エコの盲点

エコとは一体、何を意味するのだろうかと思うときがあります。

テレビに良く登場するエコ評論家のおじさん先生は、巷に流布されたエコは、ほとんどが人為的に創り出されたものであって、エコという名のビジネス絡みか行政の利権漁りに過ぎないと言い切ります。
(エコというのは、これから先、まさに地球規模でのビジネスになる巨大テーマだそうで、世界中の企業や市場はもしエコがなくなると一大事になるとか。地球にやさしいというよりも、経済にとっての格好の大儀というほうが実情に適っているようで、いわばエコ特需とでもいうべきものでしょう。)

はじめはそれを笑って聞き流し、さして本気にもしなかった辛口の論客たちも、そのエコ評論家が度々登場するにつれ、だんだんその主張に一定の評価を与えるようになりました。

これは、はじめ評価されたものがしだいに矛盾しはじめ、マイナスへと覆ってくるのとは対照的ですし、それだけの疑念と時間にも耐えぬく主張というのは、要するに本物だからなんだろうという気がしてしまいます。

それがまったく別の場所や文献で証明されたので、なるほどと思ったとか、目からウロコだったなどとあちこちで言い始めています。
中にはこのエコ評論家が主張したこととほぼ同じことが、遙か後に国連でも公式に発表されたりしたのだそうで、はじめは一般論とあまりにかけ離れているかに思われたり、奇想天外のような印象さえあるので、眉唾のようにいなされていた主張が時間とともに次第に裏付けを持ち、広く認められてきたようです。

マロニエ君も聞いていて非常に説得力のある話だと思う部分が少なくありません。

例えば分別ゴミですが、大半の分別は、この先生に言わせるとまったくの無意味だというのです。
ゴミの分別は各自治体によってその方法も種類も異なるわけですが、多いところでは実に20種類!もの分別を市民に強いているのだそうです。
建前はむろん環境保全、処理方法の違いや、再利用できるものは再利用するなどといったいかにも尤もらしいお題目がついているのです。

ところが、では、その20種類もの分別されたゴミがどうされていくのか追跡調査してみると、なんと大半は再び一箇所に集められ、ひとまとめに焼却されているのだそうです。

これは行政の自己満足なんだそうですが、なんという愚かで、市民をバカにした話でしょう!

せっかく分別したゴミを一緒にして焼却処分するのでは、ダイオキシンなどの有毒物質が出る心配があるのでは?という疑問も抱きますが、そもそもダイオキシンなどよほど特種の場合でないと人体に影響があるほどでるものでないとか、さらには近ごろのゴミ処分施設の焼却設備は性能が良く、大変な高温で処理されるので、有毒物質が出る確率がきわめて低いのだそうで、それを心配するなら、それよりもまだ心配すべき危険性の高い事柄が世の中には山のようにあるのだそうです。
…なるほどと言う他はありません。

行政のやることは裏から見れば大抵こういった開いた口が塞がらないような愚行が決して珍しくないのだとか。
こんなことってあっていいものかと思わずにはいられません。
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大型クルーズ船

皆さんは博多港に停泊する大型クルーズ船というものを見られたことはおありですか?

マロニエ君はまだないのですが、友人によるとこれがときどき港に来ていて、着岸時以外は沖止めされているらしいのですが、都市高を走っていると、ときどきその巨体を目にすることがあるのだそうです。
しかも、その大きさたるや、これまでの博多港ではついぞ見たこともなかったような巨大なもので、遠目にはまるで島のようにも見えるとか。

これは今話題の、中国人の観光客を乗せてやってくる大型客船らしく、この船が到着すると、貸切バスの軍団が埠頭で彼らを待ちかまえ、直ちに観光地などに連れ赴くようですが、彼らの本音はあくまでもショッピングにあって、観光はどうやら二の次のようです。
たしかに天神のデパートなどでも、最近は中国語表記を目にすることがありますね。
つい先日もテレビニュースで、秋葉原で「爆買い」をする中国人の買い物の様子が流れていましたが、どうやら彼らは我々のようにだらだらといろんな商品を見ながら買い物を楽しむのではなく、予めなんらかの情報を得ているらしく、買う物は事前に決まっているのだそうです。
そのために、ショッピングに当てられたバスの待ち時間も思いのほか短く、目的地に着くなり、各々目的の商品をめがけて一気に散っていくようです。

ニュースで見たのは、主に電気店での買い物の様子でしたが、わずか5分ほどの間に、40万円以上の買い物をする猛者、あるいは人気の炊飯器などを一度に十何個など、その圧倒的な買いっぷりは、まさに「爆買い」の名にふさわしいものでした。

店のほうでも売れ筋は把握しているようで、彼らの来店に合わせて在庫もふんだんに準備されているようです。

買い物が済むと、商品はいくつもの代車に載せられて待機するバスへと運ばれますが、あまり大量のために、床下の荷室には収まりきれず、ついには客室にまで商品をぎゅうぎゅうに押し込んだ状態でバスは動き出します。

さて、友人によると、しばらく途絶えていた上海ー長崎便が今年の夏に復活するのだそうで、使われるのはこの手の大型クルーズ船なのだそうです。
いつぞやも書いたかもしれませんが、日本と中国の距離は想像以上に近く、福岡を基点にいうと上海は東京よりもわずかに近く、北京は札幌とほとんど同じです。
ちなみに博多港からジェットフォイルで3時間弱で行ける釜山は、鹿児島と変わらない距離ですから、隣国は実は想像以上に近いのです。

クルーズ船による上海ー長崎の所要時間は24時間、料金は安いものなら片道7千円!という望外な安さだそうです。
ただし、いかに大型クルーズ船といえども7千円じゃあ個室など与えられないだろうとマロニエ君は思うので、乗り物が好きな人なら楽しいのかもしれませんが、はやく目的地に着きたいせっかち人間にはかなり厳しい旅になるような気もします。
ちなみに友人は就航したらぜひ乗ってみるのだそうで、7千円でももしかしたら個室なのでは…という希望的観測をしているようですが、さてどうでしょうか。

マロニエ君としては、まずは博多港に停泊するその「島のような」勇姿を見に行ってみようと思っています。
残念ながら2月の寄港はないようですが、3月は一転してずいぶんたくさん来るようです。
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デジタルカメラ

このところカメラといえばデジタルカメラがすっかり従来のフィルムカメラを駆逐し、圧倒的主役の座に躍り出ていることはご承知の通りです。

フィルム式のカメラはいまや一部のマニアやプロの間で僅かに使われているのみで、普通の写真撮影にフィルムカメラを使っている人はまずいないでしょう。
これはLPとCDの関係にも非常によく似ていて、本当の表現力がフィルムカメラやLPレコードにあるのはわかっていても、その利便性や普及度から、敢えてこちらを使い続ける人はほとんどいないようです。

デジタルカメラのメリットについて、いまさらマロニエ君がくだくだしい事を書く必要はないのでそれはむろんしませんし、だいいちできませんが、デメリットもいろいろあるわけです。
出来上がった写真は一見デジタルカメラ特有の美しさがあるものですが、よく見れば味わいがなく、非常に無機質な写真になってしまうなどの、人の情感に迫る要素が減ってしまったというのが一番の問題のようでもあります。
そして写真を昔のように大切にせず、使い捨ての記録資料といった扱いをするようになったということが自分を含めてあるような気がします。

フィルムカメラの時代なら最大でも36枚撮りのフィルムを購入装着して、撮り終えれば、それを現像に出すなど、一連の面倒で時間のかかる手続きがあり、今から考えるととても手間暇をかけていたことは間違いありません。
しかし、出来上がった写真は、大げさにいうならささやかな作品でもあり、アルバムに整理するなどして何度も見る楽しみがありました。
シャッターを押すにも失敗をしないよう、集中と極力良い写真を撮ろうという熱意がありました。
海外に行く際などは、36枚撮りフィルムを何十本も準備して、それこそ何度街角や景勝地で歩を止めてせっせとフィルム交換したかわかりません。

ところがデジタルカメラになってからというもの、そういう煩雑さから一気に解放され、一枚のSDカードでも容量や設定によっては1000枚単位の写真が撮れるし、失敗すれば消去すればいいしで、だんだんと写真に対する価値の置き方が雑なものへと自分でも変化しているのは紛れもない事実です。
しかもはじめの頃は、それでもせっせとプリントすることに精を出して、ネットで注文などしていたものですが、だんだんにそれすらも億劫になりました。
そのきっかけとなったのは、デジタルカメラだからこそ撮ったどうでもいいような写真が山のようにあり、その中からプリントすべき写真をセレクトするという作業が面倒になってきたことでした。

そのうち、これらの写真は「いつでも見ることだできる」という前提のもと、パソコンのハードディスクやDVDに保存するようになり、いちおう安心した気になります。

ところが、パソコンやDVDに保存された写真をわざわざ開いて見るということが、なにか特別な必要がある場合を除いてあるかといえば、これはまったくありません。
プリントした写真なら、アルバムにしておけば、機会があれば友人知人に見せたり、なにかの折にまた自分も見たりというふうに繰り返し見て楽しむことがありましたが、紙に焼かない写真というものは、まず情緒的にも見る気にならない人が大多数だろうと思います。

こうしてマロニエ君の場合、デジタルカメラへの移行により、結局は写真というものの情緒や楽しみがひとつきれいになくなってしまったという、なんともつまらない結果だけが残ったように思います。
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アナログカメラ

昨日は古い友人達と会って久々にお茶をしました。

とくに、そのうちの一人はカメラにも詳しく、昔からマロニエ君はカメラを買うときとか、撮影の方法など、わからないことやアドバイスが欲しい場合は決まってこの友人からいろいろな助言を得ていましたが、久々にカメラの話になりました。

とはいっても、マロニエ君はべつにカメラに特段の執着があるわけではなく、できる範囲で、可能な限りきれいな写真を撮れるものなら撮りたいという思うぐらいですが、彼の豊富な情報や経験はどれだけ役に立ったかわかりません。

デジタルカメラが登場する以前は当然ながらフィルムの時代でしたから、個々のカメラの性能差やメーカーのごとの考え方や特徴はもちろんのこと、フィルムにまで徹底的にその特性やコストパフォーマンスを求める彼の姿勢は大いに参考になったものです。

それぞれのフィルムにも描写力や発色などの大きな違いがあるし、撮影者の技量やセンス、絵心などが問われる、非常に深い世界ではありました。マロニエ君もその入り口付近ぐらいでウロウロしていたことを思い出しますが、もちろん、決して中には入る勇気も能力もありませんでした。
中の人達から、適宜都合のいい簡単な情報だけをちょろっともらって、自分の写真撮影に役立てていたというちゃっかり屋とでもいいましょうか。

ずいぶん昔だったような気もしますが、よく考えてみればフィルムカメラの終焉からまだ10年ぐらいでしょうから、せいぜいそれより数年前の頃の話です。
当時、とくに流行ったのは、コンタックスというドイツのコンパクトカメラ(生産は京セラ)で、これにはかの有名なカール・ツァイスのレンズを搭載している点、さらにはいかにもドイツ的な機能性に裏付けられた無駄のない美しいデザインと、コンパクトカメラのくせにドイツ的な質感の高さを醸し出す雰囲気が魅力でした。

一時は仲間内でこれが大変なブームが起こり、車のクラブミーティングなどに行くと、このコンタックスカメラが手に手にズラリと揃ったものです。高性能な日本製カメラとはひと味違う、非常にマニア心をくすぐる名器で、価格も堂クラスの日本製コンパクトカメラに較べるとずいぶん高価でしたが、それを補って余りあるその巧緻で高い描写性は、他の日本製の普及品カメラにはない独自の世界を持っていたように思います。
ひとくちに言えばコンタックスで撮影した写真には、そこはかとない気品のようなものが漂っていました。

マロニエ君も都合3台のコンタックスを使い続け、今も抽斗の奥に1台ありますが、デジタルカメラの到来と共に、使用頻度がめっきり減り、今ではまったく使わなくなりました。

昔はといえば、このコンタックスを携帯用として使いながら、ここぞと言うときにはニコンやキャノンの思い一眼レフカメラを携え、更に重い望遠レンズなどまで一緒に持ち歩くという考えられないような重装備で、今思えばずいぶんと熱心に写真を撮っていたように思いますし、それだけのガッツが自分にあったことがなつかしい気がします。

デジタルカメラの出現はユーザーに劇的な利便性をもたらしてくれましたが、人間というものは(少なくともマロニエ君は)元来怠惰な生き物なので、デジタルカメラが運んできた手軽さが身に付くと、気がついたときには手軽さを手に入れたこととひきかえに、写真を撮ろうとする情熱そのものまでが次第に醒めていきました。
論理的には、はるかに便利になったその環境では、そのぶんさらに写真を撮ることにのみ自分のエネルギーを投入していればいいようなものですが、事実はまったく逆で、写真への熱意それ自体が潮が引くように失われ、必要以外さっぱり撮らなくなってしまうという事実に自分でもがっかりしてしまいます。

やはり、昔のあのフィルムを使ったカメラで写真を撮り、現像しプリントを手にするまでの、なんとも時間と手間暇のかかるその過程の中に、いろんな説明のつかない味わいや魅力が詰まっていたということかもしれません。
これはカメラだけでなく、いろんな事に同様の現象が起きている気がします。
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アマチュアコンサート

土曜日は珍しいものに行ってきました。
現在所属するピアノサークルのリーダーを含む3人が、たまたま同じ大手楽器店の音楽教室に通っているのですが、そこのメンバーズ・コンサートというのがあるというので、聴きに行ったのです。
おまけに、我らがリーダーには素敵なお相手らしき人が現れ、さらにはこの日は彼の誕生日でもあったというのですから、なんだか出来過ぎといった趣でしたが、ともかく結構ずくめなことです。

会場はアクロスの円形ホールで、実はマロニエ君はここはなぜかこれまで入ったことがなかったので、どんなところか中を見てみるのも楽しみのひとつでした。

出演者はリハーサルなどでずいぶん前から会場にいるとのことで、開演1時間前に行ってみると、あたりは関係者ですでにガヤガヤと賑わっており、出演者一同で記念撮影などがありましたが、ざっと見渡しただけでも実にいろんな方がおられて、これはまたピアノサークルとはだいぶ違うなあ…というのが率直な印象でした。

大手楽器店の主催で、素人の運営ではないのはわかりますが、演奏するのは教室の生徒、すなわちお店のお客さんであり素人であるにもかかわらず、きちんと入場料が設定されているのはいささか驚きでした。
まあ、大半は場所代や経費に消えていくんでしょうけれども。

ロビーで雑談などしていると、次々にサークルの人がニヤニヤしながら現れたのにはお互いびっくり。
最終的に6人ものピアノサークルメンバーが任意で応援に駆けつけたわけで、つい先日、定例会で顔を合わせたばかりの人達と、また思いがけなく顔を合わせることができました。
まあそれだけみんな親しくなっているということでもあり、このようなサークル以外の場所で会ってみると、すでに内輪の感覚を覚えるようになっていることは、なんとも温かい嬉しい感じがするものです。

コンサートは、ピアノだけではなく、サックスあり、ヴァイオリンあり、弾き語りありと実に様々な老若男女が出てきては、それぞれの練習成果を発表していました。
演奏はピアノサークルとはまた違う雰囲気で、はじめはやたらと圧倒されっぱなしでしたが、終わってみればなかなかおもしろい愉快なコンサートでもありました。

いまさらですが、音楽というものが文学や美術と根本的に違うのは、泣いても笑っても、その日その場所その時間に演奏しなくてはいけない一発勝負の世界であるという点で、これはプロもアマチュアも同様ですね。
家でいくら上手くできたなどといっても通用しないのは、音楽だけがもつ厳しい部分ですが、もしかするとその危うさも音楽の不思議な魅力なのかもしれません。

そういう一過性という意味においては、音楽の演奏はスポーツと共通しているかもしれませんね。
一回の発表に向けて、日々の練習を積み重ね、しかもその結果はもしかすると失敗に終わるかもしれないという危険性を孕み、興味のない人から見ればひじょうにばかばかしいような、無駄にも思えるような事を熱心に、せっせとエネルギーをかけてやるということ。
こういうことは、実は人間にとっては非常に大切な、精神的にも実り多い事のような気がします。

今はハイテクのお陰で多くの事が気軽にできてしまう時代になりましたが、そんな中で、楽器演奏の練習ほどローテクの極致みたいなものはないような気もします。
今のような時代だからこそ、敢えてそういうことにかかわるということは、なかなかよい人生修行にもなるのかもしれません。

帰りは毎度お馴染みの食事会となり、さらにお約束の二次会へとなだれ込み、帰宅したのもまたしてもトホホな真夜中でした。
べつに音楽談義をするでもなく、もっぱらくだらないことばかりワアワア言い合っているだけですが、そういうピアノの仲間ができたということはなによりも嬉しいことです。決してきれい事ではなくて。

ちなみに、アクロスの円形ホールは、ちょっとホールと呼べるようなものではなく期待はずれでした。
アクロスに最も欠けているのは、シンフォニーホールとの大きすぎる隙間を埋めるような、使い勝手のよい小ホールを作らなかったことではないか?という気がしますが…。
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トーク付きコンサート

トーク付きコンサートって、あれは要するに何なのだろう…と思います。

現在、よほどの著名演奏家のコンサートでもない限り、ピアノリサイタルなどでは演奏者自身によるトークを交えてのコンサートというスタイルが、かなり定着している感があります。

ピアノリサイタルという形式に、どうあるのが正しいという明確な答えを出すのは簡単なことではないかもしれませんが、少なくとも近年のピアノリサイタルのスタイルの原型を創り出したのは、あのリストだとされています。
大昔のことは知りませんが、少なくとも記憶にある限りにおいて、従来の最もオーソドックスなスタイルは、演奏者は開演時間になるとステージに登場し、客席に礼をした後、決められたプログラムを演奏することに専念。聴衆はその演奏を見て聴いて楽しみ、終われば拍手を送る。
曲目はあらかじめプログラムとして発表され、仮に未定であっても当日には発表され、それを記した紙が聴衆の手許にあり、それを順に演奏していくというものです。
そしてリサイタルのはじめから終わりまで、演奏者が声を出すことは一切ありません。

唯一の例外は、アンコールに際してのみ、プログラムにない曲目であるために、ピアニストが弾きはじめる直前にごく簡単に短く曲名を口にして直ちに演奏に入るか、人によってはなにも言わずにいきなり弾きはじめるという場合も珍しくはありません。
演奏者と聴衆を結ぶものは、紡ぎ出される音楽と、拍手とお辞儀や所作と表情だけです。
これが少なくともマロニエ君が、子供のころから最も親しんだピアノリサイタルの形であって、むかしは演奏者自身が客席へ向けて話をするなど考えもつきませんでしたし、おそらくそんなことは作法に反する事という認識も演奏者/聴衆のいずれの意識の中にもあったのではないかと思われます。

それがここ、10年か20年か定かではありませんが、トーク付きのコンサートというのが年々勢力を伸ばして、近ごろではほとんど常態化さえしているという印象です。
とりわけ、日本人のローカルなピアニストほど、これが必要とされているかに見えますから、トーク付きコンサートをする人は、自ら自分の地位の低さを認めているかのようでもあります。

それは裏を返せば、演奏だけではお客さんを満足させられないか、あるいは普段コンサートなどには行かないような人までを縁故で動員しているので、できるだけ何かトークなどを交えて言葉でもサービスしたほうがいいという判断が働いているのだろうと思います。

