テレビその後

過日、画面がいきなり暗黒になってしまった我が家のテレビは、アンテナケーブル接続部の不具合という些細なことが原因と判明、めでたく復旧したことは以前書きましたが、実は続きがありました。
メーカーの技術者は画面が復旧したというのに、なにか違う問題にしきりに関心を寄せている様子で、それからまたずいぶんと時間を要して、予想外の第二幕となりました。

てっきり修理完了後の調整や確認をしているのだろうと思っていたのですが、技術者いわく、なんと液晶に異常があるとのことで、そう言われて目を凝らしてみればなるほど、ほんのかすかな筋が左側にあること、また通常の放送画面ではまったくわからないものの、調整のための単色に近い画面にすると、右下にわずかな曇りのようなものがあるとのこと。とくに曇りなどは、言われるまでまったく気づきもしませんでした。

すると、これを要修理と判断したようで、技術者の方は持参してきたノートパソコンを見ながらパーツ類の調達のために電話で会社としきりにやりとりしているようで、こちらが頼みもしないうちから交換のための手はずがどんどん進んでいて、その流れは呆気にとられました。

「部品の準備が出来たらまたご連絡しますので」と言い残してこの日は帰って行かれたのですが、この時点でマロニエ君はそんなことよりもテレビ画面が3日ぶりに復活したことばかりを喜び、そのうち液晶のことなど忘れていました。

数日後、本当に忘れていたら、メーカーから電話があり、準備が出来たのことですぐに来宅され、作業には1時間半ぐらい要するとのことで、そのときはずいぶん大変なんだなあ…ぐらいに思いました。玄関脇にはテレビがそのまま入りそうな大きな段ボールが置いてあり、ちょっと違和感は感じていましたが、礼儀正しく淡々と作業を進めているので、そのまま部屋を後にしました。

2時間近く経過して、やっと作業が終わったと知らされて戻って説明を聞くと、なんと液晶画面をそっくり新品に交換しているほか、メインをはじめとするいくつかの基盤などまで新品に交換されていると聞いたときは驚愕しました。
素人考えでも、ということは、これまで使っていた部分は、主に外枠や背後のカバーなどと思われ、中の主要な部分はほとんど新品になっているようです。

しかもすべて保証扱いですから、こちらの負担こそゼロなんですが、なんとも大胆なことをするもんだと思うと同時に、つい先日「カミナリ」という言葉を口にしたが最後、保証の適用から外されかけた危機を思い出すと、今度は、どこが悪いのかわからないような些細なことで、これだけの大胆な修理をするというのは、なにがどうなっているのやら、まったく狐につままれたような気分でした。

要するに、いずれの場合も定められた「システム」がそうさせるということでしょう。
システムに適ったことなら、いかに高額な修理でもどんどんするし、逆に適用外となったが最後、たとえユーザーが自分の落ち度でもなく、かつ、どんなに困っていることでも保証とはならず、かかった料金を請求するというわけで、たしかにある種の理に適ったことではあるのでしょうけれども、とてもじゃないですが心情的についていけない世界だということがわかりました。

テレビが実質新しくなったことはいかにも結構な結果だったわけですけれども、なんだか釈然としないものが残り、妙ちくりんな世の中になったもんだというのが率直なところでした。
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低コストオペラ

今年8月のザルツブルク音楽祭から、プッチーニのオペラ『ボエーム』が放送されましたが、お定まりの新演出によるもので、時代設定は現代に置き換えられるという例によってのスタイルは、まったくノーサンキューなものでした。

本来のオペラなら演出家の名前も記しておきたいところですが、この手合いは覚える気にもなれません。
フィガロでもマノンでも、とにかくなんでもかんでも最近はこの新演出という名の安芝居みたいなステージが目白押しで、かつてのようにまともにオペラを楽しむという気分にはなれません。

今回のボエームもとりあえず全4幕のうち第2幕まで見ましたが、これが本当にあのザルツブルク音楽祭だろうかと思うような軽薄で品位のない舞台で、どこかに良さを探そうとするのですが、どうしてもみつかりません。

たしかに芸術は、ただ伝統的なものを継承し、おなじことを繰り返すだけではだめで、絶えず新しいものが創り出されて、それらが淘汰され昇華しながら後世に受け継いでいかなくてはならないという面はありますが、近ごろの新演出は、マロニエ君の目には到底そんな芸術的必然から出たようなものには見えません。

なぜ最近のオペラは伝統的な舞台が激減して、斬新ぶった子供だましのような空疎な舞台が多いのかと思っているオペラファンは多いはずです。
一説によれば、それはもっぱらコストの問題だという話を聞いたことがありますが、それも頷けるような露骨なまでのやっつけ仕事で、ことによると作品への畏敬の念すら疑わしくなるようです。

たしかに本来の伝統的な舞台を作るには、高額な装置や衣装などが必要で、生半可ではないコストがかかるのはわかりますが、そもそも、それを含めてのオペラじゃないかと思います。
少なくとも、あんなものを堂々とオペラと称するぐらいなら、いっそ演奏会形式でやったほうがどれだけ潔いかわかりません。

今回のボエームに限りませんが、主役をはじめとするせっかくの出演者達が、本来の扮装とはかけ離れたジーンズやTシャツで堂々と舞台に現れて、下品な仕草で現代の役柄を演じるのはさぞかし不本意だろうなあと思います。
そればかりか、時代設定を現代に置き換えることで、劇の進行や台詞のひとつひとつの意味にも矛盾や齟齬が生じて、まるで説得力がありません。音楽的にもステージ上で展開されているものとは何の繋がりもないようなものが噛み合わないまま空虚に流れていくのは、なにやら耐え難い気になってしまいます。

もし若い人で、はじめて見たオペラがこの手の新演出で、オペラとはこういうものかとその経験を記憶に刻むとしたら、とても恐ろしいことのように思います。

主役のミミにはアンナ・ネトレプコ、オーケストラはウィーンフィル、合唱団はウィーン国立歌劇場合唱団といかにもな一流揃いですが、演奏はそれぞれが上手い点はあるものの、全体のまとまりや流れもなく、みんなバラバラな印象で、ろくに練習も積んでいないといった感じでした。
一体に、最近はテンポもノロノロした演奏が多いという印象がありますが、これも要は練習不足の表れのような気がします。かのカルロス・クライバーの快速は、まわりが呆れるほどの練習の賜物だったわけですが、練習を繰り返すことも、つまりコストのかかる事というわけでしょう。

オペラさえまともに上演できないほど、ヨーロッパの不況も深刻だということなのでしょうか…。
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利害関係

現代の人間関係は、ひとむかしの前のそれとはまったく様子が異なるようです。

これは時代のめまぐるしい変化によるもので、わけてもネットをはじめとするいろいろなツールの出現は、社会に深く根を張り、私達の実生活はむろんのこと精神的にも大きな影響を与えたことは間違いないようです。それに伴い、人とのお付き合いの在り方も、気がつくとかなりの変化が起こっているように思います。

さまざまなツールの登場は、便利さや多様化する選択肢などという点において劇的な変化をもたらしましたし、じっさい以前なら思ってもみなかったような新たな可能性が生み出されたことも、なるほど事実でしょう。
しかし、本当に人はそのぶん、その通りに、豊かに、幸福になっているかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

携帯やネットには目には見えない弊害も多く、結果だけを見るなら、世の中の多くの人が、結局は深刻な出口のない閉塞感と孤独に追い込まれたように思います。

友人知人の関係というものにも今昔の違いがあり、かつては無邪気に気の合う者同士が結びつき、ごく自然で率直な付き合いをしていたものですが、今は、携帯やパソコンのアドレス帳には人の名が溢れていても、いざ本当の友人ということになると甚だ怪しいものです。

そして、現代の人間関係とは、何をもって互いを結びつけているかといえば、多くは「利害」であることも少なくありません。この場合の利害というのは、もちろん金銭やビジネスのことではなくて、主にプライベートな時間を過ごす上での意味合いです。

予定帳の空白欄を埋めたい、無為な休日を楽しく過ごしたいといったたぐいの者同士が、ネットを介してふと結びつき、傍目にはあまり相性がいいとも思えないような組み合わせが誕生。互いに相手を利用して寂寥を埋め合うという点で利害が一致、まさに相互メリットによって交際が成立してしまうこともあるようです。

そもそも人間は本質論的に孤独といえばそうなのですが、それが観念の上ではなく、実際的孤独へとしだいに変質しているといえないでしょうか。多くの人は孤独に陥っても、それを声にすることもできず、ひたすら耐え忍ぶしかありません。そこへ、たまたまなにかのチャンスがめぐってきて、似たような境遇の人同士が出会うと、堰を切ったように空虚な交流が続けられることがあります。
しかもより多くの期待をかけたほうがパワーバランスで不利になり、このような関係はなかなか上手くいきません。

マロニエ君もそういう例をここ数年で何度か目撃したことがありますが、そこに漂うどこか必死な感じは、なんともいたたまれないものがありました。もともと何の繋がりも実績もない即席の関係は、いつどこで終わりになるかもしれないという危うさを常に孕んでいて、そこは当人達も空気としてどこかで悟っているのかもしれません。
もしそれで本当の友人になれたらめでたい事ですが、それはいわばくじに当たるぐらい難しく、大抵終わりは突然サラリとやってくるようです。

こういうことになる原因のひとつは、ネットなどでまったくバックボーンのわからない者同士が、安直に出逢うことのリスクであり代償だと思います。その点、時間や手間暇はかかりますが、人との出会いは従来のスタイルのほうがよほど確かだと思いますが、それもある程度の世代から以降はほとんど消滅しているのかもしれませんね。
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カミナリとテレビ

このところ、晴れていたお天気が急変して、猛烈な雷雨に見舞われることが何度も続きました。当然のように湿度も耐え難いまでに上がって、まるで熱帯地方のようです。

その日も、昼間の強い陽射しと青空がウソのように夕方から猛烈な雷雨となり、かなり長い時間、まさに荒れ狂う嵐の様相を呈しました。

ようやく外の気配もおさまった夜半のこと、突如としてリビングで使っているテレビが映らなくなり、それこそ説明書と首っ引きで1時間以上、なんとか回復させようと格闘してみたものの、まったく無駄でした。
これはもう素人の手には負えるものではないと観念し、翌日、購入した電機店に修理依頼の電話をしますが、電話口で再三にわたって念を押されたのはカミナリが原因だった場合は、天災ということで保証の対象外となることを、予めご了承くださいということでした。

その電話から待つこと10時間近く、夜になって、ようやくメーカーの修理担当者から電話があり、来宅の日時を告げられました。その際にも、故障の状況を調べた結果、落雷によるものと判断された場合は保証の対象外となる由を念を押すように言われました。
見る前から、何回もこういう承諾の言質を取られるのはあまりいい気持ちはしないものです。

こちらにしてみれば、その日の夕方カミナリが鳴ったのは確かですが、そのあとも至って普通だったこと、他の部屋のテレビはいずれもまったく正常ということから、一概に落雷の影響というのではないのかもという気もしていたわけです。テレビの電源は入るし、ビデオなどを見るぶんにはまったく差し支えがないので、案外ちょっとしたことではないか…という気もわずかにしていました。

異常発生から3日目にして、ようやく待ちかねたメーカーの人がやって来ましたが、はじめは基本的な動作確認などをくりかえしていましたが、いずれも首を捻るばかりで、しだいに細かな領域に入っていきました。
果たしてわかったことは、アンテナの端子の中央にあるべき芯線というのが何故か欠落しているということが判明。これを正しい状態に戻すとあっけなく映像が戻り、テレビはめでたく復旧しました。

部品のひとつも使用せず、出張料金などは保証部分でカバーされているようで、まったく出費もなく、事前にずいぶん脅かされたわりにはあっさりと解決してしまったのはラッキーでした。

ちなみに、あとからネットを見て驚いたことは、たとえカミナリによる故障であっても、少なくともユーザーのほうからわざわざ「カミナリで」という言葉を発するのはタブーなのだそうで、それを認めると保証適用外となって修理費を負担しなくてはならなくなるとかで、あくまでも「ただ単に故障」という事実だけでじゅうぶんなんだとか。へええ…です。

上記の電話内容も、マロニエ君が不用意にカミナリと言ったために、たちまちその方向付けをされているのだということがわかり、今回はあきらかにカミナリが原因でなかったことが幸いでしたが、こんなちょっとした発言にも注意が必要とは、なんだか気が抜けないなぁという気分です。
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IKEA続編

せっかく決死の思いで行ったイケアでしたが、べつに取り急いで買いたいものとてなく、だからといって手ぶらで帰るのもつまらないので、LEDライトで取り付け部分がクリップ状になっている小型の電気スタンドを買いました。

クリップを譜面立てに挟んで、楽譜を見るための照明にしようという目論見です。
ところが使ってみると、照射範囲があまりに小さく、とても楽譜全体を明るく照らすことはできないことが判明。加えて位置や角度を自由に変えるための細い蛇腹のようになった棒状の部分が、狙った通りの位置に止めるのが難儀で、すぐに動いたりくだけ曲がったりして、なかなか思ったようになりません。

少なくともマロニエ君の用途にはまったく不向きであったのはがっかりでした。しかしよく考えると、店内に「気が変わっても大丈夫。90日以内なら返品が」できるようなことが大書してあったことを思い出しました。

しかしです、そのためにはまたあそこまではるばる行かなくてはなりませんから、マロニエ君としてはあまり積極性はなかったのですが、友人が「使わないならもったいないから、行こう!」というので、またしても行くことになりました。
考えてみれば往復のガソリンと時間、そしてなによりそのハードな労力を考えると、引き合わない気もしましたが、他に良いスタンドがあれば交換してもいいという考えが少しあったのも事実。

再び到着し、店に入ると、また例のシステムずくめの世界に突入するわけで、返品・交換のための手続きをどうするのかも、しばし探らなくてはなりません。
やがてわかったことは、入口から見て広大なフロアの一番奥にその手続きカウンターがあること。そこまで行くのがまた遠いので思わずため息が出ます。

3つあるカウンターのうち、ちょうど手の空いている女性に返品のことを告げようとするや、冷ややかに「番号札を取ってお待ちください!」と制されて、あたりを見回すと、側の柱に番号札の発券機がちょこんとあって、それを取って待つことになります。
とくにここは行列というわけでもなく、2組ぐらいのお客さんが返品の手続きをしているようですが、店側の対応におそろしく時間を要し、何かというと2、3人の若い店員が集まってヒソヒソ相談しています。きっと処理の方法を確認し合っているのだろうと思いますが、あとは延々とパソコン画面を見つめてしきりになにかやっているようですが、とにかくそれが遅々として捗らない。
この状態が30分以上も続き、これだけで気分は下がりまくってしまいます。

こちらの手続きを完了させてこの場を離れるまでに、軽く40分以上が経過したことは間違いなく、なんのためにこんなことをやっているのかという気にもなります。
それでも、せっかくここまで来ているわけだし、適当な照明器具はないかと疲れた気分に抗って、ほとんどやけくそ気味に売り場を見てみましたが、結果としてこれというものはありませんでした。

前回同様クタクタになり、ちょっと飲み物か軽食でもという気分でしたが、レジの近くにある飲食コーナーは、セルフサービスはまあ当然だとしても、なんと!すべて「立ったまま飲み食い」しなくてはならず、そんな厳しい場所は御免被りました。
こんな空港みたいに広い売り場をさんざん歩きまわらせたあげくのお客さんを、ちょっとのあいだ座らせようかという考えもないところに、日本とは完全に異なる、異国の感性と思考回路をまざまざと見せつけられたようでした。
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IKEA体験記

お盆前のことでしたが、イケアに行ってきました。
マロニエ君としては、例年にも増して暑い時期ではあるし、人の多い新名所みたいなところは苦手だし、いま必要な家具があるわけでもなく、別に行ってみたいとは思わなかったのですが、友人に背中を押されて、ついに行く羽目になりました。

少しなりとも混雑を避ける意味から、金曜日の午後7時近くに到着しましたが、それでも駐車場には車がぎっしりで空きスペースを探すのもなかなか大変です。
そこからトボトボ歩いて店の入口まで行くわけですが、内心もうこの時点で疲れた気分。

店に入ると目の前に「さあこちら」といわんばかりにエスカレーターが迫り、店内をどう動いていいのかもわからないので、ひとまずそのエスカレーターに乗りました。
果たして2階はメインの展示フロアで、イケアの商品展示の方法は、家具などの各アイテムが実際に生活の中で使われているようにリアルに配置されている点にあるらしく、細かく仕切られたそれぞれのスペースは商品を使ったいろんなスタイルの小部屋のようになっていて、要はそれを見てまわるというもの。

ところが、これがだだっ広いフロアの大半を埋め尽くしており、うねうねと曲がりくねった順路を歩きながら展示物を見て回らされるのは、あまり自由な気分ではありません。しかもその距離の長いことといったら、正直いって2階の展示スペースを一巡するだけでかなり疲れました。
なんとか終点まで達すると、今度は1階へ下りるべく大きな階段があり、そこは各種インテリア小物の売り場でしたが、ここがまたうんざりするような距離を延々と歩かされるわけで、つまり2階を見終わった時点で、歩くべき距離はやっと半分に過ぎないということがようやく判明。

話が前後しますが、2階の家具の展示場には店員らしき人はほとんど見あたらず、おどろいたのは、もし気に入った家具を購入しようとすれば、順路のところどころのスタンドに置いてある紙と鉛筆を使い、自分で商品タグを手繰りよせて、商品番号かなにかをこの紙に書きつけることが手順の第一歩。
その番号をもとに1階の順路の最後のエリアにあらわれる、思わず頭上を見上げるような広大な規模の倉庫の中から、紙に書いた商品番号を頼りにその商品を見つけ出し、それを自分で運び出し、カートに乗せて、レジで精算、さらに駐車場まで運んで車に積むというのがここの基本システムです。
帰宅後には、これを展示スペースで見たのと同じ姿形になるよう、自分でせっせと組み立て作業をやらなくてはならないというものです。

センスの良し悪しや価格のことはさておくとしても、この店に行って好みの家具を買うということは、それなりの体力と、張り巡らされたシステムの理解力と受容力、ちょっとやそっとではへこたれない忍耐強さが必要で、高齢者とか、こういうことが苦手な人には困難がつきまとうというのが率直なところです。

マロニエ君がイケアに行く少し前でしたが、テレビの地方ニュースによると、イケアの出来た周辺エリアでは「イケア効果」なるものが起こっているらしく、イケア開店の影響で、売り上げが伸びた業種と落ち込んだ業種があるらしく、なんと直接のライバルであるはずの大型家具店の売り上げは、予想に反してかなり伸びたといいます。

それによると、少しぐらい割高でも、笑顔の店員に迎えられて、商品選びに同行、適宜アドバイスなどをしてくれ、購入すればお届けから設置までしてくれるし、組立などする必要もないという、日本人が慣れ親しんだ販売スタイルが脚光を浴びているらしく、以前よりも売り上げが3割増!だといっていたのですが、たしかにその日本式のこまやかな接客がひどくなつかしいもののように思い起こされました。

