ピリスの新譜2

数日に前に書いたピリスのシューベルトのソナタのCDですが、日に日にどうしても手に入れなくては気が済まなくなり、天神に出る用事を半ば無理に作ってCD店に行き、ついに買ってきました。

これはメジャーレーベルの輸入盤でもあり、本当はネットショップでまとめ買いした方が安いのですが、そんなことを言っていたら先のことになるので、この1枚を急ぎ買いました。

そして自宅自室でじっくり聴いてみると、はじめの出だしからして過日試聴コーナーで聴いたものとはまるで音が違うのには、思わず耳を疑いました。ちなみにこのアルバムは、シューベルトのピアノソナタ(D845、D960)の2曲が収録されており、曲の並びはD845が先でこれは当然というべきで、不安げなイ短調の第一楽章がはじまりますが、その音は先日聴いたのとはまったく別のピアノとでもいうべきものでした。

数日前、このアルバムを試聴した印象ではヤマハCFXかスタインウェイか断定できないと書きましたが、こうして自分の部屋で聴いてみると、何分も聴かないうちにスタインウェイであることがほぼわかりました。すぐにジャケットに記されたデータを見たのは言うまでもありませんが、ここには使用ピアノのことは一切触れられていませんので、あるいはヤマハとの兼ね合いもあってそういう記述はしないように配慮されているのかもしれません。

スタインウェイということはわかったものの、このCDのように2曲のソナタが収録されているような場合、それぞれ別の日、別の場所で録音されたものがカップリングされることも珍しくありません。しかし録音データにはそのような気配もなく、すぐにD960へ跳びましたが、こちらも変化はなくD845と同じ音質で、いかにもな美音が当たり前のようにスピーカーら出てくるのには当惑しました。
前回「ややメタリックな感じもある」などと書いてしまいましたが、そういう要素は皆無で、CD店の試聴装置がそこまで音を改竄して聴かせてしまっていることにも驚かずにはいられません。以前からこの店のヘッドフォン(あるいは再生装置そのもの)の音の悪さは感じていましたが、これほど根本的なところで別の音に聞こえるというのは、さすがに予想外でした。

録音データにはピアノテクニシャン(調律師)としてDaniel Brechという名前が記されています。
この名前でネット検索すると、この人のホームページが見つかり、多くの著名ピアニストと仕事をしている名人のようですから、きっとヨーロッパではかなり名の通った人なのだろうと思われます。
どうりでよく調整されているピアノだと思ったのは納得がいきました。

ただ前回「どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと」と書いていますが、電子ピアノというのは言い過ぎだったとしても、マロニエ君の個人的な好みで云うなら、新しい(もしくは新しめの)ピアノをあまりにも名人級の技術者が徹底して調整を施したピアノというのは、なるほどそのムラのない均一感などは立派なんだけれども、どこかつまらない印象があります。

職人の仕事としては完璧もしくは完璧に近いものがあっても、ではそれによって聴く側がなにか心を揺さぶられたり、深い芸術性を感じるかというと、必ずしもそうとは限らないというのがマロニエ君の感じているところです。
このようなピアノは、同業者が専門的観点から見れば感動するのかもしれませんが、マロニエ君のような音楽愛好家にとってはあまりにも楽器が製品的に「整い過ぎ」ていて、個々の楽器のもつ味わいとか性格みたいなものが薄く、かえって退屈な印象となってしまいます。

とりわけ新しいピアノがこの手の調整を受けると、たしかに見事に整いはしますが、同時にそれは無機質にもなり、演奏と作品と楽器の3つが織りなすワクワクするような反応の楽しみみたいなものが薄くなってしまうように感じるのです。

最近はCDでもこの手の音があまりに多いので、もしかしたら日欧で逆転現象が起こり、日本の優秀なピアノ技術者の影響が、今では逆にヨーロッパへ広まっているのではないか…とも思ってしまいます。こういう水も漏らさぬ細微を極めた仕事というのは、本来日本人の得意とするところで、まるで宮大工の仕事のようですが、それが最終的には生ピアノらしい鮮烈さやダイレクト感までも奪ってしまって、結果として「電子ピアノ風」になるのでは?とも思います。

その点では従来のヨーロッパの調律師(少なくとも名人級の)はもっと良い意味での大胆で表情のある、個性的な仕事をしていたように思います。

ピリスの演奏について書く余地が無くなりましたが、とりあえず素晴らしい演奏でした。さらにはこのCD、収録時間が83分24秒!とマロニエ君の知る限り最長記録のような気がします。
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ピリスの新譜

過日書いたホロヴィッツのスタインウェイ使用のCDと似たような時期に、ピリスのシューベルトの最後のソナタがリリースされており、これも運良く試聴コーナーで聴けました。

ピリスは少なくとも日本ではヤマハのアーティストのようなイメージで、ヤマハの広告媒体にもその名と顔などがいかにも専属のピアニストという感じになっていますが、これまで出してきたCDなどは、大半は(というか、知る限りはすべて)ちゃかりスタインウェイを使っています。

以前、彼女のインタビューがありましたが、「ヤマハは素晴らしいけど日本のホールのような音響の優れた会場ならば使ってもいいが、そうでない場所ではスタインウェイを弾く」というような意味の発言があり、どうも全面的にはヤマハを信頼していないような気配が伺えました。

しかも、不思議なことにはセッションの録音で、モーツァルトのような必ずしもスタインウェイがベストとも思えないような曲を録音するにも、やっぱりなぜかスタインウェイを使っています。

今回のD960(最後のソナタ)の第一楽章を聴いていて、冒頭から聞こえてくるのは軽く弾いても明瞭に鳴る音が耳につきました。とても反応のよいピアノだという印象です。ややメタリックな感じもあって一瞬ヤマハかとも思いましたが、しばらく聴いていると…やはりスタインウェイのようにも感じましたが、試聴コーナーのヘッドフォンは音がかなり粗っぽく断定には至りませんでした。

録音のロケーションはハンブルクですから、普通ならスタインウェイのお膝元ということになりますが、セッションの段取りというのは必ずしもそういうことで決まっていくのではない事かもしれませんし、ピリスが録音にCFXを使うと言い出せば、現地のヤマハはなにをおいても迅速にピアノを準備するのだろうと思います。

HJ・リムがCFXで弾いたベートーヴェンは、演奏はきわめて個性的で見事だったものの、楽器はとうてい上品とは言い難いもので驚きでしたが、このシューベルトに聴くピアノがもしCFXであれば、一転してなかなかのものだと素直に思いますし、逆にスタインウェイであればずいぶん普通の、そつのない感じの音になったものだと思います。もちろん試聴コーナーでちょっと聴いただけでは確証は持てませんし、そんなふうに音造りされたスタインウェイなのかもしれませんが、いずれにしろ調整そのものは素晴らしくなされている楽器だとは感じました。

ピリスのD960はぜひとも買いたいと思っていたCDのひとつだったのですが、この静謐な悲しみに満ちた最後の大曲を、どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと、つい躊躇ってしまうようで、昨日は急いでもいたし、とりあえず買うのは保留にしました。

…でも、あとからその演奏はかなり素晴らしいものだったことが思い起こされるばかりで、ピアノの音はさておいてもやはりこれは購入しないわけにはいかないCDと意を新たにしました。

少なくとも、ピリスというピアニストは絹の似合うショパンに質素な木綿の服を平然と着せてお説教しているようなところがありますが、それがシューベルのような音楽には向いていて、彼女の持つ精神性が遺憾なく発揮されるようです。
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ホロヴィッツのピアノ

いまさら言うまでもありませんが、以下の感想はまったくマロニエ君個人の印象であることを、あらためて申し述べた上での感想です。

最近発売されたCDの中に、ホロヴィッツが初来日したときに持ってきたニューヨーク・スタインウェイを日本のさる会社が購入し、それを使って録音したCDがあります。
演奏は日本人の若い女性ですが、この人のCDは別の100年前のスタインウェイを使ったとかいうサブタイトルか何かに引き寄せられて一度購入して聴きましたが、二枚目を買うほどの気持ちにはなれないでいました。

しかし、今回のアルバムでの使用ピアノが、ホロヴィッツがステージでしばしば弾いたピアノそのものともなると、勢い興味の対象はそちらに移行してちょっと音だけでも聴いてみたいもんだとは思いましたが、それだけのために買う気にもなれないので諦めていたら、なんとそれが店頭の試聴コーナーに供してありました。

ほとんど買うつもりのないCDであっただけに、聴く機会もないだろうと思っていた矢先のことで、なんだか猛烈にラッキーな気になり、思わず興奮してしまいました。
興奮の種類にもいろいろあって、こんなみみっちい興奮もあるのかと思うと我ながら苦笑してしまいます。

結果から先に言いますと、まったくノーサンキューなサウンドが溢れ出し、とても長くは聴いてはいられないと思って、ササッといろんな曲を飛ばし聴きして、早々にやめてしまいました。
なるほどホロヴィッツの弾いたピアノであることはイヤというほどわかりましたが、演奏者が違うと、正直とても普遍的な好ましさがあるとは感じられず、ひどく疲れました。

あのピアノは、完全にホロヴィッツの奏法と音楽のための特殊なもので、それを普通のピアニストが弾いても、ただ下品でうるさくてメタリックな音が出るだけで、すごいとは思いましたが、魅力的とは感じられません。

ホロヴィッツのあの繊細優美と爆発の交錯、悪魔的な中にひそむエレガントの妙、常人には及びもつかないデュナーミク、そして数人で弾いているかのような多声的な表現が変幻自在になされたときに初めて真価を発揮する、極めてイレギュラーなピアノだというのが率直な印象。

こういうピアノも、なんらかの伝手と、チャンスと、お金があれば手に入れられるのが世の中というものかもしれませんが、こういう楽器を購入し、それをビジネスに供しようという考え自体がとてもマロニエ君にはついていけない世界のように思えてなりませんでした。
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やってしまった

マロニエ君はCDをよくネットからまとめて購入するのですが、他のものと違ってCDは発売間近であったり、輸入盤の場合は再入荷待ちといったような状況によく出くわします。

これがひどいときにはひと月ぐらい待たされることもあるわけで、届いたときにはこちらの気分もすっかり変わってしまっていることがあるものです。
さらには、その時期によって聴いている音楽にもマイブームがあって、ひとつの作曲家や演奏家のものを系統的・集中的に聴いているときに、それとはまったく関係のないCDが届いても、とても聴く気になれず、そのまましばらく放置してしまうことが珍しくありません。

マロニエ君はテレビのクラシック放送でもそうですが、録画をしておいて、こちらの気分が向いたときにしか観ようとは思いませんので、このブログでもひと月も前の放送に関して印象を書いたりすることがしばしばとなるのです。

こんな感じですから、未開封のCDもかなりあるわけで、ひどい場合は買ったことも我が家に存在していることも忘れてしまうこともあったりで、これが二重買いもととなり危険なのです。
何度もそんな経験をしているので、できるだけジャケットだけは印象に残しておこうとは日頃から思いますが、なかなか不徹底で、先日もまたやってしまいました。

サンドロ・イヴォ・バルトリの弾く、ブゾーニの対位法的幻想曲と7つの悲歌集で、表紙に肩肘を付いたブゾーニの写真をあしらった印象的なジャケットは覚えがあったのですが、それをマロニエ君はネットで見たものと思い込んでしまっており、天神で購入して帰宅したところ、なんか嫌なものが気に差し込んで、ガサゴソやってみるとなんと同じ物が箱の中から出てきました。

ちょうどワゴンセールで漁ってきたものなので、そんなに高いものでもないのですが、それでも同じ物を2枚買ってしまうというのは気持的に悔しいものですが、自分がしたことですから誰を恨みようもありません。

というわけで、ともかく聴いてみることに。
対位法的幻想曲は休みなしに34分ほどある大曲ですが、もともとは一時間半にもおよぶ長大な作品であったというのですから驚かされます。ブゾーニのピアノ曲としては代表作ですが、つかみどころのない曲想と、どこかグロテスクな彼の精神の錯綜が絶え間なく続く作品です。
2枚も買っておいて、こんなことを云うのもどうかとは思いますが、マロニエ君はどうもブゾーニの作品はあまり自分の好みではなく、いつも聴くたびに恐怖絵を見るような暗さを感じてしまいます。