いずれにしろ、そのトークというのにもずいぶん接しましたが、そのつまらなさ/くだらなさといったらといったらありません。
トークといっても、では何か聞いていて面白い興味深い話をするのではなく、ほとんどが愚にも付かないような演奏曲目の表面的な解説のようなことだけに終わります。
要するにほとんど何も内容がなく、いちおうトークもしましたといった程度のものでしかないし、当然ながら話のプロではないから、しゃべりも下手だし、マロニエ君はあんなものは百害あって一利なしとしか思えません。
あれだったら、いっそコンサートの始めと終わりに、お客さんへ御礼の挨拶だけをキッチリしたほうがよほど涼やかだと思いますが。

トーク付きで本当にお客さんを楽しませるとなれば、それなりの優れた企画や台本が必要で、決して甘いものではない筈です。
たとえばテレビの題名のない音楽会のようなものになれば、好き嫌いは別としても、いちおうトークと音楽の関係や意味というのはあると思えます。
そうそう、もうひとつ思い出すのはグルダのコンサートは異色のトーク付きでしたが、もちろん何事にも型破りな彼は、そのトークも個性的なら演奏も超一流。すべてが並のものではありませんでした。
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エレベーター

声に出しては言えないけれども、本心では文句を言ってやりたいことってあるものです。

例えばデパートや商業施設のエレベーターで、地下から4階や5階に行こうと乗っているとき、まず大抵1階は誰かが外からボタンを押しているので止まることが多いものです。
そのときに1階から乗ってきた人が、いきなり2階のボタンを押したりすると、内心ムッときてしまいます。とくに急いでいるときはそうなってしまいます。
もちろん状況によりますが、エスカレーターなどがふんだんにある環境にもかかわらず、こういう人って必ずいるものですが、何を考えているのか…おそらく何も考えていないのでしょう。

こっちも勝手かもしれませんが、こういう人のために1階に止まりこの人を乗せ、そしてまた2階に止まってこの人を降ろすという一連の時間というか、その経過が、性格的にイライラしてしまうのです。

あるいはビルやデパートなどの最上階あたりから降下中、途中に停止して一人が乗ってきたかと思うと、そのわずか1階か2階下で平然と降りてしまう。
だったらわざわざエレベーターを止めなくても、エスカレーターや階段を使ったほうが自分だって楽だろうに…と心の中で思ってしまいます。
もちろん体の不自由な人などは、まったくその限りではありませんが、だいたいポカッと口を開けたままのおばさんとか、自分のことにしか興味がなくやたらツンツンした女性などがよくこういうエレベーターの使い方をしてくださいます。

最近ひどかったのは、駐車場に向かう小さなエレベーターでのこと。
すでに地下2階から3〜4人乗っているところへ、1階から6〜7人のおばさま連が荷物とともにダダッと乗り込んできました。
その乗り方には他者に対する配慮も遠慮もまったくなしの、まさにドヤドヤという感じでした。
ところがあまりに勢いがあるので、先に乗っていた人の1人が押し倒されそうになり、他の人に抱き留められてあわや転倒は免れました。

それにお詫びをする風でもなく、体を張ってぎゅうぎゅうに詰めるだけ詰めて、そのたびにエレベーターはさも苦痛げにユサユサと揺れています。
1階から乗るつもりだったらしい他の人達はついに1人も乗ることができないまま、満員状態でドアはかろうじて閉まりました。まわりは無言、ガヤガヤといっているのはこのおばさん達だけです。

こんな調子だから乗り込むだけでもかなりの時間を要しました。
そんなわけでついに動き出したエレベーターでしたが、なんと、いきなり2階で停止。
それっとばかりにぎゅうぎゅうのおばさん達は全員降りてしまい、あとは虚しいまでにガラガラになってしまいました。

あまりのことに1人が「エスカレーター使えばいいのに…」と小さな声で言ったとたん、残りの数人は苦笑いしながら深く頷きました。
現代は若い人の礼儀ばかりが言われますが、年輩者の礼儀もなかなかのものです。
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新燃岳の噴火

連日の報道によると、このところの霧島の新燃岳の噴火は大変なもののようですね。
昨日もまた大きな噴火があったようで付近のみなさんの不自由と不安はたいへんなものでしょう。

今のところは一向に収まる気配も見えず、テレビで観る映像からは激しく噴煙が立ち上るその姿は、まるでおそろしい怒りの姿そのもののようでゾッとしてしまいます。
桜島の噴火というのは昔からよく見聞きすることでしたが、霧島にもこんな猛々しい火山の一面があるとは実はあまり知りませんでした。

九州は他に阿蘇や雲仙などもあって、ようは火山地帯ということなのでしょうが、福岡には火山とよばれるものがひとつもないためにどこか緊張がないというか、自然に対する厳しい気構えとというものが自分を含めていささか薄いような気がします。

福岡で自然災害といってまっ先に思い出すのは、6年前の福岡県西方沖地震ぐらいのもので、あとはたまに水の被害が起こるぐらいでしょうか。

さて、新燃岳の噴火ですが、ついに火砕流の心配が出てきたとかで、麓の高原町(たかはる)の住民のおよそ500世帯ほどに、避難勧告が出され、避難所に多くの人が集まっている映像が流れるに及んで、昔からの知り合いがそこに住んでいるので気に掛かり、とうとう電話してみました。
幸いにも彼の家族はみんな今のところ無事らしいので安心しましたが、なんと自宅のすぐ前が避難所なのでまだ自分達は避難していないと言っていました。
「収まるのを待つしかない…」と言っていたにもかかわらず、昨日はさらに新たな噴火によって警戒地域が半径3kmから4kmへ拡大されて、いまだに収束のめどは立っていないようです。

ただ、電話で聞いてやはりすごいもんだと思ったのは、まるでメリケン粉のように細かい粉塵が際限もなく降ってくるのだそうで、そうなるとどんなところにでも入り込んでしまい、その被害は並大抵のものではないということでした。
テレビのニュースでも、牛の生産者の人が、ようやく口蹄疫の被害から立ち直りつつあったその矢先に今度は新燃岳の噴火という災難が飛び込んできて、もうどうしたらいいかわからないと悲痛な訴えをしていました。この人も避難所から牛舎へ世話をしに通っているそうですが、牛の毛の間にも灰燼が降り積もっているそうでしたし、当然ながら一帯は洗濯物も干せないようで、コインランドリーの乾燥機はフル回転でも追いつかないようです。

ただ、ある専門家の意見によると、このような自然災害を目の前にすればそれはもちろん大変だけれども、大局的専門的に見れば地球は絶えずそういうことを繰り返しながら今日に至っているのだそうで、あくまで自然で普通のことなのだそうです。

なるほどとは思いますが、地元の人にしてみれば、ああそうですか…というわけにもいきません。

北の雪の被害も死者が次々に出るほど大変なようですが、灰も大変です。
学生時代を鹿児島で過ごした友人によれば、桜島の灰だけでも普段から大変なものらしく、マロニエ君のように車を過剰に大事にするような人には、とうてい耐えられないだろうと言われていました。

マロニエ君の自宅前は昨年、マンションの建設工事で一年以上にわたり音や振動やホコリの被害にさらされましたが、いやはや、そんな甘いものではないようで、上には上があるということですね。
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メキシコから

すこし前の新聞によるとメキシコ在住のヴァイオリニスト黒沼ユリ子(70)さんは、今から30年前ほど前にメキシコ市で弦楽器専門の音楽院「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を設立されたそうです。
きっかけはプラハに留学中にメキシコ人のご主人と知り合い、それでメキシコに定住することになったことだそうです。

はじめは細々とはじめた音楽院も、現在では教師と生徒あわせて100人近い規模にまで成長し、それでも希望者が多くて断腸の思いで断っているとか。
そのインタビュー記事の中に良い言葉が紹介されていました。
黒沼さんが大好きなメキシコの格言だそうで『悪いことは良いことのためにしかやってこない』。
これは難問は次々に起きるが、改善するために克服しようという、不屈の精神がメキシコにはあるのだそうです。

たしかに、人間には悪いことが次々に降りかかってくるものなので、人生には難問難題ほうがずっと多いような気がするものです。だから、こういう言葉を念頭に置いておくことで、少しは前向きになって明るく元気な方向をわずかなりとも向いてみようとすることができるかもしれません。
マロニエ君もよーく覚えておこうと思いました。

さらに、黒沼さんの日本の音楽教育についての意見には感銘を受けました。
『課題曲を正しく弾くことに集中するあまり、音楽の基本を忘れていないかと危惧する。音符を音にするのが音楽家ではない。それなら機械でもできる。体をかけ巡った音符をあふれ出させて音を出すのが真の音楽家だ。その人だけにしかしかできない、人間の顔をした音楽を奏でてほしい。』

なんと、これほど、演奏の本質と、現在の学生や演奏家が抱える根元的な問題を的確に無駄なく表現された言葉があるだろうかと思いました。まったくその通りだと深い共感を覚えました。

現代の演奏家や教育システムに対して、こういう危惧や印象というものは、多くの人の心の奥にはきっとあるのだと思いますが、それをこのような無駄のない簡潔な言葉に整理圧縮して表現するのはなかなかできるものではありません。
黒沼さんはヴァイオリニストですが、これはむろんヴァイオリンに限ったことではなく、すべての器楽奏者に対して、それは恐ろしいほどに当てはまるのだという気がします。

現代のめっぽう指の動く無数のピアニストと、昔の秀でた数少ないピアニストとの決定的な違いはそこにあるのだと思われます。すでに指の訓練方法などは行くところまで行った感がありますが、それでもなかなか真の音楽表現への道は開かれようとはしていないようです。
みんな口では「音楽性」「個性」「芸術性」が大切だなどと言いながら、結局やっていることは指の訓練と、レパートリーの拡大と、受験対策、コンクール対策であって、真に自分がこうだと信じる道を探求して歩んでいる人はほとんどいないか、よほどの少数派でしょう。

多くの人が大変な努力と厳しい修行を積み、さらに上を目指す練習に明け暮れているのだろうとは思いつつ、どうもそれはオリンピック出場/メダル獲得のトレーニングとほとんど同じスタンス、同じ精神構造という気がしてなりません。

ひとつには商業主義が真に芸術的な質の向上に価値観の主軸を置くことを許さず、さらには氾濫する情報によって信念もしくはそれに準ずるようなものが根を張りにくく、知らず知らずのうちに効率の良い最短の選択をするようになるのでしょう。
しかし、真の芸術家の仕事を生み出す畑は、決して賢くもなければ効率などというものとは無縁の世界であるはずです。ベートーヴェンの作品が、彼の苦悩と戦いと絶望の中から生まれてきたことを思えば、それは簡単にわかることだと思います。
しかし、だからといってわざわざ困難な苦しみに満ちた道を選ぼうとする人がいないことも現実ですね。
ひとつのテクニックを習得するのに三日かかる方法と一ヶ月かかる方法があれば、誰しも三日を選びます。しかし、一ヶ月の中でいろいろに得られた、一見余分ですぐには役に立たないもの、そういうものが芸術には必要な養分なのかもしれません。
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サクラ

花の名前ではなく、「サクラ」という言葉があります。
辞書によると「大道商人の仲間で、客のふりをしていて、普通の客が買う気を起こすようにしむける役の者。」とあります、このサクラがいかに人の心理に有効なものかを実感することがしばしばあります。

お店などで、ワゴンセールのような場所がよくあるものですが、はじめは無人なのに、ちょっと見ていると、だいたいすぐに次の人があらわれます。すると傍目にはそのワゴンには二人の客が物色していることになりますが、こうなると3人目4人目はどこからともなく吸い寄せられるようにやって来るものです。

逆にマロニエ君自身も、ちょっと人が集まっている売り場などがあると、なんだろうかと思って覗いてみることがあり、大抵はなんてことはないつまらないもので、ぱっとその場を離れるのですが、一度覗いてみてしまうのはやはりサクラ効果だと思います。

その最たるものが行列で、まるで催眠術にかかったように人はそこに興味を示して寄っていきます。
ことほどさように人は他人が興味を持っている姿に無関心ではいられない生き物だと自分を含めて思います。

それはわかっていても、はじめ無人だった場所が、自分が最初に見始めたことがきっかけとなり、つぎつぎに人が集まってきて、マロニエ君のほうはもうその場所を離れても、振り返ると5〜6人の人が集まっているのを見ると無性に可笑しくなってしまいますし、なんだかちょっと自分が呼び寄せたような、ささやかな自己満足に浸ってしまいます。…バカですね。

こういう現状にしばしば遭遇すると、つくづくと人の心理というのは面白いものだと思わずにはいられません。心理の動きはまことにささいなことに左右され、それによって行きつく結果は大きく違って来るというのがわかります。
こういう人の心理の動きに大きく依存している商売人は、だからちょっとしたことにも気を抜かずにお客さんの心をつなぎ止めようと普段からアンテナを張り、ちょっとしたことにも腐心しているのだろうと思います。

流行っている店と流行っていない店、これも明らかな実力の差があってのことというのは見ていて当然のことですし、いかにもわかりやすいのですが、ときに紙一重のちょっとした何か小さな要素のさじ加減ひとつで明暗を分けている場合も少なくありません。
食事の店などに例をとっても、それはそのまま当てはまるように思います。

流行っている店は、値段や出てくる料理がそれに値するものであることは当然としても、その上で、もうひとつお客さんの気分を満足させる何かをちょっと持っているものです。
それはケースバイケースなので、具体的になにがどうしたということは言いにくいのですが、強いて言うなら経営者の気分とか人間性というものがいいほうに反映されていると感じることがあります。

わかりやすく言うとケチケチしたがめつい経営者の店は、それなりの内容があったとしても、どこかにそのケチな精神が顔を出てしまっているものです。たとえば料理自体は安くて美味しいのに、それ以外のちょっとしたところにセコさがあって、それを感じると快適でなくなったりするものです。
気分のいい店はそれのまったく逆で、なにかひとつでも気前のよい寛大なところをみせられると、こっちはたちまち良い気分になるものです。上手な商売人というのはお客さんに気分良くお金を出させる術を持っているんですね。

店にお客さんがいつも溢れているということに勝る宣伝はなく、それはお客さんをタダのサクラとして使っているのも同然ということになるでしょう。
どんなにいい店でも、ぜんぜんお客さんのいない店というのは、大変なマイナスイメージですから、サクラは商売人にとって必要不可欠なものでしょうね。
もちろん、サクラという言葉の意味自体が「ニセの客」という意味ですから言葉がおかしいですけど。
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高性能センサー

人間の手先というものは、実はかなり高性能なセンサーでもあり、我々が普段思っている以上の優秀さをもっているようです。
その繊細な感じわけの能力は、そんじょそこらの機械など遠く及ばないものがあるのです。

先日もそれを実感したのは、ピアノの整備に来てもらったときに鍵盤の高さを揃えるために、キーの支点(テコ運動の中心部分)に、「鍵盤バランス部の紙パンチング」という直径1センチにも充たない、小さな輪っか状の薄い紙を挟んで微調整をしていくわけですが、これは紙だけを触ったときにはただやたらと薄い、普通の鼻息で全部飛んでしまうような薄い紙(一番薄いもので0.08ミリという、およそ無意味としか思えないようなもの)というだけで、こんなものを一枚挟んだだけで何が変わるものかと思わせるようなものなのですが、それが鍵盤や木片を並べて指をすべらせてみると、難なくその違いがわかるのには驚きました。
こういう微細な調整の積み重ねによって、ピアノの鍵盤の高さは正確な一直線に揃っているわけです。

そういえば過日見たスタインウェイのファクトリーのビデオ作品でも、「測定器には限りがあるが、職人の精巧さは手が覚えているので、計測器以上のものとなる」ということを言っていて、精密な作業ほど熟練工の手作業が必要になると言っていましたが、そんな言葉が実感として納得できた瞬間でした。

よく女性が化粧中などに肌のコンディションを指先から感じ取ることがあるようですが、それもこういった人間の驚くべき手先の精密なセンサーが僅かな違いを感知しているのだと思います。

それで思い出したのは、昔のポルシェ(ドイツのスポーツカー)の工場で、塗装作業を終えたツルツルのボディを熟練工が専用の革手袋をはめてくまなく撫で回すという、有名な工程がありました。
これはべつにボディを可愛がっているのではなくて、撫で回すことで手の平に伝わってくるその僅かな感触から塗装面のほんのちょっとしたムラや作業中に付いた目に見えないようなキズを検出していくというものです。こうすることによって肉眼ではほとんど見落としてしまうようなことを手の平はやすやすと効率的に発見するというものでした。

私達の体には、まだ私達自身が知らないような隠れた高性能が随所に眠っているような気がします。
いや、眠っているのではなく、気付かぬうちにそれを使いながら普通に生きているのかもしれませんね。

ピアノ技術者はこういう精密領域のことがらを、瞬時に判断し感じ取りながら、手際よく作業をしていくのですから、そこにはもちろん馴れや訓練もあるとは思いますが、いずれにしろ敏感で忍耐強い人でなくては務まるものではありませんね。

ある本に、本物のピアノ技術者になるためには、まずはピアノのオーバーホールを経験させる必要があるということが書いてありました。それによってピアノの技術を総合的に実地から体験的に学ぶことができるということだろうと思います。
そういえば、職人にはマイスター制度のあるドイツでは、長い修行の末に、一台のピアノを一人の責任において1から組み上げなくてはならないそうで、似たような発想でしょうね。

近年のメーカー系のサラリーマン技術者は、こういう総合的な学習経験があるのかないのか知りませんが、少なくとも調律なら調律だけをして、それ以外のお客さんの要求にはほとんど何も応じきれないというのが実情という話をよく聞きます。
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体調不良は演奏良好?

