暴走老人

このところ新聞紙上や書店などでよく目にする言葉に「暴走老人」というのがあります。

もともとは本の題名にこういう言葉があったようですが、はじめはなんのことだかわかりませんでした。
きっと今どきの高齢者の実像を社会現象として捉えて、おもしろおかしく書いたものだろうぐらいには思っていましたが、その後もこの言葉は消え去ることがなく、テレビでも聞くし、さらには先ごろの新聞ではこれが「増殖中」などという文字まで見るに至りました。

しだいにマロニエ君もなんとなく心当たりも出来てきて、最近では高齢者の方の行動であまり感心できないことをいくつか目にするなどしていたので、どうもたまたまの現象ではないらしいという気もしはじめて、だとすると非常に由々しきことだと思います。
若者の行動や態度がよくないのももちろん困りますが、さらに人生の先輩としてその規範となっていただくべき高齢者の方が社会人として破綻してきているというのであれば、なお一層深刻なものを感じます。

先日も知人とこの話が出たのですが、最近ではある部分においては若い人のほうがよほどマシで、高齢者の暴挙には驚かされる事が多いと言い出したのですが、たしかにそれはあるのです。

家人などもいつもぼやいていますが、例えばデパ地下などでの列の割り込みや商品の取扱いなど、高齢者には目に余る所作が目につくと言いますし、先日などもある店で、一人で買い物に来ていたおばあさんがいきなり列の間に割って入りましたが、当人はすましたものです。
と、途中で忘れ物があったらしく、一度列を離れたのですが、再び戻ってくるとまた同じことを繰り返して、中学生ぐらいの女の子の前にグッと割り込みました。その女の子は驚いた様子でたいそう不満げでしたが、結局なにも言わずそのままになりました。

マロニエ君自身も、過日ピアノクラブの懇親会の席でファミレスで歓談していたところ、一瞬ですがつい大きな笑い声を立てたところ(もちろんそれがいいとは言いませんが)、通路を挟んだむこうの壁際の席にいるやはり高齢の女性からいきなりヒステリックな調子で、突如噛みつくように文句を言われ、そのあまりの激しさにびっくりしました。
まあ、我々にしてみれば、その老女の発したキレ気味の奇声が店内に響き渡ったことのほうがよほど周囲にも迷惑だと思いましたが。

また別の日にも、知り合いと数人でいたところ、まるで理の通らない、ほとんど言いがかりとしか思えないような文句を言われたこともあり、みなさんよほどイライラしているのかと思いますが、それにしてもちょっと異様な気がします。
言っていることもいかにも身勝手で、話の筋道がまるきり立っていませんが、ご当人はなにしろ真剣だし、相手がお年寄りなのでみんなガマンでした。

さらにネットのニュースなどでも、このところ高齢者の話題はしばしば目につく問題で、その猛烈なパワーには驚くばかり。
70代の高齢者同士が殴り合いをして片方が重傷を負ったとか、80代の男性が運転免許の更新の事で警察官からあることを指摘されて激昂し、警察官の腕に噛みついてケガを負わせて逮捕されたとか、もはやこれ、明らかに歪んだ社会現象だと思われます。

現代のような社会に生きていれば、もちろん高齢者にも多くのストレスがかかっているのだろうとは思いますし、とりわけ感じるのは孤独からくる終わりのない圧迫ではないかと思います。
人生の晩年は本来なら穏やかに楽しく過ごしたいところでしょうが、逆に若い頃よりも生活環境が苛酷になるというのはそれひとつでも自然の流れに逆行することで、イライラも募るのでしょう。

共通しているのは独善的でひがみっぽく、ひどく差し迫った感じでかなり攻撃的だということです。
やはり優れた政治家が現れて、一日も早くこの荒れ果てた社会の建て直をしてほしいものです。
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世襲

たまにNHKのBSで昔の日本映画なんかをやっていて、それが思いがけなく視界に入ることがありますが、昔の名優というのは、やはりなかなか観賞に値する美しく立派なルックスをもっていたものだと思います。

そして、現代のこの業界には、いかに多くの二世三世が先代の名声を足がかりにして、それだけのものも持ち合わせないまま不適合に生きているかと思わずにはいられません。
俳優の世界も、演技という技巧の分野でいうならある種の芸の継承というのもなくはないだろうと思いますが、美人や二枚目ともなると、いかにその二世だなどと言ってみても、その面立ちに似たところはあるとはいえ、しょせんは別物なのであって、到底その親になんぞかないっこありません。

兄弟姉妹でもそうですが、顔かたちなんか似ているとはいってもちょっとした目鼻の配置ひとつで美醜様々に分かれてしまいます。
大スターだったその親たちは、自分がたまたま天から授かったフェイスや雰囲気を元手に世間に認められたわけで、それがそのまま子供に受け継がれるはずはないのであって、だから今の芸能人や俳優の美貌は、昔に較べるとずっとレベルダウンしていると思います。

さらにスター俳優になるには、目鼻立ちの美しさだけではダメで、最も大切なスター性を備えていなくては芯にはなれません。ちなみに芯とは中心のことで、つまり「主役をはれる存在」という意味です。

いま、現役でそれなりに活躍している二世俳優のお父さんお母さんの現役時代を見ると、その子供らとは次元の違う輝きをもっているのが大半ですし、現役の二世世代の連中で、親の存在なしに単独で同じ地位を獲得できた人が果たして何人いるかといえば、実際はおそらく惨憺たる結果になるはずです。

その点では、むかしの方が芸能界もよほど正当な実力主義で、真に力のある者がなるべくしてスターになっていたと思われますし、それだけに大物が多かったのだろうとも思います。そういう意味では、今のほうがよほどどこぞの国よろしく人脈やコネが横行する業界という気がしなくもありません。

よほど桁違いの秀でたルックスでももっていれば別でしょうけど、大半は多くの芸能人の二世連中がその票田を引き継いでいるがごとくなのはかなり違和感を覚えるところです。政治家の世襲問題が折に触れ取り沙汰されますが、むろんそれに異論はありませんが、マロニエ君にいわせると芸能界の世襲というのも、なんとも気分のしらける夢なき格下の世界に落ちぶれたようで、とても納得はできません。
数にもよりけりですが、今はあまりにも数が多すぎで、よくもまあ懲りもせずに、誰も彼もが自分の子供を同業者(しかも親より必ず格落ちの)にしたがるもんだと思って呆れてしまいます。

その点では梨園(歌舞伎界)は世襲が前提ですから、顔の美醜にかかわらず、男子は親の名跡を受け継ぐわけですから、その点では特殊社会といえばそうなんですが、そんな場所でもときどき奇蹟がおこるらしく、たまには板東玉三郎のようなスーパー級の美形があらわれたりするのは不思議です。
そして、その奇行のほどは別としても、市川海老蔵のような立役の美形がこの現代に出現したことは、団十郎を思い起こせばこれまた奇蹟というわけで、数十年に一度はこういう異変が起こるのでしょうか。

こうしてみると世襲が難しいのは音楽の世界で、パッと見渡しても、親子二代で大物が続いた例は、エーリッヒとカルロスのクライバーぐらいしか思いつきませんし、ピアノではせいぜいルドルフとピーターのゼルキン親子ぐらいでしょうか。
名演奏家の子供というだけで、力もない音楽家が現れるのじゃたまりませんから、そう思うと音楽の世界はまだ実力が問われるという点でマシなほうかという気もします。
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ホールに潜む危険

福銀ホールの階段で女性がマロニエ君の背後でしたたかに転倒して周囲や主催者を慌てさせたことを書いたばかりでしたが、続くアクロスシンフォニーホールでの2台のピアノの第九のコンサートのときには、ソロの途中で演奏者が入れ替わる際、ステージ上ではピアノの入れ換え作業がおこなわれたのですが、そのときにマロニエ君の座っている席から真横のごく近い位置の通路で、またしても女性が転倒されました。

しかも、今回の転倒はいささか深刻なようで、なかなか起きあがることもままならないようで、周辺にはちょっとした緊張が走りました。
通路のすぐ横に席に座っていた女性がすかさず助けにはいり、あれこれと様子を見てあげているようでしたが、やはり立ち上がることが難しく、このころにはよほど転び方が悪かったのかと気を揉みました。

ついには助けに入った女性が抱きかかえるようにして、転倒して怪我を負っているらしい女性を会場から連れ出すべく努力され、なんとかゆっくりとした足取りで衆目の見守る中を退出していかれました。
驚いたことには、床には大量の流血のあとがのこり、思いがけなく目にした鮮血の赤が痛ましくも衝撃的でした。
これはたいへんな事が起こったと思いましたが、それとは気づかずにステージは続行されました。

マロニエ君の想像ですが、ちょっと時間に遅れてしまった女性が、演奏中は動けないので、ピアノの入れ替えをしているタイミングで急いで座席に着こうとして、段差に躓いて転倒されたのではないかと思いました。

かねがねホールの段差というのはなんとなく要注意だと感じていたので、マロニエ君なども自分はもちろん、家人と一緒に行くときには毎回現場で注意を促しています。
広いし、なんとなく薄暗いし、人は多く、席を探しながら段差に次ぐ段差のある通路を進むのはけっこう難しい動きだと思います。

あえて言いたいことは、ホールの段差には、段の縁などに色の違う滑り止めのようなものをつけるなど、もう少しお客さんの足元の安全に配慮して欲しいものだということ。
近ごろは、こういう分野ではなにやかやとうるさい時代で、世の中の認識もだいぶ進んでいますし、中にはそんなことまでしなくてもというような安全策まで講じられている中で、ホールの段差などは一向にその気配があるようには感じられません。

通常の動きでもこうなのですから、これがもし災害時などみんなが一斉に避難すべき状況にでもなったら、果たしてどんなことになるやらと思います。

もともとマロニエ君は、こんな安全面がどうのというようなことを高らかに言うのは好きではないし、そんな趣味はないのですが、やはりホールは老若男女不特定多数の人達が利用する場所でもあるし、こうも立て続けに転倒事故を目のあたりにすると、そのうち自分かもという気もしますし、この点では施設側にももう少し細やかで実際的な配慮が欲しいと思います。
ちなみにその段差には縁に形ばかりの微かなくぼみはあったものの、ほとんど無いがごとしで、とくに高齢者などは最上級の注意が必要となり、これは早急な改善を望みたいと思います。

とくに最近のコンサートホールは高級になるほど、つるつるした木の床だったりするのが仇になっているようです。
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会話がない!

過日、ちょっと気の利いた定食を出す店に行ったときのことです。
そこは美味しくて値段も安いので、週末ともなると順番待ちが出るような人気店で、必然的にテーブル同士の距離もかなり狭く詰めた感じになっています。

マロニエ君が入店してほどなくして、ひと組の親子がすぐ隣の席にやってきました。
小学校3、4年生ぐらいの女の子と、おそらくは30代と思われるサラリーマン風の若いお父さんでした。

二人でメニューを覗き込んで、あれこれと相談しています。
はじめは麗しい光景のように思えたのですが、注文が終わると女の子は横に置いていた袋をポンとテーブルの上に置いて、中から買ってもらったばかりとおぼしき分厚い本を取り出しました。
チラッと視界に入ったところでは漫画本で、いきなりお父さんそっちのけでそれを読み始めたのはありゃという感じでしたが、今度はお父さんもやおら文庫本を取り出して、黙ってそれを読み始め、いらい食事が運ばれてくるまで、二人はそれぞれ本を相手に沈黙状態となり、まるで図書館のようでした。

しばらくすると料理が運ばれてきたのを潮に女の子は本を椅子において食べ始めます。
するとお父さんは自分のお盆からメインの料理を取り出して、自分と女の子の間の僅かな隙間にこれを置いたので、娘にも食べろという意味だろうと思いました。
ところがそうではなく、そうやって空けたスペースに読んでいた文庫本を置いて、本を読みながらの食事が始まったのには唖然としてしまいました。

男がたった一人で食事をする際に、スポーツ新聞なんかを読みながらというのは感心はしませんが、人によって状況しだいではあるとしても、小さい娘と二人きり向き合ってせっかく食事をするのに、なにもそうまでして本を読まなくてもと思います。

その若いお父さんは、口はパクパクさせながらも、目はひたすら本の文字を追い続け、ひと言も、本当にひと言も娘と会話がありません。ときどき「お父さん…」と呼びかけて、タレがどうとかお皿がどうとか言っていますが、それにもまともな反応はなく、「んー?」とかいうだけです。

横のテーブルをチラチラ見るのもどうかとは思いましたが、なにしろテーブル同士がかなりくっついているので、嫌でも視界に入るわけです。驚いたことには、文庫本は開かれた状態で完全に長方形のお盆の中に入っており、口はモグモグ、お箸はサッサと動かしながらも、かなり真剣な様子で読みふけっているのは、技巧と集中力には感心させられました。
娘の顔を見るとか、くだらないことでも話をするという気持ちが微塵もないことがわかり、マロニエ君はもともとあまりベタベタしたことをいうセンスではないのですが、さすがにこれはどういうつもりなんだろうかといささか憤慨しました。

そのうち娘のほうは食べ終わりましたが、そのあとはマンガを読むでもなく、お父さんが食べ終わるのをじっとなにもせず、足をプラプラさせながら待っている姿がなんとはなしに哀れになりました。
それでもお父さんの方は娘の状態になど一瞥もくれず、最後の最後までマイペースを崩しませんでした。

あれじゃあ、行儀やらなにやらの躾もなにもあったもんじゃないというのは一目瞭然で、家の中でも実用会話以外はほとんどないまま、好き勝手にテレビでも見ているんだろうと思います。
正しい日本語の使い方とか挨拶のしかたなどは、家庭内の日常生活の中で自然に覚えていくものだと思うのですが、ま、あの様子では到底期待できそうにはありません。

さりげなくすごいものを見たという気分でした。
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男のたしなみ?

先日ピアノリサイタルをされた川本基さんは、終演後、拍手に応えてカーテンコールに応じられたあと、マイクを持って再びステージにあらわれました。

マロニエ君はまったく個人的な好みとして、演奏者がトークをするのは好きではありません。
演奏は聴いても、下手なトークで上っ面だけの曲の解説など聞いても仕方がないからですが、この川本さんの話はそれとはまったく違いました。
演奏も済んだばかりで、いまさら音楽の話をしてもつまらないので、ちょっと僕の日常のことを話しますと前置きされ、ドイツでの生活や、長年の目標だった運転免許をついに取ったというような話をされたのですが、その語り口が実に穏やかで、言葉が滑らかで、内容も面白く、人柄からくる品の良さがあって、こういうトークなら歓迎だと思いました。

とくに印象に残ったのは運転免許に関する話で、川本さんによれば東京で暮らしていたときはなかなか車を運転するという環境ではなかったし、ドイツでも交通網が発達していて、現実的には敢えて運転免許がなくても実生活にはなんら支障はないけれども、しかし自分はやはり男の子なのだから、やはりどうしても運転がしたいという願望があったのだそうで、今年は年頭から発奮して免許を取るという目標を立て、ついに念願叶ってそれを手にしたという話などを、ドイツの運転免許取得事情などと絡めておもしろおかしくされました。
そして現在、ドイツでは車を手に入れて、あちこちへの移動にはこれを使っているということでした。

もちろんその語り口もなかなかよかったのですが、ぜひ車の運転をしたいという男性的な可愛気のある気分それ自体が久しぶりに聞いたようで、今どきの発言としてはとても新鮮でした。
近ごろの日本ときたら、血気盛んなはずの若者は一様にしょんぼりしているし、車にもまるで興味がない由で、なにがなんでも車を手に入れるといったたぐいの情熱は失って久しい気がします。
そして、今では街中には傍若無人な自転車が無数にあふれ出て、あたかも昔の中国のようで、その中国のほうが今や世界最大の自動車購入国になっているようですから、世の中どうなるかわかりません。

川本さんはずいぶん若い頃に日本を離れてはや十数年ということですし、以前マロニエ君は拉致被害者で帰国された蓮池薫さんの書かれた文章を読んで、そのあまりの美しい日本語の素晴らしさに驚嘆したことがありますが、このように多感な時代を外国で暮らしてきた人のほうが、むしろ溌剌とした情感・情熱を失っていないような気がしていまいます。

現代の若者はもはや免許さえ取ろうという意欲もあまり無いし、取るにしても、それは車に乗りたいという願望からではなく、就職に必要な資格といった非常にさめた色合いです。当然ながら、巷には運転が猛烈にヘタな男の多いことは日々唖然とするばかりです。
こういう言い方をしちゃいけないかもしれませんが、昔はのろのろ運転をしたり、駐車場でもスパッと一発でとめられないのは決まって女性ドライバーで、その点では男の運転は実に達者でダイナミックでしたが、今はまったく状況が変わりました。もしかしたら女性のほうが上手いかもしれません。

アホみたいな運転をして周囲の流れから浮いていても、本人が気付きもしないのは大抵若い男性の運転で、この一点をみても世も末だという気がしています。
昔は、男で運転が下手ということは大変な不名誉で、もうそれだけで男じゃありませんでした。初デートでモタモタ運転でもしようものなら、いっぺんで女性から軽蔑されるような時代でしたし、運転の巧拙は、古い言葉で言うならセックスアピールにさえ繋がっていたように思います。

男も女も「らしさ」というものは、ヘンな意味ではなく色気があっていいと思うのですが。
女性が韓国の俳優に惹かれるのは、きっとそういう本能がどこか刺激されるからではないかと思います。

イケメンなんて言葉のない時代、日本の男子はもっと本質的にかっこよかったような気がします…。
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湿度計への不信

ある調律師のホームページでオススメだった温湿度計を購入して数ヶ月経ちますが、このところ古い湿度計との間に常に10%の違いがあって、どっちが正しいのかと迷っています。

古い方は同じものが二つあるのですが、共に同じ値を示し続けているのが、またなんとも不気味で、もしかして…これはこれで正しいんじゃないかという気もしています。

新しいほうはその調律師オススメのエンペックスというメーカー品だけあって、一定の信頼性は置いていたのですが、なにしろもの自体がたいそう軽くてピアノの上ですべりやすいために、実は弾いたときの微振動によって二度ほど床に落ちてしまった経緯があります。
我が家の床はじゅうたんなので、それほど深刻な衝撃ではなかったんじゃないかとも思いたいのですが、でもやっぱりそれで狂ったのでは?という疑いもあるにはあるわけです。

新しいほうがこのところ常に10%ほど低い値を示しており、それが本当なら50%ほどで数値としては理想的なのですが、ちかごろは季節変化によって冷房を入れない時間が増えてきているので、果たして信用していいものかどうか迷っているわけです。

体感的にはやや湿度がある感じがしないでもないものの、この値が本当に正しのならいいわけですが、これを確かめるには結局もう1台買ってくるしかないのかと迷っています。

でもねえ…ひとつの部屋に新旧4つもの湿度計を並べることを考えたら、さすがに自分のおバカ度も好い加減にしなくてはと躊躇してしまうのです。

まさか人に湿度計を一日貸してというのも変ですし、こんなことなら新しい湿度計の下に滑り止めのゴムでも貼り付けておけばよかったと思いますが、でも、そもそもそんなちょっとしたことは、なんでも親切設計の日本製品なんだったら初めからつけておいてくれてもよかったんじゃないかとも思います。

まあダンプチェイサーもつけていることでもあり、もう少し様子を見てもいいとは思いますが、なんとなくチラチラと気には掛かる今日この頃です。
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続々エアコン依存症

マロニエ君のような困った体質を持つ者にとっては、季節の変わり目というのは、その時期をなんとか無事に通過するだけでも普通の人以上に大変です。

このところは朝夕は肌寒ささえ感じるまでになってきましたが、それでも、つい数日前までは夏の名残のある一時的なものだったから、折々に冷房をいれるなどして不快感を凌いでいたのですが、一昨日所用があって天神に出た折には、中途半端な気温だったところへ、あまつさえ雨まで降り出しました。

通常、雨が降れば同時に温湿度は上昇するものですが、この日は湿度のみが上がり、気温のほうは上がらずに肌寒さが加わるという変則的なものとなり、それでついにマロニエ君の体になにか異変が起こったようでした。

用事を済ませ、それでも這いつくばるようにしてヤマハなどをちょっと覗いた後に帰宅しましたが、このときはずいぶんと不当に疲れたという印象がありました。

巷ではいま、風邪がとても流行っているということを耳にしますが、ついに自分も風邪をひいたかと思うほど疲れがおさまらず、何よりも大きな変化は、ついに体が寒いと感じはじめたことでした。
本当に寒いのか、発熱のための悪寒なのかは判然としないまま、薬をのんだり寝具をやや温かなものへ変更したりと、マロニエ君が騒ぎ出すと家人も大慌てです。
この半年近く、冷房これ一筋で過ごしてきたマロニエ君の口から、ついに「寒い」という言葉を聞くのは、家人もささやかな驚きに値することらしいです。

これはなんとなく自分でわかるのですが、体内の夏冬の切り替えが一昨日を境にして、ついにガッチャンと切り替わったような気がしました。それまで多少寒くても冷房だったものが、いったんこれが切り替わると今度は一転して、ちょっと肌寒くても暖房を入れたくなる、ここがまさにエアコン依存症のタチの悪さといったところです。

自室でもそれは続き、前日まで冷房を入れるたびにフゥ〜と生き返るような気分を味わっていたものが、翌日には一転してあたりが妙に寒々しく感じられて不安になり、つい暖房を入れたくなってそわそわしてくるのです。
さすがにそれはマズかろうと一日は我慢しましたが、こんな一時しのぎはそういつまでも続くはずもなく、マロニエ君の部屋に暖房が入るのもそう先のことではないはずで、困ったもんだ…という感じです。

マロニエ君のような体調の持ち主も困りものですが、親しい医者にいわせると、もっと危ないのは倹約が体に染み込んだ高齢者なんだそうで、やみくもに電気代のかかるのを嫌がって夏はエアコンを極力使わず、自宅にいてさえ熱中症になったり、冬は暖房をケチったがために心臓や血管にストレスがかかって体調を崩す、悪くすれば入院、最悪の場合落命なんてこともあるそうで、これは専らメンタル面の働きのなせる技のよです。

