ウインドウォッシャー

土曜の午後のこと、車の混み合う市内の片側二車線の幹線道路で信号待ちをしていると、突如として一斉に水滴が降ってきたので、にわか雨か?と一瞬思ったのですが、すぐにその感じからして雨ではないことはわかりました。

では、近くのビルの屋上からでも水が降ってきたのかとも思いましたが、それでは方向が違うし、咄嗟にあたりを見まわしたところ、すぐに犯人がわかりました。
この日は久々の青空だというのに、右側車線の斜め前で同じく信号停車している黒っぽく背の高い軽自動車が、ウインドウォッシャーをびゅーびゅー出しながらワイパーを動かしています。

おそらく窓が汚れていたので、ウインドウォッシャー&ワイパーを使って窓をきれいにしていたのでしょう。
しかし、そのウォッシャー液のノズルがあらぬ方向を向いているらしく(大抵の車が角度を変えられます)、それが信号停車中のまわりの車にちょっとした噴水のように飛び散っているのですから、雨天でのことならともかく、晴れた日にこんな迷惑な話はありません。

しかもその車、何度もその操作を繰り返していて、こちらが呆れているその間にも、繰り返しウォッシャー液が飛んでくるのですからたまりません。
それも水道水などならまだしも、ウォッシャー液は大抵は薄い洗剤の入った液ですから、これが他車の塗装面にふりかかれば、下手をするとへんな染みなどを作ってしまう恐れもなくはありません。

すぐに降りていって止めるように言いに行こうかと思ってシートベルトを外した瞬間、信号が青になり断念。
ところが、次の赤信号でまた同じ位置関係で再び停車することになりましたが、な、なんと、またやっていて、さらにはリアウインドウまでじゃーじゃーウォッシャー液を出しながらしきりにワイパーを動かしています。

今度こそ!とばかりにすかさず車を降りて、斜め前の車の助手席側に走り寄り、幸いドアの窓ガラスが開いていましたので、「ちょっと、その水を飛ばすのはやめてください!水がまわりに飛んでほかの車はずぶ濡れですよ!」と言ったら、運転しているのは、ちょっと漫画チックな感じのメイクをした若い女性でしたが、はじめはポカンとして意味がわからないようでした。
繰り返し説明するとようやく事の次第がわかったららしく、「すいません…」と言って止めましたが、いやはや…とんだ迷惑を被りました。
その後、他所に寄って帰宅してから、ガレージでさっそく窓やボディを軽くふきとりました。
もちろんそのころにはすっかり乾いていましたが、窓ガラスなどが点々と浴びせられたウォッシャー液の跡が残っていて、なんでこんなことをしなくちゃいけない羽目になったのかというところですが、まあ、事故にでも遭ったと思えば腹立ちも収まるというものでした。

それにしても、ウォッシャー液というものは、ノズルの位置がきちんと窓の方向に調整されているのはもちろんとしても、できるだけお天気の良い日中などは使うべきではないと思いますし、それでもどうしても使うなら、周囲に迷惑をかける可能性があるので、前後左右に車がいない場所でやってほしいものです。
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熾烈な競争

仕事の関係で印刷を依頼することがときどきあるのですが、近ごろのネットで注文する印刷業界の価格競争には凄まじいものがあるようです。

ネットが発達する以前の印刷業界を知る者にとっては、これこそまさに「価格破壊」と呼ぶに相応しいもので、日本中の大半の印刷会社が低価格をめぐって熾烈な競争を繰り広げるか、さもなくば廃業などに追い込まれているようです。

ひと時代前までは、印刷は中国が断然安いので、大手企業などの大量の印刷物や出版物は運送コストをかけてでもそちらのほうが安くつくので、国内の印刷業界は大変な状況らしいという話を聞いたことがありました。
そんな時期からさらに年月を経て、今では国内の印刷業もすべてではないかもしれませんが、この価格競争に打って出て、マロニエ君の手許だけでも、数社の激安店がリストアップされており、安い魅力には勝てずにこれをよく使っています。

しかも驚くべきは、昔ながらの「安かろう、悪かろう」ではなく、本当に高品質な製品がきちんと納入されてくるので、いやはやこれも時代かと驚くばかりです。

そのかわり、昔の印刷屋のような手間暇かけた手法ではなく、原稿はすべて発注者のほうで完成させなくてはならず、それなりにビジュアル系のソフトなども使いこなさなくてはならないという点もありますが、それさえクリアすれば、本当に信じられないような低価格で、従来の価格のものと遜色ない美しい印刷が仕上がってくるのですから、驚くやら、ありがたいやらです。

また一色刷と二色刷、さらにはカラー印刷という点でも、価格は大きく差が出るというのもこれまでの印刷の常識でしたが、今ではフルカラーが半ば当たり前のようで、さほどの違いはありません。これはおそらく印刷機が以前とは比較にならないほど発達、高性能になったためだろうと思われます。

まあ、利用者としては安いことは無条件にありがたいことなので、とりあえず歓迎なのは間違いありませんが、しかしこういう競争をやっていかなくてはならない今の厳しい世の中という観点で考えてみると、なにやら恐ろしいような気がするのも事実です。
しかも、相手はネットですから、日本中どこの印刷屋であってもハンディなくライバルとなるわけで、昔なら必然的に距離の近い、付き合いのある印刷屋であることは当たり前でしたが、そういう条件も無情に撤廃されたということでしょう。

現にマロニエ君がネットで利用している印刷会社も、ものによって価格と得意分野が異なるために数社を使っていますが、京都、名古屋というふうに、すべて遠方の会社で、もちろん社員とは一面識もないわけですから、利用しながらときおり驚いているところです。
先日も、ポストカードを作るのに、あるギャラリーの紹介で安い印刷会社(もちろんネットの)というのを紹介されましたが、同じ条件でも別会社を調べてみると価格はさらにその3分の1ほどだったりと、その凄まじさときたら大変なものです。

自分が利用していて言うのも憚られますが、ネットというのは社会をおそろしく厳しい、極限の競争を強いるものへと変えてしまったのは間違いないような気がします。
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高速道路で

先日、ここ最近ではめずらしく高速道路を長距離走りました。
広島までの日帰り往復で、どうしても車の必要があったので新幹線というわけにはいきませんでしたが、ひさびさの片道300キロ、往復600キロはけっこう骨身にこたえました。

昔はそれなりにやれていたことで、東京ー福岡を車で一気に走破なんてこともときどきやっていましたが、最近は歳のせいももちろんあるでしょうし、なにしろこういうことは心身共に慣れていないとダメですね。

久しぶりだと緊張と眠気のバランス取りがうまくいかずに、さすがにぐったりきました。
よく若いお父さんが子供の運動会に参加して、まだまだやれるつもりでいきなり走ったのはいいけれど、日ごろの運動不足から転んだり足がもつれたりということがよくあると聞きますが、似たようなものでしょうか。

早朝に出発して、昼前後に広島市内で用件を済ませて、ついでなのでちょっとピアノ屋さんに寄ってから帰途につきましたが、延々と走って来た道をまた引き返すというのがどうにも性に合わず、うんざりしてしまいます。
これがさらに関西にでも向けて走っていくのならまた気分も違うかもしれません。

それにしても印象的だったのは、以前に較べて高速を走る車の全体的な速度もわりに落ち着いていて、穏やかに淡々と走っている車が圧倒的多数でした。土曜だったせいか、あるいは流通業界も不況なのか、以前なら高速はトラック専用道路か?とでもいいたくなるほどの大型トラックも数が少なくて、ドライブそのものはわりに快適に過ごすことができました。

中国自動車道では、今年のいつだったか、福岡のフェラーリ愛好家達が集団で大事故を起こしたと思われる箇所も通過しましたが、下関から西のルートは高速道路にもかかわらずカーブと勾配の変化がかなり続くので、雨上がりの早朝にこういう場所であんな大パワーのスポーツカーがフルスロットルを与えながら疾走していれば、アクシデントが起こるであろうことはじゅうぶん想像できました。
とくに仲間同士で走ると、いよいよテンションは上がるのが人間でしょうから恐いですね。

恐いといえば、帰りの九州自動車道で、ものすごい女性ドライバーがいて驚きました。
土曜の夕方ともなると、福岡が近づくにつれ交通量も俄然増えてきて、とりわけ若宮ー古賀インター間はトリッキーな下りカーブが続く箇所で、ここはいつも通るたびに運転も慎重になるルートです。このときは車が多くて追い越し車線も前後ずらりと連なって100km/h前後ぐらいで流れていましたが、突如赤い普通のコンパクトカーがマロニエ君の後ろにビタッとくっつきました。
しかも充分な車間距離をとらずにいよいよ近づいてくるので、なんだこれは?と思ってバックミラーを見ると、それは若い小柄な女性が一人で運転している車でした。
それでも前に行こうとする気迫のほうが勝っているらしく、ときおりバックミラーに写るその女性の表情までわかるぐらいまでピッタリと後ろについています。

さらにはイライラしているのか小刻みに車が左右にも揺れていて、これはちょっと…まともな走り方とは思えませんでしたので、早く走行車線に逃げ込みたいところでしたが、走行車線も前後車がつながっていてなかなか左に寄る余地がありません。
そのうち隙間を見つけてどうにか左によけると、その赤い車の女性はすかさず加速して、さらに次の車のうしろに同じように張り付きましたが、そのうち左右どちらの車線も関係なしに、とにかくちょっとでも早いほうへジグザグに車線変更しては周りの車を煽るだけ煽って、とうとう視界から消え去っていきました。

相当危険率の高い運転で、ましてや高速道路ですから見ているだけでヒヤヒヤもので、いま事故が起これば確実にこちらにもとばっちりを被るという状況でしたから、その赤い車がいなくなってホッとさせられましたが、あんな無謀極まる車の巻き添えになったらたまったもんじゃありません。
それにしても凄い女性ドライバーがいるもんだと思い知らされました。
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今どき営業マン

先々週の祝日のことですが、ふと思い出しましたので書いています。
このところ友人の車購入の協力をしていることは以前書きましたが、該当する車が北九州のある輸入車ディーラーの中古車在庫としてあることがわかり見に行ってみようということになりました。

事前にディーラーに電話したところ、間違いなく車はあるという確認がとれましたので、福岡から見に行くことを伝えて、電話に出た営業マンの名前を聞き、時間の約束をした上で北九州を目指しました。

ちなみに北九州のその店は福岡からは70キロほどで、高速を利用してもトータルで1時間半ぐらいかかります。

ディーラーに到着すると、すかさず女性従業員がこっちに近づいてきて、満面の笑顔で「いらっしゃいませ」と言ってきます。電話に出た営業マンの名を告げてショールームで待っていると、ほどなくして若いお兄さんが現れて、型通りの挨拶をして、名刺を差し出します。
なんとなく、自信の無さそうな視点の定まらないお兄さんが、習った通りのことを一生懸命やっている感じで、いま思えばこの時点から少し不安感はありました。

その彼によると、車は別の展示場のほうに置いているため、そちらへご案内しますので少しお待ちくださいといわれ、ほどなくして準備されたお店の車に乗り込みました。
約5分ほどとのことですが、これが思った以上に遠いのにまず驚きました。

ようやく目指す展示場に着いたものの、ちょっと見渡した限りでは目指す車は見あたりませんでしたので、この時点でさらに違和感が募りはじめていました。
その営業マンは車を降りるなり、首をあっち伸ばしこっち伸ばしして車を探しているようですが、どこにもそれらしき車はなく、必死に手許の資料を黙々と繰っていますが、こっちにはほとんど配慮らしき言葉もありません。
だいいち、この段階で車を探すということ自体が驚きです。

ときどき「あれ…」といったようなつぶやきだけが聞こえますが、もうお客さんへの対処はなど、彼の頭の中ではまったく吹っ飛んでいるようでした。
そのうちこのセンターの女性スタッフに声をかけてしきりに話をしていますが、これといった答えはでないようで、信じがたいことにその女性と二人してクルマ探しが始まりました。
その間、我々は寒風吹きすさぶ中を広い戸外にほったらかしにされ、これではたまらないので、とうとう事務所のようなところへ自ら避難しましたが、その営業マンはどうしていいかわからないようで、それを見ているこっちのほうが情けない気になりました。

それから10分ほどして、結果的に車はさらに別の場所にあるにはあったものの、そこは単なる保管エリアのようなところで、まわりは他の車にギチギチに挟まれていて、さらには分厚いホコリを被ったままで、とてもお客さんに見せるというようなシロモノではありませんでした。

普通なら電話して来意を伝えておけば、安いものでもないのですから、車を見やすいようにちょっと表に出すとか、簡単な水洗いをするぐらいのことは当たり前ですが、ごく基本的なことがこれほどまったくできていないのは唖然とするばかりでした。
エンジンすらかけようともせず、ただ車の脇で直立しているのみ。これでは我々も、車をまともに見てみる気も喪失してしまい、気分は一気にしらけて早々に退散することになったのは言うまでもありません。
これが正規ディーラーの看板を揚げている店の対応なのですから、もう笑うしかありません。

あんまりだと思って、少しだけおだやかに思うところを伝えましたが、「申し訳ございません…」をロボットのように繰り返すだけで、まるでそれ以外の言葉を知らないようでした。帰りの車の中でもまったくの無言で、こういう人が車を売るような接客の仕事に就くこと自体が間違いのような気がしました。
おそらく本人は何が悪かったのかさえもわからないのでしょうが、こういうタイプはこのお兄さんに限ったことではなく、けっこう沢山いるような気がします。
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この土日の二日間にわたって福岡地方としては大雪になりました。

降雪地帯ではないので、年に一二度見るかどうかの珍しい光景ですし、地域そのものが雪に慣れていませんから、雪が降るとみんなすぐに外出を見合わせたりするようです。

いまさらですが雪の特長の第一は、まったくの無音だということに驚かされます!
雨なら音や湿度などでわかるということもありますが、雪はまさに忍者のように足音もなく近づいてくるようで、気がついたときにはあたりが薄化粧をしたようになり、ふだん見慣れぬ白い雪が懸命に降り注いでいる光景は心がハッとするようです。

通常、福岡の雪なんてちょっとの時間降るぐらいがせいぜいで、積もるということはまずありませんが、この二日間はそれではなくて、それなりに積もって見事な景色を作り出してくれました。
そして、たまに陽が射してきたときには、その雪の白さを反映して部屋の中までパッと明るくなるのは、なんとなく心の中まで光が照らされるようでした。

とりわけ木々の枝という枝にまんべんなく積もった雪は、まるで冬の枯れ木が一気に満開の桜のようで、静かな華やぎがあり、その思いがけない変化には息を呑むようです。
昨日の朝には、更に夜中の間に積もった雪が太陽の光を受けて溶け出したらしく、家の窓から見ているとバサバサとあちこちの枝から積もった雪の固まりが降り落ちてくるのですが、これが家の周りで間断なく続いている状況はなんとも風情がありました。
降っているときは舞台の一場面のようでしたが、こちらはまさに見事な日本画のごとき美しさでした。

向かいのマンションでは、わずかな雪を掻き集めて一家が雪合戦をやったり小さな雪だるまを作っていましたが、ちょっと見ているとこれがいささかヘンテコな光景でした。

何かというと、若い両親は写真撮影に余念がなく、雪合戦さえもしばしば中断させられて、要するに写真撮影のほうが主たる目的のように見えました。
互いにカメラを持ち替えては、メロンを二つ合わせたぐらいの雪だるまを抱えた子供とパチリ、雪を投げてはまたパチリと、ただ素直に自然に珍しい雪で遊んでいる感じ…というのとはちょっと微妙に違うニュアンスを感じました。

たぶんそれをパソコンに取り込んで、保存したり、ブログやホームページにアップするのだろうという、先の狙いが透けて見えてしまうようで、そう思いはじめると不思議に冬の風物という気配も、一家のほほえましさもすっかり割り引かれてしまい、一家総出でひとつの目的のための証拠作りをしているようにしか見えなくなりました。

こう書いてしまうと、マロニエ君のものを見るレンズが皮肉めいているように思われるかもしれませんね。たしかにそうかもしれません。
それを否定はしませんが、しかしそういうものは不思議に伝わってくるもので、あれはやはり雪ひとつでも有効活用したいという現代人の思考回路というか、行動パターンだったように思います。
まあ、そんなことをこのブログにわざわざ書いているマロニエ君も似たようなものといえばそうかもしれませんが、やはり家族の笑顔や遊びまで、どこかやらせの臭いがするのはがっかりしますね。
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安城家の舞踏会

山田洋次が選ぶシリーズで『安城家の舞踏会』というのを観てしまいました。
原節子、森雅之、滝沢修などが出演する、終戦後の没落貴族の黄昏れの様子を描いた映画で、当時はそれなりの話題作だったようです。

戦後に平和憲法が発布され、民主主義の名の下にそれまでとは打って変わった平等の世の中が打ち立てられ、それを前にした貴族の悲哀。収入も途絶え、住み慣れた広大な家屋敷を維持することもできない一家は、それぞれの捉え方によって新しい時代といかに折り合いをつけていくかという現実に直面しながら、最後の舞踏会を催します。

その招待客の中には、ヤミ会社の社長で、屋敷を抵当に金を貸している男も含まれていますが、舞踏会の裏で安城家の当主は屋敷を手放すことが耐えられずに哀願を続けますが、この社長はこの屋敷はもはや自分のものだと言って相手にもなりません。

この男は昔、安城家に世話になった過去もあり、その点でも当主は翻意を必死に訴えるのですが、旧秩序の崩壊と時代の流れで世の中の価値は一変し、そのような過去などなんのその、まったく相手にされません。

また、長年この家の運転手として仕えていた男が裸一貫から商売をはじめて財を成し、昔の主家を買い取ろうとするなど、見方によってはこの終戦の時期というのは戦国時代以上の下克上ともいえるようです。
こういう混乱をかいくぐった末に今日のような時代が到来したのだということが偲ばれました。

そんな中、無気力に生きる安城家長男役の森雅之はいつもだらしなくタバコをくわえ、何事にも無気力、厭世的になり、暇さえあればピアノを弾いていました。

ショパンのエチュードやプレリュードを形ばかり弾いていましたが、密かに遊ばれている女中が、長男の冷淡さに業を煮やして、人目がないのをいいことに、いきなり演奏中のピアノの鍵盤に飛び乗ってお尻をのせつつ気を惹こうとするシーンなどは、当時としてはよほど大胆な演出だったのだろうと思いますが、今の目で見るとあまりにも滑稽で笑ってしまいました。

古い映画というのは、その時代を偲ぶ手がかりにもなって面白いものですね。

いつの時代も、時代が変わることによって、それまで当たり前だとされていた事柄が、そうではなくなるというのは、良いことも多いのかもしれませんが、同時に様々なかたちで計り知れない悲劇も生み出すものだと思いました。

この映画は終戦後わずか2年の、1947年の9月に封切られており、当時は貴族といわず、このような現実がごろごろしていたものと思われます。
世の中がひっくり返るというのは、何にしても大変なことですね。
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発火

最近はマッチを使うなんてことはほとんどない時代になりました。
もはやマッチそのものがないという家庭も多いことだろうと思います。

ところが、へんな言い方ですがマロニエ君はこのマッチというのが嫌いじゃないんです。
というよりも、あのカチッと音のする100円ライターの感触が嫌いだし、ましてや昨年の夏でしたか、規制がかかっていらいますます固くて指に負担がかかり、ちょっと使う気にもなれません。
ちなみにマロニエ君はタバコは吸いませんからこれに使うわけではないのですが…。

ごく平均的日本人と同様で、我が家には宗教心といえるようなものはありませんが、それでもいちおう先祖の仏壇がありますから、ごくごく習慣的にこれを毎朝お線香を立てて拝む真似事のようなことだけはやっています。

