むしろ実務派

ネットでCDを注文しても、どうかすると入荷待ち状態が果てしなく続き、そのうち注文したことすら忘れてしまうことが少なくないのは以前に書いたような気がします。

ときおり、お店から「キャンセルする」か「購入希望を継続する」かというメールが来ることで、ああそうだったと思い出すような始末です。そんな中でも、たぶん4ヶ月ぐらい待たされ、メールに返信するたびさすがにもう無理だろうと諦めかけていたら「発送しました」という連絡がきて、その翌々日に届いたのがヴァインベルグのピアノ作品全集でした。

ヴァインベルグは最近になって交響曲などが一般に知られるようになった(ポーランド出身ロシアの)作曲家。ショスタコーヴィッチとも交友関係あったというだけあって、いくつか聴いてみたオーケストラ作品ではかなりショスタコーヴィッチに似通った作風が感じられました。
ピアノ作品はむろん耳にしたことがなく、どんなものかと興味本位で買ってみることにしたものが、これが大変なお待たせをくらうことになったわけです。

届いたCDは4枚組、主に第6番まであるソナタが中心で、あとはさまざまな小品でした。演奏はアリソン・ブリュースター・フランゼッティというアメリカの女性ピアニスト。

とりあえず1枚目を聴いてみましたが、未知の曲に接する面白さはそれなりにあるものの、とくに何か特別なものが訴えかけてくるというほどのでもなく、とりあえずひと通り聴いてみただけで結構時間もかかりました。

音を出す前にブックレットを見てみると、このピアニストがファツィオリを演奏している写真がいきなり目に飛び込んで、データを見るとなんとF308で演奏しているらしいことがわかりました。「あー…」と思いましたが、これはこれで面白いかもと思いながら再生ボタンを押しました。
ソナタ第1番の開始早々、ファツィオリらしい(というかだいぶこのピアノの音に耳が慣れてきたような…)平明でアタック音の強い硬質な音が聞こえてきました。はじめはフムフムと思って聴いていましたが、曲のほうにも興味があるため始終ピアノの音ばかりに耳を傾けているわけにもいきませんが、ときどき思い出したようにピアノにも意識が行くものです。

たしかにファツィオリには違いないけれど、このところかなり聴いたF278とはやや異なるものがあること開始早々からわかりました。全般的には同一のDNAをもつピアノですが、F308のほうがキャラクターがやや穏やかで、その点ではF278のほうがずいぶん攻めてくるピアノだなあと思います。

以前、トリフォノフのショパンで、この両器を弾き分けているデッカのCDがあり、F278のほうが鳴るように感じたのですが、これは霞のかかったようなライブ録音であったのに対して、今回のヴァインベルグは録音がとてもクリアで、目の前にピアノがあるような感覚で隅々まで詳しく聴くことができ、おかげでファツィオリにより近づけたように思えました。
それによればF308はいくぶん発音が柔らかいためか、相対的にF278のほうがいかにも元気よさげで、パワフルに聞こえるのだろうとも思いました。

一般的にも、大型のピアノより、小型のグランドのほうがある意味でレスポンスが良く、バンバン鳴るような印象を受ける場合がありますが、これと同じことなのかもしれません。とくに印象的だったのは、低音は電流のような迫力があることで、このあたりは3mを超える巨大ピアノの面目躍如といったところでしょうか。

ただ、やはりこのF308でもパワー重視というか、音色そのものの美しさというのは二の次なのか、聴いたあとに残る印象はやはりこれまでのファツィオリと大きな変化はありません。まるで獰猛なパワーでライバルを挑発してくるランボルギーニみたいなピアノだと思います。

鮮明な録音による4枚のCDを通して聴いても、ファツィオリのこれぞというトーンや色合いは依然掴めぬままでしたが、もしかすると、敢えて個性や色合いを排除することで、よりニュートラルというか普遍性の高い現代的なピアノの音を目指しているのかもと深読みさえしてしまいます。

何かを探そう探そうとしてファツィオリを聴いたあとでは、おなじみの老舗メーカーのピアノ達はもちろん、カワイのSK-EXなどでも特徴的なトーンのあることがスッとわかるようで、これってなんだろうと思います。

もちろんすべてのステージや録音がスタインウェイ一色となるような状態にはまったく不賛成で、ファツィオリのような新興メーカーのピアノが最前線に躍り出てくることはひじょうに刺激的で面白いし、またそうでなくては他社もほんとうの意味で切磋琢磨はできませんから、ファツィオリの登場というのは意義深いものだったと思います。

ただ個人的には、ほかならぬイタリアの楽器なのですから、もっと濃厚な音色や官能を撒き散らすような特性があったらもっと楽しめただろうにと思います。すくなくともあのスマートなロゴマークや、金のラインの入った足、ボディ内側の木目などに見るイタリア式贅沢のイメージとは裏腹の、むしろパワー指向の実務派ピアノだとすれば、すんなり納得できる気がします。
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アメリカン

BSで、クリーヴランド管弦楽団のブラームス演奏会というのがありました。
指揮は音楽監督のフランツ・ウェルザー・メスト、ピアノはイェフム・ブロンフマン。

間にハイドンの主題による変奏曲と悲劇的序曲などを挟み、前後にピアノ協奏曲第1番と第2番を配するという驚くべきプログラムで、アメリカではこんなすごいプログラムをやるのかと思っていたら、数回に分散していた曲目を放送用に合わせたもののようでした。どうりで…と納得。

クリーヴランド、メスト、ブロンフマンとくれば、たしかに世界の一流プレイヤーなのでしょうが、なんとなく自分の趣味ではない気配で普段ならあまり近づかないところです。が、なにせブラームスのコンチェルトとあっては、つい誘惑に航しきれず見てしまうことに。

個人的にどうしても期待してしまうピアノ協奏曲第1番は、出だしからやはりというべきか好みではなく、ブロンフマンのピアノも面白みがまったくといっていいほどありません。
この一曲を聴いて、すっかり疲れてしまい、続きを聴く気も失せて、ひとまずその夜はここまで。

体質的か、感覚的か、アメリカのオーケストラがあまり好みではないマロニエ君にとって、クリーヴランド管弦楽団といえば長年ジョージ・セルが振っていたことぐらいで、何かを語れるほどよくは知りません。そういえば、内田光子の2度目のモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズもクリーヴランドで、これがかなり高く評価されているようですが、マロニエ君はまったくそうは思えず、断固としてテイト指揮イギリス室内管弦楽団との初回全集を評価しています。

クリーヴランドはアメリカのオーケストラとしては「精緻なアンサンブル」で「最もヨーロッパ的」なんだそうですが、ふ~んという感じで、たとえばアメリカにあるヨーロッパ調の壮麗な建築のようで、それっぽいけど何かが違うという印象。

数日後、続きをどうするか、迷ったあげくとりあえず間を飛ばしてピアノ協奏曲第2番を見てみましたが、こちらのほうが第1番に比較すると格段に良かったのは意外でした。迷いが多く消極的だった第1番に対して、第2番ではカラッと晴れ上がったように爽快な演奏となり、ずっと弾きなれた感じもあり、少なくとも大してストレスもなく聴き進むことができました。

ブロンフマンというピアニストには以前からあまり興味が無いので、彼のレパートリーはどんなものかも知りませんが、少なくともブラームスの2つの協奏曲では、ずいぶん仕上がりに差があったという印象でした。
守りに徹した第1番とは対象的に、第2番ではピアノが前に出ていこうとする活力があり、それなりのノリの良さもあって、前回途中でやめて消去してしまわないでよかったと、とりあえず思いました。

ウェルザー・メストも有名なわりにどんな音楽を作るのかよく知らないままでしたが(むかし小泉首相に似ているなあと思ったぐらい)、この演奏を聴いた限りではオーストリアの音楽家とはイメージが結びつきません。音楽を紡ぎ出すというより、仕事でやっているという感じを受けてしまいます。

ブロンフマンは大曲をこなすスタミナはあるようですが、この人なりの表現というよりは規則通りの流暢な演奏処理をするだけという印象。演奏者の感性に触れるような面白味が感じられず、どこが聴きどころなんだかよくわかりません。思い起こせばディビッド・ジンマンの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を入れたCDがありましたが、あれもただサラサラと弾かれていくだけで、せっかく買ったのにほとんど聴かずに終わりました。

オーケストラ、メスト、ブロンフマン、いずれも一流プレイヤーとして認められ、おそらく現在のアメリカで望みうる最高の組み合わせのうちのひとつだろうと思うと、それにしてはなにか心に残るものが感じられなかったのは残念でした。

ついでに言ってしまえばクリーヴランド管弦楽団の本拠地であるセヴェランス・ホールも、かなり大掛かりな改修を受けたのだそうで、ステージ側面から背後にかけての意匠など、わざとらしく遠近法を使ったオペラかバレエの舞台装置みたいで、あんな甘ったるい華美な装いはアメリカのセレヴ趣味を連想させられるだけで、マロニエ君はクラシック音楽のステージとしてはあまり好みではありません。

オペラで思い出しましたが、巨漢のブロンフマンはピアニストというよりどこかオペラ歌手のようでもあり、とくに最近少しお歳を召した感じが、まるでトスカを恐怖と絶望のどん底に落としいれるスカルピア男爵のようでした。
ま、そんなことは余談としても、アメリカのコンサートというのは、なんとなく雰囲気が違うなあという気がしないでもありません。実情は知りませんが、画面から受けた印象では、なんとなくその地域のお金持ちや名士の集まり的な感じというか、日本などのほうがよほど音楽そのものをサラリと聴きに来ているような空気があるようにも感じました。

ピアノはかなり新しいハンブルク・スタインウェイで、いわゆる今どきのこのピアノでした。
むかしはアメリカのステージではアメリカ製のスタインウェイが当たり前で、ハンブルクを使うことは滅多なことではなかったものですが、近ごろはカーネギー・ホールのステージでさえ普通の感じでハンブルクが使われていたりするところをみると、なにかこの会社の事情があるのかと勘ぐりたくなってしまいます。
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BARENBOIM-2

現代に生まれた並行弦によるコンサートピアノ、BARENBOIM-MAENEの写真をためつすがめつ観察した感想など。

ベースはスタインウェイDでも、ディテールはずいぶんとあちこち変えられており、簡素な仕立ての椀木や譜面台の形はヤマハのCFX風でもあり、足に至ってはCFXそのままのようにも見えました。ただ、いかにも日本人体型のようなドテッとしたCFXに比べると、元がスタインウェイの細身なプロポーションであるだけ、ずいぶん軽快な印象ですね。

バレンボイムの主張としては、このピアノは音がブレンドされておらず、それは演奏者に委ねられているというような意味のことを言っているようです。現代のピアノの音が化学調味料で作られたコンビニスイーツみたいな表面だけの音になってしまい、ピアニストの感性や技量によって音色が作られていくという余地がかなり失われていることはマロニエ君もかねがね感じていたことです。

演奏者が音色や響きのバランスに対して、創造的な感性や意識を発揮させるということは、いうまでもなく演奏行為の本質にあたる部分だと思われますが、それを必要としない、もしくは受け付けない、無機質な美音だけでお茶を濁す現代のピアノ。そこに危機を感じるのは至極当然というか、彼の意図するところはおおいに共感を覚えるところです。

以前、フランスの有名なピアノ設計者であり、ピアノ制作も手がけているステファン・パウレロのホームページを見ていると、コンサートグランドと中型グランドという2つのサイズのほかに、交差弦と平行弦のふたつの仕様(それぞれボディのサイズも違う)があり、計4タイプが存在することに驚いたものでした。

クリス・マーネのホームページでは「BARENBOIM」ピアノのいくつかの写真も公開されていますが、リムの基本形はスタインウェイであるものの、裏側の支柱などもフレーム同様に並行となっていて、ここまでくるとほとんど別のピアノだと思います。
車の世界では同じプラットフォームを共有しながら、まったく別の車を作ることは近年よくあることですが、ついにピアノにもそんな考え方が到来したかのようです。
おやと思ったのは、スタインウェイの特徴のひとつであるサウンドベルがしっかり残っているところで、このパーツにはボディへの響かせ効果として(諸説あって、確かなことはいまだに知りませんが)、残しておくべき理由が、平行弦ピアノにおいてもあったのだと推察されます。

また響板の木目も、通常の斜め方向ではなく、弦と平行(すなわち前後)に揃えられており、駒も低音と中音以上のふたつの駒がそれぞれ独立して配されているのも特徴のようです。独立といえば、並行弦ピアノなのに駒とヒッチピンの間にアリコートが存在し、それがスタインウェイとは違って独立式になっているのもへぇぇという感じです。

また、フレームと弦の間に配されるフェルトが深みのある紫色となっており、これがフレームの節度ある淡い金色と相俟ってなかなかに美しく、リムの内側も古典的な明るい色に細いラインが水平に二本入るなど、どことなく高貴な印象さえありました。

鍵盤蓋には「BARENBOIM」、フレームには「CHRIS MAENE」と互いの名誉を尊重し合うように表記され、二者の合作であることが伺われます。
鍵盤蓋に埋め込まれるロゴはそのピアノのシンボル的なものなので、そこは知名度も高い世界的巨匠の顔を立て、フレーム上のエンボス加工では技術的貢献者であるマーネの名が記されているのだろう…と、そんな風にマロニエ君は解釈しました。
また、STEINWAYの文字が一切ないところをみると、むしろそれがメーカーのプライドであったのかもしれません。

このピアノ、完全なワンオフと思いきや、ここまで本格的な作りに徹したということは、そうではない可能性もあるような気がします。相当な額に達するであろう開発製造費なども、より数を作ったほうが1台あたりの価格が安くなるでしょうし。

マーネのHPから得た写真では、このピアノの並行弦用フレームが2つ重ねて代車で運ばれるショットがあり、やはり数台作られるようにも見えますが、どうせ鋳型を作ったのだから出来の良い物を選ぶために複数作ったということもあるかもしれません。
尤も、今時の正確な作りのフレームが、個体によって優劣や個性があるのかどうか、さらにはそれほど豪快に金に糸目をつけないやり方が可能かどうか…そのあたりはわかりませんが。

いずれにしろ、ここまでして出来上がった自分の名前を冠したピアノですから、さしものバレンボイムもじばらくはこれを使わないわけにはいかないでしょうね。
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BARENBOIM

ホームページを見ていただいただけで、これまで一度もコンタクトを取ったことのないピアノ店から、グランドピアノのタッチを調整するための面白い製品がある旨のお知らせを頂きました。
遠方ゆえ、その店に購入や取付を依頼することはないでしょうから、ただ純粋に教えてくださったというわけで、ご親切には心より感謝するばかりです。

「タッチレール」という名のアイテムは、鍵盤蓋のすぐ向こうにある「鍵盤押えレール」を外してそこへ装着するだけというもの。ピアノ本体にはなんの加工も必要とせず、すぐにオリジナルに戻せるというなかなかの優れもののようです。

それついては、もし購入・装着すればいずれご報告するとして、そこのお店のブログなどを奨められるままに見せていただいたところ、驚くべき情報を発見しました。


さきごろ、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムが、なんと自らの名を冠した新しいピアノを発表したとのこと。

大屋根のカーブ、支え棒、3ヶ所の蝶番の形状と位置などから、スタインウェイDに酷似していると思ったら、やはりそれがベースのようですが、このピアノで最も注目すべきは、単なるスタインウェイのカスタマイズといったありふれたものではなく、驚くなかれ中は並行弦!!となっている点です。

現代のモダンピアノが交差弦であることはもはや常識で、当然ながらあの見慣れたスタインウェイのフレームとはまったくの別物がボディ内部に鎮座しています。スタインウェイDのリム(外枠)の寸法に合わせて新造されたもののようで、加えて、弦はディアパソンやベーゼンドルファーで有名な一本張仕様。

バレンボイムがナポリかどこかで昔の並行弦のピアノを弾いたことがきっかけで、スタインウェイにこのアイデアを持ち込んだところ、クリス・マーネという古今のピアノに精通した特別な技術者を紹介され、その工房とスタインウェイ社の協力のもとに作られたピアノのようです。

クリス・マーネは調べたところ、とても個人の技術者という枠で収まりきる人物ではないようで、その工房たるや、立派なピアノ製造会社の工場のようで、広大な工房内にはピアノのためのあらゆる設備が整っており、これだけでも圧巻です。
マーネ氏は現代のピアノは言うに及ばず、チェンバロからフォルテピアノなど、あらゆる種類の鍵盤楽器に精通し、制作や修復などにも大変な手腕を発揮しているようで、スタインウェイ社もここに託すのが最良と判断したのでしょう。

ホームページではその製造過程の様子が写真で見ることができますが、まさにメーカーレベルの仕事のような大規模で整然としたものであるところは、ただもう唖然とするばかりで、ピアノのためのこういう会社が存在しているというところひとつみても、やっぱりヨーロッパはすごいなぁ!というのが実感でした。

このピアノは今年の5月にロンドンで発表され、BBCなどで映像も公開されているようです。

発表の場では、バレンボイムがシューベルトのソナタなどを軽く弾いていましたが、わずかな音の手がかりから感じたことは、純度の高い、真っ直ぐで、簡素で、繊細な感じの音。それでいて現代のピアノらしい豊かさと、スッと減衰しない伸びの良さを兼ね備えているようでした。
さらにはスタインウェイにくらべて音の立ち上がりがいいように感じました。
この点、もともとスタインウェイは、どちらかというとやや音が遅れて出てくるようなところがあるので、それが普通になっただけかもしれませんが。
彼はこれからしばらく、このピアノであれこれのコンサートを行うそうですから、そのうちCD化などもされるものと思います。

スタインウェイも昔のような大上段に構えた商売はやりにくくなっている筈ですから、今後はこういう目的に特化したカスタムピアノの制作にも協力姿勢をとっていくのかもしれませんね。
もし成功すれば、第二のシリーズとして、ラインナップされることもあるんだろうか?などと想像が膨らみます。

それにしても鍵盤蓋の中央には金色で「BARENBOIM」の文字が輝き、それをちっとも臆しないところは、やはり世界の巨匠といわれる人の感性は違うんだなあと感心しました。

知り合いの某調律師さんは、シゲルカワイをして「いくら会社の社長とはいえ、そのフルネームをそのままピアノのシリーズ名にするっていうのは、そのセンスが驚くなぁ!」と苦笑していらっしゃいましたが、その流れで言えば、バレンボイム氏はピアノメーカーの社長でもなければ開発技術者でもなく、偉大とはいっても演奏側に立つピアニスト/指揮者なのですから、さすがにそのネーミングにはいささか驚いたのも事実です。

ま、ネーミングの件はともかくとして、早くこのピアノの音をじっくり聴いてみたいものです。
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巨匠と若手

N響定期公演から、フェドセーエフの指揮によるロシアプログラムというのがNHK音楽館で放映され、ラフマニノフのヴォカリーズとピアノ協奏曲第2番、リムスキー=コルサコフのシエラザードが演奏されました。

始めに演奏されたヴォカリーズから、やや遅めのテンポが感じられ、ピアノ協奏曲になってもその印象は続きました。フェドセーエフも82歳だそうですから、やはり歳とともにテンポは遅くなるのだろうかと思います。
カラヤンもベームも、ルビンシュタインもアラウもそうであったように、晩年はテンポを落としたくなるものかもしれません。

ピアノはアンナ・ヴィニツカヤで、CDでは聴いていたものの、映像を見るのは初めてでした。
手許にあるCDは難曲で知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番で、なかなかスタミナ感のある演奏だったこともあり、こういうロシア系のヘビーな作品を得意とするピアニストだろうという予測をしてしまいます。

曲の冒頭、凄まじくクレッシェンドしていく和音とオクターブによって幕が上がると、息つく間もなく、うねる波のように無数のアルペジョが押し寄せますが、情熱的に前進しようとするヴィニツカヤに対し、フェドセーエフは雄渾で恰幅の良い第1主題を描こうとしているようで、すでにこの時点からピアノとオーケストラは噛み合わず、しばしば行き違いが生まれました。

直接のテンポもさることながら、各所でのアーティキュレーションや呼吸感など、求める演奏の方向性の違いがあり、それが和解できないまま本番を迎えたという感じでしょうか。

フェドセーエフにすればソリストは同じロシア人、しかも孫のような歳の女性となれば遠慮なく自分が手綱を握り、それに異議なくついて来るはずというところだったのかもしれません。
少なくともソリストの意向を汲み取って尊重しようという気配は感じられませんでした。

30代前半のヴィニツカヤは、この名曲をロマンティックかつ情熱的に追い込んでいこうとするものの、フェドセーエフもN響も、まるでそんな彼女の意向を無視しているかのようで、なんとはなしにピアノが空転気味というか、どこか気の毒な感じにも見えました。

ヴィニツカヤはある意味で少し前のロシアスタイルというか、その美貌とほっそりした体型からは想像できないほどの豪腕ぶりで、すべての音をがっちり掴んで、力強く積み上げていくタイプのピアニストで、ラフマニノフの2番みたいな作品は結局こういう演奏が合っているようにも思えます。

マロニエ君の好みとは少し違いますが、これはこれで楽しめますし、実際の演奏会では、聴衆をそれなりに満足させることのできる人なんだろうと思いました。
むしろこんな曲を、中途半端に知的処理されて消化不良にさせられるよりは、よほど素直で好感がもてるというものでしょう。

そういう意味では、もうすこし彼女の意を汲んだ指揮であったなら、もっと充実したドラマティックな演奏になっていただろうと思われる反面、終始噛み合わないオーケストラに追従して、あれだけの難曲を弾いていくのは、気分が乗っていけないのに一定のテンションを保つのはさぞ大変だろうと、いささか同情的になりました。

そのせいかどうかはわかりませんが、第3楽章の佳境の部分でゾッとするような、あやうく事故に近いようなことが一瞬起こり、きわどいところで回避されたものの、思わず心臓が凍りつきそうになりました。
ピアノが出るべきところで出ずに空白が生じ、一瞬の間を置いてなんとか出たという、いわば重大インシデントといったところでしょうか。
やはりどんな腕達者であっても、ステージというのは何が起きるかわからないものですね。
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ベーゼンドルファーの美

ネットでCDを注文する際は、本当に欲しいものがメインになるのは当然としても、せっかくなので「ついでにこれも」というようなものも一緒に購入することがよくあるものです。

『RUSSIAN PIANO RARITIES』という3枚組もそんな「ついで買い」のひとつで、輸入盤で、もう忘れましたがたぶん値段もずいぶん安かったと思います。ロシアの珍しいピアノ曲集というような意味かと思っていますが、確かなことはよくわかりません。

メトネル、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフという4人の作曲家によるソロ、もしくは2台ピアノのための作品などがごった煮のように入っており、ピアニストもいかにも二軍選手といった人たちが4人、ごく普通のしっかりした演奏という感じで、普通に曲を聴くにはちょうどいい塩梅といえなくもありません。

こういう掻き集め的なCDで面白いのは、演奏者、録音年月、使用ピアノがバラバラな点でしょうか。
ただし、どれもが新しい録音なので、極端に雰囲気の異なる音源が隣り合わせというような不都合はなく、録音も場所もちがう割には比較的違和感なくまとまっており、たまにはこういうCDも悪くはないなあというところでしょうか。

とくに思いがけなかったのは、ピアノの違いを楽しむことができる点でした。
使用ピアノなどの記載はないものの、多くがスタインウェイであることは音からも明白ですが、ラフマニノフに関してだけは2台ピアノもソロも、録音場所がベーゼンドルファー・ザールとなっており、そこに聴くピアノはまぎれもなくベーゼンドルファーであることは曲目からして非常に意外でした。

さらに意外だったのは、それがなかなかいい音だったのです。
このところの音質低下はベーゼンドルファーにまで及んだのか、このブランドにふさわしい音を聴くチャンスが少なくなったと感じていたところ、このCDで聴くそれは、ハッとするほど美しいものでした。
艶やかで柔らかいのにみずみずしい音で、ひさびさにこのメーカーのいい部分を堪能できた気がして、これはまさに思いがけない収穫でした。

しかも弾かれているのはラフマニノフですから、本来ならどう考えてもマッチングの良い取り合わせではない筈ですが、ほんとうに美しい音で鳴っているピアノというのは、それだけでもじゅうぶん魅力的で、作品との相性なんてそれほど気にならないのは実に不思議でした。

艶やかな弦楽器のような濁りのない音で、美しいものは理屈抜きに美しいということ、それを聴くことの驚きと喜びにストレートにわくわくさせられました。
こういう素晴らしい音があるかと思うと、インペリアルで録音されたCDなどには期待はずれなものが少なくないし、コンサートなどでもまったく納得しかねるような、どこか間延びした、不健康な感じの楽器があるのも率直な印象です。