イケアの流儀に較べれば、ドライだと思っていたアメリカのコストコ・ホールセールでさえ、まだフレンドリーさと穏やかさがあり、ほとほと北欧は厳しいなぁ…というのが実感です。きっとものの考え方や商売のセンスがまったく違うのでしょう。
わずか2時間余の滞在でしたが、車に戻ったときは疲労困憊。会話をするのも煩わしいぐらい、ぐでんぐでんに疲れて、マロニエ君にとっては真夏のスポーツにも値するものでした。
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聖トーマス教会合唱団2

この合唱団の少年達は、むろん普通の勉学も課せられますが、しかしなんといっても歌が生活の中心にあり、音楽漬けの日々を送るようです。

日常的にバッハを練習し、毎週礼拝で演奏するというのが普段の流れだそうで、さらにあれこれの行事や海外への演奏旅行なども含まれます。
(バッハ以外の作品も歌うようですが、やはり大半はバッハ)
先生の話では、普通であれば一曲仕上げるのに半年もかかるカンタータを、聖トーマス教会合唱団の少年達はわずか一週間で仕上げなくてはならないのだそうで、そのハードさとレヴェルの高さは並大抵ではありません。

ちなみにバッハのカンタータは教会カンタータだけでも200曲近くあり、これだけでCDの60〜70枚に相当するほどで、カンタータ以外にもたくさんあるのですからとてつもない世界です。

このドキュメンタリーで紹介された南米各地の公演では、なんとバッハの合唱作品における最高傑作といわれるミサ曲ロ短調が演奏曲目でしたが、CDでも3枚にもなるこの大曲を荘重かつ活き活きと披露していたのは圧巻でした。
あんな少年達が当然のような顔をしてこんな大曲を歌い通すだけでも驚きですが、その指導をする先生がまた素晴らしく、あふれ出る音楽は気品に満ちて活気があり、聴く者に感銘を与えずにはおかない彼らの能力にはまったく脱帽でした。

クリスマスには当然ながらこれまた傑作の誉れ高いクリスマス・オラトリオが登場しますし、このドキュメンタリーの後には、今年4月におこなわれた聖トーマス教会での「マタイ受難曲」までやっています。
南米公演に選ばれなかったあどけない少年が、いろいろ質問された挙げ句に「僕は受難曲が好きです」などとごく普通に言うのですからたまりません。
彼らはバッハの膨大な作品と真髄に10代という最も多感な時期に深く触れて、魂の飛翔と超越をその身体に刻み込むのだろうと思うと、素晴らしい反面、なにか恐ろしいような気さえしてきました。

指揮者であり、トーマス・カントール(バッハもここで同じ職務を果たした)のゲオルク・クリストフ・ビラー先生は、自身も同合唱団の卒業生で、生徒達を忍耐強く献身的に指導していらっしゃいました。
音楽的な指導はもちろん、人としての心構えや演奏会での注意など、厳しさと愛情深さに裏打ちされたその教えは実に多岐にわたり、こういう偉大な先生と出会うことひとつをとっても、この合唱団に入って10年の歳月を過ごす価値があるというものでしょう。

このビラー先生というのが見るからにドイツの音楽家然とした風貌で、その面立ちは白いカツラを被せればそのままバッハになるようでしたし、じっさい彼の頭の中にはバッハの全作品が克明にインプットされているといった印象でした。
この合唱三昧の様子を見ていると、いかにバッハの音楽というものがポリフォニックな多声部の重なりによって成り立っているかということを、あらためて、新鮮に、認識させられたようでした。
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聖トーマス教会合唱団

NHKのBSで放送されるプレミアムシアターは、音楽に関する興味深い映像を見ることのできる貴重な番組ですが、過日放映された「聖トーマス教会合唱団のドキュメンタリー~心と口と行(おこな)いと命~」は、とりわけ心に迫るものがありました。

バッハといえばライプツィヒ、ライプツィヒといえばバッハ。
ほかにもメンデルスゾーン、ブリュートナー、そしてゲヴァントハウス管弦楽団であり、バッハが音楽監督としてつとめ、彼の墓もそこにある聖トーマス教会といった連想をしてしまうほど、この地はバッハの音楽とその魂が地中深くまで染み込んでいるような印象です。

聖トーマス教会合唱団はなんと創立800年!!なのだそうで、そこに在籍する9~18歳の少年たちの寄宿生活と音楽への献身ぶりにカメラが入りました。

各地から集まった少年というよりは子供達の中から、厳しく選ばれた者だけがこの歴史的な合唱団への入団を許されますが、その栄誉と引き換えに、10歳になるかならぬかの若さで、住み慣れた我が家と両親に別れを告げて、この合唱団の仲間との生活に入らなくてはなりません。

ホームシックに耐えながら、彼らはトーマス校での勉学と歌の練習に明け暮れます。厳しい寄宿生活には楽しさもあるけれども、いわゆる個人のプライバシーとか自由といったものとはほとんど無縁で、厳しい集団生活のルールの中に組み入れられます。
新入生の直接の面倒を見るのは上級生の役割で、いろいろな指導から生活の世話をやく兄の役目まで、この合唱団のメンバーが第二の家族となり、寝食を共にしながら、バッハの音楽を中心とする厳格な音楽生活を送るのは驚きでした。

こんなに幼い少年の頃から寄宿生活を強いられ、同時に荘厳かつ豊饒なバッハの音楽の中に身を置いて10年間を過ごすというのは、人生経験として途方もないことだと思います。
もうそれだけで人々の尊敬を集める立派な音楽家であり、卒業間近の青年達は二十歳前というのに皆おだやかな大人のような眼差しをしており、高い人格教養まで身につけているようでした。
謹厳な先生達の面々、聖トーマス教会の圧倒的建築、周辺の威厳に満ちた街の景色、美しい、まるで絵のような森や植物など、とにかくあまりにもなにもかもが違っていて圧倒される他はありません。

どこがどうというような次元の話ではなく、そこにある空気、差し込む光、すべてのものが独特で、根底に流れる精神的価値がまったく違うのは、いわば世界が違うことでもあり、ドイツには今でもこういう部分があることに感嘆しました。
西洋音楽は、国境や地域を越えて広がった共通文化となりましたが、それでも、その地に生まれ育ったものでなくてはわからない機微や領域というものがあるのは確かだと思います。

唐突ですが、今回のオリンピックでは日本の男子柔道が史上初の金メダルなしという結果に終わったのだそうですが、その要因として、日本人は「一本」に拘るからという意見がありました。
でも、柔道のことなど何も知らないマロニエ君から見ても、柔道をするなら一本に拘るのは理屈抜きに当然だろうと思います。それが今後、もし、国際試合に勝つために、判定基準に合わせて、ちびちびと小技のポイントばかりを掻き集めていくような柔道になるとしたら、それは一気に柔道の本質的な精神と魅力を失うような気がします。

聖トーマス教会合唱団のバッハには、歴史の遺物をただ敬うだけではない、まさにその本質と魅力が今も受け継がれて脈々と流れているようでした。
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史上二位の炎暑

過日はある方のお宅へ伺うことになっていましたが、あいにくこの日は福岡の観測史上に記されるほどの炎暑となり、午前中から気温はみるみる上昇、午後にはついに史上二位の37.5℃に達するほどの苛烈さでした。
ここまでくると、見慣れた景色もどことなく違ってくるようで、とりわけ目に映るものの色がぎらぎらと腐敗寸前のように生々しくざらついて見えるような暑さでした。

途中寄るところがあり、いったん車を置いて外に出ると、まるでフライパンの上に降り立ったようで、頭はボーッとするし、身体の動きも明らかに鈍くなる感じがしますね。
車に戻るって何気なく見たルームミラーに映る自分の顔が、短時間のうちに赤く火照っているのがはっきりわかりました。

以前にも思ったことですが、夏の中でも本当に猛烈に暑い日というのは、誰もができるだけ外出を控えるようで、意外にも道を走る車の数も普段より少な目でがらんとしていますし、我が家の周辺も昨日今日は普段にも増して深閑としているようです。

おそらくはその所為だと思われますが、目的地のお宅まで向かっているつもりが、いつもより車が少ないために予想したよりスイスイと進んでしまうし、そんなときに限っていつもは決まって赤信号になる交差点などでも、陽炎の立ちのぼる無人の青信号だったりして、それでまた車は先へ先へと進んでしまいます。

あまり早く着くのもどうかと思い、さらにゆっくり走りますが、こんなときは何をしても車が止まることがありません。急ぐときに限って渋滞にはまり、にっちもさっちも行かなくなるのとまるで正反対の状況ですが、往々にしてこういうものですね。


夕方、おいとまして車に戻り、走り出してしばらくするとなにやら目の前で物がドサッと落ちてきました。
あまりにも咄嗟のことで、何事か一瞬状況を呑み込めませんでしたが、オンダッシュのカーナビのスタンド部分がこの異常な暑さのせいで吸着力が弱まっているところへ車が動き出したらしく、赤信号が青に変わって発進したときの加速の勢いで、カーナビがいきなり手前側に倒れてきたのでした。

反射的に片手で抑えて完全落下こそ免れましたが、ひとりで運転中とあってはなす術もなく、とりあえず次の信号で停車するまでこのまま走るしかありません。片手にハンドル、もう片方には落ちかかったカーナビ、それを背中を浮かしながら運転している自分が滑稽でたまりません。
ところが、こんなときにも往きと同様で、一刻も早く止まって欲しいのに、信号は信じられないぐらい次々に青信号という皮肉の連鎖となり、可笑しさ半分、思わず叫び出したくなりました。

ようやく止まったのは、2キロほども先で、記憶では5つほどの青信号の交差点を不本意ながらスルーさせられた挙げ句のことで、そこでなんとか吸盤部分を付け直すことができました。

それにしても、今年の暑さは異常な気がします。
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内村航平

オリンピックもほとんど熱心に観ることのないマロニエ君ではありますが、唯一、体操の内村航平選手の演技だけは見たいものだと思っていたところ、昨日の夜中、「今やっている」と教えられてようやく途中からですが、ライブで見ることができました。
おまけに結果は金メダルですから文句なしです。

彼はひとことで云うなら「天才」だと思います。
むろん他のどの選手も、ここまでくるにはずば抜けた才能と努力があったのは云うまでもありませんが、内村選手には、そういったありきたりな要素ではとても収まりきれないものを以前から感じていました。

努力努力の積み重ねも尊いものですが、一観戦者として演技を見る場合、マロニエ君はなにか突き抜けた天才的なものに触れることに喜びを感じ、そこに非日常的な感銘と刺激を受けたいと思うわけです。

これは音楽であれ美術であれ、天才という、どうにもならない、常人が越えがたい領域に住むことを許された者だけが放つ、一種独特な輝きに魅せられるときの快楽みたいなものが身についているからかもしれません。

内村選手はその佇まいや、顔の表情からして他の選手とはまったく違ったものを感じます。
いつもどことなく伏し目がちで、一見無表情のように見えますが、それが却って彼独特の激しい内面の表れのようでもあり、燃えたぎる闘志の裏返しのようにも解釈してみたりします。
同時に彼のそこはかとない静けさのようなものが、天才特有の孤独性のようにも感じられる…。

スポーツ選手特有の汗くさい、動物的な、ぎらぎらした感じがあまりなく、いつも淡々と自分自身と向き合っているような気配も、並の選手には見られない特徴でしょう。

演技自体の専門的なことはまったくわかりませんが、素人目に感じることは、他の人と比較して動きが非常に軽やかで大きく、閃きがあり、ひとつひとつの動きの緻密さと全体の躍動が有機的に自然につながっていることでしょうか。
無理を重ねて苦しみ抜いている印象がなく、乗れば乗るほど演技が凄味を増し、むしろ解放へと向っていくところにも彼の尋常ではない天分を感じます。

今回はそれでも、オリンピックということもあってか、全体として慎重確実な演技でまとめる意志が働いていたようですが、いつだったか、国内での大会で見せた鉄棒の脅威的な迫力とスピードなどは、恐ろしいようなものがあり、その実力は底知れぬものがあるのでしょう。

彼こそ金メダルに相応しいとは思っていましたが、やはりオリンピックの本番というのはなにが起こるかわかりませんから、ともかくも、その通りの結果が出てホッとしているところです。
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節約リバウンド

少し前の新聞に、「節約はダイエットと似ている」という内容の記事が掲載されていました。

それによると、長引く景気低迷で、どの家庭も何かしらの節約はしているだろうけれども、節約にはリバウンドというダイエットと同様の反動があるのだそうで、無理な節約を続けると「自分へのご褒美」などと言い訳して結局は無駄遣いするのが悪しき典型なんだそうです。

取材に応えた人物は『やってはいけない節約』という本を出版したフィナンシャルプランナー(?)の男性で、危ない節約として代表される4つパターンが表にして記載されていました。
要約して書くと、
(1)スーパーなどの買い物先のすべてのポイントカードをためる
(2)徹底的にクレジットカードのポイントをためる
(3)家族に節約を強要する
(4)雑誌等の節約術をうのみにして実践する

これらの節約で危ない理由は、
(1)ポイントはオマケと考えるべきで、もっと安い店で買うほうがお得
(2)カードはお金を使っている実感が稀薄で、しかるにポイント目的にカードを使うのは危険
(3)無理強いされた節約はストレスを生み、やがてリバウンドという大きな出費を招く
(4)節約に力を入れすぎて、仕事など本来大切な事がおそろかになったりと、本末転倒の事態が起こる

という事だそうです。
これに対して、当たり前のこととして粛々と行える「習慣化された節約」が最も効果があるのだそうですが、マロニエ君に言わせれば、これも個人差によるところが大きいような気がします。
節約などと口では簡単に言ってみても、行き着くところは個人の感性とか価値観、ひいては人生観が問題となってくるのであって、その意義の軽重には個人差があり、極端に云うとそういうことが好きで自然に身に付いている人と、そうでない人がいると思われます。

マロニエ君などはお金もないのに節約が苦手で困りますが、ときどき人格の中にまで節約精神が深く根をおろしているような人を見ると、とても驚くことがあるものです。
こういう人は、必要な節約というよりは、そもそも支出をする事自体が苦痛のようで、だから節約は半ば喜びでさえあり、ごく自然に楽に実践できるのに対して、不本意にやっている人は苦痛を伴うのですから、似たようなことをするにもストレスの量で大差がつくわけで、これもひとえに個人差だと思います。
そして、苦痛の人はリバウンドの恐怖が待ち受けているということでしょう。

思い出しましたが、かのJ.S.バッハは大変な吝嗇家(つまりケチ)で、収入には充分恵まれていたにもかかわらず、何事も節約で通したのだそうです。五線紙の使い方にもそれはあらわれているそうで、手書き稿を研究家が見ると、他の作曲家とは比較にならないほど音符もビチビチに詰めて書いているし、曲のおわりに余白ができると、そこへまったく別の曲の冒頭を書き込んだりしたのだそうです。

音楽の世界ではほとんど神にも等しいようなバッハですが、それが実際に生身の人間として存在し、勤勉で、節約家で、収入の額などに強い拘りがあり、子供が20人もいたなんて聞くと、なんとなくイメージがまとまらないものですね。
バッハとは対極に位置する浪費家タイプの大天才がモーツァルトだそうです。
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氷ドロボウ

ちょっとした事情と流れから、福岡市の郊外にあるスーパーで買い物をして帰ることになりました。

自宅まではやや距離があり、この季節なので、レジを通ったあとサービスで備え付けられている氷をビニール袋に入れようと製氷器の前に行くと、そこには身をかがめて氷を袋にせっせと詰めている男性がいました。
中年のごくごく普通の、いたって善良な感じの男性です。

繰り返しスコップを氷に差し込んでは、かなりの量を袋に詰め込んでいるようで、ちょっと違和感がありましたがやがて終わったので、その後に続いてマロニエ君も氷を袋に入れますが、買ったものが傷まないための保冷が目的ですから、その量もたかがしれています。

適当に入れ終わって、製氷器の扉を閉めようとすると、さっきの男性が近づいてきて「あ、いいですよ。」と言うので、なにかと思ったら、またさっきと同じように氷をザクザク取り始めました。

マロニエ君はすぐ脇のテーブルで買ったモノを持参した袋に入れていると、その男性は目の前に戻ってきて、同じテーブルに置かれた発砲スチロールの大きな箱の中へビニール袋へ詰めた氷を入れていますが、なんとその中にはズラリと同じ状態の氷ばかりが入っています。そして、またもピッと袋を一枚とって製氷器の前に戻り、繰り返し氷を袋へせっせと掻き込んでいます。

その製氷器の上には特大サイズの警告の紙が何枚も貼られていて、「クーラーボックスなどで氷を持ち帰らないように」といった類の注意書きが嫌でも目に入るよう大書してあるのですが、その男性の態度はまったくそんなことは意に介する風でもなく、むしろ淡々とした調子で、氷を袋に詰めて上部を縛っては箱の中へとどんどん投入していきます。

しかもその男性の周辺には、ここで買い物をしたらしい形跡はなにひとつなく、来店したのは氷を持ち去る事だけが目的というのがしだいに明らかになってきました。
こういう不逞の輩がいるから店のほうでも困ってこんな派手な貼り紙をしているのだと思いますが、そんなことはまるで知ったことではないという態度で、ひたすら氷を発砲スチロールの箱の中へ移す作業だけが続きます。

やがてその箱は蓋が閉まらないほどの氷であふれ、もはやこれで終わりと思いきや、今度は目の前の閉鎖中のレジに悠然と向かい、そこに置かれている店名が印刷されたレジ袋の大きいのをサッと取ってきて、今度はそっちにビニール袋入りの氷を入れ始めました。

その態度たるや、なんの悪びれたところもなく、製氷器の前ではときどき他のお客さんに「どうぞ」などとわざとらしく身をよけて順番をゆずったりしながら、あくまで悠然と氷の盗み出し作業に専念しており、その慣れた感じからしても、到底これが初めてではない常習犯であろうと思われました。

店の氷を大量に盗んでいることに加えて、そのナメたようなふてぶてしい態度に、すでにこちらの心中は穏やかであろうはずもなく、気分は不快感でムカムカしてくる始末です。
…とはいうものの、今どき本人に直接注意する勇気もないし、いきなり逆ギレされちゃ敵いません。

しかし、このまま捨て置くのも業腹なので、店を出るとき、レジの店員さんに「氷泥棒がいますよ、ものすごい量を今持ち去ろうとしていますよ。」と伝えました。
店員さんは目が点になって、ひとこと「ありがとうございます…」といったきりマロニエ君は店を出ました。その店員さんはすぐにレジを離れて動き始めたようでしたが、さてそのあとどうなったかまでは見届けませんでした。

それにしても、あんなに大量の氷を盗んでいったい何にするのだろうと思いましたが、おそらくはこれから釣りにでも行くのだろうとしか思えませんでした。
そこは海がわりに近いのです。
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梅雨のおきみやげ

ようやく梅雨が明けたのはいいのですが、我が家の庭には、今年の梅雨の途中からたいそう不気味なものが現れています。

はじめてそれを見たときは、朝方から激しく降り続く雨でうっすらとぼやけた視界の向こうに、いやに生々しい白っぽい物体が浮かび上がっているようで、目の錯覚かと思いつつゾッとしたものです。

