うれしい再会

こんな偶然があるのかということがありました。

マロニエ君のフランス車趣味のほうの話になりますが、このところヨーロッパや日本国内のフランス車/イタリア車の専門ショップの類でも非常に評判のオイルのブランドがあります。
ちなみにオイルというのは、車用のエンジンオイルとかギアオイルなどのことで、むろん食用ではありません。

次回交換時にぜひ一度このオイルを使ってみようと思ったけれど、いくらネット検索しても通販のルートにはそれらしき商品は一切なく、やむを得ず輸入元に問い合わせをすることに。
それによると、このオイルを入手するには全国に散らばる「取扱店」から直に購入するということになっているらしく、価格も各店で聞いて欲しいとのことで、福岡での取扱店をいくつか教えてくれました。

いまどき通販がないとはずいぶん手間のかかることではあるけれど、それしかないなら仕方がない。
数軒の中から選んだのは、自宅から最も距離の近そうなルノーのディーラーでした。

価格も意外に常識的であったし、友人のぶんも合わせて10リッター注文することになり、数日後、入荷した旨の連絡がきました。

受け取りのため、お店に着いて車を駐車していると、すかさずショールームから若いお兄さんがすっ飛んできて、いかにもディーラーらしい対応をはじめます。こっちはただオイルを受け取りに来ただけなのに…と思いつつ、ひとまず言われるままにショールームへ入り、お願いした担当者の名前などを告げているときのこと。
ふわりと一人の男性が近づいてきて、こちらの顔をまじまじと見つめながら「あのう…❍❍さん(マロニエ君の苗字)ですよね」と言い始めました。

「えっ、だれ?」と内心思いつつ、たしかに見覚えのある顔ですが、だれだか咄嗟には思い出せず、一瞬とても焦りました。
するとすぐに自ら名乗ってくれたのでわかりましたが、かれこれ20年以上も前、マロニエ君がまったく別のディーラーでルノーじゃない車を買ったときについてくれた、担当のセールスマンS氏だったのです。当時、ずいぶんとお世話になった人だったのに、もともと関東の人で、数年後には関東へ転勤されてからはすっかり音信は途絶えていました。

その後、自動車業界から一時退いて、その後再び車の業界に戻り、ルノー輸入元に勤務されるようになった由。
マロニエ君がショールームに入ってきた時から、すぐにわかったんだそうでうれしいことでした。
互いにこの邂逅に大いに驚き、しばらく昔話に花が咲きました。

そうこうするうち、視界の中でチラチラこちらを見ていた男性が、オイルの支払い明細などを持ってこちらに近づくと、「❍❍さん…私も…」というので、お顔をよく見ると、さらにそれよりも前、また別のディーラーからまったく別の車を買ったときの営業のT氏で、一か所でこんなことが二度も続くなんて、みんなでマロニエ君を騙しているのでは?と思うほどの驚きで、あまりのことに叫びたくなるほどでした。

いまとは時代も違って、人との関わりも深い時代だったこともあり、T氏とはプライベートでも車好き同士としてドライブをしたりしたこともあるし、たしかに顔立ちに当時の面影がはっきりと蘇りました。

この二人、ルノーとはまったく関係のないところでそれぞれ関わっていた人たちで、それがまったく予想もしない場所で、しかもほぼ同時に再会できるだなんて、大げさですがそのときはほとんど奇跡が起きたように感じました。
しかもS氏に至っては、現在も関東を拠点に、月に1〜2度のペースで福岡県内のディーラーを回っているとのことで、きっと偉くなったんでしょうが、たまたまこのときだけ、このディーラーにいたということでした。

T氏のほうはこのディーラーにお勤めとのことでしたが、マロニエ君はフランス車は好きでもルノーにはこれまでご縁がなかったために、ここに訪れるのも初めてで、長らくお会いするチャンスがなかったというわけ。
S氏には「へーえ、大病院の院長回診みたいに、あちこちの店舗を見まわっているというわけですね!」とからかうと「いややや、やめてくださいよ〜!」などと破顔していました。

お互いにずいぶん年をとってしまいましたが、若かったあの時代に関わった人というのは、なんだか格別なものでしっかり繋がっているような気がしました。20年以上のブランクがたちまち取り戻せるような何かが、昔の人間関係にはあったのだと思います。
今どきは、よく顔を合わせる相手でも、たいてい上辺の付き合いに終始する時代ですから、よけいにそれを感じます。

この先もしょっちゅう会うことはないけれど、こういう繋がりも大切にしていきたいと思いました。
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アプリがすごい

スマホというものがどうも好きになれず、ずっとガラケーで押し通してきたマロニエ君でしたが、今年のはじめ、機種変更のため赴いた店頭での勧誘に負けて、電話器はガラケーのままiPadとセットのプランとして、いらい軽くもないタブレット端末をカバンの中に入れて持ち歩くようになりました。

そんなものはいらんと思っていたけれど、あればあったでやはり便利なことは事実であるし、だんだんそれナシでは済まされなくなるよう人間が慣らされていくあたりは、やはり自分の社会の趨勢に呑み込まれたという感じです。

マロニエ君がスマホにそっぽを向いている間に、この分野は恐ろしいまでの勢いで発展したようで、ありとあらゆるアプリが出まわっている(らしい)ことが、ほんのすこしずつわかって舌を巻きました。

先日、友人の車に乗ってでかけていたら、都市高速の下の一般道を走行中、後部座席に置いたカバンの中から突然人の声がしているのにびっくり。
なんと、スマホに入っている「オービスナビ」というアプリが、高速上に設置されたオービスの存在を知らせるべく、勝手にしゃべっているものといいます。「え、なにそれ?」。
よく聞いてみると、自動速度取締機やNシステムなどの路上カメラの位置などを知らせてくれるアプリなんだそうで、そんなものまであるとは驚いてしまいました。

それに限らず、ほかにもいろいろなアプリが際限なくあるようで、ほとんどなにもしていないマロニエ君のiPadなんて、能力の1%も使えていないのだろうと思います。だいいち、いろんなアプリって、そもそもどこで探してくるのかと、そこからしてわけがわかりません。

後日、私も真似をしてiPadへオービスナビをダウンロードすると、あっけないほどすぐにできました。
で、どうやって使うのかと思っていたら、どうする必要もないようで、ただ端末を車に乗せて走ると、さっそくあれこれと注意喚起してくれるのには参りました。
なんでも、端末がある一定の速度で移動し始めると、それを感知して自動的にアプリが起動し、データに基づいて各種の警告をしてくれるというもので、ただただ驚くばかり。

さらに、グーグルのカーナビアプリをダウンロードすると、なんとこれが、これまで使っていたカーナビと何ら遜色ない機能を持っていることにさらに驚きました。

こんなことで驚きまくって、それをいちいちブログに書いていることじたい、多くの人からすれば「キミ、いまごろ何いってんの?」といったところでしょうけれど、まあとにかくマロニエ君は最近知ったのですから、そのぶん驚きも新鮮なわけで仕方ありません。

それでなくても、すでにあるカーナビの地図更新だとか、取り締まり用のお知らせ機能のついた機器を購入しようかなど、あれこれと古臭いことを思っていたのですが、もうそんなものを買う必要もなくなりました。
しかも、これらのアプリは無料なのですから、かくして世の中、物が売れずに慢性的な不景気から抜け出すこともできないのもうなずけます。これでだれが儲かっているのか、もうわけがわかりません。

最近、カーショップ内のカーナビの売り場などがずいぶん人も少なく活気がないなあ、標準で付いている車が増えたからかなあ…などと思っていましたが、カーナビにしろ、CDにしろ、何もかもがスマホに奪い取られてしまっているようです。
つい最近も、海外に出張中の友人と、LINEで普通にタダでやり取りができたて、便利なことは非常にありがたいけれど、この先いったいどうなっていくのかと不思議な気分にもなりました。

21世紀は『2001年宇宙の旅』のような世界になったかならなかったか、そこは解釈の仕方でしょうけれど、少なくとも昭和の時代には考えられないような最新テクノロジーが世界を席巻したことは間違いないようです。
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いまむかし

現代のようにあらゆるものが管理された、ある意味で安心、ある意味でおもしろみのない社会に生きていると、昔は楽しかったなあと懐かしく思うことがしばしばで、中でも今に比べると人間関係は濃く、感性重視、発言の自由度はずっと広かったように思えます。
標準的な日本語も、いまどきの卑屈なビジネス語や不正確な言葉遣いが蔓延することなく、尊敬語と謙譲語が明確なコントラストを作り出し、言葉だけでも日本人の細やかな情感と倫理が保たれていたように思います。

言語はそれ自体が生きた文化であり、その点で複雑な日本語は独自の美しさをもつ、いわば無形文化財のようなものだと思いますが、それを惜しげもなく捨てていこうとする方向性は、残念でなりません。
貴重な建造物を驚くべき丁寧さで修復保存したり、最近では歴史的な建築や地域を世界遺産に登録するのが流行りのようですが、だったら美しい日本語もある意味、修復し、保存し、継承されるべき対象に組み入れてほしいものです。

ほかにも、あれもこれもと昔を懐かしむことを思い出すのは簡単ですが、昔にくらべて今のほうが良くなったということを認識することは意外に難しく、せいぜい思い出すのはケータイとネットなどでしょうか。
人間は自分にとって快適になること便利になることには苦もなく順応して当たり前になるだけで、昔を思い出して、今はありがたいと思うことは大事なはずなのに、なかなかできませんね。

その代表がタバコです(吸われる方には申し訳ないけれど)。
昔は喫煙はいつでもどこでもほぼ自由で、飛行機に乗ってさえ離陸すると、機体はまだ上昇中だというのにいち早く禁煙のサインが消え、それっとばかりに前後左右からタバコの煙があがったものです。真横の人が立て続けに何本も吸い続けるというようなこともありましたが、今では考えられないことです。

タクシーに乗っても真っ先に鼻につくのは車内に染み込んだタバコ臭で、お客さんどころか、運転手もプカプカやりながら運転していました。おまけに運転もめちゃめちゃに荒っぽく、タクシーと無謀運転は同義語でした。フロントシートの背につかまりながらお客さんは身体を前後左右に揺すられながら乗っていたわけで、今どきあんな運転をしたらいっぺんで運転手はクビでしょうね。

飲食店などに入ってもマッチと灰皿は当たり前で、喫茶店など店内は霞がかかったように煙草の煙が充満していましたし、むろんいまのようにきれいではなく、壁がニコチンで薄茶色になったお店なんてざらでした。

それを思い出せば、今はタバコを吸わない身には天国です。

ただ、タバコだけではない数々の規制によって失ったものもあり、人々は今よりも明らかに情感が豊かで活力があったし、人間臭さがありました。
上記のようなタクシーの無謀運転などはむろん困りますが、世の中の人達は今よりもずっとエネルギッシュで、人ともよく交わっておしゃべりをしたし、親交も深く、ケンカもし、声も平均して大きかったのは間違いないでしょう。

今の人は、総じて注意深く、損得に聡く、計画的で、周到で、演技的、これらがほとんど体質化しているように思われます。
計画的なことがすべて悪いわけではないけれど、ときには、あまり先のことを考えず目の前のことに情熱を燃やし、冒険の気持ちをもつことことも必要ではないかと思いますが、そういう面白さは本当になくなりました。
破滅型の芸術家というようなタイプももういません。

自分の将来や行く末、仕事や健康など、あまりにも情報が多く先見えがするゆえに注意することが多すぎて、世の中から大胆さや心の底から愉快と思えるようなものが消えてしまいました。どっちを向いてもやっちゃいけないことだらけで、いわば自主規制ずくめの社会ですが、それで保たれている恩恵も多いのですから、つくづく物事はなにかとトレードの関係にあるということを感じます。

洗練された社会は、人々からある種のダイナミズムを奪うということは間違いないようですね。
誕生日を過ぎてまたひとつ歳を重ね、つい愚にもつかない事を考えてしまいました。
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精神的事故

悪気がない、気がつかない、無知といったものは、ときにちょっとした悪意より、はるかに悪い結果を招き寄せることがあるものです。

なぜなら、相手は悪いことをしているつもりがまったくないのだから、その点においては遠慮も躊躇も働きません。
わかってない故に容赦なく限度なく、とめどなくそれは続きます。

先日こんなことがありました。
やむなきお付き合いから、とあるコンサートに行くことになり、親しい某女史と友人とマロニエ君の3人で車で赴くことになりました。
某女史は天真爛漫、その人間的魅力もあってか人望も篤く、多くのコンサートや音楽祭なども手掛けておられます。

コンサートは隣県の一風変わった場所で行われるので、マロニエ君が車で某女史と友人を乗せて行くことが早くから決まっていました。
大半は高速道路ですが、前後を含めるとそれでも片道1時間以上かかります。
コンサートの前日、出発時間などを打ち合わせようと某女史に電話をしたところ、この段階で驚くべき内容を知ることに。

なんと、明日は某女史の知人という人物がもうひとり一緒に乗っていくことになったというのです。
マロニエ君にしてみれば、予定の3人は昔からよく知る間柄なのですが、新たに加わったひとりは一面識もない方なので、このひとりの登場によってこちらにとっての空気はガラリと変わりますが、ご当人は至ってあっけらかんとしたご様子。
さらにこの電話でわかったことは、帰りはこの日の出演者の4人のうちの2人を乗せて帰るのだそうで、車の所有者であるマロニエ君にひとことの相談もないまま、そういうことが決められているという事実に、はじめは頭がグラグラしそうでした。

この文章をお読みの方は、某女史が非常識で自己中で図々しい人物と思われることでしょう。
ところがそうではなく、この方というのが珍しいほどの天然の方で、そこには悪気どころか、マロニエ君への無礼の意識も全く無いことは、長年の付き合いでよく知っています。知っているからこそ、ただ憤慨することもできず、某女史なら仕方ないか…と思い直して迎えに行きました。

ところが、そこからが本当の苦痛の始まりでした。
某女史とその知人(こちらも音楽関係らしい女性)は後部座席に乗り込み、マロニエ君がハンドルを握り、友人が助手席という配置でスタートしたのですが、駐車場を出る頃から後ろではぺちゃくちゃとおしゃべりが始まっています。
この段階で、いやな予感はしていたのですが、その二人のおしゃべりは時間が経つにつれますます熱を帯び、ついには目的地に就くまでの一時間以上、延々と続きました。

通常なら個人の車に乗る際には、それなりの常識や振るまいというものがあり、まず車の所有者に相談もなしに、第三者を乗せるか否かを決定する権利はまったくないし、よしんば相談され応諾したにしても、乗用車の車内というのは、狭くて閉鎖された密室であるわけで、車中ではそれなりの配慮が求められるのは当然でしょう。
長距離なら、なおさらのことです。

車内の会話はほぼ全員が参加できるよう、互いがそれなりに気を遣い合うのは当然のはず。リアシートのふたりだけが、自分達だけの会話に1時間以上興じるなどとは、およそ信じられないことでした。
ましてそのうちのひとりは、ついさっき「はじめまして」と挨拶した初対面の人間で、タクシーならともかく、個人の車ではありえないことです。

友人もこの状況を察したようで、はじめは仕方なく何度かこちらに話しかけていましたが、後ろの二人だけで繰り広げられる猛烈な会話に圧倒されて、しまいにはほとんど口を利かなくなりました。

…演奏は素晴らしかったけれど、とにかく疲れてクタクタだったし、おまけに終演後は立食の食事会が待ち構えていました。
明日は福岡市でコンサートがあるからという理由で演奏者の二人を乗せて早めに帰るはずだったのが、このご両人がまたなかなか帰ろうとはしません。
そのころマロニエ君はもう心身ともに相当限界に近づいていることが自分でわかりましたが、この状況では一人で帰る自由もないわけで、この何から何まで納得していない状況に耐え難い苦痛を感じました。

結局、キリがないので少しせっつくなどして帰途についたのは夜の11時頃で、演奏者の大きな旅行かばん2つをトランクに押し込み、5人乗ってようやく出発。ところがこんどは、その演奏者のひとりが外国人であったため、リアシートではワイワイと英語ばかり。
このとき、ほとんど切れてしまっていたマロニエ君の心の最後の糸がぷつんと切れました。

もはや、だれであろうと、いい人であろうと、お世話になった人であろうと、悪気があろうがなかろうが、関係ない。
いま自分が置かれている状況がたまらなくイヤになり、よくわからない限界点をついに超え、それから一切周囲との会話を遮断しました。マロニエ君の徹底した沈黙は車内でしだいに目立ってきたのか、かなり奇異に映ったとは思うけれど、それを取り繕う意欲もエネルギーもありません。
ひたすら安全運転にのみ全神経を集中し、まずはホテル、某女史宅、友人宅とまさに宅配便のように送ってまわって、ともかく無事に帰宅しました。これは誰一人悪意はないところに発生した精神的事故だったと思うより他ありません。
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お役所体質の怪

一昨日、運転免許証の更新に行ってきました。
マロニエ君はこれでもいちおうゴールド免許なので5年ぶりの更新です。

いざ行ってみれば、何ほどもない簡単なことなのに、「来年は更新…」「今年は更新…」という感じで長いこと心の中にぶらさがっていた事なので、とりあえず終わってホッとしました。

出発が予定より遅れた上、かなりの渋滞でもありもし間に合わなかったら…とハラハラしながら、裏道ばかりをジグザグに走り抜けた結果、なんとか間に合いました。

少し前に届いていたハガキには、午後の受付は「15:30まで」とあり、その10分前の到着でしたが、この時間帯に来る人は少ないらしく、ええ?と思うほどガラガラ状態でした。
福岡の運転免許試験場は、美術館のようにやたら大きくて、こんな広い施設が果たしてどういうときに必要になるのか想像ができず来る度に不思議ですが、朝一とかならそれなりに納得できるのかもしれません。

云われるまま所定の書類に記入して受付に提出すると、まず最初が視力検査です。

自分でも視力が落ちたなぁという自覚があるので、今回はもう裸眼では無理だろうという危惧もあり、いちおう鞄の中には夜間の運転で使っているメガネを携帯していたのですが、直前に念のため目薬をさし、半分諦め気分でいざ検査に挑むと、ややきつい感じもないではなかったものの、いちおう裸眼で「合格」となり、心のなかでガッツポーズ。

考えてみると5年間にも同じ心配をしていたので、次はもうだめに決っていると思っていたのですが、嬉しい誤算でさらに5年伸びたというところです。

手続き開始から新しい免許証を手にするまでには、全部で5~6回の受付とか検査とか窓口への書類提出といった段階を通過するのですが、ここは言うまでもなく公的な施設なので、むろん民間とは違うのは百も承知だけれど、いかにも役所然とした感じの人がたくさんいることは目につきました。
時間帯が遅かったので、更新に来る人に対して関係者のほうが多いのもやむを得ないとしても、その人達の半分くらいは、いかにも手持ち無沙汰なようで、仕事中という緊張感は無いもしくは希薄で、かなり響く無遠慮な声でずっと私的なおしゃべりをしていたのはいささか気に障りました。
とくに、講習が行なわれる教室の入口(つまり廊下)に立って「緑の札をお持ちの方は、こちらにお入りください」というだけのことに、なんで大の大人が三人もいて、しかも大きな声で延々とくだらない私語をしているの?と思いました。

ここが一番ひどかったけれど、ほかでもとにかくおじさんおばさんたち(いずれも職員)のおしゃべりが盛大すぎて呆れたというか、少しは慎んだらどうかと思いましたね。

さらに驚いたのは、30分の講習に出てきた指導員のような方ですが、そこそこご年配とはお見受けしましたが、とにかくはじめの第一声から最後まで、ずっと言語不明瞭な上に早口が重なり、ほとんどなんて言っているのかわからないのはちょっとショックでした。

手許には2冊の冊子があり、「何ページを開いてください」というのはかろうじてわかったし、そこには決まりきったような安全運転に関する記述があって、しゃべっていることは文字を見ればなんとかわかりますが、耳だけで聞き取ることはほとんど不可能でした。
しかもこの方、来る日も来る日も同じことをされているのか、みょうに手馴れていて、しゃべり方もへんな抑揚がついてものすごい早口だし、手許のノートパソコンを操作して、正面のホワイトボードに文字やグラフのようなものを次々に映し出したりと、へんなところの手際だけはよくて、そのトークとのギャップは見ていてとっても奇妙でした。

ただ座っているだけの受講者を相手に、ちゃかちゃかと事は進行し、腕時計をチラチラ見ながらあと5分というところになると、ちょっとした宣伝や交通協会への入会の勧誘などに移り、それらをいうだけ言うと、まるでつむじ風のように講習は終了しました。
受講者はきっとみなさん内心では驚かれていたと思いますが、そこはお互い空気を読む日本人であるし、赤の他人同士、黙って立ち上がりひとことも言葉を交わすことなく教室を後にしました。

別の場合なら聞き取れないトークに苦情もでるでしょうが、ここでは免許更新さえ済めばいいことなので、それ以外のことは知ったことではないというわけです。

階下に降りると、1階ロビーの傍らにある専用窓口で新しい運転免許証をそれぞれ手渡され、各自、無感動な表情で眺めながら帰って行きました。
外に出ると、静かな曇り空が一面にひろがり、駐車場まで言いようのない変な気分で歩きました。
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逆の責任

どうもここ最近の気象は以前とは違うらしいことは多くの人が感じていることですが、今年は8月という早過ぎる時期から、台風とはあまり縁のないはずの東北地方や北海道にまで上陸するなどして、なんだか嫌な感じがしていました。

そんな中、ついに12号が南の海に発生し、今度は九州を目指しているらしい。
東北・北海道と慣れない地を荒らしまわった台風が、次はいよいよ九州沖縄という本拠地に到来というわけか、先週後半からなにかというと台風の進路予想図に目を留めるようになりました。

地震よりマシとは思うけれど、台風も非常に嫌なものであることに変わりはありません。
とくにマロニエ君宅は、隣家も含めかなりの大木があるので、万一のことを考えると気が気ではないのです。

九州直撃がどうやら確実というのがわかってきたのは金曜のことで、それからというもの、台風に備えての食料品の買い出しや、外の植木鉢やら何やらを玄関に入れるなど、その準備に追われました。
とりわけ今回の12号は速度が7~15km/hとかなり遅く、それだけ暴風雨の滞在時間が長いというようなことをニュースは言っていて、せっかくの土日もこの台風のおかげでお流れになったのはいうまでもありません。

時間の経過と共に、進路や到達時間が詳細になり、北部九州の台風通過は日曜夜から月曜午前中ということで、土曜の夜まではなんとか出かけることができたものの、さすがに日曜は迫り来る台風に身構える一日となりました。
「嵐の前の静けさ」という言葉があるように、日曜は我が家の周辺は終日、ふだんとはまったくちがう静けさに包まれて、その異様な静寂がいよいよ魔物が現れる予兆のようで、これはもう来るんだと観念しました。

ところが、夜のテレビニュースを何度か見ているうちに、画面に映し出される南九州の様子には不思議なほど風が吹き付けている様子はなく、リポーターの背後にある樹木も、ほとんど静かに枝を伸ばしたまま。

その後、ニュースを伝える言葉の中にもちょっとずつ変化が現れ、「この12号は、コンパクトな台風ですが、そのぶん突然風雨が強くなる可能性があり、充分注意してください。」などと言い始めます。「とくに北部九州では猛烈な雨が予想され、5日は200ミリを超えるところも…」などと、むしろ大雨に注意というようなことを言っています。
??
明け方に長崎県に上陸し、昼前に福岡県を通過という予想なので、問題は明朝から昼までということになり、今これ以上気を揉んでも仕方ないということで日曜夜はとりあえず眠りにつきました。

翌朝目を覚ますと、多少風が強くなって雨でも降っているのかと思ったら、どうもベッドの中にいる限りではそれらしい気配がまったくなく、さっそく外を見てみると、なんと風はおろか木々の枝葉は微動だにしておらず、それどころかうっすら太陽の光さえ射しているではありませんか。
木が折れたり倒れたりということが心配だったので、ともかくその危険は回避されたようでホッとはしてみるものの、これはいったいどうなっているのかと思いました。

TVをつけると、8時頃だったか「今、通過の真っ最中…」みたいなことを言っていますが、「うそぉ…」まるで喜劇でも見ているかのように現実にはなんにも起っていませんでした。
それからほどなくして台風は温帯低気圧になったとか。
風は全然吹かない、大雨どころか、小雨すらなく、この3日間すっかり騙されて過ごしたようで、気がつけば鳥の声などがしているのがずいぶんと嘲笑的に聞こえたものです。

どうやら最近の報道は、責任回避が何より優先のようで、少しでも小型台風だとか大したことないと言うことで視聴者が油断し、それでもし万一のことがあったら責任問題になるということなのか、ともかく大げさに大げさに発表する傾向があるようです。

少しぐらいそういう気持ちが働くのは分からないではないけれど、ものには限度というものがあり、これではまさにオオカミ少年のごとく、視聴者が逆に災害報道を割り引いて聞いてしまうという危険に繋がりはしないかと思いました。

今回の台風報道と結果のあまりにも無残な食い違いは、大したことなくてよかったというより、完全に気象庁とマスコミに騙されたというものでした。このため多くの学校は休校になり、休業になった会社も多くあったようでしたが、その責任はないのかと思ってしまいました。
備えあれば憂いなしとはいうけれど、やはり報道というものには正確さのクオリティというのは求められて然るべきで、なんでもかんでも最大限の報道をしておけば間違いないだろうというのでは、ただ世の中をむやみに不安に陥らせるだけだと思います。

正確な報道を前提として、万全の対策をとるという順序でなくてはならないとマロニエ君は思うし、今回のようにほとんどウソに近いような報道では、いかに安全第一とはいえ、いかがなものかと思います。
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ピアノつきトーク?

