予報と結果

今年も台風の季節となっています。

とりわけ沖縄や九州は、多くがその最前線に立たされる地勢的な運命にあり、やっと夏の暑さから解放されると思うのも束の間、お次は台風の到来を覚悟しなくてはなりません。

むかしから春の陽気が体調に合わないマロニエ君にしてみれば、春→梅雨→夏→台風と一年のほぼ半分が過ごしにくい時期となるわけで、考えてみればうんざりの時期も長いはずです。

むかし毎年のようにメキシコへ旅する知人がいましたが、彼の地は「常春」すなわち年中春なのだそうで、蒸せるような夏の暑さも、肺と血管が収縮するような冬の寒さもない、温良な季節ばかりが年がら年中続くのだそうです。
なんと羨ましいことかと思ったのですが、どうやら現地の人はそれほどでもないのだそうで、あちらから見れば(とくにメキシコ在住の日本人によると)、日本のように四季の移り変わりがあることにある種の憧れみたいなものもあるらしいという話を聞いてとても意外だったことを思い出します。

年中過ごしやすい春というのは、差しあたってはいいのでしょうが、その反面変化に乏しく、そこに住み暮らす人々もどことなく怠惰で、いつも平坦で刺激もなく、これが必ずしも人間の暮らしにとって最良とは言い切れないということを聞いたとき、そんなものかなぁ…と思ったものです。

そうはいっても、日本の四季も、言葉だけは美しくて叙情的な響きがありますが、実際にはけっこう苛酷だなぁ…とも思います。天候だけでいうなら、日本は必ずしも住みやすい地域とは云えないような気がするのですが、かといって世界を知らないマロニエ君には本当のところはよくわかりませんが。

さて、冒頭の台風に戻ると、今年は梅雨の延長のようだった夏から、季節外れの台風の情報に翻弄されたように思います。
今月も18号に続いて19号が北上、九州付近から右折して、列島を嫌がらせのように横断していくというパターンが二週続き、土日や連休は台風一色で終わってしまいました。

自然現象はどうすることもできないとしても、これに際しての気象庁の発表する台風情報、あるいはテレビが報道する台風の情報には、個人的にはいささか疑念をもつようになりました。

早い話が、いくらなんでも大げさに言い過ぎる傾向が以前よりも強くなり、毎回どれほどの巨大台風がやってくるのかと、過ぎ去るまでの数日間は右往左往させられるのですが、実際はほとんど予報や報道とはかけ離れた平穏な状態です(少なくとも九州は)。

もちろん用心に越したことはないし、結果的に大事に至らなかったのはなにより結構なことではあるけれども、あまりにそれが毎回で、さすがにどういうことなのか?と思ってしまいます。

夏の台風でも「かつて経験したことがない規模の猛烈な」というフレーズが何度も繰り返され、それは福岡地方も完全に含まれており、学校の類はすべて休校、街はすべてが台風にそなえた形となりましたが、実際は台風どころか、むしろ無風といってもいい状態のままそれは通過していきました。

先週もやや強めの風が少し木の枝を揺らしていた程度ですし、さらにそれよりも北にコースをとった19号も、いつどうなったのかほとんどわからないまま東へ進んでいき、あとから多少の風雨となった程度でした。
宮崎・鹿児島が最も危険な進路上にありましたが、宮崎市内に実家のある友人が電話をしてみたところ、「なにもなかった」とのことで、これほど甚だしく予報と実際の食い違いがあるというのはちょっと問題ではないだろうかと思います。

気象観測の技術も昔にくらべれば格段の進歩を遂げているはずですが、もう少し、リアリティのある予報であってほしいものだと思います。

もちろん防衛費などに代表されるように、社会の安全や、人々の健康というものは、ほんらい何もなくて当たり前、その当たり前を実現し維持ためには多大なコストやエネルギーを要するのはわかりますが、それにしてもこのところの台風情報はどこかおかしいのでは?と思えてなりません。
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男の自意識?

今年7月にサントリーホールで行われた山田和樹指揮のスイス・ロマンド管弦楽団の演奏会から、樫本大進のソリストによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をNHKクラシック音楽館の録画から聴いてみました。

全般に力の入った演奏で、会場はたいそう拍手喝采でしたが、個人的にはそれほど好みではなかったというのが正直なところです。

音楽的にも、これという個性やメッセージ性があまり感じられないにもかかわらず、自分という存在の主張だけは怠りないものが感じられました。

マロニエ君の印象としては、樫本氏は、現在の彼が背負っている肩書きというか、手にしているポストの高さを日本の舞台でも立証してみせることのほうに意識が向いているようで、演奏もそちらの要素が主体のものであったような気がしました。

もちろん、それは目先の技巧ばかりを見せつけるような単純なものではなく、各所での思慮深さなどを充分考え、深めた上でのものだという体裁にはなっているものです。なんだかそこまでのしたたかな思惑が見えてくるようで、要するに、聴く側に演奏が深く染み込んでくると云うことがあまりなかったのが個人的な印象でした。

ソリストでも名を馳せ、それになりの活躍をして実績を積んだ上で、さらにはベルリンフィルの第一コンサートマスターに就任したということが、飛躍的な地位の格上げになったものは間違いないでしょう。

ただ、真実それにふさわしい演奏ができているのか、あるいはそれに値する器の持ち主かということになると、マロニエ君は正直よくわかりません。

チャイコフスキーの協奏曲ではオーケストラの序奏に続いて、すぐにヴァイオリンのソロが入りますが、それがあまりに意味深で芝居がかったようで、いきなり曲の流れが途絶えたようでした。この気配というのは、ほんのわずかのことではあるけれども、そのわずかはとても重要で、聴く側にとっても独奏者がこれからどういう演奏で行こうとしているのか、おおよそ方角が決定されるように思います。

そして、なんとなく、あのフレンドリーな笑顔が印象的な樫本氏にしては、かなり自分を前に出すなぁ…という印象でした。

ナレーションで言っていましたが、樫本氏と指揮の山田和樹氏はドイツでも親しい間柄なんだそうですが、終演直後のステージマナーのちょっとした所作では、名門スイス・ロマンドと山田氏に対して、かすかに上から目線な態度だったように感じられたのは、思わず「ほぅ」と思ってしまいました。

男の競争心というのは、どんな世界でも上を極めるほどに凄まじいものがあるものですが、ここにもチラッとそれを見てしまったようでした。

ちなみに、山田和樹氏の演奏には、これまで好感の持てるものにもいくつか接していましたが、このチャイコフスキーではまるで作品にLED照明でも当てたみたいで、あまりに憂いがなく、この点にはちょっと馴染めないものを感じてしまいました。
オーケストラはサイトウキネンではなくスイスロマンドなのですから、もしかするとこれが最近の明晰な演奏のトレンドなのかとも思われました。

かつてのロシアのオーケストラのような、どこかアバウトだけれど、叙情的でやわらかな響きのチャイコフスキーというのは、もはや時代に合わないものになったのか…いろいろと考えさせられました。
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水の音

マロニエ君の自宅の裏には、マンションが背中を向けてそびえ立ち、我が家とは土地の高低差があるので、マンションの土台部分は一面のコンクリートの壁状になっています。

これが幸いし、さらに両隣のお宅も住居部分がそれぞれ離れていため、ピアノの音でご近所に気兼ねすることがそれほどでもなく、控え目な音であれば深夜までピアノが弾ける環境であるのは恵まれていると思うところです。

そのマンションから、下水か何かよくわかりませんが、我が家との境界線付近にある排水口らしきところへかなりの勢いで水が流れ落ちてきて、その水の音は、隣人としては改善を願い出てもおかしくないほどの音量に達しており、それがどうかすると24時間連日続きます。

たまに我が家に訪れた人は、その絶え間なく流れ落ちる水の音に驚き、何事か!?と感じる向きもあるようです。

ところが我が家では、誰もそのことでマンションへ苦情を言ったことがありません。それは水の音というものが、うるさいと思えば確かにそうだけれど、どこか嫌ではない性質の音であるからで、勝手に自宅の裏に小川が流れているような風情を感じたりしています。

どちらかというとマロニエ君は不眠症ぎみで、ちょっとした事や物音でも寝付くことができずに苦労するほうなのですが、この川のせせらぎのような音だけは、たえず耳には届いてくるものの、なぜか心底イヤだと感じたことがありません。

これがもし別の種類の音だったらば、たとえ音量が半分でもとても我慢できるものではないでしょう。
それだけ、音にもいろいろあるというわけで、個人差はあるとしても、おおむね人は自然の発する音には寛大で、ときにはそこに心地よささえ覚えるものだということを感じないわけにはいきません。

その証拠に、春秋の季候のよいころになると、ごくたまにではあるけれども、そのマンションの住人が窓を開け放ってパーティみたいなことをやっているのか、ずいぶん楽しげにわいわいやっていることがあるのですが、こちらはそれほどの音量でもないけれど、たえず耳について気になって仕方がありません。

それに較べると、水の流れる音は音楽の邪魔にさえなりません。
人が木の感触に説明不要の感触を覚えるように、ちっともイヤではないばかりか、例えばベートーヴェンのシンフォニーやソナタの緩徐楽章のその向こうで水の音がするのは、その楽想に合っているかどうかは別として悪くはない感触です。

こういうことを考えてみると、この先、どんなにめざましい技術が生まれてピアノの響板などに流用できたとしても、それでは人の本能とか潜在的な部分を慰めることはできないだろうと、これだけは確信をもって思います。
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スマホの支配

携帯のことをもう少し。
携帯(=ケータイ)の普及は、実は「普及」というおだやかな言葉は似つかわしくない、異常繁殖とか侵略と云いたいぐらいの、とてつもない勢いで世界中が呑み込まれました。

まるで、穏やかだった池や湖に、獰猛な外来種を放り込まれることでそれまでの環境が激変するように、突如、ケータイという新種によって従来の社会の多くのものが食い尽くされ、絶滅させられているという印象さえ抱いています。
まさに生態系が変わったというべきか、これにより人の精神まで変化をきたし、一部は破壊もしくは死滅させられたというほうが適当なのかもしれません。

ケータイやネットの恐ろしいところは、人が誰でも自分の幸福を望んだり、お金が欲しいのと同じように、その圧倒的な機能や利便性を武器に、否応なく社会に侵食してきたという点です。すでに世の中がケータイ/ネットを前提とした構造に様変わりしてしまった現在、よほどの変人でもない限り、これを拒絶することは不可能です。

ひと時代前のことですが、嫌がる高齢者に家族がケータイを持たせるようになりましたが、これなどは「持っていてもらわないと周りが迷惑だ」というレベルにまで到達したことのあらわれでした。

ここまで徹底してケータイが社会を侵食していったその苛烈さが、まさに獰猛で手に負えない外来種同様だとマロニエ君には思えるのです。もはや身を守る術はないも同然と見るべきで、ここまで社会環境が変化した中で、我一人ケータイを持たないと踏ん張ってみたところで、ほとんど意味は見出せません。

そうまでして便利になった世の中のはずですが、話はそう簡単ではないのも皮肉です。便利になるということは、その代わりの不便がちゃんと身代わりのように発生していることを、近ごろ痛感させられて仕方がありません。

例えばつくづく思うのは、昔のように気軽に人に電話をするということが甚だ難しくなっているのは、便利が生んだ不便そのもので、いちいちもう…面倒臭いといったらありません。

とりわけ30代以下の世代では、電話をしてもまずすぐに出ることはない。
電話に出るタイミングとかけてきた相手を向こうで「選んで」いることはあきらかで、こういう微妙な失礼はいまや日常茶飯です。
おそらくは自分が必要と思った相手にだけ、自分の都合のいいタイミングにかぎって出るか、あるいはコールバックするわけです。このため事前に電話する旨をメールでお伺いをたてるなど、実際に会話に漕ぎ着けるまでには、毎度々々そういうプロセスや手順を踏まなくてはならないような空気があるのは、面倒臭いのみならず、気分的にも鬱陶しい。

仕事関連の電話でさえ、スムーズにサッと連絡が取れることは当たり前ではなく、多くがまずは出ない、メールをしても返事に時間を要することが多く、じかに話ができるのは、早くても最初のアクションから1時間後ぐらいであったり、ひどいときは数日も後になってようやく短い事務的な連絡が来たりで、時間がかかって仕方ありません。これじゃ世の中、流れもテンポも停滞するのは当たり前です。
現にマロニエ君は人に連絡を取ることが、以前よりはるかに面倒な手続きが増えたせいで、昔にくらべて遥かに煩わしく億劫になりました。

驚くべきは、例えば生徒を募集する音楽教室なども、ホームページはあっても電話番号は書かれていないケースが多く、中には「メールを送っても返信がない場合は、2〜3日してもう一度メールしてください。」とあり、やる気があるのか?と思ってしまいます。
言葉では音楽教室とはいってみても、要は人様からお金をいただく商売なんですから、こんな身勝手なスタンスで繁盛するわけありません。

人と人との関係は生き物で、それなりのテンポと熱気と感性なしでは、良好な関係や快適な時間を送ることはもうできないだろうと思います。現に若い世代は誤解を恐れずにいうなら、話をしていても、頭の回転があまりよろしくないと感じることは少なくありません。

自分より、遥かに若くて体力もあり、しなやかな脳細胞ももっているはずの若者が、何を言っても聞いても、飲み込みが悪く、理解できないことが多いと感じます。やっても老人のようにトロいスピードでしか対応できない様は、ほんとうに奇妙です。
そんな連中が、ひとたびスマホの操作となると、目にも止まらぬスピードで操作する姿を見るにつけ、ほとんどグロテスクな感じを受けてしまうこともあるのです。
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振り返えれば

マロニエ君は自分なりの考えもあってスマホは持たない主義なので、いまだに通称ガラケーを使っていますが、スマホの進化はどこまで行くのか、そのうち腕時計型なんてものまで出てくるらしく、聞いただけで疲れます。

スマホを敬遠する理由はひとつではありませんが、実用の点からいうと、必要時にパソコンがほぼいつでも使える環境であることがあるように自分では思います。
裏を返せば、スマホは電話機能つきの携帯パソコンだと思っているわけで、なにかとネットのごやっかいにはなっているものの、外出先でまでこれを「やりたくない」という自分なりの線引きがあるわけです。

それと個人的なセンスとして、人がスマホを操作しているあの姿がどしても好きになれず、自分がそのかたちになりたくないという、つまらぬこだわりも多少あるでしょう。さらには過日のiPhone6発売日の騒動などを見るにつけ、完全にそのエリア外にいる自分がむしろ幸せなような気がしています。

それにしても、公衆電話が当たり前だった時代を思い出すと、この分野の進歩は恐ろしいばかりだったことをいまさらながら思わずにはいられません。

むかし携帯電話が登場した頃は、大げさな発信器のようなものに大きな受話器がちょこんとくっついた、そのいかにも重そうな機械一式をショルダーがけにして、当時の先端ビジネスマンやある種のお金持ちなどが、得意満面でこれを持ち歩く姿が記憶に残っています。

まるで昔のスパイ映画に出てくる爆破装置のように大げさなものでしたが、当時これを持っている人は、その重い装置の持ち運びも、その圧倒的優越感の前では、まったく苦にならなかったことでしょう。

そうこうするうちに自動車電話が登場、走行中、車の中で電話がかけられるというのは007のボンドカーなどでしか見たことのないもので、その利便性もさることながら、多くの人の虚栄心にも一斉に火がついたようでした。
またたく間に多くの高級車のリアのトランクリッドには、電話用の甚だ不恰好なアンテナが取りつけられていきました。しかし、人間の認識とはふしぎなもので、このヘンテコなアンテナが高価な自動車電話をつけている証となると、そのダミー(電話はないのに見せかけのアンテナだけをつける)製品まで売り出される始末で、街中にこのアンテナをつけた車が溢れかえりました。

中でも中型以上のベンツやBMWなどは、これがあるのが当たり前といった状況だったのは思う出すだけでも笑ってしまいます。

やがて携帯電話も日進月歩で小型化され、わずか数年の間に爆破装置サイズから、わずか数分の1の、片手で持てるサイズにまで縮小されます。
初期費用も格段に安くなり、マロニエ君がはじめて携帯電話を持つようになったのもこの時期でした。

しかし縮小されたとはいっても、普通のようかんぐらいの大きさと重さはあり、まだとてもポケットに入れるような代物ではありませんでした。
音質は悪く、通話料は高く、不通エリアなんてそこら中で、家の中でも、窓辺に行かないと使い物にならないといった状況でしたが、それでも、線のない電話があって、それを自分用として持ち歩くことができるというのは大いに感激したものです。

これがたかだか20数年前の話ですが、今から思えばほのぼのした時代でした。
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医者もどき

最近は大病院はむろんのこと、開業医やクリニックでも、その傍には必ずといっていいほど薬局が付帯していて、病院から出された処方箋を手にここに立ち寄り、そこで薬を受け取って終わりというパターンが定着しています。

院内処方でむやみに待たされるより、これはこれでシステムとしても簡潔でいいとは思うのですが、この手の薬局でときどき疑問に感じることがあります。

薬の受け渡しの際に、薬を取り扱う者としての責務上必要というところで、あれこれと立ち入った質問をしてくる人がときどきいて、そこに漂うニュアンスには薬剤師の領域とは似て非なる言動が見受けられることが時折あるのです。

どうみても薬剤師の立場を踏み越えたような質問をしたり、中には余裕たっぷりに処方箋を見ながら「えーっと、今回はどうされましたかぁ?」などと、ほとんど医師のような物言いで、内心思わずムッとしてしまいます。
そんなことは、直前に診察室で医師と充分しゃべったことで、その結果として出された処方箋なのですから、そこに疑問があるのなら、処方箋を書いた医師に連絡すればいいことでしょう。

年配の方などには、昔の「お医者さんは偉い人」というイメージを引きずっておられる方がときどきおられ、看護士さんから受付の事務員、果ては薬局に至るまで、ひたすら低姿勢で恐縮したような態度に終始する方もいらっしゃいます。

こういう相手と見るや、いよいよこの手の薬剤師は水を得た魚のように指導的な物言いを発揮して、ひどく勿体ぶった、自分が何かの権威者で上意下達のごとき振る舞いになるのは、傍目にも気持ちのいいものではありません。

たしかに薬剤師は薬のプロではあるでしょう。
薬事上のさまざまな知識が求められ、薬を渡す際に効能や飲み方、注意点など必要な説明を添えるというようなルールもあるでしょう。だからといって、それに乗じて医者もどきの言動に及んでいいということにはなりません。

真面目に仕事をしていますよという、いわば安全な建前の中で、それをわずかに踏み越えて、個人的な愉快を得ているのは、すぐに伝わってきて不快なものを感じます。あたりまえのことですが、薬剤師は医師ではないのですから、そこには厳然と守るべき一線があるはずです。

目に余る場合は、「たった今、病院で先生にお話ししたことを、もう一度ここでお話しするのですか?」と問い質すと、もともと忸怩たるものがあるのか「あっ、いえいえ…」と、いささか上気した感じですぐに質問を取り下げるあたりは、いかにそれが不必要であるかの証明のような気がします。

いちおう白衣は着ているし、医療機関という環境の中で一般人を相手に仕事をしていると、だんだん勘違いしてくるものだろうかと不思議です。

もちろん、こういう人は少数派で、大半は普通です。
しかし、この手合いがときどきいるのも現実で、マロニエ君は自分が、そんな他者の甚だ個人的な快楽の素材にされてはなるものかと、つい警戒してしまいます。
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ラトルのマノン

今年、バーデンバーデンの復活祭音楽祭で上演されたプッチーニの『マノン・レスコー』の録画を見てみましたが、まだ第二幕の途中までで、最後まで見続けられるかどうかは甚だ疑問です。

というのも、ここに展開される舞台と演奏は、およそマロニエ君の考えるイタリアオペラのそれとは、本質的なところでの齟齬を感じて消化不良ばかり感じるからです。

オーケストラはラトル指揮のベルリンフィルで、さすがにその名に恥じないハイクオリティな演奏だということは随所に感じられますが、そのことと、その作品に適った演奏というのはまた別の話です。

このオーケストラがオペラに慣れていないのか、その他の理由なのか、やたらきっちり交響的に整然と鳴らしていくばかりで、オペラの勘どころや息づかいというものがまるで感じられませんでした。

主役のデグリューはマッシモ・ジョルダーノというイタリア人ですが、ただ一直線に絶唱するだけで、この作品の主役であるデグリューという情熱的な青年の存在感は稀薄なものでした。スピント・テノールという力強い方向の歌い手ではあるようですが、柔軟性や演技力に乏しく、いつも客席に向かって棒立ちでフォルテで吠えまくるのみという印象。
タイトルロールのエヴァ・マリア・ウェストブレークもそうですが、ふたりともワーグナーの楽劇のほうが、よほどお似合いでは?と思いました。

全体としても大味で細かな配慮が感じられないものでしたが、唯一の救いは、それなりの舞台装置があったことでしょうか。近年は装置も何も簡略化され、登場人物も現代的な衣装であったり、どうかするとほとんど普段着のようなものを着てモーツァルトやヴェルディなどの大作を上演するのが流行で、さもモダンな主張があるようなフリをしつつ、実際は舞台のコストダウンもここまでやるかというもので、とてもオペラを見る醍醐味とは程遠いものが多すぎます。

