心理

過日、知り合いの先生の教室のピアノ発表会があり、手伝いにもならいない程度のお手伝いをさせていただき、子ども達のかわいい演奏を聴かせてもらいました。

とても純粋で無垢な演奏が次々に披露されましたが、それとは別に、ここで目にした人々の行動にもついつい注目させられました。

会場設営は先生のご夫妻がされ、出演する子ども達が待機するための椅子がピアノの側に並べられ、あとはそのご家族などのための小型の椅子がランダムに置かれました。そして椅子が足りない場合はカーペット敷きであることから床に座っていただこうという趣向です。

ところが人の動きというものはそうそう思い通りにはなりません。
時々刻々と集まってくる家族連れのみなさんは、会場の最後部にある入口から入ってくると、ほとんどの方ができるだけ後ろに陣取ってしまいます。
これが続くと、最後部だけが混み合って、中ほどは空いているという偏った状態になります。

マロニエ君は入口すぐのところに立っていたために、来られる方々には、「中のほうへどうぞ」と何度も促すのですが、口ではハイといいながら、やはり混み合った後ろの中になんとか潜り込もうとされる方がほとんどでした。
重ねて「奥へどうぞ」と言いますが効果はなく、後ろがどうにもならないことがわかると、やむなく前に移動されますが、それでもほんのわずかで、とにかくできるだけ後ろがいいという強い意志が感じられました。

中には腰を屈めながらも珍しく前に進む方いらっしゃいますが、それはたまたま前のほうにその方のお知り合いがおられて手招きがあったりしたためで、そういう事情のない方は窮屈でも後ろの混雑の中へ分け入ります。

結局、中ほどはそれなりのスペースがあるのに、うしろ1/3ほどは満員電車のような状態で、もうどうすることもできません。みなさんよほどの慎み深い方ばかりのようですが、演奏がはじまると少し事情が変わります。ほうぼうからカメラやビデオを持つ腕がコブラの頭のように立ってきて、とくにビデオの方は良いポジションを得ようと、左右にしきりと位置を変えてこられます。

ついさっき奥へどうぞと何度もおすすめしても遠慮がちに頑として前には行かれなかった方が、ことビデオ撮影となると別人のようにアクティブな動きになり、最後は椅子に座っている女性の頭の真上に最良のポジションを定められたようですが、写真と違ってそれがずっと続くわけですから、下の方もかなり気になっただろうと思います。
ここには人の不可思議な心理の働きがあるのは疑いようもなく、大勢の中で自分が目立つ前方には行きたくないし、みんなが自然に後ろに固まっていれば、なおさら自分もそちらがいいという気持に拍車がかかる。でも写真やビデオとなると、一転して良好なアングルで写したいという別の願望が出て、相矛盾する気持が渦巻く中でこういう状態が生まれるのだろうと思います。
マロニエ君なら、後ろなら後ろでおとなしくしているか、カメラやビデオ撮影という目的があるのなら、はじめから良いアングルが確保できる場所に座るか、どっちかに定めると思います。

いったん会場に人が入ると、なかなか現場で対策が打てることではないので、前もってできるだけ前方に椅子を置き、個人の意志とは関係なく人の流れが中央へ来るように持っていかなくてはいけないのだということがこの経験でよくわかりました。

電車でもエレベーターでも、中は空いているのに、ドアの近くだけ揉み合うように人が集まるというのがありますが、まあそれは乗り降りという実際的な問題もあるのでまだわかりますが、ピアノの発表会でもそういう現象が起こるというのは思ってもみませんでした。

専門的なことはわかりませんが、この状況もいわば集団心理のひとつだろうとマロニエ君の目には映りました。ただし、外国人ならどうでしょう。なんだか今どきの日本人特有の現象のような気もするのですが…。
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思わぬところで

装飾目的にヴァイオリンを買うことは、音楽好きの端くれのやることではないとの判断から一度は諦めていたのですが、思わぬところからチャンスはやってくることになります。

マロニエ君がたまに立ち寄る、とあるショッピングモールの中には、今どきの不景気な世相を反映してか、以前は雑貨と家具を扱っていた店舗が撤退して、知らぬ間にリサイクルショップになっていました。

実を云うと、そんな事情と知らずに入店したところ、なんとなく気配が変わっているなぁと感じたことから商品がリサイクル品だと気が付いたぐらい、パッと目はきれいなものばかりを売っているのですが、ここに一挺のヴァイオリンがケースに入った状態で売られていました。

いろいろな家具や電気製品や雑貨などにまざって、ちょっとした楽器が集められた小さいコーナーがあり、ほかにはギターやフルートなどもあり、ヴァイオリンは子供用の1/8と大人用の4/4があったのですが、なんと子供用は一万円近くするのに、大人用はわずか二千円でした。

ものはためしという気分で手に取ってみてみたのですが、とてもそんな値段が信じられないほどきれいで、キズもなくそれほど使い込まれた様子もありませんでした。ケースには弓や松脂なども揃っていますが、よくみるとヴァイオリン本体にはE線のみなくなっていて、弦が3本しかありません。
どうみても新しく弦を張ったりするような気配はなく、このE線がないことが価格を著しく安くしているのだろうと察せられました。

一瞬どうしたものかと迷いましたが、今どき二千円で何が買えるかと思うと、ほどなく決断がついてヴァイオリンを慎重にケースに戻し、それごとレジに持っていきました。
楽器のことなどなにもわかりそうにもない女性が「いらっしゃいませぇー」といいながら中にある値札を見ながら、「弦が一本ありませんが、よろしいですか?」と確認してきました。
もちろんハイと答えて支払いを済ませて店を出ました。

生まれて初めて、ヴァイオリンのケースを手に持って外を歩きますが、ヴァイオリンというのはその圧倒的な存在感とは裏腹に、なんて軽いんだろうと云うのが率直な印象でした。

帰宅して恐る恐る開けてみると、そこには店で見た以上に立派で美しいヴァイオリンが悠然と横たわっており、慣れない手つきで取り出しますが、本当に心もとないぐらい軽くて小さな楽器であることに却って感激してしまいました。
名器ともなると、こんな小さな楽器が、ステージでは500kgもあるコンサートグランドと互角に張り合って、あれだけの素晴らしい音楽を奏でるのかと思うと、俄には感覚がついていけないような不思議な気がするばかりでした。

それにしても、なんと美しい楽器かとしみじみ思いました。その究極のデザイン、女体にも例えられる飽満かつ繊細なカーブの織りなす魅惑の造形は、いやが上にも見る者の目を引き寄せ、ぐいぐいとその世界に吸い込んでいくようです。

弦を一本細工して、さっそく壁にかけてみましたが、一気にあたりの雰囲気が変わり、繊細なのに凛とした佇まいは見ていて飽きるということがありません。
芸術的で、色っぽくて、清々しく、華奢で、堂々としていて、様々な要素がこんなに小さな形の中に凝縮されているようです。
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壁飾りには…

これまでにヴァイオリンの話題を何度か書きましたが、楽器店などでガラスケースの中に並べられたヴァイオリンを見ていると、小さいけれどもなんという蠱惑的な形をしているんだろうと思います。

ニスの色もいろいろある中、とくに赤茶系の透明感と深みのある色彩を帯びたヴァイオリンは、なんだか心が引き込まれるようで、つい手にとってみたくなるものです。
ヴァイオリンはまったく弾けないマロニエ君としては、さすがにこれを見たいと店員に申し出たこともないし、そんなひやかしをする意志も勇気もありません。
ときおり楽器店の売り場で足を止め、ガラス越しにじっと観賞するだけです。

天神のいくつかの楽器店に展示されているヴァイオリンは、価格にして下は10万円を切るものから、上はせいぜい4〜50万円ぐらい、高くても100万円以下までのもので、店によっても異なりますがだいたい4〜5挺は展示されています。
場合によってはさらに、子供用の小さな分数ヴァイオリンが段階的にならんでいたりしますが、そのいかにも繊細な佇まいや音楽そのものみたいなその美しい形はついつい欲しくなってしまいます。

海外のインテリアの写真などでは弦楽器を壁の装飾として使っているものを何度か見たことがありますが、なんともいい雰囲気を醸し出していて、下手な絵や写真を並べるよりよほど素晴らしい効果を出していたりします。

それからというもの、自分はヴァイオリンは弾けなくても、室内装飾として安い楽器を手に入れるということはあり得るという小さな意識が心の片隅に残ることになりました。
中国へ行くと、さりげなくヴァイオリンショップがあって日本円にして2〜3万ぐらいからたくさんあることもわかり、一度などはかなり本気で買って帰ろうかと思ったこともありますが、やはりもう一歩踏み出すことができずに終わってしまいました。

その後はネットオークションなどを見ていても、どうかすると1万円を切るぐらいから本物のヴァイオリン(中古ですが)が出品されていることがわかり、こういう下限の世界では、やはり構造が簡単なぶんピアノとはずいぶん違うものだと思います。もちろん品質は価格が語っているわけで、それなりの品だろうことは推して知るべしですが、それにしてもこんな値段でまがりなりにも本物のヴァイオリンが買えるというのはなんとも不思議な感じです。

ヴァイオリンは数多い楽器の中でも妖しさというか魔力のようなものがあるという点ではダントツだろうと、とくに最近思います。ストラディバリウスを頂点に、同じかたちをした楽器で、これほどまでに凄まじいピンキリの世界が広がっているジャンルというのが他にあるだろうかと思います。

壁の装飾としてですが、インテリアとしてなら音はどうでもいいわけで、ここでまた何度か買ってみようかという誘惑に悩んだことがありますが、やっぱり断念が続きました。
その理由は、マロニエ君のようにまがりなりにも音楽を愛する者としては、たとえ安物とはいえヴァイオリンをただインテリアの目的だけで購入し、それを壁にかけて楽しむという行為に抵抗がなくもなく、早い話がやってはいけないことのような気がしてきたからです。

亡くなられた俳優の児玉清さんが最後まで司会をつとめた「パネルクイズ・アタック25」のスタジオにも、以前のセットにはどういう意図からかヴァイオリンが何挺もつり下げられていました。

音楽とは関係のないクイズ番組になぜヴァイオリンなのかは意味不明のままでしたが、ともかく演奏以外の使われ方をする楽器というのは見ていて心地よいものではなく、そういう理由で購入を踏みとどまってきたのですが、あれこれのヴァイオリンの本を読んでいると、知らず知らずのうちに誘惑されてしまうようで、そこがこの楽器の生まれもつ魔力なんでしょうね。
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カサカサと潤い

今年の前半にわけあって家のエアコンを入れ換えたのをきっかけに、この冬から再びエアコン主体の暖房に切り替えることになりました。

「再び」というのは、以前も基本はエアコン暖房だったものの機械全体が古びていたので、石油ファンヒーターを常用していたのですが、灯油を数日に一度、ポリ容器を車のトランクに積んでスタンドへ買いに行かなくてはならず、その煩わしさだけでも馬鹿になりませんでした。

エアコンはわりに強力なものを取りつけたので能力的に不足はないのですが、その代償として恐ろしい勢いで湿度が下がってしまいます。
これでは温かさは得られても心地よさはないし、喉はカラカラ、皮膚も乾燥気味で痒くなるし、なによりピアノが心配な状況に陥りました。この冬のはじめから、湿度計の針は連日40%を割り込むようになり、慌てて加湿器を引っぱりだしましたが、これをフル稼働させても過乾燥には追いつかず、寒さが募るにつれてエアコンの出番が増えると加湿器を回していても40%台に届かず、ついにもう一台、加湿器を買い足すことになりました。

この一週間ほどは常時2台の加湿器のスイッチが入っていますが、それでもどうにか40%強にもっていくのがやっとです。しかもそれほど大型でもないためか、一日に2台ぶん水を何回も補充しなくてはならなくなり、部屋に入るたびに加湿器の水量をチェックするのが、すっかりこのところの日課となってしまいました。

この状態で数日経過してみると、多少は部屋の温湿度が改善されて過ごしやすくなりましたが、自室に戻るとまたカラカラで、こんどはこっちが耐え難くなり、やむを得ずまたまた小型の加湿器を買ってしまいました。

こうしてみると、石油ファンヒーターは灯油を買って入れるという面倒な問題があるものの、温かさは心地いいし、燃焼時に適度な湿気も発生させるらしく、過度の乾燥状態になることもなく、なんだか懐かしいような気がしています。
プラスチックや人工素材より木のほうが身も心も落ち着くように、暖をとるにしても、やはり電気で作られたカサカサの温風より、たとえ石油ファンヒーター程度でも、灯油を燃やし火をたいて作り出す温かさのほうが数段心地よいという当たり前のことが、いまさらのようにわかりました。

だったら以前のように石油ファンヒーターに戻せばいいのですが、そうすると、またあの寒い夜の灯油買いの往復が始まると思うとそれはそれでウンザリで、おまけにエアコンのほうがはるかにランニングコストが安いらしいこともわかると、そうまでして敢えて石油ファンヒーターを使うというのももうひとつ決断がつきません。

このように、現代人は本当の心地よさはどこにあるかをちゃんと知っていながら、それを犠牲にしてでも、便利さや低コストに走ってしまうという浅ましさと愚かさがあるのが自分でわかります。結局それにかかる手間ひまや面倒臭い労働、さらにはコストを考慮することで、つい大事なものを犠牲にするという業のようなものだろうと思います。

ましてやそれがビジネスともなれば、原価はもちろん、手間暇、効率、時間などもすべてコストとして換算され、それを前提とした厳しい利益の追求になるわけで、普及品のピアノなんぞが木の人工乾燥はもちろん、人工素材を極限まで多用して製造されるのは当たり前という感覚がひしひしと伝わってくるようでした。

その点、むかしは何事においても選択肢がなかったため、ごく自然に一定の質を得られたという一面があり、そのために資源の無駄遣いもしたでしょう。でも、お陰でなんとなく社会全体がおだやかで潤いがあったような気もします。
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現代の神業

ほかの方はどうだかわかりませんが、マロニエ君にとっては恐ろしいと感じる光景を目にしてしまいました。

11月28日に『ふしぎ』というタイトルで、「近ごろの若い人は、能力の使い方が昔とは根本的に違ってきているのか…」という出だしで駄文を書いていますが、それを証拠づけるようなことを目撃してしまったのです。

日曜の夜、車で出かけたときのこと、信号停車していると、助手席の人物が「見て見て、すごいよ、ほら!」というので左に並ぶ軽自動車のほうに目をやると、運転席に座る若い女性が、赤信号中にスマホでメール打ちをしています。
むろんただそれだけなら驚きもしませんが、すごいのはそのメール打ちの途方もないテクニックでした。

右手にスマホをかざして、人差し指から小指までの4本はスマホ本体を支え、画面上で動いているの親指だけなのですが、その動きの猛烈な早さは見ているこちらの目がついていけないぐらいの超高速でした。まるでキツツキか機関銃のように、親指一本がめまぐるしい速度で、しかも正確でとてもなめらかに動いていることがわかり舌を巻きました。

この速度の中でちゃんと目的をもって文字を選らび、句読点を打ったり、漢字変換したり、場合によっては絵文字や記号などを挿入しているのかもしれませんが、とてもそんな作業とは信じられないような神憑り的な動きでした。やみくもに打っているわけではない証拠に、その親指は画面下部を上下左右、斜めに駆け回り、ときどきは連打しながら、親指だけがまるで別の生き物か、はたまたコンピュータ制御の動きのように見えました。

さらに凄味があったのは、それだけのことをやっているにもかかわらず、その女性にはまったく緊張とか集中しているといった様子もなく、至ってリラックスした様子であったし、ちょっと言葉は悪いですが、顔の表情などはむしろ阿呆的にゆるんだ表情で、これがこの女性にとってまったくノーマルの、平常の動きなのだと云うことが察せられました。

子供のころからケイタイのキーに触れて育ち、スマホのような新鋭機種が出てくれば、それをたちまち使いこなすのは苦もないことなのでしょうし、メール打ちなどそれこそ一日も休むことなく、それも日がな一日やっているでしょうから、それが自然の猛稽古にもなり、結果的にこんなとてつもないテクニックを身についたということだろうと思います。

あの尋常ではない指の正確な動きを見ていると、ピアノの練習でもすればさぞ上手くなっただろに…と思いますが、このように若い人は自分の豊かで瑞々しい能力を、あまりにも意味のないことに投じているように思えて、なんだかやるせない気分になりました。
もちろん、本人にとっては意味は大ありでしょうし、「ケイタイやスマホは命の次に大事なもの」などと高らかに言って憚らない世代ですから、なるほど命の次に大事なもののためには、エネルギーも惜しみなく投じるのは当然のことなのかもしれませんが。

最後にダメ押しで驚いたのは、信号が青になり二台ともスタートしましたが、なんと車が動いても彼女はメール打ちを止める様子もなく、しかもまわりとまったく遜色ない快調なスピードに乗せて走っています。その後、道は立体交差の長い地下部分に入りましたが、そこでもまったく様子は変わることなく、左にウインカーを出したかと思うとサッと一車線分左に寄り、そこからスイスイと側道に入って上の道に出ていきました。もちろんスマホ操作は続行しながらです。

この時の速度は約70km/hほどですが、運転、メール打ち、ルートや交通の状況判断、文章を考えるなどを同時に(しかもハイスピードで)やっていたわけで、これはものすごい高等技術だと驚嘆させられました。
それにひきかえ、何度か書いた、トロトロ走りをする若い男性なども同世代だろうと思うと、この差はいったい何なのか!? もうこの世に男の役目はないという兆候のあらわれかもしれない気がしました。
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人の本性

車検の時期が近づくのは車を持つ者にとって誰しも憂鬱なことだと思います。

マロニエ君の古いフランス車も今月が車検で、いつも自ら検査場に出向いてユーザー車検で通しているのですが、車検場を取り仕切るのはすべてお役人で、彼らはどんな小さなことでも問題点だと認識したが最後、こちらがくだらないと思うようなことでも絶対にお目こぼしはありません。

毎度のことながら緊張の連続で、いつも心身ともにヘトヘトになるのがマロニエ君にとっての車検の常です。今回もいろいろあって、半日がかりでやっと全項目に合格印を取り付け、残るは書類の提出のみという段になって、最後の最後にとんでもない目に遭わされました。

陸運支局の事務所前に車を止め、検査終了の書類を窓口に提出したところ、足りない書類があると指摘され、あわてて車へ取りに行ったときのこと、マロニエ君の車の前に白いクラウンが駐車しようとバックしていましたが、その動きにぶつかる気配を感じ、慌てて駈け寄り声を発しながらそのクラウンの後部ボディを叩いて、止まるように合図を送ったのですが、間に合わずにこちらの車の鼻先とクラウンのリアバンパーがわずかに接触してしまいました。

中から初老の男性が降りてきて、「当たった?」と云いながら後ろへまわり、接触部分を見るや苦笑いしながら「あー、すんません」といいました。
当方のバンパー先端に付いているナンバープレートが、ステーごとクラウンのリアバンパーに軽くめり込んでいましたが、だいたい今どきの車のバンパーは柔らかい材質でできているので、大したことはないことはすぐにわかりました。
さて、事務所内では窓口の人が書類を持ってくるのを手を止めて待っているので、とっさにその書類を持っていくことを優先させたのですが、これがいけませんでした。

再び現場に戻ると、そのクラウンはすでに30cmぐらい前に移動し、幸いキズらしきものはありませんでしたが、なんとそのドライバーの口から出た言葉は、「どこも当たってない。だいたいね、アンタの車が線から出てるからいけない(たしかにちょっと出てはいました)。自分はいつもここに止めるから慣れてるし横のラインを目安にして止めるようにしている。そっちの前がはみ出しているからで、アンタこそ止め方を注意しなくちゃいかんよ」と昂然と言い立ててきたのには耳を疑いました。
線から出ていればぶつけてもいいという理屈です。

「その上、自分の用事で勝手に俺を待たせた」などと思いもよらないことを次々に言い始め、接触直後とは態度がまるで別人です。目撃者も数人いたのですが、みんな自分の用で動いているので、そうそう一箇所に留まってはくれません。
「なにを言っているんですか?当たっていたのは、さっきアナタも見たじゃないですか!」というと「いーや、当たっていなかった」「当たってましたよ!」「当たったという証拠があるのか!」とほとんど居直ってきたのには、さすがに怒りと恐怖が同時に襲ってきましたが、その男性は「証拠がない!」と云いながら、さっさと目の前の建物内に消えていきました。

マロニエ君はキズもないようだし、あったにしてもわからない程度なので、このまま和解する心づもりだったのですが、お詫びどころか、黒を白だと言い張るあまりの無礼な態度には、さすがに怒りが収まらず警察に通報しました。
しばらくして警察官が2人やってきて、その男性を探し出して事情を聞きますが、警察が来ておどろいたのか、事実とは真逆のことを淀みなくベラベラと警察官に説明するスタミナにはさらに仰天させられ、人はこんなにもあからさまなウソがつけるものかという驚きと、言い知れぬ虚しさが身体全体を突き抜けるようでした。

そもそも当たっていないのなら、こちらはなんの目的で警察を呼んだりするでしょう。人の目もあり、そんな自作自演をすることになんの意味も合理的理由も利益もありません。

警察官は二人ともこちらの説明に当初から納得してたようで、マロニエ君とその初老男性を引き離し、ずいぶん根気よくその男性相手に説得していましたが、1時間近く経った頃、ついには「当たったかもしれない」というところまで発言が変わり、最後はだらしない笑みを浮かべて「すいませんでした」といいましたから、これでお開きにしました。
警察官を含めた4人のうち、その男性だけがまっ先に薄汚れたアイボリーのクラウンに乗り込み、サーッと駐車場を出ていきました。

きっとその男性は、こちらが「外車」だと見て、高い修理代などを請求されるかもという恐れが頭をよぎり、マロニエ君が書類を出しに走っていった間に、キズがないのをいいことにこのような豹変劇を思いついたのだろうと思いますが、いい歳をした人生の先輩が当たり構わずつきまくる恥知らずな大ウソの洪水には、さすがに打ちのめされました。
当たったところの写真があれば何よりの証拠で、ケイタイのカメラはこういうときこそ活用するもんだとつくづく思いましたが後の祭りです。

