなどであればじゅうぶんコンサートにも使える破格のポテンシャル。
このピアノを弾くと、ピアノは必ずしもサイズじゃないといつも思い知らされます。

よくネットの相談コーナーなどで、スタインウェイのSがいかなるピアノかをろくに知りもせず、そのサイズから見下したような見解のコメントを目にすることがあります。
スタインウェイというブランドがほしいだけの人は買えばいいが、自分なら…という但し書き付きで次のような(言葉は違いますが概ねの意味)尤もらしい意見が展開されます。

スタインウェイといっても、Sは置き場に恵まれないマンションなどの狭い空間用のいわば妥協のモデルで、それにスタインウェイらしさを求めるのは幻想であり無理がある。しかも中古でも安くもないのにスタインウェイというだけでそんなものを買うのは、ピアノをに対して無知な人で、まさにブランド至上主義者だといわんばかり。
そんなものに大金を投じるぐらいなら、本当にピアノを知る人は、それよりもっと大型のよく調整されたヤマハを買ったほうがよほど有益で懸命であるというようなことを、いかにもの理屈を混ぜながら論じている人がいますが、きっとそういう考えの人は少なくないのでしょう。
少なくとも書いている本人がそう信じている様子が感じられます。

それはおそらく、こういうピアノに触れたことがないまま、セオリー通りにピアノはサイズがものをいい、小さくても(すなわち弦も短く響板面積も少ない)スタインウェイを選ぶような人は、スタインウェイをいう名前だけをありがたがるブランド指向だと断じているのでしょう。
さらにはどうせ大金を投じてスタインウェイを買うのであれば、Sだからといって特別安価なわけではないのだから、だったらもうひと踏ん張りして少しでも大きなものを選ぶほうが懸命であるし、そのほうが本当のスタインウェイらしさもあるはずだという思いも働いているように感じます。

よく、スタインウェイやベーゼンドルファーは奥行き❍❍❍cm以上あってはじめてその価値が発揮されるのであって、それ以下はマークだけのまやかしみたいなことを書かれることがあります。
しかも驚いたことには、それらを「触った経験」のあるという技術者の意見だったりするので、専門家と称する人からそこまでいわれれば普通の人は「へーえ、そういうものか」と思うでしょう。

でも、そういうことを言う人のほうこそブランドを逆に意識しているのであって、高価な一流品に対してある種の敵愾心を持っている場合もあるように感じます。

で、その知人宅のSは、とくにピアノが見えない場所からその音だけを聞いていると、奥行きわずか155cmのピアノだなんて、おそらく専門家でもそう易易とは言い当てられないだろうと思えるほど、美しいスタインウェイサウンドを無理なく奏でており、聴くたびに感銘を受けずにはいられません。
強いていうなら、低音域の迫力がより大型のモデルになれば、もっと余裕が出てくるだろうという程度。

すべてのS型がこうだとはいいませんが、これまでマロニエ君が何台か触れてきたSはだいたいどれも好印象なものが多く、だからSは隠れた名器だと思うのです。
なので、S型を最小最安モデルなどと思ったら大間違いで、むしろ積極的に選ぶ価値のある優秀なモデルだとマロニエ君は自信をもって思っています。

その知人は、そのSが調子がいいものだから、更にその上をイメージしてゆくゆくはBあたりを狙いたいという気持ちもないではない様子ですが、マロニエ君に言わせれば、その素晴らしいSを手放してBを買っても、必ずすべてがより良くなるとは限らないような気がします。
今のピアノが不満というなら話は別ですが、まったくそうではないのだから、マロニエ君なら絶対に手放さずに、もう1台違う性格のピアノを並べたほうがいいのでは?…などと勝手なことを思いました。
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感性の一致

先週のことでしたが、我が家のメインピアノの調律を終えました。

現在、お出でいただいている調律師さんはマロニエ君がそのお仕事に惚れ込んでお願いすることになった遠方の方で、せっかくなので他のお宅にも回っていただけるようスケジュールを組まれて、泊まりがけで来ていただいています。
約一年ほど前から保守点検メニューを実施していただくなど、この方のおかげでそれまでより一気に健康的にもなり、回を重ねるごとに自分好みのピアノになってきことを実感しています。

この調律師さんにお仕事をしていただくのは今回で3回目ですが、その音はいよいよ輝きを増し、長年の課題であったタッチの重さなどの弾きにくさもすっかり消え去り、節度ある軽快なタッチとともに美しい音を奏でてくれるようになりました。

この方を遠方からわざわざご足労願っている最大の理由は何か。
もちろん素晴らしい技術をお持ちということはあらためていうまでもないことですし、技術というだけならこれまでにも幾多の技術者の方々も皆さん素晴らしい技術をお持ちで、その点では俊英揃いだったことは確かです。

では現在の方が、マロニエ君にとってなにが特別素晴らしいのかというと、ちょっと変な言い方かもしれませんが、ピアノに対する美意識というと少し大げさかもしれませんが、要はピアノに対するセンスがいいということ。

おそらく、マロニエ君がこうあって欲しいという自分のピアノに対するイメージと、その方が持っておられるイメージが、大筋のところで一致しているのだと思われます。
これまで他の方には、作業開始前にもあれこれと自分の希望とか、日頃の不満点などを伝えて、途中途中で確認しながらの作業だったりで、音色のことや、タッチのことなど、こちらの思いが技術者さんにうまく伝わるかということからして課題でした。

よく言われることですが、音やタッチの好みというのは大抵微妙な部分の問題で、その微妙なところを技術者に伝えるのはピアニストでさえ簡単ではないし、逆に技術者の方からすれば弾き手の表現はたいてい抽象的で、その意を正確に汲みとって技術として具体化することは非常に難しいといわれます。
たとえば「明るい音」と言っても、その明るさにはいろいろな解釈や種類があり、むろん電子ピアノのような単純な音でもなく、マロニエ君は深味と気品を失わず、甘さの中にどこか憂いを併せ持ったようなものが欲しかったりします。

また、表情があって、あまり技術が前に出るようなものも好みじゃない。
とにかく、いろいろなものが融合してひとつの結果をなすためには、感性が違うと、いちおうはそれらしくはなってもどこか違ったものになることは珍しくありませんし、それはタッチについても同様です。

息を殺すような作業がほとんど半日にも及び、やっと調律と整音の段階を迎え、ようやく「弾いてみてください」となって弾いてみると、本音はしっくりこないこともありますが、なにしろこっちはピアニストでも何様でもなく、長時間に及ぶ大変な作業の様子を見ていたら、その頑張りに対してもダメ出しなんてできません。
それはそれで良くなっていることも事実ではあるし、だいたいこれで終了となるのがこれまでのパターンでした。

ところが現在の技術者さんとは、そういう事前のやりとりもほんの僅かで、専ら自分のペースでサラッと仕事にかかられます。
タッチでも同様で、「もう少し軽くなれば…」「はい見てみます」という程度。

細かい要望などを質問されることも少なく、こちらとしてはあまり自分の希望は伝えてないなぁという少し心配な状況の中で作業は開始され、途中で「こんな感じでどうでしょうか?」とか「このオクターブだけ今変えてみました」などと、それで良ければこのまま作業を進めますという感じで確認をとられることさえ殆どありません。

作業開始から時計の長針が何回まわったか、外はすっかり暗くなったころ、「ちょっと弾いてみてください」といわれておずおずと弾いてみると、これがもうアッ!と思うほど良くなっている。

音色の感じも、微妙なところがすべてツボにはまって完成されているし、タッチも明らかに軽くなっている。
凛としていてどこか馴れ馴れしいような…マロニエ君にとっては理想的な状態になっているのです。

しかも前述のようにとくにくだくだしい希望要望を出すでもなく、結果はいつもこちらのイメージにピシっとピントが合っているのはかなりの感動です。

これは、この技術者さんがマロニエ君の好みの察しが飛び抜けていいというより、その方のいいと思うものとマロニエ君の好みや感性がたまたま一致しているとしか考えようがないのですが、それは楽でもあるし安心感があるし、なにより結果が毎回安定していてとっても嬉しいわけです。

繰り返しますが、高い技術をお持ちの方はたくさんおられても、その高い技術をピアノのためにどう使って、どういうピアノに仕上げるか。ここにピアノに対する感性が大きく関わっているらしく、趣味が合わなければどんなに高等技術を駆使した高度な仕事でも、それが自分にとって至福のピアノになるかどうかは別の問題となるのです。

そういう意味で、自分と趣味の合う技術者の方と巡り会うことが一番大切なことのように思えるこの頃ですが、これは探してすぐに見つかるものでもないし、偶然を待つ以外にないような話で、ピアノ選びよりも難しいことかもしれません。
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なぜだろう?

調律料金に関することで、以前から疑問に思っていたこと。
それは、なぜアップライトとグランドでは料金が異なり、さらにはグランドでもサイズによって料金が異なるのだろうということ。

マロニエ君はむろん調律師ではないから、アップライトとグランドでは、一口に調律といってもどれだけ仕事量が違うのかはわからないけれど、例えばアップライトで12000円なら、グランドは15000円というように、多くの場合その料金には差があるのが一般的です。

この場合の3000円は何が違うのか、乱暴にいうと似たような作業をタテでやるかヨコでやるかの違いのようにも見えないこともないわけです。
そこは調律師さんに聞いてみればわかるのかもしれないけれど、まだ聞いていないので、現時点では疑問は疑問のまま放置されているわけです。
逆にいうと、アップライトの調律ってグランドに比べたら2割がた楽なの?とも思ってしまったり。

というわけで、アップライトとグランドでは構造も違うので置いておくとして、グランドの調律に限っていうと、サイズによって調律料金が違うというのはまったくもって納得のいかない部分なわけです。
奥行き2メートルを境にしている場合もあれば、コンサートピアノは別料金となっているのを見かけたりしますが、そもそもその区分の基準ラインも結構バラバラです。
しかも、コンサートの調律ではなく、調律するピアノがコンサートグランド(もしくはそれに準ずる)の大型になると、料金もそのぶん高く設定されているというもので、その根拠はなんだろうと思ってしまうのです。

普通サイズのグランドでも、コンサートグランドでも(アップライトでも)、キーは一般的には88鍵であることにかわりはないし、弦の数だってほとんど違いなんてありません。
コンサートピアノだからといって、まさかチューニングピンを回すのに倍も力が要るわけでもないでしょう。
強いて言うなら、鍵盤からアクション一式の奥行きが小型グランドと大型グランドでは少し違うぐらいですが、そんなの技術者にすればものの数ではないはずですし、少なくとも請求金額に反映させるほどの違いとは思えません。

じゃあ、小型グランドよりも、大型になるほどより丁寧な仕事をするのか。
そんなことがあればそれ自体が問題でしょうし、まさか純然たる技術料をピアノのボディサイズで決めているとしたら、まるで病院に行って身長150cmの人より180cmの人のほうが医療費が高くなるようなもので、そんなこと通用する話ではありません。
あるいは大きなピアノは、サイズが大きいのだから調律料金も大きくなるということなのでしょうか。

実はこの点を、何人かの調律師に質問したことがあるのですが、「やることは同じです。」という答えだったので、本当は料金にサイズ別の区分を設けている人にこそ聞いてみるべきで、まだそれは果たせてはいません。

すんなり理解できるのは、定期調律に対して、何年も放置されたピアノを託された場合、内部がどんなことになっているかわからず、すべての面で定期調律より多大な労力を要する仕事になる場合があるので、これは料金が違ってくるのは当然だと思います。

もうひとつ不思議なのは調律の「出張料金」というもの。
もちろん、お気に入りの調律師さんが地元の方でない場合などは、遠路はるばる来ていただくのだから、そのための交通費等が生じるのは当然ですが、マロニエ君がいいたいのは通常の場合で、ごく近い距離であっても調律料金に出張料を一律上乗せする場合があることです。
とくに驚くのはメーカーから直接出向いてくる調律師さんにそれが多いということで、これは大いに疑問を感じるところです。
(マロニエ君の経験では出張料金を請求されない方のほうが多いですが。)

というのは、管弦楽器のように持ち運びができる楽器なら、自らメンテに持ち込むことが可能ですが、ピアノはそもそもオーナーがどうあがいても持ち運びどころか動かすことさえできない特殊な楽器なので、ピアノ調律という仕事=技術者は移動するというのが大前提であるはずです。
つまり技術者が移動しないことには仕事自体が成立しないわけで、そんな職種であるにもかかわらず、いちいち出張料金を請求するというのは社会通念としていかがなものかと思うわけです。

それをいうなら、こちらから動くわけには行かない仕事、例えば水道や電気の工事であるとか、植木の剪定など、これらの人達が出張料金などを請求することはまずないし、少なくともマロニエ君はされた記憶はありません。
とくにメーカー系あるいは正規代理店などが定めた料金体系に、この出張料がしばしば含まれることは甚だ説得力を欠いており、こういうこともユーザーがだんだん調律をしなくなる遠因になっているのではないかと思います。

かたやフリーの調律師さんの中には、ご自身が定めたエリア内で仕事を引き受けた以上、当日の調律時はもちろん、後日発生した微調整などなんらかのやり直しなども含むすべての再訪にも決して出張料金をとらないという、毅然としたスタンスを貫く方もおられることも声を大にして言っておきたいところで、メーカー系列の料金体系のほうがよほど努力不足でもあるし説得力のない請求をしていると感じます。
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音の充実

たまたまチケットをいただいたので、ある室内楽のコンサートに行きました。
ピアノが加わったプログラムで、調律もこだわりをもってピアニストがおこなった人選だった由、それなりに興味をもって赴きました。

しかし結果はさほどのものではなく、あまり良いことが書けないので演奏者の名前も書きません。
まったく初めてのピアニストだったけれど、いかにも挑戦的なチラシの写真と、これでもかというプロフィールの効果だったか、それなりの演奏をされる方なのか…というイメージを抱いていただけに肩透かしを食らったようでした。

そもそもにおいて演奏者のプロフィールというのは誇大記載であるのが今や通例で、師事した教師の名の羅列に始まり、どこそこの音大を首席で卒業などは朝飯前、留学歴からコンクール歴から果てはちょっとした音楽セミナーで一度きりレッスンを受けたピアニストの名まで、事細かに書き連ね、共演したアーティストや指揮者やオケの名前をいちいち挙げながら、世界的な注目を集める才能…というように結ぶのが定形のようになっています。

その程度ならいまさら驚きもしませんが、このピアニストのプロフィールは通例をさらに超えるもので、読む気がしないほど大量の文字がびっしりとスペースを埋め尽くし、ヨーロッパでは行く先々で大絶賛を巻き起こし、リリースしたCDは高評価、そんなすごいピアニストが身近にいたなんて知らなかった自分の無知のほうを恥じなくてはならないようなものでした。

ところがステージへ出てきたご当人はずいぶん緊張されているのか、えらくぎこちない感じが遠目にも伝わって、直感的に不安がよぎりました。しかしひとたびピアノに向かったら別人のように変貌するということもあるかもしれないと、かすかな期待をしてみるも、始まった演奏はか細い音で、たった4人の弦楽器奏者の音にしばしばかき消されてしまうもので、概ねこの調子で途中挽回することもないまま終わりました。

ピアニストが調律師にこだわることは本来とても大事なことで、自分が演奏する楽器の音に関心を払うのは当然だと思いますが、まずはピアノを曲と編成とホールに合わせてまず「鳴らす」ことができるかどうか、これが大前提じゃないかと思います。
プロフィールより、調律師より、もっと大切なことがあることに気づいて欲しいと思いました。

ここからは一般論ですが、ピアノの音にも当然ながら最適な美音が出る範囲というのがあり、あまり指の弱い人がいくら奮闘してもピアノは鳴ってはくれませんし、だからといって叩きつけるなどすれば汚い音になる。
また、大柄な男性ピアニストの行き過ぎた強打を受けると、楽器によっては音が破綻したり、あるいはそうはならずに踏みとどまってももはや美音とは言い難いものになってしまいます。

ピアノ向きの体格、指の強靭さ、タッチの質、表現、美意識などあらゆることがピアノの音には反映されるという点で、ピアノのアクションというのは微々たる変化でも呆れんばかりに正確に弦とボディ(つまり音)に伝えることのできる、とてつもない精巧無比な機構だと思います。

現代のコンクール世代の若いピアニストの多くは、指は難なく自在に動くようですが、せっかくの楽器の表現機能を活かしきれているかといえば、マロニエ君には大いに疑問が残ります。
とりわけ深み厚み重みといった方面の音が出せなくなって、弾き方そのものがどこか電子ピアノ化してしまってはいないでしょうか。
無駄のない科学的な訓練によって鍛えられたテクニックは、運動面での効果は目覚ましいけれど、表現の懐が浅く、楽器を充実して鳴らしきるということが手薄になり、そこに聴こえてくるのは感銘のない、無機質な丸暗記風の音の羅列にすぎません。

その人が受けた教育の方向性にもよるものか、あまりにも正確な楽譜再現にばかり注意が払われすぎ、曲に対する奏者の本音とか生の感情というものが聴こえてこないこともあろうかと思います。
音楽に限らず、世の中は自分の正直な感覚とか考えが表現しにくい空気が蔓延し、どこからもクレームの付かないものに徹しようとする社会の傾向がある中で、それは音楽の世界でも横行しているような気がします。
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「価格相談」

もっぱらネット上でのことが多いように思うけれど、一部のピアノ店の価格表示に意味不明なものがあり、その真意がどうにも解せません。
いっそ価格は一切書かず、知りたい人はコンタクトを取って問い合わせるというスタイルに徹するのであれば、それはそれでひとつの潔さかもしれませんが、マロニエ君がどうしても釈然としないものに「価格相談」あるいは「価格応談」という言葉が使われること。

これはどういう意味なのか、ずいぶん前から疑問をもっていますが、いまだに確たる意味はつかめません。
とくにスタインウェイやベーゼンドルファーなど、高級ピアノの中古品にそれが多く、しかも同じ店が日本製ピアノも売っていたりすると、それらには中古品でも一台一台価格が明記されているのに、輸入物になるとなぜか上記のような謎の表示になって、一切具体的な価格を示さない店をときどき目にします。

価格を書かないというのも場合によりけりで、たとえば歴史的な価値のあるものでなかなか値段のつけにくいものとか、本来は非売品扱いだけれども、ぜひにと懇望されれば絶対売らないでもないというような特殊なケースは場合によってはあるだろうとは思います。

しかし、輸入品で高額というだけで、いわば普通の中古の輸入ピアノに対して一切価格を明かさず、しかし商品としてはしっかり掲載して販売をアピールするというのは、どうにも腑に落ちないわけです。

物を売ろうというのに、価格を表示せず「価格相談」とするのは、悪い解釈をすれば相手を見て決めるということでしょうか。
相談ってどういう相談をするのかもわからないし、相手しだい交渉しだいで高くも安くもなるのか?という不安も覚え、そういう店はなんだか信頼できない気がして、あまりいい感じがありません。
悪い言葉でいうなら、店側からこちらがチェックされて、カモだと見定められればふっかけられそうな気もしなくもありません。

また相談というからには、じゃあ相談すれば安くなるのかとも思いますが、やはり現実的にはそういうものでもないでしょうし、おそらくは相場より高いのだろう…という気がします。

考えれば考えるほど「価格相談」というのは店側の都合ばかりを優先したやり方のように思われるし、悪くすれば、その店と関わりを持ったが最後、説明攻勢をかけられて、話はお店主導でもっていかれるのではないかと思ってしまいます。
平均的な相場より高額であることを、他店の批判を交えながら客の不安を煽りつつ、だから当店のピアノは内容に対して妥当(もしくは割安)なものですよ!と説き伏せて、あとからトラブって苦労するより、結局は少しぐらい高くてもちゃんとしたものを我が社で買われるほうが賢い選択であるというような理屈ではないかとも思います。

また、うちは価格では勝負はしていません、輸入ピアノといっても程度や状態は千差万別で、あくまでも最高の品質と技術をお客様に提供することがポリシーで、価格もそれに見合ったものですというような理屈立ということも考えられます。
でも、最高の品質と技術をお客に提供することと価格を表示することがどうして両立しないのか、やはりマロニエ君にはきれいに納得することはできませんし、だったら価格を表示した上で、自社の信念をしっかり訴えればいいだろうと思います。

また、それだったら国産ピアノを含めてすべて「価格相談」すればいいものを、そうしないのも理屈が通らない。
どうしても考えてしまうのは、やはり利幅の大きい高額商品であるから、それを買おうとするリッチな人を相手に、できるだけ高く販売したいという狙いのように思えてなりません。

というか、それ以外に、わざわざこの言葉を使う意味がマロニエ君にはどうしても見当たらないのです。

たしかに輸入ピアノの販売には、でたらめな業者がいることも耳にしますし、実際そうなんだろうとも思います。
でも、この「価格相談」という文字を見ると、小池さんじゃないけれど情報公開されないブラックボックス的精神を見るような気がしてしまうのです。
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思いつくまま

身も心もイヤ~なカビが生えてきそうな、陰気な雨模様がずーっと続いてて終わりませんね。
報道によると、どうやらほぼ全国的なもののようで、こればかりは打つ手がありません。

福岡の場合で言うと、土曜から降り始めた雨は日曜にはさらに深刻なものとなり、朝から晩までしたたかに降り続きました。
月曜もほぼ同様の状態がつづき、火曜の夜にほんの少しだけ止みましたが、その後はまたしても降ったり止んだりの繰り返しで、ここまでくると青い空も忘れかけた気分です。

週間予報を見ていると、晴れマークはひとつもなく、来週以降も連続して黒っぽい雲か傘のマークばかり並んでいて、まるで黒いパールのネックレスのように連なっています。さらに追い打ちをかけるように、今年はもう終わったものだと思い込んでいた台風までやってくるようで、選挙の日曜には沖縄に達し、翌日から日本列島に向かって北上してくるというのですから、秋らしい、澄んだ空気を思いっきり満喫するのも当分は諦めなくてはならないようです。