マノンはプッチーニのオペラの中でも初期に書かれた作品ですが、最も旋律的であるのが特徴でしょう。
そのめくるめく劇的旋律の妙と物語進行が、これほど噛み合わず、舞台上の出来事と音楽が混ざり合わない演奏・演出も珍しく、とりわけ全体に感じられる無骨さは如何ともし難いものがありました。
いかにも融通のきかないドイツ的な調子で、根底にしなやかさや遊び心がありません。イタリアオペラとはまったく相容れない体質があまりにも前に出て、ひどく無骨で野暮ったいものにしか感じられませんでした。

そもそもイタリアオペラはドイツ人の資質とは対極のものかもしれません。
そういう意味では、ある種おもしろいものを見たとも言えそうですが、続きはもう結構という感じです。

マノンレスコーで忘れがたいのは、若くして世を去ったジョゼッペ・シノーポリがこのオペラに鮮烈な解釈で新たな命を吹き込んだ快演で、個人的にいまだにこれを凌ぐものは出ていないと思います。

CDではマノンをミレッラ・フレーニ、映像ではキリ・テ・カナワ、デグリューはいずれもプラシド・ドミンゴという最高の顔ぶれでしたが、いま聴いても圧巻で、やはり彼らは大したものだとしみじみ思います。
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価値を買う

価格というものが高いとか安いという判断は二つあるように思います。
ひとつはこれといった基準もないまま絶対額を差す場合。もうひとつは価格を分母、対価を分子においてなされるところの、いわゆるコストパフォーマンスの原理です。

何事においても、うわべの数字ばかりに目を奪われがちなのは凡人の悲しき習性ですが、数字の安さに誘惑されているだけで、本当に得をするなんてことは滅多にありません。
自分なりに正しく判断したつもりでも、結果的にそれなりのものでしかなかったという事が少なくないのも現実で、そうそう都合のいい話が転がっているわけがないのです。

とくに今は昔のように骨董屋で掘り出し物が見つかるようなのんびりしたご時世でもありません。
これでもかとばかりに無数のビジネスが出現し、ものの価値は隅々まで検証され、整理され尽くして価格へと反映されています。さらにネット社会が追い打ちをかけ、情報は溢れ、自分だけ甘い話に与ることなんてそうはないのが当たり前です。

だから、安いものには安いだけの理由があると考えるのが順当でしょう。
物品、食べ物、技術、サービス、安全等いずれに於いても、安いものはやっぱりそれだけのものしかないわけで、これは至って当たり前のことでなんですね。

自分に潤沢な経済力がないものだから、差し当たり、できるだけ安く済ませたいという誘惑があり、知らず知らずのうちにそちらに流れている自分が確かにいるようです。それを尤もらしく理由付けしたり正当化しているのは、要は身勝手な辻褄あわせに過ぎません。
他人のことなら「質は二の次で、安さを優先」などと批判的な目で見ているくせに、自分もよく考えてみたら同様だったりするわけで、これには思わず赤面してしまいます。

自分のことは、どうしてもそれなりの事情や理由に直面しているため、無意識のうちに都合のいい判断をしてしまいますが、冷静に考えたら、これは自分自身に対する詭弁だと思います。

電気製品などを買うなら単純に安さを求めてもいいかもしれませんが、技術や質、付加価値など、事としだいによっては、価格はちゃんとそれなりの裏付けがあると見るべきで、こういう局面での節約は、まったく節約にならないことをとりわけ痛感するこの頃です。

数字に惑わされることなく、冒頭のコストパフォーマンスをいかに正しく見極めることができるか、これが一番大切だと思います。

マロニエ君も自分を振り返ると、それなりに得をしたと思い込んでいたものが、実はそれほどでもなかったと後で気がついたことは一度や二度ではありません。

早い話が、大して必要もないものをバーゲンだからといってむやみに買ったりするのは無駄だと思いますし、あまり大事にもしませんが、本当に欲しいものを定価で買うと、静かな喜びと愛着がわくものです。
長い目で見るとこっちのほうがよほど価値があると思うのです。

今後も同じような失敗をしないという保証はまったくありませんが、できるだけ少なくするよう肝に銘じておきたいところです。
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自虐マスコミ

かねてより思うことですが、世の中を必要以上に不幸にしている、あるいは間違った方向に誘導している要因のひとつに、マスコミの不可思議な体質もかなり責任があるのでは?と感じます。

なにもここで、集団的自衛権や沖縄の基地問題に触れようとは思いませんが、どうして日本のマスコミは日本人の心をあえてざわつかせるようなネガティブなことばかり言い立てるのだろうと、この点はまったく理解に苦しむことがあまりに多すぎるよう思います。

そもそもマスコミの体質の底流にあるものは、体制批判であり、権力に対する抵抗精神かもしれませんが、それがいささか不健全というか、そのことと国民の利益を考えることは本来矛盾するものではない筈だと思います。

外交や防衛といったハードなものでなくても、たとえばニュースで連休やお盆など長期休暇に流れる内容は、ここ数年というもの「倹約ネタ」がずっと主役の座を占めていて、休暇の過ごし方、楽しみ方ひとつが、いかに節約ムードであるかということばかり、くどいばかりに採り上げます。

「元気をもらう」などという歯の浮くような言葉は巷にあふれていますが、本当の意味で元気の出るようなニュースなんてまるでなく、どこそこの温泉は通常価格に対して何人限定で○○円とか、あちこちで開催される「無料体験」「無料イベント」にいかに多くの人が列を作るかというようなことを、これでもかとばかりに言い立てます。

政府の急務は景気回復というようなことを口ではいいながら、市井の話題となるとタダもしくは異常とも思える破格値の話題などにカメラを向け、早い話が世の中がケチになったという話ばかりを追いかけ回し、これを視聴者へ無制限に垂れ流します。

「無料の工場見学が人気で、連日何千人が訪れ、帰りにはお土産までもらえる」というようなことばかり聞かされると、まともな出費をすることさえ馬鹿らしいような気分になって、いつまでたっても精神的デフレから脱却できるはずはないでしょう。
これじゃあ世の中が内向きで倹約指向になるのも当然です。

お金を使うことが単純にエライだなんてむろん思いません。しかし、人は過度の倹約節約にとらわれると、だんだん嫌な人間になっていくものです。ほどよい無駄は人を柔和にするものなのに、それをあれもこれもカットしていると、いつしか心がすさんでしまいます。

あるていど購買意欲が湧いて、消費行動へと繋がっていかないことには景気もGDPもあったものではないでしょうし、それは人間性の保持のためにも必要なことだと思います。

しかるに、次から次へと浅ましいことを考えついて、そのための情報を手繰りよせることがまるで賢いことであるかのような、そんな価値観と思考回路を作った責任の一端は、間違いなくマスコミの報道にもあると思うのです。

日本人は自虐趣味などとしばしば言われますが、それを生み育てたのもマスコミではないかと思います。どんなに頑張っても良かったとは言わず問題点ばかり探し出し、ダメの解説ばかり聞かされているようで、これじゃあいじけてしまうのも無理はありません。

少しは世の中のことを明るく捉えて、元気を取り戻させてほしいものです。
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泡発生器

昨今の100円ショップの商品の充実ぶりは目を見張るばかりで、ここで新製品に出会うことも珍しくはありません。先日、シャンプーなどのボトルが並んでいる中に、「泡の出る容器」というのがありました。

そういえば、我が家にはないけれど、お店などの洗面所などで使った覚えのある、ノズルを押すとシュワシュワときめの細かい泡が出てくる手洗い用の洗剤があり、これは市販もされていますから、すでにご自宅などでお使いの方も多くいらっしゃることでしょう。

あれはたぶんノズルの構造に秘密があるのだろうと思っていたのですが、まさにそういうものが100円ショップで売られているということは、やはり泡の正体は洗剤そのものではなく、洗剤が通るノズル部分であるということを直感しました。

おもしろそうなので、さっそくこれを買ってみたのですが、説明書きによると、使う洗剤の指定や制限はとくになく、何かしらの洗剤を容器に入れて、それを「10倍に薄める」と指示されていました。
ここでなるほどと思ったことは、使用時に瞬時に細かい泡を発生させるには、濃い洗剤だと却ってその妨げになるようで、これは例えばシャボン玉遊びをする際にも、使う石けん水の濃度というか、薄め具合が重要なポイントになることを思い出しました。

さて、手を洗うのに中性洗剤というわけにもいかないので、とりあえずボディソープを入れて、それを指示通りに(厳格にではありませんが)約10倍になるまで水を加えました。よく振り混ぜた後、いよいよ問題のノズルを数回押してみると、果たしてかわいらしい雲のような泡がモコモコとでてくるのに思わず感心しました。同時に、こんなカラクリによって泡の手洗い洗剤などが市販されていることにも、なーんだ!という気分でもありました。

泡というのはおもしろいもので、最近は下火かもしれませんが、ひところブームだった美白用洗顔石鹸などがしきりにCMなどで宣伝されていましたが、それによれば、石鹸そのものの成分もさることながら、専用のネットに石鹸を入れて両手で数回こすると、まるでメレンゲのような泡ができて、それをお肌にどうこうするというものでした。

マロニエ君宅でも、一度だけ(1個だけ)これを購入して家人が使ってみたことがありましたが、なんだか顔がヒリヒリするというので、それっきりになってしまったのですが、その価格は決して安くはないものでした。そのふわふわの泡を作る専用ネットというのが箱に入っていましたが、どう見てもただのナイロン網を何枚かに折り重ねて袋状にしただけのものにしか見えず、はああ?といった印象でした。

すぐに変なことをしてみたくなるマロニエ君としては、どうも、その特別な石鹸の性質だけがあのなめらかな泡を作り出すとは思えず、その網袋に普通の石鹸を入れてみたのですが、果たしてまったく同じような濃密なクリームのような泡がいとも簡単にできました。
では、その網袋が特別なものかと云えば、これもさにあらず。色が白で、石鹸サイズに縫われているという以外、とくにどうということもなく、極端にいえば、台所の排水口用ネットと大差ないもののようにも思えました。
そこで、これに普通の石鹸を入れて、適当に折り畳んで両手でこすってみると、いとも簡単に洗顔石鹸専用の網袋の場合と同等の、きめの細かいふわふわした泡がいくらでもできることが判明しました。

要するに、どんな石鹸や洗剤からでも、あの手の泡は作り出せるというわけです。
だからどうした…ということもないのですが、意外になんでもないことってあるんだなあという、まことにくだらない確認をしたという話でした。
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リピート

過日クラシック倶楽部で、ゲルハルト・オピッツとN響のメンバーによるシューベルトの室内楽演奏会をやっていました。

時間の関係からアルペジョーネ・ソナタ(第一楽章)と、ピアノ五重奏「ます」(第三楽章抜き)が採り上げられ、いずれも引きこまれるような魅力はないけれども、安心して聴くことのできる大人のプロの演奏である点が好ましく思いました。
本来ならテレビ収録されるぐらいの演奏家にとって、「安心して聴かせる」ことは当たり前とも思うのですが、実際には…。

とくに解釈やアーティキュレーションで奇を衒わず、まずは真っ当に曲が流れる演奏であるだけでホッとさせられ、それが実行できているだけでもポイントが上がります。

さて、アルペジョーネ・ソナタは今回はヴィオラとピアノでの演奏で、素晴らしい作品であることは疑いないところですが、第一楽章だけでもかなり長い曲で、提示部の終わりまで行くと、リピートでパッとまた振り出しに戻ってしまうのは正直云ってちょっとうんざりしてしまいます。「ます」も同様で、要するにリピートリピートで疲れてくる。
曲そのものは心底すばらしいと思っているのに、リピートはうんざり…というのはなぜだろうと思うことが少なくありません。

アルペジョーネはマロニエ君も下手ながら友人とやったことがありますが、練習は別にして、合わせるときはリピートなしでやっていました。弾いても聴いても、提示部の終わりまでやっと来たのに、また始めからというのは、体育の先生から「もう一週してこーい!」といわれているようです。

リピートのうんざりで他にも思い出すのは、たとえばベートーヴェンのクロイツェルの第一楽章などがマロニエ君の感性としてはこれに該当します。この場合、曲想の点からも提示部が進めば進むだけ激しい情念が増幅してきて、もはや前進あるのみという気分であるのに、くるりとまた第一主題冒頭へ引き返すのは、うんざりというより「あらら…」と気が抜けてしまうようで、この曲の切迫感というかテンションがガクンと落ちてしまう気がします。

ショパンのソナタでも3番の第一楽章はまだいいとして、2番の第一楽章提示部のリピートはいただけません。ここでも後戻りできないまでに疾走してきているのに、それを断ち切って、またはじめに戻るのはどうしても興ざめします。
ピアニストの中には、なんと序奏部分にまで引き返す人がいて、やはりこれもうんざりしてしまいます。なので、たまにこれをしないで一気に展開部へ突入していく人がいると、もうそれだけでよしよし!という気になってしまいます。

ところが同じベートーヴェンのヴァイオリンソナタでもスプリングになると、こちらはリピートがあったほうが収まりがいいし、ワルトシュタインや最後のソナタなどでは、逆になくてはならないものだと思います。
シューベルトも最後の3つのソナタなども、長大ですがこちらは必要な気がしますから、リピートとはなんとも不思議なものです。

そういえば思い出しましたが、ショパンの第2ソナタの第一楽章のリピートは、自筆譜にある筆跡を専門家が見ると、その書き方が微妙で、リピートではない可能性もあるのだそうで、だとするとそもそもショパンの意図したものではないということにもなるようです。

グールドのゴルトベルクなども、各変奏ごとにリピートしたりしなかったりということをやっているようで、ここは演奏者が随時判断ということが最良なのかもしれません。

要は先に行きたい気分の強いものと、そうではないものの違いなのかもしれず、音楽は聴く人の気持ちの自然の運びにあまり逆らわないことも大切ではないかと思います。
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検索の極意

ネット検索はいまや日常的に誰でもやっていることですが、どうもマロニエ君は自分でこれが得意ではないという思いが以前からありました。

理由は簡単、自分が探せなかったものを他者が探してくるということが多々あるからです。

その中の一人、ピアノ関連の知り合いの方で、ネットの情報を教えていただくことがとても多いことにいつもながら感心させられていました。

同じようなキーワードを打ち込んでいるつもりでも、その方が教えてくれる情報は自力では到達できないものだったことが、これまでにも何度もありました。
そんな情報を教えてもらう有り難さもさることながら、どうしたらそんなに探せるのか不思議なくらいで、ついには自分の検索の仕方が根本的に間違っているのでは…とまで思い始めました。

そんなマロニエ君は、一度教えてもらったものでも、再び見ようとしたときにはあっというまにわからなくなるので、ちょっとしたことでも「お気に入り」に入れておかなくては危険なのです。お陰でお気に入りはいつも大入満員状態で、ひどいときにはそのお気に入りの中からひとつを探し出すのにさえ苦労する始末で、我ながら情けないといったらありません。

非常に珍しいピアノやピアノ店の情報を教えていただき、見てみるとなるほどというピアノや、派手ではないけれども興味深いお店があることがわかり、これまでにも自分なりに全国のピアノ店のHPは相当見てきたつもりですが、まだまだ掘り起こせばディープなお店はあるのだと認識をあらたにしているところです。

電話で話をしている折でしたが、どうやって検索すればあんな珍しい情報が出てくるのか、いわばその秘訣を聞いてみました。すると、その方はべつになにも特別なことはしていないという返事がかえってくるばかりで、はじめは肩すかしをくらったようでした。
ところがその先にアッと驚く検索の極意がさりげなく語られたのでした。

その方曰く、自分が検索する場合は、とにかく10ページぐらいは見てみるようにしていると言われました。「えっ!? 10ページも??」

多くの方が経験がおありでしょうが、なんらかのワードで検索すると、その結果はアクセス数の多いなどの順(かどうか知りませんが)にズラリと表示されます。
しかし、ほとんどの場合は1〜2ページにこそ欲しい結果が集中し、それ以降はだんだん質が落ちたり同じものが何度も繰り返し出てきたりで、大半が無用なものばかりになってしまいます。

考えてみると3ページ以降を見たことなんてほとんどなく、その方のような丹念さが自分には欠けていたことを痛感しました。

本当に貴重な情報とは、そんな無用なものの中に埋もれるようにひっそりと存在しているものだということで、まるで森の中でトリュフでも探すようなもんだと思いました。
要するに、何事においても粘り強さが必要だということなのでしょうが、悲しいかなそこがマロニエ君の一番苦手なところなのです。
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天才のゆくえ

いまからおよそ30年近く前、キーシンの登場をきっかけとして、いわゆる「神童ブーム」というものが湧き起こったように記憶しています。

パッと思い出す代表的な名前だけでも、エフゲーニ・キーシン(P)、コンスタンツィン・リフシッツ(P)、セルジオ・ダニエル・ティエンポ(P)、ヴァディム・レーピン(Vl)、マキシム・ヴェンゲーロフ(Vl)、五嶋みどり(Vl)、サラ・チャン(Vl)、マット・ハイモヴィッツ(Vc)などで、まだまだ忘れている名前がたくさんあると思います。

こうした神童ブームは、声楽の世界にも及んで、アレッド・ジョーンズなど天才と呼ばれる少年が幾人か含まれていましたが、その中で破格の才能を示していたのがアメリカのベジュン・メータでした。

彼を知ったのはデビューCDを購入してみたことで、そこにはヘンデルやブラームスの歌曲が収められており、記憶違いでなければ収録時の年齢はたしか14、5歳ぐらいだったと思います。

天才少年少女達は、とてもそんなティーンエイジャーとは信じられないような老成した音楽性とテクニックで世間の注目を集めたものでした。そんな中でベジュン・メータの何が特別だったかというと、すでにこの歳にして人間の憂いと悲しみ、そして人の心の中にわだかまる深いものを見事に演奏に投影していた点だと思います。

とくに歌には歌詞があり、歌詞は器楽曲に較べると楽曲の意味するものに、言葉という具体性が附随しています。そこに多く語られているものは、愛と悲しみ、歓喜と絶望であり、それはつまるところ人間の抗うことのできない宿命のようなものを土台としています。

ベジュン・メータは歌唱力という点においても格別でしたが、それに加えて彼の天才を最も表しているのは、すさまじいばかりの表現力で、そこには他の追従を許さぬ圧倒的なものがありました。繊細かつ大胆、聴く者の心の中に手を突っ込まれて縦横無尽に引き回されるようでした。

ところがマロニエ君がベジュンを聴いたのはこの十代の頃のCD一枚きりで、その後は名前も耳にしなくなったので、とても気になっていました。

ロシアに、アリーナ・コルシュノヴァといったか…、闇夜に一条の蝋燭の火が灯るような暗い雰囲気を持ったピアノの天才少女がいて、彼女のデビューCDを聴いたときも、その鳥肌の立つような世界に圧倒されたものでした。

ショパンの嬰ハ短調のワルツなどは、マロニエ君はこれ以上の憂いと美しさに満ちた演奏を聴いたことはなく、いまだにこれを凌ぐ演奏に出会ったことはありません。
このとき彼女はたしか十代前半で、この先どんなふうに歳を重ねていくのやら、無事に大人になることができるのか想像ができず、まさに天才ならではの心の闇と悲劇性を一身に背負ったような少女でした。

案の定、その後、彼女の名前やCDを目にすることは一度としてありませんから、きっと何かが彼女の身の上に起こったのではないかと今でも思っています。

そしてベジュン・メータの場合も、ぱったりとその名を聞くことがなくなり、同様の危惧を感じていました。
ところが少し前にBSで放送されたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でタイトルの写真を見たとたんアッと思いました。主役のオルフェオはすっかり大人になったベジュンその人で、昔とほとんどかわらぬカウンター・テナーとなって見事な歌唱を聴かせました。

十代の頃の美質はまったく損なわれることなく、その存在感は何倍にもなったようで、まさに圧倒的。この古典の名作オペラにもかかわらず、まるで彼一人が際立ち、他は添え物のようでした。
彼が歌うと、そこには得体の知れないエネルギーがあふれ、あたりには一陣の風が巻き上がるようでした。
まさに感銘の再会で、ひさびさに深い満足に浸ることができました。
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ハズレの機械

マロニエ君は体質的な事情もあって、ピアノに勝るとも劣らないほど湿度が苦手です。

当然ながら梅雨は人一倍苦手で、慣れるということがありません。今年は全国的にも大雨の被害が続出、それにともなって猛烈な湿度に見舞われました。この梅雨という名の長いトンネルをくぐり抜けるだけでも毎年の大仕事となっています。

ようやく梅雨明け宣言が出されたと思ったら、今度は入れ替わりにサウナのような猛暑となり、厳しい自然の試練に翻弄されるのは大変です。

そんなマロニエ君は、かなり重度のエアコン依存症であることはずいぶん前に書きましたが、もはや快適器具という枠をはるか飛び越えて、気持ちの上では生命維持装置のような趣です。