こういう人達は冷暖房によって自分の体の健康を守って維持するという観念がまったくなく、自然が一番などと心底信じ切っているから、いわば無意識のうちに我が身を苛み犠牲にしてまで倹約に勤しんでいるわけで、まあそれに較べたら、エアコン依存症のほうがいくらかまだマシかぐらいに思っています。

とはいっても、マロニエ君のエアコン依存症もきっとメンタル面からくる欲求が大きいわけで、べつに健康のためでもなければ、長生きをしようとしてやっていることではありませんけれども。
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ANAの背面飛行

パイロットの操作ミスで、沖縄から東京に向かっていたANAのボーイング737が浜松付近でほとんど背面飛行に及んでいたことがわかり、このところの報道メディアはしきりにこれを取り上げていました。

この事故は、飛行中トイレに立った機長が戻ってきたときに、副操縦士が操縦室ドアのロックボタンを解除する操作をしたとき、誤って機首を左右に動かすつまみを2回(たぶんドアが開かないからもう1回となったのでは?)操作し、それにより機首が急激に左を向いて同時に下向きになり、機体は自らの重量を支えられずに、ほぼ裏返しになりながら1900メートルも急降下したというものです。

最近の飛行機はテロやハイジャック防止のために操縦室のドアがいちいちロックされる仕組みになっているとかで、中からロックを解除しないと開かないようになっているんだそうです。

機体がほぼ裏返しで急降下したというのは、ごく最近フライトレコーダーの記録解析に基づいてANAが発表したものでしたが、この事故が起こったときにマロニエ君は友人らと話していたことは、「操縦室のドアロックを解除する」と「機体の方向を変える」という、まったく次元も性質も異なる内容の操作を、訓練を受けたパイロットが間違えるなんてことがあるのだろうか、という点で大いに疑問でした。

飛行機の操縦室のことは知りませんが、常識的にいうと、操作ボタンなどはその機能によっておおよその位置が分類され、人間の感覚を必要以上混乱させないような配慮がされているはずで、とりわけ多くの人命を預かる乗り物などにおいて、それは工学設計の半ば常識だと思ったからです。

ところが、ほどなく新聞紙上に問題のスイッチ周辺の写真が掲載され、間違えた二つのつまみに2つの赤いマルがつけられていましたが、それは大きさがやや異なるものの、驚いたことにいかにも似たような色と形状で、しかもその二つはごく近い(写真で見た印象では10センチ以内ぐらい)だったので、これを間違えるのはなるほどあり得る話だと思いました。

もちろん詳しい状況はわかりませんから、何かを断定することはできませんが、写真を見た限りでは機体の設計のほうに問題があるようにも思われ、ミスをおかした副操縦士が少々気の毒にも思えてきたのでした。
マロニエ君がパイロットならそれこそ2回に1回は間違えそうです。

ところがワイドショーなどでは、この問題で元パイロットまでスタジオに呼んできて、えらく深刻な様子で、とくに司会者やタレントのコメンテーターはつまみを間違えた操縦士を非難しまくっていました。
最近は本来必要と思われる自分の考えとか社会に対する批判などはろくにできないクセに、ひとたび人命などという建前がつくと、一気に語調を強め、総攻撃となるのは見ていて違和感を覚えます。

しまいには、ある若いタレントが、「パイロットはお客さんの命を預かっているという自覚がないのではないか」「たかだか3時間のフライトでトイレに行くなんて、たるんでいるからだ」「自分達でも仕事の時はトイレに行けないことがなる」などと、まるで人間の生理現象まで否定するような言い方をしたのは驚きでした。

もちろんパイロットには最上級の慎重さをもって操縦にあたってもらわなくちゃ困りますが、だからといって生身の人間ですからトイレぐらい行くのは当たり前でしょう。
わざとらしいコメントもほどほどにして欲しいものです。
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続エアコン依存症

エアコン依存症のくるま編。

人の車に乗せてもらうのはありがたいことなんですが、マロニエ君の場合、自分の車でないときは、車内環境に関して、ちと心配があるというのが正直なところ。
とくに感じるのはエアコンの調整が自分とは違うと感じることが多々あり、しかも、まさかこちらが手を出すわけにもいきません。

マロニエ君はエアコンは文字通りエア・コンディショニングとして使いたいし、そこには一時しのぎではない快適な状態を「持続させる」という意味合いもあると自分なりに思っています。

でも、多くの場合、人の車に乗せてもらって感じるのは暑いか寒いかのどちらかで、あとは思いついたように温度を上げたり下げたりする場合が多く、適温を維持するという認識が意外に少なく感じるのは不思議です。
家のエアコンでそうする癖がついているのか、エアコンを必要最小限に絞っている人が少なくないし、かろうじて汗が出ないギリギリぐらいにしている人がいますが、なんで?と思ってしまいます。

特に車は、それで電気代がかかるわけじゃなし、だいいち車内は狭くて揺れ動く環境だから、人が存在する空間としては心地よさへの配慮が普通以上に求められる空間と思うわけです。マロニエ君の個人的な感覚からすると、普通より、より静かで涼しくすることで乗員を清新な気分に保つことが大切で、例えば涼しいより暑苦しいほうが車酔いなども誘発しやすくなるし、疲れもたまりやすいと考えられます。

ところが、結構ネチョッと汗が出そうなぐらいの温度設定にしている人って多いんですね。
マロニエ君にしてみれば、「よくこんな温度でなんともないもんだ…」と感じてしまいます。

それどころか、ちょっと涼しくなると窓を開けて走ったりする人がいますが、マロニエ君にすればこんなのは言語道断。だいいち窓を開けて走るなど車内もほこりで薄汚れるし、自分なら絶対にしませんが、路上でも前後左右の窓全開で走っている車をときどき見かけて呆れてしまいます。

どこへでも極力自分の車で行くのが好きなのは、ひとつにはこのエアコンその他の点で自分の自由が利くからというのがあります。さらには人を乗せておいてラジオや音楽のボリュームを落とさないでぜんぜんへっちゃらな人がいますが、あれなんてどういう心境なのかと思います。

マロニエ君ならそれがどんなに素晴らしい音楽でも、好きな曲でも、人を乗せているときは、その人との会話がメインなわけで、音楽は消すか、ごくごく小さくして会話の妨げにならないようにしますし、そもそも車の中のような狭い空間では、音も苦痛と不快の原因となるので控えるのが心配りだと思うんですけどね。

よく電話中でも、来客中でも、食事中でも、テレビは漫然とつけっぱなしという人がいますが、おそらくあの感覚なんでしょう。

エアコンに関してだけでなく、何事も日本人はチビチビと節約モードでやるのがしょせんは好きな民族なんだろうと思います。海外に行くと、例えばご近所で日本の影響が大きい言われる台湾などでも驚かされるのは、そのなんとも豪快な冷房の入れ方で、どこに入っても建物内は胸がすくほどビシッと冷えています。
当然ながらタクシーなども同様で、いささかもケチケチせず冷房ガンガンなのは、それだけで元気が出るようです。
そういえば日本も昔はこうだったなぁと、何事も元気だった昔がなつかしいほど、今はなにかにつけてガマンの時代のようです。
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エアコン依存症

アルコール依存症のように、人によって○○○依存症というのがいろいろとあるようですが、その点で言うならマロニエ君はさしずめエアコン依存症のような気がします。
「…気がします」ではなく、完全にそうだと断言すべきかもしれません。

エアコン(とく冷房)は必需品で、盛夏は言うに及ばず、前後の時期もどうしてもエアコンを使ってしまいます。

そんなエアコン依存症にとっては、とくに最近のように朝晩が涼しく、あるいは肌寒くなるときがクセもので、この時期、普通の人がエアコンを入れなくなる時期というのがマロニエ君にとっては、ある意味、真夏よりも辛かったりする時期となるのです。
なぜ自分が依存症だと思うかいうと、暑いのが嫌だというのを通り越して、エアコンを入れていない状態、機械の音が消えて妙にシンとなり、空気が動かない、あの状態というだけで不安になり、精神的に耐えがたく、実際に体調まで悪くなるからでしょうか。

ひとつには湿度の問題があり、エアコンは頼まなくても除湿してくれますから、室温が下がるだけでなく、このサラサラがまず快適なわけです。秋口などに世の中がしだいにエアコンを入れない状態になると、却ってネチョッと暑くなり、空気自体も湿度を含んで重い感じになり、それがもうダメなんですね。

この時期になると、よそのお宅などにも出来る限り行きたくないのは、まさか礼儀上も「あのう、エアコンを入れてもらえませんか」なとどは言い出せないからです。
とくに涼しくなるとエアコンを早々にOFFにして、それを疑いもなく当然のような顔をしている人を見ていると、もうそれだけで違和感を覚えて気が滅入ってしまいます。

たしかに今の季節、あまり冷房を入れすぎるとヘタをすると風邪をひく危険性も高まりますが、そんなことは問題ではなく、鼻水をすすり頭痛がしても、まだまだ冷房を使わざるを得ないので、自宅では現在でも常につけたり消したりの繰り返しをやっています。
さすがにここまでくれば体も鍛えられたのか、少々のことではこたえないようになりました。

考えてみるとマロニエ君のまわりにはエアコン中毒が昔から多く、親しくしていた親戚とか叔父夫妻なども冷房病は重症の口で、何ヶ月もスイッチを入れっぱなしなんていうウソみたいな話もありました。
また寒いときはクーラーを切るのではなくコタツのスイッチを入れたりと不道徳なことをする者もいたりと、当時は現在のような節電の観念なども薄い時代で、驚くべき話ですね。

こういう周囲の環境も多少は影響があるとみえて、夜などもたった一晩でもエアコンがないと眠れませんし、ましてやキャンプだなんてとんでもない話です。
たしかにつけると寒い、でも消すとモワッとして不快感が増すので、それをエアコンの力で絶えず打ち消しているということだろうと思います。

普通は、春秋はときに窓を開けて「吹き寄せる穏やかな風が心地よい」などとさも風流ぶっていう人がいますが、マロニエ君はまっぴらゴメンで、ただのケチを正当化してるように見えるだけ。
また、世の中にはエアコンそのものが嫌いだと高らかに公言して憚らない人がいますが、そういう人とはたぶん一日たりとも一緒には過ごせないだろうと思います。

こういう人は、エアコンの使いすぎは健康に良くないとか、寒いからとか、なんだかんだと言い募りますが、多くの場合もとを辿れば倹約精神からきていると思います。正真正銘寒いのが苦手というのなら、その人達は冬こそはよほどぬくぬくにしているかといえば、だいたいさにあらず、暖房のほうもやはりちびちびしか使っていない場合が多いのをマロニエ君は見逃しません。

ともかくマロニエ君にとっては、エアコン(冷房)は命綱にも等しく、体も完全にそれを前提とした体質になっており、もはやこれがなくなればたぶん生きては行けないだろうと自分で思います。
そのかわり冬の暖房は最低限で構いませんから、自分なりに筋が通っているつもりです(笑)。
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主役は機械

連休中、家人が食事の支度ができず外食することになりましたが、思いつく店はどこも気が進まず、けっきょくはやりの回転寿司店に行きました。

何事でも、マロニエ君は行列とか順番待ちみたいなことが苦手なことは折に触れ書いてきた通りで、それを避けるため夜の8時過ぎに家を出てお店へ向かいましたが、それでも連休ということもあってか、まだ順番待ち状態なのには驚きました。さてどうしたものかと思いましたが、他に行くアテもないので今回は腹を括って待つことになりました。

この店には入口脇に順番待ちのための広いエリアがあり、そこの長イスには子供連れなどがズラリと並んでいます。
そこで目についたのは、いまさら珍しい光景ではないものの、実に多くの人が携帯(とくにスマートフォンが目立つ)とのにらめっこ状態で、普通に話などをしている人は全体からすれば少ないようで、生きた人間よりも携帯の方が親しい間柄のように見えました。
あとからやって来る人も同様で、親子連れやカップルですが、腰を下ろすとサアとばかりに携帯を取り出し、それぞれが黙してなにやらせっせと画面操作などをやっています。

携帯電話→メール→スマートフォンと進歩するにつれ、人と人とのまともな会話とか人同士の生な関係というのは確実に少なくなってしまったという事実をまさに眺めるようでした。
いまや自転車をこぎながらでもメールをやりとりする時代ですから、家にいるときも、その他の時間もおおよそ似たような状況だろうと思われます。

マロニエ君の目には、あの携帯端末を操作しているときの人の姿というのは、まったく美しくない姿として映ってしまいます。同じ人でも、そんなものは手にせず、まわりの人達と普通におしゃべりしているときのほうが、どれだけ眺めがいいだろうかと思います。

しばらくして、まるで銀行か郵便局同様に順番がきたことを番号でアナウンスされ、その折に伝票とおしぼりをセットでパッと手渡されて、向かうべきテーブルの番号と方角が伝えられます。そこへ座ってあとはひたすら注文画面との格闘になりますから、以降食べ終わるまで、店員との接触さえ断ち切られることになります。
注文するのも項目別に分類された画面をあれこれと繰り出しては、種類、数、確定まですべて指操作によって成し遂げなくてはならず、これがまた、手が上げっぱなしになって肩から腕がひきつって、ピアノを弾くよりよほど疲れます。

お茶や醤油などの準備がセルフなのはもちろんのこと、リニアモーターカーのおもちゃみたいな機械が自動的に注文品を運んでくるので、それっとばかりにお皿を下ろして、忘れないように車輌を送り返すボタンを押して…と集中力をもって一連の動作をせっせとやっていると、なにやら食べることまで「食べる作業」のような感じになるんですね。

ここですべての中心になっているものは何をおいても「システム」であって、そのシステムに対応できない人は回転寿司さえうかうか食べられない忙しさです。
入店時の順番待ち登録も、そこに置かれた機械の画面を操作して人数やテーブル/カウンターなどの区別も含めて自分で入力し、ぺろっと出てくる番号の紙を持って呼び出しを待たなくてはなりませんから、こういうことに馴れないことには、ただ平穏に食事をすることさえ困難だろうと思われます。

そう思ってみると、高齢者のお客さんというのはやはり少ないし、見かけても家族とおぼしき若い人と一緒で、高齢者の方だけでこういう店に来るというのはかなり厳しいだろうと推察しました。
こんなところにも、さりげなく社会の弱者が切り捨てられているという現実を見たようです。
しかし、値段は安いし、たしかに文句はいえないのですが。

人の手作業になるのは唯一会計の時だけで、ここまでやるならいっそ駐車場のゲートみたいなものを置いて、機械にお金を投入するようにしたら、よほどせいせいするんじゃないかと思いました。
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駅アレルギー

週末は知人と遠方へ出かけることになり、久しぶりに山陽新幹線(博多以北は山陽新幹線)に乗りました。
今年の春、九州新幹線に乗ったときは、その乗り味があまりよくなかったことを当時のブログに書いた覚えがあります。車内は安っぽい振動と騒音に浸されて、まるでスピードの速いちょっと高性能な電車という趣で、降りたときはホッとしたことをまだ覚えています。

ところが今回乗った山陽新幹線(のぞみ)は車輌が何系なんてことは知りませんが、一転してずいぶん快適で、マロニエ君が以前からイメージしているあの新幹線のフィールでした。すべるように疾走して、なんだか別世界へ駆け抜けて行くような感触は、ふたたび新幹線へのイメージを取り戻した感があります。
この点で本当に素晴らしいと記憶しているのは、むかしの、つまり初期の0系とかいう新幹線から少し発展したタイプだったように思います。まるで油の上を流れるようで、しかも乗り味には懐の深さがあって、当時の技術の粋を集めた最高級の乗り物に乗っているという満足がありました。

今回は帰りも同じくのぞみでしたが、やはりすこぶる快適で疲れもなく、こういう乗り味が現在も残っていること自体に嬉しいような安心したような気分でした。
それというのも、最近はなんでも合理化だのコストダウンだので物の質が低下する一方なので、本当に残念に思っているところです。飛行機も然りで、マロニエ君の乗ったすべての旅客機の中で最高の乗り味を示したのがボーイング747-400で、頼もしく安定性抜群、やわらかで、騒音も音量も抑えられ、高周波の音も少なく、申し分のない機体でした。
これで何度東京往復したかしれませんが、その後最新鋭の777が登場したときには乗り味の質があきらかに低下したのにはひどくがっかりしたものです。わけても日本航空は747-400の世界最大級の保有数を誇るエアラインであったにもかかわらず、経営が事実上破綻し、その合理化の波をまっ先に受けて、すでに全機が売却されてしまったのは言葉もありません。

新幹線に戻りますが、博多駅を基点に北に向かうのと南に向かうのとでは、なぜこれほど快適感が違うのかというのが疑問です。まさかレールの品質なんてことはないでしょうから、やっぱり使用される車輌の問題だろうと考えないわけにはいきませんが、とにかくのぞみの乗り心地にはいたく満足でした。

それはそうと、マロニエ君は昔から駅というのが苦手で、とくに人の波がうねっているような大きな駅は列車の乗り降りで利用するだけでも圧迫感があって気が滅入ってしまいます。
むかしカラヤンが「自分は駅こそ嫌悪する場所だ。なぜなら人の悪意を感じる場所だから。」と発言している文章を読んで、大いに膝を打ったことがありました。
人の悪意というのは極端としても、少なくとも生きて行くことの厳しさ、他人の冷淡さをことさら感じる場所のひとつが駅であるという印象をマロニエ君は昔から持っています。

夜、博多に戻ってきたときに、ついでに食事をしましょうということになり、それは大いに賛同したのですが、新しくできた駅ターミナルの上にあるレストラン街はどうかと言われたときは、さすがに申し訳ないと思ったのですが、できれば駅以外のところがいいと希望して、車でまったく別の場所に移動しました。

わがままを言って申し訳ないとは思いましたが、あれで駅の人並みをかきわけかきわけレストラン街まで到達し、そこでまた行列(これが多い!)などさせられようものなら、ぐでんぐでんに疲れただろうと思いますので、だったらうどんでもハンバーガーでも何でもいいから別のところに行きたいわけです。
マロニエ君の場合困るのは、苦手なものは冗談ではすまされないほど徹底して苦手で、こういうことで本当に体調まで悪くなるという深刻な体質を持っていることで、さすがに自分でも情けない。

とりわけ駅というのが精神的に合わないらしく、空港のほうがよほどまだ許せます。
こういうことを書くと、じゃあ空気のきれいな田舎が好きですか?などと言われそうですが、さにあらずで、田舎や田舎暮らしなどこれがまた超苦手で、ようするに街中に暮らして車でばかり移動するようなパターンでしか生息できないみたいです。とほほ。
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本を開けると痒い

アマゾンで嬉しいことは、廃刊になっている本が古書として買えるチャンスがでてきたことです。
これをいちいち古本屋回りで探すなんてほとんど不可能ですから、これはしめたとばかりにときどき利用しているのですが、強いていうならちょっとだけ引っかかるのは自分の目で確認できない中古品だということでしょうか。

マロニエ君は性格的に中古品というのがあまり得意ではなく、だからリサイクルショップなどに行くと、あの独特な重ったるい臭いだけですっかり気が滅入ってしまいます。
べつに新品じゃなきゃイヤだというようなこだわりがあるわけではないつもりですが、誰が使ったかもわからない品々を前にすると、顔の見えない生活臭を感じて少なくとも明るい気持ちにはなれないのです。
それだけ物には使い手のなにかがこもっているのかもしれませんが。

本の場合は、小学生の頃から図書館というものにも親しんできたし、新書ばかりにこだわっていたら欲しいものが永久に手に入らなかったりするので、そこは自分なりに少し割り切りが出来ています。
それに、本は子供のころから伯父伯母から古い本をもらったりすることもあったし、父の汚い蔵書にも馴らされていたせいか、比較的抵抗はないほうだと思います。
アマゾンは中古といっても、ほとんど新品では?と思うようなものが届いたことも何度かあり、そんなときはすっかり得をしたような気分です。

なによりも書店では絶対に買えない本が、こうして再び手に入る可能性が開けたというのはとても貴重なことなので、喜びのほうが先行してしまうらしく、中古品であることはほとんど気にしません。
でも、それがもし自分にとって何の価値もない本だったら、そうそう好意的には受け止められないだろうと思われますから、これは専ら自分の都合と気持ちの身勝手な絡み合いだと思います。

ただ、そういう気持ちの問題とは別にちょっと困ることがあるのも事実です。
先日もずいぶん古い本をアマゾンで探し出して購入したのですが、送られてきた包みを開けたときは、とりあえず本の状態などを確認すべく表裏や中のページなどをパラパラと確認するのがいつもの習慣です。

ところが古い本は、それをやっていると両方の手首から先ぐらいが妙に痒くなってくる場合があるのです。
もしかしたら、ここに書くのも恐ろしいようなものが長い年月の間に付着しているんでしょうか。

比較的新しい本の場合は古書でもそういうことはまずないのですが、先日は数十年前の絶版書だったために、油断して自室で開いてパラパラやっていると手がチクチクしてきたので、すぐに中断し、本は廊下に出してすぐに手を洗うととりあえず治りました。

こういう場合は、お天気の良い日に虫干しをするとすっかり良くなりますが、そういうときに限って何日も曇天だったりしてヤキモキさせられます。
マロニエ君の場合、本は寝て読むので、就寝中も本はいつも枕の脇に置いているのですが、こういう本で処理が悪いと、本からシーツへと何かがぞろぞろと移動することもあるのかと思うと、ウエエ、それだけは耐えられません。

アマゾンに出品している店舗情報によると、商品は除菌してから梱包して送る旨書いてありますが、それはちょっとあてにはならないようです。
本を殺菌する電子レンジみたいなものがあればいいんですが…。
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砂の器の疑問

