プロフィール

コンサートに行くと必ず手にするプログラムノート。
これを開くと、びっしりと書かれた演奏者のプロフィールを目にして、まともに読む気にもなれないことが少なくありません。

演奏者本人や主催者側にしてみれば大事なことなのだろうけれど、やたら細かいことまで綿々と書かれているのは、それを手にする側にとってはほとんどどうでもいいようなことばかりで、本当に意味をなしているようには思えません。
あまり細かいことまで書かれているのは書類のようで、思いつく限り書けることは細大漏らさず書いたという切迫感さえ感じることも。

それだけ苦労して研鑽を積んできたということだとしても、過剰なアピールに気持ちが引いてしまうようで、そこから演奏を楽しむという期待感より、なにやらお気の毒な感じさえ漂ってしまいます。
あれもこれも書いておきたい、訴えたいという自己主張だけが独り歩きして、逆にどこか貧しい感じを与えてしまうことも少なくありません。
ああいうプロフィールを目にして、なるほどそうかと感心して、より一層ありがたい気持ちで演奏を聴けた…などという人はまずお目にかかったことはないし、これまで多くの人とその話題になったことがありますが、異口同音の冷笑的な意見が返ってくるだけです。

ご当人の努力は大変なものだったろうし、ご家族はじめ、まわりの人にしてみれば、少しでもその軌跡や活動実績を伝えることで応援してほしい、あるいはこれだけの実力があるのだから、どうぞそのつもりで聴いて欲しいというのは、人情としてはわかるけれど、音楽というものは、そんな個人の事情や訴えを押し込まれた上で聞かされるものではなかろうと思うのです。
とりわけプロの世界では結果が勝負で、くだくだしい退屈なプロフィールは、書く側と読む側の埋めがたい大きな溝を感じるのです。

ぜひそのあたりを冷静に考慮され、もっと効果的な内容と量にとどめておいて、あとは本人の演奏と聴く人の受け止めに任せるべきだろうと思います。
なるほど、現代は純粋に演奏の質が、常に正しく評価されているかといえば、そうともいえないところがあるのも事実です。
だからといってプロフィールを大盛り山盛りにしたら効果があるのかといえば、決してそうはなりません!

余談ながら、パリ音楽院などに行った人のプロフィールには、だれもかれもが「プルミエ・プリ獲得」と書かれており、これは普通の感覚でいうと一等賞であり主席、つまり卒業者内で一番だったというような印象ですが、実際のプルミエ・プリはどうやら成績優秀ぐらいな区分のようで、プルミエ・プリが何人もいるということのようです。
プルミエ・プリでないのにそう書けば詐称になるから、まったくウソとは思わないまでも、それにしてもパリでは日本人のそれが異様に多いのを訝しく思っていたので、調べてみて納得でした。

プロフィールの結びの常套句でよく見かける言葉に、「その活躍は世界的な注目を集めている」といったような、ほとんど夢でも見ているような御大層な言葉が、何ら躊躇なくすらすらと書かれています。
少しばかり海外のコンクールを渡り歩いたり、国際線の飛行機に乗ったりすれば「世界的な活躍」となるのではないのだから、もうそろそろそのような誇大表現は慎むべきだと思います。
言葉本来の意味に立ち返るなら「世界的や活躍や注目」ということが、果たしてどういうことなのか、もう少し正直に真面目に考えて欲しいと思います。

スピーチは短いほうが喜ばれるように、プロフィールも大いにダイエットが推奨され、できれば激ヤセしたほうが、よほど好感をもって温かく聴いてもらえるのではないか?と思います。


ついでに思い出しましたが、最近、知人との雑談で大いに話題に上りましたが、名刺の肩書にも同様の事例があるということ。
あれもこれもと、役職や兼任している事業名などをびっしり書いて並べて、どうかするとそれは裏面にまで及ぶことがあるようで、こういうものを見て、真から感心したり尊敬したりする人などいるとは到底思えません。

要は、ご当人の抑えがたい猛烈な自己顕示欲が小さな名刺の中で炸裂しているだけで、見たほうは呆れて、世間からは嗤われているのに、ご本人は一向に気づかないという滑稽な構図です。

危険

ピアノの話でも音楽のことでもないのですが…ちょっとした恐怖体験をしたので。

私は肌があまり強くないこともあり、ここ数年は入浴時にはオリーブオイルから抽出したという、輸入物で不格好な茶色の石鹸を使っています。
といっても高価なものではなく、この手のものの中では安物の部類で、普通の石鹸よりはわずかに値がはるといった程度のものです。

おかげで肌荒れなどはせずに済んでいるものの、普通の石鹸のように使いやすく面取りなどされていないので、そのぶん使いやすい形にこなれてくるまでが大変で、どうかすると小さくなったもののほうが使いやすいのですが、じきに角が取れてくるとやがて小さい方は出番がなくなります。
しかし捨ててしまうのはどうにも気が進まないし、さりとて大きい方にくっつけようにも平面ではないため、これがまたなかなか思うようになりません。

なにか良い方法はないかとYouTubeを見てみると、「この手の石鹸は大きいので電子レンジで温めて使いやすい大きさにカットできますよ」とか「同時に小さくなった石鹸も容易に接着できます」というのがあったので、「ああ、なるほど!」とひとり合点して、動画をよく見ぬまま小さくなった石鹸を、小皿に乗せてチンすべく、すんなりスイッチを押してしまいました。

その間、キッチンで他事にかまけていると、電子レンジの方から唐突に「ボンッ!!!」という大きな音がしてびっくり仰天。
あわてて駆け寄ると、中はまったく見えないまでに白い煙で充満しており、しかもレンジはまだ作動中なので、恐怖におののきながら必死にスイッチをOFFにし、すぐまたそこから離れました。

なにかしくじってしまったらしいことは明らかで、レンジのドアを開けるのも恐ろしくて躊躇われましたが、だからといってとてもこのままというわけにもいかず、ゴクンと唾を飲み込むようにしておずおずとドアを開けると、凄まじい量の白い煙と鼻を突くような異臭が猛然とこちらへ襲いかかってきました。

キッチンは警報機が作動するのでは?と思うほど容赦なく煙が流れだし、しばらくは近辺の視界が効かないほどで、臭いもかなりのもの、とりあえず最寄りの窓を開けながら、これはえらいことになったという認識が遅れて付いてくるようでした。

意を決してようやく中を覗くと、皿は見事に三つに割れていて、中に置いたはずの小さな石鹸はまるで姿を消しており、代わりにコールタールのようなどぎつい茶色の液体がだらしなくそこらに広がっていました。
割れた皿を取り出そうとすると、これがまた信じられないほどの高温に熱されており、回収作業にはかなりの手間を要することに。

考えてみれば、石鹸は油からできているわけだから、ひとえに自分の短慮を恥じるばかりですが、容易にYouTubeの主張を短絡的に捉え、鵜呑みにしたことにも非があります。

幸い怪我などはありませんでしたが、下手をすれば大事にもなりかねないことで、危ないところでした。
というわけで、馬鹿なことをしたおかげでかなりな危険を感じましたので、私の阿呆さ加減をどうぞお笑いください。

本場の宝探し

ヨーロッパにお住まいの方から、面白い情報を寄せていただきました。

今どきはどこの国にも売買サイトがあるのは当たり前でしょうが、そこに出品されているピアノはというと、日本とはまるで異なるものが次から次へと出てきて、面白いといったらありません。

その中に、ドイツの伝統ある有名メーカーのグランドで、「ピンも弦も交換されているのに数ヶ月経っても売れない」のがあるらしいとのことで、私もさっそく直に見せていただきました。

お値段は日本円で80万円くらいと、望外の価格でもあるため、あまり細かいことを言い立てるのもどうかとは思いつつ、率直にいうと、一枚目の写真から早くも怪しい気配が漂っているようでした。
ロゴやフレーム、ピン板、譜面台、外装にいたるものまで、多くの部分は違和感にあふれ、本当にそのメーカーのピアノかどうかも疑わしい感じを受けたのです。

100年以上経過しているとはいえ、メジャーブランドのグランドがこんな値段で売られていること自体、どこかおかしいような気もしましたが、その方も興味本位とのことで、とくに購入を検討されているわけではないらしく、あまり真剣に観察する必要もないため却って面白いくらいでした。
ついでにほかも見渡してみると、さすがは本場だけあって多種多様の珍しいピアノがひしめき、音楽文化の歴史と裾野の広さとが如実に窺えました。

これを時間をかけ丁寧にウォッチすれば、中には掘り出し物といえるものもありそうですが、玉石混交であることも否めず、購入となればかなりの眼力が必要だろうと思います。
とくに古いピアノの場合、素人判断で安易に購入してしまうのはかなりの危険を伴うと思っておいたほうがよさそうですが、同時にヒリヒリするようなスリルもありそうで、つい引き寄せられていくのも正直なところ。
もし私みたいな人間がそんな地にいたらどんな目に遭うやら、考えただけでも恐ろしくなります。

日本の中古ピアノ市場といえば、大半がヤマハとカワイで一向におもしろ味がないのに対し、当たり前ですがヨーロッパの土台が違うというか、見ているだけでもわくわくで、それこそため息の出るような美しいピアノから粗大ごみのようなものまで、まさに宝探し気分です。

なんといっても楽しいのは、日本では絶対にあり得ないようなブランドのピアノがかなり意外なお値段ででていたりしますが、同時にかなり危なそうな雰囲気のものもあったりで、免疫のないマニアにとってはかなりの危険地帯でもあると思います。
日本と違って、騙されるときも思いっきりスッパリやられそうです。

腰の加減で、もっかほんの短時間しか椅子に座れないこともあり、ブログの更新もおぼつきませんが、快復したときじっくり見るのが楽しみです。

現代は疲れる

現代のネット社会は多くのことを劇的に便利にしていることは認めるにしても、まったく逆に超不便になったこともあります。

その代表例が電話を使わせない社会となったこと。
電話対応のための人手の確保やそのための人件費の問題などがあるのだろうし、いろいろやむを得ない面もあるだろうことは理解しても、その代償はあまりに大きい気がします。

むかしなら、わからないことがあれば、しかるべきところに電話して言葉で質問すれば簡単かつ短時間で済んでいたことが、まったくそうはいかなくなりました。
そもそも企業でもなんでも、電話番号を秘密情報のごとく隠されているも同然だから、まずこれを探り当てるだけでひと仕事。

ようやくわかっても、高い通話料金のかかる番号だったり、あの手この手で電話そのものを諦めさせようという障壁が設けられているのが見え見えです。

どこかに隠れるようにしてフリーダイヤルの番号があったとしても、こちらが望む担当者と話ができるようになるためには、まったくバカバカしいガイダンスを繰り返し聞かされるし、該当するものが無かったりと、その道はサービスとは程遠いばかりに険しいことは多くの方が経験されていることだと思います。

細分化された目的のところまで辿り着いたかと思うと、こんどは「ただいま電話が込み合っており、このままお待ちいただくか、しばらく経ってからおかけ直し…」となって、これだけ苦労して、エネルギーを費やして、ストレスと闘いながらここまできたのに、かけ直すとなると、またガイダンスからやり直しで、まったく弄ばれている気になります。

電話以外では、なにかのアカウントを取ったり、通販を利用したり、予約をしたり、クーポンを使うなど、入力する場面にしばしば出会いますが、そのたびに入力フォームなるものがあり、この多くが会社都合で不親切だと言わざるを得ません。

例えば、モノを送るのに宅配便の申し込みをして、希望する日に取りに来てもらう必要が生じたとき。
以前なら、どこか適当な営業所に電話すればパパッと済んだことが、今はネット上からの申し込みが主流となっており、これだけなら時代の趨勢として仕方がないかと思いますが、現実にはそう簡単なことではありません。

まず送るものの種類や大きさなどから、どの便を使うべきかを自分で判断し選択しなくてはいけないし、それが間違っていると、予約サイト上の進行や料金など、なにもかもが違ってきます。
したがって、どれが最適で目的に合致しているのか、サイトの説明を読んだり、調べたり、寸法を計ったり、ほとんど宅配便会社の社員の仕事ようなことをさせられるわけで、この手のことは初見で最適なものへ到達することはきわめて難しい。

さらに、ようやくこれだということになって、入力フォームに打ち込みを開始しますが、終わったと思って決定ボタンを押しても、何かが不備だったり、間違っていたり、なんらかのシステム上の要件を満たさないものがあると、あっけなく拒絶されてしまいます。
ここでいいたいことは、何がダメなのかわからないため、そこで延々と時間をとられるのは何なのか?と思います。

いつも思うことですが、慣れない一般人を相手にしているのだから、せめてどこがダメなのか、なぜハネられているのか、これぐらいは利用者に知らせるべきではないかと思います。
今の若い方はそういう苦労もなく、すんなり順応できるのかもしれないけれど、こういうものは老若男女がもっと使いやすいものであるべきだと思いませんか?

ピアノ受難

パリ・オリンピックが閉幕しました。

パリ大会の開会式・閉会式では、ピアノが様々に登場したようですが、その使われ方には疑問の残るものが多かったように思います。

開会式での激しい雨にさらされてびしょ濡れのピアノが複数あったことはすでに書きましたが、閉会式では、今度はピアノとピアニストが宙吊りにされ、垂直のまま演奏するという驚きの光景を見せられることに。
以前も、フランスでは空中でピアノを弾くという奇想天外なパフォーマンスを動画を見た覚えがありましたが、もともとフランスという国はそういうイカれたことが好きなのか?!?

さらに驚いたことには、今回のオリンピックではピアノを燃やしてしまうパフォーマンスもあったのだそうで、もうそこに至っては見たくもないので動画を探してもいません。
中には「カッコいい」という意見もあるようですが、非難の声も相当あがっているようです。

「開会式では雨に濡れ燃やされたピアノ、閉会式では吊り下げられたり、ピアノの使い方がおかしい」
「ピアノに対して恨みでもあるんか?」
「ひどい」「ピアノがかわいそう」といった意見もネット上にちらほら出ていました。

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の場面を揶揄したり、マリー・アントワネットの首が出たりと、かなり過激な試みも恐れることなく挑戦するという意欲は買うとしても、いささかやり過ぎでは?と思う面が多すぎたののかもしれません。

そもそも、芸術の都として名高いパリで、ピアノという楽器に対してあのような非文化的な扱いをすること自体が、個人的にはその見識のほどを疑ってしまうものがありました。
これが、文化の何たるかもまるで解さないような、成金の野蛮国の所業ならともかく、なにしろパリですからね。
パリにはピアノに関する歴史でもプレイエルがあり、ショパンやドビュッシーが住み暮らし、ロンやコルトーやフランソワがいた街であったことを考えると、やはり今回の振る舞いは納得がいきません。

最後の吊り上げ演奏では、単純な疑問も残ります。グランドピアノの構造は水平であってはじめて機能するもの。
これを縦に吊るした(しかも鍵盤が下)というのは、少しでもグランドのアクションの構造を知る人なら、演奏するのは常識では不可能なはず。

ということは、音源は別にあって、空中で弾いているマネだけしていることも大いにありそうで、これを口パクというのかアテレコというのか適確な言葉はわからないけれど、あまりに意表をつくハデな演出ばかりでは虚しいです。

フランスに限ったことではないけれど、とにかくハデなことをやって注目を集めさえすれば、それが正義という価値観があまりに中心になりすぎていて、まさに炎上商法ですね。
そんなことをしなくても、パリの輝きは世界中が知っていると思いますけどね。

競技や審判に関することでも非難される事柄がずいぶんと多かったようで、今どきのスポーツが純粋公正でさわやかなものとはもとより思っていないけれど、それにしえもマイナス面も数多かったように感じました。

ちなみに宙吊りにされたピアノはヤマハでしたね。

家族の一員

少し前のこと、民放TVで都市部から遥か遠い、隔絶した山中などで生活する人たちを訪ねて、その生活に密着するという番組があり、あまりのすごさにびっくりして、つい最後まで見てしまいました。
ほかに『ポツンと…』という番組もあるようですが、それとは違う3時間ほどの特集番組でした。

いずれも、自然の中の隔絶された自然の中で暮らす人たちで、中には、山深い集落もない文字通りの一軒家で、小さな子供が何人もいつ一家であったり、高齢でも一人暮らしをする人まで、その逞しさときたら想像を絶するものばかりです。
中には代々の家を守るためという方もおられたけれど、都会生活を投げうって、あえてそんな場所での暮らしを意義あるものとし、自ら選択した人たちの何組か紹介されました。

共通しているのは、どの方もやせ我慢や演技でなく活き活きして、日々の生活のために体を動かし汗をかきながら充実した暮らしを送っておられるように見えました。
電気や水(山の湧き水であったり)はあるけれど、食べ物(とくに野菜)は基本的に大半が自給自足で、みなさん土を耕し、種を蒔き、多種多様な野菜を育てておられ、鶏や牛や山羊などもいれば、同時に子育てまでこなすという忙しさ。

朝から絶え間なく体を動かし、薪をおこして食事を作り、風呂を沸かし、日が落ちれば眠りにつくというもので、とうてい真似のできるものではないけれど、生きるということの本源のようなものに触れた気がしたことも事実でした。
それに、なんとはなしに心地よかったのが、ここではスマホもネットもSNSもなく、俗世の瑣末なことや競争社会のストレスなどの要素がまったくないので、それだけでも不思議な安堵みたいなものを感じてしまいました。

私は自他ともに認める「田舎の生活は無理派」で、運動嫌いで、夜行性で、虫が嫌いで、エアコン依存症で、そういう要素満載なのですが、それでも田舎の生活の魅力というものも、できる人にとっては一理あるんだな…と思わせられました。
なにかにつけて、現代人が当たり前だと思っている便利とは真逆の世界だけれども、旬の野菜だのなんだのと、身近にあるものはどれも新鮮で、大量で、ある種贅沢で、勝手な部分だけはやけに羨ましく感じました。

みなさんいずれも心が広く、自然な笑顔が耐えず、こせこせしたところがなく、わざとらしさのない普通の優しみや安心感があって、考えさせられるところが非常に多かったことは、まったく意外なことでした。

最後に紹介されたのは関東から大分県南部の山の中へやってきたという一家。
山の中腹に佇むまさに一軒家で、その家を自力で修繕しながら生活を始めてようやく一ヶ月というところでした。

家の中は作業のための廃材やらなにやらでごった返していましたが、なんとその片隅の床の上には茶色の杢目のグランドピアノが、後ろ向きに置かれていて、まさかピアノがあるなんて思いもしなかったこともあり、「おお!」っと目を奪われたのはいうまでもありません。

これから床をどうする、お味噌を仕込む、畑に行くなど、あれこれの説明のところどころに、チラチラとそのピアノの一部が写り込むのですが、どういうピアノかはまったくわからずにじりじりしました。
ただ、そこにはどことなく日本のピアノではない気配を感じ、ますます気になって仕方がありません。

ピアノのフォルムが全体にとても細身というか華奢で、枯れた感じさえあり、どちらかというとメタボ体型の日本のピアノではない気もするから、輸入物か、あるいは過去のメーカーのピアノか、もう番組そっちのけでピアノにばかり意識が向きました。

後半、ついに!ピアノが紹介される場面となり、それによれば、ご主人の趣味のためここまで運んできたものだそうで、ついに蓋が開いて演奏が始まりました。
自作の曲で、2歳に満たない一人娘のために作ったという曲を弾かれましたが、ついに最後まで鍵盤蓋のロゴは一切わかりませんでした。

もしやブリュートナー?とも思っていたけれど、腕木の形状が違うし、あれこれの記憶の断片をつなぎあわせた末、おそらくあれはザウターではないか?というのが私の結論でした。確証はありませんが、たぶん。

都会での生活はすべて捨て去ったとのことですが、ピアノは捨てられなかったようで、そーだろうねーと思いました。

…だからなに?といわれたら二の句が告げられませんが、ただそれだけです、ハイ。

オリンピック

パリ五輪が始まりました。

開会式当日はすでに曇天で、やがて晴れてくるのかなぁと思ったらとんでもない、ほどなくして無情にも雨粒が落ちはじめ、さらに時間が経つほどにそれは強く激しいものとなってしまいました。

そんな状況にもめげることなく、ダンスをはじめ渾身のパフォーマンスに打ち込む大勢の人たちが気の毒なほどの猛烈な雨足。
この雨のせいかどうかはわからないけれど、選手たちの乗る船もときに心配になるほど大きく上下に揺れるのがあったり、いやはや、これは大変なことになったようだと思いました。

ダンスや動きがキレッキレで激しいだけに、いつ転倒するのかとハラハラしましたが、ほとんどそういうこともなく、みなさん大したものだなあと感心させられました。

こんな場合にもついつい目が行くのはピアノで、はじめの頃(雨が降り出す直前)、レディー・ガガが歌って弾いていたのはスタインウェイのBかCで、閉めた大屋根の上に譜面台が置かれていましたが、サイドのロゴは黒いテープのようなもので隠されていました。
だれもが知っている、ルイ・ヴィトンのケースなどはあんなに露わに映しても、ピアノのロゴは隠すんだ…と思いました。

この日のピアノネタで最大のものは、フランス人ピアニストのアレクサンドル・カントロフ(2019年のチャイコフスキーで優勝)のソロでした。
ピアノは激しい雨が叩きつける場所に置かれ、大屋根は閉じられているものの、その上部には大粒の水たまりが無数のアメーバのように広がり、カントロフ自身も後には引けないと覚悟を決めているようで雨を浴びながら弾いており、曲はまさかのラヴェルの「水の戯れ」。戯れどころかずぶ濡れで、これにはもう笑うに笑えず、身を捩るような気持ちになりました。

音はしっかり出ていたけれど、普通サイズのグランドで、あれだけ強い雨の中、しかも大屋根を閉じた状態で、あんなにまともな音がでているとはとても思えず、おそらく音源は別にあったのだろうと思いました。
これだけのピアニストに弾かせておいて、手元は一切映らなかったのも不自然で、やはりいろいろ事情がありそうでした。

ちなみに、これほどの大雨でびしょびしょにされたピアノはどこのメーカーかとずいぶん観察しましたが、残念ながらそれを突き止めることはできませんでした。
細部からも特定には至らず、まさかのダミーでは?などと勘ぐったり。

翌日からはさっそく競技が本格化したようですが、はじめに目にしたのは柔道で、選手であれ審判であれ一人の日本人もいないのに「はじめ!」とか「まて!」とかいうのは、なんだか奇妙な感じがするものですね。
フランスでの柔道人気は昔から根強いものがあるらしく、なんと日本よりも競技人口が多いというのは驚きですし、柔道人気はフランスだけでなく世界的で、あのプーチン大統領も黒帯の有段者というのですから、どこがそんなにいいのやら…。

かく言いつつ、我が身を振り返ればヘンなフランス車に30年も乗っているし、フランスの文物もロシア音楽も大好きなので、そこはお互い様というところでしょうか?

稼ぐか芸術か

少し前のこと、民放の音楽長寿番組で、立て続けに現代日本を代表する世代のピアニストたちが様々出演されました。
どの方の演奏も指さばきは安定し、なにかが決定的に悪いわけではないけれど、良いとも思わない、いつものスタイルでした。

年齢も経歴も必ずしも同じではないのに、不思議なほど肌触りやあとに残る印象が似ているあたり、まさに大同小異という言葉を思い起こします。

楽譜通りにそつなく弾けているけれど、耳を凝らすと、それぞれに肝心な点でおかしなことをやっている。
わかりやすく云うと、ツボにハマらず、ピントはずれ、歌うべきところで歌うことなく、素通りするかと思うと、思わぬところで意味不明な間をとったり。

指は確かだから、さも完成されているように見えても、作品と演奏者が特別親密な関係になったときだけに発酵する濃密さみたいなものはなく、その場だけ笑顔をかわして会話しているような、ひどく他人行儀なウソっぽさを感じます。
現代人がお得意の、良好な関係の演技をしているだけといった印象。

よって、そつのない演奏に終始し、魅力的な演奏で酔わせてくれることもない。

これが演奏における現代様式なのかとおもうと、気分が自分の中のどこの引き出しに収まることができずに彷徨い、慢性的な倦怠感のようなものに包まれます。

たとえば、いまやモーツァルトの世界的名手のように言われる人などもおいでのようだけれど、何度聴いてみても私にはとてもそのような価値ある演奏とは思えず、そもそも芸術性というものが感じられません。

指もよく動くし、譜読みも早く何でも弾けるのだろうから、むかしならさしずめナクソスレーベル御用達のピアニストぐらいで?