そんなに大切なエアコンですが、自室のエアコンは使い始めて10年ほどになり、信頼性バツグンの筈の日本の有名メーカーの製品であるのに、これが完全にハズレの機械でした。初めの2〜3年こそ問題なく使ったものの、その後は故障が頻発。水漏れしたり、冷房能力が低下したりの繰り返しで、そのつど修理依頼となり、メーカーの修理担当者と顔なじみになるほどでした。

修理代も馬鹿にならず、一度などはコンデンサーだかなんだか名前は忘れましたが、主要な部分の全交換などという事態にまで発展するなど、このエアコンに関する限り、高い信頼性を誇る日本製品とはほど遠いもので、いつも不安でだましだまし使うという状況が続いていました。

そしてついに恐れていたことが、最も困るタイミングで起こりました。
他の部屋の温度に較べて、いやに自室だけどろんとした効き方をしているなあと思ったら、その翌日には明らかに冷房力が低下していることが判明。
しかしこの日は事情があってどうしても動きが取れず、やむを得ずそのまま我慢しましたが、次の日にはさらに状況は悪化して、廊下との温度差もごく僅かとなりました。

とっさに不安を覚えたのは、梅雨明け早々の連日34〜5℃という猛暑の中、エアコン業者はどこも終日出払っているだろうということ。
以前我が家全体のエアコン工事をしてくれた業者に連絡しますが、予想通り、この猛暑のせいで電話に出る暇もないほど忙しいようです。どうにか電話は繋ったものの、案の定予約はびっしり、まさに東奔西走の毎日で、お店などは閉店後の作業開始となるのだそうで、寝る暇もない極限的な状態が続いている由で、今日明日はどうにもならないようです。

仕方なく、メーカーに電話をして出張修理の予約だけはとりつけたものの、あぁ、また場当たり的な対処をされたところで先が見えているし、それで今年の夏を安定的に乗りきれるかとなると、甚だ不安です。もう10年もこのエアコンを我慢して使ったのだから、もういやだと思い、この際買い換えることを決断しました。

善は急げとばかりに、あちこち電気店などに電話しましたが、工事に来てくれるのは早くても5日から一週間かかるらしく、それではとてもこっちの身体がもちません。
これは大変なことになったと、こんなときこそネットを駆使して業者を検索しまくり、電話をしまくりました。どこも似たような状況でしたが、一件だけ「明日の午後なら空きがありますから行けます」という真っ暗闇に一条の光を見るような声を聞きました。

ところが「機械はお客さんのほうで準備されているんですよね」と普通にいわれ、「えっ?いえいえ、してませんが」というと、なんでも最近はネット通販で機械を安く購入し、取り付けだけを依頼してくる方がほとんどだというのには驚きました。
機械もそちらでお願いしたいと云うと、それはすんなり手配してくれることになりました。
その翌日、マロニエ君の自室の壁に10年間へばりついていた薄汚い室内機はついに役を解かれて下に降ろされ、代わりに真っ白な新しいエアコンが取りつけられました。寸法は僅かに小さくなっていますが、冷房能力はひとまわり強力だそうで、そのピカピカした感じがなんとも頼もしげです。

それにしても、本体価格、古い機械の取り外し、新規取り付け、外した機械の処分やリサイクル費用などを含めても、望外の安さであったことは驚きでした。こんな値段なら、あんなに修理を重ねてきたこの数年間はなんだったのだろうと、その間の不愉快と手間暇と出費を考えるとドッと疲れがこみ上げますが、ともかく今は新しいエアコンがサワサワと冷風を送ってくれるので救われます。
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趣味というもの

「趣味」というものの正しい定義や概念は未だによくわかりません。

少なくとも実用とは一線を画したものであることは間違いなく、余人から見れば無駄な、非生産的な、精神や情熱をむやみに濫費するもので、場合によっては愚かな行為であることだとさえ見なされかねません。

岩波の国語辞典(広辞苑が階下にあるので)によれば、趣味は『専門としてでなく、楽しみとして愛好する事柄』とあります。もちろんそれが高じて職業になる人も中にはおられますが、それはあくまで結果であり、そもそもの成立事情としては衣食住から外れた「楽しみ」が大前提です。

趣味は、実利とは無縁の世界の内奥に分け入って、楽しみの回廊をさまざまに歩き回ることにあるともいえるでしょう。いわば純化された情緒が主役となる世界で、こればかりは定年後時間ができたから何か適当な趣味を持とうか…というほど、趣味の扉を開くことは簡単なものではありません。
多くの場合、それなりの知識、経験、感性、努力、そして尋常ならざるエネルギーが必要で、しかもそれは趣味である限り一文の得にもなりません。

趣味とは、正当性や客観的価値と一切無関係に存在し、無駄を山積みにし、せっせとそれに向かって奉仕することそれ事態が喜びであるというところに、真の価値があるのだと思います。

いうまでもなく趣味はお金で安易に手に入れることはできず、手間暇のかかるもの、いや、手間暇そのものを楽しむものだともいえるでしょう。そこに一朝一夕には到達できない深さがあるわけで、だから価値があるのかもしれません。一見無駄だらけに見える趣味ですが、物事の真髄に触れるという点では、趣味を通じて学ぶことの多さという点でもきわめて偉大な教師にもなりうると思います。

趣味をお金で買うことはできないけれども、趣味のためにお金を使うことは必要なことだというのがマロニエ君の持論です。金額は人によって違うでしょうが、その人にとってかなりきわどい出費を趣味に投じることができるかどうか…ここがポイントのような気がします。

実はマロニエ君の知り合いで、音楽趣味が高じて近年ヴァイオリンを始められた方がおられます。それなりの良い楽器を買われたということは聞いていましたが、ごく短期間のうちにグレードアップして、なんとクレモナの新作ヴァイオリンへ買い換えられたと聞いて驚きました。

しかも、その方は持論として「分不相応な楽器を持つこと」への疑問をお持ちの方だったのですから驚きもなおさらでした。その「分不相応な楽器不要論者」の方が、自説をかなぐり捨てての購入だったわけで、マロニエ君はそこがいかにも趣味人としておもしろいじゃないかと思いました。

たしかに、まともに理屈で考えれば初心者からせいぜい中級レベルの腕しかない者が、名器云々というのはナンセンスでしょう。しかし、趣味人が冷静な理屈だけで心がおさまるかといえば、そんなことはあるはずがないのです。だって趣味なのですから!
技量と道具のバランスを計るべきは、むしろプロのほうかもしれません。

したがって、趣味が真っ当な正論の範囲にちんまり収まっている限り、その人の趣味は趣味であるかどうかも疑わしいとマロニエ君は思うのです。
出費や犠牲を厭わず、趣味にへの熾烈な欲求があることも趣味人の特徴のひとつで、実際にそれだけの気構えがあるかどうかという点でも、趣味に対する覚悟のほどが窺われます。

マロニエ君の知人に鉄道マニアがいて、彼は全国のすべての鉄道を乗るためだけに、休みの大半を使って年中旅をしていました。しかも上下線すべてというのですから、まったくもって恐れ入るところ。

ただ「好き」というだけでは、なかなかできることではない次元の話です。
趣味はある種の壮絶と孤独が混ざり込んできたとき、真の輝きを放つものかもしれません。
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二つの自衛権

時事問題の放言番組である『たかじんのそこまで言って委員会』では、折あるごとに旬の話題である集団的自衛権の行使がテーマとして取り上げられます。

ここで政治問題に言及するつもりはありませんが、レギュラーコメンテイターの竹田恒泰氏がおもしろいことを言いました。
彼は議論も煮詰まったころにお笑いでオチをつけるというのがお得意のスタイルのようです。
正確ではありませんが「最近ですねぇ、これぞ集団的自衛権の典型というべき事例が、なんと国内で起こったんですよ」というような前置きをつけて、話をはじめました。

マロニエ君も覚えがありますが、どこだったか野生の熊が出没して人を襲おうとしたところ、連れていた犬が果敢にも熊に挑みかかり、自分も軽傷を負いながら見事に熊を退散させたというニュースがありました。
竹田氏は、その犬の取った行動こそ集団的自衛権の行使であり、これを「集団的自衛犬」と韻を踏んで一同を笑いに引き込みました。
上手いことを言うもんだ感心ししました。

ほぼ同じ頃、NHKのBSで1984年制作の『ゴジラ』が放映されて、さらに同時期、伊福部昭のゴジラの音楽を採り上げた番組もやっていたので、ちょっと録画しておこうという気になり、それらを見てみました。

なんと、すでに30年も前の映画であることに愕然としましたが、たしか有楽町マリオンが竣工したばかりで、それをいきなり壊してしまうゴジラの暴れっぷりと、マリオンの鏡のような外壁にゴジラが映るところが当時話題だったことを思い出しました。

ゴジラ映画では毎度のことですが、この未曾有の事態に時の内閣や科学者が総出で知恵を絞り、いわば一丸となって日本を救おうとする人々の姿が描かれます。
そこには左傾も市民運動もありません。
当然のように自衛隊には出動命令が下り、陸から空からゴジラめがけて雨あられのごとく発砲しまくりですが、悲しいかなゴジラの圧倒的な強靱さにはまるで歯が立ちません。

昔はちっとも思いませんでしたが、近ごろのように集団的自衛権が取り沙汰され、自衛隊の軍事活動に対する憲法上のくびきがあると、これほど抵抗も躊躇もなく自衛隊が堂々と表に出てきて、人々を守るために果敢に行動し、あらゆる兵器を使用する姿が、なんだか奇異なものに写ってしまいます。

そんなことを思いながら画面を見ていると、俄に納得できたのです。
「ああ、これが個別的自衛権の行使なのか!」…と。
そう納得すると、急に理由のよくわからない可笑しさが込み上げてきて仕方がありませんでした。


さて、なんとはなしに期待していた伊福部昭のあの有名な音楽は、残念なことにこの映画で聴くことはできませんでした。
あの、ジャッジャッジャッジャッというストラヴィンスキー風の原始的なリズムの上に、ラヴェルのピアノ協奏曲の第三楽章を思わせる無機質な音型が重なって、我々のゴジラのイメージの中では視聴一体のものになっています。
恐怖と楽しさがないまぜになった、まるでゴジラの凹凸のある皮膚そのものみたいな音楽。これのないゴジラというのは、どうにも収まりが悪いような気がしてしまいました。
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お詫びのプロ

最近テレビを視ていて気になること…。

例の号泣県議や、逮捕された芸能人など、不祥事があるたびに「お詫びの仕方」についてあれこれの批判が聞こえてきます。
しかもそれが、一般的な礼節としてのお詫びとはどこか趣の異なるところに奇妙さを感じます。

近ごろはテレビ画面に露出するようなお詫びには一種のマニュアルのようなものがあるようで、その型に添ったものでないと批判の対象になるという気配を感じるのです。

薬物で逮捕された芸能人が仮釈放で出てきたときも、とりあえず逃げ隠れせず、スーツ姿で警察の正面玄関をまっすぐに出てきて、居並ぶマスコミのカメラに向かって深くお辞儀をし、その後横向きに立ち去っていきました。

すると後から「お詫びの言葉がなかった」「ファンへの謝罪の言葉があるべき」というような批判が飛び交います。しかしマロニエ君は個人的に、別にこのときの彼の態度がとくに問題とは思いませんでした。有名人ではあっても公人ではないし、犯した罪は専ら個人的なもので、だからこんなものだろうと思うわけです。
問題なのは彼の犯罪行為であって、いまさらわかりきったようなお詫びの言葉を並べてみたところで、それでどうとも思いません。神妙な面持ちで姿をあらわし、深く頭を下げたというのは、これはこれなりのお詫びと反省の態度だったと思います。
すでに社会的な制裁は受けているし、今後は法に基づいた裁判があり、それで償いを科せられるわけで、それでじゅうぶんではないかと思います。

ところが、最近は何かというと「お詫びのプロ」という人物が出てくるのは理解に苦しみます。
まるで、お詫びというものが専門分野であるかのようで、その指南役というような扱われ方でテレビに堂々と登場し、訳知り顔であれこれ発言するのは強い違和感を感じます。

歌舞伎役者が暴力事件を起こしたときも、企業や公的組織の不祥事に際しても、大抵この種のプロという人の指南が入っているようで、服装からお詫びの口上、お辞儀をする角度から、何十秒それを維持するなど、見ている側は、どれも決められた形ばかりを追っているようにしか見えません。
心底お詫びをしているというよりも、少しでも世間の心証を害さぬよう、マイナスイメージを最小限に食い止めるべく最良とされる演技をしているようです。

少なくともそれをやっている人の一連の所作と心底が一致したもののようには、マロニエ君の目には見えません。

それでも日本は建前が大切なので、表向きそういうお詫びと反省の態度をとりましたということが大切なのかもしれませんが、いかにも打ち合わせと練習によるシナリオ通りの演技をみせられているだけといった印象で、これで本当に納得する人がいるのかと思います。

号泣会見でいまや世界的にも話題になった県議の場合でも、この「お詫びのプロ」という人が番組に出てきて、プロ(お詫びの)の目からみて「あれは0点でした」などと、いちいち専門家目線でコメントをするのは著しい違和感を感じてなりません。誰の目にも著しく常識を欠いた振る舞いであったことは、わざわざ「プロ」の意見を聞かずとも明白で、そこにあえてコメントを取りにいくテレビ局の見識さえ疑います。

お詫びというものは、まさに心を尽くして許しを請うのが本質であって、それをプロの指南のもと型通りに進めようというのは、むしろ詫びるべき相手への精神的非礼を感じてしまいます。
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衝撃映像

すでに大勢の方がご覧になったと思いますが、兵庫県議会議員の野々村竜太郎氏が、政務活動費から不明朗な支出があることを指摘され、マスコミやテレビカメラを前に、47歳といういわば最も脂ののった男盛りの男性が、ママを探してさまよう幼児のように盛大に号泣したのはちょっとした見ものでした。

マロニエ君はこれを見て唖然としたのはもちろん、すっかりその様子にハマってしまい、何度でも見たくなる爆笑映像が天から降ってきたようでした。

2013年度の「政務活動費」として、なんと195回、約300万円にのぼる日帰り出張の交通費が税金から支出され、提出が義務づけられている領収書やメモは破棄したとのこと。
しかも、その大半が片道100kmほどの温泉への交通費だった由で、その凄まじい頻度は俄には信じられません。特別の予定がなければ、ほぼ毎日のように温泉に行っていたことになり、そもそも県議会議員とは、それほどヒマなのかとも思いましたが、とにかくそのあまりのお馬鹿ぶりには開いた口がふさがりませんでした。

温泉とはそんなにいいものなのか、あるいは温泉以外の行き先があったのか、真相はともかく、いずれにしろまことにチマチマした幼稚な仕事放棄ぶりでもあるし、来る日も来る日もこんなことに時間とエネルギーを注ぎ込むという感覚も尋常ではありませんね。

むろん政務活動費なるものを不正利用したとなれば怪しからぬ事ではあるけれども、ともかくその釈明会見があれだというのは、ただもうおかしいばかりで、腹も立ちませんでした。
というか、お陰で我が家もその話でもちきりで、ずいぶん笑わせてもらいました。

しかも4回の落選の後、5回目にしてようやく当選を果たしたのだそうで、「やっと議員になれたのにぃぃ…」という発言も、さらに幼児的で笑いに拍車がかかります。

いっぽうで、違和感を覚えたのはテレビの番組で、これを「おもしろかった」といったのはマロニエ君が見た限りではタレント風の女性一人だけで、あとはスタジオはもちろん、街の声も含めて、もっぱら不正支出の問題、義務づけられている領収書やメモがないことばかりを難しい顔をして云うだけで、野々村議員のこの常軌を逸した「特別の振る舞い」についてはあまり触れません。

せいぜい触れても、「恥ずかしいですね」「見ているこちらのほうが泣きたくなりますよ」などという真面目くさった言い方をするだけで、どうしてこんなにおもしろいものを素直におもしろいと云わないのかと不思議でなりません。

手当たり次第に道徳家よろしく尤もらしいことを云っておけば間違いないという体質が皮膚の奥まで染み込んでいるのか、あんな映像を笑わないほうがどうかしているとマロニエ君は思うのです。

おそらく外国だったら、大爆笑の渦が湧き起こることだろうと思いますし、泣き顔のTシャツのひとつやふたつ発売されてもおかしくはないでしょう。

社会の不正を追及することは大事ですが、笑うべきときに大いに笑うというのも、健全な社会の在り方として大事なことのような気がします。
日本人というのは、いざという場面でどうしてこうネチッと暗い民族なのかと思ってしまいます。

通常なら、兵庫県議という一地方の問題でしかなかった話を、全国的にはまったく無名の人物が、たったひとり、しかも一回だけの会見で、これだけ全国を注目させたのですから、いずれにしてもタダモノではないようです。
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怪しい楽譜

マロニエ君はろくに弾けもしないのに楽譜を買うのは嫌いではありません。
楽譜は一度買えば半永久的で、できるだけたくさんあるほうが何かと役立つし、曲を知るための大事な手がかりにもなります。
従って、音楽好きにとっては、楽譜の蔵書は大げさに云うと一種の財産だと思います。

ところが、ここ最近の印象では楽譜はけっこう高額で、以前のようにおいそれと買えるようなものではなくなってきているように感じますし、知人なども皆同意見で「高い」「高すぎる」という声がすぐに返ってきます。
国内出版社のものならまだ大したことはないものの、それでもウィーン原典版などはそれなりで、さらに輸入物となると、プライスを見ただけで買う気が萎えてしまうようなものが少なくありません。

多売が期待できるものではないから、高価になるのは仕方がないという需給バランスの結果だと云われればそれまでですが、ほんらい著作権などが切れた歴史上の作曲家の楽譜であるのに、薄いペラペラの楽譜がン千円などというのがザラで、あんまりな気がします(校訂者の版権などがどうなるのかは知りませんが)。
それでも、プロの演奏家であれば楽譜はいわば商売道具であり、高くても買わざるを得ないでしょうが、アマチュアには絶対必要という理由もなく、そもそもよけいなものを買っているので、値段で断念してしまうこともあるわけです。

そんなときこそ、ネットが強い味方になりそうなものですが、実は楽譜に関してはそれほどでもなく、他の商品のように安くゲットするのは容易ではないようです。アマゾンなどは海外から直接送られるケースもありますが、楽譜はここでもやはり高価で、ヘンレ版などはそれほどお買い得のようにも思えません。

さて、このところシューベルトのヴァイオリンとピアノのための幻想曲D.934の楽譜がほしくなり、ヤマハを覗いてみましたが、お値段以前にその曲そのものがありませんでした。
べつに目的があるでもなし、ただなんとなく欲しかっただけなので注文してまで買うほどの熱意もなく、値段もわからないので、いったんお店を引き上げました。

帰宅して、ものは試しとばかりにアマゾンで検索してみると、なんと送料込み1000円強という望外に安い輸入楽譜を発見!「さすがアマゾン!!」と感激してさっそく注文しました。

10日ほども経ったころでしょうか、ポストにそれらしきものが投下されており、勇んで中を開けてみました。
取り出した瞬間の第一印象が、なんとなく普通の印刷物ではないような気配を感じました。もちろん、いちおう厚紙のカラーの表紙があって、中の製本もきれいですが、醸し出すものが、なんとなく正統なものではない気配を感じたのです。

中を見てみると、白い紙の上の、音符や五線の黒だけがピカピカと妙な光沢を帯びており、これはコピーでは?とまっ先に思いました。
まあ、値段は安いし、安く買えたのだからいいか…と半ば納得しながら、さっそくピアノに向かってポロンポロンと試し弾きしていると、数ページ進んだところで「ええっ!?」という箇所に出くわしました。

なんと、あちらこちらに手書きの指使いがたくさん書き込まれていて、その書き込みまでコピーになっていますから、やはり初めの危惧は当たっていたと思いました。

封筒の発送元をみてみると、日本のアマゾンから発送されていることがわかり、もともと、どこからやってきたものなのかはわかりません。
でも裏表紙には尤もらしくバーコードも付いているし、「Printed in the USA」とあって、いちおうは流通する商品のような気配も窺えないでもない。

とかなんとかいってみても、要はただの楽譜なのでマロニエ君個人はべつに構いませんが、これはやはり本来はまずい商品なのではという疑念も消えたわけではありません。
ふとアマゾンに問い合わせをしてみようかとも思いましたが、それで回収などという流れになったら、それはそれでイヤなので、それもしませんでした。

でも、中には「本書は、著作権があり、許可なしに複製することはできない。 この本のための資料は、大英図書館から提供されている。」というような意味のことが英語で書かれていて、しかるに指使いの書き込みがあるなど、ますますその怪しい感じが強まりました。
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ご立派!