まったく後味の悪い1時間あまりでしたが、警察官のひとりは「こういうことをいつまでも考えているのはいい事じゃないですから、できるだけ早く忘れてください。よろしくお願いします。」と丁寧に云ってくれたのがせめてもの救いでした。
ちなみにこのクラウンが「いつも止めている」という場所は身体障害者用スペースでした。
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けちんぼ

吝嗇家とは、早い話が「けちんぼ」のことです。

いきなりですが、圧倒的な異才で一世を風靡したパガニーニは大変なけちんぼのようで、コンサートともなると会場の手配からキップ売りまですべてを自分で差配し、当日もお客さんの受付が済むと会場に鍵をかけてから演奏したというのですから驚きです。
パガニーニといえばグァルネリ・デル・ジェズの「カノン砲」と呼ばれる名器を使っていたことでも有名ですが、この名器もさる篤志家から進呈されたもので、そのタダでもらったカノン砲を人に見せるのさえも断じて拒んだという、筋金入りのけちんぼだったそうです。

パガニーニほどの天才なら何をやっても超越できるでしょうが、凡人はなかなかそうはいかず、所詮は人との関係を良好に保って生きていくしかなく、そうなるとけちんぼというのは割に合わないというか、その副作用も大きいと思います。

むかしから「けちんぼは得をしない」と言われていますが、これはまさに正鵠を得た言葉だと思います。けちんぼにもタイプがあって、それをある程度カミングアウトして陽気にいくタイプと、決してそういう顔はせずに、けちんぼであることをひた隠しにしながら、あくまで表向きは常識人の顔を作ろうとする、いわばむっつりタイプがあります。

前者は笑って済まされますが、後者には独特の冷たさと暗さを周囲に与えます。
陽気なけちんぼは自分はけちんぼだという自覚と笑いがあるのでまだ救えるのですが、後者は薄暗い心根にたえず支配され、ここはまさに明暗を分けるところ。人には悟られていないという甘い判断と、開き直っていないぶん内面の緊迫があり、これが最も始末におえないものです。

そのむっつりに限った話ですが、けちんぼというのはなにも物質や金銭に限ったことではなく、思考そのもの、つまり脳の機能が自動的にケチの方向に働く人のことですが、当人はそれを自分の才覚や賢さとさえ考えたりするようで笑ってしまいます。賢いどころか人に悟られていることさえ気付かない愚鈍な感性の持ち主でもあります。

かくいうマロニエ君も自分がケチではないと言い切る自信はありませんが、むっつりけちんぼのそれはどだい次元が違います。本物のけちんぼというのは思考を超えて体質であり、生理であり、細胞の問題なのかもしれません。彼らはそのせいで自分の人間的評価を大きく落としてしまっている。

商売の極意は「小さく損して、大きく儲ける」だそうですが、これは萬すべてのことに当てはまるように思います。けちんぼはまず儲けのための呼び水ともいうべき「小さく損すること」そのものが体質に合わず、頑なにそこから逃げてしまうので、当然ながら大きく得する展開に与ることはできません。

しかもそれで確実に得をするというものでもなく、当然ながら損のままで終わってしまうことも多々あるわけで、それが耐えられない。小さく損をしておく事は物事に対する広い意味での投資と見なすこともできるわけですが、けちんぼさんはそういう不確実なことに投資することに価値を見出せないようです。

人間関係の基本はギブ&テイクです。しかし、むっつりさんの特徴としては、他者からの恩恵は受けても、自分のほうが何かをしなくてはいけない局面になると、たいてい知らん顔を決め込みます。まったく気がつかない訳ではないようですが、そこでちょっと黙って過ごせばそれで事は済み、その一回分得すると脳が指令を出すから、できるだけそういうときは「意志的に消極的に」なるのでしょう。
ただこれは、当人はうまくやっているつもりらしいですが、相手には残酷なほどバレています。それを口にしないだけで、知らん顔VS知らん顔です。現代人はそういう演技はお手のものですから。

「小さく得して、大きく損する」のは人生経営としては甚だ割に合わないことだと思いますが…。
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ガマンの風船

間接的にですが、知り合いの医師から興味深い話を聞きました。

今の人が、表向きはひじょうにおだやかで、人間関係にも昔では考えられないほど用心深く、専ら良好な関係を保とうと努力しているにもかかわらず、ごくささいな行き違いやつまずきが原因で、あっけなく絶縁状態になってしまうことが珍しくないのは多くの人が感じているところでしょう。

何かあればそうなるであろうことを互いによく知っているから、ますます慎重に、ソフトに、ことさら友好的に振る舞うようですが、そのために少なくないストレスと疲労を伴います。それほどの努力を積み上げていても、何かちょっとでも気にそわない事が発生すると、多くの場合は無情にもそれで関係なりお付き合いはThe Endになるというのです。

聞いたのは、なぜそれほど些細なことで、絶縁という深刻な事態に発展するかというと、表面上良好な関係が維持できているときでも、すでに水面下ではあれこれとお互いに気に入らないことが頻発しており、それを常に押し殺し、ガマンにガマンを重ねているのだそうで、つまり常にいつ破裂してもおかしくないパンパンの風船みたいな状態になっていると見ていいんだそうです。

だから、小さな針の一差しで風船が破裂するように、そんなストレスまみれでぎりぎりに保っているバランス状態に、ちょっとしたミスやつまずきが起こると、それで最後の均衡が崩れ、ガマンの堤防は一気に決壊するという、甚だ不健康なメカニズムなのだそうです。

ではなぜそこまでガマンするのか。
ここからはマロニエ君の私見で、上記の話のパラドックスにすぎないことかもしれませんが、要するに現代は人とケンカができない、利害と打算と建前の世の中になってしまったということだろうと思います。
別にもめ事が良いことだと暴論を唱える気はありませんが、ケンカをしないようにするために、昔のように気を許した本音のお付き合いができなくなり、ノーミスが要求され、絶えず気を張って善良に振る舞うことに努めなくてはならなくなります。

しかし、ビジネス上の接待などならいざ知らず、通常の人間関係に於いてそんな演技のような関係ほど息の詰まることはありません。こういう風潮になってからというもの、本音をひた隠しにして、当たり障りのないことばかりを唇は喋り続け、ほとんど腫れ物に触るように気を遣いまくります。しかもそれは、本当に相手に対する気遣いではなく、これだけ気遣いをしていますよという自分の善良な姿を周囲にアピールしているだけ。要は自分の点数稼ぎにすぎないし、最低でもマイナスポイントだけは付けないように気を張っています。

現代人が表向きはおしなべて人当たりがよく、良好なような人間関係を保っているように見えるけれども、内情はまったくその逆というのは、かねがねマロニエ君も感じていたことでした。
良好なような振る舞いを見せられれば見せられるほど、そこには虚しいウソっぽさが異臭のように漂ってくるものです。

少しでも本音らしきことを漏らせば、すかさず「まあまあ」とか「いいじゃないですか」というような、オトナぶった、温厚の仮面を被った、極めて抑圧的な官憲の笛のような警告が飛んできます。
うかうか自分の考えもなかなか言えない世の中ですから、そりゃあ、破裂するのも当然でしょうね。
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ふしぎ

近ごろの若い人は、能力の使い方が昔とは根本的に違ってきているのか、いろいろと不思議に感じることがありますが、とりわけ車などの運転に関する動きを見ていると、理解できないことがあまりにも多い気がします。

すでに何度か書いたことでもありますが、周囲の車の流れとはまったく無関係に、おそろしく低速で走行して後続の流れを堰き止めたり、交通の円滑な流れに著しい迷惑をかけても我関せずという、まったく状況認識というか空気の読めない、マナー以前という感じの動きをする若い男性ドライバーなどをしばしば目にします。

昔は、街中でやたら速度を出し、周りに恐怖を与えるような若者が多く、これは危険性も高くもちろん褒められたことではありません。しかし、一種の活力みたいなものはあったわけで、社会的にアウトな事でもまだ理解はできたのですが、一種の反骨や本能の浪費とも思えない、周囲への迷惑などに一切無関心なような、あの異様なノロノロ運転の類はどこからくるのかと思います。
もちろん飛ばしすぎなどの危険運転は道交法によって検挙の対象にもなりますが、ノロノロ運転でいくら周りに迷惑をかけてもまず摘発はされませんから、こっちはいわばやりたい放題です。

以前はまだ運転中に携帯電話でしゃべっているというような場合が多かったのですが、最近目につくのはそれさえなく、ただじっと無表情に前を向いて、堂々と場違いなスピードや動きで淡々と走っている男性ドライバーが目につき、その意図が読み取れません。
そうかと思うと、ムササビのような恐ろしげな動きで勝手放題に駆け回る危険きわまりない自転車などもやはり若い人に多く、なにがどうなっているのやらさっぱりです。

先日も、ちょっと驚くような光景を目にしました。
友人と夜出かけた折、マクドナルドでちょっとお茶でもしようということになりましたが、郊外の店で日曜の夜ということもあり、お客さんはほとんどなく広い駐車場はガラガラでした。

店を出て車に戻ろうとすると、ん?という光景を目にしました。
一台の車がマロニエ君の車の隣に駐車し終えたばかりで、ちょうど中の人が降りてくるというタイミングでした。ところがこの両車の間は30cmあるかないかぐらいにくっついており、しかも車はBMWの3シリーズのクーペなので、当然2ドアです。2ドアというのは4ドアよりもドアの幅がずっと広いので、ドアの開閉にも4ドア以上にスペースが必要となります。

助手席の女性が降りようとしているものの、ドアが広い上に、こちらの車との間隔が狭いため、ドアをぶつけないよう、見ていて気の毒なくらいアクロバティックな体勢で、片手でドアが開きすぎないよう保持しつつ、その隙間を体をくねらせるようにしてやっとのことで車外にでることに成功。

それが済むまでこちらはドアが開けられませんから待っていたところ、さすがに気まずかったのか軽く会釈をして向こう側にいるドライバーの男性と連れ立って、普通に会話しながら店内に歩いていきました。

しかしです。先にも言った通り、その駐車場はかなり広い上に、閉店しているのでは?と思うほどガラガラでほとんど車はなく、どこでも止め放題なのです。後ろも左右もまったく車はなく、白線だけがむやみに目に入ります。
にもかかわらず、なにを思ってわざわざポツンとあるマロニエ君の車の横にそうまでしてくっつけて止める必要あるのか、その考えがまったく理解できません。

その男性も、ごく普通の今風の青年で、見た目はまあまあのカップル。おまけに車はビーエムで、せっかくそれだけの条件を備えているのに、パーキングでのこの残念なカッコ悪さは見ているこちらのほうが失笑というか、無性に気の毒な気分になりました。
しかも、これだけ広いのに、教習所じゃあるまいし、わざわざ慎重にバックで駐車するのもナンセンスとしか思えません。

ほんらいバックで止めるか、前向きに止めるかも、あくまでケースバイケースだと思いますが、運転の下手な人に限って、駐車というと無条件にバックで止める習性をもつ人が多いように思います。もしかしたら「出るときが楽だから」という思い込みなのかもしれませんが、出るときにバックするほうが、きちんと枠に収める必要もなく、技術的にも遙かに楽なんですけどね…。
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イヌ派とネコ派

動物好きを自認するマロニエ君は、子供のころから家には必ずい犬がいて、犬のいない生活を送った時期のほうが遙かに少なく、この最近がそれにあたります。
数年前、最後に飼った犬が老衰で亡くなり、その悲嘆から家族共々次を飼う意欲を喪失し、この数年間というもの、これほど長く犬のいない生活を送ったのは初めての経験です。

猫も決して嫌いではないし大いに魅力的だとは思いますが、動物を飼うというのは生半可な気持であってはなりませんから、そうなるとどうしても自分との相性に逆らうことはできません。
昔から動物好きの中にもイヌ派とネコ派があるといわれている通り、これはなかなか途中から宗旨替えすることはできないようです。
竹久夢二や川端康成は有名なネコ派ですが、吉田茂などは犬嫌いの奴とは口もききたくないというほどのイヌ派だったとか。
マロニエ君はどうしても犬のほうが圧倒的に好きで、自分には合っていると思います。

そもそも犬と猫は、なにもかもが逆のような気がします。
呼んだら喜んでやって来る犬、呼んでも無視するのが当たり前の猫。
何かにつけ喜怒哀楽をストレートにあらわす犬、いつもクールで冷めた態度の猫。
飼い主に無限の忠誠と愛情を示す犬、イヌ派には恩知らずとしか映らないマイペースな猫。
人と家に住みついて決して離れない犬、いつどこに消えてしまうともわからない猫。

…等々、書いていたらキリがありません。

我が家の庭には隣家の飼い猫がときどき遊びにやって来るのですが、これまで何十遍も呼んでみたけれども、ただの一度も応えてくれたことはなく、窓越しに見ていると近くで適当に遊んでいますが、少しでも裏口から出ていこうとすると、サッと忍者のように音もなく走り去ってしまいます。

つい先日、そんな猫の野生というか、恐さを目撃してしまいした。
いつものように我が家の庭に遊びに来ている猫を見つけ、窓越しに観察していたときのこと、普段とは少し様子が違ってその日はいやに何かを見つめています。そして、ふいにあっちを向いたり、逆方向に身体ごと少し動いたりと、とにかく何かに集中しているようでした。

何事かと注視していると、その視線の先にはヤモリだかトカゲだかがいて、双方睨み合いが続き、相手が小刻みに動くたびに猫のほうも敏捷にそれを追っているようでした。
猫は全身をこわばらせてあっちこっちと動いてはピタッと静止を繰り返していましたが、しばらくその攻防が続いたあと、その緊張がふと緩みました。
こわばっていた猫の背中には普段のしなやかな曲線が戻っていますが、なんとはなしにやや異様な感じがしました。そしてこちらを向くと、猫の口元に何かがプラプラとぶら下がっています。

なんと、ついにそのヤモリorトカゲが捉えられ、猫に勝負あったようでした。
しばらくこっちを見たり、横を向いたりしましたが、そのたびに口先の物が小さく揺れています。
そのうち、意を決したように、いつものように隣家のほうへ軽やかに走り去ってしまいましたが、あんなに小さくてかわいくとも、猫の素性はれっきとした野生動物であることをはっきりと見せつけられたようでした。
やはり、遠いご親戚には虎やライオンがいらっしゃるだけのことはありますね。

なんだかゾッとする光景で、これだけでもやっぱり自分はイヌ派だなぁ…としみじみ思わせられた一瞬でした。
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ストラドの謎-3

現在製作されるヴァイオリンの多くが、ストラドを手本とし、サイズもほぼそれに固定化されているというのがおおかたの現実のようです。
これはもちろん、ストラドを崇拝する製作者の意志であると同時に、ここまでストラド至上主義が蔓延することで、市場もストラド型でなければ売れないという裏事情があるのでは?と考えさせられてしまいます。

ヴァイオリン製作者とて、多くはただ趣味や道楽でやっているわけではないでしょうから、最終的にはその楽器が演奏家に弾かれて評価され、その結果、ビジネスとして成り立たなくては作る意味がないだろうと思います。
今のこの風潮の中で、仮にストラドに背を向けたヴァイオリン作りをしても、見向きもされないとしたら、よほど孤高の職人でもない限り、製作する意義が見出せなくなる。勢い時代の要請に沿ったものを造らざるを得ないのは、市場原理の中ではやむを得ないというべきでしょうか。

でもしかし…。
そもそもマロニエ君が直感的に感じるのは、現代人がストラドの完璧なコピーを目指している限りにおいて、それを越えるものは生まれないのではないかという疑念です。
ダ・ヴィンチのモナリザを、どれだけ高度な正確さをもって模写しても、模写は本物を凌駕することはできません。さらにそこには数百年の時を経ることで、経年変化も重要な味わいの一要素になっているでしょう。
もちろん絵画と、機能性をもった楽器を同等に論じるわけではありませんが…。

ある本にあった言葉ですが、「概念を作る側と、それを追う側には、埋めがたい溝がある」と述べられていることをふと思い起こさせられました。

これは、「追う」というスタンスにある限り、目標物を捉えて同列に並ぶことは永遠にできないという定理のようなもので、それ以上の新しい何かを作ろうとしたときに、その過程で自然に先達の偉業の実態も掴める瞬間がやってくるのではないかと思うのです。
つまり、目標がストラドである限りにおいては、ストラドの天下は安泰だと見ることができるわけです。

それはともかく、この番組の中で印象に残る2つの要素、楽器から出る音の指向性を科学的に証明できたことと、表板に対する均一な音程の考察は、いずれも日本人による研究や考察であり、やはり日本人はすごいなあと感心させられ、誇らしくも思いました。

個人的に残念だったのは、ナビゲーター役のヴァイオリニスト演奏が、カメラを意識して張り切り過ぎたのかどうかわかりませんが、どこもかしこもねっとり粘っこい歌い回しのオンパレードで、いかにストラドとはいっても少々うんざりしてしまいました。

反面、思わず可笑しくなったのは、出てくる人達はおしなべて皆一様にどこか楽しそうで、嬉々としてこの仕事や研究をやっているという様子だったことです。そして大半が男性で、やはり男性特有のオタク的な性質が威力を発揮するのは世界共通で、こういう仕事には繊細で夢を追うのが大好きな男性が向いているということをまざまざと感じたところです。

ふりかえって最も印象に残った言葉は、音の指向性を三次元グラフにして解析した牧勝弘さんの、この実験結果に対する総括的なコメントの言葉でした。
「モダンヴァイオリンは、音があらゆる方向に満遍なく広がる噴水のような出方であるのに対して、ストラドは特定の方位へ音が広がる、しぼったホースの水のようなもの」(言葉は正確ではありませんが、おおよその意味)

これは、ピアノにもそのまま共通する事実で、この特性こそ、一握りの優れた楽器だけに与えられた奇跡的、特権的特性のようなものだと思います。
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ストラドの謎-1

先日の日曜夜、NHKスペシャルで『至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎』という、タイトルだけでもわくわくさせられるような番組が放送されました。

例によって録画を後日視たわけですが、テレビでここまでストラディヴァリウスの謎に迫ったものはこれまで見たことが無く、なかなか興味深いものでした。

アントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)の作ったヴァイオリンをはじめとする弦楽器は、ラテン語風の「ストラディヴァリウス(通称ストラド)」と呼ばれながら約300年が経つわけですが、現代のめざましい科学技術の進歩をもってしても、いまだにそれに並ぶヴァイオリンを作る事が出来ないというのが最大の不思議とされてきました。

この一人の天才製作家の作り出した楽器に迫ろうと、18世紀から今日まで、いったいどれほどの製作家がその秘密に挑戦したことでしょう。古今東西、それに比肩すべく最高の弦楽器造りに生涯をかける取り組みがくりかえされていますが、いまもって達成できたとは云えないようです。

番組では、一人の日系人で、12年前からストラドを使うという女性ヴァイオリニストが、ナビゲート役としてその謎を追う旅に出ます。聖地クレモナはもちろん、ストラディヴァリが使った木材が切り出されたという天然のスプルースの森、現代の工房、博物館、ニスの解明はもちろん、アメリカではCTスキャンにかけて内部構造を詳細に調べるということまで、ありとあらゆる調査がおこなわれていました。
それでも、これという決定的なストラドの製造上の秘密は解明できませんでした。

今回の調査で画期的だったのは、NHKと、楽器の演奏を立体的に分析する学者、およびストラドを使う日本人演奏家という3者の協力によって、NHKにある「音響無響室」という響きのまったくない施設内で、演奏者のまわりを42個の小型マイクで取り囲み、ストラドと現代のモダンヴァイオリン音の特性を比較すべく、3人の演奏家とそれぞれが所有するストラドと現代のヴァイオリンを使って実験がおこなわれたことでした。

その結果は三次元のグラフに表現され、モダンヴァイオリンでは音が演奏者から周囲にまんべんなく広がろうとするのに対して、ストラドはある特定(斜め上)の方向に音が伸びていこうとする特性があることが、客観的かつ科学的に立証されました。

また、日本人のヴァイオリン製作家である窪田博和さんは、ストラドの制作上の重要な鍵のひとつは、表板の均一な音程にあるのではという点に着目されていることでした。それは表板のどこを叩いても、常に同じ高さに音が揃うように制作することで、楽器が最も効率よく鳴るという主張でした。

これはつまり、ストラディヴァリはあくまで音優先で楽器を制作していたのではないか?という基本に立ち帰った考え方です。
化学分析や寸法のコピーなど目に見える部分をマネるのではなく、もっと基本的に「音を聞きながら製作する」ことにこだわるということで、ストラディヴァリは一挺ごとに指で板を叩きながら板を削り、表板の音程を揃えたのではないかという考察でした。

というのも、クレモナはじめ、現代の世界中のヴァイオリン製作家の多くは、ストラドの寸法を完璧に計測して、中にはコンピュータ制御でまったく同寸法の板を切り出すなどして、各人これでもかとばかりに寸分違わぬストラド型ヴァイオリンの製作に邁進しており、彼らは完全なストラドのコピーを目指しているようです。
その甲斐あってか、相当に良質のヴァイオリンが生み出されるようになってはいるようですが、それでもストラディヴァリのコピーができたという訳ではなく、いろいろなことが世界各地で研究されているにもかかわらず、いまだにこれという核心の解明には至っていないようです。

ヴァイオリンの構造というのは、「えっ、たったこれだけ?」というほどシンプルなもので、逆にあまりのシンプルさ故にストラディヴァリの優位の秘密はいったいなんなのか…、ここに製作者や研究者の心はいやが上にも高ぶり、果てることのない研究が今尚続けられているのかもしれません。

ストラディヴァリウスそれ自体がまさに謎そのものであり、その謎がどうやっても解けないところに多くの人が惹きつけられるのでしょう。
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邂逅

