プレイエルの新録音

「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」というプロジェクトがスタートし、これは横山幸雄氏が戦前のプレイエルを使って昨年の10月17日(ショパンの命日)から石橋メモリアルホールにおいて、コンサートと録音を同時にスタートさせたものです。

マロニエ君が近年、最も個人的に関心を寄せるピアノがこの年代のプレイエルで、昨年のショパンイヤーではプレイエル使用と銘打ったCDもいくつか発売されたものの、それらはいわゆる19世紀製造のフォルテピアノであり、実際にショパンが使って作曲したという時代の楽器を使うというところに歴史的な意味合いが多かったようです。

しかし、マロニエ君がもっとも心惹かれ、好ましく思っているのは20世紀の初頭から数十年製造された、交差弦をもつモダンピアノとしてのプレイエルであり、その甘美でありながら陰のある不思議な音色は、代表的なものではコルトーの残した録音集から、その音を聴くことができるものです。
ショパンにおけるコルトーの詩情あふれる妙技のせいももちろんありますが、そこに聴くプレイエルのなんとも切々と鳴り響く妙なる音色は、大げさにいうと柔らかさの中に不健康な美しさが籠もっていて、まさにショパンを弾くためだけに生まれてきたピアノと言いたくなるようなピアノです。

このピアノの音がもっと聴きたくて、一時はパリにまでCDを注文したこともありましたが、送られてきたのはやはりフォルテピアノのものでした。

というわけで「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」はいわば画期的な企画で、はやくもこのCDが店頭に並んでいましたので、3種ありましたが、これまでのマロニエ君なら一気に3枚まとめて購入するところですが、ここは理性的にまずは「1」を購入してみました。

期待に胸を膨らませて帰宅して、気もそぞろにプレイヤーにCDを差し入れたのは言うまでもありません。
果たして出てきた音は…それはたしかにプレイエルの音には違いありませんでしたが、コルトーのレコードに聴くような、気品と下品の境界線ギリギリをかすめながら、なまめかしさとか芳醇さのようなものが立ちのぼるさまはあまりありませんでした。

使われたプレイエルは写真だけでは判然としませんが、コンサートグランドではなく、おそらくは2m強のサイズのものだろうと思いますが、松尾楽器にも同年代のプレイエルを所有していることからか、松尾の人が調整をしているようです。
そのためかどうかはわかりませんが、ピアノが妙に整然としていて優等生的なのです。

シロウト考えですが、この時代のプレイエルにはまだまだスタインウェイのような完成度はなく、不完全なところもあったので、あまりムラのない高度な調整をしていては、却ってピアノがそれに応じきれないというか、このピアノの魅力の一端がスポイルされてしまうような気もしました。

表現が非常に難しいのですが、あまりにも見事な日本人流の完璧なヴォイシングや精妙を極める調律をやりすぎてしまうと、なんとなく息抜きのできない堅苦しい感じになるようです。
良い意味でのアバウトな調律などをされたほうが、このピアノは本来の味を発揮するように思うのですが、そんな危ない領域まで求めるのは、なにしろピアニストも録音スタッフも現代に生きる日本人ですから、到底体質的にも出来ることではないないでしょう。

そうそう、以前映像で見た、ショパンとは程遠いアンドラーシュ・シフが、ファブリーニ(イタリアの名調律師でポリーニなどの御用達)が調整したプレイエルを弾いているときにも同様の窮屈感みたいなものがあったことを覚えていますが、それに較べたら今回のほうがずいぶん優れているとは思います。

まあ、なんだかんだと文句は言ってみても、なんともありがたいCDを出してくれたものです。
これから順次発売され、12枚で完結するのだそうで、横山氏はこういう企画物を作り上げる際の、スタッフのひとり的な弾き手としては、指はめっぽう動くし、いいのかもしれません…。
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ギーゼキング

NHKの衛星放送で、あまり良いとはいいかねるモーツァルトの演奏を聴いたので、無性にちゃんとしたものが聴いてみたくなり、久々にギーゼキングのソナタを鳴らしてみたのですが、やはりさすがでした。

ふつうモーツァルトというと、多くのピアニストが意識過剰ぎみの演奏になるか、取って付けたようなわざとらしい軽妙な表現をしたり、これだというものがなかなかないものです。中にはこれみよがしに余裕を顕示して、まるで大人が子供用の本でも読むかのような弾き方をし、それでいて音楽性には充分以上に留意しているぞというようなフリをしたり、必要以上に注意深く細部にこだわって深みがありげな演奏したりと、どうもまともなモーツァルトというものに接することが少ないような気がします。

テレビで観たのは、もう70代に突入した大ベテランでしたが、近年は指揮にその音楽活動の大半を割いているためにピアノの腕が落ちたのか、その理由はよくわかりませんが、かつては中堅のテクニシャンとしても有名で、久々に聴く彼のピアノでしたが、線が細く、恣意的で、流れが悪く、なんだかとてもつまらないものでした。

それで無性にモーツァルトらしいモーツァルトが聴きたくなったわけです。
思い切ってモーツァルトの御大であるギーゼキングでも聴いて口直しをしようという思惑だったのですが、口直しどころか、あまりの圧倒的な素晴らしさに、もうそのテレビのことなど忘れて聞き込んでしまい、すっかりギーゼキングの世界に浸ってしまいました。

気負いのない自然な語り口、あるがままのテンポ、あるがままの音楽、そしてたとえようもない滲み出してくるその風格。気負っているわけでも、細心の注意をしているわけでもない、むしろ恬淡としたその演奏には、ごく自然に芸術家としての息吹と気品が当たり前のようにあって、ただただ心地よく、しかも安心して深い芸術的な音楽にのみ身を委ねられるという、ほとんど器楽の演奏芸術としては究極の姿であろうという気がしました。

とりわけ感心するのは、モーツァルトの作品(主に全ソナタと小品)が生まれ持った息づかいを、ごく当然のようにギーゼキングが同意して呼吸し、それがそのまま演奏になっているところに、聴く側の心地よさ、明解さと説得力、そして魅力があるのだと思います。
これは現代のモーツァルト弾きのようになって半ば崇められている内田光子とはいかにも対照的で、彼女はモーツァルトの意に添うためには作品に滅私奉公して、自らの呼吸もほとんど犠牲にしているようなところがありますが、その点ギーゼキングは作品に対して恐れなく磊落に向き合っており、ピアニストというか音楽家としての潜在力のケタが違うのだなあと思わせられます。

ちなみにギーゼキングはモーツァルトの演奏ではペダルを使わなかったと言われており、録音場所も相応なホールやスタジオに出向くのをこの巨匠は面倒臭がって、自分の事務所のような部屋に機材を運び込ませて録音していたといいますからなんとも呆れてしまいます。
ギーゼキングはもう一つ、蝶の蒐集家としても世界的にその名を残すという一面を持っていて、こういう幅の広い、面白味のある悠然とした芸術家は今はいなくなったように思います。

ギーゼキングの好んだピアノはグロトリアン・シュタインヴェークで、これはアメリカに渡る前のスタインウェイとも血縁関係のあるピアノで、現在も細々と製造はされていますが、スタインウェイとどこか通じるところのある、それでいてまた違った魅力のあるピアノです。
ちなみにアメリカに渡ってスタインウェイとアメリカ風に改名する前のドイツ名は、まさしくこのシュタインヴェークだったのです。
現代のグロトリアンを使った演奏としては、イヨルク・デムスが横浜のとあるホールにあるグロトリアンを使って録音したCDがありますが、やはりギーゼキングの使ったピアノに通じる独特な華をもったピアノです。
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詩的で宗教的な調べ

「詩的で宗教的な調べ」は全10曲からなるリストの作品で、リストがあまり好きではないマロニエ君にしては好ましく思っている作品群なのですが、これが全曲弾かれたCDというのはほとんど無くて、以前から気にかけてはいたのですがなかなかこれというものに出会いませんでした。

チッコリーニにはあるようですし、レスリー・ハワードの99枚の全集を買えばもちろん入っているでしょうけれども、全体としてみると超絶技巧練習曲やハンガリー狂詩曲などは全曲物がいろいろとありますが、作品としても内的な要素が込められていて、かなり優れていると思える「詩的で宗教的な調べ」にはなぜか該当するものが極端に少ないのです。
単発では、第3曲の「孤独の中の神の祝福」、第7曲の「葬送」、第9曲の「アンダンテ・ラクリモーソ」などは比較的弾かれることが多い曲ですが、それ以外の曲は通常はほとんど演奏もされず、あまり注目を浴びることもないのは大変不思議に感じるところです。