そんなことで、マッチを使う機会というのは我が家に限っていえば、まだ少し残っていて、いまだに使っています。

さて、そんなマッチですが、先日びっくりすることがおこりました。
箱から一本取り出して、先に箱を閉めようとした瞬間、どうやらマッチ棒先端の火薬が箱の脇に接触したらしく、いきなりマロニエ君の指の中で着火してしまって、ワッと激しい炎があがりましたが、それはたかだかマッチ一本とは思えないようなものすごい爆発的とでもいいたいような迫力でした。
反射的にそのマッチを放り出してしまいましたが、お陰で左手の中指の右側にほんの小さな火傷をしてしまいました。

自分でもゾッとしたのは、着火した瞬間の強くて勢いのある火力だったせいか、その刹那プーンと鼻についた臭いは、まぎれもなく「肉」の焼ける臭いで、しかもそれが自分の体から発したものだと思うとゾッとしてしまいました。

マッチはどうかすると何度擦ってもなかなか火がつかないこともあるかと思うと、こんなにも思いがけず、ちょっと先が触れただけで轟然と火がつくというのは恐ろしいもので、たかが一本のマッチといえども油断は禁物だということを痛感させられた次第でした。

幸いにも火傷はごくわずかで、今の季節は水道をひねるととびっきりの冷水が出ますから、これで十二分に冷やしたあと、薬を塗って一晩寝たら、翌日はもうかなり治まり、いまではまったく気にならないまでになりましたが、みなさんも火の取扱いには、いまさらですが注意深くされてください。
牙をむいたら恐いです!
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豪華絢爛は大衆向け

ある本を読んでいると興味深いことが書かれていました。

いささか下世話な話ですが、ホテルや料亭などには自ずと格というものがあるのはよく知られている通りで、今どきはミシュランガイドの影響によるものか、なにかといえば星の数などがその尺度のようになっています。
しかし、それらは出版社などの、所詮は給料取りの誰かがチェックをして等級を付けたものであって、マロニエ君はこんなくだらない、かつ信頼に足らないものはないと以前から思っていました。

ホテルなども高い評価を得るためには、いろいろな評価基準をふまえて、予めそれに合わせてクリアできるように作っていくだけで、本当の格式とは思えません。

中には一泊いくらというようなスイートの存在などを披瀝して、それがさも高級であるかのようにアピールしますが、なんとばかばかしいことかと思います。もちろんそんな部屋に泊まりたい人がいて、支払い能力があるのなら泊まればいいでしょうが、それが即高級と思うこと自体が価値観の貧しさの表れのような気がします。
そもそも昔から、必要以上に一流ホテルに拘ったり、スイートルームなどに異常に憧れるのは決まって成り上がりだと言われています。
その人の根底に高級というものの本来の尺度が存在しないので、高額であることにのみ頼るのでしょう。

本に書いてあったのは、高級というものにはそこに息づく精神的な価値の領域があり、また昔からの利用者が自然にそれを受け止めて、誰ともなく認識していることが大切で、決して派手で豪華な作りではないということです。
そして、ホテルであれレストランや料亭であれ、大衆を相手にする店ほど見た目を豪華絢爛に仕立て上げて、もっぱら表面的な作りになっているという事実。本物は表面的な誇示や演出などする必要がないし、高級の中身とは目に見えるものばかりではないので、本物はむしろ地味でそっけないものであるということでした。

今どきの高級ホテルなどは、数十年前の高級ホテルとは違って新しいものが出来るたびにこれでもかという豪華で壮麗なドバイみたいな作りになります。しかし、それがまたいよいよウソっぽいわけです。
料亭然りで、昔のそれは外から見るとなんということもない至って簡素なもので、知らない人は大抵見過ごしてしまうようなひっそりしたものでしたが、今はやはり誰の目にもわかる壮麗で明快な豪華さを表面に出してきます。

例えば、本物の料亭とは間口が狭く奥行きがあり、作りは地味で、中も広くはないが、そこに流れる空気が違うし、お客も店側も要は出入りする人間が違うということです。そして本物の尺度というものは甚だ曖昧で、チェック項目のようにして文字の上に表せるような類のものではないということでしょう。

そして本を見て覚えて行くようなものではなく、生い立ちの中でごく自然に身に付いた者だけが行くものであったはずです。
一流というものの概念には、究極的には一朝一夕には得られない経験と精神性がかかわるわけで、そのためには伝統の裏付けなしに真の高級というものは存在しません。そこでは物質的には逆に簡素であることがむしろ必要だったりもすると思われます。
しかしそういうものとは無縁の大衆感情に訴えるには、物理的、視覚的、金額的なもので表現するしかなく、そこで伝統なんて言ってみてもとても間に合うものではありません。

今はあからさまな競争社会ですから、もっぱらビジネスで成功したような人ばかりが社会の上位に位置することになり、かくして本物は次々に静かに姿を消していくのでしょう。

ふと、ピアノの音も最近のものは奥行きのないブリリアントな方向で、なるほどそんな風潮と経過を辿っているようにも感じてしまいました。
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地域性

このところ知人の車探しの手伝いをすることになり、ネットで中古車検索をしながら、あちこちに電話の問い合わせをしましたが、そこでひとつの事実というか現象のようなものが浮かび上がりました。

それは全国の各地域による電話対応の違いでした。
本来なら近場がいいわけですが、良い物を探すためには距離を厭わず探し回るのがクルマ好きですから、そのためには最大市場ともいえる関東地区まで範囲に収めて、以西、東海、関西、四国などまで検索範囲としました。

現に、マロニエ君の友人知人には、良いものが見つかったときには、仕事の休みを取ってわざわざ飛行機に乗って見に行ったり、長距離バスに飛び乗って目指す車屋に赴き、場合によってはその場で現金決済して乗って帰ってくるという猛者なども一人や二人ではありません。
そうまでしてでも自分の欲しい車を購入するという、好事家特有のパワーがあるということかもしれませんが、まあ傍目にはご苦労千万なことだと目に映るでしょうね。

さて、その電話対応ですが、今回電話をしたものに限って言うなら、あきらかに関東地区が突出して対応がよくありませんでした。話しぶりもどこか横柄で上から目線、さらにお客さんに対しても話のイニシアチブは店側が取ろうと微妙に牽制してくるのがわかります。

その点では、関西はやはり商売というものに対する歴史と土壌があるというか気構えがしっかりしているのか、問い合わせに対しては適度に腰も低いし、温かく気さくに応じてくれます。
四国もまあ普通でした。地元の福岡もその点ではまったく問題ありませんでした。

その点では、関東地区は大半がそれぞれにムッと来るような出方をするのが目立ちます。
この不景気でろくに売れていないくせに、どこか高飛車で、それが「商品への自信の表れ」「べつにへーこらしなくてもモノが良いんだからそれでいい」という類の変な虚栄心が背後にあり、2/3ぐらいの店がお客さんよりも立ち位置を優勢にしようという、まったく勘違いとしかいいようのない歪んだ流儀のあることがビンビン伝わってきます。

挙げ句の果てには、こちらとしてはごく真っ当で当然のことを質問しても、いちいち不快なような示したあげく「うちを信用してもらうしかない」などと阿呆ではないかというようなことを言い始めます。
こういう言葉は昔からいい加減な車を売りつけるときの中古車業者の常套句ではありましたが、時代が変わって、さらにはこんな不景気になっているというのに、悲しいかな悪しき体質をいまだに引きずっているのは、まるで関東だけがひどく遅れて取り残されているように感じられて驚きでした。

このようなネットの時代に、誰の紹介でもなく、ただ単に検索サイトでヒットした結果で電話しているだけなのですから、キチンと商品説明を受け、あれこれと質問があるのは当たり前であって、いきなり抽象的に「うちを信用しないなら、べつにいいですよ」的な発言をするほうがどうかしています。
まるで、意味もなしにすぐいきり立つ自信のない弱い人のようでした。

東京は車店に限らず、マロニエ君がいるころから全般的にこうした「店側が威張る」といった体質がありましたが、たしかに関東地区は何事も同業のライバルも多いので、それらの中で他店より抜きんでるためには、地道で誠実な努力を重ねるよりは、このような高飛車路線でいくのがある意味で常道&早道でもあったのでしょう。
しかも、こういうことはエリア全体の空気の問題だから、なかなか直らないんですよ」ね。

会社でも学校でも当てはまることですが、「悪しき体質」というものほど、なぜか脈々と受け継がれていくものだということを再確認しました。
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最も買ってはいけない車

車のことで調べたいことがあってネットを見ていると、偶然ある人のサイトに辿り着きました。
世の中にはどんな分野にも「達人」というべき人がいるもので、この方は輸入車の販売業をやっている人らしいのですが、実に多種多様な車に文字通り精通してたスペシャリストで、各クルマごとに分けて非常に参考になる濃い内容がたくさん載せられていました。

プロフィールを見ていると、わりに若い人のようでしたが、どうして立派なものです。
自分が好きなことで、それを職業として毎日関わっているというのは、まさに植物が必要な水や栄養をぐんぐん吸い上げるように、知識や経験がとてつもない量蓄積されていくという見本のような人です。

しかも、その方は主に輸入車の中古車販売を自分でやっているらしいので、関わる車種の幅広さも多岐にわたり、特定の新しい車種しか扱わない、ただの月給取りのディーラー営業マンなんかとは、その知識経験の深さと広さには雲泥の差があるようです。

まさに何でも弾ける、昔のアラウとかアシュケナージみたいな感じですね。

あらゆる車の個性や魅力、モデルの変遷、長所短所、経年変化で起こるトラブルの特徴など、つい「なるほど」と思わせられるものばかりで、もうこれだけで立派な本ができるのは間違いありません。

また、中古車販売販売業者として車種の垣根を超えて、日々多種多様な車に触れているということは、それだけ車を見る目、判断力もより正確で信用度の高い客観性が備わっていて、一部の車種を偏愛したり忌避するということもないのです。

読むほどにどの車種においても的確な判断がくだされ、しかも根底にあるクルマ好きの心情がひしひしと伝わってくるので、読み物としてもついやめられないほど面白いものでした。

文章は、車の国籍ごと、さらにはメーカーごとに分類されていて、最後にいよいよマロニエ君所有のフランス車についての記述を開いて読んでみることに。
はじめは楽しく読んでいたところ、我が愛車の名前なども登場してきて、さあ何と書いてあるかと思ったら、車としての孤高の魅力は大いに認められていたものの、故障やパーツ供給、整備の難しさから「最も買ってはいけない車」!?として結論づけられていたのには、覚悟はしていたものの思わず倒れそうになりました。

「むろんその車のことをわかった人がそれを承知で乗るぶんには、他に変わるもののない良い車」というふうに断りは入れてあり、ゆめゆめ甘い覚悟で購入するべきではないという警告でもあるわけですが、やっぱり総論として、できれば避けたいワーストの部類に入れられたというのはトホホでした。

もっともマロニエ君のまわりには、そのトホホを自虐的な楽しみであるかのようにして悲喜こもごもに乗っているオバカも多いので、まあ笑い話がまたひとつ増えたぐらいの感じではありますが、普通の感覚でちょっとオシャレなクルマに乗りたいぐらいな感覚で買おうものなら、それこそとんでもないことになるのは請け合いです。
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復興支援コンサート

東北の震災以来、その復興支援のためのコンサートが数多く開かれました。

それが本来の目的に適った通りであるならば、大変素晴らしい結構なことであるのは言うまでもありません。中には内外の著名な超一流のアーティストがまったくのノーギャラで行った本格派のコンサートなどがいくつもあったようで、そういうものには素直に感謝と敬服の念を覚えます。

しかし、世の中、そう麗しいことばかりであるはずもなく、マロニエ君のような人間の目にはどうも不可思議に映るものも少なくありません。
正直を言うと、中には「復興支援」の文字に違和感を覚えるコンサートがかなりの数含まれている気配を感じてしまいました。

本来の復興支援のためのコンサートというものは、いわゆる有名アーティストが、その自分の集客力を使ってお客さんを集めてコンサートをし、その収益金を被災地/被災者に寄付するというものです。
ところが、震災後にこの復興支援に名を借りた、わけのわからない正体不明のコンサートが無数に開かれた(現在もまだ続いている)のは、偽善的な悪乗りのような気がしてしまいます。

もちろんすべてとは言いません。有名アーティストでなくても、純粋な動機と内容で行われた復興支援コンサートも中にはあったことでしょう。

しかし、チラシを見ただけでも胡散臭い感じのするものもあって、復興支援の名の下に、これ幸いにコンサートを開くということを思いついたものも相当あった気配は否定しようもありません。
いっぱしに「収益金(の一部は)は被災地に寄付」というような文言はあれども、さてそのうちどれだけ寄付するのかさえわかりません。
コンサートに来たお客さんに後日、寄付の明細を報告するわけでもありませんし、極端な話、集まったお金からたった1万円寄付しても、言葉の上ではウソにはなりませんから、この手の合法的で限りなく自己満足に近いコンサートはずいぶん行われたと思います。

事はなにしろ寄付であって義務ではないために、多くがアバウトで、善意善行として追跡調査もされない性質のものであるのは、さらに都合の良いことでしょう。

復興支援の看板をかけさえすれば、自分達のコンサートの恰好の口実にもなるし、演奏機会はできて、社会貢献までやったことになり、おまけにちょっとした小遣い稼ぎにもなれば、見方によってはほとんど一石三鳥の世界かもしれません。
日本人は世界的にも信頼のおける優れた民族で、災害時に略奪や暴動などが起こらないなど、外国人の目には驚くべき長所がある反面、ほとんどなんの関係もないような事にまで「復興支援」などというお題目を立てて、このいわば災害特需にあやかってしまうという、暗くてみみっちいクセは…あると思いますね。

まあ、無名奏者のクラシックコンサートなどは、もともとどう転んでもろくに儲からないものだから、それをネコババといってもたかが知れていますが、そんな限りなくグレーな気配のある復興支援コンサートはまだまだ続いているようです。
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マイペースは強い

いろんな人とお付き合い、もしくは接触があると、いまさらのようにいろいろなタイプの人がいることに感動してしまいます。ここに「感動」という言葉を使うのは不適切のように感じられるかもしれませんが、マロニエ君としてはやはり人は本当にさまざまという意味もあり感動という言葉をおいて他にありません。

そんな中でも痛切に思うのが、何事もマイペースを貫くことができる太い人というのはやはり強いなあと思います。
些細なことが気にならないタイプというか、泰然としている人、おおらかな性格などもあれば、無神経で図太くて鈍感な人というのも少なくありません。
その種類はいろいろでしょうが、なにしろなんでも自分のペースが守れる人、押し通してしまう人というのは、少なくともその部分だけでもおそろしく強いと思います。

人が複数集まる機会というものがあるとして、そういうときについ脇にまわる人と、話の中心に出てくる人というのがありますね。
それも存在感があるとか、話術が巧みなどの理由で自然にそうなるのであればいいとしても、初めからマイペースのトークオンリーで、デリカシーがなく、空気が読めないために中心になる人がいます。けっきょく一種の鈍さから他のことはおかまいなしに自分ばかり押しまくってしゃべってしまう人などがいて、こういう手合いはどうも困ります。

しかも比較的スローテンポな人なんかだと一見出しゃばりのようには見えないので、まわりもすっかりのせられて、ヘタをすると「あの人はいい人、面白い人」などという、まったく的外れな高い評価まで獲得してしまったりする日にゃあ、(面と向かってそれを否定はしませんが)内心はもう驚きと諦めが充満してしまいます。
これも要するに図太くてマイペースが勝ちというわけです。

メールなども、こちらがメールを出してもいつまでも返事が来ない人がいますが、無視されたのかと思っていると忘れたころにひょっこり返信が来ていたりします。
あるいは、「メールは(とくに返信は)一度だけ」と思っている人がいて、返事を返しても、それに再度返信してくることの決して無い人という、人情味のない人も結構いますね。
こういうことはむろんケースバイケースで、延々とやりとりする必要はありませんけれども、いちおうやりとりの上での区切りというのはあるだろうに…と思うのです。

電話も然りで、こちらがかけてもコールバックしない人、電話帳登録している番号以外は出ない人など、昔はなかったような新種の違和感を覚えることはときどきありますね。

社会生活を送るためにはいろんな人の性格や流儀に対して、寛容の気持ちを持って接しなければいけないというのはマロニエ君が常々胸に抱く考えの中心でありますが、それでもちょっとこれは!?と思うようなことが多すぎるのは驚くばかりで(それもここには書けないようなひどいケースも少なくない)、それが冒頭に書いた「感動」なのであって、もはや感動でもしている以外にはないというところなのです。

人は何かと言えば、ちょっと上から目線で「ちょっとしたこと」「くだらないこと」「些細なこと」などと大人ぶって言いますが、マロニエ君は実はこれには猛反対で、人間が日々の生活を快適に送るための生活実体というものは、要するにくだらないこと、ちょっとしたことの連続なのであって、それらがあるていど妥協できる範囲に収まっていないことには、人間関係はやっていけません。
そこで最後に勝つのは視野の狭いマイペースの人なわけです。
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MacとWindows

現在世の中で使われているパソコンは、もちろんWindowsのほうが主流だと思いますが、一時はほとんど風前の灯火だったMacも最近では若干盛り返してきたように思います。

マロニエ君は十数年以上にわたってのMacユーザーで、ここ数年は必要もあってしぶしぶWindowsも使っていますが、その使いにくい(マロニエ君にとっては)ことといったらありません。

iPodに続いてiPhoneの登場あたりから、なんとなくアップルの製品自体が一般的に認知されるようになったと思いますが、それ以前はMacユーザーなんて言ったら、まったく変人か物好きな少数派の扱いでした。
パソコンといえばWindowsが常識で、この2つの言葉はほとんど同義語でした。

お店などに行っても、パソコン売り場でなんらかの質問などをすると、店員は当然のようにWindowsを前提とした話しかしないので、それを遮ってMacであることを告げなければなりませんでしたし、相手はそれを聞くなりあからさまに「へぇ」みたいな顔をされたことも一度や二度ではありません。

さらには大型電気店では、はじめから少数派で儲からないマックを切り捨てた店などもあって、そのうち市場からも消えてなくなるのでは?という危惧さえ抱いていたものです。

それがスマートフォンの登場をきっかけに、再び盛り返してきた観があるのはマック派としては喜ばしいことです。

マロニエ君の印象では、少し前までのWindowsのユーザーはMacのことなどまったく念頭にもなく、比較しようとする考えもなかっただろうと思います。Macは値段も高めにもかかわらず、基本のスペックなどはWindowsのほうが上でしたから、いよいよ相手にもされなかったようですね。

そんな中で、マロニエ君のまわりにはいろいろな「モノ」へのこだわりを持つ変人が多いためか、パソコンもMacユーザーが不自然なくらい集中していましたし、Windowsユーザーも買い換えを機に、まるで悪徳商法のようにMacユーザーで取り囲んでMacへ鞍替えさせたりしていました。
そして、その結果は、ただの1人としてそれを後悔した人はいないほど、ひとたびMacを使った人はすっかりその虜になってしまうようです。

その第一は、画面の美しさというか、そこにMac固有の美の世界があり、気品があって可愛らしい。
また、操作が簡単で明快、なんでも直感的に操作できるようになっているほか、ショートカットなどの機能も多く、ほとんど自分とパソコンがある一定のリズムで繋がることができると思います。

その点、Windowsをこの2年ほど使っていますが、いちいちの操作がわかりづらく、いまだに大半のことがわからないことだらけです。とくにわからない事に直面したときの解決率は圧倒的にMacのほうが上で、Windowsではあきらめて匙を投げたことが何度もありました。
パソコンに詳しい人の話によれば、Macは自分の経験から予測や応用など、ある程度のことが自力で解決できるようになっているのに対して、Windowsはひとつひとつに固有の知識がなくては決して解決しないし、前に進めいないようになっているのだとか。

