懐かしく新鮮

CDも入れ替えが面倒くさくていつも目の前にあるものばかり聴いていると、さすがに飽きてきて、昔のもので何かないかと探してみた結果、何年ぶりかで、エレーヌ・グリモー、アンドリス・ネルソンズ指揮バイエルン放送交響楽団による、ブラームスの2つのピアノ協奏曲を聴いてみることに。

このCDの昔の印象としては、どちらかというと常識的で、悪くはないけれど特に素晴らしい!というほどのものでもないというものでした。
以前にも書いたことがありますが、CDの印象というのはだいたい同じで、それが覆ることはなかなかないのですが、今回は珍しいことにすこしだけ良いほうに覆りました。

それは、奇をてらったものではなく非常にオーソドックスなしっかりした演奏と言えるし、この点が以前では上記のような印象にしていたんだろうと思います。
しかし、今回聴いてみてまず感じたことは、細部の一つ一つをどうこうというより、全体としてグリモーの演奏には彼女なりの感性の裏打ちが切れ目なく通っており、そこに音楽に必要な熱いものが脈打っているということがわかった感じでした。
その点では、ネルソンズの指揮のほうがより普通で、もの足りないといえばもの足りないけれど、足を引っ張っているわけでもないのでこんなものかという印象だし、もしもこれ以上熱い演奏をしたら、グリモーもそれに反応してくるとちょっとうるさくなってしまうかもしれず、これはこれでこのCDとしては良かったのではないかと思いました。

〜で、なぜ評価が覆ったのかというと、最近の若手注目ピアニスト達の演奏に対する、ある種共通する不満が溜まっていたからではないかと思います。
既に何度も書いているけれど、どの人ももはやメカニックは立派で、どんな難曲大曲でもケロッと弾いてしまいますが、聴き手はそこから何か大事なものを受け取ることができません。
日本のピアノそのもののように、どの人が何を弾いても、均一で、危なげがなく、さも尤もらしく整ってはいるけれど、建前的で心を通わせるようなものがない、ただきれいで見事なだけの演奏。
ニュースキャスターが原稿を読み上げるように、楽譜を正確に音にしているだけで、本音なんて決して明かさないガバナンスの効いた企業人の完璧なふるまいみたいな演奏。

そんなタイミングで聴いたグリモーだったので、そういうものでないだけでも新鮮に感じられ、そうでないことに懐かしさもあり、やはり演奏には血の気や感性の発露がなくてはダメだという、当たり前のことをひしひしと感じたのでした。

エレーヌ・グリモーというピアニストは元来器の大きいピアニストとは思いませんし、テクニックにしても現代のコンサートピアニストとしては余裕のあるほうの人とはいえないでしょう。
私は基本的には、力量以上の曲に挑むというのは、プロはもちろん、アマチュアでも最も嫌うところで、そこからくる息苦しさみたいなものを(そして時に浅ましささえ)覚えます。
ところがグリモーは少し違っていて、自分よりも大きな動物をしとめようと、命がけで食い下がるサバンナの野生動物みたいな勇敢さがあって、それがこの人の場合は良さになっている稀有な存在だと思います。

その意味では、このグリモーという人は10代のころから例外的な存在でした。
フランス人女性で、とくに身体的にも逞しいというわけでもないのに、曲の選び方はフランス物など目もくれず、ドイツやロシアのコッテリ系ばかりで、それだけでも異色でした。

作品を決して手中に収めようようとするのではなく、大きな岩山によじ登るようにして成し遂げられる演奏は、だからこそ出てくる気迫と情熱があって、独特なエネルギーが充溢した魅力がありました。

あまりに挑戦的なスタンス故か、打鍵が強く、ときにうるさく感じられることも、同意できない瞬間もないわけではないけれど、全体として、やはりこの人だけがもつ魅力があって、他の人からは決して得られないものだからこそ、やはりいいなあと思うのだと思います。

第1番と第2番、いずれも50分に近い大曲ですが、出来栄えとしては第1番のほうがより生命力と迫真性がみなぎってこの作品の魅力に迫っており好ましく感じました。
第2番はグリモーにしては、無難にまとめたという印象で、曲自体も悲壮感あふれる第1番に対してずっと融和的ですが、今一つ輝きが足りないというか、グリモーの気性には第1番のほうが合っている気がしました。

このピアノ協奏曲の第1番と第2番は、同じくブラームスの交響曲の第1番と第2番と非常に似たような関係性にある気がしてなりません。
いずれも第1番は作曲家自身の気負いがあらわで、時間をかけ、苦労して、推敲を重ねて、やっとの思いで完成した大作。
第2番はその反動なのか、一転してやわらかに微笑んでいるようで、いずれも素晴らしい作品ですが、強いて言えば私は第1番により惹かれます。
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求めるもの

手持ちのCDの山をゴソゴソ漁っていたら、セルゲイ・エデルマンのショパンが出てきました。
2009年に富山北アルプス文化センターでセッション収録されたCDで、以前ずいぶん聴いた一枚です。
もしかすると一度このCDに関して書いたことがあるかもしれないけれど、その後若い達者なピアニストが続々と現れ、時代による演奏スタイルも変わってきていると思われるので、そんな中であらためて聞き直してみたくなりました。

制作は日本のレーベルで、音質にこだわった質の高い作品の多く送り出しているOctavia Triton、ここのCDは全体にクオリティが高いと定評があり、輸入盤と違って安くはないけれどきちんとしたものが欲しい時は一時期ちょくちょく買っていました。

エデルマンは名前や経歴からロシアのピアニストと思われがちですが、ウクライナの出身。
私が知った時はアメリカ在住だったようですが、一時期国内のどこかの音大で教えるために日本へも長期滞在していたようで、おそらくこのCDはその時期に収録されたものの一つだろうと思われます。

エデルマンはロシアピアニズムの例に漏れず、堅実なテクニックで重量感のある楷書の演奏をする人ですが、そこに聴こえてくる音楽は必ずしも四角四面なものではなく、ガチッとした演奏構成の中から深い音楽への愛情が聴こえてくるもので、そのあたりがただの技巧派ピアニストとは違うといった印象があります。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、ポロネーズ幻想という絵に描いたような大曲がずらり。
これらの難曲をいささかの破綻もなく基礎のしっかりした石造り建築のように奏していく様はさすがというほかなく、理想のショパンかどうかはさておいても、これはこれで大いに聴き応えがあります。
また、録音会場の富山北アルプス文化センターはそこにあるスタインウェイが好評だったことや、録音に適した諸条件を備えていたためか、一時は収録によく使われていたホールであるし、実際私もここで収録された力強さと甘さを兼備したスタインウェイの音には、他のCDを含めて好感を持っていました。

私の音楽的趣味という点ではエデルマンの演奏はイチオシというわけではないのだけれど、ピアノ演奏としての充実感など、個人的に大切だと思うところをキチッと押さえているピアニストというところでは、認識に刻まれたピアニストの一人です。
演奏スタイルは、ひと時代前の深い打鍵でピアノを鳴らしきるロシアンスタイルで、ショパンやシューマンにはもう少しデリケートな表現もあって良いのではないかと思うこともあるし、全体にガッチリ弾きすぎるという点は否めません。
しかし先にも書いたように、そこには良心的な音楽性が深い部分に生きており、ウソがない。
妙にセーブされて何が言いたいのかわからない、形だけは整った平均ラインを思わせぶりになぞっていて、却って不満を感じてしまう演奏より、痒いところにしっかり手が届くような聴き応えがあり、結局のところはトータルで魅力があることに納得させられてしまいます。

現代の若手のピアニストの演奏は、もちろん素晴らしいと感じる要素は多々あるとは思うけれど(私の耳には)そもそも演奏を通じて曲に没頭しているという気配が感じられません。
音楽(あるいは演奏)を聴くことで自分が酔えない、曲が迫ってこない、率直な感銘や興奮からはかけ離れた、世の中にはこういう飛び抜けた能力の持ち主がいるんだということを見せられているだけのような気になります。
なるほどどの人も着実に上手くクリアだけれど、本音を決して明かさず、各人の感性の発露も極めて抑制的で、建前ばかりを延々と聴かせられるのは意外にしんどく、そこへエデルマンのもつ熱い情が脈打つ演奏を聴くと、それだけでも溜飲が下がるようです。
自分のセンスや美意識を通して、演奏することに全身全霊を込めてやっているときだけに現れるえもいわれぬ品格と覇気こそが人の心を掴むのであって、やはり音楽というものは人が全力を込めて弾くところに、理屈抜きに惹かれるものがあります。

何もかもが素晴らしいと言うつもりはありませんが、少なくとも工業製品のような完成された演奏をあまりに耳にしていると、多少のことは目をつぶっても、このようなしっかりした血の気のある演奏には、おもわず共感し溜飲が下がるような気になります。

ピアノもおそらく1980年代のスタインウェイだと思われますが、やたら派手さを狙わない陰影、同時にほどほどの現代性も備えていて、やはりこの時代の楽器はいいなあと思います。
あたかも間接照明の中に、美しい絵や彫刻が浮かび上がるような世界がまだかすかに残っています。
それにひきかえ、今のピアノは、均一でむらなく電子ピアノのようにきれいに鳴るけれど、仄暗いものなど表現の可能性が薄く、省エネで効率的に計算されたLEDの照明みたいなイメージです。

現代のピアノもピアニストも、その素晴らしさはあると思いますが、やはりどこか自分の求めるものとは違うようです。
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マルトゥッチ

前回のチャイコフスキーに続いて、マルトゥッチのピアノ曲集のCDを聴いてみました。
19世紀後半から20世紀初頭にかけてイタリアで活躍した作曲家で、指揮者やピアニストでもあり、イタリア人でありながら、オペラには手を付けず、器楽曲、交響曲や室内楽の作品を残しているようです。
その中から、ピアノ曲で6つの小品op.44、小説op.50、幻想曲op.51、2つの夜想曲op.70というもの。

私はこれまでマルトゥッチという人の作品を聞いた覚えがなく、おそらく初めて聴いたような気がします。
演奏はアルベルト・ミディオーニというピアニストで、こちらもまったく馴染みのない人ですが、そういう初めてづくしというのも面白いものです。

作風は、とくだん個性的とは感じませんでしたが、耳に違和感のない後記ロマン派風の作品という感じで、新しい音楽を目指した人のようには思いませんでしたが、馴染みやすい和声に乗って展開していく作品は充分に楽しめました。
イタリア的というより、国籍を感じさせない19世紀後半のロマンティックな作品という印象。
ウィキペディアによれば、指揮者としてはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイタリア初演をした人だそうですが、作曲者としては器楽曲などに注力したようです。

また、トスカニーニは繰り返しマルトゥッチの作品を採り上げ、マーラーはニューヨークの告別演奏会でマルトゥッチのピアノ協奏曲を指揮、アントン・ルビンシュタインも彼の作品をレパートリーに入れていたということなので、20世前半はそれなりに人気のあった作曲家だったようですし、イタリアの作曲家で音楽学者のマリピエロは「マルトゥッチの交響曲第2番は、オペラ以外のイタリア音楽の再生の原点」とまでいっているとか。

考えてみると、イタリアは音楽発祥の国でありながら、古典作品とオペラ以外の作曲家という点では、これという人はあまり思い浮かばず、パッと思い出すところではパガニーニやクレメンティ、レスピーギなどで(忘れている人がいるかもしれません)で、さほどは思いつきません。

まあ、あまりマルトゥッチの作品についてどうこう言う資格も自信もありませんが、悪くはないけれど、有名作曲家として燦然たる地位に列せられるほどのものとも思いませんでした。
聞き手の心を強く捉えて離さないような、強烈な個性と魅力が希薄なのかもしれません。
このように多くの作曲家によって膨大な作品が書かれながらも、現代でその作品を音として耳にすることができるのは、まさに一握りに過ぎないことを考えさせられました。


ところで、その前に聞いていたCDがブリュートナーによるチャイコフスキーの歌曲編曲集であったことはすでに書きましたが、それからこのマルトゥッチのCDに入れ替えてまず初めにのけぞったのは、それまでブリュートナーのドイツ的な響きにしばらく慣れていた耳にとって、(おそらくスタインウェイだろうと思いますが)なんという柔らかな、まるで弦楽器のようなピアノかということでした。

それぞれの個性なので、優劣をつけようというのではなく、その違いは衝撃的だったのです。
メーカーによって、おなじピアノでも目指す音の方向性や美意識というものが、こうも異なるものかということに改めて驚いたと同時に、お国柄やメーカーによる違いがこれほどあるということは、なんと面白い事でしょう。
ちなみにスタインウェイは、ドイツ人一族の天才的な設計がアメリカという豊かな土壌で開花した特殊なピアノであり、これはドイツピアノともアメリカピアノとも言い難い、国籍で語ることの難しいピアノだと思います。

私見ですが、最新のベヒシュタインはYouTubeなどをみていると、グランドはかなり音色が変わり、現代的な洗練方向に振ってきたように思います。コンサートグランドでいうとENの時代からD280で大きく変革し、その後も振れ幅はあったようですが、最新のD282はフレームと弦の間のフェルトが、アップライトが一足先にそうであったように伝統のモスグリーンから紺色に変更され、よくみると碗木の形などもわずかに変化しており、何よりもその音は、剛健なドイツピアノというより、しなやかで色彩的なものになり、かつてのイメージとはだいぶ違ったものになってきたように感じます。

ベヒシュタインがドイツピアノ路線からやや離脱しはじめたかに思える現在、かつてのような武骨なまでのドイツピアノらしさというのは、このブリュートナーやシュタイングレーバーあたりになってしまうのか?と思います。
さらに言うと、かつてのブリュートナーはドイツピアノらしさの中に艶っぽい声が聞き取れましたが、チャイコフスキーのCDではより骨太の逞しい感じになったような印象を持ちました。
そういう意味では、かつては剛のベヒシュタイン、柔のブリュートナーというイメージでしたが、ここにきて逆転現象が起こっているのかもしれません。
あくまで、CDやYouTubeでの印象ですが。
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ブリュートナー

最近は、以前に比べるとCD購入ペースもがっくり落ちましたが、最近少し買ってみたものから。

ペトロネル・マランという南アフリカ出身のピアニストが弾く、チャイコフスキーの歌曲集(ピアノ編曲版)で、レーベルはドイツのヘンスラーで、さすがというべきか録音が良く、クリアなのにパワーと迫力を兼ね備えて聴きやすい!というのが印象的でした。
クラシックの録音には、様々な専門的理由があるらしく、やけに音が小さめで陰気な音しかしない、聴いていてぜんぜん楽しくもないものがときどきあります。
この手は、どんなにボリュームを上げてもダメで、まるで覇気がなく、その音楽や演奏を楽しむ気分まですっかり削がれてしまいます。
その点で、このCDは演奏が目の前でリアルに広がってくるようで、まずこれだけで「いいCDだなぁ」という印象。

ペトロネル・マランという人は、これまで私にとって顔も名前も知らないピアニストでしたが、ネットで調べてみるとすでにヘンスラーから何枚ものディスクが出ているあたり、それなりの実力者なのだろうと思います。
南アフリカでも幼少の頃からオーケストラ共演するなど才能があった人のようで、現在はアメリカを主な活躍の場としている人の由。
表紙の写真を見ると、お顔に対して驚くばかりの大きな手で(羨ましい!)、ピアニストになることを運命づけられてきた人なのかもしれません。

さて、演奏内容は大半が馴染みのないもので、曲想にチャイコフスキーらしい特徴はときどき感じるものの、全体を通じてとくに魅力的とは思いませんでした。というのも、特別な場合を除けば、歌曲をピアノ曲にするのは(1〜2曲なら面白いけれど)、CD全曲となるとやはり冗長で、どうあがいても歌にはかないっこないというのが出てしまいます。
歌曲は歌を前提にできているのだから、当然といえばそれまでですが。
人の声とその身体から湧き上がる呼吸、詩の意味などが相まって作品となっており、それをピアノで演奏して録音まですることに、どういう意味があるのか私にはよくわかりませんでしたし、聴けば聴くほど、歌手の歌う同曲がきいてみたいというフラストレーションが募るばかり。

この方のディスコグラフィーを見ると、ほかにもモーツァルトやベートーヴェン、ブラームスの歌曲をピアノ曲として演奏されているようで、よほど歌曲をピアノ曲として演奏することがお好きなのか、どの作曲家にも弾きおおせないばかりの素晴らしいピアノ曲があるのに、なぜわざわざこんなことをされるのか…。

自分自身も好きじゃない想像ですが、商業的な理由で、とびきり有名でもないピアニストが、ありふれた曲を入れても見向きもされないので、少しでも注目されるためには「ちょっと違うこと」をする必要があるという判断なのか…などと勘ぐってしまいます。
もし純粋にピアニストが「自分は歌曲のピアノ編曲が好きだからそれを録音したい」と言っても、レーベルもビジネスだから、昔だったらなかなか承諾は得られないと思いますが、時代も変わり、販売戦略上の逆転の発想なのか…。


さて、このCDにはもうひとつ注目すべき点があって、封を切ってケースを開くと、ライナーノートの裏側にブリュートナーのロゴが描かれており、その下の小さな文字をよくみるとブリュートナーのコンサートグランド(Model 1)によって演奏されているようでした。

なるほど、耳慣れたスタインウェイとはまったく別物であるし、ときどきCDでも耳にするヤマハ、ファツィオリ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、カワイのいずれとも違うものでした。

この中で一番近いといえばベヒシュタインかなぁ…とも思いますが、それともやや違い、美しい田園地帯に住む骨格のしっかりしたドイツ人という感じでしょうか。
いかにもドイツっぽいのは、スッとまっすぐ立ち上がる太い音であること、ドイツ語的滑舌なのか、発音がボンとはっきりしていて音のひとつひとつがわかりやすく、太字の万年筆の文字のようです。
また低音は木の音というべきか、どちらかというと板を感じる木の音で、まぎれもなくドイツピアノの質実な魅力があふれているように感じます。

歯切れよく、音が立つのではじめはちょっとうるさいように感じる時もありましたが、不思議に少しすると耳慣れてきます。
この「慣れてくる」というのは本物である証と思われ、そうでないものは耳が疲れてストップしたくなるものですが、そういうことは決してないのがさすがです。
そして、いかにもピアノという楽器の構造を感じさせる素朴で野太い音に魅力があることに気がつき、多くのピアノが洗練に向かいたがる中で、ブリュートナーは実直で、むしろほのかな野趣さえ含まれているところが、このピアノの魅力だろうと思いました。
昔のイメージでは、ベヒシュタインは男性的、ブリュートナーは女性的という感じがありましたが、最近の両社のピアノは、もしかしたら逆転しているかもしれないとも思ってしまいました。

聴いていると、これはこれでいいなぁと思ってしまい、いかにもピアノらしいピアノを聴いているという手応えがあって、しばらくこれに慣れてしまうと、他のピアノがどこか物足りなくなるかもしれない…そんな気がしてきます。
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狙いのズレ?

久しぶりにCDをまとめ買いしました。
まとめ買いというのは、それで割引率が良くなるからなのですが。

その中のひとつは、サン=サーンスのピアノ曲集、ピアニストはイタリア人のマリオ・パトゥッツィという人であまり知らない人だし、とくべつサン=サーンスのピアノソロが聴きたいというわけではなかったけれど、使われているピアノが1923年のプレイエルとジャケットに大書されており、そこにつられての購入でした。

期待を込めて再生ボタンを押したところ、出てくる音は予想に反していやにまろやかな音でしたが、せっかく買ったのだからと何度も繰り返して聴きましたが、さすがはプレイエル!と思うものはふわんとした響きと上品な音色だけで、もっと妖しい魅力を期待していたのでやや肩透かしをくらった気分。

その理由として想像されたのは、現代流にあまりにも徹底して調整された新品ピアノのようで、ハンマーもおそらく交換済みでしょうし、今風に均一な音作りがなされた結果という感じで、これはピアノの基本の調整方法としては正しいのかもしれないけれど、精度を凝らしてまとめ上げることをやり過ぎた感じがあり、それではこの時代のプレイエルの魅力は却って隠れてしまっているような気がしてなりませんでした。

誤解を恐れずに言うと、戦前のプレイエルに現代の精密な調整を駆使して、少しの傷やムラをも消し去ることがどこまで正しいのかマロニエ君にはわからないし、いい意味でのアバウトさとか大胆さも封じられているような気がしてなりません。
姫路城が大修理の後、漂白剤で洗濯したように真っ白になり、線やカーブなどはあり得ないほど完璧なラインになったけれど、それで却って味わいや風格を失ったように個人的には感じたことなどを連想して思い出しました。

スイスのルガーノでセッション録音されているようですが、こういう音質を求めたのであればなにもわざわざプレイエルを使う必要はなかったのではと思うのですが、しかしこのCDはジャケットにも「PLAYED ON A 1923 PLEYEL」と記され、この楽器を使ったところが特徴のようだから、やはりプレイエルへのこだわりはあったことは確かなようです。

では何が正しいプレイエルかをマロニエ君ごときが正確にわかっているとも言い難く、良し悪しを決めつけるつもりはありませんが、でも…なんとはなしに直感として「なにか大事なところが違っているのではないか…」というのが残るのです。

とくにフランスのものは、他に類を見ない洗練された感性と美意識が危ういところで成立しているものが多く、それをドイツや日本式の理詰め一筋の方法論で、整然とアイロンを掛けたように処理することは、本当に正しいことなのかはわかりません。

マロニエ君にとってのプレイエルの原点は、コルトーによる一連の録音ですが、ああいうシックで華やか、可憐かと思えばどこか酒場の匂いもしたり、明るく軽やかさでありながら、そのすぐとなりにシリアスな憂いが張り付いているような、美しさの中に屈折した要素が絡みこんだ音がプレイエルで、それを現代の録音で聴きたいのですが、これがなかなか実現しません。

というのも、他にも何枚か現代に録音されたプレイエルのCDは持っていますが、どれも似たり寄ったりで、やはりそこには時代の反映があり、ピアノ技術者にしろ、背後に控える技術者達にしろ、どうしてもキズやムラを嫌って除去しないといられないのだろうと思います。

マロニエ君はCDを聴く際のボリュームは平生やや絞り気味ですが、最後の手段として試しに大きくしてみたら、ここではじめてフワンとした響きにプレイエルらしさというか、フランスピアノならではの独特の香りを感じることがはじめてできました。
しかし個人的にはこれだけでは食い足りなくて、このピアノの魅力は音そのものの陰影や屈折にあると思うことに変わりはなく、ここに聴くプレイエルもより弾き込んでいけば、やがて旨味成分が出てくるのかもしれません。

数少ない例外は、東京の某ピアノ店がプレイエル(たしか3bis)を販売目的で動画にしてアップしているものがありますが、これが本当に素晴らしく、やはり中には、マロニエ君のイメージ通りの個体もあるんだなぁ…と思いますが、それが優れたピアニストの演奏+楽曲+CDというそろった形ではまだありません。
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巨匠たちの…おまけ

書くかどうか迷いましたが、少しだけ。

世の評判は別にして、個人レベルでは苦手なピアニストというのは、誰しもあるはずです。
とはいえ、それが歴史的な大ピアニストともなると、その評価は定着し、燦然と輝き、ファンも多いぶん、こんなところに書くこともためらわれますが、まったくマロニエ君の個人的な好みということで、敢えて書いてみることに。

巨匠たちの遺したショパンのCDを順次聴いていると、ボックスの一番下の部分から3枚出てきたのが、アルトゥール・ルビンシュタインでした。
ポロネーズ集とマズルカ集でしたが、残念ながらマロニエ君にはその良さが見い出せないまま、今回もまた深い溜息とともに終わり、正直いって3枚のCDを聴き通すだけでも意志力が必要でした。
以前も聴いて苦手だったため、ボックスの一番奥にしまいこんだことも思い出しました。

時代もあるのか、この方、ポーランド出身のピアニストといわれるけれど、なぜショパンに対してあのようなルノワールの絵画みたいなアプローチになるのか、疑問はますます深まるばかり。
たったいま「時代」と書きましたが、しかし、ここに書き連ねてきたピアニスト達は世代的にさほどかけ離れた人達ではなく、そのぶんルビンシュタインの演奏の特異性が浮き立つようでもありました。

1960年台以降の彼はまだしも円満な福々しい音になったけれど、ここに収められているのはすべて第2次大戦前の若いころの演奏ですが、どれを聞いてもえらくキツい音で、音色や表情を凝らして音楽を創りだそうとしているデリカシーがマロニエ君にとってはまったく感じられないのです。

どれを聴いても同じ調子で、各作品への思慮や慎み深さとか作品の機微に触れるような儚さなど感じられず、ただ楽譜を片っ端からじゃんじゃん弾いただけのように聴こえ、通俗という言葉が悪いなら、エンターテイナーのようで、もしかするとこの人は音楽をそういうものに変質させるほうでの第一人者ではなかったのか?とさえ思います。
大衆にとってピアノの華麗な大スターであり、氏もそういう立ち位置が性に合っていたのでしょうから、客席とステージはまさにwinwinの関係で、それが疑問もなく喜ばれた時代だったのかもしれませんが。

ルビンシュタインはどこに行ってもハリウッド・スター並みの人気で、その周りには人が群がり、そこになぜか「20世紀最大のショパン弾き」というイメージも加わって長年持ち上げられたためか、ショパンの音楽はある種イメージの齟齬があるまま、長らく放置された時代が続いたといえるかもしれません。
このところ、いろいろな昔の巨匠のショパンを立て続けに聴いて、それぞれのショパンへのアプローチに耳を傾けてきたわけですが、ルビンシュタインは全般的に打鍵が強く、ところどころに申し訳程度に強弱があるぐらいで、平明でブリリアント、彼の享楽的な生き様などが華を添えるように大衆の心を掴んで天下が続いたというのも、たまたま何かの条件が揃ったということでしょうね。

ルビンシュタインを取り扱った本だったと思いますが、あるとき氏がショパンの手のモデルにサインをしてくれと頼まれたところ、「私がショパンの手にサイン?そんなことはできないよ、出来るのはハートを入れることだけ」といかにも謙虚なような事を言って、そこに小さなハートを書いている写真が掲載されていましたが、ルビンシュタインの魅力というのは、演奏よりも、人間としてそういう場面でサッと人を唸らせ、人々の心をつかんで印象づけ、のちのちまで語り継がれるような振る舞いとはなにかを心得ていたのだろうと思いす。
彼によるさまざまなジョークや幾多の言葉とかエピソードの中にもそういうものはたくさんあって、いかにも大物然とした知己に富んでおり、ルビンシュタインという大スターの人物像を脇から強力にサポートしていたのだろうし、大衆も大いに湧いて感激し舌を巻いた…そんな関係だったんだろうと思います。