先週の土日、テレビ朝日で二日間にわたって松本清張原作のドラマ『砂の器』が放映され、とろあえず録画していたものを数日間かけてぼちぼち見てみました。なかなか面白く見終えることができました。

『砂の器』は以前も連読ドラマがいくつかあったし、最も有名なのは加藤剛主演の映画版でしょう。

そのときも今回も、同様に大いに疑問に感じたことがあります。
和賀英良という名の犯人となる人物は、小さい頃の不幸な出来事からやむを得ず生まれ故郷を去り、父親と二人でお遍路の旅に出て各地を彷徨うという苦難の少年時代を過ごします。ときに食うもの寝る場所にも困るほどの苛酷な旅で、さらにこの少年は旅の途中で世話になった親切な巡査の家まで逃げ出して、いらい行方知れずとなり、以降の少年期・青年期をたった一人でどのように生きてきたかもわからないという設定です。

戦後の混乱期に乗じて、自分の過去を隠すため戸籍まで他人になりすますなど、この男が絶望の淵で逞しく生きてきたというところまではわかります。しかしその男が、一転して今では世間を賑わす天才作曲家兼ピアニスト(もしくは指揮者)として華々しい活躍をしているというのは、どうにも首を捻ってしまいます。

音楽の世界ぐらい幼児教育がものをいう世界もないと思いますが、この少年は、これほどの筆舌に尽くしがたい放浪の年月を過ごしながら、はて、いつの間に音楽の勉強、ましてやピアノの練習などをしたのかと思ってしまいます。
父親と離ればなれになってのち、この少年がどのようにして音楽と出会ったのか、恩師のこと、ましてや音大に行ったなどと説明する場面もセリフも、映画にもドラマにも一切ありません。

もちろんこれはフィクションなのだから、そんなことを言うのは無粋者だと言われるかもしれませんが、いくらフィクションでも、多少の状況的な説得力というのは必要であって、この点の設定の曖昧さ不自然さは、見ていてずっと気に掛かるし、そのせいでこの作品が大きな弱点をもっているように思えてしまいます。

今回のドラマでは売れっ子の作曲家兼指揮者に扮し、大きなホールで自作の曲を発表するコンサートが華やかにおこなわれ、オーケストラを熱っぽく指揮して喝采を浴びるシーンがありましたし、昔の映画では最後のクライマックスがやはり自作のピアノコンチェルトを演奏中、舞台の袖で刑事達が取り囲むということで、いずれも時代の寵児ともてはやされる天才音楽家という設定です。
まるで「天才」といえば、勉強も修行もしないで、パッと魔法のように作曲でもピアノ演奏でもできるといった趣です。

松本清張はよほど音楽に疎かったのか、世に立つ音楽家は例外なく幼少時から厳しい研鑽を積み重ねることが不可避であることを、もしかしたら知らなかったのかもしれません。
ことに天才ともなれば、言語よりも先に音楽の才能をあらわすことも珍しくはなく、周囲もその天才を正しく開花させるべく最善の教育を与えながら成長していくものですが、この和賀英良は音楽とはなんの関わりもない北陸の山間の村に生まれて、貧しく厳しい放浪の半生を送るというのですから、いくらなんでもちょっと無理があるのでは?という気がするわけです。

さて、今回のドラマでは、大詰めの場面で、和賀がピアノを弾きながら作曲中とおぼしきシーンがありましたが、そこには2度ほど古いブリュートナーが出てきたのは意外でした。
いかにも年季の入った艶消しのボディと、現在のものとは違って大きく流れるような筆記体のロゴは、おそらくは戦前のものだと思われますが、こんなドラマにこんな珍しいピアノが出てきたのはどういうわけかと思いました。
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双方の意思

趣味の集まりというのは楽しいけれども、玄関のドアの開閉には気をつけないと、ひじょうに複雑かつ微妙な人間関係が枝を伸ばしてくることは避けられない問題のようです。
あまり原則的なことをくだくだしく言っても始まりませんが、要するに人には理屈じゃない相性とか好き嫌いがあり、本当のことを言えば人品骨柄もいろいろだとは思います。

よろず趣味のクラブというのはどれも基本は遊びです。
生きるための手段である勤労の場においては、身を粉にして、我慢して、あまたのストレスにどっぷり浸かりながら、息も絶え絶えに頑張らなくちゃいけませんが、趣味までその延長線上におかれるのではなんのための楽しみだかわかりません。

だからこそ、せめて趣味や道楽の場にあっては、その点の慎重さは何より大切だと思われます。
世の中の、大半の趣味のクラブやサークルがそうだと思われますが、新メンバーの入会に際しては、事実上、入会する側の一方的な意志による場合が多く、クラブ側が入会者を選ぶということはめったにありません。
マロニエ君はこれが根本的な間違いだと最近強く思います。

クラブというものの発祥は英国とも聞いたような覚えがありますが、そもそも英国が貴族社会であったこともあるでしょうが、そこに根付いたあれこれのクラブは誰でも希望すれば入会できるというものではなかったようです。
紹介者を必要とし、様々な審査があり、充分な期間を経た上でようやく会員と認められます。
その判断については、要するに自分達の仲間としてやっていける相手であるという点が認められなくてはなりません。

何ゆえ誰でもどうぞではダメかといえば、それはクラブの「楽しさの質」を維持するためだと思われます。
「たかだか趣味」と言いますが、趣味こそは人間の心の滋養の場ですから、人との交流・友誼こそは最優先事項であって、そこへ空気を乱すような人物があらわれると、たちまちその雰囲気は崩れてしまいます。
すぐに目に見えて結果が出ないにしても、のちのちこれが元となり均衡や調和が損なわれるのは必然です。とくに現在のようなネット社会ではどんな人物が現れるか、その点は全く未知数です。

現代は、やれ個人情報だセキュリティーだと表向きはわかったようなことを言いますが、このようなクラブの入会に関しては事実上まったくの野放し状態で、ここに一種のチェックが機能しなくては、既に会員であるメンバーの居心地や楽しみまでもが侵害されることになると思います。

もちろんせっかくの入会希望者をむげに断ることはできないし、人のご縁というものは大切に取り扱わなくてはいけませんが、あまりにイージーな入会の許諾はしないほうが賢明です。いったん入会してしまうと、特段の事情や落ち度でもない限り、そう易々とは退会させるわけにはいかなくなりますし。
なんらかのお試し期間的なものが存在し、入会者がクラブを選ぶように、クラブも入会者を選ぶ、これが本来当然の姿ではないかと思います。
結婚と同じで、これは「双方の意志」によるものでなければならないでしょう。

時代が違うのですから、「来る者は拒まず」「お好きな方はどなたでも」などと寛容ぶって禅坊主のようなことを言っていたら、厳しい現実の前にとんだしっぺ返しをくらうことにもなりかねません。
人の集団というのは、なんらかの異物や邪心の持ち主を抱え込むと、とりかえしのつかないことになるのです。
そういう意味では、リーダーは昔以上にリーダーたる者の目配りの利く才覚が求められていると思います。

たとえ遊びでも、人を相手にするということは難しいものだと思います。
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10分で終わります!

過日、久しぶりに友人の夫婦と会って夕食やお茶などしましたが、おかしな話を聞きました。

外が暗くなったころ、我が家に迎えに来てくれたのですが、当初の予定よりもずいぶん遅れてしまい、それは別にかまわないのですがそれなりの理由があったようです。

その日の午後は二人で博多駅へお出かけだったそうで、奥さんのほうは駅内のある教室に通っているらしく、その間は別行動を取ったのだとか。なんでも奥さんの行く教室では、ちょうどその日で一区切りついて、以降はあらたに契約をするという状況を迎えたそうでした。

そのためには一定の手続きが必要となるのだそうですが、教室の営業のおねえさんとしてはぜひともその日のうちに契約を完了したかったようで、それを強く勧めてくるそうです。
奥さんとしてはダンナさんと駅内で待ち合わせをしているので、時間的な面で躊躇していると、そのおねえさん曰く、手続きは「10分で終わりますので!」と熱心に言ってくるそうで、じゃあ…ということになったそうです。

ところが、10分と思って手続きを開始すると、これがなかなか終わらない。
今どき故か、その更新手続きはiPadもしくはiPad的なもので行うらしいのですが、この操作に思いのほかてこずってしまったのだとか。
その間にもダンナさんとは電話でやり取りを交わして、どこだか場所は知りませんがお待たせ時間をズルズル延長していたようです。

そうこうするうちに時間ばかりが経過して、倍の20分となり、電話の向こうのダンナは、人を待らせているんだから早くするように相手に伝えるよう促し、奥さんもそれに従ったようですが、それでも手続きはようとして進まず、とうとう約束の3倍である30分をもオーバーしてしまったそうなのです。

それでついにマロニエ君の友人であるダンナは、頭に来て自らその教室に乗り込んできたらしいのです。
そして更新手続きをする女性に抗議したということでしたが、奥さんによるとそれが周囲でちょっと目立っていたというのです。はじめはマロニエ君も奥さんに同情していましたが、話の全容が見えてくるうちに、そりゃあ仕方ないなぁと思うようになりました。

マロニエ君の想像も入りますが、今どきの営業サイドにすれば「また今度」なんて悠長なことをいってると、相手はその気がなくなってしまうか、別の教室に通うようになるか、要はお客を取り逃がす可能性があるわけで、そんなものはアテにならないというわけでしょう。

要はお客さんの気が変わらないうちに、いま、その場で、間髪入れず更新手続きをさせるよう、日頃から教育されているのだろうと思われます。そのためには無理だとわかっていても「10分で終わります!」と言って、とにかく手続きに着手させることが肝心だと考えたのではないでしょうか?

結局、その時間的しわ寄せがその後の別の場所での予定にも響いてしまい、おまけに夕方の渋滞なども重なって、我が家に到達したときには予定より1時間を遙かに超えるほど遅くなっていました。
ずいぶんお疲れの様子でしたが、食後の話によると、奥さんは状況は自分もわかるけど、いささかダンナが怒り過ぎのようなことを言い始めたのです。するとダンナはサッと顔色が変わり、とても承服できないといった表情というか様子になりました。

それでも彼はいったんは話を止めようとしましたが、それに素直に従うようなヤワなマロニエ君ではありません。
なにがなんでも泥を吐けとばかりに猛然と追求しまくった結果、ダンナがしぶしぶ言い始めたことによると、逆に奥さんを待たせたときの奥さんの怒りようときたら、とうてい自分なんぞ足元にも及ばない激しいものだそうで、しかも自分は今日は、奥さんに文句を言ったのではなく、あくまで10分で終わると無責任な発言をした営業の女性に言ったのだということで、これはなるほど尤もなことだと大いに納得し、大いに笑いました。

話は両方から最後まで聞いてみるもんです。
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シロウト内閣

マロニエ君にとって音楽はなによりも大切なものであり、それだけに理想主義的になり、演奏の質などにもある一定のレベルを求めてしまうところがあるのは否定できません。
無邪気な趣味は別とは思っていますが、シロウト芸というものはどうしても善意で捉えられることが多いものの、実際にはそれほどかわいいものばかりではなく、ときにシロウトの作り出すものは不愉快でグロテスクであったりするのが現実です。

そのシロウト芸が最も人々に害悪を及ぼす最悪の場所は永田町で、ここで行われるのは天下の政(まつりごと)ですから、音楽どころの話ではありません。

こんなブログに政治的なことを書くつもりは基本的にありませんし、そもそも書くだけの知識も見識もないのですが、それでも一人の国民あるいは有権者・納税者としてあえて言わせていただくなら、今度の組閣は一体なんだ!?と思いました。

菅さんの場合は、あの異様なしがみつきが終わるのを待ちわびて、ともかくも日本のために一日も早く辞めていただくことだけを切望していましたが、念願かなってやっと新しい代表が選ばれたかと思ったら、またも新たな失望のスタートです。
代表選で小沢氏が差し向けた海江田氏が落選したところまでは当然としても、野田新内閣のスタートを見て、思わず我が日本はいよいよ終わりじゃないかと思いました。

当選早々に「ノーサイドにしましょう」などと言ったかと思うと、党の要職にまた小沢氏の存在に気を遣いまくったような人物を配置するなど、またも同じことの繰り返しが再出発したという印象。
とくに幹事長という党の金庫番と選挙の後任権をあちらに持って行かれちゃお終いでしょう。
党内融和・挙党体制などと言いつつ、誰からも嫌われまいと論功行賞のオンパレード。

とりわけ昨日発表された組閣では財務や外務のような最重要クラスの大臣ポストに、まるで経験のない、そのへんの兄ちゃんみたいな人を任命するなど、開いた口が塞がりません。

だいたい党員の資格さえ停止処分されて、強制起訴されているような人物ひとりに、なぜそこまで気を遣ってゴマすりみたいなことしなくちゃいけないのかと思うと腹立ちさえ覚えます。
震災復興のみならず、落ち込む経済、ますます厳しさを増してしたたかさが求められる外交に対して、あんな顔ぶれでこの難局に対処できるなどと思っている人は誰もいないでしょう。

ああ、またも外国からナメられ、足元を見透かされたような屈辱的な状況がこれからも延々続くかと思うと、情けなくてどうしようもありません。

そもそも「どじょうのような男」とか「泥臭く」などと自ら言ってのけるセンスからしてなんとかしてほしいところ。
普通の人がどじょうでも泥臭くても構いませんが、日本のリーダーたる総理の特色が「泥臭い、どじょう」なんぞマロニエ君はまっぴらです。
泥臭いということを、それだけ真面目で不器用で誠実だというイメージに結びつけたいのでしょうが、あの眼差しでそれを言われると聞くたびに背筋がブルンとなってしまいます。
これで、なにもめざましいことができないまま、後に残ったのは増税だけとなるようではやりきれません。

世界的に見ても日本はなんでもレベルが高いと言われますが、何故こうも政治家のレベルが絶望的に低いのか、これはまったく日本人でありながら理解に苦しみます。
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中国高速鉄道

中国の高速鉄道の事故は記憶に新しいところですが、中国ほど何事においても「世界一」の称号を好む国柄はないのだそうです。

この中国版新幹線も、共産党立党90周年に合わせて、過去に類を見ないような猛烈な突貫工事によって、遮二無二開業が急がれたことは今や広く知られるところですが、つい最近も車輌から煙が出て緊急停止だの、中国開発の車輌は故障が相次ぐためにすべてが回収されるなど、ここ当分は問題は尽きないようです。
しかし、高速鉄道に関しては報道規制がかかっているらしいので、ニュースとしては聞こえてこないかもしれませんが。

たまたま書店で立ち読みをしていると、ある月刊誌の新号に、日本人ジャーナリストで中国の高速鉄道全線に乗車した!という強者がいて、いろいろとおもしろいことを書いていました。
中国版新幹線の特徴としては、あの広い大陸故に、日本と違うのはいわゆるカーブがほとんどなく、大半が直線を超高速でひた走るのだそうです。区間によっては時速300キロを超える瞬間もあるとかで、東京ー熊本よりも長い北京ー上海間を実に4時間台で切る速さで駆け抜けるのだとか。

安全面はさておいても、乗り心地は大変快適で上々であることが書かれていましたが、これはマロニエ君も高速鉄道ではありませんが、中国で鉄道を利用した際になんとなく感じた点でした。鉄道にはさっぱり疎いマロニエ君ですが、ずいぶん大きな車輌のように感じていたところ、後日この点に詳しい友人の話によると、中国の鉄道は軌道の幅自体が日本のものより広いのだそうで、自然車輌のサイズもより大型であるという話でした。
道理で、なにやら悠然としたその乗り心地はともかく快適で、動きもどこか鷹揚な感じを受ける気持ちの良いものだったことは印象に残っています。

さて、技術的・専門的なことはさておいても、利用者から見ると甚だ奇異に映る点があるのだそうで、あまりに計画・開業を急ぎすぎたためか、大半の駅が新駅となり、それがまた悉くひどく不便なところにあるのだそうです。
そしてそのアクセスに関する情報がほとんどないため、わかりにくいバスを乗り継いだり、街中から1時間もタクシーをすっ飛ばしてようやく駅へ辿り着くといったことが珍しくないといいます。
さらには切符を買うための職員がひどくつっけんどんで不親切であったり、セキュリティーの通過だけに20分を要したりと、総合的な利便性と迅速性という観点でも、まだまだすいぶんと問題が残されているようです。

それでいて、座席の等級によっては飛行機よりも高額で、およそ中国の一般人が気軽に利用するための交通手段からはほど遠い一握りの富裕層のものでしかないというのは、あいもかわらず変な話です。

とりわけあの事故いらい、最大の利用が想定されていた北京ー上海間は、実際には2ー3割しか乗客が乗っておらず、ずいぶん計画も狂ってしまっているのだとか。

中国はいまだに賄賂社会であることはつとに有名ですが、今年逮捕された鉄道省のトップには、なんと18人!もの愛人がいたり、その部下達もアメリカに豪邸を買い漁るなど、想像を絶する額の裏金が動いているとのことでした。
オリンピックや万博然りで、中国では大事業をやるには、実際にかかるコスト顔負けの賄賂が必要だそうで、これではなかなか確かな安全システムなどは構築できない気がします。

上海では空港からリニアモーターカーが走っていますが、これもなるほど中国の好きな地上を走る「世界一」の速さですけれども、その駅は街の中心部からずいぶん距離のあるところで、実際に不便に感じたことを思い出しました。
これに乗れば、そこから30キロほどの空港までわずか7分余で到着しますが、その駅へ行くには、重いスーツケースを引きずりながら混雑まみれの地下鉄に乗るか、タクシーではやはり1時間近くを要しますし、タクシーの運ちゃんもろく場所を知らなかったりします。

そのリニアモーターカーも今また乗るか?ときかれたら…やっぱりこわいですね。
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雨天順延

全国的にも大雨が頻発して列島いたるところが荒れ模様のようですが、福岡でもなかなか天候が定まりません。
先日など市内で竜巻まで発生して被害が出たというニュースには驚きました。

梅雨のようなしとしと雨ではなく、降り出すとかなりな勢いでの猛烈な雨であることが特徴です。
それが少しも一定せず、収まったかと思うと、またものすごい雨音に包まれます。

やっと晴れ間が出たかと思えば、午後は一転してにわか雨になったりと、とにかく天候そのものが迷走気味でころころ変わる日々が長らく続いています。

今年のちょうど梅雨明けぐらいの時期に、除草剤を撒き散らして雑草を根絶やしにしていた我が家では、これが功を奏して今年の夏の草戦争は見事に休戦となりました。
それに連なってか、蚊の発生も例年よりはうんと少ないものでしたが、その点に関しては放射能の影響がつぶやかれているようでもありますから、実際どちらの影響なのかはわかりません。

さて、その除草剤散布の効果で、今年は雑草のまるでない庭を見るたびにヤッタヤッタと喜んでいたところでしたが、どうやら効力に期限も見えてきました。8月に入ったあたりから、新たな雑草が小さくポツポツと出てきたかと思うと、日に日にそれが成長し、今ではかなりの部分があてつけがましい緑で覆われはじめました。
緑色それ自体はなかなかきれいな色で、色彩的としては結構なのですが、しかしその正体があの憎らしい雑草の再襲来かと思うと、とてもじゃありませんが楽しんでなどいられません。

早いうちに再度除草剤を再投下したいと狙ってはいるものの、こうも天候が著しく不安定では、いつまで経っても実行できない状態が続いています。現に、よほど今日やってしまおうかと思いながらも躊躇したところ、夜には集中豪雨のようになったりすることが何度もあり、そのたびに撒かなくてよかったとつくづく思うわけで、こんなことが3回も続くと、よほど天候が安定しないと迂闊にやっても無駄になるばかりです。

しかし、そうやって一日延ばしにしている間にも、雑草は確実に成長して、もう今では以前の勢力へと着実に近づきつつある気配ですから、まさに地面と空とを見比べる毎日です。
昨日は珍しく雨が降りませんでしたが、平日で実行できず、次の機会を伺っています。

そういえば、裏のマンションとの境目なども細長い雑草天国の様相で、この部分はマンション側の敷地なのですから向こうできちんと処理をして欲しいものですが、これがまた、ものの見事にほったらかし。
連絡しようにも管理人の電話番号もわからず、表はセキュリティまみれみたいな排他的な感じなので、普通の家のようにちょっと訪ねていくという雰囲気でもなく、こういう点は、やはり現代はいやでも人間の関係が希薄だということをしみじみ感じます。

まあ、このマンションの高い壁に助けられて、夜遅くまでピアノを弾いたりしていますから、大局的にはありがたいところもあるのですが、そうはいってもやはり敷地内の雑草の処理ぐらい、せめて年に一度ぐらいはして欲しいものです。
下手に草の話を持ち出して、逆にピアノの音のことでも言われるなら、それこそ藪蛇というものですから、だったら触りたくないですが…。
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なでしこ話法?