最近ではiPhoneなどに触れることで、Windowsユーザーの中にもアップル製品がもつ魅力の一端を知った人が多いのではないだろうかと思います。
正直言って、Windowsは画面を見ただけでなんとなく荒涼とした陰気な気分になるのですが、その点Macは隅々に至るまで趣味も良く、気持ちを楽しくさせてくれるのです。

たとえばメールやこのブログなども、Windowsではまったく文章を書こうという気にもなりませんので、そういうことはすべて古くなったMacでやっていますが、これもそろそろ買い換えないといけない時期に来ていることを、先日のHDトラブル騒ぎでより明確に意識しはじめました。
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リーダーの資質

昨日の朝刊の一面を見て驚いたこと。

それは、大相撲の理事長に北の湖が返り咲いたという写真付きの記事でした。
昨年まで八百長、賭博、薬物、暴力団との交際など、これでもかとばかりにいろいろなスキャンダルを抱えていた相撲界ですが、放駒理事長の後任に、なんとまたあの北の湖が新理事会の決定によって史上初の再任となったというのは、これはどういうことかと思いました。

北の湖はそもそも、前回の理事長を大麻問題や八百長問題の責任を取って辞めたはずなのに、そんな経緯のある人が再任されるというのはどういうことなのか。

相撲界の諸問題がいちおう沈静化して、ようやく琴奨菊や稀勢の里などの新大関も誕生し、先場所では把瑠都が優勝するなど、まだまだとはいえ、とりあえずここまでどうにか復調した相撲界といえるわけで、それには放駒理事長の断固たる改革断行が大きいと言われていただけに(真相は知りませんが)、まったく寝耳に水の理事長交代にはエエッ!?と声が出るほど驚きました。

北の湖の理事長時代といえば、朝青龍問題や八百長問題など諸問題が続々と噴出して、それに対してなんの対策も打てず、連日マスコミから何を聞かれても一切コメントさえもできずに、仏頂面でのっしのっしと逃げ回るだけの見苦しい姿しか印象にないのはマロニエ君だけではい筈です。

今回の再任決定での会見では「残りの人生をすべて懸ける」などと言っているそうですが、何に対してどう残りの人生をすべて懸けるのかまったくわかりません。
そのあたりの経緯に関してはなにひとつ記述がなく、いよいよ真相は不明です。

北の湖が理事長としてなんのリーダーシップもなく、改革はおろか、問題の処理ひとつできないことは、すでに数年前にイヤというほど証明済みなのであって、こんな人がまたぞろ相撲界の頂点に立つのかと思うと、どうしようもなく暗澹たる気分になってしまいます。
しかも新理事10人による理事会において「全会一致」で決まったというのですから、唖然というほかはなく、何の内情も明かされないのは極めてグレーな空気を感じるばかりです。
新聞にも書かれず、ならばテレビはもちろん言いませんから、真相を知るには週刊誌か新潮45(あるいは2ちゃんねる)あたりに頼るよりほか道はないでしょう。

それでなくても、上に立つ人にはそれなりの器量やリーダーシップはもちろん、それなりの「顔」というか、清新さや明るさが必要であって、あの一年365日苦虫を潰したような顔をした人がいまさら何をしに出てくるのかと思いましたね。
まあ、相撲どころか我が国のリーダーを見ても、野田さん、菅さん、鳩山さん、およびその周辺の顔ぶれを見るたび悪夢でも見ているようで、とにかくもう少し健全になれないものかと思います。

上に立つ人には、多くの人達が感覚的にも、ある程度の共感や納得ができるような人であってもらわないことには、世の中に与える、そのマイナスの影響というのは計り知れないものがあると思います。
景気が一向に改善しないのも、ひとつには暗くて無能なリーダーが悪い波動を振りまいているからという気もします。
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良識の暴落

友人からのメールに『人間関係は面倒くさい』とありましたが、まったく同感です。

常識や良識も時代と共にどんどんおかしな方向に変化しており、近年はほとんどついていけない新種の基準が次々に打ち立てられるようです。
それよりも甚だしいことは既存の常識や礼節が信じがたいペースで暴落している点でしょうか。

例えば、誠実に接すれば相手の心には必ずなにかが通じるというのは、確実にひと時代前の理想化された常識であって、現代ではもはや幻想となりつつあるようです。

どんなに誠実を尽くして接しているつもりでも、それを一向に解さず、専ら無反応で、そのボールをキャッチできない人があまりにも増えすぎている印象があります。
昔に比べると、人の反応というものがまったく違っており、まずおしなべて情の濃度が低いようです。
共通しているのは、とくだんの悪気などはないらしいという点ですが、これが却って困りものです。

以前なら変人というか、ちょっと変わり者に分類されたような人が、だんだん増殖し、群れをなしていつの間にか新しい基軸を作っているのは間違いなく、田中角栄の「数は力」じゃないけれど、けっきょく多数派が主導権を握ってしまい、果てはこちらが異端扱いされるようで頭がクラクラしてきます。

この新手の人達は精神構造そのものが著しく自分本位にできているので、何事においても相手のことを考えたり、自然な人情で発意発想するということが、悪気ではなく能力的にできないようです。
そして情義において非常に消極的であり、実際ほとんど不感症であるといえるでしょう。

自分本位とは自己中ということですが、自己中というと、普通はわがまま放題で身勝手な、強欲な意志の持ち主のようにイメージしますが、このタイプは必ずしもそうだとは言い切れません。本人には何も悪意はないのに、考えついたことや折々の判断など、発想そのものが見事に自己中でしかあり得ないわけです。
そのために自覚も罪の意識もないし、むしろ自分は常識に則って正しいことを普通にしているつもりらしいのですから、どうにも始末に負えません。

こういう救いがたい思考回路を脳内にもっているため、人との自然でしなやかな交流が苦手で、なにをやってもあまり上手く行かない。悪気はないのに、行く先々で小さなクラッシュを起こして孤独に追い込まれるようで、見方によっては非常に気の毒にも見えるのですが、現実にはそう冷静なことも言っていられないほど、こういう人達と関わると様々な被害を被ることにもなるのです。

犬養毅が五・一五事件の際に「話せばわかる」と言ったのは有名ですが、それは幻であって、話してもわからない人は少なくないし、この人達は強いです。
自分は正しいと思い込んでいる人ほど、実際は最も無知で鈍感です。
というか、ある意味において、無知や無自覚、鈍感ほど強いものはありません。

知らないし、感じないのだから、なにごとも平然と自分のペースを押していけるし、それで気が咎めることもコンプレックスに苛まれることもないのですから、これぞ最強!というものです。

有り体に言ってしまえば「話してもわからない」のが人であって、現に、犬養毅もその言葉は聞き入れられずに殺害されました。
話せばわかる人のほうが圧倒的に少数派ですから、ごくたまにそういう人を発見すると小躍りしたくなるほど嬉しくなるマロニエ君ですが、そんなことはめったにあることではなく、平生心の内は重装備で鎧を着ていないととんだ目に遭わされかねない時代になりました。
こういう話が通じる相手との合い言葉は『油断大敵』です。
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あるヴァイオリンの本

最近また、1冊のヴァイオリンの本を読みました。

ヴァイオリンビジネスで成功した日本人が書いた本ですが、敢えてタイトルも著者の名も書かないでおきます。
というのも、読んでいるあいだはもちろんですが、読了後の印象、つまり読み終わってからの後味があまりいいものではないかったからです。
食べ物がそうであるように、この「後味」というものは、その本質を端的に表すものだとマロニエ君は思っています。化学調味料などを多用した料理は、口に入れたときは美味しく感じても、だんだん様子がおかしくなり、後味の悪さにおいて本性をあらわします。

ヴァイオリンの本というのはけっこう面白いので、マロニエ君はこれまでもだいぶあれこれの本を読みましたが、でもしかし、なんとなく執筆者に対する印象が良くない割合がやや高いように思っています。
それは、どんなに御託を並べても、結局ヴァイオリンという特殊な高額商品を使って普通の人間の金銭感覚からかけ離れた、かなり危ないところもある商売をして生きている人達だということが根底にあるからだろうと思われます。

この人達は、どんなに美辞麗句を並べようとも、甚だ根拠のあいまいな、虚実入り乱れる、ヴァイオリンビジネスの荒海をたくましく泳いでいる強者なのですから、そこはやむを得ないことなのでしょう。
もちろんビジネスで成功するのは結構なことですが、ヴァイオリンビジネスはかなり怪しい要素も含んだしたたかなプロの、しかも特殊な専門家の世界で、昔の言葉でいうなら「堅気」のする商売ではないという印象を持つに至りました。

とりわけこの本は、自分の成功自慢の羅列のような本でした。
音楽どころか、まったくヴァイオリンや楽器といったものとは何の関わりもない所にいた人が、ふとした偶然からこの世界に入り、一気にこのビジネスの花を咲かせるにいたるほとんど武勇伝でした(もちろん本人の資質と努力もあるでしょうが)。

とりわけ後半は自己啓発本の様相を帯び、お金の話ばかりに終始するのには閉口させられました。
それも一般人とはかけ離れたケタの数字がページを踊り、毎月の家賃が100万、銀行への返済額も毎月2000万などと、こういうことばかりを書き立てながら、一方では信用や出会いといった言葉が乱舞します。

販売と並行して、買い取りもやっているとのことですが、これも著者に言わせれば「縁切り」ということをしてあげるのが自分の務めだとして、有無をいわさず即金で買い取るのだそうです。
そのためにはかなりの資金も必要だそうですが、大半は所有者の期待を遥かに下回る価格になる由。
率直に言って、ほとんど○○○の世界だと思いました。

即金で買い取るのは、ヴァイオリンを手放す人のいろんな未練や迷いが起こる時間を与えないように、その場で極力短時間で買い取ってしまうという、なんとも冷徹な世界だと思います。
しかも手放す人はたいてい事情のある弱い立場ですから、きっと思いのままでしょうね。

株や不動産ならともかく、ヴァイオリンような小さくて美しい楽器がこういう取引の対象になっていることは、薄々感じてはいましたが、現実社会のやりきれなさを思わずにはいられません。
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怒っている犬

マロニエ君の自宅のとなりの家には一匹のチワワが飼われています。

このチワワはちっちゃくてとても可愛らしいのですが、その見た目とは裏腹に性格はおそろしく獰猛で、何に対してでもことごとく攻撃的で、まるで荒れ狂う武者のような気性をむき出しにするのにはいつもながら呆れてしまいます。

あれでは本人(犬)も気分的にさぞ大変だろうなと思うほど、始終ありとあらゆることに怒りまくっていて、常に本気で、歯をむき出しにして怒りも露わにギャンギャンガウガウ唸ったり叫んだりで、その忙しいことといったらありません。
ネコよりも小さな体ですが、それはもう大変な迫力で、さすがに恐いです。
自分の十倍もある大型犬を見つけても悪態の限りを尽くすように吠えまくり、全身は怒りにわなないて毛並みは荒れて、ネズミ花火のように地面を転げんばかりです。

そのチワワ、ある時期とんと見かけなくなった時期がありました。
しばらくして事情を聞いたところでは、なんと足を骨折して動物病院に入院していたのだそうで、それも二階のベランダから自分で転落したとのこと。
いかに小さなギャング犬といえども、それは可哀想だと思っていると、その転落の顛末がまた驚きでした。

隣の家は二階のベランダにたくさんの植物がおかれていて、奥さんが水をやっているときも、その周りで絶えず道路の往来には神経を尖らせていて、マロニエ君も歩いていて何度頭上から罵声を浴びせるように吠えかけられたかわかりません。
まして犬が通りかかろうものなら、それこそ火のついたような怒りを爆発させていたようですが、あるときその興奮があまりにも苛烈を極めたようで、勢い余って自分から下へ転落したのだそうです。

ここまでくればそのチワワ君の怒りも、ほとんど命がけです。

しばらくするとめでたく退院したようで、またその姿を見るようになり、マロニエ君としては「やあしばらく」という気分でしたが、さて、性格のほうは一向に変化の気配も見られず、あいもわらずこちらを見るや眉間にシワを寄せてひっきりなしにガルルと威嚇してきます。

この家の奥さんがいつもリードをつけて散歩させていますが、そこに人や犬が近づこうものなら、ほとんど後ろ足の二足歩行になるほど興奮して怒りだして敵意むき出しになりますから、さすがの犬好きなマロニエ君をもってしてもこのチワワだけは恐くてまだ頭を撫でたこともありません。

同じ犬種でも、知り合いのピアノ工房にいるチワワは、いつも不安げに目を潤ませて見るからに弱々しいタイプで、ちょっとした物音にも反応して脱兎のごとく逃げていきます。抱き上げると体が小刻みに震えており、やたらビクビクして恐がり屋のようです。

もしかしたら、お隣の年中怒っているチワワもあれは臆病故かもしれず、あんがい根底にあるものは同じなのかもしれません。だとしたら性格の違いで、その表現方法がまるで正反対ということですが、激しく怒る方がはるかにストレスや消耗が多いだろうと思うと、ふと人間も我が身を反省させられるようです。
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波長

人にはそれぞれに「波長」というものがあります。
科学的には2つの山や谷の間にある波動の水平距離のことだそうですが、普通に言うと互いの気持ちや感覚や価値観などの意志の通じ合い具合のことでしょう。

この波長が合わない者同士というのは、ある意味で悲劇です。

これはむろんあらゆる人間関係において言えることですが、ある意味でこの波長ほど大事なものはないと思われます。
波長の相性が悪ければ、お互いに相手のことを大切な相手で好意的に接しよう、前向きに捉えようとどれだけ努力してみても、何かとギクシャクしてつまらない齟齬やつまづきが次々に発生します。
単純にいうと、笑いのツボひとつもこの波長によって決まってくるのです。

波長が合い、価値観や感性が共有できていると、ちょっとした会話でも、実にスムーズで無駄がありませんし、実際に語った言葉以上にさまざまなニュアンスまで伝えることができるでしょう。
その逆に、波長の合わない人とは、概ねの内容は同意できるようなことでも、会話のいちいち、言葉のひとつひとつに快適感がなく、無駄にストレスが発生し、虚しい疲労ばかりが堆積してゆくようです。

スッと行けるはずのものが、必ずどこか引っかかったり、左右に振れたりして、まるで素直に転がっていかないスーパーの半分壊れたカートのようで、どんなに真っ直ぐに押していこうとしても、変なクセがあってどちらかに曲がろうとしたり、キャスターのひとつが動きが悪かったりするようなものです。

波長が合う人同士というのは、お互いに相手の出方がある程度予測できるのが安心なのですが、逆の場合は常に球はどっちを向いて飛んでくるかまるきりわからず、気の休まるときがありません。

困るのは、お互いが真面目にやりとりをしている場合です。
真面目だからこそ逃げ場がないし、そこには好意も読み取れるからそう邪険にもできない。
そうなるといよいよ気分的にも追い込まれてしまいます。

マロニエ君はこういう場合の有為な解説策を知りませんし、それはきっとないのだと思います。
そういう方とは甚だ残念ではあっても、ビジネス以外のお付き合いは極力避けるようにしないと、結局はろくなことはないだろうと思います。

持って生まれた性格、家庭環境、育った地域、時代などさまざまな要因があるでしょう。
「いい人なんだけど…」という言葉がありますが、この言葉が出始めると、要は合わないという意味です。

人間の快適なお付き合いには、善意と人柄だけではどうにも解決のつかない深いものがあるようです。
マロニエ君としてはその深い部分を文化性だと呼びたいのです…。
なぜならそれは機微の領域であり、いいかえるなら絶妙さの世界だからです。
それを司るのは繊細な感受性とセンスであって、人はそこのところを解さない限り文化の香りを嗅ぐことはできないと思うわけです。
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韓国映画

人並みに映画が嫌いではないマロニエ君は、このところ映画館に出かけることまではしませんが、たまに友人とDVDの貸し借りをしたり、テレビで放映されたものを録画して見ることはときどきあります。

洋画/邦画いずれも拘りなく見ますから、ハリウッド作品はもちろん、古いフランス映画などもずいぶん観たと思いますし、邦画では小津安二郎から鶴田浩司の任侠物まで、節操なく、おもしろそうなものは手当たりしだいですが、唯一手をつけなかったのは香港映画でした。
あれはろくに見たことはありませんが、どうも体質的に合わないという感じで一度も近づこうとしたこともありません…いまだに。

そもそもアジア映画というのが昔はまるきり見る意欲が湧きませんでしたが、そんな中、次第に面白さに気が付いてきたのが韓国映画で、これはいつごろからかポツポツ見るようになりました。
つい最近もある作品をひとつ観ましたが、だいたいどれもそれなりに楽しめるようになっているのは、いずれも映画のエンターテイメントを心得たプロの作品ということだろうと思います。

マロニエ君が感じるところでは、国を挙げてやっているのかどうかは知りませんが、映画に対する取り組みのテンションやパワーが凄いことと、台本にしろ監督にしろ、あちらでは才能のある人間が本気の仕事をしているように感じます。それなりのセンスもあるし、映画としての切れ味やテンポもある。
クリエイティブな世界までコンセンサスで、臆病で、キレイゴトを前提とする日本では、本当に才能ある人がのびのびと仕事をする環境を整えるのが難しいし、だから才能が育たない。

もう一つは、日本と違って韓国人は「感情」をなによりも優先することかもしれません。
感情というものはきれいなものばかりではなく、喜怒哀楽、清濁、美醜、あらゆるものが激しくうごめくのが当たり前であって、そういう人間的真実が一本貫かれているから、描かれる人物もみな活き活きと人間くさく、観ていておもしろいのだと思います。

出てくる俳優もいわゆる草食系ではなく、とくに主演の男女などはどことなく野性的な色気があるのも魅力だろうと思います。ほんのお隣なのに、どうしてこんなにも違うのかと思います。
韓国では痩せぎすのスッピンみたいな女優が大物ぶっていることもないし、男には男の攻撃的な荒々しさみたいなものがしっかり残っているのも、作品が精彩を帯びている要因だろうと思います。

それと、韓国映画を見ていて感心するのは出てくる俳優達の大半が欧米人並みに体格がいいことです。
それもただモデルのようにむやみに背が高いなどというのではなく、本当にきれいな体型で、それ故に男女が向かい合っただけでも立派な絵になる。

まあ日本人としては、せめてひとまわりと言いたいところですが、実際にはもっと体格がいいから、ビジュアルとしてもサマになってしまうのでしょう。

そういう出演者達が、非常に感情豊かに体当たりで激しく動き回るのですから、なるほど映画も引き立つだろうと思われます。
美しいものと醜悪なもの、愛情深いものと残酷なものを容赦なく対比させるのも、韓国映画が恐れずにやってみせることのひとつで(やり過ぎでうんざりすることはあるものの)たしかに迫力はありますね。
その点は日本人は感情やビジュアルまでも「きれい好き」で、常に箱庭のようにきれいに整理されてしまっているから、ある種の味わいとか繊細さはあるにしても、観る者の心を鷲づかみにするようなパンチはない。

日本人は目的が何のためであっても汚いもの、醜悪なもの、激しいもの、ときに残酷なものを体質的に避けて、小綺麗に文化的にまとめようとする傾向がありますが、そんな制限付きではものごとの表現力はどうしても劣勢に立たされてしまうのは避けられないことでしょう。
音楽の世界でも、非常に優れた演奏家が韓国に多いのは、やはり彼らが広くて深い感情の海を自らの内側に抱えていて、そこから多様で適切な表現をしてくるからではないかと思います。
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見ないで突っ込む

最近、車を運転をしていてつくづく感じるのは、以前にはなかった独特の注意が必要になったということでしょうか…。

とくに変化を感じるのは、若い世代の男性の運転で、ちょっと普通の感覚でいうなら「それはないよ」というぐらいのタイミングで脇道や駐車場から、走っているこちらの前方に出てきたり、あるいは急に車線変更してきて、こちらが急ブレーキ、あるいはブレーキをかけないまでも、思わずヒヤッとして減速して車間距離を取り直さなくてはいけないぐらいの動きをすることです。