彼が偉大なピアニストということはそうなんだろうと思いますが、個人的にはショパンをあんなにも徹底して詩情や陰影のない、まるで陽気なイタリア音楽みたいにあっけらかんと弾かれてしまうと、なにかたまらないものが胸にこみ上げてくるのです。
くわえて若い頃は、打楽器的な打鍵の強さがあって一音一音が刺さるようで、それだけでも疲れます。

この巨匠をしてこの弾き方は、当時の影響力の大きさからすれば、日本などのピアノ教育現場にも一定の影響を及ぼしてしまったのではないかとつい思ったり。
現に一時代もてはやされた日本の有名ピアニストなどは、大衆ウケがなによりもお好きだったようで、かなりこの手の巨匠たちの影響があったのではないかと思われてなりません。

いっときほどではないにせよ、いまだにルビンシュタインをピアノ界の巨星のごとく尊敬し奉る人たちがおいででしょうが、個人的にはどこがそんなに魅力的なのか、一部はわかるようでもありますが、やはり謎なのです。
彼の手にかかると、ショパンのみならず大半は娯楽のようになってしまう印象ですが、かくいうマロニエ君も子供の頃は、そう選択肢もないこともあって、彼の演奏はずいぶん聴いて育ったのも事実で、いま思い返せば複雑な気分になりますね。

後で思い出したので、追記しておきますが、マロニエ君が最も好きなルビンシュタインの笑える言葉。
「やっとわかった、異教徒とは、何が異教徒なのかわからない者が異教徒なんだ!」…なるほどね。
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巨匠たちのショパン-2

シモン・バレル。
ロシアからアメリカに亡命したピアニストで、1947/1949年のカーネギーホールのライブですが、まず音があまりよろしくない。
昔から、ロシアのピニストは技巧が優先される演奏だったことを窺わせる演奏で、大半の曲は疾風のように早いテンポで弾き上げられていきます。
なんとか当たり前に聞こえるのは幻想曲やop.27-2のノクターンぐらいなもので、黒鍵や即興曲第1番などは、まるで一人レースみたいに極限的なスピードで、車だったらいっぺんでパトカーに赤色灯を回されるような、暴走運転的でこれはやり過ぎとは思うけれど、この時代の自由な雰囲気の中で、ピアニストが自分の個性としてそうしていたことはなんとなくわかるし、不思議にあまり不快感はありませんでした。
この時代は、40代のホロヴィッツなども同じステージに立っていたかと思うと、なんという時代かと思いますね。

ベンノ・モイセイヴィッチ
この人もロシア出身のピアニストで、一世を風靡とまで言えるかどうか、その正確なところまではしらないけれど、ともかく歴史に名を残すピアニストには違いなく、ラフマニノフを得意として親交もあったようです。
やはり当時としてはテクニシャンだろうと思われるし、随所にエレガントな表現などもあるものの、ショパンとしては全体に平凡、24の前奏曲などは詩情に乏しく聴こえるし24曲のキャラクターの弾き分けがさほど感じられませんが、スケルツォやバルカローレになると技巧がものを言うところもあるからか、まとまってくる感じ。
では、ただお堅く弾いているだけかというと、決してそうではないし繊細な部分もきちんとあって決して悪く無いんだけれど、なぜか気がつくと集中が途切れてしまうものがあります。
礼儀正しさみたいなものが全体を覆っていて、演奏から何か深く染み入ってくるようなものが薄いもどかしさがあり、ベテランピアニストが長年の演奏経験から熟練の手さばきを披露しているだけという印象を受けるのはマロニエ君だけだろうか?と思ったり。

アルフレッド・コルトー
20世紀前半の言わずと知れたショパン弾きの代表格。
音が流れだした途端に漂いだす強烈なニュアンスに惹き込まれ、ショパン演奏として一世を風靡したことに納得、その実像がありありと目の前に立ち現れてくるようです。
もちろん、しばしば言われたことで、あれ?っと思うところや、これはちょっとヘンでは?というところもあるけれど、でも、ところどころに「これ以外にない」と思わせる揺るぎない決定的な瞬間があって、聴き手はそれで完全にノックアウトされてしまう。
なにより心地いいのは、ショパンに揉み手して、忖度して、なにがなんでも歩み寄り、作品のご機嫌を取ろうとするのではなく、この人の主観が、精巧なパーツがピッタリと適合するように、作品と同化している、いわば借り物ではない点。
そのぶん溌剌として、確信があって、説得力が強い。

モーリッツ・ローゼンタール
コルトーより少し年長のポーランドのピアニストで、20世紀前半ショパン弾きといわれたひとり?
陶酔感にみちたショパンで、今日ではまず聴くことのできない主情が前面に遠慮なく出た演奏であるが、さりながら特異なことはなにもないという名演。
ひたすらショパンに忠誠を誓ったかのような演奏スタンスで、しかも本質的にもほとんど古臭さがないのは驚くばかり。注意深く、デリカシーに富み、それでいて非常によく歌い、様式感もしっかりしている。
ポーランド人ピアニストによるショパンとしては、現代のそれよりもよほど洗練された印象。ただし、都会的かというと必ずしもそれはなく、そこはコルトーが一枚上手かもしれないが、歴史的なショパン演奏としては一聴に値する美しい演奏。

ウラディーミル・ホロヴィッツ
聴き慣れた大戦以降の演奏ではなく、1930〜1936年の演奏であるために、ホロヴィッツとしてはとにかく若々しさが最も印象的に聴こえてくる。4曲のエチュード、3曲のマズルカとスケルツォ第4番だが、ホロヴィッツといえども、若い頃はこんなにキチンと弾いていたのかと思うほどオーソドックスな演奏で「らしさ」はときどき感じる程度、後年では彼の看板でもあったデモーニッシュな印象はさほどでもない。
ただ、その尋常ではない指さばきの確かさと輝きは、やはり桁外れのピアニストであることをいまさらながら思い知らされ、いかなる部分においてもなんの苦もなくサラリと乗り越えていける特別な技巧には、舌を巻くばかり。
ショパン演奏としてどうかということより、この天才の凄さにため息が出るばかりでした。
ふと、近代ピアニズムの夜明けは、この人からではないか?と思ったり。
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巨匠たちのショパン-1

ショパンコンクール以降、あまりにも現代の演奏を聴きすぎてしんどくなり、しばし昔に戻ってみることにして、ブリリアントレーベルのショパン全集を取り出してみました。
全30枚のCDボックスセットですが、No.18以降は歴史的ピアニストによるショパン演奏になっています。
昔の演奏は、個性もあり、キズも、ヘンな癖や表現もあるけれど、音楽への深い世界というものがしっかりしているのか、ともかく現代人のここまでやるか?というような計算高さのようなものがなく、演奏者の正直な心に触れられるようで、その点だけでもホッとします。

[ラフマニノフ]が2番のソナタを弾いていたりしますが、これひとつを聴いても彼がピニストとしてもとてつもない巨人で、ショパンにはあまりに尺が大きすぎるのか、表現も雄渾に過ぎてなにか規格が合っていないようなところがあり、すべてがケタ違いのピアニストという印象を受けました。
それもなにか意表をつくことをしようというのではなく、彼自身の内側からいやがうえにも湧き上がるものがあり、しかもそこにはゾクッとするようなデモーニッシュな魔物がうごめいているようで、なんだかちょっと恐ろしいような気になりました。
一聴の価値はあるとは思うけれども、マロニエ君にとっては、そう何度も好んで聴きたいショパンというのとは少し違う、これは別世界です。
おなじCDに収められている[ブライロフスキー]の演奏が、ずいぶん常識的な現実の世界に戻ってきたように聞こえました。

まだ、たった3枚しか聴いていませんが、その中で非常に意外な感じを受けたのが、[ゴドフスキー]の演奏でした。
もともとゴドフスキーをどうこう語れるほどにはよく知らないけれども、この人の名を聴いてすぐに思い浮かべるのは、超絶技巧を用いた多くの編曲や自作で、J.シュトラウスのワルツなどは、聴いているだけでも分厚い技巧を要する、じっとりと汗が滲んできそうなそうもの。とくにショパンのエチュードをもとに、大幅に手を加えてさらに演奏至難にした53の練習曲などはいただけない気がするけれど、とにかくこの時代背景もあるでしょうし、超絶技巧を誇る魔性の人というイメージでした。
そんな強烈なイメージばかりが先行して、考えてみたらこれまでじっくりこの人の演奏を聴いたとは言えず、ましてショパンをどんなふうに弾くかなど、さして関心を持たないままにきたような気がします。

ところが聴こえてきたのは、およそそんなイメージとは裏腹のデリケートな演奏で、「えっ、ゴドフスキーってこういうピアニストだったの?」というものでした。
曲目はop.9-2から始まるノクターンが10曲、それにソナタの2番。
ショパンに対する最上の敬意を払った、繊細で丁寧な語りが切れ目なく続き、あんなとてつもない編曲をやってしまう人とはまるで結びつかず、困惑さえ覚えるほど。
たとえば冒頭第1曲に収められた、あの有名な変ホ長調のノクターンも、ひたすら美しく深い吐息を漏らさずにはいられない演奏で、よほどショパンが好きだったに違いないこと、さらには作品に対する深い愛情と理解があったことを、これひとつを聞いただけでも感じさせられました。
これは1928年の演奏で、90年以上も前のものですが、なんとも素晴らしいものでした。

続いて聴いたのは[ソロモン]。
この人はベートーヴェンなどでそれなりに馴染みのあるピアニストですが、さすがは歴史に残る巨匠というだけあって、ショパンを弾かせてもそれはそれできちんと弾きこなす力を備えた持った人で、違和感なく安心して聴けるタイプの演奏。
マロニエ君が知らないだけかもしれないけれど、この時代のイギリスの音楽家というのはさほど輝けるイメージはなく、その中ではソロモンはかなり有名でもあり数少ない存在だったと言えるのでは。
イギリスの演奏家の多くに見られる特徴のように思いますが、演奏者自身の感覚や個性を前面に出すのではなく、あくまで作品に対して礼節と調和をもった、そつのない演奏スタイルというか、よく言えば誠実で信頼性が高いけれど、いまひとつ強い魅力があればと思わせてしまうところがあり、物足りなさを感じさせないでもないけれど、とはいえ、ごまかしのないしっかりしたテクニックの上に、どの曲も形良い花を手堅く咲かせるという意味では、尊敬に値する立派なピアニストだと思います。

なかでも印象に残ったのはベルスーズ(子守唄)で、これ以上ないほど落ち着いていて、全体にたっぷり深く響いていてやわらかな調子が全体に貫かれ、日常とは距離を置いたかのような空気がゆっくりとやわらかに流れていくさまは、やはり大したものだと思いました。
ショパンのベルスーズは、いかに装飾音を見事に弾けるかを見せつけるような演奏の多い中、ソロモンのようにエレガントに徹した演奏は逆に新鮮でした。

続く[リパッティ]は、その流れ出る音からして天才然とした光に満ちていて、ハッとさせられるよう。
くわえて、あの有名なワルツ集に聴かれるよう、全体にこの人の生まれ持った洒脱さが溢れており、ショパンに耳を傾けているつもりが、気がつくと、いつのまにやらリパッティの世界に引き寄せられている。
耳を凝らすと、リパッティ自身のセンスの好ましさ、切れ味よいピアニズムが主軸となって、必ずしもショパン的ではない瞬間も散見されるけれど、魅力にあふれた鮮やかな仕上がりによって、まったくそのように聴こえないばかりか、むしろショパンに直に触れているような気になってしまうところが、このピアニストのカリスマ性だろうと思います。

ブザンソンの告別演奏家では力尽きてついに演奏されなかったop.34のAs-durのワルツも収められていましたが、出だしからものすごいスピードと華麗さで開始され、これがもし同じテンポで、別の腕自慢のピアニストがやったならいっぺんでまゆをひそめられるだろうに、リパッティの手にかかるとそれがむしろ垢抜けた、目から鼻に抜けるような趣味の良い演奏のように聴こえてしまうあたり、やはり大したものだと思いました。
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イゴール・レヴィット

イゴール・レヴィットというピアニストをご存じですか?

このブログを書くにあたって、ネットでちょっと調べたら、1987年ロシア生まれで、8歳のときにドイツに移住して数々のコンクールに出るなどしながら、今日のキャリアを築いてきた人のようです。

前回「プロのピアニストでも、やたら大曲・難曲好きの人っていますよね。」と書きましたが、まさにそんなひとりという感じを受ける人です。
絶賛の評価もあるようで、マロニエ君個人としてはそのパワフルで逞しいメカニックによる重量級のプログラミングこそがこの人の特徴ではないかと思います。

実は数年前、マロニエ君はこの人のCDをいくつか買ったことがあり、その特徴は例えばバッハのゴルトベルクと、ベートーヴェンのディアベルリ、それにジェフスキの変奏曲とかいう、1曲でも大変な大変奏曲が3曲3枚でセットになっているCDということで、その誇示的な曲目にすっかり乗せられての購入でした。
その後もたしかバッハのパルティータを買った記憶があり、探せばどこかにあるとは思うけど、あまり良く覚えていません。

また見た目もいかにもユダヤ系の人で、ルオーの絵のような濃い顔立ちと真っ黒なヒゲ、ギョロッとした強い眼差しなど、日本人からしたら年齢もわからないような、でもなにかスゴそうで、どんな演奏をする人か興味を掻き立てられたのでした。

しかし、その演奏は、危なげなく弾かれたものではあるけれど、作品を深く掘り下げるというより、弾けるから弾いたという印象がメインで、悪くもないけれど強く惹きつけられることもなく、何度か聴いただけで比較的短い期間で終わりになりました。
何度もくりかえし聴きたい演奏というのは、言葉にするのは難しいけれど、こちらの心がふっと掴まれるような瞬間があるとか、気持ちのある部分を揺さぶってくるようなもの、演奏によってなにかの景色が見てくるようなもの、あるいは刺激的な快さがあるなど、なんでもいいけれどもまた聴きたいと思わせるものがあるかどうかだと思います。

その後、ベートーヴェンの後期の5つのソナタをリリース(これも買ってしまいました!)するなど、この人はCDの選曲にも高級志向で押してくる印象が強くなりました。
聴いた後になにか残るものがないからか、レヴィットへの興味は終わってその存在さえほとんど忘れていたところ、NHKのクラシック倶楽部で彼が登場し、久々にその名前を思い出しました。
2020年のザルツブルク音楽祭に出演しベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲演奏を行ったようで、そこにもやはり彼の高級志向を感じますが、その中からop.110と111が放映されました。

映像でははじめて見たものの、確かなテクニック、メンタル面でも余裕すら感じる自己主張が伝わるもので、とりわけ男性の骨格と筋力が生み出す低音の迫力などはソロの演奏会場で聞けば魅力なのかもしれません。

しかし、その演奏から聞こえてくるものはCDの印象と大差なく、弾く能力にかけてはオリンピックのメダリストのように立派だけれど、それ以上の音楽が語るべき意味とか、演奏者の感興の妙とかが聞こえてくる気がせず、もしかすると、こういうスタイルがこれからの新しい演奏なのか…とも。
ところどころでテクニックにあかして変に遊んでいる(といえば語弊があるだろうけれど)ようなところも垣間見え、音楽ファンなら誰もが耳にこびりつくほど知っていて、しかも高い精神性をもつこれらの曲を、それらしく真摯に鳴り響かせる必要はそれほどない、あるいは流行らないよと言われているようで、あの祝祭大劇場に詰めかけた耳の肥えた聴衆はどう感じたのだろうと思います。

圧倒的な技巧とレパートリーを持って、マシン的にクリアで上手い人というのは世の中には一定数必ずいる(とくに現代は)ものですが、その中での頭一つ出るかどうかの勝負なんでしょうか。なんだって弾けて当たり前、どれだけタフで超人的な能力があるかということが問われるのかもしれません。
まったく、音楽家というより耐久レースの選手のような印象。

多くのコンクールにも出まくって、常に上位にはとどまるけれども、圧倒的な結果は得られない人ってたくさんいるものですが、今は優勝者しても圧倒的な人というのもいないから、しだいに求められるものも変質し、レヴィットのような人が音楽表現の深さより、能力エリートみたいなものでザルツブルク音楽祭のステージにも出演できるのかなぁ?と思ったり。

だいたいバッハのゴルトベルク、ベートーヴェンのディアベルリ、ジェフスキの変奏曲、3曲一組をひとつのCDとしてリリースなんていうのも、あるいはベートーヴェンの後期のソナタをひとまとめに出すなど、もうそれだけで「俺は普通のピアニストトじゃないよ!」と言われているようです。
かくいうマロニエ君もそれに乗せられてCDを3つも買ってしまったクチですけれども。

ちなみにピアノの大屋根は、やはりここでもノーマル以上の角度まで高く開けられており、実際の会場で聴いた経験はありませんが、スピーカーを通して聞こえてくる音は、通常のものより生々しい音の感じがして、あれはなんなのかと思います。
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広瀬悦子

少し前のことですが、広瀬悦子さんのCDを初めて買いました。
曲目はリャプノフの『超絶技巧練習曲』(全12曲)。

超絶技巧練習曲といえば誰もが思い浮かべるのはリストですが、最近知ったところでは、リストはもともとこれをすべての調性で書くつもりであったものの、結果的にはそれは果たせず半分の12曲で終わったのだとか。

すべての調性で書かれた作品としては、バッハの平均律、ショパンやショスタコーヴィチの24の前奏曲等がよく知られますが、平均律はハ長調/ハ短調、嬰ハ長調/嬰ハ短調と順次上がっていくのに対し、24の前奏曲はハ長調/イ短調という平行調、そして5度ずつ上がってト長調/ホ短調と進んでいく。
いっぽう、リストの超絶技巧練習曲はハ長調/イ短調という平行調に進むものの、次にくるのはフラットがひとつ増えてヘ長調/ニ短調、さらにフラットふたつの変ロ長調/ト短調という具合に、フラットが増えていく作りになっています。
「なっています」なんて前から知っているみたいに書いていますが、言われてみてたしかにそうなっている!と最近気がついたしだい。

これを引き継ぐかたちで、同じく超絶技巧練習曲を12曲書いたのがロシアのセルゲイ・リャプノフ(1859-1924)。
リャプノフはシャープが6つの嬰ヘ長調/嬰ニ短調から出発し、ひとつずつ減っていき、最後にト長調/ホ短調に行き着くというもの。

このリャプノフの超絶技巧練習曲じたいが初めて聴くものでしたが、一曲々々が聴き応えのある重量級の難曲で、むろん楽譜は持っていませんが、耳にしただけでも最高難度を要求する曲集であることが察せられます。
ライナーノートによれば、「ピアノ書法と構想の両面でショパンとリストの練習曲集に比肩するクオリティを誇っており、さらに演奏の難易度とヴィルトゥオジティの点では、この二人の先輩作曲家の練習曲集をしのいでいる。」とあり、そうだろうという感じでした。
作風は、繰り返し聴きながら、かつライナーノートを参考にしながら云うと、ロシア5人組、とりわけバラキレフの影響が濃厚で、ドビュッシーやスクリャービンと同時代の作曲家と思うと、革新的な試みや書法で新地を切り開くのではなく、保守的な作風なのかもしれません。

リストを思わせる部分は随所にあるものの、曲としての明快さがいまひとつ掴めず、ロシア的な暗さの中で重々しく唸ったり旋回したりで、リャプノフならではの独創性というのがもうひとつ判然としない印象はありました。

広瀬悦子さんは、これまで特に注目したことはなかったけれど、これだけの曲をなんの不満もなく聴かせて、自分のものにして録音までするというのは、素直に大したものだと感心させられます。
この人は、よく知られた名曲に新たな息吹を吹き込んだり、演奏を通じて聴くものに直接語りかけてくるようなタイプのピアニストではないけれど、これだけのずば抜けた能力があるので、こういう知られざる作品を紹介するのにはうってつけの方だろうと思います。

「パリ高等音楽院を審査員全員一致の首席で卒業」とあるので、フランス系の特徴である譜読みがよほど得意なんだろうと想像しますが、恵まれた長い指、何でも弾きこなせる高度なメカニック、どこか孤独を感じさせるひやっとする雰囲気。
昔、ミヒャエル(マイケル)・ポンティという埋もれた作品を次々に掘り起こしては録音して紹介する達者なピアニストがいましたが、広瀬さんにはぜひともその現代版になっていただきたいような気がします。

ご本人もそういう方向性を自覚しておられるのか、バラキレフ、アルカン、モシェレスなどの作品を多く採り上げておられるようで、埋もれた、もしくは埋もれがちな作品を呼び戻すためにもピアニストの中にはこういう人も必ず必要なのであって、今後の活躍にも期待したくなる気分です。
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ちょっと休憩

あまりに立て続けに内田光子/ラトルのベートーヴェンを聴いたものだから、さすがに耳休めしたくなったのと、せっかくの名演が飽きてしまうのが怖いので、いったん横に置いて他のものを聴くことに。

手持ちのCDの中には、購入後1〜2回聴いたのみで、そのまま長いこと棚に放り込まれたものもいろいろあり、その理由はいろいろですが、いわゆる期待はずれであったり端的にいってあまり好みじゃなかったというようなことです。

今回引っ張りだしたものの1枚が、ピアニスト、ベンジャミン・グローヴナーのCD。
ショパンの4つのスケルツォの間にノクターンをはさんで7曲とし、そのあとはショパンの歌曲をもとにしたリストの編曲、リストの「夢の中に」、最後はラヴェルの「夜のガスパール」というもので、意欲的な選曲のようでもあるけれど、実はその意図がよくわからないもの。
「夜」というものに引っ掛けているのかとも思ったけれど、するとそもそもショパンのスケルツォがどう意味を持つのか、よくわからないけれど、ま、それはそれ。

グローヴナーはイギリス出身の天才だそうで、このアルバムを録音した時点で19歳というのだから、すごい才能を持った人というのは確かなんでしょう。
購入した時のはっきりした印象もほとんどありませんでしたが、聴き始めてほどなくして、このCDを購入後そんなに聴かなかった理由がわかりました。

とにかく技巧優先で、すべてを技巧の勢いにのせて推進していくタイプの演奏だから、音楽の繊細な息づかいが伝わってハッとするとか、ショパンでいうと特有の雰囲気、あるいは随所に散りばめられたディテールの香りみたいなものを聴き手に伝えるような試みもなく、もっぱら山道をスポーツカーでぐんぐん走っていくいくような感じ。
こういう人の弾くノクターンなどは、腕のふるいがいがないのか、いかにも「ゆっくり」「おさえて」「小さな音」で弾く分別も持っていますよという、なにか言い訳のように聴こえます。
技巧曲を際立たせるための中継ぎのようで、こっちも却って落ち着かないような気になるもの。

せっかくなので全体を2回通して聴いたけれど、はっきり言ってしまえば、なんの感銘も喜びも得られませんでした。
冒頭のスケルツォ第1番も、静寂を打ち破るようなあの激しい和音のあとは、まるで豹かなにかの筋肉の躍動のようだし、中間部の有名なポーランドのクリスマスの旋律になると、一転してただ聞き取りづらいような弱音で通過し、ふたたび筋肉の躍動に戻る。

続くノクターン第5番でも、あの有名なメロディーの中に織り込まれる装飾音を、いかに拍内でこともなげにマジシャンのように片付けてしまえるかという点を誇示されているようでした。

もちろんこの21世紀にそれなりに認められて世に出て、十代前半で名門デッカと専属契約をするような人だから、大変な才能だとは思うけれど、それでもプロのピアニストとして継続的に成立するかというと、あまりそうは思えず、あらためて大変な職業だということを考えさせられました。


久々に、ダン・タイ・ソンのマズルカを聴くことに。
お得意のショパンとあってたいへんよく考えられ、やわらかで、クリーンで、聴きやすい演奏。
欠けているとすればふたつ。
きれいだけど、すべてが予め準備されており、いま目の前で生まれたような反応や儚さを感じない。
また、ショパンではアクセントやルバートというか、いわゆるタメをどこにどれだけ設定するか/しないか…が大きな鍵になるけれど、そこに若干のアジア臭を感じるのが残念。

ショパンついでに、リシャール=アムランのバラード/即興曲。
癖がなく、キチッとよどみなく弾かれているけれど、身をまかせて乗っていける場所がなく、意外に雰囲気のない無機質な演奏。
ピアノはなんだろう?
時間とともにだんだんに耳障りな、刺さる感じの音になってくる点が気になるけれど、ブックレットに記載はないようでした。
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第3番以降

前回は、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDが届いてすぐだったので、書いた時点で聴いたのは第1番、第2番のみでした。

時間的な問題もあったけれど、その日、敢えて先に進まなかったのは、第3番以降はとくに念入りに聴きたかったので、1枚目のみに留めておこうという思惑もありました。

よく知られていることですが、作曲順でいうと2-1-3-4-5で、
第2番 どこかモーツァルトのコンチェルトの影を感じつつベートーヴェンの個性がまだ控えめ。
第1番 ベートーヴェンらしさがぐんと押し広げられて、明らかにモーツァルトの模倣から手を切っている。
第3番 得意のハ短調となり、ベートーヴェンの体臭がムンムンするような大曲に。
第4番 いきなり向きが変わり、この世のものとは思えぬ美しさを湛えた繊細で奥深い傑作。
第5番 すべてを総括するような肯定的で力強い傑作にして超有名曲。

あんな4番のあとに5番のような英雄的なものを書いたという点では、モーツァルトが40番のあとにジュピターを書いたことなどを連想してしまいます。

ま、そんなことはどうでもいいのですが、曲も3番からは佳境に入った感じで、演奏はいずれも見事なものでした。
とくに第3番では、旧盤で感じていた違和感はまったくなくなり、期待した通りの流れの上に、さらに内田の深まりやアイデアの閃きが次々に加わっています。
平行調ということもあるのか、第5番も概ね似たような印象。
この曲には勢いだけで派手に弾く演奏、皇帝という名曲についた外皮のイメージだけで弾く演奏、あるいは今風に低い温度で淡々と弾くだけといったものがほとんどですが、内田はいうまでもなくいずれでもありません。
細部まで詳しく、まるでビス一本見落とさない整備士のように作品を点検し、作品/演奏として再構築されたようです。
これまでについた俗っぽさや手垢を一度きれいに洗い流して慎重に組み上げられた文化財のようで、深みと初々しさが同居する演奏。
とくに第3楽章などは、爽快さをもって天空を駆け抜けるごとくで、和音やffの力だけに頼る演奏に対する、内田の確信的な答えを見せられた思いです。

しかしなんといっても5曲中もっとも強い感銘を覚えたのは(予想通りに)第4番でした。
第4番に関してはメータやヤンソンスとの共演など、DVDや動画で聴いていましたが、やはりCDとしてオーディオの前でキチッと耳を傾けるのは違います。

内田光子という稀代のピアニストの持ち味が、最も活かされる曲がこの第4番であることは、多くの音楽ファンの共通認識でしょう。
この曲で最高度に発揮される演奏の妙技は、モーツァルトやシューベルトで培われたであろうタッチの粒立ちの絶妙さ、芯があるけれども薄墨のような軽さ、弱音に込められる息の長い信じがたいような集中力など、とにかく耳が離せません。
まさに一音で色を変え、一瞬で向きを変える、内田以外では聴くことのできないデリカシー芸術を随所で聴かせます。

