ネット通販のリスク

連休前のこと、仕事上での必要があり、木製のテーブルを購入しました。

限られた予算の中では、いくつか覗いた店舗にはこれといって該当するものがなく、ネットで探したところ、ちょうど良いものが見つかりました。同じ製品を数社の通販業者が取り扱っているようで、店によって価格も少しずつ異なり、送料を含めるとそれぞれかなり条件が異なります。

どうせ同じものを買うわけですから、数店を比較して、販売価格+送料の合計金額の安いところから購入することにして、パソコン画面から購入手続きをおこないました。

この店のホームページによれば、営業日のある時間までに注文確認が取れしだい「即日発送」と自慢げに謳われており、それを裏付けるように、店休日を色表示したカレンダーまで二ヶ月ぶんが表示されています。
さらには配達希望日を指定することもでき、その会社は中国地方の都市にあるので、経験上、福岡ならまず一日で届くのでじゅうぶん余裕を持って日にち指定をして注文を確定させました。

それから数日後、配達希望日当日となりましたが、一向に荷物が届く様子もなく、なんの音沙汰もないまま日が暮れて、翌日から長いゴールデンウイークに突入しました。
在庫の関係などで発送が遅れることはあるにしても、画面上では「在庫あり」となっていたし、それならそれでなんらかの連絡があってもよさそうなものだと、この時になって思いました。

そういえば、注文時に先方より自動的に送られてくるメール以外には、発送が遅れる、もしくは希望日の配達はできないなどの連絡は一切無いままで、なんだか不安がよぎり、つい安さを優先したことが失敗だったかと思いましたが、ともかく大型連休に入ったので、この間じたばたしても仕方がないと腹を括りました。

連休明けは、配達希望日から実に10日も経過していますが、その間もついに商品が届くことはなく、7日に電話をかけてみましたが、これがなかなか出ない。このころになると、かなり嫌な予感がしていて、時間を置いて何度もかけていると、午後の2時近くになってようやく女性が電話に出ました。
事情を話すと、とくに恐縮した様子もないまま淡々と「注文番号をお知らせください」といって、調べてメールで連絡するというので、ここでメールではなく電話連絡を強く希望。

すると一時間ほどして電話があり、「注文は間違いなく確認できましたので明日発送いたします」と平然と言うので、なにひとつ連絡もないままで、即日発送とは程遠いではないかという主旨のことを云いましたが、ただ機械的に「申し訳ございません!」と、ぜんぜん申し訳なく思っていない感じで云うだけです。

その2日後、ほとんど2週間遅れで商品が届きましたが、やれやれと思いながら開梱してみると、なんとテーブルの縁に大きなキズと、その衝撃に伴う凹みが二ヶ所もあって愕然!
すぐにまた電話したものの、また出ない。

今度はこちらも意地になってかけ続けると、やはり前回と同じような時間になってようやく同じ女性が電話をとりました。どうやらこの事務所にはこの女性ひとりしかいないようで、しかも午後にならないとやってこないようです。すぐに状況を伝えると、また前回と同じ調子で「申し訳ございません」といって、代わりを発送するのが最短で月曜になるといい、これは4日先の話で、とにかく即日発送どころではありません。

さらには、その女性、こうつけ加えてきました。
「その部分の写真を送っていただくことはできますか?」ときた。
はあ!?なんでこれほど不愉快な思いをさせられた上にそんな面倒臭いことまでしなくちゃいけないの?と思いその点を問い質しましたが「商品はお届けとの同時交換となり、こちらからはキズの確認ができませんので、写メールで結構ですから確認が必要になります」といって、暗に自分の指示に従わなければ交換品も送れませんよ脅されているニュアンスに聞こえました。

こういう一方的な理屈はまったく納得できませんが、もうこの頃になるとマロニエ君としては、相手のことをまったく信用しておらず、ろくでもない業者だと感じており、でもしかしカード決済はしているし、下手をすればそのまま放置されるという危険性も感じ、ともかくもちゃんとしたものを送らせるまではひたすら忍耐だという自分なりの計算が働きました。

そして、やっと届いたばかりのテーブルのキズを、甚だ不愉快な気分の中で撮影し、先方のアドレスを携帯で一文字ずつ入力して、コンニャロ!という感じに送信ボタンを押しました。
さて来週、無事に代替品が届くかどうかというところですが、やはりこういう目に遭うと、相手の見えないネット通販はリスクがあるという当たり前のことを身をもって感じた次第で、みなさんもじゅうぶんお気を付けくださいね。
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買い物カート

日常生活の中には、あらためて言葉にすれば大したこともなくても、どうしようもなく嫌なことというのがあるものです。

こういうものは日常茶飯で、しかもその数はひとつやふたつではありませんが、特段の重要事項でもないために、すぐに忘れてしまうのが特徴です。

たとえばマロニエ君がすぐ思い出すのは、スーパーなどにあるカートの不具合があります。日常的に繰り返される酷使のせいで、下部に取りつけられたゴムのキャスターにガタや不揃いが出て、動きに変なクセがついてしまい、ついには利用者の思い通りにはまったく動かなくなってしまっているのがありますが、あれがとても苦手です。

とくに真っ直ぐ進みたいときに、この手のカートがまるで自分の意志でもあるかのように左右いずれかへ猛烈にステアしようとして、利用者は思いがけないカートの反抗に遭い、買い物中は終始この身勝手な動きと格闘し続けなくてはなりません。
多くの人がそうだと思いますが、曲がることが苦手なことよりも、シンプルな直進が思い通りにならず勝手に左右に行こうとするのを絶えず修正しながら前進するというのは、神経を逆撫でされるようで、しだいに腹立たしくなってくるのです。

クルマでも曲がりのハンドリングが痛快なことは重要ですが、まずは安定した直進性が確保されていないことには、ほとんど意味を成しません。

このじゃじゃ馬のようなカートに当たったが最後、不愉快で慣れるということはなく、イライラは募り、少しでも早く買い物を済ませて店を出たくなるもので、勢い余計な買い物もしなくなります。
ごく稀に新しいカートに入れ換えられたり、あるいは一部追加されたりすることがありますが、やはり新しいものは心地よく、スムーズで難なく使用者の思い通りに動いてくれるので、お店の印象まで無意識のうちに変えてしまうようです。

かくてマロニエ君はカート選びはできるだけ慎重にするように心がけていて、2〜3m動かしてダメだと感じたら引き返して別のカートに交換ということもします。それでも、どれもこれもがなかなか思い通りにならない場合があり、どうしようもないときは、カートと格闘するのが嫌なので、最後は押すのではなく、引っぱるように使います。

人によってはいかにもくだらないことのように思われるかもしれませんが、こういうことは気になる人にとってはかなりのストレスになるので、マロニエ君は決して軽視しないようにしています。

それでも所詮はスーパーの買い物時間中ぐらいだから事は重要でないまま終わりますが、これがもし、毎日数時間使わなくてはいけない道具だとしたら、きっと多くの人の神経にはかなり深刻な悪影響があるに違いないと思います。

経費節減がなにより優先される折、なかなかこれが刷新されることはありませんが、できることなら定期的に入れ換えて欲しいものです。
たかがカート、されどカート、素直じゃなきゃいけません。
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何かが欠落

この頃の若い人の運転ときたら、本当にまずいんじゃないかと思います。
とくに甚だしいほうの大半は男子。

過去にも書いたことがあるので、ああまたか!と思われそうですが、昨日も心底呆れるような車に立て続けに2台も遭遇し、お陰でこっちがいわれなきストレスをかかえるハメになりました。

そのひとつ。
夜、たまたま人を迎えに行くことになり、すでに相手には「これから行く」という連絡をしていたのですが、家を出てほどなくしてやや大きな通りに出ると、運悪く、あきらかに動きのおかしい車がノロノロ前を走っていました。

夜でもあり、昼間以上に安全運転が求められるのは当然ですが、そういう範囲のものではなく、この手の車は見るからに周囲から浮いており、いくら速度が遅くても、独特の危険なオーラがあふれています。
スピードのみならず、ひとつひとつの反応が異様に鈍く、車線をキチンとキープして走ることさえおぼつかない様子。

その証拠に、ふつう信号のない交差点などは少し減速して注意しながら通過するはずですが、そういう気配もなく平然と同じ速度で突っ切って行くし、そうかと思うと、たまたま自転車などが左脇を走っていると、たちまち自転車と同じ速度になり、右側は対向車もまばらで充分かわしていけるのに、まったくそういう意志がないようでトロトロと自転車の斜め後ろを走り続けるのですから、後続車はたまったものではありません。

そのうち自転車が左折しましたが、今度は元の速度(大した速度じゃないですが)に復帰するのもなかなかできずに、しばらくは超低速で平然と走ったりする有り様です。
本当なら一気に抜き去ってやりたいところですが、片側一車線の道路なので、やはりそこまでするわけにもいかず、とにかくイライラしながらこの車の後ろを追尾するしかありません。

そのうち前方の交差点が赤信号となり、ただ単に停車中の車の後ろについて止まるにも、考えられないほど手前から異様に減速し、しかも前車とは理解できないほど間隔を置いて止まってしまいます。
しかし、交差点内には右折車線があって、マロニエ君はここを右折するので、いよいよこの車ともおさらばのチャンスと思っていると、信号が青になり先頭から数台の車が動き出すと、なんと、その車も「いまごろ!」というタイミングで右にウインカーを出して年寄りのような足取りで右に寄り、あくまでもマロニエ君の前方を塞いでくるのですから、もうこの頃にはいいかげん血圧が上がっていたかもしれません。

こんな動きの車ですから、当然というのも妙ですが、右折ひとつするにも相当の時間がかかります。直進してくる対向車線も夜なのでそう多くはなく、じゅうぶん曲がれるタイミングは何度もありましたが、もちろんこいつはそんな気の利いた曲がり方はできるはずもなく、信号が再び赤になり、右折用の青信号が出るまで微動だにしませんでした。

ついに右折用→の信号が青になりましたが、思った通り、それから車が動き出すまでにも、一呼吸も二呼吸もおいてから、ようやくじんわりと車が右に曲がりはじめます。
右折した後の道は片側2車線なので、こちらは左車線に入って一気に抜き去ってやろうと思いますが、その前にどんな奴が運転しているのか、ついつい顔を見たくなるものです。

追い抜きざまに、ちょっと併走して右を見ると、髪の毛はピンピン立てたようなかなり若い男性がひとり、携帯をいじるでもなく前を真剣に見て運転しています。昔はこういう状況にひどく驚きもしましたが、最近は「ああ、やっぱり」という感じしかなくなりました。ですが、こういう車にしばしば遭遇すること自体、非常に憂慮すべきことのように思います。

事は単に運転がめちゃめちゃ下手だということに留まらず、もっと根本的で深刻な問題のような気がします。物事に対する基礎力や感性・感情の低下というか、運転という流動性の高い行為にあっても、まわりの状況を逐一察知して反応することが出来ない、いうなれば、これまで普通だった適応力とか反射神経みたいなものが恐ろしいまでに退化しているとしか思えません。

運転も本当の安全運転なら結構なことですが、マロニエ君の観るところ、ただ交通状況や周囲の流れなどを読んで協調する能力が欠落しているようにしか見えません。スピードを出すことは、良い悪いの問題以前として、たぶん技術的にできないのだと思います。
これが運転だけのことで、車から降りればメリハリのある聡明な人かもなんてとても考えられません。あの調子では、きっと充実した仕事も恋愛も出来ないだろうし、テンポのいい会話や相手に対する気配りなどもできるわけがないと思います。
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『純と愛』

もう時効だろう…というわけでもないのですが、NHK朝の連続テレビ小説の中でも、3月末で終了した『純と愛』ほどおもしろくないものは過去に無かったように思います。

そもそもこの連続テレビ小説は、昔から話の内容などは説得力のないものばかりで、その点では慣れっこですから、少々のことではこんな風には思いません。

番組作りとしても、半年間、日曜を除く毎日を15分ずつに区切って、一定して視聴者に見せるためには、そう大きな波や偏りがあってはならないでしょうし、できるだけ平坦に、しかも毎回をそれなりにおもしろくすることで「毎日継続して観てもらう」ということが求められるのだと思います。

早い話がテレビ版紙芝居みたいなもので、その内容がどれほど奇想天外で、現実離れしていようとも、あくまでそこはドラマの世界なので、見る側もそれは承知であるし、要は見てそこそこ楽しければそれでじゅうぶんこのシリーズの価値はある筈です。

制作にあたっては、半年間で一作というわけで年間二作、東京と大阪それぞれのNHKによる制作だそうですが、これまでの傾向としては概ね大阪制作のほうが味があっておもしろく、東京のほうがよりNHK的と云うか保守的で、娯楽の要素ではいつも負けているという印象でした。
それもある意味当然で、なんといっても大阪はボケとツッコミを身上とするお笑いの土壌ですから、そりゃあ大阪のほうがおもしろいものを作ることにかけては一枚も二枚も上を行くのは当然だろうと思っていました。

ところが『純と愛』は、その大阪の制作だったのですからちょっと信じられませんでしたし、東京制作にしてはそこそこの出来だった『梅ちゃん先生』からの落差は甚だしいものでした。
まず主人公の純と、その夫である愛(いとし)のいずれも、(マロニエ君には)人物像としてまったく好感の持てない、図太くて押し付けがましい、自己中人間にしか見えず、これが終始番組の中核になっていたのが決定的だったように思います。

連続テレビ小説のヒロインが、何事にもめげない頑張り屋の明るい女の子というだけなら、毎度のお約束のようなものですが、この純は、がさつな熱血女子で、デリカシーがなく、遠慮というものを心得ない人物でした。それに対して愛は、病的で、辛気くさく、むら気で、「一生純さんを支え続けます」などと大言を吐きながら、ちょっとした事ですぐにつむじを曲げ、容赦なく不機嫌になっては相手を苦しめたりの連続でした。

さらにはこの二人に共通していたのは、何かというとお説教の連射で、何度この二人が画面の前で滔々と白けるような人生訓みたいなものを垂れるのを聞かされたかわかりません。しかも、その内容というのが、いまどきのキレイゴトの空疎な言葉のアリアのようで、聞いているほうが恥ずかしくなるようで、耐えられずに何度早送りしたかわかりません。
とくに見ていておぞましいのは、年端もいかない若い二人が、いい歳の大人や他人を相手に、この手のお説教をするという僭越行為であるにもかかわらず、それがさも人の心を動かす尊いことのように取り扱われている点で、聞かされた相手は、ドラマとはいえ、最終的に必ず改心したり生まれ変わったり感動したりというような反応を見せるのですからたまりません。

ほんらい連続テレビ小説は、ごく短時間、ちょっとした楽しみのために見る軽いスナック菓子のようなドラマであるはずなのに、家族を不幸に陥れて最後は溺死する父親、若いのにアルツハイマーになる母親、生活無能力者のような兄と弟、さらには脳腫瘍で倒れ、手術後も最後回まで意識回復できない愛(夫)等々、あまりにも暗い要素ばかりが折り重なって、非常に後味の悪い、暗いドラマだったという印象です。

続いて始まった東京制作の『あまちゃん』は東北の漁業の街が舞台ですが、これは開始早々笑える明るいドラマで、いっぺんに空がパァッと明るく晴れたようです。
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知りたがり

知人がふと口にしたことですが、曰く「苦手な人のタイプは、やたらと他人のことをあれこれ質問してくる人」なんだそうで、その嫌悪感が高じて人嫌いになった面があるという話を聞きました。
ここでいう質問とは、つまり「知りたがり」であり「詮索好き」という意味です。

マロニエ君は、さすがにそれで人嫌いになることこそなかったものの、いわゆる知りたがり屋というのは理屈抜きに嫌なものというのは、まったく同感です。

他人のことをなにやかやと知りたがる人というのは巷に少なくありません。
もちろんマロニエ君もターゲットになった経験は何度もあり、雑談に事よせてこちらのことを根ほり葉ほり聞いて来る人というのは、ひとつ答えるとまた次の質問になり、非礼の意識がないぶん歯止めが効きません。

そんなにいろいろと立ち入ったことを聞いてどうするのかと思いますが、おそらくはそれによって人を分類・整理していると思われ、それがいつしか欲求となり体質化してしまっているようです。だから人を見ればあれこれ聞かないことには安心できないのでしょうし、気持の上でも納まらないのだろうと思われます。

むかしの携帯電話のない時代は、電話をすると、その家のお母さんなどが出られる場合が多かったように思いますが、そんな中にもこの手合いがいて、不愉快になることがときどきあったのを思い出します。
こちらがきちんと自分の名を名乗っているにもかかわらず、友人なり知人に取り次いでもらうよう願い出ると、「どちらの○○さんでしょう?」とか「どういうご関係の方ですか?」などと、まことに失礼なことをズケズケ聞いてくる人がいて、思わずムッとしたことは一度や二度ではありません。

さすがに時代が変わって、そういうシチュエーションこそなくなりましたが、本質的に知りたがりという種族はまったく後を絶たないようです。

例えば、なにかというと他人およびその係累の職業などを聞きたがるのは、のぞき趣味丸出しというべきで、最終的に恥をかくのは自分であるのに、当人に自覚がない為に打つ手がありません。それを面と向かって指摘する人もまずいませんから、よほど身内から厳重注意でもされない限り、永久にその癖は直らないわけです。

マロニエ君は一線を越えると物を申す主義なので、あまりに礼を失した質問攻勢などに遭遇すると、「まるで身上調査をされているみたいですね!」というような皮肉を言ってストップを掛けることもありますが、それでも自省するどころか、今度は「あの人は秘密主義」というようなレッテルを貼ったりするなど、ただただ呆れる他はありません。

あらためて言うまでもまりませんが、よほど必要がある場合を除いて、不用意に他人の職業や家族の内情などプライバシーに触れることは慎むのが本来常識で、それはお付き合いの中からあくまで自然にわかってくる範囲に留めるべき事柄です。
なぜなら、世の中のすべての人が自分が満足する職業でいるわけではなく、むしろ数から言えば不本意な現実に甘んじている人のほうが多いかもしれず、そういう事を言いたくない聞かれたくない人も大勢いるわけで、それは学歴や住んでいる場所なども同様、実に多岐にわたり、今風に云うなら個人情報です。

極論すれば「人に職業を聞くというのは、おおよその収入を知りたがっているのと同じことだ」と言う人もあり、これは云われてみるとまったくなるほど!と思わず膝を打ちました。

ひどいのになると、住まいは一戸建てかマンションか、賃貸なのか、自己所有なのか、土地は何坪なのかなど信じられないようなことまで、とにかく自分の興味の赴くままに、どこまでも追い回して聞きたいわけで人迷惑も甚だしいことです。

一般に辛うじて常識となっているものでは「女性に歳を聞くのは失礼」などですが、それに匹敵するものは実は他にもたくさんあるのに、あまりにも無知で無法状態というのが実情です。

普通の人なら、十中八九そういう質問をされることに不快感を抱くはずですが、それでもなんとかその場はポーカーフェースで我慢するだけで、質問者のほうはまさかそんな悪印象を持たれているなんて夢にも思っていないのだろうと思うと、その意識のズレはやりきれません。
因みにマロニエ君は、自分の職業その他がとくに恥ずべきものとも誇れるものとも両方思っていませんが、しかし興味本位でそういうことをつつかれるのは、その底意や気配を感じるので愉快ではありません。

これは自分のことを知られたくないというよりは、無礼に対する単純な不快感と、のぞき趣味の人間の低級な興味に、むざむざ答えを与えてやって満足させるのが嫌なのです。
それにしても…なんでそんなにも人のことが気になるんでしょうねぇ。
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店内自衛隊

おもしろい話を聞きました。

その人は土曜の夕刻、天神で化粧品などを買うため、ある有名な薬局兼化粧品店に入ったそうです。
ここは天神の中でも最も人通りの多いエリアで、土曜ともなると大変な人出で賑わっていたようですが、その人が店に入る直前、表通りに外国語(アジアの大国)をさかんに喋る一団があって、雑踏の中でもどことなく目立っていたといいます。

この国の人達は、おとなしい日本人とは違い、どこでも構わず独特の調子でワアワアしゃべりまくるので日本人でないことはすぐにわかるそうで、それはマロニエ君も何度か経験しています。こちらに居住している留学生などはまだそれほど強烈ではないのですが、観光客は旅行中ということもあるのか、その声のボリュームとテンションは傍目にもかなりのものです。

さて、薬局兼化粧品店の店内もかなりの混雑ぶりだそうで、3つあるレジはフル回転状態だったとか。
すると、さっき外で見かけたその外国人旅行者の一団(7〜8人と旗を持つ添乗員がひとり)がどやどやと入ってきて、たちまち各自あれこれ商品を手にとって品定めが始まったそうですが、同時に店員の表情が傍目にもわかるほどあからさまに変化した(こわばった)そうです。

すると、ある奇妙な動きが起きたというのです。

そんな繁忙時間にもかかわらず、5〜6人の店員が各々の忙しい仕事を中断してサッと動き出し、その旅行者達のまわりをさりげなく取り囲むような陣形を布いたそうです。
お客さんに商品説明をしていた人も、すぐにそれをうっちゃってこの態勢をとるし、3つのレジもひとつがすぐに閉鎖され、すかさず監視要員に早変わりしたというのですから驚きです。

こうも息を合わせたように、すみやかな動きが取れるようになる陰には、よほど日頃の丹念な打ち合わせが整っていたに違いないというわけです。
それにしても、日本でこれほどお店の店員が迅速かつ警戒的な動きをするというのは、マロニエ君もほとんど覚えがなく、よくよくの事だろうと思われます。おそらく、その必要を強く認識させるだけの被害がこれまでにも度々発生し、ついにはその自衛策が講じられたのでしょう。