で、チッコリーニ盤でも買おうかなぁと思っている矢先に、パリとロシアで学んで、近年では東京のラ・フォル・ジュルネにもしばしば出演しているというブリジッド・エンゲラーの演奏による全曲盤が発売されたので、すかさずこれを買ってみました。
結果は…まあまあでした。
テクニック的にも音楽的にもいかにも中庸を行くという感じで、取り立てて感動もないけれど、さりとて大きな不満もないというものです。

ともかく以前からの願望であった「詩的で宗教的な調べ」全10曲を通して全部聴いてみるという目的は達成できたので、まずはよかったと思っています。でも、それ以上でも以下でもありませんでした。
どれもリストの有名曲に多いあのゲップの出そうな世界ではなく、非常に内面的な要素を重視した美しい曲集であることはあらためてわかりましたし、別人のように作風も変わってしまう晩年に較べると、まだ若い頃の作であるにもかかわらず、このような精神的な作品を書いているということは、リストは時代の寵児としてとびきり華やかに活躍しているころから、同時にこのような内的世界を有していたという証のようで、非常に興味深いものでもありました。

作品が気に入ったので、やはりチッコリーニ盤も買ってみようかなと思っているところです。

このCDが珍しいのは、スタインウェイのB211という、録音に使う楽器としてはいささか小さなピアノを使っている点です。
ヤマハでいうならC6クラスのサイズですが、それでもほとんどコンサートグランドに近い、輝かしい音に溢れている点は、やはりさすがだと感心させられました。

もちろんサイズが小ぶりなぶん、響きのスケールもいくらか小ぶりで、全体に厚みと深みは割り引かれますが、これはこれでじゅうぶんという印象です。
たぶん録音会場にこれしかなかったというようなことは考えにくい(ヨーロッパではピアノは運び込むことが通例)ので、やはり演奏者の選択だったのでは?とも思われます。

というのも、これぐらいのピアノのほうが、響きも小さくて取り回しが良く、難曲を弾くときにわずかでも軽さがあって弾きやすいということはきっとあるとだろうと推察されました。
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ウチダの芸

内田光子といえば、今や数少ない第一級の世界的ピアニストの一人と位置付けられ、ましてや日本人ということになると、それはこのクラスでは唯一の存在でしょう。

彼女の優れた才能や演奏上の特質や魅力については、もう長いこと聴いてきてマロニエ君なりに充分わかっているつもりですし、とりわけまずモーツァルトで認められ、フィリップスから続々とCDがリリースされるたびに、その圧倒的な繊細かつ細心を尽くした表現の極みには、西洋音楽の中に息づいた日本の美を見たものです。

しかし、では双手をあげて賞賛するばかりとはいかないものもあるのであって、それがシューベルトのソナタに至って顔を出し、それに続くベートーヴェンなどではいよいよ顕著にもなってきたようにも思います。

しかし、マロニエ君がそう感じるのとは裏腹に、日本というのは不思議な国で、いったん高い評価が定着してしまった人には、ほとんど批判らしいものが聞かれなくなり、以降は何をしても大絶賛となる傾向があります。

彼女の最新盤はシューマンのダヴィッド同盟舞曲集と幻想曲のカップリングですが、とりあえず購入して聴いてみたのですが、ちょっとどうかなぁと思われる点も少なからずありました。

以前から内田光子に抱いている問題点は細部の処理などに、あまりにも神経質になるあまり、表現がいささか独りよがりになる傾向があったように思いますが、それは最新のシューマンを聴いても同様でした。
とくに間の取り方などはその最たるもので、音楽の流れが遮断され、いくらなんでもやり過ぎな感じのすることが少なくありません。

また、内田ならではのこだわりと格調高い演奏を意識しすぎてか、緊張感の割り振りが上手く行かず、極度の緊張がむやみに強すぎて、全体が息苦しくしくなりがちだと思います。
素晴らしいと思う反面、非常に疲れるし、聴いていて鬱陶しくなることも少なくありません。

簡単に言えば、ちょっと考えすぎで、音楽というものはもう少し、率直に楽しくあってもいいのではないかと思います。これを人によっては深みとも芸術性とも捉えるのかもしれませんが、マロニエ君としてはそれを否定はしないものの、どうしても全面的に肯定する気にはなれないというのが正直なところです。

芸術家としての思慮深さという点にかけては文句なしですが、演奏家としての呼吸と必然性にはいささかの疑問の余地があるようにも感じるわけです。
このことは実際のリサイタルに行っても感じることで、聴衆を音楽に乗せるのではなく、絶えず息を殺して、固唾を呑んで聴く姿勢を要求されるようなところがあり、そこが人によってはさすがという感動を呼ぶのかもしれませんが、見事だけれども、なにかが違うのではないかと疑問を投げかけられるような気がするのも事実です。

しかしながら、ともかくもここまで、文字通り寝食を忘れるほどに自分を追い込んで、音楽というよりは、マロニエ君に言わせれば、独特の宮大工の誇り高い仕事のような巧緻な演奏美の世界を作り出し、それを極めたという点では内田光子は圧倒的な存在だろうと思います。
ですから、マロニエ君の場合は彼女の演奏に接するときは、いわゆる音楽を聴くというよりは、伝統工芸のような演奏美を観賞するというスタンスになってしまうのです。

それでもなんでも、なにしろここまでくれば大したものではありますが。
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実況録音のCD

昨年のショパンコンクールの実況録音のCD(コンクール会場で入手できる由)を人からいただいたので、さっそく聴いてみると、これが予想以上のCDで、最近は録音技術が著しく発達しているせいもあるのでしょうが、まさに至近距離で弾いているかのようなリアル感で聴くことが出来るのは、やはり今どきの技術はすごいもんだと感心させられました。

率直に感じたことは、「これはまさしくピアノのオリンピック」だということでした。
但し、オリンピックといっても、コンテスタントがなにもスポーツのような非音楽的な演奏をしているという意味ではまったくありません。
この実況録音には、普通のレコーディングはもちろん、コンサートのライブ録音などからもまず聴くことの出来ない、このコンクールだけが持つ独特な勝負のかかった凄味があるということです。

もう少し説明を続けると、泣いても笑っても、その年その日その時間に演奏される一度きりの演奏によってのみ、優劣の判定が下され、それである者はその後の人生さえ大きく左右されることも珍しくはない極限的な場面の記録であり、息詰まるような時間がそこには流れているのは、他にはオリンピックぐらいしか思い当たらなかったのです。
このやり直しのきかない緊張と一発勝負の世界は、まさにスポーツのそれのようでもあるし、非常に悪い表現をするなら一種のギャンブル的な運の要素まで絡み込んでいます。そんな興奮の中で繰り広げられる世界というわけで、このCDにはその異様な空気感のようなものまでが生々しく記録されている点で、一聴に値するものだと思いました。

当然ながら曲によって、人によって、ミスや演奏上のキズもあり、勢い余ったり、あきらかに不本意だろうと感じるような部分も中にはありますが、それらをひっくるめて、近ごろではまず滅多に耳にすることのできない類の、パワー感に溢れる、若者達の真剣勝負の姿を見るようです。
これほどテンションの上がった中での一途な演奏は、もうそれだけで聴いていて圧倒され、否応なしに惹きつけられるものがありました。

これは演奏の良し悪し以前に、人間はこういうドラマティックな緊迫感というものには無条件に反応し、聴いているこちらまで普通の演奏を聴くときとは明らかに違う、一種の興奮につり込まれていくようです。
もちろん、そんな空気の中でさらにプラスの結果を絞り出す演奏者もいて、そういう一期一会の、すべてのエネルギーがその一回に賭けられたような演奏というものは、同じ人でもそうそう何度もできることではありません。
現にファイナルに残った一人は日本でのガラコンサートの折に「ああいう体験は二度とできないのではないかと思う」と言っているようですが、たしかに頷ける話です。

俗っぽい表現をするなら、まさに多くの若者の「命がけの演奏」がそこにあり、そういう勝負の場に立ち会うことの意味をまざまざと教えられるような、そんな高揚感に包まれました。

ただし、全体にはどれもあまりにもエネルギッシュかつピアニスティックな演奏で、もしショパン本人が聴いたとしたら果たしてどう思うでしょうか…。

これはショパンコンクールという名の、ワルシャワのお祭りだと捉えるべきかもしれません。

そうそう、もう一つ感銘を受けたのは、どのピアノもそれぞれの潜在力の最大限と思われるほど良く鳴っていたことです。
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山田耕筰のピアノ曲

山田耕筰といえば明治から昭和にかけて活躍した日本の大作曲家ですが、あまりにも歌曲で有名となったためか和風の人というイメージがありますが、本来は西洋音楽を日本に紹介し、自身もドイツなどの留学経験から本物の西洋音楽を身につけ、終生音楽に身を捧げた筋金入りの音楽家だったようです。