小林彰太郎さんが作った「カー・グラフィック」は、他の自動車雑誌とは一線を画する記事が満載でしたが、その中には、「長期テスト」といって編集社で話題の車などを実際に購入し、各編集員が一台を担当して日常の足として徹底的に使用してみることで、わずか数日のテストでは得られない部分を報告していくというものがあります。

最近は若者の車離れという世相を反映してか、この長期テスト車もずいぶん数が減ってしまいましたが、最盛期には10台以上の長期テスト車フリートを擁し、それだけでも誌面はたいへんな活況を呈していました。

むろん小林さんも長期テスト車の担当者の一人で、ある時期、一台のフランス車が小林さんの担当となり、それはマロニエ君およびその仲間達の愛用する車でもあったので大いに喜んだものでした。
この長期テストには読者へのモニターの呼びかけというものがあり、それに名乗りを上げた同型車のオーナー達にはアンケートが送られてきて、その回答からユーザーの満足度や不満点など、さまざまな内容が誌面で報告されます。

小林さんは数年数万キロにわたって日常を共にしたこの車にいたく感銘を受けられ、長期テスト終了後には、あらためて自宅用の車として新車を購入されるほどの高い評価でした。

そこで、当時マロニエ君が所属していた同車のクラブでは、節目にあたる全国ミーティングに小林彰太郎さんをお招きすべく事務局が編集部に掛け合ったところ、なんと了解が得られ、業界きっての大物が会場の箱根のホテルにゲストとして一泊で参加されることになりました。

マロニエ君はこの記念イベントに参加すべく、福岡から自走して箱根に向かいましたが、途中は普段なかなか行くことのない各地のピアノ店巡りをしながら、その終着点として箱根を目指しました。そのため前泊はせず、当日朝からの参加となりました。

それが幸いしたのかどうかはわかりませんが、ホテルに到着すると、まわりの皆さんの計らいによってロビーで小林彰太郎さんと二人だけで話をする機会を作っていただき、長年文章でばかり接してきた巨匠とついに相対して言葉を交わすことになりました。
はじめはいちおう車の話をしていましたが、マロニエ君が福岡からピアノを巡る旅をしてきたことを口にすると、たちまち話題は音楽の話になり、小林さんもお若い頃はコルトーに熱中しておられたという話を聞きました。わずか15分ぐらいの時間でしたが、忘れがたい思い出になりました。

その後、コルトーの日本公演の中から、小林さんも胸躍らせて行かれたという日比谷公会堂でのライブがCDとして初めて発売されたので、それを小林さんにお送りしたところ、丁寧な御礼の手紙をいただきました。カー・グラフィックのコラムのページでいつも見ていた直筆のサインとまさに同じ筆跡の「小林彰太郎」という文字を封筒の裏に見たときは、さすがに背筋に寒いものが走りました。

マロニエ君はCDに添えた手紙に「このときの演奏会は日比谷公会堂が購入したニューヨーク・スタインウェイのお披露目も兼ねていたらしい」ということを書き添えていたところ、届いた手紙には、自分が聴いた日のピアノはたしかプレイエルだった筈だ、というようなことが書かれていました。

その後も車のことでお手紙をいただきましたが、それは決して形式的なものではない丁寧なもので、一介の読者でも大切にされる小林彰太郎さんのお人柄が伺えるものでした。このときばかりは全国のファンから御大を独り占めにしたようで、嬉しい反面、さすがに気が引けたことを思い出します。

さて、前号のカー・グラフィック(2013年11月号)には、小林さんによって撮影された前後間もない車の写真が連載されるページがあり、その隅には、愛知県長久手市のトヨタ博物館で3ヶ月近くにわたって「小林彰太郎 フォトアーカイヴ展」というのが開催されており、10月27日には小林さんが会場入りして、トークショーやサイン会がおこなわれる旨が記されていました。
しかし、実際にはその予定の翌日である28日に亡くなられたわけで、まったく人の命とはわからないものだと思いました。
若い頃から蒲柳の質だったようで、いろいろ大病もされたようですが、最後まで現役を貫かれたことはさぞかし本望だったことだろうと思います。
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天皇の御料車

小林彰太郎さんの著述には長年にわたり多くを学ばせてもらったマロニエ君ですが、強く印象に残るもので且つ異色なものは、20数年前、今上天皇の即位式典でおこなわれたパレードで使われた車への苦言でした。

このとき、即位式を終えられた平成の陛下と美智子さまが正装でお乗りになったのは、ロールス・ロイスのコーニッシュというオープンカーでした。

ロールス・ロイスといえば誰もが知る英国の超高級車ですが、コーニッシュというのは2ドアのコンバーティブルで、当時のロールス・ロイスのラインナップの中では最もカジュアルな位置付けのモデルであり、いかに高額ではあってもスポーティかつプライベート用の車なのです。通常のリムジンとは違って、コーニッシュの上席はあくまでもフロントシートであり、この車のハンドルを握るような大富豪は、普段用には運転手付きロールスの4ドアリムジンをちゃんと持っていたりするのがその世界の常識のようです。

さて、即位式のような国家を挙げての式典で天皇陛下がお乗りになるからには、車にも自ずと格式というものがあるのは云うまでもないことで、いかにロールス・ロイスとはいえ、この場にコーニッシュはまったく不適切な選択であり、マロニエ君も当時、見たときに強い違和感を覚えた記憶がありました。

ドアには金色に輝く菊の御紋が恭しくつけられているものの、正装の両陛下は、2ドア車の狭い後部座席にお乗りになって、沿道の人々にお手振りをされていたお姿が、なんともしっくりせずお気の毒な印象でした。

このような場面で使われるべき最も格式高いオープンカーは、ランドーレットという、最大級リムジンをベースにした専用車で、前半部は通常の屋根をもち、後部のみオープンになる特注のボディをもつスタイルです。世界中の元首や王侯貴族は、ここから沿道の観衆に向かって威厳をあらわし、歓声に応えるわけです。
もちろん後部用のドアがあるのは当然すぎるほど当然で、2ドア車のフロントシートを倒して、正装の要人がよいしょと乗り込むなんてことは、本来あり得ない事なのです。

しかるに、即位のパレードに臨まれる陛下を、あろうことかそのカジュアルな2ドア車の後部座席へお乗せするとは、宮内庁の式部官などまわりの人達の不見識が甚だしいと、小林さんはこれにいたく憤慨して、ついには「天皇の御料車」という単行本を上梓されたほどでした。

そこでは御料車にふさわしい車とはいかなるものかが事細かに丁寧に述べられ、このような本が出たことで、この誤りは即刻正されるとマロニエ君は思っていたところ、その後の皇太子殿下と小和田雅子さんのご成婚パレードで、なんと、再びこのコーニッシュが登場したときはさすがに仰天したものです。

すぐに思い出されたのは小林さんのことで、あれだけ勇気をふるい、著作をもって正しい提言をされたにもかかわらず、宮内庁がまたしても同じ過ちを繰り返したことは、どれほど落胆されただろうかと思い、いち国民としてもこの光景はただただ残念というほかありませんでした。
このような映像はただちに世界中に配信され、そこに映る不適切な車は日本の恥になることでもあるのに、なぜ改められないのか不思議という他はありません。

しかし、結果はともかくも、このような提言は小林さんだからできたのであって、今後そういう発言のできる見識ある自動車ジャーナリストなど、どう見渡してもいそうにはありません。

その後、御料車として長らく使われてきたニッサン・プリンス・ロイヤルに代わって、センチュリーをベースにした新しい御料車が登場しましたが、その中にランドーレットが含まれているかどうかは不明です。しかし、本来は御料車を製作するにあたっては、通常のリムジンの他にランドーレットと霊柩車の3種を作るのが正式で、プリンス・ロイヤルには霊柩車は存在していましたが、ランドーレットがなかったことが、そもそも上記のような失態が起こった原因なのだろうと思われます。
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巨匠死す

日本の自動車ジャーナリストの草分け的存在で、海外にもその名が知られる重鎮といえば、最も権威ある自動車雑誌「カー・グラフィック」(1962年創刊)の生みの親である小林彰太郎さんであることは、車をいささかでも趣味とする人ならご存じのことだろうと思います。

一昨日の新聞によれば、その小林彰太郎さんが28日亡くなられた記事が掲載されていて、見るなり思わずサッと血の気が引くような気分でした。享年83歳。

東大卒業後、自動車ジャーナリストを目指し、英国の有名自動車誌を下敷きにして、さらには花森安治氏の「暮らしの手帖」の編集姿勢(何者からも干渉されず真実を正しく伝えるという理念)を手本としながら、公正な自動車の評価と高尚な趣味の両立を目指された、日本の自動車界に於ける評論の一大巨星です。

小林彰太郎とカー・グラフィックはいわば同義語で、最盛期にはこのジャンルのまさにカリスマ的高みに達した存在で、小林さんの批評は業界・マニアを問わず最も影響力のあるものでした。
また日本のみならず、海外での知名度は大変なものらしく、とりわけクラシックカーの分野に於ける小林さんの存在とその博識・功績は本場ヨーロッパでも高く評価されるものでした。

元F1レーサーにして、その後はヨーロッパ随一の自動車ジャーナリストとしてその名を轟かせた故ポール・フレール氏は、この分野での神のごとき存在ですが、その彼をいち早く日本に招き、カー・グラフィックのレギュラー執筆者とすることで、誌面はいよいよ華を添えることになります。毎月毎号、興味深い記事が日本の読者のために寄せられ、これはポール・フレール氏が亡くなるまでの長きにわたりました。

カー・グラフィックはマロニエ君が長年愛読してきた唯一無二の月刊誌で、ほんの子供だった1975年から購読を開始、その後はバックナンバーを集めるなどしながら、今日までそれが続いているのは我ながら呆れてしまいます。我が家の自室前の廊下の書棚には、このカー・グラフィックが実に500冊以上もびっしりと並んでおり、しかも一冊が月刊「太陽」よりもさらに大きく、どっしり分厚いことから、もはや家屋構造の一部といってもいい勢力になっています。

マロニエ君がこのカー・グラフィックから学んだことは、自動車のことはもちろん、それ以外にも計り知れないものがあったと思います。わけても小林さんの記事は魅力的で、内容の信頼性の高さもさることながら、文章がまた見事でした。豊富な語彙、適切な比喩、音楽への造詣の深さなど、その後登場するいかなる同業者も太刀打ちできない深みと説得力と品格がありました。

小林さんの新型車の記事などを読むと、その広範な知識と感性、さらには素晴らしい文章が相俟って、読み終えたときには、まるで自分が手足を動かしてその車を運転したかのような気分にしばし包まれてしまうような、ずば抜けた表現力に溢れていました。
マロニエ君はこの小林さんの文章から覚えた日本語も多く、文学者以外での自分の国語教師の一人とも思っていますし、クラシック音楽にも通じた氏は、まったく経験のない新しい車に乗ってみるときは「初見」という音楽用語を使われるなど、他の自動車ジャーナリストとはまったく異質の、自動車を主軸とした教養人であったといっても過言ではないでしょう。

「ジャーナリストは死ぬまで現役」と言われた通り、最近では活躍の量こそ少なくなっていましたが、ついこの前も新型クラウンのロードインプレッションなどを読んだばかりで、まさに最後まで現役を貫かれたようです。
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中国の衝撃映像

テレビの衝撃映像物は嫌いではないので、ときどき録画して見るのですが、この手の番組では中国の映像が数多く採り上げられるのは毎度のことです。

最近見た番組(といっても録画してすぐ見ないので少し前の放送)では、そんな中でもとくに印象的な中国の衝撃映像があって、いずれも車に関するものでした。

ひとつは、あるカップルが車のショールームに行ったところ、その女性のほうが一台の車を気に入って「これ買って!買って!」と相手の男性におねだりを始めました。
しかし男性は「買わない」とあくまでも拒みますが、「どうしても欲しい」「ダメだ」「これが欲しい」「いやダメだ」と激しい押し問答が続きます。

すると興奮した女性はいきなり運転席に乗り込み、ドアを閉め、躊躇なくエンジンをかけました。
この想定外の行動にはさすがの男性とお店の店員はひどく慌てますが、二人の懸命な制止も聞かず、その女性はついに車を発進させました。断っておきますが、これは野外ではなく、あくまでショールーム内での話です。

数メートル走ったところで、ついにその男性も根負けしたのか、「わかった、買う!買うから車から降りて!」と必死に訴えて、ようやく女性は車を止め、ともかくこの場は事なきを得たというものでした。
その後、本当に買ったのかどうかはわかりませんが、中国女性のおねだりの仕方もすごいし、そもそもショールームに展示中の車にエンジンキーが付いているということにも驚きでした。

もうひとつは、ある街の交差点の監視カメラの映像で、信号停車しようとする一台の赤いスポーツカーに、となり車線から来た大型の黒いセダンがググッと幅寄せしたかと思ったら、たちまち二台は接触。すると赤い車はその場を逃れるように走り去りますが、黒い車もすぐ後に続きます。
しばらくすると、またさっきの赤い車が別方向から現れ、交差点を右折しようと停車中、そこへ黒い方が再びやってきて、今度は赤い車の側面をめがけて猛牛のように突進し、黒い車のフロントが赤い車の側面へ食い込むかたちでの激しいクラッシュとなりました。

すると、それぞれの車から人が降りてきて、黒い車のドライバーが、赤い車のドライバーを走って追いかけ、ついには画面上からいなくなり、交差点の真ん中にはぐちゃりと大破した二台の車が放置されることに。

ナレーションによると、なんとこの二人は父と息子で、親子げんかの挙げ句、赤い車で家を飛び出した息子を、怒り心頭の父親が別の車で追いかけ回し、その挙げ句に車ごと体当たりを繰り返して、最後に激突させたというのですから、そのすさまじさたるや、ただもう唖然とするばかり。
しかもこの車、赤い方はBMWのZ4、黒い方はベンツのSクラスという高級車同士なのですから、最低でも2台合わせて二千万円はする筈で、きっとこれは世に言う中国の富裕層の親子に違いありません。

しかも中国では、関税などの関係からか、日本で買うよりも車の値段はずっと高く、さらには登録などにも法外な費用がかかると云います。加えて国民の平均所得の低さ、とりわけ一般人の安い労働賃金、就職難など、GDP世界第二位という華やかさの陰で、この国が抱える貧困は深刻な社会問題にまでなっていると云われてます。そんな衆人環視の中で、こんなリッチなケンカを公道でするとは、道徳心、金銭感覚、危険意識、いずれの観点からみても日本ではちょっと考えられないことだと思いました。

「それが貧富の差というもの」といわれればそれまでですが、夥しい数の貧しい人民の不満と絶望が国中に充満し、中国政府はその爆発を最も恐れているといわれますが、そんな人々の苦しみをよそに、富裕層だけがこんな調子じゃ一般人の怒りは収まるはずはないと思ってしまう、まさに笑うに笑えない衝撃映像でした。
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そこそこの幸い

前回の終わりの部分で、マロニエ君はこんなブログは書いてはいるけれども、実はホールにもピアノにも、それほどうるさくはないということで結びました。

その理由を少々。
まず第一には、マロニエ君には多少の好みはあるにしても、ホールやピアノをどうこう言うに値するような鍛えられた耳を持ってはいないということ。第二には、それをやりだしたら何一つ満足のない、不満だらけの世界の住人になるしかないという結果をじゅうぶんわかっているからなのです。

例えば、オーディオ。
ひとたびこれに凝り出したが最後、終わりのない追求地獄のはじまりで、オーディオを構成するすべての器機や付属物に対して、たえずより良いものを求める試行錯誤や買い換えなどが果てしな続くことになります。
とりわけオーディオは高い物がすべて良しというわけでもなく、器機同士の相性やセッティングの妙、さらには好みや多様な価値観が入り乱れ、終極的には家から建て直さなくてはいけないところまでエスカレートすることもあるようです。

それでも最終的には音を出してみるまではわからないし、その判断には主観も入れば、人によって評価も異なります。さんざんやったあげく、結局はじめのセットのほうが良かったりと、究極を極めるゴールの前にはご苦労地獄が際限なく広がっているようなものですし、そもそもゴールなんてないのかもしれません。それを承知で楽しんでいられればいいけれど、それは人によるでしょう。

ピアノしかりで、ある一定の予算の歯止めがかかって、その範囲内でのピアノの良し悪しや調整などに拘っているうちはまだいいのですが、中には経済力もあり世界の名器を購入して技術者も有名な方を自宅に呼び寄せて、自分がこうだとイメージしたピアノにすべく、最高最上を目指す方がおられるようです。

こういう方は、自分の中にすでに出来上がった理想の音というものがあって、妥協を許さず、その拘りの強さはハンパなものではありません。それを実現するため最高級のピアノを購入し、自分の描いた恍惚の世界に浸り込もうと躍起になるようですが、現実はなかなかそう思った通りにはなりません。客観的にはかなりものになっていても、理想が先にあって、それを具現化することに捕らわれてしまった人は、許容範囲というものが無いに等しく、良いと思ってもまた不満が募って悶々とする日々が続きます。

そのうち技術者のせいではと別の人に交代、それでダメなら今度はコンサート専門のピアノテクニシャンなんかを呼びつけたりしますが、こうなるとまわりの人達も大変なら、その間の当人のイライラは相当のもので、せっかく憧れのピアノ買ったにもかかわらず、思い通りに行かないことに却ってストレスは嵩み、理想はいつしか不満の裏返しに…。

こうなると、もはや冷静な気持で自分のピアノの良さを見つめることもできないわけで、せっかくの素晴らしいピアノも持ち主から愛されることなく、最悪の場合、とうとう別のピアノに買い換えるなんてことまであると聞きます。結局は、理想が高いばかりに、並大抵のことでは満足できない大変不幸な状態に縛り付けられてしまうようです。

マロニエ君としては、なにより自分が好きなピアノや音楽を、こうした不満やストレスの対象にするなんてまっぴらです。だから自分のピアノにもある程度のコンディションの良さは求めはしますが、決して過度の追求はしないことにしています。点数でいうなら70点でまあまあ。80点もあればじゅうぶんで、まぐれで90点ぐらいになろうものなら超ラッキーぐらいに考えています。

それでなくても、自分が何者でもないくせに最高のものを手にしたいなどとは傲慢な考えであり、そういう勘違いだけはしたくないわけです。そもそも音の追求などマロニエ君のようなナマケモノには性が合いませんから、そのぶん却って自分は幸いだったようにも思います。
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響きの二極化

スピーカーの音質改善で試みた結果、レンガはカーペット以上に音を吸収する性質があるのでは?という疑念を植え付けられてしまいました。そして、オーディオ装置や楽器のまわりは、素材の使い方しだいで予想を超えた影響が生じるらしいということが身に滲みました。わかっておられる方にすれば当たり前のことで、何をいまさら!という事なんでしょうが…。

さらには最近テレビで偶然目にした歌の録音現場は、美しい寄せ木で張り巡らされたスタジオの床や壁に対して、ガラスで仕切られたモニタールームの背後の壁は、凹凸をつけて配置されたレンガのようなもので埋め尽くされていて、こちらはできるだけ音を出したり響いたりしてはいけない場所なので、その素材としてレンガが使われているのだろうか?と考えてしまいました。

その真偽のほどはわかりませんが、要は音楽を奏する場所の床や壁の素材は、楽器に準じるほど慎重でなくてはならず、この使い分けを間違えると大変なことが起こるということで、そう思うとマロニエ君にも思い当たる場所がいくつか頭に浮かびました。

福岡市には市が運営する音楽・演劇の大規模な練習施設があり、そこの大練習室というのはオーケストラの練習もじゅうぶん可能な広さで、専用のスタインウェイのDまであり、ちょっとしたコンサートなら十分可能に見えるのですが、以前ある知り合いのピアニストがここでリサイタルをおこなった際、別の人が会場を手配したために本人の事前確認ができず、当日あまりデッドな音響に驚愕することになり、お客さんにお詫びをして、とうとう後日べつの会場でやり直しコンサートを開催するということがありました。

その原因は、壁のあちこちに音を吸収する素材が無数に貼り付けてあり、意図的に音が響かないよう対策が講じられていたためでした。(その理由は不明)
また市内には個人ホールで大変立派なものがあり、最上級の素晴らしいピアノも備え付けられて、見た感じはまことに申し分ないのですが、果たしてそこで聴く音は信じられないほど広がりのない詰まった音で、あまりのことに休憩時間中壁を観察すると、ここもまた響かないための材質で四方がびっしりと覆い尽くされていました。
ホールが作りたかったのか、ホールのような防音室が作りたかったのか、まったく不明です。

その逆もあって、ある楽器店では床も壁も固い石材とガラスで覆われており、こちらは響きというよりは音がむやみに暴れて混濁するだけ。おそらく音響のことを念頭に置かずに、ただ高級ブティックのようにしたかっただけなのかもしれませんが、最低限の配慮はほしいところです。

もちろん好ましい例もあり、以前にも書いた福銀ホールや、個人ホールにもうっとりするほど響きの美しいところがありますし、ピアノ店にも音の微妙さをじゅうぶん感じられる環境のお店もあるわけで、音響に関しては見事に二極化しているような印象です。

ホールの音響のことは専門領域でわかりませんが、普通のピアノ店レベルでいうなら、床はよく会議室とかスポーツ施設のフロントの床などで使われる、毛足の短い化繊のカーペットがありますが、あのあたりが最適なような気がします。おそらくはあの硬くてタフなカーペットは、中途半端にしか音を吸収できず、それがピアノには偶然いい具合に向いているのかもしれません。

いずれにしろ、楽器が音を出す場所で響きに対してあまりに無頓着だと悲惨な結果を招くということで、何事も最上というわけにはいかないものですが、なんとか妥協の範囲であってほしいものです。
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成人力がトップ?

