本質はいずこ

世の中、ちょっとおかしいのではと思わざるを得ないことは枚挙に暇がないほどですが、先ごろもYahoo!ニュースで目にした記事は、その違和感という点でとりわけ強烈なものでした。

「タダで食べ放題の相席居酒屋で、毎日ご飯を食べていたら退店させられた。ネットの掲示板で、大食い女性の投稿が話題となった。」という文章でそれは始まります。

全部コピペするわけにもいかないので、マロニエ君なりに概要をまとめると、次の通り。

見知らぬ男女が同席する「相席居酒屋」では、男性が飲食代を支払い、女性はタダというところが多いのだそうで、ここからして初めてそんなものがあることを知りました。
投稿者である女子学生は、食費を浮かすため相席居酒屋に通っていて、なんと「一日4食がアベレージ」「ご飯は2、3升におかず数キロ」を食べていたというのです。
さらに同じ系列のお店に、店舗を変えながらほぼ毎日通っていたところ、ごはんをおかわりしようとしたタイミングで、店長らしき人から「申し訳ありませんが、退店してほしい」と言われたというもので、その女性はネット掲示板に事の顛末を投稿することになったというもの。

すると、この件に関して質問を受けた消費者問題に詳しい弁護士というのが、法的な観点から退店を要求したことが正しいか否か、コメントしているというものですが、それによれば、
「飲食店は、客を選べないわけではありませんが、これは入店時においての話です。」
「いったん受け入れた客については、無条件に退店させることができるわけではなく、契約内容がどのようなものだったかによります。」
「通常は、食べ放題・飲み放題の契約として受け入れたのであれば、予想以上に食べる人だったからといって、飲食を拒否することは許されません。」
「ただし、前もって、そのような条件がお客側に示されていたような場合は、別に考える余地があります」

などと、読んでいてばかばかしいような文言が並んでいました。
まだありますが、延々と引用しても意味ないでしょう。

まあ、弁護士という法律のプロの観点からみれば、そういう事になるのかもしれませんが、問題はそんなことはどうでもいいということでしょう。そもそもこういう非常識かつ厚顔無恥な女性が非難されずに、退店を願い出た店側ばかりが問題視されるのは、普通の感覚をもった人なら誰だっておかしいと感じるのではないでしょうか。

こういう場合も「普通の感覚をもった人」って誰のこと? 普通ってなに? 誰が決めるの?
といった類のことを言うような人がいますが、こういう場合にそういうことをいちいち言う人間が、正に普通ではない感覚の持ち主だとマロニエ君は思うわけです。

この女性、食費を浮かすためとはいえ、店のシステムにつけこんで飲食代を支払う赤の他人である男性達と店の両者にたかり行為を繰り返し、食べ放題であることを理由に連日連夜この店に通いつめて「ご飯は2、3升におかず数キロ」などとは、社会に巣食う病原菌のようなものだと思います。

こんな人間の振る舞いが、さほど非難されることもなく、あまさかさまに「女性は飲み放題、食べ放題をうたっているにもかかわらず、客が食べすぎているという理由で、店側が一方的に退店を求めることはできるのだろうか。」というような理由で弁護士に問い合わせをするというところが、社会の感性がまともな平衡感覚を保てなくなっている証ではないかと思います。

一度や二度ならともかく、これほどの「悪質な常習犯」ともなれば、顔を覚えられブラックリストに載るのも当然です。店は難民受入所ではないのであって、あれこれのアイデアを講じながら厳しい商売をやっているのですから、これはいわばルールを悪用した限りなくドロボウに近い行為ともいえるのではないかと思います。
そんな人間はつまみ出されるのが当然で、それはルールや法律家云々の以前の問題でしょう。

いっぽう、ルールやシステムにさえ適っていれば何をしてもいいという風潮はエスカレートしていくばかりで、ルールの盲点や死角に着目できる人間は、まるで優秀でエライかのような取り扱いにも問題があるように思います。

法律はじめ、個別のルールやシステムももちろん大事ですが、それ以前の人間としての品位を保てる教育環境こそが大事だと思います。恥を失った人間というのは、怖いものがないぶん恐ろしいですね。
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暴走世代

何年か前の事だったと思いますが『暴走老人』というタイトルの本が流行ったことがありました。

マロニエ君は読んだことはありませんが、イメージとして、最近この本のタイトルを連想させるようなことが少くありません。

運転をしていても、まったく身勝手な割り込みや、片側2車線のうちのひとつが工事中で、順次二列の車が交互に合流していくような場面でも、前車に鬼のようにビッタリくっついて絶対に他の車を入れようとしない車などは、見れば大半が熟年〜高齢者の運転する車だったりします。

つい先日もある駐車場でこんなことが。
駐車券をとり、空きスペースを探しながら徐行していると、後ろのクルマが追突せんばかりにくっついて何度もクラクションを鳴らしてくるので恐ろしくなりました。こちらが駐車し終えると、むこうは目の前に車を止めてすごい剣幕で睨んでいます。一体なに?と思ってこちらも見ていると、ついにドアが開き、中から初老の男性が降りてきて「トロトロ走るな!!」といきなり大声で吠えました。
だってここは駐車場、徐行して場所探しをするのが普通だと思うのですが、この方にはそれが許せなかったらしいのです。

テレビでよくやる万引き摘発の様子を見ても、万引き犯じたいも高齢者が多いのに加えて、捕まったときの逆ギレ的な態度がすごいのも、どちらかというとこの世代のほうが多いという印象があります。

またつい最近、とある関東の有名ホールに勤める知人から聞いた話ですが、さる業界のイベントがそのホールで行われたところ、ケータイの電源を切るどころか、暗い客席では無数のスマホがいじられっぱなしで、その光が異様なほど目障りであっただけでなく、なんとあちこちで着信音が鳴り、客席で構わず話をする、長引くと話しながら外に出ていくという驚きの光景だったとのこと。
コンサートではないとはいえ、このような行動を取る大半が、分別もあるはずのいい歳をした人ばかりだったというのですから仰天です。

世間一般でいうと、礼儀や公衆マナーの悪さに憤慨するのはだいたい中高年で、されるのは「若者」とか「新世代」だと相場が決まっていたものですが、どうも最近はそのあたりも怪しくなっているのか、古い世代もかなり荒れ放題のようです。
そして、事と次第によっては若者世代のほうがよほどマシという場合もあるのは、マロニエ君もチラホラ実感しているところ。

若い世代のほうが、何事においても規制の厳しい窮屈な世相で育ってきているためか、いったんルール化されたものには、とりあえず素直に従うという習慣というか体質をもっているのかもしれません。
いっぽう、中年以上の世代の若いころは、今よりももっとダイナミックに生きて来たという下地があるからか、なんでも無抵抗に従順ではないのだろうと思いますが、その悪い面が出てしまっているのかもしれません。

先日も、こんなことがありました。
マロニエ君は10年ほど前の数年間、県内のコンサート情報誌の発行に友人と携わった時期がありました。
掲載は無料、大小すべてのクラシックコンサート情報を網羅したもので、とても好評となり、一時はかなり支持されたときもあったのですが、情報誌というものは凄まじいエネルギーを要するもので、生活の片手間にできることではなく、数年間ふんばってみたもののついに廃刊することになりました。

マロニエ君のケータイ番号はその当時と変わっていないので、しばらくは掲載依頼や問い合わせの電話がよくかかっていましたが、さすがに10年近くも経てば、それもまったくなくなりました。

ところが先日、見知らぬ番号から電話がかかり、いきなりコンサートがどうのこうのという話をはじめられました。
ちょっと聞いた感じは、上品そうな女性の声、丁寧な言葉づかい、コンサートをされる方のご家族なのか、話しぶりと声色でそこそこ年配の方だということはすぐにわかりました。…が、すぐには話の要領を得なかったので、「恐れ入りますが、どちらにおかけですか?」と聞くと「あのぅ…◯☓◯☓◯☓じゃございませんか?」と昔の発行所の名を言われたので、すぐにこちらも理解でき「あれは、もうずいぶん前に廃刊になりました…」というと、ほんの一瞬の空白のあと、いきなりブチッと電話は切られてしまいました。

普通なら「ああ、そうですか」ぐらいの言葉はあって然るべきだと思います。
勝手に電話して、一方的に自分の話をし、廃刊になったと告げられるや、もう用はないとばかりに無言で電話を切るという行為が信じられませんでした。

掲載は無料だったので、要するにタダでコンサートの情報を載せてほしいという目的だけがあっただけで、こちらは電話に出て事情を言っているのに、いやはや、なんとも凄まじいものです。

しかも相手が年配の方であっただけに凄みさえ感じ、思わず寒いものが走りました。
きっと普段は、用のある相手には、あの調子で、いかにも上品におしゃべりしている方なんだろうと思うと、べつに人間がきれいなものとは思っていないけれども、しみじみとイヤになりました。
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研ぐ

我が家では夕食は自宅でこしらえるのが大半で、外食はたまに行く程度です。

主には家人が作り、べつに大したものでもなければ凝ったものでもありませんが、それでもひとつだけ、強いてささやかなこだわりがあるとしたら包丁です。
目的に応じて数本の包丁を使い分けないと、まるきりやる気が起きない由。

出刃包丁はめったに使いませんが、それ以外の刺身包丁、普通の三徳包丁みたいなもの、それに小型のものが常に使われ、必然的にその切れ味が問題となります。

どれもずいぶん年季の入ったもので、刺身包丁などは長年使い込んで(研いで)その刃先は新品時の半分ぐらいに痩せてしまっているほど使い込んでいるし、普通の包丁も切れが悪いというのがこのところよく聞くセリフで、それなら新しいものを買おうかということになりました。

いまや日本の包丁は外国人にもかなりの人気らしく、おみやげなどに日本のすぐれた包丁類を買い求めていくとか、あるいは欧米の一流と言われる料理人達の多くが日本製の包丁を使っているというような話をよく聞くので、もしかするとよほど「進化」しているのかもしれず、試しに一本買ってみようかというわけです。

こんなときに便利なのがネットで、どんなものを買うべきか、オススメはなにか、注意すべきはなにかをざっとあらってみました。果たしてそこで述べられているのは、セラミックは研げないので使い捨てになること、どんなに評判の高級品であってもステンレスには限界があること、本当に切れ味を求めるならすぐに黒く錆びるような鋼材を主体としたものがいいこと、さらには包丁は、そこそこのものさえ買っておけばそれでよく、問題はむしろ研ぎにあるとありました。

研ぎの問題はかなり重要と思ってはいましたが、この道に詳しい人の談によれば、なんと、包丁の切れ具合の9割が「研ぎにかかっている」と書かれているのには、いまさらですが唸らされました。
板前の修業でも包丁研ぎは基本中の基本で、一流の料理人は一流の研ぎ師であるのかもしれません。
つまりは、どんなに良い物を買っても、きちんと研がなければその価値はないも同然、宝の持ち腐れだというわけです。

これには激しく賛同。
意を新たにし、包丁を買う前に好ましい砥石を買うことが先決だということになったのは当然というべきでしょうか。
実は、マロニエ君宅で使っている砥石は昔の砥石がすり減ってしまったときに、急場しのぎでホームセンターで買った安物だったのですが、これがいけませんでした。サイズも小さいし、ざらざらして使い心地も良くないし、こんなものを今だに使っていることがそもそも切れ味の不満を招く元凶であることもわかって、すぐさま砥石を調べることに。

その結果、砥石にも上には上があるようですが、普通は人工青砥石というのが一番良さそうで、価格も4000円ほどと思ったより手頃だったこともあり、さっそくこれを注文しました。

翌々日に届きましたが、さすがにホームセンターの安物とは違って、サイズも大きく、表面がこれで研げるのかと思うほどすべすべしていて、なにより美しいことが新鮮でした。もうこの時点からして、長年不適切なものを使ったばかりにずいぶんと損をしたことが悔やまれます。

さっそくかなり黒ずんでいる三徳包丁を研いでみます。
砥石を水に沈めて水分を含ませてから、最初の一二回腕を上下させただけで、てんで感触が違うことにびっくり。ざらざらしてまるでヤスリのようだったこれまでの砥石にくらべるまでもなく、しっとりして粒子の細かさが両手の指先に伝わります。それでいて一回ごとに刃先がずんずんと研がれていくのもわかって、これこそが砥石なんだと感動しました。

包丁の刃先は、どちらかというと柔らかいものに接しているようで、それなのに確実に研磨されて一皮一皮よけいなものが剥かれていくのが使わってくるのは、大げさな言い方をすると生理的快感に近いものがあります。
すっかり気を良くして、こちらもついテンションがあがります。

包丁研ぎは楽器の演奏と同じで、やみくもに力を入れればいいというものではなく、だからといって臆病一本でもダメで、気を入れてメリハリを持たないといけません。楽器がもっとも美しい音を出すポイントや力加減があるように、集中力と合理的な動きが求められるように思います。
また、石の全体をくまなく広く使わないと、長年の使用で片減りのようなことが起こりますから、お習字ではないけれど、意外にこれは精神的作業だなぁと思います。

ひと通り研ぎ終わって、野菜などを切ってみると、果たしてこれが同じ包丁とは思えないほどの切れ味となりました。
刃先がより細く平滑になっているためか、刃先が吸い込まれるように、定規で線を引くように、無理なく、静かに切れていく感じです。切るときの感触もしっとりしていて、落ち着きがあって楽だし、断面も心なしか美しいようです。

砥石ひとつでこんなにも違うものかと感心すると同時に「9割が研ぎにかかっている」という事実をまざまざと体感させられたようでした。ほんとうにその通りだと思います。
むろんより良い包丁、より良い砥石と、さらに上の世界があるのでしょうが、マロニエ君宅の台所ではもうこれで十分で、お釣りが来るほどです。

かかる次第で、新しい包丁を買おうかという話も、ここしばらくは立ち消えになりそうです。
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エンブレム騒動

前回の続きと思っていましたが、いま書きたいことを先に。

2020年の東京オリンピックをめぐっては、国立競技場問題に続いて佐野研二郎氏デザインのエンブレム問題が世間を賑わせ、ついには白紙撤回されるというところまで発展しました。

マロニエ君の個人的な、勝手な印象だけを言わせてもらうと次の通り。

どの世界でも盗作盗用など、それに類する行為がご法度なのは、いまさらいうまでもないことです。
この点で佐野氏は、とりわけそれの厳しい広告業界に長年身を置いてきた人間としては、あまりにも脇が甘かったというべきですが、では、それが彼ひとりの問題だろうかとも思います。

マロニエ君に言わせると、世の中の大半はパクリや盗用のオンパレードで、製品開発から何から、すべてが他社の類似製品を研究し尽くしたあげく、そこへ言い訳のように「独自」の違いをちょこっと付け加えるだけ。

出版界もゴーストライターなんて当たり前、作曲でさえも作曲ソフトみたいなもので、ろくに楽器も持たずに安易にできてしまう時代ですから、この問題はいわば象徴的な出来事だと言えるのかもしれません。
連日、佐野氏のデザインをしたり顔でワアワア言っているテレビにしたところで、番組構成から放送時間、出演者の人選、あらゆるものがパクリだか横並びだか談合だかしりませんが、およそそんなようなものばかりで成り立っており、人の真似ではない、本当に独自と云えるものが果たしてどれだかあるかといえば甚だ疑問です。

日頃から、浅ましいばかりに発言をビビり、スポンサーの反応をビビり、視聴率に汲々として、マスメディアとして本当に言うべきことはなにひとつ言えないくせに、いったんピンポイント的に解禁となった事象に関してだけ、毎日、朝昼晩、集中豪雨のようにそれだけを攻め立て叩きまくるのは異様な感じがしました。

誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君は佐野氏を擁護する気など毛頭ないし、だからこの件も問題なしだと言っているわけではありません。
ただ、いまどきの汚い世の中で、あのデザイナーだけをこれほど集中攻撃するほど、だったらほかの業界およびそれに携わる人達は、どれほど正しくてご立派で清廉なのかと思ってしまうのです。
どうせ、もっとひどい、人倫にもとるようなことさえしている人達が、わずかな処理や手続きの違いなどで網からすり抜けて、糾弾を受けることなく、襟を正すことなく、威張り散らして、ふんぞり返っているにちがいないと思います。

たしかに広告業界などは著作権が法的に確立されているジャンルであるため、うるさくいわれますが、たとえばファッション業界あるいはスイーツの業界などは(現在は知りませんが)以前聞いたところでこれがないのだそうで、だからデザインやアイデアの盗用などはやりたい放題で、日常茶飯事だということでした。

また、なにかというと、すぐに訴訟に持ち込んで大金を要求する欧米の体質も、それが正しいのかどうかは知りませんが、感覚として好きではありません。

それと、今回のオリンピックエンブレムでは、公募とはいっても複数の受賞歴を持つ、いわば足切りされたプロであることが条件だったらしく、それさえも、今になって「公平ではないのでは」「誰でも参加できるものであるべき」などと、正義を振りかざして強い調子で言われていますが、不正がなければそのこと自体をマロニエ君は悪いとは思いません。

むしろ、あらゆるジャンルにシロウトがシロアリみたいに侵食して来て、高度に洗練されるべきプロの世界が、片っ端から食い荒らされるのはもうたくさんという気がします。
昔は多くの世界は縦にも横にも棲み分けという不文律が存在し、それで秩序が保たれていたものですが、芸能界でも文筆業でも、生え抜きの人材そっちのけで、シロウトや異業種の人間によって土足で踏み荒らされ、本来の才能が次々に駆逐されることは文化の衰退だと思うのです。

その点でいうと、オリンピックエンブレムに限定しても、近年ろくなものはなかったというのがマロニエ君の率直な感想で、そんな中で佐野氏の作品は、制作の経緯を別とすれば、とても端正で美しく、アーティスティックな仕上がりだったと思います。

凛とした気品とインパクト性、蒔絵を思わせる金銀赤黒の色使い、そのフォルムは涼しげなサムライのような精神性さえ感じさせ、とりわけ都庁や空港などにポスターとして貼られている感じは、日本的なクオリティ感も滲み出ており、とてもよかったと思います。
あれがバリバリ剥がされる様子というのは、理由如何に問わず、なんとなく心の傷むものがあり、佐野氏がもう少し慎重で良識を重んじる人であったなら…と思うばかり。

過程がどうであれ、美しいものは美しいという観点でみれば、非常に残念だったとしか言いようがありません。

これまで、マロニエ君が野次馬精神旺盛な人間であることは折に触れて書いてきましたが、あのエンブレムがデザインとしてつまらないものであったなら、この騒動をもっと単純に面白がって傍観できたかもしれませんが、よかっただけに、さほど楽しめませんでした。

とりわけ日ごとに出てくるものが、目にするたび失笑と狼狽を誘うようなもので、おかげで最後は美しいものが切腹させられたみたいなことになり、後味の悪いものになりました。
後から出てくるデザインは、まちがいなく凡庸なものになるであろうと覚悟しています。
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かかわらない

いまどきだなぁ…と思ったこと。

スーパーに行ってレジで並んでいると、どこからともなく何かを訴えているような男性の声がとぎれとぎれに聞こえてきました。
おさまったかと思うとまた聞こえてくるので、あたりを見回してみると、3列ほど左のレジで、やや高齢とおぼしき男性がレジ係の女性に向かってしきりに何か抗議をしているようでした。

スーパーの喧騒の中なので、内容はまったく聞き取れないのでわかりませんが、どうやら何かに憤慨のご様子で、ずっとその女性に訴えていますが、ときどき頷く程度で、ほとんど対応らしい対応はせずに、手先は商品のバーコードを読み取る作業だけが休みなく続けられています。
強いて言うなら、非常にソフトな方法で無視しているといったほうがいいような感じです。

まわりを見ると、男女あわせて5、6人はいた従業員は皆そのことに気がついているようで、表情は皆平静を装っていますが、どこか固まったような表情で各自作業をしながら成り行きを耳で追っているといった感じでした。

そんな折、マロニエ君も自分の買い物のレジがはじまりましたが、その間もその男性はずっと文句を言っており、ときおりその口調には激しさが加わりました。

そこへ、溜まってきたカゴを回収にきた男性が、作業をしながらレジ係にそっと耳打ちしました。
するとそのレジ係は無言のままちょっとだけ後ろを振り向いて、男性の方へ視線をやりましたが、すぐにまた仕事に復帰。

レジを担当している人はともかく、それ以外の作業をしている人(とくに男性)は、ちょっと向こうの対応の加勢に行ってやったらどうかと思うのですが、しだいに激しい口調で文句を言われる女性のレジ係はというと、たったひとりで硬直した表情のまま、仕事の手だけが動いています。

抗議している男性は、その態度がまた気に入らないようで、何を言っても暖簾に腕押し状態であることがさらに怒りを増幅させるのか、怒りはいよいよ募っているようです。
このころになると周辺の人達はお客さんも、みんなそのただならぬ様子に気がついていたようですが、周囲の店員たちはまったく助け舟を出そうともしないのは、ある意味怒っている男性以上に異様な感じがして、これは何なのかと思いました。

今どきですから、あるいは男性客のほうが理不尽なクレームをつけているという可能性もあるでしょう。
言葉の内容が聞き取れないので、そのあたりのことはわかりませんが、仮に無茶な主張だとしても、近くでレジ以外の作業している男性などはちょっと割って入って収めてやったらどうかというのが率直な印象でした。
それでも、その男性は憤慨しながらも一定の買い物をして、レジを押し出され、次のお客の精算が始まったことでいちおう幕引きとなったようでした。

こんなことを書いちゃいけないかもしれませんが、もともとマロニエ君は根が不真面目で物見高いので、こういうトラブル事に野次馬として行きあわせるのは嫌いではありません。内心「もっとやれ!」ぐらいに思ってもすぐに収まってガッカリなんてこともしばしばです。一度など、とある店舗内で、若い男女のカップルが大ゲンカとなり、とりわけ女性が男性に猛烈な罵詈雑言をあびせて、男のほうがタジタジという場面に遭遇した時など、もう面白くて、できるだけいつまでも聞いていたいと思ったほどです。

そんなマロニエ君ですが、この光景はまるで後味がよくありませんでした。

おそらく店内の規定があって、そういう場合の取り決めもあり、それに沿った対応だったのかもしれませんが、なんであそこまでレジの女性を見捨てて、ひとりの応援も出て行かないのか、まったく不可解でした。
男性にしてみても、衆目の中でだれからも相手にされず、ただひとり恥をかいたという事実が残るのみ。

あれが今どきよくいわれる「オトナの対応」なのかと思うと、大いに首をひねるばかりです。
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酷暑の波紋

毎年同じようなことを書いているようですが、日本の夏の暑さはやはり厳しいです。

それも年々勢力を増していくようで、今年の猛暑といったらありませんでした。現在も終わったわけではないけれど、それでもお盆を境に、少しだけひと息ついたような気がします。

関東では明治以来の観測史上、連日猛暑の記録を更新したとも言っていたし、北海道でさえ35°とか36°という数値が記録されたというのだからもうたまりません。

今年だけのこととも思えず、今後はだいたいこんな感じの夏になるのかと考えるとげんなりします。

暑さのみならずおかしいのは、これまで台風は9月に入ってからのもので、これの心配をする頃には、やがて秋が近づいてくるというものでしたが、今年は2ヶ月前倒しで、梅雨の時期からいくつもの台風が列島をかすめたり横断したりと、やはりどう考えても昔とは気象条件も変わってきているようです。

これと連動しているんだろうなあと思われるのが、外気温度のみならず多湿もそれに伴って厳しいものになっているようで、マロニエ君宅の加湿器は一般の家庭用の中では大きい方なのですが、以前なら2日間で3回ぐらいの頻度で溜まった水を捨てていればよかったものが、今年は毎日確実に2度、どうかすると3度捨てる必要が出てきています。

さらには、以前なら湿度計の数値は50%切ることもちょくちょくありましたが、今年は一度もそれがなく、ずっと50%台に留まり、水を捨て忘れて少しでも除湿機が止まってると、たちまち60%台に突入してしまいます。

これでは、よほどピアノも調子が悪いかというと、実はそれほどでもなく、なんとなく毎日の環境に慣れているのか、そこそこ普通にしてくれているところをみると、やはり湿度の数値だけでなく、変化を最小限に留めて一定していることも大事だということがわかります。
それでもディアパソンはヤマハやカワイより湿度に敏感のようで、終日強い雨というような日にはあきらかに変化しており、良く言えばソフトというか、普段よりいくぶんまろやかになったり元に戻ったりを繰り返しているようです。

さて、高温多湿は楽器のみならず、いいことは差し当たり、ひとつもないようです。
マロニエ君のまわりでも、この気候のせいで体調を崩す人はひとりやふたりではないし、とくに呼吸器系の疾患には悪影響があるようで、ある意味、冬場よりも体調管理にはナーバスにならざるを得ないんだなあと思いました。

機械類も例外ではなく、車の故障なども自他共に相次ぎました。
とくにこの季節でやられるのは電気系統で、エアコンの酷使や渋滞によってエンジンルームは凄まじい熱にさらされ、そこからあれこれのトラブルが発生するようです。
エアコンはじめエンジンの冷却ファンなどの多くの電装品も動きっぱなしとなり、電気の使いすぎでバッテリーがパンクすることも多く、仲間内で立ち往生の話はいくつもありました。
また、強い湿気によって点火系統にも悪影響があり、エンジンがかからないなどの不具合が出るようです。