だいたいお天気のことを書くときはネタがないときなんですが、よく思い返してみると、先週は横浜のピアノ屋さんが福岡への納品ついでに我が家にも立ち寄ってくださり、楽しいひと時を過ごすことができました。

この方はピアノはもちろん、ときには車までヨーローッパから輸入されているらしく、お店のキャラクターにもなっている1963年のオースチンA35バンが先ごろカー・マガジン誌から取材を受けたとのことで、マロニエ君がピアノと同様、車も好きだということをどなたからか聞かれたらしく、その本をおみやげに持ってきてくださいました。

そのオースチンA35バンの記事は巻頭のカラー4ページにもわたる堂々たるもので、見開き2ページにわたりピアノ店の店頭で車のハッチが開き、そこへご主人がベヒシュタインの鍵盤蓋を抱え、今まさに積み込もうとするショットで、いきなりのけ反りました。
オースチンA35バンは、バンという名の通り商用車ですが、その造形は優雅な曲線に包まれたなんともかわいらしい車です。
フロントシートのすぐ後ろは荷室になっていますが、そこにはグランドピアノのアクション/鍵盤一式がきれいに収まっている写真が1ページまるごと掲載されているし、さらには店内のピアノやお仕事の様子などまでも紹介されていて、ピアノの本か車の雑誌かわからなくなるようで、大いに驚かされました。

こういうものを見せられると、かなり個人的かつこじつけのようではありますが、ピアノと車は精神的にどこか切っても切れないなにかがあるように思えてなりませんでした。

車の話が出たついでに少し書きますと、マロニエ君は普段の足にVWゴルフ7の1.2コンフォートラインというのに乗っています。
よく出来た現代の車の例に漏れず、ほとんど故障らしきものはないのですが、ちょっとしたフィールの問題で現在ディーラーに入院中で、その間の代車として同じくゴルフ7のワゴンの1.4ハイラインというのを貸してくれました。
ワゴンボディなので、通常のモデルより全長が少し長くて、そのぶん荷室は広く、エンジンはひとまわりパワーがあり、内装やシートの素材なども少しずつ高級な仕様になっていますが、走りだしたとたん、自分の車との本質的な違いにおおいに戸惑いました。

タイヤはより幅広でスポーティなサイズになるし、車重は140kgも重く、リアのサスペンションはワゴンということを考慮されて、かなり硬いセッティングになっています。前を向いて走ってもワゴンの荷室がうしろからついてまわるため、いつもカラのリュックを背負って動いているみたいで、なんとなく重心も高いしバランスも違ったものになっています。
これはこれでとても良くできた車であるし、ワゴンを本当に必要とする向きには良い1台とは思うけれど、個人的には圧倒的に自分の車のほうが軽快かつしなやかで好ましく、しかも価格が55万円も高いことを考えると、マロニエ君にはまったく無用のプラスアルファということを痛感しました。
今どきの流行りだからといってカッコだけでワゴンを選ぶと、とくに車の走りにこだわる人には予想外のこともあるだろうと思いつつ、自分の車の退院をひたすら待っているところ。

…雑誌の話からつい車のほうに行きましたが、ピアノへ話を戻すと、その日はせっかく遊びで立ち寄っていただいたにもかかわらず、話の流れでシュベスターの調律をやっていただくことになりました。
新旧内外ありとあらゆるピアノの修理をやられている方の目に、ヤフオクからクリックひとつで買ったシュベスターがどう評価されるか興味津々でした。どんなことを言われても傷つきませんから率直になんでも言ってください!と頼みましたが、果たしてとても状態が良いとのお褒めをいただくことになり、もちろん嬉しいけれどいささか拍子抜けしてしまいました。

外観がかなり荒れたピアノだったものの、内部の写真はそれほど悪くないように見えたことが今回はたまたま間違いではなかったようで、とてもきれいでほとんどやることがないというようなことまで言っていただき、そこには社交辞令が多分に盛り込まれているとは思いますが、それを割り引いたとしても、あんなめちゃくちゃな買い方のわりには、まあ結果は良かったほうか…と胸をなでおろすことができました。
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クラビアハウス-2

前回のクラビアハウス訪問記で書ききれなかったことをいくつか。

知人がネット動画の音を聴いてこれだと目星をつけていたのは戦前のグロトリアンシュタインヴェークだったのですが、実物に触れてもそこに食い違いはなかったようで、あっさりこれを購入することになりました。
もちろん、他の3台も触って音を出してみた上でのことですが、各ピアノの個性やタッチなどから、この1台に決したのは極めて自然なことだと思われました。

それほどそのグロトリアンは1台のピアノとしての完成度が高くて自然でした。
曲や弾き手を広く受け容れる懐の深さがあり、いい意味でのきれいな標準語を話すようなピアノでしたから、なにか突出した個性を得るためその他のなにかを犠牲にするということがまったくないピアノだというのが率直なところ。

あくまでも個人的な意見ですが、ベーゼンドルファーやプレイエルは、これらのピアノに思い入れがあるとか、すでになんらかのピアノを持っている人が、さらに自分の求める方向性を深く追求するために購入するには最高のチョイスになり得ると思いますが、そうでない場合はもう少し普遍的な要素を持ったピアノのほうが賢明かもしれません。

その点では、中間的な個性かもしれないのがブリュートナーで、一応どんな音楽にも対応できるピアノではあるけれど、それでもなおドイツ臭はかなりあるので、弾き手の趣味や好みの問題が出てくるとは思います。
艷やかで量感のある音なので、やはりドイツ音楽が向いていそうで、とくにバッハなどには最良かもしれません。

ドイツ臭といえば、工房で修理中であったアートケースのベヒシュタインはさらにその上をいくもので、発音そのものがまるでドイツ語のアクセントのようでした。ちょっとベートーヴェンなどを弾いてみると、うわぁと思うほどその音と曲がピタッと来るので、やはり生まれというのはどうしようもないもののようです。
そういえばマロニエ君がバックハウスの中でも最も好きな演奏のひとつである、ザルツブルク音楽祭でのライブ録音のヴァルトシュタインは、いつものベーゼンドルファーではなく、なぜかベヒシュタインのEで、それがまたいい具合に野性味があって良かったことを思い出しました。

その点でいうと、スタインウェイは何語ともいいがたい音だと言えそうで、強いて言うなら、もっとも美しい英語かもしれないし、あるいは何カ国語も流暢に話せるピアノかも。それでもニューヨークはまだアメリカ的要素があるけれど、ハンブルクはまさに国籍不明。

さて、そのベヒシュタインのところで話題になったのが響板割れについてでした。
マロニエ君は響板割れというのは目に見える響板のヒビや割れのことだと思っていたのですが、そればかりではないということを聞いたときは意外でした。

ヴィンテージピアノの多くには響板割れはしばしば見られるもので、それらは必ずしも見てわかるものではなく、冬場だけ木が収縮してようやくわかるものがあるなど状態もさまざまで、目視だけでは油断はできないのだそうです。
クラビアハウスではピアノを修理する際、この見えない響板割れを突き止めるために、特殊な液体を使って割れの有無を確かめるのだそうで、新品のようにレストアされたプレイエルにも、よく見ると響板割れをきれいに埋め木で補修した跡があり、こうして手を入れることでピアノは人間よりも長い寿命を生き続ける楽器であることがよくわかります。

ここのご主人は、驚いたことにこの10年の間に40回!!!ほどもピアノの仕入れのためにヨーロッパへ行かれたそうで、その際には裏の裏まで徹底的にピアノをチェックして納得のいくものだけを購入される由で、一度に多くても2~3台、場合によってはゼロで帰ってくることもあるとのことでした。もちろんその納得の中には、ピアノの状態に対する価格の妥当性という面もあるのだとは思いますが、とにかくその手間ひまたるや気の遠くなるような大変なものというのが率直な感想です。

前回も少し触れましたが、ここの価格は望外のもので、疑り深い人はその安さから不安視することもあるかもしれないと思うほどですが、マロニエ君の結論としては、購入者はピアノの状態を見て聴いて触れることは当然としても、お店の方の人柄とかピアノに対するスタンスというものが、もうひとつの大きなバロメーターになると思います。
というのも、ピアノのような専門領域を多く含んだものを購入する場合、すべてを素人が自分でチェックすることはまず不可能で、あとはお店に対する信頼しかないわけです。
とりわけヴィンテージと言われるピアノになればなおさらで、修理や調整を手がけ、すべてを知り尽くした人だけが頼りです。

最後に、ヴィンテージピアノといっても、きちんと適切な修理調整をされたものは、けっして一般的なイメージにある古物ではないことを強調しておきたいと思いますし、下手をすれば人工合材の寄せ集めのような新品ピアノなどより、この先の寿命もよほど長いかもしれません。
今回弾かせていただいたいずれのピアノも(とくに3台は戦前のもの)、古いピアノにイメージしがちな骨董的な雰囲気とか、賞味期限を過ぎたもの特
有のくたびれた感じなどは皆無で、90年ほども前のピアノという事実を忘れてしまうほど健康的でパワーがあって、少なくとも自分の命のほうが短いだろうなぁと思えるものばかりでした。
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クラビアハウス

横浜のクラビアハウスに行ってきました。
ここはマロニエ君が数年前からホームページ上で注目していたピアノ店で、いつか機会があれば行ってみたいと思う筆頭候補だったのですが、このたびふとしたことから念願が叶いました。

この店はご主人自らヨーロッパに出向き、自分の納得のいくピアノを買い付けては日本に送り、工房でじっくり時間をかけて仕上げたものを順次販売するというスタイルのようです。
ホームページでは、仕上がったピアノを紹介する際に必ずと言っていいほど演奏動画が添付されており、マロニエ君はこれまで、ここの動画のあれこれをどれほど見て聴いて楽しませてもらったかわかりません。

特別な装置で撮られたものではないようですが、パソコンのスピーカーで聴くだけでも、それぞれのピアノの特徴が思いのほかよくわかり、飽きるということがありませんでした。

知人がヴィンテージピアノに興味を抱いているようなので、ならばとここのホームページを教えたところ、その中の一台の音色にすっかり魅せられたらしく、たちまち航空券等の手配をして、すぐにも横浜に行く手はずを整えてしまいました。
それで、かねてよりマロニエ君自身も行ってみたいピアノ店であったことから、それならというわけで同行することになったのです。

こういうチャンスでもないと、購入予定もないのに、興味に任せてピアノ店を訪れて話を聞いたりピアノを弾いたりするという行為があまり好きではないし、まして近い距離でもないので、今しかないかも…というわけで思いきって腰を上げた次第。

クラビアハウスは保土ヶ谷区の住宅街にあってわかりにくいということから、ご主人自ら最寄り駅まで車でお出迎えくださり、お店へとご案内いただきました。

表にはかわいらしい花々が咲き乱れ、まるでヨーロッパの小さなピアノ工房を訪れるような感じ(行ったことはないけれどあくまでイメージ)で、控えめな入口をくぐると、そこには眩いばかりにいろいろなピアノがずらりと並んでいて、やはり普通のピアノ店でないことは一目瞭然でした。
普通は外観は派手でも、中に入ったらガッカリということが少なくないけれど、クラビアハウスはまったく逆で、さりげない店構えに対して中はまさにディープなピアノがぎっしりという驚きの店でした。

入り口から左手には工房があり、右手には仕上がったピアノが所狭しと並んでいます。
どれも技術者の手が惜しみなく入ったピアノだけがもつ独特の輝きがあり、この工房でいかに丁寧に仕上げられたピアノ達かということが物言わずとも伝わってきました。
グランドに限っても、このときベーゼンドルファー、ブリュートナー、プレイエル、グロトリアンシュタインヴェークという、綺羅星のような銘器が揃っていましたし、さらに工房には作業中と思しき六本足の華麗なアートケースをもつベヒシュタイン、さらにはもう1台ブリュートナーがありました。

展示スペースにある4台のグランドのうち、ベーゼンドルファーとプレイエルは我々のために試弾できるよう急遽組み上げられたのだそうで、こまかい調整はあくまでこれからとのことでしたので、この2台については多少そのつもりで見る必要がありそうでした。
ごく簡単に、それぞれの印象など。

《ベーゼンドルファー》
調整はこれからという言葉が信じられないほど、軽くてデリケートなタッチとソフトな音色はまさにウィーンの貴婦人のようで、他のどのピアノとも違う、ベーゼンドルファーの面目躍如たるものを醸し出すピアノ。こういうピアノでひとり気ままにシューベルトなどを弾いて過ごせたら至福の時でしょう。
1922年製の170cm。外装は黒から木目仕様に変更されたものらしく、普段なかなか目にすることのない渋い大人の色目で、淡い木目を映し込んだ美しいポリッシュ仕上げ。

《プレイエル》
マロニエ君の憧れでもあるプレイエル。さりげない寄木細工のボディ、シックで控えめな色合い、明るさの中にも憂いのある独特な音色と、よく伸びる次高音など、いまさらながらショパンがサマになる、フランスというよりもパリのピアノ。
惜しむらくはタッチがピアノの個性に似合わず全体に重めで、このあたりが調整途上である故かと納得する。
新品のように美しかったが、聞けばかなりの状態からここまで見事に蘇ったとのことで、その高い技術力に唸るばかり。

《グロトリアンシュタインヴェーク》
この日の4台の中で、最もバランスに優れ、違和感なくヴィンテージピアノを満喫できるのは、おそらくこれだろうという1台。グロトリアンはスタインウェイのルーツともいえるメーカーで、クララ・シューマンやギーゼキングが愛用してことでも有名。
その音色は最もスタインウェイ的な華と普遍性が感じられ、ピアノとしてのオールマイティさはグロトリアン時代から引き継がれたこの系譜のDNAであることがわかる気がした。
その音色は甘く温かく、過度な偏りのない点が心地よい。

《ブリュートナー》
このメーカー最大の特徴といえるアリコートシステムをもつため、芯線部分は通常が3本のところ、4本の弦が貼られているためやたら弦やピンが多い印象(ただし実際に打弦されるのは3本)。全体に手応えのあるタッチと、それに比例するような強めのアタック音と、実直さの中に艶やかさが光る音色。
明るめの美しい木目仕様で、フレームには亀甲型の穴と、鮮やかな青いフェルトが鮮烈な印象を与える。
1978年製の165cmで、この4台の中では最も製造年が新しく、ヴィンテージというにはやや新しめの音かもしれない。

~以上どれもが本当に素晴らしいものばかりで、いつまでもその余韻が残るようなピアノ達でした。

ちなみにクラビアハウスで注目すべきは、その品質の良さだけでなく、かなり良心的な価格でもあることで、これは購入検討する際には見逃せない点だと思います。
実際もっとクオリティの劣るピアノを、はるか高値で売る店はいくらでもあるので、なんと奇特なことかと思いますが、ここのご主人のおっとりした飾らないお人柄に触れていると、それも次第に納得できるようでした。

ヴィンテージピアノに興味のある方は、一度は訪ねておいて損はない店だと思います。
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譜面立ての不思議

概ね気に入っているシュベスターではありますが、このピアノを弾いていて、ひとつだけひどく不自由に感じるところがあります。
それはアップライトピアノ全般に言えることなので、とくにシュベスター固有の問題点とは言えないのですが、譜面立てに関すること。

グランドピアノの場合は、水平に畳まれた譜面台を使用時に引き起こして(自分の好きな角度で)使いますが、アップライトの多くは鍵盤蓋の内側に細長い譜面立てが折り畳まれており、使用時はそれを手前に倒して、そこへ楽譜を載せるというスタイル。
(そうではない形状の譜面立てをもつアップライトもありますが、鍵盤蓋内側のものが圧倒的多数)
楽譜を置く部分はグランドの場合は水平であるのに対して、アップライトの場合は構造上の問題からか、かなりの角度(傾き)がついています。

それだけでも少し使いにくいのに、その細長い板の手前側の縁がわずかにせり上がるように作られており、これはおそらく楽譜が不用意に滑り落ちないための配慮のつもりだろうと一応は推察されるけれども、これが決定的にいけません。

というのも、弾きながらページをめくるときは、できるだけ曲が途切れないよう、手早くサッと一瞬でめくるものですが、その譜面台前縁のせり上がった部分に楽譜が干渉してひっかかり、その部分が強く擦れてシワになって、みるみるうちに楽譜の下の部分が傷んでしまうばかりか、最悪の場合は破れることもじゅうぶんありそうです。

グランドの譜面立てではそんな不都合は一切ないのに、なぜアップライトではこういう理解に苦しむ作りになっているのか、まるで合点がいきません。
その譜面台の板の角度がもし水平で、表面がツルツルなら、あるいは楽譜が滑り落ちる可能性があるというのもわかりますが、この手の譜面立ては「鍵盤蓋に対して直角に開くよう」になっています。
そこで問題なのは、アップライトピアノの標準的な鍵盤蓋は、グランドのように垂直に開くのではないこと。
直角よりも後ろへ寝かすように開きますから、その鍵盤蓋に直角に取り付けられた譜面立ては、横から見るとおよそ30度ぐらいの角度がついていて、滑り止めの前縁などなくても楽譜が落ちることはまず考えられません。

ではもし、そのせり上がった前縁がなければいいのかといえば、そうでもなく、鍵盤蓋がカーブして手前に伸びた部分に楽譜の背が当たるので、そのぶん角度がついて、どっちにしろ楽譜はめくれば譜面立てに干渉することは避けられません。

それにくわえて、わざわざ滑り止めの縁まである!
つまり「角度」と「滑り止めの縁」というふたつの理由から楽譜をサッとめくることができず、毎度毎度、楽譜の下の部分がその縁に引っかかっては皺になってしまうのが使いにくいし、それがいやならいちいち楽譜を持ち上げてページをめくる必要があります。
こういうことは、ピアノを弾くにあたってかなりのストレスにもなり、これは構造的な欠陥だと断じざるを得ないのです。
しかも、メーカーを問わずアップライトピアノの場合、多くがこのスタイルになっているのは、まったく不可解という以外にありません。

ピアノの製作者のほうには、楽譜を「めくりやすく」という実践的な考えや見直しがないのか、とにかく使う人のことをまったく考えていない構造だというのがマロニエ君の結論です。

試しにそこへ細長い板を置いてみましたが、前縁に干渉しない高さなっても、前述のように楽譜が鍵盤蓋のカーブに当っているために角度が生じて要るため、やはり楽譜は譜面立てそのものに干渉してしまいます。そこで、奥に鉛筆を一本置いてその上に板を乗せて角度をなだらかに変えてみると、これでようやく楽譜をスムーズに(つまりグランドと同じように)めくることができました。

ほんらい、ありのままで問題なく使えるのが当たり前であるはずなのに、このように二重の欠陥を有しながら、何十年も改善されることなく放置されていることにはただもう驚くばかりで、それは日本の大手のメーカーも同様なので、なぜこんな使いにくいスタイルがスタンダードになっているのか、まったく理解に苦しみます。

悪趣味で鬱陶しいカバーなどを何十種も作るより、こういう機能改善をするためのグッズでも販売してもらいたいものです。
むろん、メーカーが使いやすい譜面立てを考案・制作してくれることが一番ですが。
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シュベスター近況

中古ピアノの買い方としては、ネットオークションという、いわば最悪というか、一番やってはいけない方法で入手したシュベスター。

ピアノを買うにあたり、実物を見ることも触れることも音を聴くことも一切せず、写真のみで入札ボタンを押してしまった無謀きわまりないやり方です。とくに中古品はどんな使い方をされてきたかもわからないし、コンディションもバラバラで、とんでもないピアノかもしれません。
いや、とんでもないピアノであるほうが確率は高く、そうでないことのほうが珍しいかも。
まして素人の場合、もし実際に見て触れたとしても、プロのような正しい判断ができるわけではなくじゅうぶん危険なのに、ほとんどやけっぱち同然で入札〜ゲットしたのですから、よくもそんな無茶なことをしたものだと、いま考えると自分で呆れます。

しかも出品者はピアノ業者でも個人オーナーでもなく、家具などを扱うリサイクル店だったため、楽器の知識などもない相手でしたから、質問なども諦めておりまさに冒険でした。

写真から、濃い目のウォールナットのそれは、外観はあまりいい感じではないことは見てわかりましたが、それでもこのとき、無性にシュベスターという日本の手造りピアノが欲しいことに気分は高揚し、値段も大したことないことも拍車がかかってこのような暴挙へとなだれ込んだ次第でした。
とくに響板には、その性質が最も適しているとされながらも、厳しい伐採規制で量産品では不可能とされる北海道の赤蝦夷松を使っていること、設計はベーゼンドルファーのアップライトを手本としているらしいことも大いに魅力に思われました。

落札から約2週間後、外装の補修のため、ピアノ塗装をメインにする工房(木工作業塗装一級技能士の資格をお持ちの技術者)に届けてもらったシュベスターは、さっそくプロのチェックを受けることに。
果たして楽器としての内部的な部分はこれといった問題もなく、外装の補修のみで納品できるとのことで、これは望外のうれしいビックリでした。
実を言うと、とんでもないものが来るのではないか(響板割れやピンルーズなど)という不安もあり、一応それなりの覚悟はしていたのですが、いずれの問題もないという報告で、この点は非常にラッキーだったとしか云いようがありません。

塗装工房では他のピアノの作業との兼ね合いもあってずいぶん時間がかかりましたが、この道のスペシャリストの方の丁寧な作業のおかげで、見違えるほど美しく蘇り、いまも自室のデスクの真後ろにシュベスターは静かに佇んでいます。

やはり自分の部屋にピアノがあるというのは、ピアノに触れるチャンスが圧倒的に増えるもので、以前よりピアノを弾く時間がずっと増えたような気がします。とはいってもマロニエ君の低次元の話であって、これまで5~10分ぐらいだったものが、せいぜい30分前後になったという程度ですが。

よくある某大手メーカーのアップライトは、高級機種とされるものでも弾いてみてぜんぜん楽しくないですが、シュベスターはなによりもまず弾きたい気持ちにさせてくれるところが、このピアノ最大の特徴のように思います。

そして、多少の失笑を買うことを覚悟でいうと、たしかにベーゼンドルファーに通じる雰囲気がちょっとだけあるし、音を出すだけでもとても楽しく、ピアノと対話しているような感覚が途切れないところがなんともいえません。
生意気に曲との相性もあったりして、バッハやベートーヴェン、シューベルトなどはいいけれど、ショパンはどうにもサマにならないところもベーゼンのようで、つい笑ってしまいます。

納品前の整音は、とりあえずソフトな音を希望していたので、しばらくはそんな音でしたが、2〜3ヶ月もするとだんだん弦溝が深くなり、艶めいた輪郭のあるよく通る音色になってきて、より個性的になっています。

今回のようなギャンブル的な買い方は絶対に人にすすめられることではないけれど、大量生産の表情のない音が出るだけのピアノがどうしても嫌だという方には、シュベスターは自信をもっておすすめできると思います。
そこそこの値段だし、それこそ磐田に行って注文すれば、貴重な材料を使った手造りピアノが今でも新品で手に入るわけで、こんな素晴らしい道がか細いろうそくの光のようではあるけれど、かろうじて残されているのは嬉しいことです。
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4人のスターピアニスト?