7つの悲歌集のほうが、まだしも穏やかな表情もありますが、暗く陰鬱な音楽という点では変わりはありません。暗い音楽ならスクリャービンの方がよほど自分の趣味に適っており、ブゾーニは曲想とか精神がもうひとつ作品になりきれていないような気がして、聴く者は翻弄され破綻へと追い込まれていくようです。
ブゾーニは対位法に執着した作曲家だと云われますが、それよりはリストの影響の方が色濃く出ており、とくにリスト晩年の作を彷彿とさせるようなところが大きいように感じます。

これらの二つの作品を合わせて73分にも及ぶ演奏ですが、サンドロ・イヴォ・バルトリの演奏はこれらの曲を聴くには十分な技量を持った、とても優秀なピアニストだと思われました。
楽器も録音もかなり満足のいくものだと思います。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。
このブログをはじめて4年目のお正月を迎えることができました。

先月暮れには日本にも政権交代という大きな変化が起こり、なんとなくですがいつになく世の中が少しずつ明るくなっていくような気がしているところです。

マロニエ君の毎年のこだわりである、その年の最初になんのCDを鳴らすかということですが、今年はそれほど迷わずに、すんなり決まりました。

J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻。
いまやバッハの名手のひとりとして数えられるに至ったハンガリーのピアニスト、アンドラーシュ・シフによる演奏です。

シフはもうずいぶん前にバッハの主だった鍵盤楽器の作品を12枚ほど録音していますが、近年はゴルトベルクやパルティータなど、別レーベルからの再録が進んでいます。
そして昨年も終わり頃になって平均律が第一巻・第二巻あわせて4枚組で発売されましたが、これがまたなかなかの名演でずいぶん聴きました。

昔の演奏よりも、より深く確信を持って、しかも自由で自然に弾いていると思います。
とりわけ第二巻はより明るい作品で、第一曲のハ長調は新年のスタートにもいかにも相応しいように思いますし、とくにフーガでの見事なことは何度聴いても感嘆します。

シフは好んでベーゼンドルファーも弾くピアニストですが、それは作品によって分けているようです。ベートーヴェンのソナタなどは曲の性格によってスタインウェイと引き分けていますが、バッハに関しては一貫してスタインウェイを使っています。
シフのコメントによれば、バッハとウィーンはまるで関係がないのだそうで、だからスタインウェイでしかバッハは弾かないとのこと。ただしベーゼンドルファーでおこなったコンサートのアンコールなどにバッハを弾く場合は、やむを得ずベーゼンで弾くけれども…なんだそうです。

本年もできるだけ思ったこと感じたことを、ブログ/ネットという場所で、許されると判断される範囲で「本音で(でも常にブレーキペダルに足をのせながら)」綴っていきたいと思いますので、どうかよろしくお付き合いくださいますようお願い致します。
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グリモーの4番

先日、グリモーのモーツァルトがマロニエ君の好みでなかったことを書いたばかりでしたが、ふとしたことから彼女が1999年にニューヨークでライブ録音したベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を聴いたところ、こちらは手の平を返したような名演で、まさに感銘を受けました。
指揮はクルト・マズア、ニューヨークフィルとの共演です。

もともとグリモーは、若い頃からフランスの女性というイメージに敢えて反抗するように、フランス音楽やショパンに背を向けてロシア音楽を好み、ドイツ音楽に傾倒しているなかなかの重厚な趣向の持ち主で、その見た目と彼女の内面はずいぶん違うピアニストと云っていいと思います。

したがってベートーヴェンの協奏曲(中でもあの4番!)を通りいっぺんの演奏をする凡庸な人とは思っていませんでしたが、それは遙かに想像を超えるものでした。少なくともマロニエ君は、これほどまでに活気と情熱に溢れ、しかもそのことがまったくこの傑作の品位をおとしめていない、表情豊かな自発性に満ちた4番の演奏を聴いたことがありませんでした。
普通なら、いわゆるベートーヴェンらしい3番と豪壮華麗な5番「皇帝」に挟まれた、この貴婦人のような4番に対して自分の考えを強く演奏に反映させて個性的に弾くピアニストはなかなか見あたりません。それは作品そのものが全編を通じてデリカシーと気品を絶え間なく要求してくるし、自分を表出させる隙がない難しい曲ということもあるでしょう。さらにはこのような至高の傑作を自分の演奏でよもや傷つけてはいけないという慎重さが働いて、大半のピアニストはほとんど用心の上にも用心を重ねながら安全運転で弾いているようにしか聞こえません。

あえて名前は書きませんが、ある日本の有名な女性ピアニストは3番&4番という二曲を収めたアルバムを以前にリリースしていますが、それは優等生の手本のような型通りの、何事にも一切逆らわず、ひと言でも自分の考えを言わない、テストなら満点の取れそうな演奏で、こんな運転免許の実技試験みたいな演奏が出来るということに逆に驚くほどでしたが、それほど4番はそういう傾向の平凡な演奏をされることの多いことがこの作品の悲しい運命のような気がしていました。

ところが4番に聴くグリモーはそんな畏れなどまるで無関係といわんばかりの体当たり勝負で、自分のパッションに正直に曲を重ねて活き活きと語り進んでいきます。同時にそれが普遍的な美しさと魅力を湛えているのですから、これは見事というか天晴れだと思わずにはいられません。

グリモーは、技巧的には現代のピアニストの中では取り立てて自慢できるようなものをもっているわけでもなく、むしろその点ではやや弱さを抱えている部類とも思いますが、にもかかわらず、自身の音楽的趣向と感性に従って重厚な曲に敢えて挑戦を続けている姿勢は10代の時分から変わっていないようです。

マロニエ君の感じるグリモーの魅力を云うならば、力量以上の大曲に挑む故か、常にハイテンションな全力投球の演奏から聴かれる熱気と、作品に対する畏敬の念がもたらす手応えの強さだと感じます。そのためにグリモーの演奏には作品の偉大さを常に感じさせ、全力投球の演奏行為が醸し出す重量感が溢れ出し、余裕のテクニシャンには却って望み得ないような緊迫した演奏が聴かれるところではないかと思います。

この4番の他には、なんと後期のソナタのop.109とop.110が入っており、これもまたなかなかの瑞々しさの中に奥行きのある演奏で、なかなか立派なものでした。
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グリモーのモーツァルト

購入して一度聴いて、ピンと来るものがないままほったらかしにしてしまうCDというのは、マロニエ君の場合、決して珍しくありません。

エレーヌ・グリモー&バイエルン放送響室内管によるモーツァルトのピアノ協奏曲第19番&23番もそんな一枚でした。一聴して、そこに聞こえてくる世界に、自分の好みというか、なにか体質に合わないものがあると感じてそのままにボツになってしまっていたわけですが、たまに積み上げたCDを整理するときに、こういうCDと思いがけず再会し、せっかく買ったわけでもあるし、もったいないという気分も手伝って再びプレーヤーへ投じてみることになりました。

やはり基本的には、最初の印象と大きく変わるところはありませんが、二度目以降は多少は冷静に聴くことも可能になります。なにが自分の求めるものと違うのかというと、ひとくちに云うなら、モーツァルトには演奏が非常に「硬い」と感じる点だろうと思われます。
彼女のレパートリーにも関連があるのかもしれませんが、これらのモーツァルトの協奏曲を自由に表現するには指の分離がいまいちという印象があり、軽やかであるべき(だと思う)箇所がいかにも硬直したような感じが否めないのは最も残念な点だと思います。

グリモーの魅力は演奏のみならず、プログラミングに込められた独自の主張でもあり、ただレコード会社の命じるままに凡庸なプログラムを弾いていく平凡なピアニストとは異なります。
今回のCDでも2つの協奏曲の間にはコンサートアリアKV505「心配しないで、愛する人よ」が納められており、モイカ・エルトマンが共演しています。この作品は第23番の協奏曲と同時代に作曲されていることも選曲された理由だと思いますが、こういう組み合わせにも彼女の独自性が感じられて、そのあたりはさすがだと思わざるを得ません。
とくにこのコンサートアリアは同時期に仕上がったと思われる「フィガロの結婚」の要素が随所に見られて、この時期のモーツァルトの筆も乗りに乗っていることを感じさせる魅力的な作品ですし、ソプラノ、オーケストラ、ピアノという編成も珍しいと思います。

この曲を聴くだけでもこのCDを買った意義はあったな…と思いましたが、両協奏曲に聴くグリモーのピアノは冒頭に書いた硬さのほかに、どこかに息苦しさのようなものを抱えていて、マロニエ君としてはもう少し楽々としなやかに翼を広げるような自由とデリカシーの両立したモーツァルトを好みます。
ひとつにはグリーモーのタッチの重さと、さらには音色のコントロールがあまり得意ではないということで、いかにも固い指を必死に動かしているという印象が拭えません。
その必死さと音色の重さ(彼女はキーの深いところで音を出すピアニストのようです)がモーツァルトとは相容れないものとなり、聴いていて解放される喜びが味わえないのだと思いました。

しばしば見られるロマン派のような表情やルバートにもやや抵抗があり、とくに第23番の第二楽章などはこんなに重々しく弾くとは驚きでしたが、救いは第三楽章でみせた快速が、かろうじてそれをぎりぎりのところで洗い流してくれるようでした。

ある方の書き込みによると、レコード芸術によればグリモーはホロヴィッツとジュリーニが協演した23番を聴いて感銘を受けて、自分もブゾーニ作曲のカデンツァを弾いて録音したそうです。ところが協演のアバドがこれに難色を示して直前になってモーツァルトのカデンツァを練習して別に録音をしたとか。しかしグリモーは「どのカデンツァを選ぶかはソリストに権限があるはずだ」と譲らずに、結局アバドとの録音はお蔵入りとなったとか。
マロニエ君もグリモーの主張には全面的に賛成で、アバドともあろうマエストロがくだらない事をいうもんだと思いましたし、それに怯まないグリモーの見識と主張には脱帽です。
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高橋アキ

天神の楽器店でCDの半額コーナーを漁っていると、いくつか目につくものがありましたが、その中から、以前何かで読んで評価が高いとされている高橋アキさんのシューベルトの後期のソナタを発見し、これを購入しました。

シューベルトの後期の3つのソナタとしては、すでに最後のD.960を含むアルバムが先に発売され、今回購入したのはそれに続くもので、その前の後期ソナタ2作であるD.958とD.959でしたから、曲に不足のあろうはずもありません。

また、前作のD.960を含むアルバムは第58回芸術選奨文部化学大臣賞を受賞しているらしく、レーベルはカメラータトウキョウ、プロデューサーはこの世界では有名な井坂紘氏が担当、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、とくに高橋アキさんお気に入りのベーゼンがある三重県総合文化センターで収録が行われたとあって、とりあえず何から何まで一流どころを取り揃えて作り上げられた一枚ということだろうと思います。

というわけで、いやが上にもある一定の期待を込めて再生ボタンを押しましたが、D.958の冒頭のハ短調の和音が開始されるや、ちょっと軽い違和感を覚えました。

まずは、名にし負うカメラータトウキョウの井坂紘氏の仕事とはこんなものかと思うような、縮こまった曇りのある感じのする音で、まるでスッキリしたところがないのには失望しました。マイクが妙に近い感じも受けましたが、インペリアル特有の低音の迫力などはわかるのですが、全体としてのまとまりがなく、ピアノの音もとくに美しさは感じられず、ただ鬱々としているだけのようにしか聞こえませんでした。
もう少し抜けたところのある広がりのある録音がマロニエ君は好みです。

また肝心の高橋アキさんの演奏もまったく自分の趣味ではありませんでした。
後期のソナタということで、それなりの深いものを意識しておられるのかもしれませんが、むやみに慎重に弾くだけで、演奏を通じての音楽的なメッセージ性が乏しく、奏者が何を伝えたいのかさっぱりわかりません。
作品全体を覆っている深い悲しみの中から随所に顔を覗かせるべきあれこれの歌が聞こえてくることもなく、ソナタとしての構成も明確なものとは言い難く、暗く冗長なだけの作品のようにしか感じられなかったのは、まことに残念でした。