最近で印象に残っているのは、アンドラーシュ・シフが東京オペラシティーで行ったメンデルスゾーンやシューマンによるリサイタルで、シフほどの名人の手にかかってもピアノの反応がいまいちで、引きこもったような不鮮明な音を出すばかりでした。
会場とピアニストはいずれも一流であることから、楽器も管理も悪かろうはずもないし、第一級の技術者がおられるに違いなく、それだけに近年のベーゼンドルファーとはこんなものかと思わざるをえませんでした。

マロニエ君はベーゼンドルファーのことは、あまり知りませんし、弾いた経験も多くはありません。
まろやかな音色のピアノがあるかと思うと、かなりエッジの立った際どい音であったりと、どれが「らしい」のかよくわかりませんが、共通して感じるのは、音量が比較的小さく、サロン的な音色の質や調子から、自ずと作品も選ぶピアノといったところでしょうか。

イメージとしては弱音域の美しさが際立っていることと、整音が非常にデリケートであるのか、スイートスポットが非常に狭いのか、好ましいコンディションを作り出し、維持するのが容易ではないのでは?というもの。
メリハリがないほど音が柔らかいかと思うと、少しでも硬すぎればチャンチャンしたやや下品な音になり、マロニエ君はいずれの音も好みませんが、ツボにはまった時のベーゼンドルファーの美音は、まるで熟れきった果実から極上の果汁がしたたり落ちるようで、なまめかしい純度の高い美音が撒き散らされ、聴く者を圧倒してしまうものがあるのも事実でしょう。

マロニエ君はアルコールはてんでダメで、ワインの良否などまるでわかりませんが、この道にうるさい人が最高級だ年代物だと興奮するのは、きっとこんな豊饒な音のようななものだろうか…などと想像を巡らせてしまいます。

残念な点は、そういう麗しい音のピアノが非常に少ないと感じる点でしょうか。
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アンデルジェフスキ

今年からN響の首席指揮者にパーヴォ・ヤルヴィが就任したのは驚くべきニュースでした。
あんな売れっ子をよくぞ連れてこられたものだと思いますが、お陰で、ひさびさにN響に喝が入ったように感じました。

たしかデビューコンサートのプログラムだったと思いますが、マーラーの巨人を振るのを聴いて、へーぇ…と思ってしまいました。
ブロムシュテットでも、デュトワでも、アシュケナージでも、ノリントンでも、与えられた仕事をそつなくこなすよう淡々と弾いていたN響。唯一、珍しく本気になっていると感じたのは、昨年だったか一昨年だったか、ザルツブルク音楽祭に出演したときだったけれど、日本に戻ると同時にパッションも元に戻ってしまったようでした。

そんなN響が、ヤルヴィを前にするとさすがに気持ちが引き締まるのか、あきらかにこれまでにない熱気のようなものが漂っているのが感じられ、これは面白いことになったと思いました。

すでにN響とのコンサートも異なるプログラムで数回おこなわれたようで、先日はR.シュトラウスとモーツァルトが放映されました。冒頭の「ドン・ファン」は見事な演奏で、サントリーホールのステージからこぼれ落ちんばかりのフルオーケストラから繰り出される豪華な響きと精緻なアンサンブルによって、この熱気に満ちた交響詩を演じきりました。

後半はメインである「英雄の生涯」が待ち受けますが、その谷間におかれたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第25番でした。演奏前の説明にもあった通りモーツァルトの作品中、最もシンフォニックなピアノ協奏曲で、傑作第24番の悲劇的なハ短調と表裏をなすように、ハ長調の盛大なトゥッティで始まるあたりは、いかにもモーツァルトらしい変わり身で、悲しみに打ち沈んだあとはパッと明るく切り替える、対照的な同主調といえるかもしれません。

ソリストはピョートル・アンデルジェフスキで、マロニエ君はこの人のCDは何枚か持っているものの、巷ではそれなりに高い評価を受けているようではあるけれど、個人的には彼の演奏の目指すところがよくわからないまま理解が進みません。
モーツァルトの協奏曲は何枚かリリースされているようですが、シマノフスキやシューマン、カーネギーのライブなどのCDを聴く限りでは、この人のモーツァルトを聴いてみたいという意欲がわかず、手許にはまだ一枚もなしです。その意味でも、初めて彼のモーツァルトを聴けるという点でも楽しみと言うか…ともかく興味津々ではあったわけです。

しかし、危惧したとおり、何をどうしたいのか、まったくその表現意図がマロニエ君にはわかりかねる演奏でした。やはりこうなんだなぁ…という、当たり前のような印象。

この人は通り一遍のピアノを弾くことを良しとせず、いわば演奏を標準語で語らないのがこだわりなのか、一言でいえばやりたいようにやるのが彼の流儀のようです。その異色なスタンスからアンデルジェフスキこそはピアニストという枠を超えた真の表現者であり芸術家であるというふうに書かれた文章もいくつか読んだこともありますが、正直、聴こえてくる演奏に納得がいかず、マロニエ君には彼の演奏の真価がさっぱりわかりません。
この日の演奏を聴いて、その疑問は疑問のまま上書きれて終わりました。

だいいちに重くて鈍いです、モーツァルトには、あまりにも。
テンポも安定感を欠き、アーティキュレーションもデュナーミクもまったく予測もつかなければ、あとで腑に落ちてくることもなく、全編を通じて不明瞭感みたいなものがつきまとい、ほんとうにこれがこの人の本心なんだろうかと思いました。

音楽というものはいまさらいうまでもありませんが、自分とは感性や好みが違っていても、その人なりの音楽が言語となって語られ、収支のバランスがとれていて、一定の完成度があるものなら、それはそれでじゅうぶんに楽しめるものです。
べつにモーツァルトはこうあらねばならないというお堅いことをいう気はないし、いいものはどう型破りであってもいいと思うのですが、ロマン派ともなんともつかない恣意的な弾き方をすると音楽の型が崩れてしまい、聴いていてまったく乗っていけません。
自己流でも型破りでも、最終的になにかに支えられ、どこかに発見があり、けっきょく帳尻があっていなければ、それは個性だとは言えないような気がします。

ピアノの入りなども遅れが目立つところが散見され、わけてもモーツァルトの掛け合いにおいては、ひと息の遅れがその楽句の鮮度を残酷なほど落とし、意味や輝きが失われてしまいます。また、いわゆるミスタッチとは言えない音の飛びやつまづきが多々あったのも、彼の名声にはそぐわないたぐいのものだったことは意外でした。

どうも顔色もよくないようで体調でも悪いのか、はたまた御酒でも召されてステージにお出ましだろうかと思ってしまうような、何か訳ありのような気配が漂っていて、なんとなく気持ちのよいものではありませんでした。
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ファツィオリ検証

以前、アンドレア・パケッティの弾くゴルトベルク変奏曲のCDの感想から端を発して、ファツィオリのことにも触れたところでしたが、その後、BSクラシック俱楽部でボリス・ギルトブルグという若手ピアニストの来日公演の様子が放映され、会場であるトッパンホールのステージに置かれていたのはファツィオリのF278でした。

ついひと月ほど前に、CDから聴こえてくるファツィオリの音についてあれこれ書いたばかりなので、そこに綴ったものが時間をおき、音源を変えてみて正しかったかどうか、あるいは何かが修正されてくるか、その点を(自分なりに)検証する意味もあって、意識的にこのピアノの音に耳を傾けました。ピアノ、ピアニスト、会場、曲目、録音が異なれば、受ける印象にも多少の変化がある可能性は大きいのでは…というわけです。

曲目はグバイドゥリーナのシャコンヌ、ラフマニノフの楽興の時第1番と第3番、プロコフィエフのソナタ第2番。
グバイドゥリーナのシャコンヌはよく知らない曲だったため、主に作品自体を楽しんだものの、ラフマニノフ以降はピアノにも注意を向けてみました。

果たしてそれは、パケッティのゴルトベルクで聴こえたものと、つまらないぐらい同じ印象でした。
自分の書いた感想に対する検証という意味では少し安堵の気持ちも覚えはしましたが、やはりファツィオリほどの最高級にランクされるピアノですから、なにか印象が好転するような要因があればと期待していたのですが、とくにそれらしい要因は見当たりませんでした。

ラフマニノフの楽興の時第1番などはゆったりした曲調であるぶん、落ち着いて音を聴くことができるのですが、やはりその音には奥行きというか、濃淡や立体感みたいなものが感じられません。
緩徐部分でも響きが固く、表現が難しいところですが、曲線的な歌唱の要素がなく、むしろメカメカしい感じばかりが耳についてくるように感じました。
演奏という入力に対してのレスポンスはたしかによさそうで、低音などまるで筋肉が隆起するようです。この点で弾く人には刺激的なのかもしれませんが、楽器に人格のようなものを感じたり、そのピアノなりの声や響きの構成にわくわくさせられるようなものはやはり感じませんでした。

楽器の音には「抜ける」という要素があるのかどうか専門的なことはしりませんが、神経に何かが溜まっていくのか、しだいに息苦しい感じのするところが気にかかります。もしかすると無機質でデジタルな時代感覚に合わせ、意図的に味わい深さやリリカルな要素を排した性格が与えられているのかもしれません。

ピアノの音に馥郁としたものや交響的なものを求めるとしたら、そういう性質のピアノではないのでしょう。それはこの日弾かれたロシア音楽、わけても遙かなる大地と哀愁の漂うラフマニノフにはまったく不向きという印象で、大きなロシア人が異国でアルファロメオにでも乗せられているようでした。

ファツィオリはスカルラッティのような鮮烈な花束みたいな作品には最良の面を発揮するのかもしれませんが、壮大さや憂いを内包する重厚な音楽には向いていないのかもしれません。

ピアニストのボリス・ギルトブルグは、初めて聞く人でしたが、ピアノを演奏するという行為をとても真摯に受け止めて、終始良心的な演奏に徹するタイプのようでした。
小柄な人でしたが、テクニックも見事で、プログラムに対する準備も怠りなく、まさに誠実な演奏家という印象を抱かせるに十分です。とくにその表現は繊細かつ大胆で、ロシア人ピアニストも時代のせいか、このようなデリケートな配慮の行き届いた表現ができるようになったということを痛感させられました。

リヒテルだギレリスだといっていた頃の、分厚くこってりした、力でねじ伏せるような演奏がロシアピアニズムだった時代を思い起こせば、この点でもずいぶんと近代化が進んでいることを思い知らされます。
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いずれが大切か

音楽性とテクニック、いずれが大切か。

これはピアノ演奏上の価値基準に対する、永遠のテーマかもしれません。
コンクールの功罪や在り方も、煎じ詰めればこのテーマに抵触するとき、あれこれの論争が巻き起こるといっていいのかもしれません。

どんなに腕達者であっても、そこに一定の音楽性が伴わなくては聴くに値しないという基本は揺らぐものではないけれども、先日のロマノフスキーの演奏は、技巧と音楽性(広義では芸術性)の関係についてあらためて考えさせられる契機にはなりました。

よほどの悪趣味であるとか、体育会系腕自慢は論外としても、やはり水際立ったテクニックというものは正しく用いられている限りは、それ自体もストレートな魅力であることを認めないわけにはいきません。

ここでいうテクニックというのは、厳密には「メカニック」との区別を厳格にすべきかもしれませんが、そんな言葉の微妙なところはどうでもいいというか、要はその言葉の微妙な意味の違い以前の根本的な問題のような気がします。

技巧VS音楽性、いずれを大事と見るかは譲れぬ意見があるようで、それぞれ言い分はわかります。マロニエ君の結論としては、少なくともステージに立って演奏するようなピアニストであれば、この二つはどちらが欠けてもダメだということです。

技巧を第一に考える人は、ピアノといえばまずは指の技術ありきであって、曲をまともに弾くこともできずに音楽性云々と言うのは詭弁であり、キレイ事にすぎないということでしょう。
たしかに豊かな音楽性も、繊細な感性も、悲喜こもごもの心的描写も、それらはすべて鍛えられた技巧を通してはじめて表出させられ音楽にのせて具現化することの出来るもので、それなくしては表現もなにもはじまらないという主張で、その点はマロニエ君もまったく同感です。

ただ、現実には、技巧が表現のための手段として、いわば表現の裏方に徹しているかというと、そうは思えないところも多々あることが問題です。
ピアニストであれ素人であれ、長年にわたり技巧の習得に邁進してきた人の中には、音楽性云々は建前で、本心では技術がすべてに優先するという人が大勢いるのは事実でしょう。技術こそが優劣の絶対尺度で、それをまるで偏差値のように捉えてしまうやり方です。

音楽的趣味や感性の重要性にはほとんど目を向けようとせず、そちらがまったく育っていない人(というかむしろ抜け落ちている)というのは音楽の世界では最も恥ずべきことのはずですが、高い技術さえあればとりあえず威張っていられるのがこの世界の現実で、それだけテクニックを持っていることはエライことなんでしょう。
そういう人達に限って、ショパコンとかプロコとかベトソナなどと疑いもなく口にするようにも思われ、これらは直接の関連はないはずですが、やっぱり何かはっきり説明できないところで繋がっているような気がするのです。

ピアニストの演奏スタイルも時代とともに変遷があり、二三十年前まではあからさまな技巧派タイプがいたものですが、近年は一捻り二捻りされて、ぱっと見は非常に精度の高い知的な演奏が主流で、そこへ自分の演奏表現(のようなもの)を織り交ぜて個性とするスタイルが主流のようです。しかし、ときに不自然なほどの「間」を取ってみたり、変なアクセントをつけたり、意味のないような内声を際立たせたり、極端なpppとfffの対比でコントラストをつけたりと、必ずしも聴き心地の良い音楽とはなっていないものを見かけるのも事実。
それもよくよく聞いていると、結局は自分の技術的都合にそった解釈めかしたものであったり、評価のための演奏であったりと、その企みが透けて見えてしまうと、たんなる個人的な野心を見せられているようで気分はシラケてしまいます。

そんな中、技巧の優れることが音楽性に勝るとは思いませんが、現実的に抜きん出た技巧を持っている人のほうが、精神的にも余裕があり、情緒面も落ち着いているのか、音楽もどちらかというとストレートであるのはひとつの特徴だと思います。

結局のところ、技術や才能に足りないものがある人ほど、小細工を散りばめてあれこれを企んだり辻褄合わせをする必要があるようで、正攻法でいけば、自分の欠点が忽ちバレてしまうという恐れがあるんでしょうね。
そういう意味でも、やはり余裕ある技巧はどうしても必要になることは否めないように思います。

ただし、これはあくまでもプロの話であって、アマチュアの場合は断じて音楽性が優先だと思います。
アマチュアの場合、多くは技巧といってもたかが知れています。所詮は人よりちょっと難易度の高い曲を弾けますよといった程度で、どっちにしろピアニストに敵うはずもなく、他人にとってはほとんど意味のないことです。

聴かせてもらうなら、小さな一曲でもいいから、きれいに弾いてもらったほうがよほど気持ちがいいですね。
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らららでピアノ

普段見る習慣のないNHKの「ららら♪クラシック」ですが、他の番組を録画する際に、たまたまこの番組も目についたので気まぐれにセットしてみたところ、通常の1曲解説ではなく、「楽器特集~ピアノ」がテーマで、思わずラッキー!という感じでした。

このテーマでは、ほとんどお約束ともいえる「ピアノという名前はなぜそう呼ばれるようになったか」というところから、300年前にピアノはイタリアのクリストフォリという人が云々というあたりまでは、はいはいという感じです。

意外だったのは、フランスの代表的な二人のピアノ製作者、エラールとプレイエルの名が出てくるところですが、この番組では、リストはエラールを好み、ショパンはプレイエルを好んだと、あまりにきっぱり色分けされていたことでした。
さらにリストはエラールの革新的な音や性能を高く評価したのに対して、ショパンがプレイエルを好んだのは、例のダブルエスケープメントの登場前の、シンプルな機構から生まれる音色にあった由で、マロニエ君はこれに反論するほどの材料は持ち合わせないので、いちおう「そうなんだ…」と思うことに。
ワルツ第1番のあの特徴的な連打を、古い機構のアクションで弾いていたということなのか…。

古典的なさまざまなピアノが出てきたものの、それらは映像ばかりで音はほとんど聴かせてくれなかったのはとても残念でした。
マロニエ君の注目を引いたのは、ある時期のプレイエルには第二響板というのがあって、開けられた大屋根の一部にそれは格納されており、必要時には留め具を外すと大屋根の内側に取り付けられた板が下に降りてくるようになっており、中音から下あたりの弦の上に覆いかぶさるようになります。

この状態でピアニストがショパンのバルカローレの一部を弾いていましたが、「第二響板をつけると、高音から中音、低音までバランスよく響くようになる」とのことで、音色はいうに及ばず、弾かれた音の余韻にこだわるプレイエルには、むかしこんなアイデアがあったのかと唸ってしまいました。

この第二響板なるものは、一見すると本来の響板から出る音にフタをしてしまうような印象もありますが、響板と呼ばれるからにはそれなりの木材が使われているのでしょうし、それによって絶妙のニュアンスが生まれるのだとすると、これはぜひ実物の音を聴いてみたいものだと思いました。
とっさに連想したのはバイロイトの祝祭劇場で、オーケストラピットがそっくり舞台下に隠されて、ここ以外ではあり得ない独特な音響を作り出すことで有名ですが、そんなものなんでしょうか。

たしかに現代は、楽器の性能や演奏技術、あるいは作品解釈においてはずいぶん研究が進んでいる(正しい方向か否かは別にして)ようですが、微妙な音色であるとか音響上のニュアンスというものについては、さほど意識が払われないよう気がします。
音楽あるいは演奏にとって、立ち現れてくる音のニュアンスというのはかなり重要なファクターだと思いますが、その点では現代ではくっきりはっきりブリリアントが首座を占めているようです。

後半には横山幸雄氏が登場し、ピアノの多様性を紹介するためか、ベートーヴェンの熱情、ショパンのノクターンop.9-2、リストのカンパネラをかなり割愛した形で連続して弾きました。が、どれもほとんど同じように聞こえてしまったのが正直なところで、えらく無感情な、まるで残業の仕事でも急いで片付けるように弾いてしまったのには、ちょっとびっくりでした。

ネットの動画では、どこかの音大での横山氏のレッスンの様子を見ることができますが、かなり細かい点までいちいち指示している当の本人が、このような弾けよがしな演奏をすることに、このレッスンの受講生やビデオを見た人はどんな感想を持つのだろうと思いました…。

ちなみに番組が進行するメインスタジオには、わりに新しめのスタインウェイDが置かれていて、横山氏もそこで話をしていましたが、演奏そのものは別のスタジオなのか、別のピアノ(30年近く前のスタインウェイD)が使われていました。
NHKの収録の都合でそうなったのか、横山氏の希望でこのピアノが使われたのか、そのあたりの事情は知る由もありませんが、いずれにしろ個人的にはスタインウェイではこの時期のピアノを好むため、つい期待したものの、そういうものを味わう余地もないまま、肉の薄いタッチでサササッと終わってしまったのは甚だ残念でした。

蛇足ながら、司会者の加羽沢美濃さんがスタジオに置かれたスタインウェイDを紹介する際、「このピアノはフル・コンサート・ピアノ、通称フルコンと呼ばれるもので、全長2m80cm、重量480kg…」と言い、併せて画面には文字でも数値が映し出されたのは、ん?と思いました。語尾に「ぐらい」がついていればまだしも、実際は274cmなのでいささか抵抗感がありました。

NHKのコント番組、LIFE風にいうと「これはちょっとまずいですね、NHKなんで!」というところでしょうか。
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ロマノフスキー

少し前の放送でしたが、Eテレのクラシック音楽館・N響定期公演で、アレクサンダー・ロマノフスキーが登場しました。この人はベートヴェンのディアベッリ変奏曲のCDを購入して以来、マロニエ君がそれなりに興味を持っていたピアニストのひとりでした。
とくに目立った個性というほどではないけれど、しっかり感があって、涼しい感じのする演奏だったことが印象的でした。

演奏したのはラフマニノフのパガニーニ狂詩曲。
もっているCDは一枚きりで、それなりに聴いていたものの、演奏する姿を見るのは初めてです。

いきなり驚いたのは演奏前のインタビューのシーンで、コメント自体は別に大したことは言っていませんでしたが、大きな手の持ち主らしく、カメラの前でピアノの鍵盤に手を広げて見せてくれました。
するとオクターブからさらに5度上(もしくは下)、つまりドからひとつ上のソまで12度!届くわけで、さらに余った指で和音をならしたりできるようでした。大変な偉丈夫でもあったラフマニノフは、手の大きいことでも有名だったようですが、きっとこんな具合だったのだろうかと思います。

ピアノの鍵盤はどれもほぼ同じなので、老若男女から子どもから、手指の大小長短さまざまな人達が同じフィールドで指を動かすことに奮励努力しているわけですが、ロマノフスキーの大きな手を見ると、これは天が与えた大変な武器であり、もうそれだけで手の小さな人は出だしから不利だということを思わずにはいられませんでした。

そんな大きな手の持ち主なら、どれほどの体格の持ち主かと思うところですが、それはごく普通のロシア人にすぎず、いわゆる長身痩躯という部類の優男タイプで、袖口から出ている手だけが、体に対してふたまわりほど大きいような印象でした。
グールドもそうでしたが、体つきに対して、手首から先がバランスを欠くほど大きな人というのは、それだけでピアノを弾くことを運命づけられた特別な人のように見えてしまいます。

実際の演奏は、音楽的に特筆大書するほどのものではないけれど、普通にすばらしい、充分満足のいくものでした。
それよりもしみじみ思ったことは、やはりステージに立つ人というのは、誤解を恐れずにいうなら、まずはテクニックだと思いました。

ロマノフスキーの演奏を視聴していると、技巧に余裕がある(もちろんその手の大きさも彼の余裕ある技巧を可能にしている要素のひとつであることは言うまでもない)ために、あわてず、無理せず、追い詰められず、常にいろいろな試みをしようという余裕があることが伝わってきます。
自然に前に進んで行けるため、呼吸や音楽的な潮の満引きが奏者の心身の波長と重なり合って、すっきりはかどり、聴いている方も安心して音楽の旅に身を任せることができ、無用な不快感やストレスを感じずに済みます。

技巧に余裕のない人は弾くだけで手一杯で、そこに付随すべき表現とかアーテキュレーションなども、事前にしっかり準備したものを無事に披露することだけに全エネルギーが傾注され、即興性とか意外性、問答の妙味みたいなものが立ち入る隙がありません。結果的に魅力のない感興に乏しい演奏に終始してしまうのは当然です。

その点でいうと、ロマノフスキーとてむろんしっかりと練習を積んでステージに出てきた筈ですが、実際の演奏行為としては一期一会の反応や表現をそのつど試みてやっていることが感じられます。音楽という、一瞬一瞬の時間の中で生まれるものに携わる者として、どう音を発生させ、重ねたり展開させたり解決させていくか、そこで生じるさまざまな反応を試しつつ、その醍醐味を聴衆にも提供しているようです。

つまり圧倒的なテクニックは、創造的な可能性を広げるものだということを痛感しました。

音楽は演奏される現場で生まれるもので、そのための周到な準備は必要ですが、その演奏のどこかに「どうなるかわからない」という部分を孕んでいないものにはマロニエ君は魅力を感じません。過日、ヒラリー・ハーンの演奏について書いたのは、あまりにそういう要素に乏しいということでした。

オーケストラや共演者がどうくるか、ソロでも、ひとつのテーゼをその瞬間どう出たかによって、あとにつながる部分は変わってくるわけで、それらひとつひとつが反応して変わってくることが音楽の魅力の根幹ではないかと思われます。

感心したのはそればかりではなく、ピアノというのはやはり演奏者の奏法と骨格がストレートに反映されるものだということで、ロマノフスキーのような西洋人としては普通の体型で、やや痩身、しかも手が大きいというのは、もっとも美しい音を出す条件ではなかろうかと思いました。日本人では岡田博美あたりでしょうか。

あまり体格そのものが良すぎると、どうしても腕力でピアノを制してしまい、そうなると音が潰れて意外にピアノは鳴りません。また小柄な人や多くの女性では骨格が弱いため、どうしても必死にピアノに食い下がっている感じがあって、これらもあまり朗々と鳴ることは少ないです。

その点でいうと、ロマノフスキーの音は、とくに激烈な音などは出さないけれど、いつどこを聴いても明晰で、常に輝きと張りが漲っており、聞くものの耳へ労せずして音が届いてくるのは感心させられました。

つくづく思うのは、趣味がよく、技巧がとくに優れた人というのは、音楽が素直で、演奏もいい意味でサッパリしているということです。もちろん中には際立った指の動きに任せてスポーツ的に弾き進む人もないではないですが、全体的には、やはり上手い人は演奏ももったいぶらず、楽々と進んでいくのが心地良いと感じます。