現在の日本では、もはや老大家の部類に入るであろうピアニストの著書を読了しました。

毎度のことで恐縮ですが、やはり今回も実名をわざわざ書こうとは思いませんので悪しからず。

マロニエ君は残念ながらピアニストとしてこの人の演奏が好きだったことはこれまで一度もないけれど、以前、この人のファンクラブのお世話役をされている方から、このピアニストが出した本をいただいて、せっかくなので読んでみたことがありました。

そのときの感想は、内容云々より、その自然な語り口というか、力まないきれいな日本語の文章で綴られているところが意外で、演奏よりそちらのほうがよほど好印象として残りました。

さて、今回の本は書店では目にしていたものの、まともに買って読む気はなかったところ、たまたまアマゾンで本の検索をするついでにこの人の名を入力してみると、あっさり中古本が出てきました。
価格もずいぶん安いので、ちょっと迷いつつも遊び半分に[1-clickで買う]を押してしまったのでした。

ほどなく、ほとんど新品のような本が届きました。

さっそくページを繰ってみると、ああこの人だと覚えのある文章でした。内容には感心がないのでさほど熱心に読む気にはなれなかったものの、別の本に飽きたときに、ちょっとこちらを開くという感じで、のろのろしたペースで流し読みのようなことをしていましたが、読み進むうちに、なんだかふしぎな違和感のような…なんともつかないものを感じ始めました。

文章そのものは相変わらずおだやかで、率直さと、いかにも文化人風の雄弁さがあるけれども、なにか根底のところに自分とは相容れないものがあり、それを意識しだすと、その違和感はしだいに確実なものとなりました。やがて本も佳境に入る頃には、もうそればかりが意識されます。

それをひとことで言うのは躊躇されますが、強いて云うと、その飄々とした自然な感じの文体が、まるで巧みなカモフラージュであるように、大半がご自分の自慢話に終始していることでした。
表向きは、ただ音楽が好きで、ピアノが好きで、美しい自然を愛し、名声や贅沢には興味もなく、常に自然体、心もすっかり脱力しているといわんばかりの語り調子に見えますが、その奥に確固とした野心の働きが見え隠れすることはかなり驚きでした。

やわらかな文章を思いつくままに綴っただけですよ…というその中に、狙い通りの裏模様を出す糸をそっと織り込むように、言いたいことはサラリと臆せず遠慮なく、しかも確実に語られていくのは呆気にとられました。
そんならそれで、こっちもその気構えをもって読むと、上辺のイメージと、巧みに隠されたマグマのような野心の対比は却って面白いぐらいでした。

人は歳をとれば丸くなるもの、俗な贅肉はそぎ落とされるものと思ったら大間違いで、慎みや遠慮や謙譲の心が失われているのは、なにも現代の若者だけではないことがわかります。むしろ今どきのスタミナのない若者なんぞ、とてもこのご老人には敵わないと思います。
それで思い出したのですが、この方の表面的なイメージからは俄には信じられないような噂を、これまでにもいくつか聞いたことがあり、そのときはへええと笑って過ごしましたが、今にして深く納得してしまいました。

誤解を恐れずに言うと、ピアニスト稼業なんてものは、それぐらいの図太さ逞しさがなくてはやっていけないものかもしれないとも思いました。
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いったい何者?

先週末のこと、天神の大型書店でまたしても思いがけない光景を目の当たりにすることになり、どうもこの書店はいろいろあるようです。

ここは市内でも最も品揃えの充実した書店で、音楽や美術の関連書籍は4階にあり、音楽に関してもヤマハや島村楽器などを凌ぐ量のさまざまな書籍が揃っています。
1階の喧噪がウソのように芸術関連の書棚周辺はいつ行っても人は少なく、このときも週末でしたが、人影もまばらでほとんどマロニエ君一人のような状態がしばらく続きました。

そこへ長身でスラリとした30代ぐらいの女性が靴音をコツコツいわせながら、決然とした足取りでやってきて、なんの迷いもなくすぐ後ろの書棚の前でしきりにあれこれの本を手に取り始めました。
そこはバレエを中心とするダンス関連の本が並んでいるところです。

すると背後から、ガサゴソパラパラという尋常ならざる音がひっきりなしに伝わってきて、それが静かな売り場ではえらく耳について、なんだか嫌な気配を感じました。

ただ本を見るのに、この異様な空気感はなんなのだろうと思い、ときどきふりかえってそちらを見ると、その女性はいやにツンとした感じが全身に漲っており、なにか目的があるのか、手当たり次第に商品の本を荒っぽく手にとってはパラパラとものすごい勢いでページをめくっています。
それがずっと繰り返され、本を棚に戻す際にも、あまりの勢いで本が書棚にぶつかる音まで発しており、まあ上手く表現できませんが、ともかくけたたましい本の取扱いで、マロニエ君はとくに本を乱雑に扱うというのが体質的に嫌なので、たちまち不愉快になってしまいました。

ま、世の中にはいろんな人がいるのだからと自分を説き伏せて、気にかけないように努めてみますが、すぐ後ろではあるし一向に収まる気配がないので気になって仕方がありません。ひっきりなしにガサゴソ、パラパラ、ドン、バサッという音が背後から聞こえてきます。

さらに信じられないことが起こります。
ピーッ、シャラシャラという音がはじまり、思わず振り返ると、なんと1冊ごとにセロファンに包まれた本を、なんの躊躇もなくひき破って中の本を取り出し、同じ調子でパラパラみては、ポンと激しく棚に戻し、それが何冊か続きました。

さすがにこれはひどい!と思い、あからさまにその女性を非難の目で見てしまいました。
マロニエ君との距離は1mもないのですが、こちらの眼差しなどなんのその、その女性はまったく意に介することなくこの行為を止めようとはしません。
この行為はいくらなんでもと思ったので、言葉で注意しようかと決断を整えようとしていたまさにその瞬間、なんとそこにエプロンをした店員が通りかかり、この女性の様子に不信感をもったようでした。

すぐにセロファン入りの本を何冊も開けていることがわかり、その女性へ静かな調子で「お客様、無断でセロファンを開けられては困るんですが…」と言いましたが、まず、その女性はまったくこれを無視しました。
店員もこれはただ者ではないと直感したようで、再度「これらの本は出版社より指示がありまして、開封されると困るんです…」と言いますが、その店員と女性の顔は30cmぐらいまで近づいていますが、女性はまったく店員の顔を見ようともせず、目線も動かさず、声もまったく発しません。

唯一の変化は、手先の動きだけが完全に止まったことです。
店員はその後も一二度声をかけましたが、まったく返事はないばかりか完全な無視で、ほんのわずかでも店員のほうに顔を向けることはせず、ただならぬ意地の強さが現れているようでした。店員はこの女性との会話は諦めたのか、あたりに散らばったセロファンの屑を掻き集めながら、電話でだれかと連絡を取り始めました。

それを機に女性はまたあれこれの本を見始めましたが、店員から発見される前と違って、あきらかに直前までの勢いは失っていました。それでも「私はまったく動じていない!」という必死のポーズをとりながら、少しずつこの場を離れて行きましたが、それでもしばらくは5mぐらい先でまだ本を見ているフリをしていたので、相当に歪な負けん気があるのでしょう。

ああいう人は、本に限らず、お店の商品に損傷を与えたりということをあちこちでやっているんだろうと思います。ふう…。
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暇つぶし

日曜に出かけて買い物をしていると、携帯に懐かしい方から電話がありました。

かつてマロニエ君宅のピアノの主治医だった方ですが、ここに書いても意味のないような込み入った事情があって(むろんトラブル等があったわけではなく)、現在はその方に調律などはお願いしていない状態です。

それでも、ちょこちょこと交流は途絶えることはなかったものの、さすがにこの数ヶ月はご無沙汰状態が続いていたところでした。

電話に出るなり、「ハハハ、ちょっとヒマなので失礼かと思いましたが電話しました。」と云われました。マロニエ君としては、むろんお話ししたかったのですが、なにぶん出先で買い物の真っ最中とあってどうしようもなく、あとからまた電話する旨をお伝えしていったん電話を切りました。

帰宅後にかけ直すと、近くまで来られていて時間があったのでコーヒーでもと思ってお電話されたそうでしたが、今からあるホールの仕事に行かなくてはいけないとのことでしたので、しばらく電話でおしゃべりし、お茶はまた次回ということになりました。

特段の用があるわけでもなく(しかも現在は調律をお願いしていないのに)、気軽にこういうお電話をいただくのはマロニエ君としてはとても嬉しいことです。というか、むしろ用のないときに連絡をいただけることのほうが気持ちの上では遥かに嬉しいものです。

ピアノというのは、同業者を別にするなら、それなりの話の通じる相手というのはなかなかいないので、その点でマロニエ君は珍しい存在なのかもしれません。
…いやいや、この方はホールやコンサートの第一線でお仕事される方なので、マロニエ君ごときシロウトが「話が通じる」などと云っては申し訳ないでしょう。ここで云うのは深い意味ではなく、ただ純粋にピアノの話ができる(あるいは興味を持って聞きたがる)相手というほどの意味合いです。

ピアノの世界は非常に奥が深く、かつ専門領域なので、普通の人は興味もないし、話をしても理解できないので、潜在的に話のわかる人を渇望しているという部分はあるように感じます。その点、同業者ならそんなことはないでしょうが、そういう交流があるのかと思いきや、意外にそうでもないようです。

ピアノに限ったことではないかもしれませんが、業界人同士というのはともすればライバル関係でもあり、とりわけ技術者にはプライドや競争心もあるでしょう。各人で仕事への考え方やスタンス、価値観も違ったりすると、これはこれでいろいろとややこしい問題を孕んでいるとも云えます。

そもそもピアノ技術者というのは、他者と共同でする仕事でもなければ、仲間の連帯がものをいう世界でもなく、基本的に一匹狼的な要素が他より強い仕事なのかもしれません。
また、仕事にはお得意さんやテリトリー、販売店などの絡みもあって、かなり閉鎖的で気を遣う世界でもあるようです。ちょっとしたことが思わぬウワサや不利益に繋がるということも珍しくないでしょうし、そういう意味ではピアノの技術者さんというのは、常に心のどこかに用心深さがあることが職業病のようになっていることをときおり感じます。

その点で云うと、マロニエ君は同業者でもなく、当然どこにも利害関係のない人間で、しかもピアノは大好きとなれば、暇つぶしには最適なのかもしれません。
ついでにいうと、マロニエ君の興味の対象はクラシック音楽からピアニスト、そして下手なりに弾くこと、さらには楽器としてのピアノというものにも及んでいるので、これでも、専門家が却ってご存じないようなくだらないことを知っていることもあり、まあそれなりに話し相手にはなるのかもしれません。

そういう意味でも、もともとはこの「ぴあのピア」がプロとアマチュアの垣根を超えた「広義のピアノクラブ」になれたらと思っているのですが、気持ちばかりでなかなか手をつけられない状態が続いているのは申し訳ないことです。
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自由な気分

マロニエ君はとくに相撲ファンというものではありませんが、祖父が大変な相撲好きであったためか、なんとなく場所がはじまるとダイジェスト的な番組は見るような習慣がありました。

決して熱心というわけではなく、主だった力士の顔と名前は覚える程度で、なんとなく中入後の大まかな行方や、今場所の優勝争いは誰と誰ぐらいは掴んでいるというのが普通でした。

ところが、今場所はまったくといっていいほど大相撲からは距離をおいていて、意志的に見ないことにしています。
これは先場所が終わった直後から決めていました。理由は今場所から横綱が3人になり、そのうちの2人がマロニエ君の嫌いな力士で、ほとほとイヤになったという至極単純なものです。

横綱というのは大相撲の顔であり象徴でもあるので、そこに居並ぶ顔はイメージの上でも非常に重要だと思っています。
これがもし、筋金入りの相撲ファンなどであれば、そういう個々の好き嫌いは超越して相撲そのものをウォッチするのでしょうが、その点で普通の人間は、もともと大した関心事でもないだけに、ちょっとしたことでひょいと背を向けてしまいます。

「ファンというものは無責任で、その心は移ろいやすいもの」といいますが、ファンではないけれどまさにそれです。これが野球やサッカーならコアなファンも多く、彼らがしっかりと支えていくのかもしれませんが、大相撲の場合「なんとなく見てるだけ」という程度の人が実際には多いのではないかと思います。


ちなみに、むかしは横綱昇進には強さと成績が問われることはむろんとしても、ただ白星の数だけ積み上げればいいというわけではないグレーゾーンもあって、そこは横綱審議委員の裁量などが大きく働いたようです。しかし今の時代はそれを許さず、横審の旦那衆的な意向を中心に事が左右されることはないようです。より明確で平等な基準がもとめられ、昇進の条件もよりシステマティックになったように感じます。

いい例が、ちょっと大関が優勝でもすると、NHKはすかさず次の場所は「綱取り!綱取り!」とうるさいほど言い立てるし、今では二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績であれば、ほぼ間違いなく横綱になるようです。

星勘定による成績至上主義というべきで、白星の数がすべてのようです。
しかし、マロニエ君は個人的には相撲は勝負であると同時に娯楽であり興行であり、そこには歌舞伎などに通じる享楽性がなくてはならないと思います。茶屋があって贔屓筋があり、きれいな髷を結い、常に掃き清められる美しい土俵、華麗な行司の装束を見ただけでもそれは察せられます。むろん八百長はいただけませんが。

だから、嫌いな役者の芝居を見たくないように、今は見たくないという気分なのかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

もし大相撲を純粋のスポーツであり格闘技としてみるなら、力士は総当たり制の勝負に出るべきで、同部屋同士の対決がないというのも理を通せば納得がいきません。

相撲には神道の要素やエンターテイメントの要素も色濃く、それでいて真剣勝負でもあり、それを確たる言葉で表現するのは甚だ困難なものがあることは、日本に生まれ育った者なら自然にわかることです。

大江健三郎氏ではありませんが、あいまいな日本のあいまいさが絶妙の世界を作り出し、長きにわたって継承されてきた部分が大きいとも思いますが、そういうものは現代の価値基準に合わなくなってきているのでしょう。
現代の尺度で分類すれば、所詮はスポーツなのであり、格闘技なので、その勝敗がものを云うのは致し方のないことだと理屈では思います。

それはそうだとしても、人の気持ちばかりはどうにもなりません。
イヤなものはイヤなのであって、それを押してまで見る気にはなれないのです。
今日は今場所の中日ですが、力士の成績がどうなのかもまったく知りませんが、不思議にとても自由な気分です。
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まるでスポーツ

最近は、何かというと全曲演奏会の類が大流行のようで、音楽や演奏の妙を味わうというより、演奏家の技量と記憶力を誇示するための耐久レース的な趣になり、こういう流れは個人的にあまり歓迎していません。

誤解なきように云っておきたいのは、しっかりと準備され、長期間をかけて行われる全曲演奏は壮大な目的をもったプロジェクトであり、その意義深さは理解できるのですが、ここで云いたいのは一夜で何々の全曲とか、あるいは数日間で怒濤のごとく行われる、これでもかという不可能への挑戦状を叩きつけるような演奏会のことです。

日本人の演奏家もこの手の体力自慢的コンサートに挑戦する人が後を絶たず、まるで、それができないようでは一流演奏家ではないといわんばかりの空気が漂っているのでしょうか。本人が話題作りをしたいのか、嫌でもやらなくちゃいけないご時世なのか、主催者が苛酷な要求をしているのか、そうでもしないとお客さんが来ないのか…。
真相は知りませんが、ずいぶんおかしなことになってきたなあ…というのが率直なところです。

演奏家もこういうことで能力自慢して、売名に役立てているのでしょう。

ステージ演奏家にある種のタフネスが必要なことは当然としても、そればかりがあまりに前面に出て、コンサートが記録挑戦を観戦するイベントのような要素を帯びてしまっています。演奏する側はもちろん、聴衆にとっても、まるで忍耐と達成感など、いわゆる音楽を聴く喜びとは似て非なるものに支配されていやしないかと思われます。

クラシックの作品を弾き、コンサートという体裁をとってはいても、きわめてスポーツ的な価値観と体質を感じるし、どこか自虐的であるところにも強い違和感を感じます。
演奏者も優れた音楽家であることより、一挙に名が売れ英雄になることを目指しているのかもしれません。芸能人は紅白歌合戦に出ることで、その後の1年の仕事に大きく反映するのだそうですが、クラシックの演奏家もこういう挑戦モノを通過した人のほうが、それ以降のチケットの売れ行きが変わるのだろうか…などと勘ぐりたくもなります。

いずれにしろ、なにかが歪んでいるという印象をマロニエ君は拭えません。

マロニエ君は、よほど心地よい演奏でもない限り、通常のコンサートで2時間前後、ホールの椅子に縛り付けられるのは、率直にいってかなり疲れてしまいます。単純なはなし、2時間身じろぎもせず、身動きや咳ひとつにも配慮しながら、強い照明のステージ上の演奏に集中するということはかなりハードです。

実演というものは、建前で云われるほど良いことばかりではありません。演奏者の技量や解釈などの音楽的なことはもちろん、あまり真剣でなかったり、ツアーの中のひとつとしか考えていない、聴衆をナメている、さほど練習を積まないままステージで弾いている、義務的になっている等々で、こういうことが透けて見えるような瞬間が決して少なくなく、そういうものを感じると、たちまち興味を失い苦痛が始まります。

いったんそれを感じ始めると、コンサートほど息苦しいものはありません。終わったら会場を飛び出して外の空気に触れ、その苦行から解放されることになりますが、最近は歳のせいか疲れが本当に回復するのは翌日へ跨ぎます。
通常のコンサートでさえこんな現状が多いのにもってきて、規模ばかり広げた弾けよがしの全曲演奏などされても、どこに喜びを見出していいのやらさっぱりわかりません。

演奏家にとっても、体力や暗譜など、この挑戦をともかく無事に達成することに目標は絞られ、演奏の質は二の次になることは致し方ないでしょう。
聴く側も「全曲を聴いた」ということに、箱買いでもして得をしたようなような気分になるのかもしれませんが、洗剤ではあるまいし、マロニエ君は音楽でそれは御免被りたいところです。
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NHKの都合

ETV特集「ストラディヴァリ〜魔性の楽器 300年の物語〜」という番組が放送されました。
昨年もストラディヴァリの番組がNHKスペシャルで放送されたので、てっきり再放送かと思っていたら、前回より放送時間が30分延長され、90分の番組になっています。

ということは前回の放送が好評で、単純に未発表映像を追加したロングバージョンだろうと考えたので、どんな映像が増えたのかと期待を込めて見てみました。

ところが、それは明らかに前回の番組をベースにしたものでありながら、同じシーンを探すほうが難しいくらい、多くの別映像で占められていました。表向きは未発表映像を放出するように見せつつ、その裏では隠された意図がさりげなく働いているようで、なんだか腑に落ちないような不思議な気分になりました。

ギトリスなどストラドを愛奏するヴァイオリニストのインタビューとか、船の事故でバラバラになった「マーラー」という名のチェロが見事に復元されて演奏されていること。19世紀に行われたネックの長さや角度の改造前の楽器の紹介など、今回はじめて目にする部分が随所にあった反面、前回あったはずのいくつものシーンが、あれもこれも割愛されてしまっているのは驚きでした。
そこにはある共通した要素があり、NHKの狙いというか、もっとはっきり云うと、後々問題になりかねないと判断されるシーンを徹底的に排除した結果だと推察されるものでした。

大きくは、やはり今どきの時代を反映してか、まず、何かを否定することに繋がりかねない部分はことごとく無くなっています。
前回にはあったクレモナの工房をナビゲーターのヴァイオリニストが訪ねて、そこで作られた新作ヴァイオリンを試弾し、「とても素晴らしかったが、ストラドはより…」といった感想を述べるシーンは、やはり新作を否定するものになるのか…。

あるいは元N響のコンサートマスターの徳永氏が、ある実験に際して「(無音響室でも)ストラドを弾くのは楽しいが他の楽器は楽しくない」という発言があり、これはマロニエ君も前回見たときに、ほんの少しおや?と思いましたが、それもなくなっています。

また、前回の放送では、ニューヨークだったか、ブラインドテストでカーテンの向こうでモダンヴァイオリンとストラドをアトランダムに弾いて、音だけで聞き分けるという試みがあったものの、そこに集まったヴァイオリンの研究家や製作者などの専門家達でさえ正しい答えが出せなかったというシーンも、今度はストラドの価値をおとしめるということになるのか、これもなくなっています。

さらには、最高傑作にしてほとんど演奏されたことがないため最も保存状態の良いストラドとして有名な「メシア」は、イギリスの博物館所蔵の特別なストラドですが、前回はこのメシアの美しい姿が鮮明な映像で映し出され、その来歴についてもかなり説明がありましたが、今回はすべてが削除がされ、「メシア」という名前さえ一切出てきませんでした。
これは一部の人達の間でささやかれる贋作疑惑があることに対する配慮ではないかと思いましたし、これ以外にも失われたシーンはまだまだあります。

その贋作疑惑ということにも繋がりますが、このところのNHKはしかるべき検証もないまま佐村河内氏の番組を制作・放映して謝罪した問題や、新会長の籾井氏の発言など、あれこれと失点が続いたために、かなり神経質になっているのではないかと思いました。

「あつものに懲りてなますを吹く」といいますが、このストラディヴァリの番組は、少なくとも前回のロングバージョンなどではなく、大幅な作り替えだったと思います。新しい映像が追加されて長時間視ることができたのは嬉しいとしても、はじめのバージョンを見た者にとっては、失われたものがあまりにも多く、NHKの都合でグッと安全重視の作りになっていたという印象です。
これはこれで面白く視ることはできたものの、前回の1時間のほうが、はるかにキレがよかったように思います。
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類は友を呼ぶ