しかも、それでだけではありません。
それだけ危ない割り込みをかけてくるからには、あとはどれほどキレの良い動きをするのかと思いきや、前は空いているのに、妙にトロトロと走りはじめるのには、ただもう唖然としてしまいます。

もちろんマロニエ君は安全を第一としているわけですが、この手の人達は、スピードこそ出さないけれども、実際の動きは流れとか常識に逆らう、かなり危険な運転だと思っているわけです。
実際の路上には、周囲の交通状況に応じた円滑な動きというものがあって、そのために必要なものはまず何かというと、刻一刻と変化するシチュエーションへの反応と判断だと思います。

最近ようやく気がついたのは、無理に前方に曲がってくるこの手の車は、いざその運転操作に入る段階では、もうほとんどこちらを見ていないということです。
そしてあとは他力本願、相手も衝突したくはないはずから、そのぶんは減速するだろう…というこちら側にも安全のための対処を期待した運転なわけで、これは車線変更でもまったく同様です。

つまり、心のどこかでは危ないかも…ということを少し認識していて、それを敢えて責任放棄した結果として本能的にこっちを見ないで動いてくるのでしょう。
それだけ男子の運転感覚が鈍っていて、かつ他者に依存した動きだから驚かされることが多いわけで、昔は女性ドライバーにこのタイプ(見ないで突っ込む)がいましたが、今は女性ドライバーのほうがある意味でよほど責任ある動きをしてくれているようにも思います。

いわゆる空気の読めない痴呆運転なのであって、だから変なタイミングで人の前に出てきたり、異常にチンタラしたスピードで平然と中央車線を走り続けたりするわけです。
横に並んで見てみると、いかにもしまりのない表情をしたお兄さんが一人で真っ直ぐ前を見ていたりして、その様子には、もはや腹を立てる値打ちもないという気分になるものです。

とにかくこの手合いは動作が鈍いといったらなく、見通しの良い、まったく安全な角を曲がるだけでも、まるで老人のようにやみくもに動きが鈍く、これは決して安全運転ではなく、こんな感性で運転されたのでは、ある意味で酒酔いや居眠り運転にも匹敵する危険があると感じます。

しかも現実は酒酔いや居眠りでもないのだから、摘発対象にもならないわけで、もはやどうしようもありません。現代では若者の自動車離れが著しいと言われていますが、さてもなるほど、これじゃあ車なんぞ欲しくなるはずもないのは道理だと思いました。
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苦手な靴選び

昔の靴を久しぶりに履いて出かけたら、歩きづらくてえらい目にあったのは以前書きましたが、要は生ゴムの底がカチカチに硬化してしまっているためということが帰宅してようやくわかりました。

ほとんど傷みのない靴だったので、棄てるのも気が引けて靴底の張替にどれぐらいかかるのか調べてみることにして、靴のリペア専門の店に2軒ほど持っていったら、両方とも安くても8千円、高くて1万5千円ぐらいだと言われて、ちょっと考え込んでしまいました。

とくべつ気に入っているものならともかく、あまり履かずに長いこと放っておいたぐらいの靴なので、それほどのこだわりはないし、いっそ新しい靴を購入しようか…という気になりました。
より高くついても、気分よく新品が買えるわけで、それもいいかと思ったわけです。

同時に思い出したのはマロニエ君は靴選びが下手だという事実を忘れていたので、この点は思い出すとうんざりです。
色やデザインは単なる好き嫌いなので問題ないのですが、靴の履き心地というのは店頭で試したぐらいではよくわからず、いざ実用に供してはじめて欠点がわかるという苦い経験がこれまでにも何度かありました。
しかも合わない靴ほど疲れて耐え難いものもないので、その点は妥協できません。

実は、今回も懲りもせずにさっそく一足買ってみたのですが、家に持ち帰って試してみると、なんとサイズがやや大きすぎたことがわかりました。店頭ではちょうどいいと思ったのですが…。もちろん下におろしたわけではないので、すぐ翌日交換にいったものの、あいにくこちらが欲しいサイズが在庫になく、入荷予定もないということで残念ながら返品という次第になりました。

それからしばらくして、次に買った靴は、履きやすいと思ったのに、今度は底の感じがしっくりせずよくないことと、足の甲がやや熱くなる特徴のあることが数時間履いてみてわかりました。
しかし今回はもう下におろしたのでもうどうしようもありません。
ああ…なんでこう靴選びのセンスがないのか、自分でもほとほと情けなくなりました。

マロニエ君の靴選びが尋常なことでは上手く行かないことには、我が家では有名で、家人はもはや一切関わろうともしません。よほど高級な靴を、店員が付きについた状況でじっくり時間をかけて選べば失敗もないのかもしれませんが、靴にそこまで気前よく投資する覚悟もなく、要は中途半端なものを自分の判断だけで買うからこうなるのかと思います。

かくして、またもマロニエ君の靴選びは失敗の巻となり、履かない靴がまた増えただけという、一番もったいなくてばかばかしい結果に終わりました。
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靴の性能

マロニエ君の音楽の先生のお一人は、ご主人が大学の先生ですが、この方はとにかく歩くことが大好きで、家には昔から車もありません。

毎日の通勤を市内の警固から箱崎のキャンパスまで、片道1時間半をかけて何十年も通勤されているというヘビーウォーカーです。往復で3時間、これを毎日と、大学以外にも大抵のところは歩いて行かれるようですから、その距離たるやたいへんなものです。
目と鼻の先でも車で行ってしまうマロニエ君なんかから見たら、人間離れした、ほとんど宇宙人のようにしか見えませんでした。

さてその先生曰く、これだけ日常的に歩くということは、とうぜん靴の傷みや消耗もケタ違いに激しいそうで、年に何度か靴を買い換えておられるようです。
昔は「履きやすい靴」=「高い靴」だったわけで、これだけ歩くからには足に悪い安物靴というわけにはいかないので、靴にかかる出費は相当のものだったそうです。

それが近年になってからというもの、履きやすい、足の疲れない、科学的にも理に適ったウォーキングシューズが出現してからというもの、すっかりこちらに移行して、値段も昔の数万円から、一気に5千円前後で事足りるようになったというのです。

考えてみると、昔はとくに革靴などは、みんなかなり無理をしながら履いていた思い出があり、形状が合わずに足の指にマメができたり、靴屋に補正に出したり、足の小指にテープを巻いたりといろいろやっていたことが思い出されます。ほとんど足を靴に合わせて慣れさせるような一面がありました。

それなりの値段でもこういう調子で、ましてや安物などは推して知るべしという気配でしたね。
ところが今はそういう意味では技術や研究が進んで、足に負担をかけず、軽くて、安いという、昔から見れば夢のような靴がごく当たり前のようになってしまいました。

とりわけウォーキングシューズなどの進歩は目覚ましいものがあり、そのノウハウが逆に革靴などにも活かされているように感じます。その点では靴は科学技術を反映したアイテムでもあり、ものにもよりますが、平均的にみれば新しいもののほうが進歩しているのかもしれません。

とにかくストレスのない快適なものを安価に選べるのは幸せなことだと、その先生はいとも簡単におっしゃいますが…マロニエ君はいまだに靴選びが下手でどうしようもありません。
ああ、靴選びになると気が滅入ってしまいます。
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天守物語

日曜日に録画しておいた新国立劇場の舞台を観ました。

泉鏡花の代表作である『天守物語』ですが、久しぶりに日本語の美しさを堪能しました。
まさに言葉の芸術。

このような作品が日本に存在することが誇りに思えるようでした。

鏡花の台詞は、その発想から言葉の使い方までまったく独創性にあふれ、同時に深い情緒の裏付けがあり、ひと言ひと言が複雑な音符のようで、役者の発する言葉は、まさに厳しい修練の果てに演奏される音楽を聴くようでした。

我々はこんなにも美しくて格調高い日本語という言語をもっているのかと思うと、あらためて唸らされもするし、それを惜しげもなく捨てていく今の世の風潮がこの上なくもったいなくて、うらめしいようでした。
現在の日本人は日本語というとてつもない言語文化の半分はおろか、1割も使っていないような気がしますし、これほど自分達の言語・母国語を大切にしない国民は愚かだと痛烈に思わせられました。

三島由紀夫が鏡花にご執心だったのは有名ですが、とりわけ戯曲作品においてはかなり強い影響を受けていることがわかります。
言葉のもつそれ自体の意味はもちろんこと、その巧緻で意表をつく組み合わせによって、思いもよらない独特な調子を帯びながら極彩色の輝きを放つことを、彼らはその天才によって知り尽くしているのでしょう。
絢爛たる台詞がとめどもなく流れだし、そして音楽同様にあちこちへと転調するようでもあり、まったく感嘆するほかありません。

詩的で装飾的でもある言葉の奢侈は、音楽はもちろん、絵のようでもあり、闇夜にきらめく美しい織物のようでもあり、あっという間の2時間でした。

今回の天守物語は昨年、新国立劇場で上演されたものですが、主演の富姫は現代劇の女形である篠井英介氏が務めましたが、よく頑張ったと思います。
こういう作品ではなによりも言葉を明瞭に、メリハリを持って伝えることが肝心で、その点は出演の皆さんは自分の演技や主張に溺れることなく、作品への畏敬の念があらわれていて好ましかったと思います。

天守物語の舞台は姫路城の天守閣、まさに妖艶な魔物の棲む独特の世界であるために、主演をあえて女形が務めるのは、鏡花の一種異様な世界を現し、中心に据える重しの意味でも望ましいことだと思います。

この作品では板東玉三郎丈の富姫が有名で、舞台はもちろんのこと、自ら監督・主演して映画まで制作しているのですから、現代では玉三郎の富姫というものがこの役のひとつの基準になっているのかもしれません。

このような格調高い豪奢な日本語の世界があるということを、日本人はもっと知るべきだと思いますが、そうはいっても触れる機会がないのだから難しいところです。
とりわけ戯曲は本を読むのも結構ですが、やはり舞台があって、優れた役者の口から活き活きと語られたときにその真価を発揮するものです。
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路上マナーの低下

最近車を運転していて気がつくことのひとつは、路上でドライバー同士が「どうも」程度のちょっとした挨拶をする人が激減したということです。

たとえば狭い路地などで、対向車が向かってくるのが見えたら、無理に進入せずに、その車が通りすぎるまでできるだけ広い場所で待っておくことがあります。

そういうとき、以前ならすれ違いざまに軽くクラクションを鳴らしたり、ちょっと手を上げたり、中には軽く頭を下げる人などがいましたし、マロニエ君も逆の場合は(現在でも)必ずそのように謝意を表現するようにしていますが、最近はこんななちょっとしたやりとりが失われたように感じます。

いやしくもドライバーなら、相手が道の向こうで止まって待っているのは何のためか、わからないはずはないのですが、すれ違いざまにも、ただ冷たくサーッと無表情に通り過ぎていく人がずいぶん多くなりました。
まるで「当然」みたいな趣で、こういうときは、どうしようもなくムッとくるものです。
人間は、あまりにもパソコンや携帯を使いすぎて、こんなふうになったのかとも思います…。

こんな変化にも、考えてみるとプロセスがあり、全般的傾向としてですが、はじめはまず30代ぐらいの女性ドライバーがこの礼無し通行をするようになり、続いてさらに若い男性などがそれに加わってきた印象があります。

そのうち老若男女は入り乱れ、最後にはこの点だけは比較的律儀だったタクシーの運転手までもがこれをするようになり、今では道を譲ったり、相手側の通過を待っていたりしても、なんらかのささやかな挨拶を返してくれる人のほうが確実に少なくなり、まったくやるせない限りです。

あと、その手の無礼者の比率が高いのが高級車のドライバーで、車の威を借りて自分が偉くなったような気分なのは、昔からもちろんいましたが、いよいよそれに拍車がかかってきているようです。
高級車の横柄ぶりについては、マロニエ君の印象では、現在は輸入車系よりも大型のレクサスなどのほうが確実に上を行く印象です。

まあとにかく、今の世の中、ちょっとした「お互い様」とか「すみません」というごく自然な気持ちや、それに連なる表現が、どんな場合にも少なくなったように感じます。

そうかと思えば、耳にする歌の歌詞などは薄気味の悪いほど「ありがとう」というような空虚な言葉のオンパレードだし、店で買い物をしていても、店員のほうが泰然として、お客さんの方が何かといえば店員に「ありがとうございます」を連発したりと、いったいどうなっているのかと思うことしばしばです。

車のドライバーには路上の仁義がなくなったものの、まだ建物のドアの開け閉めやエレベーターなどでは、かろうじて「すみません」というような言葉が交わされますが、この調子では、これもいつなくなってしまうかと心細い限りです。
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薄汚れた画面

兵庫県の現職知事が、今年から始まった大河ドラマの『平清盛』の第一回放送を見て酷評したことが話題になっていたようですね。

テレビを観る習慣の薄いマロニエ君にとっては、毎週ひとつでもドラマを見続けるというのは、結構な義務にもなるので今年の大河も見ないつもりだったのですが、こういうおかしな話題がくっついてくると根が野次馬のマロニエ君としては、ちょっと見てみたくなりました。

我が家のビデオレコーダーには家人のために大河ドラマが録画セットしてあって、幸い消去していなかったので、これは好都合とばかりに再生ボタンを押しました。

結果から先に言うと、知事の発言も尤もだと思いました。
マロニエ君は最近のテレビ特有の、手を伸ばせば人の顔に触れられそうな、あのほとんどプライバシーの侵害のようなシャープな映像は決して好きではないので、多少のフィルターというかノイズの加わったような、すなわちアナログ風のやわらかい画面になることは、今後の方向性のひとつとして好ましいことと思っています。

さすがにニュースやスポーツではそうもいかないでしょうが、ドラマなどはカリカリの鮮明画面より、何らかのフィルターがかかるのは好ましいことだと思われ、NHKのドラマでいうと『龍馬伝』や『坂の上の雲』がそれだったと思います。
とりわけ『龍馬伝』を見たときは、それ以前の、いかにも狭いスタジオのセットにライトを当てて撮影していますと言わんばかりの学芸会的な調子から、落ち着いた雰囲気のある映像に進化したと思ったものです。『坂の上の雲』もほぼ同様。

しかし、今回の『平清盛』は映像それ自体になんの味わいも無く、映像そのものに、なにか作り手が拘っているクオリティがまったく感じられません。
いつもハレーションを起こしているようで人物の顔にはやたら陰が多く、ほこりっぽく、色彩感もない。昔の映画のような渋い美しさのある映像でもなければ、新しいなりのなにか深みや味わいがあるというようにも感じられない、単なるコストダウンのための、手抜きと勘違いのようにしか見えませんでした。
それに、俳優でもなんでも、なんであそこまで汚らしくしないといけないのか説得力がありません。

兵庫県知事がおっしゃるように、「うちのテレビがおかしくなったのかと思うような画面…」というのも頷けるし、なにかのスイッチを押すとパッときれいになるんじゃないかというような、絶えずストレスを感じさせる映像だったと思いました。
知事は「薄汚れた画面」という表現をされたようですが、それも納得で、薄汚れた状況を丁寧に表現している上質な画面と、映像そのものが安っぽく薄汚れているのとは、そもそも大違いです。
そして『平清盛』では、その映像になんらかの美しさがまったく感じられず、斬新なつもりの製作者の自己満足だけが垂れ流されているといった印象しかありません。

ただし、だからといって知事という立場にある公人が、ドラマ作りの内容にまで堂々と言及するのは適当かどうか…。清盛の主な舞台となる兵庫県では、この大河ドラマに合わせて観光客誘致のキャンペーン中だそうで、ドラマへの期待が高すぎて、あの映像では効果が薄いと危機感を募らせたのでしょうか。

このような批判は、一般視聴者の声なら大いに結構だと思いますし、そういうものがあってこそより良い作品が生まれるというものです。
同時に、大河ドラマは特定の県や地域の宣伝目的で存在しているわけではないので、それによる経済効果を過度に期待して、ドラマの仕上がりに文句をつけるとしたら、これは本末転倒というべきではないでしょうか。

というわけでマロニエ君の印象としては、どっちもどっちでは?という気がしました。
第二回まで見ましたが、正直、今後見続けるという自信はもてません。
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威風堂々の歌詞

イギリスのザ・プロムスをことをもう少し。

これがイギリスの音楽の一大イベントであることはまぎれもない事実のようで、2011年で実に117回目の開催だと高らかに言っていましたから、歴史もあるということです。
19世紀末、もともとはふだん音楽に触れることの少ない一般大衆にもコンサートが楽しめるようにとはじめられたものだそうです。

こんにちまで、その精神が受け継がれているといえばそうなのかもしれませんが、ともかく音楽というより、音楽をネタにした壮大なスペクタクルというべきで、そのド派手な催しを見ていることが目的であり価値のようでした。

ラストナイトも後半になると、お約束のエルガーの威風堂々の第1番が鳴り出して、いよいよこのザ・プロムスも終盤のコーダを迎えるようでした。
実はマロニエ君はこの威風堂々第1番のような有名曲は、音楽ばかりが耳に馴染んで、中間部の歌の歌詞など気に留めたこともありませんでしたが、テレビの画面に訳が出てくるものだからそれを読んでいると、その何憚ることのない大国思想には唖然としました。

「神は汝をいよいよ強大に!」「国土はますます広く、広く」「我等が領土は広がっていく!」「さらに祖国を強大にし給え」というような侵略と植民地支配を前提とした歌詞が延々と続き、ロイヤルアルバートホールはむろんのこと、ハイドパークに結集した群衆も一丸となってこの歌を大声で叫ぶように唱和しています。

もちろん、これはすでに古典の作品ということで、いまさらどうこうという思想性もないということかもしれませんが、かつての大英帝国の繁栄と傲慢の極致を音楽にしたものだと思いました。
それをこれだけの規模と熱狂をもって歌い上げ、その様子を全世界に放映するということはちょっと違和感があったのは事実です。
とりわけ日本人は過去の謝罪だの、靖国問題、教科書の表記などとなにかと近隣諸国に気を遣い遠慮することに馴れてしまっているためか、こういう場面を見ると唖然呆然です。

さらに続いて、英国礼賛の愛国歌「ルール・ブリタニア」をスーザン・バロックが戦士の出で立ちで歌い上げるとまた群衆がこれに唱和し、バリー作曲の「エルサレム」、さらにはブリテン編曲による女王を讃える「英国国家」となるころには、マロニエ君の個人的な印象としては、だんだんただのド派手なイベントだと笑ってすませられないようなちょっと独特な空気が会場全体、あるいは野外の群衆からぐいぐいと放出されてくるようでした。

無数のユニオンジャックの旗が力強く振られ、聴衆の熱狂はいよいよその興奮の度を増していく様は、ちょっと危ない感じさえしたのが正直なところです。

恒例だという「指揮者の言葉」でマイクを持つエドワード・ガードナーのひと言ひと言に、聴衆が熱狂を持って反応するのは、ほとんどこれが音楽のイベントなんて忘れてしまいそうでした。
最後は「蛍の光」を会場全体が両隣の人とみんな手をクロスしてつないで熱唱する様は、まるで国粋的な戦勝祈願の集会かなにかのような感じで、さすがにちょっともうついていけないなと思いました。

断っておきますが、マロニエ君は断じて左翼ではありません。
でも、最後はちょっと引いてしまったのは事実です。

熱狂というのは本来は素晴らしいことだと思いますが、その性質と、度を超すと…恐いなと思いました。
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君の名は

NHKのBSプレミアムでは、山田洋次が選ぶ日本の映画というようなものをやっていて、面白そうなものがあるときは録画しています。

そこで、かの有名な『君の名は』が放映され、あれだけの有名作品ですが一度も見たことがなかったので、自分の趣味ではないとは思いつつ、どんなものやらと思い、ちょっと観てみました。もともとラジオドラマだったというこの作品は、放送時間になると女性ファンがこれを聞くために、銭湯の女湯が空になるという社会現象まで起こったというのは有名な話です。