聴く側が演奏に触れるときに期待するものは、作品そのものの世界に浸ってみたいということの他に、演奏者ごとの表現や問いかけに接してみたい、美しさにハッとさせられたい、慰めと悦びで満たされたい、あるいは激しく打ちのめされ翻弄されたいというような思いがあるのですが、この世代の演奏からはほとんど受け取った覚えがない。

なるほど天才なのかもしれないけれど、どれも一様に軽く、小動物の戯れのようで有難味がなく、作品が生きあがってくるとは言い難い。
モーツァルトならやっぱり内田光子のほうが断然好きだなぁと思ったり。

モーツァルトといえば、別の、話題の多い二人のピアニストが出演して、2台のピアノのためのソナタの第3楽章を弾かれましたが、これにもまたかなり唖然とさせられました。

最終楽章というのは、大半はテンポも速く生き生きとして、それまで旅してきた各楽章の意味を引き継いで、まとめるようでもあるし祝祭的でもあるし後片付け的な意味もあるもので、この曲もまさにそういう作りです。

ところが、楽しく浮き立つような要素は私の耳には皆無であったばかりか、ふてぶてしいまでに落ち着き払い、まるで別の曲の第一楽章を聞いているようでした。

もうすこし踏み込んで言うと、作品に対して気持ちが入っていないことが見えてしまっており、曲の表情付けから何からすべてが外形的作為的、ただ人気に慢心し、聴衆を軽く見て、番組の予定をこなしている不誠実なタレントのように見えました。
もしかしたら、ろくに練習もせず、間に合わせ的に本番で弾いたといわれても驚きませんし、この人達ならそれも可能なのでしょう。

終わったら楽屋で着替えて、お付や関係者と次の事務連絡をして、出待ちのファンに対応することもなく、待ち受けるハイヤーにサッと乗ってホールを後にするんだろうなという光景が目に浮かぶようでした。

昔の演奏家は、根を詰めて作品と対峙し、納得した時だけステージに上げるというようなことをやっていましたから、好みはあるにせよ、いちおうは聴く価値のあるものでした。

でも、今そんなことをしていたら、ライバルにどんどん仕事を取られるし、極限まで突き詰めた演奏をしてもしなくても、大半の人にはどうせわからない、芸術家として苦しみに喘ぎながらごく一部の理解者に賞賛されることより、演奏タレントと割りきって忙しく飛び回り、拍手とギャラにまみれるほうが、楽しいし時代の価値にも合っているんでしょうね。

あるある

ピアノには関係ないのですが、現代どこででも遭遇する、あるあるな景色。
先週、クルマの整備でとあるショップに行ったときのこと、1時間ほどの作業の間、併設された待合室で過ごすことに。

そこにはテーブルとイスが、窓に寄せて二セット置かれています。
厳密にいうと、奥には一人用の緊急用みたいな小さなテーブルがあるにはあるけれど、実質的には二つのテーブルと考えて良い設えです。

そこへ入室したとき、すでにお店のスタッフと一人のお客さんが向き合って話し中で、その隣のテーブルが空いていたので座ろうとすると、そのイスに女性用らしきバッグが置かれていて、すぐ脇のキッズスペースでは小さな子がひとりで遊んでいました。
とっさに母親はちょっと席を外しているだけで、二組のお客さんがいるらしいと理解して、やむなく一番奥の小さなテーブルの方へ行って腰掛けましたが、なんとなく落ち着かない席だし、すぐ横では至近距離で人の話し声がしているなど、もってきた本を取り出して読む気にもなれません。

やがて、そのお母さんらしき人が戻ってきましたが、イスに座ることなくキッズスペースで子どもと遊ぶばかりで、バッグはそのまま。
なんとなく、釈然としないものはあったけれど、先客だし仕方ないかと思っていましたが、30分ほどたった頃でしょうか、「領収書は?」とか「次回までには…」などという言葉になり、となりは終わって帰りそうな雰囲気になりました。

そしてついに「ありがとうございました」という言葉とともに、イスから立ち上がったので、空いたらそちらへ移動しようと思っていたら、なんたることか、その後ろの女性と子供もその人の連れ(つまり家族)だったようで、いっぺんに私一人になりました。

普通なら、夫婦と幼児の3人が4人用のテーブルを二つも使う必要はなく、そこへ別の人間が入ってきた時点で、自分のバッグぐらいちょっと引き取って、場所を譲るものだと思いますが、そんな気配はこれっぽっちもありませんでした。
話し中のテーブル(4人がけ)にも空きイスはあったのだから、そちらにちょっと置き換えればいいだけのことですが、状況はまったく動く気配もなく、おまけに横柄さも悪意も見受けられませんから、さらにやりきれないものが残ります。

いま、こういうことがあまりにも多い気がします。
譲り合いの精神とか、お互い様の気持ちとか、そういうものがまったく欠落しているだけで、きっと普通の善人だろうと思われます。
こういうちょっとしたことで、他者へ迷惑やストレスを発生させていることを、もう少し意識するようになってほしいものですが…たぶん無理でしょうね。

ゴミの収集員にむけて袋に「いつもありがとう」と書くとか、海外でのスポーツ観戦の後、みんなできれいに掃除してゴミを持ち帰り、そっと折り鶴を置いていくといった行動に世界が大絶賛!…なんて話も聞きますが、本当に大事なことはもっと手前にあるように思えて、なんだかフーッと大きく深呼吸したくなります。

タブーとの戦い

このところ、更新のエネルギーがふっつり消えて、いろいろなことに迷っています。

ここはピアノを主軸にしたブログだから、単純にピアノおよびそれに連なることを書けばいいのですが、心情としてはなかなかそういう感じにも行かないときがあったりして、あれこれ考えさせられてしまいます。

昔は「たかだか個人ブログ」だからと気軽に考えていましたが、今は個人においても思いもよらないルールが求められ、そう無邪気には構えていられないようで、いちいち慎重にならざるを得ません。

少し大袈裟にいうなら、心の求めるまま、関心の命ずるままに書くと、そのほとんどはアウトの領域に入ってしまいます。
あるいは一生活者であればピアノ以外のことにも無関心ではいられず、以前はそういう時は素直に書いていましたが、そうすることが正しいのかどうかも、最近はよくわからないのです。
また、内容としても、どこまで踏み込んでいいのかいけないのか…といった見極めに多くのエネルギーをさいて、以前よりも言葉や表現にも数倍気を使うようになりました。

世の中は際限なく変化して、価値観や、ルールや、新常識といったものが猛スピードで変容していくから、こちらも時代の空気を嗅ぎ取りながらついて行かなくてはならないし、下手をすると、どんなことから槍玉に上がって不愉快な奈落へ落ち込むかもわからないので、その匙加減が非常に難しくなりました。

以前なら、自分が何ほどの人物でもあるまいし、ただ個人的に思ったことを個人的文章として書くのは、よほど過激なことや社会正義に反しないことであれば構わないだろうと判断していましたが、ネットというものがいよいよ怪物化してきた今日では、どこまでがボーダーラインなのか、正直言ってもうわかりません。

このところ世界で起こっている様々な出来事、プ氏が引き起した侵略戦争、隣国の脅威、北部にある異様な小国、パとイの争い、欧州の混乱、国内でも片づかない永田町の問題、東京都議選等々、そのつど思うことはいろいろあるけれど、それらはピアノとは関係ないし、そもそもそれを考えとしてまとめて文章にするほどの知見もないし、だいいち今どきはタブー(もしくはその可能性がある)とされるものがあまりに多すぎて窒息しそうになります。

もちろん一小市民のささやかな感じ方として書くことはアリかもしれませんが、そんな駄文拙文をわざわざネットに挙げる価値があるとも思えないし、あれこれと考えているうちに、ぽかんと空白地帯が生まれたように感じているこの頃です。

…と、ここまで書いてみたら、少し区切りがついた気もするので、また少しずつ書いてみようかと思います。

生産国の曖昧

3月2日にアップした拙文「共通化-追記」の終わりに、「いつの日か、スタインウェイもどこ製か伏せらてわからなくなる日がくるのかも?といった想像さえしてしまうこの頃です。」と書いたばかりですが、その杞憂はすでに到来しているのでは?…という疑念に駆られる事がありました。

YouTubeでスタインウェイ&サンズ東京を訪ねる動画は複数いろいろ存在しますが、その中に「…ん?」と思うシルエットが映りました。
これまでは、ニューヨーク製(NY)とハンブルク製(HB)を見分けるのはわけもないことで、特殊モデルは別として、近代のレギュラーモデルではそれを見誤ることはありませんでした。

ところが、最近の共通化によって、従来の違いはほぼなくなり、HBスタイルに覆い尽くされてしまいました。
かろうじて残るいくつかの違いのひとつが、大屋根を開けた時のシルエットですが、これは前屋根を開ける(折り曲げる)位置と面積の違いによるもので、その結果はNYのほうが狭くスマートなのが特徴でした。
ちなみにヤマハのコンサートグランドが、ステージ上で鈍重に見えるのも、ほぼ同じ理由からです。

言葉だけではわかりにくいので、図を作ってみました。

AとB、実は奥行きも形状もまったく同じですが、違いは前屋根部分をどこで切り分けているか、それによるカタチと面積のみ。
前屋根の面積が狭いのがA、広いのがBで、たったこれだけのことでピアノのフォルムは大きく違って見えるのです。
感じ方は人それぞれだと思いますが、私はAのほうがスマートで美しく、Bはややボテッとした重い印象となり、ファッションでいうなら、手足が長く見える着こなしと、そうではない場合の、2つの例のように見えませんか?
繰り返しますが、両方とも原形はまったく同じ寸法・形状です。

前置きが長くなりましたが、動画の店舗に並ぶピアノは、手前右のBから大きさ順に並んでいて、奥にあるのがOもしくはMだと思われますが、その大屋根の形がNYの比率のように見えたのです。
しかも上記のように、現在はNYもHB仕様のルックスになっているので、パッと見だけではわかりません。

動画出演者は店員さんと会話をしながらあれこれのモデルを試しますが、なぜかそのピアノには行き当たらないあたり、偶然かもしれないけれど、それがよけい疑念を膨らます要因の一つになりました。
実際には、購入を検討するお客さんには生産国は告知されるのかもしれないから、ここでなにかを断定することはできませんが、以前よりもずっと曖昧になっていることは間違いないような気配です。

いずれにしろ、スタインウェイ級の新品ピアノを買う人にとって、その生産国がドイツかアメリカかは、「どうでもいいこと…ではないだろう」と思うのです。
ジャーナリズム的にいうなら「知る権利の問題」というところでしょうか?

現代のピアノ生産においては、多くのメーカーで生産国の問題はかなりグレーな領域のようで、それはますます加速していくようですが、「iPhoneは中国製です、それが何か?」みたいに開き直りもピアノではできないのでしょうね。

顔のない処罰

いまやネットがこの世を支配している勢いですが、思いがけないことに遭遇したので、少し長くなりますが、皆様へのご参考になればという意味も含めて書くことに。

実は、この先使う予定のない家財品などがあり知人に相談したところ、買い取りは価格的に不利なので△△△(有名なフリマサイト)での売却を奨められました。
しかし、△△△はこれまで利用経験もなく躊躇するところもあったのですが、家の中の不要品などなんでも気軽に、しかも「きわめて簡単に」出品できるのだそうで、そちらに疎い私としては、この際よい機会かもと思いアドバイスに従う決断をしました。

まずはアカウントを作りで、銀行口座から運転免許証などの身分証明、さらには顔の撮影などまであるのは驚きました。
運転免許証は表と裏を写真に撮って送るだけでなく、動画でゆっくりと指示通りに免許証の角度を変えながら厚みまで見せなければならないし、顔も動画で正面から左右、笑顔まで撮らせるという念の入れようで、いささか驚きましたがなんとか終了。
自分なりに商品の区別したいという考えがあって、別の端末からもうひとつアカウントを作ることにしたため、また同じ手続きを繰り返し、とくに問題なく終わりました。

さっそく出品してみようとアイテムの写真を撮り、価格を決め、簡単な説明などを書いて、いざ出品しようと最後のボタンをタップしますが、最後の最後で先に進めない。
何度やってもダメで、はじめはわけがわからず、どこか自分の手順が間違っているのかもと思うなど、ずいぶんいろいろ試しましたが、なにをどうやっても出品できません。
翌日になってようやくわかったことは、なんと△△△側から利用制限(使えなくする措置)がかけられていたわけですが、その理由は一切示されず、いきなり真っ暗闇に放り込まれたようでした。

どう対処したらいいのかもわからず、知人にも聞きましたがすぐにはわからないし、電話の受付は一切ないこともこの時知り、なぜ利用制限をかけられたのか、八方塞がりで気分は最悪となりました。
制限をかけるのであれば、せめてその理由を告げるのは当然だろうと私は思うのですが、一切なく、ずいぶん傲慢なやり方で、これではただ個人情報を持って行かれただけじゃないか!と思いました。

そうこうするうちに、「一人につきアカウントはひとつという規定がある」ということがわかり、それでハネられているとしか考えられません。
詳しく見れば、そういう事もどこかに書かれているのかもしれませんが、現実的に細かい同意事項のたぐいを、隅々まで一字一句キッチリ目を通す人がどれだけいるか?と思います。
そういう規定があるのなら、2つ目のアカウントを作る過程で、そういう警告が出るとか、手続きが進めないようになっていればいいものを、そういうことは一切ないまますべてが終了したあとに、いきなりバタンとドアを閉められるのは、まるで囮捜査にでも引っかかったようでした。

これを打開するにはアプリ内から問い合わせするしかなく、そこに行き当たるだけでも一苦労でしたが、ようやく該当するページから事情説明の文章を添えて利用制限解除の申請をしたら、すぐに自動返信らしきものが来て、そこには次のように書かれていました。
申請を受け付けました、一週間経っても解除されない場合はそれで終了となり、その理由には答えない、と。

ずいぶん一方的な言い分に心底おどろきましたが、ともかく待ってみるより手立てがなく、心に不愉快なものを抱えた毎日を過ごすハメに。しかし、一週間を過ぎても10日過ぎても解除になることはありませんでした。
ネットの情報によれば、こうなると制限は無期限とみなされ(つまり重罪?)、ほぼ永久に解除されることはないという扱いだそうで、こちらにしてみれば取引のひとつもやっていないのに、これはいささか度が過ぎやしないかと思いました。

知人もずいぶんと骨を折ってくれて、ついにどこからか探し出してきてくれた打開策は、なんと「詫び状を書く」というものでした。
そこには例文があり、これこれしかじかの事情があったこと、もとより悪意はなく、△△△利用を楽しみにしていた自分は大変悲しい思いをしていること、今後気をつける旨の約束、くわえて謝罪の文言が記され、それでも「必ず解除されるわけではありません」という但し書きがついていました。

本来なら「誰がそんなことするか!」と思うけれど、この頃になると相手はもしやAIではないか?という気もしはじめており、だとするならAI相手に意地を張っても仕方ないと思い、最後の手段としてそれに沿うような詫び状を書いて送りました。
すると、なんたることか、送信から数時間後に「解除」の連絡が来たのです!

このような規約の背景には、悪辣なことをする輩や、違法行為、犯罪に繋がるような事案への対策という意味もあることだろうとは思いますし、それはわかります。
だとしても、もう少し穏当なやり方というのはあるはずで、問答無用で処罰的に切り捨てる前に、最低限の説明とステップを踏むべきだと思います。
それがネットだ!今どきだ!というのなら、今どきは、相手に少しでもストレスを与える行為を☓☓ハラスメントなどと名前をつけて厳しく糾弾される時代となっているのだから、△△△のこの強権的なやり方は何かのハラスメントではないのか?と思いました。

なんとか解除にはなったものの、受けたストレスというか心の疲労はかなりのものに積み上がり、現在はまだ出品する気力がわかないでいます。

窮屈になる時代

コンサートに行く頻度はめっきり減りましたが、その理由はいろいろあるけれど、ざっくりした理由としては、聴いてみたい演奏家の激減、演奏スタイルの変化により結果が見えていてワクワク感がない、地方公演での演奏の質、残響ばかり強くて音が混濁するホール、などがあります。

…が、そればかりでなく、コンサート会場に流れる空気も、昔の自由な、楽しい雰囲気は失われ、最近はますます悪い方向に強化される方向だと聞きます。

例えばホールに行くと、いまどきの人手不足というのに、エントランス前後から多くの職員があちこちに立って、お客さんを案内するという名のもと、実は厳しく行動は監視され、なにか見張られているような気配を感じます。

座席に行くにも、その経路さえも関係者からやんわり管理されているのか、なんとなく自由にウロチョロできない雰囲気。
ようやく座席につくと、こんどは「開園に際しまして…」のたぐいの注意放送が降り注ぎます。

録音/撮影はダメ、携帯電話の電源を切る、演奏中の出入りはダメ、花束を渡すのもダメ、プログラムなどの紙類は落とすと周囲のご迷惑になるから注意しろ、など、次から次です。
内容的には当然のことではあるけれど、せっかくこれからいい音楽を聞こうという期待に身をおいているのに、頭の上を流れるアナウンスは、あれもダメこれもダメのダメダメづくしで、まるでこちらがコンサートのマナーを知らない野蛮人のようで、しかもそれが何度も何度も無遠慮に繰り返されます。

ようやく注意が終わったかと思ったら、次は「ただいまロビーで☓☓のCDを発売しております」「終演後はサイン会を予定しております」「どうぞ本日の記念に…」と一転して商売の話に切り替わり、これがまた何度もしつこくてイヤになります。

お手洗いに行くにも、楽屋へ通じるルートなど、いかめしい制服のガードマンが棒立ちで、何様でもあるまいにと思うし、ことほどさようにその息苦しさといったら、なにげに不快感を感じるのみ。

主催者側、ホール側にしてみれば、もちろん言い分はいくらでもあるのでしょうが、アナウンスはじめ流れる空気がどこか高圧的で、チケットを買って楽しみに来たはずの気分はこういうことから少しずつ息苦しくなり、それがが積み重なるうちに楽しい気持ちは減退して、不愉快になっていきます。

だいたい、入り口から入っても、何人ものスタッフから「いらっしゃいませ」帰りは「ありがとうございました」を言われるけれど、飛行機やホテルじゃあるまいし、こっちは音楽を聴きに来て、終わっから帰っているだけであって、そこにいちいちそん挨拶は無用だし、どこかなんだか鬱陶しくて仕方なく、もうすこしサッパリできないものかと思います。

いまどきなので、万一に備えてのトラブル対策というか、外形的な安全を張り巡らせているだけで、来場者のためというより自分達のためという印象しかありません。
時代も変わり、客層も変わったといえば、そのひとことで終わりますが、なんだか福袋の行列と大差ない扱いを受けているような…。

ロゴ

以前、May4569さんからいただいたコメントの中に、ピアノメーカーのロゴと音の関係に触れておられましたが、たしかにそうだな…と思いました。
人は「名前のような人間になる」というのをむかし聞いた覚えがありますが、ピアノもそうかもしれません。

たしかにスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ヤマハ、ブリュートナーなど、多くのピアノではロゴがなんとはなしにその音や楽器の性格まで表しているように感じます。

中には、伝統的な美しいロゴが変更されて、味気ないものになったりすることもあり、非常に残念に思うことも。

昔のグロトリアンは、ほれぼれするほど美しいロゴだったものが、諸事情から変更になったことは仕方ないにしても、それがただ活字を並べただけの無味乾燥なものになっているのは、ピアノが素晴らしいだけに理解できないものがあります。

ブリュートナーも伝統の流麗な筆記体のものがあると思えば、ただの平凡なフォントのものもあるのは、いったいどういう区別なのやら、これまたよくわかりません。

スタイリッシュで目を引くと仰せのファツィオリは、まさにグッドデザインでさすがはイタリアだと思いますが、音とロゴが一致しているか?となると、私にはどこかしっくりこないものが残ります。
このあたりは各人の感じ方にもよりますが、個人的にはもっとあのロゴのような音であってほしいのです。

時代を反映して個性を出さないよう配慮されているようで、まさに今どきのコンテスタントの演奏のように、だれからも幅広く受け容れられて、アンチを生まないための用心深さを感じてしまうところがもどかしく残念です。
今どきはビジネスのことまで周到かつ分析的に考えるから、まさにコンクールと同じで、まんべんなく加点が得られるよう中庸に躾られているのでしょう。
イタリア的な奔放と豪奢を期待していると、やや肩透かしを喰らうようです。

シゲルカワイはピアノの素晴らしさに対して、ロゴはどうなんでしょう。
とくにスタインウェイのライラマークの位置に、ピアノの形をした枠の中にSKの文字が嵌めこまれたアレは何なのか、まるでわからないし、それが鍵盤蓋やサイドはもちろん、なんと突上棒の途中とか、椅子、譜面台にまで入っているのは…??

ベヒシュタインは、以前は笑わないドイツ人みたいな四角四面なゴチック体で、それが一回転して個性のようになっていましたが、最近のロゴは少し細身になり、ちょっとだけ今風になったというか、頑固なお父さんより息子のほうがフレンドリーになったような感じでしょうか。

ヤマハはまさにヤマハであって、海外に行った人が帰りの空港で鶴のマークを見ると安心するそうですが、同様にあのロゴの前に座ると心が落ち着く人も多いのかもしれません。

ピアノにとってのロゴはまさに顔のようなものだから、非常に大切なものだと思います。

遠くなるピアノ

ネットを何気なく見ていると、思いがけない記事に出くわすことがありますが、読むなり気分が曇っていくようなものを目にしてしまいました。

ピアノの価格に関するもので、国内産のピアノは(すべてかどうかはともかく)毎年10%!もの値上げを繰り返しているという記述があり、まったく知らなかったので、単純に、素朴に、驚きました。
GDPの成長率も思うよう伸びないのに、毎年10%アップとはおだやかではない話です。

値上げの理由はいろいろあるようですが、需要の減少、熟練工の不足、天然資材の枯渇、物価上昇、賃金の値上がり、さらには長引く円安なども絡んでいるようで、もしかすると中国市場の極端な低迷なども影響しているかもしれません。
しかも、この「毎年値上げの方針」は、当分収まる気配がないというのですから深刻です。

以前であれば、日本人にとってピアノは国内メーカーのおかげもあり、その気になればなんとか手に入れられるものでしたが、それらも近ごろではずいぶんと立派なプライスとなり、さらにこの先そのような値上げが続いたら、時が経つほど縁遠い存在になる。

もし毎年10%の値上がりが続くと、5年後には手ごろなグランドでも400〜500万円、プレミアムモデルではその遥か上を行く価格となり、10年後には1000万円を越えるものも珍しくなくなるだろうとの予測までされており、開いた口がふさがりませんでした。

フェイクが横行するネットの世界、はじめは「まさか!」と思いつつ、K社の価格改定をみると確かに全機種がほぼそうになっているし、Y社も時期や値上げ幅にはばらつきはあるものの値上げ方向であることに変わりなく、この先、ピアノは文字通り高嶺の花になってしまうのか?
将来ピアノを買う(買い換える)という目標があっても、年々ピアノのほうが空高く離れていくようで、なんたることか!と思いました。

そこにあったアドバイスのひとつは、欲しい人は一日も早く購入すべき!というもの。
長期ローンを組んだとしても、毎年10%の値上がりよりはbetterというもので、反論できないシンプルな理屈でした。
個人的には新品に未練はないけれど、中古ピアノも新品と価格連動するから相場全体が上がっていくだろうし、なんとも息苦しい時代に突入したものです。

試しに電卓を打ってみたら、毎年10%ずつ高くなると5年後には1.6倍、10年後には2.6倍で、100万円は260万円に、300万円は780万円になるとわかり、クラクラしました。

理由さまざま

フジコさんについての投稿にいくつものコメントをいただきましたが、やはりあの方には一時的な現象だけでは収まらない、継続的な人気が維持できるだけの魅力があったことを感じさせられました。

ブレーク早々、ラ・カンパネラが代表曲となり、そのCDもクラシックとしては桁違いの売れ行きであったことも話題でしたが、同業者はじめ少なくない層からの反感を買うことにもなり、言い方は不適当かもしれませんが「面白い現象だった」と思います。

コンサートでも、少なくともフジコさん登場以前に比べたら、あきらかにラ・カンパネラが多く弾かれるようになったと感じました。
もちろん、聴衆が好む曲だからという素直な動機もあったと思いますが、あきらかに「フジコのラ・カンパネラ」を意識して、ことさらにハイスピードで技巧的に弾いてみせるところに「これが本当のラ・カンパネラですよ!」というブームへの批判が透けて見えるようでした。

むろん、そんなことで怯むようなフジコさんではありませんでしたが。

フジコさんのピアノの特徴のひとつが、聴くものを誘う美しい音色だったと思います。
ご自身が語っていたところでは、「アタシの音がきれいだって言われるのは、指がこんなに太いでしょ、だからいい音がするのよ!」と両手をかざしながら言われていましたが、ただそれだけではない気がします。

フジコさんは聴覚にご不自由があったようで、そのことと関係があるのでは?と思うのです。
本能的か無意識かはわからないけれど、少しでも自分の出す音を捉えようとすることが、結果的に、通りのよい澄んだ音を生み出す誘因となったのではないか?という気がするのです…あくまで想像の域を出ませんが。

…それにしても、ラ・カンパネラがどうしてああも好まれるのか?
パガニーニによるキャッチーなメロディもあるだろうし、「ラ・カンパネラ」といういかにも華やいだ響きの名前とも無関係ではないかもしれません。
「ため息」もいいけれど、一般ウケするには「ラ・カンパネラ」のハレな感じには及ばないのでしょう。
ショパンの「幻想即興曲」も名前の力はあるはずで、即興曲第4番「幻想」ではダメだったのでは?