あちこちで変な間をとったり、大見得を切ってみたり、聞こえないようなppで注目を惹いたり、音楽全体の流れを停滞させてまで意味ありげな強調をしたりするのは、たいていはどうでもいいような、ないほうがいいような表現のための表現であることが多いものです。
それは意図して自分の個性づくりをしているなど、元をたどれば、つまりは技巧に対する弱さをなんとか別の要素でカバーしようとしているにすぎず、本当にうまい人というのは、自然に自信もあるからそんな小細工をする必要がないのだと思われます。

それにしてもロマノフスキーとは、ロマノフ王朝を思わせる、なんとも豪奢で印象的な名前ですね。
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ウォールナットのD

前回のキット・アームストロングのリサイタルについては、途中からブレンデルに話が及んでしまい、もうひとつ大事なことを忘れていました。

なによりも珍しかったのは、実はピアニストではなくピアノのほうでした。
この演奏会では、浜離宮朝日ホール所有の艶消しウォールナット仕上げによるハンブルク・スタインウェイのDが使われていたのです。ここにそのピアノがあることは薄々知っていましたが、その全容をつぶさに見たことも、音を聴いたこともなかったので、その意味では思いがけず念願が叶ったというところです。

放送された当日だったようですが、たまたま友人と電話でしゃべっていると「今朝のクラシック倶楽部は、浜離宮の木目のピアノだった」と教えられ、一も二もなく見てみたものです。

期待に胸膨らませて再生ボタンを押したところ、なるほどウォールナットのDがステージに据えられています。
その結果はというと、ピアニストに続いてピアノのほうもマロニエ君の好みではなく、とくにピアノは期待が高かったぶんかなりがっかりしてしまいました。
日頃より、マロニエ君は木目のピアノに対しては、格別の魅力を感じているひとりです。現在手許にあるディアパソンも深い赤みを帯びたウォールナット仕上げである点も大いに気に入っている点ですが、そんな贔屓目で見ても、この木目のDは不思議なぐらいピンとこない印象でした。

やはり現代のコンサートグランドというのは、まずは黒であることが無難なんだろうかと考えさせられます。
とくに艶消しのウォールナットという外皮は、明るい木目があらわで、あえてピアノの外装の格式みたいなものでいうなら、ずいぶんくだけた装いなのかもしれません。
明るい木目でも、たとえばスタインウェイ社がピアノの素材構成を見せるために作った無塗装のシステムピアノのDなどは、ある意味とても洒落ているし垢抜けた印象さえあるのですが、このウォールナットはそれとも違い、木目なのに木目の明るさを感じない不思議な雰囲気でした。

家に置くピアノだったら、木目のピアノは文句なしに好ましく、黒はむしろ無粋だとも思いますが、ステージでは必ずしもそうとは限らないという事実をこのピアノのお陰でちょっとわかった気がしました。黒のほうがビジュアルとして遥かに収まりがいいし、ステージ用にはフォーマルであることも知らず知らずのうちに求められるのかもしれません。

それと、浜離宮朝日ホールのステージの場合、背後の壁も似たような色の木目調だったこともあり、ピアノが保護色のようになって茫洋とした印象をあたえるばかりで、ときおりステージの備品のように見えてしまうのは予想外でした。
また、Dはボディが大きいためか、木目であることが妙にナマナマしく不気味にも見えたことも正直なところでした。

楽器自体もずいぶん古いもののようで、このホールよりもずっと年長のようですから、きっと何らかの事情で中古として運び込まれたピアノなのでしょう。
マロニエ君はいつも書いている通り古いピアノは本来は大好きで、新しいものよりはるかにしっくりくる場合が多く、とくにコンサートで年季の入ったピアノが使用されることはむしろ望むところなのですが、このピアノの音はというと…どれだけ好意的に耳を澄ませても、残念ながら納得しかねる音でした。

スタインウェイのD型としてはもどかしいほど鳴らないピアノであることはテレビでもよくわかり、賞味期限切れのような貧しい音しか出ていないのは大いにがっかり。このホールには他に黒のDが2台あるようなので、このピアノはその外観と相まってフォルテピアノ的な位置づけなのでしょうか…。
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疲れさせない…

前回、バケッティの演奏によるファツィオリの音の印象を書きましたが、それはあくまでマロニエ君の個人的な印象であることはいうまでもありません。

ネットでのCD購入にあたっては、複数のアイテムを選んだ場合、ひとつでも入荷が遅れると発送は見合わされ、一定期間を経過したときにだけ、入荷を待つか、キャンセルするか、既に入荷済みのものの見送るかなどを選択することになっています。

今回はさらに入荷待ちのCDがあり、それ以外のものをとりあえず発送するという選択をしたために、バケッティのゴルトベルクを含めて3つのCDが送られてきていたのですが、最も興味をそそられるバケッティから聴きはじめました。

音楽というものは不思議なもので、はじめの5分でおおよその演奏の判断はつくもので、それが後に覆ることはないということはしばしば書いてきましたが、もっと大きなくくりで云うなら、CDの場合、通して何度か聴いているうちに若干の修正があったり、多少の理解が深まるとか全容がつかめるというようなこともあるため、マロニエ君の場合、よほど気に入らないものでない限りは、とりあえず4〜5回は聴いてみることにしています。

それもあって、バケッティのゴルトベルクもとくに自分の好みではないことは認識した上で、とりあえず3回ほど聴いたところ、さすがに疲れてしまい、これを一旦お休みにして一緒に送られてきた別のCDに取り替えました。

セルゲイ・シェプキンの新譜で、バッハのフランス組曲(全曲)などが入った2枚組でした。
出だしから衝撃的だったのは、シェプキンのバッハ固有な清冽な演奏もさることながら、スタインウェイの生み出すトーンのなんと耳に心地よいことかと思える点で、やはりこのメーカーが世界の覇者となったのは必然であったことをまたも悟らされることになりました。

いまさらマロニエ君ごときがスタインウェイの音の特徴を言葉にしてみたところで意味があるとも思えませんし、そんなことはナンセンスだろうと思いますが、それでもあえて一言だけ言わせていただくなら、なにより直接的な違いは、とにかく「耳に優しい」ピアノだと断言できると思います。より正確にいえば「脳神経に優しい」というべきかもしれません。

この点については、まるで別物のように言われる同社のハンブルク製とニューヨーク製のいずれにもはっきりと通底していることで、声が多少違うだけで、同一のアーキテクチャから紡ぎだされるそのトーンは、無理がなく、どれだけ聴いても神経が疲れるということがありません。音が楽々と空気に乗って飛来してくるようです。
スタインウェイ以外にも素晴らしいピアノはいろいろありますが、いずれも長時間、あるいは繰り返し聴くと、疲れたり飽きてきたり不満点が見えてきたりすることは不可避で、いずれもどこかに不備や無理があるのだろうと思ってしまいます。

そういえば思い出しましたが、もうずいぶんと前のことですが、エリック・ハイドシェックの宇和島ライブというのが話題になり、当時としてはきわめて高い評価を得ていたCDがありました。
マロニエ君もそのCDはすべてではないにしても、何枚か持っていましたが、その良さが今一つよくわからずに集中して聴いてみたことがあったのですが、どうもよくわからないまますっかり疲れてしまったことがありました。
記憶が間違っていなければ(確認もせずに書いてしまっていますが)、このとき使われたピアノが日本製ピアノだったようですが、なんだか耳に負担のかかるような音の砲列に疲れたというのが率直な印象だったのです。

その結果、無性に別のCDが聴きたくなって、とりあえずなんでもいいという感じで、手っ取り早くCDの山の一番上にあったのが弓張美樹さんのペトラルカのソネットでした。無造作にそのCDをデッキに放り込みましたが、出てきた音を聴いた瞬間、サッと血の気が引くほどそこに流れ出したピアノの音にゾクッとしたことを鮮明に覚えています。

このピアノは関西のヴィンテージスタインウェイの専門店が所有する戦前のニューヨーク製で、マロニエ君は個人的にはどちらかというと好みのピアノではなかったのですが、疲れるほど日本製ピアノの音を聴き続けた末に接したこのピアノの音は、まさに気品と落ち着きと自然さにあふれていて、スタインウェイの根底に流れるなにか本質的なものを、ひとつ諒解できたような気がしたものです。

というわけで、マロニエ君の良いピアノの判断は、音やハーモニーなどの個別具体的な要素のほかに、長時間の鑑賞に耐えられるかどうかということもかなり重要なファクターだと思っています。どんなに素晴らしいとされるピアノでも、1時間やそこらで飽きたり疲れたりするようでは、マロニエ君としては真の一流品とは思えないのです。
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続・ネット問答

ヤマハのSとスタインウェイの比較にも面白い回答がありました。
ここに書くことは、ひとつの答えではなく、いろいろな答えの中から印象に残ったものを集めたものですが、ある回答では、「ヤマハのSあたりになると全面ウレタン塗装となり、見た目は美しいが非常に硬度のある材質なので、果たして木材の呼吸にそれが相応しいかどうか疑問に感じる」「日本人は音楽の歴史が浅く、どうしても高価なピアノを美術品的に捉える傾向がある」のだそうです。ウーンなるほどと思いつつ、そもそもウレタン塗装ってピアノにとってそんなに高級でいいのかといきなり疑問です。

また、ピアノ運送の仕事をしているという方からの回答でしたが、これが含蓄に富んだおもしろい答えでした。
まず「製品精度としてはダントツにヤマハ」と太鼓判を押していました。
「必要があってパーツを取り寄せても、ヤマハは同じモデルなら一発で装着できるのに対して、スタインウェイなどでは年式やモデルによって調整や加工が必要だったりで、メーカーに問い合わせをしても「そっちで合わせろ」というような答えが返ってくる」とのことですから、ヤマハのそういう面での優秀さと確かさはやはりすごいものがあると思わせられます。

実際の運搬に際しても、「ミシリともいわないヤマハに対して、スタインウェイはゆるゆるで、製品としての頑丈さは文句なくヤマハです」ということでした。
しかし、つけ加えられていたこと(ここが重要!)は、「しかし、製品精度と感銘を与える音の響きは比例しない。」「仕事はヤマハのほうがしやすいが、音は個人的にスタインウェイのほうが好み」と言っているあたりは、運送屋さんながらピアノの本質がわかっていらっしゃるなかなかのご意見だと思いました。

以前、スタインウェイに心酔する関西の大御所に聞いたところによれば、スタインウェイはただのボディの段階ではゆるゆるに作られているそうで、フレームを組み入れ、弦を張ってテンションがかかった段階ではじめてすべてが収束し、ピアノにかかる全体のバランスがこのとき取れるようになっている、非常に凝った、奥の深い設計をしているということでした。だからボディだけの状態と、フレームを組み入れ弦を張った状態とでは、わずかに寸法さえ変わるのだとか。

氏はその事に関して「断崖絶壁のぎりぎりのところに不安定な椅子を置いて、それに座ってバランスを取りつつ平然とコーヒーを飲んでいるようなもの」と喩えたものでした。
それに対して、ヤマハはボディと支柱にいきなり蟻組などを施して、初手からガチガチに作り過ぎるからダメで、しょせんは大工仕事の発想で、楽器製作の根本がわかっていないと、その巨匠は熱く語っていたのを思い出します。

したがってスタインウェイの場合は運搬時、とりわけクレーンで吊って搬入するようなときに、間違ってもピアノの支柱(裏側にある大きな数本の柱)にロープをかけてはならないのだそうで、スタインウェイのことを良く知る運送会社は絶対にこれをせず、ピアノが括りつけられた台座ごとロープをかけるが、ときどき無知な業者がこれをやってしまって最悪の場合はピアノに深刻なダメージを与えるとも言われていました。

そこで思い出すのは、あるピアノ店のホームページで「スタインウェイを納品しました」ということで、マンションの上階へクレーンで吊ってD型を搬入している写真が掲載されていましたが、なんとピアノは搬入前に歩道で梱包を解かれ、大屋根さえ外した状態の丸裸の状態、しかも支柱にしっかり太いロープが巻き付けられた状態で空中につり上げられており、思わず背筋が寒くなってしまいました。

話が脱線しましたが、ヤマハのSシリーズとスタインウェイのどちらを購入するかで悩んでいる人というのは結構いらっしゃるようで、値段が倍以上違うのでそれに見合う価値が本当にあるのかといったところなんでしょう。おもしろいのは弾く本人は試弾してヤマハを気に入っているのに、音楽に興味のないご主人のほうがスタインウェイの音を敏感に聞き分けて、断然こっちだと言い出すケースもあるようです。

また、不思議なことに、ヤマハの高級機種は検討範囲であるのに、カワイのSKシリーズは視野にも入っていない例がいくつもあり、回答者の一人が、カワイのSKは弾くとかなり心がぐらつくので一度試してみてはどうかというアドバイスをしていました。やはり一般的にヤマハとカワイではお客のほうにも相当な意識の差があるというか、端的に言えば客層が違うということなんでしょうか?
すくなくともヤマハのユーザーにとってカワイは眼中にないようで、このあたりはカワイユーザーでもあるマロニエ君としては複雑な心境です。

訳がわからなかった回答としては、しきりにヤマハをすすめる人がいて、しかもその人はスタインウェイのBとベーゼンドルファーの225を持っているということでした。
この人のアドバイスは、高級輸入ピアノは維持費が大変だからヤマハをオススメというのがその理由で、ずいぶんと上から目線なご意見で、それ自体にも違和感を感じましたが、そもそもスーパーカーじゃあるまいし、維持費ってなにがそんなにかかるのだろうと思いますが、具体的にはなにも記述はされていませんでした。
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ネット問答

ネットを見ていると、ピアノ購入予定者がいろんな質問コーナーにいろんな質問を寄せていることがわかり、いくつかアトランダムに読んでみました。

たとえば数件見たのは、「ヤマハとカワイの違いは何か?」ということです。
それぞれに回答者がいろんな説明をしていますが、楽器としての特色や優劣にはこれといった決定的な回答はそれほど見あたりません。それだけ基本的には両者の実力は拮抗しているということかもしれません。

むしろ楽器それ自体がどうというよりは、ブランド力とか販売網や教室の充実度、一般的な信頼感、リセールバリューなどに話が及ぶことが多いような印象を持ちました。
意外だったのは、カワイを押す人には「音がいい(好き)、音楽的、低音が良く鳴る」といった意見が見られたのに対して、ヤマハを押す人は音や響きですすめる人はあまりなく、「信頼性、精度、安心感、弾きやすさ、数が多いので慣れている」などの理由が主流である点でした。

それでも強いて言うと、ヤマハは高音がきらびやか、カワイは暗いというような回答もいくつかあり、これはイメージとしてはわからないでもありません。
マロニエ君に言わせれば、普及品のグランドの場合はカワイのほうが個体差(調整の差?)が多く、やわらかい音色の良いピアノがあるかと思うと、ちょっとご遠慮したいような個体もあるけれど、ヤマハの場合はそういう意味では安定しているという印象です。
ただし「このピアノのこの音がいい」とことさら感じさせるようなピアノもなく、ほとんどが平均した水準はもっているという印象です。

専門家(たぶん技術者でしょうが)の意見も同様で、ヤマハの特徴は、音に関する言及はそこそこで、これという明確な言及はほんとんど見あたりません。むしろ製品としての確かさ、商品性、ブランド力などであり、わけても耐久力は圧倒的なものがあり、いまさらながら受験や音大生、あるいはそれなりのプロなど、膨大な練習量を必要とする人達のためのツールとしては、ちょっとやそっとの音の優劣を云々するよりも、強くて逞しいヤマハは最も頼りになるピアノのようですね。

また、カワイを推す人は、あくまでも音色などの好みで自分はカワイのほうが好きだが、それは人それぞれという主観が判断する余地を残して、ヤマハの非難はほとんどしていません。
これに対して、ヤマハを推す側は、ヤマハが良いのが当然で、カワイはダメだ格落ちだというような非難を堂々としているところが印象的でした。

グランドのレギュラーモデルの購入を検討している人達は、新品でも中古でも、わりにヤマハとカワイ(そしてたまにボストン)を比較しているようですが、高級モデルの話になると一気にカワイの名が挙がらなくなるのはどういうわけだろうかと思ってしまいます。ヤマハには高級というイメージもあるのだろうかと考えさせられてしまいました。

笑ってしまったのは、ラフマニノフのある作品を例にとって、その何小節目のフォルテが出せるか否かを、ヤマハ、カワイ、スタインウェイなどのあらゆるサイズのピアノを分類整理して論じ立てる人もいたことです。なんだか無性にくだらない気がしたものの、こんなことを真剣に論ずる人がいて、それを真面目に呼んで参考にする人がいるというのが妙な気持ちになりましたね。

実際に、ヤマハのSシリーズとスタインウェイだったらどちらを買うべきかというたぐいの質問がいくつもあって(そんなことを人に聞くのも妙ですが、おそらくは自分の好みよりも客観的な価値判断が欲しかったのだろうと思われる)、そこにシゲルカワイがほとんど出てこないのは不思議というほかありませんでした。

おそらくシゲルカワイの価値を認めている人は、一般論に惑わされることなく、本当に自分の耳や指先で判断している人達が多いのかもしれません。よって人の意見を求める必要もないのかもしれませんし、ましてやネットの質問コーナーに「どちらがいいか?」という質問をするような人は極めて少ないのかもしれません。

マロニエ君の印象でも、シゲルカワイを買う人は実際にはこのピアノに惚れ込んだ人が多く、他との比較があまり意味がないのかもしれません。
個人的には、ピアノ選びは同クラスの比較で検討するより、自分の好みや感性に響いてくるピアノを選びたいし、そうあるべきだと思っているのですが、受験とか練習目的のある人というのは、そういう自由な選び方をしちゃいけないのかもしれませんし、だとしたらピアノを買うというのはとても楽しいことなのに、なんともったいないことかと思ってしまいます。
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フォーレ四重奏団

ビデオデッキに録画されたままになっているものには、わけもなく手付かずの状態でずっとおいているものがありますが、その中にBSのクラシック倶楽部で2月に放送された驚くべきコンサートがありました。

昨年12月にトッパンホールで行われたフォーレ四重奏団の演奏会で、曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第1番。
マロニエ君にとってフォーレ四重奏団ははじめて聞く名前で、てっきりフランスの室内楽奏者だろうと思っていたら、冒頭アナウンスなんと全員がドイツ人、しかも世界的にも珍しい常設のピアノ四重奏団とのことでした。

たしかに、ピアノ四重奏曲というものはあっても、ピアノ四重奏団というのは聞いたことがなく、これでは演奏する作品も限られるだろうと思いますが、今どきはなんでもアリの時代ですから、そういうものもあるんだろうと思いつつ、演奏を聴いたところ、果たしてその素晴らしさには打ちのめされる思いと同時に、一流の演奏に触れた深い充実感で満たされました。

まずなにより印象的なことは、ひとことで言って「上手い!」ことでした。
選り抜きの一級奏者が結集しているにもかかわらず、4人はみなドイツ・カールスルーエ音楽大学卒なのだそうで、これほどの実力が比較的狭い範囲から集まったということにも驚かされます。

メインのブラームスは、堂々としていて深みがあり、生命感さえも漲っています。細部の多層な構造などもごく自然に耳に達し、なにより音楽が一瞬も途切れることなく続いていくところは、聴く者の心を離しません。
巧緻なアンサンブルであるのはもちろんですが、よくある目先のアンサンブルにばかり気を取られた細工物みたいな音楽をやっているのではなく、4人それぞれが情熱をもって演奏に努め、秀逸なバランスを維持しながら、作品を生々しく現出させます。
必要に応じてそれぞれが前に出たり陰に回ったりと、本来のアンサンブルというものの本質というか醍醐味のようなものを痛烈に感じるものでした。

しかも全体としても、作品の全容が、素晴らしい手際で目の前に打ち立てられていくようにで、最高級の音楽とその演奏に接しているという喜びに自分がいま包まれていることを何度も認識しないではいられませんでした。開始早々、このただならぬ演奏を察して、おもわず身を乗り出して一気に最後まで聴いてしまったのはいうまでもありません。

ブラームスのピアノ四重奏曲は聞き慣れた曲ですが、これほどの密度をもって底のほうから鳴りわたってくるのを聴いたのはマロニエ君ははじめてだったように思います。知的な構築的な土台の上に聴く者を興奮させる情熱的な演奏が繰り広げられ、それでいて荒っぽさは微塵もなく、これまで見落としていた細部の魅力が次々に明らかにされていくようでした。

フォーレ四重奏団は、4人各人が個々の演奏の総和によってこの四重奏団の高度な演奏を維持しているという明確な意識と自負があるようで、普通はヴァイオリンの影に隠れがちなヴィオラなども、まったくひるむことなく果敢に演奏しているし、しっかり感に満ちたピアノも過剰な抑制などせず、思い切って演奏しているのは聴き応えがありました。

最近のピアニストは、指は動くし譜読みも得意だけれど、音楽的な熱気やスタミナを欠いた退屈な演奏が多すぎます。しかもそれを恥じるどころか、あたかも音楽への奉仕の結果であるかのように事をすり替えてしまうウソっぽさがあり、無味乾燥な演奏があまりに多いと感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
とりわけ室内楽になると、アンサンブルを乱すなどの批判を恐れるあまり、どこもかしこも真実味のない臆病な演奏に終始して、それがさも良識にかなった高尚な演奏であるかのようにごまかしています。
このフォーレ四重奏団は、そんな風潮に対するアンチテーゼのような存在だと思いました。

稀にこういう大当たりの演奏に出くわすことがあるものだから、普段どんなにつまらない演奏で裏切られても、凝りもせずやめられないのだと思います。これは一種のギャンブル好きの心理にも通じるものなのかもしれません。

さて、またCD探しが始まりそうです。
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ドビュッシーの前奏曲

ドビュッシーの前奏曲といえば、フランスのピアノ音楽の中でも最高峰に位置づけられる傑作のひとつとして広く知られているものですが、マロニエ君はもうひとつこの曲集に近づきがたいものを感じていて、しっくりこないまま長い時間を過ごしてきました。

ずいぶんむかし、はじめてこの曲集のレコードを買ったのはミケランジェリの演奏で、その透徹した演奏や美音に感心というか、ほとんど服従に近いものがあり、長らく他のピアニストの演奏に触れる機会が少なくなってしまいましたが、その後はずいぶん種類も増えて、リヒテルも弾いていたし、近年では青柳いずみこやエマールなどをいちおう聴いてはいました。

それでもこの曲集に対する基本的な印象を覆すまでには至らず、ましてやポリーニのそれなど聴きたいとも思いませんでした。

そんなドビュッシーの前奏曲ですが、知人からおすすめCDのコピーを頂いた中に、フィリップ・ビアンコーニのそれがあり、これが思いがけず良かったことは嬉しい驚きでした。まずなにより、ハッとするような清新さと自然さをはじめてこの作品から感じとることができたように思ったのです。

この曲を弾く多くのピアニストは、ことさらドビュッシーを意識しすぎるのか、個々の違いはあるにせよ、掻い摘んでいうとしゃにむに印象派絵画のような仕上がりにしたいのか、ピアノという楽器の実態からあえて遠ざかるところに重きをおいたような、いささか芝居がかった演奏だったようにも思えます。
演奏は、演奏家の自然発生的に出てくるものなら聞き手の側にも自然に入ってくるものなのかもしれませんが、悪く云えば、ドビュッシーに同化する自分を演じているようで、本当に演奏者がそういう心境に達した上での演奏であったのか…となると、どうも鵜呑みにもできないような居心地の悪いものがついてまわる気がしていたというところでしょうか。
これがマロニエ君のこれまでのこの曲に対して(正確に言うならこの曲の演奏と言うべきかもしれませんが)、ようするにそんなふうな印象を抱いていたのです。

その点、ビアンコーニはもっとありのままというかストレートな音楽としてこの24曲を弾いており、そのぶん聴くものにも身構えさせない親しみが備わっているような気がします。なんというか、ようやくにして作品が、少しですが自分に近づいてきてくれたようでした。
つまりこれは、脚色されないドビュッシーというべきか、適当な言葉はよくわかりませんけれども、なんとなくドビュッシーがプレリュードで伝えたかったものは、こういうものだったのかも…と思えるような、そんな演奏に初めて接することができて、霧が少しだけ晴れてむこうの景色が少し見えたような気になりました。

音楽の演奏全般にいえることかもしれませんが、程よい自然さというか、要するに必然的な音の発生を感じるものには、それだけ好感を抱けるし、聴く者なりではあるけれど、曲を理解するについても最も早道になると思います。

ドビュッシーでいうなら過度なデフォルメをするのではなく、ラヴェルでいうなら過度なクールさを強調するのではない、音楽としての佇まいに対してもう少し作為的でない謙虚さのようなものを感じさせる演奏であってほしいと思います。