全体として感じることは、重く、不必要にゆっくりと演奏を進めている点で、そこには演奏者の解釈や表現というよりは、主観や冒険を避けた、優等生的な演奏が延々と続くばかりで、聴いていて甚だつまらない気分でした。
これでは却って晩年のシューベルトの悲痛な精神世界が描き出されることなく、作品の真価と魅力を出し切れずに終わってしまっていると思いました。

今どきは、しかし、こういう演奏が評論家受けするのかもしれません。
音楽として演奏に芯がないのに、いかにも表向きは意味深長であるかのような演奏をすることが作品の深読みとは思えません。どんなに高く評価されようと、立派な賞をとろうと、聴いてつまらないものはつまらない。これがマロニエ君の音楽を聴く際の自分の尺度です。

高橋アキさんはやはりお得意の現代音楽のほうが、よほど性に合っていらっしゃるように思います。
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アミール・カッツ

「俺のショパンを聴け!」
ピアニストのアミール・カッツは、あるインタビューでこのように言ったといいます。
それでは仰せの通り聴かせていただきましょうというわけで、2つリリースされているショパンのCDのうち、より新しい録音であるバラード/即興曲の各4曲を購入しました。

バラード第1番の冒頭部分からして技巧に余裕ある、クオリティの高そうな演奏であることが早くも伺われます。
さらには、ひとつひとつのフレーズから彼の音楽に対する細やかな息づかいが感じられ、ただきれいで正確に弾くだけのピアニストではないことが感じられる同時に、どこにも奇抜なことを仕掛けるなどして聴く者の注意を惹こうとしている軽業師でないのも伝わります。
それでいて、少なくとも、これまでに聴いたことのなかった新しいショパン演奏に出逢った気がしますし、その新しさこそ彼の個性だろうと思います。

しかし、どうももうひとつ乗れないものがある。
曲は確かにショパンだけれども、どうもショパンの繊細巧緻な作品世界に身を浸すのではなく、あくまでもこのカッツというピアニストの手中でコントロールされつくした整然とした音楽としての音しか聞こえてこない。

ポーランドの土着的なショパンでもなければ、パリの洗練を経たショパンでもない、あくまでもこのカッツというピアニストの感性を通じて、既成概念に囚われず、正しくニュートラルに弾かれた、無国籍風の堂々たるピアノ音楽に聞こえてしまうわけです。

非常に注意深く真摯に演奏されていることも認めますが、あまりにも筋力と骨格に恵まれた男性的技巧によって余裕をもって弾かれすぎることで、却ってショパンの細やかな感受性の綾のようなものや、複雑で整理のつけにくい詩情の部分などが力量に呑み込まれてしまった観があり、立派だけれども、聴いていてちっとも刺激されるものがありませんでした。

マロニエ君が思うに、ショパンの作品は芸術作品としてはきわめて完成度は高いけれども、どこかに危うい構造物のような緊迫を孕んでいなくてはいけないと思うわけです。
少なくとも、完全な土台の上に建てられた、強固でびくともしない建築のようなショパンというのは、どうしてもしっくりきません。

云うまでもなく、ショパンをひ弱な、少女趣味のアイドルのように奉る趣味は毛頭ありません。
しかし、誰だったか失念しましたが、ショパンのことを『最も華麗な病人』と評したように、ショパンには適度な不健康と煌めくブリリアンスの交錯が不可欠で、過剰な頑健さとか野性味、すなわちマッチョであることはマイナス要因にしかならない気がするわけです。

カッツのショパンは、力強さと構成感が勝ちすぎることで、却ってショパンの世界を小さくつまらないものにしてしまった気がします。
しかし、こういうある意味ではスケールの大きい、荷物の少ない寡黙な男のひとり旅みたいな演奏をショパンに求めている向きもあると思いますので、そこはあくまで好みの問題だと思います。

全体にバラードのほうがよく、それはピアニスティックに弾ければなんとかなる面が即興曲より強いからでしょう。
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弦楽伴奏版

ソン・ヨルムは、2009年のクライバーンコンクールおよび2011年のチャイコフスキーコンクールでいずれも第2位に輝いた韓国の若い女性ピアニストです。

少し前にショパンのエチュードのアルバムが発売になっていますが、これは遡ること8年も前に韓国で録音発売されていたものが、ようやく日本でもリリースされたもので新しい録音ではないようです。
同時期に出たもうひとつのアルバムにノクターン集があり、これは2008年、つまり彼女がクライバーンコンクールに出場する前年にドイツで録音されたものですが、これは非常に珍しい弦楽伴奏版というものであることが決め手になって購入してみました。

オーケストラはルーベン・ガザリアン指揮のドイツのヴュルテンベルク室内管弦楽団で、2枚組、遺作を含む21曲のノクターンが収められていますが、そのうちの4曲のみ弦楽伴奏はつかず、オリジナルのピアノソロとなっています。

演奏はいずれもクセのない、繊細でしなやかな、概ね見事なもので、そこへ弦楽伴奏が背後から乗ってくるのはいかにもの演出効果は充分にあると思いました。
編曲は韓国の二人の作曲家によるもので、ソン・ヨルム自身も編曲作業には深く関与したという本人の発言があり、オリジナルの雰囲気を尊重し壊さないために最大限の努力と配慮が払われたということです。

それは確かに聴いていても納得できるもので、ショパンの原曲が悪い趣味に改竄されたという感じはとりあえずなく、どれも情感たっぷりにノクターンの世界を弦楽合奏の助力も得ることで、より印象的に描き込んでいるという点ではなかなか良くできていると思いました。

ただ、不思議だったのは、ひとつひとつはそれなりに良くできているようでも、続けて聴いていると次第にその雰囲気に満腹してしまって、その味に飽きてしまうことでした。

どことなく感じるのは、たしかになめらかなショパンではあるけれども、同時に韓流ドラマ的な臭いを感じてしまうことでした。韓国人の編曲だからということもあると思いますが、一見いかにも夢見がちで流れるような美しい世界があって耳には心地よいのですが、魂に触れてくるものがない。
たとえば弦楽伴奏付きの第1曲であるホ短調op.72などは、聴くなりまっ先にイメージしたのは何年も前に流行った「冬のソナタ」でした。

マロニエ君としては、ショパンはあの甘美な旋律などに誰もが酔いしれるものの、その真価は知的で繊細で、奥の深いどちらかというと男の世界だと思っています。ところが、この弦楽伴奏版ではその甘美な世界が、いわゆる少女趣味的な甘ったるい世界になっているのだと思いました。

世の音楽好き中には「ショパンは嫌い」「ショパンはどうも苦手」という人が少なからずいるものですが、その人達は何かのきっかけでショパンをまるでこういった音で表す少女小説のように捉えてしまっているのではないかと、その気持ちの断片が少しわかるような気がしました。

だからといってマロニエ君はこのアルバムを否定しているのではなく、あまたあるショパンのノクターンアルバムの中にこういうアレンジがあるのは面白いと思いますし、そういうことに挑戦したソン・ヨルムの決断力にも拍手をおくりたいと思います。
少なくとも、正確でキズがないだけのつまらない演奏よりはよほど立派です。
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フレイレのショパン

ネルソン・フレイレの弾くショパンのノクターン全集の評判がいいようなので聴いてみました。
2009年12月に録音された2枚組CDで、レーベルはデッカ。

とくにハッとするような何かはないけれど、なるほどどれもがよく錬られた誠実な演奏で、趣味も悪くないし、どこにも嫌なところのない好ましい演奏だと思いました。
とくに自分の主張は二の次で、ひたすら作品に献身している姿は印象的です。

この人はいまさら云うまでもなくブラジル出身の世界的ピアニストで、その信頼性の高い深みのある演奏には以前から定評がありました。それでも若い頃はもう少しはラテン的というか、ときには激しいところもあったように記憶しますが、近年はいよいよ円熟を深めているようです。もともと音楽優先で自己顕示性の少ないピアニストでしたが、その度合いをいよいよ増しているようで、決して作品の姿を崩さず、さすがと思わせられるところが随所にあります。

南米出身でありながら、ヨーロッパの音楽にこれほどまでに正面からひたむきに取り組むピアニストとして思い出されるのはアラウですが、彼らはヨーロッパの生まれでないぶん、よけいに虚心な気持ちで数々の偉大な作品に畏敬の念を覚えながら好ましい解釈を求めて演奏に取り組むのかもしれません。

フレイレを聴いていつもながら見事だと思うのは、まさに練り上げられた大人の演奏に終始する点で、ときに演奏家の存在感さえも見えなくなるほどです。
昔から感じていることで唯一残念なのは、あと一歩というところの華がないというところでしょうか。
これだけの素晴らしい演奏をしていながら、もうひとつフレイレでなくてはならないという積極的な理由が稀薄な点が、裏返しの特徴なのかもしれません。

もちろん、ここでいう華というのはうわべの派手さという意味ではなく、一人のピアニストとしての存在感とでもいえるかもしれませんが…それは欲というものでしょう。あまたのピアニストの中でこれほど誠実な演奏をする人が今円熟の真っ只中にいることをなにより尊重したいというのがマロニエ君の素直な気持ちです。

このCDに関して特筆すべき残念な点は、やはり最近のデッカ特有のまったく理解に苦しむ音質だったことです。トリフォノフのショパン、プラッツのライヴ、ウー・パイクのベートーヴェンなどすべてに共通した、広がりのない詰まったような音、中音域は衝撃音が突き刺さって来るような不快なあの音だったことは、この美演の真価を何割も割り引いてしまっていると思うと、甚だ残念で仕方がありません。

プロデューサーの名前などを調べると、必ずしも同一人物ではないにもかかわらず、出来上がった音にこれだけの著しい共通点があるということは、よほどデッカではこれを良しとしているのかと、その不可解な疑問はいよいよ深まるばかりです。
しかし、いずれにしてもこれだけ音質に落胆させられることが明瞭にわかってくると、今後はデッカのCDは極力避けるしかないということでしょうか…。
本当に気の毒なのは、優れた演奏をしているこのレーベルのピアニスト達です!
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CD漁り

久しぶりにタワーレコードに寄ってみましたが、ワゴンセールなどを物色せずに素通りすることはなかなか困難です。

今回もあれこれとセール品漁りをしたあげく、ついまた博打買いをしてしまいました。
「博打買い」とは、なんの情報も予備知識もないまま、まったく価値のわからないものを、専ら直感だけで購入してしまう事を自分でそう呼んでいます。

ひとつはユーリー・ボグダーノフ(1972年生まれ)によるショパンの2枚組で、ワルツ、バルカローレ、スケルツォ、ソナタ、ポロネーズ、即興曲、エチュード、ノクターン、バラード、マズルカといった、ショパンの作品様式をほぼずらりと取り揃えたような演奏が並んでいます。
曲目はいわゆる名曲集的なものではないものの、すべてが馴染みの作品ばかりで、ピアニストもまったくの未知の人であるほか、「Classical Records」という名の、これまで見たこともないロシアのレーベルで、表記もロシア語だったことが惹かれてしまった一因でした。
かつてのソヴィエト時代のメロディア・レーベルのような、鉄のカーテンの向こう側を覗くようなドキドキ感が蘇って、ちょっとそのロシア製のCDという怪しげなところについ引き寄せられてしまったようです。

調べてみると、ボグダーノフはモスクワ音楽院でタチアナ・ニコラーエワやミハイル・ヴォスクレセンスキーに師事したらしく、ロシアのピアニストにはよくあるタイプの経歴の持ち主のようです。

期待したわりには演奏は至って普通というか、むしろ凡庸といった方がいいかもしれないもので、ロシア的怪しさはさほどありませんでした。むしろロシア的だったのは数曲において途中のつぎはぎが下手なのか、しばしば微妙にピッチが変わるなど、予期せぬ意味での雑味のある点が「らしさ」と云えないこともありませんが、純粋に演奏という意味では、正直言って期待値を満たすものではありませんでした。

もうひとつは、19世紀末に生まれ20世紀に活躍したイギリスの作曲家、ベンジャミン・デイルとヨーク・ボーウェンのピアノ曲のCDですが、こちらはまさにアタリ!でした。
こういうことがあるから博打買いはやめられないのです。