彼が数年間留学した第一次世界大戦直前のドイツでは、R・シュトラウスやニキシュが頻繁に指揮台に立っているような時代だったようで、そのコンサートにはしばしば通ったといいますし、なんとカーネギーホールでは自作の管弦楽曲を演奏したり、ベルリンフィルやレニングラードフィルなどの指揮台にも立ったといいますから、童謡や校歌ばかりを作っていた人とだけ思うのは少々間違いのようです。

その山田耕筰の作品は、歌曲は1000曲を超えるほどもあるそうで、そのためか歌曲があまりにも有名ですが、実際にはオペラや交響曲/交響詩、室内楽曲などに混じって、わずかながらピアノ曲を残しています。

最近、その山田耕筰のピアノ作品全集というCD二枚組を購入しましたが、主にはプチ・ポエムという山田耕筰が創始したというジャンルの小品集などが中心となり、ほかにも様々な作品が含まれていました。

「スクリャービンに捧ぐる曲」というのがあるように、この中の何割かの作品は明らかに後期のスクリャービンの影響を受けていると思われるものが散見できますし、どの作品も透明な空間の広がるような非常に詩的で幻想的なものが多いのは意外でした。
聴いていると様々な種類の光りがあちこちから差し込むようで、その気品ある作風は予想できなかったものばかりでとても驚かされました。
少なくともあの「荒城の月」とか「からたちの花」などからはかけ離れた抽象性を持ち、本格的な西洋流の近代音楽というべきものばかりで、あらためて偉大な音楽家だったということが偲ばれるようです。

CDの解説によると、これは世界初の山田耕筰ピアノ作品全集なのだそうで、なんと演奏者は日本人ではなく、イリーナ・ニキーティナというロシアのピアニストで、1994年にスイスで収録されているものです。
レーベルはDENONで、録音スタッフには数人の日本人が関わってはいるようですが、あくまでもヨーロッパ人の演奏によるヨーロッパで収録された山田耕筰のピアノ曲アルバムという点が非常に面白いと思います。

ちなみに使用ピアノに関しては一切記述がありませんが、その音はまぎれもないスタインウェイそのもので、しかも現在の新しい楽器からはほとんど聴くことの出来なくなってしまった、重厚な深みと密度感のある瑞々しいその美しい音色には、聴いていて思わず陶然となるようでした。
しかし決して古い時代のピアノではなく、1970年代までのスタインウェイはまたちょっと違った種類の音を出しますから、おそらくは1980年代後半〜90年前後に作られた楽器だろうと思います。
この時代のスタインウェイは、新しいトーンの中にいかにも上質な響きと透明感があり、それでいて華麗さと現代性も兼ね備えているという点で、マロニエ君はとても好きな時代の音色です

ヴィンテージのスタインウェイを称賛する人達から見ればおそらく違った意見になるでしょうが、現代のスタインウェイとしてはひとつの理想型を極めた数年間で、この30〜40年間で見ればひとつの絶頂期だったように思います。

美しい曲に美しいピアノの音色、それに優れた演奏と録音とくれば、聴いているだけで幸福な気分になれるものです。
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エル=バシャのバッハ

新しいCDの話題をひとつ。

中東はベイルートの出身という珍しいピアニストのアブレル=ラーマン・エル=バシャは実力派のピアニストとして、もはやかなり世界的にも認知されたピアニストだといえるでしょう。
19歳のときにエリーザベト・コンクールで満場一致の優勝を果たし、以来30年余、着実なピアニストの道を歩み続けて来日回数も増やしています。
骨格のある確かな技巧と、膨大なレパートリーもこの人の特徴のひとつで、すでにベートーヴェンのソナタ全集やショパンのソロ作品全集など、録音の面でも大きな仕事をいくつも達成していますし、一説によれば協奏曲だけでも実に60曲近いレパートリーを持つというのですからタダモノではありません。

近年ではプロコフィエフのピアノ協奏曲全集を出したり、日本で録音したラヴェルの作品全集がリリースされるなど新しいCDも出てきていましたが、以前ショパンのソロ作品全集を購入してみた印象から、マロニエ君としてはその実力は充分認めつつ、わずかに完成度に欠け、積極的な魅力という点でも決定打がありませんでした。
最近の日本公演の様子(TV)をいくつか観たところでも、とても上手いし、安心して聴くことの出来るしっかりしたピアニストというのは大いに認めるものの、やはり画竜点睛を欠くという印象が残りました。

一般論として、やたらレパートリーの多い(広い)ピアニストというのは、各作品のごく深い部分に触れようとか、魂の深淵を覗かせてくれるような、いわば味わいとか真理を極めたような演奏はあまりしないもので、何を弾かせても達者に弾きこなし、そつなくまとめるという場合が多いものです。
最も代表的なのが少し前で言うとアシュケナージでしょうか。

そのエル=バシャですが、最近発売されたのがなんとバッハの平均律第1巻でした。
もし店頭でジャケットを見ただけならおそらく買うことはなかったと思いますが、試聴コーナーにこれが設置してあり、ちょっと聴いてみたところ、あの有名な第一番ハ長調のプレリュードを聴いたとたん、不覚にもいきなり引き込まれてしまったのです。あの単純なアルペジォの連続が、これほど高い密度の音楽として胸に迫ってくるのは初めての体験でした。
いくつかの前奏曲とフーガをきいているうちに、「これは…買わねばならない」というほとんど確信に近いような気持ちが湧き上がりました。

ここ最近、ピアノで弾く平均律第1巻で強く残ったのはポリーニのそれでしたが、ポリーニのふくよかで格調高い演奏に対して、エル=バシャのバッハはより鮮明かつナチュラルなアプローチですが、若い人のような無機質で器用なだけという感じではなく、あくまで生身の人間が紡ぎ出す演奏実感に溢れていることがまず印象的でした。
正統的でありながら、決して四角四面な教科書のようなバッハではなく、ここに聴く演奏は新鮮さがあり各声部が活き活きとよく歌うバッハだといえるでしょう。
これまでのエル=バシャの演奏には、達者だけれどもどこか固さや泥臭さがないわけでもなかったのですが、それらは見事なまでに消え去り、このバッハに至って、彼のこれまでのどの演奏からも聴けなかった「洗練と魅力」がついに達成されており、曲集全体が大小さまざまに呼吸をしているようでした。

ちなみに、録音は日本で行われ、使用ピアノはエル=バシャの希望によりベヒシュタインの新しいコンサートグランドであるD280が使われています。一聴したところでは、すぐにベヒシュタインとはわからないほどのスタインウェイに代表される現代的な美しいピアノの音で、録音も優秀だし、演奏が素晴らしいこともあって、そういう事は関係なく美しいピアノの音楽として聞こえるのですが、耳を凝らして注意深く聴くと、かすかにベヒシュタインの楽器の人格が確認できます。

ベヒシュタインのDNAとでもいうべきポンと鳴るアタック音の鋭さと、それに対して相対的に短い音の伸びが、却って鋭い音にからみつく余韻のように感じられ、タッチの粒立ちがよく、同時にやや素朴な印象を与える点がバッハに向いていることがわかります。
バッハにこういうピアノを選んだということにもエル=バシャの深い見識を感じさせるようだし、D280をこんなにも清冽な調整をした日本の技術者はやはり質が高いもんだと感心させられました。
マロニエ君は長いことD280については疑問ばかりがつきまとっていましたが、このCDを聴いて、ようやく現在のベヒシュタインがどういうピアノを作りたかったのかが少しわかったような気がしました。

自信を持ってオススメできるCDです。
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フィールドのピアノ協奏曲

最近、初めてジョン・フィールドのピアノ協奏曲というのを聴きました。
実際にコンサートで演奏されることはマロニエ君の知る限りではありませんし、録音もまずめったに目にすることはありません。

ジョン・フィールドといえばショパンよりも先にノクターンを作曲したことで知られていますが、マロニエ君もノクターン以外の作品は聴いたことがありませんでした。
ピアノのノクターンというジャンルの創始者であるフィールドは、その一点でも音楽歴史上にその名が残る作曲家ということになるでしょう。

彼はショパンよりも28歳年長のアイルランド人でピアニストでもあり、クレメンティに学んだとありますが、残された作品は多くはないものの、大半がピアノ曲という点もショパンに共通するところでしょうか。
ところがピアノ協奏曲は実に7曲も書いており、ちょうど良いCDを見つけたのでものは試しということで購入したわけです。
4枚セットのピアノ協奏曲全集で、7曲の協奏曲を番号順に聴いていきました。