毎週日曜朝の音楽番組『題名のない音楽会』で、「4人のスターピアニストを知る休日」と題する放送回がありました。
番組が始まると、この日はホールではなくスタジオのセットのほうで、てっきりそこへ4人のピアニストを呼び集めるのかと思ったら、すべて過去の録画からの寄せ集めで、まずガッカリ。

4人の内訳はラン・ラン、ユンディ・リ、ファジル・サイ、辻井伸行という、なんでこの4人なのかも疑問だけれど、そこはテレビ(しかも民放)なので、さほどの意味もないだろうと思われ、それを深く考えることなどもちろんしません。
残念ながら全体としてあまり印象の良いものではなかったので、書くかどうか迷いましたが、せっかく見たのでそれぞれの感想など。

【ラン・ラン】
この人のみ、この番組のスタジオセットの中に置かれたスタインウェイで弾いていましたが、これもどうやら過去の録画のようでした。
ファリャの「火祭の踊り」を弾いている映像でしたが、マロニエ君はどうしてもこの人の演奏から音楽の香りを嗅ぎ取ることはできないし、ハイハイというだけでした。
本人はどう思っているのか知らないけれど、聴かせる演奏ではなく、完全に見せる演奏。
必要以上に腕を上げたり下げたり、大げさな表情であっちを見たりこっちを見たり、睨んだり笑ったり陶酔的な表情になったり、とにかく忙しいことです。
テンポも、やたら速いスピードで弾きまくる様は、まさにピアノを使った曲芸師のよう。
それでもなぜか世界中からオファーがあるのは、慢性的なクラシック不況の中にあってチケットが売れる人だからなのでしょうけど、だとするとなぜこの人はチケットが売れるのかが疑問。

ただ、ラン・ランの場合、この見せるパフォーマンスには憎めない明るさもあり、「ま、この人なら仕方ないよね」という気にさせられてしまうものがあって、彼だけはその市民権を得てしまった特別な人という感じがあるようです。
ピアノを離れたときの人懐っこい人柄などもそれを支えているのかも。

【ユンディ・リ】
ショパンのスケルツォ第2番。こちらはホールでの演奏。
ショパン・コンクールの覇者で、ラン・ランのような能天気ぶりも突き抜けた娯楽性もないから、こちらは知的で音楽重視の人のように見えるけど、果たしてどうなんでしょう。
こちらもかなり早いスピードで弾きまくり、自分の演奏技能を前面に打ち出した、詩情もまろやかさもないガラスのようなショパン。
音楽的なフォルムは、音大生的に整っているようにも見えますが、細部に対する目配りや情感は殆どなく、これみよがしな音列とフォルテと技術の勢いだけでこの派手な曲をより派手に演奏しているだけ。
ショパンの外観をまといながらも核心に少しも到達せず、細部に宿る聴かせどころはすべてが素通りという印象。

ラン・ランとユンディ・リは相当のライバルと思われるけれど、ピアノを弾くエンターティナーvs優勝の肩書を持ったイケメンピアニストぐらいの違いで、本質においてはどっちもどっちという印象でしょうか。武蔵と小次郎?

【ファジル・サイ】
なにかコンチェルトを弾いた後のアンコールと思われるステージで、お得意のモーツァルトの「トルコ行進曲」をジャズ風にいじった自作のアレンジ。
好き嫌いは別にして、この人がこういう事をするのは非常にサマになっているというか、ツボにはまった感じがあって、コンポーザーピアニストでもある彼の稀有な才能に触れた感じがあるのは確かです。
このサイによる「トルコ行進曲」は人気があって楽譜が出ているのか、何度か日本人ピアニストが弾くのを聴いた事があるけれど、ただのウケ狙いと、これが弾けますよという腕自慢としか思えないものばかりではっきり言ってウンザリするだけ。
ところが、本家本元はさすがというべきで、全身から湧き出る音とリズムには本物の躍動があり、余裕ある圧倒的な技巧に支えられて、聴くに値するものだったことに感心。
今回の4人中では、唯一もう少し他の曲も聴いてみたいと思わせるピアニストでした。

【辻井伸行】
こちらもコンチェルト演奏後のアンコールのようで、ベートーヴェンの「悲愴」の第2楽章。
この超有名曲にして、あまりに凡庸な演奏だったことに面食らいました。
この人はある程度の音数があって、速度もそこそこある曲をノリノリで弾くほうが向いているのか、こういうしっとり系で酔わせてほしい曲では彼の良さがまったく出てこないことが露呈してしまったようでした。
きちっとした思慮に裏付けられた丁寧な歌い込みや、心の綾に触れるような深いところを表現することはお得意でないのか、あまりにもただ弾いてるだけといった感じで、辻井さんのピアノの魅力や美しさを受け取ることはできず、肩透かしをくらったようでした。

~以上、あまり芳しい感想ではありませんでしたが、まあそれが正直な印象だったのでお許しください。
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グランフィール

またしても友人に教えられて、興味深い番組を見ることができました。

TBS系の九州沖縄方面で日曜朝に放送される『世界一の九州が♡始まる!』という番組で、鹿児島県の薩摩川内市にある藤井ピアノサービスが採り上げられました。
主役はいうまでもなくここで開発された「グランフィール」。
これを装着することで、アップライトピアノのタッチと表現力をグランド並みに引き上げるという画期的な発明です。それを成し遂げたのがここの店主である藤井幸光さん。

グランフィールは2010年に国内の特許取得、2015年には「ものつくり日本大賞」の内閣総理大臣賞を受賞、いまや日本全国の主なピアノ店で知られており、ついには本場ドイツ・ハンブルクでもデモンストレートされたというのですから、その勢いは大変なもののようです。

もともとアップライトとグランドでは、単に形が異なるだけでなく、弾く側にとっての機能的な制約があり、とくにハーフタッチというか連打の性能に関してはアクションの構造からくる違いがあり、グランドが有利であることは広く知られるところ。
具体的にはグランドの場合、打鍵してキーが元に戻りきらない途中からでも打鍵を重ねれば次の音を鳴らすことが可能であるのに対して、アップライトは完全に元に戻ってからでないと次の音がでないという、決定的なハンディがあります。

そんなアップライトに、グランド並の連打性を与えるということは、世界中の誰もができなかったことで、それを藤井さんが可能にしたところがすごいことなのです。
キーストロークの途中から再打弦ができるということは、小さな音での連打が可能ということでもあり、そのぶんの表現力も増えるということ。通常のアップライトでは毎回キーが戻りきってから次のモーションということになるため、演奏表現にも制約ができるのは当然です。
例えば難曲としても知られるラヴェルの夜のガスパールの第一曲「オンディーヌ」の冒頭右手のささやくような小刻みな連続音は、和音と単音の組み合わせによるもので、それを極めて繊細に注意深く、ニュアンスを尽くして弱音で弾かなくてはならず、あれなどはアップライトではどんなテクニシャンでもまず無理だろうと思われます。
それが、グランフィールが装着されていたら可能になるということなら、やっぱりすごい!
もちろん夜のガスパールが弾ければ…の話ですが。

マロニエ君は2011年に、ピアノが好きでここからピアノを買われた方に連れられて藤井ピアノサービスを訪れ、いちおうグランフィールにも触れてはみたものの、上階にすごいピアノがたくさんあると聞いていたため、わくわく気分でそっちにばかり気持ちが向いて、あまりよく観察しなかった自分の愚かしさを今になって後悔しているところです。

その構造については長いこと企業秘密だったようですが、今回のテレビでちょっと触れられたところによれば、ごく小さなバネが大きな役割を果たしているようでした。もちろんそこに到達するには長い試行錯誤があってのことでしょうし、藤井氏が目指したのは「シンプルであること」だったそうです。

しかもそれは既存のアップライトに後付で装着することができて、技術研修を受けた技術者であれば装着することが可能、それを88鍵すべてに取り付けるというもの。
また、このグランフィールを取り付けた副産物として、キレのある音になり、さらにその音は伸びまで良くなるというのですから、まさに良い事ずくめのようでした。料金は20万円(税抜き)〜だそうで、きっとそれに見合った価値があるのでしょう。

開発者の藤井さんは、もともと車の整備の勉強をしておられたところ、高校の恩師のすすめでピアノの技術者へと転向されたらしく、車にチューンアップというジャンルがあるように、ピアノも修理をするなら前の状態を凌ぐようなものにしたい、つまりピアノもチューンアップしたいという気持ちがあったのだそうで、そういう氏の中に息づいていた気質が、ついにはグランフィールという革新的な技術を生み出す力にもなったのだろうと思いました。

これはきっと世界に広がっていくと確信しておられるようで、それが鹿児島からというのが面白いとコメントされていました。
たしかに、大手メーカーが資金力や組織力にものをいわせて開発したのではなく、地方のいちピアノ店のいち技術者の発案発明によって生みだされてしまったというところが、面白いし痛快でもありますね。

鹿児島は、歴史的にも島津斉彬のような名君が、さまざまな革新技術の開発に情熱を傾けたという歴史のある土地柄でもあり、藤井さんはそういう風土の中から突如現れたピアノ界の改革者なのかもしれません。
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『ピアノと日本人』

TV番組のチェックのあまいマロニエ君ですが、友人がわざわざ電話でNHKのBSプレミアムで『今夜はとことん!ピアノと日本人』という90分番組があるよと教えてくれたので、さっそく録画して見てみました。

ナビゲーターというのか出演は、女性アナウンサーとジャズピアニストの松永貴志氏の二人。
あとから聞いたところによると、そのアナウンサーは民放出身の加藤綾子さんという有名で人気のある人だそうで、今回NHKには初登場らしいのですが、マロニエ君は今どきの女子アナが苦手で興味ゼロなので、どの人も同じようにしか見えず「へーぇ」と驚くばかり。
音大出だそうで、冒頭でマニキュアを塗った長い爪のままショパンのop.9-2のノクターンを弾いていましたが…そんなことはどうでもいいですね。

印象に残ったシーンを幾つか。
日本に最初にやってきたピアノはシーボルトのピアノというのは聞いたことがありましたが、それは山口県萩市に現存しているとのこと。
江戸時代、豪商だった熊谷義比(くまやよしかず)が膝を痛め、その治療で長崎のシーボルトの診察を受けたことがきっかけで交流が始まり、日本を離れる際に熊谷氏へ贈ったスクエアピアノでした。
それが今も熊谷家の蔵の中に展示保管されており、ピアノの中には「我が友 熊谷への思い出に 1828年 シーボルト」と筆記体の美しい文字で手書きされていてました。
日本最古のピアノというのもさることながら、いらい200年近く熊谷家から持ち主が変わっていないということも驚きました。

東京芸大ではバイエルが話題に。
メーソンが来日した折、日本にこの教則本を持ち込んだのが始まりということですが、その後にウルバヒという教本も登場し、両書はその目的がまったく異なっていたとのこと。
バイエルが指使いの訓練を重視しているのにくらべて、ウルバヒは音楽の楽しさや美しく曲を弾くためのテクニックを学ぶ練習曲が多いようで、この場面で登場したピアニストの小倉貴久子さんが弾いたのはウルバヒの中にあるシューベルトのセレナーデで、マロニエ君だったら迷わずウルバヒで学びたいと思うものでした。
しかし、当時すでに先行したバイエルが定着しつつあり、多くの先生がそれをもとに指導を始めて体系化されつつあり、ウルバヒでは指導方法がわからなかったという事情もあって、すぐに消えてしまったようでした。もしこれが逆だったら、日本のピアノ教育もまた違ったものになっていたような気もしました。なんとなく残念。

大阪では堺市にある、クリストフォーリ堺を二人が訪ねます。
ここは世界的にも有名な、歴史的ピアノの修復をする山本宜夫氏のコレクション兼工房で、氏は「神の技をもつ」と賞賛されてウィーンなどからも修復の依頼があるのだとか。
建物の中には歴史ある貴重なピアノが所狭しと並び、工房ではチェコ製のピアノが響板割れの修復をしているところでした。響板はピアノの一番大事なところで人間の声帯にあたり、これが割れることは致命傷だと山本氏は言いつつ、割れた部分にナイフを入れてすき間を広げ、修復するピアノに使われている響板と同じ時代の同じ木材を細く切ってていねいに埋め木がされていきます。
それにより、修復後は割れる前よりもよく響くようになるとのこと。
「割れる前よりよく響く」とはどういうことかと思ったけれど、その理由についての説明はありませんでした。時間経過とともに枯れて張りを失った響板が埋め木をすることでテンションが増すなどして、より響きが豊かになるということだろうか…などと想像してみますが、よくわかりません。

熊本県山鹿市のさる呉服屋が、大正時代にスタインウェイを購入。
そこの娘が弾くピアノの音に、隣りに住む木工職人の兄弟が強い関心をもち、娘に弾いてくれとせがんではうっとりと聞き惚れています。
当時のピアノは家が何軒も建つほど高価だったため、一般庶民はもちろん、学校などでもピアノなどないのが普通の時代。このピアノの音を子どもたちにも聴かせたいという思いが募り、木でできているようだし、買えないならいっそ作ってみようと一念発起します。
木村末雄/正雄の兄弟は、呉服屋の迷惑も顧みず、毎日々々ピアノの構造を確認しながら、見よう見まねで製作に没頭、数年の歳月を経てとうとうピアノを完成させたというのですから驚きました。
木村ピアノは十数台が作られ、現存する1台が山鹿市立博物館に置かれています。
幅の狭い、見るからにかわいらしいアップライトで、内部の複雑なアクションまで見事に作り込まれており、楽器の知識もない木工職人が、呉服屋のピアノを参考にこれだけのものを作り上げたその技と熱意は途方もないものだと思いました。まさに日本人の職人魂を見る思いです。

これを有名な芝居小屋である八千代座に運んで、地元の子供達を招いて松永貴志氏が演奏を披露。
すると、子どもたちが返礼としてこのピアノを伴奏に美しい合唱を聴かせてくれました。
山鹿市にこんなピアノ誕生の物語があるとは、まったく知りませんでしたが、いろいろと勉強になる番組でした。
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価値はいずこ?

日本人による日本製のピアノに関する評価基準というのは、大メーカーの製品ばかりが中心らしく、楽器としての正当な評価がなされてはいないだろうと思ってはいたけれど、根深い大ブランド偏重という点では、やはり驚くべきものがあるようです。

具体的なブランド名は敢えて書きませんが、ネットの相談コーナーを見ていると、国内で一定の評価を得ているいくつかの手造りピアノと、大手による大量生産のピアノ(どちらも中古)のいずれを購入しようかと悩んでおられる方の質問がありました。

価格はブランド力の違いからか、良質な素材を使っていると定評ある手造りピアノのほうがむしろ安く、単なる量産品のほうが逆に高額だったりで、ずらりと書き込まれた回答者達は、技術者/一般ユーザーいずれも大手の製品を当然のように勧めていることにびっくり。
それも楽器としての価値や魅力、音の善し悪しに照準を当てた話ならともかく、大したこともないわずかな安心感や、さらには将来の買取価格/リセールバリューに関する価値ばかりが大真面目に取り沙汰されていることに愕然としました。

これから手に入れて長い時を共にするピアノであるのに、果たしてどれが本当に弾いて楽しく喜びを得られるかという記述はひとつもなく、主にわずかな買取価格の話にばかり終始します。手作り品のほうは知名度が低いから殆ど値がつかないとか、下手をすれば処分代をとられることもある、それに比べれば量産品のほうがまだかろうじて値がつくわけで、だから有名メーカーの方を買われることをおすすめしますといった主旨のもの。

これが業者間の話なら、事はビジネスだからそういった意見もまだいいとしても、一般のユーザーに宛てたアドバイスがそこだったことにとても驚かされたというかショックを受けました。

たしかに相談者がどういった部分に重点を置いて相談されているかまでは正確にわからなかったことも事実ですが、すくなくとも質問の感じからして、それをさらに将来手放すときの金銭的価値の話ではなく、ピアノとしてどっちを選んだほうがいいでしょうか?という、単純かつ漠然としたものだったように感じられました。
おそらく、音の感じとかピアノとしての味わいや音楽性などのことと、機構的な心配はないかといったことだろうと思います。
とこらが、回答者はすべて「買取の場合にどれだけ値がつくか」という一点のみに終始し、純粋に楽器としての良し悪しに対する記述は一つもないのには言いようのない価値基準の貧しさを感じました

これからピアノを買って、家において、弾いて、音楽に触れ、ピアノと関わろうというのに、将来手放すときの金銭的価値が残るか残らないか、そういうことばかりに価値を置き、だから大手メーカーがオススメだと何人もの人が堂々と言ってのける感性には、本当に驚かされました。
極め付きは「わざわざ❍❍万円(売値)の処分困難な粗大ゴミをあえて買いますか?」といった強烈な言い回しで、こんなにも文化意識の欠落した寂しい考え方があるのかと思わず背筋が冷たくなりました。

たしかに、手作りとは名ばかりの、アジア製の得体のしれないたぐいのピアノならわかりますが、れっきとした日本のピアノ史に名を残す名器と言われるようなピアノが、いざとなるとこのような不当な扱いを受けていることにただもう唖然とするばかり。

たしかに、将来手放すときにいくらかの金銭的な価値が保持されればそれに越したことはないかもしれませんが、もともとが安い中古品で、出てきた価格はせいぜいちょっとした電子ピアノぐらいのに毛の生えた程度の価格です。
100万円も出すというのなら少しはリセールバリューの面も気になるのはわかりますが、こんな価格帯で職人の気骨で作り上げられたピアノがあり、しかも弾いた人が音色や響きが気に入ったとすれば、それが最も大切なことではないかと思うのですが…。

おまけに回答者の言い分としては、そもそもそんなピアノはタダ同然もしくは処分料を取って仕入れるのだろうから、販売する業者は「ボロ儲けのはず」で、そんなボロい商売にまんまと乗せられるようなことは自分はしない!というようなニュアンスの記述まである始末です。
でも、いくら仕入れが安くても、今どきピアノなんてそう簡単に売れる品目ではないし、中古の場合、商品として仕上げるためには相当の労力が必要とされ、おまけに売れるまで在庫としてかかえるリスクまで考えれば、ボロ儲けだなんてマロニエ君にはとても考えられません。

そういえば思い出しましたが、車でも新車を買う際、自分が一番気に入った色ではなく、将来下取に出したときに少しでも有利になる人気色で決める人が少なくないらしいのですが、こういうこともどこかおかしいなと思います。

それでも車は何色でも機能的には無関係ですが、ピアノはメーカーや材質や製造者のこだわり如何によって音や響き、ひいては音楽する喜びまでまったく変わってくるというのに、大量生産の大メーカーでないピアノは粗大ゴミだと決めつけ、相談者へさも真実のアドバイスであるかのように言うとは、その勘違いと偏りはいささか度が過ぎていやしないかと思いました。

だったらベニヤ板みたいな響板に羊毛のクズを固めたようなカチカチの超安物ハンマーが付けられた、音階の出るおもちゃみたいな音しかでなくてもても、鍵盤蓋に有名メーカーのロゴさえあればいいということですね。
これが悲しき現実なんでしょうか…。
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相談

車の仲間である某氏から、思いがけなくピアノの相談を受けました。

車の集まりではピアノのピの字も口にしないのですが、まあそれでもマロニエ君がピアノ好きであることを何かの折にチラリと話したことが相手の方の記憶の底に残っていたようです。

その相談というのが、30数年前にカワイのアップライトピアノを買われて、それをさらにそのお子さんが受け継いで弾いておられるようで、なんとも素敵な話です。
中学生ぐらいになり、だいぶ上達したとのこと。
ところが、ピアノの先生のところにはグランドがあって、お子さんによれば先生のところのピアノは弾きやすく、それに比べると自分のピアノは甚だ弾きづらいとのこと。
とくに強弱の差がつけにくいとあって、それが思った通りに弾けないという点に不満が募っているらしく、どうしたものか…ということでした。

すでに古いピアノではあるし、機能的にもそういう「問題」が出ているから買い替えも検討中とのこと、ピアノといえども機械ものなのでそういうものだろうか?というご相談を受けたというわけです。

もちろんマロニエ君は専門家ではなく、一介のピアノ好きにすぎず、責任ももてないので断定的なことは敢えて言いませんでした。
言えることといえば、グランドとアップライトではアクションの構造がまったく違うので、グランドを買われるのならともかく、同じアップライトをただ新しいものに買い換えられるのであれば、事前によく考えてみるべき余地があるということ。