※写真は前回と併せて著作権フリーの画像からお借りしています。

フジコ・ヘミング

2024年4月21日、フジコ・ヘミングさんが亡くなられました。
生前、年齢は公表されなかったけれど、92歳だったと知って驚きました。

このピアニストについては、擁護派と批判派が真っ二つであったことが印象的で、日本の音楽界で好みがこれほど分かれたピアニストは珍しいでしょう。
フジコさんは、ピアノだけでなく、生き様のすべてを自分の感性で染め上げた方でしたが、ツッコミどころも満載でした。

批判派の言い分もわかるところはあるけれど、普段あまり自分の意見を示さないような人まで、フジコとなると気色ばんで容赦ない口調となるのはいささか面食らったものです。
好みや感じ方だからそれも自由ですが、ならば他のピアニストに対しても、それぐらいはっきり自分の感想や意見を持ってほしいと思ったり。

なぜそんなに好みが分かれたのか。
第一には演奏のテクニック(主には指のメカニック)のことが大きいようで、ピアニストとしてステージで演奏するような腕ではないというのが主な言い分のようでした。

たったひとつのドキュメント番組によって、突如世間の注目を集めるところとなり、いらいCDもコンサートも売上は記録破りで、その人気ぶりは、一部の人達には容認できないものだったようです。

もちろんプロのピアニストにとっての技術は不可欠で、それなくしては成り立たないものですが、フジコさんのピアノはそれを承知でも聴いてみる価値があったと思うし、美しい音、とろみのある表現、さらにそこからフジコさんお好みの文化の世界が切れ目なく広がっていることを、感じる人は感じたに違いなく、私もその一人でした。

好みが分かれたもうひとつは、世間の基準に従わず、おもねらず、びくつくことなく、誰がなんと言おうと自分流を貫いて平然としているその様子が、ある種の人達には快く映らなかったのでは?

きっかけはたしかにNHKのドキュメント番組でしたが、私の見るところ、それ以降はご本人の実力でしょう。
ピアノはもとより、絵画、服飾、動物愛など、稀有な芸術家としての総合力で立ち位置を得た方だと思います。

フジコさんの手から紡がれるスローで孤独なピアノには人の体温があり、なにか心に届いてくる不思議な魅力があって、それが多くの人達に受け入れられたのだと思います。

実際の演奏会にも行ったことがありますが、たしかに技術の弱さでハラハラすることもあったけれど、同時に「美しいなぁ〜」「ピアノっていいなぁ〜」と思う部分がいくつもあり、これはなかなか得難いことだし、結果的にそんなに悪い印象は持っていません。

難曲をことも無げに弾くばかりが正義じゃないと、技術偏重の世界に一石を投じたような意義は「あった」と私は思っています。

心よりいでくる能

随筆家の白洲正子氏の著作の中に『心よりいでくる能』という一冊があり、そこに書かれていることは芸術と技術の分かちがたい微妙な関係性が抱える問題で、じつに世阿弥の頃からのテーマであったようです。

正子氏は、薩摩藩士の樺山家の令嬢として生まれ、幼少期より能楽に打ち込み、夫は吉田茂の片腕であった白洲次郎。
青山二郎や小林秀雄はじめ数多くの傑出した教養人と交流し、後年はアマチュアとして骨董や各地の仏像などにも造詣を深めた、日本の美の語り部でもあります。

『心よりいでくる能』の冒頭は、
「惣じて、目さきばかりにて、能を知らぬ人もあり」という世阿弥が老年になって記したという『花鏡』の中の言葉ではじまります。

以下、少し引用してみます。
「惣じて知的な批評眼ばかり発達して、能の本質を知らぬ人もある、というのは、現代にも通用する名言で、あらゆる芸術一般についていえることだろう。特に近ごろはその傾向が強く、知識がすべてと信じている人たちは少なくない。」
「たしかに知識はあるに越したことはないけれども、能を見ている最中は能に没頭しなければ何物もつかめない。」
「ここで「目きき」といっているのは、能にまつわる型とか約束事に通暁している人々のことである。世阿弥のころにはもっと自由でゆるやかであったものが、時代を経るとともに何十倍にも殖え、茶道と同じように洗練を重ねるとともに、型でがんじがらめとなり、身動きができなくなった。」
「古典芸能に型が大切なことは今さらいうまでもないが、あくまでも人間の便宜のためにあるので、型を正確に守ることだけが、能を知ることにはなるまい。」
「型だけのことをいうなら、一糸乱れず、完璧に舞う能楽師は何人かいる。彼らは達人の域に達しているが、見た目に美しいだけで何の感動も与えない。」

〜まだまだ引用したいところもありますが、これぐらいにしておきます。
ここで白洲さんの文章から読みとれることは、型や約束事ももちろん大事であるけれど、それに縛られて本質を見失うのは本末転倒であるということだろうと解釈しました。
能をピアノ、能楽師をピアニスト、型を楽譜や解釈におきかえたら、そのまま現代の演奏がはらむ問題に通底し、違和感なく浮かび上がってくるあたり、どの世界も同じなんだなぁと思うわけです。

観阿弥・世阿弥が生きた室町のころから、すでにものの本質を見失い、芸の向上と洗練ばかりに気を取られて大切なものを見失い、技術というわかりやすいものへ人は流れていたのかと思うと、要するに知識や技巧というものは、己の名を挙げるために示しやすい最短ルートということなんでしょうか。
技術や型を完璧にこなせるということは、わかりやすい根拠となり、一定の基準を満たすことで評価の目的が絞りやすいのでしょう。
その点、深い教養の中からものの本質をつかみ、自由で闊達さを失わずに本分を極めることは、まず他者と競うという目的とはそぐわないし、わかる人だけにわかればよいという高尚で無欲な精神の世界だから、曖昧で、主観的で、審美の目を前提とする。

これでは評価は分かれ、時間がかかり、回り道、寄り道、無駄や失敗をものともしない道であるから、とても今の競争社会のスピードにはそぐわない。

しかし芸術に触れるよろこびとは、天才や真の理解者だけが神に近い領域から持ち帰ったものを示してくれること、その尋常ならぬ感性によって選びとられ、濾過された貴重なしずくの滴りを、下界の凡人が口を開けて待っているようなものだと思います。

ピアノでいうと、最大の罪作りと思われるのは、ピアニストをがんじがらめにしておいて、その罪にも問われずますます拡大していくコンクール主義。
しかも近年のそれは、悪しき方向へといよいよアップグレードされており、コンクールそのもの、コンテスタント、審査員らの権威、ピアノ会社、音楽事務所、メディアなどが寄り集まる総合競技の様相を呈しているといっても言い過ぎではない。

中には必ずしも賛同はしないけれど、現実的にその洗礼を受けないことにはステージチャンスもないということで、やむなく受容する向きも多いようで、コンクールのドキュメントなどを見ていると、ああいうものに勝ち抜いていける人は、まぎれもないアスリート。
たいへんタフで、たいへん有能で、その事自体は大したものとは思うけれど、それは凡俗の勝者であって、芸術家には見えません。

では、芸術原理主義のようなものにしがみついて、ゴッホのような悲惨な生涯を送ることがいいと言いたいわけではありませんが、そこに一定の良識の働きとか、程よさというのは保てないものかと思います。
すくなくとも今のピアニストの演奏は、音楽として聴いた場合、優秀なアナウンサーの完璧な原稿読み上げ術のようで、音楽のようで音楽ではない、何か別のものを聞かされているような後味が残ります。
これをフェイクというのかどうかわかりませんが、聴いていて心が素直な感動や喜びに満たされないのは、やはり根本的な何かが間違っているような気がします。

文化芸術の在り方というものは、常にこういう問題がついてまわり、よくよく難しいもののようです。
世阿弥が呈した問題は、700年経った今も生き延びて、解決に至らず、いよいよ増殖を繰り返しているということかもしれません。
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オオカミ少年

イソップ童話の『オオカミ少年』ではありませんが、最近のお天気など災害に連なる報道はあまりにも大げさすぎて、実態との乖離が甚だしく、結果ほとんど信頼性がありません。
台風の時も同様のことを書いたと思いますが、今度は雪に関するものでした。

昨日は、夕方から出かける予定があり、食事も外で済ませることが決まっていました。
同行者もいましたが、その人からの連絡で「ニュース見たらすごいことになっている!」と言われて、こちらもすぐTVのスイッチを入れてみると、夕方のニュースの時間帯ということもあり、各局が今夜から明け方に襲来するであろう寒波と積雪について、繰り返し強い注意喚起をやっていました。

しかも画面は、災害時用のタテヨコに幅広い帯つきのスタイルとなり、エリアの寒波がいかに注意すべきものであるかを連呼しており、映像は県内山間部の一面銀世界のものであったり、東京から出張できている人にインタビューして「東京より博多のほうがぜんぜん寒いです!」といわせたり、タクシー会社ではあわてて冬用のタイヤに交換する映像など、そんなものばかり。
とりわけ山間部などは、この時期ならいつでも雪に覆われているはずですが…。

そして、天気図を示しながら今年最高の寒波です、夜半から明け方にかけて福岡地方では10cmの積雪と見られています、不要不急の外出は控えてください、どうしても外出される場合は冬用のタイヤやチェーンの準備をし、くれぐれも注意してください!等々を何度も繰り返し言いまくっていました。

私もはじめは、最近のTVのお天気ニュースが必要以上に大げさにいうのは十分心得ていたので、「実際は大したことないのでは?」と考えて、そのまま予定決行する気でいました。
しかし、その後も各局の注意喚起の名のもとに危機感を煽る言い方はますますヒートアップして警告となり、映像の中の人々は家路を急ぎ、だんだん「もしや…」という心配が頭をよぎるようになり、勝手に割り引いて行動した結果、もしものことがあったら…という不安も広がってしまいました。
そもそも、絶対に大丈夫などという自信はどこにもありません。
そして、結果的には不安が勝って、キャンセルの都合もつけられたため、この日の外出は直前で断念してしまいました。

もう大丈夫というわけで、さあ、その大雪とやらはどんなものかと興味津々でしたが、何度外を見ても道は普段通りに白く乾いたままで、なんだかいやな予感が。
予定通り外出していたとしても、とっくに帰宅している時間帯となっても状況はまったく変わる様子もなく、このころには「ああ、またやられた!!!」という思いで歯ぎしりしたくなりました。

夜中になると、多少強い風が吹いているようでしたが、それでも雪の気配はなく、あっても風の中に白いものがほんの少し混ざっている程度で、積雪などとは程遠いレベルです。
朝起きたら銀世界か?…とはもうあまり思ってはいなかったけれど、やはりまったくそういう気配はないばかりか、皮肉な感じに青空さえ覗いており、これってなんなんだ!という思いばかりが残りました。

おそらく、災害という最悪の状況を想定して予防に努めることが絶対優先で、そのためには多少の誇張だろうが何だろうが、そのため結果は違っていようとも、それは構わない!というルールがあるような気がします。
しかも、後日、結果に対して訂正するわけではなく、一方的な言いっ放しで終わりです。
夏にも「最大級の台風で、命を守る行動を取ってください」と半ば脅迫的に言われながら、ほとんど樹の枝も揺れなかったこともありました。

そんなに大事をとって誇張も厭わないスタンスのわりには、能登のあんな酷い地震などはまったく予想できなかったわけで、なにがどうなっているのやらわけがわかりません。

むかし聞いた話で、医者はガンではないものをガンと診断する間違いは許されるが、その逆は許されないというのがありましたが、これと同様で、人々の安全の名のもと、本当の正しい情報提供はないがしろにされ、ただ情報発信者側の責任回避のためのアリバイ作りで騒ぎ立てているように思えてなりません。

これによって、予定変更などを余儀なくされ、多大な迷惑を被った人はおびただしいものがあるはずです。
私ももうさすがに懲りて、今後はこのような情報はまともに取り合わない気でいますから、こんな空虚な報道ばかりしてたら『オオカミ少年』のように信じなくなってしまい、それこそが最も恐ろしいことではないかと思います。
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ドラマからあれこれ

ヘルニア騒ぎから半年を待たずして、再び安静を要する事態となりましたが、肺炎はだいぶ落ち着きつつあるようです。
療養がてら、またも動画配信のお世話になる時間も増えてしまっています。

映画もむろん楽しめますが、気軽さという点ではドラマのほうに分があるのはどうしてだろう…と思うところ。
映画のほうが作品として圧縮されているためか、観る側にも集中が求められるのかもしれません。

個人的にはアクション系は好きではないし、刑事物・医療物もできるだけ避けたいというのがありますが、知人がすすめるのでBOSCHという刑事ドラマに手をかけてしまいました。
舞台はロス市警、主人公は離婚歴のあるベテラン刑事で、お定まりのちょっとアウトローだけれど、小柄な体躯の中にグリーンベレー出身のタフさと気骨があり、刑事としては一流という設定です。

ロサンゼルスというのはそもそもアメリカのエンタメ文化の聖地でもあり、この地が舞台というのは数しれず、警察物ではもはや古典ともいえるコロンボ警部もロス市警でした。
切れ者の刑事というのは大抵小柄で、見た目は決して派手なタイプではないのも、ある種お約束のように思います。

凶悪犯罪に挑んで犯人を追い詰め、悪に斬り込んでいくには、長身のイケメンやマッチョより、小柄で型にはまらないタイプのほうが味があり、収まりもよく、見る側も楽しめるのだろうと思います。
相撲で、小兵力士が横綱に土をつけるときなどに相撲の醍醐味があるのと似たようなものかもしれません。

さて、このボッシュ刑事ですが、顔を見るたび誰かにいていると気になって仕方がなかったのですが、シーズン3に至ってようやくわかったのは、なんと帝王カラヤンでした。
ヘアースタイルがまるで違うのと、時代もジャンルもあまりに別世界なので、なかなか結びつきませんでした。
そういえばカラヤンも小柄で、小柄というのは、逆にある種の凄みや存在感があることがありますね。
たしかナポレオンもそうだと読んだ覚えがあるし、現ロシア大統領大統領もそうですね。

話は飛んで、昨年の秋ごろ、もう一つの趣味であるクルマで、カーグラという月刊誌があるのですが、その定期購読をついにやめたことは、もしかしたら書いたかもしれません。
免許取得前から40数年にわたり、一冊も欠かさず愛読してきた月刊誌でしたが、カリスマ性のある小林彰太郎という創刊者の死後、その内容は目に見えてつまらなくなり、さらには時代の変化もクルマには逆風だったのか、ついには(私にとっては)立ち読みする価値もないまでになり、とうとうふんぎりをつけたのですが、意外に予想したよりはるかにサッパリしました。

クルマの知人が「カーグラは昔のものを読むべき」としきりにいうので、そうかと思い50年前のものをパラパラやっていたら、そこにはまさに小林彰太郎全盛期の文章がふんだんに並んでおり、引き寄せられるように読みふけってしまいました。
小林氏は日本の自動車ジャーナリズムの草分にして圧倒的な存在でしたが、東大卒の大変な教養人で、実はクラシック音楽の大ファンでもあり、中でもとくにピアノ音楽を好まれていたことは驚くべき偶然でした。
一度きりでしたがお目にかかったことがあり、クルマの話もそこそこに話題は一気にピアノになりコルトーについて会話した特別な思い出があります。
さて、1974年の号(これはバックナンバーで入手したもの)にはロンドンのクリスティーズオークションを見学した時のレポートがあり、その中の一台は元のオーナーがカラヤンだそうで、ごく簡潔に「元ヘルベルト・カラヤン所有」と書かれてところに、さすがは小林氏と唸ってしまいました。
というのも、カラヤンは、世界的に、そして終生、ヘルベルト・フォン・カラヤンの名で認知されていましたが、ものの本によると、ドイツでフォンを名乗るのは貴族だけで、彼はオーストリア出身かつ自分の出自が貴族でないにもかかわらず、その強烈なる虚栄心から、フォンを勝手に使っているとありました。

小林氏は文章上の言葉や名称にはとくに正確を期する厳格なスタンスを貫いた人で、だからこの表記はおそらくそのことを知っての上だったと思われます。
すなわち、「フォン」を書き忘れたのではなく、意図的に「外した」のだと想像すると思わずニンマリしました。
それにしても自分でフォンをつけて定着させるとは、やはりタダモノではありません。
日本人なら、自分でミナモトノオザワセイジなんていったらびっくりしますよね。

ちなみにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやフィンセント・ファン・ゴッホもどこか似ていますが、こちらは貴族由来ではないようです。
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肺炎

病気ネタなどを繰り返し書くとは、無粋の極みではありますが、いまさら粋人を気取るつもりもなく、どうせ無粋な私だし、さしあたって目の前はそれ一色だからお許しを。
発症から7日目に突入した真夜中、やや落ち着きかげんに思えた病状は再び悪化しだして、体温は39℃に迫る勢いとなりました。

知り合いの中には、夫婦揃って異様なほど医療知識に詳しい人達がいて、ハァハァいいながら話をするのも辛いのでLINEの往復が続きました。
そもそもインフルエンザでこれほど長期間というのはおかしいこと、また仮にインフルエンザであればロキソニンは飲んではいけない薬の一つだということも、多少批判的に知らされました。

ここまできたら病院嫌いなどと言っている場合ではないと腹をくくり、翌朝病院に行く決心をつけました。
ところが朝目が覚めると、昨日の苦しみは何だったのかと思うほど症状が軽くなっており、熱もさほどでもありません。
これまでの私なら、これ幸いに病院行きは即刻キャンセルするところですが、この一週間のことを振り返り、そしてまた明日から週末になることを考えたら、やはりここは自分でしっかり決心したことでもあるから、行くことに決めて近所の大型病院の予約を取りました。

初めて知りましたが、発熱外来というのは入り口からして違っており、裏手の通用口のようなところからブザーを押して入ります。
そのエリアだけ厳重に遮断されており、物々しい姿の看護師さんが対応に出てこられ、あれこれ聞かれたあとに診察室へ。
医師も同様の姿で目元以外は顔も見えません。

問診のあとすぐに抗原検査となり、これも初めての体験でしたが、細い棒を鼻の奥深くまで容赦なく突っ込まれ、それは思わず「ひぃ」と声が出てしまうほどでした。
ほどなく結果が出たのですが、なんとインフルエンザでもコロナでもない!というもの。
そうとなれば別の検査をしなくてはならないそうで、「2時間ほどかかりますが、お時間よろしいですか?」と迫られました。
よろしくないに決まっているけど、ここまで苦しんだあげく重い腰を上げてやってきた病院なんだし、もし厄介な病気があるとすればそれを放置することもできないというようなことも頭をかけ回り、心配と投げやりの「どうにでもしやがれ」気分になって了解しました。

抗原検査が陰性だったため、規制線内の立ち入り可となり、ただちに病院内の検査にまわされました。
ちなみに、ではインフルエンザではなかったのか?というと、インフルエンザだとしても数日で消えるために、発症後6日も経つと検査には出ないのだとか。

CT、レントゲン、血液検査、採尿検査となり、それらが終わって一時間ほどすると結果が出るとのこと。
待合室でぼんやり待っていると、担当医が歩み寄ってきて「いま検査していますが、肺炎の症状がでているようです」とわざわざ言ってきました。
肺炎は入院治療が基本なのだそうですが、程度によっては内服治療も可能とのこと。
ここまで譲歩して検査までしたのに、そのうえ入院なんてとんでもないと思い「入院はちょっと…」というと、「では結果次第ですが、できるだけお薬で様子を見るようにしましょうか?」「お願いします」となりました。

ほーら、言わんこっちゃない、病院なんぞに行ったらこんな面倒なことになるんだという思いと、とはいえ、今の段階でそれがわかってよかった、あのまま自宅で放置していたらどういうことになっていたか…という二つの思いが妙な感じに交差しました。

やがて診察室への呼び出しがあり、そこでレントゲンやCTの画像を見せられ、左の肺の下のほうにわずかにそれらしきものを目にしました。それが肺炎なのかどうか自分ではわからないけれど、医師からこれがそうなんだと言われるから、そうなんだ…と思ったわけです。
薬の説明を受けたあと、否応なく翌週の何曜日何時という予約までさせられ、さすがに応じるしかありませんでした。

病院に入ってから再び車が動き出すまで約3時間、すっかりお腹も空いて、同行者もいたので、そのままフェミレスに行ってランチを食べて帰宅しましたが、肺炎ならそんなところに行くことも褒められたことではなかったかもしれません。
同行者は私の病院嫌いをよく知っているので、助手席で「思い切って行って良かったね」を繰り返していました。

ま、それもそうだと思いつつ、帰宅後すぐに3種類の薬を飲みました。
できるだけ安静を心がけますので、できるだけ早く治りますように。

インフルエンザから肺炎に発展することは珍しくないのだそうで、皆様もどうぞお気をつけください。
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インフルエンザ

今年の正月休みは、例年にはないものずくしで、新年早々は一連の災害や事故で肝を冷やし、後半はインフルエンザにかかるという、散々なことで終わってしまいました。

もちろん、ニュースに出てくる方々の苦しみに比べたら、インフルエンザなどものの数ではないとお叱りを受けそうですが、個人的にはかつてない強烈なもので参りました。
潜伏期間などを考えると、いつかかったのかはいまだにわからないものの、はっきり発熱を実感したのは6日土曜で、カレンダー上はそこから3連休となるあたり、どうして病気になるのは、いつも必ずと言っていいほどこういうタイミングになるのか…。

知り合いの自然派の方に云わせると、発熱するのは体にとって、発熱し外敵と戦う必要があるから熱が出るわけだから、それをむやみに解熱剤などで抑えこんでいると、かえって不調が長引いて、いつまでも症状が改善されないと力説されます。
悪寒がしたら、熱い風呂に長めに入って、そのあとは汁物や麺類など温かいものを体に入れて出来る限り汗を出し、体を冷やさぬよう布団に入って睡眠をしっかりとれば、多くの場合ごく短期間ですっきり回復できるのだとか。

ふんふんなるほど…とは思っていたけれど、普通の風邪ぐらいならともかくインフルエンザともなると、なかなかそういう荒技を試してみる興味もなにもすっかり消え去ってしまうものです。
熱は右肩上がりに急上昇を続け、二日目には40℃という、これまでの人生で一度も経験したことのない数値に達し、併せて体の具合の悪さときたら、およそ耐え難いばかりに悪化。

病院のことも思わないでもなかったけれど、生来の病院嫌いにとって、救急外来のある病院などに行くのもそれはそれでイヤだし、ある人から「救急車を呼ぶべき!」とアドバイスされたりすると、ああもうこの人には言うまい…と思ったり。
もちろんこちらを心配してのことではあるとしても、病院への移動手段として、気安く「救急車を呼ぶ」ような考え方は、どうも性に合いません。

〜というわけで、10日水曜の時点で丸5日経過ですが、かすかに回復傾向にはあるものの一進一退で、とにかくそのしつこさと言ったら並大抵ではないなというのが、今回のインフルエンザの正気な印象でした。
数名の人から聞き集めたところでは、すべてに共通しているのは「今度のインフルエンザは強烈!」ということ。
たしかに以前コロナにかかったときより、あきらかに苦しさの次元が違うし、そのパワーやしつこさもコロナの比ではありません(私個人の場合)。

病院に行けばタミフルなどが手に入ったのでしょうが、それもない以上、今回はロキソニンが唯一の頼りでした。
これを飲めば、わりに熱は下がるし、効能時間も意外に長いので、以前のヘルニアのときに溜め込んでいたロキソニンがたっぷり手元にあったことはせめてもの救いでした。

これまでは風邪を引いても食欲が落ちたことはなく、平気でステーキでも平らげていた私にしてみれば、まったく何も食べる気がしないしゼリーぐらいしか受け付けないのは、我ながらこれは相当なものだろうと思えて怖くなりました。
食べるといえば驚いたのは、高熱が続いたあとは、ものの味が微妙に変わってしまい、簡単に言うと全体に美味しさが損なわれてしまったのはショックで、すぐには気付かなかったものの、あれ?ん??を繰り返すうちにこちらの味覚が狂っているこおがわかりました。
高熱というのは様々な影響があるということがわかりました。

毎日、はじめにがっかりするのは、朝目覚めたとき。
この手の病気になると、どうしても「明日になったら良くなっているのでは?」という淡い期待があるものですが、目が覚めても体調が少しも良くなっていないことがはっきりするときの、あのときのなんともやるせない失望感!
それを裏付けるべく、枕元の体温計を引き寄せてみれば、毎日38℃台から一日をスタートせざるを得ないのは、いいようのない無常感に苛まれます。

日がな一日、折あらば体温計を脇に挟むのが習慣化してしまい、その数字に一喜一憂するのはなんと嫌なことでしょう!

