ハイルーセン

浸透潤滑剤というのがあるのをご存知でしょうか?

動かないネジを緩めたり、いろいろな機械の可動部分の動きをズムーズにするシリコンなどの潤滑剤で、スプレー缶で細長いノズルが付いており、説明を見ても「締りや滑りの悪い敷居やサッシ」「カーテンレールの滑り」「タンスの引き出し」「PCマウスの動きがスムーズに」「ハサミの切れ味がよみがえる」などなんでも使えます。

車の世界ではよくあるもので、その最も代表的なのが「呉工業 CRC-556」などで、これはべつに車専用というわけではなく、なにかと使われている方は多いと思います。

「動きの渋くなった扉や戸棚の蝶番」「ギシギシ音の解消」にもよく使われるし、ピアノの調律師さんも道具箱の中にこれが入っているのは何度も見たことがあります。

以前書いた、日本製のコンサートベンチ(ピアノの椅子)のギシギシ音ですが、調整してくださった技術者さんも当然このCRC-556は使われたようですが、これの欠点は、その効果が短命で持続力に欠けるという点にあります。

使う対象にもよりますが、だいたい一週間から10日、ひどい場合は2〜3日で効果がなくなります。

ところが、世の中にはすごいものがあるんですね。
知人の話で、どうやっても消せなかった車の足回りから聞こえてくるキシミ音が、ディーラに出したらものの見事に治った上に再発もしないため、一体どういう修理をしたのかディーラーに聞いそうです。
ところが、はじめはなかなか教えてもらえず、問い詰めてしぶしぶ言ったのがトヨタのハイルーセンEVOという浸透防錆潤滑剤を塗布したということ。

そのディーラーがトヨタではないこともあり、それを使っていたこともなかなか言えなかった理由のようでした。
トヨタの部品販売店に行けば取り寄せてくれますし、アマゾンでも買えるものです。

車のサスペンションのゴムブッシュの境目や取付部などに塗っておくと動きが軽くなめらかになって、乗り心地が良くなるというので、講習をかねてそれをプシュプシュやっては走ってみるというような実験をしましたが、たしかにサスの当たり(とくに初動)が滑らかになり、車全体がスムーズになったかのようでした。

さっそくマロニエ君も購入したのは言うまでもありません。
価格は1缶2000円しないぐらいで、成分は「鉱物油、石油系溶剤、防錆剤」とあるだけですが、無色透明のサラサラした液体です。

はじめは車に使っていましたが、キッチンの食器収納の扉の動きが年々渋くなり、しまいには開閉にともない金切り声のようなとてつもない音を立てるので、「そうだ!」とこのハイルーセンを思い出し、その収納棚の扉を支える3つの蝶番にプシュプシュとやってみました。
結果は、その強烈な音がウソのように消えただけでなく、動きが超スムーズになりすぎて、いつもの力加減だとその扉に埋め込まれたガラスが割れるのではないかというほどの勢いでスパーン!と閉まりました。

それからというもの、家の中にも置くようになり、なにかというとこれを用いました。
それなのに、最も大事な使い道を思いつかなかったのですから、マロニエ君も相当抜けています。

以前、むかし買ったコンサートベンチが何度調整してもらってもギシギシ音が出ると書いたことがありますが、それはあいかわらずで、実をいうともうずいぶん長いことそうなので、半ば慣れてしまっていたのです。

でも、ついにピアニッシモの部分で、ギギッ!となったとき、「あっ、このコンサートベンチにハイルーセンを使ったら!?」ということが頭に降りてきました。
思い立ったら矢も盾もたまらず、大急ぎでそれを持ってきて、よいしょと重いベンチをひっくり返しました。

立派な表に対して、裏は意外に雑な作りで、木枠の中に鉄の骨が2組のX状に組み合わされて、それが伸縮して上下調整をしているようでしたので、その可動部分や木と鉄の接合部のボルトなど、思いつく限り注意深く噴きつけました。
そしてそのまま一晩放置。

翌日、ちょっとした胸の高鳴りを覚えながら裏返ったベンチをもとに戻し、座ってみる、果たしてギシギシ音はものの見事に消えていて、どんなに体重を左右にずらしても、まったく音がしません。
それからひと月以上が経過しましたが、その状態にまったく変化なしです。

自動車雑誌によると、トヨタは下請けメーカーに要求するクオリティも、その他のメーカーとはまるで違うとのことですが、このハイルーセンを使っただけでもそのスゴ味みたいなものを実感せずにはいられませんでした。
これはきっとピアノの内部にも役立つすぐれものだと思いますが、悲しいかなマロニエ君のようなシロウトでは試すことはできません。
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歯みがき

早いもので4月となり、平成の御世もあとひと月ですね。

奥歯が少ししみるので、2年ぶりぐらいに歯医者さんに行きました。
ここは治療というか施術というか、ようするに仕事がとても丁寧で、これまでに被せ物などをしても、一度も違和感などを感じたことがなく、治療のための治療は一切せず、人にも自信をもっておすすめできる歯医者さん。

毎度のことながら、歯磨きの大切さを教わり、さらに磨き方をいまさらのようにこまかく教えていただき、決意を新たにしているところですので、少しご紹介を。

まず驚くのは、ブラッシングに際しては、歯磨き粉には一切頼るなという考え方。
以前もこの先生は「私達は、歯磨き粉のチューブ1本使うのに半年ぐらいかかりますよ」といわれたので、またまた大げさな!と思って聞き流していましたが、どうやら本当のようでした。

スーパーや薬局に行くと、いろいろな歯磨き粉がズラリと並んでいて、中にはずいぶん高価で医薬品のような効能を謳っているものなどありますが、何度か使ったこともあるものの効果がよくわからず、いらい、また元に戻って、マロニエ君が使っているのは、だいたい500円前後のもの。

ところがこの歯医者さんがいわれるには、歯磨き粉そのものでどうこうということは、ほとんどないと考えてよろしいとのこと。
むしろ歯磨きで重要なのは、使うブラシと丁寧な磨き方がほとんど全てで、歯磨き粉はただの快感と自己満足のためであり、使わないなら使わないでも一向に構わないとのこと。
つまり、一般で言うところの「石鹸なし/水洗い」でよいというわけです。

大事なことは、先の細いブラシを使って、力を入れずやさしく一本ずつぐらいの気持ちで丁寧にブラッシングすることだそうです。
さらに歯間ブラシを使って歯と歯の間に異物を残さないこと。

難しいのは、「力を入れない」ことで、歯磨きは昔の雑な習慣で、ついゴシゴシやりたくなってしまいますが、それは歯茎を痛めるだけで何一つメリットはなく厳に慎むべしとのこと。
力をかけすぎると、歯茎が傷ついたり下がったりで、知覚過敏や歯槽膿漏の原因になるなどいいことはひとつもなく、そもそも力で歯や口の中をきれいにしようというのがまったくの間違いですね。

試しに先生が歯ブラシを手の甲に当てて「これぐらいの力加減」というのをやられましたが、本当にふわふわっと毛先が優しく当たる程度。

だいたい「歯磨き」という言葉がいけないのではないかと思います。
歯磨きというと、文字通り歯の表面を磨いてピカピカにするイメージですが、肝心なことは歯と歯の間、あるいは歯と歯茎の境目に付着した汚れや異物をていねいに取り除くことであって、これは精密なお掃除だと思います。
しかも、歯は硬いけれど、歯茎はとても傷つきやすい皮膚だということを忘れがちで、結果、歯茎をかなりいたぶっているんですね。

「歯磨き粉はなくてもいいもの」という認識があまり広まると、そちらのビジネスにも支障があるからかほとんど浸透していないのかもしれませんが、なるほど歯磨き粉は大した役割を果たしているわけではないことが実感できてきました。

というわけで、歯磨き粉なしで何度かやってみましたが、…気分的にこれはさすがにダメでした。
いっさい泡がないという感触は、まるで張り合いがないというか、気持ちよさがまったくないというか、ここはやはり先生の言われるように自己満足のために、これまでよりぐっと少量でいいからつけてみると、それでちょうどいいことがわかりました。

歯ブラシを手にするや、ついできるだけ短時間で、一気呵成にガーッと歯磨きをしたい人は昔は多かったと思いますが、いったんそれを捨て去って、たとえば…ピアノできれいな弱音を出すような気持ちでやってみると、ああそういうことか!と思えるようになるもんですね。

はじめの何度かは違和感が先に立ちますが、すぐに慣れてきて、正しい歯磨きが楽しくなりますよ。
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イケメン◯◯

昔は「美人何々」というのがよくあったけれど、最近ではどんなジャンルにも「イケメン何々」のオンパレード。

社会の建前として、人の容姿を問題にすることに対する賛否はあるでしょうが、現実には人の心の中では、それはかなり重要な要因となることは間違いないこと。
直接的なイケメンとは違うけれど、例えばその代表は総理大臣。

政治手腕や思想や、しっかりした能力がなくてはむろん困るし、リーダーとしての人間的魅力も必要ですが、要は国の顔であり、国際社会で世界の目にさらされて仕事をするのですから、やはりビジュアルというのは大事です。
誰とは言いませんが、過去の日本の総理には、サミットに行ったり外国の首脳と並ぶだけでも恥ずかしくなるような(それだけで負けたような気になる)人が、少なくともマロニエ君の記憶でも何人もおられたので、まずその点では、安倍さんはそういう気持ちにならずにすむのはありがたい。

ただ、一般社会のいろいろな分野の、本当にどうでもいいような場合にまで、いちいちイケメン何々というのはなんなのか…と思ってしまうのも事実。
もちろん見てくれがよく魅力的であるならそれに越したことはないけれど、それも場合によりけりで、本業に直接関わりのない場合に、むやみにこれをつけるのはいかがなものかと思うことがあります。

ことろで、イケメンってなんのこと?おもに顔?それとも醸し出す雰囲気を含むトータルなもの?
マロニエ君にいわせれば、男子の場合、そこには体格もあるのではないかと思います。
どんなに立派なお顔でも、肩幅の狭い貧相なボディに大きな頭部がドカンと乗っていたのでは、あまりイケメンとは言い難い気も。
大谷選手がアメリカに行っても目を引くのは、むろんその天才的な戦力故であるのはもちろんだけれども、加えてあの日本人離れしたのびのびした体格は見るたびに感心させられ、あれを見ると一瞬でも日本人の体格コンプレックスを忘れていられるところが嬉しいです。

ところで、マロニエ君のような昭和生まれの人間から見れば、今どきのイケメンの基準というものが理解不能である場合が少なくなく、そもそもその判断は少し甘すぎやしないか、いくらなんでもおかしいんじゃないかと思うことがしばしばです。

美人の基準も源氏物語のころからすれば全然違っているらしいから、人の美醜に関するものさしは時代とともに変化して、イケメンの基準もここ数十年でかなり違ってきているのかもしれません。

それはともかく、クラシックの演奏家にいちいちそれをくっつけるのはどうなんでしょう?
不況にあえぐ音楽事務所やレコード会社が、少しでもプラスの特徴になることをアピールしたいのだとすれば、まあそこはビジネスなんだからわからなくもないけれど、でもやっぱりこの分野は演奏こそが第一であって、そこに注目のポイントがあると思うのです。
ではまったくビジュアルが無関係かといえば、それはそうではなく、演奏の素晴らしさを納得させるだけの存在感とか芸術的な雰囲気みたいなものは必要だろうと思います。
強いていうなら、オーラのようなものとでも言えばいいんでしょうか。

少なくともクラシックの演奏家に対して芸能人の延長線上的なノリで、やたらとイケメンの文字が踊るのはちょっといただけません。
少し前に書いた、ピアニストの実川風さんも「イケメンピアニスト」として紹介されましたが、たしかにこの方はそう言われても違和感はなく、いちおう納得ができました。

でも、それ以外でイケメンと言われて、え、どこが?とびっくりするような人だったり、痩せこけた不気味な植物のようだったりと、基準そのものに唖然とすることが少なくありません。

ただ、これだけははっきり言っておきたいことは、美人バイオリスニストだのイケメンピアニストだのということは、却って彼らの足を引っ張ることになりはしないかと思います。
かのアルゲリッチのような美人でさえ、美人ピアニストなどという言葉で売りだしたわけではなく、ごく若いころに「鍵盤のカラス」といわれたぐらいで、あとはあの美貌で語られることはなく、本物の天才は、美人でも美人とは言われなくて済むものだというのがわかります。
逆にちょっとぐらい容姿が良くても、それをプラス要素として強調されているうちは、演奏家として中途半端だということでしょう。
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テンポ

テンポというものは、なにも音楽だけのものではないのは当たり前で、話し方や、行動、思考回路などすべての人間の行動原理と深く結びついているもの。

それがわかりやすく出るのが、まず話し方、あるいは仕事や作業の手順、料理の手際とか車の運転のような気がします。
さすがにマロニエ君も最近の運転は、無謀な動きの自転車など路上に怖いものがあまりに多すぎて、以前よりはぐんとスピードが落ちましたが、それでもメリハリみたいなものがないと気が済まない部分があります。

たとえばスピードには本能に直に訴えてくる魅力があり、決して暴走行為的な意味ではなく、ドライビングがもたらす痛快さにずいぶん楽しんだ時期がありました。
車に興味のない人や運転が好きではない人は、そう急がなくても何分も変わりはしないといったことを言われますが、べつに急いでいるのではなく、爽快なスピードや機敏な動きで車を操ることを楽しんでいるわけで、これはある意味で音楽と相通ずる本質を有しているように思います。

音楽にも和声の法則や導音といったものがあるように、車の動きにも「こうなったら、必ずこうなる」という法則やシーンはいくらでもあるのですが、最近の道路環境ではどうもそういうことが崩壊しつつあるように思います。
狭い道で離合する際は、その場の状況に応じて、どちらがどう動くのが最も合理的かを互いにすぐ了解しあうとか、二車線あって、前にのろのろ走る車があれば、流れの良いレーンに車線変更するのは、マロニエ君にすれば音階でシになればどうしてもドに行き着くのと同じ意味を持っていますが、そういう感覚のまったく無いらしいドライバーがここ最近かなり増えました。

あまりに周囲から浮いたような交通状況に無頓着な動きで、よほど運転に不慣れな高齢者などかと思いきや、追い抜きざまにチラッと見るとやたら若い男性が真面目な顔で運転していたりしてエエエ!と驚くことがありますが、さすがに最近はそのタイプにもだんだん慣れてはきました。

いっぽう、若い人の演奏で、テンポ感や呼吸感、センシティブな反応の欠如を感じるのは、根底にあるものがきっとこういう無反応な運転をするのと同じでは?と感じることがしばしばあります。
演奏技術は文句なく素晴らしいのに、冒険もはみ出しもなく、借り物のような表情をつけるだけで、まるで語りになっていないのは、やはり感覚や本能から湧き出るものが欠けるせいなのか。

世の中はスピード社会などというけれど、逆にやけにのんびりした人が多いのもマロニエ君にしてみれば不思議です。
やたらとスローテンポで、ひとことするのにかなり時間がかかったりするパターンも少なくない。

同時に、マロニエ君は自分ではせっかちな面があるというのも認識するところ。

メールの返信など、人によっては間に何日も置いて、忘れたころにいただくことがありますが、こういうテンポ感が苦手で、べつに急ぐ内容ではなし、むろん相手が悪いわけでは決してないのですが、自分との波長が噛み合わず、無用のストレスを感じてしまったりはしょっちゅうです。

たとえば、今度会いましょうとか食事しようとなった時も、マロニエ君はできることならすぐに日にちを決めてしまいたいし、それも基本なるべく早い時期が好ましいのですが、これがまたやたらと気の長い人がいらっしゃいます。
もちろんお互いの都合にもよるけれど、人によっては「今月は忙しいので来月の…」とか、ただちょっと食事でもしましょうというだけなのにひと月も先の予定にされる人がいて、そういうとき内心ではもうすっかり意欲が失せて、じゃいいです!と言えるものなら言いたい、そんな性格だったり。

物事には気分的にも鮮度の落ちない、ほどほどのタイミングってものがあり、昔のほうが「鉄は熱いうちに打て」だの「善は急げ」だのと、キビキビしたテンポを大事にする風潮がありましたが、今はちょっとした約束ひとつするにも、なんだか手続きがややこしくて、言葉ひとつにも妙に注意して譲り合わなくてはならず、こうなると当然ノリが悪くなってしまうのは否めません。

なので、たまに時代劇などで、江戸っ子の意味もなく短気で、毒舌で、年中青筋立てて怒っているような、ほとんど感性だけで生きているような人がいますが、その滑稽な中にもどこか懐かしさや共感を覚えてしまいます。
もうすこし生き生きできたら、世の中もずいぶん楽しいものになるだろうにという気がします。
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映画の開始時間

久しぶりに映画館を訪れて感じたこと。

マロニエ君は映画は普通に好きですが、かといって新作にアンテナを立てて公開中の作品をわざわざ見に行くほどの熱はありません。
よってふだんは映画館はまず行きませんので、『羊と鋼の森』を見るために久しぶりに映画館を訪れ、そのときにいろいろと感じるところがあり書くことに。

行ったのはショッピングモール内にあるシネマですが、入場券の購入方法も販売機の液晶画面を迷いながら見て、映画のタイトルや時間、人数、支払い方法などを順次押していくシステムで、こちらは映画を見に来たのに、機械相手に無事にチケットを買えるかどうか、いきなり試されてるようでもあり、終始だれとも口をきくことはありません。
つくづくと、今の世の中はこうして人と関わることが徹底して排除され、相手にするのはいつも液晶画面でありシステムであることを痛感させられます。

上映時間はむろん予めネットで調べてあったし、この発券機でも同じ時間が表示されています。

入り口のソファーで待っていると、各映画の上映時間が近づくたびに上映される部屋の番号と、どれが入場できる時間になったかということがアナウンスされます。
それにしたがってこちらも入場。

ところが、シートに着席して暗いスクリーンに灯が入ると、まずはコマーシャル、上映にあたっての注意などがくどいほど流され、それからというもの延々と洋画・邦画の各予告編や飲食店の宣伝などがいつ果てるともなく続き、目指す本編が始まったのは、本来告知されていた時間を20分もオーバーしており、これにはさすがに憤慨しました。

今どきのことなので、多少の宣伝や予告編があるのはわかるけれど、20分はあんまりです。
こちらはそこに出向いて、お金を払って、見たい映画を見るために来ているわけで、興味もないものを容赦ない大音響とともに延々と見せられることの苦痛はかなりのものでした。

これは映画館をよく知る人にとっては普通のことかもしれないし、慣れていればそれを見越した行動が取れるのかもしれませんが、たまに行くほうはそんなことは知らないし、何時と書かれていれば素直にその通りに受け止めるわけで、実際の上映開始がその20分も後になるなど考えもしませんでした。
同時にこれは、いささか問題ではないかと思いました。

もちろん、コマーシャルや予告編が悪いとまで言う気はないし、特に予告編に関してはそれを今後の参考にされる方も多いかとは思いますから、それはそれで否定するつもりもありません。
ただ、事前情報として、広告を含む上映開始は何時、本編開始は何時ということはもう少し明確にすべきで、今はやりの言葉で言うなら「正しい情報開示が必要」ではないかと思います。

なぜなら、広告や予告編を見るか見ないかは個人の意思によって決められるべきで、そこには選択の自由があり、本編直前に会場入りし、その映画だけを見たいという意向の人もいるわけです。
しかも鑑賞にあたっては定められた料金を払っているのですから、無料垂れ流しのテレビのコマーシャルとは本質的に違うし、ましてそれが断りもなく一方的に20分というのはマロニエ君にとってはまさに拷問に等しいものでした。

こんなことは映画だけであって、コンサートなどは何時開場、何時開演とあれば、当然そのようになっているわけで、開演時間になったらそのホールの今後のコンサートの予定などが延々と紹介されるなんてことはありません。
スポーツ観戦などはほとんどしたことはないけれど、試合開始何時とされながら、その時間になったら、別の競技の宣伝や近くのレストランの紹介などが延々20分もされたら、きっと観客は怒り出すのではないでしょうか。

これは映画だけの悪しき慣習だと言わざるを得ません。
ただ単に、予告編開始何時、本編開始何時、と明記しておいて、予告編が見たい人はその時間に合わせて行けばいいだけの話だと思うのですが。
この点に関しては、まったく罠にはめられたような印象で、その20分のおかげですっかり疲れてしまって、本編の開始時に新鮮な気持ちでスクリーンに相対することができなかったのは、すこぶる不愉快でまんまと騙された気分でした。
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春は忍耐

春は喜ばしいものだと、心からそう思い、感じ、疑いの余地などないかのように、昔から日本人は刷り込まれています。
でも、マロニエ君はやっぱりどう贔屓目に見ても現実の春はかなり過ごしにくく、おそらくは昔の生活環境からくる刷り込みだろうと思います。

隙間風の多い日本家屋、劣悪で脆弱な暖房手段などに痛めつけられて健康を害し、心も塞ぎこんで、冬が過ぎ去るだけで喜びがあったのでしょう。
しかし現代の多くが密閉性の高い住宅と、快適なエアコンやヒーター、当たり前のような給湯システムなどの快適装置、安価で暖かな衣類など幾重にも守られて生活しているので、昔ほど冬の厳しさに身を犠牲にすることなく済むようになったのは確かでしょう。

そんな現代人にとって、むしろ春は、花粉の飛散、めまぐるしく変化する温湿度や天候など、少なくとも心身の健康に欠かせない「安定した環境」という意味では、冬に比べてずっと厳しく過酷だと思います。
とくに免疫力が低く、ストレスを抱え、自律神経などを痛めた人には、温度調節ひとつとっても春の不快感は甚大なものがあります。
車のオートエアコンも注意深く見ていると、暖房になったり冷房になったりして機械でさえも迷って定まらないんだなぁと思います。
もちろん、マロニエ君は福岡や東京を基準としているので、北海道や沖縄のことはわかりませんが。

温湿度の変化がころころ激しく上下することは、楽器のコンディションにも如実に現れて、冬場よりも今の時期のほうがピアノもやや乱れ気味ですし、人間もマロニエ君の知る限り、周りの老若男女ほぼすべての人がなんらかの体の不調を訴え、小さな子供まで不快感と闘いながら毎日を過ごしています。
だから、春は個人的にはかなり苦手なのですが、なかなかそれが表向きの声としては聞かれません。

今でも冬は悪玉、春は善玉という構図はかわらず、春の優位性は揺らがないようです。
分厚いコートが要らなくなって、桜のような派手な花が咲いて、ゴールデンウィークなどがあるからで日本だけかと思ったら、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、シューマンの交響曲でも春は大いに礼賛の対象として謳われているし、ボッティチェリの至高の名作もプリマヴェーラ(春)であったりしますから、これは洋の東西を問わないものなのか。
また世界情勢でもプラハの春やアラブの春など、体制の変化や雪解けを意味するときにも春という言葉を使いますね。

ともかく古今東西、どれだけ春を持ち上げようとも、マロニエ君はこれだけは賛同できません。
春特有の濁ったような空気とむせるような匂い、暑さと寒さが一緒くたになったみたいな気候、それに続く梅雨が終わるまでは、じっとガマンの4~5ヶ月というわけです。


某番組では、シューマンを得意と自称する女性ピアニストが登場し、詩情の欠片もないトロイメライを奏し、ゲストとして持ち上げられてきゃっきゃとおしゃべりをした後は、再びピアノに向かい、ベートーヴェンの熱情の第3楽章をお弾きになりました。
終始ふらつくテンポ、何を言いたいのかまったくわからない、なぜこの曲を弾きたいのかも、何一つ見えてこないプラスチックの食器みたいな演奏にびっくりしました。
演奏後、司会者からこの熱情を含むこの方のCDが発売されると紹介され、それならよほど弾き込みができているはずなのにと思いましたが、ともかく宣伝も兼ねてのことのようで、やはり今どきはピアノの演奏そのものより、いろんなところで幅広く行動のとれる人であることが必要ということなんでしょう。
その成果かどうかは知らないけれど、こういう変にメディア慣れしたような人が、日本で最高ランクの音大で要職についているというのですから、出るのはため息ばかり。

トロイメライで思い出しましたが、ニコライ・ルガンスキーの日本公演の様子も視聴しました。
子供の情景やショパンの舟歌やバラード第4番といったプログラムでしたが、子供の情景では作品と演奏者の息が合わずあまりいいとは思いませんでしたが、ショパン晩年の2曲では、思ったよりも悪くない演奏で、これは少し意外でした。

ただ、もともとルガンスキーというピアニストがあまり自分の趣味ではないこともあり、ほとんど期待していなかったので、それにしては予想よりもいい演奏だっただけで、では彼のショパンのCDを買うのかといえば、それはないと思います。
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歩行者

すでに同様のことを書いたかもしれませんが、最近は以前より明らかに車の運転がしづらくなりました。
全体に速度が落ち、流れが悪くなり、個々の車の動きも円滑さを欠いていると感じますが、そこまでは「安全」ということを再優先に考えればやむを得ないこと思います。

しかし、その「安全」に対する一番の脅威は自転車であり、さらには一部の歩行者にも少しあるといいたい。
近ごろの自転車にたいする恐怖感は深まる一方で、実際にそこに潜む危険性はかなり高く、しかも改善される兆しもありません。
自転車の勝手気ままな動きはクルマのドライバーにとって、恐怖以外の何者でもありません。