以前、お隣との境界線近くにわりに大きな木があったのですが、どうしたわけかその木は隣家の敷地へばかり枝を伸ばし、落ち葉はもちろんのこと、これ以上成長しては隣家に多大な迷惑がかかるために、やむを得ず引き抜いてしまうことになりました。

とはいって胴回りが1m以上はありそうな木だったため到底素人で手に負えるものではなく、植木屋さんを呼んでその旨を伝えました。ところが、これぐらいの木になると地中にも相当強い根が張っていて、専門家をもってしても簡単に引き抜くなどできわけがないと、当方の無知を薄笑いされるほど。どうしてもやるというのなら重機などを使った相当大がかりな作業になるといわれました。

しかし、まるでお隣の敷地に寄りかかるごとく盛大に太い枝々を伸ばしている状態をこれ以上放置するわけにもいかず、引き抜くのは無理だから、そういう事情なら切ってしまうこと勧められ、やむを得ずそうすることになりました。

果たして植木屋さんが切ったのは(いまだにその理由はわかりませんが)、地面から1メートルぐらいの部分で、おかげでその後は太い切り株というよりは、もっと背の高い、奇妙な太い木のオブジェみたいな恰好で我が家の庭の隅に居残ることになりました。

それから数年間というのはとくにこれという変化はなく、ときどきあらぬ方向から新芽が出てくるので、まだ生きているらしいとは思いつつ、そんな新芽をそのままにしていると、気がついたときにはまた手遅れになることになるので、早め切ってしまいます。

この切断された太い木は、目立たない普通の木の色をしていましたが、今年の梅雨も半ばに差しかかった頃、ある朝、気がつくとハッとするほど白くなっていて、それもちょっとやそっとの変化ではなく、まるで人の手で色をかけたようなあからさまな白色に変わっています。

まずは、ただ驚き、とっさに何かこの長雨のせいだろうと推量しましたが、なんとなく近づくのも薄気味悪いのでうっちゃっていましたが、数日後やはり気になり、思い切って傍まで見に行ってみることにしました。
近づくにつれて、それは想像以上の不気味な様子に変化していることがはっきりしてきて、思わず肌が粟粒立ちました。

全体にびっしりと分厚くて白いスポンジのような物体が覆い被さり、嫌だったけれど、おそるおそる指先で押すとかすかな弾力がありました。
きっと変な種類のキノコかカビか、とにかく今年の厳しい梅雨がもたらした熱帯雨林みたいな環境のせいで、そんなようなものがこの背の高い切り株を覆いつくしてしまったのだろうと直感しました。

こんなもの、どうしたらいいものか…何ひとつ対策も考えも浮かばず、仕方なくそのままにしていますが、部屋の窓から見ると、梅雨の明けた強い陽射しの下に、まるで巨大な怪物の骨がゴロンと庭の向こうに置かれているようです。
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速読はエライ?

週末の昼間だったか、なにげなくテレビをつけてみると、ある女優さんが数人のアナウンサーらしき人達に囲まれて話をするというスタイルの番組をやっていました。

すると、同じドラマで共演する別の女優さんからメッセージのような映像が流され、そこで「○○さんは雑学にとても詳しくて撮影の合間などにいつもいろいろ教えていただいてます」というようなことが語られました。

それがきっかけとなって、スタジオではこの女優さんは雑学知識が豊富だということに話題が転じて、実は大変な読書家だということが視聴者に紹介されました。
読書家というのは大変結構なことで、今どき感心な人だなぁとはじめは思いました。

そもそも読書家になったきっかけというのが、優秀なきょうだいの末っ子であったらしい彼女は、少しでもなにかの知識を披瀝することで自分を主張し、いわば出来の良いきょうだいをやっつけるために、知識の情報源としてあれこれの本を読み出したのだそうです。

ちょっと変な動機だなとは思いましたが、それは子供の時分のことではあるし、たとえどのようなきっかけからであろうと、本をよく読むようになるというのは素晴らしいことだと、この時点ではまだマロニエ君は好意的に捉えていました。

ところが、だんだん話は思わぬ方向へ向かい始めます。
この女優さんは大人になってからも読書家であることは変わらず、司会者の手許には事前の情報があるのか、今でも相当お読みになるんでしょう?というようなことを話しかけながら、童話に至るまでのあれこれの本をひと月に200冊ぐらい読まれるそうですね、というと、なんとなくその場にどよめきが起こりました。

その女優さんは、謙虚そうに「いえいえ、今は忙しいのでそこまでは…」といいつつも、大筋は否定せず、時間さえあればそれぐらいのペースで読めますよということを暗に匂わせました。
すると、その場にいた数名はいかにも感心した態度を露わにし、かたわらにいた女性が話を引き取って「だいたい、読書家の人って、読むのが早いんですよねぇ…」と、本は早く、たくさん読むことが価値であるかのように、この女優さんの速読の能力を褒めちぎりました。

以前にも、別の番組でこちらは男性のコメンテイターでしたが、やはり一日に本を4、5冊ぐらい読んでいるというようなことをさも誇らしげに言っていたのを思い出しますし、書店に行くと速読ができるようになるためのHow to本が何冊も集められているコーナーを見た覚えもあります。

でも、マロニエ君から見ると、本を読むのに速読なんて基本的な読書の姿勢として価値があるとは到底思えません。現代人は何をするにも忙しくて、時間がなくて、本を読むにもスピードが必要ということなのか、理由はどうだかしりませんが、本を読むのさえそんなに急がなくてはいけないものかと思います。

とりわけ文学書を速読なんぞしようものなら、その人の教養さえも疑いたくなります。
作家の書いた文章をゆっくりと味わい、しばしその世界に身を委ねることがマロニエ君にとっての読書です。
いってみれば、本は読みたいから読むのであって、その結果として言葉や、知識や、思想や、その他の文化意識が身に付いてくるものだと思っていましたが、はじめから情報収集のために目的を絞って速読でむやみにあれこれの本を読み漁って、それで私は読書家でございますと言われても、それはまったく別の次元の話のようにしか聞こえません。

それでも、今どきは、こういう人が一般的には有能な勉強家ということになるのかもしれませんが、なんとなく寂しい気がします。
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都市高速環状線

福岡都市高速道路の環状線がついに全線開通しました。

とはいうものの、これまで福重JCTの繋ぎのところで一部未開通部分が残っているだけでしたから、今回開通したのはわずか1kmにも満たない区間に過ぎません。
それでも、これまではいったん下の道に降りて、すぐ先のランプへ再び入るという乗り継ぎをしなくてはならなかったことを思うと、そんな必要が一切なくなり、これをもって環状線としてきれいに完成したわけで、ずいぶん長かった工事期間を思うとやれやれという感じです。

なにも開通の当日早々、勇んで走る必要もなかったのですが、ちょうど休みで友人と行ってみることになり、夕食後とりあえず外回りを走ってみました。

日本の都市高速道路で環状線があるのは首都高速都心、阪神高速1号、名古屋高速都心に次いで福岡都市高速が4番目とのことですが、内回り外回り、いずれの方向へも走行が可能な環状線ということでは首都高速に次いで全国2番目とのことです。

新しく開通した区間を通るとき、おや?と思ったのは、これまでの福重ランプの降り口のすぐ先に福重JCTが続き、いきなり道が3つに枝分かれするようで紛らわしいことと、さらにはJCTの構造が進行方向に対して左に向かう西九州自動車道へ連なるルートが右の車線で、ほんらいそれよりも右方向に向かうべき天神方面が左の車線によって左右に分かれるということでした。

一度覚えてしまえばいいのかもしれませんが、実際の方角と、自分が進むべき車線の左右の関係がまったく逆というのは、人間の自然の感覚に反することで、これではとっさに間違ってしまうドライバーがいるのではと思われていささか心配になります。直前に気付いて急な車線変更でもしようものなら事故の危険もあり、これはぱっと見た感じは納得のいかない造りではありますが、おそらくいろいろな事情が絡んでこのような構造になったのだろうと思います。

さて、その環状線ですが、首都高速のそれが14.8kmなのに対して、福岡都市高速では35kmと首都高の優に2倍以上という長さになります。
新聞によるとJR山手線が一周ちょうど35kmでほぼこれに匹敵しますが、ひとまわりするのに何分かかるか時計を見ていると、夜で流れがよかったせいもあってか、快調に走って約25分ほどでひとまわりできました。

ただし、言葉では「環状線」と云うものの、途中通過する千鳥橋JCT、月隈JCTでは別方向へ向かうルートのほうが本線の扱いとなっており、環状線へ進むには特に意識してそちらへ積極的に枝分かれしながら走行しなくてはならず、首尾良く走るには安閑とはしていられないという印象を持ちました。

ループ橋を越えたあたりで気付いたのですが、昨夜は夜だというのに博多港には例の超大型客船が入港・停泊しており、船からこぼれ落ちる眩いばかりの無数の光にあふれたその一場面は、周辺の景色まで違って見えるようで、まさにゴージャスな映画のワンシーンを彷彿とさせるようでした。

マロニエ君は特にそういう趣味はありませんが、この景色はさすがに圧倒的で、好きな人にはきっと感に堪えないものがあるだろうと思われます。
だからというわけでもないのでしょうが、昨夜はとりわけ他県ナンバーの車が多く目につきました。
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湿度計の針

昨日はいつにも増して暑苦しい、ムシムシした不快な一日でした。

もともとピアノの為以前に、自分自身が温湿度にめっぽう弱いマロニエ君ですが、今年の厳しい梅雨のお陰で、自分自身が歩く湿度計になったように湿気を肌で感じるようになりました。

部屋に入るなり、現在の湿度がどれくらいか、およその見当がつくようになり、湿度計で確かめるとそれほど外れてもいません。

この蒸し暑いのに用事があって、夕刻天神に出たのですが、その不快感ときたら、最近よく耳にする言葉でいうなら「これまでに経験したことのないような」ものでした。
とりわけ猛烈だったのは湿度の高さで、小雨が降ったり止んだりと、こういうお天気は一定した雨天よりもよほどムシムシするところへ、人の往来で混み合う天神の雑踏の熱気とコンクリートの風通しの悪さが加わると、そこはまったく熱帯ジャングルのようでした。

むしろ外のほうがいくらかまだマシなぐらいで、天神のあちらこちらでは時節柄、節電も実施されているようで、その環境の厳しさは自分の体がおかしくなったのか…と思うほどでした。
場所やエリアによってはエアコンの効いているところと、そうでない部分とが入り交じってまだら状態になっており、ただ歩いているだけでも身体の調節機能もぐらぐらに狂ってしまいそうでした。

早めに用事を済ませてなんとか車に戻り、エンジンをかけると天国のようで、ようやく生き返りました。

帰宅して、ものは試しにピアノの上にある湿度計を外に出してみると、5分もしないうちにたちまち70%を突破しました。
普段そんなところを指したことのない我が家の湿度計に、急激にそんな環境の変化をあたえて壊れてしまわないかという気がしてきて心配になり、早々に屋内へ戻しました。
すると、部屋に戻るなり、湿度計の針はみるみる下がってもとの定位置へ戻ろうとします。

湿度計の反応はよほど遅いものと思い込んでいたところ、状況次第ではこんなにも動きが早いとは予想もしなかったことで、その針の動くのを肉眼で見たのは生まれて初めてのことでした。
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light

少し前にこのホームページの「マロニエ君の部屋」にタイムドメインのYoshii9というスピーカーの事を書きましたが、さすがにすぐに購入という価格でもないので、ひとまず小型で安い、同社の「light」というスピーカーを買い求めました。

マロニエ君の自宅には、普通のステレオ装置はあるものの、夜間など落ち着いて音楽を聴く時間の大半は自室のほうで、そこでは小型のヤマハのCDコンポを使っています。
とくに自慢するような高級機ではありませんが、まったくの安物でもなく、オーディオに興味のないマロニエ君にとっては狭い自室で聴くにはこれで充分だと(今でも)思っています。

しかしYoshii9の純粋でやわらかな美音を耳にしてからというもの、少しでもその手の音に触れてみたいという気持ちがあるのも事実で、それがlightではあまりに格が違うとは思いつつも、ものは試しという気分も手伝って購入にいたりました。

タイムドメインのスピーカーに詳しい調律師さんの談によると、同社のスピーカーを楽しむにはCDのプレーヤーなどは安い簡素なものでいい(というか、安物のほうがいい)とのことなので、量販店に行って3千円もしない中国製のポータブルプレーヤーを買ってきて、さっそくこれに繋げました。

lightは全体が白で形も可愛らしく、どことなくアップルの製品のような品のよさと存在感があります。
スピーカーコーンそのものの直径は4cmにも満たない超ミニサイズで、箱から取り出した感じでは、ほんとうにこんなもので聞くに堪える音が出るものだろうかと思ってしまうほどですが、果たしてそこからなんとも可憐な美音がでてくるところが不思議です。

さすがにヤマハのCDコンポに較べるとパワーはなく、ボリュームを大きくするとたちまち音が割れてしまうところなどが残念ですが、このスピーカーに無理のない、やや絞った音で聴いてみると、Yoshii9に通じる(気がするような)音が立体的に立ち現れるのはさすがです。

とりわけ良い意味での生の音がして、演奏者がドラえもんのライトで10分の1ぐらいに縮小されて、近くで演奏しているような気分が味わえるのはこのスピーカーの一番の魅力だろうと思います。
このスピーカーにはアンプも内蔵されているので、なんにでも繋げて手軽に楽しめるのはなかなか便利で、いろいろな可能性があるように思います。

便利なのはいいのですが、マロニエ君には困ったことも起こりました。
当然パソコンに繋ぐこともできるわけで、そうするとiTunesの音源はもちろん、広大な海のごときYouTubeをこのタイムドメインのスピーカーで聴けるようになったのは甚だ困りました。

それからというもの、ひとたび見始めると際限のないYouTubeの魅力が倍増し、真夜中に、たちまち2〜3時間が過ぎ去ってしまうのは新たな悩みの種になりました。
アル中の人が悪いとわかっていながら、あと一杯…あと一杯…と繰り返すように、もう一曲…もう一曲…と深みにはまってしまい、本当に止めてトイレに立とうとすると身体がまるで硬直していて、あちこちの骨がきしむような目に何度も遭いました。

さすがにこれはまずいと思い、できるだけ自重して、これまで通りにコンポでCDを聴くなどしていますが、休日前の夜などはつい誘惑に駆られて始めてしまうと、やはりどんなに短くても2時間はパソコンの前にまんじりともせずに身体を固定することになり、これはどう考えても不健康だと思わずにはいられません。

美しい音が心を慰めるのか、はたまた健康を害するのか、目下わからなくなっている状態です。
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オトナを演じる

世の中はすっかりネット社会で、もはやそれなしには何事も立ち行かなくなってしまいました。

テクノロジーの進歩は、それを使う側のあり方が常にこの分野の尽きない副主題であり、優秀で便利な革新技術が生まれれば、それだけ倫理性や節度というものが問題となるは当然ですが、これが難題です。

とりわけネットの普及には、世の中の在り方自体をひっくり返してしまうほどの力があり、今やほとんどすべての物事がネット主導で動いており、現実社会は、それを追認し具体化するだけの場所になり果てているように感じることもままあります。

昔は(といってもたかだかマロニエ君が知っている昔ですが)、何をするにも今にくらべると何かと手間暇がかかり、不便といえば不便でしたが、それは現在の便利を知ってしまった結果そう思うだけで、当時はそれを不便だなどと感じることはほとんどありませんでした。

振り返ればそこにはいいこともたくさんあり、その手間暇の中には、今から思うととても人間的な情緒的な温かみや味わいがあって、昨今、加速度的に失われていく多くの人間臭いものが、ごく自然な手続きとして含有されていたように思います。

もはや生の人間関係すらどことなくネットの延長上にあるようで、直接会っている人との感触においても、ネットのルールや発想から完全には逃れることはできず、そこになにかしら縛られている気配を感じてしまうこともしばしばです。

すくなくともネット上での慣習、パソコンの操作感触や体験が、しだいに人の心の深奥にまで侵食してしまい、現実社会でもその流儀が横行してしまっていると感じることが多々あるのは、とても恐ろしいことのように思います。

人との関係も、なんの縁故もない者同士がネットで出会うなど、そのこと自体にも賛否がありますし、その手の出会いは僅かな例外を除いて大抵は関係が希薄で、ささいなことであっさり終わってしまいます。

それで得心がいったこともあり、だから今の人間関係には、いつかそんな瞬間が来るのではという予感と覚悟を多くの人が本能的にしているようで、よけい表面的に関係が良好であるよう振る舞うことにエネルギーを費やし、口にすることも必然的に無害な当たり障りのない安全なことばかりになるのでしょう。

「ケンカをするのは仲が良い証拠」という言葉はもはや死語に等しく、今どきはケンカはおろか、どこか不自然な感じがするほど良い人ばかりなのは、つまりケンカができないからなんですね。むかしは、ケンカは、煎じ詰めれば「もっと仲良くなるためにすること」ぐらいな認識でいられましたが、いまはちょっとでも関係がつまづくと、まずそれで関係は終了です。

つまり失敗が許されない。双方が理解し許し合うだけの許容量も情愛もない。
しかし生身の人間関係で失敗がないなんてことがあるでしょうか? だから誰もが本音は胸の奥深くにしまい込んで神経をすり減らしてでも偽りの善人を装い、それを徹底して貫くために毎日を芝居のように演じているのだと思います。
そしてその芝居が上手くて持続力のある人のことを、現代では「いい人」とか「オトナ」という尊称で呼ぶようです。

不思議なもので、役者が役になりきるように、そんな芝居でもとにかく毎日やっていればそれに慣れもすれば上達もして、しまいには意識まですっかり立派な人物のような気になるのでしょう。

要は、みんな孤独で、恐くて、ピリピリしているだけのことかもしれません。
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オープントップバス

福岡には今年の春から、若い市長の肝いりでオープントップバスなるものが運行開始して、市内の要所や都市高速を走り回る昼夜3コースが設定されています。

その名の通りオープントップ、すなわち屋根の空いた2階建てバスで、乗客は爽快な外の風に触れつつ高い位置から下界を睥睨できるという楽しげな遊び目的のバスのようです。

マロニエ君もいつか乗ってみたいと思いつつ、まごまごしているうちに季節は温湿度の上がる時候に突入してしまい、ここしばらくはとても無理なので、また秋口にでもなったら乗ってみたいと思っています。

つい先日の午後、市内のけやき通りを車で走っているとこのオープントップバスに邂逅、しばらく併走することになり、後ろから横からと数分の間この珍しいバスを間近に観察することができました。
後部に乗降のための階段があり、座席はなるほどかなり高い位置に並んでいて、顔にけやき並木の枝葉が触れはしないかと思うほど高く見えました。まだ見慣れぬせいか、ちょっと異様な感じも覚えて、ずいぶん昔にハワイのアロハ航空の737が、飛行中に屋根が吹き飛んだにもかかわらず、そのまま無事に帰還したときの奇妙な姿を思い出してしまいました。