なでしこジャパンはついに国民栄誉賞のようですが、尊敬する女性の強さと特徴に関して引き続いて感じたこと。

精神的に脆く、意気地のない男に較べると、何事も度胸があり腰の座った女性ですが、しゃべりもパワーが男とは根本的に異なるものを感じたりもします。
例によって個人差のことは考慮せず、あくまで「一般的」な話です。

多くの女性に共通して見られるのは、個人差は別としても独特の話法みたいなものがある点です。
とくに雑談のときにしばしば感じるのですが、女性はどうも一般論とか客観的な論点に立った話の進め方というのがあまりお好きではないようで、その流儀もパワーも大変なものです。

典型的な例をいいますと、例えば、こちらがひとつの話題や出来事を話すとします。
こちらとしては、その話の内容そのものをいわば議題として掘り下げたいわけで、それに関する相手の見解なり分析なりをあれこれ聞きたいという目論見なんですが、なかなかそうはいかないんですね、これが。
女性の場合(繰り返しますが一般的にです)はこちらの話を聞き終わると、それに対する言及ではなく、類似した自分の体験談とか身近に起こった似たような話を持ち出してきて、あっという間にそれをしゃべりはじめます。
そこで、こちらが提示した話とどう関連性があるのかと思って聞いていると、ほとんどそれはなく、気がつくとこちらが専ら聞く立場に交替させられてしまうのはまるで巧みな瞬間芸をみるようです。

要するに人の話から自分が着想を得て、すかさず類似した自分側の話を思いつく限り並べるたてるわけで、人の話から自分の話へと、パッと花瓶の花を差し替えるわけですね。
こっちにしてみれば、しかしそれは似て非なる完全に別個の話で、気がつくとなんだか話の目的が変わってしまっているのです。

しかし、相手のそんな違和感など眼中にもない様子で、話はそこからさらに飛躍していよいよ関係ない話題に発展するのは、テーマの基軸がどんどんズレるというか、脱線に次ぐ脱線ですが話じたいは延々と続く。だいたい女性との会話はこうなる場合が少なくないので、このあたりは諦めるより外にありません。

とはいっても、べつに聞かなくてもいいような、どう考えてもその場には必要とは思えない話をいかにも対等にもってこられるのはやっぱり変な気分で、何度か話を元に戻すような努力をしてみたこともありますが、いやあ、とてもじゃないけどかないません。
だいいち、向こうは話が逸脱しているなんてまるで思っていないわけで、むしろ会話は盛り上がっているぐらいの認識のようです。こういうタイプは話は飛んでも、おしゃべりそのものにはガンと腰が座っていますから、少々の抵抗ではビクともしません。このあたりも絶対に男がかなわない部分。

つまり他者から与えられたテーマに沿って話を進め、そこから逸脱せずに内容を掘り下げていくのではなく、人の話を単なるヒントとして、類似したネタを瞬時に脳内で検索し、自分が話す側となってそれをいくつも並べないと気が済まないんでしょうね。
マロニエ君などは、ひとつの話題に対してさまざまに観察して事の真相や核心に迫るのが楽しいわけで、喩えるなら話の海に深く潜って中の様子を見たり調査したり分析したいわけですが、この話法では水上バイクで水面をぐるぐる豪快に旋回しているに過ぎません。

音楽に喩えると、主題と変奏のようなものですが、すぐに主題を外れて別の曲になってしまうといったところでしょうか。

そういうわけで、こちらも少々のことなら聞いてますが、さすがに見たことも会ったこともないその人の友人知人・親兄弟、さらにそのまた先の人の話をいくら滔々と語られても、そこまで興味が続かなくなるので、そんなときは沈黙で会話が続かないよりマシだぐらいに思って、終わるのを待つのみです。

さらに感じることは、このタイプは、とにかく話は「聞く側」ではなく、あくまで「聞かせる側」「しゃべる側」「話を提供する側」じゃないと楽しくないというのが根底にあるようです。

圧倒的に女性に多いタイプですが、ごく少数、男にもいないこともないんですよね…困ったことに。
しかし昔から言われているように「話し上手は、聞き上手」なのですから、まずは聞き上手になりたいものです。
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諦観

山田洋次監督の「母べえ」を観ました。
ただ何気なく、どんな映画かも知らずに観ました。

文学者である父が思想犯として捉えられ、母と祖父はそれがもとで絶縁。
父の若い教え子がなにかにつけ母と二人の童女の世話を焼いてくれますが、やがて彼も赤紙が来て出征。
さらに開戦後間もなく父は釈放されることのないまま拘置所で絶命し、終戦間際その妹は原爆でなくなり、親戚のおじさんも吉野の山で亡くなり、主役級であった教え子も南の海で戦死する。

そして最後には母が老衰で亡くなるというもので、見終わった直後は、なんともオチのない平坦なばかりの映画だったように思いましたが、しかし人間にはこれだというべき華々しい報いだの逆転劇だのというものは、そうザラにあるものではなく、要は諦めが肝心だということを知らされたような気がしました。
生きるということは困難や悲しみの連続で、言いかえれば自分を痛めつけるということなのかもしれません。

人は生まれて、生きて、死んでいく、ただそれだけのことで、別に大層な事じゃない、それが人間だというごく当たり前の冷徹な現実を、そっと鼻先に突きつけられたようでした。

たかだか一本の映画を観たからといって、その気になって、達観したようなことを言いたてるものではありませんが、なんとなく肩の力が抜けたような気がしたのは事実です。ことさら肩に力を入れていたつもりもなかったのですが、より明確に、人の世の現実を認識できた気分です。

人間は際限もなく生まれ、際限もなく死んでいくという、動かし難い事実。
あくせくしたところでどうなるものでもない、そこにほどよい見切りを付けながら、しかし命ある限りは懸命に真面目に、そして愉快に生きるということが人たるものの品性であり努めなのだろうと思います。

現代は諦めるということをやたらと敗北者であるかのような言い方をしますが、際限なく欲にかじりつき、分不相応の幸福追求に明け暮れ、野望の虜になることのほうがよほど恥ずべきことで、それにひきかえ諦めることは数段上等の人間性を必要とする美徳ではないかと思います。

見ていて昔の人は、貧しい暮らしをしながらも、人間としての徳が備わり、心ばえがあり、現代人のような動物的な欲の猛者でないところがなんとも新鮮で、目にも美しく映ります。
これを昔の人は偉かったというのは簡単ですが、必ずしもそうとばかりは思いません。
昔の人がことさら偉いことをしようと思っていたのではなく、みんなが自然に普通にそういうふうに生きていただけだと思います。

忘れもしない三年前、ある年輩の夫婦と話をしたときに、夫人のほうが言われたことは今でもマロニエ君の心に深く残っています。
「むかしはみんなが貧乏で、それが当たり前だと思っていたから、辛いと思ったこともないし、何ともありませんでした。楽しかった。」と。そして、今のほうがなぜかたいへんだという意味のことを言われました。

裏を返せば、みんなが豊かになって、同時に貧しくなったということです。
なんでもかんでも不満ばかりで、いい目にあっているのは他人ばかりで、毎日が不安とイライラの連続です。

ケイタイもパソコンも、車もエアコンも、なんでもかんでも、そりゃあいったんその味を覚えたら逆戻りは出来ません。
しかし、それを自分が知らない状態の時代に逆戻りできるというなら、マロニエ君は本気で戻ってみたいと思うこのごろです。

こういう考えをもって、マロニエ君の今年のお盆は終わりました。
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虫の知らせ?

ほとほと暑い毎日が続きますね。

お盆の初日、お寺に行って、寺内の墓所へまわったところ、その尋常ではない暑さに「衣類乾燥機の中ってこんな感じだろうか…」なんて朦朧としながら思いました。
ずっとそこにいたら、間違いなく救急車に乗るハメになるとも思いました。

聞くところによると、巷では蝉が鳴かない、虫がいない(あるいは少ない)といって、これが大変な話題となっているようですが、本当にそうなんでしょうか?

定期購読している月刊誌のコラムでもその事に触れてあり、関東ではこれがかなりまことしやかに人々の間で囁かれているようです。

例えば車で箱根のターンパイクなどに行くと、例年のこの時期なら、美しい蝶を含むあらゆる虫が走る車に衝突してきて、たちまちガラスやフロント部分などは虫の死骸だらけになるはずなのに、今年は少し様子が違うというようなことが書かれていました。高速道路然りです。

雑誌が書店に並ぶのは、詳しいことは知りませんが、月刊誌の場合、おそらく文章を書いた時点から数週間は経ていると思われますが、その文章によると東京ではやはり蝉の声がしないことを、たいそう深刻な調子で綴られていました。
蝉はもちろん、蚊までもが激減しているというのですが、ホントだろうかと思います。

そういえばひと月ぐらい前だったか、マロニエ君の友人も蝉の声がしないらしいということを尤もらしく言っていましたが、現在は毎日朝から、例年と変わりなく蝉の大合唱でうるさいぐらいだし、我が家の玄関先には蝉の抜け殻があちこちにへばりついているくらいですから、まあそんなに心配することはないのでは?という気もしています。
というか、心配してみたところで、現実にはどうすることもできませんけれど。

いうまでもなく虫の減少に対する心配は、放射能汚染のあらわれだとする説を立証する論拠のひとつになっているもののようで、わかっている人はすでに自衛のための行動を密かに起こし始めているとか。
じっさい、その雑誌によると執筆者の知人はラジオのパーソナリティーをやっていて、自分の番組をもっているにもかかわらず、子供を連れて近く東京を脱出する決心を固めたのだそうです。

これが事実に基づく正しい行動なのか、はたまた情報に踊らされた過剰反応なのか…マロニエ君にはわかりません。

真偽のほどはともかく、過日、関東人のことを書きましたが、どうも関東の人達というのは危機感に対する反応の仕方もずいぶんと大げさというか敏感すぎるようで、やはり日頃の過当競争の習性ゆえだろうかという気もしなくもありません。
我こそは、いちはやく情報をキャッチしてすかさず行動することが自分に利益をもたらし、最終的には我が身を守ることにも繋がるという、競争原理的経験的法則?を体内にもっているのかもしれませんね。

ちなみにその雑誌のコラムにあったのは既婚者の女性で、なんと仕事と夫を東京に残して、4歳の子供とふたりで石垣島に避難するらしいのですが、避難というならなぜダンナさんがそこに含まれていないのかが理解に苦しみますけどね。

少なくとも、マロニエ君だったらこういう考えは御免被りますし、実際にそれほど深刻な状況が事実と仮定しても、夫や係累を見放して、母子ふたり住み慣れない島で生き長らえたところでなんになるのかと思います。
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迷惑メール

一時期おさまっていたヘンなメールが最近また届きはじめています。
いわゆる出会い系のような怪しいサイトからですが、なんだかずいぶんと金銭まで絡んだもののようで、そのいかにも悪辣な雰囲気は見るだけで嫌気がさします。

あらためて言うのもなんですが、マロニエ君はその手のことには一度も手を出したことはなく、なにひとつ身に覚えがないのですが、やはりどこからか個人情報が漏洩しているということ以外に考えられません。
出所さえつきとめられないのが、なんとも悔しいかぎりです。

この手の悪徳メールは、一通来たら終わりで、その後はカタチを変えながら見るだけでもおぞましいようなものがぞくぞくと送り付けられてきます。
パソコンの専門家によると、こういうメール発信は人がやっているのではなく、機械的に際限もなく送り付けるようなシステムがあるのだそうで、とんでもない迷惑です。

もちろん、読みも開きもしませんが、削除する際に目に入る部分というのはあるわけで、それによると手口は一層巧妙化というか悪質化しているようで、個人のお姉さんから直接メールが届いているように写真入りで応答を呼びかけてくるのもから、何十万から百万単位の大金に当選されました!というようなお祝いを装ったメールがひきもきらず届きます。

笑ってしまったのは、それだけの大金をなぜ受け取らないのか?というような不平めいた文言もチラッと見えたことがあったりして、こんなことを本気にするような今どきまだいるのだろうかとも思ってしまいますが。
さらに新しい手口だと思われたのは、金額は知りませんが、入会金だか会員資格だかの「ご入金を確認しました」というもので、払ってもいないものを入金確認ができたなどと言い立てることで、そこから人の関心を呼び込もうかという手口のようにも受け取れます。

たかだかメールといえばそれまでですが、こんなゴミみたいなメールの山を削除しているうちに、間違って大事なメールまで消してしまう危険性もあるわけで、メールボックスを開くたびに目にしなくてはいけない精神的嫌悪を思うと、これは内容からしても、もはやれっきとした犯罪だと思います。

さすがのマロニエ君もこんなメールで警察に通報するのもどうかと思い、いまのところは静観しています。
そうそう、ひとつ「送信停止」という文言があったので、一度だけそこを開いて「大迷惑だから直ちに停止するよう」申し入れましたが、なんと返事が届いて「機械的に停止の処理をするのに10日ほどかかりますのでしばらくお待ちください」とありました。
停止に10日なんていうのも疑わしいし、どうせウソだろうと思いますが、様子を見て対策を考えるしかありません。
まったく不愉快なことですし、漏洩した会社がわかれば責任を取ってほしい気がします。

以前、同様のことがあり困っていたところ、とある印刷会社からメールが来て、そこの管理ミスで情報が漏れた旨の説明と、何通にも及ぶ経過報告と詫び状のようなものが届き、しばらくしたらそれらはきれいになくなりましたので、やはり本気で対策を打とうと思えば打てるらしいことはわかりました。

ところが、今日はふっつりとそれが来なくなりましたから、やはり発信元は一箇所のようです。
申し入れが功を奏してめでたく停止してくれたのか、それともこんな怪しげなメール送信にも人並みに「お盆休み」があるのかと思うと、ちょっと可笑しくなくもありません。
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関東人

関東に引っ越しをしていった友人から聞いた話。

この友人は新しい家にグランドピアノを運び込んだのですが、過日はじめての調律師さんがやって来て、長旅のあとの初の調律作業がおこなわれた由でした。

いきなり笑ってしまったのが、マロニエ君も久々に聞く関東人のあいかわらずな様子でした。
マロニエ君自身も学生時代から8年間関東で暮らしましたので、おおよその関東人の特徴みたいなものは知っているつもりでしたが、久しぶりに聞くその様子には、なにやら時代とともにますますパワーアップしているのでは?と思ってしまうようなものでした。

まずいきなり友人が…ン?と思ったらしいのは、初めての電話のとき、用件が終わっての切り際に、わざわざ「これからプロのピアニストのところで打合せをしなくてはいけませんので、それでは」と言ったそうで、ここでまず最初のチェックをされてしまったようです。マロニエ君も嫌な予感がしつつもとりあえず失笑してしまいました。
電話を切ったあと、その人がどこに行こうと関係ない事なのに、「プロのピアニストのところで打合せ」というところが、この方なりの、まず手始めの自己アピールだったようです。

調律当日も、その顛末というか話の内容を聞くと、呆れて腰がクニャクニャになりそうでした。
どんな話の流れかは知りませんが、その方は自分のホームページは持っていないとのことで、普通はホームページなんてあればある、ないならない、ただそれだけのことですが、そこにもちゃんとした理由があるらしく「自分で作ると良いことしか書きませんから…」「ホームページがなくてもちゃんと人が評価してくれる」などと、さも謙虚で真っ正直な直球勝負の人のようにおっしゃるそうです。

また、自分は今もとても忙しいが、昔はさらに正月など芸能人の登場するような仕事もあったから大変だったが、それが不景気でなくなったお陰でようやく正月三が日が休めるようになったとか、現在は1000人!ぐらいのお客さんがあるなどと、こういうことを来宅してわずか2分以内ぐらいで一気に言い出されたそうです(笑)。

作業時間を含めて、わずか2時間ほどの滞在だったようですが、そんな中にもご自慢トークのあれこれが惜しげもなく連発だったようで、そりゃあなにより精神的に忙しいはずだと思われます。
また、自分がいま支援しているミュージシャンというのがいるらしく、その人は将来必ず大ブレイクするとかで、チケットまでしっかり売りつけられたというのですから、いやはや…。
曰くチケットは「僕は信用があるから、200人ぐらいのコンサートでも声をかければ50枚ぐらいはすぐに売れますから」とのことです。

で、自分のホームページでさえ不要だと言ったわりには、このミュージシャンのホームページに自分の事が出ているのはよほど嬉しいのか、とにかくそこを見て欲しかったらしく、その場でパソコンを開かされ、自分が出てくるページまでしっかり案内されたそうです。
関東人のこんな矛盾は指摘するとホントに際限がないんですが、彼らと仲良くやっていくためにはそのあたりはプライドも絡んでいることなので、敢えて突っ込まないであげることが大事な点なのです。
きっと自分のホームページも本心では欲しいけど、作るとなると大変だし、いまさら出遅れたと思っているのかもしれませんね。
もうこれ以上は控えますが、仕事で来ているのにどことなく意地悪に思える言葉や瞬間もポツポツあったとか…。

まあ、大なり小なり関東人というのはこういう体質が身に付いていて、さりげない会話の中にも、自分が相手に聞かせたいフレーズはしっかり組み込んであって、さも自然に、水が流れるようにさらさらと自慢しまくるのは常識なのです。
毎日のすべてが戦いとやっかみとホラとつっぱりの連続で、とっても気の毒なんです。
ただし、ここで言っているのは、関東人とはいっても、いわゆる先祖代々の地つきの人達というよりは、主には本人もしくは親などが田舎や地方の出で、現在は事情があって関東暮らしをしていて、日夜その荒波をかいくぐって生きている大多数の人のことです。(この調律師さんがどうなのかは知りませんけれど。)

はじめからみんながそんな気質だったとは思いませんが、関東という人の欲の海のような厳しい環境の中で暮らして行くということは、否応なく激しい競争条理に巻き込まれ、動植物が環境に適応するごとく、この荒海に呑み込まれないよう虚勢を張りながら生きる術が身について、ついにはこんなトークが口を開けばオートマチックにできるようになるのでしょう。
例えばその中心地である東京、ここにはたしかにすごいものがたくさんありますが、同時に過当競争も激烈で、最先端で飛び回っているような一握りの人はいいのかもしれませんが、普通の人のごく平凡な生活レベルという点ではかなり疑問があると思われます。

マロニエ君が人から聞いた話で呆れてしまったのは、ある人が言うには「東京に較べると福岡は何かと出費が嵩んで困る」とぼやいていたとか。
えっ?生活費が嵩むのは東京では?と思っていたらそうではなく、本気で倹約して切りつめた生活をするとなると、本当に安いものがあるのはこれもまた東京なのだそうで、福岡などはその下限が甘いからダメだというものでした。
思わず唸りましたが、これもまた関東という地域の地盤の厳しさを表しているように思いました。
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こんなのあるよ

ホームページにコンサート情報のコーナーを作るため、久々に夜中などに情報の入力作業をしていると、なんだか妙になつかしい感触を思い出しました。
すでに一部の方はご存じかもしれませんが、マロニエ君は白状すれば、数年前に友人と「こんなのあるよ」というコンサート情報誌を発行していたことがありました。

ほうぼうからありとあらゆる手段によって集めた情報を、片っ端からパソコンへ入力していく地道な作業をしていた頃のことがふと思い出されてくるわけです。

このコンサート情報誌はどこからのひも付きでもない、もっぱら聴衆の側に立ったクラシックのコンサート情報誌で、福岡県内をその対象エリアとして毎月発行し、情報としてあがってきたすべてのコンサートを開催日順に一斉に並べたものです。
ここではアクロスでやる有名オーケストラの演奏会から、街角の喫茶店で行われる小さなコンサートまで、すべて同じひとつのコンサートとして取扱い、なんの差別もなくこれらを網羅的にコンサート情報として書き連ねたものでした。

毎月、向こう二ヶ月の情報を満載して発行に漕ぎつけるだけでもヘトヘトになる作業で、しかもこれは無料配布でしたから、収入は広告収入がそのすべてで、ずいぶんたくさんの方にお世話になりましたが、金銭的には印刷会社への支払いと、配布するためのガソリン代など必要経費を差し引くと、もういくらも残らず、常に逼迫した厳しいものでした。

原稿の取り纏めから入力、広告取り、仕上げ、印刷、県内への配布などをすべて我が身を削ってやっていましたから、金銭的にはもちろんのこと、時間的、体力的、精神的すべてにわたってなにかを使い果たした感がありました。

これをやっているときの時間の経つのの早いことといったらなく、やっと原稿を仕上げて印刷にまわし、県内各所に配布を終えたかと思うと、すぐに次の号にとりかからなくてはいけません。
情報は自分達で集め、網羅することが目的なので、もちろん無料掲載、無料配布でしたが、広告取りはなかなか思うに任せない仕事ですし、これをやっている間は盆も正月も無関係、当然ながら旅行にも行けないという有り様でした。

ただし、嬉しいことには「こんなのあるよ」はごく短期間のうちに多くの人達に受け容れられて広く浸透し、少なくない支持者を獲得したのはまったく望外のことでした。ついにはこの情報誌を手にあちこちの珍しいコンサートに行ってみるという、少数ではありますが、ひとつの行動様式まであらわれるに至ったのはさすがの我々も驚きましたし、さらには本来聴衆のものであったはずの「こんなのあるよ」が、音楽事務所や演奏家など、多くの音楽業界の人達の間でもひじょうに重宝がられたことは、いま思い返してもがんばった甲斐があったというべき誇れる部分でしょう。
最盛時は、チケットぴあやヤマハなどはもちろん、どこのホールや公共施設に行っても「こんなのあるよ」は必ず置いてありましたし、コンサートに行っても開演前や休憩時間に、熱心にこの情報誌を見ている人をポツポツ見かけるのは決して珍しい光景ではありませんでした。

しかし、もともとが無理を承知ではじめたことでしたから、次第に疲れが嵩み、本業のほうへまで支障が出るに及んで、これ以上続けていると自分達のほうが空中分解することを悟って、ついには廃刊する決意をしました。
2003年3月から2006年5月までの3年余り、約40号を福岡県内のあらゆる音楽関連施設や公共施設などに送り出しました。

その後は広告主の一人でもあった情熱ある方が、この志を引き継いで類似した情報誌を規模を縮小しながら発行されましたが、やはりこちらも残念なことに現在は廃刊となっています。そもそもこういう仕事は個人レベルでできるようなことではないので、もっと大きな組織体によって余裕を持って安定的に発行すべきものだというのが率直なところです。

しかし、自分で言うのもなんですが、ひじょうにわかりやすい、実践に役に立つ情報誌だったと今でも思っていますし、それにひきかえ、今どきはあってもなくてもどうでもいいようなフリーペーパーの類がなんと多いことかと思います。
考えてみれば「こんなのあるよ」がなくなって一番困ったのはマロニエ君自身かもしれません。
そんなわけで、規模の点では遙かに及びませんが、HP内にコンサート情報欄を作ることで、わずかなりとも情報の整理と確認ができたらと思っていますし、「こんなのあるよ」をご存じの方はそのDNAを引き継ぐものと思って見ていただければ幸いです。
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HPマイナーチェンジ