我々はプロの音楽家でもピアニストでもありませんから、あまり真剣に考える必要もないとは思うのですが、本番前の緊張というのはその人のすべての力を奪っていく悪魔みたいな気がしなくもありません。

よく、受験だろうとコンクールだろうと、本番に備えて体調管理も整えて、万全の態勢で挑むとべきだというのは半ば常識みたいに言われることです。しかし、体力の限界で競い合うスポーツの場合は知りませんが、こと音楽に関しては、必ずしも最良の準備が整ったときが最良の結果をもたらすとは言い難い部分もあるようです。

コンクールでよい成績をおさめたり、受験でも見事合格となった人の中には、「あのときは実は熱が○○度あって、薬をのみながら後はどうなってもいいと思って弾いた」とか「体調は最悪だった」というような話をする人が少なくなく、それも聞いたのは一度や二度ではない気がします。

世界的な演奏家でも、名演の陰には、意外にも飛行機が大幅に遅れて、さらに道が渋滞して、開演直前に会場にすべり込んでぶっつけでコンチェルトに挑み、それがすごい名演だったとかいうのが現実にありますし、チェリストのヨーヨー・マがあるドキュメント番組でこれまでの最良の演奏は何か?という問いついて、いついつどこで演奏したバッハの無伴奏チェロ組曲だと答えました。ところがそのときの体調と来たら最悪で、かなりの高熱の中で行った最悪コンディションでの演奏だったというのです。
本人は『最悪のコンディションで行う演奏が、必ずしも最悪の演奏ではないのが不思議だ』というような意味のことを言っていた覚えがあります。

これはある程度納得が出来る話です。
もちろんいずれも練習がきちんと出来ているというのが大前提ですが、その上で恐れるべきは本番での緊張です。マロニエ君は専門家でもなんでもないので科学的なことはわかりませんが、緊張というものは、音楽の場合でいうなら、「音楽以外のことが気になり、心配し、押しつぶされそうになる」ことだと思います。

それが病気となると、条件的には最も恐れていたことが現実になって狼狽し、本人は本来の力が出ないであろう悲劇の真っ只中にあります。すると、なんとか奮闘して、少しでも本来の演奏が出来るように残された力を振りぼって挽回しようと努めるのでしょう。
こうなると一回の演奏にのみ全身全霊が注ぎ込まれ、あとの体調のことなどもう知ったことではありません。

もうお気づきかも知れませんが、この状態がつまり最も純粋に音楽のこと、演奏のことに集中し、緊張の原因であるところの音楽以外のことを気にして心配する余裕がないものだから、結果的に雑念から解放されている状態なのだろうと思います。
そうなると人間の体というのは火事場の馬鹿力といわれるように、一時的にはどうにでもパワーを補給する高度なシステムをもっているように思うのです。

これに少し通じることかもしれませんが、演奏家のコンサートの前日や直前の時間の過ごし方というのは実に様々で、もちろん万事遺漏なく整えて本番に挑む人もいれば、あえて普通と何も変わらない生活パターンで過ごす人もいるようですし、中には却って普通以上に遊びに行ったり夜更かしをしたりするというタイプもいると聞きます。
この最後のパターンは、意識のどこかに多少の乱れがあったほうが却ってそれを補充し収束させようとする力が働いて、演奏には好ましいと思っているのかもしれません。

いずれにしても、音楽という一発勝負の、いわば崖っぷちを歩くような危険行為に挑むわけですから、あまりにも完璧に準備しすぎることのほうが寧ろバランスが悪くなるという性質をもっているのかもしれません。
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落ち葉焚き

我が家はとくに広い庭があるわけでもないのに、夏は草戦争、冬は落ち葉戦争が繰り広げられます。
大阪冬の陣/夏の陣は一回きりですが、我が家の庭戦争は毎年やっていますが、まだ片が付きません。

以前も書きましたが、マロニエ君の自宅は周囲の落ち葉が不思議に集まってくる落ち葉屋敷みたいなもので、そのうち自分の家の植木が落とす枯葉は果たして何割あるでしょうか?
全体の優に半分以上はよそから来る落ち葉であることは言うまでもありません。

毎日毎日この落ち葉が貯まりに貯まって、ちょっと油断すると45Lのポリ袋はものすごい数に達します。
これをいちいちゴミに出していたら、ゴミ袋代だけでもいくらかかるかわかったものじゃありませんし、なにしろ毎日のことですからその労力も大変なものになるわけです。

そこで福岡市は焚き火が原則禁止ではなく、「周囲に迷惑をかけたときのみ止めるよう指導」のようなので、ときどき落ち葉焚きをやっています。
昨年末から年明けにかけて天気が悪かったために、なかなかこれが出来ませんでしたが、昨日はようやく実行することができました。

亡くなった父が焚き火が好きで、僅かな火種から盛大に火をおこすのが得意で、ペットボトルなどを入れると良く燃えるなどと得意げに言っていましたが、今はさすがにご時世でそういうことはできなくなりました。
もちろん落ち葉と少しの紙以外は一切燃やしません。

しかし多少は父の技を受け継いだのか、いつも少しのチラシなどをから難なく落ち葉を赤く燃やすことができています(自慢じゃありませんが)。
マロニエ君が火をおこして燃やすのが担当、家人が次から次に裏から落ち葉の詰まった大きな袋をゆっさゆっさと持ってきますが、その数も大変なもので、昨日だけでもおそらく20ぐらいはあったように思います。
これに引き抜いたばかりの草などが混じっていると水分を含んでいるので燃えにくく、嫌な煙が出ますが、枯葉だけならパリパリと至って快調に燃えていきます。

我が家の場合、焚き火には夥しい量の落ち葉を焼却処分するという実用的な目的があるわけですが、ささやかな副産物もあって、とくにこの寒さの中で、体が焚き火に当たるのはとても心地よく、なんともいえない風情があるものです。
いやに年よりじみたことを言うようですが、現代の子供はこういう体験を一切しないまま成長していく子も少なくないのかと思うと、理屈でなく気の毒になります。

「こういう体験」というのには実はもうひとつ理由があって、落ち葉が燃え尽きた灰の山にアルミホイルに包んだサツマイモも入れるのがマロニエ君の楽しみで、普通サイズのものなら一時間も入れておけば、それはもう見事な焼き芋が出来上がります。
皮には一切焦げ目がないのに、中は芯の芯まで火のように熱くなっていて、まさにふっくらあつあつとはこのこと。その美味しさといったらありません!
これにバターを付けて2個でも食べようものなら、晩御飯も要らないくらい保ちの良い満腹が得られます。

これを食べると、まるで日ごろから迷惑をかけられっぱなしの落ち葉からの、せめてもの御礼のような気がします。
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あらし

例年にない寒波が続くこのところの天候ですが、その中でも昨日の夜(2011.1.15)の寒さは一段と厳しいものがありました。

そんな夜、予定があって出かけたのですが、気温はほぼ0度に近く、おまけに方向の定まらない風がふくものだから寒さは倍増です。どう考えてもおよそ九州地方の天候とも思えない猛烈な寒さと荒れた天候です。

友人を迎えに行って、それから西に向かって都市高速に乗りましたが、これが失敗でした。
突風は都市高速のような遮蔽物の少ない道路になると一層強烈で、下の道の何倍もの威力で轟然と吹き荒れていました。そのたびに車体は右に左に風の圧力を受けて、真っ直ぐ走るだけでもめっぽう大変です。
その頃になって気が付きましたが、このお天気ですから、まわりもほとんど車がなく、ほぼ貸切状態でした。

普通なら喜ぶところですが、さすがにあの強烈な突風で、しかもどっちから吹いてくるかもわからない嵐のような状態ですから一気に心細くなってしまいました。
風というのは通過するときにはものすごい音がして、そのたびに車があっちにこっちに流されて、はじめは笑っていましたが、だんだん恐くなりやたら緊張させられます。しかもその突風の中に白い粉雪が混ざっていて、ライトの先に荒れ狂う様が見えるので、まさに恐怖映画の真っ只中という迫力じゅうぶんです。

普段なら都市高速に入ればそれなりのドライブを楽しむマロニエ君ですが、この日ばかりはゆっくりゆっくり前に進むだけでも精一杯でした。途中で降りることも考えなくはなかったのですが、なんとか行けるかもという甘い期待もあってなんとか走り続けると、次第に海が近くなり、天神を超えると荒津大橋(ハープ橋)があることを思い出しました。
ここは福岡の都市高速の中でも最も高い位置で、路面は地上40mに達し、おそらくビルの10階以上はあるはずです。しかも右は博多湾で周囲は何もない正真正銘の吹きさらしときていますから、ただでさえ強すぎる突風も最高潮に達するはず!

ハープ橋へ至る最後の上りカーブあたりから風も一段と残忍さが増してきて、本当に車ごと飛ばされるのではないかとこの瞬間は思いました。天神で降りておけばよかったとも思いましたがどうすることも出来ず、このまま上って行くしかありません。
このハープ橋は、ずいぶん前にもオートバイが下に転落して死亡事故が起きていることも、そんなときには妙に思い出すものです。本当に飛ばされる可能性もあると感じたので、この時は右からの風だった為、万一の場合少しでも余地を残すべく、あえて右側の車線を走りましたが、荒れ狂う暴風の中、ハンドルにしがみついて息もつかず、なんとか無事に渡り終えました。

不思議なもので、この難所さえ通過すればあとは大丈夫という気になり、とうとう終点まで行きましたが、愛宕から先は防音壁などがあるので、比較的安全に行けたこともありました。
自分は走っておいてこんなことを言うのもなんですが、あのような日は都市高速は通行止めにすべきだと本気で思いました。とくにハープ橋の前後は危険度も著しく、ちょっと背の高いトラックなどは下手をすると木の葉のように飛ばされても不思議ではない状態でしたから。

帰りはもちろん都市高速はこりごりで、国道を走って帰りましたが、ある大学の官舎のある交差点でのこと。歩行者用信号は赤なのに、とつぜんこちらに向かって歩行者が闇の中から走り込んできて、咄嗟に急ブレーキと急ハンドルで間一髪避けることはできましたが、事故にならなくて本当にラッキーでした。
思わずカッときてクラクションを鳴らしましたが、見るとカバンを持ったやや年輩の男性で、逃げるように官舎の中へ入って行きましたので、おそらく大学の先生だろうと思います。
このとき外気は氷点下に達していましたから、寒さに耐えがたく赤信号を強行突破してでも早く自宅に帰りたかったとすれば心情としてはわかりますが、しかしとんでもない行動で、こんな嵐のようなときこそお互いに安全には普段以上に注意したいものです。

友人によると翌日は福岡ドームで「嵐」のコンサートがあるとかで、まさか前夜のこの天候はその前座なんではなかろうかと思いました。
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クン付けサン付け

テレビなどでよく耳にすることですが、すでに若くして一芸に秀で、社会的にも認知された人物に対して、まわりの人間が自分のほうがただ年長というだけで、先輩ぶった上から目線の呼びかけ方やトークをするのは基本的に好きではありません。

もちろん長幼の序は儒教精神の大切な概念ですが、それを目的外に乱用悪用するのはどうかと思います。
もともとこの傾向の祖は、現東京都知事の石原慎太郎氏であったように思うのですが、自分の生年月日を根拠に小泉さんを現役総理の時代から「純ちゃんは…」とコメントし、彼はありとあらゆる政府の要人を「クン」呼ばわりします。

こういうちょっとした合法的無礼行為と悪習はあっという間に巷に広まり、スポーツ選手あがりの解説員などは、時代が違っただけで自分よりもはるかに上位のスター選手であっても、年長を盾にして上から「クン」付けで呼び始めました。

音楽の世界にもそれは伝染病のように広がり、多くの関係者などは(単なる雇われ人まで)わざとのように例えば「辻井クン」と彼を必要以上に目下扱いして、僅かでも一瞬でも自分が上に位置するという物言いをして快感を得ているように見えてしまいます。
マロニエ君のまわりでも留学帰りの若いピアニストなどを、大した仲でもないくせに「クン」で呼ぶ人のなんと多いことか! 相手が若くして立派になればなるほど、その人をクン付けで呼ぶことに、かすかな快感と復讐の念を働かせているようにしか見えません。
極めて偏狭かつ無教養が生み出す、いわば人間の狡猾な部分を見るようです。

とくに相手の親に対してまで本人をクン付けで呼ぶのは、端から見てるとただ単にその人が嫌な感じにしか見えないものですが、ご当人はまるで「まだまだ私から見ればただの若者としか捉えていないよ」「これっぽっちも恐れ入ってはいないんだよ」といういじわるなメッセージが込められているかのようです。
自分を大きく見せようという心理でクンづけで呼んでいるその人が、しかし却って心の狭いコンプレックスの塊のようにしか見えません。

テレビなどでも相手が大物だったり有名人だったりすればするほど、あえてクン付けで呼んでいるのは、自分が同等もしくはその上にいるんだとアピールしているようで、なんとも浅ましい人物にしか見えません。
クン付けでサマになるのは、せいぜい昔の学校の先生とか、同級生などでないとダメだと思います。

そうかと思うと、逆で驚くのは芸能界などです。
昔は俳優でも芸能人でも芸人でも、呼び捨てにするのは当たり前でした。
これは別に相手を見下しているわけではなく、有名人というものは一般人からみれば直接お付き合いする生きた人間関係の対象ではなく、ただ単に名前を覚えてそれを口にする、そういう単純なものでした。
したがって失礼でもなんでもない単なる慣習だったはずです。

それが今では誰でも彼でも不気味なほどサン付けで呼ばれるのが義務化されているようです。
芸能界は異常なほどお互いをサンもしくは年下の場合はクン/ちゃんで呼び合うことが慣習化され、その名がクイズの答えであっても決して手を抜かないその徹底ぶりは、まるで軍隊みたいです。

とくにお笑い芸人などはサンをつけたその時点でもはやお笑いではなくなります。
明石家さんまでもビートたけしでも、さんま、たけし、と言う対象であってはじめて笑えるのであって、いちいち「さんまさん」「たけしさん」では、笑ってやる気にもなれません。

ではよほど礼儀正しく丁寧なのかと思えば、皇室報道などではその言葉遣いの非礼で出鱈目なことなどは呆れるばかりです。

現代はなんでも平等の権利の建前だけを、状況や事柄に関わりなく振りかざす歪な時代で、もはやTPOもなく、日本語の絶妙のセンスなどは死に絶えたも同然な気がします。
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競争心?

昨日のブログを書いてみてふと思ったのですが、常日ごろ自分のあまり意識していなかった事実に気が付きました。

マロニエ君はつまらないことで憤慨することは多いものの、人との競争心はあまりなく、むしろ必要量さえも欠落しているというか、かなり弱い方だと思っています。
そのせいで人生も負け組に甘んじているわけで、人との競争心がエネルギーとなって何かに挑戦したり奮起しようというようなガッツに欠けるのは事実ですし、この「ぴあのピア」の立ち上がりが遅いのも、ひとつにはそのせいだろうとも思っています。

でも、そんな自分にもやっぱり競争心というのは探せばあるようで、それが自分の職業とか人生設計、せめてピアノとかならまだ良かったのですが、そっちはからきしダメでかけらもありません。
では、何に対して競争心があるのかというと、ほとんどバカバカしいとしか言いようのない駐車場の場所取りとか、出入口のちょっとした順番みたいなものにはこれがあることにハッと気付き、そういう自分を認識できたことは思いがけないことでした。
むろん、つくづくバカで幼児性だなあと思いますが。

考えてみると車の多い駐車場などに行くと、条件反射的に俄然自分が燃えてきているのが、静かに振り返ってみたらわかりましたし、やみくもに頑張ろうとする自分をそこに見出すことができるのは、大いなる発見でしたが、なんとも滑稽でもあります。
駐車スペースの場所取りなどは、ほとんど無意識のうちにこれを「戦い」だと思っていますし、それは他のことのように投げ出すことも避けることも、いち早くあきらめることもなく、一人前に社会参加して自分も互角に他者と戦っていることに気が付きました。

車の運転にもそういうところがあって、変な割り込みなどをされるとか前の車がトロい走り方をしていることに関しては、他の事のように寛容ではいられません。車線の多い道路では、いかに自分だけが賢く先まで見通しを立てて、車線を選びながらいち早く走り抜けることが出来るかを、必要以上にいつも情熱的に考えてしまいます。

その状態に突入したときの緊張と、上手くいったときの過剰な喜びは、そのなによりの証拠だと思います。
なぜそうなのかは自分でもさっぱりわかりませんが、きっと遺伝子の中にポロンと組み込まれているのだろうと思います。とはいっても両親共にまったくそういう性質ではないんですけどもね。

むかし「ハンドルを握ると人が変わる」という言葉がありましたが、もしかしたらその一種かもしれません。
だから、昨日のように一回の買い物で、駐車場内で二度おいしいことがあると、尋常ではない喜びを覚えるのでしょう。
たしかに似たようなことをマロニエ君ほど喜ぶ人は他はあまりいないようにも思えます。

まあ、競争心といえばまだいっぱしですが、ただ単に幼稚というだけの事かもしれませんが。
こんなくだらないことでも本人にしてみれば、自分の中で競争心がちゃんと機能しているということを知ったという点ではちょっと嬉しいのですが。
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くだらん満足

以前も書きましたが駐車場というのは、その気で眺めるといろんな光景を目にするもので、自分自身が一喜一憂することもあると同時に、そこに小さな人間模様が観察できて意外におもしろい場所とも言えそうです。

昨日も行きつけのスーパーに行くと、例によって駐車場も混み合っていましたが、入口から遠い場所以外はほぼびっしりと車が並んでいて空きがありません。
このところの寒さと時おり降る雨ですから、みんな遠くへ置いて歩くのはイヤなのでしょうし、むろんマロニエ君も同じです。

ちょうど今にも出そうな車が目に止まり、見ると助手席の女性は準備万端整っているようですが、運転席の男性がもぞもぞしています。こちらが待っているのがわかったようで、案の定ぐずぐずパフォが始まりました。助手席の女性のほうがむしろこちらを気にかけてくれているようでした。

やたらゆったりした動きで、やっとシートベルトを着けましたが、なんのなんの、まだ動きそうにはありません。引っぱるだけ引っぱっているというあからさまな意志が伝わってくるようで、ああまたか…と思っていると、5台ぐらい先の車がスルリと出ていきました。
そっちのほうが入口は近いし、やったぁ!とばかりに、一気にそこへ移動してサッサと車を止めました。

止め終わって車を降りようとする頃、さっきの車は動き出して前を通って出口のほうへ向かいましたが、まあこっちはより良い場所にありつけたわけで、えらく満足な気分です(子供ですね)。

さて、買い物が終わって、車に戻ろうとすると目の前をいきなり大きなワンボックスタイプのワゴンが逆走していきます。しかもマロニエ君の車の隣が空いており、そこを狙っているようでした。

ところがマロニエ君の車の隣のスペースは、たまたま後ろに植木がある関係で、奥行きが浅く、そこだけ「軽」と地面に書かれた軽自動車専用スペースなのですが、そこへその大きなワゴン車を突っ込むべく、ルール違反の逆走までしてきて必死のバック駐車が始まりました。
駐車場内は一般公道ではないものの、それでも逆走というのはちょっと怖いものがあります。
しかもなにしろ隣なので、その車のバック駐車が終わるまでこちらは助手席のドアも開けられずに寒い中をじっと待っていました。

しかしどう足掻いても軽の場所に大型ワゴンですから、フロント部分が大きくはみ出して、とてもこのままではマズかろうという感じです。すると出ていこうとするこちらの気配に気付いて、場所を一台右に移動しようと思ったらしく、運転席の女性は針のような目つきでこちらをチラチラ見はじめました。
逆走してきて、さんざん周りを待たせた上に、今度はこっちへ狙いを定めたようです。

まあマロニエ君にしてみれば自分の駐車場でもないし、そもそも勿体ぶって動かないのはすごくイヤなことだと普段から思っているので、早々に動き始めました。ちなみにここは右に出る方角の一方通行です。
右にハンドルを切りながら動き出すと、そのワゴン車の駐車が済むまで動けずに待っていたボルボのワゴンの運転者と目が合いました。マロニエ君には「俺がそこに置くから」という意思表示のように見えました。
こちらも瞬間的に了解した気になり、それを受けてなんとなく普通よりゆっくりした感じで駐車スペースから出たところ、ワゴンの女性が動くよりも先にそのボルボがスッとこちらへ前進してくるのがわかりました。

果たしてワゴンの逆走女性は、さっきとは逆に自分が今後は進路をふさがれて、めでたくそのボルボがマロニエ君の出た後に駐車すべくすみやかに駐車態勢をとりました。

このあと軽の場所からはみ出したワゴンがどうしたかは知りませんが、マロニエ君にしてみれば二度にわたっておもしろいタイミングに恵まれて、こういうくだらないことに大満足して家に帰りました。
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あきらめないで!