ところが感想を言うとなると、ぐっと言葉に詰まってしまうような、そんな作品でした。
曲調はどれも軽やかで親しみやすい旋律で、彼のノクターンに通じる旋律の特徴や和声の流れが見て取れますが、そんなことよりも「これはどういう音楽なのだろう…」というのが一番正直な印象です。
第1番以外は19世紀初頭の20年間に書かれていて、当時の社会の音楽に対する価値やニーズがどのようなものであったか、詳しいことはわかりませんが、なんとなくその時代、すなわち産業革命以降の市民社会の勃興という時期にうまくはまった、娯楽音楽のような気もするわけです。
ピアノ協奏曲というわりには、ピアノの書法もこれといった革新性や挑戦的なものはなく、技巧的なものでもさらになく、オーケストラをバックにいつもキラキラとピアノの音がしていて、今風に言うなら癒し系というか、なんだか昔の少女趣味的世界を連想するようでした。

それでも、ところどころに見られる独特のピアノの輝きは、おそらくそれまでには存在しなかった種類のもので、この分野の大天才であるショパンの到来をフィールドが地ならしして待っている、いかにもそんな時代の気配が聞こえるてくるようでした。

音楽といえばドイツ音楽偏重で、まだベートーヴェンが生きていて作品も中期から後期へ移ろうとしていて、いよいよ音楽を形而上学的芸術たるべく執着し、こだわり続けていた、そんな時代へのアンチテーゼのごとく、なんともあっけらかんとした娯楽的音楽だったのかもしれません。
正直いって真の深みとか芸術性といったものはあまり感じられませんが、どこかチャイコフスキーが登場する以前のバレエ音楽のようでもあり、フィールドはロシアなどでも高い人気を誇ったようでもあり、これはこれでひとつの時代の中で存在価値がじゅうぶんにあったような気がします。

とくにショパンに対しては、かなり作曲のヒントを与えた作曲家のように直感的に感じられましたので、もしそうだとするならば、その点は非常に重要な役割を果たした人だという気がしました。
どんな偉業であっても、もとを正せばこの人なしではあり得なかったという事例がありますから。

もしこの想像がまちがっているなら、ショパン大先生には申し訳ない限りですが。
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白石光隆

白石光隆さんというピアニストをご存じでしょうか?

今年の初め、CDを店頭で物色中に、なんとなく手に触れた一枚のCDが妙に興味を惹きました。
言葉で説明するのは甚だ難しいのですが、決して派手なジャケットでもないし、そこにあるのは地味な日本人中年男性の姿。とくにどうということもないのに、なにか気にかかるものがあり、ずいぶん迷った挙げ句に購入しました。
例のマロニエ君のCDギャンブルですが、これが新年いきなりの大当たりとなりました。

内容はベートーヴェンのソナタ集で、悲愴、13番、月光、熱情というものですが、これがなんと、とてつもなく素晴らしいピアニストだったのです。
まあ、とにかく群を抜いて上手いし、しかも音楽的にも素晴らしく、解釈も見事、まさに目からウロコでした。
このCDを聞く限りでは、ベートーヴェンとしては間違いなく世界のトップレベルで、なんのハンディもなしにポリーニなどと直接比較すべき質の高さでした。

しかもただ指が上手いというだけならアムランのようなピアニストもいますが、白石氏がすごいのは作品の構築性と音楽の燃焼感がこれ以上ないという高い接点で結びついているという点でしょうか。
壮年の男性ピニストらしい、まったく乱れのない安定しきった目の醒めるような技巧と、音楽作りを統括する抜群の知性とセンスの良さ、さらには演奏そのものに吹き込まれた生命感にはただもう圧倒され、魂を鷲づかみにされたようでした。

テクニックだけでも並のものではないので、楽器や作品と格闘する必要がなく、楽にピアノを弾いているから適材適所の真っ当な表現が可能となっているようです。
精密でムラのない余裕のある確かなタッチは、きわめて知的な構成の上に闊達に音楽を描いていくことを可能とし、ものすごい迫真性と燃焼感が自在に繰り広げられる様は圧巻という他ありません。

現代の日本の有名ピアニストを見ていると、大半はなんらかの要素でもって現代の商業主義にうまく手を結び、結果その波に乗れた人達であって、残念ながら本当の芸術活動に身を捧げているような人は見あたりません。
少なくとも我々の目に触れるのは、大半がそんな人達ばかりですから、もう本物のピアニスト、本物の音楽家はいなくなってしまったのかと悲観的に考えてしまいます。

しかし、この白石さんのような超弩級の人が、その持てる能力にははるかに見合わないような地味な活動をして、あとは芸大の講師などをしながら存在しているというのは、なんというもったいない事実でしょう。
以前、エネスコのソナタなどで感銘を受けた藤原亜美さんなどもそうですが、こういう「本物」が実は日本の中にちゃんと存在し棲息しているということは、考えただけでも誇らしい嬉しいことです。

今どきの売れっ子になるということは、CDやコンサートのチケットなどの売れ行きがその人の実力のバロメーターとされてしまっていますし、そもそも売れっ子という言葉そのものが商業主義を前提としたものでしょう。ポピュラー系の音楽も、ヒットチャートなどという悪習が蔓延して、それだけが価値のようにされると、本当の音楽家/芸術家はとてもじゃありませんがそんな売り上げの過当競争の中になど参加できるはずがないのです。

いまやゴルフやテニスでも、純粋な試合成績ではなく、賞金ランキングがその人の地位を決するというあまりにも露骨な時代ですから、なんでもが推して知るべしなのでしょうけれども。
本物の芸術家が本当に正しく評価されるような時代があるとすれば、それは経済の繁栄とは真逆のところにあるのかもしれません。
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リストは冷遇

昨日、タワーレコードに行ったところ、今年がリスト生誕200年ということで、そろそろなにか小さなコーナーでもできているのかと思っていたら、これがまったく何もナシで、通常のリストのコーナーさえもごくごく小さいものでしかなく、他の作曲家の間に埋もれているという感じでした。
昨年はショパンのそう小さくもないコーナーが一年を通じて作られていましたが。

やはりリストはピアノ曲の中に単発的に有名なものがあるとは言え、ほかは馴染みのない曲の比率があまりにも膨大で、それらは通常ほとんど演奏されることもないし、ピアニストあるいはレコード会社もあまり企画したがらないのだろうと思われます。
リストの作品はものによってはプログラムの一部には華麗で格好の作品ですが、あくまで名脇役といったところ。リスト作品だけではコンサートを維持するのが難しい微妙な存在なのかもしれませんね。

リストはピアノ曲の作曲はもちろんとしても、他の作曲家の作品の編曲やパラフレーズなども数多く手がけていますし、管弦楽の分野では、ベルリオーズに始まる標題音楽を発展させることで「交響詩」という新しいジャンルを作り出したことなどはリストが音楽歴史上の特筆大書すべきことでしょう。
ところが、この一連の交響詩にも実はさほど馴染みやすい曲はなく、残念ながらあまり人気はないようです。

前回ご紹介したフランス・クリダやレスリー・ハワードの全集が年頭に出てきたものだから、今度はてっきりリストのCDがわんさと出てくるのかと思いましたが、どうもそれに続くものはあまりなさそうです。
それでも多少はリスト生誕200年ということで、今年限定でリストプログラムを組んで録音を目論むピアニストなどは若干名はいるでしょうから、せいぜいそこに期待したいと思いますが、まあショパンとは到底規模がちがうようです。

ところがCDだけではなかったのです。

驚いたことには、書籍の分野でも、リストはかなり冷遇されているという事実がわかりました。
リストの生涯は知る限りではとても面白いものですが、なにかまとまった形で読んだことがなかったので、適当な本はないかと物色してみたのですが、ヤマハもジュンク堂にもそれらしい書籍がまるでなかったのは正直言って驚きでした。

ジュンク堂の音楽書の売り場などは、それこそありとあらゆるものがぎっしりと揃っていて、バッハ、モーツァルトなどはそれぞれ数十種の出版物(楽譜ではない文字の書籍)がひしめていますし、フォーレやショスタコーヴィチ、ラフマニノフなどもあれこれと伝記や専門書が刊行されています。
しかし、リストだけはどこをどうみても少なくとも店頭にはなにもないのです。

世の中に於けるリストの存在とはそんなものなのかと思ってしまいました。
もともとマロニエ君自身がリストをあまり好まなかったために、こういう事実に長らく気が付かないで今日まできたわけですが、それにしてもあれだけの偉大な功績がありながら、いくらなんでも不当に冷遇されているんだなあとも思えるようです。ここまでくるとなんだかリストが可哀想になってきました。

若い頃、上流女性達の憧れで、当時のスーパースターで、その空前の人気をほしいままにしたリストは、それですっかり燃え尽きてしまったのでしょうか?
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CD事始め

いつもながらマロニエ君のお正月はこれといって行事らしい行事もありません。
そんな中でささやかな年頭行事としては、元日に最初に音を出すCDは何にするかということで、毎年ちょっとだけ厳粛な気分で考えます。