ピアノはヤマハが使われていますが、これがまたとても好ましく思いました。
というか、ドビュッシーには意外にもスタインウェイはまありフィットしないように思います。よくドビュッシー自身の言葉を金科玉条のように引用して、ベヒシュタインこそ最適なピアノのように言われますが、それもマロニエ君個人は心底納得はしていません。
ベヒシュタインの音はドビュッシーにはどこか野暮なところもあって、これが必ずしも理想とは思えない。

ただ、スタインウェイのすべてを語ろうというような豊穣な音色は大抵の場面ではプラスに作用するものの、ドビュッシーの和声や音色は、楽器から出た音がいったん聴くものの耳に入ったあとで、個々の感覚の中で遅れるように混ざりこみ収束していく過程が必要で、そのため楽器から出た瞬間の音はむしろ硬い、単調な音であるほうがいいのかもしれない気がするのです。
その点では少し前のヤマハは、現代的な音色と機械的な冷たさが、意外にもドビュッシーに合っている印象をもちました。

こんなことを書くとドビュッシーに詳しい方からは叱られるかもしれませんが…。
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アスリート

前回書いたピアノの先生のピアノ音痴(楽器としてのピアノに対する理解が恐ろしく低い)の続きをもう少し。

本当の一流ピアニストを別にしたら、ピアノを弾くこと教えることに関わっている、市井のいわゆる「ピアノ弾き」の人たちは、器楽にかかわる全般からみても、きわめて特殊な位置やスタンスを持っていることは間違いありません。

楽器の性格を推し量り、微妙な何かを察知し、長短を見極め、その楽器の最も美しい音を引き出す、またはそれらを弾き手として敏感に感じ取ろうとする…なんて繊細な感性はピアノ弾きにはまずありません。
わかるのはせいぜいキンキン音かモコモコ音かの違いぐらいなものでしょう。

ピアノの整備や修理は調律師という専門家がするもの(それもほとんどお任せ)で、自分はひたすら練習に明け暮れ、目指すは指が少しでも早く確実に動くこと。盛大な音をたたき出し、技術的難曲を数多く弾きこなすことで勝者の旗を打ち立てるのが目標であることは、むしろアスリートの訓練に近く、この点はなんのかんのといっても昔から改善の兆しはないようです。

家具や家電製品、パソコン、あるいは自転車やクルマのように、ピアノも一度買えば寿命が来て買い換えるまで使い倒す器具といったところではないでしょうか。「ピアノはしょせんは消耗品、だからこだわること自体が無意味だ」と公言して憚らない有名ピアニストもいるほどですから、この世界では楽器にこだわったり惚れ込んだりしないほうがクールでカッコイイわけで、当然、新しいものが最良のもの。
ごく稀に古いピアノのいいものなんかに触れるチャンスがあっても、自分じゃその良さなんてあんまりわからず、ただのくたびれたオンボロピアノのようにしか思えない。要は楽器の音を聞く耳というか感性が死滅してしまっているのかもしれません。

こんなタイプがほとんどといっていいピアノの先生に、こともあろうに楽器選びの相談をするなんて、マロニエ君には悪い冗談のようにしか思えないわけです。

人から聞いた話をふたつ。
ということでご紹介していましたが、差し障るがあるといけないようで、消去します。

もうひとつはあるピアノ工房での話。
そこには古いプレイエルがあり、お店の人によれば、これまでに多くの先生方が弾いていかれたけれど、いずれも良さがわかってもらえなかったとか。ほとんどの方がただバリバリ弾くだけで、プレイエルの音を引き出そうとはしなかったそうです。
そして評価を得たのは、工房内にある新品のスタインウェイだけだったとのこと。

この話をマロニエ君に教えてくださった方いわく、「私が弾いた感じではそのスタインウェイはまだ花が開いてない感じで鈍く、工房の中では一番つまらなかったのですが、ずいぶんと感じ方が違うんだなあと思ったものです。」とあり、まさに目の前にその先生たちの様子が浮かんでくるようでした。

……。
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先生に聞くのが一番…

インターネットでは、その膨大なユーザーを相手に、森羅万象の質問やアドバイスを求めることができるのは、いまさらいうまでもない現代の常識のひとつかもしれません。

「Yahoo知恵袋」などがその代表格でしょうが、みていると、ありとあらゆることが質問され、必ずと言っていいほどアンサーが寄せられて、中には一読しただけでも勉強になるような質の高い内容さえ見受けられるのは、多くの方が経験されていることでしょう。
しかもそれらは無料で無制限に利用でき、現代はよほど専門性特殊性の高いことでない限りは、パソコンのスイッチを入れキーボードを叩けば大抵の答えはそこからゲットできるようになっており、便利であるのはもちろんですが、どこかついていけない気にもなってしまいます。

もちろん、中には何の参考にもならないようなものもあれば、頭からふざけたような回答もあり、匿名性の高い世界ではこれは致し方のないこととしても、大真面目に熱心に寄せられた回答であるかかわらず、なんだこれは?と思うようなものがないわけでもありません。

ピアノに関するQ&Aはたまに覗くのですが、これからピアノを購入しようという人と、それに答える人たちのやりとりには、いろいろな現場事情や認識が見え隠れして唖然とするようなものも少なくなく、こんなところからも、世の中の人がピアノというものを概ねどのように捉えているかの一端を垣間見ることができます。

たとえば、子供にピアノを習わせるのに、将来いつまで続くかわからないことを前提に、いつどんなタイミングでどんなピアノを買っておけば損得両面において最もリスクが少ないかというようなもの。あるいは今勉強中の曲はこれこれと書いて、それぐらいだったらヤマハなら何を買うべきか、というようなものが多く見られます。
同様のものでもう少し具体的に書くと、ショパンのバラードやエチュードを弾くようになったら、あるいは受験にはやはりグランドじゃないとダメでしょうか?といった具合です。

さらに驚くのはアンサーのほうで、いかにも親切で誠実な調子の文章ではあるけれど、「私も音大受験を機に◯◯にしました」とか、「できればC3以上にしてください」「コンクールに出るなら、C7あたりか、予算が許せばスタインウェイ」など、練習する曲の難易度に比例してこれこれ以上のピアノであるべきといった内容が大手を振って並んでいます。

そこで取り交わされるやり取りを見ていると、不気味なほど音楽をやっている気配みたいなものがなく、体操の跳び箱の高さの話ばかりをしているようであるし、それに応じて使うべきピアノのメーカーやサイズまで決まっているかの如くの発言の数々には、おそらくこんなところだろうと予想はしていても、やっぱり具体的なやりとりを見ると、そのつど驚かされてしまうのです。

ショパンの何々、ベートーヴェンの何々、プロコ(この言い方が嫌い)の何々というのが、難易度の指針であるだけで、作曲家もしくは作品に対する冒涜のようでもあり、そうまでしてなんのために苦労の多い音楽なんてやろうとするのか、目指すところがまったく汲み取れません。

また購入にあたっては、いかにも説得力ある常識的意見として「ピアノの先生に相談してみるのが一番です」という意見は、一度ならず目にしたことがあります。素人があれこれと迷って楽器店のいいなりになるより、先生はピアノを長年弾いてこられたプロなのだから楽器のことも詳しい筈で、生徒の将来のことも考慮して選んでくださるだろうから、先生のアドバイスにしたがっていれば間違いないという主旨のものです。
それには、質問者の方も大抵は納得し、「それがベストですよね。ありがとうございました。」というような感じに話が収束してしまうのには、無知というものの喩えようもない虚しさを感じずにはいられません。

マロニエ君に言わせれば、ピアノの先生の多くはピアノのことなんてまったくご存知ない、むしろシロウト以下の人があまりにも多いという印象しかありません。中にはそうではない方も一部おられるかもしれませんが、それは例外中の例外であって、一般的平均的にはピアノの先生ほどピアノのことがわからない人たちも珍しいと思います。

音の善し悪しなどは、ピアノの先生のねじくれてしまった耳より、シロウトの方がよほど素直な感性をもっていて、何台か聴いていればその美醜優劣がまっとうに聞き分けられるのはまちがいありません。ピアノ技術者との雑談の中でも、先生の話が出るとみなさん決まって苦笑いになってしまいます。

それでもピアノ教師は、なまじ長年ピアノと係わってきただぶん「自分は専門家」という意識があり、だからピアノの見立てなどの相談にも臆せず応じてしまうようです。自分のピアノの良し悪しもわからないのに、それを自覚できておらず、人様のピアノ購入のアドバイスをするなんて無責任もいいところです。またそんな先生に自分の買うピアノを決められてしまうなんて、そんな無謀な話は考えただけでもゾッとしますが、これって結構あるんだろうなあと思います。

こうして、親、生徒、先生、楽器店といった本当に良いピアノを見極める能力や意志のない顔ぶれだけで事は決し、また一台無味乾燥で音楽性のかけらもないようなピアノが売れていくのでしょう。嗚呼…。
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技術と才能

懇意にしていただいている調律師さんの中には、これまで他県で活躍されていた方もおられます。

その地域では、調律はもとよりホールのピアノの管理なども複数されていた由で、当然コンサートの仕事も数多く手がけられ、一部は現在も遠距離移動しながら継続している由です。ご縁があって我が家のピアノもときどき診ていただくようになりましたが、驚くほど熱心で密度の高いお仕事をされるのには感心しています。
しかしエリア違いのため、その方が調整されたピアノによるコンサートを聴いた経験は一度もなく、ぜひ聴いてみたいという思いが募るばかりでした。

そこで、もしライブCDがあれば聴かせてほしいと頼むと、4枚のCDをお借りすることができました。
いずれも第一線で活躍する名のあるピアニストのリサイタルですが、その中でもゲルハルト・オピッツの演奏会はとくに印象的でした。ピアノは1990年代のスタインウェイで、この技術者さんが管理されていたことに加えて、当日の調律も見事で、まったくストレスなく朗々と鳴っていることは予想以上でしたし、スケールが大きいことも印象的でした。

一般的に、日本の技術者のレベルはきわめて高いものの、どこか「木を見て森を見ず」のところがあり、いざコンサートの本番となるといまひとつピアノに動的な勢いがなく、どこかこぢんまりしたところがあるのは、何かにつけて我々日本人が陥ってしまう特徴のひとつなのかもしれません。
これは技術者が、つい正確さや安全意識にとらわれて、ある意味臆病になるためだと思います。マロニエ君は精度の高い基礎の上に、一振りの野趣と大胆さが加わるのを好みます。このわずかな要素にピアニストが反応することでより感興が刺激され、迫真の演奏を生み出す、これが個人的には理想です。

ところが多くの日本人技術者は比較的小さな枠内で作業を完結させる傾向があり、正確な音程と、まるで電子ピアノのような整った音やタッチにすることを好ましい調整だと思い込んでいる場合が少なくないのでしょう。ピアノ技術者の技術と感性は、究極的には職人的な才能と音楽性が高い接点で結びついていなくてはダメだと思うのは、やはりこんな時です。

最近は、見た目やマークは同じでも、演奏がはじまるや落胆のため息がでるような空っぽなピアノが多い中、久々にスタインウェイDによる、他を寄せ付けない独壇場のような凄まじさに圧倒されました。
優れた演奏によってはじめて曲の素晴らしさを理解するように、優れた技術者とピアニストを得たとき、スタインウェイはあらためてその真価をあらわすのだと思いました。

オピッツ氏も好ましいピアノに触発されてか、マロニエ君が数年前に聴いたときとはまるで別人のように、集中度の高い、それでいてじゅうぶんに冒険的で攻める演奏をしており、聴く者の心が大きく揺すられ、いくたびも高いところへ体がもって行かれるようでした。これこそが生の演奏会の醍醐味!といえるような一期一会の迫真力が漲っていることに、しばらくの間ただ酔いしれ感銘にひたりました。

CDを受け取る際、つい長話になってしまい、最後になってフッと思い出したように「あ、ぼく、一級の国家資格、受かってました」といってハハハと軽く笑っておられました。ずいぶん難しい試験だと聞いていましたが、すでに九州でもかなりの数の合格者が出ているらしく、そう遠くない時期に「持っていて当たり前」みたいなものになるのかと思うと、何の世界も大変だなあと思います。
曰く「…でもあれは、本当に技術者として一級云々というものでは全然ないですね。ただ単にその試験に対応できたかどうかという事に過ぎませんよ」と穏やかに言っておられたのが印象的でしたが、そのときマロニエ君が手に持っていたのは、まさにその言葉を裏付けるようなCDだったというわけです。たしかにコンサートの現場経験を積んで世間から認められることのほうが、はるかに難しいし大事だというのはいうまでもありません。

スタインウェイをステージであれだけ遺憾なく鳴り響くよう、いわば楽器に魂を吹き込むことのできる技術者は、マロニエ君の知る限りでも、そうそういらっしゃるものではありません。単なる技術を超えた才能とセンスがなくては成し得ない領域だからでしょう。
いまさらですがスタインウェイDは潜在力としては途方もないものを持っているわけですが、その実力を真に発揮させられるような技術者は本当にわずかです。

しかもそういう方々が、その実力に応じた仕事をする機会に恵まれているのかというと、必ずしもそうではない不条理な現状もあるわけで、ますます憂慮の念を強めるばかりです。

どんなに立派なホールに立派なピアノがあっても、肩書だけの平凡な調律師がいじくっている限り、一度も真価を発揮することなくそのピアノは終わってしまいます。中にはステージ本番のピアノに、まるで家庭のアップライトみたいな調律をして、平然としてしている人もおられますが、それでもほとんどクレームのつかないのがこの世界の不思議ですね。
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自分の楽器なら

先日のNHKクラシック音楽館でガヴリリュクを独奏者としたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番をやっていたのでちょっとだけ見てみました。
会場はNHKホール。ガヴリリュクは開始早々から、いささか過剰では?と思えるほどの熱演ぶりでしたが、さてそうまでして何を表現したいのやら狙いがもうひとつわからない演奏という印象でした。

上半身はほとんど鍵盤に覆いかぶさるようで、終始エネルギッシュなタッチでプロコフィエフのエネルギーを再現しようとしたのかもしれません。渾身の力で鍵盤を押し込み、湧き出る大量の汗は鍵盤のそこらじゅうに飛び散りますが、出てくる音としてはそれほどの迫力とか明晰さ、表現上のポイントのようなものは感じられません。

ガヴリリュクはあまり自分の好みではない人だということは以前から思っていましたが、この日は第一楽章を聴くのがやっとで、残りは視ないまま終わってしまいました。

音が散って消えるNHKホールであることや、録音編集の問題もあろうかとは思いますが、これほど汗だくのスポーツのような熱演にもかかわらず、ピアノ(スタインウェイ)が一向に鳴らないことも聴き続ける意欲を削いでしまった要因だったろうと思います。
鳴らないピアノの原因がなんであるかはわかりませんが、まるで押しても引いても反応しない牛のようで、かなりストレスになることだけは確かです。

それから数時間後、日付が変わってのBSプレミアムでは、パリオペラ座バレエ公演から、このバレエ団総出による『デフィレ』があり、ベルリオーズのトロイ人の行進曲に合わせて、バレエ学校の子供から、バレエ団の団員、さらにはエトワールまでが、ガルニエ宮の途方もなく奥行きのあるステージ奥からこちらへ向かって、バレエの基本的な足取りで行進をする演目は楽しめました。

なぜこんなことを書いたかというと、その『デフィレ』に続く演目は『バレエ組曲』で、舞台上にスタインウェイのDが置かれ、ピアニストが弾くショパンのポロネーズやマズルカに合わせてバレエ学校の生徒たちが踊るというものですが、この時のピアノがとても良く鳴ることは、前述のガブリリュクが弾いたピアノとはいかにも対照的でした。

ピアノのディテールから察するに、おそらくは30年前後経った楽器と推察されますが、低音などはズワッというような太い響きが遠くまでハッキリと伝わってきますし、全体的にもつややかな明瞭な音が健在で、もうそれだけで聴いていて溜飲の下がる思いでした。
このピアノをそのままNHKホールのステージにもってきたなら、ガブリリュクの演奏もやっぱり全然違っただろうと思わないではいられないというわけです。

よく調律師の説明に聞くフレーズですが、「弾き手は、鳴らないピアノでは、自分のイメージに音がついてこないため、よけいムキになって強く弾こうとする」といわれるように、ピアノが違っていれば、ガヴリリュクもあそこまで意地になって格闘する必要はなかったのでは?と思ってしまいました。

楽器販売に関わる技術者は、新しいピアノを肯定することに躍起になっているとみえて、新しいほうがパワーが有るなどと口をそろえて主張します。
それは新しいピアノ特有の若々しさからくるパワーのことで、これもパワーというものの要素のひとつとも言えるでしょうが、厳密に言うならピアノのパワーの本質というのはそういう局部的一時的な問題ではない筈だと思います。

べつに今の新しいスタインウェイを否定しようという考えはありません。マロニエ君にはわからないだけで新しいスタインウェイにしかない魅力もきっとあるのでしょう。しかし、少なくとも、かつてしばしば聴かれた芳醇で澄明で余裕に満ちたあのスタインウェイのサウンドというものは、その時代のピアノにしか求め得ないことだけは確かなようです。

もしも、ピアノが往年のホロヴィッツのように自分専用の楽器をどこへでも自由自在に持っていけて、少しでも気に入らなければ別の楽器に交換できるとしたら、きっとピアニストたちはこぞってお気に入りの楽器を探しまわり、それぞれの個性や美意識に基づいた調整を施し、それ以外のピアノには手も触れないようなことになる気がします。

そんな自由が与えられ、ステージという真剣勝負の場で弾く楽器を選ぶとなると、それでも新品ピアノを本心から好むピアニストがどれだけいるのか…これを想像してみるのは面白いことだと思いました。
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がっかり

最近はいわゆるスター級の演奏家というのがめっきり出てこなくなりました。

これは音楽に限ったことではなく、芸術家全般はもちろん、政治家や役者なども同様で、そこに存在するだけであたりを圧倒するような大物はいなくなり、とりわけ音楽では没個性化と引き換えに技術面では遥かに平均点は上がっていることが感じられます。
音楽ファンとしては平均なんてどうでもいいことで、これぞという逸材を待望しているわけですが…。

この流れはピアニストも同様で、少なくとも現在活躍している中堅~若手の中でスター級のピアニストというのはどれだけいるでしょう。その筆頭はキーシンあたりだろうと思いますが、それ以降の世代では記憶を廻らせてもぱったり思い浮かばなくなります。

上手い人はたくさんいてもスターが不在という現状です。
むろん非常に好ましい演奏をするピアニストは何人もいるわけですが、しかしステージに存在するだけで有無を言わさぬオーラをまき散らし、名前だけでチケットが売れてしまうような人はほとんどいなくなりました。
そんな中で、マロニエ君がやや注目していた若手の一人に、ユジャ・ワンがありました。

この数年で頭角を現した彼女ですが、何年か前のトッパンホールで行われたリサイタルの様子は圧巻で、なかでもラフマニノフの2番のソナタは忘れがたい演奏でした。ここから彼女のCDを何枚か買ってみたものの、あまりに録音用テイク特有のお堅い演奏という印象で、期待するような魅力が身近に迫るところまでには至らず、協奏曲でもこの人ならではの輝きを感じさせるにも一歩足りず、もしかするとライブ向きの人なのかなぁと思ったりしていたものです。

そうはいっても最近のCDは制作コストの削減から、ライブ演奏をベースに制作されることも少なくありませんが、製品化にあたってレコード会社の修正が介入しすぎるのか、どちらともつかないような微妙なCDが多いとも感じます。

さて、先日のNHKクラシック音楽館ではそのユジャ・ワンが、デュトワの指揮するN響定期演奏会に登場し、ファリャのスペインの夜の庭とラヴェルのピアノ協奏曲(両手)を弾きました。
これまで、若手の中ではいちおうご贔屓にしていたユジャ・ワンでしたが、この日の演奏は期待ほどないものでがっかりでした。ひとくちに云うとなにも惹きつけるところのない内容の乏しい演奏で、ただあの無類の指を武器に弾いているだけという印象しか得られなかったことはがっかりでした。

それでもスペインの夜の庭のほうがまだよく、もともと捉えどころのない幻想的な性格の曲であるが故か、きっちりした技巧でピアノパートが鳴らされるだけでもひとつのメリハリとなって、なんとか聴いていられたわけですが、ラヴェルでは開始早々からこれはちょっとどうかな…という思いが頭をよぎりました。

経験的に、はじめにこういうイヤな影が差してくると、それが途中で覆るということはまずありません。
ユジャ・ワンの感性とこの曲はどこを聞いても焦点が合わないというか収束感がなく、終始ボタンの掛け違えのような感じでした。演奏前のインタビューでは13年前日本のコンクールで弾いて以来なんだそうで、そのときよりラヴェルの音楽語法もわかったし、様々な経験を積んでより自由に表現できるようになったと言っていましたが、実際の演奏ではどういう部分のことなのかまったく意味不明のまま。
彼女にしては珍しくあれこれの表情や強弱をつけてみるものの、それらがいちいちツボを外れていくのはまったくどうしたことかと思いました。
あの耽美的な第2楽章も、やみくもなppで進むばかりで旋律は殆ど聞こえず、どういう表現を目指しているのかまったく理解できないし、左手の3拍子とも2拍子つかない独特のリズムにも拍の腰が定まらず、終始不安定な印象を払拭できなかったことはこれまた意外でした。

健在だったのはやはりあの規格外の指の技巧で、この点では並ぶ者のない超弩級のものであることがユジャ・ワンのウリのひとつですが、それも音楽が乗ってこそのもので、技巧がスポーツのようになってしまうのは大変残念としか言いようがありません。

彼女は北京の出身ですが、現在もアメリカで学んでいるらしく、あの妙に円満な収まりをつけてしまう、いわば音楽的優等生趣味はそのせいではないかと思いました。もともとアメリカは西洋音楽の土壌がないところへ大戦などによって多くの偉大な音楽家がヨーロッパから移住した地ですが、それらは皆すでに功成り名を遂げた巨匠たちばかりで、アメリカそのものに西洋音楽の土壌があったとは言い難いのかもしれません。

そのためか、アメリカの音楽教育はどこか借りもの的というか、型にはめて画一化されてしまう観があり、個性や独自の表現を尊重し伸ばそうという度量や冒険性が感じられません。そう思うとユジャ・ワンのピアノにも「アメリカ的臆病と退屈」がその教育によって根を下ろしているようでもあり、納得と同時に、非常に残念な気がしてなりません。
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引退か現役か

昔の大晦日はベルリン・フィルのジルベスターコンサートを生中継でやっていましたから、毎年これを見るのが習慣でしたが、いつごろからだったか、この番組はなくなってしまいました。
アルゲリッチ/アバドによるR.シュトラウスのブルレスケを初めて聴いて感激したのもこの大晦日(正確には元日)の夜中だったことなどが懐かしく思い出されます。

現在はおそらく有料チャンネルなどに移行したのだろうか?と思いつつ、マロニエ君宅にはそんなものはありませんから、いつしかこのコンサートは自分の前から遠のいてしまったようでした。

つい先日、2014年の大晦日に行われたラトル指揮の同コンサートの模様がNHKのプレミアムシアターで放送されましたが、その中から、メナヘム・プレスラーをソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番について。

メナヘム・プレスラーが半生をかけて演奏してきたのは有名なボザール・トリオであったことはいまさらいうまでもありません。
その素晴らしい達者な演奏は名トリオの名に恥じないもので、中でもピアノのプレスラー氏はこのトリオの立役者であり、その功績の大きさは大変なものです。彼なくしはこのトリオは間違いなく存在し得なかったものといって差し支えないでしょう。

50年以上の活動を続け、2008年にトリオは解散。その後のプレスラーは人生の晩年期にもかからわずソロピアニストとしての活動を始めます。近年でも思い出すのはサントリーの小ホールでのシューベルトのD960や、庄司紗矢香とのデュオなどですが、残念ながらマロニエ君はそれほどの味わいや魅力を感じるには至りませんでした。
ボザール・トリオの時代の自由闊達、円満で音楽そのものの意思によって進んで行くようなあの手腕はどこへ行ったのか思うばかりでした。

今回のモーツァルトのピアノ協奏曲では必要なテンポの保持さえも怪しくなっており、痛々しささえ感じてしまいました。あのエネルギッシュな快演を常とするベルリン・フィルも普段とは勝手が違っているようで、この老ピアニストの歩調に合わせようと努力しているのがわかります。

でも、音楽というのは、こうなるともういけません。
一気にテンションが落ちてしまいつつ、高齢の巨匠に敬意を払ってなんとか好意的に受け止めようとしますが、それは殆どの場合むなしい結果に終わります。とりわけ最盛期の活躍が華々しい人ほど、それが聴く人々の記憶にありますから、よりいっそう厳しい現実を突きつけられるようです。