10月9日の朝刊は『日本「成人力」世界で突出』という大きな見出しが一面トップに踊りました。

記事によると
「これは社会生活で求められる成人の能力を測定した初めての「国際成人力調査」(PIAAC)で、経済協力開発機構(OECD)加盟など先進24カ国・地域のうち、日本の国別平均点が「読解力」と「数的思考力」でトップだったことがわかった。日本は各国に比べ、成績の下位者の割合が最も少なく、全体的に国民の社会適応能力が高かった。」
となっています。

これは事実上の世界一ということでもあるようで、むろん日本人として悪い気はしませんが、でも、とても今の日本人が「成人力」があるだなんて、マロニエ君はまったく思えないでいますので、いささか狐につままれたような気がしたものです。成人力という言葉のイメージから云うと、世界一はおろか、日本人は寧ろそこがひどく劣っているのでは?という疑念を抱いているこの頃でしたから尚更でした。

首を捻りながら、さらに記事を読み進めると、やはりそこにはある理由が見つかりました。
この調査では、日本人が苦手とする「コミュニケーション能力」などの項目がなかったことが好成績に繋がったと記されているので、これでいちおう「納得」という感じです。

その翌日の新聞のコラムには、これに関連したおもしろい文章が載っていました。

そのまま丸写しというのもなんなので、かいつまんで云いますと、スーパーで買い物をして6,020円の勘定だったとすると、一万円札に20円を足して4,000円のおつりをもらうのが我々日本人は普通であるのに、海外ではこれが通用しないというのです。

長くアメリカで暮らす人によれば、18ドル86セントの買い物をして、20ドル36セントを差し出せば、日本人なら1ドル50セントのおつりを期待するが、それがそうはならず、20ドルからのおつりとして1ドル14セントがまず渡され、さらに36セントがそのまま返ってくるのだとか。

まあ、たしかに、へぇぇという気はしました。
自分が常日ごろ普通だと思っていることが、そうではない場面に出くわすことでちょっとした驚きや違和感を覚えるのはわかりますが、それをいうなら、最近の日本人がみせる人とのかかわり方などに接するにつけ、ありとあらゆることがその違和感の洪水だと思ってしまいます。
マロニエ君などは、現代を生きるということは、いわばこの「違和感の洪水に耐えること」だとも思っていて、それに較べれば、たかだかそんなおつりの計算ができないぐらい、ものの数ではないという気がします。

いくら合理的な計算が素早くできても、人として社会に交わりながら、肝心のコミュニケーション能力が最も苦手というのでは、これこそ最も恥ずかしいことではないかと思うのです。

日本人が読解力にすぐれ、計算が上手いのは、デフレで、しみったれて、なんでもタダもしくはより安いものに目を光らせ、それを探して飛びつき、10円でも損はしたくないという損得の戦いのような気構えが、その計算能力や情報の読解力に繋がっているんじゃないの?と思いたくもなります。

成人力というのは、もう少し深くて本質的な意味であってほしいものです。
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新たなストレス

信じ難いようなニュースが日常的に飛び交うこのごろですが、子供を含む未成年者への残虐行為などが毎日のように伝えられるのは、社会がどうしようもなく歪んでいるようで恐ろしいことです。

先日も驚愕するとともに考えさせられる事件が発生しました。
高校生ぐらいの数人が、ひとりの年上者(未成年)を呼び出して殴る蹴るの暴行を加え、さらに両足を縛って川に突き落とし、書くのも嫌なようなことが行われてひどい重傷を負わせられたというものでした。

しかもその理由というのが驚きを倍加させました。
何度かメールや電話をしたのに、返事をしなかったということに腹を立てて、このような酷たらしい懲らしめに至ったということでした。

これに関連した説明によれば、世の中はいまやスマホの全盛期。そのスマホにはLINEという通信アプリケーションを備えるのが常識だそうで(マロニエ君はいまだにガラケーのユーザーですが)、これにより同じアプリ同士ではメールはもちろん通話も無料になるのだそうで、これはネット電話なので外国との通話も同じになり、海外の相手と何時間しゃべってもタダというのは、そのような機会の多い人達にとっては圧倒的な魅力になっているようです。

そのLINEの機能のひとつに、送ったメールを相手が開いたか開いていないかを送信者が知ることができるというのがあるそうで、これによって「メールを見たにもかかわらず相手は返事をしてこない」という新たな不快感が利用者の心の中に発生しているのとか。

こんな機能があるばっかりに、多くの利用者の間で新たなストレスが呼び起こされて社会問題になっているというのです。つまり知らなくていいことまでわかるからよけいに不快要因が増えるというわけで、一部にはこの機能を撤廃してはという案も出ているとか。マロニエ君もそんなものはないに限ると思います。

すこし話の軸がずれますが、まあごく単純な意味としてだけで云うと、出したメールに返事がないことは精神的に愉快でないのはわかります。
もちろん、現代は誰もが忙しく疲れているのに、むやみにメールのやりとりを続ける必要はないとしても、最低限の反応は儀礼上あってしかるべきで、反応があるものと思っているメールに一向に返事がないのはやっぱりいい気はしないし、存外心にひっかかるものです。そうなると、さらにこちらから重ねてメールする気にもなれず、そんなささいなことがきっかけで、相手への連絡そのものが途絶えてしまうような局面を迎えることにもなり、そんな展開なんてバカみたいでやりきれません。

何事も程度問題というわけですが、社会生活を送り、そこに人間関係がある以上、メールが来れば反応するぐらいの気持がないと、相手は無視されているような、自分という存在が切り捨てられているような気分になる場合だってあるでしょう。いわば話しかけているのに返事をしないことと同じですから、そこには常識的な配慮の気持は欲しいところです。

もちろん上記の事件のような「犯罪」は断じて許されるものではありません。同時に、現代人はひじょうに不安で傷つきやすくなっているという点も、お互いが認識しておきたいところです。

メールは相手の状況が見えないぶん、解釈が悪い方へ広がる余地もあるわけで、だからよけいに配慮が問われるのかもしれません。
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偉大なる発明

あるテレビ番組で、正確ではないかもしれませんが「あきらめない男達!」というような副題と共に、ひとりの努力と執念が生んだ偉大なる発明が紹介されました。

その名は安藤百福(1910-2007)、ウィキペディアによればもとは日本統治時代の台湾で生まれた人のようですが、両親を亡くして祖父母の元で育てられ、22歳のときに繊維会社を創設。翌年には大阪に会社を設立し日本の大学に通いながらも、数々の事業を手がけるという多才な人であったようですが、大変な苦労人でもあり、それをバネとして時代の波の中を逞しく生きた人のようです。

戦争では空襲により大阪の会社を失うなど、つねに数々の困難を乗り越えながら、多方面への事業や社会貢献を続けるものの、ある信用組合の倒産により理事長であった安藤氏は、これまで築き上げてきた財産のすべてを失います。

妻子の暮らす自宅の家財道具にまで差し押さえの赤紙が貼られる中、安藤氏は裏庭にある小屋である研究に日夜没頭します。
困窮を極める家族を背後に抱えながら、猛烈な執念とともに寝るひまもないほど試行錯誤を続けた末、ついに完成したのは日本初、そしてもちろん世界初のインスタントラーメンで、これがこんにち私達が良く知るチキンラーメンの誕生だったのです。

そしてこのチキンラーメンこそが、今や世界常識ともなったすべてのインスタントラーメンの原点だったことを初めて知りました。
安藤氏はさっそく製品の売り込みに奔走しますが、時は昭和33年、うどんひと玉が6円の時代に、チキンラーメンは一食35円と高価だったために、そんな高いものが売れるわけがない!とまったく相手にもされません。
それでも安藤氏の熱意はまったく揺らぐことはなく、置いてもらうだけでいいからと何度も頭を下げ食い下がるように頼み込んで店に並べたところ、店主達の予想に反して大反響となり、今度は注文が追いつかず自宅には業者の列ができるほどに。
このころは、まだ自宅で作っていたようですが、家族総出でフル稼働したところでたかがしれており、ひきも切らない注文には到底追いつくものではありません。そこで、ついに安藤氏はチキンラーメンを製造販売する会社を設立し、この時「日々清らかに、豊かな味を」という意を込めて作った会社が日清食品だというのですから、へええというわけです。

テレビでは言いませんでしたが、ウィキペディアに記されるところでは、チキンラーメンの好評を見て追随する業者が多く出たため商標登録と特許を出願し、1961年にこれが確定したため、実に113もの業者が警告を受けるハメになったとか。
しかし安藤氏は3年後の1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡したというのですから、やはりこの人は根っこのつくりが何か違うんだなあと思います。

その後もアイデアマンとしてのパワーは止まらず、1966年に欧米を視察、アメリカで現地の人がチキンラーメンを二つ折りにして紙コップに入れ、フォークで食べる様子を見たことが今度はカップ麺の着想になります。そして5年後の1971年、次なる大ヒット商品となるカップヌードルが発売されるも、またも世間は冷ややかな反応しかなかったというのですから、いかに発明者に対して、それを受け入れる側の感性が遅れているかがわかります。

こんにち、スーパーのインスタント麺の売り場でも、従来型のインスタント麺とその勢力を二分するカップ麺ですが、発売当時はマスコミ各社は「しょせんは野外用でしかないキワモノ商品」としてしか認識せずに苦戦したということですが、またしても安藤氏の狙いは的中してブームが到来。その後は輸出もされるようになり、ついには世界80カ国で売られるまでになったそうです。

そしてこの50年間という、とてつもなく変化の著しい激動の時代を生き続け、いまだに現役の定番商品としてまったく翳りがないどころか、インスタント麺そのものが世界中に広がって、まったく独自の「食文化」を作り出したというのは、これこそ偉大な発明だったという他ありません。

こういう人こそ政府は国民栄誉賞を授けるべきではなかったのかと思いますし、そもそも国民栄誉賞というのはそういう性質のものではないのかと思います.
日本という国は、どういうわけか文化勲章では歌舞伎役者に甘く、国民栄誉賞ではスポーツ系に甘いとマロニエ君は思います。
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じぇじぇじぇ!

9月29日の朝刊一面には、なんと『あまロス続出』という大きな見出しが踊っていました。
ちなみにスポーツ新聞の話ではありません。

これはいうまでもなく、その前日に最終回を迎えたNHK連続テレビ小説の「あまちゃん」のことで、半年間このドラマにどっぷり浸かっていたファン達が、一斉にその喪失感をネット上に訴えたのだそうです。

記事によれば、多くの人達が被ったその喪失感は大変なものらしく、「燃え尽きた」「もう午前8時には起きられない」「やる気が出ない」「これがあまロスか…」といった調子でつぎつぎにツイッターやネット上に最終回後の感想を投稿したと書かれてます。

マロニエ君も連続テレビ小説だけはいつも録画して見ていますが、たしかに今回の「あまちゃん」はこれまでとは一線を画した面白さがあったと思います。
とりわけ印象的だったのは、第一回目からなんともいいようのない楽しさというか、惹きつけられるものがあったことを思い出しますし、たしかこのブログにも、あまちゃんスタート直後に「いっぺんに青空が広がったような」というような記述をした覚えがあります。

通常は出来不出来はべつにしても、前作に半年間慣れ親しんでいるぶん、新作に切り替わった直後の朝ドラというのはどうもしっくりしないものです。見る側もしばし気分の切り替え期間が必要で、最低でもはじめの一週目はよそよそしい感じがあるものですが、「あまちゃん」にはそれがまったくありませんでした。

このドラマの良かった点は、とにかく理屈抜きの明るさと笑いがあったこと、どの登場人物にも個性と味があって飽きることがなかったこと、東京のような大都市が決して絶対の価値ではないということを上手く訴えた点、さらに云うと日本人が心の中ではもう好い加減うんざりしているキレイゴトや建前の支配でストレスを受ける心配がここにはないという解放感があったように思います。

娯楽で見るテレビドラマからまで偽善や同意できない正論を押しつけられる鬱陶しさがなく、全編を貫く明るさと、センスあるお笑いが随所に盛り込まれて、すっかり疲れてしまっている日本人の気分を束の間でも愉快爽快にさせてくれたところが、これだけの人気を勝ち得たのだろうと思います。

そもそも、あんな二十歳前の東京育ちの女の子が、東北に移り住むなり、なんの躊躇もなく東北弁をしゃべりまくり、憧れの先輩にも「せんぱい、おらと付き合ってけろ!」となどと大真面目に言ったり、GMTメンバーによる各地の方言が盛大に飛び交う様なども、無定見に定着してしまった今どきの価値基準をひっくり返してしまうような面白さがありました。

現代は、みんな暗くて鬱屈しているからこそ、ひとたびスポーツ観戦だの、最新スマホの発売だのと、それほどでもない事を口実に不自然なバカ騒ぎを演じ、空虚な高笑いや興奮を通じて、別件の憂さ晴らしをするのだと思います。それだけ自然体の楽しいことに縁遠くなっているから、このドラマは心の中の干からびた部分にスッと染み入ったんでしょうね。

マロニエ君はいつも、土曜の朝、BSで一週間ぶんまとめて放送される朝ドラを録って、つねに二週前後ぐらい遅れて見ていますから、実はまだ最終回に到達しておらず、したがって「あまロス」ももう少し先になりそうです。
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ジャンボ機再び

昨日の新聞を見ていて、おやと思う記事が載っていました。
アメリカの航空会社の発表によれば、日本便は、今後大量のお客が見込めると云う判断から、デルタ、ユナイテッドなどの大手はこの先、懐かしいジャンボジェット(ボーイング747)を投入していくのだそうです。

一度はジャンボ機から、やや小さく効率重視のボーイング777にその座を譲っていたにもかかわらず、再びこの存在感あふれる大型機が国際線の表舞台に戻ってくるというのは嬉しいような気になりました。

ボーイング747は、空の大量輸送時代を予見したパンアメリカン航空の提案によって1960年代にボーイング社が開発、70年代初頭に就航した、それまでの常識を覆す巨大旅客機でした。
当時のパンアメリカン航空は世界に冠たる圧倒的な航空会社だったので、これに続けとばかりに世界の主要な航空会社は、そんな大型機を飛ばす見込みもないままこの想定外の新鋭機をこぞって発注しました。

その後、その予見通りに空の大衆化は進み、やがては厳しい航空運賃競争の時代に突入しますが、なんとも皮肉なことに老舗気質が抜けきれないパンアメリカン航空は企業の体質改善が追いつかず、しだいに競争力を失い、ついには倒産してしまいます。

パンアメリカンなき後、そのジャンボジェットの最大のカスタマーは日本航空で、長いこと世界最大の保有機数を誇りました。通算の導入機数は軽く100機を超えており、ひとつの航空会社でのこの記録はたしか世界記録です。しかし日本航空もその飽満経営が祟って破綻となり、ジャンボ機は燃費問題を理由に全機が退役、全日空もこれに倣ってか保有する数十機のジャンボ機の大半を売却し、残るは国内線用の数機、それ以外では日本貨物航空が運航する貨物機、そして2機の政府専用機だけになりました。
かつてジャンボ王国といわれた日本でしたが、わずか数年で、まるで前時代の稀少機種のような存在となってしまいました。

マロニエ君にいわせると、旅客機にも一定の趣があったのはこのジャンボ機までで、今どきの飛行機にはロマンも色気もない、ただの効率化と低燃費の塊で、見るからに安普請、いかにもコンピュータが作った飛行機という無機質さしか感じられません。
乗客としての乗り心地も、ジャンボ機はその安定感、やわらかさなどは格別で、とくにダッシュ400という後期型はひとつの究極で、いわば佳き時代のスタインウェイDのようなもの。これに勝る飛行機にはまだ乗ったことがありません。

燃費問題というのはいささか誤りで、これは日本航空の経営建て直しにあたっての世間ウケの良い方便でもあるようで、実際は旅客ひとり当たりの燃費で云えば決して大食いではないのですが、大型機は不景気になると融通性に欠けるという問題を抱えていると見るべきでしょう。
より小さな飛行機を数多く飛ばす方が利用者も便利なら、会社側も利用率に応じた無駄のない機材繰りの調整もしやすいということで、最近はこれが時代の潮流のようです。

この流れを作ったのがそもそもアメリカで勃興してきたLCCであったのに、そのアメリカの航空会社が再びジャンボ機を日本線に投入してくるというのはまったく思いがけないニュースでした。

なんでもコストや効率という、面白味のない、しみったれた世の中で、たまにはこういう好景気の象徴みたいな豪快な飛行機が再び脚光を浴び、太平洋を飛ぶようになるというのは、なんとなく嬉しいことです。
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洗剤とお米

連休のある日の午後のこと、自宅のインターホンが鳴ったので出てみると、新聞販売店の人が「ご挨拶に伺いました!」といって表に立っていました。

実は、つい二ヶ月前までここの新聞をとっていたのですが、どうしても別の新聞を購読したくなり、契約期間終了までの数ヶ月間を辛抱して、ようやく切り替えたところでした。
まともに他社の新聞にするからなどといっても、とてもじゃありませんがおいそれと引き下がってくれるような相手ではないことは、この新聞社のこれまでの猛烈なつなぎ止め工作のすごさを知っていたので、作戦を変えて「新聞はあとの処分も大変で、もうとらないことにしたので」ということで、どうにか納得させて終わりにしたという経緯があったのです。

ところがこの日は販売店の店長が代わったという名目で、再度勧誘にやってきたようで、表に出てみるとこれまでとは違うおじさんが立っていました。こちらを見るなり、これ以上ないというほどの満月のような笑顔を浮かべながら、いきなりあれやこれやと喋りまくり、そのつど深々と頭を下げられるなど、内心これはまた大変なことになったなと思いました。

まさか別の新聞を購読しているとは逆立ちしてもいえないので、「また新聞をとるときは必ずおたくにしますので」というと、また笑顔と感謝でこわいぐらいに頭を何度も下げられ、こちらとしてはこんな応対は早く終わりにしたいと思っていたら、「実はいま、洗剤とお米を配っていますので、ちょっとお待ちください!」と言い出しました。

これをもらったら大変だと思い、「いやとんでもない、また新聞をとるときにでも」と云いますが、相手もさるもので耳を貸さず、「いえいえいえ、きょうはみなさんにずーっとお配りしていますから!どうぞどうぞ!」といって、さっさと車から大きな段ボールに1ダースぐらい入っていそうな洗剤とお米を上下に重ねて両手に抱えて、よいしょとばかりに持ってきます。

もらえないと何度も固辞しますが、向こうはなにがなんでも押し込んでいく気迫があるのを感じます。
そのうち、将来またとっていただくときのために、せめて名前と住所だけでいいので、ここにちょっと書いてもらっていいでしょうか?と、これも「すいません、すいません」と頭を下げながら頼んでくるので、やむを得ず住所と名前だけ手渡された伝票に記入しました。

すると、そこに何年何月から何年何月までという項目があり、そこをいつでもいいのでとりあえず書くだけ書いといてくださいと迫られました。たったいま名前と住所だけといったにもかかわらず!
ここで言いなりになっては向こうの思うつぼ!とこちらも意を決し、「またお願いするときは、必ずおたくに連絡しますけど、今ここで時期まで書くわけにはいかないです」ときっぱり云いますが、「いやいや、何年先でもいいんですよ、ただ書いてもらうだけでいいんです」というので、「そんな無責任なことは書けないです」とキッパリ言うと、その言葉にこちらの意志の固さを見たのか、わかりました、ではまたそのときは宜しくお願いしますといってついに引き下がりましたが、あれだけ「みなさんに配っている」と云って、まさに足元にまでもってきていたお米と洗剤その他を、サッと両手に持ち上げて持って帰っていきました。

べつにそんなものが欲しかったのではありませんよ。
むしろもらったが最後、また折々に攻勢をかけられるのは明白ですから、もらわないことがこちらの意志なのですが、その何年何月からという項目に何らかの数字を入れるかどうかが彼らにとって大きなポイントのようで、贈答品はそれへのご褒美であり、こちらへの貸しであり、今後もまたしばしば勧誘にくるための通行料のようなものだと思いました。

やっぱりわけもなくモノをくれるはずはないというのが当たり前という話ですが、世の中、上には上がいるもので、この激しい新聞勧誘合戦を逆手にとって各社からあれこれの品をもらうのが常態化し、「洗剤なんか自分で買ったことがない」と豪語する主婦などもいるというのですから、いやはや凄まじいですね。
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N響とパユ

NHKのクラシック音楽館で放送されたN響定期公演から、エマニュエル・パユをソリストに、モーツァルトのフルート協奏曲第2番、フォッブスの「モーツァルトの“魔笛”による幻想曲」を聴きました。
指揮はアンドルー・マンゼ。

のっけからこう云うのもなんですが、マロニエ君はエマニュエル・パユは昔からあまり興味がなく、ほとんど聴いたことがありませんでした。というのも、ずいぶん前に1枚買ったCDがまるで好みではなかったため、この人の演奏にはすっかり関心をなくしてしまったのです。
ニコレやランパルの時代も終わり、ゴールウェイも歳を取って、現在ではパユがそのルックスも手伝ってかフルート界の貴公子などといわれて、事実上フルーティストの中では一番星のごとく君臨しているようです。

その美男子もすっかり歳を重ねて壮年の演奏家になっていましたから、さてその演奏はいかにと思いましたが、結果は芳しいものではなく、少なくともマロニエ君にはその魅力がどこにあるのか、一向にわからないものでした。

まず端的にいって、これという説得力もないまま、むやみにモーツァルトを崩して好き勝手に演奏するという印象で、もうそれだけで好感がもてません。聴く側が何らかの共感ができないようなデフォルメをしても、それは作品本来の姿が損なわれるだけで、この人がどういう演奏をしたいのかという表現性がまるきり感じられないだけで、だったらもっと普通にきちんと吹いてくれる人のほうがどれだけ音楽を楽しめるかわかりません。

不思議だったのは、これほどのトップレベルにランキングされる演奏家にしては、演奏には不安定さが残り、しかも全体に音が痩せていて温かみやふくよかさがないし、なにより一流演奏家がまずは放出する安心感も感じられません。それどころか、ところどころでリズムは外れ、フレージングは崩れ、音にならない音が頻発、楽曲の輪郭がなさすぎたと思います。
一番の不満は、モーツァルトの優美な旋律や展開の妙、活気とか、その奥にわだかまる悲しみとか、つまり彼の天才がまったく聞こえてこないという点で、その場その場を雑で気ままに吹いているようにしか思えませんでした。