自分の部屋では時間のある限り音楽漬けのマロニエ君としては、やはり何を聴いて一年をスタートさせるかは、どうでもいいようでよくない事なのです、気分的に。
昨年はドビュッシーの交響詩「海」で一年の夜明を飾ってスタートしましたが、今年はもう少しガチッとしたもので行きたいイメージでした。

こういうときにクラシック音楽というのは、あまりにも曲が無尽蔵にありすぎて、逆にひとつを選ぶというのは大変です。とりあえず年のはじめということで、壮大な調性であるハ長調で始まりたいと思いましたが、だからといってあまりに仰々しいものも、これまたなんとなく気分じゃありません。
それで最終的に決まったのはベートーヴェンの交響曲第1番 作品21。

指揮者とオケを何にするかも悩みどころでしたが、定番であるフルトヴェングラーは、あまりにも定番過ぎることと、マロニエ君の持っているCDは音質がかなり劣りボツ。イッセルシュテット、ヴァント、アバド、その他いろいろと考えてみた末、年の初めには適度に華麗でストレートな演奏が好ましく思われ、このところ見直しているカラヤン/ベルリンフィルにしました。

第一楽章の短い序章に続いて、開始される第一主題の高らかな幕開け、グングンと前に進む推進力は年の初めに相応しく満足できましたし、第9で年末を過ごす日本人には、振り出しにリセットするような点でも好都合に思われました。
カラヤン/ベルリンフィルの音というのは独特で、非常にゴージャスでありながらまろやかです。
音楽的には賛否両論ですが、一貫した迷いのない明解な方向性を持っているという点では聴いていて安心感があります。もちろん現在の潮流とも違うし、真の深みや芸術性となると疑問の余地もありますが、イベント的娯楽的な用い方にはカラヤンは打ってつけです。

現今の演奏が、みんなとても上手いんだけれども、どこかアカデミックな要素を含でいるかのごとく振る舞いながら、実は商業主義的という矛盾するへんてこりんなもので、どうもストレートに楽しめないものになってくると、却ってカラヤンのような昔の帝王の演奏というのは単純明快で心地良いのです。
もちろん不純さという点においては、カラヤンは人格的に人後に落ちない音楽家ですが、それでも彼の音楽そのものはある種の純粋性と一本貫かれたものがあるのです。人はそれを通俗と呼ぶかもしれませんが、聴く者をとりあえず満腹にしてくれるという点で、マロニエ君からみるとカラヤンは今日では却ってデパートの買い物のようなホッとできるものを提供してくれるような気がしています。

アヴデーエヴァのショパンに象徴されるように、最近の若い演奏家はどこか不可解なものを感じさせすぎるので、もういいかげん彼らの演奏を追いかけるのも疲れてきたように思います。
べつに音楽の専門家でもなんでもないのだから、もっと自分の好みに忠実に、好きなものだけを聴いて音楽本来の魅力に浸っていたいと思います。
こんなことを考えていると、なんだか急にベームのフィガロなんかが聴きたくなってきます。
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カラヤンとバーンスタイン

新聞の文化欄によると、今は亡き指揮界の巨星バーンスタインとカラヤンは、没後20年を経て尚もライバル関係にあるのだそうです。
もちろん生前そうであったのは世界中がよく知るところですが、死後これだけの年月を経てなおもCDが確実に売れ続けるというのはやはり並大抵の事ではありませんね。

生前のライバル形勢としては、ヨーロッパのカラヤンに対して、本来、西洋音楽の分野では真っ向勝負は不利なはずのアメリカの巨匠として、バーンスタインは奇蹟的に大きな存在だったように思います。

二人に共通しているのは活躍した時代と、指揮者という最もシンボリックな地位、並外れたピアノの腕前、そして両者共に容姿にまで恵まれ、存在そのものもスター性を通り越したカリスマ性のようなものが備わっていたことなどでしょうね。それがヨーロッパとアメリカ、それぞれの象徴的存在として対峙したのですから、もうこれはどうにもならない宿命だったような気がします。

これだけの圧倒的な大物になると、熱烈なファンがいるいっぽうで嫌いという人の数も世界的な規模でいるわけで、マロニエ君も実は両者共にあまり好きではありません。とくにバーンスタインはどうしてもその音楽に馴染めず、指揮をするときのあのハリウッド俳優のようなアメリカアメリカしたねちゃねちゃとした姿までゾゾッとしてしまいます。

ふと思い出したのですがバーンスタインが手兵ニューヨークフィルを相手に、自身がピアノを弾いてガーシュインのラプソディー・イン・ブルーを弾いている映像があり、ここでなんとベヒシュタインを使っているのは見ものです。
作曲者、オーケストラ、指揮者、ピアニストと、このアメリカのづくしみたいな世界のまっただ中に、突如ベヒシュタインが置かれ、これ以上ないようなドイツピアノの爆音を鳴り響かせながらガーシュインの世界を骨太に描きます。
ドイツピアノのいかにも男性的な無骨な響きがオーケストラをバックに轟くのはなかなかの快感です。

いっぽうのカラヤンはしかし、コンサートでは決してピアノは弾きませんでしたが、その膨大な仕事量は驚くに値するものでしょう。
カラヤンについては一時ほど嫌いではなくなっているマロニエ君なのですが、それはあの明解で華麗な演奏の見事さもさることながら、あの時代にだけあったゴージャスな時代の息吹をカラヤンの演奏を通じて追体験できるからです。70年代に絶頂期を迎えるひとつの時代の波というのは、まことに豪奢で華麗で一流どころが勢揃いして、一流のものとそれ以外がはっきりと区分けされていて、あれはあれで嫌いではありませんでした。

彼らのCDは最近になって次々にセット化・ボックス化されて割安価格で発売されるので、安く手に入れて網羅的に聴くことができるのは、ありがたいようなもったいないような話です。

マロニエ君も以前カラヤンのCDのボックス物をいくつか購入しましたが、4セット合計で200枚!を超えるCDがごく短期間のうちに手に入ったものだから、いやはや一通り聴くだけでも大変でした。それでも聴いたのは7割ぐらいで、すべてはまだ聴きおおせていません。
バーンスタインも同様のものが出てきているようですが、さすがにこちらは遠慮しようと思います。
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平均の功罪

いろいろなCDを聴いていると感じることも様々ですが、昔のほうがすぐれていると感じる点はたくさんあるわけで、とくに演奏家の音楽に対する純粋な情熱、芸術家としての在り方、真摯で個性にあふれた大胆な演奏などは、圧倒的に過去の演奏家に軍配が上がると思います。
とりわけこれはと思わせる巨大な芸術家が20世紀まではたしかにいたことです。

現代の演奏家は、ミスのないクリアな演奏で難曲でもスムーズに弾きこなすのは大したものですが、情報の氾濫した複雑な社会に生きる故か、個性の面ではスケールが小さく、まるでニュースキャスターのトークを聞くような演奏をするので、どこか計算ずくのようで、聴く側も生々しい感動が薄くなるわけです。

現代のほうが圧倒的に優れているのは、CDの場合まずなによりもその平均的な録音技術で、この分野の発達は途方もないものがあるように思います。だからといって、ではそれがすべて音楽的であるかといえば、必ずしもそうではないのが芸術の難しいところで、ものによっては昔の録音のほうにえもいわれぬ味わいのある録音があったりする場合もあります。

そうはいっても、やはり単純な意味での音は細かな響きまで捉えて臨場感があり、透明感や広がり感、分離などにも優れ、平均して断然きれいになったと思います。しかしオーディオの専門家に言わせると、LPのほうが音の情報量は多かったなどとも言われるようで、そのあたりの次元になるとマロニエ君にはもうわかりませんが、単純な意味ではやはり美しくリアルな音が収録されるようになったと言えると思います。

現代が優れていると思うのはもうひとつ、使用ピアノの状態と調整です。
潜在的な楽器の能力としては、昔のピアノのほうにほれぼれするような逸物が多数あり、その点では現代のピアノはピアニストと同じで機械的な性能は上がっていても、音に太さや深みがなく、いささか固い人工美といった趣がありますが、昔の録音に聴くピアノの音にはまさに気品あるふくよかな音色であったり、荘厳な鐘の音がこちらへ迫ってくるような低音の鳴りがあったり、あるいはこのピアノは生き物では?と感じるような名器があったりと思わず唸ってしまうことがよくあります。

そのかわりにひどいものもあり、中にはなんでこんなピアノを使ったのだろうかと思わず頭を捻ってしまうようなヘンテコな楽器もかなりありました。とにかく演奏も録音も楽器もバラツキというのはたしかに多かったと思います。

現代にはそういうバラツキが極めて少ないわけです。
ピアノも精度が上がって楽器の均質性に優れ、コンサートグランドを納入するような場所は管理もよくなり、ピアノ技術者の仕事も平均的なレベルがうんと上がったように思います。
平均点が上がったということは、ピアニストが難曲でもとりあえず弾きこなすようになったのと同様ですが、技術者の場合は職人であって芸術家ではないので、こちらは平均点が上がることは素晴らしいことだと思います。