『類は友を呼ぶ』という言葉があります。

マロニエ君は、近ごろの人達のように立派な振る舞いや発言を心がけて、それを最優先するような考えがさらさらないことは折に触れて書いてきたとおりです。くだらないこと、ばかばかしいことにも並々ならぬ興味があり、これはマロニエ君の体質そのものでもあり、そういう感性なしでは生きてはいけません。

先週末、とある大きな書店でのこと。多くの人で賑わう店内で、ひときわ大きな声で何かを強烈に主張している人がいました。しかもたったひとりで、まさに意味不明なことを次から次へと間断なくまくしたてるものだから、みんな警戒しながら通り過ぎています。
しかもその声というのが、舞台俳優のように太くてボリュームがあり、さらに通る声だったので、きっとこのとき店内に居合わせた人達のほとんどが、表向きは無関心を装いながらもこの声に気をとられていたことでしょう。

ときに叫びにも近いときがあり、こちらも自分ひとりなら大いに不安になったでしょうが、人は大勢いることでもあるし、マロニエ君も形こそ立ち読みをしているものの、そっちが気になって内容はあまり目に入らず、内心はこの声ばかりに集中していました。
しばらくそれは続きましたが、5分もすると、そのうちいなくなりました。

やれやれ終わったか…と思いながら、今度こそ本の内容に意識を向けて立ち読みをしていると、いきなり肩をトントンと叩かれ、むしろこっちのほうにびっくりしました。
振り向くと、友人がそこに満面の笑みをたたえて立っており、お互いにその偶然に驚きました。

聞けば友人も、さっきのあらぬ言葉を連発する人の存在がおもしろくて、ずっとそばで聞いていたんだそうです。いなくなったので場所を移動したらマロニエ君がいたというわけです。まあお互いに馬鹿だなあと思いますが、こういう気が合うと合わないとでは、友人といってもまたく関係の質がかわるものです。

近ごろは、自分の考えとか感想を無邪気に言えないという点では、精神的に暗く不健康な時代になりました。とくに話の対象が特定の個人であったりすると、露骨なくらい消極的な反応となり、スーッと話題を変えていく人が少なくありません。いまここで何かを言ったところで、困るような言質をとられるわけでもなし、別にどうということもないのに、そうまでして安全を選ぶのかと、相手の心底が透けて見えるようで嫌な気がします。しかし、それを荒立てても詮無いことなので、こちらも内心では舌打ちしつつ抵抗はしません。まるで表面だけ笑顔の、守秘義務を負った弁護士と話しているみたいで、ぜんぜん楽しくないし、そういう人とは本当に楽しい付き合いにはなりません。

マロニエ君のまわりにはそれでも比較的昔風の無邪気な輩がわずかに残っていて、たとえば別の友人が、ずいぶん前のことですが、バスに乗車中、なんとそのバスと車が接触事故になったとのこと。べつに怪我人がでるようなことではなく、ただ街中でちょっと車体同士が擦れたぐらいのことだったようです。
むろんバスは道の真ん中で停車し、それから前方であれこれと接触後の対処がはじまり、運転手も会社との連絡やらなにやらで乗客はそのままで、ずいぶん長いこと放置されるハメになったらしいのです。普通なら「何をしているんだ!」と文句のひとつも出るところでしょう。

ところが、さすがはマロニエ君の友人だけのことはあって、なんと、こういう状況が実がめちゃくちゃに楽しかったのだそうで、そこが笑えました。あまりにも嬉しくて、そのためには何時間ここで待たされても構わないと、腹をくくっていたのだそうですが(楽しいから)、結果は期待よりも早く降ろされてしまって残念だったとか。
平日のことで、そのために仕事にも遅れが出るわけですが、友人に云わせると「そんなのは関係ない」「だって自分のせいじゃないんだもん」なんだそうで、偶然そんなバスに乗り合わせた自分の幸運が、うれしくて仕方がなかったというのですから、あっぱれです。

こういう「けしからぬこと」を笑顔で堂々と言える人は絶滅危惧種になりました。
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力の管理

櫻井よしこさんの著書『迷わない。』(文春新書)を読んでいると、次のような記述がありました。

「お金を持つと、その人の性格が十倍も強調されて出てきます。立派な人は更に立派になり、だらしのない人は限りなくだらしなく、狡い人は限りなく狡くなります。そういう意味ではお金は魔物です。ですから自分に自信のない人は、お金は持たないほうがいいと思います。」
と書かれています。

前後の脈絡から云うと、ここでいう「お金」というのは、あるていどの大金というニュアンスですが、これは、まさに膝を打つ思いで、激しく頷きました。

マロニエ君の考えでは、この理屈はお金に限ったことではなく、もっと幅広い意味での、人を惑わす要素に共通する定理があるように思えます。
権力しかり、地位や学歴や肩書きしかり、他者と自分を明瞭に差別化する要素そのものが魔物であると思います。

これらの魔物は、上手く飼い慣らすことのできない人の手に落ちると、弱くて暗い心の奥に棲みついて、たちまち内側から侵食がはじまるように思います。

基本的に人は自信をつけることは大切なことですが、本物の自信は、奢りや勘違いや慢心とは違いますが、これがしばしば同一視され混同されやすいのも現実でしょう。

本来の自信は、人格や品位を高めるものであって、これが根を下ろして身につくには長い時間もかかり、まわりの認知も一朝一夕にはいきません。

「オリンピックで金メダルをとった」「ショパンコンクールに優勝した」というような場合は、一夜にして周囲の状況が変わることはあるかもしれませんが、これはあまり一般的ではありません。

いずれにしても、器に見合わないものがその人を支配すると、お金以外のことでも、櫻井氏の表現を借りれば「その人の性格が十倍も強調されて出てくる」わけで、これはもちろん短所も含むということです。これは本人が思っている以上に周りはその変化を敏感に感じ取りますが、悲しいかな本人にはなかなかわからないみたいです。

人は他者のことは苦もなくわかるのに、自分のことは見えずにわからないという典型です。
しかし、周りにとっても、しょせんは他人事ではあるし、これに正面切って異を唱える人はいませんから、いわば自己管理だけが頼りであり、その器や能力が問題になるのでしょう。

ここから失敗を招いたり信頼を損ねたりする場合もあり、結果から見ると、以前のほうがよかったという場合もあるのが人の世の難しいところだと思います。

ある方から聞きましたが、メディアへの露出もそこそこの有名な某演奏家は芸大の教授になったとたん、見てはいられないほど横柄な態度を取るようになり、大変な顰蹙を買っているそうです。ところが、ご当人は大きな肩書きと権力を得て天狗になり、自省のブレーキはかからないようです。

それを話してくれた人によると、「人間は、まわりが頭を下げるような地位に就くと、たちまち育ちが出てしまう」のだそうで、これはなるほど尤もなことだと思いました。
自分が頭を下げるうちはいいけれど、下げられる側になったときに、どういう反応を示すかで「育ち」が出るというのは、まさに真理だと云えるでしょう。

「育ち」のみならず、なにがしかの力を手に入れたときに、その人が辿ってきた人生や素顔など、早い話がその人の「地金」が白日の下に晒されるといってもいいかもしれません。
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魂はスマホに

先日、用事があって天神に出た際のこと。
いつものように車を立体駐車場に止めて、そこからビルの6階相当の高さに位置する長い連絡通路を通って反対の商業ビル群のほうへ向かいます。

この空中にある連絡通路の中ほどに、ひとりの若い男性がしゃがみこんで下を向き、なにかをしきりにやっている姿が目に止まりました。

前を通過する際に見ると、なんのことはない、その両手の先にあるものはお定まりのスマホでした。
内心なーんだとは思ったものの、背中を壁につけ、深く曲げた両膝の間に両肩が入り込むほどうずくまって、顔は完全に床と水平になるほど下を向いており、見ただけで頭に血がのぼりそうでした。

駐車料金の関係もあって、2時間以内に出庫できるよう、それから2時間足らずで再びこの連絡通路に戻ってきたのですが、なんとその青年はさっきとまったく同じ姿でまだスマホに熱中しているのにはびっくり仰天しました。
若いから身体も柔らかいのだろうし、体力もあるのでしょうが、それにしたって疲れないのかと思われてなりません。マロニエ君はCD店などで棚の下の段を見るためにしゃがんでいても、ものの3分ぐらいで苦しくなり、立ち上がると鬱血した血液が回り出すのか、ふらふらと目眩をおぼえることも珍しくありません。

それにしても、スマホの何がそうまで人の心を捉えて離さないのか、いまだガラケーユーザーであるマロニエ君にはおよそ理解の及ぶものではありません。

先日会った知人もガラケーらしいのですが、その人曰く、地下鉄かなにかに乗ったとき、ふと気が付くと周囲をスマホ画面を操作する人ばかりに囲まれた状況になっていて不気味だったと言っていました。ちょっと覗き込んでみると、なんとほとんどの人が「ゲーム」をやっていたとか。

となれば、あの連絡通路でしゃがみ込んで真下を向いてスマホに興じていた青年もゲームだったのかもと思われます。まあ、それが実際にゲームでもメールでも大差はありませんが。

それにしても生きている時間の多くをこうまでためらいもなくスマホに捧げるというのは、なんだかやりきれない思いになってしまいます。
「若いときは勉強しろ」などと大上段に構えたことを言う趣味はもとよりありませんし、だいいち、そんなことを言う資格も無いようなマロニエ君です。我が身を振り返って、納得のいくような勉強や経験を積んできたわけでもなく、その点ではむしろ後悔と反省ばかりの自分です。

しかしそんなマロニエ君でさえ、ここまで世の中がスマホに汚染されていく社会というのはいかがなものか…と柄にもないことをつい考えてしまいます。

先日も討論番組で聞いて驚いたのですが、若者の間では深刻なスマホ依存症が激増しており、彼らは誇張でなく本当に一日の大半をスマホとともに1年365日過ごしているといいます。さらに驚愕だったのは、あまりに休みなく利用するためバッテリーを充電する時間もなく、そのために複数台をもっている人も多いというのですから、こうなるともはや現代のアヘンではなかろうかと思ってしまうのです。

もちろんスマホはれっきとした合法的なアイテムではありますが、その想定外の可能性を秘めた性能が、いともたやすく、誰にでも手に入ることは非常に危険なことなのかもしれません。
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イベント?

ついに消費税8%がスタートしましたね。

3月の最後の週末は、報道各社はお祭り騒ぎのようにこれを採り上げ、いつものように国民を煽る事にかなりのエネルギーを費やしたのではないかと思われました。

とりわけ関東圏では、連日買いだめや駆け込み需要のための人出が甚だしかったようで、お得意の長蛇の列も随所で発生したようです。
何の店だったか忘れましたが、プラカードを持つ人が立つ、列の最後尾からリポーターが「では行ってみます!」と列の脇を走りますが、映像も早回しになり、右に左に折れ曲がって、何百メートルも先に先頭があったりします。

こうなると2〜3時間の待ち時間なのだそうで、なんでそこまでという思いが募ります。
最後の土日のデパートやスーパーなどの大変な混雑ぶりを取り上げておいて、4月に入ったとたん、今度は閑散としてひとけのない売り場などを対照的に映し出し、増税後は人はまったく寄りつかなくなりましたという切り口です。でも、1日は平日の火曜日でもあり、通常でも土日にくらべたら衣料品売り場などはガランとするのが普通では?と思いました。

こういうマスコミの在り方も、景気回復に水を差す一因ではないかと思います。

ある経済の専門家によれば、「消費税が8%、8%といいますが、8%上がるのではなく、現在より3%増しになるということですから」といっていました。たしかにマスコミの報道は、まるでゼロから8%になるかのごとく錯覚を誘発するような過熱ぶりでしたね。

福岡はごく単純に言うと、何事においても醒めた感性が根っこにある地域で、消費税増税前の騒ぎもそれほどではありませんでした。今年のNHKの大河ドラマが『軍師官兵衛』で、黒田家は関ヶ原以降、福岡を治めた五十二万石の大名ですから、他所なら地元が注目される年だとそれなりに沸くのかもしれませんが、福岡ときたら見事なまでに盛り上がりません。
きっとNHKの目論見も大外れだったことだと思います。

さて消費税ですが、街頭でインタビューすると、もちろん中には「大変です…」「困りますね…」というような標準的な意見もありますが、「上がるのは嫌だけど、そのために買い置きはしませんねぇ。」「いやぁ…べつに。要るものは要るときに買うだけですよ。」といったコメントはいかにも福岡らしくて笑ってしまいます。

ガソリンも値上がり前に給油しようと、関東圏では路上にまで車が列をなしてまで3月中の満タンが大流行だったようですが、その列がまた大変な車の数で驚きました。中にはたった5Lのために列に並んでいるという猛者もいて、開いた口がふさがりません。

ふと思ったのですが、消費税増税はまぎれもなく税の問題であって、つまりお金の問題であるにもかかわらず、もしかすると、これは実はお金じゃない問題ではないだろうか?という疑念が湧いてきました。

家でも買うというならべつですが、日常生活のレベルでそんなことに奔走しても、それでいくら得をするかという数字上の話になれば、10万円使っても3千円です。その3%のために投じる大元の費用、さらにはそのために要する時間や労力など、多くの人的エネルギー消費を伴うことを考えれば、さらにそのメリットは減じられていくのは理です。
3%にこだわるぐらいなら、そもそも買わないのもかなりお得なはずです。

つまり、これはほとんど心理上の現象であり、情緒的な現象ではないかと思います。
「今のうちに買っておく」というのが国民的なコンセンサスになって、まるで消費税アップを控えての「期間限定イベント」のようになってしまったのではと感じます。

正味どれだけ得なのかという検証はそっちのけで、「今しかない」イベントに参加してお祭り気分を楽しんでいるのだと思うと、多少納得がいくような気がしました。
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メールの違和感

メールに関連して思い出したことがあります。

べつに大したことではないのです。
大したことではないけれども、人にはどうにも違和感を覚える事というのがありますね。

それは自分が出したメールに返信をもらった場合のこと。
送信されてきた文章の下に、前回自分が書いた文章がそのままべったりくっついていることが意外に少なくないのは多くの方が経験されていることだと思います。

これはメールソフトのデフォルト設定がそうなっていることが多いためで、ただ単に返信ボタンを押すと、自動的に親メールが返信メールの末尾にコピーペーストされるというものです。
ソフトがそもそもそういう作りになっているのだから、別にどうということもないことだと云えばそうなのでしょうが、マロニエ君はこれがどうも気になって仕方がないのです。

自分が人に送った文章を、相手側からの返信の画面上でもう一度目にするのは、半ば送り返されたようでもあるし、そこに自分の文章を見るのは、なんとなく恥ずかしいような気もするし、早い話が見たくないわけです。

これが自分の意志で送信済みメールを確認する場合はその限りではありませんが、相手から送られてきたメールのお尻に、機械的に自分の文章がくっついているという状況というのが、どうしても自分なりの自然の感覚に反してしまうようです。

人によっては、気にし過ぎと思われることでしょう。マロニエ君も割り切って受け流すようにはしていますが、これが性格なのか、そこに毎度違和感を感じてしまうのはどうしようもありません。

これはあくまでも個人間のプライベートなメールに限っての話であって、ビジネス上の特定の問答であるとか、通販の確認メールなどはもちろんその限りではありません。

郵便での手紙に例えるなら、送られてきた封筒の中に、以前出した自分の手紙がコピーされて同封されているとします。その目的が、いくら「アナタが以前出された手紙に対する返事が、今回送った手紙なので、そのコピーも同封します」という意味であっても、やっぱり奇異な感じというか、これを喜ぶ人はいないと思います。

というわけで、マロニエ君は返信を書くときに、まずはじめにすることは、返信ボタンを押して文章を書く前に、そこにコピーされた相手の文章を全部消すこと。
これが最優先の習慣になりました。
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メールと電話

現代人にとって、もはやメールはなくてはならない通信ツールであることはいうまでもありません。

内容をしたため送信ボタンを押せば、時間/距離を問わず、瞬時に世界中どこへでも届くという驚異的な便利さは、昔だったらおよそ考えられなかったものです。

ただ、問題なのは、この便利さが自分の感覚領域にまで染みついて、思わぬ影響が出てくるときだと思います。
伝達手段としてメールが適当な場合にこのツールを使うのは当然としても、電話でもいいような、あるいは「電話のほうがいい」ような場合まで、メールが中心となり、ついそちらへ流れてしまうのはいささか危険なことだと思うのです。

最近の傾向として、電話をすることは、できれば一歩踏みとどまるべきというふうな暗黙の風潮があるように感じます。普通に電話をすることが、あたかも無遠慮で無神経な、ちょっと厚かましいことのように捉えられているふしがなくもないのは、ちょっと賛同しかねるところがあるのです。

必要以上に、迷惑ではないかとか、悪いタイミングにかけてしまって自分が疎まれたくないというような、いろんな心配や自己防衛が先行し、その結果メールが伝達手段の主流になってしまっているのは自分を含めて好ましい習慣とは思えません。
さらには、電話だとよけいな挨拶とかおしゃべりをするのが面倒臭いという、以前では考えられないような後ろ向きな気分が背後にないとは云えないでしょう。

つまりメールは、あたかも相手への配慮や気遣いのような前提をもってはいますが、全部が全部そうとも言い切れず、ある種の卑屈さ、エゴ、保身のいずれかがその都度、都合のいい指令を出して、要するにメールを選択しているというのが実情ではないかと思います。

しかし、人間関係は音楽や食にも通じる、いわば「生もの」であり、その魅力に委ねられているものだと思います。
メールなどなかった時代は、必然的にナマの関わりしかなく、それ以外の選択肢はありませんでした。だから世の中全体が、今にくらべて遥かに人付き合いがいきいきして、おおらかで、今とは比較にならないほど上手だったと思います。

そういうわけでマロニエ君は、メールのほうがいいと確信の持てる場合を除いては、できるだけ電話を優先するよう心がけているつもりです。そうはいっても、自分の都合でメールになってしまうことも無いと云えばウソになりますが、それでも、できるだけ電話で直接話をするに越したことはないと思っているのは確かです。

その理由はいろいろありますが、そのひとつ云うと、他の方のことは知りませんが、少なくともマロニエ君はどんなにタイミングの悪いときにかかってくる電話でも、それが迷惑とか不愉快に感じるということはまったくないし、嬉しいと感じるからです。

むろん折悪しく出られない状況というのはありますが、そのときはかけ直しをすればいいだけのことで、基本的に人間関係というものは会話を基本とする生きた関わりによって常に関係を維持し、それを更新していくものだという考えがあります。メールにその力がゼロだとはいいません。でも、直接の会話にくらべると遥かに非力でしょう。

もちろん、事柄によっては文字伝達の必要がある場合はありますが、それはあくまでも直接会話を補佐するかたちで用いたいもので、メールがレギュラー、電話が特別という順序立てはいかがなものかと思うのです。
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消費税と婚約指輪

消費増税がいよいよ目前に迫りました。

誰しも税金が上がるのは好みませんし、この増税はもともと民主党政権時代に野田さんが熱心に押し進めて決ったことで、安部さんの本心は甚だ不本意であるらしいという説もあります。
この時期の消費税アップは、目下の急務である景気回復基調に水を差すものという見方も強く、専門家の間でも賛否がうごめいていますが、そうはいっても事ここに至って、いまさらじたばたしてもはじまりません。

テレビでは連日のようにそれに関連したニュースをやっているようですが、各局は申し合わせたように、増税前の駆け込み需要、買いだめ、まとめ買いなどに焦点を当てて、いつものようにそういう気分のない人までわいわい煽っているように感じます。
デパートの食料品売り場はじまって以来の「箱買い」なるものまで登場して、箱単位で保存のきく商品が売れているのだそうです。

さて、そんな中で驚くべき話を聞きました。
マロニエ君が直接見たわけではありませんが、家人がたまたま目にしたニュースによれば、デパートなどでは高額商品も増税前に購入という動きがある由で、その中には、今とばかりに婚約指輪を買いにくる若い男性がかなり多いというのが注目されたようでした。

ただこれ、信じられないことに、現在婚約者がいるわけでもない男性が、まだ見ぬ相手との婚約に備えての購入だというのですから、そのセンスにはさすがにでんぐり返りました。

たしかに結婚を視野において、準備しておくものというはあろうかと思います。
経済力さえあれば、将来を見越して土地やマンションを買っておくというのならわかりますし、不動産物件ともなれば金額のケタも違うので、これはまだ理解できます。

でも、婚約指輪の買い置きなんて聞いたこともなく、そもそもマロニエ君世代にはそんな発想すらできません。もし仮にそんなことをしようものなら、語りぐさになるほどの笑い者になるのは必至で、いわば男の沽券にかかわることだと思います。

マロニエ君は今どきの婚約指輪の相場がどれほどかは知りませんでしたから、ネットで「婚約指輪の相場」で検索してみました。すると、だいたい20〜30万、中には30〜40万というのがあって、少数派を除けば、大半が50万円以内のようでした。
仮にその最高の50万円としても、4月以降のアップはたかだか15,000円であって、いま婚約指輪を駆け込み購入するメンズは、つまりその15,000円惜しさに買っているということになります。

これは本当にびっくりでした。そんな事をするぐらいなら、いっそ株でも買って儲けてやろうというほうがまだしも豪快というものです。

そういう次元の金額にねちねちこだわる金銭感覚や価値観を持った男性は、いくら時代が変わったとはいっても、やっぱりモテない奴だと思います。
仮にいつの日かそれを受け取る女性にしてみても、「増税前に買い置きしていた婚約指輪」をもらって、果たしてそれで嬉しいだろうか…と思います。

それっぽっちの金銭に執着する代償に、男としての値打ちをめちゃめちゃ下げていることに、どうして気がつかないのかと不思議でなりません。しかも、自分で見立てられないものだから店員に相談する、あるいは職場の女性などに付き合ってもらって選んでいるというのですから、聞いているほうが悲しくなります。そんな買い物に付き合っている女性も、内心ではかなりその男性を馬鹿にしているんじゃないかと思いますが、女性って「この人は自分の彼じゃない」という明確な前提の上で、そういう親切あそびは案外楽しいのかもしれませんね。

婚約指輪というものは、あくまで気持ちの問題であって、双方が納得すれば無いなら無いですむものだと個人的には思うんですけどねぇ…。
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納得できない

皆さんは最近の駐車違反の取締の厳しさをご存じでしょうか?