しかしそれよりも、もっと奇妙な感じを覚えたのは実はそのオープン部分でなく、バス全体の動きにありました。
マロニエ君の友人には大変なバスマニアがいて、彼につられてバスに興味を持つようになったもう一人というのもいて、彼らの会話をきいていると、まるでなんのことだかわからないような専門的なことを次々に言い合っています。
そこで聞いたのは、東京などにもオープントップバスというものはあるけれども、これは既存のバス車輌を改造することでオープン化されたものであるのに対し、西鉄が運行する福岡のそれは、はじめからオープントップバスとして製造された専用車輌だというのが大きなポイントのようです。

しかも注目すべきは操舵輪が前後に二つ連なっている点で、つまり左右合わせて4輪つのタイヤがハンドル操作に合わせて左右に動くというものです。
彼らに言わせるとここがポイントで、ベースはバスではなくトラックではないかという推論を抱いたようでした。それもただのトラックではなく、なんと競馬用の馬を運搬するためのトラックというのがあるのだそうで、それがこの4つの操舵輪をもつ車輌だというのです。つまりこれが福岡のオープントップバスのベースではないかというわけです。

そんなことを聞いた上で、今回マロニエ君が実物を見て感じたことは、バスといえばふつうは動きも鷹揚でゆったりした車体の揺れ方をするものですが、このオープントップバスはサスペンションが硬いのか、まるでスポーツカーのように路面状況に応じてその巨体が小刻みにピクピク揺れているのが目につきました。

さらにはこれだけの大型車輌にしては変に加速などもいいし、4つの操舵輪のせいなのか、ハンドリングも鋭く軽快な動きをしているのが肉眼にも明らかでした。けやき通りは上下4車線の道路ですが車線の幅が狭くて普通車でもわりに走りにくい道なのですが、このバスはカーブでもセンターラインを見事にトレースしながら難なくシャープに動いているのがわかります。
この動きを見ただけでも、このオープントップバスの正体がタダモノではないことがわかりました。

いよいよ興味は高まり、秋にはぜひ乗ってみたいもんだと思っています。
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翻訳の文章

いま、あるピアノの技術系の本を読んでいます。
買ってすぐに通読して、現在はもう一度確かな理解を得たいと思い、少しずつ再読しているところです。

技術的なことを書かれたいわば専門書で、あえて書名は書きませんが、おかしなことに、この本を読むと催眠術にかかるように眠くなるのです。もっとありのままに云うと、必ずといっていいほど強い睡魔に襲われてしまい、まとまった量を読み通すことがなかなかできません。
実は最初に読んだ時も同様だったのですが、なにしろ内容が専門的なところへこちらはシロウトときているために、他の本ようにスイスイ読み進むというわけにはいかないのだろう…とそのときは単純に思っていました。

でも不思議なのは、内容が理解できないとか面白くないのであれば眠くはなるのもわかりますが、内容はマロニエ君自身も強い関心を持つもので、そこに書かれている内容はむしろ積極的な興味をそそられる面白い内容なのです。

そのうちに、その睡魔の元凶がなへんにあるかついにわかりました。
この本は海外の技術者が書いたもので、それを日本人の同業技術者が翻訳して国内の出版社から発売されたものなのですが、原因はどうやらその文章にあるようです。

翻訳者は、外国語は堪能なのかもしれませんが、あくまで技術者であって少なくとも翻訳の専門家ではないはずです。
外国語ができればその意味を理解することはできるかもしれませんが、それを右から左に日本語に正しく訳しても、なんの面白味もない、味わいのない、どこかおかしな日本語になるだけです。
したがって多くの文学作品などの翻訳を手がける際は、その原文理解はもちろんですが、人並み以上の日本語の能力と文学性、さらには深い教養が必須条件となるのは云うまでもありません。

要は最終的な読者に違和感なく、心地よく、快適に文章を読ませるためには、日本語固有の文章構成、すなわち日本語による思考回路にまで配慮が及んで表現されるよう、述べられた意味と言語特性を一体のものとして奥深いところで取り扱わなくてはいけないのだろうと思います。

ところが、そういうことに重きを置かない人は、書かれた原文の文法および内容の正確な和訳ということが主眼になってしまうのか、読者の心地よさや、述べられた意味やニュアンスを日本語の文章として捉えやすい表現に昇華するという思慮に欠けているのではないかと思います。

言葉や文章というものは、言うなれば各言語固有の律動と抑揚をもっており、そのうねりに乗って語られないことには、読む側はなかなかテンポ良く読み進むことができません。この本の文章は、そういう意味で原文記述には忠実なのかもしれませんが、相互の文章間にしなやかな日本語としての流れと脈絡が欠けているので、数行読むのにもひどく神経が疲れます。

この本が翻訳の専門家の手に委ねられなかった理由はマロニエ君の知るところではありませんが、ピアノ技術者のための専門書であるがために、発行部数もごく限られており、同業の日本人が奮起して訳することになったのではないかと思います。技術者らしい非常に丁寧な仕事ぶりだということは読んでいて伝わってきますが、それだけになおさら残念に思うわけです。
諸事情あったのだろうとは思ってみるものの、価格もかなり高額であった点から云っても、やはりそこには不満が残りました。
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ピニンファリーナ

世界的な自動車デザイナーの大御所であるセルジオ・ピニンファリーナ氏がトリノの自宅で亡くなったそうです。1926年の生まれで享年85歳。

ジウジアーロやベルトーネなど、造形の国イタリアには、数々の自動車デザイナーの巨匠が綺羅星のようにいましたが、そんな中でもピニンファリーナは傑出した存在だったと思います。

その斬新な造形には、モティーフの中に古典的な優雅の要素が息づいており、気品と官能性が結びつき、それが見る者の心を鷲づかみにしていたと思います。

ピニンファリーナのデザインには、きっぱりとした完成された独自の存在感と情感が脈々と流れ、ただの奇抜な挑戦的なデザインとは常に一線を画する孤高の美しさがありました。簡潔だけれども蠱惑的で優美なラインがあって、見る者を虜にし、しかもまったく飽きのこない普遍的な美しさを湛えた造形。それが自動車という機械を命ある有機的な存在へと高めることに、彼ほど貢献した人はいないようにも思います。

自動車という枠を逸脱するようなデザイナーの思い上がりでなしに、まるでモーツァルトのように最良最適の美しさを作り出したその才能と手腕は、まったく芸術家のそれに劣るものではなかったと思います。

マロニエ君も過去に何台かピニンファリーナのデザインによる車を所有したことがありますが、そこには必ずメーカーや車名などのエンブレムとは別に、ピニンファリーナの優雅な書体によるエンブレムが付けられていていて、それがまたマニア心を甚だしくくすぐる要素でした。
洗車してワックスをかけるにも、それがピニンファリーナのボディともなれば、いやが上にも熱が入ったのはいうまでもありません。

デザインがピニンファリーナであることは、ときにその車のメーカーの価値と比肩されるほどに尊ばれる場合も珍しいことではなく、オーナーはそれが車であると同時に、作品であり芸術品であるということを諒解しており、それは並々ならぬプライドと満足にもなりました。

今のデザイナーでこれほどの格別の想いと満足を個々のオーナーに与えて撒き散らすことのできる人がいるかといえば、残念ながらそれは見あたりません。
音楽を含む他のジャンルと同様、自動車デザインの世界も全体の組織レベルは途方もなく大きくなっているようですが、個人のデザイナーで芸術家に匹敵するような世界的大物はいなくなり、とりわけ若い人でそういう位置を受け継ぐような人は出てきていないようです。

セルジオ自身が二代目だった思いますが、さらに息子達が事業を引き継いで、大きなデザインメーカーになり、その後はどうなっているかは知りませんが、時代も変わり、おそらくセルジオの功績によるブランド会社になったのかもしれません。

天才級の煌めくような大物がいなくなり、効率や平均値が上がるばかりの世の中というのは、どうしようもなくつまらないものです。
個々の製品は素晴らしくても、心からわくわくしたり真の感銘を受けるようなことは…もうないようです。
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深い梅雨

今年の梅雨は例年にない厳しさだと感じているマロニエ君ですが、皆さんは、この季節をどのようにお過ごしなのでしょう。

今まさに梅雨の真っ只中にありますが、今年の梅雨ほど重さみたいなものを感じたことはこれまであまりなかったように思います。梅雨というのはその字面を見ただけで、いかにも鬱々としたイメージがあり、夏を迎えるための通過儀礼といった趣がありますが、実際には覚悟ほどもないままにこの時期が過ぎていった年がいくらでもあったように思います。

梅雨に入ってみたものの実際にはそれほど雨は降らず、逆に春よりも晴天が続いたりする「空梅雨」の年も何度もありました。それほどでなくても、数日に一度は必ずほがらかな陽光が差して、梅雨の中休みのようなこともしばしばあるものでした。

ところが、今年の梅雨ときたらまさにその字面通りで、過ごしにくい不快な天候が毎日をすっぽり覆ってしまっており、前線が立ち退く気配もなく、昨日はついに九州各地で深刻な水の被害まで出る始末です。

なんにしてもこの連日の不愉快そのもののような天候は、気分までカビが生えるようで、ここ当分は収束の気配もないままいったいいつまで続くのやら…。

先日など、夜外出した折、玄関を一歩出ると外は風呂場のような蒸し暑さで、ガレージから車を出すと、内外の湿度差からか、いっぺんに車の前後左右の窓は真っ白になってしまい、動き出そうにも何も見えなくなるほどでした。まるで熱帯地方のようです。

ほとんど休むことなく回っているピアノの横の除湿器は、日頃の酷使が祟ってきたのか、どうも本調子ではないようで、タンクに溜まる水量から本来の除湿能力を発揮しているとは思えず、それが追い打ちをかけるように気がかりです。

それでも湿度計の針は50%を超えることのないよう意地で保っていますが、やはりどうもおかしい…。メーカーに電話してみると、果たして「基盤の不良があるかもしれない」とのことですが、そのためには機械ごとメーカーに送って診てもらうことになる由、送料と大まかな修理代を考え合わせると、そんなことをするのもばかばかしいし、だいいち修理を終えて戻ってくるまでの幾日ものあいだ、除湿器なしの状態になるわけで、これは直ちに却下しました。

けっきょくは除湿器を買い直さなくてはいけないのでは?と急遽考えているところですが、わずか数年しか使っていないのにもうダメになるなんて、日本の家電製品も質が落ちたものだと思います。

週間天気予報を見ても、ここ当分は雨と雲のマークばかりで、まったく望みナシと思っていたら、まったく不思議なことに昨日の午後は突然、何日ぶりかでウソのように陽が射してきて驚きました。
しかし、これもほんの一時的なことだろうとすっかり疑い深くなっていたら、やっぱりそうで、一時間もするとまた小雨が降ってきました。
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たかじん委員会

人気テレビ番組に『たかじんのそこまで言って委員会』というのがありますが、これはテレビ嫌いのマロニエ君にしては珍しくよく見る番組です。

この番組の魅力は、折々の時事問題が話のテーマとなって、おなじみの論客達による歯に衣きせぬトークが聞かれるところにあり、さらには大阪発のこの番組は、やしきたかじん氏の意向によって、これだけの全国的な人気番組にもかかわらず「東京では放送しない」という拘りが守られているのも痛快なところです。

元を辿れば東京の出身でもない、現在の東京を構成する多くの人々が、なにかというと東京の威を借りて、ここがすべての中心だと思い込んでいる中で、今や永田町にさえ多大な影響を与えているといわれるたかじん委員会、例の橋下さんもこの番組の出身であるそれが、すべての中心であり発信地であるはずの東京にあからさまに背を向けているというのは、それだけでもユニークです。

むろん公共放送であるかぎり完全な放言の場ではありませんが、かなり辛辣できわどい意見が飛び交うのは毎度のことで、およそ他局や他の番組では不可能と思われる領域をぎりぎりまで攻めていくのは、こんな時代にあってささやかでも溜飲が下がることしばしばです。

そんな中でもなにかと過激な発言を連発する勝谷誠彦氏が、過日の放送で主に次のような発言をしました。
「私は現在でもテロやクーデターは必要だと思っています。ただしそれは武器や暴力によるものではない。現代の最も腐っているものは言論である。その言論界にクーデターを起こす必要があり、そのツールはウェブであって、だから自分は毎日のようにテロ行為をやっている。」

これは彼独特な過激なスパイスを効かせた偽悪的な言い回しであって、テロやクーデターという言葉にはさすがに抵抗を覚えますが、しかしそれでも、彼の言わんとしている意味は大いに頷けました。

もう少し礼節と勇気をもって、自分の考えがごく自然に発言できる本当の意味での健全な世の中になってほしいものですし、それにはまずその道の本職である筈のマスコミに先陣を切って欲しいと思います。
言論が腐るということは、民主主義が腐り、すなわち人間が腐るということを意味しているでしょう。

昨日も永田町はひとつの山場を通過したようですが、見たくもない顔ぶれがデジタル放送の鮮明画像によって映し出され、腰の引けた解説やコメントが流れるだけで、そこに「言論」らしきものは不在です。
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巨大客船

昨日の午前中、友人が博多港に巨大客船が入港していることを知らせてきました。
彼は高速バスで職場に向かう途中、都市高速からときおりこの手のクルーズ船が入港していると言っていましたので、また見かけたときは知らせて欲しいと頼んでいたのです。

マロニエ君は、とくに船に興味があるわけではないものの、巨大なクルーズ客船というのを一度も見たことがなかったので、いつかチャンスがあれば一度は現物を拝んでみたいもんだと思っていたのです。

友人の情報では同日午後7時には出発するとのことで、見るならぐずぐずしていられません。
そこで夕方近く、用事にかこつけてちょっと港のほうへ廻って見物に行ってきました。
博多港には大小いくつもの埠頭があり、停泊している旅客ターミナルそのものがある埠頭へ行くよりも、その対岸に位置する埠頭から見た方がいいような気がして、まずはそちらに向かいました。

天神の北にある那ノ津埠頭は、広大な道路とアクション映画さながらの荒涼とした倉庫街のようなところですが、車で走りながら建物の合間から遙かむこうに停泊する巨大船の上部がチラッと見え始めて、その化け物的な大きさに思わず息を呑みました。

この埠頭では、大型トラックが縦横に行き交い、貨物船の荷役作業などがおこなわれている関係者のみのエリアが大半で、なかなか見物に適した場所がありません。
ようやく一箇所、海面に面した場所を見つけて車をとめると、目の前には桁違いに大きい、白い高層ビルを横に倒したような途方もないサイズの船が、その偉容をこちらに向けて静かに停泊していました。

聞きしに勝る大きさ!としか云いようがなく、周りにいる船がまるでコバンザメのようで、他を圧するとはこういうことを云うのかとしみじみ実感しました。
写真を撮るなどした後、ついでなので、停泊している埠頭のほうへも廻ってみましたが、近づくにつれますますその巨大さが露わになります。車を運転しながら手前の景色の向こう側に船の上部が見えてくる感じは、船と云うよりも、ほとんど普通のビルのような趣です。

船首にVoyager of the Seasとあり、帰宅してネットで調べてみると、なんと「1999年就航当時、タイタニックの4倍、QueenElizabeth2世の2倍の大きさを誇る世界最大客船として注目を集めた」とありました。
…どうりで大きい筈です。

さて、大きさは大変なものでしたが、では客船として優美な姿かといえばさにあらずで、漠然とタイタニックのような船を豪華客船のイメージとするなら、そういう美しさとはおよそかけ離れたものというのが率直なところでした。

まるで大型リゾートホテルを海に浮かべたようで、これでもかといわんばかりの構造物が船の床面積いっぱいに、上へ上へと積み重ねられており、パッと見たところでも10階はあるようです。
しかも、こんなにも大きいのに、なんとなく余裕のない、息苦しい、ケチケチした感じに見えました。
人は数千人単位で乗っているらしく、なんだか現代のざわざわした日常生活がそのまま海に浮かんで移動しているようです。
船内の眩く豪華な様子の写真も見ましたが、それもホテルと遊園地とショッピングモールを一緒にして遮二無二押し込んだようで、いわゆる船旅の優雅とは違ったものに見えました。

ちなみにネットのデータによれば、総トン数137,276トン、乗客と乗組員を合わせると約4000人以上にも達し、全長は310mとほぼ東京タワーの高さに匹敵するようです。

ともかく、思いがけなく、とてつもないものを見物できました。
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サド侯爵夫人

『サド侯爵夫人』は『鹿鳴館』などと並んで、三島由起夫の戯曲の最高傑作に数えられる作品で、深い交流のあった澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』に着想を得て書かれたものであることは良く知られています。

初演以来、世界的にも高い評価を得て何度も上演を重ねていますが、今年4月に世田谷パブリックシアターで上演された舞台の様子がBSプレミアムで放映されました。

この作品には、サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人をはじめ、わずか6人の女性しか登場せず、当のサド侯爵はいわば影の主役であって舞台上に登場することはありません。

驚いたことには、演出は狂言師の野村萬斎によるもので、能や狂言の手法を取り入れたものということで「言葉による緊縛」などと銘打った公演だったようですが、率直に言って未消化の部分も多く、装置や衣装も同意できない点が多々ありました。
主役の蒼井優は膨大な台詞をよく頑張りましたが、この役に対していささか軽量という印象を免れませんでしたし、奔放で悪徳の擁護者であるサン・フォン伯爵夫人を演じる麻美れいはいささか力みすぎで、役のキャラクターに対して表現過多かつ台詞まわしの雑なところが目立ちました。

しかし、もっとも驚いたのは白石加代子扮するモントルイユ夫人で、しつこいばかりの、もののけのような演技の連続で、あまりにも品位に欠けるという他はありませんでした。表情はいつも大げさに目を剥き、声は始終だみ声を張り上げては不可解なアクセントがつき、中でも驚いたのは、ほとんど台本に書かれた日本語の意味とは無関係にしばしば句読点を打ったり勝手気ままにブレスをしている点でした。
「言葉による緊縛」はこの人には適用されなかったようです。

白石加代子は役柄によっては存在感を示せる強さのある役者なのかもしれませんが、およそ三島作品、わけてもサドのようにパリが舞台の貴族社会が舞台ともなると、まるで場違いな異質な感じが際立って、この芝居の大きな柱のひとつとも云うべき重要な役を江戸時代の怪談語りのように変えてしまい、三島の芸術世界や、作品の本質をまったく見誤っているとしか云いようがありません。

三島の戯曲は、その格調高い絢爛とした日本語の美しさを、言葉の調べのように再現するためにも、役者は複雑な台詞を音楽的かつ明晰にしゃべらねばなりません。同時に並外れた洗練も必要で、その考え抜かれた豪奢な文体に過剰な緩急をつけたり、新劇風の感情表現を加え過ぎたり、恣意的な表現があるとたちまち作品の持つ密度感が損なわれます。
おそらく三島が観たなら、決して満足できない舞台だったに違いないと思いました。

それでも、今どきはたえて聞かなくなった美しい日本語の洪水に耳を傾けるのは抗しがたく、とうとう3時間半を超すこの言葉の劇を明け方まで見てしまいました。

昔は感銘を受けた作品ですが、今にして感じることは、いささか長すぎるのではないかという点で、あまりにも装飾的な台詞が延々と続き、さすがに緊張感が途切れるところがあり、ヴァーグナーの影響でも受けたのでは?などとふと思ってしまいました。
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主観で狙い撃ち?