20世紀の作曲家といっても無調の音楽ではなく、ロマン派やドビュッシーの流れをくむ中に独自の新しさが聞こえてくるという、いわば耳に受け容れやすい音楽で、ベンジャミン・デイルのピアノソナタは、決して重々しい作品ではないものの、途中に変奏曲を内包する演奏時間40分を超える大曲で、何度聴いても飽きの来ない佳作だと思いました。
この曲はヨーク・ボーウェンに献呈されているもので、いかにもこの二人の同国同業同時代人同士の信頼関係をあらわしているようでした。

後半はそのヨーク・ボーウェンの小組曲で、こちらは3曲で10分強の作品ですが、即興的なおもしろい個性の溢れる曲集で、これまた存分に楽しむことができました。

演奏は知られざる名曲をレパートリーにしながら独自の活動としている、これもイギリス人ピアニストのダニー・ドライヴァーで、その安定感のある正確で爽やかなテクニックと見通しのよい楽曲の把握力は特別な才能を感じさせるものです。
彼はほかにもヨーク・ボーウェンのソナタ集や、バラキレフの作品、はたまたC.P.E.バッハの作品集などを録音するなど、独自な活動をするピアニストのようでそれらも聴いてみたいものです。
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H.J.リム-3

思いがけずマイブームになってしまったH.J.リムは、驚くべきことに、なんとベートーヴェンのソナタ全集(ただし第19番、第20番を除く)を完成させているといいますから、もしかしたら、この若いピアニストが、ウー・パイクでコケてしまった韓国人のベートーヴェンで名誉挽回するのかもしれず、懲りもせず購入検討中です。
発売は5月下旬(つまり間もなく)の由。

ちなみにネットで見るジャケットには「BEETHOVEN COMPLETE PIANO SONATAS」と書かれていますが、上記の2曲が抜けているにもかかわらずCOMPLETEと書くのは、ソナタは30曲と見なしているという意味なんだろうかと思いました。
たしかにこの2曲はソナチネだといわれたらそうなんですが…。

ともかく優等生タイプもしくはコンクールタイプの多い今の時代に、このような個性溢れる情熱的なピアニストが出現したことを素直に喜びたいこの頃です。

最後になりましたが、使用ピアノについて。
ライナーノートのデータによれば、この演奏はすべてスイスでおこなわれ、ピアノはヤマハのCFXが使われています。ピアノに関しては過日のチャイコフスキーのコンチェルト同様に、やはりちょっと違和感があって、まったくマロニエ君の好みではなかった点は残念でした。

やはりというべきは、CFXは非常に美しい音のピアノだとは思いますが、いかんせん表現の幅が感じられません。大曲や壮大なエネルギーを表現する作品や演奏になると、たちまちピアノがついていかないという印象がますます拭いきれなくなりました。
整音や響きの環境の加減もあるとは思いますが、強烈な変ロ長調の和音で開始されるハンマークラヴィーアの出だしを聴いたら、このピアノの懐の浅さがいきなり飛び出してくるようでした。
フォルテ以上になったときの楽器の許容量が不足しているのか、この領域ではこのピアノの持つ美しさが出てこないばかりか、いかにも苦しげな音に聞こえます。
金属的というよりは、ほとんどガラス繊維が発するような薄くて肉感のない音で、ときに悲鳴のように聞こえてきて、それがいっそうH.J.リムの演奏を誤解させるもとにもなったように感じました。
音そのものがもつヒステリックで破綻した感じが、まるで演奏者のそれであるかのようにも聞こえます。

H.J.リムがベートーヴェンの録音にCFXを使った意味はわかるような気がします。
いかにも先端的で多感な彼女のピアニズムには、いわゆるドイツ系のピアノよりはヤマハのような新しい感性で作られたピアノのほうが相応しいだろうというのは理解できるところです。
とりわけ軽さとスピード感はヤマハの優秀なアクションだけが達成できる領域かもしれません。

というわけで、このところのいろいろな演奏を聴いて、CFXの弱点も少し露見してきたように感じているところです。はじめは感心したメゾフォルテまでの美しさにくらべて、フォルテ以上になるといきなりアゴをだしてしまうのはいかにも情けない。さらに言うと、その美しさには憂いとか陰翳がなく、いかにも単調でイージーな美しさであることがやや気にかかります。
ここまで高性能なピアノを作ったからには、却ってあと一歩の深さ豊かさがないところが悔やまれます。
今の状態では、俗に言う「大きな小型ピアノ」の域を出ないという印象ということになるでしょうか。

このCDのレーベルはEMIですが録音はなかなかよかったと思います。
すくなくと駄作続きのDECCAなんかにくらべると、まったく次元の異なるクオリティを有していると思いますし、それだけに演奏の新の魅力や価値、ピアノの性能などもよく聞き取ることができたように思います。
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H.J.リム-2

はじめはかなり違和感を感じたH.J.リムですが、繰り返し聴いているうちに、こちらの受け止め方もあるときから急旋回して、これはやっぱり面白いピアニストだと気付くようになりました。
逆に言うと、違和感を感じながらも何度も聞かせるだけのオーラがこの演奏にはあったということでもあると思われます。

その演奏の第一の特徴は、とにもかくにも灼けつくような生命感にあふれていることですが、同時に驚くべきはその例外的な集中力の高さだと感じました。この点は天賦のものがあるのは明らかで、およそ勉学や努力で成し遂げられる種類のものではなく、彼女が持って生まれたものでしょう。
ひとたび曲が始まると、どの曲に於いても彼女の並外れた感性が留まることなく動き回り、まさに曲それ自体が生き物であることをまざまざと思い知らされます。
そして一瞬もひるむことなく、終わりをめがけて一気呵成に前進していく様は圧巻で、聴く者は彼女の音楽の流れの中で彼女が辿っていく喜怒哀楽を味わい、共に呼吸をさせられます。

音楽作品というものが、そこに生まれ立ってから終結するまでを、これほど直截的に克明に描き出す演奏家はなかなかお目に掛かったことがありません。
唯一の存在といえば、あのアルゲリッチでしょう。

「どう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえない」と初めのうち思ったのも偽らざるところでしたが、にもかかわらず、何度も繰り返し聴くうちに、しだいに彼女が感じて表したい世界がわかってくるのは非常に面白い、ぞくぞくするような体験でした。
ひとつ言えることは、H.J.リムというピアニストは間違いなく、ただの演奏家ではなく独立したひとりのまぎれもない芸術家だということです。

はじめ違和感のほうが先行してしまったのは、ひとえにマロニエ君の能力不足だと恥じるところですが、やはり天才というものは初めから確固とした個性の導きによって高い完成度に達しているために、恐れを知らず、既存のものと適当に折れ合いながら徐々に自己表出していくといった、いうなれば処世術を知らないというわけでしょう。
それがまた、さまざまな反発や抵抗感を招くのかもしれません。

ひじょうにフレッシュで生々しい楽想にあふれている点が、何度も演奏されてきた使い込んだ鋳型のような解釈にきれいに収まっている演奏とは異なり、新しく独自に生まれたものは当然そんなものとはは無関係で、そういう馴染みの無さが耳をも拒絶してしまったとも言えるような気がします。

そんな決まりきった慣習から耳が解放されてくると、もう何が真実かなんてわからなくなり、むしろベートーヴェンの頭の中にはじめに浮かんだ楽想とは、むしろこういうものではなかったのか?…という疑念すら湧いてくる始末です。
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H.J.リム

『韓国生まれの24歳、独特な演奏スタイルと類まれなカリスマ性をもつ魅力あふれるこのピアニストは、12歳でピアノ修行のため単身パリへ渡り、韓国の家族に自分の演奏を聴かせるため、ユーチューブに演奏姿をアップしたところ、たちまち話題となり50万ビューを記録。それが音楽関係者の目にとまり、EMIクラシックスからデビューが決定しました。』

これは韓国人ピアニスト、H.J.リムのレビューの文章ですが、なんとなく仕組まれた感じの内容という気がしなくはないものの、意志的な表情をした強い眼差しがこちらを見つめているジャケットにつられて買ってしまいました。

2枚組のベートーヴェンのソナタで、29,11,26,4,9,10,13,14番の順に収められています。
冒頭の29番はすなわち「ハンマークラヴィーア」ですが、その出だしの変ロ長調の強烈な和音からいきなりぶったまげました。

極めて情熱的で、その思い切りの良さといったら唖然とするばかりで、いわゆるベートーヴェンらしく重層的に構築された堅固な音楽にしようというのではなく、H.J.リムという女性の感性だけでグイグイとドライブしている演奏でした。
マロニエ君は技巧的にも解釈の点においても、ただ整然とキチンとしているだけで、創意や冒険のない臆病一本の退屈な演奏は好きではないので、個性的な演奏には寛容なつもりですが、それでもはじめはとても自分の耳と感覚がついていけず、なんという品位のないベートーヴェンか!と感じたのがファーストインプレッションでした。

その場その場の閃きだけで野放図に演奏しているみたいで、まるでこのピアノ音楽史上に輝く大伽藍のようなソナタが、ガチャガチャしたリストでも聴いているようで、これはちょっといただけない気がしたものです。
さらに気になるのはテンポの揺れといえば聞こえは良いけれども、あきらかにリズムが乱れていると思われるところが随所にあって、表現と併せてほとんど破綻に近いものがあるとも感じました。

すぐには受け容れることができない演奏ではあったものの、しかしこともあろうにベートーヴェンのソナタをこれだけ自在に崩しながら自分の流儀で処理していく感覚と度胸には、とにもかくにも一定の評価を下すべき女性が現れたのだと感じたのも、これまた正直なところでした。
全体をとりあえず3回ずつぐらい聴きましたが、だんだん慣れてくる面もあるし、やはりちょっとやり過ぎだと思うところもあって、評価はなかなか難しいというのが正直なところです。

それにしても、やはり最も驚くべきはハンマークラヴィーアで、この長大なソナタが目もさめる手さばきで処理されていくのは瞠目に値し、長いことピアノ音楽史に屹立する大魔神のように思っていたソナタが、想像外に引き締まったスリム体型でなまめかしく目の前に現れてくるのは思わずドキマギしてしまいます。
マロニエ君の耳にはどう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえませんが、それでも音楽の要である生命感をないがしろにせず、どこを切り取ってもパッと血が吹き出るように命の感触に満ちているのは大いに評価したい点だと思います。
それにこの恐れの無さはどこから来るのかと思わずにはいられません。

実を言うと、マロニエ君は、現代の韓国はかつてのロシアとはまた違った個性で優秀なピアニストを輩出するピアニスト生産国のように思っていたところですが、そこへまた凄い個性が出てきたもんだと感嘆しているところです。
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長尾洋史さん

久しぶりにギャンブル買いしたCDが大当たりでした。

「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」というタイトルで、実は長尾洋史さんというピアニストの演奏はもちろん、お名前さえも知りませんでした。
にもかかわらず、アルバムに収められたリストのバッハ変奏曲(カンタータ《泣き、嘆き、憂い、おののき》の主題による変奏曲)と、後半のマックス・レーガーのバッハの主題による変奏曲とフーガの組み合わせに惹かれてしまい、どうしても聴いてみないではいられなくなりました。

これは国内版の3000円級のCDなので、すでに何度も書いているように、マロニエ君は今どき内容の分からない日本人演奏家のCDを最高額クラスの代価を払ってまで冒険してみようという気は普段はあまりありません。

しかし、このCDにはなぜかしら売り場を離れがたいものを感じ、ついには購入することに決しました。惹かれた理由は主に選曲とCDの醸し出す雰囲気だったと思います。
果たして聴いてみると、これがなかなかの掘り出し物だったわけで、こういうときの喜びというのは一種独特なものがあるものです。

まずこの長尾洋史さん、抜群にしっかりした指さばきと知性を二つながら備わっていて、その音楽作りの巧緻なことは大変なものでした。むかし「マロニエ君の部屋」で日本人ピアニストには隠れた逸材が少なからずいるというような意味のことを書いたことがありますが、まさにそのひとりというわけで、こういう内容ならまったく惜しくない投資だったと大満足でした。

最初にジャケットを見たときに惹きつけられたとおり(顔写真さえない渋い色調のもの)、このアルバムのメインはリストのバッハ変奏曲と、レーガーの作品であることは間違いありません。両者共に普段よく弾かれる曲ではないものの、難解難曲として知られる作品ですが、これらを長尾氏はまったくなんの矛盾も無理もないまま、自然なピアノ曲として見事に演奏されている手腕には驚くばかりでした。この両曲の名演に対して、リストの「ペトラルカのソネット3曲」と「孤独の中の神の祝福」はやや表現の幅の狭い優等生的演奏で、もうひとつ詩的な深さと躍動が欲しかったという印象。