昔は警察官が違反車両を見つけたら、チョークで地面に時間を書いて一定の時間経過をもって「駐車違反」が成立し、はじめて摘発できるというものでした。
しかし、それは昔の話のようです。そこにはもはや「何分以上」というような猶予はなく、時間はまったく無関係となっていたことにびっくり。

すなわち、たとえ1分でもドライバーが車を離れたら、即違反・即検挙という、これはもうほとんど独裁国家並みの強権的摘発だというほかはありません。

というのも、つい先日、知り合いの方が2歳のお子さんを保育園に預けるために、園の前に車をとめてエンジンを切りハザードを出して車を離れたところ、そこへ巡回警官が通りかかり、たちまちキップを切ったのだそうです。
そのお母さんが慌てて戻って「私です、すみません!」といって駈け寄ったものの、その状況や事情は一切考慮されることなく、問答無用で斬りつけるがごとくの摘発だったようです。
今どきこんな無慈悲なことがあるのかと聞いた当初は信じられない気持ちでした。

反則切符によれば、なんと警察官が車輌を確認してからそのお母さんが現れるまでの時間は、わずか2分だそうです。
しかも現場は交通量のある幹線道路でもなく、車の往来も少ない静かな住宅街にある、比較的幅も広めの道だっただけによけいに驚きでした。

昔のような一定時間を経てはじめて違反が成立するという摘発方法がなくなったのは、要するにそれに要する手間や時間がかかるという以外に、マロニエ君には合理的な理由が見出せません。
あまりに憤慨したので警察の交通課に問い合わせをしてみましたが、果たしてその回答は、現在はドライバーが車内に運転免許を持つ者を残さずに車を離れ場合は、「一瞬であっても」放置車両として摘発されるとのことでした。

こちらもそんな馬鹿げた話に唯々諾々と従うほうではないので、精一杯あれこれ反論しましたが、何を言っても向こうは「法律」と盾にとって一歩も譲る気配はなく、これ以上不毛な会話をしてもナンセンスだと悟って、自分で青筋が立つのを感じながら電話を切りました。

警察のほんらいの目的は、犯罪の防止や捜査・摘発でしょうけれど、その根底にある大儀として市民(人々)の安全や財産を守り、安心できる住みよい社会の維持を担っていくことにあると思います。

一時にくらべると、その悪辣な摘発方法が反感を買い、問題視された速度取締の「ねずみ取り」はずいぶん姿を消し、ようやく反省に転じたのかと思いました。しかるに、またしてもこんな汚い取締の仕方をして市民から怒りと反感を抱かれることになったのは驚くばかりです。かたやストーカー事件などでは度重なる訴えにも耳を貸さず、被害者が殺害されるに及んだりと、これでは税金泥棒・罰金泥棒ではないかと思います。

電話に出た担当者は居丈高な口調で、「時間の問題ではないですよ。子供さんであれなんであれ、そういう理由はそちらの言い分です。もしそれで歩行者妨害になって事故が起きたらどうしますか?」などと痴呆症のような理屈を言い立てます。
しかし、ネットの情報によると、郵便局の車輌は摘発対象外であるなど、必ずしも法の下の平等でないことが明らかです。

また、その後聞いたところでは、トラックなど様々な業種の関係車輌は実際はその対象ではないのだそうで、これはどういうことでしょう? 同じ人がたまたま下見などで普通車で現場に行って止めていると、3分でも即キップを切られ、トラックなら安心というのですから、開いた口がふさがりません。

警察が主張するように、本当に歩行者や自転車の保護、あるいは交通の妨害ということであれば、目的がなんであれ、普通車よりトラックなどのほうがよほど危険で迷惑なっことは論を待ちません。おまけに、最近ではこのきわめて冷血で機械的な取締が、民間の業者にまで委託されているというのですから、なんとも嫌な話です。
そうなれば、どんな言い訳をされても、ますます金銭的ノルマの要素は濃厚となるでしょう。市民がその「反則金という名の金銭収奪システム」の犠牲になるなんて、たまったものじゃない。

人を処罰するということは重大なことです。それに際して悪質度の検証を一切せず、十把一絡であまりにも安易に摘発。そうかと思えば、特定の業者車輌などは見逃すという慣習には、社会の汚い一面を見せつけられるようです。
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ライト2

かなり前のことですが、来日した黄金期のポリーニが得意のベートーヴェンのソナタを弾いたとき、NHKのインタビューで述べた言葉を覚えています。

「ベートーヴェンはありふれた断片から崇高なテーマを作り上げます。」と、当時のすさまじい演奏とは裏腹な、至って控え目な調子で語り、傍らにあったピアノに向かって『熱情』の第一楽章の出だしをほんの軽く弾きました。(もしかしたら、弾いてから語ったのだったかも。その順序は覚えていません。)

これにはまったく膝を打つ思いで、多くのベートーヴェンの作品に共通した特徴です。
形而上学的世界といわれる最後の3つのソナタでさえ、第一楽章の第一主題など「ありふれた断片」といえばそのように思われます。
ひとつの主題をこれでもかとばかりに彫琢し、推敲し、いじりまわた挙げ句に壮大なフィナーレへとなだれ込む。また、変奏がとりわけ得意だったこともそんな彼の特徴があらわれていると見ることもできるように思います。

頭にベートーヴェンをもってくると話が大げさになり、ちょっと後が書きづらくなりますが、前回のライトの設計にもあるように、本物のクリエイターには独自のイメージや美学が力強く流れていて、むしろ素材にはそれほどこだわらないという場合も少なくありません。これはすべての分野に通じる一流とそれ以外の差でもあると思います。

極論かもしれませんが、何でもないものを最高の価値あるものへ変身させ、あらたな命を吹き込むことこそ芸術の極意なのかもしれません。

しかし、それは必ずしも芸術の世界の専売特許というわけでもありません。
余り物で美味しい料理を作ってしまう才能、はぎれやリフォームによってオシャレな服をこしらえる才能、棄てられる廃材を見た人が自分も欲しいと思うようなモダンなインテリアに変えてしまうなど、ある種の制約の中にあってこそ、人間の能力はより真価を発揮しやすいものではないだろうかとも思うのです。

場合によってはそんな制約があるほうが、ある意味では目的と方向性が明快となって、生み出されるものも心地よい調べをもっていることが少なくないように思います。
まったくの自由意志からなにか立派な作品を作ることも素晴らしいけれども、これこれのものが必要である、あるいは使い道のない素材を活かしたい、指定された予算と材料だけで何かを作らなくてはならないというような一見不自由な発想点からも、多くの傑作が生み出されていることも事実であり、それはそれで立派なモチベーションなのだと思います。

むかしお邪魔したある個人宅に、細長のなんともシックで美しいテーブルがあってまっ先に目に止まりましたが、なんとそれは市販の集成材にダーク系の艶のないオイルニスを重ね塗りし、そこへ足をつけただけというものでとても驚いた記憶があります。その趣味の良さとえもいわれぬ風合いには痛く感銘を受け、何十万もするような輸入家具を買うよりよほど尊敬に値すると思いました。

動機は部屋のサイズにジャストフィットするテーブルがどこにもなかったので、だったら自作してやろうと思い立ったとのことで、結果的にコストも望外の安さで事足りたということでした。

マロニエ君にはそのような技も才能もありませんが、それでも、そんな真似事のようなことをやってみたいという憧れのようなものがあるのも確かです。
なにか虚しい挑戦を、いつかやってみたいという気持ちだけはくすぶっています。
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ライト

テレビ東京の番組『美の巨人たち』では、ときどきあっと驚くような事実に接することがあります。

少し前の放送でしたが池袋にある自由学園明日館が紹介されました。
これはアメリカの誇る世界的建築家、フランク・ロイド・ライトの作品です。

第二次大戦前につくられたその校舎は、シンプルな中にも気品と叡智とすがすがしさに満ち溢れています。そしてなによりライトの突出したセンスがこの作品の内外のいたるところに光っていて、現在は修復され、国の重要文化財にも指定されている建築物です。

例えば正面ホールのガラスには、なんともモダンで可憐で美しい装飾が配されていますが、これももちろんライト氏の考案によるもので、これがこの校舎の中心であり象徴ともなっている部分。

さて、この番組で初めて知ったのですが、その装飾に近づいて目を凝らせば、なんと素材は着色されたベニヤであることがわかり仰天させられました。それだけではありません。美しい色に塗られた教室のドアや、その上部の欄間からヒントを得たという装飾も素材はベニヤなのです。

自由学園の創始者である羽仁吉一の夫人もと子さんが直接ライトに設計を依頼したそうですが、その折に云ったことは「予算がないので、できるだけ安い材料でつくって欲しい」というものだったそうです。
その意向を汲み取って、ライト氏は安い資材を多用しつつ、それでいてまったく独自の美しく洗練された、他に類を見ない校舎を完成させました。ライト氏は建物の内外装はもちろん、照明、机、イスなどもデザインしましたが、食堂などの机やイスは、安価な二枚板を貼り合わせ、繋ぎ目は朱色の効果的なアクセントにするなど、その意匠や造形は今の目で見てもきわめて洗練されたものです。

云われなければ、その美しい建築に感銘するだけで、まさかそんな安い素材が多用されているなどとは思いもよりません。

マロニエ君はこういう何でもないありきたりの素材を使いながら、価値という点では最高のものを作るという感性が昔から殊のほか好きでした。
高級でもなんでもないものから、ハッと息を呑むような優れたものを作ることは、素材そのものがもつ力をあてにできないだけ、作り手の才能や真の実力がものをいうのです。
優秀なシェフの手にかかれば冷蔵庫の残り物から、素晴らしいご馳走ができたりするのも同じです。

素材に頼らないぶん、素の技と美意識が問われますし、幅広い経験や本物を見てきた眼、自由でしなやかなアイデアも必要です。

たとえばの話、処分されるような素材から、人も羨むような素敵な家具などを作ることができたら、こんな愉快なことはありません。
高級品や高額であることを喜んだり、なにかというとモノ自慢をするのは大嫌いですが、もしこういうことができたら、そのときこそ大いに自慢したいものです。

もちろん最高の素材を使って最高のものを作るということを否定はしません。
たとえば、最近では式年遷宮を終えた伊勢神宮の内宮などはその最たるものでしょう。
しかし、そういうものはごく限られた特別なものだけに限定されていれば良く、通常はなにもかもが最高ずくしというのは、どこか物欲しそうで、却って貧しい感じがしてしまいます。

むろん素材なんて何でもいいと暴論を吐くつもりはありませんが、それよりも遥かに重要なのはセンスだとマロニエ君は思うのです。
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共犯

例の作曲家のゴーストライター事件では、発覚からひと月を経て、ついに佐氏本人が姿をあらわし、ものものしい「記者会見」に及びました。

恥ずかしながらマロニエ君は、この手のスキャンダルというか週刊誌ネタ的なものの中には、非常に興味をそそるものがあり、この事件も発覚いらいなんとなく注目していました。とりわけ本人が出てくる会見はぜひ見たい!と思っていたので、ここぞとばかりにワイドショーのたぐいを録画しておきました。

いまさら言うまでもないことですが、くだらない話題も大好きなマロニエ君です。
とくにこの本人登場の記者会見はワクワクさせられました。

会場に詰めかけたマスコミの数はハンパなものではなく、壇上におかれたテーブルには、近ごろではついぞ見たこともない数のマイクが蛇の群のように置かれ、いやが上にも関心の高さが伺われます。

カメラのフラッシュの中にあらわれたご当人は、あっと驚くばかりの変身ぶりで、特徴的な長髪はバッサリと短く切られ、サングラスを外し、深々とお辞儀をする姿はまるで別人でした。これを一目見ただけでも、いかに彼は巧みに「芸術家」に化けていたかが一目瞭然でした。

内容はお詫びを連発しつつも、この人の体の芯にまで染みついたウソと攻撃性が随所に見て取れるもので、いち野次馬としては、これはもう滅多にないおもしろさでした。
むろん発言が真実などとは到底思えませんし、すでにそういう人物という認識の上なので、はじめの変身ぶり以外は別に驚きもしませんでした。

驚いたのは、むしろ翌日のワイドショーで繰り広げられる論調でした。
どうせ前日の会見の分析が翌日の番組のネタになると踏んでいたので、二日続けて録画していたのです。

今どきの特徴ですが、司会者やコメンテーターは普段の発言は鬱陶しいほど慎重で、これでもかとばかりに偽善的な発言に終始します。ところが、いったん相手に悪者というレッテルが貼られると、状況は一変。批判は解禁とばかりに、誰も彼もが寄ってたかって問題の人物を吊し上げます。それも自分は極めて良識ある誠実で温厚な人物ですよというわざとらしいニュアンスを込めながら。

それでも、この楽譜も読めないエセ作曲家が非難されるのは当然としても、ちょっと違和感を感じたのは、その相方であったゴーストライターのほうが、あまり悪く言われない点でした。
そればかりか、この相方の作曲者がまるで正直者で、ときに被害者であるかのようなニュアンスまで含んでくるのはあんまりで、これには強い抵抗感を覚えました。

もちろん役どころとしては、気の弱そうな作曲者が佐氏にいいようにコントロールされたという構図のほうが収まりはいいのかもしれませんが、それはちょっと違うと思います。

この人が突如として「告白会見」をしたときから見れば、単純に「正直」で「善良」で「良心の呵責に耐えられなくなった」人物であるかのようなイメージになるのかもしれませんが、それはいささか認識が甘いのでは?とマロニエ君は思います。

一度や二度ならともかく、実に18年間という長きにわたって、この秘密の共同作業を続けていたという2人です。さらにそれなりの高額な報酬の授受もあったということは、これはまぎれもなく本人の承諾と意志によるものだと考えるのが自然です。となれば、ご当人がいわれるようにまさに立派な「共犯者」であることは忘れるべきではない。本人によほどの熱意と積極性がなければ、あれだけの大曲を書き上げるだけのモチベーションも上がる筈はないでしょう。

この2人のいずれが主導的であったかはともかく、結局はお似合いのいいコンビであったのだろうと思います。
そして、なによりそれを裏付けているのが、18年間にわたりその秘密の関係が維持されていたということだと思います。
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ミクロの権利

以前にも書いた覚えがありますが、当節、満車の駐車場などでは、人が車に戻り、乗り込んでエンジンもかかり、今にも動き出しそうな車があるからといって近くで待っていても、そんな車はなかなか出て行ってはくれません。

待ちわびて、じりじりするこちらの心情を弄ぶかのように、車内ではガサゴソとなにかをやっている気配をみせたり、あるいはことさら泰然として、遮二無二時間をかけたりして、とにかく出発を「1秒でも」渋っている様子が見て取れます。

こう書くと「それはアナタがそんな風に見ているだけでは?」と言われるかもしれませんが、人間は長いこと人間業をやっていれば、それが本当に自然なものか、邪心から出ていることなのかの判別ぐらいはつくようになるものです。

世代的にはさまざまですが、とりわけ若者から中年になりかけぐらいの場合が多く、さらにいうなら女性のほうがよりその傾向が強いように感じます。マロニエ君も最近ではいい加減このパターンがのみ込めているので、こういう人の視界に入る場所でおめおめと待っているようなことはしなくなりました。
あえて待機する場所を変えたり、場内を一周したりと、空くことを「期待していない」素振りに出ると、逆にすんなり出発するのがわかっているからです。

ちなみに年配の方は、こちらが待っていることがわかると、急いで車を出してくださったりする場合が多く、ありがたいだけでなく、どこかホッとして「あぁ昔の人はいいなぁ…」と思ってしまいます。

こういう傾向からも、昔にくらべると世の中の人は精神的に決して幸福ではないことがひしひしと感じられます。生活のほとんどすべてが否応なく競争原理にさらされている現役世代にとって、いま自分が手にしている権利は、他者も欲しがっているものであればあるだけ、ささいなことでも手放したくないという悲しい我欲が本能的に表出するようです。

その証拠に、逆もあるのです。
料金精算所が混んでいたりすると、必然的に出庫する車はその列に並ぶことになり、土日の夕刻などはたいていこのパターンです。

車に乗り込んでエンジンを始動、シートベルトをして、ギアを入れて動き出すという一連の操作の中、時を同じくして近くで車に乗り込んだ人は、今度は我先に早く動き出そうと、変にこっちを意識して緊迫しているのが伝わってきます。
しかも真剣そのもので、そのむき出しの競争心には、こちらもつい刺激されてしまいます。

するとどうでしょう。
大変な早業で車はそそくさと動き出し、本当にコンマ1秒という差で列の先へと並ぶわけで、これを見ればわかるように、満車状態で他車が待っているのに車を出さないのは、やはり弄ぶターゲットがいるからこその故意であることが明瞭です。

社会がきれいなものじゃないことは先刻承知ですが、しかしこんなくだらない場面で、これだけ赤裸々に他人の悪意に触れるというのは、やはりいい気持ちはしないものです。

巷ではやたら「オトナ」「オトナの対応」などという分別くさい言葉が濫用されていますが、実際は強欲なオコチャマだらけです。
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高倉健

唐突な話題を持ち込むようですが、高倉健というのは不思議な俳優だと思います。

任侠映画の主役で一世を風靡したものの、その後はきっぱりそちらの世界とは訣別します。一説によればこのハマリ役、ご本人としては不本意であった由。壮年期以降は自分が納得する映画にのみ出演して、その都度話題になりながらおじいさんになって、ついには文化勲章にまで辿り着いた人です。

マロニエ君は映画は好きで気が向けば見ますが、とても映画ファンといえるようなレベルではなく、邦画も洋画も区別なく、なんとなく自分が見たいと思ったものをときどき見る程度です。
昔は深夜の時間帯に任侠映画をテレビでさかんにやっていましたから、高倉健はもちろん、鶴田浩司、藤純子、江波杏子らの活躍する映画は、見てみると結構おもしろいので、子供だったくせにこの時間帯にそこそこ見た記憶があります。

高倉健はとくに好きではないが、かといってとくに嫌いというわけでもない。じゃあどうでもいいのかというと、それもまた否定するのも肯定するのもちょっと難しい俳優さんです。
その存在感は大変なものだと思いますが、マロニエ君の好むタイプの俳優という枠からは大きく外れた存在ですし、かといって彼に代わるような俳優がまったく見あたらない、きわめて独特な存在であることも間違いないようです。

とくに好きではない理由は、高倉健その人ではなく、周りから寄ってたかって作られた「健さん」のイメージのほうです。前時代的な男の理想像、男が考える「男の中の男」という、あれが鼻についてイヤなのです。
アウトサイダーで人生を真っ当に歩めなかった負い目、不器用でヤクザな生き方をするしかなかった諦観、根底に流れる正義感、寡黙で、無学で、腕っ節だけは人並み外れて、シャイで破天荒…等々、そういうイメージが高倉健の双肩に遠慮会釈なく積み上げられてしまったのだと思います。そう云う点では、彼こそは多くのファンと映画会社の求めるイメージの被害者であるようにも思えます。

さらに悲壮感が漂うのは、昔の俳優は今とは比較にならないほど多くの縛りがあって、恋愛や結婚など私生活にも厳しい制限が多く、とりわけ高倉健ほどのドル箱ともなるとそれはいっそう厳しいものだったと思われます。彼はついにそのイメージを守り通し、俳優高倉健を現在只今でも維持しているという点で、まさに自分に科せられた宿命に殉じる覚悟の人生なのではないかと思います。

そういう自分の宿命に身を苛み、半ば投げやりにも似た感じで諦観している姿が、また男の叙情性や孤独性のような作用を生み出して、倍々ゲームのように高倉健らしさに色を添えていく。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、高倉健の数少ない密着映像などをみていると、本人はそのイメージとはかなり違った好みや憧れを秘めながら、一生をかけて「高倉健という役」を演じている人のように感じられてしまいます。

