草戦争凱歌

何度書いた草戦争のその後です。

冬の間はおとなしくなりを潜めている多くの植物は、春の到来とともに一斉に芽を吹き、音のない大合唱が始まります。
そのトップを切るのが日本の花のカリスマ「桜」だろうと思います。

この桜の開花宣言と時を同じくして、多くの植物が俄に活動を開始します。
日本には、とりわけ「春」を生命を寿ぐ最高の季節と捉える伝統があり、多くの歌人などはその喜びをあまたの作品にあらわしていたりしますし、大半の人にとっては冬が終わって寒さが遠退き、木々や花々が咲き乱れる春の到来は、いかにも幸福感に包まれる時期なのかもしれません。

これに合わせて新学期が始まり、新年度が始まり、世の中全体が新しくスタートをきるという次第。

そんな春から梅雨にかけてが、実はマロニエ君にとっては年間を通じて最も苦手で過ごしにくい季節なのです。
あらゆる事が冬のほうが快適で清々しいのに、それが終わってむしむしと暑苦しい、皮膚のまわりに何かがまとわりつくようなイヤな季節が、あぁまたやって来くるという印象です。

ひとことで言えば、サラサラした季節がベタベタ季節に切り替わる、それがマロニエ君にとっての春なのです。
さらには植物の急激で過剰な成長が鬱陶しさに拍車をかけます。

雑草のなどはその際たるもので、日一日と高さと量を増やしていき、まさに情け容赦のないその様子は暴力的でもあり、不気味さと不快感が募ります。

昨年はついに除草剤という「化学兵器」の投下により、まずまずの結果を上げていたので、今年もむろん最出撃するつもりでいたのはいうまでもありません。
ところが雑草軍の進撃は予想以上に迅速果敢であり、ゴールデンウィーク前にはかなり厳しい状況となり、これはいかん!とばかりに友人を呼びだして、除草剤(市販のものを希釈して使う)を考えられる限りの場所に正に「撒き散らし」ました。

この除草剤というのは、撒いたからといってただちに翌日から枯れるわけではなく、最低でも10日ぐらいはかかります。
我が家の場合、すでに散布して4週間ほどが経過していますが、果たしてその状況とは?

草の生えていたあたり一面は柔らかな茶褐色となり、雑草軍の進軍はものの見事に食い止められ殲滅されています。
驚くべきはその薬の効能で、一面を覆っていたそれなりに美しい苔なども、この際犠牲になることは覚悟の上だったのですが、なんとそれらにはなんの被害もなく、突き出ていた草だけがうす茶色に枯れ干からびて、地面に小さく張り付いているのは驚きでした。

これはすごい!すごいとしかいいようがない!
この除草剤のおかげで蚊の発生も劇的に少なくなり、これはもう我が家の救世主のような存在になりそうです。

可愛がっていた犬も今はもう天国ですし、庭ではキュウリの1本も作るわけではないので、もはや躊躇するものはなにもなく、今後は定期的に散布していかなくてはと身も心も引き締まっているところです。
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湿度計の賞味期限

湿度が気になる季節に突入したこの頃、マロニエ君は湿度計を日に何度見ているかわかりません。
見たからといって、とくにどうということもないのですが、なんというかクセみたいなものでしょうか。

さて、ある調律師の方のホームページを見ていると、湿度や温度と音程のことなどについての記述があって大変勉強になることがありましたが、その中のひとつに、「湿度計は年月を経ると精度が低下することが避けられない」という文言があり、これにはドキッとしてしまいました。

しかも、市販のものでは精度が著しく劣るものもあり、ひどいときには15%も誤差(というか、ここまで来るとデタラメ表示というべきですが)があり、まず製品自体がちゃんとしたものでないとアテにならないのは当然ですね。
そのホームページには、精度の高いメーカーのオススメ商品まで紹介されていますが、それとても3年も経てば精度が落ちてくるから信用できなくなると受け取れるような書き方がしてあり、それぐらい経ったら校正に出すか新しいものを買ったほうがいいとアドバイスしています。

さて、マロニエ君の使っている湿度計は、3年どころか、優に10年以上前(もしかしたら20年?)のもので、お説の通りだとすると、これはとてもじゃありませんが信頼に足らない状態だろうということが推察されました。
そうとも知らず、そんなものを毎日眺めて一喜一憂しているなんて、自分がなんと愚かしいかと思われて、いてもたってもいられなくなり、さっそく件のオススメメーカーの温湿度計を買ってきました。

天神の雑貨点に行きましたが、置き時計などは実に多種多様なものがあるのに、湿度計は売り場が別で、店員に3度も尋ねてやっとその売り場に到達することができました。
果たして、オススメメーカーの製品ではありましたが、種類は二種類しかなく、そのうちのひとつを購入しました。

帰宅後、さっそくピアノの上に置いてみますが、正しい目盛りを示すには1〜2時間かかると説明にあり、その結果、今まで使っていた湿度計よりぐっと高い数値でも示したらどうしようかと不安でした。

さて、すでにそれから数日が経過しましたが、なんと古い湿度計との差はわずかに1%ほどで、なーんだ、狂ってないじゃん!と思いました。経年変化で精度が落ちるなんて、理論的にはウソじゃないだろうけれども、技術系の人のお説は理屈が勝っていて、いささか大げさな思い込みがあるのかとも思いました。

まあ、あえて慎重に考えるなら、もともと大したこともない湿度計の精度が落ちて、それが偶然正しい数値を示していたということも可能性としてはありますが…でもやっぱりこれだけほとんど同じ数値を仲良く並んで示しているということは、単純に古い方も正しかったのだろうと思われます。

無駄な買い物だったようにも思われますが、二つあったほうがより正しい数値を知ることができるでしょうし、これはこれで意味があったと思います。
しかし、ホームページに専門家が懇切丁寧に説明していると、ついそうなのかと鵜呑みにしてしまうのは、できるだけ注意しているつもりですが、やはりあるんだなあ…と思いました。
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感情の衰退2

コンクールの主役は韓国に譲るとしても、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という言葉がなつかしいほど、いまの日本人には何事によらず爆発がなくなりましたし、それに附随するところの覇気も度胸もすっかり痩せ細ってしまったようです。
だから今の日本人は、ますます器が小さくなってしまっていると感じるこのごろです。

ちょっとでも枠をはみ出すと、変人のように認識され、たちまち空気が読めない人間と同列に分類されるし、同時に、いかにも誠実ぶって善人のフリをするぶんには、これが一番安全でなんの障害もない空気です。
なぜなら偽善が偽善だとは認定されず、いつの間にかそれが人間的に正しい振る舞いだと捉えられているからでしょう。

爆発といえば、暴発と同義語のように扱われ、まるでキレたり暴力的だったりする悪行のようなイメージをどんどん塗り重ねられていく流れは、もはや止めようもありません。
生きていれば怒ることも腹を立てることも多々あるものですが、それは際限もなく抑制するのが当たり前となり、誰もが聖人のように穏便に事を荒立てないことが金科玉条のようにされています。

そんな風潮の中でまともに意見でも言おうものなら、事の良し悪し以前に、意見を言ったという「異変」にみんな引いてしまいます。もちろんある程度は理性をもって制限しないと、なんでも感情を優先させるだけでは、ただの野蛮人になりますが、いくらなんでも今の状況は異常だと思います。

ジェントルなバランス感覚から発せられた抑制なら大変結構ですが、ただ臆病で、やみくもに自分の利益を守り通そうとするあまり、言葉を選び立派な人間の演技をし、安全第一、ひたすらマイナス要因を作らない事だけがすべてに優先しているようにしか見えません。
お陰で、今の日本の価値観は、表面は穏やかでも、内側には浅ましい我欲だけが渦巻いているようです。
すなわち、きわめて消極的自己中とも言えそうです。

その裏には、万一その逆をやらかして、自分が孤立したり、嫌われたりする場合に対する異常なまでの恐れ、ほとんど戦慄とでもいっていいような強い脅迫観念が張り付いているようです。

こういう狭いところに押し込められたような意識の中で、チマチマと息を潜めたように生きている日本人には、もはやおおらかに人生を謳歌して人間臭く生きるなどということは、ほとんど夢物語も同然です。

音楽コンクールで韓国に敗退するぐらいはいいとしても、これではこの先どうなるのかと思います。

若い世代の人を見ていると、すでに感情を抑えるということすら通り越して進化して、感情そのものの総量がずいぶん少なく小さくなってきているようにさえ感じます。何も感じないことが最も合理的でムダがないという、これはいわば、自然の摂理なのかもしれません。
自然な感情や反応は、あたかも世間を憚るべき下着の中のように、一切表に出してはならないものになってしまっており、これでは人間らしい喜怒哀楽も否定され、信念も情熱も持てず、政府の批判もできず、こういう風潮は考えれば考えるほどある意味ファシズム的で、無性に恐ろしくなってしまいます。

欺瞞の恐ろしさは、ついにはそれを欺瞞とも感じなくなることかもしれません。
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自己中オーラ

週末に天神の書店に行ったときのこと、見たい本棚の前にはたぶん30代とおぼしき女性がかがみ込んで熱心に本(実用書)を見ています。

マロニエ君も同じ書架で本を探していたわけですが、なかなか見つからず、とうとうこの女性がいる場所の真上が見てみたい状況になったのですが、この女性はいやにどっかりと腰を落ち着けて、とうてい動きそうな気配がありません。
仕方がないので、しばらく待ってみることにし、外の場所を見てみたりしていましたが、やはりどうしてもその場所しかなくなりました。

遠慮がちにその上の段を、上半身を曲げながら見てみようとするのですが、マロニエ君は比較的長身なこともあって、なんとか見えないことはないものの、やはり勝手が悪くて仕方ありません。

普通なら、本屋の書棚などはお互い自分のものではないのだから、社会通念としてお互い様という気持ちが働いて、自分がいる場所でも他人が来れば、わずかによけたり、ささやかでも譲り合うのが常識というものですが、最近はこういう具合に、人がいるのは充分承知しておきながら、譲るという気持ちが頭からまったくない人間がいるものです。
そのせいか、こちさら目を合わせず、微動だにしない人の姿はエゴそのものが蟠っているようです。

こうなると暗黙の戦いのような様相となりますが、とてもとてもマロニエ君ごときが敵う相手ではありません。

ガッチリとシャットアウトの鎧を着たかのごとく、自分と本との世界に固まっているような気配です。
見ると、その女性はそこの棚にある本を次々に片っ端から見ているようです。

今どきは、こういうことにいちいち腹を立てても仕方がないと、いいかげん腹を決めているつもりなのですが、やはりこういう状況に直面すると、どうしたってついムカムカきてしまうものです。
その女性の肩とこちらの足が10センチぐらいになって上半身だけ傾けて棚を見ようとするのですが、それは向こうも当然わかっているクセに、「断固として」動きません。

なんでそこまで頑張るのかと思いますが、いやはやこういう手合いにかかってはどうしようもありません。
あまりこんな手合いにこだわるのもバカバカしい気がして、さっと別ジャンルの売り場へ行って、そのあと近くのヤマハへ移動しました。

天神のヤマハは2階が楽譜や書籍の売り場ですが、マロニエ君はある新刊書を探していました。
ところが、な、なんと、さっきの本屋とまったく同じスタイルで、似たような年齢と思われる女性がやはり書棚の前にかがみ込んで、せっせと手にとって本を見ています。

ここではマロニエ君の見たい場所は、その女性が見ている箇所とは垂直線上で重ならないことが幸いでしたが、その女性はさっきと同じようないやに腰の座った雰囲気で構えが深く、こちらもどうして、少々のことでは動きそうにはありませんでした。
さっきと違うのは、いきなりガッと顔を上げてこっちを見上げてきたので、さすがに今度は人の気配を察して動きがあるのかと思うと、さにあらず、また元通り本を見始めて、公衆道徳らしきものは微塵も感じられない自己中オーラをバンバンと発散していました。

まあ、それだけの事ですが、なんだか無性に嫌なものに触れたような気がしてしまいます。
現代人は一皮むけばこういう本性を抱えているからこそ、表向きはキレイゴトが流行するのかとも思います。
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結婚願望

ときどき結婚願望というものが高じてしまって、もはや執念のように暗く思い詰めている人がいます。
人間誰しも、自分の望むものを手にするために粉骨砕身努力するのはわかりますが、あまりにもその思いに囚われてしまうと、空回りして負のオーラが出てしまいます。
とくに結婚となると相手のあることで、年々歳はとるし、その焦りのクレッシェンドは鬼気迫るものに発展することがあります。
寝ても覚めても、仕事でも遊びでも、けっきょく意識の根底にあるのはそのことばかり。

どんなに優れた魅力的な人でも、ひとたびこの欲望のオーラを発してしまうと、ことごとく事は成就せず、欲しいものはますます手に入らない状況に陥ってしまうようです。
その一番の理由は、欲望の虜になり、それにのみ囚われ、余裕や柔軟性が無くなるからでしょう。
目的を掴み取るまでは、如何なることでも満足できないという本音が見えてしまうのは本人も周りも不幸なことです。

もうすこし率直な言い方をしてしまうなら、ひじょうに視野の狭いガツガツした人間のように見えるのですが、これは本人は必死のあまりわからないようですし、わざわざそんなことを指摘する人はいませんから、よほど自己分析に長けた人でもなければ、この悪い状況が解消されることがないわけです。

人間の姿として、物欲しげな状態というのはあまり見てくれのいいものではありません。
ましてやそれがパートナー探しとなると、まわりはそのパワーに圧倒されて引いてしまいますし、だからこの状態は自分から幸運を退けてしまう波動を出しているともいえるでしょう。

強すぎる欲望の持ち主には幸運はおとずれないという目には見えないセオリーがあるように思います。

みなさんのそばにもいると思いますが、一見活発でやたら友人知人が多いらしく、毎日忙しく動き回っているような人って、実は押し寄せる孤独を押し返そうとする必死さみたいなものが漂っていて、人は無意識のうちにそういう気配を確実に感じ取っているものです。

最近は自己啓発の類が盛んで、ほとんど意味をなさないような自分ミガキとか、キレイゴトの空虚な妄想のようなことを煽り立てて人を惑わす傾向があり、そこでは人間の能力も幸福の実現も、無限の可能性を秘めた泉のごとく語られます。
建前はいかにも正論で立派ですが、要するに不安感や欲望を煽っているだけにしか見えません。

「あきらめない」というような言葉も前向きで素晴らしいこととして巷に蔓延していますが、マロニエ君にはどうも非現実的な際限のない欲望追求にしか見えず、心は飢えて渇いたような人ばかりで世の中は溢れかえっているように感じます。
「あきらめる」というのも、本来は人が生きていく上で非常に大切な美徳なんですけどね。

結婚願望があるなら、いったんはそれをゴミ箱に捨てるぐらいの腹を決めて、悠然と構えて、余裕のある気持ちと態度で毎日を送った方がよほどチャンスは巡ってくるものです。
チャンスとか幸運というのは、実は大変なあまのじゃくで、欲した途端に逃げていくものです。

だから、さほど欲していない人のもとへ、ふらりとチャンスは立ち寄ってくれるものです。
男女の区別なく、モテる人は余裕があるから必死に相手を欲しがらないし、その余裕ある姿が魅力的に写るものかもしれません。利が利を生む論理そのものです。
すなわち強すぎる結婚願望そのものが、まさに結婚を自分から際限なく遠ざけているのかもしれません。
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ネットオークション

苦手なものがたくさんあるマロニエ君ですが、ネットオークションもそのひとつです。

ライバル不在ですんなり落札できるときはいいのですが、少しでも人と競り合う状況になるともうダメです。
特になんとしても手に入れたいものであればあるほど、不必要に気分が高ぶってしまいます。

ネットオークションでまったく油断ができないのは、終了までの数日間、だれも入札しないのでこのまますんなりいけるだろう…なんて思っていると、敵は最後の最後に闇の彼方から音もなく現れます。
マロニエ君は過去に何度このパターンに陥って、消耗戦を繰り広げたかわかりません。

何度か抜きつ抜かれつしたあげく、ようやく戦い済んであと1分で終わりというときに、またしても落札価格が更新されるときほど腹立たしく際限なき戦いを挑まれるみたいで気分の悪いものはありません。
こちらも意地になって、平常時なら考えられないような高値を入力してしまうハメになったことも何度かありますし、それでもえらくスタミナのある見えない強者にしたたかに持って行かれたことも何度もあります。

「それがネットオークションだ」といわれれば確かにそうなんですが、これがマロニエ君にとっては笑って済まされないような嫌な興奮と動悸が打つような疲労のごちゃまぜになるのがよくわかりました。
多くの場合、オークションの終了時刻は夜間に設定されているものですが、気合いの入ったアイテムの場合は、なんとなく朝から(いや前日から?)そのことに意識が行っています。
真剣なときは、バカバカしいようですが夕食さえゆっくり落ち着いて食べられません。

時間が近づくと家族には内緒で、はやる気持ちを抑えながらパソコンの前に居住まいを正します。
分単位の時間経過が、このときほど気を揉んで、いたたまれないものはありません。
その挙げ句に、さんざんやられて敗退すると、精神的にも激しい疲労に襲われて、一日の終わりが甚だおもしろくない、不愉快な幕切れとなってしまって、もう無性に情けない気分になるのが自分でもつくづく馬鹿げた事だと思うようになりました。そして、自分が性格的にこういうものに合わないことを痛感しました。

この結果、マロニエ君は金輪際、ネットオークションでの入札バトルには参加しないことに決めたのです。
さらにネットオークションそのものにも距離を置くことにしました。
ネットごときであんな切迫した不快な思いをするのはもうこりごりだからです。

その後は、欲しい物が見つかったときには、自分で冷静に価格の上限を判断して少し早めに入札し、終了時間近くは絶対にパソコンを開かないことにしたのです。
それで落札できていればよし、できなかったらさっぱりあきらめるという、いわばマイルールです。

さて、久々にこのネットオークションに入札しました。
狙っているのは絶版の書籍です。この数日だれひとり入札していませんでしたし、珍しく日中の終了時間となっています。
これはいけるだろうと根拠のない確信をしていましたが、夕方パソコンを開くと、なんと、終了1〜2分前に狙い撃ちされてもっていかれていました。

なんだか、無性にイヤなもんだとまたしても思ってしまいました。
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ほっとする電話

今はなにしろメール全盛の時代で、昔よりも電話で人と会話する機会が減ったのは明らかです。
メールというツールの出現と、さらには巷間言われる人間関係の希薄化も後押しして、とにかく電話をするというのがよほど緊急の状況に限ってのことか、あるいはよほど親しいかという一種の条件のような壁があるように思えます。

電話なら早く済むことでも、相手の見えない状況に割り込む可能性のある電話より、やはり一歩引いたメールのほうが好ましいという暗黙の了解があるようで、これは現代人が作り出した新しい共通認識のようになりました。
ここには相手への気遣いはもちろんでしょうが、自分が間の悪いときに電話をする迷惑人間として先方から認識されたくないという恐れなど自衛本能もかなり働いての結果だと思います。
言いかえるなら、控え目で遠慮しているだけでなく、実は電話をする勇気のなさ、卑屈さも加わっているとマロニエ君は分析しています(自分を含めて)。

そんな時代ですから、マロニエ君はむしろ電話をかけてくる人に、一種の率直な親近感を抱き、今どき失われた懐かしさみたいなものを感じてホッとするというか、つい嬉しくなっていまいます。
それにしても、いつごろから電話をすることがこうも遠慮すべき行為と認識されるようになったのでしょう?
携帯電話の普及と共に自然に確立された新マナーだといわれれば、そうなのかもしれませんが、甚だややこしい時代になったものです。

マロニエ君の友人知人には、比較的電話をかけてくる人が多い方じゃないかと思いますが、それでも昔に較べたらメールの比率はやはり高くなったように感じます。
こういうことをいうマロニエ君でさえ、かかってくる電話は歓迎でも、いざこっちからかける場面ともなると相手によっては無邪気にかけきれない事があるのは否定できません。
自分がOKなことが相手も同じとは限らないし、不本意ながらも、やはり時勢にはなかなか逆らえないものです。

というわけで、マロニエ君にとっては電話をかけてくる人かどうかという点が、自分との親しさのバロメーターのひとつになってしまっていると考えています。会ったときにどんなに親しげにしゃべっても、電話をかけたりかかってきたりしないうちはまだまだ本当の親しさが構築できたとは思えません。

とくに嬉しいのは、メールより電話を優先してかけてくる人です。
こういう人は、たいてい良い意味での無邪気さがあり、人間的にも明るくおおらかなので、こちらも大いに心を開いて接することが出来ます。