わけても第2楽章は奇跡的な美しさで圧倒されました。
ピアノの音すべてが内田の呼吸そのものであるかのようで、一つの究極を体験させられたような心地でした。
4番の第2楽章は、この曲のある意味聴きどころでもありますが、これ以上芸術的で神経の行きわたった演奏はこれまでに聴いたことがないと思われ、思わず涙があふれてくるのを抑えようもありませんでした。
この楽章ひとつのためだけにも、このセットを購入した価値があったと思います。
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再録の必要と不必要

最近はだんだんCDを買わなくなっています。
理由をひとことで言うなら、だいたい予測がついて、わくわく感がなくなったから。

CDというすでに山のように持っているものを、さらに買い続けるというのは、より素晴らしいものを聴きたいという常習性みたいなもので、要は気持ちの欲するままの行動だから、その気持がなえてくればそれでお終いでしょう。

なので、以前のようにめったやたらと買うことはなくなったし、これといって興味をそそる新譜が出てくるということも激減、作る側も、買う側も、ガクンとパワーが落ちてしまったというのが正直なところだろうと思います。

そうは言っても、これだけは何としても買っておかなければならないCDというのはたまにあるわけです。
たとえば、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲がそれで、これは10年前のライブ録音をCD化したもの。
内田光子はすでにフィリップスから、クルト・ザンデルリンクの指揮で同全曲を録音しているけれど、あれは個人的にはイマイチと思っていたし、その後の内田のライブでの素晴らしさを知るにつけ、ぜひ再録をしてほしいと願っていました。
それがまさにカタチになったといえるCDです。

ただし発売後すぐに購入したわけではなく、CD注文の時は割引の事情やらなにやらで、ちょっと先送りにしていたけれど、こういうものは買えるときに買っておかないとなくなってしまう恐れもあるし、コロナで外出自粛の折、じっくり聴くのにちょうどいいというのもあって今回購入することに。

するといつの間にか、ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全曲まで抱き合わせになっていて、しかもお値段同じというすごいことになっていました。

さっき届いて、さっそくピアノ協奏曲の第1番から聴いていますが、ライブならではの気迫と一過性の魅力があり、内田の隅々までゆきわたる尋常ではない集中力と丁寧さ、音楽の息吹、気品、音色のバランス、そしてなにより趣味の良さが光る、おかしな言い方かもしれないけれど美術品のような演奏です。
ここまで芸術に徹したピアニストは二度と出てくることはないだろうことを、いまさらながら痛感。
内田光子の凄さというものは、もはやナニ人というようなことはまったく問題ではない次元のもので、厳密に言うなら、彼女は流暢な日本語が話せて、日本の文化にも通じたヨーロッパ人だと思います。

ネットで調べてみると、このCDに関しての内田光子のインタビューがありました。
「私自身は同じ曲を何度も録るの、好きじゃありません。それは演奏家の驕慢(きょうまん=おごり)です。よく3度も録り直して、最初のが一番良かったなんてケースもあるでしょ?大好きなサイモンとの記念でもあり、『出しても構わないでしょう』となったので」と述べているのはいささかショッキングでした。

この発言は、どうしてあのガチガチに突っ張ったようなモーツァルトのソナタ全集を、円熟の演奏で録り直さないのかと長らく疑問に思っていたことへの答えというか、彼女のスタンスが示されているようでもありました。

個人的には、内田光子のこの考えには半分賛成、半分反対ですね。
たしかにまたか!という感じで同じ曲や全集を録音したりする人に驕慢を感じることはあるけれど、逆に、録り直すことが必然と感じる場合があることも事実。
内田光子の場合は、モーツァルトのソナタ全集とベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲はその必要を感じるもので、両方に共通しているものは、筋はいいのだけれど、まだ充分に熟成されていないものを食したような印象が残ること。
ベートーヴェンはそれが達成されたわけですが、モーツァルトで世界のステージの住人になる切符を掴んだ内田が、そのソナタ全集をあれでいい、録り直しの必要はないと思っているとしたら、それはそれで逆の驕慢だとも思うのです。

たしかに、3度も録り直して最初のが一番良かったなんてケースは、思い当たる音楽家が何人か浮かぶし、その点では彼女の考えはいかにもいさぎよく立派だとも思います。
ただ、ご本人はどう思っておられるのか知らないけれど、モーツァルトのピアノ協奏曲に関しては、彼女の振り弾きによるクリーヴランド管弦楽団との再録は個人的には成功しているとは思えないし、初めのジェフリー・テイト/イギリス室内管弦楽団との全集のほうがはるかに聴いていて胸に迫るものがあり、魅力があったと思います。

再録することで細部の考証などは正せたのかもしれないけれど、マロニエ君にとってはそんなことは大したことではなく、魅力あふれる芸術的な演奏というものは、学究的な価値とは別のものだと思うのです。

モーツァルトのソナタ全集を再録しない理由で、もし納得できる理由があるとしたら、それは「もうやりたくないから」という場合ですね。
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BOXセット2

例えばヘンスラーのバッハ大全集は、びっしり並ぶ172枚のCDにJ.S.バッハのほぼすべての作品が収録されており、これを聴くだけで数ヶ月を要しました。
ほかにもフルトヴェングラー107枚、モーツァルト全集170枚、グラモフォンのブラームス46枚、ブルーノ・ワルター39枚といった具合で、マロニエ君は「1枚のCDを1度聴いたら、ハイつぎ!」という聴き方ではないので、1セット聴くだけで大河ドラマ級の仕事になります。
いやいや、大河ドラマはたかだか週に1回45分ですが、CD・BOXセットの場合はほぼ毎日だから、時間的には桁違いです。

しかも、ひたすらそれだけを聴き続けることは精神的にしんどいし、自分なりの清新な気分を保つためにも、ときどき途中下車しながらのペースなので、そうなるとこれがもうなかなか進みません。

ごく最近もエラートのパイヤール全集133枚をようやく聴き終えて、ふだん耳にすることもない大量のバロック音楽に触れることはできたものの、正直、途中で疲れてきたのも事実で、ほぼ3ヶ月以上聴き続けてやっと終わった時にはもうお腹いっぱい、しばらくは結構となってしまいました。

フランス系で思い出しましたが、ミシェル・プラッソンのBOXセットも大量で、その時はめずらしいフランスの管弦楽曲漬けになっていたのに、今振り返ればそれっきりだし、本当は恥ずかしくて書きたくないけれどカラヤンのEMIの全集というのがまたとてつもない量で、これはカラヤンというのが続かずに途中棄権したまま。

こうしてみるとマロニエ君はピアノマニアのわりにBOXセットではピアノ以外のジャンルばかり買っているようです。
ピアノでセット物といえば、ずいぶん昔ですが、GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURYという、とんでもなく壮大なセットが販売されたことがありました。
しかもこれ、最近のように既存の音源を片っ端からBOXセットにして投げ売りするよりずっと前のことで、むしろ「いいものを作れば高くても売れる」という考えがまだ通用していた時代の、いわば入魂の豪華セットでした。

たしかスタインウェイ社が主導して、20世紀の偉大なピアニストを70人ぐらいを選び出して、その名演を集めたセット。
音源はレーベルを超えて集められており、立派な取っ手がついた小さなスーツケースのような専用ケース2つに収められ、一人のピアニストにつき2枚〜6枚で、計200枚ぐらいのセットでした。
当時からその70人余の選定には異論もあり、個人的にはタチアナ・ニコラーエワが入っていないことは納得できませんでしたし、日本人で選ばれたのは内田光子ただ一人でした(これは当然だと思うけれど)。

かなり高額でしたが、これはどんな無理をしてでもゲットしなくてはという意気込みから買ってみたものの、全部聴いたのかといえば、それは未だに果たせていません。
ゲットしたことで達成感にひたってしまい、たしか1/3も聴いていないと思います。
今もピアノの足下の薄暗いところに、ドカンとふたつのトランク状のBOXが重ねられており、そろそろこれを引っ張りだして順次聴いていこうかとも思いますが、なかなか着手には至りません。

それはともかく、多くの音楽・演奏を幅広く聴くことも大事だとは思うけれど、前回書いた通り、一つの演奏(アルバム)を繰り返し集中して聴くことのほうが、やっぱり得るものは大きいし、大事なものが残るような気がするのは事実です。

LPの時代、1枚のレコードを擦り切れるまで聴いたというような話は昔よくある事だったようですが、そうして得たものはその人の心に深く刻みつけられ、無形の精神的な財産や教養になっていると思います。

そんな吸収の仕方というか、限られた環境で貴重な音楽に接するときの気分というものは、今のようにデータの洪水の時代にはあるはずもなく、だからみんな知識はあっても器が小さく、却って無知で底が浅いのはやむを得ないことだと思われます。
人から聞いた話では、月に1000円ほどを支払えば、ネットで世に存在する大半のCD音源が際限なく聴けるそうですが、表現が難しいけれど、こういう物事が元も子もないような便利さと、音楽を聴くという喜びとか精神的充足感は、どこか根本のところでまったく相容れないものがあるようにも思い、それを利用しようとは思いません。

いくら高価な珍味でも、バスタブいっぱいキャビアがあったら食べる気にもなりませんよね。
CDのBOXセットは、それでもまだ自分でお金を出して買うだけマシかもしれませんが、それでも有難味という点では価値が薄れていくという危険は大いに孕んでいると思います。
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BOXセット

近年、スター級の演奏家もほぼ不在となり、芸術全般に対する関心度も下がる中、新しいCDを作っても売れる見込みが立たないのか、新譜の数も激減しています。
考えてみれば、好きな演奏家が新譜を出すといってわくわくして、発売日に即購入したいと思うような人はもういませんし、そもそもそんな時代でないということなのか。

時代の変貌、価値観の急速な変化、優劣で決まるコンクールが基軸になるなどの条件が重なって、個性のない平均化された演奏者ばかりがあふれ、若い人で人気があるといえば、ほとんど例外なくテレビタレントのような人で、ピアノの弾ける漫談家のような人も現れて、もうめちゃくちゃといった感じしかありません。

指揮者でいうと、いまどきはどんなに有名な人でも、練習風景の映像など見ると、まず楽団員に嫌われないように気を配り、低姿勢を貫き、愛想笑いを絶やさず、リハもいちいちお願いしてお礼を言っての繰り返しで、むしろ団員のほうがどことなくエラいような感じ。
それでは思い切ったこともできないだろうし、演奏はだいたい似たりよったりになるのは当然の帰結です。

かつてのような暴君や帝王がいいとは云わないけれど、そうかといって気を遣いまくる指揮者の演奏なんてあまり聴きたくもありません。
芸術と名のつく限り、そこにはエゴも魔性も毒も一定量は必要であるにもかかわらず、現代の演奏はそういう要素はことごとく除去されて、尋常で整った無味乾燥な演奏をしていれば次の仕事にありつけるのでしょうか?

器楽も同様で、追い求めているのは表面的な演奏クオリティとありきたりの解釈をセットにして弾く、それだけ。
技術的訓練はぬかりはないのだろうけれども、大曲難曲なんでもござれで片っ端から手を付けても、何のありがたみもないし、だからいまさらコストをかけて録音しても買う人がいないから、その数は減るいっぽうという気がします。

この傾向は当分変わりそうにもなく、各レーベルに残された捨て身のCDビジネスがBOXセットなんでしょうか…。

閉店前の放出セールでもないでしょうけれど、過去の名盤・名演を惜しげもなく集めてはBOXセットにして、昔ならおよそ考えられないような破格値で次々に放出されていますね。

老舗レーベルは過去数十年にわたって蓄積された膨大な音源があるから、ひとりの演奏家、作曲家、あるいは特定のテーマごとにBOXセットを組むことは可能でしょう。

こうしてひとまとめにされたずっしり重いBOXセットは、その誕生の経緯がどうであれ散逸することなく整理され、だれでも入手可能となるという点では価値あるものだとは思います。
BOXセットということで拾い上げられる以外、おそらく永久に日の目を見なかったであろう録音も、これを機に蘇るという点でも意義はある。

こちらにしてみれば、長年コツコツと買い集めたものが重複することも珍しくなく、これまで投じたエネルギーやコストを考えたらいやになることも正直あるけれど、それでも買い漏らしたものが手に入ったり、一枚ずつなら絶対に買わなかったようなものを聴くチャンスにもなるし、おまけに望外の低価格であることは大変ありがたい。
もしCD全盛の頃だったらほとんど0がひとつ違うほどで、一枚あたりに換算すると100〜200円ぐらいだったりして、買う側にしてみれば非常にありがたいけれど、演奏者には申し訳ないような気がするのも事実です。

果たして偉大な演奏家の長年にわたる演奏の軌跡を一気網羅的に辿れるのだから、かつてならまずできなかったような経験があっさりできるのは驚くばかりです。

しかし良いことばかりかというと、そうでもなくて、やはり一枚一枚を丁寧に、熱心に、集中力をもって聴くという、聴き手のスタンスがどうしても甘いものになってしまいます。
この手のBOXセットは、多くは膨大な数のCDがこれでもかとばかりにギッシリつめ込まれており、まず、ひととおり聴くだけでも相当な時間と根気を要するようなものがゴロゴロしています。

そうなると、どうしても先に進むことに追われてしまい、いつしか聴くことが仕事のようになってしまう危なさがあります。
せっせと聴いては次に進むという、まさに数を消化して終わらせるために聴いているようなもので、これでは音楽の楽しみとは似て非なるものになってしまいます。
贅沢な悩みではありますが…。
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フランソワ・デュモン

新型コロナウイルスはますます猛威を振るって、いったいどうなるのかと、世界中が不安で厳しい日々を送っています。
TVニュースなどをつけていると、収束はおろか、日々怪物が巨大化していくようで、たまりません。
ブログでまでコロナコロナと喚いても仕方がないので、いつもの話題に。


またも期待してCDが外れました。

マロニエ君が好ましく思っているピアニストの中にフランソワ・デュモンがいます。
彼は2010年のショパンコンクールで第5位になったフランスのピアニスト。

第1位のアヴデーエワ以下、ゲニューシャス、トリフォノフ、ボシャノフと精鋭が並ぶ中、個人的には最も情感というコンクールではあまり期待できないものを感じ、聴いていて気持ちが乗っていけるショパンを演奏したピアニストということで、このデュモンの今後には期待していました。

純粋に技巧だけなら、4位以上の面々のほうが上かもしれないけれど、コンクールのライブCDを聴いていて、この人には他のコンテスタントにはないショパンの香りがあって、やはりフランスという国はさすがだなあと思ったし、何度も聞いてみたくなる唯一の人でした。

しかし、その後は期待されるほどのCDもリリースされず、わずかにラヴェルのピアノ曲集などを愛聴していましたが、やはりこの人にはショパンを弾いて欲しいと思っていました。

それから10年も経って、ようやく彼がショパンの21のノクターンをリリースしているのを知り、おお!!!というわけで、直ちに購入と思いましたが、あまり知名度がないためなのか、どこも「在庫なし/入荷予定不明」という状況。
今年のはじめに数カ月待ち覚悟で発注していたところ、さきごろ入荷のお知らせメールが届いて、ほどなく手許に。

期待に胸をふくらませながら聴いてみると…、ん???
第1番から固くこわばった感じで、なんだかいやな気配がよぎりました。
経験的に、良い演奏かどうか、少なくとも自分の好みかどうかは聴きはじめのごく短時間で決まってしまうので、好ましいものはすずしい空気を吸い込むように、ストレスなく耳に身体に入ってくるもの。

このCDで聴くデュモンは、ショパンコンクールでみせたみずみずしい語りかけや、詩的なものが随所に見え隠れするような絶妙さはなく、よくありがちな型通りの演奏で、この人ほんらいの良さがまるで出ていない印象でした。
必要なゆらぎやデフォルメがまったくない、プロなら誰でも弾けるような、取り立ててケチをつけるようなところもない…というだけのワクワクしない演奏。

マロニエ君が期待していたものは、あくまでもデュモンその人が感じたままのショパンであること。
それがほとんど感じられなかったのは、いったいどういうわけなのか。

とくにノクターンは、歌いこみのデリケートなイントネーションやアクセント、一瞬ごとの奏者の感性を受け取るところに醍醐味があると思っていますが、そういうものを丁寧に伝えようとする演奏ではなく、あくまでグローバル基準に舵を切ったような弾き方でした。
フランス語の多少はエゴもある演奏でいいのに、無理に英語を喋って常識的に振る舞おうとしているようで、だったらわざわざ長い時間待ってまでゲットする必要もなかったのにと思うばかりです。

現代のピアニストは売れるために個性を捨て、個性を捨てるから埋没するというジレンマに陥っているのかもしれません。

このデュモンのノクターン全集、いいところももちろんあるにはあるけれど、全体を通して何度か聴いてみて、後味として残るのはあくまで「普通」でしかありませんでした。
個性ある演奏家も、その個性を消さないといけないのだとすると、コンクールの基準は独り立ちしたあとのピアニストにもずっとついてまわるようで、それって何かが間違っている気がします。

間違っているとは思うけれども、世の趨勢というものには逆らえないものなんでしょうね…。
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コロナとCD

世界規模にまで急速に拡大したコロナウイルス。
都市の封鎖や外出制限、各国の入国制限という厳しい状況になりました。

とりわけヨーロッパの感染拡大は衝撃的でした。
フランスでは全土で生活に必要な食料品店以外のすべてのカフェやレストランも営業停止、ルーブルも演劇も何かもがストップ、そうこうしているうちに「外出禁止令」が発令されたというのですから、この展開には驚くばかりです。
仕事、生活必需品の買い物、子どもや病人の世話以外は外出禁止。
違反をしたら罰金だそうで、第二次大戦のナチス占領下でも外出禁止は夜間のみだったそうで、昼夜を通じての禁止措置は仏史以来の初めてのことだとか。

今年は春を待たずにこんな厳しい事態が待ち受けていただなんて、誰が予想できたでしょう。
フランスに続いて、ニューヨークなどアメリカの各都市が外出禁止令となる気配があるそうで、もはや爆弾の飛んでこない戦時下のような様相。

当然のように、あらゆるイベントは中止に追い込まれ、スポーツも無観客試合などは日本でも当たり前になりつつあり、コンサートなども中止が当たり前のような状態で、テレビで大相撲の中継をちらっと見ましたが…なんとも堪らない気持ちになる光景でした。

当然なんでしょうが、クラシックのコンサートも軒並み中止という話を聞きます。
それでなくても、スポーツや他の音楽イベントとは違ってクラシックは慢性的な不況状態だったところへこんなことになったのでは、演奏家たちはもちろん、このジャンルそのものがどうなってしまうのだろうと思います。

まずは人の命であり、次に来るのが経済なのは当然ですが、その経済も世界規模で崩壊するのではという危機感が広がり、すでに「コロナ恐慌」などという言葉もちらほら出てきていて、とにかく困ったことになりました。

通常の経済活動が一斉にスイッチOFFみたいな危機に瀕しているわけで、もはやコンサートどころではないということでしょう。


最近読んだアンドラーシュ・シフの『静寂から音楽が生まれる』の中に書かれていて驚いたことが。
それは、一時期はこのピアニストの収入の約半分はCDによるものだったものが、現在ではわずか10分の1ほどまでに減少し、収入面ではコンサートの比重が増したというのです。

シフといえば、まあ世界のトップクラスのピアニストに数えられ、CDもバッハやベートーヴェンなど渋めのものではあるけれど、一時期は着実にリリースされてマロニエ君もよく買っていたものですが、このところ新譜があまりないなあという気はしていました。
かなりの人気演奏家であっても、新しいCDというのは激減しているのはひしひしと感じるところで、クラシック音楽の火はほとんど消えかかっているのでは?と思います。

とにかく、今どき、だれもCDなど買わない環境になったんですね。
さほど音楽なんぞに興味が無い上、その気になればYouTubeなどネットでほとんど無制限に聴くことができるようになり、それが当たり前の社会で生きているのに、わざわざ一枚につき2000〜3000円も出してCDを買うなんて、よほどの好きものか変わり者でないかぎりしないのでしょう。

もちろん、マロニエ君はその変わり者のはしくれなんでしょうけど。
今のうちに欲しいCDは買っておかないと、そのうちCDそのものが買えなくなる日が来るかも…ぐらいに思っていたほうがいいかもしれません。

このクラシック音楽不況の中で、小さな蝋燭の火のようになってしまっていたCD業界が、今回のコロナのひと吹きで消えてしまわないよう、音楽の神様に願うばかりです。
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HJ LIM-2

ついにWHOがパンデミック宣言をするに至ったコロナウイルス騒ぎ。
この渦中、のん気にピアノのことなんぞ書き連ねるのも違和感があるとは思いつつ「自粛」したところでなにがどうなるものでもなく、とりあえず従来通りにピアノ及びその周辺ネタで続けることにします。


HJ LIMのベートーヴェンにしばらくハマってしまい、このピアニズムによる他の作曲家の作品も聴いてみたいと思いCDを探したら、思ったほどありませんでした。
その中から、ラヴェルとスクリャービンで構成されたアルバムを購入。
ラヴェル:高貴で感傷的なワルツ/ソナチネ/ラ・ヴァルス
スクリャービン:ソナタNo.4/No.5/ワルツ op.39/2つの詩曲

平均的なピアニストにくらべればもちろん元気はいいけれど、一連のベートーヴェンで聴いた強烈なインパクトからすれば、ちょっと表現の振れ幅がセーブされた感じがあり、あの勢いでラヴェルやスクリャービンを料理したら、さぞかしエキサイティングで面白いことになるだろうという予想は、半分ぐらいしか当たらなかったという感じ。

パンチ、センス、自在さ、思い切りの良さ、どれもあるにはあります。
しかしベートーヴェンにあった全身で飛びかかっていくような突破感とか、次から次に音が前のめりに覆いかぶさってくるようなスリルはなく、最後の最後でやや制御が効いているような感じがあり、だれかから何か言われて、やんちゃ娘がほんの少しおとなしくしている感じが気にかかりました。

人が心を鷲掴みにされたり感銘を得たりするものは、その最後の紙一枚が違いが大きくものをいいます。

自分の感性の命じるまま、猫のようにしなやかになったかと思えば野生的であったりの変幻自在さ、いったんばらばらにしておいて最後で一気に引き絞って解決に落とすなど、その際どさ、さらにはそれを確かな技巧が下支えしているのがこの人の面白み。
人がどう思おうと私はこうなんだという物怖じしない度胸、エゴと大胆さが魅力であったけれど、どことなく常識の範囲を大きくはみ出さないよう制御している気配…。

本人はもっと暴れたかったのかもしれないけれど、CD制作会社とか録音スタッフがそれを許さず、キズのない常識寄りの演奏にさせたということかもしれません。

あるいは、ベートーヴェンで大胆に思えたことは、同じようなことをしてもラヴェルやスクリャービンで大して目立たず、作品の時代や構造そのものの違いによるものかもしれないということも、まったくないことではないかもしれません。

ただ、このCDのことはわからないけれど、一般論としてレコード会社だのプロデューサーだのが演奏のこまかい内容にまで口を挟み、あれこれ注文をつけて、駆け出しのピアニストであればあるほど、本人の思惑通りの演奏ができないということは往々にしてあるようです。
それがいい場合もあれば、個性をスポイルする場合もある。


それにしても、韓国には素晴らしいピアニストがいるものです。
思いつくだけでもクン・ウー・パイク、イム・ドンミン/ドンヒョク兄弟、ソン・ヨルム、そしてこのHJ LIMなど、それぞれ個性は違えど聴くに値する、素晴らしい人ばかり。

名前は覚えていないけれど、以前コンサートで聴いた若手の何人かもなかなか唸らされる演奏であったし、韓国はよほどピアノの教育制度が素晴らしいのかと思います。
音楽的な約束事がきちんと守られ、節度とコクがあり、しかも情感の裏打ちもされているから相応の感銘が得られる。
ショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンを推す人もあるかもしれませんが、彼は良くも悪くも今どきの薄味な感じを受けます。
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HJ LIM

今年はベートーヴェンの生誕250年ということで、コンサートやCDなど、ベートーヴェンイヤーを意識したものも少なくないようです。

もはや、昔のような盛り上がりはないけれど、それでもベートーヴェンという巨大な存在ゆえか、それなりの注目度はあるのかも知れませんが。

コンサートなどもベートーヴェンイヤーにちなんだ企画やプログラミングになっているのでしょうし、CDもこの年にかこつけてベートーヴェンを録音発売(あるいは再販)というのはちょくちょく見かけます。

マロニエ君は今これが流行りと聞くとついソッポを向きたくなるほうで、世間がそれで注目したからといって素直に自分も歩調を合わせるといったことはしませんが、それでも、ベートーヴェンを耳にするチャンスが増えることで、そこから自分なりの聴きたいCDなどを引っ張り出してくるというようなことはあります。

実は、ベートーヴェンイヤーとは関係なく、昨年の秋ぐらいからすっかり彼の弦楽四重奏曲にハマっていたのですが、それはまた後日に書こうと思います。

その他のジャンルでは、思いつくままに聴いてはみるものの、これまでに繰り返し聴いたCDというのは、個々の演奏にある固有のちょっとした表情とか音のバランス、息遣いなど、演奏の指紋のように耳に残っているため、次がどうなると記憶にあるせいで、新鮮味がなくやめてしまうことがしばしばあります。
もちろん、ベートーヴェンともなると曲自体もあまりに耳慣れしてしまっていることが、あらたな楽しみとしては問題になることも。

ピアノソナタも長年聴いているし、下手ながら自分でも弾いたりしていると、さすがに飽きてくるもので、いまさらいずれかのボックスセットを取り出してしみじみ聴いてみようというところまでは達しないことが多いのも事実。

そんなとき、CD棚で別の探しものをしているときにふと目に入ったのがHJ LIMのソナタ集(中期の少ソナタを除く30曲)でした。
韓国の女性で、コンクールが嫌いというピアニスト。
購入したときは、ちょっとデフォルメがきつすぎるように感じたことと、ピアノの音(ヤマハCFX)があまり好きではないため、ひととおり聴いただけで放っていたものでした。

かなり鮮烈な演奏だった記憶はあったので、久しぶりに音を出してみると、これがかなり聴き応えのある素晴らしい演奏で驚きました。
奔放で恐れがなく、自分の感じるところに正直で、生きもの臭いぐらいな生命感が漲っています。
それが決して独りよがりでもなく、説得力のある演奏として成立しているし、さらに驚くべきは、HJ LIMというきわめて個性的なピアニストの演奏でありながら、ベートーヴェンをも常に感じるという点で、これはかなり稀なものではないかと思います。