言うまでもなく、ピアノは木材の他に金属、多くのフェルトなどの天然素材を多用し、それらは弾かれることと経年変化によって「消耗」するものだということ、無数のパーツがまさに精密機械のように複雑に組み上げられ、機能し合うことによってピアノ本来の弾き味を作り出しているということを簡単に説明しました。
ほんらい弾力があるべきものが固く潰れてしまえば本来の柔軟な動きは阻害され、とりわけ微妙なタッチコントロールはにづらくなるわけで、もともと機械ものにはめっぽう詳しい方なので、車と楽器という違いはあれども、理屈はあるていどすんなり理解されたようでした。

で、素人のマロニエ君が想像でいくら何を言ってみたところで埒が明かないので、ひとまずオススメしたのは、信頼のおけるプロの技術者の目でそのピアノが現在どのような状態になるかを見てもらい、各所の調整や簡単な消耗品の交換によって本来の機能を取り戻せるのか、価格はどれぐらいか、あるいはもっと本格的なオーバーホールが必要なのか、そのあたりのことを正しく判断してもらうのが最良ではないかといいました。

さらに最も気をつけるべきは、優れた技術を持たれた方というのは当然としても、メーカー系の技術者には決して依頼せず、販売ノルマのかかっていない、フリーの技術者さんに診てもらうという点だといいました。
べつにメーカー系の方を批判するつもりはありませんが、メーカーに在籍してそこから給金をもらっているからには、上から新品の販売圧力がかかっているのは当然だからです。これは世の常ともいうべきことで、どんなジャンルでも似たりよったりかもしれませんが、とくにピアノ業界はその傾向が強いように感じるからです。

聞いた話では、簡単にできる修理も調整も敢えてしないで、素人にわからない専門用語を並べ立てて買い替えに誘導するというあまり感心できないやり方です。もちろん新品が売れて初めて利益が出る会社にしてみればやむを得ない手段かもしれませんが、でもやはりマロニエ君は充分修理や調整の可能なものを「できない」と言いくるめて、望まない買い換えを強引にさせるというやり方には賛成しかねるのです。

昔のピアノはとくに一流品でなくても、あたりまえに木材をはじめ普通に天然素材を使って作られていましたが、今のピアノは(聞いた話ですが)外目は立派すぎるほどの分厚くてピカピカの塗装で覆われているから見てもわからないけれど、普通の人が木だと信じている部分の多くに、木の屑を集めて固めた集成材はじめ、ひどい場合はプラスチックなども多用されている由。とても楽器と呼べるようなものではなく、心に滲みない機械的な音階の出る製品に成り下がってしまっているとも聞きます。

不幸にして家が火災になったところ、木だと思っていたピアノ(全部ではないでしょうけど)がドロドロと溶け出してプラスチックが多用されていたことがわかったという話も聞いたことがありますし、おそらく技術者さんたちはもっとお詳しいのでしょうけれど、みなさん業界に身をおいてお仕事をされるためか頑なに口をつぐんでおられるようです。

また、有名な日本製ブランドは名乗っていても、とくにアップライトに関してはアジア製であったり、あるいは「日本製」とするために、ほとんど海外で出来上がったものを輸入して、最終組み立てだけ日本でおこなうというようなことだけするようなケースも珍しくないそうです。
何かの本で読みましたが、ほとんど完成したピアノを途上国から輸入して、ペダルだけ日本で取り付けて「日本製」とするような場合もあるようで、マロニエ君だったらそんなピアノは絶対に欲しくはありません。

できたら、最低限の消耗品の交換と調整によって、本来のきちんとした機能を取り戻してくれることを願っています。
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うれしい変身

シュベスターの調律を含む、各種調整をやっていただきました。

前回書いたように、音の良さも霞んでしまうほどに納品後の調律は乱れ、タッチもバラバラ、ペダルのタイミングも過剰気味で、せっかくの日本屈指の手造りピアノであるはずなのに、それらしき片鱗はあまり感じられない状態でした。

これまでのグランドの調整経験からしても、この状態が気落ちよく弾けるようになるまでには、相当の時間が必要だろうし、それでもどうなるかは保証の限りではなかったので、事前に技術者さんにメールをし、納品から10日ほど経っての印象、とりわけ問題と思われる箇所等を書き出して具体的に伝えることにしました。

そのほうが技術者さんにこちらの不満点というか、希望を文書で伝えることができるし、そういう心づもりで来ていただいたほうが、いきなり伝えるより良いだろうと思っての配慮でもありました。
図らずも長文になったメールに対して届いた返事は、たったの一行「メール確認致しました。〇〇日(約束の日)に調整しますのであと少しおまちください。」というもので、これにまずひっくり返りました。

普通の調律師さんなら、いろいろな説明やらなにやらで、当方を少しでも安心納得させるようなことをいくらかは書かれるのが普通ですが、このシンプルさはまるで結果しか興味のない武士のようでした。
とはいえ、ご本人はとてもあたりの良い、優しい素晴らしい人柄の方なので、文章になると一転してそういうふうになる男性っていますから、まあともかく約束の日を待つことにしました。

当日、ピアノのある部屋に案内したあとは、メールを出していることでもあるし、技術者さん側からもとくに質問たしきこともないので、直ちに作業開始となりました。加えて驚いたのは「グランドは多少時間がかかりますが、アップライトの場合はだいたい2時間ぐらいで終わると思います。」と、いともすんなりいわれたこと。
えっ!?ほんとうに!?

まあ、こちらとしては結果が良ければ途中経過はどうでもいいわけで、まずはやっていただく事になりました。

冒頭にも書いたようにタッチはバラバラで、だいたい白鍵は50kg以上、黒鍵に至っては60kg以上もあって、弾きにくいといったらないし、しなくてもいいミスタッチをしたり、出るべき音がでない、逆に必要以上の強い音が出るなど、要するに乱れまくっていました。
また右ペダルもちょっと踏んだだけで過剰反応し、ほとんど調整らしきものが効かずにワンワン響くだけだったし、調律に至ってはただ唸りが出ているというレベルではなく、素人でもわかるほどあちこちの音が1/4ぐらい下がっていたりと、まあとにかく散々だったのです。

作業開始から2時間ほど経った頃、「すみません、もう少し時間がかかりそうです」といわれ、こちらも「そりゃそうだろう」と思いましたが、プラス1時間ほど経ったころ別室にいると携帯に電話が鳴り、「だいたい終わりました」と言われてまたびっくり。
部屋に行くともう片付けに入っています。
お定まりの「どうでしょう、ちょっと弾いてみてください」と言われ、ちょっと鳴らしてみると、「えっ、これが同じピアノ!?」というほど音からタッチから、何もかもが良くなっていて、ただもうびっくり仰天でした。

無論調律をしているので音程が揃って気持ちいいのは当然としても、音色ものすごく良くなっているし、タッチは全体になめらかで均一で、コントロールも効くしとても弾きやすくなっていました。
ペダルも踏んだ感触と効き方がリニアになっているし、あれだけの問題をこんなにすんなり解決できるというのは、マロニエ君の長いピアノ生活の中でもまったく初めての経験でした(翌日経ってみると、鍵盤のダウンウェイトは平均して50kg前後にきれいに収まっていて、いやはやお見事!)。

この方の技術が特別なのか、あるいははじめに言われたようにアップライトはそれほど調整に手間暇がかからないのか、そのあたりのことは今だ不明ですが、いずれにしろこんなに驚いたことはありませんでした。

それと、ときどき仕上がり具合を確かめるためか、ジャズ風な曲を試し弾されているのがドア越しに聴こえるときが幾度かありましたが、その音の美しいことは思わず立ち止まるほどで、これがシュベスターたる所以かと感銘を受けました。
決してエッジの立った音ではないのに、色艶があって、どこまでも澄みわたった美しい音色は、これまで一流品以外のピアノからはついぞ聴いたことのないもので、たしかに上質な音であるばかりか、きわめて音楽的なのです。

自分で弾いても、楽器を弾いているという実感がたえずあり、弾くごとに心が刺激されところは特筆に値するピアノだと思います。きれいなような音は出るけれども心の通わない大量生産品とは、ここがまったく違うところだと思いました。
個人的にシュベスターはかなり自分の好みに合うピアノのようです。
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環境の変化?

大阪・神戸で一流ピアノ三昧に明け暮れ、帰宅した翌日のこと。
先日納品されたシュベスターを数日ぶりに弾いてみると、とても美音とは言いかねる混沌とした音にびっくりしました。

もちろん関西で弾いてきたピアノは最高ランクの一級品ばかりだったので、自分の耳も感覚も良い方に少し狂ってしまっていたかもしれませんが、それにしても「これはあまりにも…」と思いました。

納品前に軽くやったという調律は、時間が経つにつれますますバラバラに狂ってしまっているようで、ちょっと何曲か弾いてみましたが、早急にどうかしないと…という印象でした。
納品早々に、丸4日ほど放置していたわけですが、所詮はヤフオクで衝動買いしたピアノですから、何があっても不思議じゃありません。

「もしかしてピンズル?」というイヤな疑念が頭をかすめます。
古めのピアノにはチューニングピンがきちっと止まらなくなるピンズルという症状が出てしまうことがあり、納品から一週間も立たないうちにここまで狂ってしまったのは、そのせいではないかとまず思い、とりあえず技術者さんに電話してみることに。
納品調律は来週後半に約束はしているけれど、これではあんまりなので、もし可能ならもう少し早く来てもらって、少しでも早くきちんとした律調をやってもらいたい衝動に駆られました。

電話に出た技術者さんによると、果たしてピンズルは調律をやっているとだいたい感触でわかるのだそうですが、我がシュベスターには幸いまったくそういった兆候は見られなかったので心配には及ばないとのこと、それはそれで一安心ではありました。
でも、それなら、なんでこんなに狂ってしまったのかという疑問が残ります。

技術者さんが云われるには、ピアノは納品のための移動や環境の変化によって大幅に狂ってしまうことが珍しくないので、納品調律もすぐにはやらず、新しい環境に馴染むまで、できれば最低一週間は待ったほうが自分は良いと思いますと言われました。
考えてみれば3月上旬から5月という、日ごとに天候が激変する季節に、冷暖房のない厳しい環境でまるまる2ヶ月間を過ごしたわけで、それがいきなりエアコンのある室内へとにやってきたのですから、たしかに環境の変化というのはかなりのものがあるだろうと思いました。

中には納品時に運送屋と同道して、すぐに納品調律されるケースもありますが、それなら買った側も納品初日から調律の整った状態で弾けるというメリットはあるかもしれませんが、長い目で見れば時間を置いたほうが調律の安定という点では望ましいようです

というわけで、現在のところシュベスターの本来の良さは発揮されているとは言い難いけれど、弾いているうちにわずかに復調するような部分もないではなく、やはり優しげな音を出すピアノということは次第に思えるようになりました。
しかし、繰り返すようですが、前日まで関西で極上のヴィンテージスタインウェイのDのあれこれや、カワイのSK-7など、通常ではめったに触れる機会のないピアノにばかりに接してきたせいで、マロニエ君の音に関する尺度もずいぶん変化してしまったらしいことも、こうした印象に繋がってしまったかもしれません。

そもそも、価格的にも形状的にもお話にならないぐらい違うピアノですから、比較すること自体がナンセンスですが、それでもシュベスターの歌心と鷹揚な個性は、狂ってしまった音の中からときおり聴こえてくるものがあり、ピアノはこのブログを書いているパソコンのある机のすぐ真後ろにあるのですが、存在にイヤ味も圧迫感もなく、なんだかとってもかわいい奴だなあと思います。
というのも、ピアノというのは大きいだけに一歩間違えると、部屋の中での存在はとても無遠慮で暑苦しいものにもなることがあるというのはマロニエ君の長年の経験から得た印象です。
これがもし大手量産メーカーのピアノだったら、その危険度も高く、ちょっとしたことですが気持的にそういうふうに思えるだけでも、シュベスターは愛すべき存在だと思います。

シュベスターとはドイツ語で姉妹という意味だそうですが、そういう愛情とか優しさみたいなものをどこかに持ってるピアノで、楽器というのはコンサート用などは別として、家庭でポロポロ弾いて楽しむには、そんな優しい感じの要素もあるていどは必要な気がします。
というわけで、買い方はめちゃくちゃだったにもかかわらず、そこにあるだけで優しい気持ちになれるピアノだったということは、買ってよかったなぁと思うこの頃です。
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関西ピアノ旅

ほんの数日間ですが、関西まで行ってきました。

目的はいくつかあったけれど、そのうちのひとつは知人が昨年買われたスタインウェイを見せていただくということでした。
大阪の地理にはまったく不案内なので、乗るべき電車と駅名を教えていただき、その通りに行って見ると改札を出たところに知人が待っててくれました。

まずは大阪らしく「二度漬け禁止」の串かつで食事をし、それからご自宅に伺いました。
部屋にお邪魔すると、気品あるつや消し塗装を纏ったModel-D(コンサートグランド)が鎮座しています。
すでに大屋根を開けておられたので、まるで巨大な黒い怪鳥が羽を大きく広げているようでした。

雑談を交わしながら、知人が弾かれるのを聴かせていただいたり、こちらも少し弾かせてもらったりという時間を過ごしましたが、とにかく素晴らしい能力を有するピアノでした。シリアルナンバーが38万台という、ハンブルクスタインウェイの黄金期と言われる時代のピアノで、全体にまろやかで太い音、低音に至ってはピアノも空気も震えるように深く鳴り響き、さすがと唸らされる点が随所に確認できました。

スタインウェイにも世代ごとの特徴というのがあり、この38万台というのは西暦でいうと1960年代の前半にあたり、ルビンシュタインやアラウの絶頂期にも重なるし、壮年期のミケランジェリ、あるいは若いポリーニやアルゲリッチが世に登場して唖然とするようなスーパーピアニズムで世界を驚かせた、あの時代です。
このころのスタインウェイは、後年のようなブリリアント偏重の音色ではなく、ピアノが持っている豊かな潜在力で音楽を自在に表現し、弾く者・聴く者の魂を揺さぶった、いかにもピアノの王道らしい豊かな響きがあふれていると思います。

いわゆるキラキラした音ではないのに、まぎれもないスタインウェイサウンドはしっかりあって、この時代のスタインウェイが今日の同社の名声を不動のものにした(少なくともハンブルク製では)といっても良いかもしれません。
マロニエ君の下手な表現でいくらあれこれいってもはじまりませんが、音の中にたっぷりとした「コク」のある佳き時代の本物の音です。

とくにイメージするのは、アラウの演奏でよく耳にする肉厚で、温かくて重厚、そしてなにより美しく充実感のあるあの音でした。
今のピアノのように、基音は細いのにキラキラ感ばかり表に出したり、パンパンとうるさく鳴らすだけの表面的な音とはまったく次元の異なる、まさに設計・材料・思想なにもかもが理想を追求できた時代のピアノでしょう。

こんなピアノに触れられただけでも、大阪まで行った甲斐がありました。

また、せっかく大阪まで来たことではあるし、実はこれまで一度も行くチャンスのなかったカワイの梅田ショールームにも足を伸ばしてみました。
こういうところに行って、買いもしないのにありったけのピアノを弾いてまわる勇気など持ち合わせない小心者のマロニエ君なので、ちょっとだけとお店の方に断ると快諾を得たので、ガラス張りの試弾室?の中にズラリと並んでいるうちの、GX2(だったか)という、レギュラーシリーズの小さめのグランドに少し触れてみましたが、さすがにメーカーのショールームに展示されているピアノだけあって調整もよくされているし、音にも良い意味でのおろしたての美しさがありました。なによりすべての動きにやわらかい膜がかかったような新品アクション特有の繊細でなめらかな弾き心地には素直に感動しました。

背後から店員の方が静かに近づいて来られて「よかったらあちらのシゲルカワイもどうぞ」と言われ、云われるままついて行くととなりにある小さなサロンのようなところのステージにSK-7が置かれていて、どうぞこれを弾いてみてくださいと言われました。
これまでシゲルカワイはSK-6までの全機種と、SK-EXしか弾いたことがなかったので、むろん恥ずかしさもあったけれど、ある意味スタインウェイなどよりも触れるチャンスの少ないSK-7だと思うと、ここで遠慮をしていては稀有なチャンスを逃すことになるだろうと思い、恥を忍んで少し弾かせてもらいました。

いかにも現代的で、ブリリアントで、まるで上質な洋酒のようで(マロニエ君は下戸ですが)、SK-6よりずいぶん格上な感じがしました。これはもう高級品の部類だと思ったのも道理で、お値段も約600万円也だそうで、さもありなんという感じでした。

ただ、梅田ショールームは有名なわりには想像していたほどの規模ではなく、福岡の太宰府ショールームのほうが台数や種類もあるような気がしたのですが、なにしろ大阪のど真ん中という場所柄でもあり、やみくもに広くはできないのかもしれません。
でもとってもすてきなお店でした。

最終日は、せっかくついでに神戸のヴィンテージスタインウェイで有名な日本ピアノサービスにも立ち寄りました。
マロニエ君はここに行くのはもう3度目か4度目だと思いますが、先代がお亡くなりになってからはじめて伺いました、
あのカリスマ性をもった先代がおられない店はどうなっているのかとも思いましたが、ご子息方がこの店の理念と精神を何一つ変えることなくがっちりと受け継がれており、置いてあるピアノもあいかわらずの名品揃いで、ようするに良いものは何も変わっていませんでした。

先代が最後にニューヨークに行かれた際に買ってこられたという、ジュリアード音楽院にあったというDはニューヨーク・スタインウェイにしては珍しい艶出し仕上げでしたが、まんべんなく良く鳴るし、なんともいえずリッチで深い音がして、まさに文句なしの1台という印象。
またその傍らに置かれた、A3(A型のロング、現在生産されていない奥行き約200cmのモデル)も言われなければB型と思ってしまうほど良く鳴るピアノで、音よし響きよし、バランスに優れ品格もあるというあたり、「ああ持って帰りたい」と思うようなミドルサイズの1台でした。

新品のピアノにはむろん新品にしかない良さがあり、それを否定するものではありませんが、やはり個人的に深く惚れ込んでしまうというか、魂をもって行かれそうになるのは、マロニエ君にとっては古い時代のピアノのようです。
潜在力のある古いピアノに、最高の整備と調整を惜しみなく施す、これがピアノの理想のような気がしました。

いろいろありましたが、ピアノに関しては収穫多き旅でした。
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我が家での印象

シュベスターが納品されました。
調律がまだなので本来の状態とは思えませんが、それでもとても軽やかによく歌ってくれるピアノだと思います。
とくに中音から次高音あたりは、柔らかでデリケート、華やかでくっきりした輪郭があって、ピアノがもっとも旋律を奏でることの多い部分が美しいピアノだと想います。

もちろん個体差があるでしょうし、何台ものシュベスターを経験したわけでもないから、他の個体がどうなのかはわかりませんが、少なくとも我が家にやってきたピアノに関していうと、ゆったりした曲を、デリケートに弾けば弾くほど、このピアノの懐の深さというか、得意とするところがどこまでも出てくるように感じました。

スタインウェイのような第一級品は別ですが、いわゆる大量生産のピアノは、アスリート的なテクニックをもった人ができるだけバリバリ弾いたほうが演奏効果が上がるように思うし、ピアノの価値もそういうときにでるようで、あまりタッチのこだわりとか、音色の変化の妙、ピアニシモの聴かせどころという部分ではとくに特徴らしきものが出るようには思いません。
その点、シュベスターはフォルテがダメというわけではないけれど、繊細なものを求めていくときのほうで本領を発揮して、どんなに柔らかく小さく弾いても音楽的なテンションを決して失わないところは素直に凄いなあと思います。
同じ曲でも、早めにさっさと弾くより、よりゆっくりと、より注意深く、気持ちを込めて弾けば弾くほど、納得の仕上がりになるのは素晴らしいと思うし、これがマロニエ君の好きなタイプのピアノです。

ただし、つい先日、工房というか倉庫で弾かせてもらったときと、我が家で弾いてみて最も違う点は「響き」の特性だと思いました。

これはシュベスターの問題というより、アップライトピアノ全般が共通して抱える問題のように感じます。
広い空間では、アップライトピアノの後ろ部分は広い空間に向けて開放されているので、そこからきれいに抜けたような響き方をしますが、通常の家などではアップライトは後ろに大きな空間をとって設置することはまずなく、大抵の場合、後ろ部分を壁にかなり寄せて置くスタイル(ほとんどくっつけると言ってもいい状態)となります。

そのため、楽器から最もダイレクトに出てくる音を、もったいないことに壁で塞いで、そこがいつもフタをしたような状態になってしまうようです。

グランドで言えば、お腹から下の部分に当てものをしていつも閉めきっているようなもので、これでは本来の響きを発揮させることはできませんが、かといってアップライトをわざわざ壁から話して置くというのも、欧米人の住むような広い部屋ならともかく、普通は現実的になかなかできることでもないでしょう。
だいいちそんな広い空間があれば、やはりグランドでしょうし。
つまり、アップライトはグランドに比べて、常に響きという点で設置環境で大きなハンディを背負っているというべきかもしれません。

書き忘れていましたが、個人的に「この」シュベスターの魅力のひとつだと思うのがタッチでした。
アップライトはみなストンと下に落ちるタッチ感かと思っていたら、あにはからんやコントロール性があり、音色変化がつけやすいのです。
それはとりもなおさずタッチに一定の好ましい抵抗があるということです。
この好ましい抵抗があることによって、奏者はタッチのコントロールが効くのですが、技術者さんの中にはなめらかで軽いタッチがいい、もしくはそうであることがみんなに好まれると信じこんで、まるで電子ピアノのような軽いペタペタのタッチにしてしまう場合があります。

そういうペタペタ感の無いことは麗しい音色と相まって、シュベスターを買ってよかったと思える部分です。
さらには気になっていたヒビですが、技術者さんの言われる通り、自室に入れてみるとほとんど気にならないレベルであることがわかり、これを無理して修理したり塗り直したりしなくてよかったとしみじみ思いました。
ときどきは人の言うことにも素直に耳を貸すべきですね。

こう書くといいことずくめのようですが、低音にはいささか不満が残りました。
まともな調律がなされていないので、現時点で結論めいたことを言うべきではないかもしれませんが、単音ではそれほど悪くないけれど、重音・和音になったときのハーモニーがあまりきれいではなく、このあたりは改善の余地があるのか、こんなものなのか現在のところ未知数です。

とはいえ、弾いていてとても豊かな気持ちになれるピアノで、これは楽器としてまず大切なことだと思います。
それともうひとつ気に入っているのは鍵盤蓋に輝く「SCHWESTER」という文字で、字面といい書体といい、なんともいえない趣がありますし、正直をいうと日本のピアノで、これほどいいと思えるのはひとつもありません。
音とは直接関係ないことですが、こういうことってマロニエ君は意外に大切だと思います。
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いざとなれば階段?