ところがまずメールからスタートする、あるいはメールでしか連絡しない人というのは、もちろん基本的にはこちらの都合のいいときにでも見ておいてくださいねという気遣いも入っているのはわかりますが、やはりちょっと相互間に距離がある感じがします(実際に距離がある場合はしかたないですが)。

さらにメール癖がもう一歩進むと、すべてメールですませて完結してしまい、いつのまにか直接会話するということに一種の苦痛や面倒くささが加わってくるのだろうと思われます。
とくに若い世代の人にこれを感じますが、だからますますメールの利用頻度は高まるばかりなんですね。

というわけで、マロニエ君は電話できそうな相手とは極力電話するようにしています。
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自称恋愛の大家

こういっちゃなんですが、世の中はたいしたこともない人に限って、虚勢をはって大風呂敷をひろげるようなことを言うものです。
恋愛経験も例外ではなく、どちらかというとあまり経験がありそうには見えないような人のほうが、自分の経験らしきものをご大層に、恭しげに語ってしまう場合があるものです。

ごくたまにこの手の話を見聞きすることがありますが、そこで語られる「自分」はまるで映画の主人公並で、出会いからお付き合いの経過、心理の駆け引き、それにまつわる困難や苦労話までもが、誇らしげに、熱っぽく語られるのには失笑してしまいます。
とくにある種の目立ちたがりで、しかもどちらかといえばあまりおモテにならないような女性の中に、この手のタイプがいらっしゃるようで、逆に経験豊富な人はだいたい自分のことは黙っているようです。

どこまでが自分の経験か疑わしいような話まで一切合切ひとまとめにして、例えば相手の人間性の見極め方であるとか、世の中にいかに酷い最低の男がいるかというようなことが綿々と語られ、すべては自分を中心とした視点や思考基準のもと、そこに登場する男女は、より極端にコントラストを強調しながら、苛烈な筋書きをもって誇大に脚色され表現されています。

しかもその苦心談が、まるで壮絶で深みのある人生経験のごとく、朗々と語られる自慢話のようになっているのがお定まりです。
こういう人の得意のセリフは「下手なドラマなんかより、よっぽどすごい!」とか「全部話そうとしたら本が一冊できちゃう!」といったもので、マロニエ君などは、だったら書いてみろ!とつい言いたくなります。

そんなに稀有な体験で、波瀾ずくめのすごい話なんだったら、どんどん原稿にでも仕上げて、出版社なり映画会社なりにプレゼンでもしてみりゃいいのです。

あまり具体的なことは書けませんが、男女の仲において、片方だけがそれほど極端に悪くて、もう片方は善人の鑑のような人なんてとことがあるだろうかとも思います。
もちろん個別具体的にはいろいろと驚くべき話が転がっていることは承知していますし、実際ひどい男(女)もいるでしょう。

しかし、大きく見れば、男でも女でも、そんなに言うほど片方が酷い人間なのであれば、いつまでもそんな人と手を切らずに関係を引きずった側にも、ある一定の責任はあるように思います。

もちろん、第一義的には悪い方が悪いに決まっていますが、(とくに結婚していないなら)いいかげんに見切りを付けるべきであったところを、自分もいろんな諸事情あって未練がましく離れきれないでいたクセに、にっちもさっちもいかなくなったとたん、一転して相手ばかりをののしり募っても、なんだか客観的には説得力に著しく欠けていたりするものです。

ところが、こういう人に限っていつしか恋愛のオーソリティーのような顔をしはじめ、自分のささやかな体験を元手に、したり顔で恋愛論をぶちあげ、果ては他人の話に尤もらしいコメントをつけたり、我こそはという相談役となって堂々とアドバイスやお説教までやってしまいます。

人並のバスにさえ乗っていないような人が、その道の専門家のような口を聞くのは、まさに失笑ものです。
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黄砂

昨日は、郊外まで出かけたのですが、あいにく黄砂の影響で景色はどこを見ても限りなく重々しく霞んでいるようでした。
普通の霞や曇天と違うのは、空気がどこまでも薄茶色に汚れている感じのするところです。

黄砂を見ていると思い出すのは中国です。
中国に行くと上海でも北京でも、たえずこの色の空に覆われていて、そんな中に不自然かつ奇抜なセンスの高層ビルが林立しているのが現代の中国都市部のお定まりの眺めです。

これはいうまでもなく、年々その範囲を拡大しているらしい内陸の砂漠地帯から砂塵が風に乗って撒き散らされるためですが、この影響は日本でもかなり深刻なもののようです。

昨日も気がついたのは、走っている車の屋根やボンネットなどが、うっすらと黄粉をふりまいたように茶色に汚れていることで、これまでの黄砂だったらダーク系の車でそれを確認することが出来る程度でしたが、福岡ではここ数日黄砂が続いたためか、今回は白やシルバー系の薄い色の車でもそれがはっきりとわかり、やはり相当量が降り積もっているものと思われます。

マロニエ君は最近でこそ少し小康を得ているものの、もともと呼吸器がそれほど強いほうではなく、数年前は喘息治療で専門医のもとへ通院したりしていました。
親しい知人の医師が言うには、そのまた医師仲間である呼吸器が専門の医師の話によると、要するに日本人のぜんそくの多くは主に黄砂に起因しているというのだそうです。

黄砂がなくなれば日本の喘息患者の多くがより快適な体調を取り戻すことができるのだそうですが、そうはいってもこればかりは自然現象でもあるし、日本の東に中国大陸が存在するのは如何ともしがたく、まさか国が引っ越しをするわけにもいかないので、これはどう考えても解決の見込みはないようです。

しかし、たえず呼吸をしている人間(動物もですね)の肺には、現実にそれだけの量と時間、黄砂の成分が入り込んでいるわけで、それを思うと考えただけで呼吸が苦しくなりそうな気分になります。

巷ではたばこの煙が厳しく規制されていて、愛煙家には申し訳ないもののその恩恵に浴しているマロニエ君ですが、黄砂も純粋に人体へどの程度の悪影響があるのか、ここは興味のあるところです

黄砂の強い日は車のエアコンももちろん内気循環に切り替えてしまいますが、結局なにをどうしたところで、どのみち日常生活でこれを防ぎ切ることは不可能なので、結局はそれに対する抵抗力をつけるしかないということでしょうね。

そういえば中国には、日本人が普通に親しんでいるような、あの青空はほとんどないような気がします。
飛行機に乗っても、着陸態勢に入って次第に高度を下げると、まず印象的なことは一転して空気がどことなく茶色っぽいこと、海はおしなべてどんよりと濁っていることです。

逆に日本に帰ってくると、どこを見てもその澄んだ空気の美しさ清々しさに驚かされますが、ここしばらくはそれも望めそうにありません。
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草が伸びて

昨年の夏に何度か書いた庭の草戦争ですが、今年もついにはじまりました。
というよりも、戦いにおける先手必勝の法則に倣えば、出だしで大きくつまずいた感のあるマロニエ君です。

昨年は薬物投下により勝利宣言をしていたわけですが、今年はつい油断してしまい、毎日ばたばたしている間に、敵は春の陽射しをシャワーのように浴びて、日に日にその姿をあらわにしてきました。

つい先日、一度だけ簡単に除草剤をまいていたのですが、時間がないことと、けっこうこれが重労働で疲れるので中途半端に終わらせていたのですが、その間にもぐんぐん伸びてきてしまい、庭は一面緑のヒゲが伸びたように雑草の海になりつつあります。

早くしないとと気持ちばかりは焦りますが、なかなかその作業に取りかかれないのが毎日気がかりです。
方法としては、除草剤の原液を希釈して、ジョーロでまいていくのですが、自分の足にかかるとよくないので、ガレージから長靴を取ってこなくてはならず、たったこれだけのことも面倒臭くて何度か延期してしまいます。
どこかで腹をくくって、時間をつくってやってしまえばいいものを、ぐずぐずしているうちに敵は確実に進撃してくるのがなんだか恐ろしくさえなってくるわけです。

ところがこうしてモタついているうちに夕方から夜中にかけて雨になったりすると、まだ薬をまいていなかったことが逆に良かったように思われるというか、もし実行していたら、あえなく雨で流されるところだったと考えて、一時的にホッとしたり、しかし雨上がりはまた一段と伸びてくることを考えるとウンザリしたりの繰り返しです。
こう言ってはなんですが、怠け者というのも結構かかえるストレスは大変なものです。

また、この時期は木々から新芽やらなにやらが多く萌えだして、それを情緒として楽しむヒマもないほど、木の芽などいろんなものが毎日盛大に降ってくるわ、樹液でいろいろ汚くなるわでうんざりです。
距離を持って見ているぶんには緑はほんとうに美しいものですが、ちょっと身近の植物というのは実は不気味でグロテスクな一面があるものです。

樹下には自然に生えてくる木の新芽も数多く、一見これは自然の営みでかわいらしいもののように見えますが、さっさと摘みさっておかないと、一年もほったらかしにすると、もう引き抜くのも並大抵ではないほどの成長をしてしまいます。
こういう労働を怠ると、草木はそれこそ傍若無人な振る舞いを始めて、それこそあたりは不気味な状態となってしまいます。

これがアウトドアの作業とか庭いじりが好きな人なら、楽しみにもなるのかもしれませんが、マロニエ君の家にはあいにくと該当する人間が一人もいないので、いつもイヤイヤながらこの始末に追われていまいます。

ときどき、庭中にコンクリートでも流し込みたくさえなります…。
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立ち読み&メール

最近、あるショッピングモール内の大型書店に行ったときのこと。
いまさらという気もしますが、最近の人達の携帯メールへの依存度というか執着の強さには呆れてしまいました。

マロニエ君が見たい本棚の前で、立ち読みしている一人の男性がいましたが、その人がいるので左右どちらからも手が伸ばしにくく躊躇していましたが、彼はまるで周囲の人への気遣いなどは眼中にないといった感じで立ち読みを続けています。
最近はどうかしたことでは、やたらと気を遣ったりルールを守ったりということが盛んなようですが、それは表向きで、こういう場面での他者への配慮というのはまるでないと感じることがよくあります。

人の前の何かを取ろうと手を伸ばしても、1cmでも動こうとはしない若い人などはもはや珍しくもありません。
まあ、ここまでならよくあることです。

さて、マロニエ君もなんとか目指す本を手にすることができたのですが、そのときわかったことには、彼は立ち読みをしながら同時に携帯を開いた本と一緒に右手に持って、せっせとメールのやり取りをしているようです。
まあ、とりあえず人のことなどどうでもいいので、マロニエ君は自分の見たい本を見始めたわけですが、しばらく経ってもとなりの小柄で暗い感じのお兄さんはあいもかわらずメールを打ち続けています。

そんなにメールがしたいのなら、立ち読みはいったん切り上げて、どこか椅子にでも座って落ち着いてやりゃあいいじゃないかと思いますが、メール打ちにもときどき切れ目があって、そのときは本のほうを見ていますから、やはり本も見ているということがわかりました。
ご苦労なことだと思って、こちらも本に集中しようとするのですが、なにしろ真横のことなのでなんとなく気に掛かってします。というか…正直にいうと無性に気に障ってしまうのです。

そしてまた、とめどもないメール打ちが始まり、要はその繰り返しです。
そのメールも「はい」とか「わかった」ぐらいではなく、なにやら延々と文章を打っているようですから、だんだんこっちもイラついてくるのが自分でも嫌になります。
何度か横を向いてまともに見てやりましたが、いやはや、図太いというかなんというか、微動だにしませんね。

とはいうものの、マロニエ君もつい長い時間立ち読みしてしまいましたが、とうとうこの彼がこの場所からいなくなることはなく、正確ではないもののおそらく30分近く経っても、なにひとつ変化は起こりませんでした。
根負けして、こちらのほうがついに退散することになりました。

それにしてもああいう芸当は、器用だと思うと同時に、やはり疲れるだろうなあと思います。
そうまでしてメールにこだわるという理由もわかりません。

そこまで込み入ったことをやりとりするのであれば、いっそ電話でしゃべったほうがどれだけ楽で簡単かとも思いますが、まあそういう問題でもないのでしょうね、きっと。
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義援金疑惑

東北大震災の被災者のための義援金活動が各地各所で行われていようですね。

マロニエ君も被災者の方にはなにか自分のできることをしなくては…という思いは人並みにはもちろんあるのですが、義援金ならばしかるべき公的機関の窓口以外ではしようとは思いません。

民間でやっているものも最近は実に様々なものがあるようですが、あれはちょっとした社会問題にもなっているようですね。
というのも、本当にそこで得られた義援金が、すべて滞りなく被災地の人達の手に、あるいは復興のために間違いなく活かされているかどうかという点は、相当グレーゾーンの部分も多いらしく、そうだろうという気がしています。

日本国内はもとより、世界各地でもそのチャリティコンサートなどがさかんに催されているようですが、どこまでがどうなのかと思うと、せっかくの人の善意に対して悪い見方をするようですが、でもそれを100%真っ当に捉えるなんてことはマロニエ君には申し訳ないけれどもできません。
正確にいうなら、善意が善意のまま、無事にその花びらがむしりとられることなく目的地にたどり着いているかという点では甚だ疑問です。

もちろん中には誠実にそれを実行している人や団体もあるでしょうけれど、その正しいことをしている人達の中に紛れ込んでいる、不届き者というのも世の中には必ず存在していると思いますし、義援金などという人助けに名を借りた、不明朗な金集め行為というものは、いわば火事場泥棒と同じで許しがたいものを感じます。
しかも、現代人は偽善の衣装を着るのは上手ですから、それを外から見分けるのは至難の技です。

もともとが寄付行為なので、集まったお金の管理自体も、どのようになされているの不透明です。
金額も、個人の任意によるものだから決まった額ではなく、その合計の数字などないも同然で、そこに誤魔化しの意志が忍び込めば、いくらだってできるでしょう。
この種のお金は透明性に対する要求も恐らく低いはずで、こればっかりは追跡調査して領収書との数字を付き合わせるわけでもなく、要するにすべてが曖昧という気がします。

とくに個人レベルでやっているこの手の行為は、イベントや物販をしても、必要経費と称していくらでも主催者は抜き取ることができ、マロニエ君は悪いけどあまり信用していません。

貯金箱のように壊さなければ開けられない箱でも準備して、衆目の前でそれを開け、金額を確認してその足で一気に役所にでも直行するのならともかく、後日だれかがどこかの受付窓口に行って来るというような流れなら、マロニエ君だったら御免被ります。
本当に義援金を出す気持ちがあれば、わざわざそんな怪しい経路を経なくても、直接自分の足で公的機関の受付窓口に行ったほうがよほどマシです。

実際にこの悪しき問題を解決すべく、すべての義援金の窓口を一本化すべきというような意見もあるのだそうですが、もともとが善意と自由意志に委ねられた世界であるだけに、なかなか実現が難しいようです。
日本人は災害発生時に略奪などの目に見える派手な行為はまずしない民族ですが、善意のお金を募って、その中から自分のポケットにも少しまわそうなどというみみっちい輩は、残念ながらウヨウヨいそうな気がします。

義援金を集めなんて、所詮はこういう側面がつきまとうものなので、マロニエ君だったら絶対に自分ではしたくないことです。
声にはされなくても必ずちょっとは疑いの目で見られるハメになるわけですから、それはイヤですね。
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楽典

このところ、勉強というほどあらたまった事ではないのですが、ふとした気まぐれで、楽典の本をパラパラみていると認識を新たにすることなどがあって、妙に面白いもんだと思っているところです。

楽典は昔、十代の時にひと通りはやったことですが、もともと全部が全部キチンと頭に入っているわけでもないし、もちろん忘れていることもたくさんあって、ページを繰るごとに思い出すこと、あらたに覚えるべきことなど、いろいろとあるものです。

とくにイタリア語の表記には、同じ意味でも何通りもの言葉があって、ほとんど使われないものも多くありますが、本来のニュアンスとしては、微妙にどう違うのか、作曲者はどう使い分けていたのかというような点は多いに疑問で、そのあたりはとても謎めいていて興味が湧いてくるところでもあります。

人間、何事も自分でわかったつもりになっていることほど恐いことはなく、あらためて本を開いてみると、ちょっとした思い違いや発見がゾロゾロ出てきて記憶が修正され、そのあとに楽譜を見ると、なんとなく見方が良いほうに変わってくるようですし、こういう変化は柄にもなくちょっと良い気分です。

考えてみたら楽典の本を読み返すなど、本当に恥ずかしいぐらいに久しぶりで、つくづく自分の不勉強ぶりを思い知らされた気がしています。
ちょっとした気まぐれから見てみた楽典の本ですが、けっこう面白いのは意外でした。
それで味をしめて、古くて茶色になった昔の教科書だけではつまらないので、新しい楽典の本を一冊買ってみましたが、これもまた面白く読むことができました。

何事もこうして絶えずおさらいをするというのは大事なことなんでしょうが、マロニエ君のような生来の怠け者にはよほどの偶然か気の迷いでも起きない限りそういうことはないので、今回は、その気の迷いのお陰でとっても得した気分です。
たったそれぐらいのことで、そんなに得した気分になるのなら、では、もっとあれこれ勉強に精を出せばいいのですが、それはそれこれはこれで、やっぱり殊勝な気持ちはなれないんですね。
好きなことをしながら、それが結果的に勉強にもなるというのが理想ですが、そう都合良くはいきません。

ただ、マロニエ君は練習は昔から超のつく怠け者ですが、作品の解釈とかディテールの意味づけ、各所の表現という部分にはそれなりのこだわりがあるので、その点を分析追求するには、やはり楽典のおさらいは有意義だと思いました。

この際これは本棚にしまい込まないで、ひまひまにパラパラ見るだけでも参考になるので、しばらくは手の届く場所に置いておこうと思います。
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模造モール

所用があって平日の午後、西区方面へ出かけたついでに、たまたま前を通ったので、さる15日にオープンしたばかりの木の葉モールをちょっとだけ覗いてみました。
このところの大型ショッピングモールといえば、ほとんどはイオンかゆめタウンの両横綱に占領されている観があり、いささか飽き飽きしていたところでしたので、木の葉モールは経営母体がそれらとは異なるし、果たしてどんな新しいものができるのかという興味がありました。

駐車場は大半が立体で3Fからのようですが、平日にもかかわらず、行けども行けども満車エリアが続き、ついに4Fにまで押し上げられて、そこでもかろうじて一台分のスペースを見つけ出したほどでした。

売り場は1F/2Fで、なだらかな曲線状に伸びたメイン通路の両脇に無数の店舗がひしめき合っています。
時間がないので、ごく短時間でサッと見て回っただけですから、おおざっぱな印象でしかありませんが、はじめに見てアッと思ったのは、まるでイオンモールのやり方をそのまんま丸写しのような感じで、なんだか見ているこっちのほうが恥ずかしくなるような気になりました。
中国のなんちゃってワールドは笑っておきながら、こんなにもそっくりな雰囲気を大真面目に作ってしまうという日本人の横並び精神も、これはかなりのものだと思いました。

あそこまで真似して、恥ずかしくないのかと素朴に思いますし、マロニエ君的には、どうせ新しいものを作るのであれば、それこそイオンなどの先発を充分に研究し尽くした上で、そこにさらに新しい発想、斬新なアイデア、これまでになかったスタイルの提案などをやってみるべきでは?と思うのですが。
別にモールに限りませんが、後発組の強味とチャンスは正にそこにあると思うのです。

それなのに、パッと見た感じでは、また新しくイオンモールがひとつ増えたとしか思えないようなものでしかなく、しかもしょせん真似は真似なので、イオンのほうが全体的にサマになっていてあれなりに本物という感じで、こちらは模倣特有の後ろめたさが漂っています。

店子も具体名は書きませんが、どれもこれもがお馴染みのものばかりで、いまどきのモール入居する店は同じ顔ぶれしかないのかという、ちょっとがっかりさせられるというか、底の浅い限界を見せられるようでもありました。
それもこの手のモールが近くに存在しなかった田舎ならまだしも、同じようなものがすでにいくつもある福岡都市圏内で、なんでいまさらこんなにまで同じことをするのかと思います。

日本人の商売人は、日夜勉強を怠らず、ライバルを研究し尽くし、お客さんのニーズを徹底的に分析し、おそらくは連日のように会議やディスカッションなどを繰り返しているものと思われますが、その結果がなんの新鮮味もない、既存のモールの模造品を作り上げただけという現実は、あまりに思慮と冒険性がふたつながら欠落しているように思います。
新しいことを作り出せず、既存のスタイルをただ踏襲するだけでは、そのこと自体がすでにもう内向きだと思いますね。
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不燃ゴミの怪

