YouTubeサマサマ-2

「飛行機事故は連続する」といったジンクスがあようで、そんな大げさなものじゃないけれど、物事って往々にしてそういうきらいがあるようです。

CDの復活から、わずか2日後のこと。
いつも使っている乾燥機から、ギュルギュルという聞き慣れない、あきらかに普通ではない音が出はじめるや、安全装置があるのか、ほどなくストンと自動停止してしまいました。
洗濯物の入れ過ぎかと思い半分ほどの量に減らしてもダメ、最後はカラにしても症状はまったく変わらず、すぐに自動停止してしまいます。
何事か?と、いろいろ見ていると乾燥機の下部に貼られた注意書きに「火災の恐れが…」という文言が目に入り、ビビってそれ以上動かすのをやめました。

乾燥機はただでさえ高温になるので、万一を考えて、留守中など人がいないときは回さないようにしています。
それにしても、乾燥機が使えないとなると、我が家では洗濯物を外に干す習慣がないので「これは困ったことになったな…」と思いました。

YouTubeのおかげでCD修理が自分でできたことに喜んでいたタイミングでもあり、同様に乾燥機の型番を入れて検索すると、やはり該当の修理動画というのがあり、ありがたいことだと思いました。
背面パネルというのがあって、それを外すと中のファンがむきだしになるようで、その中央にあるプラスチックワッシャーの破断と、ファンを駆動する5mm径丸ベルトの交換が主な修理箇所というのがわかり、Amazonとヤフオクでさっそく注文。
さらには「必ず必要になります」というアドバイスに従いホームセンターで機械用グリスというのを買って来ました。

パーツの到着までに数日かかりましたが、その間、洗濯機にある「乾燥機能」で乗り切るしかないようですが、実はこれまで一度も使ったことがなくて初めて使いましたが、これがもう最悪のシロモノでした。
乾くことは乾くけど時間はかかるし、乾燥機のようにクルクル回さないのか、シワくちゃのままで靴下やタオル等ならまだしも、それ以外のものでは使えたものじゃなく、乾燥機のふっくら仕上げとは雲泥の差です。
だいたい、多機能というのはろくなことはないし、洗濯と乾燥というの「濡らす」と「乾かす」はまるで逆で、これを一台で済ませようというのがどだい無理だと思いますし、機械通に言わせると、機能はできるだけシンプルにしたほうが性能もよく故障も少なく、万一の場合も修理がしやすい。多機能タイプはひとつひとつの機能は中途半端で妥協的、おまけに機能の一つでも壊れると修理や買い替えの対象となって、一見便利なようで実はいいことはないと言います。

ようやく部品が揃い、スタンドから乾燥機本体を二人がかりで床におろして作業を始めますが、数年分のホコリ等を除去すべく、ハンディクリーナーを横にスタンバイさせての作業です。
ずいぶんな数のネジを片っ端から緩めてようやく背面パネルを本体から取り外し、その5mm径丸ベルトをプーリーから外すと、新品にくらべてずいぶん伸びており、これがトラブルの原因だったようです。
プラスチックワッシャーは対策されたのか、金属製に変わっており問題ないようでした。

また、このベルトが回転中、他に干渉しないよう当たる分厚いフェルトも、ピアノの弦溝のように擦り減って凹んでおり、当たる場所を変えて付け直すなどして、いよいよ電源を入れて試運転してみると、問題なく動き出しました。
仕上げに掃除&グリスアップなどを可能な限りやって、背面パネルを取り付けて再度試運転したら、問題のギュルギュル音は消え去って、まったく正常に動き出しました。

こちらは、ベルトやグリスなど合計でも2000円未満。
この歳まで機械ものの修理などやったことがなかったので、立て続けに2つの修理を終えたことは自分としては感無量で、おもわず「為せば成る為さねばならぬ何事も…」という言葉が何度も去来しました。

このふたつを、普通に買い替えていたら、どう安く見積もっても10万円を軽くオーバーする出費となっていたのは間違いなく、修理依頼したとしても、煩わしい上に、買い替えと悩むぐらいの修理代となったでしょうから、どの角度から見てもえらく得をした気分でした。
のみならず、これまで壊れたということでしぶしぶ買い換えていた家電類は、今回のように、ほとんどの部分はまだ充分使える状態であるにもかかわらず、ほんの微々たる一部の不具合によって丸ごと打ち捨てられていたのかと思うと、いかに現代が経済中心の社会とはいえ、無駄にもほどがあるということを身をもって感じました。

これを書きながら、ハッともう一つ修理していたことを思い出しました。
2年ほど前、テレビのBDレコーダーが使えなくなり新品に買い換えたものの、症状は、背後にある小さな扇風機みたいなものからジージーと異音がしはじめて、やがて録画も再生もできなくなったので、これが原因か?とネットで見てみたら、その小さな「扇風機」らしきものが補修用としてヤフオクにズラリと並んでおり、平均して2000円ほどでした。
新しいBDレコーダーは買ったことでもあり、ダメモトでこのパーツを買って、やはり分解してこれを付け替えたところウソのように元通りになり、レコーダーが丸々一台浮いた形になったので、こちらは自室で使うようになりました。
故障によって録り溜めしていた多くの番組が、一気に失われて悲痛な気分になっていましたが、これもすべて蘇りました。
けっきょく一台増えたことになり、今も元気に動いてくれています。

こういうことを経験してみると、資源を無駄にしてでもモノが売れてほしいのか、叫ばれる地球環境が大事なのか、もうわけがわかりません。
みなさんも家電が故障したら、まずはYouTubeで修理方法を見てみることをおすすめします。
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YouTubeサマサマ

ピアノネタではないのですが、メカがまるでダメのマロニエ君にとっては極めて異例なことながら、CDプレーヤーの修理のようなことをやってみたので、ちょっとそのお話。

某所で使っているヤマハのアンプ内蔵式CDコンポ。
購入して15年以上になるもので、このところCDの読み込みが不安定になり、ついには「動かなくなりました」ということ。
試してみると、何度やってもウンウン言いながらディスクを認識せず、あきらかに故障でした。

決して高級品ではないけれど、中ぐらいのものだったので、同等品に買い換えるにはそれなりの出費となるし(すでにヤマハはもうこの手は作っていないらしい)、個人的に使うものならあれこれの代替案もあるものの、これを使っている場所はそうもいかないので、どうしてもこのような普通のものでないと困ります。

まずはメーカーに修理依頼することを考えましたが、サービス受付の電話番号をしらべたり、修理依頼にも直ぐにじは人と話ができない疲れる電話システムや都合のすり合わせなど、要するに手間と時間のかか手順が待っているし、おまけに結果如何にかかわらず出張費用などが発生したり、物を送らないといけなかったり、それらを考えただけでもウンザリ。
しかも年代物となるとさんざん待たされたあげく「パーツがなく修理できません」とか、もしくは新品に買い換えたほうがいいような高額な修理見積もりとなる可能性もあり、それを思うと気が進みませんでした。

ならばメーカーではなく、オーディオ専門店に修理依頼してはどうかと思いネットで調べてみると、いくつか受け付けてくれそうなショップはあるにはあるものの、これがメーカー以上に怪しげな雰囲気。
とりわけ目についたのは、専門店ということで、やたら高そうな機器の写真ばかりがズラリだったり。

ダメモトで一件だけ電話してみると、いかにも専門家ぶったズケズケした話し方で、たたみかけるように「まず、型番を教えてください」と言った具合で、しかも修理代金は1万円からのスタートで、故障内容によってだいたい数万になることもあります!と、やや圧迫的な響きがあって、予めそれぐらいかかる覚悟をしておくように…といわんばかりの態度でした。
その話し方だけでも御免被りたいし、最低料金で済むことはまずないだろうと思われ、それでも修理依頼する気にはなれませんでした。

その上、「これってクリーナー用のディスクは試されましたぁ?」「いいえ」「まず、それやってくだい!それで治ることもありますから、まずそれやってからですね」と、やることをやなさい。それでダメだった時に修理のことを考えるのが順序だよと言わんばかりで、まったく先方のペースで…ここはボツ。

そこでアッと思いついたのがYouTubeで、機器の型番を入れて「CDを読み込まない」という文言で検索すると、さまざまな修理の様子がアップされており、しかもわかったことは、多くの場合、CD情報を読み込むピックアップレンズというのを、ただ磨くだけで回復するというケースが多数ありました。
それでダメな場合には、レンズそのものを交換するなど、次の手段になるようでした。

というわけで、何度か動画を見て、慣れないドライバーを引っ張りだして、おそるおそる分解してみることに。
カバーが外れると、中は思ったより空洞で、底にある基盤はホコリだらけ。
問題のピックアップレンズには上部のカバーなどがじゃまで、なかなかそこへ到達できないし、それ以上分解したら元に戻す自信がないので、カバーの横から綿棒を突っ込んでちょこちょこ動かしていたら、何度かやっているうち薄茶色のホコリの塊のようなものが先端に引っかかってきてびっくり。
さらにレンズのあたりを繰り返し綿棒で動かしていると、やがて綿棒に汚れがつかないようになり、そこで試しに電源を入れてCDを挿入してみると、これまでの不調はウソみたいにスムーズになり、やすらかにディスクを認識、何事もなかったように再生するようになりました。

これだけで修理完了とはさすがに思いませんが、さしあたり自分でできるのはこれぐらいと思って、バラしたパーツを注意深く元に戻してスピーカーにつなぐと、問題なくディスクは再生され、左右のスピーカーから当たり前に音が出て「ヤッター!」となりました。
最低料金1万円どころか、使ったのはドライバーと綿棒の4〜5本だけ。

これまでなら、なんとなく寿命だろうと考えて買い替えになったところですが、故障の原因は、さしあたり長年の使用でたまったレンズの汚れだけで、それさえ取り除けばまだしばらくは使えそうでした。
こんな微々たることで危うく新しいセットを購入するなど冗談じゃないし、こんな些細な事から世の中の裏側を見てしまったようです。
まさにYouTubeサマサマでした。
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シック

ブックオフでたまたま目について面白そうだなと思い、『パリのエレガンス ルールブック』という一冊を読んでいるところです。
著者はジェヌヴィエーヴ・アントワーヌ・ダリオーというニナリッチのオートクチュールサロンの支配人を務めた、服飾のエキスパートです。

内容は、パリのファッションのさまざまな約束事を平易な文体で書かれた本ですが、そこにはファッションだけではない、この花の都に流れる高度な文化やそこに暮らす人達の精神や価値観が垣間見られるもので、非常に面白いし、共感できることが多く、いちいち膝を打ち、ときにへぇと驚きながら読んでいるところです。

例えば、高価だという理由だけで、ドレッシーなアンサンブルにワニ革のハンドバッグを持っている女性を見るとがっかりするとあり、値段の高い爬虫類は、ほんらいスポーツや旅行の時に身につけるものであること。
つまりこの手の素材は遊びの時のくだけたものであって、午後5時を過ぎたら使わないものというような、しごく真っ当な(しかし多くの人が知らない)ことが書かれています。

読みながら、むかし母が嘆息していたことを思い出しました。
今ほど、きもの文化がまだ廃れていない時代、いざというときには女性は和服を着る方もまだ少しはいらっしゃいましたが、中年以上の女性の間で、なぜか大島紬が高級品の代表のようにもてはやされ、奮発してそれを買ったはいいけれど、そのお値段故にこれがよそ行きになってしまい、ほんらい染の着物を着るべき場面に、大島を意気込んで着ていく人が少なくないのは、なんとも片腹痛いとこぼしていました。

どんなに高価だろうと、紬というのはほんらい普段着もしくはその延長であり、それをあらたまった場面に着ていくなんぞ無知をさらすようなものというわけです。
普段にさり気なく着るからこその贅沢品であり、ブランド物の高価なジーンズをフォーマルな場に履いていくようなものでしょう。

決まり事というのは、それ自体が文化であり、それをよくわかった人がしっかりした土台の上に程よく崩しを入れるのは構いませんが、まったく無知で、値段だけに頼って間違ったことをやらかしてしまうのは滑稽ですね。

ほかにも、街中で白いバッグや靴を用いることの違和感、アクセサリーをつけすぎてクリスマスツリーのようになっている人、白髪を嫌がって毛染めしたものの、年齢を重ねた顔を真っ黒い髪が縁取ることのおかしさなど、尤もなことが次々に書かれており、いちいち取り上げているとキリがありません。

さて、パリに欠かせない概念として「シック」というのがあります。
シックとは、さりげない優雅さに欠くことのできない要素で、エレガンスよりも少々知性が要求されるもの、とあります。
シックを理解できるのは、すでにある程度の文化と教養が身についている人達で、生まれつき備わっている場合もあり、神の恵みで「美貌や財産とは関係がない」というようなことがはっきり書かれています。

おもしろいのは、そのわかりやすくかつ痛烈な例で、思わず声を上げて笑ってしまいました。

「ケネディ一家はシックですが、トルーマン一家はシックではありません。」
「ダイアナ元皇太子妃はシックですが、アン王女はシックではありません。」
「マレーネ・ディートリッヒやグレタ・ガルボはシックですが、リタ・ヘイワースやエイザベス・テイラーは、その美貌にもかかわらずシックではありません。」
とあり、まさに膝を打つようです。

これに倣っていうなら、マロニエ君が音楽でまず思う浮かぶのは、
「ショパンはシックですが、リストはシックではありません。」
「ブラームスはシックですが、ドヴォルザークはシックではありません。」
「スタインウェイやファツィオリはシックですが、ヤマハやカワイはシックではありません。」
「務川慧悟はシックですが、反田恭平はシックではありません。」

〜この調子で言い出すと際限なくありますが、ま、やめておきます。
とくに日本人ピアニストでは、シックといえる人を探すほうが難しいことに愕然としました。

いや、ピアニストにかぎらず、私から見るとあの小澤征爾でさえ、個人的にどうしてもシックとは思えません。
とりわけ近年の日本の音楽家は、才能や実力という点ではもはや相当なものをもっているにもかかわらず、多くがこのシックというセンス、もっというなら美や洗練に対する絶対音感が抜け落ちているから、それを技巧その他の「能力」で補填しているのだろうと思います。

これは、ほかのジャンルを考えても、残念なほど符合します。
それでいうと、自分で見たわけではむろんないけれど、少なくとも明治ぐらいまでの日本人は、いまよりよほどシックだったんじゃないかという気がしてなりません。
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悪魔

このところ、コロナが吹っ飛ぶほどのニュースといえば、いうまでもなくロシア軍によるウクライナ侵攻ですね。
現在進行形のこのニュースは、私達の常識をはるかに飛び越えるもので、まさに悪魔の所業としかいいようがありません。

どれだけの人々が地獄の苦しみを味わおうが、歴史ある街を破壊しようがお構いなしで、一切譲歩しないその姿勢は、人間とはここまで残虐になれるものかという究極のケースを見せられる思いです。
同時代に生きる者として目を背けてはいけないのでしょうけれど、ニュースを見るのも体力が要り、しんどくて、ときどき消してしまいます。

適切な言葉はみつからないけれど、シンプルに言っても胸が悪くなり、猛烈に気分が悪い。

もちろん、現地の人達は気分が悪いどころではなく、自分達の国が大国の泥靴で踏み荒らされ、街は武力で破壊され、命の危険にさらされているわけですが。

武力で攻め込んだ上に、これでもかこれでもかと過酷な要求を突き付けながら、インフラを破壊し、市井の人々を容赦なく苦しめ殺害も厭わぬやり方は、凶悪犯罪どころではない異次元の歴史的な非道行為。
プの言い分は、ウクライナ政府がナチでありロシア人を迫害から救済しているのだそうで笑止千万、もう自分が何を言って何をやっているかもわかっていないのか。

ロシアでも反戦デモなどが頻発しているようですが、少しでも批判や反戦を声にしようものなら、容赦なく拘束される。
マスコミも規制の前では報道をやめざるを得ない。
外国企業はなだれを打ってロシアでの業務を取りやめているし、株は暴落ですでに紙切れ同然、通貨も下落し銀行も破綻、国際的な信用どころではないというのに、なにをもってそこまで残虐非道なことをするのか、これは後々必ず知りたいこと。

そんな中で唯一輝くのは、戦力や物量では圧倒的に劣るウクライナ側の勇猛果敢な戦いっぷりで、あのロシア軍を相手に予想に反して望外の抵抗を示せていること。
欧米は武器や物資の援助のみならず、グリーンベレーなどの旧軍人エリートによる戦略家などを派遣してるようで、ウクライナ軍の善戦ぶりにプもかなりイラついているらしいのはせめてもの救い。
それはまったく結構なことだけれど、そのぶん現場では若いロシア兵士が落命していることも事実。
さらに、その焦り故にまさかの核兵器使用につながらないよう祈るのみ。

いすれにしろ、ウクライナは言うに及ばず、ロシアの国民も大変な被害者であることは間違いありません。
ウクライナが片付けば、プはバルト三国にまで手を広げるという見立てもあり、まずは世界の知恵と勇気を総動員して、なんとかこの狂気を食い止めてほしいものです。
そうでなくては、この惨禍は地球規模に波及して、あんな人間ひとりのために、この先世界はどうなるのか…。

ここでけじめをつけないと、ハイ、次は中国による台湾および東シナ海侵攻なんてことになったら…。

そんな中、YouTubeで驚愕しました。
なんと、ロシア出身の天才ピアニスト、キーシンがこの蛮行を痛烈に非難。
最後は「血に飢えた犯罪者」と結んでいます。

https://www.youtube.com/watch?v=gZx8nLr51JA
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駐車の向き

前回書ききれなかったことで、駐車場でも「えっ?」というようなことがあったで、追記を。
今回の接種会場であるクルーズセンターは、文字通りクルーズ船寄港を受け入れるための施設なので、大きな駐車場の白線の区割りは観光バス用のサイズになっており、普通車には長さも幅もてんで合いません。

駐車場にあてられたのは、要は大型送迎バスの待機場所のようなもので、だから普通車にとっては地面がアスファルトというだけの、ただの広い空き地のようなもの。
GoogleMapの航空写真で確認すると、大型バスが50台くらい止められる広さです。

すでに止まっているクルマ数台も建物入口に近いほうに適当な間隔でパラパラっと置かれていましたが、駐車場の入口から数人の誘導員がいて、こんなに広いのになぜか自由な場所に止められそうにはありません。
誘導員の指示で手招きされるまま奥に進み、ここへと示された場所へ前向きに止めると、すかさず横に近づいてきたので窓をあけると「バックでお願いします!」とやり直しを命じられたわけです。
えっ、なんで?

何度も繰り返しますが、はじめ場所を間違えたのかと思うほどガラガラで、そんな状況でどこに停めようと、どうでもいいような環境で、わけても止め方が前向きだろうが後ろ向きだろうが何の意味もない状況。
それなのに、一度置いたものをわざわざ向きを180°回転させて止め直しをさせるというのはいったい何なのか、どう考えても合理的な理由が見つかりません。
ただヒマだから意味のない指示をして、人を従わせて楽しんでいるようにしか思えません。
あるいはこの係員には「駐車はバックで」という思い込みがあって、そこに前進で止める車があると、それは異端として目に映り、個人的な情緒を乱されたということなのか。

駐車の向きというのは、塀や壁を排ガスで汚さないなど、ワケがあって向きを指定して置かせる場合もないではないけれど、ここでは車の数に対してあまりに広すぎる駐車場で、駐車枠もなく、やり直しを命じてまでバックで止めさせる必要はどこを見渡してもまるでわからないし、その後ろにはフェンスがあって、一本の道があって、さらに向こうには冬の寒い海があるだけ。

そもそも普通車なら100台以上は置けそうなところに、車はわずか5〜6台しかいないのに、この人達はいったい何がしたいのか、マロニエ君は性格的にこういう馬鹿げたことを言われるまま従うということが、普通の人以上に苦痛に感じる性格かもしれません。

ついでながら、日本人は駐車というと「バックで止めるもの」という固定観念というか、それがまるで「駐車の作法」であるかのように思っている人って相当多いと思います。

理由はいくつか考えられますが、たとえば狭い駐車場にキチンと止めるにはバックで置いたほうが、置き方も慎重になるし、物理的にも方向蛇(左右に動くタイヤ)が後であるほうが狭い場所では効率よく置くことが可能というのはわかります。
また、多くの駐車場には車止めがあって、そこにタイヤが当たると、前後のオーバーハングの関係から、車種によっては車の後部がやや飛び出すということもあるけれど、それはあくまで車種によって逆もあるから普遍的な問題ではない。
(ちなみにクルーズセンターのこの広場には車止めなんてまったくありません、念のため)

それよりもマロニエ君が感じていることは、こう言っては申し訳ないけれど、運転の下手な人にとっては駐車は苦手な事の一つで、教習所時代から「駐車はバックで」と刷り込まれて練習し、駐車といえば疑いもなくバックで止めるということが習慣化しているのでは?とも思います。
そのほうが出るときに楽という考えもあるでしょうが、これって難しいことを先に済ませておきましょうという程度のことでしかない。

むしろ前向きに止めて、出庫時にバックで出るほうが、駐車枠内に置くように狙いを定める必要がなく(つまり適当でよく)、要は車がスペースから出られさえすればそれでいいわけだから、このほうが楽でもあるので、どちらが良いかは駐車環境にもより、臨機応変に考えれば良いこと。
単純な話、バックで左右の車に注意しながら枠内へ左右均等に、かつ平行にキチッと収めるより、前向きにスパッと止めたほうがよほど楽なことも多いのですが、たったこれだけのことがこの国ではなかなか理解されない。

近頃の駐車場というのは不気味なほどだれもかれもがバックで駐車しており、なんだか不気味です。

新しい車には駐車アシストのような機能もあるから、ますますバックでの駐車は常識になるのかもしれませんが、とにもかくにもやみくもに「駐車はバックで」という暗黙のルールが染み込んでいるのは間違いない。
ここには日本人お得意の横並び精神も加勢して、みんながバックで止めているからそうしなくちゃいけない、ひいてはバック駐車はキチンとした止め方、前進駐車は行儀の悪い止め方というような気分もあるのかもしれないと思うと、なんだかゾッとします。

だからかどうかは知らないけれど、先のクルーズセンターのように、だだっ広いガラガラの環境でも、一旦置いたものをわざわざ逆向きに置き直しをさせるというのは、当方が「行儀の悪い止め方をした」と思われた可能性もあるのかと思うと、勘違い&邪道も甚だしく、今風に言うと「パワハラ」ではないのか。

実はこの状況、昔だったら「なんのためにバックで止めなくてはいけないのか?」「そうすることにどういう意味があるんですか?」とすかさず問い正すところですが、近頃ではなんでも従っておいたほうが面倒臭くないとか、どうせ納得できるようなアンサーは得られない、さらには普通に質問をしても逆にクレーマーのような変人のレッテルを貼られるのがオチで、正義正論よりも自分の身を守ること、ストレスを避けることを優先するようになり、甚だ不本意な習慣が身についているので黙って従いましたが、今思えば、やはりなぜか?という質問ぐらいはしておくべきだったと後悔しています。

こんなブログにまでくどくどと書くということは、結局はストレス回避はできていないということですからね。
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3回目ワクチン

3回目のワクチン接種、打たずに済むならそれに越したことはないけれど、いまだ収束方向というわけでもないし、迷ったあげくやはり打っておくことにしました。

各メディアによれば、3回目接種にあたってはファイザー希望が圧倒的で、全体の9割ほどに達しているそうですが、こうなった要因のひとつは1〜2回目接種のとき、モデルナの副反応が強いう情報が広く知れわたったためだとか。

一方で、3回目については交互接種の有効性も謳われており、効果の高い組み合わせの一覧表によれば、ファイザー+ファイザー+モデルナというのが最も抗体量が高くなるとあり、東京都下の某市ではこのことを市長と医師が顔出しして、その有効性をくわしく説いたところ市民の理解が得られて、そこでは80%以上の人が3回目にモデルナを選択したという事例もあるとか。

もともとワクチンなんて進んで打ちたくはないけれど仕方なく打つのだから、せめて少しでも効果の高いほうがいいと思い、前2回がファイザーだったので、今回はモデルナを選択したわけです。

送られてきた接種券を見ると、ファイザーは近くの接種会場や病院でも受けられるのに対し、モデルナはマロニエ君の居住エリアではクルーズセンターという博多港の埠頭の最も先にある場所まで行かなくてはなりません。
距離もあり、公共交通機関利用の人は無料シャトルバスなども運行されているようですが、そこは自分の車だからとくに問題ではありませんでしたが。

ネット予約をして会場に行ってみると、もしや場所を間違ったのではないか?…と思うほどガラガラ状態なのにまず驚かされました(それから数日後、この会場は予約なしでも接種が受けられるようになった由)。
このクルーズセンターというのはかつて外国(主に中国)からの巨大なクルーズ船の寄港地として頻繁に使われていた施設ですが、コロナ以降はそんなクルーズ船もすっかりなくなり、そこが接種会場として当てられているようです。

10分以上早めに着いたので、予約時間まで待たされるだろうと思っていたら、それもなく、受け付けなど笑ってしまうほどスイスイと進み、あれよあれよという感じで接種となり、すぐに15分間の待機時間に入りました。
前回に比べて、あまりにも人(被接種者)が少なくスピーディに進んで呆気にとられながら、はるか前方に目に入ったのは、出口付近にマイナンバーカードを作るための受付コーナーらしきものがあること。
いつかは作らないといけないと思いつつ、面倒なのでまだ手をつけていなかったのでいいかも…などと思っていたら、そこへまた狙ったようなタイミングでその担当係の方が説明に来られて「まだお済みでなかったら、お帰りにあちらで簡単に手続きが可能ですので、よかったらぜひ」と薦められました。
時間もあったし、ここでマイナンバーカードの手続きも終わるのなら一石二鳥とというわけで、そちらも無事に済ませて、なんだかラッキー!みたいな気分でした。

とはいうものの、TVなどでは菅政権に比べて岸田さんはワクチン接種も進まないなどと言われていますが、実際の接種会場の様子はというと(モデルナということもあるとは思いますが)、こんなにもガラガラで不思議な感じでした。

さて、心配した副反応ですが、3回目はさほどでもないと言われていたし、実際打った当日は打たれた部位に筋肉痛がある程度で、とくにどうということもなかったのでこれで終わった…と思っていたら翌日になって発熱、午前中からみるみる倦怠感が強まり、丸一日静かに休んですごすハメに。
幸いなことに、それは一日のみで、三日目にはスッキリ普通の状態に戻りましたが、そのあたりは個人差もあるのでしょうね。

余談ですが、お役所のすることとはなんとバカバカしいものかと感じる光景もチラホラ。
会場内での行動は、一挙手一投足が監獄のように厳しく監視され、すべて係員の指示通りに動かなくてはならず、ある程度は理解しますが、一部は明らかに必要を逸脱しているという印象もありました。