ある人は早朝の通勤時間に何度もエンストして周囲の顰蹙を買うかと思えば、別の車で真夜中のメインストリートのど真ん中の車線で立ち往生。さらに別の知人は出先でセルモーターが回らなくなり、この炎天下で救援に4時間以上もかかったあげく車載車に乗せてディーラーに運ばれるなど、明日は我が身かと思っていたら、なんと現実に!
マロニエ君のフランス車もこのところかなり大掛かりな整備が完了し、差し当たりこれで一安心かと思っていたら、出先でエンジンがかからないという現象が起こり(そのうちかかる)、これを何度か繰り返すので、すっかりビビってしまい乗るのを止めました。

ほうぼうに意見を求めた結果、どうやらセルモーターの劣化ということらしく、まだなんとかエンジンがかかるうちに自宅ガレージに戻っておかないと、出先で寿命が尽きれば、その手間と苦痛は大変なものになります。
おまけにヘンテコな古いフランス車ともなると、部品ひとつも右から左には手に入りません。

というわけで6月から部品待ちで1ヶ月半おやすみしていた我が愛車は、7月終わりから8月はじめの一週間ほどを走ったのち、ふたたび「運航停止状態」となりました。

むろん今回もあれこれパーツの発注をしてなんとか揃ったものの、今度はメカニックが超多忙の由で、再び動き出せるのはいつになることやら…。
その点じゃ、ピアノは故障なんてまずないし、どこか不具合があっても、それでまったく弾けないなんてことはないわけで、車目線で見れば楽なもんだとつくづく実感した次第。
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違和感

ほんらい、このブログで書くべき内容ではないと思いますが、少しだけ感じたところを。

8月6日と9日は、テレビはどの局を見ても、トップは「原爆投下から70年」関連のニュースで埋め尽くされています。

しかもその内容は、いずれも「原爆の恐ろしさ」「悲惨さ」「命の大切さ」「二度とあやまちを繰り返さない」「忘れてはならない」「語り継ぐ」といったような言葉であふれかえり、我々日本人は毎年この日この時期になると、一斉に広島と長崎に向かって罪を悔い、国民全員が懺悔をしなくてはいけないかのごとき重い空気が堂々と流れます。

…少なくともテレビではそうなっています。

でも、この二ヶ所に原爆を落としたのはアメリカであり、罪を悔い懺悔をすべきはあちらのはずで、日本は被害者だという厳然たる事実が、長い時をかけながら骨抜きになっているように思います。
日本が被爆国という立場から原爆の恐ろしさを訴えるのであれば、国内より核保有国に向けておこなうべきでは…。しかるに原爆の罪の源流が、まるで日本側にあるかのような文脈は、とうてい受け容れることはできません。

「原爆投下は国際法違反」という意見もあるほどで、そこには落とした方と落とされた方は雲泥の差があるはずだと思います。だからといって、どこぞの国のように際限のない謝罪要求などすべきとも思いませんし、いまさら友好国であるアメリカを責め立てろとは思いません。が、少なくとも、毎年この時期になるといつも何かボタンを掛け違えているような空気に違和感を覚えます。

アメリカは謝罪はおろか、大統領が一度でも両都市を訪問したこともなく、駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディなどVIPのお客さんみたい。

なぜ日本のマスコミは、原爆の悲劇についてまで、その罪科がつまるところ日本人にあるかのごとくねちねちと言い立てるのでしょう。
少なくとも、他国では絶対にあり得ないであろう、不可解な現象ではないでしょうか。

無辜の民間人が住み暮らす、空爆などしていない無傷の都市を敢えて選び出し、ためらいなく原爆投下という蛮行をやってのけたのは、まぎれもなくアメリカであるという事実を、みんな知識として知っているのに、意識として忘れているように感じるのです。

いつまでも憎悪の念をもたないという点では日本人の奥ゆかしさだとも言えるでしょう。でも、それがいつしか原爆の災禍までもが日本人の犯した過ち故といった色合いが、日本人の手によって作られて、それが世相の中央を闊歩するのはどうにも共感できません。

以前、何かの本で読んだことがありますが、広島の平和記念公園に行くと、石碑に『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』という文字が刻まれ、ここには主語がなく、あたかも日本人の過ちによって、もしくは日本の犯した罪の報いとして、原爆の悲劇を招いたかのようなニュアンスになっていると記されていたことを思い出しました。

終戦70周年を迎えて、一連の報道は、いまだにその路線を踏襲したものだということがあらためてわかりました。
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続・便利の不便

前回「便利の不便」という事を書くつもりが、すこし変な方向に流れてしまったので続きを。

自動車の世界では、近ごろ当たり前になりつつある電子ずくめの制御および操作系は、車を運転するという人の生理の延長上にある行為を、おおいに阻害しているというべきです。
ブレーキなども年々オーバーサーボ(ちょっと踏んでもグワッとブレーキが効きすぎる)になり、スムースかつナチュラルな操作をするにはかなり繊細な操作を要求しますが、これなどは小柄な女性や高齢者であっても充分なパニックブレーキが得られるための「安全対策」だということになっているようです。

カーナビもどこか乙にすました純正品より、市販の後付のもののほうが、誰がなんと云おうと圧倒的に使いやすいのは紛れもない事実。
いくつもの機能をひとつのモニターに適宜表示させるなど、いかにも手際よく取りまとめられたかに思える現代の車は、肝心の点、つまりそれを使う人間の心地よさというものが二の次になっていると思われ、これは技術の進歩による明らかな操作性の後退であり、ひいてはドライバーのためのコンフォート性の低下ではないのかと感じます。

スタイリッシュなデザインの中に流し込まれた標準装着のナビゲーションはじめ、TV、電話、オーディオ、さらには車の出力特性やハンドリング/シフトタイミングなどを変化させる電子的機能が、センターコンソールのボタン群を中心にモニターを見ながら複雑かつ多層的な操作を要求するようになっていて、必要な項目を呼び出すだけでも一仕事というのはいかがなものか。さらにその横には指先で字を書くようになっているパッドのようなものであって、うっかり触れても思わぬ機能が反応したりと、もうなにがなんだかさっぱりです。

わけてもカーナビの使いにくさは並大抵ではなく、よほど使い慣れたタッチパネルのゴリラでも別につけようかと本気で思ったのですが、せり出してくる純正ナビがじゃまになって、どう見ても取り付ける場所がなく、この作戦は断念することに。

ほかにも前後左右に衝突の危険を知らせるためのセンサーが仕込まれており、これがまた車庫入れの時などピーピープープーと盛大な警告音がして、却って思い通りの駐車ができないのです。そもそもバックカメラなんて見ながら車庫入れするほうがよほど難しいのでは? 助手席の背後に手を回して後ろを向いてガーッとバックするのが早いし爽快だし運転技術も上がるというもの。

ハンドルにも正体不明のスイッチが居並び、しかも切り替えによってひとつのスイッチが何通りもの役を兼ねており、なんでたかだか車に乗るのにこんなややこしいものに取り囲まれなきゃいけないのかと、ふとばかばかしいような気になります。
とりわけ興ざめだったのは、せっかく気持よく音楽を聴いているのに、どうでもいいような交通情報とか「この先の交差点には右折専用車線があります」といった無意味なことを次々にしゃべり続け、しかもそのつど音楽は強制的にトーンダウンさせられるので、もう曲の流れはズタズタで、腹立たしいといったらありません。

ついに堪忍袋の緒が切れ、それらはディーラーに相談したら、「設定」の操作によって「黙らせる」ことにめでたく成功しましたが、中にはキャンセル出来ない機構というのもあるのが困ります。たとえばアイドリングストップは、機械の判断だけで信号停車中などで突如エンジンが止まってしまいます。
省エネは大事だけど、信号や渋滞のたびにいちいち強制的にエンジンが止められるのはどうしても嫌なのです。いちおう「アイドリングストップを機能させないボタン」というのはあるにはあるけれど、これは一度エンジンを切れば解除されるようになっていて、乗るたびに毎回このボタンを押さなくてはならず、忘れていたらすかさずエンジンはプツンと停止。

マロニエ君自身がそういう新機構にスッと馴染みきれないタイプだということはあるとしても、どうも最近の機械は「使う人」を中心にした思想が希薄で、多機能とスタイリッシュだけが宣伝効果としてカタログを飾り立てているような気がします。
その点では昔のメルセデスなどは、本当に人間中心の骨太の哲学が貫かれた車だったと思います。


不満ばかりを書き連ねましたが、もちろん良くなっている点もあるのは事実です。
たとえばこの車は通常のオートマティックではなく、Sトロニックという自動クラッチによる変速機構を持っています。簡単に言うとマニュアルトランスミッションのクラッチ操作を機械がやってくれるというもので、そのぶんアクセルワークにたいしてパワーがダイレクトに乗ってきます。

しかも繋がりは驚くほどスムースかつ瞬時に行われ、トルコン式のオートマやCVTはどれほどよくできたものでも、一定のロスがあることがわかります。さらに7段ものギアを千変万化させながら駆使するので、ダッシュもやたらと力強く、燃費にも優れているようで、たしかにこういうところは技術の進歩を痛感させられるところです。
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便利の不便

最近の機械製品は、あまりに進化が著しく「便利も行くつく先は不便では?」と思ってしまうことがしばしばです。

テレビやエアコンの操作がリモコン化された頃なら、その単純な便利さに感激したものですが、最近はそのリモコンひとつとってもあまりに多機能で操作も複雑、普通に操作するだけでも勉強と慣れを要し、説明書にも「基本編」と「応用編」といった二段構えとなっていたりで、それだけで見るのもうんざりしたり…。

我が家ではただ単にものを温める脇役でしかない電子レンジでさえ、オーブンだなんだとあらゆる機能が盛り込まれていますが、そんなものはほとんど使ったこともありません。
ガスレンジも(安全性を考慮して)新しい器具に替えたはいいけれど、ここにもコンピュータ制御のいろんな機能があり、温度調整からタイマーやら何やら、ややこしいのなんの…ここでも一定の勉強と習熟が必要になっています。

それどころではないのが車です。
今年の春、久々に車を買ったところ、これがまたやたらと多機能で、普通は新しい車を買うとむやみに走り回ったりするものですが、今どきの車というのは、そんな心情を単純に受け容れてくれる相手ではないようで、ひと月以上は乗るたびに言い知れぬ疲れを覚え、いまだにある種の窮屈感があるのはまだ払拭できていません。

今回が初めてではないものの、個人的には、まずいわゆるギザギザした金属の「ふつうの鍵」がない車というのは、気持ちの上でどうもしっくりきません。
スマートエントリーとされるシステムで、鍵の代わりに黒くて重いかたまりみたいなものがあり、これをポケットなりカバンなりに入れておけば、施錠も解錠もキーレスでできるので、いちいちキーを出す必要がなく、両手が傘や荷物でふさがっているときなどは便利…ということになっているのですが、個人的にはこれがそれほど便利とも思えません。
むしろこのシステム固有の不便もあって、サイフひとつで済むようなときでも、スマートキーの入ったカバンや上着を必ず車から出し入れしなくてはならず、しかも通常のキーのようにエンジンのON/OFF時に手に触れるものでもないため、たえずその存在と在処を意識しておかなくてはならず、気が抜けずに疲れるのです。

車を降りてロックするにも、これまでのようにリモコンキーにあるボタンでカシャッとロックできればそれで充分だったのに、ドアを閉めて取っ手にちょっと触れることでロックされたり解除されたりするのですが、これにも一定のコツみたいなものがあって、取っ手を引っ張るとすかさず解除されドアが開くなど、自分のイメージとはちがった機能が作動したりと、何度もやり直しをするはめになるなど却って面倒で、これじゃあ何のための便利機能なのかと思います。

エンジンをかけるにも、キーを差し込む必要はなく丸いボタンを押すだけ。
しかもその際、フットブレーキを踏んだ状態でないと反応しないという「安全手順」が組み込まれていますが、こんなものは安全のとめというよりアメリカなどでの訴訟対策みたいなもので、操作を煩わしくするだけ。
AT車の場合、ギアがPにあれば絶対に車は動かないわけだから、これを条件としてエンジン始動できるという程度でじゅうぶんだと思います。

とくにマロニエ君は習慣的にエンジンを掛けるやすぐに動き出すということはせず、いつも必ず暖気をしてアイドリングが落ち着くまで待つので、その間に上着をとったりカバンや荷物を後ろの席に積み込むなどするのが自分なりのスタイルになっています。

そのため、これまではドアを開け、立ったままエンジンを掛けていたのですが、スマートエントリーではエンジンの始動ボタンは奥のセンターコンソール上にあって立ったままでは手が届かず、さらにブレーキを踏んだ状態でないとボタンを押してもエンジンはかからないので、やむなく規定通りに運転席に座ってブレーキを踏んでエンジンをかけることに。
しかし、セルモーターを回すというわずか一瞬のためだけにいったん運転席に座らされるのが、どうにもシステムの奴隷にされているようで釈然とせず、何が何でも外からエンジンをかけたいという、まことにつまらぬ意地みたいな衝動に駆られました。

その結果、編み出した方法は、しゃがんで上体のみ車内に入れて、右手でブレーキペダルを押しつけ、左手を伸ばして始動ボタンを押すといったアクロバットスタイルを取るとエンジンがかかることが判明。

いらい、自宅ガレージではこの甚だ不格好でばかばかしいスタイルが定着してしまいました。
さすがに出先ではやりませんけど…。
続く。
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何を楽しむか

マロニエ君の知人の中には、いわゆる「ピアノ好きな人」が何人かいらっしゃいますが、その中のおひとりは音楽そのものはもちろん、楽器、調律、ピアニスト、作品等々、ピアノにまつわる関心は当然のごとく多岐にわたっています。
自分が弾くことについては、むろん極めて大切な要素のひとつではある筈ですが、決してそれのみではないといった位置づけで、この点ではマロニエ君も同種であると認識しているところです。

しかし大多数の「ピアノ好き」といわれる人の多くは、名曲難曲を弾けるようになることだけが興味の中心で、それはほとんど欲望と呼んでもいいかもしれません。日々その練習や訓練だけにあけくれるのは、まるでアスレチックジムのトレーニングに近いものがあり、こうなるとピアノと向き合いつつ、そのメンタリティは体育会系だと言えそうです。
普通はピアノ好きであれば、優れた演奏家、無限ともいえる楽曲、銘器の音色や自分の楽器のコンディションなどにも興味が及ぶのが自然だと思うのですが、そういうことにはまるで無関心で、ひたすら自分が弾くことだけに興味を限定するのは、なんとも不思議で不自然な気がします。

テニスを好きな人が錦織選手のプレイに、体操が好きな人が内村選手の演技に興味も知識も無いまま、ひたすら自身の練習に打ち込むのみなんてあり得ないと思うのですが、ピアノの世界では、じっさいそれが普通なのです。

趣味のピアノ弾きの集まりに行っても、自分が今なにを練習しているといったこと以外に、一般的なピアノや音楽の話題が出ることはまずありませんし、古今のピアニストの話でもしようものなら、一気に座はシラケて発言者は空気の読めない音楽オタクとして位置づけられ浮いてしまうでしょう。
「ピアノ好き」を自認しながら、CDも数えるほどしかなく、コンサートにも興味がなく、古今の名だたるピアニストにもまるで疎いような人が、来る日も来る日もショパンやベートーヴェンの有名曲の練習だけにエネルギーを割くことは、考えてみれば却って難しいことのようにマロニエ君などは思うのです。

…つい前置きが長くなりましたが、冒頭のその方は音楽との関わり方もまったく独自のものがあり、いわゆる一般的なミーハー趣味とは厳然と区別される世界をお持ちです。
当然楽器にも強い関心があって、自宅には素晴らしいスタインウェイをお持ちですし、ピアニストにも好みがあり、さらには自分が興味のもてる作曲家や作品を慎重に選び出し、気持ちに沿わない作品はどんなに有名であっても見向きもされません。

たまに電話で話しますが、楽器のコンディションなどの近況や技術的なこと、ピアニストのことなどをしゃべっているうちにたちまち1時間ぐらい経ってしまいますが、話をしていて本当に音楽がお好きということが伝わってきます。
冒頭に書いた体育会系ピアノの人ではない、数少ないおひとりです。

最近では、マイナーな作曲家の埋もれた作品に感心を寄せられている由で、気に入った曲があるとネットで楽譜を取り寄せて自らも練習されているというのですから、ここまでくると、なかなか誰にでもできるようなことではないでしょう。

ここで大いに役に立っているのがYouTubeのようで、いまどきはどんなものでも、大抵はこのとてつもない動画サイトによって助けられることが少なくありません。音楽に限らず、あらゆるジャンルのあらゆる動画がここを開けば大抵は見聞きできるのは、便利という言葉ではとても足りない気がします。
ただし、いくら便利なYouTubeがあっても、とくにマイナーな作曲家や楽曲というのは、一定の評価を得ているわけでもないので、メジャーな作品よりも遥かに自分自身の感性を磨いておく必要があるだろうと思います。

マイナーな作曲家の埋もれた作品の中から好みの曲を探して練習するとは、YouTubeと連携することでそんな楽しみ方があるなんて思ってもみませんでした。かように趣味というものは、最終的には自分ひとりが通る道を見つけるときに、それはいよいよ純化されていくものという気がします。

その点でいうと、発表会や人前演奏を一元的に無意味だと断じるわけではありませんが、行き着くところ自分が目立ちたい願望の口実にピアノを使っている限り、趣味人としても三流以下だと思います。
素人がつまらぬピアノの腕前を披露(中には自慢)するなんぞ、趣味道にももとる音楽の悪用だと思うことがあるのですが、断じてそうは思わない人たちが主流である現実には、とても太刀打ちできません。

「日本には恥の文化がある」と言われることがありますが、ウーン…ことピアノに関しては適用外という気がします。
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コンサートが苦痛に

音楽好きを自認する人間がこれを言っちゃおしまいかもしれませんが、(特別な場合を除いて)生のコンサートというのが基本的にイヤになっている自分に気がつきました。

むろん生のコンサートの良さや醍醐味はよくわかっているつもりですが、それを押し返すほどのマイナス要因を感じてしまうこのごろなのです。
まず言えることは、昔のようにわくわくするようなコンサート自体がなくなったということが第一にあります。演奏家の技量は一様に向上して大変なものがあるのはわかりますが、大半は無機質の、能力自慢的な演奏でしかなく、演奏を通じて音楽に感銘を受けたり心が揺さぶられるということも激減しています。

その点に関しては、こちらの耳も演奏を善意に受け止めるような素直さを失っているのかもしれません。そうだとしても、とにかくコンサートに行っても結果的に楽しくないというのがこのところの結論です。

そもそもコンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要するということは否定しようがありません。これこれしかじかのコンサートに行くということは、事前の情報のキャッチから始まり、行くという決断、チケットの購入、予定の調整など、事前の準備もわずらわしいものです。

当日は当日で、コンサートに行くことを前提とした動きになり、何をおいても一定の時間内にその準備をし、開演時間に間に合うように出発し、マロニエ君の場合は必ず車なので、駐車場に車を置いて、てくてく歩いて会場入りします。
さらに最近きわだって苦痛になってきたのは、決して座り心地の良くない会場のイスには、開演前から含めると、都合2時間以上もまんじりともせず座り続けなくてはならないことです。しかも演奏中は暗い客席から眩しいステージを見つめるということが、目や脳神経にもストレスで、しかも耳は演奏に集中しますから、心身の疲労がたまりにたまります。

これは、いかに好きな音楽とはいえ、心身へかなりの苦行になり、それが深い疲労に追い込まれるようになりました。

会場も大抵音響は酷く、たしかにステージ上では有名演奏家が演奏していますが、実際に耳に届く音や響きは甚だ遠く不鮮明で、茫洋とした残響ばかりを聞かされているのに、価値ある演奏を聴いた気になろうと意識が無理をすることも事実でしょう。ほんらい期待している演奏の妙技や心を打つ音楽体験などは、はっきりいって大半が伝わらずじまいです。

それでも今目の前であの人が演奏しているというだけでありがたいような存在なら、その空間と時間を過ごすだけでも意味があり、満足かもしれませんが、そんな(たとえばホロヴィッツのような)人はもういません。
また、東京あたりでのテレビカメラの入るような演奏会は別として、大抵の名だたる演奏家はツアーを組んでいて、その訪問先のひとつに過ぎない地方都市では、あきらかに手を抜いた気の入らない演奏をしていることが少なくなく、そんなものを聴くために高いチケットを買って、せっせとホールへ馳せ参じる欺瞞にも、もう好い加減いやになってきたのです。

素晴らしい芸術家の演奏を聴くといういうより、ほとんど商業主義の出稼ぎツアーにお金と時間を使って協力している1人に自分がなっているような気になることが多すぎるのです。マロニエ君にとってコンサートに行くということは、聴いている瞬間はもちろん、後々の記憶にも残るような喜びと感銘を得るためにホールへ足を運ぶことだと思うのです。

また、会場では必ずと言っていいほど、周囲にはカサカサ音をたて続ける人、異様に座高の高くて完全に視界を遮る人、演奏中も椅子をバタバタ振動させる子供、小さな声でしゃべっている人、チャラチャラと音をさせてあめ玉などを取り出す人、変な香水などの匂いを撒き散らす人、なぜか演奏中に身を屈めて出ていく人など、不快要因が散在していて、これらも嫌になってしまうのです。

それもなにも、演奏で満腹できればチャラにできるでしょうが、こちらもさっぱりという場合が少なくないし、そんな現実を思い浮かべると、もはや少々のことでは「家にいたほうが快適」になってしまいます。
チケット代にしても、ちょっと名の知れた海外オーケストラなどになると、もはや行く気も失せるような料金で、それで何枚CDが買えるかと思うと、マロニエ君にとっては価値を感じるほうに使いたくなってしまいます。

まあ、これじゃいけないんでしょうけれど、いやなことはしたくないのです。
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染み込んだ体質

たまたま見た、あるテレビ番組での話。

自転車店の最も少ない都道府県はどこかというと、普通は雪の多い北海道や東北地方では?と考えてしまいがちですが、意外なことに真逆である沖縄県なんだそうです。

というわけで那覇市内の街の様子が映し出されますが、車はたくさん走っているのに、自転車に乗っている人というのはまったくといっていいほど目に入りません。国際通り?とかいうメインストリートでも、ひっきりなしに行き交う車に対して、歩道は人もまばらで、たしかに自転車など影も形もなし。

番組では、県内で数少ない自転車店に入ってそのあたりの事情を尋ねると、沖縄の人はそもそも自転車にはほとんど乗らないらしく、その店は主に競技用など趣味としての自転車を取り扱っているだけで、日常生活で多く使われる普通の自転車は、ほとんど買う人がいないのだそうです。
売れるのは年にせいぜい2~3台というのですから、今どきの自転車大増殖とその無謀運転に悩まされる我々からすれば、ただただ驚くばかりでした。

その理由を探ってみると、潮風で車体が錆びるとか、暑いから汗をかくとか、アメリカによってもたらされた自動車文化が根付いた、などの理由がありましたが、最大の理由は、要するに自分の足の力を動力とする自転車というものが、そもそも沖縄の人の感性に合わないということのようでした。

では沖縄の人は移動手段はどうしているのかというと、ちょっとそこまででも、必ず「車で行く」のだそうで、さっきの自転車店のご主人がいうには、自分の奥さんもあそこの(ほんとうにちょっと向こうにあるぐらいの距離)コンビニに行くにもわざわざ車に乗って行く(笑)のだそうで、他の人に聞いても、自転車には「乗らない」し、目前に見ているぐらいのところでも「車で行く」と笑いながら当然という感じで答えていました。

マロニエ君にとって、これってまるで自分のことのようでもあり、おかしいような笑えないような、でもやっぱり笑ってしまうしかない不思議な気分でした。

歩かなきゃいけないのはむろんわかっているし、マロニエ君のまわりにも普段から驚くべき距離をせっせと歩いている人が何人かいて、ご苦労なことというか、呆れるというか、要するにただ感心させられるのですが、では自分も見習って少しは歩くよう心がけるかというと…さらさらそんな気はないのです。
どこへ行くにも、唯一気にかかるのは先に駐車場があるかどうか、その点だけ。

お店なども、どんなに行きたい店があっても駐車スペースがないようなところは、それだけで行くことを諦めますし、それ以上の挑戦はしません。

しかしマロニエ君以上の人もいて、知り合いで50ccバイクの常用者がいますが、その人は100メートル以上移動する際は、必ずヘルメットをかぶってバイクにまたがります。エンジンを掛けたりあれこれやっている間に歩いたほうが早い場合もあり、さすがのマロニエ君もその徹底ぶりには唖然とさせられることがあるのですが、ここまでくると何か突き抜けた感じがしてきます。
日常を電車やバス+徒歩もしくは自転車で過ごしておられる方からみれば、およそ信じ難い感覚かもしれませんが、これもきっとある種の依存症なのかもしれません。

いずれにしろ、いったん身についた習慣は、容易なことでは変わるものではなく、沖縄の人達の車依存もかなり根の深いものだなあと、なんだか妙に親近感を覚えてしまいました。

沖縄ではこの気質をネタにした地域限定のテレビCMまであるようで、野球の試合中、フォワボールになるとバットをポイと地面に放り投げたその手をおもむろに上げると、そこへ本物のタクシーがやってきてパカッと後ろのドアが開きます。なんとバッターはそのタクシーで1塁までいくというもので、それほど歩くのがキライだというわけでしょう。
まあこれはオモシロCMだとしても、根底にそういう感性があるのは理解できてしまうのです。