体温計といえば、家にあったこれまでのものは検温に何分間もかかり、待ちくたびれたころにようやくピピッピピッと音がしますが、本当に具合が悪いときは、これさえも苦痛で我慢できないもの。
そういえばコロナ騒ぎの頃、体温計を買っておいたほうがいいということで、ネットで2本購入したけど一度も使っていなかったことを思い出しました。

高熱うなされながら、やっとそれを探し出したところ、パッケージに「検温15秒」と書かれており、え?まさか?とは思いつつ、開封してさっそく使ってみると、なんたることか、それはもう信じられないほど早く、脇に押しやった手を服の中から外に出しかけた頃には、はやくもピピッピピッと音がして、これにはびっくりしました。
正確に15秒かどうかはしらないけれど、とにかく従来のものに比べたら信じられないスピード差で、バスと飛行機ぐらいの違いです。

こんな高性能なものを使ったが最後、もう二度とあのちんたら体温計には戻れません。
…と、体温計はいいけれど、もうそろそろインフルエンザにもおいとまいただきたいものです。
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SKの脅威

あけましておめでとうございます。

2024年は、元日早々に発生した能登方面の大地震、翌日にはJALと海保機の衝突事故、さらにやや地方ネタにはなりますが、福岡県北九州市では古い商店街が大規模火災に見舞われるなど、きわめて厳しいスタートとなりました。

ここ最近は、国外国内どこを見渡しても心が塞ぐようなニュースばかりが横行し、なかなか希望を見出すことの難しい時代になっているように思います。

昨日は、知人のお宅に招かれてそこのシゲルカワイ(SK-5)に触らせていただきましたが、久々に素晴らしいピアノに触れて、深い感銘を覚えました。
購入後数年を経て、まさに本領発揮というべき熟成状態にあり、これまでの日本の大半を占めるピアノとはほぼ完全に袂を分かった充実ぶりに圧倒され、これはまさに一流品だと思いました。
日本のピアノ独特のあの「和風」な感じから解き放たれ、完全に国際化できた初のピアノでは?と本気で思いました。

低音から高音までバランスも見事という他なく、すべての音に深いコクがあり、表現力も豊かで、これといった不満がどこにもみつからないものでした。
音は暗くも明るくもないバランスがとれており、良いピアノが必ず備えている重心の低さがあるし、それでいて部屋中に鳴りわたるダイナミズムと立体感があり、ふと戦前のスタインウェイに存在したA3という隠れた銘器として知られるあのピアノに触れた時の記憶が蘇りました。

何より特筆したいのは、ヴィヴィッドで密度感のある美音であり、それをしっとり感あふれるタッチが支えており、それらが相俟って心地よい親しみのようなものを伴いながら、弾き手に寄り添うように反応してくれるところでした。
SK-5といえばサイズ的にはいわゆる中型ピアノですが、その全体からくる印象は限りなくコンサートピアノに近いもので、コンサートグランドからあのいささか大仰すぎるところを削り取って、扱いやすく手に馴染むようにまとめたピアノといっても差し支えないと私は思いました。

巷でのシゲルカワイの評判が「なるほど」とストンと落ちてきたように思いますし、むしろこれまでの私の中にはどこか偏見があったのか、正しい評価を下すのが遅くなってしまったような忸怩たるものさえあって、この点は大いに反省する必要がありそうです。

シゲルカワイを語るとき、とくに強調しておくべきことはその価格で、絶対額は決してお安いものではないけれど、輸入ピアノの価格を基準に考えれば、各サイズごとにくらべると概ね3分の1から、ものによっては4分の1ほどであり、これはその内容からすれば信じ難いもので、その人気は当然だろうと思います。
裏を返せば、SKはその価格帯のピアノと互角に比べられる内容を持っていると思われ、今風にいうなら「これは相当やばい」と思った次第です。

せっかく感銘を受けたというのに、生臭い値段の話なんぞするのはどうかと思いましたが、モノの良し悪しを判断するのに価格を考慮に入れないことは現実的ではないし、フェアでもないから、やはりここは避けては通れない問題だと思います。

そういえば、ポーランド仕込みのショパン弾きとして有名な遠藤郁子さんも、ご自宅のピアノがスタインウェイからシゲルカワイに変わっている動画をいつだったか見たのを思い出しましたが、今なら「なるほどね…」と思えます。
スタインウェイはむろん素晴らしいけれど、たとえばModel-AとSK-3はほぼ同サイズですが、価格は5倍です。
スタインウェイAにはSK-3の5倍の価値があるのか?といえば、私には到底そうは思えません。

世界的にも、とりわけ上級グレードのピアノにとってSKシリーズは相当な脅威であることは間違いないことをしっかり思い知らされた今年のお正月でした。

今年もよろしくお願い致します。
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特権

知人の方が、県内のとある市民オーケストラに入団されたことを知りました。

それがきっかけで思い出したお話。
そこは県南部のこじんまりした街ですが、その地で長年親しまれてきた百貨店が廃業し、それを機にデパート跡地を含む一帯が再開発の対象とされ、数年前に大規模な総合文化施設として生まれ変わりました。

落成したことをニュースでも報じられ、そのホール見たさにコンサート情報を探したのですが、なかなかこれというものがなく、かろうじて見つけたのが地元の市民オケの演奏会でした。

思った以上に大規模な施設で、メインのホールも大都市のそれに引けをとらない立派なもので目を見張りましたが、こうなると維持管理だけでも相当なコストがかかるであろうことは想像に難くありませんした。
ホワイエに置かれたイベント予定表を見ると、正直この豪華なホールの本来の使い方かどうか疑わしいようなものばかりで、目ぼしいコンサートなどめったにないのが実情のようでした。

当時の報道でも言っていましたが、構想段階から市民の根強い反対があったようで、それも頷ける感じもありました。
百貨店廃業で出現したまたとない街の中心に位置する一等地で、周囲に連なる商店街はじめ市民の本音は別のものが期待されていたのかもしれませんが、そのあたりはよくわかりません。

ホール入口では、音楽とはまったく関係のない知人にばったり会いました。
首からスタッフらしき札をぶら下げ、お揃いのTシャツ姿でキビキビと忙しそうで、なんとこの市民オケの手伝いをやっておられるとのこと。

「ずいぶん立派なものができましたね」というと、満面の笑顔で鼻高々のご様子。
ほんの少し立ち話になり、「地元では反対も多かったようですね」と聞くと、「そうなんですよ!」と言われたので、自治体の税金の使い方はけしからん!という意味かと思い「本当に必要かどうかではなく、ハコモノを建てたがる悪習は全国どこも同じですね…」というようなことをいったら、「そんなことは自分たちは関係ないですよ」とどこか突き放すような反応をされました。

自分たちが快適に使えているのだから、それ以外のことなんぞ知ったことじゃない!といわんばかりに薄笑いされたとき、そこには特権を得た人間のどこか浮いた勢いだけがあり、まるで人が変わったように見えてしまったのです。
その自信たっぷりの口ぶりには、市民オケもこの施設を使わせてもらっているというより、事実上ここは自分たち専用のホールなんだ!というちょっと傲慢な感じが混ざり込んでいました。

そればかりか、それまでさんざん使っていた旧いホールを小馬鹿にしたような発言まで飛び出して、それ以上会話を続ける意欲もなくしました。
冒頭の方によると、演奏会前は数日前から大型楽器の運びこみなども可能だそうで、そのオケにとってはまさに「自分たちのもの」という特権がいまも継続しているようでした。

…が、ふと考えました。
私だって、もし自分の手に特権的な何かが転がり込んで、大きな声ではいえないようなことでも可能になったとしたら、まったくその恩恵に見向きもせず聖人君子のようにしていられるだろうか?と自問してみると、さほどの自信はないかもなぁ…とも思うのです。
そこに程度問題はあるにせよ、人間というのは多かれ少なかれそういうものかもしれないと思うと、今度は自分まで恐くなりました。

私を含め多くの人は、真面目にやるしか選択肢のない小市民の立場だから、なにかというとけしからんけしからん!と正論のようなことを言っているけれど、ひとたび特権を与えられ、その心地よさを覚えてしまったら、一気にその甘美な毒は体中をまわって、元には戻れなくなるのかもと思うとゾッとします。

すべてとはいいませんが、多くの批判や正義正論は、そのおこぼれに与れない者達の恨み節なのかもしれません。
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家電修理

今年も早いもので12月となり、すっかり寒くなりました。
我が家の暖房は、エアコンを基本としながら、必要に応じて石油ファンヒーターを補助的に使っています。

ある映画で見たところでは、最新の住宅の中には入念な断熱や空調が設計段階から効率的に組み込まれて、常時快適な温度を保たれているようですが、旧式な我が家ではそうは行きません。

寒さが募るにつれ、保管しておいた石油ファンヒーターを数台出すのですが、その中で着火しない個体がありました。
電気店やホームセンターなど、どこにでも売っている小型の定番モデルなので安いし買い換えればいいのですが、ちかごろの家電類は処分のこともあって、そこらを考えたら入れ替えも結構面倒というのがあります。

それに見た目も現在売られているものと同じで、とくに寿命で使い切ったという感じでもありません。
そこで、以前もブルーレイレコーダーの修理で書いたような気がしますが、YouTubeに型番を入れて検索すると、やっぱり修理動画が「ある」んですね。

しかもその作業の様子はというと、いかにもスイスイ苦も無くやっている感じで、「ハイ、以上です」「これだけで新品のように…」などといわれると、ついやってみようかな?という気にさせられるのです。
で、今回もダメなら買い換えるというつもりで挑戦してみることになり、とある日曜の午後、友人の手を借りながらこの作業に挑みました。

液晶部分のエラーコードは着火不良を意味しているらしく、ヒーターの最も中心にあるバーナーとかいう火が燃えるあたりがススなどで汚れているため安全機能が働き、着火しないようになっているとのこと。
なので、分解して、その部分を布や歯ブラシで汚れを落すなど、要は掃除をすることが修理であるようです。

ただ、人生でこれまで一度もヒーターの分解などやったことはなく、分解するということは、当然あとで元通りに組み上げることでもあり、これが最も苦労しました。
分解するにも順序があって、ここらが慣れない私にとっては簡単じゃありません。
ひとつパネルを外すと内側はネジだらけで、これを外しながら分類するだけでも大変でしたし、鉄のパーツは内側や断面が鋭いので、注意しないとケガをしそうです。
とくに問題のバーナー付近は二重三重に鉄の構造に囲まれており、ここにたどり着くまでが一苦労でした。

作業中、常に横にiPadを置いて、ひとつひとつ見ながらやることでかなり助かりますが、とうてい動画でやっているようにスムーズにはいかないことも今回わかりました。
ついに核心の炉の部分に到達し、布や歯ブラシなどで磨いて周辺のホコリをとるなどして、それ以外にも燃料フィルターの掃除など、バラしたついでにやっておくことが2つほどあるということで、そちらも動画の指示通りに済ませました。

やはり組み上げは分解よりも大変で、なんどもやり直ししたり、合うはずのパネルとネジ穴が合わなかったりで、締めたネジをまた外したりを繰り返しながら、悪戦苦闘の末、ついに元の姿に戻ることができました。
動画はわずか10分ほどのものですが、気がつけば2時間半ぐらいかかっており、途中で「やはり買い換えたほうがいいのでは?」という思いが何度か頭をよぎりましたが、同時にここまできて後にも引けないという意地みたいなものも芽生えて、お陰ですっかり熱中できました。

他のものならすぐに動作確認するところですが、なにしろ火のつく代物だけに、万が一のことを考えて比較的安全な場所に移して電気コードを差し、おそるおそるスイッチを入れます。
ここから着火に至るまでは正直恐怖感があり、もしボンッ!などといったらどうしようかと消火器のことなども考えてドキドキでしたが、やがて着火直前に聞こえるジーという音がして、そこから一息おいて、まったく静かな安定した着火に至ったのは、ほっとすると同時に、張り詰めていた緊張が一気に達成感に変わりました。

もちろん危険を伴うことなので、ヒーターに関しては決してオススメはしませんが、それ以外のことなら家電の修理というのも見よう見まねでやってみるのも楽しいですよ。
それによって買い替えや安くもない修理代のことを考えると、満足気分に浸れます。
こんなことが言えるのもYouTubeの動画があるからこそで、これがなければ私なんぞには決してできないことですが、言い換えるならレシピ動画を見ながら料理をするようなものかもしれません。

やってみてわかったことでは、このヒーターの場合、要は火の周辺の小さなパーツの掃除だけで済んだわけで、そうとも知らず全体を買い換えるというのは極めてナンセンスだと実感させられます。
ただし、メーカーはそのへんで買い換えてもらわなくては困るということでしょうが。

とはいえ、我々はメーカー側ではなく、いち購入者であり使用者なのですから、できるだけムダは抑えて、可能な範囲で効率的でありたいと思います。
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負け慣れ?

動画配信というものができたお陰で、かつてだったら考えられなかったペースで、日常的に映画やドラマを見るようになりました。
少し大げさに言えば、生活が変わったと言ってもいいかもしれません。

むかしむかし、貸ビデオというものが始まった時、自宅に居ながらにして見たい映画を個人が任意に見られるということに驚いたものですが、いまやそれがポケベルからスマホになるぐらいの進歩を遂げたわけですね。

映画好きの知人などは、毎日深夜まで一本以上の映画やドラマを見ているそうで、私はそこまでのパワーはないけれど、それでも二つの配信会社と契約して、これをまったく見ない日というのはほとんどありません。

とくにこだわりもないので、面白そうなものがあれば国内外を問わずなんでも見てみる派ですが、強いて言うと日本が世界に冠たるアニメだけは、まだ選択の対象にはなっていないぐらいでしょうか。
なので、もっぱら普通の映画/ドラマということになりますが、そこでいつも残念に感じることがあります。
個別の作品ではなく、全体を通じてのざっくりした話ですが、どうして日本映画はこうも遅れているのかと思うことが多すぎ、これには各作品の出来不出来を超えたものを感じます。

概ね作りも内容も浅薄で、ことさらな叙情やきれい事が横溢、人間や社会の真相に迫るパワーはあまりに小さく、なんのための作品なのかもよくわかりません。
見る人を楽しませる、あるいは社会的な何かを問いかけるといった目的意識も薄く、ほとんど作り手の甘い自己満足としか思えないことが多すぎて、見ていて恥ずかしく、情けなく、腹立たしくなるのです。

なにより日本映画/ドラマの甚だしい遅れを感じるのは、韓国のそれにくらべた時です。
韓国が国をあげてエンターテイメントの分野に注力していることは近年知られているところですが、もはや手が届かないまでに引き離され、このままではその差が縮まる希望もありません。
こうしてはいられない!勝負してやろう!という気迫がまったく感じられないのは歯がゆいばかり。

目の前の韓国があれだけのものを続々と作り出しているのだから、触発されて日本もレベルが変わってくるはずだと思うのですが、そんな気配もないのはもはや開き直りでしょうか?

韓国の作品といえども出来不出来はもちろん、ツッコミどころもあるけれど、全体としての出来ばえは圧倒的で、まず単純に面白いしストーリー展開もしっかり練りこまれており、まぎれもないプロの作品で、幼稚で学芸会みたいな日本は相手になりません。
日本は経済だけでなく、すべての面で負けグセがついてガッツまで失っているのでしょうか!?

ひとつ聞いた覚えがあるのは、日本映画は国内需要を満たせばそれでどうにかなるのに対して、韓国は国内だけでは市場規模が小さいので始めから世界を目指しているというのですが、それだけとは思えません。
アメリカや中国のような大国ならともかく、日本の国内需要など韓国より少しぐらい大きいといったって、たかが知れている筈です。
エンタメ文化が、まるで軽自動車のように、はじめから見切りをつけて作られているのなら、海外の映画祭などに未練を残すこともないのでは?
日本作品の特徴はまずセリフが少なく、やたら沈黙するシーンだらけです。
脚本自体もプロの書き手とは言いがたいような稚拙なものが多すぎて話が心地よく運んでいかないから集中力が途切れ、いつも赤信号の横断歩道で待たされているようです。
沈黙によって登場人物の心情を語らせているなどと抗弁されそうですが、説得力のある筋立てや雄弁な台詞が書けないから、動きのない沈黙で時間を稼ぎ、お茶を濁しているようにしか思えないのです。

もうひとついうなら、映画に必要なダイナミズムもエグさもなく、なにもかもが淡白な枠の中で小さく処理され片付いてしまうのは、楽しむための映画でまでそんなものを見たいとは、私は思いません。

マンガやアニメのことはわかりませんが、あちらは海外に向けて勝負に打って出て勝利を勝ち取ったのでしょうか?
私の印象では、たまたま海外から思いがけない高評価が得られたので、評価の逆輸入という現象によって、認識されたような印象が拭えません。

その他、ドラマでいうと、海外モノと著しく違うのはエピソードの数です。
日本のものは、だいたい6話ぐらいで、たまに10話とか12話があれば珍しいほうでしょう。

それが海外作品では、一昔前に流行ったSUITSなどは百数十話で、これだけの数を見通すだけで大変でしたが、トルコの「オスマン帝国外伝」に至っては500話近い超大作で、それを見続け、作り続けるエネルギーに感心してしまいます。
この手をいくつか制覇してしまうと、数十話なんて珍しく思わなくなり、日本の全6話など笑ってしまうほど規模が小さい…という感じしかありません。
むろん長ければいいというわけではありませんが、海外ドラマの多くは数十話、人気作になれば3桁のエピソード数になるということは、それだけ見る人を惹きつける魅力があるということでもあり、実際、ドラマといっても映画並みに小道具にまでこだわった高いクオリティが保たれているのは感心するばかりで、日本は真剣さや熱量がずいぶん足りないように感じるこの頃です。
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電池交換

腕時計の電池交換のおはなし。

個人的にはお高い腕時計などはあまり関心がなく、早い話、デザインさえ気に入ればスウォッチでも十分で、とくに金属製のものはデザインも常識的で重宝しています。
とくに電池交換が自分で簡単にできるのはありがたいところ。

自動巻きは毎日連続して使う人にはいいのでしょうが、放っておくと数日で止まってしまい、出かける際にねじ巻き&時刻合わせが必要となり、時計好きの方にはそれも味わいなのでしょうが、私にはただ面倒くさいだけ。
その点クォーツは便利だけれど、数年に一度は電池切れで止まるので、その交換となるといささか厄介です。

さほど御大層なものでなくても、ものによってはデパートなどにいけば、たかだか電池交換でもメーカーもしくは輸入元送りとなり、そのための費用・時間・手間などバカバカしいと言ったらありません。

近年はホームセンターの一角でも、合鍵を作ったり、靴底を張り替えたりするコーナーで時計の電池交換もできることになっていますが、ちょっと規格から外れたものになると特に高級品ではなくても、応じてもらえません。
技術的な問題なのか、あるいは事後のクレームを避けているのかわかりませんが、とにかく「これは買われたところか、時計専門店でないとできません」と断られ、ごく最近もやはり同様でした。

これまで自宅から車で5分ぐらいのところにある街の小さな時計店がすぐに交換してくれていたので、長いことここでお世話になっていました。
費用もほかのものと変わらず安価なのがありがたく、高齢の寡黙な時計職人さんがひとりで黙々とやっている小さな店でしたが、最近久々に行ってみたところ、その時計店が忽然と姿を消しており、何度見ても影も形もありませんでした。
頼りにしていた店がなくなるというのは、心にぽっかり穴があくようです。
年齢的なこともあったのか、事情はわからないけれど、とにかく廃業されたようです。

さあ困った…ということになり、ネットで調べた結果、それらしき店が数店みつかり、その中の最短距離にある店で無事に交換することができました。
ここも客が2人も入れば狭苦しいほどのごく小さな店で、やはりベテラン風の職人さんが一人で切り盛りされており、駅前ということもあってかぽつりぽつりとお客さんが絶えません。
そのため、電池交換だけで40分ほどかかりましたが、出来上がった時には丁寧に磨かれ、キチンと時刻合わせもされており、これで1100円とはちょっと申し訳ないような感じでした。

…余談ですが、このとき持っていったのはずいぶん昔に中国旅行したとき、ものすごい規模の市場(カバンや装身具の類)で勢いに呑まれて購入してしまったブランド物のコピー品でした。
何百店もが軒を連ねた独特な商店群で、通路を歩いていると、あちこちの店からワイワイ声をかけられ、袖を引っ張られ、それはもう猛烈なエネルギーで商品をすすめてきます。
安いし、旅のノリでつい買ってしまったものですが、それが望外によくできていて、気に入ってときどき使っています。
きっと、私に時計への思い入れや愛着がないからできることで、本当の時計好きだったらプライドが許さないことでしょう。
このブランドは本物でも電池式だからそうなっていて、巻き上げ式のモデルはちゃんとそのように作られているなど、そのあたりの技術は見くびれないものがあるようで、しかもその値段を考えると信じがたいものがあります。

そんないわくのある時計の電池交換だったのですが、差し出すと「☓☓ですね」とブランド名をいわれたので、「実はコピーなんです」と正直にいうと「ほう、そうですか」と至って静かな受け答えでしたが、真横にいた先客のオバサマが、いきなり「アハハハハ」と遠慮なく笑ってくださいました。
コピー品という負い目はあるけれど、アカの他人のモノに対して横から割り込んで笑うとはさすがに無礼では?と思い、ゆっくりその顔を見てやると、さすがにちょっと気まずそうな表情になりました。

40分後取りに行ったとき、しみじみと「しかし、これは良くできてますねぇ、私も本物だと思いましたよ」と真顔で言われました。
素直に喜ぶわけにもいかないような話ですが、手触りから何から本当によく出来ているので、それがまた却って電池交換時の小さな憂鬱になるのです。
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生活裏ワザ

テレビは基本あまり好きではないけれど、ではこれを一切視ないとか、テレビ自体を家に置かないというほど徹底した信念もなく、動画配信や録画などを中心に中途半端に接している私です。
それ以外ではニュースを見たり、片付け事をするときなどちょっとスイッチを入れたりしますが、そんなときに思いがけなく役立つ情報をゲットできることがあったりすると得した気分です。

ニュースの一部だったか、別の番組だったかは思い出せないけれど、洗濯に関する裏ワザがあると、その道のプロというような人が出てきて「ひと工夫」を紹介されたことがありました。
ちょうど夏真っ盛りで、汗をかくシーズンの洗濯物にニオイを残さない、部屋干しする人には部屋が匂わないための簡単なワザとして紹介されたのですが、それはまったく意外な、なんでもないものでした。