コンサートに行かないという禁を自ら破ってあるコンサートにいったところ、とんでもない目に遭いました。

言い訳のようですが、コンサートといっても楽器店が開催するイベントの中に組み込まれたものだったので、ちょっとした余興のようなものだろうと軽く考えていたのがそもそもの間違いでした。

このコンサートを聴くことになった理由は、知人とそのイベントそのものを覗いてみようということになり、曜日と時間をすり合わせた結果がたまたまコンサートにぶつかるタイミングになったという、それだけのことでした。
楽器店に問い合わせると、その時間はコンサートを聴かない人は展示会場にも入れないし、いても退出させられるということで、やむを得ずチケットを買うことに。

その日に登場するピアニストは、これまでテレビで数回その演奏を見たことはあったけれど、興味ゼロ、できるだけ早く終わってくれればいいという気持ちでした。
そこそこ有名なピアニストであるし、チケットを購入して聴いたコンサートなのだから名前を出してもいいのでしょうが、あまりにも驚いたし、わざわざ名指しで批判する必要もないのでそこは敢えて書きません。

味わいも説得力もなにもない、感性の欠落した「美しくない演奏」が堂々と目の前で続いているということが、悪い夢でも見ているようで、そこにいる自分というものがなぜか哀れに思えました。
技術以外はシロウトと大差ないというのが率直な印象でしたが、それでもその技術のおかげで、どの曲も音符をさほど間違えることなく最後まで行くところがよけい始末に悪い。
というか、シロウトでも本当に音楽を愛する人の演奏には、どこかしらに聴くに値する瞬間があるものですが、そんなものはかけらもありません。
いっそテクニックがめちゃめちゃだとか、ミスやクラッシュが続出といった演奏ならまだ諦めもつきますが、表面的には「ちゃんと弾いた」ことになり、中には満足した人もいるのかもと思うと、そこがまさに音楽の中でまやかしがまかり通る部分ということになり、頭がクラクラしてきます。

皮肉ではなしに、ああいうものでも素直に楽しめる人というのは、素直に羨ましいとさえ思いました。
どうせ同じ時間を過ごすなら、楽しめるほうが絶対に幸福ですから。

繰り返しますが、このコンサートはイベントのオマケのようなものと考えていたところ、実際はトーク付きの2時間半にも迫ろうという長丁場で、その間、マロニエ君は久々にこの種の忍耐を味わうことに。
音楽は、まさに「音」の芸であるから、ひとたびそれが自分の感性に合わないものになったが最後、猛烈な苦痛となって神経に襲いかかり、ひいては身体までも攻撃するものになることをリアルに実感しました。

自分一人なら、間違いなく途中で席を立って帰っていたところですが、なにぶんにも連れがあったため、その人を道連れにすることも、置き去りにすることもできず、脂汗のにじむ思いで石のようになってひたすら耐えに耐えました。

さらに堪らなかったのは演奏ばかりではなく、このピアニストはよほど人前でのおしゃべりがお得意のようで、ほとんど内容のない超長ったらしいトークが最初から最後までびっしりと織り込まれて、こちらのほうがメインかと錯覚するほどでした。

実際、この方は話している内容はともかく、語り口は今風のソフト調で声も良く、お客さんに向かっていやに低姿勢かつフレンドリーに語りかけるあたりは、ピアノよりよほどなめらかで自在な表現力をお持ちのようでした。ほとんどマスコミ系の人のようで、いっそテレビ局にでもお勤めになったほうがしっくりくる感じです。

この日は、マロニエ君にとっての悪条件が幾重にも重なって、よほど強いストレスで脳が酸欠を起こしたのは確かで、苦しい生あくびが際限もなく続き、節々は傷み、呼吸が苦しくなり、両目は充血し、疲れ涙が目尻に溢れているのが自分でわかりました。

2日も経つと疲れも癒えてきて、モノマネが得意なマロニエ君は、すっかりこの方のトークをマスターしてしまっていて、すでに何人かには聞かせたところ、ずいぶん笑っていただきました。
というわけで、これほど疲労困憊してまでネタを仕込みに行ったというのがオチなのかもしれません。
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オリンピック

ついこの前リオ五輪が始まったかと思ったらもう終わりのようで、いったん始まると毎日スラスラと競技が進んで、ずいぶんあっけないものだなというのが率直なところ。

オリンピックの話題となると、日本人選手の活躍をことさら興奮気味に一喜一憂しなくちゃいけないのがお約束のようで、そういうわざとらしい空気には閉口しますが、とはいっても、マロニエ君とて人並み(かどうかはわかりませんが)に応援の気持ちは持ち併せており、さらに日本がメダルを取れればむろん嬉しいわけです。
だからといって開催期間中つねにワクワクし、夜中までテレビ中継を見るというようなことはありませんが。

ただ、テレビのニュースやワイドショーはというと、冒頭から大半がオリンピック関連で連日独占状態になってしまうのは番組のつくりとしていささか抵抗を覚えてしまいます。そうまでせずとも、オリンピックの番組はNHKも民放も、連日充分すぎるほどあるのだから、せめて通常のニュースなどでは、やはりそれ以外の出来事にももう少し触れて欲しいと思いました。

マロニエ君はもともとスポーツはあまり得意ではないし、率直に言ってさほど興味もないほうなので、ことさらそういうふうに感じるのかもしれませんが、オリンピックの他にも、さらに高校野球、プロ野球と重なると、世の中いささかスポーツにまみれ過ぎでは?という印象。
なぜスポーツばかりにこうも力がはいるのか、正直まったく理解ができないし、その点じゃ息苦しさがあることも事実です。

非スポーツ系人間にいわせれば、スポーツがあまりに大手を振って世の関心の中心であるのは当然といわんばかりに闊歩するのは、あまり気持ちの良いものではなく、いつも黙ってガマンしている種族もいることは、きっとスポーツ好きの人達はご存じないでしょう。

わけてもオリンピックというのは別格中の別格らしく、この言葉の前にはすべてを薙ぎ倒してしまう力があるらしいのは驚くばかりです。

先の都知事選しかりで、「2020年の東京オリンピック・パラリンピック」が枕ことばとなり、あとは高齢化社会と待機児童問題が必須とばかりに語られる程度で、オリンピックがとにかく一番エライことには変わりありません。

予算も天井知らずに膨れ上がり、あんなもの、都民国民が納得するはずはない。
よほど悪い連中がオリンピック特需によだれを垂らしながら我も我もと群がっている結果としか、誰だって思えません。
オリンピックとはようするに世界の総合運動会じゃないかと思うのですが、あの五輪のマークさえつけば、どんな無理も通ってしまうのは怖いです。

現今はテロの標的にさらされる危険があるので、その対策に要する人件費だけでも途方もない金額になるなどとも言いますが、そうだとしても、たかだか半月ちょっと開催されるワールド運動会に開催都市が天文学的予算を組むだなんて、マロニエ君に言わせれば悪乗りが過ぎるというもので、ナンセンス以外のなにものでもない。

ついこの前、開会式を見たのに、すでに小池さんは閉会式で旗を受け取るべく現地入りされたようで、「さあ次は東京!」というところでしょうが、たかだかスポーツイベントのために何兆円も投じるなんて、ある意味なんとヤクザな金の使い方をするのだろうという気がして仕方ありません。
逆にいうと、祭りとはそもそもヤクザなものなのかもしれませんが。
東京オリンピックだって、始まればあっという間に終わってしまうのに…。

それはそうと、終盤になって日本のレスリングやバドミントンなど、ドバドバっと金メダルをとったのはすごかったですね。
総じて、女性はメンタルが強いし、言動もサバッとしていてさすがだと思いました。

対して男子のほうは(全員ではないけれど)いちいち執着的で、それを自分の口から言うか…と思うようなことをあえて言ったりと、なにかとねちっこいですね。

そういう意味では、これからはメンタル面、サバサバ感、実効性などさまざまな観点からも、女性が社会をリードする時代になっていくのかもしれない気がするし、それはそれでいいかもしれないと思います。
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コレクター

マロニエ君の古くからの友人にかなり重度のフルートマニアいます。
仕事の関係で長らく東京在住で、福岡に帰ると必ず連絡をよこしてくれますが、電話でも直に会っても、話はいつも唐突で、むやみに思いつめていて、早い話が「変人」といったほうがわかりやすい人間です。

酒と絵と音楽が大好きで、ピアノが好きで、そして何よりも彼は子供の頃フルートを習っていたこともあって、こちらは手のほどこしようのないディープなマニアです。

学生時代は親から買い与えられた普通のフルートを使っていましたが、成人して社会に出て、収入を得るようになるとしだいに彼の楽器熱はその本性をあらわし、はじめはゆっくりとした足取りではあったけれど、長年あたためていた自分の好みのフルートを少しずつ手に入れるようになりました。

ちなみに、ピアノと同じく、日本はフルート製造においても世界に冠たる地位を占めており、ムラマツ、パール、ヤマハなどの第一級品がひしめき、さらに世界に目を移せば、パウエルやヘインズなどの伝統あるブランド品があり、さらにさらに高じればヴァイオリンよろしくルイロットだハンミッヒだというオールドの領域が存在するようで、これはもう足を踏み入れた者にとっては、とてつもなく深く果てしない世界であるようです。

フルートの世界でもピアノ同様にヤマハはしっかりその一角を占めており、作りのよさ、信頼性、コストパフォーマンス、イージーな鳴り(高性能)などで世界の定評を得ているというのですから、そのぬかりない手腕には呆れるばかりです。

さて、その友人は、新品で買える主要なメーカーのフルートを着々と手に収めていったまでは、彼の熱狂的フルート愛を知るマロニエ君としてはまあ当然の成り行きだろうと思っていました。
当時のパウエルだかヘインズだかは、オーダーから納品まで数年を要したのだそうで、マロニエ君のような気の短い人間にはとても耐えられそうにもないなと、内心思ったものです。

彼と一緒に、東京の楽器フェアに行ったとき、フルートメーカーの展示ブースではかなり高額な黒い木のフルートをあまりにも真剣に試しているので、もしや買ってしまうのではないかとヒヤヒヤした覚えもありました。
(ちなみに、フルートは金管楽器と思いがちですが、ルーツが木の楽器であったためか、現在でも「木管楽器」として分類されています。)

その後、彼の関心の中心はついにヴィンテージへと移っていきました。
歴史に名を残す、ヨーロッパの名工の作品を求めて、それを所有するというブローカーや楽器職人がどこそこにいると聞いては遠方にまで出向いたりしていたようですが、この世界はリスクも非常にあるわけで、贋作はもちろん、長い年月の中で幾人ものオーナーの手を渡り、その過程で不適切な改造が施されたり、別のフルートのパーツと組み合わせられたりなど、さまざまな問題を抱えている場合も少なくないようです。
なにより自分自身の眼力がものをいうようで、マロニエ君なんぞは恐ろしくてとてもじゃありませんが、御免被りたい世界です。

東京にはフルートの専門店もある由で、そこのショーケースには名のあるヴィンテージのフルートがときどき姿を現したりするものだから、彼はいつもこの店に出入りしていて、むろん常連だか得意客のひとりとして認識されているようです。

彼は晩婚ではあったけれど、人生のパートナーともめぐり逢い、子どもも2人生まれて、さすがにもうこれまでのようなコレクション三昧はできないだろうと(本人も)思っていたのですが、そんな通り一遍の常識なんぞ、結局彼には通じませんでした。
真の趣味道趣味人というものは、俗世間の制約ぐらいですごすごと引き下がるようなヤワではないようです。

それから数年後、福岡におられた彼のお母上が大病を患われ、ごく最近他界されたのですが、このときはさしもの彼も見舞いやら葬儀やらで東京福岡を頻繁に行き来することを余儀なくされて、しばらくはフルートもお預けなのだろうと思っていました。
ところが、先日ふたりでゆっくり食事をした折に聞いたところでは、その間にも家族には内緒で、さるドイツの名工の作と謳われるヴィンテージフルートの売り物とめぐり逢い、それを購入するか否か、この間もずっとその品定めにかかわっていたというのですから、その放蕩ぶりにはさすがにひっくり返りました。

お値打ちフルートをどれだけの数もっているのか、マロニエ君さえも正確なことは知りませんが、こういう人間も生み出すほど、楽器というものには魔性があるということかもしれません。
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海峡を渡るバイオリン

友人が探したい本があるというので、数軒のブックオフを周りました。

ブックオフは今どきのコミック本やゲームなどを中心とする古本屋かと思っていたら、必ずしもそうではなく、通常の本屋のように各ジャンルの書籍があって見事に分類されており、その数も大変なもので意外でした。

本屋に行けば、だれでも自分の興味のあるジャンルを見るもので、マロニエ君は音楽・美術関係を中心に見て回り、安いこともあって、新刊なら買わないであろう本を数冊購入することに。

その中の一冊が『海峡を渡るバイオリン』で、これは韓国出身のバイオリン製作家である陳昌鉉氏の口述から起こされた本。これまでに書店では何度か手にしたことはあったものの購入には至らず、この機会に読んでみようというわけです。

バイオリン職人の本なので、てっきり製作や修理に関する内容だと思い込んでいたのですが、話はご自身の幼少期から始まり、いわゆる生い立ちの話が延々と続くので、いったいいつになったら楽器の話になるのだろうと思いましたが、さすがに4~50ページもこの調子だと、どうやらそれがメインの本だということが、そのころになってようやくわかりました。

まずこの点で、目的とはいささか違った内容の本ではあったけれども、これはこれで読んでいて面白いし、文章がとてもきれいな読みやすいものであったこともあり、わずか2日ほどで読み終えてしまいました。

陳昌鉉氏は1929年の生まれ、14歳の時に来日、いらいずっと日本で活躍された方のようですが、前半は当然のように戦争の影が色濃くつきまといます。陳氏が子供の頃の朝鮮半島の厳しい社会環境、日本に来てからの差別や貧しさなど、現代の日本人からは想像もつかないような過酷な苦しみが淡々と綴られているのは、読んでいて胸が苦しくなるようでした。
それでも陳氏は故郷に母や妹を残し、大変な苦労しながら大学を卒業。さらに厳しい肉体労働などをしながら、それからバイオリン製作をまったく白紙から独学でものにしていくのは、ただただ驚く他はありません。

そして、そんな陳氏が後年にはアメリカの弦楽器の製作者コンクールで6部門中5部門で最高賞を受賞するまでになり、ついには「東洋のストラディヴァリ」といわれるようになるのですから、まさに彼の辿った人生そのものが人生大逆転の映画か小説のようなものだと言って差し支えないでしょう。
ウィキペディアをみると、この『海峡を渡るバイオリン』は2004年にフジテレビによってドラマ化されているようで、草彅剛さんが陳昌鉉氏を演じたようで、なるほどと納得。

マロニエ君はこの本の存在は、ずいぶん前から書店で何度も目にして知っていたけれど、陳昌鉉という優秀なバイオリン作家がいて、しかも日本で製作を続けたということなどは実はまったく知りませんでした。
これまでにもバイオリンの本はかなり読んだつもりでしたが、陳昌鉉氏の名が出てくることもなく、すべてをこの本で知るに及び、深い感銘を覚えました。

人一倍、根性ナシで、努力嫌いのマロニエ君からすれば、陳昌鉉氏の生き様は別世界の出来事のようですが、それでも人生を懸命に生きることはなんと価値あることかと思わずにはいられません。

いっぽうで、これは対象がバイオリンであったからの話で、もしピアノなら大きさ、複雑さ、おまけに工業力を要するという点で絶対にあり得ないことです。
もしもピアノが、チェンバロぐらいの構造(つまり一人の作家が一人で製作できる)であれば、いろいろな作家のいろいろなピアノがあったはずで、そうなるとずいぶん楽しいことになっていたような気がします。
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猛暑

今年は梅雨の雨もひどかったけれど、それ以上にこのところの猛暑は凄まじいものがありますね。

ここまでくると、ピアノの管理以前に、人間様が日々無事に過ごせるようエアコンもフル稼働状態です。
湿度もかなり高く、除湿機も回りっぱなし。
ゲリラ豪雨のニュースも聞こえてくる中、北部九州には一向に雨の気配もありません。

猛暑日とは「一日の最高気温が35℃以上の日のこと」だそうですが、むかしはどんなに暑くてもそんな温度になることはあんまりなかったように思いますので、夏は確実にむかしより厳しいものになっていっているようですね。

全国どこでも概ね同じだと思いますが、連日のように35℃レベルの暑さになると、世の中の何もかもがグニャリと萎れてしまうようで、人の動きも鈍ってくるようです。
とくに住宅街では、目に見えて人の往来が少なくなり、すべてを焼きつくすような直射日光とは対照的に、あたりは異様な静けさに包まれます。本当に暑い時には、蝉の声すらしなくなり、蚊さえもあまりいなくなるような気がします。

こうなると、マロニエ君にとってはエアコンはまさに命綱といっても過言ではなく、もしこれが連日の酷使によって故障でもしたらどうなるかと、つい怖くてネガティブなことを考えます。
それでなくてもエアコン依存症のマロニエ君です。
以前から、もしも真夏にエアコンが壊れた時は、一時的にホテルにでも避難するしかないなどと思っていましたが、最近は福岡市も慢性的なホテル不足で、とてもでないけれど急な予約は難しいらしいという話を耳にするなど、それを考えるとゾッとしてしまいます。

暑さの影響はあちこちに波及し、例えばマロニエ君のような車好きになると、車の体調管理にも憂いが出てきます。
こんな暑さの中で、街中の渋滞などを這いずり回らすようなことをしていたら機械を傷めるように思ってしまい、日中はできるだけ車も動かさないようにしています。

これほどの炎暑ともなると、気象庁から発表される気温どころではないのがアスファルトの路上の温度であるし、さらにエンジンという自らも猛烈な熱源を抱える車にとって、こんな灼熱地獄で酷使されることは、機械にとってもかなりのストレスであり、消耗であるのは想像に難くありません。
日が落ちればいくらかマシになるので、夜間は乗っているものの、日中はさすがに躊躇してしまいます。

家の中に話を戻すと、常時エアコンを使っていれば、それはそれで冷風にさらされることになるし、一歩部屋から廊下に出たときの強烈な温度差がこれまた予想以上に全身が圧迫されるようで、こんな温度差の中を行ったり来たりしていては、身体にも良いはずはないだろうと思います。
とはいっても、まさか廊下までエアコンで冷やすわけにもいかないので、とりあえず気を張って毎日過ごしています。

ピアノも調律を頼まなくてはと思いつつ、こう暑くては、なにもこんな猛暑の中にそんなことをしてもというような、直接の根拠にならないようなことが理由になって、あれもこれも先送りにしてしまって、これではいかんと思いますが、なかなか…。

というわけで、いまさら暑中見舞いでもありませんが、皆さまもどうか無事にこの厳しい夏を乗り切ってくださいますように。
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背後のオーラ

つい先日、知人と食事に行った時のこと。

自然の素材を使ったヘルシーな食べ放題という店に行き、テーブルに案内されて一息つき、それから料理を適当に取って席に戻ってきた時のこと、知人がなにか言いたげですがこの時点ではまだ何も言いません。

なんだろうと思って尋ねると「後で…」みたいな表情をするので、深追いはせずそのままとりあえず食べてはじめました。
数分ほどした時、知人はチャンスと思ったらしく「今いないけど、うしろの女の人、すごいね」というので、なんだろうと思って恐る恐る振り返ると、そこに女性の姿はなく、どうやら料理を取りに行っている様子。

テーブルの上は皿(ここは大皿はあまりなく、小型の皿に料理ごとに取るスタイル)やカップ類があふれており、長椅子の隅にはハンドバッグが置かれていて、また戻ってくる状態のようです。

ほどなく、女性があれこれの料理を手に戻ってきましたが、マロニエ君はちょうど背中方向なので、いちいちの状況まではわかりません。ただ、こちらも席をたつ時などにそれとなく見ると、30代後半ぐらいの痩せ型の女性が、もくもくと一人で食べており、そこだけちょっと違う空気が漂っていることはすぐにわかりました。

その後も、知人はときどき小さな声で「また行ったよ」などと、その女性の様子が気になって仕方ないようです。たしかにその食べている量はちょっと普通では考えられないものだし、びっくりしたのは、デザートを食べたかと思うとまた普通の料理に戻ったりと、いわゆる世に言う「大食い」の人だろうと思われました。

ただそれだけなら、まあ世の中にはそんな人もいるのだろうという程度で笑って終わりなのですが、その女性から出ている負のオーラみたいなものが尋常ではなく、それがとても気になりました。
むろんひとりなので笑顔にならないぐらいはわかるとしても、その目つきは周囲で目立つほど暗くて厳しく、食事をしているというより、なんだか差し迫った深刻な行為に挑んでいるかのようでした。

その後も何度も立って行ったり戻ってきたりの繰り返しでしたが、しだいに他のテーブルとのちがいに気づきます。
それは、この店には何人もの女性スタッフがいて、そばを通るたびに空になった皿を「お下げしてよろしいでしょうか?」といいながらササッと引き取っていって、テーブルには食べているもの以外の皿類があまりたまらないようにしてくれるのですが、なぜか後ろの女性のテーブルには食べ終わった皿やカップがあふれていて、店のスタッフがあえてそのテーブルには近づかないようにしているらしいことがわかりました。

想像ですが、おそらくこの女性は店側からマークされている人物で、だから片付けに関しても他のテーブルとは対処が違うのだろうと思いました。
こうなるともう、そういうことの好きなマロニエ君としては気になって仕方がありません。

テーブルの上の食器はたまる一方で、皿を何枚も重ね、その上にカップ類を上積みするなど、かなり荒れた状態です。

その後しばらくすると、知人が「…戻ってこないよ」といい、みるとその女性はいませんが、バッグはしっかりあるので帰ったわけではないようです。しかし、なるほど今度は不自然なほど長時間戻ってこなくなりました。
「おかしいよね」などといいながら、こちらもデザートなどを取りに行きますが、その女性の姿はもうどこにもなく、まるで消えたかのようでした。

テーブルに戻ると知人が「あれみて」というので通路側をみると、柱に張り紙がしてあり、「お客様へ お手洗いに行かれる際にはスタッフにお声をおかけください」と書かれた紙がラミネート処理されて貼り付けてありました。
どういう意味かわかりませんでしたし、今もわかりませんが、もしかしたらその女性はトイレに行ったのではという気がしてきました。しかし、ついに我々が店を出るまでの最後の20分ぐらい、その女性が不在のままこちらのほうが店を出ることに。
なので、残念ながらその後どうなったのかはわからずじまいで中途半端な気分。

マロニエ君も知人も考えたことは同じで、トイレで…胃をカラにしてまた食べるのではないかと思いましたが、おそらくあの調子では、なんにしても相当に普通ではない行動をとっていると思われました。

テレビでは大食いタレントみたいなのが出てきて、ワイワイやりながら面白おかしく食べていますが、現実に目にする名も無き大食いさんは、近くにいるだけで怖いようなオーラに包まれていました。
もしかするとある種の病気なのかもしれず、だとしたらお気の毒でもありますが、少なくともお店からは嫌がられることは間違いありません。

やっぱり世の中にはいろんな人がいるんだなあと当たり前のことを痛感しました。
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こわいのはどっち

先週のある夜、福岡市西部にある国道を市内方向に向かって走っていたときのこと。

片側2車線の右車線をマロニエ君は流れに乗って走っていたところ、突如、背後から尋常ではないスピードで迫ってくる車があり、思わず何事かと身構えました。
ほどなくその車(トヨタのコンパクトカー)はマロニエ君の左側から猛然たるスピードで抜き去っていき、その後も右に左に車線変更しながら交通の流れを縫うようにして走って行きましたが、ところがそれに続いてシルバーのクラウンが、さらにその後ろから黒い軽自動車が、同様のスピードでこれに続きました。

驚いたのはもちろんですが、そのゆくえに注目していると、3台は互いにもみあうようにしながら激しく左右に車線を変え、ときに右折車線にまではみ出しながらアッという間に視界から消えていきました。

路上では、一台飛ばす車があると、だんだん周りの車がこれに引き込まれるようにスピードアップし、なんとはなしにバトルのようになることがあるので、はじめはその類かと思いました。しかし3台のスピードはあまりに過激で、なにかトラブルでも起こったあげくの暴走ではと思いつつ、とりあえず先で事故らなければいいが…と思ったぐらいでした。

それからしばらくして、国道と外環状線という幹線道路が交差する大きな交差点(そこでは片側4車線)に信号停車しようとすると、前方にただならぬ気配があり、近づくと、信号停車中の車から何人もの若い男性が降りてきて激しく言い争いをしています。

咄嗟に、さっき追い越していった3台の連中であることがわかり、おお!やっぱりこういうことになったんだ!と思わずヤッタ!みたいな感じで(笑)、信号停車中はかなりジロジロ見物してしまいました。
どうやら、はじめに抜いていった先頭の車のドライバーが中年の男性だったようなのですが、彼を取り囲んで続く2台に乗っていた若い男性たちが興奮した様子で中年男性に詰め寄っており、その中のひとりは相手の襟首まで掴んで激しく揺さぶるなど、まあ早い話が路上でケンカです。
これを見た助手席の友人は「うわぁ、かわいそう…」と口にしましたが、たしかに中年ドライバーが運転上のことで若者とトラブルとなり、多勢に無勢で言いがかりをつけられてるように見えたのが、この瞬間の目撃者としては率直なところでした。