ふと思い出しましたが、以前入っていたピアノクラブでも、移動となると、みなさんごく自然に(マロニエ君にしてみればギョッとするほどの距離を)てくてくと歩いて行くのには「エッ、世の中、ふつうはこうなの?」と内心驚愕したことが何度かありました。最初のうちはお付き合いの気持ちもあって車は使わずに参加していましたが、これはもうたまらん!というわけで、以降はどこであれ車で行くようになりました。
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恐怖の着陸

少し前に、沖縄の那覇空港で、離陸待機中の自衛隊のヘリが、ANA機に出された離陸許可を自分達に出されたものと勘違いして離陸。すでに滑走路を走り始めていたANA機がそれに気づいて離陸を中断したものの、その背後に別機が着陸してしまうという重大インシデントとやらが発生しました。

たしかに状況を言葉で並べると危機一髪というような印象もありますが、空港の設置カメラの映像によると、飛び上がった自衛隊のヘリとANA機との間には遙か彼方とても言いたいほど距離があり、もしANA機がそのまま離陸していても、両者が衝突というようなことではなかったように見えました。

もちろん、このような勘違いはあってはならないことですから、より安全確認を徹底しなくてはならないことは当然ですが、それほどの危険が差し迫っていたようには(映像では)見えなかったため、これでこんなに危険が叫ばれるのだとすると、じゃああれはどうなんだろうと?…と、あることを思い出してしまいました。

それはYouTubeでだれでも見ることができますが、飛行機に関する映像の中でも、クロスウインド(横風)の中を旅客機が着陸する映像がいくつもありますが、これはなかなかどうして手に汗握るものです。

とりわけマロニエ君がすごいと思うのは成田空港のそれで、ちょっと信じられないような危ない着陸を、各社各機が次から次にやっている現実には唖然とするばかりで、シロウト目には、その危険度は上記の沖縄空港のニュース以上かも…というのが率直なところです。

そもそも、あれほど方角の定まらない嵐のような強風が吹き荒れるというのは、それだけでもあそこに国際空港を作ったことが適正だったかと思いたくなるほど、それは凄まじいもので、多くの乗客を乗せた大型機が、まるでおもちゃのようにふらふらしながらアプローチしてくるのは、理屈抜きに怖い気がします。

ふつう着陸態勢に入った旅客機は、ほぼキチンと水平状態を保ちながら慎重に高度を下げながら、とりたてて不安もなくきれいにタッチダウンするもので、福岡は市内に空港があることから着陸の光景は子供の頃から見慣れているつもりでしたが、成田のそれは尋常ではないことに見るなり度肝をぬかれました。

撮影された映像にも間断なく叩きつける強風の轟音がバリバリ入っていますが、そんな中をB767、B777、B747、A340、A380などが、まるで模型を使った下手な特撮のように、フラフラと左右に揺れながら近づいてきます。
飛行機の機体は敢えてしなやかな構造に作られているためもあって、強風にさらされた主翼やエンジンなどは、それぞれが小刻みにクニャクニャとしなりまくりながら近づいてきます。
そんな中をパイロットはよほど機体のバランスをとろうとしているのか、大きな旅客機が酔っ払いの千鳥足のように左右に大きく振れながら滑走路に入ります。

車輪が着地するときにも機体の揺れは収まらず、見ていて危ないのなんの。何度かに一度はパイロットが無理だと判断するのか、ゴーアラウンド(着陸のやり直し)となり、あとわずかのところで、再び空高く舞い上がっていきます。
中には同じ機体が何度やっても着陸できず、4回ぐらいトライするものもありますが、あんなの乗っていたら生きた心地はしないでしょうね。

また、着地の最後の瞬間にも容赦なく強風が吹き荒れるので、つい片方の車輪だけ勢い余ってドカンと着地したり、そのまま前輪も着いたり離れたり、中にはあまりにも左右いずれかに傾いた姿勢で着地したため、主翼の翼端やエンジンが、あとわずかで地面に接触するようなものも少なくありません。

中でも最も迫力があるのは世界最大の巨人機であるエアバスA380で、機体が肥満体なぶん、その迫力というか恐ろしさもケタ違いで、ほとんどやけっぱちのような綱渡り着陸は、何度もああもうダメでは?!と思ってしまうほど強烈です。
しかも中には何百人もの乗客が乗っているんですから、少々の衝撃映像より心臓がバクバクします。

ふだんから風が強いことは関東の特徴みたいなものですが、強風のたびにあんなアクロバティックな着陸を日常的にやっているとしたら、果たしてどれだけの人が認識してことだろうかと思います。きっとパイロット仲間ではこの点で成田は有名なのかも知れませんし、さすがに神経をすり減らし、血圧も相当上がってしまうのではないかと思います。

ひとつご紹介しておきますが、YouTubeで「成田 強風」で検索したらいくつも出てきます。
https://www.youtube.com/watch?v=OvVjSToWsWI
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消極的無礼

何かがヘン…と感じることは、日常のおりおりにあるものです。
それも、とくに大したことではないことが、却って神経に障ったりするのは人の心の不思議というべきかもしれません。

先日、主に運転用の新しいメガネを作ったときに、運悪くそんなシーンに遭遇してしまいました。
メガネを作るのはマロニエ君には甚だ苦手なことで、店先で拘束され、検眼に時間とエネルギーを費やすことで、ひじょうに目と神経が疲れてしまって心身ともにヘトヘトになるのです。

近ごろは、おしゃれなメガネが意外な破格値で作ることができるので、マロニエ君もいやなことは一回で済ませてしまおうと、遠く用と近く用の二種類のメガネを新調することに。

検眼をして、フレームを選んで、やや特殊なレンズであるため当日の出来上がりは無理ということで、支払いを済ませ、控えを受け取って、後日受け取りに来ることになりました。
準備ができたら電話の一本でもくれるのかと思いきや「いえ、お電話はいたしません。こちら(控えに書いてある日にち)でご準備できていますので…」というので、普通は電話でもかかってくることで、忘れていても思い出すことも兼ねているように思いますが、ま、いいかと思って帰りました。

何月何日に出来るということは、自分自身で控えをチェックして、認識して、自発的に取りに行かなくてはいけないわけで、なんとなく気を張ってなくちゃいけない印象があったことは事実ですが、安いということはそういうことでもあるのだろうと思うことに。

それから数日して取りに行くと、よほどシステマティックにできているのかという予想に反し、ずいぶん待たされ(先客がいたわけでもなく)、そのあげくようやく出されたメガネは、2種類のフレームとレンズがそれぞれ逆になっているという大ミスが発覚。こういうとき、今の若い店員さんにとって、接客マニュアルにない「番外編」に突入するのか、とりあえず石のように固まって無言となり、しきりに書類ばかりチェックしまくります。
同僚と小声でしゃべったりと、多少あわてているふうではあるけれど、要するにこっちは完全に放置された状態となり、それが延々と続きます。ずいぶん経って、ついにミスであることの確認が取れたらしく、再度レンズの発注をかけるということになり、このころになってようやく「申し訳ありません。」という言葉が出てきますが、ちょっと遅いようですね。

でも、これは単なるミスだと思いえば、お互いに生身の人間なんですから仕方がないかとも思えます。
その際の対応のマズさも、予期せぬ出来事ゆえと、まあ理解してやれないこともありません。

おかしいと感じるのは、実はこれらのことではなく、はじめにマロニエ君の対応をしてくれて、フレーム選びから検眼まで、1時間近く対応してくれたひとりの若い男性のほうです。出来上がりを受け取りに行ったときには、たまたま一番身近にいた店員さんに控えを渡したことから、その女性がその場合の担当者になるのかなんなのか、そのあたりの内部規定はしるよしもありませんが、数日前にあれだけ接客をし、あれこれ言葉を交わしたにもかかわらず、前回の男性は目の前にいるのにまったくの知らん顔なのは「何なの!?」と思います。

普通なら「こんにちは」か「いらっしゃいませ」ぐらいの最低限の挨拶をするのが当たり前ですが、一瞬目が合っても、これといった反応もせずに、悠然と横にいる店員としゃべてみたりで、なんというか、ちょっと薄気味悪いものを感じてしまいます。

もちろん客と店員の関係なので、実際だれかが応対して事足りていればそれでいいということかもしれませんが、それにしても、こうも露骨にその場限り、前後のつながりなんて完璧にないよという反応をされてしまうと、これはやっぱり無礼ではないかと思います。しょせんはそんなもの、くだらないとは思いながら、やはり胸の内でいやなものが駆け巡ることは事実です。
商売には商売なりのルールというものがあるわけですが、こういう消極的無礼は、今どきの社会には蔓延横行していることをこれまでにも何度か経験させられています。

結局、二度目に取りに行った時も同様で、その男性はこちらを認識しつつなんの挨拶も反応もなしで、マロニエ君もあえて目が合わないように意識していました。こんなことがあると、店全体の評価を甚だしく下げることになり、今後はその店で買う気持ちを完全に失いました。
向こうが一回限りというなら、こちらも一回限りにしてやらぁと思います。
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何のためのポイント

先月最後の週末、福岡市の天神にあるタワーレコードの福岡パルコ店に行った折、ポイントや駐車券発行をめぐって甚だ納得できかねる事態に遭遇しました。

そもそもマロニエ君は、さまざまなお店が発行するポイントカードのたぐいが基本的に好きではなく、以前は束のようにあったものの大半を破棄してしまい、現在ではわずか二三枚になっています。
その理由は、本来お客さんをお店に繋ぎ止めるためのサービスであり魅力アップのためのポイント制度であるべきものが、往々にして逆の事態を招くからです。店側に都合の良いルールが一方的に定められ、その運用を巡ってはむしろ高慢な振る舞いとなり、結果、利用する側が不快な思いをする事象が多いことは多くの人達が大なり小なり経験されているのではと思います。

そして、やっぱり起こりました。
そもそも買い物を通じてせっせと貯めたポイントが「失効」することは、それまでのささやかな努力や積み上げが一瞬にして破棄される如くで、有り体に言えば、あたかも恩を仇でかえされるような、突然、なにか逆さまの現象が起こってしまうようないやな感触を覚えます。ポイントカードなんかあったばかりに、却って不愉快な事に直面することになるという、割り切れなさでしょうか。

前々回タワーレコードに行ったとき、ポイントを使おうとすると、新しいシステムなのか「1000ポイント単位」でしか使えないのだそうで、わずかに足りませんでした。1万円買って何ポイント付与されるのかいまだ知りませんが、いずれにしろ1000ポイント貯めるのはそう容易なことではありません。

ところがレシート内に書かれた「失効予定」をみると、5月末日でその1/3ほどがその対象となっています。
ここにひとつ重要な事実があるのですが、福岡パルコ店は昨年の夏ごろから店が閉鎖となり、今年になっても再開の予定さえまったく告げられませんでした。閉鎖から数カ月後には別フロアに、申し訳程度の小さな仮店舗のようなものは出来ましたが、その中のクラシックなんて、どこかの廉価CDシリーズが並んでいるほどの微々たる量で、なんの役にもたちませんでした。

それから年が明け、今年の春になって、福岡パルコの増床と合わせて突如再開されたわけで、一年近くもの間、こちらとしては行きたくても「店がない」という状態に置かれていたわけです。にもかかわらず、そのあたりの事情はポイント失効期日と一切無関係というのですから、これはもう出だしから商道徳にも背くスタンスだと思いました。

店側にしてみれば、このポイントカードは全国のタワーレコード共通のものなので、他店では使用可能である筈という理屈なのかもしれませんが、福岡でいうと近くに代替店舗といえる規模のものはまったく存在せず、せいぜい郊外のモール内の店舗ぐらいですが、とてもではありませんがクラシックの選択肢など無いに等しいものです。

さらに驚きは追加され、これに駐車券のサービス券が絡みました。
福岡パルコ店では、購入額2000円以上で30分、4000円以上で60分のサービス券が出ることを、口頭で質問して「繰り返し確認して」いましたので、この日も駐車券のことも意識しながら4402円の買い物をしました。
ここで1000ポイント達成となり、失効わずか2日前にしてポイントを使うことに。

ところが、清算が終わってみると、差し出された駐車券は30分券が1枚のみでした。
おかしいではないかと質問しますが、レジの若い女性では答えにならず、すぐさま責任者のような男性が出てきましたが、店が定めた規定によって、この日の買い物は1000ポイントが先ず差し引かれ、3402円とみなすことになる由。

専らそのルールを繰り返すだけで、あとは無言、話はまったく噛み合いません。
そこまでルールが厳格なのであれば、駐車券のことを「繰り返し聞いた」ときに、ポイント使用分は含まないという点を併せてはっきり伝えるべきですが、それはいずれの場合にもまったく伝えられませんでした。
にもかかわらず、いよいよそれを発行する段になって、いきなりポイント分は除外となることを告げるのは、あまりに不親切かつ一方的で、もしや消極的カラクリかとさえ疑りたくなります。

いまどきの接客力も応用力もない店員を相手に、レジで抗議するのはみっともないし自分も虚しいので、この場はサッと引き上げましたが、何度反芻してみても納得できませんでした。どう考えても、店の都合のみが優先され、客側の利益や心情はまったく蔑ろにされており、まるで店側が権力を握りそれを上意下達ごとく行使している構図にしか見えません。

べつにきれい事を言うつもりはありませんが、純粋な価格でいうなら、ネットで買うほうが格段に安くもあるし、選択肢に及んでは店頭とは比べ物になりません。それでも、地元にあるCD店を利用することで、ささやかなりとも店の売上に貢献したいという思いがあることも事実で、だからあえて店頭でも購入をしているつもりでした。

むろんマロニエ君ひとりが買う量など、微々たるものかもしれませんが、深刻なCD業界の不況の中にあって、わざわざ店まで足を運んでCDを購入する人を、もう少しは大事にしたらどうかと思います。
「貧すれば鈍する」という言葉があるように、台所事情が苦しいからといってサービスの適用条件を上げるばかりでは、ますます人の足は遠退いていくだけだと思います。
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手頃価格でゲット

中古車店のことを書いたついでにもう少々。

マロニエ君の勝手な思い込みかもしれませんが、長引く不景気故か、価値観の変化か、ピアノや輸入車のような付加価値品目の中古価格は、昔に比べると安くなっているような気がしてなりません。

売る側にしてみれば贅沢品に類する品目の中古品は、時代のニーズからちょっと外れて売りにくいのか、かなり良いものが安く売られているようで、かなりお買い得感を感じます。

その一例がアップライトピアノで、タダ同然のオンボロは別として、お店でまともなものを買うとしても、うるさいことを言わなければ、20万円ぐらいでもきちんと整備されたピカピカの良い物が買えるのは驚くべきことです。
現在の主流である電子ピアノに比べても、こちらはなにしろ本物のアコースティック・ピアノであり、それもヤマハやカワイのようなれっきとしたブランド品が買えるのですから、これは市場自体がかなりのバーゲン状態ではないかと思います。

電子ピアノというのは近隣の騒音問題をクリアできるということ以外にあまり見るべきものがないし、はっきり言ってしまえばあれは楽器ではなく電気製品と心得るべきでしょう。聞くところでは、それなりの時期に、それなりの故障やトラブルが出てくるのだそうで、その際、高い修理代を出してまで使い続けることはほとんどないのだとか。

電気製品となれば、テレビや洗濯機のように新しいものへ買い替えが必要で、古いものは粗大ゴミとして処分することなどを考えれば、やっぱり生ピアノというのは価値や存在感からして違います。
上記のような中古であっても本物のピアノは寿命は遥かに長く、その気になれば何十年も使えるものがほとんどです。モノとしての価値はおよそ勝負にならないと思うのですが、それでも生ピアノというのはなかなか買う人がいないのは何故なんでしょう。

話が脱線しかかりましたが、マロニエ君の少ない知識と印象でいうと、日本はこの種の中古品に関しては、突出して恵まれた国だと思います。
大ざっぱに云っても諸外国では中古品の価値というものは、日本人が考えているよりはるかに高く、それだけ価格もずっと割高だという印象があります。その点、日本は中古というと何かやましいもののようなイメージがつきまとい、あくまで新品がエラくて無条件に好まれるというメンタリティの土壌があるのでしょう。

また、全般的にものを長く使うということがあまりなく、どんなにきれいでも要らなくなれば直ちに処分するとか、一定期間が過ぎると買い替えの対象になることが少なくありません。ともかく新品もしくは新しいものが大好きで幅を利かせる日本では、非常に状態の良い中古品の宝庫であもあるわけで、しかもそれらは一様に「中古」ということで値打ちがずいぶん下がるので、ジャンルによってはそこに目をつけている外国人も少なくないようです。

例えば車の場合、最近目にした専門誌の記述によれば、ドイツでは中古車の走行距離が10万キロ程度では、多走行の部類にすら入らないのだそうで、この一点だけでも彼我の違いに口あんぐりでした。
日本なら、中古車で10万キロといえば、ほとんど賞味期限の切れたボロ同然の扱いで、まともな商品価値はないのが普通です。

たしかにドイツのアウトバーンをはじめ、陸続きのヨーロッパでは高速道路網が発達しており、走行距離の数字だけで同じ判断をすべきでないという見方も以前はありました。いっぽう日本の道路は慢性渋滞で、高温多湿の中をノロノロ運転で、距離は伸びていなくても機械的なストレスが大きいなどとまことしやかにいわれたものです。
ところが最近では、エンジンや駆動系に強い負荷をかけて高速道路を飛ばしまくった車こそが最も傷みが激しいということが指摘されるようになりました。

まあ、そりゃあそうでしょう。ヨーロッパでバンバン飛ばしまくって、わずか数年で10万キロ走った車なんて、我々日本人が見たらかなりくたびれた車と感じるでしょうし、そんな車は日本人ならまず嫌がりますね。

というわけで良いものは日本にこそあって、しかもちょっとでも型落ちすればかなり安いみたいです。
実は以前から耳にするところでは、ヨーロッパから、ちょっと古い中古のドイツ車などを探しにわざわざ日本へやって来るらしいという話は耳にしていました。そして昨年のこと、マロニエ君の友人(関東在住)が乗らなくなったあるドイツ車を中古車店に預けていたところ、ドイツ人ブローカーがやってきて、見るなり望外の高値で購入、ドイツへ送る手続きを行なったというのですからウワサは事実として裏付けられてしまい、たいそう驚きでした。

やはりそれだけ、日本には外国人から見たら飛びつくような上物の中古品が安値でたくさんあるということなんだろうと思います。日本人の丁寧な扱いや、ちょっとしたキズでも許さないこだわりの民族性、それでいて新しいものが好きとなると、状態の良い中古品をぞくぞくと生み出すための条件が見事にそろっているのかもしれません。

というわけで、品目によっては良いものが手頃価格でゲットできる好機のような気が…。
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今どきの中古車店

このところ、輸入車専門の中古車店へ2軒ほど行く機会(購入ではなく)があったのですが、昔とはずいぶん様子が違っており、それぞれの店では車種や得意分野を絞り込み、厳格な商品構成がされている点が非常に印象的でした。
中古車店の在り方もまさに時代とともに変化しており、今昔の感に堪えませんでした。

ひとつ目の店は、すべての車が比較的高年式で、走行距離はすべて15000km以内のものに限られていることにまずびっくり。当然どの車もとてもきれいで、中古車というものにありがちな古さや使用感など、いわゆる人の手垢のついたネガティブなイメージというのがほとんどありませんでした。
さらには車種も人気のあるメーカー/モデルに絞られ、確実に売れるであろうものだけしか在庫もしないという徹底ぶりが窺われました。輸入車といっても珍車/希少車の類は見当たりません。

聞くところでは、ドイツの高級車でも、大型車の部類、あるいはエンジンが大排気量のモデルなどは、端から取り扱いをしないというあたりにも、今どきの購入者のニーズがはっきり見えるようで、その割り切りには時代の厳しさがにじみ出ているようで、思わず圧倒されるようでした。

つまりどんなにいい車でも、走行距離の多い車、大型車、大排気量の車は売れにくい=商売にならないということらしく、店頭に並ぶことはもちろん、仕入れることもないのだそうです。
もちろんごく一部の例外的な人気モデルなどでは少し条件が外れることもあるようですが、全体としては、おおよそ輸入車中古店の基本的な営業スタンスはこういう方向を向いているようでした。

昔の車好きは、その車に惚れ込んだらかなり情熱的かつ盲目的で、分不相応な車だろうとなんだろうと、買えるものなら必死になって購入して単純に悦に入っていたものですが、今の人達は車は好きでも基本が冷静で、実用性を重視し、駐車場の問題、周りの目、ランニングコスト、故障した場合の修理代などのリスクをトータルに考えて、いわゆる無謀な車選びはしないというのが主流のようです。

聞くところでは、たとえばメルセデス・ベンツでいうと大型車であるSクラス、もしくは3200cc以上の車は、それ以下のモデルに比べて売れ足が一気に鈍るのだそうで、今どきはあまり人気がないのだそうです。
だからそのあたりのモデルは、お客さんからリクエストがあるような場合以外は仕入れないし、むろん在庫はしない方針だと店長さんがキッパリ言い切ったのがきわめて印象的でした。

もうひとつの店は、ドイツ、フランス、イタリアの車をずらりと並べていましたが、価格はおしなべて100万円台、それもほとんどが150万円以下というものでした。
上記の店よりは多少走行距離も嵩んではいるものの、それでもせいぜい3~4万キロ止まりという感じで、どれもシャンとしていて決してくたびれた感じではありません。

こちらもやはり自店の売れ筋という基準を設けて、それにそった車のみを置いていることが一目瞭然でした。

昔は、輸入車を取り扱う中古車店というのは、一部の専門店を別にすれば、多くは何でも屋のような状況で、いろんな車が並んでいたものです。手頃なものから高級車/高級スポーツカーまで、なんでもありでしたし、とりわけ高額車はお店の看板商品でもあり、常にぐっと前面に出されていた感がありますが、それが現在ではすっかり様変わりして、安くて手頃なモデルなどに特化し、気軽なオシャレ感や現実性をアピールするという方向に変わってきていることを痛感しました。

さらには昔の感覚でいうと、全般にかなり安めの価格になっているようで、それだけ輸入車が売りにくい時代になっていることを物語っているようでした。
輸入車が贅沢品で、それでもどんどん売れていた時代は遠い昔の話です。加えてネット社会の到来で、個人が全国の中古車情報を網羅的にチェックすることも可能となり、競争は格段に厳しいものになっていったんだろうと推察されます。

おそらく世界的にも、ドイツをはじめとするヨーロッパ製の高級車の中古は、質・価格ともに日本が最も有利な買い物ができるという説もあるほどです。2つ目の店ではひと世代前のBMWの3シリーズで、かなり程度の良いものが5台並んでいましたが、ほとんどが150万円以下でした。これって軽の新車と同じ価格帯でもあり、思わずウーンと唸ってしまいました。

逆にいうと、日本車の軽やコンパクトカーって、相対的に結構高いんだなぁとも思った次第です。
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ブレンデルの影

BSクラシック倶楽部で、キット・アームストロングという若いピアニストのリサイタルの様子が放映されました。

台湾系イギリス人だそうですが、人間には勘働きというのがあるようで、冒頭のインタビューの感じからして、直感的にこの人はマロニエ君の好みでないだろうことが伝わってきました。そして実際の演奏もある程度予想通りのものでした。

この人はブレンデルに師事しているのだそうですが、さもありなんという感じで、プログラムの構成や演奏家としての理念の示し方まで、師の影響がありありと出ており、実際の演奏にもそれは随所に見て取れました。
現在23歳とのことですが、実年齢よりはるかに幼く見え、まるで中学生が巨匠のような表情でピアノを弾いているようでした。

演奏中は、バッハでさえ、見ているこちらの頭がふらふらしてくるほど上体を揺らしまくりますが、聞こえてくる音楽には面白さというか興味をそそるものがマロニエ君には見当たりません。やたら抑制的、くわえて、ところどころに巨匠風の表現などが盛り込まれるあたりは、いかにもこの人の目指すところが透けて見えるようです。

演奏アプローチが思索的表現を前面に押し出そうとしているわりには、さほど知的な薫りが漂う風でもなく、単に理論統制型の良心的演奏をアピールしているだけに聞こえてしまうあたりは、却って音楽家としての謙虚さにかけているような気もしました。正論のようなものを誰彼なく得意気に弁じ立てる人こそ偏っているように…。

ネットで探したプロフィールによると、ブレンデルは「これまでに出会った最も偉大な才能の持ち主」と言い、「ロンドンの王立音楽院から音楽の学位を、パリ大学から数学の学位を授与されている。」などとありますが、そんな言葉を連ねるよりも、演奏によって聴く者を説得できるかどうかが演奏家たるものの本分ではないかという気もします。

バッハもリストも、マロニエ君にとっては楽しめるところのない演奏で、この人のどこがそんなに世界中の期待と話題をさらうほどのピアニストなのか、まるきりわかりませんでした。
メフィスト・ワルツでの両手のオクターブの跳躍など、まさにブレンデルのそれでした。

そもそもブレンデルが、マロニエ君はいまだによくわからないピアニストです。
演奏それ自体が、学問の講義を聞いているようで、こういうアプローチが流行った時期がたしかにありました。質素を旨とし、まるで抽斗の中を小ぎれいに整理整頓したような小料理屋みたいな演奏が、そんなに立派なことなのかと思ってしまいます。
最盛期には作品の最も深いところを探求する学究肌のピアニストとして、いつしか最高位の音楽家であるようにもてはやされ、ミシェル・ベロフに至っては「自分がほしいものは、ポリーニのテクニックとブレンデルの音楽性」などとコメントする始末でした。