伸縮自在、大きく掴んでは解決へと落としこむ、あれこれと疑義を発生させつつ最後にピタッと収支を合わせる、それでいて次がどうなるか予想がつかないスリルがいつもある。
演奏というものの魅力はまさにこういうところにあるのであって、世に横行する作品重視とクオリティばかりを前面に立てて安心するのは、演奏家としての自信の無さからくる逃げ道のように思います。
自分の考えを声にする自信がないから、当り障りのないニュートラルなスタンスにしておく安全策。

ベートーヴェンらしさとは何か、それが何かはわかりません。
しかし、いかにも楽譜を隅々まで検討しました、資料も読みました、自筆譜も見て検討しました、そうした研究や考慮を重ねた末にある演奏というものは、ある種の押し付けとか、あちこちに変なアクセントがついてみたりと、せっかくだけど何かが違うように思います。
よく言われることですが、ベートーヴェンは即興演奏の名人であった由。

苦難とこだわりの人生を送り、その作品は推敲に推敲を重ねたというけれども、その人物が存命中は即興の名人だったというのも有名ですね。
激情家で、現代でいうならクレーマーみたいな人物であったことを考えると、学級肌の学術発表のような演奏よりも、このHJ LIMのような一瞬一瞬の感興で掴みとったものをズバズバと音にしていくほうが、よほどベートーヴェンのに叶っているのではないかと思うのです。
とりわけハンマークラヴィア(とくに第4楽章)をあれだけの勢いで一心不乱に弾けるのは大したもの。

現代の一流とされる民主的な指揮者が、機能的なオーケストラを振って、全てがシナリオ通りに運んでいく、どこかウソっぽくて一向に炎のあがらないベートーヴェンよりは、いまだにフルトヴェングラーの雑味も含みながら正味で聴かせる演奏に満足と感銘を覚えるのは、理にかなったことかもしれません。
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美食の時代

正月休み中、ショパンのノクターンを通して聴きたくなり、ずいぶん久しぶりにダン・タイ・ソンのCDを聴いて過ごしました。

端正でスムーズ、嫌なクセがどこにもないのは、聴いていてまず快適で気持ちがいい。
全編に聴こえてくる肉付きのある温かい音、繊細さを損なわないのに臆さない芯もあるところがこの人らしさでしょうか。
かねてよりマロニエ君は数あるノクターン全集の中でも随一のものだと思っていましたが、いま聴いても(というよりいまのほうがさらに)魅力的で、非常に聴き応えのあるものだと思いました。

昔は、ダン・タイ・ソンの演奏は美しいけれど曲によってムラがあることと、いささか淡白な面があるところが気になっていましたが、今どきのハートのない無機質な演奏を耳にしていると、この人なりの明確な美意識とこまかく行き渡る情熱が裏打ちされており、あらためて感銘を覚えました。

彼のショパンすべてが良いとは思わないけれど、ノクターンはこのピアニストの美点と長所が最も発揮される分野だと思います。
こんなに素晴らしかったかといささか驚きながら、数日間、繰り返し聴きました。

ショパンのノクターン全曲は、それなりにいろいろなピアニストが録音しており、中には「同曲最高の演奏!」のように褒め称えられたものがいくつかありますが、マロニエ君はその評価には同意できないものが少なくありません。
とりわけ評価が取れるのは、いわゆるショパンらしさを捨て去って、無国籍風に、荘重で、劇的に、楽譜に忠実に、レンジを広く取ってピアニスティックな精度を上げて弾けば、おおかた高評価に繋がるイメージです。

ダン・タイ・ソンのノクターン全集は、1986年に日本で録音されたもので34年前ということになりますが、そこにはまだ演奏に対して、ひたむきな表現とそれを認めようとする価値観が支配していた時代だったことが窺えます。
この1980年代、まだ演奏者の個性や人間性が、いかに演奏上の息吹となって表現されてくるか、作品をどう解釈しているか、そのあたりを芸術性として、聴き手も強く求める気風が残っていたことが偲ばれます。

それと、やはりピアノが今のものと違い、無理なくとてもよく鳴っていることは唸らされました。
表面的な派手さみたいなものはなく、むしろ柔らかい音のするピアノなのに、現代のものに比べると深いところからずっしりと鳴っており、全音域にわたって音のエネルギーや迫力がまるで違いました。

今のピアノを聞いていると、いかにも精巧で整ってはいるけれど、音に肉付きがなく、心に響く(残る)ものがない。
もしや、自分がピアノの音をありもしないレベルに理想化し過ぎてしまっているのでは?と疑ったこともありますが、こういう音を聴いてみると、決してそうではないことが明白でした。

1986年録音ということは、必然的にそれ以前に製造されたピアノで、かといって1960年代ごろのピアノには感じない洗練や緻密さもあるから、おそらくは80年台の前半の楽器ではないかと(勝手に)思います。

ヴィンテージを別にすれば、個人的には一番好きな時代のスタインウェイです。
その時代の空気、そこに生きるピアニスト、楽器、そして作品となにもかもが揃っていたというか、端的に言って、音楽も昔はずっと贅沢で美食だったんだなぁと思いました。
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ステファン・ポレロ

音楽が演奏される際、作品、演奏者、楽器、そのいずれもがきわめて大きな要素を占めるのはいうまでもありません。

さらに演奏会となるとホールの音響はたいへん重要となり、CDでは録音のやり方やセンスに負うところも大きくなります。
とくにホールの音響とCDの録音状態はかなり大きな要素で、これが一定水準を満たしていないとすべては台無しに。
コンサートや録音のほとんどは作品や演奏がメインですが、たまには楽器が主役になることも。

フランスにステファン・ポレロ(Stephen Paulello)というピアノ設計家がいます。
詳しいことは知らないけれど、中国のハイルンピアノでホイリッヒなどの設計をしているようでもあるし、フランスでは自身の名を冠したオリジナルピアノ(しかも交差弦と平行弦の両方)を作っているようです。

以前にもステファン・ポレロ・ピアノ(このときはおそらく交差弦)を使ったラヴェルのピアノ曲集など、いくつかのCDを気がつく限り購入しては聴いてみましたが、どこか無機質でこれといって際立った印象はなかったというのが正直なところ。

今回は、並行弦で奥行きは3m、しかも102鍵というベーゼンドルファー・インペリアルよりもさらに5鍵多いステファン・ポレロ・ピアノを使って録音されたというCDがあったので、早速購入してみました。
曲目はわざわざ書くこともないけれど、いちおう次の通り。

リスト:ロ短調ソナタ
シューベルト=リスト:白鳥の歌より3曲
ドビュッシー:前奏曲集より3曲
スクリャービン:詩曲、夜想曲/焔に向かって
演奏:シリル・ユヴェ

evidenceというレーベルの、立派な装丁のCDでしたが、まず音がやけに小さいことに驚かされ、初っ端からいやな予感が。
普通はロ短調ソナタなど開始間もなくの激しいオクターブなど、思わずドキッとすることが多いのに、演奏そのものもやけに力感がないことに加えて録音も音が小さいというダブルパンチで、まず普通に聴くことが難しく、何度も何度もボリュームを上げるしかなく、ついには普段やったことがないところまでつまみを回して、やっとどうにか…というものでした。

これは、意図あってのことかもしれないけれど、マロニエ君はこういう録音というだけでストレスで、聴こうという意欲をかなりそいでしまいます。
演奏も、とくにどうということはない地味なもので、この演奏と録音をもってステファン・ポレロ・ピアノをアピールしようとしても、かなり難しいのではと思いました。

ちなみにCDのジャケットにはStephen Paulelloのロゴがあり、タイトルも「OPUS 102」というこのピアノのモデル名のようなので、このアルバムはピアノが主役であることは疑いようがありません。

シリル・ユヴェというピアニストは、調べてみるとフォルテピアノのプレイエルやエラール、シュタイン、ジョン・ブロードウッドなどを演奏しているCDや動画あるようで、この手のCD制作に応じるピアノマニアのピアニストなのかも。

ここに聴くステファン・ポレロの印象は、どちらかというと冷たい音(それが良さかもしれないけれど)で、個人的には惹きつけられるものは感じられませんでしたが、こういう音が好きという人もおられるのでしょう。
何か特別なものが心に残るようなものはなく、平行弦のピアノの良さもわかるような…わからないような…。
全音域が均一というのは聴き取ることができる点で、一音一音が独立したトーンをもっており、すべての音がシャープでスパッと刀を振り下ろすような感じ。

写真を見ると、木目の外装にフレームが銀色、さらに鮮やかなブルーのフェルトが目を引きますが、いかにもそういうイメージの音だと思います。
かろうじてわかったのは、音に声楽的な要素はなくパワーも感じないけれど、音の分離と伸びが良いようで、これが並行弦故の特徴なのか、あるいは広大な響板と長い弦によるものなのか、それははっきりはわかりません。

ただ、ベーゼンドルファー・インペリアルにしろ、オーストラリアのスチュアート&サンズにしろ、超大型ピアノというのはどこか茫洋として(それを余裕と捉える向きもあるのでしょうが)、結束した感じに乏しく、低音域は似たような音になるような印象をもちました。

話を冒頭に戻すと、ピアノの魅力を伝えるには、やはりそれなりの魅力ある演奏と録音でなくては、ピアノの音に耳を傾ける前にその一風変わった録音と、まったく面白味の欠片もないモタモタした演奏にぐったり疲れてしまいます。
せめて、ナクソスのCDぐらいの演奏と録音であればと思うばかり。

バレンボイムもスタインウェイDベースに並行弦のピアノを作らせたりするぐらいだから、独特の良さがある筈だと思いますが、それを聴き手に伝えて納得させるには、奏法もそれに即したものでなくてはならないと思われますが、今はまだそういう演奏には出会えていない気がします。
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リシャール=アムラン

久しぶりにネットからCDを購入しました。

これという明確な理由があるわけではなく、とくに欲しいと思うCDがさほどなかったことと、すでにあるCDの中から聴き直しをするだけでも途方もない数があって聴くものがなくて困っているわけではないし、一番大きいのは新しい演奏家に対する期待が持てないことかもしれません。

また、慢性的なCD不況故か、リリースされる新譜も激減しており、店舗でもネットでも新譜コーナーには何ヶ月も同じものが並んでいたりと、この先どうなるのか?…といった感じです。
以前は、毎月続々と新譜がリリースされ、興味に任せて買っていたらとてもじゃないけど経済的に追いつかないほどでしたので、この業界も大変な時代になったということがよくわかります。

実際、若いピアニストでも興味を覚える人(つまりCDが出たら買ってみようと思えるという意味)というのはほとんどなく、大体の想像はつくし、もうどうでもいいというのが正直なところ。
そんな中で、わずかに注目していたのが2015年のショパンコンクールで2位になった、カナダのシャルル・リシャール=アムランで、彼のCDはショパン・アルバム(コンクールライヴではないもの)とケベック・ライヴの2枚はそれなりの愛聴盤になっています。

現代の要求を満たす、楽譜に忠実で強すぎない個性の中に、この人のそこはかとない暖か味と親密さがあり、けっして外面をなぞっただけのものではないものを聞き取ることができる、数少ないピアニストだと感じています。

とくにケベック・ライヴに収録されたベートーヴェンのop.55の2つのロンドとエネスコのソナタは、ショパン以外で見せるアムランの好ましい音楽性が窺えるものだと思います。
テクニック的にも申し分なく、しかもそれが決して前面に出ることはなく、あくまでも表現のバックボーンとして控えていることが好ましく、常に信頼感の高い演奏を期待できるのは、聴いていてなにより心地よく感じています。

さて、このアムランはそのショパンコンクールの決勝では2番のコンチェルトを弾きました。
このコンクールでは、決勝で2番を弾いたら優勝できないというジンクスがあるらしく、それを唯一破ったのがダン・タイ・ソンで、入賞後のインタビューで「なぜ2番を弾いたのか?」という質問に、アムランは「1番はまだ弾いたことがなかったから…」というふうに答え、「いずれ1番も練習しなくてはいけない」と言っていましたが、それから3年後の2018年に、そのショパンの2つのコンチェルトを録音したようです。
指揮はケント・ナガノ、モントリオール交響楽団。

前置きが長くなりましたが、今回購入したうちの1枚がこれでした。
添えられた帯には「アムランの芳醇なるショパン。ナガノ&OSMとの情熱のライヴ!」とあるものの、聴くなりキョトンとするほど整いすぎて、まさかライヴだなんて想像もできないようなキッチリすぎる完成度でした。

決して悪い演奏ではないけれど、演奏自体も録音を前提とした安全運転で、マロニエ君にはこれをやられると気分がいっぺんにシラケてしまいます。
演奏というのは、ワクワク感を失って額縁の中の写真のようになった瞬間にその価値がなくなると個人的には思っていますが、こういうものが好きな人もいるのでしょうが、個人的にはとてもがっかりしました。

リシャール=アムランという人は、自分を認めさせようという押し付けがなく、おっとりした人柄からくるかのような好感度の高さがあるけれど、このCDでよくわかったことは、でもキレの良さなどはもう少しあった方がいいということでしょうか。
それから、はじめのショパンのアルバムの時から少し気になっていたけれど、装飾音がいつもドライで情緒がないことは、今回もやはり気にかかりました。
とくにショパンの装飾音は、それが非常に重要な表情の鍵にもなるので、この点は残念な気がします。
初めに感じたことは、時間が経過しても曲が変わっても同じ印象が引き継がれてしまうのは、やはり人それぞれの話し方のようなもので、深いところで持っているクセなんだなぁ…と思います。

それでも全体としてみれば、今の若手の中では好きなほうのピアニストになるとは思います。
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中古CD Vol.3

中古CD、第3弾です。
CDと言っても、新品と中古ではこちらのスタンスもチョイスの基準も違いますが、だからこそ訪れる思いがけなさというか、要は冒険できる点が最大の魅力です。
わずかに以前よりも失敗が少なくなってきたような気もしますが、一番大事なことは勘ですね。

❍【キュイ 25の前奏曲】
ロシア5人組のひとり、チェーザレ・キュイによるピアノのための25の前奏曲。バッハやショパンとは違った順序で全調性をまわり最後に再びハ長調に戻るということで25となる作品。演奏はジェフリー・ビーゲルというアメリカ人のピアニストで、録音もアメリカ・インディアナ州で行われているが、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアル。キュイは本業は軍人で、その余技として作曲をしていたらしいが、その作品はとても余技といえるようなものではない本格派で、しっかりと聴き応えのある悲壮的で重厚な曲調が並ぶ。しかしロシア5人組と他の4人と違うのは、民族臭がなくむしろ西ヨーロッパ的な雰囲気を持つもの。いかにも意味ありげな調子だが、何度も聞いているとそれほどのものにも思えないが、ロマン派の隠れた作曲家という点では十分に通用すると思う。

△【アンドレ・プレヴィン フランス室内楽】プーランクのピアノと管楽器のための六重奏曲、ミヨーの演奏会用組曲「世界の創造」(室内楽版)、サン=サーンスの七重奏曲という字面で見るとやけに本格的でものものしい印象だが、聴いてみると音楽の中に惹きこまれるような作品というよりも、音楽による遊びといった印象。作曲者も三者三様かとおもいきや、どれを聴いても大差無いように聞こえてしまうし、まるで昔のドタバタアニメの効果音楽みたいで、フランス音楽の中にはこういう流派もあるなあということを思い出す。楽しさはあるからたまに聴くのはいいけれども、あくまで気が向いた気だけ楽しむものという一枚。ジャケットデザインは黒バックに青とグレーと赤の太い線だけで顔が描かれたシャレたもので、ほとんどこれで買ったようなもの。

❍【蟹 タブラトゥーラ】リュート奏者のつのだたかし氏を中心とする中世古楽器のグループで、前回、波多野睦美さんの歌に感銘し、その流れで購入したもの。楽器はリュートはじめ、フィドル、リコーダー、パーカッションなど多数で、なんとも不思議な音楽にはじめは大いに戸惑う。古楽器といってもここまでくるとかえって新しくもあり、東洋的なのか西洋的なのかさえわからない。ライナーノートによると結成は1984年とあるので、30年以上の活動実績があるということか。全15曲、そのうち古いものは13世紀のフランスのものなど6曲で、それ以外はメンバーによるオリジナルらしい。耳慣れた主題や動機が幾重にも展開し様々に遍歴し再現して解決するという、いわば音の起承転結ではなく、どちらかというとテンポや旋律の繰り返しが主体の、音楽の原型とはこのようなものだったのかと想わせるもの。こういう音楽に触れられたという点で❍。タイトルの通り蟹の絵をあしらったジャケットがハッとするようなセンスにあふれていて、これを目にするだけでも価値がある。

❍【ヘンゼルト・ピアノ作品集】セルジオ・ガッロによる演奏。ヘンゼルとは19世紀に活躍したドイツロマン派の音楽家で、この時代によくある作曲家兼ピアニスト。リスト、ショパン、シューマン、フンメル、タールベルクらとほぼ同年代の人物だが、その名前も作品ではほとんど耳にすることのないため、珍しいCDとして購入。いずれも耳に馴染みやすい、甘く叙情的なサロン音楽という感じで、ところどころにリストやシューマンを想わせる瞬間があるし、全体としてはこの時代特有の空気を感じる。上記のキュイに比べると、ずいぶん軽い感じがあり、それがロシアとヨーロッパの差のようにも思える。どこか女性作曲家の作品のようにも感じるけれど、ライナーノートにあった写真は、鋭い眼光にチャイコフスキーのような髭の老紳士で、その作品と風貌はギャップを感じることに。ピアノはおそらくスタインウェイだと思うが、温かみのあるふくよかな音が印象的。

△【シャルヴェンカ ピアノ作品集1】19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、ポーランド系ドイツ人の作曲家兼ピアニストの作品。ポーランド系というだけあって、ショパンからの影響を随所に感じるし、ピアノ・ソナタ、即興曲、5つのポーランド舞曲、ポロネーズと曲のスタイルもショパン風。ただし、ポーランドの香りやリズムがそうであっても、ショパンの洗練を極めた美の極致とか触れると壊れるような詩情はなく、才能はあってもあくまで平凡な発想の作品。演奏はセタ・タニエル。このシリーズは確認が取れただけでも第4集まで出ているようだけれど、それを買い揃えたいかといえば…ま、これだけでいいかなという感じ。上記のヘンゼルトと同様、このような普段耳にする機会のない作品に音として触れられることも、中古CDの魅力で、これらを新品で買うことはなかなか難しいだろう。

☓【アマウラ・ビエイラ名演集】セール対商品の中からなんとも変わった雰囲気のCDを発見。ブラジルの作曲家兼ピアニストらしいが知らなかった人なので、ネット検索すると度々来日して280回を超えるコンサートをしているという。くるみ割り人形の編曲から、ドビュッシー、ショパン、リスト、シューベルト、サン=サーンス他自作まで15曲に及ぶアルバム。演奏自体は常套的なもので、とくに変わったところはないけれど、はじめの音が鳴りだ瞬間、その音質に驚愕。まるで自宅でシロウトが録音したかのような、マイクが近くて残響ゼロの音。データをよく見るとサンパウロのスタジオで録音されたもののようだが、クラシックの録音経験の殆ど無い人達によって収録されたものとしか思えなかった。
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またまた中古CD

中古CDの当たり外れは、困ったことにちょっと病みつきになってきたかもしれません。
もともとが、ダメモトでやっていることなので、失敗してもさほどの痛手ではないのですが、それでもみみっちいドキドキ感はあるのです。
前回までの経験として、あまりの激安はやはりゴミになる確率が高いので、そのへんはより注意することに。

△【アルバン・ベルク弦楽四重奏団のモーツァルト】
思い込みかもしれないけれど、モーツァルトの弦楽五重奏曲といえばあのg-moll KV516のような不朽の名作があるにもかかわらず、意外にもこれといったCDがあるようでない印象。アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、1980年代ぐらいからかずいぶん流行った時期があり、マロニエ君もその波にのせられてベートーヴェンの全集など買い揃えたりしたが、技巧的で見事だが、今の耳で聞くとやけに力んでいるようで、そこがいささか古臭くもあり、心から作品の躍動を楽しめるというのとはちょっと雰囲気が違った気がする。五重奏なので、ヴィオラをもう一人加えたもので、この時代特有のやや固く叙情を排した印象だが、とりあえず演奏自体がしっかりしているので聴くには値する。ただし、これでこの作品の核心に触れられるかというといささか疑問が残る。モーツァルトの弦楽五重奏曲でとくに第3番/第4番というのは、何十年来耳にしているから、いかに傑作といえども、そう何度も繰り返して聴く気になれないのが残念。

☓【グールドのリパフォーマンス】
2006年の発売当初からかなり話題だったがどうしても気乗りがせずに買わなかったCD。いわゆる現代のコンピュータ制御による精巧な自動演奏を用いて、1955年のゴルトベルク変奏曲をヤマハのコンサートグランドで再現録音したもの。マロニエ君はそもそも自動ピアノというものが、演奏者と楽器の関係なしに成り立つものである以上、まったく興味がわかないし、それは現代のハイテクをもってしても覆ることはないことを確認することになった。解説文にはこのシステムがいかに優れたものであるかということが縷縷述べられてはいるが、要するに、聴いてみて、まったくの技術屋の機械遊び以外のなにものでもないと思った。タッチは浅く骨抜き、なにより気が入っておらず、うわべだけの霞みたいな演奏は、新録音であろうとサラウンドなんたらであろうと無意味。耐えられずにオリジナルのモノラル録音を鳴らしてみると、いっぺんに目の前が明るくなるような爽快さがあった。モノラルで結構、マロニエ君にとっては精神衛生にもよろしくない1枚。

❍【ドラティのバルトーク】
どんなに音楽が好きでも、あまり馴染みのないまま来てしまった名曲というのは人それぞれあるもので、マロニエ君にとって、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」がまさにそれ。つかみどころのない難解な作品のイメージがあったけれど、いざ腰を据えて聴いてみるとまったくそんなことはなく、わりにすんなり馴染むことができたし、なかなかおもしろい作品でかなりの回数を繰り返し聴くことになった。上記のモーツァルトで述べたように、聴き始めの頃だけにある新鮮さというのは、回を重ね時を経るうちにしだいに失われていくのは如何ともしがたいが、そういう意味でも大いに楽しむことができた。いずれも大変な力作で、良いオーケストラの演奏会で聴くには好ましいだろう作品。そもそもマロニエ君は、マーラーやブルックナーに多くあるように、長大な管弦楽のための作品で、曲の出だしが聞こえにくいような感じで開始されるのが、やたら思わせぶりで泥臭く思ってしまうところがある。

❍【ジョシュ・ガラステギのバレエレッスン用CD】
スペイン出身のピアニストらしいが、マロニエ君はまったく知らなかった人。後でネットで検索すると、バレエのレッスン現場ではバリシニコフの時代からこの分野で有名なピアニストだったらしい。曲はバッハからチャイコフスキー、スペイン物まで有名な曲をバレエスタジオでの練習用に編曲したもので、音楽として鑑賞するものではないけれど、マニア的にはなかなか面白いCDだった。なにより印象的だったのは、一切の記載はないけれど、きめ細やか(これは稀有なこと)でしかも朗々とよく鳴る理想的なニューヨークスタインウェイの音が聴けるという点。個人的な印象で云うと、製品ムラというか平均的なクオリティでいうと圧倒的にハンブルク製だと思うが、ごくたまにある当たりのニューヨークの中にはとてつもない逸品があるようで、まさにその音を聴けるだけでも購入した甲斐があったというもの。ちなみにこれ280円だったけれど、ネット上ではなんと4700円というのにはびっくり。

☓【カテリーナ・ヴァレンテ】
この人のことを知らないマロニエ君は、昔のフォーマルな装いの写真からしててっきりクラシックの歌手だた思い込み、閉店間際、4枚組で500円ということもあってついでに購入。はたして音を出してみると古き良き時代のポピュラーで、いわゆるヨーロッパの歌謡曲だった。自分の無知が招いたことだし、クラシックの棚にあったのも要因。ま、たまに車中などでガラッと気分を変えるのにいいかも。
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1勝5敗

古本店で漁る中古CDというのは、やはり良い物に出会う打率は高くはないようです。
もちろんマロニエ君の見極め力が低いから…と言えばそうなんですが。

本来欲しいものや新譜などはネットで新品を購入しますが、よく熟考した上でも失敗はつきもの。

そもそも中古CDは、新品ならまず買うことはないものに敢えて挑戦するわけで、ハイリスクとなるのは必至。
最近もかなり失敗を重ねてしまいました。
5枚中、4枚が失敗(☓)、成功(❍)はたった1枚で、以下の通り。

☓【バッハのピアノ曲】
べつに興味をひくピアニストでもなく、フランス風序曲やイタリア協奏曲など曲もあえて買う必要はないものだったが、ニューヨークでの録音とあり、いかにも大雑把でアメリカチックな雰囲気のCD。マロニエ君は今だにグールドやシェプキンのイメージを引きずっていて、ニューヨーク、バッハ、ピアノとくるとなぜか反応してしまうところがあり、我ながらもうそろそろそんな妄想は捨て去るべきところ。NYスタインウェイの軽やかな響きで聴く現代的なバッハのイメージは見事に裏切られ、モダンのかけらもなく、ピアノの音もどこか重い。ブックレットを見ると、え!?Hamburg Steinway Dとあり、どうりで!と思いつつ、なにひとつ見るべきところのないものでガックリ。

☓【フランクの初期ピアノ曲集】
ナクソスレーベルらしい珍しいアルバム。バラード、4つのシューベルトの歌曲のトランスクリプション、ポーランドの2つの歌による幻想曲、アクス・ラ・シャペルの思い出という内容。出だしからしてどうしようもなくダレてしまう曲、シューベルトの歌曲もただ歌をピアノで弾きましたというだけの感じだし、ポーランド…は聴き覚えのある旋律と思ったらショパンの「ポーランド民謡による幻想曲」のそれだが、ショパンのそれとは雲泥の差で、げんなりするほど退屈。どれも一度聞くのがやっとで、あのピアノ五重奏やヴァイオリンソナタなどを思わせるものはどこにもない。ピアノは音もボワーンとして楽器も調律もまったくみるところナシ。

☓【小沢/サイトウ・キネンの第九】
2002年9月、松本文化会館で行われた演奏会のライブCD。ぜんぜん小沢ファンではないけれど、むかしこの期間限定オーケストラが始まった頃、ブラームスのシンフォニーで聴いた熱気と精緻さが結びついた新鮮な演奏にびっくりした記憶があったので、ベートーヴェンはどうかと購入。果たして、あのブラームスの感動は何だったのかと思うほど無感動。耳をすませばオケの演奏は機能的だし歌手もうまいけれど、総じて覇気がなく、要するになにも迫って来ないし聴く意味が感じられない。会場のいかにも多目的ホール然としたデッドで仕切られたような音響も追い打ちをかけるのか、音に幅がなく縮こまっているようで、がんばって2回聴いたけれど、こういう演奏はとりわけ第九ではしんどい。自宅でCDを聴くのにわざわざこれである必要はなく、フルトヴェングラーでリセットしたくなる。