ライナーノートにある三ツ石潤司氏の文章によれば、この長尾氏の演奏は「てにおはや句読点のうちかたの誤りがない」とありましたが、この点はまったく同感でした。
この点に間違いがあると、たちまち作品は本来の立ち姿を失ってしまいます。マロニエ君としては、これに「イントネーション」の要素を加えたいと思います。いくら正確で達者な演奏ができても、イントネーションが違っていると、音楽がニュアンスの異なる訛りで語られてしまうようで、その魅力も半減してしまうものです。これは結構外国人演奏家にも頻繁に見られる特徴で、その点では却って日本人のほうがそんな訛りのない美しい標準語の演奏をすることが少なくありません。

録音はきめの細かい、ある種の美しさはありましたが、全体に小ぶりな、広がり感の薄い録音だった点は少々残念でした。そうでなかったらさらにこのピアニストの魅力が何割も上積みされたことだろうと思われますし、こういう録音に接するとつくづくと演奏家というものは、自分の演奏能力だけでは解決のつかない問題を抱えているようで、それがマイナスに出たときは甚だ気の毒だと思います。

もうひとつ、ピアノの調律はなかなかの仕事だったと思います。
新しめのハンブルク・スタインウェイから、思いがけなく低音域のビブラートするような豊饒な響きなどが聞かれて、はじめこの低音域を聞いたときは一瞬ニューヨーク・スタインウェイでは?と思ったほどでした。
やはり楽器としてのピアノの生殺与奪の権を握っているのは調律師だと思いました。

もちろん演奏の見事さ素晴らしさに勝るものはありませんが。
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『桜の詩』

つい最近、知人から珍しいCDをいただきました。

なんと、この方のお父上が作詞・作曲をされた歌がプロの手によって編曲され、それをヴォーカルの女性が歌ったものがきちんとした製品としてCD化されているのですが、それをよかったら聴いてみてくださいと託されました。

マロニエ君は普段はクラシックしか聴きません。
べつにクラシック以外を聴かないと決めているのではなく、クラシックがあまりに広く奥深いので、それ以外の音楽ジャンルにまでとても手が回らないというのが偽らざるところなのです。
そして気がついたら、クラシック以外の音楽ジャンルのことはなにも知らず、いまさらCDを買おうにも、どこからどう手をつけていいかもさっぱりなわけです。

ですから、たとえば松田聖子の歌なんかを偶然耳にして、なかなかいいなぁ…と思うこともあれば、ちょっと縁あって聴いたジャズのCDが気に入って、しばらくそれを聴くというようなことはありますけれども、そこからあえて別ジャンルに入っていこうというところまでの意欲はないし、だいいちクラシックだけでもとてもじゃないほど無尽蔵な作品があるので、どうしても馴染みのあるクラシックという図式になってしまいます。

ですから、こうして人からきっかけを与えられた場合がマロニエ君が他の音楽を聴く数少ないチャンスでもあるのですからとても貴重です。

さて、このCDはペンネーム三月わけいさんという方の作品で、『桜の詩』『草原の風』という2曲が入っていましたが、はじまるやいなや、淡いほのぼのとした叙情的な世界が部屋中に広がり、メロディも耳に馴染みやすいゆったりした流れがあって、すっかり感心してしまいました。

印象的だったことは、日本人のこまやかな感性と情景がごく自然な日本語で描写されていて、どこにも作為的な臭いやわざとらしさがないことでした。

日本人は桜というとやたらめったら大げさに捉えがちで、あれが実はマロニエ君は好きではありません。
お花見も今やっているのは本来の在り方からはまるで逸脱したようなもの欲しそうなイメージがあり、気品あふれる桜とことさらな野外宴会の組み合わせが、すっかりこの季節のお馴染みの風景になってしまって、いつしか静かに桜を愛でるという、穏やかで自由な楽しみ方が出来なくなったようにマロニエ君は思うのです。

そんな中で、この『桜の詩』には人の喧噪も宴会もない、ありのままの桜とそこに自分の心を静かに重ねることができるやさしみがあり、このなんでもないことが、むしろ新鮮な感覚でもありました。
押しつけがましさのない、自然な詩情にそよそよとふれることで、人は却って無意識に惹きつけられるものがあるのかもしれません。
http://www.youtube.com/watch?v=MnrhRTupt-g
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パイクのベートーヴェン

韓国ピアノ界の巨星ともいうべきクン=ウー・パイク。
この人の演奏するプロコフィエフのピアノ協奏曲全集やブラームスの第1協奏曲にマロニエ君はすっかり惚れ込んでしまって、彼が2005年から2007年にかけて作り上げたベートーヴェンのピアノソナタ全集を購入すべく探していることは、以前このブログに書いたばかりでした。

どういうわけか他の演奏者のように、どこの店でも取扱いがあるわけではなく、結局アマゾンで見つけて購入することに。ほどなく届き、はやる気持ちを抑えつつ、最初の一枚をプレーヤーに投じました。

この全集は9枚組で、曲は番号順に並んでいますから、一枚目は第1番ヘ短調から始まり、9枚目の最後は第32番で終わるということになります。
果たしてこれまでのクン=ウー・パイクの数々の名演からすれば、とくだん輝いているようでもない普通の感じでのスタートとなりましたが、いくら聴き進んでも一向にパッとしない演奏であることに否応なく気づきはじめました。
第4番から始まる2枚目でそれはある程度明確になり、3枚目の第7番や悲愴などの茫洋とした演奏を耳にするにいたって、それは甚だ不本意ながら確信へと変わりました。

もちろん曲によって多少の出来不出来があるのは致し方ないとしても、月光の第3楽章では、ある程度のpもしくはmpで上昇すべきアルペジョを、力任せにフォルテで駆け上るに至って、なんだこれは!?と思いました。
このころになると、はっきりと裏切られたという現実を認識していましたが、とりあえず軽く一通りは聴かないことにはせっかく安くもないセットを買ったことでもあり、悔しいので途中棄権はせず、敢えて最後まで聴き続けることにしました。

田園などは比較的よい演奏だったとも思いますが、テンペストや期待のワルトシュタインなども一向に冴えのないただ弾いてるだけといった感じの演奏でした。熱情では急に第3楽章のみやたらとテンポが速くて、これも大いに不自然でしたし、テレーゼなども優美さがまったく不足していました。

後期の入口であるop.101は比較的良かったとも思いますが、続くハンマークラヴィーアでは再び、ただ色艶のない重い演奏に終始します。
9枚目の最後の3つのソナタも、美しいop.109、感動のop.110はあまりに凡庸な演奏でしたし、最後のop.111でも特に大きな違和感や疑問を感じるような演奏ではないものの、これといって酔いしれるようなものではない、ごくありきたりな感じで、この作品が持つ精神的な崇高さをとくに感じることもないまま、ついには9枚のCDを聞き終えました。

ただし、だからといってパイクが他の曲で聴かせた名演の数々を否定するものでもありませんので、これはマロニエ君としては演奏者と作品(この場合は作曲者というべきか)との相性の問題だろうと考えたいところです。今にして思えば、この人はどちらかというと協奏曲(それも大曲、難曲の)に向いているような気もします。
そういえばフォーレのピアノ曲集も高い評判をよそに、マロニエ君の耳には、大男が無理にデリケートな演技をしているようで、ただ眠くなるばかりの演奏だったことをこの期に及んで思い出しました。

ちなみにこのディスクはデッカからのリリースですが、以前も書いたように、この名門ブランドとはちょっと思えないようなモコモコした、まるでクオリティを感じない音しか聞こえてこないことも併せて残念なことでした。
CDの成功は、演奏もさることながらその音質に負うところも大きく、その点でもこの全集ははっきりと失敗だったとマロニエ君は個人的に考えているところです。

最近のパイクのCDがグラモフォンからリリースされているところをみると、デッカの音質ゆえの移行なのかもしれないと、あくまで想像ですけれどもかなり自信を持って思っているところです。

それにしても一枚物のCDでも失敗は良い気分ではないところへ、9枚組のベートーヴェンのソナタ全集がまるごと失敗というのは、さすがに残念無念がズシッと重くのしかかります。
再び手にすることがあるかどうか…ハァ〜です。
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タワーレコードが

ある意味で最も恐れていたことのひとつが穏やかながら起こりました。

天神のCDショップの中心的存在であったタワーレコードが10日ほど閉店して改装中とありましたので、単純にリニューアルしているものとばかり思っていたところ、再開して店内に入ってみるとほとんど何も変わっていないことに「おやっ」と思いました。
クラシックの売り場は最上階の5階ですので、いつものように3階からエスカレーターに乗って上階に向かったところ、なんと4階から上のエスカレーターは止まっていて、乗り口に小さなロープが張られており、「これより先は関係者以外はご遠慮云々」の札が立っていました。

そうです、主にジャズとクラシックの売り場だった5階は無くなったということをこのとき察知しました。
そこですぐに思ったのが、売り場の統合で、4階売り場を見渡してみると、向こうの奥まったところに「CLASSICAL」の文字がかろうじて見えました。「ああ、やはり…」と思いつつ、すぐにそっちへ行きましたが、果たしてずいぶん狭苦しい感じになって、クラシックというジャンルそのものはかろうじて残ってはいたものの、これまでのような広々した売り場と落ち着いた雰囲気は見事になくなってしまったのです。

棚の高さは以前よりもいくぶん高めのものになり、品揃え自体は極端に減らされたという印象ではありませんでしたが、これまでのゆったりとした売り場は召し上げられて、階下で他のジャンルとルームシェアさせられてしまったという印象は拭えません。

たしかに平日などはいつ行ってもがらんとしており、これだけの天神の一等地でそれに見合った収益をあげているようには思えなかったことは事実でしたし、いつの日か悪い方へと状況が変わるのでは?という思いは頭のどこかにあったので、まあ考えようによっては店そのもの、あるいはクラシックというジャンルじたいが撤退してしまわなかったことを良しとしなくてはいけないのかもしれません。

それはわかっているのですが、先日はさすがにいきなりだったもので、失望感のほうが大きく、ちょっとCD散策してみようかというような気分がすっかり失われてしまって、とりあえずは詳しくは見ないまま踵を返しました。
ちかいうちに再度行ってみて、気持ちを切り替えて詳しく見てみることになりますが、たしかにこれだけネットが発達して、音楽ビジネス自体も曲のダウンロードなど、CDという商品を購入すること自体も少なくなっているそうですし、わけてもクラシックなどはすっかり少数派になってしまっていますから、経営側にしてみればやむなき判断だったのだと思われます。

単純な話、これまでは3つのフロアでやっていた商売を、2つのフロアに圧縮してしまったというわけですが、たしかにあの広さの賃貸料だけでもたいへんなものだったと思われます。

以前は、天神には他にもHMVや山野楽器はじめいくつものCD店があちこちにあって、さて今日はどれに行こうかな?なんていう余裕に満ちた感覚だったものですが、いま思えば遠いむかしの夢のような時代だったということのようです。
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パイクのブラームス

なぜか日本での認知度と人気は今ひとつですが、クン=ウー・パイクという偉大な韓国人ピアニストがいます。
すでに60代半ばに達する年齢で、韓国ではこの巨匠の存在を知らない人はまずいないということですが、それはどこ人ということでなく演奏を聴けば当然だろうと思います。

実力に比べるとCDなどは決して多くはなく、印象に残るものとしてはプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲などがありますが、それはもう圧倒的な演奏で聴くたびに唸らされます。
最近ではついにベートーヴェンのピアノソナタ全集が出たようですが、デッカというメジャーレーベルにもかかわらず、なかなかどこの店でも売られてはいないのがまったく腑に落ちません。

それ以外でのパイクのCDとしては、2009年の録音でグラモフォンからブラームスのピアノ協奏曲第1番(エリアフ・インバル指揮チェコフィル)が出ていて当然のように購入しましたが、これがまた期待にたがわぬ素晴らしい演奏でした。
パイクのピアノはまずなんと言っても、いかにも男性ピアニストらしい雄々しく重厚なピアニズムと他を圧するテクニックがあり、音楽はあくまでも正統派というべき解釈に徹していますが、正統派という言葉につきもののアカデミックで秀才肌であるとか面白味の無さとは無縁の、10回聴けば10回感動できる、真の実力と本物だけがもつ内面から滲み出るような魅力を具えた稀有な存在だと思います。