たとえば、接種後の15分待機するにも、椅子は広大なスペースに一脚ずつ前後左右に間隔をおいて置かれていますが、ほぼ空席なので、どこに座ってもいいようなものだし、人と距離を取るという観点からいえば、できるだけバラバラに座ったほうがいいはずなのに、杓子定規に手前左からキッチリ順番に詰めて座るよう指示され、はっきり「こちらに」と指示されるし、その椅子に行こうとするにも歩く順路まで「こちらからお願いします」と言うあたり、なにか変な圧力がこもっています。
しかし、そこは通路でも何でもなく、ただの椅子と椅子の間であり、そんなことはまったく無意味なこと。
人もいないのだから、どの隙間から行こうと自由であるはずなのに、遮二無二「こちらから」とむやみに従わせるのは明らかにやりすぎで、それは係員が仕事という大義のもとでどうでもいい事まですべて自分の指示通りに人を動かして、密かに楽しんでいるなと感じられるもので、それには頑として従いませんでした。

また、横の壁際にあるトイレに行くにも「必ず係員へ手を上げてお伝え下さい」と念を押され、しかたがないのでそうしたら、わざとらしくサッと近づいてきて恭しげに手を伸ばし、そのトイレを示しながら「はい、では、あちらの右側へお進みください」ときた。見ればトイレは入口が左右に分かれ、左は女性用、右は男性用なのだから右に行くのは当たり前で、こういうバカバカしいことを真顔でやられると、はじめこそ内心で滑稽にも思っていたものでも、だんだん癇に障ってくるものです。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

昨年12月、マリア・カラスの本を読んだところ、文中に記されているカラスの初期から黄金期にかけてのオペラを無性に聴きたくなりましたが、持っているものは大した数ではなく、HMVのサイトを見たところ、なんと69枚のBOXセットがありました。
しかも、本来の価格は3万円を超すにもかかわらず、期間限定か何か知らないけれど1万円強(新品)となっており、今を逃してなるものかと慌てふためいて買ってしまいました。
実際に、これまで何度も油断して買い逃したCDがあり、あるときに買わないとダメだという教訓があるのです。
いずれもEMIで正規録音されたものにもかかわらず、一枚あたりおよそ160円ほどですから、ちょっと信じられない買い物です。

数日後、みかん箱ぐらいの段ボールが届き、中を開けると緩衝材に守られるようにして赤の素敵なデザインの大型ボックスが鎮座しており、大量のCDに加えてハードカバーの分厚い本まで付属していて、ページをめくるごとに数多の写真が掲載されており、あらためてカラスの美貌と超弩級のスター性に息を呑みました。
マルタ・アルゲリッチが世に知られ始めた頃、その圧倒的な技巧と美貌から「鍵盤のカラス」と言われたそうですが、それも納得です。

さて、これからはしばらくカラスとのお付き合いが始まりそうですが、数が数なので、他のCDとバランスを取りながら聴き進むことになりそうです。


元日は家でゆっくり過ごすつもりでいたら、友人がイオンモールが開いているらしいと言ってきたので、正月早々イオンモールに行くなんぞなんたる無粋なことか!とも思いましたが、他にこれといって予定もなく、暇つぶしに行ってみることに。

最短のモールではかなりの混雑が予想されたので、自宅から20km以上もある地区をあえて選んで、そちらに向かいました。
ところが、モールに近づくとにわかに道路も混雑が目立ち始め、駐車場に入るだけでも裏ルートを使ったりと一工夫が必要なほどでした。

なんとか運良く車を止めてモール内に踏み入れると思わずゴクリ、かつてここで見たことのない人の群れでごったがえしており、まずこれで怖気づいてしまいました。
とりわけコロナからこちら2年間、人混みというものにもかなり遠ざかった観がありましたし。
とくにお目当ての店があるわけでもなく、とりあえず流れでH&Mに入ってみると、なんとレジに並ぶ人の長蛇の列が尋常なものではなく、これまた見ただけでストレスを感じるほど疲れました。

ウロウロしようにも人人人で、それに圧倒され、気疲れしたので、とりあえずお茶でもしたくなりましたが、そのために距離のあるレストラン街へ人の波をかき分けて行くのも煩わしく、近くのフードコートへ行ってみると、こちらはこちらで空きテーブルを探すだけでももう大変、やっと隅の方にひとつ見つけて腰を下ろしますが、おなじみのミスタードーナツやマクドナルドがこれまたウンザリするような大行列。

その最後尾について、忍耐のあげく麦茶みたいな「コーヒー一杯」を買うだなんてまっぴらごめんなので、立ち去ろうかと思っていると、友人は「マックのアプリある?」というので差し出すと、コーヒーとアップルパイを選んでネットからオーダーし、支払いはそのままPayPayで済ませるという、およそマロニエ君ひとりでは思いもつかないテクニックが展開されました。
すると、なんと店の上部にある電光掲示板に、はやくもスマホ画面に表示された注文番号が反映されています。

よく見ると、レジの右手には商品受け取りのカウンターがあり、わずか前にオーダーしたコーヒーとアップルパイらしきものが早くも準備されたようで、スマホの注文画面を見せると、それらが載ったトレイがあっけなく渡されました。

行列の方を見ると、ほとんど前進しておらず、はじめに見たときの最後尾の人のうしろに二人並んでいるに過ぎないのに、我々のテーブル上にはまぎれもない温かいコーヒーとパイが存在しているのですから、これにはいたく感じ入った次第。

これまで店内飲食でも「ネットで注文」というステッカーがテーブルに貼られていたりして、そうすることにどれほどのメリットがあるのかわからなかったのですが、この大行列を前にして、その迅速な効果をまざまざと見せつけられ感嘆してしまいました。

普通に辛抱強く並んでいる方々がお気の毒のようではあるけれど、申し訳なさと爽快感がない混ぜになった不思議な気分でした。

年頭から誠にくだらない話でしたが、今年もよろしくお付き合いくだされば幸いです。
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野心解禁?

今回はわざわざお名前を出すのもどうかと思い、敢えて出さないことにしましたが、もちろんわかる人にはわかるお話。

このところ、ショパンコンクールで入賞した人はというと、やたらとメディア出演を繰り返し、まさに日の出の勢いですね。
ちょっとやり過ぎという感じが漂いはじめて、いささか胃もたれがしそうです。

メディアは演奏そのものへの取り扱いではなく、ピアノのオリンピック・メダリストとしてのヒーローのノリだし、くわえてご当人が語るコンクール出場へのストーリーなどがいかにもなもので今の時代に好まれるのか、メディアも食い付きやすいのでしょう。

ところが、最近になってその発言もちょっと首を傾げるようなところが目立ってきて、話の筋道がぶれてきているように感じるところもあり、これはいささか首をひねりたくなりました。

すでにじゅうぶんな知名度も得ていたこの人が、年齢的にも最後のチャンスといえるタイミングでなぜいまさらショパンコンクールにあえて挑戦したのか?というのがよく出てくる質問です。
はじめは、小さいころからの夢の舞台で、あのワルシャワのステージでショパンを演奏することが見果てぬ夢であったというようなことを仰っていましたが、それならばピアノの世界なんだから、もっと早くに出場しても良かったのでは?とコンクールを知る人なら思うはず。

また、長年ピアノを弾いてきた中でショパンというのはとくに好きで、常に自分の心の拠り所であり、どんな局面においてもショパンを弾くと心が慰められ落ち着く、自分にとってはそんな特別なものだったとも。
しかし、ショパンがとくに好きなピアニストかどうかは、いくらかピアノ音楽が好きな人なら聴いていればおおよそ察しがつくもので、この方はショパンはむしろ苦手だろうとお見受けしていたし、あまりなじまないので、さほど好きでもないんだろうなという印象がありました。

だから、この方がショパンコンクールに出場されるということを初めて知った時は「エッ!?」というものだったし、それほどこの方とショパンは(他人から見て)親和性がなく、とても意外だったことをいまでもよく覚えています。
なんといっても、この方はテクニシャンでCDデビューの頃はオールリストだったような気がするし、同時期の別のCDでもシューベルトのソナタなどは、どこか学生が仕方なくで弾いているようで、そういう個性の人だというイメージでした。

この方は大変な野心家のようだから、そんな人がショパンコンクールに出るということは、熟考の末そういうプランが練られたのでしょう。人はだれもが自分の行く末を考えるものだから、それを悪いと言っているのではありませんが、なじまないものとはどうやったってなじまない。

さらに後に知ったことでは、ショパンコンクール出場のためワルシャワのショパン大学に4年も留学し、全方位的な準備を整え、それは肉体改造にまで及んだと知り、ただただ驚きでした。
なにごともやる以上は、徹底して挑むタイプで、それは見上げたことではありますが。

そうはいっても、今年はコンクール出場の年でもあるというのに、オーケストラを株式会社として起業し自ら社長に就任するなど(陰に実務者がいるとしても)およそ音楽家離れのした行動力と野心には驚くほかはありませんでした。

ショパンコンクールについては、あるインタビューでは予選敗退するかもしれないけれどあこがれの舞台でショパンを弾きたかったといったえらく純情なことを言っておられたけれど、ここ最近ではその私設オーケストラを海外へと羽ばたかせるために、無名では相手にされないから、まずは代表の自分が有名になる必要があったんだともいっていたり。
べつに政治家ではないから、うわべの言葉の違いをいちいちあげつらうつもりはないけれど、そのつど発言がコロコロかわるのは、心底にあったのはやはり野心であり言葉は後付であったような印象は残ります。

さらに自身で語るところでは、この人の最終目標は世界に羽ばたく音楽家を育てるための学校を作ることだとか。
そうなると、ピアノを弾き、オーケストラを社長が指揮をし、企画運営をし、メディアの寵児となることも、すべては学校設立のためという建前で事後承認させてしまうようで、その策士ぶりとバイタリティーにはため息しか出ません。
オーケストラ設立の理由については、今は多くのとても上手い子であっても演奏機会が乏しく、それをなんとかしてあげたいという親分肌、学校設立については、海外へ留学するのではなく海外から人が学びに来られるようなものにしたいという教育への欲求、その抱負は、功成り名を遂げた自分が世間にお返しするかのような、私利私欲じゃない崇高なもののように語られます。
本当なのかもしれませんが、どうも、自分の拙い人生経験からしても、あまりにも整いすぎたようなお話で、聞いていてどうもしっくり来ないのです。

まだ今は、演奏家としての謙虚なふるまいとか、物事が熟す時間というのは必要じゃないかと思うんです。
なにも、ポリーニのように優勝しても尚、大半のオファーを断って、ストイックに10年もの勉強に打ち込めと言っているわけじゃありませんが、コンクール終了のわずか一ヶ月やそこらで、これほどの抱負を語って回るのは(世間的に立派に映るのかどうかはしらないけれど)、個人的なセンスとして受け止めきれません。

もちろんクラシックのピアニストといえども、これからはただ旧態依然としたステージ活動をやるだけではなく、新しい発想やプランも必要かもしれませんが、あまり拙速にすぎると、話題性はあっても真の評価や確固とした立ち位置は掴めないような気がします。

いっぽうメディアも、日頃は音楽なんて無視しているくせに、こういう話題にはひきもきらず群がってくるところに、現代のいやらしさを感じます。
いま思えば昔のブーニンフィーバーのほうがまだ可愛気ぐらいあったような気もします。

この人の安定しきった指さばきには注目すべきものがあり、日本人初の優勝者となり得るのか?と思った時期もありましたが、こうも生臭いことが次々にわかってくると、なんだか無性に普通に音楽を聴きたくなってきて、しばらく昔の巨匠の演奏にでも浸ってみようかと思っています。
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続・オトコの性分

オトコの性分というからには、やはりピアノの技術者さんにもちょっと触れてみたくなり、ほんの一部だけ。

この世界は、技術=男性という昔のイメージを引きずっているためか、まだまだ圧倒的に男性が多く、女性はかなり少ないと感じます。

そんな男性ばかりの中、めったにおられない女性の技術者さんに接する機会がありましたが、やはり前回の医師の例と同様、ここでもはっきりと男女のちがいを感じることに。
ただの雑談なら女性全般はおしゃべりが上手で自然だけれど、仕事や専門分野となると一転して、男性よりよほど口数が抑えられて静かに集中してお仕事をされる印象です。
男性は説明すること自体が好きなのか、専門的なことほど饒舌で嬉々となるけれど、女性は専門的なことは必要なこと以外、なにもかも言葉にする必要はないと感じておられるよう見受けられます。

男性は自分の知識を語ることや、専門家として頼られたりが好きで、一度困難であることを充分伝えた上で自分だから解決できたなど、相手の不安を煽っておいて安心させたりと、とかく自己アピールには余念がありません。
それを含めての雑談のようですが、女性は雑談はあくまで雑談で、仕事とはきっぱり区別されているような潔さがある。
男性は雑談/仕事の境界があやふやで、おまけに自意識みたいなものが常時うごめいており、なにかと自己宣伝に結びつけるのが習慣となっている人が珍しくないと思います。

中には本業の技術より、トーク術のほうがよほど得意な方もおられ、ピアノの技術というのは一般的にすぐわかりにくい面もあるためか、徹底して人当たりのいい誠実一途な演技を貫き、その巧みで耳触りのいいトーク術によって成り立っていることもあったり。
それでもお客さんを良い気持ちにさせて仕事には困らないという、違った意味のテクニシャンもおられ、男のジマンもここまで行けばひとつの才能かもしれません。

そんなことを言いつつも、お陰でどれほど多くの勉強をさせてもらったかわからないのも事実で、感謝もしているのですが、ここで言っているのは感謝とはまた別次元の話ですのでそこは悪しからず。


…と書きながらふと思い出しましたが、技術者さんの専門的な話は、興味ある者にとってはおもしろいことが多いのも事実ですが、それでもマロニエ君が言われてあまり気持ちの良くないワードがあったりします。
それも男性特有のもので、いちいち「名前は言えませんが」「メーカーは言えませんが」「場所は言えませんが」という、言えませんがずくしでお話されるタイプ。
おっとりした方はあまりそれは仰いませんが、こういう前置きが好きな人はだいたい自己愛の強い宣伝大好きさんです。

それも自然なことなら受け入れられるのですが、大半は「え、なんで?」「べつに言ってもいいのでは?!」と思うようなことでも、この「…は言えませんが」がほとんど呼吸のようにクセになってしまっている。

マロニエ君は別になにがなんでもそこを聞きたいというのではなく、こういう話の切り出し方に違和感を覚えるということで、むやみにもったいぶって楽しんでいるようにしか聞こえません。
本当に言えないことなら、そこをうまく迂回して話をする方法はいくらでもあるはずです。

例えば普通に「ある先生のお宅に伺った時に」ですむことを、「これは…ちょっっとお名前は言えませんが、実は先日も、かなり有名な先生なんですが…」とえらく大げさにいうのは、言葉のチョイスのセンスがないばかりか、言えないという言葉を口にする時が、心なしか嬉しそうでささやかな快感が潜んでいるようです。

自分の話は、現場人しか知り得ないとっておきのウラ話で、それを特別に教えてあげましょうという得意の現れで、それを含めて気分がいいんだろうなと感じるわけです。
さらに、自分は知っていることを、目の前の相手は知ることができないという「差」が生まれ、その権限は自分の手中にあり、それを行使できるところに子供の駄菓子ほどの優越感があり、それが見えてしまっていることを、ご当人はまったくお気付きじゃないご様子。

マロニエ君に言わせれば、名詞だけ伏せても具体的な事象をべらべら喋っている段階で、秘守義務はすでに一部破られていると思うのですが。

それと男はビビリさんで保身が身についているから、万が一、自分がその情報漏洩の発信源になることをなによりも恐れ、予防線を張っておくというのも気持ちとしてはわかりますが、それは裏を返せば、こちらが思慮なく安易にバラす可能性があるという危険を前提としており、自分は目の前の人から信用されていないという事実を鼻先につきつけられているようで、これも対人マナーの上では非礼の一種であると思うのです。

言えないことは、言い換えなどの処理を声に出す前に頭の中ですべきで、相手を前に書類を黒く塗りつぶすような発言は良策とは思えませんが、この手のオトコは言えないと言うのが快感だから打つ手なしです。
「そんなに言えないような話なら、はじめから聞かなくて結構です!」と言ってやりたいところですが、実際にはそう切り口上で返すわけにもいかないので、まだそう言ったことはありませんが。

こういう話し方は、分別ある大人のつもりでしょうが、むしろ子供っぽくしか映りません。
えてして、男の用心深さにはそういう幼稚で肝心なものが抜け落ちているところが往々にしてあり、思慮深いつもりがまるで逆になっている場面は少なくありません。
それもこれも、ジマンしたいという邪念のなせる技でしょう。

女性の口からこの「言えませんが」を聞いた覚えはほとんどないのはナゼか?を考えることはおもしろそうです。

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※何気なく読み返したら、ややキツい感じの文章になっていたようで、そんなつもりはなかったのですが、感じていることをできるだけ文章にして説明しているうちに、ついそうなってしまったようです。
とはいえいまさら書き直すのも大変なので「他意はない」ことをお伝えしてそのままにさせていただきます。
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オトコの性分

このところ、あまりにもショパン・コンクール絡みの話が続いたので、気分転換に別の話題を書いてみることに。

マロニエ君も性別上いちおうは男の端くれで、自分のことは横において言うのもナンですが、男というのはおおよそ見渡してみると、かなりしょうもない部分を抱え持っているもんだなぁ…と思うことが少なくありません。

近年は性別でものを言ってはいけない社会になっているから、こんなことをネタにするのはどうかな?とも思いましたが、巷間叫ばれているような差別や権利の内容ではないし、つい最近もそういうことを考えてしまうことがあったので、あえて書いてみることに。

もちろん、ここで言いたいことは全般的な話であって「個人差」があることはもとより承知していますが、あくまで全体としての傾向ということで捉えています。

まず多くの男は、なんらかのかたちでジマンが好きで自己顕示欲があり、(質や規模は別にして)支配や権力が好き、体裁屋でカッコつける、優秀だと思われたい、そのくせ気が小さく心配性、臆病で保身に汲々とし、体面を重んじ、おまけに相当に嫉妬深いということ。
それらを悟られまいと、知性や正論めいたもので必死にカモフラージュする。
その一方純情でロマンティックで、幼稚で、ときにカワイイ部分もあるともいえますが、オタクの要素もあり、どちらにしろ大半の男性はこんな要素のいくつかには必ず当てはまると思います。

象徴的な違いとして何度か感じたことのあるのが、たとえば医師。
繰り返しますが個人差は無視すると、男性医師のほうがむやみに主導権を握りたがり、相手との上下関係にこだわり、自説を押し付け、支配的で、決めつけや驕りがある。
それに対して、女性医師はそういう事柄が男ほど大事ではないのか全般に真面目で、どちらかというと医学に対して謙虚で、治療のために何をすべきかを無駄なく考え、やたら相手の不安や服従心を煽ることが少ないのは助かります。
これは身内の入院などに際しても、何度も感じたことです。

もちろん例外もあって、ずいぶん昔、紹介されて行ったある病院での初診時、予約しているにもかかわらずやたら待たされたあげく、相対した女性医師のあまりの思い上がった態度に驚愕、直ちに診察拒絶して部屋を飛び出し、1Fの受付でさんざん抗議をして帰った記憶があり、そういう事も稀にはあるけれど、全体としては少ないのではと思います。

何事においても、いちいち説明的で知識や経験をひけらかしたいのは圧倒的に男のほう。
説明している自分が上位で、相手が下という、いまさらのように子供っぽい構図にことさら満足を覚えたりするのも、男によく見られる悪い癖で、端的に言えばエラそうにしたい、今風にいうとマウントを取りたがることが体質化習慣化しているらしい。

会社などでも上司やベテランたちが若い人を相手に、景気の良かった昔の話を武勇伝のごとくにしゃべりまくり、あまりに気分がイイもんだから、何度も同じ話を繰り返していることにさえ気づかず、聞かされる側はゲンナリするパターンなどはよくあるみたいですね。
とくに大したことない男ほど、大風呂敷を広げ威張りちらすのはやめられないみたいです。

コロナになる前は、飲食店などでカップルと隣り合うテーブルになったりすることがあり、真横なのでイヤでもその声が耳に入ってくるのですが、「こりゃ、フラれるのも時間の問題だろう」と思うほど自慢トークのオンパレードで、昔話、交友関係、仕事に至るまで、いかに自分が優秀有能で人望が篤く、仕事でもえらく重い役割を担っている、自分は嫌でもいつもそうなってしまうアハハ…みたいなことを一方的にしゃべり続けていたりする場面に何度か遭遇したことがあります。
女性は表面的には楽しげにへえとかなんとか、お追従笑いと相槌で応じていますが、あんなくだらない話を聞かされるほどの苦痛はないだろうし、その点では大半の女性はアホなオトコの想像を遥かに越えて醒めていますから、後日の女子会のネタ収集にされているのが関の山。
しかもそのオトコ、声のトーンからして、どうやら周囲にも意識して聞かせているようなフシもあり、こんなときほど男の愚かさを如実に感じることはありません。

こういうシチュエーションでは、聞こえてくる話の圧力と不快感と滑稽さのごちゃ混ぜなもので固まってしまい、こちら側はいちいち目を白黒させるばかりで、とてもじゃないけれど連れと話をする気分にもなりません。
面白いものを聞かせてもらっているようでもあり、迷惑な不可抗力に行き当たったようでもあり、なんとも表現しがたいものがありますが、いくら面白いと入ってもやはりストレスであることには間違いない。

今どきなら「スカッとジャパン」にでも投稿したいところですが、悲しいかなスカッとするオチがないんですよね。
子供っぽいまではいいとしても、ジマンは本人が狙っているような効果が上がるどころか、むしろ逆作用になるということを知って心に刻むべきですね。
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怖い世の中-2

そして今度は、我が家の話。
このたびの猛烈な長雨で、物置にしている部屋の一隅から驚いたことに僅かな雨漏りが発生し、これは困った!ということになりました。

何かというと頼りにしていた職人さんは、あいにく屋根から転落して腰を痛めて仕事を引退されてしまい、見には来てくれましたが怪しいのは空調のためのパイプなどがやたらある屋上付近で、ここへは階段がなく外壁に作り付けのハシゴがあるのみで、そこへ登るのがやっとで、今の身体では登り降りを繰り返す仕事はできないとのこと。
では、だれか信頼できる職人さんなり会社なりを紹介して欲しいと頼みましたが、建築業界もすっかり風景が変わってしまい、あらゆることが分業され様変わりしてしまったそうで、古い人は引退する人も多く、もう横のつながりもなくなり紹介できる相手が思いつかないとのこと。
知り合いの設計士に聞いてみても、似たような話で、かろうじて可能性のある人に聞いてもらったところ、こちらはこちらで骨折で現在入院中!当分は動けないとのこと。

屋根だの外壁だのは、信頼できない業者が絡むトラブルはよく耳にするので、ネット検索などで気楽に依頼しようものならどんな目に遭うかもわからないので考えあぐねていたところ、友人が、そういう時のために地元のテレビ局が各分野のプロを紹介するというサービスをやっているというので、テレビ局がセレクトしている業者ならある程度信頼できるだろうと考え、局のホームページからある業者にたどり着き、連絡を取りました。

すると、その日のうちにさっそく下見に来てくれました。
作業着姿の社長という男性とアシスタントのような若い女性の二人で、さんざん見て、さんざん写真を撮って、件の屋上近くの空調機器の場所にも登ったり降りたりしたあげく、一切所見を言わず、設計図を預かって行きたいというので、さすがにそれは初対面の相手で嫌な気がしたので渋っていると、「では、一冊まるごとではなく、必要なページだけをコピーさせていただきたい」というので、それだけは応じました。

ちなみに、やけに口数の少ない、話していてもほとんど視線を合わさない人でした。
一緒に来た女性はさらにおとなしく、いわれるままに写真を撮ったり、赤外線の小型の機械をやたらあちこちへ当てたりするだけで、ほとんど声も出しません。
それで二時間ほども家の内外に滞在されると疲れるものですが、「では、見積りをメールで送ります」と言い残して帰って行きました。
その帰りぎわに「実際の作業は他の業者に依頼されても構いませんので」という、なんだか妙な、いかにもガツガツしていないよというような言葉が少し気にかかりましたが、その時は早く漏れを止めなくちゃいけないという気持ちばかりが先行していました。

数日後、メールで見積りが送られてきましたが、よくよく見てみると見積内容は「水漏れ診断」のみで、要するに空調の機械部分からどういう経路を経て水漏れとなっているかを「診断するだけ」で「修理は別」というものでした。

にもかかわらず、その金額を見てびっくり。
ほとんど70万円に迫る金額で、繰り返しますが、それは診断するだけの料金なんです。
なるほど修理を別に頼んでもいいはずだろうと、ここにきて納得。
しかも、上には登って行けるのに、診断するだけのために足場を組むことになっており、作業は3日間、1日目は足場の搬入組立、3日目は解体撤収で、診断作業は中1日のみ。

引退した職人さんにそれを伝えると、びっくり仰天!!!
えらく憤慨して「そんなものに絶対頼んじゃいけない!」と大声で、まるでこちらが叱られるように言われました(実際にももっとひどい言葉も使っていました)が、もちろんいわれなくたってそんなところに頼むほどお人好しではありません。
ちなみに、その職人さん曰く、我が家の状況では、見るだけのために安くもない足場を組むなんて、非常識も甚だしいのだとか。

この文章を書くにあたって、その見積を再度見てみましたが、3ヶ所に赤字で「修理費用は別途となります」「散水用水道水・駐車スペース・電気は無償貸与願います」さらに「雨漏り箇所を判明するための調査費用で、修理費用は別途」と繰り返しあり、後々のトラブルを想定しているのが窺えました。

以降、このメールにはまったく返信も連絡もせずに無視していますが、先方もわかっているのか一切連絡はありません。
おそらく日常的にそんなことばかりやっているんでしょうけれど、それを地元のテレビ局が視聴者へ紹介できる業者としてリストに入れているとは、いったいどうなってるの?と思います。
何事も、すこしの油断もできない、ピリピリした怖い世の中になったものです。

性善説で凝り固まったお人好し日本人は、もう過去の歴史博物館行きで、すべてを疑ってかからなくてはいけない時代になったと認識を改めるべきですね。
人を見ればまずは騙される可能性ありと予防線を厳しく張るのが当たり前となり、これも日本のグローバル化のひとつでしょうか?
これをお読みいただいた方々も、くれぐれもお気をつけくださいね。