年末年始にかけての長引く悪天候は、過去に経験したことのないものです。
昨日は本当に久しぶりに雨のない一日となりましたが、それもいつなんどき崩れ去るか、もはやまったく信用できません。

年末年始も雨や雪の降らなかった日はありませんでした。
当然ながら車のワイパーも毎日使わない日はないということになります。
以前、このブログでワイパー復活のウラ技をご紹介しましたが、マロニエ君自身もそれをいつもやっていて、ここ半年以上も本来なら交換するはずのワイパーブレードをまだ気持ちよく使っています。

ワイパーの掻き取り能力が落ちるのはゴムの劣化もありますが、多くの場合、実はゴムに付着したゴミや汚れが原因というのが前回書いたことでした。もちろんワイパーブレードの劣化は時間および使用状況・保管状況にもよりますが、汚れの除去によって車庫保管の車の場合は確実に二倍は長持ちするというのは間違いありません。

そこへ更に効果的な方法を発見して最近悦に入っているところです。
それは市販のピッチクリーナーを使うというものです。

というのもマロニエ君の車は常識的にはワイパーブレードを交換すべき時期を過ぎても、上記の方法でずっと延命してしてきたのですが、さすがにそろそろ交換する予定で、すでにパーツの準備も出来ています。
ところが雪は降る、みぞれは降る毎日なので、こんな時期に新品をつけてもただ傷むだけと思い、なかなかそれに着手するのもためらわれて延び延びになっているわけです。
さて、ピッチクリーナーというのはカーショップでもホームセンターでも簡単に安く手に入るもので、スプレー式のやさしい油落とし剤です。安いモノならヘヤースプレーよりも太くて大きな缶がわずか300円ぐらいで売っています。
これは油を落とすだけでなく、シリコンによる潤滑効果もあるので、塗装面など使うとツルツルになります。

これをウエスにつけて、軽くフロントガラスにのばして拭き上げます。
続いてそのクリーナーのついている部分でワイパーブレードの汚れを落とすようにゴムを掴んで何往復かさせました。

するとなんと、ガラスとワイパーゴムの両方の油膜などが取れた、もしくは少なくなったお陰で、圧倒的になめらかできれいな視界が確保されました。だいたい雪やみぞれなどはワイパーでは完全には掻ききれないのが普通ですが、この処理をした後では、確実に僅かな水滴まで除去されていき、ワイパーが動くのが楽しくなるようです。
まるでガラスまで新品になったようで、気分も爽快になってしまいます。

おそらくはシリコンのお陰でガラスとワイパーゴム双方の潤滑性が向上したことと、さらにはゴムに潤いが出たのではないかと思っています。
TVコマーシャルじゃありませんが、「あなたのワイパー、あきらめないで!」とでも言いたくなります。

ピッチクリーナーもこの程度の使い方なら、何年も保ちますから、ご興味のある方はぜひやってみてください。
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コメント紹介

「福岡から」さんからコメントをいただきましたので、以下ご紹介します。

 厳しいご意見ですが、私は教育テレビは見てなかったので、さっき第二第三楽章だけ教育テレビのクラシック・ハイライト2010で見ました。
 私はショパコンはストリーム放送された分はすべて聞きましたが、この演奏は非常に良く無いです。そもそも雑にひっぱたいて居まように見えますが音量がでていないので、イライラしているように見えました。
 そこで、懇意にしている某ピアニストに聞きました。彼女は放映された生演奏を聞いているので、先日は良かったとだけ言っていましたが、よくよく聞きだすとピアノとオケは合って居なかった、とのことです。
 あそこのスタインウェイは鳴らないし、NHKホール自体が鳴らない上にN響自体がピーコンではテンポや音量をあわせることができない、というかもともと指揮者の振るとおりに演奏しない、コンチェルトに合わせる気が乏しいというか訓練ができていない楽団なのでご機嫌はよくなかったようで、カーテンコールもすぐ引っ込んだそうです。
 もともとN響はデュトワが来るまで過去ゲスト指揮者やアーチストとの折り合いが非常に悪く(ロシア系有名なアーチストはN響と演奏したがらないし録音もまったくない不思議なオケなのでコンチェルトのサンプルとしては適当でないと思います。というか、マロニエさんもN響のコンチェルトのCDなど見たことがないと思いますが、そもそも無いし有名なアーチストはN響と殆どコンチェルトしないのが実情です。
 というわけでこんど福岡に来るらしいので、それを聞いての再度の記事を書かれたらどうでしょうか。福岡はちょっと残響過大ですがピアノはヤマハでオケはワルシャワとコンクールと同じ条件ですのでそれはそれでまた違う演奏が聞けるんじゃ無いでしょうか。
 ところで今回もピアノの持ち込みで一悶着あったと思われます。というか過去NHKホールにピアノ持込むのは原則できないのですが、過去第12回チャイコン優勝者の上原彩子のピーコンのときとスタジオパークでヤマハを持ち込む時に業界ではちょっといsた話題になっていました。

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マロニエ君より
 おっしゃる通り、N響は不思議なオーケストラというのは同感ですし、CDもほとんどありませんね。一時期かなりいいときもあったと思いますが、ここ数年はまた官僚組織みたいなオーケストラになってしまったように感じます。音楽を演奏するというより、まるで役人が義務で仕事をしているようです。
 NHKホールは紅白歌合戦からコロッケのモノマネショーまで、なんでもやる3500人収容の文字通り多目的大ホールですから、音響の良かろうはずはありませんが、N響の問題、ホールの問題、ピアノの問題を差し引いてもあれは…。もしそれが一定以上のものに整えば、めでたくアヴデーエヴァが別人のようにめざましい演奏をするとも思えませんが。
 それに日本人から見ればヨーロッパは西洋音楽の本場ですが、実際には彼の地のホール事情、オーケストラ事情、ピアノ事情、さらには聴衆の態度に至るまで、それは日本人の想像を絶するほど劣悪なものが多いのだそうで、逆に日本ほど見事にそれが整っている国はないと聞きますから、そんな厳しい土壌で逞しく育った(ましてやロシアの)ピアニストが、少々のことでへこたれるような軟弱者とは思えません。先日の演奏には、彼女の否定しがたい本質が出ていたのは間違いないと思いますし、彼女がもし本物なら、その輝きの片鱗ぐらいは見えたはずとも思いますが。
 たしかにワルシャワフィルとヤマハによるコンサートなら多少は違う結果が出るかもしれませんが、マロニエ君はそこに希望を託して行ってみようという熱意はもはや失いました。
 それにしてもNHKホールはピアノ持ち込みが出来ないというのであれば、それは到底納得できない理屈の通らないルールですよね。ヴァイオリニストに自分のヴァイオリンを持ち込むのもダメというのと同じ事で、それは演奏するピアニストが決めるべき事ですから、まったく筋が通らないというか不可解。
現実にNHKホールでは過去にホロヴィッツやミケランジェリのリサイタルを、そのためにわざわざ持ち込まれたピアノでおこなっていますが、彼らは原則が適用されない「別格」ということでしょうか。
 ところで「ピーコン」とは?・・前後の脈絡から察するにピアノ協奏曲のことだろうかと思いましたが。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

ついにこのブログで二度目の元日を迎えることができました。
二年目の初日としては今年の抱負などを語るべきところでしょうが、なかなかこれという確たる目標や展望もないのがお恥ずかしいところです。強いて言うなら、まずはなによりも開店休業状態のこのピアノ雑学クラブをなんとか活動体にもっていくことでしょう。

ともかく一度、みなさんと顔を合わせて、それからということでもいいのではないかと思っています。
今年こそは、このべったりと座り込んで動かない牛みたいなクラブの腰を上げさせて、ゆっくりでもいいから前進させてみたいというのが一番の課題でしょうか。

また「ブログ」と「マロニエ君の部屋」については、できるだけこれまでのペースを維持したいとは思っていますが、むろん自信はありません。しかし自分ができるところまでは精一杯がんばる所存です。

つきましては、マロニエ君の部屋の「はじめに」のところにも書いていることですが、ネットという場であることを十分承知した上で、やはり自分らしい、ウソのない、本音のところを制約幅ギリギリのところまで迫って書いていきたいと思います。
それは、誰からもクレームをつけられないことを是としたような、安全でそつのない、きれい事ばかりを散りばめたような薄気味悪い文章ほど、無意味で、読者を退屈させバカにしたものはないとマロニエ君は平生から感じているからです。

無数無限に存在する夥しい数のブログの中から、あえてこのブログあるいはホームページへ立ち寄ってくださった方には、せめてなにか一点でもおもしろい実のあることをお伝えしたいという気持ちで書いているつもりです。
もちろん結果的にそうなっているかどうかは甚だ疑問ですが、少なくとも気持ちはそうだということです。

また今後もブログのコメントは原則公開しておりませんので、その点では失礼もあろうかと思いますが、何卒ご理解ご容赦いただきたいと思いますし、ご意見はあくまでもメールでお願いしたいと思います。

ちょうど一年前の今日、ブログをはじめるにあたっては、あらゆる批判や嫌がらせにさらされるだろうという一定の覚悟はしていたものの、それは嬉しい誤算で、その手のコメントはほとんどなく、これはマロニエ君の日ごろの行いがよほど良いのか(!?)、ありがたくも理解ある寛大な読者に恵まれた故だと、深く深く皆様に感謝しているところです。

年頭に当たり、もう少し気の利いた挨拶もあろうかと思いますが、まあマロニエ君としてはこれが現在の正直なところです。

どうそ今年もよろしくお付き合いくださいますようお願い致します。
マロニエ君
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一年の終わりに

今年の元日から書き始めたブログですが、ついに一年が経ち、とりあえず途中で放り出さずに大晦日を迎えられることができて、ひとまずホッとしています。

これもひとえに、こんなくだらないブログをお読みいただく奇特な方がいてくださったお陰で、まったく工夫もない平凡な言い方ですが、心より御礼申し上げます。

実をいいますとマロニエ君はその昔、ブログなどむしろ馬鹿にしていたくちで、有名人でもなにかの専門家でもない、一介の人間がネットという手段を使ってブログという名の日記を書くなど、たいそうな思い上がりの露出趣味だと思っていました。
しかし、ぴあのピアのホームページをはじめる以上はある一定の慣習にも従い、曲げるところは曲げて、世間とのある程度の折り合いをつけるべきだという考えも次第に芽生えはじめました。

マロニエ君はこれといって得意なものもありませんが、とりわけネットだのホームページだのということが殊のほか苦手で、何をするにも友人知人の教えや助けに依存するばかりです。
昔、パソコンの使いはじめの頃も手取り足取り、何かトラブルが起きようものなら大騒ぎでした。
そんなデジタルオンチですから、むろんホームページを作るなどという大それたことは、当然できるわけがありませんでしたが、友人というものはありがたいもので、ホームページ作りに根気よく手を貸してくれました。

自分じゃできないくせに、つまらないこだわりだけはあるマロニエ君としては、デザインまで人任せにするのでは気が済みません。そこで、ホームページのいわば「容器」だけを作ってもらって、そこに自分で作ったパターンや撮ってきた写真をひとつひとつ入れ込んでいくという、まるで子供の手を引いてもらうような手間暇のかかる作業が始まりましたが、もちろん結果は見ての通りで笑ってしまいます。

まあ、やっていると少しずつ更新の仕方などはわかってきましたので、現在は友人の手はほとんど借りずに澄んでいますが、まだまだです。

その友人が、いうなればマロニエ君のホームページの師匠というわけですが、その師匠が言うには、「ホームページを作る以上はブログを書かなきゃダメだ」というので、はじめは断固拒否していたのですが、「いまどきホームページを作ってブログがないなんて話にもならない」と一蹴されて、ずいぶん悩んだ末に今年の元日に一大決心をしてスタートさせました。
そして、さらにその師匠が言うには、「ブログは基本的に毎日更新するもので、たまにぐらいでは誰も見てくれなくなる」と脅しをかけられました。曰く「せっかく見に来てくれた人がいても、なにも更新されていなかったら、だんだん見てもらえないホームページになってしまう」というのです。

他のことなら大いに反発するのですが、ホームページばかりは師匠の言う通りにしなくては仕方がなく、それで、だんだん奮起して書くようになりました。とくに今年も後半になると、ブログ書きが日課のようになってきました。
ご承知の通り内容は甚だお恥ずかしい限りのものばかりですが、それでも、少なくともピアノの練習よりはよほど根気よく取り組んだつもりで、それはひとえに見てくださる方がおられるということが気持ちの上でずいぶん後押しになりました。

この先、いつバタンと倒れるかはわかりませんが、続けられるだけは続けていくつもりですので、どうぞ来年もよろしくお付き合いのほどお願い致します。
望外のご高覧をいただき、本当にありがとうございました。
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号外です

一日にふたつブログをアップするのは初めてです。

メーピーさんからコメントをいただきましたが、コメントは公開しておりませんのでこちらでご紹介させていただきます。ご紹介が遅くなりたいへん申し訳ありません。

巷で褒めまくりのアヴテーエヴァの演奏に同意できないのはマロニエ君だけかと思っていましたが、このようにご賛同くださる方がおられ、安心しているところです。

最近の社会風潮なのか、率直な感想というものがどんどん抑圧され、人間の率直さそれ自体が悪のように捉えられているような気がします。歯の浮くようなきれい事ばかりを口にしたり書いたりすることが「大人のふるまい」とされる暗い欺瞞の時代にあって、音楽ぐらいはせめて本音で語られ、人の魂を揺さぶり、心を慰めるものであって欲しいものです。

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はじめまして。
マロニエ君様のアヴデエーワ評、まさしく私が思っていたそのままです。
私が書いたのか?と思ったほど。

音楽は歌である、まさにそれに尽きると思うのです。
それもプリミティブな意味での歌、声を使って何かを伝える為の歌が彼女の演奏からは感じられませんでした。

>解釈は演奏表現の根底を成すあくまで骨格であり

>練習の過程で自分の中で楽譜は収斂され消化され、演奏者の肉となり、いざ本番では、いかにも自然発生するような演奏に周到に到達することが必要

こちらのご意見に深く深くうなずきました。
そして、

>音楽は歌であり生き物であり、その都度生まれてくるものという大原則

このお言葉。私が音楽で一番大切だと思っていることです。
プリミティブな段階での歌は、声の抑揚、リズムによって感情を表現するためのものだったはず。
彼女はなにを伝えようと思っているのでしょう。
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何かありましたらHPからメールをください。
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メールの功罪

仕事であれプライベートであれ、今どきは携帯やパソコンのメールを使うことがとても多いものです。
ところが、このメールのやりとりというものに対する感覚が、マロニエ君と世間一般では、どこか食い違っているのかもしれない…と思うことがときどきあります。

もしかしたら自分のほうがメールを使う際の、バランス感覚というものがもうひとつわかっていないのかもしれませんし、むろん上手く使えているというような自信はありませんから、こちらがおかしいのかもしれません。

その上で言うと、基本的にマロニエ君の認識としては、メールは文字として記録が残る点や、電話のように見えない相手の状況やタイミングを斟酌する必要もなく、随時いつでも送信できるというメリットがあること。さらには一定のパソコン環境さえ整えていれば、あとはタダで好きなだけ送受信が出来るという点もメールの持つ大きな利点であるのはいまさら言うまでもありません。
携帯メールも電話会社やプランによっては似たような利点があるようですね。

ただし、ときどき困惑することがあって、例えば一人の相手と送受信をしているときの話の比重の置き方や、終了のさせ方です。
場合によっては一往復でおわることもありますし、何度かのやり取りが続くこともあることは皆さんも経験済みのことと思います。

マロニエ君としては、PCメールは紙に書く手紙やハガキほど形式にはまったものではなく(携帯メールはなおさら)、利便性優先の気軽なものとは思いつつ、それでもやはり基本的には一定の配慮や情操をもってやり取りをすべきだと思って書いていますが、どうも最近ではそういった部分にも疑問を感じる点が多く、よりドライにやり取りすることが主流のような気配を感じることしばしばです。

よくあるパターンとしては、こちらとしては常識的にあと1回は相手からなんらかの反応があるだろうと思っていたり、やり取りがまだ終結していないと思われる状態の中で、結局それっきりになってしまうということがあったり、内容が例えばこちらが重視している話題がパッと切り捨てられて、あっけなく別の話になるようなことがよくあります。

論外なのは、返事をしないとか、おそろしく遅いタイミングでポロッと返事がきたり、ひとつの問いに対する回答に何日もかかったりと、これが昔通りに電話なら、ものの何分あるいは何秒で済むことが、メールであるがためにやたらと時間と手間暇がかかり、メール特有の不便とストレスを感じてしまったりすることがあります。
返事がないのは相手の確たる意志と見るべきか、ただのぐうたらなのか、送信トラブルか、ハッキリできないことが精神的に疲れます。あるいは話が勝手に割愛されるのはそのことには相手が興味がないとこちらが察しをつけなくてはいけないのかなどと、ともかくむやみに気ばかり回して、いずれにしろ電話だけの時代にはなかった無駄な神経の疲労・消耗があるものです。

メールの出現は、便利な反面、不自由になったのは、たかだか「電話をする」というだけの行為にも昔よりも格段に慎重になり、やたら躊躇するようになったことです。電話はよほど気心の知れた相手でないと、迷惑かもしれない、好ましくないタイミングかもしれないというような脅迫観念に迫られて、もはや昔のように無邪気に電話できなくなり、そのぶん人との距離感ができたというのは最大の減点ポイントだと思います。
今やメールが主で、電話は特別もしくは緊急用という位置付けではないでしょうか。

結果として電話が本来の電話の機能を果たさず、まずはメールという前段を踏んでからという、却って手間のかかることになった面もあるように思います。
要するに便利なはずのものが幅を利かせすぎて、逆に不便を作り出したという典型かもしれませんね。
そしてもっと恐ろしいのは、慢性的に人との交流が希薄になるということではないでしょうか。
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赤い糸

過日、長らく独身だった友人がようやく結婚することになり、親に会わせるために帰省しました。
マロニエ君と同年代ですから、晩婚もいいところです。

音楽の先生にも彼女を連れて挨拶に行くので、よかったらぜひ来てくれと言われて、マロニエ君も興味しんしんで会ってみたかったので先生宅に伺いました。

果たして友人は彼女を連れて現れましたが、やはり結婚するような二人というのは、傍目にも収まりがいいもんだと思いました。なんでこの二人は付き合っているんだろう?と思うような光景がよくあるもんですが、そういうのは大抵ダメになったり別れてしまったりで、結局は結婚には至りません。
あるいは、上手くいっているように見える場合でも、一定の期間内に結婚へジャンプしなかった場合も、やっぱり破綻するケースがありますね。

その点、結婚するような二人というのは、音楽のように一定のテンポと流れと展開があって、最終的に落ち着くべきところに落ち着くもののようです。
ちなみにこの二人は出会いからわずか4ヶ月で結婚が決まりました。
特別な理由もなく何年もダラダラと付き合っているような場合は、逆にチャンスを逸してしまって、そのうちどちらかが愛想を尽かして終わったりしますから、出会いから結婚までエネルギーを絶やさない流れというのは非常に大事だと思います。

マロニエ君の別の友人には、10年も付き合って長年一緒に暮らした挙げ句、突然あっけなく別れてしまうカップルなどがいて、こっちのほうがビックリ仰天することがあるものです。

結婚する二人、あるいは結婚した人を見ていると、こちらが内心で思うところはいろいろあっても、結局はバランスが取れているもので、だからこそ結婚という人生の一大事業を成し遂げられるのだろうと思います。
結婚する二人というのはおかしなもので、互いの欠点がそれほど気にならなかったり、大した我慢でなしに自然に許せたりするようで、第三者のほうがよほどびっくりするような事にも平然としている場合が多く、ただもう呆れ返ることしばしばですが、これこそ相性というものでしょうね。
そういう驚きを持って眺めることのできるとき、月並みですが「赤い糸」という言葉を思い出してしまいます。

