デリカシーの妙

『オリジナル・プレイエル2台で弾くショパンのピアノ協奏曲』というCDを買ったのはいつの事だったか…よく思い出せません。
マロニエ君にとっては、プレイエルという特別な名前に心惹かれたこと、さらにはこういうCDは目の前にある時に買っておかなくては、そのうち…なんて思っていたら二度と自分の手に触れることができなくなるということを苦い経験で知っていたので、とりあえず買うだけ買ったものの、プレイエルといってもフォルテピアノなのですぐには聴かずにほったらかしにしていました。

存在さえ忘れていたところ、つい先日、山積みになったCDの下の方からひょっこりこれが出てきたので聴いてみたら、すっかりこれにハマってしまいました。

ここで白状してしまうと、マロニエ君はフォルテピアノというのがあまり好きではありません。
クラシック倶楽部のような番組で放送されるぶんには聴くこともあるし、わけてもアンドレアス・シュタイアーのような名手の演奏は素晴らしいと思います。でも、じゃあCDを買うかといえば、ゼロではないがなかなか…というところです。

歴史的な意味や、ピアノの祖先としての価値はわかっていても、積極的に聴きたいというほどの欲求にはならないし、古楽器奏者たちの醸しだす、自分達こそ正しいことをやっているんだというようなあの宗教家みたいな雰囲気も苦手です。

プレイエルについては、モダンピアノの時代になってからのものは大好きで、コルトーのCDなどはむろん彼の演奏を聴くためではあるけれど、それはプレイエルの芳しい音色ともセットになっています。
このせいで、好きでもない日本人ピアニストのショパン全集を出る度に都合12枚も買ってしまったのも、ひとえにプレイエルの音を楽しみたかったからにほかなりません。
いっぽう、時代物のフォルテピアノはというと、古ぼけた骨董の音を聴いているようで、どうも自分の求めるものではないという印象から抜け出すことが難しい。ポーランドのショパン協会が関わるCDにも、ショパン存命の時代のエラールを使ったものがいくつもリリースされているけれど、フォルテピアノでおまけにエラールというのでは購入する気になれません。

さて、それで購入から数ヶ月を経て初めて聴いてみたこのプレイエル2台によるCD。
2台のピアノのうち、1台は1843年(ということはショパンが亡くなる6年前に製造された)の平型で、これがピアノのソロパートを弾いているのに対し、オーケストラパートは1838年製のピアニーノ(アップライト)が使われているというのも大変珍しいものです。

演奏はスー・パクとマチュー・デュピュイという二人のピアニスト。

第一印象はやけにパワーのない、地味で精気のない演奏という感じではあったものの、まずは耳慣れたモダンピアノとの違いからくる違和感を乗り越えなくてはと思い、まあ待てと聴き続けていると、予想より早くこれらの楽器の音や演奏に耳と気分が馴染んでいきました。

感心したのは、さすがはプレイエルというべきか、モダンのプレイエルの音に通じる独特な声があって、構造も何も違うにもかかわらず、両者には共通する個性がはっきり聴き取れることに驚かされました。
マロニエ君はモダンのプレイエルにこの19世紀の音を重ねているけれど、本来はむろん逆で、この音をモダンピアノになっても継承されているというのが順序です。

柔らかさ、明るさ、伸びのよさ、それに軽やかでありながら常に憂いの陰が射しているところも、まぎれもなくプレイエルのそれでした。
オーケストラパートを受け持つピアニーノというアップライトは、これがまた味わいのある音で、さらに柔らかく、ほわんと宙に浮くように響くあたりは、とうてい現代のピアノから聴こえてくる音色ではないのは驚くばかりでした。

こうして、ショパンの生きた時代のプレイエルの音を聴いていると、ありきたりな言い様ですが、まさにショパンがお弟子さんと二人で自分のコンチェルトを演奏している様子というのは、おそらくこんなものだったのではないかと空想しないではいられませんでした。
しかも、誰のためということでなしに、ただ自分のために弾いているような、あくまでも私的でプライヴェートな響きというか、もっと直截にいえば孤独感に満ちていて、ショパンの生の息遣いに触れられたような気になりました。

演奏は趣味もよく、終始センシティヴ、決して楽器の限界を超えるような弾き方ではない点も見事。

とりわけこの時代のピアノのもつ「軽さ」は魅力で、現代のピアノは素晴らしい反面、あまりにリッチな高級車のようで、作品に対してそのリッチさがそぐわない面があるのも認めないわけにはいかないようです。

こういう演奏を聞いていると、フォルテピアノをもうすこし聴いてみようかという気になりました。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

シャオメイの再録音

これまで何枚買ったかわからないバッハのゴルトベルク変奏曲のCD。
おそらく20枚以上はあるだろうと思うけれど、数えてみたことはありません。

ゴルトベルク変奏曲のCDは、聴くに耐えないような駄作率は意外に低く、どれもそれなりの仕上がりになっていることは大きな特徴のように思います。なんといっても作品そのものが圧倒的であることと、バッハは他の作曲者より演奏者の自由度が広いということもあって、弾ける人が弾きさえすれば、そうおかしなことにはなりにくいのかもしれません。

そんな中で、自分の好みという点では上位グループの中に、シュ・シャオメイがあります。
シャオメイは中国の文革を生き抜き、その後欧米に飛び出したピアニスト。文革という苛烈な経験の裏返しなのか、その人間味あふれる演奏は他のピアニストとは一線を画すものだと思います。
彼女は1990年頃にゴルトベルク変奏曲をレコーディングしてすでに高い評価を得ており、これはマロニエ君にとっても定盤なのですが、そのシャオメイがつい先ごろ、同曲を再録したものが発売となり迷うことなく購入しました。

さっそく数日にわたり繰り返し聴いてみましたが、なるほどディテールの表現が前作より角がとれ、深まりを見せているように感じられるところが多々あるなど、より自由かつ細密さを増しているのがわかります。
また、なによりもこの記念碑的な作品をリスペクトし、隅々までこまかく気を配っている真摯さが伝わり、四半世紀を経て、現在の彼女の心の内奥を覗き見るようでした。また、ところどころ、解釈の基軸にグールドの存在が見えるようです。

では、旧作に比べてどちらがいいかというと、さらに高まった純度や一段と練られたディテールなどを聴き取ることができるなど、大変に迷うところではあるものの、全体的な印象で言うなら旧作のほうにやや軍配をあげるかもしれません。
やはりなんといっても旧作には全体に新鮮さと活気、音色には温かさと色彩があって、ピアニスト自身にもパワーが充溢していたと思われるし、それでいて人の心に語りかけるような慈しみが充分あって、この点は今でも色褪せることはありません。

新録音ではさらにデリカリーとセンスが上積みされ、新旧2つはかなり拮抗しているというのが正直なところ。
一般論としても、満を持して録音された最初の録音というものには、演奏者自身が気づかぬくらいいろいろな要素が揃っている事が多く、結果、高い評価に至るというのはよくある事です。とりわけ意気込み、燃焼感、構成力などはあるていど若いときの演奏のほうがより充実しているものが少なくない。
それでも、本人にしてみれば反省点や新境地など不満点もあって、再録で問い直したくなるのはわかりますが、同時に前作にあった完成度のようなものが損なわれてしまうということがままあることも事実。

パッと思い出すだけでも、ゴルトベルクを再録したピアニストはグレン・グールド、アンドラーシュ・シフ、コンスタンティン・リフシッツ、セルゲイ・シェプキンなどがあり、グールドはあまりにも新旧違いすぎて単純比較はできないし、個人的にはっきり再録のほうが優ると言い切れるのは、表現の幅を広げて一気に円熟の艶を増したシフひとりで、リフシッツの再録は聴いていないし、あとはシェプキンかなぁというぐらいで、なかなか旧作を明確に上回ることは至難のように思います。

また、旧作はそれひとつで成り立つだけの独立性があるのに対し、再録というのは、あくまで旧作あっての再録という側面が少なくないようにも思います。

シャオメイの再録に話を戻すと、聴く者を惹きつけ、作品もしくは演奏世界に誘う力は旧作のほうがやや強かったように思うし、色彩感もこっちだったような気がします。新しい方はより独白的で、色彩もモノトーンというか、あえてモノクロ写真にしたような印象を受けました。尤もこれらはちょっとしたマイクの加減、調律の違いなどでも変わってしまうことがあるので、シャオメイが意図したものかどうかは計りかねますが。
いずれにしろ、シャオメイというピアニストは中国人ピアニスト(それも文革の世代の!)とは信じられないほど、中華臭のしない、音楽的には中道で誠実な演奏をする人という点で、稀有な存在だと思います。

毒のある魔性の芸術家も好きだけれど、こういう良心的な人柄そのもののような演奏もいいものです。

ライナーノートを見ると、ピアノについての記述があり、「For this recording a Steinway D274 was used.」と、中古というか、新しいピアノでないことがわざわざ記されていました。
録音はドイツ、レーベルはAccentus Musicですが、ピアノチューナーのところにはKazuto Osatoという日本人らしき名前がありました。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

レーベル違えば

同時に購入した反田恭平氏のCD2枚のうち、先に聴いた『リスト』はまったく良い印象がなかったことはすでに書いた通りですが、もうひとつの『Live!』では、おやっ…と思うほど違っていて、通常こういうことはまずないので珍しいことです。

曲目はシューベルトのソナタD661、チャイコフスキー:ワルツ・スケルツォ第1番、ショパン:英雄、ミャスコフスキー:ソナタ第2番、スクリャービン:ソナタ第3番、チャイコフスキー:カプリッチョ、モシュコフスキ:エチュードop.72-6、リスト=シューマン:献呈というもの。
データを見ると『リスト』と『Live!』の2枚は、ほぼ同時期(2015年1月)に録音されていますが、細かく見ると不思議な相違点が散見できました。

ケースの雰囲気も似ているので全然気づかなかったけれど、まずレーベルがまったく違っていてびっくりでした。
それに『リスト』はDENONによるセッション録音であることに対して、『Live!』はNYS CLASSICSというレーベルの文字通りライブ録音である点も異なります。

2枚に共通しているのはピアニスト、それに使われたピアノがホロヴィッツが弾いたという1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD75であること。

レーベルが違えば、当然プロデューサーも異なり、『Live!』のほうがCD75という歴史的なピアノの魅力をよほど適正に捉えているように思います。
ひとことで言うなら、こちらのほうがピアノの魅力を知る人(どうやらこのピアノのオーナー氏)が録音の指揮をとったという感じで、その違いは聴く側にとってかなり大きな影響があり、このあたりは工学の専門家と、楽器や音楽の専門家とでは目指すところがかなり違っているようにも思われ、マロニエ君は後者を支持するのはいうまでもありません。

『Live!』を聴くことで、この非凡な楽器の魅力もようやく伝わりました。
刃物のようにシャープで、優雅さと猥雑さが同居していて、どこか魔物の声のようでもあるけれど、その中に不思議な温かみのようなものもある、今どきのありふれたピアノとはまったくの別物というのがわかります。
それで気を良くして、もう一度『リスト』を聴いてみますが、こっちはやっぱりダメでした。
こちらは音がむやみに攻撃的でとても聴いていられません。よほどマイクが近いのか、耳はもちろん手や顔の皮膚までジンジンするようで、途中で本当に頭が痛くなってしまったほどです。たまらずにSTOPボタンを押すとその音の洪水から開放されてホッとするほど強烈です。

演奏も何度もプレイバックを聴いては録り直しをさせられたのか(どうかはしらないけれど)、演奏行為を通じて奏者と作品の間に起こる自然の発火作用がなく、仕組まれた無傷というか、慎重さとかミスのなさばかりが目立ってしまい、うまいんだけどシラケてしまいます。
熱演ではあるけれど、空気感としてちっともエキサイティングじゃないわけです。
やけに遅いテンポ、不必要かつ過剰な間の取り方、ハンマーが弦に打ち付けるときの直接的な衝撃音まで入っている感じで、まさにピアノの至近距離で聞かないほうがいい雑音まで聴かされているようで、反田氏自身が本当にそういうCD製作を望んだのかどうか、甚だ疑わしい演奏に聴こえました。

これに対して『Live!』では、音楽に流れがあり、そこにある緊張感あふれる空気を感じることができるし、ピアニストの一回の演奏にかける意気込みのようなものがあって、こちらのほうが反田氏の正味の姿だろうと思われますし、当然好感度も大いにアップしました。とりわけチャイコフスキー、ミャスコフスキー、スクリャービンで見せた腰のある演奏は、この人がとくにロシア系の重厚かつ技巧的な作品に向いていることがよくわかります。

その点で言うと、リストは作品がいくら技巧的ではあっても、それをただ技巧派が弾くとこの人の作品は趣味の悪さがワッと前にでるので、リストを聴いてもただ単に技術をお持ちなことを「わかりました」となるだけで、反田氏の評価が本当の意味でアップすることはないような気がします。

『リスト』と『Live!』の2枚は、『リスト』で伝えることのできなかった多くの要素、あるいは直接的なマイナス要因を『Live!』は取り戻すための一枚で、だからほとんど同じような時期に収録されたのでは偶然か意図的かと、つい勘ぐりたくなるようなそんなCDでした。

同じピアノとピアニストが、録音の目指す方向性によって出来上がるものは唖然とするほど違ったものになるということがまざまざとわかる2つのCDで、これほどはっきり体感できただけでもこのCDを買った意味があったと思いました。

できることなら、『リスト』に収録された同じ曲目を、違う録音で聴き直してみたいものです。
ただしラ・カンパネラと愛の夢はもうたくさんですが…。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ゆらぎ

スタインウェイ社自身がプロデュースするCDレーベルというと、そのものズバリの『STEINWAY & SONS』ですが、これがそこそこ面白いCDを出しているという印象があります。

中にはセルゲイ・シェプキンのような中堅実力者が登場することもありますが、多くの場合、一般的には無名もしくはそれに近いピアニストを起用しながら、独自の個性的なアルバムをリリースしており、マロニエ君は結構これが嫌いではないのでたまに購入しては楽しんでいます。

先日もスタニスラフ・フリステンコというロシアの若手が演奏する、FANTASIESというアルバムを聴いてみました。
演奏はそれなりで、とくにコメントすることもありませんでしたが、アルバム名の通り、シューマン、ブルックナー、ツェムリンスキー、ブラームスの各幻想曲を集めたものです。

めったに聴くことのないブルックナーのピアノ曲、初めて聴いたツェムリンスキーの「リヒャルト・デーメルの詩による幻想曲」などは大いに楽しめるものでした…が、それ以上に楽しめたのはやはりここでもピアノの音でした。

冒頭のシューマンの開始早々、うわっと驚くようなゆらぎのある響きというか、一聴するなり調律がおかしいのでは?と思うような特徴的なサウンドが部屋中を満たしました。
その正体はこれぞニューヨーク・スタインウェイとでもいう音で、とてもよく鳴っているけれど、ニューヨーク製らしい鼻にかかったような特徴のあるペラッとした音がなんだか楽しくもあり、どうかするとちょっと軽過ぎな感じにも聴こえてきたりするのですが、全体としてはきわめて魅力にあふれ、いかにも生のピアノを聴いているという実感に満ちています。

それにしても、出てきた音が揺らぐというか、陽炎ごしに見る景色のように響きが歪んで立ち上がってくるあれはなんなのかと、いまさらながら思いました。音の粒もどちらかというと各音によって音色や響き方にばらつきがあり、これは本来ならピアノとして問題視される要素かもしれませんが、それでもニューヨーク・スタインウェイには代え難い特徴というか魅力にあふれており、このあたりが簡単に❍☓では解決できない評価の難しいところだと思います。

マロニエ君も詳しく語れるほど知っているわけではありませんが、昔のメイソン&ハムリンやボールドウィンも似たようなややハスキーヴォイスを持っていますから、これは一世を風靡したニューヨークが生み出すピアノの特徴というか、地域が抱えもつDNAなのかもしれません。
アメリカの音楽には最適ですが、ヨーロッパのクラシック音楽にはときにちょっとそぐわない事もないではないけれど、いかにもアメリカらしいおおらかさと明るさ、ある種のアバウトさが日本やドイツのピアノづくりとは根底に流れる文化が違うことを感じさせられます。

ニューヨーク・スタインウェイを使ったCDを聴くと、わかっているはずなのに最初は耳があわててしまうのは、それだけ特徴的なピアノだからだと思いますが、しばらく聴いているとすっかり耳に馴染んでしまうあたりも、やはりタダモノではないということを毎回実感させられます。
しばらく聴いてNY製の音に慣れてしまうとそれが普通になり、その後にハンブルクを聴いたら、今度はこちらがなんだか遊び心のない、四角四面なピアノのようにも感じてしまうあたりは、いつも変わりません。

ここで使われているのは新しいピアノのようですが、今でもNY製の個性は健在であることがわかり、一度定まった音は信念をもって作り続けられることに敬意さえ覚えてしまいます。
どこぞのピアノのように、新型が出る度に、あっちへこっちへと方向を変えるメーカーとは、やっぱりそのあたりのぶれない自信とプライドがどうしようもなく違うようです。

この『STEINWAY & SONS』レーベルは、むろんスタインウェイ社のCDであるだけに、ハンブルク/ニューヨークは公平に使われているようで、両方の音が、メーカー自身がお墨付きを得た状態で聴いて楽しめることがなによりも特徴だと思います。
それにオーディオマニアでもないマロニエ君の耳には、録音も概ね秀逸ときているので、このレーベルを聴くときだけは演奏や作品よりも、「純粋にスタインウェイのサウンドをいろいろな演奏や作品を通じて聴く」ということに目的を特化することができるわけで、なんともありがたいレーベルです。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ブレンド

CDのアルゲリッチとバレンボイムのピアノデュオは、ベルリンフィルハーモニーで演奏された2台のピアノによる春の祭典をメインとするCDがありますが、今年の春には、同じ顔ぶれでもう一枚CDがリリースされました。

昨年の7月に、ブエノスアイレスのコロン劇場で収録されたライヴ盤で、ご存知の通りこの二人にとっては生まれ故郷での演奏会ということになります。
曲目は、シューマン=ドビュッシー編曲のカノン形式による6つの小品、ドビュッシー:白と黒で、バルトーク:2台のピアノとパーカッションのためのソナタ。

バレンボイムとの共演はそれほど興味をそそられるものはないけれど、そうはいっても前回はなにしろアルゲリッチが『春の祭典』を初めて弾いたわけだし、彼女のCDはどんなものでも買うことにしているので、既出のCD音源は海賊版などもあるためさすがに100%とは言いかねますが、数十年間買えるものは徹底して買い続けているので、新しいものが出れば迷うことなく購入しています。

というわけで、今回も当然のこととして購入して聴いてみたところ、やはりさすがというべきで、初日たちまち3回ほど続けて聴きました。とくに今回は全体に馥郁とした印象が強く、バルトークでさえ楽しめる演奏になっていることに嬉しい印象をもちました。
輸入盤でもあるしライナーノートは今更という感じで見ていなかったのですが、夜寝る頃になって、なにげなく机の上のケースが目に入り、このときはじめて中のノートを取り出して見てみることに。

すると、最初のページの写真をみてアッと声を上げたくなるほど驚きました。
互い違いに置かれた2台のピアノのうち、バレンボイムが弾いているのは、以前このブログでも書いた「バレンボイムピアノ」で、これはバレンボイムの着想により、スタインウェイDをベースにChris Maeneが作り上げた並行弦のピアノです。
バレンボイムはこの自分の名を冠したピアノを弾き、対するアルゲリッチはノーマルのスタインウェイDを弾いています。

音だけ聴いては、さすがに半分はこのピアノが使われているなどとは夢にも思わないものだから、うっかり気が付きませんでしたが、そうと知ったらこのCDのこれまでとは何かが違う理由が一気に納得でした。
並行弦で、デュープレックススケールを持たず、芯線も一本張りのこのピアノは、従来のスタインウェイとは全く違った響きをしており、全体にほわんとした余韻を残しているのです。

このピアノがお披露目されたことを知った時も、いずれはバレンボイムがこのピアノを使ってCDなどをリリースするのだろうとは思っていましたが、まさか遠くブエノスアイレスで、しかもアルゲリッチとのデュオでそれを持ち出すとは、まるで思ってもみませんでした。

以前、スタインウェイレーベルのCDで、ニューヨークとハンブルクの2台によるデュオというのがあって、それも通常とは微妙に異なる響きがあって楽しめましたが、今回の2台はそれどころではない面白さです。

ほわんとしたやわらかな響きの膜の中に、ハンブルクスタインウェイのエッジのきいた響きも加わって、これはとても面白いCDだと思います。意識して耳を澄ますと、なるほどその音色と響きの違いがわかり、このところすっかりこのCDが病みつきになっていて、もう何度聴いたかわかりません。

本当は音だけを聴いてこの「異変」に気がつけばよかったのですが、それは残念ながら無理でした。
しかし、この2台による演奏は、けっして違和感がないまでに調和がとれていて、なかなかステキなブレンドだと思うし、そもそも2台ピアノというのは同じピアノを2台揃えるというのが一応の基本かもしれませんが、弾き手も違うのだから、ピアノも違っていてなんら不思議ではありません。

そもそも、そんなことをいったらオーケストラだって、各自バラバラのメーカーの楽器が集まってあれだけの演奏をしているのであって、ピアノだけが同じメーカーである必要性はないでしょう。
もちろん調律師さんなど、技術者サイドからみれば、同じピアノであることが理想だという信念をお持ちかもしれませんが、実際にこういう演奏を耳にすると、同じピアノのほうが統一感があって安全かつ無難かもしれませんが、面白味という点ではぐっと幅が狭くなることがわかります。

コーヒーでもウイスキーでも、ブレンドがあれほど盛んなのは、それによって奥行きや複雑さが増すからで、マロニエ君などはインスタントラーメンでも二人分を作るときは、違うものを混ぜたりしますが、これがなかなか美味しかったりします。
カレーのルゥも然り、ファミレスでは子供がドリンクバーでジュースをあれこれブレンドして飲んでいますが、あれもやってみると複雑さや柔らかさがでて、ことほどさようにブレンドというのは面白いものだと思いました。

ブレンドはある種ハーモニーであり、まろやかさの創出でもあるのだと思います。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

反田恭平-2

いま日本で注目されるピアニストの一人、反田恭平氏のCDを購入しました。

まずは昨年収録された『リスト』というタイトルの、文字通りオールリストのアルバム。
特筆すべきは、この録音にはホロヴィッツが弾いていたニューヨーク・スタインウェイのCD75が使われていることで、これはあの「ひびの入った骨董」発言が話題となったホロヴィッツ初来日(1983年)の際に日本に一度来ているピアノで、その後のヨーロッパ公演にも使用されたとのこと。
1912年製といいますから、昨年録音された時点でも100年以上経っていることになります。

このピアノはホロヴィッツが好んだ数台のスタインウェイのうちの1台らしく、他のピアニストへの貸出も許可しなかったということですが、そういう逸話はともかく、聴いていて、このピアノを十全に弾きこなすのはなるほどホロヴィッツただ一人だろうということを諒解するのに大した時間はかかりませんでした。

反田氏の演奏の是非は置いておくとして、この特殊なピアノを中心に語るなら、この若者がそれなりにでも弾きこなしているかといえば、マロニエ君はまったくそのようには思えませんでした。
このピアノには、とくに音色の面で特殊な奏法と美学が必要とされ、その面では、反田氏の演奏をむしろピアノが拒絶しているように感じました。

ホロヴィッツに愛されたこの駿馬は、他の乗り手をなまなかなことでは受け付けようとせず、その音はしばしば悲鳴をあげているようにしか聞こえません。このピアノは炸裂するフォルテシモより、通常はマエストロがそうしたように、ビロードのような柔らかなタッチによって優しく愛でられることをよろこび、あるいは随所で様々な声部やアクセントを際立たせるといった弾き方に敏感に反応する特殊なスタインウェイのようです。
しかし残念ながら反田氏の演奏は、ホロヴィッツが駆使した魔性とエレガンスの対比で、聴く者を魅了するタイプではないようです。

立て続けに繰り広げられる強い打鍵、連続する和音の攻勢にスタインウェイとしては珍しく破綻したような音があらわとなり、弦がジンジンいうばかりのような音色は、ピアノが無理強いをさせられているようでちょっとまともには聞いていられませんでした。
いかに優れたピアノであっても、あまりにも枯れた響板故か(くわしいことはわかりませんが)、この歴史的な老ピアノをもう少し理解し手なずけて、その美質を引き出すような演奏であって欲しかったと、おそらくこのCDを聴く多くの人は感じると思います。
さもなくば、現代のふつうのスタインウェイで弾いたほうが、どれだけ良かったことだろうと思います。