すでに御歳90を超えておられるわけですから、個人としてみればもちろん信じ難いほどに大したものだと思います。しかし厳しいプロの音楽家として見れば、もはやこういう大きなステージでの演奏をやり遂げることは厳しいなぁと思わざるを得ません。

巷間「離婚には、結婚の数倍ものエネルギーが要る」といわれるように、プロ(しかも一流になればなるだけ)の引退はデビューよりも難しいものかもしれません。できれば、まだまだやれると誰もが思えるだけの余力を残した時期に、惜しまれながら引退することが望ましいように思いますが、最近はそんな引き際の美学も失われているような気がします。

ハイフェッツ、ワイセンベルク、最近ではブレンデルなどはきっちりと引退の線が引けた人ですが、マロニエ君の知る限り、最晩年に真の感銘を与えてくれた唯一の例外では、ミエスチラフ・ホルショフスキーただひとりです。
ただ、だれもがホルショフスキーのようにはいかないのが現実というものでしょう。
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響板のホコリ

以前、洗車が我が健康法というようなことを書きましたが、そこに楽しみを見出すには、掃除する対象が自分の趣味性のあるものだからということも関係があるのかもしれないと思います。

しかし、そうだとすれば、好きなピアノも磨きの対象になってもおかしくはないようなものですが、なぜかこちらはまったくそうはなりません。

こう書くとまるでピアノの掃除はせずに、いつも汚れた状態のようですが、決してそんなことはなく、少なくとも人並みにはきれいにしている「つもり」です。それでも洗車のようなハイレベルを目指してピアノ掃除をやったことはありません。

これは自分でも不思議で、その理由を考えてみたところ、いくつか挙げられるようです。

まず大きいのは、当たり前ですがピアノは常に屋内に置かれるものなので、車のように「汚れる」ということがあまりありません。せいぜい水平面にうっすら溜まったホコリを取り除く程度で事足ります。
それにマロニエ君はよくあるピアノ用シリコンみたいなケミカル品はできるだけ使いたくないので、これぞというものを必要最小限しか使いませんし、普段は毛羽たきか、ごくたまに柔らかい布を固く絞って丁寧に水拭きする程度です。

また鍵盤も、毎日専用のクリーナー液をつけて拭く人もいるそうですが、入れ替わりにレッスンをやっているようなピアノでもないのでそれもしませんし、そもそもボディカバーもしない、鍵盤用の意味不明な細長いフェルトのカバーなども、むろんありません。

これがマロニエ君のピアノに対するスタイルで、それでいいと自分が思っているわけです。

もう一つ、マロニエ君にピアノクリーニングから遠のかせる原因は、グランド内部の構造も大きく関係しているのです。
グランドピアノをお持ちの方ならおわかりだと思いますが、最もホコリが溜まりやすく、それなのに掃除の手立てがないのが響板です。響板は直に手がとどくのは低音側の弦とリムのわずかな隙間ぐらいなもので、大半は無数に張られた弦に遮られてほとんど掃除ができません。
響板のように広い部分にホコリがたまっているのに、それをとり除くことができないのは甚だ面白くありませんし、外側だけキラキラ磨きたてたところで意味がない…というわけで、いわば興が削がれるのです。
よってピアノの掃除にはむかしから力が入らないのかもしれません。

調べると、響板のホコリ取り用具が全く無いわけではないようです。
細い棒の先端にフェルトみたいなものが貼られ、その中央に針金のような細い取っ手が直角にけられていて、それを弦の間から差し込んで動かすことでホコリを除去するというもののようです。しかし、こういう道具類はよほど需要がないのか、技術者相手の業者がひっそりと取り扱っているようです。
ところが、この手の店はネットでも排他的で、一般のピアノユーザーが簡単に手に入れたらいけないということなのか何なのか、技術者だけがコミットできるようになっているようで、値段もなにもわからないようになっています。
一見さんお断りならぬ素人さんお断りサイトで、なにやらもったいぶった印象で、これだけで面倒臭くなります。

あれこれのパーツ(たとえばハンマーやシャンクなど)も価格表示は一切されず、しちゃまずいほど安いのかとも思いますが、この世界は相身互いなのか、そうやっていろんなことが秘密にされているようなので、そこに敢えて部外者として分け入って行こうとも思いません。

それに昔の並行弦のピアノならともかく、現代のグランドは交差弦なので、中音域(響板の中央部分)はどっちみその器具も使えないか、甚だ使いづらいということは目に見えているので、やはり掃除の意欲が湧いてこないのです。

だったら自作でもして、低音弦側から差し込んで、それを左右に動かすことで一挙にホコリが取れるような用具を考案してみようかと思っていますが、これも、何年も前から思っているばかりで、実行には至っていません。

いっそピアノ響板用小型ルンバでもあればいいのですが。
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ピアノのサイズ

ピアノはアップライトもグランドも、ごく単純かつ原則的に言ってしまうなら、要は響板の面積と弦の長さによって、余裕ある響きが得られるという基本があります。

それによってより豊かな音色や響きが得られるわけで、これは当然ながら演奏上の表現力の違いとしてあらわれてくるでしょう。
もちろん、そこは秀逸な設計と好ましい製造技術が相俟って、楽器としてのバランスがとれていればの話であるのはいうまでもありませんが。

現にアップライトでも背の低い小型モデルと、より大型のものを比べると音質や響きの差は歴然ですし、グランドでもギリギリの設計がなされたベビーグランドと大型グランドでは、潜在力に差があることは異論を待ちません。

では、それほど響板面積は少しでも広く、弦は少しでも長いほうがいいというのであれば、価格や置く場所の問題を別にすれば、高さが2mもあるアップライトを作ったり、奥行きが4mぐらいのコンサートグランドを作ったらどうなるのかと考えるのはおもしろいことです。

この点で、以前、何かで(それがなんだったかは思い出せません)読んだことがありますが、例えばアップライトの場合は、そのサイズは130cmあたりが一応の限界点にあるようです。
それはピアノには理想的な打弦点というものがあり、アップライトの場合、背を高くすれば打弦点も上に移動しなくてはならず、これ以上になるとアクションや鍵盤が現在の場所では不可能ということを意味するようです。

どうしても背の高い大型アップライトを作るとなれば、鍵盤、アクション、演奏者の位置は、すべて上に移動しなくてはならなくなり、それは非現実的で簡易性が売り物のアップライトの存在意義を揺るがす事態となるようです。
そんな問題を無視して何メートルもあるアップライトを作っているのが、クラヴィンスピアノで、これは奏者が遙か上部にある椅子まで、ハシゴだか階段だかをよじ登っていく怪物アップライトですが、要はこうなるという象徴的存在でしょう。

また、グランドの場合は、奥行きが長いほど響板は広く、弦も長くなるわけですが、こちらもやみくもに長くすれば良いというものではなく、現在のコンサートグランドのサイズ、すなわち280cm前後を境にそれ以上になると逆にバランスが崩れてくるのだそうです。

この法則をオーバーするコンサートグランドは、主だったところではベーゼンドルファーのインペリアル(290cm)と、ファツィオリのF308があるのみですが、インペリアルはどちらかというとコンサートピアノの通常の法則からは外れていると見るべきで、この巨躯から期待するようなパワーに出会ったためしがありません。

ファツィオリでは、マロニエ君は弾いたことはありませんが、コンサートで聴いた限りでは308cmというダックスフンド体型が、それだけの効果を発揮しているかとなると甚だ疑問に感じました。
印象としてはF278のほうがより健全で元気があるように感じますし、それはトリフォノフがデッカからリリースしているショパンのアルバムでも感じられ、この二つのサイズのファツィオリが使われていますが、サイズとは裏腹にF278のほうが明らかに力強く鳴っている感じがあるのに対して、F308はむしろおとなしい地味な感じのピアノに思えました。

さらにはグランドではバランスよく鳴るサイズというのがあるようで、210cm前後のモデルは各社がもっとも力を発揮できるサイズだと云われています。このサイズでがっかりというピアノには(少なくともマロニエ君は)あまりお目にかかったことがないし、弾いていて独特な気持ち良さがあるように思います。

スタインウェイのB211などはその代表格でしょうし、ヤマハも大型ピアノの代表格は昔からC7というようなことになっていましたが、後発のC6(212cm)はあまりヤマハと相性の良くないマロニエ君でさえ、どの個体でも別物のような好印象を感じますから、やっぱりこのサイズは特別なんでしょうね。

ピアノのサイズも「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということのようです。
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都市伝説

グランドピアノの鍵盤蓋を開いたとき、その上端が90°ほど畳むように折れ曲がるようになっているピアノがときどきあります。
現在は僅かな手間も惜しんで、徹底したコストダウンを敢行する潮流なので、現行モデルではほとんどなくなったと思いますが、昔はヤマハにも、カワイにも、ディアパソンにもこのタイプがありました。

スタインウェイでもハンブルクは通常のスタイルですが、ニューヨーク製は中型以上のモデルにはこの鍵盤蓋上端の折れ曲がり機構が標準仕様です。

さて、この鍵盤蓋の前縁が折れ曲がる理由は何かということですが、これには諸説飛び交うばかりでいまだ決定打らしきものがありません。

もっとも多数派なのは、演奏者が熱演極まって手の動きが激しくなった場合、通常の鍵盤蓋だと指先が縁に当たる恐れがあるので、それを避けるためにこの部分が折れ曲るようになっているというものです。
なるほどという感じですが、じゃあ熱演のあまりピアニストの指先が鍵盤蓋の縁に当たるというようなシーンを見たことがあるかと言われると…実はありません。
チェルカスキーやルビンシュタインなどは激しい動きで両手を垂直に上下させたものですが、指先が鍵盤蓋の縁に衝突するなんてことはまずないようでした。
となると、これはイマイチ説得力がありません。

次になるほどと思ったのは、縁を下に曲げていると、万が一ふいに蓋がバタンと閉まるようなことがあっても、この折れ曲がった縁が左右の木部に当たることで、指先をケガする危険がないというものです。
いわば安全機構というわけで、やってみると確かにそれも一理ありという感じでもあり、これはこれで、それなりにいちおう納得してしまいました。

果たして後者が真相かと思っていたら、先日来宅された技術者さんによると、また新しい説を披露されました。
それは上部から照明をあてると、ピアノの鍵盤は、光の角度によほど気をつけないと、鍵盤蓋の前縁のせいですぐに影になってしまうので、それを避けるために折り曲げることができるようになっているのではないか…という推量でした。

たしかにステージでは、照明のせいで、鍵盤に変な日向と日陰ができたら演奏者は弾きづらいかもしれません。でも、もしそうならコンサートピアノなどはもっと多くのモデルがこの機構を備えていそうなものですが、実際はない方が圧倒的に多く、やはりこれも決定的ではないような気がします。

マロニエ君個人は単に見栄えの問題ではないかと思います。
べつに縁が折れ曲がったほうが見栄えがいいとも思いませんが、なんとなく、ただ鍵盤蓋をカパッと開けただけよりは、さらにもう一手間かけて上部を下に向けて折り曲げたほうがいいというふうに、すくなくとも考えられた時代があったのではないかと思うのです。

もちろんこれも単なる想像にすぎませんが。

思い出すのは、ある大手楽器店のピアノ販売イベントに行った折、そこの最高責任者の人が意気揚々と案内してくれて、一台の中古のニューヨークスタインウェイのB型の前でことさら声高らかにこう言い出しました。
「このピアノは、もともとあるピアニストの方が特注されたものです。ほら、ここが折れ曲がるでしょう? これはピアニストの方の要望で、指先が当たらないように特別に作られたもので、スタインウェイでも非常に珍しいピアノなんです!」と、ずいぶん大きな声で言われました。

あまりにも自信たっぷりの説明で、しかも周囲には他にも人がちらほらいて、なるほどという感じに聞いておられたので、「ニューヨークスタインウェイでは、これは標準仕様ですよ!」とはさすがに言えませんでしたが、それにしても、こんな大手楽器店のピアノの最高責任者がこんな程度の認識なのかと思うと、非常に複雑な気分になったことは今も忘れられません。
こういう見てきたようなホラが一人歩きして、いつしかまことしやかに流布されていくのだろうと思うと、いわゆる都市伝説とはおおよそこんなものだろうと思いました。
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ブレンデル

1月のBSプレミアムシアターでは、昨年亡くなった名指揮者クラウディオ・アバドを追悼して、彼が晩年の演奏活動の拠点としたルツェルンのコンサートから、2005年に行われたコンサートの様子が放送されました。

ちょうど10年前の演奏会で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番とブルックナーの交響曲第7番。
ソリストはアルフレート・ブレンデル、オーケストラはルツェルン祝祭管弦楽団。

最近はいわゆる大物不在の時代となり、そこそこの演奏家の中から自分好みの人や演奏を探しては、ご贔屓リストに加えるというようなちょこまかした状況が続いていたためか、アバド/ブレンデルといった大スターの揃い踏みのようなステージは、昔はいくらでもあったのに、なんだかとても懐かしさがこみ上げてくるようでした。

演奏云々はともかく、こういう顔ぶれが普通に出てくる一昔前のコンサートというものは、妙な安心感と豪華さみたいなものがあって、そんなことひとつをとっても、世の中が年々きびしく、気の抜けない時代になってきていることを痛感させられます。

アバドの指揮は歳のせいか、昔のように作り込んだところが少なく、もっぱら友好的に団員との演奏を楽しんでいるように見えましたが、この人もその音楽作りのスタイル故か、それが老練な味になるというわけではなく、どこか中途半端な印象を覚えなくもありません。

ブレンデルのピアノはずいぶん久しぶりに接したように思いましたが、いまあらためて映像とともに聴いてみると、いろいろと思うところもありました。
ブレンデルといえば学者肌のピアニストで名を馳せ、ベートーヴェンやシューベルト、あるいはリストでみせた解釈とその演奏スタイルは、まるで研究室からステージへ直通廊下を作ったようで、テクニックで湧いていた20世紀最後の四半世紀のピアノ界へ新しい価値と道筋を作ったという点では、偉大な貢献をした人だと思います。
生のコンサートでも極力エンターテイメント性を排除し、作品を徹底して解明し解釈を施し、それを聴衆に向けて克明に再現するということを貫いた人でしょうが、それでも現在のさらに進んだ正確な譜読み(正しい音楽であるかどうかは別)をする次の世代に比べると、ブレンデルのピアノはまだそこにある種の人間臭さがあることが確認できましたが、それも今だからこそ感じることだろうと思います。

オーケストラから引き継ぐピアノの入りとか、各所でのトリルなどは一瞬早めに開始されるなど、いい意味で楽譜との微妙なズレが音楽を生きたものにしていることも特徴的でしたし、なにしろ確固たる自分の言葉を持っているところはさすがでした。

ただし冷静に見ると、これほどの名声を得たピアニストとしてはその技巧はかなり怪しい点も多く、この点はブレンデル氏が生涯うちに秘めて悩んでいたところかもしれません。もしかすると技巧が不十分であったことが、彼をあれほど音楽の研究へと駆り立て、それが結果として一つの世界を打ち立てる動機にもなったのかもしれないと思うと妙に納得がいくようでした。
人は自らの背負った負い目を克服する頑張りから、思いもよらないような結果を出すということも多分にあるわけで、彼の芸術家としてのエネルギーがそれだったとしても不思議はありません。

ブレンデルのピアノを聴いているといつも2つの相反する要素に消化不良を起こしていたあの感触が今回もやはり蘇ってきました。ディテールの語りではさすがと思わせるものが随所にあるのに、全体として演奏がコチコチで、音色の変化は無いに等しく、ピアニシモの陶酔もフォルテシモも迫りもないまま、長い胴体をまっすぐに立て、顔を左右に震わせて弾いているだけで、要するに全体として釈然としないものが残ります。
音も終始乾きぎみで潤いというものがないし、ピアノ自体をほとんど鳴らせないまま、この人はただただ思索と解釈、それに徹底した音楽の作法、すなわち音楽的マナーの良さで聴かせる人だったと思いました。

そもそもあれだけの長身で、背中など燕尾服ごしにも非常にたくましい骨格をしており、手もじゅうぶんに大きく、身体的には申し分のない条件を持っていますが、指先にはいつもテープを巻き、不自然なほど高い椅子に座り、どこか窮屈そうにピアノを引く姿、さらにはピアノが乾燥した肌のような音しか出さないのは、見ていて一種のストレスを感じるわけですが、これは彼の奏法がどこか間違っているような気がしてなりません。

非常に才能ある聡明な方に違いありませんが、ブレンデルは専らその頭脳と努力によって、あれだけの名声を打ち立てたのかもしれません。あっけなく引退したのも、もしかしたらそういう限界があったのだろうかとも思いました。

印象的なのは、見る者の心が和むようなエレガントなステージマナーで、こういう振る舞いのできる人は若手ではなかなかありませんね。
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前後で聴き比べ

NHKのクラシック倶楽部は、通常はひとつのコンサートを55分の番組に収めて放送しているものですが、ときどきその割り振りに収まらなかった曲などを拾い集めるようにして「アラカルト」と称し、とくに関係も脈絡もない2つのコンサートが抱き合わせで放送されることがあります。

先日も番組の前後でニコライ・ホジャイノフとアンドリュー・フォン・オーエンの取り合わせというのがありました。
以前見た覚えのあるホジャイノフのリサイタルから放送されなかったベートーヴェンのソナタop.110とドビュッシーの花火、オーエンのほうは悲愴ソナタと月の光という、どちらも現代の若手ピアニスト、近年の来日公演、さらにはベートーヴェンとドビュッシーという、どうでもいいような組み合わせで無理に共通項をつくったようでした。

ホジャイノフは音楽的に嫌いなピアニストではありませんが、さすがにベートーヴェンのソナタは力不足が露呈してしまう選曲で、まったく彼のいいところがでない演奏だと思いました。これだけ有名で、内在する精神性そのものが聴きどころである後期のソナタを奏するからには、それぞれのピアニストなりの覚悟であるとか、収斂された表現など…それなりのなにかがあって然るべきだと思ってしまいますが、ただ弾いているだけという印象しかなく、練り込みやひとつの境地へ到達の気配がないのは落胆させられるだけでした。

曲の全体を演奏者が昇華しきれていない段階でディテールにあれこれの表情などを凝らしてみたところで、ただ小品のような色合いを与えるだけで、聴いているこちらの心の中が動かされるようなものはどこにもありませんでした。
まだ花火のほうが無邪気な自由さがあってよかったようです。

この時の会場は武蔵野市民文化会館の小ホールでピアノはヤマハのCFX、とくに好きなタイプの楽器ではないけれど、非常によく整えられておりヤマハの技術者の矜持のようなものは感じる楽器でした。

変わって、映像は紀尾井ホールへと場所を変え、オーエンの悲愴が始まります。
冒頭の重厚なハ短調の和音が鳴ったとたん「アッ」と思いました。
こちらはやや古いスタインウェイですが、ヤマハとはまるきり発音の仕方が違うことが同じ番組の前後で聞き分けられたために、まるで楽器の聴き比べのように克明にわかりました。
スタインウェイだけを聴いているときにはそれほど意識しませんが、こうして前後入れ替わりに聞かされると、スタインウェイは弦とボディを鳴らす弦楽器に近いピアノであり、ヤマハは一瞬一瞬の音やタッチで聴かせるピアノだと思いました。

ヤマハはいうなれば滑舌がよく単純明快な音ですが、スタインウェイはより深いところで音楽が形成されていくためか、ヤマハの直後に聞くとどこか鈍いような感じさえ与えかねません。

腕に自信のある人が、その指さばきを聴かせるにはヤマハはもってこいで、弾かれたぶんだけピアノが嬉々として反応し、もてる美音をこれでもかとふりまきます。とくにCFXになってからは美音のレヴェルも上がり、洗練された現代のブリリアントなピアノの音が蛇口から水が出るように出てきます。

これに対して、スタインウェイはタッチ感というものをそれ以外のピアノのように前に出すことはありません。
むしろそこを少し控えめにして、作品のフォルムを音響的立体的に表現します。
個々の音もCFXを聞いた直後ではむしろ物足りないぐらいで、ピアニストの演奏に対して過剰な表現は僕はしません!と言っているようです。そのかわり全体としての演奏のエネルギーが上がってきた時などは、間違いなくその高揚感が腹の底から迫ってくるので、ある意味で非常に正直というかごまかしの効かない楽器であるけれども、力のある人にとっては決して裏切られることのない確かな表現力をもった頼もしいピアノだと思いました。

とくに音数が増えたときの結晶感と透明感、低音の美しさ、強打に対するタフネス、それに連なる高音のバランス感などは、まさに優秀なオーケストラのようで、スタインウェイというピアノの奥の深さを感じずにはいられません。
同時にヤマハの音を体質的に好む人の、その理由もあらためてわかるような気がしました。
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印刷体の演奏

日頃から自分が感じていることが、上手く言葉に表現できずにもどかしく思っているところへ、適切に表現された文章に邂逅するとハッとさせられ、胸につかえていたものが消えたような気になるのは、誰しも経験しておられることだと思います。

マロニエ君もそういうことはしばしばなのですが、つい最近も、音楽評論で有名な宇野功芳氏の著書『いいたい芳題』の中に次のような一文があり、思わず「その通り!」だと声を上げたくなりました。
ただしこれは宇野功芳氏自身の文章ではなく、同じく音楽評論家の遠山一行氏(昨年末に亡くなられ、夫人はピアニストの遠山慶子さん)の『いまの音、昔の音』というエッセイから宇野氏が引用紹介されたものです。

「いまの演奏家には草書や行書は書けなくなっており、楷書で書く場合でも、それはほとんど印刷体に近いものになっている」

これにはまったく膝を打つ思いでした。
オーケストラを含めたいまどきの演奏は、表面的にはきれいに整っており、ある種の洗練もあれば技術的裏付けもあるけれど、そこには不思議なほど音楽の本能や実感がありません。サーッと耳を通り過ぎていくだけで、当然ながら深い味わいなども得られない。
これを内容の欠如だとか、情感不足、主体性の無さ等々、あれこれの言葉を探し回っていたわけですが、まさに印刷体という、これ以上ないひと言で言い表された適切な言葉に行き当たったようでした。

いまの演奏は、解釈もアーティキュレーションも流暢な標準語のようだし、技術の点でも科学的裏付けのある合理的な訓練のおかげで非常に高度なものが備わり、その演奏にはこれといった欠点もないように思えるものです。しかし、肝心の音楽の本質に触れた時の喜びとか陶酔感、聴き手の精神が揺さぶられるような瞬間がないわけです。
これはまさに印刷体であって、美しいと思っていたのは、活字のそれだったというわけでしょう。まったく言われてみればその通りで、このなんでもない比喩がすべての違和感を暴きだしてくれたようでした。

これは考えてみればすべてのものが似たような経過を辿っているようにも思えます。
美術の世界もそうで、緻密で色彩の趣味も悪くない、構成力もあって、いかにも考え抜かれた作品というのが近年は多いのですが、作家の生々しい顔とか感性の奔流のようなものがない。
いわゆる作者自身の本音とは違った、計算された企画性のようなものを感じてしまって、すごい作品のようには見えても、精神が反応するような作品はほとんどありません。

芸術作品は破綻するのが良いといったら言い過ぎですが、破綻しかねないぐらいの危険性は孕んでいなくてはつまらないし魅力がないものです。その点で云うと最近の作品や演奏にはそういった危うさがないわけです。

情報の氾濫によって、よけいな知恵は付くし、そうなると評価の取れそうな結果だけを目指すのでしょう。
ある程度の結果が想像できるということは、その結果を見据えて仕事を進めて行くことが、最短距離の賢いやり方のように思えてしまうのが我々人間の思考回路なのかもしれません。

人が純粋に燃え上がることができるのは、案外結果が見えないとき、行き着く先がどうなるかわからないとき、混沌としたものの中に身を浸しているときなのかもしれません。
はじめから表現の割り振りが決まっているようなものは、どう説明されてもつまらないものです。

純粋な表現行為の中には無駄やひとりよがりも多く含まれてリスクも高い。効率よく結果だけがほしい現代人は、なにより無駄や回り道を嫌います。だから印刷体の演奏になるのも頷けます。
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ひとりだけの危険

故障知らずの日本車と違い、数の少ない輸入車に乗るのは、劣悪な条件の下での維持管理との戦いでもあり、いかに趣味とはいえ時としてしんどいものです。

古いシトロエンという特殊性と、それを乗り続けたい弱みから、相当な変わり者のメカニックとのお付き合いを続けていましたが、その忍耐にもさすがに限界が来ていたところ、ふってわいたようなチャンス到来で別のディーラーへ行くようになり、少しばかり状況が好転したことは以前このブログで書きました。