これまでは、場合によっては洗剤を既定量より多目に入れてみたり、洗濯機の既定コースに洗濯時間のプラアルファを加えるなど、さほど効果も疑わしいようなことをやるのがせいぜいでした。
洗濯物に残るニオイは人一倍嫌いですが、だからといって、わざとらしい香りのする柔軟剤などを入れるような手間はかけたくないから、長らくこのような方法でごまかしていたわけです。

さて、そのプロによると、洗剤を増やすのは却って逆効果となったりするのだそうで(なぜかは不明)、好ましい結果につながらないとの仰せです。
ではどうするか?
答えは簡単で、洗濯機のコースにプログラムされた水量を「一段階もしくは二段階、多めにする」ただそれだけでした。

これをやってみると、なるほど洗剤の量は変えず水量だけで結果に明らかな違いが感じられたのです。
乾燥機から取り出して、真っ先に匂いチェックをするのが昔からの妙なクセですが、これが明らかに違っており、水量を増やすだけでこのような効果があるとは思いもよりませんでした。
加えて、ここ最近の激しい物価高騰の折から、以前のように洗剤を見境なく入れるのもためらわれるようになり、今ではなんと良いことを教えてもらったのか!とひたすら感謝するばかりです。

今どきは、なにかと情報通の方も多くおいでとは思いますが、もしご存知でなければぜひお試しを。


お試しといえば、もうひとつ思い出しました。
魚など生臭いものを扱うと、どんなに石鹸で洗ってもしばらく手にニオイが残り、これがなかなか取れないものですが、これにも目からウロコの簡単な技がありました。

それは、上記の洗濯よりさらに簡単で「手を洗い、最後に金属に触れる」というものです。
ただ金属といわれてもピンときませんが、最も手近なところでは水道の蛇口まわりなどに触れて手先をスリスリすればいいだけで、これであのイヤな生臭さが取れるというのです。
番組でもいくつか検証していて、中には高級鮨店のベテラン板前さんもおられましたが「長年やってますが、そんなことは聞いたことないですねぇ!」と、はじめはやや上から目線の苦笑いでしたが、その結果「あれ、ほんとだ、臭わない…」と、同じ苦笑いでもちょっと面目ない感じに変わったように見えました。
私も実際にやってみましたが、たしかに魚介の生臭さが感じられず、これまた驚きでした。
すっかり忘れましたが、科学的根拠もあるようです。

今どきはビニールの使い捨て手袋などもありますが、調理中にそのつど着けたり外したりするのも面倒だし、ないほうがいい場合もありますから、これは有効だと思います。

このように、なんでもないことで結果に違いが出るのは、妙にうれしいものです。
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車中の音楽配信

世の中はEV車、さらには自動運転へのシフトが進んでいるというのに、まことにズレまくりのアナログチックな話ですが…。

最近の車は車内で音楽を流そうにも、もはやCDプレーヤーもなく、クルマとスマホと繋いで、膨大なデータの中から好みの音楽を選んで聴くシステムで、当然ながら自分の手許にない音源をも楽しめるように(理屈の上では)なっています。

そういうわけで、とりあえず音源の確保として Amazon music に入会して車で曲を流しているわけですが、よほど便利なものかと思ったけれど、2年以上使ってみても未だに慣れないし、操作もよくわからないまま。
クルマに乗るたび、まず曲選びだ何だという準備作業が待っておりウザくて仕方ありません。

スマホだから前もって家で準備しておけばいいのでしょうが、クルマ用には格安端末を使っているため車内に置きっぱなしで、それをわざわざ家の中に持ってきて小さな画面と格闘するのは面倒だし、たかだか車中で流す音楽にそこまで熱心に取り組みたくもない。
そのため、いつも車に乗ってから起動/接続/検索だという作業が待っていて、パッと乗ってパッと動き出したいのに、毎回もどかしいといったらありません。

問題は数多くあって、そのひとつ。
きっと私の検索の仕方が悪いのでしょうけど、例えばモーツァルトの魔笛が聴きたいと思って検索しても、こんな超メジャーな作品にもかかわらず、アルバムの種類は数えるほどしかないし、いざ聴いてみれば抜粋版であったり、しばらくすると他の曲に変わってしまったりと、意に沿わない動きばかりして「わ、なんで!」となってしまいます。

そもそもこの手合は、何でもかんでも1曲とみなすような作りであるためか、クラシックのようにひとまとまりで一つの作品といった音楽には向かないのでしょうか?
まず序曲かと思いきや、いきなり夜の女王のアリアが鳴り出したり、次は全然別の曲に飛んだりするのは毎度のことで、そんなことでイラついて、ひいては安全運転にも支障が出ないともかぎりません。
大もとの音源にある通りに、序曲から順序よく聞き進むという、ただそれだけのことがよほど苦手らしい。

オペラはもちろん、普通のソナタやシンフォニーや組曲でも、ひとつのトラックが1曲として扱われるためか、ひどい場合では変奏曲の中の1分にも満たないヴァリエーションが突然鳴り出したかと思ったら、次にはそれとは縁もゆかりもない曲になるなど、脈絡もへったくれもないあまりに突飛な選曲ではBGMにさえなりません。

謳い文句のような膨大なレパートリーなんぞ要らないから、いまさらですがCDを押しこめばその音が出てくるという従来の使い方が、むしょうに懐かしくて仕方ありません。

検索をやり直そうにも、信号停車中ぐらいでカタのつく問題ではないし、まして車が動き出せばスマホを持っただけでも道交法違反になるし、かといってそのつどコンビニの駐車場に入るなど、バカバカしくてできません。
かといって音声認識でやってみても、ほぼコントのような的外れの認識しかされず、とにかく疲れます。

家のネットで調べると、USBに繋ぐ外付けCD/DVDプレーヤーみたいなものもなくはないようで、それを取り付けるのも一計かと思いつつ、センターコンソール付近では置き場の問題もあるし、せっかく買ったところで万一車が認識してくれないなど、想定外の理由で使えない場合もあったりすると捨て金になるわけで、悩みはつきません。

…と、ここまで書いたところで私より詳しい知人とこの件で話したところ、前もってマイリストのようなものが設定できるはずなので、そこにアルバムごとにまとめておけば、希望する音楽が順序良く聴けるのではないか?という話で、再度挑戦みてみるかどうか…。

これがあと10年かそこら先ならシステムもより使いやすく洗練されるのかもしれませんが、現状では過渡期のようにも思えるし、そもそも当方はもはや使う側として人間が旧式すぎ、世代がわりをしなくてはいけないのかもしれませんね。
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3つの病院

椎間板ヘルニアになって二月半、結果的に3つの病院に行きました。

はじめは、整形の専門病院として定評のある、かなり大きな病院でした。
簡単な問診のあとレントゲンを撮られ、それを見た医師の診察によると骨に異常は見当たらず、腰回りをあちこち押したり、足の反応を見るなどして、これ以上のことはMRIを撮らないとわからないとのこと。
ただし、MRIは予約制で最短でも一週間後のことになるらしい。

この時点で少し軽く考えてしまい、様子を見ることにしてMRIの予約はしませんでした。
しかし処方された薬の効果もなく、それから一週間もしないうちに症状は確実に悪化、MRIの予約をしなかったことを悔いました。
いまさら予約しても、そこからまた一週間以上先の話になるので、とても痛みに耐え切れず、とりあえず別のペインクリニックに行くことに。

ここでもまたレントゲンを撮られたものの、やはり骨には異常はない由、ヘルニアの可能性が大とのことで、その痛みの様子からとりあえずブロック注射を打つことに。
ヘルニアは手術もしくは自然治癒以外には治療方法がないようで、ブロック注射は麻酔で痛みを和らげることを目的とした対症療法です。
打ったあとは、横になったまま安静を命じられ、1時間ほどで看護師さんに促されて立ち上がりますが、はじめは自力では靴も履けず、介添えされてようやく待合室まで移動するほど足腰が立たなくなっていることに、麻酔の威力(と怖さ)を思い知りました。
安静時も15分毎に血圧をチェックしにくるなど、ずいぶん慎重な様子でした。

これを二回続けるも改善の兆しはなく、やがて診察中も椅子に座ることができず立ったままの体勢となり、待ち時間もベッドを借りて横になるなど、あまりの痛がりように医師も口をへの字にして、ついにMRI画像が必要との判断に至りました。

クリニックにはMRIの設備がないため、大きな病院に委託する形になり、外科としては地元では有名な専門病院と連携しているようで、後日そちらへ赴くことになりました。
その病院のほうが自宅から近いこともあり、こんなことなら始めからこっちに行っておけばよかったとやや後悔。

そういうわけで、私は生まれて初めてMRIというものを3つ目の病院で体験することになります。
前開きの着物のようなものに着替えて、長い廊下を指示される部屋に案内されると、中には真っ白の大きな機械が鎮座し、中央には人ひとりが通るような穴があって、細い寝台のようなものが繋がっています。

看護師さんや撮影技師の方が「狭いところは大丈夫ですか?」「閉所恐怖症などと言われたことはありませんか?」「気持ち悪くなったらいつでも言ってください」「具合が悪いときは、このボタンをおしてください!」「では、ごめんなさいねぇ、がんばりましょう!」などとあまりにも繰り返し言われるものだから、そんなに念を押すほど恐ろしいことが始まるのか?と、却って恐怖心を掻き立てられるようでした。
身体が前後左右に厳格に位置決めされ、撮影中動かないように幅広のマジックテープのようなもので左右からがんじがらめに固定され、頭にはヘッドホンが取り付けられて、リラクゼーション音楽のようなものが虚しく響く中、穴の奥へと押し込められて行きます。

撮影開始後、なにより驚いたのはその不快な音の恐怖。
ピコピコどんどんカンカンといった、なんとも不気味な音が盛大に襲いかかり、この音に耐えられずに断念する人もいるとかで、それも納得というほどのイヤな音に攻撃され続けます。
文字通り機械に縛り付けられた体勢で、こんな非日常の音を容赦なく浴びせられながらの30分は、さすがに疲れました。

二日後クリニックに行くと、やはりヘルニアが確認できるとのことで、とくに手術を希望しないのであればブロック注射などをしながら保存療法で行こうということになりました。
ただ、この時点では、そう遠いわけでもないクリニックに通うのさえ痛みでクルマに乗ることさえ難儀していたので、MRIを撮った病院が最寄りでもあることから、紹介状を書いていただいて、こちらに行くことになりました。

診察初日、またしてもレントゲンを撮るというのにはうんざりでしたが、病院としてはこれナシでの診療行為は不可能であろうから、そこで抵抗してもはじまらないしのでしぶしぶ応じましたが、診察室でMRI画像とレントゲンを見ながら医師の口から出た言葉は「典型的なヘルニアだと思います」というのに加えて「骨格はしっかりしておられますね」というお褒めの言葉で、これまで自分の骨格がしっかりしているなどとは考えたこともなかったので、相も変わらぬ痛みの中、ちょっとだけうれしい気持ちになりました。

ヘルニアは早い場合で一ヶ月、おおむね2〜3ヶ月で治るというのが一般的だそうで、私の場合すでに70日ほどを経過しましたが、ここにきてようやくピーク時に比べれば多少は楽になってきて、ともかくも一息ついた感じです。
まだ痛み止めなどの薬は欠かせませんが、このまま少しずつでもいいから、おさまってくれたらいいのですが…。
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ヘルニアの地獄

ずいぶん長いことお休みしています。
このブログを始めていらい、これほど書き込みを怠ったのはおそらく初めてのことです。

その理由は「椎間板ヘルニア」というものになり、「椅子に座る」という姿勢がまったくとれなくなったのです。
腰の骨の間にある軟骨が何らかの理由で飛び出し、それが神経に触れ圧迫するために引き起こされる激痛です。

思い当たるのは6月8日、ベッドのシーツを取り替えていたところ、あらかた終わってマットレスをギュッと数センチ奥へ押し込んだとき、わずかに腰に変な感覚がありました。そのときはさほど気にもとめずにいたのですが、あとから考えればこれしか思い当たることはなく、そこから徐々に痛みが発生し、数週間をかけて悪化の一途をたどり始めました。

なにより困るのは座る姿勢が取れないということ。
これは生活する上で致命的で、想像を絶する不自由であることをいやというほど思い知らされます。
食事はもちろん、ちょっとコーヒーを飲むことも、ソファで映画やテレビを見ることも、そしてピアノを弾くことなど、椅子に座ることは激痛によってすべてできなくなりました。
当然、車の運転もできないし、病院に行ために助手席に座るだけでも猛烈な痛みとなり、だからパソコンにも迎えずブログも更新できないというわけです。

それにしてもその痛さときたら凄まじく、私のような極度の病院嫌いでも、これほどの激痛にさらされると、もはやそんなことも言っていられないようになり、ついには病院に行く気になりました。
ただ、個人的な印象ですが、医療関係の中でも「整形外科」というのはピンキリというイメージを勝手に持っており、実際へんな整形外科にいったばかりに却って悪くなったというような話も耳にします。

そこで、定評のある大型病院に行ったところ、レントゲンを何枚も取られ、それをもとに医師が判断を下すというものでした。
幸い、骨には異常は見られないとのことで、これ以上の詳細についてはMRIを撮ってみないとわからないとのことですが、MRIを撮るには、予約をして改めて出直さなければならない由。
医師の雰囲気からしても大事ではないという感じであったので、薬を処方されて帰宅したものの、坐骨周辺の痛みは日々増すばかりだから、翌週、街中のペインクリニックにともかく痛みを抑えてもらうため行ってみることに。
ここでまたレントゲン撮影となり、併せて腰周辺の骨をあれこれ押さえたり足を動かすなどの細かいチェックを受けましたが、やはりここでも骨に異常はないようで、しばらくはブロック注射と内服薬で様子を見ることになりました。

ところが、症状は収まるどころかますますひどくなっていくため、ついにはMRIを撮ることになりました。
ペインクリニックではMRIの装置がないので、近くの昔からある外科病院を紹介され、そこで生まれて初めてMRIなるものを体験しました。(これに関しては長くなるので、また別の機会に譲ります)
2日後、その外科病院からペインクリニックへMRIの結果が引き渡され、その結果を聞きに行くと、やはりヘルニアが認められますということで、診察結果が確定しました。

ネットでもいろいろ調べたところ、椎間板ヘルニアには有効な治療というものがなく、ブロック注射や薬で痛さを凌いで、保存療法(要は時間とともに直るのを待つ)で経過を見守るか、歩けないほど症状の酷い場合や短期解決を望む場合は手術ということになるようです。
手術と言っても大したことではないようだから、いよいよという時はそれでもいいのだけれど、私としては入院というのが何よりも嫌なので、なんとか保存療法で直ることを願いつつ、痛みに耐える毎日を送っています。

とはいえ、こんな不自由な生活が一月以上も続いており、もうそろそろ治ってもいいのではないかと切に願っているところです。
この文章も、座ることができないため、パソコンの前にクッションを置いて膝をつき、毎日数行のテンポで書いています。
自分の身に起こるまであまり知りませんでしたが、ヘルニアや骨の不具合で苦しんでいる人は意外に多いのだそうで、4カ所の整形外科に行きましたがどこもうんざりするほど患者さんで満杯でした。

皆さんもくれぐれもお気をつけ下さい。
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とうとう

ピアノ関連のある本のことを書いていたのですが、体調面のことがあって続けられずに遅くなっています。

それなのに、こんなことを書いたものかどうか迷いましたが、敢えて書いてみることに。
実はこの時期になって、ついに新型コロナに感染(たぶん)してしまったようなのです。

最近はマスク無しの人もチラホラ見るようになってきたし、なんとなく収束方向というイメージもあって油断していたこともあり、土曜にちょっとした集まりがあって長時間会食したりしていたのですが、それからキッチリ二日後の月曜の夜になって、体にわずかな倦怠感を感じるようになったのがはじまりでした。

とりあえず熱を計ってみると、36度台の後半になっていて、通常は36度未満というのが当たり前なので「あれ?」と思いましたが、深夜には37度を軽々と越えてしまいました。

(たぶん)と書いたのは、症状の動きの激しいインフルエンザとはあきらかに違う気がしたし、コロナであればどうせ薬はないだろうというわけで病院にも行っていないから、医療関係から正式にコロナという診断結論を得たわけではないためです。
それから5日間経過してようやく治まってきた感じがあり、素人判断ではありますが、自分ではほぼ確信をもって新型コロナだろうと判断してます。

幸いにして、熱は聞いていたほど高熱には至らず、激烈な苦しみなどもなかったけれど、ただ、長年生きてきて、これまでに体験したどんな風邪やインフルエンザとも明らかに違うものが我が身を侵食しているというイヤな感覚があり、それが「新型」という未知の感じを裏付けているようでした。
発熱は最高で37.7度でしたが、はじめの4日間ほどの大半はほぼ37.1〜37.5度をキープしており、上下というのかほとんど波がなく、解熱剤を服用するとしばらくは36度台にまで下がるものの、効能が切れるとサッと元に戻る変な安定感にも独特な怖さがありました。

もちろん倦怠感や頭痛、鼻水、咳などがありましたが、どうも文字ではその不気味な感覚が伝えきれません。

かなり前、ワクチンも都合3回打ったし、個人的になんとかこの世界的なパンデミックをやり過ごしたかなぁと思っていたところへ、コロナウイルスはしっかりと我が身にも忍び寄ってきていたわけで、油断の間隙をつかれたというわけです。
知人によれば「ワクチンを打った人のほうが、却って感染しやすい」のだそうで、ワクチン効果に助けられただけで何の抵抗力もついていないから、そんな人がワクチン効果が切れた状態になると、もともと未接種の人よりも感染リスクが高まるのだと事もなげに言われ、変に納得してしまいました。

思い出せば、最近はインフルエンザと新型コロナの両方が流行っているとか、市内の学校でいまだにクラスター発生などニュースとしては聞いていましたが、なにしろすっかり緊張の糸は切れ、そんな情報は耳を素通りし、以前ほど深刻に受け止めなくなっていた矢先の出来事でした。

報道によれば、中国では今また経済活動を揺るがすほどの新たな波が押し寄せているのだそうで、どうやらこの夏も終わりじゃないようです。
皆様もどうかくれぐれもご注意ください。

【追記】熱や咳や倦怠感ばかりに気を取られていましたが、気が付いたら嗅覚がかなり失われていました。ここ最近は食べ物の味もイマイチで、塩分ばかりを感じ、それは体調のせいだろうぐらいに思っていたのですが、熱もどうにか収まったあたりで冷静さを取り戻すと、なんと一様にものの匂いがしないことに気づいたというしだい。
蚊取り線香のような強烈な匂いのもので、やっとかすかにわかる程度で、これは相当なものです。ネットによれば「コロナの後遺症」だそうで、回復には2週間から長い場合は半年ということもあるそうです。
コロナに感染したことは自己判断であることは書いていましたが、この嗅覚の件をもって確定していいと思います。
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ユニクロの憂鬱

私は特定のものにはこだわりが強いほうかもしれないけれど、そうではないところにはまったく無頓着で、衣服などがそれにあたります。
むろん色やデザインは人並みには吟味しているつもりですが、いわゆる高級品だのどこそこのブランドだのなんだのということにはまるで興味がないし、自分が気に入ったものなら安物で一向に構いません。
自分のセンスといえば大げさですが好みに適ったもので、いちおうの身だしなみを満たすものなら、それで充分というわけです。

普段着るものならユニクロなどで充分なのですが、残念なことにあそこの商品はサイズがまったくダメで、こればかりはどうにもなりません。
パンツ類や防寒着のたぐいはまだいいとして、普通の襟のあるシャツ類になるとまるで体型に合わないし、とくに長袖になると絶望的です。

S、M、L、XLといった区別はあるけれど、それに合わせて首回りや袖の長さが固定化されており、世の中にはさまざまな体型の方がいらっしゃるはずなのに、よくこれで商売になるもんだと思います。
胴体を適当に合わせれば、あとは安物なんだからガマンしろ、それが嫌なら買わなくて結構といわれているようです。

ずいぶん前ですが、まだ世界的に物価が安かった頃、アメリカからの通販などに依存した時期がありましたが、あちらのシャツ類は基本のサイズに加えて、首回り/袖丈などを自分の体型に合わせて選べるようになっており、おかげで望む通りのものが楽に手に入っていました。

またコストコなどでも、シャツの大半は同様で、同じMやLでも首回り/袖丈が(インチ表示で)書かれており、その中から自分に合うサイズを選べるようになっています。

しかるにユニクロはそれが全く無く、私は全体としてはLなんですが、それにすると首回りが大きくて不格好な隙間ができてしまいます。
襟付きシャツの場合、首回りのサイズが大きすぎると、いかにも貧相でみっともない感じになり、極端なことをいえば一番上のボタンを外すようなシャツなら、一番上のボタンはきつくて留められないぐらいがバランスがいいのです。
ところがユニクロは全く逆で、一番上を留めても喉元にはまだ三角形の隙間ができてしまいます。
かといってMにすると、今度は身幅がタイトになるのはまだガマンできるとしても、袖が子供用のように短くなってしまってまともに着れたものじゃありません。

ユニクロが徹底した合理化やコスト削減によって現在の地位にまで登りつめた企業だとしても、いまや世界有数の衣類メーカーだというのに、サイズに対してはひどく鈍感というか杜撰というか、洋装に関する最低限の見識を持ち合わせていないようで、このあたりはやはり服飾文化をもたない、しょせんは東洋のブランドという気がします。

その点でいうと、H&M(スウェーデン)なども細かいサイズは選べないけれど、ユニクロのように「首回りが大きくて袖丈は短い」というようなことはないので、さすがは北欧だと思っていましたが、あまりにも雑で生地がペロンペロンだったりします。

そんな折、無印良品でセールをやっていたのでダメモトでちょっと試着してみたら、意外なことにかなりマシというか妥協の範囲であることを発見、さっそくセール品を二枚ほど買い求めました。
無印良品はご承知のように西武系の日本発祥のブランドにもかかわらず、基準になっている寸法はユニクロよりはるかに好ましく、こんなに違いがあるとは思っていませんでした。

そこで、論より証拠というわけで、「ユニクロのL」と「無印良品のM」のごく普通の長袖シャツを重ね合わせてみると、なんたることか着丈も袖丈もほぼ同じで、無印良品のほうはMにもかかわらずわずかに肩幅/身幅が広く、逆に首回りはメジャーで計ったところでは約3cmほど細い作りになっていました。
つまりユニクロのメンズのLサイズのシャツは、無印良品のMサイズ相当で、そこに首回りだけを広げてLサイズと称しているようで、これまでのモヤモヤが一気に解明されました。
どうりでユニクロのMを試着したら、首周りはいいけれどそれ以外はえらくちんちくりんになる筈で、確認こそしていませんが、おそらく無印でいうSサイズだろうと思われ、できればLサイズの袖丈の欲しい私にとって、どうあがいてもムリなことがよくわかりました。

最近は新しい商業施設やショッピングモールができると、ユニクロは抜け目ないほど必ず出店しているあたり、この分野で並ぶもののない大手であることは誰もが知るところですが、そんなに圧倒的な大手なんだったら、すこしは着る側のことを考えてせめてシャツのサイズに関しては若干のバリエーションを追加して欲しいものです。
サイズが増えればムダも出て、そのぶん少しお高くなったとしても、サイズがきちんと合えば私は買いますが、これはシロウトの甘い考えというものでしょうか?
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強制買い替え

早いもので今年も除湿機が必要な季節になりました。
冬の暖房時には加湿器、梅雨以降は除湿機と、水を「注ぎ足すか」「捨てるか」の作業を一年の大半において日課としてやらされるのは日本のような気候に住み暮らす者にとって、湿度管理する上では避けられない宿命みたいなもの。

高級な機器をお使いの方もいらっしゃることでしょうから、そのへんのことはわかりませんが、私はできるだけ安価で必要な機能さえ得られればそれでいいという派なので、我が家にあるものの大半は単純機能のものです。

加湿器は故障も少なく、なによりお安いので気楽ですが、除湿機の故障にはこれまでどれだけ悩まされてきたかと思います。
前シーズンまで何の問題もなく使えていたものが、次の季節、物置から引っぱりだしてスイッチをONしたはいいけれど何時間たってもタンクに全く水が貯まらないということは一度や二度ではありません。

昔は主にコロナ(メーカー)を使っていましたが、何度も同様のことが起き、懲りて別メーカーのものにすべく、ひとつはダイキン、もう一つはシャープに買い換えたのが数年前でした。

ところがそのいずれにも同様のことが起ったのは驚きでした。
ダイキンは私にしては訳あって高級機だったにもかかわらずで、驚きつつ修理依頼をすると、すぐに宅急便で回収されて連絡待ちということになりましたが、数日後にかかってきた電話によれば「異常が確認でき、今回は新型に交換させていただきます」という事になりました。
保証期間の1年は過ぎていましたが無償対応となり、さすがは名の通ったブランドということも併せて感じさせるものがありました。

ただ、その点はコロナも同様で、これまでに修理に出した結果、新品交換という対処をされたことが何度かありました。
しかるに今回自室で使っていたものはシャープの最も売れ筋のモデルだったのですが、何の問題もなく4年ほど使っていたのに、今季使用開始したところ、機械は動いて風は出ているのに、肝心の除湿機能が働かずタンク内は何時間たってもカラカラのままで、一滴の水も落ちてきません。

いろいろと操作を変えたり、説明書を見返したり、コンセントを抜き差しするなど、数日間というもの自分でできる範囲のことは考えられる限りやったにもかかわらず、タンクの中は無情にも乾ききっており情けないと言ったらありません。

しかたなくカスタマーセンターに電話したら、応対に出てきた女性からひと通りのことを聞かれ「それでは見せて頂く以外にありません」ということで、その際「修理にだいたい10000円〜15000円程度、引取に5500円、熱交換器などの故障になりますと5万円以上になることもありますが、よろしいでしょうか?」と、演技でも困っているユーザーに寄り添うような気配はゼロ、至って事務的でサバサバ感が目立つ言い方で他の二社とはずいぶん違うものでした。
そんな金額、よろしいわけがない!