工房到着からすでに2ヶ月、ヤフオクの落札からそろそろ3ヶ月が近づき、ようやく納品日も決まって我が身に距離が縮まってきた我がシュベスターですが、その作業のスローさには正直しんどいものがありました。

もともとマロニエ君の予想からすれば、せいぜい10日から2週間ぐらいかなと勝手に思い込んでいたので、はじめのうちは性格的にかなり耐え難い気分が続くことになりました。
技術者さんの方針もいろいろで、作業を集中的に一気にやってしまうところもありますが、今回はその真逆というか、こういうやり方もあるということで職人さんの世界もいろいろあっるということで、たいへん勉強になりました。

救いは、その技術者さんはものすごく人柄の良い方で、センスもあるし、決していい加減な仕事はされないという信頼感でした。
他の仕事も多くかけもちしておられるという事情もあって、あまりせっつくのも気が引けるし、無理を頼めば本当に睡眠時間を削ってでも無理をされそうでそれは却って怖いので、とにかく先方のペースに任せることに。
なので途中から完全にこちらの気構えも切り替えました。

恥をさらすようですが、もともとマロニエ君は「待つ」ということが子供の頃から再大の苦手要素のひとつで、その苦痛はなかなか普通の人には理解の及ばないものかもしれません。なので、自分の努力によってなんとかなるものなら大抵のことは頑張りますが、今回の塗装補修などは、こちらが頑張れる余地はゼロで、ひたすら技術者さんにお任せするしかありません。

塗装以外にも、日中は調律の仕事がおありのようだし、当然ながら他の急ぎの仕事があれこれ割り込んできてもいるでしょう。さらには塗装なので天候には最も左右され、雨になると塗装の作業は完全無条件でストップするそうです。あれやこれやで遅れに遅れて、当初は4月の中頃か後半ぐらいといわれて(それでも驚いた)いたものが、けっきょく5月中旬になりました。

前回も書きましたが、磨いても消えない何本ものヒビはあるし、それが部屋に置いたときにどんな感じを受けるかもわかりません。
でも、冷静になれば、決して負け惜しみではなしにマロニエ君は今どきの新品ピアノの、まるで電気製品のような異様なピカピカのあの雰囲気も音も好きではなく、だから古い手造りのピアノをゲットしたといういきさつがあったわけで、初心をしっかりと思い出すことに。
それ以外はさすがはピアノ専門の木工職人さんだけのことはあって、塗装も、金属類もまったく見事な仕上がりでした。

運びこむ部屋は自宅の二階になるので、道路からユニック(トラックに装着されたクレーン)で二階のベランダに上げて、そこの窓枠などを外して屋内に運び入れ、あとはドアや廊下を経由して設置場所まで移動する予定です。
一度も下見に来られなかったので大丈夫かと思っていましたが、以前も別の運送会社がその方法で入れたことがあると伝えると「大丈夫です!」とのことで、おまけに「どうしてもダメな場合は階段から上げます」という豪快な事を言われ、なんと頼もしい事かと感心しました。

ピアノの運送屋さんにも個性がいろいろあって、階段は絶対にいやがる会社もあり、クレーンを使うために事前の打ち合わせから入念な下見までされるところもありますが、マロニエ君はなんとなく感覚的に、あまりに慎重すぎるような姿勢を見せられると却ってイヤミな感じを受けるし、ダイジョウブ、なんとかなる/なんとかしてみせると胸を叩いてくれるタイプのほうが好きです。

マロニエ君はこれまでにもかなりの回数、さまざまな運送会社から、さまざまなサイズのピアノを自宅に出し入れしてもらった経験がありますが、搬入搬出でトラブったり傷をつけられたようなことは一度もなく、どこもプロの運び手としてしっかりした仕事をされるという点では本当に立派だと思うし、そのあたりは日本の会社はしっかりしていて信頼感が高いと思います。

以前、『パリ左岸のピアノ工房』だったか、そんなタイトルの本の中で著者がついに小型のグランドを購入し、自宅のアパルトマンに納品されるシーンがありますが、何階だったか忘れましたが(たぶん2階以上だったような)、屈強なひとりの男性が背中にピアノを括りつけて、階段を怪力でよじ登ってくるシーンがあり、たいそう驚いた覚えがあります。

ヨーロッパは何かと厚みのある高度な文化圏と思っていますが、意外なところで旧態依然としたスタイルが残っていたりして驚きとともに笑ってしまいます。その点では日本は地味だけれど、全国隅々まで道路が舗装されているように、そんな方法でピアノを搬入するなんてあり得ないし、さりげなくも近代性が整った国だなあと思います。
ショパン・コンクールの会場であるワルシャワフィルハーモニーも、あれだけ国家的イベントであるにもかかわらず、ピアノ用のエレベーターなんぞなく、すべて地上から人海戦術で階段をぐるぐるまわって、あの巨大なコンサートグランドをステージまで運び上げると知って、そのローテクぶりには心底おどろきました。
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作業終了

ヤフオクでシュベスターを落札したのが2月の下旬。
それから運送の手配をして、福岡に到着したのが3月上旬、さらにそれから約2ヶ月が経過しました。
仕上がりがいつ頃になるのか、はじめは少しでも早くと思って気を揉んでいましたが、途中からどうもそうはいかないらしい気配を悟ってからは半分諦め気分に突入。
それが、ついに「できました」という一報を受けるに至り、ゴールデンウィークの最後の日曜の夜、工房に見に行ってきました。

全身のあちこちに認められた細かい凹み傷等はパテ埋めして直し、塗装も必要箇所は塗り直しをして、蝶番やペダルなどの金属類もピカピカとなって見違えるようにきれいになりました。
2ヶ月というのが妥当かどうかはともかく、ここまででも大変な作業だったろうと思います。
ただし、ボディのあちこちを走り回る塗装ヒビだけは磨いても消えることはなく、これだけは如何ともし難いものでした。

どうしても直したい場合は塗り直しをすれば可能なのですが、以前も書いたようにこの職人さんは、古いものの味わいに敏感で、そのあたりの感性というか美意識を持っておられます。
その方の意見によると、このヒビはこのピアノの味として残しておいても悪くはないんじゃないかということで、マロニエ君も冷静に考えてみましたが、古いピアノの塗装だけ(中まで全部オーバーホールするのならともかく、外側の見てくれだけ)を新しくするのも見方によっては物欲しそうでもあるし、言われている意味も自分なりに納得できたので、美しくはしてもらうけれど、ヒビはそのままにすることにしました。

いちおう整音と簡単な調律も終えた状態ということでちょろちょろっと弾いてみたのですが、その音の良さには想像以上のものがあり、シュベスターが一部の愛好家の間で根強い人気があるらしいのも大いに納得できるものでした。

技術者の方も言っていましたが、「このピアノは僕がいうのもなんですが、塗装とか外装はどうでもいいというか、べつに(マホガニーの木目ですが)黒でも良かったんじゃないかと思う」と斬新なことを言われます。
それほど、このピアノの価値は音そのものにあるのであって、だからそれ以外は大した問題じゃないという意味のようでした。

マロニエ君は普通は音だけでなく、外観も結構気にするミーハーなんですが、たしかにこのピアノに関しては彼の意見が何の抵抗もなくすんなり気持に入ってきたのは、それがいかにも自然でこのピアノに合っていると思ったからだと思います。
このピアノは、その固有の音色やふんわりした響きを楽しみながら弾くための楽器であって、それ以外のことは二の次でいいと思わせる人格みたいなものを持っている気がします。

重複を承知で書きますと、シュベスターのアップライトはもともとベーゼンドルファーのアップライトを下敷きにして設計開発されたそうですが、悲しいかなマロニエ君はベーゼンドルファーのアップライトはむかし磐田のショールームでちょっと触ったぐらいで、ほとんどなにも知りません。
むろんシュベスターはベーゼンのような超一流ではないけれど、独自の繊細さや優しげな響きが特徴だというのは確かなようだと思いました。
繊細といっても、けっしてか弱いピアノという意味ではなく、音に太さもあるけれど、それが決して前に出るのではなく、あくまでもやわらかなバランスの中に包み込まれる全体の響きのほうが印象に残ります。
少なくとも無機質で強引な音をたてる大量生産ピアノとはまったく違う、馥郁としたかわいらしい音で、弾く者を嬉しい気分にさせてくれます。

大別すればベーゼンドルファーはオーストリアなのでドイツ圏のピアノということになるのかもしれませんが、シュベスターはもっと軽やかで甘さもあり、こじつければちょっとフランスピアノ的な雰囲気も持ち併せているように思いました。
このあたりはプレイエルに憧れるマロニエ君としては嬉しいところですが、それはあくまで勝手な解釈であって、本物のプレイエルはまたぜんぜん別物だとは思いますけど。

その点でいうと、以前愛用したディアパソンはあくまでも堅牢なドイツピアノを参考としながら昔の日本人が作ったという感じがあり、その音色の一端にはどこか昭和っぽい香りがあったように思います。(現行のディアパソンには昭和っぽさはありません、念のため)

シュベスターの特徴とされる北海道のエゾ松響板のおかげかどうかはわかりませんが、量産された響板をなにがなんでも鳴らしているという「無理してる感」がまったくなく、どの音を弾いてもほわんと膨れるような鷹揚な響きが立ち上がって、楽器全体がおっとりしているようにも思いました。

不思議というか幸運だったのは、塗装面にあれだけヒビがたくさんあったにもかかわらず、肝心の響板は、ずいぶん細かく点検していただきましたがどこにも割れのようなものはなく、楽器としての肝心な部分は望外の健康体を保ってくれているということでした。

あと技術者さんが言っていたことですが、すごくしっかり作られていたということ。
塗装の修正をしたりパーツ交換したりする際に、あちこちの部品を外したり分解したりするそうですが、それが通常のピアノに比べてずいぶん大変だったらしく、そのあたりにも手造りピアノの特徴なのか、製作者の良心のようなものが感じ取れる気がしました。

まだ自宅に納品されていませんから、実際に部屋に入れてみてどんな印象を持つかは未知数ですが、なにしろヤフオクで実物も見ず、音を聴くこともせずいきなり入札するという、ピアノの買い方からすればおそらく最もやってはいけない入手方法であって、いわば禁じ手のような買い方をしてしまったわけですが、そんな危険まみれの購入にしては、覚悟していたよりずっといいものだったようで、とりあえずラッキーでした。
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センスは命

先日のこと、お世話になっている調律師さんからご連絡をいただき、❍月❍日の午後ちょうどついでがあるので短時間だけですが寄りましょうか?というお申し出がありました。

実はこの方、このブログを(こちらから教えたわけでもないのに)読んでくださっているそうで、いぜん「調律が少し乱れてきた…」的なことを書いていたことをちゃんと覚えていてくださったらしく、それを少し整えるために「拾う程度」ですがやりましょうか?ということ。
こちらとしては願ってもないことなので、ありがたくそのお申し出を受けることになりました。

そのあとも別の御用がおありの由で、わずか1時間ほどの作業ではありましたが、ざっと全体を確かめてから、淡々とした調子で整音と調律を必要箇所のみされのですが、こちらからはとくに希望も出さなかったにもかかわらず、あっと驚くような素晴らしい状態に復活ました。

そもそも、この方には高度は技術に加えて「センス」があるのだと思います。
センスというのは持てる技術を何倍にも増幅する力があり、逆にここが劣っているとどんなに良い技術を持っていても最大限それを発揮することはできません。
しかも、これはわざわざ学んだり教えられたりといったことはできないので、いわば天性の領域です。

何かのTV番組でしたが、一人前の鮨職人になるには旧来の徒弟制度のもとで十年ぐらいの厳しい修行に耐えぬくのだそうですが、そんなことが本当に必要なのか?というようなことで意見が戦わされ、個人的に好きではないけれどホリエモンが「そんなのナンセンス、合理的な技術習得と、あとはぜったいにセンスの問題!」と、反対派を押し切って何度も言い張っているのをみたことがありました。

マロニエ君はこの意見に100%賛成するつもりはないし、多くの無駄の中に実は大切なものが多く含まれていると思うのも事実。とくに本物の技術の習得とならんで鮨職人としての精神的成熟には、やはり一定の時間も忍耐もかかると思います。
でも、じゃあそれがすべて正しいのかといえば、そうとも言い切れず、やたら根性論だけをふりかざすのも不賛成で、そこには冷静かつ合理的訓練に加えてセンスがなくては、ただ昔ながらの徒弟制度を通過するだけでは本物の花は咲きません。

ピアノの場合も、どれだけ多くの経験を積み、うんちく満載で、こまかい知識が豊富でも、結果として感銘を与える音、気品と表現力で聴くものを魅了する最上級の音を作ることのできる人は、これまでの経験でもそうざらにおられるとも思えません。
職人としての高度な技術の持ち主、あるいはコンサートチューナーで自他共に一流と認識される方は事実たくさんいらっしゃいますが、それが本当に最高の音や弾き心地、表現力に繋がっているかといえば、必ずしもそうでもないとマロニエ君は思っています。
センスが無い(もしくは足りない)ため、持てる技術を活かしきれていない人は少なくないし、これはいうまでもないことですがピアニストも同様です。

冒頭の方は、たまたまマロニエ君がその店に立ち寄って、そこに展示されていたピアノに触れ、その素晴らしさに感銘を受けたことからご縁ができたことは、以前にも書きました。

初めて我が家に来られたときに、いきなり「❍❍さん、マロニエ君でしょう?」と言われときは、思いがけず正体をあっさり見破られたようで肝をつぶしましたが、その後もプロの調律師の方がこんなくだらないシロウトの戯言に目を通してくださっているなんて思いもよりませんでした。

たしかにブログはネット上に存在するものなので、どこの誰がどんな気持ちで読まれているかわかりません。
普段はただ漫然と思ったままを書いているだけですが、つい先日もある方からメールをいただき「❍月❍日と☓月☓日の記事はそれぞれやや内容に重複があるような気がしますが…」などと指摘されたりして、いまさらながら心しなくてはならないと思いを新たにしました。

話は逸れるようですが、車やバイクのエンジンオイルというのは、一定期間/距離に応じて交換します。その際、全部交換するに越したことはないのですが、急場しのぎには、そのうちの1Lだけでも新油に入れ替えると、全交換した時とほとんど遜色ない良いフィールが蘇るというのはモータリストの間ではそこそこ有名な話です。
もしかしたらピアノも同様で、今回のわずか1時間の調整でこれほど劇的に変化したということは、「神は細部に宿る」のたとえの通り、良い状態というのはそれほど僅かで微妙なものが大事な鍵を握り、良否を左右するという一面があるのではないかと思いました。

短時間の整音と調律の結果、気品としなやかさとブリリアンスが見事に並び立った、まるでCDから聴こえてくる音そのものみたいになっていて、これじゃあマロニエ君の下手な弾き方ではあまりにもったいなくて、却って思い切って弾けません。

かように音に対するセンスというのはその人固有もので、美とバランスの感覚の問題です。
きれいでもあまり小細工や苦労のあとが見えるもの、主張の強すぎるもの、ひとりよがりなものはマロニエ君は好みではなく、あくまで自然で労少なくしてさらりと出来上がったような感じのする最高のもの、これこそが好みです。
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ピアノ持ち込み

日時計の丘という小さなホールが主催しているJ.S.バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会。
その第9回を聴きました。

演奏は初回からお一人でこの偉業ともいえる連続演奏を続けておられるピアニストの管谷怜子さん。
この第9回では、イギリス組曲の第4番と第6番、ブゾーニ編曲のファンタジー、アダージョとフーガとシャコンヌが演奏されました。

これまでのコンサートでは、このホール所有で製造から100年を超すブリュートナーが使われていましたが、今回はブゾーニ版のシャコンヌの音域の関係などから、管谷さんご自身が所有されるシュタイングレーバーのModel168を運び込んでの演奏会となりました。

こだわりのピアノをわざわざ運び込んで行なわれるコンサートというのは、ホールの大小にかかわらず、そう滅多にあることではありません。
もともと日時計の丘はとても響きの素晴らしいスペースでしたから、そこで聴くシュタイングレーバーとは果たしてどんなものか、その点でも非常に期待をそそるコンサートでした。

シュタイングレーバーはドイツ・バイロイト生まれの銘器ですが、生産台数が少ないことや渋い音色、いわゆる商業ベースに乗った売り方をしていないためか、一般にはあまり知られていないけれど、世界最高ランクのピアノのひとつに叙せられるメーカーです。

サイズからいうと、数字が示す通り奥行きが168cmというのはグランドピアノとしても小型の部類で、ヤマハならC2よりも短いにもかかわらず、アッと驚くようなパワフルな鳴り方には、さすがに目を見張るものがあります。
まさに生まれながらに豊かな声量をもった特別な楽器というべきでしょう。

ここのブリュートナーが艶やかな中にも可憐に咲く水仙の花のような音であるのに対して、シュタイングレーバーはさすがバイロイトの生まれだけあってか、まさにワーグナーの歌手のような底知れぬスタミナをもった強靭なドイツピアノでありました。
シャコンヌでしばしば出てくる重音のフォルテッシモでは、この小さなホールの空気がしばしば膨張するようでした。

優れた楽器は演奏者を変えるという側面があるのか、管谷さんの演奏もこのピアノを日頃から弾いておられるせいなのか、年々パワフルになり、演奏の方向性すら少し変化してきたのでは?と感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
激しいパッセージなど、目を閉じて聴いていると、シュタイングレーバーの逞しい鳴りと相まって、とても女性ピアニストが弾いておられるとは思えないような、まるで体が後ろへ押されるような圧倒的な音圧を何度も感じたほどです。

ピアニストとピアノの実力については十分堪能できたけれど、少し残念だったのは、今回の演奏会に合わせたピアノの調整が未完であったことで、もっと時間をかけて精妙適切な音作りがなされていたなら、さらに素晴らしい音を響きわたらせることができただろうと、この点はやや悔やまれました。

マロニエ君はシュタイングレーバーというピアノは関心を持って久しいし、CDなどもそれなりに何枚ももっているけれど、もう一つこれだという自分なりに音(ピアノの声)の特徴が掴めていないというのが正直なところで、これはひとえに自分の経験不足故と思われます。

調律師さんによれば、ずいぶん巻の硬いハンマーとのことで、実際かなりエッジの立った音でしたが、これだけ基礎体力のあるピアノなのであれば、むしろもっと弾性のあるハンマーであったらどうなのだろうと思ってしまいます。あたかもバイロイト祝祭劇場がオーケストラを舞台下に配置するように、むしろ間接的でやわらかな奥行きある響きを得たら、ある種の凄みのようなものが出てくるのではないかと思いました。

終演後、ここのオーナーの計らいで、せっかくなのでシュタイングレーバーとブリュートナーの聴き比べでもらいましょうということになり、管谷さんが同じ曲をそれぞれのピアノで弾いてくださいましたが、同じドイツピアノといってもまったく別のものでした。
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鍵盤蓋のロゴ

マロニエ君は、長いことピアノの鍵盤蓋の中央に埋め込まれたメーカー/ブランド名のロゴマークは、どうすればあれほど見事に木の中に金属を美しく埋め込むことができるのか、ただただ不思議でなりませんでした。

もし彫刻刀のようなもので木を削り、そこに曲線も多用される金属の文字を首尾よく埋め込むのだとすると、なんとすごい技術だろう!…というか、その完璧な技術とはいかなるものなのか、考えれば考えるほどまったくの謎でした。

とりあえず単純な想像としては、箱根の寄木細工のような細密な作業かと思ってみたこともありました。

しかし、ベーゼンドルファーの複雑で装飾的な文字、スタインウェイのほとんど細い曲線だけで出来ている琴のマークなど、あれをあの形のままに木を削って、そこへぴったり金属を埋め込むなどということが果たしてできるのか、できるとしたら、それはどれほどの高等技術であるのか、まるで想像ができなかったのです。

で、シュベスターを依頼している職人さんにそのことを聞いてみると、彫って埋め込むという手法もないわけではないけれど、大半は文字やマークの金属を所定の位置に並べて貼り付け、その金属と同じ厚みになるまで塗装を重ね、しかる後に面一になるまで磨き出すのだということを聞いて、あー、なるほどそういうことか!…ということで、長年抱え込んでいた不思議の答えがようやくにして解明されたのでした。

やはり浮世絵の彫師じゃあるまいし、木を彫っていたわけではないようです。
エラールの繊細な線など、あれをいちいち彫っていたとしたら人間技じゃありません。
木ではなく、塗装の厚い膜の中に埋まっていただけということなら納得です。

さらに付け加えると、それが年月とともに木が痩せてくる、あるいは塗料が痩せてくるなどの理由で、文字の周りが微妙に下がってくることがあるのだとか。
そういわれたら、新品のピアノの鍵盤蓋のロゴマークって、ほとんどあり得ないほど、異様なまでにまっ平らですもんね。
それが時間とともに、そこまでではない感じになるのも頷けました。

ただ、木目仕様の場合、透明のクリアだけを塗り重ねるのか、艶消しの場合も同じ手法なのか等々…疑問はあとからあとから湧いてきます。
輸入ピアノの古い木目仕様の中には、どうみても書き文字やデカールでは?というような、あきらかに金属ではないものもあり、そのつどやり方を変えているのかもしれません。