マロニエ君はこの当時からあまり好きではなかったけれども、しっくりこないのは自分の理解が及ばぬ故だと思い込んだ一面もあり、この人のベートーヴェンのソナタ全集だけでも3種類ももっていることが、今思えばすっかり評判に乗せられてしまった証のようで我ながら恥ずかしくなってしまいます。
しかし、最後の全集の折は、全曲揃わなくなることを覚悟して途中下車したことは、せめてもの自分の意思表示だったように思います。

引退後のブレンデルは後進の指導にあたっているのか、何人ものピアニストを自分色に染め上げていることが、少々気にかかります。クーパー、ルイス、オズボーン、そしてこのアームストロング。いずれにも通底するブレンデルの影を、それがいかにも本物の上質なピアニストである証左のように美化されて見えてしまうのは、なにか得体のしれない危機感を覚えてしまいます。

いかにもウィグモアホールあたりの常連ですよという演奏ですが、今にして思えばちょっと時代遅れのようなスタイルになっているような気もします。

だからといって特にブレンデルを嫌いだというわけではありませんし、さすがだなと思うことももちろんあるのです。ただ、マロニエ君の目には、努力の人という程度で、現役時代の彼の名声はいささか過大だったように思えてならないのだと思います。
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しらぬ顔

マロニエ君のように徹底して移動の手段をクルマに依存していると、ときどきは人を乗せるという機会があるものです。

そんなとき、今どきの流儀に著しく違和感を感じることも少なくありません。
せこい話だと思われるかもしれないけれども、昔とはずいぶん様子が変わってきたと思うシーンがあります。

外で人と会えば、流れでその人を車に乗せる状況になることは珍しくありませんが、マロニエ君に言わせるなら、車に乗せてもらう側にもそれなりの作法というものがあって然るべきで、実際、昔はそれはあったのですが、これが時代とともに衰退し、今はほとんどゼロに近いような状況に達してるというのが偽らざるところでしょう。

例えば出先で一緒になり、帰りに駅や家まで「送りましょう」となることがあるものです。
その際、車を有料の駐車場に止めていれば、昔なら間違いなくその駐車料金の支払いをめぐって一騒動があったものでした。
もちろんその騒動とは、「ここはワタシが!」「いやいや結構です!」「乗せてもらうんだからこれぐらい当たり前ですよ!」というような支払い合戦で、車の持ち主はこれをご遠慮というか拒絶するのが一仕事でした。人を何人か乗せて駐車場を出ようとすれば、助手席や後部座席から一斉に何本もの手が伸びてきて、それはもう数匹のコブラから狙われているようでした。

それがわかっているものだから、こちらの方でも予め小銭なんかを密かに準備して、サッと支払いができるようにするなど、今から思えばなんとも奥ゆかしいというか、麗しい美徳が互いに満ち溢れていたものだと思います。それが特別でもなんでもない、ごくごく普通の感覚でした。

それがいつ頃からだったかは判然としませんが、こういうやりとりはすっかり廃れて現在はほぼ絶滅に等しく、駐車場代を払わんがための攻防などまったくありません。それはもう、不気味なまでに静かでスムーズなものです。
今の人は、人の車に乗せてもらっても、遠回りして家まで送ってもらっても、あるいは迎えに来てもらってこちらの車で行動を共にしたとしても、その行為に対して言葉で「すみません」とか「おじゃまします」などの最小限の言葉が出るのがせいぜいで、実際の行動として駐車料金ぐらい出そうとする、あるいはせめてワリカンでという気持ちなど「微塵もない」ところはまったく驚くばかりです。

こちらが駐車場代の支払いをしていると、横でその作業が終わるのを静かに待っています。
こちらもちょっと送ってあげるからといって、それでいちいち駐車場代を払ってもらおうなどとケチなことを思っているわけではありません。ただ、普通の感性として、乗せてもらうからには、ささやかな駐車料金ぐらい出すのが普通で、これは専ら倫理やマナーの問題の筈ですが、そういったものが一切介在してこない乾き切った感覚が当然のように流れると、内心「…すごいな」と思ってしまうわけです。

こちらもむろん自分で出す気ではいるものの、せめて出そうとする態度ぐらい示したらどうかと思います。
電車やバスで帰ってもそれなりの料金はかかるわけで、これではまるまるタダ乗りということになるでしょう。もちろんタダ乗りで結構なんですが、そのどこかにお互い様の心の機微が機能しないことには、こちらの善意までちゃっかり利用されているみたいです。

はじめの頃は「なんという図々しさ!」「どういう感覚してるんだろう?」と呆れたりしたものですが、必ずしもそういう無作法をするような相手でもないし、それほど悪気ではないらしいこともしだいにわかってきました。しかし、わかってくるにつれ、さらに別の驚きが上塗りされるようでした。

要するにこう思っているんだろうと考えられます。
駐車料金(有料道路なども同様)などは車にかかるもの、よって、それらはすべて車の所有者が負担するのが当然で、乗せてもらう人間には一切かかわりのないこと。これらは車の持ち主の責任(あるいは負担)領域内で発生しているものであり、他人には無関係であるという、乗せてもらう側に都合のよい理屈だろうと考えられます。

同時に、その根底には、ここでちょっと知らん顔をしておけばそれで済むわけだし、わざわざ進み出て金を出すこともないという、あさましさがあることも透けて見える場合もあるのです。
実際には、ものすごくその人のイメージダウンになるわけですが、こちらもポーカーフェースを貫くわけですから、肝心のご当人には、そのイメージダウンがどれくらい深刻なのかはわからないままになるのでしょう。
たかだか数百円で、そんなに自分の値打ちを下げるなんて、そんな割に合わない事、マロニエ君なら嫌ですけれど。
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ハーンの完璧

Eテレのクラシック音楽館で、エサ=ベッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の来日公演から、ヒラリー・ハーンをソリストをつとめた、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

いうまでもなく、ハーンはアメリカ出身の現代を代表するヴァイオリニスト。
彼女を上手いと言わない人はまずいないはずで、デビューしたころの線の細い感じからすれば、ずいぶんオトナになって、風格もいろいろな表現力も身につけたことは確かなようです。
ただ、これだけの人に対して申し訳ないけれど、マロニエ君の好みからすると、どうしても相容れないところが払拭できません。

いつも書くことですが、始めの何章節を聴けば自分なりの印象の「何か」が定まります。
マロニエ君ごときが演奏の評価というような思い上がったことはするつもりもありませんし、また出来もしませんが、それでも自分の抱く感想というのは、開始早々に立ち上がってくるもので、それが途中で変化することはまずありません。

ハーンは世界的にも最高ランクのヴァイオリニストのひとりとして、揺るぎない地位を勝ち得ており、そこへ敢えて歯向かおうという気はないのですが、あまりにも現代の要求を満たした演奏で、音楽(もしくは演奏)を聴く上でのストレートな喜びがどうしても見い出せません。

うまいすごいりっぱだたいしたものだとは思うけれど、いつまで経ってもしらふのままで、一向に入り込めないというか、酔いたいのに酔えない苦しさのようなものから逃れられないといったらいいでしょうか。
またこれほど聞き慣れた曲であるにもかかわらず、なぜかむしろ作品との距離感を感じ、どこを聴いても威風ただようばかりで音楽的なうねりや起伏に乏しく、要するに感心はしながら退屈している自分に気づいてしまうのです。

今どきは、世界的な名声を得た演奏家であっても、すべからく好印象を維持しなくてはいけないのか、高評価につながる個別の要素も常に意識し、演奏キャリアと同時進行的にプロモーションの要素も積み上げていかなくてはならないのかもしれません。
自分々々ではなく、オーケストラなど共演者全体のことも常に念頭においていますという態度がいかにも今風。謙虚で、視野の広い、善意の教養人として振る舞うことにもかなり注意しているようで、それらがあまりにも揃いすぎるのは、却って不自然で、作られた印象となるのです。

ハーンの直接の演奏から感じるのは、あまりにも楽譜が前面に出た精度の高さ、演奏中いかなる場合もその点を疎かにはしていませんよという知的前提をくずさず、それでいて四角四面ではないことを示すための高揚感のようなものも見事につけられていて、必要なエレメントをクリアしています。

昔ならこれはすごい!と感嘆したはずですが、いろいろな情報や裏事情にも通じてしまった現代人には、市場調査と研究を経て開発された戦略的な人気商品のような手触りを感じてしまうのでしょうか。

どう弾けばどう評価されるかという事を知り尽くし、その通りに弾ける演奏家というか、どんな角度からチェックされても評価ポイントを稼げるよう、すべてをカバーするための完璧なスタイルに則った演奏…といえば言い過ぎかもしれませんが、でも、やっぱりそんな匂いがマロニエ君のねじれた鼻には臭ってきてしまいます。

耳の肥えた批評家や音楽愛好家は言うに及ばず、ヴァイオリンを弾く同業者からの評価も落とさぬよう、徹底的に推敲を重ねつくした演奏という気がして、そういう意味では感心してしまいました。
たぶん、マロニエ君のようなへそ曲がりでない限り、このハーンのような演奏をすれば、まず間違いなく大絶賛でしょうし実際そうでした。

喜怒哀楽のようなものさえ節度をもってきっちり表現するあたりは、いついかなる場合も決して本音を漏らすことのないよう訓練された、鉄壁のプロ根性をもつ政治家の演説でも聞かされているようでした。
もちろん素晴らしい音楽家の演奏がすべて純粋だなどと子どもじみたことを云うつもりはありません。生身の人間ですから、裏では狙いやらなにやらがうごめいていることももちろん承知です。いろんな欲得も多々働いていることでしょう。
…でも、その中に真実の瞬間もあると思うからこそ、せっせと耳を傾け、何かを得ようとしているようにも思います。

ただアメリカは根っからのショービジネスの総本山でもありますし、それに追い打ちを掛けるように時代も年々厳しいほうへと変わりましたから、その荒波を勝ち抜いてきた人はやはりタダモノではないのでしょうね。

自分の手が空いているときは、いちいち愛情深い眼差しで指揮者やオーケストラのあちこちに目配りするなど、そのあまりに行き届いた自意識と立ち居振る舞いを見ていると、マロニエ君のような性格はそんな芝居にまんまと乗せられてやるものかという、反発心みたいなものがつい刺激されてしまいます。
心底酔えないのは、やっぱり根底のところに何かが強く流れすぎているからだと個人的には思いました。

冒頭のサロネンとハーンのインタビュー(別々)でも、やたら相手を褒めまくりで却って不自然でしたし、お互いに「次に何をやろうとしているかがわかる」などと、さも一流の音楽家同士はそういう高度な次元で通じ合うものだといわんばかりですが、あれだけ冒険のないスタイルなら、だれだって次はどうなるかは見えて当たり前だろうとも思いました。

もうひとつ驚いたのは、ハーンが「ブラームスの協奏曲では、オーケストラはただの伴奏ではありません」みたいなことを言いましたが、そんなわかりきったことをいまさらいうほど日本の聴衆を低く見ているのかとも思って、おもわず腰の力が抜けました。
インタビューの答えも紋切り型で、独自の感性や考えに触れる面白さのようなものは皆無でした。

ただ、ハーンの名誉のために付け加えておけば、それでも本当に上手いことは間違いないし、アンコールで弾いたバッハの無伴奏は実に素晴らしいもので、このアンコールでだいぶ下降気味だったこちらの気分が、ちょっとだけ持ち直したのも確かでした。
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苦行は楽しみ?

先週のこと、出かける支度でひとりバタバタしている際、家人が夕刻のテレビニュースをつけていましたが、そこで気にかかるものをチラチラと目撃しました。

ゴールデンウィークを目前にしたタイミングで、これからでもまだ予約の取れる格安の宿泊プランというようなもので、人気のホテルや旅館であるにもかかわらず、まだ予約が可能で、しかも格安という裏には何があるのか…という特集でした。

なにぶん急いで出かける準備中ということで、じっくり視たわけではないので、詳しいことは違っていたら申し訳ないですが、たとえばある熟年夫婦が格安料金で泊まることのできるホテルだか旅館だかに到着します。
本当かどうか知りませんが、この二人には格安の理由がこの時点では知らされていない由。

部屋に通されてみると、一見してやや狭いとわかるツインの部屋で、ベッドがかなり部分を占領しているようです。
窓からの眺めはというと、建物の裏手かなにかの絶望的な光景が広がり、安いのはそれらかと思われました。ところが、ホテル側からはさらにとんでもない仕事を言い渡されます。

この施設にあるゴルフ練習場の「ボール拾い」を命じられ、年配の二人は旅装を解くと早々に練習場に行かされ、見渡す限り、水玉模様のように転がっているゴルフボールを手や熊手のような用具を使ってバスケットに拾い集めなくてはならないとのこと。
それも少々のことでとても終わるような量ではなく、見ていてこの夫婦が無性に気の毒になりました。記憶が確かなら、こんなことをさせられるとは思わなかった…というようなことをボソボソ言っていたように思います。

ほかにも、かけ湯式の温泉で出てくる、温泉のアクだかヘドロだか知りませんが、それを底のほうからすくい集める仕事をさせられるというのもあり、それらは「泥パック」などとして旅館で売られるのだそうで、こちらも宿泊客がせっせとそれを掻き集める作業をさせられるというものでした。
あるいは足元もおぼつかないような竹林の急斜面を登って、タケノコ掘りをさせられるというのもあったようで、いずれもテレビ画面を見ている限りでは、いわゆる「お客さん」とは名ばかりの、屈辱的肉体労働をさせられるようで、マロニエ君にとってはちょっと笑えないものでした。

こんなことが、どんな前提でなされる提案であり、それを承知の予約なのかは知りません。ただ、その料金はというと、それほどの破格なものとも思えるものでなかったことが、さらに驚きでした。
いまどきですから、もしかするとお客さんの方でも、「格安」であることのお得感と、「行った先で何が待ち受けているかわからない」というところに冒険心のようなものを感じて「楽しんでいる」のかもしれません。
さらに、この時期の格安とあらば、いかなることにも耐え抜こうという悲愴な覚悟があってのことかもしれず、そのあたりの個々の参加者の心情まで正しくはわかりませんでした。

しかし、いずれにしろマロニエ君の眼には、到底受け容れられないものとしか映らなかったことも事実で、こんなことを楽しんでいるのだとすると、これは相当なMというか自虐趣味としか言い様がないと思いました。

今どきは、法に触れず、相手の同意さえあれば何でもアリの時代ではあるし、お客さんをもてなすプロ意識だとか、商売をやる上でのルールだとかご法度のようなものも、すっかり様変わりしてきているのかもしれません。
以前なら、価格云々の問題ではなく、こともあろうにお客さんに裏方の労働をさせるなんぞ、無銭飲食の罪滅ぼしぐらいなもので、通常は発想にもなかったことだろうと思います。

どんなスキャンダルでもいくら相当の宣伝効果があった、などといちいち換算して損得勘定するような社会ですから、ホテルや旅館側にしてみれば、お客さんを安くこき使った上に、話題作りにもなり、うまくすればテレビの取材対象にもなるとなれば、一石三鳥ぐらいなことかもしれません。

まあ、マロニエ君だったら端からそんなデンジャラスなことに参加しようなんて思いませんし、まかり間違ってそんな場面に行き合わせようものなら、ほぼ間違いなくそんなところは出てくるでしょうし、それを楽しみに転換させるような物分かりの良さとか柔軟性な感性は持ち合わせてはいないでしょうね。
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居住地再編?

東京・沖縄を除く全国放送として人気の番組、「そこまで言って委員会NP」は世相を斬る番組の中では筆頭の影響力をもつ位置を確立していると思います。
各界の話題の人物がゲストに呼ばれるのはもちろん、安倍さんも昔からこの番組にはずいぶん顔を出していて、総理になってからも何度か出演されているのは多くの方がご存知のことと思います。

先日のこと、そこで興味深い発言がありました。
一時的に収まったかに思えた東京への一極集中が、ここへきて再燃しているのだそうです。

理由はさまざまのようですが、主なところでいうと、若い世代の人たちが不便なロケーションの一戸建てマイホームより、利便性の高いマンションでの快適生活を好む傾向がここ最近は顕著なのだそうです。
家をもつという情緒に見切りをつけた、より現実的な考え方のあらわれなのかもしれませんね。

さらに、その背景となる要因のひとつとして、地方や郷里に戻ろうにも仕事が無いことから、やむなく都市部での生活を強いられているという社会構造にも理由があるようでした。

これは今や800万戸を突破するという「空き屋問題」にもつながっているであろう現象で、田舎でのんびりといったら語弊があるかもしれませんが、ともかくそれぞれが生まれ育った土地で普通に生活を成り立たせるということが、現実として困難になってきているということも見過ごすことのできない問題であるようです。

小泉さんの時代の「聖域なき構造改革」で提唱された地方の活性化は、ほとんど機能しないまま終わってしまっているのか、都市部とそれ以外との改善の兆しのない二極化は今後どうなっていくのだろうと思います。

あるコメンテイターの話では、東京以外では、福岡・名古屋・仙台の3都市では人口が増加しており、それぞれのエリアでの一極集中現象が起こっているのだそうで、逆に大阪などは減少傾向にあるんだとか。

たしかにマロニエ君のまわりでも、近年はやたらとマンションが増えていることは紛れもない事実です。
古い家や建物は、取り壊され更地になったかと思うと決まってマンションかコンビニになるし、より規模の大きな、昔つくられたビルや体育館やホールなどの施設も惜しげもなく解体され、何が出来るのかと思えば、ほぼ例外なく無味乾燥な見上げるようなマンションになってしまいます。

そんな目で街中を見てみると、まあともかく驚くばかりにマンションが増殖乱立しており、しかも昔のそれに比べると規模が大きく高層化が進み、どれも竣工前に完売などという話を聞きますので(本当かどうか知りませんが)ただただ驚くばかりです。
完成すれば一挙に人が入って生活がはじまり、それでもまだあちこちに大きなマンションが建設中ですから、こんなことがいつまで続くのかと思います。

先日はマロニエ君の音楽の先生から聞いた話ですが、この方のお嬢さんが結婚され、数年前に川崎にマンションを買われたのだそうで、そのマンションというのが川崎の昔の工場地帯がマンション群になり変わったエリアにあるとのことでした。
むろん今時の例にもれず、数十階もある高層マンションばかりで、それがはじめのころ何棟かが立っているだけだったのが、行くたび行くたびにその数が増えて、今では文字通りの林立状態となり、いざ駅に降り立っても、はたしてどこが娘の暮らすマンションなのか、すぐにはわからず迷ってしまってかなわないという話をされていました。

人が大挙して越してくれば、それに付随するスパーやらなにやらの入るモールが作られ、あっちにもこっちにも大きなスポーツジムがあったりして、夜になると仕事帰りに多くの人がジムでせっせとなにかトレーニングをやっているのだそうで、とてもじゃないけどついていけない世界が広がっているという話を聞きました。

日本の人口は減っているというのに、ある地域だけがそんな勢いで人が増えているということは、それと同じ速度であちらこちらの過疎化が進んでいるということでもあり、はてさてこの国のかたちはどんなものになっていくのだろうと思います。
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不幸中の幸い

広島空港で起こったアシアナ航空の事故は、その全貌が明らかになるにつれて驚きも増してくるようです。

天候その他の理由から超低空で最終進入し、滑走路脇の無線設備に接触しながら着陸したにもかかわらず、ひとりの死者も出さず、全員が生還しています。

通常、着陸したあとのオーバーランなどであれば、犠牲者もなく機体の損傷のみということはないことではありません。
しかし、いかに着陸進入中のこととは言え、まだ空中を飛んでいる段階で何かに機体が接触し、それが原因で事故が発生し、にもかかわらずひとりの犠牲者も出ないで済んだということは、これこそまさに僥倖といえるのではないかと、この点でとくに感心してしまいました。

事故以降の報道を見ていますと、滑走路脇の無線設備はアシアナ機の接触によって、かなり激しく損傷しているし、はるか遠くの草地で向きを変えながら停止した機体の左エンジン付近には、この無線設備のものと思われる何本ものオレンジ色の棒状のものが突き刺さっており、衝撃の凄まじさが偲ばれます。

また、マロニエ君はこのニュースを聞いたとき、滑走路のはるか手前に設置された無線設備に激突したということは、それがなければ滑走路手前の地面に突っ込んでいたのでは?と思ったものですが、翌日報道ヘリから撮影された周辺の映像によれば、アシアナ機はこの設備に接触した直後に、滑走路手前の草地のようなところにまず着地しており、その車輪による爪痕がはっきりと残っていました。

つまり無線設備に激突した直後にそのまま滑走路手前の地面に着地し、草地から滑走路へ乗り上げ、いったんは滑走路を西に進行しますが、再び左に大きく逸れて滑走路を逸脱、草地を爆走したあげく機体が停止した位置というのは、あとわずかで空港のフェンスを突き破り外に飛び出すまさに直前の位置でした。

詳しい事故原因がなにかはわかりませんが、状況から察するに、少なくとも事故発生以後だけの状況を見ると、幸運の連続だったのではないだろうかと思わずにはいられません。
通常なら、飛行中の旅客機が地上施設に接触などしようものなら、そのまま無事に着陸なんてできるわけもなく、凄まじいスピードと相俟ってバランスを崩し、でんぐり返ったり、機体が折れたり、火災が発生したりで、これまでに私達が目にした数多くの航空機事故のような事態におちいる可能性が高かっただろうと思います。

事故といえば脈絡もなく思い出しましたが、つい先日の深夜、所用で郊外へ出かけた際、帰り道をドライブがてら四王寺という小さな山を迂回するひと気のないルートがあるので、そちらを走っていたときのことでした。

カーブのむこうでヘッドライトの先にいきなり照らし出されたのは、ひとりの男性の姿で、手には懐中電灯をもち、道路脇に停車した車の脇に立って、しきりに走ってくる車の誘導のようなことをやっています。
何事かと思いつつ、あたりにはちょっと異様な気配が立ち込めて、事故らしきものが発生したらしいことがわかりました。引き返すこともできない状況なので、その脇を通過するしかなくドキドキしながら徐行して近づくと、なんとその車の前には、ある程度の大きさのある動物らしきものがぐったりと横たわっていました。

見なけりゃいいのに見てしまうマロニエ君の困った性格で、こわごわと目を右にやると、茶色の体毛に覆われたイノシシが車に轢かれて血まみれで絶命していました。
人気のない山裾の道で、夜でもあり、車も相当のスピードを出していたところへ運悪くイノシシが突っ込んできたのか、かなり凄惨な状況で、対向車線はかなりの距離(といっても20メートルぐらいですが)にわたって、血痕と肉片が飛び散っているのが夜目にもわかり、相手は人ではなかったとはいえ、交通事故とはかくも悲惨なものかということをあらためて思い知らされて、心臓がバクバクしてしばらくおさまりませんでした。

それと結びつけるわけではないですが、アシアナ航空の事故は、一歩間違えばそんなイノシシの事故どころではない、ケタ違いの大惨事になる可能性だってじゅうぶんあったわけで、それがわずかの偶然が重なることで地獄絵図にならずに済んだことは、なによりの慶事だったと考えなくてはいけないようにも思います。

「いそがばまわれ」というように、天候などによる視界不良が原因なら、なぜゴーアラウンド(着陸のやり直し)をしなかったのかという指摘が多いようですが、パイロットにも性格があって、それで安全運行に差が出るとしたら恐ろしい話です。

折しもセウォル号事故から一年のわずか2日前の出来事でしたから、多くの人が肝を冷やしたことでしょう。
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プロ意識

マロニエ君の自室のビデオデッキはメーカーを誤ったのか、操作がやたら煩雑で、予約の仕方も消し方も未だにスイスイとはいきません。
ときどき昔の予約履歴の何かに引っかかってくるのか、まったく身に覚えがない番組が録画されていることも珍しくないので、ときどき番組を整理・消去するのですが、そんな中にNHKのドキュメントで歌手の北島三郎の公演を追った番組がありました。

本来ならまったく無関心どころか、むしろ甚だしく苦手なジャンルなのですが、ずいぶん前に友人から聞いた笑い話があったのをふと思い出しました。その友人の知り合いという人が、当時博多座にかかっていた北島三郎の公演にどうしても行かなくてはいけないことになり、はじめはずいぶん嫌がりながら出かけて行ったらしいのですが、結果はというと、その圧倒的な舞台を目の当たりにして「かなり感動して」帰ってきたんだそうで、予期せぬ変化に本人も友人も爆笑、そしてそれを聞いたマロニエ君も大爆笑でした。

いらい、そんなにすごい舞台とはいかなるものかという好奇心が頭の片隅に残っていましたので、これ幸いにちょっと番組を見てみることに。
北島氏は自身の舞台公演を長年にわたってやってきたらしく、前半は北島氏が主演、自ら脚本まで書くという芝居、後半は歌謡ショーという構成が長年のスタイルなんだとか。とりわけ歌謡ショーの舞台はこれでもかという絢爛豪華にして奇想天外なもので、見る者の度肝を抜くような仕立てで驚きました。そのための装置も相当のコストがかかっているらしいことは疑いがなく、これらは綿密な設計監修のもと川崎の専門工場で制作されているようでした。
近年は名門オペラの舞台でもコストダウンの波が押し寄せ、斬新なふりをした粗末な装置でお茶を濁す例が少なくないのに、一人の歌手のショーのためにここまでやるとは驚きです。
全国主要都市で40年以上続けられたというこの一ヶ月公演は、チケット完売も少なくないようで、今どき一夜のコンサートでも人が集まらないご時世に、いやはやすごいもんだと思いました。