ちなみに雨漏りは、ステンレス製のパイプの引き込み口がコンクリートで固められており、そこに数条のひび割れがあったので、ホームセンターで野外用シリコンを買ってきてそこを埋めたら、とりあえず止まったようです。
ちなみにこのシリコンと注入器具合わせて、千円もしませんでした。
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怖い世の中-1

「振り込め詐欺」というものが社会問題化してずいぶん経ちますが、その手口は年々巧妙化しているとか。
魔の手はどこからでも忍び寄るものと頭ではわかっていても、どこかで他人事のような気分があったことも事実でしたが、ついにマロニエ君のよく知る人で、あやうくその餌食になりかけたものの、幸い回避できたという話を聞いて仰天しました。

たびたびニュースなどで伝えられ、じゅうぶん深刻に受け止めているつもりでも、それがいざ身近な知人になどに起こると、俄然リアリティをもってその恐ろしさが迫ってくるものですね。

その人は大手のデパートに用があって電話したところ、直後にそのデパートを名乗る人から連絡があり、ただいまお客さまのカードで数十万の腕時計が購入されましたが、不審に思い、念のため確認の電話だという内容で、電話を傍受されているのか、なぜ電話番号やデパートとの関係が知られたかも不明。
見に覚えのないことなので、もちろん否定すると「わかりました、少々お待ち下さい」といわれて、しばらくそのまま待たされ、再び電話口から語られたのは、売り場を見に行ったけれどもうその人はいなかったとのこと、フロア全体もあちこち見て回ったが見つけられず「大変申し訳ありません」と深くお詫びを言ってくるんだとか。

電話の主はもちろん自分の役職と名前を名乗り、つとめてソフトで丁重な言葉遣いで、いかにもデパートマンらしい物腰の柔らかい完璧な口調で、内容もこちらの損害を案じてのものであるし、自分のカードが不正利用されたという驚きもあってすっかり信用したとのこと。
「では」ということで、これ以上の被害を防ぐには暫時、引き落としの口座の凍結をする以外にないとのことで、そこから先は自分達の力の及ばない領域になるので、銀行協会がそういう場合の処置をしてくれるとのこと。
「大変恐れ入りますが、銀行協会の☓☓さんにお電話していただけますでしょうか?」となり、もう言われるままだったとか。
そちらに電話すると、今度はいかにも金融関係の人らしい、怜悧で引き締まった感じの男性が電話に出て、「どうしましたか?」ということから事情を話すと、「わかりました」ということで、サッサッと銀行名から、口座がいくつあるか、果てはそれぞれの口座番号や残高まで要領よく聞かれたとか。
ここまで書いていてもおかしいと思いますが、当事者は乗せられてわからなくなるんでしょうね。

「事はスピーディな処置を要することなので、すぐにその通帳(数冊で全財産だった由!)をお預かりにうかがいます」ということになったものの、夫婦でしばし相談して、次第に何かおかしくないか?ということになり、念の為ということで警察に相談したそうです。
すると、その警察の対応が見事で、すぐにこの手の犯罪の専門官が家にやってきて、あっという間に自宅の電話に留守番機能を設置したとか。

通帳受け取りのための連絡があったら、携帯ですぐに我々に知らせて、家にきたら時間稼ぎをしてくださいということになり、それからはもうドキドキだったとか。
ところが、銀行協会を装う犯人が電話してくると、さっきまでなかった留守番電話になっていることで、こんどはなんとフガフガ言うお婆さんのような人から電話があり、しばらく話をするも何を言っているかもわからないまま切れてしまい、それ以降、件の銀行協会からもデパートからも一切電話はなくなり、もちろん通帳を与りに「受け子」が来ることもなかったとのこと。
やはり、犯人側は警戒心が強く、留守番電話になっていることで異変を察知して一斉に手を引いたようで、「あれを渡していたら全財産とられるところだった」んだそうです。
警察に相談したのが運命の分かれ目だったようですね。

冷静に考えれば不自然なことでも、ちょっとした状況で人間は判断力を失うものということなのか。
この場合、もともとはじめは自分からデパートに電話したことと、カードの不正利用発覚という予期せぬことなどで、通常の思考力を奪われ、一刻も早く食い止めるという時間勝負の状況に追い込んだことなどが、まるでジェットコースターにでも乗せられたようになって、考える暇を与えなかったのかもしれません。

でも、本人もなにより感心していたのは、そのデパートマンと銀行協会を演じる二人の男性の見事すぎるトーク術で、敵ながらあっぱれというほど、スバラシイものだったそうです。
「あそこまで言われたら、誰でも信じると思う」んだそうで、普通でも、あれほど見事に洗練されたトークのできる人は、そうはいないんだとか。

これはピアノで言えば、よほど才能があり、日ごろから練習に練習を積んで、コンクールの本番に挑むように万全の準備をしているようなものでしょうね。
犯罪とはいえ、そこまでの高みに達した技巧って凄いですね。
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ワクチン接種

新型コロナのワクチンについて。
ピアノ関連ではないことですが、こんな時期でもあるので少しばかり。

ワクチン接種は強制ではないので、当然ながらその判断は個人に委ねられています。
マロニエ君の知る限りでも、多くの方はあらかた接種を終えつつありますが、いまだに迷っている人、あるいは頑として打たないという考えの方などもおられるようです。

打たないという人の理由は、いうまでもなく短期間で開発されたワクチンの安全性が不充分である、不明な点が多い、副反応が心配、アレルギー体質…等々さまざまです

たしかにワクチンは絶対のものではないし一定のリスクもある、未知のものだというのもそうでしょうし、現にそれによる健康被害も出ていれば、一説には死者さえ出ている由で、不安要因はもちろんあると思います。
それでも大多数の人が打っているのは、それをも凌駕するコロナウイルス(しかもますます凶暴化)への恐怖がより大きいからで、もしこれにに感染した場合の恐ろしさとワクチンに対する不安を天秤にかけて、その選択になっていると思います。

実際にコロナに罹ったという人の話を人づてに聞いたのですが、高熱や呼吸困難が10日も続くと、ついには「死をすぐそばに感じ、家族との別れまで覚悟した」ほどだそうで、そこから快癒するか死に至るかは、時の運といえば言葉が軽すぎるかもしれませんが、でも実態はそういうことなのだろうと思います。
俳優の千葉真一さんも、体力と健康には自信があるからワクチンは打たないと言われていたそうですが、もしワクチンを打っていたら、少なくとも亡くならずに済んだのでは?などとも言われてますよね。

マロニエ君もワクチン接種は終えましたが、そこに至るにはずいぶん悩みました。
しかし、完全な引きこもり生活を覚悟できるはずもなく、まして無人島にいるわけでもないので、現実的な社会生活のこと、そしてもし感染した場合のさんざん苦しみ抜いて最悪死に至る可能性もあること、周囲に及ぼすであろう多大な迷惑、あるいは治っても生涯治らないこともあると言われる後遺症に悩まされることなどを考え併せると、「どっちがマシか?」という二択での結論に達したわけです。

マロニエ君の知る限り「打たない」という結論に至っている人は数人おられて、それは一つの判断だから尊重すべきですが、そこにはひとつの共通点みたいなものがあるようにも感じます。
それは、だいたい医師や医療関係者に知り合いがいて、そこから否定的な情報を得た人だったり…。
患者としてではなく、プライベートな関係での「裏話の情報」としてワクチンの否定的な話を聞かされると、かなり大きな影響があるようですが、実際には医師の間でも意見は分かれているようです。

そんな話を聞く側にしてみれば、相手はれっきとした医師で、しかも個人的な関係から自分は表には出ない特別な情報を知り得たと感じる筈で、トドメは「自分は絶対に打たないし、自分の家族にも決して打たせない」というようなもので、そんな話を聞かされればすっかりのみ込まれ、自分も打たないとなるのもわかります。
しかし、肯定的な意見の医師も多くおいでのようだし、このさきブースターとかいって3回目が打てるチャンスが来れば、こうなったらマロニエ君は進んで打つつもりです。

マロニエ君の知るドクターの話によれば、少しでも危険や心配があればダメだというのなら、そもそも薬というのに100%安全なものはなく、どんな薬でも常にごく僅かな比率で危険性や薬害みたいなものは必ずあるのであって、コロナ以外ではほとんど表に出て来ないだけだといわれます。
あるいは、別の病気で苦しんでいる時に「新薬がある」などと聞けば、危険は承知でも投与を希望する人は少なくないようですが、ワクチンに限ってのみ慎重になるのは、なんだか不思議なような気もします。

もはや皇族方でもワクチン接種をされており、海外の王族や要人も同様で、事ここに及んでもなお自分ひとりリスクにこだわって踏ん張ってみたところでナンセンスなような気もするし、やはり先にも書いたようにコロナ感染という大事に至るよりは、比較の問題として考えるほかはなく、いまや次々に出てくる変異株に関しては、そのワクチンすら充分ではないということですから、こんな世界的パンデミックの中でワクチンを打たないということのほうが、自分だったらよほど恐ろしいことに思えてしまいます。

自分が感染することがまず怖いこともありますが、他者にうつす可能性も常に否定出来ないことを考えたら、もしもそれがもとで落命でもされようものなら、きっと生涯耐えられないものが残るでしょう。
それを思うと、ワクチンは自分の為でもあるけれど、人にうつさないためにも自分がうつらないようにするという意味合いがあって、ワクチン接種は社会性の高いものだとも捉える必要があるように思います。
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青天の霹靂

青天の霹靂というのはあるものですね。
実際は晴天の下ではなく、蒸し暑い夜の出来事だったのですが、前回に続いての家の中のトラブル。

内容というのが、なにぶんトイレの話なので恐縮なのですがお許しを。
我が家にはトイレがひとつではないのですが、自室に一番近いところにあるトイレをマロニエ君は使っており、それ以外はまずほとんど使いません。

とくだんの理由があるわけではないけれど、やはりトイレは生活の中でも最もプライベートな場所でもあり、普段来客用に使っているものなどはあまり使う気になれないし、とくに夜中などはやはり自分の寝床から離れた場所には行きたくない…などの理由がありました。
また、人によって違いはあるでしょうが、個人的にトイレは気分が落ち着ける場所であって欲しいし、ささやかでもなんらかの息抜き効果みたいなものが欲しい空間でもあります。

それが、ある晩、やけに水の流れる音がするので不審に思って見に行ったら、水がまるで止まらなくなっていました。普通ならタンク内の浮玉を手で動かせば止まったりするのが、今回はそういう問題でもない。
この機材は家を建てた時からのもので、かなり古く、業者さんからこの型は部品がもうないので、ごまかしながら使うだけで、できれば新調されたほうが…みたいなことは言われていたのです。

それでも、とくだん不便もなく使えるので、あまり気にもせず使っていたわけですが、ついに「終わり」というその日がやってきたようでした。
「これは大変な事になった…」と、とりあえず背後の元栓を閉め、翌日すぐに前回来てもらった業者さんはじめ、何軒かに診てもらいましたが診立てはほぼ同じで、機材全体の交換やむなしという結論でついに観念することに。


それにしても家の中の設備が故障するというのは、何であっても嬉しいものじゃないけれど、中でもトイレほどその不便が痛切に感じさせるものもないな…というのをひしひしと知りました。
いつもそこにあって、使えて当たり前ということを疑うことさえしなかったトイレが突如使用停止になるのは、大げさかもしれませんが生活を根本から揺るがす事態。
不便、不快、不安などストレスのオンパレードです。

余談ですが、今回交換の工事を依頼した業者さんは、馴染みのあるまあ良心的なところでしたが、ネットで調べてみると、この業界にも検索サイトなるものがあり、地域、症状、依頼内容など事細かに状況を示した上での一括見積となり、どんなものやら試しにやってみました。
ピアノの運送業者で経験がありましたが、はじめに入力する情報は、それよりもっと詳細なものでした。

すると、ほどなく続々と業者からのメールが入り、そこにはかなり安い金額を提示してくるところがズラリと並んでいて、へー!という感じで、そりゃあ、むろん安いに越したことはありませんが、でも、ただ安ければいいというものでもない。
試しに一軒電話してみたら、2時間ぐらいで見に来ましたが、我が家のトイレはとくだん特殊でもなく、検索サイトに示した内容と何も差はないにもかかわらず、さらりと口にした金額は、検索サイトに示されていた数字のほぼ4倍!
2倍でもどうかと思いますが、4倍ですよ!

あまりの違いに、問い返す気力も失って、そのままお引き取り願いましたが、その後メールで送られてきた正式な見積では「少しお値引きして…」という言葉がついて、当初の提示金額の4倍から3.5倍ほどへと微減してはいましたが、これほど提示金額と違っているのに、まるで悪びれた様子もないのには呆れるほかありません。

世の中がネット社会になり、価格競争が激烈化するのはわかりますが、はじめだけさも魅力的な数字だけで相手の気を引いて、実際にはその何倍もの見積もりを出すとは、同情の余地はなく、極めて悪質だと言わざるを得ません。


やはり実績のある業者に頼むことにしましたが、すぐに工事の段取りを付けてくれて、翌日すぐに工事着工となりました。
開始からわずか3時間ほどで完了、果たしてつやつやとした新品が行儀よく納まっており、ホッとしたのは言うまでもありません。
しかも、使ってみると一回の水量が以前に比べて驚異的に少なく、しかもすばやく確実に流れて行く様は、ひええ!と驚くばかりでした。以前のも今回のもTOTOの製品でしたが、たゆまぬ研究の成果なのか、その進歩には目を見張るものがありました。
トラブル発生から3日以内に解決できたわけですが、おかげで上記の不便、不快、不安もレバーひとつで一気に流してしまえたようです。

他の悩み事もこれぐらいあっさり流れ去っていけばいいんですけどねぇ…。
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突然映らない

コロナ禍で在宅時間が増えたことに伴い、人から強く勧められてAmazonPrimeVideoとやらを見る習慣ができて、半年ほどが過ぎたでしょうか。
はじめは「そんなものは必要ない」と思っていたけれど、映画は嫌いじゃないし、経験してみるとすっかりハマってしまい、もはやこれがあるのが当たり前の生活になりました。

やることといえば、専用のスティックを購入してテレビに突き刺すだけ。
ある程度予想はしていたけれど、そこにはなんともおびただしい量の映画やドラマ、その他いろいろで溢れかえっており、ある種の恐怖さえ覚えるほどした。
きっと今どきの人は「当たり前」のこととして顔色一つ変えないのでしょうが、何事も遅れているマロニエ君は、ただもう唖然とするばかりでした。

はじめはあまりの種類/量に、どこから手を付けていいのかもわからないほどでしたが、人は慣れればそれでも不平不満はいろいろあるようで、Netflixのほうがあーだこーだ…といろいろ違いがあるようです。
人間の欲とは際限がないもので、差し当たりマロニエ君はAmazonPrimeVideoだけでも十分以上ですが。

そんなわけで、これまでなら決して見ることのなかったであろう映画やドラマをずいぶん観ました。
こんなことをしていると、当然一枚一枚をレンタルしたり、ましてDVD購入する筈がなくなり、もはや時代遅れというのも、すべてを肯定はしないけれどわかるような気はします。
音楽CDは個人的には少し違う意味があると思いますが、一般的には当然同じ流れの中にあるはずで、この分野のビジネスが萎むのも当然の成り行きですね。

ところで、つい先日、このAmazonPrimeVideoが突如として映らなくなりました。
昨日まで映っていたものが、なぜか今日はダメになっており、理由がまったくわからない。
パソコンも同じで、メールが突然、なんの前触れもなく送受信できなくなったりすることがあり、あれはたまりません。
誰でもそうかもしれませんが、マロニエ君は殊の外この手のトラブルには弱いので、人一倍こたえるというか、ひどい時には頭痛や吐き気がするほどパニック的な感じに陥ります。

何をどうしたら良いかもわからないし、カスタマーセンターなどに電話しようにも、今どきはどこも簡単には電話番号さえわからないようになっているので、それを突き止めることからが解決への手順なので、もうウンザリ!
運よく電話番号がわかったとして、これがまたなかなか通じない。鬱陶しいガイダンスを聞きながら要件に応じて番号を押したりしなくてはなりませんが、大抵失敗もするので、やり直しだなんだと一度で済んだためしがない。

そして判で押したように「…尚この電話はサービス品質向上のため録音させて…」みたいなことを何度も聞かされ、そんなこんなで気分は最悪、時間的にもかなりの長時間に及んだりすることしばしばで、いったんトラブルが起きると、こういう一連の苦痛のコースが待ちうけているわけで、しかもそれはいつも突然のことなので、毎回終わった時には(誇張でなく)寝込んでしまいたいほど疲れます。

で、AmazonPrimeVideoですが、それが発覚したのが夜中の0時過ぎで、何をどう操作してもダメ、スティックを抜き差ししてもダメ、ネットのルーターなどの電源を入れなおしてもダメで、自分で思いつく限りの対処法もなくなり万事休すというところでした。
ネットは幸い繋がっているので、解決法などを検索してみますが、そもそもあんなもの、書き方も文章もよくわからないし、役に立ったことはほとんどありません。

Amazonにログインしても埒が明かず、それでも真夜中にあれこれとやっているうちに、自分でもどこをどうしたものか、トラブル解決のためのチャットというのがあったので、そこに一縷の望みを託してやってみたら、時間は夜中の3時頃だというのに、電光石火のごとくパッと返事が来たのには驚きました。
で、映らないことを訴えてやりとりを何往復かしたところで、電話番号を書いたら先方からかかってくるという文言があり、ここぞとばかりに電話番号を書き込んだら、すぐに電話がかかってきました。
こんなとき、人の声を聞くと、もうそれだけで半分以上救われた気がするもの。

そこにたどり着くまでが大変ですが、いったん会話すれば、とても感じ良く応対され、結果からいうとものの10分ほどで解決できました。
先方の指示にはこうでした。
TVをOFFにして、スティックと、それに連なる電源(コンセント)を両方抜いて、1分ほどして再び差し込んでみる。
するとどうでしょう!
あんなに長々と悪戦苦闘してどうにもならなかったものが、きれいに映って、操作にもサッサッと反応するように回復しているではありませんが。要するに自分で試していなかったことは、スティックの電源を抜いてみる…たったこれだけでした。

こんなとき、電話の向こうのオペレーター(というのかな?)がまさに地獄に仏のように思えますね。
幸い、今回は簡単に解決できてよかったけれど、だいたいこの手のトラブルは神経がやられる感じがします。
さすがに疲れ果てて、それから何かを観る気はしませんでしたが、安心を胸に就寝しました。
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ワクチン接種

職業上の区分によって(ありがたいことに)少し早めにワクチンを打つことができました。
新型コロナのワクチンについては、短期間で開発されたワクチンで実証研究等の不足を不安視する声も多く、接種直後の副反応だけではなく、数年先の後遺症の有無などもわからないことも多いという不安要因も含んでいるというわけで、ずいぶん考えた末の接種でした。

事前に、知り合いに等あちこち聞いてみると「打たない」という人は予想以上に多く(マロニエ君の周りにそういう人が多いのかもしれませんが)、また県内の看護師さんが接種翌日に亡くなっていたというような衝撃的なニュースもあったり、あるいは本当は安価な治療薬ができているのに大手製薬会社の陰謀で、それが日の目を見ることなく、莫大な儲けとなるワクチンを使うことになった…等々、虚実入り乱れて否定論には事欠きません。

さらには、国内外の医師など、専門家にも自分も家族も決して打たないという人が多いとかで、否定的な意見があまりに出てくるのについ驚いて危機感が募り、一度は予約できていたものをキャンセルしたりしたものの、今後(すでに?)迫り来るであろうインド株などの猛威を考えると、やはり打つほうを決断し、予約を取り直して一週間後に接種会場に赴きました。

そこで、ワクチン接種の現場とはどういうものかをレポートしてみます。
まず自治体に事前のネットでの申し込みをする必要があり、そういうことがまず煩雑です。
申し込みが受理されると、郵便で問診票や接種券といったものが送られてくるのですが、ここまでにもかなりの日数を要します。
それらを経て、ようやく予約した日時に、接種会場に行くことができというもの。

これは各自治体ごとにやり方を決めるのか、全国同じなのかわかりませんが、とりあえず福岡市の場合です。
マロニエ君の場合、接種会場はマリンメッセという広いイベント会場のB館という分館でした。

会場に行くと、建物を入ってすぐのところにスタッキングチェアが碁盤の目のようにキッチリと縦横に並んでおり、それが4つぐらいのブロックに分かれています。
マロニエ君は17時〜18時という枠だったので、17時少しまわったころに到着しましたが、すでにかなりの人が着席しており、席はすべて会場に入る順番通りと決められており、要はここから先は決められた指示に全面的に従う必要があるようです。

ブロックごとに事前説明があり、そのブロックの横一列ごと、呼ばれたら立って言われるままに中に入っていくわけですが、その様子には妙な怖さがあり、同時にこれはかなり時間がかかりそうなことも直感しました。
案の定、ここで20分ほど待たされ、ようやく自分の列が呼ばれて中に入りますが、すべての動きは少なくない関係者にしっかり監視されており、会場内に入ると、最初にまず問診票と診察券と身分証明を提出して受け付け。

それが済むと、いわれるままに移動して検温され、その結果を「自分で」問診票に書き込む。
それを見届けて銀行のように印字された番号札を渡されますが、その先にも先ほどと同様に整列した椅子があり、ここで自分の番号が呼ばれるのを待ちます。
目の前には白いボードで組み立てられた、窓もない簡易的な部屋のようなものが作られており、数カ所ある入り口には番号が振られ、すべてにカーテンがかかっていて中の様子を窺い知ることはできません。
書かれた数字を見ると、呼び出している番号の40人ぐらい手前で「うわ」と思ったけれど、ここでもひたすら待ちます。

自分の番号が呼ばれたら、指定された番号のカーテン内に入りますが、中には白衣をまとった医師がテーブルを脇にして椅子に座っていて、問診票を手渡すとそれを見ながら幾つかのことを聞かれ、それに返事をする。
そこで打たれるのかと思ったら、そうではなく、再びそこを離れ、さらにその奥のカーテンの中に進みます。

そこでは、ジーパンにポロシャツという日曜日のお父さんみたいな人(たぶんドクターなんでしょうけど、そうは見えなかった)がいて、テーブルの上のトレーには5〜6本の注射器が並んでおり、ここが接種現場であること、そしてこの人の手によって打たれるんだということがわかりました。
「お荷物はそちらに置かれてください」と云われ、ザルみたいなものの中に荷物を入れ、問診票と診察券を渡すといよいよ接種という事になりました。

「こちらを見ていてください」と白い壁のほうを示され、さも「打つところを見るな」と言わんばかりで、内心どっちを見たっていいじゃないかと思ったけれど、この際言われたとおりに。
左の肩の少し下ぐらいにアルコールのヒヤッとした感じがして、続いてチクッとしたかと思ったら、接種はそのものはあっけなく終わりました。

ここまでに40分ぐらい経っていたので、さあ帰ろう!と思って荷物をもって外に出ると、そこにはまたも誘導員が待ち構えており、18時04分と手書きされた青い紙を渡され、誘導され、「こちらにお掛けください」とここでもまた整列した椅子への着席を命じられます。
「え…、まだ終わりじゃないの?帰っちゃいけないの?」と思ったけれど、周囲の人は皆さんはほぼ沈黙で、神妙な面持ちでおとなしく指示に従っておられ、さすがのマロニエ君もその場の空気に押されて一言も質問せずに従いました。

なんでも、ワクチン接種後は15分間安静にしておかなくてはいけないのだそうで、ここで強制的に安静を強いられるようで、だからまだ帰れなかったわけです。
多くの人はスマホなどをいじるなどしながら淡々と待っておられるようでしたが、マロニエ君はあっちで待ちこっちで待ちの連続でかなり気疲れしており、さらにここからまた15分じっとしてろというのでは、それ自体がストレスで気持ちは安静どころではなく、スマホを見てゆったり時間をつぶすという気にもなれず、ひたすら修業のようにじっとしているばかりでした。

もう終わったんだから、安静タイムを振り切って帰ろうかとも思いましたが、なんと最後にもうひとつ関所が設けられており、その15分安静にしたことを表す時間が書かれた紙を持って出口近くのテーブルに行くと、ここで最後の仕上げというべき接種証明書というのを発行されるようなっており、要するにどれひとつ省略も逃げ出すことも許されない流れが構築されていました。
そんなわけで会場の外に出たのは、まさに一時間後でした。

その後は、心配した副反応もなく、夜中になって接種した部位が痛くはなったものの、ともかく1回目はそのていどで終わりました。
しかし、聞くところによれば2度目がキツイのだそうで、次回(3週間後)はより覚悟をもって挑まなくてはいけないようでです。
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クロス張替え

連休直前、自宅の壁と天井のクロス張替え工事をおこないました。

今の家が建ってから、一度も張替えをやったことがなかった部分で、汚れもかなり目立ってきていたのでやらなくちゃいけないともう長いこと思いながら、生活している状態で、家具を始めいろいろなものを動かしながらの作業になることを考えると、億劫なんてものではないので、実を言うと張替えの必要を感じ始めてから何年も先延ばしにしていたのですが、業者の方に相談したら家具類の移動はある程度先方でやってくれるというので、ついに重い腰を上げたというわけです。

作業範囲は家のすべてではないものの、かなり広範囲に及んだため丸3日にわたる作業となり、覚悟はしていたけれどやっぱり疲れました。
その中にはピアノの問題もあり、我が家はピアノにカバーをしない主義なのでカバー自体がなく、部屋の中ほどに移動させて、大屋根の上には布や薄めの布団のようなもので覆いまくっての作業でした。

それでなくてもこのコロナ禍の時期に、家に何人もの作業員の方が出入りするのもいかがなものか…という気がかりもありましたが、この機を逃したらもう永遠にチャンスは失われるような気がして、まさに清水の舞台から取り降りる覚悟で作業開始となりました。

作業員の方々は、朝から夕方まで昼食時と午後に一度休憩される以外は働き詰めで頭の下がる思いでしたが、それでも家の中に何人もの赤の他人様が終日出入りして作業が続く状況というのは、こちらにとってもかなりのストレスであることは間違いなく、本当に忍耐のひとことに尽きる思いでした。
いたるところ、足の踏み場もないほど養生のためのシートや道具類で埋め尽くされ、自室以外に居る場所もありません。

いっそ、作業期間は旅行でもできたらいいのでしょうが、このコロナ禍にあってはそうもいかないし、作業上、折々になにか聞かれたりこちらが返事や判断をしなくてはいけないことなどもあって、完全に留守にするというわけにもいきません。

そういうわけで耐えに耐えて、三日目の夕刻、ようやく作業が終わって、なんとか連休直前に完成したのですが、その間気を張っていたからなのか、完成翌日から変な息苦しさを感じるようになりました。