基本的な音符が大事にされない演奏というのは好きではない上に、わけてもそれがモーツァルトともなれば、いやが上にも欲求不満が募るばかりでした。そのくせカデンツァになると意味ありげに間を取ったり突然テンポをあげてみせたりと、自己顕示欲はなかなか強いことも感じます。

またパユほどではないにしても、アンドルー・マンゼの指揮もなんだかパッとしない演奏で、冒頭にはフィガロの序曲をやっていましたが、おもしろくない演奏でした。

指揮者の責任もありますが、そもそもN響じたいが、マロニエ君にいわせるとモーツァルトとの相性が悪く、この官僚的オーケストラとは根本的に相容れないものがあるような気がします。モーツァルトのあの確固としているのに儚く、典雅なのに人間臭い作品は、もっと個々の演奏者が喜怒哀楽をつぎ込んで演奏して欲しいのに、いつもながらだれもが冷めたような表情で、ただ職業的に演奏する姿は、どうにかならないものかと思います。
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ヴェンゲーロフ

長らく肩の故障で演奏休業状態に追い込まれていたヴァイオリニストのマキシム・ヴェンゲーロフが数年ぶりに復活し、日本でもヴェンゲーロフ・フェスティバル2013と銘打つ一連の公演をやったようです。

その中からサントリーでのリサイタルの様子がNHKのクラシック倶楽部で放映されましたが、ずいぶんと恰幅のいいおじさんにはなってはいたものの、基本的な彼の特徴は昔とはなにも変わっていませんでした。たしかに透明感の増した音やディテールの処理などは、より大人のそれになったとは思いますが、音楽的な癖や音の言葉遣いみたいなものは、良くも悪くも以前のままのヴェンゲーロフのそれでした。

曲目はヘンデルのヴァイオリンソナタ第4番、フランクのヴァイオリンソナタ、アンコールにフォーレの夢のあとに&ブラームスのハンガリー舞曲というもの。

ヴェンゲーロフは1980年代にソ連が輩出した最後のスター演奏家のひとりといえるのかもしれません。
ブーニンが1985年のショパンコンクールに優勝して、日本ではロック歌手並みの大フィーバーが起こり、ついには日本武道館でのピアノリサイタルという前代未聞の社会現象まで引き起こしましたが、その一年後に天才の真打ちとして来日したキーシン、さらにヴァイオリンではヴァディム・レーピンとこのマキシム・ヴェンゲーロフがそれに続きました。

このヴァイオリンの二人は年齢こそ僅かに違うものの、同じロシアのノボシビルスクという極東よりの町から現れた天才少年で、先生もザハール・ブロンという同じ人についていました。
何から何まで天才肌で、どこか悪魔的な凄味さえ漂わせるレーピンに対して、ヴェンゲーロフはあくまでも清純で叙情的、まるで悪魔と天使のような対比だったことを思い出します。

マロニエ君は昔からヴェンゲーロフのことは決して嫌いではありませんでしたが、だからといって積極的に彼の演奏を求めて止まないというほどのものはなく、魔性の演奏で惹きつけられるレーピンとは、ここがいつも決定的な差でした。

そして今回38歳になったというヴェンゲーロフの演奏に接してみて、またしても同じ感想をもつにいたって、天才というのは幾つになってもほとんど変わらないということを実感させられました。
ヴェンゲーロフの演奏には間違いなくソリストにふさわしい強い存在感と華があり、テクニック、演奏家としての器ともにあらゆるものを兼ね備えているとは思うのですが、ではもうひとつ「この人」だと思わせられる個性はなにかというと、そこが稀薄なように思います。画竜点睛を欠くとはこういうことをいうのでしょうか。

その音は力強くブリリアント、しかも情感に満ちていて美しいし、音楽的にもとくに異論の余地があるようなものではないけれど、あと一滴の毒やしなやかさ、陰翳の妙、さらには細部へのいま一歩の丁寧さがどうしても欲しくなります。どの曲を聴いても仕上がりに曖昧さが残り、ひとりの演奏家の音楽としてはやや雑味があって仕上げが不足しているように思えてなりません。

ピアノはヴァグ・パピアンというヴェンゲーロフとは親交の深い男性ピアニストでしたが、この人の特殊な演奏姿勢は一見の価値ありでした。これ以下はないというほどの低い椅子に腰掛け、さらには背中を魔法使いの老婆のように丸めて、その手はほとんど鍵盤にぶら下がらんばかり。さらには顔を鍵盤すれすれぐらいまで近づけるので、どうかすると鼻や顎がキーに触れているんじゃないかと思えるほどで、まるで棟方志功の鬼気迫る版画制作の姿を思い出させられました。
でもとても音楽的な方でした。
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なんと東京五輪

開けてびっくり、2020年夏のオリンピック開催地が東京に決定したことは、まずは喜ばしい、おめでたいことだったと思います。
実を云うとマロニエ君の予想では、東京はほぼ落選するものと思っていました。

いきなりこう云ってはなんですが、そもそもマロニエ君はオリンピック誘致にさほど熱心な気持があるわけでもなく、観るとしてもどうせテレビだし、どこでやっても自分にとっては同じ事という考えでした。それどころか、あの過密都市東京で、この上にオリンピックのような壮大なイベントをやるなんて、考えただけでも息が詰まるようでした。

それに、その東京の、いつも怒っている猫みたいな猪瀬知事の様子にも違和感があり、それがいつしかこわばったような悲痛な笑顔を作り始め、無理してテンションあげているような、同時に何かに取り憑かれたような不自然な言動を見ていると、いよいよ東京は無理だろうという予感が強まってくる気がしていたものです。

下馬評でもマドリードが優勢のように伝えられていましたし、さらに東京不利を決定付けたと見えたのは、ブエノスアイレスで行われたJOC会長の竹田氏の記者会見で、大半の外国人記者から福島原発の汚染水に関する環境面の質問を受けた折の対応で、英語はたちまち日本語に切り替わり、おたおたして適切な対応も出来ないまま「政府が説明する」「安部さんが来る」「福島と東京とは距離がある」などの繰り返しで、これが長年JOC会長を務め、さらにはIOCにも深く関与している人物の発言とは信じられない思いでした。

質問した記者からも、会見後、氏の対応には驚いたという声が聞かれ、これで完全に東京の芽はなくなったと思っていたところ、フタを開けてみれば順序から云うと最有力視されていたマドリードがまずはじめに落選し、決選投票によって東京に決定したのは、とりあえず日本人として素直に良かったとは思ったものの、なんだか狐につままれたような印象でした。

これはロシアで開催中のG20を中座してまでブエノスアイレスに駆けつけた安部さんによる強力な巻き返しが功を奏したのか、皇族の慣例を破ってこの地に赴かれた高円宮妃久子様など周りの皆さんの功績とフォローが大きかったのかとも思いました。ネットニュースによれば「最終プレゼンが勝因」とありましたから、だとすると安部さんの汚染水に関する安全説明が決め手ということでもありますが、いずれにしろ結果は東京誘致は成功したのですから、ものごと最後までわからないものですね。

あとから聞いた話では、近い将来フランスが開催の野心をもっている由で、そうなると前回がロンドンだったこともあり、今回マドリードに決まれば、ヨーロッパの開催が増えすぎることでフランス開催が難しくなるため、ここはいったんアジアへもっていこうというバランス感覚も作用したとか…。

それはそれとして、オリンピック開催にかくも世界が躍起になるのは、とうてい崇高・純粋なスポーツ愛好精神からではないことは明白で、今の世界で最も有名で最もわかりやすい世界最大規模のイベントを開催することでもたらされる開催国の発展や経済効果、知名度アップなど、そこについてまわるもろもろの「オリンピック特需」が欲しいからにほかならないと思います。

アベノミクスという言葉にもそろそろ効力が薄まりつつある今日、東京オリンピック開催という新しい目的が出来ることによって、この疲弊しきった日本の社会が少しでも息を吹き返せるのであれば、それはそれで結構なことだと思います。
景気は気、まさに気分の負うところが大きいと云われますから、これで少しは日本人が明るい気分に転換できるよう期待したいと思います。
今の日本は自分を含めて、あまりにも暗くてみみっちくて不健康ですから。
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大器発見

録り貯めしているNHKのクラシック倶楽部の中から、今年の4月のトッパンホールでおこなわれたラチャ・アヴァネシアンのヴァイオリンリサイタルを聴きましたが、ひさびさにすごいヴァイオリニストが登場してきたというのが偽らざる印象でした。

曲目はドビュッシーのヴァイオリンソナタ、ファリャ/クライスラー編;歌劇『はかなき人生』より「スペイン舞曲」第1番、チャイコフスキー/アウアー編;歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「レンスキーのアリア」、R.シュトラウス/ミッシャ・マイスキー編;「あすの朝」、ワックスマン;カルメン幻想曲など。

冒頭のドビュッシーのソナタの開始直後から、ん?これは…と思わせるものがムンムンと漂っています。アヴァネシアンはまだ20代後半のアルメニア出身の演奏家ですが、要するに大器というものは聴いていきなりそれとわかるだけの隠しおおせない力や個性があふれているという典型のようで、確固とした自分の表現が次から次へと自然に出てくるのは感心するばかりです。

技巧と音楽が一体となって、聴くものを音楽世界へとぐいぐいといざなうことのできる演奏家がだんだん少なくなってくる最近では、小手先の技術は見事でも、要するにそれが音楽として機能することのないまま、表面が整っただけの潤いのない演奏として終わってしまうのが大半ですから、アヴァネシアンのいかにも腰の座った、力強いテンションの漲る演奏家としての資質は稀少な存在だと思います。

演奏の価値や形態にも様々なものがあるは当然としても、このように、とにもかくにも安心してその演奏に身を委ね、そこからほとばしり出る音楽の洪水に身を任せることを許してくれる演奏家が激減していることだけは確かで、そんな中にもこういう大輪の花のような才能がまだ出てくる余地があったということに素直な喜びと感激を覚えました。

演奏中の表情などもタダモノではない引き締まった顔つきで、尋常ではない高い集中力をあらわすかのような目力があり、その表情の動きと音楽が必然性をもって連動しているあたりも、これは本物だと思いましたし、太い音、情熱的な高揚感、さらには極めて力強いピッツィカートはほとんど快感といいたいほどのものでした。
まだこれというCDなどもないようですが、マロニエ君にとって今後最も注目していきたい若い演奏家のひとりとなりましたが、時代的にはこういう人があまりいないのが非常に気にかかる点ではあります。

ピアニストは、このコンサートで共演していたのはリリー・マイスキーで、チェロのミシャ・マイスキーの娘さんであることは、名前が出てから気付きました。両親によく似た顔立ちで、彼女が小さい頃の様子をむかしミシャのドキュメントで見た記憶がありますが、その子がはやこんな大人になっていたのかと驚きました。

演奏自体は、これといって傑出したものもなく、全体に線が細いけれども、それでも音楽上の、あるいはアンサンブル上の肝心要の点はよく知っているらしいというところが随所に感じられたのは、やはり彼女が育った場所が世界の一流音楽家ばかりが行き交う環境だったということを物語っているようでもありました。

決して悪くはないとは思いましたが、なにしろヴァイオリンのアヴァネシアンとのバランスで云うなら、残念ながら釣り合いは取れていないというのが正直なところです。それでもこの二人は各地で共演をしているようなので、何か波長の合うものがあるのでしょう。
それはそれで大事なことですが、ここまで傑出したヴァイオリンともなると、共演ピアニストももっと力量のある人であってほしいと願ってしまいます。
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感情の軽視

最近知り合いの方からいただいた方のメールの中に、次のような一節がありました。
「ピアノでいい音色だそうと頑張るのは、気に入った女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張るのと似てるような…」

マロニエ君としてはちょっと思いつかない比喩でしたけれども、これはまさに言い得て妙な言葉だと思いました。この方はいくぶんご年輩の方ではありますが、それだけに若い人よりいっそう豊かな情感をもって音楽を楽しみ、ピアノに接していらっしゃるようで、さりげない言葉の中にさすがと思わせられる真髄が込められているものだと唸りました。

何事も知性と情感がセットになって機能しなくては、なにも生まれないし、だいいちおもしろくもなんともありません。とくに現代は、音楽でも、それ以外の趣味でも、それに携わる人達の心に色気がなくなったと思います。
色気なんて云うと、けしからぬことのほうに想像されては困りますが、それではなく、美しい音楽を求める気持も情感であり、それをもう一歩探っていくと色っぽさというものに行き当たるような気がします。美しい音楽、美しい演奏を細かく分解していけば、音楽を構成する個々の音やその対比に行き着き、それを音楽の調べとして美しく楽器から引き出すことが必要となるでしょう。
その美しい音を引き出す動機は、情操であり、とりわけ色気だと云えると思います。

現代の日本人に感じる危機感のひとつに、感情というものをいたずらに軽視し、悪者扱いし、これを表に出さないことが「オトナ」であり、感情につき動かされた反応や言動はやみくもに下等扱いされてしまう傾向があるのは一体どういうわけだろうと思います。
感情イコール無知性で不道徳であるかのようなイメージは現代の偽善社会を跋扈しています。

感情の否定。こういう生身の人間そのものを否定するような価値観があまりに大きな顔をしているので、人は環境に順応する性質があるためか、ついには今どきの世代人は感情量そのものが明らかに減退してきているように思われます。不要な尻尾が退化するように、感情があまりに抑圧され、否定され、邪魔者扱いされるようになると、自然の摂理で、そもそも余計なものは不必要という機能が働くのか、余計なものならわざわざエネルギーを使って抑制するより、はじめからないほうがそのぶんストレスもなくなり、よほど合理的というところでしょう。

こうしてロボットのような人間が続々と増殖してくると思うとゾッとしてしまいます。
というか、もうあるていどそんな感じですが。
人間が動物と最も違う点は、知性と感情がある点であって、その半分を否定するのは、まさに人間の価値の半分を否定するようなものだとマロニエ君は思います。
感情が退化すれば文化も芸術も廃れ去っていくだけで、人々の心の中でも着々と砂漠化が進行しているようです。

電子ピアノは氾濫、アコースティックピアノもなんだかわざとらしい美音を安易に出すだけの今日、本物の美しい音や音楽の息吹を気持の深い部分から願いつつ、ピアノからどうにかしてそれを引き出そうという意欲そのものが失われて、「女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張る」というような行為は日常とは遠くかけ離れたものになってしまっているのかもしれません。
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自作は悪モノ

前回、エアコンの室内への水漏れは結露によるもので、それは「自作の風よけが原因」だと断言され、一向に収まらない水漏れに耐えきれずにその風よけをバリバリ剥がし取ったものの、原因はまったく別のことだった顛末を書きました。

この風よけというのは、実は結構苦労して作ったものだったのです。
というのはプラスチック板を曲げて、それをエアコンのルーバーに貼り付けるという発想だったのですが、その素材はというと、ホームセンターで買ってきたものは、いざ曲げようとするとパリンと割れたり、はたまた強度が期待できないような頼りないものだったりの繰り返しで、できるだけ柔軟で「曲げ」に強い素材に到達できるまで数店まわって探し求め、やっとのことで完成したものでした。

こういう素材は、紙やベニヤ板と違い、カットするだけでも大変ですし、それを固定するために特殊な両面テープも必要となり、失敗分を含めると結構な金額やエネルギーを要した「労作」だったわけですが、それが悪者扱いされて、べりべりと剥がし取りました。

ところが、この業者ときたら、水漏れ修理の途中からちょっと変だなと思うことをチラホラ言い始めました。ピアノに冷風が当たってはいけないのなら、風よけはたしか製品化されていますよ…と口にするので、よく調べてもらうと商品名もわかり、なるほど数種類の製品があるようで、あの自作のための苦労はなんだったのかと思いました。

ネットで簡単に買うことができるし、こんなものがあることを知っていればはじめから余計な苦労をすることもなかったわけで、費用もむしろ安いぐらいです。しかしその写真を見ていると、ちゃんと商品化されたものなのでモノとしてはたしかにきれいですが、機能じたいは自作の風よけと大差ないのでは…という疑念がよぎりました。

つまりどっちみち、エアコンから吹き出た風をあるていど強制的に流れを変えるということには変わりはないわけで、それが結露&水漏れの原因になるというお説だったのですから、その危険性という面ではなんの違いもないように思いました。
でも、夜中に必死で作業をやってくれていることでもあり、もうそれ以上の追求はしませんでした。

自作の風よけを再度取りつけようかとも思いましたが、もともと手作りの手曲げだったので見栄えがそれほどいいわけでもない上に、固定に使ったプロ仕様の超強力両面テープというのが、文字通りの超強烈接着力で、剥がし取るだけでも誇張でなく肩が外れそうになるほど猛烈な力でくっついており、これを外すときに当然アクリルにもかなりダメージがあり、これをいまさらまた装着する気にもなれませんでした。

そこで、やはり専用品を買うことにして注文、さっそくアマゾンから送ってきましたが、これはあくまで汎用品なので、そのままポンと取り付けられるわけではなく、あれこれの工夫が必要でした。なんとか工夫して、めでたくピアノへの冷風直撃が回避されることになり、とりあえずひと安心となりました。

が、しつこいようですが、出来合いの専用品になったからといって自作のものと風の流れが劇的に変わったとも思えず、結局マロニエ君が作ったものと、先方のオススメ品は、やってることはおんなじことで、だったらこれでもメーカーの保証の対象外(エアコン自体とは別メーカーなので)になるんじゃないかと、エアコンに目が行く度に思ってしまいます。

自作のものはあれだけ糾弾しておいて、結局似たようなものを勧めるなんて…なんだかわけがわかりませんが、要するに向こうもその場限りのことを言っているだけで、終始一貫した発言を求めるほうが無理ということでしょう。
フゥという気もしますが、まあ何事も紆余曲折があるということで、ようやく落ち着いているところです。
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技術者の独断

対象がなんであってもそうでしょうが、機械ものの技術者というのは、ときにユーザーの意見や証言を尊重せず、自分の経験則や判断を絶対視する傾向があるようです。

マロニエ君はこれまでに何度この手の「誤診」により、車の故障などで、二度手間、三度手間をかけさせられたかわかりません。これはたぶん医師にもあることだろうと思いますが、こちらは健康、ひいては命にかかわることなので笑い事ではすみません。

おそらく技術者の意識の中には、相手はシロウト、対する自分はその道のプロフェッショナルだという優越意識があって、相手の云うことを貴重な情報として丁寧に聞こうとする姿勢が足りないものだと考えられます。
確かにユーザーは技術的には素人であることは間違いないけれども、その機械なり車なり(あるいは自分の身体)とは、毎日のように関わることで、長時間にわたり不具合の特徴などを深く知るに至っています。これに対して技術者は、解決を求められてはじめてその問題に相対するので、症状を慎重に観察・認識するだけの暇がないというのはわかりますが、ここで独断に走り、ユーザーの訴えに対して謙虚に耳を貸すということを怠ってしまうことが少なくないように感じます。

先日も、この連日の猛暑の中、我が家のツインのエアコンの片側から水漏れが発生し、それが下の棚やカーペットに容赦なくしたたり落ちるので、すぐに設置した業者に電話すると、明日行くので今夜はバケツなどを置いて凌いでくれという対応でした。

翌日、その業者がやって来ましたが、見るなり「これは結露です」と、いとも簡単に結論づけました。その根拠というのが、ツインエアコンの片側はピアノ近くにあるので、冷風がピアノに直撃しないようにアクリル板を自分で加工して、風がやや上向きになるように対策していたのですが、曰くそのアクリル板のせいで風の流れが変向し、それが結露を引き起こしていると断じるのです。さらにはその根拠として、まったく同じ機械のもう一台のほうからは一滴の漏れもなく、この状態はメーカーが想定している標準の使用方法にかなっていないからそうなるわけで、だからこのままでは保証も受けられない可能性がありますよといって、今回の結露は「たまたま起こった現象」ということで、とくにこれという作業もしないまま帰っていきました。

ところが、この結露だと云われた水漏れの症状は日に日に激しくなるばかりで、しまいにはエアコンの下は雨が降るほどにボタボタと水がしたたり落ちる状態となり、このところの暑さもさることながら、部屋の中にそれだけの水が漏れ落ちて来るということは精神的にも非常にストレスとなり、たまらずにまた業者に電話をしました。しかし、向こうが云うには自作の風よけが原因だろうから、どうしても気になるならそのアクリル板を外してみてくださいという指示でした。
それでもダメなら伺いますというので、この頃にはいささか立腹ぎみでもあったので、ピアノのためには必要な風よけ(せっせと作った)をバリバリと一気に外してやりました。「さあどうだ」といわんばかりに。

しかし、結果的にはそれでも水漏れは一向に治まる気配はなく、あいかわらず水はボタボタで、エアコンの下は大小のバケツや受け皿が4つも並んでいるという見るも情けない状況です。
当然その旨連絡をしたことはいうまでもなく、向こうも観念したのか、深夜でしたが、それから一時間ほどして首を捻りながらやってきました。機械のカバーが外されると、その中は業者のほうが驚くほどの水浸しで、さっそくその原因究明と作業が開始されました。

結論から言うと、水を排出するドレンとかいう部品の結合部分や、排出の経路の勾配の付け方に問題があることが判明し、これはすべて取付時の作業に問題があった由、最後は恐縮しながら、件のアクリル板が問題ではなかったことをしぶしぶ認め、作業が終わったのは真夜中のことでした。

まったくお互いにトホホな次第で、拙速に断定するからこんなことになるのです。
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宝になれない宝

自分の地元を自慢するわけでも卑下するわけでもないのですが、福岡市という土地は住み暮らすにはとても総合点の高い、好ましい街であるという点では、今も昔もその認識に変わりはないのですが、こと西洋音楽という一面に関して云えば、残念ながらとくに自慢できるような街だとは思っていません。

東京、大阪を別にすれば、他の地方都市がどういう事情かは知りませんが、なんとなくこの分野になると福岡は、マロニエ君は自分が生まれ育った街でありながら、もうひとつ胸が張れないものがあります。