観客はさすがに年配の方が大勢のようではありますが、その圧倒的な舞台とエンターテイメントに徹した作りは、まるでディズニーランドにも匹敵するような楽しさをチケット購入者に提供しているのかもしれません。

さて、なんのためにこんなことを書いたかというと、過日、このブログでベルリン・フィルのシルベスターコンサートに出演した老ピアニスト、メナヘム・プレスラーのことを書きましたが、それに連なる内容があったからです。

北島氏は50年連続出演した由のNHKの紅白を一昨年引退し、続いてこの一ヶ月公演にもついに自ら幕を引くのだそうで、番組はその最後を迎える公演に密着したドキュメントでした。
詳しい内情などはむろん知りませんが、番組を見る限りでは客足が遠のいたわけでないようで、固定ファン達はその公演の打ち切りをたいそう残念がっていましたが、それに関して北島三郎氏は(正確ではないけれど)おもに次のようなことを語っていました。

「そりゃあ、やりたいですよ。気持ちとしては止めたくないし、それこそ舞台で倒れるまでやりたいね。」「しかし、自分はプロとしてやっている。プロはお客さんからお金をいただいてやっているわけだから、そこでフラフラしたりみっともない姿は見せられない。だから辞める。」
つまりやりたいからやるというような甘っちょろい自由は、プロフェッショナルにはないんだという話しぶりで、マロニエ君は思わず膝を打ちました。

金額の多寡にかかわらず、プロと称する人たちの中には、人様からお金をいただくということの重みをまるで肝に銘じない、あるいはそもそも知らないような人たちがあまりに多く、平生苦々しく思っているところでしたから、この北島三郎氏の発言には拍手をしたい思いでした。
とりわけ歌舞伎役者など(全員とは言わないまでも)舞台人としては生涯甘やかされるばかりで、こういうことを一度でも考えたことがあるだろうかと思います。梨園に生まれたというだけで子役の時代から無条件に舞台を踏み、当たり前のように名跡を継ぎ、老いてセリフも忘れるほどになっても引退はせず、閉鎖社会ともいえる勝負性の希薄な舞台に立って、ぬくぬくと過ごすのが当たり前。
不倫をしてさえ「芸の肥やし」と許され、あげくに文化勲章をもらったり人間国宝に称せられたりするのは何なのかと思うばかり。

プロ意識というものの本質は、自らの裡に厳しいプライドをもって打ち立てられたものでなくてはならないことを、いまさらのように考えさせられました。
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中古品の地位

過日、リサイクルショップにまつわることを書きましたが、中古品に関しての認識は外国ではかなり異なる面もあるようです。

とはいってみても、すべてはマロニエ君が人から聞きかじった話なので、自分で経験したわけでもなければ、個々の検証ができていることではありませんが…。

ひとくちに外国とっても様々ですが、いちおうヨーロッパということに限定した上での話。
彼我の文化の違いからか、新品と中古品に関しては、相当感性が異なるのは間違いないようです。ヨーロッパはやはり伝統的に物質社会の繁栄以前からの脈々と続く歴史をもっているためか、印象としては、物を道具と割り切り、そこでは中古品もごく普通の選択肢であって、その頂点にいちおう新品もあるにはあるといったイメージなのかもしれません。

もちろん、食品や衣類ではそうとも言えない面が大きいとしても、食器や家具、車や家などは、驚くばかり中古品のオンパレードで、あくまで自分の生活スタイルや機能性・感性に合致し、かつ価格という部分で納得がいったら、本当に必要な物だけを慎ましく購入するようです。

いろいろなものが新たな使い手へと受け継がれていくのは彼らにしてみれば普通のことで、我々日本人のように、見ず知らずの他人が使ったと前歴を忌み嫌うというようなことは、あまりない(ゼロではないかもしれないが)ように見受けられます。
とりわけ食器などに至っては、日本人はどこの誰が使ったかもしれない中古の食器など、それを買って使うなんてことは普通まずないことですが、あちらの人たちはこのあたりもまったくに意に介さないようで、骨董のような趣で普通に使ったりするのには驚かされたことが何度もありました。

さらに家具、車、住居になればなるほど中古は当然の選択肢であって、中古家具!?と驚いたり、当然のように新車/新築を買い求める日本人なんぞは、もしかすると世界の非常識なのかもしれません。
マロニエ君は車やピアノに関してなら、自分が納得のいくものであれば中古でも厭いませんし、場合によっては中古のほうがよほど趣味性を追求できる場合も少なくありません。
ところが、世の中にはどんなに状態のいい、新品に近いようなスタインウェイの出物などがあっても、「中古」というだけで汚れたものであるかのように頑として受け付けず、新品を買ってしまうような人もおられるというのですから、このあたりの日本人の潔癖さときたらまるで昔の貞操観念並ですごいなあと思います。

ヨーロッパあたりでそんなことを言おうものなら、まあいろんな意味で口あんぐりされてしまうような気もします(むろん一握りの大富豪みたいな連中は別格でしょうけど)。

とにかく確かなことは、日本での「中古品」というものは、外国のそれよりも数段「地位が低い」もののようで、車の世界でも「壊れない日本車」の人気は当然としても、ドイツ製高級車なども、日本は中古になると値落ちが激しいから日本に買い付けに来る海外の業者が少なくないということを聞いたことがあります。

ピアノも、日本製の中古ピアノが物凄い勢いで海外に売られていくのが当たり前のようになってしまっていますが、その背景には日本でのピアノ需要の低下があるにせよ、そもそも中古品になるとその価値に見向きもしなくなる日本人の精神的特性も大いに関係しているように思います。

そうはいっても、マロニエ君もやっぱり生活必需品まで中古品を使うなんてできそうにもなく、そのあたりは民族性といえばいささか大げさかもしれませんが、体質的な部分でもあり、難しいなあと自分を含めて思うわけです。
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心も春霞

すでに何度も書いたことですが、マロニエ君は日毎に空気が蒸して膨張してくるような春の到来が苦手で、今年もついにこの季節をむかえなくてはならない今がうんざりなのです。

春は喜びの代名詞のようで、概念としても良いことのように云われますが、現実的には本当にそうなのだろうかと思います。
マロニエ君に限らず、この季節を苦手とする人は知るかぎりでは結構多くいて、冬に馴染んだ身体は大気に温められて違和感を覚え、体調管理にもとくに気を遣います。春がいやだなんて現代病のひとつのようでもありますが、むかしのように花が咲いて蝶が舞う季節として無邪気に喜ぶことができない自分が自然に背いているようでもあります。

そうはいっても、世の中が活動的になる季節であることは否定しがたく、とりわけ先週土曜はそれを痛感させられました。車の感じを確かめる目的があって、午後四時頃だったと思いますが漫然と車で街中に出てみると、道がどこも混雑していてなかなかスムーズに走ることができません。

幹線道路は縦も横も車がひしめき合っており、これを避けようと都市高速に入りました。
福岡は都市高速の環状線があり、これを一周するのは結構な距離があるので、適当に走って適当なランプを出ればいいぐらいに軽く考えていましたが、ETCをくぐって本線に出てみると、意外やこちらも想像以上の交通量であることに少し驚きました。
しかし都心部を離れるにしたがって次第に道は空いてきたので、そのまま順調に(深く考えることもなしに)走っていると、突如として渋滞の最後尾が目前に迫り、電光掲示板にはこの先が「渋滞」であることを告げています。

「うわ、これはたまらない!」とばかりに最寄りのランプを出たのですが、果たして下の道はさらに大変な渋滞で、それでもまだ事の次第が呑み込めないマロニエ君はいったい何事かと思いました。
目の前にはヤフオクドームがあり、それを見て、どうやら野球の試合がはねたところに運悪くハマってしまったことに気づきましたが、とき既に遅しで、すべての方向が大渋滞となっていました。

野球観戦にいったいどれぐらいの人たちが訪れるのか一向に知りませんが、少々のコンサートなどとはケタが違うぐらいのことはわかります。野球に関心のないマロニエ君にしてみればまったく予想もできなかったことですが、この状況ではドームから流れ出た人たちの大波が過ぎ去るまでは、為す術のないことは察知できました。

諦めて渋滞の中でじっと耐えますが、それでも大変な渋滞で、もともと渋滞気味の街中の道路を避けて入ったはずであった都市高速環状線でしたが、まわりまわって最もハードな渋滞エリアへと落とし込まれることになろうとはまったく想像もしていなかったことでした。

どうにか渋滞の外に出たのは、それからどれくらい経ったころだったか正確な時間は覚えていませんが、かなりの長時間止まっては進みを繰り返したことは間違いなく、自宅に帰り着いた時には疲れでフラフラになってしまっていて、ついにその日は完全に回復できないまま終わりとなりました。
わざわざ外に出て、時間とエネルギーを使って、ガソリンをまき散らし、あげくに疲れて帰ってきただけでした。

これを読まれた方は、たかが渋滞ごときでなにを言ってる!と呆れられそうで、まあそれは確かにその通りなのですが、その要素のひとつとして春に入りかけの季節であったことも折悪しく重なってのことだったと思います。

春はなにかにつけて幕開けの季節ではあるのでしょうが、春霞という言葉があるように空気は決して清澄ではなく、まして花粉症だのPM2.5だのと良からぬ環境に身をさらすなど、これが苦手な身には甚だ厳しい季節ですから、どうしても警戒心のほうが先に立ってしまいます。
すでにあちこちでお花見もはじまっていて、やれやれという気分にしかなれないマロニエ君は、やはりよほど偏屈なんだろうなあと我が身を恥じ入る季節でもあえるのですが、いくら恥じ入ってもこれは生涯変わることはないでしょう。

春先に比べたら、猛暑でも真冬でも、よほど過ごしやすいと今年も思ってしまうマロニエ君でした。
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古本いまむかし

近頃はあちこちに古本店やリサイクルショップができているのが、やけに目につくようになりました。

古本店といっても昔の風情のあるそれとはずいぶん違います。
むかしあった古本屋は独特で、狭い店の奥には本にやたら詳しい店主がいて、そこに出入りするお客さんにも一種独特な趣があり、マロニエ君は決してこの雰囲気が嫌いではありませんでした。
とりわけ神田の古本街はさすがは東京と思えるだけの規模があり、古本というものが文化や学問のバックボーンとしても存在しているようなところがあって、新品では買えないような文学や美術の全集物、貴重な専門書なんかが紐で括られて魅力的な価格が付けられていたりすると、わかりもしないくせに心が躍ったものでした。

いっぽういまどきの古本店は、多くが郊外型のチェーン店で、マンガや雑誌や実用書などを中心とした品揃えで、ひとつの書籍が役目を終えて次の読み手を待っているといった気配はまったくなく、不要になった本の束を車に積んでゴミ同然のようにして売り買いされているようです。

驚くべきは、今どきの古本店には文庫本を別にすれば、きちんとした装丁の文学書や専門書などはほとんどないことです。美術書も同様で、重く大きく、置く場所も必要とする美術全集など、今や一般的には興味もニーズもないらしく、よほどの変わり者でなければ関心さえないものに成り果ててしまっていることが時勢として見て取れます。
稀にあってもウソのような安い値段がつけられていて、買い手のないものの哀れを感じずにはいられません。

マロニエ君は幼児体験もあってか、壁一面が本でびっしりというような環境が好きなので、とくに文学書などは全部読みもしないのに全集が欲しくなります。たしかに場所を取るのも事実で、いまどきの住宅事情や生活スタイルからすればこれらは大半が消滅していく運命だと思うと、なんともやるせない気分にさせられます。

何年か前、ネットで岩波の漱石全集を買いましたが、大きな段ボール箱2つにギチギチに詰め込まれた立派なものだったにもかかわらず、価格は1万円前後というものでした。ちゃっかり安く買っているのだから、つべこべ言う資格はないのですが、得をした気分と隣合わせに「なんたることか!」と憤慨したことがありました。

昔の古本屋には古本屋なりの文化の香りがあって結構好きでしたが、いまのそれはまったくの別物、リサイクルショップに至ってはさらに苦手です。人が使ったものだからということもないわけではないけれども、あれがもしガレージセールのようなものだったらさして抵抗はないと思いますが、毎日営業する店舗となると陰気でなんとなく気が進みません。

何度か覗いたことはありますが、いわゆる「掘り出し物」的なものはほとんどなく、システムの上できちんと整理され、価格も精査されつくしたもので、これだったら新品を安く買ったほうがよほどいいと思えるものが少なくない印象です。
周到に新品の最安値のさらにひとつふたつ下あたりを狙っているようで、中古品ということを考えると個人的には決して安いとは感じられないのです。

それに本であれ、リサイクルショップであれ、共通して苦手なのは、店内に入ったときの一種独特な臭いがプンと鼻につくことでしょうか。使われたモノ特有の、人の汗や脂や手垢が混然一体となった、犬の耳みたいなあの臭いにつつまれてしまうと理屈抜きに気持ちがめげてしまうのです。

一度など、友人がシリーズで探している本があるからというのでしぶしぶ付き合ったところ、帰り道、腕などがチクチクしてきて、これは間違いなくダニの類をおみやげにしてしまったようでした。

古いものを廃棄せず、大事に使いということは結構なことですが、世の中全体が慢性的な不景気におちいった象徴としてのリサイクルショップの乱立というのは、澱んだ時代そのものの証のようで、なかなか歓迎の気持ちにはなれそうにもありません。
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拾われた命

車にも運命というものがあります。

友人が古いメルセデス・ベンツのC240(W202)というのに乗っていましたが、勤めの関係などで普段ほとんど乗る機会がないという現在の生活パターンを考えた場合、それでも駐車場を借り、税金や任意保険を払いながら車を維持していくことにあまり意味がないのでは?という考えが濃厚となっている由のこのごろでした。

というのも今月で車検が切れるというタイミングでもあり、追い打ちをかけるように、数年間にわたる野外駐車が災いしてか、天井の内張りが落ちてきて、パッと目はわかりにくいものの触ってみると天井と内張りの間に空間ができています。これは内装屋できれいに張替えができますが約4万円ほどの修理費用がかかるとのこと。
車検費用に加えて内装の張替えなどが必要となり、ほとんど使わないものにそれだけの出費も負担に思えてきたようで、ここを節目についに手放す決心をするに至りました。

この車は1998年型で現在17年経過しており、新車から10年間は車庫保管され、その後は野外駐車となるも、走行距離は6万キロ台後半で、古いというだけで機関は至って快調で健康体の車です。

友人から廃車の手続きをしてくれる業者への連絡を頼まれたので、その手配をし、週明けには車を取りに来るばかりになっていましたが、そんなときになって「乗らないとはいえ、愛着もあり、どこも悪くない車を廃車(つまりはスクラップ)にするのは忍びないものがある」というような言葉を漏らしはじめました。

だったらもっと早く言えばいいのに!と思いましたが、悩んだ末の流れだったのでしょう。むろん気持ちは理解できるので、友人知人に「これこれのクルマがあり、車検はないが、車本体はタダでいいから乗ってみようという人はいないか?」と急ぎ何件か打診してみました。

その翌日、日曜だったこともあり、車関係の知人2人が問題のメルセデスを見てみようかということになり、マロニエ君宅に車もろとも集まることになりました。しばらく試運転などをしたところ、この時代のメルセデスならではの堅牢な作りとおっとりした身のこなし、ドイツ的な作り込みの良さからくる高品質感など、17年も経っているとは信じられないとその健在ぶりに、ストレートな感銘を受けたようでした。

この試乗でそのうちの一人の心はほぼ固まったのか、出てくる言葉はいつしかユーザー車検の段取りなどに及んでいます。

その後、オーナーである友人から書類と車の受け渡しへと話は正式にみ、めでたく新しいオーナーのもとでしばらく過ごすことになりました。17年という歳月の中でみると、翌日には廃車の手続きが始まる運命にあったこの車は、断崖絶壁ギリギリのところで再び車としての役目を与えられることになり、まずはなによりというところでした。

更に先週木曜には、新オーナーの手によってユーザー車検に一発合格し、重量税と自賠責の6万円ほどでともかく向こう2年間、天下の公道を走り続けることができるようになったようです。
マロニエ君も、長年身近に見てきた車が、とくに故障でもないのに鉄くずになってしまうのかと思うと、哀れなものを感じないわけではありませんでしたが、危ないところで拾われたこの車には、もしかしたら幸せの運が付いているようにも思います。

車やピアノのようなサイズと重量のあるモノは、たとえタダでも置き場の問題などがついてまわるために、相手にも受け入れる環境やタイミングというものが事を決する大きな要素となり、そのせいで泣く泣く処分されていくものも少なくないだろうと思うと、なんとも切ないものだと思いました。

知り合いの調律師さんの中には、ずいぶん小さな車で頻繁に高速での長距離往復をされる方がおられるので、高速走行を最も得意とするメルセデスこそうってつけではないかと話を向けたのですが、わずか数日前に「車検を取ったばかり」ということでこちらの手許に行く流れにはなりませんでした。

こういうことを考えると車やピアノって、つくづく「ご縁」なんだなぁと思わずにはいられません。
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掃除は人柄?

よろず掃除というものは、大部分の人にとって進んでやろうとは思わない事だろうと思います。
稀に楽しくなって集中するというようなことはあるにせよ、できることならやりたくないというのが一般的でしょう。

それでも世の中には掃除が好きで生きがいのような方もおられる由で、掃除機も高価で高性能なものにこだわり、窓の桟の僅かなゴミも完全除去、トイレやシンクはギンギンに磨き上げ、水道の蛇口にはワックスがけまでする人もいるようですが、ま、そんな人は例外中の例外(と思います)。

TV のコマーシャルなども、やれ除菌だの消臭だのと、まるで世の中すべてが清潔できれいで、それが常識でしょ?と言わんばかりですが、さて実際の今どきの人の掃除嫌いのレベルというのは想像以上に深刻で、掃除嫌いのマロニエ君をもってしても閉口させられます。
とくに目につくのは女性のそれで、自分のビジュアルにはかなり気を使っても、掃除や整理整頓となると男顔負けの野放図で、生まれてこのかた掃除というものをしたことがないのではないか…と本気で思ってしまうケースがあまりにも多いことに愕然としてしまいます。

忙しく仕事をしている人間は掃除なんかしているヒマはないというのが一般的な言い分なのかもしれませんが、マロニエ君からみれば忙しいことをこれ幸いに口実としているだけで、端からその気がないことが見て取れるのです。
べつに本格的な清掃作業をやるわけでなし、ちょっとした心がけでできる事というのは実際にはたくさんあるわけで、本棚に積もったホコリをサッと備え付けのモップで払うとか、枯れた花は適当なタイミングで片付ける、出した道具は元の場所に片付けるといったことは、すべて心がけの問題です。

清掃会社が入っているような大きな会社はともかく、普通はちょっとした掃除や整理整頓を済ませてから何かをするというのは、それが勉強であれ仕事であれ、何かの製作であれ、料理をつくることであれ、すべてに共通した作法だと思います。
そもそもある程度きれいにした上でないと、いい仕事、質の高い作業はできません。
修業をするにも「雑巾がけから」というのは長らく日本人の心にあった基本姿勢だったような気がしますが、いまやそんなものはどこへやらという感じです。

外に向けて作り上げたもっともらしい姿とは裏腹に、一歩家に帰れば足の踏み場もないような乱雑不潔はけっして珍しいものではないのだそうで、なんでもが嘘っぱちに見えてしまいます。

そういえば最近は、個人の自宅にお邪魔するという機会もずいぶんなくなりました。
人と会うときは外で会い、自宅は「プライヴェート」とかなんとか言って、要するに他人を立ち入らせないエリアになり、それがさらに掃除をしない方向へと向かわせているのかもしれません。マロニエ君の目には、どんなに素敵な人でも、最低限度の掃除さえしないで平気でいられる人というのは、もうそれだけでだらしなく感じてしまいます。
これは決して封建的な感性でいっているのではなく、むろんそこには男女の区別もありませんが、だからたまに「普通に」掃除をしたり整理整頓する人を見ると、もうそれだけで一目置いてしまいます。こういうことはその人の品性や人柄など、心の在りように直結する部分だから、人格教養のもっともベーシックなことだと思うわけです。

掃除をしないのと対極にあるのが、一時期「断捨離」などという言葉が流行ったように、何でもかんでも物を捨てまくって、それで心を開放しリセットするというような考え方がありました。知り合いの奥さんに一人その手合いがいて、ご主人の話では郵便物から何から、あらゆるものを片っ端からズバズバ処分していくのだそうで、なるほど家の中はよけいなものが一切なくていやにスッキリしていました。
しかし、物事には程度というものがあり、スッキリも行き過ぎると、その雰囲気は寒々しい殺風景なものとなり、却って落ち着かない感じがしたのも事実で、きれいといえばきれいだけれど、なんだかニトリのカタログでも見ているようでした。

「ほどよさ」というバランスは、よほど難しいものなんだろうかと思います。
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買えない加湿器

冬場はヒーター多用のため、我が家では数台の加湿器を使っていますが、そのうちの1台が古くて調子がおかしくなってきたために、1台新しく買うことになりました。

ところが、ホームセンターに行くと、加湿器らしいものが1台もなく、別の店に行っても同様でした。
ついこの前までは、大小いろいろの加湿器がズラリと並んでいたように思うのですが、ウソみたいにひとつもないのです。
たかが加湿器、買えば済むことと思っていましたが、どうやらそれが甘かったようです。

あらためてある店(最もたくさん売っていた記憶がある)に電話してみたところ、家電売場の担当者によると「もうなくなりました。今季はもう入ってきません。」とあっさりいうのにはびっくり。
桜の咲く頃ならともかく、これは2月の後半のことで、まだまだヒーターを使いまくっている真っ最中であるにもかかわらず、加湿器の販売は終了したというのです。

しかも、どこの店でも同様ということがわかってくるにつれて、この足並みの揃い方に異様さを感じて思わずゾッとしてしまいました。ナマモノではあるまいし、たかだか加湿器の1つや2つあってもよさそうなものと思います。
というか、以前はこんなことはなく、春前まで普通に売っていましたし、そのころちょっと安くなったのを買った記憶もあったぐらいですが、現在では商品自体が売り場から一斉に姿を消してしまい、買うべき時期に買わなかったらもう手に入れることもできないということのようです。

こんなところにも、世の中がちょっとした余裕もない厳しい環境へと年々なりつつあることを感じないではいられません。
追加で入ってくる予定は「ない」のだそうで、メーカーから入ってこないから仕方がないというようなことを言っていましたが、それはどうでしょう…。
メーカーは何であれ売りたいのが基本ですから、店が必要だといえばすぐにも商品を納入してくるはずですが、季節ものは後半になると売れ行きが落ちるため、店側が拒絶するのだろうと思います。
売れ残りの在庫を抱えてディスカウントするより、確実に売れるだけの数に絞って完売にする道を選んでいるといった気配を感じましたし、そのほうが商売としても無駄を出さずに効率的だということなんでしょう。

…だとしても、なんという慌ただしさかと思います。

今どきはなにかにつけてこうなので、買う側もぐずぐずしていると、このように買いそびれてしまいます。たかだか家電製品ぐらいでなんでそんなにピリピリしていなきゃいけないのかと思いますが、世の中がこぞってそんなふうになってくるのはどうしようもないわけです。

これが正月ものとかバレンタインというならまだわかりますが、そういえば、昔に比べたら売れ残りのクリスマスケーキなどもゼロではないとしても、以前に比べたら激減しましたね。
とにもかくにも、いかなるジャンルも商売が厳しくなり、わずかの無駄をも嫌い、極限まで切り詰めたやり方をしているのは間違いありません。

加湿器は、唯一残っているのは電器店などにある多機能ハイブリッドなどのやたら高い機種だけでしたが、マロニエ君が欲しいのは最もベーシックなやつで、金額にして5000円以下のものなので、それをむざむざ買う気にもなりません。
とにかくどこにも売っていないからネットで調べて見るかとも思いますが、そうこうしているうちに3月になってしまい、あと少しこれで粘れば要らなくなるという気もしなくもありません。

何事も、表向きは便利な世の中になったようになってはいますが、同時に油断のできない、常に気を張っていなくちゃならない、ゆったりできない時代になったものです。
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主なき文化施設

NHKのクラシック倶楽部を見ていると、まわりが田畑に囲まれた住む人も決して多くはなさそうな田園地帯に、ずいぶん立派なホールや複合文化施設が建てられていることに驚くことが少なくありません。

さすがに近年の節約ムードではそうもいかなくなったでしょうが、一昔前までは、こうした使われる当てもないような文化施設が税金を使ってこぞって建設されたことは間違いないのでしょう。不景気というのももういい加減イヤですが、しかしこういう無謀なお金の使い方がまかり通る時代も遭ったかと思うと、なんとも複雑な気分です。

文化振興という名目で、見上げるような立派な施設は出来ても、実際の稼働率は驚くべき低さだそうで、維持費の捻出さえ怪しくなっている施設が無数にあるのかと思うと、ため息が出るばかり。ホールを作れば当然ピアノも必要ということになり、まともに弾かれることもないようなスタインウェイなどが納入されるものの楽器庫の中で虚しい時間を過ごしているようです。

ある方から聞いたことですが、田舎のホールでは管理者側のピアノの維持管理に対する認識はまったくのゼロといっていいのだそうで、中には輸入元が定めた技術者が保守点検することもなく、近隣の楽器店がときおり調律をするだけという事例もあるようです。
こうなると楽器のコンディションは年々低下し、たまさかコンサートというときにはピアニストが弾くのを嫌がって、やむなく別のピアノを遠路はるばる運びこむなどという一幕もあるようで、こんな馬鹿な話はないでしょう。