一般的に、ブラームスのピアノ協奏曲第1番はどうしても曲の大きさが奏者の負担になっているような演奏、あるいはあまりにも管弦楽曲的な要素を帯びすぎた説明的な演奏が少なくありませんが、パイク&インバルの演奏では、まさにこれ以上ないというバランスが取れており、良い意味でストレートで、曲の偉大さやオーケストラ作品としての重要性、そしてピアノ協奏曲としてのソリストの立ち位置がすこぶる明確になっている、まったく最良の演奏だと思いました。
さらには新鮮味もありながらオーソドックスな安心感もあり、すでに何度聴いたかわかりません。
これまでの同曲のベストはロシアのマリア・グリンベルクが遺した二種類のライブ録音だとマロニエ君は思ってきましたが、久々にそれを忘れさせる名盤が登場したことに深い喜びを感じているこの頃です。

この曲は演奏時間が長いことと、聴衆に満足を与える演奏がとくに困難なためか、普段の演奏会でも取り上げられることはほとんどありませんが、数多いピアノ協奏曲の中でも何本?かの指に入る傑作だと思いますし、もしマロニエ君がピアニストだったら、どんなに演奏の機会が少なくても絶対にレパートリーにしたい一曲であることは間違いありません。
そしてこのパイクのCDを聴くことによって、その思いを再確認させられました。

そういえばこの曲でふと思い出しましたが、以前、あるピアニストと話をする機会があって、その方がこの曲を二台のピアノで弾いたということだったので、マロニエ君はこの作品の素晴らしさに対する思いを話したところ、その人はまったくこの曲の価値がわかっておらず、ただ長大なだけの、ブラームスの駄作のように言ってのけたのには、それこそ内心でひっくり返らんばかりに驚きました。
自分で実際に弾いてみてさえ、その値打ちがわからないような人に何を言っても無駄だと思って、こちらもそれ以上なにも言いませんでしたが、こういう人もいるのかという強烈な印象はいまだに記憶に残っています。

パイクの話に戻ると、併録された「自作の主題による変奏曲op.21-1」と「主題と変奏(弦楽六重奏曲op.18に基づく)」も聴きごたえじゅうぶんのまったく見事な演奏!
主題と変奏などは、ピアノソロでありながらあの弦楽六重奏の息吹をありありと表現しきっているのは、思わずため息がもれてしまいました。
なんとかしてベートーヴェンの全集を入手するほかないようです。
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不気味なショパン

昨年のことですが、ちょっと冒険して変なCDを買ってみたところ、それは予想を遙かに超える恐ろしいシロモノでした。

ジョバンニ・ベルッチ(ピアノ)、アラン・アルティノグル指揮/モンペリエ国立管弦楽団によるショパンのピアノ協奏曲第1番他ですが、この協奏曲はカール・タウジヒという19世紀を生きたポーランドのピアニストによって編曲されたものがライブで演奏収録されています。

とりわけオーケストラパートに関しては、編曲という範囲を大幅に逸脱しており、耳慣れた旋律が絶えず思わぬ方向に急旋回したり、まったく違う音型が飛び出してくるなど、突飛だけれども諧謔のようにも聞こえず、滑稽というのでもないところが、ある意味タチが悪い。
やたら頭がグラグラしてくるようで、聴いていて笑えないし、むしろその著しい違和感には思わず総毛立って、脳神経がやられてしまうようでした。

三半規管がやられる船酔いのようで、正直言ってかなりの嫌悪感を覚えてしまい、せっかく買ったので一度はガマンして聴こうとしましたが、ついには耐えられず再生を中止してしまいました。
こんなものを買うなど、我ながら酔狂が過ぎたと、その後はCDの山の中にポイと放り出したままでしたが、よほど身に堪えたのか、そのうちジャケットが目に入るのもイヤになり、べつのCDを上に重ねたりして見えないようにしていても、何かの都合でまたこれが一番上に来ていたりして、ついにはベルッチ氏の顔写真がほとんど悪魔的に見えはじめる始末でした。

ただこのブログの文章を書くにあたって、数日前、確認のためもう一度ガマンして聴いてみようと勇気を振り絞って、ついにディスクをトレイにのせて再生ボタンを押しました。
出だしはまるで歴史物の大作映画の始まりのようですが、序奏部は大幅に削除変更というか、ほとんど改ざんされ、驚いている間もないほどピアノは早い段階で出てきます。演奏そのものは、そんなに悪いものではありませんでしたが、はじめはそれさえもわからないほどに拒絶反応が強かったということです。

一度聴いて、大いにショックを受けていただけあって、今度は相当の気構えがあるぶん比較的冷静で、少しは面白く聴いてみることができました。はじめは、なんのためにこんな編曲をしたのか、この作品を通してなにが言いたいのかということが、まったく分からなかったし分かろうともしませんでしたが、少しだけそういうことかと感じる部分もやがてあらわれるまでになりました。

このCDには協奏曲のほかショパン/リスト編:6つのポーランドの歌や、ショパン/ブゾーニ編:ポロネーズ『英雄』/ブゾーニ:ショパンの前奏曲ハ短調による10の変奏曲なども収録されていますが、それらはしかし、なかなか優れた演奏だったと思います。

ジョバンニ・ベルッチという人は情報によると14歳までまったくピアノが弾けなかったにもかかわらず、独学でピアノを学び、15歳でベートーヴェンのソナタ全曲を暗譜で演奏できたという、ウソみたいな伝説の持ち主だそうですが、その真偽のほどはともかく、まあなかなかの演奏ぶりです。

ピアノについての表記は全くないのですが、ソロに関してはどことなくカワイ、コンチェルトではスタインウェイのような印象がありますが、そこはなんともいえません。

ベルッチ自身はイタリア人のようですが、このCDは企画から演奏まですべてフランスで行われたもののようで、こんなものをコンサートで弾いて、CDまで出してやろうというところにフランス人の革新に対する情熱と、恐れ知らずの挑戦的な心意気には圧倒されるようです。
ま、日本人にはちょっとできないことでしょうね。
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ソロピアノの第九

管弦楽の作品などをピアノ用に編曲したものは、本当に成功していると思えるものはそれほど多いとは思えず、マロニエ君はそれほどこの分野の賛成派というわけではありません。
しかし、昨年のコンサートで2台のピアノによる第九を聴いてからというもの、こういうものも必ずしも否定できない気になっていたところ、たまたまCD店にソロピアノによる第九があったので購入してみました。

ピアニストは名前だけは知っていたものの、実際の演奏は聴いたことのなかったマウリツィオ・バリーニで、まさにあのマウリツィオ・ポリーニと一字違いのウソみたいな名前のピアニストです。

以前、アンゲリッシュ(Angerich)というアルゲリッチ(Argerich)と非常に字面の似たピアニストがいることを知って驚きましたが、このバリーニというのもファーストネームまで同じだし、つい笑ってしまいます。

さて、その第九ですが、もちろん編曲はあのリストです。
リストはベートーヴェンのシンフォニーをすべてソロピアノに編曲していますし、2台のピアノ版もリストの手によるもので、その生涯に残した膨大な仕事量たるや恐るべきものだと思いますね、つくづく。
演奏はその曲目からしても当然かもしれませんが、ともかく大変な力演・熱演でした。
おそらくはソロピアノとしては最大限の迫力と入魂を貫いた、どこにも力を抜いたところのない、緊張と集中の連続による70分強です。

ただし管弦楽と合唱あわせて百人以上を要する作品を、まさにたった1人で演奏するのですから語り尽くせぬものがあるのは如何ともしがたく、やはりこれくらいの大交響曲になると、せめて2台ピアノは欲しいところです。
しかし、よくよく研究され練り込まれている佳演であることは素直に認めたい点でした。

むしろ疑問に思われたのはピアノでした。
なんと第九をソロピアノで演奏するのに、ファツィオリのF278を使っているのは、これはいささかミスマッチではないかと個人的には思いましたね。
ベートーヴェンの第九をソロピアノで演奏するということは、普通以上にピアノにも重厚で厳しいものが求められ、ピアノとしての器の大きさはもちろん、シンフォニックで多層的かつ強靱な要素が必要なのはいうまでもありません。
とくに音色に関してはドイツ的な荘重で厳粛なものが必要で、やはりそこは最低でもスタインウェイか、できればよりドイツ的なベヒシュタインのようなピアノであるべきではなかったかと思います。

ここに聴くファツィオリは残念ながら音に立体感がなく、ペタッとしたブリリアント系の音であることを感じてしまいます。バリーニ氏も全身全霊を込めながら演奏していますが、その表現性とこのピアノの持つ性格がまったく噛み合っていないというのが終始つきまとっているようでした。

逆にいうとファツィオリの弱点がよくわかるCDとも言えるかもしれず、深遠さというものがとにかくないので、フォルテやフォルテッシモが連続するとこの音や響きの底つき感みたいなものが随所に出てしまって、よけいに平面的になるばかりで、正直いって耳が疲れてくるのです。そして強い打鍵になればなるだけ音がますます蓮っ葉になってくる点がいただけない。
それはたぶん音としてどこか破綻しているからとも思うのですが、こういうドイツの壮大な音楽に対応するだけの懐はまだないと思われ、演奏が悪くないだけによけい残念です。

ファツィオリに向いているのは、スカルラッティとかガルッピのようなイタリアの古典とか、せいぜいモーツァルト、ロマン派でいうならショパンやフォーレ、メンデルスゾーンなどではないかと思います。

第九に話を戻すと、それでも何度か聴いているうちに耳が慣れてきて、やはりそれなりの聴きごたえを感じてしまうのは、ひとえに作品と、それに奉仕する真摯な演奏の賜物だと思われます。
素晴らしい演奏は、最終的には楽器の良し悪しを飛び越えるものだと思いますが、そうはいってもより相応しい楽器であるに越したことはありません。
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ホルヘ・ルイス・プラッツ

昨日の続きのような内容になりますが、ホルヘ・ルイス・プラッツという人はサラゴサでのコンサートライブCDを聴く限りでは、相当なピアニストのようです。

彼はロン=ティボーなどで優勝経験もあるようですが、そういった経歴云々よりも、とにかく聴いて訴えるところのある、今どき珍しい大型で懐の深いピアニストです。長くキューバはじめとする地域を活動拠点としていたために、その名はそれほどグローバルではなく、マロニエ君もこのCDではじめて知りました。

いかにも分厚い本物のピアニストらしい人で、写真を見ると恰幅も良く、太い指をしていて、技術的にもなにがきてもものともしない逞しさがあります。いまどきの効率よく器用に弾くだけの草食系ピアニストとは根本的に違い、聴く者を力強く音楽の世界にいざないます。
現在55歳ですから、ピアニストとしても最も脂ののった充実した時期になると思います。

収録曲はグラナドスの『ゴイェスカス』全曲、ヴィラ=ロボスの『ブラジル風バッハ第4番』、ほかレクォーナなどによるオール・ラテン・レパートリーで、その魅力的なプログラムと、そこに繰り広げられる骨格のある見事な演奏は正に大船に乗ったようで、久々に本当のプロのピアノ演奏に触れられたという充実感と満足がありました。

こういう器の大きさをもったピアニストは現代では絶滅寸前で、それだけどこかなつかしくもあり、安心してその演奏に身を委ねることができます。

その力量たるや重戦車のように逞しいけれども、繊細な歌心や音楽の綾なども豊富にもっていて、ピアニストとしてのスケールの大きさと、ステージ人として聴く人に音楽や演奏を楽しませるというプロ意識に溢れている点もこの人の大きな魅力です。
音量やテクニックなどもスーパー級だけれども、なにしろ音楽表現の大きさという点では圧倒されるものがあり、舞台に立つピアニストの資質というものをいまさらのように考えさせられました。