その後、信号が青になり、しぶしぶ現場に別れをつげて走っていると、しばらくして、なんとくだんの中年ドライバーが横をスーッと抜いていきました。
どうやら話がついて若者達から開放されたのか、こちらも内心「…散々でしたね」という気分でいたのですが、そのすぐ後から若者らの2台の車が、嫌がらせのように中年ドライバーの車を次々に追い抜いて走り去って行きました。

まあ、普通ならこれで終わりというところでしょう。
ところが、若者らの2台がいなくなったあとも、この中年ドライバーの車はしきりに右に左に車線変更したり、無理に隣の車線に割り込んだりの異様な動きを続ける始末で、「え、どういうこと?」と呆気にとられました。

ただ単に早く行きたいのであれば、スピード違反の問題は別にして、さっさと行けばいいのに、この人、やたら周りの車を煽るような、見ていてどうしたいのか、まったく理解できないような意味不明な動きを繰り返しており、だんだん、この中年ドライバーのほうが普通じゃないのだということに気づき始めます。

もちろん事の起こりの場面を見たわけではないけれど、この調子では、あの若者たちの車にもこういう動きでけしかけるようなことになったのだろうと思われました。
それで腹を立てて、火がついて、追尾してなんらかの報復をしようと思ったのでしょう。

危険運転は理由如何に問わずいけませんが、少なくとも動機はそうだったのだろうと思いました。

中年ドライバーも大したもので、普通なら路上であれだけ激しい状況となり、交差点で車から降ろされて大勢に取り囲まれ、襟首まで掴まれ面罵されたというのに、その直後、性懲りもなくまだこんな運転をしているのですから、マロニエ君としてはよっぽどこの男性の神経のほうに呆れ返りました。
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ひっかかる言葉

もうすでに類似のことを書いたかもしれませんが、最近よく使われる言葉や言い回しの中には、ちょっとしたことなんだけれど、聞いていてそのたびにクッと神経にひっかかるというか、聞き心地の良くない言葉というものがあります。

どなたにもひとつやふたつ、そういう言葉があるものと思いますが、それは人によっても違ってくるでしょう。

マロニエ君にとって、最近抵抗を感じるのはお礼を言うときに「ありがとね!」という、あれです。
幸い自分が言われたことはないけれど、外でちらほら耳にすることがあり、これがどうも嫌なんです。
その理由をなんだろうかと考えてみましたが、はっきりしたことはわかるようなわからないような。

強いて云うと、せっかくの謝意がちょっぴり品のない響きになってしまうという残念さがあると思います。
どうしてふつうに「ありがとう」「どうもありがとう」ではいけないのか…。

マロニエ君は個人的に、美しい日本語の中でも、「ありがとう」とか「さようなら」「お父さん(お母さん)」というのは、とくに平易な言葉の中でもとりわけきれいな言葉だと感じるのですが、それをわざわざ「ありがとね!」にしてしまうのは、聞いていて快適ではないし、せっかくのいい言葉(しかもよく使う)をわざわざこんな風に崩して使い、それがだんだんに勢力を増してきているのには閉口してしまいます。

もしかすると「ありがとう」や「どうもありがとう」では美しすぎるから、どこか気恥ずかしさがあるのかとも思いますが、こんなきれいな、まるで空中にふわりと浮かぶような言葉はなかなかないし、語尾が「…とう」でやわらかく終わるところに品位とほのかな美しさがあるように思います。
それをわざわざ「う」を取って代わりに「ね」で締めくくると、ベタッと地面に落ちてしまってニュアンスやデリカシーもなくなるし、「ね」の強さが相手側にキュッと指先で押し込むような暑苦しささえ感じます。
今どきの人は、よほど言葉に対する心得のある人でないかぎりは、「父」「母」のことも「父親」「母親」と敢えて第三者的な言い方をしますし、そうかと思うと、人の奥さんのことは誰かれ構わず「奥様」といったりで、とにかくてんでバラバラです。

奥様というのが悪いわけではないけれど、あるていど奥様という言葉にふさわしい相手であってほしいし、言う側も前後の言葉をそれなりのきちんと間違えずに流暢に操ることのできる人に限られるというのがマロニエ君の持論です。しかるに、そこだけ取ってつけたように「奥様」なんていわれたら、却ってぎょっとするし、言っている側も言われる側も蓮っ葉になるのが関の山です。

そもそも言葉というのは不足でも過剰でも美しくないもので、デパートの外商とか美容院ならともかく、普通は奥さんで充分だと思います。とくに男性は「奥さん」「お子さん」ぐらいに留めておいたほうが、むしろ好印象なのではないかと思います。

もはや笑ってもいられないのは、言葉に関しては訓練を受けているはずの司会者などが、そこらの芸能人の奥さんのことを馬鹿丁寧に「奥様」などといったかと思えば、同じ人が「天皇皇后両陛下がどこそこに行き、ひとりひとりに言葉をかけました。」などと平然と言うのですから、言葉文化はめちゃくちゃという気がします。

震災で傷ついた熊本城の痛ましい被害状況を見ると、みんな「うわぁひどい…なんとか再建しなくては!」と思うのに、言葉の文化で無残な崩壊状況があっても、大半の人がなんとも思わないので、修理も訂正もできない現状は非常にやりきれない気分になるばかり。
言葉の美しさは適材適所の使い分けでもあって、やたら丁寧語を乱発すればいいという今の風潮はなんとかならないものかと思います。
もう少し日本語の真の美しさに敏感になりたいものです。
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舛添劇場

東京都の舛添さんの公私混同問題は、ものすごい盛り上がりですね。

猪瀬さんの時を上回る話題性というか、正確に言うならその持久力はたいへんなものです。
連日テレビは、この話題を朝から晩までこれでもかと取り上げ、ワイドショーでは、これに割く時間がしぼむどころか逆に日を追うごとに増してきている感じです。

コメンテーターもお馴染みの顔ぶれがレギュラー出演状態となり、あっちへこっちへと番組を渡り歩いているご様子で、辛辣な批判の陰で、内心「舛添さまさま状態」な方々もずいぶんいらっしゃるようです。

テレビのスイッチを入れれば、たいてい舛添さんの土色の顔と鬼のような眼光が映っており、それほど日本国内はこの話題に熱中(熱狂?)しているのは間違いありません。
かくいうマロニエ君も、毎日呆れつつそれを楽しんでいるくちで、ひさびさの野次馬根性全開状態です。

それにしてもほとほと感心するのは、舛添さんの「しがみつきパワー」でしょう。
あれだけ連日連夜にわたって、東京都民はじめ全国民が怒りの集中砲火を浴びせているのに、なんとしてもこの難曲を乗り切ってみせるという爬虫類のようなスタミナは、腹立たしくもあるし、とてもかなわないというため息が出てしまいます。

絶対にあんなふうになりたいとは思わないけれど、あのメンタルの異常な強さは、千分の一でもわけてほしいほど、通常の人間だったら到底耐えられるものではありません。
都議会の質問でも、代わるがわる「あなたはセコイ!」など、通常なら現職の知事にとても使わないような強い言葉を浴びせられても、どんな長時間の恥辱にまみれようとも、絶対に辞任はしないというあの異様なまでの強さは見ている我々を戦慄させ、それがますます引き下がれない批判のパワーを生み出していると思います。

またメディアの表現にはそれぞれ線引というのがあり、テレビでは言えないこともたくさんあるようで、週刊誌の広告に至っては信じられないような行状の数々がすっぱ抜かれており、とにかく並大抵の御仁ではないことは間違いないようです。

知事の場合、公金の政治活動費は5万円未満は使途の報告義務がないらしく、あるコメンテーターは「舛添さんは、要するにご自分と家族の衣食住を、ほとんど公費でまかなっているようなものですよねぇ。」と言いましたが、これ、知事としての彼の有りようをまさに一言で言い表しているようです。

猪瀬氏の時と違い、ネタも種類も多くて豊富、テレビもこれさえやっていれば視聴率が取れるので、各局競い合うように舛添ネタばかりですが、マロニエ君もいくら見てもおもしろいのでついつい飽きもせず見てしまってます。

今回とくに面白い要素のひとつは、政治家の金銭スキャンダルとしてはかつてないチマチマ感で、これまでの政界で普通だった巨悪に較べると、やれヤフオクで7000円だのクレヨンしんちゃんの本だのと、いかにも庶民の手にも取り扱いやすいネタが満載で、その細かさときたら舛添氏の人柄が織りなす緻密な手仕事を見せられるようです。

ご本人も、まさかこれほど鎮火のできない大火事になるとは思っていなかったでしょうが、この先どんなに粘ってみせても、さすがにここまでくれば辞職以外に世間もマスコミも承知しないでしょう。

だいたい、やれファーストクラスだスイートルームだ別荘だというような人間は、ムヒカさんではないけれど、精神的に非常に貧しい人特有の、とめどない貪欲な上昇志向と自己顕示欲から出てくるもの。
なかには「警備の問題からファーストクラスが必要だった」という馬鹿げた弁明もありますが、狭い機内で、ビジネスとファーストで警護をする上での違いなんぞあるわけがない。

いくら東京が大都市だといっても知事は知事、ビジネスクラスに乗り、良いホテルの通常の部屋に宿泊して、それできちんと仕事ができないようなヤワな人間なら、そもそもそんな仕事につく資格はないのです。

つらつら考えるに、今回の騒動では、渦中の舛添さんにも世間にひとつふたつは貢献したことがあるように思います。
ひとつは少々のドラマや出来事なんて物の数ではないほど、けしからぬ話題として大衆を楽しませたこと。
もうひとつは、この程度の細かいごまかしを日常的にやっている政治家は、実際にはうじゃうじゃいる筈なので、その連中もこの想定外の騒ぎを見ていささかビビっているだろうということです。
そういう意味では、格好の見せしめ的な事案になるわけで、そんなお役には立っているのかもしれません。

まだ収束したわけじゃないので、来週も楽しみです。
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勘働き

人間には「勘」という優秀なセンサーがありますが、表向きそれはあまり重視されません。
勘というだけでは、まるでただの思いつきのようで、明確な根拠のない主情による決めつけにすぎないというイメージなんでしょうか。

しかしながら、マロニエ君は自分の「勘」をとても重視しており、それは少々の根拠や理屈より一段高い次元を行くものだという位置づけなのです。それは自分の深いところにある何か確かなもの、別の言い方をすると心の奥底にある純粋なものとストレートに結びついている気がするからでしょうか。
この勘が、まるで微弱な電流のように、自分自身に何ともしれぬ信号を送ってくれることがときどきあるものですが、これを巷では「勘働き」というのかもしれません。

つい見落としがちな「勘働き」は、常に人の内面で機能しているのであって、とくに人間関係においは真価を発揮するものだといえるでしょう。どれほど立派で好感度あふれる人でも、どこかしっくりこない、違和感がある、などと感じるのはまさにこの「勘働き」というセンサーが何かをキャッチしているからだと思われます。

にもかかわらず、人間はやむを得ぬ事情や損得が絡むと、この勘がしらせてくれている信号をないがしろにしてしまうことがしばしばありますね。
目先の欲得やメリット(のようなもの)を優先し、自分に都合のいいように後付けの理屈を並べて正当化し、論理・心理両面の取り繕いをしますが、それはほとんど場合、意味のないごまかしに過ぎません。

マロニエ君も歳を重ねるにつれ、物事を熟慮するようになった…とはさすがに言いかねますが、それでも今ごろやっとわかったことも少しはあって、そんな経験からもこの「勘」にはできるだけ逆らわないよう心がけています。それは結果として、勘というものの正しさの確率が圧倒的に高く、そこに信頼の重きを置かざるを得ないからにほかなりません。
とくに信心する宗教もなく、風水だの何だのの類に頼っているわけでもない中、この勘働きは自分が間違った方向にできるだけ進まないための、ささやかな道標のひとつになっている気がします。

また自分のささやかな経験を振り返っても、この勘に逆らい、別の理由で押し切って前進したときは、まあ大抵はあとで失敗していることがわかります。

最近もこの「勘働き」の正しさを証明するような、あっと驚くことがあったのですが、これはさすがに具体的なことは書けません。ただ言えることは、10数年前からずっと違和感を感じていて、一度もそれが晴れることがなかった某氏(しかもその人の職場では才能を認められ、長らく信頼され、厚遇されていた人物)が、最近になってついにメッキが剥がれたのか、20年近くも務めた職場を、きわめて礼を失するやりかたであっけなく辞めていったという話で、そこの社長さんから最近聞かされて驚いたものでした。
マロニエ君としては、長い時間を経て、自分の感じていたことがようやく日の目を見たようで、おかしな言い方ですがある種の勝利感みたいなものを感じてしまいました。

このとき、あらためて自分の勘に従順でなくてはならないことを悟りました。

今どきは、表向きはきわめて温厚で好人物のようにふるまいながら、そのじつ野心的な計算高さと演技が見えてしまう人がとても増えたように思います。
まあ、それはそれでこんな時代を上手に生き抜くための術なのかもしれませんが、それを単純に信じれば、あとで手痛い思いをするのはこちらですから、油断は禁物。そして勘こそが頼りだとますます感じるわけです。

動物が災害などをいち早く察知するのも、やはりこの「勘働き」ではないかと思いますし、そういう機能が人間にも僅かに残っているのだとマロニエ君は思うのです。

三島由紀夫の『金閣寺』にも、こんな一文がありました。
「感覚はおよそ私をあざむいたことがない。」
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技術と表現

十四代酒井田柿右衛門のインタビュー番組の中でもうひとつ印象に残ったことは、基礎の大切さということでした。

この十四代も学生時代は多摩美術大学で学ばれたそうですが、そこで徹底的に叩きこまれたことはというと「デッサン」だったそうです。来る日も来る日もひたすらデッサンばかりさせられ、当時の教授の中には「若いものが絵を描くなど!」と憤慨するほど、基礎であるデッサンをしっかり養うまでは絵を描く資格などないといった空気だったそうです。

何を表現するにも、絵の場合デッサン力がなければなにも表現できない、表現のしようがないというのが十四代の考えでもあるようで、それはたしかに説得力あふれるものでした。
いかに表現したい素晴らしいものがあったとしても、それを作品へと具現化するたしかな手段を備えていなくてはどうしようもないということです。

ところが、現代の美大では「個性を伸ばす」ということに重きがおかれ、以前のような基礎重視の考え方ではなくなっているとのこと。
その結果、根を張っていない、腰の座らない未熟な技法のままパパッとなにか描いてしまうのだそうで、そういう在り方には大いなる疑問があるというようなことを仰っていたわけです。

これは、ピアノにおいても「技巧か音楽性か」の問題に通じる気がします。
ピアノの場合、技術はとくに幼少期に鍛え込んでおかないと、あとからどんなに奮励努力しても越えられない壁があるのは周知の事実です。

ただ、一般的にピアノを弾く人の中には技術的レベルばかりに目が向いて、音楽そのものについてはほとんど無知・無関心というような人をやたら多く見かけます。口では「音楽性が大切」などと言うも、その演奏はまるで作品に対する敬意も愛情も感じられないカサカサなもの。やたら難曲を選んでは、ただスポーツ的に指を動かすだけの様子を目の当たりにすると、なにをおいても音楽性こそが重要だとついぶつけたくなるのが率直なところ。
長年ピアノに触れてきているにもかかわらず、音楽あるいは表現の勉強は信じがたいほどできておらず、名だたるピアニストの演奏も名前も知らない、ピアノ以外の音楽など聴いたこともないといった有様です。

それをじゅうぶん承知のうえで敢えて云わせていただくなら、でもしかし、技巧は音楽性と同じぐらい重要なものだと言わなくてはならないと、この柿右衛門さんの言葉を聞いてあらためて思いました。
たしかに難曲を弾けること、さらにはそれを自慢することが快感になっている人を目にすることは、ピアノの世界では珍しくありませんし、そういう輩はマロニエ君はむろん軽蔑しています。

そうなんだけれども、やはり最低でも一定の技術がなくては、まず音符を弾きこなすこともできないし、その奥に込められた作曲家の意図や真実を描き出すこともできないことも事実。
これは、どんなに清い心をもっていても一定の収入がなくてはまともな衣食住が成り立たないのと同じで、これが現実の厳しさだろうと思います。

演奏技術オンリーというのは問題外のことであるけれども、でもやはり技術がなくてはどうにもならない。ましてプロともなると、その要求は桁違いに高いものとなります。

また、アマチュアの世界でも、発表会その他で弾く曲を決めるにあたって、自分の客観的な技術を念頭において検討する人は意外に少なく、実力を遥かにオーバーした曲選びをする人が多い事には大いに首を傾げます。

たしかにアマチュアの限られた技術にいちいち相談していたら弾けるものはほとんどない、弾きたいものはなにひとつひっかかってこないという現実があるのもわかります。さらにそれでコンクールに出ようというのでもなく、人からチケット代を取るわけでもない、あくまで趣味であり楽しみなのだから、そこはどうあろうと自由だと言ってしまえばそれっきりです。

しかし、だからといってあまりにも趣味ゆえの自由に悪乗りして、とうてい身の丈に合わない難曲に手を付けたがるのは、決して良いことだとは思いません。いかに趣味とはいえ、どこかで身の程をわきまえることは教養の問題でもあるし、いわば音楽的道義の問題だと思います。
少しは技術的に余裕のもてる選曲をすることで、多少なりとも音楽表現へエネルギーを向けて、細かな表情などを磨いて整えることのほうが大切だと思うのですが…。

話がずいぶん脇道に逸れましたが、要するに技術に余力がないと何もできないということですね。
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不器用がいい

先日、録画したままになっていたBSの番組で、人間国宝の「十四代酒井田柿右衛門」のインタビュー番組を見てみました。
この番組は、2010年に放送されたものの再放送で、十四代はそれからわずか3年後の2013年に他界されたとのことで、いわば晩年の姿と話をとらえたものだったといえるようです。

本当は作品見たさに再生ボタンを押したところ、実際はインタビューばかりでいささか落胆していたのですが、訥々とした話しぶりの中から、なるほどと思われるような言葉が出てくるあたり、だんだん面白くなって結局最後まで見てしまいました。
90分の放送時間は、大半が柿右衛門さんへのインタビューで、あまり話好きな方のようにはお見受けしませんでしたが、渡邊あゆみさんの聞き方が巧みだったのか、時間が経つに連れてしだいに饒舌になり、いろいろと興味深い話を聞くことができました。

柿右衛門は濁手(にごしで)という特徴的な白の上に、柿右衛門様式にしたがって絵付けがされていくものですが、その鮮やかな絵柄とともに重要なのが、余白を占める「白」だそうで、これは地元の泉山というところで採れる石を使っているとのことでしたが、その太古からの自然の恵みを充分に含んだ石のもたらす風合いが肝心の由。

最も印象にのこったのは、「きれい」と「美しい」はまったく別のことだということ。
現代は科学技術の進歩で、陶器の地肌であれ絵の具であれ、純粋に精製されたきれいなものが安易に手に入るけれど、それらはきれいではあっても風合いや味わいがなく、柿右衛門さんは一切それらを使うことなく、昔の手法にこだわっているとのこと。

柿右衛門のあのどこか透き通るような、単純な白色ではないデリケートな風合いをもった地肌の上に、様式にかなった様々な絵柄が乗った時にえもいわれぬ仕上がりになるのだというのがあらためて納得です。
あれがもし単純な白、透明感のない単調な白であったら、それは柿右衛門とは似て非なるものになってしまうことは素人目にもはっきりとわかります。他の地域の石を使うと、色はきれいでしかも使いやすく、有田焼にもたちまち浸透した時期があったそうですが、柿右衛門窯では敢えて使いにくく「きれい」でもない地元の泉山の石にこだわったとのこと。

美しいものを作り出す伝統とは、そういうものだということですね。

また科学技術の進歩の代償として、日本の伝統工芸の技は急速に失われていくことは間違いないということでした。

これは楽器作りと全く同じことで、楽器にかぎらず、すべての手仕事の世界というものは、一見むだとも思えるような労苦の果てに到達するものですが、それを現代でも継承していくのは、よほどの気構えでないと難しいのだということをまざまざと思い知らされます。

現代でもっともコストの掛かるものは人件費であり、それを他に置き換えるために科学技術は多くの叡智をつぎ込んでいるわけですが、それはいいかえるなら真の意味での最高級品を絶滅させてしまう行為なのかもしれません。

陶芸でも楽器でも、ピラミッドの頂点にある最高級品のクラスだけは従来の伝統工芸なり製法が守られたにしろ、それ以外のほとんどは合理化の波をかぶったきれいなだけの無機質なものに姿を変えてしまっているということです。

べつに伝統工芸といわずとも、例えば古い電気製品でも、昔のものは現在ならおよそ考えられないようなガッチリした丁寧で頑丈な作りだったりすることに、処分をすることになってそれを手にした時、現在の製品との質感のちがいに思わずハッとしてしまうことがあります。

もちろん、普及品などは過度に手をかける必要もないけれども、ハイテクや合理化は決してジャストポイントでブレーキが掛かることはなく、大半は残す必要のある部分まで一気に飲み込んでしまうようです。

柿右衛門さんの言葉でもうひとつ印象に残ったことは、職人は「不器用なほうがいい」ということ。
真の職人は不器用な人で自己主張をせず、何十年をかけて決められた伝統手法の体得に生涯を捧げるのだそうで、器用な人というのはそこにどうしても自分らしさや個性がでてしまうので却って困るということでした。

どんなに立派な仕事をしても、そのあたりが作家と職人を隔てる一線のような気がしました。
ではピアノの技術者は音作りという点において、作家なのか職人なのかという問題を考えてしまいましたが、整音や調律によって音を作るという一面があるとしても、やはりそれは突き詰めていうなら作家ではなく「職人」の範疇に入れられるべきものだとマロニエ君は考えます。

いかに優れた音作りであっても、ピアニストや作曲家を差し置いて、ピアノ技術者の個性が演奏の前に出てくるようなことがあってはならないからで、その点で言うとピアノの調整技術に携わる人はやはり職人の伝統技法の世界に中にあるものだと思いました。

調整技術どころか、ピアノの製作においても、各セクションの職人さんはまさに職人なのであって、唯一作家であることが許されるのはピアノ設計者だけだろうと思います。
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慣れの問題

『全国警察24時』みたいな番組ってそこそこ人気なのか、民放各局では似通ったものが結構あるようですね。
ニュースと朝ドラと音楽番組の録画以外はあまりテレビを見ないマロニエ君ですが、それでもいくつか視るものがないわけではなく、結構この警察モノは嫌いじゃありません。

街中を巡回するパトカーの隊員が、すれ違いざまに見た車のドライバーの一瞬の様子や動きから勘働きで目をつけ、後を追って職務質問が開始します。はじめは至極低姿勢だけれど、だんだんに相手の挙動や発言の問題点を見透かしていくのは、マロニエ君の野次馬根性を大いに満たしてくれます。
小さな話かけが、しだいに任意で持ち物検査や車内の捜索などに及び、あげくは違法な薬物の常習者だったりするところは、人間ウォッチとしても面白いので、この手の番組はわりに録画して視ることが少なくありません。

と、つい前置きが長くなりましたが、実は本題はこれとは関係なく、先日見たこの手の番組では、ある交通事故が車好きでもあるマロニエ君としてはとくに印象に残りました。

高速道路の料金所での映像で、ベンツの最高級車のひとつであるCLクラスというとても豪華な2ドアクーペが、料金所脇のポールにボディ左側を鋭く食い込ませ、ボディは大きく斜めを向いて、見るも無残なクラッシュ姿で止まっていました。

駆けつけた警察官には事故の状況がすぐには飲み込めない状況だったものの、運転者はというと無事で、その人物からの状況説明によって事故の経緯が判明したようでした。

それによると、なんとこの車は中古車ではあるものの購入後間もないそうで、これまでずっと右ハンドルの車に乗ってきたらしい50代の男性は、この車が初めての左ハンドルだったそうで、つまりは左ハンドルの運転に慣れていなかったために引き起こされた単独事故だったようです。

左ハンドルに慣れない人は、どうしてもはじめのうちは右寄りに走ってしまうものです。
とはいうものの、それは試乗などのごく初期の現象で、通常はしばらく注意しながら乗っていれば、時間とともに慣れてくるものですが、この事故は、慣れるより先にこの悲劇を招いたようでした。

つまり本来の位置よりも右に寄った状態で料金所に突入し、右タイアが縁石に乗り上げ、だからあわててハンドルを左に切ったのか、今度はその反動によって左側のポールに激突して止まったようでした。
その衝撃は相当なものだったようで、ナレーションは「車の修理代に加えて、破損した料金所の弁償も…」というようなことを言っていましたが、ひと目見て、車はとても修理のできるような生やさしい破損でないことは明らかでした。
フロントは完全にシャシー(車の骨格部分)までダメージが及んでいたし、リアタイヤもあらぬ方向へとグニャリと曲がってしまっていましたから、あれは間違いなく「全損」で、およそ修理代どころではないでしょう。

新車なら一千万の大台を遥かに越え、中古でも(そんなに古くはなかったので)何百万もする車が一瞬でオシャカになるのですから、慣れない左ハンドル故というには、あまりにもお気の毒というほかはない単独事故でした。

マロニエ君の車の仲間には、もとはといえば自分の趣味から奥さんにもずっと左ハンドルの車を運転させてしまったために、すっかり左の感覚が染み付いてしまい、いまさら右ハンドルへの転換が怖くて運転できないという状況に追い込まれた奥さんがいます。
ところが、以前とは違って、現在は輸入車も大半が右ハンドル化されており、一部の高級車とかスーパーカー的な車は別として、普通の実用車レベルでは左ハンドルはほとんどなくなりました。