若い頃に離婚して、その後結婚しないのも、彼が好む女性は高倉健のイメージを大いに損なうような人なのではないかと、明確な根拠はないけれども思えてきます。
すくなくとも我々がスクリーンを通して思い描くような高倉健にお似合いだと感じる女性は、実はご本人はぜんぜんタイプじゃないような気がしてならないのです。

なぜこんな事を書いたのかというと、自分に合わない曲を弾きたがるパイクからはじまり、栄光と喧噪の中で自分の弾きたい曲さえ弾けなかったクライバーンを思い出し、そこからファンの期待するイメージの犠牲になった高倉健という連想に繋がったわけでした。
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マイペース

大病院のことはよくわかりませんが、開業医レベルの病院に行くと、「うわ、でたぁ!」と思うことがときどきあります。

自分よりも順番が前の人に話し好きの高齢者の方がおられたりすると、受付、診察、会計、薬局という一連の流れの中で、後続者は甚大な影響を被ることがあります。

この手の方は、むやみやたらと話し好きで、人とみればあれこれ喋り出し、おまけに周りの空気を読むなんてことは天晴れと云うほどなく、聞えてくるのは、大半がその場で直接何の関係もないような話を中心とする、一方的おしゃべりのオンパレード。

受付で診察カードと保険証を提示するだけで済むことが、まずこの場からおしゃべりはスタート。前回来たときからどうしたこうしたというような茶飲み話みたいなものがはじまります。
さらにヘビー級の方もいらっしゃいます。
傍らに次の順番を待っている人がいるなんてことは頭の片隅にもないらしく、自分の話が一段落つくまで決してこれを中断して次の人に譲るなどということはないまま、ただ自分の気が済むまでしゃべりまくります。

診察室でも、そういう高齢者の方の一方的なおしゃべりはとどまるところをしりません。「先生、この前の○×がどうしたこうした…」といった調子からはじまって、病状というよりは主に日常生活そのものをしゃべっているようです。医師のほうでもハイハイといいながら、できるだけ早めに切り上げようとしている気配を感じるのですが、そんなことはまったく通じません。
ときには、医師と看護士の両方を聞き役にして、自分のことを際限なくまくしたてています。やっと終わり、医師が「はい、じゃ、それで様子を見てくださいね」などと云うも、「あっ、そうそう、それと…」といった具合に、ここからまた延長戦です。
ひどいときなどこういう方ひとりのために30分近く待たされたこともあります。

それに耐えて、ついに自分の名が呼ばれて診察室に入ると、いつもの薬がなくなりましたというような場合は、「じゃあ前回と同じでいいですか?」「はい」というやりとりで事は決着。マロニエ君の場合は1分も診察室にいないようなことになり、この差はなんなんだ!?と、まるで自分がひどく損でもしているような気分になってしまいます。
べつに診察室に長く滞在することが得なわけじゃありませんけれども。

それから会計ですが、ここでも先行する高齢者の方の猛烈おしゃべりにブロックされて、窓口はべちゃくちゃ話に占領され、その間のストレスと来たら相当のものになります。病院側も「アナタはお話が長いので、次の方を先にお願いします」とは言えませんから、苦笑いを浮かべながら消極的に話の相手をしているのがこちらにも伝わります。

これで終わりではありません。
次なるは薬局が控えていて、この流れである限り、ずっとこの順番がついてまわります。そこでもまったくひるむことなく、次々に相手を変えながらしゃべりのテンションはまったく落ちません。
本来薬局の受付では、病院から出た処方箋を渡すだけなのに、この場面で、なんでそんなにしゃべることがあるのか、まったく理解の外です。薬の準備ができる間も立ったまましゃべり通しで、薬剤師が薬をいちいち説明をするのに乗じて、またも以前の薬がどうだったけど今度のは…とか、寒くなったらこうなったとか、先生に云ったらこういわれたのはなんでだろうか…というような話が延々と続きます。

それも1分2分ならいいですが、いつ果てるともなくしゃべり続けるのですから、こうなると気分が悪くなってくることもあって、完全に社会迷惑だと断じざるを得ません。
病院の受付からはじまって、自分が薬を受け取って、すべてが終わるまでに小一時間もかかるようで、その間、こちらの神経はイライラヘトヘトで、全身がなんとも収まりのつかない疲れに締め付けられて硬直してしまいます。

いっそ薬局なんだから、精神安定剤のサービスでも追加して欲しいところですが、そんな事があるはずもなく、ただただ「運が悪い」としか云いようがありません。この手の高齢者のスタミナはとてつもないもので敵いっこありません。
どうか、いつまでもお元気で!
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信頼の崩壊

佐村河内氏の事件に何度も言及するつもりではないのですが、若い頃の彼を知る証言者の言葉の中には、マロニエ君の心にわだかまる、昔のある出来事を思い出させるものがありました。

20代の彼は、ロックにも挑戦したらしく、当時プロデュースの仕事をやっていた男性がインタビューに登場しましたが、佐村河内氏のルックスや名前、背景がおもしろいと感じ、一度は育ててみようかと思われたのだそうです。
ところが言動におかしなところがあれこれあり、これではとても信頼関係が築けないということで、結局その方は手を引かれ、佐氏の歌手デビューも沙汰止みになった由。

その話の中で、大いに頷けるものがありました。
このプロデューサーはむろん業界の人で、そこに連なるお知り合いなどが数多くおられるのでしょうが、佐氏はそういう人達へ、無断で直接連絡を取ったりするというような挙に及んで、大いに不興を買ったというのです。

実はマロニエ君にも以前、似たような覚えがあったのです。ある演奏者に対して、一時期身を入れて可能な限りの協力していたことがありました。
具体的なことは控えますが、それこそマロニエ君にできるあらゆる方面の協力をし、その人の音楽活動を多面的に支えるところまで発展しました。あれほど心血を注いで他人様をサポートしたのは後にも前にもこれだけで、この状態は数年間にも及びました。

その過程でマロニエ君の知り合いなどともお引き合わせすることもありましたが、その方は、順序も踏まずその人達にいきなり自分で連絡をとったりする人でした。当人からの報告もないまま、それを後になって思いがけないかたちで知ることになったりの繰り返しで、なんとも言いがたい嫌な気持ちになりました。

もちろん、自分の知り合いを紹介したわけですから、直接連絡をしてはいけないということではありません。むしろそれがお役に立つなら幸いです。しかし、そこには自ずと礼節やルールというものがあるのはいうまでもありません。

いきなり頭越しの連絡をして相手の仕事にも結びつけ、それが知らぬ間に常態化するというようなことが重なると、しだいに信頼は崩れ、善意の糸も切れてしまいます。
世の中は、それが情であれ利害であれ、要は人の繋がりで成り立っている部分は少なくありません。故にその部分でのふるまいや挙措には、その人の全人格が顕れるといっていいと思います。
芸能界などは、これがビジネスに直結しているぶん、厳しいルールや慣習が確立されているようで、そういう常識を欠いた行動は御法度として即刻糾弾の対象となるようです。

念のためにつけ加えておきますと、マロニエ君はこれっぽっちも損得絡みでやっていたことではなく、いわば趣味がエスカレートした結果の奮闘でした。

こういうことが重なり、その人とのお付き合いはピリオドを打つことにしましたが、これに懲りて、いわゆる「音楽する人」とのお付き合いが、以前のように無邪気にできなくなったのは事実です。
もちろん個人差はありますし、立派な方もいらっしゃいますが…。

要は甚だしい自己中ということです。
そもそも自己中か否かは、自分の言動を社会規範に照らして判断することなので、そもそも社会性が欠如していれば、認識さえもおぼつかない。つまり自覚もない、もしくは頗る甘いために判断も制御も効かないというわけです。
良く言えば「悪気はない」ということになるのかもしれませんが、いざそのときは、そんなことはなんの救いにもなりません。

貴重な社会勉強にはなったと思っています。
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愉快と不愉快

このところマスコミを賑わした佐村河内氏の事件は、彼が注目されるきっかけになったNHKスペシャルを、途中からですがマロニエ君も偶然見ていた経緯もあって本当に驚きました。

曲は番組内で流れるもの以外には聴いたことがなく、もちろんCDも買っていませんので、例の交響曲も通して聴いたことはありませんが、そもそもマロニエ君はあの手の副題が付いた類の、感動を半強制されるような曲は苦手なので、あまり興味は持っていませんでした。

ただ、今回の事実が発覚した後に出てきた情報によれば、青年時代までの彼は音楽とはおよそ無縁の生活を送り、高校の友人によれば当時からかなり目立ちたがり屋で大言壮語の癖があったとか。将来は役者志望だったそうで、なるほど「現代のベートーヴェン」という壮大な人物を演じきっていた「役者」だったんだなぁと納得しました。

こういう事件はむろん社会的には許されざることですが、誤解を恐れずに云うならば、マロニエ君にとって、週刊誌的ネタとしては甚だ面白く、大いに興味をそそる事件であったのも事実です。
詐欺詐称のオンパレードで、NHKはじめ各マスコミ、プロのオーケストラや音楽家、そのチケットやCDを買って涙する人々など、いわば世間をペテンにかけてしまった手腕には驚くほかはありません。はやく再現ドラマのひとつでも作ってほしいような、そう滅多にはない事件でした。

思い出しても笑ってしまうのは、さる音楽学者という人が、この交響曲のスコアを分析して、ひとつひとつの根拠を示しながら、これ以上ないという最大級の賛辞を惜しみなくならべ、大絶賛を送っていた様子などを思い出すときです。

マロニエ君もまさかこんな壮大な茶番とは思わなかったものの、ヴァイオリンの演奏を間近に聴くシーンで、弾いている女の子の体の一部に指先を添えて「その振動で聴いている」というのは、ちょっと不思議な感じがしました。

もちろん関係者は大変でしょうけれど、野次馬の一人としてはずいぶん楽しめました。

これとは逆に、笑えないばかりか、見ていてちょっと嫌な感じがしたのは、テレビでお馴染みの知識と知性を看板にしたコメンテーターの男性M氏でした。
「自分はこの人の曲を聴いたことがなかったけれど、この問題が起こってから聴いた。すると、申し訳ないけれど、後期ロマン派のマーラーにそっくりだということはすぐにわかったし、(別の曲では)バッハに似ているところがあるなど、聴く人が聴けば、どこにもオリジナリティというものがないことがわかるはず。それを検証もしなかったマスコミの軽率にも問題がある」というような意味のことを、いつもの偉そうな、自分は何でもお見通しという調子で、首を振りながら滔々と語っていました。

さらに驚いたことは、この「マーラーに似ている」という指摘は、そもそも日本フルトヴェングラー協会の野口さんという方が昨年の新潮45に書かれたものだそうで、ご本人が別番組に出演されておっしゃっていたことですが、M氏はそれにもいちおうは触れておくことも忘れず「新潮45に書かれた専門の方も私とおなじことを言っているようですが…」と、さりげなく言及。自分は音楽を専門としていなくても一聴すればその程度のことはパッと分かるし、現にそれは音楽の専門家が言っていることと見事に一致しているようだと云いたいようでした。
しかし、これはあまりにも苦しいこじつけにしか聞こえませんでした。

マロニエ君の印象では、マーラー風というのも言われればあの仰々しさなどそうとも思えますが、フィナーレなどは映画音楽的でもあったし、大河ドラマ風でもあったような覚えがありますが。

いつも時事問題に鋭い知性のメスを入れてコメントするというのがこのM氏のウリですが、要は知識こそがこの人の命のようです。しかも、この人の口から音楽に関する話を聞いたのは初めてでしたが、正直いっていかにも板につかない急ごしらえの発言という感じで、そうまでする果てしない自己顕示欲には、さすがにやりすぎの印象は免れませんでした。
この人はある程度は明晰な頭脳の持ち主かもしれないけれども、なんでもこの調子で、予定されたテーマを急いで調べて、読みかじって、集めた情報を頼りに、それをさも深い知識と見識から出てくるコメントであるように恭しく聞かせるというのが、カラクリとして見えてしまったようでした。

このときの、この人から受けた言いようのない不快な印象は、佐村河内氏と同じとは云わないまでも、そう遠くもない類似の種族ではないか…というものでした。
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娯楽の倒錯

それが今どきの世の中のニーズなのか、はたまた別の理由からか、そこのところはわかりませんが、このところのテレビで取り上げられる「病気」に関するネタが多いのには辟易させられてしまいます。

この傾向はいつごろからだったかと思いますが、間違っていなければ『あなたの知らない…』とかなんとかいう番組あたりがきっかけだったのではと思います。

はじめのころ、ためになるような気がして何度か見た記憶がありますが、まったくのデタラメとは云いませんがが、ほとんど偶発的な一例にすぎないような事象が脅迫的に取り上げられ、すべての人の身の上におこる可能性があるという調子で話は進み、スタジオに陣取った芸能人達も異様に恐れおののいて見せるものだから、視聴者としては際限のない不安に煽られっぱなしというものです。

しかし次から次へと内容は拡大し、これをいちいち鵜呑みにしていたら、とてもじゃありませんが普通の生活なんて送れません。
もちろん、自己管理の基本として心得ておくべき医学の常識程度なら必要ですが、あまりにそれが多岐に渡って注意々々の連続ではやってられないし、却って最低限の心得まで投げ出してしまいそうになります。

そもそも「可能性」ということになれば、人はそれぞれ生活環境も異なれば体質もそれぞれで、あまり執拗にそこをつつかれても、果たして自分の身体に有効な情報かどうかも疑わしい。
おまけに医学的研究は日々進化していて、それに基づく学説にも諸説混在して、以前の常識や定説が一夜にして覆されたりと、この点でも極めて不安定だということも忘れるわけにはいきません。

ともかくもこのようにして、スタジオに各専門の医師を呼んでは再現VTRを流して人々を脅してまわるのは、番組作りにも抑制と見識が必要で、健康管理の美名のもとに視聴者の不安を弄んで視聴率を取るのだとしたら甚だしい悪趣味だと思います。

これよりもさらに悪趣味きわまりないのは、仰天ニュースやアンビリバボーのたぐいです。
これらはほぼ類似の番組ですが、毎回取扱うテーマが異なり、世界の珍事件や魔性のオンナ、天才詐欺師の半生など、以前はそこそこおもしろい内容があるので暇つぶしに見るために録画設定していました。

ところが、最近やたらに多いのが「病気ネタ」で、中でも目を背けるのは「難病奇病に取り憑かれた子供」などを美談という逃げ道を作りながら、その病気に苦しむ人々の凄惨な様子を容赦なく写しまくりで、大半が密着取材&再現ドラマで、どうかうすると番組全体がそれひとつで終わってしまいます。

見るに耐えないような恐ろしい病気に蝕まれて苦悶している人や子供の様子を、その患部を含めてテレビカメラがこれほど追い回すこと、しかもそれが娯楽番組によって放送されるということに、マロニエ君は強い違和感を覚えるのです。

取材される側は、いろいろな事情もあって納得してそれに応じているのかもしれませんが、少なくとも放送のスタンスとして、この現状をなんとか改善に向けるための問いかけというより、ほとんど視聴率獲得のためのネタとしての扱いでしかなくのは驚くべき事です。

そのいっぽうで、現代は、ちょっとした発言ひとつが問題になり、追求を受け、責任を問われるという意味では、番組出演者もうかうか自分の考えも述べられない現状があるのも事実です。視聴者からクレームがつき、スポンサーからクレームがつけば事の是非を問うことなく、問題発言は削除され、その人は番組を降ろされるという構図が横行しています。

そうかと思えば、こんな悲惨な病気の話ばかりを娯楽番組が全国放送でお茶の間に垂れ流すのは、倫理的にも何の問題もないのか…今の世のルールというものがどうなっているのか、マロニエ君にはまったく見当もつきません。
早い話が、娯楽番組は潔く娯楽に徹するべきで、難病奇病がレギュラーネタとは、娯楽の在り方があまりに倒錯的すぎはしないだろうかと憂慮の念を禁じ得ません。
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ワクワク?

最近は郊外のドライブスポット「道の駅」に代表されるような、各地域の物産などを扱う集合直売所のような形態がずいぶん流行っているようです。

友人から教えられて、いわゆる「道の駅」ではないものの、ほぼそれに近いもので話題の店があるということを聞きました。しかもそこはこのスタイルの店舗としてはなんと全国一の売り上げを誇っているとかで、さぞかし新鮮な食材が山積みなのだろうと思い、先週末行ってみました。

マロニエ君宅から車で1時間ほどかかる田舎の幹線道路の近くにそれはあり、やはり行ってみるとそれなりに遠いなぁという印象は免れません。なるほど大きな建物、広い駐車場など、期待を抱きながら車を止めていざ店内に入りました。

しかし、結果から先に云うとまったくマロニエ君好みの店ではありませんでした。
もともと低血圧で、午前中から外出するということが嫌なマロニエ君としては、どうしても昼食後の出発になり、到着したのは3時をまわっていましたが、肉魚などの生鮮品は大半がなくなっており、あちこちのケースにはかろうじてぽつぽつと売れ残りがある程度で、なんだこれは!?という状況でした。

野菜などはまだいくらかありましたが、いずれにしても完全にここのゴールデンタイムは過ぎ去った後の残りカスといった風情です。
一気にシラケて、普段ならそのまま店を出るところですが、せっかくそのために時間を費やし、ガソリンを使ってせっせとやって来たわけですから、せめて何かを買って帰ろうと無理にあれこれ探し回って、とりあえず不本意ながらカゴ一杯の買い物をするだけはして店を後にしました。

そこでマロニエ君の印象を総括すると、多くの生産者がそれぞれの商品を持ち寄って売っているために、商品の種類や量に一貫性がないこと、売れ残りを嫌ってか、全体のバランスから云うと肉魚のスペースが小さく、野菜などの農産品がむやみに多いようです。
さらに感じるのは、田舎の直売と聞くといかにも新鮮で安いというイメージを抱きがちですが、鮮度はどもかく、値段は決して安くはないということです。

この点に関しては田舎とか地元だからという配慮は皆無で、まさに街のド真ん中と同レベルもしくはそれ以上の強気の価格設定で、まずはがっかりしましたが、考えてみればこれは実はよくあることなのです。

田舎の皆さんが商売をされるときの多くは、都会の価格を参考にされるのか、それと同等の価格設定にしてしまうことですが、利用者にしてみればそんな遠くまで行った挙げ句、街中と同等の値段であればちょっと説得力がないように感じます。生鮮品の価格というのは、産地から消費地への輸送費はじめ、様々な経費がかかってはじめて算出されているもの。

いかにも本来なら業者に支払うべき中間マージンをそっくり自分達の儲けにしているという印象が免れません。スーパーやデパートは、多大な設備投資、人件費、税金、宣伝費など膨大なコストがかかる中で、さらに厳しい価格競争にもさらされ、売価は緻密に定められたものですが、そういう途中経過ぬきに同等の数字だけをもってきた印象です。

ぜんぜん安くないと首を捻っていたら、偶然、ある日の朝刊にここの記事が大きく採り上げられていて、「価格はスーパーより高い」ということがはっきり書かれていました。
それでもお客さんは、生産者が持ち寄る野菜などが日によって違うため「今日は何が出てくるか」というようなことをワクワクしながら楽しみに来ているのだとか。ということはお客さんも比較的ここの周辺在住の方が主流じゃないのかと思われます。

なんとなくよくわからない世界ですが、これはこれで不思議に成り立っているようです。
近ければまだしも、苦手な早起きをし、往復2時間のドライブをしてまで、日替わり野菜を求めてワクワクするなんて、とてもじゃありませんがマロニエ君にはできそうにありません。
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ゼロウォーター

前回の続き。
拭き取り不要のコーティング剤を比較するサイトなどを参考にさせてもらって、ひとつの結論に到達しました。

シュアラスターのゼロウォーターという製品で、このメーカーは自動車用ワックスメーカーの中では老舗中の老舗で、むかしからその品質には定評がありました。
これは自動車大国アメリカの製品で、これに追いつけとばかりに日本製にもいろいろと優秀な製品があらわれたものの、この分野でのシュアラスターのトップの座は揺るぎませんでした。

そのうちに、ワックス一辺倒の時代からコーティングが主流となる時代が到来しますが、そのつどシュアラスターも時代の要請に応じた製品作りをしてきたようです。
そのシュアラスターが送り出した拭き取りの要らないコーティング剤が「ゼロウォーター」というわけで、メーカーも自社の威信をかけて開発した製品だろうと思われます。

使い方はごく簡単で、車を水洗いして水分を拭き取る際に、このコーティング剤をシュッとスプレーし、付属のウエスで拭き上げていくだけです。しかも使用量は50cm四方にワンプッシュとあり、しかも作業が簡単なことは、これまでの洗車の常識からすればウソじゃないかと思ってしまうレベルで、クルマの艶出し作業に於ける、あまりのドラスティックな変革に感覚が付いていけない感じでした。

しかもスプレー式のノズルからは発射される液量は少なめで、さすがに耐えられなくなってそれよりも余計に使ってしまいますが、いずれにしてもこんな呆気ない作業というか、そもそも「作業」と呼ぶのも憚られるような施工で、本当にコーティング効果が得られるものなのか甚だ疑問でした。