この国の人達は、なんでも勝手に持ち帰るのがお得意らしく、いまや彼らの行く先では、五つ星のホテルなどでもバスローブなど多くの備品が続々と姿を消しているそうで、壁にかけられた絵なども大型のスーツケースに入らないサイズにするとか、シャンプーやリンスも壁の埋め込み式にしても、それを壁から引き剥がしてまで持ち帰るのだそうですから、いやはや凄まじい限りです。

九州のとある観光地のホテルでは、小物の備品はもちろん、ついには大型の液晶テレビまで持ち去られたというのですから、もはや笑うに笑えない実情のようです。
そんな大きなものでも、持ち去りの被害に遭うことからみれば、薬や化粧品は、どれも小さなアイテムばかりで、さらにはこの国の人達には資生堂を始めとする日本製の化粧品や薬品は大人気だといいますから、恰好のターゲットなのでしょうね。

こういうことを書くと、「そうでない人もいる」とか「日本人にも悪い人はいます」などとわかりきったようなことを正論めかして言ってくる人が必ずいますが、こういう現実はもはや個人差の範囲ではないということを証明しているようなものです。

経営者にしてみれば、お客さんというより、窃盗団が堂々とやってくるようなもので、やむなくこのような店内自衛隊が組織されているんでしょう。
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続・断捨離

断捨離の精神が『人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れる』という事は、たしかに一面に於いては納得できる話ではあります。

マロニエ君のまわりにも、パソコン上で未読メールを何千通も抱え込んで消そうともしない友人がいたりしますし、巷には「片づけられないオンナ」というのが多いのだそうで、きっと男にも同類がいるでしょうし、これは単なる横着や怠け者というより、ほぼ脳内の問題のような気がします。

ゴミ屋敷などという甚だしく社会迷惑な家も珍しくない時代ですが、物が捨てられない人が決まって口にする言葉は「これはゴミではない。自分にとっては必要な物で宝物、いつか必ず役に立つことがある」などと云うようですが、聞かされる側はとても納得できることではありません。

「モノへの執着から解放される」というのは、ある意味に於いては清らかな精神を持つための第一歩かもしれません。むかしテレビで見たマザー・テレサは、多くの修道女達を従えて彼女達の為に準備された住まいに入るや、いきなりカーペットを剥がし、調度品を屋外に運び出し、物に執着しない高潔な精神の持ち主であることを躊躇なく実践して見る者を驚かせました。(尤も、彼女は実は大金持ちで、いろんな噂もあるようですが…)

また、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』では、千葉道場のさな子との別れに際して、龍馬が自分の形見の品を渡そうとするものの、ふと気がつけば彼には刀以外に何一つ持ち物がなく、やむを得ず着物の袖を引きちぎってそれを渡すというところがあり、いかにも私欲のない、器の大きな、些事に恬淡とした龍馬という人物を象徴的に描いています。
史実の上でこれが真実かどうかはともかく、若い頃これを読んだとき、本物の男の究極の姿とは、そういうものなのかと考えさせられたことがありました。

モノに限ったことではないですが、何事においても「執着する」ということは、正当な目的をもつということとは似て非なる事で、執着はその人の本来の能力や自由を奪い、ひとつのことに縛り付けるという副作用があるようです。出世への執着、金銭への執着、権力への執着などは、どれもがその病的な心の作用に翻弄されているばかりで、見聞きして気持ちのいいものではありません。

また最近では、新種の執着族も激増して、たとえばスマホから離れられないような人達もそのひとつかもしれません。便利な道具として賢く使いこなすのではなく、完全に道具に人間が支配されていほうが多いでしょう。とくに若い人ほどその傾向が強く、その執着心に捕らわれている代償として、感情や言葉までも貧しくなり、本来の人間としての能力まで錆びつかせているようにも感じます。

こう考えると、不要物もそんな害悪のひとつであることは否定できませんから、なにも極端な断捨離を目指さないまでも、ほどほどの整理整頓を実践することで、そのぶん心も軽く自由で快活になるとしたら、やはりその価値はあると思いますが、かくいうマロニエ君もなかなか思うようにはできません。

しかし「過ぎたるは及ばざるがごとし」の喩えの通り、あまり何もかもを不要物と見なして捨て去るのもどうかと思います。マロニエ君の私見ですが、ある一定量の物は、心に安心と豊かさをもたらすという一面もあるはずで、その一線は崩すべきではないように思いますが、これも個人差があるでしょうね。

マロニエ君は、稀によそのお宅などに行ってギョッとしてしまうことがあります。
それはあまりにも物が少なく、まるで何かの事情があっての仮住まいか、はたまたウィークリーマンションとか、とにかく生活の実感が持てないほど物の少ない住まいというものを見て心底驚かされたことは何度もあり、あれもどうかと思います。

断捨離の精神からすれば、それは称賛される光景かもしれませんが、少なくともマロニエ君の目には快適空間というよりは、殺風景で寒々とした空間としか目に映らず、気が滅入ってしまいます。
何事も自分に合った程良さというのが肝要だろうと思います。
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断捨離

この数年でしょうか、断捨離(だんしゃり)という言葉をときどき耳にします。
テレビ番組で、部屋の収納術とか片づけなどに際して、よくこの言葉が使われているので、なんとなく要らないモノを思い切って捨てるという意味かと思っていましたが、ネットのウィキペディアを見ると、もっと深い意味があるようです。

以下、一部引用

『ヨガの「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。単なる片づけとは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる』

〜なのだそうで、これはなかなかマロニエ君にはできそうにもないことです。
このところ腹をくくって物置の片づけなどをやっているのですが、いざ手をつけてみると自分でも呆れるほど様々な物が次から次へと出現して、別になくても何の不自由もない物は数多く、いかにそんな不要物に囲まれながら生活していたのかという現実を痛烈に思い知らされます。

これがいわゆる転勤族などであれば、嫌でも物の量は少なくなるでしょうし、むやみに物が増えないようにするという生活習慣が自然に身につくのだろうと思いますが、マロニエ君の家は代々そうではないためもあってか、そのあたりの意識がほとんど欠落しているようです。

たしかに不要な物を捨てることは、物質上あるいは空間のダイエットをするようで、不思議な快感があるものです。マロニエ君の場合、とりたててモノに執着しているというつもりはないのですが、整理と廃棄に着手するのがただ面倒というだけで、いざやりはじめると物を捨てたぶん場所は広くなるし、変な楽しさがあることもわかりました。

というわけで、不要な物はどしどし廃棄していけばいいのですが、困るのは捨てるに捨てられない物に行き当たったときというのは誰しも同じだろうと思います。そもそも、どこで「必要な物」と「不必要な物」の線を引いたらいいか、その点に苦慮するシーンがしばしば訪れるわけです。
例えばいろいろな思い出の要素を帯びた品などもそうなら、亡くなった身内の遺品ともいうべき物ともなれば、そうそう安易にゴミ袋に放り込むということもできません。しかし、取っておいてどうするのかとなると、これは甚だ答えに窮しますし、そういうときは片づけのスピードも一気に鈍ってしまいます。

あるいは、そんな精神的な要素が絡まなくても、使う予定もない物の中には、買ったまま使わずしまい込んで忘れていた物、あるいはいただき物などをそのまま置いていただけという場合が少なくありませんが、古くてもモノ自体は新品(というか未使用品)だったりすると、それをそのまま捨てるというのは、断捨離に於いてはこちらの修行が未熟な故か、どうにも抵抗があるわけです。

むろん「欲しい」というような人でも現れれば喜んで差し上げるところですが、そんな都合の良いことがあるはずもなく、結局どうにも始末に困ってしまいます。

こういう場合は、断捨離で云うところの「物への執着」というのとはいささか違い、何の傷みもない新品もしくはそれに近い物を、あっさり捨てるという行為が、例えば大した理由でもなしに木を切ってしまうことのように、ひどく傲慢かつ野蛮なことのように思えてしまいます。

もしかしたら、そういう甘ったるい気分を断ち切り、乗り越えたところに断捨離の極意があるのかもしれませんが、なかなかそんな高みには到達できそうにもありません。
それでも相当量を廃棄しましたから、ずいぶん風通しはよくなったわけで、ひとまずこれで満足することとします。
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ロビーは営業現場

先週金曜の夕刻のこと、付き添いで街の中心にある大病院のロビーで診察の終わるのをずいぶん待たされることになったのですが、そのとき、見るともなしに思いがけない光景を目にすることになりました。

ちょうど時間帯が、一般の外来診察が終わって、以降は急患の対応に切り替わる時間帯であったために、ロビーにはこの病院にしては患者さんの姿はほとんど無くなり、ちょうどその時間が区切りになっているのか、私服に着替えた看護士さんとおぼしき人達が仕事を終えてぞろぞろと引き上げていく姿があり、白衣姿の医師の往来もえらく頻繁になってくるという状況が一時間ほど続きました。

この病院は市内でも最も有名な大病院のひとつですから、そこで働く医師や看護士などの数もおそらく相当なものだろうと思われます。

そんな中にぽつねんと待っていたマロニエ君でしたが、広いロビーに置かれたあちこちの長椅子には、明らかに患者とは様子の異なる種族が散見でき、これがなんとなく不思議な印象を放っていました。

みな一様に真面目な様子で、どうみても病気や御見舞ではなく、仕事時間中という感じにしか見えません。
男性は例外なくスーツ姿で、女性もほぼそれに準した服装です。一人の人もあれば、二人組のような人達もあって、ごくたまに医師と立ち話などをしており、はじめは何なのかと思うばかりでした。

なにしろこっちはヒマなので、それとなく観察しているとだんだん状況が読み込めてきたのです。
それがわかったのは、向こうにいる男性が、こちらから歩いて行ったひとりの医師にスッと近づいて話を始めると、それを見ていた比較的マロニエ君の近くにいた男女二人が俄に落ち着かない様子でしきりに話を始めます。すると、何かを決したように二人ともすっくと立ち上がり、その立ち話をしている医師とスーツの男性のほうに歩み寄りますが、話が済むまで3mぐらいの場所から待機している様子です。

話が終わると、今だ!といわんばかりに二人が近づき、ようやく歩き始めた医師の足を再び止めることになりますが、とにかくお辞儀ばかりして必死にしゃべっています。
ほどなく二人は戻ってきましたが、今度は別の医師が歩いてきたのを見て「どうします?」「行ってみましょうか?」と女性の声がわりに明確に聞こえたのですが、間をおかず再び追いかけるようにして医師を呼び止めます。

もうおわかりと思いますが、このロビーを頻繁に往来するこの病院の勤務医師に話しかけるチャンスを狙って、それが薬品メーカーだか医療機器メーカーだかは知りませんが、とにかく病院相手にビジネスチャンスを目論む業者の営業マン達が、診療時間に区切りがついて多くの医師らが動き出すのを狙って、この時間帯に営業活動にやってくるようです。

パッと目はまるで医者目当てにナンパしているようでもありますが、しかも遊びではない厳しい目的があるわけで、もちろんチャラチャラした気配など皆無で、笑えない、痛々しいような空気が充溢しています。

他の人達もおおむね似たような感じで、今どきの就職難の時代にあっても、営業職は人気がないと云われているそうですが、それをまざまざと実感できる、彼らの仕事の大変さが込み上げてくるような光景でした。まったくあてのないダメモトの仕事を、厳しいノルマを背負わせられて粘り強くやり抜くだけの強さがなくては、とてもじゃありませんがやっていけない仕事だと思いました。

そもそも営業なんて、断られるのが当たり前で、それでいちいち傷ついたり落胆していては仕事にならないでしょう。ストレスに打ち勝つだけのタフな神経も必要とするし、しかも低姿勢に徹して愛想がよく、同時にしたたかさも必要、製品知識も相当のものが必要とされるはずで、これは誰にでも出来る仕事ではないと痛感させられました。

その男女のペア組では、女性のほうがより胆力がありそうで、何度もトライしては戻ってきながら「厳しいですねぇ、ハハハ」なんて云ってますから、仕事とはいえ大したもんだと感服しました。

なんとなく思ったことですが、現役の営業職の人達からみれば、婚活なども日頃の訓練の賜物で、普通の人よりチョロい事かもしれません。なにしろ相手を「落とす」という点にかけては、基本は同じですから、要は人垂らしでなくてはならず、この点の歴史上の天才が豊臣秀吉かもしれません。
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若い人の動き

最近の若い人の動きを見ていると、ちょっとどうかしちゃってるんじゃないかと思われることがよくありますが、過日もまったくそんな光景を目撃することになりました。

天神にはジュンク堂という大型書店がありますが、ここはレジが一階の一ヶ所にまとめられていて、たとえ何階にある本であろうと、お客さんはすべて自分の手で一階へ持ってきてからの精算となります。ジュンク堂がオープンした当初は精算を済ませていない本を持って、そのままエスカレーターに乗り降りすることにずいぶん抵抗感があったことを覚えています。

さて、この日は日曜ということもあってかなかなかの人出で、レジ前には入口出口が設けられていて、その向こうには左右合わせて十人以上の店員さんがフル稼働体制で一斉にレジ業務にあたっています。

数が多いので、手が空いたレジ係はサッと手を上げて、並んでいるお客さんの目に「ここのレジは空きましたよ」というシグナルを送ります。
列に並んだ人達は自然にその動きをじっと見守り、たとえ年配の方でも自分の番が来ると手の上がったレジ係を見つけてすみやかに移動されて列は流れていきますが、むしろ若い人のほうがボーッとしていてそんな状況の動きというかテンポが理解できないのか、いかにも集中力がないという感じで目線も定まらず、手を上げているレジ係のほうを見るでもなく、しばし流れが途絶えてまわりがやきもきさせられてしまうのは驚きです。

しかも、それがこの日は3人も続いたので、マロニエ君の目には「たまたま」ではなく、これは世代的な特徴のように見えてしまいました。

それだけではありません。
若い人の友人らしき人物が、列に並ぶ友人の傍らにいて、これまたいかにもぼんやりしているのですが、そこが出口の通路をやや塞いだかたちになっているので、精算を済ませた人がこの場を出ていくのにも、ずいぶん通りにくそうにその人の背中をかわしながら出ていくのですが、そんな事にもほとんど反応がなく、ちょっと場所をずらそうという気配もないまま、何人もの人がささやかな迷惑をこうむっていました。

これに限ったことではなく、今の若い人の動きや反応を見ていると、こういう感じの場面があまりにも多いような気がします。はじめは単なる横着や不作法かとも思いましたが、どうやらそれだけでもないようで、神経の反応とか適応力がそもそも鈍くなってしまっているような気がします。
同じような光景を見て、似たような印象をお持ちの方もたくさんいらっしゃると思いますが、これは一体何なのだろうと思います。

運転も同じで、広い道のドまん中を、意味のない鈍足で平然と走り続ける若い男性などを見て呆れたことは一度や二度ではありませんが、これも安全運転とはかけ離れた奇妙な気配に満ちていて、ドライバーはどういうつもりなのかさっぱりわからなくなることがあります。最近はさすがにこっちの方が慣れてきて、さほど驚きもしなくなりましたが、こんな若い人達が仕事をバリバリこなして、近い将来、社会を牽引する主役になれるとは到底思えないのは困ったことです。

たぶん、どんなに周りの雰囲気には疎くても、ノロノロ運転しかできなくても、パソコンやスマホを触らせたら理解力もあり、スイスイ自然な操作ができるのかもしれませんけれども…。
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石鹸と薬事法

以前にも一度セッケン(石鹸)のことを書いた覚えがあります。
シャボン玉せっけんのベーシックの無添加石鹸は、たとえパッケージに「何用」と書いてあっても、中は基本的にどれも同じものらしいということを友人から教えられ、確認のため会社に電話して質問してみると、果たしてその通りだったという話です。

それいらい、マロニエ君はバス用には大型割安ということで、同社の洗濯用固形石鹸を使っていました。いうまでもなく中身は同じで、はるかにお得というわけです。

自慢ではありませんが、マロニエ君は肌が刺激に弱く、下手な化粧石鹸やシャンプーなどを使うとてきめんに皮膚が音を上げますし、手洗い用の石鹸でもちょっと添加剤のあるものなどを使おうものなら、すぐに手の甲がヒリヒリしてきて肌に合わないことを痛感させられます。
そういうわけで、我が家ではマロニエ君の手の甲の皮膚は便利な試験台のようなものになってしまっています。

そして、このシャボン玉せっけんの洗濯用というのは、名前こそ「洗濯用」となっていますが、その実体は無添加の純良なやさしい石鹸であることは論より証拠で、使ってみればわかります。ところが、一般的に洗濯用というと粉末洗剤が普及しているためか、なかなかこれを置いているスーパーがありません。

いつでも必要なときにサッと買えなくては実用品の意味がないので、見かけたときはできるだけ余分に買うようにしていました。
たしか「洗濯用」になることで、良質の石鹸が実質半額ぐらいで使えるのが気分がよろしいというだけのことで、裏を返せば甚だセコイ話ではあるのですが…。

中にはいろいろなオイルから抽出した高級品風なものもありますが、マロニエ君の場合はベーシックな無添加石鹸で十分だと考えています。
ところで、この石鹸成分98〜99%の純石鹸というのはなにもシャボン玉に限ったことではなく、別の会社からも同様品が出ているのは皆さんもご承知のことでしょう。

シャボン玉に並んで目にする無添加石鹸にミヨシというのがあり、こちらも見ると成分は変わりませんが、やはり訳あっていろいろな種類というか、つまりパッケージとサイズの違いで商品構成されているのが見受けられます。

こちらにも洗濯用があり、成分は98%石鹸成分なので手洗いやお風呂に使ってもいいだろうという思われ、思い切ってそのような使い方をしてみましたが、案の定、マロニエ君の「弱肌?」で試しても何の問題もないようです。
それが数ヶ月続きましたが、もちろん問題などは発生しませんでしたが、あらためてパッケージを見ると「お客様相談室」なるところがあるらしく、そこに確認の電話をかけてみることにしました。

ただ正面切って貴社の洗濯用をお風呂用として使ってもいいか?と正面切って聞くのもためらわれましたので、戦略を変えてちょっとばかりウソをつきました。
「洗濯用という文字を良く見ないまま、間違ってお風呂で使っていて、後で気付いたんだが、問題はないだろうか?」という変化球を投げてみました。

すると、なんとも柔和すぎる男性の声で「ご安心ください。まったくご心配はございません。普通にお身体をきれいにされる石鹸と同じです。」ときた。「では、どうしてわざわざ洗濯用というふうに区別しているんですか?」と聞いてみると、「それは、薬事法というものがございまして、弊社はそれに従って製造・販売をさせているものですから…」「では、今後も洗濯用をお風呂用として使っても心配はありませんか?」ときくと、「もちろん大丈夫なんですが、はっきり「どうぞ」とは申し上げられませんので、ここはあくまでも「自己責任で」ということでお願い致します。」という、なんとも石鹸の泡のようなふわふわやわらかい答えが返ってきました。

要するに、同じものなんだからドーゾというわけで、ただお風呂にはできれば「バス用」と記したもっと割高な製品を買って欲しいというところでしょう。これが本当にもしダメなら「即刻、ご使用をおやめください!」となるはずですから、99%大丈夫という風にマロニエ君は解釈しました。

そうそう、「純石鹸」と「無添加石鹸」という表記にも薬事法絡みの事情がありそうですが、面倒臭いのでそこまでは調べませんでした。
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車に見えるもの

このところ険悪な状態となって久しい日中関係ですが、中国の話題に接するたび、過去何度か訪れた中国のことをよく思い出します。現地に行くと、目に飛び込んでくるものには驚かされることの連続で、おかげで退屈しているヒマなんてありません。
すごいことは文字通り山のようにあって、はじめはいそがしくあちこち目が向きますが、しだいに落ち着いてくると、少し冷静な目を向けられるようにもなります。

たとえば車です。
中国にはむろん中国製の車もそれなりには走っていますが、現地生産を含む日米欧の高級車の割合が高く、日本でいうとバブルの頃を思い出すような大型車が街中にあふれています。何でも大きいほどエライ、値段が高いほどエライという尺度がこの国では単純明快すぎるほど支配しているようで、その割りにどれもあまりきれいではなく、街も車も大抵はかなり汚れているのも特徴です。

それに較べると、日本に帰ってきてまっ先に感じるのは、とにかく街が清潔で感動的に美しいことと、走っている車もきれいだけれども小さいことです。どうかすると信号待ちなどをしていて周りはすべて黄色いナンバーの軽自動車に取り囲まれるなんて状況も決して珍しくはありません。普通車でも、今やコンパクトカーの占める割合が大きく、とにかく以前のような高級大型車が肩で風を切って走っているというような光景は劇的に少なくなりました。

マロニエ君は昔からクルマ好きで、いまだに購読を続けている自動車雑誌もありますが、自動車文化としての観点から大雑把に云うなら、必要以上に大きい車に乗りたがる人ほど、平たくいうとハッタリ屋で、拭いがたいコンプレックスの裏返しという事は社会学的にも裏付けられています。
それは社会が未成熟なほど、車がステータスシンボルとしての役目を果たすからで、当然のようにそんな心理にはまった人達は自分のライフスタイルに沿った、TPOに適った、身の丈に合った、知的で良識ある車選びということが出来ません。
もっぱらの問題は収入や預金通帳の残高と、見栄えの良さや話題性の高い注目度の高いモデルであるか否かばかりが判断基準となります。

その点では、現在の日本はというと、日本人の精神的成熟の度合からというより、長引く不景気やデフレが背景となって、誰も彼もが続々と小さい車へと乗り換えました。マロニエ君も一時はおもしろ半分にそんな手合いに乗ってみましたが、やはり自分の用途と体型と趣向に合致しないことがわかり、昨年乗り換えたばかりですが、今の日本の小型車志向、さらには自転車依存はむしろ不健全な印象で、この点はアベノミクスによって今後は少しでも改善されればと思います。