この除湿機自体が、もともと2万円ちょっとぐらいのものなのに、その修理費用のあらましを聞かされただけでバカバカしく、まして5万円以上になることもあるという脅しのような念押しをしてくるあたり、ユーザーに対する礼節のかけらもないもの。
「ということは、現実的には修理せずに新品に買い換えなさい、ということですね」と皮肉をいうと、あっさり「そうですねぇ…」とスパッと言われたのは不快のダメ押しでした。
当然ながら、このメーカーに対するイメージが一気に低下しました。

それにしても、除湿機の故障というのはいつも同じで、必要な季節になって半年ぶりぐらいに使い始めた時、なぜか機能を失っている(故障状態になっている)というパターンなので、使わない時間が長いと機械的になにか問題が起こるのか?と思い、そのあたりも質問してみましたが「いえ、とくにありません」というAIみたいな言葉が返ってくるばかりでした。

除湿機ナシでは快適性の面でも、ピアノの健康管理のためにも済まされないので、結局は新たに購入する以外になく、安さで定評のホームセンターに行ったところ、SKジャパンという名のピアノや基礎化粧品を連想するようなメーカーで強力&大容量を謳った製品があり、しかも価格は除湿力半分の他社製品並、急ぎネットで調べたところ、日本のメーカー(?)で生産国は中国、口コミなども少ないけれど好意的なものがあり、思い切ってそれを購入しました。
品質やアフターの心配が頭をよぎったけれど、いざとなったら今回のように高額な修理代を告げられて買い替えさせられるのだから、有名メーカーの安心感なんぞなんの役にも立たないし、急いで欲しいこともあってそれを購入しました。

強力&大容量というだけあってやや大型ですが、これまで取り切れていなかった湿度がスイスイと下がり、とりあえず一安心ということろです。
それと思いがけず気に入った点は、デザインが望外に好ましい点です。
大半の日本メーカーの家電というのは、各社申し合わせたように似たり寄ったりのデザインで悪い意味で日本的、それもいまだに昭和を引きずったようなダサくてカッコ悪いものばかりで、やたら意味のない丸みをつけたり沈鬱な色使いなど、そのビジュアルが少しも良くならないのは不思議というほかありません。
唯一の例外は、もはやデザインの余地のなくなった液晶テレビぐらいなもので、他の製品はどんなにモダンなインテリアだろうが、それひとつ置いた瞬間に昭和のお茶の間のようになってしまう独特な存在感のものばかりで、家電は日本のデザインの中でもっとも洗練から遮断された分野ではないかと思います。
その点、SKジャパンの除湿機は無駄がなくキッパリしているぶん機能美さえ感じられ、それだけでセンスのいい外国製品のような雰囲気も大いに気に入りました。

外国製といえば、このSKジャパンというメーカー、ネットで簡単には調べたぐらいではその素性はよくわかりません。
製造は中国のようで、どこぞの海外メーカーの日本法人なのか、純粋に日本の新興メーカーなのかもわかりませんが、もうそんなことはどうでもよく、これまでの経験を踏まえれば3〜4年使えればと願うばかりです。
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民族性?

新型コロナが感染症法の2類に分類され続けていることに対して、疑問の声が上がりはじめていたのはいつ頃だったか、よくは覚えていませんがかなり前だった気がしますが、なかなか聞き入れられないようでした。
「反対派」の声は大きく、その裏には医療関係の利害に関する事情なども絡んでいるようで、補助金の類は湯水のように垂れ流され、コロナのおかげで黒字転換できた病院も多いともいわれるなど驚きです。
それがついに今春から5類相当に引き下げとなりました。

何事も複雑な裏事情が絡んでいるのはこの世の常なので、一般人が簡単に考えるようなわけにはいかないようで、とくに我が国は何事においても決定決断が遅い体質であることは感じるところ。

くわえて、何事につけても「もしもの場合、誰が責任を取るのか?」というお馴染みの、ほとんど脅迫的なブレーキがかかり、関係者も自分に累が及ぶことを恐れて手を付けきれないのがいつものパターン。
さらに政治家は、それが選挙に与える影響を案じる本能から逃れられないなど、これらの体質が作り出す毎度おなじみの現象なのでしょう。

コロナといえばマスク。
日本人はよほどこれがお好きなのか、いまだに外さない人が少なくないことと言ったら驚くばかり。
感染対策として本当にマスクが必要と思っている方もいらっしゃるでしょうけれど、大半は自分がマスクをしないことで、社会性の欠如した人間として忌避されないための安全マークとしてつけているようにしか見えなかったり…。
私は念の為にポケットなどにしのばせてはいますが、基本的にはもう付けません。

何ヶ月も前の話ですが、ヨーロッパなどはずいぶん早い時期にコロナ前の活気を取り戻し、マスクなしの人でごった返えしているというのに、成田に降り立ったとたん人はまばら、ターミナル内はシャッター街と化し、その上マスクをつけざるをえない状況に強烈な違和感を覚えるのだとか。
用心することは大切だし、日本人のもつ生真面目さや慎重さはむろん素晴らしい面がたくさんあるけれど、素晴らしいばかりではない印象も拭えないのも正直なところ。
とくに個人主義とは真逆の、横並び主義と同調圧力でがんじがらめにされるのは同じ日本人でありながら息苦しく、しばしば反発を覚えます。

以前も書いたかもしれませんが、一台の車に一人で乗っているにもかかわらず、ドライバーはマスクをしている様子に、それを見た外国人が驚愕したそうですが激しく同意します。

海外ドラマを見ていると、携帯電話の使い方にも彼我の違いがあって驚かされます。
日本は、よほどの理由がないと気軽にはできないものというのが常識化しており、これひとつでも陰気で窮屈です。
LINEやショートメールなどで前ふりして、その上で「必要時」だけ直接通話となる雰囲気。
また、常時マナーモードにしておく人も珍しくなく、職場や病院などならわかるけれど、常時というのは何なのか…。
そうする人にその理由を聞いてみたら、公共交通機関や人の多い繁華街、店舗内など他人のいる場で呼び出し音が鳴ったら、周囲に迷惑をかけると真顔で答えられ、それを正しいと考えて自信を持っている様子にびっくりしました。

呼び出し音といっても、別に大音響が響くわけでもなく、今どきは殆どの人が電話を持っているのだからお互い様であるはずなのに、これではいったい何のための電話か?と思います。
電話が個人のものとなって以降のほうが、メールや着信履歴を相手が見るまで待ち状態となるなど便利どころか却って手間隙がかかり、気疲れするようになり、固定電話の時代の気軽さが懐かしく思えることも。

海外の映画やドラマでは、いつどこにいようが容赦なくバンバン電話が鳴って、上記のような斟酌のかけらもありません。
むろん実生活の面でどうなのかはわかりませんが、しかし日本のように過剰に着信音その他に細かく注意を張り巡らせたり、内向きの縮こまったような用心の鎧で身を固めるということは、ずっと少ないだろうと思うのです。
電話ひとつにこれだけ用心深さを費やすというのは、細やかな心遣いや繊細さなどといえば聞こえはいいけれど、日本人固有の体裁や臆病、卑屈さも相当加勢しているのではなかろうかと感じます。

ついでにもうひとつ書くと、夕方のあるチャンネル(民法の全国放送)のニュースでは、番組構成には心の底から呆れています。
全体は2つに分かれ、後半でメインのニュースを扱うようですが、それでも全体はれっきとしたニュース番組であるにもかかわらず、前半はほとんど毎日のように野球のニュースが長時間占めて常態化しているのは尋常ではありません。

そこでいつも必ず取り上げられているのは、アメリカで活躍するあの日本人選手で、たしかに彼は野球の神様から選ばれし天才でしょうし、日本人の誇りであることにも異論はありません。
だからといって、毎日ニュースの冒頭から彼の姿を見せられ、その名を繰り返し聞かされなくてはいけないのは理解に苦しみます。時間も30分以上これに割かれることも珍しくはなく、スポーツニュースでもないのにこのようなことがなぜ許されるのか?と疑問は募るばかり。
これではご当人の責任ではないのに、だんだん見るのもその名前を聞くのもいやになってくるのは、ご本人にとっても逆に迷惑なことで彼の足を引っ張っているのではないでしょうか。
日本には「贔屓の引き倒し」とか「褒め殺し」というのがありますが、ふとそんなことを連想してしまいます。

決定の遅さやマスクにも通じることで、これを民族性だと言ってしまえばそれっきりですが。
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ホテルの読書灯

所用にかこつけて、4月に車で旅をしたことは書きましたが、いつもホテルに泊まると不便に感じることがあるため、今回はその備えをして出かけましたが大成功でした。

以前から感じていたことですが、ホテルのベッドの枕元には、ちゃんと本が読めるよう照らす機能を備えた読書灯が一見ありそうで、実はほとんどないことが疑問でなりませんでした。
パッと目はいちおうそれらしい照明器具はあるようで、それら大半はデザイン優先なのか読書するに適当とは言いがたい代物ばかり。
装飾としての照明の趣が強いのか、さてそれで就寝前の読書ができるかというと、照らす場所はまったく違うし、暗くて角度の調整は限定される、もしくは固定され全く動かなかいなど、要するに機能的にものの役に立ちません。
結果的に非常に劣悪な明かりで本を読むことになるのは、およそ快適とはいいがたく、いつも閉口させられるばかりでした。

そこで、今回はきわめて簡易的なLED照明具を持っていくことにして、電源はUSBから取る方式で、電源にはモバイルチャージャーという小型の携帯型バッテリーを準備しました。
これはホームセンター等どこにでも売っているし、価格もメーカーや容量によって多少は違うけれど基本的にどれも安価で、私の場合は10000mAhとかいうのを1000円ちょっとで買いました。

これをコンセントに繋いで充電しておけば、あとは充電器として使えるわけで、就寝時はその照明具を繋ぐことで様相以上に実用を満たしてくれて、快適に本を読むことができました。
容量もなかなかのもので、読んでいるうちにそのまま寝てしまうことも何度かありましたが、そんなときは朝までライトはつきっぱなしで、それでもバッテリー自体は殆ど減っていないほど保ちがよく、これはなかなか心強く重宝しました。

それにしてもホテルの枕元というのは、なぜどこも機能的な読書灯がないのか不思議でなりません。
まさか大半の人は就寝前に本を開くことをしないのか?とも思いますが、映画など見ていてもベッドに入ってから寝付くまで本を読むというシーンはよく見かけるし、やはりその理由がわかりません。
例えば飛行機でさえ読書灯はちゃんと使用に堪えるものが各シートの上面に付いているのに、よりくつろぎを求めたいホテルになぜこの点の配慮が疎かなのかは全く解せません。

それでなくても、睡眠というのは導入剤なども多数あるように、現代人は不眠に苦労している人も少なくなく、ましてホテルという普段とは違う環境や寝具となると、寝入るまでが問題となる方はますますいらっしゃるのではなかろうかと思うのです。
そのためにも、睡眠へ移行するための一助としてもベッドでの読書というのは大切でないはずはないと思うのですが…。

ちなみに私も寝付きには苦労しているほうで、少しでも睡眠に入るチャンスを逃せば眠れない状態が延々と続き、ヘタをすると窓の外がしらじらと明るくなってくることも。
そういう意味でも、寝る前の本とのお付き合いはとても重要で、うまくすれば1ページほどで眠りにつくこともあります。

いずれにしろ、ホテルという人の睡眠も預かる業種において、ちょっと枕元で本が読める照明具をつける程度のことは、今どき大したコストでもないはずなので、この点は認識の周知と早急な改革をお願いしたいところです。

逆に、さすがは時代を反映しているなぁと感心したのは、今回利用した6ヶ所すべてのホテルでは一つの例外もなくWi-Fiが使えるようになっており、おかげで使い古したiPadなども役立ったのは大いに助けられました。
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草むしり

ゴールデンウイークは取り立てて行くところもなく、もっぱら庭の草取りやら掃除やらで過ごしました。

自慢じゃありませんが、私は徹底したインドア派でおまけに怠け者ときているので、庭の草取りなど年に数えるほどしかやらないので、そのぶん毎回大変です。
いつも視野に入っているはずなのに、無関心と逃避意識のなせる技か、そのあたりは自分でもわからないけれど、要するに日頃はほとんど目に入っておらず、なにかの拍子で見てしまった時には愕然とし、雑草の猛烈な繁殖力にただもう戦慄するばかり。1

とくにこのところは春の陽気となって、雑草の伸び方にもぐんと勢いがついたのか、かなりとんでもないことになっていました。
折からの大型連休到来となり、この機を逃してはかなり恐ろしいことになるという恐怖が湧き上がり、ついには腹をくくって「草むしり」に着手することになりました。
大型バケツ(20Lのペール缶)をぶらさげて、庭の端から格闘がの開始です。
さすがに素手ではできないので軍手を使うことになりますが、それだけでは不十分というのは経験済みなので、まずビニールの作業用手袋をつけ、その上から軍手というように二重にすると、いささか暑苦しいけれどこれで爪の間などに泥が入ることは一切なく、庭仕事などにはオススメです。

作業量/時間からして、ただ膝を折ってかがんだスタイルで済むことではないので、野外作業用にしているお風呂の椅子を引っぱりだしていざ開始…したのはいいけれど、いままでサボっていたぶんちょっとやそっとで終わるようなもの甘いものではありませんでした。
いよいよ始めてみれば結構夢中になり、とくに草を土から引き抜く際の、あの独特な抵抗感を伴う感触には妙な心地よさを感じながら…。
30分ぐらいはなんでもないものの、それ以上になると腰には相当の負担が溜まって固まってしまうのか、バケツの中に溜まった雑草や落ち葉を捨てに行こうとすると、立ち上がろうにもにわかには身体がまっすぐできないほど腰の痛みを伴います。

これを数回繰り返すと、だんだんその痛みも強くなってくるので、2〜3回で止めるようにしており、これを数日にわたって繰り返しました。

さらに自分でも自覚しているところですが、私はヘンなところにヘンなこだわりをもつタイプだから、普段は庭などまったく見向きもせずガーデニングなどの趣味もゼロであるのに、いったん着手すると雑な作業というのがいやで、庭の隅から丁寧に取っていかなくては気が済まないものだから、それもあってひどく時間がかかるのです。

普段は放っているくせに何を言っているんだ!という感じですが、そうしないと気が済みません。
さらに、落ち葉の処理などもあり、掃除ごとのキモは「隅っこ」だと思っているので、隅っこをそこそこにしてお茶を濁すことができず、地面に這いつくばって奥へ手を突っ込んだりしながら、かなり徹底的にやる癖があります。
家の掃除でも、洗車でも、窓拭きでもそうですが、「隅っこ」までしっかり作業が行き届いているかどうかで仕上がりがまったく違います。隅がきれいだとくっきり感がでるんでしょう。

「四角な部屋を丸く掃く」という言葉がありますが、掃除で最も肝心なのはゴミや埃のたまりやすい隅っこなので、ここが疎かだとその効果も半減するので、それだけは許せないのです
普段サボりまくっているくせに勝手なものです。
そこまでせずとも、その半分か3分の1でもいいからもう少し頻繁にやればいいものを、それができない自分が我ながら愚かしく、ずいぶんとバランスを欠いた性分なようです。

こんな調子で腰の痛みと相談しながらの作業となるので、決して広大な庭でもないけれど、どうしても数日がかります。
身体にも結構負担がかかるようで、普段とあまりに違った身体の使い方をするせいか、はじめは右手指が硬直的に痛くなり、そのうち肩が生活に影響が出るほど痛くなり夜には湿布薬を貼ることになり、あと少し作業は残っているけれど一区切りをつける判断となりました。
残りは後日ということになり、連休中に完了しなかったのは悔しいけれど、それでも一定の満足というか効果は得られました。

草むしりを含めて掃除ごとのいいところは、手をつくしたぶん明確な結果が出ることで、投じた労働に対して目に見える好ましい結果が出るというのはかなり爽快で喜びに包まれます。
何かで読んだことがありますが、下手な運動をするより掃除のほうが身体を無理なくまんべんなく使うし、やればやるだけきれいになるという精神的な嬉しさを伴い、そこが心身両面にとって好ましいことだというのですが、それは本当にそうだなぁと思います。

というわけで一区切りをつけたところ、翌日からは「それでは」とばかりに雨が降り出し、いずれにしろ作業は続けられなくなりました。
その雨は勢いが強く、しかもこのブログを書いている時点でもう3日も休みなく続いて尚やむ気配はなく、ここにも近年の異常気象を思わせる不気味さがあり、まるで家も街も水浸しになってしまうようです。
せっかくの連休というのに、最終日までこのうらめしい雨のせいで台無しになった方も大勢いらっしゃることでしょう。
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悪しき例外

4月の上旬、所用があって車で関西方面へ数泊の旅にでかけました。
ホテルは今はやりの検索サイトで簡単に予約できるのは、つくづく便利な時代になったことを痛感します。
しかも、さすがは日本というべきか、どのホテルも一定の基準が満たされ、一長一短はあるにせよ安く泊まるにはほぼ満足の行くもので、また同様の機会があればぜひ利用したいと思います。

ただし、ものごとには例外もつきもので、帰りに泊まった倉敷のホテルだけは、どうにも納得の行きかねるものでしたし、一事が万事という言葉があるように、それはあらゆるところに及んでいました。

車の旅なので別途駐車料金がかかりますが、宿泊する場合どこも1000円以内で、神戸のど真ん中のホテルでさえ800円でこれが最高額でした。
ところが、その倉敷のホテルはすぐとなりに大きな駐車場があったにもかかわらず、それは他のホテル用の由、当該ホテルの駐車場の場所を尋ねると、さっぱりわからない妙ちくりんな地図を渡されます。
わかりにくい路地裏のようなところで、見知らぬ土地でこの紙切れ一枚を見てすんなり行けるところではなく、探しまわったあげくについにそれらしきものを発見、到着早々ここを探し出すだけで一苦労でした。
しかも、驚いたことに入り口前には小川のような大きな溝が流れており、そこを渡るため大型の鉄板が渡してるものの、ガードレールのような見切りになるもの一切なく、おまけに夜は真っ暗闇。
少しでも運転を誤れば一気に溝に転落してしまう作りで、今どきこんな危険なものは初めてで目が点になりました。

そこはホテルの駐車場とは程遠い、周りは民家が立ち並んだ土地に線を引いただけの暗くてうら寂しい場所で、こんな最低な雰囲気の駐車場に行かされただけで気分はかなり落ち込みました。

その鉄板を細心の注意でどうにか無事に渡り終え、そこからホテルまで数分歩かなくてはならず、歯をキリキリさせながら正直これは失敗だったというのが去来します。
予約時のネット写真などはさもオシャレさを売り物にしたようなホテルだったので、そのギャップたるや甚だしく、イメージと現実の差をまざまざと見せつけられた思いでした。
ようやくホテルにたどり着くと、中はいかにも今風のスタイリッシュなしつらえにはなっているけれど、ホテルというのにフロントがないのか、玄関脇に小さな司会者用の小机のようなものが立っており、そこで一人の女性がチェックイン業務を担っており、そこでさらに信じられない言葉を聞かされるハメに。
あの遠くて、不便で、不気味で、さらに出入りの危険な駐車場の利用料が一晩2000円!だというのです。

繰り返しますが神戸のど真ん中のホテルでも、宿泊客の駐車料金は800円だったのに、この法外な料金は悪い夢でも見ているようでした。
さらに、ホテルはオシャレ風を気取っているのに、その女性の服装はこのあたりがデニムの産地か何かはしらないけれど、全身デニム地の、まるで主婦が部屋着そのままでいるようで、これもいかがなものかと思いました。

部屋は幸いさほど狭くはなかったものの、ベッドと壁際の机以外あまりにガランとしてなにもなく、窓のそばは椅子の一脚もフロアスタンドも、さらにはコンセントさえもない、倉敷とかオシャレさを微塵も感じないひどく殺風景なもので、ロビーだけいくらスタイリッシュにしてみても、これじゃあ却って悲しくなります。
更に驚きは続きました。
4月上旬は暦の上では春かもしれませんが、まだまだ夜はかなり気温は下がって寒くなるもの。

だいたいホテルというのは、客室に入るとやや暑すぎるぐらいが普通であるのにここはやけにひんやりで、エアコンを入れても、設定温度をいくら上げても一向に温かくなりません。
操作が悪いのかとホテル側に聞いてみようにも、どこにも電話器がなく、しかたがないので携帯からかけようとすると、チェックイン時に渡されたカード類にもいっさい電話番号らしきものはなく、とうとうネットで調べてやっと出てきた番号は、0570で始まる通話料20秒10円のものだけ。
宿泊客がホテルスタッフに連絡しようにも0570の電話だけとは、ほぼ電話は拒否という印象しかなく、なんだか倉敷のイメージまで悪くなるようでした。
しかもその番号さえ、どこにも記載されておらず、これでは急病とか災害など緊急時に迅速な連絡もできず、最悪の場合、人災をも引き起こすのでは?と思わざるを得ません。

しかたがないので着替えて1Fへ降りて行ったらロビーは無人で、こちらも粘ってウロウロしていたらやっと一人の男性スタッフと出会いました。
部屋が寒いと訴えたところ「現在はすべて冷房になっておりまして、暖房はお使いいただけません」とのにべもない返答で、開いた口がふさがりませんでした。

ホテル側も少しは認識しているのか、同様の苦情があるのかはしらないけれど「毛布をお貸ししましょうか?」といいながら奥からそれらしきものを馴れた感じで持ってきました。
仕方がないから、それを手に部屋に戻りガタガタ震えながら一夜を過ごしたわけですが、もっと安手のホテルでもフロントはあるし深夜でもスタッフの一人は必ずいるし、いなければベルを鳴らせば奥からすぐに出てくるのは常識では…。
さらに今どき、各部屋のエアコンは利用者が自由に冷暖房の切り替えが容易に利くものになっているのが普通で、ここまで表面だけのお客を馬鹿にしたようなホテルがあるのかと相当驚きました。

表面だけといえば、宿泊客にはロビーで紅茶などの飲み物が無料で振る舞われるようですが、そのサービスもどこかわざとらしく、まさに何が大事かという本質を履き違えていると言わざるを得ません。
フロントがないので、部屋のカードはチェックアウト時にどうするのかというと、エレベーター内の壁に貼り付けられた「箱」に放り込むだけ。ホテルを出る際だれとも接触することなく一言の挨拶もないまま終わりで、これじゃあラブホテルと大差ないですね。