こうなると自由な車選びができなくなり、左ハンドルであることを前提に車選びをするという主客転倒の状況となり、とうとう見つかったのがひと世代前のBMW3シリーズでした。
ところがこの夫婦、BMWがまったくお好みではないらしく、会う度に罵詈雑言、文句ばかり言いながら乗っています。

何から何までケナしまくりで、それは「乗ればわかる」というわけで、マロニエ君も何度か運転させてもらいましたが、言っていることは半分はまあわかりますが、とても良い部分もたくさんあって評価が辛過ぎるような気もしますが、いずれにしろハンドルの位置というのは、それほど人によっては大事だということで、最悪の場合、テレビで見たような大事故にもなるということがわかりました。

テレビのベンツは全損事故と言っても、所詮は物損事故でしたが、これで対向車と衝突でもして人身事故になる可能性もあることを考えるとやはり怖いです。

ちなみにマロニエ君はピアノは下手ですが、運転はとりあえず不自由なく楽にできるほうで、ハンドルも左右どちらでもまったくハンディなく乗れますが、それはひとえに慣れているからであって、つまり慣れないことはときに恐ろしい結果をもたらすものだと思いました。
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畳とカーナビは…

我が家にある車の1台には4年ほど前のカーナビがついています。
パナソニックのゴリラですが、このカーナビは購入後3年ぐらいがったか、地図情報が無料で新しいものに書き換えることができるのが特徴でした。更新された地図情報をネットからSDカードへダウンロードして、それをカーナビへ差し込んで読み込ませるというものです。

ところが、最後の1年ぐらいは面倒臭くてしばらく最新版をダウンロードしなかったところ、気がついた時には無料更新の時期を過ぎてしまっていたので、ついにそのままになってしまっています。

普段は特に困ることもないので、約2年前の地図データのまま、過日ちょっとした車の旅行にでかけました。
広島を経由して、しまなみ海道へまわり、四国を横断するところまでは良かったのですが、佐田岬半島(四国西端の半島)からフェリーに乗って九州に再上陸(大分県)したところ、ここで地図情報が古いことがあらわになり、新しい道があるにもかかわらず、わざわざ遠回りするルート案内を繰り返すのは大いに面白くない気分でした。

最適のルートでないぐらいはやむを得ないとしても、古い地図データには存在しない道(それは大抵、広くて走りやすい道)がある場合、次々に不適切な回りくどいリルートをしてくるあたりは、カーナビがバカに思えてしまって、あれはどうもいけません。

それはカーナビの機能が悪いのではなく、ひとえに地図情報が古いのだから致し方無いわけですが、それはわかっていても、いま目の前に広くて新しい道があるにもかかわらず、それがナビゲーションに反映されないのを何度も見ると、やっぱりどうしようもなく嫌になってしまいます。

とくに帰路は震災の影響で大分自動車道の通行止区間にあたり、やむなく東九州自動車道を通りましたが、近年開通したルートなので、ナビ画面では何度も自車マークが空中を飛んでいるような動きになり、わかっちゃいても虚しいものでした。

むかし「畳となんとかは新しいのに限る…」というような言い回しがありましたが、カーナビの地図データこそまさにそれだと言えるようです。とくに最近は公共事業が盛んなのかどうか知らないけれど、次から次に新しい道があちらこちらで開通しているようで、そうなると、少なくとも見知らぬ土地に行くようなときには、常に「最新」とは言わないけれど、できるだけ新しいデータでないといけないことを思い知らされたわけです。

そうはいっても、普段は別に困るわけではないないし、更新するには以前ならタダだったものが1回につき1万円近くかかります。
データはというと、年に6回ほど更新されているらしく、さて、そういう状況の中でいつ更新したものか。
これが問題で、なかなか踏ん切りがつきません。

今回のように旅行の予定でもあれば、それを機に新しくすればいいわけですが、それはもう終わったし、しばらく遠出の予定もないとなると、だったらできるだけ先送りしたほうがいいような気もします。
とくに直近で必要がなければ、先送りして粘れるだけ粘れば、そのぶん最新データがゲットできるわけで、このあたりが、どうも我ながらみみっちいなと思いますが、でも…そうなんですよね。

それはそうと、松山市から佐田岬半島へと向かう海岸線の道路は、約90kmに及ぶ理想的なドライブコースで、日曜というのに交通量もきわめて少なく、道幅も広いし路面は良好、景色も抜群、信号はほとんどナシという好条件で、その心地よさは今だに深く心に刻まれています。
それにひきかえ、大分側に上がったとたん、ちまちました道幅の狭い道路にはガックリでした。

錦帯橋、厳島神社、大和ミュージアム、しまなみ海道、道後温泉などめぐって、走行距離にして900kmに及ぶ旅でしたが、残念なるかな今回はピアノ店訪問はひとつもナシでした。
でも、下手にピアノ店などに立ち寄っていると、それ以上の大事な見どころを逃してしまうことも少なくないので、これはこれでよかったと思います。
たまに旅に出るのは理屈抜きにいいものですね。
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服の流行

着なくなった服の整理というのはなかなか難しいものです。
とくに男性もののほうが、際立った流行に左右されないぶん、より困難かもしれません。

その点女性は、絶えずこの点にアンテナを立てトレンドに敏感なので、順次入れ替えていくことが半ば当たり前かもしれませんが、男性の場合は、よほどのことでない限り服をどうこうすることって…なかなかないのです。

でも、例えば10年(かどうか知らないけれど)前に比べたら、例えばワイシャツの身ごろというか、横幅が今はかなり細身になってきていて、マロニエ君も当初は最近の男性は身体が小さくなってしまったんだろうか…と勘違いしていた時期がありました。
首周りや袖丈は同じでも、身ごろは明らかにタイトな作りになりましたし、ジャケット然り、パンツなんて細すぎて「なにこれ?」と思うものも少なくありません。

マロニエ君は通常はLサイズなのですが、身ごろに限っていうなら、一昔前のMより今のLは細いかもしれないぐらい、気がついたら変わってしまっているようです。

シャツなどを必要に応じてちょこちょこ買っているぶんには、さほど気がつくこともありませんでしたが、だんだんと何年も前のシャツなどは着なくなってしまうようです。他の人も同じかどうか知りませんが、やはり新しく買ったものを着る機会が多くなり、以前のものはクリーニングから戻ってきたまま袋に入って状態でタンスの棚に眠っています。

それでも、例えばボタンダウンのシャツなどは、べつにデザインにそう違いはないだろうと思って昔のものを出して着てみると、中にはやけに幅広で(体型はそれほど変わっていないので)、以前はこんなものをなんとも思わないで着ていたのかと思うと、さすがにびっくりしてしまいます。

流行というのは恐ろしいもので、「普通」の基準点が変わってしまうことらしく、たかだかボタンダウンのシャツでも古いものは何だかおかしくてもう着られません。
そんなものがあちこちを占領しているため、限られたスペースはやたらひしめき合い、それが何の意味もないことにだんだん気が付き始めました。
とくに傷んでもいない、かつては気に入って買った服を廃棄するのはちょっとした抵抗感もありますが、さりとてこのままタンスの肥やしにしても何の意味もなく、ただそこにあってスペースを占領するだけで、結局じゃまなだけです。

で、この先、着ることはないであろうものを昨日ついに引っ張りだして、再検討し、間違いなく着ないと断定できるものだけをさらに選び出しました。
パンツ類は別で、この日の整理は上半身ものだけにしましたが、それでもIKEAの青い袋の中型がいっぱいになるだけの服が着ることはないアイテムとして認定され、廃棄の対象となりました。

そのときはちょっと複雑な気持ちも無くはなかったかれど、いったんおさらばしてみると却ってスッキリして、やはり以前も書いたように、とくに幸福感もないような無駄なモノに囲まれて生活するのは愚かしいことだというのは間違いないようです。

BSチャンネルでは、昔の映画やくだらぬドラマなどが流れていたりしますが、そこで目にする服装は、なんであんなにみんなダボダボのダサいジャケットやコートを当然のように着ていたのかと思うと、どうしようもなく笑ってしまいます。
その笑いの根拠となるのは、それがカッコイイ、ステキという大前提から、みんながおかしな服装をしているように現代の目には映るからだと思います。

若い人がピチピチの細いスーツなんかを着ているのを見ると、これもどうかと思うし、また年月が経てばそれをドラマなどで見て笑うことに必ずなるわけで、これの繰り返しでアパレル業界は成り立っているんでしょうね。
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恐怖

熊本では大変なことになり、いま、九州全体が揺れています。

はじめの地震のときはちょうど運転中だったのですが、突然、ポケットの中のケータイから「緊急地震速報」というのが鳴りだして、とつぜん警告音と警告の言葉が大きな音量で流れだしてくるのにはびっくり。
信号停車すると、揺れているのがはっきりわかりました。

家に帰ってTVをつけると、かなりの被害であることがわかり、これは大変なことが起こったと思いました。
0時を過ぎたあたり、今度はTVから強い警告音のようなものが鳴り出して、その直後に家全体がワナワナ震えだして、思わず固まってしまいました。

阪神淡路、福岡玄海沖、東日本など震災が続く中、今度は熊本というわけで、地震というのはまったく予想のつかいないところで、まったく唐突に起こるものだとというのをつくづく思い知らされます。

今度の熊本の大地震は震源が浅く、余震のしつこさが特徴のようで、これがなかなか収まりません。
それどころか、翌日の真夜中にさらに強い地震があって、TVによれば、前日の揺れは前震であったようで、こっちが「本震」というような言い方に変化してきていて、なんだかしらないけれど、いつまで続くのかと暗澹たる気分です。

いまさら言うまでもないことですが、地震というのは数ある災害の中でも、最高級に人がどうすることもできない最悪のものだと思います。ただただ全身恐怖に身を浸しながら、収まるのを請い願うしかありません。

ところで、以前の震災の教訓からか、上記の「緊急地震速報」というのがケータイを通じてかなりのボリュームで鳴るようになり、このあたりは以前に比べてずいぶんとシステムが進歩したことを痛感しました。

ただ、それは必要というのはわかるけれども、ある一定以上の揺れの場合だと思いますが、マロニエ君のケータイに限ってもすでにこの熊本の地震だけでも5回それが発せられており、そのたびに心臓はバクバクして、これはこれで神経が大いにすり減らされることも事実です。

海洋大国である島国日本では、国内の100%が危険地域だともいえるようで、地震だけは勘弁して欲しいところですが、どうすることもできません。

今回はマロニエ君の居住地である福岡は揺れるだけでこれといった被害も今のところありませんが、震源の熊本からはつぎつぎに恐ろしい被害が報告されて、それらを見るにつけぞっとするばかり。
今日の新聞には、天守閣の瓦が落ちてしまって無残な姿になった熊本城が一面トップに載っていましたし、多くの建物が倒壊、新幹線は脱線、高速道路は陥没し、橋はなくなり、これは大変なことになりました。

きっと復旧には、相当の時間がかかるでしょうね。
それにしても、あの家が揺れるときのあの感覚、加えてなんとも得体のしれないドドドという音は、まさに悪魔の仕業のようで戦慄します。
とにかく早く終わって欲しいです!!!
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筒抜けのストレス

昨年の大晦日にギックリ腰になってからというもの、しばらくは整体院に通っていたのですが、いろいろと感じるところがあって最近になって行くのを止めました。

もちろん大きくはギックリ腰がようやく治ってきたということもあり、一説によれば、整体など行かずとも、この手のことは整形外科などに行ってレントゲンを撮り、とくに骨に異常がなければ主に時間が解決とする専門家の意見もあるので、整体の有用性というのは疑問の余地がありますが…。

やめたのは整体院の施術そのものが気に入らなかったというわけではなくて、むしろ行った後は身体が軽くなり、整体師さんの話では、痛めた腰を治すのももちろんだけれども、そのあともできるだけ来てもらって身体をほぐしたほうが、全身に変なクセなどつかずに良いということを言われていました。

マロニエ君もそれにはある程度賛同できていたし、はじめに行った金取り主義とは違って、こちらの整体院は価格も一回500円ほどと非常にリーズナブルで、しばらくは暇を見つけてはすかさず予約をとって通っていました。
全身をプロの手でほぐしてもらうというのは、ときにきつい瞬間もあるけれど、全体としてはとても気持ちがよく、すがすがしい気分で帰ることもしばしばで、これは続けたほうが身体にも良いだろうと実感していたほどです。

ところがそれほど意識はしていませんでしたが、回を重ねるごとに億劫さが増してきて、ハッと気がついたときは1週間行かなくなり、それが10日、2週間と間隔が伸びてきて、ついには行かなくなってしまったのです。
その理由というのは、うすうす自分でもわかっていました。

整体院はマンションの1階の狭いとろこだったのですが、そこにズラリと施術台が並べられ、その間にはうすいカーテンがぶら下がっているだけです。
ということは、施術中の姿を他者に見られる心配はないけれど、そこで交わされる会話はたとえ小声であっても院内に筒抜けでした。

この整体院には常時数名の男女整体師がいつも忙しく働いており、それぞれがお客さんの身体を押したりほぐしたり引っ張ったりと、まさにかなりの肉体労働だろうと思いました。
ほとんど機械に頼らない施術であるだけ、人の手によって大半の時間(通常30分)が費やされるばかりか、その間、受け身である客との会話がとめどな続きます。

世間話、身体のこと、家族のこと、先日どうしたこうしたという話まで、話題は多岐にわたり、それを整体師さん達はさもおもしろおかしく聞き役に回って、お客さんの気ままな話をすべて引き取って相槌を打っています。
それが個室ならともかく、わずか数十センチしか離れていない施術台のあちこちから聞こえてくるのですから、いやでも鮮明に耳に入ってくるわけで、当初からそれだけはちょっと抵抗があったけれど、慣れるどころか、ますますその空気感が耐え難いものになってきたのです。

こういっては何ですが、まあ第三者として聞くにはまことにくだらない話題で、話している方も、普段これほど熱心に話を聞いてくれる人なんていないはずから、余計にいい調子で喋っているのが痛々しいし、それを完璧にガマンしながら面白おかしく、まるで重要な取引先の接待のように愛想よく相槌を打っているのは、たとえ仕事とはいえ、耳にするこちらのほうがいたたまれない気分になります。

むろん、こちらにもあれこれと話しかけてきてはくれますが、他者の耳が気になってしかたなく、マロニエ君はとてもではないですがそれに乗じてペラペラ喋るというような無邪気さを持ちあわせておらず、そういうことがだんだんにストレスになって、ついには行くのをやめてしまったのでした。

それにしても、あの整体院の皆さんは、若いのにそのプロ根性はすごいなと素直に思いましたし、同時に何か切ない感じもあってマロニエ君にとっては快適な空間とはなり得ませんでした。

きっと皆さん、今日もあの調子でせっせと他人の身体をもみほぐしながら、神経も使いながらお客さんの四方山話を聞いているのでしょう。いやはや見上げたものです!
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カインズ

九州に一号店がオープンしたというホームセンターの「カインズ」に立ち寄ってみました。

関東エリアなど、数えきれないほどの店舗があるようなので本州の方はいまさらでしょうが、九州はこの春ようやくにして初上陸となったようです。
オープン前から、テレビの地元ニュースではカインズのオープンをやたら大々的に取り扱っていたので、ホームセンターの名前などいちいち知らないマロニエ君としては、よほど目新しい店がやってくるのかと思っていました。
…というか、そういう番組の取り上げ方にのせられて「思わされていた」というほうが正確でしょう。

何度もイメージを植え付けられたのが、カインズはただのホームセンターにあらず、独自の開発商品が多くて、センスがあってオシャレで実用的で、これまでのホームセンターの常識をくつがえすようなとてつもないもののようにレポーターなどはわぁわぁ喋りまくっていたものです。

さらに、オープン直前にはやれ報道陣に先行披露があったり、知人が見たというテレビニュースによると、ついには社長だかCEOだか肩書はしらないけれど、この会社の総帥らしき人物がわざわざ福岡入りして、まるでアップルのスティーブ・ジョブズばりの演出でこの九州初オープンについての意義や説明を高らかにぶったというのですから、ずいぶん御大層なことのようでした。
どんなにすごいのかは知らないけれど、ホームセンターというのは要するに、洗剤だのトイレットペーパーだの日用品を売るところじゃないの?と首をひねるのがせいぜいでした。

まあ、別に関心もなかったので、正確にいつオープンしたのかも知りませんでしたが、過日たまたまその近くを通過することになり、平日だったのでそれほど混んではいないだろうと思って、ためしに覗いてみることに…。
覗くぶんマロニエ君もつまりはのせられているわけで、自分でバカだなあとは思いますけど。

駐車場入口に近づくと、車の流れが悪くなり、先を見やると3人ほどの警備員が車の出入りを1台1台必死になって誘導しているらしく、春休みでもあるしこれはやはり人が多くてとてもじゃないのかもと思いましたが、少しずつなんとか車は進み、手招きの方向にハンドルを切ると屋上駐車場に誘導されました。
ところが、屋上駐車場に行くと、車は全体の半分ぐらいしか止まっておらず、あっけなくパーキングを終えました。

エレベーターホールに向かうと、買い物を済ませた人達が向こうから歩いてきますが、その荷物はというとまったくのホームセンターのそれで、なにか特別な感じを受けることはありませんでした。

エレベーターを降りて店内に入ると、まず「あれっ?」と思ったのは店内の広さで、マロニエ君の勝手な想像(ニュースなどで見たイメージ)の半分ぐらいしかない感じでした。
というのも、正面のそう遠くない場所に「むこうの壁」があり、それで売り場の広さというのがおおよそわかりますが、それは予想に反してかなり小ぶりなもので、はじめはその壁の向うにさらなる売り場が広がっているのかと思ったほどです。
しかし、結果的に売り場の奥行きはやはりそこまでで、たとえば今どきのIKEAやイオンモールのような、バカバカしいような広さに慣れてしまっている目には、ずいぶんコンパクトというかむしろ手狭に感じたし、並べられている商品もフツーにホームセンターのそれで、オープン前のあの鳴り物入りの大騒ぎ、とりわけテレビ関係の取材ときたら、ずいぶんと度を越したものだったよう思わざるをえません。

カインズオリジナル商品というのもところどころで見たことは見たけれど、べつにどうといこともなく、どれひとつとってもそんなに大騒ぎするようなものはひとつも見あたりませんでした。
もちろん、ザーッと店内を歩いただけなので、細かいことまではわかりませんが、おおまかな店の雰囲気や商品構成など、全体の調子というのは大体つかめるわけで、特筆大書するようなものはマロニエ君はなにもなかったという印象で、あまりに普通に要るものだけを買ってお店を後にしました。

煽るだけ煽ってあとの責任はまったくとらないマスコミの罪は大きさを、こんなところでも思い知らされた気分で、ま、あたりまえですが、要するにごく普通にあるホームセンターの中のひとつだということ以外、なにもありませんでした。

数あるホームセンターでも、店名が違えばそれぞれちょっとした個性の違いぐらいはあるわけで、カインズの個性もその枠を飛び出すほどのものではなく、とくだん突出したものは感じませんでした。

個人的には、あまりいろいろな商品をまんべんなく並べるよりは、特定の(あるいは得意な)ジャンルに特化して、その上での豊富な品ぞろえなどがあるほうが逆に存在感は引き立つし、結果行ってみようという気にもなりますが、現在のカインズは自宅からかなり遠いこともあるし、いまのところそれでも行きたいという理由もないので、個人的には近くの行き慣れたホームセンターで充分です。

そうそう、カインズのオリジナル商品の中でもかなりの人気ということで、テレビでも繰り返し見せられた積み重ね可能なプラスチックの収納ボックスで斜めのフタのついたアイテムは、もともとはカインズが発祥なのかもしれませんが、いまではどこのスーパーでも類似品が山積みされているし、一向に新鮮味はありませんでした。

最初の打ち上げ花火だけは、やけに仰々しく、これでもかとばかりに空高く打ち上げるというのが今流なのかもしれませんが、あんまりやられると、いち消費者としては却って失望を味わうだけのような気がします。
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豊かな気分

つい先日、不要なものを処分して効率的な時間と空間を手に入れることは甚だ快適であるというようなことを書きました。
世の中には、そんなことは先刻承知で普段から実行されている方もいらっしゃるとは思いますが、マロニエ君のような凡人の場合、自分が考えている以上に不要で無意味なものに取り囲まれて、気がつけば貴重な生活空間が侵食されていることを痛感しているこの頃です。

我が家はガレージも同様で、とりわけマロニエ君の車好きが災いして、使う当てもないパーツやケミカル品やその他諸々のものが文字通り山積していて、実は数年前にあらかたの整理をし、無駄なものは大いに処分した「つもり」でした。

しかし、あらためて見てみると、それはまさに下ごしらえ程度のことであって、本当の整理整頓とは程遠く、ついにこのエリアへ手を付けることにしました。
前回、整理と処分で一番難儀なことは「着手」することだと書きましたが、その意味では、ともかく手を付けたということが大きいと自画自賛しているところです。

それにしても驚くべきは、要らないものというのは、いたるところで予想以上に存在しており、それらが集積蓄積されて貴重なスペースを相当量侵害し、さらには当人はそれにほとんど気が付かない点だと思います。

だからといって前回も書いたように、必要な物、あるいは取っておきたい物まで無理して捨てる必要はまったくないと思うし、後ろ髪を引かれてまで処分するのでは却ってストレスとなるので、極度の処分はマロニエ君は反対です。
しかし、どう考えても要らないものかどうか冷静な目で見てみると、まぎれもなく不必要で、使う見込みもないようなものがゴロゴロといくらでもあるのには我ながら閉口します。

昔は使わなくても、いろいろなものがガレージに所狭しと並んでいるだけで、マニアックな雰囲気に浸るという子供じみた満足もあったのですが、さすがにいい歳になると、そんなオバカな情緒も干からびてくるし、なによりスペースの有効利用という点が俄然大切に思えてきました。

いったん手を付けると仕分け作業にも「流れ」と「リズム」みたいなものが出てきて、このところ毎晩のようにガレージに入っては不要物の選別をし、さらに可燃ごみと燃えないごみを分別し、それぞれの袋へパズルよろしく詰め込むのが日課になり、これはこれで結構楽しくもありました。

他地域の自治体もほぼ同様だろうと思いますが、燃えないごみは福岡市では月に一度、市の指定の袋に入れておきさえすれば夜中に回収してくれます。
可燃ごみは2~3日に一度のペースなのでゆったり構えていられますが、燃えないごみは一度出し損じると次は一月先になるので、それもあってかなり積極的にこちらの選び出しには集中しました。

つくづく思ったことは、モノにはまあそれなりに思い出がないといえばウソになりますが、それよりも、なんでこんなものを後生大事に今日までとっておいたのか、自分の短慮と愚かしさのほうが身にしみました。
とくに強調しておきたいことは、前回と重複しますが、「これはきっとそのうち何かの役に経つだろう」などというのは、ほとんど幻想で、現実はまずそんな出番などほとんどないということ。

仮に、万が一にもそういう事があったとしても、そんなわずかなことのために長年にわたり大量の不要物を抱え込んでおくなんて、これこそバカバカしく不健全で、なにか必要なものがあればその都度、それだけをどうにかすればいいのだということがよくわかりました。
ガレージに関していうなら、数年前に較べると物の量は半分どころか、1/3か1/4ぐらいまで量を減らしたと思いますが、ではそれでなにか困るかというと、これがもう情けないほどまったくなにひとつ困らないし、むしろゴミゴミしいものが姿を消し、そのぶんスッキリきれいになって、新たな空間が出現するのは思っていた以上に爽快です。

最近では、郵便で届くDMひとつでも、こまめに捨てておこうという気分が定着しつつあり、つくづくこれは習慣の問題だと思います。いつまで続くかはわかりませんが、まあそのうち息切れしたにしても、ときどき家の中のダイエットをするのは決してムダではないという気がしています。
余計なものが姿を消してスッキリするのは、理屈ではなしに気持ちがいいもので、なんだかずいぶん得をしたようでもあるし、物の量は減っているのに逆に豊かな気分になれるのはおもしろいなあ…と感じ入っている次第です。
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捨てること

いつごろからであったかは覚えてもいませんが、巷に「断捨離」という言葉がえらく流行ってもてはやされた時期がありました。
ウィキペディアで調べてみると「不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと」とあり、「人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。」と説明されています。

まあ、それはある意味そうだろうと思うし、一面においては共感できなくもないことではありました。
しかし、それの「専門家」のような人物がやたらテレビに出てきて本まで出して、さもその道の大家のような顔をしていちいち上から教えるような物言いを展開、果ては人生訓まで垂れる様子が嫌だったことを覚えています。
マロニエ君は本質的には共感するところがあっても、高い場所からものを言いお説教するような態度に出られると、その抵抗感のほうが先に立ってしまってそんな話は聞きたくなくなるので、あまり自分の生活に活かすところまでは行きませんでした。

ところがこのところ、とくに深い理由はないけれど、自分の生活空間が乱雑や混沌であふれるのはやっぱり嫌なので、少しずつ要らないものを処分することを心がけるようになりました。
これまでも不要なものの整理・処分は必要という考えそのものはあったけれど、ご多分に漏れずなかなか実行が伴わなず、頭では思っても「着手」そのものに手間取っていた側面が大きかったように思います。
とくに期限があるでもない事なので、そのうちそのうちと先延ばしをするうちそれが常態化するので、実際に手をつけること…が最大の難関なのかもしれません。
こわいのは、人間は自分の生活エリアというか身のまわりのことになると、毎日目にするため感覚が麻痺してしまい、そのだらしなさや無様な姿を客観的にとらえることができなくなってくることだと思います。しかし、よその家にお邪魔すると、こう言っては申し訳ないけれどイヤというほどそのあたりが新鮮に見えてしまい、自分のことは棚に上げて「よくこんな状態でなんともないなぁ!」などとエラそうに思ってしまいますが、ある程度はこれは自分も同様だろうとも思うわけです。