所帯じみた話題で恐縮ですが、不燃ゴミ等の収集日には、いろんな謎の人達が出没して行き交う、不思議な夜となります。
飲料用のアルミの空き缶などは、これを自転車の前後左右に山のように積み上げて、ふらふらと走る姿などもよく見かけます。

一昨日の夜のこと、月に一度の不燃ゴミの収集日だったので、空き缶/ビンなどの燃えないゴミをまとめていましたが、外が明るいうちに外に出すのも憚られるので、いつもできるだけ夜遅く出すよう心がけています。
その夜はちょっと外出していて、夜の11時ごろ帰宅し、車を降りてガレージのシャッターを閉めようとしたとき、目の前に軽トラックが走ってきて、運転者はいかにも慣れたような動きで、向かいのマンションのゴミ置き場にスッと入っていきました。
不燃ゴミ等の収集日は何らかの収穫を求めてか、こういう人達が引きもきりません。

ここまではいつものことなのでとくに気にも留めませんでしたが、我が家のゴミを奥から出してきて、外に出そうとしたとき、軽トラックの人は戻ってきて運転席に座り、まさに発進するところというタイミングでした。

その時に、なんというか…ちょっとした視線を感じたというか、なにか引っかかるものを感じはしたものの、とくに気にもせずゴミを出すという一連の動作を続けて、門扉の鍵を閉めて、玄関に向かおうとしたとき、小さく「カチャッ」という音がして、それが軽トラックのドアが開く音だということはほぼわかりましたが、妙に気持ち悪くなって、それ以上外を見ることなく玄関に入りました。

しかし、家に入って着替えをして手を洗っていると、外では相変わらず車が動いたり止まったり、ドアをバタンと閉める音などが小さくつぎつぎに聞こえてきます。
ポッと点火したさっきの不安はますます募ってきました。

もうお分かりだと思いますが、マロニエ君としては彼らに我が家のゴミが漁られたんじゃないかという気がしてならなかったのです。
というわけで、玄関を入ってからわずか5分後ぐらいのことですが、ちょっとゴミの様子を見に行ってみることにしました。
袋の上口はちゃんと縛っているのに、乱雑に開けられていたりしたら嫌だなあという不安とともに、恐る恐る門扉のところまで行ってみると、あれっ!…なんと今しがた置いたはずのゴミはものの見事に消えています。
どうやらさっきの軽トラックの人が袋ごと持っていってしまったようです。

もちろん捨てたものですから持って行かれても問題にはなりませんが、不燃物とはいえ、自分の家のゴミを他人がそのままそっくり持っていくなんて、やっぱり気持ち悪くてちょっと衝撃的でした。

中はしょうもない金物やガラスのがらくたばかりで、彼らが期待するようなものは何もなかったはずですが、それにしてもよくまあそんなことをするもんだと思います。
それ以降、家の中にいても妙に外の気配を伺っていると、なるほど、つぎつぎこの手の人がやって来ては去っていくのがわかりました。

それでひとつバカなことが閃きました。
処分代を出して引き取ってもらわなくてはいけないような大きめの粗大ゴミでも、この月に一度の収集日に外に置いておけば誰かが持っていってくれるかもしれないと思うのです(笑)。

ただ外に置いているものを誰かが知らぬ間に持っていくというだけなら、なんの法令にも反することではないし、それで面倒な手続きもしないで、しかもタダでゴミ処分ができるなら、こんなありがたいことはないわけですから、そのうちダメモトでいちど置いてみようか…などとつい変なことを思ってしまいました。
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常識は非常識?

たまたまテレビを見て知ったことですが、最近の人の行動にはエッと驚愕させられることがあるものです。

それは簡単に言えば礼儀知らずということになるわけですが、どうも、そういう言葉さえ適切ではないような、もっと根本にあるもののどうしようもない成り立ちの違いをしみじみと感じさせられることがあるのは決して珍しくありません。

何事も正否にほとんどかかわりなく、数さえ増えればその勢力がうまれ、拡大し、しだいにそれがスタンダード化していくというのは、まるでバッタの大群みたいで、ほとんど個人差の領域を凌駕してしまっている点はつくづくと驚かされる点です。
しかもこれといった悪意すらもなく、本当になにひとつ礼儀らしきものを知らない無知のなせる技であるようで、だから当人はまさか自分がそんな非礼をやらかしているなどという意識も自覚もないようです。
正に字の如く、礼儀を知らずに歳だけ大人になってしまった人が大挙して世の中に現れ、それが日本人の文化を駆逐しながら尚もうねりとなっているようです。
だからこそ、この流れは、とどまるところを知らないのでしょう。

そのテレビでびっくりしたのは、今回の東北の震災で被災した人達のいる避難所に天皇皇后両陛下が御見舞にお出でになったときのこと、両陛下が床に両膝をついてお話をされているというのに、それを受ける側(若い人だったらしいですが)はなんと、帽子もとらず、足はあぐらをかいたまま!!でずっと話をしていたとか。
また別の日に皇太子両殿下が行かれたときには、ほとんど信じがたい事に「写メ、いいですか?」といって、記念撮影を所望し、なんと殿下はそれに応じられたとか!!

こういうことが、ただ単に時代だというだけで片づけられることだろうかと思います。
これがもし、皇族に対する思想的なものの絡みがあり、ある種の抵抗心からの行動ならまだ理解のしようもあるでしょうが、そういうことではなく、ただの無知であり、ただの無邪気さであるところが、よけいに驚きを募らせます。

マロニエ君は別に天皇制や皇族方に対して格別の思いもなにも持ってはいませんが、でもしかし、少なくとも日本という国に生まれ育って、そこに長く暮らしてきたからには、皇族の方々のお出ましに際して、気持ちがどうであれ、こういう態度をとるというのは体質的本能的に、夢にも考えられないことではないでしょうか。
これはほとんど日本人のいわばDNAにかかわる問題だと思いますが、もはやそういうものすら消滅しかかっているのでしょうか?

ただ、これらは、ただ彼らが非礼でけしからん!というだけで済まされる問題ではなく、それを大事な成長期に教えなかった親をはじめとする周りの人間、ひいてはそういう感性を容認させた社会にも大きな責任があるのだと思います。
現代は本当にこういう人間が出現するような環境なんでしょうね。

個人的経験で言っても、本当に社会常識のない、無知でひたすら受身な種族というのが異常なまでに多すぎると感じます。
しかも彼らには一向に悪意すらないところが、いよいよ始末に負えないところです。
恐ろしいことには、それで立腹のひとつもしようものなら、下手をするとこちらのほうが悪者にされかねません。

自分が普通だと思ってきたことが、最近ではことごとく裏切られるシーンに直面するのは本当に虚しいものです。
しかも、それが年々スタンダードのようになり、もはや無人島にでも行って社会との関わりを断たない限り、そういう人達と関わり交わりながら生きて行かなくてはいけないところまで、日本の社会が来てしまっていることは、かなり危ないことだと思います。

受身のスタンスも度が過ぎると邪悪ですね。
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ポイントカード

今どきはどこでも「ポイントカード」というのがありますね。
このポイントカードの取扱いと運用をみていると、だいたいお店の質というものがわかります。

質というのは別に高級品を売っている店という意味ではもちろんなくて、いかにお客さんを大事にし、イメージアップこれ努めているかという点、いわばお店の体質とか店員教育のレベルです。

マロニエ君は以前は今よりももっとたくさんのポイントカードを持っていましたが、これのせいで肝心なものはろくに入っていない財布は常にパンパンに膨れ、いざ買い物をしてポイントカードを出す際にも必要な一枚を探し出すのにもレジで一苦労してしまいます。

そのポイントカードには甚だ腹立たしい要素がまとわりつくのは皆さんもご経験があることと思います。
たとえば、500円にハンコをひとつ押すということになっていたとすると、950円プラス消費税で997円であってもハンコは1個で、こういうことってなんか無性に不愉快になるわけです。端数はいつも切り捨てられ、実際の金額より少ないハンコしかもらっていないのだから、こういうギリギリの場合は2個押すのが人情というものです。

また、カードそのものにも有効期限があって、発行から一年間、中には半年なんてものもあります。
ハンコを20個貯めたらなんらかのサービスが提供されるというような場合、あとわずかで達成するというようなとき、レジの頭の悪そうなオネエチャンから、すげなく「期限切れとなっておりますので、新しいのをお作りしておきまぁす。」と一言のもとに切り捨てられて、今まで一年間我が財布の中ですごしてきたカードはあっけなく処分され、またゼロスタートの新しいカードを手渡されます。

こういうことが重なって、しだいにポイントカードは持たないよう(作らないよう)にしました。
いくら得するか知りませんが、あんなもののせいで意識が縛られ、挙げ句の果てには期限切れなんてことになるぐらいなら、はじめから何もないほうがよほどいいと思うようになりました。
だいいち期限なんて言ったって、今どきひとつの店だけにそうそう一途に通うはずもなく、一年を僅かに過ぎてもポイントが満杯になるまで繰り返し来てくれたお客さんというのは、本来ありがたいものであるはずです。

マロニエ君がおかしいと思うのは、そもそもポイントカードというものが、お客さんの獲得とサービス提供のためにやっていることなのだから、その基本理念を考えれば、運用にあまり厳格になりすぎてお客さんに逆に不快感を与えてしまうようでは、これぞ本末転倒だと思うのです。

これは経営者と末端の店員との意識のズレなのかもしれませんが、結果的にルールのほうがすべての上に君臨して、お客さんのほうがそれに従うという、もはや本来のサービスの精神とはかけ離れた結果を生んでしまっているような場合が多すぎるように思います。

冒頭の「お店の質」というのは、それを適宜お客さんの利益になるように柔軟性をもって計らってくれる店や店員さんもあるわけですが、質の悪い店ほど杓子定規なルールの奴隷になって、いつしかお客さんよりも店やルールのほうが上位に立って威張っている場合があるのは、もしマロニエ君が経営者ならとんでもないことだと思うのですが。

ひどいのになると、店員がポイントカードのルールを語るときの態度が、まるで法令でも盾に取る官憲のごとくで、冷淡かつ上から目線の場合などもあり、こうなるとその店に対するイメージが悪化し、下手をすればこんな店には二度と来るものかという最悪の事態にも発展するものです。
たかがポイントカードぐらいなことで、ルールの執行者のような気になっているガチガチの店員ほど腹立たしくバカに見えるものはありません。

まあ、あんなものはないほうがよほど気楽に買い物が出来るということで、最近は大幅に縮小していますし、「お作りしましょうか?」と聞かれたときに、「いえ、要りません!」と言ってやるときの気分の良さといったらありません。
最近気がついたところでは、これを断っている人がかなり多いことで、やはり皆さん同じなんだなあと思います。
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そしてカラス

ところが、喜びもつかの間、それはとんでもない勘違いでした。

柵に囲まれた、無傷のゴミの様子を見てみようと裏口を出たところ、なんと目の前には、またしてもゴミが散乱しているではありませんか!
…なんで???
いつものような盛大な量ではないものの、しかし手のひら一杯分ぐらいは散らかっています。

ゴミ本体を見ると、さしたる異変も無さそうですが、近づいてみると、置く場所が微妙に悪かったのか、下の方のやや柵に近いところがやられてしまっていました。
カラスの悪行というのは、とにもかくにも並大抵のものではなく、柵の4センチ弱ぐらいの金属の隙間から顔だけを突っ込んで、そこから4重ぐらいに包んだゴミをグリグリとつつきまわし、どうにか取れたものだけをあたりにまき散らしていたようでした。

イタチゴッコとはこのことで、人間はまたしてもカラスにしてやられたカタチになりました。
このときは、まるで空中からカラスが笑ってみているようで、煮えくりかえるほど腹が立ちました。

ひとつには、ゴミを置いた位置も微妙に悪かったわけで、できるだけ左右均等において柵からゴミまでの距離をとらなくてはいけないことが反省といえば反省ですが、それにしてもなんという執拗さでしょうか。

もう絶対に負けられないという気持ちに火がつき、さっそく対策を講じます。
必要なものがあればホームセンターなどへ材料を買いに行くのも辞さない覚悟ですが、ここは雨にも濡れる場所なので、ベニヤ板などの木材を貼りつけるのも得策ではないし、先々の耐久性や衛生面のことも考慮しなくてはいけません。

幸いにも使ったケージにはほぼ正方形のものと、その1.5倍の長さがある長方形が、それぞれ4枚ずつありましたが、このゴミ置きを作った結果、正方形が2枚余っていましたので、それを左右の側面にそれぞれに90度角度を変えてとりつけることで、柵の隙間を格子状にすることに成功しました。

おそらくこれで、カラスの頭の動きは一気に制限されるはずです。
今日は家人がこれに昼過ぎからゴミ袋を鎮座させていましたが、さすがに手出しが出来ないらしく、まったく荒らされた気配はなく、ようやくにして一段落つけるようです。

ちなみに憎きあまりカラスを傘などで追い払ったりしようものなら、敵は鳥のクセに頭が良くて人の顔をちゃんと識別して記憶できて、しかも相当に執念深いらしいので、後日外に出たときに上空から奇襲されたりするらしいので、これは絶対にしてはならないらしく、いやはやまったく手に負えない奴らです。

そういうわけで、ついにカラスの手出しができないゴミ置きを完成できたことは、人並みに「達成感」みたいなものがあって、非常に満足しています。
その後は、庭にカラスが来る気配もないので、おそらくいろいろ挑戦してみて、今回こそはダメだということを悟ったのでしょうね。ざまーみろです。
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続・カラス

過日書いたカラスの撃退術ですが、マンションのゴミ置き場をヒントにゴミ袋の入れる囲いを作りました。

使ったものは、むかし我が家で飼っていたラブラドールが、まだヨチヨチ歩きのころ買い揃えた、子犬用のケージの金網です。
これが大小8枚ほどあったので、いつか処分しなくてはと思いつつ、不燃ゴミとして出すのもサイズが大きいために、ずっと物置の奥に置きっぱなしになっていたのですが、これを利用することを思いつきました。
またとない廃物利用で、こういうのってなんか嬉しいもんですね。

これを上下前後左右に組み合わせ、手前にはドアらしきものを付けて、結束には強くて簡単なナイロンのタイラップを無数に使うことで、ついにゴミ袋用の小さな柵を作り上げました。

大きさがまた実に上手い具合に、45Lのゴミ袋をひとつ、余裕をもって入れるのにちょうど良い、まるで誂えたようなサイズに出来上がったのもなんともラッキーという感じでした。

網は格子状ではないものの、間隔は一方向に4cmぐらいで、どうみてもカラスが中に入ることは不可能なもので、これでは敵も手出しが出来ないだろうと思われて、完成したときには思わずニヤリとなりました。
さあ、「いつでも来い!!」というわけです。

このカラス防御用のゴミの柵は縦に長い直方体で、背面を壁にくっつけて置いているので、前面、上面、左右の両面という4面のケージの枠がカラスからゴミを守るという事になります。

そしていよいよゴミ収集の日がやってきて、これまでは鳥が活動しなくなる日没まで待たないと出来なかったゴミ作り(大小のゴミをまとめて収集袋に入れる作業)を昼間から始めるというだけでも我が家ではえらく新鮮な感覚で、出来上がったゴミのかたまりを恭しくこの囲いの中に入れました。
家人もこれまでに何度となく散々な目に遭わされてきており、無事に役目を果たすのだろうかと、いやが上にも期待が膨れます。

同じくケージで作ったドアを閉めて、開かないようそこに紐を結んで作業完了。
あとは夜になれば表にゴミを出せばいいわけです。

ちなみに人気TV番組の「秘密のケンミンショー」によれば、深夜にゴミ収集車が回ってくるのは福岡がとくに珍しいらしく、大半の地域では朝なんだそうですね。しかも前夜から出すのはダメなので、それでよく出勤時のダンナさんに奥さんがゴミを出させるというような光景があるのだということを知り驚きました。
これひとつでも、低血圧で朝の苦手なマロニエ君にとっては福岡はありがたいところです。

さて、そのゴミですが、出来上がった柵のなかにゴミ袋を入れてから、一時間ほどたったころでしょうか、なんと、はやくも庭にはカラスがあらわれましたが、キョロキョロしながらポンポンと庭を跳ねているだけで、しばらくするとパッと飛び去っていったのは、どうやら収穫がなかったらしく、思わずヤッタァ!と思いました。
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知事選挙

統一地方選も終わり、民主党が敗北したのは当然としても、同日に全国数箇所では知事選も行われ、その当落が確定しました。
東京では現職知事が4期目!に突入というのもどうかとは思いますが、それでも、あのお笑い出身の上昇志向の権化のような人が落選したのは、ほぼ予想したこととはいえ、万が一ということを考えると、あらためて妥当な結果が出てホッとさせられました。

落選後のインタビューによると、この人は前の県知事を1期で辞めたのは、鳥インフルエンザや口蹄疫の責任を取っての行動だったと言っているそうですが、だとしたら引責辞任した人が、ほとんど間を置かず、今度は一気に大東京の知事をめざして立候補したのは、いったいどういうことかと思います。
まあ、かつても自民党の選挙を牛耳る大物議員に向かって、「ワタシを(自民党の)総裁としてお戦いになるか?」などという、聞いたほうは悶絶しそうな事を言うような人ですから、その桁外れな欲望の前では、筋論もなにも求める方が愚かとも思いますが。

というわけで、東京はまたも物書き出身、スター俳優の兄であるあの人が再びその任に就くことになりましたが、いきなりお得意の○○節とやらを炸裂させて「日本人の我欲は戒めるべき!」「つましく暮らせ」などと、当選インタビューの段階から吠え始めたのは呆気にとられました。
今の20代の人などは知らない人も多いかと思いますが、実際にはこの人こそ「我欲の元祖」みたいな人で、若い頃からその我欲エネルギー一筋で今日まで来たような人なのに、いまさら何を言っているのかと思いました。

自民党の時代も総理になりたくてなりたくて、この人はどれだけの節操なき行動運動を繰り返してきたことか。
そのあくなき欲望ときたらあの永田町でさえ一際目立っていたというのに。
その挙げ句、とうとう総理の芽がなくなって、どうしようもなくなって、後出しジャンケンで都知事選に出たら通ったというだけのことで、そのほとんど妄想に近いような出世欲は、常軌を逸しているとしか思えないようなもので、その点ではお笑いの元知事とまさに同格でしょう。

そんな人の口を通して日本人は我欲がどうのといまさらお説教されても、かつての鳩山さんじゃありませんが『アナタの口から聞きたくはない』と言いたくなるのが正直なところです。
インタビューで何を聞かれても怒るばかり。総理でも何でも年下と見ればクン呼ばわりする癖も相変わらずで、やっぱりこの人、感じ悪いと思いました。

さて東京の事どころではありません。
我が地元も現職が4期勤めて引退することで新しい知事が誕生しましたが、この人の詳しいことは知りませんが、その映像を見ただけで、いきなり憂鬱になってしまいました。
はやくも前知事の院政などと囁かれますが、たしかに同じ大学の同じ学部で、同じく通産省の出身の官僚あがりですが、あまりにも華のない、陰と陽なら、まさに陰の、その暗いイメージには見るなり強烈な失望感と虚しさに襲われてしまいました。

インタビューされても、喋りがたどたどしくて話が流れず、言葉と言葉の間には老人のように間がありすぎて、質問者のほうも会話のリズムが何度かズッコケていましたし、当選したというのに笑顔のひとつもなく、コメントも相手の顔を見ず目線は常に下を向いているのはガッカリで、こんな人が知事になったのかと思うと暗澹たる気分です。

人の上に立つ人ということには、なにかそれらしい風格とか雰囲気というものが必要ですが、どうみてもそれは微塵も感じられませんし、別に美男美女である必要はありませんが、それなりのリーダーの顔(顔つき?)と人望がなくては人心を惹きつけることはできないでしょう。

一般論としても、どうみても人の上に立つ器ではない人が、なにかの拍子や巡り合わせでその地位に就いたときの違和感、あのなんともいたたまれない気分というのは、本当に見ていて気持ちが萎えていくものですが、最近、それを感じることがあまりに多すぎるように思います。

選挙事務所で斜め後ろに立っていた、なんにも中身のなさそうなテレビキャスター出身の若い市長のほうが、このときばかりは、はるかに明るくさわやかな感じに見えてしまいました。
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カラス