久しぶりの顔ぶれの友人達が集まって食事をしましたが、そこで出た話。

そのうちの一人が最近スピード違反で捕まったんだそうです。
場所は国道3号線の北九州市に近い上り方向だったとか。

いわゆる「ネズミ取り」ですが、よく通る道なので、そこでしばしば取り締りが行われているのは知っていたものの、すぐ前にも同じ速度で走っている車がいたために、その後ろを走っているぶんには大丈夫だろうと高をくくっていたそうです。
ところが実際にネズミ取りはおこなわれており、しかもすぐ前を走る車は捕まらず、後ろを走っていたマロニエ君の友人のほうが赤い旗を振られて停車を命じられたというのです。これにより「前に車がいたら大丈夫」という安全神話はもろくも崩れ去ったことになります。

あきらかに狙い打ちをされた形だったようで、結局はどの車に照準を当てるかという判断はレーダーを操作する警察官個人の判断と意志により決定されるようで、この場合、なんらかの理由、つまり目につきやすい車であるとか左ハンドルというような要素が不利に働くということだろうと考えられるそうです。

現に他に止められていたのは国産の高級乗用車などで、ますますその印象を強くしたと言います。

呆れたのは警察官の対応で、いきなり「すみませーん、ちょーっと速度が出ていたようですねぇ!」と満面の笑顔で第一声をかけながら、車から降ろされ、傍らに止められたマイクロバスのような警察車輌に移動させられる際にも、入口のステップに注意してくれという意味で「ここに、ひとつ段がありますので気を付けてください!」などと、必要以上に腰の低い、まるでどこぞの明るい営業マンのような口ぶりと対応なのは、却って嫌な気がしたそうです。

もちろん、速度違反者ということで警察官が居丈高になったり横柄な態度に出るのは絶対に好ましいことではありませんから、それに比べればマシだといえばそうなのですが、物事には自ずと限度というものがあり、あまりにも取って付けたような低姿勢に出られるのも違和感があるのは聞いていて同感でした。
そんなにまでへつらうような態度が必要なほどの内容なら、初めから取り締まるなと言いたくもなります。

すると別の友人がすかさず解説を差し込んでくれました。
違反検挙の場では、違反そのものを認めないとか、取り締まりの方法自体に問題があるというような言い分によって正当な主張をする人もいれば、いわゆる不当にゴネる人もいるわけで、警察としては極力ソフトな態度に出ることによって警察官および取り締まりそのものへの心証を良くして、できるかぎり素直に違反キップの処理に応じさせ、スムーズにサインさせるようというのが目的なんだそうです。

なるほどそういうことかと一応は思いましたが、どうも何かがどこかが間違っているような気がするのはどうしようもないところです。
それに、同じ速度のスピード超過であっても、やはり先頭を走るのと、それに続くのとでは、やっぱり罪の軽重でいうなら、先頭を走るほうが検挙されて然るべきだと思うのですが…。
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なまくら気分

日増しに気温が上がっていくこの頃、この変化がどうも苦手です。
とくに日本では温度と湿度はセットのようにして両方上がっていくので、マロニエ君にとっては甚だしい二重苦となり、なんとなく気分までじりじり蒸発してしまうようです。

世の中には、冬が嫌いで温かくなると木々が芽を出すように元気増大していくひまわりみたいな人がいるものすが、マロニエ君はそれとは真逆の人間で、気温の上昇とともに次第にパワーを奪われていくようで、なんでもだらだらと億劫になっています。
仕事場に買ったノートパソコンも届いたのですが、すぐに使うものなのに初期設定さえも甚だ面倒だし、もう一台自分用に買った最新のマックも、とっくに届いているというのに、まだ箱さえ開けないまま物置に放り込んでいて、このままじゃ使わないうちに型遅れになりそうです。

いまここに書いたことでそれを思い出し、またまた暗澹たる気分になってきました。
こんな時期に内田百聞の阿呆列車を読んでいると、巨匠の味わい深い文章の力もあって、なまくら気分にいよいよ拍車がかかってくるようです。


週末はあるピアニストが遊びに来てくださいました。

ピアニストが来られたら弾かないまま帰すマロニエ君ではありませんから、当然ピアノを弾いてもらいましたが、快くいろいろと聴かせていただきました。
ショパンをいくつかの他は、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスとまさに文字通りのドイツの三大Bがお並びになり、大いに楽しませてもらうことができました。

中でもブラームスでは、マロニエ君の楽譜の中から目敏くコンチェルトを見つけて、近ごろこの1番を弾いてみているとのことで、譜面を広げて少し弾いてもらいました。
これは個人的にも最も好きな協奏曲のひとつです。
ブラームスだけが持つ、仄かな影が差し込むような和声展開の美しには、思わず心が持って行かれるようです。

その後はさらに数名が合流して夕食会となりました。
ピアノは弾くだけでなく、それを基調としながら、あれこれとくだらないことまで楽しく語り合うのも大いなる楽しみのひとつです。

そのうちの一人は、最近より精密なタッチ調整をやってもらったとかで、結果はほぼ満足のいく状態になったということでしたが、ここまで来るにも優に一年以上かかっていますから、やはりピアノは根気よく「育てる」という認識を持って粘り強く接していかなければならない楽器だなあと思います。

この席には不在だった別の友人は、うらやましいことに現在フランス旅行中で、出発前からパリのピアノ工房に連絡を取ったりしている様子だったので、まかりまちがって戦前のプレイエルなんぞを買ってきやしないかとドキドキです。折からのユーロ安ですから、もしかして…。
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転勤

世に言う「転勤」というものは、友人知人を通じて身近に接してみると、やはりなかなか厳しいものだなあというのが率直な印象です。
なにしろ行き先もその時期も、自分の意志とは無関係に事は決していくのですから大変であり苛酷です。

ごく最近も親しい友人が東京勤務を命じられ、長年住み慣れた土地を離れることを余儀なくされて、先日お別れ会というほどではないけれども食事などを共にしました。
なんでも、来月の上旬には新しい職場に出社していなくてはならないそうで、この間わずか一ヶ月ほどという慌ただしさですが、それでも内々に教えてくれた上司のお陰で通常よりも早くその事を知り得たのだそうで、本来ならわずか2週間ほどしかないとか。あらためてすごいなあと思いました。

電力会社に勤めている別の友人も、昨年の震災からほどない時期の東京へ移動を命じられて大変驚いたものでした。あまつさえ彼は自宅を新築している最中で、その竣工を待たずして妻子を残して単身上京の運びとなりました。
しばしば帰省しているようではありますが、せっかくの新居ができて早一年が経つというのに、まだまとまった時間をその家で過ごしたこともないらしく、もうしばらくは帰れそうにないというのですから、なんとも気の毒な気分になります。

マロニエ君は職業柄、サラリーマンではないので転勤という上からのお達しによって、突如まったく違う土地へ有無を云わさず引っ越しをさせられるといった事がないために、自分の経験としてその感覚がわかりません。
準備期間らしきものはほとんどなく、しかも命令は絶対でしょうから、まさに生活そのものを竜巻にでも持ち去られるごとくで、それまで築き上げた本人や家族のさまざまな人間関係まで、一気にむしり取られてしまうのは、考えれば考えるほど苛酷なものだと感じます。

今どきは、事柄においては異常な程、さまざまな人の権利が声高に叫ばれる時代になりましたが、どうもこの転勤という社会の慣習だけは一向に変化の兆しがないようです。

そういう意味では、保守的で前時代的でもあり、自らの意志によって一箇所に安定して深く根を下ろした生活を営んでいくことは現実的にできないことでしょうし、サラリーマンになるということは、それを含めた覚悟までがセットのようなものだろうと思います。転勤に関しては昔の武士がいつでも腹を切るがごとく、日頃から転勤命令を想定しておく必要があるのでしょう。

ついでながら、転勤事情にまるきり無知なマロニエ君にしてみれば、とくに根拠もなく、転勤といえば春秋の一定期間におこなわれる事で、とりあえずその時期を過ぎればまた半年はその心配(もしくは希望?)がないものと思っていましたが、これら友人の状況を見ても明白なように、彼らはいずれもいかにも中途半端な時期に移動を命じられているわけで、これは要するにいつ転勤を言い渡されるかは、年がら年中いつでもその可能性があるということらしいというのがわかりました。

慣例に従えば、2、3年でまた移動になる可能性もあるということで、こちらに復帰することもあるでしょうから、それまでしばしのお別れです。
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日曜剪定

夏を前にして、植木の剪定を頼まなくてはと思っていたところ、友人が「おもしろそうだから切ってやる」と言い出したことがきっかけで、まずは自分達でやってみることになりました。

平凡な植木ですが、それでも年月と共にだんだん大木然とした風体になり、せっかく刈り込みをしていても、一年も経つと枝葉はすっかり伸びて生い茂り、気がついたときにはかなり暑苦しい状態になってしまいます。
植物の生命力、とりわけ春先の樹木の繁茂は目を見張るものがあり、日ごとに確実に日陰の量を増大させてくるのは脅威的ですらあります。植物の成長には目に見える動きもなければ、むろん音もなく、それでいて全体が同時進行的に生きているので、そのぶんのえもいわれぬ不気味さを感じます。

…しかしものは考えようで、震災以降は深刻な節電が叫ばれるご時世となり、去年あたりからでしょうか「緑のカーテン」などという言葉を良く耳にするようになったので、今年は枝葉が伸びることを逆手にとって、少しでも暑さしのぎになればとやや前向きに考えるようにもなりました。

とは云っても、本格的な夏になれば、多少の木陰があろうがなかろうが、暑いことには変わりはないでしょうが、それでも直射日光に焼かれ続けるよりは僅かな違いはある筈で、気休め程度にはなるのかもしれません。
とはいえ放っておいたらとんでもないことになるのはわかっているので、やっぱり少しは手を入れないとこのまま伸び放題に委せるわけにもいきません。

マロニエ君は自慢じゃありませんが、まるでアウトドア派じゃないし、土いじりも植木いじりもべつに好きではないので、剪定が楽しいなどという意識は皆無なのですが、それでも最低限やらざるを得ないものは仕方がありません。本来なら本職に委ねるべきところですが、幸い友人が酔狂なことを言ってくれるので運動を兼ねて遊び半分にやってみることになりました。

友人が木に登ることを前提に、命綱なんぞというものを持ってきたのには一驚しましたが、万一のことがあったら取り返しがつかないし責任が取れないので、そんなものが必要なところへ登るのは絶対にないように言い含めて、手近にできるところから植木屋の真似事のようなことを始めました。

我が家には電動ノコギリの類は恐いのでひとつもなく、折り畳み式のノコギリと剪定用の大きな鋏で不要な枝葉を切り落とすなどしましたが、これが意外にもスイスイと良く切れるのは感心します。

日曜はとりあえず2回目の作業となり、のべ数4、5時間の作業でだいぶ見た感じはスッキリしましたが、あと1回は来てもらわなくてはならないようです。
それはいいとしても、あちこちの木の下には切り落とされた枝や葉が山のように積み上げられて、さてこれをどう処分するかが目下の課題です。
これまでの経験では、植木屋に頼んでも支払う金額の過半を占めるのは切った枝葉の処理に要する費用だと云っていましたし、今どきはこれを焚き火にして灰にしてしまうこともできません。

いろんなことが窮屈な時代になったものですが、ともかくいい運動になりました。
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難しい季節

このところやや落ち着いた感じもしなくはないものの、まだまだ今の季節は体調の思わしくない人が多いようですね。

マロニエ君もその例に漏れませんが、だいいちの問題はなんとも安定しない移り気な気温です。
暑くなったかと思うとまた少し肌寒さがあったり、そうかと思うとまた逆戻りしたり…。
しかもその暑さ寒さがいかにも中途半端で、明瞭に暑いとか寒いとかいうのではない範囲での寒暖差が発生するわけで、これがくせものです。

毎日の天気もころころと変化を繰り返すだけでなく、一日のうちでも朝夕など時間帯によって予想しなかったような温度差が生じて、こういうときにうっかりすると風邪をひきそうになりますし、それでなくても身体の調整機能がついていけません。

呆れてしまうのは、自宅にいても、部屋によってまったくバラバラな温度で、同日同時刻でもやや蒸し暑いような部屋もあれば、一転して肌寒くて上からシャツを一枚羽織りたくなるような部屋もあったりと、これはよほど気を引き締めてかからないといけません。

どこのお宅でもそうかもしれませんが、やはり二階のほうが直射日光にも近いぶん温度が上昇するものでしょうか。そうかと思うと二階でも廊下は涼しかったりするし、パソコンや電気機器の多い部屋はそれだけでも温度が微妙に違います。

それに追い打ちをかけるように、湿度にも上下の乱れがあり、個人差もあるとは思いますが、この湿度の不安定というのも体調管理の邪魔をする要因だと思われます。
まだまだあります。
この季節は中国大陸から黄砂がつぎつぎにやってきては街を汚し、車に降り積もり、人々の呼吸器にまで悪さをしているようで、マイナス要因が多岐に渡ることもこの季節を乗り切ることの難しさだろうと思います。

あまたの植物が一斉に芽吹く季節というものは、それだけ大自然の有無を言わさぬ力というものがあり、人の体の中にあるいろいろな要素も併せて芽吹かせてしまうようで、これにはもちろんマイナスの要因も含まれるであろうため、余計なものまで発芽発達して、結果として体調を崩すのではないかと思うのですが、実際のところはどうなんでしょう。

すでにピアノを置いている部屋では除湿器が日によって動き始めていますが、例年よりも取れる水の量が少なく感じるのは、合計3台取りつけているダンプチェイサーのせいだろうか…などと考えているところです。
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春の嵐

春の嵐という言葉がありますが、昨日は明け方から大変な荒れ模様で、ほうぼうの木々は互い違いに枝を激しく揺らし続けていました。

いつもながら我が家の周辺は多くが他所から飛ばされてきた葉っぱや小枝にまみれてしまいます。
目についたのは、多くの葉っぱだけでなくつい最近出てきたばかりの新芽が無惨に引きちぎられるようにして至るところに散らばっていることでした。よほどの強風突風が吹き荒れたものとみえて、その飛んできた新芽の生々しい香りがむやみにむせ返るようです。

このところのお天気は日ごとにコロコロと変わり、洗車などしようにもタイミングが掴めず、やっと実行したらまた雨でトホホです。

おだやかな秋にくらべると、春はそのうららかなイメージをよそに、遙かにあらあらしい野生を併せ持っている気がしますし、いつも書いているようですがマロニエ君自身はこの季節がどうしても苦手です。

こういう季節は人の心もその天候のように意外にやわらかではなくなるのかもしれず、なんとなく世の中の景色までささくれて見える気がしますが、他の人の目にはどのように映っているんでしょうね。

マロニエ君には、このところ立て続けに起こる悲惨な交通事故や、理解の及ばない異常な事件なども、ひとつには春という尋常ならざる季節が悪さをしているのではないか?と、どこかで自然の摂理が関係しているようにも感じてしまいます。


この荒れ模様の中を、昨日は福岡空港に新鋭のボーイング787がテストフライトで飛来したようです。
胴体や翼にカーボンなどの新素材を多用したこの新鋭機ですが、機体の35%を日本で製造していることで、ニュースでは「準国産機」という言い方をしているのがへぇと思いました。

幅広い翼を大きく左右弓なりにしならせながら悠然と滑走路に降りてくるときの姿こそ、この787の最も特徴的な姿だろうと思います。
来月からANAで東京便などで運行開始するのだそうで、昨日の飛来は地上支援やボーディングブリッジのフィッティングなどの確認のためなのだとか。

それにしても、世界中の航空会社が機体の塗装デザインを新装していく中で、ANAはまだまだ!と言わんばかりに現在のブルー基調のペイントが刷新されないのは理由がよくわかりません。
個人的にはどちらかというと固いビジネスライクな印象ですが、これはたしか767が就航したときからのデザインでしたから、かれこれ30年間ANAの機体はこの衣装を纏っていることになりますが、せっかく話題の新鋭機にはちょっと古臭いなあという印象でした。

できれば787の登場を機にお色直しをしてもよかったように思いますが、今どきは航空会社も価格競争こそが戦のメインで、機体のペイントなんてどうでもいいということかもしれません。
なんにしろ情緒などというものが後回しにされる、おもしろさのない時代になりました。
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意図された行列

見ただけでウンザリさせられる人気店の行列ですが、とくにスイーツ関連のそれは土日などは普段の数倍にもなるようです。

ひとつの行列が、また別の行列を生み出すようで、ときにデパ地下内などは何カ所もの行列が発生、ほうぼうの通路をのたうちまわって、通行にまで支障が出ることも珍しくありません。

さて、人から聞いた話ですが、ケーキ類を買おうとしたものの目指す店は行列状態で、それに嫌気がさして普段から行列のない別の店に行ったそうです。ところがこちらもハッと気がつくと、ずらりと人が行列していることがわかったそうです。すぐにわからなかったのは、列の先頭がお店のショーケースから数メートル離れた場所にあったためとのこと。

しかも見た感じでは誰も買い物をしている気配がなく、一見したところではガラガラに見えたのだそうです。お店では若い女性の販売員に混ざって、一人の店長らしき中年男性が采配を振っているようで、行列のほうをちょろちょろ見ながら「はい、では販売してください!」といって、販売員に列の先頭をショーケースのほうへ誘導させたとか。

ちなみにこの店は、ことさら特別な店というわけでも人気店というわけでもなく、何年も前からこのデパ地下の同じ場所にずっとある、ごく普通のケーキ店だそうです。
もうおわかりだと思いますが、こうしてわざと先頭位置をずらして販売をストップし、お客さんを立たせて待たせることで、それがいかにも人気店の行列であるかのように状況をいわばねつ造しているというわけです。この人は、たまたまそのちょっとした舞台裏の様子を偶然見て憤慨した別のお客さん同士の会話からそれに気付いたのだそうです。
もちろん、いまさら列の最後尾に廻って並ばなかったのはいうまでもありません。

昔からサクラというのはありますが、なんとそれを本物のお客さんを使ってやるというのは初めて聞いたような気がしました。
商売人にとって、なによりも大切でありがたいはずのお客さんを、そんなことに利用して販売可能な状態でありながら、意図的に立って待たせるとは、なんたることかと思いました。

人気が人気が呼び、行列が行列を呼ぶという人の心理作用があるのはわかりますが、だったらバイトでも雇って並ばせるなりするべきで、本物のお客さんを人寄せの演出に利用して、立たせたまま不必要にお待たせをするなんぞ、客商売の禁じ手という他はなく、まったく驚く他はありません。

こんなことが行われているなんて、デパート側は知っているのか、あるいは知っていて黙認しているのか、今どきのことですからわかったもんじゃないと思いました。
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エゴ運転の横行