逆に、むやみに大きな、分不相応な車に乗る人というのは、実は本人が思っているほど傍目にカッコイイものではないことは断言できます。ベンツのSクラスやレクサス、あるいは空間を運んでいるだけみたいな大型の仰々しいワンボックスや大きなRV車などを、拙い運転の女性がアゴを突き出しながら乗って来て、スーパーの駐車場などでさも不自由そうに、なんとか駐車枠に止める奇妙な光景などを目にすると、逆に気の毒で、かえって貧相なものを見ているような気分にさせられます。

一方、男もずいぶんと運転に関しては変わりました。
もちろん高価なスーパーカーや大型高級車がもつ車の威を借りて、これみよがしに走り回る連中なんかが男性的だなどとは云いませんが、少なくとも自分の運転技術を磨いてスポーツカーをいかにスムーズで美しく乗りこなすかという、技巧派のモータリストの類などはすっかりマイノリティーになってしまったのかもしれません。「峠を攻めに行く」なんて言葉も死語に近いようですが、この言葉が生きていた時代の男は平均して女性より圧倒的に運転が上手い時代でした。
今は燃費や維持費ばかりを偏執的に気にして、そのためのケチケチ運転をするドライバーが大繁殖していて、覇気もなく、なにか大事なものを失ってしまったかのようです。むろん何に価値を置き、何に熱中しようと、それは人の勝手ですけれども…。

車に限ったことではありませんが、物事の本質を極めたいと願うような純粋な精神はだんだんに失われ、何事も薄味の、甚だ色気のない時代になっていることは間違いないようです。
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変人の純粋

マロニエ君は世に言う「変人」という人達が、世間一般よりも嫌いではありません。もちろん変人にもいろいろありますから、その中のごく一部ということになるのかもしれませんが。

ある時にふと気が付いたのですが、いわゆる変人というか、ちょっと変わった人というのは、興味深いことに自分以外の変人には極めて冷淡な場合があるようで、これには驚きました。同性や、同じ職業の人の間に流れる緊迫感と同じように、変人同士というのは一種のライバルになるのでしょうか。

こういうことを書いて誤解されると困りますが、マロニエ君は中途半端な常識人よりは、却っていささかぐらいなら変人の方がウマが合う場合が少なくありません。
それはアナタ自身が変人だからでしょう!と言われてしまいそうですが。

変人というのは、人よりもどこか変わっているぶん、俗事に疎く、そのぶん純粋である場合があるということをマロニエ君は経験的に知り、ホッとさせられるものがあるのです。
悲しいかな現代人がなにかにつけ計算高く、人を無邪気に信頼できなくなっているこの時代、そんな中でいささか外れた道を歩んでいる変人には、却って正直で信頼に値する一面があるからだと思います。

尤も、この変人にしろ常識人にしろ、その定義は甚だ難しいので、ここはあくまでも自分の主観によって判じ分けているわけですが、とにかく個人的に苦手なのは平凡で食えない平均人です。
とはいっても変人にも程度問題というのがあって、お付き合いに支障が出るような御仁もいらっしゃいますから、そのあたりは到底マロニエ君の手に負えるものではありませんが、多少ならば純粋さの代償として無意識のうちにこちらのほうを好んでいると自分に気づきます。

では変人の特徴はどこにあるかということですが、まっ先にマロニエ君が単純素朴に思いつく要素は、人に合わせること、つまり協調の機能が弱い人ということになります。さらには、そのためにいろんな損もしている人ということでしょうか。
純粋ぶっていても、それを計算や演技でやっている人は、人一倍損得勘定に長けていて、決して損になるようなことはしませんし、そのあたりは逆に普通以上に用心深かったりしますが、天然の変人はそのあたりはまるでお構いなしで、見事に己の道をまっしぐらです。

これは信念や度胸があるからではなく、それしかできないからみたいです。

変人には変人なりのバラエティに富んだ特徴があり、とても一口に言い表すことはできませんが、困ったパターンとしては他者にめっぽう厳しいということがあるように思います。自分も変人のクセして自分以外の変人とは絶望的に相性が悪く、気持ちの上でも決して寛大さを見せてくれません。自分が出来ないことは多々あっても、自分が出来ることで人が出来なかったら、その批判や追求などは容赦ないものがあります。

このパターンは、思うに変人は変人故に、平生から常に人からハンディといえば語弊があるかもしれませんが、少なくとも相手の我慢によって支えられ、寛大に接してもらうことに慣れている場合が多いのですが、相手も変人となれば、普通の人のように特別扱いはしてくれないために、そこでなんらかの火花が散り、相手を敵視し、本能的に避けようとするようです。

動物が嫌いな人の中にも、このパターンを認めることができますが、動物(とくに犬猫)は、人間にハンディはくれませんし、それでも寛大に愛情深く接することが要求されますから、ある種の変人にこれができないのはなんとなく頷ける気がします。
吉田茂は犬が嫌いな人間とは口もきかなかったと言いますが、それもなるほどひとつの物差しだとはいえるでしょう。
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東区にホールが

このところ福岡市東区の国道3号線、およびその周辺道を通ることが何度かありましたが、目を見張るのは、この一帯は昔が何であったのかさえすぐには思い出せないほど近代的な景観に生まれ変わって、高層マンションなどがいくつも出来ているし、周辺の道路も美しく整備されて、以前の面影はまったくないことでしょう。

中心になる2棟の大型高層マンションなどは、数年前までは工事費用の問題からか売れる見込み立たなかったのか、詳細は知りませんが、工事そのものが途中で頓挫して、半分ぐらい出来上がったコンクリートの外壁が、哀れな姿を晒していたものでしたが、その後工事も再開され、それを契機にその他のビルなども建築が進んで完成し、今ではちょっとした福岡の東の副都心的な様相を見せています。

福岡市はいつのまにやら東西に高層のマンションなどが数多く立ち並ぶ街になり、まさに市の両翼を支えているという印象さえなくはないようです。これに合わせるように周囲の道も次々に作られては運用が開始され、カーナビのソフトはいつも古いバーションになってしまうほどです。

さて、そんな東区香椎の新エリアですが、大型高層のマンション群の脇にはまだまだ手つかずの広大な地所があり、こんなところに新しいホールでも出来たらいいのになあと思っていました。しかし、それはマロニエ君の空想であり願望に過ぎず、実際にホールのような文化施設を作るには莫大な費用はかかるし、現在のような冷え込んだ音楽業界やコンサートの現状をみれば、とてもそれで経営が成り立っていくものでもないだろうし、まあ採算の取れるマンションやショッピング施設などしか建設計画には挙がらないだろうと思っていました。

ところが、あるとき楽器店の方から「あそこに」どうもホール建設の方向の話が進んでいるらしいとの情報がもたらされて急に嬉しくなりました。今はまだその広大な空き地はなにも手が着いていない状態ですが、すでに楽器メーカーのほうにはピアノの価格などあれこれの打診がなされているとのことで、ということは、あるていどの基本計画ぐらいは決まったのではないかと思ってしまいますが、果たしてどうでしょう?

福岡市内でも居住者の多い東部副都心部に文化施設ができるということは嬉しいことですが、ただし杞憂がないではありません。
東京でも紀尾井ホールや浜離宮朝日ホール、福岡でもアクロスなどができたのはいずれも1990年代の半ばで、この時期はバブル経済がはじけた後遺症を引きずりながらも、まだ世の中には、いいものを作ろうという余韻と志のようなものが関係者の心の中にはあって、作る以上は地域の誇りになるような一流の施設を作ろうじゃないかという気概のようなものがあったように思います。

それからほぼ20年余、時代の変転は想像以上のものがあり、マロニエ君は昨年県内に久々に新しくオープンしたホールに行ってみて、その露骨なまでの低コストも露わな簡素な施設にただただ驚き、唖然とさせられたのはいまでも強烈な印象となっています。
こういってはなんですが、文化施設というのは、もちろんエリアの人が気軽に利用できる要素も併せ持っていなくてはいけない面もあるとは思いますが、基本的には文化の象徴であり、地域の精神的な中心地であるような、つまり「良い意味であまり気軽ではない」という存在であってほしいと思うのです。

名前や建前は立派でも、実体はただの地元のコーラスの練習だの、アマチュアの便利なステージ、カルチャースクールの集合地のようになると、却って特定の人達の専有物のようになってしまうだけのようにも思います。もういまさら図書館などを併設しなくていいから、ここはぜひしっかりした、百年もつようなものをつくってほしいと思いますが…無理でしょうね。
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ゴミ袋

先日、物置の整理をしているということを書きましたが、大半は市の指定によるゴミ袋に入れて回収日に出すということをひたすら繰り返しています。

大中小あって、45Lというのが一番大きなサイズで、これはどこで買っても一切の値引きも無く450円、つまり一枚45円也の袋です。実にくだらないことですが、この袋を二重(中の袋は普通の市販のもの)にして強度を増し、できるだけ中のゴミを圧縮しながら、できるだけたくさん詰め込むことに一種の楽しさを覚えてきました。

不思議なもので、努力をすればするだけたくさん詰め込めるし、要領も良くなり、出来上がったときには袋全体がまるでオバQのような様相となります。
ささやかながら、なんでも凝り性なところのあるマロニエ君としては、次第にコツが掴めてきて、底のほうに置くものやその形状、入れ方の工夫なども次々に思いついて、我ながら実にセコくてバカバカしいことだと知りつつも、変にこの作業を挑戦的な気分で没頭するようになってきました。

次から次ぎに作っているうちにテクニックも上がるし時間も早くなり、何事も練習というのは本当だなあ…なんて感心しながら、それにしては肝心のピアノはどうして上手くならないのかと思ったりしながら。

それもこれも、ペラペラのゴミ袋が一枚45円もすることに一種の抵抗心が芽生えて、できるだけたくさん詰め込むことで、自治体の思惑にせめて抵抗してやろうという反抗心もあるのです。そうやって詰め込まれたゴミ袋はいよいよ肥大化し、回収日に外に出すのがちょっと恥ずかしいぐらい極限まで成長していきました。
それだけ詰め込み方の手際が上がったというわけです。

そんなある日、おやつを買いに行こうと車に乗ったのですが、このところあまりに同じ店でばかり買っていたので、美味しいけれどもいささかその店の味にも新鮮味がなくなっていたので、その店の目と鼻の先にある、もう一件のお店に行ってみることにしました。
数年前のオープン当時一度買ったことがあり、そのときの印象はイマイチだったものの、もう一回ぐらい買ってみようかという気になり、その日は敢えてそちらの店で買いました。

果たして、陳列ケースを見たとたん、あ、大したことないな…と直感しましたが、もう店のドアは開けて中に入ってしまったことだし、自分のことをかわいいと思っているようなお姉さんが、すかさず奥から出てきて「いらっしゃいませぇ!」とえらく高い声を出してしまった後でしたから、この場は諦めてとりあえず4個ほど買ってみました。

帰宅するなり食べてみると、予想以上になんてことないもので、家人にもまったく不評でした。サイズも小ぶりで、味も単調、ハッキリ言って大失敗。もう金輪際行かない店という認識を自分の中に刻みました。
同時に、ふと、ゴミ袋のことを思い出しました。

こんなしょうもないケーキが、あの10枚入りの指定ゴミ袋とほとんど同額だなんて、到底納得できないし、磨き上げた詰め込みテクニックが、とめどなくアホらしいもののような気がしてきました。
自分のやってきた努力が、出来の悪いケーキ1個によって無惨にも瓦解したようでした。
そういうわけで、せっかく磨いたテクニックですが、それもそこそこ使うことにして、ゴミ袋はもっと大胆にパッパと使うことに決めました。

…とはいっても、実際には大した差はないのですが、でも気分はかなりかわりました。
まあ、冷静に考えれば、あれだけのゴミをひとつ45円で処理してくれるのですから、考えてみればありがたいもんだと思い始めているこの頃です。
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物置の整理

このところ、暇を見つけては物置の整理をしています。
訳あってどうしてもこの場所にある夥しい量の荷物のすべてを一旦外に出さなければいけなくなり、初めは途方に暮れましたが、やむを得ず少しずつ整理をやっています。

よそのお宅のことは知りませんが、少なくとも我が家に限っていうと、物置というのは、必要な物を一時的に置いておく場所というよりも、大半は使うことのない、どうしようもないものをとりあえず置いておく、いつの日か必要になるなどと思いながら、長い年月をかけてただただ無意味に積み上げられ、多くの品々は時間と空間を食い尽くし、ムダと不便と不衛生を撒き散らすだけの場所だということをしみじみ感じてます。

整理といっても、要するに捨てる物を引っ張り出す作業が大半で、いかに無駄な物によって貴重ともいうべきスペースが惜しげもなく占領されていたかという愚かさを思い知らされる毎日です。

たしかに、中には昔なつかしい大切なものがあるのも事実ですが、そんなものは全体から見ればほんの一部にすぎず、大半は処分にも困るような品々が堆く積み上がっているにすぎません。
当然ながらゴミやほこりもあるわけで、このところ使い捨てのマスクと手袋はすっかり必需品になりました。

あらゆるものが物置という名の永遠の住処に移されて、時間と共に、その量は凄まじいまでに膨れ上がっていました。

実に種々雑多なものがありましたが、困るのはいただき物などに代表される未使用品などで、傷んでいないけれども、さりとて使うあてもないものです。古いというだけで新品もしくはそれに準じるようなモノをポンポン捨てるのも抵抗があり、もらってくれる人でもあるなら喜んで差し上げるのですが、そんな奇特な人もいないでしょうし、だいいち人にもらってもらうためにいちいち時間をかけ、人を呼んで意思確認などしていては整理自体がいつ終わるとも知れません。
やむなく、心を決めて潔く不要なものは処分するという決断に踏み切りました。

それでも一番困るのは、衣服だということも今回初めて知りました。
とりわけ亡くなった家族のそれは、自分の身内が直接身につけていたもので、覚えのあるものもあり、それを他の不要品と同様にゴミ袋に投下するのは精神的になかなかできることではありません。

でも、じゃあどうするの?となったとき、大げさにいうなら「この世に、これほどどうしようもないもの」もないわけです。
再利用の見込みなどまったくなく、客観的価値などさらさらないもの、それが個人の衣服類なんですね。

家人とも相談し、あれこれ悩みましたけれども、結論としては不本意ではあるけれども、それを言っていたらキリがないし、もうそれを着る人はもうこの世にはいないのですから、家族の思い出という名の下に、これ以上留め置くことは意味が無いという結論に達しました。

まあ、ひとたび決心して行動し始めるとそれほどでもなく、処分した後は却ってスッキリした気分になれたのは意外でした。
ある種の物や作品などは、故人の物でも保存することになんら問題はありませんが、いかんせん衣服というのはその点独特で、それ自体が主を失ってすでに死んでいるような気がしました。

これはもちろんマロニエ君の私見ですが、亡くなった人の衣服などを必要以上に取っておくことは、故人を偲ぶこととは似て非なる事のような気がしますし、むしろこういうものが家の中にどっさりあるほうが、ある意味では不健康という気もするようになりました。
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入浴剤

お風呂の入浴剤にはいろいろあって、それぞれに能書きが書かれているようですが、マロニエ君は一度もまじめに読んだことはないし、たまたま目に入る文言の何一つさえも信じたことはありませんでした。

入浴剤は個人的にとくに好きでも嫌いでもなく、よって使ったり使わなかったり、ポリシーもなにもなく、まるきりいいかげんなものでした。入れる場合もいつも単なる思いつきでしかなく、強いていうならお湯に色が付いてそれが楽しいからという程度で、入れなくなるとまたずっと入れません。

さて、今期の冬は本当に寒さが厳しく、せっかく湯舟につかっても洗い場に出ればたちまち忍び寄る冷気にガクガクと身を震わせることしばしばでした。
さらに巷では「半身浴」なるものが身体に良いと喧伝され、これがさかんに推奨されるようになりました。昔のように首までどっぷりとお湯に入るというのは、むしろ健康によろしくないという尤もらしいお説が蔓延し、これといって定見のないマロニエ君もそうなのか…と思い、お湯の量をやや少な目にして肩が少し出る程度にしてみますが、冬場はやっぱりこれが堪えます。

そんな折、最近のことですが「半身浴はむしろ体に悪い」というような、このセオリーそのものを根底から覆すような新説まで出てくる始末で、あんなに悪だと決めつけられたメタボでさえ近ごろは良否がひっくり返され、本当はややメタボぐらいのほうが望ましいといった意見まであらわれ、もはや何を信じていいのかわかりません。
今は健康ブームが続いて久しく、それに関する情報も多すぎて錯綜しているというべきかもしれません。

半身浴にしたところが、そんなにいいと言われるわりには、テレビでよくやっている温泉巡りの類では、番組リポーターやタレント連中など、だれもそんなポーズを取る者はなく、いろんなお湯に入っては顔をゆるませ心ゆくまでくつろいでいるシーンしか目にしませんね。

何が真実なのか確かめようもない中、だんだん情報に踊らされるのもバカバカしくなり、要は常識の範囲内で、あるていど自分のしたいようにするのが賢明なような気もしてきました。

話が逸れましたが、このところのあまりの寒さに、入浴時に何かささやかでも対策はないものかと考えていた折、このところすっかり入れなくなっていて、存在すら忘れていた入浴剤を入れてみました。とくだん何かを期待していたわけでもありませんが、何か感じるものがあったのかもしれず、自分でもよくわかりませんがとにかく久々にこれを投入。
するとなんと、明らかに体の温まり方が違うのを体感してしまい、思いがけない効果にすっかり感激してしまいました。

それも特別な高級品などではなく、普通にホームセンターなどで売っているお馴染みのものにすぎません。他の効能については知りませんが、身体が温まるという点についてはたしかに体感できる効果があったので、それいらいすっかり癖になり、ちかごろは毎回欠かさず入れるようになりました。

そういえば、先日も実家に里帰りしていた友人から「使わないから」と箱入りの立派な入浴剤をもらったばかりなので、これは期待が持てると思うとひとりとほくそえんでいるところです。
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なかなか言えない

現代のような社会では、発言という点に於いて一見自由なようでありながら、実際は恐ろしく閉塞的で、まるで言論監視社会のような印象を受けることしばしばです。

聞こえてくるのは、何事も褒めておけば安全で間違いなしといわんばかりの言葉ばかりで、音楽評論などにもほとんど期待が持てません。もしも故野村光一氏のような人が現代に蘇って自分の感じたままの自由闊達な文章を書いたとしても、おそらく出版社がそれを受け容れないでしょうし、先の吉田秀和氏の逝去をもって、ますます音楽評論の世界も欺瞞という深い闇の中へ落ちていくような気がします。

マロニエ君は、ちかごろの音楽雑誌のコンサート批評などまったく一瞥の価値すらないと思っているのは、この分野も営業主義が跋扈していて、コンサートの有料広告を出すピアニストは出版社にすれば「ありがたいお客様」であり、後日のコンサート批評では決まって好意的な文章ばかりが並びます。これは言ってみれば、営業サイドからの暗黙のお返しのようなものだと解釈しています。

なるほど書く人の肩書きは音楽評論家となっていますが、編集方針に従わない人はライターとしてのお声はかからないという営業中心のシステムがしっかりと出来上がっていると推察できます。それを百も承知で有名無名のピアニストは、だから高い広告料を出し、有名雑誌誌上での「演奏会予告」と「好ましい批評」を二つ同時に買っているようなもので、その中からとくに好ましい部分を次のチラシなどに引用するという、持ちつ持たれつの関係となり、これはまさに嘘っぱちの世界です。

自分が普通に思うこと感じることを、生きるために決して言えない社会というのは人間にとってこれほど気詰まりなものはありません。
さる知り合いから「誰にも言えないから」ということでおかしなメールをもらいました。
マロニエ君はベートーヴェンを猛烈に好きなので同意はしませんけれども、一面に於いてこういう感じ方があるということはわかるような気もするし、理解はできます。
とても新鮮でしたので、ちょっとだけご紹介します。


誰も賛成してくれないかもしれませんが、わたしはベートーヴェンだけは嫌いです。

あの、「これが芸術だ」といわんばかりのリキみかえった音楽、聴いてて「カンベンして」という気分になります。

年末に必ず演奏される「第9」。あのくそまじめ風だけどなにいってるかさっぱりわかんない歌詞、なにこれ?ってかんじです。あんなもので「感動」するひとたちの気が知れません。まあ、お正月前の浮世離れした気分でバカ騒ぎしたいっていう程度ならそれもいいかっていうくらいです。あのメロディーもなんのへんてつもない間延びした音の羅列。お経みたい。

「運命」にしても、はっきりいって「くさい」。運命と戦って勝利に至る?そんな音楽聴きたくもない。

ワグナーも図体ばかりでかくて中身はからっぽ、という感じ。「指輪」なんて聴いても疲れるだけでなにも残らない。せいぜい「ワルキューレの騎行」とか、やけに威勢のいい音楽だな、っていう程度。そこだけ取り出せば、「地獄の黙示録」のバック音楽としてならよくできてると思う。
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衣類乾燥機

日本製品の品質がいいのか、我が家の使い方がよほどよかったのか(?)、そのあたりのことは不明ですが、長年使ってきた衣類乾燥機が年明け早々に、ついに最期を迎えました。

それも機械的な故障ではなく、ドアを固定するプラスティックのノッチが壊れたためにドアの開閉が困難になり、やむなく買い換えという運びになったのでした。
考えてみると、この衣類乾燥機は実に28年以上も我が家で働いてくれたわけで、いかにただの家電製品とはいえ、ここまで健気に働いてくれたら本当にお疲れ様という気分になるものです。