お客さんの不便不快の上にホテルにとって都合の良いやり方を押し通しても、それは合理的とも機能的ともいえるものではなく、二度と利用するつもりはありませんし、ここ以外のとくにカッコもつけていない実用的なホテルがいかにまともだったかとわかるものでした。
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ガラス窓

唐突ですが、住まいの窓ガラスの掃除は、なにしろ面倒くいから滅多なことではやらず、恥を忍んで告白すると1年以上ほったらかしになってしまうようなことも常態化しています。
毎日の生活の中で目にしていると、すっかり目に馴染んでほとんど無反応になるものがあるけれど、ふと冷静な目で見てしまうる瞬間があると、その汚れにびっくりしたり…。

外窓は、雨粒はもちろん台風の時に付着したと思われる小さな泥粒などが下部にこびりつき、内側はエアコンはじめホコリの堆積、さらに冬場は加湿器のせいでうっすらと白い膜のようなものが覆っていたりします。
しかし、いつも薄いカーテンを引いているので、おかげでますます気にしなくて済むということもあったり。

そのうちやらなくてはと意識するようになっても重い腰はなかなか上がらず、あれやこれやのせいにして実行は延期に次ぐ延期の繰り返しだったり。着手するまでが大変です。

鏡ぐらいのサイズならともかく、家の窓ともなると面積も広いし、何度も雑巾を洗ったり絞ったり、かつガラスは裏表があるから仕事量も倍で、かなりの重労働となるのでますます敬遠しがち。
それでもなんとか見て見ぬふりできているうちはいいけれど、今年になってからさすがにこれ以上はマズいという一線を超えて、一気に危機感が募りました。

なんでも業者に頼んで、お安くもない料金をすんなり出せるような方は別ですが、自分でもできることをわざわざ頼むのももったないし、だいいち家の中へ半日なり業者が出入りするのも、正直言って気の張る思いをするからできるだけ避けたいということになると、その両方をクリアするには「自分でやる」以外にありません。

そこで思いついたことをやってみた結果、想像以上に簡単で嬉しい発見があったので、ちょっとそのお話を。
IKEAに行くと、ガラス掃除用のT字型の器具で先にゴムの付いたワイパーみたいなものが驚くような低価格で山積みされています。
よくビルの清掃員などがガラス掃除に使っているものを、一般人向けに小型にしたようなアイテムで、これを使ってみることを思い立ちました。

洗剤を希釈した液をスプレーでシュッシュとやって、その手動ワイパーで拭き取るという単純なものですが、予想に反してなかなか思うようにはいきません。
プロが手慣れた手つきであっという間に汚れを落としていくのを感心して見た覚えがありますが、自分でワイパーを動かしたあとには両側に必ず液体の筋が残り、それを別方向から取ろうとすると、その方向へ別の筋が残り、そうこうするうちに斑に乾き始めるなど、仕上がりも一向に思わしくなく、落ちたはずの汚れはヘンな跡やムラになって残るなど布で拭くほうがまだいいようなものでした。
こんなことをやってもダメだと思い、一旦中止に。

その後、考えたことは、クルマの仲間から教わったものですが、一点の曇りも好ましくないクルマのガラス拭きには下手な専用洗剤より精製水を使ったほうが効果的という、あのやり方でした。
洗車の手法を応用するなら、間髪を入れずにメリヤスのシャツなどで補助的に拭き足すことも効果的では?と思いつきました。

すぐに100円ショップで新しいスプレーボトルを買って精製水を入れ、それをガラス面にシュッシュッとたっぷり(下にダラダラ流れだすほど)吹き付けました。
一息おいてワイパーで上から下に向かってザーッと拭き取りをし、すかさずメリヤス地に持ち替えて軽く拭いてみると、なんとこれだけでかなり綺麗になることがわかりました。ムラもほとんどなく、パッと見には十分満足というレベルの仕上がり。
また、精製水は洗剤でもないのでケミカル品特有の膜や拭きムラなどもなく、これだと望外の少ない労力で、すくなくともみっともなくない程度にガラスが綺麗になることがわかり、ヨーシ!というわけで、これで気になるところを次々に掃除していきました。良い結果が出始めると、俄に嬉しくなって、張り合いも出るというものです。

遠目であれば、さっきまで惨めにくすんでいたガラスは、ガラスを外したの?というぐらいビシッと綺麗になり、その労力/コストに対する目覚ましい結果には感動すら覚えました。

現在のところ広いガラス面をこれ以上ラクに、効果的に掃除する方法はちょっと思いつきません。
下処理などもなく、汚れたガラス面にいきなりスプレーすればいいので短時間で済むし、道具といえば、スプレーボトル入りの精製水、窓拭き用ワイパー、着古したメリヤスシャツ、位置が高いなら脚立、さらに窓枠の汚れ(特に下部)を拭き取るためのウェットティッシュ、とせいぜいこれぐらいです。

精製水は薬局に行けば大体100円ちょっとで500mlのものが売っており、2〜3個買っておけば安心ですが、実際は1本でも相当の面積がカバーできます。
この精製水はガラスはもちろん、食器棚でも家電でも、ウェスを固く絞ってシュッシュと精製水を吹き付ければ、なんでも気軽にきれいになります。
この手軽さを覚えたら、目的ごとに分かれた各種洗剤など、よほどのことでないと使う気にならないこの頃です。
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秀逸な海外ドラマ

前回書いた、動画配信という思わぬ環境を得たせいで、映画やドラマにどっぷりになるハメになりましたが、映画を言っていたらキリがないので、海外ドラマで印象に残ったものをいくつか。

▲『スーツ』アメリカ
かなり有名なドラマで、ニューヨークの弁護士事務所を舞台に巻き起こる人間模様。
弁護士というものがやけにカッコいいエリート族として描かれており、よほどの人気だったのか、シーズン9、エピソード数にして134話におよぶ長大作。彼らがいかに生き馬の目を抜くような攻防や駆け引きなどを繰り返しながら、肩で風を切るようでクールな過剰な描かれ方はときに笑ってしまうほど。
ライバル事務所はもちろん、仲間内での争いや足の引っ張り合いなども絶え間なく、平穏が訪れることはない功名心と頭脳戦による熾烈な競争の世界。
このドラマには、あのヘンリー王子と結婚したメーガン・マークルもスタッフのひとりとして出演しているのも見どころ。
彼女は主役級の男性と日本風にいえば社内恋愛で結婚に至るものの、8年に及ぶこのドラマの後半で本当にヘンリー王子と結婚で降板したようで、ドラマではやや唐突にアラスカの人権派弁護士になるという筋立てで、主役級の男性を道連れに姿を消してしまいます。

これは日本や韓国でもリメイクされたらしいので、よほど人気シリーズだったのでしょう。
一説によると、前代未聞の数々のスキャンダルを押し切って、元皇族の女性と、ついに結婚を強行した怪しげな男性、そのご両人ともがこのドラマの大ファンだった由ですから、このドラマの影響も小さくなかったように思えなくもありません。

このドラマ、見方によってはイギリスと日本で、二組のロイヤルカップルを生み出したのかもしれませんね。
それは余談としても、これほど長いドラマを見たのは初めての事でしたので、全話を見終わった時にはしばらく「スーツロス」になりました。

▲『マッドメン』アメリカ
これも舞台はニューヨークですが、1960年代の広告業界を描いたドラマで、かなりのところまで見ていたにもかかわらず、途中で定額視聴期間が終了し、以降は一話ごとに有料となり泣く泣くやめてしまったドラマ。
『スーツ』の50年前のニューヨークというわけで、その間の時代の変化も面白く見ることができました。
数話ならやむなく有料でも見たかもしれませんが、まだ数十話残っており、そのつど200数十円払い続けるなんてまっぴらなので、憤慨しつつ断念しました。
この経験から、見始めたものはサッサと見てしまわないといけないことを学習。

▲『オスマン帝国外伝』トルコ
長いといえばスーツどころではない超大作。
オスマン帝国の第10代皇帝スレイマンの治世、奴隷から寵妃となったヒュッレムと皇帝を中心とする、いわばトルコの壮大な大河ドラマ。
2人の出会いから死までを描く、波乱などという単調な言葉では到底語れない、壮絶な権力と愛憎の宮廷人間模様。
これを見ると、人間不信に陥るほど、親子、兄弟姉妹、主従、軍や側近などすべてが命がけの陰謀と裏切りに終始し、だれもが騙し合い、殺し合い、権力闘争に明け暮れるのが人間の本性であることを赤裸々に描いたすさまじい内容。
また、トルコという国民性もあるのか、途方もないそのエネルギーは東洋の片隅で生まれ育った日本人にはおよそ持ち合わせぬもので、見て楽しみながらも、こってりした脂の強い料理が胃にもたれるようなある種の疲れが常に伴うものでもあります。
『オスマン帝国外伝』がようやっと終わると『新・オスマン帝国外伝』というのが控えていて、こちらは皇帝スレイマンから数代後の話。
これは完結制覇まであと一息ですが、新旧あわせてエピソード数にしてなんと500話に迫る超大作で、これを書いている時点で残り20話ほどになったけれど、もしかしたらすでに半年以上これを見ているようで、まさに生活の一部になりました。
オスマントルコが黒海からヨーロッパにかけて最強を誇った時代があるとは聞いてはいましたが、なるほど途方もない権勢であったことがよくわかります。
現在のロシア/ウクライナ問題、あるいは北欧のNATO加盟に対してあれこれと画策し権謀術数をめぐらすエルドアン大統領ですが、このドラマにどっぷり浸かっていたおかげで、あの国ならそれぐらい朝飯前だろうと容易に思えました。
それにしても古今東西、国の大小を問わず、宮中とは例外なく恐ろしいところですね。

スタートはアマゾンプライムだったものの、途中からhuluでしか配信されなくなり、そのためやむなくhuluにも入会するという深みにはまってしまいました。

▲『ハンドメイズ・テイル』アメリカ
どうせhuluに入ったならと見始めたのが、huluオリジナルのドラマ。
近未来のアメリカは内戦の末分裂して、アメリカ政府はアラスカへと退き、代わりに主権を握ったのがギレアドという戦慄の監視社会政権。娯楽はすべて禁止、男性のみによる国家支配、女性は文字を読んでも罰を受けるという恐ろしい制度。
市中のいたるところには、処刑された遺体が見せしめにクリスマスツリーのオーナメントのように吊るされるというおぞましい社会で、シーズン5/エピソード56のドラマ。
出生率が低下したため「侍女」と呼ばれる妊娠出産可能な女性が次々に拉致され、強制的に国の要人の子を身ごもらされ出産させられ、産んだあと赤ちゃんは奪い取られて高官夫妻の子どもとされ、それに一切の抵抗はできない暴力支配の下に置かれるという具合で、本来こういうディストピアものは見るだけでも苦痛なのですが、やはり先述のようにドラマ自体がよく出来ているので、知らず知らずのうちに見せられてしまいました。
ここに描かれるギレアドというキリスト教原理主義の恐怖支配は誇張的だとしても、日ごろ当たり前だと思っている自由主義社会のありがたさを今さらながら痛感させられます。
とりわけ国家の法と理念に宗教原理主義が入り込んだが最後、その異常性はとりかえしのつかないものとなることが一目瞭然。
主役のエリザベス・モスは『マッドメン』でも社内メンバーのひとりで見覚えがありましたが、そのときとは打って変わって壮絶なまでの熱演を遺憾なく発揮するあたり、海外の俳優のとてつもない力量に驚きます。
シーズン5の最終回で最終回と思っていたら、まだ続くようでシーズン6を待つしかないようです。

立て続けにピアノの話から逸れてしまいました。
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新しい楽しみ

ネット配信による映画やドラマを見て楽しむことがいつごろ始まったのか、まるでわかりません。
かなり前だったんだろうとは思いますが、そういうことにめっぽう弱く、どうにもなじめない私は正直関心もなかったし、そのまま長い時間が過ぎてしまいました。
そもそもパソコンやスマホで映画を見るなんて、考えただけでも自分の感性には合わないと直感していました。

ところが既にこの手の配信サービスに加入し楽しんでいる人から「どうして入らないの?」という、まるで何年も前にガラケーをだらだら使っていた私に「なんでスマホにしないの?」と言われた時と同じような、それをしないことになんら意味を見出せない!といった半ば呆れた様子の響きがあったし、聞けばTVモニターに繋いで視聴することも可能とのことで、しだいにメリットも大きいということがわかってきました。

友人の中には、今どきのネット環境に付随する各種ポイントやクーポンにやたらくわしく、どれが損でどれが得かということに夫婦揃って通じているおかしな二人がいて、中でもその奥さんはよく聞けばまさにこの分野の生き字引的な存在らしいことを後に知りました。
消費者が躍らされているだけで期待するような実質的なメリットはないものから、逆にこれはスゴイ!というようなものまで、沈着冷静な分析と意見をもつ、それはもう畏れ入りましたという意見の持ち主なのです。
旦那さんの方も相当な猛者で、聞けばいつも夫婦バラバラに得なものを探し出し、しかも相手には積極的に教えないという、一風変わった戦いが繰り広げられ、会計の時などにサラリと使ってみせて相手を驚かすというような滑稽な勝負をよくやっているとかで、旦那さんのほうがいつもわずかに負けているそうです。

その二人が口を揃えて言うには、AmazonPrimeは絶対にお得なのだそうで、私もあの二人が言うのなら間違いない!というお墨付きを得た気分で、背中を押されてついに入会の運びとなりました。画面上から申し込み、TVモニターに映すためのステックやリモコンの入った機器を購入して、それをTVに差し込んで設定するというものでした。

冒頭に述べたように、こういうことに疎い私は設定にかなり手間取りましたが、それをどうにか乗り越えると、そこには広大なる娯楽の海が広がりました。
あらゆるジャンルの映画やドラマがひしめいて、好きなものを選んで(検索機能もあり)自由に楽しむことができるというもの。
もちろん、世界中のすべての映画があるわけではないし、常に入れ替えもあれば、新作も随時投入されていて、これはたいへんなものであることは直ちに納得できました。
昔ならレンタル店に出かけて行って、DVD(さらに昔はビデオ)を選んでは借り受けて、見終われば再び返却に行くということをやっていたことを思えばまさに隔世の感があり、いうなればビデオ店がそっくり一軒自宅にやってきたようなものです。

これを機に、日常生活の中で映画やドラマを観る時間が圧倒的に増えましたが、そこでまずしみじみと感じることは、個人的な感想としては日本と海外の作品では埋めがたい大差があるということでしょうか?
もちろん、海外の作品でも非常にくだらないB級映画のようなものもあれば、日本映画でもしっかりと練り込まれた力作がないこともないけれど、全体として日本のこの分野は圧倒的に国際基準からは遅れていることをひしひしと感じることは事実です。

さらにその差が激しいのがドラマの分野で、海外ドラマには見応えのある質の高い素晴らしい作品がいくらでもあり、考え込まれたストーリー、コストのかけ方、美しい映像、小道具に至るまで神経の行き届いたリアリティの追求、そしてなにより優秀な俳優陣による素晴らしい演技などには瞠目させられることしばしばです。
それにひきかえ日本のドラマは、率直に言って浅薄で幼稚で欺瞞的で、ほとんど進化もなく、まるで学芸会のような印象しかありません。
役者もこれでプロか?と思うような単純で子供っぽい演技やセリフ回しで、内容も安直なファンタジーで視聴者のレベルが透けて見えるようで、この面は世界基準でいうと、もはや何周も遅れていると感じます。
日本という島国の縮こまった環境や、ダイナミックなことの苦手な民族性もあるのかもしれませんが、なんであれ挽回は容易なことではない気がします。

日本といえば優れたアニメが世界を牽引しているというような話はずいぶん前から聞いており、それは結構なことではありすが、個人的にはやはり実写の世界でも、もう少し本気で勝負をすべきではないかと思います。

私がネットの動画配信を見るようになってまだ一年も経ちませんが、これは一度経験したら、決して昔には引き返せないものだと思います。
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キモはセンス

人間関係において何が一番重要か、これはわかるようでわかりにくいテーマだと思います。

通り一遍の言い方をするなら、人柄であり、信頼であり、相手を思いやる心というあたりを並べることになるのでしょう。
私もそこはむろん同感しますが、事はそう簡単には解決しません。

実際にはそういった大原則だけでは立ち行かない問題が多々あって、本当に好ましくしっくりくる人間関係ということになると、そう簡単に成立するものではないというのが実体験としてあります。
ここ最近、そのあたりを考えさせられることがいろいろあって、自分なりのひとつの結論を得たような気がしました。

若いころは、自分の若さと無知と傲慢から「馬鹿が一番困る、馬鹿は罪だ!」などと勢いに任せた考えを持っていたこともありますが、それは短慮で恥ずかしいことで、まさに若気の至り。
そこでは馬鹿という言葉で、雑駁にいろいろな要素を一掴みにしていたし、多少の偽悪趣味もあったと思います。

いま思うのは、人間関係で大切なのは、ほんの一部でいいから「センス」が共有できるか否かだろうと思い至るようになりました。
センスというのは善悪でもなく、バランスであり、息遣いであり、いわば取捨選択のものさし。
極論すればセンス=人間性といってもいいような気さえします。
まさに感性の問題だから、理屈ではどうにもならないものだとつくづく思います。
ダサいと感じるものはどうしようもないし、感じない人はどんなに說明しても理解できないもの。

人との人の間には、この理屈ではないものが介在することによって心の距離が決定され、しっくりくるものから素通りするものまで、自動的に分別されているのではないかと思ったりします。

関係の保ち方、話の内容や関心を寄せるポイントや重経など、ありとあらゆるところにセンスが果たす役割は、あまりに大きいものがあると言わざるを得ません。
センスが完全に合致するなんてことはあり得ないけれど、一定程度の共有が得られるかどうかはとても重要です。
どんなに正しく聡明で立派な人でも、センスが大きくずれると、なにもかもが皮肉なまでに噛み合わず、絶望的な結果しかないのです。
解決できない壁に阻まれ、当り障りのないことでお茶を濁すだけ。

こちらが大事だと思っているポイントが無価値だったり素通りだったりで、テンションも上がらず、会話も頭打ちで退屈な安全運転に終始するだけ。
よくいう「笑いのツボ」が合う/合わないというのがありますが、これもまさにセンスの問題だと思います。

人には能力、人格、適正などいろいろな要素がありますが、それらを奥深いとこで引き絞って、ひとりの人間として動かし采配しているのは、ほかならぬセンスだと思うのです。
通常はよく価値観という言われ方をしますが、個人的にはそれよりもセンスのほうがより深くて決定的なものがあって大事だと思うのです。

しみじみ思うのは、どんなに立派で温かい心をもった人でも、センスが合わないといちいちが神経に障り、疲れます。
しかも、互いに何が悪いというわけではない分どうにもなりません。

センスは人間関係のみならず、人が関わるあらゆることの中心では?

最後になりましたが、いうまでももなく音楽もそうであって、どんなに練習しても、センスによって統括されなくては決していい演奏にはならないし、そもそも技術もないまま難しい曲に挑戦したがるなんぞ、センスが悪いなによりの証でしょう。
そういう意味では、ピアノが下手なことは許せるけれど、センスが悪いのはガマンできません。
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不健全な物価

ロシアによるウクライナ侵攻の影響か、コロナその他の要因の絡む世界的な傾向か、確かなことはわかりませんが、このところの物価の上昇には驚きと諦めがないまぜになっています。

ピアノもその例外ではないようで、ひさびさにYouTubeを見ていると、スタインウェイを買うと決めた人が購入までの顛末を追った動画があり、あちこちの店で試弾しては「あっちが良かった、こっちはどうの、はじめの店にまた行ってみる、するとある店から電話があって新情報があった」などと、どの一台を購入するかに至る動画がアップされており、それを面白く見ていました。

最終的にはB型の新品を買われることになったようで、これという一台に巡り合われたことはなによりなのですが、その購入のためには資金の問題があり、ついには別目的だった貯蓄も崩してということで、やはりこれがほしい!これに惚れ込んだ!という心の昂ぶりに圧倒されると同時に、私もどちらかと言うとそういうタイプで、きちんと目的をもって蓄えなどできない性格なので「わかるなぁ!」という気分で見ていました。

が、そこでポロッと明かされた価格に驚愕!
いまやハンブルク・スタインウェイのB型の新品は約2000万!もするんだそうで、これにはさすがに背筋が凍りました。
スタインウェイをはじめ、輸入ピアノが毎年少しずつ値上げをするというのはもはやこの業界の慣例のようですが、そこには社会情勢も物価も無関係に、毎年機械的にサッと値上げするという感覚はちょっと馴染めません。
しかも、値上げすると、その価格をベースに数%値上げされるのですから、おそらくは年ごとの値上がり幅も肥大していくのは明らかです。

高級輸入ピアノを買うような一部のリッチな人達には、そんなことは大した問題ではないとでも言わんばかりですが、しかし楽器というものはそれを弾く人は必ずしもリッチ層ではなく、それを必要とするだけの訓練や人生の目的なども絡んでいることで、ただのステータスシンボルで高級品を買うのとはちょっと違った要素もあるように私個人は思うのですが、きっとメーカーは利益追求でそういう考えではないのかもしれず、なんだかやりきれないものがありました。

私もずいぶん前に分不相応とは知りつつ無理をしてこの手のピアノを購入しましたが、今だったら絶対に無理だと思うと、正直ホッとするところもないといえばウソになるかもしれませんが、とはいえ…株でもあるまいし、手放しでは喜べないものが喉元に引っかかってしまうのも事実です。

すでに書いていることなのであえて書きますが、自室用にベヒシュタインのMillenium 116Kという小さなアップライトを3年半前に購入しましたが、それも気になって現在の価格を調べてみると、当方購入時に比べてなんと1.4倍近い値上がりとなっており、その凄まじさに驚きました。
ちょっとどうかしているんじゃないの?と思います。

ベヒシュタインの場合、レジデンス/コンサートという本来のシリーズの下に、同ブランドながらアカデミーシリーズという廉価シリーズがありますが、いまやそちらのアップライト(ほぼ同サイズ)のほうが私が購入した時より高額となり、呆気にとられました。

長年、物価の優等生と言われた卵でさえも、近ごろはずいぶん高くなっていますから、このご時世では不思議はないんだと見る向きもあるのかもしれませんが、現在の値上げには不健全さが臭っていて、経済的にも生きにくい時代になっているのは間違いないようです。
まして、TVのニュースやドキュメントなどを見ても世界のきな臭い話題にあふれ、加えてエネルギー不足、さらには深刻な食糧不足なども予見されており、この先どうなるのかと思うと暗澹たる気分になるばかり。

これからは、ごく当たり前だと思っていたことでも、そうではなくなるような厳しい時代が待っているかも…というような気がかりが常に頭の片隅から離れなくなるんでしょうね。
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通せんぼ妖怪

以前にも似たようなことを書いたような気もするのですが、あまりに多いので再び。

車を運転していると、近ごろはやたら路上での流れが遅くて、ついイライラしてしまうことが多い気がします。
むろん車が多くてそうなるなら普通ですが、夜間など交通量もまばらで、道もガラガラだというのに意味不明に流れが遅く、法定速度以下のアホらしいような速度で走らざるをえないことがしばしば。

あまりのことに前方を注視してみると、やたらゆっくり走っている一台の影響で、その後ろがゾロゾロ続くしかないという現象。
しかも、その車の前は見渡す限り何もなく、ただトロトロ走っているだけ。

以前は、運転中にスマホなどを見ているのか、高齢の方などがよほど慎重運転されているのか…などと思ったものですが、近頃わかってきたことは、どうもそういうことではないらしいのです。
片側一車線でどうしようもありませんが、途中から二車線三車線になると、こちらも一気に行手が開けるのでこの手の極遅車からようやく開放され、空いている車線から前に出るのですが、追い抜きざまについ横を見てしまうことも。

果たして、運転しているのは予想に反してどこにでもいそうな普通の若者だったり、真剣な様子の女性だったり、いずれも運転以外のことにかまけて後続車のことが疎かになっているということでもなく、しっかり前を見て運転していたりする姿によけい驚かされます。

こういう走りの車にかかると、後ろがどんなに詰まって迷惑をかけようが、そんなことはまったく知ったことではないようだし、そもそも周囲に迷惑をかけている事など微塵も意識はないようです。