☓【シフのスカルラッティ】
今を旬とばかりに冴えわたるバッハなど、現代の最も雄弁かつ信頼のおけるピアニストのひとりであるシフ。彼のスカルラッティならさぞやと思ったものの、全体に遊びがなく、固くて艶のない演奏に拍子抜け。スカルラッティの嬉々とした滑舌や色彩とは程遠い、モノクロームな世界。録音もイマイチ。データを見ると1987年の録音で、シフの輝けるピアノを聴くには、もう少し時を待つ必要があったらしい。考えてみれば初回のバッハ全集も途中から急に良くなるところがあって、この人はある時期を境に一気に熟成が進んだと思われる。これはその花開く前の演奏。そういう意味ではスカルラッティも再録を望みたいもので、少なくともこのアルバムに関しては何度も聴こうという気にはなれない。

❍【ひとときの音楽 波多野睦美】
いま注目のメゾソプラノ。歌手といえば一昔前までは華やかなオペラを目指すか、端正なリート系に寄せるかが一般的だったが、この人は中世・ルネサンス期から近現代までの幅広いレパートリーをこなす異色の歌い手。このアルバムでもパーセルを8曲、ほかにヘンデル、モンテヴェルディ、バッハという内容。バックもバロックヴァイオリンの第一人者である寺神戸亮さんはじめその道のスペシャリストが居並び、開始早々、あまりに自然にバロックの時代にいざなわわれる。絹糸のような美しい透明な声、少しもわざとらしさのない様式感、迷いのない澄明な表現で、ともすれば黴臭く聞こえてしまうこれらの曲を、まったく違和感も前提も注釈もなしに、心地よい音楽として聴かせてくれるのは大したものだと思う。ヴィブラートも必要なときにだけ最小限で用いられて装飾音のよう。丁寧で気品があり、かといっていちいち何かを鼻にかけるところもないナチュラルな美がある。すっかり気に入って、何日間もこれ1枚を聴いて過ごした。

たまにこういうことがあるから、ついまたやめられなくなるという繰り返しになるんですね。
考えてみれば5枚で新品一枚分と思えば価格的には許せますが、困るのは聴かないCDがずんずんと積み上がっていくこと。
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マルセル・メイエ

時代の流れに反抗し(ているわけでもないけど)、あくまで音源はCDにこだわり続けているマロニエ君です。

最近購入したCDで圧倒的に素晴らしく感激ひとしおだったのは、20世紀の前半から中頃にかけて活躍したフランスのマルセル・メイエのスタジオ録音集成という17枚からなるボックスセット。

ネットにあるCDの説明によれば、1897-1958の生涯。
パリ音楽院でマルグリット・ロンやコルトーの教えを受け16歳で卒業。
ラヴェルやドビュッシーの多くの曲の初演者であり、サティやフランス6人組、コクトーやピカソ、ディアギレフなどと音楽以外の芸術家とも深い関わりがあったらしく、フランスの最も輝く時代とともに生きたピアニスト。

つい先日、ギーゼキングのバッハでぶったまげて何日間もそればかり聴いて過ごしていたというのに、それをつい横にやってしまうような魅力ある素晴らしいメイエのピアノに驚きのため息が止まりません。
実をいうと17枚を聴くのにひと月ちかくかかりました。
なぜならあまりに素晴らしすぎて、繰り返し聴くものだから、なかなか次のCDに交換ということになりません。

しかも、17枚とはいっても、すべてCD収録時間ギリギリの80分近い収録となっているので、LP時代でいうと倍近い枚数になっていたものだろうと思われます。
それが、こうしてCDの小さくて簡素な箱に入れられ、一枚あたり定価でも200円ちょっとで買えるのですから、大変な時代になったものです。

この人のピアノを聴いていて、演奏の最も中心をなしているものはなにかといえば、それはセンスだと思いました。
ただ、センスという言葉で誤解されたくないのは、センスというとすぐにファッション的な意味合いや、繊細でオシャレ的な意味合いで受け取られることが多いのですが、そうではなく、演奏スタンスというか価値感という点で、しっかりしたスタイルの見切りがついている、あるいは楽譜を音楽的言語にいかに美しくデフォルメできるか…というふうに思っていただけると幸いです。

あまり枝葉末節にこだわらず、音楽の本質、開始から発展し収束に向かって終りを迎える個々の作品の短い生涯を再現するにあたって、最も大事にすべきものはなにかということを、この人の演奏はよく示してくれるように思います。
なので、もしメイエの演奏を聴いて何か影響を受けるとすると、それは直接の解釈とかアーティキュレーションではなく、音楽を自分流にどう捉えるかという本質であり、自分ならピアノの前に座ってどんな演奏を旨とするか、それをシンプルに考えるヒントにあるということではないかと思います。

現代の凡庸な演奏家の多くは、楽譜に正確に、完璧に弾けているというアピールばかりを詰め込みすぎて、肝心の「音楽」が本来の精彩を失い、聴き心地の悪いものになっている演奏で溢れています。
場所々々ではいかにも立派なように聴こえるけれど、全体として通すと詩もなければドラマもない、要するに何の魅力もない、音楽の神様が一瞥もくれないような演奏。
その真逆にあるものがメイエの演奏にはぎっしり凝縮されているわけです。

必要以上にもったいぶるようなことはせず、表現表情も過度にならず、それ以上は聴き手の感性に委ねられた、聴き手の感性を呼び起こす演奏なんですね。直接的にエグい表現などはまったくなく、どちらかというと毅然として澄みわたっている。
そのなんとも微妙なところが最高なんです。

技巧もそのまま現代でも第一線で通用するほど見事であるけれど、まったくそれを見せつけるような自慢や強調はゼロ。
ましてや楽譜に対する忠実ぶりを正義のように押し付けてくるわけでもないし、戦前のピアニストありがちな恣意的で独善的なものとも見事なまでに区別された、楽譜に批准した知的な演奏であることは衝撃でした。

どれを聴いても活気に満ち、音楽があるがままのように生きている。
昔はこういう人が自分の生きるべき場所に生きることができ、なすべきことがなされたこと、そんな当たり前が素晴らしいと思いました。
それは時代の力でもあり、まわりにいた多くの芸術家たちとの相乗作用もあって、このような演奏を生み出し支える大きな養分になったことでしょう。

今のピアニストは、ピュアな芸術家として生きるには、時代がなかなかその味方をしてくれないようです。
ひたすら技術と暗記のトレーニングに明け暮れ、あとはコンクールというレースに出てせっせと営業活動するなんて…それを外から軽蔑するのは簡単ですが、気の毒なこととも思います。
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ガラクタ漁り

古本店の中古CDはクラシックなどほん少しあるだけで、期待もしていなかったところ、たまたま面白いもの(しかも廃盤)がまぎれていたことで、ビギナーズラックだったと考えるべきなのに、つい味をしめて二度三度覗いてしまいました。

当然、そんな偶然が続くはずもなく、結果は玉石混交、失敗も少なくありません。
いいものについてはあらためて書いてもいいけれど、中には安さゆえに冒険心と欲に煽られて、普段だったら買わないようなものにまでついつい手を出してしまいます。

もちろん、興味を覚えたものはそれなりにいちおうは吟味して買っているつもりですが、しょせんはガラクタ漁りであって、ヘンなものをいくつか買ってしまいました。

掘り出し物も中にはあるから、勝敗は五分五分だとしても、五分五分ということは結局いいものを倍の値段で買っているようなもので、ま、せこい遊びとして、それはそれで楽しんでいます。

いくつかご紹介。
名も知らぬドイツ人ピアニストによるショパンの14のワルツというのがあって、いまさらショパンのワルツでもないけれど、裏に記された小さな文字に興味がわきました。
演奏者の名前のすぐわきに(Bechstein)という文字があり、ベヒシュタインによるショパンというのはどういうものか聞いてみたくなり購入。
ところが、これがもうウソー!と声を出したくなるような下手な演奏で、おまけに録音もぜんぜんパッとしないもので、1曲めでやめようかと思ったけれど、それじゃあまりに悔しいから一度だけ我慢して最後まで聴きましたが、それでハイ終わり。

むかし天才などと言われて有名だった日本人によるヴァイオリン名曲集。
若いころ、来日中のコーガンの目に止まり、彼が教えることになってソ連に行って研鑽を積み、帰国後は有名な画家と結婚した方。
この人は名前ばかり知っていて、まともに演奏を聴いたことがなかったからいいチャンスと思ったけれど、これがもうやたら古臭い、昭和の空気がどんよりただよい、日本人がここまで弾いてますよ!というだけのもので、とてもその演奏に乗って曲が羽根を広げるようなものではない。
当時のソ連にはただ上手い人なら日本とは比較にならないほどごろごろしていただろうし、コーガンほどの巨匠がこの人のどこにそんなに惚れ込んだのかと頭をひねるばかり。

ウェルテ・ミニョンの大いなる遺産ー19世紀後半の名ピニストたち。
あとからわかったけれど、ウェルテ・ミニョンは昔のピアノ自動演奏装置のことで、それを知らなかったばかりにすっかり騙されました。古いレコードのコレクターぐらいに思っていたのです。
マロニエ君は昔からピアノロールなどの自動演奏というのが嫌いで、これで録音したCDなどは決して買わないのですが、購入して中を見てはじめてそうだと判明。それをアメリカのブッシュ&レーンというピアノに取り付けて、往年の巨匠たち、すなわちプーニョ、パハマン、ザウアー、パデレフスキなど総勢8人によるショパン演奏でした。
この装置がどれほど正確に記録/再現能力があるのかは知らないけれど、聴こえてくる演奏は、どれも信じられないほど不正確で、大雑把で、あちこち好き勝手に改竄された演奏。技術的にもその名声にふさわしいとは到底いいがたく、そういう時代だったということは踏まえるにせよ、ひととおり聴くだけでもストレスを伴うものでした。
大半はメチャクチャといいたいような演奏で、最もまともだったのは日本にも馴染みのあるレオニード・クロイツァーの革命で、8人中たったひとりまともな人に会ったような印象でした。
ブッシュ&レーンというピアノも、良く鳴ってはいるようだけれど、鋭いばかりの耳障りな音で演奏と相まってかなりストレスがたまりました。

ジェシー・ノーマンのシューベルト歌曲集。
例によって神々しい、ビロードのような美しい声だけど、シューベルトの音楽がやけにものものしくゴージャスにされているようで、なんだか釈然としませんでした。個人的にはもう少し、簡潔な美しさの中に聴くシューベルトのほうがしっくりくるし好みです。
もちろん歌手としては途方もない存在であるのは疑いようもないけれど、ミスマッチなものでも無抵抗に有り難がっていた時代があったことを思い出しました。

「安物買いの銭失い」とはまさにこのことだと思いますが、趣味や楽しみにはムダはつきもの。
ムダや失敗のない趣味なんてあり得ないのだから、それをふくめて楽しんでいると勝手にオチをつけています。
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ギーゼキングのバッハ

自分でも意外でしたが、よくよく考えてみたらこれまでにギーゼキングのバッハというのは、なぜかご縁がなく聴いたことがありませんでした。
あれだけモーツァルトやラヴェル、ドビュッシーなど長年にわたって聴いてきたのに!

たまたま店頭で、ドイツグラモフォンによるギーゼキングのバッハ全集という7枚組のセットが目に止まり、「これはなに!?」ということになって直ちに購入。

平均律全曲、6つのパルティータ、フランス風序曲、2声3声のインヴェンション、そのたイタリア協奏曲や半音階的幻想曲その他で、ボーナストラックとして戦時下のライブとして有名な、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルとのシューマンのピアノ協奏曲が収められています。

録音データによると、CD7枚におよぶバッハは1950年の1月から6月にかけて放送用として収録されたもので、正式なレコードとして残されたものではないのかも。
もともとギーゼキングは譜読みが得意な人としても有名で、移動中に読んだ楽譜を到着後すぐに演奏したとか、驚くべき数の初演をしたことでも知られていますから、これぐらいのことは普通にやってのける人なのかもしれませんが、やはり凡人としては驚くばかり。

また、本当かどうかは知らないけれど、ギーゼキングという人はあまりになんでも易易と弾けるものだから、練習量もかなり少なく、録音に関してもあまり真面目さがなかったというようなことが伝えられています。

そのせいかどうかはわからないけれど、はじめに平均律第一巻を聴いたところ、あまりパッとせず、ただ弾いているだけという感じがして、バッハはあまり好きじゃなかったのかなぁ?ぐらいの印象を持ちました。
ところが途中からだんだん訴えるものが出始めて、それ以降はいかにもギーゼキングらしい、力まずサラッとした語り口の中に、ツボだけはカチッと押さえていく魅力的なものに変化して(ように感じた)、以降は終わりまでとても素晴らしい演奏で聴き終えることができました。

二度目三度目と繰り返すうちに、凄みのようなものすら感じるようになり、初めの印象は見事にひっくり返りました。
思うに、最近の演奏家はバッハの平均律などというと、この競争社会の中で録音として残す以上、出来得る限りの最高クオリティの演奏を目指し、熟考を重ね何度も録り直しなどして、まさに正装し威儀を正して写真を取るような演奏になります。

ところがこのギーゼキングときたら、ごく気軽な調子とは言わないまでも、その演奏には気負いなどというものはまるで感じられない、演奏そのものが脱力している稀有なもの。そのあまりにもサラッとした感じが、はじめ耳が慣れず、パッとしないような印象になったのだろうと思います。
で、ひとたび耳が慣れていよいよ聴こえてきたのは、アッと驚くような信じられないようなものすごい演奏で、アルゲリッチも真っ青な驚異的な指さばきと、それを一切ひけらかすことのないスマートな表現によって、めくるめくバッハの世界が際限もなく続きます。

自分ではギーゼキングはそれなりに知っているつもりのピアニストだったのが、この一連のバッハを聴いたことで改めて衝撃を受け、これほどの天才とは思いませんでした。
その人間業とも思えない音の奔流は圧巻という他はなく、しかもすべてが自然で自由自在!
すっかりハマってしまいました。

曲によって出来不出来があったり、ミスが散見されるあたり、それほど真面目に録音したものではないことが察せられ、それでもこれほどの演奏になってしまうのかと思うと、却ってその凄さが引き立ってゾクゾクっとしてしまいます。

しかも才をひけらかすでもなく、淡々と(しかし恐るべき推進力をもって)進行し、それが途方もない濃密さにあふれている。
これだけの天才がさも自然のような姿をしているという点では、モーツァルト以外にはちょっと思いつきません。

これからも長く聴いていきたいCDになりそうです。
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有名曲を並べると

過日のこと、友人と立ち寄った古本屋で、ショパンとジョルジュ・サンドのことを綴った1冊の本が目に止まりました。

まだ読んではいないのですが、アシュケナージとアルゲリッチによる76分におよぶCD付きで、傷みはほとんどないのに価格はわずか186円!だったので、ろくに吟味もせず買ってしまいました。

とりあえず先にCDを聴いてみることに。
曲目は、ある程度予想はしていたものの「うわあ!」と思うほど超有名曲ばかりで、大半が「雨だれ」「子犬」「革命」「幻想即興曲」といったたぐいの曲ばかりベタベタに並んだものでした。
第1曲目がワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」とくれば、およそどんなものかご理解いただけるでしょう。

ま、ほとんどタダみたいな感じのものだから、どういうものでも割りきっているつもりでしたが、聴き進むうちに思いがけない状況に陥ったことは想像外でした。

どの曲もよく知るものというか、大半は下手なりにも自分で弾いてみたことのある曲なのに、こうしておみやげ屋の店先みたいに並べられてみると、ある種独特な雰囲気が出てくると言ったらいいのか、ひとことでいうと独特の俗っぽいイヤ〜な感じに聴こえてしまい、これには参りました。

それぞれの曲のひとつひとつは素晴らしい作品であるのに、抜きん出てポピュラーというだけで脈絡もなく並べられ、手当たり次第に聴こえてくると、もうそれだけでひどく日本的な妙ちくりんな世界になるんですね。

2曲目はノクターン第2番、続いて別れの曲、幻想即興曲、さらには遺作のノクターンとなっていくあたり、なんだか皮膚の表面がむず痒くなって体中に広がっていくようです。
まるでルノワールの複製画でも飾った、レースだらけの部屋にでも通され、へんな花柄のカップで紅茶でも勧められた気分。

この調子がずっと続いて、15曲目がバルカローレで終わります。
とくに前半はアシュケナージが7曲続き、こういう場合、彼の中庸な演奏が裏目に出るのか、ほとんど安っぽいムード音楽が聴こえてくるようで、だったらいっそ本物のムード音楽ならいいのに、なまじそれがショパンであるだけに、却って始末に負えない感じになっています。

とはいえ、作品や演奏に手が加えられているわけでもなく、ただ単に曲のセレクトと並べ方によるものだけで、こんなにも印象が変わってしまうというのは「本当に驚き」でした。
世にショパン嫌いという人は少なくないけれど、マロニエ君はどうもそれが今ひとつ理解し難いところがあったのですが、仮にこういう角度から見るショパンなら、たしかに納得ではありました。

こんなCDを聴いたら、きっと多くの人がショパンを手垢まみれの通俗作曲家のように思えてしまうだろうから、かえって罪作りではないかと思います。
すくなくともあれだけの高貴かつ濃密に結晶化されたショパンの世界はわからなくなっていたように思うわけです。

ピアニスト(あるいはレコード会社)が魅力あるアルバムとしてセレクトしたショパンアルバムというのはあるし、それでとくにどうとも思わなかったのですが、それらとは明らかに似て非なるもの。
このタイプの独特な強烈さがあることを知っただけでも勉強になった気はします。

折しもこのところ、アルトゥール・モレイラ・リマ(ブラジルのピアニスト 1965年ショパンコンクール第2位)のショパンが聴いてみたくなり、むろん廃盤なのでアマゾンなどを探したところ、あるのはいずれも上記と似たような内容の「名曲集」ばかりで、今回の経験に懲りて購入意欲が失せてしまいました。

のみならず、本も読む意欲が半減していまいましたが、とりあえず読んではみるつもりです。
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再録願望

クラシック倶楽部の放送で、最近のエリザベト・レオンスカヤの演奏に好印象をもったので、機会があればシューベルトなどを聴いてみたいと書いていましたが、そんな折も折、CD店を覗いているとまるでこちらの意向を察してくれたかのように、彼女のシューベルトのBOXセットがワゴンのセール品の中に紛れ込んでいるのを発見して即購入。

WARNER CLASSICSによる6枚組で、2種の4つの即興曲、後期をすべて含む7つのソナタ、さすらい人幻想曲、ピアノ五重奏「ます」というもので、まあまあ主要な作品は押さえられている感じです。
しかも、価格は(正確に忘れましたが)たしか千円代前半ぐらいの、買う側にとっては大変ありがたい反面、演奏者には申し訳ないような破格値でした。

内容はやはり誠実一途な演奏で、どれを聴いても一貫した節度と厳しさと信頼感にあふれており、レオンスカヤのピアニストとしての良識・見識は疑いのないものでした。
ただ、どれもまだ現在にくらべると若い頃の演奏で、録音年を確認したところ1985年〜1997年の演奏で、一番新しいものでも21年、古いものは33年前の演奏ということになります。
もちろんそれでも満足の行くものではありましたが、最近のような表現の幅と自由さみたいなものは少なめで、やや硬い感じもあり、あえて欲をいわせてもらうなら、もうすこし力を抜いた微笑みがほしいというのはありました。

以前からマロニエ君はこのレオンスカヤの真面目一筋みたいな臭いの強すぎる演奏が苦手でしたが、当然ながらそれは曲にもよるわけで、シューベルトにはその折り目正しい演奏スタイルが向いていて、彼女のいい面がストレートに反映できる作品だったといえるでしょう。

そういえば吉田秀和氏が、ある著書の中でホロヴィッツのシューベルトに触れていたのを思い出します。
タイトルも忘れたし、うろ覚えですが、おおよその意味はホロヴィッツが弾くシューベルトを「あまりに作為的、香水がききすぎた感じ」という感じに表現し、「自分はもっとやさしみのある、正確さをもったシューベルトのほうが好み」といったようなことが書かれていたよう記憶しています。

これはまったく同感で、シューベルトというのはやっぱりそういう端正な演奏を好む音楽だと思うし、これをあまりに好き勝手にやられるとシューベルトの世界が崩れてしまいます。
かといって、あまりに細かい意味付けとハイクオリティをやり過ぎたのが内田光子で、全方位に意識を張りつめすぎた結果、聴くほうも強烈な疲労感に襲われ、最後は酸欠状態になりそうでした。

レオンスカヤにはそんな緊迫性はありませんが、もう少し丸く自由になっていただけたらいいと思われ、できることなら今のレオンスカヤにシューベルトの主要作品だけは再録してほしいと強く思います。

再録といえば、やはり評論家の宇野功芳氏は内田光子にモーツァルトのピアノソナタを再録してほしいと書かれていて、これまた激しく同感ですが、どうもその予定はないのだとか。

このように再録してほしいピアニストと作品の組み合わせはいくつかあるのに、なかなかそうはならない一方で、もういいよ!と思うようなものを、しつこく何度も入れる懲りない人もいたりで、どうも聴き手の要求と現実は噛み合っているとは言い難い気がします。
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キーシンのベートーヴェン

キーシン初のベートーヴェンのアルバムがドイツ・グラモフォンから昨年発売されましたが、今年になって購入してしばらく聴いてみました。

ドイツ・グラモフォンからは、まだ少年の頃にシューベルのさすらい人などが入ったアルバムや、カラヤンとやったチャイコフスキーの協奏曲などが出ていただけで、その後はRCAなどからリリースされていましたから、久しぶりにこのレーベルに復帰したということになるのでしょうか。

内容はソナタが第3番、第14番「月光」、第23番「熱情」、第26番「告別」、第32番の5曲と、創作主題による32の変奏曲を加えたもので、2枚組となっています。

ただしスタジオ録音ではなく、すべてライブ録音。
しかも一夜のコンサート、もしくは一連のコンサートではなく、10年間にわたるライブ音源の中からかき集めたようなもの。
本人の説明では「私にとってのライブ録音は常にスタジオ録音を上回っています。」ということもあるようで、言葉通りに受け取ればより良い演奏をCDとして残すため、本人の希望を採り入れたということになるのかもしれません。

順不同でソウル/ウィーン/ニューヨーク/アムステルダム/ヴェルヴィエ/モンペリエという具合に、すべてが別の場所で収録されたもので、こういうアルバムの作り方は、現役ピアニストとしては珍しいような気もしました。

これはこれで悪いとは思わないけれど、強いていうなら40代という体力的にも充実しきった年齢にありながら、ひとつのアルバムの中の演奏に10年もの開きがあるというのは、演奏家にはその時期の演奏というものが意識/無意識にかかわらずあるので、できるならもう少し短い期間に圧縮して欲しいという気持ちもないではありません。

その点で云うとポリーニが始めに後期のソナタを入れていらい、その後数十年間をかけてベートーヴェンのソナタ全集を作り上げたのも、あまりに演奏の時期が広がりすぎてしまった結果、全集というものの性質を備えているかどうかさえ疑問に感じました。
いっぽうで、技術と暗譜力にものをいわせて、あまりに一気に全曲録音などしてしまうのも能力自慢と作品軽視みたいで好きではないけれど、できればほどほどのまとまった期間の中で弾いて欲しいという思いがあるのも正直なところです。

そんなことを思いながら、要はスピーカーからからどんな演奏が聴こえてくるのかということに集中したいと思いました。

ピアニストにとってベートーヴェンのソナタは避けては通れぬレパートリーではあるけれど、キーシンとベートーヴェンの相性は必ずしも良くはないと個人的には感じていて、実際聴いてみても、どの曲にも常にちょっとした齟齬というか、パズルのピースがわずかに噛み合っていない感じをやはり受けてしまいました。

暑苦しいほどの壮絶な人生がそのまま作品となっているベートーヴェンと、円熟の時期にさしかかっているとはいえもともと清純無垢な天使の化身のようなキーシンの、叙情そのもののようなピアノには、本質的に相容れないものがあるように感じます。

むろんキーシンらしく、極めて用意周到で一瞬もゆるがせにしない気品あふれる美しい演奏であるのは間違いないし、演奏クオリティの高さとピアニストとしての際立った誠実さを感じるのですが、その結果として演奏があまりに完璧な陶器のようにつややかで、ピアニストと作品の間に横たわる決して合流しない溝のようなものがあることを見てしまう気がしました。

ベートーヴェン的ではない天才が、努力して作曲家に近づこうとしているけれど、それが本質的にしっくりはまらない面があるのを聴いている側は感じるのがもどかしい。

初期のものと最後のソナタではどんな違いがあるのかとも期待したのですが、少なくともマロニエ君の耳には、初期のそれがそれほど初々しくも聴こえなかったし、中期の熱情や告別も含めて、どれも同じような調子に聞こえました。
というか、こういう演奏からは、そういう聴き分けはむしろ難しくなると思われます。

それはどれを弾いてもキーシンが前に出てしまうということかもしれませんが、少なくともベートーヴェンを満喫したという気分にはなれませんでした。
個人的に一番好ましく感じたのは自作の主題による変奏曲で、キーシンらしい破綻というものを知らない嬉々としたピアニズムがここでは遺憾なく発揮されていたと思います。
あまりに深沈として大真面目になっているときより、詩情や感受性の命じるままに嬉々として弾いている時のほうが、キーシンにはずっと似合っているとマロニエ君は思います。
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遅咲きの名花

前に書いたポゴレリチに続くようですが、これまであまり積極的に聴かないピアニストにエリザベート・レオンスカヤがありました。

非常に真面目な、これぞ正統派という演奏をする人ですが、やたらときっちりして遊びや即興性が感じられません。
少なくともマロニエ君の耳には音楽の、あるいは演奏そのもののワクワク感とか面白さがなく、その演奏は「正しさ」みたいなものがプンプンと鼻につくようでした。

音楽は他の芸術と違って、とくに演奏芸術の場合、様々な約束事の上に成り立っているものなので、自由気ままという訳にはいかないし、全体の解釈はもちろん、個々の楽節や小さなフレーズに至るまで決まりとか法則があるといえばあるといえます。
とはいっても、あまりにその決まりずくめの演奏をされても、音楽を聴くことによる精神の刺激や快楽までも抑えこまれ、むしろ否定されているような時もあって、音楽を聴いているのにこんこんとお説教をされているようで、そういうことが苦手でずっと敬遠してきたピアニストです。

「こういうやり方もあるかも…」というのではなく、「こうしかないのです」と断定されているようでした。
ひとことで言うなら、あまりに先生臭が強い演奏でした…ある時までは。