我が家の生活形態では衣類乾燥機はいわば生活必需品ですから、待ったなしで新しいものを購入する必要に迫られましたが、現在はドラム型の全自動洗濯機が主流のようで、その影響もあってか衣類乾燥機のみだと選択肢がそんなにはないようでした。
それでも、気分的にどうしても買いたくないメーカーもあるし、それを除外すると日立の製品になりますが、これまで使い続けた衣類乾燥機も日立製だったので、その点は難なくクリア、心情的に恩義さえ感じるくらいで、迷わずこれに決めました。

ネットで注文すると、日本中どこからでも二三日でサッと届くのは頭ではわかっていても、やっぱりすごいなあと思ってしまいます。

現物が届いてみると、想像以上の箱の大きさにまず恐れをなしました。
今どきは電気店からの購入でも、取り付け設置は当たり前という時代ではないので、自分で洗濯機の上部のスタンドに据え付けるつもりでしたが、箱から出すだけでも一仕事です。

同時に、古いほうの機械をスタンドから降ろさなくてはなりませんが、普段触れない部分には長い年月のほこりや乾燥時に出たワタゴミのようなものがでてきて、掃除をしながらの作業となります。
明らかに新しく買ったほうがサイズが大きく、スタンドに載せのも一苦労で、固定穴の位置などは合いません。とりあえずは仕方がないのでこのまま使うことにしましたが、これまでよりなんとなく圧迫感のある光景となりました。

さて、使ってみて驚いたのは、やはりこの手の電気製品は新しいものの方が、仕事の効率は遙かに高くなっているようで、乾くまでの時間がこれまでの半分近くになった気がします。

以前なら2時間前後は回しっぱなしだったのが、新しいのは1時間やそこらで機械は自動停止してしまいます。
それに「乾いたら自動停止」なんて機能も古い方はなかったので、適当に回していたわけですが、その分のムダもあったでしょうし、そもそも基本的な効率が相当違うようなので消費電力を調べてみると、最大時は同じのようですが、使用時間が異なるので一回あたりの電力消費がはるかに大きいものだったようです。

こうなると、冷蔵庫も新しいのはずいぶん省エネ設計だと聞きますから、俄に恐くなりました。
というのも、我が家はこれという正当な理由もないままに冷蔵庫が二つあり、二つあれば便利というだけのことでズルズルと両方使っていたのですが、古いほうはなんと30年以上前のものなのです。
こりゃあ、下手をすると新しいものを買ったほうが、僅か数年で購入額分ぐらいの電気代の差がでるということかもしれません。
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バーチャル

いつごろからのことだったか、「バーチャルリアリティ」という言葉がしばしば使われるようになりました。

いわゆる仮想現実で、マロニエ君も文字にできるほど正しい理解はできていませんが、おそらくはコンピュータの進歩でゲームなどの画面クオリティが飛躍的に上がり、臨場感の増した画面の中で自分が主役となり、そのリアリティあふれる高揚感を気軽に楽しめるようになったというようなことだろうと認識しています。
その出来映えがあまりに秀逸であるためか、人の精神にまで少なからぬ影響が顕れはじめ、ついにはそれら仮想と現実、疑似と真性の狭間がぼやけ、やがてそこを迷走する精神状態が引き起こす笑えない勘違いや、ひいては新手の犯罪まで多発するようになった記憶があります。

例えば、ジャンボ機を操縦できる本格的ゲームでこれに習熟した男性が、実機をも操縦できるという強い思い込みに発展、ついには本物のジャンボ機を乗っ取りクルーを殺害、自ら操縦桿を握り、ゲームと同様にレインボーブリッジの下をくぐり抜けるつもりだったのを、すんでのところで取り押さえられたというような信じがたい大事件があったこともありました。

そんなことを思い出させられたのは、知人から聞いたある地方でのピアノサークルでの様子でした。
ピアノサークルに参加する中にはそこそこ腕の立つ人もいて、ある程度の自信もあるらしいところまでは結構なことですが、でも、この人達はまぎれもないアマチュアであり、ピアノは余技として楽しんでいるものにすぎません。
ところが、場合によっては演奏会用ロングドレス持参でやってきて、演奏前には控え室でこれに着替え、まばゆいアクセサリーまでつけていざ演奏に挑むというのですから、その救いようのない勘違いには、さすがのマロニエ君もひっくりかえりました。

いっそのことコスプレマニアならまだ笑えますが、こういう人達はあるていど本気であるだけ変な怖さと耐え難い違和感があるわけで、大人のママゴトも、欲望と錯覚が高じてここに極まれりというところです。
マロニエ君に云わせれば、これも立派なバーチャルリアリティではないかと思います。

現代人は与えられた目先のルールにはえらく従順ですが、もっとそれ以前の、自分自身が備えるべきもの、つまり常識・良識から発する「分際」をわきまえるという本質を知ることがほとんど消えかかっているように思います。
法や規則に触れないことなら何をやってもいいという姿勢は、政治家や経済界が悪いお手本を示してきたように思いますが、いわゆる自由の濫費と解釈には大いに問題を感じます。

要するに、理屈じゃなく、自然にかかるべきブレーキというものがほとんど機能していない、否、そもそも始めから装備されていないといってもいいでしょう。

いまどきホールやそれに準じた会場を料金を支払って借り受けることは容易です。そのステージにドレス姿で現れて意気揚々と楽器を演奏するということは、なるほどどこにも違法性はないのでしょうし、善良な人間が自由に着飾って演奏を楽しんでいるという建前だけが一人歩きする。

しかも大抵の場合、マロニエ君の知る限りにおいては美の追求とは程遠い、別項に掲載している北米の読者さんも言っておられるように、ほとんど仮装行列に近いもので、こういうことを嬉々としてやろうとする、あるいはやりたいと感じる価値観や救いがたいセンスの無さに、やるせなさを禁じ得ません。

昔は、法だのルールだのというものの遙か以前の問題として暗黙のうちに「してはならないこと」というものがたくさんありましたが、今は崩壊していますね。
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笑っていない目

暮れにちょっとしたリフォームに関することを書きましたが、少しその後の続きのようなことを。

結局、マロニエ君の知人の紹介(あくまでも間接的な)ということで、とあるリフォーム会社とやらの女性社長が技術系の男性を伴ってやって来ました。

もちろんその社長とは初対面で、むこうはマロニエ君というペンネームも、ピアノとの絡みなどもまるで知らないし、ましてやこんなブログなんて見るはずもないので、まあ敢えて書きますが、これがなかなかの社長でした。

挨拶もそこそこにこちらの意向を伝えて、しばし雑談などをしたあと、直ちに現場の検分がはじまりました。この社長、何を頼んでも聞いても、決して作り笑顔を絶やさず、いかにも意識的な柔らかな口調で「はい、できますよ。大丈夫です。じゃあ○○しましょうね。」とこちらの意向を次々に受け容れながら、もうひとりの男性とも軽いやり取りを交わしながら、次から次へと現場を見て回っています。

それが一段落つくと、再びイスに座って楽しげに歓談して、適当なタイミングで帰っていきました。雰囲気でいうと、代議士の小池百合子さん風とでもいえばわかりやすいでしょうか。

「できるだけお安く願いたい」ということは何度も念押ししておきましたし、先方もそのことは了解したような応対でしたから、あとは金額の提示を待つだけです。ただマロニエ君としては、その社長の目がずっと気になっていました。
…なんというか、パッと見た感じはいかにも爽やかで優しげ、時にはこちらのことを思いやってのようなフレーズもしばしば口にしながら、いかにも良好な歓談が交わされましたが、彼女の目には常にビジネス人間としての自意識が漲っており、心の内側で決して踏み外さない一線を保っているのがミエミエでした。

どんなに笑っても、真から笑っていないし、どこか常に冷めてことは自慢ではありませんがマロニエ君は見逃しませんでした。帰られた後にそのことを云うと、同席したあとの二人は「そーお?」という感じでしたから、だれにもバレバレというものでもないようです。

それから一週間を過ぎたころ、見積書とやらが大きな封筒に入れられて恭しく送られて来ました。
果たして、何枚もの書類が束ねられ、むやみに項目が多いことに加えて、最終金額はこちらの予想を遙か彼方へ吹き飛ばすような無遠慮な数字がドカンと記されていました。
本来ならもっと驚いたかもしれませんが、マロニエ君はその社長の人物観察を通じて、ある程度こんな結果が出るのではないかという予想をしていたので、それほど驚倒はしませんでしたが、まったく大胆というべき数字でした。

呆れて、しばらくはそのあたりに放り投げておきましたが、後日詳細を見てみると、その見積がいかに巧みに書かれているかがわかりました。あまり具体的なことを述べるのは控えますが、例えば誰にでもわかりやすいクロス(壁紙)の張替代などは商売気なんかありませんよ!と言わんばかりに安く書かれているのに対して、ほとんど意識にものぼらないようなちょっとしたことなんかが、ケタがひとつ違うのではないかと思うほど高かったりの繰り返しでした。
つまり素人に安さがすぐ比較しやすいものに関しては激安にしておく一方で、そうではないものに関しては思い切りよく高額な数字がこれでもかと並んでいます。

よくいえばメリハリがきいているということかもしれませんが、今どきの情報化社会であっても、リフォームの世界は要注意分野というか、よほどこちらがしっかりしていなくてはいけないジャンルだというのが率直なところでした。
まあ男でもどちらかといえば荒っぽいハードな世界とでもいうべき建築関係の会社を、そう歳でもない女性が社長として切り盛りしてやっているのですから、そのしたたかさたるや並ではないようです。そのへんの甘ちゃんとは異次元の猛者なのだということがよくわかりました。

まあ、見積はあくまでも見積であって、依頼するかどうかの意志決定はこちらが握っているわけですが、要はこの世界、努々油断はできないということのようで大変勉強になりました。
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古紙回収

我が家には仕事の関係上、古い書籍や雑誌が少なからずあるのですが、とくに客観的価値のあるものでもなく、いつかその整理をしなくてはと思いながら、ずるずると先延ばしになっていました。

最大の理由は、単純明快にまず面倒臭いということでしょう。
引っ越しや何かで、半ば強制的にやらされれば面倒臭がっている暇もないかもしれませんが、これを任意でやるというのはマロニエ君のような人間にとっては生半可なことでは着手できません。

とくに先代から受け継いだものなどがある場合は、よけいその傾向が強まります。
そんな中でも毎年自分で避けてきた時期としては、湿度や暑さにめっぽう弱いマロニエ君としては梅雨から夏場にかけてだけはやりたくないので、やるときは冬だと決めていました。で、この冬は少しその覚悟をしていたのです。

いっそなにもかもというのなら話はまだ単純ですが、手放す(捨てる)ものと残すものを選別することからはじまるのが煩わしくも悩ましい点です。

といってまた先延ばしにしていてもキリがないわけですが、あるとき回覧板に町内の「古紙回収日」と大書された文字が目に留まり、ついにそれに合わせて一部でもいいのでやってみることにしました。

いまさら言うまでもないことですが、紙というものは量が集まると、盛大に場所を取り、凄まじい重量にもなって、とてもじゃありませんが安易な気構えでは太刀打ちできる相手ではありません。
とりわけ古い書籍になると、その価値をどう見るかによっても判断は大きく影響されますし、それだけでなく個人的な思い出などが絡んでいる場合もあり、捨てる行為も大変なら、それと並んで捨てる決断をすることは非常に精神的な作業でもあると思いました。

尤もこれは本だけの問題ではなく、家にあるあらゆるものに共通することなのかもしれません。
マロニエ君は個人的な好みでいうと、モノを「捨てられない人」と「なんでも捨ててしまう人」、この両極端はハッキリ言ってどちらも嫌いです。
両者共に大いに言い分はあるのだろうと思いますが、それぞれが自分とは体質的に相容れず、あくまで程良いことが理想だと思うのです。もちろんマロニエ君がこの点で自分は常識派だと主張するつもりはありませんが、なんでももったいないといってモノの山をつくるのは真っ平ゴメンですし、逆に必要最小限のモノしか置かず殺風景の極みのような寒々しい空間にして、自分こそは賢いエコの実践者のような顔をしているタイプも甚だ苦手です。

というわけで、今回はとりあえず、どう考えても、今後も見ないだろうし先々でも要らないと思われる本を処分することにしました。といっても本来的には本を捨てるという行為は非文化的であまり好きではないのですが、まあそんな理想論ばかりもいっていられませんから、やはりどこかで一線を引く必要があるのも現実です。

果たして数百冊におよぶ本をゴミ回収のトラックに積むことになりました。
古本買い取りなども近ごろは盛んなようですが、聞くところでは労苦のわりには憤慨だけが残るような買い取りしかされないらしく、とくにマロニエ君宅には専門書関係が多いのでとてもそういう対象とも思えませんでしたし、要らないなら潔く古紙回収に出す方がマロニエ君としてはよほどせいせいするような気がしました。

で、実際に車のトランクの2杯ぶんぐらいを持っていきましたが、めでたく「せいせい」しました。
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寒中洗車

マロニエ君はクルマ好きの洗車好きでしたから、若いころは暇さえあれば車を洗っていましたが、だんだんそうもいかなくなり、今では月に一度も車を洗うことなどありません。

年末年始もとうとう車は汚れたままで過ぎ去りました。
なにやかやで洗車する時間もないことと、天候も不順で、せっかく洗ってもいきなり雨では馬鹿馬鹿しいので、そんなことで自分の都合と天気の様子見ばかりしていると、洗車するきっかけなんて永久にやってこないような気がしていました。

それでも、さすがにもうそろそろと思ってみますが、このところの寒さと来たらただ事ではなく、給油の時にスタンドで洗車をしている人達を見るだけでも歯茎がガタガタいいそうで、とても自分が実行しようという気にはなれません。

マロニエ君が車の汚れでイヤなのはいろいろありますが、そのひとつがホイールがブレーキパッドの粉でだんだん黒くなってくること、もうひとつはフロアマットが汚れるというか、靴底に付いた小石やゴミなどでだんだんと床が散らかってくることです。

どうしてもガマンできなくなったときは、マットだけを外して、水を使わず硬いブラシでブラッシングすることでごまかしますが、いずれはていねいに掃除機をかけなくては解決しません。
とにかく、何をどういってみてもホイールは黒ずんでいるし、洗車をしないことにはどうにもならないところまで来ていたことは確かでした。

そしてついに決断のきっかけがやって来ます。
関東地方にその名も「爆弾低気圧」とかいうのが襲ってきて大雪をもたらし、首都圏が交通麻痺を起こしたその翌日、なぜか我が福岡地方は天気晴朗、天からはなにも降ってくることのない気配を感じたとたん、まるで発作的に重い腰を上げる決心がつきました。

夕食後、とうとう長い沈黙を破ってついに洗車を開始しました。
車の外気温度計によると外は4℃で、家の中でも廊下などは冷蔵庫みたいに冷え切っていますが、いったん覚悟を決めて洗車用の上着を着て外へ出ると、不思議なことにほとんど寒さらしきものも感じません。
それどころか、洗車が好きだった頃の感触がほんの少し蘇ってきて、かすかに楽しいような気分になるのはどうしたことだろうかと思います。

いざやってみれば、あれほどなにやかやと理由を付けてしぶり抜いていた洗車ですが、ひとたび着手すれば次々に作業ははかどり、車はみるみるきれいになるし、何の苦もなく片付いていきます。
やっぱり人間は気持ちひとつなんだなあと柄にもないことをしみじみ思います。

おそらく向かいにあるマンションの住人は、車の出入り口が我が家のガレージの真ん前にあるので、出入りするたびにこんな夜更けに洗車なんぞしていいる様子を見て、さぞ呆れているだろうと思いますが、実は本人は何の苦痛もないまま、むしろ嬉々としてやっているのですから、自分でも不思議です。

よくテレビで寒い中をわざわざ海中に入って気合いを入れるなど、見るからに心臓に悪いような映像がありますが、あれも当人達は余人が思うほど辛くはないのかもしれないと思いました。
洗車をした日は、2時間ほど休む間もなく動きまくるので適度な刺激と運動になるのか、いつもなんとなく爽やかな気分になれるので、こんなことならもう少し頻繁にやろうじゃないかと(そのときは)思うのですが、なかなかそれが定例化しないところが我ながら情けないところです。
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快速無灯火魔

昨日の夜は出かけていて、帰りに博多区の国道三号線を走っているとすごい車を見かけました。
すごいのは車そのものではなく、正確に言うとドライバーがすごいのです。

他地区ナンバーの軽自動車でしたが、いきなりマロニエ君の右後方からスーッと追い抜いてきて、前を斜めに横切って、さらにひとつ左の車線に移動しました。

はじめにあれっ!と思ったのは、夜の11時ごろだというのに完全な無灯火、つまりまったくライトを付けていないことでした。これだけでもどういう神経をしているのかと思います。
この無灯火車というのは意外なことにときどき見かけますが、わりと田舎のナンバーの車などがそうだったりすると、真っ暗闇の田舎道とは違って、夜でも明るい街中に慣れていないんだろうぐらいに笑っているところですが、ゆうべの車はそういう無邪気さとはちがった何か異常な感じが漂っていて、はじめから妙に目立っていました。

しばらくその車の傍を走る状況になったのですが、やや荒っぽい運転ではあるけれども「暴走」というほど激しいわけでもなく、でも、どういいようもなく動きも気配もヘンであるのは間違いない。一体どんな奴が乗っているのかという興味ばかりが募ります。
しかし、信号停車ではなかなか隣に並ぶチャンスがなく、しばらくやきもきさせられましたが、ついにチャンスが訪れました。

はじめは真横ではないものの、斜め後ろぐらいに信号停車すると、なんとその車の運転席にはカーナビどころではない大きさのモニター画面がハンドルのすぐ前にドンと付いていてビックリ。夜目にも鮮やかに映っていて、なにやらアニメ映像みたいなものがずっと流れています。
そうです、この軽自動車のドライバーは運転しながら、この画面のほうに熱中しているらしいことがひと目でわかりました。これを見ながらスイスイ飛ばして走っているわけです。

あんな大きなサイズの車用モニターがあるのかどうかしりませんが、ひょっとしたらタブレット型液晶かもしれません。そこのところは結局よくわかりませんでした。

さらに次の信号では横に並ぶことになり、もうこちらもたまらなくなってドライバーの方を覗き見ると、それなりの年齢のメガネをかけた中年男性が、周りのことなど全く意に介さない様子で、まさに自分の世界を作ってそこに浸りきっており、耳には白いイヤホンが差し込まれています。
おそらくアニメの音声なんでしょうね。

そしてトドメは、口は終始モグモグしていてしきりに何かを食べています。
ときおり助手席に手を伸ばしてはパッと口になにかを放り込んで、またモグモグでずっと食べているうようでした。と、信号が青になると、これがまた結構な勢いでブンブン加速していき、相当のスピードで走っているのには心底呆れかえりました。

夜の国道に、無灯火の黒い物体がかなりのスピードで走り抜けて、まさかこんな全身危険まみれみたいな車を追いかけるつもりもないので、こちらは自分のスピードで走っていると、そのうち見えなくなってしまいました。

あとから考えれば110番通報すべきだったかとも思いましたが、まあとにかく変わった人がいるものです。ただ、事が車ともなれば、あんなドライバーのせいで事故でも起こればたまったものではないですから、本当に注意していなくてはいけませんね。
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休日過多

やれやれというべきか、いわゆる年末年始といわれる時期がやっと終わった気がします。

どうしてだか自分でもはっきりわかりませんが、マロニエ君はむかしからこの時期がとにかく苦手でした。
とりわけクリスマスを過ぎて、あと数日で新年を迎えるという時期になると、それまでの師走の忙しさや賑わいによる一種の興奮状態がウソみたいに消えて静まり、街中は一転してガランとしてしまいます。この感じがたぶん嫌なのです。

まるでチャイコフスキーの悲愴交響曲のように、第3楽章の異常なまでの活気や喧噪のその向こうに、対極の陰鬱な世界ともいうべき第4楽章があるように、そこには打って変わった、静まりかえった、すべての動きが止まって眠りについてしまったような空気に街全体が覆われてしまのが嫌いなんでしょうね。

昔ほどではないにせよ、お店というお店はあまねくシャッターが降りるなど閉店状態となり、形だけの門松や謹賀新年の文字とは裏腹に、人のいない死んだような真っ暗な店内など、視界に入るだけでも嬉しくはないわけです。

普段は渋滞するとイライラしているくせに、この時期は車も激減して、道は皮肉なほどスイスイと流れ、それが幾日も続くのは何十ぺん経験してもなぜか慣れるということがありません。

とりわけ今年はカレンダーの都合から、休みが異様に長く、世の中が一応動き出すまでに10日はかかったわけですし、それが本当の意味で平常に戻るのはもう少しかかるのかもしれません。

欧米やその他の諸外国では、どのような年末年始の過ごし方をしているのかは知りませんが、日本のそれは表向きの建前とは裏腹に、なんとも暗くて冗長なだけで、人々が真からこの時期を楽しんでいるようには思えないのですが他の人はどうなんでしょう。

マロニエ君は決して勤勉ではないどころか、大いに怠け者の部類であることは自認していますけれど、そんな人間からみても最近の日本はいささか休みが多すぎるように思います。
昔は週休2日なんてものもなかったし、それをみんな不満にも感じずに土曜まで働いていましたし、学校もお昼までですが行かなくてはなりませんでした。
これだけでも年間50日も休みが増えたことになります。
さらに祝日も増え、それが日曜と重なると今度は振り替え休日になり、どうかすると休日の間にポツポツ平日が挟まっているようで、これでは物事がはかどるはずもなく、事を進めようにもむやみに時間ばかりかかって、一体なんのための休みかさえもわかりません。