ともかく一通り全体にこの作業を施して、そのあとはガラス磨きの仕上げなどをやって、ふともう一度車を見ると、!?!?、たしかにボディがひとまわり輝いていることがわかりました。
それは昔のワックスとも、各種コーティング剤とも違ったタイプの輝きで、皮膜の厚みは感じませんが、もっと底からカチッと光る状態になっており、これはすごい!と思いました。

しかも従来のワックス/コーティング剤とは桁違いの安楽な使用法が最大の特徴でもあり、洗車の度に、水滴の拭き上げのついでのような形で重ね塗りができるので、たちまちゼロウォーターに乗り換えてしまいました。

さて…。
実を言うと、マロニエ君は昔から車のコーティング剤などの中から、これは!と思えるものはピアノにも応用して、それなりの効果を確認してきた面がありました。
中にはピアノ専用などと謳われているものより遥かに優れたものもいくつかあり、長らくピアノのポリッシュなどは買ったためしがないほどこれで間に合っていました。

というのも、車の塗装のほうがある意味ずっと繊細かつデリケートで、その点ではピアノの塗装はがっちり分厚く、塗装というよりはほとんど黒もしくは透明のプラスチックでコーティングされているようなものなので、こちらのほうがよほど頑丈のように感じます。

この分厚いチョコレートみたいな塗装こそがピアノの音色を大いに阻害している面もあるようで、純粋に音だけでいうなら塗装を全部剥いでしまったほうが遥かに軽やかでナチュラルで柔らかな響きが得られるはずです。そういう意味では、とことんピアノの音にこだわり、そのためには何事も厭わないというのなら、ピアノの塗装を全部落としてしまうといいと思います。

話が逸れましたが、このゼロウォーターをピアノに使ってみるか否か、それを思案しているこのごろです。
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拭き取り無し

少し前の事ですが、友人と電話でしゃべっていると、洗車に関して新情報が寄せられました。

マロニエ君はむかし、ちょっとした洗車マニアだったのですが、さすがに最近ではそれを発揮することも激減し、ごくたまに仕方なく車を洗っているに過ぎません。
ちなみにマロニエ君は、身についた愛車精神の観点から、いかなることがあっても洗車機に車を突っ込むというようなことはしませんから、この点だけは今でも洗車=自分での手洗いを貫いています。

むかしは洗車後はワックスをかけるというのが、いわばこの道の常道で、ワックスのかけ方にもさまざまなワザやノウハウがあったものですが、時は流れ、そのうちコーティングの時代がやってきます。

ワックスでは文字通りのカルナバロウでできた固形物を塗装面に薄く塗り、まさに今だというタイミングで拭き上げて深い艶を出すのが目的でしたが、コーティングの時代になると仕上がりの美しさと同時に塗装面の保護という意味合いを帯びてきて、ただギラギラ光らせて喜ぶ時代から、その目的も複合的なものへと変わって行きました。

マロニエ君にも長年の経験から、これだと決めているコーティング剤があって、もうずいぶん長いことこれ一筋でしたが、このところ新製品にはすっかり疎くなっていました。

ところが、友人の情報によると、もはやその手のコーティング剤は使っていない由で、いま流行の「拭き取り無し」タイプを使っているのだそうで、これが話によるとなかなか良さそうで、聞くなり試してみたくなりました。

もともとマロニエ君は、「カーシャンプーと同時にワックス効果がある」とか、「水洗いナシで汚れを落として艶を出す」などという便利型の製品は、自分の経験からろくなものがなく、要するに妥協の産物だということを知っていましたから、この手の拭き取り無しタイプもてっきりその手合いだと思い込んでいて、存在だけは知っていましたが、まったく見向きもしていなかったのです。

しかし、考えてみると使いつけのコーティング剤もまだ販売はされているものの、既にずいぶん古い製品ですから、世の中の他のジャンルの発展ぶりを考えてみても、この分野とてかなり進化していても不思議はないと思われました。

洗車で最も大変なのは、ワックスにしろコーティング剤にしろ、その拭き取り作業にあるわけで、時間もかかり、それなりに集中力と体力を要し、ただやみくもに頑張ればいいというものではなく適正な技が要求される作業で、これを満足に仕上げるのはなかなか大変です。そこが洗車の醍醐味だといえばそうですが、かといってその大変な労力が激減されるのであれば、やはり今の自分には魅力だとも思いました。

友人はマロニエ君が(かつての洗車マニアなので)満足するようなものではないかも…と言いながらも、その製品名などを教えてくれて、久しぶりにすっかりその気になり、いそいそとカーショップへ赴きました。

ところが、店頭には同種の製品があれこれと並んでおり、友人が使っているというものの他にも良さそうなものがいくつかあって、これは即断せず、いったん引き上げて調査をしてから出直すべきだと直感的に感じ、このときはなにも買わずに帰ってきました。

その夜、さっそくネットでこの分野を検索してみると、やはりいろいろと情報が出てきて、中には自分の車を試験台にして、あらゆる種類の「拭き取りなしのコーティング剤」をテストしているディープなマニアのサイトまでありました。
この人は、もちろんシロウトですが、なんとメーカーからも一目置かれて新製品など使ってみないかと申し出られるほどの人物のようです。作業性や艶、耐久力、値段など実に10項目に及ぶ採点までしていて、さすがに参考になることが満載でした。

驚いたことには、洗車そのものを楽しむクラブまで存在していて、いやはや、どの世界も道も極めるということはなんと奥深い、楽しい、そして馬鹿馬鹿しい世界かと、呆れつつも共感させられて笑ってしまいました。
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プロ意識の奥行

ここでは必要ないと思われますので、敢えて固有名詞は控えます。

それでもわかる人にはわかる事でしょうが、そのときは、あくまでマロニエ君が個人的に感じたことということで寛大に受け止めていただけたらと思います。

先ごろ日本人のさる有名アスリートが活躍の拠点を海外に移すべく、大変な注目の中、日本を旅立っていきました。
その様子をニュースでチラッと見ましたが、空港に詰めかけた大勢のファンに対する謝意やサービスはおろか、これという反応や挨拶もなく、この人物はこのような報道カメラの砲列と夥しいファンの歓声は、自分にとって空気のように当たり前だと思し召すのか、不機嫌そうにサングラスをかけ、黙して昂然と搭乗ゲートへと歩を進めて行きました。

マロニエ君が以前聞いた話では、野球選手がメジャーリーグなどへ移籍して、はじめに彼我の違いに驚かされるのは、彼の地での選手達に科せられたファンサービス義務の厳しさだということでした。
プロたるものはファンに対する多くの責務を負っており、とりわけ人気プレイヤーともなるとその義務の度合いもいっそう高まるのだそうで、いかなるスター選手といえども、ファンあってのプロ活動であり、ファンを大切にしなくてはいけないという鉄のルールが身体に叩き込まれているといいます。

日本人選手にはまるでそういうプロフェッショナルとしての厳しさが見受けられず、むしろ逆のような印象です。有名プレイヤーになればなるほど笑顔は消え去り、ことさらに不遜な態度で、ファンとは身分違いのようにふるまうことが一流プレイヤーの証しのごとくで、まるで封建時代のお殿様と民衆の関係のようです。

件の選手は、野球でないためかさらにその傾向が際立つ印象で、それがスターとしての自分のステイタスであるかのようですが、日本人はファンもマスコミもそのあたりに関しては寛大なのか、だらしがないのか、いずれかわかりませんがとにかくそれでまかり通る社会のようです。

ところが、一歩海外へ出れば、そんな日本だけで許される慣習は通用しないと見えて、到着後さっそく厳しい言葉が現地の新聞に踊ったようです。

「彼にはスーツは似合わない」「あのスーツが良くないのではなく、スーツが彼には似合わない」「もっとスポーティな服装のほうが似合うのでは」「あのサングラスはなんだ」「まるでヤ○ザのようだ」「○○(過去の日本人選手の名前)のほうがまだ洗練されていた」などと、はやくもズケズケと手厳しい言葉が連なったのはちょっと痛快でしたが、この程度の批判をされるほうがむしろ自然であって、却って日本での過剰な扱いの不自然不健全さが浮き彫りになるようでした。

あとから知って驚いたことに、なんとこの方は、本業のスポーツの次に大事なのが自分のファッションなのだそうで、高額なブランド品に身を包み、ヘアーのお手入れだけでも数時間をかけているというのですから驚倒しました。
その本業の次に大事なものを、ファッションの国のマスコミからいきなりダメ出しのカウンターパンチを喰らったわけですから、なんともお気の毒といったところです。

でも、そもそもスポーツの選手というものは、大衆相手の人気商売なんだから、周りから勝手放題なことを浴びせられるのもいわば仕事のうちで、日本のように腫れ物にさわるように、高いところへ奉って有り難がって、なにひとつ率直なものが言えないということのほうが、よほどどうかしていると思います。

熱烈なファンともなると、応援のためには会社を休み、高い航空券を買って海外にまで赴く人も珍しくないそうで、瀬戸内寂聴さんではありませんが、そんな無償の愛をありがたいと骨身に刻んで粉骨砕身励むのがスター選手のプロ意識であり、社会もそれを選手に教えていく環境が必要だと思います。
つまりこの選手個人というよりも、ずっとそういう態度を容認してきた日本のマスコミとファンの甘やかしにも責任の一端があるように思うのです。
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休日過多

昔に比べて休日があまりに多いのは、ときとして有難味がなくなってしまいますが、多くの人はこの多休(造語)を本当に楽しんでいるのでしょうか…。

マロニエ君の子供のころは、学校はもちろん、会社やお役所など、土曜も休みではなく、つまり世の中全体が一週間のうち6日間を仕事や学校に費やすのが当たり前でした。
そのうえ祝日も今よりも少ないし、おまけに日曜と重なっても月曜への振り替えなどもありません。

週末といえば土曜のことで、日曜日というわずか一日の休みを大事に楽しく過ごしていた事がウソのように、最近は休み休みの連続で、週休二日が定着するようになった頃から社会の活気もだんだん失われたきたように感じてしまいます。
むかしの日本人は「働き蜂」とか「蟻のよう」などとさんざん揶揄されながらも、せっせと勤勉に働くことで国や社会を盛り立て、一方では仕事一辺倒だの余裕がないだのと非難の的にもなりました。

しかし、もともと日本人は欧米人のようにバカンスの習慣はないし、彼らとはしょせん遊びのケタが違います。よって長期休暇を心ゆくまで楽しむようにはできていない民族のようにも思えるのです。長い歴史を通じて民族の身体に染み込んだ習慣や感性は、一朝一夕に変更できるものではありません。
日本全体が一生懸命働くことが美徳とされていた時代のほうが、どうも日本人には合っていたし、同時に現代のような水面下での苛酷労働なども少なかったように思います。
そしてなにより、世の中がずっとほがらかで活き活きしていたようにも感じます。

今回の年末年始に至っては9連休という長大なものとなり、やっとそれが済んだかと思ったら、わずか一週間を挟んで、またしても3連休ですから、ここまでくるとさすがにウンザリです。

とりわけマロニエ君などは生来のナマケモノですから、本来は休みが多いことは嬉しいはずだし、仕事など少ない方が嬉しいのが本音です。しかし、ずっとやらないで済むものならそれも大歓迎ですが、もちろんそうもいきません。嫌々ながらやっている身にすれば、嫌なりにもリズムというものがあって、やっとこさ平日の流れに慣れてきたかと思うとすぐまた休みになり、そのたびになんとか乗ってきた調子は寸断され、また休み明けの怠さへリセットされてしまうのは気構えの上でも収まりが悪く、なんとかならないものかと思います。

とりわけ12月の半ばから1月の半ばまで見ると、特殊な職業の方は知りませんが、カレンダーの上では休みの日数のほうが多いという信じ難い状況で、これで景気回復だのアベノミクスだのといっても虚しいような気がします。

多くの企業なども、やっている仕事ははかどらず停滞して先に進まないので困るとか、この休みの多さがそもそも不景気の要因のひとつにもなっているというような話を聞いたことがありますが、いまさらながらそうだろうなぁ…と思います。
また収入面でも、遊ぶと働くでは出納は正反対ですから、いいかげん仕事のほうがいいと思われる方も実は多いのではないかと思います。

プライベートでも、昔とはちがって大家族は激減、大半は少ない家族構成であるばかりか、高齢者にいたるまで一人暮らしをしておられる方なども想像以上の数に及んでいると聞きますが、みなさんはいったいどんな風にしてこの多休の日々を過ごしておられるのでしょう…。

結局、この休みの多さも、社会の不健全化の一因になっているような気がします。
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音楽もごちそうさん

昨年のNHKの朝ドラは『あまちゃん』がたいへんな人気を博し、大ブレークといってもいい盛り上がりをみせたので、次の番組はどうなるのかと思っていましたが、大阪NHK制作の『ごちそうさん』も個人的には大いに楽しんでいます。

その『ごちそうさん』ですが当初から「おや」と思うことがありました。
番組内で流れる音楽のことです。
というか、マロニエ君はこれを何というのか名前を知りません。もちろん主題歌のことではなく、ドラマの進行と合わせて挿入される効果音的な役割を担う音楽のことです。ネットで調べたらわかるのでしょうが、面倒臭いので調べていません。

このドラマの雰囲気とは打って変わって、多くが弦楽器のみ(管のときもあり)で奏でられるもので、ときにクァルテットのようでもあり、ときにはもっと大勢の弦楽合奏のようにも聞こえます。

それも15分の番組中の後半に集中している印象で、内容がだんだんに佳境に入ったり、なにか秘密めいたことが出てきたり、主人公が窮地に立ったり、意外な展開が起こったり、見てはいけないものをみてしまったりするようなときに、弦楽合奏が意味深かつ効果的に入ってきて視る者の気持をぐいぐいと押し上げていきます。

マロニエ君の知る限り、こんなきれいな音楽に支えられた朝ドラは初めてのことで、この点でも接する楽しみがもうひとつ増えたように感じています。だいいち、多くの効果音的な音楽が弦楽合奏というのはやっぱり品があるし、それを他愛もないドラマの喜劇性と組み合わせることによって独特な効果を生みだしているように思います。

とりわけ、いつものように家族5人がそれぞれの思いを抱えながら緊迫した食事時間を過ごしているようなとき、弦のアンサンブルは静かにはじまり、しだいに険悪な事態になったり、あるいは重大な事実が発覚すると、一気に音楽もそれに呼応して高まりをみせ、各登場人物のそれぞれの困惑、驚き、してやったり、開き直りなどの表情と音楽が一体化していやが上にも盛り上がりをみせます。
まるでモーツァルトのオペラブッファによくある幕切れの多重唱の場面のようでもあり、それが必要以上に可笑しさをそそったりしますが、製作者はよほどオペラが好きなのだろうとも思わずにはいられません。

タンゴ調だったり、はたまた、どことなくR.シュトラウスの『ばらの騎士』を思い起こさせるときがあり、そもそも『ばらの騎士』はシュトラウスがモーツァルトのようなオペラが書きたくて書いたという逸話もあるぐらいですから、なんだかそのあたりを狙っているのかもしれません。

それぞれの登場人物も、性格の振り分けがオペラ的に明快で、主人公夫婦がいつも困惑し必死で思い詰めたような表情をしているのに対して、いじわるや不道徳者などが周りを取り囲んで、次々に可笑しなトラブルを巻き起こすのはオペラブッファで採り上げられる、市井の題材そのものみたいな気がしてきます。

こういうことを思わせるのも、音楽の力に負うところが決して小さくないことの証明ですね。
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イベント指向

お好きな方には申し訳ないですが、個人的な好みということで許していただくと、マロニエ君にとってNHKの紅白歌合戦はどうしようもなく苦手なもののひとつです。

当然ながら毎年これをわざわざ視ることはしませんが、テレビの電源を入れると、チラッと見えたりすることがあったりで、そのたびにウワッと驚いてしまいます。
演歌や歌謡曲が苦手ということもありますが、それより、あの紅白の舞台上に繰り出されるやたら派手々々の、老若男女、都市から田舎までフルカバーしようというNHK的娯楽の世界がどうも苦手で、さらにはそれが大晦日の日本の茶の間の相当数を牛耳っているところがまたたまりません。

思い起こせば、マロニエ君の子供のころは紅白歌合戦の全盛時代だったように思いますが、その後は時代の移り変わりとともに、民放でも打倒紅白というような気運が高まり、紅白以外は「裏番組」といわれながらも、その時間帯を各社なんとか対抗できる番組を作ることにしのぎを削っていたようでした。

さらに時代は流れ、ついに紅白は衰退の道を辿りはじめたと記憶しています。
紅白はあくまでも演歌や歌謡曲が国民の娯楽として高い位置にあることを前提として、大晦日にその一年の総決算として、このジャンルの頂点に君臨する娯楽歌番組の最高峰だったわけですが、世の中が多様化して飽満になり、演歌や歌謡曲の人気が下降線になると、紅白そのものの存在意義すら危ぶまれるところまで行った時期がありました。
社会の価値やニーズもすさまじいスピードで変化し、視聴者の世代も代替わりして、もはや年の瀬の紅白歌合戦で無邪気に喜ぶような時代ではなくなったという新しい流れでした。

ところが、いつごろからかはわかりませんが、再び紅白は不思議な感じに復権の兆しを見せ始めてきたように思います。
世の中からある種の活力がなくなり、人々がより画一化された動きを取るようになったからなのか、一時は「多様化」の言葉の通りいろいろな遊びや楽しみの在り方があふれていましたが、それさえも衰退しはじめ、世の中はやたらとイベント参加型の乾いた時代を迎えたように思います。

要は遊びまで人から与えられる規格品のようになり、本当の意味での娯楽や享楽の醍醐味がなくなります。
イベントとはしょせん主催者が作った遊びの枠組みですが、それに受身で参加することで満足してしまう事があまりに氾濫しているようにも感じるのはマロニエ君だけだろうかと思います。
各地各所では大小のイベントが目白押しで、昔なら見向きもされなかったようなものまで不思議なくらい人々が押し寄せ、参加すること、あるいは参加したことを楽しんでいるようです。

これは何かを主体的に選び取って熱心にあるいは奔放に楽しんでいるというより、一般に「楽しい」と規定されているものに自分も関わり参加するというカタチを得ることで安心し、その安心は満足や達成感に拡大解釈されているような気配を感じます。

紅白歌合戦も、本当に登場する歌手や歌を堪能しているというより、年末の風物詩としての大イベントに「視ることで参加する」というカタチを手に入れようとしているだけの人も案外多いのかもしれません。
44.5%というとてつもない視聴率の数字を視ると、本心ではどうでもいいと思っている人でさえ、視るように無意識に追いつめられてはいないのだろうかと、つい変な勘ぐりをしてしまいます。
もちろん、ただヒマだから…という単純な動機の方もいらっしゃるでしょうが。
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2014年始動

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

毎年、新年の最初にどのCDを聴くかということにささやかなこだわりを持っていますが、今年は静かにスタートしたいという気分で、年末に購入したイザベル・ファウストのヴァイオリンによるバッハの無伴奏ソナタ&パルティータから、ソナタ第3番で始めました。

当代きってのトップヴァイオリニストの一人であるイザベル・ファウストのバッハは、以前から必須の購入候補でありながら、何かの都合でつい順送りになっていたために、年末ついに手にしたときは聴いてもいないうちから目的を達成したような気分でした。

以前、イザベル・ファウストの演奏に初めて接したときは(ベートーヴェンの協奏曲とクロイツェル)、慣れの問題もあってか、クオリティは高いけれども、なにやら妙に落ち着き払ったような演奏という印象を受け、それが少々無愛想というか可愛気がないような気がしたものです。
しかし、繰り返し聴いていくうちに、しだいに彼女の透徹した演奏スタイルというものが了解できてきたのか、聴く毎に印象が変化していきました。

ドイツの演奏家ということもあってか、熱っぽい語り口の演奏ではなく、あくまでも音楽の枠組みがきっちりと張り巡らされ、そこに彼女なりの練り上げられた音楽が理知的に組み上がっていくというもので、正確な設計図をもとに確かな工法によって建てられた繊細な建造物という印象です。
ただし、イザベル・ファウストのすごいところは、それが決して四角四面なものでは終わらず、あくまで自然体の魅力ある演奏になっているところが、いかにも現代の好みにも合致して高く評価される所以だろうと思います。

深い精神性と清らかな静寂感、ピリオド奏法も取り入れ、すみずみまでゆるがせにしない第一級の演奏精度とくれば、どこか日本文化にも通じるものさえ感じます。その音色も艶やか一本なものではなく、自然な美音の中にどこか枯れた響きのあるところも日本人が好むものかもしれません。

純粋な好みから言うと、やや整い過ぎという面もなきにしもあらずですが、これほどの精緻な演奏でありながら、固さや息苦しさがまったくないところは大したものだと思います。


新年にあたって少し話題を変えますと、昨年末に視たテレビ『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した櫻井よしこ女史が、「人生ってのは迷わないでひたすら行かなくちゃいけないときがあるんですよ。そのときに迷わないで行けるかどうかが、その人の人生を決めてしまうんです。」と言い、なるほど尤もなことだと大いに膝を打ちました。
実行は難しいですが、極力迷わず前進していきたいものだと思います。

本年もよろしくお願い致します。
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