このブログでカラスといえばまるでマリア・カラスのことのようですが、さにあらず、黒い鳥の「烏」のことです…。

カラスの被害というのは全国的なもののような印象もありますが、とにかくマロニエ君の自宅付近にはこれが昔から多く棲息して、集団で勝手気ままな生活をし、人間は被害は受けてもなにひとつ手出しができません。

とくに季節によってはものすごい数のカラスが上空を回遊しており、近くの電線はむろんのこと、どうかすると我が家の庭にまでやってきてペタペタ歩き回っています。
庭に来ているのを見ると、けっこう体も大きいことに驚かされます。

我が家は動物園のすぐそばなのですが、それが関係しているのかどうかはわかりませんが、とにかくカラスの数は大変なもので、もし仮に庭でウサギのような小動物でも飼おうものなら、おそらくいっぺんでその餌食にされるだろうと思います。
動物園を中心としてマロニエ君の自宅とは反対側の丘の上には私立高校があるのですが、夕方などそこを通ると、学校の校庭や体育館の屋根の上にはまさに胡麻をばらまいたように無数のカラスが集結していたりして、何度見てもあの不気味な光景はゾクッとしてしまいます。

実際の被害もあるわけで、その最たるものが家庭ゴミです。ゴミ作りをしてちょっと1時間でも目を離していると、気がついたときには情け容赦なく無惨につつきまわされて、あたり一面はゴミがめちゃめちゃに散乱することになります。
我が家ではゴミの袋は二重にして、さらにスーパーのレジ袋やらなにやらで、生ゴミなどに直接到達するまでには何重にもガードしているのですが、どれだけのことをしてもあの憎きカラスには一切通用しません。
おそらく力も相当強いのだと思いますし、固くまとめられたゴミをどこからでも電気ドリルのようにつついて、破って、中を引っ張り出して、更につついて、中の中が出てくるまで絶対にあきらめません。
そのしつこさというか執拗さは、ちょっと想像を絶するほどの執念深さがあるようです。

もうさんざん苦い経験をして気をつけているつもりでも、これまでに何度ゴミ攻撃をやられたかわかりませんし、それをされるとその後かたづけだけでも大変な作業になります。
しかも、あたり一面にまき散らされた自分の家のゴミを掻き集めるのほど、情けなく腹立たしいものはありません。
我が家だけでなく、近所でもカラスによるゴミ散乱の光景を何度見たかわかりません。

まあ、敵は鳥なので、陽が落ちれば活動しなくなりますから、陽が落ちてからしかゴミ作りはしないことにしていますが、どうしても夜出かける予定があったり、何らかの都合で夕方のまだ明るい時間帯になってしまうことがありますが、少々の防御ではまるで効果は無く、カラスの力の前にはほとんど意味を成しません。

マンションなどでは、金網のついた立派なゴミ置き場がありますから、さすがに奴らも手出しができないようです。
必ずや敵を欺いてやりたいところで、それを参考にひとつ方法を思いついていますので、近く実行してみるつもりです。
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九州新幹線

昨日は九州新幹線に初乗りしました。
目指すは薩摩川内市でしたが、そのことはまたあらためて報告します。

新装なった新しい博多駅にもこの日初めて踏み入れましたが、結論から先に言うと、マロニエ君はちっとも良い印象はありませんでした。
駅ビルがあれだけ大々的に建て変わったというのに、筑紫口のほうは旧態依然としているほか、一階のコンコースはじめ、周囲の商業施設などには昔の名残が散見され、昔のままの骨格を化粧直しですまされていて大いに落胆。
基本的なものはそのまま使っているようで、単にその上に被さっているビルだけを建て替えたということが、行ってみてようやく理解できました。まあ、それならそれで構いませんが、あの報道の取り上げ方、騒ぎ立て方は大げさすぎるのではと思います。

ざっとひとまわりしましたが、テレビなどではまるで天神のお客さんが新しい博多駅に吸い取られるようなことも言っていたけれど、とてもとても、そんな力のある商業エリアが出現したようには見えませんでした。

出発前にお土産を買おうと阪急百貨店の地下に行ったところ、ドーナツやケーキなど、たかだかおやつを買うぐらいのことで、凄まじい行列があちらこちらに何本もできているのには口あんぐりで、マロニエ君のもっとも嫌いな光景を思いがけなく目の当たりにしたことでした。
行列がほとんど地域文化と言ってもいい東京ならいざ知らず、ほとんどそういうものの無い、もしくは極めて少ないことが我が博多の誇れる点だと思っていましたが、この阪急百貨店のデパ地下に限っては、まるで別の街に紛れ込んだようでした。
ああいう行列に、背中を丸めて、しまりのない顔をして、人の背中の前にじっと立っている人達を見ると、人間の欲がむき出しになっているようで、なんだかどうしようもない気分になってしまいます。

新幹線は、これまで博多駅は上り方面の始発駅でしたから、南に向けて車輌が動き出すというのは初めての体験でした。
発車してしばらくは外の景色などをみていたのですが、少し経つと車内アナウンスがあり、早くも久留米への到着を告げられたのにはおどろきました。車で行くには高速を使っても前後あわせると1時間前後はかかるのに、なんという早さでしょう!
博多から薩摩川内(鹿児島のひとつ手前)までは240キロ強ほどあるようですが、1時間20分ほどで到着しました。

さて、マロニエ君は鉄っちゃんなどではありませんので、新幹線の車輌のことなどはまるきりわかりませんし、新幹線じたいも2年に1度乗るか乗らないかぐらいですが、印象としては、なんだか乗るたびに乗り心地は悪くなっていくような気がしました。
0系から次第に進化して、ここ10年ぐらいでいっても「のぞみ(だったかな?)」あたりの柔らかくて洗練されたすべらかな乗り心地が頂点だったようで、それがレールスターになると明らかに質の低下が感じられました。当時、世の中ではいろいろなものがコストダウンされはじめた時期でもあり、新幹線車輌といえどもその波が容赦なく襲ってきているんだなあという時勢をしみじみ感じたものです。

ところが、昨日乗ったさくらは、そのレールスターどころではありませんでした。
車でもそうですが、乗り味や足回りの優秀性、ボディの立て付けの確かさなどは、はじめの動き出しの数秒に圧縮してあらわれるものだと思っていますが、本当に高級な乗り物は、この動き出しが非常に濃密で厳かで、乗り手がまずはじめに感銘を受ける部分なのですが、これがまったくなく、ただ普通になめらかに義務的に動いていくようでした。

とにかくこれまでの新幹線にあった一種の上質な乗り味というのがほとんど感じられず、ただスピードの速い高性能電車という印象しか得られませんでした。とくに帰りは夜でしたが、夜の乗り物というのは音などに対して一段と敏感になるものですが、この音のうるさいこと、ひっきりなしの振動が収束しきれていない事にも閉口しました。
車内は高速になるとまるで飛行機のような、疲れる爆音に包まれます。飛行機に較べて新幹線の快適性のひとつに騒音の低さがあったと思っていましたが、これはもはや過去の話のようです。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、ボディを軽く(そして安く)作るのに、強くて軽量な素材を多用して、その結果遮音効果のあったものがあれこれと省かれたんではというような気がします。
つまり、乗る人の快適性が犠牲にされて、すべては効率重視の設計になったというわけだろうと思います。
窓も従来の広い窓はなくなり、飛行機より大きい程度の窓が小刻みにならんでいますが、これも窓を小さくすることによって得られる、車体の強度確保のための結果ではないでしょうか。窓を小さくして、そのぶん骨組みに当てればそれだけ薄っぺらなボディでも強度は保てるというお馴染みの図式のような気が…。

楽器でも、乗り物でも、映画でも、人間関係でも、なんでもそうですが、良い意味での絶頂期というのはどうやら過ぎ去っていったようです。なんとなく振り返っても、20世紀までのほうが、あらゆることが上質で贅沢、つまり本物だったような気がします。
21世紀はガマンと節約と省略の時代のようです。
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写真の力

病院などで週刊誌をめくっていると、当然ながらどの誌も冒頭グラビアは東北の震災の、激烈な様子が掲載されていますが、見れば見るほどあらためて驚嘆に値する凄まじいものです。

これらの写真を見て感じることは、いくら何度も見たつもりのテレビ映像からではわからなかった、写真ならではの現実の様子がひしひしと迫ってくる点で、すごいとしか言いようがありません。

静止画というか、つまり写真は、見る側に時間的に余裕と自由があり、つぶさにほうぼうを点検することができますから、より生々しく現場の戦場のような様子が手に取るように克明にわかります。
津波の動きやあらゆるものが破壊されていく様子などは動画でこそわかるものですが、被災後の様子や、より接近した事実を伝えるには圧倒的に写真のほうがリアリティをもっていると痛感します。

動画は動画の価値があるものの、なにしろ動きが早く、あっという間に画面は変化していきますから、ひとつの場面を現場に立っているような感覚でじっと見つめることはできませんが、写真はピントも鮮明だし、見る人が任意に時間をかけてその写真と対峙するわけですから、そのぶん凄味も伝わるのですが、それによると、マロニエ君にとってはこの震災が自分が認識しているつもりの、さらに数段上の猛烈なものだったということが理解できたと思いました。

今ごろ何を!といわれるかもしれませんが、本当に凄いことが起こったのだということを再々度認識させられてしまった気分です。
テレビの報道映像からでてくることの無いものとしては、瓦礫に混ざって人の遺体などが確認できるものもあったりで、こうして夥しい数の人の命がいっぺんに奪い去られたというのは、以前も書きましたが、もはや核攻撃でも受けたのと同等の出来事だろうと思われます。

動画と写真にこれほどの差があるように、さらにその差以上のものがあるとすれば、おそらくは現場に立った人の目に映る現実の光景だろうなと思います。

現場での捜索活動などは自衛隊をはじめ外国の救援部隊などが、我々の想像以上に苛烈な働きをしているのだそうですが、なぜかそういう事実はあまり報道されませんし、そのような映像などはほとんど我々の目に止まることがないのはどういうことだろうかと思います。
報道というのはいまさらながら公平性がなく著しく偏りがあり、各局も談合したようにほとんど同じようなものばかりだということもよくわかりました。

一説には民主党政府が、自分達の無為無策を表面化させないためにも(事はさらに複雑でしょうが)、こういう現場で救出・捜索にあたっている多くの人達がいかに体を張って働いているかを映させない、あるいは報道させない、あるいはそういう現場にマスコミを入れたがらないという話を聞きますが、もしそうだとしたら、それは相当おかしな事ではないかと思います。

何でも「マズイ」といって隠すのは日本人のお家芸のようなものですが、それにしてもこの隠蔽はなんなのでしょう?
別に犠牲者の遺体を映せといっているわけではないのですから、ある程度事実は事実としてニュートラルに報道すべきであって、これを権力その他の故意によって偏ったものに操作するのは絶対にあってはならないことだと思いますが、現実にはそういう黒い力がある程度機能しているともいいますから、今の政府やマスコミの考えていることは呆れるだけです。

官邸の人達は、この期に及んで、まだ自分達の権力維持に努めているのですから、識者にいわせるとこのような未曾有の惨事が起こったのが民主党政権下であったことが、我が国の不幸をより深いものにしているというのだそうで、それは大いに同感です。
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なだめる心理

最近、あることがちょっとわかりました。

軽薄なマロニエ君は、甚だくだらないことで立腹することが多いのですが、そんなとき、人にぶちまけて理解を求め、共感を得ようとすると、おざなりにまあまあとなだめられたり、相手があきらかに第三者ぶって保身の態度をとられたりすると、さらにまたそこにムカムカくることがあります。
まるで被害者であるこちらのほうが逆にお説教されるハメになったり、却って人の狡い面を見せられることになったりで、怒りはダブルに発展して何なんだこれは!とその不快感は次々に新しい枝を伸ばします。

とくにマロニエ君の嫌いな言葉は「まあ、いいじゃないですか!」「人の自由だから!」というようなフレーズで、そんなありきたりな言葉を聞きたくて言っているのではないと言いたくなります。寛大ぶって、やたら許容量の多い、懐の深い、人格者のような言動を取りたがる人って、今どきは意外に少なくありません。

それも本当に寛大で立派な人格者ならいいのですが、ちっともそんなことはない臆病な凡人くせに、そういうときだけ妙に取り澄まして、落ち着いた余裕ありげな態度を取りたがるのはなんなのかと思います。
ただ単に、自分が言及するのが恐いだけという臆病心も見て取れたりします。
それでなくても、最近はやたらめったら隙あらばいい顔をしようとする、いい人願望、人格者願望、誰からも好かれる願望の強い人が多く、なんでそこまでして自分だけいい顔してポイントを稼ぎたいのか。

ところが、ごく稀に相手のほうが何かの事で、怒り心頭に発している場合もないではありません。
最近も偶然そういう場面に接しましたが、あまり相手の怒りが激しいので、ついついこちらはなだめる側に廻っている自分にハッと気がつきました。
なんと、あれほど自分が怒っているときにそれをなだめられることを嫌っていたこの私が!!!

なるほど、これは人の心理なのかということが思わず諒解できました。

適当な雑談程度なら、話はぐんぐん盛り上がってくるものですが、片方があまりにも憤慨して一種の興奮状態にある場合に限っては、相方はそれに圧倒されて、なんとかこれを鎮めようという反射心理が働くようです。
決して相手方の味方をしている訳ではないのですが、なんとか客観的なコメントによって事を鳥瞰的に捉えようとしているのかもしれません。
その状況に対して一定の冷静な理解を示そうとすることが、怒っている人にとっては逆効果になるわけで、止むにやまれぬ怒りすら抑えろと強要されているような心地がするんですね。

まあ人が怒っているときは、そこで第三者として公平に振る舞おうなどとは努々思わないことが大事だとあらためて思いました。
相手が欲しいのは味方であり共感してくれる人なのですから、それを忘れちゃいけません。
ましてや「私はどちらの味方もしないけれど…」というあのフレーズだけは絶対に禁句だと思います。
これを言われて気持ちのいい人はたぶんいないはずではないでしょうか。

しかし、それを口にする人の、なんと自分は正しい態度だと信じてその言葉を口し、自分に酔いしれていることか!
こういうことをしたり顔で言う人は、なにか大事なものを履き違えている気がします。
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ミネラルウォーター

人の心理というものは如何ともしがたいもので、いくら理屈や建前ではわかっていても、我欲や不安感というものはそうたやすく理性で押さえ込むことはできないもののようです。

福島第一原発の事故いらい、放射能汚染の問題が連日かまびすしく報道されていますが、微量の数値が確認されたからといって、ほうれん草や牛乳などの生産者は、もともとこんな震災に遭った上に、さらに目も当てられないような打撃を加えられているようですね。

さらに今度は海水やダムの水にもわずかな放射能が確認されたということですが、人体に影響のない程度のごく少量のものである由。
したがって乳幼児のミルクなどにのみ、これを使用しないように通達があったと思いきや、予想通りと言うべきか、今度はスーパーなどからミネラルウォーターが一斉に姿を消す事態となっています。

政府がいくら乳幼児以外は大丈夫と言ってみたところで、こうなるとなかなかブレーキがかかるものではないのでしょう。

健全な社会において、情報の開示は確かに必要なことで、これが失われれば独裁国家と同じですから、何事によらず包み隠さず報道されるという基本は当然のことであるし、そのスタンスは正しいとは思いつつ、やはり、発表の仕方、報道のありかたにもどこかおかしなところがあるのではないかとも少し思っていまいます。

とくに日本人は汚染、伝染といった目に見えない事に対して示す反応というか、抱く不安感は際立って強い民族だと思いますが、あまりそんなことを言っていたら、被災地の人達のおかれている劣悪な現状(まことにお気の毒の極み)とか、消火に携わった東京消防庁のスーパーレスキューの勇士達の抱えているであろう不安などはどうなるのか…と思ってしまいます。

彼らの被った危険や、ましてやこの震災で落命した多くの人達のことを思ったら、そうそう些細なことで自分ばかりが安全を漁りまわるのも、いささか異常で見苦しい気がします。
ニュース映像の中には、不安だからという理由で、貴重なミネラルウォーターをドバドバ使ってお米を洗っている人などもいて、見ていてさすがにいい気持ちはしませんでした。

もうこうなると中がどんな水であっても、とりあえずペットボトルに入って店で売られている物ならそれで満足というか安心なんでしょうね。
問題の数値は次第に下がっているらしく、しかも基準は直接水を飲んだ場合を前提としたもののようですから、そんなに神経質になる必要はないと思うのですが、いったん煽られた不安とエゴが結びつくと、それこそ歯止めが効かない暴走状態になるのかもしれません。
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便利が不便

久々に直接会話なしにコンサートのチケットを買いましたが、やれやれでした。

5月に開催されるラ・フォル・ジュルネ鳥栖(なんで鳥栖なのか、いまだに謎ですが…)のチケットを購入しようとチラシに記載された購入方法を見ると、基本的にチケットぴあ、ローソンチケット、イープラス、JTBエンタメチケット、鳥栖市民文化会館の5種類が案内されており、自宅の近くにローソンがあるので、これが一番便利ではないかというごく単純な理由からローソンチケットで購入することにしました。

電話をするとすべて音声ガイダンスに従うもので、電話機の操作のみで予約していくものでした。
そもそもマロニエ君はこの音声ガイダンスによる操作というのが性格的にイライラして好きではありませんが、とりあえず仕方がないと諦めてこれに挑みました。

まあ、それにしても音声ガイダンスというのはなんであんなに時間を取るのものかと思います。
ひとつの操作に要する時間も、だらだらと長くかかって、そのたびに子機を耳から離しての操作、そしてまた耳に当てて次のガイダンスを聞くという、ヘンな動作の繰り返しです。

しかも相手は機械なので、こちらから問い返しが出来ないぶん、聞き損じのないようけっこう集中させられますし、各種のコードなどを入力するにも間違えないようにしないと、失敗すればまた振り出しからやり直しになることを考えると、さらにまた慎重にならざるを得ません。

ラ・フォル・ジュルネの場合は、たくさんのコンサートの中から自分の希望するコンサートを指定する操作まで含まれるので、ひとつのコンサートのチケットを予約するだけでもけっこう複雑で疲れました。
さらに、マロニエ君の場合、同日に二つのコンサートに行こうとしているので、結局それを二度繰り返すことになり、全部終了するころにはなんだかもう気分的にクタクタになりました。
10桁の予約番号を機械の音声で妙にひとつひとつゆっくり言われると、抑揚がなくて却って聞き取りづらく、書いて控えるのも妙に大変です。さらにその番号をダイヤルさせられて確認を取るようになっており、なんだか途中でアホらしくなってきます。

さらにチケットの購入期限まであまり時間が無く、明日に迫ったのでさっきローソンに行ってきたのですが、ロッピィとかいう端末の前でまた操作々々の連続です。
途中で操作がわからなくなってお店の人に聞いたら、意外にもお店の人は操作のことはなにも知らないようで、いろいろと考えた挙げ句に、端末機備え付けの電話で聞いてくれといいます。
しかたなく電話をしたら、これがまた混み合っていて繋がるまでにかなり待たされて、5分ぐらい待ったところでようやく話ができましたが、それで再度操作を開始して、やっとやり方がわかりました。

それをまた二回続けて、機械からペロンと出てきたレシートをレジに持っていって支払いをすると、ようやくチケットが発行されて、めでたく終了となりました。
しかし、ローソンの滞在時間だけでも結局のところ30分近くかかりました。

でも、考えてみると、昔の対面式のプレイガイドならものの10分ぐらいで済むことを、なにが悲しくてこんなにも機械相手にせっせと精力を使っているのかと思うと、なんだかとても愚かしい気になりました。
もともと便利なはずのものが、使ってみると却って煩雑で、時間がかかって、不必要に疲れてしまうばかりじゃないかと思います。

これでは要するに、チケットを売る側の仕事をお客さんがさせられているようなもので、だったら少しは料金も安いというのならまだ話はわかるのですが、これだけの手続き作業を延々とさせられた挙げ句に、一枚あたり310円!の発行手数料をとられるのですから、どうにも納得できかねます。
こんなことなら潔くチケットぴあの窓口にでも行けばよかったと思いました。

でも、今の若い人はこういうことはさして苦痛ではないのでしょうし、だから自分の声で活き活きとしゃべるより、メールのほうが好きだったりするのかとも思います…。
なんだかへんてこりんな時代ですね。
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テレビCM

このところのテレビコマーシャルが気に障っている人って多いみたいですね。

マロニエ君は普段、ニュース以外はあまりテレビを観ないので、昨年鳴り物入りで買い換えた液晶テレビも実はほとんどスイッチが入ることはないのですが、そんな程度のマロニエ君をもってしてもやはり気になります。