そういう意味では、昔は携帯もネットもなかったけれど、みんな一人ひとりに覇気があって、世の中全体にも熱気があって、活力ある生活を送っていたようにも思い出されてくるこのごろです。戦後の高度経済成長はそんな活き活きとした頑張りの中から達成されたものでしょう。

個人別に話をすると「休みが多すぎて持て余している」という声はほうぼうから異口同音に聞こえてきますが、一旦休みになったものを制度として返上することはなかなかできないことなんでしょうね。

もとはといえば、政治家が国民へのくだらないゴマすりのために祝日を増やしたり振り替え休日を作ったわけですが、いささかげんなり気味のマロニエ君です。
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続・五嶋みどり

五嶋みどりさんのことをもう少し…。
彼女ほどの世界的な名声を得ながら、なにがどうあっても電車やバスを乗り継いでひとりで移動し、夜は自分でコインランドリーに行くという価値観は、それを立派と見る人にはさぞかしそう見えることでしょう。でもマロニエ君は非常に屈折したかたちの一種の「道楽」のようにも感じました。

そんなにまで普通の人のような粗末なものがお好みなら、終身貸与された、時価何億もするグァルネリ・デル・ジェスなんてきれいさっぱりオーナーに返上して、いっそ楽器も普通のものにしたほうが首尾一貫するようにも感じます。

思い出したのは、司馬遼太郎さんは生前、頻繁に取材旅行に出かけたそうですが、なんのこだわりもない方で宿はどこでもいいし、大好きなうどんかカレーライスがあればそれでよし、編集社にとってこんな手のかからない作家はいなかったということでしたが、そういう事と五嶋みどりさんの場合は、流れている本質がちょっと違っているような気がしました。
何かを貫き、徹底して押し通そうという尋常ならざる強引な意志力が見えて疲れるわけです。

ツアー中、ビジネスホテルのロビーでも、ちょっと時間があるとたちまち大学の資料に目を通すなど、まさにご立派ずくめで一分の隙もありません。遊びゼロ。それが彼女の演奏にも出ていると思います。
インタビューの対応も、いつもどこかしら好戦的でピリピリした感じがします。

「同じ服を着るのはよくない…etcと云われるのが、私には、いまだによくわからない」と言っていましたが、頭も抜群にいい彼女にそんな単純な事がわからない筈がない。むしろ彼女は誰よりもその点はよくわかっているからこそ、よけいに自分の流儀を崩さないのだとマロニエ君には見えました。
もちろん随所にカットインしてくる演奏はあいかわらず見事なものでしたが、教会はともかく、日本の寺社仏閣を会場として、キリスト教とは切っても切れないバッハの音楽をその場に顕すというのは、マロニエ君は本能的に好みではありません。

太宰府天満宮、西本願寺、中尊寺など由緒あるお宮やお寺と、キリスト教そのもののようなバッハの組み合わせは違和感ばかりを感じてしまうからです。

こういうことを和洋の融合とか斬新だとかコラボだのと褒め称えることは、言葉としてはいくらでも見つかるでしょうが、どんなに好きな西洋音楽でも仏教のお寺などは、その背景に流れるものが根本から違っているだけに、マロニエ君の感性には両方が殺し合っているようにしか見えませんでした。

以前、アファナシェフが京都のお寺でピアノを弾くという企画をして、それが放送されたときにも言い知れぬ抵抗感を感じました。
これらは決して非難しているのではありません。ただ単にマロニエ君は個人の趣味としてどうしても賛同できず、却って薄っぺらな感じを覚えるというだけです。

ただし、ひとつだけは個人的な趣味を超えていると感じたこともあり、それはとくに京都の西本願寺の対面所の前にある能舞台で弾いたときには、運悪く真夏の大雨となり、盆地の京都ではこのとき湿度はなんと90%にも達していたとか。もちろん屋根と細い柱以外に外部とはなんの囲いもありません。
そんな中で借り物のグァルネリ・デル・ジェスを晒して弾くというのは、楽器に対する芸術家としての良心として、自分なら絶対にできないことだと思いました。

マロニエ君だったら、グァルネリはおろか、ヤマハやカワイのピアノでもできないことだですね。
衣装に凝らず、公共交通機関を使い、ビジネスホテルに泊まって、夜はコインランドリーにいくということは、世界の名器に対する取扱いもこういうことなのか?…と思ってしまいます。
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五嶋みどり

暮れに民放のBSで、五嶋みどりさんのドキュメント「五嶋みどりがバッハを弾いた夏・2012」という番組をやっていたので録画を見てみました。

彼女を始めて聴いたのはズカーマンとの共演によるバッハのヴァイオリン協奏曲のCDで、修行のためアメリカに渡った日本人の天才少女ということで認められ、大変な話題になったことがきっかけでした。写真を見ると本当に小さい華奢な女の子ですが、その演奏はまったく大人びた堂々たるもので驚嘆した覚えがあります。

その後は実演にも何度か触れましたが、その演奏は繊細かつ大胆で、どの曲も驚くばかりに周到に準備され、隅々にまで神経が行きわたっており、天才たる自分に溺れることの決してない、常人以上の努力家であることを伺わせるものでした。少なくとも楽譜に書かれたものを再現するという点においては、まったく隙のない出来映えで、どの曲を弾いてもそこには徹底して譜読みされ、構築され、練習と努力で磨き上げられた果てに到達する完璧という文字が浮かんでくるようでした。

ただ、マロニエ君は昔から、五嶋みどりはすごい、素晴らしいとは思っても、好きな演奏家というものにはどうしてもなれない何かがつきまとっていました。
演奏は文句の付けようがないほど練り込まれ、なるほど立派だけれど、ただ立派なものを見せつけられて「畏れ入りました」と頭を下げるしかないような不満が残ります。それはマロニエ君にとっては、彼女の演奏は聴いていて良い意味での刺激とか喜び、とくに「喜び」の要素が感じられなかったからだと思います。
要するに味わいや遊び心がないわけです。

それがこの番組を見て、一気に長年の謎が解けたようでした。
今回のツアーは長崎五島からはじまって、各地の教会やお寺などでバッハのヴァイオリンのための無伴奏ソナタとパルティータを演奏するというものでした。その質素の極みのような生き方も含めて10人中10人が感心して褒め称えるようなものなのでしょうが、あくまでマロニエ君が感じたところでは、なんだかちょっと嫌味な感じがありました。

彼女は現在ロス在住で、どこかの音大の弦楽部長という責任ある地位にもあるそうで、毎日朝の6時から夜の12時まできわめて忙しい生活を送っているとのこと。
その合間に自分の練習をし、コンサートやツアーこなし、泊まるのはどこでも常にビジネスホテル、移動は絶対に公共交通機関でなくてはならないなど、まるでストイックな禅僧がヴァイオリンケースを担いで修行のひとり旅をしているようでした。

もちろんマロニエ君は、ちょっと著名なコンクールに優勝するや忽ちコマーシャリズムにのって、売れてくると贅沢に走り、どこへ行くにも特別待遇を当然のように思ってしまう勘違いの演奏家などは云うまでもなく嫌いですし、芸術家としても尊敬できません。
でも、それと同じように、こういう求道者のようなスタンスにことさら固執して、いかなる場合も、何があろうとこれを譲らず、自分の特異なスタイルを堅持していくというセンスも逆に嫌いなのです。なぜなら、それはコマーシャリズムに走る演奏家や価値観を、ただ逆さまにひっくり返しただけの強い主張のように見えてならないからです。

そのために周りの迷惑も厭わず、ひじょうに強情な人間の姿を見るような気がするのかもしれません。昔の言葉ですがやたらツッパッテいて余裕がないし、しかもそれがストイック志向であるだけに、とりあえず立派だということになるし尊敬の対象にさえなり得る。
でも、主催者や周りにしてみれば、ある程度のお膳立てにのってくれるアーティストのほうが楽なはずで、そういうことを無視するのは一見いかにも自分というものがあるかのようですが、同時に甚だしいエゴイストのようにも見えてしまいます。

あくまでもマロニエ君の好みや受けた印象の話ですが…。
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明るい日本に!

昨年は、秋から年末にかけて政治の世界はめまぐるしい変化の連続で、ついに安部さんが再び日本の操縦桿を握ることになりました。

このブログで政治的なこと書くつもりは全くありませんが、少なくとも民主党政権樹立後から3年間というもの、良いことはまるでなかったなかったような印象しかなく、大半の人々は理屈抜きにホッとしているというのが偽らざるところではないでしょうか。

民主党の稚拙な政権担当能力もさることながら、リーマンショック、東日本大震災、それに端を発する原発問題などが重なって、惨憺たる状態が長いこと続きました。先の見えない円高、株価の低迷、そして消費税増税、尖閣問題など暗い問題を背負いながら、民主党内部のゴタゴタや内輪もめの連続など、日本丸はどす黒い雲の下の荒れた海をあてどもなく彷徨っていたようでした。

野田さんの「近いうち解散」も騙されたということは半ば公然たる事実として諦めムードが漂い始めていたとき、自民党の総裁選が行われ、安部さんが総裁に選出されるや、いきなり株価は上昇しました。これが初めの突破口だったように思います。

その後の党首討論の席上で突如、具体的な日にちまで口にした野田さんの発言によって、一気に世の中は選挙モードに突入し、結果は予想を上回る勢いで自民党が第一党の議席を獲得し、自公連立によって衆議院の3分の2さえ獲得するまでになりました。
聞くところでは民主党内では、総理には絶対解散をさせないでおいて代表だけを交代させる、いわゆる「野田降ろし」が始まり、野田さんは逃げ場のないところまで追い込まれたのが直接的な解散誘因だという説もありましたが、まあ結果から見ればそれもよかったということでしょう。

第二次安部政権では、さっそくにもさまざまな手が打たれ、毎年2%のインフレコントロールなど、即効性のある対策も実行されるようです。むろんこれを疑問視する声もあるにはありますが、ともかく昨年暮れの東京株式市場では大納会で最高値をつけるなど、ここ数年でひさびさに明るい気分で新年を迎えることができたように思います。

安部内閣発足直後には、デパートなどではさっそくにも「ちょっといいものを…」という絶えて久しかったニーズが復活しはじめて即座にそれに対応した商品構成に転じているといいますし、クリスマスケーキもこれまでの平均15センチが早くも21センチへとサイズアップした由です。
これは一見取るに足らない小さな事のようですが、でも、こういうことが積み重なって、明るい気運が湧き起こってくるところこそ景気を盛り上げる最大のエネルギーにつながる気がします。

年末にある調律師さんに電話してみると「この1、2ヶ月は過去にないほどピアノが売れた!」という、これまたえらく景気のいい話を聞きました。
まさに不景気も好景気も、要は「気」、気分の問題といわれる所以がここにありそうです。

いつだったか、選挙の頃、新聞に福沢諭吉の言葉で『政治とは悪さ加減の選択である』というのが載っていて、思わず唸りまました。
この意味でいうなら、なにも自民党や安部さんが最高とは云わないまでも「悪さ加減の選択」によって現在の政権が誕生したことは、やはり消去法によるベターな選択だったということなのだと思います。

今年も始まったばかりではありますが、なんとなくこの明るい調子が続いてくれればと思います。
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ビジネスのくじら

仕事の都合上、室内の一部をやむなくリフォームすることになりましたが、リフォーム会社というものは優劣さまざまで以前から要注意業界でもある旨をテレビなどで再三にわたって聞いていましたので、果たしてどうしたものかと思いました。

マロニエ君よりもずいぶん年上ですが、信頼という点にかけては間違いのない昔からの知り合いがいましたので、さっそく連絡してみました。その人は直接のリフォーム業者ではなく、業界の職人さんなのですが、なんと激変する時代に嫌気がさして少し前に廃業してしまい、付き合いのあった仲間達も散り散りになったという衝撃的な話を聞かされました。

やはりというべきか、今どきの時流の変化と厳しさは、いかなる業種にも容赦なくその荒波が襲いかかり、建築関係においてもまったく例外ではないようです。いや、もしかすると、この業界こそ儲け主義と技術革新甚だしい急流の部分にあるひとつなのかもしれません。

よくテレビなどで、長年親しまれた地元の商店街の近くに、突如として大資本の大型スーパーやショッピングモールが進出してきて、周辺のお客さんは、まるで潮の流れが変わったようにそっちへ奪われてしまい、小さな個人商店の集まりなどでは手も足も出なくなるという構図がありますが、まさに似たような話でした。

以前なら、建築関係の世界にも各分野ごとに、いわゆる腕利きの職人さん達がいて、何かというと彼らは個々に、あるいは互いに連携して柔軟に仕事を進めていたといいます。なにしろ技の世界ですから、若い頃から親方のもとで辛い修行を積んで、一人前になるのは生半可なことではないとか。
彼らは家を建てることから、ちょっとしたお風呂の修理まで、依頼内容に応じてあちこちへ出向いたり、適材適所に仲間を紹介したりされたりで、それぞれが誇りあるプロとして納得のいく仕事をしていたのだそうです。

ところが今はなんでも大資本・大企業が業界を席巻し、まさにクジラのようにあらゆる仕事をそっくりのみ込んでいくのだそうで、それが何社も重なり合うようにして地域ごとに進出するため、個人の職人さん達の出る幕など皆無なんだそうです。中には上手い具合に企業にもぐり込んで、かろうじて仕事を続ける人もあるそうですが、多くは年齢的なことや新技術の習得など様々な事情が重なって、廃業してしまう人が圧倒的に多いのだそうです。

実は、マロニエ君がスピーカー作りの際、土台部分の木材の円形カットをやってくれる工場を探した際にも耳にしたことですが、昔はちょっと田舎なら、あちこちに普通に木工所といわれるものがあったらしいのですが、こちらも今は激減し、残っているのはことさら手作りとか工房とかいう類のものだけで、ありがたげなこだわりや付加価値を謳いながら、ひとつひとつを丁寧に注文製作するようなところばかりで、値段もゼロがひとつ違うんじゃないの?というほど高額で、とても気軽に立ち寄って、「これこれの寸法に切ってください」「ほいきた!」という感じにはいかないようです。

というわけで、今どきは(例外はあるかもしれませんが)どんな世界でも、大半は大会社だの大手企業だのが仕事の大小にかかわらず、圧倒的組織力にものをいわせて、いわば集塵機で根こそぎチリを吸い集めるようにしてビジネスを奪い取ってしまうという、なんとも恐ろしい事態が起きているようです。

こうなってしまうとどんなことでも、仕事をするにはまずもって大会社、もしくはそれに連なる系列に身を置かなければ仕事そのものにありつくことができず、だからますます大会社至上主義のようになるんでしょうね。

そういう意味では、どんな仕事でも、自分のペースで淡々とやっていける人の数というものは、ほとんど絶滅危惧種並みに少なくなっていると思われます。そしてそれが可能な人は、まずそのこと自体が大変な幸福だと思わずにはいられません。
「格差社会」という言葉はあらゆる機会に言われて久しいものですが、古い知り合いであっただけに、なんだか象徴的にその具体例を見せられた気がしました。

少しでも明るい社会になるよう、なんとか安部さんの手腕に期待したいところです。
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午後8時解禁

一昨日は総選挙のテレビをずっと観ていて、ブログ更新もできませんでした。

いまどきの選挙に関して印象に残ったことは、公平を期するという観点からか、公示日以降はいずれのテレビ局も、あまりにも各政党や候補者の事柄を伝えなくなり、どこも足並みを揃えたように中立的な立場を取るのは、甚だつまらないと思いました。
むろん、法的にもそれが正しいことなのかもしれませんが、それにしてもあまりにも行き過ぎでは?と感じました。

各メディアが、本当に法を遵守するというスタンスをとっているというよりは、いまどきの人のメンタリティの表れのようで、とにかくトラブルを避け、横並びで、責任問題が発生しないようにすることのほうに主たる注意が払われている印象です。
もちろん各メディアは公正さということを無視してはなりませんけれども、いやしくもジャーナリストたるもの、そのスレスレの領域をかすめながら自分の職務を全うすべく、あらゆる取材を通じて我々に正しい報道をもたらしてほしいのですが、近ごろはそんな性根のある、腹の据わった記者もいないのでしょうし、いてもその上司が掲載や放送を差し止めるに違いありません。
これでは、御身大事の役人根性とまったくおなじです。

12もの大小政党が乱立する中、「どこも公平」の一点張りでは、そりゃあ日頃からよほど政治に関心を持ってアンテナを張っている人以外は、どこに一票を投じるべきかわかりにくいというのも当然です。
それをわかりやすくするのはマスコミの責務でもあるとマロニエ君は思うのですが、それはせず、投票率が低いとなると、またそこのことを単独にネタとして取り上げて、国民の政治的無関心をただ政治家のせいだけにして由々しきことだとわあわあいうだけです。

なにより驚いたことは、NHKの選挙速報番組が、投票締切の夜8時の5分前、すなわち午後7時55分からはじまりましたが、冒頭いきなりアナウンサーが「まもなく大勢が皆さんにお伝えできます」と前置きして、前座のように当確を出す際の説明のようなことを言いながら時計の針が8時になるのを待ちました。

その状況は、まるで年越しかボジョレーヌーボーの解禁のごとくで、8時を過ぎたとたん「自民党の圧勝です!」「政権交代が実現しました!」と何度も伝えるのは驚きでした。
午後8時で投票の締切・即日開票ということは、そこから票数えが始まるわけでしょうけれども、マスコミ各社(とりわけNHK?)は出口調査を徹底させているらしく、投票結果を独自に掴んで準備していたものをただちに出して見せて「どうだ!」といわんばかりでした。

マロニエ君の子供のころなどは、まさにアナログの時代ですから、即日開票といっても開票状況が1%という段階から刻々と結果が伝えられ、おおよそのことがわかるのがようやくにして深夜、正確なことは翌朝にならなければわからなかったという記憶があります。
それがいまや、8時の投票締切と同時に、投票結果の全容はいっぺんにわかり、あとは具体的な数や人の名前が追っつけ伝えられるにすぎませんから、ありがたいといえばありがたいけれども、なんだか味も素っ気も面白味もないなあという印象でもありました。

現代は、なんでもがこういうテンポで事が進むので、途中のプロセスにあるものがどれもすっとばしになってしまい、とりわけ情緒面が失われたような気がします。選挙結果を知るのに情緒もなにもないだろうと言われそうですが、マロニエ君はやっぱり「ある」と思うのです。
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安物買いの銭失い

『安物買いの銭失い』という有名な言葉がありますね。
念のため、ネットで意味を調べてみると「安いものを買って得したように思えても、品が悪く何度も買いかえることになり、結局損をしてしまうこと。」とあり、まさに今の自分のことでした。

ここ数年のことでしょうか、電気ケトルというものがしだいに浸透してきて、我が家でもずいぶん前からこれを使うようになりました。

説明するまでもなく、読んで字のごとし、電気でお湯を沸かす要は「電気やかん」です。
これがいいのは、笛吹ケトルなどと違って、お湯が沸騰すると自動的にスイッチが切れるし、安全清潔で取り回しがいいし、プラスチック製なので火傷の心配も低いなど、とても便利で、もはやこれ無しでは困るところまで我が家の生活に馴染んでいました。

しかし電気ケトルには欠点もあって、水と熱にかかわる電気製品だからかどうかはしりませんが、ティファールなどの有名メーカーの製品であっても、だいたい数年でスイッチが怪しげな感じになり、最後はほぼ間違いなくダメになって買い換えを余儀なくされます。

まあそのときは新しいものを買えばいいじゃないかといえばそれまでなんですが、我が家で使っているものは容量が1.7Lという電気ケトルの中では大型に属するサイズで、そこそこの値段がする上に、買おうにもこれが少々のことでは見つかりません。
どこでも売っているのはほぼ間違いなく0.8〜1Lぐらいの小さなサイズだけで、これではコーヒーを1〜2杯ならいいでしょうが、それ以外は、何度も立て続けに沸かさなくてはなりません。

はじめはコストコホールセールで購入し、次は人に頼んでアウトレットモールでいずれもティファールを買ってきてもらいましたが、その2号機も先日オダブツになりました。だいたい3年ぐらいが寿命みたいな印象です。

で、ネットを見ていると、やはりこちらでも大型は商品数が圧倒的に制限されてしまい、数が少ないからなのか価格も決して安いとはいえません。そんな中にほんのわずかですが激安品を発見!
どうも中国製のようですが、「急速沸騰」と書かれ、値段は他社の5分の1ぐらいだし、有名メーカーの製品でも生産拠点はだいたい中国だったりするので、要するにお湯が沸けばいいわけだし…というように安易に考えてしまい、ついこれを買ってみることにしました。
安いことは甚だ結構でも、送料と代引き手数料のほうが製品代を上回るなど、出だしからなんだかひっかかるものがありましたが、まあともかく開けて使ってみることに。
驚いたのは箱や入れ方があまりにも簡素なことに加えて、説明書の紙切れ一枚さえ入っていないことでした。

フタを開くと、底のほうには銀色をした熱線らしきものがくねくねと無秩序に曲がりくねっており、これが熱を発してお湯を沸かすという構造であることは容易にわかりました。
軽く洗ってさっそくコンセントを差し込んで、いかにも頼りなさげなスイッチを入れましたが、果たしてなかなか反応がありません。ティファールではほどなくグツグツいいはじめて、いかにもお湯沸かしの仕事を始めましたよという印象でしたが、まずこの段階で異常に時間がかかり、はじめはよほど「静かな設計」なのかと思いましたが、そうでもないらしく、かなり経ってからようやくそれらしい音がしはじめました。