そういえば、ピアノのフレームに刻印されたメーカーのマークやロゴなども、いつだったか、砂型にその凹凸があるものだとばかり思っていたマロニエ君でしたが、あとからマークや文字プレートを貼り付け、上から塗装していかにも「もともと」みたいに見せるのだということを知るに及んで、たいそう驚いたというか、半分納得しながら、半分騙されたような気分になったことがあります。

それなら、同じ型から作られるフレームでも、マークやモデル名だけ変えて、さもそのピアノ/メーカー専用のフレームであるかのように見せかけることはいくらでも可能ですね。

というようなことから考え合わせると、以前あったディアパソンのフルコンも、ボデイは(カタログですが)見事にカワイそのものだったから、当時のGS-100あたりのフレームを使ってマークのところだけディアパソンのを貼ったのかも…、そういうふうにして作られたのかと思うと、なにやらちょっと価値が下がったような気がしたものです。

むろん、量販の見込めないコンサートグランドの設計をして、専用のフレームを作るということなど、よほど赤字覚悟の道楽でもない限りできることではないですが。
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いつも同じ位置

なまけ者にはなまけ者なりの言い分があるというようなお話。

ピアノは好きでも、なぜか練習は大嫌いなマロニエ君ですが、その練習嫌いの理由を考えてみたところ、もちろん第一には下手くそであるとか、暗譜が苦手といったいろいろの要素があるのですが、それ以外の、普段気づかない要因にひとつ行き当たりました。
それはピアノという楽器が大きく、絶望的に重いため、とても気軽には移動できないこと?…ということが関係しているような気がするということ。

ピアノはいつも同じ部屋の同じ位置から微動だにしないというシチュエーションで、おまけに室内なので照明などピアノをとりまく環境がいつも同じというか、要するに日々の変化とか新鮮味というものがまるでありません。もちろん新しい曲に挑戦する新鮮さとか、できないことができるようになったというような変化の喜びはあるとしても、単純に置き場所は一年365日いつもおんなじだということ。

床のカーペットさえインシュレーターがめり込むほど、いつも寸分たがわぬ位置にデンと鎮座するピアノに向かって、そのフタを開け、ひとり黙々とマズイ音を出しながら練習するのって、かなりクライ作業というか根気を要する行為だと思うわけです。

これがヴァイオリンやフルートの人なら、少なくともあっちを向いたりこっちを向いたり、部屋のド真ん中で弾くも良し、気が向いたら窓辺に近づくことだって、別の場所に移動することも可能です。

しかし、ピアノは基本的に「動く」ということから残酷なまでに切り離された楽器で、少なくとも自宅では必ず決まった場所でしか弾くことができません。
もし、部屋の模様替えなどであの重くて大きなピアノを動かすとなると、それなりの人手も必要だし、動かす・あるいは移動させるだけの確かな理由も必要になるし、その後気が変わってやり直しをするにも、同じだけの人員やコストがかかるため、そんな面倒くさいことはまずやろうとは思わないという方がほとんどだろうと思います。

そうなると、やっぱりピアノはいつも同じ部屋で不動の体勢をとっており、同じ向きで黙々と練習する以外にありません。
もしこれが、(さすがに別の部屋とはいわないけれど)少なくとも日によってピアノの向きや位置を自在に変えられるとしたら、練習する側の気持ちもかなり気分転換できるのではないかと思うのです。

実をいうと、もう何年も前のことでしたが、親しい調律師さんの仲介により、ホールなどで使用するグランドピアノ用のピアノ運搬機をお世話していただき、マロニエ君の自宅には、このいかにも場違いな装置があることはあるのです。
どこから出てきたものかは知りませんが、中古でこれが出たというので値段を聞いてもらったところ、新品はかなり高額であるにもかかわらず、需要もないのか驚くような破格値だったので即決して我が家に運び込んでもらいました。しかし、さすがにコンサートグランドまでリフトして動かせる機能があるだけのことはあって、想像よりずいぶん大型だったことに驚き、家人は見るなりこんな大きくて不体裁なものを部屋に置くことに対して眉をひそめたものでした。

いらい、ピアノの下にはこの運搬機が、親象の下に小象が入り込むようにいつも入っており、しかも色はベージュで大きく目立つこともあってか、はじめてマロニエ君宅に来た人からは「これ、何ですか?」という質問を何度かされたことがあります。

ともかく、この運搬機があるおかげで、マロニエ君の場合はグランドピアノをたったひとりで動かすことができるにはできるのですが、それでもピアノを浮かせるには大きく重いハンドルをせっせと回し続けるなど、うっすら汗ばむほどの作業で、とても気軽にやろうというなことではありません。
しかもピアノを家具や壁にぶつけないよう、大きなピアノのあっちにまわって押したりこっちにきて引き寄せたりと、モノが数百キロある故にかなりの重労働となります。

というわけで、もし動かすとしても大変、またもとに戻すのも大変というのを考えると、なかなか実行には至らず、かくしてピアノはいつも同じ位置にあるのです。
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ご対面

今回のシュベスターの運搬と外装修復には大きな偶然が絡んでいました。
その運送会社の福岡での倉庫と、知り合いの技術者さんの工房は、なんと同じ建物内だったのです。

そもそも運送料金を尋ねたのは、携帯の中に入っている何件か登録しているのピアノ運送のうちのひとつだったのですが、そこが結果的に最も安かったわけですが、あとから気づいたことには、知り合いの技術者さん(調律師でありならがピアノの塗装などを中心とする木工の職人さん)の工房が、このピアノ運送会社の中の一隅にあったのです。

ずいぶん前に、その塗装工房を見せていただいたことはあったけれど、なにぶん夜であったし、周囲は真っ暗で、運送会社の名前も何もろくにわからないままだったのですが、それがあろうことかたまたま電話した会社だったというわけ。

おかげで、信州方面からはるばる運ばれてきたシュベスターは、わざわざマロニエ君の依頼しようとしている工房へ運び込むという二度手間を必要とせず、自動的にその木工工房がある倉庫へやってくるという幸運がもたらされました。

ただ、場所を移す必要がないとはいっても、いったん開梱し、作業後に再び梱包して納品となるわけで、その分の費用が必要だろうと思っていたら、それは免除してくださるとのことで、なんたるラッキー!

過日のこと、1週間の長旅を経てシュベスターが福岡の倉庫へ到着したとの連絡を受けました。
ちょうどこのときマロニエ君は風邪をうっすらひきかけて微熱があり、以前行ったときの記憶ではその倉庫はかなり寒かったので、普通だったら日をおいて出直すところですが、なにしろヤフオクでピアノの見ず買いという、とてつもない冒険をやらかしたブツがやってくるわけで、現物はどんなピアノか一目見たい、その音をわずかでも聞いてみたい、という衝動をどうしても抑えることができませんでした。

まるまると厚着をして、市内から4~50分ほどかかるその倉庫へ着いたときは、爽やかな青空の下に春の陽光が射すような清々しい天候でしたが、さすがに倉庫内は冷蔵庫の中かと思うほどの低温状態でした。

さて、ご到着遊ばしていたシュベスターは、わりに入口に近いところに置かれていましたが、ほぼ写真で見た通りの外観で、両足や腕の角の部分に幾つかの傷があることと、鍵盤蓋の外側(閉めたときに上面になる部分)がかなり傷んではいましたが、それ以外は思ったほどでもなく、縦横平面部分にはかなり艶もあって、それほど悪い印象でもありません。

肝心の音はというと、これはもうヤマハやカワイとはまったく異なる、独特の音色でした。
全体にパワー感にあふれているとか、すごい鳴りをするという系統ではないけれど、弾けばフワンと響いて音楽的な息吹を感じさせてくれるものでした。
一音一音が太くてたくましい音というのではなく、出てくる音に艶と表情があり、知らぬ間に温かさがあたりに立ちこめて、そのやさしい響きは和音でも濁らない透明感があるようでした。

シュベスターのアップライトはベーゼンドルファーを模倣したという事を読んだことがあり、へぇ…そうなんだぁ…と思うけれど、マロニエ君の耳にはどちらかというと甘くかわいらしい響きを好むフランスピアノのような印象でもありました。
いずれにしろ、一部の人に高い人気があるというのはなるほどわかる気がしました。

中は、とくにきれいでもないけれど、かといって、あれも交換これも交換というような悲惨な状態ではなく、しばらくはこのまま調整しながら使えそうな感じであったことも安心できました。

塗装面は艶は充分あるけれど、塗装そのものが現代のものとは違うのだそうで、見る角度によってはピーッとおだやかなヒビが幾筋か入っていたりしますが、これを完全に取るには全部剥がして再塗装する必要があるとのことでした。
しかし、その技術者さんの意見としては、そういうピアノなんだし、この程度であればこれはこれで味として残っていてもいいのでは?というもので、その点はマロニエ君も同感でした。

それが許せないくらいなら、そもそも新品か完璧にレストアされたものを買うべきですよね。
というわけで、安心しつつ帰宅したころにはみるみる体調は悪くなり、夜には熱が38℃を越してしまいました。
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自室にピアノを-2

小規模メーカーの「手工芸的ピアノ」に対する評価は、ヤマハやカワイのような工業製品としての安定性を良しとする向きには賛否両論あるようで、その麗しい音色や楽器としての魅力を認める方がおられる一方で、あまり評価されない向きもあるようです。
たしかになんでもかんでも手造りだから良いというわけではないのは事実でしょう。
パーツの高い精度や、ムラのない均一な作り込みなどは優れた機械によって寸分の狂いもないほうが好都合であることも頷けますし、交換の必要なパーツなどは注文さえすれば何の加工もなしにポンと取り替えれば済む製品のほうが仕事も楽でしょう。

ただ、手造りのピアノは職人が出来具合を確かめながら手間ひまをかけて作られ、いささか美談めいていうなら、その過程で楽器としての命が吹き込まれるとマロニエ君は思います。
材料もメーカーによってはかなり贅沢なものを用いるなど、とても現代の大量生産では望めないような部材が使われていることも少なくなく、これは楽器として極めて重要な事だと思うわけです。

むろん正確無比な工作機械によって確実に生み出されるピアノにも固有の良さがあることは認めます。
ただ、それをいいことにマイナス面の歯止めが効かないことも事実で、質の悪い木材をはじめプラスチックや集成材など粗悪な材質を多用して作られてしまうなど、果たしてそれが真に楽器と呼べるのかどうか…。

マロニエ君は音の好みでいうと大量生産の無機質な音が苦手なほうなので、べつに妄信的に手造り=高級などとは単純に思ってはいないけれど、多少の欠点があることは承知の上で、ついつい往年の手作りピアノに心惹かれてしまいます。
場合によっては下手な職人の手作業より、高度な機械のほうが高級高品質ということがあることも認めます。
それでも、「人の技と手間暇によって生み出されたものを楽器として慈しみたい」「そういうピアノを傍らに置いて弾いて楽しむことで喜びとしたい」という情緒的思いが深いのも事実です。

マロニエ君の偏見でいうなら、シュベスター、シュヴァイツァスタイン、クロイツェル、イースタインなどがその対象となり、まずはたまたまネットで目についたシュヴァイツァスタインに興味を持ちました。

戦前の名門であった西川ピアノの流れをくむというシュヴァイツァスタインはやはり手造りで、多くのドイツ製パーツを組み込んだ上に、山本DS響板という響棒にダイアモンドカットという複雑な切れ込みを施すことによって優れた持続音を可能にするという非常に珍しい特徴があり、このシステムはいくつかの賞なども受けている由。
しかし、メーカーに問い合わせたところ、この特殊響棒はとても手間がかかるため当時から注文品とのこと。すべてのモデルに採用されているというわけではなく、これの無いピアノも多数出回っていることが判明。

また、信頼できる技術者さんに意見を求めたところ、多くを語れるほどたくさん触った経験はないけれど、強いてその印象をいうと、それなりのいいピアノではあった記憶はある。でもとくに期待するほどの音が確実にするかどうかは疑問もあるという回答。
それからというもの、ネットの音源を毎夜毎夜、いやというほど聴きまくりましたが、マロニエ君が最も心惹かれるのはシュベスターということが次第にわかってきました。

ところが、シュベスターは中古市場ではかなりの人気らしく、ほとんど売り物らしきものがありません。
YouTubeで有名なぴあの屋ドットコムの動画もずいぶん見たし、あげくに電話もしましたが、古くて外装の荒れたものが1台あるのみで、今のところ入荷予定も全く無いらしく、「入荷したらご連絡しましょうか?」的なことも言われぬまま、あっさり会話は終了。

そんな折、ヤフオクにシュベスターの50号というもっともベーシックなモデルが出品されているのを発見!
とりわけマロニエ君が50号を気に入ったのはエクステリアデザインで、個人的に猫足は昔から好きじゃないし、野暮ったい木目の外装とか変な装飾なんかも好みじゃないので、シンプルで基本の美しさにあふれた50号で、しかも濃いウォールナットの艶出し仕様だったことは大いに自分の求める条件を満たすものだと思われました。

しだいにこのピアノを手に入れたいという思いがふつふつと湧き上がり、さすがに終了日の3日前ぐらいから落ち着きませんでした。
案の定、終了間際はそれなりに競って、潜在的にこのブランドを好む人がいかに多いかを思い知らされることとなり、入札数は実に90ほどになりましたが、幸い気合で落札することができました。
そうはいっても1台1台状態の異なる中古ピアノを、実物に触れることなくネットで買うというのはまったくもって無謀の謗りを免れなぬ行為であるし、眉をひそめる方もいらっしゃると思います。
マロニエ君自身もむろん好ましい買い方とは全く思っていませんが、さりとて他にこれという店も個体もないし、こうなるともう半分やけくそでした。

鍵盤蓋などに塗装のヒビなどもあり、知り合いのピアノ塗装の得意な技術者さんに仕上げを依頼することになりますが、果たしてどんなことになるのやら。
もしかしたら響板は割れ、ビンズルというようなこともないとは限りませんが、そんならそれで仕方ないことで、それを含めてのおバカなマニア道だと割り切ることにしました。
こちらから運送会社を手配し、先ごろやっと搬出となり、1000kmにおよぶ長旅を経て福岡にやって来ることになりますが、はたしてどんなことになるやら楽しみと不安が激しく交錯します。

ちなみにシュベスターのアップライトは全高131cmの一種類で、ものの本によればベーゼンドルファーを手本にしているとか。
たしかに動画で音を聴いていると、独特の甘い音が特徴のようですが、はてさてそのような音がちゃんとしてくれるかどうか…。
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自室にピアノを-1

自室を自宅内の別の部屋に引っ越しすることになり、年明けから一念発起して片付けを開始。
そこまでだったらいいのに、それに関連してまたも悪い癖がでしまいました。
その片隅に安物でいいから、ちょいとアップライトピアノでもいいから置きたいものだ…とけしからぬ考えがふわふわと頭をよぎるようになりました。

昨年末のこと、懇意のピアノ工房に1970年代のヤマハの艶消し木目のリニューアルピアノがあることを知り久しぶりに行ってみたのですが、外装の仕上げはずいぶん苦労されたようで、なるほど抜群に素晴らしかったものの、音は当たり前かもしれないけれど典型的な「ヤマハ」だったことに気持ちがつまづいてしまいました。

いっぽう、たまたま同工房にやはり売り物として置かれていた1960年代の同サイズのヤマハときたら音の性質が根底から全く違っており、マロニエ君のイメージに刷り込まれたヤマハ臭はなく、素朴で木の感じが漂うきっぱりした音がすることに、世代によってこうも違うものかと驚き、そのときのことはすでに書いたような記憶があります。

このときは美しい艶消し木目の魅力に気分がかなり出来上がっていたためか、音による違いの大きさは感じながらも、急に方向転換できぬままその日は工房のご夫妻と食事に行ってお開きとなりました。
マロニエ君としては、部屋の片付けがまだ当分は時間がかかりそうなこと、さらには壁のクロスの張り替えなども控えているので、そう焦ることはないとゆったり構えていたのですが、そうこうするうちにその1960年代のヤマハは売れてしまい、もう1台あった背の高い同じ時期のヤマハまで売却済みとなってしまい、あちゃー…という結果に。

ちなみにこの年代のピアノは、製造年代が古いという理由から価格が安いのだそうで、音より値段で売れていってしまうということでした。
もちろん値段も大事ですが、ものすごい差ではないのだから、長い付き合いになるピアノの場合「自分の好きな音」で選ばれるべきだと思うのですが、世の中なかなかそんな風にはいかないのかもしれません。
もしかしたらそのピアノを買われた方も音より価格で決められたのかもしれません。
逆にマロニエ君などにしてみれば好きな方が安いとあらば、一挙両得というべきで願ってもないことです。

ただしいくら音の好きなほうが安くて好都合とはいっても、肝心のモノが売れてしまったのではどうにもなりません。
というわけで、そう急いでピアノピアノと考えるのは間違っていると頭を冷やし、一旦はこの問題からは距離を置くことにしました。
そうこうするうちに2月に入り、片付けも大筋で見通しが立ち、クロスやカーテン/家具などを新調してみると、やっぱりまたピアノへの意識が芽生えてきました。

しかし例の工房の古き佳きヤマハは売れてしまったばかりで、そう次から次へと同様のピアノが入荷するとも思えません。
そもそも福岡には他にこれといって買いたくなるような中古ピアノ店もないし、そもそも家にピアノがないわけではないのだから、ゆっくり構えるしかないかと諦めることに。

その後、暇つぶしにヤフオクなどを見ていると、ヤマハやカワイに混じって、クロイツェル、シュヴァイツァスタイン、シュベスター、イースタインなど、かつて日本のピアノ産業が隆盛を極めたころに良質ピアノとして存在していた手作りピアノが、数からいえばほんの僅かではあるけれどチラチラ目につくようになりました。
マロニエ君はどうしても、こういうピアノに無性に惹かれてしまいます。

それからというもの、いろいろと調べたり音質の調査を兼ねてYouTubeでこの手のピアノの音を聴きまくる日々が始まりました。
もちろん現物に触れるのが一番というのはわかりきっていますが、そんなマイナーなピアノなんてそんじょそこらのピアノ店にあるはずもなく、唯一の手段としてパソコンのスピーカーから流れ出る乏しい音に耳を傾注させる以外にはありません。

ところで、パソコン(マロニエ君はiMac)のスピーカーというのは、ショボいようで、実は意外と真実をありのままに伝えてくれるところがあって、わざわざ別売りで買って繋いだスピーカーのほうが、変に色付けされた音がしたりして真実がわかりにくいこともあり、マロニエ君はiMacのスピーカーにはそこそこの信頼を置いています。
いい例が、かつて自分で所有していたディアパソン(気に入っていたのですが事情があって昨年手放しました)なども、忠実に現物のままの音が聞き取れるし、ヤマハやカワイはやはりその通りの音がします。

で、それらによると、古き良き時代の手作りピアノは(ものにもよるでしょうが)圧倒的に使われた材質がよいからか、一様に温かくやわらかな音がすると思いました。どうせ買うならやはりこの手に限ると静かに気持ちは決まりました。
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ヴォロディンの聴き応え

NHKで立て続けにアレクセイ・ヴォロディンのピアノを聴きました。

ひとつはクラシック音楽館でのN響の公演から、井上道義の指揮によるオール・ショスタコーヴィチ・プログラムで、ヴォロディンはピアノ協奏曲第1番のソリストとして登場。

もうひとつは早朝のクラシック倶楽部で放映された、浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルの様子でした。
いずれも昨年11月に来日した折の演奏の様子だったようです。

体型はわずかにぽっちゃりではあるけれど、非常に思索的な厳しい表情と、目鼻立ちの整ったいわゆる美男子系の顔立ちで、誰かにいていると思ったらペレストロイカで世界を席巻したゴルバチョフ元大統領の若いころにもどこか通じる感じでしょうか。
風貌のことはどうでもいいですね。

リサイタルの演目は、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」からスケルツォ、メトネルの4つのおとぎ話から第4番、そしてラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番。実際の演奏会では、この他にプロコフィエフのバレエ、ロメオとジュリエットから10の小品も演奏されたようです。

協奏曲、独奏いずれにおいても非常に安定した逞しさの中に美しいオーソドックスな演奏が展開され、非常に満足のいくものでした。
これまでにも「ロシアピアニズムの継承者」といわれるピアニストはたくさんいたけれど、近年はどうも言葉だけの場合が多いというか、実際はそのように感じられる人はなかなかいないというのがマロニエ君の正直な印象でした。
ロシアというわりには意外なほど線が細かったり、華のない二軍選手といった感じだったり、あるいはやたら力技でブルドーザーのように押しまくる格闘技のようだったり、全体が雑で音楽的な聴かせどころがボケてしまった演奏だったりするのがほとんどでしたが、ボロディンはそのいずれでもない点が注目でした。

真っ当で、力強く、技巧的な厚みがしっかりあって、ロマンティック。
演奏技巧にまったく不安がないと同時に、音楽の息づかいや綾のようなものはきちっと押さえており、聴く者の気分を逸しません。

最近は良い意味でのロシアらしいピアノを弾く人が少なく、それなりに有名どころは何人かいますが、どこかがなにかが欠けるものがあってこの人という納得できることがなかなかありませんでした。
たしかに、グリゴリー・ソコロフなどのように現代ピアニスト界の別格ように崇められる人もおられるようですから、ロシアピアニズムは健在という見方もできなくはないかれど、どうもソコロフにはいつも凄いと思いながらも、心底好きになれない自分があり、たしかに素晴らしい演奏もある反面でどこか恣意的偏執的で作品のフォルムがゆがんでしまっているように感じることもあるので、いつも「この人はちょっと横に置いといて…」という感じになってしまいます。

マロニエ君はもちろん、技巧の素晴らしい人も高く評価してしますが、だからといってその技巧があまりにも前に出ていて、高圧的かつ力でねじ伏せるようなものになると途端に気持ちが冷めてしまいます。