それいらい、ふと感じるようになったことがあります。
というのも、いちおう悦ばしいことに、新しいメカニックの手が入ってからというもの、車の調子が明らかにワンランク上がり、乗っていて楽しい、買った頃の魅力が我が手に戻ってきたような変化が起こったことでした。いまさら前のメカニックの腕を糾弾しようというのではありませんが、技術者というものにも流儀/くせ/センス、あるいはその人の性格や人格までもがその仕事ぶりにかなり出てしまうものです。

これは技術と名のつくすべてのものに通じることでもあると思います。

そしてしみじみ思ったことは、一人の技術者だけに頼り切ることは決して正解ではないということ。
医療の世界でも、医師はいわば人体における技術者です。医療現場ではセカンドオピニオンという言葉があるように、最近では複数の医師の診察を受けて最良と思われる治療を選び取る権利が患者側にも認識されています。

これはピアノも同様のはずですが同様とは言い難いものがある。
調律師とお客さんの関係というのは、いかにも日本的閉鎖的な人のつながりで、ジメッとした人間関係が主導権を握り、技術が優先されることはなかなかありません。なにかというと「お付き合い」が幅を利かせますが、そうはいってもタダでやってもらうわけではなく、それはちょっとおかしくないかと思うのです。
ひとつには、調律師の技術というものがなかなか判断しにくいという事情も絡んでいることもあり、それだけに「お付き合い」といった要素が一人歩きしやすいのかもしれません。

マロニエ君の知る限りでも、あきらかに仕事の質が疑問視されるような場合においても、依頼者は長年のお付き合いという情緒面ばかりを重要視する、もしくは過度の遠慮をして、なかなか別の人にやってもらうという試みをしたがりません。別の人に変えたら、今までの調律師さんに悪い、申し訳ないというような気持ちになるらしいのです。

そういう気持ちがまったくわからないわけではありませんが、基本的にはそんな本質から外れたことでずっと縛られるなんて、こんな馬鹿げたことはないというのがマロニエ君の持論です。
もちろん調律師さんも人間ですから、お客さんが別の人に仕事を依頼したと知ればいい気持ちはしないでしょう。しかし、そこは意を尽くした処理の仕方でもあるし、詰まるところ何を優先するのかという問題でもあるでしょう。

忘れてはならないことは、ピアノはれっきとした自分の所有物なのであって、調律師さんとのお付き合い維持のために調律をやっているのではなく、自分が気持ちよくピアノを弾くことができるように楽器を整えてもらうということです。そのための調律を含むメンテナンスなのであるし、その仕事にはきちんと対価を支払うわけですから、ここで変な遠慮をして、弾く人がガマンをすることになるのは本末転倒というものです。

そもそも調律師さんは何十人何百人という顧客を抱えており、プロとしてやっている以上、その微量が増減するのはどんな業界でも日常のことでしょう。ましてピアノだけが一人の調律師さんと生涯添い遂げる必要なんて、あるはずがありません。

調律師さんと一台一台のピアノの関係は、年に一度か二度、数時間のみと接するのに対して、ユーザーは年がら年中そのピアノとどっぷりつきあっているわけで、ここで変な妥協をしたところでなにも得るものはありません。また、上に述べた車や医者のように、違った調律師さんにやってもらうことで全然違った新しい結果を生むことも大いにあるわけで、それをあこれこれ試してみるのはピアノの健康管理のためには必要なことだと思います。

こう書くとマロニエ君はもっぱら技術優先で、ドライなお付き合いをしているように誤解されそうですが、調律師さんとの人間関係はおそらく平均的なピアノユーザーよりは、遥かに大切にしていると自負しています。
しかし、だからといって夫婦や恋人ではあるまいし、未来永劫その人一筋というわけにはいきません。むやみに技術者を変えるのがいいわけはありませんが、すっきりしないものがあるとか、これはという出会いやチャンスがあったときには、躊躇なく新しい方にもやってもらうのがマロニエ君のスタンスです。
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山葉と河合

NHK朝の連続ドラマ『マッサン』に登場する鴨居商店の大将とマッサンは、のちのサントリーとニッカの創始者であることは驚くべき話ですね。しかもそれぞれのウイスキー「山崎」と「竹鶴」は現在世界で最高位の評価を受けているというのですから呆れるほかはありません。

ウイスキーほどの一般性があるかどうかはともかく、ピアノもかなり似たような感じです。
伝えられることをかい摘むと、ヤマハの創始者である元紀州藩士の出である山葉寅楠は手先が器用で、たまたま浜松で医療器具の修理などをしていた腕を見込まれ、地元の小学校にあるオルガンの修理を引き受けます。それがきっかけで、当時非常に高価だった輸入物のオルガンを安く作ることを思い立ち、やはり浜松で職人をしていた河合喜三郎を誘って数ヶ月かけ、見よう見まねでついには一台のオルガンを作り上げるのです。

その出来映えを東京音楽学校で見てもらおうと、二人はオルガンを担ぎ箱根の山を越え、実に250キロもの道を踏破したというのですから驚きです。これが明治の中頃(1887年)の話。

果たして、この最初のオルガンは音階などが不十分で失敗作に終わったようですが、当時の校長であった伊沢修二は国内での楽器造りを大いに推奨し寅楠は猛勉強を開始。アメリカ留学を経た後、明治33年(1900年)には国産第一号のピアノの作り上げるのですから、今では考えられない活劇のようですね。

帰朝した後に始めたピアノ造りのメンバーには、さまざまな発明などをして浜松で有名だったという若い河合小市も入っており、彼の創立した会社が後にカワイ楽器となるあたりは、まさに『マッサン』のピアノ版といえそうです。

とりわけ最初のオルガン製作と、箱根越えなど苦心惨憺の末に東京までこれを担いで行った二人が、山葉と河合であったというのは、まるで出来すぎの三文芝居のようですが、どうやらこれは事実のようです。

山葉寅楠と河合喜三郎は共同で山葉楽器製造所を設立しているようで、喜三郎が河合楽器の創始者である河合小市とどういう関係であるのか(あるいは関係ないのか)がいまひとつよくわかりませんが、いずれにしろそのまま朝ドラか大河にしてほしいような話です。

当時の日本といえば、ピアノの製造の経験はおろか、音階も満足に理解できない西洋音楽の下地もなかった明治時代で、そんな時代の日本人が、最初のアップライトピアノを作り上げたのが1900年、つづく1902年にはグランドを完成させ、ここから世界的にも例の無いような急成長を遂げるのです。
この山葉と河合はのちにヤマハとカワイとなって世界的なピアノメーカーへ輝かしい階段を一気に駆け上り、奇跡のような成功をものにするのですから、やはり日本人の特質は尋常なものではないと思います。

自ら開発することなく、既製の技術力を外国から投下され(もしくは盗み取って)、物理的な生産にのみこれ努めるどこかの国とは根本的に違います。
はじめのオルガン作りからわずか百年後、東洋の果ての小さな島国で生まれたヤマハとカワイは、欧米の伝統ある強豪ピアノメーカーをつぎつぎに打ち破り、ついにはショパンコンクールの公式ピアノに採用されるなど、今ではこの二社はピアノ界で当たり前のブランドになっています。

わけても有能な設計者でもあった河合小市の存在は、日本のピアノの発展史に欠くべからざる能力を発揮したようで、複雑な精密機械ともいえるアクションの開発には特筆すべき貢献をしたといいます。
以前もどこかに書いたかもしれませんが、カワイのグランドピアノの鍵盤蓋にだけ記される「K.KAWAI」の文字はまさに河合小市この人のイニシアルなのです。

まさにピアノのマッサンですね。
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ヤマハの木目

ピアノの木工・塗装の工房では、ちょっと不思議な話も聞けました。

工房のすぐ脇には、作業を待つヤマハの木目のグランドが置かれていましたが、見たところアメリカンウォールナット(たぶん)の半つや出し仕上げで、楽器店の依頼で化粧直しのため運び込まれたピアノのようでした。

「ヤマハのグランドで木目というのは、意外に少ないですよね…」というと、その方いわく、ヤマハの木目グランドというのは不思議なことに買った人がすぐに(数年で)手放してしまうのだそうで、すでに何台もそういうピアノを見てこられたようでした。

かねてよりマロニエ君の中では、ヤマハのグランドってどういうわけか木目がしっくりこないピアノだというイメージがあったので、この言葉を聞いた瞬間に何かしら符合めいたものを感じてしまいました。
黒よりも価格の高い木目仕様をあえて選ぶ方というのは、ピアノに対して単に音や機能だけでないもの、すなわち木目のえもいわれぬ風合いとか色調など、これらの醸し出す雰囲気へのこだわり、あるいは真っ黒いツヤツヤした大きな物体が部屋に鎮座することへの抵抗感など、さまざまな感性を経た結果の選択だと想像します。
そういう情緒的な要求に対してヤマハのグランドというのは何か少し違うような印象があったのです。

ヤマハのグランドといえば音大生とかピアノの先生、学校などが、訓練のための器具として使い切るためのピアノというイメージが強いのでしょうね。

こう書くとヤマハグランドのユーザーの方には叱られるかもしれませんが、そこにたたずむだけで何かしらの雰囲気が漂うとか、美しい音楽の予感とか、温かな心の拠りどころのようなものを連想させるキャラクターではないのかもしれません。せっかく買っても、わずか数年で多くの人が手放してしまうということは、実際に身近に置いてみて、予想と結果に何かしらの齟齬のようなものを感じてしまうからなのでしょうか…。

ふと、十数年以上も前のことで、すっかり忘れていたことを思い出しました。
当時、親しくしていたピアノの先生を車の助手席に乗せて走っていたときのこと、郊外にある当時としてはちょっとオシャレなレストランの前を通りかかると、その先生は「あ、ここ、ぼくが以前使っていたピアノが置いてある店だ。」と言いだしました。それによれば、以前ヤマハのウォールナットのグランドを持っていて、それを今のピアノに買い替えたというのです。

ところが、いきなり「木目ってよくないから…」と言い始めたのにはびっくりでした。
その理由というのが「木目ははじめは珍しさもあっていいんだけど、だんだん飽きてくる。あれはやめたほうがいい…」ということ。そして「やっぱり黒がいい!」というわけで、聞いていてひじょうに驚いたものの、あまりにも自信をもって断定的に言われたので、その空気に圧倒されて、その場では敢えて反論はしませんでしたが、これは当時かなりインパクトのある意見でした。

木目なんぞまるで邪道だといわんばかりで、ニュアンスとしては、だからピアノが主役じゃないレストランみたいな場所にはちょうどいいかもしれないが、本来はピアノは黒が正当な姿だと本心で思っているらしく、その感性にはただただ呆気にとられたものです。

メーカーの教室で多くの先生を統括する立場の先生でしたから、そのときはあたかもピアノの先生の代表的な意見のようにも感じてしまいましたが、むろんそれは彼固有のもので、木目のピアノを好まれる先生もおられることでしょう。しかし、きほんピアノの修行に明け暮れた人たちというのは、ピアノは愛情愛着をもって接する楽器というより、使って使って使い倒す道具という意識が強い方が多いのも確かなようです。こうなると実際に木目ピアノを所有しても、良さは感じないのでしょうね。

ただ、マロニエ君のイメージとしては、ヤマハのグランドはやっぱり黒で、どんなにガンガン使われても決してへこたれない逆境にも強いピアノという感じが一番です。なにしろタフで、そんな頼もしさが使い手/技術者いずれからも厚い信頼を得ている…そんな姿が一番似合うように思います。
そう考えると、木目の衣装を着こなすピアノではないというのも頷けます。
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2015新年

あけましておめでとうございます。
このブログも5年目を迎えました。
懲りもせず、よくもくだらないことを書き続けたものですが、もうしばらくは続けるつもりですので、おつきあい願えればこの上もない幸いです。


暮れの30日の夜は、ある調律師の方がやっておられる木工塗装の工房に呼んでいただいたので、滅多にない機会でもあり、ちょっとお邪魔させていただきました。

ピアノの技術者や店舗の中には自前の工房があり、そこでピアノの修理やメンテを手がけられる方がいらっしゃいますが、オーバーホールやクリーニングともなると、作業工程の中には塗装や磨きも外せない項目として含まれます。
しかし、塗装にまつわる技術というものは、ピアノ技術者にとってはいわばジャンル外の作業であり、こちらは大抵の場合アマチュアレベルに留まるのが現実でしょう。

全体としては、せっかくの丹誠こめた作業であるにもかかわらず、塗装に難ありでは最上級の仕上がりとは言えないピアノとなり、勢い商品価値は下がります。そこではじめからこの点はきっぱりあきらめて、塗装の専門業者へ任されるスタイルも少なくないようです。

オーバーホールなどでは、鍵盤とアクションを抜き取り、弦もフレームも外した、まさに木のボディだけを塗装の専門業者へ送るというスタイルの方もおられ、これは「餅は餅屋」の言葉の通りの各種分業で合理的ですが、逆にいえば一人あるいは一カ所で全部をこなすのは至難の業ということでもあるのでしょう。

当たり前ですが、木工・塗装というのは独立したジャンルであり、いわゆるピアノの修理技術の延長線上にはない別の技術であって、むしろ家具製作などの領域だといえるかもしれません。

少し話を聞いただけでもよほど奥の深い世界ということは察せられ、日々の研究も怠りないようで、いずれの道も究めるのは容易なことではありません。それだけに興味も尽きない分野だとも思いました。
プロの塗装作業のできる調律師さんというのは、いわば二足のわらじを履くようなもので希有な存在であるわけです。
この方は木工職人として、そちらの方面の全国大会にも作品を応募される常連の由ですが、その中でピアノ技術者はこの方だけというのですから驚きです。

その工房はピアノ運送会社の倉庫の一隅に塗装エリアを設けられたもので、倉庫内にはたくさんのピアノが並んでいましたが、やはりグランドは少なく、大半はアップライトでした。
マロニエ君はつい習慣的にグランドかアップライトかという目で見てしまいますが、現実はそんな甘いものではなく、最近は「ピアノ」といっても販売全体の実に8割までもが電子ピアノなのだそうで、アコースティックピアノは需要のわずか2割にまで落ち込んでいるとのことで、わっかてはいても衝撃でした。

昔のように無邪気にピアノをかき鳴らせる時代でないことは確かで、近隣への音の配慮や複雑な住宅事情など、複合的な理由からそうなっているのでしょうが、大筋では、やはり世の中が文化などの実用から外れたものに対する精神的な優先順位が低い時代になってきているというのは間違いないように感じてしまいます。

というわけで、今年はどんな年になるのやらわかりませんが、せめて大好きな音楽だけはなにがあろうと聴き続けていきたいところです。
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わからぬまま

来年はショパンコンクールの開催年ですが、このコンクールの歴史にはポリーニやアルゲリッチのようなスーパースターを排出した経緯があるいっぽう、優勝者の該当なしで幕を閉じるという珍事が1990年と1995年に立て続けに起こりました。

このため2000年の第14回では「なんとしても優勝者を出す」という強い方針のもとでコンクールは開かれ、ブーニンいらい15年ぶりに優勝を飾ったのがユンディ・リであったことは良く知られているところです。

優勝者を出すか否かは非常に難しい問題だと思います。
ショパンコンクールといえばまさにピアノコンクールの最高峰で、そこには自ずとコンクールの権威というものが深くかかわってくるでしょう。
相対的1位が優勝か、あるいは真に優勝に相応しい才能だとみとめられた者が名実ともに優勝者となるのか…。

若いピアニストの質を問うという厳格な観点から見るなら、その栄冠に値する者がいないとみなされた場合、優勝者なしという結果で終わらせるべきかもしれません。しかし、いかにショパンコンクールといえども運営という側面があり、優勝者不在となれば5年にいちど世界が注視するこのコンクールがぱったりと盛り上がらなくなるのも現実です。
もっとも注目度の高い、国をあげてのお祭りイベントでもあるだけに、その主役が空席になることは許されないのかもしれません。

つい先日ですが、その優勝者不在の1990年と1995年に連続出場し、二度目に第2位となったフィリップ・ジュジアーノのコンサートを聴くため、福岡シンフォニーホールに行きました。

曲目はショパンの前奏曲op.45、バルカローレ、バラード全曲、スクリャービンのop.8のエチュード全曲他というものでしたが、聞こえてきたのは、まるで軽いランチのような演奏で、このピアニストの聴き所はいったいどこなのか、ついにわからぬまま会場を後にしました。ショパンはもちろん、スクリャービンに於いても作品の真実に迫るものはあまりなく、表現も強弱も、小さな枠の中でかろうじて抑揚がつくだけで、ほとんど変化に乏しいものでした。

当然ながら聴衆もテンションが上がることなく、マロニエ君の近くでもかすかな寝息が左右から聞こえてきたほか、休憩時間に会場でばったり会った知人も「寝てましたね」とこぼしていたほどでした。これでは、わざわざチケットを購入し会場に足を運んだ側にしてみれば、満たされないものが残るのもやむを得ません。

ジュジアーノ氏は長身のフランス人で現在41歳、心身共にもっとも力みなぎる時期だと思われますが、そんな男性ピアニストが、淡いレース編みのような演奏に終始することに不思議な印象を覚えてしまったのはマロニエ君だけではなかったはずです。

ピアニストの中には大きな音を出してヒーローを目指す向きもありますが、それは腕自慢なだけのいわば野蛮行為で、むろんいただけません。そのいっぽうで、立派な体格の男性が、骨格のないタッチでさらさらと省エネ運動みたいな演奏をすることは、これはこれでかなりストレスです。

コンサートというものは、演奏者の個性や才能を通して出てくる音楽の現場に立ち合うこと。その演奏に導かれ、酔いしれ、あるいは翻弄され、心が慰められたり火が灯ったり、場合によっては打ちのめされたいということもあるでしょう。それが何であるかは、演奏によっても受け止める側によっても異なりますが、なんらかのメッセージを得られないことにはホールに足を運ぶ意味がありません。

厳寒の公園を早足で駐車場へ向かいながら、優勝の「該当者なし」という判断が二度も続いた当時の審査員の苦悩がわかるような気がしました。
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演奏姿勢と音楽

いつだったかNHK日曜夜のクラシック音楽館で、我が地元である九州交響楽団の演奏会の様子が採り上げられ、小泉和裕氏の指揮で演奏機会の少ないブルックナーの交響曲第1番のほか、前半にはアンドリュー・フォン・ オーエンをソリストに迎えてシューマンのピアノ協奏曲が演奏されました。

会場はアクロス福岡シンフォニーホールで、見慣れた会場がテレビカメラを通して見ると、実際より立派なところのように見えることに驚きました。映像というのは不思議で、立派なものがしょぼくれて見えることがあるかと思えば、このようにそれほどでもないものがやけに立派に映し出されたりするようです。

九州交響楽団は福岡市に拠点を置く九州でもっとも歴史あるオーケストラですが、なかなかコメントする気にはなれないというのが正直なところ。

ピアノのアンドリュー・フォン・ オーエンは、少なくともマロニエ君にとっては特別な個性や魅力をもったピアニストとは言い難く、かろうじて回る指をもっていることからなんらかのチャンスを得てピアニストになってしまったのか、どちらかというとプロ級の腕をもったアマチュアといったら悪いけれども…そんな印象です。

最近は女性の演奏家の中には明らかにビジュアル系で売っている人が少なくありませんが、このオーエンも失礼ながらそちら系というか、ピアノの弾けるイケメンでステージに立っている人という気がしなくもありません。

彼を見ていて、今回はあるひとつのことに気がつきました。
いい演奏というものは、そのパフォーマンス中の姿勢や身体の動きにも現れるということです。
演奏姿勢の美しい人は演奏それ自体も無理がなく、音もリズムものびのびしていますが、身体の動きのおかしな人は、それが演奏になんらかの影響が現れているといえるようです。

極端に低い椅子で演奏したG.G(グレン・グールド)などは、その点で例外ともいえそうですが、彼の腕から指先の動きはきわめてまともで、とりわけ手首から先の無駄のない動きに至っては見ているだけでも惚れ惚れするほど美しいことこの上ありません。

オーエンの上体は意味不明な動きを繰りかえし、それが音楽的な必然とも思われず、見ていて気にかかります。左手など、なにかというとシロウトのようにだらしなく手首を下げたりと、いわゆるプロとしての修行をきちんと積んだ人なのか疑わしくなります。
音楽的にも線が細くて一貫性に乏しいのは、この人がこれといった根幹を成していないためではないかとも思えました。

そういえば、朝の番組で放送された日本音楽コンクールのピアノ部門でも、上位4名が抜粋で紹介されましたが、演奏にあまり好感のもてない人は、やはり姿勢や動きが不自然で、気合いだけでピアノをねじ伏せるように弾いているようでした。
ひとりだけまあまあと思える女性がいましたが、その人はピアノと格闘せず、音楽の波に乗った演奏ができていたと思いましたが、やはり姿勢もとてもきれいなことが印象的でした。

ピアノに限りませんが、楽器や機械を操作する、あるいはなにかの動作をするというときに、その姿が美しいのは、単にみてくれが良いというだけではなく、そこには機能美としての裏付けがあるからだと思います。
ゴルフのスイングひとつ見てもわかりますが、プロはまったく無理のない最小限の動きでボールをいとも軽々と遠くへ飛ばしますが、政治家などアマチュアのそれは変なくせがあって無惨なばかりのフォームです。

演奏の姿勢や動きがどこかおかしい人は、やっぱりそこから紡ぎ出される音楽も、姿形があまり美しくはないという、考えてみれば当たり前のようなことを確認できたということでした。
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小さな巨人

ピアノ仲間が久しぶりに集まりました。

ピアノ弾き合いサークル系は苦手なマロニエ君ですが、こうして個人同士で声かけあって顔を合わせるのは大歓迎で、楽しい時間を過ごすことができました。

今回は戦前のハンブルク・スタインウェイをお持ちの方の自宅に集まっておしゃべりをし、気が向いた人がピアノを弾くというゆとりある時間のすごし方でした。

ここにあるのはスタインウェイのグランドの中では一番小さなModel-Sで、奥行きはわずか155cmに過ぎませんが、ドイツでリニューアルされており内外はピカピカ、木目もあでやかで、なにより全身が発音体のように鳴り切るのは、いまさらながらスタインウェイの伊達じゃない凄さを感じずにはいられません。
まさに小さな巨人と呼びたくなるような極上のピアノです。

奥行き155cmといえば、ヤマハでいうならC1よりも小さく、定番のC3とくらべると31cmも短いのですから、いかにスタインウェイとはいえ、そこはサイズなりのものでしかないと思うのがふつうでしょう。
ところが、そんな常識がまったく通じないところがスタインウェイのすごさで、サイズからくるハンディは実際には微塵も感じません。もちろん同様コンディションのより大きいモデルを並べればさらなる余裕が出てくるでしょうが、一台だけ弾いているぶんには、まったくそれを感じさせない点はスゴイ!というよりほかありません。

とくに通常の小さなピアノでは避けられない低音域の貧しさ、音質の悪さは如何ともしがたく、あきらめるしかない点ですが、このピアノではそんな言い訳もあきらめもまったく無用です。

このピアノの購入にあたっては、マロニエ君もいささか関与した経緯もあって、それがあとから疑問を抱くようなことになれば責任を感じるところですが、このピアノは弾かせていただくたびに新鮮な感銘を覚えます。
実はこのピアノのオーナーは、購入時このピアノの存在は知りつつも、スタインウェイ購入ともなれば大型楽器店からの購入を本意とせず、むしろ名のある技術者がやっている専門店から、その技術もろとも買いたいというこだわりを持っておられました。

むろん名人のショップにも足を運び、そこにあるハンブルクのA(こちらもリニューアル済み)にかなり傾いておられたのですが、マロニエ君としてはもうひとつ納得が行かず、大型楽器店にあるSのほうが断然いいと感じたので、こちらを強く推奨しました。

もちろん最終的にはご当人が正しい決断が下されてこのピアノを買われた次第ですが、それは数年を経た今でもつくづく正解だったと思います。
このピアノは商業施設のテナントである有名な大型楽器店の店頭に置かれていましたが、ずいぶん長いこと売れない状態でした。おそらく店の雰囲気とスタインウェイという特別なピアノのイメージがどこかそぐわず、このピアノの有する真価が見落とされてしまったものと思います。

今どきのような表面上のキラキラ系の音ではなく、輪郭と透明感がある太い音、加えてコンパクトなサイズをものともしないパワーがあって、このピアノなら、会場しだいではコンサートでもじゅうぶん使うことが可能だと思います。