さらに沸騰するまでもだいぶ長くお待たせ時間が続き、およそ「急速沸騰」とは程遠い印象。この時点でやっぱり安物という気配が濃厚になりました。ずいぶん経ってやっと沸騰へと辿り着きましたが、こんどはスイッチが切れません。いつまでも中のお湯はグラグラと踊り狂っている状態で、ここは手動なのかと思ったら、忘れた頃にいちおう自分でポチッと頼りなく止まることは止まることがわかり、要はメチャメチャ性能が悪いという以外に解釈のしようがありません。

これではスイッチONのトータル時間がものすごく長く、いくら本体は安くても電気代ばかり喰うのは目に見えています。しかもデザインがお洒落なわけでもないし、中の熱線を見たら安全性だって疑わしいし、まったく良いこと無しです。で、いまさらこんなことを言うのもなんですが、名も知れぬ中国メーカーの製品ともなれば、素材にどんなものが使われているかも知れたものじゃない気もしてきて、下手をすれば身体に害のあるものをこんなちんけな製品を使ったばかりに毎日体内に流し込む可能性もあると思うと、いっぺんで使う気が失せました。

というわけで、お金を使って次回の燃えないゴミの日に捨てる物をひとつ増やしただけという、まことに愚かな顛末でした。
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塩鮭のゲット方法

行きつけのスーパーはいくつかあるものの、マロニエ君が行く時間帯は主に夜が多く、たまに時間や出先の都合などで昼間に行くことがあります。
同じスーパーでも、昼と夜とで大違いなのは生鮮品で、とりわけ鮮魚売り場などは昼間だと全く別の店のようなすごい活気があるのに驚かされます。

甚だ所帯じみた話題で恐縮ですが、あるスーパーの塩鮭はとても品物が良く、美味しいのでマロニエ君のお気に入りで、行けば必ず買ってくるようにしています。
昨日、たまたま昼間ここへ行けたので、塩鮭を買うべく売り場に行くと、あるある、美味しそうな甘塩の切り身が山のように盛られており、手前には厚手のビニール袋が備え付けてあります。
それへ専用のトングを使って各自必要量を袋に入れてレジで精算するという、ごくごくありふれたシステムです。

すぐ脇には、同じものがパック詰めされたものもありますが、自分で一切れずつ選んだほうがより好みの部位をチョイスできるという利点もあり、マロニエ君としては、あまり鮭のお腹に近い方の脂の強いところは避けたいので、いつも自分で選んで買うことにしています。

この日、その売り場に行ったときには誰もいませんでしたから、ビニール袋を片手にあれこれと選んでいると、ほどなく一人の女性がやってきてしばらくじっとこちらの様子を見ていましたが、ある瞬間から決断がついたのか、自分もとばかりに袋を取って切り身をあれこれと漁り始めました。

すると、さらにべつ方向からもうひとりおばさんが現れて、マロニエ君の横にぴったりくっつくようにしながらこの光景を凝視していますが、まだ詰め込み作業が済んでいないこちらの身体の前に腕をよじるように、強引に手を伸ばしてきて、ビニール袋をもぎ取るように一枚取りました。
内心「すぐ済むからちょっと待ってよ…」と思いましたが、それができないようです。

さっそくにも自分も手を出したかったのでしょうが、二つあるこの売り場専用のトングはいずれも「使用中」のため、そのおばさんは袋の中に手を突っ込んで切り身を掴んで、さっと袋を裏返すことでゲットしています。
と、そんなことをしているうちに、さらにもう一人!おばさんが横から現れましたが、この人はほとんど人を押しのけるようにしてなにがなんでもビニール袋をむしり取り、な、なんと素手!で塩鮭を鷲づかみにして二三切れ袋に放り込みました。

こうなふうに文章で説明すると、マロニエ君がよほどぐずぐずしていたように取られるかもしれませんが、決してそんなことはなく、できるだけサッサとやっていたつもりですが、なにしろこのたぐいのパワーは凄まじいものがあって、いったん始まってしまうと、あっという間のことでとても敵いません。
もともと誰も見向きもしていない売り場だったのに、誰かが袋に詰めしたりしていると、たちまち人が寄ってくるという一種の人の心理も働いているようにも思います。

それにしても、マロニエ君もスーパーではいろんなものを目撃していますけれども、生臭いむき出しの塩鮭の切り身をまさか素手で掴むおばさんというのは初めてお目に掛かりました。悪いとは思いましたが、あんまりびっくりしたのでその売り場を離れる際、思わず顔を見てしまいましたが、ごく普通の身なりで、頭にはきれいな帽子まで被っていて、とてもそんなワイルドなことをしそうな御方には見えませんでした。
あのあと、生の塩鮭を掴んだ右手はどうしたのかと、ずっと考えてしまいました。

なんにしても現代はまぎれもない競争社会。
たかだか塩鮭の切り身ひとつ買うにも、時として「戦い」の様相を帯びるのだということであります。
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ねこ

猫の里親になろうかと見学まで行ったことは書きましたが、その後、いろいろと思案した挙げ句に、とうとう一匹の猫を引き取ることになり、今月の中頃に現在の施設の責任者の方に連れられて我が家にやってきました。

背中には茶色のキジ模様、胸からお腹にかけては雪のような真っ白という、すでに9ヶ月になる雄猫で、可愛い上になかなか姿の良いイケメン君でした。
我が家の家族は、犬との生活についてはそれなりに熟知しているつもりでしたが、猫はほとんど初体験に近いので、事前には言われるままフードやトイレ、遊びのためのタワーなどをあれこれと買い揃え、ベッドは猫は段ボールが好きだということでマロニエ君が奮闘してそれらしいものを2つ(2部屋ぶん)作りました。
このところのスピーカー作りで、多少は工作にも手先が慣れてきていたこともあり、自分で言うのもなんですが、スイスイと作業は進み、アーチ型の出入口や窓をつけたりと、なかなかの寝所が出来上がりました。

決められた日の午後、小さなバッグに入れられてやってきた猫は、やおら室内に出されて初めて見る我が家を緊張気味に歩き回りますが、ただ可愛いだけでなく独特な妖しさや、ネコ科独特のしなやかな美しさがあることもわかり、今日からの生活が楽しくなりそうでした。

やはり家の中に生き物が増えるというのは、なんとなく空気が明るく活き活きとしてくるようで。思い切って里親になったことを心から喜びました。

ところが夜寝る時間になると、状況は一変します。
就寝時間にはマロニエ君の自室に連れて行くわけで、もちろんこそにもトイレもベッドも揃えているのですが、この時間帯のせいか場所のせいかはわかりませんが、ニャーニャーと絶え間なく鳴き始めて、その鳴きのエネルギーには大いに弱りました。
このブログも夜中に書くことが多いのですが、なかなかこれまでのような動きが取れず、もっぱら猫の御機嫌取りに多くの時間を費やしました。とりわけ初日は猫にとっても環境が激変したわけでおとなしくできないのも仕方がないと思い、徹底的に遊んでやりました。

その後も日中の生活は日を追う毎に慣れてきてくれましたし、大半がベッドや椅子の上などで寝て過ごしていましたが、夜になると俄然目は輝きを増し、絶え間なくニャーニャーと鳴き出すというパターンになり、さらにはあれこれと思いもよらぬ悪さをするようにまでなり、次第に片時も目を離せないという状況に追い込まれていきました。

マロニエ君もともと自分が夜行性であることを自負していましたが、猫のそれは次元の違うスーパー夜行性で、とてもかないませんし、まるでこちらに挑戦するかのように激しく荒々しく叫き散らします。
またマロニエ君の部屋にはCDなど多くのものが積み上がっていますが、どんなところへも軽くジャンプして好きなようにしなくては気が済まないらしいということもわかりました。

動物のすることなので大概のことならガマンするのですが、中にはどうしてもそれだけは困るというものもあるわけですが、そんなことは一切お構いなし。鳴き声にもときどきやけくそ気味の叫ぶようなトーンが混ざってきたりで、その騒ぎかたときたら、とても自分の時間を持つとか、果ては就寝するというようなことがほとんどできない次元にまで達しました。

それでも数日すれば慣れてくるはずという一縷の望みをもって頑張りましたが、猫の夜中の荒々しさは日増しに酷くなるばかりで、それが4時間でも6時間でも延々と続くのですから参りました。こんなことを続けていたらこっちがおかしくなるという危惧も、この頃には頭をよぎるようになりました。
まさにそんなタイミングで、施設の方から様子を尋ねるメールが届いていましたので、まったく情けない気もしましたがとりあえず現在の窮状を包み隠さず伝えました。

話が前後しますが、この施設の責任者の女性の方というのが非常に立派な素晴らしい方で、猫を連れてこられたときから感じていたのですが、その方が翌日の朝一番に電話をくださり、それではこちらの生活が心配だからと大いに心配され、話し合いの結果、甚だ不本意ではありましたが結局その猫はお返しすることになりました。
マロニエ君も自分の不甲斐なさを恥じましたが、そのための「お試し期間」なんだからと頼もしく言っていただき、距離を厭わず、すみやかに迎えに来てくださり、お昼過ぎには来宅されました。てきぱきと快く対応され、その猫はまたバッグに入れられて我が家を去っていきました。
車でしたので、フードやタワー、ベッドなどはそっくり猫にプレゼントしました。

わずか4泊5日の生活でしたけれども、夜中以外は非常によくなついてくれていたし、本当に可愛く思っていたので、彼がいなくなった家の中はまるで気が抜けたようで、しばらくはあふれ出る涙をどうにも押さえることができませんでした。
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演奏も演技化

近ごろの演奏を聴いていてしばしば感じること。
それは、技術的にはとても上手いのに要するに演奏の根本であるところの音楽的魅力がなく、つまらないと感じてしまうことは多くの人が経験しておられることと思います。

理由はマロニエ君なりにいくつか考えましたが、ひとつは台本通りに仕組まれ、その通りに進行する演奏であるということではないかと思います。音数の少ない静かな箇所は極力それを強調し、技術的に難しいところは敢えて通常のテンポ以上のスピードで走って見せて高度なメカニックを披露し、さらには楽譜に忠実であることで決して独善的ではない、アカデミックな解釈と勉強もぬかりはなく、トレンドにも長けている。

さらには曲の要所要所では聴衆が期待するであろう通りにテンションを上げ、終盤ではいかにも感動を誘うような音の洪水となってどうだとばかりに締めくくります。
でも、人の感性は敏感です。
仕組まれたものと自然発生したものの違いは、演奏家達が思っている以上に聴いている方というのはわかるのであって、むしろそれに疎いのは演奏者のほうだと思います。
演奏者が真から作品のメッセージを汲み取り、さまざまな経路を辿ることで必然的な表現となり、納得の終わりを迎えているかどうかということは、かなり見透かされていると思うべきでしょう。

政治家でも芸能人でもそうでしょうが、100%ということはないにしても、あるていど心からそう思い信じてしゃべっていることと、台本通りに建前をしゃべっているのとでは、どんなに意志的に抑揚をつけても超えがたい一線というか違いがあります。
超一流の役者ならいざしらず、普通はどんなにそれっぽく演技をしても、やはり本人が本当にそう思っていないものは表に出てしまうし、ましてや役者でなく、音楽や美術のようなその人の内奥からの表現そのものが芸術として成立する世界は、存在理由そのものにもかかわる重大問題です。

絵の世界でも、ここ最近は、誰からも文句の出ない、わっと人が喜びそうな要素を熟知した上で制作に取りかかる作家というものが少なくありません。見ればなるほど良くできているし、たしかに一見きれいですが、見る人の心に何かが残るような真実はそこにはありません。

そういう意味ではマロニエ君は最近、古い演奏も良く聴くようになりました。
だからといって声を大にして云っておきたいことは、マロニエ君ばべつに新しい演奏の否定論者ではなく、懐古趣味でもありません。現代の演奏は上手いし洗練されていて録音はいいし、その点では昔の演奏は朴訥でどうかすると聞くに堪えないものがあるのも事実です。

それでも、昔の演奏の中に見出す素晴らしさは、とにかく自分がこうだと思ったこと、感じたこと、つまり自分の感性に対して正直だということではないかと思いますし、それが出来た時代だったというべきかもしれません。つねにレコードやチケットの売り上げやライバルの動向、評論家ウケを念頭において、無傷で度胸のない演奏をするのではなく、新しい解釈の基軸などにあくせくすることなく、素直に大らかに演奏しているその個性的な演奏に心を打たれることが少なくありません。
聴衆も演奏家を信じていましたし、それに演奏家も応えていた幸福な時代でした。

音楽を聴くときぐらい、演奏家の真意を信じたいものです。
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猫の館

車を一時間近く走らせて到着した猫カフェは、まるで一般の住宅と喫茶店の中間のような印象で、中に入ると、まず普通の喫茶店と違うのが、はじめに手を石鹸で洗わなくてはいけないことでした。
それから猫と接する際のもろもろの注意を聞き、滞在時間を決めて、いよいよ猫達のいるスペースへ移動します。

中に入ると、あちこちで自由気ままに遊んでいた猫達が我々に気付いて、一斉にこっちにやってきます。とはいってもそれは犬のようなストレートな大歓迎とは違い、あくまでも猫らしく、一定の距離感を保ちつつ侵入者をちょっと「見に来る」という感じでした。

マロニエ君の目はまずは当然サムライ猫を探しました。
すると、決して前には出てこないものの、たしかに彼はその一隅に居て、なるほど他の猫達とは趣が全く異なっているのが一目でわかりました。あくまでも自分なりの距離を取っているし、その後はほとんどこっちに自分から出てこようとはしませんでした。
マロニエ君も何度か接近を試みましたが、聞きしに勝る警戒感の強さで、これはちょっと手強いというのが率直な印象でした。お店の人さえ「なかなか抱かせてもらえない」というのも頷けます。

それにしてもその部屋には至るところに猫、猫、猫がいて、それぞれに個性があり、性別も、色も、体つきも、性格もさまざまで、あれこれ見ているだけでも興味は尽きません。
自分から人に寄ってくる猫がいるかと思うと、まったく何の関心も示さない猫がいるし、せわしく移動を続ける猫がいるかと思うと、ひとところに陣取って微動だにしない貫禄充分な猫もいます。

たしかにマロニエ君はサムライ猫の写真に見る風格みたいなものに惹きつけられていましたけれども、こうして大勢の猫達を見て触ってみると、ほんとうにさまざまで、ことさらサムライ猫にこだわる必要のないこともやがてわかってきました。
月並みな言い方ですが、本当にどれもかわいいです。
ビビリモードだった友人もあにはからんや、すっかりくつろいで猫達と遊んでいます。

はじめの10分ないし15分ぐらいはどの猫ということもなしに、ともかくこの非日常の猫まみれの世界にどっぷり浸かりきり、ただ圧倒されていましたが、後半はだんだんそれぞれの猫を覚えて、識別できるようになります。

そうなると自然に自分と合いそうな猫と、そうではない猫に大別されてきます。
これは…と思える猫はすぐに3〜4匹だとわかりました。
この時点でサムライ猫はもうその中には入っていませんでした。彼の魅力はたしかに他に代えがたいものがあることは最後まで変わりませんでしたが、このひとくせもふたくせもある尋常ならざる特別な猫を飼い慣らせる人はそうざらにはいないでしょうし、ましてやマロニエ君のような猫の初心者が到底手に負えるものではないことは肌で感じてわかりました。
「10年早いよ」と表情でいわれているでした。

途中から、さらに女性が二人あらわれて、それぞれに猫と遊んでいましたが、そのうちの若い女性などはある猫とよほどの懇ろのようで、もはや一心同体という趣でソファにもたれかかり、なにをするでもなしに、ただ黙って猫との触れ合いを噛みしめ、瞑想でもしているようでした。

こういう濃密だけれども抽象的な空気感というのは、犬にはない猫だけのものだなあとすっかり感心させられました。約束の1時間はたちまち過ぎて、ひとまずこの日は退散しました。
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サムライ猫

猫の里親になろうかという考えは、以前に綴ったような経緯もあって、自分としてはいったん心の奥底にしまい込んだつもりだったのですが、やはりどんな理屈をつけてみても、気になるものは気になるわけで、その後も思いつくままにホームページをチラチラと「流し見」したりしていました。

するとその中に、なんともマロニエ君好みの、凛とした高貴な表情が見る者を引き寄せる、濃いグレー系の身体をした雄猫が目に止まりました。保護されてすでに3ヶ月も経つというのに、いまだに人や環境と馴れ合うことをせず、施設でもいわゆる一匹狼を通している由でした。
現在の保護者でさえ、めったなことでは抱っこすることも難しく、人を頑として拒んでいるそうで、よほど苛酷な目に遭ってきたものか、はたまた生来の孤独なサムライ気質の猫殿というわけでしょう。

以前の電話で「写真が可愛かったから連絡されたのですか?」という、まったく頓狂な質問をされて憤慨したばかりでしたが、今回も甚だ不本意ながら、一枚の写真に魅せられてその猫のことが気にかかり始めました。
マロニエ君はとくだん面食いという訳ではありませんし、ましてや人や動物の美醜だけを追いかけ回すつもりは毛頭ありませんが、それはそうなのですが、自分にとっての判断基準として、やはり視覚的要素というものはかなりの要素を占めることもまた事実で、やはりここを疎かに出来ないことも確かです。

ま、そんなくだくだしい言い訳をしても始まりませんが、とにかく、ひと目そのサムライ猫が見てみたくなって、ついには、その施設へ赴く次第と相成りました。
自宅からは結構な距離もあるようでしたが、まあ半分はドライブのつもり行ってみることに。そこは一応予約をして行くことがルールのようになっているので、いちおう電話して大まかな到着時刻だけを伝えると、あっけなく希望する夕刻の時間帯が確保できたので、これはもう行くしかありません。
ちょっと不安もあるし、一人で舞い上がってもいけないので友人に同行してもらいました。

HPによれば、ここにはもう一匹気にかかるのがいて、こちらはひたすらキュートなタイプの猫で、まだ生まれて3ヶ月なんですが、これはこれでたいそう気に入っていたのですが、こっちはすでに里親が決まってしまった由、やはりなんらかの魅力ある猫であればあるだけ、嫁ぎ先も決っていくということが実感されました。

ちなみにそのサムライ猫は、その人を寄せ付けないサムライ気質である故か、まだ施設にいるとのことで安心といえば語弊がありますが、ともかく目的とする猫には会えるということが確認でき、週末の夕方で混み合う街中を車を走らせました。むろんサムライ猫に限らず、そこには相当数の猫がいるようなので、多くの猫達に囲まれるというのもひじょうに楽しみではありましたが、同行する友人はよくよく聞いてみるとそういう経験のないとのことで、まもなく到着という段階になってはやくもビビリモードになっています。

昔は知らないところへ行くのは、マロニエ君は生まれつき方向感覚などは悪くはなかったのでそれほどの苦労はしないながらも、やはり地図を広げて下調べなどが必要でしたが、今はカーナビのお陰でどんなに見知らぬ場所へ行くにも、エンジン始動後にパッパッと情報を打ち込むだけで、いっさい迷う事無く、至ってスムーズに目的地を目指せるのはいまさらながら便利になったと痛感する瞬間です。

果たして到着したところは全く馴染みのない、これまでに一度も足を踏み入れたことのないエリアの住宅街で、カーナビも最終的なルート案内を終えようとしている頃、HPで見覚えのある特徴的な建物が暮れなずむ目の前に現れました。
どんな猫達がいるのやら…。
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正論の陰で

猫の里親の件では、なんだかまったく予想だにしなかった奇妙なものに触れてしまったようで、そのついでにこっちの気分も一度リセットする気になっています。

あまり書いてもどうかと思いますが、ネタついでということで今回まで。
あの手の人達はマロニエ君の最も苦手とするタイプのひとつで、前後左右のことも考えず、ただ目の前の正論を振りかざして、リアリティのないことを上から目線で訴えることに自ら酔いしれているような気がします。

以前も、さもありなんと思ったのは、敢えて名前は書きませんが一時期「朝まで生テレビ」などで舌鋒鋭く正論をまくし立てては、並み居る論客達をメッタ切りにしていた若き才媛が、その主張とはまったく裏腹な実生活を週刊誌にすっぱ抜かれたことがありました。

しかも、そこにはたしかな根拠もあった由で、それを裏書きするごとくアッという間にメディアから消えていきました。
討論の席上ではずいぶんと鋭い調子で日々変化する社会問題に真っ向から向き合っているというようなコメントの連発で、当時の政治家の体たらくから女性問題まで容赦なく弁じていましたが、そんな働く女性の理想的代表みたいな人が、実生活ではごく常識的なゴミの分別さえもせず、たびたびマンションの管理人や町内から注意を受けいたとか。それでも一切自分の態度は改めることなく、その一帯では悪い意味での有名人だったという話でした。

これに限らず、だいたい市民運動とかボランティアといったものに手を染めている人の中に、この手合いが数多く棲息しているという確率が高いように思います。もちろん、そうではない善良誠実な活動家がいらっしゃるのは無論ですがまさに玉石混淆。
高齢化社会に伴う老人介護の問題などにも積極的に取り組み、日夜講演やなにかで毎日ほとんど自宅にもいないような女性が、実は最も身近で現実的な自分自身の年老いた親をほったらかしにしているとか、子供の教育や虐待問題に取り組む専門家とやらが、自分の子供には毎日のようにインスタントラーメンを自分で作らせて食べさせているようなことをしながら、大舞台ではしっかりギャラを取って「子供にとって最も必要なものは親の愛情で、子供は親を選ぶことができません!」などという話を演壇からしているのだそうですから、世の中そんなものだといってしまえばそれまでですが、やっぱり呆然とさせられるのも事実です。