CDの帯には「恐れを知らない大胆さと自在さ」とありますが、一流ピアニストならコンサートや録音に際して、使うピアノの個性を慎重に見極めるべきで、その特性を考慮せず、一律にばんばん弾くことが大胆とも自在ともマロニエ君は思えません。

反田氏の演奏は、個々の楽節でのアーティキュレーションではそれなりの集中や完成度があるようですが、各曲の性格やフォルムを見極め表現しているかとなると疑問で、高い演奏クオリティのもとにどれも同じような調子で弾かれてしまうのにも違和感と退屈を覚えました。
見事な演奏ではあっても、そこに流れ出す音楽で聴く者が惹き込まれるという点ではいまひとつで、どこにポイントを持って聴くべきか、ついに掴めないままになりました。

ボーナストラックとして、ホロヴィッツ編曲のカルメン幻想曲が収録されていましたが、もしホロヴィッツがあれを聴いたら何と言うか、ワンダ夫人はどんな顔をするのか、CD75は喜んでいるのか、誰よりもこのピアノの価値を知り、来歴にも詳しい技術者オーナーは本当に満足しているのかなど、いろいろなことを考えさせられました。

あえて率直に言わせていただくなら、このCDで聴く限り、この伝説的なピアノにひびが入っているとは思わないけれど、「骨董」としての音にしかマロニエ君の凡庸な耳には聞こえなかったのは事実です。
すくなくともこのピアノを敢えて使うという必然性が感じらず、違ったピアノのほうが反田氏の演奏にはよかったように思います。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ウゴルスキの音

音に特徴のあるピアニストというのはいろいろといるものですが、現在過去を含めて、つい先日、なんとはなしにふっと思いついたのがアナトゥール・ウゴルスキでした。

彼が不遇であったソ連から西側に亡命し、ドイツ・グラモフォンからつぎつぎに新録音が発売される度に、驚きと、これまでに体験したことのない一風変わったピアニズムにある種の違和感をも覚えながら、このケタ違いのピアニストの演奏にはいつも関心を持って接してきたように思います。

いかにもこの人らしい曲目としてはベートーヴェンのディアベッリ変奏曲、メシアンの鳥のカタログ、それにブラームスの3つのピアノソナタなどが真っ先に思い出され、久々にブラームスのソナタを聴いてみることに。

1、2番も壮麗で見事だけど、とくに3番の出だしの和音の輝くような鮮烈さには、とろんとした眼がカッと見開かされるみたいで、もういきなりノックアウトされました。
譜読みの上手くて指の動きが素晴らしいピアニストはごろごろいても、こういう腹から鳴るような音を出すピアニストというのはめっきりいなくなりました。叩きまくることを恐れてか、妙にスタミナのない、背中を押してやりたくなるような植物系ピアニストがずいぶん増えたように思います。
そんな耳に、ウゴルスキの演奏は食べきれない量の最高級ディナーでも出されたようです。
しかも、単なる轟音にあらず、どんな強打でも音が割れず、かといって体育会系のマッチョ演奏ともまったく違う、内的な表現とか、真綿でくるむようなpp、pppの妙技にも長けていて、この人がまぎれもない天分と個性をもった、他に代えがたい大器であったことを再確認しました。

こんなとてつもないピアノを弾く人が、ソ連時代にはピアノを弾くことさえも許されない状況が続いたなどというエピソードが有りますが、まったくもって驚くほかはありません。

たしか彼が西側デビューしてしばらくしたころ、日本にもやってきて、渋谷のオーチャードホールでディアベッリ変奏曲を弾いたリサイタルの様子はテレビ放映され、そこでも傑出した音の輝きが印象的でした。
録画はしていたものの、VHSで今や見ることも叶いませんが、当時つや消しだった頃の1980年代初頭のスタインウェイから紡ぎだされる燦然として重量感のある音色は今も深く印象に残っています。

ウゴルスキは最近どうしているのか、ネットで調べればわかるのかもしれませんが、とんと話題にならないところをみるとさほど演奏活動をしていないのかもしれませんし、だとすると非常に残念です。
CDで彼を最後に認識したのは、ドイツ・グラモフォンではないどこかのレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集を出したときで、それいらい音沙汰が無いような気がして、その動向が気になります。

ウゴルスキのあの絢爛とした音色の秘密は、ひとつには彼の指ではないかと思っています。
大きくて、太く肉厚で、しかもそれがクニャクニャした軟体動物のようで、あんな特殊な指の作りだからこそ、ダイナミクスにあふれた極彩色の音色のパレットとなり、どんなフォルテッシモでも音に一定のしなやかさがあって、決して叩きつけるような硬質な音になりません。

ウゴルスキに限らず、アラウとか、日本人では賛否両論のフジコ・ヘミングも、太いソーセージみたいな指から、温かな芳醇な音を出すところをみると、どんなに難曲を弾きこなせても、蜘蛛の足のように細い指をしたピアニストは、率直にいってあまり音に期待はできません。
パッと音色は思い出せませんが、若いころのポゴレリチもそんな魔物のような指をくねらせながら、あれこれと独特な演奏を繰り広げていたのをいま思い出しました。

音色でいうと、ミケランジェリやポリーニという人も少なく無いと思いますが、マロニエ君の好みで言うと、そのあたりはあまりにも苦悩のごとく追求され過ぎており、聴いていて開放感がないというか、もっと率直にいうと息が詰まってしまうようです。

ウゴルスキの音楽を全肯定しているわけではないですが、彼のピアノの音を聴いていると、ピアノという楽器の広さと深さを同時に押し広げられるような気がして、独特の快感があるのは確かでした。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

リシャール・アムラン

昨年のショパンコンクールで2位になった、シャルル・リシャール・アムランのデビューCDというのを買ってみました。

秋に開催される同コンクールより半年前に母国カナダで収録されたショパンで、ソナタ第3番、幻想ポロネーズ、op.62の2つのノクターン。
時間にして53分ほどで、今どきのCDは多くが70分は当たり前になってきている点からいうと、かなり少なめな印象。
むろんCDを収録時間で買っているわけではないけれど、いまどき普通ならばあと20分ほど入っていると思うと、なんだかちょっと物足りない気もするわけで、人間はつくづく欲深いものだと自分で思います。

しかし、そんなケチな不満を打ち消すかのように、演奏はたいへん見事なものでした。

とくにポーランド的とか、フランス的とか、ことさらショパンらしいニュアンスに満ちているというものではなく、かといって精度の高いピアニズム重視というわけでもないもので、生まれ持ったバランス感と、クセのないきれいな言葉を聞くような演奏でした。
しかも、よくある、ただ指がハイレベルに回るだけといった虚しさや、無機質不感症な演奏というわけでもなく、一定の演奏実感もちゃんと伴っていて、ようするに好ましい演奏だったと思います。

情感で押すタイプではないけれど、人間的な何か豊かなものが常にこの人の演奏を支えているようで、節度の中で確かな音楽の息遣いが息づいているのは立派なものだと思いますし、この若いピアニストの教養と人柄のようなものを感じないわけにはいきません。

第1位だったチョ・ソンジンが、多くの人から激賞されている中、どちらかというとどこか学生風な未熟さを(マロニエ君は)感じてしまうのに対し、アムランはぐっと大人の成熟した語り口だなあと思います。

その他、好ましく感じたことのひとつに、非常にしっかりした正統な演奏でありながら、決して説明的にならず、音符が音楽の自然な言葉へしなやかに変換されて、聞く者の心情へと直接語ってくる点でした。

多くのピアニストがテクニック、能力、解釈、理知的なアプローチなど、あらゆることを兼ね備えているかのような努力にもかかわらず、けっきょくはなにもない無個性で凡庸な存在に落ち込んでいるこんにち、リシャール・アムランはすでに自分の演奏スタイルが確立していて、どういうふうに弾きたいかが迷いなしに伝わるのは聴く側も無用なストレスを感じずにすみます。

いわゆる正統派タイプだと歌い込みを排除した骨がましい演奏になり、解釈優先主義の人はあえて塩分ひかえめの食事みたいな演奏になって、マロニエ君はいずれも好みではありませんが、この人は、奇を衒わず自然体、それで損をするならやむなしという潔い価値観をもっているのか、演奏が首尾一貫しているのは却って評価が高くなりますね。

さらにいうと、ちかごろの若い演奏家にありがちな過度な出世欲や、自己顕示のためのパフォーマンスが感じられず、むしろ信頼感のようなものを感じさせてくれる人でした。

ピアノの音ははじめはちっとも意識していませんでしたが、よく考えたら、この人はショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾いた人だったことを思い出しました。
しかし、どう聴いてもヤマハのようには聴こえないので、おそらくスタインウェイなんだろうぐらいに思っていたのですが、何度か聴いているうちにソナタの冒頭など「ん?」と思う音のゆらぎのようなものが耳につき、全体的な音色にもややざらつきがあるようでもあり、もしかしてNYスタインウェイではと感じ始めることに。

昔は北米大陸ならNYスタインウェイと相場が決まっていましたが、このところはご当地ニューヨークでさえハンブルクがずいぶん勢力を伸ばしているのはなぜなのか…。
とりわけ大きなコンサートや録音ではハンブルクが多いように感じるのは、せっかくアメリカなのにつまらない気がしていたのですが、どうやらこの録音ではマロニエ君の間違いでなければ、よく調整された新しめのニューヨークのように感じました。

カナダではまだまだニューヨーク製が主流なのかもしれません。

話が逸れましたが、リシャール・アムランはとても良いピアニストだと感じ、今後もCDなど出ればぜひ買ってみようと思います。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

チェロのショパン

チェロのソル・ガベッタとピアノのベルトラン・シャマユによる、ショパンのチェロ作品を集めたCDを聴いてみました。

ガベッタはフランス系ロシア人を両親に持つ人気の女性チェリスト、かたやシャマユはフランスの若手でこのところ少しずつ頭角をあらわしているピアニストという、なんとはなしにバランスの良さそうな組み合わせ。

曲目はオールショパンで、チェロソナタ、序奏と華麗なるポロネーズ、さらにはショパンと親交のあったフランショームとの合作とされる『悪魔ロベール』の主題によるコンチェルタント・グラン・デュオ、さらにはエチュードやノクターンをチェロとピアノ用に編曲したものが収められています。

音が鳴り出して最初に感じることは、ガベッタのチェロの広々とした自在な歌い方と、趣味の良いデリケートなフィギュレーション、それにつけていくシャマユのピアノの美しさです。
マロニエ君は録音のことはわかりませんが、このCDは、聴いていてまことに気持ちの良い、透明感のある美しい録音である点も心地よさが倍加します。鮮明さと残響がバランスよく両立しており、それぞれの楽器の音が至近距離でクリアに、かつニュアンスを失わずに聴こえ、まるで目の前で演奏しているかのようでした。

自宅にいながらにして、こんなに美しい音と音楽に包まれることができるありがたさに浸りながら、だから不明瞭で混濁した音を聴くばかりのコンサートなど、できるだけ行きたくないという思いがますます募ります。

ガベッタとシャマユは、こまやかな神経の行き届いた演奏でありながら、聴き手に緊張を強いるでもなく、むしろ心を和ませ、かつ細部の見通しもよいという、演奏スタイルのメリハリのつけ方としては好ましい在り方だと思います。
焦らぬテンポの中で曲の隅々にまであたたかな光が射し込むようで、決して冗長にもならず、ショパンのチェロ音楽をじっくり味わえる好感度の高い演奏だと思いました。
やはり、ショパンはフランス系の演奏家の手にかかると、いかにも作品の本質に自然にコミットしているようで、ストレスなく聴いていられる点が安心できるというか、心地よく感じられます。

中でもチェロ・ソナタがこのディスクの主役であり、演奏も最も秀逸だったと思われました。それに対して序奏と華麗なるポロネーズなどは、やや守りの演奏のような気もしました。
ピアノ作品の編曲はフランショームの手になるもので、これはこれで面白いとは思うけれど、オリジナルのピアノソロには到底およばないという印象で、まあそれは当たり前ですが。

録音は昨年の11月にベルリンのジーメンス・ヴィラで行われており、写真によればピアノは新しめのスタインウェイのようでした。それも納得で、ここで聞くピアノの音は、ともかく高いクオリティで製造され、さらに見事に調整された現代のピアノという感じで、以前のような強烈なスタインウェイらしさといったものはほとんど感じません。

いかにも今日の基準をまんべんなく満たしたニュートラルなピアノという感じでしょうか。
どこにもイヤなところがないけれど、音の魔力に惹き込まれるような、とくべつな楽器という感じもなく、新しいスタインウェイで一流の技術者が調整すれば概ねこんな感じだろうと思われるものです。
どちらかというとやや無機質で、ハイテクも必要箇所に採り入れた精度の勝利といった感じです。

素材も、むろん悪いものを使っているわけではないと思いますが、むかしほど恵まれない天然素材とコストという制約の中で、量産を前提にした最上級クラスという感じで、かつての特級品がもつ凄味とか、稀少で贅沢なものから湧き出るオーラみたいなものはありません。

現代ではまあこんな感じのところで良しとしなくてはならないのだろうと思いますが、今回、上記のような優れた録音によって感じられたところでは、低音の性質が変わったように思えました。
従来のスタインウェイの特徴のひとつが、低音域の独特の音色と美しさだったと思います。

誇張していうと、その低音には一音一音に個性があり、必ずしも均一ではないけれどずっしりと芳醇で、まるで刃物のようなしなやかさと美しさが共存していて、そこがこのピアノの最も官能的なところであったかもしれません。

その低音の特徴がやや失われ、ただ大きなピアノ特有のブワーッと鳴っているだけのものになっているのは、やはり一抹の寂しさを感じてしまいます。

現在ではドイツのスタインウェイも(いつごろからかは知らないけれど)アラスカ産のスプルースを使うようになったようで、どうも他社のアラスカ産スプルースを使うコンサートピアノと、低音の性質が少し似ているような気がするのですが…気のせいでしょうか。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

いさぎよさ

CDを購入する際、昔は作品や演奏家に重点をおいていたものですが、最近は特にこの人という演奏家もめっきり減ってきたこともあり、レーベルや使用ピアノ、録音場所などで選んでしまうこともしばしばです。

以前、たまたまネットで購入したエデルマンのショパンは、レンガ積みの建物のような演奏に加えて、ピアノの音がえらく鮮烈でインパクトがありました。ショパンの演奏としては理想的とは言いがたいけれど、聴こえてくる音には近ごろは絶えて聞かれなくなった輪郭と力強さがあり、このCDには不思議な魅力がありました。

あとから知ったことですが、収録場所である富山の北アルプス文化センターにあるスタインウェイは評判がよく、レコーディングにも多く使われていることを知り、大いに納得したのは以前書いた記憶があります。
そこで二匹目のドジョウよろしく、同じ会場/ピアニストによるシューマンも聴いてみたところ、こちらはさらに打鍵が強烈で、残念ながらマロニエ君には楽しめないものでした。

そこで、やはり北アルプス文化センターで録音された菊地裕介さんのシューマンを買ったところ、演奏も清流を泳ぐ魚のようであるし、なにより音がきれいでみずみずしいことはエデルマンの比ではありませんでした。

演奏も好ましいもので、ひたすらピアノの音の美しさを楽しむ最良の一枚となり、ずいぶんと繰り返し聴いたものです。
曲もダヴィッド同盟とフモレスケという質・規模ともにシューマンのピアノ曲の中でも、最上級に位置する作品でしたが、あんまり聴いているとさすがに別のものも聴きたくなるのが人情です。

そこで菊地さんのディスクを探したところ、同じ会場で録られたベートーヴェンのピアノソナタがあることが判明。
とりあえず「ファンタジア」と銘打たれた2枚組は、初期の傑作である第4番からはじまり第9~15番までの8つのソナタが入っています。

第4番冒頭から、やや早めのテンポでスイスイと弾き進められ、重厚さを伴った伝統的なベートーヴェンのソナタ演奏とはまったく異なり、テクニックに任せてあまり深く考えることなく次々に音符が処理されていくといった印象を持ちました。ひとつひとつの意味や表情を深く掘り下げて思索的かつ深刻なドラマとして捉えるのではなく、いかにも現代的な軽さと流麗さが支配しており「ああ、この手合か」といささか落胆しました。

しかし、このCDを買った目的は好ましいスタインウェイの音を楽しむことだったと思い直します。演奏のディテールは気にしないことにして、とにかく音を楽しむことに意識を切り変えようとしますが、人間というのは皮肉なもので、演奏に集中しようと思うと楽器の音が気になるし、楽器の音を楽しもうとすれば演奏の在り方が気にかかるのです。

それでも仕方なしに一枚目を鳴らしていると、しかし不思議な事に、このえらく快適な感じのベートーヴェンを聴くことに不思議な気持ちよさが加わり、これはこれでそう悪くはないのでは…と感じ始めました。そのひとつは表現に嫌味や不自然な点がまるでなく、技巧が上手いといって、ただ弾けよがしに弾いているのでもない、終始一貫したひとつの世界が構築されているらしいことが時間経過とともに伝わってきたのです。

と、あらためて耳を凝らしてみると、この人、今どきのテクニック抜群のピアニストの中でも、さらに頭一つ出た相当上手い人だと思えるし、音符を執拗に追い回して、無理に意味をもたせ、それによって全方位的な評価を得ようといったような企みがないらしいことがわかりました。
前例に囚われることなく、「ぼくはぼく」とばかりに正直に自分の感性の命じるままに弾いているようで、しかも表現に芝居がかった偽装の跡がなお。そこが逆に純粋で俗っぽくないという感じを受けたわけです。

マロニエ君は折に触れて書いているように、音楽家のくせに、不感症のアスリートに近いような演奏家が、音楽を「感じている」ようなフリをした演奏が大嫌いです。それはウソの行為であり、いわば演奏上の卑猥さという気さえするからです。

その点でいうと菊地さんのピアノは、まず自分がこういう演奏がしたいというメッセージがはっきりしており、聴く者を心地よい音楽の世界へといざなってくれることがわかりました。そういう意味でひじょうにナチュラルな演奏ですが、同時に目的が明快で、あれもこれもという欲がなく、魅力を特化したとても勇気のある演奏だと言えると思います。

一見無機質な音の羅列に見える危険もある中、さにあらず、聴く者に音楽の心地よさと喜びと提供できるのは、菊地さんが虚飾を排した涼しい演奏に徹しておられるからこそだと思います。

音楽で虚飾を排するというと、だいたい質素なオーガニック調で、冒険を排し、全体に小さめの音で演奏しているだけ。あれこそ上から目線で、抑制していることを見せつけるイヤミな演奏だったりします。

まずは楽しめなくてはそもそも音楽の存在意義が問われることにもなりかねません。
情報過多の時代において、とりわけクラシックでは古典主義がいまだに中央を陣取っており、これも一度は通過することは意味が大きいと思いますが、清潔と安全管理が行き過ぎると、音楽の持つ恍惚感など本能的な魅力や創造性が失われ、どれもこれもが取りつくろった建前のような色合いを帯びてしまいます。

菊地さんのピアノを聴いていると、彼なりのスマートなやり方で、そういう間違った道筋に警鐘を鳴らしておられるような気がしてしまいます。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ゴルトベルクいろいろ

ギックリ腰発生からはや1週間。
本人は毎日、朝から晩まで苦しみの連続、病院にも行ってみるものの未だ快癒せずですが、毎回その話ではつまらないので話題を変えます。


昨年のことでしたがあるピアニストの方から郵便物がとどきました。
開けてみると「演奏会に行って感動したので聴いてみてください」ということで、某女性ピアニストの弾くゴルトベルク変奏曲のCDと、来年早々に行われるご自身の2つのコンサートの招待券を送っていただきました。

近ごろは驚くばかりにドライな感性が何食わぬ顔で横行する中、こういう温かな心配りをされる方もまだいらっしゃるというのは心が救われます。

さて、そのゴルトベルク変奏曲はライブ盤のようで、随所にいろいろな工夫のある演奏で、本番でこれだけ弾くというのは大変なことだろうと思います。昔はこの作品を演奏会で弾くなど、技術的な問題のほかに、プログラムとしての妥当性からいっても「とんでもない」という感じがありました。
演奏史から云ってもわずか60年前にグレン・グールドが事実上この曲を世界に紹介したようなもので、ほかにはロザリン・テューレック、アラウ、ややおくれてニコラーエワ、アンソニー・ニューマン、日本では高橋悠治など数えるほどしかありませんでした。

その後はだんだんと弾く人が増えてきて、ジャズのキース・ジャレットまでゴルトベルクをリリースするにいたり、その後は誰彼となくこの名曲に手を付けるようになります。
さらに近ごろではオルガン、ジャズアレンジ、弦楽合奏、ハープで、アコーディオン、2台ピアノ、ヴァイオリンとピアノなどというものまで出てきて、現在は最も魅力的なレパートリーの一角を占めるようになったのですから時代は変わりました。

むかし、日本人では熊本マリがCDを出したときは、ひええ!という感じで、とても驚いた覚えがありますが、それが今ではCDを出すくらいのピアニストなら誰でも弾けるレパートリーになっていくのを見ると、時代が変わるごとに誰も彼もが弾くようになるのは驚くばかりです。


さて、ゴルトベルクといえば、マロニエ君の手許にもずいぶんこの作品のCDが溜まってきているので、CDとチケットのお返しというわけでもないけれど、手近にあるものをいくつかコピーしていると、ついあれもこれもとなってアッという間に12枚入りのファイルがいっぱいになってしまいました。
まだまだあるけれど、あまりいっぺんに送っても、演奏会前のピアニストにとっては迷惑になるだけなので、ひとまずこれくらいでやめました。

ゴルトベルク変奏曲という作品でひとつ言えることは、それこそ何百回聴いても飽きない作品そのものの圧倒的な魅力があることは当然としても、さらには、この作品を弾くと、ピアニストの実力、資質、技巧、音楽観、センス、美意識、もう少しいうなら品性や教養までもが白日のもとに晒されるということが感じられて非常に面白くもあります。
もうひとつは、ピアノの良し悪しや技術者の優劣、音というか調律の方向性までもが非常にわかりやすいという点でも、面白さ満載の特別な作品だと思います。

グールドは彼の演奏活動そのものがゴルトベルク変奏曲のようで、事実上のデビューと最晩年の録音(のひとつ)がこれであったし、リフシッツはグネーシン音大の卒業演奏会ですでにこれを弾き、デビューCDもゴルトベルク、さらに最近二度目の録音を果たしたばかり。シェプキンも熟年期にあるバッハ弾きですが、すでに新旧二種のゴルトベルクを録音しており、日本公演でもその素晴らしさを披露しているようです。そうそう、バッハ弾きといえばシフも二度録音組です。

また、最近では無名に近いピアニストがCDデビューする際にも、ゴルトベルクでスタートを切るパターンがあるようで、この作品にはそれだけのインパクトがあるということでしょう。
逆のパターンで驚いたのは、バレンボイムがいまさらのようにこれを録音しているらしいのは驚かされます。
あれだけの巨匠になっても尚、なんにでも片っ端から手を付けなくちゃ気がすまない性格なんでしょうね。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

良いお年を

ネットのCD通販サイトを見ていると、とくにハッキリとした理由もないのに、何気なく買ってしまうCDというのがあります。
最近のそれは、ニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというピアノデュオによる2台のピアノのためのゴルトベルク変奏曲で、編曲はラインベルガーとマックス・レーガーによるもの、このバージョンはたしか他にもCDをもっています。

なぜこれを買ってしまったのか、商品が届いた頃には、クリックしたときの気分は消え失せていることもしばしばで、自分で言うのも変ですが、「へぇ、こんなの買ってたんだ…」などと他人事のように気分で聴いてみることになります。

聴いて最初に感じたことは、ピアノの音が品がないなぁ…ということ。ところがライナーノートをみると、なんとベーゼンドルファーのモデル280とあり、そのギャップにますます驚いてしまいました。
まるで弾きっぱなしの調律をしていないピアノみたいで、記述がなければベーゼンの280というのはわからなかったかもしれません。かなり使われているピアノなのか、ギラギラした音で、今どき録音するのにこんなピアノを使うのかと驚きました。

演奏はかなり自在な感じで、バッハらしい節度とか様式感を保った礼儀正しさより、感覚的でドラマティックに弾いているといった趣です。音といい演奏といい、はじめはずいぶんくだけたバッハという印象が強く、こんなもの買ってとんだ失敗だったとため息をついていたのですが、とりあえず最後まで聴いているうち(78分)にだんだん慣れてきて、ついにはこれはこれで面白いと思うまでになりました。
今では何度も繰り返し聴いているCDなのでわからないものです。