逆にピアニストはこれでは困るのですが、時代の流れが必然によって産み落とす現象というのは、すべてをひっくるめて顕れてくるものですから、なかなかすべてに都合よくというわけにはいかないようですね。
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商業主義

ネットでCDなどを検索しているとやみくもに時間をとって、気が付いた時にはぐったりと疲れてしまっている自分がそこにあり、ほとほとイヤになるものです。
「気が付いたら」というのは誇張ではなく、見ている間はかなり集中しているので時間経過に対する意識が薄くなっているのでしょうが、だからこそ無意識に無理をしてしまいちょっと恐い気がします。
目や神経は疲れ、体を動かさないぶん血流が悪くなっているようだし腰も疲れ、文字通りぐったりです。

それでも思わぬ発見をしたときなどは小躍りしたくなるほど嬉しかったりするのですが、たまにそんな経験があるばっかりに、また懲りもせずに見てしまい、そして疲れて終わりということのほうが多いわけです。
実際は発見なんてそんなにざらにあるものではないのですが。

その思わぬ発見というのとはちょっと違いますが、一応発見してびっくりしたのは、マロニエ君の部屋の「今年聴いたショパン(No.23)」であまりのひどさについ批判してしまったバレンボイムのショパンについてです。
今年の2月ごろ、ショパン生誕200年を記念してワルシャワで行われた一連のコンサートの中のバレンボイムのリサイタルには好みの問題を超越してそのあまりな演奏に驚いた次第でしたが、なんとそれがそのままDVDとして商品化され、今月下旬に発売されることを発見し、唖然としました。

内容の説明が重ね重ねのびっくりで「繊細で色彩感溢れるバレンボイムのピアニズムが凝縮された演奏。解釈は濃厚なロマンティシズムに溢れ、深みがあり、まさに巨匠の風格。ライヴの高揚感も加わり、観客を魅了するブリリアントな演奏を堪能することができる映像です。」ですと!

演奏の評価は主観に左右されるのをいいことに、あまりにも現実からかけ離れた表現だと思います。
どんなものにも大筋での優劣というのは厳然とあるのであって、良いものは個々の好みを超越して存在するし、逆もまた同様というのが芸術の世界であるはずです。

もちろん今どきのことですから、このイベントの計画段階からビジネスがガッチリと組み込まれ、版権を得た企業とは主催者・出演者とも厳格な契約が結ばれたはず。演奏の出来映えがどのようなものであっても、明確なアクシデントでも起きない限り予定された商品化は実行されるのかもしれませんが、だから商業主義などと言われてしまうのでしょう。

昔の芸術的道義に溢れたアーティストは、苦労して収録された録音に対してもなかなか発売のゴーサインを出さず、数年を経てやっと発売、あるいはお蔵入りというようなことはよくあることで、それだけ自分の芸術に対して責任を持っていたということです。

「これぞ巨匠の芸!」というサブタイトルも空虚に響くばかりです。
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HMV渋谷店の閉鎖

日曜日をもって渋谷のHMVが閉店したのは、なんとも象徴的なニュースで、残念なことでした。
閉店の理由は、音楽がネット配信されるようになり、店頭売上が減じたためということで、HMVの旗艦店である、あの人の海の渋谷のど真ん中の店でさえそうなのかという思いです。

福岡も以前はフロアごとにジャンルの異なるHMVの大きな店舗がありましたが、ずいぶん前に縮小移転していますし、中心地ではCD店は数年前に較べるとずいぶん減ってしまいました。
今では代表的なところではタワーレコードとヤマハ、あとは数軒が存在するのみです。

マロニエ君も自分なりにCDはよく買うほうだと思いますが、現在のところ店頭とネットは半々ぐらいの割合です。
ネットの良いところは、予め欲しいものが決まっていれば、オンラインで簡単に注文できる反面、店頭のようにあてもなくあれこれと物色してまわる情緒はありません。
ふらふら見ているうちに思いがけないCDに行き当たる楽しみは、店頭でしか味わえない世界です。

いっぽうネットは、欲しいものをジャンルやキーワードで探す、あるいは演奏家別の検索ができるなど、こちらでしか出来ない機能があり、マロニエ君にとっては両方が必要というのが正直なところです。

数日前の新聞も一面に、ここ最近の販売業は「通販の一人勝ち」という見出しがトップを飾っていましたから、だんだんそういう世の中へと流れていくのかと思うと、なんだかひどくつまらない気分になりました。
通販の良いところがあるにせよ、なんでも極端に偏っていくのは面白くないですね。
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プレトニョフのベートーヴェン

日本の音楽評論の最高齢にして御大、吉田秀和氏の著書を読んでいたら、ロシア・ナショナルフィルをバックにプレトミョフのピアノ独奏による、ベートーヴェンピアノ協奏曲全集のことが書いてありました。

実はこのうち2番と4番の入ったCDはマロニエ君も以前購入したものの、一聴して、そのあまりのイレギュラーな演奏には、たちまち拒絶反応を覚えたものでした。ピアノはもとより、モダン楽器のオーケストラまでもが妙に古楽的な演奏をして、やたらとするどいスタッカートなどを尖鋭的に入れてきたり、へんなところで強烈なアクセントがついたりというのが神経に触り、どうにもついていけないわけです。
とくにピアノの異様さといったらありませんでした。
もしやマロニエ君の耳が固定観念に凝り固まっているのかと思い、我慢して2、3度は聴いてみたものの、ついにこの演奏と和解することはできず、いらいこのCDは棚の奥深くで眠りにつきました。

マロニエ君的には、2番はまだいくらか許せるとしても4番は到底受け入れられないというか、はっきり言うなら許しがたい演奏だったから、果たして御大はなんとコメントしているのか興味津々だったわけです。

果たして吉田氏は結論から言うといろいろな言い回しをして「面白かった」「楽しんだ」と言っておられます。
そのかわりかどうかはわかりませんが、宇野功芳氏の評論を引き合いに出されます。
宇野功芳氏は「第1、第2協奏曲はおもしろい、しかし第4はいくらなんでも行き過ぎだ」とされているらしい。
これを読んでほっとしたというか、当然だと思いました。

ちなみに吉田氏は最後にこう書いておられました。
『私はプレトニョフで聴いたあと、内田光子さんとブレンデルのCDでも、第4協奏曲を聴き直してみた。きれいだった!』

これがきっかけになって、久々にこのCDを引っ張り出して、もう一度虚心坦懐に聴いてみました。
しかし、やはり印象は同じ。2番はまだいくらか許せるが、4番受け入れられませんでした。
こういう4番を聴いて面白く楽しめるようになるには、よほどの寛容の心と懐の深さが必要なようです。

ちなみにこのCDでは、非常に珍しいことにピアノはブリュートナーのコンサートグランドが使用されていて、このピアノで聴くベートーヴェンの協奏曲という観点では、大いに「面白かった」し「楽しめ」ましたが。
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バックハウスの新譜

実に思いがけないCDが発売されたので、さっそく購入。
なんとバックハウスが死の3か月前にベルリンで行ったコンサートのライブで、これまでまったくその存在すら知られておらず未発売だったものです。
2枚組の収録曲はベートーヴェンのピアノソナタ4曲で、第15番ニ長調Op.28『田園』/第18番変ホ長調Op.31-3/第21番ハ長調Op.53『ワルトシュタイン』/第30番ホ長調Op.109というもの。

この演奏時、マエストロは85歳という高齢にもかかわらず、例のあのくっきりとしたとした調子で、時には情熱的に、時にはリリックに、総じて雄渾にベートーヴェンを弾いているのはほとんど信じがたい事でした。
デッカに残したあの名盤のような完成度こそないものの、素晴らしく鮮やかな録音により、生きた生身の老巨匠が今まさに目の前の至近距離にいるようで、こういうものを聴くとあらためて録音技術の発達には惜しみない感謝を送りたい気分になります。

使用されたピアノがまた嬉しい誤算で、バックハウスのピアノはベーゼンドルファーというのは、もはや常識中の常識で、この両者を引き離すことはできないものと思っていましたが、なんとこのコンサートではベヒシュタインを使っています。一流のピアニストになると楽器の個性を超えて「その人の音」というのをもっているものですが、ベヒシュタインを弾いてもバックハウスは自分の音を無造作に鳴らしているのはさすがだと感心させられました。

それでもベーゼンドルファーにある柔和さと引き換えに、ベヒシュタインの単刀直入なドイツピアノの音は個人的にはより鍵盤の獅子王と言われたバックハウスにはとても合っているように思えました。