ステージに立つ演奏家は、演奏技術や音楽性は言うに及ばず、あえて人前で演奏するということの根本をなす意味を問うべきで、聴衆になんらかの喜びと満足を与えられなければコンサートをする意味がないわけで、ただ曲をさらってそれをスムースにステージ上で再現すればそれで良しと思い込んでいる人があまりに多すぎるように思います。そんな人に限って口を開けば「聴いてくださる方に少しでも感動を与えられたら…」などと大それたことを言ったりするのも、今どきのお定まりと見るべきかもしれません。

プロの演奏家は、言葉ではなく、演奏を通じて聴衆への奉仕をするという一面がどこかになくてはならないと思います。その奉仕のしかたはそれぞれで、これは決して単純な意味での娯楽性という意味ではないのですが、それを大衆迎合と勘違いしている人も少なくないようです。

手首から先はプロ級の腕を持った人が演奏していても、実体は自己満足的で、大人の発表会の域を出ないコンサートというのが非常に多いことに半ば慣れてしまっていますが、プラッツのようなしっかりした演奏を聴くと、コンサートというのは、ただ漠然と人前で演奏することではないと再認識させられるようです。

あくまでも全般的な話ですが、近年のピアニストは演奏を通じて音楽を総合的に統括するための主観的能力に欠けていると思われます。解釈などの点でもアカデミックで完成されたスタイルがすでに巷にあふれおり、自分の努力や感性によって心底から掘り起こされたものではないことも原因としてあるのかもしれません。

これは演奏者が創造者としての側面を失いかけているような気がしなくもありません。
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デッカの音

先のトリフォノフに続いてまた驚くべきCDに出会いました。
ホルヘ・ルイス・プラッツというキューバの名ピアニストが、今年の春、スペインのサラゴサでおこなったリサイタルがライブ収録されて、そのCDが出ているのですが、これがまたのっけからひどい音で、思わず「えっ?」という声が出るほど耳を疑いました。

レーベルはトリフォノフと同様デッカです。
デッカといえば、イギリスの名門中の名門で、とりわけ音に関してのクオリティの高さは定評がありました。色彩的で鮮烈なサウンドをもった作品の数々は、これまでにどれだけ楽しませてもらったかわかりません。

ショルティやアンセルメ、シャイー、パヴァロッティ、ピアノではシフやルプー、アシュケナージ、古くはバックハウスなどこのレーベルが生み出した名盤を数えだしたらキリがないほどです。
強いて言うなら、過去の録音では一連のラドゥ・ルプーの録音は名門というわりにはいいとは思いませんでしたから、まあすべてが名盤とは思いませんが。

いまはすべての業界が生き残りをかけてコストダウンなどに厳しく取り組んでいる世相だというのはわかりますが、そのぶん録音機械は発達して良くなっているはずですから、シロウト考えで、多少のコストダウンとは言っても、それを充分カバーできるだけの進歩した録音性能があるのでは?とも思うわけで、どうしてこんなヘンテコな音の商品が出てくるのか理解に苦しみます。

尤も、マイクなどオーディオの世界などは古い機材を名器などと言って高く評価する向きもあるようで、このへんの専門分野のことはマロニエ君はさっぱりですが、ともかくいい音とは思えないアイテムが多すぎるように感じることは事実ですし、それがかつて音質の良さで名を馳せた名門ブランドの商品だったりするだけよけいに驚きもするわけです。

オーディオのことはてんでわかりませんが、まず感じることは、いかにもマイクが安物だということです。
音は浅く広がりがなく、モコモコしていて、レンジの全体を捉えることが出来ていないから、目の前に迫ってくる大きな音ばかりを中心に平面的に捉えてしまっているように思います。

…にもかかわらず、ホルヘ・ルイス・プラッツは大変なピアニストで、これについては別項に譲りますが、ともかく今はこういう腹の底からピアノが鳴らせる人がほんとうに少なくなってしまって、久々にこういう演奏を聴いたように思います。その聴きごたえ充分の、雄渾きわまる演奏の素晴らしさが、いよいよこのまずい録音を恨みたくなるのです。
この程度の録音なら、はっきりいって現在ならちょっとこの道に詳しいシロウトでも充分可能ではないかと思われます。少なくともデッカのような名門のプライドを背負ったプロの仕事ではない。

昔のような理想主義的な仕事ができないご時世だというのはある意味そうかもしれませんが、それにしても今どきのCDの音質は、あまりにも玉石混淆だといえるでしょう。
本当に素晴らしいものがある一方で、エッ!?と思うような劣悪なものが混在しているのは、どういうわけか。
しかもデッカのような名門がこんな録音を平然と製品として世に送り出すこと自体、クラシックのCD市場が疲弊していることをいかにも物語っているようです。

せっかく名門レーベルからCDが出ても、これでは演奏家と、それを買った客が被害者ですが、まあそれでも演奏が素晴らしいから、やはりそれでも発売されたことは最終的によかったと思いますが…。
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続・南紫音CD

このCDで共演するピアニストは、この道(合わせもの)ではいまや世界的な定評を勝ち得ている江口玲さんで、相変わらず達者な演奏で共演者をたくましく支えます。日本での録音にもかかわらずピアノはニューヨークスタインウェイを使っていることは、聴くなりわかりました。

とりわけR.シュトラウスのあの絢爛としたソナタ、情熱と怠惰が交互に入れ替わるような華やかだけどどこか不健康さの漂う作品世界には、ニューヨークスタインウェイ独特の、焦点がどこかずれて見えるようなゆらめく陽炎のような響きと淡い中間色を持つピアノがとても合っているように感じられました。

とくに弦との合わせものでは、ニューヨークスタインウェイはしっかりした存在感はあるにもかかわらず、どんなにフォルテで弾いてもピアノが過度に出しゃばらずに相手と溶け込んで、音楽がより幻想的になるところが好ましい。

楽器といえば南さんの奏でるヴァイオリンの非常に良く鳴ることにも驚きました。
先日のテレビでは、見たところ楽器はわりにきれいで、よく目にするキズだらけなオールドヴァイオリンのようには見えませんでしたから、もしかしたら優秀な新作ヴァイオリンでは?とも思いました。
しかし、調べてみると彼女は現在、日本音楽財団からグァルネリ・デル・ジェスを貸与されているとかで、あるいはそれだったのかもしれませんが、これ以上の正確なことは不明。

CDジャケットの写真の楽器はいかにもオールドヴァイオリンのようで、このCDではそのグァルネリ・デル・ジェス(「ムンツ」1736年製)が使われているようですが、これがまた素晴らしい音でした。

とにかくすごい鳴りなんだけど、ストラディヴァリウスのようなどこまでも艶っぽい極上の美の世界とは少し違う、そこに若干の野趣と男性的な要素があるというか、逞しさと陰みたいなものの混ざり込んだヴァイオリンだと思いました。
それをまた女性奏者が魂を込めて鳴らすところが、なんともいいマッチングでしたね。

マロニエ君の印象では、絵画や宝石のように完成された深みのある美音が天にまで昇っていくようなストラディヴァリウスに対して、グァルネリ・デル・ジェスは、もう少し人間臭さみたいなものがあり、しかも最後のところを演奏者に下駄をあずけているところがあって、そのちょっと未完の部分がヴァイオリニストの音楽性とテクニックによってまとまっていくタイプの楽器だと感じました。

この、奏者の手腕が介在する余地が残されているようなところがまた魅力で、演奏によって楽器もさまざまに表情を変えるという、ストラドとは違った妖しさがあって、この点でも深い感銘を覚えました。

すべてが輝くような美しさにあふれているのも素晴らしいけれども、グァルネリの、演奏されることによって何かが目の前に生き返るような部分はちょっと抗しがたい魅力です。
この特性のためでしょうか、グァルネリ・デル・ジェスのほうが、奏者の筆致が露わで、より鮮度の高い音楽を聴いているような気になるようです。
あくまでもマロニエ君の印象ですが…。

通常なら最もありがちな組み合わせとして、ストラディヴァリウスとハンブルクスタインウェイといったところですが、グァルネリ・デル・ジェスとニューヨークスタインウェイというのはこの組み合わせだけでもとても新鮮な印象を受けました。
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南紫音CD

以前書いたように、イザイのヴァイオリンソナタを聴いて驚愕し、南紫音さんの演奏に文字通り魅了されてしまったマロニエ君としては、ともかくCDを1枚買ってみることにしました。

現在CDは2枚リリースされており、とりあえず新しいほうのアルバムを買いました。
曲目はR.シュトラウスとサンサーンスのソナタを中心において、ドビュッシーとラヴェルの小品が間を埋めるという構成でした。

やはり、ここに聴く南さんの演奏も力強く躍動する若々しさと、深く老成したものが互いにメリハリをもって同居する素晴らしいものでしたが、セッションであるだけにより腰を据えてみっちり丁寧に演奏しているという感じでした。
しかもそれは、いかにもレコーディング用といった慎重一辺倒のキズのない、きれいな製品作りみたいな演奏ではなく、あくまで自分の感興に乗ってドライブするという基本がそのまま維持されているために、音楽に不可欠の一過性や即興性も備わり、大いに聴きごたえがあって、極めて好ましいものでした。

音楽の在り方、演奏の在り方はさまざまでこれが正解というものはないけれども、やはり基本的には生命力と燃焼感、つまり演奏者の心の反応と呼吸がその中心を貫いていることが音楽の大原則であり、そこが最も大切だと思うマロニエ君です。
それと、音楽に奉仕するという精神と品位が保たれていなくてはならない事も忘れてはなりません。

とくに近年ではクラシックの人はこういう音楽の基本をもうひとつ忘れがちで、評論家受けするような要素にばかり重心をおいたような、思わせぶりなシナリオのある演技のような演奏をする人が多いのは甚だつまらないことだと思っているところです。
音楽はどんなに緻密に準備し研究されたものであっても、生命感を失った、表面的なものに終始するとその魅力も半減です。

現在は演奏技巧の訓練という点にかけては科学的なメトードの進化によって、高度な技術を身につけた若い演奏家はあふれるようにいるわけで、そこでは心の空っぽな、自分の技術と能力を見せつけるために音楽作品をむしろ道具のようにしているような演奏が氾濫しています。

一度はその発達した技巧に驚いたこともありましたが、その手合いは次から次に登場してくるわけで、もうすっかり食傷気味なのは皆さんも同様だろうと思います。極端に言えば、だからもう技術ではほとんど勝負にならず、再び音楽の質こそが問題になったと思われます。

その点で言うと、南紫音さんの演奏は、技巧ももちろん素晴らしいけれども、音楽に血が通っており、内面の奥深いところから鳴り響いてくるものがある点がなによりも聴き手に訴えてくるわけです。

もうそろそろ日本の聴衆もくだらないビジュアル系だの背景にある人生ドラマなどから脱却して、本物だけが正しい評価を受けて認められ、末永く演奏を続けていかれる環境になることを望むばかりです。

そして現在の彼女の演奏に敬意を表するマロニエ君としては、この先下手な留学などしないことを望みます。というのもヨーロッパのある天才少女が、アメリカの名伯楽といわれるヴェイオリンの教師の許に留学したばかりに、結果はひどく凡庸で俗っぽいヴァイオリニストになったことも知っているので、そういう道だけは進んで欲しくないと思うところです。

音楽雑誌を立ち読みしたところによれば、来年は紀尾井ホールで念願のフランクのソナタなどをプラグラムに入れたリサイタルがあるようで、こっちにも流れて来ないだろうかと期待しているのですが…。
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田舎のショパン

調律師の方が調整後の状態を確認するために来宅された折、マロニエ君がよほど音楽が好きだと思ってくださったのか、前回に続いて、また手土産にCDをいただきました。

江崎昌子さんのピアノによるショパン:エチュード全集で、3つの新練習曲を含めた27曲がおさめられたアルバムでしたが、事前の説明によると、いわゆる流麗なショパンではなく、ポーランドの土の香りがするような田舎臭い、ごつごつとしたショパンとのことでした。

聴いてみるとあまりにもその言葉通りの演奏で、可笑しくなるほどでした。
曰く、日本の演歌と同じでポーランド人はこういうショパンを聴いて涙するのだそうで、きっとそこにはポーランド人の心が創り出した、半ば偶像化されたショパンがあるのだろうと思います。
ピアニストの江崎さんは桐朋卒業後にポーランドに留学して、彼の地のショパンを我が身に刻み込んだ方のようですが、ともかくショパンから洗練やしなやかさを全部洗い落として、ひとつひとつの音符をガチガチの楷書で書いたようなピアノです。