さらには面白い一面もありました。
ピアノは好ましい技術者によってきちんと整えられたものがいいに決まっているし、録音ともなると、最低でもそれなりに調整された音であるのが半ば常識です。
ところが、こんな言い方はおかしいかもしれませんが、このCDのピアノはずいぶん雑な音であるし、演奏もどちらかというと抑揚のあるテイストなので、一歩間違えれば聴いていられないようなものにもなりかねませんが、このCDにはいつもとは違う危うい面白さみたいなものがありました。

しかも荒れたベーゼンドルファーというのは、どこか退廃的ないやらしさがあって、それが結果として生きた音楽になっているという、じつに不思議なものを聴いたという感じです。
ピアニストのニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというふたりは初めて聴きましたが、なかなか達者な腕の持ち主で、息もピッタリ、テンポにもメリハリがあって、緩急自在にゴルトベルクをまるで色とりどりの旅のように楽しませてくれました。

調べてみると、TWO PIANISTSというレーベルで、しかもこの二人がレーベルの発起人だといい、録音は南アフリカの大学のホールで行われている由で、なにもかもがずいぶん普通とは違うようです。
録音も専門家の意見はどうだか知りませんが、マロニエ君の耳には立体感も迫力もあり、湧き出る音の中心にいるようで、とても良かったと思いました。


ついでに、もうひとつ、思いがけなく買ったCDについて。
いま人気らしい、福間洸太朗氏の新譜がタワーレコードの試聴コーナーにあったのでちょっと聴いてみると、演奏者自身の編曲によるスメタナのモルダウが、えらくピアニスティックでリッチ感のある演奏だったので、ちょうど駐車券もほしいところではあったし、続きを聴いてみようと購入しました。

自宅であらためて聴いても、なかなかのテクニシャンのようで、どれも見事にスムースに弾けているのには感心です。
きめ細やかな、しなやかなタッチが幾重にも重なり、独特の甘いピアノの響きを作り出すあたりは、いかにも女性ファンの心を掴んでいそうな気配です。

曲目はモルダウのほか、ビゼーのラインの歌、青きドナウの演奏会用アラベスク、メンデルスゾーン/ショパン/リャードフの舟歌、リストによるシューベルト歌曲のトランスクリプションなどで、メロディアスな作品が並びます。
敢えて言わせてもらえば深みというより、耳にスッと入ってくる流麗さと快適感で楽しむ演奏で、オーディエンスの期待するツボをよく心得ていて、ファンに対するおもてなし精神みたいなものを感じます。

まあ、そのあたりが気にならなくもないものの、本来、音楽は人を楽しませることが第一義だとするならば、それはそれでひとつの道なのかもしれません。

福間氏は20代の中頃にアルベニスのイベリア全曲を録音しており、以前店頭でそのCDを見て「うそー?」と思った記憶があります。技術的には弾けても作品理解や表現力のために、そこから5年も10年もかけて熟成させたうえで公開演奏に踏み切るといった時代ではなくなったことは事実でしょう。
音楽家としての自分の個性や思慮深さより、なんでもできるスーパーマン的なものでアピールしていく、これが良くも悪くも今どきのスタイルなんだろうとと思います。


気がつけば、今年も残り二日間となりました。
来年こそはより良い年でありますように。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

CDいろいろ

ピアノがお好きな知人の方から、ひさびさにたくさんのCD-Rが届きましたので、その中から印象に残ったことなど。

イーゴリ・レヴィットというロシアのピアニストは、CDを買ってみようかどうかと迷っていたところへ、今回のCDの束の中にその名があり、これ幸いに初めて聴いてみることができました。
曲はバッハのパルティータ全曲、奇をてらったところのないクリアないい演奏だなぁというのが第一印象。
いまどきメジャーレーベルからCDを出すほどの人なので、技術的に申し分ないことは言うに及ばずで、安心して音に乗っていける心地良さに惹きつけられました。

近年、いわゆるスター級の大型ピアニストというのはめっきりいなくなったものの、それと入れ替わるように、音楽的にも充分に収斂された解釈と、無理のない奏法によって、趣味の良い演奏を聴かせる良識派のピアニストがずいぶん増えたと思います。

レヴィットは、他にベートーヴェンの後期のソナタやゴルトベルク/ディアベッリ変奏曲なども出ているようなので、おおよそどんな演奏をする人かわかったことでもあるし、近いうちに買ってみようとかと思っています。

それにしてもロシアのピアニストも新しい世代はずいぶん変わったものだと思います。
20世紀後半までは巨匠リヒテルを筆頭に、ときに強引ともいえるタッチでピアノをガンガン鳴らし、どんな曲でも重量感のあるこってりした演奏に終始したものですが、それがここ20年ぐらいでしょうか、見違えるほど垢抜けて、スマートな演奏をする人が何人も出てきているようです。
少なくとも演奏だけ聴いたら、ロシア人ピアニストとは思えないような繊細さを、ロシアのピアノ界全体が身につけてきたということかもしれません。

ほかには自分では買う決心がつかなかったヴァレンティーナ・リシッツァのショパンのエチュードop.10/25全曲がありました。

この人はまずネットで有名になり、YouTubeに投稿された数々の演奏が話題を呼んで、そこからCDデビューを果たしたという、いかにも現代ならではの経歴を持つ人です。
そのネット動画でチラチラ見たことはあったものの、CDとして聴いてみるのは初めてのこと。

ムササビのようなスピード感が印象的で、それを可能にする技術は大したものですが、すごいすごいと感心するばかりで、好みの演奏というのとは少々違う気がします。どちらかというとトップアスリートの妙技に接してようで、そういう爽快さを得たい向きには最高でしょう。

あくまでも卓越した指の圧倒的技巧がまずあって、音楽的抑揚やらなにやらはあとから付け足されていった感じを受けるのはマロニエ君だけでしょうか…。
一音一音、あるいはフレーズごとに音楽上の言葉や意味があるのではなく、長い指が蜘蛛の足のように猛烈に動きまわることで、いつしか精巧なレース編みのような巣が出来上がっていくようで、そういう美しさはあるのかもしれません。

それでも曲によってはハッとさせられるものがあることも事実で、個人的に最高の出来だと思えるのはop.25-12で、まさに「大洋」の名のごとく、無数の波のうねりがとめどなく打ち付けてくる緊張感あふれる光景が広がり、その中で各音が細かい波しぶきのように散らばるさまは圧巻というほかなく、素直に感嘆しました。

いっぽうテンポの遅い曲では、やむを得ずおとなしくしているようで、やはりスピードがアップし音数が増してくると本領発揮のようですが、音色や音圧の変化、ポリフォニックな弾き分けなどは比較的少なめで、音楽的な起伏という点ではわりに平坦で、均一な演奏という印象。
楽器や技術者に於いては「均一」は重要なファクターですが、演奏においては褒め言葉にはなるかどうか微妙なところですね。

リシッツァとはおもしろいほど正反対だったのが、故エディット・ピヒト・アクセンフェルトによる同じくショパンのエチュードop.10/25全曲でした。
冒頭のop.10-1から、一つ一つの広すぎるアルペジョをせっせと上り下りするのは、聴いているほうも息が切れるようですが、その中に滲み出る独特の味わいがありました。

リシッツァでは上りも下りも風のひと吹きでしかないのに対して、アクセンフェルトは一歩一歩大地を踏みしめていくようで、各音の意味や変化を教義的に説かれているみたいです。
世の中にあまたあるショパンのエチュードの録音は、きっとこの両極の中にほとんど入ってしまうのかもしれません。

あれ?…まだたくさんあったのに、これだけで終わってしまいました。
また折々に。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

黄金期のホロヴィッツ

『ホロヴィッツ・ライヴ・アット・カーネギーホール』は少しずつ聴き進んでいますが、1953年〜1965年までのコンサート休止期間の前後では、何が変わったかというと、最も顕著なのは録音のクオリティだと思いました。

というか、演奏そのものは本質的にあまり変わっておらず、40年代までは多少若さからくる体力的な余裕を感じるのも事実ですが、50年代に入ると演奏も黄金期のホロヴィッツそのもので、12年間の空白の前後で著しい変化が現れているようには思いませんでした。
ただ、久しぶりに聴いた1953年のシューベルトの最後のソナタなどは、やはりこの魔術師のようなピアニストにはまったく不向きな作品で、どう聴いてもしっくりきません。

このボックスシリーズでは、従来は編集されていた由の音源にも敢えて手が加えられず、ミスタッチなどもコンサートそのままの演奏を聴くことができるのは楽しみのひとつでしたが、とくに耳が覚えている1965年のカムバックリサイタルなどでは、それがよくわかりました。

冒頭のバッハのオルガントッカータなどもより生々しい緊迫感が漲っているし、続くシューマンの幻想曲もホロヴィッツとは思えぬ危なっかしさに包まれてドキドキします。この日、12年ぶりのコンサートを前に緊張の極みでステージに出ようとしないホロヴィッツを、ついには舞台裏の人間がその背中を押すことで、ようやくステージに出て行ったというエピソードは有名ですが、この前半の演奏を聴くとまさにそんなピリピリした緊迫感が手に取るように伝わってきました。

バラードの1番などはたしかにアッ…と思うところがいくつかあって、ここでもオリジナルは初めて耳にしたわけですが、逆にいうと、昔から音の修正技術というのはかなり高度なものがあったのだなぁと感心させられます。

翌年の1966年のカーネギーライブは、前年のカムバックリサイタル同様のお馴染みのディスクがありましたが、66年は4月と11月、12月と三度もリサイタルが行われており、この年だけでCD6枚になりますが、その中から選ばれたものが従来の2枚組アルバムとなったらしいこともわかりました。

これを書いている時点では、とりあえず1966年まで聴いたところですが、カムバック後の10数年がホロヴィッツの黄金期後半だろうと思います。晩年は肉体的な衰えが目立って、演奏が弛緩してくるのは聴いている側も悲しくなりますが、この時代まではハンディなしのすごみに満ちていて、まさに一つ一つがあやしい宝石のような輝きをもっています。

破壊と優雅、刃物の冷たさと絹の肌ざわりが絶え間なく交錯するホロヴィッツのピアノは、まさに毒と魔力に満ちていて、この時代の(とりわけアメリカの)ピアニストがそのカリスマの毒素に侵されたであろうことは容易に想像がつきます。

ホロヴィッツの魔術的な演奏を支えていたもののひとつが、彼のお気に入りのニューヨーク・スタインウェイです。メーカーのお膝元で、数ある楽器の中から厳選された数台のピアノがホロヴィッツの寵愛を受け、自宅や録音やコンサートで使われたといいます。

それでも、よく聴いていれば音にはムラもあり、今日で言うところの均一感などはいまひとつですが、ニューヨーク・スタインウェイ独特のぺらっとした感じのアメリカ的な音、さらにはドイツ系のピアノにくらべると、音に厚みがなく精悍な野生動物のようなところもホロヴィッツの演奏にピッタリはまったのだと思います。

でもそれだけのことなのに、30年以上むかし、日本のピアノメーカーの技術者達は、ホロヴィッツのピアノにはなにか特別な仕掛けがあるのではということで、日本公演の折だったかどうかは忘れましたが、開演前のステージへ数人が許可なく這い上がっていってピアノを観察したあげく、あげくには床に仰向けになって下から支柱や響板などの写真に撮ったりしたというのですから驚きます。

まあ、それほど強い興味と研究心があったということでもありますが、この時代はまだそんなことがただの無礼や苦笑で許された時代だったのかもしれませんね。

まだまだ聴き進みますが、ホロヴィッツばかりずっと聴いていると、神経が一定の方向にばかり張りつめるのか、ときどき途中下車してほかの演奏が聴いてみたくなるのも事実です。
でも買ってよかった価値あるCDであることは間違いありません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

運の波

1年ぐらい前だったか、正確なことは忘れましたが、『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』というCD41枚+DVD1枚という大型のBOXセットがSONYから発売されました。
ホロヴィッツが1943年から1978年までにカーネギーホールで行った主なコンサートを収録したもので、箱もカーネギー・ホールの外観を模したもので、発売当初から目にとまっていたものでした。

マロニエ君は取り立ててホロヴィッツのファンというわけではありませんが、1965年のカムバックリサイタルの冒頭の緊迫したガラスのようなバッハや、この日の興奮の頂点となったショパンのバラードなどは、きわめて深い印象を残す録音であったことは間違いありません。

子供の頃、カーネギーホールという音楽の殿堂がニューヨークにあるということを知ったのも、ホロヴィッツの存在を知ったことと同時だったことをよく覚えています。
亡命ロシア人であったホロヴィッツがアメリカに移り住んで終生暮らしたのがニューヨークで、カーネギー・ホールは彼にとっても最も慣れ親しんだ最高のステージであったことでしょう。

そこでおこなってきた数々の演奏の軌跡を網羅的に聴くことが出来るなんて、現代人は幸せです。
…とかなんとか言いながら、マロニエ君はこのBOXセットが出た時にすぐに買うことはせず、「そのうちに」という気持ちでいたのがいけなかったのです。
つい最近、ホロヴィッツの別のセット物が発売されることになり、それにも興味津々だったものの、順序としてその前にあれを買っておいかないと…と思い立って探してみると、あれ?…どこにもないのです。ネットのHMVやタワーレコードで検索をかけても出てこないので、こちらもむきになって探していると、その片鱗のようなものはなんとか出てきたものの、要するに限定発売だったものが完売してしまっており、だからもう通常の商品として検索にもひっかからないということが判明。ガーン!!!

今どきはCDもどうせ売れないのだから急がなくても大丈夫などと悠長に構えていると、こんなことになるのだと思い知りましたが、無いものは無いのだからじたばたしても始まりません。

こんなときの頼みの綱であるAmazonで検索したら、さすがにこちらではあっけなく出てきました。
どれもほとんど新品ですが、値段はほぼ定価に近い2万円が最安で、高いものでは5万円を超えるものまであるのには驚きました。
まあ、それでも大手CD店では軒並み完売しているものが今なら新品で手に入るのだし、なにより自分が出遅れたせいで、多少安く買える時期に買わなかったことが原因でもあるし、ほぼ定価なら仕方がないと納得はしてみました。しかし、やはりこのぐらいの値段になると、じゃあ直ちに購入ボタンを押すのも気乗りせず、残り一点というわけでもないから、またしても先送りにしてしまいました。

と、そんなとき。天神での待ち合わせのための時間調整のためにタワーレコードを覗きました。
過日書いたように、このところCDは負けが続いて、しばらく買うのはよそうと思っていたので、この日は正真正銘の見るだけだったのです。

見るだけなので、普段はあまり見ないコーナーなどを見て回り、積み上げられたBOXセット(大抵ろくなものがない)のところに来て、あれこれ眺めていると、ふと何か気になる模様が目に止まりました。
それを認識するのに、1~2秒ぐらいはかかったか、かからなかったか、そこは正確には覚えていませんが、とにかくほんの一瞬の空白を挟んで、あんなに探した『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』がいま目の前にポンとあることがわかり、さすがにこの時は胸がズーンとしてしまいました。

すかさず手にとって見ますが、まぎれもなく「それ」でした。
すぐに価格を見るため箱を上下左右に動かしてみると、隅の方に「9,800円」という赤い線の入ったシールが貼ってあります。アマゾンの最低価格の半分です。

迷うことなく、いそいそとレジへ直行したのはいうまでもありません。

というわけで、こんなラッキーがあるなんて、すごいなあ~とルンルン気分でしたが、これによって、このところをのCDの負け続きを一気に取り返すことができたのだと思うと、嬉しさと不思議さが半々でした。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ケンプのショパン

よろず趣味道において、掘り出し物に出会うことは共通した醍醐味のひとつかもしれませんが、これがなかなか…。

演奏家やレーベルなど、ほぼ内容がわかっているものは安心ではあるけれど、そのぶん発見の楽しみや高揚感は薄く、予定調和的に楽しんで終わりという場合も少くありません。もちろん予想以上の素晴らしさに感銘する場合もあれば、期待はずれでがっかりということもあります。

いっぽう、セールや処分品などでギャンブル買いしたものは、パッケージを開けて実際に音を聞いてみるまではハラハラドキドキで、中にはまるで知らないレーベルの知らない演奏家、知らない作品と、知らないづくしのものもあったりで、そんな中から思いがけなく自分好みのCDなどがあると、その快感はすっかり病みつきになってしまいます。

最近はCD店も縮小の波で小さく少くなりましたが、この冒険気分というのはなかなか抜けきらないもので、ときには気になるCDを手にすると、処分品でもないのに一か八かの捨て身気分でレジに向かってしまうこともあったりしますし、ネットでも同様のことがあるものです。

ギャンブル買いである以上は、ハズレや空振りも当然想定されるわけで、それを恐れていてはこの遊びはできません。それはそうなんですが、このところはすっかり「負け」が込んでしまって、いささか参りました。

良くないと思うものの具体名をわざわざ列挙する必要もないけれど、日頃のおこないが悪いのか、運が尽きたのか、マロニエ君の勘が鈍ったのか、連続して5枚ぐらい変てこりんなものが続き、内容が予測できるはずの演奏家のCDさえも3枚はずれてしまいました。さらにその前後にも、なんだこれはと思うようなもの…つまり返品できるものなら返品したいようなCDが続いてしまい、こうなるとさすがにしばらくはCDを買う気がしなくなりました。

そんな中で、かろうじて一定の意味と面白さが残ったのは、ヴィルヘルム・ケンプのショパンで、1950年代の終りにデッカで集中的に録音されたものが、タワーレコードの企画商品として蘇った貴重な2枚組です。
内容はソナタ2番と3番、即興曲全4曲、バルカローレ、幻想曲、スケルツォ第3番、バラード第3番、幻想ポロネーズその他といった充実した作品ばかりです。

ケンプといえば真っ先に思い出すのはベートヴェンやシューベルトであり、ほかにもバッハやシューマンなど、ドイツものを得意とするドイツの正統派巨匠というべき人で、そんな人がまさかショパンを弾いていたなんて!と思う人は多いはずです。

しかも聴いてみると、これが予想以上にいいのです!
とりわけマロニエ君が感銘を受けたの4つの即興曲で、これほど気品と詩情でこまやかに紡がれたショパンというのはそうざらにはありません。わけても即興曲中最高傑作とされる第3番は、これまた最高の演奏とも言えるもので、こわれやすいデリケートなものの美しい結晶のようで、ケンプのショパンの最も良い部分が圧縮されたような一曲だと思います。

逆にソナタやバルカローレなどはやや淡白な面もあって、もう少し迫りやこまやかな歌い込みがあってもいいような気もしますが、それでも非常に端正な美しいショパンです。

ただし、全体としてはケンプらしい中庸をいく演奏で、どちらかというと良識派の模範演奏的な面もあるといえばいえるかもしれませんが、それでもショパンを鳴らせるピアニストが少ない中で、けっこうショパンが弾けることに驚きました。
晩年はなぜショパンを弾かなかったのだろうと思います。

本人ではないのでわかりませんが、やはり当時は今以上に自分につけられたレッテルに従順でなくてはならなかったのかもしれない…そんな時代だったのだろうかとも思いました。ただ、実演ではベートーヴェンなどでもレコードよりかなり情熱的な演奏もしましたから、そんなテンションで弾かれる巨匠晩年のショパンも聴いてみたかった気がします。

このCDの中では幻想曲などが、やや情の勝った演奏だという印象があり、ケンプという人の内面には、実はほとばしるような熱気もかなりあったのだろうと思わずにいられませんでした。

なんでも手の内を見せびらかして、これでもかと演奏を粉飾してしまう現代のピアニストとはずいぶん違うようです。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

アイノラのピアノ

アイノラといえばシベリウスが家族と暮らした住まいとして有名です。
そこはヘルシンキから北へ30キロのヤルヴェンバーという美しい場所だそうで、シベリウスが30代のとき、その地に1500坪ほどの土地を購入して木造の家屋を建て、家族と共に終生ここで生活したと伝えられています。

アイノラという名は、最愛の夫人の名がアイノであることから、「アイノがいる場所」という意味でつけられ、家は現在も保存されて夏季には一般にも公開されているとか。
そのアイノラには、シベリウスが50歳の誕生日にプレゼントされたというスタインウェイがあり、このピアノを使ってシベリウスの作品を録音したCDがあることを知り、さっそく購入してみました。

演奏はシベリウス研究家としても有名なピアニストのフォルケ・グラスベックで、録音は2014年5月。

シリアルアンバーは#171261で、調べてみると1915年製とのこと。
シベリウスは1865年生まれなので、まさに彼が50歳の時に製造されたピアノのようです。

ネットからもアイノラの自邸内部の写真をあれこれ見てみましたが、なんとはなしにB型のように見えますが、もうひとつ確証は得られませんでした。

その演奏は、さすがにシベリウス研究家というだけあってか、非常にこの作曲家を尊敬し、畏敬の念を払った丁寧な演奏で、落ち着いて作品に耳を澄ませることの出来る演奏だったと思います。

さて、最も興味をそそられた、シベリウス自身が使っていたという収録時点で99年前のスタインウェイですが、そのふわりとした柔らかい音にいきなり惹き込まれてしまうようでした。

楽器の音には時代が求める要素も反映されているとはいうものの、現代のピアノが軒並み無機質に感じられてしまうほど、温かい響きで、ストレートで飾り気がなく(飾らなくても充分に雰囲気を持った)、まったく耳に負担にならない性質の音であることに驚かされてしまいます。
とりわけ一音一音のまわりに波紋のように広がる余韻は、やわらかで、現代のピアノが機械的な音になったことを思い出さずにはいられないものです。

むろん、素材の違いやらなにやらと、いろいろあることは承知しつつも、こういうピアノを聴くとピアノ本来の音というのは那辺にあるのだろうとつい考えさせられてしまいます。

音の感じからして、弦やハンマーも、もしかしたらオリジナルのままという気もしないではありませんが、根底にもっているものの素晴らしさは、情感が豊かで温かく、こういうピアノを持っていたら新しいピアノには完全に興味を失ってしまうのではないかと個人的には思ってしまいました。

それでも耳を凝らせば、低音がいささか痩せていたり、ところどころに音が伸びきれないようなところもあるけれど、なにしろアタック音が生き物の声帯のように自然で、同時にまわりの空気がふわっと膨らむような豊かさに満ちています。

これにくらべると現代のピアノは、表面上はずいぶんゴージャスで、ある種の高級感さえ漂っていますが、機械的な冷たさや無表情を感じずにはいられません。
こういう音を聴いてしまうと、現代のピアノはどこかハイテクっぽくもあるし、我々の想像も及ばないような技術によって、鳴らないものを遮二無二鳴らしているような印象さえ覚えます。

同じ才能でも、こういうピアノを使うのと現代の新しいピアノを使うのとでは、湧き出るイマジネーションもずいぶん違ったものになってくるような気がします。
耳に刺さるような、印刷されたような音を出すピアノを使っていれば、しらずしらずにそういう要素が作品にも影響してくるように思うのです。

その証拠に現代のピアノ弾きは、音楽的な演奏をしようとするとやたらビビって骨抜きになり、注意ばかりが先に立つ演奏になって奔放さや活力を失っています。とくにアマチュアはいちいち深呼吸のような身振りをしたり、小節やフレーズのおわりでは一つ覚えのように大仰にスピードを落とすなどして、それがあたかも音楽表現だと錯覚するのでしょう。

もしマロニエ君に経済的な余裕があるなら(ありませんが)、ぜひとも戦前の美しい声をもったピアノを買いたいものだと思いました。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ヘクサメロン

『ヘクサメロン変奏曲 6人の作曲家の合作変奏曲』というCDを購入してみました。

19世紀前半のパリでは、リストをはじめとするピアニスト兼作曲家たちがアイドルさながらに腕を競っており、社交界ではリスト派とタールベルク派のファン達が対立するほどの過熱ぶりだったとか。

そんな中、ベルジョイオーゾ公爵夫人のアイデアにより、6人の作曲家による合作によって完成したのがこのヘクサメロン変奏曲だそうです。
ヘクサメロンとは「6編の詩」を意味する言葉で、ベッリーニのオペラ『清教徒』の中の『清教徒の行進曲』から主題がとられ、リスト、タールベルク、ピクシス、エルツ、ツェルニー、ショパンに依頼された由。