ヴォロディンは、世界屈指の最高級ピアニストであるとか、スターになれるとか、カリスマ性があるといったピアニストではないかもしれないけれど、豊かな情感を維持しながら、ピアノを深く鳴らしながら、キチッとなんでも信頼感をもって聴かせてくれるという点で、数少ない確かなピアニストだといえるだろうと思いました。

とくにこの一連の放送の中でも強く印象に残ったのは、まず普通は演奏されることのないラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番でした。有名な第2番でさえそれほど演奏機会が多いとはいえないソナタですが、まして第1番はまず弾かれることはありません。
マロニエ君の膨大なCDライブラリーの中でも、ソナタ第1番というとぱっと思い出すのはベレゾフスキーぐらいで、なかなか耳にも馴染んでいませんが、いかにもラフマニノフらしいところの多い力作だと思いました。

ラフマニノフというのは、作曲家としてもあれほど有名であるのに、意外に演奏機会の少ない曲もあるようで、ソナタ並みに大曲であるショパンの主題による変奏曲とか、ピアノ協奏曲でも第1番と第4番はまず演奏されませんが、そんなに駄作でもステージに上げにくい曲でもないのに、どういうわけだろうか思います。

話をヴォロでィンに戻すと、この人は聴く側にとってなにか強烈な魅力があって熱狂的ファンがつくというタイプの人ではないのでしょうけど、本物のプロのピアニストだと思うし、今後も喜んで聴いていきたいひとりだと思いました。

アンコールは、協奏曲、リサイタルのいずれでも、プロコフィエフの「10の小品」Op.12から第10曲でしたが、息をつく暇もないこの曲をものの見事に聴かせてくれました。
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アンスネス

いまや世界の有名ピアニストの一人に数えられるノルウェーのレイフ・オヴェ・アンスネス。
CDも何枚か持っているものの、実を云うとその魅力とはなんであるのか、長いことよくわからないまま過ごしてきたマロニエ君でした。

昨年11月に来日したようで、N響定期公演のデーヴィッド・ジンマン指揮によるオール・シューマン・プログラムではピアノ協奏曲のソリストとしてアンスネスが出演しているの様子を録画で視聴してみました。

番組冒頭では、いきなり「カリスマ的人気を誇るピアニスト」とナレーションされたのにはまず強い違和感を覚えました。
アンスネスが現代の有名ピニストの一人であることはともかくとしても、その演奏はおよそカリスマといった言葉とは相容れないものではないかと感じましたが、その次の「端整で温かみに満ちた演奏」という表現に至ってようやく納得という感じです。

とりあえずサーッと一度通して聴いてみましたが、シューマンの協奏曲でも、とくに聴きどころというか聴かせどころというようなものはなく、かっちり手堅くまとめられた、終始一貫した演奏だと感じました。
規格外の事は決してやらない、男性的な固い体つきそのものみたいなぶれない演奏で、その表現にも意表を突くような部分は一瞬もなく、抑制された穏やかな表現が持続するさまは、わくわくさせられることもないかわりに、変な解釈に接したときのストレスもなく、どこまでも安心して聴いていられるのがこの人の魅力だろうと思いました。

これといった感性の冴えやテクニックをひけらかすことは微塵もなく、彼ほどの名声を獲得しながら自己顕示的なものは徹底的に排除されて、淡々と良心的な仕事を続けているのはいまどき立派なことだと思いました。
演奏に冒険とか、心を鷲掴みにする要素はないけれど、今どきの若い人のようにただ楽譜通りに正確に弾いているだけというのとは違い、空虚な感じはなく、一定の実質があのは特徴でしょう。
変な喩えですが、能力もあり信頼の厚い理想の上司みたいな感じでしょうか。

さらには北欧人ゆえか、根底にあるおおらかさと実直さが演奏にもにじみ出ており、派手ではないけれど、なにかこの人の演奏を聴いてみようという気にさせるものがある気がしました。
演奏は常にかちっとした枠の中に収まっており、第一楽章のカデンツァなども、およそカデンツァというよりそのまま曲が続いている感じで、オーケストラがちょっとお休みの部分という感じにも聴こえました。

インタビューでは第二楽章はオケとの対話のようなことを言っていましたが、対話というより、分を心得た真面目な仕事という感じ。

アンコールはシベリウスの10の小品からロマンスを演奏しましたが、北欧の風景(写真でしか見たことないけれど)を連想させるようで、いかにもお手のものというか、アンスネスという人のバックボーンがこの北欧圏にあるのだということがひしひしと伝わるものでした。

北欧といえば、家具や食器のように、多少ごつくて繊細とはいえなくても、温かな人間の営みの美しい部分に触れるようなところが、この人の魅力なんだろうなぁと思いました。

ところで、第一曲のマンフレッド序曲が終わってジンマンが袖に引っ込むと、画面はピアノがステージ中央に据え付けられた映像に切り替わりましたが、これがなんだかヘン!なにかがおかしい。
アンスネスが登場して演奏が始まるとすぐにそのわけがわかりましたが、ピアノの大屋根が通常よりもぐっと大きな角度で開けられており、そういえばYouTubeだったか…とにかく何かの映像でもアンスネスがそういう状態のピアノを弾いているのを見た覚えがありました。

よくみると、通常の支え棒の先にエクステンションの棒が継ぎ足されていて、ノーマルよりもかなり大きく開いているようです。
おそらく響きの面で、アンスネスはこうすることで得られるなにかを好んでいるのでしょう。

ただ、舞台上のピアノのフォルムが大幅に変わってしまい、かなり不格好になっているのは否めませんでした。
もちろん音楽は見てくれより音が大事なんですけどね。
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普通に超絶技巧

音楽番組『題名のない音楽会』には大別すると、ホールで観客を入れて収録されるものと、音楽工房と称するスタジオ内で収録されるものがあるようです。

昔からとくにこの番組のファンではないからくわしいことは知らないけれど、印象としてはオーケストラのような大人数の団体が出演する際にはホール、個々の器楽奏者だけで成立する際にはスタジオ収録というふうに区別されているのかなあという印象。

今年の録画から見ていると、スタジオで収録されたもので「難しいピアノ曲と音楽家たち」というタイトルの回があって、司会はいつもの五嶋龍さん、難しいピアノ曲を弾くピアニストには福間洸太朗さんと森下唯さんという二人の腕達者が出演していました。

オープニングはこの二人の連弾で、萩森英明編曲による「チョップスティック ハンガリー狂詩曲」より…というのが演奏されて、まずはこの二人が超絶技巧の持ち主であることが視聴者へ軽く紹介されたように思います。

番組はソファーに腰掛けた出演者たちが音楽に関するおしゃべりを交わしながら、その合間合間で演奏をするといういつものパターン。

まずは福間洸太朗氏が、ストラヴィンスキーの「火の鳥」の「凶悪な踊り(G.アゴスティ編曲)」を披露。
まあ、見ているだけで大変な難曲で、どう弾くかというより、とりあえずこれが弾けますよということで価値があるような曲だと思いましたが、純粋に曲として聴いた場合、原曲のオーケストラ版に比べたら所詮はピアノ一台であるし簡易ヴァージョンという位置付けではありました。
それはこの曲や演奏に限ったことではなく、だいたいどれもオーケストラの曲をピアノ版に編曲すると感じることで、ピアノのほうが良いなあというのはそうそうめったにあるものではなく、所詮は代替版という印象を免れないように思います。

ピアノは一台でオーケストラでもあり、さまざまな楽器の音色を出すのが難しいなどと言い尽くされた会話が交わされていましたが、演奏中は画面にここはオーボエここはフルートでそこが難しいというような注釈も入ります。
しかし正直言わせてもらうと、マロニエ君にはそれらの音をそれらしく表現しているようには聞こえず、おそろしく指のまわる人がピアノを使って難曲に挑んでいるというばかりでした。そしてなるほど大変な腕前をお持ちというのはよくわかりました。
逆にいうとピアノ版にした以上は、必要以上にオーケストラを意識するより、ピアノ曲として魅力ある演奏に徹するほうが潔いというか、個人的には好ましいのではないかとも思ったり。

福間さんという人は相当のテクニックの持ち主には異論はないけれど、彼の演奏から流れ出てくる音楽はどちらかというと無機質でエネルギーがなく、せっかくのテクニックが深い言葉や表現となって活かされているという感じがなく、弾ける人は弾けるんだという乾いた感じで終わってしまいます。

最後にもう一度ピアノの前に出てきて、バラキレフのイスラメイを弾きましたが、こちらもデジカメのきれいな写真みたいで、見事な指さばきだけど、終わったらそれでおしまいという軽さが絶えずつきまとうのが気になりました。
むしろ、いちいち大仰に構えず、なんでもサラサラ、嫌味も抵抗感もなく聴かせるというのが福間さんの良さであり、狙っているところなのかもしれませんし、今どきなのでそういう演奏を好むニーズもあるのかもしれません。

その点では、すこしばかり趣が違っていたのは森下唯氏の演奏でした。
選曲も面白く、この人はアルカンの作品だけでコンサートをやるなど、普通のピアニストとはひと味違った方向で活動しておられるようで、この日もアルカンの練習曲「鉄道」を演奏されました。

これがもう実におもしろかったし聴き甲斐がありました。
昔の蒸気機関車をイメージして作られた曲で、ものすごいテンポの無窮動の作品で、聴いているだけでなんだかわからないけれどもワクワクさせられました。
森下唯さんもお若い方だったけれど、こちらのほうが演奏にいくらか温度とどしっとしたものを感じられて、せめてあと一曲聴いてみたい気がしました。

いずれにしろ日本人もピアノ人口は減っているというのに、以前なら考えられないような腕達者がつぎつぎに現れるのは今昔の感にたえない気がします。
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苦手なもの

ろくに勉強もせず、やれ参考書だ何だと道具ばかり揃えたがるタイプがいますが、マロニエ君にも同じようなところがあり、自室に安い練習用アップライトピアノを置こうかどうか、性懲りもなく馬鹿なことを画策しています。

エー?、そんなものが要るほど練習するの?、と問われれば、正直言ってそんな見込みはないし、むろんそれに値する使い方ができる自信もありません。
だいたい本当に練習する人は状況をとやかく言う前にちゃんと練習するのであって、マロニエ君の場合はそういう環境を整えることそのものに、今たまたま楽しさを見出しているのかもしれません。

だからどうしても必要ということより、もっぱら自分の満足のためという悪癖がまた顔を出してしまった見るべきなんでしょう。しかもそのことを当人がすでにこの段階でうすうす自覚しているのですから、もうほとんど救いがたいともいえるわけです。

ただ、基本それはそうなんだけれど、夜自室に戻ってからちょっと弾いてみたい曲とか楽譜があったりすると、ちょっと指を動かしてみたいことがあるのも事実です。そんなときちょっとアップライトピアノがあれば真ん中の弱音ペダルを使って(時間帯にもよりますが)控えめに譜読みするぐらいのことは可能だというのが苦しい言い分というか、それができたらいいなという目論見なわけで、もちろん狙うのは中古です。

そういう目的ならサイレントピアノという手もあるにはあるけれど、あれは実際アコースティックピアノを土台としながら本来の発音機構を殺し、ヘッドホンで電子音を聞くものだからはじめから除外していました。というのもマロニエ君はヘッドホンというのが、たとえどれほど優れたものであってもストレスで、個人的にどうしても苦手。
あれを頭と両耳につけて音楽を聴いたりピアノを弾いたりする気にはなれません。
なので、電子ピアノもまったく興味がなく、これを部屋に置く気はゼロ。

ヘッドホンがダメという話をあるピアノ店のご主人にしていたら、それならスピーカーをサイレントピアノのヘッドホンジャックへ繋げばヘッドホンもつけなくていいし、スピーカーのボリュームも調整できるからいいのでは?というアイデアを授けてくださいました。
で、我が家には、タイムドメインの小さいながらも質の良い小型スピーカーがあったのを思い出して、それを引っ張り出し、とあるヤマハのサイレントピアノに繋いでみることに。

…なるほどたしかに音はでました。
でも、なにこれ? ぜんぜん面白くないし、ぜんぜん楽しくない。
そもそもピアノを弾いているという喜びもないし実感もない!
どんな立派なピアノからサンプリングされたか知らないけれど、うすっぺらなピアノもどきの音が出てくるだけで、美しさもまったくない。
「通常は生ピアノ。深夜はスピーカに繋いで小さなボリュームで」にはかなり期待したものの、5分もしないうちにテンションは急降下、風船の空気が抜けるように熱も冷めていきました。

これは絶対に自分じゃ弾かないし、ひどく後悔することを直感しました。
まさに、音楽のオの字も、あたたかみのアの字も、楽しさのタの字もない、作りもののウソの世界。
あまりにも嫌だったので、最後にスピーカーを外して、サイレント機能をOFFにすると、当たり前ですが普通にピアノの音になり、その変化の激しさにはおもわず「うわぁ!」と声を上げたくなほどの違いで、アップライトであれなんであれ、生の音はなんと素晴らしいのかを再認識することに。

これなら、通常のアップライトの弱音ペダル(弦とハンマーの間に横長いフェルト布が介入してきて音を弱くする)もかなり楽しくはないけれど、あれはまだいちおうピアノの発音機構を使って出している音ではあり、いくらかマシだと(今は)思います。

ところで、過日行ったピアノ店で音が気に入っていた1960年代のヤマハは2台とも売れてしまったようでした。
あのとき買っておけばよかったと後悔しましたが、そんなに焦ることでもないし、ここは気長に行こうと思います。
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完成度

先日のNHK-Eテレ、クラシック音楽館ではN響定期公演の後のコンサートプラスのコーナーで、スタジオ収録された仲道郁代さんのショパンが放送されました。
ショパンが生きていた時代のプレイエルと現代のスタインウェイを並べて、ショパンの有名曲を弾くというもの。

同じプレイエルでも、コルトーなどが使ったモダンのピアノとは違い、いわゆるフォルテピアノ世代なので、音も姿形もかなり古い骨董的な感じがします。

音が出た瞬間に、ぽわんと温かい音が広がるのは心地良いし、現代のピアノが持ち合わせない味わいがあることはじゅうぶん感じつつも、いかんせん伸びがなくやはり発展途上の楽器という印象は免れませんでした。

冒頭の嬰ハ短調のワルツだけ、両方のピアノで奏されましたが、はじめにプレイエルを聴いてすぐスタインウェイに移ると、まず明確に音程が高くなり、楽器に圧倒的な余裕があり、耳慣れしていることもあってとりあえずホッとしてしまうのは事実でした。

まるで木造建築と近代的なビルぐらいの違いを感じました。
むろん木造は素晴らしいけれど、より完成度が欲しい気がします。
スタインウェイが素晴らしいのは、ただ近代的で力強くて美しいというだけではなく、極限まで完成された楽器という部分が大きいように思います。このいかにも居ずまい良く整った楽器というのは、それだけで心地よく安心感を覚えます。

個人的には、比べるのであれば、古いプレイエルとモダンのプレイエルを弾き比べて欲しかったし、同じようにモダンのプレイエルとスタインウェイの比較のほうが、より細かい違いがわかるように思いました。

というか、フォルテピアノと現代のスタインウェイでは、根本があまりにも違いすぎてあるいみ比較にならず、かえってそれぞれの特徴を感じるには至らないような気がしました。
そもそも、差とか違いというのは、もっと微妙な領域のものだと思うのです。

とりわけショパン~プレイエルにこだわるのであれば、プレイエルらしさをもっと引き出すような焦点を与えてほしかった気がしますが、この企画は2週続くようで、次の日曜にも続きが放送されるとのことでした。


演奏やピアノとは直接関係ないことですが、仲道さんのドレスがちょっと気になりました。
趣味の問題まであえて触れようとは思いませんが、真っ赤なドレスのサイドの脇の下から腰のあたりまでが穴が空いたようになっていて、実際には肌色のインナーを付けておられるのでしょうけど、パッと目にはその部分の肌が大きく露出しているように見えて、せっかくの演奏を聴こうにも視覚的に気になってしまいます。
これって今どきの女性演奏家のひとつの潮流なの?って思いました。

この方向に火をつけたのは、まちがいなくブニアティシヴィリとユジャ・ワンであることに異論のある方はいないでしょう。
必要以上にエロティックな衣装で人の目をひくのは、言葉ではどんな理屈もつけられるのかもしれないけれど、個人的にはまったく賛成できません。とくにこの外国勢ふたりに至っては、節度を完全に踏み越えてしまっており、このままではどうなってしまうのかと思うばかりで、ピアニストのパフォーマンスは、ナイトクラブのショーではないのだから、その一線は欲しいというか…当たり前のことだと思う。

少なくとも、クラシックの演奏家がそんな格好をしてくれてもちっとも嬉しくもありがたくもないというのが本音であって、スケベ心を満たしたいなら、こういうものに期待せずともほかになんだってあるでしょう。
個人的な好みで言うと、よくある女性の肩がすべてあらわになって紐一本ないようなドレスも見ていて心地よくはなく、半分裸みたいで落ち着かない感じがするし、やはり演奏には演奏の場にふさわしい服装というのはあるように思います。

この調子では、そのうち女性ファン相手に、男性ピアニストがピチピチのランニング一枚に短パン姿でピアノを弾くということだってアリということになりかねません。ひええ。

衣装ひとつでも、要はそのピアニストが何によって勝負をしようとしているのかがわかりますね。
仲道さんもわずか30分の間に、お召し替えまでされていましたが、そこまでして「見せる」ことを意識するということに、よほどの自信とこだわりがおありなんだろうなぁと思ってしまいました。
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レオンスカヤ

聴いていてなんとも不思議な気持ちになるピアニストっているものです。
不思議の意味もいろいろあるけれど、ここで言いたいのは、その人の特徴や良さはどこなのか、何を言いたいのかがまるきりわからないという意味での不思議。

エリザベート・レオンスカヤは以前からそれなりに名の通った中堅ピアニストだったけれど、昔からマロニエ君はこの人のCDを聴いて、そのどこにも共感できるものを体験したことがありませんでした。

いろんなピアニストがいて、個性やスタンスがそれぞれ違うのは当然ですが、好き嫌いは別にしても目指している方向ぐらいは、聴いていれば察しはつくのが9割以上でしょう。
ところが、彼女にはそれがまったく見えないという点で印象に残っているピアニストでした。非常に真面目で、正統派といったイメージがあるけれど、マロニエ君にとってはどこが魅力なのかわからない不思議な人。
CDではショパンやブラームスなど、いくつか買ってはみたものの、一度聴いてあまりにもときめきがないことに却ってお寒い気分になってしまい、そのままにしているCDが探せば何枚かあるはず。

そんなレオンスカヤですが、昨年のサントリーホールでトゥガン・ソヒエフ指揮するN響の定期公演に出演し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾いたようで、録画でそれを見てみることに。

長い序奏の後、3回にわたるハ短調のユニゾンのスケールによってソロピアノが開始されますが、グリッサンドのように音が団子状態で繋がっているのにはいきなりびっくりしました。
演奏が進むにつれ、ますます意味不明。
具体的なことは書くこともできないし、その記述に敢えて挑戦しようとは思いません。

すくなくとも、大晦日にYouTubeで視聴した昔のアニー・フィッシャー(オーケストラは同じくN響)の同曲とは、マロニエ君にとってはまさに雲泥の差でしかなく、これがいかに素晴らしいものであったかを、他者の演奏によってさらに強固に裏書してもらったようなものでした。

このレオンスカヤ女史は、演奏はまったく好みではなかったけれど、演奏前のインタビューではなかなかいいことをおっしゃっていました。
「ピアノを演奏するときの揺るぎない法則があります」
「手の自由な感覚と同時に手の重みを感じること。そうすると重く弾くことも軽く弾くことも可能です」
若いピアニストへのアドバイスでは
「鍵盤はタイプライターではない、ペダルは車のアクセルではない。」
「ピアノで上手く歌えないときは、声(声に出して歌ってみる)に頼ってみるといい。」
楽譜の読み方について
「楽譜を正しく読むとはどういうことか。音符についた点やスラーで作曲家は何を表現したかったか考えねばなりません。」
「スタッカートやアクセントを単にその通りに演奏しても意味がありません。」

いちいちごもっともなのだけれど、さてその方の演奏に接してみて、こういう言葉を発する人物が、いざピアノを弾きだすとあのような演奏になってしまうことに、聴いているこちらの整理がつかないような違和感を感じてしまうのをどうすることもできませんでした。
ピアノで歌う…作曲家の表現したかったもの…。

アンコールにはなんとショパンのノクターンの有名なop.27-2が演奏されましたが、ベートーヴェンの3番のあとにこういう作品をもってくるというセンスが、さらにまた理解不能でした。

後半はドヴォルザークの新世界からで、その残り時間に、東京文化会館少ホールで行われたボロディン弦楽四重奏団とレオンスカヤによる、ショスタコーヴィチのピアノ5重奏曲から抜粋が放送されました。
サントリーホールの協奏曲では新しめのスタインウェだったのに対し、こちらではヤマハのCFXで、スタインウェイに比べてエッジの立った音で、パンパン華やかに鳴っているのが印象的でした。
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10代のキーシン

過日、ピアノの知り合いがお遊びに来宅され、夕食を挟んで深夜まで、7時間近くピアノ談義に費やしました。

その方はマロニエ君など足下にも及ばないような高度なiPad使いということもあり、話題に名前が出るとほぼ同時ぐらいに指先はササッと画面を検索して、そのつどいま口にしたピアニストの音や映像が流れます。
まるで、影の部屋でスタッフがスタンバイしているテレビ番組のような運びの良さで、ただただ感心するばかり。

この日は、話や動画やCDに終始するあまり、ピアノは真横にあるのにまったく触らずに終わってしまうほどこちらに熱が入りました。

話はめぐるうち、「天才」が話題となりました。
世界の第一線で活躍するピアニストの大半はまずもって天才であるのだろうけれど、その中でもいかにも天才然とした存在のひとりがキーシンです。