車道でも歩道でもお構いなしで、夜間の無灯火なども当たり前。
それがコウモリのようにどこから突如現れるかも分からないし、おまけに大半の自転車は自ら危険を回避する気もなく、すべてはクルマ側の注意と動向にかかっているのはあまりに不条理で、おかげでマロニエ君は自転車の姿形を見るだけでもストレスを感じるようになってしまいました。

さらに最近では、自転車だけでなく、歩行者までもが自らの安全というか、自分も交通社会の一員だという認識がかなり低下していると感じざるをえないシーンが多すぎるように思います。
とりわけ感じるのが横断歩道。
横断歩道であるのをいいことに、クルマへの嫌がらせではないかというほどゆっくり渡るなど朝飯前で、中には横断歩道以外の横断もあり、しかもまったく慌てる風もなく「こっちは歩行者だ。注意しろ!」といわんばかりだったりすることも珍しくありません。

さらにはちょっとした特徴があって、世代による違いもあるようだと最近は感じます。

例えば、たった一人の歩行者であっても、右左折してくるクルマはその歩行者が横断歩道を渡っている以上、無条件に停止してじっと待つことになりますが、それがある程度年配の方であれば、自分のために車が待っていてくれていると察知して、ほんの少し小走りになるとか、できるだけすみやかに歩くなど、待っているクルマに対してなにかしら心遣いや意識が働いていることがわかり、こちらも「どうぞごゆっくり」という気持ちになるものです。

ところが、やや世代が下がってくるに従い、歩行者は横断歩道を渡ることを「権利」として捉えているように感じます。
いま自分は権利を行使しているのだから、待っているクルマへの心遣いなど無用だということでしょう。
それがわかるのが嫌なんです。
歩行者は道交法上の最弱者であり、ゆえに優先的に保護され厚遇されて当然で、その歩行者様がいままさに横断歩道を渡っているんだからクルマはいかなることがあろうと、横断が済むまで待つのは当然といった上下関係のような空気が漂います。
なんだかこれ、法権力をかさにきたパワハラでは?と感じるような空気が流れます。

ドライバーはまさにムッとするような気持ちで、不愉快を押し殺してこの場をやり過ごすことのみになります。

中には、待っているクルマには一瞥もくれず、音楽を聞きながらの悠々たる歩きスマホだったり、横の人物とだらだら会話しながら、まるで美術館でも歩くようなスピードで横断歩道を渡りますし、ひどい場合は歩行者用の信号が赤になってもこの人達はまったく急ごうともしないのは呆れるばかり。

これが多いのが、見たところだいたい20代~40代ぐらいで、意外なのは、実は子供から中学生ぐらいのほうがまともな人間性を感じることがあるのです。
彼らのほうが昔ながらにごく普通に渡ってくれるし、中には待っているこちらへ軽く頭を下げて勢い良く自転車のペダルを漕いでいく子などがけっこういるのは、とても意外であるし、殺伐とした中でせめてホッとさせられる瞬間でもあります。

もともとこれが自然であって、世の中の多くはお互い様の精神で成り立っており、上記のような態度には、どうみても人を待たせていることにいっときの快感であったりちょっとしたいじわるを楽しんでいるわけで、人の心の中にある醜いものがこんなちょっとした場面で顔を出しているように見えます。
中学生ぐらいまでは素直だった人が、社会に出て揉まれたり苦労を重ねていくうちに、こういう暗い憂さ晴らしも覚えていくのかと思うと、経験や学習というのは必ずしもプラスばかりではないなという気がします。
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対応のまずさ

先日の夕方、注文していたものが届いたというので、それを受け取りにデパートに行った時のこと。
駐車場で珍しい経験をしました。

ここの駐車場は地下にあり、スロープを入ると中は4つのブースに分かれており、おそらくは車体のサイズでそれぞれに振り分けられるのですが、中で係の人が待機しており、車のサイズを判断して「❍番に行ってください」と告げられます。

指定されたブースにいくと、正面に鏡と「前進」「停止」などの電光表示のあるサインにしたがって車を止め、降りてPブレーキをかけてドアロック、横のドアから中に入ると、車の周りは無人になる。係の人が安全確認をしてボタンを押すと、車はザーッと横へスライドさせられて機械の中に入っていき、上からガーッと分厚い扉が落りてきてしばし車とのお別れになります。

この扉が閉まった時点で、駐車券が発行されるというシステムで、ここは入る時だけの場所。出るときは建物の正反対に行ってそこで精算をしたりサービス券を使ったりして、最後に自分の車を入れたブースの前に行き、駐車券を入れると順番に車が出てくるというシステムです。

さて、ひととおり買い物が済んで駐車場の精算所にいくと、ただならぬ雰囲気にびっくり。
平日にもかかわらず人でごった返しており、ここはよく利用するものの、こんな光景を見たのは初めてでした。

まずはサービス券をもらおうと、駐車券とレシートを出すと、「実は停電がありまして…」と初老の男性が話し始めました。
その説明がまったく要領を得ないもので、なんと言っているのかわからず、問いにも答えられず、困惑しているのがわかります。やむなく何度も人を変えながら情報収集した結果、概ね下記の通り。
停電があって駐車場の機械が全停止してしまった。店内の照明は自家発電で賄っているものの、駐車場のシステムは大量の電力を必要とするため、それでは動かない。
しばらくして停電そのものは復旧したが、一旦止まった駐車場のシステムは、専門家があれこれ設定しないと再開できないため、至急業者を呼んでいるところというもの。

いつ直るかもわからないため、店内で遊んでいるわけにもいかないという選択肢のない状態。

ほどなくして、作業服やつなぎを着た業者の人達が5〜6人やって来て、ああこれで動くのかと思ったら、そこからさらに時間を要することに。
各ブース脇についた液晶画面のようなものをしきりに操作しているものの、ウンともスンとも言わないのは傍目に見ていても明らかで、その間にも買い物を終えた人達が車を出そうとずんずん増えていきます。

この間、じっと待たされた我々にはほとんど説明らしい説明はなく、見通しも立たず、「お急ぎの方には往復分のタクシーのチケットをお渡しします。」というだけ。
最終的にはそれも検討しなくてはいけないことかもしれないけれど、そうしたらまた翌日車を取りに来なくてはならず、それも面倒なのでできればこの日の復旧を待って、乗って帰りたいと思いましたし、多くの人が同じなのか、タクシーで帰る人はほんの一握りでした。
マロニエ君を含めて何人もの人が係員に今どうなっているのか、見通しなどを尋ねますが「いま業者がやっていますから!」の一点張り。

それからしばらくして、第1ブースと第2ブースは復旧して車が出てくるようになったものの、第3と第4は依然としてまったく動き出す気配もないままで、ようやくわかったわずかな情報によると、第3と第4は機械内で車が移動している最中に停電したので、車を所定の場所に戻さないと再始動そのものができず、そのために業者が車を定位置に戻すべく、地下深くで手動で作業をやっているということでした。

もうこの時点で30分以上待たされています。
さらに、それからかなり経ったころ、はじめの車が手動で出口にスライドされてきて、それからついに機械が動き出しました。
結局自分の車が出てくるまでに、約1時間ほど狭い空間で待たされましたが、その間のデパート側の対応はお粗末を極めるものでした。

駐車場エリアには、デパートの社員らしき人はおらず、全員が駐車場担当のやや高齢の方ばかりで、あとは機械の業者のみ。
故障や不具合そのものはやむを得ないことだと思うけれど、あれだけ大勢のお客さん達が足止めを食って大変な迷惑を被ったのだから、デパート側としてはなんらかの責任ある立場の者が事態収拾の指揮をとり、お客さんにお詫びと説明と随時必要な対応をすべきではなかったと思いました。

しかも、そのデパートは日本最大手の地元でも老舗百貨店なのですから、これには失望しました。
幸いこの駐車場は、自分の車が出てきたことをガラス越しに確認し、仕切りドアのロックが解除されて車のある外へ出ていくシステムなので、寒い思いこそしなかったものの、広くはない待合室には自分の車を出したくても出せない人々がぎっしり押し込められていたわけで、もしマロニエ君だったら皆さんにキチッとしたお詫びと、せめて紙コップでいいからお茶の一杯ぐらい出しますね。

美しい店内に、高級品を並べることだけではなく、いざというときの対応や処理のしかたに、その店の質が顕われるもの。
マロニエ君の見るところ、この時の店側の対応はかなりマズイものだったにもかかわらず、大した混乱も不満も出ることなく終わったのは、ひとえに事態をおとなしく耐えてくれたお客さん達に助けられた面が非常に大きかったと思いました。
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プロバイダーの優劣

いきなり笑われるかもしれないけれど、とうとう我が家も光回線というものに変更できました。

もともと固定電話の回線を使って始まり、それがいつしかISDNというものになり、さらに数年後にはADSLと言われるものに変わりました。
マロニエ君はこの道は、自分でも情けないほど「超」のつく苦手分野で、言葉や文字列のひとつひとつが何を意味するのか、違いは何かなども、ほとんどわかったためしがありません。

とりあえず時の流れで、勧められるまま人の手助けを借りながらに変更してきただけ。
今度は「光回線」というものが出てきて、それが主流になりつつあるらしいことは知っていましたが、まあどうでもいいやという感じでずーっとうっちゃってきたのでした。
しかし業界は放っておいてはくれないらしく、変更を促す営業の電話がやたらめったらかかってくるようになりました。
でもADSLでもいちおう問題もなく使えているのに、あえて慣れないものに変更するのがイヤで断り続けていました。

しかしそれで「はいそうですか」と引き下がるような相手ではなく、そのしつこさと言ったら並大抵ではありません。
平日が無理だと思ったら、今度は土日の夜なんかにまでかけてくるのですからたまったものではありません。
事務所にも同様の電話攻勢が絶えず、ついにそれに耐えかねた一人が「光にしたほうがいいのではないですか?料金も今より少し安くなるみたいだし…」と言い出したこともあり、ついに承諾することに。
ちなみに電話をかけてくるときは、だいたい「NTT」を名乗るか、あるいはそれに続いて横文字の名前を並べます。
だから、聞いている側はNTTもしくはそれに連なる子会社のたぐいと思うのは当然です。

承諾してからというもの、待ってましたとばかりに次々に郵便物が届き、差出人はよくわからない会社名だったりでしたが、まあよほど詳しい人でない限り、あまりの面倒臭さにまともに読む気にもなれません。

さて光回線にするには線を引き込む工事が必要となり、あれだけ電話してきてすぐにでも!という感じだったのに、いざその日取りを決めるとなると10日先2週間先という具合で、まあこちらとしても急いでいるわけでもないので待つことに。
当日工事に来たのはまぎれもなくNTTで「フレッツ光」とか言っているので、ここでもメインはやっぱりNTTだと思ってしまいます。

ところがあとでわかったのですが、工事自体はNTTでも、電話をかけてきたのはプロバイダーへと振り分ける仲介業者だったようで、さらに営業マンがやってきてあれこれ有利で最安となるプランを提案したのは、こちらが選んだわけでもないプロバイダー会社の営業マンでした。
もうなにがなんだかわからない!!!

実はこれ、少し前の話で、初めての光通信というものが我が家でスタートしたのが昨年の9月でした。

マロニエ君は何度も言うようですが、この分野は最も苦手でその理解力対応力はまさに老人並なのですが、それでもADSLから光回線になれば、グッと速度も上がるのかと期待していました。
通常のメールや調べものではまったく痛痒はないものの、YouTubeの動画などでは、反応が遅かったり映像が途切れたりということがあったので、そういうことからも一気に解放されるものだと思っていたのです。

ところが光回線がスタートしてみると、特段に早くなったというような印象はなく、なんだあまりかわらないじゃん!とガッカリ。
それどころか、使ううちにわかったことは日によって時間帯によって通信速度は絶望的に遅くなりだし、ひどいときはただYahooのトップページを開くにも数分かかるといった有り様で、光どころか最も初期の電話回線より劣るような印象。

これでは話にならないし、まったく使いものにならないと、さすがのマロニエ君も少し頑張りました。
今どきなので、ひとつの会社に電話するだけでも、すぐ人と話せるわけではないので、あちこちやっているとこれだけで半日ぐらいすぐにかかります。これを数日やっていると、だんだん見えてきて、プロバイダーが原因だというのがわかりました。

ネットでその会社名を検索すると、その評価は惨憺たるもので、中には「最も契約してはいけないプロバイダーのひとつ」とあり愕然となりました。
もちろん、その会社にも何度も電話しましたが、結論から云うと打つ手はないらしく、これで我慢するか、解約して別会社と契約するかの二つに一つ。しかも解約するには規定により「解約料」なるものが発生し、そんなものはぜんぜん納得出来ないけれど、それでもなんでもこのままよりはいいと思って解約することに決意!

一方、新しいプロバイダーはとにかく有名な大手がいいという友人のアドバイスもありそれにしました。
その結果は、「今までのあれはなんだったの?」と思うほどスイスイと繋がり、いらいこの手のストレスから解放されました。
おまけに建物内はすべて電波が行き届いて、みんなが幸せ、こうも違うものかと思うばかりです。

プロバイダー選びというのはいかにピンキリで重要なものか、しっかり勉強になりました。
みなさんくれぐれも気をつけてくださいね。
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イヤな光景

イヤな光景を目にしました。
先日の平日夜9時過ぎのこと、ショッピングモールに買い物に行って、本屋に立ち寄った時のことでした。
雑誌を立ち読みしていたら、わずか3メートルぐらい先になんだかちょっと違和感を感じました。

人同士がペタッとくっつき合ってほとんど声も出さずにしきりになにかに集中しているようで、どうも小学校高学年~中学生ぐらいのまだ背が伸びきっていないひょろっとした女の子と、ほぼ間違いなくその両親と思われる3人。

女の子を中心に、両親と思われる2人が女の子に対して直角に夫婦が向き合うようにして肩が触れ合わんばかりに立っており、要するにこの3人は上から見ればコの字型を作っていました。
母子はなにかヒソヒソ言っているけれど、お父さんらしき人は終始無言。
女の子の手にはスマホがあり、カシャッ、カシャッ…とカメラのシャッター音がこちらまで聞こえてきます。

何をしているのだろうとつい見ていると、お母さんらしき人が手に本を持ち、娘がそれを写すたびに手早くページをめくるという連携プレイであることがわかりました。
左右を固める両親に守られながら、女の子は無表情にひたすらシャッターを押し続け、おおよその印象だけれど10ページぐらい撮影した感じでした。
両親は、本来とは違う意味でのまさに保護者であり協力者、いや悪行の仲間というべきか。

それが終わると固まっていた3人はサッとばらけて、本を持っていたお母さんにいたっては、その本を平積みの棚にポンと軽く放り投げるように置きながら、もう用は済んだとばかりにその場を後にしました。

売り物の本を買わず、必要なページだけを撮影していることは明白だったので、こちらもついイヤな気分になって、こっちに向かってくる3人の顔を遠慮なく正視してやりました。
娘とお父さんはややうつむき加減で通り過ぎましたが、お母さんはマロニエ君の視線に気づいたけれど、一切表情を変えることはなく、普通の声でどうでもいいような雑談をしながらこちらの横の通路を通り過ぎて行きました。

そこは、参考書のコーナーらしく、遠目に「英語」という文字は見えましたが、どんなものかわざわざ近づいて確認する気にもなれませんでした。

でも、本屋の商品である本の中をスマホで撮影するというのは、いわば「情報の万引き」です。
そんな不正行為そのものもむろんどうかとは思うけれど、そんなことを両親が我が子にやらせる、あるいは子供がそうするといったのならそれをせっせと手伝うというのは、激しく不愉快な気持ちになりました。

しかもいかにもそんなことをしそうな感じはなく、どこにでもいそうな普通の善良な市民といった感じの3人であったことが、よけいやっていることとのギャップがあって凄みを感じました。

思春期という最も多感な時期に、子供にそんな犯罪に近いようなことを平然とやらせる両親。
そんな調子では、まともな教育もしつけもあったものではないし、その子がどんなずるい手を使ってでも、自分の目先の利益を追い求めるようなことをしても、なんの抵抗感もないような人間になってしまうのは当然だろうなと思いました。

スマホのカメラもきっと画素数も多くて、拡大にも十分堪える写真が取れるのだろうし、まさに便利で高性能な機械も使い方次第というところ。
昔なら007に出てくる産業スパイのような行為でした。
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ある日突然

つい先日のこと。
固定電話(しかも事業用)が突然つながらないみたいですとのことで、あわてて受話器をとってみるも、ツーツーツーという話中のような信号音がするだけで、ダイヤルを押しても発信もなにもできません。
携帯からその番号にかけても、まったく音がしないか、「繋がりません」のアナウンスが出るかのいずれかで、要するに電話がまったく使えない状態になっていることがわかりました。

はじめは電話機そのものの故障かと思い、ACアダプターの電源を抜いたり入れたり、通信のほうの線を外しては差し込んでみるなど、いろいろ試みましたがまったく変化ナシ。
もしやと思って、もうひとつの電話も確かめてみるとまったく同じ状態で、これはもはや電話機の問題ではないことは明らかでした。

事業用の電話はいわばビジネスの命綱のようなものなので、これはただごとではないのです。

そこですぐにNTTに連絡しようと、ネットで電話番号を調べてみますが、今や時代が違います。
ご多分にもれず、近ごろはなかなか電話番号が記載されておらず、一刻を争う緊急時にサイトの中をイライラしながら探してまわらなくてはなりません。
現代はどこもだいたいこのパターンで、ようやく電話番号らしきものが見つかってダイヤルしても、まずは決まりきったバカバカしいアナウンスを延々と聞かされて、その後ようやく指示に従って該当する番号を押したり♯を押したりして、やっと繋がるかと思ったら「ただいま、電話が大変込み合っております。恐れ入りますがこのままお待ちいただくか、しばらく経ってからおかけ直し…」となって、こんなときに湧き上がる嫌悪感は並大抵のものではありません。

しかし、固定電話が繋がらないとあっては、仕事に差し支えるためなにがなんでも復帰させなくてはならず、ガマンして待ち続けました。10分ほど待ったころ、ヘンな音楽はやっと呼び出し音に変わり、続いてようやく人間の声が聞こえました。
ここまでくるだけでも大変です。

すぐに状況を説明すると、「恐れ入りますが、故障係のほうにおかけなおし下さい」となり、その番号を聞いてかけると、またアナウンスが始まり「なお、この会話は品質向上のため録音させていただいております」から聞かされ、さらにアナウンスは延々と続きました。
あげく、やっとわかったことは、90秒以内に故障の内容と連絡先を、練習もなしに声で喋って、一旦電話を切り、先方から連絡があるまで待たされるというシステムで、まずこれに仰天しました。

しかも、「折り返しのお電話までには2時間以上お待ちいただくこともあります」といったのには、ほとんど頭がクラクラしそうになりました。
そもそも、電話が故障して使えないのに、こういうシステムをとるとはいかなることか。
NTTなのに故障ようにも、一向に人と話ができない。
たしかに現代人はたいてい携帯電話を持っているので、最終的に連絡はつくかもしれませんが、どうにも納得できません。

1時間ほど待っても連絡はなく、これが家庭用電話ならまだしも、仕事にも差し支えがでているので、また別の0120を探しだして、同じアナウンスを聞いてやっとオペレーターにたどり着き、状況を説明して「大至急連絡をとってほしい」と頼みました。
ようやくこちらの熱意が伝わったのか、それからほどなくして修理の担当者から連絡はありましたが、曰く、いま最も早い訪問でも明後日になりますというのには、ひっくり返りそうになりました。

それでは困るという事情を必至に説明した結果、さらに1時間後についに修理担当の人がやって来ました。
それから30分ほどあちこちを調べた結果、外部の線が老朽化して接触が悪くなっているということで、直ちに応急処置となりました。
老朽化した線は建物外、すなわちNTTの管理下にある部分で、完全にこちらの責任外で発生したトラブルでした。

ともかくその日のうちに電話はなんとか復旧しましたが、こんなことってあるんですね。
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ドラマみたいな話

つい先日のこと、友人から「本当にそういうことがあるのか…」というような話を聞きました。

その友人が昔勤めていた企業に、同郷で高校も同じということで親しくなったAさんという先輩がいたことは聞いていました。
後年、それぞれ別の理由で退社したものの、個人的な付き合いは続いて、たまに呑んだりメールのやり取りをするなどで近況を知らせ合っていたといいます。

Aさんは少し変わった家庭に育ち、若い頃から学業の成績などにかなり強くこだわる両親のもとに育てられ、幸い成績もよかっため就職までは順調だったようですが、その後、ある女性と出会って結婚を決意することに。
ところが両親の猛反対に遭い、Aさんの胸中には家族内に流れる偏った価値観に嫌気がさしていたのか(どうかはわかりませんが)、それが引き金となって親きょうだいと決別をしてしまいます。

その女性は、Aさんの両親の求める息子の結婚相手としての条件を満たしていなかったことが原因のようで、それがどうも学歴に関することだったらしく、Aさんとしても長年蓄積された思いもあったのか、ついに堪忍袋の緒が切れたのでしょう。
実家とは、事実上の絶縁状態に突入したそうです。

住まいも変え、勤め先も変えてその女性と結婚する道を選び、その後二人の子供にも恵まれ、しばらくは穏やかな日々が続いたようですが、その子らが受験や就職をするころになって、ある出来事が起こります。

単身赴任中、理由はよくわからないけれど、そうまでして一緒になった夫婦が不仲となり、それがこじれにこじれてお互いに修復できないところまで発展。
Aさんは、せっかく建てた家にも帰らなくなるほどの確執となり、その方は次第に精神的にも追いつめられ、とうとう会社まで辞めることに。

そのころ、友人の携帯には連日のように悩みを訴えるメールが届き、友人は困惑と同情の狭間で、せっせと励ましの返信を送り続けていたようでした。
Aさんは苦痛と孤独に苛まれるも、非常にプライドの高いところがある男性で、むかし席を同じくした同郷の後輩が唯一の心の拠り所だったのかもしれません。
そのメールの往来は、実に数年間、数百に及ぶ膨大な数に渡るもののようで、当時からマロニエ君もそのAさんから送られてくるメールのことは折りに触れ聞かされていました。

Aさんは会社をやめ、やがて故郷に戻ったものの生活にも困窮することになり、ついには疎遠だった実家にも救いを求めたようでしたが、それもうまくはいかなかったようでした。
その頃になると、ほとんど毎日のように自分の思いを綴ったメールが届き、友人も大いに同情はしつつも、いささか持て余し気味といった様子でしたが、それでもAさんの窮状を察してメールを返していたようです。

この頃になると、友人もその先輩のことがいつも気がかりで心の負担にもなっていたようですが、どうすることもできずひたすら励ましのメールを送ことを続けていました。

それが数年前のあるときから、ぱったりメールも来なくなり、連絡が取れなくなったようでした。
友人は自分が何か悪いことを書いたんだろうか?などとずいぶん悩んだ挙句、もしかしたら悪いことが起きているのではないかとまで思うようになり、事実を知るのが怖くなり、ついに連絡は完全に途絶えてしまい今日に至っていたようでした。

ところがごく最近のこと、NHKの『ドキュメント72時間』という番組内で、友人はちょっとした群衆の映るシーンの中にAさんの顔を見出したのです。
どの回というのは控えますが、たまたま年末にまとめて放送されたものを録画していたらしく、まさかと驚いて何度も繰り返し確認したそうですが、その中にまぎれもなくAさんが映っていると確信が持てるに至り、友人の安心した様子と言ったらこっちが驚くほどでした。

どうやら友人はよほど心配していたようで、万一最悪の事態まで考えてしまうこともあった由で、ともかくも健在であることを確認することができて安心し、数年ぶりで携帯のショートメールにメッセージを送ってみたところ、翌日Aさんからすぐに電話がきたそうです。
パッタリ連絡がなくなったのは、携帯を紛失してしまい、そこに入っていた連絡先のすべてが失われたため、電話もメールもできなくなったということでした。

テレビドラマなどでは、偶然テレビ画面の中に犯人や失踪した人間の顔が映るというようなシーンを見たこともありますが、現実にそんなことがあるなんて、ただもうびっくりでした。
Aさんはなんとか頑張っているようで、まずはなによりでした。
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静かな変化

今年の元日はとくに予定もないから、せめて普段の昼間できないことをやろうと洗車をしました。

我が家のガレージはいちおうシャッターで閉じるため、車が直射日光や風雨にさらされることからは免れていることもあり、洗車はだいたい数ヶ月に一度しかやりません。
洗車したのは趣味で所有しているフランス車で、この車には昨年8月に巷で流行りの「ガラスコーティング」というのを施工していたのですが、考えてみたら施工後初の洗車でした。

驚いたことに、拭き上げ時のウェスの感触がそれ以前とはまったく異なり、まさにガラス質の保護膜が塗装面を固く覆っていることが、指先の肌感覚でわかりました。
施工店の説明では、施工後は水洗いのみでOKということだったけれど、それは半分聞いておいて、マロニエ君としては害のない程度の軽いケミカルぐらいは使うつもりだったけれど、途中からそんな小細工がまったく必要ないことがわかりました。
水分を丁寧に拭き上げてみると、いかにもガラス質特有のシャープな輝きがあらわれて、これはすごいと感心させられました。