大震災発生に伴う各企業のテレビコマーシャル自粛の結果だとは聞きましたが、朝から晩までACによる同じコマーシャルのこれでもかとばかりの垂れ流し状態には、もういいかげん辟易してしまいます。

「心は見えないけれど、心遣いは見える」というのにはじまって、手をつないで「自分が伝えられることがある…」というのや、子宮頸ガンの検診、本を読めば知層になるなどの数種類のものが際限もなく続けられている毎日。
どれも見ていて気分が明るくなるようなものではなく、日本が未曾有の災害に見舞われた上に、なぜテレビコマーシャルからまで、こんな不快感をまき散らされなくてはいけないのかと首を傾げるばかりです。
あんな状態を作り出すことが、各スポンサーが示す被災者への気遣いだとしたら、あまりにもその判断は安直すぎすのではないかと思いますが。スポンサー側、テレビ局側、どちらの責任かはしりませんが、しかも民放は各局が横並びで、うんざりします。

スポンサーが通常のコマーシャルを自粛するというのなら、その間きれいな音楽と景色でも映したほうがまだマシだと思います。
昔のオウム事件の時に言われたことですが、人間は連日連夜、来る日も来る日もおなじことを見せられたり聞かされたりすると、しだいに潜在意識の中になにかが刷り込まれて行き、それは非常に危険であるという事を聞いたことがあり、この事件を境にしてアニメを含むすべての映像から人の神経や潜在意識に害を及ぼす危険のあるものが排除されるようになり、サブリミナルなどはその典型でした。

にもかかわらず、地震発生からすでに10日以上経過したというのに、ACのコマーシャルの洪水はほとんどおさまる気配が無く、見るたびにうんざりして、イライラして、なにか狭いところに追い込まれるようなストレスを感じてしまいます。

とはいうものの、平常のコマーシャルにも最近はへんなものが多く、ここ10年ぐらいでしょうか、様々な外資系の入院保険等のコマーシャルがお茶の間に溢れかえるようになり、これも一種のマインドコントロールにあたるのではないかと思ったことがあります。

この一連の保険会社のコマーシャルの登場あたりからコマーシャルの手法そのものにも変化があらわれはじめて、それまでの商品あるいは企業イメージなどを重視した、いかにも斬新なプロのアーティストの仕事である鮮やかで美しい作品といえるようなものが激減し、懇々と視聴者に直に日常会話のようにして語りかけてくるようなスタイルが増えました。
あるいは体験者がその素晴らしさを体験談のようにして話すスタイル、はじめは不安だったが思い切って電話してみたらよかったとか、高齢者にあたかも近所の人が親切ごかしに直接話しかけるようなもの、息子が母親に電話するなど、まるで身内同士の会話のようにして視聴者を引き込もうとする策が多く、なんだか見ていて背中の当たりが痒くなってくるようなものがあまりにも増えたような気がします。

今はいろんなことが昔とは比較にならないほど厳しく規制され、なにかとうるさい時代になりましたが、そのわりには人の心はちっとも晴れやかではなく、むしろ逆の状態に追い込まれているような気がするのですが、こういう目には見えない本当の深刻な問題をこそ、頭のいい人は解決して欲しいものです。
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リアシート

今日の夕方、ある立体駐車場で待ち合わせをしていて、車の中で待っているときのこと。

左隣の車の人が戻ってきて、見れば50代ぐらいの夫婦のようなのですが、荷物があるようで、壁際でスペースが狭かったこともあってかご主人のほうが奥さんを待たせたまま、車を駐車スペースから通路へと動かしました。
おそらく積み込みがしやすいようにとの判断からだと思われます。

荷物の積み込みが終わったかと思うと、奥さんは後ろの席へひとり乗ってしまいました。
ところがご主人は車に乗らずに後部座席の奥さんとドアを開けたまましきりに問答しています。

こちらはエンジンをかけていなかったので、目の前のことではあり、両者の声が聞こえてきます。
要するに、ご主人のほうが奥さんがぽんと後ろに乗ったことが気に入らないらしく、自分は運転手じゃないぞ!と言っているのです。それに対して奥さんはシートベルトをしたくないから後ろがいいと言っています。

ご主人は、「このまま帰るつもりか?」と言っており、見ると山口ナンバーでしたが、こういう状況は今どきでは意見の分かれるところだろうと思います。物事をあまり気にかけない人なら、狭い車内のどこに乗ろうがいいじゃない…と、寛大なようなことを言う人もいそうな気はします。
場合によっては、たかだかそんなくだらないことにぐちゃぐちゃと文句を言うご主人のほうが了見が狭いと言われかねないことでしょう。

マロニエ君はしかし、このご主人が言うことが尤もだと思いました。
せっかく二人できているのに、前後バラバラに乗っては虚しい気がするのも頷けますし、第一たとえ夫婦でもこれはマナーに反すると思います。ましてやそれで山口まで帰ろうとは、奥さんもいささか横着が過ぎはしないかと感じます。

これは最近は意外に認識していない人も多いのですが、営業車ではない普通の車の場合、フロントシートに運転者ひとりをおいて後部座席に座るのは基本的に横着な態度ですし、仮にそういう意識はなくても無礼だと見なされても文句は言えません。
もちろん病人やお年寄りやチャイルドシートはその限りではありませんが。

たとえば人の車に厚意で乗せてもらうのに、いきなり後ろのドアに手をかける人がいますが、あれはちょっとどうかと思います。もちろんすでに助手席に人がいるのであれば話は別ですが。

場合によっては大変な勘違いをしていて、前に乗るのを遠慮して後ろへ乗るという意識の人がいるかもしれませんが、だとすると甚だしい見当違いで、助手席を空けて後ろに乗るなど、このご主人の言う通り、人を運転手扱いしていることになり、失礼な行為だと思います。
車の場合、決して後ろが末席ではないということをまずは認識すべきです。

ごくたまに複数の人を乗せて順番に送ったりするときなど、たまたま助手席の人が先に降りたら、後部座席の人は気を利かせて前に来るのが乗せてもらう者のマナーというか心得ですが、ケロリとしてそのまま動こうともしない人が結構いるのには驚きます。

今はマンションなど洋風の居住形態が増えましたが、日本人なら、座敷に通された場合、いきなり床の間を背にした上座に座るなどということはしませんが、車もこれと同じ事です。
助手席の空いている車の後部座席は、自動的に上座となることを認識してほしいものです。

上記の場合は他人ではなく、ベテランの夫婦だと思いますが、ご主人が承知してのことならむろん構いませんが、不快感を持たれるようなら、やはり奥さんは助手席に座るのが夫婦であっても礼儀だと思いました。

結果的には奥さんが助手席に乗り換えて車はようよう動き出し、こちらまでホッとしました。
それでなくても山口まで運転するのは大変で、ましてや今日のような雨天なのですから、ちょっとは労りとお付き合いの気持ちも欲しいところです。
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買いだめ心理

我々日本人は危機的状況に対して強いのか弱いのか、考えれば考えるほどわからなくなります。

これはむろん被災地での極限的な事態に追い込まれた方々のことではなく、それ以外のとりあえず普通に生活ができている日本人という意味ですが。

関東地方では、危機感の先取りなのか、スーパーの食料品なども買い込む人が非常に多いのだそうで、店によってはすでにいろいろなモノが極端に品薄になっていているとのことですが、いささか過剰反応のように思ってしまいます。
主にお米やカップ麺、携帯用コンロなどを続々と買い込む人が際限なく増えているとかで、中にはレジの通過に1時間かかる店もあるとか!?

ニュースでも識者が言っていますが、今はすべてを厳しい状況に置かれている被災者の方々のことを優先すべき時であって、不必要に危機感を募らせてあれこれ買い込むのは慎むべきだということです。
こういうことが広がると、市場から商品がなくなり、本当に必要な場所に必要な物が必要量確保できず、要らぬ混乱を招くというもので、まったくその通りだと思います。
とはいっても、いくらニュースでそんな警告をしたところで、スーパーやコンビニからモノが無くなっているという報道を繰り返し全国に流して「要らぬ混乱を招く」ように煽っているのも、これまたマスコミではないかという気もするのです。

もともと人の心理というのは弱くて影響を受けやすいものなので、他人がどんどんモノを買い込んで万一に備えている姿を見せられたら、自分も不安に駆られて似たような行動を取ってしまうのは致し方ないことだとも思います。
とりわけこの「不安」にまつわる感染拡大は凄まじいものがあるようです。

ガソリンなども関東地方では制限付きの給油しかできないとかで、たしかに「一台2000円まで」などという販売をせざるを得なくなったスタンドもあるようです。しかし、それは計画停電なども関係していることのようでもあるし、現在は地震の影響で入荷が途絶えているという一時的な事情もあるようで、業者側は一時的なものと言っているようですが、なかなかおさまらないようです。

あまりこういう情報に踊らされるのはどうかという意見もあり、たしかに理屈ではそうだとマロニエ君も思いますが、現実にそういうニュースを繰り返し見せられたら、今のうちに自分のぶん我が家のぶんを確保しておかなくてはいけないような気に陥ってしまうのも、これまた人情というものでしょう。

これが関東地方だけかと思っていたら、昨日の夜、ちょっと要るものがあってホームセンターに行ったら、なんとお米は残り少なく、ティッシュやトイレットペーパー、おむつなどは姿を消し、携帯用コンロのガズボンベなどもひとつもありませんでしたからびっくりです!
この買いだめの波ははやくも全国的に広がっているようでした。

昔の米不足、さらに前には世の中からトイレットペーパーが消えるということがありましたが、あんな状況がもしもまたくるとしたら、マロニエ君なんてとてもその競争に打ち勝つだけの自信はありませんから、考えただけでうんざりしていまいます。
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菅さんの本領?

津波による福島原発事故がこれほど深刻で、長期に渡って解決の見込みも立たないとは思っても見ませんでした。
事は既に、付近の住民の方だけの問題ではなく、より広い地域の環境汚染すら危惧される状況のようです。
日本ほど優秀な専門家が揃っていて、世界中が経過を注視している中で、これほどまでにめざましい効果が上げられないのが不思議で仕方がありません

一部の報道では、技術力というよりは、もっぱら東電の組織や体質の問題だと指摘する声もあるようです。
たしかに計画停電の実施方法などでも、ちょっとおかしいのでは?と感じることがいろいろありましたし、マロニエ君などは、いきなり停電といったような強制的な方法を採るのではなく、まずは該当地域への節電を強く呼びかけて様子を見るという段階があってもよかったような気がします。

現に、計画停電や節電の話が菅さんの口から発表されただけでもかなりの節電ができたといいますから、足りない電力は平常時の1/4なんだそうですから、不可能ではない気がしますし、それでも尚足りない場合に停電という手段に出るという段階を経ても良かったのではと思います。

菅さんといえば、東電のやっていることがあまりにも不甲斐ないので、一昨日のなんと朝6時半に総理自ら東電に赴いて叱責したらしく、こういう文句を言う状況となると菅さんもエネルギーが出てくるのは、昔を少し思い出すと思い当たるふしがありますね。
市民運動出身で、根っからの攻撃型の人間なんでしょうか。

その際も、現場にいるべき人間が東京本社に多くいたり、現場からもクビを覚悟で逃げ出した人もいたんだそうです。原子力といった、現在人々を最も危険にさらす危険性のあるものを取り扱っている大企業なら、もう少し緊張と使命感を不屈の精神を養っておいて欲しいものです。

昨日の深夜には、今度は静岡地方で震度6強の地震がおこり、これは先の東北地方のものとはまったく無関係なんだそうで、さらに今日は茨城地方でも大きな地震が発生し、はたして日本列島はどうなってしまうのかと思います。

しかし、同時にこれを機会に沈殿しきった世の中が多少の刺激を受けて、景気が回復するという見方もあるのだとか。
とくに海外の論調は、日本は戦後復興がそうであったように、危機に直面することで本領を発揮し、勤勉で真面目で忍耐力のある優秀な日本人の底力が、こういう機会に出て来るという見方をしているところもあるようです。

もちろんその前に被災地で苦しむ皆さんの救援をもっと迅速かつ徹底してやってほしいというのが今の日本全国民の総意だと思いますが。
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ブルーインパルス

ついに昨日から関東地方で計画停電とやらが開始されたようですが、どうもそれにまつわる東京電力の対応が芳しくなく、不評を買っているようです。

現代のようにありとあらゆることが電力を前提として社会全体が成り立っていると、その影響もはかりしれないものがあるようで、もう少し時間やエリアを明確にすべきというのが大勢の意見のようです。
あのような災害があって電力が不足するとなれば多少の不便や協力はやむなきこととしても、停電するというのは生活そのものを直撃することなので、前もっていろいろな準備や構えがあるはずです。

被災地では「官房長官が立派な事を言っているのは結構だが、我々はゆうべから何も食べていない、これが現実ですよ。」と言っていましたが、ごもっとも。
食料や物資はもっとたくさん迅速に届けられないものでしょうか。

人から聞いた話では、たまたま外部から被災地へ観光旅行に行って津波に巻き込まれた人もいれば、逆に被災地の人が別の場所にこれまたたまたま旅行中であったために難を逃れたというような、まさしく「運命」としか言いようのない生死をわける話がいくつもあるらしく、現実にはそういう事がおそらく山のようにあるのだろうと思われます。

津波警報を聞いて息子が父親に逃げるようどんなに言っても、頑として「だいじょうぶ」といってついに動くことをせず、結局、そのお父さんは津波にさらわれ、息子さんは助かったというようなケースもあるようで、まさに運としか言いようがないですね。

自衛隊の飛行機も生死を分けたようで、航空自衛隊の松島基地は、あの歌にもある松島ですから非常に海に近いところにあって、今回の津波では主力戦闘機のF2-18機をはじめとする、30機近い航空機が被害を受けたそうですが、なんとここをベースとするブルーインパルス(T4-6機)は、12日の九州新幹線の開業イベントのために福岡入りしていたらしく、大地震の数時間前には福岡市上空で事前飛行までおこなっていたそうで、博多駅周辺を編隊飛行する様子がYoutubeにも投稿されています。

彼らが登場する翌日のイベントはすべて中止になりましたが、留守中に仲間である人や飛行機、さらには基地そのものまでが大変なことになり、彼らはどこに帰って行ったのでしょう。

福岡にいたことでブルーインパルスの機体と操縦士は難を逃れたようですが、しかし、その家族は被災地に居住していることでしょうから、その安否が心配されるようです。

それにしても福島第一原発も一進一退を繰り返しながら、どうも好ましくない方向へと事が推移しているようで、専門的なことがわからないぶん、どうしてもっとスパッと対処できないのかと思います。
朝夕の新聞の見出しは原発関連の見出しばかりで、ついには「高濃度放射能もれ」というイヤな文字があらわれてしまいました。
…ここ当分は不安な日々が続きそうですね。
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4日目

震災4日目を迎えますが、福島原発の問題がいまだに解決をみないのはいやが上にも不安が募ります。
各被災地の惨状は変わらずで、とりわけ宮城県などで孤立して救助を求めている多くの人達が、ろくに食料や物資もない中でどうしておられるかと思います。

病院の屋上や学校の運動場にSOSの文字を描いて救出を訴えておられるようですが、シロウト考えにともかくヘリなどで少しずつでも救出できないものかと、もどかしく感じるばかりです。

今日あたりになるとより細かな情報も出てくるようになり、スタジオでは被災前後の町の映像や空中撮影の写真を比較したりして被害状況を説明していますが、以前はびっしりと隙間なく住宅が建っていた一帯が(あるいは町が)、まさになにもないタダの泥だらけな土地になっていて、津波がこれらを根こそぎ持ち去っているのが一目瞭然です。恐ろしいことです。

自宅の屋根に掴まったまま2日間、沖合15キロまで漂流したあげく自衛隊のイージス艦に救助された人がいましたが、決して若い方ではないのに本当によく頑張られました。いざというときの人間の力というのもすごいもんだ思います。でもこうして助かった人もあとに残る精神的ダメージは大変なものでしょう。

個別の話も聞けるようになり、そのぶん耐えがたいシーンも数が増えてきます。
瓦礫の山を放浪する初老の男性にリポーターが声をかけると、自分の家族の安否がまるきりわからず、救出者名簿にもその名はない由、たったひとり、なす術がなくあちこち彷徨っているというものでした。
また、別の老いた男性は津波が来るとき、障害者の奥さんを連れ出そうと家族と一緒に必死に運び出そうとしたものの重くてとても間に合わず、ついには手が離れてしまったということで茫然自失の状態でした。
まさにこの世の地獄です。

こんな話も。娘さんが結婚をし、役所に婚姻届を出したその3時間後に地震が発生、二人とも津波にさらわれていってしまい、わずか3時間の夫婦だったというような話も聞きました。地震発生が午後2時43分ですから、役所の昼休み前に婚姻届を出されたんでしょう。

このブログでは政府のことなどは書かないつもりでしたが、敢えてちょっとだけ書きますと、菅さんの総理不適格ぶりにはもうずいぶん前から失望させられつづけて、もはや何かを期待する気も起こらないところまできていました。
留まるところを知らない民主党のスキャンダルも、あまりの数の多さに「日替わりスキャンダル」などと揶揄されるほど連日つぎつぎに呆れるような問題が発覚し、ついには菅さんの外国人からの不正献金問題が出た、その当日の大地震発生でした。
予算委員会での審議中に地震が起こり、委員会はそれこで打ち止めとなって菅さんは官邸に戻り、スーツから例の青い防災服に着替えて一度ちらりと姿を現しただけで、総理大臣ともあろう人が、こんな大事に際してその後はほとんど顔も見せないという状況が続きました。

しかし世の中の空気も、もはや菅さんの指導力不足を責める暇もなく、あの方はアテにしないで、それぞれが皆自分のやるべき事をサッサとやるという感じに見えました。
ところが、13日の夜に行われた会見では、ついに少しは気合いが入ったのか、「この度は大変なことになり苦労も多いことと思うが、我々日本人は必ず復興を成し遂げることができると信じているし、とにかく苦しいけれど頑張ろうではないか」というような意味のことを率直に言いました。

国会審議はもとより、通常のコメントであろうが、外国首脳とのトップ会談であろうが、いついかなるときもひたすら役人の作った書類を見ながら常に下を向いて、しょぼしょぼと精気のない声で書いてあることを棒読みする姿しか見せなかった菅さんが、このとき初めて声にも多少の張りが出て、しかも一番の拠り所である書類を見ることもほとんどなく、国民の方を向いてまっすぐにしゃべった姿は、少なくともマロニエ君ははじめて見た菅さんの姿で、これには不覚にもささやかな感銘を受けました。

人の上に立つ者、とりわけ国のリーダーというのは、最低でもこうあらねばなりません。

そこまではよかったのですが、へんな節回しの女性議員は、やや化粧を薄めにし、イヤリングを外し、それでもいつもの浪花節語りのようなわざとらしい抑揚のついた話しぶりで、計画停電の事などを説明していましたが、刈り上げた髪とスリムな体型は、まるで宝塚の男役のよう。
入退場時の礼の仕方などは軍隊のごとくで、さしずめ現代の川島芳子のようでした。
せっかく菅さんが盛り上げた余韻を、いきなりこの人が掻き消してしまったのは大変残念でした。
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津波映像

地震の発生から3日目を迎えるころになると、とくに様々な津波の映像が出てくるようになり、どれひとつを取っても、その想像を絶する恐ろしさには日本中が呆然としていることでしょう。
(海外も大変注目しているそうで、連日、報道のトップの扱いの由)

私達はCGの発達などによって、過激なパニック映像というだけなら目にするようにはなりましたが、やはりどんなに精巧に出来ていてもCGは所詮作りものであって、その点、本物というのはどうしようもなく本物、まさしく現実で、だから受ける衝撃も並大抵のものではありません。

はじめのころは、報道されたいくつかの沿岸地域が主にこれらの被害に遭ったのだと思っていましたが、そうではなく、ようするに東北部の太平洋側に面した地域は例外なく同様の被害を受けているということであるらしく、その恐ろしい破壊規模たるや、これはもう、ちょっとした核攻撃でも受けたのと同様のむごたらしい被害だという気がします。

今日などは沿岸部の被災地を報道ヘリからの空撮によって津波被害の映像が流されましたが、「壊滅」という言葉はまさにこういうことのためにあるのか…と思うような惨状でした。
かろうじてその形をとどめているのは鉄筋の建築物などで、それらがわずかに点在するのみで、あとは瓦礫の散乱するだけの土地になってしまっていて、似たような光景をどこかで見たような記憶があると思ったら、広島長崎の原爆投下後の町の様子を空撮した写真でした。