ピアノは一流品があまりにも無慈悲に酷使されるのも痛々しいものがありますが、逆に弾かれることもなく、長い年月のほとんどを眠っているだけのピアノというのも物悲しいものです。
そのいっぽうでは、一部のメジャーなホールでは数年ごとに新品ピアノに入れ替え、ようやく旬を迎えつつあるようなスタインウェイが、リハーサル用などに下げ渡されていくというのですから、これもいい気持ちはしません。ピアノのわかるピアニストの中には、ステージ用よりリハーサル室のピアノのほうがよほど好ましいと漏らすこともある由で、世の中おかしなことだらけです。

さて、冒頭の話題に戻ると、こうした地方の田舎に突如建設された文化施設やホールでは、年に一度ぐらい文化事業をやっていますよという、税金を使った言い訳のためのイベントをやらなくちゃいけないのか、なぜこんな場所でこういうコンサートがあるのか、よくわからないような演奏会があるらしいことをクラシック倶楽部を見ていて感じることがときどきあるわけです。

もちろんマロニエ君はクラシックのコンサートが特別なものとは思いませんし、ましてやこれに来る人が高尚な人たちともまったく思いません。高尚どころか、ものによっては逆の場合も珍しいことではなく、ばかばかしいようなものも少なくはないのも現実です。

ただクラシック音楽というものが、一般的にだれもがすんなり馴染めて好まれるものかというと、そこにも一片の疑問は残ります。演奏の質や魅力はさておいても、やはり取り扱う作品そのものは本物の芸術作品ですから、普段まったくクラシックとご縁のない人がパッと聞いて直ちに興味を覚えたり素晴らしいと感じるかというと、そんな瞬間がゼロではないにしても、やはり一定の経験を積んで楽しむに至る下地が求められることも否定できません。

プログラムも問題で、TPOというものをまるで欠いた、聴く人のことを考慮しない専門性の高い作品を無遠慮に並べるとか、逆に聴衆をバカにしたようなベタベタな名曲集のようなものになるなど、開催する側、あるいは演奏者達のセンスにも大いなる疑問を感じます。
すべてがこんな調子なので、そんなコンサートが支持されるはずもなく、莫大な費用をかけた施設やピアノは、当初の目論見通りに文化貢献をしていると言えるものはどれぐらいあるのか…、ただ時が流れ、朽ち果てるのをまっているだけかもしれません。

喜んだのはそれに携わった当時の建設会社やお役人、楽器販売店などでしょうが、こんなことが可能だった頃が世の中も好景気だったのかと思うと、なんとも複雑な気分です。
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ディーゼル

ヨーロッパで走っている乗用車の大多数はディーゼルエンジン搭載車です。
ディーゼルエンジンとはガソリンの代わりに軽油を燃料とし、日本ではほとんどのバスやトラックがこれを使っていて、あのガラガラという特徴的な音はこのディーゼルエンジンならではのもの。

ヨーロッパのディーゼル志向は少なくとも30年以上続いているものと思われ、メーカー各社はどのモデルにもディーゼル仕様を必ずラインナップするのが当然というほど猛烈な勢力です。加えてトランスミッションはこれもまたオートマは少数派で、大半がマニュアル仕様だといいますから、車に関する感性もずいぶん異なるようです。

もともとディーゼルエンジンは音がうるさく、独特の振動があって、しかもパワーが無いという特性があります。その半面、燃費がよく、しかも燃料の軽油はガソリンに比べて安いということがヨーロッパで強く支持される主たる理由です。さらには税制などの点でも優遇されいるのか、こういう点で驚くほどドライな考え方をするヨーロッパ人にとって、彼らがディーゼルを選択することは必然なのでしょう。

これとは趣を異にするのが日本やアメリカ市場で、多少燃費の点ですぐれていようと、あの音や振動は耐え難く、とりわけ高級車の分野では、パワーや静粛性、スムーズなフィールを重視する点からも、ほとんど受け入れられませんでした。

そんなディーゼルエンジンでしたが、技術の進歩によって飛躍的な発展を遂げ、ガソリンエンジンと遜色ないパワーとスムーズさを手にするまでになり、以前のようなディーゼル=ガマンとは隔世の感があると自動車雑誌などで報告されるようになりました。
マロニエ君自身も数年前、ある輸入車のディーゼル仕様を一般道から高速道路まで運転させてもらったことがありましたが、たしかにこれならばと納得できるぐらい洗練されたものでした。
ディーゼルエンジン固有のビート感と太いトルクはある種の味わいさえあり、ガソリンとは違った魅力があることも確認でき、大いに感心した経緯がありました。

その後、乗用車のディーゼルが根付かなかった日本では、ようやく勇気あるメーカーによって意欲的な開発がなされ、ともかく傑出したエンジンができたようでした。
すでに発売もされ、評判も上々、その後はこのメーカーはフラッグシップである高級車からコンパクトカーにいたるまでディーゼル仕様が拡充されています。車の省エネがハイブリッドに集約されつつある中、既存のエンジンの高効率化によって新しい選択肢を加えて行こうというこのメーカーの技術力と挑戦の意気込みは注目に値するものかもしれません。

過日、わけあってそのメーカーのディーゼル搭載の最高級車を試乗するチャンスに恵まれました。
全営業マンが接客中ということから基幹店の店長さん自ら説明にあたってくださったのはいいけれど、それはもう大変な自信に満ちた長広舌でした。車を前に講釈は止めどなく続き、シートの作り、ペダルの位置や構造、さらにはあらゆる操作に関する配慮など、人間工学に基づいたクルマづくりを徹底しているということなどを延々と聞かされました。

メーカーの方が自社の車に強い自信をもっているというのは素晴らしいことですが、説明があまりにも長いと疲れてしまい、いつしか唯我独尊のように聞こえてくるのは逆効果では?という気がしなくもありません。
どうにか説明がおわると「試乗のご準備をします」というわけで、ショールームでしばしまっていると、今度はさっきの店長さんが若い営業レディを伴ってあらわれ、テストドライブは彼女が同乗しますということで、目をやればいつの間にか試乗車が玄関前にとめられていて我々を待ち受けています。

さて、技術大国の我が日本が作った、最新のディーゼルエンジンとはいかなるものか。
期待と同時に、下手をすれば乗ってきた自分の車が色あせてしまうほど素晴らしいのだろうか…などと多少の不安も抱きつつ車に歩み寄ります。するとすでにエンジンが掛けられており、その大柄で流麗なボディとはいかにも不釣り合いなカカカカカという明確なディーゼル音を発しているのにちょっとびっくり。「静粛なディーゼル」「言われないとわからないほど静かでなめらかなディーゼル」という言葉から想像したものとは、まず違いました。

運転席に座り簡単なコックピットドリルを受けて、いざスタート。
目の前の片側2車線の国道に出て一息加速したら右折というコースですが、「車は数メートル転がせばわかる」といわれるように、音楽でいうところの最初のワンフレーズで、これは期待が強すぎたか…と早くも内心思ってしまいました。

この車は同社の高級車の中でも上級グレードのようで、19インチというかなり大径のホイールと薄いタイアを装着していますが、そのタイアから発せられるゴーッというロードノイズが室内を満たしてくるのも???でした。スポーツカーならともかく、全長5m近い上級サルーンでこれはないだろうと思います。
それよりなにより敬遠したくなる点はやはり振動でした。走っているときはまだしも、信号停車中はぷるぷるした独特の振動を全身に受けるのは、やはりまぎれもなくディーゼルでした。むろんそれは技術的努力によって極力抑えられてはいるはずですが、それでもガソリンエンジンではありえない強いバイブレーションはどこかマッサージ器のようで、マロニエ君には脳神経に達するようでした。

パワーも自慢のひとつでしたが、この試乗中はそれほどとも思いませんでした。
まだまだありますが、これ以上は慎みます。お店に戻って丁重に謝意を伝えて帰ろうとすると、店長さんがご挨拶されるとかで、再びショールーム内に連れて行かれ、しばし待たされました。
なんと助手席にいた女性は、マロニエ君が走行中に漏らした感想を陰の部屋で逐一報告していたらしく、再び現れたときは笑顔の中にもやや硬い表情が加わって「振動を感じられますか?」というような調子で印象を聞かれたのには弱りましたが、でもまあいい体験ができました。
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一石二鳥

たとえ運動嫌いの人間でも、適度に体を動かすことで心身が良い方向に整えられ、爽快感を得られることが実感できる瞬間は理屈抜きにいいものです。

とりたてて「これが私の健康管理法」というような大げさなことではありませんが、マロニエ君にとっての「それ」は洗車ということになっており、インドア派の怠け者にとっては、これが唯一の全身運動の機会といっても過言ではありません。

洗車といえば当然外での作業となり、寒さが身にしみる今の季節など、始める前はどうしても億劫になりがちなのですが、一旦始めてしまえばウソみたいに活力が出るのは自分でも不思議です。トレーナー等をちょっと重ね着をしただけで、極寒の夜でも「寒い」と感じたことはこれまでに一度たりとも無く、作業中はまるきり寒さのことなど頭から消えています。

日中に洗車することはまずありませんが、幸い自宅ガレージが屋根付きで照明があることもあって、やるときは決まって夕食後に始めます。着手するまではグズグズするくせに、始めるといつも時間を忘れるほど没頭し、細部まで際限なくやってしまいたくなります。
きっとこの時ばかりは普段の雑事やストレスからも開放される数少ない機会なのだと自分で思います。

以前、テレビで健康に関する何かの専門家(名前も顔も思い出せません)が言っていたことですが、中年からの運動というものは、やみくもに激しいことや為の為の運動をすることではなく、無理をせず効果的に行うことが肝要とのこと。
それによれば、健康のための運動はただ毎日何千歩あるくとか、機械的に体を動かすことの繰り返しでは期待するほどの効果は疑わしく、大事なのは、常に脳と身体の連携によってこれを行う必要があるのだそうで、それができた時が効果も著しいということでした。

これまで運動らしいことをしてこなかったような人が、ある程度の年齢に達して、病気をしたり健康志向に目覚めるなど何かのきっかけから一念発起し、突如、人が変わったように毎日1時間歩くとか、スポーツクラブに通うなどのケースも少なく無いようですが、その専門家によれば、そういうものは全てが無駄とは言わないまでも、それによるマイナス面も大きいことが多々あることを認識し、努々無理は禁物とのことでした。

さらにその人が言ったことは印象的でした。
スポーツが好きでこれを楽しむのは別のようですが、あくまでも健康を目的として行う運動であるのなら、家の内外の掃除は大変好ましいというもので、これは目からウロコの意見でした。

いわゆる運動はさして頭を使わず機械的かつ単調なものですが、掃除にはその手順とかやり方など、常に頭を使いながら作業をすることになり、これが先に述べた体と脳が連携して活動することになるのだとか。さらに掃除はそのつど工夫をしたり、やればやったぶんそこが綺麗になって、その結果が嬉しいとかスッキリしたりと、情緒面まで加勢してくるといいます。
またよほどの事でない限り、掃除なら身体にそれほど無茶な負担にもならず、それでいて動きは全身多元的で、ただ歩くのとちがって体のいろんな動きも必要となり、総合的に適度な運動という点でも好ましく、とにかく理想的なんだそうです。

だとすれば、掃除をしたところが綺麗になるという実利まで加わり、これはまさに一石二鳥です。
というわけでマロニエ君の場合の洗車は、自分なりの貴重な運動の機会でもあるし、心身のリフレッシュに大いに役立っていることは身をもって感じています。
その証拠に、洗車をスタートするときよりも終わったときのほうが心身ともに溌剌としているのが、はっきり実感できるのは毎度のことで、このときいつも運動の価値を痛感します。じゃあ、そんなに効果があるのならもっと頻繁にやればいいようなものですが、そこがそうならないところが、つくづく根がダメだなあと思うばかり。

掃除を、最も効果的かつ安全で、実用性まで兼ね備えた最高のフィットネスだと思えば、こんなにいいことはないと思います。

すくなくとも、いい年をして、似合わぬトレーニングウェア一式を着込んで、左右くの字に曲げた腕をわざとらしく振りながら夜な夜な独善的ウォーキングに専心するよりは、よっぽどいいじゃないかとマロニエ君は思っているわけです。
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ケータイあればこそ

つい先日、ケータイは疲れるということを書いたばかりで、その舌の根も乾かないうちにこんなことを書くのもどうかと思いましたが、ケータイの威力を心底痛感させられる経験をするハメに。

実家に帰省していた友人が東京に戻るというので、空港まで車で送ってやることになりました。
19:20分発だそうで、日曜で道が混んで慌てるのもイヤなので、少し早めに出て話でもしながらゆっくり向かおうということで、17:30少し前に家を出ました。友人の家までは約15分。

表に出てこられたお母上に挨拶などしていざ出発。
福岡空港は市内東部にあるので距離もそれほどではなく、少し早すぎたかな…とも思いつつ外環状線に出ると、夕刻ということもあってか意外に道が混んでいました。それでも出発までは一時間半あり、ゆるゆる走って30分前に到着すればいいとしても1時間はあるわけで、いずれにしろ余裕でした。

雑談をしながら外環状線を東に走っていると、友人のケータイが鳴り、果たしてそれは彼のお母さんからの電話でした。なんと家に大事な物が全て入ったカバンを忘れているというのですから唖然呆然です。そこには財布から飛行機のチケット、各種カードや勤め先の通行証などまでのすべて入っているらしく、要するに絶対に今手元になくてはどうにもならないものでした。

そんな大事なカバンを玄関に忘れてくるだなんて、その友人の超オマヌケぶりにも開いた口がふさがりませんでしたが、いくつかの手荷物を車に乗せることに気を取られていたと言いつつ、顔は真っ青になっています。
ここでいくら文句を浴びせても事は解決しませんから、ともかくUターンするしかありません。このときすでに行程の半分以上来ていて、内心これはかなり厳しいことになったことを直感しました。さらに外環状線の逆方向は猛烈な渋滞で、このままではどう転んでも時間に間に合わないことは明らかでした。

友人は何度も実家に電話して状況を伝えていましたが、やむを得ずお母上がタクシーで空港まで持ってみえることになり、これでとりあえず一件落着かとも思われました。

ところが呼んだタクシーが10分経っても来ないとのことで、こんな調子ではタクシーも間に合う保証はありません。マロニエ君は再び空港に向かうか否かの判断に迫られました。すでにこのころ、マロニエ君は大渋滞の外環状線を外れて、別ルートを北進していましたが、焦る中でフル回転で考えた結果、ちょっと思い切った手段に出ることに。

彼の家からタクシーで空港へ向かうなら、通常はこの道を来るはずというルートがあり、タクシーが来たら必ずその道を走るよう運転手さんに言ってくれと頼んでもらいました。そしてこちらはそのルートを逆方向から走って行けば、途中のどこかで接点が生まれ、カバンの受け渡しができる筈という目論見です。

ほどなく彼のお母上から「今、タクシーに乗りました」という一報が入ります。
こちらは目指すルートにはまだ乗っていませんが、この頃にはもう18:30分を過ぎており、時間的にはかなり厳しいものがあると思いつつ、それでもダメモトでできるだけのことはやってみるしかありません。
ちなみにチケットは格安購入のため時間の変更は不可だそうで、友人も紛れもなく自分の責任であるし、最悪の場合、次の便に普通料金で乗る覚悟はしていたようです。

その後、そのルートを東に向かっているというお母上からの電話が入り、そのころにはこちらもなんとか同じルート上に到達しようというところでしたから、あとは双方が路上で待ち合わせをするポイントを定めるのみ。これがなかなか難しく、気分も焦っていて冷静な判断ができませんが、かろうじて思いついたのは大きな池の畔の交差点にあるマクドナルドで、そこを受け渡し場所にすることに決定。
馴れない緊張感の連続で、やっていることはスパイ映画さながら、バクバクという脈動が明らかに普通ではないことも自分でハッキリわかります。

やがてマックの黄色いMの看板が見えてきたころ、タクシーのほうが一足先にマックの駐車場に入ったとの連絡がありましたが、もう目の前というのに信号がむやみに長く、いやが上にも手に汗握ります。転げ込むように駐車場へ入ると、寒い中、お母上はタクシーから降りてカバンを手に待機しておられました。
慌ただしくそれを受け取り、挨拶もそこそこに駐車場を飛び出すと、さあ一路空港を目指します。
このとき18:50分少し前で、とてもではありませんが10分やそこらで空港まで行くなんて無理だろうとは思いましたが、とにかくやれるだけのことはやるしかないというわけで、諦め半分にスピードを上げてダッシュをかけました。

非常に幸いだったことは、こちらのルートは外環状線よりは車の流れが多少よく、少なくとも信号以外では止まることなく進めたのですが、それを幸いにかなりミズスマシのような強引な運転をして、なんとか空港が近づいてきたときは19:00をわずかに過ぎていました。
空港の敷地内に入っても、東京行きはやや奥まったところにある第2ターミナルで、空港内があれこれの工事をやっていることもあり思ったより時間がかかります。ノロノロ走るタクシーをバンバン追い抜いて、第2ターミナル前の反対車線の赤信号に辿り着いたときは19:05分をわずかに過ぎていましたが、車の乗り降りが禁じられたエリアであるのは承知で強行突破を促し、友人は両手に荷物を抱えながら工事用の柵を乗り越え、横断歩道もない道路を渡ってターミナルへ走りました。

出発まで15分を切っていたので、間に合ったかどうかの確証は得られないまま帰途につきますが、よほど神経が高ぶっていたのか、もう急がなくてもいいのに、しばらくはなかなかゆっくり走ることができなくなっていました。ある種の興奮状態からすぐには抜け出せなくなっていたようです。
その後、やや落ち着きを取り戻して走っているとき、カーナビの電波時計は出発の19:20分になりました。その直後にケータイにメールが届き「おかげで間に合った」という一文をみてホッとしたのはいうまでもありません。
走りに走って機内に駆け込み、ケータイの電源を切る直前にメールをくれたようでした。

こんな命の縮まるような事はむろん二度とごめんですが、ケータイという文明の利器があったればこそできた綱渡りであったことも間違いありません。少なくとも公衆電話の時代なら、万事休すとなるのは間違いなく、ケータイの完勝です。

さすがの本人もとんでもない迷惑をかけたと思っているらしく「この罪滅ぼしは必ずする」のだそうで、「へーえ、それは楽しみだ」とメールを返しておきました。
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疲れる

これまでにも何度かケータイやメールにまつわることを書いてきましたが、さらに近ごろ感じたことから。

現代は各自ケータイという便利な機械をもっていながら、雰囲気としては、無邪気に直接電話することはよほど親しい関係でない限り遠慮をすべきという空気があり、はっきりした用件があるときのみその縛りはなくなるようで、もうこの時点で鬱陶しくなります。

しかも、その直接かける電話というのが、必ずしも一度で繋がるわけではありません。
ケータイというのは、言い換えるなら個人への直通電話です。
それなのに、昔よりも逆に相手の声を聴くまでに手間暇のかかることが多く、マロニエ君などはその点で気が短いほうなので、直に話ができるころには、たいてい気分的に(かなり)疲れてしまっています。
何が疲れるのかというと、着信履歴があってかけ直しても、これで相手が一発で出ることはなかなかありません。こちらも運転中など、すぐには出られないという状況があるにはあるからお互い様のようではありますが、最近の様子はどうもニュアンスが若干違うようです。

大抵の場合、多くの人が常時マナーモードにしているか、仮に着信があってもまずその場で出ることはないのです。もちろん出られない状況というのならわかります。早い話が勤務中などはそうなんですが、そうとばかりも言えないような気配を感じることがままあったりするのです。もちろん個人差はありますが…。

ひとつのパターンとして云うなら、いまやケータイに電話するということは、すぐに話ができればラッキーで、半分は相手の端末に自分が電話をしましたよという印をつけるだけ。実際に話ができるのはいつになるか不確定な状況におかれることになるといってもいいでしょう。
そして相手が電話ができる状態となり、さらには折り返し電話しようという意志が働いたとき、ついに直接会話が可能となるわけです。

要するに、たかが電話ひとつにいちいち手間暇のかかる時代になったということだと思います。
たまたまかかってきた時にこちらが電話がとれない状態だと、どうかすると着信履歴を残すことを双方で繰り返すことになります。驚くのはタッチの差で切れてしまった電話など、すぐにこちらからかけてももう繋がらないということも少なくなく、これはひとつにはマナーモードにすることが常態化して、かかってきた電話に出るという習慣をほとんど失っているからでもあるでしょう。
つまり電話は「鳴ってもまずは放っておくもの」という認識なのかもしません。

かくいうマロニエ君も出られない状況というのはいくつかありますけれども、今どきの人はどうも根本の感性が違う気がします。
すぐには出ないのが普通で、着信履歴を見て相手をチェック、自分が必要を感じたりそのときの気分次第でコールバックするなり、再度かかってきたときに出るといった趣。驚くのは自分が登録していない番号からだと、それだけで出ないことにしているなどは、いっぱしの有名人のつもりなのか何なのか…、ともかく電話というものへの認識が変質していることだけは確かなようです。

滅多に見ないテレビドラマなどでも、今は電話といえばケータイのことであり、そのケータイに電話がかかってくるシーンはマナーモードであることも多く、唸るようなバイブ機能の音がするだけというのは、いかに多くの人がそれを常とし、電話する側も「出ない」ことを想定しながらかけているとしか解釈できません。

むろん勤務中に私用電話が鳴っては困るというような常識はありますが、そんな建前を口実にしながら、実際には見えないエゴが広がっていくようです。

なんにしても息苦しい、難しい時代になりました。
くだらないことに気を遣うべき項目が多すぎて、みんな疲れながらわがままになっているようです。
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高級の概念

書店に行くと、雑誌のコーナーでは音楽関係と自動車は習慣的に足を止めてしまいます。

音楽も車も共通しているのは、内容に重みや深みがなくなったということでしょうか。
雑誌といえども昔のような読み応えとか書き手の信念みたいなものはなく、どれもそつのない上っ面の記事ばかりが紙面を埋め尽くしています。対象の本質に迫るとか辛辣な批判も辞さないというような気骨ある記述などむろんお目にはかかれません。
どれもこれも広告収入を念頭に置いたゴマスリ記事ばかりですから、惰性で購読を続けている一誌以外、購入してじっくり読みたいと思うようなものはほとんどありません。

そういうわけで、大抵はパラパラ頁をめくるだけで事足りてしまいます。
マロニエ君は本は買いますが、雑誌に関してはほとんど立ち読みばかりで終わっています。

立ち読みしかしたことがなく、一冊も買ったことがないもののひとつに、クルマ好きの個人ガレージを取材して、それを一冊にまとめた雑誌が存在します。
たしか三ヶ月に一度ぐらい発行され、いつも自動車雑誌の目立つところに置いてあります。
車の雑誌も種類がずいぶん減りましたが、そんな中、今だに廃刊に追い込まれないところをみると、人の露出欲を満足させるものには一定の需要があるということなのでしょうか。

敢えてその雑誌名は書きませんが、これが見ようによってはお笑い満載の本なのです。
世のクルマ好きのお金持ち達が、これでもかとばかりに高級車を買い集め、それを陳列する夢のガレージを作ってはこの雑誌の取材を受け、掲載されるのがひとつのステータスになっているんだろうと思います。
中には、あきらかにこの雑誌を念頭において設計されているとしか思えない物件があり、そんな脂がしたたり落ちるような猛烈な自己顕示欲を集めて一冊の本にすると、全国の書店でビジネスとして成り立つだけの部数が売れるということでもあるんでしょうね。

取材される人たちが、その車のコレクションやガレージ建造に投じた費用は莫大なものに違いありません。
とりわけ毎号巻頭を飾るいくつかのガレージと車は、まさに億単位の「巨費」がかけられているのは明らかで、趣味という個人の内的な世界など遙かに飛び越えて、あくまで人に見せて自慢することを前提として設計され建造されたものばかりです。
よく芸術の世界で「猥褻」が論争の的になりますが、こういう雑誌を見ると「滑稽」という概念に対する考察を提起をされているようでもあり、いつも笑いを押し殺しながら頁をめくるのに難儀します。

本物の滑稽というのは、やっている本人が大真面目であればあるだけ、笑いの純度は上がるもの。
これらのガレージに居並ぶのは、大抵がフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェにはじまり、ロールスやベントレーなど、要するにすこぶる高額なわかりやすい高額車ばかりで、それも1台や2台では終わりません。そしてガレージの設計や内装は、まさにディーラーのショールーム風スタイリッシュでまとめられるのが少なくありません。フェラーリが居並ぶ壁には、馬がヒヒンと立ち上がった有名なマークの巨大なやつがほぼ間違いなく取り付けられるなど、お約束アイテムの羅列ばかりで独創性はほとんどナシ。
私費でメーカーの宣伝を買って出ているつもりか、はたまたどこぞの宗教のシンボルのようでもあり、個人宅のガレージというものを完全に逸脱した感性で塗りつぶされ、しかもそこが自慢のポイントであることが伝わってくるあたりは、この本は見るたびに全身がむず痒くなります。

