マロニエ君の好まない言葉のひとつに、突如会話の中に振り下ろされてくるあれ…「まあ、いいじゃないですか」というのがあります。
これほど無粋で、会話意欲を喪失させ、座の雰囲気を一瞬でシラケさせる言葉も珍しく、この言葉には広義の破壊力があります。
この言葉が出るタイミングは、大抵は無邪気に人物評などをやっている時ですが、そもそも話しについていけない人、もしくは興味のない人が、さも自分が寛大で広い心の持ち主であるかのようにアピールする、ちょうどいいチャンスとでも思うのでしょうか。
人間の問題や出来事に関心を持つというのは大切なことで、それは雑談の体裁をとりながら分析的要素も含んでおり、頭脳や感性をトータルに働かす訓練になるばかりか、己への戒めや正しい認識を確認する大事な機会でもあります。
その内側には、非常に微妙な学習要素を含んでおり、いうなれば、雑談しながら自分の良識と感性を正しく調律するようなもの。
これをいう人は、まずたいてい神経のキメが荒く、自分は正しいつもりでご満悦の様子です。
あたかも慈悲に満ちた神父のお説教のような響きが充溢して、その場違いな言葉はあたりにお寒く響き渡ります。
最近は「上から目線」という言葉がよく使われますが、この「まあ、いいじゃないですか」もその代表格で、相手に対して恥をかかせる言葉でもあるため、私自身は絶対にこれは口にしてはいけない言葉だと思っています。
そもそもこれをいう人が出発からボタンを掛け違えているのは、細かいことに目くじらを立て、欠席裁判でもやっているかのように勘違いしていることです。
そしてディスカッションの習慣もなければ、そこに価値を見出さない人。
仮にある人が、非常に馬鹿げた高額な買い物を、店員やその他の口車に乗ってしてしまったとします。
いうまでもなく、自分のお金の使い途は勝手であるし、突き詰めれば自分の判断であるし、人に迷惑をかけない限り自由なことぐらい先刻承知も大前提で、そんなことはわかりきった上での話をしているわけです。
しかし、その自由の中に、各人の思想や価値観や心理など、考察してみるに値する要素が凝縮されて詰まっており、そこを考える材料とし、論じることは興味深く、またへんな啓発本など読むより、よほど実践的で勉強にもなることですが、そういうときに、こういう会話の真髄が汲み取れず、安易にくだらぬことと決めつける御仁は、今とばかりに高所から「まあ、いいじゃないですか」という伝家の宝刀を抜くわけです。
それを押し切ってまで話を続ける気もありませんが、同時にその発言者がこのときほど愚鈍(かつ失礼)に見えることもありません。
しかも本人は、その場を上手にリセットし、自身は寛容な人格と良識の持ち主であることをアピールできたとしてご満悦。
実は、これは長年感じてきたことですが、たまたま読んでいる小説にも類似のことが書かれており、思わず我が意を得たりという気分になって、その部分に栞を挟んで繰り返し読みました。
それは、夏目漱石の『野分』という小説に書かれており、神経衰弱で有名だった漱石も、幾度となくそういう不快な瞬間を体験してストレスを感じたのだろうと思われました。
「人にわが不平を訴へんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中途半把な慰謝を与えらるるのは快くないものだ。我が不平が通じたのか、通じないのか、本当に気の毒がるのか、御世辞に気の毒がるのか分からない。──略──相手はなぜかう感情が粗大だろうと思った。もう少し切り込みたいと云う矢先へ持って来て、ざああと水を懸けるのが中野君の例である。」
さすがは漱石先生、「ざああと水を懸ける」とはまさにその通りだと感服しました。
しかも、その「ざああと水を懸ける」人は、だいたいいつも同じ人なんですよね。
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