東京大空襲のさなか、氏家真知子(岸恵子)と後宮春樹(佐田啓二)は偶然に出会い、共に戦火を逃れるうちに惹かれ合い、翌日数寄屋橋の上で、半年後の同じ日にお互い元気だったら会いましょうという約束をして別れるのですが、これがこのじめじめした慢性病みたいな恋愛物語の発端です。
すれ違いと、当時の倫理観、人間の情念、幸福の観念、運命、嫉妬、他者の目など、さまざまなものに翻弄されて、観る者は止めどもなく巻き起こる苦難の連続にハラハラさせられ、観ているうちに、なんとなく当時爆発的に流行った理由がわかるような気がしてきました。

それは、この映画が当時の自由恋愛(という言葉があった由)を夢見る女性の心理を突いている点と、新旧の時代倫理の端境期に登場した作品であるという点、とくに後年隆盛を迎える昼メロの原点というか元祖のような要素を持っているからだと思います。

お互いに強く惹かれ合っているにも関わらず、様々な運命がこれでもかとばかりに二人を弄びますし、真知子と春樹自身も、今の観点からすればなんとも思い切りの悪いうじうじした人物で、こういうものが流行ったことが、日本では恋愛映画がやや格落ちように捉えられたのも無理はないと思いました。

意外に長い作品で、2時間20分ほどをさんざん引っ張り回したあげく、ついに二人は結ばれるのかと思いきや、最後の最後でまたしても未練を残した形での別離となり、「第一篇 終」となったのには、思わず「うわぁ、こんなものがまだ続くのか!」と思いました。

それでネットで調べてみると、なんとこれ、全三部構成で上映時間は実に6時間を超すというもので、まるでワーグナーの楽劇並の巨編であるのには驚きました。

パリに渡る前の、磨きのかからない状態の岸恵子はまだそれほどとも思えませんでしたが、佐田啓治は息子の中井喜一とは顔の作りがかなりちがう正真正銘の二枚目で、太宰治風の暗い陰のある美男が、いかにもこの陰鬱な役柄にはまっていると思いました。

ここから高度経済成長と歩を共にするように、日本のメロドラマブームが始まったのではないか?という気がしました。
ときおりこういう映画を見るのもいろんな意味で面白いものです。
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成人式のセンス

昨日は全国的に成人式が行われたようですね。
本来はおめでたいことなんでしょうが、毎年このニュース映像を見ていると、なんともやりきれない気分になるものです。

常々、日本人は控え目で精神的で、礼節も気品もある、世界的にも稀にみる高度な民族だと自負しているのですが、この成人の日の光景だけはそういった認識を、ポンと蹴ってちゃぶ台でもひっくり返されるようです。

とくに毎回感じるのが、その服装や雰囲気のセンスで、時代によっても多少の変化はあるにしても、基本的にはほとんど見るに堪えないあの演歌歌手顔負けの出で立ちと、若いのに妙に毒々しい雰囲気はどこからくるのかと思います。
成人式ということは、文字通り大人の仲間入りを果たすわけですから、本来ならやや大人っぽいシックな服装であって然るべきでは?思いますが、実際のそれは、どうみても下品なヤンキーのイベントのようにしか思えません。

本来、若くて瑞々しく、美しいはずの新成人たちは、ちっとも美しくない。
そうではない人も中にはいるのかもしれませんが、少なくともそういう人や気配は映像には出てきません。

女性の振り袖姿も、年々その過激度を増して、まるで漫画本の表紙みたいだし、ヘアースタイルなどもほとんどキャバクラ嬢がずらりと並んだようです。
さらに驚くのは以前にも増して男性にも和服姿が目立ち、それも当たり前の黒の紋付き袴などではなく、そこらの芸人顔負けのけばけばしい色物だったりで、どこをどうしたらこういう方向に進むのか訳がわかりません。

従来の日本の和服文化の中にはあり得ないような突飛なものばかりが大挙横行しており、いやしくも武士の歴史をもった日本の男性が、いまや華奢な体に真っ白とか真っ赤の羽織袴を着て、ノリノリでふざけながら写真などを撮っている姿は、ちょっと気分的に忍びがたいものがあります。

とりわけ日本人というのは何をやらせても、繊細さとか控え目な神経がすべてに貫かれているものですが、こと成人式に関してだけは着ているものは和服でも、まるで野卑な外国文化に触れるようで、日本的ではない気がします。

同じ人達が、ひとたび就職活動ともなると、まったく別人のごとく申し合わせたように雰囲気を変えるのだろうとも思いますが、ともかく成人式という段階では、なぜこうまで暴走族の集会のような雰囲気にしなくちゃいけないのか、まったく理解に苦しむばかりです。

今年はどうだったか知りませんが、これまでは式の進行さえできないほどの乱痴気騒ぎが頻発したりと、荒れた成人式というのもずいぶん前から問題にされてはいますが、大半は事実上の野放し状態のようです。

というのも、それを真から叱って許さない社会の空気がないからではないかと思います。
聞くところでは、このようなイベントをとり仕切る地域の中心人物である市長や町長など、いわゆる首長(くびちょう)達は、なんと、若者が成人になることは、すなわち新たに有権者となることから、その票ほしさに、やたらとゴマをすって彼らの暴挙にもニヤニヤ笑うだけで、はやくも選挙目的の行動しかとれないという、なんとも開いた口が塞がらないような構造があるのだそうです。

まあ政治家なんて所詮はそんないやらしい生き物だと思っておくとしても、現代の若者のセンスはもう少しなにがしかの美意識が本当はあるはずだと信じたいマロニエ君です。
あれを見ていると、根底には今だすえた臭いのする演歌の国なのかもしれないという気がして、思わずゾクッときてしまいます。
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連続テレビ小説

NHKの連続テレビ小説を視ておられる方も多くいらっしゃると思います。

マロニエ君は毎日定時に15分ずつ見るなんて離れ業は到底できることではないので、長年連続テレビ小説は見ていませんでしたが、何年か前からBSで一週間分(15分×6の90分)を土曜の朝に放送していることがわかり、いらいずっとそちらで追いかけるようにして見るようになりました。

さて、現在は言うまでもありませんが「カーネーション」をやっています。
前回が「おひさま」で、共に時代設定が似ているのか、2作続けて時代は日中戦争を経て第二次大戦となり、それまでの楽しい空気が一変して、まるで坂道を転げるように世の中に戦争の暗い陰がさしてくるのは、いかにドラマとはいえ陰鬱な気分になるものです。

とくに連続テレビ小説のような長丁場になると、この時代に突入すると時間的にも少々のことでは抜け出せない長いトンネルになるし、2作続けて劇中でも馴染みの顔に「赤紙」がきて、つぎつぎに出征していく姿はやはりやりきれないものです。

それだけではなく、贅沢禁止、節約が叫ばれ、金属は供出させられ、すべてはお国のためで処理される、暗く悲惨な時代を通過するのはドラマでも疲れますし、ましてや2作連続ともなると少々うんざりしてしまいます。
もちろん「カーネーション」のほうが前作よりも数段面白いとマロニエ君は感じていて、その点は遙かに救われているのですが、それでも戦争は鬱陶しいですね。
まだ見ていませんが、現在放送中の本編ではどうやら終戦を迎えたようで、やれやれです。

考えてみるとNHKの連続テレビ小説ではこの大戦の時代を背景にした作品が多く、最近でパッと思い出すだけでも「純情きらり」「ゲゲゲの女房」など、昭和のはじめ頃というのはドラマ化しやすいのかと思います。

ところで、ご存じの方も多いと思いますが、このNHKの連続テレビ小説は春と秋の半年毎に作品が入れ替わり、東京と大阪、それぞれのNHKが交替で制作しているそうですね。
マロニエ君の見るところでは、この連続テレビ小説に関しては概ね大阪の方が上で、東京チームよりはるかに面白いものを制作するセンスがあると思います。

大阪の気質は本音とお笑いと人間くささですから、それがドラマ作りにも活かされていますが、東京はどうしても絵に描いた餅のようなきれい事が中心で、偽善的であったりお説教調であったりするのは、これはもうどうしようもない体質なのだと思います。

できれば連続テレビ小説はずっと大阪に委せておいて、東京は大河ドラマなど別の作品に専念すればいいのにと思うのですが…。
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転がった缶ビール

ふと思い出した、暮れで混み合うスーパーレジでの記憶をひとつ。

レジの列に並んでいるときのこと、携帯でしきりに話をしている女性がマロニエ君のすぐ前にいました。
今どきですから、この状況がとくに電話をしてはいけないとも思いませんが、どこにも遠慮の気配というものが感じられないのは、やはり良い感じではありませんでした。
そのうち、商品満載のカートはそのまま置いて本人だけどこかに行ってしまっていなくなり、もうレジの順番が次だというのになかなか戻ってきません。間に合わないときは、当然ですがマロニエ君が追い越させてもらうつもりでした。

するといよいよというときになって、ちゃんと戻ってきて、当たり前のように列に復帰し、カートをちょっと前進させてレジに備えています。
ところがこの人、カゴだけをレジ係の前の台に差し出して、カートの下に積んでいる缶ビール(紙のパッケージで6本をひとまとめにしたもの)は一向にレジを通す気配がありません。
こちらから見ると、どさくさまぎれにそのまま通過するようにも見えました。

するとカゴの中の商品を計算し終えた係りの人がそれを目敏く見つけ、やや上半身を乗り出すようにして「そちらのビールもでしょうか?」と言ったのはさすがだと思いました。

そういわれた女性は、ああ…という感じでいかにも横柄な感じでその缶ビールを持ち上げようとしましたが、そのときの動作がいかにも雑で、パッケージの隙間に指を差し入れてぐっと引き上げたので、持ち上がった瞬間に紙パッケージが破れて、そのうちに2本ほどが床に転がっていきました。
落とした本人が棒立ちしている中、レジ係の人がすかさず飛び出てきて、すぐに1本拾いましたが、もう1本がなかなか見つかりません。

それから残りの1本をめぐって、あたりは大捜索となりました。
結局は、となりのレジ台の下のようなところへ転がっていたようですが、このとき2つのレジはすっかり動きが止まり、となりのレジ係の人も一緒に捜索に加わっていました。
その間、マロニエ君はじめ並んで待っている2列のお客さんは黙ってじっとその様子を見守っていました。

やっとのこり1本を店員さんが床に這いつくばるようにして見つけ出したので、めでたく缶ビールは元通り6本揃い、レジ係もやれやれという感じで所定の位置に戻ってさっそくバーコードを読み込もうとした瞬間、このお騒がせな女性の口から信じられないひと言が!
「新しいのと換えてもらえます?」「は?」「破れたから…」

なんとこの人、もともと自分が商品をレジ台に上げず、店員にいわれて持ち上げたところ、その動作が乱暴だからパッケージが破れてしまったわけで、誰が見ても100%この女性客の責任であることは衆目の一致するところでした。
ところが、そんないきさつなんてなんのその、とにかく金を払う以上は傷みのないまっさらの商品をよこせということのようです。
すかさずレジ係は「お取り替えします…」といってマイクで別の従業員を呼びだし、すぐに同じ物をもってくるように指示しましたが、その間、またぞろこちらの列はずっと待たされるハメになりました。

人に迷惑をかけてゴメンナサイのひと言もなく、おまけに交換するのは当然!みたいな態度で突っ立っているその姿は、ずうずうしいなんてもんじゃなく、思わずその拾い上げたビールのフタを開けて、頭からジャーッとふりかけてやりたくなりました。
変なものを目の当たりにして、帰り道もこの女性のことが頭に残ってムカムカきて、イヤな世の中だと思いました。
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正月二日目

ちょっと買い物などで出かけたついでに、暇だし道が空いてるのでドライブでもしようということになりましたが、べつに行くあてもないので、都市高速に入り、環状線を2周近くまわりました。
福岡の都市高速は、首都高の環状線などより環が大きいので、一周するのもそれなりの距離があり、結構走った気分になれます。

当然といえば当然ですが、この時期、路上の交通量が少ない割りには他府県のナンバーの比率が異常に多くて、それだけ非日常な交通の流れである点は要注意です。
ずいぶん遠くからやってきたのか、ここはいちおう高速だというのに若い女性二人が乗る軽自動車が、時速50キロぐらいでトロトロ走っていて、逆に周囲の車に危険を与えていたりするかと思えば、ほとんどカーチェイス並のスピードで車の間を縫うようにして走り去る車などがいたりと、やはりいつもとは違う状況でした。

危険運転は別としても、適度な速度で走っていくポルシェなどを見ていると、やはり多少スピードはオーバーしていても、運転らしい運転をしている、しまりのある動きの車を見るのはマロニエ君などは気分がよいものです。

車をまったくの実用と割り切って、100%移動の手段という以外に何ものも求めない人は別ですが、多少でも車が好きで運転の醍醐味を求めたいマロニエ君などは、そこには音楽の喜びにも通じる意味でのスピードやリズム、緩急のメリハリや躍動などが少しはないと、とうてい我慢のできるものではありません。
どんなに良くできていても、個人的には音のしないトヨタの車なんかに乗る事などまずないだろうと思います。

夜は友人から誘われてお茶をしました。
先日会ったついでに南紫音のイザイのDVDを渡していたところ、彼もその演奏ぶりには驚嘆して、「現在の若手ヴァイオリニストの中でこれほど官能的な面まで表現できる人は自分は知らない」「もちろん知的な裏付けも充分!」といっていました。

当然、使っている楽器の話になりましたが、フィリアホールのリサイタルの映像では、f字孔の形状がストラディヴァリウスのような形状だそうですが、どうみてもオールドのようには見えないという点でも意見は一致しました。
イザイで南さんが使った楽器は見るからに艶やかで美しく、キズひとつないその感じは、もしや新作ヴァイオリンでは?と思ってしまうし、音色も良い意味で古い楽器ではないような弾力のある瑞々しさがあったと思います。

もちろん真相はわかりませんが、ますますもって新作の可能性が出てきたような気になりました。
もしもマロニエ君がステージで通用するようなヴァイオリニストだったら、天文学的な価格のオールドヴァイオリンなどには欲を出さず、きっぱり最上級の新作ヴァイオリンを使うだろうと思います。
何億もするヴァイオリンを手に入れる算段などできるはずもないし、あれこれの財団などからの借り物というのもイヤですから、そんな暇があったらより良い演奏を目指して専念したいものです。

またそう思わせるほど、イザイを弾いたヴァイオリンは力強く朗々と鳴り響いていましたから、最終的には演奏が最も大切だということに落ち着きそうです。演奏の圧倒的な素晴らしさの前では、下手くそがどんな名器を持ち出しても所詮はナンセンスという気がします。

まあ、これだけ言っておいてグァルネリだったなんていった日には爆笑ですが。
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新年初作業

新年早々やったこと。
それは雑誌のブックカバー作りでした。

マロニエ君はあまりテレビは見ませんが、それでも年末年始の番組ともなると見逃したくないものも含まれてくるわけで、毎年、この時期だけはテレビ番組のガイド本を買ってくるようにしています。
今回は、雑用に取り紛れていつもより遅くなり、ついには大晦日の夕方、書店の前に車をとめて小走りに買ってくるという有り様でした。

毎回感じることですが、やたらめったら同じような雑誌がズラリと並んでいて、咄嗟にどれを買ったらいいやらわかりません。
表紙もほとんど同じ調子で、値段も僅差で、いつも何の根拠もなくその中の一冊をやみくもに選んで買ってくるわけです。どうして日本人って何の世界でもこんなにも同じものをムダに何種類も作るのかと思います。それが結果的に数の決まったお客さんの奪い合いとなり、お互いの足の引っ張り合いを招くという悪しき構造です。

雑誌の世界は我々の想像を絶する経営難だそうで、つい先日聞いたばかりの話ですが、業界でも最も売れている男性ファッション誌などでも、年間数千万という赤字を垂れ流しているというのですからさすがに開いた口がふさがりませんでした。
たとえ売れ行きがトップであっても、決してその売り上げで利益を上げることはできないのだそうで、もっぱら広告収入に依存しているとのことですが、それがまたこのご時世だからスポンサーも広告量も激減して、雑誌出版業界はきわめて厳しい苦境に立たされているという話でした。
大手出版社では、こういうお荷物を雑誌ごと切り売りすることまで考えているのだそうで、これは雑誌に限らずあらゆる業界に共通した事象のようで、どこか世の中の歯車が根本的に狂ってしまっているような気がします。

話が逸れました。
年に一度買うこの手のテレビ番組雑誌ですが、マロニエ君にとってはこれが家にあるとイヤなことがひとつあります。
それはこの雑誌を見る期間中というもの、いつもそれはテーブルの上にあり、表紙のうるさい色彩と見たくもない芸能人の顔が絶えず視界に入ってくるということです。わざわざ見なくても、至近距離にあれば嫌でも視野に入るわけで、それが非常に気になって嫌なのです。

その本を手にするときはもちろんのこと、見ないときでもそのド派手な表紙は絶えずその存在感を撒き散らしてしまうので、今年は、意を決してブックカバーを作ったわけです。

表紙が見えなくなることが主たる目的ですから、作りは大雑把で良いのですが、そんなどうでもいいものでもついついピシッと作らないと気が済まないマロニエ君の性格で、作業にはかなり集中してしまいました。
大型封筒を解体して、きっちりサイズを合わせ、あとで外すことはないから、かたっぱしからセロテープで貼り付けて、どうだ!とばかりに封じ込めてやりました。

そういうわけで一見してはただの真っ白い冊子というだけで、ようやくにして視界を邪魔されることがなくなりました。ところが喜びもつかの間、家人から「これでは一体どっちが表紙なのかわからない」という、ほとんど言いがかりのようなクレームがつきましたので、皮肉を込めて「表紙」と大書しておきました。
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謹賀新年-2012

新年あけましておめでとうございます。

このブログをはじめたのが2010年の1月1日でしたから、これでとうとう3回目の元日を迎えることになりました。
何事も根性無しで怠け者のマロニエ君にしてみれば、ブログを書き続けるという事をまる2年を過ぎて3年目に突入できたとは自分でも驚くべき事です。

これもすべては、友人が「ブログを書く以上は毎日更新しなくてはいけない」とえらい調子で脅しをかけてきたことに端を発します。さすがに毎日は無理としても、3日のうち2日は書くことを目標としており、なんとか今のところは達成できているようですが、さていつ終わりになるかはわかりません。

気力の続く限り、本年もできるだけ許される範囲での本音でいろいろなことを綴りたいと思いますので、どうかまたお付き合いいただけたら幸いです。

大晦日のNHKでは「クラシックハイライト2011」と称して、今年一年を振り返るダイジェスト番組をやっていましたが、何度見ても佐渡裕指揮のベルリンフィルのショスタコーヴィチの5番は感動的でした。
ピアノではアヴデーエワがプロコフィエフのソナタ第2番の第4楽章を弾いていましたが、これがなかなか良くてびっくりでした。基本的にこの人はショパンよりこういうものの方がいいのかもしれません。
少なくとも意図的に作りすぎた印象のある彼女のショパンよりは、数段情熱的で演奏にも覇気がありました。
この人、何かに似ていると思ったらキリンみたいな可愛い顔をしているんですね。
ピアノの腕前は思った以上に強靱なものがありました。

2012年最初のCDは、結局シューベルトになりました。

シューベルト:交響曲第8番ハ長調D944「ザ・グレイト」
ニコラウス・アーノンクール指揮のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を聴いています。

それでは、本年もよろしくお願い致します。

マロニエ君
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大晦日

早いもので、今年もついに大晦日となりました。

昨日は友人と一緒に昔の音楽の先生のお宅に行きましたが、ちょっとだけチェンバロに触りました。
あの指先に伝わるツンとしたデリケートな感触はいつまでも記憶に残りますね。