この「ぴあのピア」というホームページを作って約20ヶ月を越えました。

ホームページを作ってという言い方にも実は語弊があり、そのホームページそのものが「ピアノの雑学クラブ」というものを目指しているわけですが、マロニエ君の現在置かれている状況からはなかなかこのクラブに専念してこれを立ち上げ、軌道に乗せるまでの余裕がないのが実情です。
とりわけ「ピアノの雑学クラブ」というコンセプト自体がひじょうに微妙で難しい、つかみどころのない性質があり、ただ単純に人集めをしてさあ出発!というわけには行かないために、いわばクラブの進水式そのものが遅れに遅れているわけです。
こういうわけで、開設以来の開店休業状態をいまだに更新しているという甚だ不名誉な記録を更新しているわけで、なんともこの点はお恥ずかしい限りです。

正直を言うと、それよりも少し前に入会したピアノクラブの定例会に参加して、そこで毎月わずかばかりの小品を弾くだけでもマロニエ君のような根性ナシの怠け者からすれば、たいへんなエネルギーを要することで、そちらに参加するだけでも慣れない練習などをしてゼエゼエいっていたわけです。

さて、肝心のぴあのピアはというと、積極的なクラブ員募集などもしていないにもかかわらず、なんとも嬉しいことに十数名の方がご入会くださり、その皆様各人の情報をメンバー紹介として掲載していたことは、以前からこのHPをごらんいただいた方ならご存じのことと思います。
実名ではないとはいうものの、これは匿名による一種の個人情報という見方もできるわけで、このぴあのピアが活動状態にあって、その上で掲載に同意していただけるのならまだしものこと、それもないまま、ただ個人の好みやらなにやらをこれ以上やみくもに掲載し続けることは、まことに申し訳なく、またいつどのようなご迷惑をかけるかとしれぬと思うと、どうにも忍びがたい気持ちになりました。
そういうわけで、クラブ員の方からはこれまで有難いことになにひとつクレームをいただいたわけではありませんでしたが、熟慮の末、ひとまずこのページを取り下げることにしました。
もちろんクラブ員の皆さんには、ご異存がなければそのままご在籍願うことは言うまでもありません。

さて、その代わりというわけではありませんが、以前から追加しようかと目論んでいた「コンサート情報のページ」を新設しました。
というのは、せっかくコンサートの情報を得ても、チラシがあっても、いざ必要なときにそれはなかなか出てこないものですから、なにか決まった場所に書き留めておくという目的も兼ねて、コンサート情報としてマロニエ君自身はもちろんのこと、もしかしたら皆さんのお役に立つのでは?という思いもありました。

コンサートというのは、よほどの目的や熱意がない限り、すぐに忘れてしまったり、気がついたら終わってしまっていたりと、意外にその情報把握が難しいものなのです。
前々からよほど狙いを付けて行くコンサートは当然としても、時にはふらりとその気になって、なにか自分に都合の良いコンサートがあれば行ってみようかという出来心的な側面も大いにあるわけで、そんなときにいちいちチラシの束を抱えている訳でもなし、さりとてホールのHPなどを必死になって調べる気もしない、そんな気分というのがマロニエ君にはよくあるのです。

だいいち特定のホールのHPでは、当然ながらそのホールに限定した情報しか得られず、だからといってあちこちのホールを跨いで本格的に調べるとなると、これはもう立派な仕事になり、しかも思うような結果が得られないことがこれまでの経験で知っています。

そういうときに、開催日順で書き連ねたコンサート情報があれば、一発で、いつどこで何があるかがとりあえずわかるというものです。

これを作るために、久しぶりにヤマハやチケットぴあなどのチラシ置き場から、あれこれのコンサート情報を頂戴してきましたが、へんてこりんなものもずいぶんあり、これは幸いにも情報誌ではないので、あくまでもマロニエ君の主観による取捨選択をして掲載しています。

個人で気ままに得られる情報ですから、むろん限界はありますが、できるだけこれからはいろいろなコンサート情報にも敏感になって、面白そうなコンサート情報を掲載していきたいと思いますので、お役立てくだされば嬉しい限りです。
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キレイゴト汚染

「一人でも多くの人に元気があたえられたら…」「少しでも笑顔が取り戻せるなら…」

こんなコメント、昨日もまた新聞で見てしまいました。
キレイゴト真っ盛りの日本列島ですが、とりわけ3月の東日本大震災いらい、この手のセリフは飽きられることもなく日本全国のありとあらゆる機会に発せられているようです。
こういう、いかにも実のない言葉の横溢の中で、殊勝な顔をして過ごして行かなくてはいけない現代人は、毎日が偽善にあふれ、だから人の心にも必要以上に闇が生まれ歪んでくるようにも思います。

もちろん、その言葉が本当に適切で妥当な使いかたをされるのならば構いませんが、マロニエ君の印象としては99%不適切な使い方をされているようで、この種の言葉を聞くたびにウンザリします。
また感性の点においても、このようないかにも独創性のない、紋切り型の便利語を撒き散らしているうちは日本は本当の幸福を手にすることは出来ないように思います。

被災地から遠く離れた場所で、ただ単にささやかなコンサートやイベントを開くのに、いったいそれが被災者とどういう関係性があるというか、その主張がまるで意味不明です。おそらくこういうコメントを本気にして、心からそう信じている人などいるはずもなく、みんなこういう言葉は建前だということがわかっているのだと思われます。
中にはチケット収入からささやかな義援金を送るなどの行為もなされているのかもしれませんが、だったら黙ってすればいいわけで、それをいちいち前面に出して声高に言いたがるのは、こんな立派なことをやっているという自己宣伝としか受け取れません。

むろん中には復興支援のために本当に役立つ催しもあるでしょう。それならばその甲斐もあるというものですが、ほとんど個人レベルのものとか、震災とはどう見てもなんのかかわりもないようなものに、いちいちこんな建前を便乗的に貼り付けて、お手軽に時流に乗ろうとするのは、かえって不誠実で、ものを考えない日本人の本当に悪いクセだと思います。

コンサートなんてものは、要するに主催者と演奏者の都合によってのみ開かれるものです。
さらにそれが被災地から遙か遠く離れた地域で行われる小規模コンサートとなれば、聴きに行く人の実態もお義理やお付き合いなどが大半ですが、その人達が、そのコンサートを聴くことによって、震災その他で傷ついた心が少しでも癒され、ましてや元気が出るなんて、そんな魔法みたいな現象など起こるわけがないでしょう。

主催者や演奏者が本当にそんなことを思っているのだとしたら、それは途方もない傲慢と勘違いであって、おめでたいことこの上ありません。
自分と関係者の都合だけでやっているコンサートに、よくこんなご大層な看板を脇に立てて、まるで慈善事業でもやっているような口ぶりになれるものだと思います。

本当にそう思うのなら、現地に入ってもっと実利的な奉仕作業でもやってこそではないでしょうか。
さらには本当に日本人が元気が出るとするなら、それは少しでも健全でまともな政治が行われ、さらには有能かつ信頼できる指導者が復興の指揮を執って政治経済の両面からの建て直しが達成され、それによって人心がいくらか報われたときだと思います。

マロニエ君もいいかげん音楽は好きですが、だからといって思いつきのような手作りコンサートのたぐいに行かされても、それで元気が出るなんてことはあるわけがない。本当に優れた音楽からは感銘は受けますが、それで少しでも元気が出て笑顔が戻るなどというのはどういうことなのか、理解に苦しみます。

たぶんそのあたりはみんな直感的には感じていることだろうと思いますが、今はこの手のセリフを使っていれば誰も文句が言えないし、一番安全なんでしょうから、それを乱発することについては社会が馴れ合いで、そこは深追いしないという暗黙の了解があるのです。マロニエ君は日本人のこういう部分が嫌いです。

そもそも自分の宣伝や利益にしか興味がなく、偽善や無責任に何ら抵抗感もないような人に限って、いかにも人の不幸に心を痛め、救いの手を差し伸べたいというようなことを軽々しく言えるのだと思います。

現在のような国難に際して、いささかでも憂慮の念があるのなら、せめて変な便乗はしないで、誠実に自分は自分のなすべき事を進めればいいのだと思います。
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我子の七光り

天才音楽家というのがときどき現れます。
その天才ぶりも様々ですし、とうぜん天才のあり方も一人ひとり違っていて、本当に深い感銘を覚えるような演奏に接することがある一方で、あまり感心できない場合もあるわけですが、いずれにしてもその才能は並のものではないことは疑いようがありません。

現代社会は何事につけてもいちいちが比較の社会であり、この時代に生きる人達は好むと好まざるとにかかわらず、なんらかのかたちで厳しい競争条理の中に放り込まれているもというわけです。
家族がちょっといい会社に勤めていたり、子供がちょっと有名な学校にいっているぐらいでも鼻高々だそうですから、ましてや我が家から「天才」が現れたとなると、それはもう尋常な喜びようではないでしょうね。

天才とはエリートのさらに上に位置する特別な存在ですから、それが嬉しいことぐらいわかりますが、そこから先どういう行動を起こすかが、とりわけ親の品格だと思いますし、それがひいては我が子のためにもなると思うのですが。

マロニエ君が見ていてどうにも首を捻ってしまうのは、天才が出現して世間で話題になると、しばらく間をおいて今度はその親が書いた本が書店に並ぶのが今どきのパターンです。
もちろん親は作家でも物書きでもなんでもないのですが、話題の天才の親というその事実だけで、本を出すに値する資格をもっているかのごとくで、出版社も煽り立てくるのかもしれません。

日本というのは不思議な国で、本当の正しい判断力として若い才能を見つけ出すことはできないくせに、ちょっと有名なコンクールに優勝したり、なにかマスメディアが取り上げるような話題になって、ひとたび脚光をあびると、今度は手の平を返したように過分な扱いをするようになります。
本当に素晴らしい誠実な音楽家が、小さなホールでささやかなコンサートをするにも集客で苦労するのを尻目に、話題の天才というレッテルが貼られるや、大ホールのコンサートを立て続けにおこなっても悉くチケットは完売し、東奔西走の毎日がはじまるようです。

こうなると、あらゆる関連業種が儲けのおこぼれに与りたいと本人やその家族に群がり、そこから上記のような著書が出版されるのだろうと思われます。文章書きが不慣れな人にはゴーストライターがつくのはむろんです。

最近は、アーティストのほうでもいつでもスタンバイ、売れたらアクセル全開が当然のごとくで、たとえば昔、ポリーニがショパンコンクールに優勝したのちにさらなる勉強のためにコンサートを休止するような、ああいった振る舞いをする人は皆無になったように感じます。
おっとり構えて勉強などと言っていたら、あっという間に背後から追いこされて終わってしまうという現実もあるのかもしれませんが、ともかく、天才本人も家族も、過剰なほど時代認識ができていて、稼げるうちに稼ぎまくるといったような、あまりに露骨な印象を与えるのは一音楽愛好家としては、どうにもやるせないものがあります。

とりわけその道のシロウトである親が我が子をネタにいきなり本を出したり、子育てをテーマとした講演などに飛び回る様子は、天才の親どころか、子の七光りを受けてはしゃぎまわっている俗人そのものの姿でしかありません。
多少は相手側からのリクエストもあるのかもしれませんが、それをこうもやみくもに応じるということは、やはりご当人もそれを我が世の春のごとく喜んでいるのだろうと思われます。

昔の芸能界には、売れっ子の我が子を食いものにする非情な親や親戚という構図があったようですが、クラシックの世界で子供をネタに親までもがあれこれと露出したり小遣い稼ぎの手段にするというのは、もうそれだけでその人の演奏に興味がなくなってしまうようです。
娘が有名スポーツ選手になった勢いで、親が国会議員になるような時代ですから、本を出して講演を渡り歩くぐらい甘いもんだといえば、そうかもしれませんが。

以前書いた○○家にヴァイオリンが我が家にやって来る本の一家ですが、すでに親兄妹の間で、想像を超えるほど何冊もの本が出版されているのには驚きました。これなどはまさに互いの知名度を互いに利用し合って相乗作用を起こしているようなもので、とにかく利用できるものはなんでも利用するという抜け目のなさが現代の流儀なのかもしれません。
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ジミのハデ好き

人は他人を、知らず知らずのうちに外観でなんらかの判断しているようです。

考えてみれば視覚というのも重要な情報源であって、視覚的要素だけを完全に切り離した判断などは極めて困難であり、そもそも自然に反することだろうと思います。視覚情報は無意識の中で大きな割合を占め、なんらかのイメージの形成に少なからず影響があるというのが現実だと思います。
どんなに「見た目じゃない、内容重視だ」といってみたところで、視覚から得た情報にまったく左右されないなどと果たして言い切れるでしょうか? 
言いきれる人がいるとしたら、それはとんだ思い上がりか、はたまた並外れた能力があると言わなくてはなりません。

人が他者を認識する上で、話の仕方や内容、性格など相手から伝わる様々な印象に、顔かたちや雰囲気などの視覚的な要素は当然ながら絡んでくるわけで、その総和によって自分なりのイメージというものを作り上げていることは否定できません。

ところがこれで裏切られ、大変な間違いを犯すこともあるわけで、後になっておおいに「見誤った」ということがあるのは事実で、その中には非常に意外なひとつの厳然たるパターンを見出すことができるのです。

それがタイトルの「ジミのハデ好き」というわけです。
地味な人というのは、典型的なタイプで言うと、存在感がない、立ち居振る舞いもジミ、性格も目立たない、人の印象にも残らない、社交性がなかったり、頭が良くても才気がなかったり、オーラとは無縁であったりと、やはり外観もそれに応じて地味な印象の人が多いものです。
その言動も、なにかにつけ表に出るタイプではなく、陰と陽なら陰の役割で、必ずその他大勢に分類されるタイプというところでしょうか。

こういう人と接していると、ごく自然な印象として、おそらく何事にも控え目で静かなタイプ、真面目というか慎重というか、「派手なことはむしろ嫌いなのだろう」という印象を自然に抱いてしまいます。
ところが、それがまったくの誤りだということに気が付く時が、あるときふいにがやってくるのです。
それは、その人のいろいろな言動に触れることによって、内面の本質が少しずつ見えてくる時といってもいいかもしれません。

もうおわかりですね!
こういう地味な人に限って、内心では相当の派手好きだったり、目立ちたいという願望や憧れを人一倍強く持っているということがあり、実際このタイプはかなり多いと思います。そして最終的には、普通のハデ好きな人もはるか及ばないほどのハデ好み、目立ちたがりだったりするわけですから、それは常に屈折した形でしか顕れることはありません。

きっと自分では華やかでありたいという内なる欲求が、自分の中で長年醸成され膨れ上がって巨大化し、しかしそれは何重にもジミな包装紙にくるまれ、あくまで隠匿されてきたせいだと思われます。
人間は「自分にないものを求める」という言葉通りなのかもしれません。
強烈な上昇志向の持ち主が、実は暗い生い立ちの反動だったりするのと共通しているかもしれません。

マロニエ君はさまざまな矛盾からある時この法則的事実に気が付いて、はじめは大変意外に思ったものですが、心理形成としては大いに納得し、思い当たる人々をあれこれを当てはめてみると、その法則がバンバン当てはまりました。

たとえば、ネット上では大いに語りまくる多弁この上ないような快活な人が、実際に会うと言葉も少なく伏し目がちな、予想とはかけ離れた別人だったりして唖然とさせられるようなことがしばしばあり得ることは、むかしオフ会などを経験した人ならおわかりだと思います。

ブログなどにもそれがあり、現実からは程遠い別世界を作り上げ、そこの主となり、これでもかという自己願望の放恣な羅列を目の当たりにすると、人の内面の怖さを覗くようでゾッとすることがあるのです。

人間は極めて奥の深い複雑怪奇な生き物であることは否めませんが、だからといって、あまりにも秘めたるマグマを抱え持っているというのは、笑っているうちはいいですが、最終的には多重人格的というか、どこか怖いものがありますので、これの甚だしい方とは極力かかわりたくはありません。
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なんで映るの?

実をいうとマロニエ君は(以前も書いたことがありますが)大型電気店にいくと体調が悪くなる体質です。
数年前まではそんなことはなかったのですが、ここ1年ぐらいは行って30分もすれば確実に悪化します。
さらには、ピアノにダンプチェイサーを取り付けて、始めにスイッチを入れてからの半日も同様の症状がでました。

これは電気製品に使われる化学物質の何らかのもの(塗料や接着剤など)が熱によって空気中に放出されることによるもので、物知りの知人によると、これはハウスシック症候群と同種のものだそうで、当初疑っていた電磁波の類ではないらしいそうです。

昨日書いた、先週末ビデオレコーダーを買いに行った際にも、待たされ時間が長かっために店内の滞在時間は1時間近くに及び、そのせいで予想通り体調はみるみる悪化し、まるで乗り物酔いでもしたときのような不快な症状と顎が外れるほどの生あくびの連発という苦しい事態に陥りました。
これがなんとか治まったのは夜の12時近くになったころで、回復にはどんなに早くても5〜6時間は要します。

さて、そんな肉体的犠牲を払ってまでデジタル放送対応のレコーダーを買ったわけですから、準備万端ととのい、さあいつでも来い!という態勢でアナログ放送終了の日曜日を迎えました。
聞けば昼の12時から夜の12時まで、段階的に停止していくとのことで、午後などはわりとどこの家でも映っていたようですが、それも夜の12時には消えてしまうという話でした。

さて、夜12時をまわり、いよいよアナログ放送が消えていることを確認すべく、テレビのスイッチを入れてアナログ放送へ切り替えると、なんのことはないこれまで通りに映っているのには、…何で?と思いました。

画面下になにやら文字が流れており、それによると「ごらんのテレビ放送はケーブルビジョンが地上デジタル放送をアナログ変換して放送しているものです。」とあり、さらにそれは平成27年まで継続されるということで、なんとあと4年もアナログ放送が続くという事実には、エーッ!と思わずのけぞってしまいました。

ちなみにマロニエ君の家は、市のわりに中心部でありながら電波の受信環境が悪いエリアということで、昔から周辺一帯はケーブルビジョンを多く使っています。
このケーブルビジョンを使う限りは、そんなにあわててテレビ/ビデオを買い換える必要がなかったというわけですが、こんな情報はちっとも知りませんでした。少なくともケーブルビジョンを使っている世帯にはなんらかの通達があってもよさそうなものをと思いましたが、知る限りではなにひとつなかったように思われます。

さて、先週末、決死の思いで買ってきたデジタル放送対応のレコーダーは、まだ玄関の片隅で包装されたままポイと置かれたままで、いやはやこれはどうしたものかと思っています。
通常なら、せっかくだから接続すればきれいな画像で楽しめるのですが、そのためには衛星放送の受信設備をしなくてはいけません。他の部屋にはきてるのですが、配線などを依頼しなくてはならず、それが面倒臭い。
アナログのままなら画質を我慢すれば衛星も映るのです。

世の中のシステムにはどんな意外な抜け穴が潜んでいるか、よほど事情に通じていないと馬鹿を見ることがあるようですね。
しかし、だからといって日頃から情報収集の奴隷のようにはなるのはまっぴらですから、ときどきこういうことが起こるのも仕方ないかと諦めています。
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電気店は疲れます

先週末はアナログ放送の終了に絡んで、電気店の買い物で疲れました。

マロニエ君の自室は、テレビは昨年秋に買い換えているので問題ないのですが、DVDレコーダーが古いタイプで、テレビを設置に来た人に尋ねたら、「これは来年7月で使えなくなります」という話でした。
もともとマロニエ君は自室ではステレオばかり聴いており、テレビはほとんど見ませんから、まったく無いのは困るけど映ればなんでもいいという程度のものでしかありません。

DVDレコーダーも毎週いくつかの番組を録って夜中などに見るだけのために置いているので、画質などもドーでもよく、録画されていて見ることが出来ればそれでじゅうぶんだから、このレコーダーの買い換えもずっと伸ばし伸ばしになっていましたが、アナログ放送の終了に伴い録画もできなくなるのはさすがに困ると思い、ついに重い腰をあげ、ヤマダ電気に行きました。

店はべつにどこでも良かったのですが、エアコンの修理でえらく高額な保証を適用してくれたので、義理があるような気がして次回は必ずヤマダで買わなければと思ってたので、それを実行したわけです。

マロニエ君にとってテレビやレコーダーは上記のような必要最小限の価値しかないので、ブルーレイなど必要ないし普通のDVDレコーダーでじゅうぶんなので、どれにするかはだいたいすぐに決まりました。
ところが今どきの大型電気店というのは価格勝負のしわよせか、店員も少な目で、広い店内どんなに探し回ってもみんなお客さんの対応をしていて、相手をしてくれそうな人が見あたりせん。
ようやく携帯電話売りのおねえさんが説明してくれたところでは、名前を書いて対応の順番待ちになっているというではありませんか。普通ならパッと止めて帰るのがマロニエ君ですが、もうアナログ放送終了は目前だし、そうも言ってられないのでやむなく我慢して待つことに。

待ちくたびれて途中で催促したら、ようやくひとりの草食系みたいなお兄さんがやってきて、やっと特定の機種の購入意志を伝えることができました。すると「お待ちください」と言われ、それからがまた待つことの連続で、人としゃべるのはごくわずかで、要するに店内での時間の大半は「待つこと」なんですね。
対応の順番が来るまでに15分、さらに購入意志を伝えてからが10分ほど、そして商品を抱えてやって来た店員の話というのは、専ら保証やらポイントやら取り付けやらの説明ばかりに終始して、まるで販売ロボットを相手にしているようです。

ようやく説明が終わったと思ったら、その人についてレジに移動しますが、レジもまた順番待ちの様相です。
ここで5分以上待ったところで、ようやくとなりの閉まっていたレジが開いたのでそちらに移動。
すると対応してくれたお兄さんは商品をレジに置くなり、こっちを向いて「ありがとうございました」といってアッという間に去っていきました。ここから先はレジで支払いをするだけなので、自分の役目は終了ということのようです。