それは例えば音楽ホールについても云えることで、ただ単にホールと呼ばれるものは、福岡市およびその周辺エリアまで入れると数え切れないほどたくさんあって、もったいないようなお定まりのピアノも惜しげもなく備えられていますが、どれもが中途半端。いわゆる街の文化を象徴するような真の意味での音楽ホールがなく、主だったコンサートはいつも決まりきった(しかも甚だ不本意な)会場しかありません。

とりわけ音楽ホールの条件といえば、なによりもその音響の美しさと、座席数、そして存在そのものが醸し出す品格だと思います。

その点では、敢えて例外といえるかどうかはともかく、福岡銀行の本店大ホールは市の中心部である天神のど真ん中にある銀行ビルの地下にあるのですが、なにしろその音響は突出して素晴らしく、座席数も800弱でジャストサイズ。とくにピアノリサイタルにはこれ以上ないのでは?と思えるほどの理想的な音響をもっています。

この建物は1975年に建築家・黒川記章の設計によって作られ、さらにそのホールは日本初の音響を第一に考えられた音楽ホールという事で、当時は全国的にも音楽関係者の間で大いに話題をさらったものでした。
当時の蟻川さんという頭取が非常に文化意識が高く、氏の意向によってこのようなホールが作られたのでしたが、それも時代であり、今はいくら頭取が文化が好きだからといっても本店の設計にそういう贅沢施設を盛り込むなどはなかなかできないでしょう。

そんな福銀ホールですが、一昨日の新聞記事によれば、NPO法人福岡建築ファウンデーションの主催による「福岡市現代建築見学ツアー」というものが開催されて、その中にこのホールが含まれていたとありましたが、それによれば内部はなんとすべて松材で作られているということを初めて知りました。
松材の内装のお陰で美しくやわらかい響きがあるのだということで、あれは「松のホール」だったのかと非常に驚きつつ、その音の素晴らしさの秘密には思わず唸ってしまいました。

松材といえばいわゆるスプルースで、いろんな種類はあるでしょうけれども、弦楽器やピアノなどの響板にも使う木材です。それをステージを含む床以外の広大な壁や天井すべてをこの稀少素材で埋め尽くすことで作り上げたのですから大胆としかいいようがなく、資源保護やコスト重視の現代ではとても不可能な、あの時代だからこそできた贅沢なものだったことがわかりました。
ちなみに現代では、全面木材の内装は安全面からも不可の由。

そんな素晴らしい福銀ホールですが、銀行のホールという性格上、管理も官僚的で、利用がしにくい(以前はホールまで土日は無条件に休みだった)などいろいろな制約があり、利用者がそれほど積極的に使いたいものではないという点は実に惜しいところです。

良くも悪しくも時代というべきでしょうが、駐車場は一切なく、また何度か書きましたが、座席のある地下3〜4階まで自分の足だけで(障害者は別)降りて行かなくてはならず、終演後はその逆で、高齢者などは狭い通路階段を、揉み合うようにしながらビルの4階相当まで階段を登る苦行を強いられ、体力的に厳しいものであるのも事実です。

かの黒川記章の作品といえども、構造の点でもいささかおかしなところがあり、地下2階に相当するホールロビーが客席の最上階部分に作られ、通常のホールのように両サイドからの出入口というものがないため、すべてのお客さんは必ず最上部に位置する左右2箇所のドアから出入りして、薄暗いホールの中を延々と不規則な階段を降りて行かなくてはなりません。

一定以上の規模を有するホールというものは、公共性という一面をもつものなので、いくらそれ自体が素晴らしくても、利用者の快適性を軽視した作りであれば、その魅力を100%活かすことは困難ということの典型のような、いかにも残念なホールなのです。
銀行のようにお金があるところこそ、この宝を真の宝として活かすよう、利用者の側に立った工夫と改装をして、長く福岡の地に残して欲しいものです。
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中国の珍百景

昨日のお昼のこと、テレビの画面をなんとなく見ていたら、タイトルの通りのような言い回しで、この夏の中国の珍風景をおもしろおかしく紹介していました。

今年の猛暑は日本だけのものかと思っていたら、なんと中国も同様だそうで、大陸でも観測史上初の値を記録する厳しい暑さに見舞われているようでした。
それにまつわる写真が3枚紹介されましたが、一つはデパートの健康器具の売り場で、商品の安楽椅子や身体を横にして使う器具の上で堂々熟睡する人達で、涼しいデパートの店内で横になれる場所を見つけては、大勢の人達がずらりと並んでぐぅぐぅ眠っている様子でした。

もうひとつは地下鉄の構内で、ここもクーラーが効いていて、しかも床が化粧仕上げの石造りであるためにひんやりするというわけで、大人も子どもも、その床にべったりと身体をくっつけて眠っている様子ですが、中国の衛生事情は日本人にはかなり厳しいものがあり、駅の構内などはみんなが唾や痰をバンバン吐いたりするのが当たり前なのですが、どうやらそんなことはお構いなしのようです。

最も驚いたのは、中国の巨大なプールで、ここには大勢と云うよりは、ほとんど群衆とでも呼びたいような猛烈な数の人達が殺到しており、人と浮き袋などでびっしりとプール全体が埋め尽くされていて、まったく水面というものが見えないのは恐れ入りました。
かつて見たこともない、まさに中国ならではの桁違いの混雑ぶりでした。
湘南などの海水浴の猛烈な人出でさえ驚くのに、この中国のプールの人の密集度は、とてもそんな甘っちょろいものではないのです。パッと見にはプールに人々が入っているというよりも、まるでなにか得体の知れないものが異常発生しているか、江戸小紋などのこま柄がびっしり詰まった模様でも見るようでした。

それはそれとして、ふと気になったのは水質の問題です。
中国に旅したことのある人ならだれでも知っていることですが、あちらは気の毒なことにきわめて水質の悪いお国柄で、たとえ一流ホテルに泊まっても、水道の蛇口を捻ると、うっすらと濁った、少し変な臭いのする水しか出てきませんし、当然それを飲むこともできません。また、レストランなどで出てくるお茶を飲むと、料理の美味しさとは裏腹に、どことなく嫌な臭いのする水質の悪さを感じさせられて、あまり飲みたくない気になるものです。
したがって、中国に行くと必ず手始めにコンビニなどへ行って、飲料用の水を一抱え買ってくるのですが、その「買った水」でも日本の普通の水道水よりはかなり質は落ちるというのが実感です。

飲み水でさえそんなお国柄ですから、プールという途方もない水量を必要とする施設での水質はどうなっているのだろうと、どうしても考えてしまいます。おまけに上記のような、信じられないような夥しい数の人達が、満員電車のように押しあいへしあいしながら水に浸かるとなれば、こりゃあもう衛生状態なんてほとんど期待できないのではと思ってしまいます。

聞くところでは、この夏は上海あたりでも40度を超える猛暑日があるほか、内陸の重慶などでは42度を超える記録まで出ているというのですから、いやはや今年の暑さは呆れるのを通り越して、どこか恐いような気がしてしまいます。
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一位と二位で

早いもので、今年もお盆の時期を迎えました。
例年にない猛暑列島の中、多くの人々がフライパンの上を大移動をするみたいで、そのエネルギーたるや大変なものだなあと思わずにはいられません。

家人から聞いた話ですが、お盆の初日13日にあたり、テレビニュースではそれに関するもろもろの話題を採り上げていたらしく、最も興味深かったのが「ストレス」に関するものだったとか。

なんと、現代の日本人が一年を通じて最もストレスを感じる時期というのがお盆休みなのだそうで、その第1位は、この真夏の真っ只中に、家族を引き連れて夫妻いずれかの実家に帰省することが定例化していることだとか。てっきりそれが楽しいのかと思いきや、多くの人達には大変な重荷になっているというのですから驚きました。
今の今だからとくにそう云うのかもしれませんが。

とりわけ実家が遠方になればなるだけ、交通費は嵩み、お土産だなんだと出費はあるし、移動に要するエネルギー消耗も増加するのは当然です。着いた先も、自分の実家だとはいっても、連れ合いにとっては気を遣う場所でもあるでしょうし、単なる旅行のようにポンとホテルに泊まって、あとは気まま遊び歩くというわけにもいかないのでしょう。

さらに驚くべきは、ストレスの第2位はそれを迎え入れる実家側の人々なのだそうで、これまた驚きました。自分の子ども一家の帰省であり、かわいい孫というような喜ばしいファクターもあるのでしょうが、やはりそこには甚大なストレスという本音が隠れ棲んでいるというのが、いかにも人間のおもしろい(といっては悪いなら複雑な)部分だと思いました。

たしかにひとくちに「実家」などと云っても、誰もが部屋の有り余った大邸宅に住んでいるわけではないし、突如増加する人の数といいますか、単に物理的側面だけをみても、相当に苦しい状況が否応なく生まれるのは明らかです。いかに我が子の大切なファミリーとはいえ普段別に生活している者が、束になって帰省の名の下に押し寄せてくれば、それまでなんとか保っていた平穏な生活のリズムは大きく乱され、なんでもが「嬉しい」わけでも「賑やか」なわけでもないというのが実情のようです。

そんなストレスの第1位と第2位が、お互いの本音を隠しながら、真夏の狂騒模様を必死に演じているとすれば、いかにも切ない人間のアイロニーを感じてしまいます。マロニエ君などは、だったらいっそ本音を打ち割って双方了解を得て、そんな疲れることは端から止めてしまえばいいのに思いますが、まあそれが簡単にできないところが人間社会の難しいところなのかもしれません。

マロニエ君宅の知人の女性の話ですが、夫を亡くし、東京で一家を構える息子のもとへ遊びがてらしばらく逗留したところ、奥さんも昼は仕事をして不在、子ども達は学校、息子はもちろん仕事で、必然的に毎日見知らぬ土地で孤独の時間を過ごすハメになり、やっと家族が集う夕食時ともなると、今度は2人いる子どもが、食事をしながらケータイかなにかのゲームに打ち興じるばかりで、まるで会話というものがなく、それを叱ろうともしない息子夫婦にも呆れつつ、たまに訪ねてきてはお説教というのも躊躇われて、とうとう予定を切り上げて帰ってきたという顛末がありました。

身内といっても、しだいに人との関係には元には戻れない深刻な変化が起こっているのかもしれません。

聞くところによると、現代人の最も苦手なものは「人付き合い」なんだそうで、他人同士はいうに及ばず、身内でも自然な人付き合いができないために、人がどんどんバラバラになっていくようで、これをいまどきの社会現象だといってしまえばそれまでですが、そんなバラバラな者同士が増えるだけ増えて、この先どうなってしまうのだろうと思います。
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LEDのメリット?

多くの方はよくご存じのことかもしれませんが、電気などに疎いマロニエ君は、最近流行のLEDと従来型の製品の明瞭なメリット/デメリットがもうひとつよくわかりません。

我が家は、白熱電球の照明が多いこともあり、わりに早い時期から「電球型蛍光灯」に切り替えることでずいぶん省エネ対策をしたつもりでした。
たしか、耐久力は8倍近くに上がり、消費電力は1/4程度というのが謳い文句だった記憶があります。

その電球型蛍光灯も市場に出てきた当初はかなり高額でしたが、その後は多くの電気製品と同様、普及とともに値段も下がり、ずいぶん求めやすくなってきたことは大歓迎でした。

ところが、その後LEDという、さらなる新時代テクノロジーによる照明システムが現れ、これもまた従来の白熱球と同じ口径のものが売り出されましたが、その価格と来たら、ちょっと気まぐれに買ってみる気になれないほど高額で、その後は少し安くなりはしたものの、電球型蛍光灯ほどには下がらず今に至っているように思われます。

いくら省エネだなんだといってみても、あまりに単価が高くては、真の省エネとは呼べないわけで、電気店などにいくたび箱を手にとって説明書きなどを見てはみるものの、どうも光量が少ない感じで、では消費電力も劇的に少ないのか?というとそれほどでもなく、マロニエ君にとっては購入してみるだけの決め手がもうひとつありませんでした。

ところが困ったことには、長年愛用している電球型蛍光灯が僅かずつであるものの、商品数が減り始め、価格もそれまでのような安いものは姿を消し、そのぶんLEDが幅を利かせはじめている気配です。市場ではなんとかして消費者をLEDに移行させようというメーカーの思惑が働いているように感じます。
電球型蛍光灯は、一時は100円ショップにさえ出回るまでになったのですが、最近では完全に店頭からその姿は消えてなくなり、最低でもホームセンターなどでないと購入できなくなったばかりか、選択肢もだいぶ減りました。

それに対して、LEDはどうかすると売り場の一角に堆く積み上げられて、「これからは、こっちを買うのが当たり前」といわんばかりの光景です。たしかに価格も1000円/1個を切るようなものも出てきたので、電球型のLEDは一度も使ったことはないし、なんとなく買ってみようかという気になり、かなりその気で眺めてみました。しかし、やっぱりどうもしっくりきません。

マロニエ君は昔の白熱球のワット数でしか明るさのイメージが掴めないのですが、それに換算すると、大半のLEDは白熱電球でいう30Wとか40Wが主流で、60W相当となるとかなり少数かつ高額なることがわかりました。ちなみにLEDで60W相当の場合は一流メーカーの品で消費電力は9.8Wとありますが、これまで使い慣れた電球型蛍光灯の60W相当の消費電力は少ないもので12Wと、その差はわずか2.2Wしかないのは???と思いました。

しかも価格はLEDの場合、同じ店でも電球型蛍光灯の約3倍近くにもなり、またしてもLEDのいったいどこがそんなにいいのかがいよいよわからなくなりました。
ついには両方を手に持って店員さんを捕まえて、どんなふうに違うのかを質問してみたのですが、なんと答えに窮するばかりで、これという説明が得られなかったばかりか、ずいぶん考えた挙げ句に「お客さんの中では、LEDは暗いと言われる方がありますね…」と言い出す始末。いよいよLEDを積極的に購入する理由がなくなり、またしても電球型蛍光灯を買ってしまいました。

LEDは、よくよくマロニエ君にはご縁がないようです。
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恐怖症

仕事上の必要が生じて、人前で挨拶らしきことをしなくてはいけないハメになり、大いに心を悩ませています。

おそらく、99%の人には理解できないことだろうと思いますが、マロニエ君は人と話をするのは人一倍好きなくせに、多数の人を前にして、自分が一方的に喋るシチュエーション、つまりスピーチとか、なにかの挨拶、自己紹介などが病的なほど苦手な珍人間なのです。

過日、趣味のクラブのことを書きましたが、この手のクラブにも新しく入会した場合はもちろんのこと、新人登場の折などにもそれをチャンスに一斉に自己紹介というのがありますが、これになると、直前までそれこそ先頭を切ってベチャクチャ喋っていた自分が、突然押し黙って硬直してしまいます。

たぶん多くの視線が自分へ注視されることが、最も耐え難い原因かもしれませんが、いまだにはっきりしたことは自分でも分かりません。こういうことが平気な人を見ると、もうそれだけで羨ましくもあるし、自分とはまったく異なる人種を見るような、なんとも説明のつけがたい妙な気分になってしまいます。
それどころか、普段はかなりもの静かで控え目な女性などでも、ひとたび自己紹介の場ともなると、すっくと立ち上がり、自分のことを尤もらしく、ごく普通に話すことができる様子などを見るにつけ、まったく自分という人間が情けないというか嫌になってしまいます。

ずいぶん昔、ある節目にあたる演奏発表会があって、皆の演奏が終わってパーティとなり、先生を囲んで門下生がそれぞれ自己紹介という流れになりました。その場になってそれを知り、恐れをなしたあまり、まわりの二人の友人を誘って場外に逃げ出て、ついには外の庭(会場はホテルだった)を30分ほど散策して、自己紹介が終わった頃、ソロソロと息をひそめて会場に舞い戻ったものの、結局見つかって、3人共叱られた経験などもありました。

マロニエ君のこの癖はもはや仲間内では有名で、自己紹介タイムになるとこちらの様子をおもしろがり、首を伸ばして観察する輩までいる始末で、人からみればなんということはない普通のことかもしれませんが、マロニエ君にとっては、バンジージャンプさながらの、まさに寿命を縮めるような一大事なのです。

一度だけ、大勢の前で最も長くマイクを持ってしゃべったのは、忘れもしない6年ほど前、上海の最大の目抜き通りにある大きなギャラリーである日本人作家の個展があり、そのオープニングで挨拶をさせられたことがありましたが、その規模は趣味のクラブの自己紹介どころのさわぎではなく、まさに大勢の観衆の見守る中でのご挨拶となり、数日前から生きた心地がしませんでした。いよいよそのときがきた時はまさに刑場に曳かれていくような気分でふらふらと演台に登りました。
せめてもの救いは場所が中国なので、大半の相手は外国人であること、さらにはセンテンス毎に訳が付き、そのたびに呼吸を整えることができたことでした。

しかし、今回はそういう助け船もなく、もう考えただけで顔が真っ青になっていくようです。
なんでこんな性格に生まれついたのやら、いまさらそんなことを考えても始まりませんが、世の中にはどう知恵を絞ってみても代理では事が片付かないこともあるわけで、こんな文章を書いている間にも、憂鬱がかさんでどんどん血圧が低下していくようです。

なんとか回避する方法はないものかと、この期に及んでまだしつこく考えてしまう往生際の悪さです。
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パリの野次馬2

前回の続き。

『パリを弾く』の著者新田さんが、「60歳の友人」とレストランで食事中、突然、向こうで女性同士の叫び声が聞こえ、見ると二人の女性が取っ組み合いをしていて、お互いの髪を引っ張り合っており、店内は騒然となったようです。
すると、この社長は「面白いことになってきた!」と言って自ら人混みを掻き分けながらちゃっかり最前列を確保してこの騒動の見物をはじめたとか。
そして言うことは「オペラ座なら3万円はくだらない上等席だ」と子供のように上気した頬を輝かせて二人のレスラーに見入っている、のだそうです。

そのうち犬(フランスのレストランは犬も同行できる)の鳴き声までこれに混ざり込んで、お互い罵詈雑言を浴びせ合っているとか。
この二人のうちの片方の女性は彼氏と犬を連れて来店しており、もう片方は夫と二人の幼い子供を連れている家族連れだというのですから、そんな二人が突如公衆の面前で取っ組み合いをするなど日本では考えられないし、しかも両方の男性は比較的おとなしくしているというのがさらに笑ってしまいます。

反射的に野次馬と化した社長は、最前列で仕入れた喧嘩の原因などを新田さんに報告すると、再び続きを見るためにすっ飛んでいくのだとか。
原因はなんと、この犬が吠えたとかどうしたとかいう、ごくささやかなことだったそうです。

やがて子連れのファミリーのほうが憤慨して店を出ていったそうですが、その際にも自分達が正しいことをまわりがわかってもらえているかどうかを観察しながら去っていったとか。

ケンカの片方が店を退出したことで一段落となり、やがて社長も席に戻ってきて支配人らとこの話をしていると、店のドアがバーンと開いて威勢のいいおじさんが走り込んできたそうです。
なんと犬連れのカップルのほうの女性の父親で、おお!と娘を抱きしめながらも右手にはこん棒のようなものを握っていて、「相手はどこだ?」と言ったとか。

すると例の社長は新田さんにひと言。
「ちぇっ、もっと早く来ないと駄目じゃないか!」

日本では到底考えられない情景ですが、マロニエ君は実を言うとまったくこの社長そのものみたいな人格で、こんな風に陽気に本音を包み隠さずに毎日を活き活きと過ごすことができたら、どれだけ素晴らしくストレスも少ないことかと思います。
マロニエ君もなにを隠そう人のもめ事などくだらないことが大好きで(暴力的なものはその限りではありませんが)、内心「やれやれ!」と思うのに、したり顔で割って入って「まあまあ」などと利口者ぶってなだめる奴が一番嫌いです。そんな奴に限って、自分は立派で、大人で、善良で、道徳的で、人として正しい態度を取っているつもりなのですから救いようがありません。

日本人が欧米人に比べると、多少引っ込み思案で遠慮がちなことぐらい、もちろん自分が日本人なのでわかっていますが、それにしても今どきのどうにもならない閉塞感はどうかしていると思います。

心の中はひた隠して、うわべの振る舞いや言うことだけは立派で、そういう人がうわべだけで評価される社会。ああ、彼の地は、なんと羨ましいことかと思いました。
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パリの野次馬1

新田美保さんというピアノを弾く女性が書いたエッセイ『パリを弾く』というごくごく軽い本を読みましたが、彼女はカラッとした性格である上に、パリの水で顔を洗っただけのことはあってセンスがあり、くわえてなかなか筆の立つ人ときているので、とてもおもしろく読み終えることができました。

この人は、エリザベト音大を卒業後、パリに渡りエコールノルマルの名教授ジェルメーヌ・ムニエのクラスで研鑽を積み、卒業後して後もこの地が気に入って、ずっと留まって生活をしている女性のようです。

本にはピアノや音楽のことはそれほど語られず、もっぱらフランスでの生活の情景がさまざまに切り取られ、おもしろ可笑しく描かれていますが、社会そのものが硬直した原則論やキレイゴトにまみれた、なにかにつけ息苦しい日本よりは、よほど自然体で共感できる点も多く、なんだか不思議な開放感に満たされたのが読了後の率直な印象でした。

パリっ子は我々が思っている以上に率直で自由な感覚で人生を生きているという、いうなれば人間的には至極真っ当なことを感じ、考え、発言し、あれこれ実行しているだけなのでしょうが、その点が非常に羨ましく思えましたし、時代の空気に気を遣うばかりで、どこか自己喪失してしまいそうな自分を少し取り戻すことができたようにも思いました。

それほど現代の日本は、建前に縛られ、人情に薄く、空虚な原則論ばかりが大手を振って歩いている、ある種全体主義的な管理社会という気がします。善人願望、利益優先、自己中、本音はタブー、喜怒哀楽の否定、情報の奴隷、文化意識・情感・冒険心の喪失などなど、日本の空気をいちいち挙げていたらキリがありません。