この猫の里親斡旋の女性がどんな方かは知る由もありませんが、言っていることを鵜呑みにすれば、生活はほとんど猫様中心で、猫さえ元気に恙なく生活できればその他のことは人間がどれだけ負担を強いられても当然で、それくらいの覚悟がなければ動物なんて飼う資格はないといわんばかりでした。

この方の話を聞きながら思い出したのは、江戸時代の悪政のひとつとして有名な『生類憐れみの令』で、心ない人がペットを簡単に捨てたり殺処分するというおぞましい現実があるかと思うと、その逆にこのような極端ともいえる御犬様感覚が正論として闊歩しているのは、いずれの場合もバランス感覚の欠如が問題ではないかと思われます。

人間が救いがたいのは、自分が正しいことをしている・言っていると頑なに思い込んでいる、その瞬間ではないかと思います。こんな人が、果たして自分の子供をどんな育て方をし、どれほどご立派な家庭生活を構築していらっしゃるのかと、ちょっと意地悪く想像していまいます。
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続・里親になるには

電話の向こうの女性は、話し方はえらくドライですが、こちらのこととなると何の躊躇もなく矢継ぎ早に質問され、それは今どきの個人情報とかプライバシーに対して過剰なぐらい相手に気を遣う、当節の慣習からかけ離れたような大胆さで、ズカズカと踏み込んで来られるようでした。

家は一軒家か、現在の家族構成から、家を留守にする時間や頻度、さらには家族全員の年齢もこまかく聞かれて、その挙げ句に私の親(今は元気にしていますが)に対し、その方よりも猫のほうが長生きをする可能性がありますから、先におうちの方が亡くなられたときの対策も考えておくべきだと言われたときは、そのあまりの無礼さに、人と動物のどちらが大切なのかと思い、不快感で全身じっとりと汗がにじむようでした。
こういう発言はあきらかに動物愛護の精神を逸脱した、人の道義を踏みにじるものだと思いました。

ついマロニエ君も、そんなことを言い出すなら、人は誰しも生身であるわけで、私もいつ交通事故で死ぬかもわからないでしょうというというと、「そうなんです。ですからそういうときのためのネットワークを構築するわけです!」と一瞬もひるみません。
同様の理由から、一人暮らしの人間は動物の里親にはなれないことになっているという論旨には開いた口がふさがりませんでした。たかだか(といっては悪いかもしれませんが)猫一匹を飼うのにも、今どきは独り者(マロニエ君は一人暮らしではありませんが)ではその資格さえないというのでは、これはもう立派な差別に当たるのではないかとさえ思いましたね。

今どきの通俗的な言い方をするなら、一人暮らしでも、責任をもってきちんと愛情深い動物のお世話をされる人もいらっしゃるわけで、現にマロニエ君はそのような人を知っています。しかし、こういう人達の物差しで見るなら、一人で健気に子育てをしているシングルマザーなんか、即親権剥奪ものでしょうね。

さらに続きます。「ご近所にご家族はお住まいですか?」といわれ、今どき田舎でもなしそんな人はいないというと、もしも飼い主が病気で入院などをした際に、猫ちゃんの世話をするための連絡先を「私達が把握しておく」というのです。
そんなことは飼い主たるものの責任で解決するのが当たり前であって、なにかというと、いちいち元の保護者およびその一派が介入してくる事ではないと思います。それ以外にも、室内飼いをすることを確約すること、網戸には必ずストッパーを付けることが条件、さらには頻繁に猫の状態を保護者に報告する事、などなど。
アナタ、一体に何様ですか?という気分でした。

一週間のトライアル(猫とのお試し生活)を経て、向こうが求めるすべての要件をクリアし、晴れて里親として「認められた」ときに、いよいよ書類を取り交わし、そこに署名(法的に有効なものかどうかはしりませんけど)をさせられ、さらにあれこれの事細かな約束をさせられるようです。

たしかに動物の命は大切です。努々好い加減な気持ちで飼ってはいけないことは重々承知ですし、世の中には心ない飼い主がいることも事実でしょう。でも、それはそんな女性から上から目線で云われなくてもマロニエ君のほうがよほほど承知しているという自信もあります。
言っていることはえらく大上段に構えて正論めいていますけれども、率直にいうなら殺処分されかねないその猫たちを引き取って愛情をもって育てましょうというこちら側の意向あってのことなのですから、少なくとも新しい里親になろうという人に対しては、もう少し普通に人間としての品格をもって接するべきだと思いました。

そんなに猫の生活や飼い主の心得が大事なら、ペットショップの店頭にでも行って、見に来たお客さんすべてにそれらの考えを伝達して、動物を飼う際の20年先までの飼い主の健康および環境の保証、万一に備えたネットワークまで必要だという心得を諄々と講義したらいいと思います。

しかも驚くことに、電話を切って30分もしないうちに同じ人から電話があり、保護者に連絡したところ先に話を進めている相手がいて決まりそうとのこと。それならば仕方がないというものですが、「それとは別にいま、早良区に急遽里親さんを探している人がいらっしゃるので、よかったらその方をすぐにご紹介したいのですが?」という、これまた一方的な申し出がありました。
もちろん写真の一枚もない言葉だけの急な話で、なんの判断材料もないまま電話口で返答を迫られても返事など出来るはずもなく、言下にお断りしたのはいうまでもありません。すると「じゃあ、○○さんは、さっきの猫ちゃんはネットを見て写真が可愛いから連絡をされたんですか?」と切り返してきたのには本当に驚きました。
あまりにも呆れたので、はっきりと「そうです。可愛いというだけではなく、全体の雰囲気なども自分の好みだと感じたからです。」といいましたが、「ああ、そうなんですね…」でおわりました。
全体的に立派なことを言われますが、一皮剥けばえらく勝手で一方的だなぁ…という印象しか残りませんでした。

だいたいこういう人は、自分達こそは正しいことをしているという勘違いと思い上がりがあるということを嫌というほど感じました。いわゆる市民運動家などもそうですが、この手の人達は正論を錦の御旗にして、人には上から偉そうにお説教しますが、自分のことになるとあきれるほど勝手でだらしがなく、押し付けがましく自己中なのががほとんどです。

そんな彼らに行き先をいいように差配される猫たちのほうがよほど気の毒というものです。
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里親になるには

マロニエ君は、自分がこの世に生まれたその日から、家には大型犬がいたほど動物には親しんで暮らしてきました。といっても大半は犬ばかりで、人生のあらゆるシーンにはさまざまな犬達と暮らしてきた深い思い出があり、最後に飼ったのがひときわ愛情深く賢いラブラドールレトリーバーでした。

その死があまりに強いショックとなり、それ以来、もう当分はペットは飼わないことに家族で結論が出るほどどその喪失感は大きなものでしたが、それから早5年が経ち、生活の中に動物がいないのは、やはりあまりにも不自然な気がしてきたのです。

夜、寝床などにはいると、無性に犬と遊びたくなってそれで寝付けないような日も出てくるまでになりましたが、そうはいっても、犬は何かと手がかかるのはまぎれもない事実です。それでも小型犬は我が家の好みではないので犬を飼うなら必然的に大型犬ということになり、それはやはり現実的にどう考えてみても現状では無理というのが偽らざるところ。

そこで比較的手のかからないとされる猫を飼ってみようかという、マロニエ君にしてみれば小躍りしたくなるような流れになり、もともと血統やブランドなんかはどうでもいいので、里親探しのサイトを覗いてみることにしました。福岡限定でもかなりたくさんあるのには驚かされました。

見ているといろいろいるもんです。
その中の一匹が気に入ったので、ログインしてさっそく相手と連絡を取りました。
もちろんマロニエ君がこの手のサイトを利用するのは初めてですから、なにかにつけて不慣れなことばかりです。

気が付くと、ほとんど見落として当然みたいな場所へメールが来ていて、それによるといきなり何時何分に電話をして欲しいということが書かれていました。すでに数時間が過ぎていましたがとにかく電話してみると、電話口に出てきた女性は、いかにも今風な乾いた感じの話し方で会話もなかなか続きません。それでも全体としての「流れ」の説明をなんとかはじめました。

まず意外だったことは、現在猫のいる場所が北九州市なのですが、まずこちらからその猫に会いに出かけて行かなくてはならず、それは当然としても、そこで相性やらなにやらを保護者(現在の猫の所有者でこれから人に譲渡しようと云う人)の人からこちらが里親として適任か否か「審査」された挙げ句、お眼鏡に適えば晴れて「合格」とみなされるようです。
じゃあそれで終わりかと思うとそうではなく、その次は、我が家に場所を変えて「トライアル」という一週間の猫との共同生活お試し期間が始まるとのことでした。

その際には、必ず現在の保護者の人(この場合は北九州の方)がこちらの自宅まで猫を連れてくるのがルールなんだそうで、要するに他人様の家や居住環境を「猫のため」という大義名分のもとにあれこれとチェックされるようです。
しかもそのための交通費の負担もさせられるようで、自分から敢えて行くというのに、その交通費を相手に請求というのもそんなもんだろうかと思いますし、だったらはじめに北九州まで見に行く交通費も負担して欲しいというのが、偽らざる素直な理屈です。

また、これまでに接種されたワクチンなどの各医療費も新しい里親が(さすがに全額ではないようですが)負担しなくてはいけないとのことで、このあたりから話が少しおかしいなあという気がしはじめました。
サイトによっては金銭の要求は一切してはいけないと謳っているところもあるようですが、そのあたりはサイトの管理者の考えによっても変わるということかもしれません。

もちろん相手は動物なので、事は慎重にという基本の考えはわかりますが、こちらの意向を問われることはあまりないまま、先方の都合ばかりを一方的に押しつけられるような気がしはじめて、少し気分が萎えてくるようです。
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草間彌生

先月のNHKスペシャルだったか、水玉の芸術家、草間彌生さんのドキュメンタリーをやっていましたが、これがなかなかおもしろい番組でした。

草間彌生さんといえばまっ先に思い出すのはもちろんあの原色の水玉に埋め尽くされた絵画や彫刻ですが、さらには自らも作品だといわんばかりの独特な出で立ち──とりわけオレンジ色の髪の毛とそこから覗く強い眼差し──は見る人に強烈な印象を与えるでしょう。とくにいつも何かをじっと凝視して創造力を働かせているような大きな瞳は独特で、ほとんど笑顔らしきものはありませんけれども、そこになんともいえない不思議な愛らしさと純粋な魂が宿っているよう気がするものです。

マロニエ君は勝手に彼女はニューヨークに住んでいるものと思っていたら、それは大間違いで、ニューヨークはもう何十年も昔に引き上げた由、現在は日本に在住して東京都内にアトリエがありました。

驚いたのは御歳83歳ということですが、実年齢を知らなければ誰もそんな高齢とは思わないでしょうし、現に毎日のようにアトリエにやってきては、高い集中力をもって精力的に大作に挑んでいらっしゃいます。
足元などはたしかにふらふらとおぼつかないことがあり、主な移動は車椅子のようですが、アトリエに入ると人が変わったようにエネルギーが充溢しはじめ、原色が塗られた大きなキャンバスに向かって一気呵成に筆を進めていくのは圧巻でした。さらに驚くべきはその筆の動きと決断の速さで、彼女は番組の中で「自分は天才よ」と言っていましたが、普通なら自らそんなことを云うのはどうかと思うところでしょうが、草間さんに限ってはその迷いのない筆さばきや旺盛な製作意欲などをみても、とても常人の出来ることではなく、つい自然に納得させられてしまいます。

今年はヨーロッパのモダンアートの殿堂といわれるロンドンのテイト・モダンで、アジア人初の大規模な個展が開催されて大きな注目を浴び、大盛況のうちにヨーロッパ各地とニューヨークまで巡回したようでした。
番組では、その為の100枚の新連作として、200号はありそうな巨大な画布に、毎日果敢に挑み続ける姿を追いましたが、そのゆるぎない才能と製作態度には圧倒されっぱなしでした。

この番組では驚かされることの連続でしたが、これだけの大芸術家となり世界的な名声も獲得したからには、さぞ立派な自宅があるのかと思いきや、草間さんの生活拠点はなんと精神病院で、院内の粗末な個室が彼女の家で、ここが一番落ち着くというのですから唖然です。そして毎日この病院からアトリエへ通い、夕刻仕事がおわったら病室に戻ってくるという、俄には信じられないような生活です。

なんでも若い時分から統合失調症という病を患い、いまだにその治療を受けながらの創作活動ですが、番組中も彼女の口からは自殺したいという言葉が何度も飛び出してくるのですが、長年彼女のお世話をしてきた人達がそのあたりのこともじゅうぶん心得ているようで、できるだけ草間さんの負担にならないよう配慮しながら上手く支えている献身的な姿がありました。

この番組の中で、ヨーロッパの巡回展のほかに、ニューヨークではルイ・ヴィトンとのコラボが進行中で、そのオープニングには草間さんも駆けつけ、例の水玉模様の製品が数多く作り出されていましたし、ショーウインドウの中は草間さんの作品である無数のタコの足のような彫刻が上下から空間を埋め尽くし、もちろんその不気味な物体は赤い水玉でびっしりと覆われています。

それから一週間ほど後、マロニエ君が天神を歩いていると、偶然バーニーズの前を通りがかったのですが、一階のルイ・ヴィトンのショーウインドウはなんと数日前にテレビで見たのとまったく同じ、ニョロニョロした物体に無数の水玉をあしらった草間ワールドになっているのには思いがけず感激してしまいました。グロテスクと紙一重のところで踏みとどまったそれは、とても斬新で美しく芸術的でした。

「もうすぐ死ぬのよ」と連発する彼女に、「草間さんはあと何枚ぐらい絵を描かれますか?」という番組の問いかけがあったのですが、すかさず「何枚でも描きたい。とにかく描きたいの。千枚でも二千枚でも描けるだけ描いて死にたいの」と、何の躊躇もなくあの射るような目つきで真顔で仰っているのが印象的でした。

ほとほと感心したのは、どんなに体調が悪く、頭はグラグラで、起きあがることも出来ずに死にたくなっているようなときでも、絵を描き始めると俄に調子が良くなってくるのだとか。まさに彼女の肉体・魂・血液・細胞はひたすら作品を作り出すことにのみ出来上がっているようで、これぞ天職であり天才なのだろうと思います。

あのような芸術家に対して「いつまでもお元気で」などと平々凡々とした言葉は浮かびませんが、強いて云うなら天が彼女を見放すその瞬間まで創作活動に身を捧げて欲しいものですし、実際そうされるだろうと思われます。それが天才の使命というものだと思いますから。
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栄冠の在処

いま、スポーツの世界ではオリンピックをはじめ、勝利したアスリート達は差し向けられるマイクに向かって、判で押したように「これは、自分一人で取ったメダルではない」「支えてくれた人達がいたからこそ」「家族の励ましがあったから…」というような言葉を並べ立てるようになりましたが、聞く側・観る側は本当にそんなことが聞きたいのでしょうか?

このようなコメントが一大潮流となったのは、横並びの大好きな日本人のことだから、自然に同じような言葉を発するようになったのかとも思いましたが、あまりの甚だしさに、あるいは上からの指示で、受賞インタビューではそういう受け答えをしなさいと厳命されているのでは?とさえ疑います。

もちろん、スポーツに限ったことではありません。
どんなジャンルであろうと、その頂上へ登りつめるまでの厳しい道のり、血のにじむような努力など、本人はもとより、その過程において多くの人の協力や支援があったことは紛れもない事実だと思います。
しかし、そうではあっても、最終的に各人が世に出て認められるに至ることは、あくまでも本人(あるいはチーム)の実力や才能、研鑽、さらには運までも味方につけて達成できた結果なのであり、その栄冠は当人だけのものだというのがマロニエ君の考えです。

むしろ、恩師や支援者、家族、その他背後にある人間は黒子に徹するところに美学があり、それにまつわる周辺の尽力談やエピソードは、あとから追々語られてゆくほうがよほど麗しいとも思います。

ところが、今では本人以外の面々も堂々と表に出て称賛をあびるし、本人の口からもまっ先にその事が語られるのは礼節を通り越して、いささか美談を押しつけられるようで、なんだかスッキリしないものが残ります。

お世話になった人達に感謝の意を表すのは人として大切ですが、何事も度が過ぎると主客転倒に陥り、まるで集団受賞の代表者のような様相を帯びてきています。もし心底本気でそう思っているのなら、もらったメダルも人数分に切って分けたらいいようなものです。

それに、どんなに手厚い周りの支えがあったにしても、結果が出せないことには世間から一瞥もされないというのが現実なのですから、やはりそこは当事者とそれ以外の一線があるべきだろうと思います。

このほど、ノーベル医学・生理学賞を日本人が受賞したのは誇らしい限りですが、その山中教授までもが記者団の前に夫妻で登場し、いきなり「家族がいなければ…」「笑顔で迎えてくれた…」という調子のコメントが始まったときは、さすがにちょっと驚いてしてしまいました。

もしも、モーツァルトが生きていて、自分の芸術に対して「僕の音楽は僕ひとりが作ったものとは思っていません。これまで育ててくれて、ほうぼう演奏旅行に連れまわしてくれた父と、一緒に演奏した姉のナンネル。パリでなくなったお母さん、結婚した後は側で見守ってくれたコンスタンツェなど、多くの人の支えがあったからだと思っています。だから、みんなで作り上げた作品だと思っています。これからも御支援よろしくお願いします。」などと答えたら、果たしてまわりは納得するでしょうか?
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いい顔と信頼感

来月大統領選挙を控えるアメリカでは、現職有利の原則に反してオバマ氏の支持がもうひとつ定まらず、対する共和党のロムニー候補は失言などをかわしながらも残りをどう巻き返すかというところですね。

政治のことはよくわかりませんが、オバマ氏苦戦の理由として考えられるのは、アメリカ経済の建て直しにこれという手腕が発揮できないだけでなく、彼はなにかにつけていい顔をしすぎて大統領としてのふるまいが消極的という印象があります。

彼は、一般的な理想論を魅力的に演説するのはお得意だそうですが、山積する現実面での諸問題に対する有効な対処能力には欠けているとされ、決定的な失策とかスキャンダルがあるわけでもないのに人気がなく、なんとなく孤立しているような印象があります。

就任早々にもヨーロッパで核廃絶をテーマに大演説をぶちましたが、アメリカこそ世界最大の核保有国であるのに、その大統領の口からそんな空想的な理想論が飛び出たことで、表向きは歓迎されたかたちにはなったものの、実際にはしらけきったという話を聞いた覚えがあります。

今もイスラム諸国が反米の気炎をあげていますが、オバマ大統領には不思議なほどこれといった明確な反応も発言もなく(あっても少なく)、なんとなくこれまでの合衆国大統領とは違った雰囲気を感じてしまいます。

ここからつい連想してしまうのですが、我々の周囲を見ても、さも分別ありげに誰にでもいい顔をする人というのがいるものだということです。
そういう人は、なるほど誰にでもあたりはいいのですが、その不自然なほどの温厚さは、どこまで本気にして良いのかわからず対処に困る場合があるものです。

誰とでも均等にそつなく上手くやって、本人もそこそこ楽しめるというのは、これはこれで今どきの有効な処世術でしょうし、マロニエ君などはこれが大いに欠落している点なので、ときには少し勉強させて欲しいぐらいなものです。

でも、そうは言っても、そうしてまでお付き合いのチャンネルばかり増やしても、それではどこにも実体がないように思います。もちろん個人差もあり、それで充足できる人も今どきは多いのかもしれませんが、そうではない人もいるということで、これは要するに価値観とスタイルの問題かもしれません。

ただ、ご当人はいくら中立的に上手く立ち回っているつもりでも、周りからは察知されているし、結局はいつでもどこでも誰にでも同じ調子なわけですから、有り難みもないというものです。そればかりか、あまりあちこちでいい顔ばかりしていると、最後は誰からも信頼されなくなる危険性も孕んでいるようにも思います。

マロニエ君は個人的には、少々変わり者でも、困ったところのある人でも、人間的に真実味のある人ならかなり許容できるのですが、いわゆる「いい人」はどうも苦手で、接していてもお付き合いの機微とか悪戯心がなく、勢いそつのない演技になり、表面は良好でも後に疲れが残ります。

実際のオバマ氏がどんな人間なのか知る由もありませんが、彼をメディアで目にする度に、なぜかいつもこういうことを連想してしまいます。
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ピントのずれ

ひと頃は、公共の場で小さな子供が奇声を発したり、あたり構わず走り回るなど好き勝手に騒いで、周囲の顰蹙を買おうとも、我関せずまったく叱るということをしない若いお母さんの姿などを見ることがしばしばでしたが、このところほんのわずかな変化が起こっているような気がするときがあります。

その変化とは、つまり親が子に躾をしている場面を目にするようになったということで、そのこと自体は大いに結構、喜ばしいことなのですが、ただちょっとそこに違和感を感じることがあります。

例えば、ふつうのお店で買い物をして、支払いが終わり、品物を受け取ってその場を離れる際に、ほら、ほら、と子供の背中を軽くつっついて店員に向かって「…ありがとうございました」と云わせるような光景をマロニエ君は何度か目にしています。

また、ある病院でのことですが、診察が済んで、受付で保険証や処方箋などを受け取ってその場を立ち去るとき、子供の手を握っていた若いお母さんは、しきりに子供になにかをさせようと小声でぶつぶつ言っています。握っている手もそのつど何度もぐいぐい引っぱられて、その子はどうも嫌だったようですが、お母さんの度重なる指令に抗しきれずに、ほとんど出かけたドアの向こうからひときわ大きな声で、「ありがとうございました!!」と叫ぶように言って帰っていきました。