大抵はガラスで仕切られた一角などがあり、そこに高級な椅子とテーブル(多くはイタリア製!)、場合によってはワインセラーやホームバーのようなものが設えられていたり、あるいはリビングのソファに体を埋めながら常に愛車を目線の先で舐め回すことができるよう、人と車がガラスひとつで仕切られた動物園のような設計だったりと、普通なら冗談かと思えるようなものが、大まじめに「男の夢の実現」として、大威張りで強烈な主張をしています。
しかも、それら憩いの設備は「ここの主の、友人への心配り」などと修辞されているのですから、そのセンスがたまりません。

クルマ好きが愛車を駆って会するのに、バーまであるとは、アルコールが入って酒気帯び運転にならないのかと気になりますが、そこはきっとホテル顔負けの宿泊施設も準備されているのかもしれません。

知らない人が予備知識ナシにこの手の超豪華ガレージを見せられたら、おそらくショールームか店舗の一種ではと思うはずです。ここでマロニエ君がいいたいことは、高級とか贅沢というものは、決して「店舗のようなしつらえにすること」ではないということです。

例えば、社会的地位のある人などが家を新築したりする際、純和風というテーマのもとに建ち上がったそれは、まるで粋な料亭のような趣で、個人の住宅に求められる品性とは何かという本質や作法がまるきり理解できていないことが少なくありません。どれほどの地位や経済力があろうとも、教養や文化的素養はまた別の話のようです。
これらの和風住宅にしろガレージにしろ、その建て主の心の中にある「高級」という概念の源泉がどこからきているか…それが悲しいほどに顕れてしまっているわけですが、まあご当人はご満悦の極みなのでしょうから、もちろん結構なことですが。
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はじめが肝心

マロニエ君がいまだガラケーユーザーであることは折々に書いてきましたが、バッテリーにまつわることを。

今どきの電子機器は付属のバッテリーを電源として使いますが、とくにケータイにおけるバッテリーは毎日使うものであるだけに、これが消耗してくるのは困りもので、できるだけ寿命を延ばして使いたいところです。

このところケータイのバッテリーの減りが早くなってきたようで、だいぶ使ったことでもあるし、いっそ機種変更でもしようかと思い立ってショップに行ってみました。
予想通り、いまやスマホが主流の時代で、ガラケーはいちおう義務で最低量を作っているだけという感じでした。隅の方に置かれた数種類のそれは、機能の点では数年前のものと比べてもほとんど見るべきものがないようで、ショップの人もすんなり認めています。
「機能的には機種変更の意味があまりないので、もしバッテリーの問題だけでしたら、それを交換されたほうがいいですよ」と言われてしまい、だったらそれでお茶を濁すことにしました。

ショップで聞いたところによれば、バッテリーの寿命のもっとも主なところは「使用期間/時間」よりも「充電回数」なのだそうで、これが概ね500回を過ぎると性能が低下してくるそうです。

以前にも、バッテリーはできるだけ使って空にしてから充電するのが理想的で、少ししか減っていない状態で充電すると、それだけでもバッテリーの性能が落ちるというのは聞いたことがありました。
さらに過充電がバッテリーに負担をかけるのだそうで、充電ランプが消えたらすみやかに本体を充電器から外すこともかなり大きいポイントだそうです。

毎夜、ケータイを充電器に繋いで就寝するというパターンは少なくないと思われますが、これはバッテリーにとって好ましくない使い方の3点セットのようなもので、「充電回数が増える」「あまり減っていないのに充電する」「朝まで充電器に繋がれて過充電になる」を連日繰り返すことで、早々に寿命が来てしまうんだとか。

さて、ネットから新しいバッテリーを注文したところ、バッテリーの製造会社から「発送しました」の連絡とともに、興味深いメールが届きました。
そこには、新しいバッテリーが届いたら以下のことをするのが、バッテリーを長くお使いいただくために望ましいと書かれています。

「バッテリーが到着後、すぐに満充電をし、普通の使用で残量が空になるまで使用、その後、再度満充電。この充放電の繰り返しを3回~5回する。」とありました。

新品を使い始めるにあたり、はじめにこういう使い方をしておくことで、フルに性能を発揮できるよう、機能を躾るということのようです。

クルマにも新車は慣らし運転というのがあったり、新しいブレーキパッドは交換後にかなりの速度からフルブレーキを数回繰り返すことで熱遍歴を与えて、ディスクへの食いつきをよくするというようなやり方がありますが、バッテリーも同じようなものだと勉強になりました。

一説にはピアノ(少なくとも昔の名器など)も製造後の数年をどのような環境で過ごしたかで楽器としての能力が大きく変わるとも言われますし、新しいハンマーなども初期の整音の巧拙が、その後をあるていど決定付けてしまうと云いますから、何事につけてもはじめが肝心なんだとつくづく思います。

考えてみれば人間様だって、幼児期の躾や育った環境がその後の人生を大きく左右するわけですから、なるほどと納得です。
人も機械も、良い環境で過ごしてきたものは健康で幸福なんだという話のように思えました。
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空き家

ちっとも知らなかったのですが、いま大きな社会問題として浮上しているのが、急増する空き家の問題なのだそうで、最近NHKでそれを採り上げた番組をたまたま見て非常に驚きました。

現在日本中で「空き家」がなんと820万戸!!!にも達していて、有効な手立てもないまま、今後も増え続けることは確実というのですから、これはちょっとしたショックでした。

主な理由は、人口減少に加えて生活形態の変化などが重なってこのような現象に至っているとのこと。

親の家があっても、子供が大きくなって社会人となり、結婚して家庭を持つと、利便性の良い新しい住まいを見つけるのだそうで、多くの実家は通勤に不便であったり、家としての機能が古いなど、要は次の世代からみて魅力がないのだそうです。その結果、親の代に買った(あるいは建てた)せっかくの家は、大半が親の世代のみの役割で終わってしまうというのです。

戦後、新時代/新生活の明るい希望の象徴のごとく建てられたあまたのマイホームやニュータウンの類は、現在はその隆盛も過ぎ去り、寂しい建造物の群れのようになっているのがいくつも紹介されました。

家というものにも、流行り廃りもあるし、数十年も経てば古くなり朽ちていくという現実をまざまざと思い知らされます。その点においては、いくらか寿命が長いというだけで、所詮は家電製品や車と変わらない運命にあるという厳しい現実を突きつけられるようでした。

専門家によれば、空き家というのは極めて好ましくないものだそうで、空き家が増えてくると、その周辺の環境は急激に悪化し、治安も悪くなり、当然のように地価も下がっていくとのこと。さらに住む人が少なくなれば自治体最大の収入源である税収が減ってしまうことで、既存のインフラの維持費さえままならないようになり、これが悪循環となって、最後には街そのものが破綻してしまうというのですから、これは他人事ではすまされない、かなり深刻な問題だということがよくわかりました。

これまでは「空き家」があるからといって、それで街全体が衰退するなんて思いもしませんでしたが、たしかに空き家一つが周囲に撒き散らすマイナスイメージはかなり甚大なものであるとわかってきました。
ひとつの空き家は次の空き家を作り出し、細胞分裂のように広がっていくようで、いったんこの流れができると止めようがないのですから、ある種のパンデミックのようで恐ろしいことだと思います。

そもそも、人の棲まない家ほどいやなものはありません。
草木は生い茂り、窓も戸も閉まったっきりの家というのは、まさに家が死んでいる状態で、要するに街のあちこちに家やマンションの死体がゴロゴロしているようなもの…といっても過言ではないでしょう。

何事もそうですが、いいイメージを積み上げていくのは大変ですが、悪い方はあっという間です。

高度成長期に建造された多くのアパートなどが、次第に廃墟のようになっていくことを当時の人達は誰も想像しなかったでしょう。スタジオのゲストの一人が言ったことは衝撃的でした。
要するに家というのは建てた人一代限りのものであって、子育てが終わったらその子どもたちはまずそこに住むことはない。…ということは、いま次々に建てられている臨海地域のタワーマンションなんかでさえ、4~50年すれば同じようなことになる!と言っていたのは、こわいような説得力がありました。

また空き家を空き家のままにしておくことは、みっともないだけでなく、犯罪者のネグラになったり、放火の危険にさらされるなど、良いことは何一つないとのことですが、それがわかっているのに所有者は解体にさえ踏み切れないのだそうです。
解体するにも費用がかかることももちろんですが、最大のネックになっているのは税制でした。
そもそも国は国民が家を建てることを推奨するための政策として、土地に上モノが乗っていれば固定資産税が安くなるという優遇措置をとったのだそうですが、解体時はこれが裏目に出て、更地にすると税金が一気に6倍!にもなるのだそうで、これではなにも事が進まないのは当たり前だと思いました。

さらに空き家になるようでは物件としての魅力もないわけで、借り手も買い手もなく、所有者もなすすべがないわけです。スタジオ参加者の女性のひとりは、最後の手段として市に寄付することを申し出たのだそうですが、寄付さえもあっさり断られたというのですから、唖然とするほかありません。

やはりスタジオに来ていたお役人の説明によれば、自治体がその土地を使用する目的や見通しがある場合は「いただく」こともあるが、そうでない限りは寄付であっても受け付けないというのですから、ひぇぇ、まさに泣きっ面に蜂といった話です。

驚くべきは、そんな空き家が増大するいっぽうで、新築住宅のための宅地開発は止むことなく続いているのだそうで、このような住宅政策そのものを「焼き畑農業」といっていた専門家もありましたが、将来のことも考えない無節操な住宅開発のツケがいま回ってきているということなのでしょうか。
ともかくいやな話でした。
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さらば!ことえり

新しいパソコンを使い始めるのは、マロニエ君にとって生活の一部を入れ替えるほどの一大事です。
こう書くと、まるで精神的にパソコンに依存しているようですが、ただ単に苦手だから気が重いわけです。それでももはやこれナシでは済まされないところまで生活全般に浸透しているので是非もないわけです。

それに、こんなくだらないブログ遊びをやっていられるのもパソコンとネットのおかげですし。

パソコンを入れ替える面倒から逃げるため、買ったのに一年間も放置してしまったことはすでに書きましたが、周辺機器、ソフト、保存されたファイルなどが複雑に連動し依存しあっているため、パソコンを新しくするということは、新しいマシンを中心に元の環境を再構築することを意味します。OSの関係で使えないものも出てくるし、とにかく手間暇がかかります。

詳しい方はパッパッとわけもなくやってしまうのでしょうが、この手が甚だ苦手なマロニエ君は何日たっても望むような環境にはなかなか到達できません。そればかりか次から次に不慣れなトラブルやわけのわからない問題が発覚し、その対処に追われることの繰り返しで、まったくバカバカしいエネルギーだと思います。

そればかりでなく、かなり深刻な問題も発生しました。
パソコンが変わったことで眼精疲労というのか、とにかく目が疲れ、パソコンの前に座ると視界がボーっとする、ひどい時には不快感が増して頭痛へと拡大します。見え方自体は前のものより良くなっているはずなのに、なぜそうなるのか不思議でしたが、最近やっとその理由がわかってきました。

以前使っていたのはノート型で画面も狭く感じていたので、今回はデスクトップのiMacにしたところ、むやみに画面が大きく、以前の3倍近くはあろうかという迫力です。
画面が広大になったぶん快適なようですが、自分の視界の大半が液晶画面で占領されることになり、要するに目の逃げ場がなく、これがどうやら疲れの原因らしいということがわかりました。「過ぎたるは…」の喩えのとおりの新たな苦痛が発生です。

さらにストレスに拍車をかけたのが日本語入力システムの「ことえり」で、昔もこれが馴染めないからといって同種のIM(インプットメソッドという由)で定評のあった「ATOK」を知人のススメで使っていました。そういうわけで、ずいぶん久しぶりに接した新しい「ことえり」でしたが、それなりに改良されているだろう…という淡い期待は見事に外れ、その使いにくさときたらあらためて呆れるばかり。
多少のことは割り切って機能だけで乗り切っていく構えでしたが、入力のたびに「ことえり」に介入されることだけはガマンができません。変換のテンポが鈍いうえに、まったく賢くない、入力する側との呼吸感がまったくないなど、これなら昔のワープロでもまだマシだったような感じです。

ことえりのおかげでイライラとミスは倍増し、これではまずいながらも文章になりません。
もはやATOKを買うのは必至となり、そうなると居てもたってもいられずにバージョンなどを調べていると、おや?というブログに遭遇しました。

この世界で仕事をされているプロの方の書き込みで、どうやらATOKを長年愛用してきた方らしいのですが、グーグルによる同種の日本語入力システムが存在するとのこと。しかもすこぶる使い心地が良く、これが世に出てきた日がATOKの命日になったとまで書かれていますから、相当の秀才なんだろうと思いました。

あまつさえ、その秀才が無料でダウンロードできるとあり、半信半疑でインストールしてみると、果たして書かれている通りにすんなり出来ました。
おそるおそる使ってみると、アッと声が出そうになるほどレスポンスはいいし、変換も思い通りにスイスイできるし、こちらの考えを先読みさえしてくれるようで、これは本当に思いがけない嬉しい驚きでした。少なくともマロニエ君が以前使っていた古いATOKの数段上を行くもので、まるで別次元の快適性能がいきなりタダで手に入ったというわけです。

ATOK購入のため、一万数千円の出費を覚悟していたのですが、むろんその必要もなくなりました。
とにかくこの日本語変換システムというのはパソコンを使う上(とくに文字入力)ではなにより大切で、何日も続いていた灰色の空が、あっと言う間に鮮やかな青空へと変わったようです。
ことえりをお使いの方はぜひお試しになられてはどうでしょう。
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パソコン交換

早いもので、今年もとうとう大晦日となりました。
年末の慌ただしい時期でしたが、6年ぶりぐらいにパソコンを買い替えました。

マロニエ君はパソコンをMacでスタートしたので、Macでなくてはならないということ以外、特にこれといったこだわりはなく、周りの人たちがどなたも適当な時期にパソコンを買い替えていくのが不思議なほど、ずっと一つのマシンを使い続けます。

だって興味がないんだもん。
パソコンに関しては、新しいものにはまったく関心もありません。そうはいってもパソコンはユーザーを愚弄するほど寿命の短い機械で、ハードディスクからカリカリというような雑音が出てきたりと、なにかと危ない雰囲気が出てくるのは嫌なものです。

仕事にも絡んでいるものなので、壊れたら壊れたとき…なんてことはいっていられません。
パソコンを取り替えるということは、いろいろな設定やら何やらがあるだけでなく、従来の環境とは否応なしに変化してしまうのが鬱陶しくて仕方ありません。
実をいうと、使い始めの面倒臭さがイヤで、昨年買ったiMacを一年以上物置に置きっぱなしにしてしまっていたのですが、ついにそれを引っ張りだしたというわけです。

つまり買い替えたといっても買ったのは去年で、正確には一年放っておいたものを使い始めたというわけで、放置しておいても何かが熟成するわけじゃなし、そのぶん古くなるというのにバカな話です。
パソコンは本体のみでは用をなさず、周辺機器や、ソフトや、データなどの問題がついてまわります。これだからパソコンのお引っ越しはマロニエ君にとってストレスを詰め合わせで抱えるようなもの。

それが嫌さに一年間古いマシンで粘りましたが、プリンターが故障して新しいのを買いにいったら、もはやOSが古すぎてそれで使用できるプリンターはもう買えないことがわかり、おそらく他の周辺機器やソフトも同様とのこと。
これはもういけない…と覚悟を決めて、ついに物置にしまい込んだiMacを引っ張りだすことに。
マロニエ君の場合、IllustratorやPhotoshopが必須なのですが、手許にある古いバージョンは新しいOSでは使えないため、これらのソフトを新規にそろえるだけでも大変です。

それらのソフトはまともに買おうとしたら、パソコン本体よりも高額なため、そのハードルを越えることにもずいぶん手間取りましたが、ついに覚悟を決めたわけです。

思い切っていざやってみると、昔に比べて初期設定が飛躍的に向上していることに驚きました。
当分は新旧マシンを併用することになりそうで、これがまたいちいち面倒くさいのです。
本来、Mac同士は中を一気に引っ越しすることが可能で、それをやればいいのでしょうが、そんなことをしているとまた何か予期せぬトラブルなどに遭遇しそうで、これをする勇気もないし、そもそもやり方もわからず、調べてまでやろうとも思いません。

とまあ、いろいろと不便はあるものの、それでも新しいパソコンというのは根底のパワーや技術がアップしていているためか、やはり気持ちがいいことも事実ですね。

ただし困ったこともあり、キーボードのキーの間隔がこれまでのノート型より広くなっているため、ちょっとした文章を打つにもミスタッチの連続です。
ピアノどころか、パソコンでまでミスタッチの連続とは、なんとも情けない限りですが、指先は無意識の加減までを記憶しているらしく、どうしても以前のようなペースで文章が綴れないのは困ったことです。
さらにワープロソフトもことえりが標準で、ATOKを長年使った経験からすると、ちょっとしたことが使いにくいものです。
だからといってATOKを買って入れ直すのも面倒で、現状に慣れるしかありません。


というわけで、いつものことながらしまらない話で今年も終わりですが、来年もよろしくお願い致します。
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おもてなし?

シトロエンという一台のフランス車を20年近く乗り続けていることは、折りに触れこのブログにも書いていますが、何より大変なのはメンテナンスに関する部分です。
これといって人気車種ではないため、当然ドイツ車のようは販売台数は見込めず、輸入元はいつもやる気がなく、ディーラーはころころ変わります。国内のパーツのストックなど無いに等しいのはいつものことで、さらにはメンテを受けてくれるサービス工場というか、いわゆる主治医を確保するだけでもオーナー諸氏はいつも苦労をさせられています。

ここ10年ほどの主治医は、看板さえあげていない個人の整備工場で、有名な輸入車店の工場長をされていた方が独立してやっているところですが、ここには普通の工場は診てくれそうにない珍車・稀少車が年中あふれています。
その主人というのが大変な変わり者で、よくいえばマイペース、その上に一人でやっているものだから、その仕事ぶりはますます不規則で、約束などはほとんど役にたちません。さらには仕事が立て込むと電話にも出なくなり、それが延々何日間も続くなど、そのお付き合いの流儀は一通りではありません。

故障で困っていようが、車を預けて約束の日を過ぎていようが、ひとたび音信不通状態に入るとこれが一週間でも十日でも続きます。友人の中には、遅々として進まぬ作業のため、ついには半年間も車を預けるハメになったりと、およそ常識では考えられない世界で、さすがに最近では少し客離れが起きているような気配です。

マロニエ君もひとえに愛車のため、ここに出入りし、ひたすら忍耐を続けました。

ところが最近になって、以前この車のディーラー(今は存在しない)でメカニックをやっていた人が紆余曲折の末、福岡市内のBMWのディーラーに勤められることになったらしく、驚いたことにはシトロエンも受け付けるという情報を仲間内から得たので、二三修理を抱えていたことでもあり連絡を取ってみました。

果たして快く受け入れてくれることになり、さっそく車を持ち込み、二週間ほど預けてつい先日引き取ってきたところです。

くだんのマイペースおやじのファクトリーに比べれば、距離もグッと近くなり、電話には必ず出る(ディーラーなので当たり前ですが)、しかも腕も良いのですっかり気が嬉しくなりました。

それだけ状況は好転したのだから十分ではありますが、気になる点も少しありました。
ひとくちにBMWのディーラーといっても市内にはずいぶんあちこちにあって、しかもそれぞれ母体となる親会社が違っていたりと、どこがどうなっているのやらさっぱりわかりません。

今回の店舗・工場は比較的最近オープンしたところですが、敷地内に入って車を止めようとするや、ショールームの中から若い女性が二人と男性一人、計三人もが脱兎のごとく飛び出してきて、寒風吹きすさぶ中を車外で待機して御用伺いをします。ドアを開けるなり、来意とメカニック氏の名を告げましたが、こういうことをあまり過剰にやられるのは却って快適とはいえないものがあります。

修理が終わり車を受け取りにいったときも同様で、手厚いお出迎えとともにショールームの一隅に案内され、希望するドリンクをもってきてくれるなど、ありがたいことではありますが、そのいっぽうで、たかだか修理明細を作るのに延々と長時間待たされるのはどうかと思いました。
ついにしびれを切らし、今日のところは支払いだけ済ませて明細は後日送ってもらうことになりましたが、今度は領収書を出すのにも再び待たされます。

上質な「おもてなし」のかたちをとるのは結構だけれども、何時ごろ行くというのはあらかじめ伝えた上でのことなので、こういう肝心なことはもう少し迅速に願いたいところです。
たしかに車(とくに輸入車)の顧客の中には、ディーラーで受ける接待がよほど心地いいのか、これをひとつの楽しみにして、なにかというと店に出入りしているような人も少なくないようなので、店側も迅速に事務処理をするという必要性がないのかもしれませんが、マロニエ君のようにその手のことに興味がない側にしてみれば、いささか鬱陶しいのも事実です。

快適というのは形ではなく、精神の領域にあるものだということをあらためて思いました。
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それぞれの道

ジェンダーフリーが叫ばれる今日、あまり近づかない方がいい内容かもしれませんが、決して思想的な話ではありません。

基本的な権利や能力の問題とはまったく無関係に、女性と男性とでは、根底のところにあれこれ違いがあることを近ごろことさら痛感させられ、だからこそ人間はおもしろいなぁと思います。
どんなに気の合う女性でも埋めがたい溝を感じることがあるいっぽう、苦手な男性であっても本能的にスッと共有できる感性があるのは、これがまさに男女の染色体の差だろうと思われ、それは個人差・世代差を突き抜けたところに存在するもののようです。

なにかにつけて同性・異性はかなり違う作りになっていると思います。
何を云っている!そこには性格的なものや個人差もあるのであって、そういう見方をすることが偏見ではないかと叱られそうですが、けっしてそうではないのです。ある程度の数をみていると、やはり大まかな男女の違いの傾向というものは掴めてくるものです。

一般的なことを例に取りますと、例えば整理整頓とか掃除です。
少なくとも現代の女性、とりわけ外で仕事をする女性というのは呆れるばかりに掃除がお嫌いのようです。嫌がるものをやらせるのは至難の技で、相手も取り立てて抵抗しているわけではないようなのですが、そもそも身についていないものは、なかなか実行するのが難しい。

これは育った時代や環境などさまざまな要因があるようです。そもそも整理整頓や掃除というものをほとんどしたことがない由、当然それが生活習慣として身についてもおらず、これは一朝一夕に解決する問題ではありません。

生活習慣としては男も同じのはずですが、それでも敢えてやってみると、男のほうがだいたい丁寧できれいですし、物入れに物を入れるという単純な行為に於いても、大抵の女性はそのつど放り込むというパターンで、その限られた空間を効率よく使うという考えがないようですが、どちらかというと男はパズル的な頭を使います。

テレビで収納の達人のような女性とか、要らない物を処分して家の中をいかにきれいにするかを声高らかアドバイスするような女性がいたりしますが、あれはたまたま仕事として技を磨いているだけで、実生活でそんなことをやっているのは、はたしてどれぐらいいるでしょう。

緻密さとかマニアックというのもだいたい男の特性で、要するに感性、価値観、思考回路など、脳の働き方が違うことを悟りました。

つい先日も驚いたのは、ある設備工事のために来た作業員の数名(全員男性)が、高いところに並べた何十もの装飾品をすべて下におろして作業をやっていました。

これを元に戻すのは大変であるし、工事は延べ3日間にわたっておこなわれる予定なので、全部終わってから並べようと覚悟していました。
ところが初日の工事が終わり作業員の方達が帰られたあと現場を覗いてみると、目に入ってきた光景は工事前と寸分違わぬまでに完璧に元通りに片づけられていて、その日一日工事をしていたことが信じられないほどきれいなことにまずビックリ。
さらにマロニエ君を驚嘆させたのは、高いところを見上げたときのこと、その装飾品が魔法でも使ったのかというほどきれいに並べられ復元されていることで、さすがにこのときは男性の仕事の見事さ、質の高さというものに舌を巻き、おもわず感動してしまいました。

対照的に、女性は忍耐力や男の数倍はあろうかと思う強靱な精神、あるいは度胸などはずば男の適うものではないと思います。ものごとの本質を瞬時に捉える直感力に優れるのも女性で、その現実感覚は男性脳のこまかな動きを一挙に抜去るものがあり、ただただ敬服するばかりです。

まだまだありますが、とりあえずこのへんにしておきます。
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無個性の心得

TVニュースなどを見ていると、現代人は一億総役者か総タレントではないか?と感じることが少なくありません。

政治・経済・事件・事故などあらゆる場合に応じて、一般人がふいにカメラとマイクを向けられても、大半の人が、概ね似た感じの、きわめて無個性なありきたりな内容のコメントをするのは何なのかと思います。

しかも、おおよその口調や、語尾に「かな…」「みたいな…」をつけて、自分の意見としてきっちり結ばないところにも、大きな特徴があるようです。

まるでマイクを向ける側が、こういう答えを欲しがっているというのを察しているのか、それに添って答えているようにも感じられます。みなさん申し合わせたように何かを心得ておられて、まるで大雑把な台本があるかのようです。

それが練習の必要もないほど、一般的な意識として浸透しているのだとしたら、これは考えてみたらすごいことだと思います。

もしマロニエ君が同じようなシチュエーションに遭遇したら、まず間違いなく逃走してしまうでしょうけれど、万が一にもなにか答えるとしたら、とてもあんなふうな言い回しはできないと思うばかり。

どんなにつまらぬ意見であっても、話すからには自分のオリジナルの考えを述べるべきで、多くの人がこう考えるであろうというあたりを自分の考えとして滔々としゃべるなんて芸当は、そもそもマロニエ君にはできもしませんが、それじゃ何の意味もないと思います。