レジではポイントカードをお持ちですか?といわれましたが、この商品は安くなっているのでポイントは使いはずだと思っていたら、同時購入していたDVDディスクに付加されるとのこと。
これがなかなか出てこなくて、もう焦って、カバンをひっくり返すように探したら、やっと最後に出てきました。
その間、ことさら無表情に待っていたレジの男性はそれをスッと受け取ると、74ポイントありますがお使いになりますか?と聞くのでどっちでもよかったど、とりあえずハイと答えると、そこから彼の仕事がはじまったようで、商品代とさらにその5%にあたる保証代などの合計金額とポイントなどを、猛烈なピアニストのような指さばきで一気に計算しはじめました。
言われた通りの金額を払い終わると、レシートと、保証書と、ポイントカードが渡されますが、「今回92ポイントお付けしております!」といわれ、要するに差し引きたったの18円分のポイントということになり、あれだけ必死に探した挙げ句がこれかとアホらしい気分になりました。

以上でめでたく買い物終了というわけですが、安いとはいえ何万もするものを買うのに、買い物の楽しさのかけらもない、まさに仕事のような厳しい空間で、これが現代というものかとつくづく感じずにはいられませんでした。
店に入ってから1時間弱というもの、やったことと言えば、10分足らずの商品選びを除いては、あとは店員探しと、ひたすら待つ、待つ、待つ、そして支払いというもので、価格競争というものはこういうことだというのはわかってはいても、パサパサに乾いた、殺伐とした時間を過ごしたという印象しか残りません。

すっかり疲れてしまい、取り付けなんてしばらくする気も起きず、いらい3日間ほど玄関に置きっぱなしになっています。
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なでしこの品格

「なでしこジャパン」が世界最強といわれるらしいアメリカを破って、2011 FIFA 女子ワールドカップで優勝するとは、いかにスポーツオンチのマロニエ君でもビックリ仰天の出来事でした。
どんなことでも世界の頂点に立つということは、それはもう並大抵のことではありません。

この様子をみていてスポーツオンチのマロニエ君なりに感じたことがあります。
それは、やはり女性は強いということ。とりわけ精神面でのそれは男とは比較になりません。

普段スポーツ番組なんてまず見ないものの、さすがにオリンピックとか、サッカーのワールドカップとか、巷で話題が持ち上がって騒然としだしてから、ようやくちょっとだけ見ることがあります。

日本選手に限っていうと、男子と女子では、まるきり攻め方がちがうと、わからないながらも思いました。
女子のほうは思い切りがいいし、度胸があるし、ここぞというときに一か八かの勝負に出るし、そもそも勝負に対しても一致団結して無心にプレイに打ち込んでいる様子を感じさせられました。

その点じゃ、男子はマロニエ君が知らないだけで、たぶんスーパー級のスター選手がたくさんいて、その選抜段階から大変な話題のようですが、そんなエリート集団というわりには、見ているとずいぶん慎重で、スポーツなのにいっかな激しさとか勝負の醍醐味みたいなものがなく、堅実で安全第一のプレイをしているように見えてしまいます。

もういいかげんここらでバシンとシュートしたらよさそうに思えるときでも、男というのはビビるのか、作戦なのか、意識しすぎて縮こまっているのか、あっちにこっちにパスばかり繰り返して、より確かな状態を作ろうとしますが、そんなことをやっているうちに敵側からボールを取られ、何度も好機を失うような印象をもった覚えがあります。

その点、女子のプレイはもってまわったところのない、実に歯切れのよい、勝負らしい勝負を素人にまで明快に見せてくれたし、しかも優勝という最高の結果まで出したのですから感無量、まことにお見事でした。

成田に帰ってきたときも男子とのちがいを感じるところがありました。
みんな一様に気さくで愛嬌がよく、態度が自然で、しかも喜びにあふれており、見ていて気持ちのいい光景でした。
これはなにも優勝したからというだけではない、本質的なものの違いを感じましたし、その気持ちの良さの裏には、これまで見ていた男子選手の、どこか俺たちはスターなんだという風な態度が記憶にあったのだとも思います。

たかが…といっては言葉がわるいかもしれませんが、スポーツ選手なのですから、なにもそこまで意識することもないと思いますが、男の選手はみんなプンとして笑顔のひとつもないし、群がるファンにも手をふるでもなく無反応でサーッと通過していく姿は、ちょっとプロのスポーツ選手としては勘違いしているんじゃないかと思います。

なでしこの面々はその点で、我々の期待を裏切らない対応で、最高の結果を出しておきながら、偉ぶらない素朴な態度は好感の持てるもので、彼女達を見習うべき選手は多いのではという気がしました。

アメリカなどでも大リーグの選手などは、スター選手の責務としてのファンサービスというものを、まずはじめに叩き込まれると聞きましたが、日本のスポーツ男子はそのあたりはちょっと意識が違うようですね。
マスコミはじめ、みんなで甘やかしているのかもしれません。
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メラミンスポンジ

プリンターのインク切れは面倒なものです。

以前はインクが無くなる度にカートリッジを買っていましたから交換は楽でしたが、これも馬鹿にならない値段です。
そのうち補充用インクというのがあることを知り、以来これをメインに使うようになりました。

マロニエ君のプリンターはキヤノン(「キャノン」とは書かないそうですね)で、お定まりの黒と、カラーの青、赤、黄ですが、どうもこのインクは使った分だけ減るのではないらしく、時間経過によっても自然に無くなってしまうということがわかってきました。
いつもインク補充のタイミングは、大事なときに突然やってきますが、マロニエ君はこれがとってもイヤなのです。

というのは、どんなに注意しながら慎重に作業しても、指先には必ずインクが付いてしまうからです。
何度か「今回こそは!」と手を汚さないように気合いを入れて挑戦しましたが、これが一度として成功したためしがありません。
つい先日などは急ぎの状態のときにインク切れになったために、大慌てで補充したのですが、そのぶん作業も粗っぽかったのか、カートリッジの上から下からインクは漏れ出て、指先はもう惨憺たる状態になりました。

調理などに使うゴム手袋でもすればいいのかもしれませんが、どうもいちいちあんなものをするのも気が進みませんし、そのために台所まで取りに行くのも面倒臭いのです。マロニエ君は神経質な一面があるクセに、こういうところはけっこうだらしないのです。

さて、このプリンター用のインクですが指先がこれに染まると、生半可なことでは落ちません。
石鹸で洗ったぐらいではせいぜい染みが薄くなる程度で、リムーバーの類を使えば多少はいいのかもしれませんが、あんなものでごしごしやるのも手が荒れそうでイヤだし、いつもは大抵、自然に消えるのを待ちますが、経験的に汚れた当日消えてしまうことはまずありませんでした。

ところが、この日はすぐに出かける予定があり、その用向きから言っても、両手の指先がインクまみれではいくらなんでもちょっとまずい状況だったのです。
やむなくリムーバーの使用も考えましたが、その前に洗面所でちょっとひらめいて、ものは試しと、いま流行のメラミンスポンジを使ってみました。ホームセンターや100円ショップで売っている真っ白いドイツ生まれの激落ちスポンジとやらで、切って茶しぶ落としなどに使うあれです。
たまたま洗面所にこれを小さく切った断片があったので、これを少し水にひたしてインクの染み込んだ指先をこすってみると、な、なんと、アッという間にインクが落ちて、両手はウソみたいに元通りになりました。それもほとんど力も入れずに2〜3回擦っただけで、ほぼ完璧にインクが落ちてしまったのは驚異でした。

茶しぶ落とすという力は、こんなにもすごいものかと思いましたし、よく化学雑巾の類にも注意書きで「家具などは傷を付ける場合がある」と書かれていますが、さもありなんと思います。

この手は、下手な洗剤よりもある意味よほど強力で、そのぶん人の皮膚などにも使い方しだいでは攻撃的なんだろうなと思いました。
「あきらめないで」の石鹸も実はそうとう強烈らしいし、化学繊維を使った洗顔布みたいなものもありますが、よほど注意しないと恐いような気がします。
手が一発できれいになったぶん、油断も禁物のようです。
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ゾクゾク本

過日、欲しい本があってアマゾンで検索しているときのこと。
アマゾンでは、頼みもしないのに検索した商品と関連のある本やCDなどを探し出しては、画面の下の方に次々に表示してくれます。

その中に「○○家にストラディヴァリウスがきた日」というタイトルの本が表示されました。
この本の存在は以前から書店・楽器店で見て知っていましたが、ある日本の女性ヴァイオリニストが歴史的なヴァイオリンの名器を手に入れるについて、おそらくはその顛末をまとめた「ひけらかし本」だろうと想像されました。
しかも著者は本人ではなく、そのヴァイオリニストのお母さんというのもいかにも定石通り。

そんな露出趣味そのものみたいなものを買って読む気などさらさらないマロニエ君は、書店でも中を見るどころか、手に触れることさえしませんでした。
しかもこの本、意外にどこでもよく見かけるので、はっきり言ってちょっと目障りでした。

その「○○家にストラディヴァリウスがきた日」の中古品がタダ同然みたいな金額で数件表示されていたので、これには却って興味を惹きました。
そんなに笑ってしまうような値段なら、よし、怖いもの見たさで買ってみようかと妙な気をおこし、購入手続きに進みました。送料以外は事実上ほとんどもらうようなもので、出品している書店にも手間ばかりかけて申し訳ないぐらいす。

3日後に届いたのは、まるで新品かと思うような傷みのないピカピカの本でした。
さっそくページを繰ってみたところ、はじめの数ページを読んだだけで、想像通りというか…相当に手強そうだということはすぐに察しがつきました。
まずこの家の家風と厳格な父親の教育方針が紹介され、さらにこのヴァイオリニストである娘の上にいる二人の兄が、これまた画家と作曲家という道に進むについての経緯、東京芸大を受験するに際しての気構え、お見事というべき父親の愛情に裏打ちされた教育理念など、妻であり母である人物の視点から、これらが臆面もなく滔々と述べられています。

祖父の時代から続く学者としての家系、普通なら1人でも現れれば御の字の才能豊かな子供が3人も続いて出たこと、そして父の威厳に満ちた存在と姿勢の中で、それぞれが自発的に努力を重ねて目的を遂げていくなど、文章はまるで道徳の教科書か、なにかのプロパガンダの文章でも読まされている気分でした。
はじめはその圧倒的な違和感に耐えきれず、何度か放り投げようかと思ったのですが、それでも意地で読み進みました。

この本全体は、徹底して家族愛の名の下に発せられる、甘ったるい善意の文章の洪水で、マロニエ君のような者にはまるで出発点からセンスが異なり、思わず肌が粟粒立つようでしたが、それもオカルト的刺激と思って楽しむことに。

このお母さんは、文中で「ストラディヴァリウスはオークションなどでは何十億もするヴァイオリン」だと何度も繰り返して書いていますが、先日もこのブログに書いたように、今年2011年、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスが売りに出され、過去の3倍を越す金額で落札されるまでは、最高額は約4億円だったはずですが…。

むろん途方もない金額には違いありませんが、この本の発行年は2005年ですから、これはいくらなんでもオーバーすぎるようで、なんだか他の内容も下駄を履いているのではないか…という気になってしまいます。
だがしかし、こういう本を読んで心底感銘する人も世の中にはいるのかと思うと…たまりませんね。

なんと、これがきっかけとなったらしく同じ書き手、あるいは娘本人によってさらに数冊が出版されており、いったん覚えた美味は止められないのが浮き世の常というものかもしれません。
そのタイトルのひとつは「○○家の教育白書」という、えらくまたご大層なものになっているあたり、よほど自信がおありなのでしょうね。

ともかく、一度ぐらいこういう本を読むことも、ひとつの人生体験にはなりました。
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自己顕示症

自己顕示欲というものは、多少は人の心の中に存在するものでしょう。
ところが、これの旺盛な人はほとんど病気のごとくで、まったくどうにもつける薬がありません。
つける薬がないという点においては○○と同じです。

作家の三島由紀夫は、救いがたい自己顕示欲の持ち主を「自己顕示症」とさえ呼んだほどです。

この自己顕示症を発症した人は、必然的に空気の読めない、もしくは読もうとしない人を意味します。
それも理で、空気なんぞ読んでいたら、どうしたって遠慮というものが必要になってしまいますから、そんなものは邪魔でしかなく、この手の神経の持ち主にはなんの意味もないことでしょう。

動物と同じで、必要ない機能は大自然の摂理にしたがって、さっさと退化してしまうということかもしれません。

いろんなところにこういう人は出没するものですが、だいたい人の集まりのようなところにやってきて、のっけから腕自慢をやったり、自分の力の誇示に熱中するような人は、その人間性や感性においても、おそらくは孤独な人であることが読み取れます。

そもそもの目的が、人と交わり仲間の親交を深めることよりも、喝采を浴びることなんでしょうから、自分の崇拝者は欲しくとも、対等の関係が基本である仲間はもともとご所望ではないのかもしれません。
こういう人は、概して日ごろはかなり満たされない毎日を送っているはずで、そういうものに対するいわばうっぷんを晴らしをせんがためにも、ときに快感に酔いしれる非日常を求めて彷徨っているのでしょう。

遠慮や協調というようなものはいささかも持ち合わせがなく、ひたすら隠し持った野心を道連れに遠路をものともせずに動き回り、さて自分の姿がどんなふうに映っているかはまったくわかっていません。

自慢はすればするだけ効果を上げ、周りは感心し、そのたびに尊敬を集めるとでも思っているのでしょうね。
こういう人こそ、人の心の奥深さとか本当の怖さをろくに知らず、ひとり優越感に浸ったり、周りを見下したりしているつもりでしょうが、実は自分のほうが遙か浮いてしまっていることには、ほとんどウソみたいに気が付かない鈍感人であったりします。

そもそも少年野球にひとりだけ大人のプレイヤーが入って、その技を見せつけるようなことをして何が楽しいのか、こういう幼稚な心理には、到底理解の及ばないものがあります。

最近は「どや顔」という言葉が流行っているそうですが、巷にこういう人が増えているということかもしれません。

なにぶんにも本人が気付くしかないことなので、ほとんど改善の希望は持てません。
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ヴァイオリンの謎

数ある楽器の中でも、ヴァイオリン族ほどピンキリの甚だしい価格差があるものもないでしょう。

代表的なヴァイオリンは、普通の入門用楽器なら10万円以下からごろごろあるいっぽうで、頂点というか雲の上に君臨するのが、ストラディヴァリウスやアマティ、グァルネリ・デル・ジェスのような約300年前のクレモナの名工達が製作した最上級とされる楽器ですが、これらの価格はますます高騰し、それらと廉価品の価格差は数百倍から下手をすれば千倍にも達します。これはちょっとピアノなどでは考えもつかない世界です。
こうなると、とうてい普通の演奏家が購入できるものではありません。

かつてヴァイオリニストの辻久子さんがストラドを買うために、家屋敷を売り払ったことが大変な話題になったことがありましたが、それでも当時は億などという単位ではありませんでした。
また同じくヴァイオリニストの海野義雄さんは、高価な楽器を万一の交通事故から守るという目的のために、当時最高の安全性を誇っていたメルセデス・ベンツに乗っていると豪語しておられました。
本当にそのためのメルセデスかどうか、真偽のほどはわかりませんが、ずいぶん昔の話ではあります。

いっぽうでは旧ソ連は国家がいくつかの名器を保有し、それに値すると認められた演奏家には無償で貸与されるという社会主義ならではのシステムがありました。
オイストラフの愛器も国家所有のストラディヴァリウスで、彼の前に使っていたのがあの数々の名曲を残したヴィエニャフスキ、そしてオイストラフの死後にこの楽器を貸与されたのがわずか10代の神童ヴァディム・レーピンでした。

これは数あるストラディヴァリウスの中では特段の名作というほどではないのだそうですが、オイストラフやソ連時代の若きレーピンの奏でる、一種独特なややハスキーな、そして抗しがたい悪魔的な音色は聴く者を総毛立たせた特徴のある楽器です。

それにしても、いかに素晴らしいとはいってもなぜここまで高額になるのか、この点は解せないものがあるのも正直なところです。
ヴァイオリンの構造図を見てみると、ただただ驚くほどにシンプルで、f字孔が開けられた「表板」と裏側の「裏板」それを支える「側板」、中に突き立てられた「魂柱」が本体で、これに「ネック」という左手で持つ部分、それに「スクロール」という上の渦巻き状の部分があるだけで、そこに「駒」を介して4本の弦が張ってあるに過ぎません。

ピアノの複雑で大がかりな構造と較べると、まさにあっけないほどに究極の単純構造で、ここからあの艶やかで何かがしたたり落ちるような美しい音色が出るのかと思うと、いやはやすごいもんだと思ってしまいます。
もちろん楽器の価値というのは、大きさや複雑な機構や、ましてや原価がどれだけというような次元ではないことは百も承知ですが、それにしてもそのハンパではないウソみたいな価格はやはり驚かずにはいられません。

それに弦楽器にはピアノとは違って盗難や破損といった問題が常につきまといます。
ヨーヨー・マがストラディヴァリのダヴィドフという名高い名器(前の持ち主はあのジャクリーヌ・デュプレ!で、チェロはヴァイオリンに較べて数が少ない)をニューヨークのタクシーに置き忘れたというのは信じがたい話ですが、ともかくこういう事がある楽器というのも気の休まるときがないのではないでしょうか。

そして時にはジャック・ティボーやジネット・ヌヴーのように、所有者が遭遇した事故と共にこの世から楽器が消え去ることもあるわけです。

ピアノには持ち運びができないぶん、盗難や紛失の心配がないのはずいぶん気楽なもんです。
逆に建物が焼失崩壊するような災害にはなす術がありませんから、まあ一長一短といったところでしょうか。

ともかく、これらの昔の最高級のヴァイオリンは謎だらけで、どこかオカルト的で恐い感じがします。
そこがまた抗しがたい魅力なのかもしれませんが。
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蜘蛛の卵

今年の梅雨は例年にない厳さで、日ごとに残り少ないエネルギーをさらに奪い取られるようです。

とにかく連日の蒸し風呂状態で、室内を快適にするには、間断なくエアコンの力を求めなくてはいけないようです。
序盤からこんな厳しい季節となり、節電なんぞと言っていますが、現実にどうなるのかと思うばかりです。

とくに高齢者の熱中症などは最も懸念される事らしく、予定通りの節電が実行されるとなると、ほぼ確実に従来とはケタの違う死者などが出るという見通しだそうで、すでに一部の有識者などは、これはれっきとした「未必の故意」であり、人災であると言っていますが、尤もな話です。
とにかく大変なことになってきましたが、日本は「流れ」ができるとどうにも恐い国です。

さて、愛するピアノの健康のために敢行した、ダンプチェイサーの取り付け及びその他の要因から喉を痛めてしまい、いまだに完全回復に至ってはいないマロニエ君ですが、またぞろヘンテコな被害に遭いました。

この時期から夏場にかけて、蜘蛛の繁殖の季節となるようで、家の軒下などには場所によっては不気味な卵を産み付けられてしまいます。これがいったんコンクリートなどの地肌にこびりつくと、生半可なことでは除去できません。

我が家でも玄関を出てすぐの軒下など、ちょうど上を見上げたあたりにこれがポツポツこびりついているので、通るたびに早くなんとかしなくてはと思いつつ、この暑くてベタベタする最中にそんなことはしたくもなく、先送りしていたのですが、いつかはやらなくてはいけないことなので、過日ついに思い切ってこれの除去作業に着手しました。

ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、この蜘蛛の卵というのはまるで接着剤でがっちりくっつけたように、見た目以上にしっかり固着しており、ほうきの先で払ったぐらいではビクともしません。

もちろん殺虫剤などどんなにふりかけたところで、仮に中は死んだにしても、表面は頑として残ります。
これを完全に除去するにはこそぎ落とすしかないのですが、気持ち悪くてタワシなども使う気になれず、とうとう考えたのが物差しぐらいの長さの木の棒を使ってゴリゴリやるというものでした。

幸い適当なものがあったので、これでなんとか作業をしたのですが、奮闘の末にやっと終わって家の中に入って間もなくのこと、両腕がチクチクと刺激的な痛みを感じました。
とっさに、蜘蛛の卵からパラパラと粉みたいなものが落ちてくるのが肌に触れたことを思い出し、あわてて両腕を石鹸で洗いましたが、もう間に合いませんでした。

痛いような痒いような、極めて不愉快な無数の刺激が両腕を襲い、仕方がないので気休めに虫さされ用の液体ムヒを塗りまくりましたが、これも効き目がなく、ついにはそのまま様子をみることにしました。
刺激は数時間で治まりましたが、しばらくすると皮膚に赤い斑点が出てきて、蜘蛛の卵から飛び散った何かがこれを発症させたのは疑いもなく明らかでした。

この赤い斑点、夜にはより色鮮やかになり、手当たり次第にそのへんにある薬を塗りますが、なんの効果もありませんでした。
相応の痒みもありますが、これはもはや時間が解決するほかはないと観念しました。
ところがこれ、かなりの強者で、赤味が退きはじめるのに丸3日かかり、尚現在もまだきれいに消えてはいません。
家人に言わせると、そんな事をするのに、長袖や手袋などの防御もしなかったマロニエ君の短慮こそ反省すべきだそうで、つまり当然の報いで自業自得だということですが、まあその通りでしょう。

一種の毒素なのか何なのか…これだから不気味な虫など大嫌いです。
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好みの封印

他人と接触する際には慎重にならないといけないことがいろいろとあるものですが、マロニエ君はこの歳になってもまだまだ油断だらけで、後から反省することしばしばです。

たとえば、いろんな人と雑談をする折は、その雑談内容と雰囲気にもよりますが、あまり軽々しく自分の好みや考えを明かしてしまうのはどんなものかと思うようになりました。
というのも、マロニエ君はわりに好き嫌いが強いほうなので、とくに嫌いなものは徹底的に嫌い抜く場合があり、そういうものが話題にでると、つい反射的に拒絶の反応を起こしてしまいます。