さて街中はクリスマスあたりをピークにして、さすがにこの時期になると交通量は日ごとに減ってくるようで、夜ともなると普段よりも車は少なく、なんとなく周囲が静かになってきたように感じます。

これはこの時期特有のもので、潮が引くように世の中から活気が消えていく気がしてマロニエ君は昔からあまり好きではありませんが、松の内が過ぎるまではなんとなくこの空気になりますね。渋滞もイヤですが、逆に不自然なほど道が空いているのも、あまり気持ちのいいものではありません。
まるで街が浅い眠りに就くようです。

さらに正月前を実感したのは、灯油を買いにガソリンスタンドに行ったところ、夜だというのに洗車機の前には車が行列していることでした。見たところきれいな車ばかりのようでしたが、敢えてこの寒い夜に、行列までして洗車するとはすごいと思いました。
新年を迎えるに相応しく、よほど家などもピカピカなんでしょうね。

東京から戻ってきた友人から、ずいぶん大げさで立派なプリンをおみやげにもらいました。
横須賀のお店のようで、容器はなんと目盛り付きのパイレックスになっており、食べたあとは耐熱容器としてずっと使えるというご大層なもので、関東ではこういう何が目的かわからないようなものが流行っているのかと思いました。
食べながら、そういえばこの店は以前テレビで見たことがあったのを思い出しました。湘南地区の多くの家庭にはこの容器があって捨てずに使っているというものでした。

そうそう、マロニエ君の恒例の新年最初に流す音楽は何にするかを考えなくてはいけません。
本当は天国的な曲調といい、ブラームスの「運命の歌」にしたかったのですが、詩の出だしは良いのですが、結末が「私達にはどこにも安息はない/行く末もわからぬまま落ちてゆく…」といった内容なので、これは却下しました。

今年もこのブログをお読みくださった方々に、謹んで御礼申し上げますと共に、来年もまたお立ち寄りいただけましたら嬉しい限りです。

良いお年をお迎えください。
ありがとうございました。

マロニエ君
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洗濯機事情

我が家の洗濯機と乾燥機は今どきちょっと珍しいぐらい古い機械なのですが、それというのも購入以来27年間、どういうわけか故障もしないで問題なく動いてくれるので、いまも現役で使っているのです。

ところが先日、乾燥機を回していると、とつぜん回転速度が落ちて、音も若干変化がありました。
うおっ、ついにご臨終か?と思い、年の瀬でもあることから、こんな時期に乾燥機が壊れては一大事だと思って食事に出たついでに大型電気店に見に行きました。

4、5台の衣類乾燥機があり約5万円から7万円というのが相場のようで、「更に値引きします」などと書いてあるものの、あたりには一向に店員の姿もなく、その時は時間もなかったこともあり、とりあえずその場は引き揚げました。
翌日同じ店の、自宅により近い店舗に電話してみて、年内の届けと設置はできるのかということと、古い機械の処分費用などを聞いてみました。

すると意外な答えが返ってきたのには驚きました。
現在は衣類乾燥機においては洗濯乾燥機が主流となっていて、乾燥機単独というのは店舗にも置いていないというのです。
マロニエ君にしてみれば前日、本店の売り場で見たばかりと思っていたら、そこだけ特別なんだそうで、普通は展示することもなく、どこも在庫さえ持っていない。よって、型番がわかれば取り寄せは可能だが、そのぶんの日数はかかると言うわけです。

なぜ単独の衣類乾燥機はそんなになくなってしまったのか?と聞くと、答えは簡単明瞭、洗濯乾燥機が進化してかつ価格も安くなったからというものでした。
安いとはどれぐらいでしょう?と聞くと、だいたい6万から10万というのにはびっくりしました。

マロニエ君は乾燥機だけを見て、洗濯機の前は素通りしていたのですが、これじゃあ、ほとんど値段的に乾燥機を買ったら洗濯機がついてくるようなもので、なるほど乾燥機が単体で売れなくなるのも道理だと思いました。
ふと考えてみれば、我が家の洗濯機とて、今は普通に動いているとはいうものの、なにぶんにもたいそうなご高齢ゆえにいつなんどき昇天するとも限りません。これはどの角度から考えても、新しく洗濯乾燥機を買うのが最も正しい道のようでした。

そうこうしているうちにも、毎日の生活とは洗濯物が次々に発生するもので、それを洗濯乾燥していると、洗濯機は通常通りだし、乾燥機も一時の不調がなくなり、また以前のように何食わぬ顔で普通に動いていて、バスタオルやらなにやらをふかふかに乾かしてくれています。

マロニエ君は音楽とは違って、洗濯機や乾燥機など、動きさえすれば何でもいいわけで、動いている限りは現状でも不自由はなく、もうちょっと粘ってもいいやという気になってきました。
だいいち27年も我が家で賢明に働いてくれているのですから、最期を見取るのもこちらの務めのような気がするし、もし故障したときはサッと買いに走れば早ければ翌日に配達設置してくれることもわかったので、どことなく安心材料も得たような気になっていました。

ちなみに電話でいろいろ質問し、いろいろ答えてくれた電気店のおにいさんによると、メーカーは日立のことばかり言うので、そんなに日立がいいんですか?と聞くと、洗濯機の分野は昔から圧倒的に日立が強いですねぇという(半ば常識ですよ的なニュアンスの)答えが返ってきましたので、へぇそんなものかと思いました。

その後、我が家の老兵たる洗濯機/乾燥機のメーカーなんて意識したこともなかったので、なにげなくその点を見てみると、なんとそこには両機共にHITACHIの文字があって、ハハァやっぱり強いんだ!ということを実感させられた次第でした。
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オダブツ寸前

週末は久しぶりに知人に会いました。
この方はずいぶん長いお付き合いになるピアノ好きの方で、昔は関西から浜松、東京までピアノ屋を巡って一緒に旅行したこともあり、最近会うのは久しぶりでした。

技術者肌で機械ものにも詳しいので教えてもらうことが多いのですが、話題は自然とパソコンのことになりました。
マロニエ君は基本的にパソコン関係がてんでダメなので、普通の人なら常識といえるようなことでも、いまだに知らないことだらけですが、これはいまさらどうしようもないようです。

それでいろいろ聞いていると、とんでもないことを言われました。
「ハードディスクは必ず壊れる。数年使っていると悪夢は必ず来る。それも本当に突然だから、努々バックアップはとっておくように!!」というものでした。
パソコンがいつか壊れるのはわかっていましたが、パソコン内にあまり大量のデータを抱え込むのがいやなので、マロニエ君は外付けのハードディスクを使っているのですが、何の根拠もなしにこっちはそうそう壊れるものではないというふうに勝手に思い込んでいたのです。ここがまずひとつ、おバカな点であったようです。

氏曰く、「外付けだろうと、内蔵だろうと、とにかくハードディスクというものは必ず壊れるものだということを忘れちゃいけない」という思わず心臓がキュッと締まるようなアドバイスをもらいました。
しかも、もともとこの方、とっても優しい穏やかな人なのに、この点を言うときはえらく強い調子で言われたのが印象的でした。
この方はIT関連の会社経営者ですが、仕事でもあるぶん、過去にはずいぶん苛烈でショッキングな経験もいろいろされているようです。

「ふうん…」と思って帰宅して、それから自室のパソコンを見て思い出したのですが、そういえば10日ほど前にこの外付けのハードディスクがえらく調子悪くなっていて、機械の内部でもコットンコットン音がしていて使えないことがあり、おかしいなぁ…と思ったりしていたことを思い出しました(この悠長さが自分でも驚きます)。
で、さっきの話が気になって、そのHDの様子を見てみると、なんとこれが全く反応しなくなっている。反応しないというのはつまりパソコンがまったく認識しないということです。

何度やってもダメ…。そしてさっきの話…。
だんだんイヤな気分になってきて、何度も挑戦するもののダメ。20回ぐらいトライしても反応ナシで、そのころにはじっとりとした脂汗が顔といい髪の毛の中といい、猛烈な勢いで広がっているのが自分でわかりました。
再起動しても、コードを抜き差ししても、何をやってもダメで、咄嗟にその知人に電話しようかと思いましたが、彼はホテルで何かの会があるといって一時間ほど前にそこで降ろしたばかりでしたから今電話するわけにも行かず、仕方がないから購入店に電話したのですが、土曜の夜で売り場が混み合っていて、お店から折り返しかけ直してくることに。

電話を待つ間にも何度もやっていたところ、あきらかに今までに聞こえなかった音がしています。やがて少し反応が出てきたようでしたがやはりダメで、神仏に祈るような気分で何度かやっているうちに、なんと念が通じたのか、ついによろよろと認識しました。
このときは、さすがにもう大声で叫びだしたいほど嬉しかった。

そんなときに販売店から電話があり、経過を説明すると、電話だけでは断定的なことは言えないとしながらも、「とにかく認識している間に、一刻も早く中のデータを別の場所に移してください!」という「厳命」が下りました。電話の向こうでも少し口調が焦っているのがわかり、これはやはり大変なことらしいというのがわかります。

それからは、おっかなびっくりしながら、ただひたすら中のデータをDVDにコピーする作業に没頭しました。
コピーするだけとはいうものの、ここにはくだらない旅行写真から仕事上の大切なデータ類まで、ありとあらゆるものが膨大な量入っているわけで、これをコピーするというのも気が遠くなるようでしたが、とにかくやらなくちゃいけないという危機感に突き動かされて、高鳴る動悸を抑えながらこれをひたすら続けました。

HDのほうは、要するにオダブツ寸前のご様子ですから、途中でポンと事切れたらそこで終わりでしょう。
結果的に10枚近いDVDに5時間ほどかけてコピーができあがりました。
ホッとひと安心というか、これができなければこれまで10年ほどかけて蓄積されたいろんなデータや資料が、一瞬にしてパアになったかと思うと鳥肌が立ってしまいます。

コンピュータの世界はこれだから、便利と引き換えに冷酷で大嫌いなのですが、だからといって今どきパソコンなしで生きていけるはずもないし、まあ今回はすんでの所で助かったことを神様仏様に感謝して、今後はより強い自覚を持っていなくてはいけないようです。

なによりも感謝すべきは、この日マロニエ君に強い調子でアドバイスしてくれた知人で、彼に会わなかったらこんな確認はしなかったし、ごくごく近い将来、何かの拍子にすべてのデータを喪失していたことだろうと思います。
これだけでも、この日、彼に会った甲斐があったというものです。
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悪質ドライバー

年末だからというわけではないでしょうが、このところ立て続けにイヤなドライバーを目撃しています。

携帯で話をしながらの運転が違反行為であることはいまや当然ですが、もはやそれだけでは気が済まない「携帯使用&無謀運転」という許しがたいドライバーが増殖中の気配です。

ふつう携帯を使いながら運転している車は、以前も書いたように、走りに腰がなく、ふわついた動きになっているものですが、そのぶん運転は二の次で、スピードも控え目な場合がほとんどです。

ところが、中には携帯で話しながら運転している上に、さらにかなりのスピードを出して突進してくる車を何台か見たのには呆れました。これはぜんぶ男性でしたね。
車の動きにも非常に思い上がったような傲慢さがあって、危険なことこの上ありません。

路上にはその状況によっていろんな瞬間があるものですが、べつに無礼な割り込みではない、自然な流れというものがあって、その流れの中にあって互いに譲ったり譲られたりするものです。
ところがたまに何がなんでも他車を入れないとか、車線変更をしそうな車がいるのを察知すると、じゅうぶん距離があってもわざわざ加速してまでそれを阻止するという意地悪運転なんかがあるものですが、これをなんと、携帯を使いながらごり押しにやってくるのには開いた口がふさがりませんでした。

同じように強引な割り込みもありますが、いずれも運転そのものに集中できていないぶん、よりいっそう強引で過激な動きになり、高い危険が伴うのは、まったくもって社会迷惑というほかありません。

動きとしてはほとんど接触することも辞さないような図太い動きで、それだけ強気に出れば最後は周囲が回避してくれるものだと思い込んでいるのか、あるいはそういう細かい判断力を失っているのか、そこのところの真相はよくわかりませんが、いずれにしてもまったく困ったドライバーだというほかありません。

しかも、その手合いを最近何台も目にしましたから、だんだんこの悪しきスタイルが増殖中だとしたらとんでもない、恐ろしい傾向です。横着なことこの上なく、まさに肩で風を切るごとくの攻撃的な動きで、よほど注意していないとあの手合いとは接触事故が起こったりする可能性が極めて高いといわざるを得ないのです。

一度などは片側4車線ほどの幹線道路で、いきなりこの携帯使用中の無謀運転車に目の前で強引に車線変更されて、危うくブレーキをかけて接触を交わしたところ、相手が電話中というということで、こちらもついムッときて、さらに左に車線変更して加速しようとしたところ、さらにその車がまたこちらに移ろうとしてウインカーを出しました。

しかし、もうそのときは斜め後ろぐらいまで来ていたので、今度は譲ることはしないでこちらが加速して前に出ました。
すると、それがよほどお気に召さなかったらしく、先の信号ではわざわざ横に並んで、「電話をしながら」こちら向いて睨み返してきて文句を言う素振りをしています。

その横暴&逆ギレの様子ときたら、まったくチンピラ並みというか、とてもまともじゃありません。
そういう手合いも一緒に公道を走っているのだから、つまりはよほど気をつけてかからなくてはいけないということですね。

ああいう悪質ドライバーからとばっちりを受けたのではたまったものではなく、警察もより厳しい目を光らせて欲しいものです。
これまでにもハンバーガーやドリンクを交互に口にしながら運転する人、マンガ本をハンドルの前に置いてそれをみながら、もちろん最近ではずっとメールを打ちながらの運転など、いろいろ見ましたが、上記のパターンが最も際立って悪質だと感じました。

みなさんもくれぐれもお気をつけくださいね。
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日曜夜の備え

金曜の夜、普段はあまり行くことのない週末のショッピングセンターというか大型モールに、たまたま成り行きで行くことになりましたが、その猛烈な人出にはちょっとびっくりしました。

時間帯は夜の7時半ぐらいだったのですが、まず広大な駐車場はどこまでもびっしりと無数の車で見事に埋め尽くされており、あちこちに空きを探す車が低速で這いずりまわっています。

とくに12月ということもあったのかもしれませんが、週末夜の大型モールというのはこんなにも凄い人出なのかと妙に感心させられてしまいました。
第2駐車場のようなところの隅の方になんとか車を置いて、ようやく店内に入りますが、いやあもう人、人、人であふれていて、とりわけ家族単位のお客さんが目立ちました。

ちょっとした買い物をしたのですが、このモールの中央広場というところでやっているらしい抽選会の券をもらったので、ついでと思ってそこに行ってみると、そこはまるでディズニーランドのアトラクション前のように人の列が何本も平行して伸びていて、抽選をやっているコーナーは遙か遠くにあるばかり。誰がこんなものに並ぶものか!と思って即放棄しましたが、まあとにかくお店としては大繁盛といった様相でした。

マロニエ君は約1時間強で退散しましたが、暖房と人ごみでぐったり疲れ、外に出たときは寒いのも忘れて新鮮な空気に思わずホッとするようでした。

さて、それから2日後のこと、買い物をした商品に不都合があり、交換に行かなくてはならなくなりました。
日曜でもあり、またあの人の海の中に突入して行かなくてはいけないのかと思うと正直ウンザリでしたが、さりとてそのまま買った物を無駄にする気もないので、やっぱり意を決して行ってきました。

着いたのは夜の8時台だったのですが、2日前の経験から相当の覚悟をして行ってみると、意外にもそれほどの混雑の様子もなくすんなり車を置けて、店内に入ると、そこで目にしたものは一昨日とは逆の意味での驚きでした。
これがつい2日前と同じところかと思うほど人の気配はまばらで、要するにどこもかしこもガラガラで閑古鳥が鳴いているように様変わりしていたのです。
抽選会場も、ウソのように空いていて、居並ぶ店員はみんな手持ちぶさたといった状態です。

個々のお店もほとんどが無人、もはや閉店時間を待っているだけといった風情なのはどういうわけか…。あまり人が多いのも嫌ですが、逆にここまで人がいないのも気分は下がりまくりです。

要するに、明日は月曜で勤めや学校というわけでしょうが、それでこうも極端に人の流れが変わるというのは恐いぐらいで、日本人というのはなんという健全な、安全指向の、真面目と言えば真面目なのか、なんとも面白味のない民族かと思いましたね。
別に夜遊びを推奨するわけではありませんが、これじゃあまるで小学校の時間割のようで、以前はこれほど極端ではなかったと思いますが、とくに今どきの人は安全とか備える思考・感性が身に付いていて、なんともお堅いことかと呆れずにはいられませんでした。

その点では、欧米はもちろんでしょうが、近隣諸国の韓国、中国、台湾などに行くとまったくそういうことはなく、平日でも夜遅くまでみんな元気に熱っぽく遊んでワイワイ楽しくやっているのには瞠目させられます。
少なくとも夜の11時12時ぐらいまでは街中は大変な賑わいですが、日本ときたら平日とか日曜夜というと、ここまでパタッと潮が引いたようにみんな家から出ずに明日に備えているんでしょうね。

あまり無謀なのも困りますが、多少の遊び心というか、陽気で大胆な活力みたいなものはないのだろうかと思います。少なくとも現代の日本人が失ったものは輝くような勢いとか、度胸とか、奔放さみたいなもののようで、だからなんでも面白くないんだと思いました。
今の日本の社会が暗いのは、あまりにも守りのための安全枠が念頭にありすぎる点ではないかと思いましたね。誰から強制されるのではなく、みんな自分から堅実に振る舞うのが当たり前のようで、これじゃあ景気も回復しないのは当たり前というか、そもそも人間が不景気ですね。

夜、人がいなくて街が閑散とするのは、もうそれだけで都会とはいえず、まるで田舎の「早寝早起きは三文の得」といった趣です。
多少の不健全を容認するのも健全の証であって、これだけみんなが守りに徹して足並みを揃えるということそのものが、どこか全体主義的で、これぞ正しく不健全だと感じてしまいました。
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車検狂騒曲

今月はマロニエ君が15年間乗り続けているフランス車の車検で、昨日は午後から時間をとってユーザー車検に行ってきましたが、これがなんとも大変な展開になりました。

車検にも備えていろいろと修理や整備はやってきたものの、さあこれから出発という段になってウインドウォッシャーが出ないことに気が付きました。
ユーザー車検では車検場のコースに入る事前のチェックで、灯火類(すべてのランプが点くかどうか)とか、ホーンがちゃんと鳴るかなどの検査項目があるのですが、その中にウインドウォッシャーが出るかどうかも含まれており、これらのチェックはひとつでも不合格になると車検は通過しません。

この日は4つに区分された時間帯の最後、すなわち14時半~16時というのを予約していて、昼食も抜きでガレージで準備しているときにウインドウォッシャーの故障が判明したのです。
そもそもマロニエ君はウインドウォッシャーを使う習慣がないために、車検の時以外でこのスイッチに触ることがなく、それが災いしてこの箇所の問題に気が付くのが遅れたわけです。

レバーを弾くとウーウーとモーターの音はしていますから、水を入れればいいだろうと思って、タンクに給水してみたもののサッパリで、ノズルの詰まりではないかと針で差してみたりあれこれやってみましたが、一向に水は出てきません。
やむを得ず、主治医の工場に急遽行くことになりましたが、自宅を中心にいうと車検場とはまったくの逆方向で、時間的な問題から実際よほどためらったのですが、これを解決しないことには車検は受かりませんから是非もありませんでした。