自分の家の中のいろいろな部分を、他人が新鮮な目で見たらどう思うだろうかということを考えてみると、ふっと恐ろしいような気になり大いに焦ります。

で、すこしずつ要らないものを処分してみると、意外や意外、結構それが楽しいというか心地よいことに開眼しました。
さらに、その余計なものが貴重な生活空間をずいぶんと占領して、心までもが雑然としたゴミゴミした気分にさせているということが、あれこれ捨ててみてはじめてわかります。

むろん個人差はあると思いますが、要らないものを捨てるというのは、ちょっと習慣になるとかなり快感になってきて、つぎつぎにやる気が起きてくるのは自分としてはいいことだと感じています。それほど余計なものに囲まれて、心理的にも重く暑苦しくのしかかっていることは、要らないものを捨ててみて、気持ちが軽くなってみると如実にわかりました。

無理して必要以上になにもかも捨ててしまうことはないと思いますが、ある程度よけいなモノがなくなると、気持ちまで爽やかになってくるのが嬉しくて、まったく後悔などないものですね。いちばん足を引っ張るのは「これは何かのときに役に立つかもしれない」などとケチなことを思うことで、実際に役に立つ局面なんてまず殆どありません。
万にひとつもそんなことがあっても、それがなんだと思えばすむことで、それより快適な時間や空間のほうがはるかに重要だと、マロニエ君は思えるようになりました。
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猛烈老人

最近の高齢者にはびっくりさせられることが多いらしいですが、まさにそんな体験をしました。

マロニエ君の自宅の近くに小さなスーパーがありますが、古い店舗のため駐車スペースはそれほど余裕がありません。
車が4台横に並ぶ列が4列あって、中の2番めと3番めはくっついていて車輪止めもないので、前に車がいなけれな、そのまま通り抜けて行くことも可能です。

その列に1台空きがあったので、マロニエ君が止めようと車の頭を入れていると、いきなりむこうから軽のワンボックスがサッとやってきて、しかも自分が入ったスペースを跨いで、いま正にマロニエ君が止めようとしている駐車枠の方へと車のフロントを突っ込んできました。

この時点でマロニエ君の車も1mぐらいは駐車枠へ入っていましたが、その軽は、まったくひるむことなく、「どけ!」といわんばかりに微動だにしません。
普通縦に2台分の駐車枠があって、両方から車がくれば、それぞれ手前は自分、そちらはアナタというふうにとめるのが当たり前です。

ところが、この軽はまったく後ろに下がる気配もないどころか、5cmぐらいずつあからさまに車を前進させて、対峙しているこちらに脅しをかけんばかりに、変なデザインのヘッドライトを目の前に近づけてきます。
こんなやり方には、さすがにマロニエ君も相当頭にきましたが、よくみると、ハンドルを握っているのは高齢の白髪頭の男性で、目をむいてこちらを凝視しています。
要するに前進で駐車枠に入って、そのまま前の枠に止めれば、一度もバックすることなく駐車から出発まで可能というところで、そのためには他車と鉢合わせになろうが関係ないといわんばかり。ブルドーザーよろしく相手をぐいぐい威嚇して、なにがなんでも自分のしたいようにする、そのためには一歩も引かないぞという居直り強盗みたいな老人でした。

こうなったら徹底的に動かないでやろうかとも一瞬思ったけれど、こんなところでこんな狂気のような老人相手にくだらないトラブルになったら、そのあと一日中嫌な思いをするだろうとも思うと、バカバカしくもなりました。
やむを得ずわざとちょっとだけバックしてみると、むこうは、そのわずか分をそれこそ接触せんばかりに詰めてきて、なんとか枠に収まったものだから、車内ではあとは知るかという様子で降り支度をしています。

その間、こちらもあえてその人の一挙手一投足をジーっと見つめてやりましたが、多少はそれもわかっているようでしたが、とにかくその図々しさときたら、そんなものはなんの役にも立たないほど強烈でした。

車から降りると、如実にその風貌がわかりましたが、かなり高齢にもかかわらず、この上なく険しい針のような目つきとふてぶてしげな態度は、まるで今の世の荒廃の度合い見るようで、なんとも嫌な気のするものでしたね。

年の功なんてものは、もはやはるか昔の幻想なのか、いまは多くの高齢者が、こうして歳を重ねるにつれイライラをも募らせながら、毎日を世間と勝負するかのように生きているということかもしれません。

はぁぁぁ…いやなものを見てしまいました。
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どうしましたか?

電話をかけたとき、相手の第一声というのは大事ですね。
最初に発する言葉やテンション、明暗の調子でこちらの気分もずいぶん違ってきますし。

なかには、会話になると至って普通なのに、第一声だけはやけに暗く「うわ、まずいときにかけたのか…」と思わず不安になる人などもいますね。ただのクセなのかもしれませんが、けっこう焦ります。

むかしは「もしもし」が普通でしたし、固定電話全盛のころは「はい、○○でございます」と自ら名乗ってくださる方も少くありませんでした。

それがケータイの普及にともない、少しずつ変化が起こってきているのを感じます。

とくに双方ケータイである場合は、アドレス帳に登録していただいていることが多いため、呼び出しの段階で先方の端末には誰からの電話かがわかるため、いきなり「どーもー!」とか「こんにちわー」などというパターンも珍しくなくなってきました。

ただ、マロニエ君の場合は保守的なのか、切り替えが下手なのか、いきなりこういう調子に和していくのがイマイチ苦手で、むこうはもう名乗りの部分をすっ飛ばしてきているのに、いまだに「もしもし、○○ですが…」などと思わず言ってしまうこともよくあります。

まあ、それぐらいなんということもないし、すぐに会話になっていくでの問題はないのですが、どうも個人的にはいただけないと感じる第一声もあったりします。

そのひとつが、
「あ、もしもし。どうしました?」「あ、○○さん。どうしましたか?」っていうパターン。

何エラそうに言ってんの?というか、なんだか微妙に失礼な気分。
こういう言い方が、最近は流行っているんでしょうか。
しかもこれ、そもそもどういうつもりなのかと思います。

マロニエ君にはその心境がさっぱりです。

普通に電話しただけなのに、いきなり「どうしました?」と反応された日には、はぁ…どうかしなきゃ電話しちゃいけないの?とつい反発心から思ってしまいます。
これはニュアンス的に、どこか上から目線な言い回しだとも感じるので、おそらく言っている側は大した意味もないのだろうとは思うけれど、聞くたびにちょっとムゥ…ときてしまいます。

しかも相手に悪意がないというか、ふつうのむしろオシャレな対応だと思っているらしいところがよけいにイラッとします。
どうしました?と相手に「聞いてあげる」ところに、余裕ある自分を演出しているのか。

おそらく、はじめは誰かからそういう言われ方をしたことがきっかけで、いつしか自分も採り入れて、言う側に転身したのだろうと思われます。
というか、この言い方をする人がチラホラいるし、それらが皆、自分のオリジナルだとは到底思えませんから。

こういう言い方が、今風で、さばけた感じというような無意識の意識が潜んでいるのかもしれません。
ま、なんだかしらないけれど、言われたほうは、まるでさも緊急の要件か、困ったことが起こって助けを請う電話であるかのように扱われているみたいで、どうも納得がいきません。
どうかしたとしたら、よほどチカラにでもなってくれるのかと聞いてみたくなるほど。

110番や保険会社ならそれもいいかもしれませんが、ふつうの個人には不適当な気がします。

言葉というものは、どういうつもりで言っているにしろ、それ自体に普遍的な意味やニュアンスがあるので、やっぱり相手側の気分を害さぬよう、誠実に使わなくてはいけないとあらためて思うこの頃です。
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謎の車の中は…

幹線道路の交差点を右折すべく右側の車線を走行し、信号が赤だったので停車しようとスピードをゆるめたそのとき、左からある東北の某ナンバーのダイハツ・コペン(軽の2シーターオープンで屋根付き)が突然目の前に割り込んできました。

ほとんどこちらの急ブレーキをあてにしたような無謀な突っ込み方で、あまりのことにクラクションを鳴らすひまもないほどそれは唐突でした。
しかも割り込んだあと、前の車まで十分な距離があるにもかかわらず、それ以上前進しようともせず、マロニエ君の車の真ん前で斜めを向いて止まったまま動こうともせずに、ほとんど嫌がらせのようなかたちで「一体なんなのか!」と思いました。

さすがにおどろいて、どんなドライバーが運転しているのかと顔のひとつも見てやりたくなりましたが、リアウインドウには今どき黒いフィルムが貼られていて、中の様子をうかがい知ることはできません。

そののち前の信号が「青」になると、ようやくそのコペンも動き始めたものの、ここでも嫌がらせのように、必要以上にノロノロと動いて、その気配たるや、これはタダモノではないらしいと考え始めました。

交差点では無数の直進対向車がひっきりなしにくるので、前3台とマロニエ君は待ったあげく、ようやく右折専用の信号が出るに至って右折開始となりました。
ここでも先頭と次の2台はすみやかに右折して行ったのに対し、コペンはまたまた歩くようなペースで右折を開始。
そこまでゆっくり行くのであれば、せめて右折したあとは一番左の車線でも行けばいいようなものなのに、これがまた、その速度でどうどうと一番右車線に躍り出ます。

チッと思いながら、中央車線から抜かしてやろうかと思っていたら、一番右の車線は次の交差点では右折専用になるようで、そのことに気づいたコペンは、車線は今度は左車線に移動しました。

と、まもなく目の前の信号が「赤」になったので停車。
そこでマロニエ君は敢えて、横に並ぶべくスピードを落として、コペンが先に止まったことを見ながら右側へゆっくり横付けしました。

「さあ、どんな御仁が運転しているのか!」と思って横を見えると、拍子抜けするほどふつうの若いおねえさんが運転席に座っていて、あれだけ腹も立ち、注目もしていたのに、なんだか「期待?」を裏切られた気になりました。
「なんだ、ただの運転が超苦手な女性か…」と思った一瞬後ドアウインドごしに見えてきたのは、なんとビッグマックのような何重にも分厚く重ねられた特大のハンバーガーで、この女性、これを食べながら運転しているのでした。

真横に並んで、ついあきれて見てしまいましたが、そんなことはなんのその。
気にする様子もなく、モグモグモグモグ、しわくちゃの大きな紙を適宜開くようにしながら、あっちこっちとかぶりついています。
こちらの視線を気にしているのか、決してこっちに視線を向けることはなく、無表情にひたすら食べ続け、信号が青になるとそのままコペンは動き出しますが、口はモグモグ、手にはハンバーガーという状況はかわりません。

そのまましばらく並走しましたが、マロニエ君はほどなく右折しなくてはいけない地点に来たので、観察はここで終りとなりましたが、なんでそうまでして運転しながらあんなに特大のハンバーガーを食べる意味がついにわかりませんでした。

いくら違法でも、スマホいじりをしながら運転というのはまだどこかに理解の余地がありますが、グレープフルーツほどもありそうなハンバーガーを「運転しながら食べる」というのは想像を遥かに超えた行為でした。

マロニエ君など、テーブルで集中して挑んでも、分厚いハンバーガーはこぼしたり落としたりと、無事に食べるだけで精一杯ですが、それを運転しながらとは恐れいったというべきか、よほどの高度なテクニックなのかもしれません。

でも、やっぱり食べている合間合間に運転しているので、他の車の前へ危険な割りこみになったり、前が空いてもちゃんと詰めないなど、車の動きはもうハチャメチャ、安全かつ円滑な動きができないのも納得です。
よっぽど急いでいるのかとも思いましたが、普通なら、あんな分厚いハンバーガーを運転しながら食べなくちゃいけないほど急いでいるときは、食べるのは後回しにしますよね。
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整骨院いろいろ

ギックリ腰にまつわる話題はいささかくどい気もしますが、敢えてその後のことなどを。

時間とともにずいぶん快方に向かったものの、椅子から立ち上がる際などの傷みはなかなか消えてくれません。
これは、痛めた腰もさることながら、もともと運動不足だったところへ上積みするようにおっかなびっくりの生活が続いて、さらに筋肉が落ちたためだろうと思います。
できるだけ体操などをして筋力をつけなくてはと、ささやかなことはやっていますが、それだけでは不十分でしょう。

例の整体院に見切りをつけてからというもの、ネットの口コミなどを見てまわって、ついに自宅の近所にあるそこそこ評判の整体院があることがわかりました。

ためしに電話してみると、以前のところに較べるとずいぶんさわやかな感じで、「あつものに懲りて…」ではないけれど、事前に料金を聞いてみるとずいぶん良心的な設定のようであるし、ついでに電気治療は好まないとも言ってみると「もちろんOKです」とのこと。
ならば、店(院?)を変えて再挑戦してみようかという余裕が出てきました。

まずなにより楽だったのは、車で5分ほどと距離が圧倒的に近いこと。
以前のところは15~20分ぐらいの距離で、それだけでも通うのは大変でしたから。

店に入ると、限られた空間の中に、若い整体師が数名いて、カーテンで仕切られた施術台が左右に数台ずつ並んでいるだけのシンプルな構成で、電気治療の器具のようなものはほとんどありません。一見して整体師が身体を使って治療にあたる方針というのが伝わりました。
前の院では、院内を3つぐらいに区切って、電気治療専門のスペースもあり、巨大なマッサージ器のようなものが何台も並んでいましたし、通常の施術台の脇には例の「楽○○」なる稼ぎ頭と思しき最新機器が据えられていましたから、これだけでも雰囲気はずいぶん違います。

ネットで目にしていた若い整体師がいろいろ説明した上で施術になりましたが、やってもらっている間にも次々にお客さんがやってくるし、今どきは場合によって若い世代のほうが良いこともあるという典型かもしれません。
中途半端に上の世代になると、変に大胆というか、あくどいことを欲に任せてグイグイやってしまいますが、その点は若い人のほうが今どきの生き残りの厳しさや、利用者側の心理というのにも通じているように思います。

ずいぶん熱心にやってくれて経過もいいので、すでに数回通っていますが、料金は以前の院の1/10ほどになり、そのあまりの違いに嬉しいやら呆れるやら。

以前の整骨院はさらに思い出したことがあり、はじめに携帯メールの登録をすすめられ、これをすれば何かの料金(それがどうしても思い出せないのですが)1500円が無料になるということで、云われるままにしましたが、メール登録をしなければ、初回はさらにそのぶんが上乗せされていたわけで、その料金設定は笑うしかありません。

さてその携帯メールには、すでに10通以上のメールが来ており、常日頃から自分達がいかに皆さんの身体の健康を思っているかなど、歯の浮くようなことが綿々と書かれています。

さらに、数日前はハガキまで届いて、ここしばらくお顔が見えませんがいかがお過ごしでしょう、お身体のことを心配しています、また悪くならないよう早めにお出かけください、とあり、後半は○月○日までに来院されない場合には、再度初診料が発生しますので、それを念のためお知らせします、と、親切ごかしに、だから「早く来い!」みたいなことが書かれていて、図々しいのに必死さみたいなものが滲み出ていて苦笑してしまいました。

もう二度と行かないのだから、初診料の心配などしていただかなくて結構ですよとハガキに向かって言ってやりました。
それにしても同じ整骨院という看板を掲げていても、これほど甚だしい差があるというのは驚きですね。
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雪の爪あと

1月最後の週末は、全国的に記録的な大雪でしたね。
ふだん雪とはあまり縁のない福岡も例外ではなく、土曜の夕刻から降り始めた雪はそのまま街全体を真っ白にしてしまうまで、しんしんと降り続きました。

雨と違って不気味なのは、雪には音がないところです。
まったく足音を立てずにやってきて、すべてのものを別け隔てなく純白に覆っていくさまは、とりわけ西日本の人間には馴染みがないため、打つ手もありません。

深夜、何度か玄関のドアを開けては外の様子を伺いますが、眼前に広がる景色は0時あたりで早くも「ここは北海道か?」というまでの立派な雪景色に変わっており、人の往来もほとんどありません。
日頃は車の出入りも多い向かいのマンションも、ぱったりと動きが止まり、周辺は異様なまでの静けさに包まれました。
結局丸2日間、ただひたすらエアコンやヒーターの風の無機質な音ばかりを聞いて過ごすことに。

それでも所詮は九州、大雪といってもそういつまでも降り続くことはなく、待っていれば必ず溶けていくものです。
火曜には少しずつ車も動き出し、我が家の前の道もしだいにアスファルトの黒い地肌が見えてきましたが、両側にはまだまだ雪の残骸が残っています。

これでようやく終りかとおもわれ、おそるおそる車に乗り始めます。ところがそれからのほうが、雪の残していった爪痕をあらわに感じることに。
まず、車が情け容赦ないまでに汚れてしまうのには参りました!

これほど自分の車が盛大に泥色になったことは記憶にありません。
ネット動画で、ロシアや中国などの車がドロドロに汚れているのを見たことがありますが、まさにあの種の汚れ方で、白くてきれいで風情があるはずの雪の現実はこんなにも汚いものかと今ごろわかります。

さらに幹線道路などでは融雪剤をまくため、その薬品なのか、単なる泥や砂なのかわからないけれど、タイヤが巻き上げる砂や異物のようなものがフェンダー内部に当たってチリチリパチパチと走っている間じゅう音を立てるのも嫌な気分です。

もうひとつ驚いたのは、大きな通りでは路面がザラザラになってしまっていることです。
タイヤチェーンによってアスファルトの滑らかな表面が削られているようで、とくにひっきりなしに行き交う路線バスの巨体が押し付けるチェーンの傷は痛手だったようです。
タイヤからのロードノイズが増しているし、ハンドルにもこれまでにない微かな振動が伝わります。

これは報道などでは云われないことですが、積雪による道路の傷みというのはおそらくすさまじいものだろうと思います。それでも、ひと雪でどれほど道路が損傷を受けるかというあたりは、きっと触れないことになっているのでしょうが、ものすごい被害だと思います。
というわけで雪は高いものにつくということを一つ勉強。

そうそう、高いというので思い出した安い方の話。
つい先日のこと、行きつけのスタンドにガソリンを入れにいったら、なんとハイオクが103円/Lとなっていたのには思わず声が出てしまいました。
このところ原油安がしばしばニュース等の話題になりますが、さすがにこういう価格になるとそれを肌で感じるものです。

いつごろであったか、じわじわと高騰が続き、これはもしかしたらリッター200円にもなるのでは?と思ったときもありましたが、世の中の動向というのはわからないものです。
これを見通して、投資などをする人達もいるのでしょうから、わかる人にはわかることかもしれませんが…。

アメリカのシェールオイルが一定のコストがかかることに対抗して、サウジアラビアが原油価格を下げることで対抗しているとか、エネルギーの巨大消費国である中国の景気減退の煽りによるものだとか、さらには世界的に将来を期待される再生可能エネルギーの開発を遅らせようという中東地域の思惑でもあるというような諸説があるようです。
きっとどれも事実でしょうし、それらが複合的になった結果なんだろうなあと思います。

いずれにしろ、なんだか不気味な安さです。
そりゃあもちろん、いま自分が必要とするものが、目の前で安いのは直接的には歓迎ではあるものの、この安さはなんとなく気持的に不安感を伴うというか、素直に得したと喜ぶ気持ちにはなれない危なさを感じてしまいました。

世界情勢は流動的で、ここ当分は不安定な状況が続きそうな気がします。
嫌なことが起こらなければいいですが…。
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うらがみ

わずか2回で整骨院通いをやめてしまったマロニエ君でしたが、その2度の施術が功を奏したのか、あるいはちょうどそういう時期に差し掛かっていたのか、このところ少し良くなる方向へ進んでいるようです。

これまでは椅子にすわる姿勢はもちろん、立ち上がる際には細心最大の注意が必要でしたし、わけても車から「降りる」ときは、それこそ切腹でもするみたいに決死の覚悟でしたが、それがいまでは、もちろん注意は必要ですが、以前の半分以下の痛みと労力で済むようになりました。

車中から意識して見ていると、整骨院のたぐいは街中の至る所に存在しており、その数にはいささか驚きました。これまでは意識したこともなかったけれど、ああも乱立すれば激しい競争に違いまりません。

さて、例の高額な電気治療ですが、機械の名前を覚えていたので、ネットで検索してみたところすぐにその発売元のサイトがあり、なんとそこには
「○○○導入で売上100万円超を実現」
「○○○導入した初月平均売上は80万円、そのうち37%が100万円超の実績」
「中には売上200万円以上を達成した院も」
「専門知識不要!カンタン操作」
「新しい自費メニューの導入は面倒だが売上を上げたい院(にオススメ)」

などと色とりどりの大文字で書かれていて、これを見ることで爽やかになるぐらい事情は飲み込めた気分です。

だとしても…毎回あの値段というのは、やり過ぎというものです。
何事もさじ加減というのは大事で、そのあたりプロの商売人ならどれぐらいにするか、客側の心理面なども勘案していい線を導き出すのでしょうが、そこがただの欲深いだけのシロウト感覚で決めてしまうのでしょう。
マロニエ君も、もしあれが半額だったら腰痛を治したい一心から、しぶしぶ通っていたかもしれませんが、毎回5000円強ではあれこれと懐疑的になるチャンスをいやでも与えてしまったようなものです。

しぶしぶならまだ相手を「信じよう」と努めるものですが、懐疑的になったら「疑おう疑おう」というふうに考えは向かってしまいます。
逆にいうと、だからそのおかげでサッパリご縁が切れたということでもあるわけです。

ちなみにこの機械を導入している他の院の料金はどれぐらいか調べてみると、おおむね3000円前後というのが多く、回数券の設定があって、3回5回10回となればさらに一回あたりは安くなるという仕組みのようです。

ところがマロニエ君の行った院ときたら、そんなものは一切無しで、毎回税込み4320円請求するのですから、小さなところなのに大した度胸だなぁと思います。昔だったらいざ知らず、今どきは誰でもネットでいろんなことが簡単に調べられるわけで、いくら強欲でも、もう少し慎重であるべきだったようです。

そういえば今回、はじめに治療計画を聞かされる際、ちょっとおかしなことがあったのを思い出しました。
その整体師は紙に書いてこちらに説明するため、アシスタントのお兄さんに「紙とってぇ」と言いました。お兄さんはハイといって、すぐに棚からコピー用紙を一枚とって整体師に手渡します。
ところが整体師は「これじゃない」「うらがみがあるから」と言われてお兄さんはキョトンとしています。
すぐに通じないので整体師はせっつくように「うらがみ!うらがみ!」「?」「その下にあるから!」というと、お兄さんが焦りながら探していると、「そこじゃない、その上!」などとやや声を荒げたあげく、ついに求める紙が手渡されました。

なんとそれは、コピーかFAXの使用済みの紙を捨てずにとってあるものらしく、うらがみは「裏紙」なんだということがこのときはじめてわかりました。
内々でメモにでも使うのならともかく、これから「腰を痛めたカモに」向って高い治療費の説明をしようというのに、コピー用紙一枚さえ惜しいとはなんなのかと思いました。

誰もが知るように、今どきA4のコピー用紙は500枚包で300円しません。
一枚あたり0.6円以下なわけですが、それを他人というか、いわばお客さんの前であれだけおおっぴらに倹約し、出した紙を突き返してまであえて裏紙を使うという行為にも驚きました。
ただ、それと、人から30分の電気治療だけで4320円せしめるというのは、実は同じ精神構造から出るものだろうと思います。

ま、それだけマロニエ君もマヌケだったということでもありますが、人の弱みにこうも容赦なく付け込むという行為はやはり容認はできません。
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いくらなんでも

しばらく耐えていればじきに治まると思っていたぎっくり腰は、やや長期戦に突入してしまいました。

とりあえず正月休み明けに近くの整形外科に行ったところ、レントゲン写真を何枚も撮られ、電気治療や痛み止めの注射などをされて、コルセットや湿布、飲み薬などを与えられました。

いらい一進一退を繰り返しながら約3週間経過したものの、椅子から立ち上がる際などに強い痛みが続き、ついに整骨院へ行ってみることにしました。以前行ったことのある整骨院で、そこ以外に知らなかったこともあり、数年ぶりに行きました。

はじめ、アシスタントみたいな男性が体の歪みをチェックするということで、衣服の上から数カ所丸いシールを貼られ、写真を数枚撮られます。しばらく待つと、呼ばれてモニター前の椅子に座るようにとのこと。
そこに写しだされた写真の上には二三本の線が引かれており、本来水平であるべき線が腰のあたりと肩のあたりで、それぞれ傾斜しており、一見して水平でないことがわかります。
すると、その男性は「これは…かなり…」などと言い、さらにはそれを見るためにやってきた整体師が「おーぅ、これはレアなケースですねぇ!」などと不安な言葉を口にします。

すかさず治療の段取りとなり、このままではいけないので歪みから直して…かくかくしかじかと、準備されたメニューみたいなものを示しながらテキパキと話は進みます。
ついては電気治療が必要ということで、これがなんと4000円の由。
否応ない状況で「どうされますか?」と聞かれても、どうもこうもないわけで、4万円なら断るでしょうが、とにかく痛いのをなんとかしたいという一念から、やむなく了承することに。

施術台に仰向けになると、ゴムシートのようなものを腹部にペタペタ貼り付けられて、それを機械と繋いでスイッチを入れるとジンジンするような刺激が走ります。これを30分間やって、そのあとにいよいよ本来の整体らしき施術に入りました。こちらは10~15分ぐらい。
終了後はたしかにスッキリなって、これまでは立ったり座ったり、あるいは朝ベッドから出るのもびくびくでしたが、はるかに楽に体が動くようになったことは事実です(時間経過とともに元に戻りますが、一時的でも気分はいい)。