彼がわずか12歳の子供だったとき、モスクワ音楽院の大ホールでキタエンコ指揮のモスクワ・フィルを従えて弾いたショパンの2つの協奏曲のライブは、当時ショック以外の何物でもありませんでした。
たしか、演奏から3年後くらいだったか、初めてこれをNHK-FMで耳にしたマロニエ君はその少年の演奏の深みに驚愕し、当時東京に住んでいたこともあり、神田の古書店街の中のビルにあった新世界レコード社という、ソビエトのメロディアレーベルを主に扱う店の会員にまでなって何度も足を運び、ついにキーシンのライブレコードを手に入れました。当時はまだLPでした。

それから初来日のコンサートにも行きました。ソロリサイタルではオールショパン・プログラム、いっぽう協奏曲では、スピヴァコフ指揮のモスクワ室内管弦楽団とモーツァルトの12番とショスタコーヴィチの1番を揺るぎなく弾いたし、その後の来日ではヴァイオリンのレーピンなどと入れ替わりで出演し、フレンニコフのピアノ協奏曲を弾いたこともありました。
とにかく、この当時はすっかりキーシンにのぼせ上がっていたのでした。

初めはLP一枚を手に入れるのにあんなに苦労したのに、今では当時の演奏や動画がYouTubeなどでタダでいくらでも聴けるようになり、この環境の変化は驚くべきことですね。

この夜は久しぶりにキーシンの10代のころの演奏映像に触れて、感動を新たにしました。
この知人も言っていましたが、キーシンについては「今のキーシン」を高く評価する人が多いようで、それももちろん深く頷けることではあるけれど、マロニエ君は10代のころのキーシンには何かもう、とてつもないものが組み合わさって奇跡的にバランスしていたものがあったと今でも思います。

現在のキーシンはたしかに現在ならではの素晴らしさがあるし、深まったもの、積み上げられたもの、倍増した体力などプラスされた要素はたくさんあるけれど、失ったものもあるとマロニエ君は思っているのです。
若いころの、この世のものとは思えない清らかな気品にあふれた美しい演奏はわりに見落とされがちですが、あれはあれで比較するもののない完成された、貴重な美の結晶でした。
現在のキーシンの凄さを感じる人は、どうしても「若い=青い」という図式を立てたがりますが、10代のキーシンの凄さは今聴いても身がふるえるようで、大人の心を根底から揺さぶるそれは、だから衝撃的でした。

とくにショパンの2番(協奏曲)に関しては、誰がなんと言おうと、マロニエ君はこの12歳のキーシンの演奏を凌ぐものはないと断言したいし、マロニエ君自身もその後キーシンによる同曲の実演にも接しましたが、あの時のような神がかり的なものではありませんでしたから、おそらく本人もあれを超える演奏はできないのかもしれません。

さて…。
ショパンの2番といえば、NHK音楽祭でユジャ・ワンが先月東京で弾いたという同曲を録画で見たのですが、個人的にはほとんどなんの価値も見いだせない演奏でした。
現在の若手の中で、ユジャ・ワンには一定の評価をしていたつもりでしたが、こういう演奏をされると興味も一気に減退します。
やはり彼女は技巧至難なものをスポーティにバリバリ弾いてこそのピアニストで、情緒や詩情を後から演技的に追加している感じはいかにも不自然。曲の流れを阻害している感じで、あきらかにピアニストと曲がミスマッチで見ていられませんでした。
尤もらしい変な間がとられたり、ピアノの入りや繋ぎの呼吸も、こういう曲では作為的で後手にまわってしまうのも、やはり自分に中にないものだからでしょうね。

あれだけの才能があるのになぜそんなことをするのかと思うしかなく、現代のピアニストはなんでもできるスーパーマンになりたがりますが、それは無理というもの。その人ならではのものがあるからこそ、人はチケットを買って聴きに来るのだと思いますし、だからこそ価値がある。

まるで場違いな猫がショパンに絡みついているみたいで、この曲に関しては衣装なども含めてブニアティシヴィリと大差ないものにしか見えませんでした。しかし最後にアンコールで弾いたシューベルト=リストの糸を紡ぐグレートヒェンになると、ようやく本来の彼女の世界が蘇りました。
やはりこの人はこうでなくてはいけません。

すべてに云えることですが、自分のキャラに合わないことはするもんじゃありませんね。
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撤回の撤回

知り合いが1960年代のスタインウェイDを買われました。

数年前、このブログを読まれたことがきっかけでご連絡いただき、それからのお付き合いになった方です。関西にお住いで一度だけお会いしたことはあるけれど、普段はもっぱらメールか電話のやり取りに終始する間柄。
ピアノ本体の話とCDや世界で活躍する演奏家の話が遠慮なくできる相手というのは、そうざらにはなく、その点では貴重な方といえます。

音楽のプロではないけれど、かつては専門教育を受けられているし、なにより心から音楽がお好きで、ご自身でも趣味でピアノを弾くなどして楽しんでおられるようです。
ご自宅ではディアパソンの大きめのグランドをお使いで、私も数年間同じピアノを持っていたことから、よく情報交換などしていたものですが、最終的にはスタインウェイのDを買うことが目標だと以前から聞いていました。

さて、2年ぐらい前だったでしょうか、北関東のとあるピアノ店に該当するピアノがあることがわかり、どんなものか見に行かれたようでした。
といっても、このピアノ店は東京からさらに新幹線か在来線、あるいはバスを乗り継いで行かなくてはならないロケーションで、一往復するだけでも、それに要する時間と労力はおびただしいものがあるようでした。
なんなら飛行機に乗ってひょいと海外にでも行くほうがよほど簡単かもしれません。

で、見られた結果はまずまずで、かなり関心をもたれたようですが、そうはいってもおいそれと即決できるような価格やサイズでもないため、すぐに購入というわけにはいかなかったようでした。
その後は折を見て、ときにはお知り合いのピアニストなども同道されて見に行かれたようですが、やはり良いピアノのようで、事は徐々にではあるけれど、一歩ずつ購入への距離を縮めているようにお見受けしていました。

その後、どれぐらいのタイミングであったか忘れましたが、とうとう購入契約を結ぶところまで事は進み、まずはおめでとうございますという運びになりました。ところが、その後何があったのかはよくわかりませんが、この話は一旦撤回され、購入も何もかもがすべて白紙に戻ってしまうという非常に残念な経過を辿ります。

マロニエ君はそのピアノを見たことも弾いたこともないけれど、写真やこまかい話などから想像を膨らませて、まずその方が買われるであろう「縁」のようなものがあるピアノだと思っていたのですが、予想は見事に外れ、自分の勘働きの悪さを恥じることに。

ところがそれから一年以上経った頃だったでしょうか、マロニエ君の地元のぜんぜん別の人物がやはりこのピアノ店を訪れました。
それによると膨大な在庫の中には、何台かのスタインウェイが購入者の都合から納品待ちという状態にあるのだそうで、その中に上記のDも含まれていることが判明します。そして、白紙撤回から一年以上経っているにもかかわらず、どういうわけかキャンセルの扱いにはならず、契約が成立したまま、あくまで納品がストップしている状態であるという話に耳を疑いました。
マロニエ君も「あれはキャンセルされたはず」だと何度も念をしますが、どうもまちがいではないらしい。

そこで、ただちに上記の関西の知人に電話して、こういう現状になっているらしいことを伝えました。
もしもまだその気があるのであれば、気に入ったピアノというのはそういくつもあるわけではないし、そういう状態でキープされているのもお店の格別な計らいだろうとも受け取れたので、この際購入へと話を再始動されるか、あるいは本当にその気がないのであれば、それを今一度明確に伝えられたらどうでしょう?というような意味のことを言ったわけです。
お店としても、本当にキャンセルという確認が取れたら、「SELECTED」と書かれた札を取り去って、再び販売に供することができるはずで、高額商品でもあるし、いずれにしろ宙ぶらりんというのは一番良くないと思いました。

というわけで多少のおせっかいであったとも思いましたが、結果的に再びピアノ店へ行かれることになり、それからしばらくの後、ついに購入されることになりました。そして今月の中旬、ついにそのスタインウェイはその方の自宅へと無事に運び込まれたようです。
聞けば、一年半の時をかけ、このスタインウェイのためだけに都合7回!!!も関西から往復されたそうで、こういう買い方もあるのかと、ただもう感心してしまいました。

マロニエ君はといえば、それがピアノであれ車であれ、ほとんど1回か2回でババッと決めてしまいますし、その折もろくにチェックやあれこれ確かめるなどは自分なりにやっているつもりでも、実はほとんどできていません。買うときは半ばやけくそみたいなところがあるし、なかなかじっくり冷静にということができない性分で、ほとんどノリだけで決めてしまうのは毎度のこと。
いやはや、じっくり見極めるとはこういうことをいうのだと感嘆するばかりでした。
いずれにしろ、少々時間はかかりましたが収まるべきところに収まったのはおめでたいことでした。
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国産アップライト

過日、久しぶりに旧知のピアノ店を訪ねました。
周囲を一面緑の田園風景が取り囲むピアノ工房です。
時代を反映してか以前よりもアップライトの展示比率が高まり、台数じたいもぐんと増えていて、手頃で上質な中古の国産アップライトに関しては見比べ弾き比べするには理想的な環境へと変貌していました。

はっきり覚えていないけれど、ちょっと思い返しただけでも15台以上はあって、どのピアノもキチンと技術者の手が入った言い訳無用の状態にあることは、いつもながらこの店の特徴的な光景です。
ふつうは、色はくすんで傷だらけのピアノをショールームに置いて、「これは、これから仕上げます」みたいなことをいう店は少なくないのですが、そのたぐいは一切なく、お客さんの目に触れるものはすべてピカピカの「商品」として仕上げられていることは、見ていて安心感があり心地よいものです。

むろん内部も外観同様に細かい項目ごとにしっかり整備されていて、どれもすぐ安心して弾ける状態にキープされているのは、本来これが当たり前と言われたらそれまでですが、現実になかなかそうなっていない店が多い中、この店のこだわりと良心を感じます。

長らくご主人が整備・販売からアフターケアまですべてひとりでされていましたが、ここ数年は息子さんがお父さんと同じ仕事を受け継ぐ決断をされて工房に入られています。それ以前は別の業界におられたにもかかわらず、わずか数年の間にまるでスポンジが水を吸い込むがごとく、あらゆることをお父さんから吸収されたようで、今や塗装に関しては息子さんのほうが上手いまでになったというのですから驚きました。

なるほど、ここの10数台のピアノが、どれもまばゆいばかりに輝いており、中古独特のある種の暗さというか前オーナーの食べ残し的な雰囲気は全くといっていいほどありません。文字通りのリニューアルピアノで、溌剌とした状態であたらしい嫁ぎ先を待っているという明るさがありました。
この明るさというのが実はとても大事で、どんなにいいものでもなぜか暗い雰囲気のもの(あるいは店)がありますが、明るくないと人は買いたくならないものです。さすがにその辺りも含めて現役ピアノ店として生き残っている店はやはり違うなあと思いました。

さて、せっかくなのであれこれ弾かせていただきましたが、同じ技術者がまんべんなく整備しているだけあって、ヤマハとカワイと各サイズで、ほとんどその特徴がわかるもので、ヤマハはだいたいどの年式を弾いても同じ音と同じ鳴り方をして、サイズや個体差というのは思ったより少ないというのがわかります。カワイも同様。

ということは、基本的には、年式やモデル/サイズの違い、あるいは中古の場合は長年の保管状況や経年変化も本質的には少ないようで、しっかりとした技術者の手が入って本来の性能が引き出されると、そのピアノの生来の姿が浮かび上がることがわかります。
ヤマハ/カワイのアップライトとは要するにこういうものだということが、大局的にわかったようで非常に有意義でした。

生来の姿というのは、要するにヤマハという一流メーカーの最高技術で大量生産されたピアノということですが、それらの根底にあるものはすべて同じで、大量生産ゆえに個体差が非常に少ないのは合点がいくところ。また長年それぞれ異なる場所で使われてきたピアノでしょうけど、環境による変化も本質的にそれほど受けておらず、整備すればちゃんとある程度の状態に戻ってくるというのは、日本のメーカーの底力だと思わずにいられません。
楽器としてどうかということはまた別の話に譲るべきかもしれませんが、少なくとも製品としては、驚異的な信頼性、耐久性、確かさがあるのは間違いのないところで、これはこれで驚嘆に値することだと思いました。

この中に2台だけ、50年ほど前のヤマハのアップライトがありました。
すなわち1960年代のピアノで、ロゴも現在のスリムな縦長の文字ではなく、やや横に広がった古いタイプです。

聞くところによると、価格的にも最も安い部類だそうで、塗装もラッカー仕上げなので、その後のアクリル系の塗装にくらべるとあの独特なキラキラもありません。
一般的なお客さんにとっては、古いことがマイナス要因となるのか、安いこと以外に魅力はないらしいのですが、マロニエ君は逆にこのピアノには心惹かれるものを感じました。

隣にちょうど同じサイズの少し新しい世代(1970年代)の同じヤマハがありましたが、こちらはもう次世代の仕様で、見た目から音までいわゆるおなじみのもの。
60年代のそれには、弾いた感じもほかのピアノたちとは一線を画するものがありました。
普通の人が抱く安心感という点では、よくも悪くも、新しいほうなんだろうと思います。細めの基音があって、そのまわりに薄い膜みたいなものがかかっていて、それが洗練といえば洗練なんでしょうし、現代的といえば現代的。

その点、古いほうは飾らない実直な音がして、人でいうとやや不器用かもしれないけれど正直者といった感じ。
食材なら何も味付けがされていない状態で、いかにも小技を使わずまっとうに作られた感じがあり、ピアノという楽器の機構から出るありのままの音がするし、ヤマハがまだ徹底した大量生産に移行する前の最後の時代の、ベヒシュタインなどを手本にしていた時代の香りのようなものがありました。

古いほうはひとことでいうとヤマハなりに「本物の音」がしました。
それはそのまま、ヨーロッパのピアノにも繋がるフィールといえなくもない。
そして、欠点もあるけれど、音には太さと重みと体温みたいなものがあり、弾くことが楽しいのでした。

いいかえると、新しい仕様は、いかにもヤマハという感じで、欠点らしい欠点はないけれども無機質で、楽しくはないけれども安心で、なにもかもが正反対のものになってしまった…でもそれで売れて一時代を築いたというアイロニーがあるように思いました。
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革新と伝統

ピアノ技術者とピアノの所有者(弾く人)の間には、つくづく相性というものがあるように思います。

もちろん人間的なそれもあるけれど、最も大きいのはピアノの音に関する価値観やセンスの問題で、このあたりはあまり多くを説明して解決できるものでもなく、できれば自然にある程度一致できることが理想だと思います。
これまでにも素晴らしい技術、素晴らしい人柄の技術者さんとは数多く出会ってきましたが、今回ほど時間も無駄にすることなくしっくりくる方はなかったように思います。

以前も書いたことですが、この方は他県の方で、たまたまマロニエ君がお店のショールームを覗かせていただいた折、そこにあるピアノの弾き心地にいたく感銘を受けたことがご縁でした。

夏の終わりに保守点検をやってもらい、それいらいかつてない快調が続く我が家のピアノは、弾き心地と実際の音色の両方が好ましい方向で一致したはじめてのケースで、購入後10年余、ようやく好みのコンディションを得ることになりました。

強いていうと鍵盤がやや重いか…という点はあったものの、弾きこむうちに実際に軽くなっていったことは予想外の嬉しい変化でした。
マロニエ君の手許には、以前とてもお世話になった別の調律師さんからのプレゼントで、鍵盤のダウンウェイトを計る錘があるのですが、それで数値を確認してみると、保守点検直後は50g前後ぐらいだったものが、今回は中音域から次高音あたりの多くが48gほどになっていました。

というわけで、本当なら今年はこのままでよかったのですが、近くに住む知人がぜひその方にやってほしいということになり、せっかく遠方から来られるのだから、それなら我が家にも再度寄っていただこうという流れになりました。

さすがに前回のようなこんをつめた調整ではなかったものの、それなりのことをいろいろとしていただき、調律を含めるとなんだかんだでやはり丸一日に近い作業となりました。
今回はローラーの革の復元や整音を重点的にやっていただいたようです。
結果は、明瞭な基音の周辺にやわらかさというか、しなやかさみたいなものが加わって、より表現力豊かなピアノにまた一歩進化しました。
何ごとも、使う人と調整をする人との目的というか、ピントが合うかどうかは大事なことで、ここが二者の間でズレると思うようには行かないもの。

「このままコンサートもできますね」といっていただくほどに仕上がって嬉しいことなれど、そうなればなったで、さて弾くこちらのほうがそれに見合わぬ腕しか持ち合わせないのは悲しい現実で、技術者さんにもピアノにも申し訳ないところではありますが。

この技術者さんは口数の多い方ではないのですが、それでも興味深い話をあれこれと聞かせていただきました。
日本で現在最高と思われる方のお名前や、世界を股にかけた超有名調律師の名前などもぞくぞくと登場する中、はっきりそうは云われなかったけれど、調律の世界にも伝統芸的なやり方があるいっぽうで、新しい手法技法の流行みたいなものもあるようで、どれをどう用いるかも含めて技術者の資質やセンス、価値観によって左右されるもののように思いました。

スタインウェイ社のカリスマ的な技術者などは、有名なピアニストの録音にも多く関わっていて、ライナーノートの中にはその名が刻まれているものも少なくありません。
実というとマロニエ君はその人の仕上げた音は名声のわりにはあまり好きではないとかねがね思っていたところ、具体的なことは書かないでおきますが、やはり納得できるものがありましたし、その流儀を受け継いだ人達が日本人の中にも多くいて、テレビ収録されるような場にあるピアノも多く手がけていることは大いに納得することでした。

ピアノはローテクの塊だからといって、旧態依然とした技術に安穏とするだけでなしに、常に新しいことを模索し挑戦する姿勢というのは必要だと思います。
とはいうものの、やはり伝統的手法で仕上げられた音のほうに、断然好感を覚えるのは如何ともしがたく、これはマロニエ君の耳がそういう音を聴き込んできたからだといえばそうかもしれませんが、やはりこちらがピアノの王道だとマロニエ君は思います。

現代の新しいピアノは、昔ほど良くない素材を使って、新しいテクノロジーの下で作られている故にあのような独特な音がするのだろうと思っていましたが、それに加えて音作りをする技術者の分野にも新しい波が広がり、ますます伝統的な深くてたっぷりしたピアノとは違うものになっているように感じました。

新しいものも大事だけれど、やはり伝統的なものはしっかり受け継がれて欲しいものです。
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軽すぎません?

かねてより基本的なことで疑問に思っていることがあります。
それはグランドピアノとアップライトでは、なぜああもキーの重さが違うのかということ。

マロニエ君がここでいいたいのは、巷間言われる、アクションの構造からくるタッチ感の違いではなく、ましてグランドにあるアフタータッチ云々とか連打性能のことではありません。

そんな根本の難しい話ではなく、もっと簡単な次元のこと。
ごく単純に言ってアップライトの(といっても数多くありますが、外国産のものはあまり知らないので、とりあえず国産有名メーカーの)キーの軽さというのは、あれちょっと異常ではないかと思うのです。
マロニエ君はべつに重い鍵盤を好むわけではなく、ごく普通に快適に弾けるための、程よい感触があることが望ましいと思っているだけで、少なくともこの点に関して特種な要求はもっていないつもりです。

ネットの相談コーナーなどを見ていても、自宅のアップライトで練習して先生のお宅のグランドで弾くと、キーが重くて、あまりの違いからぜんぜん弾けなくなるというような書き込みが見られます。
これ、マロニエ君も同感なのです。

ごくたまに場所の関係でアップライトに触ることがあるのですが、音云々はともかく、手をおいただけでキーが下がりそうなほどペラペラに軽いのは、なにか大事なものが内部で外れてるんじゃないかと思うほどで、やたら弾きにくく、その盛大な違和感に慌てるばかり。

あまりの違いから変なところでミスをしたり、普段とはまったくちがうものに馴染むためのへんな努力をしなくてはならず、これではとてもではないけれど練習になりません。
練習になるかどうかもあるけれど、あまりにペタペタスコーンのタッチでは、弾いて楽しくもないのです。

だいたいどのアップライトも似たりよったりで、ほとんど電子ピアノ並みに軽いキーになっているのは、市場の要求からそうなっているのか、あるいは腰のないペタペタなタッチじゃやっぱりダメだと思わせて、グランドへの買い替えに結びつけようとしているのか、ついあれこれ裏事情などを想像してしまいます。

誤解なきよう言っておけば、マロニエ君はむろんグランドのほうが好きですが、うるさい御方がいうほどアップライトがダメだとも思いません。
音など、ものによっては変なペラペラのグランドより深いものがあったり、低音なども堂々としたところがあったりする場合もあり、国内産でもいいアップライトはダメなグランドを凌ぐ場合もゼロではないとも思います。

これで、コンクールを受けたり音大受験したりということも別に不可能なことではないと思うのですが、ただそのためにはキーの重さはグランドを弾いた時にあまり違和感のない程度のものである必要はあると思うわけです。

たしかにグランドだから可能な連打とか幅広い表現力もあるし、ウナコルダ(左ペダル)の練習はできなかったりしますが、それよりなにより、キーにある一定の重さや抵抗感がなくては、日々の練習で指の筋力は鍛えられません。
ペタペタのキーばかり弾いてきた指では、グランドで太い豊かな響きを作り出すことは、すぐには不可能でしょう。

現代はグランドでも軽く軽くという傾向みたいで、多くの初級者は電子ピアノだったりするのでしょうけど、そのせいなのか、若くして出てくるピアニストたちはみんな素晴らしくうまいけれど、タッチの逞しさ、ひいては音楽の力強さという点ではずいぶん頼りない感じがします。
ピアノを習いたての時期にペラペラタッチですごしてしまうと、あとでどれだけ素晴らしいグランドに触れても、幼年期の経験というものは潜在的に引きずるような気がします。
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