さらに戦慄するのは、そんな言い回しや思考回路が子供世代にまで波及していて、小学生ぐらいのコメントを聞いていても、そのしゃべり方・内容・ちょっとした間の取り方や調子まで、今どきのオトナのそれのようで思わず背中に寒いものが走ります。

自分の意見というものは、もっと素朴で正直で自由があっていいのではと思います。
しかるに多くの人達は、正直どころか、できるだけ一般的な感性から逸れないよう発言にも妙な折り合いをつけるよう努めているようで、もしかすると自分が一般的な意見の代弁者たることを目指しているのかとも思います。

すべてはご時世かとも思いますが、ひとつだけそれは違う!と声を大にして言いたいことがあります。
時あたかも衆院選を控えている時期で、若い世代の投票率がいよいよ低いことが問題視されていますが、若い人にインタビューすると恥じる様子もなく投票には「行かなーい」「行かないですね」とあっさり言い放ちます。
そこまでならまだしものこと、いかにもさめたような調子で「誰がなっても同じだから」として、だれもかれもがこれを選挙に行かない理由としています。

しかし、まさかそんなことがあるでしょうか。
たしかに55年体制まっただ中における慢心した派閥政治の時代ならまだいくらかわかりますが、現在の自公政権と先の民主党政権は誰が見てもまったく違うし、安倍さんと菅さん、どちらが総理でも同じだと本気で思っているのでしょうか?
何をいいと思うかは各人の判断するところですが、誰がやっても「同じではない」ことだけはハッキリと言いたいわけです。その違いはウインドウズとマックどころではないですよ。

投票に行かないことは、これはこれでひとつの意思表示かもしれませんが、己の無知を恥じぬままスタイルとして蔓延するのはきわめて憂うべきことだと思います。
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見えていない自分

人の言動の中には、あくまでもさりげなさを装いつつ、なんでそんなに自分を上に見せようとするのかと感じることがあるものです。

ある病院に行ったときのこと、終って駐車場に向かっていると、偶然向こうからそこの先生の奥さんとばったり会いました。
この奥さんとはべつに知り合いというわけではなく、ときどき受付などにもすわっておられるので、しだいに顔見知りになったというだけの間柄です。

ところがこの方、なぜかマロニエ君の自宅の場所などもご存じらしく、「あのあたりは…」というような話をしばしばされるのには以前から少し違和感がありました。

病院に行くには健康保険証などを提示するので、そこから個人の住所なども知るところとなるわけですが、それを情報源として患者への雑談のネタにしていいかというと…それはちょっと違うような気がします。

さらに驚いたことには、マロニエ君の知るお若い演奏家兼先生をその方も何かの繋がりでご存じだったようで、その人物のことを「○○クン」と何度も繰り返し口にされるのには、いささか驚きました。

若いといっても相手は学生ではありません。
コンサートで演奏を重ね、先生として教室の長としてやっているからには、それなりの呼び方があるはずですが、あえてそう呼ぶことで自分の優位性を作りだし、そこを相手に印象づけるかのような心底が見えてしまいます。
百歩譲って純粋に親しみをこめてだとしても、相手(マロニエ君)は身内ではないのですから、表向きは「さん」か「先生」と呼ぶのが見識というものですが、この場合は「くん」である必要があったのかもしれません。

そもそも、この「クン呼ばわり」というのはテレビなどでも見かける、発言者の浅薄な自己宣伝手段としてしばしば用いられる印象があります。
社会的に話題の人であるとか、スポーツでめざましい結果を上げて注目を浴びているようなスター級の選手などを語る際に、あくまで自分にとっては対等の友人、家族ぐるみの付き合いをしている、もしくは目下の若者にすぎないよ…といわんばかりに、むやみに親しげな口調で不自然なコメントすることは少なくありません。

その相手を、わたしは「くん」で呼ぶだけの資格があるんだという、たったそれっぽっちのことで、自分の立ち位置を高いところへ引き上げようという、あまり上等とは云えない狙いが透けてみえるのです。
これを言ってサマになるのは、直接指導に携わった文字通りの先生や恩師だけでしょう。

マロニエ君はこの手の人を見るたびに、なんとも教養のない、世俗的な神経の立った、ハッタリ屋のように思えて仕方がありません。
ほとんどの場合、「さん」で呼ぶほうがどれだけ自然かわからないのに、それでも意図してまでクンとかチャンといってしまうのは大抵自己アピールで、ひどく物欲しそうな小さな人物に見えてしまいます。

政界にも、かつての石原慎太郎氏や、引退した渡辺恒三氏などは、相手が総理であれ大臣であれ、だれかれ構わず○○クン○○ちゃんとぬかりなくいっていましたが、今はさすがにそんな手合いもいなくなりましたね。「ぬかりなく」というのは、クン呼ばわりする相手がエライほど、そこには意味と快感があったはずだからです。

本人は至ってさりげない発言のつもりのようで、だから相手は感服しているという読みなのでしょうが、その考えは甘いというものです。聞いている側は、そこがいちいちわざとらしく、よけい耳障りに響くのですが…。
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女性の進出

長いデフレのトンネルから抜け出すのは容易なことではなく、安倍さんをリーダーとしてさまざまな努力がなされているのでしょうが、なかなか目に見えるような効果は出てきません。

経済評論家の言うことなどは半分も信じていないマロニエ君ですが、ときには「なるほど」と唸ってしまう発言があったりするものです。

デフレ脱却が難しい理由はさまざまでしょうが、そのひとつは、世の中の人間が「倹約の味を覚えた」からなのだそうで、これはある意味では贅沢の味以上に切り替えが難しいものだというのです。
いうなれば「倹約・節約」というパンドラの箱を開けてしまったと云えるのかもしれません。

本質的に人間は欲深でケチな生き物なのかもしれませんが、自分だけでは体裁や恥ずかしさ、さらにはいろんなかたちの欲が絡んでこれを断行するのはなかなか勇気がいるものです。着るものひとつにしても、あまり安物では恥ずかしいというような心理が働くでしょう。

しかし不況を機に世の中全体が節約ムードになり、みんながそっちを向いて、お店も何もが自虐的な低価格や無料といったものであふれかえると、それが当然のようになり、しだいに個々のケチも恥ではなくなり、いわば木を森に隠すようなものになる。
それが長期化すると、いつしかそれしか知らない世代まで育ってきます。

もうひとつは、女性の社会進出だそうです。
一般的に考えれば妻が専業主婦になるより、女性も働いて収入を増やすほうが消費も拡大するように考えがちですが、これがそうではないらしいのです。
ひとつは男性の平均的な収入が昔に較べて相対的に落ちていて、男だけの稼ぎでは一家を経済的に支えることが難しくなっていて、たしかにそんな印象があります。

それに加えて、そもそもでいうと消費の主役は女性なのだそうで、たしかに家や車といった大きな買い物をべつとすれば、その他の日常的な消費はほとんどが女性に委ねられていたというのも頷けます。
「夫が必死に働いて得たお金を、妻が平然と使う」というのが景気のよかった時代のスタイルです。

では、なぜ女性の社会進出が消費拡大に繋がらないのかというと、女性が自分でも働くことでお金を稼ぐことの大変さを身をもって経験するようになり、夫が稼いでくる時代のように無邪気な消費ができなくなったというのです。

昔の女性の消費は男性の稼いでくるお金に依存しており、その労働の辛苦にはあまり斟酌していなかったのかもしれませんが、今の女性は働いて報酬を得ることの厳しさをよく知っており、鷹揚な支出や買い物は激減したというのも納得でした。

たしかに、稼ぐ人と使う人が別でいられた時代のほうが、人々の心には単純な明るさがあって、消費にも勢いがあったのだろうと思います。高度成長の時代は、なんだかわからないけれどもみんな希望があり、給料も銀行振込ではなく、お札の入った月給袋を内ポケットに入れて帰宅し、それをそっくり奥さんに渡すというのがひとつの形でした。

現代とくらべて、社会学的にどちらがいいのかはわかりません。
ただ男女いずれも、低い賃金/不安定な雇用環境の中でせっせと仕事をせざるを得ない社会環境では、やはり消費が伸びないのも致し方のないことだろうと思います。
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平衡感覚

いつだったかNHKのプロフェッショナル?とかいう番組で、五嶋みどりの現在を追った番組が放送されました。

10代前半という若さでアメリカからセンセーショナルに世に出た天才少女も、すでに40代半ばに差しかかり、演奏家としてのみならず、いろいろな意味でも、いま人生の絶頂期に差しかかっているのかもしれません。

彼女はその圧倒的な名声にもかかわらず、演奏活動のみをひた走ることを早い時期から拒絶し続け、自身のスタイルを押し通し、とうとうそれで周囲を納得させてしまった人だと云っていいのでしょう。

天賦の才があり、ニューヨークという最難関の場所でメータやバーンスタインから認められ、さらには演奏中に2度も弦が切れるという、いかにもアメリカ人好みのアクシデントにも恵まれ(?)、当時望みうる最高のデビューを飾ったのは間違いないでしょう。

多くの場合、これほどのスター街道が目の前にパックリと口を開けて広がれば、迷うことなくそこに飛び込み、以降、忙しく世界中を飛び回る生涯を送るはずです。

しかし彼女は演奏活動だけに邁進することを頑として拒み、他の勉強をはじめたり、のちにはヴァイオリンを使っての奉仕活動などにも打ち込むほか、アメリカの音大で最も若くして教授になるなど、何本かの柱によってしっかりとバランスが保持されているようです。
教育者でもあり、アメリカの弦楽器の組織の理事のようなこともやっている由で、勢い彼女の生活は演奏以外の仕事も目白押しで、演奏活動はその中の一つという位置付けのようです。

立派といえばもちろん立派ですが、そこにはいろいろな理由があってのことなのだろうと推察します。

マロニエ君のような凡人からでも、おぼろげにわかる気ようながするのは、いわゆる音楽バカ(といったら言葉が悪いですが)で世界を飛び回り、超多忙な演奏を繰り返すだけの薄っぺらなタレントにはなりたくないという心情と必然があったのではと思われます。

一流演奏家として認められれば、年がら年中演奏旅行に明け暮れ、人生の大半を飛行機とホテルとホールで過ごすばかりで、他の文化に触れたり、豊かな旅や時間を満喫すること、あるいは自身の時間の中で思索するといったこととは縁遠くなるでしょう。
寸暇を惜しんで効率よく練習し、次々に待ちかまえる移動とリハーサルと本番、拍手のあとでは各地の主催者や地元の名士と交流することも義務という、見る者が見ればまったく馬鹿げた生活を繰り返すことを意味しており、それが五嶋さんには耐えられないのだと思います。

しかもオファーがあって体力が続く限り、それは老いるまで延々と続きます。数年先までの予定が決まっていて、それに従って各地と予定を飛び回るだけの生活。そしていったんこの流れに乗れば、止めるに止められない状況に呑み込まれていく。
そこに疑問を持つ人間にとっては、まさに地獄のような生活です。

しがない演奏家からみれば夢のようなスターの生活でも、それが10代から一生続くとなるとやはり尋常なことではなく、まともな平衡感覚をもっていたらできることではありません。昔で言うサーカスの空中ブランコのスターと、いったいどこが違うのかとも思えます。
いかに素晴らしい演奏をして、それに見合った喝采を受けても、そんな生活を一生続けるなんて一種の狂気であるような気がします。

五嶋さんは非常に頭のいい人のようで、だから自分の人間性と精神のバランスを保つためにも、あえていろんなことを「自分のために」やっているんだと私は見ています。もちろんそれが結果としては世の中のためにもなっているとは思いますが、出発点は、まずは自分が「人がましく生きたい」という主題から出発した事だったのだろうというのが、この番組を見て感じたことでした。
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晩年の秀吉

NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』を見ていると、つくづくと考えさせられるところがあります。

これまで幾多の太閤記はじめ戦国乱世の物語が書かれて本になり、映画やドラマ化が繰り返されました。
太閤記といえば、日本史の中でも立身出世のナンバーワンで、裸一貫から天下人という最高権力者に登りつめるその物語は、読む者、見る者をおおいに楽しませるものです。

しかし、マロニエ君からみると太閤記がおもしろいのは、本能寺の変の急報を得て、手早く高松城を水攻めにし、息つく暇もなく中国大返しを敢行。光秀が討たれたのち、清州評定の場で秀吉は信長の遺児である三法師を抱いて現れ、自らが天下人になる布石を打つ…あのあたりまでだと思います。

天下統一を成し遂げた後の秀吉は、およそ同一人物とは思えぬほどすべてにおいて精彩を欠き、常軌を逸し、老いには勝てずにこの世を去ることで、豊臣の天下は一気に衰退、物語は家康を中心とした関ヶ原へと軸足が移ります。

しかしその前にある利休の切腹、関白秀次の処分など、解釈の余地を残しつつも、天下人となってからの秀吉を正視し、ここに時間を割こうという流れはあまりなかったように思います。さらには無謀の極みともいうべき朝鮮出兵についても、その顛末を正面から語られることがあまりないのは、痛快なヒーローである秀吉のイメージが変質することで、映画やドラマの魅力が損なわれるのを避けたようにも感じます。

信長の死後、秀吉の天下は駆け足で過ぎ去り、関ヶ原/大阪の陣を経て家康が権力を手中にするという流れで話が進むのが毎度でした。

ところが今回の『軍師官兵衛』では、天下人となった後の秀吉がしだいに崩壊していく様がかなりリアルに描かれており、この点では出色のできだったと感じます。
最も信頼を寄せるべきかつての仲間をことごとく退け、代わりに石田三成という現代でいうところの霞ヶ関のキャリア官僚みたいな人物があらわれて、無謀なまでに政の多くがこの男へと丸投げされます。

無学で政治力統治力に疎かった秀吉は、そのコンプレックスから三成のような官吏肌の人間に精神的な負い目があったともいえるのでしょう。

いかに下克上の世とはいえ、文字通り裸一貫からのスタートですから、信長の家来のうちはまだいいとしても、天下人ともなれば家格もなく、譜代の家臣もないまま頂点へと成り上がったツケがまわって、一気にその歪みがあらわれます。家中はバラバラ、反目の視線ばかりが飛び交います。

信長に使えていた頃の秀吉はなにより殺生を好まず、数々の難所でも知恵を絞り、和睦などを巧みに用いて平和的に解決していったことは有名ですが、晩年は別人のように家来でも身内でも容赦なく首をはねまくります。

マロニエ君が興味を持つのは、出世という上り坂の活劇ではなく、人は器に見合わぬ力や権威を得ると、豹変して猜疑心ばかりが募り、ときにそれが狂気へと突っ走る部分かもしれません。

この狂気の部分が今回の大河ドラマではよく描かれており、これは、人がその前半生や器にそぐわぬ不釣り合いな地位や権力を得た為に、もろい建物のようにガタガタとすべてが崩壊していく典型のようにも思います。
おそらくその人を構成してきた多くのファクターに齟齬や矛盾が生じ、機能不全を起こすためでしょう。パソコンでいうとOSとソフトがまったく相容れないようなものでしょうか。

明るく陽気なイメージばかりが先行する秀吉ですが、晩年の暗い陰惨な所業にあらためて驚かされ、そういえばこの点を背景として描いていた作品に、有吉佐和子の『出雲の阿国』があったことを思い出しました。
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デセイとルグラン

少し前のBSプレミアムから、今年の6月にヴェルサイユの庭園で行われた、ナタリー・デセイとミシェル・ルグランらによる野外コンサートの様子を見てみました。

ミシェル・ルグランはフランスジャズ・ピアニストの雄で、同時に『シェルブールの雨傘』などの映画音楽も数多く手がけたこのジャンルの巨星です。

広い庭園に設えられた広いステージには、無造作に大屋根が半開きにされたスタインウェイDと、その他ジャズのためとおぼしき機材が置かれていますが、そこへミシェル・ルグランが登場。
簡単な挨拶のあと、まずは最近作ったというピアノ協奏曲を弾き出しましたが、この時点ではべつにどうということもない印象しかありませんでした。

しかし、その後にナタリー・デセイが登場して歌い始め、その他のメンバーが加わってきて、ミシェル・ルグラン本来の世界がやわらかに展開されて行ったのは圧巻でした。

ナタリー・デセイはフランスを代表するソプラノ歌手ですが、この日はオペラのアリアなどは一曲もなく、ルグランの作品などをいかにも手慣れた調子で歌いきったのには感心しました。
通常は、オペラ歌手がポピュラー系のものを歌うと、むやみに一本調子に声を張り上げるばかりの、まるで柔軟性のない「でくの坊」みたいな歌唱に失笑させられてしまうものですが、デセイには一切そんなところがなく、シャンソンの有名歌手であるかのような堂に入った歌いっぷりは見事でした。

さらに驚いたのは、ルグランはこの2時間近いコンサートを、最初から最後まで、休むことなくピアノを弾き続けたことです。
すでに82歳という高齢ですが、そのピアノにはまるで老いたところがなく、軽やかで、品位があって、バツグンのセンスが漲り、ミスもなく、これだけの長時間を一気呵成に弾き続けるその途方もない才能とスタミナには、ただただ脱帽でした。

普段はほんのごくわずかのジャズを除いては、ほぼクラシックしか聴かないマロニエ君は、こんな放送にでも巡り会わないかぎり、なかなかこういうコンサートを耳にするチャンスはないのが正直なところですが、ここには音楽にほんらい宿っているべき楽しさや喜び、心に直に訴えてくる様々なファクターに満ちていて、久々に新鮮な感動と満足を得ることができました。

わけても注目すべきは、ピアノ、ドラム、ベース、ギターのいずれもが、いついかなる場合もリズムが弛緩することなく、生演奏故につきものの、ちょっとした加減で互いの呼吸に乱れが出たりということさえもなかった(少なくともマロニエ君にはそのように思われた)点は驚くべきで、作品や演奏の素晴らしさと併せてその点にも大きな感銘を受けました。

かねがね思っていたことで、この際だから言ってしまいますが、ことリズムや呼吸というものに関しては、クラシックの演奏家はまったくだらしがないと言わざるを得ないというのが率直なところです。

器楽奏者は高度で複雑なテキストをつぎつぎに課せられ、演奏として処理していくだけで神経の大半をすり減らしているのはわかります。しかし、しばしば大筋の流れを停滞させてまで、自分の演奏や解釈を見せつけたり、必然性のない強調をしてみたりというのは、趣味としてもいかがなものかと思います。
のみならず、音楽が本来の拠り所とする、聴く者の気分を音楽によって喜びへといざない、楽しませるという、最も根元のところの使命感が稀薄になっていると思わざるをえません。

クラシックの演奏家がこの「聴く者を楽しませる」という課題にぶつかると、ただ大衆向けの名曲プログラムに差し替えることだけにしか頭が回らないのは、まったくの思い上がりと勘違いと怠慢であって、まずは自分が音楽を楽しまなければ聴く側が楽しいはずはないのです。

そういうことを、けっして押し付けがましくないやり方で、サラッと教えてくれたコンサートでもあった気がします。
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謎の自転車

昨日の午前中、我が家のガレージのシャッター前に見知らぬ自転車が止まっていました。

ここは、すみに寄せるかたちで、うちに通勤してくる人の自転車が2台と原付バイク1台を止めるようになっているのですが、そこへもう一台、普段ないはずの自転車が、さも当たり前のような感じて止まっていました。

てっきり誰か来ているのかと思ってしばらくそのままにしていましたが、午後になっても一向に動きがなく、誰に聞いても心当たりがないようでした。

ガレージ前といっても、道路ではなく、れっきとした我が家の敷地内のことなので、どう考えても人が間違って置くような場所ではありません。
しかも、他の自転車ときれいに並べるようにして奥側に止められており、おまけに車輪には鎖で施錠までされているので、単なる放置自転車とも思えません。よって、この自転車をめぐって持ち主探しにかなりの時間と神経をとられることになりました。

しかし、まるで手がかりナシで、数時間経過するとだんだん気持ち悪くなってきました。なにしろ、よその敷地内に侵入して平然と自転車を置き、鍵をかけてその場を立ち去るというのは、まともな神経の持ち主のすることではなく、こちらとしてはかなり不気味です。

のみならず、中の車の出入りも非常にしづらい状況となっており、現実的な迷惑でもあるわけで、午後には道路までは移動だけはしました。もちろん片輪は施錠されているので、そちらを持ち上げながらですが、触るだけでもいい気はしません。

そうこうするうちに、あたりは暗くなる時刻(午後5時半過ぎ)となり、ついに警察に通報することにしました。
警察官が来てくれたのは6時少し前で、もうすっかり暗くなっていました。
状況の説明や確認をやっていると、そこへなんと、ひとりの若い女性が突如としてあらわれ、無言のままその自転車の鍵をさっさと外し、平然とした調子でその場を立ち去ろうとしています。

これを見て、あわてた警察官は、「貴女が止めたんですか?」「ここは他人の敷地内ですよ」と声をかけますが、それで動作が止める様子はありません。
捨てぜりふみたいな不機嫌な言い方で、小さく「すみません」という言葉は聞き取れましたが、警察官がちょっと待って!というのも無視して、サーッと走り去っていきました。

???…これってどういうこと…信じられない光景でした。

つくづく自転車のタチが悪いのは、こういう状況でも警察官はその人が立ち去ることを強制的に阻止するとか、追いかける権限がないということだろうか…と思いました。
少なくとも車やバイクは免許証というものがあるので、こんな勝手な行動(というか逃亡)なんてぜったいに許されませんが、どうやら自転車はその限りではないのでしょう。

あとに警察官とマロニエ君はポカンと取り残されたのみ。

そして、それ以上、どうすることもできません。
「もし同様のことがあったら、交番でも、110番でも構わないので、すぐに連絡してください。」と言い置いて帰っていきました。

それにしても、警察官相手にとっさにこういう態度をとるというのは、まともな市民の感覚とは思えませんが、つい今の若い人の悪しき行動パターンの典型のようにも受け取れました。

あとから考えれば、道路上に移動させないでおいたほうが警察官も明確な態度が取れたのかもとも思いましたが、それはあくまでも結果論に過ぎず、再び敷地内に入られることのほうがやはりイヤですね。

釈然としない、後味の悪い出来事でした。
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プライドもどき

プロフェッショナルのスタンスに関連して思い出したことを少々。

世の中にはビジネスをやっているにもかかわらず「ありがとうございました」という言葉、もしくはそれに準ずる挨拶を決してしない人が(ごく稀に)いるというのは首をひねるばかりです。

医療関係や学校関係がそれをいわないのは、まあなんとなく社会の慣習として定着していますが、それにも当たらない大半の業種では、これなしではなかなか場が収まりません。

であるのに、毎回どうにかしてこの言葉をすり抜け、あげくには、あま逆さまにお客側に御礼を言わせてしまうという摩訶不思議な状況になるのは、呆れると同時に、なぜそこまでこだわるのか理解に苦しみます。

その理由は、きっと心の深いところにわだかまっていて、体質や細胞にまで染み込んでいるのだと思います。
ふと振り返っても、通常の仕事はもちろんお客さんを紹介するなどしても、一度としてその言葉を聞いたためしがないとなると、これはよほど重症なのだろうと思われます。

「ありがとうございました」という言葉は通常の人間関係でも日常語であり、ましてやビジネスともなれば、ほとんど呼吸同然に身についているのが普通です。食べ物屋に行っても、モノを買っても、金融でも、技術でも、サービスでも、100円ショップでさえも、この言葉は過剰ともいえるほど繰り返し聞かれ、言う側も、言われる側も、これなしでは関係が立ちゆきません。

心からの感謝の気持ちかどうかは別にして、皆ごく当然の流れで「ありがとうございました」を口にしていますし、これは商行為のケジメであるし、仕事というものはどのみちそんなものの筈です。
それでも、この言葉を極力発したくないというこだわりがあるとしたら、そんな人はそもそも商売なんかせず、勉学に励み、医者か官僚にでもなればいいのです。

ビジネスに対する意欲や情熱は人一倍あるのに、この言葉を頑として口にしないというのは、明らかに意識的としか思えません。きっとそこには心の屈折がある筈で、ひとくちに言ってしまえば、よほど自信がないことの証明だと思って間違いないでしょう。
御礼を言うことは自分が頭を下げて負けるようであり、そのぶん相手が上に立って優勢になるというような、卑屈で脅迫的なイメージが固定されているのかもしれません。

これと同じことは、「申し訳ない」や「すみません」にもあらわれ、これがスッパリ言えない人にはやはり卑屈さがあり、むやみに勝ち負けを意識する思考回路になっているのでしょう。

コンプレックスから意識過剰になり、卑屈になって、挨拶が挨拶以上の意味に感じられて、それを口にしたくないということもありそうです。
子供が好きな女の子にかえって意地悪をするように、人間は本心は悟られたくないときに場違いな強気の態度をとってしまうという防衛本能があるのかもしれません。
とはいえ、ビジネスの現場にまでそれを持ち込むのは、いかがなものかと思います…。

そもそも、自分に自信のある人というのは、心にも余裕があるからおおらかで気持ちも明るく、何事も偉ぶらず、御礼やお詫びなども、臆せずに、堂々と、盛大に言うものです。

自信のある人は、どんなに感謝やお詫びの言葉を口にしても、それで自分の立ち位置がけっしてブレることがないことを知っています。
逆にそういう言葉を避けたり惜しんだりする人は、自分ではそれこそがプライドのつもりなのかもしれません。しかし、悲しいかな目論見どおりには人の目には映ることは決してなく、むしろ力んでばかりいる臆病な小動物みたいに見えてしまいます。
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