はじめは、津波が来るという通報によってせっせと高台に登った人達の目の前で、普段自分達の住み慣れた町が悪魔のような激流によって弄ばれ、ついには自分の家の屋根が動き出して、それが容赦なく破壊されながら流れにさらわれていくときの、その心中を考えると、まさに気も狂わんばかりだろうと思われます。

これから長い長い、気の遠くなるような復旧作業がはじまるのでしょうが、もはやそういうことに耐えられない方も現実に多くおいでだと思います。人間にとって家族を失う、住む家を失うということ以上に耐えがたいことがあるでしょうか…。
ある意味においては自分の命を失うことよりも恐ろしく耐えがたいことかもしれません。

当初発表されていた東北地方太平洋沖地震のマグニチュード8.8は、今日になってM9.0へと変更されました。
我が国では観測史上最大で、これまで立てられていたあらゆる予測を大きく上回る規模のものだったということです。

そこで気がついたのは、今回の大地震での甚大な被害は津波によるものがなにしろ圧倒的で、これだけの未曾有のスケールの大地震だったにもかかわらず、地震そのものの揺れによって発生した被害というのは、地震の規模から考えればそれほどでもないような気がしました。
外国の大地震では建物のことごとくが揺れで押しつぶされたり倒壊したりというのがごく当たり前ですが、この点は数々の地震を経験し、それに備えて熱心に耐震構造などの手を打ってきた日本のやりかたが、かなりの成果を上げているようにも思います。

震源からはやや離れているとはいうものの、観測史上最大という規模の地震にしては東京横浜なども、もちろんそれなりの被害はあったでしょうが、神戸の時などに較べれば全体としてはほぼ無傷といってよく、これは良い方に驚くべき事のように思います。
都市部だけでなく、より震源に近い、津波被害に遭った地域でも、映像を見ている限りでは津波来襲の直前までは、町はほとんど目立った損壊は見あたらなかったように感じます。

尤も、結果的に家や町を失った人から見れば、地震そのものの揺れであれ、津波であれ、もはやどっちであろうと意味のないことですが。
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日本人

一夜明けても、昨日の大地震はやはり夢ではなかったという事実で一日がはじまりました。

東北地方の壊滅的な被害は、映像を見るだけでもなんとも言い難い驚きと重苦しい疲労を覚えます。
しだいに増大してくる犠牲者の数を知るにつけ、人間、一寸先は闇だというのも本当だとしみじみと思います。

始終この報道番組を見ているのも疲れますが、テレビを消せばなんとなく気になって、またスイッチを入れてしまったりというそんな一日で、さすがにピアノを弾くにも気が入りませんでした。

いまだに心配されるのは、一日経っても尚、福島第一原発の異常が解決されず、周辺の避難エリアが時間とともに拡大していく中、ついには被爆などという言葉まで出始めて、いやが上にも不気味な気持ちさせられます。
直ちに大事故ということでもないとは思いたいところですが、情報は錯綜し、東京電力の発表も要領を得ないとかで、とりわけ近隣のみなさんの不安はいかばかりかと思います。
この心配だけでもはやく払拭されてほしいものです。

それにしても、ひとつ感心したのは、やはり日本人の民族としての質の高さです。
もしこれが外国での災害であれば、国によってはこんな被災時につきものの悪辣な行為として、この機に乗じて商店などからの略奪行為などが次々に繰り返されるなど決して珍しくはないところですが、そんなことがついぞ見受けられないのはさすが日本だと思いました。

こんなただごとではない災厄時にそんなことを感心してみても始まりませんが、しかし現実にそうではないところはそうではないわけであって、やはり日本人の徳の高さを見たようです。
個人レベルではどんな国や地域にも立派な人とそうでない人がいるのは当然としても、全体としてごく自然にそういうことがない(まったくのゼロではないとしても)というのは、日本人の優秀な民族性や道徳心、伝統や教育レベルなど、あらゆるものの総合的な結果だと思います。

ごく最近も、今は亡きある高名なロシアの大指揮者の本を読んだのですが、1970年代前半に初めて日本公演に赴くことになったとき、「アジアの片隅の、文化果てる国に行く」ような気がしてちっとも気が進まなかったらしいのですが、果たして来日してみるとその認識は根底から覆り、とりわけ日本の文化と日本人の人間性に感嘆したマエストロは「我々のほうが文化果てる国から来たのだ!」と言ったそうです。

そういえば昔、「不思議の国ニッポン」という在日フランス人の目を通した著書がシリーズでありましたが、ここにも礼儀正しい、精神的に質の高い人格を有した日本人の姿が驚きをもって描かれていたものです。

今回の大地震でも、苦難に際して互いを助け合いながら共に時を過ごしたり、東京の帰宅困難者で溢れる街にも暴動やパニックが起こる様子もなく、みなさん一様に粛々と列をなし、整然と秩序を保っているのは、こんな悲劇に際して、再確認することのできた日本人としての誇らしい部分だと思いました。

奇しくも昨日は関係者一同が待ちに待った九州新幹線の開業日でしたが、すべての式典は取りやめとなり、事業運転だけが静かにスタートした由です。
こういうことにも、なんら表立って異存や障害も起こらず、申し合わせたようにスムーズに共同歩調がとれるのが我々日本人ですね。
最近はヘンだと思うことも多々ありますが、久々に感じた日本人の美しさでした。
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大地震

11日はとんでもない大地震の発生で、日本列島はこれ一色になりました。

マロニエ君は夕方までこれをまったく知りませんでしたが、夜テレビで観るとありとあらゆる恐ろしい映像の連続でわなわなと驚くばかりでした。

とりわけ岩手などの漁港に押し寄せる猛烈な津波の勢いは、まさに想像を絶するものでした。
はじまりは静かに見えたものの、次々にコンテナがおもちゃのように動き出し、水勢が町中に入るだけは入ったら、今度はこれが逆流をはじめ、それに伴って家、車、ありとあらゆる家財道具などが根こそぎ、猛烈な勢いで持って行かれる映像は、何度見ても総毛立ちました。
もしやあの中に人がいるのかと思うと、これはまさしく悪魔の仕業としか思えません。

ほかにも美しい田園地帯に一気に黒い怪物のような津波が際限もなく、情け容赦もなくぐいぐいと押し寄せ、その血も涙もない破壊の様のすさまじさは、まるで地獄の光景でも見ているようでした。

ほかにも千葉の製油所に起こった、まるでパニック映画のような大火災。

横浜の路上では、割れた地面が互いにユラユラと揺れる様など、いやはや、これはとてつもないことが起こったものです。東京では帰宅困難者という人々が夥しく溢れかえり、空撮映像では立錐の余地もない人の海の中にバスがぽつんと止まっていたりと、みんなどうするのだろうと思うばかり。
東京の友人に電話してみますが、もちろん一切繋がりません。

さすがのマロニエ君もこんな日はのんきにブログなど書く気にもなりませんし、やはり地震のことに言及することになりました。

あちこちに避難されている被災者の方々も大変だろうと思います。
とりわけ、福岡も6年前の福岡県西方沖地震の経験で、大地震の後のとめどもない余震にさらされ続けることのいかにつらいかを経験しただけに、心からご同情申し上げる次第です。
余震の辛さは経験した者でないとわかりませんが、マロニエ君などはいつ果てるともない余震による不快感と恐怖で一時体調まで崩してしまい、その回復にはかなりの時を要しました。
とくに忘れられないのは、揺れるときに必ず聞こえてくる不気味な唸り音です。

もちろん家や家族を失った人達の衝撃からすれば、余震なんてものの数ではないのでしょうけれど。

見れば、避難所は停電で真っ暗で、しかも東北地方はまだ雪が降るほどの寒さの中で暖房もなく、そんな状況下では、若い人でも相当の試練ですが、ましてや高齢者の方々などが、これからこの厳しい時間と戦っていかなければいけないのかと思うと、本当にお気の毒でなりません。

さらに恐ろしいことには、福島原発の原子炉のひとつに水漏れが発生しているとかで、放射能漏れに繋がる可能性も高まってきていると言っており、どうなることかと緊張は高まるばかりです。

こんなこと書いていても仕方がないので、今日のところはこのへんで終わりにします。
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ユーザー車検

以前からの約束で友人の車のユーザー車検に付き合いました(というか、やってあげました)。

マロニエ君はユーザー車検の経験はかなりあるほうなのですが、何度やってもドキドキさせられるものです。
それはつまり、書類さえ出せば済む事務的な世界ではなく、実際のラインに車を持ち込んで各種のテストを受けなければいけないことで、ひとつでも不合格になれば絶対に新しい車検証は交付されない、いわゆる「受験」だからだと思います。

とりわけ福岡の車検場の近くには「予備検査場」といわれる場所がないのが苦痛をいっそう駆り立てます。
予備検査場というのは本番の車検場で検査される各項目で、合格できるかどうか予め診てくれる民間の自動車整備工場のことで、多くの車検場の近くにはこの手の工場があるのが普通なのですが、なぜか昔から福岡の検査場付近にはこれがないために、どうしても「ぶっつけ本番」となるわけです。

ユーザー車検を受けるには、必ず予約をしておかなくてはならず、しかも予約には午前午後に分かれる4つの時間帯のうちのどれにするかも前もって決め、さらに予約に際しては受験者の名前から車のエンジン形式や車体番号まで細かく申請しておく必要があります。

事前に準備するものと、陸運支局で買い揃えるものの両方で10枚近い書類もまた、どれひとつして欠けることは許されません。まさしくここはガチガチのお役所なのです。
予約ができていて、すべての書類のすべての項目に一字たりとも遺漏なきよう完璧に記入して窓口に提出し、これが通過できてはじめて人車共々、車検場への入場となります。

検査ラインの該当レーンに並び順番を待ちますが、自分の番が近づくと制服の検査官が寄ってきて、再度書類のチェックがおこなわれ、これに問題なければ車輌の事前審査が開始されます。
すべてのランプ関係のチェック、ワイパーやウインドウウォッシャーの作動、ホーン、ホイールのボルトのしまり具合などから、窓ガラスの色の濃さまでチェックされ、最後にエンジン型式と車体番号の書類と実車の照合が厳格におこなわれます。
このエンジン型式と車体番号というのは車によって刻印された場所がまちまちで、しかも非常にわかりにくい場所にある場合も多いのですが、いかなることがあってもこれが疎かにされることはありません。
どんなにわからなくても時間を要しても、徹底的に探し出されての照合です。

これらに合格すると、いよいよ検査ラインに入ります。
ここで検査されるのはサイドスリップ、フットブレーキ、パーキングブレーキ、スピードメーター、光軸、下回り検査、排ガス検査となります。
サイドスリップとはきちんと真っ直ぐに走るかどうか、スピードメーターは正しく表示されているか、ヘッドライトは定められた方向をきちんと向いているかなどを検査、下回りはハンドルのガタやオイル漏れなどが係官によってチェックされます。
検査項目のうち、どれかひとつでも不合格が出れば、問題箇所を修正して合格できるまで再検査となります。

今回は光軸で不合格が出て、左の前照灯がやや上を向きすぎているという結果が出ました。
ここからが戦いで、建物の壁にライトを照らしてまさに勘で調整しますが、決められた時間内に結果が出せなければ後日の再検査となります。
結果的には時間内に3度目の検査で無事に合格することができましたが、その間の緊張はなかなかのものでかなり心身共に疲れるのは事実です。
もちろん不合格の内容によっては、当日では解決できない修理を要することもあるのは言うまでもありません。

今回、新しい規則となっていたのは、再検査のたび毎に、かならず検査官が車体番号のチェックをするようになったことで、これはおそらく別の車を使って項目別の合格を得ようとする、不正に対する防止策だと思われました。

つい最近、京大などの入試で携帯電話を使った不正が発覚しましたが、どんなところにも悪知恵を働かせる輩がいるために、鼬ごっこは尽きることはないようです。

しかし、すべてを通過して新しい車検証を手にする喜びは、これまた何度やってもバンザイしたいように嬉しいものです。
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エレベーターで

つい先日、天神であるビルのエレベーターでのこと。

マロニエ君を含めて4人ほどが乗っていましたが、そのうちの女性二人がしきりに話をしています。
一見してとても仲の良さそうな知り合いという感じでしたが、話の内容はまったく覚えていませんし、そもそも興味もありませんが、とにかくエレベーターの中で他人の存在をも憚らないほどの弾んだ会話でした。

年の頃は30代後半といった印象でしたが、まあそのへんのことはよくわかりません。
少なくともそんな感じに見えたということです。

あるタイミングで、片側の女性が相手に向かって「お住まいはどちらなんですか?」と気軽な感じで尋ねました。
(つまり住まいがどこまでかは知らないぐらいの関係なんだなとそのときわかりました。)
すると、なんと相手の女性は、なんといったらいいか、苦笑いとも冷笑ともつかない表情をするだけで、一向にその問いに答えようとしません。なにも言わないのです。
目の前のこの事態にこちらのほうが内心ギョッとしてしまい、咄嗟にこの人はそれには答えたくないらしいということがわかりました。

詳しい事情などはもちろんわかりませんが、少なくともあれだけ親しげにしゃべっておきながら、相手から住まいを聞かれて、それに答えないとはずいぶん失礼な人だな、というのがこのときの至って率直な印象でした。仮に答えたくないにしても、よくそれをその瞬間に通せるもんだと、その神経にびっくりです。

ところがそれだけではありませんでした。自分が答えないのみならず、逆に「○○さんはどちらですか?」と聞き返したのです。つまり逆襲に転じたのです。
なんと、自分の住まいがどこかは明かさないでおいて、なおかつ相手の事は聞いてやろうというわけです。
すると相手は「…西区のほうです」とだけ、たいそう消極的に答えました。
それに対して、この女性は「そうなんですね…」とだけ言って、やはり自分の住まいがどこかはとうとう言いませんでした。

まあ、それだけですが、このやりとりはいかにも今風の人間関係を表していると思いました。

いまどきの人って、とくにこのぐらいの世代の人というべきかもしれませんが、人との関わりが悲しいほどに表面的で、むやみやたらと自分のことは言いたがらなかったりします。
しかもそのガードの固さは正しいと思っているのか、心底に歪んだ快感があるのか、詳しい心理はわかりませんけれども、ちょっと病的だと思うときがあります。
マロニエ君の印象としては、「個人情報の保護」なんて言葉が飛び交うようになってから、いっそうこういった傾向に拍車がかかったように思います。

しかし、マロニエ君はまず、自分の住まいを明かさないような人とは、お付き合いはしかねると思っています。
親しくなって尚、住まいを教えたがらないような人ってろくな人はいないと思っていますし、こういう人は自分を守るつもりで、実は最も大事なものを守ることのできない人だし、他者のことも決して大事にできない人だと思うのです。

相手の女性の「…西区のほうです」というような答え方もしばしば耳にするフレーズです。

あくまでも大まかなことだけで、それ以上具体的なことは言わない、教えないという、自分の一方的な警戒感だにしか興味のないカサカサな人間です。
尤もこの女性は、相手が答えもしないのに自分だけがそれを言わされることへのささやかな抵抗として、こういう返事の仕方をしたというのは考えられますが。

こういう会話の中に現代人の利己的な暗い心の底を見るようで、ゾッとしてしまいます。
人に住まいを教えないのも、理由の武装はしているのでしょうが、なにかにつけこんな調子では、そりゃあ人間関係は希薄になるのは当然だと思います。
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ヴァイオリンの虚実

ヴァイオリンの謎に迫りだすとキリがありません。
過日もオールドヴァイオリンの虚実入り混ざる話を書きましたが、ヴァイオリンの真価というのも、マロニエ君などはまったくの門外漢だけにますます怪しげな闇の中にあるような気がしてしまいます。

例えば本を何冊か読むと、書いてあることがまるでバラバラなわけです。
今や億の世界に突入したストラディヴァリウスなどが、300年も前に作られた楽器であるにもかかわらず、なぜそれだけの価値があるかということです。

ヴァイオリン製作は、才能があって正しい修行を積んだ人なら一人で完成させることのできる、構造的には非常にシンプルな楽器ですから、シロウト考えではそれを凌ぐ楽器が出来ても不思議はないとも思うのですが…。

しかし数ある新作ヴァイオリンよりも優れたオールドヴァイオリンのほうが良いとされる理由は、実際に演奏されると美音なのはもちろん、表現力に優れてバランスが良く、遠鳴りするというのが主なもののようです。
あるいは、新しいヴァイオリンは機能的には優れていても、木が新しいところがオールドには敵わず、これが100年か150年経てば良くなるかもしれないという、甚だ気の遠くなるような意見もあります。

では、それだけの時が経てばストラディヴァリウス並の楽器に熟成される可能性があるのかという点では、絶対にないと言いきる人も中にはいますし、はたまた、いかに貴重なオールドヴァイオリンといえども、実際には楽器が衰えており、耳元では妙なる音色を紡いでも、コンサートヴァイオリンとしてはもう使い物にはならないのが実体だという人がいたりもします。
こんな調子ですから、どれが真実なのやら見当もつきません。

さらに驚くべきは、現在のクレモナ(イタリアのヴァイオリン製作の聖地。かつてのアマティ、ストラディヴァリ、グァルネリなども同地の職人)にも名人級の制作者が少なくとも数人いて、これらの職人の作り出すヴァイオリンはすでにオールドヴァイオリンと同等もしくはそれ以上の能力があり、実際にそれをコンサートで演奏したり、レコーディングにも使っているヴァイオリニストも少なくないというのです。

これらの人気職人ともなると、購入しようにも予約でいっぱいだそうで、発注しても出来上がるのは数年先というのが普通だそうです。
中には、なんと持っていたストラディヴァリウスを手放して、これらの新作ヴァイオリンに変更する演奏家もいるのだそうで、その理由はくたびれたオールドヴァイオリンよりも音量があり、弾きやすく、歴史的名器に決して引けをとらない美しい音色をもっているから、というのですから、もうなにが本当のことなのやら、いよいよわからなくなります。

値段のことははっきり書いてはありませんが、クレモナの新作ヴァイオリンの一級品でも300万円前後のようで、弓とセットで500万ほどというのが一応の相場のようだと見受けました。
オールドはすでに億の世界といいますから、その値段の差は途方もないもののようですが、普通はせいぜいそのへんがヴァイオリンの高級品として妥当な値段じゃないかという気がして、妙に安心するというか納得できたという気がしています。

貴重品につけられる価格は、ケタも違えば、その先に待ちかまえる虚実と闇も、同等に広がっていくような気がします。
こういう世界を垣間見ると、ピアノはたとえどんな名器名品といってみたところで、まだ大半は機能・性能が優先され、あとは、音というよりも手のかかったアートケースの価値などであり、しょせんは魔物の棲む世界ではないようです。
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無理は厳禁

整体院に通い始めてニ週目に入り、4回治療を受けました。
先生と話をしていると、ありがたいことに為になることをあれこれと教えてくださいます。

まずは当たり前のことですが、いまさらながら再認識させられたのは健康の基本のひとつは血流の良さであるという点でした。
血流が悪いとあらゆる病気の根本原因となり、なんにしても、まずこれをきちんと回復させ、良い状態を維持するような認識と努力と生活習慣が大事とのことでした。当然ですね。

とりわけ静脈はいわば血管の下水道なんだそうで、ここをきれいにしておかないことは、掃除をしていない部屋でだらしない生活をし、どろどろに汚れたキッチンで食事を作るようなものだそうです。
冷え性とか関節の痛み、ひいては精神的な領域まで、血流がよくなればかなりの部分が解決するそうですし、高血圧やコレステロール、果ては脳梗塞などもすべて血液の健康如何にかかっているのですから、まさにこれは健康の基本であり土台であるのは間違いないようです。

ここまでは誰でもある程度わかっていることですが、当たり前のようであまり意識することなく、認識を新たにさせられた点もいろいろありました。
例えば自分の身体に対しては、とても敏感でなくてはいけないということ。

人は個人差によって、体のちょっとした異変、あるいは無理と安全の境界線を感じやすい人と鈍い人がいるのだそうです。
鈍い人は、それだけなにかと体に負担をかけることが多いそうで、危険ラインを的確に見極めることができないために、本人はそんな気はないのに、結果的に体を痛めてしまうのだそうです。
スポーツの経験者は厳しいトレーニングと同時に、体調管理の必要性をたたきこまれるらしく、たとえばランニングなどをしていても、ちょっと膝の調子がおかしいなと思えば、そこでただちに走るのを止めるそうですが、そこで欲を出して無理をすると大きな故障に至ってしまうとか。

