コンサートに行くと必ず手にするプログラムノート。
これを開くと、びっしりと書かれた演奏者のプロフィールを目にして、まともに読む気にもなれないことが少なくありません。
演奏者本人や主催者側にしてみれば大事なことなのだろうけれど、やたら細かいことまで綿々と書かれているのは、それを手にする側にとってはほとんどどうでもいいようなことばかりで、本当に意味をなしているようには思えません。
あまり細かいことまで書かれているのは書類のようで、思いつく限り書けることは細大漏らさず書いたという切迫感さえ感じることも。
それだけ苦労して研鑽を積んできたということだとしても、過剰なアピールに気持ちが引いてしまうようで、そこから演奏を楽しむという期待感より、なにやらお気の毒な感じさえ漂ってしまいます。
あれもこれも書いておきたい、訴えたいという自己主張だけが独り歩きして、逆にどこか貧しい感じを与えてしまうことも少なくありません。
ああいうプロフィールを目にして、なるほどそうかと感心して、より一層ありがたい気持ちで演奏を聴けた…などという人はまずお目にかかったことはないし、これまで多くの人とその話題になったことがありますが、異口同音の冷笑的な意見が返ってくるだけです。
ご当人の努力は大変なものだったろうし、ご家族はじめ、まわりの人にしてみれば、少しでもその軌跡や活動実績を伝えることで応援してほしい、あるいはこれだけの実力があるのだから、どうぞそのつもりで聴いて欲しいというのは、人情としてはわかるけれど、音楽というものは、そんな個人の事情や訴えを押し込まれた上で聞かされるものではなかろうと思うのです。
とりわけプロの世界では結果が勝負で、くだくだしい退屈なプロフィールは、書く側と読む側の埋めがたい大きな溝を感じるのです。
ぜひそのあたりを冷静に考慮され、もっと効果的な内容と量にとどめておいて、あとは本人の演奏と聴く人の受け止めに任せるべきだろうと思います。
なるほど、現代は純粋に演奏の質が、常に正しく評価されているかといえば、そうともいえないところがあるのも事実です。
だからといってプロフィールを大盛り山盛りにしたら効果があるのかといえば、決してそうはなりません!
余談ながら、パリ音楽院などに行った人のプロフィールには、だれもかれもが「プルミエ・プリ獲得」と書かれており、これは普通の感覚でいうと一等賞であり主席、つまり卒業者内で一番だったというような印象ですが、実際のプルミエ・プリはどうやら成績優秀ぐらいな区分のようで、プルミエ・プリが何人もいるということのようです。
プルミエ・プリでないのにそう書けば詐称になるから、まったくウソとは思わないまでも、それにしてもパリでは日本人のそれが異様に多いのを訝しく思っていたので、調べてみて納得でした。
プロフィールの結びの常套句でよく見かける言葉に、「その活躍は世界的な注目を集めている」といったような、ほとんど夢でも見ているような御大層な言葉が、何ら躊躇なくすらすらと書かれています。
少しばかり海外のコンクールを渡り歩いたり、国際線の飛行機に乗ったりすれば「世界的な活躍」となるのではないのだから、もうそろそろそのような誇大表現は慎むべきだと思います。
言葉本来の意味に立ち返るなら「世界的や活躍や注目」ということが、果たしてどういうことなのか、もう少し正直に真面目に考えて欲しいと思います。
スピーチは短いほうが喜ばれるように、プロフィールも大いにダイエットが推奨され、できれば激ヤセしたほうが、よほど好感をもって温かく聴いてもらえるのではないか?と思います。
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ついでに思い出しましたが、最近、知人との雑談で大いに話題に上りましたが、名刺の肩書にも同様の事例があるということ。
あれもこれもと、役職や兼任している事業名などをびっしり書いて並べて、どうかするとそれは裏面にまで及ぶことがあるようで、こういうものを見て、真から感心したり尊敬したりする人などいるとは到底思えません。
要は、ご当人の抑えがたい猛烈な自己顕示欲が小さな名刺の中で炸裂しているだけで、見たほうは呆れて、世間からは嗤われているのに、ご本人は一向に気づかないという滑稽な構図です。