中心的な役割を果たしたのがリストというのがいかにも彼らしく、イントロダクション、主題、第二変奏、フィナーレの4つを書いたのみならず、ピアノ独奏版のほか、6台ピアノ版、2台ピアノ版、ピアノ&オケ版などのバージョンも手がけたようです。
リストとは対照的に、この手の企画には気乗りせず、最も消極的で仕事の完成も遅れたのがショパンだそうで、まさにイメージ通りという感じです。孤高の作曲家であるショパンがこの手の企画に賛同し、嬉々として寄稿するなんておよそ考えられませんから。

このアイデア、なんだか同じようなことが他にもあったような気がしましたが、そうそう、ディアベッリの主題による変奏曲で、この求めに賛同しかねたベートーヴェンは、ついには単独で同名の傑作を生み出し、現在ではこちらのほうが広く知れわたっているのはご承知のとおりです。
やはり音楽歴史上、抜きん出た天才は、他者との共同作業といった、いわば平等社会の一角を与えられるようなものは向かないであろうことは、理屈抜きにわかる気がします。

折しも世の中は、あれもコラボ、これもコラボというご時世ですね。
マロニエ君にいわせれば、コラボなんてものの大半は、単独で何かを成立させる力のない人達が、実力、資金、責任、集客などを分散させて行うつまらぬイベントのことだと思います。

さて、このCDでは、各変奏を6人のピアニストによって、時にソロで、時に一緒に、代わる代わるに弾くというスタイル。
ヘクサメロン変奏曲じたいは23分ほどの作品で、あとはこの変奏曲を手がけた6人の作曲家の単独の作品が収められています。

はじめに出てきたピアノの音を聴いたとき、なんだかとても存在感のある音にハッとしたものの、咄嗟にどのメーカーであるかは見当がつけきれませんでした。いつもやるこの当て推量は、間違っていることもあるけれど、たぶん◯◯だろう…という予想は立ててみるのが楽しみのひとつですが、このピアノは容易にはわかりませんでした。

ちなみにライナーノートに使用ピアノが明示されていることもありますが、マロニエ君はできるだけはじめはこれを見ないようにしています。
ファーストインプレッションとしては、中音域に甘みはないけれど、枯れた感じとたくましさを併せ持っており、ベヒシュタイン???いやいや、それにしては低音の透明感とか絢爛とした美しさはベヒシュタインとは別種のもので、スタインウェイかと思いましたが、それにしてはやや響きに素朴さがあり、やっぱり違うと思ってしまいます。

まず絶対に違うのは、ベーゼンドルファー、日本の2社などで、自分なりにずいぶん粘ってみましたが、どうしても見当がつけられません。一番近いのはスタインウェイのようにも思いますが、それにしてはある種の泥臭さというか野趣のようなものが混じっており、スタインウェイ然とした洗練に乏しいと思いました。

で、ラーナーノートを探してみると「アッ、そういうことか」と思わず声が出そうになりました。
1901年のスタインウェイDだそうで、そこには#100938というシリアルナンバーまで記されています。

このナンバーを手がかりにネットで調べてみると、それらしきピアノのことが出ており、ドイツのスタインウェイ社でピン板まで修復されたようなことが書かれていますし、このピアノで録音された多くのCDもあるようで、それなりに有名なピアノのようです。

洗練に乏しいと感じたのは、それほど昔のピアノは表面の耳触りに媚びない、飾らない楽器だったということでもあるのだろうと思われます。
修復されているとはいうものの、まさか110年以上も昔に作られたピアノだなんて信じられないほど力強い音を出す健康な楽器であることは間違いなく、ピアノもこの時代の一流品になると、その潜在力にはすごいものがあることをあらためて思い知らされました。

後半の5曲目にはリストの葬送がありましたが、この曲は冒頭からフォルテの低音を多用する作品ですが、そこで聴こえてくるのは荘厳な鐘のようで、まさにスタインウェイの独壇場といえるもの。新しいスタインウェイにはたえて聴かれない凄みのあるサウンドです。
まあ、この作品のあたりでは答えを知った上で聴いたわけですが、葬送まで我慢して聴いておけばこの低音だけでスタインウェイだと確信できただろうと思います。

マロニエ君は使用ピアノへの興味からCDを購入することも少くありませんが、今回はまったくそういうことは知らずに買ったものだっただけに、思いがけずこんな素晴らしいピアノの音が聴けるとは、えらく得をしたような気分でした。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

不遇の天才

前回の内容と関連して、マイナー作曲家で思い出すのが、ピアニストのマイケル(ミヒャエル)・ポンティで、彼ほど埋もれた無数の作品に実際の音を与えたピアニストもいないのではと思います。

ピアニストとして抜群の能力をもっていて、いちおうレコードになるランクのピアニストとしては、彼は昔から異色の存在でした。
というのも、昔は今のように誰もかもが指さえ回れば録音できるという時代ではなく、相応の実力と個性を備えた、選りすぐりの人たちだけしか録音するチャンスもなかったため、録音依頼があるということがよほどの実力者として認められていたと考えても差し支えないと思います。

ポンティのお陰で、私もLP時代からずいぶん埋もれた珍曲秘曲のたぐいを耳にすることができたわけで、モシェレスやモシュコフスキーの作品や、多くはもう名前も忘れてしまっているような作曲家の作品も少しは耳にすることができたという点で、マロニエ君にとってこのピアニストの果たしてくれた役割は大きかったことは間違いありません。

ポンティは非凡な才能の持ち主で、その演奏の特徴は、どんなに珍しいさらいたての曲であっても、まるで手に馴染んだ名曲のようにいきいきとした解釈と輝きをもって流麗に演奏できるところで、どの曲にも生々しい躍動がありました。
しかももったいぶらず、気さくに演奏するところに凄みすら感じていました。

そんなポンティの特別な天分にヴォックスというレコード制作会社が悪乗りしたのか、スクリャービンの全集(世界初)などにいたっては、劣悪な環境に缶詰にされ、そこにあるピアノを使って初見に近いような感じで録音させられたりしたと伝えられますが、その演奏はなかなか立派なもので、その眩しいばかりの才能には脱帽です。

ほかにはラフマニノフの全集や、マロニエ君は持っていませんがチャイコフスキーのピアノ曲全集も完成させたようです。

音楽の世界も商業主義は当たり前、今はその頂を通過して下り坂のクラシック不況という深刻な状況を迎え、メジャーな演奏家でも青息吐息です。オファーさえあれば、今やトップの演奏家が、どこへでも、どんな相手でも、自分を幾重にも曲げてスッ飛んでいくというのが悲しき実情のようにも思われます。

そんなご時世に、マニアックなピアニストや、それを許す市場や環境があるわけないでしょう。
強いていうなら、現代のこの分野ではアムランかもしれませんが、彼の場合は、自分の技巧というものがまずもって前面に出ているようにも思われ、しかも最近はメジャーな作品に取り組みだしているのは、やはり売れなきゃはじまらないという営業サイドの要望のようにも思えてしまいます。

現在、ポンティのような才能と指向をもったピアニストがいるのかどうかは知りませんが、どうせメジャーピアニストが名曲を弾いたってろくに売れないご時世なのですから、それを逆手に取って、埋もれた作品などの価値ある録音を増やして行くのも、名も無き優秀なピアニストにとって、ある種の開き直りの道ではないかと思います。
むろんそれでもやってみようというレコード会社あってのことですけれど。

ポンティの演奏はヴォックスから大量の録音が出ていて、マロニエ君はそれ以外は知らなかったのですが、ウィキペディアによれば、それ以外の録音もいくつかある由で、1982年には来日しておりカメラータ・トウキョウにも録音を残したことなどを知って驚きました。さらにはその録音時のコメントとして「これまではレコード会社の求めに応じて録音してきたが、これからは自分でお金を出してでも納得のいくレコードを作りたい」と言ったのだそうで、同情を誘う言葉でもありますが、本人は不本意だったとしても、お陰で偉大な録音が残されたことも事実だと思うのです。

ショックだったのは2000年に脳梗塞となり、右半身の自由を失っていることで、人間が身体の自由を失うことは誰においても悲劇であるのはいうまでもないけれど、わけてもポンティのような華麗な演奏を得意としたピアニストがそんな過酷な運命に遭うとは、なんと痛々しいことかと思いました。

ポンティはレコード会社から翻弄され、真の実力を世に問うことができなかった不遇の天才だったとも言えるでしょう。
あれこれの名前を挙げるまでもないほど、天才というものは、悲劇に付きまとわれることが少なくないようで、残忍な悪魔が近くをうろついているものなのかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

いずれが王道?

ここ最近のことのように思いますが、ジャケットにSTEINWAY&SONSのロゴマークが入っているCDをときどき目にするようになりました。
スタインウェイ社が協力しているかなにかでロゴが印刷されているんだろうか…ぐらいに思っていましたが、どうやらレーベルそのものがSTEINWAY&SONSなのだそうで、スタインウェイがプロデュースして自らCDを発売しているようです。

考えてみれば、こういう成り立ちのCDというのはあっても不思議ではないようでいて、実はあまりなかったようにも思います。ピアノメーカーの自社宣伝、かつ若いピアニストを発掘し世に送り出すという点からも、これはまさに有効な手段なのかもしれません。尤も、スタインウェイに関しては、市場の録音の9割ぐらいはこのメーカーのピアノが使われるので、なにもいまさらという感じもあるわけで、きっと我々素人にはうかがい知れない事情や目論見があるのでしょう。

このSTEINWAY&SONSレーベルのCDは、現在マロニエ君の手許でも確認できただけで2つあり、セルゲイ・シェプキンのフランス組曲と、アンダーソン&ロエという男女のユニットによるピアノデュオで「The Art of Bach」というアルバムがあります。
面白いのは、アンダーソン&ロエのバッハでは、2台ピアノのための協奏曲ハ長調やブランデンブルク協奏曲第3番などを2台ピアノのみで演奏しているのですが、それをスタインウェイの監修のもとに、ニューヨークとハンブルクのDを組み合わせて使っている点です。

耳を凝らして聴いていると、ハンブルクの艷やかに輝くようなおなじみの音と、ニューヨークのやわらかな余韻のある響きが見事にブレンドされており、これはなんと素晴らしい組み合わせかと思いました。
つまり、ルーツを同じくする2台のピアノながら、生産国によってかなり特性の違うピアノになってしまっているふたつのスタインウェイが、互いに持っていない要素を補い合っているようで、これは実に面白い試みだと思いました。

かねてより、マロニエ君はニューヨークとハンブルクを掛け合わせたようなピアノがあればいいと思っているのですが、それをまさに実際の音として聴くことができたような錯覚ができる体験となりました。
シェプキンのバッハでも、2枚目のCDには幻想曲とフーガBWV904では、ニューヨークとハンブルクによるふたつのバージョンが収録されていて、この異母兄弟とてもいうべきピアノの違いを楽しめるようになっているあたりは、さすがにスタインウェイレーベルだけのことはある面白さのように感じます。

マロニエ君のざっくりした印象でいうと、戦前のピアノはニューヨークのほうがよかったという説を耳にすることはしばしばですが、1950年代以降ではそれが逆転し、とりわけ1960年代から数十年間はハンブルクのほうが優れていたように思います。ところが21世紀に入ってから、確たる証拠はないけれど、もしかすると、ふたたびニューヨーク製が盛り返しているのでは?と思えるふしがあるのです。

たとえば動画サイトで見たものに過ぎないものの、ユジャ・ワンがアメリカで弾いているニューヨーク製が思いの外すばらしいことはかなり印象的で、それまでのニューヨーク製はどちらかというと響きのゆらめきのようなものがある代わりに、ひとつずつの音の明瞭さという点ではややアバウト気味でものたりないようなところがありましたが、このときの新しいピアノでは、音の中に凛とした芯と量感があり、それでいて響きのふくよかさはニューヨークならではなのものがあり、いい意味での黄金期のスタインウェイのようであったことは強く記憶に残りました。

このCDに聴く音も、ハンブルクと同時に鳴っているために段別がむずかしいものの、なかなか懐の深いピアノであるような気がします。もしかしたら、今後は再びニューヨークが首座に返り咲くことがあるのだろうかとも思うと、なんだかわくわくさせられます。

むかし福岡県内のとあるホールで、ピアノ庫を見せてもらえるチャンスがあり、そこにはニューヨークとハンブルクそれぞれのDが置かれているのですが、調律師さんにどちらが人気ですかと聞いたところ、その答えは驚くべきもので「こちら(ニューヨーク)を弾く人はまずいないでしょうね」と、かすかに鼻先で笑うような言い方をされたのが今でも忘れられません。
同時期に新品が収められたものであるにもかかわらず、技術者があたまからそんなイメージをもっているようでは、このピアノは一生浮かばれないだろうと哀れに思ったものです。

それなりに理由はあるのかもしれませんが、根底には日本人の意識の中にドイツ信仰のようなものがあって、はなからアメリカ製など格下であるという思い込みが(とくに楽器や車は)深く根をはっているのかもしれません。
ある本にもありましたが、さる高名な音大の教授でさえ、王道はドイツのスタインウェイで、アメリカ製はジャズやポップス用みたいな認識なんだそうで、これって結構あるんだろうと思います。

たしかに全般的傾向としてアメリカの製品は作りが粗く、そういった要素のあることもわかりますが、スタインウェイに関しては、ニューヨーク製の評価は低すぎるように思います。それでもスタインウェイというブランド名があるからまだましで、メーソン&ハムリンのような素晴らしいピアノがあるにもかかわらず、ほとんど話題にすら出ないことは、いかにイメージ先行で判断されてしまうかということを考えさせられます。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

バケッティとファツィオリ

アンドレア・バケッティというイタリアのピアニストの弾くバッハが評判のようで、ならばとCDを購入して聴いてみることにしたのはいつのことであったか…ネットから購入すると、ものによっては入荷待ち状態が延々と(ときに数ヶ月も)続いてしまうことが珍しくありません。

バケッティのゴルトベルクももう忘れていた頃ポストに入っていたので、それを見てようやく注文していたことを思い出す始末で、ならばと早速聴いてみるとことに。
実をいうとバケッティのCDはこれが初めてではなく、マルチェッロのピアノソナタ集というのを、こちらは曲のほうに興味があって以前購入していたのですが、よく知るバッハでこのピアニストを聴くのは今回が初めてです。

冒頭のアリアも、最近の平均的なテンポからすると少し早めで、まず感じたのは、硬質なピアノの音色とやたらと装飾音の多いこと、さらにはやや表面的で無邪気な演奏という感じを受けたことでした。

ピアノの音も明晰と聞こえなくはないものの、どちらかというと平坦で、深みやふくよかさみたいなものとは逆の単純な感じを受けました。
なにより気にかかるのはその固さであり、その演奏と相まって、しばらく聴いていると、どうしようもなく煩わしい感じに聞こえてしまうのには弱りました。
音に輝きはあるので、はじめはこういう感じのスタインウェイだろうかとも思いましたが、よくよくCDジャケットを見ていると、下のほうに豆粒みたいな小さな「Fazioli」の文字があり、ああ、なるほどそういうことか!と納得しました。

弾き方もあるとは思いますが、妙にパンチ感のある音の立ち上がりや、しっとりというか落ち着いた気配がしないメタリックな感じは、マロニエ君にとってのファツィオリの特徴のひとつです。
これを巷では色彩的などと表現されることを思うと、それが何に依拠するかよくわかりません。

いつも感じるところでは(以前にも書いたことがありますが)、マロニエ君の耳にはファツィオリの音は根底のところでヤマハを思わせる音の要素があって、そちら方面の反応の良さみたいなものがあるのは確かなようで、だから好きな人は好きなんだろうなぁと思ってしまいます。

それとバケッティの演奏も終始ブリリアントで娯楽的ではあるけれど、少なくとも聴き手を作品の内奥だとか精神世界に触れるような領域に連れ出してくれるタイプではないようです。いつも才気走っていて、でも全体が俗っぽいといった印象です。

ピアノ演奏に対して、快適で単純明快な音の羅列を求める人には、バケッティの演奏は好ましいかもしれませんが、マロニエ君の好みからすると憂いとか詩的要素がなく、いつも元気にかけまわる子どものようで、言い換えるなら、せわしなくおちつきのない こせこせした印象ばかりが目立ってしまいます。
ゴルトベルク変奏曲を聴いているのに、ちっともその実感がなかったのは驚きでした。

打てば響くような反応やきらびやかさを求める向きには、ファツィオリはたしかに最高のピアノとして歓迎されるのかもしれません。
ただマロニエ君から見ると、ファツィオリが単純にイタリア生まれのイタリア的なピアノかといえば、いささか納得できかねるものがあるのも事実です。イタリアの芸術のもつ太陽神的な享楽と開放、そのコントラストが作り出す光の陰翳、豊穣な色彩、宗教の存在、荘厳華麗でほとんど狂気的な喜びとも苦悩ともつかないような命の謳歌、それと隣合わせの死の薫り…そんなものがどうにも見つけることが難しい、掴みどころのないピアノという印象が何年経っても払拭されません。

そういうイタリア芸術のあれこれの要素をこのピアノから嗅ぎ取ろうとするより、もっと単純によくできた高級な機械としてわりきって見たほうがこのピアノの本質に迫ることができるのかもしれません。

マロニエ君の思い込みかもしれませんが、もしヤマハが手作業をいとわぬ労を尽くして、チレサの最高級響板等を使ってピアノを作ったなら、かなり似たようなピアノが出来るような気がしてなりません。
この両者に共通しているものは、日本の工業製品が極めて高品質だといわれながら、どこかに感じるある種の「暗さ」みたいなものかもしれません。

近年のスタインウェイが次第に均一な量産品の音になってきているのに対して、ファツィオリは量産ピアノ的性格のものを、良質の素材と高度な工法で丹念に製造することで挑んだピアノという印象でしょうか。

腕に覚えのある技術者がヤマハなどにあれこれの改造と技を施したピアノに「カスタムピアノ」というようなスペシャル仕様が存在していますが、どことなくそんなイメージが重なってしまうのです。基音がそれほどでもないピアノのパーツやディテールにこだわって、鳴らそう鳴らそうとしたピアノは、ある面で素晴らしいと思うけれど、どこかボタンの掛け違いのような印象を残します。

ファツィオリにこれだという決定的なトーンが備わらず、調整技術だけで聴かされているような印象があるのは、未だになにか大事なものが定まっていないからかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

夜毎熱中

以前このブログに書いた「CD往来」は今もまだ続いています。

とはいっても、マロニエ君側の環境は、すでに何度も書いた通りパソコンの入れ替えという、いわば「閉店改装」みたいなことになりやむなく中断していました。
少し詳しく言うなら、それらを中断せざるを得ないほどまで、古いパソコンはくたびれ果てて、思い通りに使用できないところまで問題が深刻化しており、もはや否も応もありませんでした。
まずはこれに専心、新しいパソコンが一段落をまってCD往来のための作業はすぐに再開しました。

マロニエ君は昔からクルマの中でも必ずCDを聴きますが、家の外にCDを持ち出すというのは好きではありません。ましてやクルマの中でバラバラなCDをあれこれいじりまわすのは嫌な上に、車内にあれば今度は家で聴けなくなる。それならコピーしてファイルにまとめていたほうが使いやすいし、そうしたほうがオリジナルが傷む危険もないとなれば、これをしない理由がありません。

それに加えてこの半年ほどは音楽マニアの方との「CD往来」という新たな目的もできたので、このところのCD作りにはいつになく拍車がかかっていたところ、そんなさなかでのパソコンの不調となり、やむなくマシンの入れ替えというマロニエ君にとっては上へ下への大騒ぎとなったのです。

それから約一月を経たでしょうか、ようやく新しい環境にも慣れてきて、基本的なパソコン機能が使えることになると、待ってましたとばかりにCD作りを再開させました。

新しいパソコンというのは自分にとっての環境が構築できるまでは、周辺機器やソフトの問題など際限なく不便があるものですが、個別の機能や性能はなるほど従来型より格段に進歩しているのも事実で、ここらは新しくなればやはり嬉しい点でもあります

以前、CD/DVDのドライブはあまりの酷使からこの部分が壊れてしまった経緯があり、その後は外付けのドライブを購入して使っています。これらもむろんOSの関係で新規買い直しとなりましたが、それに要するソフトなど必要なものがそろうと、いよいよCD作りを再開、しかもそれは以前よりさらに熱を帯びたものになりました。

曲や演奏、あるいは使用楽器によって、差し上げる相手はいろいろとかわりますが、新しい環境のもと、いぜんからやってみようと思いつつ実行していなかった「全集」に挑戦することに。
というのは最近しばしば聴くバロック・ヴァイオリンの名手によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを購入したのですが、なんとこの全集、めったにないほどのクオリティの高い、少なくとも現在の同曲においては最高ランクの演奏だと思われるのに、ライナーノートなどは最低限のものしか添えられておらず、なんと各曲や楽章のトラックの番号など表記が一切ないのには唖然としました。

一枚のCDには5曲前後のソナタが収められていますが、各CDにはソナタの番号とケッヘルしか書かれておらず、曲によって楽章数も異なるので、何番のソナタの第◯楽章が聴きたいと思っても一発でそれを鳴らすことはできないし、ただ漫然と聴いていても、知らない曲だと今どれが鳴っているのかトラック番号から確認することができないわけです。作り手の手抜きもここまできたかという感じです。

そこで、この全集を聴いて欲しい人が数人おられたことと、トラック不記載の問題を自力で解決すべく、全CDを一枚ずつ調べて、それを一覧表にしてまとめるという作業にとりかかりました。それをこれまた今回新調したAdobe Illustratorでデザインして、CDケースのサイズにまとめて、これも一緒にお付けするかたちで差し上げることに。

それと全集というのは大変で、ちょっとでも油断していると整理がつかなくなって、アッと言う間にどれがどれだかわからなくなります。ですから各CDには識別番号のシールをこれまたIllustratorで作り、これらをプリントしたのも新しいプリンターでしたが、操作に習熟せず、印字が不鮮明なものになったのが甚だ心残りでした。

気がつけば、寸暇を惜しんでこのための一連の作業をやっていて、たかだかこんな作業のために毎夜これに没頭し、子供じみた熱を入れてしまったことはいささかやり過ぎというか後悔の念がなくもありません。
ふと「一体自分は何をしているんだ!?」という疑問の声も心の中に去来しましたが、元来こういう作業を丁寧にやっていくのが嫌いな方ではないので、かなりきつかったけれどとにかく完成することができました。

全集はもうこりごりと思っていましたが、終わって1日経ってみると、もう次に挑戦したくてウズウズしてきて、ついにベートーヴェンのピアノソナタを始めたのですから、さすがに自分でも呆れます。
でも、詭弁のようですけれど、何かに熱中するのは楽しいものです。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ごりっぱ

現代のバッハの名手であるエフゲニー・コロリオフの弾くシューベルトを聴きました。

曲目はピアノソナタD.894「幻想」とD.959という、晩年および最晩年の大曲。
D.894は1826年に書かれ同時期には交響曲のザ・グレートがあり、翌年にはドイツリートの金字塔である「冬の旅」が、さらに翌年には3つの最後のソナタD.958─960を書いたのち、同年11月、31才という若さでシューベルトはこの世を去ります。

ディスクには2012年12月の録音とあり、この感じなら追ってD.958とD.960もカップリングされてリリースされるような気がします。

コロリオフは1949年モスクワ生まれのロシア人ですが、すでにロシアよりもはるかに長い時間をドイツで過ごしており、その演奏から聴こえてくるのは、音楽的には完全にドイツ圏に帰化したピアニストと云って差し支えないと思われます。

さて、このシューベルトの2曲ですが、さすがにコロリオフらしく一音たりともゆるがせにしない真摯さにあふれ、解釈もきわめて正統的で注意深く、すべての音は磨き抜かれています。それでいて尊大さがないのはこの人の良心的な人柄のなせる技なのかもしれません。

コロリオフこそはピアノに於けるノイエ・ザハリカイト(芸術を主観に任せず、客観的合理的にとらえる考え方。音楽では楽譜を尊重し解釈演奏する)の現役旗手とでもいうべき人で、楽譜に忠実な演奏がそこに広がり、ここまでやられるとぐうの音も出ない感じです。

まるでドイツの最高権威の演奏とはこういうものですよという模範が示されているようでもあり、加えて聴きごたえじゅうぶんの濃厚さと、全体を貫く気品が見事に両立している点もいつもながらさすがです。
おそらく音楽の研究者や、直接の演奏行為に携わるピアニストなどは、専門的関心や解釈など何かと参考になりやすく、こういう演奏を崇拝する向きも多いだろうと思われます。