マロニエ君の印象としては、電気治療ではなく、そのあとの整体術によってすっきりしたように感じましたが、終わった後も、さんざん電気治療の重要性と、それを続けることの大切さを繰り返し説かれます。
また、治ったと思って、治療をやめるとこうなるというような図などもたくさん見せられ、とにかく継続的にかよって治療を受けることが必要なんだと、ほとんど反抗できないような空気の中でこれを言い続けられます。
むろん心底から納得はしていなかったけれど、少しはそうかも…とこのときは思いました。

支払いは初診料が2000円弱、電気治療と消費税で合計6200円ほど請求され、さらに、「間を置くといけないので始めのうちは、できるだけ毎日来てください」と言われますが、平日にそんな時間もないし、だいいちこの料金じゃたまりません。

仕方なく翌日もう一度行くと、やはり電気治療30分と、今回は10分ぐらいの整体で、このときは5200円ほど。
しかも帰りには必ず次の予約を迫るので、あいだに一日おいてしぶしぶ応じましたが、やはりこれはおかしいのではと思いました。電気治療は、要するに器具を身体にパパッとセットしてスイッチを入れると、あとは機械任せで、カーテンの向こうからは雑談やテレビの音が聞こえてくるだけ。
整体師が手や身体を使ってもんだりほぐしたりやってくれるのでもなく、なんでこれが4000円もするのか納得がいきません。

ここ、昔はもっとせっせと身体をもみほぐしてくれていたのですが、その時間はずいぶん短くなっているし、そういえばお客さんも以前に比べてずいぶん少ない様子。
それに、いつまでかかるかもわからないものを、行くたびに5000円強というのでは財布もたまらないし、なにより整骨院側のカモにされているのでは?と思うと、腹立たしさがふつふつと湧き上がります。

そこで、専門は違うものの知人の医師に電話してこのことを聞いてみると、彼は「あくまでも個人的な意見」としながらも、自分は整体などは信じていないので、これまで一度も行ったことはないし、とりわけ電気治療は「まやかし」だと断言しました。

整体そのものは、たしかに整体師はからだの要所要所のことを知っているので、施術によって一時的に痛みが取れたり、固まった筋肉がほぐれて楽になったりという事はあるとしても、それは肩がこったときにマッサージするのと基本的に同じであって、電気治療に至ってはあんな外的要因でぎっくり腰が治るなんてことは「ぜったい無い!」と云われました。

ここまで聞くと、疑いは一気に確信へと変わり、もう二度と行くものかときっぱり決断できました。
予約だけはキャンセルしないといけないので、電話で「風邪をひいたのでとりあえず明日はキャンセル」してほしいと告げると、「わかりました、お大事に。」だそうで、まあそう言うしかなかったのでしょうね。

つくづく世の中油断できないと身にしみました。
よい授業料だったと思うことに。
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暇つぶしツール

ショップでタブレット端末を受け取る際、基本的な使い方というか、メールがこうして、アプリのダウンロードはこうするというふうに、主なことは一通り聞いていたはずなのに、いざ自分でやろうとするとよくわかりません。
それをなんとか手探りしてでもどうにかしようという意欲が湧いてこないところが、やっぱりマロニエ君はこの手の楽しみには向いていないのかもしれません。

慣れない画面を触って思い通りに動かせない状況は結構なストレスにもなるし、いざとなればどうしても自分なりにサクサク使えるパソコンへ逃げ込んでしまいます。

とりあえずはじめの1週間はほとんど触るのも嫌で過ぎてしまいましたが、やっぱりせっかく契約したわけだし、むろんタダでもないわけだから、やはり少しは使えるようにならなくてはもったいない!と思って触ってみますが、現時点ではあまり進展はありません。

それでもYahooやGoogleの検索画面の出し方がわかったので、出先で何かを見たり調べたりすることはできるわけで、なにも無いよりは大変便利になったことは確かですが、ここで留まっては宝の持ち腐れなので、そのうち誰かにレクチャーしてもらわなければと思っています。
いずれにしろ、いうなれば世の中の景色さえ変わるほど、スマホとは、どこがそんなにも魅力的で楽しいのか、その片鱗ぐらいはいつか知ることができるかどうか…ま、知る必要もないのだけれど。

ゆいいつ便利だったのは、ぎっくり腰で病院に行って待たされているあいだ、これを触っていると待ち時間もさほど気になることもなく過ごせたのは事実で、なにかと「待つ」ことが必要な場合には、これまでより退屈せず過ごせることは、たしかにこれは有効なおもちゃかもしれません。

いっぽう、先日も「これだからスマホはイヤなんだ…」と思うことがありました。
車の仲間の集まりがあって、このときは少人数がファミレスで会したのですが、5人中、ガラケーユーザーはマロニエ君を含むふたり、残る3人はスマホでしたが、ふと気が付くとスマホユーザーはいつの間にか押し黙って端末をいじるという場面が何度もありました。
べつに話を無視してスマホに熱中しているわけではないものの、折々の話題や情報を逐一ネットで確認しているらしく、そのつどスマホをいじってはその確証を得たように、あーこれね!という具合にやるわけです。
マロニエ君にいわせればべつに今しなくてもいいことにしか思えませんが、彼らは「今」が大事なんでしょう。

もちろん事と次第によっては、正確な情報を必要とする場合も稀にはあるけれど、大半はどうでもいいようなことを、いちいちスマホ操作のために話の輪から抜け出すのは、内心「またか…」という感じです。
それに、よほど若い世代の超絶技巧の持ち主なら知りませんが、普通スマホの操作というのは、本人は集中しているのでそれがわからないらしいのですが、周囲にとっては結構時間がかかって鬱陶しいものです。

繰り返しますが、本当に検索の必要のある場合は別ですが、多くはどうでもいいような事。
さんざん時間をかけてようやく出てきた画面はというと、小さくて、見にくくて、こちらも「へえ」とかいって見るふりはしますが、ほとんど意味を感じません。
やっぱりスマホ使いというのは即検索することが快感で、それをしなきゃ自分が落ち着かないんでしょう。

また、別の言い方をするなら、会話のいちいちを裏取りされているようで、あたかも人の言葉だけでは不安で、それをネット上で確認できてはじめて認定するみたいな流れでもあり、ちょっとヘンな感じです。

実はこのとき、バッグの中にはタブレット端末を持っていたので、ついでに使い方を聞くこともできたわけですが、そこでさらにそっちの世界に話題が傾いていくのもどうかと思い、ついに出さずじまいでした。

それはそうと、もともと機種変更する理由のメインであったバッテリーの保ちに関しては、予想以上の違いで、やっぱり新しいものはさすがだと感激しています。
これまでより何倍もタフになり、マロニエ君の使い方なら、充電は3日に1度でも余裕ですから、こんなことならもっと早く買い換えておけばよかったと思います。
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機種変更のつもりが

マロニエ君がスマホを避けて、未だにガラケーユーザーであることは折にふれて書いてきたよう記憶しています。

スマホそのものを否定しているわけではないし、便利な点ももちろん多かろうと思いますが、なにしろ、世の中どこもかしこもスマホをいじりまわす人々であふれかえり、その機能を云々するより先に、あの光景とスタイルが嫌になってしまったのが正直なところでした。

信号停車中、よく見るバス停などはいつ何時でも、待っている人達の2/3ぐらいはほぼ間違いなくスマホをいじっているし、とにかく、ありとあらゆる場所で、なにがそんなに緊急なのか、楽しいのか、必要なのか、暇つぶしなのか、ただ触りたいのか、そうしないと落ち着かない依存症なのか、理由はよくわからないけれども、目にする人間がみなあの姿形になっているのがうんざりなのです。

だいいち電話するには二つ折りのガラケーのほうが機能的であるし、ポケットに入れるにも、どうもあの中途半端なサイズのスマホは向かないようで、そういう使い方はできない気もします。

それと、マロニエ君は必要とあらば日中でもパソコンが使える環境にあるので、わざわざケータイ端末をパソコン化する必要もさほどなかったということもあるでしょう。要するに自分の日常の中で、とくにスマホが必要という差し迫った事情もないことがガラケーを使い続ける最大の理由だったかもしれません。

ところが、使い慣れたガラケーも5年も経つとバッテリーの寿命が短くなるようで、とくにここ1年ほどは、何回バッテリーを新品に替えてもひと月もすると目に見えて充電が保たなくなりました。
正しくいうとバッテリーの寿命というより、機械自体の電力消費が激しくなるということかもしれません。

それでとうとう機種変更すべく、ショップにいくことに。

予想していたことではあれども、ラインナップの大半はスマホが当然のように陣取っており、ガラケーの展示品は無いのかと思ったら、かろうじて隅の方の一角に申し訳程度に数種類があるのみで、その肩身の狭さは思わず笑ってしまいます。昔にくらべると選択肢も遥かに少く、そのぶん選ぶのは楽になったという印象。

ショップの店員さんも、さりげなくスマホにする意向はないのか聞いてはきたけれど、決して強くすすめてくるようなことはなく、ガラケーユーザーにはそれなりの信念があると理解しているようでもありました。
ただ、あれこれの話の中から、ガラケー+タブレット端末という組み合わせもあるということを知りました。

だいたい、スマホのあの小さな画面をちょこまかいじると思っただけでうんざりしていたマロニエ君は、その3~4倍ぐらいありそうなタブレットならいくぶん楽だろうと思ったし、料金も、この2台の組み合わせでもスマホ1台より若干安いというので、ここでちょっと「ふーん…」とは思いました。

たしかに出先などで、ちょっと調べ物とか情報を取りたいなどの場合、スマホがあればこういうときいいだろうなぁと思うことが、めったにはないけれど、ごくたまにあることも事実。
そういうわけで、マロニエ君としてはケータイが従来通りのガラケーで、タブレットと使い分けが可能という点でちょっとだけ心が揺らいでしまいました。

決定的だったのは、じゃあ見るだけ見てみようかというわけでタブレットを見せてもらうと、なんとそれはiPadで、昔からのMacユーザーでアップル製品に弱いマロニエ君としては、この時点でかなりその気になってしまったのは、自分でもまったく思いがけない展開でした。

あのアップルマークを見ると、なんだか急に欲しいような気分が湧き上がってきて、ついにはこれを契約してしまうことになりました。店員さんに確認したところ、スマホとタブレットの違いはというと、たったひとつ「電話をする機能」なのだそうで、それ以外はなんらスマホと遜色ないのだそうです。

というわけで、自分でも甚だ意外なことでしたが、ガラケーの機種変更をするつもりが、なんのことはない帰りはしっかりiPadをお持ち帰りという次第になってしまいました。
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瀬戸内寂聴

NHKによる瀬戸内寂聴さんのドキュメンタリーが(たぶん再)放送されたのは年末でしたか…。
「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」と題する、御年93歳の僧侶にして現役作家の今を見つめる番組で、なんとなく録画していて、このところ音楽番組も面白いものがなく、これを視てみることに。

いつもながらの飾らない軽妙な語り口には人を惹きつける魅力があり、いまだ衰えぬ明晰な頭脳とあいまって感嘆するばかりです。

ただ、NHKが500日も密着したせいもあるのかもしれませんが、いかに瀬戸内さんとはいえ、あそこまで自分の日常をカメラの前へとさらけ出し、それを公共の電波を使って全国に流す意味が果たしてあるのか…この点は大いに疑問が残りました。
しかも、度重なる交渉の末かと思いきや、瀬戸内さんのほうでも『私が死ぬまでカメラを回しなさい』とおっしゃっているとかで、そのなんとも高らかな言葉にはハァ…という感じ。

いまさらいうまでもないことですが、瀬戸内さんは瀬戸内晴美として作家業を続けられ、51歳のときに出家、俗世を捨てて寂聴となります。得度してからも作家業は継続するという二足のわらじ状態。
物書きを生業としながら激しい恋愛の渦の中に生きてきた女性が一転、剃髪し、僧侶となり、法衣をまとい、多くの人々に法話というお説教をしてまわっておられるのは多くの人の知るところです。

ところが、その日常は法衣はおろか、大阪のおばちゃんもびっくりするようなド派手なセーターとパンツ姿で、食卓には高カロリーのコッテリ系メニューが並び、おまけにアルコールが大好物だというのですから驚きです。

中でものけぞったのは、脂のほうが多いのでは?と思うような霜降り肉(マロニエ君はこれが苦手)がいつもテーブルに準備されていること、くわえて毎夜のごとく背の高いワイングラスにはなみなみと美酒が注がれ、声高く「カンパ~イ!」といってはたいそうなはしゃぎっぷりで、僧侶とは何か…わからなくなる瞬間でした。
もちろんこれ、個人の自由のことを言っているのではありません。
また、僧侶たるものがすべて品行方正な日常を送っているとも思っていません。

しかしマロニエ君の知る限りでは、僧侶の食事は本源的にはお精進であろうし、実際そうでないものを口にすることはあっても、それはあくまでちょっと控えたかたちでというのが長らくの認識でしたから、これには度肝を抜かれました。

すくなくともテレビカメラの前で、なに憚ることなく「牛肉牛肉…」といいながら、霜降り肉をがっつり頬張っては傍らのアルコールを流し込み、キャッキャとはしゃぎまわる寂聴さんの日常というのは、普通人でも相当にはじけているほうで、マロニエ君の目にはかなり奇異なものに映ったことは事実です。

逆にいうと、もともと小説家はいわば芸術家の端くれでもあるわけで、そんな道を歩んできた人が人生の途中で出家して、剃髪し庵まで構えたからには、それなりの一線や境地がありそうなもんだと思っていました。
これでは、出家前と現在とでは、精神的にどれほど違うのか、マロニエ君のような凡人にはよくわからなかったし、番組も瀬戸内さんの何を伝えようとしているのか意味不明に感じました。

そういえば年末の報道番組では、寂聴さんが安保法案に反対する永田町周辺の抗議活動の中へ出かけて行って、デモに協調する声を上げたことをして、穏やかながらも一定の批判めいた調子であることは印象的でした。
「戦争というものにはね、良い戦争も悪い戦争もないんですよ!」

戦争が悪いことだというのは、なにもいまさらこと改まって言われなくてもみんなわかっていることで、安倍さんだって百も承知のはずで、言葉のすり替えにしか思えません。
おまけに、永田町から京都の寂庵に戻った折にスルリと口から出たことは、「たまには出かけて、おもしろかった!」というのですから、それはちょっとどうかなと思いました。

出家して40年以上経ったこの方の様子を見ていると、逆に俗世間の匂いを感じてしまうのは、なんとなく皮肉な感じが終始つきまといました。そう思ってしまうと、カラフルなセーターの襟首からでたそのおつむりも、今どきのスキンヘッドのようにも見えてしまいます。
マロニエ君は普通に本は読む方ですが、思えば瀬戸内さんの作はほとんど読んだことがなく、唯一源氏物語だけは全巻揃いで購入してしばらく読んでいましたが、どうもしっくり来ないで半分にも達しないところでやめてしまったことを思い出します。

ちょっとおしゃべりを聞いている分には面白いし、とりわけ平塚らいてうなどを中心とする明治の女性の生き様や恋愛事情などを語らせるといかにもこの人の本領という感じはしますが、ここ最近はいささか手を広げすぎておられるのかもしれません。
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4日目

せっかくの新年を、人生初めてのぎっくり腰で迎えるというのは当人にしてみれば笑うに笑えぬ「事故」でした。
しかも、これが実際なかなか快方には向かわず、多くの場合、二三日で落ち着いてくるという話であったのに、想像より症状は軽くはないようでした。

実は3日は、ピアノ好きの数人が集まることになり、今回はマロニエ君宅のディアパソンの調整が一区切りついたこともあって、我が家へお出でいただく段取りになっていたのですが、直前まで様子を見ていたもののいまだ厳しい状況であるため、やむを得ず今回は延期とせざるをえなくなりました。

もともと、充分なもてなしができるわけではないけれど、なにかというと襲いかかる激痛を抱えながらというのでは、ちょっとお茶や菓子を出すことさえ難しいし、いかに遊びや雑談とはいえ身が入りません。
昨年末から約束をしていた皆さんには文字通りのドタキャンとなり、大変なご迷惑をお掛けする次第となりました。

のみならず、お正月のすべてが犠牲となり、外出もなにもできず、することもなく時間だけはあるので、おそるおそるパソコンの前に座っては、このようなつまらぬ文章を綴っているしだいです。
新年早々、温かいお見舞いのメールも頂戴するなどありがたいような情けないような…。

昨晩はお父上が整形外科のお医者さんという友人に電話して、カクカクシカジカで、さしあたりどういう点に注意すべきか聞いてもらったところ、基本安静にする、腰を温める、コルセットが望ましいが無ければバスタオルでもいいから強く巻いて腰を固定する、長時間同じ姿勢をとらないなどのアドバイスを受けました。

少しでもだらけた姿勢で椅子に座っていると、必ず恐ろしいほどの激痛に見舞われるので、これにはさすがに懲りて、嫌でもキチンと背筋を伸ばした姿勢を保って座るしかなく、気の休まる時もありません。ところがこれを3日もやっていると、あれ?…その姿勢で座ることにもだんだん慣れてきて、それ自体はさほど苦痛ではなくなってきました。
まさに昔の軍隊式ではないけれど体罰の恐怖で遮二無二鍛えられる感じです。

ということは、何事もこれぐらい本気で間断なくやっていればそのうち身につくもんだということが少しわかったような気がして、結局ピアノも同じだろうか…とも思います。
音大を受験するとか、コンクールに出る、あるいは演奏会を控えて猛練習などとなれば、それはもう気構えからして違うでしょうから、これを当たり前のようにやっていれば、たしかに劇的に鍛えられるだろうなぁと思います。


ピアノといえば、お正月番組で録画していた辻井伸行氏の2時間番組を暇つぶしに視てみました。
彼はまぎれもなく天才ですが、いわゆるクラシックのピアニストの常道というより、チケットの売れる人気ミュージシャンの方へと軸足を移してしまったのでは?という印象をあらためてもちました。

べつに、それの良し悪しを言っているわけではないのですが、一面においてそのスタミナなど大したものだと思う反面、一面においてはどこか残念な気もするのです。コンサートの様子では主に自作の曲をオーケストラと一緒に演奏するというもので、新作の童謡かなにかのようで、澄みわたるきれいな曲だとは思うけれど、マロニエ君の求める方向とはまったく違うものです。

後半はガーシュインのラプソディー・イン・ブルーで、危なげのない確かな演奏ではあったものの、この曲に必要な変幻自在な表現には至っていないというのが率直な印象でした。こういう曲は自分なりに美しく弾くというだけではサマにならない猥雑な要素を含んでいて、清濁併せ持つ人間臭さやエグさで聴かせるところがあり、辻井さんの清純さだけでは処理できない世界のように思いました。

一方、アメリカ・ボストンでは現地のアマチュアオケとベートーヴェンの皇帝を弾いていましたが、これはまた意外なほど軽い感じが目立ってしまい、ただ表面に水を流すようにサラサラ弾いて、作品の核心にはまだ触れていないような印象でした。ベートーヴェンにはやはり一定の構造感とか重厚さ、あれこれの対比などが欲しい気がします。

むろん感心させられる点も多々あって、いついかなるときでも音楽に対するノリの良さは抜群で、常に全神経が音楽世界の中で喜々として躍動し呼吸していることは音楽家として非常に重要な点で、だからこそ彼のピアノには生きた演奏のオーラがあるのだと思います。見るたびに思うのは、大きくて肉厚の、とても恵まれたきれいな手をしていて、まさにピアニストとして理想的であること。
これだけみても彼がピアノを弾くためにこの世に生を受けたのだということが感じられます。
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ぎっくり

前回は年頭の挨拶であるし、あえて書かなかったのですが、実はその裏でとんでもないことが起こってました。

大晦日の午後3時ごろのこと、石油ファンヒーターの灯油缶を持ち上げようとしたところ、とつぜん腰に強い電気のようなものがドキュンと走りました。
手と上半身をのばした横着な姿勢であったことから、筋か神経だかの大事なところを大いにひねってしまったことが瞬間的にわかりましたが、それは一瞬で、とくに大したことでもないようなので、このときはさほど深刻にも考えていませんでした。

ところが、それから1時間も経った頃、座っていた椅子から立ち上がろうとすると、腰回りに刺されるような傷みが走り、さっきの衝撃がまだくすぶっていることがわかりました。

それからというもの、時間経過とともに症状は悪化していきますが、この日は夕方からちょっとした買い物と年越しそばを外で食べるということになっていたので、用心しながら着替えをしますが、このときすでに靴下を履き替えるのがかなり辛いことは自分でも驚きで、不安を抱えながらの出発となりました。

クルマに乗るのもヨイショという感じとなり、さらに深刻だったのはバックでガレージから出るのに、後ろを見ようと上半身を捻ると、ここでも強い痛みを伴い、いよいよこれはマズイことになった認識しはじめることに。

お店は猛烈な人出で、駐車スペースを確保するのも容易ではない状況。少し待つと運良く一台の車が出て行ったのでそこに速やかに止めようとしましたが、やはりバックする際にガッと振り向けないため、いつものような迅速な動作ができません。一定角度以上には上半身が曲げられないのを、これ以上悪化しないよう何度も切り返しをして、ずいぶん下手くそな要領の悪い止め方で車を置きました。

止め終わってホッとするのもつかの間、さらに驚いたことには車から降りようにも、その動作に入ると腰に激痛がきて降りられないのです。
一度激痛が走ると、その波が収まるまでにしばらくの時を要するので、何度か繰り返しながらやっと下車…したものの、これでは先が思いやられます。

この日だけはなんとか頑張らなくてはと気を引き締め、蕎麦屋に行くも、そこでもやはりバックが思うようにできない、さらに降りるときの苦痛はさっきより一層ひどく、困難さが増しているのがわかりました。
食べている間も軍人のようにまったく姿勢が崩せず、少しでも背骨を曲げたような姿勢になるとズキンと傷みが走ります。

正直言って、何を食べているかもわからないほど必死で食べて帰ってきましたが、自宅のガレージにたどり着いたときには、もう何度やっても激痛で車から降りることもできません。半ば気が遠のくような痛みを伴いながら決死の思いで車から這いずり出て、家に入り、この日はとにかく安静にして、ちょうどもっていたロキソニンを服用して、いつもより早めに休みました。

横になっているとそうでもないので睡眠はそれなりにとれますが、ちょっと寝返りをうつこともできずそのつど痛みで目が覚めます。ずいぶん窮屈な思いをしながら目が覚めたりまた寝たりを繰り返しながら元日の朝を迎えました。
とりあえずベッドから出ようとすると、これがまたとてつもない激痛で、とにかくどういう角度であれ起き上がろうとすると、息もできないほどの痛みが次から次へと襲いかかってきて、ようするにベッドから出られなくました。

30分近くかけて、脂汗にまみれながらようやく這い出したものの、着替えも満足にできず、正月早々とんでもないスタートを切る羽目になりました。
午後はパソコンの前に座るのもびくびくして、新年早々、痛みと疲れと落胆でもう何もする気も起きません。それでも元日のブログは前日に少し書いていたので、なんとかそれを完成させてアップしたのでした。

これが「ギックリ腰」というものかどうか…正確なことはわかりませんが、たぶんそうなんでしょう。
これまで腰痛の苦心談はあこれこれと耳にしてはいたけれど、たまたま自分が経験したことがなったこともあって、もうひとつ実感が湧きませんでしたが、いやぁ…これほどまでに凄まじいものとは知りませんでした。
まるで腰回りをナイフで刺されるか電流でも流されるようで、その痛みは恐怖以外のなにものでもありません。

日常生活の何気ない動作の中で、いかに腰が体の芯となって重要であるかをこれほど思い知らされたことはなく、健康のありがた味をしみじみ痛感しているところ。年明けからついていない…ではやってられないので、新年早々からよい勉強をさせてもらったとでも思うことにするしかありません。

意外だったのは、安静のためにポロポロとピアノを弾いてみると、ピアノは必然的に良い姿勢となるし、弾けばやっぱり楽しいし、おかげでずいぶん慰められました。
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2016年元日

あけましておめでとうございます。

毎年同じことを繰り返すようですが、友人にすすめられるままに始めたこのブログも、6年目に突入することになりました。
義務や努力がめっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、こんなことが丸5年間続いて現在も進行中というのは異例中の異例で自分でもびっくりです。
裏を返せば、こんなつまらないことでも人様がそれを読んでくださるというのは、素直に嬉しいし、ありがたいことで、それが大きなモチベーションになっているのは確かなようです。

さらには、数こそ多くはありませんが、見ず知らずの方(ときには海外から)からあたたかいメールを頂戴することもあり、ときどき自分は大それたことをしでかしているのではないか?という怖さを感じることもありますが、それだけに、内容は一定の慎重さと節度を肝に銘じつつ、今後もできるかぎり思ったままを書いていくつもりです。


昨年はディアパソンに通暁した、このピアノ生え抜きの技術者の方との出会いがあり、これはまったく思いがけないことでした。
福岡とか九州という枠を超えて、ディアパソンの最高ランクの技術者さんが、地元にまさか二人もおられるなんて夢にも思わなかっただけに、これはほとんど僥倖に等しい気がしています。
お二人は親しいご友人でもいらっしゃるようで、長らく浜松のディアパソン本社で開発改良などにも取り組み、会社自体をひっぱっておられた方でもあり、それこそ裏の裏までご存知なわけです。