体が壊れるのはまさに一瞬のこと、しかし、それを取り戻すには長い時間がかかるのだそうです。
まあ、これは人の体に限ったことではなく、ありとあらゆる事に言えることで、物でもなんでも、壊れるのは一瞬ですが、復帰への道のりは長くて遠いものですね。

この先生が言われるには、人間の体は基本的に動かして機能を使うようにできているから、これをしないと体はいっぺんに鈍って不健康になるので、極力運動をして体を日常的に動かすことだそうです。
しかし、これには大いに但し書きがついていて、運動=スポーツのトレーニングのように考えて、無理をするのはとんでもない勘違いで、逆効果だということです。
決して無理をせず、それでいて自然な流れの中で結果として運動にも適っているというのが理想のようです。
むろん、その無理のラインも個人個人で違うのはいうまでもありません。

家人が別の医師からも聞いてきた事ですが、運動の必要性を痛感し、いい歳をした夫婦などが一念発起して夜な夜なわざとらしく大げさに手を振ってウォーキングしたり、中には小走りで夏冬関係なく無理な運動をすることに自虐的な満足を持っている人がいますが、ああいうのは百害あって一利なしだそうです。

それなりの年齢まで運動の習慣がない人が、あるときを境に心を入れ替えたつもりで人が変わったように運動に精を出したりするのは、シロウトのマロニエ君の目にもちょっと奇妙な光景に映っていましたが、やはりこういう形での運動はもっぱら体に負担をかけるだけでプラスの効果はあまりないようです。
しかし、ご当人は、すこぶるいいことをしているつもりなのだろうと思われます。

まあ、マロニエ君のような怠け者には、「無理をしてはいけない」というフレーズは、それだけでもなんとも心地よい響きなので、それでこの先生のお説がますます気に入ったのかもしれませんが
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野次馬根性

昨日の午後遅く、用があって天神に行ったのですが、いつものように車で自宅を出て1〜2分、1キロも走らないあたりで前方にどういうわけか人がたくさんいるのが目に入りました。

それは、ちょうど坂道を下った先にある交差点のあたりで、一目見て、いつもとはまったく違うその気配に何事だろうかと思い、車が近づくにつれて目を凝らしました。
ちょうどその交差点の信号が赤になり、上手い具合に停車することになりましたが、とにかく黒っぽい男性の姿が多く目につき、なんとテレビカメラのようなものを担いだ、見るからにマスコミ関係とおぼしき人達もその中にたくさんいて、皆一様にむかって右側を凝視しています。

それだけではなく、なにか非常に緊迫した雰囲気があたり一帯に漂っていて、なにかが起こっていることはもう明らかでした。さらによく見れば、交差点から右斜めに伸びる道の入口にはロープがかけてあって、もはやその道は立入禁止になっています。
警察官も大勢いますから、もはやこれはタダゴトではないことは一目瞭然でした。

ちょっとした事故や事件なら世の中のあちこちで散発しているでしょうけれども、これだけのカメラの数からしても、どうやら並の事件ではないと思いました。

道も俄に流れが悪くなり、幸いにもサッと現場を通り過ぎることはできなくなりましたから野次馬としてはチャンスです。
そうこうしているうちに先の信号が赤になり、事件現場らしき場所の近くで停車をせざるを得ない状況になりましたが、もうひとつの路地の入口にはテレビニュースなどでよく目にするブルーシートが道幅いっぱいに張られていて、その先の様子を窺い知ることはできなくなっています。

それにしても、あのブルーシートというのはそもそも中の様子を見せないために張るものでしょうが、なんとまあその生々しい青色の目立つことか!まるで「問題の核心はこの先ですよ」と教えてもらっているみたいで、あんなものを見たが最後、いやが上にも好奇心が膨れ上がるものです。

野次馬根性旺盛なマロニエ君は、もうそっちに目も心も釘付けです。
信号が青にならないことを祈りつつ窓を開けて見ていると、中年の女性が二人歩道をこちらに歩いてきましたが、制服は着ていないものの警察関係者とおぼしき男性に両手を広げられ、これより先へは行ってはいけない旨を告げられているようです。

そんなところで信号は青になり、この降って湧いたようなウォッチは終了となりましたが、気になる気持ちはとうてい収まるものではなく、天神に着いてすぐに友人に電話して事のあらましを言ったところ、インターネットのニュースを見てくれて何事かがようやくわかりました。
地元の電力会社とガス会社の社長宅に爆発物が仕掛けられて、そのための騒ぎだったようで、てっきり殺人事件かなにかと思いこんでいたマロニエ君としては、へぇ……という印象でした。

そういえば昨日の午後は、やたらヘリコプター(しかも複数の)が我が家の上空あたりを長時間ひっきりなしに飛び回っていたので、ずいぶんうるさいなぁと思っていたところでしたが、どうやらこの事件のせいのようでした。

帰りもむろん同じ道を意識的に通りましたが、依然としてブルーシートなどは張られたままでしたが、報道陣の姿は潮が引いたようになくなっていました。
なにやら、やたらわくわくさせられたマロニエ君でしたが、帰宅した頃には騒がしかったヘリコプターの音もすっかり消えていました。

テレビニュースよれば怪我人などはいなかった由で、ひとまずなによりです。
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整体院

整体院の続きです。

具体的なことをくどくどと書いても仕方がないので大まかに言いますと、受付を済ませたあとは、まず機械による足裏のツボ刺激を10分間やらされ、あとは先生の見立てとなります。
マロニエ君の場合、問題の肩は指がまったく入らないほどにパンパンになっているのだそうで、状態が厳しいので初回は核心部分へは敢えて手をつけず、外堀から攻めるべく、そこへ連なる手足のほぐしに時間の大半が費やされました。

足も左右、たっぷりと時間をかけてほぐされますが、一見肩とは関係の無さそうな足などは、実は肩や首とは密接な関係があるのだそうで、左右共にかなり慎重にやられました。
両手も同様で、これもかなり時間をかけての治療のようですが、なにぶんマロニエ君の体はこれまでに一度もこのような整体術を受けたことがなかったので、リラックスというよりは、緊張と、相応の痛みとが入り交じった感覚で、終わったときにはドッとため息が出るような気分でした。

先生もずいぶん頑張られたと見えて、全身うっすらと汗ばんで多少息が上がっているようでした。

首に簡単なギブスを装着したほうが治りが早いと断然これを勧められ、どうしてもイヤなときは外してもいいということなので、これをくくりつけられての帰宅となりました。

首は多少の不自由があるものの、むち打ちの人がするような大きなものではないので、拘束力もさほど強くないし、それよりは心なしか気分が晴れ晴れとしたような心地がしましたが、それが単なる気分的なものか、あるいはさっそくにも何らかの効果が顕れてきたのか、この時点ではそこまではよくわかりませんでした。

まずはそのまま仕事に復帰して、夜は都合により外食となりました。
食事から帰るころまでは首にへんなものをつけている以外はなんということはなく、むしろはっきりしていたのはあの耐えがたいような肩の激痛が、たしかに少し和らいだ感じがあって、これだけでもやはり思い切って行った甲斐があったと喜んでいました。

ところが深夜になり、厳密には整体院を出て6〜7時間ぐらい経過した時点で、急に両手足が痛くなりだしました。直感的に揉み疲れだということは察せられたのですが、その痛みはわずか30分ぐらいの間に猛烈なものへと拡大して、もう歩くのもやっと、物を取るのもやっと、階段の上り下りは一歩一歩が苦しみを伴うものになったのにはさすがに驚きました。とくに下りのほうが痛みはより厳しく、よく、上りよりも下りのほうが体の負担は大きくて大変などと言われるのが、まさに身をもってまざまざとわかりました。

深夜なのであとは寝るだけですが、夜中にトイレに行くにもほうほうの体でした。

それはそれとして、大きな発見は、やはり血行がよくなったのか、寝るときも体が心なしかいつもより温かいことがはっきりとわかり、とうとう毛布を一枚外して寝ることになり、整体というのはすごいもんだとだんだん思うようになっていきました。

幸いこの両手足の揉み疲れは、翌日になるとほとんど気にならないレベルにまで落ち着き、あとはやはり肩の痛みが以前より確実に少なくなっていることが実感できるようになりました。

そして昨日、二度目の治療を受けに行きましたが、さすがに初回のような緊張もなく、遙かにリラックスしてあれこれのほぐし等を受けることができました。
今回から鍼治療もはじまり、首のツボに二度ほどこれを受けましたが、鍼などというとマロニエ君は注射を連想するようなイメージがありましたが、果たして髪の毛のように細い鍼で、ほとんど痛みらしい痛みもありません。

効果がいよいよあらわれてきたのか、針治療の成果か、昨日からはさらに肩の痛みが少なくなり、さすがだと思うと同時に、こんなことならもうちょっと早く行っておけばよかったと思わなくもありませんが、それは結果からそう思うのであって、マロニエ君の性格からすれば、かなり追いつめられないことには到底動かないわけですから、これはこれで仕方がないと思います。
ともかくも良い結果が出つつあって、ひとまず良かったというところです。
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ガマンと決断

マロニエ君は今年の初めぐらいから腰痛に悩まされ、パソコン用の椅子を買い換えるなどして一進一退を繰り返していたのですが、ろくに回復しないうちに、今度は左肩から背中にかけて強い痛みが加わりました。

鎮痛剤を呑むなどして様子を見ていましたが、症状はなかなか改善されず、一度はついに重い腰を上げて近所の整形外科に行ったのですが、雨の日だったためか待合室を見ると5〜6人待ちの状態であったため、冗談じゃないと思いそそくさと引き返してしまいました。
以前も書いた記憶がありますが、マロニエ君は行列とか待つということがなにしろ嫌いで、そんな光景をみると、自分の置かれた状況も関係なく、ひたすら拒絶反応を起こしてしまいます。

そんな頃、たまたま会った知人の医師(専門は違いますが)にこの症状の話をしたら、自分も腰痛持ちだが医者にはかからない、なぜならどうせ整形外科に行っても、レントゲンを撮って、痛み止めの注射をして、クスリを出すのが関の山だから何の期待もしていないと軽く言い放つではありませんか!
その人が言うには、整体院のほうがまだいくらか期待できるかもという事でした。

それみたことか!と、マロニエ君は自分が未だ医者にかかっていないことをいささか気に病んでいたところでしたが、そんな折に聞いたこの発言ですから、一気に専門家のお墨付きを得た気分でした。
「やっぱりあのとき引き返してきたのは正しかったんだ!」と。

しかし、それから約10日ほど経過したものの、症状は一向に改善の気配もなく、とりわけ左肩周辺の痛みは耐えがたいものがあったので連日騒ぐものだから、家人もうんざりしていました。
それを見かねたある知人が、自分がかかりつけという整体院を紹介してくれました。
「ここはとても親切でなかなかいいところだから行ってみたら…」というわけです。

ふうん…だったら行ってみようかという気になりかけたとき、以前ある調律師さんの奥さんの言葉をフッと思い出しました。「腰痛を治そうと整体院に行ったところ、あれこれとわけのわからない事をされた挙げ句、却って悪化したので、あの手のところに行くのも考えものですよ!」という話を思い出し、はてさて、どうしたものかとずいぶん悩みました。

悩んでいるその間にも、痛みは一向に治まる気配を見せず、靴下をはくのも目薬を差すのもかなりの苦痛を伴います。
最近ではピアノサークルのメンバーの方から教えていただいた、この手の痛みによく効くという売薬も飲み始めていたところですが、効能が表れるまでには最低一ヶ月はかかるらしく、それを期待するのはしばらく先になりそうなので、当面の痛みを減じるためにも、ともかくものは試しと決心して整体院についに今日行ってみたのです。

マロニエ君は実は生まれてこのかた、整体院とかマッサージといった類は一度も受けた経験がなく、体を揉まれたりするのはかなりくすぐったがるほうなので、悲鳴でも出そうものならどうなるやらと不安でしたが、ともかくこう連日痛むのでは現実的に生活に支障をきたすので、すべてを振り払って、ついに車のエンジンをかけました。

というわけで整体院初体験となりましたが、前段がずいぶん長くなりましたので、明後日また行くことになっていますし、その結果は次回にまとめて書くことにします。やれやれです。
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練習会&お茶会

昨日の午後は、市内の小学校でピアノサークルの練習会がありました。
マロニエ君は定例会にはそこそこ顔を出していますが、練習会は二度目の参加で、記憶ではそれほどの人数ではなかったので、同じようなものだろうと思っていたら、ポツポツと人がやって来て、最終的にはそれなり(たぶん10人以上)の人数になって、これはこれでひとつの立派なイベントみたいでした。

練習会とは言ってみても、ピアノは1台で、弾くのは常に1人ですから、必然的にあとは定例会同様に人の演奏を聴いている形になりますが、それでも多少のおしゃべりなどは許されるので、やはりいつもよりはだいぶリラックスした雰囲気ではありました。

とは言っても自分の番になれば、どうしても人の目の前で自分一人が弾くということに変わりはないので、それなりの緊張が伴うのは言うまでもありません。

さて、マロニエ君の知人が最近このサークルに入会したのですが、昨年秋のショパンコンクールを聴きに行かれたときの資料やら写真やらをたっぷりと見せていただきました。
よくよく話を聞いてみると、このために長期の休みを取ってワルシャワに赴き、なんと一次から決勝まですべて、毎日8時間、実に3週間にわたってコンクールを舐め尽くされた由で、まさに審査員と同じ量、世界から集まったコンテスタントの演奏を聴いたという事ですから、いやはやもう開いた口が塞がりませんでした。

同行した奥さんには「一生のお願い」と拝み倒しての渡欧だったそうですが、お付き合いもここまで来れば生半可なことで出来ることではありませんね。ワルシャワでは連日朝からフィルハーモニアホールへと通い続け、時には日に10回も幻想ポロネーズを聴くこともあったとか。わずかな空き時間にはショパンの心臓が納められた教会だのショパンの像がある公園だのと、コンクールの合間もひたすらショパンな日々だったそうで、あっぱれという他に言葉が見つかりません。

もう一つはメンバーの方が最近行かれたという、東京は信濃町にある民音音楽博物館で、パンフレットを見せていただくとオールカラーの立派な冊子に、所蔵楽器の写真がずらりと紹介されていましたが、ピアノだけでも相当の台数が収蔵されているようで、歴史的価値の高いものが多々あるようでした。
現地では案内の人がそれぞれの楽器の時代に即した曲を演奏してくれるんだそうです。

マロニエ君が東京にいる頃にはもちろん存在しなかったおそらくは新しい音楽博物館で、そのうち上京する折があればぜひ行ったみたいものです。

練習会終了後は近くのコーヒーショップに移動してのお茶会となりましたが、そこでの話題は、もっぱらひとつのテーマに占拠された観がありました。
というのも、我らがリーダー殿には昨年末から素敵なお相手が出来たことは聞いていましたが、リーダー殿がここで語り始めた独特な語り口によるオノロケの連発は、お茶会に参加した全員を、元気と感嘆と爆笑の渦に巻き込みました。
そのあまりの可笑しさに時の経つのも忘れ、練習会よりもさらに長い時間、一同はこの愉快な話題に釘付けとなり、最近のように暗い話題ばかりが続く中で、久々に聞く、春爛漫の明るさに満ち溢れた話でした。
リーダー殿の一直線の自信に満ちたトークの数々には、否応なしに一同が沸き立ち、まるで我々の席だけがルネサンスの宗教画のように天からの光りに満たされているようで、いやはやつくづくと明るい話は人を幸せに快活にするもんだと思いました。

これだけでも出かけて行った甲斐があったというものです。
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原付バイクの寿命

知人が通勤などに原付バイクを昔から使っているのですが、どのバイクもちょくちょく故障して、出先で動かなくなったり、エンジンがかからないなど、トラブルが絶えないらしいことは、いつも聞くたびに首を傾げています。
そして数年に一度は、故障頻度と修理代に押されるようにして、不本意ながら買い換えに追い込まれているようです。

日本製品で、新車から乗っているというのに、こういうことって意外にあるんですね。
その人曰く、安いのだと「だいたい3年であちこち故障が起こり始める」のだそうで、そのたびにあれこれと修理やらパーツ交換やらをするハメになっているようです。

マロニエ君は原付バイクには乗りませんので、そのあたりの寿命とか信頼性に関して平均的実情をほとんど知らないのですが、この人のバイク事情を昔から見ている限りでは、我らがメイド・イン・ジャパンも原付バイクに限ってはあまり大したことはないなあ…という印象を持っています。
もしかすると、どこか賃金の安い海外の生産なのかもしれませんが、たとえそうだとしても、日本のメーカーの優れた設計と厳しい品質管理のもとに生産される製品であることにかわりはないはずで、信頼性も日本製に準ずるものがあるはずだと思うのですが。

これが普通の四輪車だったらどうかと思えば、よほど営業車などで酷使でもされる場合は別として、普通に通勤や買い物に使う程度の乗り方をしていれば、たかだか3年ぐらいであちこちが故障したり、頻繁にパーツの寿命が来たり動かなくなったりということは、まず日本車では考えられないことですよね。

四輪車や大型バイクには、3年で車検という一応の節目はあるものの、それは各種の点検と、必要な消耗品の交換ぐらいなもので、あちこちのパーツが故障(少なくとも車が走れなくなるような)しはじめるなんてことはちょっと考えにくいです。
通常の乗り方なら、定期点検をしていれば、タイヤやバッテリー、ブレーキパッドのような消耗部品と取り替えるだけで、とりあえず不安なく乗ることができるし、故障して立ち往生とか、エンジンがかからず車を置いて帰ってくるというようなことが頻発するなんてまず考えられず、機械的な寿命だけでいうなら10年は不安なく使えると思います。

そういう観点から見ると、原付バイクというのは機械的にえらく弱々しい短命な乗り物なんでしょうか…。
知人によれば安心して乗れるのは新車からせいぜい2年ぐらいなんだそうで、そのあとはちょこちょこ問題が出始め、出先で動けなくなったバイクを置いて、あるいは押して帰ってきたことも1度や2度の話ではないようです。

ひとつには50ccという小さなエンジンでは、車に較べると格段に持てるパワーの最大限の力を発揮させられ、いわば酷使されている状態に等しいということなのか、あるいはそもそも耐久品質がそのていどのものなのか、いつも不思議に思わせられるのです。
この人の使い方を見ていると、長くても5年で乗り換えていますし、それも最後の1〜2年は修理の頻度が高いようで、文字通りだましだまし乗っているのだそうです。

原付バイクというのは、正式にいうと「原動機付き自転車」だそうですから、その品質もそのへんの自転車並というふうに考えなければいけないということでしょうか。
穿った見方をすれば、メーカーは意図的に品質を落として、数年程度で買い換え需要を作り出しているということも、もしかしたらあるのかもしれませんね。
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クスリを呑むタイミング

最近、人から聞いた話ですが、効果的にクスリを呑むタイミングというのは、広く普及している認識とは、どうも逆のようです。

まず普通の人の認識でいうと、クスリは体に良くないもの、できれば呑まない方がよいもの、呑むにしても極力我慢して、どうしてもというときに限るという認識があるはずです。
マロニエ君などは根性ナシですから、なにかあればクスリを呑むことにさほどの抵抗はありませんが、中にはクスリ=毒物のように思っていて、それを呑まないことが健康な自然派とでも言いたげな一種の喜びを持っている人がいるものです。
こういう人に言わせるとクスリをすぐ飲む人は、ほとんど「薬物依存」であるかのように決めつけたりします。

病気をしないということはなるほど自慢になりますが、この手の人達はクスリを呑まないことが価値であり、体に対する善行であるかのごとくで、その頑ななまでの意気込みには恐れ入ります。
風邪をひいても頭痛がしても、こういう人達は極力クスリを呑むことを避けようとし、人体の持つ自然治癒力を過信していて、自分の体はそれを最大限発揮できる機能があると信じたいかのごとくですが、マロニエ君などからみればいささか極端すぎるというか、どうかするとただの野人のようにも見えてしまうことがあります。

さて、前段が長くなりましたが、人からの受け売りですが、ある医師の説によると、クスリの最も効果のある賢い飲み方は、なんらかの症状が出て、それがまだ初期の段階に該当するクスリを呑むのだそうです。
つまりクスリはぐずぐずしないで一刻も早く呑みなさい!ということらしいのです。