ガラスコーティングというのは従来のフッ素コーティングなどと比べると若干高価ではあるけれど、じゅうぶんそれだけの価値はあると実感したところです。

ガレージといえば、マロニエ君宅のガレージは、向いの巨大なマンション駐車場の出入り口と道を挟んで向き合っている恰好なのですが、そこには相当数の車があり、朝夕ともなると、めまぐるしいばかりに次から次に車が出入りし、入口のパイプ式シャッターはあまりにも間断なく上下動を繰り返すものだから、ときどき故障してメンテナンスの人が何時間も奮闘している姿を見かけるほどです。

ところが、元日の午後はというと、ここを出入りする車はウソみたいにほとんどなく不気味でさえありました。
いかにお正月とはいえ、そのあまりの静寂は異様としかいいようがなく、みなさんなにをしているのかと首をひねるばかり。

どこもかしこも昼間から酒盛りというわけでもないでしょうし、老若男女が暮らすあまたの世帯がびっしりとひしめき合っているのに、物音一つしないその雰囲気が数時間続くさまは、さながら戒厳令でも出ているようでした。

考えてみれば日本のお正月というのは一種独特なものがあって、このときとばかりに家族が集まり、そこにはゆるやかな閉鎖性と排他性が漂い、どこか神聖ささへ帯びているあたり、この時期は友人知人といえども、連絡はなるたけ慎むべく自然に気を遣い合っている感じがします。

そんな日本の伝統的なものと、マンションという居住形態がいよいよ人々を外に出さなくなっているのだとしたら、なんだか少し薄気味悪い気さえしました。
マンションといえば思い出しましたが、友人がニュースで耳にしたという話ですが、最近流行りの高層を誇るタワーマンションは、そのいかにも最先端的かつスタイリッシュな外観とは裏腹に、住人のひきこもりを助長しているという調査結果があるのだそうで、へええと思いました。

玄関のドアを開ければそのままひょいと外に出られる一戸建てと違って、何をするにもいちいちエレベーターを呼び寄せ、他人と一緒になったりならなかったりしながら数十メートルの上下移動を必ずしなくてはならないし、さらにはなんらかのセキュリティを通過して行くとなると、たしかに外出も知らず知らずに億劫になるだろうなあと思いました。

また別の友人の話によると、今どきは奥さんも子供もあまり外には出たがらず、いつも自分が旗振り役になって外に連れ出すのだそうで、とくに外に出たくもなく行きたいところもない由で、これにはびっくりでした。
昔は仕事で疲れてゴロゴロしたいお父さんの背中を揺さぶって、どこか連れて行ってと子供からせがまれ、しぶしぶ起き上がるというのがありふれた光景でしたが、今はもうそんなことはなくなってしまったようです。

そういえば、いつ頃からだったかはっきりはわからないけれど、一家で外出している中でもお父さんのテンションがひときわ高く、一番張り切っているような光景を目にするのが珍しくないようになりました。
なんだかいろんなことが少しずつ変わっているんですね。
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釈然とせぬまま

早いもので、今年も残すところ2日となりました。

来年はどんな年になるのか、正直を言うと近年あまり明るい希望を感じなくなりました。
むしろ不安要因のほうを多く感じるのは、現実にそういう世の中になってしまっているのか、あるいはマロニエ君のものの見方・感じ方がマイナス思考になっているのか、そのあたりは自分でも正しいところはわかりません。

国際情勢もそのひとつで、某国のミサイル開発が進んでより深刻さを増すとの話もあり、わけても周辺国にも火の粉が及ぶのは御免被りたいもの。
とくに日本は地政学的にもあまりに近い距離にあるし、なにか起こったとなれば、その距離からいってもまったくの無傷というわけにはいかないだろうと考えると、やはり不安は募ります。

どうもここ最近の世の中というのは、あらゆることに安定感というものを欠いている気がしますし、そんな時代に生きている私達も、それを常に感じているためか昔のように無邪気ではいられなくなりました。


最後の最後まですっきりしなかったのは、鳥取巡業中に起きた日馬富士の暴行事件に端を発する、貴乃花と相撲協会との対立問題でした。
これは当初の予想を遥かに超えて、非常に根の深い問題が底流にあるようで、とても簡単には決着しない様相ですね。
28日に行われた臨時理事会では「降格」という結論に達し、年明け4日には評議会にかけられて処分が決定するというもので、一般人の感覚ではまるで釈然としません。

貴乃花が降格だというのなら、事件の現場にいて暴行を止めず、日頃からルール違反ばかりやらかす白鵬にも、あるいはそもそも暴行事件を起こした横綱をそもそも選出した横審も、さらには最高責任者である協会理事長も、各々重い責任が問われてしかるべきでは?

マロニエ君の個人的な印象でいうと、貴乃花はおよそ現代人の感覚からはかけ離れた、いわば江戸時代のストイックな武士が突如として現代に隔世遺伝してきたような人だということ。
とりわけ相撲に関しては徹底した信念のもと、崇高で精神的なものを尊び、そのためには不利な戦いをも辞さない。
損得では決して動かず、世俗的な慣れ合いや堕落を徹底して嫌悪し、それらを容赦なく糾弾するタイプ。

こうと決めたら微動だにしない信念を貫き、孤独に徹し、黙して語らぬその姿はまるで山本周五郎の作中人物でも見ているようです。

いっぽうで、協会は金権力と特権と慣れ合いにどっぷり浸かった肥満組織で、貴乃花の存在は煙たくて、鬱陶しくて、苦々しくて、今流に言うなら超ウザイ存在なのだと思います。
彼には、世間一般でよくある融通とか貸し借りの感覚などもまるで通じず、組織からすればこんなジャマ者はないわけで、ましてやその人物が現役時代の取り口さながらに自分たちめがけてガチンコで挑みかかってくるのだからたまったものではなく、小池さんではないけれど、組織としてはなんとしても「排除」したいのでしょう。

解釈はいろいろかもしれませんが、警察に被害届を提出しながら協会に報告しなかった、協会の事情聴取に対して協力的ではなかったという、このヤミ多き事件全体から見ればほんの一部分をもって処罰の根拠にするあたりは、マロニエ君の目には、都合の悪い反乱分子がほんの微罪でひっくくられてしまうような陰惨な印象が拭えません。

白鵬には遠慮してなんら実効性のある処罰を言い渡すことのできない弱腰の協会が、目障りな貴乃花に対しては、被害者側の親方であるにもかかわらず、断固として処罰対象にされ、今回の事件関係者の中で最も重いとされる処分を与えるというのは到底納得の行かないことでした。

はてさて決着はいつになることやら、テレビでは「もうこの話題はウンザリ!」などという人もいるけれど、マロニエ君には久々に目の離せぬ真剣勝負を見せてもらっている気分で、集団イジメでしかないお偉いさん達のほうがよほどウンザリです。
なんだか以前も似たような組織があったと思ったら、ああそうか…かつてのドン率いる東京都議会でした。


最後にピアノの話題でいうと、ちょっと奇異に感じたのは、12月の中旬からクリスマスぐらいのわずか10日ほどの間に、民放BSで1回2時間におよぶ辻井伸行のドキュメントがゴールデンタイムに実に3回も!(内容は異なる)放送されたこと。
彼が天才であることは間違いないし、クラシックのピアニストを主役とするドキュメンタリーが作られることはピアノファンとしては嬉しいことではあるけれど、辻井さんばかりがこれほど別格的に取り上げられるのは、いささか過剰なのでは?
なんだかとっても不思議でした。

明日は大晦日。
良いお年をお迎えください。
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パソコンは怖い

まったく理由のわからないまま、メールソフトが不調となり、あれこれと格闘している合間に、多くの大事なデータが、一瞬のうちにごっそり消えてなくなりました。
こういうとき、パソコンというものが、なんという冷血漢だろうかと思い知らされます。

なぜそうなったのかもわからないし、マロニエ君にはきっとこの先もわからないでしょう。
過去にも何度かパソコンの怖さを経験していたにも関わらず、バックアップをきちんと取っていなかったために回復は望めそうにもない気配が濃厚で、目の前が真っ暗になるほど落ち込んでしまいました。

この手のパソコンの事故やトラブルは、いわば机の引き出しや本棚がとつぜん魔法のようにパッと消えて無くなるようなもので、心底イヤなものです。

記録に関する大事なものが前触れもなく消えてなくなるというのは、精神的にもかなりのストレスで、例えは悪いかもしれませんが、まるで自分の身体か脳の一部が失われるような、取り返しのつかない消失感を味わわなくてはなりません。
まさに残酷物語。

バックアップにはいろいろな方法があるらしいですが、なにしろその手のことがからきしダメなために、つい安全対策が後手に回ってしまったわけで、この手のことに詳しい方からみれば自業自得ということになるのでしょうが、出るのはため息ばかり。

そのメールソフトも完全回復には至らず、受信のみ回復したものの、送信はいまだできず別の方法でなんとかこの苦境を切り抜けているところですし、そもそもなぜそうなったのかさえわからないところが更に救われません。

これだけネットやなにかが発達し、今やそれを前提とした世の中になっているのに、メールの設定などはもう少し単純簡潔にはいかないものかと思います。
さらに勝手なことを言わせてもらうなら、これほど急速に高度な技術が進んでいるのであれば、自動的にバックアップもしてくれるような技術もそろそろ開発され、端末に搭載されてしかるべきではと、怒りと落胆のあまり勝手なことを考えてしまいます。
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炊飯器

数年ぶりに炊飯器を買い換えました。

これまで使っていたものは、ごく基本的な機能をもつだけのタイプでしたが、何年か使っているうちにだんだんご飯がボサボサした感じになり、あまり美味しくなくなってきたため、そろそろ買い替え時かなあと感じはじめていたところでした。

電気製品なのに、だんだん美味しさが落ちてくるというのは、その前の炊飯器も同様だったので、長く使っていると炊きあがりの変化に関わる何らかの劣化がおこってくるのかと思いますが、ただ電気でお米を炊くだけの機能に、なにが作用してそうなるのかまったくわかりません。
電気の抵抗などが増えて、火力が落ちてくるのか…なんだろう。

もとより修理するようなものでもないから、こうなると必然的に買い替えということになります。

というわけで電気店の炊飯器の売り場に行ってみると、これがもうピンキリの世界でわけがわかりません。
どのメーカーを選ぶべきか、どの価格帯にすべきか、そもそも1万円と5万円以上の機種では何が違うのか。

いちおう価格帯として最低ランクを買う気もないし、かといって最高ランクを買う気はさらにありませんでしたから、なんとか中間地帯でコストパフォーマンスの高そうなモデルを選びたい。
まさにこういうのって、日本人的中庸を欲する感性だなぁと我ながら思いました。

メーカーもタイガー、パナソニック、象印、東芝などの他、昔はなかったアイリスオーヤマなどがあり、どれがどうなのかまったくわからないし、何の違いで価格が違うのかも謎。
そうこうするうちに、迷って困惑しているマロニエ君の姿を観察していたのか、絶妙のタイミングで店員さんが近づくなり「炊飯器をお探しですか?」と話しかけられました。

普通なら店員さんが寄ってくるのはうるさいと感じるのに、このときばかりは折よく質問相手が現れたという感じで、さっそくオススメのメーカーなどをきいてみると、人気があるのは△❍△あたりですかねぇ…という感じでしかなく、やはり聞き慣れたメーカーが定評があるらしいということがわかりました。
とはいっても、今どきの製品なので、メーカーによる差というのはそれほどないような口ぶりでした。
では、価格帯の差は何なのか。

それは主に内釜の構造や使われる素材、あとは火力や多様な制御によるものという感じで、たしかに説明だけ聞いていると高いほうが美味しく炊けるらしいということはわかったけれど、それが実際にどれほどの差になるのかはわかりません。

で、その場ではとてもではないけれど判断できないことを悟り、すぐ購入することはせずにカタログをもらって一旦帰宅、ネットの評価などを数日かけて調べました。
それによると、高価な機種がいちおう高い評価を得てはいるものの、中には1万円台の機種でも高評価のものがあったりして、絶対評価なのか、あくまで価格を分母に置いた評価であるのかはよくわからない。
実際に店頭でモデルごとに炊いたご飯を試食した人などの意見では、「ほとんどその差がわからなかった」というものがいくつかあり、機能はともかく、数万円の差が必ずしも美味しさという結果に正比例するわけでもないらしいことがわかりました。

その結果、ずいぶん悩んで象印の圧力IH炊飯ジャー「極め炊き」という、3万円台の機種に決定しました。

以前の炊飯器に比べると、ずいぶん立派で重く、サイズも大きめで色はブラウン調で堂々としていますが、はたして炊きあがりはどうかというと、美味しくないことはないけれど、宣伝文句ほどのものとも思えなかったというのが正直なところでした。
炊き方も、やたら種類があり(49種!?)どれを選んでいいのかわからないほどあり、使いこなすことは簡単ではないように感じます。

前のくたびれた炊飯器と比べたら美味しいのは確かだけれど、販売員の説明やカタログにこれでもかと踊る説明ほど美味しいかというと、それほどのものでもない印象。
もしかしたら、自分にとっての最適な炊き方をまだ探しきれていないのかもしれませんが…。
むろん後悔はしていないけれど、あまりに謳い文句が華やかでそのぶん期待大だったから、少しがっかりだった面があることも事実でしたが、冷静に考えればこれで十分です。
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袋だけブランド

以前から不思議で、そこにいささかの違和感を感じることがあるので、思い切って書いてみることに。

人様からのいただきものに対してどうこう云うことは、厳に慎むべきことことだと重々心得てはいるけれど、今回はその中身ではなくそれを入れてぶらさげる小袋のお話。
一部の女性方に共通した特徴として、なにかを頂きものをするとき、小型でつるつるした紙の、いかにもの高級ブランド名などが記された紙袋へわざわざ入れて渡されることがあります。

むろんその中身と袋は縁もゆかりもないもので、派手なブランド名ばかりが却って悲壮的に目立ち、たんなる袋とはおよそ言い難い強い主張をしているように感じられることがあります。
さりげなく(とも思えないけれど)そういう高級ブランドの袋を「実用」として使うことに、なんらかの意味が込められているのか。
入れる袋がなんであれ、そもそも何かを頂戴すること自体がありがたいという原則は決して忘れてはいないつもりだけれども、敢えてマロニエ君の感性からしてみれば、やはり自ずと中身とかけ離れない範囲の入れ物というのはあるはずで、そういうところにも送り手の価値観やセンス、もっと厳しくいうなら教養が出るものだと思ってしまうのです。

あくまで一般論としてですが、内容に対して過度に高級ブランドのような容れ物の組み合わせというのは、いくら「ただの容れ物、ただの袋」という前提だとしても、もらう側の心の中の違和感まで消すことはできないし、そもそもセンスよろしきこととは思えぬものがあるのです。

もはや死語かも知れませんが、日本には謙譲の美徳という精神文化があり、自分のことや人様に差し上げるものは、ちょっとへりくだるとか引き下がった表現をしながら、慎ましく差し出すという美意識があったように思います。

ところで、その誰でも知っている高級ブランドの袋の中はというと、たいていごく普通のなんということもないものであったり、箱入りみやげからさらに小分けしたお菓子類の詰め合わせであったりして、旅行に行って「これ、少しですけどおみやげです!」なんぞと言われると、そういう袋であることが逆に目につき、ついつい変な感じがしてしまいます。
むろん、表向きは丁重にお礼を言ってありがたく頂戴はしますが…。

これを、本当にただの袋として純粋に利用しているだけというのであれば、逆にスーパーのレジ袋でもいいわけですが、この手の人達は決してそういうものはお使いにならないし、果たして単なるおみやげなのか、そのついでにやりたくなる自己主張でもあるのか、どっちが主役なんだかよくわからない気分になります。

マロニエ君なら、むしろ質素な袋などに、実はちょっとイイものを入れて差し上げるほうがよほど粋ってものだし、そのささやかな意外性をつくところで相手の感謝も深いものになると思うんですけどね。

べつに空港で売られているおみやげ品の箱から小分けされたパンダのチョコであれ、パイナップル饅頭であれ、ごく少量のハーブのティーバッグであれ、ご厚意そのものは素直にありがたく思いますが、それをわざわざバカラだティファニーだというような派手な紙袋に入れて相手に差し出すという感覚は、自分だったら絶対にしないというか、意識的に慎むと思うわけです。
だって、そういうことが一番貧乏くさいし、中身も実際以上にショボい印象になりますからね。

実際この手の袋をお使いになる方に限って、中身はむしろ厳しくセーヴされた痕跡が見受けられたりするもので、その甚だしいギャップに苦笑が漏れることもすくなくありません。

ご当人としては、自分は日頃からそういう一流ブランドをよく利用するから、適当な袋となるとついこうなっちゃうだけ…というさりげなさのつもりなのかもしれませんが、そこにむしろ計算された自己顕示がにじみ出ています。
マロニエ君はこの手のブランド小袋でいただくと、自分で使うことは絶対に無いので、申し訳ないけれど即ゴミ箱行きです。
そんな即ゴミ箱行きの人に使うのではいかにももったいなから、別の人に使ってくださればいいようなものですが、まさかそれを言うわけにもいきませんからね。

ちなみに、マロニエ君の知るかぎりでは男性でこれをする人はただのひとりもいません。
べつに男性がそういう細かい気が回らないなどとは思わないし、細やかさでいうなら女性のはるか上を行く男性を何人も知っていますが、なぜかこのパターンだけは女性だけの特徴のように思います。

こういう袋をわざわざ取っておいて、いざというときの小道具として使うというのも、考えてみれば手間ひまかかる自己演出だろうとお察しします。
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シン・ゴジラ

昨年大変な話題となった映画『シン・ゴジラ』が地上波で放映されたので、どんなものかと思い見てみました。

さすがに新しく作られただけのことはあり、随所に現代流に置き換えられた新しさはあったけれど、ゴジラという映画の後味としてはなにかすっきりしないものが残ってしまう、どこか腑に落ちないところを含んだ作品だった…というのがマロニエ君個人の感想です。

簡単に言うと、もう少しストレートにわくわくしながら楽しめる映画であってもよかったのではないかと思うのです。

これがまったく白紙から出てきた映画ならともかく、我々日本人にとってゴジラ映画は子供の頃からずっと慣れ親しんだ存在でもあり、そのイメージを払拭することは良くも悪くもできません。

過去にはなかった凄まじい迫力をもったシーンのいくつかで、さすがは最新版らしく観る者をアッと驚かす部分もあるけれど、あちらこちらでコストカットされた薄っぺらさも感じてしまうあたりは、今風にしたたかに計算された感じもうっすら出てしまっている気がしました。

最大の理由として、その一番の主役であるはずのゴジラが出てくるシーンが、あまりに少なかったような印象だったのですが、他の人はどうなんだろうと思いました。
ゴジラ=破壊シーンとなるのは必然でしょうから、それを増やすとなればコスト増にも繋がるのかもしれないけれど、とにかくゴジラのシーンより、それを迎え撃つ側の若手俳優陣が目を吊り上げて、忙しくセリフ合戦を繰り広げる場面がメインのようで、ときどき思い出したようにゴジラがちょちょっと出てくるという感じ。

もっとも気にかかったというか、ゆったり楽しめなかった最大の原因は、ほとんどすべての出演者が競い合うように猛烈なスピードでお堅い言葉のセリフをまくし立てるばかりで、まるで耳がついていけなかったこと。
むかしのゴジラのどこかのんびりした感じを排し、よりリアルに、政府や関係者たちの切迫感をシャープに描きたかったのかもしれないけれど、あれはいくらなんでもやり過ぎというもの。
大人から子供までだれもが楽しめる作品ということになっているらしいが、あの早口言葉の洪水のような難しいセリフをほぼ2時間聞かされて、それについていける人など果たしてどれだけいるのかと思うばかり。
もしや、これはほとんど聞かなくてもいいセリフなのかもと思いましたが、それにしてはそのセリフのシーンの多いこと多いこと。

映画を見る上では、セリフを理解しながら進むということは基本だと思うけれど、それがまるでビデオの早送りのように高速でせわしなく、あまつさえ一度聞いてもわからないような特殊用語や専門的な言い回しの連続で、まずその聞き取りに集中するだけでも「楽しむ」どころか追い回されるようで、エネルギーをえらく消耗させられてしまうようでした。
これだけですでにぐったり疲れてしまい、映画の面白さが半減でした。

東京にゴジラのような大怪獣があらわれたのだから、その対策に当たる関係者が一様に大慌てで緊迫の連続というのはむろんわかるけど、それがあの不自然極まりないセリフ合戦のようになるのでは、むしろリアリティを欠き、まったく納得しかねるものでしたしちょっと滑稽でもありました。
しかもその内容が憲法や自衛隊法、あるいは科学分野の専門用語を多く含むセリフなので、出演者のほとんどが演技らしい演技もそっちのけでひたすらしゃべりまくり、見ている側はその様子に置いて行かれてしまうようでした。

あれでは俳優諸氏も大変だったでしょうし、噛んだり間違えたりトチったりと、かなりのNGシーンが山とあふれ、ミスらなかったものの集合体をつなぎ合わせたものが本編ということなのでしょうが、もう少し自然にできないものかと思いました。

肝心のゴジラはというと、なぜ生まれて、なぜ東京にきて、最後は要するにどうなったのか、わかったようなわからないような…なぜなぜの連続でした。
ネットの解説などを読めばわかるのかもしれませんが、たかだかゴジラのような娯楽映画で、そんな予習復習をしようとも思わず、もっと普通に見て普通に楽しめるものじゃいけないの?というのが正直なところ。

全体をえらくシリアスに描いたわりには、はじめに出てきた成長前のゴジラは、まんまるお目々のかなり漫画チックなカワイイ系のお顔だったのもかなり笑えましたし、実際成長後のゴジラとあまり結びつかないイメージで、総力挙げて作られた映画だったのかもしれないけれど、全体に完成度はあまり高いとは言えないような気がします。
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危険運転の変質

最近の車の運転マナーというか動きを見ていると、一部のドライバーの身勝手さからくる、予測のできないような動きがかなり増えているように思えてなりません。

全体としては、速度が下がっているようにも見受けられるためか、うわべは穏やかな交通環境といった感じがしないこともなく、それも敢えて否定はしないけれど、そうとばかりは言い切れない面が潜んでいることも確かです。
その一見穏やかな流れの中に、実はアッと驚くような(場合によっては肝を冷やすような)予想の付かない動きをする車が少ないとは言えず、運転そのものの緊張の度合いは以前より高くなっているというのが個人的な印象です。

昔は、飛ばす人は目に見えて飛ばしていたし、速度的な観点から言えば無謀運転も多かったけれど、そういう人たちはそれなりにある種のわかりやすさみたいなものとか、言い方はおかしいかもしれないけれど、その無謀な中にも一定の秩序というか、暗黙のルールみたいなものがありました。
したがって個人的にはそれほど怖くはなかったし、とりあえずそこに近づかないようにしておけばそれで安心できた場合も多々ありました。

ところが今は、一見おとなしそうな流れに見えるのに、まさかと思うような動きをする車が結構多いという点においては、一瞬も気を緩めることができません。
ゼッタイ入ってこないだろうというタイミングでも、ヒュッと入ってきたりで、ウソー!と感じにハンドルを切ったり急ブレーキいうこともよくあります。
もしものことを考えるならドライブレコーダーという証拠記録装置を装着する必要もでてきたと、だんだん我が身の問題としても理解できるようになってきました。

昔はどちらかというと平均的に運転技術も今に比べたら高かったし、自然発生的にルールや互いの呼吸があり、その中で生息できるドライバーだけが晴れてハンドルを握っていたような印象があります。もちろん車とは本来そんな一部の人達だけにあるものではなく、多くの人がハンドルを握りつつ安全に運用すべきものなので、昔の流儀が正しかったなどというつもりは毛頭ありません。

ただ、最近怖いのは、危険察知能力が欠落しているとしか思えないような自己本位の運転が非常に多く、無謀運転の質そのものが変わってきたこと。
路上全体の円滑な交通の流れを乱してもまったく平気というか、いわゆる空気の読めないドライバーが激増してるのは久しいし、昔ならまずあり得ない車間やタイミングで平然と割り込んできたりする車は本当に増えました。

無茶をして、他のドライバーに恐怖を与えたり、後続のドライバーの注意および危険回避に依存したような動きをしておいて、あとからハザードをちょっと点滅させておけば、なにをしても許されると思っているフシのあるドライバーがあまりに多くなりました。

マロニエ君は夜間に運転することが多いのですが、必ずと言っていいほど無灯火の車を何台も目にするし、直進するこちらの目の前にいきなりふらふらと出てきて、そのまま3車線ぐらい斜めに進んで、なにがなんでも目前の右折車線に進むといったような、まったくこちらの予想のつかない極めて深刻ともいうべき危険運転のあれこれをされるのは、本当に迷惑です。
あまりにこういうドライバーが多くて、昔よりも運転するにあたっては、スピードは落ちていても神経が疲れるというのが正直なところです。

さらには闇に紛れたギャングの如き自転車にも注意を払わなくてはいけないし、あれもこれもと一瞬も気が抜けません。
もちろんハンドルを握るにあたっては「一瞬も気が抜けない」のは当然のことであるのは言うまでもないけれど、最近のそれはどこからどんな変化球が飛んで来るかわからないといったピリピリ感であるのは間違いありません。

機械の性能が上がったぶん、人間の感覚が鈍っているのは間違いないようです。
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理解不能