最近、どうも変だと思い始めていた交通マナーの異変は、ついに確信へとかわりました。
今回は自転車ではなく、車同士の話です。

マロニエ君をして確信を持つまでに変化したのは、あらゆる場合の割り込みのタイミングです。
以前なら絶対にアウトだったタイミングでの車線変更や駐車場等から道路への流入で、目の前に入り込んでくる車がものすごい勢いで増えたのは間違いありません。
当然、こちらは減速し、ひどい場合はブレーキを踏んで車間距離を取り直さなくてはならず、これ、以前なら大変な顰蹙ものの動きでしたが、最近は当たり前のようになってきて、いつどこから目の前に車が出てくるかわからず、以前のように安定した気分で運転することは、できなくなりました。

最近は、たしかにみんな運転が平均して下手になり、おまけに例の省エネ運転とか活きた状況の読めない人が増えたお陰で、絶対的速度はたしかに遅くなったと思います。しかし、車の動きには従来のドライバー同士にはあった暗黙の了解の中での現場のルールみたいなものが消え去ってしまって、割り込みであれノロノロであれ、もはや何でもアリの混沌とした状況になっていると思います。

それを察して、助手席にいる家人や友人なども、左から出てくる車の動きなどが、見ていて恐くて仕方がないらしく、しばしば「わー」とか「こわい」「あぶない」という声を上げています。

むかしはそんな動きをするのは下手くそか図々しいドライバーであって、クラクションを鳴らされて恐縮したりという光景がありましたが、今はどんなに「ウソ!それはないだろう!」という強引な割り込みをされても、こっちが驚いてクラクションを鳴らそうものなら、向こうのほうが怒り出し、逆ギレしてしまいます。
自分がなにをしたからという原因には考えが及ばず、ただただクラクションを鳴らされたという、その事に腹を立て、鳴らしたこちらを睨みつけたりするのですから、たまったものじゃありません。

さらには、最近ではタクシーまでこういうルール無視の自己中運転をするようになりましたから、もはや終わったなと思っています。

それに、今どきのことなので、どういう人がハンドルを握っているかわからないという危険性も、以前より遙かに高いものになっています。ささいなことで路上トラブルにでもなり、なんらかの被害にでも遭おうものならたまったものではないので、最近ではできるだけおとなしくするよう心がけています。
どんなタイミングでもどんな動きをしてくるかわからない、ちょっとでも車間距離があれば、横の車は幅寄せに近い要領で割り込んでくる可能性が常にあるということを意識に織り込んで、一層の安全運転にこれ努めるようにしています。

おまけに今どきのドライバーは慢性的な自転車の恐怖にもさらされているのですから、いまや本当に「気を抜く」といっては運転の場合は語弊があるかもしれませんが、ある一定のリズムと流れの中で心地よく運転するということは、ほとんど不可能になりました。

どうかハンドルを握られるみなさんも、くれぐれも注意して運転されてくださいね。
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両方大盛り

昨夜は親しい知人が集まって、ささやかな食事会となりました。
食事会といっても、行ったのは話題のちゃんぽん屋で、土曜の夜ともあって狭くない店内は見事に満席でした。

ここのメニューはちゃんぽんのみという潔さですが、量とトッピングには多少種類があり、量的には小盛りちゃんぽん、ちゃんぽん、野菜大盛り、麺大盛り、両方大盛りという5段階になっています。

4人のうち3人は通常のちゃんぽんでしたが、一人は今しがたリコーダーを吹いてきたとかで、よほどお腹が空いていたのか、なんと最大の「両方大盛り」を注文したのには一同瞠目しました。
この店は、通常のちゃんぽんでもかなりのボリュームがあるので、大半の人はノーマルで事足りるのだろうと思われますが、両方大盛りを注文する瞬間はちょっとこちらまでなにか快感めいたものを感じました。

オーダーを受けに来たお店の人が、大盛りでよろしいですか?(大丈夫?)みたいなことを確認されましたが、彼の決意は変わりません。

果たして運ばれてきた両方大盛りは、その盛り上がった野菜の山の大きさと高さが、あとの3人のものとは格段の違いがあり、まさに周囲を見下ろす横綱のような貫禄でした。
もちろん立派に完食して店を出ました。

別の一人は、比較的最近、運転免許を取ってドライブをはじめたらしく、いつもはマロニエ君が駅などでピックアップすることが多かったのですが、この日はさても見事に一人で運転して、ニヤリとばかりに約束の場所に現れました。
ちゃんと初心者マークをつけているのがいかにも律儀でしたが、運転は慎重さの中にも音楽家らしいスムーズさがあったように感じました。

食事の後、お茶をしているとつい時間も遅くなってしまいましたが、帰り道の信号で横に並んだところ、一切横を向くでもなく、真剣に前方を注視している様子で、さっきまでキャッキャと笑っていた人が別人のように真面目に見えました。

深夜はやはり交通量が少なく、それでも街中は明るいし、どこに行くにもスイスイと到達できてストレスが溜まりませんね。
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ベビーカー

あるビルの、地下2階から4階の駐車場へ上るべく、エレベーターへと向かったら一足先にちょっと個性的な感じのおばさんが一人エレベーター前で待っていました。
ザンギリ頭でまったく化粧気がなく、服装も男性的な感じでした。

2台あるエレベーターは両方とも今しがた上に向かったばかりという生憎なタイミングで、これはかなり待つことになると覚悟を決めました。
待つことが嫌いなマロニエ君としては、たかがこんなことが相当な気構えです。

かなり覚悟してかかると、意外にもサーッと一気に降りてくる場合もたまにあるので、その意外性に期待したのですが、この日はさにあらず、2台とも7階8階まで上がってしまい、しかもくだりも各駅停車に近いような動きでさんざんじらされました。

そして待ちに待ったあげく、ついに右側のエレベーターが地下2階に到着して扉が開き、中の2人の男性が降りると、そのおばさんが乗るのは自分が一番だという感じで一瞬身構えました。たしかにマロニエ君よりも一足早く来て待っていたのですから、そこは当然と思って一歩控えた感じでそのおばさんが先に一歩動いたそのとき、いきなりマロニエ君の前へ横に腕を出して、まるで交通整理のような仕草で人の動きを堰き止めておいて、「ベビーカーはお先にドーゾ、ドーゾ!」とあたりに響き渡るような身体に似合わぬ大きな声を発したのには驚きました。

そのベビーカーはマロニエ君よりも二人ほど後ろにいたのですが、マロニエ君は自分の主義として、車椅子はいかなる場合も優先だと考えますが、ベビーカーはこういう場面でも必ずしも優先されるべき特別な存在だとは思っていません。
もちろん状況にもよりますが、じゅうぶん乗れる状況であれば、とくだんの理由がない限り、お互い様であって、若い親が付いていることではあり、必要以上に優先する必要はないという考えです。

しかるにそのおばさんは、やたら大声を出して、ドアの前に腕まで伸ばして人の動きを阻止しようとするのですから、これはいくらなんでもやり過ぎというもんです。そんなに善行がしたいのなら、他者を巻き込まず自分の順番だけを譲ればいいのであって、それを周りにも有無をいわさず強要するのはまったく不愉快に感じました。

マロニエ君はそのおぼさんの妨害工作には従わず、伸ばした腕をすり抜けるようにして構わず中に乗り込みました。それで文句があるなら受けて立つと思ったからです。
するとベビーカーを「ハイドーゾ、ドーゾ!」と招き入れて、むしろそのベビーカーを押す女性のほうが「すみません」とは言いつつも本当は迷惑そうな感じでしたが、ともかく乗り込むと、すかさずそのおばさんは「何階ですか?」とこれまたエレベーター内で耳に痛いほどの野太い声で聞いてきました。

「3階です…あ、間違えた、2階です、すみません」というと、おばさんはベビーカーの赤ちゃんに向かって「ねー、おかあさん、どこで降りるかしっかりしてもらわなくっちゃ、困るわよねー!」と変わらぬ大声で言って、明らかに不自然な調子が浮き彫りになり、女性も困って苦笑いしながら、一刻も早く解放されたいという雰囲気がありありとしていました。

2階で扉が開くとそのベビーカーとあとの1人も降りてしまい、マロニエ君はそのおばさんとたった2人になりさすがに緊張しましたが、手の平を返したような沈黙で、3階に着くと、ドアがあくやいな、ササッと消えるようにいなくなりました。
なんだかよほど強い足腰を(そして声帯も)お持ちのようでした。
エレベーターというのは見ず知らずの他人と一緒に閉じこめられる箱ですから、やはり恐いですね。
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IKEAの街

夜、友人と東区のほうまで出かけたついでに、ちょっと遠回りして新宮方面まで行ってみることになりました。

新宮は福岡市の北東部に隣接するエリアですが、ここに北欧家具のIKEAが売り場面積において日本最大級だという大きな店舗を作り、オープンを目前に控えています。
べつにIKEAを期待しているわけではありませんが、新宮といえばとくに特徴のあるところでもなかったので、そこに果たしてどんなものが出来るのやら…ぐらいには思ってはいました。
新宮方面に向かって国道を走っていると、いきなり夜目にも鮮やかなブルー地に黄色の太いロゴマークで「IKEA」と大書された特大看板がライトアップされて前方に出現、嫌でもその場所がわかるようになっていました。

看板のある交差点を左に折れると、見通しの良いはるか向こうに、まるで美しい模型のような店舗群が無数のライトとともに浮かび上がり、そのあたりが新造された一帯だということが一目瞭然でした。知らぬ間に、あたり一面は一気に近代的な雰囲気に激変してしまっていることにびっくりです。

近づくにつれて、それらはIKEAだけではなく、駅を中心としてモールの類まで抜け目なく集まってきており、そこらじゅうに出来たてのきれいな新しい道が縦横に何本も伸びています。

主役であるIKEAは新宮駅の真横に陣取っていて、駅舎も以前の姿はよく知りませんが、ずいぶんと新しいもののように思われました。
以前はこれといってなにもなかったような土地に、まっさらの広大な商業施設が、まるで定食のお膳のようにドカンと現れたようで、ほとんど新しい街が出現したかのようでした。

モールの入口には入居テナントの名前が明るい電光とともに表示してありますが、大半がどこかで見た覚えのあるようなものばかりで、とくに新鮮味はありません。こうして同じような店舗があちらこちらと新しい商業施設ができるたびに出店を繰り返すことで、人はどこでも同じような雰囲気の、同じようなモールやお店に行くことになるという、まさに現代の商業形態および消費生活の現実をまざまざと見せつけられるようでした。

いっぽうIKEAでは、夜遅くにもかかわらず、ガラス越しの中には関係者とおぼしき人達がたくさんいて、オープンに向けてあれこれと準備や打ち合わせに余念がないようでした。
車に乗ったままの見物でしたが、店舗自体はいわれるほど巨大にも見えませんでしたが、そのスケールで目を引いたのはむしろ隣接する駐車場のほうでした。
これはちょっとした空港並みというか、かなり広いスペースだと感じましたし、それぞれに簡単な屋根のようなものがあるところが、従来のありきたりな駐車場とはちょっと違った印象を与えました。

オープンしたらしばらくは周辺は渋滞などにさぞかし悩まされるだろうと思いますが、ひと心地ついたころには、まあ一度ぐらいは行ってみようと思います。
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廊下に立たされた

昨日、日本人はルール好きだということを書いたばかりでしたが、ひとつ思い出したことがありました。

先週、ピアノ好きや楽器業界などで話題の映画『ピアノマニア』を観に行ったのですが、上映開始20分ほど前に会場に到着し、チケットを買って目の前のロビーに立っていると、ほどなくこの映画館の従業員の女性がやってきて、「こちらはピアノマニアを上映致します」と、廊下を挟んで左右にある2つのシネマの右側を手で示しながらあたりに聞こえるにアナウンスし始めました。

単に左右あるシネマのうち「こちらですよ」というお知らせかと思ったら、言いながら自ら廊下の中ほどまで進んで、ドアの前に立ち「こちらにお並びください!」と逆らえない感じに言い始め、待っている人達は仕方がないので言われるままにぞろぞろとそちらに移動を開始しました。
すると、その女性の司令はさらに続き「こちらから、“2列に”お並びください」と言って、まごつく一同がきちんと廊下の右の壁寄りに2列縦隊を作るまで、繰り返して「右側に」「2列に」と大きな声で、ほとんど命令的に言ったのにはちょっと驚きました。

その状態では、まだ開場はしておらず、映画を見に来たお客さんは、思いがけず、まるで学校の朝礼かなにかのように薄暗い廊下のドアの前からきちんと並ばせられて、女性の指示通りに2列縦隊を取らされました。

しかもそれですぐに会場入りができるわけではなく、正確に計ったわけではありませんが、その状態で約10分ほどだったと思いますが、そのまま棒立ちの整列状態で待たされました。
いい大人が、自由意志によって料金1800円也を支払ってこれから映画を観ようというのに、このような強制を受けようとは夢にも思わず呆れてしまいましたが、同行者もいたことでもあり、そこで憤慨しても仕方がないので、この場はおとなしく従いましたが、後から考えてもこれはちょっと映画館側もやり過ぎだと思いました。

見方によってはナチに連行されるユダヤ人のようでもあり、(自分を含めてですが)なんとおとなしいアホな人達かとも思いました。
映画館の従業員にしてみれば、自分達の指示ひとつでお客さんをいいように動かして、並ばせたり、待たせたりするほうが都合がいいのかもしれませんが、これでマロニエ君は、この映画館に対する印象がすっかり悪化してしまいました。
せっかく『ピアノマニア』のような珍しい映画を上映してくれたことに感謝していたにもかかわらず、とても見識を欠いた残念なやり方だったと思います。

今どき物事を性別で言ってはいけないのかもしれませんが、とくに女性はこういう事に関して強制力を発揮したがる人や場合が多いようにも感じます。
もちろんこれは映画館側の方針であって、一従業員の一存でやっていることとは思いませんが、それでもそれをためらいもなくズンズンと押し進めていく手際というか、その態度や口調には独特な高慢さというか、人を人とも思わない冷酷さが含まれていたように感じました。

逆にいうと、あの状態で各自が自由にロビーにいて、時間になれば自然な流れで会場入りしたからといって、何が問題なのかと訝しく思うばかりでした。
ちょっとした都合で、人に軽々しく上から目線で指令を出して、まるで囚人のような扱いをするのは、それを取り決める人達の、物の考え方に対する品性を疑ってしまいます。

ついでながら、この『ピアノマニア』の感想は近いうちにマロニエ君の部屋に書くつもりです。
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ルール好き

外国人から見ると、日本人は規則が好きだとよく言われますが、それはたしかに否定できません。

日本人は礼節ある優秀な民族だとは思いますが、個々の人間が、自分の良識や感性、広くは教養によって臨機応変に物事を判断していくよりは、頭上にある規則に従うほうが性にあっているようにも感じます。
この点、自分は違うと言うわけではありませんが、日本人のマロニエ君にさえ、さすがにちょっと首を傾げる部分がしばしばあるのも事実です。

最近目にしたある音楽雑誌によると、近ごろではホールに於いても、花束を客席から直接渡すことを規則で禁じているところがあるとかで、それを受け取ろうとして関係者の手で遮られたキーシンが、帰りしなに「花は直接もらったほうがうれしいものですよ」というコメントを残したという一幕もあったとか。
そもそもクラシックのコンサートで花束を渡すことを禁止するというのも、その文化意識の低さたるや驚きですが、せめてそうまでする理由ぐらい明確にしてほしいものです。
ただ受付に託すだけなら、安くもない花を持って行く人なんていないでしょう。

規則というものは、もちろん社会ルールの維持のためには大いに必要なことは当然ですけれども、これをむやみに乱発するのは感心できません。
規則が昔から大好きなのがお役所や学校ですが、最近ではサービス業が主体のお店などでも、かなり無遠慮に決まりを作って、店員が堂々とそれを盾にした発言をお客さんにするのはまさに主客転倒というべきで、大いに違和感を覚えるところです。

規則というのは人を縛るものである以上、その制定と運用にはよくよくの慎重さをもって取り扱わなければいけないことですが、中には何か面倒があるとすぐにそれを禁ずる規則をお手軽に作ってしまう風潮があるのは、あまりに見識に欠けていると言わざるを得ません。
尤も、自己判断ではできない事柄でも、いったん規則となるとえらく従順になってしまうという場合が多いのも、日本人独特の不思議な性質にもよるのだろうと思います。

その最たるものは、お店のポイント制度などは、もっぱら店側の都合ばかりでルールが定められ、内容も随時ころころ変わり、その都度、客側が従わされることになるのは、まるで権力を振りかざされるような気分です。
しかし、大半の人はそれに異論も唱えずスムーズに従うようで「規則だから仕方がない」と無意識に反応してしまうようですから、これが日本人のDNAなのでしょうか。

ネット通販やソフトの同意規約なども同様で、これを一言一句読む人もめったにいないと思いますが、それをいいことに大半は最終的には店側に都合のいい決まりを列挙して、「同意」という担保をとりつけるのはいかにもな遣り口としか思えません。

また趣味のサークル等でも、この規則をやたらと乱発するところがあり、しかも泥縄式に細かい規則を作っては構成員に申し渡すというケースがあって驚きます。
内容も、ほとんどどうでもいいような、各人の常識に委ねれば済むようなことまで事細かに定められていたりしますから、このあたりは専らリーダーの性格しだいのようです。

永田町を筆頭に、人間は自分がルールを作る側・決める側になるということに、ある種の支配欲を刺激され、言い知れぬ快感があるのかもしれませんね。
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オペラの復活上演

NHKのBSで放送された、ジュゼッペ・スカルラッティの歌劇「愛のあるところ 嫉妬あり」の本編が始まる前に、イントロダクションとしてメーキングのドキュメントがありましたが、これはなかなかに印象深いものでした。

チェコ南部、世界遺産の古都チェスキー・クルムロフにあるチェスキー・クルムロフ城の中にバロック劇場というのがあり、そこでこのオペラが200数十年ぶりに復活するというものでした。

この城の中にあるバロック劇場でのオペラ上演は歴史の中で幾度も途絶えるなど、ときの為政者の意向によってそのつど興亡を繰り返してきたようです。
今回の復活上演では、初演当時のオリジナルを忠実に再現するほか、装置や小道具などもすべて往年のスタイルが用いられました。

驚いたことには、この劇場の緞帳の上げ下げはもちろんのこと、装置の転換など、舞台上のありとあらゆることが手動で行われるというものでした。
舞台下には、無数のロープが張り巡らされ、その端には木で作られた舟の舵取りハンドルのようなもののさらに大きいのがいくつもあって、それを数人の男がせっせと動かすことで、幕が上がったり装置が動いたり、背景が転換されたりと、まさに人力によってすべてが成り立っています。

また照明も電気を使わず、舞台手前の大きな金属の覆いの中にはたくさんの蝋燭が並んでいて、その光りを金属板が舞台方向を照らし返すことで役者の顔や身体を照らします。
またオーケストラピット内も照明はすべて蝋燭で、所狭しと並んだ楽譜や弦楽器に燃え移りはしないかとひやひやするほどでした。