ただ個人的には、このような全方位的完璧を達成した演奏は、100点満点の答案用紙を束で見せられるような気もしないでもありません。純粋に音楽を聴く喜びや意義という点からいうと、音符に対してすべてが正しく吟味された演奏であることだけが必ずしも正解か否かを考えさせられるところ。

それぞれが4楽章からなるソナタで、CDには計8つのトラックがありますが、どこを取り出して聴いても理路整然とした折り目正しい解釈と、それを実現した演奏がそこに確固として存在し、最高級の工芸品が8つ、整然と並べられているようでもあります。

悲痛に満ちた晩年のシューベルトの生身の心に触れる演奏というより、すべてが確信を持って書き上げられた堅固な芸術作品のようで、それを最高の精度で再生するというところに特化された演奏のようでもあり、そこに一種の単純さを感じなくももありません。

いまさらですが、やはりマロニエ君はシューベルトの歌やうつろいの要素を随所で感じさせてほしいというのが正直なところで、コロリオフの演奏が本当にシューベルトの本質に迫っているものかどうかは判じるだけの自信は持てません。でも素晴らしい演奏というものは、もうそれだけで途方もないパワーと魅力があるもので、そんなことを感じつつ何度も何度も聴いてしまいます。

ふと、デヴィッド・デュバル著の『ホロヴィッツの夕べ』(青土社)に、次のような一節があったことを思い出したので、それを付記します。
「現代の演奏は、十九世紀後半の自己耽溺への反動で、作曲家の楽譜を神聖視する。─略─ 楽譜の文字を信じ、それはしばしば作曲者への尊敬になった。この姿勢と完璧な録音は、音楽の解釈を単一化することになり、無感動の元になった。これは音楽の生命を脅かし、多くの若い演奏家たちを音楽の心から切り離した。」
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

フーガの技法

まったく個人的な見解ですが、バッハのありのままの魅力というか、多くの作品を気負わず素直な気分で楽しむことを阻害してきたのは、ひと時代前に蔓延していた、大上段に奉られた、いかめしいバッハ像にあったような気がします。
過度の宗教性、厳格なスタンス、楽しむものとは一線を画する、聖典のような音楽といった趣で、これは時代そのものが作ったバッハのかたちであったように思います。

音楽の純粋な愉悦とは対極の位置に押しやられてしまったバッハ、荘重荘厳でなくてはならないバッハ、むやみに神聖化しすぎたバッハ像は、却ってこの偉大な大伽藍のごとき作曲家を人々から遠ざけてしまった一面があったのかもしれません。

これを打破した象徴的ひとりがG.Gであり、多くの音楽家がなんらかのかたちでそれに続いたことは否定できないでしょう。バッハ演奏にあたって、ポリフォニーの明晰な弾き分けは当然としても、随所に散りばめられた多くの歌、幾何学のモダンと斬新、舞曲としての遺伝子を無視した即興性に欠ける、西洋のお経のようなバッハは、マロニエ君はあまり聴きたくありません。

だからといって、ただ定見なく楽しく自由に演奏すればいいというものではなく、そこには切っても切れない宗教との絡みがあることは厳然たる事実でしょう。ただ、宗教とは人間全般の悲喜こもごもの生から死までの全般を引き受けるものであって、楽しみの要素のないことが宗教的敬虔さというふうには考えたくないのです。

ポリフォニーは音による緻密な編み物であり、その頂点に位置するのがバッハであることは異論の余地はありません。そしてその絵柄やモティーフは宗教的なものが多いとしても、それを教会の空間にばかり浸し続けるのは、この孤高の芸術を却って矮小化する行為のようにも感じてしまいます。

とくに晩年の傑作であるフーガの技法は、演奏する楽器の指定さえもないという、時空にひょいと放り投げられた崇高で謎めいた音楽のひとつでしょう。未完であることさえ、バッハの音楽が永久不滅であることをあらわしているかに思えます。
これはソロピアノによる演奏もあって、多くはないものの、いくつかのCDも出ています。

残念なことにG.Gはフーガの技法では前半をオルガンで弾いたり、ピアノで部分的な映像があったりするものの、ゴルトベルクのような決定的な録音は残していませんし、ニコラーエワのものももうひとつ決め手がない。
近ごろでは、幻のピアニストのように珍重されているソコロフのCDにもフーガの技法がありますし、コリオロフにもいかにも彼らしい名演があります。若手ではリフシッツもこれに挑んでいます。

ソコロフとコリオロフは個性は違えども、共にロシア出身のピアニストですが、その個性は対照的です。自己表出を極力押さえ、作品へのいわば滅私奉公を貫くことで、書かれた音符を生きた音楽に変換することの伝道者のようなコロリオフ。同じようなスタイルに見せながら、「音楽に忠実」を貫いている自分をいささか見せつけるふしのあるソコロフ。
ソコロフのサンタクロース体型に対して、コロリオフの痩身長躯も対照的。

共に驚異的なテクニックの持ち主ですが、ソコロフはリヒテルを彷彿とさせる巨人的な大きさで聴く者を制圧しますが、コリオロフはより緻密で論理的陶冶を旨としながら威厳があり、まろやかなのに張りのある音と細部までゆるがせにしない隙の無さで聴く者をしずかに圧倒します。

マロニエ君が本能的に聴きたくなるのはコリオロフとエマールです。

その理由をひとことでいうのは難しいですが、この2つはどうしても外せないもので、どちらも聴いていると「これが一番!」と思わせられてしまいます。
エマールの前衛と隣り合わせの時代を超越したバッハ、コロリオフの滑らかで緩急自在、優れた考証と最高度のバランスで聴かせるバッハ、どちらも捨てがたい魅力に溢れていて、このふたつがあれば今は大いに満足です。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

SKの使い道

ロシアのピアニスト、アンナ・マリコワによるスクリャービンのピアノソナタ全集を聴きました。

スクリャービンのソナタ全集は何種類か持っているものの、これという決定盤は思いつきません。名前もろくに思い出せないようなピアニストのものがいくつかある中で、ウゴルスキがようやく出てくる程度です。

ウゴルスキの演奏は見事ではあるけれど、どちらかというと重々しく芝居がかった朗読のようで、スクリャービンとピアニストの個性が合っているかにみえて、実はそうともいいきれないものがあり、こってりしたものをさらにこってり仕上げているようで、それほど好みでもありませんでした。

その点ではマリコワの演奏は、良い意味での現代的に整った演奏で、作曲家に充分な敬意を払いつつも必要以上の思い入れや表現を排した、客観性を優先した点が心地よく聞こえます。
作品が完成された音となって耳に届くのはありがたいというか、とりあえず快適であるし、ロシア人であるだけに、必要な厚みや熟考の後もあり、これといった演奏上の不満はありません。

非常に明晰かつ淀みなく流れるスクリャービンと言っていいと思います。

このCDでの聴き所はもうひとつあり、ドイツでの録音でありながら、ピアノはシゲルカワイEXが使用されている点でしょう。

驚いた事には、SK-EXとスクリャービンの意外な相性の良さで、これはまったく思いがけないことでした。
カワイの個性というのをひとことで云うのは難しいですが、少なくともコンサートグランドに関しては、ことごとくヤマハとは対照的だというのがマロニエ君の印象です。

誤解を恐れずにいうなら、ヤマハとカワイはそれぞれに日本的な暗さをもったピアノだと思います。これは、たんなる音の明暗ではなく、ピアノとしての性格や全体に漂う雰囲気です。
ただ、両者はその暗さの質がまったく異なります。

少なくともカワイはピアノ全体から流れてくるものが、朴訥で不器用、ある種の真面目さがあり、少なくとも洗練とかスタイリッシュといったものではないところに特徴があるように感じます。

このところ、プレトニョフをはじめとするロシアのピアニストの間でカワイの評価が高いのかどうか、はっきりしたことは知りませんが、カワイの持つどこか湿った感じの悲しげな響きが、ロシア人の感性にマッチするとしたら、これは大いに納得できることです。

それとヤマハと違う点は、カワイのほうがより演奏者にあたえられた表現の幅が広いという点で、ヤマハのほうがある程度の結果を規程してしまっている点が、演奏の可能性を狭めているように思います。

カワイが生まれもつ、どこかほの暗い雰囲気がスクリャービンとドンピシャリというわけで、これまでSK-EXがかなり高いところまで行きながら、あと一歩の決め手がないと感じてきましたが、ロシア音楽こそがその最良の着地ポイントであったとしたら、これはなかなかおもしろい事になってきたと思いました。

長年にわたってロシア御用達であるエストニアなどはもうひとつざらついていたり、ペトロフなどはあくまでも東欧であってロシア風とは似て非なるものを感じます。

その点でカワイ(とりわけSK-EX)は、ピアノとしての高いポテンシャルと完成度があり、日本製品としてのクオリティを持ちながらもキラキラ系で聴かせるピアノではない。さらに意外な懐の深さや逞しさもあり、ここにロシア方面からの注目が集まったとしてもなんら不思議はないと思いました。

現代のピアノは、やたら音の「明るさ」ばかりを重要なファクターであるかのよう強調されますが、何を弾いても職業的スマイルみたいな薄っぺらな笑顔ばかり見せるピアノより、渋いオトナの表現ができるピアノがあることは評価していい点だと思いました。

このCDで聴くスクリャービンには、スタインウェイでも、ヤマハでも、もちろんファツィオリでも聴く事のできない、カワイだからこそ結実した独特の雰囲気が漂っているとマロニエ君は感じます。

なんとなくカワイのピアノってロシア製の旅客機みたいで、ちゃらちゃらしない、質素な魅力があるのかもしれないと思いました。
和服でいうと結城や大島の紬みたいなものでしょうか。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

エル=バシャの平均律

アブデル=ラハマン・エル=バシャによるバッハの平均律第二弾である『第2巻』が発売され、先に書いたエマールの『第1巻』と同時購入しました。

エル=バシャのバッハは前作『第1巻』での望外の快演にすっかり心躍ったものです。これはもう何度聴いたかわからないくらい気に入ってしまい、ほぼ似たような時期に発売されたポリーニのそれがすっかり色褪せて感じられたのとはいかにも対照的でした。

演奏そのものの素晴らしさに加えて、このときの録音にはベヒシュタインのD280が使われており、その音や響きにも併せて心地よい印象を覚えたものでした。

これに続いて第2巻が収録・発売されるものと思っていたところ、なかなかそうはならず、第1巻(2010年)から実に4年近く待たされたことになります。

はやる気持ちを抑えつつ、再生ボタンを押して最初に出てきた音はというと、正直「ん?」というもので、第1巻にあったような輝きがないことに耳を疑いました。
よく見ると前回とは収録に使われたホールも違えば、ピアノもD282に変わっています。

演奏そのものはエル=バシャらしい大人の落ち着きと余裕を感じるもので、やわらかな語り口の中にも確かな音楽の運びがあり、安心して聴けるものではあるけれども、強いて言うなら第1巻のほうがより集中力が強くて引き締まっていたようにも思います。
もちろん今回も素晴らしい演奏であることは確かですが…。

むしろ気になるのは今回の録音で、第1巻とはあまりにも録音の性格が違いすぎて、同じピアニスト/レーベルであるにもかかわらず、これでは「両巻が揃った」という収まりのよいイメージには繋がりにくいようにも思われました。
とくに気になるのは残響が多すぎて響きに節度感がなく、各声部の絡みやピアニストの繊細な表現の綾が聞き取りづらいのは大いに疑問だと言わざるを得ません。
録音の常識から云うと、これは到底ホールの違いのせいとは思えません。

また、使用ピアノも第1巻がベヒシュタインのD280だったのに対して、第2巻ではD282になっています。聞くところでは、ベヒシュタインのコンサートグランドはざっと2年前ぐらいにモデルチェンジをしているようで、D282ではよりパワーアップが図られている由です。
フレームの設計が違うようで、具体的には弦割りが変わったという話です。

CDを聴く限りではパワー云々の違いはわかりませんが、純粋に音として見れば、マロニエ君はあれこれのCDからの判断にはなりますが、D280のほうがずっと好みでした。
D280にはベヒシュタインの味わいを残しつつ、ほどよい洗練とスマートさがあり、現代的な輝きがありましたが、D282では再びそれを失ったという印象。

ピアノはパワーを求めすぎると、音が荒れるという側面があるのか、昔のベヒシュタインのような「ぼつん」とか「ぼわん」という音が耳につきます。あえて先祖帰りさせたというのなら目論見通りということになるのかもしれませんが、音にも時代感覚というものがあり、その点でどっちに行きたいのかよくわからないピアノになってしまった気がしました。

ベヒシュタインの発音を「あれはドイツ語の発声なんだ」という言う人もあり、確かにそうなのかもしれません。
でも普通に聴く限りでは、どちらかといえば無骨で、板っぽさを感じさせる、打楽器的な音にしか聞こえず、なんだか、やっと街の生活に慣れてきた人が、また田舎に帰って行ったようなイメージです。

音の個性を、渋みや落ち着きなどの味わいとみるか、野暮ったさとみるか、ここが聴く人の好みや美意識による分かれ目でしょう。

エル=バシャもどことなく気迫がない感じで、ラヴェル全集なども高評価のわりには温厚路線で、もともとこの人はそういうピアノを弾く人で、むしろ前作の第1巻のときがちょっと違っていたのかもしれませんし、あるいは録音のせいで活気が削がれて聞こえるのかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

エマールの平均律

他の人はどうだかわかりませんが、ピエール=ロラン・エマールは不思議なピアニストだと思います。

はじめてこの人を認識したのはもうずいぶん前のことでしたが、当時、リゲティの複雑なエチュードとかメシアンなどをつぎつぎに弾きこなす、現代フランスの前衛的なピアニストというイメージでした。

そんなエマールが次第に有名になるに従い、ラヴェルの夜のガスパールやドビュッシーを録音し、そのあとにはアーノンクールの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲録音していきますが、個人的にはこのベートーヴェンにはそれほどエマールのいいところが出ているようには思えないというか、要するに何度聴いても「もういちど聴きたい」という気にさせるものではありませんでした。

それからはこの人のCDを買う意欲がいささか薄れ、シューマンのシンフォニックエチュードとか、リストのロ短調ソナタなどは聴いていません。

そのあとだったか、バッハのフーガの技法が出て、こればかりは無視して通ることができず再びエマールを買い始めることに。この演奏には賛否両論あるようですが、マロニエ君はとても好きな演奏で、もはや何度聴いたかわからないほどです。

近年ではドビュッシーのプレリュードなどをリリースしますが、個人的にはバッハを待ち望んでいたわけで、このたびその念願叶って平均律第一巻が発売されました。

エマールという人は、とりたてて分かり易い感性の切れ味とかセンスの良さ、あるいは目も醒めるような指さばきなど、いわば表層的な部分で聴かせる人でない点は徹底しています。
その演奏には、常に必要以上やりすぎない知的なバランス感覚とか、身についた節度みたいなものがあり、その中で内的密度を保って展開されていく音楽だと思います。瞬間的な表現やテクニックに心を奪われたり酔いしれるということはなく、そのぶん直接表現を控え、音楽をあくまでも抽象的なものとして普遍性を崩さぬようエマールの美意識による歯止めがかかっているように窺えます。

そのためか、エマールの演奏には、聴く者がそれぞれに解釈したり感じたりする余地がふんだんに残されており、これこそがこの人の魅力だとマロニエ君は思うところです。

そういう演奏なので、はじめに聴いたとき、いきなり衝撃を受けるとか、深い感銘へと引き込まれるということはさほどなく、繰り返し聴いて何かを感じ取ることがエマールの(すくなくともCDの)前提になっているように思うのです。

今回の平均律も、その例に漏れませんでした。
平均律ともなると、その演奏には名だたるピアニストの傑出した演奏に耳が慣れているものですが、はじめは固くて面白味のない、特徴のない演奏のように聞こえました。

しかし終わってみるとなんとも言い難い味というか風合いのようなものが残っており、「もういちど聴いてみようか…」という気になります。そして幾度もこれを繰り返すうちに、エマールの不思議な魅力に取り憑かれていくようです。

マロニエ君の感じるところでは、この人はどちらかというと人に聴かせるためというより、自分のためにピアノを弾いている感覚が伝わってきて、それが心地いいのかもと思います。
むろんこれだけコンサートピアニストとしてのキャリアを積んで、現在進行形で世界的に活躍している人ですから、まさか純粋に自分のために弾いている…などとウブなことを思っているわけではありません。

当然ながらコンサートでは聴衆の、CDではそれを買って聴くスピーカーの前のリスナーを意識しない筈はありませんが、それでも、この人の基本のところに身についたものとして、どうしても自分の満足や納得が先行してしまうという、いかにもプライヴェートな感覚があって、ピアニストの自宅練習室へ透明人間になって忍び込んだような面白さがあるのだと思います。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

驚倒

「CD往来」というタイトルで、知人との間でオススメCDのやりとりをしていることを書きましたが、いまだにときどき続いています。

過日送っていただいた中には、コンスタンティン・リフシッツの「フーガの技法」、ドイツの若手であるダーヴィッド・テオドーア・シュミットによるブゾーニの編曲ものばかりを集めたアルバムが含まれていました。

この二つに共通しているのは、いずれもベヒシュタインを使っているという点で、それを事前に聞いていたので興味津々でした。

手許にあるリフシッツの「音楽の捧げもの」はとくに記載はないものの、ほぼ間違いなくスタインウェイと思われるものだったので、それから数年を経た録音でベヒシュタインを使っているということは、きっとそれなりの理由あってのことだろうと大いに期待したわけです。

小包が届き、御礼メールをしたためながら、まずフーガの技法を鳴らしてみることに。
果たしてそこから出てくる音は、伸びのない、ただ茫洋とした古い感じのピアノの音で、メールを書く間の20分ほど鳴らしていましたが、てっきり旧型のベヒシュタインが使われたものだと思い込んでしまいました。その旨の感想を書いたところ、後刻、先方からジャケットの裏表紙の写真がメールに添付され、そこにはD282と書かれていたのには驚倒しました。

D282といえば現行のベヒシュタインのコンサートグランドで、エルバシャの平均律や近藤嘉宏のベートーヴェンなどもこのピアノが使われており(いずれも日本での録音)、そこで聴く音は、ベヒシュタインらしさを残しつつも、それ以前のモデルにくらべれば遥かに現代的かつ折り目正しく整ったピアノであることが確認されていました。
今どきの好みや要求を適度に汲み取ってパワーと安定感が増し、美しい音を併せ持ったなかなかのピアノという印象を得ていたのです。

ところが「フーガの技法」に聴くピアノの音は、それらとはかけ離れたもので、おそらくピアノの調整、弾き方、録音環境/技術などが絡み合っての結果だろうとは思われました。
とりわけピアノの調整についてはピアニストの要求もあったのか、それともよくある「お任せ」なのか…。

レーベルはオルフェオで、これは「音楽の捧げもの」も同様ですが、どうもこのレーベルの音質じたいにどこかアバウトさがあり、音に核がなく平坦、しかも残響が多くてフォルム感がなく、あまりその点に厳しくこだわるほうではない傾向なのかもしれません。

それにしても、日本で録音されたD282が、あれほど正常進化ともいうべき要素を備えていることを訴えていたにもかかわらず、場所や技術者が変われば、ただ古いだけのベヒシュタインみたいな音にもなるというのは、まったく予想だにしていませんでした。
一皮剥けばこんな旧態依然とした地声だったのかと思うと、好印象を得ていたのは特別な技術者によって入念に作られたよそ行きの声だったみたいで、なんだかがっかりしてしまいました。

別の見方をすれば、根底にはこのメーカーのDNAが脈々と受け継がれているということでもあり、その遺伝子こそが伝統なのだと言えないこともないのかもしれません。
ENからD282への進化は、むき出しのピン板がフレーム下に隠されたり、デュープレックスシステムを備えるなど、いかにもドラスティックなもののような印象がありましたが、実際には単なるマイナーチェンジに過ぎなかったのかもしれません。

CD往来では、いろいろな刺激や発見が次から次で、とても勉強させられます。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

コンラッド・タオ

いつだったかCD店の処分セールのワゴンの中から買ってみたもののひとつに、コンラッド・タオという中国系アメリカ人のアルバムがあり、このとき初めて聴きました。

ピアニストで作曲家、おまけにヴァイオリン演奏もプロ級という大変な才能の持ち主のようで、このアルバムでもラフマニノフのプレリュードやラヴェルの夜のガスパールのほかに自作の作品もいくつか含まれていました。
すでにダラス交響楽団からケネディ大統領暗殺50年のための委嘱を受けるなど、作曲家としてもすでにかなりの評価を受けているようです。

まだ二十歳前という若さにもかかわらず、非常に洗練されたスタイリッシュかつ雄弁な演奏であるのは印象的で、技巧的にも申し分なく、あらためて音楽の世界は若い時期にその才能が決定してしまうことをはっきり思い知らされるようでした。

いかにも中国人という感じの、あまり期待させるジャケットではなかったので、よけいにその趣味の良い完成された演奏、さらには自作の作品もなかなかのもので、こういう優れた才能が存在していることに驚かされました。

気をよくしてyoutubeで検索したところ、その中の映像ではさらに若い頃のものか、リストかなにかを弾いているものがありましたが、なんとそこでの彼は中国節全開で、到底CDの演奏と同一人物とは思えないようなものであるのに愕然とさせられました。

この点はたいへん不可解ではあるけれども、善意に解釈すれば、その後の研鑽によって一気に国際基準の語り口を身につけ、現在のようなスマートな演奏が確立されたということかもしれません。真相はわかりませんが、今のところはそう思っておきたいと思うのです。

マロニエ君の好む演奏のひとつに、繊細なのに音楽的な熱気があるというスタイルですが、コンラッド・タオのピアノにはそれを感じ、中国の才能も大したものだと思います。
ああ、またか、と思われる向きもあるでしょうが、これだけいろいろな才能がある中で、なぜランランのような人がひとりスター扱いを受けるのか、この点が甚だ納得がいきません。

ランランで思い出しましたが、どうして中国人青年の若い頃というのは、だれもかれも昔の板前さんみたいな五分刈り頭で、まわりから浮いてしまうほど場違いな雰囲気を発散するのかと思います。

ある意味で、いまや伝説の映像となっている、若いランランがデュトワ指揮N響と共演したラフマニノフ3番のときもこれだったし、ニュウニュウもはじめはそれ、そしてアメリカで育った筈のコンラッド・タオでさえやはりこのスタイルなのは唖然としてしまいます。
例外はユンディ・リだけでしょうか…。

まあ、それは余談としても中国の音楽家の良いところは、演奏がぶつぶつ切れるような縦割りではなく、好き嫌いはあるとしても、みんなある一定の流れを持っているところのような気がします。
ひょっとすると、これは複雑な発音を流暢にしゃべる中国語にその源流があるのかもしれません。

なにかにつけ優秀な日本人ですが、こと外国語の発音だけは本当に苦手で、今回のノーベル賞受賞者といい小沢征爾さんといい、もう少し上手くて当たり前だと思うような国際人でも、どこかカタカナを並べたようで、やはり日本語という言語に深い理由があるのかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

続・CD往来

前回書いた通り「CD往来」のおかげで、聴いたことのなかったヴァイオリンのCDを一気に楽しむことができました。

2度にわたって送っていただいたCDは実に21枚!にも達していますが、とりわけ集中しているのはパガニーニの24のカプリスとイザイのソナタ全6曲で、いずれも無伴奏の作品です。
これらが各6枚ずつで12枚、さらにバッハの無伴奏ソナタとパルティータが2枚、ロッラという作曲家のヴァイオリンとヴィオラの二重奏など、無伴奏のアルバムが多くを占めました。

パガニーニのカプリスは昔パールマンのレコードをよく聴きましたが、その後はそれほど熱心に探してはいなかったこともあり、五嶋みどりなど数枚がある程度でした。
そこへ今回一気に6人もの超一流奏者によるカプリスを手にすることとなり、急なことで耳が驚いているようです。

昔の印象と違ったのは、この曲集はやはり技巧ありきの作品で、演奏はどれも卓越したものであるのは云うに及びませんが、作品としては意外に飽きてくるという事でした。

その点では、イザイのソナタにはそれがありません。
どれもが濃密な人間ドラマのようで、聴くたびにわくわくさせられるし、演奏者によってもその台詞まわしやカメラアングル、演出がみな異なり楽しめました。
とはいっても、無伴奏ばかりを延々と聴いていると、ときどき疲れてきて違うものが聴きたくなりますが、やはりおもしろいので、一息つくとまたプレイヤーに入れてしまいます。