お店で買い物をした際は、そもそもマロニエ君の目には、最近はお客さんのほうがしきりに店員に対して「すみません」とか「ありがとうございます」という言葉を乱発して、双方の立場が逆転しているのでは?というような奇妙な状況をよく目にします。
礼儀はとても大切なことですし、それが最近ではだいぶ失われていると嘆く気持ちがある反面、こういうどこかちぐはぐなやりとりをしばしばに目にするのは、どうにも心が気持ちのよい場所に落ちていきません。

店で買い物をしたら、御礼を言うのは基本的に店のほうであって、お客さんのほうは自然に「どうも」程度のことで済ませればいいわけで、丁寧も度が過ぎると却って卑屈にしか見えません。

でも、この手の人達は、それが礼儀にあふれた大人の正しい振るまいだと信じ込んでいるのでしょうし、小さな子供の親などは、それを我が子にまで教え込もうとしているのかもしれません。
病院も、これは経営サイドから言わせれば、患者はまぎれもないお客さんでもあるわけですが、そこは長年続いてきた慣習もあり、診察を受けた際、医師にお礼を言うところまではわかりますが、受付の事務仕事をしている女性に向かって、帰る際に親が自分だけでは飽きたらず、小さな我が子にまで「ありがとうございました」と盛大に言わせるというのは、どこか躾のピントが外れている気がします。

誰しも低姿勢に出られて、御礼を言われて怒る人はいませんけれども、礼儀や挨拶というものは、なんでも丁寧なら良いというものではなく、それをどれだけ適切的確に正しく用いる(使い分ける)ことができるかどうかに、その人の育ちや品位・見識が現れるとマロニエ君は思います。

これらのお母さん達は、もちろん親なので子供のためということもあるでしょうが、心のどこかにそういう挨拶をさせている親としての自分と、それを実行する子供の両方を世間に見せることで、まわりから感心されている筈だと思い込むことに満足しているように感じてしまいます。

現にその病院でのお母さんは、最後だけはいかにもという感じでしたが、待合室ではマロニエ君と肩が触れ合うぐらいの隣に座っていながら、真横にいるこちらのことなどまったくお構いなしに、かなり大きな声で子供にしゃべりまくり、あげくには変な抑揚をつけながら絵本の読み聞かせが延々と続き、なにしろ真横ですからかなり迷惑でした。

人にそんな不愉快を与えない気遣いができることのほうが、礼節という点ではよほど大事だと思うのですが、どうも本質的に感覚が違うようです。
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ウインドウズの恐怖

マロニエ君はパソコンはもともとマックでスタートを切ったということもあり、もうずいぶん長いことマックユーザーなのですが、数年前から事情があってウインドウズも少し使うようになりました。

このピアノぴあのホームページは、開設時たまたまウインドウズを使っている友人がお膳立てをしてくれたために、あえて不慣れなウインドウズがベースになりました。

これが今考えても出だしを誤ったと思われてなりません。
以前も書いたかもしれませんが、マックユーザーにとってのウインドウズというのは、これほど使いにくいものはなく、マロニエ君も使い始めから早3年以上が経ちますが、いまもって勝手がわからず、できる限りはマックを使っていますが、ホームページに関してはどうしてもウインドウズを使わなくてはなりません。

そのウインドウズでは、インターネットエクスプロラーを使っているのですが、今年の梅雨頃だったと思いますが、何の前触れもなく、とつぜんホームページの更新ができなくなりました。
はじめは何がどうなったのやら訳がわからず、パソコンの前で自分なりにずいぶん格闘しましたが、ようやくわかったことは、インターネットエクスプロラーのバージョンが新しくなってしまっているようで、そのために突如環境が変わり、ホームページの更新機能などが一斉に停止してしまったのでした。

パソコンのメーカーのサポートセンターなどにも何度電話したかわかりません。
みなさんもよくご承知だと思いますが、近ごろは名前こそサポートセンターなんぞと頼もしげな名前がついていますが、一度電話するだけでもこれが一苦労です。しかも、基本的には故障やトラブルはメールで質問して、メールで回答を得るというスタイルのようですが、緊急の時にそんなまだるっこしいことはやっていられないし、だいいちパソコンなどがめっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、適切な言葉で今自分が立ち至っている症状を書き綴ってメールにするなんてとてもできません。

そこで「何が何でも電話」ということになるわけですが、それがまた番号を調べて、音声ガイダンスとやらでいくつもの段階をくぐり抜けて、いよいよオペレーターと会話ができる状態に漕ぎ着けるまでが大変です。
おまけに会話は「録音されている」というのですからたまりません。

必死に状況説明を繰り返すもなかなか原因がわからず、ついにはパソコンを異常になる以前の状態に戻すべく、「修復」という作業を、電話で逐一指示を受けながら操作すると、たいそうな時間を要した挙げ句にパソコンは数日前の状態に戻り、やっと解決したかに思えました。

ところが悪夢はまだまだ続きます。夜中になると、なにやら潜水艦みたいな変な音がポヮーンとしてパソコンを開くと、またおかしな状態に戻ってしまっています。これが5、6回も続くと、さすがに神経がおかしくなりそうでした。
要は、インターネットエクスプロラーは新しいバージョンを、ユーザーへの通告も断りも選択の余地も無しに、一方的かつ強制的にバージョンアップしていたわけで、それによって否応なしに環境が変わってしまい、甚だ不本意な状況に追い込まれてしまうのでした。これをどうするかという対策はもはやマロニエ君の能力を大きく超えてしまっていたのです。

結局は、友人に自宅に来てもらい、アンインストールとやらの設定とかいうのをやってもらいましたが、それはというと普段見たこともないような専門的な画面での専門的な操作による設定で、こんなにも大変な処置をする必要があることを勝手に自動更新するなんて、まったく信じられませんでした。

その後もまた別件でトラブル発生、この解決にも大変な労力を要することとなり、ほとほとマロニエ君とウインドウズは相性がよくないようです。
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テレビの不思議

台風16号が沖縄本島に上陸、さらに北上を続けているとのことですが、台風情報を見ようにもテレビでは決まりきった天気予報やニュースの一部以外ではなかなかその情報が得られません。

こんなときしみじみと感じるのは、そもそもテレビというものは、どうでもいいようなことはまたかと思うほど繰り返し放送するくせに、こちらが必要とする肝心なものはほとんど放送されないという矛盾です。

自然災害など、終わった後はえらく盛大に報じられますが、台風のような今まさにこちらに向かって近づいてくる危険に関しては何故こうも情報が最小限で不親切なのかと思います。

今回の台風は「猛烈な大型台風」「瞬間風速は最大75m」といいますから、こんなものがこっちに向かってやって来ると思うと身も縮む思いになりますが、テレビのどのチャンネルを見てもほとんどそれらしいことは伝えておらず、すまして平常通りの番組が放送されているだけです。

NHKもまったく同様で、台風なんぞまるで消えて無くなったかのような知らん顔状態なのには呆れてしまいましたが、夜になってかろうじて総合だけが、申し訳程度に台風情報を流し始めたのみです。
どうかすると、せっかく録画した映画や音楽番組にも、遠く離れた地で小さな地震が発生したというようなテロップが出てきて、大事な画面が台無しになってしまうことがしばしばなのは多くの方が経験されていることだと思います。

しかも、ひとたびこれが出はじめると、その無粋な文字は何度も何度も繰り返し画面に表示され、そのしつこさといったらありません。
それでも、NHKなどは公共放送であるという性質でもあるのでしょうから、そこは諦めて我慢しているわけですが、自分のいるエリアが実際的な危険にさらされる恐れがあって、くわしい状況を知りたいと思っても、その情報がほとんど得られないのはまったく腑に落ちない気分です。

少なくともよほど注意して天気予報やニュースを待ち構えていないかぎり、台風情報などはほとんど伝えられないのが実情だということがよくわかりました。

要するにテレビは、済んでしまったことを後から殊勝な調子で報告するだけのメディアではないかと思いましたが、こんなことを書いている間に外は次第に風がザワザワしはじめたようです。
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ノラや2

動物好きにとって、自分で飼って生活を共にしている動物というのは、まさに家族同様の存在で、ときにその存在の大切さは人間以上のものにさえなってしまうこともないことではありません。

お隣の犬猫ハウスから猫がいなくなったという必死な捜索の電話があってからしばらくすると、今度は新聞紙面で、市内の方のビーグル犬がいなくなったとのことで、写真付きの捜索の広告が出ているのを見て思わず胸が塞がりました。

興味のない人からすれば、たかだか犬猫にそこまで必死になることを、愚かで馬鹿らしいことのように感じられるかもしれませんが、飼い主にしてみれば、それは家族を失うことに匹敵するような出来事で、さぞかし沈痛な毎日を送っておられるだろうと思います。

この新聞広告というところから、また内田百聞の「ノラや」を思い出したわけですが、高い新聞掲載料を払ってでもこのような広告を出した時点で、すでにかなりの時間が経過しているのでしょうし、八方手を尽くした挙げ句の苦渋の決断だろうと思われます。
おそらくは、めでたく見つかって飼い主のもとに戻ってくる可能性は極めて低いとマロニエ君は内心思ってしまい、それがまたいよいよお気の毒なところです。

すでに、この新聞広告は2度、目にしていて飼い主の方の悲痛な心の裡が忍ばれます。
なんでも、ある女性がこの犬を連れ去るところを見たという目撃証言があるのだそうで、写真を見てもなかなか器量好しのビーグルでしたので、そういう証言があるところをみると、心ない人によって連れ去られたのだろうとも想像します。

この広告が「犯人」の良心に訴えるものがあって、もとの飼い主へ返そうという気分になってくれたらそれに越したことはないのですが、なかなかそうはならないだろうと思われます。
相手が動物とはいえ「誘拐」もしくは「盗み」という悪事をはたらいておいて、いまさら名乗り出るのは引っ込みがつかないという心理があるでしょうし、動物は飼い始めるとじきに愛情愛着がわいてきますから、エゴであっても手放すこともできなくなるという事情があるだろうと思います。

警察に届けても、犬猫は飼い主にとってはどんなに家族同様でも、法的にはモノとしか扱ってもらえないのだそうで、そこがまた悲しいところです。
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ノラや

我が家のとなりには、昔の家でいう物置小屋ほどもある大きな犬小屋があります。

それというのも隣家のガレージがいつのまにか犬小屋となり、もう長いこと、そこを近所の愛犬家が借りているのです。
中では数匹の犬猫が飼われていますが、飼い主はここから少し離れたところにお住いで、毎日、夕方になると散歩をはじめエサやら掃除やらで、必ずやってきては懸命にお世話をされています。

今年の夏、そのガレージが建て替えられて、より大きく立派な犬舎に生まれ変わりました。
新築の住まいを与えられて、飼われている犬猫たちもさぞ喜んでいることだろうと思っていたところ、先日その飼い主さんから電話があり、その中の猫が一匹いなくなって、もうずいぶん探し回っておられるようですが、いまだに見つからないとのこと。

特徴などを知らされ、見かけた折には一報をと頼まれ、もちろん快諾したのはいうまでもありませんが、猫の場合、いったんいなくなって帰ってきたという話はなかなか聞いたことがなく、そこが必ず飼い主のもとに帰ろうとする犬と猫の最大の違いのようにも思われます。
猫は猫なりに、人になついているのだと思われますが、犬のそれのようにまっしぐらなものではなく、一捻りも二捻りもある愛情の持ち方のようでもあるし、そもそも猫には犬に備わっているような方向感覚なんかも少し弱いのかもしれないと思ったりもしています。

この話を聞いて思い出したのが、内田百聞(正しくは「聞」ではなく、門構えに月ですが)の作品「ノラや」でした。
野良猫だったノラが内田家にいついてから、だんだん百聞先生の愛情を受けるようになり、日々おいしいものを与えられて、幸福な毎日を過ごしていた真っ只中、いつものように出かけたきりノラは帰ってこなくなり、その悲嘆の顛末を縷々書き記した作品。

来る日も来る日も、夫人とともにノラを探し回る日々が続き、その間、百聞先生ほどの文豪が、心身をすり減らし、涙に明け暮れ、捜索の新聞広告も数度にわたり掲載されますが、月日ばかりが虚しく流れていきます。そして、その悲願も虚しく、ついにノラは帰ってきませんでした。

猫は、人の愛情を受けながらも、どこか勝手気ままで謎の部分が多く、それ故に猫に魅力を感じる人も多いようですが、マロニエ君はやっぱり犬が好きである自分を見出してしまいます。

もちろん一日も早く見つかることを願っていますが、正直言うと難しいだろうなぁと思ってしまいます。そもそも突然いなくなる飼い猫というのは、その後いったい、どこでどんな行動をとっているのか、できればNHKのドキュメントなどで取り上げてほしいテーマです。
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ばわい

「言葉は時代とともに移ろいゆくもの」という原則はわかってるつもりでも、このところの言葉の乱れはあんまりで、耳を疑うようなものが多すぎるように感じられてなりません。

とくにテレビは直接生きた言葉が流される媒体なので、放送局は正しい日本語を発信するという役割は極めて大きいはずですが、実際には、ほとんど元凶のごとき役割を果たしているのがテレビであり、唖然とするばかりです。

民放はいうに及ばず、NHKでさえこの点は例外ではなく、なんでもないようなことまで変化が起こっています。
例えば、むかしは当たり前だった「○○するかどうか検討中です」というようなフレーズは今はほとんど消えて無くなり、最近はニュースのアナウンサーなどは、例外なく「○○するか検討中です」「命に別状はないか確認中です」というように変わり、間に「どうか」という副詞(たぶん)が入らなくなってから、言葉はずいぶん乾いた、味わいのない、殺伐とした響きをもって耳に届くようになりました。

また、一種の流行的な使い方なのかもしれませんが、寒い、暑い、旨い、安いというような言葉を使う際にも、今は「寒っ」「暑っ」「旨っ」「安っ」という言い方が大勢を占め始めており、はじめはなんということもなかったようなことが、だんだん耳に障るようになりだしています。

語尾にむやみやたらと「…みたいな」や「…かな?」をくっつけるのなどは、もはや方言を飛び越して日本列島にあまねく定着した観があり、ほとんど共通語のようで、ちょっと不気味でさえあります。

最近、薄々感じはじめていたことで云うと、「場合」を「ばわい」という言い方で、はじめはメールなどの書き込みでちょっとふざけた、可愛気を出した感じの使い方が広まっているぐらいに思っていましたが、なんとテレビ局のキャスターがごく普通にこう言っているし、さらには、れっきとしたアナウンサーが、真面目なニュースを読み上げる際にもこの言い方をするのは、どうかしているんじゃないかと思います。

つい先日なども、電力供給の問題をスタジオで解説する際に、準備されたボードを指し示しながら、大真面目な表情で何度も「このばわいは」「そのばわいは」とあきらかに「わ」と発生していることに愕然とし、もしかしたらこっちの勘違いではないかと、念のため手許にある国語辞典で確認してみましたが、むろん「ばわい」などという日本語があるはずもなく、場合は「ばあい」と明記されています。

さらにこまかく云うと、テレビで聞く「ばわい」の言い方は、それをせめてなめらかに言うならまだしものこと、「わ」を敢えて強調するかのような、「ばウァい」という感じに発音するのには、ほとほと呆れてしまいます。

未来の辞書には場合=「ばわい」(「ばあい」とも)などと書かれるのでしょうか…。
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テレビその後

過日、画面がいきなり暗黒になってしまった我が家のテレビは、アンテナケーブル接続部の不具合という些細なことが原因と判明、めでたく復旧したことは以前書きましたが、実は続きがありました。
メーカーの技術者は画面が復旧したというのに、なにか違う問題にしきりに関心を寄せている様子で、それからまたずいぶんと時間を要して、予想外の第二幕となりました。

てっきり修理完了後の調整や確認をしているのだろうと思っていたのですが、技術者いわく、なんと液晶に異常があるとのことで、そう言われて目を凝らしてみればなるほど、ほんのかすかな筋が左側にあること、また通常の放送画面ではまったくわからないものの、調整のための単色に近い画面にすると、右下にわずかな曇りのようなものがあるとのこと。とくに曇りなどは、言われるまでまったく気づきもしませんでした。

すると、これを要修理と判断したようで、技術者の方は持参してきたノートパソコンを見ながらパーツ類の調達のために電話で会社としきりにやりとりしているようで、こちらが頼みもしないうちから交換のための手はずがどんどん進んでいて、その流れは呆気にとられました。

「部品の準備が出来たらまたご連絡しますので」と言い残してこの日は帰って行かれたのですが、この時点でマロニエ君はそんなことよりもテレビ画面が3日ぶりに復活したことばかりを喜び、そのうち液晶のことなど忘れていました。

数日後、本当に忘れていたら、メーカーから電話があり、準備が出来たのことですぐに来宅され、作業には1時間半ぐらい要するとのことで、そのときはずいぶん大変なんだなあ…ぐらいに思いました。玄関脇にはテレビがそのまま入りそうな大きな段ボールが置いてあり、ちょっと違和感は感じていましたが、礼儀正しく淡々と作業を進めているので、そのまま部屋を後にしました。

2時間近く経過して、やっと作業が終わったと知らされて戻って説明を聞くと、なんと液晶画面をそっくり新品に交換しているほか、メインをはじめとするいくつかの基盤などまで新品に交換されていると聞いたときは驚愕しました。
素人考えでも、ということは、これまで使っていた部分は、主に外枠や背後のカバーなどと思われ、中の主要な部分はほとんど新品になっているようです。

しかもすべて保証扱いですから、こちらの負担こそゼロなんですが、なんとも大胆なことをするもんだと思うと同時に、つい先日「カミナリ」という言葉を口にしたが最後、保証の適用から外されかけた危機を思い出すと、今度は、どこが悪いのかわからないような些細なことで、これだけの大胆な修理をするというのは、なにがどうなっているのやら、まったく狐につままれたような気分でした。

要するに、いずれの場合も定められた「システム」がそうさせるということでしょう。
システムに適ったことなら、いかに高額な修理でもどんどんするし、逆に適用外となったが最後、たとえユーザーが自分の落ち度でもなく、かつ、どんなに困っていることでも保証とはならず、かかった料金を請求するというわけで、たしかにある種の理に適ったことではあるのでしょうけれども、とてもじゃないですが心情的についていけない世界だということがわかりました。

テレビが実質新しくなったことはいかにも結構な結果だったわけですけれども、なんだか釈然としないものが残り、妙ちくりんな世の中になったもんだというのが率直なところでした。
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低コストオペラ

今年8月のザルツブルク音楽祭から、プッチーニのオペラ『ボエーム』が放送されましたが、お定まりの新演出によるもので、時代設定は現代に置き換えられるという例によってのスタイルは、まったくノーサンキューなものでした。

本来のオペラなら演出家の名前も記しておきたいところですが、この手合いは覚える気にもなれません。
フィガロでもマノンでも、とにかくなんでもかんでも最近はこの新演出という名の安芝居みたいなステージが目白押しで、かつてのようにまともにオペラを楽しむという気分にはなれません。

今回のボエームもとりあえず全4幕のうち第2幕まで見ましたが、これが本当にあのザルツブルク音楽祭だろうかと思うような軽薄で品位のない舞台で、どこかに良さを探そうとするのですが、どうしてもみつかりません。

たしかに芸術は、ただ伝統的なものを継承し、おなじことを繰り返すだけではだめで、絶えず新しいものが創り出されて、それらが淘汰され昇華しながら後世に受け継いでいかなくてはならないという面はありますが、近ごろの新演出は、マロニエ君の目には到底そんな芸術的必然から出たようなものには見えません。

なぜ最近のオペラは伝統的な舞台が激減して、斬新ぶった子供だましのような空疎な舞台が多いのかと思っているオペラファンは多いはずです。
一説によれば、それはもっぱらコストの問題だという話を聞いたことがありますが、それも頷けるような露骨なまでのやっつけ仕事で、ことによると作品への畏敬の念すら疑わしくなるようです。

たしかに本来の伝統的な舞台を作るには、高額な装置や衣装などが必要で、生半可ではないコストがかかるのはわかりますが、そもそも、それを含めてのオペラじゃないかと思います。
少なくとも、あんなものを堂々とオペラと称するぐらいなら、いっそ演奏会形式でやったほうがどれだけ潔いかわかりません。

今回のボエームに限りませんが、主役をはじめとするせっかくの出演者達が、本来の扮装とはかけ離れたジーンズやTシャツで堂々と舞台に現れて、下品な仕草で現代の役柄を演じるのはさぞかし不本意だろうなあと思います。
そればかりか、時代設定を現代に置き換えることで、劇の進行や台詞のひとつひとつの意味にも矛盾や齟齬が生じて、まるで説得力がありません。音楽的にもステージ上で展開されているものとは何の繋がりもないようなものが噛み合わないまま空虚に流れていくのは、なにやら耐え難い気になってしまいます。

もし若い人で、はじめて見たオペラがこの手の新演出で、オペラとはこういうものかとその経験を記憶に刻むとしたら、とても恐ろしいことのように思います。

主役のミミにはアンナ・ネトレプコ、オーケストラはウィーンフィル、合唱団はウィーン国立歌劇場合唱団といかにもな一流揃いですが、演奏はそれぞれが上手い点はあるものの、全体のまとまりや流れもなく、みんなバラバラな印象で、ろくに練習も積んでいないといった感じでした。
一体に、最近はテンポもノロノロした演奏が多いという印象がありますが、これも要は練習不足の表れのような気がします。かのカルロス・クライバーの快速は、まわりが呆れるほどの練習の賜物だったわけですが、練習を繰り返すことも、つまりコストのかかる事というわけでしょう。

オペラさえまともに上演できないほど、ヨーロッパの不況も深刻だということなのでしょうか…。
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