というのも、我が家は布製のクロスが建築時に使われていたのですが、それを剥がすときにおびただしい量の粉塵が出るのは避け難く、それが家中を容赦なく飛び回ったようでした。
作業終了後にはおおまかな掃除もしていただき、その後は自分でもせっせと掃除機をかけたり拭き掃除をしたけれど、普段無いようなレベルの汚れや粉塵がずいぶんあるようで、掃除をしてもしても足りない感じがしばらく続きました。

たとえばピアノですが、保護していたものをすべて取り払ってハンドモップをかけても、わずか半日ほどでうっすらと白くホコリが溜まってしまい、それひとつ見ても通常とはいかに状況が違うかを物語っていました。

で、マロニエ君はもともと呼吸器が弱いほうで、黄砂や梅雨の時期はもちろん、季節の変わり目、雨の降り出す前の気圧の変化でさえ胸や呼吸が苦しくなったりする体質で、そんな人間にとっては、古いクロスから出る目に見えない粉塵はかなりの悪影響があったようで、当然のように息苦しさに見舞われました。

それから5日ほど経ちますが、まだ違和感は残り、完全に回復には至っておらず、まさに身を挺してのクロス張替えだったといえそうです。

精神的にも次第に不安に襲われたのは、折しもコロナの変異株が日々猛威をふるうこの状況下で息苦しさが募るという状況は、もしや感染?という恐怖と猜疑心にもかられる結果となり、いったん不安が芽生えたら際限がありません。
まる三日間、家の中に複数の作業員がいた事ひとつとっても、外部からウイルスが侵入してきた可能性も否定できないわけで、ネットでコロナの初期症状を調べてみると、だいたいどれを見ても、発熱、空咳、息苦しさ、倦怠感などが挙げられています。

救いだったのは体温で、常に35°台で、稀に36°をわずかに超えるぐらいでそこは安定しており、倦怠感もなかったので、まあ大丈夫だろうとは思っていますが、PCR検査を受けたわけではないから、絶対に違うと断言することはできませんが、医療関係の知人の方によるとハウスダストによるアレルギー症状からの咳喘息ではないか?というお見立てでした。
この際、コロナじゃなければなんでもいいやという気になりました。

ところで、クロスに話を戻すと、色などを決めるのにショールームに何度も往復したり、もらってきた見本を壁に押しピンで止めてみたりと思案に明け暮れることになりますが、それでも実際に貼ってみた結果は、必ずしも予想通りにはいかないものですね。
この色決めというのはかなり神経集中を要するので、本当を云うと、この段階でかなり披露していたところへ、棚などを新調したり、数日置いての作業開始という流れで、心身の疲れも溜まりに溜まって極まっていたことは間違いないようです。
こんなときこそ、骨休めにのんびり旅行にでも行きたいところですが、それもできないご時世は辛いですね。
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映画『蜜蜂と遠雷』

数年前、ピアノを主軸にした異色の小説として『羊と鋼の森』『蜜蜂と遠雷』が立て続けてに出版されて、そこそこ話題にもなりました。
『羊と鋼の森』はピアノの調律師を目指す青年の成長が描かれ、『蜜蜂と遠雷』ではピアノコンクールが舞台となる小説で、いずれもすぐに購入して読んだものです。
個人的には期待ほど惹きつけられるものではなかったし、とりわけ『蜜蜂と遠雷』は架空のピアノコンクールが設定され、第一次予選から決勝までの様子が延々と綴られただけという感じで、「これが今どきの小説なのか?」とも思ったし、作者が作品にこめる意図や主題もさっぱりわからずじまいでした。

実際のコンクールではなく、あくまでフィクションであるし、かといって読んでいるだけでも小説世界に引き込まれるような文学としての面白さも個人的には感じられないまま、ただ最後までがんばって読み進んだというだけで、あれはなんだったのか?という思いだけが残りました。

この二作は映画化までされて、『羊と鋼の森』は観に行ったけれど、さすがに『蜜蜂と遠雷』はもう結構と思っていたところ、たまたまAmazonPrimeにあったので見てみることに。映画なら映画化のために多少は再構成されておもしろく仕上げられているかも…というかすかな期待もあったけれど、原作同様マロニエ君にはとりとめのないもので、観ていてどこにポイントを置いていいのかもわからないままでした。

数人のコンテクタントがべつにどうでもいいような半生や事情を抱えながら、悩み葛藤しながらコンクールに挑むという仕立てで、こういうのが今どきの味わいというか、人間描写であり感動ってやつなんですかね…。
やたらセリフの少ない心情描写のシーンが多く、ピアノの素晴らしさを伝えた母の存在とか、ホフマン(ヨゼフ・ホフマンではもちろんない)という亡大家が「爆弾を仕掛けた」と言い残したという天才少年という設定など、全体にどこか安っぽい印象がつきまといます。

韓国など、腰のすわった見応えのある映画を次々に作っているのに、日本の映画はポエムばかりで真実に目を背ける臆病さが足を引っ張っている思います。

そもそも実際のコンテクタントが、コンクールに出るあたって、そんなに自分の生い立ちだの、人生だの、恩師との関係だの、諸々の問題をピアノと関係づけ、立ち止まり、ピュアに悩みぬいた末にステージに登場しているだなんて、申し訳ないけれど思えません。
コンクール出場なんてもっと直接的な、世俗的な、生々しい欲望と立身出世のための勝負の世界がそこにあるだけとしか思っていないので、物事を事実からかけ離れたように美化して描くことが小説だなんて、とても思えないのです。

ピアノ学習者の中から、とくに才能と実力があると認められた者が、さらにプロとして一旗あげるための手段として有名コンクールに出る、ただそれだけなんじゃないの?としか思えないのです。
そのために名だたるコンクールを渡り歩く常連組も少なくなく、近年のコンクールとはひとことで言えば、ピアニストの就活以外のなにものでもない。
いわば、ピアニストとしてやっていくための一攫千金を狙うようなもの…それに尽きると思うんですけどね。

原作にしろ、映画にしろ、あまりにも作者の意図をとらえ難いものだったので、もしやマロニエ君のほうが作品に対する理解力を欠いているのかと思い、Wikipediaをみてみたら「国際ピアノコンクールを舞台に、コンクールに挑む4人の若きピアニストたちの葛藤や成長を描いた青春群像小説」とあり、はあそうですか…という感じでした。

マロニエ君だったら、もし国際ピアノコンクールを小説化するのなら、そもそもコンクールなんて要望と闇だらけのものなんだから、山崎豊子調の生々しい切り口で(コンテスタントのみならず、ピアノメーカーも巻き込んでの)どす黒い世界として描いたほうがよほど読みごたえもあるし、社会に対する問題提起にもなるのではないかと思います。

それを五社英雄氏のように映画化でもすればおもしろいと思うけれど、いずれももうお亡くなりになった方ばかりだし、マロニエ君の好み自体がもはや時代遅れなのかもしれません。
自分が古いぐらいは一向にかまわないけれど、どうして今の人って、あんなにふわふわした甘ったるくてわざとらしい情緒世界がそんなに好きなんだろうかと不思議だし、おそらく社会派風のエグさのある作品より、表面的にきれいでポエジーで「夢を追う」といった感性が根っから好きなんでしょうね。

現実の人間関係でもきれい事ばかりで、善人を演じるのが「大人の対応」などと尊ばれる世の中だから、好みまで変化してしまっているのかもしれません。
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承認欲求

こんなくだらないブログでも、書くにあたって最も難渋するのはネタ探しであることは、以前もグチったことがあるように記憶しています。
なんでも書きたいことを心のままに書いていいのなら話題にも事欠きませんが、さすがにそういうわけにもいきません。

ネタは大抵、その人が過ごす日々の生活の中にあるもので、そこからどうにか無難なものを拾ってくるわけですが「書くわけにはいかない」ことは、ほとんどはボツになってしまいます。

直感的な比率でいうなら「書けないネタ」のほうが断然多いのは確かで、しかもそっちの方が内容としては遥かに面白いのに、それを捨て去らなくてはいけないのは辛いところです。
おまけにこの一年以上、新型コロナの騒ぎで世の中はすっかり萎んでいるから、素材もより少なくなり、そんな中からネタを探すのは以前よりもずっと難しくなりました。

というわけで、最近のことを少しぼかして書きますと、人間関係でドッと疲れるのはコンプレックスの強い人です。
他人のことに異様に興味を持ち、会話の中に自分のアピールがやたらと差し込まれ、話は空虚な内容の繰り返しだから「またはじまった」というわけです。

本来たのしくあるべき雑談は、話題はなんでも構わないけれど、その場にいる人達が共有して楽しめる内容であるべきですが、そこへ自慢やハッタリの響きが聞こえてくると、内心シラケて疲れてきます。
とりわけ困るのは承認欲求が並外れて強い人。

まわりも大人だから誰も面と向かってツッコミはしないけれど、これをやると、むしろひとり浮いていくだけの逆効果なんですが、悲しいかなご当人はその一番大事なところに気が付かれません。

ピアノにもいろいろありますねぇ。
自分の実力を何段も飛び越えて、自分はそれぐらいの場所にいるんだといわんばかりに難曲大曲に手を付ける人。
いつも取り組んでいる曲といえば「えっ、ウソでしょ!」といいたくなるような、プロ並の御大層な曲ばかり。

難しい曲に魅力ある作品が多いのも事実なので、そんな曲を弾きたいという気持ちはわかるけど、「弾きたい」のと「手をつける」のとでは大違い。それを一切無視して欲求の赴くままゴリゴリと練習するのかなぁ。

でも、当然ながらほとんど弾けていないし、そういう人の演奏ははじめから終わりまで陰惨で、テンポも維持できないから時間も長いし、一刻も早く終わることをひたすら願うのみ。

マロニエ君はいつも思うのは、演奏技術はむろん上手いに越したことはないけれど、大事なことは自分なりに丹精して仕上げたものを演奏に込めること。
手に負えない曲に手を付けると、技術の未熟さがより明確に露呈するだけ。
それでは自分の値打ちを自ら下げているようなもので、人の手垢のついた中古品を買ってでもブランド物を持ちたがるような、なにかたまらない気持ちになるものです。

それもなにも、すべてをひっくるめて「個人の自由」「アマチュアの楽しみ」といってしまえばそれで終わるのだけれど、そんなことをして音楽や自分を貶めることはないのでは?と思ってしまいます。

ちなみにアマチュアでも、音楽が好きで、曲のもつ雰囲気や細部の美しさに敏感で、それをできるだけ表現したいと願っている人も少ないけれどおられて、そういう人の演奏は思い通りには行かなくてもいい瞬間などがあり、その気分だけでも伝わってくるものですが、そういう人は必然的に選曲も自分の技術の限界をわきまえたものになっているのは云うまでもありません。

ま、プロのピアニストでも、やたら大曲・難曲好きの人っていますよね。
普通ならプログラムにメインの一曲として据えるような曲を、わざと何曲も並べて、それをもって注意を引き、自分のレべルの高さを顕示しようとするような人。

しかし、その演奏といえば大抵はただ弾いているだけで、偉大な音楽を聴いたという満足や幸福な後味はひとつもなく、先に述べたような承認欲求にまんまと付き合わされたなぁ…というような疲れだけが残ります。
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演歌

以前、東京芸大に潜入する番組を見たときに、はじめて知ったことがありました。
音楽学部の間では、異性から最も人気のあるのは、楽器別でいうと男性に人気はフルートの女性、女性に人気はチェロをやる男性が圧倒的に人気なんだとか。

チェロはちょうどあのサイズといい、曲線的なカーヴといい、それをうしろから全身で抱きかかえるようにして、ときに愛情深く慈しむように、ときに激しく演奏するのが女性にウケるんだとか。
要するにセクシーだということでしょうし、なるほどねぇ…と思わないでもないけれど、なんだかちょっと生々しい感じを受けたのも事実。

もちろん、音楽はもとより芸術全般に色気やセクシーさは不可欠だけれど、この場合は演奏とか表現性のことではなくて、もっと直截的な響きがあって「ひぇ〜」と思った記憶があります。
あまり良い表現ではないけれど、男性がチェロを無心に弾いている姿はモロにそういう連想をさせるのだと知って、いらいチェロの演奏(とくにソリスト)を目にするとそれを思い出してしまうのは、なんだかおかしいようなウザいようなことを知ってしまったようで困ります。

カザルスやロストロポーヴィチやフルニエには考えもしなかったことですが、ヨーヨー・マになるとあの表情からしてかなり微妙なものが。

さて、いま日本には絶大な人気を誇る男性チェリストの方がおいでのようです。
あえてお名前は申しますまい。

とても上手い方で、音楽作りのあり方もくっきりと明快で切れが良く、それこそエロい力強さもある。
これまでのチェロの穏やかで、どちらかというと後ろに回るイメージからはみ出して、まずなによりメリハリがきいていて表現も大胆でときにくどいほど、とくにソリストとしてこれまでのチェリストにはなかったヴィヴィッドなフォルムを描いて駆け上がってきたという感じ。

デュ・プレのような天才や狂気ではなく、あくまでもこの方の慎ましく誠実そうな人柄の奥にあるらしい男性的なフェロモンみたいなものが、チェロを介して十全に撒き散らしているように思います。
とくにこの方は、温厚で優しげな男性のイメージですが、ひとたびチェロを弾きだすや激しい熱情が露わとなり、そのコントラストも魅力なんでしょうね。

はじめの頃はキリッとした演奏をする、上手い人だなと肯定的に捉えていましたが、正直言うと最近はいささか鼻につく点も感じるように。

これってデジャブというのが適切かどうかわからないけれど、彼のやっていることと人気の根底にあるのは、いつかなにかで見たような気がして、よくよく考えてみると現代的にカタチを変えた演歌だいうこと。

いかにも一途な愛や情熱、嘆きや哀愁をひたすら音楽に注ぎこむ一途な男の姿は、いったんそこに気がつくと、急にお腹いっぱいになるのでした。
ラン・ランがどんなに世界を飛び回っても根底が雑技団的でしか無いように、日本人は観阿弥世阿弥か演歌浪曲のいずれかに行き着きついてしまうものなのか?
行き着くと言うよりは、バックボーンにあるものや遺伝子の問題?
遺伝子にかなったやり方だけら、ごく自然にウケるともいえるのかも。

マロニエ君の知人で、物事を思いもよらない鋭い目線で捉える人がいるのですが、曰く、髭の生やし方でその人の心理的な特徴が表れると力説されたことがありました。
で、きれいに整えられたアゴ髭まではいいけれど、それが上にきて下唇までつなげる人は云々というくだりを思い出しましたが、まさにこの方は控えめではあるけれど下唇までつながるアゴ髭があり、頭髪はサイドは短く刈り込まれているのがやけに生々しく、もちろん眉などお顔のお手入れも相当やっておいでのようで、ご自身のビジュアルのメンテにも相当気を配っておいでということに気が付きました。

テレビ媒体にしばしば登場し、あくまでも主役として派手に激しく演奏し、いったん演奏がおわると、パッとやさしい純朴で謙虚な男性に早変わりになるあたりは、まるで歌舞伎のようで、このあたりがキモなんだと思いました。

松本清張の『黒革の手帖』ではないけれど、「お勉強させていただきます!」と言いたくなります。
ま、どれだけお勉強したって、マロニエ君にはできっこないことですが。
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スマホはあって当然?

ちょっとしたいきさつがあって、昨年12月、車を買い替えました。
これまで乗っていた趣味の車を知人が引き継いでくださることになり、新世代の車(ぜんぜん大したものじゃありませんが)を買いました。

ここで、今どきの世のトレンドというものを車を通じて知らされることに。
この車には、ラジオはかろうじてあるものの、CDプレーヤーもカーナビもなく、カープレイとかいう、自分のスマホを繋いで使ってくださいというもの。

世界のスマホの普及率がどのくらい達したのかしらないけれど、車の購入者なり運転者はスマホを持っていることが前提の作りになっており、ガラケーの人はあっさり切り捨てられています。
海外では日本以上にスマホが普及しているのか、キャッスレス化なども遥かに進んでいるという話も聞くので、菅さんが携帯料金を見直しなどと言っている裏には、もしかしたら通信環境全般で遅れた日本を他の先進国並みにという目論見もあるのかもしれません。

さて、スマホ内の音楽ソースでもって車内に音を出し、ナビゲーションもスマホの地図アプリを繋いで映し出すし、あるときなど停止中電話したら車内のスピーカーから相手の声が出てきておどろくなと、とりあえずまだよくわからないことだらけで、苦手なので試せてもおらず、試そうという意欲も薄く、すべてが後回しに。
こういうことが殊のほか苦手なマロニエ君にとって、こりゃえらいことになったと思いました。

これまで、車の中で聞く音楽は複製したCD-Rを車のプレーヤーにただ突っ込んで聴いていだけだし、家ではCDで聴くのみ、よってスマホの中に音楽は一曲も入っておらず、まずはその音源作りから始める必要に迫られました。

さしあたり、適当に選んだCDを10枚ほど自宅パソコンのiTinesに読み込ませ、それをiPhoneに移し替えることにしたわけですが、今までそんなことやったことがないので、それをどうするかだけでもあれこれ調べて、ヒイヒイいいながらなんとか移し替えはできました。
たったこれだけでも疲れる作業なので、手慣れた方からすればバカみたいに思えるでしょうけど、わからないものはわからないし、知らないものは知らないのだから仕方なく、ぜんぜん楽しくない。
ようやく車に繋いで音出しに成功したと思ったら、はじめに鳴り出したのがゴルトベルク変奏曲。

で、あの有名なアリアが終わり、当然、第一変奏がくると思っていたら、いきなり最後の変奏になり、まずこれで目が点になりました。ベートーヴェンのカルテットなどもいきなり最終楽章から鳴り出すなど、ようするに再生順がおしりからになっているわけで、こんなバカなことはないし、だいいち気持ち悪くて聴いちゃいられませんが、なぜそうなるのか、正しい順番に鳴らすにはどうしたらいいかがまたわからず、先は長そうです。

運転中に不慣れな操作をして事故るわけにもいかないので、赤信号であれこれやってみますが、便利なものって便利になるまではストレス先行で、そこに至るまでのいくつもの波を乗り越えるかどうかが問題ですね。
この手のことが得意な人が見て触れれば、なんでもパパッとたちどころに理解できて、自在に使えていいのかもしれないけれど、だれでもそうとは限らない。
たかだか運転しながら車中で音楽を流す、ただそれだけのことでも大変で、もはや人間は素直な感覚でゆったり生きていくことは許されなくなったんだなぁとしみじみ感じます。

また、スマホとの連結はもちろん、あらゆる操作が中央のタッチパネルに集約されており、エアコンの温度や風量を調整するにも、車両のこまかい設定をするにも、いちいちそのための画面を呼び出してピッピッとやらなくてはなりません。
おまけに音にしろセンサーにしろ安全機能にしろ、なんでもが「設定」ずくめで、身の回りのものがすべてこの「設定」を必要とするのは、自分流にカスタマイズできるという点ではメリットもあるのでしょうが、正直ウンザリもします。

かりに操作になれたとして、じゃあもしこの集中モニターや制御するコンピューターの大元が壊れたらどうなるのか、スマホにしてもありとあらゆる生活のための情報やコンテンツをこれひとつに集中させるのは便利かもしれないけれど、もしこれを落としたり盗まれたりしたらどうなるのか、それを考えるとゾッとします。

よく若い方が「スマホは命より大事!」と空虚な笑いとともに言い放ちますが、命より大事かどうかはともかく、それぐらいこの小さくてズシッと重い機械にすべてが握られ、依存し、支配され、精神的にも頼りきってしまうようにされてしまうのは、概ね間違いないだろうと思います。
幸いなことにマロニエ君は、そこまで依存するほど使いこなすスキルがないことが幸いして、人よりは深みにはハマらず済んでいるのかもしれませんが、それでも外出してスマホを忘れたことに気がつくと、いいしれぬ不安につつまれ、面倒くさくてもできるだけ取りに帰ります。
そうまでして、結果はまったく使わなかったなんてこともあるところをみると、やはり支配されているということでしょうね。
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2021年

あけましておめでとうございます。
昨年は世界中が新型コロナに明け暮れる一年でしたし、それは未だ進行形でもあり、収束の目処も立たないという不安の中で迎える新年となりました。

世の中がそんなふうになると、音楽やピアノに関する話題やこのブログに書きたいようなネタも激減するのはやむなきことで、このブログもいつまで続けられるかわかりません。
少しずつ再開されるコンサートも厳しい制限付きですが、音楽というのは本来ある種ノリの世界なので、そういうことになってくるとますます衰退するのではないかと危惧しています。
とりわけ音楽業界に身を置く人の苦悩は如何ばかりかとお察しします。

意外な現象もあるそうで、さる業界の方から聞いたのですが、ヨーロッパ(とはいっても一部の国かもしれませんが)では、コロナ禍以降、下降気味だったピアノ販売が好調に転じているとか。

これは取りも直さず、ステイホームで家の中の楽しみとしてピアノでも弾こうという事なんだと思いますが、やはりそのあたりがヨーロッパは西洋音楽の発祥の地だけあって、根底にあるものがちがうなぁと思います。
日本人は、どんなにステイホームと言っても、せいぜい大型テレビを買ったり、ふだん作らないような料理をしたりと、過ごし方は様々でしょうけど、少なくともピアノを買って家で弾こうという行動にはつながる人は、極めて少ない気がします。

クラシック音楽にかぎらず、楽器を購入して楽しむということが根本的に文化として身についておらず、わけてもピアノといえば練習だレッスンだと修行のほうが先に来て、その延長の先のほうに一部の人の趣味があるだけ。
生活の中に音楽したり楽器に触れたりということが自然な楽しみとして根を張っていない故だと思います。

それと、生活形態も人々の意識も昔とはずいぶん変わって、多くの人達が、街中の便利のいい機能的なマンションで暮らすのが圧倒的に増えました。
それはいいけれど、同時に世の中の価値観や空気も変容し、俗にいう「不寛容の時代」というものに年々厳しさが増していて、一つの建物のなかに上下左右を別の世帯と壁一枚で仕切られて生活しているための不自由も少なくないようで、なにごともルールづくめとなり、それが行き過ぎた観もあるのか、ずいぶんと窮屈を強いられるようです。

管理する側も、各世帯の自由と幸福を維持するために奮励努力するなんてまっぴらのようで、問題があれば片っ端からルール化し、ルールがあればそれに違反した人には違反者のレッテルを貼り、場合によっては罰するという処置しかしないのがほとんどだとか。

当然、ピアノの音などは糾弾の対象となるものの筆頭で、一人でも迷惑という声が上がったら最後、うるさいと主張する側が守られ優先され、音楽を楽しむ人の権利はまったく顧みられないようです。

これでは、よほど高度な防音対策でもしていない限り、ピアノなど弾けるはずもなく、ピアノ=周囲への遠慮と気遣いというストレスになり「楽しむ」どころではないようです。
よって日本ではピアノを取り巻く環境は年々厳しさを増し、肩身の狭いものになってしまうようで、この流れはなかなか止められないのでしょうね。

尤もピアノひとつが弾けたからといって、コロナの苦しみが解決するわけではありませんけど。

パンデミックや不穏な国際情勢のせいで、世界中が前途多難という印象が拭えませんが、かといって自分だけそこから逃げ出すわけにもいかないので、そんな中でを少しでも楽しくやっていくしかないですね。
2021年がどんな年になるのかわかりませんが、ともかくよろしくお願い致します。
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歪んだ自己顕示

つい最近、フルートマニアの友人から聞いたこと。

彼はさほどの演奏もできないのにモダンフルート(古楽器ではない、現代様式の金属のフルート)のコレクターで、ムラマツ、ヘインズ、ハンミッヒ、ルイロットなどいくつもの名器をコレクションしているお馬鹿なのですが、まあその点ではマロニエ君も(コレクションこそできませんが)ほぼ同類であることはかねがね書いてきたとおりです。

さて、フルートのような管楽器や弦楽器は定期的にメンテに出して、調整したり、消耗品の交換をしたり、時に解体修理をしたりと定期的なプロのケアを必要とするようで、楽器と名のつくものはおしなべてそういうものであるようです。

それを請け負う職人さんにも様々な名人・才人・奇人のたぐいが多々おいでのようで、修理のやり方ひとつにも各人各様の流儀と価値観・手法・巧拙があり、どこの誰に頼むかは難しいところのようです。
技術者のセンスや考え方、持ち主との相性や好みなどが幾重にも絡みあい、単純な答えがないあたりもピアノ技術者と同様だなあと思います。
いや、ピアノより楽器が小さく繊細なぶん、技術者の施した仕事の影響を受ける要素も多いのかもしれず、技術者選びはさらに困難を極めるといえるのかもしれません。

ヴィンテージの楽器が得意な人(ピアノと違って、そこには真贋の鑑定やそれに伴う金銭問題も含む由)から、メーカー系の定める基準にそって、マニュアル通りの整備を目指す人まで様々で、よって依頼する楽器によっても使い分けが必要なようです。

驚いたのは、さる名人とされる職人某さんの談によると、修理や調整にはよほどの自信とプライドがあるからか、自分が手がけた楽器(それも名器と言われるもので、そのへんのお稽古用の楽器ではない貴重な銘器!)に、自分が技術者としてその楽器に関わったという証を残すために、どこか所有者には見えないところに自分なりの印を入れるのだそうで、早い話が自分だけにわかる「キズをつける」のだそうで、これには仰天しました。

この方は、これを友人へさも誇らしげに語ったというけれど、マロニエ君は聞いていいてまったくいい気持ちはしませんでしたし、これは職人さんがやってはいけない道義の問題ではないでしょうか?
もし自分がそんなフルートの銘器の所有者で、わずかでもそういう印(キズ)を入れられたと知ったら、マロニエ君はとてもイヤだし容認できないだろうなと思いました。
唯一許されるとすれば、それは製作者のみ。昔のピアノには内部の何処かに墨文字で製作者の署名があったりしましたが、それはオーナーに内緒でキズをつけるというような陰湿なものではなく、堂々と名前や日付が書かれていただけ。

たかだか修理や整備をしたらかといって、所有者に無断で「キズ入れ」とは、どのような理由をつけようとも、他人の価値ある所有物に勝手に自分の印を刻み込むなんぞ、思い上がりも甚だしく、マロニエ君は聞いたそばから憤慨しました。
もし記録として純粋に必要なら写真を撮ってシリアル番号と仕事内容などを記録するなど、別の方法もあろうかと思いますが、楽器本体に消せない印を入れるのは自己顕示も甚だしい行為だと思いました。