この友人に限らず、結婚を決断した二人というのは、人生で最も前向きな表情をしているように思えます。
互いに人生を共にする相手ができたということで、ほどよい緊張と幸福が交錯して、何をするにも輝きがあり、充実した時間を慈しむように過ごしているようです。
なんでも自然に前向きに捉えることのできる、人生のなかでもごく短い時間のようです。

これがひとたび結婚して一年もすれば、こんな充実した様子というのは煙のように消え去って、祭りの後のような素面が二人を隈取ってしまうのでしょうが、さらにそれを乗り越えたときに、正真正銘の夫婦になるような気がします。
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外出中止

このところの寒さと天候の悪さにはほとほと参ります。
曇天と雨の連続で、ちょっと晴れたかに思えても数時間後にはまた雨です。

今日の午後、外出先で小雨がちらついてきたと思ったら、そのまま本格的な雨となり、霙となり、帰宅後ついには雪になりました。
夜は食事の約束があったのですが、出かける一時間前になって先方から電話があり、雪が積もってきているというではありませんか。まさかと思って外を見ると、わずか30分ぐらいの間に一気に雪に変わって、気温が低いものだからそのまま解けずに積もっていったようです。
一度は様子を見ることにしましたが、あたり一面は見る間に真っ白になってきたので、さすがに外出は中止することになりました。

マロニエ君は昔、神戸の六甲山で一晩のうちに雪に降られ、やむを得ず車で慎重に下山していたところ、おっかなびっくりの歩むような速度であったにもかかわらず、坂のためスリップしてコントロールが効かなくなり、車の左の前輪が側溝に落ちてしまったことがあります。
たまたま通りがかった地元の人の親切に助けられて、なんとか車を路上に戻し、チェーンを買いに行くなどして数時間かけて恐怖と戦いながらともかく下まで降り、傷ついた車をフェリーに乗せて帰ったという苦い思い出があります。
いらいそれがトラウマとなり、雪の中では金輪際運転しないことを心に誓っていましたので、路上に積もりはじめた雪を見ただけですっかりびびってしまいました。

西日本というか九州の人間は基本的に雪との付き合い方を知りませんので、下手なことはしない方がとにかく賢明です。
ちょうど外出を取りやめた直後、テレビニュースでは昨夜東北で雪に閉じこめられた車の一団が、食べ物もないまま、車中で一晩過ごしたなどというニュースをやっていましたが、みんな意外にケロリとしているのにはさすがだと恐れ入りました。やはり日ごろの環境と鍛え方が違うのでしょうね。

ほどなく九州自動車道の一部と福岡都市高速の全線が通行止めになりましたが、北海道などでは雪でも高速道路を使うようですから、いやあもう、まったく信じられません。

お陰で「坂の上の雲」と「N響アワー」を録画しているために諦めていたフィギュアスケート女子フリーをまだら観することができました。べつにフィギュアスケートのファンというわけでもないのですが、やってればなんとなく観てしまいます。
優勝は安藤美姫でしたけれども、質の高い、気品のある演技と人を惹きつける魅力という点において、断じて浅田麻央が上だと感じました。
それにしても、あんなに大勢の観客とテレビカメラをはじめ無数のレンズに囲まれて、場内が固唾を呑む中で、ひとり一発勝負の氷の世界に挑み出ていく彼女達のメンタル面を思うと想像を絶するものがあります。

その凄さを思えば、マロニエ君が人前でピアノを弾くのがどうのこうのなんて泣き言は、ものの数にもあたらなくて自分でも笑ってしまいますが、笑ってみたところでどうなるもんでもなく、つける薬がないのは自分でもどうしようもありません。
メンタルのトレーニングというのは、場合によっては最もやっかいな難物かもしれません。

外を見ると、とりあえず降雪は止まっているものの、まだ道路にはシャーベット状の雪が残っています。
一昨日の悲惨なワゴン車の転落事故も、有名なピアノ店のすぐ隣の池だったのにはさすがにびっくりしました!

今夜あたり灯油も買わなくてはと思っていましたが、危ないことは止めにして、ブログ書きでもやっているところです。
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思慮なき駐車場

暮れも押し詰まって、街中どこに行っても人で溢れ、道路は車で慢性渋滞の毎日です。
いつも行きつけのスーパーも例外ではなく、そこそこの広さのある駐車場もさすがに満車状態で、空きスペースを求めてぐるぐるさまよっている車もあれば、じっと通路脇に停車して空くのを待っている車もあります。

こんなとき自分も空きを探しつつ、人の行動をみていると理解に苦しむというか、笑ってしまうようなことが多々あるものです。
例えば、駐車場の中は一方通行なのですが、一台出そうな車があると、すぐ前で待機していた車はすかさずその後に駐車しようと色めき立ってくるのがわかります。とくに混み合うときはうかうかしていると、後ろから来た車にまんまと入れられてしまうことがあるので、必死なのはとりあえずわかります。

しかし、待っている場所が、これから出ていく車が通り抜けていくべき通路上なので、じゃまになって出るに出られない状態になっています。待っている車は空いたらすかさずそこにバックで入れようと身構えており、少しでも先へ移動すると後の車にとられそうになると不安なのか、ともかく待っている場所が到底まずいことになかなか気付きません。
やむなく少し前にずれてやっとのことでひとつ空きができると、あまりに焦って止めようとするものだから、てんでバック開始の場所と方角が悪くて、もう車はメチャメチャな方角を向いて収拾がつかなくなります。

ただ単にバックして、すみやかに空きスペースに車を入れるという、それだけの行為が、思いもよらない大ごとに発展し、切り返しに切り返しを重ねて、見ているこっちが疲れるほどの苦心惨憺の末に、ようやく車は狙った場所に収まりご同慶の至りというところですが、あれではもうへとへとで買い物をするエネルギーが残っているだろうかと心配になってしまいます。

別のケースでは、駐車場出口のすぐ脇の駐車スペースに空きができたところ、折良くやってきた軽自動車が「おお、ラッキー!」とばかりにそこに入れようと思ったらしいのですが、なぜかこれまたわざわざ苦労して、バック駐車が始まります。しかしそこは進行方向にむかって自然に前向きに止められる場所であるばかりか、出るときのことを考えるなら、頭から突っ込んでおいたほうが、出るときもそのままの態勢でバックすれば、車は少し向きを変えるだけで自然に出口を向く態勢になるのですが、不思議にバックで駐車することにこだわりがあるようです。
そうまでしてバックで入れても、今度は出るときにまた何度も切り返しをしなくてはならなくなるのが明白なのですが、どうしてそんな単純なことに気が付かないのか、がむしゃらにバック駐車をやっているのは、一途というべきか、まったくもうご苦労様というほかありません。

そうかと思うと、今度はマロニエ君が買い物がすんで出口の車列に並んでいると、横から場内を逆走してきたおばさんが無理矢理にマロニエ君の前に割り込もうとします。
一周して列の最後尾に付くのがよほど嫌だったのでしょうが、いやに頑張るので根負けして入れてやりました。

全般的に言えることは、我欲だけが一人歩きして、ちっとも全体のことや合理的な判断をしようという思考がまったく働いていないように感じます。自分のこと、たった今のこと、目の前のこと、人に場所を取られるな、駐車はバックで、というようなことしか意識がないようで、それらを統括すべき思考力は完全に停止しているようです。

こういうおばさんやおねえさん達ですが、いったん店内に入ると、まるで別人のようにあれこれと知恵をめぐらせて賢い買い物をするのかと思うと、無性に滑稽な気分になりました。
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クリスマスの予定

昔ほどではないにせよ、巷ではやはり12月24/25日はクリスマスイブとクリスマスということになっていますが、いかがお過ごしでしょう。
「なっています」というのもおかしな言い方ですが、それは大半の人にとって、いまどきクリスマスなんてほとんどなんの関係のない2日間ですし、大半の日本人はキリスト教徒でもないので、ますます他人事になった観があります。

むしろマロニエ君が子供のころから学生時代ぐらいまでのほうが、宗教上の意味などとはまるで無関係に「クリスマスは楽しい特別な日」というイメージがありました。
そのころはクリスマスイブなどは、恋人とどうやって過ごすかということが、なによりも重要なことのように捉えられている風潮がかなり強くあり、彼氏彼女のいない人は、なんとしてもクリスマスまでに相手を探すというような意気込みで、バカバカしいけれども、とにかく大きな節目というかイベント日であったように記憶しています。

そのような流れで、クリスマスは最低でも家族、理想的には恋人と過ごすものという暗黙の認識が、多くの日本人の、とりわけ若い世代に浸透し、深く根をおろしたのはバブル崩壊前あたりまでのある時期だったように思います。
商業界もこの時期を絶好のビジネスチャンスと捉えるのは至極当然で、仏教徒もなにも一緒くたになってクリスマスという名の二日間を迎えていましたし、カップルはプレゼントの交換から、ホテルや高級レストランのクリスマスディナーなどの予約取りに熱中、ひどいのになると半年も前から予約獲得すべく大真面目に挑んでいた青年などもいたのです。

その風潮も極まれば、自分の予定表のクリスマスイブが空欄というのは相当の恥辱で、人として恥ずかしいことであるかのように追いつめられて、必死にその空欄を埋めることに奔走していた女性などもウヨウヨしていました。

それでも尚、この時期に恋人や特定の相手(すなわちクリスマスをロマンティックに過ごす相手)のいない人は、覚悟を決めてじっと息を殺すように声も立てず、ひたすらこの時期が通り過ぎるのを待ちました。まるで恋人達だけのためにある神聖で美しい時期の、自分は部外者であるかのように。
今から考えると笑ってしまうような話ですが、ある意味では今なんかよりもよほどみんな純情な面があったし、社会のほうもどことなくこんなことをやっていられた余裕があったといえるかもしれませんね。

さて、昔からこういう風潮には、どうにも反抗しなくてはいられない性格のマロニエ君は、あえてこの季節に仲間内で集まったり出かけたりする計画を立てることに打って出ました。恋人と過ごすのが大事な人はお呼びじゃない、お暇な人はどうぞ!というわけです。
するとどうでしょう、この季節はみんな忙しいものだとばかり思っていたら、ぞくぞくと参加者が現れて、会は大盛況となりました。しかもその空白を埋めてくれたということで感謝までされて、それみたことかと大満足でした。
いらい毎年のように続けていましたが、要するに大半の人は、この二日間は普段よりもずっと都合がつきやすいということまで判明しました。暮れの忙しい時期に、ぽんとブラックホールのようにここは空いているのです。

現在でもこの名残だけはまだあるようで、自分はともかく他の人はクリスマスは忙しいもの、予定が入っているものとして遠慮をする心理が働き、決してその日だけは誘いをかけないし、電話さえもしないという、これまた暗黙の了解が多くの人にはあるようです。
予定がないのは自分だけという思いから尻込みし、気を遣っているつもりのようです。
マロニエ君の経験でも、友人知人なども普段より連絡を手控えてくれているようです──全然その必要はないのに。

今年あたり、久しぶりにこのクリスマス招集をピアノサークルの面々にでもかけてみようかと思っていましたが、ばたばたしているうちに計画が立てきれず、つい当日を迎えてしまいました。
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省エネオイル

マロニエ君は普段の足代わりには日本車のコンパクトカーに乗っています。
実はこの手の車を買ったのは今の車がはじめてなのですが、これがもう想像以上に使い勝手が良く、小さいことそれ自体がすでに立派な性能だということがわかりました。
今後もこのクラスの車の圧倒的な実用性と、まるで自分の手足のように自在に泳ぎ回ることのできる魅力は、ちょっと捨てがたいものがあると確信するまでになりました。

良い点を挙げるとキリがないのですが、逆に大きい車のほうが勝る点のほうが数えるほどしかなく、なるほどコンパクトカーが巷で絶大な支持を得ていることが身をもってわかりました。
その良い点のひとつが燃費の良さと、ガソリンもレギュラーで事足りる点です。
小食で粗食にも耐え、故障とは無縁でいられるのは日本車の面目躍如といったところです。

さて、ふた月ほど前にオイル交換をするついでに、ちょっとこれまで挑戦したことのないオイルを入れてみました。0W-20という非常に柔らかい粘度のオイルで、いわゆる「省エネタイプ」のオイルです。

エンジンオイルというのもいったん凝り出すとキリのない世界なのですが、これまでは昔の悪いクセで、そんな車でもないのにモチュールというフランスの高級オイルを使っていました。
ところが、案の定これといった良さも大して感じないまま交換時期を迎えてしまい、次はおおいに方向転換してやろうと目論んでいました。

そこで、敢えてディーラーを避け、カーショップに出かけてオイル選びをはじめ、その結果、あるメーカーの省エネオイルを入れてみたというわけです。
オイルで省エネということは、簡単に言えば、サラサラのオイルを使うことで、エンジン内部のフリクションという一種の抵抗を軽減することでエンジンを軽く回して燃費を稼ごうという考え方です。

ピアノで言うなら、キーが軽くなれば指の負担が減るのと同じ理屈ですね。
重いキーの場合、そのぶんかかる指の負担が、エンジンで言うとガソリンを喰っているのとおなじことなわけです。
理屈はそうなのですが、だいたいエンジンオイルで省エネなんていうのは言葉ほど実をあげることはなかなかなくて、大半が僅差の世界、気分ばかりという結果に終わることも珍しくはありません。

ところが交換直後からエンジンのフケが軽くなり、以降二ヶ月ほど走った結果、何度給油してもおよそ1割がた燃費が間違いなく向上していることがわかり、その明確な結果に大いに満足しました。
現代のように、すでに極限まで効率を追求されつくして製品化される車の世界で、たかだかエンジンオイルで燃費が1割変わるというのは現実的にはかなり大変な事なのです。

肥満体の人がダイエットしたら靴の減り方が少なくなったというような微々たるものですが、しかし靴の減り方が少なくなるまでダイエットするというのも、考えてみればやっぱり大変なことですよね。
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音楽ビジネスの祖

カラヤンついでに思い出しましたが、ものの本によると、かのヘルベルト・フォン・カラヤンは、現代の音楽ビジネスにおけるあらゆる意味での先駆者だったようです。

指揮者という職業を超えて、まるで帝国の為政者のようにふるまい、手兵ベルリンフィルはもちろんのこと、ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場、サルツブルク音楽祭、ベルリン国立歌劇場、ミラノスカラ座、ウィーン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団など名だたるオーケストラや歌劇場の総監督や首席指揮者の地位を同時進行的に我がものとし、ついにはサルツブルク復活祭音楽祭という、音楽歴史上初の演奏者個人の企画による音楽祭まで立ち上げるなど、ありとあらゆる点でその権勢をほしいままにしたことは有名です。

また、ベルリンフィルの前任者であったフルトヴェングラーやチェリビダッケが録音に対して冷淡もしくはほとんど無視同然だったのに対して、カラヤンは積極的に(というより異常なまでに)この録音媒体を駆使して、生涯を通じて膨大なレコーディングを行います。

さらには音楽映像、CD、レーザーディスクなど新しいメディアにも常に積極的に取り組み、他の追従を許さぬ猛烈な取組がなされました。
今では当たり前といえる、音楽に於ける「ビジュアル系アーティスト」とか、製作することが定着して久しい「プロモーションビデオ」なども、その源流を辿って行くと、なんとカラヤンがその創始者だそうで、これらはみな彼の病的な自己顕示欲から生み出されたものという事実には驚かされます。

また「美しく、頼もしい、才能豊かな、超一流の英雄的な指揮者」というイメージ維持のために、指揮台だけにとどまらず、スポーツカーや飛行機を操縦し、ヨットに乗り込み、オートバイにまで跨って、その全知全能ぶりを知らしめ、自分のスーパースターとしてのイメージ作りに励んだというのですから、呆れてしまいます。

プライベートも抜け目なく、自分が世に出て確固とした地位を得るまでは、大富豪の娘と結婚して妻の資金を使いたいだけ使ったあげく離婚、その後自分が今度は莫大な冨を築いた後は、逆に自分が財産をはぎ取られないよう、わざわざ終生離婚の出来ないヴァチカンで結婚して財産の保全をするなど、その周到な計算能力といったら凡人には目がまわるようです。

カラヤンほどの人物になりながら、レコードのジャケットは言うに及ばず、ちょっとした新聞・雑誌に掲載する写真まですべて本人が徹底的な検閲を行い、それを実行しなかったカメラマンは終生出入り禁止になるなど、まあとにかくその空恐ろしいようなエネルギーは常人の理解の及ぶところではないようです。

録音に編集という専門的な技術を採り入れたのもやはりカラヤンが最初で、良いところの寄せ集めで完璧なレコードを作り上げるという手法を築き上げたわけです。そのせいで音楽はいうなればつぎはぎのモザイクのようになってしまうわけですが、そんなことは屁の合羽で、専らカラヤンの考える「完璧な美」のみを求め続けたようです。

これ以外にも、カラヤンが作り出した音楽ビジネスの手法というのはたくさんあって、良くも悪くも並大抵の人間ではないことだけは確かなようです。
現代の音楽家が、なんらかのかたちでもって「音だけで勝負しない」ようになってしまった風潮の源泉を探ると、結局はカラヤン大先生に行き着くようで、まったく功罪の判定もしかねる、しかしとてつもない巨人であることだけは間違いないようです。
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ワイパーの再生方法

12月というのに雨が多く、はっきりしない天候が続きますね。

ところで、皆さんは車のワイパーのブレード(ゴムの部分)はどれぐらいの期間で交換されますか?
これは当然ながら消耗品で、使っていくうち水滴の掻き取り効果が落ちてきて、きれいにかききれず小さな水滴が残ったり、幾状もの筋ができたりと、ゴムの劣化からくる性能低下は基本的に避けられません。
とりわけ青空駐車された車のワイパーはそれだけ劣化が早いともいえると思いますが、それにしても新品時のあの気持ちのよい感触はあまりにも短命だと感じられませんか。

そこで、たいへん簡単で、お金のかからない効果バツグンの復活法をお教えしましょう。
ブレードを交換したばかりのときの、あの気持ちのよい使い心地が簡単に蘇りますし、マロニエ君自身、これで交換のインターバルが倍ぐらいには伸びました。

ワイパーの性能が劣っていくのは、基本的にはゴムの劣化ということがありますが、実はそれよりも別の事情によって拭き取り性能は早々にダメになっていくのです。
その別の事情というのは、ゴムに付着したゴミや汚れです。

経験のある方もいらっしゃると思いますが、洗車などをしたついでにワイパーのゴム部分を雑巾などで拭くと、布に真っ黒い墨のような汚れの筋が付着すると思います。実はこれがワイパーのゴムに積もり積もったゴミのかたまりで、これがわるさをしてきれいな吹き上げを妨げているわけです。
これが甚だしくなると、ゴムがダメになったと判断して交換する人も多いと思いますしマロニエ君自身も長いことそうでした。
ところがこれ、ゴム自体はまだ弾性があって元気なのに、たまったゴミのせいで劣化だと誤認され、交換という間違った判断に至ってしまうわけで、なんとももったいない話です。