もし仮にそれが市販薬の場合なら、さらに適量よりも若干多めに呑むとめざましい効果があるのだそうで、その医師に言わせると症状がひどくなるまで我慢するなど、まったくのナンセンスなのだそうです。

仮に軽いものでも、たとえ病気とはいわないようなものでも、少なくとも体に異変や異常があるときは、できるだけ早い段階でその異常を消してしまうのが専門家の観点からすると得策らしいのです。

まあ、よく考えてみれば頷けない話でもなく、仮にこれを火事にたとえるなら、大きな火の手があがるまで消火を手控えて我慢するなんてことはあり得ませんが、それと同じように捉えたらいいのかもしれませんね。
火が出ても、それが小さければ小さいほど消火は容易で被害も最小限で済むということでしょう。

その医師によれば、一刻も早くクスリを効果的に呑むことが、体への負担も最も少なく、トータルでのクスリの摂取量も少なくて済むので、良いことづくめだということです。

この話を聞いて我が身を振り返ってみると、そういえばちょっと思い当たることがあるのです。
たとえば風邪なども、おや?っと気付いたぐらいで、すぐにクスリを呑めばだいたいなんとか回避できることが多いのですが、たまに本格的な風邪をひいたりしたときのことを考えると、たしかにちょっと油断して一定時間を過ごしてしまっている場合などがあるのが自分でもわかります。
風邪などはひいてしまってからは、クスリも効きませんし、それでもあれこれとクスリ摂取量は比較にならないほど多くなってしまいますね。

果たして、なにが本当に体にとって一番得策かをよく考えたら、これは説得力のある話だと思いました。
少なくとも意地を張って、自然派を気取って、クスリを呑まないことが最善とはマロニエ君は思えません。
だいたいこういう人は、エアコンも嫌いで、真夏日でもクーラーは入れないなどと誇らしげにいうものですが、その認識とは裏腹に、体にはかなりストレスがかかっているように思うのですが…。
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異端児

日曜は久しぶりに車のクラブのミーティングに行きました。

最近はご時世故か、車そのものに対する人々の興味、とりわけ若い人達のそれが以前に較べて隔世の感があるほど低下していて、車に乗ること自体が嬉しくて遠くまで延々とツーリングをするというようなことも激減しているようです。
昔のように、爪に灯を灯すようにしてでも目指すスポーツカーを手に入れて、あれこれとチューニングして、その成果を確認すべく夜明け前から山道などに黙々と走りにいくというような人種は、めっきりいなくなりました。

とりわけマロニエ君達の好む、手のかかるマイナーなフランス車などは、カーマニア全盛期の頃でさえ異端児的存在で、置かれた状況は慢性的に恵まれることはなく、ただ単に所有して自動車として普通に乗るだけでも理不尽きわまりない苦労と忍耐の絶えないことは、およそ名うてのスーパーカーにも匹敵する困難がつきまとっていたといっても過言ではありません。

ましてや、最近のようにトヨタやニッサンでさえ国内販売の低迷に頭を抱える中、フランス車などどの角度から見てもビジネスとしてやっていける筈もなく、輸入元も取扱い車種を次々に切り捨て縮小するなど、いつこの小さな火が消えてしまうことかと思うような状況が続いています。

それでもクラブミーティングともなると普段はまず見ることのない同胞が駐車場に集まってきます。

この日は転勤で遠くに行ってしまっていた二人が福岡に戻ってきたというので、その二人が久々に参加していましたが、すでに結婚して二人の子供にも恵まれて立派な家族を成しており、時の経つのは本当に早いもの。それだけ我々が確実に年を取るはずだと思いました。

しかし数年ぶりとは思えないような昔通りの感覚で、何の違和感もなく話も大いに弾み、人というのは一時期深く付き合ってさえおけば、いつでもその当時に戻れるものだと思いました。

郊外のレストランに集合し、昼食を共にしながらしばらく歓談したあと、この日はこれという予定もなく、一人がディーラーに用があるというので、全員同行すべく30分ほどの短いドライブとなりました。

ディーラーに着いても、そこにはかつての活況は失われ、整備工場前のスペースには修理のための車は溢れているものの、販売はほとんどやっていないというか、ただ惰性で店舗のかたちをとっているだけという趣です。

車趣味、わけてもフランス車好きにとってのこれからは、さらに厳しい風雪が待ち受けるものと思われますが、その点では我々の仲間はちょっとやそっとのことでへこたれるヤワではないので、ここ当分はまだまだ乗り続けていくものと思われます。
昔から、たったひとつの部品が本国から届かないために、長いこと車が動かないだの、やっと来たかと思ったら何かの手違いで違うパーツだったり、そもそもディーラーがまともな整備上の知識がなかったりというような、普通の人から見ればおよそ許しがたいような逆境にも延々黙々と耐えてきた変な人種なだけに、その長年の鍛え込みがあるぶん、こういう時代になってもそれが強味になるだけの性根を作り上げているような気がします。

フランス車というのはピアノでいうエラールやプレイエルのような、なんともたおやかで風情のある、色とニュアンスに富んだ、一度覚えると離れられない細胞に食い込むような魅力がファンを捉えて離さない、不思議な車です。車に限らず、ピアノに限らず、フランスという国は一見わかりやすいようでさにあらず、一歩その中に入ると、非常に難解な迷路のように奥の深い世界が広がっており、こればかりは外から観光客のような視線で見ているだけでは絶対にわからないものです。

尤も、その中毒者となることがその人にとって本当に幸せな事かどうかとなると、マロニエ君自身も本当はどっちなのやらいまだによくわかりません。
ただし、ありきたりなただ平凡なものに疑問も感じず満ち足りるという安易な感覚は死滅し、常に自分でものを感じ、考え、通俗を否定し、真相を究明し、自分なりの結論を出すという、一連のフランス人的な感性のおこぼれには与れるような気がします。
異端であることが賞賛される世界、みなさんもおひとついかがでしょう。
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行かなかったゴッホ展

昨年から行こう行こうと心に決めていたゴッホ展でしたが、ついに行かずじまいとなりました。

自分でもどうしてだろうかと思ってみるものの、まあ理由はいろいろだったと思われます。
第一の理由は、土日の混み合う日に行く気はないけれど、平日はどうしても時間が作りにくかったことがあったと思います。
しかし、何が何でも、少々の無理をしてでも絶対に行きたい!というまでの気にならなかったことも、どうにかして時間を作ろうとしなかった逆の理由かもしれません。

それは、まず最近の展覧会の質の低下というものがあり、期待して行っても実際の会場にある展示物にはどこか寄せ集め的というか、間に合わせ的といった印象があり、そんな展覧会をもう何度も経験してしまっているので、だんだんどういうものか悪い方の察しがつくようになったことがあるかもしれません。

言い方が難しいですが、コンサートのプログラムにもそれなりの構成やバランス、あるいは主題が必要なように、様々な展覧会にも展示作品の質はもちろんのこと、さらにそこに一定の構成やまとまりがなくては、ただばらばらに数合わせだけしたような物を見せられても、必ずしも本来の感銘へ繋がるとは限りません。
最近は開催者や学芸員の世代も変わってきたのか、そのへんの裏事情はわかりませんが、本当の意味での芸術品美術品に慣れ親しみ、そこに精通した人間が各地の展覧会を手がけているとはあまり思えないような、少なくともそう感じられない、後味があまりよくない展覧会が多いのです。

展覧会というものは、ただ有名作家の作品をどこからか調達してきて並べればいいというものではなく、そこになんらかのアーティスティックな配慮と、来場者の心をいざなう統御が効いていないと集中力の高い展覧会にはなりません。

何となく最近の展覧会は役人仕事のような印象を覚えるものが多いのは事実です。
それはなにか。ちょっと安っぽい言い方ですが、主催者の情熱や気が入っていない、たんなるイベント的なものが多いと感じるのはマロニエ君だけではないはずだと思っています。

ゴッホ展に話を戻せば、行かなかったのは、さらに会場のせいもあるかもしれません。
2005年10月に鳴り物入りでオープンした九州国立博物館でしたが、東京や京都のものとは大違いで、国立博物館ともなれば建築自体もその名にふさわしいものでなくてはなりませんが、まるで何かのパビリオンか巨大な温室のようで、そこに足を向ける喜びが得られないのは甚だしく残念なことだと感じています。
中に入ってもここが文化芸術の殿堂という何か特別な気配は微塵もなく、まるで大きな観光案内所みたいで、まるきり文化の香りというものがありません。
おまけに駐車場は遠く、なんの美しさも風情もない、ただ山を切り開いただけのような舗装路を、車からあんなにてくてく歩かされるのもマロニエ君にはおもしろくありません。

私見ですが、美術館や博物館はこれといった用がなくても、なんとなくそこに行きたくなるような穏やかに包み込まれるような魅力、いるだけで気が休まるような高尚で静謐な空気が流れているような、そんな場所もしくは空間でなくてはならないというのが持論です。

まあ、考えてみれば自分の地元で良い展覧会のほうが向こうから来てくれることを望むのもムシのいい話で、本当に感銘を受けるような作品をそれに相応しい場所で見たいのなら、やはり飛行機に飛び乗ってヨーロッパにでも行かなくてはいけないということなのかもしれませんが。
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さげもん

「さげもん」はほんとうにかわいらしくて美しいものです。

柳川のひな祭りのときに飾る、吊し飾りとして有名な「さげもん」はいつかその時期に柳川に行って見てみたいものだと思っていますが、なかなかチャンスに恵まれずにいたところ、ニュースでこの「さげもん」の展示会をアクロスでやっているということを知り、天神に出たついでに東へ足を伸ばして見てきました。

2階の展示場で開催されていましたが、いろいろな作品があちこちに展示され、物によっては販売もされています。

マロニエ君はこれまで「さげもん」をそうしげしげと見たことはありませんでしたが、でもしかし、なんとなく昔から抱いていた雰囲気とは、これは若干違うような…という感覚を覚えました。
もちろん、きれいで色とりどりで、かわいらしいことは間違いありません。

しかし、かすかな記憶にある「さげもん」は、もっと文化や人の香りが濃厚な、ぼってりとした世界がありましたが、それが希薄だったのです。
モノ自体もたいへん良くできてはいるものの、いかにもプロの作品然としていて、仕事の質も達者でいやに安定はしていているけれども、なぜかそこから迫ってくる魅力がないわけです。
手際が鮮やかといえばそうなんですが、悪く言うと機械が作ったようで、個々の味わいや、それぞれと全体が調和しながら醸し出すこの「さげもん」独特の、明るさのなかにフッと暗いものが入り込んでいるような情緒感がないのは、なによりもがっかりしました。

柳川地方では、女の子が生まれると、父方のほうから檀飾りのひな人形が贈られ、母方は祖母から親戚、近所の人などにいたる女性達が寄り合って、この「さげもん」という吊し雛を時間をかけて手作業で作るというもので、その過程に生まれるお付き合いやおしゃべりなどはこの地域の女性の社交の場でもあり、柳川ならではのなんともいえぬ風物のようです。

したがって「さげもん」を作るのはプロではなく、地元の女性がその環境から自然に受け継いだ技術でもあり、まさにこれは地域に根付いた文化なのですが、これが実に、福岡県の一地方のものとはとても信じられないほど、美的で雅たセンスに溢れ、まるで京都かなにかの伝統工芸であるかのような華やかさと輝きをもっています。
その圧倒的な存在感は、ときに檀飾りのひな人形さえも霞ませるほどで、見る人の目をいやおうなく釘付けにするものです。

さげられた飾りは基本的に「柳川まり」と呼ばれる球状のまりに、様々な色の糸で美しい装飾が丁寧に施されたもので、各人各様の色やデザインを持ち、二つとして同じものがない手の込んだ作品が赤い糸で立体的に吊され、そこに宿る気品と美しさは日本文化の誇りのひとつだとマロニエ君は思っています。

ところが今回の展示会では、たしかに「さげもん」の形体はなしていますが、その作品の背後にそのような柳川の女性達の伝統的な風習に和して出来上がったものという息づかいが感じられず、いかにも手慣れたプロが明るい作業場で仕上げた商品というような冷たさを感じさせるものでした。
その美しさもどちらかといえば表面的なものに終わり、いわゆるその土地で必然的に生まれてきたもの特有の風合いがなく、しかも伝統的な柳川まりではない、各種人形のような様々な形状のものまであって、ちょっと本来の美の世界を逸脱しているように感じられたのは残念でした。

販売もされていましたが、ちょっとしたひとまとまりの吊し物でも30万を超えるものが多く、訪れていた老夫婦は、「商売気がミエミエでいやらしい」と普通の声で自由にしゃべっているのがおかしかったですが、たしかにマロニエ君も似たような印象を持ちました。

いまどきは娘さんの振り袖なども、ギョッとするようなおよそ上品とは言いがたい伝統とは無縁の新柄模様が主流となって、上村松園の美人画に見られるような日本の和服の古典的な繊細華麗な色模様などは衰退の一途を辿っているのは、一体どういう事だろうか嘆息するばかりです。

「さげもん」のような伝統が、またしても商業主義に侵食されていくのかと思うと…言葉がありません。
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せっけん

いつごろからだったかはよく思い出せませんが、世の中が健康ブームになるにつれていろんなものに「無添加」という文字が溢れるようになりました。

石鹸もそのひとつで、むかしは香りの強い化粧石鹸が高級品の代名詞で、化粧品会社が発売する香水をまぶしたような香りの強い高級石鹸はむやみに立派な化粧箱の中に恭しく鎮座し、いやが上にもありがたいもののように珍重されました。それにならって普及品もそういう方向を目指すようになり、有名な化粧石鹸の詰め合わせは御中元や御歳暮の代表格にもなって、日本列島を隅々までさかんに届けられ、皆それを愛用していた時代がありました。

しかし、無添加ブームは当然のように肌に直接用いる石鹸にもいち早く登場し、地味ながらも、良質のからだに優しい製品としてじわじわとその勢力を伸ばします。とくに福岡県には無添加石鹸の大手の会社があるので、今でこそ珍しくないものの、ひと頃は他の地域ではデパートや特定のショップなどでしか買えなかったようですが、福岡ではスーパーなどでもこの会社の製品がさりげなく買えるという恵まれた状況でもありました。

さて、マロニエ君の友人にはいろんなものに呆れるほど詳しいのが何人もいて、ジャンルも広範で、彼らがもたらしてくれる情報はいつもながら非常に中立的かつ専門性にあふれ、彼らと会うことは勢い情報収集にもなるわけです。そういうことに疎いマロニエ君にしてみれば、本業でも専門家でもないくせに、いつの間にそんな深い情報の数々を仕入れているのか、不可解きわまりない事ばかりです。

あるとき、その無添加石鹸の話に及びましたが、そのうちの一人が言ったことが衝撃的でした。
当時マロニエ君は、ただ単に洗顔用か何かを購入して入浴などに使っていたのですが、ほかに浴用、キッチン用、赤ちゃん用、洗濯用など何種類もの用途に合わせた製品があり、当然パッケージも違えば、形や大きさも微妙に異なっていました。
ところが、その友人が言うには、なんと中は全部同じものだと自信を持って言うのです。…まさか!!

曰く、ただ単に一種類の石鹸だけを販売して、「これを生活の中のありとあらゆる用途に使ってください」といっても、消費者の心理はなかなかそうはいかないものらしいのです。だから便宜的に使用目的別のパッケージや形を変えて、さもそれぞれの目的に適った製品であるかのようにして販売されているにすぎないと言い切ります。
成分を見ると、たしかにどれも純石けん分98〜99%の無添加石鹸となっており、彼が言うには、メーカーのいう防腐剤、色素、香料などの化学物質を一切含まない無添加の石鹸となると必然的にひとつのものになるわけで、結局、基本型であればどれを買っても同じというのです。

しかし、襟やそでの汚れも落とすなどと書かれた洗濯用と、赤ちゃんや女性の洗顔にも使う石鹸が実は同じものというのは、ちょっと聞いただけではなかなか受け容れることができませんでした。
そこで、疑うわけではないものの、一度自分で確認してみたくなり、石鹸会社のお客様相談窓口のようなところに電話してこの事実を確かめてみました。
するとなんと、友人が言うのはその通りで、電話に出た女性はそのことを認めました。ただし、言葉には覇気がなく、なにやらしぶしぶ肯定したといった感じではありましたが。
ともかく、これではっきりしました。

いらいマロニエ君は、浴用には同社の洗濯用という大型の石鹸を使っていますが、なるほど普通サイズの浴用や洗顔用と使い心地もまったく同じで、だったらこれがよほどお得だということもわかり、ずっとそうしています。
それからというもの、無添加石鹸の製品ラインナップのからくりに興味が出て、他社の製品も観察してみるようになりましたが、別会社でもやはり洗濯用/キッチン用/ふきん洗いなどともっともらしく書かれてはいても、成分は99%もしくは98%の「純せっけん分」となっていて、これといった違いがないことがわかりました。

その一方で、あまり使わなくなった化粧石鹸がいまだに物置などにゴロゴロあって、使わないのももったいないので、洗面所の手洗い用に使ってみることにしました。ところが、無添加石鹸を使い慣れていると、これはかなり肌に厳しい石鹸で、数日使っただけでも手の肌がみるみる荒れてくるのがわかり、また無添加に戻しました。
そのかわり、変な使い方ですが、化粧石鹸をスポンジにつけてフライパンなどの油汚れを洗ってみると、グングン油が落ちていくことがわかりました。
やはり脱脂力はかなり強力なようですが、むかしは平気でこの手の石鹸で全身を洗っていたんですから今から考えると驚きですね。
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続・エコの盲点

エコの問題点では、なるほどと思うのはまだあります。
家電でも、消費電力のより少ない省エネタイプへの買い換えが推奨されており、ものによってはエコポイントまでつけて国絡みでそれを押し進めていますが、これも件の先生によればまったくの無駄だそうです。

その理由は省エネタイプへの買い換えによる消費電力の差が果たしてどれぐらいか、それを電気代に置き換え、発電量に換算したらどれだけの客観的利益があるかというと、まるでないのだそうで、むしろマイナスになる場合も少なくないとか。
その根拠は、電気製品を買い換えると、古いものはお金を使って処分しなくてはならず、それは最終的にエネルギーを使って処分される運命にあるわけです。巷の「省エネ」の概念にはこの処分のために使われるエネルギー消費が含まれていないのだそうです。
そして新しい製品を買うのもタダではないし、総合的に考えたらそこに要するお金とエネルギーを上回るだけの、本当の省エネ製品なんてまずないというわけで、よろこぶのは要するにメーカーや販売店だけなのです。

これは車でもなるほどと思うことがありました。
あるAメーカーのAAという車は、同クラスであるBメーカーのBBという車に、全国のユーザーの平均燃費(自己申告)にどうしても1割強ほど及ばず、BBが燃費の点では一枚上手であることが明らかでした。
それをAAのユーザーは自分の車への大きな不満点としてネット上で訴え、BBのユーザーはうらやましい、自分も車検まで乗ったら次はBBへの買い換えると示唆したのです。
するとすかさず反論が来ました。AAはBBに較べると新車時の価格が若干安く、さらに平均的な値引き幅もBBよりやや大きいので、全体としては実質的に約20万円ほどの差があるので、車検までの3年間でわずか1割りの燃費差を考えたところで、とうていその20万の差を燃費の差で凌駕することは出来ないはず、と。
金銭面だけでいうと、トータルの出費ではむしろAAのほうが若干有利であることもわかりました。

これで見事にその人は黙ってしまいました。

車も電気製品と同じで、大流行のハイブリッドカーにも疑問の余地が大いに残されているようです。
エコカーの時代到来の大号令のもと、プリウスなどは空前の売れ行きを示し、その数はながらくトヨタの販売の首位を守ってきたカローラさえ凌いだといいますから、これはもう大変な数字です。
しかし、そのぶん買い換えた車の中には、相当の台数が廃棄処分もされたはずですが、その処分に要する石油エネルギーもこれまた大変な量に達するものと思われます。

地球環境というからには、地球規模でものごとを比較・判断する必要があるのは当然ですが、買い換えの時期でもないのに続々とハイブリッドカーや低燃費車に乗り換えたことによる多少の消費燃料の低減と、乗り捨てた車の処分に要するエネルギーがトータルでどちらが地球にとって有効かを考えてみれば、やみくもな買い換えばかりを是とするわけにはいかないようです。

我々はやはりよくよく考えなければ、経済至上主義原理の中で、そうとは気付かずに踊らされているだけという、あまり愉快とはいいかねる実体があるようです。

エコというのはあくまでも総合的大局的に考えなくてはいけないもののようですね。
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