今どきの人の行動を見ていると、やたら悪意に解釈する気はないけれども、ときどきその心中を図りかねることがあります。

例えば、満車の駐車場などで出る車を待っていると、人が戻ってきて車に乗り込んでも、ここからが不自然に長い時間を要します。
昔なら待っている車があることがわかれば少しでも急いで出るなどして、スペースを譲ったりしたものですが、最近ではそんな状況だと、逆にわざとじゃないかと思うほどゆっくり荷物を積んだり、何かゴソゴソと車内の整理のようなことが始まったり、エンジンが掛かってヘッドライトまで点灯しても、それからが異様に長くかかったりします。
こちらも少し近くに寄ってハザードを点滅させていたりするので、待っている人がいるということは十分わかっているのに、とにかく時間をかけるだけかけたあげく、いくらなんでももう動くだろうと思っていると、今度はスマホをいじり始めたりで、こんなパターンはもはや珍しくないほど蔓延しています。

そんなことをしているうちに、別の場所が空いたりすれば、こちらもすかさず空いたほうへ入れるのはいうまでもありませんが、すると故意か偶然か、はじめに待っていたほうの車もスルスルと動き始めたりして、呆れることがあります。

他車も待っているようだから、できるだけ早く譲ってあげようの逆で、待たれているからあえて動きたくない、駐車スペースを明け渡したくないというささやかなイジメの心理のあることが伝わってくるもので、こういうこともストレス社会だなぁと思うしだい。
せっかく自分が止めている場所を他人が欲しがっているということは、それを確保している今の自分はそのぶんの既得権を有する立場で、出るタイミングはあくまでも自由なのだから、その自由枠を最大限行使して合法的な嫌がらせをすることで、いっときの快を得ているのか。

また、こんなことも。
ある日の夜、ミスタードーナツにドーナツを買いに行った時のこと。
マロニエ君が店のドアに近づこうとすると、タッチの差でアラフォーぐらいのおしゃれな女性がツーンとした感じで先に店内に入りましたが、これが運の尽きでした。
時間的なこともあってか、売り場には店員さんがひとりだけで、この女性もマロニエ君も「持ち帰り」だったのですが、そのドーナツ選びにかける時間の長さときたら、そりゃあ尋常なものじゃありませんでした。

店員さんも、持ち帰りと聞いて白いトレーとトングを左右の手に持って構えているのですが、ゆーっくりと全体を見回し、少し腰を折った格好で視線を右から左へ、今度は左から右へ、上から下へ、かとおもうと斜めに視線は移ろい、その熱心な様子は芸術鑑賞じゃあるまいし、なかなか一つ目さえ決まりません。
これはどうなるのかと思っていたころ、ボソッとつぶやくような声でなにか言うと、店員さんもすかさずそれをトレーに載せますが、あくまで1個だけで、その次がまた決まりません。
こんな調子では先が思いやられて、マロニエ君はその女性の横から、何にしようかと見たり覗いたりしてみますが、それでもこの異常なペースはまったくびくともせず、正直マロニエ君もイライラしてきたし、店員さんもきっとそうだろうと思っていると、やはりそうだったのか…二度ほど目が合いました。

いつ果てるともないこの状況で10分ぐらい経過した頃でしょうか、さすがに店員さんもずっと棒立ちになっているこちらのことを気の毒に思ったらしく、飲食スペースでコーヒーのおかわりを注いで回っている男性が戻ってきたチャンスを捕まえて、小声で私の方を接客するように促してくれました。
別に時間を計ったわけではないけれど、この女性客はひとつ選ぶのに平均2分ぐらいはかかる感じで、しかも一種類につきあくまで一個で、最終的にわかったところでは7個買っていたようでした。単純計算でも14分ですが、たしかにそれぐらいかかった気がします。

たかが(本当にたかが!)ドーナツを買うのに、何でそこまでできるのか、そもそもドーナツなんてそこまでして厳選吟味するようなものじゃなくて、もっと気軽に楽しむおやつで、マロニエ君には到底理解できません。
譲り合う気持ちの欠落やうしろに人が待っていることがまったく気にならないのか、あるいは駐車場と同じく、人が待っているからなおさらゆっくりするのか、お客として当然の権利だと思っているのか、あるいは何も意識できないほどドーナツ選びに全神経が集中しているのか。

マロニエ君はとなりのレジが開いたことで、ありすぎる時間ですっかり決めていた3種☓2=6個をつげるとそれらは手早く箱詰めされましたが、いかんせん遅すぎたようで、お釣りを待っているタイミングで、なんと、またして一歩先に隣の女性が先に店を出て行きました。クー!
しかも駐車場では、隣の車の運転席にその女性が乗っていてまたびっくり。
ここでもすぐに車を出そうとはせずに、今度はスマホを頬に当て、悠然とどなたかと会話のご様子でした。
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『そして父になる』

ひょんなことから、普段あまり見ないような映画を見ました。
福山雅治主演の『そして父になる』が、たまたまテレビ放映されたので、どんなものだろうと思って録画していたもの。

出産した病院の看護師によって、同じ日に生まれた子供が故意に取り替えられたことから起こる悲劇と、それを取り巻く人間模様を描いた映画。

病院からの通告よってその事を知らされる衝撃、そこからはじまる親子の愛と悲しみ、突きつけられた過酷な現実が切々と綴られます。
6歳という、年齢的にもかわいい盛りの時期で、自意識や人格ができあがり、さまざまなことが認識できてくる年齢であるだけ、よけいに痛々しさも増すようでした。
マロニエ君は映画のことはよくわからないので、ただ面白いか、楽しいか、心地良いか、味わいがあるか、美しいか等で評価してしまいます。

ところが、この映画はそのどれにも当てはまらないもので、全編に陰鬱な悲しみが漂い、「いい映画を見た!」というのとはまたちょっと違った後味の残る作品だったように思いました。

福山雅治演じる父親は、何事によらず勝つことに価値を見出すエリート建築家で、高級マンションに暮らし、大きな仕事を手がけ、車はレクサス。いっぽうは街の小さな電気店で、なにごとも本音でわいわい楽しく生きるという庶民的な家庭で、いかにも対象的な価値観がコントラストになっています。

そんなふたつの家族同士が交流を重ねながら、やがて血の繋がった両親のもとにそれぞれ引き取られる二人の子供がなんとも悲しげでした。

つくづく思ったのは、福山さんは名にし負うイケメンのミュージシャン/俳優ですが、この役は見ていて最後まで違和感が拭えず、決して彼の本領ではなかっただろうという印象を持ちました。
一流企業のエリートで、高給取りで、子供にも他者よりも抜きん出ることを常に期待しているようなギラギラした野心的な男のイメージがどうにもそぐわないのです。

マロニエ君のイメージでは、福山さんもっと夢見がちで、仕事臭のしないしなやかな男性のかっこよさだろうと感じるだけに、この役に適した俳優はいくらでもいたはずとも思うけれど、福山さんありきで作られた映画なんだったらやむを得ないのかも。
そのあたりの芸能事情にはさっぱり疎いので、もうこれぐらいにしておきます。

意外だったのは、使われた音楽にピアノが多かったことで、冒頭はブルグミュラーの25の練習曲の『素直な心』からはじまり、その後はバッハのゴルトベルク変奏曲のアリアが折りに触れて挿入されました。
それに、記憶に間違いがなければパルティータ第2番の一節もあったような…。

ゴルトベルク変奏曲のアリアは、そのゆったりしたテンポ、特徴的な装飾音が、えらくまたグールド風だなあと耳にするなり思ったのですが、最後のクレジットがでるところでは、なんとグールドのあの唸り声まで入っており、ああもうこれは間違いないと思いました。

はじめのうちグールドだと確信が持てなかったのは、音がずいぶん違う気がして、まるで電子ピアノのように聞こえたからでした。
たまたまなのか、あるいは訳あってそういう処理がかけられているのか、この映画を見るような世代には電子ピアノ風の音が馴染みがいいのか、あるいは映画の中で子供がピアノの練習を電子ピアノでやっているところから、そういう音でいまどきの雰囲気を出そうとしたのか…。

グールドのゴルトベルク変奏曲といえば、猟奇的な映画で話題になった『羊たちの沈黙』でも、レクター博士が差し入れとして要求するのがそのカセットテープでしたが、これほど対極的な映画にもかかわらず同じ音楽が使えるというところにも、バッハの音楽の底知れない深さを感じないではいられませんでした。
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光回線

我が家にとっては、何年来の懸案であった光回線への移行をついに果たしました。

光回線にしませんか?というのは、いろんな会社からイヤというほど電話攻勢をかけられまくって、中にはNTTを名乗るからそうかと思っていたら、そうではないものであったり、あまりにも数が多すぎてもうなにがなんだかわからなくなり、一時はそれとわかると片っ端から断っていましたが、そのあまりのしつこさに根負けして、ついに応じたことも数回ありました。

そして設置工事まで来てもらったことも数回ありましたが、これが下調べから始まって、我家の場合はなかなか超えられないラインがいくつかありました。

詳しいことは、よくわからないから書けないし、書いても意味が無いのでいずれにしろ省きますが、とにかく現状把握と称して、家の中をすみずみまで見ず知らずの工事関係者が動きまわってはなにかを探して回るのは、やむを得ぬこととはいいながら気持ちのいいものではありません。

とくに配線取り回しの関係なのか、電話回線どうなっているかを調べるのは、住人でさえ知らないような部分をああでもないこうでもないと見て回るのですからウンザリです。

このあたりは、新しい家とかマンションならはじめからその前提で設備されているのでしょうが、あとからの追加設置というのは、美観の問題も含めて思ったよりスムーズに行かないものです。

実を言うと、今回はたしか3度目ぐらいの挑戦でした。
ひどいときは外部から引いてきた光回線の真っ黒い線を、家のコンクリートの外壁に這わせた上で、最後は穴を開けて家の中に持ってくるというもので、さらには見るも無様で大きな金具を外壁の数ヶ所にわたってドリルで穴を開けながら取り付けていくというのですから、たかだか光回線ごときで家をそんなに傷つける決断はつきませんでした。

これまで使っているADSLよりも光回線にしたほうが安定して速度も早いのだそうで、たしかに時代は光回線へ移行しているのはわかるけれど、家にいくつも穴を開けて無粋な線を這わせるなど、そんなみっともない姿にしてまで、通信速度を上げようとも思いませんでした。
さらには家の中でも配線は隠されず、壁や天井の中を通すという作業は絶対に無理だと言い張ります。

マロニエ君は、電線のたぐいが家の中にしろ外にしろ目に見える部分にむき出しになるのが嫌なので、それなら結構と工事をキャンセルしてきたのでした。

そのあたりも伝えた上で再挑戦をいってくるので、ついにまた来てもらうことになり、今回は設置場所から線の取り回しなども最も合理的な方法を熟慮した結果、家には一箇所の穴も開けることなく済んだのは嬉しい限りでした。

ただし、マロニエ君がもう一つイヤなのは、工事は光ケーブルとやらを引いてきて家の中に入れ、専用モデムに繋いで電源を入れるところまでで、あとの設定はユーザー自信が行わなくてはならないというものでした。
マロニエ君はこういうことが恥ずかしいくらい苦手なので、この段階で設定ができずネットが遮断されることを最も恐れていました。

「簡単です!」「みなさんやられてます!」というけどそんなことは信用できません。
案の定、これが大変でその手に詳しい友人に来てもらってやってもらっても、なかなかすぐには終わらず、結局、友人がサポートセンターに電話するなどして、1時間ぐらい奮闘してようやくネットが繋がりました。

自分はべつにネット依存症でもないつもりですが、不思議なもので、ネットが途切れて繋がらない状態というのはとても不安で、まるで世間から孤立しているようで無性に嫌なものですね。こんな気分になることが、すでにネット依存症である証拠かもしれませんが…自分では認めたくはないです。

さて、その最大の謳い文句である通信速度ですが、どれほどスイスイと素早いのかと思っていたら、なんのことはない、ほとんど違いがわからないレベルで、これにはかなりガッカリでした。
普通のホームページを見るぐらいではまったく違いらしきものは感じられず、強いて言うならYouTubeなど動画を見る時に途切れることなどがなく、ちょっといいかな…という気がする程度でした。

逆にいうと、時代遅れと言われて久しいADSLって、実はそんなに悪くもなかったんじゃないかと思いました。
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ぶきみな音

つい先日の深夜のこと、そろそろ休もうかと自室に上がろうとエアコンと除湿機をOFFにしたところ、静寂の中からウーッという唸るような音が聞こえてきます。

はじめは冷蔵庫の作動音かな…と思って近づくと、音はまったく全然別のところから聞こえてきます。
それがどう耳を澄ましても、どこからの音か、なんの音なのか、見当もつきません。
壁のようでもあり、天井のようでもあり、あちこちに移動してみるけれど、どうもいまいちわからない。しかし、変な音がしていることは確かで、しかも普段聞くことのない音なので、やはり何なのか気にかかります。

真夜中のことでもあり、こんな正体不明の音が突如するなんて不安は募るばかり。
このまま放置して自室に戻ることもできず、さりとて室内はもう見るところもないし、思い切って懐中電灯を手に勝手口から外に出てみると、それまでウーッといっていた音は一気に音質が変わり、シャーーーッという尋常でない音が耳をついてきました。

「これは水の音」ということがすぐわかり、どうやら足元からのものらしく、屈んでみると地面の奥で水が勢い良く水が流れているのがわかりました。水道管からの水漏れであるらしいことは疑いようもありません!
こういうときって、あまりにも不意打ちをくらったようで、咄嗟に何をどうしていいのかもわからないものですね。
でも、非常にやっかいな、困ったことになったということだけは理解できました。

家の中に戻り、水道なら、やはり水道局だろうとホームページを見てみることに。
それによると、水漏れは陥没事故なども誘発する危険があるので、発見したら一刻も早く連絡をするようにと警告的に書かれています。
そういえば、いぜん福岡市では博多駅前の大陥没事故があって、その規模は全国ニュースになるほどのものだったし、水道局も注意喚起を強めているように思われました。
このとき深夜2時を過ぎていたけれど、フリーダイヤルで24時間受け付けになっており、ともかく電話をしてみることに。

電話に出た担当者は、こちらの住所と、水漏れ箇所は敷地の内側か外側か、というようなことを聞いてきます。
どうやらそれによって修理費用を誰が負担するかが変わってくるようで、この場合あきらかに敷地内だったので、そう伝えると、修理の作業をする水道局の指定業者を案内するので、メンテナンスセンターというところに電話するように言われました。

こちらも24時間対応となっていますが、なかなか電話に出ない。
諦めかけたころ、ようやく男性が出てきて、さっきと同様のことをきかれましたが、その次に言ったことが呆れました。
「この時間ですから、これからすぐに作業員が動くことはありませんので」
「は?」
「水道の元栓を閉める場所はわかりますか?」
「たぶん(あれかなと思って)わかるかもしれません」
「では、そこを開けて、右側にある水道メーターの中のパイロットを見てください。回っていたら水漏れです」
パイロットを見る?…シロウトにいきなりそんなこといわれてもわかりません!
そもそも、こんな夜中に真っ暗闇の外に出てそんなもの見なくったって、地面の中でジャージャーいってる音を聞けば水漏れにきまっているし、だから電話してんじゃん!と思ったけれど、そこは我慢しました。
「で、パイロットが回っていたら、左の止水栓を閉めてください。それで水は止まりますから、朝8時30分すぎにまた電話してください。」

朝8時30分を過ぎると、担当者が交代し、修理業者を紹介するということのようでした。
じゃあ、なんのための24時間対応?と思いましたが、道路や大規模なトラブルの場合は作業隊も動くのでしょうが、一般家屋の水漏れ程度なら一旦元を閉めさせて、対処は翌朝からでいいということなんだろうと思いました。

というわけで止水栓を閉めると音もしなくなり、とりあえずやれやれという感じでした。
とはいえ、最初に音に気づいてからこの電話が済むまでにもかなりの時間がかかったし、朝は朝で修理依頼の電話をしなくちゃいけないし、こうなると、なかなか寝付けず、朝まで寝たり起きたりの繰り返しでした。

時間通りに電話をすると、昨夜とは打って変わってハキハキした女性の声で対応され、それからしばらくして指定業者がやってきて修理開始。
やむを得ず、敷き詰められていた石造り風のタイルも一部を壊すことになり、地面には立派な落とし穴ができるほどの穴を掘るなど、汗みずくになって一日がかりで修理は行われ、夕方前に終わりました。しかも作業員の方はこの酷暑の炎天下の中、作業用の長袖シャツに長いズボン、長靴を履いて、軍手をして、頭には冬のような被りものを巻きつけて、黙々と作業をしてくださいました。
どんなジャンルでも、プロの職人というのはやはり大したものです。

数時間とはいえ、止水栓を閉めれば、家中のすべての給水がストップして不便なことといったらありません。
修理完了後、蛇口をひねればサーッと水が出る、そしてもうあのぶきみな音もしない、そんな当たり前のことにありがたさを痛感しました。
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まくら

人によりけりだと思いますが、枕ほど、しっくりくるものを選ぶのが難しいものもないというのがマロニエ君の実感です。

中には、どんな枕でも意に介さず、あってもなくても平気で、横になるなり爆睡できる猛者がいるいっぽうで、ちょっとでも違ったらたちまち寝付けず、中にはマイ枕持参で旅行に出かける人(実際に実行しているかどうかは知らないけれど)までいるなど、ここは非常に個人差がわかれるところでしょう。

マロニエ君も睡眠には苦労するほうで、どこでもすんなり眠れる人が羨ましくて仕方ありません。
当然、枕との相性は非常に微妙で、そのほとんどが合いません。

昔、自分に合ったお気に入りの枕があったのですが、あまりにも長く使ったため、いくらなんでももう潮時だと思ってこれを退役させ、あればまたこれに戻ってしまうだろうからと、思い切って処分しました。
後継枕はないままの処分でしたから、さっそく新しい枕が必要となりました。
合わないで放ってある枕がいくつもありますが、どれもイマイチ。

とくにダメなのが、今流行の低反発スポンジを使った枕で、自分の頭の分だけじわじわ凹むなど、気持ち悪くて仕方がないし、それにあのネチョッとした陰湿な感じが馴染めません。
かといって、高級快適とされる羽根枕は、見た目は華やかでも寝るとすぐにペシャンコになるし、柔らかすぎ。
一定の高さが保持できず、腰がないのがダメ。

柔らかすぎるのがいけないなら、そば殻枕というのもあるけれど、あそこまでいくと硬すぎるし雑で臭いも気になります。おまけに、ちりちりぎしぎし耳元で独特の音がするし、当たりの優しさがないので、あれではくつろげない。

パイプ枕はそば殻よりはおだやかだが、いかにもそれらしいボコボコした感触がダメ。

さらに最近では、頭を置くところだけ凹んだ形状のものとか、高さが任意に変えられるというアイデア商品風のものもあるけれど、これも試してみてどうにも馴染めず、とても「眠り」という難しいところへ入っていく助けにはなりそうもありません。

いつごろからだったか、オーダー枕のようなものがあり、自分の好みに合わせて、中の詰め物の量や高さを整えてくれるというものも出てきましたが、これらはお値段の方もそれなりで、あまりに多くの失敗を重ねているマロニエ君としては、そんなお高いものを買ってまた失敗に終わるのも嫌で、そちらには手を出しませんでした。
とくにデパートなどでは、売り子さんからつきっきりで薦められることを思ったら、結局最後は「買わされるだけ」という気がして、こちらもあまり近づかないようにしました。

いっぽう、暫定的に毎日使っている枕はどこで買ったものか覚えていないけれど、ごく普通なありきたりのもので、高さが微妙に足りないということで、バスタオルを薄くたたんで下に敷くなどの工夫はしてみるものの、決してしっくりは来ていません。

そんなことでお茶を濁しているうちに、ますます寝付きは悪くなるし、やっと寝ても2時間ぐらいで目が醒めて、そんなことを繰り返しながら朝まで繋いでいるといった状態で、これはマズイと思うように。

いらい、枕が売っているのを見ると、いちおう見てみる習慣だけがついてしまったマロニエ君で、某店では枕もたくさんの種類がずらりと並んでいて、良さそうなものをお試し用のベッドで確認するなどしましたが、「これだ」というものには行き当たりません。

ところがマロニエ君の求めている枕は思わぬところにあったのです。
別の用でニトリに行ったとき、やはりちょっと枕の売り場を覗いてみたら、気になるものがひとつだけあり、やはりお試し用のベッドがあるのでそこで横になってみると、これまでになくハッとするほどいい感じでした。
価格も5000円ほどと、まあ普通なのでついに買ってみたところ、これがもうバッチリでした。

いらい、寝付きも多少よくなったし、途中で目がさめることも激減、睡眠時間も長くなりました。
5000円で毎日の健康と快適が得られたかと思うと、安いものです。
いよいよというときは、やはり2~3万する枕を検討する必要があるかなぁ…とも半ば覚悟し始めていたのですが、際どいところで安く済みました。
こんなに合う枕は滅多にないから、予備にもう一つ買っておこうかな?
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大雨特別警報

今夜、ついに雨が止みました。
一時的にしろ、それだけでも感激するほど降り続きました。

先週までは、梅雨だというのに妙に晴天続きで、うまくすればこのまま梅雨明けとなり、むしろ水不足のほうが心配かなぁ…などと思っていたら、とんでもない間違いで、北部九州には未曾有の大雨による甚大な被害がもたらされました。
ここ数日、テレビニュースからは「観測史上最高の…」というフレーズを何度聞いたかわかりません。

大雨特別警報という最高度の警報が発表され、「命を守る行動をとってください!」とものものしい言葉がテレビ画面に映し出され、アナウンサーも同じことを言いますが、それって何をしたらいいのか皆目見当がつかないものですね。

幸いマロニエ君の住む福岡市は、今回目立った直接的被害はないようでしたが、県内のあちこちの地域では、何人もの死者まで出るほどの深刻な結果となり、あらためて自然災害の恐ろしさ、どうしようもなさを痛感させられました。

通常、だれでも雨が降るのは嫌だけれど、少しのあいだ辛抱すればやがて終わるものという、生まれた時から身に付いた感覚をもっています。
ところが、今回の雨はものすごく密度の濃い雨で、うんざりするほどの長期間でした。
これほどの激しい大雨でありながら、時間が経てども経てどもまったく収束しないというのは、かつてあまり経験したことのないもので、じわじわと恐怖が忍び寄ってくるようでした。

夜から降りだした激しい雨が、真夜中になってもまったく衰えず、翌朝目がさめてもそのままで昼を迎え、午後になり、夕方になり、夜になり、真夜中になり、さらにまた翌日になっても一向に収まることがないというのは相当不気味なものです。

さらには、降り出して二日目だったか、夜半からは無数の雷がひっきりなしに鳴りっぱなしで、それが何時間も続くというのもはじめて経験するものでした。
とにかく何もかもが今回はケタ違いだったようです。

これじゃあ地盤もユルユルでしょうし、人間もしおれてカビが生えそうです。
むろんピアノの前の除湿機はフル稼働で、大きめのはずのタンクは半日で満杯になりました。
もう雨は当分御免被りたいものです。
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イタチ

こないだの日曜日、友人がやってきたときのこと。

何かお昼を作ろうと冷蔵庫をガサゴソやっていると、奥のほうから真空パックされた5本入りのソーセージが出てきました。
すっかりその存在を忘れていて、見れば賞味期限を4ヶ月!も過ぎており、真空パックの場合1~2週間ぐらいであれば期限切れでも平気で食べてしまうマロニエ君ですが、さすがに4ヶ月ではちょっと食べる勇気はありません。

ゴミ箱に放り込もうとすると、友人が庭に置いてみよう?と言い出します。
マロニエ君宅の付近はカラスが少なくなく、ゴミを出すにもその被害を想定していちいちネットを掛けたりするぐらいだから、そんなことしたらみすみすカラスにくれてやるようなものと言いましたが、友人は面白がってどうしても庭に置いてみようと、いい歳をして子供のようなことを言い出しました。

マロニエ君もどうせ捨てるのだからと好きにさせていたら、友人はパックをあけて5本のソーセージを庭の中央にばらまきました。

結局はあとで拾って始末しなくてはいけないだろうと思っていたところ、置いてから10分か15分ぐらい経った時でしょうか、友人の「あっ、見て見て!」という声で庭に目をやると、これまで見たこともない茶色の小動物がちょこちょことやってきて、ソーセージを口にくわえたかと思うと、あっという間に小走りにどこかに消えていきました。

マロニエ君宅の隣家は庭も広く、一部が藪のようになっているのでそのあたりに棲んでいるのか、あるいは隣家の屋根裏あたりが住処なのか、とにかくこれまで一度も見たことのない体調30cmほどのイタチ君のようでした。
友人も思いがけない珍客の到来に大満足の様子で大はしゃぎ。

それから数分後、「あ、また来たよ!」というので見ると、さっきと同じイタチが、細長い身体を波打つようにくねらせるようにしながらやってきて、また1本ソーセージをくわえて同じ方向に去って行きました。
思いがけないごちそうを発見して興奮しているのか、イタチ君はその後も数分間隔でやってきて、けっきょく5本全部のソーセージを持って行ってしまいました。

その後も、まだ何かないのかと思っているらしく、何度もやってきては、今度は庭の隅や塀の上なんかもぐるぐる走り回ってごちそうを探しまわっていました。
イタチなんてどんな動物かは知らないけれど、窓越しに見ているぶんにはちょっと可愛いくもありました。

帰る方角は決まってお隣の藪の方なので、きっと近くに住処があってそこには家族がいるのか、自分だけなのかはわかりませんが、面白いものを見ることができたという思いと、でも、あれを食べて大きくなってまたこっちに来るようなことになったら困るなあという気分でした。

不思議なのは、いつも悩みの種となっているカラスがまったく来なかったこと、さらには普段は一瞬もその姿を見せたことのなかったイタチ君が、最初にどうやって我家の庭にばらまかれたソーセージに、ああも短時間で気がついたのかということ。

まあ、順当に考えれば、相手は野生動物でもあるし、人間には想像もつかないような嗅覚でもあるのでしょう。
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一瞬の悪夢

いささか滑稽な話ですが、人間はいつ何時、どんな目に遭うかわからないという経験をしました。

日曜の夕方、外出する前に車の窓を拭こうとしてバケツに水を溜めようとしたときのこと。
我が家のガレージの水道には、洗車のために長い巻取り式のホースリールを取り付けています。

そのホースは先端を回転させることにより、水の出方が4種ほど変化するようになっているものですが、それをいちいち動かすのも面倒なので「シャワー」の位置のままにしていたのです。
この日はちょっと急いでいたため、つい蛇口をひねる量が大きめだったのか、はじめバケツ内でおとなしくしていたホースが突然、コブラの頭のように動き出し、すぐ脇で窓拭き用ウエスの準備をしていたマロニエ君に向かって、盛大にシャワーの雨を浴びせかけました。

この予期せぬ事態に、もうびっくり仰天!
外出用に着替えていた服は上下とも無残なまでにびしょ濡れとなり、おまけに動きまわるシャワーヘッドを追いかけているうちに、水は目の前にある車にも容赦なく水を振りまき、車も1/3ほどがびしょびしょです。

というわけで、人も車も仲良く水浸しとなりました。
服のほうはというと、とてもちょっと待ったぐらいで乾くようなレベルじゃないので、一旦家に戻って全部着替えるほかはありませんでしたが、急いでいるときに限ってこんな理由で着替えをするときの、なんと情けなかったことか!