車関係の知人と雑談をしている時に、こんな状況があまりに多いことが話題となり、そこで驚くべき解説を受けました。
それは通称「通せんぼ妖怪」というのだそうで、比較的若い世代に多く、車や運転に関して一切興味も楽しみも感じない人達で、車の運転は100%移動手段でしかなく、したがってドライブの楽しさや運転技術の向上などにも興味ゼロの種族の由。

自分が運転が苦手だという意識はあるようで、だからとにかく安全にゆっくり走っているのだそうです。
さらに、道交法の解釈にも勘違いがあり、例えば道路標識が40km/hのところを50km/hで走れば違反だが、40km/h以下で走るぶんにはどれだけゆっくり走ってもOKと考えているんだそうです。

現在の自動車学校の教えがどうなのかは知りませんが、我々の時代は「安全運転」はもちろん第一でしたが、そのためにも「交通の円滑」を心がけることが必要だと繰り返し叩きこまれたものでした。
仮に50km/hの道をみんなが60km/hで走っているときは、一台だけ異なる速度で走るのは却って危険であり、そういう場合は同じ速度で走るべきであると教えこまれたものです。

これは集団であれば速度違反をしていいということではなく、交通状況というものは絶え間なく変化する生きものだから、臨機応変に状況を察知し、神経の行き届いた円滑な走行を心がけることが安全にも繋がるという考えだと思います。
なので、一台だけ極端に周りと違った動きをすることは却って混乱をきたし、危険要因を増やしてしまうという考え方で、その柔軟な感覚はつねに交通安全に求められる要素だと思います。

他車に対する配慮が極端にできない視野の狭いドライバーが専らマイペースで、周囲の状況へのセンサーが働かないような動きをしていると危険が迫ってきたときの認知も遅れ、当然ながら咄嗟の対応も後手にまわり危険度はずっと増すはずです。
とくに高速道路ではスピードの調和が乱れることで危険性も増大することから、最低速度というものが課されていることからもそれは察せられます。

この「通せんぼ妖怪」は、自分は40km/hの道を30km/hで走るぶんには、自分には何の非もなく、むしろより安全運転にいそしんでいるとでも思っているかもしれませんが、それは勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。
周囲のドライバーをイライラさせる原因を作っていることこそ、安全とは反対の危険行為だと思いますが、いかんせんご当人は妖怪さんだからそこに気づくはずもないということのようです。

これと感覚的に似ている気がするのですが、夜間、無灯火(ライト類をまったく点灯していない)の車が少なくないことにも、この鈍感さが現れていると思います。
街中がいくら明るいとはいえ、夜道でハンドルを握ろうというのに、自分の車のヘッドライトが点いていないことにまったく気づかずに平気な顔して走っているなんて、その鈍感さが私から見ればかなりこわい気がするし、これはもう酒気帯び運転並みに恐ろしいような気がします。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年も良い年でありますようにと穏やかにご挨拶したいところですが、世の中はロシアのウクライナ侵攻はじめ、大国のエゴがいよいよ顕在化するなど、しだいに緊張の度合いを増しているようで、なんとか世界の平和が保たれますよう祈るばかりです。

かつて日本では「平和ボケ」なんていう言葉が盛んに使われたものでしたが、もはやそんな無邪気な時代ははるか彼方に霞んでしまったようです。
コロナも概ね収束方向かと思っていたら、中国のゼロコロナ政策の緩和によって、一転して爆発的な感染拡大となり、そこからまたあらたな変異株が出てくる可能性があるといううんざりするような説もあったりで、現代人は今やどちらを向いても不安要因にとり囲まれてしまったようです。
とはいえ、嘆いてばかりもいられないので、なんとか現状の中で前を向いていくしかありませんね。

毎年、年初のコメントには同じことを書きますが、このブログも14年目を迎えることになりました。
お読みくださる方がいらっしゃるのはただありがたいとしか言いようがなく、本年も何卒よろしくお付き合いくだされば幸せです。
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詐欺に近い

ピアノ以外の話でもう一つ。
最近経験したことで、皆さんのお役に立てればという気持ちからご紹介します。

ちょっとした必要があって、お風呂の工事が必要になったのですが、パッと見渡してみてもピアノと違い、これといって懇意の業者があるわけでもなく、やむなくネットで探すことに。
以前からお世話になっていた好ましい業者さんが2つあったのですが、一つは別会社に統合されてしまい以前とはすっかりやり方が変わってしまったこと、もうひとつは頼みの職人さんがケガで引退されてしまい、よって業者探しから始めなくてはなりませんでした。

そうなると今どきはどうしてもネットということになりますが、ネットの欠点は、あまりにもたくさんありすぎてどれを選べばいいか、まるで見分けがつかないこと。
仕方がないから、その中から適当に電話したら快く対応され、さっそく現場を確認に来られました。

とても感じ良く、話し方も好意的で、現場を確認される間もいかにも頼れる感じで、ネットも悪くないなというような印象でした。
それから10日ほど経って、メールで見積が送信されてきたのですが、そこに記された金額を見た瞬間背筋が凍りつきました。
何かの間違いではないか!?と思うようなもので、もう胸はバクバクです。
細かい明細書なども添えられており、体裁上は尤もらしく書かれてはいるけれど、とうてい納得のいくものではなく、態度は柔らかいが相当な悪質という印象しかありませんでした。

それで、腹も立った勢いで、ずいぶん昔お世話になった業者さんをいくつか思い出し、幸いアドレス帳に残っていたので思い切って電話してみたら、心よく対応してくださり、さっそくそのひとりが現地調査に来てくれました。
さすがはプロというべきか、状況に関してはたちどころに理解し、ざっとこれぐらいでは?という金額を告げてくれましたが、それははじめのネットの見積りの約半額でした。

そういえば、以前別の件でも家のメンテに関することで、ネット検索して「業界最安」の文字が踊るサイトから、見積りを取ったことがありましたが、そのときも思わず顔が青ざめるような金額だったことを思い出しました。
もちろんそこには依頼しませんでしたが、こういう手合いがウヨウヨするのが当たり前の業界とは恐ろしいものです。

しだいにわかってきたことですが、とくに住まいの工事に関することで業者を探す必要が生じたとき、手段としてネットに頼りがちですが、これはかなり悪徳業者に当たる確率が高いこと、昔の縁で来てくれた業者さんにもその話をしたら、「あー、はいはい」と苦笑いしながら「これだったら☓☓☓ぐらいいったんじゃないですか?」と言われましたが、実際はそれ以上でした。
この業界では、ネット検索ででてくる業者はかなり高額をふっかけるところが多いのは限外に普通ですよ…といった感じで、とくに驚きもされず、そんなものだということを今回はっきり認識しました。

テレビなどで、人なつっこい態度で高齢者などに近づき、しなくてもいい工事を言葉巧みに誘導し、杜撰な作業で大切な貯金などを根こそぎ奪い取るというような話がありますが、あそこまでいけば完全に一線を越えており犯罪でしょうが、その少し手前の詐欺に近いギリギリのものというのは無限にあるようです。

とくに安さを謳って人を引き寄せるけれど、実際はその逆で、常識的な金額の倍も三倍も請求してくるのですから、いやはや恐ろしいといったらありません。
これをお読みの方も、もしそういう業者探しの必要が生じたときは、どんなにわずかでも知り合いのつてなどを辿っていかれるのが斎場とはいいませんが、まずは懸命だろうと思います。
また水道などは自治体の指定業者になっているかどうか。
もちろん、それでも決して安心はできませんから、できれば頑張って複数の業者に見積もりをとってみる必要はあると思います。

また、同じ案件でも業者によっても考え方や施工上のポイントがずいぶん違っていたりと、各社さまざまなので、面倒でも幾つかの業者に相談してみることはとても大切だということがわかりました。

ピアノだったら、調律などはだいたいの料金は決まっているし、あとは好みや巧拙にが問題ですが、住まいに関する工事はケタが一つも二つも違うし、おまけに業者によって費用が倍以上ちがってくるとなると、こちらもよほど警戒してかかる必要がありそうです。

いずれにしろ、住まいのメンテや工事関係はネット検索はやめたほうがいいので、みなさんもくれぐれもご注意ください。
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健康志向の不健康

久々にピアノ以外のお話を少し。
先日、テレビの某トーク番組を見ていたら、いくつかのテーマの中で健康に関するやりとりがありました。

そこで語られたのは様々で、流行りの糖質ダイエット、ヴィーガン、日本人の健康意識から美意識にまで切り込んだもので、頷ける点が多くありました。

若い女性の間では、食事に行ってもダイエット中や特定のこだわりを貫く人がいたり、なんだかんだと制限が多く、無邪気に注文することもできず、気遣いやストレスがあるとのこと。

そもそも、ダイエット中や健康上もしくは思想上特定の考えを持った人は、他者と食事に行ってそれを崩さないとなると、その場の雰囲気や他の人に影響を与えないで済むことはかなり難しいのでは?と私は思いますが…。
そもそも、健康のためと称して、あれこれのこだわりを持ち、食品に対する自説や選択、あるいは運動だ、栄養補給だとさまざまに実践しておられる方がいらっしゃいますが、これは当人以外は甚だしく快適ではない空気を撒き散らすことになるように感じます。

また、ある程度以上の年齢に達してからその面に目覚め、それを中心とした生活を送るのは、正しいことなんだろうとは思いつつ、どこか浅ましさみたいなものが見え隠れしてしまうときがあります。
しかもそのタイプは、それまでの不摂生を一気にリセットしようという思惑なのか、やたら健康志向に転身し、自説に浸り込んでいるのも思い込みが強いぶん周りはウンザリだったり。

もちろん一定の運動が必要であるのは言うまでもないし、健康的な生活を送ることが大切という本質に異論を挟む気はまったくありません。
でも、わざわざ運動のための運動をするよりは、できるだけ自然のリズムの中から出てくるものであるべきでは?と内心では思ってしまうのです。
健康志向の人は、多くの場合、健康データとしての「数値」の獲得が目的で、そのためにやりたくもない運動や食事制限に全生活を縛り付けるなんて、私はどこか大事なポイントがずれているような気がするのです。
食べ物や食べ方、あるいは長らくアルコールに親しみ、偏った食生活を送ってきた人が、急に何もかもをチャラにしたいのでしょうが、それは不摂生をクルッと裏返しただけに見えて、あまり健康的に思えないのです。
身体にとっても、悪いものが入ってこなくなった環境改善より、急激な変化に対するストレスのことは見落とされているのでは?

私の感じる「健康的」の概念には、趣味や文化と同じく、自然に身についたものが必要じゃないかと思います。
極端に甘いものや塩っぱいものは、健康云々以前に、自分がそれほど望まないとか、過度なアルコール摂取や暴飲暴食は、したいけどガマンではなく、そもそも好きではない、自分の快適性に合わないというのが自然だと思います。

若いころはともかく、もう食べ放題なんて行かなくなりましたが、あの過度な満腹感がもたらす不快感がイヤだから行かないだけですし、本来なら野菜でも水分でも、採らなきゃいけないからというだけではなく、それが欲しくなるのが自然であり、そういうサイクルになっていることが健康的だと思うのです。

誰だったか忘れましたが、パネリストの一人がポロリと膝を打つような発言をしました。
「健康オタクの人って、私にはそれが不健康に見えるんですよね」
まさに膝を打つ思いで、まさにその通りなんです!

ご当人はそれまでの不健康な自分とは決別し、いまこそ健康を取り戻しつつあると思っていても、それが悲しいまでに不健康に見えて、そのあたりのギャップが傍目にはどうもしっくりきません。
白髪を隠そうと毛染めをして、老いた顔の上にやけに真っ黒な髪がかぶさっていたりするのを見ると、逆に不自然でより老いが強調されてしまうように。

私は医者ではないけれど、人は40過ぎたら、そこまでやってきたことがその人の基本であり、たとえばよほどの肥満とかは別にして、ちょっとぐらいぽっちゃりの人が、敢えて苦しい思いをして、あれもこれも我慢して、ビジネス臭がプンプンする基準を鵜呑みにして、苦心惨憺の末にすこしばかりスリム体型になったとしても、やつれたようにしか見えず、それが真に健康的で素晴らしいとはどうしても思えないのです。

多少体重は多めでも(極端なことや明らかにアウトなことは別ですが)、常識の範囲でやりたいようにやって、ほがらかに笑っていた時のほうがよほど健康的だったのでは?と思ってしまいます。
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あの時代

先に挙げた『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)には、日本人ピアニストの黎明期のこと、さらには日本の音楽教育がどのような変遷をたどってきたかについても触れられていました。

東京音楽学校が東京美術学校と合流して芸大になり、一方で桐朋学園音楽科創設に至る経緯、その他の音大も次々に生まれて、戦後の短い期間で音楽教育環境が急速に整ったことがわかります。
桐朋には前身があって、優れた音楽家を養成するには早期教育が不可欠という思想から、「子供のための音楽教室」というのが作られ、この第一期生が小澤征爾さん堤剛さん中村紘子さんなどです。

これはチェロの斎藤秀雄やヴァイオリンの鈴木鎮一、さらに評論家の吉田秀和、ピアノの井口基成ら各氏の尽力によって開設されたものですが、演奏のお三方は自身の修行のスタートが遅かったこともあり、音楽における早期教育の必要性を身をもって感じていたということも大きいように思います。
さらに、ここから成長した子供の受け入れ先が必要ということで、やがて桐朋学園の音楽科が作られ、大学まで拡大していったようです。

これじたいは日本の音楽教育にとって画期的なことだったろうと思いつつ、読みながら昔のピアノ教育現場のあのなんとも形容しがたい、ムダに厳しい、悲壮的な空気感が蘇ってくるようで、この部分はなんとなく楽しくは読めませんでした。

戦後昭和のピアノ教育界を牛耳っていたのは、井口基成・秋子・愛子の流派と、安川加寿子の二派だったように思います。
かつての芸大がレオ・シロタやクロイツァーなどのドイツ一辺倒だったところに、フランス仕込みの流麗な風を吹かせたのが安川加寿子でしたが、それに対してかっちり力強く弾くのが井口流だったように思います。

私ごとで恐縮ですが、私が通っていた地元の音楽学院も、院長が井口基成の直弟子であることから、学院自体が桐朋の「子供のための音楽教室」の支部のような位置づけであり、斎藤秀雄はじめ、お歴々の写真が架けられていたし、当時はまだ健在だった井口基成はじめ、錚々たる顔ぶれの教授陣が中央から入れ替わりやって来られては、厳しいレッスンを繰り広げておられました。

私自身は井口先生の恐怖のレッスンを受けるには至りませんでしたが(おそらくレベルが低くて)、見学は院長室で何度かさせられました。
専用のソファーが準備され、まさに「王」のようなふるまいで、まわりは緊張の極み。
あんな状態から演奏上の何を学ぶのか、いま考えても正直良くわかりません。

ただ、この本にある「子供のための音楽教室」で行われていた授業内容は、私達に課せられたものとほぼ同じで、桐朋の流儀で全てが進められていたことがあらためてわかり、土曜中心でソルフェージュ、聴音、楽典など、そのままでした。

その頂点に君臨する院長は、すでに多くのお弟子さんを育てて抱え、その人達が下部の教師となって生徒の普段のレッスンを受け持ち、ご指名がかかったらその先生および親同伴で院長室に、レッスンという名のもと出頭させられます。
いうまでもなく学院全体は井口流の厳しさと恐怖に絶え間なく包まれ、そのせいでメンタルを病んだり、家族離散になったりといったケースもありましたが、そんなことはまったくお構いなしでまかり通っていたのですから時代の成せる技というほかありません。

ただし、院長はただ権勢を振るっていただけではなく、音高・音大の受験シーズンになると睡眠時間が2〜3時間という過密スケジュールとなり、真夜中でもレッスンをされていたし、生徒とちがい毎年受験前はそんなハードなパターンでやっていられた事を考えると、正しいかどうかは別として、そのエネルギーには唖然とするばかりです。

ところで、先日テレビでアメリカの動物調教師の話をやっていましたが、1950年代までは猛獣の調教といえばサーカスなどに代表される、檻に閉じ込め、ムチで叩いて、恐怖と痛みで服従させるのが主流だったところ、動物保護を目的とする人物によって、愛情をそそぎながら教え込む方法が見事に奏功し、その人のもとで育った雄ライオンは人に危害を加えることは一切なく、ハリウッド映画のオファーなども次々に舞い込んで映画スターとしても絶大な信頼を得ることになり、ついには子どもとの共演まで見事に果たしたそうです。

スポーツでも、足に悪いうさぎ跳びや、練習中は水を飲んでもいけないなどの精神論式訓練が当たり前だったものが、いつしか科学的なほうが結果が出やすいことが証明され、これに取って代わりますが、私がピアノを習っていた1970年代前後は、いわばムチで叩かれて教え込まれるサーカス方式だったように思います。
桐朋の「子供のための音楽教室」でさえ、内実はそれでした。

さらに呆れたのは、この本に書かれていた(私は幸い言われたことはなかった)ことですが、「井口派の生徒は安川加寿子のピアノを聴きに行ってはイケナイ」というルールがあったそうで、今だに「グールドのCDを聴いてはイケナイ」などと真顔で指導する先生もおいでだそうです。
絵や文学を志す人に「あれを見てはいけない、これを読んではいけない」というようなもので、そういう視野の狭い教師についたらたまったものじゃありません。
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競争曲

前回の『ショパンコンクール見聞録』に続いて、『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)というのを読みましたが、ますますもって時代は変わったのだということを認識させられる一冊でした。

とりわけタイトルにもある通り、ピアニストの「現在地」というものは、従来の在り方とはかけ離れたところに成立するもので、それはまさに、他のジャンルと同様の激烈な勝ち抜き戦だと思いました。
演奏家になる道は、俗世間とは別次元の高尚なものだというような錯覚はしていないつもりだったけれど、しかし私などが求めていたのは、ごく稀に出てくる天才の至芸であり、才能豊かな音楽家が紡ぎ出す演奏という、理想を求めていたことは否定できませんし、そうでなくては音楽を楽しむ根本意義の問題になるような気がするのです。

しかし、現代のピアニストに求められるものは、高度なメカニック体得者であることは当然の大前提で、さらにいかにして大衆の心を掴んで出世街道を駆け上がっていくか、周到かつ凄まじいレースのようです。

先生や学校選びは言うに及ばず、どの時点で留学するかしないか、音楽一辺倒ではなく他の分野との二足のわらじで行くか、自分のウリは何であるかの見極めと設定、世俗的な広い視野と時代感覚が飛び抜けて鋭敏でなくてはこのレースを勝ち抜くことはできないでしょう。
ピアノを弾くためのずば抜けた能力プラス、自分というタレントの設計図が極めてしたたかなものでなくてはならないようで、まさに能力の総合勝負であり、昔のようにピアノだけがどれだけ上手くても、どれだけ聴くものを酔わせるものがあろうとも、そんなことはもはや大した強みではないようです。

今の若いピアニストは、あんなに上手いのに、なぜか情の薄いものにしか感じられない不思議の理由が、ようやくわかったような気がしています。
ひとことで言えば目指すところが違っているのだから、そりゃあ当然だろうと思いました。

いまさら言うまでもないことですが、今の若手ピアニストは技術的には呆れるばかりに平均点が上がり、コンクールなども短期間のうちに駆けずり回るがごとく受けるのも珍しくもなく、まさにトップアスリートの生活のようです。
当然それに耐えうる体力とメンタルが必須。

コンクールも常にどこかで開催されていると思っていたほうがいいぐらいで、各自、自分の都合に合わせてあれに出たり、これに出なかったりといった具合で、まさに世界を股にかけて飛び回っている。
一位もしくは優勝するまで、若さの続く限り挑戦を続け、その結果を携えて、いかに自分を巧みにマネージメントするかが問題で、そんな生き馬の目を抜くような時間を過ごしていたら、そりゃあ繊細な演奏の綾などと言っているヒマはないのも当然で、みなさん戦士なのです。

中には、スポンサーを募り、他者を抱き込んで株式会社を作ったりという猛者もいるわけで、そういう企画力を有していることが現代の売れる音楽家の条件であるらしく、演奏能力プラスそれが合体してはじめてチケットの取りづらいピアニストにもなれる…ということらしい。

それをいえば、昔のピアニストだってピアノメーカーやレコード会社や興行主などが、似たようなことをやっていたといえなくもないかもしれませんが、私の肌感覚では「断じて、何かが違う」としか思えません。
気持よく音楽を楽しむという時代も終わったと思うことは、寂しく残念としかいいようがありませんが、どうやらそういうことのようです。
…。
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ヘンな映画

『グランドピアノ 狙われた黒鍵』という奇妙な映画を見ました。
いや、正直にいうなら、早送り多用でおよそ見たといえるような見方ではありませんでしたが。

2013年スペイン製作の映画のようですが、主人公のピアニストは恩師と自分しか弾けないという難曲をかつて失敗し、それから5年ぶりにステージに復帰して再挑戦するというものですが、演奏開始後、楽譜をめくるとそこには赤の太字で脅迫の様々な指示が書かれていたり、曲の途中でピアニストがなんども中座して舞台裏に行ったり、一音でも間違えたら殺すと脅迫されたり、どの場面ひとつとっても実際にあり得いないようなアニメ顔負けのシーンの連続。
実際の演奏会では絶対にあり得ないことで、いかに映画だからといって、許容範囲というのはあるはず。

映画は映画であり、娯楽でファンタジーとはいえ、あまりにも現実離れした連続となると、そのせいで映画としての面白さや魅力も失い、映画として割り切って楽しむ気力さえもなくなります。
これがコメディかなにかならまだしも、一応はおふざけではないサスペンス映画という立て付けになっているわけで、製作者は映画として真面目に作ったのかさえも疑いました。

映画の面白さというのは、きちんとしたリアルな土台の上に、映画ならではの筋書きなどのあれこれが織り込まれ展開されるものでなくては成立しないはずです。

使われたピアノは師の遺品という、ベーゼンドルファーのインペリアルでこれは本物でしたが、演奏至難という曲も、オーケストラ付きの奇妙な曲だし、ステージはすり鉢状にオーケストラが着座し、その奥の一番上の高いところにピアノが置かれているという、とにかくすべてがいかに音楽やコンサートというものを知らない人達が好き勝手に作ったものであるかがわかります。

最近は、海外ドラマでもそのあたりの考証はかなり正確になっており、装置から小物ひとつまでこだわって高いクオリティで作られるご時世に、こんなものもあるのか…と驚きました。

大詰めはまだオーケストラも観客もいるというのに、ピアニストは天井裏でスナイパー?との格闘となり、そのあげく落ちてきた人間がピアノを直撃、哀れ破壊されて床に埋もれてしまいます。
ただし、そのシーンはインペリアルではなく、大屋根の形が明らかに異なる、別のピアノもしくは模型か何か?に置き換えられていましたが。

最後は演奏不能なまでに傷ついたとするベーゼンドルファーの鍵盤が映し出されて、主人公が弾いてみようとするシーンがありますが、このときはなんとアップライトになっており、これほど雑な作りの映画がいまどきあるのか?という点で首をひねったり苦笑いの連続でした。

冒頭に書いた通り、あまりのバカバカしさに倍速で流しただけで、実はストーリーもろくにわからずじまいでしたが、正直わかりたいとも思いません。
ひとつだけ注目すべき事があるとしたら、(ここだけはネットで名前を調べましたが)ピアニスト役で主人公のイライジャ・ウッドという俳優ですが、この人はよくあるピアノを弾いているフリではなく、結構ピアノが弾ける人のように見受けられました。
演奏姿勢から指の動きまで、弾ける人とそうでない人は、根本的にまったく違いますから。

もし本当に弾けるのなら、タイロン・パワーの『愛情物語』ではないけれど、もう少しそれを活かした見応えのあるものに出てほしいものです。
たしかあれは、実際の演奏はカーメン・キャバレロだったと思いますが、やはり弾ける人の姿は違いますから。
『マチネの終わりに』でも、もし福山雅治がギターを弾けない人だったら、いかにモテ男でもずいぶん違ったものになっていたでしょう。

とはいえ、この映画はおもしろかったわけでもなく、不愉快というのとも違い、やはり「ヘンな映画だった」というしかない、不思議な後味しか残りませんでした。
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