さらに飽きさせないのはやはりバッハです。ポッジャーというバロックヴァイオリンの名手がはっとするような清新な演奏を繰り広げるのにはかなり驚きました。
昔は、フィリップスから出ているクレーメルのこれが一番だと思っていたし、最近になってイザベル・ファウストの鮮烈がこれを抜き去ったように感じていました。そこへこのポッジャーというファウストに勝るとも劣らぬ名演が加わり、充実のラインナップと相成りました。

これまでにもイザイやバッハは買ったはいいが大失敗で、演奏者の名前すら覚えていないというのもいくつかあり、その点ではヴァイオリンに通じた方が選ばれたCDはまさに精鋭揃いでした。

ヴァイオリンの音色もさまざまですが、これに関してはマロニエ君はどうこういえるほどよくはわかりません。ただ好きな音、それほどでもない音があるのはピアノと同様ですが、それが演奏によるものか、楽器によるものかなどはもうひとつ判然としないというのが正直なところです。

ちなみに最近ここに書いた樫本大進の演奏でも、チャイコフスキーでは終始音がつぶれ気味で美しさがなかったのに、アンコールのバッハでは違う楽器のような美しさを感じたのはちょっとした驚きでした。やはり楽器の美しさを楽しむには無伴奏は最適ということなのかもしれません。

ひとつ発見したのは、無伴奏ヴァイオリンのCDは、どれも録音が素晴らしいという点です。リアリティがあって立体感があって、しかも全体像も掴みやすいし、楽器から出ている直接の音と残響の区別もつけやすいし、まるで楽器が目の前にあり、演奏者の息づかいに直接接しているようで生々しい高揚感があります。
こんな面白さや魅力は、ピアノの録音ではなかなか望めないことだと思いました。

考えてみれば、ピアノという楽器は、音域もダイナミックレンジも異様に広く、それをひとつの録音作品として遠近をまとめ上げるのは並大抵ではないのだろうと思われます。
むかしオーディオマニアだった友人が尤もらしく言っていたところでは、録音技術者はピアノのソロを満足に録れるようになったら一流なのだそうで、それが今ごろになって納得させられるようです。

ピアノの場合は、録音の巧拙が残酷なまでに明らかで、それは定評のあるレーベルに於いても、アルバムごとに音質というか、要するに録音ポリシーみたいなものが常に不安定なことでも察することができるようです。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

CD往来

遠方の音楽好きの知人と電話をしているとき、ピアノの調律に話が及び、調律師によって実にいろいろなやり方や個性があることが話題になりました。

とりわけ一流どころになると、調律は明らかに芸術性が問われる高尚な領域に突入します。ひたすら職人技に終始するか、はたまたそこから芸術の領域に足を一歩踏み入れるか、ここが分かれ目です。

しかしこればかりは、どんなに言葉を労してもその音を伝えることはできません。
『百聞は一見にしかず』のごとく、聴覚もこの点は同様です。
そこで、オクタビアレコードからリリースされているCDで、我が主治医殿がピアノの調律を担当しているものをコピーして送ることになりました。だって聴いてもらうしかないのですから。

CDのコピーというものはあまり大っぴらに云っていいことかどうかはわかりませんが、パソコンなどはそれができる機能を有しており、べつに販売するわけでもなく、とりあえず「個人が楽しむ」という制限付きならば許されていることだと解釈しています。

マロニエ君は車の中の音楽はすべてコピーCDで聴いているので、ときどき車用を作るのですが、考えてみると、このところずいぶん長いことこれをやっておらず、これを機に久しぶりにCD作りに精を出しました。

どうせ送るのなら、ほかにも話の種に聴いて欲しいものもあり、思いつくままにコピー作業をやったのですが、これが案外楽しかったのは自分でも妙な発見でした。
車用を兼ねて2枚ずつ作るというのも合理的であるし、なんだか貴重な音楽CDを自分の手で作っているような子供じみた面白さもあって、数日というもの、夜はすっかりこれにはまってしまいました。

ある程度の枚数を送ると、なんと先方でも同様のことをしてくださり、ほどなく分厚いCDの包みが届きました。中を開けると予想を遥かに上回る枚数のCDが出てきてびっくり!
相手の方はヴァイオリン出身の方なので、ヴァイオリンのCDを相当お持ちで、そこには自分ではまず買わなかったであろうCDがズラリ! 一通り聴くだけでも大変な量です。

その「自分では買わなかったであろうCD」というのがポイントで、自分だけでは趣味趣向がどうしても偏ってしまって限界があります。マロニエ君ならどうしてもピアノが優先になるし、その取捨選択も、知らず知らずのうちに同じような尺度でばかり選んでしまうようです。

その点では、他者が他者の興味や価値観によって手に入れたCDというものは実におもしろいもので、ドキドキの連続、予想外の音楽や演奏に出会える恰好のチャンスとなりました。
はじめて聴くことができた演奏家や作曲家もあって、やはり所詮一人で動いていては限界があることを痛切に感じます。

マロニエ君は、趣味は基本的に、孤独でもじゅうぶん楽しんでいけるだけのものでなくてはならないと思ってます。たしかに同好の仲間がいるのは楽しいけれど、趣味という名のもと、価値観の違う者同士が無理して肩寄せ合って、口にはできないストレスを感じながら妥協的な時間を過ごすのは本末転倒で、好きではありません。

車などは同好の士が集まるのはとても楽しいのですが、こと音楽とかピアノになると、何故か知らないけれど、何かが違うというか、最も大切な核となる部分が悲しいまでに噛み合わないことがあまりに多いというのが偽らざるところでしょうか…。

むろん中にはそうではない方も僅かにおられますが、これは本当に一握りの方々です。
そういう方との交流や情報交換はやはり貴重ですし、それによって自分が大きな恩恵に浴していることは確かです。
とくにヴァイオリンのCDに関しては、おかげでグッと視界が広がったような気がしています。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

北アルプス文化センター

エデルマンのショパンアルバムに聴くスタインウェイが、久々に逞しいパワーと深いものをもったピアノだったので、このところ虚弱体質の新しい同型が多い中、まだまだこういうピアノも存在していることがわかって溜飲の下がるような、あるいはホッとするような思いがしたものです。

エデルマンの演奏はやや強引なところがあるものの、この好ましい英雄的なスタインウェイサウンドを聴く快感を味わいたくて、ずいぶん繰り替えし聴きました。
データには収録場所が、富山の北アルプス文化センターと記されており、なんでそんなところへわざわざ遠征して録音するのだろうとはじめは思っていました。以前も同じレーベルで、ある日本人が弾くリストのアルバムを購入してたところ、これが演奏といい録音といい、およそマロニエ君の好みからかけ離れたもので、我慢して2回聴いてあとは完全なほったらかしとなっていたのです。

そのときも北アルプス文化センターとあったので、きっと楽器も会場もよくないのだろうと思った記憶がおぼろげにありましたが、エデルマンに聴くピアノの音がただならぬものなので、もしやと思ってあれこれ検索してみることに。
すると、北アルプス文化センターは、そこにあるスタインウェイが評判がよい由、さらにはホール側も録音に協力的なためにここで録音するピアニストが多いというような書き込みを目にしました。

へえー…そうだったんだ!と思って調べてみると、ここは1985年ごろのオープンなので、おそらくその時代のスタインウェイが納入されていると考えていいでしょう。この時期は近代のスタインウェイではマロニエ君の最も好きな時代のひとつなので、聞こえてくる音の充実感に膝を打ちました。
こうなるといてもたってもいられず、別のディスクも聴いてみたくなり、とりあえずここで録音したピアノのCDを探すことに。

その結果、菊地裕介氏の弾くシューマンのダヴィッド同盟やフモレスケのアルバムが見つかり購入。レーベルはやはり同じオクタヴィアレコードです。
2日後ぐらいに届いて、さっそく鳴らしてみると、冒頭のアレグロh-mollが始まるや、なにかが上から降りそそいでくるかのような華麗で重厚な美音の雨に総毛立ってしまいました。

録音もエデルマンのショパンほどマイクが近すぎず、さらには菊地氏はエデルマンのように強引な打鍵ではなく、より自然な過不足のない鳴らし方をしており、音としてはずっと好ましいものだったことも収穫でした。

絢爛とした甘くてリッチな音色、美しい鐘のような低音、現代性と圧倒的なタフネスを兼備して、ひとつの完結された個性がそこにあり、まるで生命体が発するようなオーラを感じます。

こういう音に接すると、やはりある時期までのスタインウェイは他を寄せ付けぬピアノだったことを思い知らされますが、その後は音質はもちろん、ピアノとしての潜在力がじわじわと下降線を辿り始めたのはただただ残念というほかありません。

どの時代のスタインウェイがもっとも好ましいかという意見はいろいろあって、80年代のものでも厳しい人はダメだと一蹴されるでしょう。しかし、マロニエ君はせめてこの時代ぐらいまでの音質を維持していれば、他のメーカーの猛追に脅かされることもなかったように思います。

この時代までは、かりそめにもこのブランドに相応しい魔力のようなものを感じる雲の上のピアノでしたが、それ以降は少しずつ飛行機が高度を落としていくように、雲の下まで降りてきて、現在は高級な量産品の音になっているというべきかもしれません。

あとは賢明な判断力のあるホール管理者が、安易な買い換えなどをせずに、佳き時代のピアノをできるだけ大事に使っていってほしいと思います。
名のある演奏家などが、「ホールのピアノはほぼ10年で寿命となる」などと、堂々と発言したりするのを目にすると、楽器屋と結託しているのかと本当に驚いてしまいます。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

シェプキン

このところバッハ弾きとして頭角をあらわしているらしいアメリカ在住のロシア人ピアニスト、セルゲイ・シェプキンのバッハとはいかなるものか、聴いてみたくなり、まずは1枚CDを手に入れました。

店頭でもシェプキンのアルバムは何度か目にしていましたが、バッハではなくブラームスのop.116/117/118/119というもので、曲はいかにもいいけれど、そのジャケットの写真はブラームスというより酒場っぽいイメージで、どうもそそられずに買いませんでした。

それからしばらくして、彼がバッハ弾きとしても実績と評価を積んでいるようなので、ともかく一度は聴いてみたいという気になり、まずはネットで中古のディスクを買いました。
曲目はパルティータの第1番から第4番までの4曲。

シェプキンはバッハ演奏に際してさまざまな考察を行い、装飾音などにも自分自身の解釈や創案を織り込んでいるらしく、その独自性が非常に注目されているようです。また、すでにゴルトベルク変奏曲も2度録音し、新しいものでは新解釈を世に問うているようですが、こちらは新旧いずれも聴いたことがありません。

ともかく現在はパルティータしかないシェプキンのバッハを聴いてみることに。
あまりにも有名な第1番の出だしから、なるほど装飾音に異質なものを感じますが、それは保留のまま聴き進みます。
一通り聴くのに1時間強かかりますが、差し当たり、言われるほどの新鮮さは感じませんでした。このディスクの録音は1995年ですから、もしかするとシェプキンの演奏としては充分に熟してはいないということもあるのかもしれません。

その後、何度も繰り返し聴くうちに、少しこの人の演奏にも耳が慣れてくる自分を感じはするものの、正直なところ、彼の解釈が取り立てて斬新だとも創意に溢れているとも、さほど思いませんでした。
ただ、ロシアの優秀なピアニストの例に漏れず、相当のテクニックをもっていることは痛感させられましたし、シェプキン本人には悪いけれども、その音楽性云々というより、その技巧を楽しむことのほうがはるかに魅力だというのがマロニエ君の受けた率直な印象でした。

何がすごいかというと、その確かな打鍵による、ピアノを十全に鳴り響かせる男性的な音色と、瞬発力にあふれた指さばきでした。
最近は時代のせいか、ピアノを正面から鳴らしきることのできるピアニストが減ってきており、よりスマートで軽やかに弾くスタイルが主流ですが、その点ではシェプキンの演奏はその音色やダイナミズム、タッチそのものに男性の骨格でないと決して出てこない余裕と固い芯があって、これはこれで久々に胸の支えがおりるような爽快感がありました。

むろん叩きまくりのピアノは嫌いですが、なよなよした線の細い演奏であるのに、それをさも音楽的であるかのようなフリをした演奏が少なくないのも事実ですから、たまにはこういう根底の力強さに支えられた、スタミナあふれる演奏に身を委ねるのもいいなあと思いました。

ピアノはニューヨーク・スタインウェイが使われていますが、こちらのほうが強靱なタッチにも決して根を上げない鷹揚さがあり、多少ざらついた乾いた音色でありながら、こまかいことにはこだわらずにピアノが鳴りまくっているのは、これはこれで快感でした。

続けてパルティータの残り5/6番とフランス風序曲を入れたCDを買いましたが、おおむね似たような印象でした。なんとなくブラームスも少し聴いてみたくはなりました。
ブラームスの後期のピアノ曲は、あまりに枯淡の境地を強調しすぎるきらいがあり、それの行き過ぎない演奏を聴いてみたい思いがあり、もしかしたらシェプキンはそれに該当しているかもしれませんから。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ルールと平等

先日もニュースで言っていましたが、最近はとにかく音楽CDが絶望的に売れないのだそうで、そんな話を聞くと、こちらまで暗い気分になるものです。

むろんこれはポップスなどの最も高い人気と購買力のあるジャンルでの話です。それをなんとかして販売へと結びつけるため、さまざまなイベントと抱き合わせにするなど、業界でも必死の知恵を絞っているのだとか。
もとよりクラシックなど、すでにものの数にも入っていないのでしょう…。

そんな世相の中、マロニエ君はCDだけは良く買うほうだと思いますから、この点だけは業界から頭のひとつも撫でられていいような気がします。購入はネットもしくは店頭の新品が主流で、中古品はよほどでないと買いません。
べつに潔癖性で中古が嫌だというわけでもないのですが、期待するほど安くもないことと、新品のほうがショップの情報や在庫の整理整頓などが洗練されており、要は見やすい探しやすいというのが一番の理由かもしれません。

ところが廃盤になっているCDの場合は、やむを得ずアマゾンやネットオークションで中古品を探すことになります。

最近も欲しいものが廃盤となっていたところ、幸いオークションで見つかり、購入しようと詳細を読むと、2品以上購入すると送料無料になると書かれています。
終了日までにはまだ幾日もあるし、同じ出品者のその他の商品を見てみると、どうやら業者のようで、実に5〜600枚ものCDが出品されています。

これだけあれば欲しいCDはあるだろうと思い、他日あらためて腰を据えて全商品を見てみた結果、まあそれなりに興味を覚えるものがいくつか見つかり、ざっとリストアップすると計9点ほどになりました。

そこで出品者にメールして、これだけの点数をまとめて購入したいと伝えたところ、先方から返事があり、商品は二週間取り置きができるという内容でした。
そうはいっても、9点もの商品をひとつひとつ連日連夜、パソコンの前に張り付いて落札していくのも大変だし、そこまでの気力もないので、できたら一括購入したい意向であることを伝え、検討をお願いしました。

ちなみに数百点の出品に対して、冒頭のごとくCD不況のせいか、入札されているのは数えるほどまばらで、そのほとんどが最低価格もしくはそれに準ずる価格で終了するように見受けられました。
もしマロニエ君が出品者だったらめげてしまうくらいでしたから、感覚的に一括購入はすぐに応じてくれるだろうと、なんとなく思っていたのです。

ところが再び届いた返信には、前置きもなく「オークションのルールにそって、皆さんに平等に参加して頂いております。」とにべもなく書かれており、その情感のひとかけらもないロボットのような反応には唖然としました。
できないならできないで、言葉の選びようもありそうなものだと思います。

とりわけ心外だったのは「ルールにそって、皆さんに平等に」というくだりで、これは購入希望者に対してほとんどお説教です。いきなり相手にこういう物言いをする人というのは、基本のところで何か大きな勘違いをしており、現代はこの手合いが蔓延していると思いました。

こういう人に限って、自分ではルール通りの正しい対処をしているつもりでしょう。
さらには、そちらに同調する人も結構いるはずで、こういう殺伐とした感性の前では人情の機微など一文の値打ちもないのでしょうし、そもそもそういうものの存在すらご存じないと思います。

いっぺんに気分も冷めて、ウォッチリストもすべて白紙撤回しました。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

エデルマン

オクタヴィア・レコードからリリースされているセルゲイ・エデルマンの演奏がすこぶる高評価のようで、そんなにいいのならちょっと聴いてみようと購入しました。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、幻想ポロネーズという重量級の主要作品ばかりをドーダ!といわんばかりに並べたもの。
バラードの1番からして、いやにものものしい入りで、ひとつの予感がかすめます。

いわゆる既存のショパン観に一切とらわれることなく、「純粋に楽譜に記された音符を音楽として起こしたらこうなる」という主張を込めたような演奏で、現代のショパンによくあるパターンだと思いました。

ショパンを少女趣味のメランコリックな音楽のように捉える愚かの向こうを張って、詩情を排し、むやみに構造的で、劇的で、マッチョに仕上げられたショパンというのも、所詮は少女趣味の対極に視点を移したというだけで、その履き違えという点では五十歩百歩だと思います。

糖尿病の食事療法ではあるまいし、ショパンの作品から「甘さ」を徹底除去して、内装材を剥ぎ取って、構造物の骨組みばかりを見せるような演奏がこの偉大な作曲家の真髄に迫ることができるというのなら、いささか短慮ではないかと思います。

打鍵もむやみに強すぎるし、語り口にもくどさがあり、まるで大仰な芝居の台詞まわしのように聞こえてしまいます。ショパンがこういう演奏を歓迎するとはとても思えません。

すっかり忘れていましたが、そういえばずいぶん昔、東京でエデルマンのリサイタルに行ったことがありました。長身で、まるでスローモーションを見ているような一風変わったステージマナーであったことが印象にあるのみで、何を弾いたかまるで覚えていません。

オクタヴィア・レコードは、その音質のクオリティが高く、オーディオマニアの間ではたいそう有名なんだそうですが、マロニエ君はそっちの方面はてんで不案内で、もうひとつその真髄がよくわかりません。

たしかに素晴らしいと感じる、充実した音質を楽しめるCDがある一方で、えっ?というような、とても高音質がウリのCDとは思えないようなものもあって、いうなればむらがあり、一貫した方向性が定まっているところまでは行っていない印象です。
今回のCDは、録音はすごいとは思うものの、いかんせんピアノが近すぎて生々しく、さらに強打の連続とあっては、かなり耳が疲れるアルバムだったと感じました。ところが、伊熊よし子氏の解説には「ショパンコンクールでは若手ピアニストは攻撃的な演奏する」「戦闘的な演奏は耳を疲れさせる」ということを引き合いに出し、それと対比させるように、このCDの演奏を「耳が疲れず、心が浄化される」とあったのにはエエー!と驚くばかりでした。

それでもピアノは少し前のコクのある音をもった好ましいスタインウェイで、ここはせめて楽しめたところでしょうか。
とはいえ、演奏と録音が生々しいぶん、まるでハイビジョンで人の顔の皮膚を見るようで、ピアノがいささか迷惑がっているようにも聞こえます。もう少し詩的な演奏と広がりのある録音であってほしかったけれど、どうもエデルマンはピアノの音の最も美しいところを察知しながら弾くことはなく、あくまでも自身の気迫と打鍵だけで構わず押してくるので、ピアノにストレスがかかり、しばしば音がつぶれ気味になるのは残念でもあり、マロニエ君には「耳が疲れ、心が圧迫される」演奏でした。

でも、矛盾するようですが、久しぶりにいい楽器だなぁという印象が残りました。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

B級グルメCD

タワーレコードを覗いてみると、バーゲン品を集めたワゴンが並ぶ一角に、さらに特別とおぼしきひとまとまりがありました。

そこはどうやら最終処分場らしく、見たこともないようなレーベルや演奏家のCDばかりが集められ、なるほどこれは常設の棚はおろか、セール対象にしても簡単には売れないCDであろう事は察しがつきました。

あまのじゃくのマロニエ君としては、そういう場所こそ捜索してみる意欲が湧いてくるというもの。しかもお値段は、元が2千円台の輸入物ですが、すべて454円と、732円という2種で、これは滅多にないチャンスと決死の気分になりました。

その中に、大きなパッケージ入りのスクリャービンのピアノ作品集の4枚組があり、これのみ1280円ですが、これがなんと「Estonian Classics」というエストニアのレーベルで、ピアニストもエストニアのVardo Rumessenという聞いたこともない人でした。
スクリャービンは、古いものではソフロニツキー、現役ならソナタではウゴルスキ、それ以外ではベクテレフのもので一応の満足を得ていたので、いまさらよくわからないピアニストのCDを買ってまで聴く価値があるだろうかという気持ちはありました。
しかし、エストニアといえばロシア圏では有名なエストニアピアノの生産国であり、もしかしたらこれはエストニアピアノの音が聴けるかもしれないと思った瞬間、購入する気になりました。

帰宅してすぐ、何枚も厳重に包まれたセロファンを引きはがし、ようやく中を開きますが、そもそもこのCDのパッケージは普通のCDの2倍の面積はあろうかという大きなもので、それを三面鏡のように左右に開くと、両端に上下2枚ずつのCDが左右に配置された4枚組となっており、真ん中がブックレットになっています。

凄まじいのはそのデザインで、後年は神秘主義に傾倒していったスクリャービンを表現しているのか、内も外も黒バックに無数の星がばらまかれたようで、ほとんどSF映画かクリスマスのようなでした。

さて、データの覧に目を凝らしますが、1枚目はスタインウェイ、2枚目は録音時期が入り乱れており使用ピアノは明らかにされてません。3枚目の17曲のプレリュードもスタインウェイですが、後半のソナタ3/4/5、および4枚目のソナタ6/7/8/9/10ではなんとブリュートナーでした。

Rumessen氏の演奏はエチュードなどでは、いまひとつ詰めが甘いというか完成度がもうひとつという感じでしたが、ソナタでは一転して集中力と燃焼感のある演奏で、とくに好きな4/5番などはずいぶん繰り返し聴きました。

残念ながら録音のクオリティが高いとは言えず、ピアノも最良のコンディションとは云いかねるものでした。それでも、スタインウェイは少し古いものと思われ、大雑把な調整ながらもよく鳴っていたのは印象的でしたし、なによりもブリュートナーによるスクリャービンというのは、マロニエ君にとっては初の組み合わせだったので、これが聴けただけでも買った甲斐があったというものです。

ソナタの演奏が特にすばらしく感じられ、作品、演奏、ピアノを統合して堪能できましたし、スクリャービンとブリュートナーの相性の良さは、まったく思いがけないものでした。

ブリュートナー特有の、音の中に艶のある女性的な声帯が潜んでいるようなトーンが、スクリャービンの音楽の、襟元が乱れたような魅力に溶け込むようで、妖しさがより引き立っていたようでした。調整がそこそこなのか、音色があまり洗練さず時には混濁気味だったりするものの、必要以上に整えられた音でないのも、こういう音楽にはむしろ風合いを添えてくるようで、作品とピアノの相性の良さに唸りました。

Rumessen氏はこういう効果を狙ってブリュートナーを選んだのか、たまたま録音する場所にブリュートナーがあったからそれを弾いただけなのか、そのあたりは疑問ですが、結果としてはとてもおもしろいCDでした。
エストニアの音は聴けなかったけれど、ブリュートナーが立派に代役を果たしてくれた気分です。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ディナースタイン

近ごろ、バッハ演奏で頭角をあらわしているシモーヌ・ディナースタインのゴルトベルクを買ってみました。
どうもモダンピアノで弾くゴルトベルクは、グールド以来、ニューヨークから発信する作品であるかのようで、以前書いたジェレミー・デンクも同様でした。

さて、このディナースタインはニューヨーク生まれのニューヨーク育ちで、学校もジュリアード、デビューもカーネギーホール、録音も、なにもかもがニューヨーク一色です。

グールドがレコードデビューしたゴルトベルクもニューヨークで録音され、その驚異的な演奏が世界中に衝撃を与えたことはあまりにも有名ですが、以降、まるでこの作品だけは住民登録をニューヨークに移してしまったかのようです。

さて、そんなニューヨークずくめのディナースタインですが、ゴルトベルクを録音するにあたってひとつだけニューヨークでないものがありました。これだけニューヨークずくしなのだから当然ピアノもニューヨーク・スタインウェイだと思いきや、なんと彼女が弾いているのは1903年製のハンブルク・スタインウェイで、これには却ってインパクトを感じます。