もちろん状況次第で、どんなに自分の考えや好みを言おうと一向に問題ないこともありますが、音楽の話などでは、自分の好みをいち早く表明するのは、やっぱりよくよくの注意が必要だと思います。
とくに自分が嫌いなものの場合は、その注意の度合いも高める必要があるということでしょう。

嫌いな作曲家、嫌いな作品、嫌いな演奏とか演奏家、そしてその嫌いの理由も何層にも積み重なった理由と根拠があって、若い頃はそこに意思表示をしないでいることは、自分をも裏切ることのように思い詰めることがありましたが、最近はさすがに歳のせいか、そんなに力み込んで事を荒立てることもないと思うようになりました。

むしろ、こちらとしては単なる自分の好みではあっても、場合によってはそれを聞いた人は、自分自身が否定されたように感じさせる危険もあるでしょうし、下手をすると相手を傷つける可能性もあるかもしれません。

それよりは、その場を柔軟にやり過ごすことの方が意味がある…といえば、なんだか生悟りのきれい事のようですけれど、マロニエ君の場合は実はそれでもなく、言い方を変えるなら、何かを犠牲にしてまで己を貫くことがだんだん煩わしくなったわけです。
敢えて頑張るに値するような重要な場面でも顔ぶれでもなし…という思いでしょうか。

もちろんよくよくのことならその限りではありませんが、よくよくのことなんて、そうざらにあるわけでもなし。
さしものマロニエ君も、ここにきて現実的な算盤をはじくようになり、そこでヘラヘラと笑みでも浮かべておいてその場が平穏に通過できるなら、それはそれで自分も楽だという、甚だ狡くてなまくらな考えが浮かんでくるようになりました。

まあ、ひとつには一人で奮闘したところで、どうせこちらが期待するような理解も得られず、自分のほうが浮いてしまうだけという現実感も後押ししてのことですが。

これが丸くなるということなのか、はたまたただの堕落なのか、諦観なのか、韜晦なのか、そのへんはよくはわかりませんが、まあとにかく好き嫌いぐらいで要らざる波風を立てることもないと思うようになったということです。

ひとつには、たまに主張めいた人の熱心な(そして野心的な)発言などを聞いていると、その内容よりも、ずいぶんと必死で余裕のない人間の、いかにも滑稽な姿を見ることになり、それが反面教師として機能しているということも、もしかしたらあるかもしれません。

とりわけ周りに聞かせることをじゅうぶん意識した上で発せられる言葉や知識の披瀝は、聞かされる側は痛いほどにその心底が見えてしまい、なんともいたたまれないものです。まあ何をどう妥協しても、努々そんな姿だけにはなりたくないという、これは自衛本能なのかもしれません。
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忍耐の名工場

車の仲間の行きつけの、ちょっと変わった修理工場があります。
ここはいわゆるヨーロッパのあまり一般的でない車ばかりが集まってくる、知る人ぞ知る整備工場で、昔からここを頼りにしているディープなお客さんががっちりとついています。
宣伝はおろか、看板のひとつもありませんが、それでも年中つねに順番待ちになるほど「入院患車」がひきもきりません。

工場内にある車は、ふだん路上で見かけることはほとんどないような主にイタリア/フランスの珍車ばかりで、レアなコレクターズカーみたいなものがここではごろごろしています。

とくにマイナーなラテン車の世界ともなると、それぞれが常識にとらわれない独創的な設計とか特異な構造になっていますから、修理の仕方もよほどの心得と経験がないとなかなかできることではありませんし、パーツの発注ひとつにしても日本車のようにきれいに整理・管理された世界ではないので、すべてが手間暇のかかる仕事となるのです。

ここのご主人はその点で正に名ドクターなのですが、昔から弟子を取らない主義で何から何まですべて一人でこなす変わり者です。
とはいっても接する限りでは、とくだんの変人とか恐い職人肌みたいなタイプではなく、愛嬌もありむしろ丁寧で礼儀正しいほうの部類ですが、それはあくまでもうわべだけの話。
このメカニックと付き合うとなると、それはもう並大抵ではない試練と苦労が伴います。
この人、あくまで自分のペースで仕事をするのが好きなのか、それでしか仕事ができないのか、そこのところはわかりませんが、それを維持するための流儀には凄まじいものがあります。

その最も変わっている部分は、仕事が立て込んでくると一切連絡がつかなくなる事です。
どんなに約束していても、再三のお願いをしても、この状態に突入するや、こちらから何度電話しても決して電話を取らないのです。固定電話も携帯も一切関係なく、すべてが完全な無視で、まるで俗世間を完全に遮断するごとくです。
出ないとなったら徹底的で、その思い切りの良さときたら、世間やお客さんに対して、よくもそんなことをする度胸があるもんだと感嘆させられるまでに徹底しているのです。
この人に限っては、仮に誘拐とか失踪など事件に巻き込まれても、おそらく数ヶ月は誰も気が付かないでしょう。

非常手段としてはファックスを送り付けたりもしますが、それが役に立つことは5回に1回ぐらいしかありません。
それが1日や2日ならともかく、ときには何週間もその状態になることも珍しくはなく、それでも連絡したいお客さんのほうが辛抱強く電話をかけ続けるという異常事態が続きます。
出ないことがわかりきっている番号へ、ひたすら電話をかけ続けるという、まるで消耗戦のような毎日が続きますが、それで途中で諦めたり憤慨したりすれば、ハイそこまでというわけで、むこうは痛くも痒くもないわけです。

つまり、強いのは圧倒的に工場側というのがここのお客さん達の置かれた明確な立場なのですが、それでもお客さんが途絶えることはなく、次から次に問題を抱えた変な車が彼の手を頼って入庫を待っているのです。

日本車(そもそも故障もしないが)や、それに準ずるドイツ車の確実なメンテを当たり前だと思っているような人は、おそらくいっぺんで発狂するか掴みかかって首でも絞めてやりたいほどの怒りと屈辱を覚えるはずで、果ては、それで車さえ手放す立派な理由にもなるだろうと思います。

ところが困ったもので、趣味というのはこうした困難もどこか自虐的な楽しさに繋がっているのかもしれません。
ここのお客さん達は、もしかするとこんな苦行僧のような仕打ちまでも、ひとつの快感にまで到達しているんじゃないだろうかと思ってしまいますが、マロニエ君の場合は心の修行が足りないのか、さすがにそんな心境にはなれず、ただひたすら忍耐これ一筋というところです。

馴れとはおかしなもので、ちょっとした町の行列でも忌み嫌うマロニエ君が、ここ相手の場合のみ、まったく意識を切り替えて、この非常識に耐え忍んでいるのですから、なんという健気さ麗しさ…自分で自分を褒めてやりたいです。

それでも目出度いことに、つい先日から我が愛車はここに入庫の運びとなり、今は出来上がりを待っているところです。
週末にはやや遠方にでかけるので、それに間に合えばと目論んでいたのですが、さすがにそれは甘かったようで、いつものコンパクトカーで行かなくてはならないようですが、まあ仕方ありません。
入庫した以上は向こうも仕事をしないと車を出せないわけですから、こうなればこっちのものです。
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ネットオークション?

報道などですでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスの1挺が、東日本大震災の復興のために売りに出され、これがなんと過去最高額で落札されたようです。

日本音楽財団は文化庁文化部の芸術文化課が管轄する公益法人で、十数挺のストラディバリウス等を保有しており、これらの楽器を芸術家や音楽家など、それを演奏するに値すると判断された人に、無料で貸し出しているそうです。
むろん非営利団体であり、1974年の開設いらい楽器を売却したのは今回が初めてということです。

ストラディヴァリウスにはそれぞれの楽器に、過去の所有者やエピソードなどから取った様々な名前が付けられており、今回売り出されたのは「レディ・ブラント」という世界的にも極めて有名な楽器です。
この名は、英国の詩人バイロン卿の孫であるレディ・アン・ブラントがこれを30年間所有したことに由来していますが、この楽器を有名にした最も大きな特徴は、ほとんど使われていない極めて保存状態の良いストラドだということです。
1721年製とありますから、ストラディヴァリ77歳頃の作ということになり、彼は不思議な人で人生の後半から晩年になるほど多作になるのです。

ほかに未使用に近いストラドとしては「メシア」という名で呼ばれる楽器が有名ですが、約600挺といわれる現存するストラディヴァリウスの中でも、これほど使い込まれていない楽器は片手で数えるほどあるかないかでしょう。

そんな貴重品の中の貴重品である「レディ・ブラント」を売りに出したというのは、どんな経緯があったのかは知る由もありませんが、おそらくは大変な決断だったと思います。
もしかすると、文化の名の下に高い楽器ばかり買い集める同財団へ、なんらかの批判や圧力などがあったのかもしれず、そういう力に押されてのことだったのでは?と思うのは考えすぎでしょうか。

ネットの情報によると、日本音楽財団がこの「レディ・ブラント」を購入したのが2008年のことだったそうですから、わずか3年ほどの日本滞在だったということになるのでしょうか。

ともかくこれが、ロンドンの楽器の競売会社タリシオが主催するネットオークションに出品され、匿名の入札者によって、なんと980万ポンド(約12億7千万円)で落札されたというのですから、驚くばかりですし、いかにこれがストラディヴァリのヴァイオリンの中でも格別の一台とはいえ、この凄まじい価格は狂乱的な気がします。

しかもこれ、ネットオークションというのがさらなる驚きで、ヤフオクのようにこの落札者はモニターを見ながら、自分の指先でカチャッとクリックして入札したのでしょうか!?
ちなみにこれ以前の最高額は約4億ということですから、「レディ・ブラント」は一気にその三倍以上の値を付けたことになります。

ここまで来ると、もはやその額に相当する価値があるのか否かなど、考えることさえナンセンスでしょう。

ちなみに、日本音楽財団の所有楽器の資産額合計は、約95億円なのだそうで、およよーんですね。
ずば抜けたヴァイオリンの才能があって、めでたくこういう機関や団体から楽器を貸与される幸運に恵まれても、これでは保管や移動など、ほとんど気の休まるときがないでしょう。
心配でうかうかトイレにも行けない気がします。
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男はケチ?

最近しみじとわかったことがあります。

ごく一般論として、男と女とではどちらがケチかというと、それは公平なところ男だろうと思います。
むろんこれは個人差の話ではなく、中には気前のいい男性もいればケチな女性もいることは百も承知ですが、それでもやっぱり全体として見た場合、男のほうが体質的にケチだというのが結論です。

買い物ともなると財布の紐は平均的に堅く、なかなか購入という現実行動に入らない人は実に多いものです。
お金を使うことは多くの場合、苦痛もしくはすこぶる慎重で、自分の財布からお金が出ていくことが本質的に嫌らしい。
その点では、女性のほうが目的に対しては飾らず正直で一直線、度胸と一途さがある人が多いと思います。

なにが一番違うかというと、男はとにかくあれこれと比較検討するのが好きですし、その段階からすでに楽しんでいるということもあるでしょう。これはマロニエ君も思い当たるところがないわけではなく、買い物を前提とした下調べというのには一種独特な楽しさがあるもので、とくにネット社会になってからというもの、それが安易かつ網羅的にできるようになりました。

こういう調査を通じて、いろいろな良し悪しの実情を知ったり、付随的に知識が増えたりすることもあれば、マニアックな心理を満足させられたりと、購入に際しての調査には有効かつ興味をそそられる面があるのは認めます。
しかし、初手から絶対に損をしない確実な買い物がしたい、しかもできるだけ安く、それでいて人も羨む本物が欲しいという甚だ虫のいい魂胆を垣間見ることがあるのです。

気持ちはわからないではありませんが、ものには自ずと限度というものがあり、この手の調査をやりすぎる、あるいは検討時間がやたら長すぎるのは、隠された本音を疑ってみる必要が出てくるわけです。
つまり、そもそも買う気があるのか…これが甚だ疑わしくなってくる。

このタイプは「買う」という大前提を打ち立てておいて、それにまつわる会話や時間そのものを楽しんでいるという、まことに安上がりの悦楽に浸っている場合が少なくありません。
しかも最終的な決断を下す決定権は、自分の買い物である以上、当然ながら自分ひとりが握っているわけで、ここはいかなる余人も手出しのできない領域というわけです。こういう現実が、一種の自在感をもたらし、ささやかな権力志向にさえ繋がって、当人はその快感に酔いしれ、なかなかやめられないでいるようです。

マロニエ君の友人に言わせると、彼らはあくまでも未定の、将来の、責任の発生しない話題(しかも話だけならタダの)をふりまいて人の関心を引き寄せて、その話の主役となり、まわりの反応を「おかず」にして楽しんでいるのだといいます。

こういう人は小心者のくせに見栄っ張りで、なにかといえば言い訳が多いのですが、それもまた男によくある特徴といえばそうなのかもしれません。やたら裏事情などが大好きで、己一人がいつも賢い目線のトークを繰り広げるのですが、かえって他者の目にはその人が小さく滑稽に見えてしまうものです。

まさに1円の出費もなしに話の世界を飛び回り、虚構の快楽を楽しんでいるわけですが、だいたいこの手はいつまで経っても買うことはないので、そのうち誰からも本気で相手にされなくなります。
しかも、今どきは表だって追求するようなことはしませんから、本人はいつまでもそこのところに気がつきません。

こういう人はどこにでもいるもので、マロニエ君も以前は本気になって話に乗せられていましたが、だんだん鍛えられて最近では真贋を冷静に見定め、そのいなし方もわかってきました。

本気で買う人は、はじめから意気込みなどに現実感と迫力があり、どこともいえず違うものです。
どれを見ても気に入らなかったり、あれこれ注文の多い人というのは、概ね「買わない理由を探している」のです。
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食べるスピード

マロニエ君はダイエットなどということは、もともとあまり好きではありませんし、とりわけ女性が挑むダイエットにはどうしてそれ以上痩せなきゃいけないの?といいたくなるような、甚だ同意しかねるものがありますので、ダイエットそれ自体に大いなる疑問を持っている部分さえあります。

もともとマロニエ君の父方の家系は概ねスリム体型で、男性陣は細身なことを少し恥ずかしくさえ思っているフシがあったぐらいなので、これまであまり真剣にダイエットという事を我が身の課題として深く考えたことはありませんでした。

しかし、運動不足&飽食の報いというのは、スリム体型であっても確実にその魔の影が射してくるものらしく、このところこれはちょっと…と思われる現象がやはり起こり、ようやく危機感が募ってきました。

しかし、それでも本格的なダイエットなど頭っからする気はなく、まずは食事の量と、しばしば口に入れてしまう間食夜食の類を見直すことから着手することにしました。

マロニエ君はもともとそんなに大食いのほうではないのですが、食べることは大好きで、よく考えてみると日常的に間食をしたり、ちょっと残しても仕方がないというようなつまらない理由で、本来の自分の適量より多く食べてしまう事が折々にあることを反省しました。
さらに、知らず知らずのうちに食べる速度も若干ながら上がっているような気がします。

まずはここに着目、少なくとも食後にポンと腹を叩くような満腹はしないように心がけます。
これは、はじめこそちょっともの足りないような気がしますが、聞くところによると満腹中枢が働くのは食後15分ほどしてからだそうですから、ゆっくり食べれば食べるほど満腹感が増してきて、無理なく食べ過ぎないようにすることが可能だということがわかり、3日もするとこのリズムに慣れてしまいます。
これでも最終的にはじゅうぶん満腹感が得られるので、とくに努力らしい努力をしている実感もないまま、わずかながら食事量をカットすることができて、それだけの小さな結果がさっそく出てきました。

食べる速度が速いと、必然的に量もアップすることもあるみたいです。
それで思い出しますが、ときどき外食することがありますが、店によっては仕事帰りの男性などが来ていて、その食べっぷりの早さといったらもう神業のごとしで、見るたびに呆気にとられてしまいます。
大方のパターンは、こちらより後から来て、こちらより多く注文して、そしてこちらより遙かに早く食べ終わり、気がついたときにはもうその姿もありません。

数人できていても、けっこうワイワイしゃべったりしながらも、しっかり食べることには余念がなく、ガッツリと逞しく食べています。
そしてあっという間の完食で、それがとなりのテーブルだったりすると、ついそのパワーには圧倒されて、こっちの食べる気力まで奪い取られるようです。

短い休憩時間に社員食堂などで手早く食べざるを得ない環境にあると、自然にあんな芸当ができるようになるのかと思いますが…。

あのスピードじゃあ、そりゃあ食べる量も進むだろうと思いますし、場合によっては、さらに酒が入り、タバコが入り、日中は息つく暇もないほどの激務とくれば、そりゃあまあ病気のひとつもするだろうと思います。

おまけにTVによると、最近の日本人の人気の食べ物トップは、とにかく「揚げ物」なのだそうです。
嫌いではないけれども、とても毎日なんて食べられないマロニエ君などから見ると、ひええ…という感じです。
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宅急便

つい昨日のこと、朝早くに宅急便(むかし飛脚マークの)がやってきたのですが、ちょうどタイミングが悪く、そのとき家人は着替えをしている最中だったようです。インターホンにはかろうじて出たものの、すぐに行くので2〜3分待って欲しいと告げたそうです。

すると相手は「それはできません」ときっぱりいうのだそうです。???
再度、急いで行くのでちょっとだけ待ってください、すぐに行くからと言っても、相手は頑として聞き入れず、他にも回るところがあるから待つことはできないとにべもなく断り、一方的に「ではまた午後にもう一度来ます」と言って去って行ってしまったそうです。

またまたマロニエ君はその場にはいなかったのですが、家人はたいへんな憤慨の様子で、だれでもそれぞれに生活をしているのだから、そんなに宅急便の都合の良いようにいつ何時でもスタンバイができているわけがないし、勝手にやってきておいて、たまたまこちらがパッと出られなかったからといって、静止を振り切ってまで立ち去ってしまうとは納得できないといいます。

たしかに宅急便の仕事も大変で、次から次に荷を届けなくてはいけない激務なので、一件に時間がかけられないことはじゅうぶんわかるのですが、これはいくらなんでも極端すぎるように感じました。
しかも午後にまた来ると言ったきりで、何時ごろという具体的なことも言わなかったそうですから、おそらく12~13時の間には来るものと思っていました。

ところが一向にその気配もなく、そうなるとこちらは時間のわからない相手を延々と待っていなくてはいけない状況になりました。

それにしても着替え中の相手の2~3分でさえ待てないほど自分の都合を優先するわりには、相手には午後とだけ言い置いて再訪する時間も告げていないとは、なんという身勝手かと思いました。
14時に近づき、これではうかうかインターホンの聞こえるエリアを離れることもできません。

とうとうマロニエ君が近くの近くの営業所に電話してこの事を伝えると、電話に出た相手はたいそう恐縮していて、厳重注意するとのこと。そして、すぐにドライバーに電話をして訪問時間を連絡させますということでいったん電話を切りました。

当然、電話がかかってくるのかと思っていると、よほど近くにいたのか、なんと、ものの1分ほどでピンポンが鳴り、さっきの男性がやってきたようです。
さすがに上から叱られたようで、平身低頭の態だった由で、なんでも1ポイント減点されたと言っていたそうです。

それでわかりましたが、今どきは宅急便の配達員も会社から個人別のポイントを加減をされ、それが勤務成績に繋がる時代のようです。
勤務成績がどうなのかは知りませんが、地元の電力会社に勤務する友人は、なんと、このタイミングで7月から東京転勤だそうで、東電の社員でもないのに、なんだか無性に気の毒になりました。
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やめられない人

マロニエ君のような飽きっぽい怠け者からみると、世の中には、別人種とでもいいたくなるような驚くばかりの強靱な意志力とか持続力を持つ人がいるものです。
そしてこういう人達には、相応の行動力も兼ね備わっているものです。

以前はただ単純にその意志力、行動力を不屈の精神のように感じて素直に敬服していましたが、これがよくよく見ていると、中にはどうも褒められたことばかりではなくて、そこには別の力が働いていることがわかります。

それは何かというと、人間のもつ欲望や劣等感がひきおこすところの執着心が発する怨念のような意志や行動であり、その思い込みや目的に囚われるあまり、逆に自由のない浅ましい人の姿であることがわかりました。
しかもそれが、一見そうとはわかりにくい、体裁のいい建前のベールを被っている場合のなんと多いことか!