この日は梅雨にもかかわらず、せっかく雨は降っていなかったのに、車の左側はたったいま雨の中を走ってきたかのように屋根まで水滴だらけで、このときは笑う余裕もないほどでした。車のほうは普通なら放っておくところでしょうけど、雨水と違い、水道水は放置すると塗装のシミになるので、マロニエ君としてはそのままということができず、ここから車の水の拭き取り作業までやるハメに。

途中、何度かバケツの水でぞうきんを洗いますが、腰をかがめたときにビビーッと針で刺すような痛みがあることが判明。
はじめは大して気にも留めなかったけれど、何度やってもあきらかで、しかもその痛みは決して小さいものではなく、シャワーがこっちに向かって攻撃してきたときにあまりにも慌てて、ふだんあり得ないようなアクションでのけぞったのが原因だというのはあきらかでした。

これは困ったことになったとは思ったけれど、まあそのうち治るだろう…というか治るのを待つしかないわけで、とりあえず人との約束もあり出発することに。
運転中はシートに身体も収まっているのでわかりませんでしたが、40分ほどで目的地に到着、車を降りようとしたときに初めて猛烈な激痛が体中を貫きました。
右足を地面に出して立ち上がろうとすると、その痛みもさることながら、まったく力も入りません。
やむを得ず両足を外に出し、友人の手助けで両手を支えてもらいながら、数分間かけてやっとの思いで車の外に這い出すことができましたが、激痛は収まらず、支えがなければその場に立っていられないほどでした。

これでは歩くこともままならず、ゆっくりゆっくり腰を伸ばしてみると少しずつ痛みが収まり、それからゆっくりではあるもののようやく歩けるようにはなりました。立って歩くというかたちが定まってくると、なんとかそのことはできるようになるのですが、また座る/立つということになると、そのたびに脂汗が出るような痛みが腰から背中にかけて襲ってきました。

思いがけない水攻めに遭って、イナバウアーではないけれど、咄嗟によほどむちゃな身体が壊れるような動きをしたのでしょう。

その日はなんとか無事に自宅に帰り着きましたが、やはり最も厳しいのは車から降りるときでした。
車のシートは普通の椅子と違って深く座り、運転は腰に重心をかけているから、そのカタチがいったん固まると、今度は腰を伸ばすという変化が一番きついようです。車から降り立ったときは精も根も尽き果てたようでした。

一旦こういうことになると、日常生活も不便の連続で、何をするにも腫れ物にさわるような慎重な動きになってしまい、健康の有り難みをイヤというほど知らされます。
まあ、これが自分の腰ぐらいだからいいようなものの、例えば深刻な交通事故なども大抵は直前まで予想もしないような僅かなことが発端となって起こってしまうのだろうと思うと、あらためて気を引き締めておかなくてはいけないと思いました。

早く治って欲しいけれど、この手合は時間もかかるでしょうし、焦ってもどうにもなりませんね。
たかだか車の窓を拭くというだけのことが、えらいことになったものです。
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稀有な出来

ピアノのブログにたびたび車の話を書くのもどうかと思いますが、以前の続きでもあり、訂正でもあり、意外な発見でもあるようなことがあったのでちょっと書いておきたくなりました。
というか、車の話というよりは、モノの善し悪しを左右する微妙さや分かれ目についてのことと捉えていただけたら幸いです。

某辛口自動車評論家が自身の著書の中で、フォルクスワーゲン・ゴルフ7(7代目のゴルフ(2013年発売))の、1.2コンフォートラインというモデルを「ほとんど神」「全人類ほぼ敗北」という、あまり見たことのないような激賞ぶりだったので、そこまでいわれると、ちょっと乗ってみたくなってディーラーに試乗に行ったことを以前書きました。

評論家氏の表現をもう少し引用すると「1周間前に乗ったアウディA8(アウディの最高級車)にヒケをとらないレベル」「Aクラス(メルセデス)、V40(ボルボ)、320i/320GT(BMW)、アルピナB3(BMWのさらに高級仕様)、レクサスLS、E250/E400(メルセデス)、アストンマーティン(車種略)、S400/550(メルセデス)、レンジローバーなど2013年はいろんなクルマで往復5~800kmのロングドライブにでかけたが、ゴルフの巡航性はマジでその中でもトップクラス、疲労度は1000万円クラスFクラスサルーンとほとんど大差なかったのだから、全人類敗北とはウソでもなんでもない。」「実に甘口で上品なステアリング。走り出しも静かでフラットで、滑るよう。」「お前はレクサスか」というような最高評価が、単行本の中で実に16ページにわたって続きました。

俄には信じられないようですが、この人はベンツであれフェラーリであれ、ダメなものはダメだと情容赦なくメッタ斬りにする人で、じっさい彼の著書や主張から学んだことは数知れず、とりわけ今の時代においては絶滅危惧種並みの人です。

その彼がそれほど素晴らしいと評するゴルフ7とはいかなるものか、マロニエ君もついに試乗にでかけたのですが、結果はたしかに悪くはないけれど、その激賞文から期待するほどの強烈な感銘は受けずに終わったことは以前書きました。ただし、試乗したのがヴァリアントというワゴン仕様で、通常のハッチバックとはリアの足回りが異なり、ハッチバックとの価格差を縮めるために快適装備が簡略化され、そしてなにより全長が30cm長くて重心が高く、車重も60kg重いという違いがあったからではないか…とあとになって考えました。
クルマ好きなくせにずいぶんうっかりな話です。

そこで、ディーラーには申し訳なかったけれど、再度ハッチバックでの試乗をさせてほしいと申し入れました。
日時を約束して再び赴くと、某辛口自動車評論家が激賞したものと同じ仕様の、つまりワゴンではなくハッチバックの1.2コンフォートラインが準備されていました。助手席に乗ってシートベルトをした営業マンの「ドーゾ」を合図に慎重に動き出して数秒後、「え?」これが前回とはまったくの別モノなことはすぐわかりました。
前回「車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかる」と大そう生意気なことを書きましたが、その動き出し早々、なんともいえないしっとり感、緻密でデリケートな身のこなし、ハンドル操作に対する正確無比かつリッチな感触など、車のもつあれこれの好ましい要素にたちまち全身が包まれました。

ディーラーの裏口からの出発だったので、細い道を幾度か曲がりながら幹線道路に出ましたが、その上質な乗り味は狭い道での右左折でも、ちょっとしたブレーキの感触でも、国道へ出てからの加速でも、すべてが途切れることなく続きます。

自動車雑誌も評論家も、昔のような歯に衣着せぬ論評をする気骨のある風潮は死滅しているのが現状で、誰もが誰かに遠慮して本当のことを書かなくなりました。いうまでもなく常にスポンサーの顔色をうかがい、本音とは思えぬ提灯記事ばかりが氾濫しているのです。
というわけで、現在では、この人の言うことだけは信頼に足ると思っていた某辛口自動車評論家だったのですが、第一回目のワゴンの試乗以来、もはや彼の刀も少々錆びてきたんじゃないか…という失望の念も芽生えていたところでした。

しかし、それは嬉しい間違いだったようで、さすがに「神」かどうかはともかく、なるほど稀に見る傑出した1台だということはすぐに伝わりました。価格はゴルフなりのものですが、これが何台も買えるようなスーパープライスの高級車の面目を潰してしまうような(走りの)上質感と快適性とドライビングの爽快さを感じられる稀有な1台であることは、たしかにマロニエ君も同感でした。
ボディは軽く作られている(現在の厳しい安全基準とボディ剛性を維持しながら、ゴルフのような世界中が期待する名車を軽く作るというのは、ものすごく大変なこと!)のに剛性は高く、小さなエンジンを巧みに使いながら、まったくストレス無しに軽々と、しかもしなやかさと濃密さを伴いながらドライバーの意のままにスイスイと走る様には、たしかにマロニエ君もゾクゾクもしたし口ポカンでもありました。

ついでなので、1.4ハイラインという、もう少し高級な仕様に乗ってみましたが、こちらは確かにエンジンパワーは一枚上手ですが、1.2コンフォートラインにあった絶妙のバランス感覚はなく、従来のドイツ車にありがちなやや固い足回りと、上質な機械の感触を伴いながらある種強引な感じでズワーッと走っていく感じでした。これ1台なら大満足だったと思いますが、1.2の全身にみなぎるしなやかな上質感を味わってしまうと、相対的にデリカシーに欠ける印象でした。

べつに無理してオチをつけるわけではないけれど、結局、車も楽器と同じだと思いました。
要は理想の設計とバランス、各部の精度の積重ねが高い次元で結びついた時にだけ、まるで夢の様な心地良いものがカタチとなって現れることが稀にあるということ。それは同じメーカーの製品であってもむろんすべてではなく、なにかの偶然も味方しながら、ときに傑出したモデルが飛び出してくるということでしょうか…。
濃密なのに開放され、奇跡的なのに当たり前のようなバランス、ストレスフリーで上品な感じは、まさに良い楽器が最高に調整された時に発する、光が降り注ぐような音で人々に喜びを与えてくれる、あんな感じです。
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感銘の不在

BSで録画しているものの中から、マリインスキー・バレエの『ジゼル』を見ました。

昔はチャイコフスキーの3大バレエを始め、ジゼルなどのクラシック・バレエはよくテレビでも放映されていた記憶がありますが、最近はもっぱら創作バレエ的な現代もののほうに軸足が移っていったのか、中には美しいもの斬新なものもあるけれど、マロニエ君にとっては30分見ればいいという感じで、古典の名作を落ち着いて見る機会が減ったように思います。

そういう意味でも『ジゼル』全2幕をじっくり見られるのはずいぶん久しぶりな感じでした。
ジゼルを踊ったのは、最近の顔ぶれはあまり詳しくないけれど、どうやら同バレエ団のプリンシパルらしいデァナ・ヴィニショーワ、アルブレヒトはパリオペラ座からの客演でマチュー・ガニオ。

ボリショイと並び称される伝統あるマリインスキー・バレエがホームグラウンドでおこなった公演とあって、それなりに期待したのですが、オーケストラを含めて(指揮もゲルギエフではないし)全体に印象の薄い、軽い感じで、現在のメンバーでそつなくこの名作を踊りましたという感じだけが残りました。

要するに他のジャンルと同じ傾向がバレエにも波及しているというべきなのか、みんな上手いし、決められた振付を難なくこなしてはいくものの、観る側に深い感銘というのが伝わってこないもので、器楽演奏でもオーケストラでも、なんでもがこういう流れに陥る時代が、ジャンルを超えて浸透しているということでしょう。

マリインスキー・バレエのジゼルならメゼンツェワの映像も残っているし、写真以外では見たことはないけれど、往年の名花であったイリナ・コルパコワもオーロラ姫の他にジゼルを得意としたそうですし、ボリショイの歴史にその名を残すプリマであったマクシモワもジセルがお得意だった由。
また、1980年代だったか、ボリショイの芸術監督であったグリゴローヴィチの舞台を、当時のNHKが集中的に収録したことがありましたが、あの時代のボリショイで女王のごとく君臨していたナタリア・ベスメルトノワが踊ったジゼルは、さすがに若いうぶな娘には見えなかったけれど、それはそれは濃厚で彫りの深い芸術そのものの踊りでした。
おまけに、それからほどなくしてボリショイの日本公演があって、ほぼ同じメンバーで実演のベスメルトノワのジゼルを堪能することができましたが、ずっしりとした百合の花のような踊りは他を圧して、一瞬一瞬が味わい深かく、しかも正統的かつエレガントであったのは一生忘れることはないと思います。

その点、今度見た新しいジゼルは、なにもかもが安く仕立てられた簡易製品のようで、みんな上手くてべつだん問題はないけれど、真にいいものに触れたときだけにある、心の深いところが揺さぶられて覚醒させられるような後味はまったく残りませんでした。
ミスもなく、テクニックもあり、決められた通りの振り付けを淡々とこなしていくだけで、別のキャストでもいいという感じ。

昔のままだったのは、マリインスキー劇場の、まるで王が引きずる豪奢な衣装のような緞帳だけでした。


何もかも安く仕立てられたということでふと思い出しましたが、辛口批評で評判のさる自動車評論家の単行本を読んでいると、7世代目に当たるVWゴルフを「神」とまでいって絶賛しまくっていたので、そんなにも素晴らしい現行ゴルフとはいかなるものか、将来の買い替えへの予備知識も兼ねて試乗に行きました。

工業製品としては、一部の隙もなく作られているし、今時のぶくぶくしたデザインではなくてカッコもいいし、さすがあれだけ褒めちぎるだけのことはあるらしいと、期待に胸を膨らませてスタートしました。
ちなみに、車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかります。
もちろん悪くはありませんが、期待ほどではない。そこそこいいのですが、なにも「神」を引き合いに出すほどいいのかというと、それほどでもありませんでした。

試乗したのはヴァリアントというワゴンタイプで、辛口評論家が絶賛していたのは通常のハッチバックタイプでしたので、その差はいくらかあったかもしれません。助手席のディーラーの人に聞いてみると、ワゴンタイプのほうが重い荷重を想定してリアのスプリングレートが多少ハードに仕立てられているので、普段の乗り心地は若干固いとのこと。
また、エンジンは時代の趨勢によって「ダウンサイジング」といって、小さな排気量にターボを付けて、より大きな排気量のエンジン並にパワーとトルクを得ながら低燃費も両立するというもので、これがまた「1.2リッターとは思えない力」と書かれていたけれど、マロニエ君は正直いってあきらかに実用性の点からいってもアンダーパワーで「ちょっときついなぁ…」と感じました。

車のことをわざわざここに書いた理由は全体的な印象故で、実用車としての完成度、装備、パワーや燃費、ハンドリングなど、ひとつひとつの要素はよく出来ておりちゃんと時代の要求をちゃんとクリアされているけれど、全体からにじみ出る雰囲気にどうも安っぽさが隠せないというか、いかにも現代のテクノロジーで作られた、ギリギリによく見せようとした車という出自が隠せていませんでした。
見た目も立派だし、なかなかのグッドデザインでもあるけれど、製品から醸しだされる重みとか充実感、もう少し甘っちょろい言い方をするなら、かつてのドイツ車にあった、いいものだけがもつ有り難みとか作り手のプライドのようなものを感じるまでには至りませんでした。

この現代最高と評されるジゼルとゴルフに、なにやらとても残念な共通項を見た気がしたわけです。
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カーナビもほどほどに

先般書いた関西への旅ですが、今回は途中出雲方面に立ち寄ることなどもあって、車で行きました。

車本体にもカーナビはありますが、マロニエ君も時代の趨勢に従って今回はiPod miniをアームレストに置いて、グーグルナビをメインに、車載のカーナビをサブ機として走りました。

急ぐときの使いやすさ、見やすさ、ルートの種類が選択できることなど、カーナビのほうがまだまだ上を行く点も多いけれど、グーグルナビがなによりも優勢なのは、地図情報が常に最新のバージョン(しかも無料)である点でしょう。
で、途中まではグーグルナビを使っていたのですが、2日目に大阪市に入るあたり、宿泊地であるホテルを目指すときにはカーナビを使いましたが、結果からいうとこれが大いなる間違いでした。

大阪での宿は安くて快適・便利に泊まれたらいいというわけで、JR福島駅(大阪駅のとなり)の真ん前にあるホテル阪神を予約していました。
しかし、マロニエ君は東京の道はだいたいわかるけど、大阪はまったくチンプンカンプンなので、ひたすらカーナビの指示に頼りっきりでした。

いよいよホテルが近づいてきたという時、隣の友人が「あ、ここを左折!」とほとんど叫び声に近い言い方をし、慌ててハンドルを左に切りましたが、そこは福岡でも走ったことのないような信じられないほどの狭い道で、道というより路地裏といったほうがいいようなところでした。

しかもただ道が狭いだけではなく、いろいろな看板やら自転車がひしめき合い、普通の判断じゃ通るのは無理。
とてもじゃないけれどこんなところを走る自信はありませんが、カーナビはこの道だと言っているし、目指すホテルは(この時点ではよくわからないけれど)目前のようで、とにかく最大限の注意をしながら「行くしかない」ということになりました。

やがて左に曲がる指示が出ますが、とても曲がれるような幅はないし、あいかわらず多くの自転車はじめガチャガチャとモノが無造作に飛び出しているし、さらに曲り角には意地悪のように電柱が何本もあって、これは無理と言いましたが、だからといってホテルをスルーするわけにも行かない。

左右のミラーなど数センチ、脂汗の出るような思いで、なんとか曲がることだけはできたものの、なんとすぐ先は行き止まりではないですか!!!さらに追い打ちをかけるように後ろから軽トラがこの道に入ってきました。

バックして自分の車をどかさないことにはどうにもならず、この時点でもうほとんどパニックでした。
前進でさえやっとの思いで左右数センチのすき間を狙いながらやっと入ってきた道を、今度はバックで、しかもさっき途中で左折した角をバックで曲がらないことには、後ろで待っている軽トラが前に進むことはできません。
さすがにこの軽トラもこちらが難渋しているとわかっているらしく、おとなしく待ってくれてはいます。

マロニエ君の車は今時にしては大型車の部類なので、これはとても無理だと思いましたが、ここで車を捨てていくわけにも行かず、何度も切り返しながらバックで左の角に入ろうとしましたが、あまりの狭さに身動きが取れず、ついに車が電柱に接触しまいました。
全身脂汗に包まれながら、なんとかその場を脱したものの、車を降りてみると、フロントの右側(あまりにも後ろと右側に気を取られていたため、こっちの注意が手薄になっていたようです)にザーッと電柱でこすった傷跡が残り、もうがっかり。

車をぶつけるのにどこならいいということもないけれど、やはり遠い旅先でそういう事が起こるのはショックも倍増です。
その後、カーナビを無視して大きな道に出て、普通にホテルを探すと、なんとさっき通ってきたばかりの福島駅前の大通りに面した大きな建物がそれで、そこには堂々たるエントランスというか、かなり広い車寄せまであるのを見たときは、二度腰が抜けました。
つまり我々は、カーナビ様の命令に盲従しすぎたため、目指すホテル前を通過したあげく、あのジャングルのような路地裏に迷い込んでしまったのでした。

痛い教訓でしたが、カーナビというのはルートも情報も決して絶対なものではなく、とくに目的地のどこを示すかによって最後のルートが大きく影響を受けのは、よほど要注意であると身を以て経験させられました。
これがはじめから正面玄関を示してくれていれば、何も事はおこらなかったはずなのに、地元ならともかく、見知らぬ土地でこそ頼りにするのがカーナビで、それをいちいち疑うことはやはりしないし、言われる通りにしてしまうのが困りものです。

それ以外は無事に福岡に戻って、車はさっそく板金修理に入っていましたが、昨日やっと連絡があり、塗装の修理が終わったそうです。やれやれ。
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活気の衰退

何とはなしに、ちょっとしたことで寂しい時代になってきたなあと思うことがあります。
一例が、いろいろな店舗の夜の営業時間、とくに深夜営業を売り物にしていた飲食店(アルコールを伴わない店とかファミレスのこと)などの営業時間が軒並み短くなっていくことや、夜、気軽に車で行ける書店がどんどん減ってきていることなどにそれを感じます。

ファミレスの代表ともいえるロイヤルホストなどは、以前ならあちこち24時間営業も珍しくなかったのに、今では一律(例外はあるのかもしれませんが)0時閉店ということになってしまったようです。
これには今の世相というか、人々の生活パターンの変化が深く関わっているのは明らかでしょう。

例えば名前を出したついでにいうと、土日のロイヤルホストなど夕食時間帯に行こうものなら、それこそ入口のドアから人がもりこぼれそうなほど順番待ちのお客さんで溢れかえり、名前を書いて席が空くのを満員電車よろしく待たなければならないほど、それが8時過ぎぐらいをピークに一気に人が減り始め、10時を過ぎる頃にはさっきまでの喧騒がウソのようにガラガラになってしまいます。

車の仲間のミーティングなどでは、ファミレスは時間を気にせず談笑できる不可欠の場所だったのに、少し遅くなるとついさっきまでざわざわしていた店内は一気に潮が引いたようになり、閉店時間が迫ると残りの僅かな客は否応なしに追い出されてしまうようになりました。

マロニエ君の世代の記憶でいうと、以前は深夜の時間帯はもっと世の中に活気やエネルギーがあふれていました。
とくに若い人は夜通し遊ぶというようなことは平気の平左で、各々なにをやっていたのかはともかく、明け方に帰るなんぞ朝メシ前でしたし、当時の中年世代だってもっと活発でエネルギッシュだったように思います。

過日、連休で遠出をしたところ終日猛烈な渋滞に遭い、疲れてヘロヘロになって帰ってきたことを書きましたが、呆れるほど日中の人出はあるのに、ある時間帯(おそらく8時から9時)を境に、まるで動物が巣穴に戻るように人はいなくなります。
以前より、明らかに早い時間帯に、申し合わせたようにみんな帰宅の途に就くのでしょう。

昔は厳しい門限なんかを恨めしく反抗的に思うことがあったのに、今じゃそんなものはなくても、自然に、ひとりでに帰って行ってしまう真面目ぶりには驚くばかりです。
それだけ、夜の外出が現代人にとって楽しくないということもあるしでしょうし、翌日の仕事や学校に備えるという配慮も働くのか、あるいは体力気力おサイフの中も乏しいのかもしれません。それ以外の要因もあるのかもしれませんが、とにかく世の中全体が節約志向で元気がなく、まるでひきこもりのような印象を覚えます。

深夜まで出かけるというのは、基本的には相手あってのことで、今時のようにスマホ中心の、人と人とが淡白な交流しかしないようになると必要もなければ魅力も失ってしまったのかもしれません。
それに追い打ちをかけるように、現代はどこか不自然な感じに家族中心主義的で、それ以外の交際はずいぶんと痩せ細ったようにも思います。

さらにもうひとつ驚いたのは、友人がテレビで聞いたそうですが、やはり24時間営業をはじめ深夜営業のファミレスやファストフード店が、全国的にものすごい勢いで減っているらしく、その一因が若者の車離れにもあるというのです。
たしかにこういう店は車で行くことを前提としていますから、仲間内で誰も車を持っていないことが普通(らしい)今どきの若者の行動パターンにはそぐわなくなり、だんだん深夜の客足が遠のくのも無理からぬことかと思いました。

本屋も、それが悪いという意味ではないけれど、あるのはたいてい同じ名前の店ばかりで、書店と言っても店内のかなりの部分はDVDなどのレンタルなどが大手を振り、書籍売場はずいぶん剥られて、置かれている本も、大半が雑誌かコミックか実用書のたぐいばかりで、本らしい本というのは無いに等しく、これひとつみても文化が衰退している感じです。

いろんな楽しみが増えたといえばそうなのかもしれませんが、あまりのスピードについていけないし、むかしからある普通の楽しみは、まさに絶滅危惧種ですね。
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父から子へ

先日の日曜のこと、ちょっとした用があって郊外まで友人と出かけた帰り道、夕食の時間帯となったので、どこかで食べて帰ろうということになりました。

ところがマロニエ君も友人も外食先として思いつくレパートリーをさほどが多くもたない上、前日も数日前も外食だったので、同じものは嫌だし、日曜ということもあって、どこにするかなかなか思いつきません。
あれもダメ、これもイマイチ…という感じで、どうも適当なところがないのです。