骨董の世界などは、本体のお値打ちはもちろん、箱書きや添えられた古文書が示す来歴、時には包んだ布切れなどまでが骨董としての価値を決定することもあるようで、さらに歴史を加える場合には、箱ごと入るさらに大型の箱を作って新たな箱書きをするといったことをするようですが、喩えて言うなら、鑑定家が自分の手を経たからといって貴重な志野茶碗や織部や乾山の作品に、自分だけがわかるキズを入れるようなもので、そんな冒涜的な話は聞いたこともありません。

こういうことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、どんなに名人であっても、楽器の技術者さんは裏方の存在であって、自分を表立って表現する仕事ではありません。
…だからこそ、そういう歪んだ願望を抱く御仁も出てくるのかもしれませんが。

そういう行為には、どこか倒錯的な心理さえ垣間見える気がしてゾッとしてしまいます。

あんがいストラディバリやグァルネリの中を開けたら、そんなものだらけかもしれず、だからああいうオールド楽器の世界って素晴らしさとオカルトやホラーが背中合わせなのかもしれません。
人の悪意や怨念が渦巻いたとき、音に魔力が加わるものなのか?!?
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GoToなんたら

巷ではGoToキャンペーンだのGoToイートだのでかなり話題ですね。

でも…、ある知人が先日関東からやってきたのですが、その行動にはいささかの疑問も。
結論からいうと、日程、行動、店選び、要するにその行動の大半がこの手の「特典」をゲットすることが中心…といって悪いなら優先のようになり、まわりはそのために動かざるを得なかったのです。

もちろん、目の前にある特典はゲットしたい、使いたい、無駄にならないようにしたいという気持ちは大いにわかります。
それでもやっぱり思ったことは、そこにも自ずと節度というのはあるわけで、それ中心に行動するというのには違和感がありました。
ホテルにチェックインするといくら分かのチケット(かなにか)貰えるけど、地元で2日間しか使えない。
あるいは、食事をしようとGoToイートを使うにも事前予約が必要で、しかも対象店はかなり限られて、マロニエ君は店選びには関与しなかったけれど、聞くところによると多くは居酒屋のようなところだったりで、単なる食事では選ぶだけでも一苦労。

また店があるエリアは、繁華街のど真ん中で公共交通機関ならともかく、車族にはアクセスも悪く、空き駐車場を探しまわる心配もある。
おまけに食事の開始時間も、病院食よりも早い時刻のコース料理しかなかったなど、なんだか全部がもうバラバラで、なんのために何をしているんだろう?という印象でした。
駐車場も混みあうエリアなので、置けるかどうかの心配もあった(幸い苦労せず置けましたが)、GoToパーキングはないのだから、駐車料金はコース料理が終わるまでバッチリかかってくると、トータルで何がお得なのかもよくわからない。

更には、地元でポイントだかキャッシュバックだかしらないけれど、それを使うためだけのためにお店に行って「使う」ことが条件らしく、それを中心にした行動でした。
ポイントを最後の一滴残さず使い果たすとなれば、それなりのがんばりも要る。

コロナ禍が産み落とした経済活性化のためのシステムであることはわかるけれど、なんだか人間の内側に潜むガツガツした浅ましさが一気に吹き出物のように出てくるような感じで、コロナももちろん困るけど、全体として、ますます変な世の中になったもんだと思いました。
そこには人間が持っている浅ましさと、システムを利用し尽くすというゲーム的な感覚がないまぜになった、独特な闘志みたいなものがありました。
すべてを網羅的に使い切ることが、まるで頭脳明晰な勝者ででもあるかのように。

もちろん、そうはいっても、かくいうマロニエ君だって、自分がその恩恵に与る立場に立てば、できるだけ利用したいとはむろん思うとは思います。
でも、そのために周りの人の都合や流れもなにも、すべてがこれが優先事項になるというのは、べつにきれい事をいうつもりはないけれど、どこかヘンな気もしました。

逆にマロニエ君が東京などに行って、知人が集まって会ってくれるとなったら、もちろん使えるものは使うけど、とてもそのGoToだなんだを使い切ることをメインにして、予定の大半を組み立てるような度胸は幸か不幸か持ち合わせていませんね。

繰り返しますが、マロニエ君とて目の前にあって、すんなり使えるなら使いたいとは思います。
できることなら使える店であってほしいとも願うでしょう。
でも、そのために他者をあっちだこっちだと振り回すなら、適当なところで切り捨てると思います。

尤も、今の若い世代の人達だったら、驚くにも当たらないようなことなのかもしれませんが、それは全員が若くて、それそのものを楽しむ場でないとサマにならないというか、いい年してそんなことに血道を上げるのは、やっぱり個人的にはいただけません。

「あーあ、損したけど、ま、いいや!」ぐらいの緩さのある人がいいですね。
それにしても、コロナは収まるどころかヨーロッパでは再び猛威を振るい出し、東京や北海道でも心配な数字が発表されているようで、この冬、どんなことになっていくのか、まだまだ明るい気持ちにはなれないようです。
アメリカの大統領選挙ももう目の前ですね。
どんな世の中になるのやら…。
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張り込み

先週の連休最終日に非常に珍しいことがありました。

午前11時半ぐらいだったか、チャイムが鳴ったので出てみると、黒マスク姿のいかつい感じの中肉中背の男性が門前に立っていました。
出て行くと、いきなり警察手帳を見せられて、実はある捜査をおこなっているとか。
もしお願いできるなら我が家の敷地内、南北二方向に入らせてもらって、しばらく見張りをさせていただきたいという要請を受けました。

藪から棒にそんなことを言われてびっくりしたのですが、具体的な説明や言葉を避けながら、とある人物(単独か複数可かは不明)を追っているという事はかろうじてわかりました。
犯罪捜査に協力するのも市民の努めだろうと思い、承諾する前に再度警察手帳を見せてくださいと言ったら、すぐに応じてくれて、いかにも使い込まれた感じの二つ折りの黒い革の手帳を広げてそれらしきものを見せてもらいました。

とはいえ、テレビや映画ぐらいでしか見たことはないから、それが本物かどうかまではわかりませんでしたが、同時に名刺を渡され、県警本部の人らしく、二列に及ぶ長々とした肩書が右横にあって、名前の上に刑事部長とあり、ともかく「どうぞ」ということになりました。

刑事さんなので色のない地味な私服で、車も普通の軽自動車でした。
敷地の南北に別れ、一人は裏庭に通じる通路に身をひそめ、もう一人はガレージ前に車を止めてその中から監視がスタートしました。
「これって、ええっと、なんだっけ…なんだっけ?」と思いながら、やっとのことで「張り込み」という言葉を思い出しました。

我が家は蚊が多いので、蚊取り線香に火をつけてもって行きましたが、「すみません、ありがとうございます。」という簡潔な言葉だけで、それ以上の言葉は一切なく、じっと道路側を見ていました。

むろん、こちらが手伝うこともないわけで、早々に家の中に入りましたが、それからの長いこと長いこと。
やはりドラマのように年配のベテランさんと、若い部下と思しき二人組で、車内と庭を一定時間で交代しているようでした。

でも、じんわりすごいものを見た気はしましたね。
「張り込み」というのは、まさに見ることが仕事で、他にはなにもしないので、ただひたすらそこに30分でも1時間でも自らの存在を消すようにひっそり立っているだけで、見ること以外なにもしないことに、却って近寄りがたいような迫力がありました。
さらに、しっかり目的をもって道路の方角をずっと見ているためか、目元にはえもいわれぬ鋭さがあり、普通の人の表情とはあきらかに違う厳しさがどうしようもなくあたりに漂います。

むろん雑談なんぞする雰囲気も皆無で、こちらもたまに見に行ってはそそくさと引き上げますが、はじめはほんの1時間ぐらいだろうと思っていたところ、お引取りまでに要した時間はきっちり6時間にも及びました。

その間、別にこちらがなにか規制されたわけでもないのだけれど、なんとなく普段とは違って、家の内外をウロウロするのも憚られ、やはり精神的にそわそわするばかりで非常に疲れました。

しかも、最後に大捕り物があったわけでもなく、収穫無しでのまことに静かな終了でした。
6時間も場所貸ししたのだから少しぐらい聞いてもいいだろうと思って、最後に少し話をすると、新手の窃盗だということだけは聞きました。

マロニエ君宅のあたりは市内でも古くからある住宅街で、あまり物騒なことなど聞いたこともなかったので、こんな珍客には大変驚いたわけですが、やはり時代も変わり、コロナ騒ぎなどもあり、いろいろな目に見えない変化とか、人心の乱れが渦巻いているのかもしれません。

それにしても、警察官や刑事さんの仕事の大変さをあらためて痛感しました。
テレビの『警察24時!』みたいな番組は好きなので時々見るのですが、あれはいわば娯楽番組として成り立つよう見どころだけを編集されているものですが、よく「内定一ヶ月」なんてナレーションを聞きますが、実際は半日でもとてつもない重労働だと思いました。

よほどの訓練と忍耐力、それを支える精神力と体力、くわえてある種の慣れみたいなものが備わらないと、とても常人に務まるものではないと思いました。
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システム

むかしに比べると、購入するCDの数もだいぶ減りましたが、それでも時々は購入しています。
マロニエ君ももはや古い人間になってしまい、いろいろな新しいテクノロジーが台頭してもついていけませんし、その気もありません。
いまどき嵩張るプラスチックケースに入ったCDを積み上げて、そこから聴きたい1枚をとりだして、そのつどプレーヤーに滑りこませるなんて、もはや古色蒼然たるやり方なのかもしれないけれど、自分はこうでなくては音楽を聴く気分と形が整いません。

今回、某大手の音楽専門ネットショップに注文していたCDは、これまで室内楽以外ほとんどきいたことのないボルトキエヴィキのピアノ作品集でした。
8巻からなるバラ売りものですが、それを注文したのが6月の中頃。

一部は在庫がないようで、海外発注をかけてくれているようですが「なかなか手に入らないので今しばらくお待ち下さい」というメールが数回届いていましたが、あるとき「このCDはあいにく取り寄せができません」という旨のメールが届きました。
具体的には5枚は準備出来ているが、残り3枚が入手困難というわけです。

その時点で「準備出来ているものだけでも購入する」か「すべてをキャンセルするのか」を選ばなくてはならず、マロニエ君はあるだけでも聴いてみたいので、5枚だけでも購入するという選択をしました。

で、数日後には送ってくるものと思っていたら、一向に届かず、おかしいなぁ…と思っていたら近隣のコンビニ留めでそれを自分で取りに行くということになっていたようですが、注文から2ヶ月以上経っていることもあって、そんな認識がまったく頭にありませんでした。
このあたりの注意が悪かったのは専らマロニエ君の責任ということになります。

というのも、これまで購入するCDは長いこと自宅に届いていたので、今回もそうだと思い込み、それ以上の注意をしていなかったのです。
すると、ある日「コンビニでの保管期限を過ぎたのでキャンセル扱いとなりました」というメールが届き、この時点でびっくり仰天、はじめてコンビニ受け取りということに気がついたわけです。
保管期限を見ると、メールを目にした時点で期限失効から12時間が過ぎるかどうかというところでした。
あわてて当該のコンビニに電話すると、その荷物はまだお預かりしていますが、おそらく返品扱いになっているので、お渡しできるかどうか不明、詳細の書かれた紙などを持って来ていただけたら処理をやってはみますとのこと。

というわけで、すぐにそのメールをプリントし、部屋着のままコンビニへと飛び込みました。
幸い電話に出た方がおられたので、すぐに店内のなんとかいう名前の端末に向かって操作をしてくださいましたが、やはり自動的に返品処理となった後で、その端末からはどうすることもできないので、購入者とショップの間でやりとりをして欲しいというわけで、こちらの連絡先を残して一旦帰宅することに。
コンビニ側も回収業者には品物を渡さないですむように言ってみますと、とても協力的でした。

ところが、その発送元のネットショップに連絡しようにも、ご多分に漏れず電話番号が書かれておらず、あせりながらパソコンと格闘した末に、ついにカスタマセンターの電話番号なるものを他から突き止めさっそく電話し、事情を説明しました。
内容はすぐに伝わり、今どきなので、これまでの購入履歴などもわかったようで、あれこれ手を打ってくれたようですが、先方が言うにはいったん回収命令が下ったものに撤回の指示はできないことになっているとのこと。
二ヶ月以上も待っていたCDなので、キャンセルする気は毛頭なく購入したい旨を伝えると、結論としては、いったんこのまま品物を送り返し、しかる後にもう一度発送しますので一週間ほどお待ち下さいということで、それで話は決着しました。

もちろん、その間メール連絡などは来ていたのだろうし、それを一字一句見逃さないための注意を怠ったこちらに責任はすべてあるといえばそうなるわけで、店側はやるべきことはキチンとやったということもわかります。
しかし、現実的には毎日見たくもないようなメールが何十通も来るし、重要なものとそうではないものの取捨選択だけでもひと仕事で、こんな結果を招くほど重要なメールとは思わなかったというのが正直なところ。

いずれにしても品物はもうコンビニまで来ているというのに、それをまたどこか遠く(おそらく関東でしょう)まで返送し、再度送り直すとは、システムには適っていても今どきのコストと効率重視の世の中にあって、なんとバカバカしく無駄なことかと思いました。

ショップに落ち度はないし、コンビニも親切で協力的だったし、2ヶ月強も待ったCDだからマロニエ君としてもキャンセルする気などさらさらない。
寝坊でもして飛行機が離陸してしまったというのならともかく、目の前にある荷物を時間切れというだけで受け取ることさえできないなんて、システムというものがそんなにすべての中心でエライのだとすると、なんだかとてもやりきれない気持ちになりました。

メール確認を怠ったマロニエ君が一番の責任者といえばその通りなのですが、人間は忘れることもミスすることもあるし、保管期限から何日も経過していたというならともかくも、まだ目の前にあるというのに、そういう場合のちょっとした融通さえもきかないのは、率直に言わせてもらえばそのシステム構築にも問題があるのではないかと思いました。

システムというのであれば、(少なくとも品物が回収される前なら)操作によって回収を撤回する機能を追加すればいいじゃないかと思いました。
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大事なこと?

くだらないといわれそうなこと。

マロニエ君がスマホをもつようになったのは昨年12月の初旬のことでした。
その手続きに際しては、プランがどうの、この説明、あの説明、ここにもあそこにもサイン、在庫確認だ、なんだかんだでソフトバンクのショップ滞在時間は、実に2時間オーバーというヘビー級のものでした。
もうクタクタで、店を出た時は、めまいがしそうでした。

その一連の手続きの中に、画面に保護のためのシールというのがセットでついているとかなんとかで、よくわからないまま貼ってもらいましたが、その保護シートがいつごろだったか、はじめは汚れかと思ったら上のほうに小さな浮きのようなものが現れ、時が経つにつれ増大していきました。

あまり気にせず使っていましたが、ついには横幅いっぱいにまで成長したために、さすがにこれはマズイと思いショップに行くと、ニコリともしないベテラン風の女性が出てきて「ご用件は?」と聞いてくるので、ざっと説明をすると、保護シートの保証期間は6ヶ月です、昨年の12月でしたら保証期間は切れておりますので新たにお買い求めていただくことになりますが!とにべもなく至って事務的にいうのに内心ムッとなりました。

浮きが出たのはずいぶん前だったことを説明すると、奥の人間と相談しながら、今度は若い男性が対応に出てきて、端末をお預かりしますと言われ、名前や生年月日などを書かされて、さらにまたこちらにやってきて身分証明書といって免許証まで提示させられました。
それから待つこと15分ほど。

なんらかの処理をしてくれているものと思っていたら、やっと預けたスマホを手に戻ってきたその店員が口にした内容は、なんと、はじめの女性と何も変化のない、まったく同じことの繰り返し。
さらに保護シートというものは浮いてくるものだから、仕方がない事だという主張。
だったら、なんのために名前を書かせたり、身分証明として免許証まで見せたり、さんざん待たせたりしたのか。

最近は、何事にも努めておとなしくしているマロニエ君ですが、さすがにこの時は納得がいかず、今日の今日、保護シートが突然浮いてこの状態になったわけではなく、はじめはよく分からず様子を見ていたこと、また、購入時に保護シートは浮いてくるものという説明はなかったし、そもそも保護シートにまで保証期間があって、それが6ヶ月というのも知らなかった。
1年も経っているというならともかく、保証が切れて1ヶ月たらず、しかも浮きの発生は6ヶ月以内で時間とともにだんだんひろがってきたもの、さらには10年以上にわたって家族分を含めてこの店だけを利用してきて、あげくこのような規定ルールを冷たく言い渡されるのは不愉快であること、よって交換には及ばないことを伝え、すぐに店を出る準備をはじめました。

するとその店員は再度奥に行って相談したのか、戻ってくるなり「今回だけ特別に!」ということで無償で張り替えてることになりました。
どうせ千円やそこらのもので、ネット上には山のように売っているようなものですよ。
普段から過剰なサービスをエサにしては顧客の取り合いに明け暮れていながら、いざとなるとこんなお粗末な対応をして、せっかく贔屓にしている顧客の心象を著しく害するのはどういう了見なのかと思いました。
それと、マロニエ君はべつに無償交換にこだわっているのではなく、その際の対応があまりに木で鼻をくくったような、申し訳ないという気持ちのかけらもない冷淡で不愉快きわまる対応、これに憤慨したのです。
むこうだって商売なんだからお客さんには笑顔で接し、申し訳ないけれどもこれこれの事情があり、こういう対応にならざるをえないと礼を尽くしていわれればそれでいいのですが、こちらの気持ちという一番肝心な部分をいきなりバサッと斬りつけてくるような対応には不快感しかありませんでした。

さらに同じ日、そのすぐ近くのスーパーに行くと、購入商品を袋に詰めるスペースで「お客様の声」というのがボードに張り出してあり、直筆で同情を禁じ得ないことが書かれていました。
スーパー内のベーカリー店でパンを購入したところ、並んでレジを済ませたら、なんと自分の次の人から半額となり、非常に不愉快だったということが綴られていました。

半額にするなら、やはりそこはちょっとお客さんが途切れてからにするとか、ちょっと前倒しして半額扱いにするとか、商売というものはそういうちょっとした気遣いや心遣いが後々に響くもので、あまりに無神経なやり方だと思います。
少なくとも、不愉快な思いをさせられたら、傷ついた側はいつまでも覚えていますからね。

こういうことは人によっては「くだらない」「大したことじゃない」などと一蹴される可能性がありますが、我々生身の市井の人間の生活感情においてはそういうことはくだらないこととはマロニエ君は断じて思いません。
事象としてはくだらないかもしれないけれども、そこに生じた不快感はまぎれもなく本物です。
ささやかなことで喜んだり幸せな気持ちになることは大事だというなら、その逆もコインの裏表で同じことでしょう。
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既読

ずいぶん前でしたが、LINEの「既読」というこんな些細なものをめぐってイジメや事件になるなど、社会問題になったことがありました。

当時のマロニエ君はLINEがメールとどう違うのかもよくわかっていなかったくらいで、「キドクって何?」というような感じで理解がついていかなかった覚えがあります。
中でも驚愕したのは、小学生か中学生で、LINEのメッセージが来たら10分だか15分だか、それぐらいの時間内に返信しなければ仲間はずれにされ、イジメの対象になるという恐ろしいもので、故に子どもたちも常にストレスにさらされているというものでした。

それが今現在どうなっているのかは知りません。

ただ、そういうことが尾を引いているのか、この「既読」という小さな文字の有無に気を遣うというのが後遺症となって残っているのか、既読という小さな文字の向こう側に人の心の動きが読み取れることがあります。

マロニエ君なんぞは、そもそもスマホ歴も浅いし苦手だし、交友関係も広くはないからそんなにたくさんの人とLINEのやり取りをしているわけではないけれど、それでも、人によってちょっとした性格とか神経の動きを感じることは…ありますね。

全体からみれば一部の方ではあるものの、あきらかに既読マークが表示されることを意図的に回避していると思われる(気がする)場合があって、もちろん確証はありませんが(そうだとすると)たかだかLINEごときにそんなに神経を張りつめなくてもいいのでは?と思うことがあるわけです。

それは、既読がついた以上はコメントしなくちゃいけないけれど、すぐにはそれをしたくない、もしくはできない状況、面倒だからあとでいい…大方そんなところでしょう。
読んだのに返事しないとこちらに失礼と気を遣ってくださっているのか、すぐに返事しないことで自分の印象が悪くするという保身なのか、そのあたりはよくわかりませんが、とにかく敢えてコメントを開かないことで既読表示を回避し、「まだ読んでいませんよ」「だから返信に至らないのです」という作為を感じるのです。

マロニエ君にしてみれば、そんなにすぐ返事をしていただかなくても一向に構わないし、あとからでも返事もらえたら幸いという程度ですが、そういうちょっとしたことでこまごま気を遣われるというか、悪くいえば小細工されるというのは妙にわかるもので、不思議ですよね。
そして、残念ながらこれ、さほど狙い通りの効果をあげている…とも思いません。

スマホとの接し方というのもむろん人それぞれだから一概には言えないけれど、今どき、平日の昼間とかならともかく、夜間や休日にそう長いことLINEを見ない、つまりスマホを触りもしないということは、一般的にはあまり考えられません。
むしろ、心配になるほど、大多数の人はなにかというとスマホに触っていないと落ち着かない場合が多く、人の手がスマホを離れることのほうがずっと難しいし、そのほうがよほど稀だと思うのです。

いったんスマホを手にして、LINEなんかをやりはじめるということは、良し悪しは別にして、一定時間おきに何かをチェックをするという少々のことでは元に戻れない習慣に冒されてしまったと見るのが一般的で、だから、まったく既読がつかないほど丸一日これに触れないなんてことのほうが現実的に想像しにくいわけです。

現に知人などに会っていても、今どきはごく自然な動きでスマホをさりげなく触ったり、音がすればチェックするという動作はしょっちゅうで、仕事中など明確に禁止された状況以外で、自らにケジメの線を厳しく引いて、きっぱり遮断できてしまうという人がいるとすればそれは相当の強靭な意志の持ち主であり、チョー珍しいと思います。
そんなチョー珍しい人がそんなにたくさんいるとも思えないわけです。

だから、やっぱり意図的に開かないようにしていらっしゃるんだなあ…そんなにしなくてもいいのになあ…と思うわけです。

むしろ、あるていどのタイミングで既読がつくほうが自然だし、あとから自由なタイミングでコメントを返してもらえるほうが、個人的にはよほどホッとするわけで、返信するまで既読を付けない状態をキープすることのほうが、よほどピリピリした緊迫感があって疲れます。
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修理は掃除!

このひと月ぐらいのことでしょうか。
リビングのテレビに繋いでいるブルーレイ・レコーダーから、「ウー」とか「ジーー」とかいう、なんとも嫌な感じの音がするようになりました。

はじめは「たまたまだろう…」ぐらいに軽く考えていたのですが、一向に収まる気配はないどころか、その音は確実に強くなってくる感じで、これは寿命が近いのかと思い、なんだか無性に焦って、用心のために新しいレコーダーを買いました。
だって、修理に出せば2015年製なので保証期間は切れているし、買い換えたほうがいいぐらいの修理代がかかりますよと告げられるに決っているし、その間、録画などできない状態が1週間から10日はかかる等々がわかっていたから。

とはいうものの、レコーダーの中には録画している夥しい数の番組があって、それらを見ないまま新しいレコーダーに交換する決断もつかず、数も数なのでそれをディスクにダビングするのも面倒くさくてしたくない。
特別な方法によっては、溜まった録画をそっくり新しいほうも移し替えることも不可能ではないようですが、方法がよくわからないし、面倒だし、とりあえず見られるから危ないとは思いつつ先延ばしに…。

しかし昨日の夜、NHKのケネディ暗殺の前編を見ていたら、何の前触れもなくプッと切れてしまいました。
ついにその瞬間がきたらしく、よく見るとレコーダーの電源が切れており、再度スイッチを入れたらONにはなって、一度は胸をなでおろして視聴を再開するも、またプッと切れる。
それを何度か繰り返しましたが、ものの1分もしないうちに勝手にOFFになってしまい、ついに観念しました。
問題は、そのレコーダーの中にはクラシック倶楽部やプレミアムシアターなどのまだ見ていないもの、ほかにも映画とか、マロニエ君の好きな警察密着番組などがびっしり入っており、それが一瞬で見られないものになってしまったと思うと目の前が真っ暗になりました。

しばし呆然としたところで、以前YouTubeで見た覚えのある「ヤフオクで手に入れたジャンク品のAV機器を修理する」みたいな動画が面白くて、何本か見たことを思い出しました。
多くの場合、再生しなくなったり、CDは音飛びしたりという症状ですが、実際の原因というのは故障というほどのものではなく、大半はCDのピックアップセンサーを掃除する(最悪の場合交換)というようなことで、ほとんどが解決していました。

こうなったら仕方がない、これをやってみることに。
ビデオの場合、電源、テレビとの接続ケーブル、アンテナなど計5本の線が差し込まれているので、位置を間違えないようまずその部分の写真をスマホで撮り、ひとつひとつ外していきます。

電気モノに詳しいわけでもないし、機械いじりはむしろ苦手で、えらく大それたことをやるようですが、もうそれしかないのだからこれこそダメモトです。
テーブルに新聞を広げ、本体の背後や裏側に付けられたネジを緩め、慎重にフタを開けてますが、これが機種ごとにネジの位置も役目も様々だったり、プラスチック部分を固定している爪を折らないように気をつけるというのも注意点として覚えていました。
内部があらわになるまでに15分ぐらいかかりましたが、果たしてそこには無数の複雑な基盤が並び、その横にハードディスク、さらにディスクの可動部があります。

中は万遍なくパウダー状の灰色の埃で覆われており、まずは掃除機で慎重に全体のホコリを取れるだけ取り、次いで綿棒で基盤とか小さな配線などを傷めないように、やさしくゆっくりと掃除しました。
内部の冷却のためか、小さな扇風機みたいなものがあって、その周りはとくに埃が集中していたので、綿棒を何本も取り替えながら30分ほどクリーニング。

自分でできるのはここまでというところまでとにかくやって、逆の手順で組み上げて、最後にスマホの写真を見ながらケーブルを繋いでいきます。
内部はもちろんですが、機械の真下なども恥ずかしいほど埃が溜まっており、この際きれいにしたのはいうまでもありません。

さあ、高鳴る胸を抑えつつ電源を入れてみると、無事ONに。
ドキドキしながら、さっき見ていたケネディの…を再生してみると、とりあえずきれいに映ったし、数分経ってもプツンと切れる様子はありません。
それに、ふと気がつけば、あの忌まわしい「ウー」とか「ジーー」の音もまったくしなくなっています。
どうやら修理ができたようで、こころなしか画面も前よりも明るく鮮明になっているような気がしましたが、これは嬉しさもあってそう見えているだけかもしれません。