ところが、いつだったか、何を弾いたかも忘れましたが、近年の来日公演の様子を見る限りこのイメージがずいぶん違ってきたようで、演奏に幅が出て、柔らかさや温もりのようなものが以前より格段に増しているように感じられたのです。
お歳を重ねられて少し寛容になられたのか、お若いころ突っ張っていたものが少しほどけてきたのか、理由は知る由もないけれど、味わいのある馥郁とした演奏をされていると感じたのでした。

もともとがかっちりとした基本のある正統派の人だけに、そこにちょっとした柔和さとか自然な呼吸感などが加わってくると、たちまちそこに色が加わり、蕾が花へと開いたように感じました。

そんな印象の修正が少しかかっていたところに、レオンスカヤの新譜が目に止まりました。
チャイコフスキーとショスタコーヴィチのソナタ、ラフマニノフの前奏曲などが収められており、曲の珍しさもあって迷いなく購入。

果たして、期待どおりの素晴らしいCDでした。
ショスタコーヴィチのソナタ第2番はほとんど馴染みのない曲でしたが、どういう作品であるかがよくわかる演奏であったし、ラフマニノフも見事なしっかりした演奏でした。
しかし、このCDのメインはなんといっても冒頭に収められたチャイコフスキーのソナタだと思います。
数あるピアノソナタの中でも、チャイコフスキーのそれは他の作品ほど有名ではないけれど「グランドソナタ」の名を持つ勇壮な大曲で、真っ先に思い出すのはリヒテルの演奏。冒頭ト長調の両手による和音の連続が強靭なことこの上なく、軍隊の行進のように始まり、あとには随所にチャイコフスキーらしさが感じられる作品。
全体を通しても、大リヒテルらしさ満載の、完全にこの作品を手中に収めた上での燃焼しきった演奏で、昔ずいぶん聴いた記憶があります。
しかし、クセの強い作品でもあるのか一般的なレパートリーとは言いがたく、実際の演奏機会は殆どないし、日本人も幾人かおられるかもしれませんが、パッと思い出すところではロシアものを得意とする上原彩子さんがCDに入れているぐらい。
上原さんはむろんリヒテルの強靭さはないけれど、確かな技巧と、ねっとりとした情念でこの大曲を弾き切っていました。

その点でレオンスカヤは、その二人ともまったく違って、必要以上に気負うこともせず、それでいて全体としてはまったく隙のないメリハリにあふれた演奏で、情緒のバランスのとれた、このソナタの理想的な演奏のひとつに踊り出たように思いました。
とくに終楽章などは傑作『偉大な芸術家の思い出に』を髣髴とさせる高揚感もあり、価値の高いCDという気がしています。

長いことどちらかというと避けてきたレオンスカヤですが、こういう演奏を耳にすると、少し他の演奏(たとえばシューベルトのソナタなど)も聴いてみたい気になってきて、こういう変化はマロニエ君にはめったにあることではありません。
前回のポゴレリチのように、だいたい天才というものは若いころに完成されているものだし、凡人とて人間の本質なんてそう変わるものでもないので、昔の印象というのは9割以上当たっているし変わらないものですが、たまにこういうことが起きるのは嬉しいことです。
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忘れていたCD

4年ぐらい前だったか、ユリアンナ・アヴデーエワが福岡でリサイタルをおこなったとき、一度は聴いておくべき人だと思って会場へ足を運んだけれど、その時はまるで遊びのない、カチカチのつまらない演奏という印象しか得られませんでした。

これは、今にして思えば、もちろん彼女の演奏そのものの要素は大きいものの、急に決まった演奏会だったらしく通常のホール(これも決して良い音響ではない)がどこもふさがっていて、福岡国際会議場のメインホールという、要は一番大きな学会などに使われる会場でおこなわれたもので、音響はまったく広がりがなく音楽的ではないし、ピアノはいちおうこの会議場が持っている新しいスタインウェイDではあるけれど、ふだん誰からも弾かれずに年中眠っているようなピアノなので、急にステージに引っ張りだされても本領が発揮できなかったこともあるのか、そういうことも重なって感銘には結びつかないものになってしまったのだと思います。

このとき、ロビーではCDが売られていて、終演後にサインをしてくれるというので、ミーハー心から一枚買い求めて列に並び、アヴデーエワさんからサインをしていただきました。
演奏終了直後ということもあり、お顔はいささか上気した感じが残りつつ、演奏中はアップにしていた髪を解いて垂らし、澄んだとてもきれいな目をされていたのが印象的でした。

購入したのは、アヴデーエワが2010年12月、すなわち彼女がショパンコンクールに優勝した直後の来日公演からのライブCD。
これは通常の彼女のCDとは違い、東日本復興支援チャリティCDとして招聘元の梶本音楽事務所がらみで発売されたもので、曲目はオールショパン、幻想ポロネーズ、ソナタ第2番、スケルツォ第4番、英雄ポロネーズというもの。

アヴデーエワは今どきにしては珍しく器の大きい人だという印象はあるものの、映像で見てもそれほど自分好みのピアニストではなかったし、とくに福岡で聴いたリサイタルでの印象が決定的となって、このCDはそのままCDラックに放り込まれ、それっきりになってしまいました。

つい最近、べつのCDを探すべく懐中電灯で照らしながら棚を探していると、ふとこのCDが目に止まりました。
そのときは、購入した経緯さえすっかり忘れていて、ケースはセロファンの袋に入ったままで、中を開けるとディスクに直筆のサインがあることで、「ん?」と思い、ようやくご当人からサインしていただいたことが記憶に蘇りました。
これほど、きれいさっぱり忘れてしまっている自分にも呆れましたが。

で、初めて聴いてみたそのCDですが、なかなかに立派な演奏で、個人的な評価がかなり挽回しました。
およそ女性ピアニスト風な演奏とは言いがたいもので、すみずみまで徹底的に考えぬかれた知的な演奏で、どういう演奏をするかというプランと土台がしっかりあり、それに沿って着実に実際の演奏として音に結実させることのできる、大きな能力を持った方だということがわかりました。
テクニックも一切破綻がなく、とてつもないものが備わっているけれど、それを誇示するようなところはいささかもなく、あくまでも音楽表現の手段としての技巧であるという姿勢も徹底しています。

解釈も表現も真っ当すぎるほど真っ当ですが、あまりに設計図通りに進められる建築のようで、聴きようによっては面白味のない優等生的な演奏に聞こえてしまうきらいもありますが、CDとして音だけに集中して聴いてみると、ただお堅いばかりの演奏でもないことが次第にわかってきました。
なによりも感心させられるのは、その驚くべき演奏クオリティの高さと、作品をありのまま音にするための謙虚な解釈でしょうか。

どれもが迷いなく構成された第一級品と呼ぶにふさわしい、それは見事な演奏でした。

このCDに収められた演奏会では、どのような順番で演奏されたか、あるいは他にどんな曲があったのかは知る由もありませんが、最後の英雄ポロネーズだけは他の3曲とはわずかに異なっており、おそらくアンコールではないかと思います。

なぜなら、この曲だけ明らかに、彼女の厳しいコントロールの軛がほんの少し緩んで、生身の人間の息づかいにあふれた熱い演奏だったからです。
自由と熱気と勢いがあって、他では聴いたことがないようなフレーズやアーティキュレーションの伸び縮み、あるいは次へのたたみかけるようなつなぎが随所にあって、しかも本体はガッチリしたスタイルであるのに、ときおり勢いが先行してほんのわずかに歪んだり撓んだりする様はゾクゾクするようで、これには思わず聴き惚れてしまいました。

英雄ポロネーズは名演の多い曲だと思うけれど、アヴデーエワのこのときの演奏はマロニエ君にとって、まさに最上のひとつであることは間違いありません。
この一曲だけでもこのCDを買った価値があり、数年の時を経て、思いがけない嬉しさですでに何回も繰り返し聴いており、しばらくこの興奮から逃れられそうにありません。
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バッハ-CDと演奏会

最近買ったCDから。
ディーナ・ウゴルスカヤによる、バッハの平均律全曲。

その名から想像されるとおり、ウゴルスカヤはあのアナトゥール・ウゴルスキのお嬢さんで、ジャケットの美しい顔立ちの中にも、偉大な父であるウゴルスキに通じる目鼻立ちをしており、親子二代でこれだけのピアニストになるのは大したものだなあとまずは感心させられます。

演奏は大変良く練りこまれた真摯さと深い見識を感じさせるもので、父親のような計り知れない器の大きさはないけれど、心の深いところで音楽する人であるのは一聴しただけでもすぐに伝わってきます。
技巧も立派で一切の危なげもく、ぶれのない終始一貫した黒光りがするような落ち着いたバッハ。

お年はいくつかわからないけれど、ジャケットの写真をみても、まだ充分に若く、それにしてはずいぶん大人びた老成した音楽を聴かせる人だなあとは思うけれど、でも父親がウゴルスキで、その空気の中で育ったと思えばまあ納得です。
同年代のピアニストたちが、今風のカジュアルでスポーティな演奏をお手軽に繰り広げる中、こういうずっしりとした演奏をするピアニストはむしろ貴重な存在かもしれません。

そのずっしり感の中にはいうまでもなくロシアピアニズムが息づいているけれど、むかしの重戦車のようなあれではなく、しなやかさも併せ持っているところが世代を感じさせるし、ウゴルスキがドイツに亡命したことにも関連があるのか、バッハの国で多くの時間を呼吸した人らしい自然さを感じさせるところも充分ある。
ではドイツ人的かといえば…そうではなく、やはり根底にロシアの血脈を感じさせる演奏でした。

ただ、現代の基準で聴くならやや暗くて重々しいところがなきにしもあらずで、これもあのお父さんの演奏を思い起こせば十分納得できるものではありますが、個人的にはもう少し「軽さ」があるほうが現代のバッハとしては馴染みやすいかもしれません。
重々しさは演奏時間にも反映されているようで、第2巻のほうは通常大抵のピアニストがCD2枚内に収まるように弾いてしまうのに対し、ウゴルスカヤは3枚になってしまっています。

ロシアからドイツに移住してバッハを弾く人といえばなんといってもコロリオフですが、彼の演奏には軽やかさと洗練がそなわっており、そのあたりがウゴルスカヤの課題だろうと思いました。


バッハといえば、福岡でバッハのクラヴィーア作品全曲演奏に挑戦している管谷怜子さんの第10回目の演奏会がFFGホール(旧福岡銀行大ホール)で行われました。
今回はフランス組曲第4番、トッカータBWV912、ブゾーニ編曲のシャコンヌ、さらに後半は弦楽五重奏を相手にピアノ協奏曲の第2番ホ長調と第5番ヘ短調が演奏されました。

いつもながらの見事な演奏で、折り目正しさの中に管谷さんならではの温かな情感が随所に息づき、とりわけ緩徐部分での繊細かつ深い歌い込みはこのピアニストならではの世界が垣間見られるものでした。
後半のコンチェルトでは溌剌とした活気が印象的で、いかなる場合も連なる音粒が美しく、いかようにも転がし続けることのできる安定した技量にも瞠目させられました。

面白かったのはアンコールで、通常のテンポで演奏されたヘ短調の協奏曲の第3楽章を、もっと速いテンポで演奏してみるとどうなるかという「実験」と称して、2~3割ぐらいアップしたテンポで弾かれたことでした。
テンポが変わると、聴く側も、曲を捉える単位というか区切りのようなものが変化して、同じ曲ではあるけれど、まったく違った感性の世界に入っていくようでした。

どんなにテンポを上げても、管谷さんの演奏はまったく乱れることなく、指は自在に駆けまわり、美しさがいささかも損なわれないのは見事というほかありません。
また、同じ曲をテンポを変えて聴かせるという発想自体が、まるでグールドあたりがやりそうな試みのようで、とりわけバッハにはそれが面白く存分に楽しめました。

ただ表向きの演奏をするだけでなく、新しい試みや実験を聴衆に披露することも非常に大切なことだと認識させられました。
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流行作家

現在お付き合いのあるピアノ愛好者の中には、いろいろな変わり種がおられるというか、みなさんすこぶる個性的で、何らかのかたちで独自の世界や趣向を持っておられます。

そんな中のひとりは、音楽歴史上、無名とまではいわないものの、一般的にはそれほど知られていないマイナーな作曲家の作品に強い興味がおありで、CDはもちろん楽譜まで取り寄せて自分で弾いてみて、それらの作風や特徴を通じながら、音楽の歴史や変遷を独自に楽しんでいる人がおられます。

先日久しぶりに我が家にいらっしゃいましたが、その際にフンメルのピアノ協奏曲を中心とするCDのコピーを6枚ほどプレゼントしていただきました。
フンメルはベートーヴェンよりもわずかに年下であるものの、ほぼ同時代を作曲家兼ピアニストとして生きた人で、当時はかなりの人気を博した音楽家のようです。

その知人の「おもしろいですよ」という言葉のとおり、どの曲を鳴らしてみても、初めて聞くのに「あれ?あれれ?」…随所になんか聞いた覚えのあるようなメロディや和声や、もっというなら全体の調子とか作風が、モーツァルトやショパンをストレートに連想させるようなものばかりでした。

モーツァルトの生きた時代までは、作曲家というか芸術家はおしなべて貴族お抱えの身分であったのが、市民社会の勃興によって音楽がより広い大衆の娯楽となり、一気に自由を得、裾野を広げます。一方でベートーヴェンなどが純粋芸術としての作曲を始めたというのもこの時期からで、その手の話はよく耳にしますね。

市民社会ともなると、現代にも通じる「人気」というものが重要不可欠の要素となり、大衆を喜ばせるための工夫やニーズが大いに取り込まれていることがわかります。
現代のように音楽市場が広範ではないためか、当時の作曲家のはそれ以前の楽曲の作風をひきずりながら、娯楽性や人々の好みを念頭に置きながら作曲をしていったのだろうと思われるフシが多々あって、純粋に音楽を聞くというよりも、当時の時代背景や大衆娯楽の有り様を覗き見るような楽しさがありました。

とくにモーツァルトのピアノ協奏曲からのパクリ(といって悪ければ流用?)は思わず笑ってしまうほどで、現代で考えればよくぞこんな手の込んだ仕事を真面目にやったもんだと呆れつつ、もしかしたら今なら著作権法にひっかかるのでは?というほど危ない箇所もあり、むかしはおおらかな時代であったことも偲ばれます。
こういう曲はあまり深く考えず、笑って聴いておけばいいのだと思いました。

どの曲も調子が良くてきれいで、すぐに耳に馴染んで楽しめるもので、それが当時の大衆の要求だったんでしょう。
おそらくは、この手の曲が次々にファッションのように作られては上演され、言い換えるなら消費され、忘れられていったのだろうと思うと、フンメルの協奏曲などはそれでもなんとかこうしてCDに録音されるぶん、かろうじて消えずに済んだ作品といえるかもしれません。

すっかり忘れていましたが、マロニエ君自身も知られざるロマン派のピアノ協奏曲集みたいな、ボックスCDを購入したことがありましたが、なんか二~三流品を集めて詰め合わせにしたようで、たしか途中で飽きてしまって全部は聴かずにどこかに放ってあると思います。
それほど、この時代(18世紀末から19世紀)はこぞってこういう作品がおびただしい数生み出されたのかもしれません。

それから思えば、現代の私たちに馴染みのあるクラシックの作品は、そんな膨大な作品の中から厳選され淘汰されて、時代の移り変わりを耐え抜いて奇跡的に生き残った、まさに音楽歴史上最高ランクの遺産なんだなあとも思いました。
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自然美

いまさら改まって言うことでもないけれど、コンクールというものは好きではなく、これを絶対視するなんてことは逆立ちしてもないマロニエ君ですが、それでも、以前は一部の優勝者や上位入賞者には高い関心をもっていた時期があったことも事実でした。
つらつら思うに、これは過去にポリーニやアルゲリッチという、それまでのピアノ演奏の基準や価値観を変えてしまうような、とてつもない傑物をショパンコンクールが排出した…という歴史的事実があったからだと思います。

でも、コンクールというものを通じて突如発掘される、そんな世紀の大発見なんてそういつまでも続くことはなく、結局はこのふたりだけだったと言ってしまってもいいかもしれません。
いうなればたまたま見つかったツタンカーメンみたいなもので、その後これといった同様の発見があったかというと、申し訳ないけれどマロニエ君はそのようには思えないのです。

それに比例して(かどうかはわからないけれど)、こちらも年々無関心に拍車がかかり、最近は世にいう世界的❍大コンクールの覇者であっても、ほとんど興味は持てなくまりました。
理由は至ってシンプル、いいと思わないから。

おまけに年を追うごとに出場者側もコンクール対策が進み、個性を排し、点数の取れる演奏を徹底的に身に付けてやってくるのですから、そこで突出した才能とか、思いもかけないような発見なんてあるはずがない。
まさに有名一流大学の受験対策と同じで、大学と違うのはコンクールはひとりもしくは上位数人を選ぶだけ。
それを、音楽ファンが心底ありがたがって待っているわけでもなんでもないのに、コンクールで箔をつけるという傾向にはまったくブレーキが掛かりません。それほど演奏家を目指す多くの若者が世に出ることを急ぎ、ギャラを稼げること、チケットが売れること、突き詰めれば有名になって食っていけることを性急に目指していて、コンクールはそのための最短ルートとしての便利機能としか思えないのです。
一攫千金といえば言い過ぎでしょうけれど、一夜にしてスターを目指すというのは、精神においては大差ないと思います。

というわけで、正直いうと、現在マロニエ君個人がかろうじて興味をもっているのは、唯一ショパンコンクールだけで、それも結果(優勝者が優勝者として本当にふさわしい人であるかどうか)に納得の行くことはめったにありません。

この人こそ第1位と思う人が2位であることは何度もありましたが、前回2位になったシャルル・リシャール=アムランの『ケベック・ライヴ』というCDを買ったところ、これがなかなかの出来栄えでちょっと驚きました。

曲目はベートーヴェンのロンドop.51-1/2、エネスコの組曲op.10、ショパンのバラード第3番/ノクターンop.55-2/序奏とロンドop.16/英雄ポロネーズというもの。
わけても、個人的にはエネスコの組曲がダントツに素晴らしいと思いました。
もともとエネスコの音楽というのはマロニエ君にとっては、どこか掴みどころのない印象があって、もう一つなじめないでいるところがあったのですが、それがリシャール=アムランの手にかかると美しく幻想的な絵画のようなイメージが滾々と湧き出てくるようで、この23分ほどの曲のためだけにでもこのCDを買った価値があったと思えるものでした。

個人的に馴染みのない曲であったこともあり、新鮮さも手伝って良い印象を抱くことに寄与した感も否めませんが、開始早々、R.シュトラウスかと思うような華麗な幕開けでしたし、その後もさまざまな情景に応じた適材適所の表現やテクニックを駆使しながら見事に弾き進められました。

リシャール=アムランという人は、音楽的センスもあるし、なにより演奏が真摯で、世俗的な野心がほとばしっている感じがなく、自分のペースで信頼に足るピアノを弾く人だというのが率直なところ。
真摯とか信頼などと書くと、解釈重視のこじんまりした地味な演奏をする人のようですが、決してそうではなく、どれほど率直に思いのたけをピアノにぶつけても、それが決して作品の音楽的道義を外れることがない点がこの人の強みというべきか、それこそが彼の個性なのだと思いました。

どの作品を聞いても、音楽的な作法の上にきちんと沿っているのに、それがちっとも窮屈な感じもしないし、むしろ演奏者と作品が最も理想的なかたちで結びついている印象を受けるあたりは、なかなか清々しいことだと思わずにはいられません。

「彼の自然」と「作品の自然」がなにも喧嘩せず、絶妙のバランスで手を結んでいるために、演奏を聴くにも作品を聴くにも、それは聴き手しだいでどうにでもなるという任意性が広くとられているようで、密度の高い演奏に伴うストレスなどもいっさい背負わせない点も、リシャール=アムラン氏の人柄が出ているのかもしれません。
なかなか気持ちのいいピアニストだと感心しました。
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中国の才能

最近、YouTubeでたまたま知ることとなったピアニストにジョージ・リーという若者がいます。

1995年生まれということですから、現在でも21~22才という若さです。
ボストン生まれのようですが、その名前や容姿からもわかるように明らかに中国系のピアニスト。

YouTubeで見たいくつかの演奏は、まだほんの子供のときのものでしたが、おかっぱ頭にメガネを掛けて、全身をうねらすように曲の波に乗っていて一心不乱に演奏している姿が印象的でしたし、演奏そのものも抑揚や流れがあって好印象でした。
さらに成長して思春期ぐらいになった映像では、その演奏はより精度が増しており、これはもう疑いなく天才のひとりだということがわかりました。
呆れるばかりに指が回って、どんな難所でもらくらくと技巧が乗り越えていくテクニックにも目を丸くしました。

きっとこれから名だたるコンクールなどに出場して、上位入賞を果たすのだろうと思っていたら、すでに2015年のチャイコフスキーコンクールに出場し、まるで格闘家のようなゲニューシャスと2位を分かち合っていることを知り、それはそれは…と納得。

少なくともラン・ランなどより音楽は柔軟で密度があり、音にも一定の重みがあるけれど、今のピアニストに求められるものは音楽性や解釈だけでなく、
チケットの売れるタレント性みたいなものが重要視されるようなので、その点を含めると彼がどのへんまで行くのかわかりませんが、とにかく中国人もしくは中国系のピアニストの「大躍進」は目を見張るものがあります。

で、CDをまとめ買いする際に──ずいぶん迷ったあげく──このジョージ・リーのアルバムを1枚加えてしまいました。

昨年ロシアのサンクトペテルブルクでライブ録音されたもので、ハイドンのソナタロ短調、ショパンのソナタNo.2、ラフマニノフのコレルリ変奏曲、リストのコンソレーションとハンガリー狂詩曲No.2といういかにも系のプログラム。

個人的には冒頭のハイドンが好ましく思えたものの、全体としては印象に残るほどの個性はなく、どれもが平均して真っ当に準備され、クセもキズもない中であざやかに弾き通された演奏という感じでした。
並外れた才能とテクニックがあって、一流の指導者から高度な教育を受け続けることを怠っていなければ、きっとこんなふうになるだろうという想像の枠内に収まった演奏で、彼の音楽的天分というか個性という点に関して言うなら、それは超弩級のものではなく、あくまでも「並」だというのがマロニエ君から見ての正直なところ。
それでも天才であることに間違いはないのですが。

ショパンでは本来求められるセンスというよりはコンクール向きだし、リストのハンガリー狂詩曲No.2などは、ちょっとやり過ぎな感じ。

中国系ピアニスト全般に共通して感じるのは、音楽に憂いや内面の複雑なものが湧き上がってくるところがなく、表現がどうしても表層的で奥行きがないことでしょうか。
何を弾かせてもあっけらかんとしていて、どうしてもテクニック主導になっているし、途中までせっかくいい感じで進んできたものが、例えばスタッカートに差し掛かると、いきなりトランポリンみたいなスタッカートになって曲調が崩れたりするのが、聴いていて非常に残念な気がします。
表現も陰翳に満ちたルバートなどとは違って、歌謡的なフレーズの緩急のみで処理されてしまう。

もうひとつ特徴的なのが彼らの「間」の取り方。
超絶技巧の難しいパッセージなどでは問題ないけれど、この「間」が前後を隔てたり対照をなしたり橋渡しをしたり、さまざまな意味を成すところになると、多くが大仰な京劇のようになり、芝居がかった感じになってしまうことが耳につきます。
しかも、我々に比べてもその民族性の違いは甚だ大きく、大胆なまでに中華風になってしまうのがいつもながらのパターンで、これを感じると一気に興味を失ってしまいます。

これをあまり感じず、いい意味での中国風でないピアニストとしてある種の洗練を感じていたのは、唯一ニュウニュウでしたが、このところめっきり彼の動静を聞かなくなりました。
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マックス・レーガー

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの作曲家、マックス・レーガーのピアノ作品全集という珍しいものがあることを知り、さっそくCDを購入してみました。

マロニエ君はレーガーの作品といえば、バッハの主題による変奏曲とフーガop.81と、ブランデンブルク協奏曲全曲のピアノ連弾への編曲しか知らず、op.81はなかなか聴き応えのある大曲であることから、他にどんな作品を残したのかという興味がありました。
ウィキペディアによれば、徴兵され従軍、除隊したのが1898年で20世紀幕開けの直前だったようですが、1916年に43歳の若さで世を去るため、彼の音楽活動は20年にも満たない短いものだったようです。

詳しい理由はわからないけれど、オペラと交響曲はいっさい手がけず、主な作品は室内楽や器楽曲、管弦楽曲や声楽曲などで、とくに目を引くのは変奏曲やフーガの作品が多いこと。

CDは12枚組からなるピアノソロ作品のボックスセットですが、そこにはソナタなどは見当たらず、まとまった数の小品群からなる作品集が多いことが目を引くし、あとは前奏曲とフーガのたぐい、さらには変奏曲などが目につきます。
ヴァイオリンソナタ9曲、チェロソナタでさえ4曲も書いているのに、ピアニストでもあったレーガーにピアノソナタがないのは謎です。
1枚を数回ずつ12枚を聴き通すのに数日を要しましたが、まあなんとなく全体像は自分なり掴めた気がします。

レーガー自身も自分をドイツ三大Bの正当な後継者として位置づけることが好きだったようで、さらにはリストやワーグナーの影響、ブルックナー、グリーグ、R.シュトラウスへの傾斜もあることを認めていたようで、それらが概ね納得できる音楽でした。
作品集が多いのはブラームスやシューマンのようでもあるし、変奏曲はベートヴェン、フーガはバッハを想起させますが、それだけドイツ音楽の先達に対するリスペクトはかなり強い作曲家だったようです。

どれも特に耳に心地よいわけでもなければ、難解で放り出したくなるようなものでもなく、そのちょうど中間という感じですが、この時代の特徴とでもいうべきか…作品は全体に暗く重く、耳あたりの良い軽妙な叙情性といったような要素などは見当たりません。
ウィキペディアによれば「晦渋な作風という意味で共通点のあるブゾーニとは、互いに親しい間柄であった。」とあって、まさになるほど!と納得させられる印象でした。ただし、個人的にはブゾーニの作品のほうがはるかに異端的でグロテスクでもあるとは思いますが。

12枚のCDの最後に当たるVol.12に「バッハの主題による変奏曲とフーガop.81」があり、さすがにここに到達した時は耳にある程度馴染んでいるぶんホッともしたし、やはりよくできた作品で、後世に残るに値するだなあという実感がありました。

他の作品の中にも、なんともいえず心に染みこんでくるような部分とか、はっとする瞬間などは随所に散見され、並の作曲家でないことはよくわかりましたが、全体としてレーガーの作風はこうだという明快な個性のようなものには立ち至っていないような気がしたのも事実です。

これだけのものを生み出すことのできる並外れた才能があっても、その大半は後世まで演奏され続けることなく、ほとんどが埋もれた状態になるのが現実であり、それを思うと、単純に演奏される頻度が高い作品=傑作というわけではないけれども、それでも我々の耳に名曲として残っている作品(あるいは作曲家)はいかに選りすぐりのものであるかという厳しい現実を思わないではいられません。