このピアノは、北東イングランドのハル市役所に所蔵されていたという来歴をもつ有名なピアノだそうで、数々のエポックなコンサートで使われ、2002年にはニューヨークのクラヴィアハウスというところで修復作業を受けたもののようです。
その音はとても温かみのある美しいものでしたが、どう聴いても響板が新しい音なので、修復の際に貼り替えられたのだろうと推測されます。マロニエ君としては、古いピアノ特有の枯れた楽器の発する美しい倍音に彩られた、威厳と風格に満ちたトーンを期待していましたが、そこから聞こえる音は無遠慮なほど若い響板の音のようにマロニエ君の耳には聞こえました。

もちろんボディやフレームは昔のものですから、それなりの味は残っていると見るべきでしょうが、どちらかというとアメリカという国はやわらかなピアノの音を好み、響板の張替にたいしても他国よりこだわりなくやってしまう印象があります。
個人的な印象では、やはりアメリカ人は本質的に消費の感性が染み込んだ民族で、響板も消耗パーツと見なして、問題がある場合はさっさと取り替えてしまう傾向を感じます。
先人の創り出したオリジナルを尊重し、それを極限まで損なわないよう心血を注ぎこむ日本人とは、目指すものが根本に於いて違うのかもしれません。

これが100年以上前のピアノ音だといわれても素直にそう思う気持ちにはなれませんが、単なる音としてはとても上品で豊かさに満ちた上質なものだとは思いました。ただ、響板という中心部分が新しいものに変わっているという違和感はマロニエ君にはどうしても拭えず、もう少し時間が経つとなじんでくるのかなぁという気がしないでもありません。

ディナースタインの演奏に触れる余地がなくなりましたが、母性的な包容力でこの大曲をふわり包み込み、やさしげな眼差しを注いでいるような演奏でした。そよ風のような穏やかなゴルトベルクで、この演奏にはこのピアノの馥郁たる音がよく似合っていることは納得です。

これはこれでひとつの完成された演奏だと思われますが、さりとて、とくに積極的に支持するというほどでもないのが正直なところです。
ゴルトベルクの複雑な技巧に対する手さばきや高度な音の交叉や躍動を期待すると、ちょっと肩すかしをくらうかもしれません。
この作品を弾くあまたの男性ピアニストのような技巧の顕示は一切ないけれども、逆に、この難曲からそれらの要素を徹底して排除して見せたという点が、もしかすると彼女なりの顕示なのかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

アラウの偉大さ

真嶋雄大氏の著作『グレン・グールドと32人のピアニスト』という著作の中で、意外な事実を知りました。

グールドといえば、まっ先に頭に浮かぶのはバッハであり、とりわけゴルトベルク変奏曲です。レコードデビューとなる1955年の録音は世界中にセンセーションを巻き起こし、ここからグールドの長くはない活躍が本格的なものになっていったのはよく知られている通りです。

マロニエ君がゴルトベルクを初めて耳にしたのも、むろんグールドの演奏からでした。

グールドよりも先にこの曲を全曲録音したのはチェンバロのワンダ・ランドフスカであることは知られていますし、ランドフスカと同時期にゴルトベルクを録音したアラウが、敬愛するランドフスカへの配慮から自分の録音の発売を辞退したことは、それからはるか数十年後にアラウのCDが発売されたのを購入して解説を読んで知りました。

ところが、この本によると、さらに驚きの事実が記されています。
なんと、ゴルトベルクの全曲録音はランドフスカこそが「史上最初の人」なのだそうで、それまではこの作品を全曲演奏し録音した人はいなかったというのです。さらに録音から40年間お蔵入りになったアラウのゴルトベルクは、モダンピアノで弾かれた、これもまた「史上最初の録音だった」ということで、今日これほどの有名曲であるにもかかわらず、その演奏史は思いのほか浅く、たかだかここ6〜70年の出来事にすぎないことには驚かされます。

ランドフスカのゴルトベルクはずいぶん昔に聴いてみたことはありますが、グールドの切れ味鋭い演奏が身体に染みついていた時期でもあり、そのあまりのゆったりした演奏にはショックと拒絶感を覚えてしまって、その後は聴いた記憶がありません。

それに対して、アラウのほうは特につよい印象はなかったものの、「モダンピアノでの初録音」というのを知ると、俄に聴いてみたくなりました。
ホコリの中からアラウ盤を探し出し、おそらくは20年以上ぶりに聴いてみましたが、モダンピアノ初などとは思えない闊達な演奏で、今日の耳で聴いてもほとんど違和感らしきものはありません。いかにもアラウらしい信頼性に満ちた演奏でした。

アラウについての記述にはさらに驚くべきものがあり、20世紀前半まではバッハをコンサートのプログラムに据えるというのはまだまだ一般的ではなかったにもかかわらず、彼は11歳のデビュー当初から平均律グラヴィーア曲集などを弾き、1923年にはバッハ・プログラムで4回のリサイタル、さらにベルリンでは1935年から翌年にかけてバッハの「グラヴィーア作品全曲」を弾き、しかも史上初の暗譜によるバッハ全曲演奏だったとありました。

かつての巨匠時代、アラウといえば、どこかルビンシュタインの影に隠れた印象があり、よくルビンシュタインを春に、アラウを秋に喩えられたことも思い起こします。
しかし、いま振り返ってみると、個人的な魅力やスター性とかではなくて、純粋にピアニストとしての実力という点でいうと、マロニエ君はアラウのほうが数段上だと思います。

アラウの膨大なレパートリーは到底ルビンシュタインの及ぶものではないし、味わい深く誠実でごまかしのないピアニズムは、今日聴いても充分に通用するものだと思われます。
そこへ一挙にバッハのグラヴィーア作品全曲がその手の内にあったとなると、その思いはいよいよ強まるばかりです。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ふたつのSTEIN

ほぼ同時期に買った2つのCDが期せずしてシューベルトのピアノ曲となり、驚くべきは「さすらい人」「3つのピアノ曲」など、収録時間にして全体の約半分が重複しており、この偶然にはびっくりでした。

そもそもマロニエ君は曲云々で選ぶというより、直感的に「聴きたいと思う決め手がある」かどうかが購入のポイントです。
その結果、思いがけない直接比較が出来ることと相成りました。

ひとつはフランス人のベルトラン・シャマユで、ピアノは2005年あたりに製造されたスタインウェイD-274を弾いたもの、もうひとつは先日も書いたロシア人のユーラ・マルグリスの演奏で、ピアノはバイロイトの名器、シュタイングレーバーの弱音器つきD-232です。

共通しているのは、両者共に男性の中堅ピアニストであり、ソナタ以外のシューベルトを演奏しているという点でしょうか。

弾く人によって、同じ曲でも大きく印象が異なることは当然ですが、ほぼ同時期購入という意味で、否応なく比較対象となってしまいました。

両者の演奏は、まず洗練と無骨という両極に分かれます。

【ベルトラン・シャマユ】
シューベルトの息づかいや心の揺れをセンシティヴに音にあらわし、泡立つような可憐な音粒で演奏。そこにある洗練は専らフランス的なセンスと明るさが支配して、ある意味ではショパンに近いようなスタイルを感じることもある。隅々まで細やかな歌心と配慮に満ちた神経に逆らわない演奏。
リストによるトランスクリプションでは折り重なる声部の歌いわけも見事。
大きすぎないアウディかレクサスでパリ市内を流してしているようで、目指すはオペラ座かルーブルか。

【ユーラ・マルグリス】
作曲者や作品の研究や考証というより、むしろ自分の意志やピアニズム表現のためにシューベルトの作品を使っているという印象。緩急強弱、アクセント、ルバートなど、いずれも、なぜそこでそうなるのか、しばしば意味不明な表現があり、恣意的な解釈を感じる。
ロシア的感性なのか、重々しい誇張の過ぎた朗読のようで、何かを伝えたいのだろうがそれが何であるかがよくわからない。
ベンツのゲレンデヴァーゲンで田舎へ出むき、何か専門的な調査しているかのよう。

ただし、ピアノという楽器の素朴な魅力に満ちているのはシュタイングレーバーで、スタインウェイは比較してみるとピアノというよりは、もう少し違う音響的な世界をもった楽器という印象をさらに強めました。

全体を壮麗な音響として変換してくるスタインウェイとは対照的に、シュタイングレーバーは聴く者の耳に、一音一音を打刻していくような明瞭さがあります。ハンマーが弦を打ってその振動が駒を伝わり響板に増幅されるという、一連の法則をその音から生々しく感じ取ることができるという点では、いかにもピアノを聴いているという素朴な喜びが感じられます。

むしろシュタイングレーバーにはピアノを必要以上に洗練させない野趣を残しているのかもしれません。良質の食材もアレンジが過ぎると素材の風味が失われるようなものでしょうか。
これに対して、スタインウェイははじめから素材の味を飛び越えて、別次元の音響世界を打ち立てることを目指し、それに成功した稀有なピアノという印象。

それはそうだとしても、このCDに使われた時期のスタインウェイには、もはやかつてのようなオーラはなく、不健康に痩せ細った音であることは隠しようもありません。公平なところ、このメーカーの凋落を感じないことはもはや不可避のように思われます。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

弱音器

ユーラ・マルグリスによるシューベルトのCDを聴きました。

マルグリスは親子数代わたるピアニスト/音楽家で、派手な人ではないけれど、自分なりの道を行く人だという印象です。
楽器としてのピアノにも興味やこだわりがあるのか、ホロヴィッツのピアノを使ったライブCDもあるようですが、これは残念ながらまだ入手できていません。
ただこの人、どちらかというとマロニエ君の好みのタイプではありません。

そしてこのシューベルトのアルバムは、マルグリスの演奏ではなく、そこで使われるピアノに興味がわいて購入したものです。
CDの説明によると、歴史的楽器を使う予定だったが求める響きが得られず、現代の楽器に「当時の楽器の特徴である弱音器を組み込んで」の演奏であることが記されており、さらに「試行錯誤の結果生まれた独自の響き」とあり、いったいどんなものか聴かずにはいられなくなりました。

帰宅して中を開けてみたところ、それはシュタイングレーバーの協力を得て作られたCDであることが判明、録音も同社の室内楽ホールというところで行われたようです。
ピアノはD-232というわりと近年に出たモデルで、それ以前にあった225とかいうモデルの後継機かと思われます。

カバー写真には、さりげなくこのピアノの秘密が写されています。
ハンマーの打弦点に接近したところへ幅にして数センチの赤いフェルトが帯状に仕組まれ、おそらくはペダルを踏むと、この薄いフェルトの帯が弦とハンマーの間に介入してソフトな音色を生み出すのだろうと思われます。
だとすれば、これはアップライトの真ん中の弱音ペダルと同じ理屈のようにも思えますが、写真で見るフェルトはごく薄いもののようで、その目的があくまで「音の変化」にあることが推察できます。

さてその音はというと、耳慣れないためかもしれませんが、このペダルを使ったときの音とそれ以外の音との対比が極端で、一台のピアノとしてのまとまりという点で個人的にはやや疑問が残りました。
弱音器を使ったと思われる音はウルトラソフトとでも表したい、きわめて美しいまろやかなものでした。ただその変化に気持ちがついていけず、これを耳が受容するにはもう少し時間がかかるのか…ともかく現在はむしろバラバラな感じに聞こえてしまうというのが率直なところです。

ちなみに最近のシュタイングレーバーの「CD」から共通して聞こえてくるのは、フォルテ以上になるとエッジが立って少し音があばれるような印象があるためか、よけい弱音器使用時とのコントラストが際立って感じられてしまうのかもしれません。

個人的にはもう少し抑制の利いていた以前の音のほうが濃密な感じで好ましかったように思いますが、シュタイングレーバー社で録音された演奏であることから、これが現在の同社が考える最良の音のひとつ、もしくはこのメーカーが是としている音の方向性であると解釈していいのかもしれません。

ここで使われた「弱音器」と同類のペダルといえば、ファツィオリの大型モデルには4番目のペダルとして打弦距離を変化させる機構があるようです。これも弱音域の手数を増やして、より多様な表現を可能にすべく開発されたものでしょうから、それぞれ方法は違いますが、そのチャレンジ精神には敬服させられます。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

古びた新しさ

マリア・ジョアン・ピリスはとくに好きでも嫌いでもないピアニストですが、個人的には、どちらかと云えば積極的に聴きたくなるタイプではないというのが偽らざるところでしょうか。

すでにピリスも70歳を目前にした最円熟期にあるようですが、マロニエ君はこの人をはじめて知ったのは、高校生の頃、日本で録音したモーツァルトのソナタ全集を出したときからで、そのLPレコードは今も揃いで持っています。

DENONの最新技術によりイイノホールで録音されたのが1974年で、たぶんこれを初めて聴いたのはその2、3年後のことだろうと思いますが子供でしたし、正確なことは覚えていません。それまでのモーツァルトといえば、ギーゼキングを別格とするなら、当時の現役では圧倒的にヘブラーで、それにリリー・クラウスだったように思いますが、とりわけヘブラーのモーツァルトはこの時期の正統派と目された中心的存在でした。

ウィーン仕込みの典雅で節度ある、いかにも女流らしいスタイルで、わかりやすい型のようなものがあり、モーツァルトはかくあるべしといった自信と格式にあふれていました。
そんな時代に登場してきたピリスのモーツァルトは、それまでの既成概念というか、モーツァルトを演奏するにあたっての慣習のようなものを取り払ったストレートで清純な表現で、これがとても新鮮な魅力にあふれていて忽ちファンになったものでした。

LPレコードのジャケットには、一枚ごとに録音時に撮られたピリスの写真が多数ありましたが、それまでの女性が演奏するレコードのジャケットといえば、ロングドレスなどフォーマル系の衣装であるのが半ば常識だったところへ、ピリスはまるで普段着のようなセーターにジーンズ、ペダルを踏む足はスニーカーといったカジュアルな服装であることも強いインパクトがありました。
さらにはこのときおよそ30歳だったピリスは、まるでサガンか、あるいはその小説に出てくるような多感で聡明そうなボーイッシュなイメージで、なにもかもが新時代の到来を感じさせるものでした。

その演奏は因習めいたものや権威主義的なところから解放された、専ら瑞々しいセンスによって自分の感性の命ずるまま恐れなくモーツァルトに身を投げ出しているように感じたものです。
その後、ピリスは着々と頭角をあらわし、ドイツグラモフォンと契約をして90年代に再びモーツァルトのソナタ全曲録音に挑みますが、マロニエ君はなんとなく瑞々しさの勝った初期の全集のほうが好みでした。

とはいその初期の全集も、もうずいぶん長い間聴いていなかったので、CD化されたBoxセットを手に入れ、実に数十年ぶりに若いピリスが日本で録音したモーツァルトを耳にしました。ところがそこに聞こえてくる演奏は、記憶された印象とは少なくない乖離があったことに予想外のショックを覚えました。

当時あれほど清新な印象で聴く者をひきつけた若いピリスでしたが、そのモーツァルトには意外な固さがあり、アーティキュレーションも古臭く聞こえてしまいました。
全体がベタッとした均一な印象で、モーツァルトの悲喜こもごもの要素が滲み出てくる感じが薄く、あれこれの旋律が聴く者に向かって歌いかけてくるとか、弾力にあふれたリズムが表情のように思えるような要素が少なく、一種のそっけなさを感じてしまいました。
モーツァルトは、できるだけ彼に寄り添って演奏しないと微笑んでくれないようで、作品そのものが寂しがり屋のようです。

考えてみれば、この数十年というもの、古典派の音楽はピリオド楽器と奏法の台頭によって、その演奏様式までずいぶん変化の波が押し寄せたわけで、それはモダン楽器の演奏にも少なくない影響があり、聴く側にも尺度の修正が求められたようにも思います。

新しさというものは、普遍的な価値を獲得して生き延びるか、さもなくば時代の変化によって、古いファッションみたいな位置付けになってしまうことがあるということかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ジェレミー・デンク

店頭での商品のディスプレイというものは、やっぱり大事なんだなあと思います。

マロニエ君行きつけのCD店では、クラシックはオペラなど特定のジャンルを除いて、基本的に作曲家ごとにアルファベット順に棚が整理されています。
大半のCDは背表紙をこちらに向けて並んでいますが、その上部には2段ほどジャケットを見せるスタイルで話題盤などが目につくようにおかれています。

バッハのコーナーを見ていると、その上段にJeremy.Denkという見知らぬピアニストによるゴルトベルクの輸入盤がまとまった枚数置かれていました。
ニューヨークで録音されたもののようで、モノクロでデザインされた紙の簡素なジャケットは、本人の写真と控え目な文字だけで、どことなくジャズのジャケットのようでもあり、どんな演奏だろうというささやかな興味を覚えましたが、とくべつ印象的というわけでもありませんでした。

インスピレーション的には、本当ならたぶん買わない筈のCDですが、前回来たときに300円の割引カードというのをもらっていて、それが使えるのは3000円以上からなのですが、この日買いたかったCDだけではあと1000円ちょっと足りません。
そこへ、この未知のゴルトベルクが目に入ったわけで価格は1590円、なんだかちょうどいい塩梅に思えました。でも失敗したら元も子もないし、いくら割引適用といったって、要らないものを買うほうが無駄なわけで、どうするか猛烈に迷いました。しかしこのとき時間もなく、最後まで躊躇するところも含みながら、破れかぶれで買ってみることにしました。

吉と出るか凶と出るかといったところで、いささか緊張気味に聴いてみましたが、まあ大失敗ではないものの、(マロニエ君にとっては)とくに成功とも言いかねるものでした。
ああ、やっぱり自分の直感には素直に従うべきだと後悔しつつ、割引券&ディスプレイの方法という、お店の計略にまんまと乗せられてしまったお馬鹿な客というわけです。

演奏は、初めはこれといった強い個性や魅力を見出すこともないものでした。なにしろゴルトベルクといえば、グールドの数種を筆頭にコロリオフ、シフ、アンタイ等々挙げだしたらキリがないほど第一級の演奏がゾロゾロ揃っている中、この人の演奏は決して悪くはないけれども、耳慣れた演奏に比べるとどこか緊張感が薄く、それが自由といえば自由なのかもしれません。
考えてみるとゴルトベルクのCDは名演揃いでありながら、だれもがある種の緊迫を背負って弾いているものばかりで、それを考えるとデンクのように気負わずに自然に弾いているところは新鮮でもあり、何度か聴いているうちにその力まぬ演奏の目指すところが少し了解できたようでした。

「ほぅ」と思ったのは、ピアノはニューヨーク・スタインウェイを使っているにもかかわらず、ニューヨーク特有の音のゆらめきが前に出過ぎず、良い意味でのアバウトな響きでもない、珍しいほど粒の揃った行儀の良いピアノでした。またニューヨークではしばしば曖昧になりがちな音の輪郭もかなり出ています。
よほど入念な調整がされたのか、生まれながらにそういう個性をもったピアノなのかはわかりませんが、はじめはハンブルクかと思ったほどでした。

ネットで調べてみると、ジェレミー・デンクは、1970年ノースカロライナ生まれのアメリカのピアニストでバッハから現代音楽にいたる幅広いレパートリーで文筆活動も盛んとありました。
「今日の最も魅力的で説得力のあるアーティストの一人」だそうで、現在のレーベルへのデビューアルバムは、なんと、リゲティのエチュード第1~13番とベートーヴェンのOp.111のソナタをカップリングしたものだそうで、その挑戦的な曲目はいかにも今風だなぁと感じます。
このゴルトベルクも3回を過ぎたあたりから、この人の自然かつ繊細な演奏に気分的に慣れてきたこともあって、なんとなくそちらも聴いてみたくなりました。

それでまたデンクのCDを買ったら、ますます店の思惑通りということになりそうですが…。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

シフに感謝

近年、自分でも不思議なくらい新しいピアノにそれほど興味が持てなくなってきているマロニエ君ですが、CDの世界では、意図的に古いピアノ使った新録音が発売されているのも事実で、これはとても素晴らしいことだと思います。
もちろん全体からすれば、まだまだごく少数ではありますが、こういうCDがひょっこり手に入ることはとても嬉しいことです。

最近で云うと、プレイエルを使ったバッハのインベンションに大興奮したところでしたが、メジャーピアニストの中では、アンドラーシュ・シフはわりに楽器に拘るほうです。彼はスタインウェイとベーゼンドルファーを使い分けながらベートーヴェンのピアノソナタ全集を作り上げたようですが、最近は全集と重複する最後のソナタop.111、さらにはディアベリ変奏曲とバガテルなどを、古い2台のピアノを使って録音しています。

そのひとつが1921年製のベヒシュタインで、このピアノはなんとバックハウスが使っていたE(コンサートグランド)で、こういうことをやってくれるピアニストが少ない中、シフのピアノに対する感性とチャレンジ精神にはただただ感謝するばかりです。

バックハウスによる1969年のベルリンライブで聴く、豪放なワルトシュタインのあの感動の陰には、この時使われたベヒシュタインEの存在もかなり大きいとマロニエ君は思っていますが、それと同じ個体かどうかはわからないものの(たぶん同じだろうと勝手に思い込み)、そのピアノの音を再び現代の録音で聴くことができると思うと、これまたワクワクでした。

もちろんピアニストが違うので、いくらベートーヴェンとはいえ同じテイストには聞こえませんが、しかしやはりベヒシュタインで聴くベートーヴェンには、格別な意味と相性があるようにも思います。
スタインウェイでは音が甘く華麗で、それが大抵の場合は良い方に作用すると思えるものの、ベートーヴェンにはもう少し辛口の実直さみたいなものが欲しくなり、かといってベーゼンドルファーではちょっと雅に過ぎて、その点でもベヒシュタインはもってこいなのです。

ツンと澄んだ旋律、男性的な低音域、アタック音の強さと互いの音がにじみ合うように広がる枯れた響きの中に、ベートーヴェンの苦悩と理想、歓喜とロマンがいかにもドイツ語で語られるように自然に聞こえてくるのは、物事が収まるべきところに収まったという心地よさを感じます。

ただしマロニエ君の耳には、全般的に古いベヒシュタインには、なんとなく板っぽい響きを感じてしまうことがしばしばですし、全体的にも期待するほどのパワーはないという印象があります。これは経年によって力が落ちてきているのか、あるいはもともとそういうピアノなのか…そのあたりのことはわかりませんが、もうすこし肉付きがあればと思います。

そういえば近藤嘉宏氏が進めているベートーヴェンのソナタ全曲録音には現代のベヒシュタインが使われているようですし、先ごろ発売されたアブデル・ラーマン・エル=バシャによる二度目のベートーヴェン・ソナタ全集にもベヒシュタインDが使われているとのことで、まだ購入には至っていませんが、これも期待がかかります。

さらに今年は、なんとミケランジェリがベヒシュタインを弾いた唯一のディスクという、ベートーヴェン、シューベルト、ドビュッシー、ショパンの2枚組が発売されたようです。ジャケットを見るとずいぶん古そうなベヒシュタインで、ミケランジェリの冷たいのか温かいのかわからないあの正確かつ濃密なタッチに、このドイツのピアノがどう反応しているのか興味津々ではあります。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

大発掘

やっぱりCD店はときどき覗いてみるもので、おもしろいCDを見つけました。

フランスのピアニスト(イタリア生まれ)、シャンタル・スティリアーニが弾くバッハのインベンションとシンフォニアなのですが、ピアノはなんと1910年に製作されたプレイエルが使われています。

この時代のプレイエルはマロニエ君が最も心惹かれるピアノのひとつで、よくあるショパンが使ったとされる時代楽器としてのプレイエルはフォルテピアノであって、あちらは歴史的には大変な価値があるのかもしれませんが、個人的には一体型鋳鉄フレームをもつモダンピアノになってからのプレイエル(しかも第二次大戦前までの)が好きなのです。

この時代のプレイエルの音はコルトーによる数多くの録音で聴くことはできますが、なにぶんにも録音が古く、コルトーの演奏の妙を楽しむにはいいとしても、プレイエルの音そのものを満喫するには満足できるものではありません。
数年前、横山幸雄さんがこの時代のプレイエルを使ってのショパン全集CDが出始めたので、これぞ待ち望んでいたものと意気込んで買い続けたものですが、ここに聴くプレイエルはマロニエ君の求めるものとはやや乖離のある楽器で、残念ながら満足を得ることは出来ませんでした。(全集が不揃いにならないよう、半分以上は義務で買ったようなものですが、たぶんもう聴きません。)

さて、演奏者もピアノもフランスとなると、バッハといってもかなり毛色の違うものであろうことに覚悟をしつつ、1910年のプレイエルという一点に希望を繋いで購入しました。

果たしてスピーカーから出てきた音は、まごうことなきこの時代のプレイエルのもので、柔らかさと軽さと歌心にあふれていて、すっかり聴き惚れてしまいました。
マロニエ君はドイツピアノのような辛口の厳しい音のピアノを好む反面、その真逆である、羽根のように軽い、モネの絵のような、この時代のプレイエルの明るさと憂いをもったピアノも好きなのです。