さて、その復活法ですが、なんてことはありません。
雑巾でも布でも構いませんので、ワイパーのゴム部分を掴むようにして軽くスーッと拭いてみてください。
すると真っ黒な筋状の汚れが付着するはずです。そこでゴムが布に当たる部分をちょっと変えて、これを何度も繰り返してやってみてください。
何度かやっているうちに黒い汚れが薄くなっていき、最後にはまったく布に汚れが付かなくなります。
そのときが堆積した汚れがなくなったというわけで、これでワイパーは新品の時の状態に限りなく近づきます。

果たして、雨の日にワイパーを動かしてみると、新品同様の一滴も残さないそのきれいな掻き取り性能に感激するはずです。施工は洗車時でもかまいませんが、できればワイパーと使うとき、つまり雨天時走る直前にやってみると効果絶大です。ついでに簡単にガラス面も拭くとこちらもゴミが取れて、ますますきれいに掻き取れます。
気持ちが良いだけでなく、きれいな視界は安全運転にも多いに役立ちますよ。
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クロウトシロウト

ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんが、いわゆる従来型の音楽専業の演奏家ではなく、テレビなどのメディアにも幅広く登場するタレント型音楽家で、さらにはウリにしているのが男前なサバサバした性格や、いったん口を開くと毒舌の連発というのも薄々知っていましたが、まともに見たことがなかったので、テレビの番組欄でそれらしい放送があることを知り録画して見てみました。

番組の女性タレントと有名司会者が、北海道の田舎で行われる高嶋ちさ子のコンサートに同行するというもので、二人がいる場所へ真っ赤のポルシェ・ボクスターが屋根を開けた状態で現れ、それを運転しているのが高嶋ちさ子といういかにもな演出で始まりました。
車を降りた彼女はいかにも番組慣れした態度で二人と合流し、途中農園に寄って新鮮なトウモロコシやトマトをかじったり、牧場で馬に乗ったりと寄り道をしながらコンサートの会場へ向かいます。

会場で待っていたのは高嶋ちさ子の両親で、意外や、このお父さんはなかなかのキャラで味のあるおもしろい人だと思いましたし、脇にいらっしゃるお母さんもそれなりの可笑しさがありました。
その点では、高嶋ちさ子のほうがよりパンチを効かせておもしろいことをしようとしているようですが練れがなく、作為的で、さすがお父さんは年の功だと言えそうです。

お笑いだって、笑いをとりたいのなら、そこは緻密なアンサンブルが必要でしょうに、音楽家なのになんでもちょっとしたタイミングがずれるのは要所のキレが悪い印象です。
毒舌もどれほどかと思っていたら、これまたまったくの期待はずれで、ただ下品な単語を発するのが毒舌ではないと思うのですが…。

後半はスタジオに場所を移しての展開となりましたが、その登場の仕方がまたテレビならではのものでした。
「高嶋ちさ子 12人のヴァイオリニスト」という一団が登場し、彼女を中心にV字形に並んで「剣の舞」を演奏。
若い女性ヴァイオリニストが12人並んで、有名曲を演奏してみせたからといってそれが何?という感じで、どこが魅力なのかまるきりわかりませんでしたが、最近はなにかとビジュアル系とやらで、こういうことが本当にウケる世の中なのでしょうか?画面にはしきりに公演日などが出ていましたが行く人がいるのでしょうね。
パンツ姿で演奏しているその様子は、顔立ちといい、骨太で大柄な体格といい、楽器を構えるその姿は、まるで汗の似合うアスリートのようでした。

マロニエ君は器楽演奏者がテレビタレントまがいの振る舞いをすることに決して賛成はしませんが、それはそれとして、テレビタレントとして見るならやはりどうしようもなく素人で、間が悪く、輝きがありません。
ヴァイオリニストとしてならタレント性があるように見えるのかもしれませんが、ではいったん芸能人の中に入ってあれこれやり出すと、そこはやはり本物の芸人には到底及びませんね。

彼女に限らず、現代はすべての領域において、その道の素人がプロの領域に進出して、結果どこにも「本物」がいなくなってしまったようです。あんな活動をするのに、果たして1億もするストラディヴァリウスが必要なのだろうかと思うのはマロニエ君だけではないはずだと思いました。
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夢の話

ずいぶん昔のことですが、三島由紀夫がエッセーか何かの中で『自分の見た夢の話を人にしゃべって聞かせることほど、愚かしくつまらないものはない。』という意味のことを書いていて、激しく共感した覚えがあります。
いらいマロニエ君は決して人に夢の話をしないよう心に誓って今日に至っています。

今朝がた、我ながらあまりにも奇妙な夢を見たことから、この話を思い出してしまいました。

そもそも夢を見るのは眠りが浅いときであって、本当に熟睡しているときは夢は見ないものといわれます。
ある雑誌の巻頭言を読んでいると、そこの編集長が、さる人の体調管理の指導に従ったところ熟睡できるようになりすっかり夢を見なくなったというのです。より健康で充実した毎日を送れるようになり、仕事にもますます情熱的に取り組めるようになったという書き出しだったように思います。

これは裏を返せば、夢をしばしば見る人は不健康で、無為な毎日を過ごすと言われているような気がしましたが、果たして医学的にはそうかもしれません。しかしマロニエ君は、自分を肯定するつもりは毛頭ないものの、早寝早起きで快食快便、よく働きアウトドア大好きというような人とはどうもそりが合わないところがあります。
べつに遅寝遅起きで怠惰でひきこもりの人が好きだというわけではありませんが、お百姓じゃあるまいし、あまりに健康的な人というのはどこかグロテスクで、精神も健康の度が過ぎると却って動物的な気がします。

そんなことはどうでもいいのですが、夢の話をなんのためらいもなくする人というのも、どこか鈍い神経の持ち主であることが多いように感じます。

夢の話をする人の、まるで世にもおもしろいとっておきの話でもあるかのようなあの表情や話しぶり、たいてい内容は奇想天外で自分が野放図なまでに主人公で、無意味で理屈に合わないことの連続。
嬉々として話ながら一人でウケている姿がどうしようもなく浮いて見えてしまうのです。

しかも、聞かされる側は、話す当人と同等の興味を示すものと既定されており、そんな身に覚えのない前提を立てられて勝手なことを朗々と弁じ立てられるのは困惑の極みで、どんな顔をしていればいいのかもわからなくなります。
おまけに、夢の話ばかりは真実不在の無法地帯で、どこをどう作り替えようと、ストーリーをねつ造しようと勝手放題で咎められることもなく、夢という一言のもとにすべてが許されることが、よけいに聞いていて苦しくなるわけです。
夢の話では頭に「なぜか…」という言葉が乱用され、ここが笑いどころだと察せられても、気がひきつって、どうしても相手が満足するだけ笑うサービスができません。

もちろん一発芸的な、ものの10秒以内で終わるような夢の話なら罪もないのですが、ストーリー性を帯びて懇々と語られると、なんともやりきれなくなるものです。

考えてみれば、普通におもしろい話のできる人は夢の話などしませんし、それはおそらく本能的につまらないと知っているからだろうと思います。
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駐車場劇場

駐車場といえば、おかしな話を思い出しました。

過日、天神のいつも利用するソラリアビルの駐車場に車を止めようと入りましたが、いつになく混んでいてなかなか空きがなく、通常より上の階まで来てしまいました。

ある車がヘッドライトをつけているので、さすがにその車は出るのだろうと思い、近くで待機していましたが、待てど暮らせど動く気配がありません。
また例の意地悪かと思って少し近づくと、車内で60ぐらいの男性が携帯電話をいじっていましたが、マロニエ君と視線が合うなりヘッドライトが誤解のもとだと気が付いたとみえて、パッとライトを消してしまいました。

そのうち、別の場所が空いたので、そこに止めて車を降り、エレベーターホールに向かいましたが、さっきのおじさんはまだ車内で携帯を操作中でした。

さて、それから約1時間半後、用事が済んで車に戻るとまだその車がいるので、「まだいるんだ…」と思ったと同時に、なにやらただ事ではない様子の人の声が響いてきました。

声の方向はその車の後ろの壁のあたりからで、いつの間にか女性が現れていましたが、その女性相手にさっきのおじさんがたいそう興奮した様子で必死に詰め寄り、大声で文句を言っています。
直感で、痴話げんかであることがわかりましたが、根が野次馬のマロニエ君ですからこういうことは当事者には悪いのですが嬉しくなるほうで、こりゃあなんともジャストタイミングなところに出くわしたもんだと咄嗟に我が身の幸運を思い、できるだけ気づかれないよう、自分の車までの長くはない距離を、まるで時間を惜しむように歩きました。

こちらの好奇心とは裏腹に、当人達はかなり深刻な様子で、言葉の感じからどうやら女性に別の愛人がいるようで、そのためにそのおじさんは自分のお金まで勝手に使われて、怒り心頭して張り込みを決行し、ついにこの女性をキャッチしたという、まさにそんな場面のようしでした。
思いがけない出来事に遭遇し、はじめはこちらもつい興奮してしまいましたが、事情がわかるにつれだんだんそのおじさんが可哀想になりました。
こういう場面で男が、腹をくくった女性に挑んでも負け戦になることは目に見えています。

マロニエ君が自分の車に乗ってエンジンをかけるころには女性のほうがサッとその場を離れ去り、おじさんは仕方なく一人自分のベンツに乗り込みました。
ベンツの立派な顔が泣いているようでした。

「俺は一生懸命オマエに尽くしてきた!」「あの金はどうしたのか!」「ここで何時間待ったと思ってるのか!」というおじさんの切羽詰まった声がいつまでも耳に残りました。
いらいその駐車場に行くと、そのおじさんはその後どうしたんだろうと思い出してしまいます。
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駐車場の暗闘

土日など非常に混み合った駐車場では現代人の嫌な習性を目にすることがよくあります。

満車状態の場合、どこか出ていく車はないものかとほうぼうで待機している車があるのは、どこでもよく目にする光景です。
駐車場内が一方通行になっているところも珍しくありませんが、ある場所から車が出ていって空きができると、こちらもそこに止めようとするわけですが、いきなり向こうから逆走してきて、強引に場所を取られたりすることがあります。

みんな空くのをじっと待っているのに、なんともお行儀のいい話です。
だいたいそんな事をするのは、ゴテゴテ飾りを付けた御神輿みたいな軽自動車か、はたまたいかにも中古で買って、派手なパーツだけくっつけて乗り回しているような年式遅れの「新車の時は高級車だった車」などがよくありますね。
それよりも気分的にいやなのは、買い物袋などをさげて車に戻ったにもかかわらず、乗ってから異様なほど時間をかけてまるで動こうとしない、明らかにいじわるな性格の人が少なくないということです。

こちらが待っていて、出たらそこに止めようと思っているというのが状況的に向こうにもわかるから、なおさら、どうでもいいようなことで最大限時間を取ってなかなか動こうとしません。
後ろを向いて荷物の整理のようなことをしたり、子供の世話のようなことをしたり、バッグの中をいじりまわしてみたり、まあとにかくいろんなことがはじまります。
ひどいのになると、さあいよいよもう終わりだろうと思いきや、今度は携帯電話をチェックしはじめたりします。こうやって動かないいじわるをするのは女性のほうが多く、このときの粘りは大したものです。

もういい!と思ってこちらも場所を変えたりすると、意地悪の対象がなくなってつまらないのか、あっけなく動き始めたりしますから、余裕があるときはこちらもテクニックとして一度姿を消してみせたりします。

とくにひどいのは、一見普通の主婦層で、だいたいユニクロかなにかのパンツをはいていて、小中学生ぐらいの子供がいて、表情も普通にしててもどこかイライラしているような、あのタイプですね。
たいていワンボックスやワゴンタイプなど、どう見ても「あなたには大きすぎるのでは…」と言いたくなるような車を顎を突き出して二階から運転するみたいに乗っています。

あるとき、180度方針転換して相手に一声話しかけてみる作戦にでました。
車に戻ってきた人へ窓越しに「すみません、出られますか?」ときくと、一瞬意外な顔をしますが、なんとも素直に「はい、でます!」と返事して、車に乗るなりえらく速やかに車を発進させてくれます。

みんな根は悪い人ではないのでしょうが、それだけに人の心理というのは、ほんとうにちょっとしたことなんですね。
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松葉ぼうき

「松葉箒(全国的には「熊手」というようですが、博多では昔からこう呼びます)」はどこにでも売っている落ち葉を掻き集めるための箒ですが、これにも良し悪しがあるのです。
これまではホームセンターなどで買ってきたものを普通に使っていましたが、あるとき知り合いから一本の松葉箒をもらいました。

なんでも近くに住む老人が好きで作っているというもので、毎年数本ほどもらっているのだそうですが、見た目がまずなんとなく繊細で上品な感じだなあというのが第一印象でした。

ところが驚いたのは実際に使ってみたときの絶妙の感触でした。
箒の先が地面に当たりこちらに引き寄せようとするときに、なんともいえないわずかな弾力があって、やわらかくしなるように作ってあるのです。このしなりがあるために使い心地が良いだけでなく、地面(とくに苔など)を必要以上に傷つけず、使い手も掃くたびに手や肩につたわる小さな感触に丸みが加わって、疲れがとても少ないわけです。

しばらくこれを使ってみて、またもとのホームセンターの松葉箒を使ってみると、そのいかにもラフでがさつな感触にすっかり嫌気がさしました。見た目はいっぱしですが、やたらと固いばかりでしなやかさというものがなく、掃いたあとも粗っぽい感じがします。
使い心地の悪さがあまりに明らかで、いらいこの一本しかない松葉箒を大事に使うようになりました。

ところがつい先日のこと、他の用でホームセンターにいったところ、金属の柄の先に柔らかいプラスチックを使った松葉箒が売っていました。価格は竹のものに較べて3倍ぐらいするし、見た目は柄は緑、先はプラスチック特有のオレンジ色でなんとも趣がありません…というかはっきり言って下品です。
しかし、店の床(フローリング)で感触を試してみたところ、あの手作りの松葉箒にも似た優しい弾性があって、これは良さそうだと感じ、とりあえず買ってみることにしました。

翌日、さっそく期待を込めて試してみたところ、しかし結果は「まあまあ」というレベルに留まりました。
弾性がある点は予想通りよかったのですが、プラスチック特有の感触が竹に較べてなんとも無機質で味がなく、一番の違いはそれまで意識したこともなかったことですが、竹の松葉箒はひと掻きするたびに竹から発せられるシャアシャアという乾いた音がするのに対して、プラスチックはほとんど無音なのです。

たかが落ち葉を掃くための松葉箒にも、実はこういうこまやかな、一見どうでもいいような風情があるわけで、人は無意識のうちにいろんなことを感じているものだということがわかりました。

マロニエ君はこれまで枯葉を掃く箒の音にも風情があるなんて考えてみたこともありませんでしたが、実際にこうして音のしない松葉箒を使ってみると、そういう何気ないことが人の心に伝わる感覚にはとても大切なのだということがわかりました。
たかだか箒ひとつにも味わいというものが、あるいは道具には微妙な使い心地というのがあるようです。
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自己愛性人格障害

精神分析によって一人の音楽家を論じる本を読んでいると、注目すべき記述が目に止まりました。

マロニエ君は以前、ある人物とほとんど不可抗力的に関わりができるハメになり、一目見たときから強烈な苦手意識と嫌悪感が、まるで電流のように全身を走ったのを今でも覚えています。
こういう第一印象はどんな理屈よりも確かなもので、むろん覆ることはありませんでした。

もともと棲む世界のまったく異なる、出会うはずのない人物で、幸いにしてその人とのご縁も既に消滅し、ホッとしているところですが、考えようによっては哀れを誘うところもありました。
むろん具体的なことは一切書きませんが、世の中にはこういう人もいるのかと社会勉強にさえなったというところでしょうか。

さてその本を読んでいると、まさにこの人のことではないかと思えるような下りがあり、一般論としても非常に興味深いことだったので、ちょっとご紹介してみようと思います。

その章では医学的に言う「自己愛性人格障害」という精神科領域の問題を取り扱っており、著者が精神科の現役の医師であるところから、個人的な性格の範疇ですまされるか、あるいは加療を要する精神疾患の領域とみなすかという区分のための症例が、分析的に整理・表現されています。
自己愛性人格障害の診察基準として次の9つの項目を列挙しており、これに5つ以上該当すればこの症状だと医学的に診断認定されるそうです。

1)自分の重要性に関する誇大な感覚。(例:業績や才能を誇示する。十分な業績がないにもかかわらず、自分が優れていると認められることを期待する。)
2)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空間にとらわれている。
3)自分が「特別」であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達にしか理解されない、または関係があるべきだと、と信じている。
4)過剰な賞賛を求める。
5)特権意識、つまり特別有利な計らい、または自分の期待に(他者が)自動的に従うことを理由なく期待する。
6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7)共感の欠如:他人の気持ちや欲求を認識しようとしない。またはそれに気付こうとしない。
8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思いこむ。
9)尊大で傲慢な行動、または態度。

果たして、冒頭の人物は5つどころか、なんとほぼすべてに該当すると思われ、なるほどあれは病理的な根拠のある病気だったのかと思えばいくらか納得もでき、今は陰ながらご同情申し上げるしだいです。

自己愛がとりわけに障害に結びつくのは、「誇大な自己が危機的状況になったとき」だそうです。
簡単に言えば危機的状況になったらなんらかのかたちで大暴れするというわけでしょう。

また、「自分の弱さを隠したい人は威嚇的な言動をとる」さらには「自己愛性人格障害の患者は、自己不信を補強するために誰にでも見えるような外的価値に強く依存する」というのはまったくもってなるほどと思いました。

みなさんのまわりにも程度の差こそあれ、こういう人物がいるかもしれません。
もしお付き合いに苦痛を感じる人がいるときは、ちょっと上記の9項目をチェックしてみられたらどうでしょう?
決して貴方が間違っているのではなく、相手が精神疾患ということがあるようですよ。
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ピアノの置ける物件

知人がグランドピアノ購入を決断したことはこのブログの11月9日付けで既に書いた通りです。
ピアノはおそらく日本に向っている最中だと思われますが、知人はすでに新しい部屋探しをはじめたようです。

聞くところでは、不動産屋に行ってピアノの置ける物件を探しているという意向を伝えると、何故かグランドかアップライトかをしきりに聞いてくるそうです。
どちらでもピアノはピアノであるはずなのに、思いがけない質問を受けて知人は困惑したらしいですが、仕方がないので「家庭用の小さなグランド」というふうに控えめに答えたとか。

ところがマロニエ君も今になって知ったことですが、ピアノOKのマンションでもグランドはダメというところがあるんだそうです。
理由は明確な根拠があるわけではなく、専らオーナーの意向だとか。やはりグランドピアノというと言葉の響きも手伝って、アップライトより大きくて、本格的で、音もうるさいというイメージなんだろうと思います。

驚いたのはもう一つの理由です。グランドのほうが重量も重いうえに足が3本で、一本当たりにかかる重量が大きくなるというもので、あまりにくだらなくて呆れてしまいました。
現に大きな131cm級のアップライトピアノに比べると、小型のグランドのほうが重量も軽いことがあるわけですし、部屋の隅などに重量物を偏って置くよりは、より床を広く使って満遍なく重量をかける方が構造力学的にも遙かにバランスが良く、結果として傷みも少ないように思いますが。
さらに、きちんとインシュレーター(足の車輪を乗せるお皿)を使えばピンポイント的に重量がかかることもないし、だいいちピアノを置いたぐらいで床がどうかなるなど、いまどきの鉄筋建築でそんなことってあるだろうかと思いますが。