余談ながら、この12枚からなる全集、演奏はドイツ出身のピアニスト、マルクス・ベッカーで、1995-2000年にかけて録音されているようでした。
どういうピアニストかは事前には知らない人だったけれど、まったく安定した危なげのない技巧と、説明文の中にも「演奏難易度の非常に高い作品の数々を終始完成度の高い演奏…」とあるのはマロニエ君も同感で、高い信頼感をもって聴き進めることができました。
これが格落ちのピアニストであれば、印象もずいぶん違うものになったことだろうと思います。

ちなみにボックスの表記を見て戸惑ったのは、作曲家がマックス・レーガー(Max Reger)にあるのに対して、ピアニストはマルクス・ベッカー(Markus Becker)と、響きも字面も酷似しており、はじめどっちがどうなのか、あれっあれっと戸惑ってしまいました。

マルクス・ベッカー氏もまさか名前が似ているからマックス・レーガーの全集を作り上げたわけではないと思いますが、奇妙な符合です。
あるいはドイツ人の発音では全然そんなことはないのだろうか…。

いずれにしろ、作曲家であれピアニストであれ、音楽におけるドイツの厚みというものをまざまざと見せつけられたようでした。
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寂しい時代

何とはなしに、ちょっとしたことで「寂しい時代になってきたなあ」と思うことがあります。
一例が、いろいろな店舗の夜の営業時間、とくに(アルコールを伴わない飲食とかファミレスの)深夜営業を売り物にしていた飲食店などの営業時間が軒並み短くなっていくことや、夜、気軽に車で行ける書店がどんどん減ってきていることなどにそれを感じます。

ロイヤルホストなどは、以前なら24時間営業も珍しくなかったのに、今では(例外はあるのかもしれませんが)基本0時閉店ということになってしまったようです。
これには今の世相というか、人々の生活パターンの変化が深く関わっているのは明らかでしょう。

名前を出したついでにいうと、土日のロイヤルホストなど夕食時間帯に行こうものなら、それこそ入口のドアから人がもりこぼれそうなほど順番待ちのお客さんで溢れかえり、名前を書いて席が空くのを満員電車よろしく待たなければなりませんから人気がないわけではない。
そかし8時過〜9時あたりをピークに一気に人が減り始め、10時を過ぎる頃にはさっきまでの喧騒がウソのようにガラガラになってしまいます。

車の仲間のミーティングなどでは、ファミレスは時間を気にせず雑談できる不可欠の場所だったのに、少し遅くなるとついさっきまでざわざわしていた店内は途端に潮が引いたように空席が目立ち、閉店時間が迫ると残りの僅かな客は一斉に追い出されてしまうようになりました。

マロニエ君の世代の記憶でいうと、以前は深夜の時間帯はもっと世の中に活気やエネルギーがあふれていました。
とくに若い人は夜通し遊ぶというようなことは平気の平左で、各々なにをやっていたのかはともかく、明け方に帰るなんぞ朝メシ前でしたし、当時の中年世代だってもっとエネルギッシュだったように思います。

過日、連休で遠出をしたところ終日猛烈な渋滞に遭い、疲れてボロ雑巾のようになって帰ってきたことを書きましたが、それほど日中の人出はあるのに、ある時間帯(おそらく8時から9時)を境に、動物が巣穴に戻るように人はいなくなります。
以前より、明らかに早い時間帯に、当たり前のように帰宅の途に就くのが社会風潮化しているよう思われます。

昔は厳しい門限なんかを恨めしく反抗的に思うことがあったのに、今じゃそんなものはなくても、自然に、ひとりでに、申し合わせたようにさっさと帰って行ってしまう真面目ぶりには驚くばかりです。
それだけ、夜の外出が楽しくないこともあるしでしょうし、翌日に備えるという配慮も働くというのもあるでしょう。あるいは体力気力おサイフの中も乏しいのかもしれませんし、それ以外の複雑な要因もあるのかもしれませんが、とにかく世の中全体に元気がなく、まるで社会そのものがひきこもりのような印象を覚えます。

深夜まで出かけるというのは、基本的には相手あってのことで、今時のように人と人とが淡白な交流しかしないようになると、わざわざ直接会って歓談し飲み食いする必要も、かなりセレクトされ限定的になるということかもしれません。
現代はある意味、どこか不自然な事情を含みながらの家族中心で、それ以外の交際はずいぶんと痩せ細ったようにも思います。

本屋に話題を移すと、あるのはたいてい同じ名前の店ばかりで、書店と言っても店内のかなりの部分はDVDなどのレンタル部門などが大手を振って、書籍の売り場はずいぶん剥られて肩身の狭い感じです。
置かれている本も、大半が雑誌かコミックか実用書のたぐいばかりで、もう少し本らしい本はないのかと思うのはマロニエ君だけでしょうか。

そんな本棚を見回していると、『自律神経を整えて超健康になるCDブック』というのがありました。
この部分が脆弱なマロニエ君としては、「聴くだけで痛みが消える!極上のリラックスを体感できる!」といった謳い文句に騙されてみたくなり、あえてこれを購入しました。

中には2枚のCDが付属しており、「自律神経を整えるCD」と「マイナス感情を消すCD」というのが付録として綴じ込まれていました。さっそくはじめの1枚を聴いてみましたが、変な電子音とピアノの意味もないようなメロディなどが延々と流れてくるものでした。
ほんのまやかしだとは思うけれど、不思議と聴いていて不快ではないし、万にひとつでも効果があれば幸いとばかりに、昨日からこれを鳴らしているところです。
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隠れた名手

草野政眞(くさのまさちか)さんというピアニストをご存知でしょうか。

以前どこかのピアノ店のブログですこし動画を見た記憶があったのですが、その後お名前さえわからなくなってしまって、今回YouTubeで偶然見つけました。
はじめはえらく腕のいいピアニストがいるものだと思った程度だったのですが、ショパンの英雄などはちょっとこれまでに聴いたことのないような雄渾な演奏で、まったく臆するところがなく絢爛としていて常に余裕があり、技術的にも並ではないものがあって唸りました。

準備した作品をそのままステージで間違いなく再現するのではなく、その場の感興に委ねている部分のあることが、音楽という一過性の芸術をより鮮明で魅力的なものにしていると思いました。
こういうものに触れたとき、演奏芸術の抗しがたい魅力を再認識し圧倒されてしまいます。

この英雄ポロネーズは若い頃の演奏のようで、J.シュトラウスの皇帝円舞曲(えらく演奏至難な編曲のよう)などはそれよりは後年のもので白髪も増えておられるけれど、いかなる難所が来ようともがっちりと危なげなく弾きこなしておられるのは呆れるばかり。
当然ながら技巧はものすごいけれど、アスリート的優等生とはまったく異なり、演奏には音楽の実と生命力があり、息吹があり、グランドロマンティックとでもいいたい迫力と重みが漲っています。

突出した技巧をお持ち故か、演奏曲目もタンホイザーなど重量級のものが多いけれど、いずれもすんなりと耳に入りやすい明晰な音楽として良い意味でのデフォルメがなされており、聴衆に難解退屈なものを押し付けるようなところがまったくありません。
いかにも自分の信じるスタイルのピアノを弾くことだけに徹した謙虚かつ一途な姿勢、分厚くて大きな手、そこから繰り出される密度の高い、腰の座ったリッチな音の洪水は、ちょっと他の演奏家からは聴けない充実したもの。

完全に楽器が鳴りきっており、その男性的な美音はどこかグルダに通じるものがあるようにも感じます。
マロニエ君も自分なりにいろいろなピアニストには注意を払ってきたつもりでしたが、この草野さんはまったく存じあげず、こういう超弩級のピアニストが日本国内にひっそりと存在しておられるという事実に驚き、この思いがけない発見の嬉しさと、想像を遥かに超える華麗な演奏には完全にノックアウトされました。

特筆すべきは、技巧は凄いけれどもたんなる指の回る技巧のための技巧ではなく、多少大袈裟に言うなら、現代の正確無比な演奏技巧の中に19世紀ヴィルトゥオーゾの要素というか精神が少し混ざりこんだようでもあり、聴く者は理屈抜きに高揚感を得て満足する。

現代には、ただきれいな活字を並べただけのような、楽譜の指示にもきちんと服従していますといわんばかりの無機質な演奏をするピアニストは掃いて捨てるほどいますが、この草野政眞さんのピアノはその場で演奏の本質みたいなものが主体となり、反応し、組み上げられる手描きの生々しさがあり、必要以上に楽譜通りの演奏であろうとして、作品や演奏そのものが矮小化された感じは微塵もありません。
むしろ楽譜に表された以上の大きさをもって聴くものの耳に迫ります。

それでいて音楽に対する謙虚な姿勢と最高ランクの技巧が支えているというところが聴く者の心を揺さぶり、大きな充実感に満たされる最大の理由なのかもしれません。

ネットでこの方のお名前を検索してみると、ホームページを発見しました。
さほど更新された気配もない感じもしましたが、4枚のCDがあって購入可能であることを発見!
さっそく購入申込みをしてすべてを聴いてみましたが、基本的にはYouTubeの画像と同様の印象。
ただし、今日的基準でいうと演奏がやや荒削りで(そこが魅力なのだけれど)、出来不出来があることも感じないわけではありませんでしたし、すべてライブ録音なので、録音状態も良好とはいえず、これだけの素晴らしい演奏をもっとクオリティの高い録音で残せたらという無念さが残ります。

奥様からメールなども頂きましたが、これだけの腕と演奏実績がありながら、信じ難いことに演奏機会は少ないのだそうで、時代に合わないのだろうかというような記述もあり、その素晴らしさ故につい胸が詰まりました。
しかし、マロニエ君にしてみれば今時の退屈極まりないコンサートの中では、例外的に最も行ってみたい演奏のひとつで、これがヨゼフ・ホフマンやホロヴィッツの生きた頃、あるいはその残り香のある時代であれば、おそらくはもっとも絶賛されるピアニストのひとりだろうと思います。

現に彼の演奏を聴いた往年の巨匠シューラ・チェルカスキーはやはりこの草野氏を激賞しており、さもありなんと思いました。

どんな世界にも、時代背景や流行というのはあるけれど、良いものは時代を超越して良いわけで、これほどの方が不当な評価しか受けられないというのは、いかに日本の聴衆のレヴェルが低いのか、周りの理解が低いのか、国内の音楽環境の偏狭さを恥じなければならない気がします。

マロニエ君はコンクールなどを全面否定するつもりはないけれど、著名コンクールに優勝というような肩書がつかないとチケットも売れず、コンサートそのものも成立しないというのはまったく情けないことだと思います。
間違っていようと何であろうと、自分の「耳」と「感覚」を信じることができることが、一番大切だと信じます。

この方の演奏を聞くと、技巧で鳴らしたユジャ・ワンなどもどこかコンパクトに感じるし、とりわけ迫り来る音圧などは比較になりません。
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赤松林太郎

最近ときどき耳にする新鋭ピアニストの中に赤松林太郎という名があるのをチラホラ見かけます。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ』の中でも彼の名は出てきたし、コンクールだったか、ネットだったか、詳しいことは覚えていませんが、マロニエ君の漠たるイメージとしてはかなりの実力派で、くわえて最近よくあるピアニストとはひと味違った独自の何かをお持ちの方ではないかという、これといって根拠もない勝手な想像をしていたわけです。

経歴を見ても、通常の音大出身者ではないのか、神戸大学卒業後にパリに留学されたということがあるのみで、どういう経過を辿ってピアニストとして名乗りを上げた人かというのがいまいちよくわかりませんし、そのあたりはあえてぼかされているのかもしれません。

ただ、誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君はこういう風に書きつつも、実は経歴なんてまったくどうでもよく、むしろ普通とは違った道を歩み、それでもピアニストとしての才能が溢れている人が、半ば運命に押し出されるようにピアノ弾きのプロとして芸術家になるほうが遥かに魅力的であるし、個人的関心も遥かに高いとはっきり言っておきたいと思います。

逆に云うなら、名前を聞くだけで飽き飽きするような一流音大を「主席かなにかで」卒業し、海外に留学して、有名な指導者につき、あれこれの著名コンクールに出場して華々しい結果を収め、「現在、幅広い分野で世界的に活躍している最も注目されるピアニストのひとり」などとプロフィールに書かれる人にはまるで興味がないし、演奏を聴いても大半は魅力も感じません。

その点では赤松林太郎氏というのは、そういう感じがなく、どんな人なんだろう、どんな演奏をする人なんだろう…という一片の興味があったわけです。

さて、先日CD店の店頭でその赤松氏のCDが目に止まりました。
「そして鐘は鳴る~」というサブタイトルがつけられていて、曲目はアルヴォ・ペルト、ヘンデル、モーツアルト、シューマン、グラナドス、マリピエロ、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ、マックス・レーガーという実に多彩なもので、すべて「鐘」に由来した作品を集めたもののようでした。
個人的には「鐘」というワードで括ることに何の意味があるのかわからなかったし、さして聴きたい曲ではなかったけれど、それをいっても仕方がないので敢えて購入。

演奏そのものは、今どきのハイレヴェルな技術の時代に出て来るほどの人なので、ぱっと聴いた感じはキズも破綻もむろんあろうはずもなく、すべてが見事なまでに練り上げられている演奏がズラリと並んでいました。ただ、期待に反してこれというインパクトもなく、何か惹きつけられる要素も感じぬまま、要するによくわからないピアニストという感じに終始しました。
聴いていて、マロニエ君個人はちっとも乗ってこないし、音楽の楽しさというと言葉では軽すぎるかもしれませんが、聴いているこちらに演奏を通じての作品の核のようなものが伝わるとか、演奏者のメッセージが入ってこないもどかしさを感じました。

少なくともマロニエ君は、演奏を聴く限りにおいては、さまざまな作品を通じて演奏者が投げかけてくる価値観やエモーショナルなものを受け取って、それを交感しながら共有したり楽しんだり(ときには反発)させられるところに、演奏という再生芸術の醍醐味があるのだと思っています。

ところが、そういうものがこの赤松氏の演奏から、未熟なマロニエ君の耳に聴こえてくることはなく、アカデミックで慎重、完璧、一点の曇りもなく演奏作品として完成させようという強い意志ばかりが感じられました。もちろん後に残るCD作品として、精度の高いものに作り上げようという意気込みもあったのかもしれませんし、時代的要求もあることなのでこういう方向に陥ることもまったくわからないではないけれど、しかし演奏をあまりにスキのない商品のようにばかり仕上げることが正解なのかどうか、マロニエ君にはわからないし、そういうスタイルは少なくとも自分の趣味ではありません。

少なくとも心が何らかの刺激を受け、なんども聴いてみたいというものではなくては演奏の意味をどこに見出して良いのやらわかりません。

ピアノはヤマハのCFXを使用とありましたが、今回は正直楽器云々をあまり感じることはありませんでした。
全体に各所で間を取り過ぎるぐらいの慎重な安全運転で、どちらかというと音も詰まったようで開放感が感じられません。むろん基本的には美しいピアノ音ではあるものの、ピアノの音を聴く喜びというものとはどこか違った製品の美しさのように感じました。
これには録音側の技術とかプロデュース側の責任も大きいかもしれませんから、むろん演奏者ばかりを責めるわけにもいかないでしょう。

レーベルはキング・インターナショナルですが、録音自体はいわゆる日本的クオリティ重視で、盆栽のように小さくまとまった感じがあり、豊かで広がりのある響きとか、ピアノから発せられる音の発散といったものがまったく感じられませんでした。
つい先日、30年近く前に録音(DECCA)のアンドラーシュ・シフによるバッハのイギリス組曲の録音の素晴らしさに感動したばかりだったことも重なって、余計にその違いが耳に目立ったのかもしれません。

演奏も、録音も、実に難しいものだなぁ…とあらためて感じないではいられないCDでした。
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ニコラーエワ

以前はよく聴いていたタチアナ・ニコラーエワですが、手に入る音源はだいたい持っていたし、1993年に亡くなってからはほとんど新譜が途絶えたこともあり、次第にその演奏を耳にすることから遠ざかり気味となっていました。
そんなニコラーエワですが、先日久しぶりに彼女のCDに接しました。

晩年である1989年のギリシャでのライブが最近発売されたのを、たまたま店頭で見つけて「おお!」と思って買ってきたものです。
はじめて耳にする音源ですが、スピーカーから出てくる音はまぎれもなくニコラーエワの堅牢でありながらロマンティックなピアノで、非常に懐かしい気分になりました。落ち着いた中にも深い情感と呼吸が息づいていて、なにしろ演奏が生きています。
昔はごく普通に、濃密で魅力的な本物の演奏を当たり前のように聴いていたんだなぁとも思うと、なんと贅沢な時代だったのかと思わずにはいられません。

現代には、技術的に難曲を弾きこなすという意味での優秀なピアニストは覚えきれないほどたくさんいますが、その技術的なレヴェルの高さに比べて、聴き手に与える感銘は一様に薄く、その音を聴いただけで誰かを認識できるような特徴というか、独自の音や表現を持ったピアニストは絶滅危惧種に近いほど少ない。
やたら指だけはよく回るけど、大半がパサパサの乾いた演奏。

ニコラーエワで驚くべきは、ピアノ音楽の魅力をこれほどじっくりと、しかも決して押し付けがましくない方法で演奏に具現化できる人はそうはいないだろうと思える点です。
必要以上に解釈優先でもなければ楽譜至上主義でもなく、しかし全体としては音楽にきわめて誠実で、情感が豊かで、ロシアならではの厚みがあり、だけれども胃もたれするようなしつこさもない。
良いものはいくら濃厚であってものどごしがよく、意外にあっさりしているという典型のようです。
技巧、感興、解釈、作品などがこれほど高い次元で並び立っているピアニストはなかなか思いつきません。

常に泰然たるテンポで彈かれ、けっして速くはないけど、ジリジリするような遅さもない。
感情の裏付けが途切れることなく続き、呼吸や迫りも随所に息づき、しかしやり過ぎない知性と見識がある。
そしてピアノ演奏を小手先の細工物のように扱うのではなく、雄大なオーケストラのような広いスケール感をもって低音までたっぷりと鳴らす。
どの曲にも、はっきりとした脈動と肉感に満ちていて一瞬も音楽が空虚になることがなく生きている。

それに加えて、常に充実した美しいピアノの音と豊かな響き。

このCDの曲目はお得意のバッハからはじまりシューマンの交響的練習曲、ラヴェルの鏡から二曲を弾いたあとは、スクリャービン、ボロディン、ムソルグスキー、プロコフィエフとロシアものの小品が並びますが、個人的に圧巻だと思ったのは交響的練習曲。

しかもこれまでニコラーエワのシューマンというのはほとんど聴いたことがなく、交響的練習曲はこのアルバムの中心を占める作品であるばかりか、演奏も期待通りの魅力と説得力にあふれるものでした。
曲全体が悲しみの重い塊のようであるものの、だからといって陰鬱な音楽というのでもなく、多くのピアニストがピアニスティックに無機質に弾いてしまうか、あるいはせっかく注ぎ込んだ情感のピントがずれていて、本来の曲の表情が出ていないことがあまりに多いことに比べると、ニコラーエワのそれはまず自然な流れと運びがあり、まるでシューマンの長い独白を聴くようで、まったく退屈する暇がありません。

現代のピアニストの多くは技巧も素晴らしい上に、隅々まで考えぬかれていて聴いている瞬間はとてもよく弾けていると感心はしますが、後に何も残らないことがしばしば。
それに引き換えニコラーエワの体の芯に染みこむような演奏は、パソコン画面ばかり見ていた目が久しぶりに実物の絵画に触れたようで、心地よい充実感を取り戻すようでした。
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BARENBOIM PIANO

ダニエル・バレンボイムは南米出身の神童の誉れ高いピアニストで、早い時期から指揮活動との二足のわらじを実践する世界屈指の巨匠…であるにもかかわらず、マロニエ君はバレンボイムという人(とくにピアノ)が苦手なので、彼のCDもあまり持っていません。

最近はアルゲリッチとの共演でCDが何枚か出たので、これらは仕方なく買ったぐらい。

そのバレンボイムのアイデアで、あえて今、並行弦のピアノを作ったことはこれまでも何度か書いた記憶があります。クリス・メーネ(だったよく覚えてません)とかいうヨーロッパのピアノ技術者およびその工房と共同開発というかたちで誕生したようです。
スタインウェイDのボディその他をベースとしているものの、並行弦のポイントであるフレームなどは、スタインウェイとはまったくの別物です。

このピアノ、もともとバレンボイムの旗振りで立ち上がった製作プロジェクトだったのかもしれませんが、実際の研究・設計・製造はいうまでもなく技術者で、にもかかわらず鍵盤蓋の中央(ふつうYAMAHAとかSTEINWAY&SONSと金文字が入っているところ)には、堂々とBARENBOIMの文字が誇らしげに鎮座しているのは、そんなものかなぁ…と思ったものです。

それはともかく、そのピアノを使った初のCDが(マロニエ君の知る限りで)ブエノスアイレスで行われたアルゲリッチとのデュオコンサートのライブで、通常のスタインウェイDとの組み合わせによるバルトークの2台のピアノとパーカッションのためのソナタなどで、ふわんとした響きの余韻などが絡まって、これはなかなかおもしろいものでした。

そしてこのたび、ついにソロによる『DANIEL BARENBOIM ON MY NEW PIANO』というアルバムがグラモフォンから発売になりました。冒頭に書いたように彼のピアノは苦手だけど、このピアノを音を聴くためには買うしかないわけで、買いました。

曲目はスカルラッティの3つのソナタ、ベートーヴェンの自作の主題による32の変奏曲、ショパンのバラード第1番、ワーグナーの聖杯への厳かな行進、リストの葬送とメフィスト・ワルツという、いわばバロックからロマン派までいろいろ弾いてみましたという感じ。

その感想を書くのは非常に難しい。
まずやはり、バレンボイムのピアノが苦手というのが先に立ってしまい、純粋にピアノの音を楽しむことより演奏そのものが気になりました。印象は昔と少しも変わらないもので、人間は弾く方も聴く方も変わらないものだと痛感。
マロニエ君の耳には、音や音色に配慮というものがなく、手当たり次第ぞんざいに弾くという感じ。

たしかに並行弦ならではと思える、古典的な響きはあるけれど、粗野に感じてしまう時もあるのは事実で、これが楽器の問題なのか、ピアニスト故のことなのか、よくはわからりません。

並行弦のピアノでも新造品なので、楽器そのものが骨董品という感じがないのはさすがで、この点ハンディなしにこのシステムの特色を感じることができるという点では、なるほど画期的なことかもしれません。

ただし、はっきり言ってしまうと総論としてマロニエ君はどうしても美しいとは思えませんでした。
たまたま見たピアノ技術者のブログでは、「響きが非常にクリアー(略)曲がすーっと耳に入ってきました。」とあり、技術者の耳にはそんなふうに聴こえるらしいですが、やはりプロフェッショナルの耳と素人の音楽好きとでは聴いているポイントが違うのでしょう。

マロニエ君の耳には、音のひとつひとつがポーンと鳴っているのはわかっても、それが曲として流れたときに、全体がクリアーに聴こえる──つまりなめらかな音の連なりとか澄んだハーモニーになっているようには聞こえませんでした。
とくに和音や激しいパッセージになった時などには、ワンワンなって響きが収束しきれていない気がするし、あまり耳をそばだてずに普通に聴いたときに洗練されたものを聴いたという後味が残らず、本来クリアーなはずなのに、全体としては濁った感じの印象が残りました。

ただ云えることは、これをもし内田光子やアンドラーシュ・シフに弾かせたなら、まったく違った面が出てくるだろうし、そういう巧緻なピアニズムで聴かせる人の演奏でぜひ聴いてみたいというのが正直なところです。
しかし、このピアノの名前がBARENBOIMである以上、他のピアニストが弾くチャンスがあるのかどうかわかりませんね。
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直感

以前このブログに、反田恭平氏がイタリアでラフマニノフのピアノ協奏曲を録音する様子がTV『情熱大陸』で放送された時のことを書きました。

それからおよそひと月、このCDが商品となり店頭に並ぶ季節になりました。
今どき国内盤で税込み3,240円/枚というのは高いけれど、このCDだけは購入しようと心に決めていました。

なにしろ準備されたピッカピカのスタインウェイの音がきれいすぎると気に入らず、ホールの片隅に置かれてた古びたピアノ(こちらもスタインウェイ)を弾いてみて、こっちのほうがいい、こっちにしますといって、その古いピアノで弾いたCDですから、これはもうぜひ往年のピアノの豊かな音を聴けるだろうと期待していました。

反田氏は、やはりCD店も現在イチオシの日本人ピアニストのようで、この新譜のことが大書され、ヘッドホンでの試聴も可能になっています。
で、買うつもりだけれども、せっかく聴けるのならととりあえず聴いてみようと思ってヘッドホンを当てて再生ボタンを押すと、この協奏曲の出だしで特徴的な低音のFの音がよく鳴っていないことに、あれ?と思いました。そして、同じ音が何度も繰り返されるうちに、これはおそらくピアノが鳴っていないと思われて愕然としました。

このイントロ部分が終わってハ短調の第一主題に入っても、ピアノの音にはパワーがなく、しけったような音。
「これはちょっと…」と思いながらしばらく聴き続けましたが、ピアノが問題なのは自分の印象としては確定的となり、これは旧き佳き時代のピアノというよりは、単に古くて鳴らなくなったピアノという感じでした。
おそらくホールでの第一線を退いたため、弦やハンマーも交換されることなく、つまり手入れされずに放置されていたピアノなのか、音に潤いもないし、伸びも色艶もありません。
食べごろを過ぎた、しぼんだ果物みたい。

ではこのピアノを選んだことは失敗だったのか?
それはなんともいえませんが、少なくとも今どきの、うわべのキラキラ感ばかりが前に出るピアノで弾くよりは、このくたびれたピアノで弾いたぶん、反田氏はピアノ側の華やかさに一切頼ることなく正味の実力を出したことにもなり、個人的にはこちらのほうがよかったと思います。

CDケースの裏側を見てみると、後半のパガニーニのラプソディは昨年日本でライブ録音されたもののようなので、そっちに進めてみると、今度はやたらエッジの立ったジンジンいう音で、これは例のホロヴィッツのピアノだろうと直感しました。

このピアノもだいぶ聴いたので今は新鮮味はなく、こうなると購入意欲はガクンと半減し、しばらく両耳をヘッドホンに突っ込んだまま、買うか止めるか思案にふけりました。演奏自体もこれもまた別の番組で見たように、あまり反田氏の直感が炸裂するようなものではなく、どちらかというと安全運転の印象があり、ピアノ、演奏ともに、ちょっと期待したほどじゃないな…という気がしました。