焦る気持ちを抑えつつ、10数キロもある工場に行きますが片道30分はかかり、これだけでもかなりの時間的ロスになります。さっそく診てもらうと、やはり音ばかりして水が出ない。
その後、プロのメカニックが30分も格闘してどうにもならず、左右のノズルに問題があることが判明し、緊急の措置として別の細いホースを引いてきて、それをタンクから出た本来のホースに繋いで、とりあえず形だけ水が出るという工夫をすることになりました。
車検場での検査というのは、要するにフロントの窓ガラスに必要時にチョロチョロでも水が出さえすればそれで合格となるわけで、これはまったく検査のための非常手段で、喩えは悪いですがこれは「人工○門」のようなものです。

寒風吹きすさぶ中、この処置ができるのを待ちながら、心中は半ば今日の車検はあきらめかけたのですが、とりあえず予約はしているし、やるだけのことはやってみようと車検場を目指します。
幸いにも太宰府インター近くなので、そこから都市高速に飛び乗って東を目指しますが、車検場の前に、その近くの整備工場に立ち寄って「光軸調整」というのを受けなくてはなりません。
これはヘッドライトが正しい方向を向いているかどうかの事前チェックで、本番をこれで落第するとまたやり直しが大変で、時間も食うので、このチェックと調整を有料ですが予めやっておくほうが安全なわけです。

この工場に着いたときは、すでに15時に迫っていましたが、店の人の話では15時半までに行けば大丈夫といってくれました。そうはいっても、車検場に着けば、まず陸運支局という役所の事務所に提出する大変な量の書類を揃え、そこにあれこれと記入しなくてはならず、それを思うと間に合うかどうかはほとんど自信はありませんでしたね。

こういうときの役所の書類というのは、実にもうばかばかしいもので、住所と名前だけでも何遍おなじことを書かなくてはならないか、ボールペンを持つ右手がひきつってくるようで、まったく憤慨させられます。
ほとんどなぐり書きも同然で記入して、書類の束を窓口に渡しますが、必ず一つや二つは不備があるもので、またそれを受け取ってはやり直しをして、これが完了してはじめて車検コースに車を進めることができるのです。

問題のウインドウォッシャーのチェックも無事通過、光軸もパス、その他諸々も一発で合格できて、やったぁ!と喜んだのもつかの間、エンジンの型式番号の確認という場面で、これがわからず係員が何人もやってきては細いペンライトをエンジン内部にあててエンジンブロックのどこかに刻印されているはずの小さな文字を捜しますが、これがやたらと時間を取ってしまい、終わったのはほとんど16時でした。

車検ラインで合格したことを証明する書類を、再び役所の窓口に提出して新しい車検証を受け取るのですが、マロニエ君の名前が呼ばれたときには、もう本当に最後の最後で、すべての窓口は16時をもって見事に閉じられたその後で、外に出た時はもう駐車場はガラガラでした。
まさにすべりこみセーフな一日でしたが、なんとか車検が通ってホッとしながら帰宅しましたが、心身共によっぽど疲れたのか、ちょっと横になったつもりが不覚にも1時間半爆睡してしまいました。
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足をひっぱる靴

このところ気温も下がってきたことでもあり、天神に買い物に出かける際、服装もいつもよりちょっと暖かいものを着て、靴も普段あまり履かないものを引っ張り出しました。

普段よく履いている靴にくらべると、履くだけでもいちいち革の紐を絞めたり緩めたりと、久しぶりになんだか面倒臭い靴だなあと思いましたが、ふだん下駄箱に入っているだけでめったに履かないので、たまには…という気を起こしたのがそもそも間違いでした。

その靴はマロニエ君が持っている靴の中では、そう悪い物ではないし、あまり履いていないので見た目はきれいなのですが、もうかれこれ10年ほどに前に買ったもの。なんとなく履きやすいものに流れてしまい、普段はあまり履かないことが常態化していました。
濃い茶色のバックスキンの革ひも付きシューズで、メーカーは○imberlandという、べつに一流ではないけれども、大衆品の中ではまあまあのブランドだろうと思います。
ここの製品は、いまでこそ普通のモール内の靴屋なんかでも見かけるようになりましたが、当時はそれほどでもなく、たしかそれなりの金額で買った記憶があります。
これを久々にひっぱりだしたことが、この日大変な目に遭うことになるのです。

玄関を出て階段を降りるだけでも、いつもとはずいぶん様子がちがうなあと感じていましたが、このとき急いでいたこともあってとりあえず車にとび乗って天神に向かい、駐車場に車を置いて歩き出したとたん、「あれぇ?」というヘンな感触があらわになりました。

まず底が硬いのか、歩くたびにコツコツとわざとらしい音がするし、靴全体も非常に硬くて、さらには靴それ自体が重くて、単純な話、かなり歩きにくいわけです。
その感触はなんとも名状しがたいものでしたが、妙に足が靴から圧迫されているにもかかわらず、歩く動きに靴が付いてこないので、知らず知らずのうちに足の指先に力を入れることで、せめて靴との一体感を強めようとしながらせっせと歩くという感じです。

ところがそうこうするうちに、事態はさらに悪化、歩くたびに靴下がズレはじめました。
「これはマズイ!」と思いましたが、もうすでに雑踏の中に踏み入れていますからどうしようもない。
やむを得ず歩を進めるものの靴下のズレはいよいよ甚だしいものとなり、もはや一歩毎に靴の中で少しずつ確実にそれがずれていくのが感触でわかり、気持ちが悪いといったらありません。
立ち止まって靴下を引っ張り上げますが、また歩けば、また確実にズレて、最終的には2〜30歩ごとに立ち止まって天神のど真ん中で「靴下あげ」をしなくてはならなくなりました。

建物内のムンムンした暖房と、この合わない靴がもたらす不快感が合わさって、気分は最悪、次第にじっとりと脂汗がにじんできたことが自分でわかります。本屋に行っても、ちょっと売り場を見て回る僅かな動きにさえ、ちょっとずつ靴下が確実にずれていくのが体感できて、こんな調子で30分以上過ごしていると、ガマンも限界に達しました。

大概のものなら、その場で脱いで手に持って行くところですが、さすがに靴ではそれもできません。
なーにが○imberlandだ!そのへんの3000円ぐらいの靴のほうがよっぽどマシじゃないかと思いながら、用事を最小限に済ませて、あとは省略、足をガクガクさせながらなんとか駐車場に戻りました。

帰宅して玄関で靴を脱いだときは、もう全身が苦行から解き放たれたようでした。
あとで点検してみてわかったことは、この手の革靴などはよほど定期的に履くなどして、いわゆる揉みほぐしをしていないと、経年変化で靴底の柔軟性が著しく損なわれるようです。
実際、この靴の底は木の板のようにカチカチになっていて、そのせいで歩くときも足と一緒にしならずに、靴下を引っぱっていたようです。

というわけで、市内にマロニエ君の友人オススメの「靴の病院」というのがあるので、靴底張替のため、入院させるか否か思案中です。
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ウィルコム

昨日、知り合いから電話がかかってきたところ、出るなり「すぐ別の電話でかけ直すから」ということで、よく事情が飲み込めないまま一度切って待っていると、見慣れぬ番号からかかってきました。

新しい番号からのようでしたが、たぶん見知らぬ番号だと電話に出ないと思ったのでしょう。
マロニエ君はまさかそんなことはないのですが、今どきはこちらが携帯からかけたらすぐに出るけれども、たまたま相手に教えていなかった設置電話からかけると、登録された番号じゃないと電話に出ない人が何人かいたので、ははあ…いまどきはそんなものかと思ってしまいました。

さて、電話はある用件だったのですが、ついでに携帯電話の話になりました。
なんでも最近チラチラと耳にするウィルコムの電話を買ったんだそうで、それからかけているようでしたが、もちろん普通に会話はできましたね。

マロニエ君はソフトバンク&BBフォンのユーザーなのでソフトバンク同士は21時〜1時以外は無料通話できますし、夜9時以降でもBBフォンとの組み合わせることで、事実上通話料はかかりません。

この無料通話のおかげでマロニエ君のまわりにはソフトバンクの友人知人が多く、いつしか「通話はタダでするもの」のようになってしまっています。たまさかドコモやauの電話だとわかると、当然ながら有料通話になるので思わず「うーん」という気分になるし、どうしてもそっちの人への電話は必要以外はかけなくなります。
まあ人間、こんなところも意地汚いというか、現金なものですね。

友人のひとりなど、ソフトバンクじゃない相手とはしゃべらないのは当然だといい、職場でもそう宣言したらしいですから、ここまでくるとたいしたもんです。

さて、この無料通話は言うまでもなくソフトバンク同士に限られていたのですが、いまや業界ではパイの奪い合いというべき争奪戦からか、このウィルコムの新しいプランでは、なんと相手の電話会社がどこであろうと(設置電話でもIP電話でも)通話はすべてタダ!なんだそうで、それで毎月の定額が980円というのですから驚きでした。
ただし一回の通話が10分間、500回/月という縛りはあるそうです。
(もちろんウィルコム同士ならそういう縛りもないそうですし、さらにメールやパケット料金などの絡みもあるようですが、もうこれ以上はわかりません。)

これは各人の電話の使い方によっては、相当素晴らしいプランになるだろうと思われますが、マロニエ君の場合はちょっとひっかかる点もあり、10分というのは簡単な用件のときはいいけれども、けっこうべちゃくちゃ長電話してしまう自分としては、ちょっとこの点が向かないような気がしました。
もし10分を超えるときは一度切ってかけ直せばいいのだそうですが、無料を貫くために、いちいち時計を見ながら10分が近づいたら会話中に一度切ってまたかけるというのも現実的になかなかしづらいことなので、んーと考えてしまいました。

500回/月というのは一日平均でも16回ぐらいで、そんなに回数をかけるわけはないから、これは充分すぎるのですが、やはり10分というのはねぇ…。
でも、こんなものができたからには、もうすこし時が経てば、さらに縛りの緩くなったプランが出てくるかもしれません。
それよりも、電話番号が070で始まる番号に変わることのほうが今はイヤですが、でもしかし、24時間どこにかけても無料はやっぱり魅力ですね。

こういうことが「もう一台持つ…」なんてことに発展するのかと、ふと思いました。
それで、差し引きでは絶対に現状より支出は増えると思うのですが、無料通話の端末を持つという精神的満足を得るためにそういうことになりかねないのかと思うと、ゾッとしてしまいます。
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お鍋はイヤ

時代の風潮もあるのか、ちかごろではいろいろなこだわりや苦手を抱える人が多いものです。

タバコが迷惑というのはマロニエ君もまったく同感であるし、とくに喫煙できる場所が大きく制限させるようになってからというもの、煙のない環境に体が慣れたのか、わずかなタバコの煙でも敏感になりました。
気付くだけでなく、実際それがかなり苦痛になって、どうかすると席を替わりたくなることもあるわけで、野放し状態だった昔を思い出せば自分自身を含めて隔世の感があります。

マロニエ君自身は一度もタバコを吸っていた時期はありませんが、昔は世の中はどこに行ってもタバコの煙だらけで、喫茶店などはほとんどタバコを吸っている合間にちょっと珈琲などを喉に流し込んでいるような感覚だったかもしれませんね。
むろん、喫煙者には何の遠慮も躊躇もなく、どこででも委細構わず思うさまプカプカやっていたもので、今だったら刑事コロンボもあのスタイルはできなかったでしょうね。

こちらも平気なもので、ほとんど白く煙った部屋の中にいてさえ、一向に平気だったことが我ながら信じられません。さすがに辛かったのは車の中で、あの小さな空間だけは苦痛でしたが、逆にいえばそれぐらいほとんど平気だったということですね。

時代は変わり、部屋の掃除から何から、とにかくあれこれとみなさん衛生面などに神経質になってこられたようで、昔はマロニエ君などがどちらかというと神経質なくちで恥ずかしく思っていたものですが、いまじゃとても敵わないといった趣です。

ここまできたかと思うのが、人とは「お鍋をしたくない」という人が意外に多いことでしょうか。
いうまでもなくひとつの鍋を他人とつつき合うのが衛生的感覚的に耐えられないというものですが、個人的にはそこまで究極的にイヤとは思いませんが、もちろん相手次第ではご遠慮したい場合もあります。

ただ、だからといって美味しい鍋料理を全否定するのも忍びないものはあり、これは微妙です。店によっては鍋専用のお箸を置いているところもありますが、それにいちいち持ち替えるのも面倒臭いし、うっかり自分のお箸を鍋に突っ込んでしまうこともあるでしょうから難しいところです。

そんなことより嫌だったのは、昔の宴席などでは、とくに男性は杯のやり取りをすることがひとつの礼儀であり交際上の形式になっていて、マロニエ君の親の世代などではそれがごく当たり前のようでしたが、あれは見ていて内心抵抗がありました。
杯をやり取りする際には形ばかりの杯洗なるものがあるにしても、基本的にはのんだくれの老人やおやじが口を付けた杯でもありがたく頂戴するわけで、それは「お鍋はイヤ」どころの騒ぎではありませんが、昔の日本人は当然のようにこういうことを繰り返しながら互いの情誼を深めながら生きていたようで、これもまた時代ですね。

まあ、杯はともかくとしても、マロニエ君も以前あるところで篤く歓待していただいて、そのことは大変嬉しかったのですが、その折、そこのご主人が焼けた肉やなにかを自分のお箸で次々にこちらのお皿に入れてくださるのは、それがご厚意だけにさすがにちょっと参りました。
そこにも菜箸とかトングのようなものはありましたが、そんなものには見向きもせず、たった今までむこうの口に突っ込まれていたお箸が、方向を変えてこちらへ向かってきては何かをぽんぽん入れてくれるのにはギョッとしましたね。
目の前でそれをやられたら食べないわけにもいかず、もちろん顔にも出さずにありがたくいただきましたが、こういう場合「お鍋はイヤ」な人などは、一体どうするのだろうと思います。
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「さん」と「先生」

昨日のブログで「先生」という言葉を何度も使いましたが、マロニエ君は人の呼びかけに際して「さん」と「先生」の区別は人一倍意識しています。
もっと正確にいうと、「先生」はめったなことでは言いません。

世の中には、その人の職業に応じて「先生」をつけて呼ぶことが礼儀に適って正しいことだと思っている人、あるいはそこまで意識しなくても自然にそういう風に呼んでしまう人が少なくありません。

マロニエ君は、自分にとっての恩師ならむろん「先生」と呼びますが、その数は非常に僅かです。
もう一つは、病院で診察してもらう相手は「先生」ですが、たとえ医師でも、ただ単に同好の趣味人としての関係で職業が単に医師というだけなら決して「先生」をつけることはなく、敢えて「さん」と呼ぶようにしています。

そもそもプライヴェートな対等な人間関係の場において、相手の職業がなんであろうとも、そんなことは関係ないことですし、むしろ関係づけることのほうが不適切だと思っているからです。
そもそも「さん」は我が日本で広く通用する立派な敬称なのですら、ほとんどの場合がこれで通用するわけですし、そうあるべきだと思っています。

あるいは、音楽関係でいうなら演奏家、たとえばピアニストで先生もしているような人のことを、多くの人は迷いもなく「先生」をつけて呼びますが、マロニエ君は自分が教えを受けた方、あるいはそう呼ぶことの方が状況的に自然だと判断した場合以外では決して「先生」とは呼ばない主義です。
さらに言えば、ピアニストなどは仮に先生を兼ねていても、「さん」のほうがひとりの演奏家として認めていることにもなるという考えから、マロニエ君は「さん」で呼ぶことのほうに寧ろ敬意を表しているのです。

テレビなどで大学の教授なんかが出てきてその人の専門の話を聞くときに「先生」と呼ぶのはまだ許せるとしても、国会議員に対しても「先生」、弁護士にも「先生」は耳に障るし、さらにおかしいと思うのは、ここ最近はやたらめったら肩書き優先主義で、お笑い出身の知事が現役の頃なんぞ、まわりは「知事、知事」と連発するのには閉口しました。「社長」などというのも部外者までが言うのは過度のへつらい以外のなにものでもない。

総理でも昔は「さん」でした。中曽根さん、細川さん、小泉さんと言うのがテレビであれ普通の会話であれごく当たり前だったのに、最近は管総理、野田総理といちいち肩書きをつけるのが慣習のようになってきたのはなんなのだろうかと思います。巷では味わいのないビジネス用語が幅を利かせ、たおやかな日本語が失われているひとつの兆候のようです。

それらが現役を退くと「元総理」「元知事」とかぎりなくその人の最高位の肩書きを引きずって呼ぶのにはさらにうんざり。どれもただ単に「さん」をつければ充分ではないでしょうか。
そのうち卒業生にたいしても「○○元東大生」とでも言うのかと思います。

ついでですからもう少し言うと、今は自分の親のことを「父」「母」といわず、大半の人達(とくに若い人)は「チチオヤ」「ハハオヤ」と判で押したように言うようになったのは著しい違和感を覚えます。
今どきの心理として「チチが、ハハが」というのはなにか抵抗があるのでしょうか?

驚いたのは、先だって歌舞伎の中村芝翫さんが亡くなって、追悼番組をやっていた折、次男の中村橋之助さんが思い出などをコメントをする際「チチオヤが…」「チチオヤは…」と何度も言うのには、ははあ、成駒屋の御曹司にしてこんなものかと驚きました。
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お別れ…

このようなブログで病気の話をするのもどうかと思われますが、マロニエ君は昔から呼吸器が弱くて、梅雨や季節の変わり目などは喘息が出てしまう、いわば気管支の持病持ちというわけです。

当然ながらかかりつけの病院があって、そこの先生は呼吸器の専門で、お若い頃はそちらの分野で有名な大病院にお務めだったようで、後年現在の医院を開業されたという経歴をお持ちのようでした。
知り合いに紹介されてここに通院することになったのが、約4年ほど前のことです。

ひどいときは毎週のように通院したりした時期もありましたが、その後は小康を得てご無沙汰することがあったり、またちょこちょこ行ったりの繰り返しでした。

それが昨年ぐらいだったか、先生ご自身が病気(病名は知りません)になられ、どきどき代診の先生などがこられるなど心配していたのですが、その後はまた復活されて診察を続けておられました。
しかし、今年に入ってからというもの、傍目にもわかるほど弱られた様子で、お若くもないこともあり、これはいつまでもつかという危惧が頭をよぎっていたのは正直なところでした。

この医院はある特殊な治療をしてくれるということもあって、自宅から十数キロ離れた不便な場所ではあるものの、面倒くさがり屋のマロニエ君にしては、珍しくこれだけは熱心に通っていた一時期もありました。

さて、最近のように寒さが日増しに厳しくなってくるような季節の変わり目は喘息持ちにとってはキツイ時期で、このところちょっとまたいろいろと不都合が出てきはじめていたので、吸入薬などの薬のひと揃いを準備しておくべく電話をしたところ、現在また先生が入院されているので診察は出来ず、薬のみ出しますということになりました。

夕方、病院に到着して中に入ってみると、なるほど受付以外はもう人影もなく真っ暗で、すでにマロニエ君のぶんの薬は窓口に準備されていました。
保険証を出して支払いをしようとすると、なんと今回はそれには及ばないと言われました。
驚いてなぜかと聞いてみると、先生曰く、自分が診察ができず患者さんに迷惑をかけているのだから薬代はもらわない、また普通は診察なしで薬は出さないのだけれども、呼吸器の場合、患者さんが薬が必要なときにそれが手に入らないと皆さんが困られるので、長くかかりつけた患者さんに限って今回は敢えてそのような処置をしているとのことでした。

今回はとくに薬の量が多く、しかも吸入薬はけっこう高額なので、それをすんなりいただくのはどんなものかと思いましたが、「皆さんにそうしていますから、ご心配なく」と何度も言われて受け取ることになりました。
さらに驚いたことには、今後のために別の病院を紹介するとのことで、呼吸器専門の病院の手書きのリストのコピーが添えられていて、どこに行くか決まったときには紹介の電話(紹介状が書けない状態なので)をするということでした。