オーケストラといえば、指揮者はもちろん、すべての団員までもが鮮やかな衣装とかつらをつけて、顔には例外なく真っ白な化粧をしています。
意外だったのは、普通のオペラでは客席から見て指揮者が中央で背中を向けて、舞台を見ながら左右に広がるオーケストラを指揮するものですが、ここでは指揮者はピット内の左側に横向きに立って、縦長のオーケストラを指揮しており、昔はこういうスタイルもあったのかと思いました。

もちろん出演者もクラシックな出で立ちで、立ち稽古中にも、古典作品ならではの動きや表情に事細かく注意を払っていて、現代では決して味わうことのできない往年のオペラを楽しむことができました。

照明や手動の道具類がそうであるために、舞台のすべてが喩えようもなくやわらかな光りと空気に包まれており、なんという優しげで美しい空間かと感嘆させられました。
唯一思い出したのは、映画『アマデウス』の中で出てくるフィガロやドン・ジョバンニ、魔笛などの舞台がやはりこういう調子だったことで、近年はピリオド楽器による古楽演奏がこれほど盛んになったぐらいですから、オペラのほうもこのような徹底した古典技法にのっとった手法でやってみるのもひとつの道ではないかと思いました。

それにしてもこのオペラのみならず、城の内外の様子を見るにつけ、ハプスブルク家を中心とする中央ヨーロッパの権勢と、そこに咲き乱れた文化の花々はおよそ想像を絶する桁外れなものだということを、いまさらながら思い知らされた気分でした。
マロニエ君はむやみに古いものを礼賛する趣味はありませんが、こういう「本物」というべきものを見ると、古いものの魅力には現代に比しておよそ底というものがないような気がしました。
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不燃物処理事情2

昨日の燃えないゴミ問題は、後半やや話が脱線しましたが、一般市民にとっては、以前なら普通にタダで処理できていたものが、なんでも有料となり、ものによってはチケットまで購入させられて、さらに引き取りの日時の予約をするなど、とかく手間暇がかかります。

もちろん、ゴミ問題は社会の大事なので、これが有料化されたり物によってはリサイクルの対象とされるところまではやむを得ないことだと思います。

しかし気持ちのどこかで納得できないものがあることも事実で、そんな折、我が家の燃えないゴミが持ち去りにあったところから、あることが閃めいてしまいました。
ゴミとして回収処分される前に、そんなものでも欲しいと思う人の手にすんなり渡るとしたら、それは別に問題ではないだろうと思ったのです。不燃物の回収日に現れる小型トラックの人達は、あれこれと廃品を物色しては必要な物を次々に荷台に放り込んでは立ち去っていきますので、これはもしかしたら、不要な物は門前に置いておけば、場合によっては持っていってくれるかもしれない…と。

まず先月の回収日、マロニエ君宅のガレージには友人のものも含めて、交換済みの車のバッテリーが3個あり、どれもきちんとした紙のパッケージに入っていますが、これを3つ重ねて置いていたところ、果たして翌朝、それらはそのまま同じ場所に置かれたままでした。
やはり自分の考えが甘かったのかと思って、早々にガレージ内に戻しました。

その後ガレージ内の大掃除をして、たくさんの燃えないゴミを控えて、続く今月の回収日を迎えたわけです。
指定の袋に入れたものはそれでいいわけですが、問題は大きく重い鉄の棚枠が二つでした。
これはまさか袋に入れてポイというわけにもいかないので、通常の回収は諦めていたのですが、再挑戦のつもりで夜になってから、ものは試しとばかりにもう一度ゴミと並べて出してみることにしました。前回のバッテリーと違うのは、それぞれに「ゴミです」と大書した張り紙をしておいたことでした。

誰も要らないようなら、またガレージに引っ込めればいいと思ったのです。
これらを門前に出して、夕食を済ませた後、気になったのでなにげなく表を見に行ったら、なんと!その鉄枠だけがものの見事に姿を消していました。門前に置いてからわずか1時間ほどの間の出来事でした。おかしな話ですが、このときマロニエ君はえもいわれぬ不思議な「感動」を味わってしまいました。
やはり自分の直感は間違っていなかったのだと思い、それらは鉄製品ですから、どこかに目方売りなどされるのだろうと思いました。

これは大変なことになった(笑)と思って、さらに続けてバッテリーとフロアジャッキにも「ゴミです」という張り紙をして続けて出しました。
深夜、再び見に行ったときには、やはりこれらもいつの間にかなくなっていて、誰かが自分の意志によって持ち去ったようでした。

そしてさらに感心させられたことは、前回3個の箱入りのバッテリーが持ち去られなかったのは、マロニエ君が廃品であることを明示しなかったからで、彼らにしてみればただそこに置いていただけなら泥棒になる、という区別をキチンとつけたらしいという点でした。
こういうところにも我らが日本人の気質と徳の高さが如実に現れているようでした。
これがもし外国だったら、外に出した途端(欲しい場合は)張り紙のあるなしなど関係なく、何のためらいもなく誰かが持っていってしまうのが当たり前だろうと思います。日本はさすがですね!

それにしても、不必要な物が必要とする人の手に渡っていく。こういう廃品の処理方法もあるのだということを知って、これはこれで立派なリサイクルではないか…というような気がしましたが、こじつけでしょうか?
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不燃物処理事情1

このところ数日をかけて、ガレージ(慢性的な物置と化している)の大掃除を何年ぶりかで行いました。
ガレージという性質上、そこから輩出されるゴミは大半が「もえないゴミ」ということになります。
市が指定している専用のビニール袋に入れて月一回の回収日に出せば大半は問題なく処分できますが、中にはとうていそんなものに入れるわけにもいかない…というものがあります。

たとえば大きな鉄の棚枠とか、大型の室内用フロアランプ、もう使わない大型の油圧式ジャッキ、交換済みのバッテリーなどはとても市の指定の袋には入りませんし、無理して押し込んだところで、たちまち切れたり破れたりということになってしまうでしょう。

さて、以前も書きましたが、燃えないゴミの回収日は、外が暗くなると、表の道は、にわかにリサイクル業者のような人達が軽トラックに乗ってひっきりなしに往来をはじめます。
以前驚いたのは、出していた我が家のゴミを、市の回収業者が来る前に、袋ごと持ち去られてしまったことでした。袋の中は空き瓶や空き缶を中心としたもので、べつに見られて困るようなものはありませんでしたが、そうはいってもなんとも不気味な思いをしたものでした。

彼らはマンションのゴミ収集場所などに躊躇なく入って行き、欲しい物だけを手に戻ってきては、それをポンとトラックの荷台に投げ入れて足早に去っていきます。一晩中これが繰り返されて、あたりは変な賑やかさに満たされるのです。

これ、ひとくちに言うと、彼らは具体的になにを欲しがっているのかまではわかりませんが、とにかく自分達が欲しいと思うものを探し求めてあちこちを回っているようで、その行動力は妙に腰の座ったものがあるように見受けられます。
再利用できるもの、あるいは資源ゴミになるようなものをどこぞに持ち込んで売りさばくのだろうとは思いますが、それ以上のことはわかりませんし、住民としても捨てたものである以上、その行方がどうなろうとも別に知ったことじゃないというわけです。

もちろん世の中には、何事にも厳格で口うるさい人がいますから、こういう事にも異議申し立てや抗議をするような人もいるかもしれませんが、マロニエ君としては我が家の不必要なものが普通に処分できるのであれば、それ以上の不満も文句もありません。

以前驚いたのは(他県でしたが)テレビニュースの特集で、古紙の回収日に市の指定業者以外の個人レベルの人達による古紙類の持ち去り問題が取り上げられ、それこそ何日も地域に密着し、画面にはモザイクをかけながら、えらくご大層に取材していましたが、そのテレビ局の扱い方は、古紙の持ち去りがまるで万引き犯や泥棒を追跡するのと同じようなニュアンスで、これには甚だ首を傾げました。

古紙などは、出す側にしてみれば、邪魔なものが処理してもらえればそれで御の字であって、回収している人が誰であるかなど考えたこともありません。行政の担当者はマイクを向けられて「古紙の処分代も市の貴重な財源です!」などと尤もらしく言っていましたが、見ている側はどうにももうひとつ同調できません。

いくら「持ち去り」などと言葉ではいってみても、もとの所有者はそれらをゴミとして捉えて集積場所に出した以上、すでにその所有権を放棄したわけですから、それを指定業者以外の個人が持ち去ったといってさも大事のごとく糾弾するような性質のものだろうかと思いました。
そんなことを何日も物陰に張り付いて取材する暇があったら、たとえ地方であっても腐りきった役人や政治腐敗、あるいは民間企業であってもそこらに転がっているはずの許しがたい不正行為など、本当に社会問題と呼ぶにふさわしいものこそ存分に取材しろと言いたくなりました。

…以下続く。
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掃除機2

掃除機の機種選びが始まりました。
電気店などに行ったときの店員さんの話によると、国内メーカーでは掃除機は圧倒的に日立なんだそうで、もちろんそれ以外のメーカーも製品でも大きく性能に差があるわけではないが…ということでした。

また、掃除機にはサイクロン式と紙パック式という二つの大きな流れがあり、まずこれをどちらにするか選択する必要がありました。
サイクロン式の良いところは吸引力が強力で、遠心力でゴミと空気を分けるので排気がきれいという点があるようで、その反面フィルターの掃除や頻繁なゴミ捨てが必要となり、この点で簡便な紙パック式が人気があるともいいます。
いっぽう紙パック式はゴミをパックごと捨てればいいという点はたしかに便利なのですが、排気が臭うことと、純正紙パックは想像以上に値段が高くて、とても毎回ポンポン取り替えるようなものでもないようです。そうなると汚いゴミを掃除機内に残したままにもなるわけで、それはそれで気持ちが悪いので、やはり自分にはサイクロン式が向いているように思いました。

サイクロン式ということには決まったものの、どこのメーカーのどれにするというのを見極めるのは種類も多くてうんざりです。こういうときに大いに参考にもなり役立つのが口コミサイトで、これを見ていると、売れ筋や長所短所がわかりやすくまとめられていて大助かりです。

あれこれと調べた結果、購入したのはけっきょく日立のサイクロン式で、品番などは忘れましたが吸引力が強力とされるもので、ユーザーの評価でもこの点では軒並み最高点を取っている製品です。
しかも現在使っている掃除機(これも偶然日立のサイクロン式)の購入時よりも価格が安くなっている点も予想外に嬉しい点でした。

届いた箱を開けると、全体にこれまでのものより遙かにしっかりしているし、蛇腹状のダクトなどもひとまわり太い作りで、見るからに逞しそうな感じがしました。さっそく試しに使ってみると、その強引とも言いたくなるような強力な吸引力には惚れ惚れさせられました。
先端のブラシもガンガン回って、まるでラジコンカーのように自分から先へ先へと進むので、むしろ右手は軽くぴっぱるぐらいの感じなのにはびっくりしました。以前の機種も同じですが、なにしろパワーが圧倒的に違いました。
軽く部屋を撫で回した後、ゴミを捨ててみると、なんと従来のものよりも格段にゴミ捨てが簡単になっていて、フィルターの掃除などもほとんど必要がないぐらいなのは、技術の進歩とはこういうものかと感動しました。

ここまで簡単であるならば、マロニエ君にとってはいよいよ紙パックである必要はなく、つくづくそちらにしなくてよかったと思いました。微細な塵に関してはティッシュペーパーを挟んでおく方式で、これはサンヨー電気が先頭を切った方式らしく、その後、三菱や東芝、日立などが続いたとそうです。
これによりフィルターの目詰まりが劇的に軽減されたようで、これまで掃除機をかける度にマスクをして付属ブラシでフィルターの掃除をしていたマロニエ君にとっては、嫌な作業から解放されてまったく夢のようです。

楽器と違い、家電はやはり新しいほうが文句なしにいいようです。
ヘッドがダメになった古いほうは、車内の掃除用にガレージに掃除機が欲しいと思っていたところで、本体は健康だし回転ブラシのヘッドは要らないので、ちょうどいい塩梅に収まるべきところへ収まりました。
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掃除機1

ネットが便利なことはいまさらですが、たとえば製品の性能や特徴の比較など、経験者による口コミの書き込みが多いことも購入者にとっては大いに役立つところです。
とりわけ電気製品しかりで、あまりにも多種多様である製品の中から、自分にとって好ましい一台を選び出すというのは、従来ならよほどの人でないと難しい事でしたが、これもネット情報のお陰で、一気にかつ網羅的に調べることができるようになりました。
我が家で10年近く使っている掃除機が、先端のブラシ回転部分の性能低下によって、変な音は出るわ性能は落ちてくるわで、これをいよいよ買い換える必要に迫られました。

近ごろは時代も変わったのか、男が数人集まっても掃除機の話題などが出ることもあり、数年前まではダイソンが掃除機界の革命児のようにもてはやされた時期がありました。その秀でた性能はもちろん、イギリスの会社の製品と云うことや、いかにも日本的ではないそのデザイン、さらには価格もたいそう立派なものであることから、これが一時期特別視されていたように記憶しています。

マロニエ君も一時はこのダイソンの購入を考えたことがありましたが、店頭でテスト機をちょっと手にしてみると、どうも評判ほど素晴らしいとは思えませんでした。もともと掃除が好きなわけでもなく、できるだけ強力かつ楽で簡単に掃除ができる機種が希望(大半の人がそうだと思いますが)でしたが、ダイソンはまずなによりも機械が大きく重く、それだけでもこのマシンを使いこなすイメージができなかったのです。

その後は、日本人向けかどうかは知りませんが、より小型のものが発売されたようですが、それでもとくに魅力的には映らず、値が張る割りにはどうもしっくりこない製品だと思っていましたが、その後はこの高級掃除機のユーザーの声などが聞こえてくるようになり、それらはマロニエ君の直感通り、実はあまり芳しいものではなかったのです。
代表的な意見としては、独自のサイクロン式による吸引力が最後まで変わらないとされる点も、実際にはそれほどの性能は認められないばかりか、やはり重く大きいぶん操作がしづらい、疲れるというような体験談があちこちで散見されるようになりました。

それでも、ダイソンはやはりそれだけの実力のある掃除機だろうと思いますが、もしかすると欧米と日本では、生活様式や住居の広さなどが違うので、日本人が日本で使うという場面ではあまり本領を発揮しない掃除機なのかもしれません。

このダイソン、かなり購入を考えたところまで盛り上がっていたこともあり、その実情を知るや、すっかり醒めてしまって、同時に掃除機の買い換えそのものまで沈静化していまい、以来また数年間そのまま古い掃除機を使い続けることになってしまいました。

いうまでもなくマロニエ君はピアノは好きでも、家電マニアではないので、基本的には掃除機なんてふつうに使えればそれでじゅうぶんなので、家にある掃除機がとりあえずまともに動いている以上は、それでいいや!という感覚でもありました。

使っている掃除機が壊れたら、あるいはよほどこれだというものが出てくれば、そのときは買い換えようというわけです。そうしてついに我が家の掃除機が、ヘッド部分から悲鳴のような異常音を発するに至り、買い換えを余儀なくされる事になり、機種選びが始まりましたが、これで大いに役立ったのが冒頭の家電ネット情報というわけです。
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値下げ品争奪

土曜の午後、行きつけのスーパーに食料品の買い物に行ったときのこと。

精肉売り場の前にある、割引品のコーナーに商品が多数投下されて、販売員の女性が割引の赤いシールを貼り始めました。はじめは誰もいませんでしたが、シールを貼り始めたのを察知してか、一人の女性が近づいてきてその大きなボックスを物色しはじめました。

すると一人、また一人と人が寄ってきて、あたりはたちまちちょっとした人だかりができました。
集まってきたのは全員が女性でしたが、シールを貼っている店員さんは、あっという間に両側をお客さんに挟まれて、その人達があまりにもゴソゴソと商品を物色するので、作業さえスムーズにできない状態に陥ったのです。

とくに最近の特徴だと思うのは、それがスーパーであれデパートであれ、ふつうのお店でもそうですが、人の身体の前に手だけをぐーっと伸ばして目指す物をゲットするというやりかたです。
これまでなら、人が何かを見ていれば、とりあえずその人がいる場所は暫定的にその人の空間となり、そこから何かを取りたいときは、その前に人がいなくなってから手を伸ばすというのが暗黙のマナーのようになっていたように思いますが、ここ最近はこの良き習慣はまったく失われたように思います。

人がいようがいまいが、自分が欲しい物がそこにあれば横からぐいぐい手を伸ばして、取りたい物をガッツリ取るということで、これは本来あまり愉快ではない行為だと思いますが、個人の問題ではなく、風潮としてみんなが当然のようにやり始めますから、とてもじゃありませんがかないません。

さて、そのスーパーの精肉割引品のコーナーはというと、その女性店員の前には無数の「手」が上下左右から伸びてきてゴソゴソうごめいているサマは、反対側から見ると、ほとんどヘンタイ的な動きに見えてしまいました。
しかも不気味なことは、これだけ人がいて、みんな必死に値下げ品を物色しているというのに、人の声とか笑顔というものがまるでなく、ただただ無言でラップで覆われた商品がプチプチゴソゴソと触れ合う音だけが静かに聞こえてくるということです。

どの人も、一様に競争心もあるのか大真面目な表情をしていて、こういっちゃなんですが、人間はとても浅ましい生き物だということを如実に見せつけられるような気になって、つい見物してしまいます。
もちろんマロニエ君とて、値下げ品でも処分品でも、あれば喜んで手に取ってみるし、それを買って得したと思うこともしばしばですが、あの無言の争奪戦みたいな状況、ピリピリした緊張にあふれるあの動物的な感じだけはちょっとついていけませんし、この状況の中へ敢えて自分も身を投じる気にはなれません。

いつごろからかは知りませんが、日本人は昔以上に暗くて陰気な民族になり果てたような気がします。
ネットやテレビなどでは、みんないかにも明るく立派なことばかり言いますが、その実、我欲はますます先鋭化されて、そのための勝負心はより白熱したものであることをひしひしと感じるのは、これこそ社会の光りと陰のような気がします。

尤も、ある人に言わせると、人の内面が時代とともに荒れ果てて汚れているからこそ、上辺の言葉は立派なことばかりいうのだそうですが、たしかにその心理構造も納得させられます。
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レインセンサーの害

「便利が不便」ということがよくありますが、いま使っているワープロソフトなども親切設計のつもりだろうと思われることが、却って使用者の自由がきかずに煩わしい思いをすることがあったりします。

最近痛感したのは、ある車のフロントウインドウを見たときで、昼間はまったくわからないものの、夜、対向車や街中の光を通して見ると、一面に昔のレコード盤のようにワイパーによる掻きキズが入っていて思わずゾクッとしてしまいました。
古いくたびれた車ならそういうこともあるとは思いますが、その他の部分はとてもきれいな車だっただけに、フロントウインドウの夥しいキズはいっそう目立っていました。

小雨だったこともあり、その原因がその車に装備されているレインセンサー付きのワイパーにあることは明瞭で、ほぼ間違いないと思われました。
レインセンサーというのは、普通の間欠ワイパーの機能を表向きは進化させたもので、ガラスに装着されたセンサーが雨滴の量などを感知して、それに応じてワイパーを動かすというシステムなのですが、これがマロニエ君は大嫌いです。