とくに、ちょっと離れた位置で聴くその艶やかな音は感動ものです。
この日、全員が体感したことですが、ピアノに手が届くぐらいの距離で聴いているといろいろな雑音が混ざって生々しい音がするのですが、そこからわずか2〜3m離れただけで音は激変、まるでカメラのフォーカスがピシッと決まるように美しい音となり、流れるように広がります。
それはスタインウェイがどうのと云うより、純粋にみずみずしく美しいピアノの音で全身が包まれるようで、マロニエ君もいつかこんなピアノが欲しいものだと思ってしまいます。

もちろん戦前のピアノには長年の管理からくる個体差も大きく、リニューアルの仕方によっても結果はさまざまで、すべてのヴィンテージスタインウェイが同様だと云うつもりはありません。
でも、丹念に探せば、中にはとてつもない魅力にあふれた個体があることも事実です。
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ラッカーとポリエステル

我が家のカワイはGS-50というモデルで、カワイの系譜として見ればことさら特殊でもないけれども、いわゆる保守本流でもないという、いわば過渡期的なシリーズのようです。
中途半端といえばそれも否定できません。

製造年は1985年あたりで、すでに約30歳ですが、この時期のカワイグランドはKGシリーズ全盛期で、そこへ別流派として発生したモデルというべきでしょうか。

聞くところでは、ヤマハがGシリーズと同時並行的にCシリーズを発売し、より華やかな音色のピアノが支持されたことで、同じ市場を狙ってカワイが対抗機種として発売したものだとか。
GSシリーズはスタインウェイを意識してか、弦のテンションを低めに設定するなど、さまざまな新基軸を盛り込んだようですが、それがどういうわけかアメリカで高い評価を受けたといいます。

GSシリーズは30を皮切りに次第にサイズを拡大し、ついにはGS-100というフルサイズのコンサートグランドまで作られます。これはEX登場までのカワイのフラッグシップでしたし、EX登場後も長いこと、GS-100はちょっとお安いコンサートグランドという、よくわからない立ち位置でカタログに載っていました。

実際にGS-50を長年使ってみて、そんな逸話がふさわしいほどのピアノだとは…正直思っていませんが、それでもカワイの沈んだような音色がそれほど顕著ではないし、かといってキンキンうるさいタイプの音でもないのがこのシリーズの特徴かもしれません。特筆すべきは、キーがカワイとしては例外的に軽いなど、いわゆる「これぞカワイ!」という基準からは、あちこち外れたところのあるピアノだとは思います。

積極的にこれを選ぶ理由もないけれど、意に添わないヘンなピアノよりは、よほど良心的といったところでしょうか。このGSシリーズが後のCAシリーズに受け継がれます。

すっかり前置きが長くなりましたが、わけあってこのピアノを一度磨いてもらうことになり、ピアノの塗装の専門業者の方に来ていただきました。
下見のときにわかったことですが、このピアノはなんと今はほとんど使われることのないラッカー塗装で、いわれてみるとなるほどと思う音の響きがあることに気がつきました。
もともと大したピアノではないので、たかが知れているものの、ラッカーはそれなりに音が柔らかくふわっと響くと思います。

その点、ポリエステル塗装はやはり響きが固い印象です。固いのみならず、むしろボディのもっている響きというか、全身が振動しようとするのを、ポリエステルで押さえ込んでしまっているという印象です。

近年はスタインウェイでさえポリエステル塗装が当たり前のようになっていますが、その理由はまさにコストと強靱さのようです。塗りの工程も簡単かつ塗装面が強くておまけに製品的に美しいので、多少の響きを犠牲にしてでもこちらが選ばれるのは現代の価値観からすれば当然なのでしょう。
全般的な材質の低下などと併せて、要はこういう要素が幾重にも積み重なることによって、現代のピアノのあの感動からほど遠い音ができているのだということが納得できるようです。

さて、そのGS-50ですが一時間ほどの手磨きでしたが、かなりピカピカになって気分も新になりました。本格的な磨きになれば機械を使っての大々的な作業になるようです。

ピアノの木工や塗装を得意とする職人さんとはじめてお話しできましたが、なんとなれば黒から好みの木目ピアノにもリニューアルできるなど、なかなかおもしろそうな世界のようで、聞いていてウズウズしてしまいました。
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玉石混淆

これは名前を出すべきではない内容だと思われるので、一切の固有名詞は伏せての文章となることを予めお断りしておきます。

あるピアニストのことを採り上げた本を読んでいると、マロニエ君もむかし一度だけ行ったことのあるピアノ店の名前がしばしば出てきました。この店ではピアノを販売するかたわら、音楽教育にも熱心なようで、様々な先生や演奏家を招いて講習会などを開催したり、中には海外のピアニストを招いてのレッスンまでやっているということが書かれています。

どんなものかと興味を覚え、この店の名を検索してみると、すんなりホームページにアクセスすることができました。

そのトップページに、なんだかちょっと気になるピアノの写真が出ていますが、詳細に見るには小さくてよくわかりません。全体としてはスタインウェイのように見えるものの、どうもそうでもない…。

そこでこの会社の取り扱いピアノを見てみると、その中に、これまで聞いたこともない仰々しいネーミングのピアノが紹介されているのを発見。それは世界的に有名なある建造物の名で、そんなブランドのピアノがあるなんて、すくなくともマロニエ君はまったく知りませんでした。

説明によれば、ずいぶん古い歴史のあるブランドのような記述があるものの、ほどなくこれは中国製ピアノであることが判明。
中国メーカーがよく使う手で、廃絶したヨーロッパのピアノブランドの商標を安く買い取ってはなんの繋がりもないピアノにその名を冠し、さも由緒正しきピアノであるかのようにでっち上げるというもの。

このピアノ、実を言うとマロニエ君にはちょっとした心当たりがありました。
数年前、上海のあるピアノ店を覗いたときのこと、スタインウェイのA型と瓜二つの外観をもったピアノが置かれていましたが、鍵盤蓋に刻まれた名前は日本のある県名のようでまったく意味不明、書体もダサダサ、音はビラビラのまさに三流品以下といったものでした。
しかし全体のフォルムから細かなディテールにいたるまでハンブルク・スタインウェイそのもので、まさに外観はModel-Aのコピーといって差し支えないものでした。
さすがは中国!ピアノもここまでやるのかと呆気にとられたものでした。

後でこのピアノのことをネットで調べてみると、上海のピアノメーカーのようで、その日本的な名前が何に由来するのか、中国語ではまったく知ることはできませんでしたし、それ以上の努力をしてまで知りたいという意欲もありませんでした。

話は戻り、日本で売られているらしい、この仰々しい名の付いたピアノは、おそらく上海で見たあのスタインウェイもどきだと直感しました。むろん確たる裏付けはありませんが、細かいディテールに関することもあり、おそらくそうだと思います。さらに中国産ピアノでは、まったく同じピアノにあれこれの名前をつけ換えて別ブランドにするなど朝飯前です。

それにしても、それほど教育活動にも熱心で、海外の一流ブランド品まで取り扱うようなピアノ店が、なぜこんな怪しげなピアノを売るのか、そこが理解に苦しみます。
もちろん中国製ピアノは粗利が多いのだそうで、おそらく仕入れ値などは信じられないほど安価なんでしょうから、営業サイドからすれば儲かると判断したのかもしれません。でもこんなピアノを扱うことで店のイメージは大いに損なわれ、ひいては利益どころか取り返しのつかないマイナスだとマロニエ君が経営者だったら考えるでしょう。

ましてや世界的名器に混ぜ込むようにして、そんなピアノを販売するということは驚き以外のなにものでもありません。最高ランクのものを熟知している店が販売しているのだから、決して変なものではありません、良心的なピアノですよ、という言外の品質保証を匂わせているようなものです。

聞くところではウソの名人というのは、真実の中にウソを巧みに織り込んでいくのだそうで、世界的名器や著名ピアニストに混ぜてこんなピアノをお買い得品として推奨するのは、ある意味最も悪質という気がします。

動画でそんなピアノの宣伝の片棒を担がされている先生やピアニストも、ただただお気の毒というほかはありません。
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理性の采配

Eテレのクラシック音楽館では先月おこなわれたNHK音楽祭の模様がはやくも放送され、ユリアンナ・アブデーエワのピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴きました。
指揮はマルティン・ジークハルト。

隅々までぬかりなく堅固な意志の行き届いた、お見事と云わせる演奏でした。
音の粒立ちが素晴らしく、とくに1/3楽章の速いパッセージなどでは音符のすべてが明晰かつ凛としており、アブデーエワの持つ演奏技術の素晴らしさをまざまざと見せつけられるようでした。

しかし、音楽の根底にあるものが歌であり踊りであるということを考えると、アブデーエワの演奏はいささかそれとは異なる目標が定められているのでは…とも感じられます。

あまり多くはない歌いまわしやルバートも、自然発生的というより台本で予定されている観があり、モーツァルトの音楽には少々そぐわない気がしたことも事実。基本的にはこの人の演奏は、遊びや冒険を排した理性の采配そのものと、随所に覗くピアニスティックな要素で聴かせる人だと思いました。

それなりの解釈の跡も見受けられますが、むしろ傑出した指の技術と、それを決してひけらかすためには用いないという自己主張が前に出ていて、「できるけどしない」というかたちでの力の誇示が、却って大人ぶっているようで鼻につく感じがあります。
それでも、これぐらい揺るぎなくきっちり弾いてもらえるなら、とりあえず聴くほうは演奏技巧の見事さに感心するのは確かです。

全体を振り返って感じるのは、この人に著しく欠けているのは音楽に不可欠の即興性や燃焼性、もっと単純にいえば率直さだろうと思います。
いかなることがあろうとも情に動かされない、不屈の精神の持ち主のようで、音楽家でが音楽的感情に動かされないということが、本来正しいのかどうか…。

ともかく、その日その場で反応していく「霊感の余地」を残さないのは、このピアニスト最大の問題点のような気がしますし、わけてもモーツァルトのような一音々々に神経を通わせて、センシティブな呼応を重ねていくような音楽で、事前にカッチリ錬られた作り置きみたいなパフォーマンスを完結させることはどうも感覚的にそぐわないものを感じます。

まあ、ひとことでいうなら、いかなる場合も決して波長がノッてこないのは聴く側の期待する高揚感をいちいち外されていくようで、なぜそんなにお堅く処理してしまうのかわかりません。

単に上手いだけでない、器の大きなピアニストを聴いたという印象には確かなものがある反面、いい音楽を聴いたという満足とはちょっと食い違った印象が手足を捉えて離してくれない…それがアブデーエワのピアノだという気がしました。

アンコールでショパンのマズルカを弾きましたが、こんな場面でちょっとした小品を弾くのにも、絶えず強い抑制がかかっているようですっきりできません。ひどく窮屈な感じがあり、少なくとも演奏によって作品が解き放たれる気配がないのはストレスを感じます。

余談ながら、黒のパンツスーツ姿がトレードマークのアブデーエワですが、それがさらに進化したのか、黒の燕尾服のようなものにヒールのある靴を履いた姿はまさに男装の麗人、川島芳子かジョルジュ・サンドかという出で立ちでした。
実はこれまで、服装は音楽とはとりあえず関係ないと思ってきましたが、彼女の優しげな眼差しはまるで少年時代のキーシンを思い起こさせるようでとても可愛らしいのに、そんなビジュアルの逆を行かんばかりのガチガチの服装は、その演奏の在り方にも通じるのではないかと、さすがの今回は思わずにはいられませんでした。
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うわさのこわさ3

本のタイトルは忘れましたが、櫻井よし子氏の著書の中で、次のようなことが書かれていたのをふと思い出しました。

大まかな意味だけしか覚えていませんが、要するに、本当に大事な話とか、大切な内容をしっかり人に伝えるには、相手の目を見てゆっくりと静かに語りかけることが必要であるというようなことでした。

討論の場でも、大きな声を張り上げて自説をまくし立てるのは得策ではなく、あわてず冷静に、むしろ静かな調子で話をするほうが、相手は自然と耳を傾けるのだそうで、これはなんとなく「音楽的感動の多くがピアニシモに依存されている」という原理とも符合しているように思えました。

そして多くの調律師さんは、まさにそういった要素をある程度満たした語り術をごく自然のうちに身につけているようにも思えてしまいます。

一般論として、調律師さんの大半が話し好きであることは折に触れ書いてきました。
技術系の人が自分の技術の話をするのは、専門家としての自負と、一般に理解されないという欲求不満とがないまぜになって、ことさら語りたい願望があるのかもしれません。
わけても、調律師さんは仕事柄、お客さんと一対一で静かに話がしやすい状況にあり、その点では恵まれた舞台がけを持っているということになるようにも思えます。

なにかというと出てくる武勇伝は数知れず、他者の批判やさりげない否定は三度のメシよりお好きといった向きも少なくありません。しかも、一部例外はあるとしても、大半は言葉や態度はきわめてソフトであるし、いかにも慎重めいた言い回しをされるなど、これはまさに周到なトーク術というべきものだと思います。

マロニエ君などは聞いているぶんにはいろんな意味でおもしろく、じっさい勉強にもなるので調律師さんの話を聞くのは嫌いじゃないというか、むしろ好きなほうだと思います。
ただ、いかにも「ここだけの話ですが…」的な調子で、しかも自宅という閉鎖された空間で、他者に遮られることも反論されることもないまま、ひたすらひとりの技術者の話のみを聞いていると、つい相手に引きこまれてしまうという特別な状況下におかれることも否定できません。

とくにこの手のトークに免疫のない人にとっては、まさに赤子の手を捻るも同然で、一種の催眠術的…といえば大げさかもしれませんが、抵抗力の無い人間がいかに語り手の狙い通りに話を聞いてしまうかというのは人間の心理作用としてすでに証明されていることです。
少なくとも聞き手はこの時点で、一時的な痴呆状態に陥っているともいえるでしょう。

おまけに意味深かつ表現力のあるピアニシモで語られると、これは変な喩えですが、ある意味、くどきにも似たエロティシズムも加わって、イヤでも納得させられる状況に追い込まれます。同時に、そんなトークのネタにされる同業他者はたまったものではないだろうなぁ…と思うこともないではありません。
それでも楽しく聞いてしまうマロニエ君もマロニエ君ではありますが。

ウワサ話やおしゃべりは一般的には女性の得意分野のようにされていますが、本当にこわいのは男の知性でコントロールされた「それ」なのかもしれません。
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うわさのこわさ2

ピアノの調律の極意や判断基準がどこにあるのかは、マロニエ君もいまだにわかりません。

調律する際に出す音、もしくはタッチ如何によっても大きく違ってくるようで、我が家に来られる技術者のおひとりは、終始繊細なピアニッシモで調律をされ、それはそれで長い話になるほどの理由と根拠があってそうされているわけです。

しかし、おそらくはフォルテで行う調律にもある一定の理由があり、むやみに全否定してしまっていいものか…というのがマロニエ君の偽らざる印象です。
ウワサの対象になった方の調律によるコンサートは何度も聴いていますが、ピアノの音に感銘を受けたことも幾度かあったほか、まったく同じピアノ/ピアニストで別の調律師がおこなった調律では、明らかに音が平凡で輝きも迫りもなく、それに気付いた人も何人かおられたほどでした。
やはりこれは誰にでもできることではないと思います。

むろん好みはあって当然で、マロニエ君も素晴らしいとされるものにも自分の好みでないものはたくさんあります。しかしひとりの技術者としての在り方を根本から否定するのであれば、それがどこまで正鵠を得ているのかと、ここは強く疑問に思うのです。

…しかし、しょせんウワサや悪評というのは、そもそもが好い加減で、そのための検証とか真偽の確認なんてされることのほうが少なく、大抵は無責任で残酷なものだと相場は決まっています。することなすことすべてが否定や非難でおもしろおかしく語られ、人から人へと広まっていくのは、なんだかとてもやりきれないものを感じてしまいます。

それに拍車をかけるのは同業者による批判でしょう。
職人とか技術者というのは伝統的に閉鎖的かつ自己肯定型の世界です。それだけ他者や他の流儀を受け容れない本能みたいなものがあるのかもしれません。(中にはその体質を逆手にとって「自分は人の技術も大いに認めていますよ」という謙虚さを妙にアピールする人もいたりします。)

いずれにしろ、専門家は専門家であるが故に、いかにも説得力ありげな自説を展開でき、さらには門外漢にその判定は甚だ難しいために、反論もできずに一方的にお説を承ることになります。

おしなべてピアノ技術者は相手がなるほどと思ってしまうようなトークが不思議なほど上手いので、大抵の人は意のままにコントロールされてしまうでしょう。ここで言う「大抵の人」とは、技術者ではないほとんどの人達で、むろんピアニストや教師の類もこれに含まれます。

このような同業者のコメントによって、ウワサは単なるウワサではなくなり、いわば専門家によって裏書きされたものとなって、さらにエネルギーを増していきます。

この先生の場合も、ウワサの予備知識があったところへ、名人らしき出入りの調律師さんがこの件ではずいぶんいろいろなコメントをして帰ったようで、それが決定的となり、件の調律師さんの悪評はいよいよ不動のものとなってしまったようです。
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うわさのこわさ

むかし、「ウワサを信じちゃいけないよ!」と歌い出す歌謡曲がありましたが、ウワサというのはえてして信じやすく、とくに悪いほうのそれは一種魔物のような恐さを感じることがあるものです。

それが真実であっても、なくても、ある段階を超えると、いつしか事実以上の力をもってしまうのがウワサの恐いところです。とくに否定的な内容であればあるだけ、そのウワサには勢いがついて闊歩するさまは、ほとんど竜巻みたいなものかもしれません。

ある調律師さんに関するウワサを耳にしましたが、この方は調律の際の音出しで、フォルテを多用して仕事をされるのが特徴のひとつです。
マロニエ君もよく知っている人ですが、この方の調律はたしかに独特で、いわゆる平均的・標準的な調律ではなく、長年にわたり独自の調律を追求されてきた方です。

ひとことで云うなら遠くへ美音を飛ばすことを旨とされ、この調律を嫌いな人もいる反面、これがいい!という熱烈な支持者も少なくなく、この人を指名してコンサートや数多くのレコーディングを続けている有名ピアニストもあるほどです。

ところがどういう理由からなのか、この方に否定的なウワサが立っているようで、長いお付き合いの音楽の恩師(しかもピアノではない)からまで、この人の仕事を非難する内容の話が出てきてびっくりしました。

この先生は長年にわたりお世話になった、とても生徒思いの立派な方ではあるし、しかもピアノの調律がこのときの話題の中心でもなかったので、マロニエ君もこのときは空気を読んで敢えて口を挟みませんでしたが、その技術者が保守管理をされているホールのピアノがいきなり槍玉にあがりました。どうやらこの会場でコンサートをしたピアニストの話などがベースになっているようです。

その内容は惨憺たるもので、あまり具体的なことは書けませんが、とにかく話だけ聞いていれば「そんなひどい調律師がいるのか」と誰もが思うような話になってしまっていました。

しかし、マロニエ君はその人の調律を悪くないと感じていた時期もあるし、今は好みが少し変わりましたが、すべてをダメと決めてしまうのは、いくらなんでも極端すぎて「こわいなあ」と思いました。
その方は、ご自身の信念と美意識に基づいて、理想とするピアノの音や響きを追求して来られた人であることは確かで、少なくともただ音程合わせしかしない(できない)調律師でないことは素直に認めるところです。
したがって好き嫌いの話ならわかるのですが、技術者としての価値を全否定するようなウワサとなっているのはさすがに驚きでした。

繰り返しますがこの先生はピアノの方ではありません。
そもそもピアノを弾く人の世界というのは、他の器楽奏者のように楽器の状態や音に敏感でもなければこだわるほうではないのが一般的で、本当にピアノの音や状態の良し悪しがわかる人、もしくはわかろうとする意欲のある人は驚くほど少数派なのが現実です。

ピアニストは向かった先にどんな楽器が待ち受けていようと、ひるまず、不平も言わず、与えられた「その楽器」で正確に弾き通せる逞しさを備えることが必要とされ、下手に楽器に敏感でないほうが身のためだという側面もあるかもしれません。

さて、くだんの調律師に話を戻すと、そんな人達に囲まれたピアノであるだけ、行き過ぎた悪評が冷静な判断によって修正されることなどまず望めません。いったん悪評やマイナスのウワサが広がると、もうそれを止める術はないわけです。
悪評の根拠となるまことしやかなエピソードには尾ひれがついて象徴的に語られ、「そんなひどい人がいるのか」「そんな人には絶対に任せられない」と誰しも思ってしまうのが聞かされた側の人情です。

しかもだれも責任はとらないのがウワサです。
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アンリ・バルダ

青柳いづみこさんの著作『アンリ・バルダ』は、読者レビューによれば評判はそれほど芳しいものではなく、むしろ否定的な意見が多く見られたようでした。

普通ならこういう書き込みを見ると購入意欲を削がれるものですが、アンリ・バルダというピアニストは一度テレビで視たきりで、よく知らなかったこともあるし、そもそも青柳女史が一冊の本として多大な時間と労力を賭して書き上げるからには、それなりの意味と価値があったのだろうと思われ、敢えて購入に踏み切りました。

果たしてマロニエ君にとっては、否定的どころか、この本は青柳氏の数々の著作の中でも出色であったように思われ、始めから最後まで、概ねおもしろく読むことができました。

バルダという気が弱いのに我が儘な、傲慢なのに優しげな、いかにもヨーロッパにいそうな昔気質の音楽家の姿がそこにあり、傷つきやすい繊細な心象を抱きつつ、それを守ろうともせず矛盾の渦の中に自分をつき落とし、後悔を繰り返しながら、それでも本能のようにピアノを弾いている、はや初老のフランス人ピアニストの半生でした。

本を一冊読み終えてみると、無性に演奏が聴きたくなるものですが、手許には一枚もCDがありません。オペラ座バレエのジェローム・ロビンスの舞台では長年ショパンを弾いていた由ですが、以前マロニエ君がこれを見たときは別の女性ピアニストになっていて、そこでのバルダも聴いてみたかったなどあれこれと興味ばかりが沸き立ちました。

本によると、ときどき来日してはコンサートやレッスンをやっているようではあるし、そのうちまたクラシック倶楽部でもやるかもと思っていたら、その念願が通じたのか、それから早々のタイミングで「アンリ・バルダ・ピアノリサイタル」が放映されたのには却ってこちらのほうが驚きました。

2012年の浜離宮でのリサイタルで、ラヴェルの高雅で感傷的なワルツ、ソナチネ、ショパンのソナタ第3番というものでしたが、不機嫌そうにステージに現れたバルダは一礼をするとサッと椅子に座り、一呼吸する間もなく演奏を始め、見ているほうが大丈夫か?と不安になるほどです。

本を読んでいたこともあると思いますが、次第にわかってきたのは、このバルダのステージ上の素っ気ない態度は、ひどく緊張している自分との戦いのようにも思われました。

バルダのピアノはタッチの多様さというものが少なめで、悪く言うとタイプライターのように容赦なくキーを叩いて演奏をひたすら前進させ、その疾走するスピードにときどきバルダ自身さえもが煽られているようなときもあるようです。

あまりに出たとこ勝負的な演奏なので、途中で本人もマズいと思っているのかもしれないけれど、笛が鳴って飛び込んだら、ともかくゴールを目指して泳ぎ続けなくてはいけないスイマーのように、遮二無二、終わりに向かって進んでいくといった感じでもあります。
よく聴いていると情感はあるのだけれど、それを正面から出すのが彼のセンスに合わないのか、むしろドライぶって仮面を被っているようでもありました。

ラヴェルは彼の十八番のひとつのようですが、現代の演奏に慣れてしまった耳で聴くと、すぐにその良さは伝わりません。むしろデリカシーのない、思慮を欠いた、荒っぽい演奏のように聞こえてしまうでしょうし、事実マロニエ君もはじめのうちはそんな印象で聴いていましたが、だんだんにこの人が紡ぎ出す音楽の美しさと、作品そのものの美しさが和解してくるようです。
音楽が奏者の感性を通して演奏となり、それが音として実在してくるという一連の流れが、とても芸術的だと感じるようになりました。

バルダの主観によって捉えた音楽を、ありのまま出してみせるという、まるで画家の自由奔放な筆使いを見るようで、他のピアニストでは決して味わうことのできない面白さを満喫することができました。

もちろん欠点はたくさんあるし、「それはあんまりでしょう!」といいたくなるような部分も随所にありました。でも例えばショパンの第三楽章の悲しみの中に沈殿する透明な美しさや、それを隠そうとする恥じらいなど、バルダの心中のさまざまなうごめきが伝わってくるようで、もっとこの人の演奏に付き合ってみたいような気になるのは、まったく不思議なピアニストだと思いました。