やむなく行き先が定まらないまま車を走らせていると「餃子の王将」のネオン看板が目に入り、いっそここにしようかということになりました。
しかし幹線道路に面したそこはかなりの大型店舗であるにもかかわらず店内は超満員!
ガラス越しに待っているらしい人が大勢見えるし、駐車場も止められない車がハザードを出して待機しているため、ここはいったんスルーすることに。

そこから車で10分ほどの国道沿いにも同じ名の店があったことを思い出し、そちらへ向かうことに。
こちらも駐車場は満車に近かったけれど、なんとか1台分のスペースは探し当てたし、すこし外れた場所であるぶん店内の混雑も先ほどの店舗よりいくらかおだやかでした。

少し待って席に案内され、さあとばかりに分厚いメニューを開こうとすると、すぐ横からやけに大きな話し声が聞こえてきました。
父と若い息子の二人連れらしく、父親のほうがさかんにしゃべっていて、息子は聞き役のようでした。
いきなり、
「ま、お前も、野球して、大学に入って、オンナと同棲して、今度は就職だなぁ!」と感慨深げに言いますが、その父親の横は壁で、それを背にこっちを向き、通りのいい大声でしゃべるものだから、困ったことに一言一句が嫌でも耳に入ってくるのでした。

マロニエ君は一応メニューを見ていたのですが、その父親から発せられる奔放な話し声が次から次に聞こえてくるのでなかなか集中できません。
友人もマロニエ君がこういうことに人一倍乱されることを知っているので、困ったなぁという風に笑っています。

こういうあけすけな人が集まるのも「餃子の王将」の魅力だろうと思いつつ、店員が注文をとりにきたので、まず「すぶた」と言おうとした瞬間、さっきの「オンナと同棲して」という言葉が思い出されて、可笑しくて肩が震え出しました。
気を取り直してもう一度「すぶた」と言おうとするけれど、笑いをこらえようとすればするほど声が震えて声にならず、それを察した友人がすかさず代ってくれて、無事に注文を終えました。

その父親は、自分が務めた会社をあえて「中堅だった」といいながら、自分がいかに奮励努力して、同朋の中でも高給取りであったかを、具体的な額をなんども言いながら息子に自慢しています。
「だから心配せんでいい!(たぶん学費のこと)」というあたり、なんとも頼もしい限りで、大学生と思しき息子も自慢の父親であるのか、そんな話っぷりを嫌がるどころか、むしろ殊勝な態度で頷きながら食べています。

「お前の野球は、無駄じゃなかったよ。それがいつかぜったい役に立つ筈。」と励ますことも忘れません。

そのうち父親の話は、人間は海外へ出て見聞を広げなくてはならないといった話題に移っていきました。
自分がそうだったらしく、いかに数多くの海外渡航を経験したかをますます脂の乗った調子で語りだし、同時に息子の同棲相手の女性が一度も海外旅行を経験したことがないということを聞いて、そのことにずいぶん驚いたあと、いささか見下したような感じに言い始めました。

「ま、最初は釜山に焼き肉を食べるのでもいいんだよ、まずは行ってみろ」というような感じです。
日本にだけいてはわからないことが世界には山のようにあるんだということが言いたいようで、それはたしかに一理あるとも思えましたが。

翻って自分はどれだけの国や都市、数多くの海外経験を積んだかという回想になり、これまで訪れた行き先の名が鉄道唱歌の駅名のようにつぎつぎに繰り出しました。ずいぶんといろいろな名前が出ましたが、どうも行き先はアジアの近隣諸国に集中しているようで、訪米の名は殆どなく、唯一の例外は「ハワイだけでも21回は行ったなあ…」と誇らしげに、目の前で焼きそばかなにかを頬張る息子に向かって言っています。

はじめはよほど旅行が趣味のお方かと思っていたら、どうやらすべて仕事で「業務上、行かされた外国」のことのようでした。
さらに、「ホテルはヒルトン…シェラトン…ほとんど5ツ星ばかりだった。そういうところに行かんといかん!」と、最高のものを知らなくちゃいけない、安物はダメだ、お前もそういう経験ができるようになれよという、陽気な自慢と訓戒でした。

海外ではずいぶんたくさん星のついた高級ホテルばかりをお泊りになった由ですが、いま息子とこうしている場所は「餃子の王将」というのが、マロニエ君からみれば最高のオチのようにも思えましたが、それはそれ、これはこれというところなんでしょう。
終始悪気のない単純な人柄の父親のようで、久しぶりに会った息子に、父の愛情と威厳を示す心地良い時間だったようでした。

さらに驚いたのは、息子も父親の話に気分が高揚してきたのか「そんな仕事がしてぇ!」と言い出す始末で、ここでマロニエ君は思わず吹き出しそうになりましたが、食事をしながら、真横からどんな球が飛んできてもポーカーフェイスというのは、かなりスタミナのいる時間でした。
それにしても今どき珍しい、父子の麗しき姿を見せられたようでもあったことも事実です。
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『蜂蜜と遠雷』

知人からの情報で、いま話題だという小説『蜂蜜と遠雷』を読了しました。

この作品が直木賞受賞などというのはマロニエ君にとってはどうでもいいことだったけれど、内容がピアノコンクールを題材とした異色の小説ということで、珍しさに押されて読んでみることにしたのでした。
書店で手にとったときは、予想よりもずっと分厚い本で、文字列も上下二段組にされているなど、文字数もかなりのものでしたが、少し前の『羊と鋼の森』がそこそこおもしろかったこともあって、それなりの期待と興味をもって購入しました。

しかし(あくまでも個人的感想ですが)、それは読み続けることが苦痛になるほど内容に乏しく、表現も平坦安直で、この作者がそもそも何を言いたいのか、読者に何が伝えたかったのか、この作品の主題は何であるか、まったく不明。いくら読み進んでも、その核心が浮かび上がり、作品全体が収束してくる感覚を得ることはできませんでした。
作者は恩田陸という女性で、かなりピアノがお好きな方なんだそうで、それは甚だ結構なことですが、小説として作品にするための目的、周到な準備とか構想などがほとんど練られていないのでは?と思わざるを得ない印象でした。

文章においても表現の妙とか格調というものがまるでなく、ありふれた実用書の文体のほうがよほどマシではないかと思えるほどだったし、だいたい本を読むと、大いに膝を打つこと、ここは覚えておきたいなというような部分がいくつもあって、マロニエ君は極細の付箋のようなものを貼り付けて挟んでおくこともあるのですが、そういう部分も見事なまでに皆無。

こう言ってはなんだけれど、でもこれは直木賞まで受賞して、プロの文芸作品として立派な装丁をされて書店で大量販売されているものなのだから、この際遠慮なく言わせていただくと、構成など無いに等しいし、綿密な下調べや細かい調査がなされているとも感じられない。表現も陳腐な言い回しの連続で、各コンテスタントの心理描写に至ってはほとんどマンガの世界で、あくびの出るような文章が読んでも読んでも際限なく続くような印象。

逆に感心したのは、あれだけ内容のない(とマロニエ君は感じる)ものを、よくぞあれだけの長々とした文章にできたものだという、逆の意味での才能に感心してしまうほどでした。いつ果てるともない意味のないおしゃべりのように、読まされる読者にとってはほとんどどうでもいいようなことが、延々何百ページにもわたって繰り返されていくさまは、ほとんど苦痛でただもう疲れるし、途中で何度やめようかと思ったかしれません。

それでも、せこいようですが、せっかく2000円近いお金を出して購入したということと、好きなピアノが題材ということで、ほとんど意地と惰性だけで読み続けたものの、読むのがこれほど苦痛だった作品は久々でした。
むかし三文小説とか少女小説とかいうものがあったという話を聞いた記憶があるけれど、それはこういうものかと思ったり、とにかく最後まで読むことに自分としてはかなりのエネルギーを使わざるを得ませんでした。実に10日ほどもかけてようやく終わってみたものの、これは一体何だったのか、読んでいる最中よりますますわからなくなる、すっきりしない奇妙な経験でした。

文章や表現も、およそプロが書いたものというより、自費出版のアマチュアみたいで、それがともかくも直木賞をとったという事が(直木賞というのがどれほどのものか良くは知らないけれど)輪をかけて驚きでした。
作中にはピアノコンクールで勝ち進んで入賞あるいは優勝することがいかに過酷であり、人生をかけた戦いのように繰り返し述べられていたけれど、それは音楽コンクールだけの話で、文学界ではまるで事情が違うんだろうか…などとつい思わずにはいられないマロニエ君でした。

『蜂蜜と遠雷』というタイトルもよくわからないし、センスあるタイトルとは思えません。
…いま、たまたまセンスと書いたけれど、この作品で最もマロニエ君が違和感を覚えたのは、作家のいかにもアマチュアっぽいセンスの羅列だったからかもしれません。
ちなみに、これだったら専門性に優れたマンガの『ピアノのムシ』のほうが、はるかにクオリティは高く、接するに値する作品だとマロニエ君は思います。

あまりに驚いたものだから、アマゾンのカスタマーレビューを見てみると、概ね好意的な高評価が並んでいる陰で、マロニエ君が激しく共感できるような酷評もかなり数多く並んでいて、読んでいて「怒りすら覚えた」というのがあったときには、少しは溜飲の下がる思いがしました。

こういう作品のどういうところがどう評価されて権威ある賞を獲得し、書店でおおっぴらに販売されるのか、マロニエ君のような古いタイプの人間には今時の世の中の価値観やシステムそのものが、ますますもって難解でわからなくなる気がするばかりです。
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渋滞地獄

ちょうど10日近く前のこと。
最近は滅多なことでは遠出をしなくなったこともあり、先日の3連休の真ん中の日曜日、大した目的もないけれど友人と熊本あたりまで行ってみようかということになりました。

完全な夜型人間のマロニエ君としては、通常は休日の午前中から出かけるということなどまずないのに、この日はなぜか早く目が覚めたことでもあり、極めて珍しいことに午前中からの出発となりました。

福岡から熊本までは約100kmほどで、東京で言うなら御殿場あたりに行くぐらいの距離です。
近頃のネット情報を活かして、夜は食ログで熊本市内の一番人気らしい有名なとんかつ店で評判のロースカツでも食べようということになり、意気揚々と出発したのでした。

ただし、行った先にこれという目的はなく、熊本城はじめ多くの観光地は震災の影響で立ち入りが制限されているらしく、行ってみたかった漱石の旧居跡なども、フェンス越しの見学しかできないとかで、無理に何か決めることもなく、とりあえずぶらりと行ってみようというわけです。

福岡から熊本に行くには国道3号線を南下して太宰府インターから九州自動車道に入るわけですが、街中の道も心なしか車が多い感じだったものが、いよいよ3号線に入ると思いがけない渋滞にびっくり。
信号や交差点などで解消される気配もなく、とにかく延々と渋滞は連なっており、ついにはインターまでその状態が続きました。

驚いたのは、3号線の上を走る都市高速が「渋滞」を理由に各ランプは入場が禁止状態となっているほどで、ときどき見える上の道さえ車の動きはノロノロしていることでした。これはかなり厳しい状況だとは察しましたが、それでも高速本線に入ってしまえば多少流れが遅くとも信号はないわけだから、なんとかなるだろうとぐらいに思っていると、ETCのゲートの前後まで渋滞しているし、3車線の高速本線もびっしりと多くの車で埋め尽くされており、かろうじて動いているという状態。

正直いうと、この時点で家を出てから早くも1時間以上が経過しており、強い日差しもあってもうすっかり疲れてしまっていましたが、対向車線も似たようなものだし、せっかく久々に重い腰を上げて出てきたというのに、いまさら次のインターで降りてUターンというのも癪なので、意地を張って走り続けることに。

途中、昼食も摂りたいし、トイレにも行きたいので最寄りのサービスエリアに入ろうとすると、それがまた大行列。
なにこれ!と思ってとりあえずここに寄るのは止めにしてそのままやり過ごし、数十キロ先にある次のサービスエリアに入りました。
さきほどではないものの、こちらもかなりの満車状態で、駐車するだけでも何人もの誘導員がでており、彼らの指示によってなんとか車を停めることができるなど、とにかくひとつひとつのことをするのがいちいち大変。

車から降りても人人人で、フードコートみたいなところの席を取るだけでも戦いで気が休まりません。
こうなると、もうなんでもいいから食べられるものを食べて、再び出発しますが、本線に出るのもズラッと並んでいるし、本線では止まることがなかったというだけで、熊本インターを降りるまでノロノロ状態は続きました。

熊本の市街に入ったときはすっかり疲労困憊、もうグダグダに疲れてしまってどうでもいい気分。これからどこかに行ってみようという気にもならないし頭も回りません。
惰性で走っていると、有名な「水前寺公園」の標識が目に止まったので、とりあえずあてもないことではあるし、一刻も早く車を止めて休息したいという理由で、あまりにベタな観光地だとは思ったけれど、とりあえずそこへ行くことに。

水前寺公園は連休というのに意外に人が少なく、車もあっさり駐車場に置けて、トボトボ公園目指して歩きましたが、来園者のほとんどが中国からの観光客ばかりという感じでした。もうこっちは疲労の極致なので庭園内を散策してみる気にもなれず、ベンチに座ってとにかく休憩することに。

この時点で、まだ時刻は16時前で、途中でおやつまで食べたものだからお腹はいっぱいだし、夕食の時刻まで何をする気にもなれず、目指すとんかつ屋には行ってみたかったけれど、それよりも早く帰りたいという気分のほうが上回ってしまい、仕方がないからゆるゆると帰ろうかということになりました。
それでもせっかくなので、熊本城の瓦の落ちてしまった天守の姿だけでも見ていこうということになり、そちらへ走って見ると、車の窓越しではありますが傷を負った名城の、それでも威厳ある姿を見ることはできました。
むろんきれいに整備された城も素晴らしいけれど、この傷ついた感じというのも、むしろ妙な風格を醸し出しているように感じました。

お城のまわりの道に沿って走ると、崩れた石垣を修復しているところも何ヶ所かかり、この熊本の宝を早く元の姿に戻そうという作業が始まっていることが伺えました。

福岡に戻るにも、本来のインターは大渋滞でとても普通に下りられるとは思えず、2つ手前のインターで降りましたが、それでも最後の最後まで激しい渋滞が収まることはついになく、終日ストップ&ゴーから解き放たれることはありませんでした。
とくに日没時間帯の高速でのノロノロ運転は、恐ろしいまでの睡魔との戦いで、事故だけは避けねばならぬと普段以上のエネルギーを要して、もう二度とゴメンという感じでした。

考えてみればこの日は連休の中日でお天気は抜群、しかも予報では翌日は一転して終日雨ということになっていたので、誰もがこの日に集中してしまったらしいことが途中でわかりました。
アホとしか言いようのない読みの甘さというか、なんともバカなドライブで、まさに骨折り損のくたびれ儲けそのものの一日でした。
一体、何をしに行ったのやら今だにわかりません。
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単なる粗悪品

部屋の隅にぽっかり空いた隙間にちょうどいいくらいの縦長のCDラックはないものかと思っていたら、ニ❍リでまさに求めているサイズの商品がありました。
自分で組み立てる商品ですが、価格も非常に安いし、これはしめたと思ってさっそく購入、車の助手席とリアシートの半分を倒すなどして家に持ち帰りました。

ちょっとした家具を自分で組立るのは、IKEAでかなり鍛えられているから、ニ❍リのCDラックぐらいチョロいもんだと思ってとりかかったのですが、思いがけなく組み立てに苦労させられ、説明書通りにやってもなかなかできません。
とくに背面に差し込むべき化粧板は、どれだけ慎重かつ丁寧に組み立ててもどうしても寸法が合わず、その上からかぶせるように取り付けることになる棚板の寸法が合いません。
こちらの作業ミスではないかと何度もやり直しをしながら確かめましたが、背面板の寸法が長過ぎることは間違いない事実とわかり、組み立てを進めるには5mmほどカットしなくてはいけないという、信じ難い局面に突き当たりました。

とはいうものの、一般家庭でベニヤの化粧板をミリ単位で正確に切るというのは、簡単なようでなかなかできません。
もちろんノコギリなんか使っていてはできないし、あれこれ方法を考えたあげく、正確を期するために普通の文具用のカッターで根気よく切る以外にないということになりました。そうはいってもこれが甘くない作業で、少しずつ、カッターの刃を板へ深く切り込ませていく以外になく、定規をあてながら何十回もこれを繰り返しやって、ようやくにして切離に成功したときには、腕から肩にかけてワナワナ震えるようでした。

これでようやく外側のカタチはできたと思ったら、こんどは任意の位置にはめ込みができる8枚の棚板の留め具というのが、見るからにヨレヨレのプラスチック製で、これで本当に大丈夫なんだろうか…と不安になりました。

商品のできが悪いため説明書に忠実に作業してもピシッとできないというのは、作っていてもどうしようもなく気分が下がり、疲労も倍加します。
とりあえず床に平積みになっているCDの山を片っ端から放り込んでいきましたが、2〜3日もすると、CDの重みでそのヨレヨレのプラスチックの留め具がかなり傾いており、本来なら直角にはまっていなくてはいけないのに見るもだらしなく下向きに曲がっています。
「いわんこっちゃない!」と思って上下の棚を検証すると大半がこの状態。

ちなみにこのヨレヨレ留め具には金属の小さなネジも付属していますが、そのための穴もなく、ネジで固定するには遮二無二ネジを食い込ませながら押し込んでいかなくてはならないし、それをすれば任意に棚の間隔を変えられるという利点は失われ、固定状態となります。

ニ❍リの商品とはこんなものかと大いに憤慨しましたが、かといって今からまた返品するのも大変だし、さりとてこの留め具を使っている限りは棚板はゆらゆらして解決に至りません。

しかたなく穴の直径をできるだけ正確に測り、ホームセンターに行って「差込タナダボニッケル 7☓5」という、金属製の見るからに立派な留め具をひとつ(4個入り)買ってみました。
本当は一気に買いたいけれど、もし合わなかったらムダになるので、まずはテスト購入です。

果たしてサイズはバッチリで、結果的にはこれでよかったわけですが、あくまでそれが確認できただけの話で、再度ホームセンターへ出向いてあと7袋買わなくてはなりません。しかもそのホームセンターというのが自宅から10km以上もあるので、さていつになることやら…。

さらにいうと、中央の棚は3段階の中から一か所を選んで外側からネジで固定する構造ですが、のこり8箇所あるネジ穴はむき出しで、目隠しのシールさえ付属していません。なにこれ?

ニ❍リの安さというのは、こんな品質と、不親切と、いい加減さによるものだということが身にしみてわかりました。
これなら、そこらのディスカウントショップで売っている3段ボックスのほうがちゃんとしており、いくら安くたって、あんな粗悪品ではもう二度と買いません。
『お値段以上…』というCMも虚しく響きます。
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愛情かゴマスリか

巷でプレミアムフライデーなどといわれる先週の金曜日、たまたま知人と食事をすることになって、とあるイタリアンのお店に行きました。
べつにお店の方はプレミアムではなく、美味しいけれどわりにリーズナブルなお店です。

イタリアンテイストの店内には、椅子とテーブルがぎゅうぎゅうに詰められていて、隣の席ともかなり距離が近く、席を立つときは、隣のテーブルに体や衣服が接触しないか、細心の気を遣う感じです。

とうぜん隣の人の会話も筒抜けであるし、こちらもつい遠慮がちにしゃべってしまうのは気弱なせいでしょうか。

さて、隣の席は6人からなるご家族御一行様で、おじいさん、おばあさん、おとうさん、おかあさん、小学生の娘、さらにその弟くんの6人でしたが、どうやら娘の誕生日らしく家族で夕食を楽しんでいるようでした。
サラダ、飲み物やデザートなどはセルフの店ですが、おじいさんを除く家族5人は、誰かしらが絶え間なく立ったり座ったりで、ゆっくり6人着席しているときがないのは、まあ多少煩わしくはありました。

まあ、そこまではそんな店なのだから致し方ありません。
ところが、こちらの食事が終わり、デザートも半分ほど食べたかなぁというころ、隣の席に「お待たせしました!」とばかりに全身白ずくめのコック姿の若い女性が、大きなワゴンを押しながらやって来ました。
6人家族はそれを見るなり、口々に「わー、きたきた!」と歓声をあげだします。

ワゴンの上には、円筒状のスポンジが乗っており、横には生クリームのボウルやらイチゴやらなにやらが置かれていて、お誕生ケーキの飾り付けをお客さんの見ている前でやるのだということがすぐ察知できました。
なにしろ狭いので、ワゴンの端は知人の肩にあたりそうなぐらいで、そこに大注目しながら家族中がわいわい言っているので、いやでも気になって仕方がありません。

やがてこの日誕生日を迎えた小学生の女の子がワゴン前に進み出ると、その女性パティシエ(イタリア語ではなんというのか?)が恭しげに生クリームを垂らしはじめ、それをナイフで周囲に均等に塗りつけて、だんだんとデコレーションケーキに仕上げるという趣向のようです。

その子は、子供で当然素人なので、実際には何もやっていないけれど、すべて女性パティシエが女の子の手に自分の手を覆いかぶさせようにして、子供を参加させながら作業しているのは傍目にも大変そうでした。しかも、その表情ときたら飛行機のCAさんも顔負けというほど満面の笑顔を保持して絶やしませんから仕事とはいえ大変です。

実は、マロニエ君が驚いたのはこの作業ではなく、それを見守る家族の尋常ではない様子のほうでした。
実質的な作業はすべて女性パティシエがやっているにもかかわらず、いちいち歓声をあげ「わああ、❍❍ちゃん、すごいね~」「上手だね~」「うまいうまい」「かわいくできてる〜!」「すっごい上手よ~」といった強烈な褒め言葉の嵐で、もう隣の席の他人様のことなど眼中にないようです。
もしかしたら多少こちらへ見せているフシもなきにしもあらずとも受け取れましたが、そのあたりはよくわかりません。

さらには、おとうさん、おかあさん、おばあさんの3人はいつの間にかワゴンの反対側に席を替わっていて、3人が3人、各自それぞれのスマホでその様子を動画撮影しまくっています。手では撮影を続けながら、口からは際限なく賞賛の言葉の数々が休むことなく連発され、それはもうちょっとした大騒ぎでした。

そういえばこの店では、たまにちょっと照明が落とされ、流れていたBGMが中断されたかと思うと、大げさな前奏に続いて「ハ~ッピバースディ、トゥ~ユ~」となり、あげくに大拍手が起こりますから、ケーキの飾り付けが終わったらろうそくを立て、その歌が始まるであろうことはもう時間の問題でした。

あまりにも真横なので、さすがに変なことを言う訳にも行かず、表情に出すこともできず、この間、なんども知人とは変な感じで目がチラッと合った程度でしたが、幸いにも食事が終わっていたことでもあり、小声で「行こうか…」ということになって、隣の席ではケーキづくりで盛り上がっているのを尻目に席を立ち、なんとか歌と拍手に加担させられることなく脱出できました。

子供の誕生日を祝ってあげたいという親心や家族愛は素敵なことですが、マロニエ君はああいうベタな世界は正直苦手。
とくに強い違和感を覚えたのは、家族中(おじいさんと弟くんを除く)が娘の一挙手一投足をゴマをするように褒めそやし絶賛しまくる光景でした。

もちろん子供は褒めてあげなくてはいけないし、惜しみなく愛情をかけてあげなくてはいけないけれど、あれはそれとは似て非なるものにしか見えまえんでした。
なんというか、言ってる自分(家族)のほうが盛り上がっているようでもあり、さらには大人が子供にむかって必死に媚びへつらっているようにしか見えず、とても自然なお祝いのひとときには感じられなかったのです。
自分達がイベントの機会を得て、演技的に盛り上がっているようにしか感じられなかったのは、マロニエ君の感性がおかしいのかもしれませんが。

親が子に限りない愛情で育むことと、何か大事な部分がどうしても結びつきませんでした。
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必死の組み立て

少し前に小抽斗のようなものを物色中と書きましたが、けっきょくイケアのチェストを購入することになりました。
価格もできるだけ安いほうがいいけれど、家具は部屋の中でいつも目にするものなので、日本の大手廉価家具店の製品にありがちないかにも薄っぺらな感じであるとか、パッと目はモダン風であっても、その雰囲気に日本的安物独特の「あの感じ」が漂うのも嫌なので、そうなるとイケアしかありませんでした。

ただ、イケアも問題がないではありません。
センスもよく温かな雰囲気もいいのは好ましいけれど、ここの製品には「組み立て」という難作業が待ち構えています。

これまでにもイケアの家具は何度か購入していて、そのつど友人の助けを借りながら組み立てをやってきましたが、それらの経験からも、ものによってはかなり大変だったという印象があります。
店頭にもイケアの特徴として大書してあることは、製品の質に対して価格が安価な理由は、購入者が手ずから組み立てることによって大幅なコストカットを実現しているという趣旨のこと。

以前買った伸縮式ダイニングテーブルやソファアも大変だったけれど、今回買ったのは引き出しが大小8つもある大型のチェストで、その組立はよほどだろうなあと思い悩んでいると、なんたる偶然か、ちょうどこの時期だけ「すべてのチェストが15%off」となっていて、もうこれは一念発起して組み立てを頑張るしかない!となってしまって、覚悟を決めて購入しました。

そのサイズからして、とても自分で車に乗せて帰れるようなものではないので、配送を依頼したところ、数日後、重くて分厚い大きなダンボールの荷が3つも玄関に運び込まれて、これを見ただけですっかり怖気づいてしまいました。