マロニエ君にいわせると、そんなことよりも誰が弾くかという点こそが問題で、ピアニストは論外としても、本格的にピアノを学ぶ子供や受験生・音大生などなら練習量も多く、警戒されるのは当然かもしれませんが、趣味の勤め人が、たまの仕事の休みに1、2時間弾くのならそう目くじらをたてるようなことではなかろうと思います。
もちろん弾く時間帯などの近隣への配慮が大切なことはいうまでもありませんが。

不動産屋によるとその判断は、各物件のオーナーの理解度にかかっているとのことだそうです。
トラブルや床の破損を避けたいという心情はわかりますが、現実的に今、賃貸マンションの入居率は猛烈に低く、家主は入居者の獲得に躍起になっていると聞きますから、あまり厳しいことを言っていては大事なお客さんを逃してしまうことになるようにも思いますけど…。

現にマロニエ君の友人が居住しているマンションは、ほぼ都心部の、電車の駅も歩いて5分という好立地にもかかわらず、みごとに3分の2が空室になっていると聞きます。

ある知り合いなどは、何の相談もせずにマンションにグランドを運び込んで子供が弾いているそうですが、とくになにも問題はないそうですから、すべてとはいいませんが意外と黙ってそうすればすんなりいくということもあるかもしれません。
管理者のほうの心理も、あらたまって許可を求められると、逆に不安になってつべこべ言ってしまうのかもしれませんね。
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ドラマ『球形の荒野』

TVドラマといえばもうひとつ。

先月下旬、フジテレビで2夜連続の松本清張ドラマ『球形の荒野』というのがあり、録画していたので観てみました。
ドラマ自体はマロニエ君にとってはあまり面白いものではなく、やたら冗長なばかりで流れが悪く、なんのために2夜仕立てにしたのかも説得力がなくて、決して出来がいいとは感じませんでした。
ところが本編の内容とは直接関係のない部分で、思いがけず感銘を受けてしまいました。

ドラマは2夜合わせて4時間を超えるもので、内容は太平洋戦争末期、敗戦が色濃くなった日本は隠密裡に敵国側との終戦工作をします。その矢面に立ったことで自らの存在さえも抹消され、やむなく家族と離ればなれになった一人の男とその妻子の苦悩を軸としたストーリーでしたから、わりにシビアで社会性の強い内容でしたが、全編を通じて流された音楽はすべてがバッハであったのは驚きでした。
それもごく一部に無伴奏チェロ組曲と管弦楽に編曲されたシャコンヌがあった他は、大半はグールドのピアノによるバッハだったのはちょっとした聴きごたえがありました。ピアノ協奏曲第1番のニ短調がドラマ全体を支配し、他にもパッと思い出すだけでもゴルトベルク変奏曲、パルティータ、平均律、フーガの技法など、これでもかとばかりのバッハ三昧、グールド三昧の4時間強でした。

クレジットにはバッハの名もグールドの名も一切出てきませんでしたが、グールドの比類ない鮮やかなタッチとセンスはいやが上にもそれとわかりますし、彼の弾く古いニューヨーク・スタインウェイの独特な黄金のハスキーヴォイスにも思わずため息が出るばかりでした。

ドラマを観ながらにしてこれだけグールドを聴くというのは、普段CDで聴くのとはまた違った新鮮さがあり、あらためてこの天才に酔いしれました。とりわけフーガの技法の深遠な美しさは思わずゾッとするようでした。
いまさらながらクラシック音楽、わけてもバッハの偉大さを痛感し、これだけの遺産を過去から受け取っておきながら、今何故クラシック離れなどが起きるのか、まったく理解できないという気になってしまいます。

もう一つは、時代設定が東京オリンピックの開幕直前の1964年というものでしたが、小道具のひとつとして日本を代表するグラフィックデザイナーである亀倉雄策氏の作である、東京オリンピックの公式ポスターが随所にあしらわれていましたが、いま見ても感嘆する他はないその圧倒的な美しさと存在感、和洋を融合させ、簡潔な美の世界を凝縮させた気品と芸術性には深い感銘を新たにしました。
これに較べると、最近のオリンピックのポスターやロゴは似たような書き文字ばかりで、こういう本物の芸術家が大舞台で腕をふるうということがなくなってしまったようです。

テクノロジーの分野はものすごいスピードで進化している現代ですが、芸術の分野は停止どころか、後退しているのではなかろうかとつい思ってしまいました。
振り返れば、バッハもグールドも亀倉雄策も遙か昔の人物ですが、なんとも圧倒的な才能を縦横に駆使して、人を無条件に黙らせるような偉大な仕事をしたのかと思うと、現代の芸術家はあまりにも小さくなったように思います。
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落ち葉の吹き溜まり

うちに来られた方を車まで見送ろうと外へ一緒に玄関を出たところ、ぽつりと「ここはお掃除が大変ですね」と言われてしまいました。
やはりというべきか、これでも決してサボっているわけではないのですが、我が家はほうぼうから落ち葉の集まってくる場所のようで、この季節は家人も日課のごとく毎朝掃き掃除をやっているのですが、それをあざ笑うかのように連日とめどもなく大量の枯葉が落ちてきます。
午前中きれいに掃いても、夕方にはびっしりと次の葉が落ちています。

こう書くと、まるで広い庭でもあるかのようですが、そうではなくて、隣の家には幸か不幸か、めったにないような大きな木が何本もあり、それがマロニエ君の家のほうに向かって傘をさしかけたように枝を伸ばしていますし、さらには道を挟んで向かい側は、以前は県の古い団地だったものが、昨年建て替えられて新しいマンションになりましたが、そこの地所内にあった道路沿いに植えられた数本の樹木はそのまま残されました。
建物が変わっても、大きな木が切り倒されずに生き続けることは望ましいことなのですが、そのために数本の木が落とす膨大な量の枯葉が風の具合もあって、どんどん我が家のほうへ吹き寄せられてしまうのです。

今年もはや12月となりましたが、この季節からお正月にかけて落ち葉もいよいよ佳境を迎えます。
我が家のガレージ前は道路から少し奥に引いていることが災いして、そこが皮肉にも吹き溜まりとなり、周辺の落ち葉はわざわざ集められたようにここで止まって、我が家よりも先には行きません。

どうかするとあたり一面枯葉の海で、しかも大半はよそから飛んでくる枯葉なのですからその理不尽たるや甚だしいわけです。
本音を言うと、マンションの管理費の一部で清掃人でも雇ってほしいぐらいなところですが、現実にはそういうわけにもいかないでしょうから、半ば諦めて毎日掻き集めた枯葉を押し込んだポリ袋の数を着々と増やしています。

片や隣家からは、様々な枯葉やむろんのこと、春には木の実がコツコツと音を立てるほど落ちてきて、こっちはこっちでその始末だけでもかなりの労働となっています。

今どきはたき火をするのも憚られる時代ですが、我が家の場合、そんなことを言っていたら有料のゴミ袋が何枚あってもキリがなく、枯葉ならばいいだろうと天気の良い日には燃やすしかありません。
たき火の威力は絶大で、45Lのゴミ袋10個ぶんの枯葉が、わずか洗面器一杯分ぐらいの灰になってしまいます。

一度など、向かいが県営住宅だったころに、県の敷地内の木による落ち葉を毎日のように始末しているのだから、せめてゴミ袋ぐらい提供してもいいのではないかと県相手に掛け合ったことがあるのですが、なんとその担当者は、袋を提供する代わりに、ご迷惑ならそれらの木々を全部切ってしまいます!といったので、木を切ることは木を殺すことと同じ事ですよ!と言ってやめさせました。
役人というのは、まったくどうしようもない感性の持ち主です。
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徹子の部屋

有名な長寿番組である「徹子の部屋」にユンディ・リが出るというので、昼間は見られませんから録画していました。

いきなりで恐縮ですが、ひさびさに見た黒柳徹子さんでしたが(外観は例のヘアースタイルと厚化粧ですからわからなかったものの)、知らぬ間にすっかりお年を召したとみえて、彼女の何よりの武器だった、立て板に水のあのスーパートークが、すっかり衰えているのにはちょっとしたショックを覚えました。

人間、歳を取れば体の機能が低下するのは致し方ないとは思いますが、それでもプロが公の場で仕事をする以上は保証すべき一定水準というのはあるはずで、モタついて滑舌の悪い黒柳徹子というのは、なんとも収まりが悪く、かつてはあの機関銃のような一気呵成なトークが売り物だっただけに、見ているこちらが痛々しい気分になってしまいました。
せっかくの記録的な長寿番組ですが、しかしあれではもう引退も遠くはないでしょうね。

いっぽう感心したのはユンディ・リで、マロニエ君は正直言って彼のピアノはあまり好みではないのですが、それはちょっと置いておくとして、非常におだやかで、態度も紳士的。とてもあの大国の御方とは思えぬ上品で控えめな態度は意外で、むしろ地味すぎてオーラがないぐらいな印象でした。

もうひとりの同国の世界的ピアニスト、ラン・ランがなにかにつけ派手で、控えめというのとは真逆のキャラでバンバン売っているのとはあまりに好対照であるのが面白いぐらいで、少なくとも日本人はラン・ランの陽気にはじけたエンターテイナー的な雰囲気より、ユンディ・リのどこか日本人的とも言えるような静かで落ち着いた雰囲気を好むだろうと思います。

マロニエ君はすぐに、相撲に於けるモンゴル出身の両横綱であった朝青龍と白鵬の、あまりにも対照的な個性の違いを思い出したほどです。

番組内では、一曲だけ演奏をするということで、有名なショパンのノクターンのOp.9-2が披露されましたが、スタジオに持ち込まれたピアノが???でした。
これは東京にある主にピアノ貸出を専門にやっている業者所有のハンブルクスタインウェイのDで、この番組のために持ち込まれたものでしょう。ピアノのサイドにはその会社名が書かれていましたが、ここは以前は主にニューヨークスタインウェイの貸出をメインにやっていたからかどうか、そのあたりの詳しいことはわかりませんが、少なくともマロニエ君にはまったくその良さが理解できないピアノでした。

ピアノ自体は見たところ20年前後経ったピアノで、本来なら脂がのって味が出て、とてもいい時期のピアノのはずだと思うのですが、全体に響きも沈みがちで、この点は非常に不可解でした。
もちろんテレビ局のスタジオという場所での演奏ですから、必ずしも好条件とは言えませんが、中音から高音にかけてやたらキンキンするばかりの深みのない音など、とてもこのピアノが本来持っているものとは思えず、調整や音の作り手の感性なのだろうと思いました。

マロニエ君は以前からこの会社のピアノの音はあまり好きではないのですが、よくテレビだのコンサートだのと、立派なピアノのある会場にも、敢えて自社のピアノを持ち込んでいる会社ですから、よほど営業力があるのか、なにか別の事情があるのかはよくわかりませんが…。
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福岡市の銀杏並木

今の季節、車で市内を走っていると、福岡は銀杏並木が縦横に張り巡らされていることがよくわかります。
とくに博多駅周辺の幹線道路はどの通りに出ても見事な銀杏並木が今まさに絶頂の黄色に染まって、見る者に冬の到来を華やかに告げています。

詳しいことは覚えていませんが、3〜4代前の市長さんは、長期政権なだけでこれといった突出した政治力はありませんでしたが、彼が福岡市に残した業績のひとつが、街中に緑をひたすら植え続けたことだと言われていたのを思い出します。
別名「緑の市長」などといわれたように、福岡市内の幹線道路などに相当量の街路樹が植え続けたことは小さな話題ではあったものの、当時は市長としての手腕に欠けるということのほうが問題にされ、木を植えたからといって別にどうということもありませんでした。

しかし、それから30年ちかく経ってみると、はじめはか細かったあちこちの街路樹も、すでに立派な大人の木に成長しており、それが街の美しい景観を際立たせるのに大いに役立っていることが明らかなようです。

とくに銀杏の木は、成長がいいのか既に堂々たる大木となり、それが一斉にいま美しい黄色に変わって、街は季節の色に鮮やかに包まれている感があります。それらの銀杏は一定間隔でどこまでも並んでおり、街のあちこちに華やかな彩りを添えてくれています。
歩道には扇形のかわいらしい無数の黄色の落ち葉がメルヘン画のように降り積もり、見ているだけでもなんとなく楽しげな気分になるものですね。
場所によっては路上がハッとするような黄色に埋め尽くされ、紙吹雪のように分厚く積もっていたりすると、ふと掃いてしまうのがもったいないような気になるものです。

ふつうは銀杏並木などと言えば、一本の通りだけだったりするものですが、博多駅周辺ともなると幹線道路であれば、どこをどう曲がっても、そこにまた延々と銀杏並木が続いているところに驚かされます。
たかが木を植えただけとはいっても、これだけの距離と夥しい数になると、これはこれで大変な偉業であり功績だったのだなあと、今にして感慨深く思うものです。

思えばケヤキ通りのケヤキもずいぶん立派な木になっていますし、大きな街路樹のある街というのは、それだけで街の歴史と格式を表す指標となるものですが、それは一朝一夕につくることのできるものではないからでしょう。
歴史ある都市と、新興の都市の違いは、街路樹の大きさひとつ見てもわかるというわけです。

例えば東京なども、マロニエ君はイメージよりははるかに緑の多い街という認識があるのですが、それは皇居をはじめとする、東京ならではの緑を擁する大型の建造物や公園などが点在するのはもちろんのこと、立派な街路樹が際限なく植えられている点が、さすがだと思うところです。

銀杏並木といえば全国的にも有名な神宮外苑の絵画館前はたしかに立派ですが、実はあれ、銀杏の種類が違っていて、葉がとても大ぶりできれいではなく、いささか風情に欠けるところがあります。
その点でも福岡市の銀杏は、みんなが良く知るかわいいあの銀杏ですから、よけいに愛らしく繊細に見えるのかもしれません。
山の景色を臨まなくても、すっかり季節の気配を満喫した気分ですが、あと一週間ほどが見所でしょうか…。
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電気店の怪

友人達と食事をしていて、ひとりから意外なことを言われました。

というのは、マロニエ君はここ最近のことですが、大きな電気店に行くと体調がおかしくなるのです。
具体的にどういう症状かといいますと、大型電気店に行ってものの5分か10分も経つと決まって全身がチクチクしてくるのです。
しだいにそれはひどくなり、30分も経った頃には全身が針でつつかれるようにチクチクして、ちょっとしたパニックになりそうになります。

テレビ購入のときなどは、なにやかやと時間をとり、都合一時間近く滞在したために、最後は走って外に出るほど症状がひどくなりました。

電気店というのはモワッとした独特な熱さがあるので、はじめは秋口のことでもあり、たまたまそのときの温度のせいだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが、強めにヒーターが効いているところでもそういうことになるわけでもなく、いっぽうで大型電気店に行くと、そう暑くなくてもやはりこの症状が出るので、しだいにこれはちょっとおかしいと思うようになったのです。

つい先日も、びくびくしつつ電気店に入ってみると、やはり数分すると同じ症状が現れ始め、さっさと外に出ましたが、ようやく原因は電気店特有のなにかだとわかりました。

で、マロニエ君はシロウト考えで、これは電気店ならではの製品から放出される、いわゆる電磁波の影響だろうとさももっともらしく結論づけていました。現に電磁波に体がものすごい反応をしてしまう体質の持ち主で、普通に日常生活を送ることもできないほどの人に一度会ったことがあったので、とっさにその人のことを思い出して、その類に違いないと勝手に納得していたのです。

ところが、先日食事をした友人の一人はかなりの家電通(笑)で、まあとにかく家電に詳しいことといったらありません。彼にその事を話すと、即座にそれは電磁波ではないと、ほぼ断定するのです。
曰く、液晶テレビなどは電磁波をまったく出さない由で、その他の製品も電気店にあるもので外部に電磁波を出すようなものは実はほとんど無いはずで、電磁波があったにせよそれはごく微量だと言い切るのです。

それでは原因はなにかといえば、化学製品から発せられる特有の物質が店内に充満しているせいだというのが彼の見解でした。
とりわけ電機店では製造後間もない製品に電源が入っているので、科学的な素材とか製造に使われた各種の接着剤などが電気や熱を帯びることで、体に良くない物質が漂っているのからだということでした。

これは科学的な物質の、とくに新しいものが発する揮発性化学物質に顕著なことらしく、大別するとシックハウス症候群も同系統のもので、こういう物質に人の体が拒絶反応を起こすというものだそうです。
そう言われれば、ふうん、そういうものかと思いました。

大型電気店などそうしょっちゅう行くわけではないものの、用があるときあるわけで、こういう症状が出るとなると困ったもんだと思いますが、こればかりは打つ手がありません。
店員でもしもこういう体質の人がいたら、退職するしかないでしょうね。
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衝撃映像諸行無常

昨日の青蓮院とは打って変わった話題です。

マロニエ君は普段、テレビはあまり見ないほうなのですが、それでも告白すると子供じみた趣味があって、「衝撃映像」の類の番組は嫌いじゃないので、それらしい番組があるときは録画をしておいて、ときどき見ています。

先日録画した番組を見たところ、ちょっと予想したものとは内容が違うのでもう止めようかと思っていたとき、ゴールデンタイムの全国放送番組にもかかわらず「福岡の…」という言葉に反応して、つい何事かと我慢して見るはめになりました。

さてそこに出てきたのは真っ赤な特別なフェラーリに乗ってあらわれたある人物でした。
よくある露出好きなお金持ちの持ち物自慢のような内容で、いきなりそのフェラーリがいくら、今はめている腕時計がいくら、来ているスーツがいくらといった調子で、番組はその億を超えるという特別なフェラーリに同乗して自宅へ行き、さらに驚愕のお宅拝見という流れです。
マロニエ君はこの手の番組は嫌悪感を覚えるので普段なら絶対に見ないのですが、それでも福岡にそんな凄まじい人がいるとは思わなかったために、つい驚いて、怖いもの見たさに見てしまったのです。

自宅は人の住む場所というより、どこかのブランドショップか夜のクラブかと見まごうような強烈な趣味で埋め尽くされており、車も超高級車がズラリと並んでいるあたりも、いかにもこの手の人達のお決まりのパターンです。

広大な敷地内には、メインの建物のほかにも庭を隔てて二つの別棟があり、屋内プールだの高級料理店を出張させ友人を招いてのホームパーティだのと、これでもかという自慢のオンパレードで、スタジオのタレント達もお約束通りに感嘆詞を連発しています。挙げ句にはアメリカに所有しているプライベートジェットでどうのこうのと、こんなことをこれ以上詳しく説明するのもナンセンスですから止めますが、とにかくドバイの金持ちかなにかが突如我々の住む街に現れたという印象でした。

やはりというべきか、この人も借金取りから追われるほどのどん底からのし上がったとのことで…納得です。

ところがあることで(具体的なことは控えますが)、ちょっと心のどこかに、なにか小骨がひっかかるような感じを覚えました。
そこで、さっそくネットの情報やグーグルの衛星写真などで確認したところ、やはり予感は的中。
なんとここは以前マロニエ君の大叔父の家だったところだったのです。この人物が購入後に、昔の純日本式の家屋や庭園を根こそぎ消し去って、ゼロから作り替えたことで出来上がったド派手な家だということがわかり、そのショックには思わず鳥肌が立つほど胸がバクバクしてしまいました。

はじめはてっきり郊外の広い土地にでも建てられたものだろうと思っていたのですが、現実は我が家から車で10分もかからない場所だったわけで、昔の住宅街の奥まったところなので、普段車で通ることはないのです。
よせばいいのにその前を何年ぶりかで通ってみると、テレビで見たあの強烈な家は間違いなくそこにありました。