その理由は、やたらめったら必要もないのにワイパーが動きまくって、しかもその動きに一定のリズムがないので気分的に落ち着かないことと、たいして水滴もないのにワイパーがせわしなく動くことで、じわじわとガラスにキズを付けてしまうというわけで、なにひとついいことがありません。

そもそもマロニエ君はキズの付いたフロントウインドウというのが性格的に我慢できません。
先に書いたように昼間はほとんどわかりませんが、ワイパーの過剰使用によるガラスのキズは実は深刻で、だいいち夜間の安全運転の妨げにもなると思われます。

一般的な認識で言うと、ワイパーはゴム製品で、相手はガラスなので、これを普通に使うぶんにはキズが付くなんて考えたこともない人が大半だろうと思いますが、これが実は大間違いなのです。
車のワイパーは高速道路などでも使えるように、ガラスへの圧着力はかなり強いものでもあり、作動スピードもかなり速いので、ガラス面に水滴がじゅうぶんあればそれがクッションになってまだいいのですが、雨が少なければ単なる摩擦運動になるだけです。

よく見かけるのは、ほとんど雨は降っていないのに、赤信号中で停止中などもワイパーを動かしっぱなしにして平然としている人ですが、マロニエ君にしてみればあんなのは他人事ながら見ているだけで気になって仕方がありません。

レインセンサー付きのワイパーはこういうことを避けて、適宜必要なときに必要なだけワイパーを動かすというシステムであるはずですが、その設定プログラムはどのメーカーも過剰過敏に動かしすぎて、却って車に害を及ぼしているということです。あれなら従来の間欠ワイパーのほうがよほど単純でスッキリしていたように思います。

もうひとつ気をつけなければならないのは、意外に思われるかもしれませんが、ワイパーのゴムの部分というのは、実はボディを洗車するよりも頻繁に掃除しなくてはいけない部分だということ。
というのは、このゴム部分には常に小さな砂やホコリが蓄積されており、とりわけ野外駐車の車ではそれが激しいようですが、そういう目に見えない砂や鉄粉みたいなものをゴム部分にしこたまのせたまま、雨が降るとワイパーのスイッチが入り、ガラス面を猛然と往復しはじめます。
もうおわかりと思いますが、こういうことの繰り返しによってガラスには無惨なワイパーの掻き傷が徐々に増えていくわけで、ガラスの傷はいったんついてしまうと、とてもシロウトの手におえるものではなく、専門の業者に依頼して研磨してもらうか、最悪の場合はガラスごと交換するしかありません。

こうならないためには、ワイパーのゴム部分を濡れ雑巾で拭いてきれいにしておくことと、必要以上にワイパーを作動させないという心得があればすこぶる効果的です。マロニエ君は昔からこれを忠実にやっているので、十年以上乗った車でも、ワイパーによる掻き傷はまずありませんし、これはそんなに大変なことでもないのでオススメです。

ガラスがきれいというのは安全にも役立つし、無条件に気持ちがいいものです。
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自転車の横暴

昨日の午後、車を運転中のこと。
幹線道路から斜めに道が折れる信号のない交差点があるのですが、そこを曲がろうとしたところ、まったく突如として猛然と走ってきた自転車と危うくニアミスになりました。

マロニエ君は自慢ではありませんが、ここ最近は車を運転をしていて最も注意していることは何かというと、それは一にも二にも自転車に尽きるといっても過言ではありません。
最近の道路で、この自転車ほど傍若無人で恐いものはなく、日頃からそれを深く心に刻んでいますので、いささかも気を緩めることなく注意をしています。

それはもちろん自転車の為でもあるけれども、正直を云うと、車はどんなに自分が正しくても、いったん自転車なんかと接触事故が発生しようものなら「加害者という名の被害者」にさせられるという理不尽きわまりない立場に立たされるという認識を持っているからです。
要するに、こう言っては身も蓋もありませんが、何よりも「自分のため」に自転車には過剰なぐらい注意をしているのです。

そんなマロニエ君ですが、このときはそれらしい自転車の姿はなく、ゆるゆると車を斜めに左折させようとしたところ、まるで鳥のようなものすごいスピードの自転車が後方から突如現れて、マロニエ君の車とその自転車が一瞬ですが避け合ったという次第でした。
曲がる前にそんな自転車の姿は認知できませんでしたから、きっと直前に脇道から急に出てきたのかもしれません。
もちろんこちらも徐行に近いスピードでしたから、ただちに停車したのはいうまでもありません。

果たして、その無謀なる自転車に乗っていたのは40歳前後の欧米人男性でした。
お互いに危険回避して止まっただけでしたが、その男性はいきなりこちら側にまわってきて、窓を開けろと云うゼスチャーを両手ではじめました。
そのまま無視して走り去っても良かったのですが、そういうことは好きではないのでとりあえず窓を開けると、その欧米人男性はいきなりマロニエ君の車のドアミラーを指先で鋭く小突きながら「ココヲヨクミテクダサイ!」と云いました。

街中の歩道であるにもかかわらず、まったく無茶苦茶な乗り方をしたのはどっちだ!と思い、「はあ!?」と問い返すと、さらに重ねてまたミラーをコンコン小突きながら「コ、コ、ヲ、ヨ、ク、ミ、テ、ク、ダ、サ、イ!」と言うではありませんか。
語尾に「ください」はついていますが、口調としてはいかにも昂然とした調子で、まるで自分は一切悪くないというニュアンスでしたからこちらもさすがにカッときて「大きなお世話!」といって車を発進しました。

次の交差点でミラーを見ると、汚い指先で小突きまわされたおかげで、ミラーはあらぬ方向を向いており、よほど不潔な身体だったのか、見るも汚ない指紋だらけにされてしまっていました。

自転車の無謀運転はここ最近の日本人の悪しき特色かと思っていたら、それをも上回るこんなアホな外国人がいるとは、驚くとともにしばらくのあいだ不快感が収まらずにムカムカしてしまいました。
人にミラーを見ろなんて云う前に、自分こそ少しは周囲の安全に配慮しろと思いましたね。

ましてやよその国に来ておいて、何たる思い上がった態度かと呆れかえるばかり。
まったくバカとしか云いようのない逆ギレ外国人との出会いでした。

それはそれとして、あらためて気を引き締めて運転しなくてはと再認識した次第です。
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省エネ運転の効果

省エネ運転についてマロニエ君の経験から…。

これでも人並みに省エネ運転にはいろいろ挑戦してはみましたが、結果を言うと現実的にはかなり効果が薄いと言わざるを得ないのが率直なところです。

例えば燃費を良くするためには、アクセルを少し踏んでソロソロと加速するということが巷間いわれますが、これもよほど効果的にやらないと、街中などでは逆にいつもアクセルを踏んだ状態が長引いて、常に小さな加速をしているという時間ばかりが増えてしまいます。
加速をするということは、巡行時よりもエンジンのより強いパワーを必要とするので、このときにガソリンを多く使うのはたしかにその通りでしょう。しかし、アクセルの踏みしろばかりを浅くすると、例えば静止状態から時速50キロまで到達するのにもより時間がかかります。
こういう運転ばかりしていると、よほどの田舎道等ならいいでしょうけど、ゴー&ストップの連続である市街地などでは車はいつでも絶えず加速している状態で、これじゃあ一向に燃費が良くなるとは思えません。

そこで燃費などまったく気にせずに、ごく普通に運転して、発進時にはアクセルも普通に踏んでみると、当たり前ですがサッと加速するから、あとはほとんどアクセルは踏むか踏まないかの巡行状態に入ります。このサッと加速してあとは一定速度に入るというのも、決して燃費が悪いわけではなく、結局省エネ運転をしてみたときとほとんど燃費に変化らしい変化はあらわれませんでした。

これは例えば一部の軽自動車などが、小さなエンジンに対して重く大きなボディを背負いすぎて、エンジンはいつも休みなく過大に働かされて、結果として期待とは程遠い消費燃料を要するということと同じような理屈だろうと思います。

やはり本当の省エネ運転というのは、エンジンの出力やトルクカーブをなどの科学的根拠に基づいた上で、その車の性能に合わせて、最も合理的・効率的な運転をしたときに効果が出るのであって、素人がただケチケチ気分で省エネ運転をやってみても、実際にはほとんど効果らしい効果はないとマロニエ君は自分の体験からみています。

また、マロニエ君の友人には大学の先生で毎日のように遠方の数箇所の学校へと東奔西走しているロングツアラーがいますが、彼はいわゆる省エネとは真逆の運転であるのに、その燃費は意外にもいいのです。聞いてみると高速でも一般道でも、アクセルを踏むときは大抵ガンガン踏んでいるといいまますが、それでなんと下手な省エネ運転よりよほどいいぐらいの燃費を叩き出しているのですから、現実というのはえてしてこんなものだということです。

要は省エネといっても、ただアクセルをちびちび踏むことだけではない、合理的な速度や無駄のないメリハリのあるアクセルワークによる運転をすることが最も現実的で、それこそが理にかなっている気がします。

それに、あまり省エネ運転を意識的にやっていると、たいした効果もないばかりか、人間の気分のほうがすっかり覇気がなくなり、消極的で後ろ向きなしみったれた吝嗇家のようになり、それでは社会の生産性も上がらず、ひいては景気も回復しないという気がするのですが。
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省エネ運転のつもり

以前に若い男性のトロトロ運転が目立つことを書きましたが、それに関してつい最近、テレビニュースでさらに驚くべき情報を入手しました。

異様に遅いスピードで走る人達が最近路上に増えていることはやはり確かなようで、なんと、その中にはひたすら省エネ運転を実行しているという一派もあるのだそうです。
たしかに燃料を減らさないために、急加速などをしない、あるいはアクセルを踏み込む必要をできるだけ減らすために、スピードもできるだけユルユルした一定した速度で走るというものですが、そのみみっちさには呆れかえりました。

アクセルを踏みすぎず、極力一定速度で走り続けることが燃費を良くするのはそうだとしても、そのために速度を変えずにまわりに迷惑をかけるような流れのないマイペースの運転をするのでは、これは自分だけ止まろうとしない自己中の自転車の走りと基本的に共通したものがあると思います。

ちなみに自転車の傍若無人の走りの原因のひとつが、いったんスピードを落とすと、旧に復するのにまた自分の足でペダルを漕いで力が要るからという側面があると思われます。
車もこの部分がガソリンを消費するところだから、できるだけ速度を落とさずケチケチ走ろうというところなんでしょう。

さらに驚いたのは、そのチンタラ運転による退屈をしのぐために、あろうことか運転中に携帯の端末などをいじりはじめるというものでした。これでは二重の危険運転というべきで、それで事故でも起こした日には、燃費がどうのどころではない大事になるというのに!

現代の車にはエコドライブのためのインジケーターの類がついている場合が多く、エコ運転ができているときには緑のランプが点いたり、アクセルの踏み加減に応じて瞬間燃費をいちいち表示するものなどがあり、たしかに人間はそういうものがあるとそれに何らかの影響をうけることはわかります。

しかし、その倹約運転を最優先するあまり、始終他車に迷惑をかけたり危険運転になったりするというのは本末転倒も甚だしく、それを若い男性がこぞって(しかも自主的に)やっているかと思うと、なんと薄気味悪いことかと思います。

安全が疎かになっているということを意識して尚、倹約運転をやっているのならその神経は大したものですし、それさえもわからない無神経ということもありそうで、いずれにしろ救いがたいというべきです。

お気の毒といえばそうなんですが、バブルの崩壊以降に育った人達の財布の紐の堅さときたら呆れるばかりで、堅実といえば聞こえはいいですが、暗くて陰気くさい老人のようで、ほとんど人生にダイナミズムというものがなく、当然ながら思考力までみみっちいことにばかり働かせているのは驚くばかりです。

不本意でも必要があってやむを得ずする倹約と、倹約そのものが血液となり細胞となって人格を形成している場合では、まったく性質が違うと思うのですが…。
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メールと電話

電話で会話すればなんの問題もなくスムーズにいくことが、メールであるがためにつまづいたり誤解が発生したり、なんらかのストレスの原因になることってあるものです。

常々、マロニエ君は現代人のストレスや暗さの原因の一端は、直接人と触れ合わないメールなどのせいではないかと考えています。

ネットの功罪などを言い立てるキリがありませんが、少なくとも連絡手段としてのメールの普及は、数知れない利点がある反面、その利便性の副作用として犠牲になったものも甚大だというのがマロニエ君の見解です。

その点で、電話は顔は見えなくても少なくともナマの会話ですから、双方の言葉の調子やニュアンス、テンション、笑いなどの様々な人間的要素を総合しながら伝えることができますが、メールはそうはいきません。

思いがけないタイミングで、思いがけない内容のメールを受け取ったときの不快感というのは、意外に見過ごすことのできない深刻さがあります。
同じ人間が、同じ内容を伝えるにも、電話とメールでは受ける側の印象には雲泥の差があると思います。

少なくともメールではよほど誤解されないようにするためには、表現や言葉遣いも相手に媚びるほど、過剰な気を遣わなければならないことも少なくなく、もっぱら安全確実なことだけを書くようになり、直接会話にある一種の危ないスレスレの会話の楽しさなんて望むべくもありませんが、ここにこそ、人の感性やバランス感覚などの機知が潜んでたはずです。
もちろん文字情報を正しく伝える、内容を記録として残すなどの場合は別ですが、闇雲にメールへの依存度が高まってしまっているのは否定できません。

そういうわけで、マロニエ君は電話でもメールでもどちらでもいいと判断する場合は、ほとんど迷うことなく電話にする主義です。

そもそも連絡手段の大半をメールに依存している人というのは、活きた人間関係を重要と考えず、メールという一方的な連絡手段のほうが性にあっているのだと思われますが、そのぶん直接の会話でしか得られないものや確かな人間関係を構築が難しいという、慢性病的な一大欠陥が横たわっていることには気付いていないようです。
ひとくちにいうと、すべての連絡を抵抗なくメールでするような人には、信頼できる友人知人(あるいはビジネスの相手でも)はまずできないと思われますが、巷ではこういう人ほど友達を求め、それを数多くキープしたがるというのですから、その意識のズレには苦笑させられます。

つい先日も、あることで受け取ったメールが金銭絡みのオヤッと思うような思い違いのある内容でした。そこですかさず電話で直接話したところ、案ずるより産むが安しの喩えの通り、お互いの認識はたちまち確認できて事なきを得ました。
しかしこれをもしこちらもメールで返していたら、いちいち細かいことを説明しながら文章を書くのは骨が折れるばかりでなく、その往復にはそれなりの時間も費やして、その間は嫌な時を過ごすことになるのは目に見えています。

それが電話で明るく話をすればあっという間に事済みになるのですから、だいいち時間効率も圧倒的にすぐれているし、ついでに相手とはちょっと無駄口のひとつも交わしておけば、言うことなしのめでたしめでたしです。

現代人はメールをはじめとする便利なツールに囲まれて、人間性を喪失してまでそれを使いこなすことにエネルギーを費やして、日々精神的に孤独になっていることはもはや疑いようがありません。
きちんとした挨拶ができない、相手に対する本当の気配りや礼儀がない、大胆さがない、生きた人間の魅力がない、敬語と謙譲語のしなやかな使い分けができない…などなど、これらは人との関わりという点が稀薄になっていることの明らかな病症だと思われます。

電話でなくメールにする人の理由として最大のものは、「相手に迷惑をかけないから」ということのようですが、少なくともマロニエ君に限っていえば、どんなに悪いタイミングでかかってきても、それで電話の主を迷惑だなんて思ったことはないし、メールより嬉しいことは間違いありません。
というわけで、これからも可能な限り「電話主義」で行きたいものです。
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予期せぬ進歩

我が家のガレージで使っているホースとリールのセットは、もうかれこれ20年以上前のもので、ほとんど骨董の領域に到達しているようなものですが、ただ水を撒いたり洗車をしたりするのに不都合がないので、ずっとこれを使い続けてきたところでした。

ところがこの一年ぐらいでしょうか、リールへの繋ぎの部分とか、あちこちから僅かですが水漏れを起こすようになりました。漏れ自体はわずかでもリールの角度によってはこちらに小さな水流が向かってくることもあり、いつもその方角をあっちへ向けながら使っていましたが、だんだんと漏れが悪化してきたのを見かねて、ついに(というほどのものでもないのですが)これを買い換えることにしました。

ホームセンターにいくと数種類おいていましたが、単なるホースなのでとくにこれといって性能を求めるわけでもなく、一番安い20mのセットでじゅうぶんだと判断して買うことにしました。
本当はホースとリールだけのセットでいいのですが、今どきはどれもシャワーとかジェットなどの水流が換えられるガンタイプの蛇口がついているようで、本来これは要らないと思ったのですが、セットで値段も安いし購入しました。

さっそく古いホースのセットを長年ぶりに外して新しいものを取りつけましたが、たかだかホースでも、新しいものは気持ちがいいもんだと思いながら取り付け作業を行いました。

切り替え式のシャワーがあまり好きではないのは、ずいぶん昔に庭のホースでこれを付けたところ、ホースやリールのつなぎ目のあちこちから、高い水圧に負けて糸状の水漏れが発生し、かえってあたりはびちゃびちゃになってしまったり、一年もすると蛇口そのものが壊れてしまうなど、まったくいい印象がなかったので、ガレージでもこの手の蛇口は使わないでいたわけです。

ところが、取り付けが終わっていざ水道を捻ってみると、新しいせいもあるのかもしれませんが、むかし経験したたぐいの水漏れなどはまったくその気配すらなく、至ってスムーズで当たり前のようにスイスイ使えることが判明しました。
しかも、シャワー/霧/ジェット/拡散という4つのパターンのどれもがむらなくきれいに噴射されるところも、そのいかにも鮮やかな様子につい驚いてしまいました。

さらに感心したのは、従来のホースよりも直径がほんの僅かに細くなっていて、水道の蛇口を捻る量もこれまでとは比較にならないほど少量で済むことでした。
要するにこんなホースひとつとっても知らぬ間に技術が進歩し、初歩的な水漏れなどが克服されるなどの品質の向上と、さらには水量の省エネ設計が徹底しているのだということがわかりました。

ジェットに至ってはほんの僅かの水量でも、なにかを突き刺してしまいそうな勢いで、まるで武器のように鋭い一直線の水が躊躇なく飛び出してくるのにはびっくりです。
この悪天候なのでまさか洗車をするわけにもいきませんが、ともかくさっそく何かで試してみたくなり、ガレージ用のサイクロンクリーナーの中のフィルターやスポンジを、どーだ!とばかりに洗ってやりました。

とりわけ蛇腹状のフィルターに詰まっていたネズミ色のホコリの堆積物は、あっという間に吹っ飛ばされて、久しぶりにほんらいの清潔な状態に戻ることができたようです。

旧来のものがなつかしく思われることも少なくないこのごろですが、こういう道具などの分野は本当に新しいものは良くなっていて、しかも値段も安いとくれば、ただただありがたいばかりです。
すっかり感心して、別の場所にももうひとセット買いたくなりました。
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