「言うは易し、行うは難し」とか「継続は力」などといいますが、それは本当に有意義なこと、建設的なことを必要だと正しく認識し、真っ当な意志の力によってそれを達成している人をいうのであって、裏を返せば必要がなくなればいつでも中止する準備のある人のことだと思われます。

欲望を源泉としたところの努力は、努力は努力でも、動機がそれでは感心するには当たりませんし、その努力の姿に美しさがないものです。

結婚願望や病的に子供を欲しがる人、手段を選ばぬ出世欲や金銭欲、根底に流れるブランド指向など、己の欲望のために何がなんでも目的を手中に収めたいという露骨な思い込みは、さらなる欲望、際限のない欲望に転じ、端から見ていてあまり眺めのいい光景ではありません。

当人はずいぶん必死なようですが、要はただの卑俗な欲望の奴隷に身をやつしてということに、自分ではなかなか気がつかないようです。これが時として大変な努力家のように見えたり、どうかすると称賛の対象に間違えられる場合さえあります。
というのも、これらは正統な努力の姿とひじょうに姿形が似ている場合があり、そこに文句を言わせない建前をドンと立てておけば、とりあえず表向きの非難からは除外されるという性質を持っていますし、とりわけ建前に弱い現代では大手を振って横行しているようです。
そして、音楽の世界にもこの手合いが少なからず棲息しているのはいうまでもありません。

こういう大義や隠れ蓑を持った欲望・野望は、幼稚でわかりやすい欲望よりもはるかに悪質だと思うのです。
ワガママでも欲望でも、本人がそれを自覚し、人目にもすぐにそれとわかるものはまだ救いがあるものです。

マロニエ君ももちろん人並みに欲望はありますから、自分だけは別だというつもりはないのですが、やはりちょっと(というか到底)次元が違うと思うのです。

本当はもっと具体的なことを書きたいところですが、いろいろと障りもあるので具体例が引けず、もってまわったような表現ばかりになるのが残念です。

現在のやめられない人の最高峰は、もちろん我らが首相であることに異論はないでしょう。
この超人的な粘りは、まるで毎日がギネス記録のようです。
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疲労困憊

昨日はピアノクラブの定例会でした。

このところ新しい方も増えて、以前に較べるとずいぶん大勢の集まりとなりました。
いっぺんにお顔と名前を覚えるのも大変なので、今回は名札を作って各々胸につけてもらうことになりましたが、やはり新しい方が急に増えると、なんとなくこれまでとはまた違った雰囲気になってきたようです。

定例会そのものは15時〜18時でしたが、終了後は徒歩で移動して博多駅エリア内のとある居酒屋での懇親会となりましたが、マロニエ君はここでとんだ状況に陥ってしまいました。
懸念された大雨にはならずに済んだものの、終始天候が悪くムシムシベタベタ、ヤマハの空調も劣悪で、それだけでも苦手だったのですが、懇親会の席についたころから喉の調子がおかしくなり、その症状はみるみる悪化していき、ものの30分ほどで、ほとんど声が出ないまでにかれてしまったのには参りました。

せっかくの懇親会で、新しい方ともいろいろな話ができるチャンスだったのですが、とうてい会話ができる状態ではなく、終わりまでほとんどを押し黙ったまま過ごすという、なんとも辛い状態になりました。
マロニエ君はもともと気管支が弱いのですが、いろんな悪条件が重なったのだろうと思います。

湿度もその一因です。
ふつう湿度といえば低いほうが喉には悪く、高い方がいいというのが一般常識だと思いますが、マロニエ君の場合は逆で、多湿な場合はかなりはっきり呼吸器にダメージが来てしまいます。
病院でそのことを言うと、多湿との因果関係はまず考えられないと医師に言われていますが、やはり本人が言うのだから間違いなく、それから数年経ちますがやはりそういう体質というのは変化がありません。

もう一つはストレスで、よせばいいのに苦手な居酒屋にいったばかりに、その猛烈なやかましさとアルコールの漂う空気の悪さにはどうしても馴染めず、このときばかりはファミレスが天国のように思えたものです。
やはりどんなに努力をしても無理なものは無理だということがわかりました。

さらに思い当たるのは、前夜、明日が定例会だというのにまったく練習もしないで、届いたばかりのダンプチェイサーの取り付けに夕方から没頭していたのですが、これがかなり響いたようです。
ピアノの下というのはどうしても掃除の状態がよくなく、目には見えないホコリなどもかなりあったのだろうと思います。ここで数時間、不自然な姿勢をしたまま必死になって、ああでもないこうでもないと格闘したために、相当無理をしたという自覚がハッキリありました。

ピアノ下は背骨を曲げないといられないところですし、そこで懐中電灯で照らしながら寝たり起きたり頭を打ったり、一度などは無理な姿勢の維持から体の左がひきつってしまい悶絶さえしてしまう有り様でしたが、マロニエ君も性格的にはじめた作業は終わるまで止められないのです。
ピアノの支柱の上面など、普段触れることもない場所には降り積もったホコリなどがあり、おそらく普段からは考えられない量のよろしくないものを吸い込んだと思われ、呼吸器の弱い自分としては自己管理という点で、甚だ不手際だったと反省しています。

我が家には2台ピアノがあり、サイズが大きいほうには二つ必要ということで、合計3台取り付けることになり、これを一気にやったものだから、結果的にそうとう無理をしてしまったようです。
しかもさっそくスイッチを入れたところ、ほどなくすると猛烈に気分が悪くなって体調が悪化し、おかげでろくに眠ることもできませんでした。

これ、たぶんハウスシック症候群みたいなもので、大型電気店にいくとわりにこれと同じような不快感に見舞われます。
友人の見解によると、電気製品に使われる科学的な素材や塗料や接着剤が、スイッチが入って加熱されることで、あたりにその害を撒き散らすとのことでした。ダンプチェイサーはそれ自体がヒーターなので発熱するのは当然というわけです。
この点は、一日経つとずいぶんマシになりましたので、この現象ははじめだけだろうと思われます。

それにしても、昨日眼鏡が合わない話を書いたばかりだというのに、マロニエ君的にはさらに苦手なことばかり折り重なってしまったトホホな一日でした。
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車とメガネ

車を12ヶ月点検に出したので、一晩代車に乗ることになりました。
代車で届けられたのはスズキのスプラッシュというコンパクトカーで、これはたしかハンガリーかどこかで生産されている車ですが、基本的にはよくできているものの、マロニエ君はあまり好きではありませんでした。

マロニエ君は実はオートバイ出身で、昔はかなりスポーツカーにも乗ったせいか、タコメーターがないというのはどうにも落ち着かないというか、それだけで車そのものまで信用できなくなります。

その点は割り切るとしても、いちばん辛いのは、スピードが出ると車全体がドラミングという風切り音の大親分みたいな音に包まれて、それが脳天に達するもので、まずこれですっかり疲れてしまいました。

このドラミングというのは経験的にワゴンやハッチバックタイプのボディ形状の車にしばしばあることで、かのメルセデス・ベンツでさえ、ワゴンタイプにこの現象がはっきり感じられる場合があります。
また、一般的なセダンでも後ろの窓だけを開けて走ったりすると、車内への風の巻き込み具合でやはりドラミングが起こり、バタバタとまさに怒濤のような音と圧迫感が脳天に押し寄せます。

窓を開けたときに出るドラミングならば窓を閉めれば済むことですが、ボディの構造自体から出てくる場合は解決のしようがないので、新しく車を買う場合などはこの点をよほどチェックしておかないと、これが嫌な人は乗るたびに不快感に襲われて、せっかく高いお金を出して買った車が台無しになるでしょう。

もうひとつ疲れた原因は、点検に出した車の中にうっかり運転時に使うメガネを入れっぱなしにしていたのですが、夜はメガネなしでは危なくて運転できないので、やむを得ず古いほうのメガネを使ったのはいいのですが、これが要するに、もう自分には合わなくなっていたようでした。

実はスーパーに買い物に行ったのですが、運転中はそうでもなかったのに、車を降りて店内を歩いていると「あれっ??」という感じで頭がフラフラしはじめて、直感的にメガネのせいだとわかったのですが、まあそのうち治るだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが一向に治る気配はなく、店を出るころには普通に歩くのさえ辛いほど気分が悪くなりました。
少しでも頭を動かすと目を中心として体がグラグラするようで、これはまずいと思いましたが出先ではどうすることもできません。

もう一ヶ所、どうしても寄らなくちゃいけないところがあって、メガネなしで運転しようかと試みましたが、やはり夜はそうもいきません。だいいち借り物の車で事故でも起こそうものなら大変ですから、やはりメガネをかけて慎重に走りました。

ようやく自宅に辿り着いたときには全身がぐったりと疲れてしまい、ひじょうに気分が悪かったのですが、ともかく無事に帰ってきたことを良しとしました。
古いメガネはスペアーぐらいのつもりで、二つ持っている認識でしたが、もはやこれは使えないということが身をもってわかったという次第でしたし、車もはやく自分の使い慣れた車が戻ってきてくるのが待ち遠しくなりました。

ほんのわずかなことが人に与える影響というのは想像以上に大きいもので、平穏というものは実に微妙なバランスの上に立っているということをしみじみ経験してしまったというわけです。
もちろん、世の中にはそんなこと全然なんともないタフな人もいらっしゃるでしょうけれども。
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驚きの保証

マロニエ君自身が、ピアノに負けず劣らず湿度に弱いことは事ある毎に書いている通りです。
先日も知人3人で出かけ、目的地に到着後は総勢5人となりましたが、車の中も行き先でも、とにかく湿度が高くて気分はヘロヘロになっているのに、他の人はケロリとしているのは自分がひどく特種な気がしてしまいました。

車の中でも、どうやらエアコンのスイッチの実権を握るオーナーの問題は温度だけらしく、この日はわりに涼しかったばっかりにエアコンもOFFになってしまい、人の車に乗せてもらってあれこれ注文も付けきれず、じっとガマンで疲れました。
マロニエ君はとにかく暑いのと湿度がダメで、多湿な状態は苦手で疲れるだけでなく、どうかすると呼吸まで苦しくなるという肉体的苦痛まで発生することもあるのです。

そんなマロニエ君ですから、我が家の、とりわけ自室のエアコンはいわば命綱ともいえるものです。

今年もすでにエアコンのスイッチを入れる時期になりましたが、肝心のエアコンがまったく効かないわけではないものの、いまひとつパッとしません。はじめの1〜2週間というもの、なんだかおかしいと思いつつ様子をみていましたが、ついにやはりこれは正常ではないということに結論づいて、2週間ほど前にメーカーに修理依頼の申し込みをしました。

実はこのエアコン、機械モノのアタリハズレでいうとハズレの部類で、これまでにも何度か修理に来てもらっています。
そのたびに安くもない修理代を請求されていて、信頼性抜群のはずの日本製品も、あんまり大したこと無いじゃん!という気がしています。

さて、出張修理の当日、もうあと15分ほどで約束の時間というときになって、昨年テレビを買い換えた折にヤマダ電気の安心保証というのに加入していたことをふっと思い出しました。
逆にいうと、その瞬間まではこんなものに入っていることは、まったく思いつきもしませんでした。

それというのも、このエアコンはヤマダ電気で買ったものではないので連想としても結びつかなかったわけですが、この保証システムは従来の常識を覆すもので、たとえ他店で買った電気製品であっても長期間にわたって保証を適用できるという信じられないものでした。ようやくこれに加入していたことを思い出しました。

あわててヤマダ電気に電話してみると、修理受付の専用電話を教えられ、そこにかけるとマロニエ君の登録データがあることから、今日の出張修理も急遽この安心保証の扱いにしてくれることになり、とりあえずひと安心。

果たして、件のエアコンはかなり深刻な故障の由で、どうやらコンプレッサーというエアコンの根幹部分で最も高価な部分がダメになりかけているようで、これを交換するには10万近くかかるので、買い換えたほうが良いという話でした。
すかさずこの保証のことを告げると、買い換えの話は修理へと急転回し、そのおかげで料金の心配をせずに修理できるようになりました。

この日だけでもセンサーだの基盤だのと、これまでなかったような結構な部品交換をしましたから、これだけでもかなりの金額になるはずですが、メーカーの人は何も請求することもなく、ただどこかと電話連絡するのみで、サッと帰っていきました。
追っつけコンプレッサーの部品手配もするとのことですから、こっちは嬉しい前に唖然呆然です。

こんな状況を保証なしに聞かされていたら、この大事な時期を前に真っ青になっているところでしたから、これはもういっぺんに元を取ったどころではない展開になりました。
そして今日、ついに注文されたコンプレッサーが届いたとのことで交換が行われ、開始から実に3時間半の大修理となりました。
今回の修理だけで9万3千円という請求額だそうですが、それがなんと1円も出さずにすみましたし、メーカーの人からもこの保証に入っておかれてよかったですねぇ、としみじみ言われてしまいましたが、まったくその通りでした。

さすがのマロニエ君も、今度なにか電気製品を買うときは、これは義理にもヤマダ電気で必ず買わなくちゃいけないと思うようになりました。
それにしても本当に驚きました。
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知人達との食事を兼ねて、初めて新しい博多駅で数時間を過ごしました。

今回は阪急百貨店には行きませんでしたので、おもに東急ハンズを含むアミュプラザ博多周辺の印象になりますが、やはり話題のわりにはマロニエ君の好みではありませんでした。
全体に感じたことですが東急ハンズなどは、いわゆる低価格競争ではない路線を行っているぞといわんばかりの感じですが、本当にいいものというわけでもないのに、ちょっと上であるかのようなイメージ戦略のようで、却って中途半端だと思いました。

上階で食事もしましたが、さらにこの傾向は強まり、まことに思い切りの悪い中流志向の雰囲気だと思います。
値段はそこそこで、うっかり入れないような価格の店が何軒もあるかと思うと、ずいぶんくだけたものもあり、ようするになんの道筋も通っていないバラバラな印象です。
全体の雰囲気も、今どきの新しめセンスでまとめられてはいるものの、じゃあ本当の高級な空間かといえばまったくそうではないし、ここのコンセプトに見え隠れするものは、やってくる田舎の人達を相手に、博多の新スポットという上から目線の雰囲気を浴びせかけながら、ちょっと高いものを売りつけてやろうという魂胆が感じられて、ちょっと賛成しかねるものがありました。

東急ハンズもそれほど熱心に見たわけではありませんが、基本は概ね大衆品なのに、一般的平均よりちょっとお高いほうぐらいのものを集めて、ただ明るくきれいにディスプレイされているだけで、いかにも表面的でほとんど興味をそそられませんでした。
あれなら潔くホームセンターに行ったほうがよっぽど爽快ですし、あんな中からちょこっと何か買っていい気分になっている人がいるとすれば、それがまさに店側が狙っている客層ということでしょう。

もちろん全部すべてを否定するものではありませんし、中にはそれなりのものもあるはずだとは思います。
しかし全体を覆っている、中核をなす精神は、まさに今述べたようなもので貫かれており、却ってどこか貧乏くさい気分になっていまいます。

こう言っちゃなんですが、もともとマロニエ君は駅というものが好きではありません。
これは交通拠点としての駅ではなく、そこに相乗りした商業エリアとしての意味です。

駅はそもそも人がゆっくり寛いだり遊びに行くような場所ではなく、列車やバスの乗り降りという人や物の移動のための交通施設であって、せわしない、強いて言うと柄の悪いところだというのがマロニエ君の基本認識です。
周辺には飲み屋などがひしめき、駅そのものも何かの雰囲気を楽しんだり文化の香りのするところではなく、所詮は日がな一日人が行き交い、その無数の人達の土足で情け容赦なく踏みつけられる機能重視の場所、それが駅だと思うのです。

駅というのがそもそもそんなところなので、そこにどんなに現代的な、オシャレな、きれいな商業エリアを作ってみたところで、悲しいかな根底にざらついたものを感じてしまいます。
騒々しく、人の波が交錯するような場所で、どんなに高級店に入って食事をしてみても、存在している場所そのものがすでに駅なんだし、お店も一稼ぎしたくて話題のエリアに出店しているまでで、所詮はまやかしだと思います。
すぐ傍では、ひっきりなしに列車が発着し、それをめがけてバスやタクシーが際限もなく往来する、家でいえば駅は書斎でも応接室でも座敷でもない、所詮は下駄箱のある玄関にすぎません。

どんなに粉飾しようとも、それが駅である以上、そんな土足で踏み荒らす実用第一の場所だという事実は拭い去ることはできません。

マロニエ君はむかし横浜に住んだこともありますが、当時の横浜も商業的中心と横浜駅は二つがひとつで、とても落ち着きのない文化性の低い、ガサガサした騒がしいだけの印象がありましたが、新しい博多駅に行くと、ついそういう記憶が蘇ってくるようでした。
交通手段として博多駅を利用する人は別ですが、遊びに行くのは…1~2回行けばじゅうぶんです。
どんなにきれいなものを上に作って覆い被せても、駅というものの根底に流れる、粗っぽく侘びしい空気は変えられない気がします。
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まくら

マロニエ君にとって、どうしてもしっくりくるモノと巡り会えないものがあるのですが、それは枕です。

これまでに一体どれだけの数の枕を買ってみてはダメで、そのつど返品したり、そのままクッション代わりにしたりしたことか。いまでも物置には使わなかった新品の枕がいくつか転がっています。

現在使っているのは、とくにどうということもない物で、いつどこで買ったのかさえ思い出せないようなものですが、これが不思議に一番落ち着いていいのです。
しかし、なにぶんにも使用期間が長いので、そろそろ新しくしたいと思い始めて早、何年経つことやら。

つい先日もあるお店で、良さそうな枕があって、だいぶ時間をかけて眺めてはくどくどと触ってみたのですが、馬鹿みたいな話ですが、マロニエ君は枕を買うことが一種の恐怖症になってしまっていて、とうとう決断がつかずにこの時は買わずに帰りました。
しかし、やっぱりその枕のことが気になり、後日やはり買いに行きました。

そして、また同じことが始まりました。
家に持ち帰って、ビニールのケースに入ったまま、とりあえずベッドに置いてみるまでがドキドキです。

とりあえず横になった感じでは良さそうな気がしますが、結果はすぐには出ないのです。
5分、10分と時間が経つにしたがって、じりじりと真実が浮かび上がってきます。

その結果、少し固すぎることと、枕そのものが大きすぎることで、これもまたしっくりこないことがわかりました。
なぜかわかりませんが、売り場で手に取ってみるだけでは、これだけのこともわからないのです。
中は開けていませんので、やはりまた返品することに決定です。

こうなることは充分に予期しているので、レシートなどもむろんバッチリ取ってあるので、この点は問題なく返品できました。

マロニエ君にとって枕で大事なことのひとつは、高さと固さだと思います。
羽根枕のような腰のない柔らかさはダメで、だからといってそば枕のあの重くてジャリジャリした感じもイヤ。
もっとダメなのは最近流行の低反発素材を使ったもので、あのねちゃっとした頭や顔にまとわりつく感触はゾッとします。しかも熱がこもって暑いこと。

さらにここ数年出てきた、小さなパイプの破片のようなものを詰め込んだ枕も、その破片の感触が伝わって気に障って仕方ありません。

最近はオーダー枕とか専門店みたいなところがあるので、そこに行ってみようかとは前々から思っているのですが、なんだかそれもイマイチ信用できない気がすして行く勇気がありません。
中にはずいぶん高額なものもあるので、そのあたりになると物が違うのかもしれませんが、たかが枕(もはや「たかが」とは言えないのですが)に何万円も出すのもちょっと踏ん切りがつきません。

できたら1万円前後ぐらいでしっくりくるものが見つかればいいと思うこと自体が虫がいいのかと思ってしまいます…。
理想の枕を求める長い旅路は、まだまだ続きそうです。
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感覚の問題

「感覚」というのは一般的な常識の枠組みより遙かに細やかな、微妙なニュアンスの領域の問題ですが、これを共有できる人は昔にくらべると激減していることがひしひしと感じられるこの頃ですし、だからこそ通じ合える人の存在は昔以上に貴重でありがたい気がします。

それは物事に対しての善悪の問題ではなく、固い言葉でいうと道義とかけじめ、さらには好みや抵抗感の有無などの世界であって、いってみれば人が生きてきた長い年月の中で知らず知らずの間に出来上がった、とらえどころのない尺度、あるいは価値観の集積のような気がします。

単純な善悪の問題ではないからこそ、大事な事ってあるものです。

たとえばですが、どうも最近は文化という便利な名のもとに、ナンセンスとしかいいようのない非常に自己満足的なイベントなどが次々に立ち上がっているようですが、これにどう反応するかもポイントのひとつになります。

具体的にいうと、最近目につくのが日本のお寺(もちろん仏教の)です。
ここを会場にして、仏事ではない様々なイベントをやるのが目白押しで、今年だったと思いますが、博多の由緒ある名刹(日本最古の禅寺といわれます)で、なんとTVタレントの華道家がさまざまに飾り付けた生け花のイベントをやっていたようですし、つい先日手にしたコンサートのチラシにも、これもまたたいへん由緒のある曹洞宗のお寺の本堂でヴァイオリンとピアノによるコンサートが行われるといいます。さらにある日の新聞には空海創建ともいわれる、これもまた由緒ある博多のお寺に五重塔が完成したことを記念して、寺内でファッションショー!などが開かれたといいます。

コラボなどという言葉が使われはじめて、その便利な言葉を仲介にして、このような、ある種グロテスクな催しが全国的にも雨後のタケノコのように発生してきているように思います。

こういうことを多くの人はどう感じているかは知りませんが、マロニエ君はごくはじめのころこそおもしろことをやるもんだと思ったことも一瞬ぐらいはありましたが、結局のところ体質的に受け付けられず好きではありません。
たしかに一時期はこういうことが「新しさ」であるかのように勘違いされたのかもしれませんね。

しかしマロニエ君は、お寺の本堂という、正面には仏様がおられて、その前で苛酷な修行を積んできた僧侶の導きのもと、恭しく厳かな仏事を執りおこなうべき場所を、余事で侵すべからざるものだと思いますし、ましてそこにグランドピアノを置いたり、お寺とは不釣り合いなドレスを着てヴァイオリンをキーキーいわせて西洋音楽を演奏するというのは、やっているほうは斬新なつもりでも、どう考えてもしっくりきません。
しかも演奏されるのは大半が普通のクラシックとなると、これらの作品の根底にあるものは例外なくキリスト教の存在なのですから、事の内側に潜む精神的な意味合いを考えると、これは何かが間違っているとしか思えません。

マロニエ君は自他共に認める相当のクラシック音楽好きですから、少々のことなら音楽の味方をするのはやぶさかではありませんが、やはりこの種のイベントは、生理的に馴染めないものがあります。
だったら、キリスト教の礼拝堂で和太鼓の公演などして素晴らしいと思えるかというのと同じことでしょう。
なにかお互いがお互いを汚し合う結果になっているという気がするわけで、ひとことでいうなら違和感と一握りの人達の自己満足だけが残ります。

世の中には、法律にはなくてもやってはならないこと、やるべきではないこと、やらないほうが美しいことがあるものです。そしてそれは各人の人格や学識や教養の部分に下駄をあずけられていることがあるものです。

お寺でコンサートやファッションショーみたいなことをすることが垣根を超えた新しい文化なんて到底思えませんし、そういうものに対してどうしようもなく違和感を感じてしまう部分、そこがまさに「文化」だと思いますし、文化とはもとを辿ればきわめて精神的な領域の問題なのだと思います。

そして、こういうことを(最近はマロニエ君もあまり口にはしませんが)言って、くどくど説明せずともサッと理解し本質をわかってくれる人、これが「感覚」の共有だと思います。
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