友人が来てくれるまで玄関に放置しておいて、先週末ついに箱を開けるときがやってきました。
さまざまな形や大きさのパーツが、まるでパズルのように見事に収まっており、それを床に順序良く並べていきますが、その数は何十個にも及び、木のダボやねじや金属の留め具のたぐいは、お得用のナッツの袋のようなもので3つにわかれていて、それぞれにずっしり入っているあたり、もう数を数える気にもなれないようなとんでもない量です。

ご存じの方も多いと思いますが、イケアの組み立て説明書には一切文章がなく、項目ごとに図解のみで組み立ての手順が記されています。
ここで大事な点は、決してわかった気になって先走ることなく、徹底して説明書の手順通りに組み立てることで、少しでも順序を間違えたり独断で先回りしたりすると、必ずあとの工程でつまづきが生じてやり直しということになりますので、面倒でも説明書に記された手順には絶対に逆らわないこと。

大変なのは、図にあるパーツを金具ひとつまで間違えずに厳格に選び出すことですが、これがかなり苦労させられる点です。
中にはほとんど同じように見えて微妙に違うもの、同じ大きさの板に開けられた穴の位置や数がわずかに異なったりすることで、これをひとつでも間違えると完成できないという怖さがあり、それだけでかなり神経を使います。

それにしても今回のチェストは過去最高記録となる大変な組み立てで、店頭で見る外観からは想像もできませんが、木製パーツだけで50以上、金属類のビスや木製ダボなどのパーツに至っては約400個に達しており、組み立て説明書の工程数は46段階にも及び、荷をほどいたときは驚き呆れ、こんなものを購入したことを後悔したのも事実でした。

それでも敢えて組み立てに着手する事ができたのは、こういうことがわりに好きな友人の存在でした。
作業開始から3日目に完成したときは、やはり感慨ひとしおというか、文字通り達成感がありました。

率直にいうと、家具の組立というより、ほとんど日曜大工に近いものがあり、プロによる周到な設計とパーツが揃っているというだけで、素人にはかなり難しい部分も少なくないのは、緊張とため息の連続でした。

これだけの組み立てができる人というのはいろんな意味でかなり限られると思われ、まず一人では無理だし、こういうことの苦手な人とか高齢者なども到底できることではないと思われました。

作業中つくづくと感じたことは、これだけ込み入ったことを一般のお客にやらせようという発想がまずすごいというか、そこからしてまったく日本的ではないと思わざるをえません。
しかし、実際にやり始めると設計も見事だし、各パーツの精度も高く、よほど頭のいい人が作っているのだと思います。
これだけの組み立てに関わることで、普段は気にも留めない家具というものの作り方や構造が体験的によくわかり、とても勉強になることも事実です。

出来上がりは堂々たるもので、雰囲気もよく、いい経験になりました。
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接客

日々時代の変化に揉まれていると、「昔は良かった」と思うことが多々ありますが、果たして本当にそうだろうか…と考えてしまう場合もあります。

先日、とある観光地の堀端にある有名うなぎ店に行きました。
江戸時代の創業という老舗で、場所も一等地、建物なども深い趣があるし入り口までの庭木や邸内のお坪も美しく整えられています。

ここで働く中居さんたちは、多くが中年以上の方ですが、その接客態度となると必ずしも老舗の名に応じたものとは思いませんでした。

お客様にきちんとした対応を…という緊張感はなく、ぞんざいに人数を聞きながら廊下を歩きだし、はいはいこちらといわんばかりの案内で、曲がりくねった木造の廊下を奥へ奥へと進みます。
通された座敷には、時流にそって畳の上に椅子とテーブルが並んでいますが、こちらが二人だったものだから、壁の隅の二人がけの小さな席を指しながら「こちらにどうぞ」とつっけんどんに言われました。

しかし、全部で7つのテーブルがある中で、二人用はこの一つだけ。
おまけに使用中のテーブルはわずか3つで、それらすべてが二人連れのお客さんでした。
混み合っているならむろん二人がけの席で当然と思うけれど、半分ほどしか埋まっていないのに、わざわざ狭い席に押し込もうというところにいささかムッとしてしまいました。

マロニエ君はこんなとき負けてはいません。
唯々諾々といいなりになってなるものかと「こっちでもいいですか?」と敢えていうと、「あ、そちらですか…いいですよ」としぶしぶ口調となり、我々は迷わず広いほうのテーブルに着席。
すると、何度も来るのが面倒なのか、着席するなり真横に立って伝票とボールペンを持って、すぐに注文を聞こうとする構えなので、エッ?と思い、ゆっくりメニューを広げて「ちょっと待ってください」というと、仕方がなかったらしく「はいどうぞ」といって立ち去って行きました。

ようやく注文が済むと、それから別の女性がお茶とおしぼりを持ってきますが、どの人も、態度にしまりがないというか、日常生活のだらんとした流れの延長でここでも働いているといったところでしょうか。
廊下を通るたびに出入り口の障子をパッと30cmほどあけて中の様子を見たかと思うと、すぐにパチンと閉めていなくなったりと、とにかく自由に動きたいように動いているという感じ。

さらに驚いたのは、なんだかいやに寒いと思ってたら、広い座敷の前後に2つあるエアコンはいずれも送風口が閉じたままで、年間を通じて最も寒いこの時期にもかかわらず暖房を入れていないことがわかりました。

お品書きには立派な値段が並ぶのに、変なところでケチるという印象がふつふつと湧き上がります。

ほどなくやってきた中居さんをつかまえて、「暖房は入っていないんですか?」ときくと、「あ、寒いですか?」というので「寒いです!」と少し大げさに体を揺すって見せました。
しばらくするとようやく少しだけ暖かくなり、見ると2つのうちの1つだけ、裏からの操作でスイッチが入れられたようでした。

料理を持ってくるときも、食器を下げる時も、廊下の障子はガーッと開けっ放しの状態。
そのたびに廊下(外に面している)の寒風がぴゅうぴゅう部屋に入ってきて、マロニエ君も何度かたまらず閉めに行ったほどです。

これが地域では名を馳せた老舗なんですから、所詮は田舎なんだと思いました。
今や都市部では100円ショップに行っても一定のきちんとした接客に慣らされている現代人ですが、田舎に行けばどんなに有名店でもこういうゆるさがあることがわかると同時に、昔はだいたいどこでもこんな感じだったことを思い出すと、やっぱりなんだかんだと文句を言いながらも、良くなった面も多いんだなあと考えさせられました。

とくに古いところは、良くも悪くも旧来の体質を引きずっているので、なかなか改まらないのでしょう。
多少はマニュアル的な接客でも、現代は丁寧な態度こそが求められるようになりました。
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ヤフオク

ヤフオクで欲しいものをゲットすべく入札された経験のある方は多いと思いますが、あれって結構疲れるなぁと思うのはマロニエ君だけでしょうか。

人にもよるとは思いますが、マロニエ君はどうもあのヤフオク(というかヤフオク以外のネットオークションは利用したことがない)の終了時間間際の異様な緊迫感は好きじゃありません。

ウォッチリストに登録して何日もチェックしたあげく、ほとんどだれも入札しないので「どうやら楽勝のようだ」などと思っていたらとんでもない間違いで、欲しい人は不用意に入札することはせずにじっと静観して、終了時間が迫ってからが本当の勝負が始まることが少なくありません。

以前は成り行きを見ながら、そのつど入札していましたが、場合によってはみるみる価格がつり上がるものだから、ついカッとなってこっちもまた入札、すると相手もまけじと高い価格をつけてくる。
要はその応酬で、最終的にどちらが金額的にタフであるかが勝負どころとなります。
こうなると、ひとりパソコンの前で心臓をバクバクさせて、予想外の興奮状態に陥ります。

とくに残り数分という段階で、もう終わりかと思っていると、音もなく誰かがそれ以上の価格をつけて状況がひっくり返されるのは、精神的にかなりやられるというか衝撃的で、あれはもういけません。

たかがヤフオク。
それなのに、こういうときの精神的な高ぶりはかなりのもので、笑えないほど疲労困憊。
あげく、終わってみれば苦い敗北感に苛まれるか、運良く落札出来たにしても予想以上の高値であったりと、いずれにしろ冷静さはかなり失い、オークションというジェットコースターに乗って、ふらふらになって降りてきたという印象。

中には入札者が自分だけですんなり終わることもあるけれど、相手があって競り合うのはいやなもので、買えても買えなくても、どこか変な後味が残ります。
とりわけ被るストレスは相当のもので、早鐘のように心臓がバクバクしたことも一度や二度ではなく、いかにも心身によくない感じです。

はじめからダメモト気分でいけるようなモノならいいけれど、ものによってはどうしても欲しいという場合もあり、お恥ずかしい話だけれど深夜の終了時間であっても昼ごろからずっとそのことが頭の中にあったりして、やる気と不安がないまぜになり、これってもうまぎれもない戦いです。
それも明るく健康的なスポーツのような戦いじゃなく、金額と物欲にまみれた辛気臭い戦い。

あまりに疲れるから、これじゃあ健康にもよくないし、だいいちそこまで気持ちを入れ込んで顔の見えない相手とバトルを繰り広げてまでモノをゲットするということが、ひどく浅ましくもあり、ばかばかしいと思うようになりました。

そんなこんなでよくよく考えてみれば、ヤフオクのシステムの中にそんなことをしなくても済む「自動入札」という機能があるわけで、金額を自分が出していいというmaxに設定しておけば、競り合った場合のみ価格は上昇を続けるけれど、ライバルが現れなければ安く落札できるというのもよく考えられています。
で、最近は、自分は最大でいくらまで出してゲットしたいのかどうか、冷静に考えてから余裕をもって入札し、それを超えた場合はさっぱり諦めることにして、間違っても終了時間間際のバトルには決して直接参加はしないようマイルールを定めました。

さらに、入札はで可能な範囲でできるだけ終了時間には近づけるものの、終了時間帯はパソコンは見ないことにし、用があれば躊躇なく外にも出かけるようにしました。これ、裏を返せば、以前は終了時間が迫るとパソコンの前に貼り付きだったということです。

これで気持ちは一気に楽になり、それからは以前のように徒に緊迫することなく、ヤフオクを楽しめるようになりました。
すでにこの方法で何度か入札しましたが、落札出来たことより出来なかったことのほうが多いですが、それはそれで自分自身が納得できています。
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家具イベントで

ちょっとした棚というか小抽斗のようなもので、安くて良い感じのものがあれば欲しいと思っていたところ、友人が福岡国際センター(大相撲九州場所の会場)で大規模な家具のイベントのようなものをやっているというので行ってみることに。

ネットで調べると、たくさんの家具屋が共催でやっているようなもので、展示即売であるにもかかわらず入場料があることにまず驚きました。ただし、ネットに招待券のようなものがあり、これをプリントアウトして名前を記入すれば無料になるというもので、それを準備して会場に赴きました。

先月下旬の日曜のことでしたが、夕方であったためか車も難なく止められて、会場入口でプリントアウトした紙を手渡すと、いきなりマイクで「〇〇家具店の方にお知らせします。お客様がお見えになりました。」とあたりじゅうに響きわたるボリュームで大々的に言われてびっくり。
ほどなく首に名札をぶら下げたその家具店の女性が現れ、その人の先導でうやうやしく会場内に案内されてやっと中に入ることができました。
とはいえ、こっちはただ遊び半分で見に来ただけなのに、このままずっとついてこられてはたまらないので、自由に見せていただくからと案内は辞退したものの、この時点でなんだか想像と違うところに来てしまったような感じがありました。

広い会場内にはあれこれの家具がびっしり並べられてはいるけれど、思ったよりお客さんは少なく、それ以上に販売員がたくさんいるという印象。
ブースごとの壁や仕切りこそないものの、多くの業者が一同に会してさまざまな商品を展示しているらしいことがわかります。

全体の印象としては、なんだか茶色な感じで、今どきの家具としてはやや古臭い気もするけれど、まず目に入ったダイニングセットなど軽く50万60万だし、どれを見てもとても気軽に買えるような価格帯ではないことに驚かされました。

家具の世界というのがどんなものかマロニエ君は知らないし、知っているのはたかだかイケアやニトリといったところなので、そもそもこちらの基準が低すぎるといわれればそれまでなのですが、とにかくどれを見ても立派なお値段ばかりで10万円以下のものなんて数えるほどしかありませんでした。
しかし、見た感じそれほど高級家具とも思えなかったし、正直言ってセンスも野暮ったく、こんな価格帯のこんな家具って誰が買うんだろうという疑問ばかりが頭に浮かびました。
いっそ高級品を求める人は、お家騒動で有名な家具屋などに行くのでしょうし…。

さらに印象的だったのは、販売員らしき人はかなり大勢いるけれど、そこに若い人の姿は少なく、どちらかというと渋い表情の年配の男性が圧倒的に多いことでした。しかもどの場所でもちょっと見てみようかと商品に近づいたとたん、間髪入れずこのおじさんたちがわっと近づいてきて一方的に商品説明をはじめます。
こちらとしてはちょっと見ているだけで、いくら説明されても買うわけではないし、また簡単に買える金額でもないので、すぐにその場を離れるような動きになります。で、少しでもモノに近づくと、待機しているおじさんたちが吸い付くように寄ってくる、その繰り返し。
おまけにお客は少なめで、だからますますこっちが見張られているみたいで当然ながらゆっくり見るということは不可能。

きっと昔ながらの売り方なのかもしれませんが、近づいてきた客はすかさず捕まえるといった空気がぎらぎらしていて、お客さん側の気持ちや心理をまったく考えていないような感じでした。
中にはあの強力な接客に押し切られて、買わされてしまう人もいなくはないでしょう。

というわけでどの角度から見ても、こちらの求めるものとは違う世界だったので、早々に会場を出て、ついででもあるしその足でイケアに行ってみました。
するとまあ、理屈抜きにオシャレで、明るく、スタイリッシュで、しかも低価格。店自体もいいようのない色彩と楽しさにあふれていて、なんだかそのあまりの違いに圧倒されてしまいました。

さっき見た日本の家具は、品質ははるかに優れているのだろうと思います。
お客さんに運搬や面倒な組み立てをさせることもないし、材料なども格段にいいものを使っているのでしょう。
それでも、あの価格と売り方とセンスを選択する人って、やっぱり多くはないだろうと思いました。
良い悪いではなく、確実に時代は変わってきているということだと思ったしだいでした。
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低価買取

不要になった品物の高価買取というのは、特に最近盛んになっているようで、我が家の固定電話にかかってくる電話の何分の一かはこの手の買取業者からのもので、数日に一度はかかってきます。

同時に、街中には衣類から生活雑貨、古書に至るまで、あらゆるジャンルのリサイクルショップが雨後の筍のように出現して、しかもそれらの多くがガラス張りのピカピカの店舗であるのも最近の特徴だろうと思います。

今もやっているかもしれませんが、テレビコマーシャルでやたら流れていたのがバイクの買取で、こだわりのオーナーの意を汲んで高価買取しますというようなフレーズが宣伝文句でしたが、知人から聞いた話では現実はぜんぜん違うんだそうで、かなりのものであっても、概ね1万円ほどが買取額の相場らしく、およそ「高価」とは程遠いものであるらしいということを聞いていました。

マロニエ君の場合はバイクは十代の頃にすっかり卒業したので関係ないけれど、家の中には処分したいものの、棄てるには忍びないようなものが結構あって、昨年も花梨の大型和式のテーブルと、オニキスの大理石のテーブルを処分することにしました。

自分で言うのもなんですが、どちらもそれなりの高級品で親や祖父が当時としては奮発して買い求めていたもので、気になるような傷もなく程度はよかったのですが、生活様式の変化から使うことなく物置の場所ばかり占領するので、ついに処分することに。
この手の良品を専門とする業者に連絡すると、大いに興味を示し、ずいぶんと遠方からトラックを仕立ててやってきましたが、いざとなると、とても納得出来ないようなあれこれの理由とか、確かめようもないような市場のニーズなどを綿々とあげ連ねたあげく、だから高額では引き取れないというような話にまんまと誘導され、両方で2000円を渡され、トラックに積んで持って行きました。

それなりのものでもあっただけに、ショックがなかったといえばウソになりますが、もう使わないし、空間のほうが大切だと考えるようになっていましたので、そこで未練を出しても仕方がないと思って諦めました。
そもそも高価買取なんていったところで、根拠も裏付けもない「高価」なわけで、そもそも手放す側が不要であるからには、その背景には限りなく廃棄に近い事情があるわけで、業者のほうもそのあたりのことを嫌というほど心得ているようです。

先日も、有名な本の買い取り業者に数百冊の本を託しましたが、中には貴重な創刊号からそろったSUPER CGとか、いろいろとそれなりの書籍がありました。もう要らないけれど、そのまま紐で結わえてリサイクルゴミとして出すより多少世の中のお役に立てばという気持ちもあったので、このメジャー店への買取依頼をしました。

その後、待てど暮らせど音沙汰はなく、先日ようやく銀行口座に振り込まれた金額はというと、たったの470円ほどでした。
まったく期待はしていなかったけれど、この金額にもやっぱり驚きました。
値段の付かないものもあるだろうとは思うけれど、平均するとほとんど1円/冊という感じで、べつに腹は立たなかったけれど、この手の商売のすごみみたいなものを感じたことも事実です。

ほかにも、衣類やら昔の輪島の漆器など、いろいろなものがあったけれど、マロニエ君は売りに行くのが嫌でぜんぶ廃棄すると言っていたら、友人がそれ見かねて買取屋に持って行ってくれましたが、衣類は45Lのビニール袋がふたつぐらいの量で、内容的にもそう悪くはないものだったと思いますが、全部で400円、往復のバス代にもならなかったとのこと。
いっぽう、漆器類に至ってはタダということでした。

巷ではフリーマーケットが盛んだといいますが、その背景にはこのような、極端なまでの安価買取に嫌気がさして自分の手で直売しようということになっているのだろうとも思います。

いらい最近は、照明の煌々とついたきらびやかなリサイクルショップの前を通っても、「ああ、ここの商品の大半はタダか、限りなくそれに近い捨て値で仕入れたものなんだろう…」というふうにしか見えなくなりました。
要は、仕入れは実質ゼロ、それを磨いて並べて人を雇って売っている、それだけのこと。
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ギャップ

部屋の片付けをチャンスに、カーテンとクロスをやり変えることになり、業者の方に下見に来ていただいたときのこと。

クロスの張り替えは以前お世話になった業者さんもあるので、そこに依頼するつもりでしたが、いちおうネット調べてみると低価格な上にカーテンとクロスの両方をやってくれる店があり、これはこれで便利だろうなぁと思いました。
電話してみるととても感じ良く対応してくれ、とりあえず現場を見てもらうことに話が進みました。

かつて仕事を依頼したことのある業者さんはどちらかというと寡黙なタイプで、必要以上にあれこれと相談に乗ってくれるでもなく何冊かの見本を渡され、その中からこちらが選んだもので張り替えるという、若いけれど口サービスはないいかにも職人さんという感じでした。
きちんとした仕事をしてもらったという実績はあるものの、作業に至るやり取りは必要最小限で細かい相談とかアドバイスなどがないのも事実。
どことなく味気ないものを感じないでもなかったところへ、今回の業者さんは対照的に明るくて、必要とあらばなんでもご相談を!というお客側のニーズに出来るだけ応えますよというスタンスがあふれており、ついこっちに傾いてしまったのでした。

約束の日にやってきた方は、電話でしゃべったその人で、店の責任者らしい方でした。
前の業者さんはいつも当たり前のように作業着だったのが、こちらはウールのジャケットを羽織って中はセーターを着重ね、頭にはハンチング帽をかぶり、正直そのセンスはどうかと思ったけれど、決して悪い感じではありません。
愛嬌がよく、家に入るにも部屋に入るにも「それでは、おじゃまいたします!」「失礼いたします!」と礼儀正しく、いかにも慣れた手つきで寸法やら広さを確認した上で、ざっとした見積をだしてくれました。

続いてクロスやカーテンの見本を見せられましたが、その丁寧かつ優しげな口調は少し気になるぐらいで、ひとつひとつを噛んで含めるように説明してくれます。
「このお見積りは、いまごらんいただきました見本の生地で出させていただいた金額になります。」
「(見本を指で撫でながら)最近はこのあたりが質がよく好評なものですから、まずはこれをご案内させていただきました。」
「こちらは少し艶があり、明るい感じもいたしますし、遮光性も十分じゃないかと思います。」
「もっとお安いものをということでしたら、それももちろんございます。」
「逆に、もっとお高いものもございます。ハハハハハ」
…と徹底したやわらかな話し口調と物腰がとりわけ印象的でした。

「ただですねぇ、私が少しだけ今心配しておりますのは、3月にかけまして作業が大変混み合ってまいりますもんですから、なかなか予定を入れることが難しくなりますが、おおよそいつ頃をお考えでしょうか? あ、いや、もし当社にご依頼いただければ嬉しいなという前提のお話ですが…」

で、おおよその時期を伝えてみると、
「ああそうですか。はいはい、なるほど。…どうかなあ。」
「それでは、よろしかったら今ちょっとお電話をさせていただいて、現場の予定などを聞いてみましょうか?」といわれるので、そうしてもらうことに。

するとすぐに電話をかけ始めましたが、ちょっと離れて、こちらに背中を向けながら、
「うーーーい、うい、うい、うい」
「おつかれー。ん? そ、そ、そう。」
「あのさ、〇〇ごろって入る(仕事が)?」
「うん?おう、おう。△△のほうだったらいい?だったら嬉しい?ガーッハッハッハ、おっけー、おっけおっけ、わかったわかった。」
「オーイ、りょうかーい、うーい、ういうい」

~てな調子で、もちろん現場の人達とお客さん相手とでは話し方も違うでしょうけれど、やけにヤワな口調だったものが、まるで別人のような話し方になるあまりのギャップには思わず唖然、マロニエ君もこの性格なので笑いを噛み殺すのが大変でした。

電話が済むと、すぐまたさっきまでの物腰の柔らかい、丁寧すぎる口調へと切り替わるのは、ほとんどお笑い芸のようでそれを必死にポーカーフェースでやり過ごしました。
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寒波

今年の冬も大変な寒波の到来となり、日本全国かなり厳しい寒さが続いていますね。

一般に本州の人のイメージでは、九州は南で温かいだろうというのがあるようですが、実際にはそんなことはまったくありません。
鹿児島や宮崎など南九州のことはわかりませんが、少なくとも福岡というか北部九州においては温暖のオの字もありません。

気温でいうと東京ほぼ同じで、西であるぶん日没が40分ぐらい長いことと、関東特有の突風が吹かないことぐらいで、あとは気候的にはほとんど変わりません。夏は暑く、冬は寒く、梅雨はベタベタ。

というわけで、今年というかこの冬も相当寒い毎日が続いていています。
まわりには風邪をひいている人が非常に多いし、昨日はちょうど来客予定になっていた方からも急遽連絡があり、一族4世代にわたる親兄弟のうち、ほぼ全員がインフルエンザにかかり、家中でダウンしているというのですから驚きです。

つい先日も、コンコンいいながら風邪の症状をもった方と相対して、危うく伝染るところだったのを、すんでのところでかわしたばかりでしたので、いつ自分の番になるやらヒヤヒヤです。

この季節はピアノの管理も普段以上に難しくなり、ある意味では梅雨時よりもやっかいかもしれません。
ピアノにとっての理想的な環境づくりの一つが、温湿度の急激な変化のないことだと思います。
ある程度の範囲であれば寒いなら寒い、温かいなら温かいというのがいいわけで、急激に室温度が上下するのは甚だ好ましくないことです。

しかし、そうはいっても夜中から朝にかけての7~8時間、人が一人もいないのにピアノのためだけにずっとエアコンをつけっぱなしというのもさすがにできず、その間はエアコンはオフにするわけですが、当然その間の温度変化が起こります。
そして朝ふたたびエアコンを入れるので温度が上がります。

おそらくはこの寒波のせいで、毎日のこの温度変化が激しいためか、12月に調律をしたにもかかわらず、現在はすこし乱れが大きくなっている気がします。やはり温度変化はピアノにとってはいいことではないのでしょうね。

ヒーターを使うときは、まったく休むことなくフル回転になるのが加湿器です。
寒さが増すだけエアコン使用量も増えて、室内はカラカラになり湿度計の針が40%を切ることも珍しくなくなります。
加湿器は比較的タンクの大きいタイプを使っていますが、それを最強にしても加湿量がやや足りないくらいで、もう1台増設しようかと思いつつ、まだ実行には至っていませんが、4Lタンクが毎日空っぽになるし、やはりこの季節の空調管理は気の休まる時がないというのが実感です。

だいたい加湿器の水を入れるというのが面倒くさくて嫌になります。
いちいちタンクごと外して行ったり来たりせず、上から注ぎ足しできるタイプか、あるいはタンクが2つあって、任意のタイミングで水を補充しておけるようになればずいぶんいいだろうと思いますが、それってありませんね。

ピアノもふたつぐらいの音がやや狂っているので気になるのですが、本来の調律ではなくてそれだけちょちょいと手直ししてほしい…というわけにもいかず、次の調律までガマンかと思うと時間が長すぎていささかうんざりです。