もし修理に出したら、「掃除したら終わりました」ではお金も取れないから、あえて何かの部品を交換されて、相応の費用と時間と手間がかかったかと思うと、うれしくてうれしくて、思わず「ヤッター!」と叫びたいほどでした。
機械に弱いマロニエ君が自分で解決して、また音楽を聴いたりよしもと新喜劇を見たりできるかと思うと、ああうれしや!これが達成感というものか!と思いました。
YouTubeで説明してくれたお兄さんに心からのお礼をいいたいです。

そうすると、新しく買って開けてもいないブルーレイ・レコーダーはどうなるんだろう…。
まっ、いっか!
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思わぬかたち

コロナ発生以降、社会の主流になったもののひとつつがリモート☓☓☓。

多くの会社や学校などが雪崩を打ったようにこちらに移行し、ピアノのレッスンなど、各種お稽古事に至るまで軒並みリモートレッスンへと形を変え、何事であれ人と人は距離を取ることが厳しく求められることに。

やむを得ぬこととはいえ、これは、きっといろいろなことに影響が及ぶのは必至で、思わぬことが思わぬかたちに変わっていくことを、もはや私たちはコントロールする手立てもない気がします。
当然なが物理的距離をとることは、必然的に精神的な距離も開くことになり、ますます殺伐とした世の中になるような…。

さっそく「リモハラ」とかいう弊害まで出始めているとかでびっくり。
自宅の背後の映り込みから個人のプライバシーや趣味・趣向などを知られて、上司から大勢の前でそのネタでいじられたり、やたら大きなテレビを持っているな!などと言われたり、いろいろあるそうです。
勤務時間とはいえ、常にONの状態(やったことがないのでわかりませんが)を求められるので気が休まらないとか、クライアントを交えた会議やプレゼンテーションでもっと顔の表情をつける、手を高い位置にして拍手をするなど、業務以外の細かい指示などもあって、これらが新たなストレスなんだとか。

オンライン飲み会というのも流行っているそうですが、これが相当に問題をはらんでいて、評判が悪いらしい。
それぞれが自宅なので、料金の心配も、閉店の心配も、終電の心配もないから、まさにエンドレスで延々続くのだとか。
ある証言によると、これが午後8時から翌朝5時まで延々9時間にわたったりするそうで、これはもう虐待では?
スタジオでは「適当に退出すればいいじゃないですか!」などといいますが、上司はじめ職場の人間関係がある中で、「じゃあ私はこの辺で失礼します。プチッ!」というわけでにはいかないでしょう。


それはともかく、こんなリモート☓☓☓をいつまでもやっていると、ついには同居家族以外は遠い存在となり、水槽の中の小魚みたいにならないとも限りません。

過日の新聞にありましたが、在宅ワークに慣れるといまさら会社に行くのが嫌になり、それも猛烈にイヤダ!という人が増えているそうで、このまま在宅ワークのままでいたいという人が優に60%を超えたそうです。

これもまさに「思わぬことが思わぬかたちに変わっていく」現象のひとつでしょうね。

思わぬ変化を、別の事例でいうと、コロナ以降まず変わったのは車を運転していて、一部の人の交通マナーが極めて悪くなったこと。
緊急事態宣言からこっち傍若無人な動きとすごいスピードであたりを蹴散らすように走る車が、あきらかに増えました。
狭い車間で狂ったように車線変更する、まさかというタイミングで割り込んでくるなど、一度出かけるとだいたいこの手の車を数台は必ず見ることになりました。
道路上というのは、一定の秩序と信頼関係によって安全を維持しているわけですが、ちかごろはこの手合がいつどこから現れるかわからず、気が抜けません。
全体からすればごく一部でしょうが、その一部がもたらす悪影響というものは間違いなくあるわけで、つられて悪化するドライバーもどんどん出てくるとすると、これも一種のウイルスみたいなもの。

また、夜の歩行者や自転車のルール違反も目に見えて増えており、自転車はもともと我が物顔で車道・歩道・逆車線・信号無視など、知ったことか!とばかりにかっ飛ばしていたものが、さらに拍車がかかってカラスみたいになっているし、歩行者も、信号無視や横断歩道のない夜間の幹線道路を平然と横断したりと、まあとにかくこちらも注意してはいますが、こわいのなんの。

とくに車の無謀運転は、単にスピード出しすぎといった問題ではなく、精神的にキレてしまったような動きがしばしばで、それでなくてもストレス社会であるところへコロナがトドメとなって、その恨みが運転に出ているという感じもします。
数時間前も市内幹線の県道を、いかにも仲間同士といった3台のクルマが、猛烈なスピードで走っていくのをとある駐車場から目にしましたが、何かのタガが外れてしまったのか、とにかく巻き込まれないよう願うのみです。
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緊張感はむしろ上昇

新型コロナウイルスは、今のところ落ち着きを見せており、世界的にも徐々に経済活動を再開する動きが出ているようですね──もちろん国や地域によって差はありますが。
日本国内もしだいに感染者が減少して、いろいろな動きが出始めていますが、第2波を注意しながらのあくまで慎重かつ限定的なもので、緊急事態宣言下よりもある種の深刻さを感じています。

以前このブログに、竹中平蔵氏が「収束しても、決して以前と同じ世の中には戻らない」という意味のことを発言されたと書きましたが、すでにその兆しが出始めているのかもしれません。

海外の大手航空会社が倒産したのが象徴的ですが、じっさいぽつぽつ倒産などの話も出始めており、むしろこれからのほうが経済が被った打撃の結果がじわじわと確実に出てくるようで、暗澹たる気分になるばかり。

ファミレスで有名なロイ◯ルホストは福岡が地元ですが、つい先日もグループが運営する関連店舗のうち、全国で70店ほどを閉めるという報道があり、じっさい店の前を通ってもどこもお客さんはまばら。

また街のいたるところで夜中まで営業していたスポーツジムは、緊急事態宣言解除後もどこも暗く閉ざされたまま、再開の目処も立たないのでしょうし、再開しても客足は大幅に遠のくでしょうか。

これまで福岡市は慢性的なホテル不足で、どこも常に満室みたいな状況でしたが、現在は窓に明かりが灯っているのは見上げても2つか3つといった状況で、中には完全に閉めてしまっているホテルもちらほら見かけるほど。

病院は忙しいのかと思えば、なんと赤字のところが少なくない由。
コロナの現場では医師をはじめ関係者の方々は寝る暇もないほどの激務が続くいっぽうで、それ以外は院内感染等を恐れてか…以前のように人の足が気軽に病院に行かなくなり、経営面では非常に厳しいのが実情だとか。

コロナ不況が最も端的に見えてしまうのが空港かもしれません。
福岡空港は市内博多区にあり、近くを車でよく通るのですが、小さな空港にもかかわらず、その離発着数ときたら普段は異常なほどで、時間帯によっては離陸するにも旅客機が誘導路で渋滞、到着も空中で4機ぐらい縦に列をなしているのがこれまで普通の光景でしたが、この忙しい空港からもののみごとに飛行機の動きがなくなりました。
一説によると9割減便だそうですが、まさにそんな感じで、たまに思い出したように到着してくる機体が目に入ると、なんだか懐かしいようなありがたいような、どこか悲しいような気分になります。
これが時間とともにかつての賑わいを取り戻すのかどうか、今のマロニエ君にはちょっとイメージ出来ないし、実際どうなんでしょうね。

ニュースによれば九州全体で毎月平均40万人近くあった外国人の入国が、先月はわずかに30数名というのですから、単純に言っても1万分の1以下に減少しているわけで、やはり驚愕の数字です。
営業を再開した映画館なども前後左右を間隔をあけながらということで、これはもちろん感染防止のためには必要なことですが、何事もこの調子でということになると、とても本来の経済活動とは言いがたく、そこから利益を生み出していくなど至難の業でしょうね。

いまだにブラジルなどでは感染拡大が止まらず、毎日2万人という猛烈なペースで増加だそうです。
さらに今後は世界第2位の人口を擁するインドで拡大という話もあって、これはコロナウイルスという目に見えない敵と戦う、まさに第3次世界対戦といっていいのではないかと思います。
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ギックリ腰

コロナウイルスで緊急事態宣言、外出自粛など、日々を過ごすだけでも気を張ってストレスを感じるこんなときに、なんたることか、ギックリ腰になりました。

朝起きてしばらくして、着替えをして、床で靴下を履いて普通に立ち上がろうとした瞬間、腰まわりを稲妻に打たれた(ことはないけれど)ような感触が走り、そのまま立ち上がることができなくなりました。
まわりの机やら何やらを掴みながら決死の思いで立つことは立ったけれど、まず頭をよぎったのは「…これはエライことになった!」ということ。

当然それから何をするにも大変で、昼食を食べるのもやっと、ちょっとしたものに手を伸ばすことさえ強烈な傷みに襲われるし、そもそも真っ直ぐ座っているだけでもグラグラして文字通り腰が座りません。

どうしてまたこんな時期に、なにか不自然な姿勢をとったわけでもなく、変な力をかけたわけでも、重いものを持ったわけでもないのに、よほど日ごろの行いが悪いのか、なにかの罰が当たったのか、単にそういう歳なのかわからないけれど、目の前の現実がただただ腹立たしくて情けない気分。

ちょうど休日だったこともあり、午後はふらふらと壁伝いに自室に戻ってパソコンなどをやっていましたが、しばらく椅子に座って次に立ち上がろうとすると、それこそ耐え難いような激痛に襲われ、身体はくの字になったまま伸びないし、1メートル歩くのにも汗ばむほど。
本当にこれは大変なことになったと、ほんとうに泣きたいくらいでした。

何年も前の大晦日に、その時は自分の不注意からやはり腰を痛めたことがあったけれど、治るのにはずいぶん長くかかったし、コルセットが手放せない日々を送ったことでもあり、これから先のことを思うと暗澹たる気分になりました。
症状は時間経過とともに間違いなく悪化しているのがわかり、ベッドに横になるのも汗ばむほど難儀だし、横になったらなったで数センチ身体をずらすこともできません。

ちょうど知り合いのドクターにLINEでこのことを伝えると、専門ではないものの「そのうち治りますよ」という感じの軽い応答でしたが、しばらくして「えっ?」と思うようなコメントが届きました。

なんと、安静一辺倒かと思っていたら「最近は普通に歩いたほうが快復が早いという話が多い」のだそうで、整体師の中には逆さ吊りのような荒業をかける人もあるらしいということが書いてありました。

あまりの辛さから、この際どんなことでもやってやれ!という、ほとんど捨て身のような気分で、ゆっくりと腰をまっすぐに立てていたらどうにかなることがわかったので、階段の登り降りをやってみました。
普通なら、とてもそんな恐いことをする勇気などないマロニエ君ですが、これからはじまる辛く不自由な、脂汗まみれの毎日を考えたら、もうどうなってもいいというようなヤケクソの勇気が湧き上がり、痛さを無視して上ったり下りたり7〜8往復ぐらいすると、少なくともそれでひどくなる気配はなかったので、しばらく休憩して、ヨーシ!とばかりに夜の散歩に出かけました。

それでわかったことは、ギックリ腰といえども真っ直ぐに立って、真っ直ぐに歩くぶんには、思ったよりも歩けるということでした。
大事をとって家からなるべく離れないよう心がけながら、それでも数ブロックぐらい歩いたら、後半はさすがにちょっと辛くなってきましたが、なんとか無事に帰宅することができました。

それでも、就寝時は寝返りも打てないのは辛かったけれど、翌日はだいぶ収まってさらに散歩を続けると、夕方にはずいぶん症状が改善されており、前日に比べたら劇的な変化を遂げていました。

ギックリ腰=痛くて長期戦というこれまでの認識からすると、わずか一日でこれほど痛みが減るのは望外の事で、信じられない気持ちでした。
すでに4日を超えましたが、さほどの辛さもなく、注意深くしていれば普通に生活できて、車の運転をして食料品の買い出しにも行けるようになりました。

もちろん、医師でもないマロニエ君としては、無責任なおすすめはできませんが、たまたま自分にはこれが良かったようでした。
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収束後の世界は…

先日のEテレ-クラシック音楽館をみていたら、長引くコロナウイルス感染拡大の波を被った音楽界の様子をとらえた内容となっており、演奏機会を失った音楽家たちが発するメッセージと、過去の演奏などで構成された番組でした。

中でも指揮者で鍵盤楽器奏者の鈴木優人さんが、過日のバッハのヨハネ受難曲が「私の最後の演奏になった」という言い方をされたのは、おもわずドキッとさせられました。
もちろん、コロナウイルスによって公開演奏が一時的にできなくなる直前の「最後」という意味ですが、なんとはなしにそれ以上の深刻な響きがあったような気がしたのでした。

音楽家に限らず、あらゆる職業の人達が同様の苦しみの中におられることはいうまでもありません。
朝起きて外の景色を見ると、ときに眩しいばかりに美しい快晴の日があって、木々は風にそよぎ、目にはあたかも穏やかな平和な景色に見えるのに、実際にはこんなひどいことになっているなんて、そのたびにウソみたいな気がします。

以前テレビの討論番組の中で、竹中平蔵さんが言われた言葉はちょっと忘れることができないものでした。
もう録画は消去したので、正確に写しとることはできないけれど、要するにいつかこのコロナウイルスが収束しても、そこから始まる世界は決して元通りではないというものでした。

これだけの災厄を経験した世の中は、それ以前と以降では、明らかになにかが「変わる」というのです。
その根拠としてSARSやリーマンショックの前後をみると、そこを契機にあきらかに世界は「変わった」んだとか。

いまや世界の経済を牛耳り、人々の暮らしのカタチさえ変えてしまったGAFA (グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったもの)は、リーマンショックの後に急速に躍進してきたもので、それ以前は大して意識もされなかったこれらの新興企業が驚くべき短期間に世界を席巻したということをみても、言われてみればそうだなと思いました。

コロナウイルスにとっては、国境も政治も経済も人種も知ったことではなく、まさに目に見えない悪魔となって地球上を飲み込む勢い。
こんなパンデミックの恐ろしさに震えながら過ごす毎日はいつまで続くのか…。

これは事実上の、砲弾が飛んでこないだけの第三次世界大戦のようでもあり、ノストラダムスの大予言が20年ばかりズレて起こったといえなくもない状況で、これだけのことを経験させられた世界は、たしかに竹中さんの云われるように、収束後は以前の通りということにはならないでしょうし、よく考えたらなるはずがないでしょう。

それがどんなものになるのかはわかりませんが、少なくとも今回世界を恐怖に落し入れたコロナ騒動は、SARSやリーマンショックどころではなく、それを思うとその向こうにどんな新しい世界が待ち受けているのやら、不気味な気さえします。

また、終わった時は、ただ終わった!というだけなのか?
現在は感染拡大防止と収束にむけて世界中が全エネルギーを注ぎ込み、文字通り戦いの最中ですが、これが一段落したら、発生源の原因究明、これほどの拡散に至った初期対応への検証など、相応の責任追求というのは厳しくなされるのか否か、こちらも気になるところ。

夥しい数の感染者、亡くなった方、ありとあらゆる予想だにしなかった途方もない損失損害、無事に生き延びたにしろ、その間に味わった不安と不自由と苦痛は、これはちょっとやそっとのものではないですからね。
収束したら「ハイおわり、お疲れ様、パチパチパチ」では済ませられないと思うのですが…。
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パンデミック?

新型コロナウイルスの騒ぎは日々拡大し、深刻さの度合いを増しているようで、困ったことになりました。
くわえてしんどいのは、収束の見通しなど、先が読めないことでしょうか。

このような危難に際して、一市民としては日々の情報には敏感でなくてはいけないとは思うのですが、連日にわたり朝から晩までコロナ関連の報道を浴びせられていると、それだけでも気分は滅入り疲れきってしまいます。

ウイルスという目に見えない敵を相手にするのは、最も陰湿な戦いを強いられているようなもので、世にはびこるのは不安と疑心暗鬼。

マロニエ君のように情報に対して常に周回遅れの人間にとっては、気づいた時にはもうマスクなど買えるはずもなく、スーパーに行った際に薬局などをいちおう覗いてはみるものの、どこも棚はガランとして品物はなく、「入荷の目処は立っていません」みたいな紙がプラプラと下がっているだけ。

たった一度だけ、偶然だったのか無いはずの棚に7枚入りのマスクがほんの少しあって、本能的に手を伸ばしてゾワゾワするような気持ちでレジに持って行き、どうにか購入できたことがありますが、それも支払いが済んだ時には、次々に人の手にとられて、あっという間になくなりました。
あとは家にあったわずかな買い置きのマスクをかき集めて、これをなんとか大事に使うのが関の山で、ここ最近ではマスクをなんとか手に入れようという意欲も失いました。

隔離、封鎖、さらには非常事態宣言などという言葉も、なんともいえず心に重くのしかかるというか、いやでも絶望的な気分にさせられます。
世の中のイベントやら経済活動やら、あらゆる「動き」が自粛や中止となり、社会が一気に沈鬱な色に。

さらに個人的には、追い打ちをかけたのがティッシュペーパーやトイレットペーパーの類が一斉に店頭から消えてしまったこと。
マロニエ君はちょっとしたストック癖みたいなものを抱えているために、これは人の何倍もダメージを感じます。

はじめの頃、大型スーパーで人目もはばからず大量買いしていく人達の動画がSNSでアップされ、これが非難の的になりましたが、たしかにあれは見ていて気持ちのいいものではありませんでした。

でも、だからといって、それをネットなどで非難する論調も、やたら正義正論の拳をふりかざして、個人的にはちょっといただけない響きがありました。
デマに乗せられて行動する人達を、エゴの権化、愚の骨頂、社会の恥のように厳しく言い立てて批判してますが、人は恐怖にかられたときに、そんなに冷静にデマと真実の見分けなんてつくのか?と思います。

ティッシュペーパーやトイレットペーパーが無いことが多くの人達のトラウマになり、いまだになかなか買えませんし、こう言っては申し訳ないけれど、うちに少しの買い置きはあっても、もし売っていれば…やっぱり買うと思います。

マロニエ君宅は先月、タイミング的に調律を控えていたのですが、このコロナ騒動のせいか、調律師さんもパッタリ連絡してこられず、きっと気を遣って遠慮しておられるんだろうと思います。
なんとなく、そんなことやってる場合じゃない!みたいな空気なので、どうしたものかという感じです。

驚いたのは、テレビで専門家が言っていましたが、アメリカの古くからの風習では、ウイルスが流行るとなんとかいうパーティーをやって、人が集まってわざと感染するんだとか。
これは薬など容易になかった時代からの知恵なんだそうで、一度感染すれば抗体ができて却って安心という、なんとも荒っぽい(でも理に適った?)やり方のようで、びっくり。
欧米は今でも基本的に風邪やインフルエンザでは病院に行く習慣がなく(医療費が日本のように安くないこともあり)、一部では今でも残っている風習というのですから、なんとたくましいことかと唸りました。
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東京タワー

『新・美の巨人』というTV番組がありますが、東京タワーが採り上げられたことがありました。
戦後復興の中で、テレビ/ラジオ放送が始まり、そのつど局ごとに建てられる電波塔乱立問題を解消するため、総合電波塔が建設されることになり、内藤多仲の設計によって1958年の暮れに竣工した当時世界で最も高い電波塔。

マロニエ君の子供時代は、叔父叔母たちが複数在住していたことから、休みになると足繁く家族で東京に赴いていましたが、羽田に着いてタクシーで首都高を走って都心に向かうと、横羽線がモノレールと平行して走るあたりから小さく見えてくるのが東京タワーでした。
それがだんだん大きくなり、環状線に入って芝公園付近に達するや、その圧倒的な姿はこれでもかとばかりに眼前に迫り、いつも胸踊らせながら食い入るように見つめていたものです。

東京タワーの高さは群を抜いており、これを脅かすものはひとつもなかったところに、まず霞が関ビルができ、次いで浜松町に貿易センタービルが登場して、大展望台並の高さのビルができたことだけでも驚きでした。
その後は新宿に京王プラザホテル、池袋にサンシャインとだんだんに高層ビルができましたが、それでもさほどの勢いではなく、東京タワーの高さと存在感はバブルの頃までは維持されていたように思います。

しかし時は流れ、六本木ヒルズをはじめ高層ビルの乱立がはじまり、ついにその優位性が名実ともに決定的に奪われたのは、東京スカイツリーの登場であることはいうまでもありません。
でも、それが却って東京タワーの数値ではない品格であったり、歴史遺産としての貴重な建造物としての存在価値を問い直す結果にもなったように思います。

さて、番組ではとび職による建造中の様子など、貴重な写真や映像が数多く紹介されましたが、「うわっ!」と声を出すほど驚いたのは、タワーそのものではなく、竣工時(すなわち60余年前)の東京の景色でした。
いったいどこの田園風景かと思うような、のどかな野っ原の上に、できたての東京タワーはえらく淋しげにポツンと立っているだけで、まわりにはウソのようになにもなく、足下に小石でも転がるように木造の粗末な建物がちょこちょこっとあるだけで、まさにガリバー旅行記の一場面のようでした。

それが今はどうでしょう。
林立する高層ビルが周囲を取り巻いて、かろうじて東京タワーだとわかるのは、昔よりも色目が派手になった赤の色と、夜は目にも鮮やかな照明技術により、美しく照らし出されている効果も大きいように思います。
まさにひとりぼっちでスタートした東京タワーは、いまや人混みの中に凛と立つ貴婦人といった感じで、その光景は時代そのものの激しい変化と、とどまるところのない競争社会を象徴しているようにも思えました。

日本人の精神の中には「判官贔屓」というのがあるから、今の東京タワーのほうが人々からより愛される存在になっているかもしれませんね。

ちなみに、設計した内藤多仲は「塔博士」とも言われる鉄塔設計の第一人者で、ほかに名古屋テレビ塔、通天閣、別府タワー、さっぽろテレビ塔、そして氏の設計した最後の塔が博多ポートタワーで、その下に遊園地があったことから子供の頃に何度も登った博多港の小さなタワーが、まさか東京タワーと同じ生みの親だったとは、今回はじめて知りました。

各タワーの写真を見比べてみると、なるほど鉄骨の組み方から逆台形の展望台の形状や窓の感じまで、どれも似ているというか、同じDNAであることがわかりましたが、その規模、スタイルからして、東京タワーがダントツにカッコイイですね。
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靴は大事

マロニエ君にとって、いつもウンザリすることのひとつが靴選び。
良いと思って購入したものが、いざ履いて出かけるとしばしば問題が起こり、普通に履き続けられるものがきわめて少ないのです。

靴が合わないというのは、単に足の問題だけにはとどまりません。
そこから体調やメンタルまで、心身の全域に悪影響がおよぶから困るのです。

なので靴選びはいよいよ念には念を入れて、サイズを始め、店内を何回もぐるぐる歩いてみたりと、それはもうしつこいばかりにチェックを重ねるのですが、本当のところは購入して実際に履いて出かけてみるまでわからない。
あれほど慎重に吟味して選んだはずの靴が、時間経過とともにじわじわとおかしなことになってきて、最後は脂汗をかきながら帰宅するときの、あの無念さといったらないのです。

したがって、マロニエ君にとって靴選びは少しも楽しいことではなく、また失敗したらという恐怖でしかありません。
「オシャレは足下から」なんていうけれど、正直そんなことはもはや二の次、そこそこ気に入った色とデザインで快適に履けるなら、安物で結構(というか高級品は買えませんが)。

昨年だけでも慎重に選んだつもりだったにもかかわらず、3足の靴がついに足になじまず、こればかりは人にあげるわけにもいかないので、数回履いただけの新品に近い靴をボツにせざるを得なくるのは、かなりのストレスです。

購入時はチェックも万全と思ったのに、後日、いざ履いて出かけてみると、はじめはほんの僅かな違和感からはじまり、それがだんだん募って確証へと変わり、やがて足先から毒素がまわるごとく全身に苦痛がひろがって疲労困憊するという流れ。
新しいからそのうち慣れてくる、革は伸びるなどと思って何度か試みますが一向に改善しない…どころか、時間が経てば経つほど靴の中はじんじんして熱を帯びたようになり、気分は落ち込み、体調までふらふらになってくる。

こうなると、恐怖が先に立って、でかけることにもビビってしまう始末。
ついには履きなれたヨレヨレのデッキシューズを車の後ろの床につんで出発しますが、やはりダメで、ものの10分でコンビニの駐車場に入って履き替えるといったことも何度かありました。
靴下のわずかな厚みによっても違うし、足の甲に当たっている感じのわずかな圧の分布のようなものが原因という気もしました。

では、そうならない靴はサイズが大きめでブカブカかというと、そうではなく、ちゃんと押さえるべき点は押さえていて、サイズの違いとも思えません。
でも合わないほうには、やはり変な圧迫感があるから、まずはそれを緩和したい。つまり広げたい。

靴の修理屋というのもあって、ここに持ち込んで広げてもらうよう依頼したこともありますが、結果的にほとんど効果はないし、ネットで見つけた「足になじまない革靴を広げるスプレー」というのも購入して試してみましたが、たいした効果はなく、万策尽きたというところでした。

そんなマロニエ君の靴事情ですが、過日ショッピングモールの靴店でバーゲンをやっていて、そこで試した靴が悪くない感じでした。
以前にも失敗したことがあるので、ここではもう買わないと決めていたけれど、1万円ちょっとのウォーキングシューズが30%offになっている上、PayPayが使えるとあって、それを使いたい気分にも後押しされて購入してみることに。

するとこれが全然疲れず、もともと1万円強のものだから品質もそれなりでしかないけれど、少なくともイヤなところがないのはとりあえず嬉しい限りでした。
マロニエ君の靴事情を知っている友人は、そんなのはきっと滅多にないんだから色違いを買っておけば?と言いますが、それも一理あるとは思いつつ、でもやはり2足目を買うほど魅力的でもないので、ただいま考え中です。

靴は大事ですね。
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設定とキャッシュレス

スマホであれパソコンであれ、新しいものを使いはじめるときに、毎回必ず疲労困憊するのが各種の設定。
これをササッと難なくこなしてしまう方は大勢おいでのことと思うけれど、この手のことが格別苦手なマロニエ君にとっては、これはまぎれもなく苦行で、なんとかならないものかと思います。

そもそも、携帯のショップからして苦痛のはじまり。
機種選びからプランの決定、ああだこうだと作業は果てしなく続き、なにもかも終わってようやく椅子を立って外に出るまでに、べつに特種なお願いをしたわけでもなく2時間以上かかったし、これはきっと毎日それを扱い慣れているプロフェッショナルでも、かなり時間を要することなんでしょう。
加えて、メールの設定だのLINEの移行だのは、どうやら自分でやらなくちゃいけない作業のようで、これはもうマロニエ君のような人間にとっては病気になりそうなくらい疲れ果てること。