そんなものまで添えられているということは、もうここの先生が診察に復帰されることがないことは明らかで、「そんなにお悪いのですか?」と聞くと、病院の事務の女性はしずかに頷きました。
気が付くと、いつも3〜4人は必ずいた看護士さんもまったくいなくて院内はしんと静まりかえっています。

お歳でしたが、とても可笑しみがあって可愛いところのある先生でしたが、なんだかお別れの品をいただいたようで、高い薬代を払わなくて済んだかわりに、なんだかすっかり打ち沈んだ気分で帰りました。
期間から換算してもたぶん100回近くは行ったはずで、それがもう二度とお会いすることがないと思うのは、なんともやるせない気分でした。

そして、今どきの儲け主義の医師と違い、最後までこのように患者の心配をしてせめてものけじめをつけられる姿勢にもいたく感銘をうけました。
なんとなく、がっくりしてしまい、病院のリストにはまだ目を通していません。
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キーレスエントリー

修理のためにずいぶんと長期入院していた愛車が最近やっと戻ってきました。

ほとんど4ヶ月ぶりの帰還で、それほど時間がかかったのは必要なパーツが手に入らないため、海外に発注をかけたり、やっと届いた部品が間違っていたり、どうしようもないものはパーツそのものを部分修理したりと、本来なら大したことではないようなことなのですが、こういうちょっとしたことですっかり無駄な時間を取られてしまうのです。

この車は、あるフランス車で、ピアノに喩えるならまさにプレイエルであることは、折に触れて書いてきたように思います。
新車で購入してから、もう丸15年になりますが、非常に大切にしていることもあってとても元気で、消耗品さえ供給されればまだまだ当分は乗れそうな状態です。

さて、この車には今は少数派かもしれませんが、普通のエンジンキーがついていて、ドアロックの開閉だけは赤外線によるリモコンが、キーの握りの部分に装着されています。

しかし、今の趨勢からいうとこの旧式のキーは次第に姿を消しつつあるようです。
マロニエ君の普段の足代わりの日本車もそうですが、いわゆる「キーレスエントリー」というシステムが主流となり、キーに代わる小さな器具を持って近づくだけで車がそれを認識し、ボタンや取っ手に触れるとロックが開閉するというものです。
要は車の乗り降りやエンジン始動に際して、敢えてキーが要らない「キーレス」になっているのは多くの方もご存じのことでしょう。

これなら雨の日に傘や荷物を持った手で敢えてキーを取り出す必要もないし、カバンなどに入れておけばいちいちズボンのポケットをゴソゴソさせる必要もないというものです。

理論的にはそのはずなんですが、マロニエ君は一見この便利なシステムが、実はそれほど便利という実感がなく、すでに5年ぐらいこの機能を使っていますが、いまだに一抹の違和感が拭えません。
車から降りる際は、このリモコンを入れたカバンは常に外に持って出なければロックができない、車に忘れ物をしてもカバンがないとドアが開かない、などなど逆の不便もあるわけです。

そして、久しぶりに戻ってきた上記の車に乗ってみると、やはり従来のキーというものがあって、それを手にしながら乗り込んでハンドルの根元に突き刺し、いざそれを捻ってエンジンを始動するという一連の操作が、なんともしっくりくる心地よいものだということを実感したわけでした。

「それはアナタが旧い世代の人間だから」と言われるかもしれませんが、どんなに新しいものでも、使い慣れないものでも、本当に優れた便利なものなら、時間と共に昔のスタイルを追い越していくもので、マロニエ君の身の回りも大半はそういうものばかりです。
しかし、人の直感にどこか逆らうものからは決して真の快適は得られません。

車のキーも、それを出し入れして、エンジンをかけて出発進行するという一連の動作には、どこか情緒的な安心感やメリハリにも繋がっているようで、その証拠に、とても心地よくホッとさせられるのです。

それは体の動作と脳内の認識が有機的に美しく結びついているような気がしますし、なんでもかんでも便利だからといってボタン操作だけで済まされたのでは、人の気分を活性させる要素が欠落しているようにも思うのです。

車にとってのキーの存在というのは、人と車を結びつける鎹の役目も負っているようで、車というものをさりげなく象徴するものであるということにあらためて気が付きました。
とはいっても車を100%移動の道具としてのみ使う人にはそういう情緒は無用かもしれませんが、運転の楽しさとかエモーショナルな何かを感じている人にとっては、やはりキーというちっちゃな実体があったほうが心情的にも収まりがいいようです。

これは、どうしても紙の本で読書をしたいという心理と共通しているのかもしれません。
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タイルの怪

我が家の風呂場(洗い場)の床は、滑り止め用の、目の荒いタイルが貼られているのですが、このところいやにこれが滑りやすくなり、家庭内で起こる事故では風呂場が一番危険などという話も聞くと、困ったことになったと思いつつ、ひじょうに注意しながら過ごしていました。

家族はもちろん、マロニエ君自身だって、硬いタイルの上で転倒などすれば、へたをすると笑い事では済まないことになるでしょう。
一度はその対策として、何か良い滑り止め剤のようなものはないかとホームセンターに言って尋ねてみたことがありますが、該当する商品はない由で、マットや簀の子を敷く以外に目覚ましい効果を上げるような方法はありませんでした。

というわけで、家人ともよくよく気をつけるように注意の上にも注意するしかなく、やむなくそのままの状態で過ごしてましたが、マットを外すと滑りがいよいよ甚だしくなっているようで、危険なことこの上なく、これはアクシデントが起こってからでは遅いので、なんとかしなくてはというのがこのところの悩みの種でした。

それにしても滑り止め用タイルにもかかわらず、なぜこんなことになってしまったのか。
使っているうちにすり減って摩擦係数が低下しているのかとも思いましたが、それにしてもここまで滑りやすいのは尋常ではないという気配で、氷の上といえばいささか大げさですが、それに近いものを感じていました。

そんな折も折、風呂掃除をしている家人がマロニエ君を呼びに部屋に戻ってきました。
なんだかお風呂の床にヘンなものがある…というのです。

急いで行ってみると、そこにはタイル用の掃除器具で掻き集められた、不気味な半透明のゼリー状のようなものがたしかにありました。
この正体不明の物質が何であるかがわからず、天井からなにからずいぶん見てみたとのことですが、ついにわからずマロニエ君を呼びに来たということでした。

たしかに、普通にお風呂を使っている限りでは、あるはずのないものでした。
それからあちこちの捜索が始まりましたが、なかなか突き止められず、あきらめかけたとき「もしや…」という思いが頭をよぎり、ためしにリンスの容器を見ていると、なんとその下部がちいさくヒビ割れていて、そこからリンスが少しずつ漏れ出ていることがわかったのです。

最近は詰め替え用を補充するばかりで、容器自体はかなり古くなっていたこともあったようです。
それで、床の滑りはこれの仕業だということがわかりました。

まあ、そりゃあそうでしょう!
なにしろリンスなのですから、それがいつも流れ出ていれば床が滑るのは当然です。

その後は、すこしおさまった気はするものの、まだまだ安全とはいきません。
よほど効果の高いリンスだったのか、少々のことでは動じないほどしっとりツルツルで、これをギシギシガサガサにするにはどうしたものかと考え込んでいるところです。
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H&M vs UNIQLO

マロニエ君は着るものにあまり凝るほうではありませんし、ましてや高級ブランド品などには興味もありません。
もちろん普通に身だしなみは整えておきたいと思いますが、これに高いお金をかける気などはなく、ユニクロなども以前はよく利用していたくちでした。
「以前は」というのは、近ごろのユニクロはどこか変質してしまったようで、以前のような輝きというか魅力がなくなってしまった印象があります。
だいたい秋になると、この業界は商品もいろいろ増えて多彩になり、店内は賑やかになるものですが、近年は全体的な種類もずいぶん整理されてしまったようだし、定番商品でも生地が確実に薄くペラペラになり、あきらかにコストダウンしているのがわかります。

この会社、海外進出など企業としての肥大化にはえらくご執心のようで、どこそこに最大級の店舗がオープンしたのどうのという話題は盛んに報じられますが、商売の基本となる肝心の魅力ある商品作りとか、良いモノを安く提供するという従来のガッツは多少失ってしまったような感じで、このところすっかり関心を失ってしまっていました。
たまに店をのぞいても、要するにこれという欲しいモノがないわけです。

そこで、ちかごろ話題のH&MとかZARAとかいう、同種の海外の低価格ブランドとはどんなものか、いっぺん偵察に行ってみようと思い立ちました。

そこで、こういう海外ブランドが集中する新エリアに行ってみましたが、土日の混雑を避けて、あえて平日の夕方に行ってみました。

結果からいうと、まったく期待に反するもので、ガッカリでした。
最初に入ったのがH&Mでしたが、店内に入ってパッと見渡したときに、まず全体に雑な感じを受けましたが、こういう一瞬の印象というのはピアノ選びでもそうですが、けっきょく一番確かな直感なんですね。
この「雑」という第一印象は、やはり間違っていませんでしたね。

どれも手触りが粗く、ごわごわチクチクするようなものばかりだし、デザイン的にもユニクロとは違うヨーロッパ的な何かがあるのかと思っていたら、どれもこれも大味大雑把なだけで、ほとんどなんの魅力を感じません。
商品もさっき段ボールから引っぱりだしただけといったような、シワがあったり型くずれしていたりで、縫製もかなり粗い仕事だと思います。
だいいち素材が見るからに低級品で、さすがにこれにはイヤになりました。

しかも値段は高くはないとは言っても、ユニクロよりは完全にワンランク高いわけで、そうなるとマロニエ君にとっては何の説得力もない。他のZARAとか、あとは名前も忘れましたが、他のブランドも見てみましたが大同小異で、どこもやたらとひとつの店舗が大きいばかりで、欲しいものもなく、歩き回るだけでも疲れました。

同じ施設内にユニクロもあるので試しに入ってみたら、なんと、そこにはまだしも一定のクオリティや美しさがあって、これはどういうことか?と思いました。
現在のコストダウン状態をもってしても、こっちのほうがいいと感じたのは事実です。
とくに外国の安物というのは、独特の容赦ない厳しさが露わで、「貧乏人はこれでいいんだ!」と暗に言われているようで、しだいにテンションが下がっていくのが自分でもわかります。
その点はやはりユニクロは日本のものなので、安くても明るいおもてなし感があり、商品がきれいで、繊細で、清潔で、心が落ち着きますね。

果たしてネズミの嫁入りではありませんが、他流試合後の消去法の結果、やっぱりユニクロのほうがよかったんだと思いました。
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博多駅地下駐車場

今年の春、新装成った博多駅では、大半が建て替えられ、その商業エリアは大きく増強されて大変な話題と賑わいを見せたところですが、その新駅ビルがもたらす人の流れは、多少は落ち着いたもののいまだに続いているようです。

ただしマロニエ君から見ると、あれだけ大がかりな駅&商業エリアの拡充・オープンに対して、駐車場がまったく不充分と言わざるを得ず、駅を駅として使う人にはそれでいいかもしれませんが、電車やバス以外で、つまりは車で博多駅に行く側にしてみれば、この駅に相応しい駐車場設備がないのが大いなる疑問でした。

やむなく新幹線のターミナル上にある古い屋上駐車場や、近隣の民間の時間貸しに頼らざるを得ず、駅ターミナルへダイレクトにアクセスできるような、中心となるべき大駐車場がないというのは、現代の新駅の構想として一体どういう考えなのかと思っていまいます。

以前ウワサでは地下駐車場が出来ると聞いていましたが、ついにそういうものは見あたらないまま春の開業を迎えたわけでした。後から聞いた話では、地下駐車場は建造中で完成が遅れる由で、そこに少しばかりの望みを繋いでいました。

その地下駐車場が半年遅れでこの秋に完成し、ずいぶん待たされたと思いつつ先日行ってみたのですが、なんとも気の抜けるような規模の小さな駐車場でしかなく、しかもはじめの1時間が500円、以降30分ごとに250円と、天神よりも料金が高いのには驚かされました。

おまけに頭上の商業施設とのサービス連携が一切なく、どれだけ飲み食いや買い物をしようとも、委細構わず額面通りの駐車代が要求されるのは二重の驚きでした。

あとから思い返せば、そういう理由からというのが了解できましたが、一番便利なはずのこの駐車場はしかしガラ空きだったのは、はじめは大いに意外な気がしたものです。

それと少々煩わしく感じたのは、駐車場の規模に対して、異様に係員の数が多く、赤い懐中電灯みたいな棒を手に持った男性がそこここに立って、いちいちあっちだこっちだとその棒を振りまわしてガチガチに誘導してくることでした。
普通、地下駐車場などは表示された標識を見ながら進んで駐車するのが普通のことなのに、まるで飲酒運転の検問のように制服を着た大勢の人達から次々に手招きをされるのは、なんだか異様な感じでした。

いまどき一番高いのは人件費で、ファミレスなどはこれをセーブするために、そこで働く人は気の毒なほど少ない人数で広い店を担当させられるようなご時世ですが、この駐車場ときたら、たったあれっぽっちのサイズにあんなにたくさんの誘導員がいるのは、よほど別に何かの理由があるのかと思われます。

さらに納得がいかなかったのは、帰りに車に戻ろうとして場内を歩き出したとたん、数人の係員が駈け寄ってきて、壁際の「歩道」を歩くように、頭を下げながらもほとんど強制的にそうさせる点でした。
そこはいちおうタクシーの乗り場を兼ねてはいたものの、車はほとんどいなくてあたりは深閑としているにもかかわらず、自分の車まで自由に歩くこともできないのは一体何なんなのか!?と思いましたね。

テロの警戒?
…はてさて、まるでそこには原子力施設でもあるかのごとき厳重さだったのは、今だに首を傾げます。
要するにどの角度から見ても快適な施設ではないことは確かで、よほどのことでもない限り、たぶんもう行くことはないと思いますが。
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鈍感は病気

ちょっと思いがけない話を聞いて、なるほど!と思いました。

ある人が人間の神経のありようを書いた本(どんなものか知りませんが)を読んでいると、俗に言う「鈍感な人」というのは、多少は性格的なものもあるにしても、専門的に見れば「病気」なのだそうです。

あまりにも神経過敏で、いつも気分がピリピリ張りつめているのも、これはこれで一種の病気でいけませんが、その逆も然りで、周りに迷惑とストレスを撒き散らします。
何事も過不足なくあらねばならないというわけでしょう。
神経過敏の真逆に位置する鈍感は、本来あるべき神経がスポッと抜け落ちているのだそうで、これは手の打ちようがない。

どちらかというと神経の細いほうのマロニエ君としては、一線を越えた鈍感な人は、眼前に立ちはだかる分厚い壁のように圧迫を感じて苦手です。
そしてこの世に「感じないということほど強いものはない」と思うに至っていますが、本当にそれは最高に無敵です。なんといっても本人は至って平穏で、かつそれがもっとも楽で自然な状態なんですから。

裏を返せば「感じる」ということは、これほど弱くて疲れるものもないわけです。

この鈍感な中にも比較的無害なタイプもあるとは思いますが、経験的に大半は有害です。
日常のなんでもない場面で、この鈍感さの仕業によってエッ?と思うようなことを次々に言ったりします。はじめはイヤミでも言われているのかと思いましたが、どう見てもその様子にこれという意志や悪意はなく、ごく自然に無邪気に言っていることがわかり、安心するような、よけい疲れるような…。

なにしろ本人に悪意や自覚がないもんだから、ずんずん無遠慮に踏み込んでくるし、そこには用心もためらいもブレーキも効かない。そればかりか、どうかするとむしろ大真面目だったりする。
はじめは、よほど田舎の出だろうかとも疑ったりしますが、出身地などをさりげなく聞いてみてもさにあらずで、…やはりただの性格だろうかと思うしかありません。
どうも、いろんな折にあれこれと軋轢を生んでいるらしく、そりゃあそうだろう!と思いますが、それを言うわけにもいきません。

こういう人達は、普通の社会人なら自然的にコントロールするようなことでも、それができないため、すぐに言動に地が出てしまいます。本人は普通の振る舞いのつもりでも、相手はかなりストレスを受けたりする。
場合によっては、馬鹿話や冗談さえも通じず、まったくちがうニュアンスに捉えたりするため、呆然とすることしばしばで、こういう人の前ではうかうかおもしろい会話もできません。

いらいそのタイプの人と接触するときは、こちらが注意するべく身構えるようになりましたが、それがつまり病気なんだと思うと、一気に納得したというか、少し気が楽になったような感じもします。
必要な神経の一部が欠落欠損しているということになれば、それをひとつのハンディと見て接することもできるかもしれません。

ただし、精神領域の難しいところは、表向きはごく普通の健康な人ですから、そういう人にハンディの認識を持つということは理屈で言うほど簡単ではないのです。
言葉はそれ自体が意味を持ち、人はその言葉に反応するから、思わずその意味で受け止めてしまうわけで、それを度外視して、受け止める側の内面で処理をするのは、現実は難しいだろうと思います。

しかし、それでも「病気」だという認識は、ムッと来たときのひとつの自分なりの逃げ道が出来たようで、ないよりマシかとは思います。
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秋の不気味

今年もすっかり肌寒さを感じる季節になり、少なくともあの暑苦しい夏とはきれいにおさらばした観がありますが、まだまだ庭には雑草が性懲りもなく生えてくるのはなんなのかと思います。

それもこの時期には似つかわしくない、いかにも若々しい新緑のような色をした雑草が、今ごろ思い出したように着実に生え続けています。
そのうちまた除草剤を撒けばいいやぐらいに思って油断していると、さすがに夏場の勢いはないものの、日に日に確実に伸びてくるのがわかり、だんだんこちらも焦ってきます。

それと、驚くのはもう11月となりこれほど気温は下がっているのに、庭に出るとまだ蚊がぶんぶんとまとわりついて、いまさら季節はずれにパチンパチンとやらなくてはいけないのは嫌になります。

思い起こせば「放射能の影響で蚊が激減している…」なんて話も耳にした今年の夏でしたし、雀の声がさっぱり聞こえないのはどうしたわけか、…なにかの悪い予兆では?などという話もまことしやかに囁かれたものですが、少なくともマロニエ君の生活圏ではまったく逆の状態が続いています。

雀も街路樹などにはたくさんいて、夕刻などはその鳴き声がいささかうるさいぐらいです。

雑草退治は、友人に手伝ってもらって除草剤散布を決行したところ、裏のマンションとの境目に不気味な空白地帯があるのですが、友人はついでだからといってそこにも除草剤を撒きに潜入していきました。
マロニエ君などは薄気味悪くてとてもそこまでする気はありませんでした。

しばらくして戻ってきた友人の体をみてびっくり仰天!
なんなのか種類は知りませんが草木の種みたいなものをセーターやズボンにびっしりとくっつけて戻ってきたのです。
見たとたん、その気持ち悪さに血の気が引きました。
ブツブツ恐怖症と同様のグロテスク感があって、思わず鳥肌がたちましたね。

すぐにそれを取り払ってやろうとしますが、ひとつひとつが目には見えない小さなトゲみたいなものでくっついているようで、指先で少々払ったぐらいではまったくひとつも外れません。
結局時間をかけてひとつづつ取っていくしかありませんでした。

種類もいくつかあって、2センチほどのか細い枝みたいなものがハリネズミのように無数にセーターに突き刺さっているようなものから、もっと小さくて虫のようなものが機関銃で撃ったように連続してびっしりとくっついていたりしていて、突然、気分はホラー映画状態になりました。
気持ちの悪いことこの上ない中、全部取るのはかなりの時間を要しましたが、いやはやあれはすごいもんですね。

なんというか…神経に訴えてくるような生理的嫌悪感がありました。
もともとマロニエ君は軽度のブツブツ恐怖症でもあるので、その面が大いに刺激を受けたようです。
思い出すだけでもゾクゾクと身震いしながらキーボードを打っています。

植物は人の生活には欠くべからざるものですが、野生の分野では、一転して不気味な面もいろいろともっていることも確かなようです。
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