おかげで、座り込んだ牛のように、にっちもさっちも行かない我が家のディアパソンは、繊細なタッチコントロールにも細やかに反応する、軽快で整然としたタッチを有するピアノへと生まれ変わりました。
しかも、ハンマーを交換することも削ることもせず、さりとて特別な技や装置を用いるでもなく、正攻法でここまで達成できたことに驚きと尊敬の念を禁じえませんでした。

マロニエ君自身はこれといって自慢できることもありませんが、昔から素晴らしい技術者の方にご縁があるのは、ずいぶん恵まれていると思います。とくに東京大阪でもなく、福岡という地方都市において実に多くの優秀な方々とのご縁があることは我が身の幸運を感謝するばかりです。

さて、ピアノはこれだけ整ったというのに、弾くほうは一向に前進がないばかりか、無能と、歳のせいと、絶対的に弾く時間が足りないせいとで、ますますダメになりました。
とくに新曲を練習するのは億劫になり、暗譜にも苦労するし、指もあきらかに動きが悪くなりました。
若いころは、まだそれなりに覚えられていたことを思うと、やはり脳が衰退しているせいかと思いますが、まあこればかりはどうしようもありません。

仮に努力しだいで「少しはなんとかなる」としても、努力とは本人の意志の問題であり、マロニエ君の性格じゃどう転んでも無理でしょうから、やっぱりどうしようもないことになります。

マロニエ君の周りのアマチュアピアノ弾きの方々は、皆さん相当きちんと練習されているようで、どうしたらそんなに熱心に練習できるようになるのか、その秘訣でもあれば伺いたいもの。
特に大人になって始められた人達は、却って自発的によく練習されるようですごいもんだと思います。
それにひきかえマロニエ君の練習量のなさといったら、我ながら情けなくなるほどで、これではピアノ好きを標榜する資格もないのかもしれません。

ただ、練習の成果を身をもって感じることもたまにはあって、どうかした具合で、ごくまれに1時間ほども弾いていると、たしかに自分なりに指はずいぶんほぐれ、ピアノはよく鳴り、普段よりずっと楽にザクッと弾けて感激することがあり、そんなときは自分で自分を弾けなくしていると猛省したりもしてみるのですが、ま、それもその場限りで持続しないのです。

あいも変わらず、こんな調子ですが、本年もよろしくお付き合い願えれば身に余る喜びです。

マロニエ君
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悪質な番号の検索

先日のパソコン本体へのSDカード誤飲騒動では、ネット情報によって命を助けてもらったばかりですが、どうやらネットの使い方というのは、日々より広範で多様化し、マロニエ君なんぞの知らないものが際限もなくあるらしい…ということを知るに及んで驚いています。

マロニエ君はいちおう仕事用と個人用の携帯電話を持っていますが、仕事用は問い合わせという側面もあるため、着信履歴をそのまま放置というわけにもいきません。とくに登録のない番号の中にも重要なものがある反面、相手の声を聞くなりイヤになる営業目的もしばしばで、運転中出られない場合など、車をわざわざとめてコールバックしてみると、なんと株取引の勧誘であったり、「お近くの不動産を探しています」とか、いきなり「現在のお住いはマンションですか?持ち家ですか?」「お使いにならない宝石などを買取りしています」といった内容で、憤慨することしばしばです。

まあ、相手だって仕事のために必死にやっていることと思えば一定の理解はできますが、何度かかけ直したあげくやっと通じたと思ったら、なんとこの手合だったりすると、やっぱりムッとしてしまいます。

昨日もそれがあり、30分ほどしてこちらからかけましたが夕方だったためか繋がらずで、そうなるとどこか気になってしまうもの。相手の分からない番号へ日を跨いでまで掛ける必要もないかと思いますが、近頃のネットは何が出てくるかわからにというへんな経験があったものだから、試しにその電話番号を検索にかけてみると、なんとなんと、いわゆる悪質な相手の番号であるかどうかを知らせるサイトがあって、その番号がひっかかってきたのにはびっくりでした。

その番号を元に、多くの人の口コミがあって、それをいくつか読むだけで、たちどころに電話の主がどんな相手かがわかりました。

それによれば、ただの営業ではない、限りなく詐欺行為をはたらいている相手らしく、テレビなどで悪徳業者の手口として紹介されるような内容そのままで、こういうものが自分の電話にかけて来たかと思うとやっぱり驚きます。
そんな相手とも知らずにわざわざこちらからかけ直しをしていたなんて、なんたることか!と思うばかりです。

そのサイトでは、当該電話番号に対するだけでも数十件の書き込みがあり、共通しているのが、尤もらしい会社名を名乗って「白熱灯が生産中止になることで、この制度を利用すると助成金が出るためのご案内です」というようなことをペラペラ言ってくるのだそうで、しかも断っても何度もかけてきて「しつこい」というような苦情がずらりと並んでいました。

もちろん、直接話せば断固として断りますが、まるで国の制度がどうのという専門的な話(しかもそれを悪用して収入を得ようという提案)を延々聞かされて、中には、ついその気になってしまう人もいるかと思うと、やっぱり怖くなりました。

くわばらくわばらと思って、その番号は敢えて消去せず、アドレス帳登録して名前を「出るな!」という言葉で登録しておきました。
すると昨日、今度はまったくちがう番号から電話がかかったので出てみると、相手はしっかりこちらの名前を確認し、続いてきちんと会社名(横文字のなんだかわからないような名前)と自分の名前を名乗り、いかにも手慣れた感じのプロみたいな話口調で女性が淡々と喋り出しました。
ところが、その内容というのが、まったく同じ「白熱電球生産中止に伴う…」という話であったのにはびっくり。

「せっかくですが、そういう予定も考えもまったくありませんので、悪しからず!」と決然とした調子でいうと、そういう手合には話してもムダだと思うのか、意外なほどあっさりと「左様でございますか。承知いたしました。お忙しいところ失礼致しました。」といって電話は終りました。

たぶん話に引っかかって来そうな相手かどうかは、絶えず感性を研ぎ澄ませているんでしょう。
それにしても同様の業者がたくさんいるのか、何本もの電話で一斉にかけまくっているのか、いずれにしろよほど気をつけなくてはなりません。

個人情報保護法なんぞ、世の中を暗くするだけのくだらない法律だと感じていましたが、こういう手合が暗躍する時代だということを考えれば、なるほどやむを得ないと思えてくるようです。
皆さんもおかしいと思う番号に遭遇した際は、番号を検索してみられることをおすすめします。
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ドイツ人とは?

車の月刊誌、CG(カーグラフィック)に面白いことが書いてありました。

ドイツ人とは、いかなる民族なのかということ。
永島譲司さんというドイツ在住30年余になる自動車デザイナーの方(有名なのはBMWの先代3シリーズで、あれは日本人のデザインなのです)が、長年の経験の中から書かれたものですが、読むなり呆れ返ってしまいました。

一般のドイツ人のイメージというのは、ありきたりですが、勤勉で真面目で冗談が下手で、でもバッハやゲーテ、ベートーヴェン、ハイネ、アインシュタインなど、とてつもない歴史上の偉人が綺羅星のごとく何人もいる、非常に優れた能力を有する民族というイメージがありますね。
世界の主たる近代文明の中で、ドイツ人が果たした貢献は計り知れないものがあることは誰もが認めることでしょう。

そんなドイツ人ですが、外から想像するのと、実際に長くその地で暮らしてみるのとでは、どうやらかなりの隔たりがあるようなのです。

ドイツ人は「ルールが好き」というのはあるていど認識されていることですが、実際のそれは、予想をはるかに超えたもののようです。
公園のブランコ、公衆トイレ、ホテルデパートのエスカレーターに至るまで、自己責任で使用すべしという但し書きがやたらめったら散りばめられていて、それをいちいち承諾した人だけが利用することができるようになっているのだとか。

ドイツでは何事によらず、氏の表現によれば「チョー細かいことまで」ルール化し、さらにそれを明文化するのが好きなのだそうで、書かれたものを厳守することがむしろ心地よいのか、精神的にもそれが落ち着くような気配だというのです。

たとえば、ドイツでは自販機のコーヒーから高級店のコニャックまで、すべての有料の飲み物には「何mlに対していくら」という価格と液体量が表示されていて、コーラなどを頼んでも量が正確にわかるように氷などは一切入っていないそうです。
こんなことを聞くと、ドイツ人が大好きなビールも、ジョッキには目盛りでも入っていて、まずそれを確認してからハメを外すのだろうか?などと思います。

唖然としたのは、カップルが結婚する際の手続きでした。
これから婚姻届を出そうというのに、将来何らかの理由で離婚する場合に備えて、財産分割に関する書類を作るのだそうで、そこには預金や不動産などは言うに及ばず、このテーブルはテレビはどちらが取り、この冷蔵庫と電子レンジはどちらの所有かということをすべて取り決め、事細かく書き出して、公証人の前でその書類にサインすることで法的な力を持つとあり、それがごく普通なんだそうですから、朝ドラ風にいえば「びっくりぽんや!」といったところですね。
日本でそんなことをしたら、たちまち破談になるだろうと思いました。

交通マナーに関する記述もあり、永島氏がドイツでの生活をはじめられたころ、フランクフルト市内の大通りでパーキングメーターにバックで駐車しようとすると、不思議な光景を見たとあります。
自分の車の後ろに10台ほどの車がズラーッと並んでおり、何で自分の後ろにそんなに車が並んでいるのか、はじめはその理由が皆目わからなかったというのです。

氏はその後も同様の経験を何度も何度も繰り返すうちに、ついに理由がわかったのだそうで、それによれば、ズラリと並んだ多数の車はただ単に前の車が駐車をし終えるのをずーっと待っているだけだというのです。

驚いたのはその状況で、そこは2車線の大通りで他に交通量も少くスカスカだったそうで、普通ならとなり車線から抜かしていくのが普通であるのに、多くの車は目の前の車が駐車が完了するまで身じろぎひとつせずにじーっと待っているというのです。

氏いわく、「要するに彼等って頭がタカイというか、思いつかないのである。」「目の前で誰かが駐車をはじめるとその車ばかりに気をとられるせいかとなりの車線に一瞬入れば前に行けることに気が付かない。いや、となりの車線がスカスカであることがそもそも目に入らない!良く言えば一点集中力がものすごく高いともいえるが、概してドイツ人というのはそんな具合でただただ一直線。」と書かれています。

予期していない事が起こったりしたときに頭を切り替える器用さに欠けるのだそうで、だから何にでも「規則」を必要とすると分析しています。
すべてのことに「チョー細かい規則」を張り巡らせて、それにしたがってみんながキマリ通りに動くことが前提となり、予定外のことが突如起こると、それに対応するのが不得意なんだそうで、ここまでくると規則に依存するあまり、頭も使わないのかと思えてしまいます。

ドイツも自転車の事故は問題のようで、交差点で車はスピードを落とす規則が「ある」のに、自転車にはそれが「ない」から、車に気づいてスローダウンしなければ衝突することがわかっても自転車はスローダウンしないらしく、おまけにゲルマン民族の健脚で走らせる自転車はたいてい30km/hから40km/hは出ているというのですから、相当怖いようです。

そんなドイツ人が例のフォルクスワーゲンのディーゼルエンジンの排ガス不正問題を引き起こしたのですから、これは珍しく頭を切り替えて器用な対応をやってみた結果なのでしょうか。
しかも、不正のやり方まで、ずいぶんと一直線だったようですね。
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心理と味わい

近ごろはCDの聴き方ひとつにも、人それぞれの方法があるようです。
マロニエ君はスマホも持たず、音楽を聴くのは専ら自宅か車の中に限られ、まずイヤホンで聴くというのはありません。そのつど聴きたいCDをプレイヤーに入れて再生するという旧来のスタイルで、自分がそうなので、いつしかこれが当たり前と思い込み疑問にも感じていませんでした。

ところが、あるとき知人のメールによれば、CDをパソコンに読み込んで編集すると、曲のタイトル(トラック名)が表示されないことがあるらしく、それが非常に困るというのです。
トラック名なんてマロニエ君は意識したこともないことで、はじめはなんでそんなことが重要なのかピンとこなかったのですが、スマホやパソコンに音源を落とし込んで、そこからイヤホンなりスピーカーなりに繋いで聴くというスタイルでは、操作画面にトラック名が出ないことには曲を呼び出すこともできないわけで、ははあと納得した次第。

実は、マロニエ君もずいぶん前にiPodを買って、はじめは大興奮でずいぶん遊んだものの、しばらく使ってみて自分には合わないことがわかり、さっぱり使わなくなったことを思い出しました。さらに最近は、車にもハードディスクがあって音楽も相当量がここへ記憶させることができるので、一度読み込みをしてさえいればいちいちCDを出し入れする必要もありません。

こちらも始めの頃は感激して、せっせと読み込みに専念し、あげく一大ライブラリーといえば大げさですが、そういうものを作ったものでした。
ところが、車に乗り込み、エンジンをかけてさあ出発という一連の動作の中、あるいは走行中の信号停車中などに、この呼出操作をするのが(マロニエ君が苦手なせいもありますが)甚だ煩わしく、時間もかかり、鬱陶しくなり便利なはずのものが却ってストレスの原因になることがわかりました。

また、何を聴こうかという当てをつけるのも、トラック名がやみくもに並んでいるだけでは興が乗らず、最後はいつも適当というか、妥協的なものを聴くハメになるだけでした。
要するに選択範囲が多すぎて、しかもそれを液晶の無機質な文字だけでパパッと選択するという行為が、感覚上の齟齬を生み、自分にとっては快適な流れが生まれなかったわけです。

その点でいうと、自宅でCDケースの山の中から何を聴くかを決めるのが自分には自然であるし、車の中でもせいぜい50枚足らずのコピーCDを差し込んだファイルケースをぱらぱらめくりながら探すくらいが規模的にもちょうどよく、無用な神経も使わず、以来ずっとこの方法で通すようになりました。

しかし、今や時代の波はそんな悠長な感覚を顧みるひまもないほど進化し、すでにCDという商品を購入することさえどこか時代遅れの行為となりつつあって、とてもではありませんが感覚がついていけません。

本でも電子書籍などがどれほど流行っているのかいないのか知りませんが、とてもそんなものに切り替えようとは思いません。もちろんちょっとしたニュースをネットで走り読みするぐらいはいいけれど、いわゆる読書をするのに、液晶画面を相手にしようとはまったく思わない。
実際の本を買うほうが、値段も高く、場所もとり、将来はゴミになるかもしれないという主張もあるようですが、それならそれで結構。それでも紙に印刷された本のページを繰りながらゆっくりと読み進むことが読書の楽しみだと思うのです。

その点では、音楽は実際のコンサートでない限り、イヤホンやスピーカーから良質な音が出てくればいいわけで、この点では読書よりいくぶんマシのようではありますが、しかしマロニエ君にいわせれば、そこにもちょっとした違いはあるように思います。

昔はレコードを聴くといえば、大きなLPを注意深く取り出して、うやうやしげにターンテーブルの上に置き、慎重に針を滑らせてという、いまから考えればいささか滑稽ともいえる手順が必要でした。
しかし、その中に、音楽を聞くための心構えや集中力、期待感などもろもろの心理がうごめいて、出てくる音を耳にする前段からそれなりの盛り上げの効果があったようにも思います。

同じようなことが、今ではCDをケースから取り出してプレイヤーに入れ、再生ボタンを押すまでの手順の中に少しは生きているような気がしなくもないのです。少なくとも電話やメールをして写真や動画を撮って、ゲームに興じ、さらには無数のアプリ満載の小さな機械の中に一緒くたに入った音楽を聴くよりは、よほど情緒的なアプローチのようにも思うわけです。

実務実用の事ならそれも構いませんが、音楽や文学に接するときまで、極限まで追求された便利の恩恵に預かろうというのは、なんだかスタートから違うような気がするのですが、まあこれも今自分がやっているスタイルを無意識のうちに肯定しているだけなのかもしれません。
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恐怖の20分

パソコンが生活の中に入ってきたことで、計り知れない恩恵に浴してきたことは事実であるいっぽう、同時に神経消耗の機会も断然増えたように思います。

とくにパソコンがめっぽう苦手なマロニエ君にとっては、いろいろなトラブルに見舞われるたび、疲労困憊し、時には寿命を縮めるような目にも遭ってきたのは事実です。

最大のものは、10年ほど昔のことだったと思いますが、CD-RWをしばしば使っていた時期があり、用済みのものは消去して書き換えていたところ、あるとき確認不足もあって、ハードディスクに記憶された内容を全て消してしまうという大ミスもやらかしました。

画面上、CD-RWとHDのボタンが上下隣り合わせであるのが設計の不親切だと今でも思いますが、ともかく一度消えたものはどうしようもなく、友人知人を総動員して修復機能など、あらん限りの策は尽くしてもらったものの、修復できたのはごく一部でした。
まさに身体中の血が一気に下へ落ちていくようで、胸はえぐられ、顔から両肩へかけての皮膚が焼かれるような思いをしたあげく、茫然自失、大切なものを多く失い、こんなことはもう二度とゴメンだと心底思いました。

そんなことから、だいぶ用心するようにはなったものの、それでも慣れというのは恐ろしいものです。
戦慄の瞬間は、ついにまたやってくる事になりました。

マロニエ君のパソコンはiMacなのですが、デスクトップの大きなモニターは本体と一体型です。CDドライブももちろん内蔵されていて、メディアは画面横の右側面から挿入するという構造。
さらに、CDドライブのすぐ下にSDカード用の挿入口があり、はじめの頃は目でよく見ながら出し入れをしていたものですが、だんだん使い慣れてくると右手がおおよその場所を覚えてしまって、忙しいときは、いちいち見ないで挿入するようになりました。

ところがです!
昨日、SDカードをいつものようにヒョイと入れたところ、なんだか右の指先に伝わる感触がいつもと違いました。
ん??と思って上半身を右に傾けて見てみると、なんと、CDドライブの挿入口にSDカードを差し込んでしまっており、しかも下に傾いた状態で入ってしまって、SDカードの小さな青い角がほんの1mmぐらい出ているだけでした。

これはえらいことになったと思って、慎重に爪の先でつまんでみたのですが、やはり気持ちが焦っていたのか、取り出すどころかあっという間に中に入ってしまいました。まるで溺れる犬の足をつかみそこねて、氷の張る池の中へ無残に吸い込まれていったようでした。
挿入口はホコリが入らないためか、スポンジ状のものが左右ピッタリと合わさっているため、中の様子を窺い知ることはまったくできません。しかもその間隔は2mmほどだし、パソコン全体もネジ一本緩めるような場所はなく、機械をバラして取り出すことはどうみても不可能です。

この時点で、心臓はどうしようもないほどバクバクし、血圧が上がったか下がったか知りませんが、ともかく真っ青というか絶望的な気分になってしまい、思考力もほとんど停止状態でした。ようやく思いついたのは、事務用クリップを伸ばして先だけ曲げ、それで引っ掛けて取り出そうということですが、これは何度やってもまるでダメで、そもそもSDカードらしきものに触っている感触すらありません。

そのSDカードには仕事上非常に大事な写真が多数入っていることを思うと、あまりに突然のことで、神経の作用だと思われますが両手両足まで痺れてくるのがものすごく不快でした。明日は本体を抱えてアップルストアに行くのかなど、いろいろイヤな想像がめぐります。

そんなとき、ふと思ったのが、ネットで検索でこの緊急事態の解決法が万にひとつもないものかということで、ショックで思うように動かない指先に力を込めて、あれこれの言葉を連ねてキーボードを叩いたところ、同様の目に遭った人の書き込みを発見!
やはり針金のたぐいでは細すぎてダメだとあり、なんと厚紙をコの字型にカットして、それを奥まで差し入れてSDカードごと引っ張りだすというものでした。なるほど!!!と思うや、さっそく机の周りを見渡します。

果たして、これはどうだろうと思ったのが、amazonからCDが送られてきたときに入っていた薄手のダンボールの封筒でした。それを大急ぎで解体し、あまり慌てて怪我をしないよう注意しながらなんとかそれらしきものを作り、さっそく挿入口に差し込んでみますが、なかなか思うようにはいきません。
5~6回やってもダメなので普通なら諦めるところですが、もはや他に手立てがないため、泣きたいような気持ちを抑えながら、それでもひたすら試しました。紙なので、コの字型の付け根の部分がだんだん弱ってきて危なくなってきたころ、天の助けというべきか、ついにSDカードの青色がわずかに顔を出したときの嬉しさといったら、思わず狭い自室で叫びたいほどでした。

今度こそはと慎重の上にも慎重にそれを掴み、ついに無事に取り出すことができました。
世の中には、なんというありがたいことを書いてくださっている方がいらっしゃるのかと、その方にはひれ伏して拝みたいくらい感謝しています。
本当に救われましたが、金輪際こんなことイヤで…非常に疲れました。
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ウエイトレス

とある平日の午後のこと。
仕事の都合で昼食を取ることができず、午後に外出したついでに、軽くなにか食べておこうとマロニエ君とこのときの連れの二人で、某ビルの地下にある中華料理店に入りました。

時刻は16時30分ぐらいで、ちょうど客足が途絶える時間帯なのか、店内に入ったときお客さんはゼロ、準備中かと思ったほどでした。

と、すかさず「いらっしゃいませ~、どうぞ~!」と声がして、ウエイトレスが出てきて奥の席へ案内されました。
奥は通常より床が15cmぐらい高くなったエリアで、壁際には電車のような横長のシートが配され、その前に幾つかのテーブルが並び、それに相対するほうだけ一人掛けの椅子が置かれるという、よくあるスタイル。

こちらもお客さんはゼロでした。
マロニエ君は連れのほうへ奥の席を譲り、一人掛けの椅子に腰を下ろし注文を済ませましたが、無意識に鞄を隣の椅子の上に置き、相方はシートが横長につながっているため、自分の少し横にやはり鞄を置いていました。
それにもうひとつ、やや大きな荷物があり、それをテーブルの真横に置きました。
いま考えても、この状況では特に問題になるようなことではなかったと思います。

するとウエイトレスは注文を聞き取った後、メニューを抱えたまま、「こちらは、ご遠慮いただいてよろしいでしょうか?」とマロニエ君の鞄のことを言い出しました。
さらに畳み掛けるように「それと、こちらのお荷物(テーブルの横においた荷物)は、あちらに置いていただいてよろしいでしょうか?」といささか命令調に言いました。

みると3mぐらい先に、わずかなスペースらしきものがあって、そこが大きな荷物の置き場であるということを言いたいようでした。すかさずウエイトレスは大きな網カゴのようなものをどこからか持ってきて床に置き、「バッグはこちらにお願い致します」というので、やむなくそこに鞄を入れました。
それに続けて相方も鞄を入れようとすると、「あ、そちらはそのままで結構です」といちいちこまかく干渉してくるのが気に触り始めました。

この時点でふたりともかなりムッとしていたのですが、まだ抑えていました。
ところがウエイトレスは、どうでも大きいほうの荷物を向こうへ移動させないと気がすまないらしく、「こちらのお荷物は、あちらにお願いしてもよろしいでしょうか?」と同じ言葉で二度言ってきたので、面倒くさくなり「どうぞ」といって知らん顔しました。要は『そんなにあそこに置きたいのなら、あなたが持って行けば…』という意味ですが、ウエイトレスはお客が「自分で」移動させることに強くこだわっているようで、じっと横に張り付いて、こちらが自分で動くのを待っています。
「なにがなんでも自分の指示に従わせる」ということのようです。

そりゃ、お店が混んでいれば、いわれなくても鞄を隣の椅子の上に置いたりはしないし、あれこれの協力は惜しみません。しかし、繰り返しますが、広い店内にお客は我々を除いて「ゼロ」であるにもかかわらず、飛行機ではあるまいし、なんでこの女性はこうまでムキになってひとつひとつの荷物の位置にこだわり、すべてを自分の采配に従わせようとするのか。

ついにマロニエ君もカチンと来て「どうして、鞄の置き場ぐらいで、そこまでうるさく指示するの?」というと、「は? こちらに置かれていると、他のお客さまをご案内できませんので」と虚しいような建前を振りかざしますが、実際は誰ひとり居ないのですから、これはもう嫌がらせ同然です。
好意的に解釈しても、物事を柔軟に考えることができず、自分はあくまで正しいことを言っているというつもりでしょう。

繁閑の別なく、いつもそうしているのか、荷物はこうだというカタチにさせないと「この人が、個人的感情で気がすまない」のだろうと思います。世の中にはときどきこういう性格の人がいるもので、臨機応変に判断するのではなく、自分こそがカタチで覚えて込んでいるため、状況を問わずそのカタチに収め込んでしまわないと許せないのだろうと思われます。

こういうことに無抵抗では従わないマロニエ君としては、最近はだいぶおとなしくしているつもりですが、大きい方の荷物を手ずから移動させることは、あまりにバカバカしいので絶対にしませんでした。
しかしウエイトレスもさるもので、決して自分で運ぼうとはせず、ついにそのままになりました。

もともと軽く食事でもしようということが、思いがけず嫌な雰囲気になったことはいうまでもありません。相方は「どういうこと? こんな店、食べる気しないですよね」というので、マロニエ君も大いに同感で、まだウエイトレスが立ち去って1分経つかどうかぐらいだったこともあり、サッと席を立ちました。

我々が出口に向かおうとすると、あれだけ口やかましく言ったウエイトレスはぽかんとした表情。その口から出た言葉は「もう、オーダーは通ってますけど…」とさっきよりトーンも低めでしたが、まだやっと鍋を出したぐらいのことはわかっているので、「こんなにガラガラなのに、あんなに命令的に指図をされてまで、食事をする気がしないのでやめます」といって店を出ました。
もう二度と行きません。
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本当にかんたん

すでに先々週のことですが、注文から3日ほどした頃、ブルーレイレコーダが届きました。
が、自分で取り付けることを考えると気が重く、すぐに開けてみる気にもなれません。

さらには、これまで使っていたDVDレコーダのHDDの中には、まだ視ていない番組がゴロゴロたまっているので、それをどうしたものかというのも正直なところ。

下手に取り外して、新しいレコーダを首尾よく取り付けられなかったら、その時こそ視ることも録画することもできなくなるわけで、それを思うとつい一日延ばしになってしまいます。

むかしとは違い、なんでもコンセントに差し込めば使えるという時代ではなく、パソコンの周辺機器を取り付けるだけでも、設定やらなにやら、頭が痛くなりそうな操作の連続という記憶があります。もともとその方面の自信はないし、現在のテレビとレコーダの時もお店の人がやってきて、画面を見ながらずいぶんややこしい設定作業をやっていた記憶があるので、考えただけでうんざりでした。

…では、取り付けの自信もないのに、なぜネット通販で買ったのかというと、レコーダの取り付けはシロウトにも可能か?というたぐいの検索をしてみると、異口同音に「かんたん!」「だれでもできる」「小学生でもできる」などと事もなげに書かれているので、そうなんだ…と思い、安さの魅力もあってこちらで購入してしまったしだい。

それでもなんとなく手をつけるのが億劫であることに変わりはなく、送られてきたままの姿で数日放っておくと、ついに家人から「いつになったら取り付けるの?」と言われ出し、よく聞いてみると、BSが復活するのをずっと「待っている」のだそうで、ついに覚悟を決めて着手することに。

箱を開け本体を取り出してみると(今どきの機械はどれもそうですが)、スペックは格段に進歩しているにもかかわらず、よりコンパクトで、軽くて、はじめはなんとなく物足りないような感じがします。くわえて、作り自体も新しくなるだけ明らかに安っぽくなっていくようで、こういうところにも時代を感じるものです。

まあ、壊れたらパッと買い換えるには、このほうが未練も残らずいいかもしれませんが。

さて、慣れない作業をするには準備が大変で、背後に刺さっているコード類を間違えないようにクリップで目印をつけながらおそるおそる引き抜いて、同じように新しい機械に差し込むと、これは意外に短時間で済みました。
しかしチャンネル設定などが大変だろうから、ここからが本番だと思って取説片手に画面を操作してみると、なんのことはない、指示にしたがって「はい」か「いいえ」のボタンを何度か押し、郵便番号などを入力するだけで、スルスルと終わってしまいました。

「だれでもできる」というのはまさしく本当で、逆に、こんなことをするだけで大型電気店では4000円も取るのかと思いました。
数年前とはずいぶん様子が変わっているようで、悩みの種であったチャンネル設定などは、機械のほうですべて自動的にやってくれるようで、このあたりはさすがに技術の進歩が身にしみました。

初めての経験は、2番組同時録画という機能で、さっそくこれを試してみたところ、たしかに同時刻に2つの番組が両方録画されているのは感動的でした。
毎週連続して録画する番組の同時刻に、これは録画しておきたいというようなこともたまにあると、二者択一に悩ませられたものですが、これからはその必要もないわけで、こういうときはやはり新しい機械はいいなぁと思う瞬間です。

それでも、HDD内は空っぽで、これから順次たまっていくとは思うものの、見るものがないというのは心細いものがあります。
録画したい番組は実はそうそうないので、旧に復するにはひと月はかかるかもしれません。
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芸能人化?