それにしても、バックハウス、ベートーヴェン、ベヒシュタイン、ベルリンとまさにのけぞりそうなドイツずくめで、これだけ条件が揃うのも珍しく、ヒトラーじゃなくてもドイツ万歳!という気分になりました。
スタジオ録音では聴かれなかったワルトシュタインでの一期一会のような生命の燃焼は圧巻で、この日から3カ月を待たずにあの世の人になろうとは…。
最近は、ときどきこういう思いがけないものが発売されるのは単純に嬉しい限りですが、マロニエ君のCDエンゲル係数は上がるばかりなのが我ながら恐ろしくなります。
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ショパンCDの打率

今年はショパン生誕200年ということでいろいろなCDが出ていますが、次々に肩すかしをくらうほどしっくりくる演奏がありません。ちょっと思いついただけでも以下の通りで、実際はまだあります。

●マロニエ君最愛のピアニストであるアルゲリッチも古い未発表の音源が出てきましたが、彼女の本領はショパンにはなく、とくに新鮮味はないし、初めて出たバラードの一番なども含まれているものの、これよりはるかに優れた演奏も非正規録音で存在するので、マロニエ君としては珍重するほどのものでもありません。

●以前も少し書きましたが、知る人ぞ知るフランス系カナダ人の新しいアルバムも、いかにもそつなくまとまった美しい演奏ではあるものの、「予定通りの仕事」という感じで一向に感興が沸きません。

●日本人の大変若い天才少女のCDは動画サイトで見ていた通りで、ピアノが上手いことはまあそうだろうけれども、品格に欠け、まったくマロニエ君の好みではありませんでした。ああいう演奏でショパンに触れた気には到底なれませんし、まるでコンクールか音大の試験にでも立ちあっているようでした。

●ショパンコンクールの優勝者で、今年は何枚かCDを出したアジアの青年のアルバムは、店頭の試聴盤を聴いただけで一気に興醒めして購入はおろか、聴き続ける気にもなれませんでした。どこかの音楽雑誌で、彼の今年のワルシャワでの演奏を、ショパンの音楽祭の芸術監督だった人だと思いますが、「スタンダードだが、表現に冒険がない」と切り捨てたようでしたが、まさに同感。なんの喜びも自発性もない正確なだけの恐ろしく退屈な演奏でした。

●優勝といえばクライバーンで一躍時の人となった日本人も、最近になって決勝でのショパンの1番の協奏曲と、子守歌、op.10のエチュード全曲を入れたアルバムが出ましたが、エチュードでは美しくも溌剌としたこの人の魅力が聴けてよかったものの、協奏曲では一向に生彩も覇気もなく、オーケストラとのアンサンブルもいまいちで両者共にビビったような内向きな演奏になっているのは残念でした。この一曲だけを聴いたなら、よくぞ優勝できたと不思議な気がするでしょう。

まだまだ続きます。

●昔はモーツァルトを中心とする優れた演奏でヨーロッパでも輝いていたニューヨーク生まれのピアニストも、はや壮年に達し、このところ盛んにショパンの録音をしていますが、これがまたまったくマロニエ君の理解できない、ショパン的な美しさのまるでない、無意味に美しい空虚な演奏で、聴いていて酸欠状態になりそうでした。

●フランスを代表するショピニストとしてその名を馳せる彼が、二回目のマズルカを日本で録音したものが発売されましたが、美しいところがあることはあるにしても、全体にもたつき、くだくだしく、恣意的で、前の録音のほうがまだ良かった気がします。これほど流れに乗れないショパン演奏がなぜあれほど評価されるのやら、さっぱりです。

もうこれは耐えられない!と思い、古い演奏を聴いて耳を洗うことにしました。
選んだのはモーリツ・ローゼンタールの小品集でしたが、全体のフォルムの美しさ、流れの優美さ、いかにもショパンに相応しい細部の処理や私的な響き、自然な抑揚など、さすがだと思いました。
気を良くしてコルトーに移動すると、ショパン濃度はますます上がっていくようです。細部にアレッ?思うような部分があったり曲による出来不出来が激しかったりするものの、やはりショパン演奏の原点という気がして、ようやくほっと一息つくことができました。

いろんなCDを冒険的に買うことはマロニエ君の好きなことなのですが、それでもショパンばかりは怖くてなかなか手が出せません。経験的に9割は間違いなくマロニエ君にとってはゴミになるのです。
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ロルティのショパン新譜

数あるショパン弾きの中でも、知る人ぞ知る逸材として有名なピアニストにルイ・ロルティがいます。
彼はフランス系カナダ人のピアニストで録音もそれなりにあるものの、レーベルの問題か来日が少ないのか、ともかく日本ではあまり知られていないというのが実情でしょう。
しかし、彼が20代の後半(1986年)に録音したエチュード全27曲は隠れた名演の誉れ高く、マニアの間では伝説的なディスクとして評判になっているようです。

このエチュードがきっかけだったのかどうかわかりませんが、次第に彼はショピニストとして認められてきたようです。そのロルティの最新のショパンアルバムを聴きましたが、残念ながらあまり好みのCDではありませんでした。
後期のノクターンと4つのスケルツォを交互に組み合わせ、最後に2番のソナタという内容ですが、どこといって目立つ欠点があるわけでもないのに、なにか心に残らないショパンでした。

よく理由がわからず、なんども聴きましたが、おぼろげに感じるのは演奏者当人の個性が希薄であること。
やや詩情に乏しく、ルバートや歌いこみのポイントに必然性からくる説得力がない。
平たく言えば、とてもきれいだけれどもシナリオ通りというか演技っぽくて、そこに演奏者の本音が見えない演奏だったと思います。
すべてが美しい織物のように演奏されている、美の表面だけをなめらかに通過するような印象でした。

聞けばロルティは往年の演奏家の研究にも熱心なピアニストだということですが、ひとつにはそれが寄せ集め的な印象を与えるのかもしれません。
マロニエ君自身はそれほど熱狂しなかったものの、ちなみに24年前のエチュードを聴きなおしたところ、これには一貫した若い美意識と推進性がありました。今回のアルバムでは、そのような挑戦の気概が感じられず、ネガつぶしをしたことによる、当たり前の美しさの羅列という感じで、一曲一曲からくる固有の相貌と迫りがないわけです。

また、ロルティはファツィオリのアーティストにもなったようで、録音にもこのピアノを使っていますが、やはり基本的な印象はかわりませんし、単純にきれいな音とは思いますが、あまりにもキラキラ系のピアノで、演奏の問題も加わって聴いているうちに、だんだん飽きて、疲れてきました。
すくなくともマロニエ君は聴いていて、何かが内側で反応するような類のCDではありませんでした。
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ハスキル先生すみません

先日知人からのメールで、カザルスの輸入物のCDが10枚組で1500円だったと聞いて驚いたばかりでしたが、今日、タワーレコードにいって何気なく物色していたら、これまたとてつもなく安いCDがあり、だまされたつもりで買ってみました。

クララ・ハスキルの輸入盤で10枚組、価格はさらに下を行く1390円でした。
一枚あたり139円!!ということになります。
版権やらなにやらの理由があるのでしょうが、なんであれ驚くほかはありません。

帰宅してさっそくあれこれと聴いてみましたが、正規盤同様のたいそう立派な録音ばかりが大半を占めている点も二重の驚きでした。
一枚だけ録音も演奏もとても本来のものとは思えないようなものもあり、そのあたりはご愛嬌といったところでしょう。
おそらくは正規盤にはできないような放送録音などから間に合わせで詰め合わせたといった感じですが、いずれにしろ演奏はすべて1950年代、すなわち彼女の円熟期のものばかりです。

これで不満などあろうはずもありませんが、ぶん殴られるつもりで敢えて言うならば、収録時間が40分台のものもあり、現在のような70分前後が当たり前の感覚からすると、実質7~8枚ぶんといったところです。
それでも驚異的な低価格で、本当にハスキル大先生に申し訳ない気分です。

演奏はどれもがハスキル独特な、飾らない決然としたタッチでサバサバと弾き進められますが、そこに漂う気品と骨太な音楽は、この人以外には決して聴くことのできないものです。
とくに感銘を受けるのは、いかなるときも確信的であってさりげなく、それでいて内側に激しいものが見え隠れしながら、一瞬も「音楽」が途切れずに脈々と続いていくところです。
色とりどりの作品(シューマン)の第1曲など目頭が熱くなるような演奏です。
はああ、まさに音楽です、、、

まだ数セットありましたから、ご興味のある方はお早めに。
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デュシャーブル

デュカスのソナタでさらにもう一つ書き忘れていましたが、私の聴いているこのソナタのCDのピアニストはフランソワ=ルネ・デュシャーブルです。彼は名前から推察される通りフランスのピアニストですが、大変な力量といいますか、まさに世界第一級の実力と才能を持った逸物でした。晩年のルビンシュタインが心から推挙した唯一の若手ピアニストがこのデュシャーブルです。