先日も日本在住のアメリカ人と会う機会がありましたが、なんでもないことが非常にまともで、知性と感情のバランスが普通で、やはり日本人は今とてもおかしなことになっていると感じたばかりです。

つい話が逸れました。
『パリを弾く』に戻ると、全編にわたりおかしなところは多々ありましたが、もっとも笑えて、かつ共感できたことのひとつ。新田さんがボーイフレンドと喧嘩をしてしまったので、友人を誘って愚痴りながら食事をしていたときのことです。
この友人というのがまた、歳もぜんぜん違って60歳にもなる、ある有名ブランドの社長なのだそうですが、そもそも日本では世代も性別も、ましてや国籍も違う者同士が、なにげなく食事に誘ったり誘われたりするなんてことは、まず考えられません。

直接の友人と会ったり電話でしゃべるより、スマホで見知らぬ人とコミュニケーションを取る方が楽で楽しかったりするのだそうですし、聞くところによるとちょっとした自分の考えや好みを言うのさえ、もし相手が逆だったときのことを考えて口にしないよう習慣づけているそうで、これは気遣いでも思いやりでもなく、それで自分が嫌われることを恐れての防御策なのですから、いやはや保身術も病的な領域に突入していると思います。あるテレビの報告に拠れば、現代の日本人の思考力や言葉の能力は、昔に較べて確実に退化しているのだそうで、ゾッとします。

ああ、またまた話が逸れました。
その新田さんが、その60歳の友人とそのレストランで食事中、突如、向こうのテーブルで突然激しい争いが起こったとか。
長くなったので、続きは次回。
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ウマ

離婚の理由などでよく耳にするのが「性格の不一致」という言葉ですね。
本当は広い意味の問題を、抽象的かつなんの工夫もない形式的な言葉に変換して、無造作にくくりつけただけのような、いかにも浅薄な響きを感じてしまいますが、実際には人と人との間に起こる非常に難しい永遠のテーマであるとも思います。

これは、べつに夫婦や恋人や友人でなくても、どんな場合でも、そこに人間関係が存在する以上、大小深浅の差はあれども必ずあり得るものです。

「性格の不一致」というと、まるで男女間限定の言い回しのような印象もありますが、別の言い方をすると人には「ウマが合う/合わない」という摩訶不思議で説明不可能なものがあり、これはいうまでもなく事の善悪や理屈を超えた生理的次元に属する問題なのかもしれません。そして、合わない場合はまずこれという解決策もないのが普通でしょう。
すぐに縁の切れる関係なら接触を断てばとりあえず解決ですが、嫌でも顔を合わせるしかない場所での関係になると、これほどきついことはなく、ひとたびこの淵に落ち込むとなす術がありません。

いっそ明確な落ち度や、分かりやすい善悪の裏付けなどがあればまだ救えるのでしょうが、そうでないところが辛いところ。ことさら悪いことをしているわけでもないのだけれど、ちょっとしたものの言い方とか、その人の癖、かもしだす負のオーラなどが無性に気に障ったりしはじめると、もう止めどがありません。

極端にいうなら、別の人がもっと酷いことをしても許せるのに、その人がすることは、客観的にはまったく大したことではないのに、どれもこれもが不快に感じたりする。そんなことで人に対する好悪の感情を抱く自分の人間性のほうが悪いのではないかと、今度は自分を責めるようになってみたりと、まさに出口のないストレスの渦に巻き込まれることにも発展します。

仮に人に打ち明けても、理解してもらえれば幸いですが、下手をすると「それしき」の事にガマンができないこちらの人格や良識、度量の無さ、ひいては道義性まで問われかねませんから、それを恐れてひとり抱え込んでしまう人も少なくないだろうと思います。

「ウマが合わない」とは、つまり一般論では解決できない極めて不幸な関係のことだろうと思います。さらには、こちらの心中を悟られてはいけないと精神的にもかなり無理をするので、いよいよ疲労やストレスは積み重なり、ついには相手の存在そのものが疎ましくなってしまいます。
その人がいる場所には行きたくないし、用があっても、メールや電話をするのも億劫になります。

マロニエ君は決して八方美人ではありませんが、わりに老若男女を問わず広くお付き合いのできるほうだと勝手に自惚れていますが、稀にこういう相手と出会ってしまうと、もうどうにもなりません。

残念なことに、世の中には必ずそういう相手が少しはいるもので、ときどき不慮の事故のようにヒョッコリ出会ってしまうということだろうと思います。
そういう相手とはできるだけ接触を控える以外に、有効な手立てはないようです。
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炎暑到来

一昨日は、その前日の雨模様から一転して、朝から猛烈な真夏日となりました。

通常であれば、梅雨明け宣言から日を追うごとに気温が上がりはじめて、しだいに夏のピークに向かっていくところですが、7月8日はまさに猛暑日を飛び越していきなりの炎暑日となり、その強烈さにはとてもじゃないけれど心身がついていけないというのが率直なところでした。

午後のことですが、所用で出かけるため、車を車庫からバックで出そうとしていたところ、驚くべきものを目撃してしまいました。
この日は、我が家のほど近い場所で道路工事をやっていてその部分が片側通行となり、その両脇には通行する車を交互に止めたり行かせたりするための誘導係が、照りつける直射日光の中に立ってその仕事に従事していました。

車を出すべく、後ろを見ながらバックしていると、ちょうどその工事中の光景が視界に入るのですが、まさにそのとき、その誘導員の方がとつぜん地面に倒れてしまいました。それもよろよろと座り込むというような動きではなく、まさにパタンと、縦の物体が横に倒れるというような、まるでマネキンなどが倒れるような倒れ方だったので、これはタダゴトではないと仰天してしまい、バック途中だった車を止め、急いでドアを開けてそこへ走りました。

その方が倒れられたときの、カツンというヘルメットが地面に当たる小さな音も、いやな感じに耳に残っています。
駈け寄るなり「大丈夫ですか!?」と何度か声をかけますが、まったく応答が無く、熱せられたアスファルトの上に仰向けになったまま、苦痛の表情ばかりが目に入りますが、声も出せないという状況でした。
まわりを見ると、工事の仲間の人達は、少し離れた場所にある工事現場と、さらにその向こう側の誘導員の方の姿があるだけで、まだこの事態に気付いていません。

咄嗟にそちらに走っていき、彼らに声をかけて、急いでこっちに来てくれるよう大げさに手招きをすると、何事かという感じで数人の人がはじめは普通の感じで来てくれました。
すぐに道に倒れている仲間の姿を見てその状況を理解すると、たちまち他の人も呼ばれて、あっという間に4〜5人の作業員の人達が集結して、その人のまわりをしゃがみ込んで取り囲みました。

しかし、どんな呼びかけにも明瞭な反応はなく、大変な苦痛の様子は変わりません。
集まった人のうちの誰かが「救急車!救急車!」と大きな声を上げ、ほとんど同時に全員の手で水平状態のまま持ち抱えられて、目の前のマンションの車寄せにある日陰へと移動させられていきました。

これだけ人が揃えばとりあえず大丈夫だろうと判断して、マロニエ君は車に戻り、そのまま出発しましたが、しばらくはあのショッキングな倒れ方の情景が目に焼き付いて離れませんでした。

おそらく熱中症だろうと思いますが、新聞やテレビでは耳目にする言葉でも、現実の怖さをまざまざと見せつけられた思いでしたし、野外で仕事をする人は本当に過酷な条件の中で、身を苛んで働いておられるんだなあとあらためて思わずにはいられませんでした。

それも、じわじわと時間をかけて到来した猛暑であったらなまだしも、この日のような突然の炎暑ともなると、だれでも身体がそれに耐えていくだけの準備もできていなかっため、よけいに堪えたのかもしれません。
マロニエ君自身もこの日は、さすがに身体に堪える暑さで、帰宅後も普段とは明らかに違う疲労感に包まれました。
どうかみなさんも、くれぐれもご用心ください。
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熱帯雨林並?

7月3〜4日は最悪とも云える空模様で、朝から絶え間なく雨が降り続き、それがときどき恐ろしい生き物のように激しくなったりの繰り返しでした。
雨よりも甚だしかったのは尋常ではない湿気で、家全体が蒸し風呂にでもなった気分でした。

だからといって家中のエアコンをやみくもに入れるわけにもいかず、なんとも気の滅入る、そして気分だけでなく身体的にも猛烈に過ごしにくい、一年を通じて滅多にないような悪天候でした。
ピアノを置いている部屋では、もちろんエアコンが除湿をしてくれるものの、冷えすぎなど温度事情もあるために、基本的には除湿器に依存しているのが我が家の実情です。

このところは除湿器が停止する僅かな時間もなく、ほとんど24時間フル稼働が続いていますが、除湿器の予備があるわけではないので、酷使が祟って故障でもしたらどうなるのかと思うと、気が気ではありません。なんとかがんばってこの夏を乗り切ってほしいと手を合わせるように願うばかりです。
毎日、タンクに貯まった夥しい量の水を捨てるたびに、こんなにも大量の水分が部屋の空気中に漂い、それがピアノの内部へと侵入していくのかと思うと、毎度ゾッとしてしまいます。

この季節の高温多湿はそれなりに慣れているつもりでも、3〜4日の湿度はちょっと異常で、まるで街ごと熱帯地方にでも放り込まれたかのようでした。
エアコン+除湿器のある部屋から一歩廊下に出ると、ヌッとした重くて分厚い空気から身体が押し返されるようで、それがどこまでも続きますから、いやはやたまったものではありません。

これでは除湿器のない部屋に置かれたピアノなどは、ガタガタに狂ってしまうだろうということは、もう理屈じゃなく本能で感じてしまいますし、世の中の多くの楽器や美術品なども例外ではないでしょう。

そういえば、ピアノの管理もさることながら、人間にも(過度な)湿度はよくないということを、いつだったか、テレビニュースで実験映像とあわせて報じていたことを思い出しました。
同じ人物が、同じ場所で一定時間の運動をするのですが、低湿の場合、運動によって湧き出た汗が10分ほどで乾いてしまいますが、湿度を梅雨並の高さに変化させた上で同じことをすると、今度は汗がいつまでたっても乾きません。
乾かないことで、水分が皮膚の表面に張り付き、それがクールダウンの邪魔をして、いつまでも身体の温度を下げてくれなくなるのだそうで、結果として体温が無用に高く維持されてしまい、これが身体の疲労につながってしまう原因だという説明でした。

とくに持病をお持ちの方や高齢者の方などは、こうして高湿によって体力を著しく奪われるので、温度だけでなく湿度にもじゅうぶん注意が必要ということです。

それだけの疲労を生み出すのですから、不快に感じるなどは当たり前ですね。
同じ気温でも低湿だと涼しく感じるといわれていたことが科学的に立証されたわけで、なるほどなぁと思いました。やっぱり人の身体も楽器も、快適環境は同じのようです。
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一級仕事師

今年の2月にミュンヘン・フィルハーモニー・ガスタイクで行われた、メータ指揮のミュンヘンフィル演奏会の様子がBSプレミアムで放送されましたが、この日のメインは五嶋みどりをソリストに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲でした。

五嶋みどりさんが、世界的なヴァイオリニストであることに異を唱えるつもりは毛頭ありませんが、美味しい食事にも食後感、読書にも読後感というものがあるように、音楽にも聴いた後に残るイメージといいましょうか、いわば残像のようなものが残りますが、その点で云うと、マロニエ君は五嶋みどりの演奏にはある一定の敬意は払うものの、心底その演奏に酔いしれるとか、音楽としての感銘を受けたという記憶はほとんどありません。

CDなどもそうですが、まったく非の打ち所のない、隅々まで神経の行き届いた大変見事な演奏ですが、この人は本当に音楽が好きなのだろうかと思わせられるのも毎度のことで、芸術家というよりも、完全無欠な仕事師の最上級の仕事を拝見しているという印象しかありません。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はマロニエ君の最も好きなヴァイオリン協奏曲のひとつですが、この曲の持つ暗い陶酔的な世界と、五嶋みどりの演奏にはなにやら超えがたい溝があるように感じました。
第1楽章では、長い序奏を経てソロヴァイオリンが闇の中から突如妖しく現れますが(この部分でマロニエ君が最も理想的と思えるのはジネット・ヌヴーのそれですが)、五嶋みどりはこれ以上ないというほど激しく、曲に挑みかかるように弾いていきます。

それがあまりにも度を超していて、見ていてちょっと呆気にとられるほどで、狙いとしては下手をすると冗長にもなるブラームスで、高い緊張感を保ちつつ聴く者を圧倒しようということなのか…真意はどうだかわかりませんが、この人のいかにもストイックでございますという生き方はともかくも、少なくとも演奏の点に於いては、かなりの自己顕示欲が漲っているようにしか思えません。
協奏曲であるにもかかわらず、指揮者を見ることもほとんどなく、音楽上自分が譲るとか裏にまわると云うことは一切ないまま、徹底してマイペースで突き進んでいくのは共演者に対してもちょっとどうかな…と思います。

全曲を通じて、常に自分の演奏を際立たせ、細部の細部に至るまで自分が主役であり、会場の中心は私であるといわんばかりに振る舞っているように見える(聞こえる)のは、ああ、この人は昔からこうだったという記憶が鮮明によみがえってくるばかり。

それでも、なにしろ基本的に上手いし、チャラチャラしたタイプではないので、最終的に立派な演奏として完結はするけれども、非常に突っ張った、極端に意地っ張りな人の勝負精神を見せられるようで、音楽としての豊かさとか、ほがらかさ、楽しさといったものがちっともこちら側に伝わってこないのは、やっぱり演奏しているその人がそうでないからなんだろうかと変に納得してしまいます。

それでも感心するのは、第2楽章のような滑らかな旋律が延々と続くような部分では、決して息切れすることなく細い絹糸のような芯のある音が、括弧とした動きを取り続けるようなとき、あるいはフレーズの入りの部分では、いつもながら的確で繊細で、こういうところは彼女ならではの上手さを感じます。

逆にいただけないのは、激しい部分ではあまりに切れ味先行型の演奏になるためか、過剰なアクセントの濫用で、ときに品位を欠く演奏へと陥るばかりか、リズムも崩れ、何のためにそんなに力みかえらなきゃいけないのかと、聴いているこちらのほうが気分が引いてしまいます。
そういうとき、ふとヴァイオリンを弾いている音楽家というよりは、どことなく剣術の果たし合いのようで、この不思議な女性の中に、一体なにがうごめいているんだろうと思ってしまいます。

マロニエ君は基本的に情熱的な演奏は大好きなのですが、かといって、こういう演奏をもって情熱的とは解釈できないのです。

あれじゃあ弓の毛も傷むだろうなあという感じですが、たしかに五嶋みどりは演奏中もしばしば切れた毛をプチプチとむしり取る回数がほかの人よりも多いような気がします。
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雨の夜

誰にでも、自分だけに不思議に心地よい、これといって明確な訳もないまま好む状況や時間というものがあるのではないでしょうか? 自分だけのある一定の条件が整うことで、取るに足らないささやかなことでも、そこにえもいわれぬ充足した幸福感のようなものを見出す瞬間。

まったくその人だけの固有のもので、普遍性の裏打ちも正当性もない、きわめて個人的主情的なものに限られます。なぜそれほど好ましく、心が安らいで満たされるのか、本人にさえ理由は漠としてよくわからないことが数こそ少ないけれどもあると思うのです。

マロニエ君の場合で云えば、仕事柄か、長年の生活習慣からか、ともかく慢性型の夜型人間なので、本当に自分の時間を持てるのは大抵真夜中の時間帯ということになります。
とりとめもないことをあれこれやっていると、その貴重な時間は瞬く間に過ぎ去って、人によってはそろそろ起床時間になるような時間帯を迎えることもしばしばです。

ここまでは特にどうということもない日常の範囲で、好きというよりも自分にとって必要なものという感覚です。ところが、そこへごくたまに格別な効果が加わることがあって、それがたまらなく好きなのです。

まるで今夜のように…。

それは深夜に降りしきる雨で、自室でようやく落ち着いた時間を迎えようと云うとき、あるいはその途中からでもいいのですが、漆黒の夜の中に雨が降り、カーテンごしの窓の外や屋根づたいにその雨音が聞こえる、あるいは明瞭にその気配が感じられることがあるのですが、その感じがどうしようもなく好きなのです。

そして、幸福の感触というものは、実はこんな取るに足らない、ふとしたどうでもいいような壊れやすいちょっとした瞬間のことをいうのではないかと思ったりするわけです。

ごくシンプルに、たわいもないことで、自分が心底から心地よさに浸ることのできる瞬間なんてものは、日常の中にそうざらにはありません。それも人生上の慶事などという実際的かつ大層なものではなく、さりげなくて、なんの意味もなくて、心地よさの感覚だけが突如として自分に降りそそいでくるような、そんな思いがけないものでなくてはなりません。同時にそれは、一時の儚いもので、いつまでも逗留してくれるようなものであってもダメなのです。

窓の外には雨が降りしきり、ときに激しい大雨になることもありますが、そんなとき、冬ならヒーターで温まり、夏ならエアコンで除湿された部屋の中で、誰からも邪魔されることのない自分だけの時間を過ごすこと。これがマロニエ君とってはちょっと比べるもののないほどの心地よさに取り囲まれるときで、ただもう無性に嬉しくて心地よい時になってしまいます。

このときばかりは、日頃の疲れやストレスもしばし忘れて、今時の云い方をすれば心がリフレッシュできているような気がします。だから日中の雨が夕方止んで、夜はお天気回復なんていうパターンが一番がっかりですし、逆に昼間はお天気だったものが夜から崩れて、深夜には大雨となり、そして翌朝は快晴というのが最も理想のパターンなのです。

人の心には、まったくくだらないことが、しかしとても貴重なようです。
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紹介の弊害

前回の続きみたいな内容です。

どんな場合にもある程度当てはまることですが、ある程度の金額のものを買ったりする場合、人の紹介があれば、それがない場合よりも安くしてもらえるとか、なんらかの好条件がもたらされるというイメージがあって、それを信じて疑わない人というのはわりと多いように思います。

しかし、あるころから、これは好条件どころか、むしろまったくの逆の現象が起きているのではないかというふうに疑い始めるようになり、その認識は時間や経験と共に深まっていきました。
一例を挙げますと、(車の購入の場合はわりに以前から云われていることですが)仮に車を購入する際の値引きの条件などでも、紹介者があると、営業マンはニンマリした顔で「○○様のご紹介ですから」といった尤もらしいフレーズに乗せて一定の割引などが提示されるようですが、実は少しもそれに値するような金額ではない場合が珍しくないのです。
むしろ、紹介者なしの飛び込みで、単独で交渉してもこの程度の条件は当たり前では?…と思えるようなものでしかないことはよくあります。

これらは、友人なども同様の一致した見解なのですが、紹介者があるということは、業者側にとっては幸運が勝手に飛び込んできたような美味しい話で、さほどの努力をしなくても紹介者との繋がりが後押しとなって、ほぼ間違いなく買ってくれる安全確実な客だと見なされることが多いようです。
購入者にしても、紹介者の顔を立てて、他店と競合させることもせず、受身で、お店にすればこんなありがたいことはないのです。

しかもお客さんは「自分は紹介者のお陰で特別待遇」だと疑いなく思い込んでいる場合もあるのですから、その認識のまま事が完了すれば、関係者全員がハッピーということでもあり、これはこれで悪いことではないのでしょう。でも、ひとたびそのカラクリに気がついてしまったらとてもやってられません。

自分に置き換えてもそうですが、ある程度値の張るものを購入するとか、何らかの仕事を依頼したりする場合、そこに紹介者が介在していると、紹介者の顔をつぶしちゃいけないという配慮が先に働いて、あまり突っ込んだ交渉はしなくなります。というか、ハッキリいってできなくなります。
そして、相手側はその道のしたたかなプロですから、そのあたりのことは十分に承知していると思われ、だからごく普通の条件でもさも特別であるかのように口では上手く言いますが、実際はさほど努力らしきことをしているようには見受けられないわけです。

こういう嫌な現実に気付いてからというもの、マロニエ君は(場合にもよりけりですが)基本的には紹介者とか、縁故というものを頼りにしなくなりました。
そのほうが遙かに自分のペースで自由に交渉ができるし、率直な質問や要求を提示することができるし、おかしいことはおかしいと主張して、もしそれで決裂すれば他店をあたったりすることも自由ですが、そこに紹介だの縁故だのがあると、すべてこちらはガマンして呑み込むしかありません。
だから、もちろん例外はありますが、大半は紹介なんてものは却って自分の足を引っぱるとしか思えなくなりました。

そもそも、業者やお店の側も、考えたらわかることですが、仲の良いお客さんから知り合いを連れてきてもらうことは、労せずして信頼関係は半分以上できあがっているようなものです。それに比べれば、まったく縁もゆかりもない初めて取り引きする相手をきちんと納得させ、交渉成立に結びつけるほうが遙かに骨の折れる仕事でしょうし、油断すれば遠慮なく去っていきますから、きっと緊張感も違う筈です。

結果的に、信頼できる相手であるほうが、却って条件が悪くなるという結果を見てしまうのは、非常に残念なことだと思いますが、これが現代という殺伐とした時代に流れる真実なのだと思うと、自分を守ろうとする認識と本能の前で、どことなくやりきれない思いが混ざり込んでしまいます。
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はじめだけ

いまどきの現象をおひとつ。

各種の工事など専門作業をおこなう会社、または職人さんについてですが、彼らも厳しい時代の波の中で生きていることはいうまでもなく、昔のように決まった顧客やお得意さんだけを相手に仕事をしていれば済むというよき時代ではなくなりました。

とくに近年では、下請け、孫請けの仕事を獲得するだけでも大変なようで、親会社からは容赦なくコスト切り詰めが要求され、それに応じていかなければ別の会社や職人さんへ仕事がまわされるのですから、これを逃すまいと彼らも必死になって仕事をしているのは大変だろうと思います。

いっぽうで、そんな親会社から請け負う仕事だけではやっていけないのか、上から使われるのが嫌なのか、事情はともかくホームページなどで低価格を売りにして直取引をして仕事や販路を拡大しようという、独立型の小さな会社や職人さんの動きもあるようです。

マロニエ君も、必要があってちょっとした仕事を頼むとき、安い業者を探したことがありますが、縁あって非常に安くやってくれるある業者と知り合うことができました。
業者といっても身内でやっている職人さんで、そのときはさほど小さくもない仕事だったのですが、納得のいく価格で話が決まり、連日にわたって熱心に工事をやってくれました。

ひととおり作業が終わり、支払いも済ませて、いったんは区切りがついたことになりますが、その後もちょっとした作業の必要があったりすると、せっかく親しくなった職人さんなので、その人に頼むと、快く了解してはくれますが、どうしても大きい仕事が優先され、先方の都合に合わせて来てもらうことになります。

こちらとしても大した仕事ではないこともあり、あまり無理をいうわけにもいきませんが、再三の延期や日にちの変更が重なるとうんざりするのも事実です。作業そのものはごく短時間で完了しましたが、代金は最初(前回)に依頼したときの感じからすれば、期待ほど安いものではありませんでした。
まあ、それでも絶対額は大したものではないし、そこは素直に従いましたが、ついでにある器具を付けて欲しくてその旨を伝えると、これまた快諾。おおよその見積もり金額を伝えられ、近いうちにカタログを持ってくるのでその中から選んでほしいといわれました。

数日後、カタログを持って現れ、だいたいこのあたりということなのでその中から一つの器具を選びましたが、今回クチにする金額は、つい先日聞いていた金額より50%も高くなっていて、おや?と思いました。
カタログには販売価格が書かれていましたが、どうみてもそのままの価格での計算であるばかりか、工賃も安くないように感じられて、どうも釈然としません。
うっかりメーカーを確認していなかったのですが、ある夜、ネットで2時間以上かけて探してみたところ、ついにその商品を見つけ出しましたが、果たして聞いたこともないメーカーであるばかりか、ネット通販ではカタログの半額以下で売られているのにはびっくり!