知人がコンサートに行って、一通りでなく憤慨して帰って来られたようでした。

その方はユンディ・リのピアノリサイタルに行かれたものの、そのあまりの演奏の酷さに驚き呆れ、その不快感が翌日になっても収まらず、まだ続いているというのです。

曲目はオールショパンで、バラード全曲や24の前奏曲などであったようですが、冒頭のバラード第1番から、まったくやる気のない演奏で、「この人、ピアニストをやめるつもりか…?」とさえ思ったといいます。

どの曲でも楽譜を平置きにして、それを自分でめくりながら弾くというもので、大きなミスがあったり、パッセージごとすっ飛ばされたりと、とても本気で弾いているとは思えないもので、会場もまったく盛り上がらず、拍手もまばらだったといいます。
とりわけ24の前奏曲はCDの新譜が出たばかりで、普通なら時期的にもよほど手の内に入っているのが普通であるのに、この日のユンディ氏はこれの暗譜もおぼつかないといった様子で、ずっと楽譜を見ながらという状態が続いたそうです。

今も日本ツアーが全国各地で開かれるようですが、リサイタルという名のもとにギャラを取りながら練習しているといった風情で、自分の名声をどう思っているのかと首を傾げるばかりです。

ソロリサイタルでも、楽譜を見ながら弾くこと自体が悪いことではなく、晩年のリヒテルはじめ、ルイサダ、メジェーエワなど、現役でも楽譜を置いて弾くピアニストはいますし、楽譜を見て弾いたからといって、即それが非難されるものではありませんが、ユンディ氏の場合、どうもそういうこととは様子が違うようです。

むろんピアニストも生身の人間なので、上手くいくときもいかないときもあるし、気分が乗らないこともあるでしょう。しかし、いったんステージを引き受けた以上、プロの世界が厳しいのは当たり前。とくに一流人は、どんなに調子が悪くても「演奏クオリティの最低保証」ができないようでは、ステージに立つべきではありません。

わけてもユンディ氏は、ショパンコンクールの優勝者で、ドイツ・グラモフォンの専属アーティストで、世界を股にかけて活躍する第一級のピアニスト、チケット代も最高クラスのひとりですし、当然それに相当するギャラをしっかり受け取っているはずです。

ちなみに知人が聴いたのは3階のB席で9000円、S席は13000円だそうです。
しかも多くの人は数カ月前から前もってチケットを購入して楽しみにしていたのはもちろんのこと、この金額ともなれば、それなりの演奏を期待しているのは当然です。音楽的アプローチやセンスや解釈が合わないことはやむを得ませんが、無気力な演奏で惨憺たるステージになってしまうというのは、いったいどういうことなのかと思います。

そんな話に呆れていると、別の友人が変な話を持ってきてくれました。
11月2日(月)のYahoo!ニュースによると、この福岡シンフォニーホールでのリサイタルのわずか二日前、ユンディ氏はソウルでショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏中、指が止まってしまうというアクシデントがあり、それを「指揮者とオーケストラに責任転嫁した」と報じられた由。それはブログで本人が否定と謝罪をしたけれど、韓国での批判は収まらず「芸能界で悪ふざけしすぎ」「芸能人だから練習するひまもない」「サイドビジネスが忙しいようだ」「ラン・ランを見習うべき」といったコメントであふれているとあります。

それに関連して他の記事にも目を向けると、まだありました。今年10月に開催され終了したショパンコンクールにおいても、ユンディ氏は史上最年少の審査員に抜擢されながら、そのうちの3日間を欠席したというもの。その理由というのがちょうどこの時期に上海で行われた人気俳優とモデルの結婚式に出席するためというのですから、こちらも「恥さらしな行為」として大ブーイングだったようです。

さらに別の記事(Record China)によると、最近のユンディ氏は女性スキャンダルばかりが話題で、台湾女性、中国の人気女優、香港の女優など次から次にお相手を変えては世間を騒がせているといいます。
もちろんクラシックの音楽家が聖人君子であるなどとは思ってもいませんし、多少のことはむしろ大目に見られる世界だろうと思いますが、なんとなく全体として受ける印象が、あまり気持ちのいいものではないのも事実です。
「かつては記者に追いかけられ、スキャンダルを捏造される被害者的な立場だったが、最近では進んで話題を提供し、自らを“娯楽化”していると批判も浴びている。」ともあります。へええ。

世界的な演奏家などが、ある意味何をやっても許されるのは、あくまでも本業において一流の仕事をやってのけることへの代償としてですから、肝心のピアノがボロボロになるようではだれも見向きもしなくなるような気がします。
せっかくあれだけの才能がありながら…惜しいことです。
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油断禁物

ある日突然、BS放送が一切映らなくなりました。
我が家は地上波の放送はケーブルテレビですが、BSはベランダにアンテナを取り付けてそこから受信しています。

このBSアンテナのすぐそばに木があって、枝葉が茂ると受信電波を阻害するので、今回もそれだと思って「高枝切り」を使って可能な限り周辺の枝を切り落としました。

高枝切りというのは自重もある上に刃先との距離があるぶん、作業はやり辛く、腕から肩にかけてガクガクに疲れるので、できるだけやりたくないのですが映らないとなればやむを得ません。
「さあこれでよし!」というわけで勇んでテレビをつけてみますが、果たして何の変化もなく、あいかわらず画面には「受信できません」という無情な警告が出るばかり。

それで購入した電気店に電話したところ、アンテナの調整に来てくれることになりました。
テレビとアンテナの間を何往復もしたあげく、設定などもやり直した結果、めでたくBSは復活し、出張料や作業代を支払って一件落着となりました。BSの電波受信もすこぶる良好とのことで、その点も一安心でした。

…のはずだったのに、それから数時間後、なんとなくBSにしてみると、なんと、また「受信できません」の警告が出ていることに愕然!
すぐに電話しましたが、その日はどうしても他の予定があるというので、翌日また来てくれて、DVDレコーダ内のBSアンテナ設定というのが「切」になっていたというので、「入」にすると映るようになるようです。

で、その設定画面の呼び出し方なども教えて帰って行かれましたが、信じがたいことに、また時間を置くと「受信できません」となり、どうやらひとりでに設定が「切」になってしまうようでした。それを伝えると、受信状況に問題はないことからも、レコーダの故障以外には考えられないということでした。
やむなくレコーダの修理受付に電話したら、出張代+修理代で、金額も見てみないとわからないということで「できれば買い替えられたほうが…」という決まり文句を聞かされる羽目に。

店側に残っている記録によれば、購入後7年が経過しており、それを修理するより、もはやブルーレイレコーダでも買ったほうが得策だというのもたしかに一理あります。出たてのころはずいぶん高かったブルーレイレコーダも、今では安いものなら3万円台からあるようで、さらに機種によっては容量が1TB(現在の250MBから一気に4倍)となったり、2番組同時録画なども可能だったり、なんと無線LAN機能のある機種同士なら別の部屋のレコーダと内容を共有することもできるなど、いま使っているものとは比較にならない多機能ぶりのようです。
ブルーレイレコーダは、これまでのDVDディスクの再生も可能だというので、それならDVDレコーダにこだわる必要もなく、けっきょく新しく買うことになりました。

できれば前回同様の大型電気店で買って、5年保証などのアフターサービスなどにも期待したいという漠然とした考えがあったのですが、よくよく話を聞いてみると、いざ故障というときは来てくれるのではなく、自分で店舗まで機器を持って行かなくてはならない(ということは取りにも行く?)など、その内容は期待ほどではないことがしだいにわかってきました。

近くの店頭で購入しても、いざ故障したときはそんな手間隙がかかるならメリットも薄らぐようで、ネットでもっと安く買ったほうがよほどせいせいするというものです。
ネットでは、これというお目当ての機種は4万円台前半で買えるのですが、これを店頭で買うと、どこも6000円から10000円ほど高くなり、しかも取り付け料も数千円が別途請求とのこと。ふーん…。

で、ネット購入に絞ったわけですが、こっちにもオプションで5年保証というのがあり、それに加入するには、これもまた店によって差がありますが、おおよそ3000円ぐらいが相場のようでした。
せめてこれぐらいは付けておいたほうがいいかなと思いつつ、遠方の店から通販で買った場合、どういう流れで保証を受けるのか気になったので直接電話して聞いてみることに。

その結果わかったことは、1年以内はメーカーの保証を使い、それ以降5年以内に発生した故障に関しては、購入店ではなく「保証会社」へ自分で連絡して手続きを行うというもので、機器も自分で取り外して、自分で梱包して、メーカーの修理受付の手続きをした上で発送するという、要するにすべての作業を自分の手でおこなうというものでした。

さらに手続き開始から修理完了まで、早くても2週間、場合によっては一ヶ月ほどかかることもあるらしく、その間は当然ながらレコーダは無しの状態になるわけです。代替機のことを聞くのは忘れていましたが、あの調子ではそんなものあるはずがないという印象でした。
それでもいいという方もいらっしゃるかもしれませんが、マロニエ君にしてみれば「そんな面倒くさいこと、ヤなこった!」というのが偽らざるところです。

ちなみに「安心」や「信頼」を標榜する大型電気店とどこが違うのかというと、どちらもメーカーで修理することに変わりはなく、大型店では修理の受付を店頭窓口で代行するという、たったそれだけの事!のようです。要するにネットで買ってもメンテ上のデメリットはほとんどなく、購入価格が安いだけマシだというのが率直なところです。

5年保証などと謳い文句だけは尤もらしいけれど、実際にそれを使うとなると、煩雑きわまりない現実が待っていることがわかって、自分の性格からしても、そこでまた不愉快やストレスでヘトヘトになるのは目に見えており、これもやめてしまいました。フウフウいったあげくに一ヶ月もビデオのない状態になるくらいなら、安いレコーダでも買ったほうがマシかもしれません。

なんだかトリックのようで、印象としては、安心や信頼とは真逆の、なにかにつけ気を許せない世の中だなぁという後味だけが残ります。こんなことも「自己責任」ってやつかと思いますが、何にしてものほほんとはしていられない時代なんだなあと思うばかりです。
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ルールの死角

つい先日、友人とIKEAに行って、ついでに食事をしていた時のことです。

この日は平日の夜だったので、店内もガラガラでレストランもお客さんは少なめでした。
カートで食べ物を運んで適当にテーブルに座ると、すぐとなりに高校生らしき制服姿の男子生徒が3人で来ていて、テーブルの上には本やノートや筆記用具がこれでもかとばかりに広がっていました。

なんと彼らはそこで試験勉強をやっているらしく、マクドナルドなどの店内で長時間椅子とテーブルを占領して勉強のようなことをやっているのはしばしば目にしていましたが、それがついにはIKEAのレストランにまで進出してきたのかと思いました。

見たところ、食べ物はなにひとつ無く、ドリンクバー(たぶん120円)のためのカップとグラスがあるばかり。
とりあえず勉強という目的があるためか、それほどおしゃべりはしませんが、3人が代るがわる飲み物を取りに行くのは視界の中でもいささか目障りなほど頻繁で、まずい席に座ったものだと思いました。

ときどき骨休めなのか、断片的な会話が聞こえてきますが、飲み物を持って戻ってきたひとりが椅子に座りながら「8杯目!」などと言ってはニヤリと笑ったりしています。
それからも、おかわりのための往復はとめどなく続きました。

いまさらこんなことは珍しい光景でもなし、新鮮味もない話題かもしれませんが、見ればこの3人は、4人がけのテーブルを縦につなぐように占領しており、つまり8人分の椅子とテーブルを3人で広々と使っています。この日は空席のほうが多いくらいでしたから、それで直接的な迷惑が発生したというのではありませんが…。

それにしても、こういう場所で勉強するというのは、どういう感覚なのかと理解に苦しみます。仲間と一緒に勉強したいという気持ちはわかるとしても、そのために店舗の飲食のためのテーブルを目的外に長時間使用するというのはどう考えてもいただけません。

さらには友人が見たと言っていましたが、彼らの足元には大きなスポーツバッグが置いてあり、おかわりを持ってくるたびに何かをそこへさっと放り込んでおり、帰りしなにファースナーが開いているので中が見えたんだそうですが、そこには未使用のミルクや砂糖やティーバッグなどがたくさん入っていたとのこと。
こうなると、ドロボウではないのか!?

最小限度の注文をアリバイにして長時間テーブルを占領し(空いているのをいいことに8人分のスペース)、延々とおかわりを繰り返したあげくに、モノまで持って帰るというのは言語道断です。

これがいっそ万引きなどであれば、店や警察に捕まる危険もあるし、犯罪として明確な罪科があるのに対し、こういうやり方は、いわば店が定めたルールの上に乗って悪用する行為であって、最終的に罪に問われることもないことを見通している点が、なんとも現代的で抜け目がなく、その浅ましさには横にいるこちらのほうがイライラさせられました。

しかもどの顔を見ても、悪事どころか、いかにも善良そうな面立ちで、そこに却って凄みを感じます。

昔の学生時代が良かったなどというつもりはありませんが、あんなに若い頃から、ルールの死角をすり抜けるような悪辣な行為を公然とやってのけて、それを当たり前のようにして育っていくというのは、なんだか末恐ろしい気がしました。

昔のように、無邪気に互いの家に往き来できないような、いろんな複雑な背景が現代にはあるのかもしれないと思いますが、とにかく難しい時代になったものだと思います。

この3人、マロニエ君達が来る前からいて、食事が済んで、お茶をして席を立つ頃も、一向に帰る気配はありませんでしたから、きっと閉店までいるのでしょう。
あの言葉の調子ではひとり10杯として3人で30杯、テーブルを2つ占領され、ミルクや砂糖やティーバッグまで大量にお持ち帰り、それで払った料金は3人合計360円となれば、お店はたまりませんよね。

当人たちは、そういうことは関係ないし、考えもしない、もしくはIKEAは世界的な企業なんだから、それっぽっちのことは痛くも痒くもないはずと思うのでしょうか…。
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報道のセンス

今どきのニュースは、後味の悪いものが年々増えてくるようで、世の中はどうなっていくのだろうという出口の見えない不安にかられることがしばしばです。
政治や外交のこと、経済のこと、内外の殺伐とした事件など、憂慮すべき問題はあとを絶ちません。

そんな中では、最近はようやく安堵できる大ニュースが複数あったのは幸いでしたが、ここで政治や思想に関することを書く気はないので、それには敢えて触れないでおきます。

ニュースに関する不満は、ニュースそれ自体の内容もさることながら、マスコミの報道の仕方も大いに関係していると云うべきでしょう。思想的偏向があるのはもちろん、とくにTVニュースなどでは、つまらぬ流行の押し付けや視聴者の不安を煽って楽しんでいるかのような趣味の悪ささえ感じます。
また、基本となるべきニュースはそこそこに、すぐに地域型の美談のたぐいに走るとか、特集などと称してお涙頂戴の話題に切り替わるのは、いつもながら「こんなものがニュースという枠内で取り上げるべき事柄だろうか…」と違和感を覚えることが、あまりに多すぎるように思います。

もうひとつは、あれほどまでにスポーツを大々的に、何かというと国民最大の関心事であるかのように、わざとらしいテンションで取り上げるのもいかがなものかと思います。
それに連なって、スポーツの場で最高の競技をすることが本分であるアスリートにどうでもいいようなことを喋らせて、それをありがたがるという風潮もどうにかならないものか…。
そもそもスポーツってそんなにまでエライんでしょうかね。

いずれにしろ、マスコミ自身がまず報道するネタの取捨選択をするわけですが、その尺度からしておかしいと思うわけです。

昨日のニュースを例にとっても、第3次安倍改造内閣が発足したにもかかわらず、それはずっと後で、どのチャンネルも申し合わせたように冒頭からノーベル賞一辺倒、これが放送時間の大半を占めています。
知るかぎりで、NHKの7時のニュースはそうではなく、それが珍しいくらいでした。
日本人がノーベル賞を受賞することは、むろん嬉しいことではあるけれども、それを取り扱うニュースの在り方はというと、これはまったくいただけないもので、受賞の根拠となる業績や研究成果などについての説明はパパッと通り過ぎるだけで、あとは受賞者の家族や友人や恩師などの喜びの様子をやたらと取り上げて、それのくどいことには閉口します。

むろん偉大な研究の影には、それを支えた多くの協力者がいるはずですから、家族その他のコメントなども少しはあるとしても、ものには限度というものがあり、あくまでも主役は受賞者でありその業績なのですから、それをはき違えたような捉え方はどうもいただけません。

だからといって、シロウトに専門的な高度な科学の話などをされてもなかなかわかりませんが、やはりそこを少しでも噛み砕いて、一般人にもわかりやすく紹介すべきではないのかと思います。
しかし、マスコミは受賞者の功績より、受賞したという結果だけに興味があるようで、「おらが村から…」的な視点で地元や身内の人間が今とばかりに前に出過ぎることは、せっかくのノーベル賞がただのホームドラマへと変質していく気がします。

マスコミは「喜び報道」の名のもとに、せっかくのノーベル賞をこんなにベタベタと手垢だらけにしていいものかと思います。少なくともマロニエ君はノーベル賞ぐらいのことになれば、もう少しスマートなやり方で栄誉を称えていくことを望みます。

芸術分野では世界的権威である高松宮殿下記念世界文化賞などは、受賞者の取り扱いもよほどまともで、どうしてこんなふうにできないものなのか。
スポーツや科学は巨大なビジネスになるが、芸術はなりにくい…その差なのか。

ともかくノーベル賞の報道は、ほとんどスポーツのノリで金メダル感覚というべきで、これまでの受賞数が20いくつというようなことを繰り返し繰り返し言うのは、やっぱり金メダルでしかないんだなあと思います。
むろん日本は大したものだと思いますが、数でいうならアメリカなどは300人以上ですから、そういうことを言うのもほどほどに願いたいところです。

何かというと「オトナの対応を…」などとしたり顔でいうけれど、ノーベル賞受賞の喜び方というのは、日本はずいぶんと洗練を欠き、ベタベタした家庭色が強すぎて、見ていて喜ばしい気持ちがいくぶん差し引かれてしまうのは、却って受賞者の高い功績をマスコミが汚してしまっているように思います。

喜びをストレートに表すことと、理知的であることは、両立しないものなんでしょうか。
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本質はいずこ

世の中、ちょっとおかしいのではと思わざるを得ないことは枚挙に暇がないほどですが、先ごろもYahoo!ニュースで目にした記事は、その違和感という点でとりわけ強烈なものでした。

「タダで食べ放題の相席居酒屋で、毎日ご飯を食べていたら退店させられた。ネットの掲示板で、大食い女性の投稿が話題となった。」という文章でそれは始まります。

全部コピペするわけにもいかないので、マロニエ君なりに概要をまとめると、次の通り。

見知らぬ男女が同席する「相席居酒屋」では、男性が飲食代を支払い、女性はタダというところが多いのだそうで、ここからして初めてそんなものがあることを知りました。
投稿者である女子学生は、食費を浮かすため相席居酒屋に通っていて、なんと「一日4食がアベレージ」「ご飯は2、3升におかず数キロ」を食べていたというのです。
さらに同じ系列のお店に、店舗を変えながらほぼ毎日通っていたところ、ごはんをおかわりしようとしたタイミングで、店長らしき人から「申し訳ありませんが、退店してほしい」と言われたというもので、その女性はネット掲示板に事の顛末を投稿することになったというもの。

すると、この件に関して質問を受けた消費者問題に詳しい弁護士というのが、法的な観点から退店を要求したことが正しいか否か、コメントしているというものですが、それによれば、
「飲食店は、客を選べないわけではありませんが、これは入店時においての話です。」
「いったん受け入れた客については、無条件に退店させることができるわけではなく、契約内容がどのようなものだったかによります。」
「通常は、食べ放題・飲み放題の契約として受け入れたのであれば、予想以上に食べる人だったからといって、飲食を拒否することは許されません。」
「ただし、前もって、そのような条件がお客側に示されていたような場合は、別に考える余地があります」

などと、読んでいてばかばかしいような文言が並んでいました。
まだありますが、延々と引用しても意味ないでしょう。

まあ、弁護士という法律のプロの観点からみれば、そういう事になるのかもしれませんが、問題はそんなことはどうでもいいということでしょう。そもそもこういう非常識かつ厚顔無恥な女性が非難されずに、退店を願い出た店側ばかりが問題視されるのは、普通の感覚をもった人なら誰だっておかしいと感じるのではないでしょうか。

こういう場合も「普通の感覚をもった人」って誰のこと? 普通ってなに? 誰が決めるの?
といった類のことを言うような人がいますが、こういう場合にそういうことをいちいち言う人間が、正に普通ではない感覚の持ち主だとマロニエ君は思うわけです。

この女性、食費を浮かすためとはいえ、店のシステムにつけこんで飲食代を支払う赤の他人である男性達と店の両者にたかり行為を繰り返し、食べ放題であることを理由に連日連夜この店に通いつめて「ご飯は2、3升におかず数キロ」などとは、社会に巣食う病原菌のようなものだと思います。

こんな人間の振る舞いが、さほど非難されることもなく、あまさかさまに「女性は飲み放題、食べ放題をうたっているにもかかわらず、客が食べすぎているという理由で、店側が一方的に退店を求めることはできるのだろうか。」というような理由で弁護士に問い合わせをするというところが、社会の感性がまともな平衡感覚を保てなくなっている証ではないかと思います。

一度や二度ならともかく、これほどの「悪質な常習犯」ともなれば、顔を覚えられブラックリストに載るのも当然です。店は難民受入所ではないのであって、あれこれのアイデアを講じながら厳しい商売をやっているのですから、これはいわばルールを悪用した限りなくドロボウに近い行為ともいえるのではないかと思います。
そんな人間はつまみ出されるのが当然で、それはルールや法律家云々の以前の問題でしょう。

いっぽう、ルールやシステムにさえ適っていれば何をしてもいいという風潮はエスカレートしていくばかりで、ルールの盲点や死角に着目できる人間は、まるで優秀でエライかのような取り扱いにも問題があるように思います。

法律はじめ、個別のルールやシステムももちろん大事ですが、それ以前の人間としての品位を保てる教育環境こそが大事だと思います。恥を失った人間というのは、怖いものがないぶん恐ろしいですね。
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