特に協奏曲は、人の意見が入りすぎた演奏特有のつまらなさがあり、せっかくの才能が閉じ込められた感じがするのは、ピアノに限らず偉大な教師といわれる人の生徒にはときどき見られること。
音楽の世界では、若いころに開花する才能は珍しくないけれど、それをどう育てるかは甚だ難しいことだと思います。いまさら一般の音大生のようにただレッスンを積んで平凡さが入り過ぎることは最も危険と思われるので、あるていど自由にさせて、たまに信頼に足る人から全体的なアドバイスを受けるぐらいがいいように思います。
ピアノ選びは直感だったけれど、演奏は直感が足りなかった感じでした。

このCDでは、第2協奏曲ではイタリアのRAI国立交響楽団というのが共演していましたが、なんとなく二流という感じがして、それにくらべるとパガニーニラプソディの相手である東京フィルのほうが、まだずっと上手い気がしました。

それと、録音がまったく好みじゃなく、平坦で広がりも立体感もない、固くて詰まったような音。
これはCDにとって極めて大切なことで、ここではじめてレーベルはどこかと見てみるとDENON。そういえばリストのアルバムも同じで、その録音の酷さには心底呆れていたところだったので、これは社風なの?と思いました。

最近はマイナーレーベルでも、わっ!と思うほど見事な録音がたくさんあるのに、あまりにも音楽性のない音には残念のため息が出るばかりでした。その点では後発のレーベルのほうが、白紙からのスタートで美しく収録しているものがたくさんあるし、逆に伝統あるレーベルのほうに実は変な何かが受け継がれていたりするので感覚が硬直しているのかもしれません。
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切実感がない

ラトヴィア生まれのピアニスト、マリア・レットベリによるスクリャービン・ピアノ独奏曲全集を聴いてみました。

スクリャービンのピアノ曲のCDはたくさんあるものの、その多くが曲集か、ソナタ、練習曲、前奏曲の全集といった感じで、独奏曲全集というのは知る限りでは数少なく、同一のピアニストで一気網羅的に聴いてみるべく購入してみました。

通常マロニエ君はCDを聴くときは、何度も繰り返し聞くのが自分のスタイルですが、今回はとりあえず一度さっと流す感じで8枚を聴いてみました。耳に馴染んだ曲が多くを占め、これといって新鮮味はない代わりに、意外な事も浮かび上がりました。

…なんて書くほど大げさなことでもないけれど、ひとことで言うとスクリャービンのピアノ曲をこれだけ立て続けに聴くのはマロニエ君にはいささか演奏が退屈で、ひとことで言うと「飽きてしまった」というのが偽らざるところ。

レットベリは若い女性ピアニストですが、技巧も十分でどれもよく仕上がった演奏ではあるけれど、現代的に綺麗にまとめられ、それ以上の印象が残りません。
CD店のユーザーレビューでは、3人揃って五つ星という最高評価ですが、マロニエ君はそこまでかなぁ…というのが正直なところ。

エチュードなどはリヒテルの名演が耳にこびりついて離れないし、ソナタではウゴルスキのデモーニッシュな表現も忘れがたいものがあります。そもそもスクリャービンのピアノ曲というのは、仄暗い官能の奔流みたいなものが中心にありますが、レットベリの演奏では作品の闇の部分とか精神的な比重が少なく感じられ、現代の明るい場所で、新しい楽譜を置いて、普通に弾いている感じが目に浮かんでしまいます。
休憩時間には、かばんの中のスマホを取り出して触っているような感じ。

逃げ場のないような暗さも、死の淵に立たされた絶望感ももの足りないし、スクリャービンらしい切実感みたいなものがどうにも迫ってこない。

最近の演奏では、ボリス・ベクテレフのものが最も好ましく思い出され、内的な襞にも迫るようなところがあって、やはりベテランの表現力はさすがだなあとも納得させられます。

ただ、こういう印象はこのCDのみならず、例えばショパンコンクールなどを聴いても感じるところで、ピアニストが弾きたいから、あるいは弾かずにはいられないから弾くのではなく、受験勉強のように準備した演奏特有のしらけ感があります。一見とても良く弾きこなされているし、よく弾けていると思える瞬間も多々あるけれど、そういう演奏を、現代の新しいパァーン鳴るピアノで弾いたというだけで、あとに引きずるような何かはありません。
読書で言う読後感のようなものが残らない。

演奏が終わったら、聞いている側も同時に終わって、もう次のことを考えている状態。

これは生の演奏でもCDでもまったく同じで、いわば行間から、演奏者の喜怒哀楽とか表現したい本音が聴こえてくるようなものでなくては、結局人の心をつかむことはできないと思います。
これはオーケストラでも同様です。
指揮者の合理的な計算が見えて、全体の構成、緻密な細部、見事なアンサンブル、意図され仕組まれた聴かせどころなど、ぜんぶ自前に準備されて粛々とそれを本番で実行しているだけで、これじゃあどんなに見事な演奏でも酔えないし、興奮はできません。

楽譜至上主義で、画一的な演奏形態が蔓延したものだから、演奏から精気が奪われ、音楽が鳴り響かず、魅力が一気に減退していったのかもしれないし、情報過多のせいかもしれません。
どんなに上手い人でも、気持ちの入っていない、精度は高いけれど大量生産的演奏。

演奏者がぎりぎりの領域に入り込んで、一か八かの勝負をかけたり、燃え尽きるまで炎に焼かれたりするような、そんな危なさがないと音楽は衰退するばかりでしょう。

話が脇道に逸れましたが、それほどマリア・レットベリの演奏が無味乾燥だと言うつもりではなかったのですが、でもまあどちらかというとそっち寄りの演奏だとは思いました。
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パリのソコロフ

グリゴリー・ソコロフは「知る人ぞ知る、現役世界最高のピアニスト」というような評価の下、一部には熱狂的なファンが多いようで、並のピアニストでは満足できない音楽通の人達の間で支持されているとか。

あまり知らない頃は(今も知っているとは言い難いけれど)、そんなにすごい人がいるのか…という感じで、ちょっとYouTubeで見てみたり、10枚組ぐらいのCDを購入するなどしてしばらく聴いたりしていたものでした。

ある意味、往年のロシア型大ピアニストの生き残り的な印象でもありました。
どれを聴いても、絶対に沈まない大船に乗っているようで、なるほどとは思ったし、その独特なパフォーマンスには納得させられてしまう風圧のようなものがあり、これぞまさしく大物というところでしょう。
一部の評価はあるていど納得できましたが、ではそれで衝撃を受けて自分もファンになりCDを買いまくったかというと、総じてマロニエ君の趣味ではないためかそこまでの熱気は帯びませんでした。

そのソコロフのDVDをたまたまネットショッピングで目にしたので、一度ちゃんとしたかたちで視聴してみようというわけで購入しました。
パリ・シャトレ座の暗い舞台にスタインウェイがポンと置かれ、これから始まるリサイタルのソリストというより、ただの通行人みたいな足取りでそそくさと現れたソコロフは、まずベートーヴェンのソナタ(No,9/10/15)を立て続けに弾きました。

視覚的に驚いたのは、やはりその圧倒的なテクニックと、完全というか異様なまでに脱力しきった指さばき。
さらに肩から腕全体を大きく使うあたりは鳥の翼のようでしなやかではあるけれど、あまりにもいちいちがその動作になるのは、そこまでする必要があるのかという疑問を感じたり…。

腕の上げ下げの度に演奏上の呼吸が入り、個人的にはそれなしで進んで欲しいような箇所もたくさんありました。

そうはいっても、強靭なフォルテ、対して弱音域ではこれ以上ないという柔らかな音でいかようにも語る術をもっているのは、これだけでも聴く価値があると思います。

さらに印象的だったのは、どの曲に対しても精神的集中がものすごく、終始全身全霊を打ち込んで身をすり減らさんばかりに演奏する姿でした。演奏家がこれだけ自分のエネルギーを惜しげなく投入して演奏しているという姿には圧倒されるものがありました。
いまどきのサラサラと無機質な、疲れの少なそうな演奏でお茶を濁す中途半端なピアニストが多い中、このソコロフの演奏にかける熱を帯びたような姿勢というものは、まずそれだけでも大変尊いものだと感じずにはいられません。

ステージマナーも独特で、最後のプロコフィエフのソナタが終わって万雷の拍手が起こっても、アンコールを弾いても、何度カーテンコールが続こうとも、表情は一貫してブスッと不機嫌そのもの。
一瞬の微笑みもないのは無愛想というより、ここまで徹するのはむしろご立派というべきでしょうし、そこがまた聴衆にも媚びない孤高のピアニストといった風情に映るのでしょう。

ただ、敢えて書かせていただくと、音楽的にはやはりマロニエ君の好みではないところが多々あって、美しい音楽を聴く楽しみというより、ソコロフという異色のスーパーピアニストの妙技を拝聴するという感じで、まさに彼の紡ぎだす世界に同席するという感覚でした。
気になるのは、あまたのフレーズや楽節ごとに深く大きな呼吸の刻みがあって、せっかくの音楽がいつも息継ぎばかりしているような感じを受けたことで、聴いていて次第に少し疲れてくるのも事実です。

それと、音楽的な表情というか語り口はわりにワンパターンのように感じたのも事実で、その点ではアンコールで弾いたクープランの二曲はとても好きだったし、バッハも素晴らしく、あまり直接的な表情を求められない作品のほうが向いているような気もしました。

ベートーヴェンもプロコフィエフも個人的好みでいうと大きく構えすぎて却って作品が聴こえてこない気がするし、ショパンもちょっと感性が合っていない気がします。

でも、こういう人が玄人受けするというのはよくわかりました。
音楽的に好きでも嫌いでも、とにかくすごいものに触れているという特別な感じがあるのは事実です。
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流麗なんだけど…

どこか腑に落ちない演奏ってあるものです。

菊池洋子のピアノで、モーツァルトのピアノ協奏曲第20 KV466/21番 KV467のCDを聴いてみて、ふとそんな気分になりました。オーケストラはオーケストラ・アンサンブル金沢、指揮はKV466が井上道義、KV467が沼尻竜典。

日本人として初めて「モーツァルト国際コンクールのピアノ部門で優勝」したことがこの人の特筆大書すべき経歴で、いきおい日本の新しいモーツァルト弾きというようなイメージが定着しつつあるようです。
ところで、そもそも「モーツァルト国際コンクール」というものがどんなものなのかよく知りませんし、このコンクールからこれといった演奏家が出てきたという記憶もありませんが、マロニエ君の不勉強のせいでしょう。

菊池洋子さんは、NHKのクラシック倶楽部などでも聴いた記憶があり、そのときもやはりモーツァルトのソナタやピアノ四重奏をやっていたように思いますが、どちらかというと明るく明快な演奏ということ以外、詳しいことまで覚えてはいません。

印象に残っているのは、ゴーギャンの描くタヒチにでもいそうな、長い黒髪を垂らした異国的な容姿と、沈潜せず、サッパリした語り口で、張りのあるモーツァルトを弾く人というようなイメージでした。

今回あらためてCDを聴いてみて感じたことは、耳に快適で、指も心地よく回っているし、音に華があること、さらにはよく準備された誠実な演奏で、なかなかよく弾けてるなぁというものでした。
ただ、欲を言うと、もうひとつこのピアニストなりの個性が明確にはなっておらず、あくまで譜面をさらって、万端整えて出てきましたという感じが残り、演奏を通じて奏者の語りを聴くという域にはまだ達していないように感じます。

センスはとてもいいものを持っていらっしゃるようだけれど、大きなうねりや陰影がなく、ひたすら全力投球で真っ直ぐに弾いておられるのだろうと思います。モーツァルトは一見まっすぐに見えて、実はかなり屈折した造りでもあるので、そのあたりを感じさせて欲しいのですが。

ブックレットによれば、ご本人はモーツァルトの即興性を大事にされ、その場で音楽が作られたかのように毎回臨みたいというような事を云われていますが、たしかにそれは感じられ、ただの印刷のような演奏でないことは大いに評価すべきところだと思いました。
さらには、いちいちが説明的ではない点も好感をもって聴くことが出来ました。
それはそうなんだけど、惜しいのは全体にせかせかして落ち着きのない感じを与えてしまっているあたりでしょう。

このふたつの協奏曲は、ケッヘル番号も連番になっている通り、ほとんど同じ時期に書かれた作品ですが、短調と長調という違いに留まらず、陰と陽、表と裏、精神的な明と暗という、対照的な関係にあって、もし役者なら同一人物に内包する極端な二面性の演じ分けに腐心するところではないかと思われます。
ところが菊池さんの演奏では、どちらを聴いても同じような印象しか残らず、とくに20番のほうに楽しげな明るさを感じてしまったのは少々慌ててしまったし、第2楽章も川面に浮かんだボートでくったくなくスイスイ遊覧していくようで、いささか面食らいました。

このCDには2曲(各3楽章)で計6つのトラックがあるわけですが、極端に云えばどれを聴いても同じようなに聞こえてしまうわけです。菊池さんにとってモーツァルト作品は長くお付き合いされ本場で研鑽を積まれた結果なのでしょうから、一定の見識のもとにこのような演奏に至っておられるのかもしれませんが、マロニエ君にはその深いところが汲み取れませんでした。

さらに言ってしまうと、マロニエ君は新しいCDはとりあえず何回も繰り返し聴くのが習慣ですが、このCDはそれがちょっとつらくなります。
華やかな同じ調子の演奏が延々と続くことに、聴く側のイマジネーションが入り込む隙がないようで、だんだん飽きてくるし、マロニエ君としては、もともとモーツァルトの精神の暗部に敏感であるような演奏を好むためかもしれません。

プロフィールを読むと、フォルテピアノの演奏もお得意の由で、もしかするとそちらの楽器にマッチする方なのかもしれません。私見ですが、モダンピアノは潜在的な表現力がフォルテピアノにくらべると格段に大きいので、より雄弁で多層的な表現の幅が要求されるのかもしれません。
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『音楽の贈り物』

ブックオフでの思わぬ掘り出し物に気をよくして、また別の店舗に行きました。
ピアニスト遠山慶子さんのエッセイとCDをひとまとめにした『音楽の贈り物』が目に止まり購入。

これまで書店で買うには至らなかったものが、こうして安く中古で手に入るというのはわりにおもしろいなあと思っているこの頃です。

遠山さんは1950年代にフランスに渡り、あの伝説のピアニストであり教師でもあったコルトーの弟子になられたという経緯をお持ちの数少ない日本人だと思われます。

エッセイはどれも短編で、あっさりした語り口がこの方の人柄やセンスを表しているようで、これまでの経験や感じてこられたことのエッセンスのようなもの。そこにはご自分が接した音楽家や文化人の名前が綺羅星のごとく登場しますが、そういう良き時代だったことを偲ばせるものでした。
文字を追うだけで、まるで1950年代から60年代のパリの空気を吸い込むようで、これを読めただけでもなんというか、薫り立つような体験をさせてもらったような気になり、とても満足でした。

また、本と一緒に1枚のCDが添えられており、遠山さんのソロがいろいろと音として楽しむことができました。本来マロニエ君はこういうスタイルはどこか下に見ていたようなところがあったけれど、それはやはり書く人、弾く人しだいというわけで、これはなかなかに楽しめるものでした。

曲目はモーツァルト:デュポール変奏曲、シューベルト:ソナタD566、ショパン:ノクターンNo,5/8/11/16、ドビュッシー:子供の領分というもの。
この中で、シューベルトのソナタだけは遠山さんのご自宅のベヒシュタインが使われ、それ以外はベーゼンドルファーのインペリアルが使われているというのも、ピアノ好きにとっては興味をそそるもの。

とりわけショパンでは、そのピアノの音の甘くて艶があって繊細なことにまず耳を奪われました。
近年ではこれぞと思うベーゼンドルファーにはなかなか縁がなく、インペリアルなどは図体ばかりでかいくせして、一向に満足な鳴り方をしないピアノを何台も見たり聴いたりしていたので、こういう美音にみちた楽器もあるのだということが思わずうれしくなり、うっとりできました。

またシューベルトに聴くベヒシュタインも、いわゆる普通のベヒシュタイン然とした音ではなく、こちらも色艶があってどこか可愛らしくさえあり、併せて哀愁のようなものまで感じさせるピアノでした。

最も驚いたのは、ショパンのノクターンに聴くベーゼンの音で、どことなくプレイエルを想起させる雰囲気すらあったのには、思わず声を上げたくなるほど驚きました。こういうショパンもアリという点で、まったく予想外なものでした。
耳を凝らせばたしかにベーゼンドルファーの特徴的なつんとした声が奥に聞こえてはくるけれど、全体的な音のニュアンスとそこに流れる空気はあきらかにフランス的で、こういう音を聴かされてしまうと、このピアノを選ばれた遠山さんの意図がわかる気がしました。

遠山さんはコルトー仕込みであるのはもちろん、ご自宅にもプレイエルのグランドをお持ちなので、コルトー&プレイエルが醸し出すあの独特なパリのショパンの世界は重々わかっておいでのことでしょうし、まったく違った楽器を使ってこのような音の世界を創出されるというやり方というか感性にもただただ脱帽。

ここに聴くベヒシュタインとベーゼンドルファーはいずれもまるでフランスピアノのような香りをもっており、これはとりもなおさず遠山さんの美意識が求めた結果の音作りであっただろうと、聴きながらマロニエ君は勝手に深く納得するのでした。
同時に彼女の好みをよく理解し、それをピアノに反映させた調律師の存在も見逃すことはできません。

しかもベーゼンドルファーは、曲によってウィーンと草津、埼玉と3ヶ所で録音さらたもののようですから、当然ピアノも技術者も違うだろうと考えたら、ますます驚かずにはいられませんでした。しいて云うなら草津で録音されたモーツァルトはわりに普通のベーゼンドルファーの感じでしたが、それ以外はかなりフランス風でした。

エッセイの中でプレイエルのことを「軽く透き通るような音」と表現されていましたが、まさにその通りだと思うし、このドイツ系の2台のピアノもそれ風になってしまっているところが唸らせられます。
フランス風な奏法ということもあってそういう音が出ているのだとすると、日本人がただプレイエルを弾いてもそれらしい音は出ないという暗示のようにも感じられます。

演奏はおだやかで良識的で、知性あふれるマダムという感じでした。
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ネルソン・ゲルナー

1969年生まれで、アルゼンチン出身のピアニスト、ネルソン・ゲルナー。
その名前は何度か耳にしていましたが、演奏は一度も聴いたことがありませんでした。

今どきなので、その気になればYouTubeなどであるていどその演奏に触れることはできるとは思うけれど、マロニエ君はYouTubeは見るものであって聴くものではないという自分勝手なイメージがあり、音楽でこれを利用することはこのところはありません。
以前はずいぶんのめり込んでこれで夜更かしを繰り返したものですが、タダで盗み見をするようで、だんだんに音楽に対する姿勢も雑で不真面目になるように感じて、自分が楽しくなくなり、しだいに遠ざかるようになりました。

じゃあCDやDVDやテレビならいいのかとなりますが、自分としてはいいことになっています。どのみち実演ではないわけで、そこに明確な理屈は通らないけれど、マロニエ君としてはここに自分なりの一線を引いているのです。
ちなみに、コンサートでは実演に接することになりますが、たった一度コンサートに行ったからといってそのピアニストのすべてが分かるのかというと、これはこれで怪しいもので、出来不出来もあるし、不明瞭な音響のホール(これが多い)では、かえって伝わらないものが多くて悪印象のまま終わることも少なくありません。

ではCDや映像だけであるていどの評価をしてしまうことにも問題はないのかといえば、もちろんないわけではないけれど、マロニエ君の経験では、実演で大きくその印象に修正を迫られたことはほとんどないし、録音のほうが演奏のディテールまでより細緻に迫ることができるのも事実です。

CDをさんざん聴きこんで実演に接すると、一発勝負の粗さや完成度の低さ、ホールの雑な音響やピアノのコンディションなどよるスポイルを感じることはあっても、本質的にはやはりCDの印象はそのままで、信頼性はかなり高いと考えます。
さらに一度や二度では聞き逃していたものを、繰り返し聴くことで網ですくいとるように丹念に拾っていくことができるのも録音ならではの強みです。

つい前置きが長くなりましたが、今回はネルソン・ゲルナーのCDを購入したという話でした。
イギリスのウィグモアホールのライブシリーズで、曲目は大半がショパン。
幻想ポロネーズ、2つのノクターンop.62、アンダンテスピアナートと華麗なる…、12のエチュードop.10他といったものですが、聴き始めてすぐに「ああ、この人は南米のピアニストだな」と思いました。

南米のピアニストはアルゲリッチ、フレイレ、プラッツなどがそうであるように、音のひとつひとつを楷書のようにはっきり弾くことはせず、必要に応じて音の粒にぼかしを入れたり、そこはかとないニュアンスへと置き換えたりしながら、作品のフォルムや性格を尊重します。
さらには陰影の表現にもこだわり、自然な呼吸感を大事にして弾く人が多く、たとえば二度連続するパッセージなどは必ず陰と陽に分けられ、さらにそれが絶妙の息遣いをもっているなど、このあたりが南米の伝統なのかと思います。

ゲルナーは決してスケールの大きな人ではないようですが、非常に感受性の豊かな人ならではの瞬間が随所にあり、なるほどと納得させられるところの多いピアニストでした。
ここぞというパンチはないけれど、この人なりによく練り込まれた、繊細に表現されたショパンを充分に堪能することができました。

いかにもラテン的だったのは、12のエチュードでも、隣り合う曲によっては、ほとんど間をあけずに次に入るところなどがあったりして、そんなところにもこのピアニストの感性の綾のようなものが垣間見えるようでした。
そのまったく逆が、木偶の坊のようなピアニストが24のプレリュードやシューマンの謝肉祭のような作品を通して弾く際に、常に曲と曲の間に判で押したような同じ「間」を取ることで、却って聴くほうのテンションが下がってしまうことがありますが、このゲルナーはそういうストレスとも無縁の快適なピアニストでもありました。

ただ、どちらかというと日本ではこういう人はあまり評価が得られず、多少ダサくても一本調子でも、生真面目に弾く人のほうが好まれるのかもしれません。
少なくとも日本人は粋なデフォルメや遊び心より、職人的な技巧やお堅い仕上げを喜ぶのかもしれません。

残念だったのは、名高いウィグモアホールのライブシリーズというには音質がいまいちで、その点ではコンサートの臨場感があまり伝わらず、どちらかというと記録録音のような趣でした。
近年は名もないマイナーレーベルのCDにも驚くばかりの高音質のものが珍しくないことを考えると、これはずいぶんと不利だなあという気がしました。
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アヴデーエワのCD

ユリアンナ・アヴデーエワの新譜を買いました。
といっても動機は甚だ不純なもので、天神に出た際、駐車場のサービス券ほしさにCD店を覗いたのですが、近頃は店頭在庫もこれといったものはいよいよ少なく、限られた時間内に、強いて選んだ一枚がこれだったというわけです。

昨年9月にドイツで録音されたもので、内容はショパンの幻想曲、続いてなぜかモーツァルトのソナタニ長調KV284、さらになぜかリストのダンテを読んで、さらにさらにヴェルディ=リスト:アイーダより神前の踊りと終幕の二重唱ときて…これで終わり。
まずこの曲目の意図するところがわからない。
いろいろな意味や考察があって並べられたものかもしれないけれど、マロニエ君には一向にそれが意味不明で、なんの脈絡もない4曲がただ並んでいるだけといった印象しか得られません。実際に何度聴いてみても、なんでショパンの幻想曲の後にモーツァルトのこのソナタがくるのか、さらにそこへリストのダンテソナタやアイーダの編曲が続くのか…流れとか収まり、選曲の意図がまったくわからず、いつまでも首をひねりたくなるものでした。

演奏は、技術的には大変立派なもので、しかもすべてが知的かつある種の暖かさみたいなものさえある仕上がで、並み居るピアニストの平均値から頭一つ抜け出たものだと、まずその点は思います。
では、聴いていてストレートに素晴らしいと感じるかというと、非常に端正だけれど本質的にピアニズム主導で聴かせる技巧人という域を出ることがなく、一流職人の仕事を見せられるようで、有り体に言えばわくわく感がまるでありません。

予め綿密なプランを立てた上での、意図した通りの演奏であるのかもしれないけれど、あまりにその演奏設計が前に出すぎていて、音楽自体に生命感がないし閉塞感みたいなものを覚えてしまいます。

解釈や構成、さらには実際の演奏の進め方まで緻密に練り込まれているため、ピアニズム主導といっても単純な腕自慢をするようなあけすけな技巧ではないところがアヴデーエワの奥義でしょう。あくまで知的フィルターがしっかりとまんべんなくかかっていて、だからえらく思慮深い演奏のようには聴こえるなどして、そういう捉え方をするファンも多いのかもしれません。

もとより演奏の精度はとても高いし、音も豊かで上質感もあるなど、演奏評価を決定づける要素がきれいにそろっているために、さしあたりすごさを感じて欠点らしいものは見当たりません。ところが、それがよけいにこの人の演奏にまとわりつく違和感を増幅させ、それは何かと躍起になって原因を探しまわることになるようです。

充実した余裕あるタッチのせいか、誇張して言うと、どの曲を聞いてもいつも立派なので却って変化に乏しく、さらにいうと一つの曲の中でも起承転結の実感がなく、どこを取っても同じような調子に聞こえてしまいます。むらなく立派すぎることで躍動感を失い、音楽が均一になっているというべきか。

演奏というものはどんなに周到に準備されたものであっても、最後はその瞬間に反応する「発火」の余地を残していなくては、いかに立派なものでも予定調和に終止するだけとなり、聴く側も真の喜びには到達できず、有り体にいうとわくわく感がありません。

その点でアヴデーエワの演奏は、「策士、策に溺れる」のたとえのごとく、「プランナー、プランに溺れ」ているのではないかという気がするほど、前もって音楽を作りすぎており、それがこの人の最大の欠点のように感じるのです。
どんなに高揚感を要するフォルテシモやストレッタにおいても、それはあくまで奏者のコントロール下に置かれ、絶えず抑制感がついてまわるのは、マロニエ君の好みから言うと却って欲求不満に陥り、ストレスを誘発してしまいます。

尤もこれはいうまでもなくマロニエ君の個人的な感想なのであって、ピアノ演奏においても、ひんやりと黙りこんだような最高級工芸品的な仕上がりを望む方には、アヴデーエワの演奏はお好みかもしれません。

マロニエ君なんぞはさしずめ作りたて揚げたてのアツアツ感がないと、音楽を音楽として堪能することができないのだろうと思います。
むろんこれは、音楽はライブに限るというあれとはまったく違うものです。
何十回録り直した録音でもいいから、このアツアツ感だけは必要だと思っているわけです。

それにしても、耳慣れたはずのモーツァルトのソナタKV284が、こんなにも長ったらしい、あくびの出るような曲であったとは初めて知りました。
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