もちろん極限の最安値で勝負するネットと同等を求めようとは思いませんが、せめて少しぐらいの値引きはするのがいまどきの常識というものでしょう。その他、ここには書かない疑問符のつく事例もあり、それらからだんだんわかってきたのは、要するに昔とはまったく逆の流れだということです。

昔は一見さんには高くても、おなじみになるにつれて互いの信頼も増し、値段もだんだん安くしてくれるようになるのが通例でしたが、今は逆で、まず最初は激安価格で人の気を引き、それによってお客さんの信頼を得ておいて、間違いなく自分の顧客になったと認識されるや、その後の値段はじわじわとつり上がっていくということのようです。

もちろん昔とは利幅も違うでしょうし、彼らなりの苦労があるのはわかりますが、それは誰しも同じこと。信頼を寄せ、利用頻度が増すに連れ、価格は反比例的に上昇して来るというのは、いくらなんでもいただけないやり方だと思いますし、がっかりしますね。
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贅沢はテレビサイズ

家人の古い友人で、不動産関係の会社をやっている方が来宅されたのですが、曰く、最近の若い人は家やマンションを買っても、今風の低価格な家具を最低限度揃えると、あとは専ら電気製品などに注意が向くだけで、気質に情緒や潤いがないということを話しておられました。

どこの所帯もほとんど区別できないほど似たような雰囲気になってしまうそうで、いずれの場合も目につくのは、一様に物が少なく、パッと目はきれいなようでも、まさに衣食住の生活をするためだけの空間が現代風になっているに過ぎず、それ以外の本や絵や…何でもいいけれども、要するに実用品以外のおもしろいものとか美しいものがほとんど見受けられないのだとか。
そして、殺風景なその雰囲気の中で、ひときわ存在感を放っているのがテレビなのだそうです。

住まいとしての全体の規模、わけてもそのテレビの置かれた部屋の空間の広さに対して、そこに鎮座するテレビだけが、ギョッとするほど大型サイズで、それにだけピンポイントに贅沢しましたという状況なのだとか。業界人から見ると、皆けっこうしまり屋のクセに、テレビだけはどうして大きいのを欲しがるのか、さっぱりわけがわからないと嗤っておられました。

今の若い世代は、新しい住まいを手に入れても、実用品が必要というのは当然としても、そこに絵の一枚でも買って飾ろうという情感や心のゆとり、早い話が文化意志から発生する考えそのものがほとんどないようで、住居に於ける白い壁という、いわば自由な画布を与えられても、そこには大型画面のテレビを置くこと、そのためのテレビ台、もしくはそれに連なる家具を購入し、あとは申し訳程度に観葉植物を置くというぐらいな発想しかないというわけで、言われてみれば大いに思い当たりました。

家には必ず美術品だの楽器だのと何か高尚なものを置かなくてはいけないというものではないし、それはもちろん人それぞれの自由ですが、少なくとも自分の住まいに、その種のものが一切無くても何の抵抗もない、あるいは置いてみたいという発想さえないという感性には、やはりある種の驚きを感じてしまいます。

同時に、これは詳しくは知りませんから想像ですが、おそらく欧米ではおよそ考えられないことではないかという気がしますし、少なくともマロニエ君の知る数少ない外国人は、それぞれがいかに自分の住まいを美的で快適に、しかも自分の求める主題のもとにまとめ上げ、工夫をしながら創り上げるかという点では、かなりの拘りがあったことを思い出します。

いずれにしろ、家の中でテレビが一番エライような顔をしているあの雰囲気というのは個人的には好きではありませんし、知り合いの大学の先生はもっとはっきりと「自分はテレビのある家というものが嫌いだ」とおっしゃって、現にそのご自宅にはまったくそれらしきものは見あたりません。

それはさすがに極端としても、部屋に対して誰が見ても過剰な大画面テレビを置くというセンスは、申し訳ないけれども、そこの住人があまり賢そうには感じられないものです。
とくに薄型のデジタルテレビの時代になってからというもの、その傾向には拍車がかかり、それこそくだらないテレビ番組で紹介されたりするセレブだなんだというような人達の豪邸とおぼしきところには、途方もないサイズのテレビが贅沢さの象徴とばかりに誇らしげに置かれていたりして、それをまたレポーターなどが必要以上に驚愕してみせますが、根底にはそんな影響もあるのかと思います。

文化などという言葉を軽々しく使うのもどうかとは思いつつ、たしかにその面での意識レベルは下降線をたどっているとしか思えませんし、今では文化というと、決まってサブカルチャーだのアニメだのというジャンルばかりに人々の関心が偏重するのは、どうしようもなく違和感と危機感を感じます。
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カラヤンの陰鬱

クライバーのドキュメンタリーが放送された翌週だったか、今度は昨年制作のカラヤンのドキュメンタリーが放送されました。

基本的には似たような作りで、彼を知る証言者たちが映像や音声を聞きながらひたすらコメントを繰り返すというスタイルであるばかりか、中にはクライバーのときとまったく同じ人なども出てきて、なんとなく二番煎じという印象を免れませんでした。

しかし、視聴者の受ける全体の印象としては、いやが上にも惹き込まれ、その魅力に魅せられ、感嘆するばかりのクライバーとは打って変わって、カラヤンはフルトヴェングラー亡き後の音楽史上、最も有名な大指揮者であるにもかかわらず、どこか陰鬱で暗いイメージが見れば見るほど上から上から塗り重ねられるようで、少しも心の浮き立つものがなかったのは、カラヤンに対する好みを別にしても、まったく意外なものでした。

ひとりの偉大な音楽家というよりは、この世界の頂点に君臨し、帝王などといわれたのはあまりに有名ですが、まずその表情がいつも重苦しく、いつも法外な独占欲と言い知れぬ孤独感に包まれているようで、見ていてちっともひきつけられるところがありませんでした。とくに録音スタジオのモニタールームなどでは、大勢の関係者に囲まれながら、彼がひと言ふた言、言葉を発するたびにまわりが過剰なまでにそれを引き取ってご大層に笑い声を上げる様などは、まさに孤独な権力者と、それを取り巻いて御機嫌を取る人達という構図そのものでした。

彼の演奏に内包される是非をいまさら言い立てる気もしませんが、彼自身、音楽が好きで純粋にそのことをやっているというより、自分の打ち立てた偉業を、より強固で、より大きく、より高く積み上げんがために、必死に業績作りと権力維持に励んでいるようにしか見えません。

また、数人の証言者達は、カラヤンの音楽的な優秀さをこれでもかとばかりに褒めそやしますが、なんだか…どこかわざとらしく、カラヤンの死後も尚、まだゴマをすっているか、あるいは何かの計算が働いてそういう発言をしているというように(マロニエ君の目には)感じられてしまいます。

カラヤンの時代は、指揮者に限らず華やかな大物スターの時代であったことは間違いありませんが、同時になんともいえない、重苦しい分厚い雲がかかっていた時代のようにも思います。
カラヤンのおかげで大活躍したベルリンフィルも、カラヤン故により自由な演奏活動の可能性を厳しく制限されていたとも思います。今のほうがベルリンフィルは世界最高のオーケストラのひとつとしての自由を得て、その存在感をのびやかに示していますが、カラヤンの時代はまさにカラヤン帝国の道具のひとつであり、彼を支えるための親衛隊のような印象だったことを思い出します。

マロニエ君はカラヤンをとくに好きだったことは一度もなく、それでも否応なしにカラヤンのレコードを避けることはできない時代の流れというものがあり、気がつけばLPやCDだけでも夥しい数が手許にあるのが、自分でも不思議な気分です。そして今それを積極的に聴こうとしないのも事実です。

聴くとすれば、今どきの、線の細い、けちくさいのに自然派を気取ったような、要するに貧しくも偽善的な演奏にうんざりしたときなど、その反動から、カラヤンの華麗でゴージャスな演奏を聴くことで、しばし溜飲を下げる役目を果たしてはもらいますが、それが済めば再びプレーヤーへお呼びがかかることはなかなかありません。
無農薬のどうのという講釈ばかりでちっとも楽しくない料理ばかり食べさせられると、単純にケンタッキーフライドチキンなんかをがっつり食べたくなるようなものでしょうか。

カラヤンは、要するに音楽界におけるひとつの時代を象徴するスーパースターであり、いわば彼自身が時代そのものであったのでしょうけれども、その演奏が、クラシック音楽のポピュリズムに貢献したことは認めるとしても、真に人の心の深淵に触れるような精神的核心に根差した音楽をやっていたかとなると、この点は甚だ疑問のような気がしますし、その点をあらためて問い返すような番組だったと思いました。

カラヤンのおかげで、20世紀後半のクラシック音楽界は巨大な恩恵にも与り、同時に損もしたような気がします。
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天才の魔力

BSプレミアムシアターの後半で、カルロス・クライバーのドキュメント映像が2本続けて放映されました。

彼の死後に、彼とかかわった音楽家をはじめとする、さまざまな人物の証言をもとに構成されたドキュメンタリーです。近ごろの流行なのか(といっても何年も前の制作ですが)、あまりにも各人のコメントは小さく切り刻まれて、ほとんど数秒ごとにめまぐるしく映像が入れ替わりせわしないといったらありません。これがある種の効果を上げているのかもしれませんが、字幕スーパーを読むだけでも後れを取らないようついて行かざるを得ず、およそゆったり楽しむというものではないのが個人的には残念です。

実は、この作品は2つともすでにマロニエ君は見ていたもので、DVDとしても保存しているのですが、レコーダーに自動的に録画されていて、消去するにしても、その前にちょっと出だしを見てみたら、もうだめでした。とうとう止めることができずに2つとも最後まで見てしまいました。

いまさら言うようなことではない、わかりきったことではあるけれど、それでも言わずにはいられないのは、やはりカルロス・クライバーは真の特別な天才でした。天才というだけではなく、他に類を見ない魅力、ほとばしるオーラ、その音楽の水際立った躍動と繊細、活き活きとした美しさは圧倒的で、これぞ空前絶後の演奏家だったことをいまさらながら痛感させられました。

残された数少ない映像からは、彼のしなやかな、その動きそのものが音楽の化身のような優雅でエネルギッシュで美しい指揮ぶりが記録されています。もし彼が生きていて、ヴィンヤード式のホールでコンサートが聴けるなら、マロニエ君は躊躇なく彼とは向かい合わせになる席を取るでしょう。

クライバーは天才特有の、気まぐれでわがままな人物としても有名で、コンサートも世界中のオファーを頑なに断り続けることでも有名でした。しかし、あの尋常ではない全力を尽くした指揮ぶり、とりわけリハーサルにかける猛烈なエネルギーと要求を見ていると、これはもう並大抵のものではなく、こんなことはそうそう日常的に続けられるものではないということを直感させられます。

カルロスのお姉さんが話していましたが、彼はコンサートやオペラが終わるたびに、まるでお産をしたように痩せこけていたというのですが、それも容易に頷ける気がします。自分のエネルギーを全投入して演奏に挑むものの、毎回必ずオーケストラや歌手達がそれに応え切れるとも限らず、そこで妥協をし中途半端な折り合いをつけるのが嫌だったのでしょう。もっと正確に云うなら、彼の薄いガラスのような繊細な神経が自分が承知できない演奏をすることに到底耐えられなかったのだと思います。

こういう純粋さを、世間はわかっているようでわかっておらず、結果的には我が儘とか気難しいという単純なレッテルを貼り付けてしまうようです。
そのかわり、やる以上はまさしく全身全霊を尽くした完全燃焼の奇跡的な演奏だったことが偲ばれます。

ちょっと思い出したのが作家の故・有吉佐和子女史で、彼女も執筆に関しては炎のような意志と情熱を注いで仕事に打ち込み、一作書き上げる毎に療養のためしばらく入院する必要があったといいますから、どんな世界でも本物はそのような狂気と背中合わせの危険地帯で自分の仕事(というよりも天命)に奉仕しているものだということがわかります。
こういう危険地帯に身を置き、我が身の犠牲を厭わず、一途に芸術に奉仕するといったタイプの人はたしかに激減してしまいましたし、だから一昔前までの芸術家は本物だったと思います。

クライバーの演奏は、その断片に接しているだけでもその魔力に痺れていくようで、しばらくは他の演奏が受けつけられないほどの強烈な魅力にあふれています。
番組も終わりに近づくころ、クライバーの眠る墓地の映像が映し出され、流れる音楽はベートーヴェンの交響曲第7番の第二楽章でしたが、興奮さめやらぬまま番組は終了、その続きがどうしても聴きたくなり、部屋に戻るなり手短にあったブロムシュテットの同曲を鳴らしてみたところ、マロニエ君の耳の感覚というか細胞がクライバーに染まった直後だったために、普段はそこそこ気に入っている演奏が、まるで気の抜けた、緩みきっただらしない音楽のように感じられてしまったのは驚きでした。
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買わせる領収書

冷蔵庫を買うことになり、電気店などをあちこち見てまわった結果、ひとつの機種に的が絞られたので、あまり期待もせずネット通販の価格を見てみたところ、安さ自慢の量販店で15万円前後するものがさらに4万ほど安いのにはびっくり。楽器ならともかく、単なる電気製品で、それもれっきとした日本の大メーカーの製品なので、だったら安いことは大いに魅力で、ネットから購入することにしました。

ところが購入手続きに入ると、ちょっと不可解な点に出くわしました。
ネット販売の場合、送料も無料となっているところが珍しくないのは驚きですが、よく見るとそれは軒先まで、つまり「玄関先まで」という条件付きで、家の中まで搬入し、開梱して設置、さらに梱包材を持ち帰るところまでやってもらうには、3千円強の追加料金となるようです。

量販店で買った場合でも送料はそれなりにかかるわけで、この点はまあ納得できますし、もとが安いからある意味当然だろうとも思います。

いっぽう納得がいかないのが領収書に関する部分で、「基本的に領収書は発行しません」という開き直ったような記述があり、さらには「当店名の入った領収書が必要な場合は発行手数料500円(店によっては700円)が必要となります」となっており、購入操作時に配送方法とならんで、領収書の必要・不必要をボタンで選択するようになっています。

しかしこれ、言い換えるなら領収書をお金で買うという意味でもあり、そんなバカなことがあるものかと思いました。同じ価格帯でサイト内に並んでいる6つほどのお店をそれぞれを調べてみたところ、なんと、すべて横並びに同じスタイルを採っているのには、いよいよア然とさせられました。

領収書を販売者が購入者に発行するのは、正常な商行為であるならばごく常識であり当然の義務であるはずです。こうなると領収書代の領収書を…という感じになるのでしょうか。

いくら販売価格が安いといっても、そのことと領収書発行の有償化は、およそ関連づけるべき事ではないはずで、しかも異なる業者がずらりと同じ方式を採っているところに、日本人の悪しきメンタリティである「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という昔流行った標語を思い出しました。

さらに思い出したのは、月極駐車場を賃貸契約している場合、車の買い換えなどで車庫証明が必要となると、貸し主は車庫証明の発行手数料として数千円から、場合によっては1ヵ月分相当の代金を請求するということを聞いて仰天したことを思い出しました。
これは厳密にいえばまったくの違法で、借り主の要請によって車庫証明書類の必要箇所へ貸し主が署名捺印することは、正当な貸借関係が存在しているという事実をただ単に証明するだけのことで、これは手数料どころか、駐車場を貸すことで収入を得ている貸し主側に課せられる責務なのであって、その責務を履行するのに相手から金銭を要求するとは言語道断だと思います。

この件は知り合いの弁護士にも雑談で聞いたことがありましたが、やはり法的な根拠はなく、人の弱みにつけこんだ悪しき慣例として社会に蔓延しているだけとのこと。裁判をすれば勝てるが、それっぽっちのことで裁判費用・弁護費用をかけて係争に持ち込むほどの問題でもないということで、煩わしさから払ってしまう人が多く、それがいつしか当たり前のルールであるかのようになってしまっているそうです。

そもそも領収書を発行しないというのは、税金逃れか闇の商売というふうにしか思われても仕方ないことで、こんなことが堂々とまかり通るなど、世の中ちょっとどうかしているんじゃないかと思います。
要するに手間と切手代と印紙代を倹約しているのでしょうが、これは合法なのか、ぜひいちど各自治体にある消費生活センターなどに問い合わせをしてみたいところです。
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別人のように

ついひと月前のことですが、必要があって携帯電話をひとつ新規契約しました。

これまで使っているケータイとは別会社だったために、事前にショップへ説明などを聞きに行き、そのとき対応に出た女性はあれこれのプランやサンプル機種を目の前に並べて、明るい調子で、なかなか熱心に説明してくれました。

カタログをもらって一旦帰宅し、それからほどなくして正式契約に再度ショップを訪れました。このときの対応は別の男性スタッフでしたが、この人も明るく一生懸命な様子で、次々に必要となる説明や確認事項などをこちらに示しつつ、何度となく端末をテキパキと操作したり、奥に引っ込んではまた出てきたりと、たかだかケータイとはいえひとつの電話を開設するのは、なんとも骨の折れる手続きだなぁといまさらのように実感しました。

時間も優に1時間はかかるし、スタッフとの関わりもそれなりのものになり、結構なエネルギーを要するというのが正直なところです。すべての手続きが終わって電話器その他を受け取って、店のドアを出るころにはぐったり疲れると同時に、お店の人にも素直にご苦労様という気分になるものです。

どの電話会社も似たようなものでしょうが、だいたいどこかに納得できないようなルールもあって、この時もこれこれのオプションをセットで付けると、数千円かかる事務手続き料が無料になり、さらにそのオプションも一定期間は無料で提供され、必要ない場合は契約から1ヵ月経過すれば解約できるということなので、とりあえずお得ということでもあり、そのサービスに入ることにしました。

その後、ひと月が経ったので、へたをすると忘れてしまい料金が発生する恐れがあるので、覚えているうちにと思って解約手続きをしにショップに出向きました。
店内に入ると前回手続きをしてくれた男性スタッフは接客中で、平日ということもあってか、ほかにスタッフの姿はありません。違和感を感じたのは、まずこの男性、いくら接客中とはいっても、営業中の店舗に来客があれば「いらっしゃいませ」ぐらい言うとか、最低限なんらかの反応をするのは接客業云々以前の自然な礼儀だと思うのですが、広くもない店内に人が入ってきて、わずか2m足らずの場所に突っ立っているのに、それをまさか気がつかないとは言わせません。しかし、こちらには頑として一瞥もくれずに目の前のお客さんとのみ会話が続き、こちらは延々とその場に立ちつくすだけでした。

こういうことは、最近よくあることで、気づかないということが通用しない状況でも、あくまで気づかない態度をとって他のお客さんを無視するというやり方が横行しているように思います。マニュアルにないことは一切したくないのでしょうし、建前を悪用して嫌な人の本心を見るようで、人としての基本的な気配りというものが欠落しているわけです。

どうしようもないのでついにこちらから、ほかに誰もいないのかと尋ねると、それでようやくこちらを見て席を立ち、奥に人を呼びに行きました。それでやっと出てきたのが、一番はじめに説明をしてくれた女性でしたが、無料サービスを外す手続きを依頼すると、この女性も前回の熱心な店員の態度とは打って変わって、笑顔のひとつもないまま淡々とパソコンの端末を忙しげに操作しはじめます。
さらには、それにまつわる確認事項をことさら事務的な調子で説明し、このときもそれなりの時間がかかりましたが、なんだかとてもやりきれない気分になりました。

べつにケータイのショップの店員に何かを期待しているわけではないけれど、すでに会話をしたことのある人間と再度顔を合わせれば、「あ、こんにちは」程度の態度というものがあってしかるべきはずですが、二人とも過去のことはたとえ昨日のことでも終った事として断ち切るのか、こうも冷徹な態度をとるのには驚いてしまいます。

なぜそんなにも別人みたいに態度を変えなくちゃいけないのか、さっぱりわけがわからないし、それだったらはじめから同じ態度で通してもらったほうが、まだ潔くもあり、余計な不快感を味わうこともないと思います。
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