明るさといっても、現代のピアノのようなブリリアントで単調な明るさとは違って、プレイエルの明るさは自然の太陽の光が降りそそぐような温もりがあり、その明るさの中に微妙な陰翳が含まれています。
バレエでいうと重量級の技巧の中に分厚いロマンが漂うロシアバレエに対して、あくまで軽さとシックとデリカシーで見せるパリオペラ座バレエの違いのようなものでしょうか。

CALLIOPEというレーベルですが、録音も良く、ウナコルダの踏み分けまで明瞭に聞き取ることができるクオリティで、これほどこの時代のプレイエルの音の実像を伝えるCDはかつてなかったように思います。
それにしても、惚れ惚れするほど感心するのは、中音から次高音にかけてのくっきりした品のいい歌心で、どうかすると人の声のように聞こえてしまうことがあるほどで、これぞプレイエルの真骨頂だろうと思いました。
旋律のラインをこれほど楽々と雄弁に語ることのできるピアノはそう滅多にあるものではありません。その歌心と陰翳こそがショパンにもベストマッチなのでしょうし、インベンションとシンフォニアも交叉する旋律で聴かせる音楽なので素晴らしいのだと思います。

フランス人はピアノという楽器をむやみに大きく捉えず、繊細さを損なわない詩的表現のできる美しい声の楽器として彼らの感性と流儀で完成させたように思いますが、これはまぎれもないサロンのピアノで、決してホールのピアノではないことが悟られます。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

クロイツァー豊子

レオニード・クロイツァーといえば、戦後の日本に於けるピアノ教育の中心的存在であったことは誰もが知るところです。
そして、その夫人は門下生でもあった日本人のクロイツァー豊子さんです。

クロイツァー豊子さんご自身も教育者・演奏家として活躍され、現在でも多くのお弟子さん達が活躍されており、その功績は大変なものがあるようです。ところが、その演奏はまったく耳にしたことがなかったため、彼女の晩年の演奏がCDとなったので聴いてみることにしました。

これは、カメラータ・トウキョウの有名プロデューサー、井坂紘氏がプライベートCDを耳にする機会があったことに端を発して製品化され、発売されたもののようです。
演奏は1987年、1989年、1990年のものから集められたもので、豊子さんは1916年の生まれですから、すべて70代前半のものということになり、しかも1990年に亡くなられているので、ほとんど晩年の演奏ということになるようです。

その演奏には洗練があり、時代背景などを考えてみれば、やはり驚くべき演奏であるというのが率直なところです。
1916年といえば大正5年で、こんな時代に日本で生まれ育った女性がピアノを学んで、ここまでの演奏をものにしたということは、ご自身の才能や夫君の影響などがあったにせよ、豊子さんのピアノに託した純粋で高潔な精神の賜物であることは疑いようもないでしょう。

とくに西洋音楽の分野は、マロニエ君の子供のころでさえ、まだまだ今とは遙かに事情が違っていましたから、ましてや祖父母の世代にあたるこの時代の日本人が、クラシック音楽の真髄を目指して一心不乱に人生を全うされたことに、ストレートな感動を覚えずにはいられませんでした。

このCDに収められたのはすべてショパンの作品ですが、豊子さんの時代は、ショパンといえばコルトー、コルトーといえばショパンという絶対的な尺度がありました。このCDの演奏にもマロニエ君の耳にはコルトーの影をうっすらと感じる部分があるようにも思われましたが、同時に、より普遍的で、夫クロイツァー氏の影響も大きかったのか、そこにはロシア的ドイツ的な要素も帯びていうべきなのかもしれません。

その演奏に時代を感じさせるのは、豊子さんが生きた時代そのものに、今日のような音楽上の土壌がない分、とにかく真面目に「学んだ」、必死に「身につけた」という固さがある点ですが、まずはこの時代の日本人が、これだけの演奏術と音楽的教養を習得されたというだけでも天晴れといったところでしょうか。

徹底して真っ当でごまかしのない、美しいお点前のような見事な演奏ですが、表現性という点に於いてはいささか型通りというか、ややお行儀が良すぎて、もうひとつ自然体の語りがないのが本質的に素晴らしいだけに残念です。
そこに一片の閃きや冒険があれば云うこと無しなのでしょうけれど、それを今の基準で求めるのは酷というものかもしれませんし、それを求めたくなるほどの高い次元に到達しているという証明でもあるでしょう。おそらくこの時代は、楽譜通りに弾くというだけでも大変だった筈ですから、いかに豊子さんがそういう基準とは一線を画した、高度な演奏を目標とされていたかが伺われます。

ライナーノートの見開き一面には、クロイツァー夫妻の仲睦まじい様子を捉えた写真がありますが、それは結婚直後の茅ヶ崎の自宅の由。そこに置かれたピアノは、かのクララ・シューマンやヴァルター・ギーゼキングが愛した銘器グロトリアン・シュタインヴェークでした。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

メーカーの遺伝子

あるピアニストについて、長いことファンを任じているマロニエ君としては、この人のCDが発売されれば、それがいかなるものであろうと購入する事にしています。

先ごろも、イタリアのとあるレーベルから、ピアノデュオコンサートのライブCDが発売され、正直あまり気乗りはしなかったのですが、これはマイルールでもあり、半ば義務なのでしかたがありません(ばかばかしいですが)。
レーベル同様、コンサートが行われたのもイタリアのようです。

聴いてみても、予想通り内容があまり好ましいものではなかったこともあり、名前は敢えて書きませんが、もちろんお詳しい方にはおわかりかもしれませんし、それはそれでいいと思っています。

このピアニストはご自分のことはさておいて、客観的にどうみても大したこともないような変な若者を連れてきては、絶賛したり共演したりということが毎度のことなので、実力に見合わない相手との共演もいつものことで、我々ファンはそんなことにもとうに慣れっこになっています。

それにしても、このお相手はあまり音楽的な趣味のよろしいピアニストではなく、せっかくの演奏もかなり品性を欠いた残念なものになってしまっていました。しかも相手が相手なので、この時とばかりにいよいよ張り切るのでしょうが、根底の才能がてんで違うのだから、どうあがいても対等になれる筈もないわけですが…。

それはそれとして、このコンサートでは2台とも日本製ピアノが使われており(イタリアではわりに多いようです)、しかもその録音ときたらマイクが近すぎるのが素人にさえ明らかで、うるささが全面に出た録音になっており、一人のスターピアニストがそこにいるということ以外、すべてが二流以下でできあがったコンサート&CDだという印象でした。

クラシックの録音経験の少ない技術者に限って、マイクを弾き語りのようにピアノに近づけたがり、リアルな音の再現を目指そうとする傾向が世界中にあるようにあるように思われます。しかしピアノの音というものは、近くで聴けば雑音や衝撃音、いろいろな物理的なノイズなどが混在していて、まったく美しくはありません。これはどんなに素晴らしい世界の名器であってもそうだと言えるでしょう。

ピアノの音を美しく捉えるためには、まず楽器から少し離れないことにはお話にならないということですが、ブックレットに小さく添えられた写真を見ると、至近距離にマイクらしきものがピアノのすぐそばに映り込んでいるので、ほらねやっぱり!と思いました。

結果として、ピアノの音が音楽になる前の生々しい音が録られているわけですが、そこに聴く日本製ピアノの音と来たら、なんの深みもない軽薄な、あまりにも安手の音であったことが、図らずもひとつの真実として聞くことができたように感じられました。

もちろん使われているのはフラッグシップたるコンサートグランドなのですが、こうして近すぎるマイクで聴いていると、同社の普及型ピアノとほとんど同じ要素の音であることに愕然とさせられ、血は争えないものだということがまざまざとわかります。
製品にもメーカー固有の遺伝子というのがはっきりあるということで、聞くところではコンサートグランド制作は、普及型とはまったく別工程で限りなく手作りに近い方法によって入念に作られているというような話を聞いたことがありますが、こうして聴いてみると、ほとんど機械生産のそれと同じような音しかしていないのが手に取るようにわかりました。

だったら、まだるっこしいことはせずに、試しにいちど普及品と同じラインで、同じように機械生産してみたらどうかと思いましたが、ときどき本気のピアノを作るとき以外は、もしかしたらそれをやっているのかもしれないような気がしました。
続きを読む

内田の新譜

CD店の試聴コーナーには、先ごろ発売されたばかりの内田光子の新譜が設置されていました。
前回に続いてのオール・シューマンで、森の情景、ソナタ第2番、暁の歌が収められていますが、彼女のピアニズムとシューマンが相性がいいとはどうしても思えず、なぜ最近の内田は録音にシューマンを継続的に弾くのか、さっぱりその理由がわかりません。

内田の演奏および芸術家としての姿勢には大いなる敬意を払いつつも、このところちょっと懐疑的にもなっているマロニエ君としては、新譜が出ても昔のような期待を感じることはなくなっています。

とりわけグラミー賞を取ったとかなんとかで話題になってはいたものの、彼女の二度目のモーツァルトの協奏曲シリーズは、マロニエ君としては、前作のジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団と共演した全集が彼女の最高到達点であり、如何なる賛辞を読んでも到底同意できるものではなく、なぜいまさらこんなものを出すのかがわかりません。

モーツァルトで再録するなら、初期の固さの残るソナタ全集のほうであると考える人は多いはずですが、彼女の考えおよびCDリリースに当たっては、ビジネスとしてどのような事情が絡んでいるのやら業界の裏事情などはわかりませんから、表面だけ見ていてもわからないことかもしれませんが、とにかく表面的には疑問だらけです。

フィリップスからデッカに移って、ソロとして出たのがたしか前回のシューマンのダヴィッド同盟と幻想曲でしたが、これは購入したものの何度か聴いただけで、もう聴こうとは思いません。
そのときの印象が残っていたので、もう内田のシューマンは買わないだろうと思っていましたが、試聴盤ぐらいは聴いてみようとヘッドフォンを引き寄せました。

なぜか森の情景からはじまりますが(この3曲なら絶対にソナタ2番からであるべきだと、マロニエ君は断じて思う)、第一曲からして「あー…」と思ってしまいました。この人はいわゆるコンサートピアニストという存在からだんだん違う道へと逸れて、まったく私的な、ごく少数のファンだけのためのマニアックな芸術家になったように思います。
その演奏からは、音楽の真っ当な律動や喜びは消え去り、聴く者は、内田だけが是と考える細密画のような解釈の提示を受け入れるか否かだけで、それに同意できる人には魅力であっても、マロニエ君にはもはやついていけない世界です。
とりわけそのひとつひとつの予測のつかない表現と小間切れの苦しげな息づかいは、まったく乗り物酔いしそうになります。

もっとも耐え難いのは、聴くほどに神経が消耗し、息苦しさが増して、心の慰めや喜びのために聴く音楽でありたいものが、まるで忍耐づくめの修行のようで、彼女がしだいに浮き世に背を向けて、まったくの別世界に向かっているような気がしました。

なにしろ内田光子のことですから、多くの書物を読み、音符を解析し、そのすべてに深い考察と意味づけをした上での演奏なんだろうとは思いますが、結果としてそれは非常に重苦しく恣意的で、音による苦悩を強いられるはめになるのは如何ともし難いところです。
まるで名人モデラーが、現物探求をし尽くしたた挙げ句、一喜一憂しながらルーペとピンセットで取り組む、オタッキーなプラモデル製作でもみているような気分です。

以前の彼女には、ちょっと???なところがあったにしても、他者からは決して聴くことのできない繊細巧緻な組み立てや、圧倒的な品格と美の世界に触れる喜びがありましたが、今は彼女の中の何かがエスカレートしてしまい、独りよがりのもの悲しいつぶやきだけが残ります。

ただし、それはソナタの2番までで、シューマン最晩年のピアノ曲集である暁の歌では、そういう内田のアプローチがこの神経衰弱的な作品に合っていて、やはりまだこのような見事さはあるのだと、変にまた感心してしまいました。
この暁の歌だけは欲しいけれど、そのために前45分にわたる苦行の音楽を聴くのも嫌だし、収録時間のわずか1/4だけのために購入するというのも、もうひとつ決断がつかないところです。
続きを読む

1905年製のB

またまたCDのワゴンセール漁りの話で恐縮ですが、今回はマロニエ君にとってはかなりの掘り出し物となりました。

輸入盤で、Ko Ryokeというピアニストの演奏するバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタop.109、ショパンの第3ソナタが収録されたCDを手にとって見ていると、使われた楽器が1905年製のスタインウェイBということが記されており、マロニエ君はこういう古い楽器で録音されたCDといいますか、要するにそういう楽器で演奏された音楽を聴くのが好きなので、当初の販売価格の1/3以下の値下げになっていることも大いに後押しとなり、躊躇することなく買ってみました。

Ko Ryokeというピアニストはこれまでに聞いたこともなく、はたしてどこの国の音楽家なのかさえわからないままでしたが、帰宅してネットで調べてみると、なんと領家幸さんという大変珍しいお名前の日本人ピアニストであることにまず驚き、さらには60歳という若さで、なんと今年の5月25日に逝去されたばかりであったことを知り、それからまだ2ヶ月ほどしか経っていないという事実に、重ねて驚いてしまいました。

このCDはドイツで2009年に収録され、PREISER RECORDというレーベルから発売されたもので、使われた楽器はこの時点で104歳のスタインウェイBというわけで、なにやらとてつもなく貴重なCDを手に入れてしまったことにあとからしみじみ実感が湧いてきました。

演奏は、奇を衒ったところのない真っ直ぐなもので、このピアニストの誠実さを感じさせるもので、録音もきわめて優秀。しかもついこの5月に逝去されて間もないことを思うと、その演奏を聴くにつけいやが上にも人の命の生々しくも儚さのようなものを感じてしまいました。

その音ですが、104歳なんてとても信じられない色艶にあふれた、まさに熟成を極めたオールドスタインウェイの音で、その色彩感、透明感、輪郭のある溌剌とした音と響きは、現代のピアノがとても敵わない風格とオーラを持っていました。パワーや音の伸びにもまったく衰えを感じず、この時代のスタインウェイの底力を見せつけられる思いです。
サイズも中型のBですが、ごく稀に現代のB型で録音されたものを聴くと、もちろんありふれたピアノよりは美しいけれども、やはりサイズからくる限界と、どこか狭苦しい感じ、ふくよかさが足りない感じを受けてしまう場合が少なくありません。ところがこのCDを聴いている限りに於いては、まったくそういう部分は感じられず、あえて意識すれば若干低音域で迫力が足りないことを若干感じなくはないものの、そうと知らなければ、これがB型だと気付く人はほとんどいないだろうと思われるほど、どこにも不満のない、本当に素晴らしい楽器でした。

同時に、オールドヴァイオリンにも通じるような使い込まれた楽器だけがもつ深い味わいと、無限の創造力をかき立ててやまない奥行きがあって、なぜ現代のピアニストはこういう美しい音の楽器にもう少しこだわりを持たないのだろうと思わせられてしまいます。

しかも古い楽器の凄味を感じるのは、それがどんなに華麗で明瞭で艶のある音をしていても、少しも耳障りな要素がない点です。耳障りどころか、むしろ深い安息や喜びを感じさせてくれるのは、やはり楽器というものは良い材料で作られ、演奏されることを重ねながら時を経るぶん、新しい楽器には決してない芳醇なオーラがあふれてくるのだろうと、いまさらのように思います。

こういうピアノはわざわざブリリアントな音造りなどをしなくても、楽器そのものが充分に、必然的に、本当の意味での華やかさを根底のところで持っているようで、現代のピアノはそういった往年の本物の音の良い部分をちょっと現代化し、かつ短期間で模倣するために、あれこれと科学技術を使っているようにしか思えなくなってしまいます。

いわゆる古楽器ではなく、モダン楽器の古いものというのは、マロニエ君にとって本当につきない魅力があることをまざまざと感じさせられたCDでした。
この楽器で録音に挑んでくださった領家幸さんには心からの敬意と感謝とご冥福をお祈りします。
続きを読む

半額CD3点

全国的なヤマハ・ピアノショールーム縮小の流れに伴って、福岡では博多駅前の大きなヤマハビルが閉じられ、その一階にあった広いピアノサロンもなくなってしまいました。

その余波で、天神のヤマハ福岡店では、1階はアップライトピアノ/電子ピアノ/管弦楽器などの売り場、2階は楽譜や書籍はそのままに、残りスペースがグランドピアノの展示場スペースとなり、ピアノサロンから引っ越してきたとおぼしき大小のグランドが6〜7台並ぶようになりました。

グランドピアノが大挙してやってきたためにCDの売り場が行き場を失ったらしく、今後CDは注文販売のみという紙が壁に貼られていました。
ここに並んでいた大量のCDは各メーカーに返品などの処置をとられたのかどうか知りませんが、一部のCDがワゴンセールに投じられ、これが一斉に半額になっているので覗いてみると、通常ならまず買わないであろう未知の日本人演奏家の3000円級のCDがあったので、これ幸いと買ってみることにしました。

以下3点、購入して聴いてみた雑感です。

(1)『恩田文江ライヴ・イン紀尾井』レーベル:ガブリエル・ムジカ 定価3000円
2009年に行われた紀尾井ホールでのライブで、ショパン:幻想ポロネーズ/アルベニス:「イベリア」からトリアーナ/メシアン:「幼子イエズスにそそぐ20のまなざし」より/ラヴェル:夜のガスパール/その他というもの。ライヴというタイトルから期待されるような一過性の熱気は感じられず、むしろ固い感じの演奏。冒頭の幻想ポロネーズが始まって早々、その慎重さは全体を予感させるもので、一通り聴き進むもその印象は変わらない。これといって明確な欠点もないきれいに整った演奏といって差し支えないが、この人なりの個性も感じられない、平均化された演奏だという印象。変化に富んだプログラムなのに、なぜかどの曲も同じように聞こえてしまうのは、作品への踏み込みと音楽に欠かせない即興性が不足しているからだろうか。聴衆に対して美しい音楽を魅力的に奏することより、ひたすらミスをしないよう安全運転に努めているようで、結果として匿名的な演奏がそこにあるだけ。録音も平凡なもので、ピアノテクニシャンは有名な方のようだが、このホールやピアノの良さもあまり出ていないように感じた。

(2)『ベートーヴェン:ピアノソナタ第30番、第31番、第32番 澤千鶴子(ピアノ)』カメラータ・トウキョウ 定価2940円
まったく知らないピアニストだったが曲がいいことと、ジュディ・シャーマンという有名プロデューサー(らしい)がおこなったアメリカでの録音ということで興味がわいて購入。ライナーノートではさる音楽評論家が言葉を極めて澤さんの演奏を褒めちぎっているが、残念ながらあまり同意できなかった。全体に、ひと時代もふた時代も前の日本人によくあった演奏で、アーティキュレーションなどがいかにも和風テイスト。リズムも一拍一拍を肩で取っているようで、この最後の3つのソナタの高度な精神世界を、演奏を通じて再構築できているとは思えなかった。ただしマロニエ君にとってはこのCDの価値は結果としてその音にあったわけで、自然で躍動的、親密なのに開放感に満ちた録音の秀逸さにはかなり感心させられ、優秀なプロデューサーが統括するとはこういうことかと感じ入った。ピアノは現代のニューヨーク・スタインウェイだが、響きがやわらかいのに輪郭がくっきりしており、珍しく木の響きのするスタインウェイで、最もベーゼンドルファーに近いスタインウェイという印象。

(3)『小林五月 シューマン・ピアノ作品集 幻想曲/フモレスケ』ALMレコード 定価2940円
近年、日本人でシューマンに取り組んでいるピアニストということで名前は聞いたことがあったが、演奏は未聴だったため、どんなものかと購入。果たして幻想曲の冒頭からいきなりぶったまげた。これほど何憚ることなく盛大に泥臭いシューマンを聴いたのは生まれて初めてで、これを個性だと言い通すことができるのか甚だ疑問。終始、粘っこく一音一音を力ずくで地面に押し込むようで、マロニエ君の理解からは著しくかけ離れた演奏。ライナーノートも抽象論の羅列で意味不明。もしこの人のシューマンが価値の高いものだと考える人がいるなら、皮肉でなしにぜひともそれを教えて欲しいと思う。この人は作品に込められた何かを表現しようとしているのかもしれないが、音楽には流れや呼吸があるということは完全に除外されている気がする。最近の人では珍しくタッチが深いピアニストと云えなくもないけれど、同時にほとんど音色やデュナーミクのコントロールはないに等しく、ところ構わず強いタッチで鳴らしまくるのは、人一倍繊弱な感性を持ったシューマンが聴いたら一体どう感じるだろうか?録音とピアノは共に非常に好ましいものだと感じるだけに残念。

〜というわけで、今回のバクチ買いはほとんどヒットらしいものがなく、失敗の巻となりましたが、強いて言うなら澤千鶴子さんのCDはそのすばらしい録音を聴くだけなら、一定の値打ちがあったと思います。
続きを読む

超お買い得

マロニエ君がフランスの管弦楽曲を聴く際に以前から好んでいる指揮者&オーケストラのひとつは、ミシェル・プラッソン指揮のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団です。

プラッソンの指揮は流麗で愉悦感に満ち、どんな作品を振らせても明瞭で生命感にあふれているのが特徴でしょうか。フランス的な小味さとメリハリのある表現が心地よく、フランスものにはこれが一番という印象を持っています。

プラッソンの音楽的な資質もさることながら、手兵のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団とはよほど相性がいいのか、その抜群の息の合い方は特筆に値するもので、まるで少人数で演奏しているような軽快感があり、オーケストラ特有のもってまわったような鈍重さがないのが特徴でしょう。
また、そうでなくてはフランス音楽をそれらしく鳴り響かせることはできないのかもしれません。

作品と演奏の相乗作用で、プラッソンの鳴らす音楽はどの断片を切り取ってもフランスならではの軽やかさと優美に満ちていて、ドイツものやロシア音楽ばかりが続いて、たまに口直しをしたくなったときなどに、プラッソンの指揮するフランスものはもってこいのような気がします。

そんなミシェル・プラッソンですが、EMIには多くの録音があるようで、手許にはその一部しか持っていないために、ある程度を買い揃えたいという思いがあったのですが、この人は重く注目されるタイプの巨匠でもなければ、ベートーヴェンやマーラーやブルックナーを主たるレパートリーとしているわけでもないので、まあ全集が出ることもないだろうと思っていました。

ところが、なんとEMIから、完璧な全集でこそないものの、実に37枚に及ぶBOXセットが発売されて、しかもその内容はベルリオーズ以降のフランスの主要な管弦楽曲をおおかた網羅した内容であるのにびっくりでした。
これはぜひそのうち購入しなければと思い続けていたのですが、マロニエ君には優先的に購入したいCDが常に立て込んでおり、このBOXのことも頭の片隅にはありながら、まだ購入には至っていませんでした。
しかし廉価なBOXセットは、一定の期間内に買っておかないと、なくなればいつまた入手できるかどうかの保証はありません。そうそう猶予はないというわけで、近い将来にはネットから購入ボタンを押すつもりでした。

ところが思いがけないことに、天神のタワレコにいつものごとく立ち寄った際にセール品のワゴンを覗いていると、な、なんと、このプラッソンのBOXがそこにひょいと投下されているではありませんか!
しかも価格は通常の約9500円から、なんと約4300円弱という半額以下のプライスがついています。もともと9500円でも1枚あたり260円弱という、単品で売られていたときの価格に比べたら10分の1ほどですから、それだけでもかなり強烈なバーゲンプライスであるし、さらにはネット購入なら割引条件を満たせば3割ほどは安く買えるのですが、この投げ売りには恐れ入りました。

それを発見したときは思わず声が出そうになりました。
我が目を疑うとはこのことで、一も二もなく、勇み立って購入したのはいうまでもありません。
1枚あたりわずか115円という、ほとんど100円ショップ並のお値段で、これだけの輝くような名演の数々が聴けるのですから、なんたる幸せか!と思うばかりです。

CDはベルリオーズの幻想ではじまりますが、当然これまでに聴いたことのないような作品が随所に溢れかえっており、はやくも5枚目にしてグノーの交響曲という、マロニエ君にとってまったく未知の作品にも接することができました。そのなんともフランス的な柔らかで享楽的な音楽を楽しむにつけ、この先もどんなものが出て来るやら楽しみが増えました。

実は、タワレコのワゴンには、このプラッソンのBOXは2つあったので、残る1セットはたぶんまだあるかもしれません。ご興味のある方はこれほどのお買い物はなかなかないと思います。
続きを読む