しかも、普通ならわからないことがあれば購入店に聞けば済むことが、そうはいかないのが携帯の世界。
ほんのひとつ教えてほしいことがあって出かけたついでに立ち寄ろうにも、どんな些細なことでもいちいち番号札を取って順番待ちをするところからはじめなくてはいけないし、前回じっくり付き合ってくれた担当者と思っても、よほどの偶然でもない限り、もう事実上言葉を交わすこともないほど対応する人は「その時かぎり」であって、まるで行きずりの☓☓のよう。

そんなことを考えたら、ショップに行く意欲もなくなり自分でやるしかなくなるわけですが、これがもう難儀で、結局はカスタマーセンターのようなところに電話しまくって、ひとつひとつを導いてもらうしかありません。
唯一の救いは、電話にでるオペレーターは皆さん親切なこと。
そこで指示されるあれこれの操作は、到底ひとりで奮闘したところでわかるはずもない複雑なもので、みなさんどうされているのかと心底疑問で仕方ありません。

とにかくあの「設定」というのはわからないことの連続で、今やこれ、マロニエ君が日常の中で最も嫌いなことのひとつに踊り出ています。
機械は正直だから、きっとこちらの操作が悪いのだろうとは思うけれど、設定どころかちょっとしたアプリ会員とかメンバー登録のたぐいでも、まあとにかくすんなり行ったためしがありません。

もはや「ログイン」とか「パスワード」とかいう言葉だけでも嫌悪感を感じてしまいます。
わずかのことで、何度でも情け容赦なく差し戻されて、しかもどこがいけないのかわからないから、いつもイライラかつクタクタ。

人に聞いたらPayPayがお得だというので、よせばいいのにこれを登録したら、これがまた設定だの連携だのとわからないことの連続で、何が悲しくてこんなことにエネルギーを消耗しなくちゃいけないのかと思いつつ、いったん始めたからには途中で諦めるのもくやしいから、文字通り歯を食いしばって高い壁を汗だくでよじ登るごとくになってしまいます。

そうまでして設定と連携が終わったPayPay。
…ところが、これが使える店というのは、実際まだまだで「なーんだ、まるで役に立たないじゃないか!」と思うほど使える店が少ないのには大いに落胆しました。
ダイソーが使えるのは逆にびっくりだったけど、現状ではネット専用と考えるべきかもしれません。

まだ交通系カードのほうが利用機会は多く、日本がこの分野で「遅い」というのを実感しました。
「便利」で「お得」という立て付けのもと、昔ならシンプルに財布から現金でお金を払えばすんだことを、今は「この店は何が使えるか/使えないか」をいちいちチェックする新習慣ができたりと、やっぱりトータルでいうと人の仕事はさほど減っていないように思います。

逆に、このところあまりにもキャッシュレスに囚われていたので、普通にサイフを出して、普通に現金で支払ったら、それが新鮮なほど単純明快で簡単で、けっきょくなんでこれじゃいけないのか!?と思いました。

AIだか何だか知らないけれど、末端の人間の消費行動のデータをせっせとどこかに献上しているようでバカバカしくもなったし、それによって得られるわずかのポイントやなにかは、このデータを売っている対価のようなものかも…。

テレビの討論番組などでは、キャッスレス化が進んで「じきに現金の優位性が落ちてくる」「サイフや現金が要らなくなる」などと経済アナリストがしたり顔でしゃべっていますが、ふん、いつのことだか!と思うこのごろです。
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今年最後

今年も残すところ残り2日となりました。
月並みですが、本当に時の経つのが年々早くなってきている気がします。

世の中も不安定化が進み、国際社会はどこを見てもきな臭い話ばかりだし、自然災害も脅威の度合いが強まるなど、この先いったいどうなるのかと思います。

とりわけ文化の質の低下があらわになっているのは、専門家にいわせればいろいろな理由があるのだろうと思いますが、マロニエ君が端的に思うのは、やはり西洋文化の本場にして担い手でもあるヨーロッパの弱体化は要因のひとつだろうと思います。

ピアニストもいわゆる真の大物やスターは、どれだけ待ってもこの先当分は出てこないでしょう。
整った教育制度で培養された、コンクール出身の、芸術性より能力に秀でたピアニストが、似たようなレベルで、似たような演奏を職業的にしてまわるだけで、ワクワク感がないからテンションあがるわけがない。
高度な技術はあっても、表現に対するこだわりや冒険がなく、研ぎ澄まされた感性の導きとか、美に耽る様子などさらになく、すべてがフェイクっぽい空気感で、それで感銘を受けるほど聴衆の心はお安くはありません。

楽器のほうのピアノも、まるでわけがわからなくなりました。
大衆品ならいざ知らず、一流メーカーまでもが、どうも陰でコソコソやっているのが気に入りません。
見た目は立派で、ピカピカきれいで、同じマークをつけているけれど、生産過程は闇だらけのまるで信用に足らない状態になりました。

どこぞの国でかなりのところまで作って、最終仕上げだけを本来の国や工場で行うというのもかなり横行しているようで、どこまでが正当な分業で、どこからが欺きに近いものかの判断基準もあいまい、すべてが秘密裏にやられていてわからない。

一時は製造国を隠して販売することが商業道徳上の問題となったこともありましたが、現在その汚染は更に広がり、巧妙化し、より悪質になっている印象です。

…けれども、それをけしからんと嘆いても詮無いことで、要するに世の中はそういうところまで否応なしに来てしまったということだろうと思います。

こちらだってそうはいいつつ、日常生活の中では同様の思想や価値観やシステムで作られた「安くてよくできた製品」をさんざん購入し、それらにまみれてメリットを享受しておいて「ピアノだけはダメ」というのは、心情としてはそうでも、現実に通用する話ではないのでしょう。

わざわざヨットに乗って大海を往来して批判の声を上げる気骨もなく、欲しいものは安い通販を利用し、旅行となれば安価な航空券を探しまわるのですから、自分自身が完全にその構造の中に生きているわけで、これが時勢というものかと思うばかり。

せめて過去の遺産や名品を大事にしていくぐらいしか、今できることはないようにも思います。

さて、来年はどんな年になることやら、この日本丸の乗組員として成り行きを見守るだけですね。
年が明ければ令和二年となり、なんだか慌ただしい感じです。

ブログをお読みくださる皆様、今年もお付き合いくださりありがとうございました。
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季節の変わり目

日ごと週ごとに寒さが身にしみる季節になりました。

歳時記風にいうと四季の移ろいは趣があって好ましいことのようになっていますが、身体には結構しんどくて、変化する季節への適応力が年々落ちてきている現実をいやでも思い知らされます。
これはもちろん自分が歳だということが第一でしょうが、では若い方が屈託なく元気に過ごしているのかというと、意外にそうでもないらしいことは折々に耳にします。
今どきは子供でもストレスを抱え、些細なことで体調を崩し、いちいちたいへんなのが現代人。
そして、熱が下がるようにすっきり回復することもない。

マロニエ君はもともと運動が苦手で元気溌剌というタイプではなかったけれど、それでも昔は体調管理だなんだということを意識することもなく無邪気に過ごせたことを考えると、昨今は生活形態の変化や、時代に流れる固有の空気のようなものの影響なのか、世の中全体が繊弱になっている印象があります。
多くの人がなにかしら心身の問題を抱えており、制約も多く、ごく単純にいって、昔のほうが人は自然でパワフルで生き生きしていたと思ってしまいます。
それでも平均寿命は現在のほうが伸びているのでしょうから、なんだか変ですね。

音楽にも似たところがあって、主観に導かれた大胆な演奏は許容されず、技術は優っているのに生命感がない。

季節の変わり目になると、往来にこだまする救急車の音も、その数はあきらかに増してくるような…。
これからの季節で気をつけるべきはいろいろあり、まず肝心なのは変化に対する充分なイメージというか、いわば覚悟で、その覚悟があるとないとではだいぶ違います。
覚悟といえば、マロニエ君にとって季節の変わり目はよその家などに行くのが危険な季節でもあり、ここにも密かに身構える必要があります。
「密かに」といっても、それをブログに書いているようじゃ始末に負えませんが。

季節の変わり目は、人によって、冷暖房の使い方は思いのほか差がでる季節でもあり、当然自分の家のようなわけにはいかないから、それがマロニエ君にとってはかなりしんどい事態を引き起こします。
夏なら真夏、冬なら真冬のほうがむしろよく、微妙な時期には冷/暖房をなかなか使わない自然派がおられますが、まさか暖房を入れていただけませんか?とも言えず、これが身に堪えます。

危ないのは外より運動量も少ない屋内で、まして人様のお宅に行って上着を取らないのは甚だ非礼だとは思うけれど、非礼でもなんでも寒いものは寒いのであって、それで風邪をひき、悪くすれば肺炎などに発展するよりはいいという究極の選択になります。
肺炎などというと「なにを大げさな!」と思われるかもしれませんが、ささいなことが引き金になることもあり、肺や気管支が弱い人間にはささいなことがおそろしいのです。
そういうわけで、やむなくアウターを着たままになりますが、相手もさるものでそれでこちらの窮状を察してくれる様子もなく、至って平然たる様子だから、それならこっちもこれでいいのかな?と思いつつ、まあできるだけ危険には近づかないに限ります。

スーパーなどで買い物をする際に寒いのは、こちらも気構えもあれば防寒もしているし、なにより売り場を歩きまわるという活動をしているからまだいいけれど、ただ椅子に座って話だけをしていて、身体はいつしか芯の芯まで冷え切ってしまうと、帰宅後はまず間違いなく体調を崩します。

結局、自分の身は自分で守るしかない。
我が家では夏冬の冷暖房は言うに及ばず、その前後もエアコンが途絶えるときというのがほとんどなく、どうかすると昨日まで冷房、今日から暖房というようなことにもなるのも何度もあり、これはいささかやり過ぎだとは思うけれど、そうなるのだからやむを得ない。
自律神経はみだれ、精神的にもかなりのエアコン依存といって差し支えなく、それ自体が問題とは思いつつも、すでに長年このスタイルで生きてきたんだし、もういまさら体質を変えられるわけもないから、このままいくしかないでしょう。

最後に話をむりにピアノに持っていくようですが、季節の変わり目はピアノも心なしかご機嫌ななめで、鳴り方に活気がなくなったり陰を感じたりするし、日によってばらつきを感じたりしますが、しばらくするとまた少しは回復して安定するところなど、まったく人の体調と変わらないなぁと思います。
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電子決済

電子決済って最近かなり浸透してきているようですが、それでも、日本はずいぶん遅れていると耳にします。
欧米の事情は知らないけれど、ご近所の中国や韓国ではとてつもない勢いで広がっているようで、NHKのドキュメント番組だったか中国では個人経営の小さな屋台とか、言葉は悪いですが物乞いのような人まで電子決済の端末をもっていて、人々がスマホをかざしてピッ!とやっているのにびっくり。

そうなるについては、偽札の問題や情報管理など、いろんな側面もあってのことではあるでしょうが、それにしても日本という国は、新しいことに対する切り替えは明らかに遅いなあと思います。

〜と尤もらしいことを言っているマロニエ君がいまだにスマホも持たず、ガラケーとiPadでお茶を濁している身なので、こんなことを言うことじたいがギャグのようですが…。
電話するぶんにはガラケーは使いやすいことと、服のポケットに入れるのに大きい物は避けたいというのがあってガラケーを使ってますが、その代償として結構重量のあるiPadをいつもカバンに入れて持ち歩くのも面倒くさいし、なんだかばかばかしいようにも思えてくるこのごろ。

いくらガラケーのほうが電話器として使いやすいと言ってみても、今はメールありLINEありで、電話で直接話をする機会も減っており、いつまでも電話のしやすさばかりを言い立てることじたい、いささか実情に合わなくなってきた気もしてきています。

いっぽう、聞くところではスマホには多種多様なアプリがあり(その点はiPadもある程度同じですがほとんど使っていない)、いろいろな電子決済機能もあるし、中にはスマホ限定の特典などというのもあるようで、時代の流れにはかないません。


さて、現在マロニエ君が唯一使っているのが、スマホとは関係ない、カード式の交通系電子マネーです。
普段はクルマ人間なので公共交通機関を使いませんが、以前関西旅行に行ったとき、同行した友人がこれを準備してくれており、どの電車に乗ろうともこれひとつでスイスイ、切符も買わずに改札を自在に出入りできる便利さに仰天したのがはじまりでした。

さらにこれで買い物までできると知って驚きは倍増。
それからというもの、すっかりこの交通系電子マネーにハマってしまい、べつに現金で払ってもいいようなところまで、わざわざこのカードを使うようになりました。
なにがいいと言ったって、細かい単位の支払いやお釣りといった面倒から解放され、ピッ!という音がすればすべては一瞬でおしまい、こんなに爽快なことはない!と興奮したものでした。

惜しいのは上限が2万円で、予めチャージしておかなくてはいけないことと、以前はチャージできる端末が限られた場所にしかなかった(毎日駅などを利用する人はいいかもしれませんが)ことですが、今ではコンビニでも可能になり、この問題もほぼ解決されました。

店舗によっては、レジの対応が不慣れなところもあり、その操作に手間取ったり、いきなりこちらの手からカードをもぎ取り、お店の人が目の前の読取器(というのか知らないけど)に押し付けて「ピッ!」とやって「お返しします」などといって返してくること。
あのカードはいわば個人の財布ですから、それをヒョイと取られて「えっ?」と思ったことは何度かありました。

それより気になるのは、カードをかざす際、読取器との間にほんの少し距離(2〜3cm)をおいていると、注意口調で「機械につけてもらっていいですか?」などと怒られてしまうことがあること。

はじめはそうなのかと思ったけれど、これは経験上カードと機械を密着させるかどうかではなく、読取器がカードを認識し決済するまでにちょっとしたタイムラグがあるのを、レジの人のほうが待ちきれずに、カードのかざし方が不十分なためと思ってしまうようです。

でも、聞いた話では、頻繁に電車など利用する人はカードを財布に入れたまま改札を出入りしているとか!
改札にある読取器は、性能もよほど良いのかもしれないけれど、もしお店で財布のままかざしたらどうなるのか、そこまで挑戦してみる勇気はまだありません。

福岡ドームもヤフードームになり、いつの間にかヤフオクドームになっていると思ったら、近い将来PayPayドームになるんだそうで、なんともめまぐるしいことですが、それだけ電子決済はこれからの社会の主流になっていくのでしょうね。
もはやガラケーにしがみつく理由もなくなってきたようだから、次の契約更新では検討の余地がありそうです。
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伝統と陰影

即位の礼も終わり、令和の時代も本格始動というところですね。

ああいうロイヤルイベント(皇室に使うべき言葉かどうかはわからないけれど)は結構好きなので、生放送を録画して、当日の夜はじっくり視てみました。
もっとも日本的な、簡素な美しさの頂点、そして日本という国の文化の根幹を目にする思いです。

ただ、畏れながら申し上げるといくつかの違和感がないでもなかったというのが正直なところです。
すべてが「伝統に則り」という文言がつけられますが、式典の舞台は当然ながら皇居新宮殿。

この皇居はむかしは言わずと知れた江戸城で、武家である徳川の居城。
明治維新によって皇居となり、しかも宮殿は空襲で消失、現在の新宮殿は戦後の技術の粋を尽くして昭和に建てられたもの。
いわば出自も時代もミックスされたもので、それは大変に素晴しいもの。

ただ、戦後に建てられた和のモティーフとモダンの類まれな融合である新宮殿と、そこへ両陛下が儀式のクライマックスでお入りになる高御座と御帳台が置かれている光景が、もうひとつ溶け合っているようには見えませんでした。
これらは平成の折には京都から運ばれたと聞きますが、新宮殿の最も格式の高い松の間に設置されますが、やはり前回同様、どこかしっくりこない印象が残りました。

あれがもし京都御所であったら、すべては美しいハーモニーのように響き合ったことでしょう。
平安絵巻から飛び出してきたような高御座と御帳台の姿形、大胆で独特な色遣い、これは建築にも同様の要素が求められるような気が…。

平安絵巻といえば、皇后さまをはじめ女性皇族方は御髪はおすべらかし、お召し物は十二単という平安時代からの伝統のものですが、それが新宮殿のガラスと絨毯が敷き詰められた現代風の廊下を静々と進まれる光景が、絵柄としてどうしても収まりません。

また高御座と御帳台が置かれた松の間の照明にも疑問を感じました。
よく見ると、松の間の両サイドの壁面上部には、まるで劇場用のような明器器具がずらりと配置されており、それらが一斉にこの空間をまばゆいばかりに照らし出していました。

しかし、両陛下および皇族方の装束、高御座と御帳台など、本来これほどの強力な照明にさらされるべきものだろうかという疑問が湧いてなりません。
昔の天皇は、映画などで見るように、御簾の向こうに静かにおわすばかりで、なにかと神秘のベールに包まれていたもので、そこにいきなり現代的な強力な照明をあてるのはどうなのか…と思うのです。

谷崎潤一郎の『陰影礼賛』という評論の中で、日本の文化は薄暗い光のなかで真価を発揮するよう、あらゆる事物が考えられ作られていると述べられています。
美しい漆に施された絢爛たる蒔絵や歌舞伎の舞台でさえも、本来は薄暗い光のなかで見るのがちょうどよいようになっている由で、ここでは白すぎる歯までもが、そういう美意識の中では好ましく無いというように書かれていた覚えがあります。

十二単のあのどこか生々しい色彩も、薄暗い御所の光を前提としてでき上がったものかもしれないと思うと、伝統と現代性の和解をもう少し探ってもよいのではないかと思いました。

普段は端正な美しさを極めた新宮殿も、どことなくホテルの催場ように見えてしまい、せめて高御座と御帳台が置かれた松の間の照明だけでも、もう少し繊細で幻想的なこだわりがあったら…という気がしました。
それにしても、自分の生涯で、すでに二度の即位の礼を目にできたとは嬉しきことでした。
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アニメは苦手

マロニエ君の苦手なもののひとつにアニメがあります。

子供の頃は藤子不二雄だトムとジェリーだと、ずいぶん熱心に見ていましたが、最近の日本のサブカルチャーとして世界からも高く評価されているという最近のアニメは、きっと素晴らしいのだろうけれど、どうも我が身には馴染まないようです。

夜中にテレビなどでもよくやっていますが、ろくに見たこともないし、ジブリというのも言葉はよく耳にはしていたけれど、それが何であるのかも、実を言うとつい最近知りました。

というようなわけで、かなり話題になった『ピアノの森』もまったく見たことがなく、せっかくピアノがメインだというのにあまり見ようとも思いませんでした。
いつだったかNHKで再放送があるというので、「一度ぐらい」という思いから、念のために録画だけはしていましたが、見るほうはなかなか腰が上がらず、この夏ぐらいから一大決心の末にポツポツと見はじめました。

根本的にマロニエ君はアニメの楽しみ方というのを知らないし、慣れていないせいか、どうしても違和感や突っ込みどころのほうが意識のセンサーに引っかかり、いちいちそうなる自分が鬱陶しくさえ感じます。

これはアニメであって、映画でも現実でもないのだから、つべこべいわずに大きなところで愉しめばいいと自分に言い聞かせつつ、その単純なことがなかなか難しく、昔のアニメよりどこが優れているのかもすぐにはわかりません。

ひとつにはリアリティとファンタジーのバランスにも問題があるのでは?と思ってみたりします。
『ピアノの森』は出てくるピアノとかホールなど、特定のものはやけに正確に描写されているかと思えば、それ以外はかなりデフォルメされたアニメ調だったりと画調がまず一定でなく、中途半端にリアルすぎるんだろうと思います。
ショパンコンクールでのワルシャワフィルハーモニーホール、スタインウェイやヤマハなど、現実そのものをそのまま写しとったような絵柄がバンバン出てくるあたりも、この作品の魅力であるのかもしれないけれど、妙な生々しさも含んでいて、リアルならリアルに統一して欲しい気持ちになります。

テーマ曲がショパンのop.10-1というところは新鮮でよかったけれど、この作品のタイトルでもあるところの、森の中にスタインウェイDが捨ててあるという設定だけでも、湿度は? 雨が降ったら? …などと、アニメ鑑賞者としては甚だ無粋なことなんでしょうが、そっちが気になって仕方ない。

それと、あれ、絵はうまいんですか?
ごくたまに本当に曲のとおりに指が動いて、よくそこまで研究されているなぁと驚くシーンもあったけれど、全体としてはアニメというわりに静止画がやけに多く、演奏中の人物も、それを固唾を呑んで聴き入る聴衆も、ほとんどが静止画で、セリフや音楽だけが進行するのは、ちょっとした驚きでした。
今どきのことだから、昔に比べてよほど精巧緻密に絵が動くのかと思ったら、こうも静止画が多用されるのかとびっくりしましたが、考えてみれば絵を動かすことがアニメにとってコストに直結することだと思えば、静止画が多いのはコスト削減ということなのかもと、なんとなく残念な納得の仕方をしてしまいましたが、せっかくアニメを見ているのにそういう裏事情を考えることじたいがもう楽しくない。
いずれにしろ、こうなると、声優のセリフつき紙芝居&ときどき動くものと思ってしまうし、動いても画面の中の小さな一カ所だけであったり、焦る人物の眉毛だけがピリピリと動いたりで、昔のアニメのほうがよほど自然で滑らかだったのでは?と思いました。

また、演奏を担当しているのは現役の若い人気ピアニストだということで、その3人をスタジオに招いて演奏とトークの混ざった番組をアニメ本編より先に見ていました。
ならば、演奏はよほど本格的なものかと期待していたのですが、アニメの中で聴こえてくるのは、どれも線の細い、縮こまったような演奏ばかりで、どういう意図で演奏されているのかマロニエ君にはまったく意味不明。

せかっくアニメなんだから、演奏ももっと表現が強調されたものであってもいいような気がするのですが、全然そうではない。
そもそもアニメとはなにがリアルでなにが誇張されるのか、その線引もまったく不明。

そのあたりのことがさっぱりわからず、ことほどさようにアニメに入り込めないマロニエ君というわけです。
やっぱりアニメはドラえもんとかちびまる子ちゃんがしっくりくるマロニエ君でした。
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ズンとラー

ロシアを代表すバレエ団といえば、いわずとしれた「ボリショイ・バレエ」と「マリインスキー・バレエ」。

マリインスキーバレエというのが本来の名称ですが、ソ連時代は「キーロフ・バレエ」として知られており、むかしマロニエ君が子供の頃に来日公演をやっていた時代は、少なくとも日本では「レニングラード・バレエ」の名で親しまれていました。

そのマリインスキー・バレエの附属学校として有名なのがワガノワ・バレエ・アカデミー。
ここに入学するには、本人はもとより、両親の家系までさかのぼって、バレエにふさわしい体格の持ち主か、太る体質の心配はないかまで調べられ、さらに入学後も太ってきたら退学になるという徹底ぶりというのは、以前からかなり有名な話でした。

NHKのBSプレミアムで、この学校の男子生徒に密着し、迫り来る卒業試験から各バレエ団の入団オーディションまでを追ったドキュメントが放送されました。

5〜6人の男子学生がその対象で、校長(元ダンサーのニコライ・ツィスカリーゼ)自ら彼らに対して連日熱い指導が続けられます。

そこにはクラストップの有望株と目されて、すでにプロ並みのしっとりした表現力を身に着けた者、あるいは長身と甘いルックスに恵まれるも今ひとつステージのプロになるための気構えの足りない者など、いろいろな生徒がいます。
その中にアロンという、英国人の父と日本人の母を持つ青年がいて、非常に努力家で優秀な生徒でしたが、周りに比べると、やはり手足の長さが不足気味、身長もやや低めで、それが彼のハンディになっていました。

目鼻立ちや雰囲気にはさほど日本人っぽさはないように見えますが、いざ白いタイツを履き、ロシアや北欧などの青年と並んで練習に励むと、やはり日本人のDNAの存在を感じないわけにはいかず、日本人のコンプレックスの根底にあるものは、ひとことで言うなら体格に行き着くのではないかということをあらためて感じずにはいられませんでした。

顔も濃い顔立ちで、普通に街にいればむしろラテン系の良い部類のようにも見えそうですが、なにしろロシアバレエの精鋭が集まる場所というのは、たとえ学校でも、すべてにおいて基準が違います。

そのアロン君、日本的なのは体格だけではありませんでした。
お母さんが日本人というだけで、英国生まれの英国育ちで日本語も番組中はひとこともじゃべらないほどヨーロッパ人だし、その踊りはとてもうまいのだけれど、どこか日本らしさがあって、のびのびとした流れや軽さがありません。

すると指導にあたるツィスカリーゼ校長が、なんとも鋭いコメントを浴びせました。

曰く、「日本人の歌い方の「ズン!」という感じで踊っている、もっと「ラー!」という感じで踊りなさい。」
まったく仰せのとおりでした。
アロン君に限ったことではなく、日本人のバレエは技術はとっても上手くなっているけれど、この「ズン!」という感じはいまだにつきまとっているのは、精神の奥深くにある何かが作用しているように感じます。

テクニックがテクニックで留まり、決まりのポーズやステップを覚えて並べていくだけで、体の動きが開放された軽やかな踊りとして見えません。
やはり日本人が自己主張が気質として弱いため、高度なテクニックの獲得までが目的になっている気がします。

そのテクニックが表現の手段として用いられるステージに至らない。
なぜかと考えますが、日本人は生まれながらに自己表現は慎むように遠慮するように育ってきて、だから気がついたときには表現したいものがない、もしくは小さいからではと思います。
行き着く先は、磨き上げたテクニックだけを拠り所にするという結果になるのではないかと思いました。

言われた方のアロン君は、「日本の歌も知らないし…」と困惑していましたが、その日本らしさは無意識に踊りに出てしまうもの、これぞ先祖から受け継いだ遺伝子のなせるものか?と思いました。
これは器楽の演奏にも同じことが感じられます。

器楽は肉体そのものを見せるパフォーマンスではないから、いくぶんマシとは思うけれど、やはり「ラー!」ではなく「ズン!」であるし、さらにいうなら歌ってさえいないことも珍しくありません。
日本人のパフォーマンスというのは、どこか真似事のようで暗くて閉鎖的に感じることが多いです。
ヴァイオリンなどでは、マロニエ君の個人的印象でいうと比較的関西圏から優れた演奏家が出るように思いますが、関西は日本の中では最も自己主張の強い地域性ということが関係しているのかもしれません。
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つづき

パリの様変わりは、おそらくはパリだけのことではないのでしょう。
いつからということはわからないけれど、ヨーロッパはどこもかつての輝きを失っている気がします。

マロニエ君はとりあえずパリの状況に仰天して別の友人にその話題したところ、彼の知る学生でヨーロッパに留学経験のある人は、大抵何度かは強盗被害みたいなものに遭っているのが普通!?だと言われてしまい、「だったら、治安に関しては北京や上海のほうがはるかに安全では?」と言うと、「もちろん!」とこともなげに言われてしまいました。
まるでこちらの認識が遅れているかのように!