アンコールではショパンのノクターンが弾かれましたが、これがまたエッ!?!というような賛同しかねるもので、最後の最後まで苦笑させられました。

でも、マロニエ君はいつも思っていることですが、物事の良し悪しというのはその残像としてとどまるものに証明されると思います。その点で言うとバルダは、結局は非常に後味の良い、魅力あるピアニストであったことは間違いないようです。

甚だ辛辣で偽悪趣味のパリジャンもなかなかカッコイイものです。
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演奏会雑感

福岡市の南の丘に佇む芸術空間、日時計の丘ホールの企画公演である『バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会』も5回目を迎え、今回は場所を福岡銀行本店ホールに移して、少し大きな規模で行われました。

ピアノはこのシリーズ唯一のピアニスト管谷怜子さん。
前半はパルティータ第1番、6つの小前奏曲、フランス風序曲、後半は弦楽五重奏を迎え入れてのピアノ協奏曲第1番というものでした。
このシリーズで協奏曲が登場したのは初めてのことです。

演奏はいつもながらの端正かつふくよか、まったく衒いのない、真摯なバッハが描き出されます。
終始一貫、気品にあふれつつ音楽的な迫りも十二分にあり、作品がピアニストの手によってみずみずしい養分を与えられ、それが生きた音となって自然に語りかけてくるようです。

フォルムの端然とした美しさ、適切なダイナミクス、決して潤いを失わないしなやかな音色は、このピアニストの大きな美点のひとつであることを聴くたび毎に感じさせられます。

いつもと異なる点は、会場が大きいぶん、日時計の丘のブリュートナーを至近距離で聴くときのような細かな表現のあれこれや、走句や表情の弾き分け、妙なる息づかいなどが、完全には聴き取れないというもどかしさがあった反面、こういう響きの素晴らしいホールだからこそのリッチな音響に与る楽しみもあり、どちらにも捨てがたい魅力があるものです。

管谷さんも会場の大きさを考慮してか、いつもより打鍵が強めになっているように感じましたが、なにぶんマロニエ君は後方の席で聴いたので、たまたまそういうふうに聞こえただけかもしれません。

この日は全曲を暗譜で演奏されましたが、始めから終わりまでバッハだけで弾き通すというのは並大抵のことではなく、通常のリサイタルよりも数段しんどいだろうなあというのが率直なところでした。


さて、いささか迷いましたが、聴衆の一人としてあえて少し触れておくと、この日の調律はどちらかというとこの日のプログラムに適ったものだったかどうか…そこが個人的にはやや疑問に感じたことは否めません。
休憩時間はロビーに出たし、席に戻ったあともピアノの調整はなかったので、どなたがされたのかわからずじまいでしたが、ともかくこれはマロニエ君の率直な感想です。

知らないことを幸いとしているわけではありませんが、まったくありきたりな平凡な調律だと感じたことは少々残念というべきでした。とりわけコンサートでは、わずか2時間の本番に全力を尽くすピアニストと、それを聴きにやってくる聴衆、その両者のために、いかにピアノを音楽的に好ましく鳴らすかというのがピアノテクニシャンの勝負だろうと思います。

オール・バッハ・プログラムというからには、当然それにフォーカスした調律がなされて然るべきで、それによって演奏は際立ち、助けられ、より深い説得力をもつものになる筈です。
今回そういうものがあまり感じられなかったのは、もしかしたらマロニエ君の耳のほうがおかしいのかもしれませんが…。

一般的にピアノのコンサートは、ピアニストの技量や音楽性ばかりが問題にされますが、それを一方で強く支えているのは楽器です。とくにスタインウェイは、最もオールマイティなピアノだといわれますが、それはあくまでも潜在力の話であって、普通に調律しておけば何を弾いてもOKということではない筈です。
同じピアニストでも、バッハとラフマニノフでは弾き方を変えるのは当然ですが、おなじことが調律にも云えるとマロニエ君は思うわけです。
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小兵の魅力

N響定期公演に中野翔太という若いピアニストが登場し、はじめてその演奏を聴きました。
曲はグリーグのピアノ協奏曲。

一見して、ステージ人という雰囲気のまったくない、日本のどこにでもいそうな青年ですが、そのピアノには好感をもちました。

いやなクセがどこにもなく、はじめは今どきのいわゆる無味乾燥な楽譜通りの演奏のようにも感じますが、聴き進むうちに必ずしもそうでもないことが少しずつ伝わります。

日本人的な精度の高さと繊細さが支配的ですが、その中になんともいえない均整感のよさのようなものがあり、ディテールの閃きや華やかな技で聴かせるのではなく、全体を通じてじわじわと染み込んでくる心地よさが印象的でした。

その風貌や体格、あるいは指さばきをみても、いわゆる大器というタイプではありませんが、全体に好ましい配慮の行き届いた、いわば小さな高性能という印象です。ピアノは大きな楽器ではありますが、誰でも彼でもロシア人のようにパワフルで技巧的なことが絶対ではないことはいうまでもありません。

相撲でも小兵力士というのが格別な魅力を持つように、細やかな息づかいやアーテキュレーションで音楽の深いところにいざなってくれる、気の利いたピアニストというのも捨てがたい魅力を感じます。

マロニエ君はこの中野さんのピアノはこの1曲しか聴いたことがないので断定的なことは云えませんが、作品の隅々まできちんと見通しがきいて、それが演奏へと緻密に反映されているようです。それでいてメリハリもきちんとあり、必要なアクセントや輪郭はぬかりなく押さえているのは立派でした。

とりわけ協奏曲の場合は、ソロとオーケストラの音量のバランスも大切ですが、この点もほんのちょっとだけ弱いぐらいの印象があり、けなげにピアノが鳴っているという感じが絶妙でした。
それが却ってひとつの作品としての一体感を生み出し、これはこれで聴いていて非常に心地よいものだということが良くわかります。

それにしても昔はグリーグのピアノ協奏曲といえばこのジャンルの定番で、似たような演奏時間とイ短調ということもあってか、多くがシューマンのそれとカップリングされて録音されていたものですが、近年はどちらかというとあまり演奏されない曲になってしまった気がします。

以前、キーシンが弾いたのを聴いたときも非常になつかしい、忘れていたものを聴いたような記憶がありましたが、それいらいのグリーグでした。
あまりにも有名な和音とオクターブによる冒頭部分などが、幻想即興曲のように、ちょっと恥ずかしい感じの名曲に分類されてしまったのかもしれません。

その点では中野さんは、そういった名曲についてしまった長年の汚れや手あかを洗い落として、すっかりきれいにクリーニングでもしてくれたようでした。
こういう派手ではないけれど良質な演奏家が、たんなるピアノを弾く有名人としてではなく、その美しい演奏が評価されることによって愛聴されていくことが必要だと思いました。

演奏以外のことで有名になり、タレントみたいなピアニストなんてもううんざりですから。
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秋吉敏子

過日は知人から事前に教えてもらって、日本の現役最高齢ジャズピアニストである秋吉敏子の現在を追った番組を見ることができました。

ニューヨーク在住、御歳84だそうで、普通なら健康に毎日を過ごすだけでも難しくなるというのに、いまもって新しい編曲やステージに挑戦しているのですから、その驚くべきタフネスと音楽に対する情熱には恐れ入りました。

とりわけジャズにとってパッションやビート感は命で、これが弛緩することは許されないことでしょうし年齢が言い訳にはなりません。毎日の欠かさぬ練習や本番ステージという勝負の場を抱えながら、それが維持されているのは驚異というほかありません。

有り体にいえば感心だなんだという言葉になるのかもしれませんが、ここまでくると、生涯ひとつの道を歩んできた人の「本能」なんだろうとマロニエ君は考えます。
もちろん大変なことではあるけれど、おそらくは「やっていないと調子が悪い」というところにまで脳や身体がすっかりそういう作りになっているんだろうと思いました。

なんとなく思い出したのは90歳を越えた瀬戸内寂聴で、いつだったか伊藤野枝や平塚らいてうなどを中心とする明治の情熱的な女性達を語る番組をやっていましたが、そこで話をする寂聴さんの驚くべき饒舌、記憶力、古びない感性、立て板に水を流すようなトークのスピードなど、それはもう大変なものでした。
世の中にはこういう例外的な存在というのがあるもんだと感嘆させられますが、秋吉さんもおそらくそっちの部類なのでしょう。

夫はサックス奏者、娘はヴォーカルといずれもジャズミュージシャンで、孫もその道の修行を始めつつあり、まさに音楽に囲まれた生活のようです。忙しく家事をこなし、人に料理をふるまい、そして練習や創作を怠らない生活はさぞや充実したものだろうと映りました。

マロニエ君はどうしても出てくるピアノにも目が行ってしまい、ときどきそんな自分が嫌にもなりますが、秋吉さんのニューヨークの自宅にあるのは意外にもヤマハでした。意外というのは、以前も何かでこの場所の映像を見たことがありましたが、そのときはメーカーは忘れましたがビンテージ系のピアノだった覚えがあったからです。

意外ついでに云うと、置かれたピアノの向きが不思議で、レンガ状の壁に高音側をくっつけるようにして置かれていることです。通常ならグランドは、直線のある低音側を壁と並行もしくは斜めに置くのが一般的で、大屋根も高音側に開くのでどうしてもそっち向きになるものですが、これは余人には窺い知れない理由があるのでしょう。

郊外の仕事場や秋吉さんが演奏するジャズクラブにはニューヨーク・スタインウェイ、日本でのコンサートではベーゼンドルファーやファツィオリなど、いろいろなピアノが入れ替わりに出てくるのも楽しめました。
中でも圧巻だったのは、秋吉敏子を中心に日本の各ジャンルのピアニスト達が集まった様子で、サントリーホールのステージには実に6台のヤマハCFXが並べられ、いかにもこの公演のため会社の威信をかけて運び込んだという感じでした。

秋吉さんは車のドライバーとしても現役のようで、ニューヨークの道をドライブしながら話します、「ジャズミュージシャンは反射神経が猛烈に発達しているから事故はあまりないと思う」。
へええ…クラシックでは、ミケランジェリやグールドの運転は、同乗者の証言によると「生きた心地がしなかった」ほどお粗末なものだったようで、その点でジャスは違うということなんでしょうか。
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アブドゥライモフ

ウズベキスタン出身のベフゾド・アブドゥライモフは、近ごろ少し注目されているらしい若いピアニストで、すでにメジャーレーベル(デッカ)から2枚のCDが発売されています。

協奏曲ではチャイコフスキー1番/プロコフィエフ3番、ソロアルバムでは、プロコフィエフのソナタ6番、悪魔的暗示、サン=サーンス:死の舞踏、リストのメフィストワルツなど、その曲目を見るだけでおよそどんなタイプのピアニストか、なんとはなしに察しがつきそうです。

ジャケットを見てそれほど「何か」は感じなかったので、そのうち聴けるチャンスはあるだろう…ぐらいに思っていたところ、その機会は早々にやってきました。

今年6月のN響定期公演に出演し、ラフマニノフの3番を弾いた様子が『クラシック音楽館』で放送されました。指揮はアシュケナージ、会場はNHKホール。

出だしユニゾンの第一主題は、ねっとりと間を取りながらの歩みで、ピアノを中心に右の聴衆と左のオーケストラの両側を同時に牽制しているようで、この若者から「慌てなさんな」と云われているようでした。が、そこを抜け出すとアブドゥライモフの指は忽ち解放されたように疾走をはじめます。

その手は大きく厚く、楽々と動いては確かなタッチに結びついて、発音にはその骨格からくる力強さが漲り、それが随所で心地よく感じることも事実でした。スタミナもあり、轟然たるフォルテッシモの連続投下などはお得意のようで、大舞台で大曲難曲を弾かせるにはうってつけのピアニストというのは間違いないでしょう。

この人の魅力は、なんといってもその力強い芯のあるタッチと、密度感のある冴え冴えとした音にあるのではないかと思いました。近年のピアニストの多くは、いろいろなことに配慮するあまり、ある種の覇気を失ってしまい、燦然と輝くようなピアノの音を出さなくなりました。
叩きまくるピアノが否定され、知的に統御されたピアニズムが良しとされる風潮もあってか、悪くいうとしっかり音を出さぬまま弾いています。そんな風潮に反旗を翻すような筋力を魅力とした演奏で、オーケストラのトゥッティにも決して負けない打鍵の逞しさは、どこか英雄的でなつかしくもあります。

ただし、アブドゥライモフが肉食系だといっても、昔のように無邪気な筋肉自慢のそれではなく、正確な譜読みやコントロールされた打鍵など、周到な準備には怠りない上でそのマッチョなテクニックを披露していく周到さは、いかにも今風のぬかりのなさを感じます。

ただ、聴いていると、一本調子でだんだん飽きてくる感じもあったのは事実です。
弱音や繊細なパッセージなども、あとに待ちかまえるフォルテッシモや随所での炸裂にいたる伏線のようでしかないのは、音楽の深いところに触れるというより、やはりどこか鍛えられたアスリートのパフォーマンスを見るようです。

終始激しく、際限なく飛び散る大量の汗の飛沫も、そんな印象に拍車をかけたかもしれません。曲が曲だったせいもあるでしょうが、むしろオリンピックの男子体操競技を見ているようで、難所難所を通過するたび、スポーツ解説のように「C難度!」「E難度!」「うーん、ここも見事にクリア!」「残るはコーダのみ!」といった実況中継を付けたくなりました。

こういう人の弾くラフマニノフの3番というのはあまりにもベタな印象で意外性がなく、もしかするともっと軽い曲を弾かせてみると、そこでどんな味わいがでてくるのかと思ったりもします。

それにしてもNHKは、オーケストラの録音となるとなぜああまでくぐもったような、ショボショボした小さい音にしてしまうのか、わけがわかりません。視聴者に音楽を楽しませようという意志がないのか、普段の5割増ぐらいのボリュームにしてもダメで、なんのための音楽番組かと思います。
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違いはいずこ

ネットの書き込みというものはまさに玉石混淆の世界です。
貴重で有効な情報が得られるいっぽうで、無責任な憶測や独断に満ちたものが無数にうごめいており、それをどう選び取るかが読者に科せられた課題でしょう。

いつもそういう前提を忘れないようにしながら読んでいるつもりですが、日本製ピアノに関する書き込みを見ていると、ふと注目すべき内容が目に止まりました。

すでに安定した評価を得ているプレミアムシリーズに関するもので、業界の方らしき人物による一種の暴露的コメントでしたが、それによると、材質面だけでいうならレギュラーシリーズとの差はほとんどないという衝撃的なものでした。「設計は同じでも、材質こそ最大の違いのはず」と思っていたマロニエ君にしてみれば目からウロコでした。
しかし、その説明は納得できる面もある気がします。

それによれば、響板も違うとされているけれど特別なものではなく、基本的には同じだといいます。となると「響板はどこそこの何々」というのはどういうことか?と思いますが、その中から多少いいところを選んでシーズニングにより時間をかけているといった程度で、言われるほどの違いはほとんどないのだといいます。

では、あの価格差を裏付けるだけの何が違うのか…。
最も大きな違いは、製造および調整段階に於ける、人手を使う割合だと述べられています。
ひとことでいうなら、プレミアムシリーズはより多くの手間暇がかけられている点がプレミアムたるゆえんで、レギュラーシリーズとプレミアムの差は基本的にここなんだそうです。
それほど楽器にとって、熟練職人の入念な手仕事がもたらす効果は大きいという証しともいえるのでしょうし、少々の材料の差より入念な技のほうがよほどコストがかかるというのもわかります。

マロニエ君は少なくともピアノ制作に関しては、「単純に機械化が悪い」とも、「なんでも手作り手作業が最上だ」とも思いません。機械と人手は、それぞれに長所短所があるわけで、最良の使い分けをすることが理想だろうと思います。
精度と均一さが要求されるパーツ制作などは機械化できるものならそれがいいに決まっていますし、発音に影響する部位の精妙な組み付けや調整などは熟練の職人技がものをいうでしょう。

以前からA社のプレミアムシリーズには大変懐疑的で、弾いても聴いても、普及型との価格差はとても納得のいくようなものではないというのが率直なところでしたし、B社のそれは非常に評判がよく、確かに普及品より明らかな上質感があるのはわかりますが、そこにはピアノが生まれもった素晴らしさというより、より良い響板の存在と、職人による入念さの勝利という印象が拭えませんでした。

日本製ピアノの出荷前の調整は近年はますます最小限で済まされているのだそうで、工作精度の高さに依存したコスト削減だとも聞こえてきます。もし高級外国製並に入念な職人の調整をやったら、それだけコストは跳ね上がるでしょう。鍵盤の鉛詰めなども、一斉かつ均等な作業と、一鍵々々を確認しながら適材適所でやっていくのとではぜんぜん違いますから。

この時点で、レギュラーとプレミアムを差別化するだけの違いはかなり明確に生まれるような気がします。そして見事に調整されたピアノは、それ自体が大きな魅力であり、そのことがプレミアムであるのは否定できません。でも、その奥に所詮はレギュラーと同じ本質が透けて見えてしまうとなるとそれでも満足が得られるものなのか…。

やはり高級ピアノを名乗るからには、基本的な構造など設計そのものから特別なものであってほしいとマロニエ君は考えますし、大衆車にどんなに高級パーツを奢っても、根本の生まれを変えることはできません。

今や海外の一流メーカーも、ビジネスとして廉価モデルを併売する時代ですが、マロニエ君の知る限り、両者の基本設計が同じというのは外国製ではひとつも知りません。

レギュラーシリーズをベースに、そこからプレミアム云々を派生させるというやり方は、いかにも日本的なモデル構成で、だからなんとなく基本が弱く、かつ物欲しそうな気配が漂ってしまうのかもしれません。
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再放送から

BSのクラシック倶楽部は、いつごろからか定かではありませんが、以前に較べると同じものの再放送がずいぶん多くなりました。
ものによっては3回ぐらい繰り返しやっているように感じます。

見逃したものや、あとになってもう一度見たいと思っている場合は、この再放送/再々放送によって大いに助けられる反面、できるだけいろいろなコンサートの様子を楽しみたい側からすれば、「あー、またこれか…」となるのも率直なところです。

それでも、録画を消してしまう前に、なぜかちょっと見てみようということも少なくありません。
つい先日も、女流として世界的に有名なピアニストとチェロとのデュオの再放送があって、これもすでに一度見てはいましたが、消去ボタンを押す前についまた見てしまいました。前回の印象がさらに強まり、小柄な人ということもあるのかもしれませんが、この人が得ている地位からみれば技巧的にも余裕がなく、しかも音らしい音がほとんど出ていないことにあらためてびっくり。

曲はベートーヴェンのチェロソナタ3番のような傑作ですが、まったく潤いも活気もないパサパサした演奏で、随所に散りばめられた聴き所とか、期待している和声進行などがまったく伝わらず、この演奏のどこに耳を傾けるのかポイントさえわかりません。坪庭の控え目な植木のように地味に小さな音で弾くことがさも精神的で正しいことのような気配であるのは、ある種の傲慢さのようでもあり、かなり欲求不満がつのりました。
驚くべきは、決して大きな音でもないのに、音にはいささかの潤いも色艶もなく、素人が弾いてももっと美しい音が出せそうなもんだと思いました。

このまま就寝してはすっきりしないので、口直しに、つづけて聴いたのはデュオ・アマルという若手の男性二人によるピアノデュオで(これも再放送)、シューベルトの4手のための幻想曲D940から始まりました。
セコンドが漕ぎ出す静かなヘ短調の伴奏に続いて、プリモの単音による第一主題が乗ってきますが、繊細に弾かれながらも、ピアノがきちんと鳴っていることに、のっけからまず胸のつかえがおりるようでした。
この喩えようもない悲しみの音楽に耳を委ねますが、タッチにはじゅうぶんな注意が払われて芯があり、肉がある。いかにも男性ピニストらしい力の余裕と音色の透明感があり、ああなんと美しいことかと、さっきまでとは気分が一変するのは大いに救われました。

それにしても、4手のための幻想曲という作品の素晴らしさには、あらためて感銘を覚えることになりました。自分なりにじゅうぶん聴き込んだつもりであっても、演奏によって、新たに作品の偉大さを認識させられるのは、それだけ優れた演奏であるということの証であるといえるでしょう。

もともとシューベルトの作品は構造感が見えやすいものではないけれど、晩年(といってもわずか31年の生涯ですが)になるほど、ますますそれはとらえにくく、ピアノソナタなどにもある種の冗長さがつきまといます。

確かな設計図とか、明確な着地点を定めた上で、そこに到達させるべく緻密にペンを走らせたというより、感興の命じるまま切々と音符がしたためられた印象です。

ふつう連弾というと、ソロよりも娯楽的であったりフレンドリーな要素の作品というイメージがありますが、少なくともこの4手のための幻想曲は、そういう既成の枠をはるか飛び越えてしまった、高い芸術性をもつ稀有な作品で、連弾というイメージからはかけ離れています。
よくよく考えてみれば、少なくともマロニエ君の知る連弾(1台4手)作品の中では、突出した傑作ではないかと思いました。
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森の中

芸術の分野に限ったことではありませんが、新しいことに挑戦することは、古典を尊重することと同様に大切なことで、これを失えば何事も息絶えてしまうでしょう。

モーツァルトが当時の人が受け容れられないほど新しい音楽を書いたこと、ベートーヴェンが常に新しいものへの挑戦のスピリットを失わず果敢な創造行為に挑んだおかげで、こんにちの私達はどれだけその恩恵に浴したかしれません。

そういう前提を踏まえたにしても、どちらかというとマロニエ君(もとより創造者ではありませんが)は音楽に関しては、ある意味の保守派だろうと認識しています。
これは音楽そのものというよりは、おもに低下の一途を辿る評価基準への抵抗といえるのかもしれません。とりわけ現代の興行としての演奏および演奏家の在り方には、強い違和感を覚えることが多く、なかなかそれに馴染めないことは否定できません。

リヒテルが蕉雨園でコンサートをしたり、アフェナシェフが日本のどこかのお寺にスタインウェイを持ち込んで演奏したり、五嶋みどりが各地のお寺をまわってバッハを演奏するというようなことをやりますが、あのセンスがマロニエ君自身はどうもしっくりこないのです。

またコラボというのも個人的にはあまり歓迎の気分は持ち合わせません。むろん全面否定ではないのですが、そこにはよほどの主題とか必然性など、興味を喚起する要素がなくては、ただの意外性狙いの無節操な取り合わせになるばかりです。

スポーツの世界にも異種格闘技というものがあるそうですが、イベントとしてはおもしろくても、真のファンにとってそのジャンルの醍醐味が味わえるようなものとは思えませんし、いわばちょっと酔狂であったり、余興的な世界に属するものだと思います。

ところが、近ごろは変わったことをしないと人が関心を示さないという、音楽市場においてもやむにやまれぬ事情があるようです。それはわかるのですが、だからといってあまりに話題作り目的であったり目立てばいいという心底が透けて見えるようなイベントが多すぎるように感じて仕方がありません。

つい先日もビジュアル系ピアニスト?のブニアティシヴィリが、ドイツのどこだかの森の中へスタインウェイを運び込み、木立の中でピアノを演奏するということをやっていました…が、まるで何かのCM撮影のようで、そのいかにも上っ面の発想という印象しか抱けませんでした。

ピアノの前には形ばかりのわずかな聴き手がいて、この演奏を彼女の「お母さんに捧げる」と銘打った体裁になっていましたが、森、ピアノ、演奏、作品、どれもがバラバラで馴染まず、ひとつとして溶け合っているようには見えませんでした。ただただ空疎な感じが拭えず、聴いている人の後ろ姿もしらけ気味に見えました。

ブニアティシヴィリの演奏は好みではない上に、なにしろ森の中なので、音は悲しいばかりに周囲に散ってしまい、果たしてこの企画にどういう意味や狙いがあるのか、マロニエ君にはさっぱりわからないままでした。

そもそもピアノを野外に持ち出して演奏するということが、まず自分の体質には合いません。映画『アマデウス』では庭園のようなところでコンチェルトを弾くというシーンがありましたが、あれは音楽家が宮廷のお抱えだった時代の話でしょうし、なにしろ映画です。

わざわざ現代のコンサートグランドを森の中なんぞに持ってこなくても、森や自然にはそれにふさわしい楽しみ方、味わい方があると思います。あれだけの美しい森ならば、ただ自然の音に耳を澄ませながらゆっくり散策するだけでもじゅうぶんに感銘を受け、心の中でいろいろな思いや音楽が鳴り響くはずで、なにもそこで実際にピアノを弾いていただかなくても結構ですという感じでした。

要は森でもお寺でも、安易な思いつきだけで変な使い方や取り合わせをすると、その透徹した美はかえって反発し合い、殺し合い、魅力が損なわれてしまうように思えてなりません。
すべての世界には侵してはならない見えざる境界が自ずとあるはずで、それが作法だと思いました。
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