ここはマロニエ君が子供のころにはよく遊びに行っていた思い出深い家でしたが、その大叔父も5年ほど前に老衰で他界し、その後は遺族がマンション建設をやりかけたものの周囲の反対運動に遭って実現せず、やむなく売りに出されていることは知っていました。
それが結果的にこういう人物の手にわたり、しかもあんな姿に変わってしまったというのは、上手く言葉で表現はできませんが、予想だにしない意味での「衝撃映像」となってしまいました。

もちろん普通にマンションになったとしても昔の家や庭園は無くなってしまうわけですが、あまりにも思いもかけない結末で、平家物語に記された諸行無常とはさてもこういうことかと思いました。
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エリア情報誌

つい先日のこと、ポストに赤い小さな情報誌のようなものが2冊入っていました。
真っ赤な表紙の可愛らしい冊子ですが、よく見てみるとマロニエ君の居住する地域に限定したエリア情報誌であることがわかりました。
季刊誌のようですが、すでに4号になり、ハガキよりやや大きい程度のポケットサイズで、厚さも100ページにせまる豪華なオールカラーです。

こんなものがあることをマロニエ君はまったく知らなかったのですが、発行元ではこの冊子の知名度をより
上げるべく、このようなポスティングを敢行したのだろうと思われます。
それにしても、ついに世の中はこんなものまで出てくる時代になったのかと思いました。

中を見ると、作り自体はまぎれもないプロの仕事で、きちんと作られたフリーペーパーなのだから驚きです。
発行元は地元の商工連合会ということになっており、そんなものがあることさえも知りませんでしたが、発行費用はここに加盟する会員達によって賄われているのでしょう。

飲食店を中心に、その他の様々な店、あるいは学校や病院などが情報として満載されています。
知っている店、知らない店など様々ですが、しかしエリアを代表するような肝心のところがいくつも抜け落ちていたりと、必ずしも地域すべての店舗や病院を網羅しているわけではないようで、これらを説き伏せるのに営業陣はさぞかし苦労していることだろうと推察できます。

とりわけこのエリアは開業医の激戦区なのですが、そのわりには載っていない病院が多く、どこも費用対効果を見極めようということで静観しているのでしょうか。
逆に有名店などはいまさらその必要を感じないのか、まったく出ていませんが、その地域で大きな商売をしているのならこういうことにもお付き合いがあってもいいような気もするのですが、それは甘い考えでしょうか。

現在の発行数は3万部とありますから、それなりの数のようです。
はたして実際の営業にどれぐらいの効果があるのかは知りませんが、みなさん商売のために連携して頑張っておられるのだなあと思いました。

中にはピアノ教室まで記載があり、写真によると譜面立の形状から察するにシゲルカワイを使っている先生も近くにいらっしゃるということがわかりました。
それにしても、写真で見る限りピアノの先生のレッスン室の独特な趣味は、みんな感性が似ているような気がします。
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モネ展

一昨日は北九州市で開催中のモネ展にいきました。
その日その時間が指定されるコンサートと違って、美術館の催しは日程に余裕があるのが裏目に出て、過去に何度か行かずじまいになってしまったものがありますので、残り一週間となったのを潮に腰を上げました。

会場の北九州市立美術館はマロニエ君の好きな美術館のひとつで、磯崎新の設計による山の傾斜を上手く利用したモダンな美術館ですが、30年以上前の開館当時は、福岡市は小さな県立美術館のみで福岡市美術館ができる数年前だったこともあり、子供心になんとも羨ましい気がしたのを覚えています。

日曜だったこともあり大変な人出で、展覧会そのものはいちおう楽しめましたが、実をいうと期待はずれな部分もありました。
というのは、マロニエ君はてっきりモネ展とばかり思っていたら、実際は「モネとジヴェルニーの画家たち」というもので、モネと、彼を慕ってジヴェルニーに集まった多くの画家たちの、いわばグループ展覧会でした。

それならそれで、もちろん構わないのですが、あちこちで見かけるポスターやチラシ、あるいは新聞広告などはモネという字ばかりがあまりにも大書されてモネというインパクトだけが一人歩きし、ジヴェルニーの画家たちという文字はその数分の一のサイズで、しかも見落とすことを狙ったかのような地味な色でしかないので、あれではモネ展と思うのもやむを得ないというか、いささか良心的でない広告の打ち方だと思います。
会場の入口付近には「来場者数6万人突破」などと書かれていましたが、こういう内容をじゅうぶん承知の上で来た人が、はたしてどれぐらいいたのかと思ってしまいます。
最近はちょっとでも油断していると、うっかりこの手でやられてしまうのは嫌な風潮ですね。

驚いたのはモネ以外の画家達の作品が、どれもモネの画風をひたすら手本としてあまりに酷似しており、これらを見たモネ自身はどう感じていたのだろうかと思いました。それはとくにアメリカの画家に多く、アメリカは音楽でもそうですが、芸術面では基本的にヨーロッパ・コンプレックスが強く、オリジナリティの薄い傾向があるようです。

そんな中で見るモネの作品は、むしろこの画風の張本人であるぶん自由奔放で躍動的にさえ感じ、有名な「つみわら(日没)」などもマチエールやタッチは予想を覆すほど大胆で、むしろ荒々しく感じるほどのものであったことは大変意外でした。
基本的にはもちろん素晴らしいとは思いましたが、マロニエ君にとっては全体として不思議に実物の感激というのがあまりなく、むしろ画集などの印刷物で見るほうが圧縮感があり、どこかありがたいもののように見えるのはどうしたわけだろうと思いました。
普通ならば実物でこそ得られる感激や充実があり、それらは印刷物ではとうてい表現できない凄味があるものなんですが。

それと、全体的に作品の質がもうひとつで、これという圧倒的な作品が少なかったように感じました。
展示作品数も思ったよりも少なく、いささか宣伝過多のような印象は免れません。
とくにモネ本人の作品はこれだけモネの名を前面に掲げていながらわずか11点にすぎず、それも最上級の作とはいいかねるものでしたから、いろいろと制約はあるのかもしれませんが、もう少し全体を上質なものにまとめて欲しいというのが偽らざる印象でした。
それでなくともモネは多作でも有名な画家なのに…。

年明けには九州国立博物館で始まるゴッホ展も、こういう経験をするとちょっと心配になりますし、同じころ、北九州では「琳派・若冲と雅の世界展」というのがはじまるようですが、事前調査が必要な気がしてきました。
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パンクのメカニズム

用事で車を走らせていたいたところ、ほんのわずかに(車が)いつもと違う挙動をするような印象を持ちましたが、ごく些細なことで、用のほうに気をとられそのまま走っていました。

ある場所に着いて車を駐車場に止めてふと見ると、運転席側のうしろのタイヤの空気がえらく減っていて、ペチャンコではないものの、地面からホイールまでの高さが他のタイヤに較べて半分ぐらいまで減ってしまっていました。
さっきから薄々感じていた違和感の原因はこれだったのかとすぐに納得しました。

しかし、ここでジャッキなどを出してタイヤ交換するなんて、考えただけでもうんざりです。
実を言うと、日ごろパンクの心配なんてしてもいないので、今の車のどこにスペアタイヤとジャッキなどの工具類があるかもよく知りません。クルマ好きで、細かいことはあれこれこだわってうるさいくせに、こういうところは非常に杜撰でのんきなマロニエ君なのです。

幸い、パンク状態に気が付いた駐車場は、この車を買ったディーラーまで1キロあるかないかの近距離だったことと、タイヤもまだいくらか空気が残っているようなので、なんとかディーラーにたどり着くことが出来るかもと思いました。

急いで用事を済ませて、いざディーラーを目指しました。
とりあえず無事到着すると、出てきたメカニックがめざとく釘が刺さっていることを発見。
さっそく修理することになり、ショールームで待ちましたが、しばらくするとそのメカニックがやってきて、「これが刺さってましたよ」といって引き抜いた釘を見せてくれましたが、それは長さも4センチはあるたいそう立派な釘でした。メッキをしたように銀色につやつやして、その輝きがまるで悪意そのもののように見えました。

それにしてもなぜあんなものがタイヤに90度にスッポリと突き刺さるのか不思議でなりません。
地面に落ちているだけなら、ただ踏みつけて終わりのはずですが、あれだけ見事に突き刺さるには、釘のほうもでも一定の角度で待ち受けていなければとてもそんな風にはならないのでは…。

そこで思いついたのが、こういうことではないかと仮説を立てました。
フロントのタイヤがまずその釘を踏み、その勢いで釘は跳ね上げられ転がっているところに、すかさず後輪が来て、たまたま理想的な角度が付いたところへスポッと突き刺さったのではないかということです。
普通の速度で走っている車の前後のタイヤの通過時間の差なんて文字通りアッという間ですから、こんなことも起こりうるような気がしました。

真相はどうだかわかりませんがマロニエ君としては、すっかり解明できた気分になって悦に入っています。
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むかしは子だくさん

天神で用事を済ませ、駐車場に向かっていると、ばったりと知り合いの先生に会いました。
この方はマロニエ君の音楽上の母校である学院で、現在も先生と事務を兼任しておられますが、なにより無類の音楽好きで、これはピアノの先生の中では例外中の例外です。
恐かった先代院長が高齢で一線を引かれて久しく、現院長はドイツを拠点にした現役ピアニストなので、実質的にこの方が能力を買われて学院を切り盛りしていらっしゃいます。

出会い頭にばったり会って双方驚きましたが、ここしばらくお会いしてなかったので懐かしく立ち話ができました。
やはり学院も昔とはちがって人が少なくなったということでした。

そもそも現代は少子化で子供の数が減っている上に、今どきはピアノのお稽古といっても、この学院の体質である厳しいスパルタ式のピアノ教育を受けるべく身を投じるような時代ではなくなったので、これも止む得ない時の流れだと思いました。

今は普通の学校でもとにかく先生方はみなさん一様に優しいそうで、それは結構なことでしょうが、同時になんだかつまらない気もします。
マロニエ君の時代は、普通の学校でもとくに恐い憎まれ役の先生というのがひとりふたりは必ずいて、なにかしでかせば躊躇なくげんこつやビンタなんてのも珍しくはありませんでしたが、今そんなことでもしようものなら親が学校に噛みつき、校長はあわて、教育委員会のようなところが騒ぎ出す時代ですからね。

ましてや否応なくピアノを生活の中心中央に組み入れさせられ、学校さえ時間の無駄というような強烈なやりかたなど、もはや骨董的価値の世界でしょうね。
でも不思議と恐かった先生というのは恨んでいるわけではなく、むしろ懐かしい思い出には欠かせない人物になっていますが、現代の子供はそういう懐かしさを持てないのかと思うとちょっと気の毒な気がします。

少子化が引き起こす社会問題はあらゆる局面に波及して、これをなんとか食い止めようと政府もばかばかしい対策を講じているそうですが、文明が進み、医学が進歩して高齢化社会になれば、それだけ出生率は下がるという摂理があるような気がします。
現にマロニエ君の親の代では兄弟姉妹が多く、その中の必ず何人かは子供のころに亡くなっていたりするのが普通だったようです。どこの家もだいたい似たようなもので、そういう様々な要因が自然に折り重なって子供もたくさん産まれたのだろうと思います。

さらに昔でいうと、徳川将軍家でさえも世継ぎや姫達は幼少時に次々に病気などで亡くなり、無事に生き延びる方がはるかに少ないくらいです。
J.S.バッハなど20人近い子供がいても半分以上が亡くなっていますし、ヴァイオリンのカリスマ的名工、ストラディヴァリも11人の子供がいたというのですから、これはもう理屈ではなく時代の力という気がします。
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心理の力?

人の心理というものは微妙なもので、思いもよらない現象が起こることがあるようです。

というのも、マロニエ君は夜にちょっとした買い物をしにスーパーに行くことがあるのですが、24時間営業だったある大きなスーパーが、夜間はだいたいいつ行ってもお客さんは少なく閑散としていていて(昼間のことはわかりませんが)、率直に言ってあまりはやっているとは言い難い感じでした。

その店は年中無休にもかかわらず、いつだったか数日間店を閉めたので、何事だろうかと思っていたら、ちょっとした化粧直しをして、店名も変えられて再オープンしました。
経営母体は以前と同じですが、営業時間がきっぱりと半分になり、9時から21時までの12時間になりました。

マロニエ君が行く時間帯はだいたい夜の9時過ぎなので、このスーパーに限ってはまずほとんど閉店時間を過ぎてしまうことが多くなってしまったのですが、たまたま外食したついでに夜の8時台だったので久しぶりにそこに立ち寄ったところ、なんと以前は見たこともないような数のお客さんで店内は溢れていて、かなりの賑わいというか、本来のスーパーらしい活気があって、この変身ぶりにはびっくりしてしまいました。

想像するに、夜の9時で閉店するという一線ができたことで、却ってお客さんが増えているといった感じで、経営者の作戦が見事に的中したかのように見えました。
内容的にはこれまでとほとんど何も変わっていないようにしか見えませんでしたから、9時をもって閉店するという事実が人の気持ちを刺激したのでしょうか? 
詳しいことはよくわかりませんが、これが人の心理というものなのかと思いました。

それで思い出したのが、以前テレビでやっていた話ですが、ある片側一車線ずつの比較的幅の狭い道が事故の多発地帯で、対向車同士の接触事故が後を絶たないという場所があったのですが、頻発する事故に頭を抱えた地元警察が施した策というのが驚きでした。
なんと道の真ん中にある中央線をぜんぶ消してしまったらしいのですが、その結果事故は見事に激減したというのです。
中央線が無くなったことで、逆に緊張感が生まれ、以前よりもみんなが対向車に注意して慎重に走るようになったという運転者の心理を見事に突いた処置ということでした。

こういうちょっとした心理の操作によって、人前でも緊張せず楽しんでピアノが弾けるようになればいいのですが、こればかりは永久に無理でしょう。
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世代の特徴

マロニエ君の家の周辺は、街の中心部にほぼ近い位置にもかかわらず、やや丘陵地になっているためにテレビ電波の受信状態が悪い地域ということで、以前からケーブルテレビを使わざるを得ないエリアでした。

さて、このたびデジタルテレビに移行したら、ひとつ困ったことが起こりました。
衛星放送は地デジには含まれないために、わざわざ昔のアナログ放送に切り替えないとこれを見ることができず、しかも来年7月までの命というわけです。マロニエ君にとってはNHKの衛星放送は音楽番組が多いので、普通のテレビはあまり見ないかわりに、これは必要不可欠のチャンネルなのです。

ケーブル会社に相談すると、衛星放送受信用のパラボラアンテナを付けるしかないとのことで、しぶしぶ価格などを調べていたところ、ある有料放送の受信契約をするとアンテナは望外の低価格で設置してくれることがわかり、テレビ購入時にもすすめられてこれに決め、さっそくその会社から工事に来てくれました。

ところが、あらわれたのは意外なほど年輩の、はっきり言えば完全におじいさんという感じの人で、見るなり大丈夫だろうか…と内心思いましたが、この人が設置場所の下見から線の取り回しやなにやらを、いかにも元気良くテキパキとやり始めたのには驚きました。

それに、この世代の人はよく話をするのも今どきでは大きな特徴だと思いました。
話というのも仕事とは直接関係のない、雑談でちょっとお世辞を言ってみたり、自分が屋根から落ちて足を痛めたなどといった、いわば無駄口なのですが、それが度を超さずにパッパッと入ってくるので、雰囲気がとても和むわけです。

一般的にこの手の仕事で現場を回っている人は20〜30代の人が多いように思いますが、彼らは必要以外のことはまず絶対に口を利きません。いわゆる無口とか寡黙というのとも少し違って、ごく自然な人との交流が出来きず、どこか余裕がないという感じです。仕事も型通りで応用がきかず、いつも伏し目がちでコミュニケーションにもまるで覇気がありません。

それに引き換え、このおじいさんは足などもすこし引きずっているようですが、いやはや元気で溌剌として大したものでした。
うちに来たのは昼過ぎでしたが、午前中数軒回って、これからあとも4軒まわると片付けながら言っていました。
「歳なんだけど、私は仕事が好きで、とくに現場が好きなんでね」という言葉が印象的でした。
荷物や工具を満載したワゴン車を一人で運転して、次の訪問先を書類で確認すると元気に去っていきました。
思いがけなく、お年寄りに元気づけられたような格好でしたが、心地よい残像が残りました。

折しも史上最年少という若いお兄さんが福岡市長に当選しましたが、どうなりますことやら。
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ある朝突然に

昨日の午前中のこと。
なにげなくテレビニュースを観ていると、今朝がた起こったという交通事故のニュースが流れました。
隣県の高速道路で深夜に発生したというその事故は、はじめに単独事故を起こした普通乗用車に、後続の大型トラックが二台続けて衝突したというもので、乗用車に乗っていた2名がともに死亡するという大事故のようでした。

現場の映像が流れましたが、車はほぼ原型をとどめないまでにグニャグニャに押しつぶされ、事故の苛烈さを物語っていましたが、そのボディーカラーや後部にかろうじて原型をとどめた一部分、さらにはホイールのデザインから、ふとある車種では?という思いがよぎりましたが、それでも損傷がひどくてほとんど判断はつきませんでした。

ところが亡くなったという二人の名前のうち、運転者と思われる男性の名前にちょっと聞き覚えがあったことと、マロニエ君が以前、車のクラブの名簿など作っていたこともあり、テロップに出た姓名の文字が知人と同じだったようなかすかな覚えがあり、思わず妙な気分になりましたがニュースはそれっきり終わりました。

こうなると、なんだかどうしても気に掛かりはじめて昔の名簿を探してみたところ、やはり同じ姓名で年齢も一致しています。その人はずいぶん前にクラブは辞めていましたが、事故の発生現場と住まいは同じ県でもあるので、さっそく友人に電話してみると、彼もそのニュースは見たらしいのですが、そこまで思いは至らなかったといいます。

で、事故現場の地元に近いメンバーに電話をしてみると、彼はまったく何も知りませんでしたが、マロニエ君の話を聞くうちに声がしだいに硬直してくるのがわかりました。
嫌な可能性はますます濃厚となり、ちょっと確認してみると言いはじめました。しばらくして向こうからかかってきた電話では、やはり亡くなったのはその元メンバーの方で、現在、車のディーラーであるその人の店では大騒ぎになっていたという話でした。

マロニエ君はその人とはとくだん親しいというほどの間柄ではなく、さらにここ数年は会っていませんでしたが、それでもある時期はしばしばお会いしていましたし、友人がその人の世話で車を購入して、その引き取りに同行したり、一度などは自宅にお邪魔して車などあれこれと見せていもらったり、クラブミーティングの幹事をやっていただいたりしたこともあるだけに、やはり静かな衝撃が時間とともに深まってくるような思いでした。

テレビドラマなどでは、平穏な茶の間のテレビニュースで知人が関係した事故や事件を偶然知るというシーンがあるものですが、あんなことはあくまでドラマの中の作り事で、実際にはまずないことだと思いこんでいましたが、ほとんどそのままの、生まれて初めての嫌な経験をしてしまいました。

決まり文句のようですが、心よりご冥福をお祈りするとともに、同じハンドルを握るものとして、安全にはくれぐれも注意しなくてはいけないと、事故の恐ろしさを再認識した次第です。
また、残されたご家族のことを思うとただただ胸が痛みます。
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