少なくとも20世紀までの、文化の中心である憧れのヨーロッパというものは、実際にはかなり失われてしまっているようで、留学などするにしても、治安に関してはかなりの覚悟が必要とのことで本当にびっくりしました。

曰く、テレビなどでよくある街角歩きのような番組では、切り取って編集し、いいところだけを作り上げるだけの由。
出演するタレントなどは、一見自由に動き回っているようにみえるけれど、スタッフなど常に周りから守られて、撮影隊も集団で行動するため、それがひとつの防御形態になっており、表面だけを見て気軽に個人旅行などをするのはリスクが有るとのこと。
べつに行く予定もなかったけれど、マロニエ君のような全身油断まみれのような甘ちゃんが立ち入るところではないようです。

こうなる背景のひとつは、移民問題や、あまりに行き過ぎた経済至上主義が世界中に蔓延した結果だというのはあると思います。
なにかといえば経済々々と、世界中そのことばかり。
そうなってくると、文化や芸術は直接的にお金になるものではないから、どうしても二の次になり、価値観の多様化とあいまってじわじわと価値を失い、価値を失えば豊かだった土壌は痩せて、新しい芽は出ないばかりか既存のものまで次々に枯れていくだけということなのかと思います。

そういえば、10年ぐらい?前のことですが、新聞紙上である記事を見たことを思い出しました。
福岡県出身の油彩画家の方で、長年パリで活躍して来られたという方で、年齢的にもまさに活動の絶頂期というタイミングで、パリのアトリエを引き払い、故郷の福岡県のどこか(お名前も場所も忘れました)に戻ってきたので、それを機に個展を開くという記事が載っていました。

その方のインタビューがありましたが、細かいことは忘れたけれど、その方が若いころ渡仏した頃からすると、近年のパリのあまりの変質ぶりに大いに落胆させられた。
年々芸術的な雰囲気が失われ、殺伐として、パリはもうあのパリではなくなった。
これ以上、自分がそこに留まる意味を感じられなくなったため、この度の帰郷となったという意味のことが述べられていました。

この記事を見た時は、へぇ…とは思いつつ、芸術家特有のちょっとしたことへのこだわりや気まぐれ、あるいは失礼ながら自分自身の行き詰まりもあるのでは…ぐらいに思っていました。

しかし、昔からパリの芸術と文化をリスペクトしていたその友人の、100年の恋も覚めたようなその様子を見て、これはやはり本当らしいと思うに至りました。


このところ日本への外国人観光客がずいぶん増えているようで、しかも多くがまた訪れたいという好印象を抱いて帰っていくとのことで結構なことではあるけれど、マロニエ君は正直いって不思議でなりませんでした。

日本のどこがそんなにいいんだろう?と日本人がこう言ってしまっちゃおしまいですが、まず安全で、人もそう危なくはないというだけでも日本の魅力なのかと、なんだか思いもしなかったことから納得できたような気になりました。

昨日もニュースで、海外からの旅行客が日本で落し物をしたところ、届け出があって戻ってきたというようなことを絶賛していましたが、こういうことが世界から見れば文化なのか?
ついには、遺失物を本国の持ち主へ送り返すビジネスも開始されるとかで、たしかに日本ならではのことかもしれませんね。
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最近のパリ

最近のパリの話というのを、久しぶりに会った友人から聞きましたが、かなりショッキングな内容でした。

一年ほど前にパリに行って戻ってきたとき、「我々が知るパリはもうどこにもない…」というようなことを電話で言っていたので、「またまた、大げさな!」と思っていたのですが、今回じかに詳しく聞いてみたところ、そこから語られる数々の話には少なからず驚かされるものがありました。

普通パリといえば「花の都パリ」という言葉が思い浮かぶように、芸術、美食、ファッション、その他もろもろの文化にかけては歴史的にも世界の中心として君臨した街。
パリを愛した芸術家は数知れず、その美しい街並み、すべてのものに息づくシックで斬新なセンスなど、マロニエ君もずいぶん昔に行ったパリはまさにそういう場所でした。

ところが近年の状況はさにあらず、街は殺伐とし、いわゆるパリジャン、パリジェンヌの大半は姿を消し、まったく似つかわしくない違った様子の人達でパリの街は溢れかえっているといいます。

ありとあらゆることに変化が起きており、例えば、かつては街のいたるところにあった美しい菓子店など、どこを見渡しても一気に払いのけられたように無くなり、かろうじて残る店も、商品は日持ちのする魅力ないものに合理化され、さらには昼食時間帯にはマックよろしく、パン(パン屋ではないのに)に何かを挟んだテイクアウト用の軽食を販売するなど、もはや伝統的なパリの気の利いた繊細なスタイルの多くは、ゼロではないだけで大半は消滅しているのだとか。

街角で土産として売っていたエクレアには「I LOVE YOU」の英字が踊り、地元の人々の優雅な生活を感じさせるものはことごとく消えているとかで、街全体は殺伐としているといいます。
ランドマークである凱旋門、エッフェル塔、オペラ座といった建造物はあるものの、でもそれだけで、街全体はほとんどスラム化しているといいます。
思わず涙しそうなノートルダム寺院の大火災は、こうしたパリの変化を象徴した惨事だったような気もしてきます。

なにより強く訴えていたのは、美しいパリのイメージとはかけ離れた治安の悪さで、いたるところにどこから来たのかわからないような怖そうな人達がたむろしているから、ただ歩いて通過することさえたじろいでしまうため、街歩きなんぞしたくてもできない状況だとか。

いっぽうルーブルやオルセーなどの美術館は、いずれもアジアの大国の人達でテーマパークのようにごった返し、有名作品の前ではワイワイガヤガヤ大声が飛び交い、揉み合うようにして自撮り棒で写真をとるなど、名画の世界に浸ることなどまったく不可能だとか。
日本の美術館のように静かに作品を鑑賞できるところは、アメリカのことは知らないけれど、もしかしたら日本ぐらいではないか…ともこぼしていました。

さらに驚くべき事件が追い打ちをかけます。
そもそも、この旅にはクリニャンクールの蚤の市にあるらしい楽器店に行く企みがあったというので、またバカなことを!とは思いました。
家族にも内緒でまとまった現金を持っていたらしいのですが、オペラ座近くのメトロの駅階段を登っていたところで、日中、突然背後から襲われ、有無を言わさず背中のリュックのファスナーを開けて現金を強奪されたというのです!!!
まさに一瞬のことで為す術もなく、さいわい現金は2つに分けていたため、1つは無事だったものの、その被害たるや笑っては済まされないような額で、聞いているこちらが心臓はバクバク、頭はクラクラしてきました。

警察に飛び込んでも訴えるだけの語学力もないし、上記のような街の状況からしても、取り返すことなど不可能だと悟って、被害届も出さなかったというのです。
それからというものさらに気を引き締め、リュックは背中ではなく体の前に提げるなどして全身注意の鎧を固めていたにもかかわらず、後日なんと再び歩いているところを物盗りに襲われ、今度は必死に防御して被害はなかったというのですが、相手は複数の場合が多いから、下手をすれば物陰に連れ込まれて命の危険さえあることを肌で感じたそうです。

帰国していろいろな人に話したところ、フランスに限らないそうで、スペインではターゲットを路地裏に連れ込み、口元を殴って前歯を折られてパニックになっているところで、身ぐるみ剥がれるという手口が多いのだそうで、今どきのヨーロッパとはそんなにも恐ろしいところなのかと驚愕しました。

この友人は、ロッシーニではないけれど音楽と美食を心から愛するため、一人旅のくせに高級レストランに行くことも目的で、それでも意地でいくつかの有名店には行ったというのですが、さすがに店内はどこも安全だったけれど、食事が済んで一歩店を出ると、とたんに再び恐ろしい危険と緊張感が広がり、要するに街全体が一瞬も気の抜けない無法地帯のようになっているということのようです

これがパリの現在の姿だなんて、考えたくはないですね。
近年日本のアニメがパリでも大人気などという話を聞いて首をひねっていましたが、環境自体がこれだけ変わっているということも考慮しなくてはいけないのかもしれません。

その友人は、佳き時代の終わりの頃から4回ほどパリに行ったけれど、もう二度と行くつもりはないそうです。
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砂の器の設定

松本清張原作の『砂の器』はすでに何度も映画やドラマに繰り返される名作で、異なるキャストやそのつど時代背景などが変えられて、これまでにいくつものバージョンを観た記憶があります。

今年もフジテレビの開局60週年ドラマとして3月に放映されていたものを録画していて、最近ようやく見たのですがが、山田洋次さんなども制作に参加しているためか、細部が細かく作り込まれており(賛否両論あるようですが)、マロニエ君はわりにおもしろくできていると思いました。

当節はウィキペディアという便利なものがあるので、『砂の器』を調べてみると、テレビドラマだけでも6回も作られ、そしてこの作品を決定的にしたのは、やはり加藤剛主演の映画だったように思います。

『砂の器』というといつも思い出すのは、何十年も前のことですが親戚の女性が大真面目に発した一言。

当時はマロニエ君は、まさに軍隊的とでもいうべき厳しさで有名な音楽院のピアノのレッスンに通っており、当時はピアノの先生といえば暴君や独裁者は決して珍しいものではなく、まして高名な大先生ともなると、その仰せは天のお布令にも等しいものでした。
朝から晩まで、学校以外は一切の言い訳は通らないほどピアノ中心の生活を要求されていたものです。

当時はピアノのためといえば、それは生活のすべてに優先されるのが当然であり、学校のテストなどを理由に練習を怠ろうものなら、親子呼び出されて大目玉となるような時代でしたし、下レッスンの大勢の先生方も日頃から院長の存在にはピリピリの状態で、今どきの生徒をお客さん扱いする感性から言えば、まさに隔世の感がありました。

それでだれからも文句が出ることはなかったのですから、時代というのはすごいもんだと思います。
今だったらパワハラだなんだと、とうてい受け入れられるものではないでしょう。

親戚の女性は、そんな状況をいつも聞かされては呆れ返り、ピアノなんて子供にやらせるものじゃないと思っていたらしいので、そういう下地があるところへ『砂の器』を観たため、登場する親子が、故郷を追われて住む場所もないような放浪の幼年期を送っていたにもかかわらず、なぜか大人になったらピアノが弾ける人という設定がどうにも納得が行かないらしく、普通の安定した家庭でもピアノをやるのはあれほど大変というのに、いつの間にどうやってピアノの練習をしたんだろう?…と、そればかりが気になり、最後までそれが気になって仕方がなかったと言っていました。

そう聞かされて、マロニエ君も後年見たところ、父子が故郷を追われるようにして出奔し、悲しい放浪の身であった人物が、いきなり世間で注目の天才作曲家でピアノの名手になっているという、説得力のない展開には面食らったものでした。
映画なんだから、些事を気にせず楽しばそれでいいわけだけれど、いくらフィクションでも、あまりに説得力がないというのはマロニエ君も同感でした。

そのあたりが、最新のドラマ版では丁寧にフォローされており、幼少期からピアノが得意で発表会などにしばしば出場していたという設定に変わり、孤児院や養子先を経ながら、ついには日本のグレン・グールド?!?!と言われた山奥に隠棲するという天才ピアニストのもとにたどり着き、その人のもとで徹底的に腕を磨いたことになっていました。
これもかなり違和感がないわけではないけれど、それでもなんとか幼少時代からピアノをやっていて、音楽の才能があったという説明にはなっていたようです。

さらにいうなら、あの「宿命」という映画音楽のようなピアノ協奏曲のような、なんとも不思議な自作自演のコンサート、そういうものってどこかで開催されているのだろうか、これもかなり疑問です。


このところ、テレビCMなどを見ていても、グランドピアノがでてくるものがやたら増えてきている気がします。
また、いつだったか番組名はわからないけど、NHKでスタジオにヤマハのCFXと最小グランドの二台を並べ、「価格が1900万円と115万円の音の違い」みたいなことをやっていて、ホーという感じでした。

なぜ今ピアノが採り上げられる機会が増えたのかはわかりませんが、これだけあらゆることにハイテクが絡むと、ローテクの塊で、弾かれて音を出すこと以外に一切の機能がないくせに大きく重いグランドピアノという反時代的なものが、逆に面白がられているのかと思ったり。
アニメ『ピアノの森』の影響もあるのか…、今度は『蜂蜜と遠雷』も映画化されるようで、スポーツの延長で競い合いがウケているのか、そのあたりマロニエ君にはさっぱりわかりません。
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挫折で自慢

人の心の中には、自分をよく見せたいという欲望が潜んでいる…それ自体は珍しいことではありません。

中にはそういう野心も邪念なく、一切を飾らず清々しく生きておいでの方もあるけれど、多くの俗人は程度の差こそあれ、つい自分を飾ってしまうことはあるもので、それじたいを責められるものではないでしょう。

ただ、その意味するところや性質によって、笑って済ませられることもあれば、聞いていてあまり気持ちのよくないものもあるような気がします。

ピアノの世界にもいろいろあって、大半は書くわけにもいかないことばかりですが、このブログのネタ選びという観点から、ひとつを注意しながら書いてみることに。

世の中には、ピアニストをはじめ、先生からアマチュアまで、それなりに難曲を弾かれる方はたくさんいらっしゃるようですが、巧拙さまざまであるだけのことで、それだけではどうということもありません。
少なくとも譜面が読めて指が動くという点では、初心者より技術として上手いことは事実でしょう。
ところが、そこからとんでもない大風呂敷というか、いくらなんでもそれは止めたほうが…と思うような内容の発言があったりして、マロニエ君も直接/間接ふくめて、ひっくり返りそうな話をいくつも耳にしています。

たとえばそのひとつ、言葉はそれぞれですが、意味としては、
「自分にはむかし、芸大を受験して失敗したという、敗北の過去がある」というもの。

要するに、若いころ、結果はしくじったけれども東京芸大を受験した事があるという、コインの裏表みたいな意味を含んだお話。
すなわち、遠いむかしの自分には、芸大を受験するに値する実力があったんだという自己申告ですが、聞かされるほうは急に変なけむりでも吹きかけられるような心地です。

記憶にある数名の中で、その話が信用できたのは、たったひとりだけ。
やや下位の音大に行かれ、芸大で教えておられた高名な教師の直弟子となり、その後は長年にわたってリサイタルを続けておられるピアニストで、自主制作ながらCDも相当数あり、その演奏や話の前後からもこそに違和感がないことは、まあ納得できるものでした。

それ以外は…なんといったらいいか、ハッキリ言って万引きの現場でも見てしまったような感じ。
人より多少の難曲が弾けたり、いちおうどこかの音大を出て先生をやっているというような人の口から、ふいに、この手の言葉が出ることは非常に驚きで、たまらずその場から逃げ出したいような気分になるもの。

表向きは「受験に失敗した敗者である」という、我が身の不名誉をあえて告白するという立て付けになっているあたりが、まずもって悪質かつ甘いと感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

むかしのことで、もう時効でもあろうから話してもいいだろうといわんばかりに、自嘲気味な調子で語られるこの甚だしく野放図な発言。
失敗談という形式を借りて、芸大というブランドを無断使用しているようでもあり、そこに容赦なく流れ出すアンバランスは、オチのないジョークを聞かされたようです。

「落ちた」んだから、卒業名簿を繰られる心配もないし、昔の失敗した受験の証拠など、どこにもないということなのか。
そういうのはお止めになったほうがいいと思うんですけどね…。
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たかが電話

昔にくらべて大きく様変わりしたことは実にいろいろあるけれど、たとえば電話のかけ方もそのひとつでは。

各自が携帯電話を持つようになったことで、いつでも誰とでも自由自在に話ができるようになるとばかり思っていたら、結果からいうと、却って暗黙の制限みたいなものが生まれ、電話は昔よりよほどハードルが高いものになった印象があります。

電話するには、相応の理由、はっきりした要件、緊急を要する場合等でないかぎり、昔みたいに気軽にひょいひょい電話をするということは「してはならない」「しないことがマナー」みたいな空気が蔓延しています。

そもそも昔の通信手段は電話か郵便ぐらいだったから、電話の役割そのものが広かったといえるのかもしれませんが、現代はメールだなんだと選択肢が増えたぶん、電話で直接話をするのは身内もしくはよほど親しい人だけのように格上げされ、いきなり電話をするのは一種の不心得者であるかのような雰囲気に。

電話をするには、前もってメールやLINEなどの文字情報の往来段階があり、相手側からも応諾の確認が取れ、その結果として電話をすることへ扉が開き、晴れて相手の声を聞くことができるという段階を踏む必要もあり、さらには時間帯を気にし、仕事中、移動中、食事中等々何かの最中であってはならないという気を回しに回すうち、やがてだんだん面倒臭くなる。

それもあって、文字で済むことは、自分のペースで書いて送っておけば事足りるわけだからそれで済んでしまうし、だから人と人はますます会話をしなくなるのでしょう。

こうして個人の時間とプライバシーは守られる代わりに、みんなが付き合い下手となり、却って疎遠を招き、もしかするとひきこもりなどの増加もこういう社会風潮も一因では?と思ったり。

暗黙のルールというのは、誰がどうしろといったものではなく、気づかぬうちに常識と思っていたものが変質していくものらしく、それにはただ従うしかありません。

暗黙のルールといえば、着信記録に気がついてこちらからコールバックすると、相手が出ないためやむを得ず電話を切ると、すぐその相手からかかってくるというパターンがあって、それが一人に限らずわりによくあるので、ふと気がついたこと…。
それは、元は自分がかけた電話だから、コールバックしてくれた相手に電話代を負担させては申し訳ないということもあるらしく、その着信にはあえて出ず、しかも「いま」なら相手も電話で話せる状態だろうから、すぐにかけ直すということのようです。

たしかに、こまやかな気遣いだとは思うし、ちょっとしたマナーなのかもしれませんが、なにもそこまで気を遣わなくてはいけないものか?というのも正直なところです。
たかだか電話ぐらい、もっと気ままにかけたらいいじゃないかとも思うのですが、いまの世の中なかなかそうはいかないようです。

また今流行りなのか、通話開始から5分か10分か忘れましたが、それ以内なら無料、それを過ぎると有料みたいな電話があるようで、会話中しだいに落ち着きのない調子になり、いやにせわしげに切ったり、ついには「ちょ、ちょっとかけ直していいですか?」となって、あれもマロニエ君は好きではないですね。

それだとわかれば、こちらは話し放題のプランなのでいくらでもかけ直しますが、わからないと微妙に調子がヘンだったりして、ご当人も安さの代償として気が気でないだろうし、なんだかややこしい世の中になったものです。

もちろん安いことはそれ自体が意味があるし、自分もそういう恩恵には浴して生きている訳だから、そこだけエラそうにいう資格はないけれども、いずれにしろ潤いがないなぁと思います。
そもそも潤いというものは、ちょっと無駄なものとか、ないならないでもいいようなところから滲み出てくるものだと思うし、そこが実はとても大切だと思うのですが、今どきのように極限的な合理性の追求が是とされる時代は、そんなことはなかなか通用しないようです。

それでも尚くじけず、自分の自然な感性を踏みつけるようにして頑張らなくちゃいけない現代人は辛いですね。
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ネタ探し

…ときどき思うこと。
自分で言うのもなんですが、そもそもブログって何のために書いているのだろうと。

言葉の上で尤もらしい理屈はいくらでも付けられますが、マロニエ君の場合、ひとことで言うなら自分の心にあることを、たとえ一人でも読んでくださる方があるなら伝えたいという、くだらぬ自己満足というのが一番近いような、もっと言うなら、なにげない日常でいろいろと見聞きしたり、考えたり、おもしろかったり、感動したり、落胆したり…まあそんなようなことを自分だけで抱えておくのが性格的にしんどく、人に話すツールとして使っているのかもしれません。

世の中にはいろんな人がいて、人に喋ったり伝えたりすることにさしたる価値を感じず、自分の中で処理・廃棄してしまうことが自然にできる人もいらっしゃるようですが、マロニエ君にはそれは無理というもので、人に喋ったり話をしないことがストレスになってしまいます。
そういう意味では、自分を開放しているだけかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

世の中の空気は年々制約の多いものになり、昔に比べると、人と自由闊達にワイワイしゃべるとか、本音で意見交換するなどという機会は激減し、その内容もその場限りの表面的なものになっていく気がします。
なにより、ネットやスマホの普及により、人と人とのナマの付き合いみたいなものは、まさに絶滅の嬉々に瀕しているよう感じられます。
はじめから、そういう時代に育ってきた若い人は現在のスタイルを抵抗なく受け容れられるのかもしれませんが、昭和生まれの生々しい時代を生きてきた者にとって、途中からルールが変わり、四方を規制の壁で囲まれるよう変更を強いられるのは、非常に窮屈で息苦しさを覚えるのも正直なところ。

ブログはそんな息苦しさの中にあって、せめてもの換気のためのささやかな小窓のようにも思います。

ただ、いくら「ささやかな小窓」などと言っても、ネットに掲載するということは、不特定多数の人がアクセスできる場であるのだから、誰でも見ることができるという点においては、やはり大それたことでもあり、ときどき怖くなることがあるのも事実です。

そうはいっても、こんなくだらないものを心配するほど見ていただけるはずもないわけだから、やはりごくささやかな小窓であることは実態として間違いないわけですが、それでもネットはネットなのだから、やはり一定の注意を払う必要はあるわけです。

ブログで一番大切で、しかも困るのは、ネタ選びです。
私信ではなく、ネット上に書き込みをするということは、いくら読む人はほとんどいないだろうとはいっても、それがゼロではない以上、なんでも思いつくまま書くわけにもいきません。

ここがネタ探しの難しいところで、本当に書きたいこと、拙いながらも文章にして人に伝えたいというようなことは、実際にはどれもこれも書けないことばかり。

そうかといって、当り障りのないつまらぬ日常のことなど書いても、それこそ意味が無いし、その隙間を漂う、微妙なネタ探しというのは、けっこう難しいのです。

とりわけピアノのネタは、業界ネタが多くて言えないことのオンパレード。
なので、ネタには事欠かなくても、書けることはほんのわずかという話を、ついネタにしてしまいました。
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時代の流儀

iPadでのメールやLINEなど、いわゆるタッチ画面で文章を書くのが苦手なので、少しまとまった量になると一旦パソコンで書いて、それを自分に送信しコピペして送るのですが、ひょんなことから知人が別売りの便利なキーボードがあることを教えてくれました。

そんなこと常識なのかもしれませんが、マロニエ君はそっちのほうはからきし苦手なので、あれば便利かも…と思い、いわれるままにそのメーカーと機種をアマゾンに注文したところ驚くべきことが。

お昼少し前に注文したものが、なんと5時間後にはそれが届いて、その早業にビビリました。
発送元を見るとアマゾンの千葉県市川市となっていますが、九州にも大きなセンターのようなものがあるらしく、売れ筋のアイテムは揃っているのかもしれません。

それにしても、大変な時代になったものだとあらためて思ったし、これでは店頭販売が年々廃れていくのも仕方ないかと思います。
我が身をふりかえっても、たしかに店舗に足を運んで商品を見て、触って、比べて、その範囲の中から買うという行動が激減してることに気づきます。
現物確認さえあきらめれば、多種多様な中から商品を選ぶことができるし、その選択肢の多さは、とうてい実店舗がかなわないもので、しかも同時に価格の比較もできるとなれば、そちらが主流にならざるを得ません。
さらに、実際に出向く必要がないから、そのための時間も交通費も駐車料金もかからずで、とくに実用品はネット購入ということに(くやしいけれど)なります。

自分も利用しておいて言えた立場ではないけれど、こうして必要最小限の合理的なエネルギーで動いていくから、世の中は一向に活力が出ないような気がするし、ムダがなく安いことが全てに勝る正義のようになっていくことに殺伐とした怖さを感じながら、かくいう自分を含めて後戻りはできないレールの上を進んでいるようで、それがさらに恐ろしさを感じます。

そのうち本当にドローンがお届けに飛んでくる日もくるのかも…。


買い物といえば、先日H&Mでちょっとした安いシャツを買おうとしたら、さんざんレジに並ばされたあげく「袋代が20円かかりますが、よろしいでしょうか?」とにべもなく言われました。
咄嗟のことで、もしそれを拒否してシャツを裸で持ち去るのはさすがにどうかと思ったし、後ろにはレジを待つお客さんが何人も並んでいたので、ここは早く済ませることが大事なような気がして、考える時間もないまま承諾しました。

すると、小さな白いビニール地に赤でH&Mのロゴが入った袋がカウンター上におかれたものの、畳んだシャツ一枚がどうにか入るぐらいの小さなサイズで、こんなちっちゃな袋が20円もするの?と非常にびっくりしたし、なんともいえない不快感を抱きながら支払いを済ませ、店を後にしました。
スーパーのレジ袋だって、まだ大きいのが3円ぐらいで、こんなに小さいペラペラのビニール袋が20円とは、どうにも納得がいきません。

これはひとえに気分の問題で、商品代があと20円高くてもまったく構わないけれど、こういうことはできたらしないでほしいと個人的には思いますが、これも時代と割り切らなくてはいけないのかと思うと、無性に楽しくない気分。
とりわけ、外資系の会社というのは、客の心情などといったものを考慮しないのか、ずいぶんとドライで大胆なことをやるようで、そのあたりはどうにもマロニエ君は馴染めません。

会社側にしてみれば、いくらでも主張や理屈はあるのでしょうが、来店して商品を買ったお客さんに、それを持ち帰るための袋が必要ならを20円よこせというのは、マロニエ君が経営者ならぜったいしないと思う部分。

スーパーの有料レジ袋はさすがにもう当たり前になったので、マイバッグ持参で行くけれど、さすがに服を買うときまでそんな準備をしたくはないし、なんとなく通りがかりに立ち寄って買うということもあるわけで(今回が正にそう)、そのために常時袋のようなものを忍ばせておくなんてまっぴらごめんで、かといってあんな小さな、ゴミ用としても使い道もないような小さなビニール袋に20円出させられるのは、やっぱり納得はしかねます。

ゴミといえば、回収のための有料袋が福岡市の場合、最小サイズが15Lで15円なのですが、それよりも高いなんて、いったいどういうことかと思いました。

最近は、いろいろと理由はあるにせよ、どうにもしっくりしないようなルールがあまりに多いのは、それだけでも人生のいくらかをスポイルされているような気がします。
ひとつひとつは「たかだか!」というレベルのことですが、その「たかだか!」もずんずん積み重ねられたら、意外に大きなものになりますからね。
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