純粋に寒さという点でいうと、これから来月にかけてさらに厳しさをますでしょうから、もうしばらくはこんな状態が続きそうです。今しがたテレビをつけたらトランプ大統領の就任式がはじまったようで、みんな鼻を赤くしてワシントンもずいぶん寒そうです。
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リサイクル

年明けから家の片付けをやっているという事を前回書きましたが、実際、暇さえあればそれにとりかかっているところです。そんな最中、ちょうどNHKのクローズアップ現代でこのテーマをやっているのを偶然目にしました。

主には、実家の片付けをどうするかというもので、モノで溢れかえる家の中を、どうやって処分するかということが社会問題化しているようでした。

クローズアップ現代では、不要品の有効な活用手段として、ネットを使った売却が紹介されました。いま巷で流行っていて、急速に伸びているのがリサイクル市場だそうで、これがなんと一兆円を超す市場規模だとか。

そういえば我が街のあちこちにもリサイクルショップが出現しています。
以前ならこの手合は倉庫のようなところが多かったイメージですが、最近のそれは建物もずいぶん立派になり、新築の大きなガラス張りで照明も煌々とついたいっぱしの店舗だったりで、これも市場の大きさを表しているのかもしれません。

さらにネットでは個人から個人への直接取引が盛んなようです。
要らなくなったものをネットで売りに出すことで、世界中に(?)その情報がまわり、それを欲しいという人へ譲ることで、モノは次の持ち主のもとで役立てられ、いくばくかのお金も手にすることができるとあって一挙両得というものでした。

話としてはなるほどという感じもしなくはないけれど、これ、個人的に自分にはまったく合わない方法だと思いました。

番組内で紹介されていた人のやり方でいうと、不要なモノをまず写真に撮って(当然何枚かの)転売のためのサイトに掲載し、欲しい人が現れるのを待つというもの。
一日4000万人だったか?正確には忘れましたが、とにかく世界中の膨大な数の人がそれらの情報を見て、その中から欲しいという人が現れたら交渉成立ということのようです。

しかし、実際に情報としてネット上にあげるには、写真撮影のほか、寸法や状態などを記載して、値段をつけて、さらに買い手がついた場合には梱包して発送作業までやらなくてはりません。
ヤフオクのように、購入者への連絡や送料の伝達など、1品目に対して最低でも何度かのやり取りは必要でしょう。
しかも、ネット上にアップしたからには、絶えずその成り行きを監視確認していなくてはならないし、あれやこれやでそれに費やす労力は決して軽いものではないと感じました。

こんなこと、よほどのヒマ人か、そういうやり取りそのものを楽しめる人でない限り、まだるっこしくてやっていられません。少なくともマロニエ君のよいな面倒くさがりでせっかちな性格からすれば、とてもじゃないけど自分には向かないと思いました。
また、数の点からも、10や20ならともかく、仮に何十何百という数になれば、その作業量はとてもじゃないけれどできることではない。
ひとつひとつの売買であるだけ当然ながら時間もかかるでしょうから、ただでさえこの手の片付けは骨が折れるのに、そこから一品ずつネットにアップして買い手が現れるのを待つなんて、いつになったら終わるのか知れたものではありません。

よほど時間と場所がたっぷりあって、繰り返しますがそういうことを楽しめる人ならいいけれど、片付けのための重い腰をやっとあげ、できるだけ短期に終わらせてしまいたい人には、まったく不向きだと思いました。

また、地元のフリマに出品して不要品を売りさばいている人も多いと聞きますが、出店そのものが抽選らしく、運よく当選しても、それを朝から車に積んで持ち込んで並べて、ずっと会場に張り付いていなくてはならないわけで、マロニエ君は性格的にそうまでしてなにがなんでも人に譲りたいとか換金したいという熾烈な欲求がないことを自覚しました。

もちろん処分対象の不要品を、廃棄することなく別の方が使ってくださることじたいは素晴らしいことだけれど、時間と労力、つまりそのための手間暇を考えたらとてもではないけれど自分の性分には合わない世界でした。

…と、このように何事にも粘りやこつこつ感のないマロニエ君の性格がまたぞろここで顔を出したということでしょうね。
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軽くする

思うところあって、今年は正月から家の片付けをやっています。
我が家はやたらモノが多くて、それでも人目につく表面だけはなんとか整えたふりをしているものの、実際はややうんざりしていました。

いつかは整理をしなくてはと思っていたけれど、なかなか決断するチャンスもないし、やるとなればとても一日や二日で済むような話ではない。
日々の生活に追われていると、そんな大ごとは当然のように後回しにして過ごしてきたのですが、生活上の変化もいくらかあって、ついに今年こそはこれに着手することにしたのです。

巷では断捨離というどこか宗教チックな言葉さえ聞かれますが、これは正確にどういう意味かは認識できていません。
物を捨てることで物との執着を断ち切って清々しく生きていきましょうというような意味だろうとイメージしていますが、もしかしたら間違っているかもしれず、ネットで調べれば正しい意味もわかるのかもしれないけれど、そこまでする気もないし、とりあえず自分の解釈のみでよしとします。

なぜなら、マロニエ君などはどっちにしろ断捨離などといえるような高い境地には到達できないことははじめからわかっているし、とりあえず要らないものは処分しようという単純行動に出たにすぎません。

今後読む予定がないと思われるあれこれの書籍類を、手始めにまず大量処分。
これをネットで申し込み、ダンボールに詰めておくだけで業者が取りに来てくれるのは助かりました。

整理といっても困るのは亡くなった身内の遺品で、とりわけ衣類などは生前身に着けていたものではあるし、それをただポイポイ処分(はっきりいうとゴミとして廃棄する)するのは、はじめは申し訳ないような気持ちがあって、なかなか手をつけられませんでした。
しかし、一面において衣類ほど始末に悪いものもないのが現実で、取っておいたからといって何の役に立つわけではなし、写真などと違うのだから、わざわざそれを取り出して個人を偲ぶようなものでもない。
さらには、いまどきのモノのあふれた日本では、よほど状態の良いものでも、衣類は人様に差し上げるようなご時世でもないので、要するにどう考えを巡らせてみても有効な使い途がないわけです。
そのいっぽうで貴重な部屋や空間を臆面もなく占領しているだけというのが衣類の紛れもない事実。

古着買取なども調べたけれど、それに要する労力に対してほとんど見返りがないことも判明し、けっきょくゴミとして処分することが唯一最良の道というところに決着しました。
中には良い品やまったく袖を通していないものなど、いざ処分するとなると忍びないものも数多くありますが、そこでいちいち立ち止まってみてもなにもならず、意を決して片っ端から処分しています。

やるからには、無用なものはできるだけ取り除こうと整理と処分を続けており、すでにかなりの量をゴミとして出しましたが、だんだんわかってきたことは、捨てるという行為は、始めの抵抗感の山を一つか二つ越えてしまうと、あとは急速に慣れていくし、いつしか妙な快感があるということでした。

無用物としてそれを部屋から(ひいては家の中から)取り出せば、そのあとには場所や空間が生まれ、必要な物だけで再構成されるささやかな世界には不思議な新鮮さがあることがわかりました。
ちょっと生き返る感じと言ったら大げさかもしれませんが、そんな清々しさがあるのは事実です。

物理的にも精神的にも身軽になるということの大切さを感じた時に、ああこれが断捨離の意味するところなのかとチラッと思ってしまいましたが、もちろん先にも書いたようにその本質がどこになるのかよくわかりませんし、わからなくても構いません。

もうしばらくは終わりそうにありませんが、ひとつわかったことは、使いもしない物を多く抱え込んでいるということは、自分にとって知らぬ間にかなりマイナスになっていて、それに気づきもしないということです。
ついでに雑念などもすっかり捨て去ってしまえればいいのですが、そこまではなかなか…。
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無事に平穏に

正月とはいえ、旅行に行くでもなし、今年は家の中の整理に明け暮れています。
昨年いろいろあって、部屋をまるまる二つ整理する必要が出てきたためです。

あまりにも大掛かりなのでずっと手を付けずに来ました。

それで、年が明けて、ちょうど手伝ってくれる人もあることから、限られた時間内ということもあって、3日はついに着手することに。

モノを整理するということは、その前段階として捨てるべきものを捨てるということなんですね。
そのための取捨選択というのは、予想以上のエネルギーを要する仕事であるのにまず驚くことになりました。

巷では断捨離などという言葉をよく耳にしますが、そんな境地のはるか以前の段階で、不要物というものがこれほど家の中にあったのかということがまず衝撃でした。
長い時間をかけて蓄積されたものというのはとてつもないもので、さてさてこれは一筋縄ではいかないことを思い知ります。

おかしなもので、丸一日やっていると、感覚もだんだん麻痺してくるのか、自分がどれくらい疲れているのかもわからなくなりますし、後半の数時間はほとんど惰性でやっているようなものでした。

まだ当分は終わりそうにないので、残りは次の連休にでもコツコツやっていくしかないでしょう。


年末年始は、マロニエ君だけがそう感じたのかもしれませんが、救急車のサイレンをよく聞いた気がします。
こんな一年の区切りや、最も平和であって欲しい時期に、運悪く病気や怪我で救急車に乗せられて病院に搬送されるのは、本人も家族もどんな心持ちなのかと思いますが、やはり世の中は表に出る部分だけでなく、実際にはいろいろと人間模様があるということですね。

年末は明らかにおかしな動きの車がたくさんいました。
絶対止まってはいけないような場所で平気な顔をして止まる、4車線ある道で左車線からいきなり右折車線へ横っとびするように車線変更してみんなが急ブレーキになったり、かなりの速度で流れる幹線国道の中央にあるポールの切れ目で、Uターンしようとして玉突き事故の危険を作るなど、とく30/31日はマロニエ君も普通の感覚では運転できないことを察知してとくに注意して走りました。

30日は普通に走っていた深夜の国道が、突如大渋滞になったかと思うと、先にパトカーの赤い回転灯がたくさん見えてきて、右と左のそれぞれ歩道にグシャグシャに大破した車があったし、大晦日は深夜に年越しそばを食べに行こうと蕎麦屋の駐車場に入ろうとしたら、ちょうど店のまん前がパトカーだらけでした。

なんと、すぐ目の前の車道には横たわる人らしき影があり、それを大勢の救急隊員が道路に膝をついて取り囲んでいました。
今まさに担架に移されるところだったようで、その物々しさときたら大変なものでした。
あと1時間足らずで新年を迎えようというまさにそんなタイミングで、年越しどころではないことになっているわけで、想像ですが横断歩道のない道を横断してはねられたのかもしれません。
さすがに、もうすっかりビビってしまって、帰りは普段の何倍も気をつけてビクビクしながら運転して帰りました。

いっぽう明けて2日は、動物園の初開園の日でしたが、恒例のクジ引きで一等を引き当てたのはちょっと知っている小さな女の子で、昨年生まれた動物の赤ちゃんの命名権を得て、お父さんと一緒にこの様子が何度も何度もテレビに映し出されるのは笑ってしまいました。

なんとか無事に平穏に過ごしたい一年です。
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大晦日と元日

あけましておめでとうございます。

大晦日の夜は、知人からのメールがきっかけとなって、アニー・フィッシャーが弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をYouTubeで視聴しました。
オーケストラはN響で、タイトルには1989年とあり、たしかマロニエ君はこの演奏会に行った記憶があります。

この人は派手でもないし、スターピアニストというほどでもなかったけれど、自分の感じる作品をどう表現するかという点では並々ならぬものがあり、ときにちょっと先生タイプでもありますが、その音楽に対する謙虚な姿勢は瞠目に値します。

なつかしい演奏をあらためてネットの映像で目にして、こういう毅然とした佇まいの人って完全に消滅したなぁと思いました。
なんとなく、晩年のクララ・シューマンってこういう感じの人だったのかも…というような気も。
とても深く人を愛して、音楽のしもべで、倫理観が強いのに激情的で、鋼鉄のように信念を曲げない人…。

2016年は、実を言うとマロニエ君にとってはいろいろとあった年でしたので、どんな風に年越しをしたものかという妙な感覚もあったのですが、そんな年の最後の最後に、ベートーヴェンの3番をたとえネットではあっても好ましい演奏で聴くことができたというのは、思いもかけず良かったと思いました。

あまりにも聴き慣れた名曲中の名曲でですが、フィッシャーが弾くこの曲には飾らない実だけで語られるぶん、人間のさまざまなドラマが色濃く描かれており、第1楽章の一気呵成な推進力に圧倒され、第2楽章はホ長調へと転じて穏やかな許しに満ちた美しさは疲れた心が満たされるようであったし、終楽章では、再びハ短調に戻って悲喜こもごもの事共を全てひっくるめて、フィッシャー奏でるベートーヴェンの力によって,自分の心のうちをぜんぶ押し流してくれたようでした。
とくに終わりに近づくにつれて曲は高まり、すべてのことをひっくるめて総決算をしてもらったようでした。

やっぱりベートーヴェンは人生そのものですね!

大晦日に、まったく思いがけずアニー・フィッシャーを見ることで、2016年は最後は清々しく終われた感じでした。

これまでは新年最初に聴く音楽を何にするかこだわってきましたが、大晦日に良い音楽が聴けたことで充分だった気がして、新年のほうは止めることにします。

今年はもう少しピアノの練習をしようかな…と思うだけは思っています。
というのも、マロニエ君のまわりには、あまりにもビシっと練習する人がたくさんいて、その人達に接するたびに好きなことなら少しは身を入れてやらなきゃと思うからです。
でも、ほかならぬマロニエ君のことですから、きっとそうはならないでしょうけど、年頭にあたってちょっと人並みのことも言ってみたくなりました。

あいも変わらずくだらないブログですが、本年もよろしくお付き合いくだされば幸いです。
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標識後進国

このところ高齢者が引き起こす交通事故がちょっとした社会問題になっています。
たしかに、アクセルとブレーキを間違えたり、高速道路を逆走したりして、それによる死傷者もでているのですからなんとか解決されなければならないことだということに異論の余地はありません。

ただ、これを契機として高齢者から運転免許証をどんどん取り上げるような単純な解決法に傾くことは、個人的にあまり好ましくないと思っています。テレビで言っていましたが、さっそくその対策案として、車両の方にもいろいろなアイデアが盛り込めるのではないかということで、中には一定以上の力(時間?)でアクセルを踏み込むと、機械が誤操作と判断してブレーキを作動させるなど、今日の技術をもってすれば解決のための方策はいかようにも立てられると思います。

それでなくとも、人は間違いを犯すものなので、これだけテクノロジーが発達したなら、それを前提とした安全機構を盛り込んだ製品づくりをする必要があり、高齢者はその間違いの頻度が若い頃より増えるというだけです。

現代は高齢者といえども人頼りでなく、独立した生活形態が求められ、孤独に耐えながら懸命に生きておられる方が多い中、安全という錦の御旗の下、まだじゅうぶん運転可能な方からまで運転免許証まで取り上げたら、ますます日常の不便と苦しみは倍加するはずです。
外に出なくなれば、心身共にリフレッシュできる機会も減り、坂道を転げるように衰えてしまうでしょう。

折しも自動運転などの技術も、実用化へ向けてほんのそこまで来ているのですから、ただ禁止ということではない温かな処理を望みます。

いっぽう、逆走などに関しては、交通環境の方にも多少は問題があるのではと思えなくもない面があることは、見過ごすことはできません。

たとえばマロニエ君も日ごろ運転していても感じるのは、道路標識のわかりにくさが挙げられます。
対面通行ではない幹線道路などには間に中央分離帯がありますが、ちょっと変則的なかたちの交差点などになると、右折しながら、おもわずどちらに行くべきか一瞬迷うことがあり、こういうことも逆走の原因になるのではと感じることもあります。

逆方向には進入禁止などの標識をもっとわかりやすく警告表示すべきであるのに、実際にはそれらしきものはほとんど何もなく、探せば言い訳程度の小さな標識が隅にポンと一つおかれているだけという状況には驚くばかり。
起きてしまった事故には大騒ぎですが、未然に防ぐ策はとても万全とは言いかねるのが現状です。
さらにひどいのは、都市高速などではジャンクションでルートが枝分かれしますが、よほど走り慣れている場合を除き、ここで望む方向へ自信をもって走っていくことはかなり難しく、これはひとえに標識の不備が挙げられます。

むろん標識はあることはあるものの、緑地に小さな白文字で複数の地名がごちゃごちゃ書いてあるのみで、まず字が小さい。
そこへ制限速度は60km/hまたは80km/hで、実際それなりの速度が出ているものだから、アッと気がついた時には標識を確認する間もなく通りすぎてしまいます。
次に標識が出るのは、分岐する直前で、こうなると直接の安全へ意識が行ってしまうのため標識をきちんと確認する暇がありません。サブリミナルではあるまいし、一瞬で判断することが求められるのは危険この上ないし、事故を誘発させると思います。

実際マロニエ君の友人も、同じ場所で何度も違う方向に行ってしまい、次のランプでしぶしぶ下に降りたというような話を聞かされ、みんなが同じような印象を持っていることは間違いないようです。
なぜもう少し、デカデカと、わかりやすい標識を繰り返して掲げないのかと、これは本当に不思議です。

ヨーロッパでドライブ旅行した経験のある人に聞くと、たとえばドイツなどの標識は格段の違いがあるそうで、見やすくて明快な標識が必要な場所にバシッと立てられいて、日本語でもない見ず知らずの外国であるというハンディがあるにもかかわらず、自信を持って運転できたというのですから、この点は日本は道路標識後進国と言わざるをえません。

たとえ一般道でも、地図やカーナビ無しで、標識のみを頼りに目的地に行くことは、日本じゃほぼ不可能だと思います。

話は戻りますが、高速や有料道路の出口には、もっと派手派手しく進入禁止の警告を出すべきで、それがないためにヒヤッとした経験のある人は若い人でも結構いるだろうと思います。
とにかくこの点、日本の道路は標識誘導において甚だ不親切で、それを身体能力の劣る高齢者のせいばかりにするのは大きな疑問を感じます。
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逆に正確?

マロニエ君の自室は決して広い部屋ではありません。
ここは、寝る、本を読む、着替えをする、音楽を聴きながらパソコンを見るだけの場所なので、それらに必要なもので溢れており、ときどき思い出したように反省して整理しますが、いつの間にか同じような状態に戻っています。

自分だけの空間であるから、物の配置もいい加減で、成り行きで現在のような形態なっており、椅子から立って、部屋を出る短い通路(というかすき間)も、他人が通ったら物を引っ掛けそうな状況になっています。

昨日そこを通過するとき、左足の小指を、置いてある非常用の椅子のキャスターにしたたかに打ち付け、幸い怪我はなかったけれど、一瞬めまいがするほどの痛みと同時にバランスを崩してあやうく周辺に積み上げられたCDなどともろとも転倒するところでしたが、ぎりぎりのところで壁に指をささえ、かろうじて踏みとどまることができました。

ジンジンと疼く足の指をさすりながら、そろそろ少し物を片付けないと、思わぬ大けがをする危険があるなぁ…などと思いつつ、ともかく無事だったこともあり、そんな危機感もすっかり消滅してしまっていました。

それから数時間後、外出から戻り、着替えなどをすべく自室に入ったところ、今度は右足の小指を同じ椅子のキャスターにまた引っ掛けてしまい、前回ほどではないにせよ、まあそれなりの痛みに思わず顔をしかめることになり、今日はついていないなあと思いながら着替えをしたり、メールのチェックをしたり。

その後、用を済ませて部屋を出るべく、再び椅子を立ってドアに向かったところ、なんと三たび件の椅子のキャスターに左足の小指がヒットして、後の2回ははじめのような激痛と転倒につながるほどのものではなかったけれど、さすがに日に三度とは薄気味悪くなり、自分がどうかしたのだろうか…と考えこみました。

椅子のキャスターの向きでも変わっているのかなど、状況確認してみると、一つの事実が判明。
いつもは家具にピッタリくっつけている椅子が、ものを出し入れした後の戻し方が悪かったのか、このときは家具との間にわずかな(5cmほど)のすき間がありました。つまりそのぶん、キャスターの位置がいつもより前に出ていたというわけです。

日常の中で、まったく無意識・無造作に動かしている身体ですが、実はその加減を体がちゃんと覚えて動いていて、わずか5cmちがってもぶつかってしまうほど危ういところを「正確」に動いていたのかと思うと、自分のことながら、なんだか人間の体ってすごいもんだなあと妙に感心してしまいました。

考えてみれば、人のからだの動きは脳の働きに司られていて、それと身体的条件が重なって、実際にはほぼ決まった動きをきっちり繰り返しているのかもしれません。
となると、ピアノを弾いてもよほど丁寧にさらっていないと、ほぼ同じ場所で必ず間違えることなども、見方を変えればそれだけ正確に動いている証なのかもと思いました。

この動作というか能力を極限まで磨き上げたものが、芸術家の妙技であり、アスリートのパフォーマンスであり、職人の至高の技なんだと思うと、人の身体のクオリティというものが、実は私達が思っている以上にとてつもなく精巧なものに思えてきました。

どんなによくできたロボットでも、生身の人間にはとても敵わないことがその証拠かもしれません。
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うれしい再会

こんな偶然があるのかということがありました。

マロニエ君のフランス車趣味のほうの話になりますが、このところヨーロッパや日本国内のフランス車/イタリア車の専門ショップの類でも非常に評判のオイルのブランドがあります。
ちなみにオイルというのは、車用のエンジンオイルとかギアオイルなどのことで、むろん食用ではありません。

次回交換時にぜひ一度このオイルを使ってみようと思ったけれど、いくらネット検索しても通販のルートにはそれらしき商品は一切なく、やむを得ず輸入元に問い合わせをすることに。
それによると、このオイルを入手するには全国に散らばる「取扱店」から直に購入するということになっているらしく、価格も各店で聞いて欲しいとのことで、福岡での取扱店をいくつか教えてくれました。

いまどき通販がないとはずいぶん手間のかかることではあるけれど、それしかないなら仕方がない。
数軒の中から選んだのは、自宅から最も距離の近そうなルノーのディーラーでした。

価格も意外に常識的であったし、友人のぶんも合わせて10リッター注文することになり、数日後、入荷した旨の連絡がきました。

受け取りのため、お店に着いて車を駐車していると、すかさずショールームから若いお兄さんがすっ飛んできて、いかにもディーラーらしい対応をはじめます。こっちはただオイルを受け取りに来ただけなのに…と思いつつ、ひとまず言われるままにショールームへ入り、お願いした担当者の名前などを告げているときのこと。
ふわりと一人の男性が近づいてきて、こちらの顔をまじまじと見つめながら「あのう…❍❍さん(マロニエ君の苗字)ですよね」と言い始めました。

「えっ、だれ?」と内心思いつつ、たしかに見覚えのある顔ですが、だれだか咄嗟には思い出せず、一瞬とても焦りました。
するとすぐに自ら名乗ってくれたのでわかりましたが、かれこれ20年以上も前、マロニエ君がまったく別のディーラーでルノーじゃない車を買ったときについてくれた、担当のセールスマンS氏だったのです。当時、ずいぶんとお世話になった人だったのに、もともと関東の人で、数年後には関東へ転勤されてからはすっかり音信は途絶えていました。

その後、自動車業界から一時退いて、その後再び車の業界に戻り、ルノー輸入元に勤務されるようになった由。
マロニエ君がショールームに入ってきた時から、すぐにわかったんだそうでうれしいことでした。
互いにこの邂逅に大いに驚き、しばらく昔話に花が咲きました。

そうこうするうち、視界の中でチラチラこちらを見ていた男性が、オイルの支払い明細などを持ってこちらに近づくと、「❍❍さん…私も…」というので、お顔をよく見ると、さらにそれよりも前、また別のディーラーからまったく別の車を買ったときの営業のT氏で、一か所でこんなことが二度も続くなんて、みんなでマロニエ君を騙しているのでは?と思うほどの驚きで、あまりのことに叫びたくなるほどでした。

いまとは時代も違って、人との関わりも深い時代だったこともあり、T氏とはプライベートでも車好き同士としてドライブをしたりしたこともあるし、たしかに顔立ちに当時の面影がはっきりと蘇りました。

この二人、ルノーとはまったく関係のないところでそれぞれ関わっていた人たちで、それがまったく予想もしない場所で、しかもほぼ同時に再会できるだなんて、大げさですがそのときはほとんど奇跡が起きたように感じました。
しかもS氏に至っては、現在も関東を拠点に、月に1〜2度のペースで福岡県内のディーラーを回っているとのことで、きっと偉くなったんでしょうが、たまたまこのときだけ、このディーラーにいたということでした。

T氏のほうはこのディーラーにお勤めとのことでしたが、マロニエ君はフランス車は好きでもルノーにはこれまでご縁がなかったために、ここに訪れるのも初めてで、長らくお会いするチャンスがなかったというわけ。
S氏には「へーえ、大病院の院長回診みたいに、あちこちの店舗を見まわっているというわけですね!」とからかうと「いややや、やめてくださいよ〜!」などと破顔していました。

お互いにずいぶん年をとってしまいましたが、若かったあの時代に関わった人というのは、なんだか格別なものでしっかり繋がっているような気がしました。20年以上のブランクがたちまち取り戻せるような何かが、昔の人間関係にはあったのだと思います。
今どきは、よく顔を合わせる相手でも、たいてい上辺の付き合いに終始する時代ですから、よけいにそれを感じます。

この先もしょっちゅう会うことはないけれど、こういう繋がりも大切にしていきたいと思いました。
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