この人はしかし、この溢れんばかりの天分を普通のピアニストとして濫費する事を良しとはしませんでした。とはいってもショパンやリストなどに多くの名録音を残しており、たとえばショパンの作品10/25のエチュードは、マロニエ君の手元にもパッと思い出すだけでも優に10人以上のCDがありますが、一押しはこのデュシャーブルです。
いっぽう彼ならではの珍しい録音も多くあり、隠れた名曲の再興にも力を尽くした本物の音楽家なのです。デュカスのほかサンサーンスの6つの練習曲(作品52と作品111)や、ソロピアノによるベルリオーズの「幻想交響曲」、プーランクのコンチェルトやオーバードなどは、普通ならなかなか見つけることの難しいCDです。

演奏もいかにもフランス人らしい泥臭さや贅肉のないスマートなピアニズムの持ち主ですが、決して線が細くはならず、シャープではあるが重量感とやわらかな体温も備えるといったもので、ちょっと例がないピアニストといえばいいでしょうか。

ところがもう10年以上も前のことだったような記憶ですが、デュシャーブルは商業主義主導のクラシック音楽界の現状に我慢がならないと声明を出し、いらい公共の場での演奏活動から身を引いてしまいました。
その引退セレモニーとして、ヘリコプターにグランドピアノを吊るし、衆目の中、池をめがけてこれを一気に落とすというショッキングなパフォーマンスを敢行して、コンサートピアニストとしての自分を葬り去ったそうです。
大変残念なことですが、本物の芸術家とは凡人に予測のつかないことをしでかすものです。
同時に、最近ではこの何をしでかすかわからないような芸術家もいなくなりました。
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デュカスから牧神の午後へ

デュカスのピアノソナタつながりでもうひとつ書き忘れていましたが、彼の数少ないピアノのための小品の一つに『はるかに聞こえる牧神の嘆き』という美しい曲がありますが、この牧神とは無論『牧神の午後への前奏曲』のことであり、つまりドビュッシーの死を悼んで書かれたものです。牧神の午後の、あのフルートで開始されるたゆたうごとくの動機が主要モティーフとなっていて、彼への親愛の情がにじみ出ている作品です。

ラヴェルが「自分が死んだときに演奏してほしい曲」として名指ししたのも、この『牧神の午後への前奏曲』で、「あれは完全な音楽だから」という言葉を添えたのは有名ですが、やはりこの曲は19世紀後半~20世紀初頭のフランスの音楽史の中でもひとつの中核をなす記念碑的な作品ということでしょうね。

マラルメの詩に触発されたことがドビュッシーの作曲動機となり、このころにはフランスに限らず音楽と文学の結びつきもいよいよ濃密なものになりつつあったようです。さらにそれは舞台芸術にも波及し『牧神の午後』はディアギレフ・バレエの看板ダンサー、ニジンスキーによってバレエ作品としても創り上げられてセンセーションを巻き起こします。

美術の世界でも歴史に名を残す大芸術家がぞくぞくとこの時期に登場し、こんなとてつもない時代があったということ自体が、現在の我々から見ると信じがたい絵空事のようにしか思えませんね。

『牧神の午後への前奏曲』は作曲者自身による2台のピアノのための編曲もあり、その点ではラヴェルの『ラ・ヴァルス』なども同様です。
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ソナタの心得

きのうデュカスのピアノソナタのことを書いたついでにちょっと調べていると、なかなか面白いことがわかりました。

彼はパリ音楽院の先生もしていましたが、作曲の講義でソナタについて、次のようなことを述べていました。
『この形式に近づく上で困難なことといえば、衒学的なソナタに陥らないこと、もったいぶった断片や、それだけがピアノから飛び出してきて、これぞテーマだと声高に告げるようなテーマを書かないことだ。けれどもある種のスタイルは持ち続け、さらに胡散臭い断片にはまらないのが重要でさる。そこがむずかしい。退屈させず、それでいて安易で投げやりなところのないこと。』

これは、演奏する側にも十分あてはまり、初心者や学習者は別としても、奏者が高度な演奏を心がければ心がけるほど、上記の説はとくに留意すべき点だと思います。
つまりやり過ぎは逆効果、バランスこそが肝要ということです。
わざとらしい様式感の誇張や、テーマや断片を執拗に追い回すような演奏は、本人は専ら高尚で深みのある芸術的演奏をしているつもりでも、聴いている側には説教じみた、音楽の全容の俯瞰や流動性を欠いたものに陥りやすいものです。そういう批評家から点がもらえることを前提にした欠陥演奏に対する警鐘のような気がします。

往年の巨匠達の奔放で大胆な自己表出はすっかり否定され、分析的なアカデミックな演奏が今日の主流をなしていますが、こういう流れをデュカスは100年前に予見していたように感じます。
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フランスのピアノソナタ

相変わらず厳しい気候が続きます。
今日は仕事の用事で、ある施設に行きましたが、すでに暖房は入っておらず、妙な底冷えの中で一時間弱を過ごす羽目になりました。なんとも難しい季節です。

このところエネスコのソナタに触発されて、最近はデュカスのピアノソナタを聴いていますが、これがなんともおもしろい作品です。
デュカスはご存じの通りフランスの作曲家で、ドビュッシーやラヴェルと同世代の大音楽家ですが、作品は少なく、一般的には管弦楽曲の『魔法使いの弟子』ぐらいしか知られていません。
彼はピアノソナタを一曲しか書きませんでしたが、考えてみるとフランスの作曲家によるピアノソナタというのはほとんどこのデュカス以外には思い当たりません。
もちろん探せば何かあるかもしれませんが、一般的にはゼロに等しいといっていいでしょう。

ピアノソナタ自体がそもそもドイツ的なものですから、その厳格な様式がフランスという風土や作風には馴染まないものだったといえばそれまでですが、それにしても、あれだけ多くのピアノのための傑作を生み出したフランスで、これというソナタがないというのは特筆すべきことです。

フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、サンサーンスなど、いずれもヴァイオリンやチェロのためのソナタはあるのに、皆申し合わせたように、まるで何かを避けるかのように、ピアノソナタだけは書いていません。これも驚くべきことですね。

デュカスのソナタは全4楽章、演奏時間40分に及ぶ大作で、フランス人の書いた作品でありながらも、ドイツ寄りな精神を感じさせ、さらにはリストを想起させるところのある無国籍な手触りのする作品といえるかもしれません。
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バッハのトッカータ

少し前にバッハの好きな知人から、トッカータのオススメCDはありますか?と聞かれて、はたと困りました。
この見事な作品(BWV910-916)をピアノで録音している人は、実はとても少ないのです。
手持ちのCDを思い浮かべても全7曲となるとグールドぐらいしか思い当たりません。
アンジェラ・ヒューイット(カナダの閨秀ピアニスト)がそのCDを出していることは知っていましたが、ベートーヴェンなどでは表現が単純でややうるさい演奏をするのであまり好きになれず、トッカータも持っていなかったのですが、そうなると妙に聴いてみたくなってつい買ってしまいました。
結果は予想したよりも好ましい演奏でちょっと意外でした。

この人は近年ではファツィオリを使うピアニストとしても有名なので、ピアノはてっきりそうだと思い込み、録音でバッハなどを弾くにはまあそれなりの音ではあるなあと感じつつ聴いていたら、ライナーノートをよくよく見てみるとスタインウェイであることがわかり、これにはちょっとびっくりでした。
それは、近頃のスタインウェイにはあまり見られない濃厚な色彩を放つ音がしていたからで、そのあたりはファツィオリのお得意のところだろうと思っていたのですが、スタインウェイにもこういう音を求めて実現させているところをみると、これが彼女の求めるピアノの音なのだということがわかりました。

なんにしろ、明確な音の好みと要求をもった人というのは一貫性があり、その点ではたいへん立派だと思いました。

あらためてボリュームを大きくして耳を澄ませて聴いてみると、響きの特徴やなにかが紛れもないスタインウェイであることがすぐわかりましたが、やはり予断を持つということはとても危険だと思いました。
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2010年1月4日 (月) CDの年初め

べつに大したことではないけれど、新年に最初にかけるCDを何にするかは毎年ちょっとだけ悩むところです。
たかだかCDを鳴らすぐらいのことに、お正月だからという畏まった気持などはないけれど、でもやっぱりなんとなく意識してしまいます。

で、今年はドビュッシーの「海」でスタートしました。
これが自分なりになかなかの成功でした。

第一曲が夜明けからはじまるところにわざわざ拘ったわけではないですが、久しぶりに聴くこの壮大かつ繊細な名曲にあらためて感銘を受けましたし、同じCDに収められた「牧神の午後」も、正月早々から酔いしれました。

以降、すでに毎日のように聴き続けることになってしまっています。
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