すぐに思い起こされるのは、先月のコンサートで聴いたヤブウォンスキはじめ、ツィメルマン、ハリーナ・ステファンスカ、オレイニチャクなど、一連のポーランドのピアニストたちが己が魂をピアノに叩きつけるようなショパンであり、病弱でパリの社交界の話題であった繊細優雅なショパンではなく、ポーランドが国を挙げて誇りとする祖国の英雄の姿なのです。

彼らはショパンの音楽をまるでベートーヴェンのように太く真正面から捉えますが、そのぶん細部の陰翳にこそ心を通わせるようなショパンではなく、すべてを偉大な音楽として肯定しようとするところが、マロニエ君などはちょっと違和感を覚えてしまうのは如何ともしがたいところです。
まあ、みんながみんな洗練されたショパンを弾かなくてもいいのですが、あえてこちらの道を選び取る人がいることに感心させられますし、この土台の上に、さらに日本の精神文化を加味した先輩格が遠藤郁子さんだろうと思います。

ともかくもパリの優雅とは訣別した、男性的で哀愁あふれる高倉健みたいなショパンがそこにはあるようで、それを極限まで追求した江崎さんの演奏は、その真摯さ一途さという点においては一聴に値するものとは思いました。
ここに聴く江崎さんの演奏は、すみずみまで己を訓練し鍛え尽くした末の、ひとりのピアニストの仕事の記録としてはとても見事なものだとは思うのですが、いささか気負いばかりが先行した演奏だと感じました。

ひとつには江崎さんの身につけたピアニズムにも原因があるのかもしれませんが、あまりに熱唱、全力投球が前面に出てしまって、ポーランド人は涙するにしても、ニュートラルな判断としてはいささか音楽に呼吸が足りない。
全曲をなにしろ力づくで弾き通したという印象が強いために一曲ごとの個性が却って不鮮明で、全体がひとつの組曲のような印象になってしまっているように感じました。

ライナーノートを読むとご当人はこのエチュードには大変な思い入れがあったのだそうで、以前も一度録音されたにもかかわらず、このCDは二度目の録音だというのですから、ご当人はよほど入魂の演奏だったようです。
その甲斐あってか、このレーベルのピアノソロとしてはよく売れているのだそうで、その理由のひとつには優秀な録音がオーディオマニアの間でも評価が高いこともあるのだとか。

ピアノは山形テルサのスタインウェイをこの調律師さんが調整されたものですが、ピアニストの演奏があまりに全力疾走気味なために表現の幅広さなく、音も平明になり、この方のせっかくの音造りの妙技が前回ほど克明にあらわれていなかったように感じました。

そもそもマロニエ君に言わせれば、この江崎さんの目指すようなポーランドテイストには、スタインウェイは甘くブリリアントに過ぎて、いっそペトロフのような哀愁漂うピアノのほうがその音楽的指向にも合っている気がしますし、まあ日本で準備できるピアノでいうならシゲルカワイなどのほうが向いているように思いました。
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CDの打率

あるとき、本当に音楽のわかる方(変な言い方ですが)と話をしていたら、常々マロニエ君が心に秘めていることと全くおなじことを言われたのにはびっくりしました。もちろん嬉しいほうに。

それはひとことで言うと、コンサートであれCDであれ、内容がつまらないものは要するにつまらないのであって、そういうものに我慢して触れているときほどばかばかしくて時間と労力の浪費を痛感することはないというものでした。

とくにマロニエ君が激しく共感したのは、つまらないコンサートに行って生あくびを噛み殺しているよりは、家で気に入ったCDでも聴いているほうが遙かにマシだということでした。
マロニエ君もまったくそれで、優れたCDに聴くことのできる高度な演奏と、それを支える美しい音には圧倒的な世界があるのであって、これは少々の生の演奏会が凌駕できるものではなく、努々CDを馬鹿にしてはいけないということです。

ところが、世の中には「音楽は生に限る」というのを正論だと単純に思い込んで、いまさらみたいなこの建前を強く信じ込み、他者に対してもこれを堂々と繰り返す人がいるわけです。

要するに音楽とは、まずもって生の演奏こそが最上最高のものであって、その点ではCDなどはまがい物の、ウソの、造花のような世界で、非音楽的なもののように主張してきます。生演奏にこそ音楽の本源的な魅力が宿っていて、今そこで生まれ出る演奏こそが真の音楽であり、音も何ものにも侵されない、楽器から出た音が空気を振動させて直接我々の耳に到達する、これぞ本物だと自信をもって言い切ります。

CDなどは音質も人為的に変えられるし、編集なども思いのままで、そうして作られたつぎはぎだらけの虚構の演奏に真の感動などは得られないし、そもそも信用ができないというわけです。
彼らに言わせると、CDはまるで整形美女がスタジオで撮った写真に、さらに修正を加えたものといわんばかりのニュアンスです。

でも、マロニエ君に言わせれば、いくら音質が変えられるとはいっても、基本的に鳴っているものは、それは演奏家の持ち味であれ楽器の音であれ、その本質はどうにも変えようがない。
機械の力でありとあらゆることが可能なようであっても、意外に本質的な部分は変えられないのであって、その証拠に、最近のようにコスト重視の劣悪な録音が、そのまま堂々と店頭に並ぶのはどういうわけだと思います。
本当にどうにでもなるのなら、劣悪な録音でも、最高の輝く音に磨き上げて発売されるはずでは?

CDにも優劣さまざまで、中にはなんだこれは!?と思うようなものもありますが、本当に優秀な録音、素晴らしい演奏、そして楽曲、最高に調整された楽器と、三拍子も四拍子も揃ったものもあるのであって、こういうものを聴く喜びと充実感は非常に純度の高い高度な音楽体験であるとマロニエ君は思います。
同時に、いかに実演実演といってみても、実際のホールでは残響の問題やらなにやらで、純粋に音としては多くの好ましからざる問題を抱えているのも現実ですし、同時に演奏も玉石混淆で、実際に聴いていて、せっせと出かけてきてはこんなつまらないコンサートをガマンして聴いている自分がアホらしくなることも決して珍しくありません。

音楽というものは衣食住ほど差し迫った必要不可欠ではなし、ないならないで人は生きていけるものであるだけに、いわば心の贅沢領域であって、これに触れる以上は一定水準以上のレベルというものを期待したいし、それによって心に満足と潤いが欲しい。
とくに実演でつまらない演奏に触れたときの持って行き場のない、どんより暗い不快感と疲労感は、なんとも表現しがたいものがあります。上記の逆で、何拍子も悪条件の揃った生演奏というのもあるわけで、そんなものに行き当たったが最後どうしようもない。

その点、CDの打率の高さは、実演がはるかに及ばない次元だと思いますが、音楽愛好家にとって実演に期待しないという意見はなかなか表明しにくいものでしたが、しかしこれは現実であって、この方のおかげでマロニエ君もちょっとここに書く気になりました。
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幻想即興曲

横山幸雄のプレイエルによるショパンピアノ独奏曲全曲集は、7/8/9巻が発売されいよいよパリ時代の佳境に入りました。

正直いってこういう全集は一括してならまだしも、順次発売されていくのは、途中で気分がダレてくるときもあるものです。
他に欲しいCDもあるのに、店頭で目に入れば、途中で打ち止めにする決意をしない限り購入し続けなければなりませんし、正直気分も常にそちらを向いているわけではないので、あぁ…とため息が出たりもするのですが、まあ乗りかかった舟ですから、気を取り直して購入しました。
それに全集物などは、キチッと揃っていなければ気の済まないマロニエ君の性格もありますし。

横山氏のピアノはあいかわらず安定した仕事というべきで、確かな平均値を保持した演奏が続いています。
もちろんその中にも僅かな出来不出来はあるわけだし、マロニエ君の好みに合うものと合わないものがあれこれと含まれますが、概ね一貫した足取りで着実に録音が進められているのは大したものだと思います。

今回の発売分の中には有名な「幻想即興曲」が含まれているのですが、この曲はあまりにも有名で、ショパン本人が友人に破棄するように頼んでおいたといわれるほど本人も満足できない作品だったという話もありますが、結果的には超有名曲になってしまっています。
そのせいか、いまさらこれをCDで進んで聴こうという気にもなれない人も多いはずです。

ところが、横山氏はこの幻想即興曲を、かつて聴いたことがないほど見事に弾いています。
あの特徴的なオクターブに続いて開始される左手のアルペジョの上に、まるで一塵の風が吹くように右手の細やかな旋律が流麗に乗ってきます。
テンポもやや早めで、繊細で、軽やかでしかも劇的、ショパンが着想したときにはこのようなイメージを頭の中に思い浮かべたのだろうと思われるような素晴らしく際立った演奏でした。
旋律はまるで波打つ線のように、グリッサンドのようにうねりながら深い悲しみを露わにします。

これまでに聴いたどの演奏よりも秀でた理想的なもので、この歳にして、はじめてこの曲の真価がわかったようで、これ一曲でも買った甲斐があったというものです。
スケルツォの2番などもなかなかの秀演。

横山氏の演奏にはどうかするとドライで情緒不足に感じるものも少なくないのですが、たまにこういう大当たりがあって、そういうときは非情に嬉しくなるものですし、やはり大した潜在力をもったピアニストだなあと感心してしまいます。

こういう傑出した演奏をいっぽうで支えているのがプレイエルの音で、まさにこれは音色・奏法ともにフランスのショパンであり、ポーランドのそれとは大いに趣が違うところが注目すべき点でもあります。

また「ん?」と気が付いたことは、このあたりになってくとピアノ音に明らかな変化が起こってきていることです。
以前に何度か書いたことがありましたが、このピアノはスタート時から舌を巻くほどに素晴らしく調整されていたのですが、そのあまりに巧緻な水も漏らさぬ調整が、この100年も前のプレイエルに相応しいものかという点ではいささか疑問の余地があったのです。

それがだんだんとほぐれてきたというか、本来のプレイエルのトーンをやや取り戻してきている気がするのは嬉しい発見でした。おそらく調律の観点が変わってきたのではと思われるのですが、以前に見られた完璧主義みたいな気負いが取れて、より自由に歌うプレイエルに近づいてきたようで、この点も好ましい限りです。
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遅かりし発見

調律師の方がピアノの調整に来宅された折り、思いがけなくCDを頂戴しました。

この方は、さるドイツのヴァイオリニストのリサイタルのときに使われたピアノの調律の見事さに、マロニエ君がいたく感激してしまい、どなたかを辿って特約店へ問い合わせて、めでたくご紹介をいただき、ついに我が家へ来ていただく事となって、この日は2回目の調整でした。

この方はコンサートの仕事が多いようで、いただいたCDのピアノもこの方の調律によるものです。

ヴァイオリンは豊嶋泰嗣さん、ピアノは美輪郁さんというコンビで、クライスラー、サンサーンス、ガーシュウィン、コルンゴルト、シマノフスキほか、多彩な作品が収められたCDです。
レーベルはEXTONというCD店でもよく見かけるものです。

はじめは音を出さない作業なので、よかったらかけてみてくださいと言われ、さっそく新品のセロハンを切って真新しいディスクをプレーヤーにのせてみました。
冒頭の曲はクライスラーのギターナ(ジプシーの女)でしたが、いきなり飛び出してきたその張りのある艶やかな音、腰のすわった技巧の上に広がる大胆かつしなやかなその演奏にはホォ…と驚きました。それはまさに一流プレーヤーにしか出せない磨かれた音だったのです。本当にいい演奏、いいCDというのは、極端な言い方をすると聴いた瞬間にわかると言っても過言ではありません。

ピアノの美輪郁さんがこれまたヴァイオリンをしっかりと支えた素晴らしい演奏で、曲への理解も深く、出過ぎず隠れすぎずの、まさに理想的なピアノでした。

そしてさらにそのピアノの音はというと、以前ホールで聴いた正にあのピアノだったのです。
といっても同じピアノというわけではなく、会場もピアノもまったく別のものですが、その調律がまったく同じで、その時の記憶がたちまち蘇りました。
それほど調律には個性と、形と、技術者の音に対する志向や価値観が色濃く投影されているものであって、それはでもまったく別のピアノ(メーカーは同じ)であるにもかかわらず、以前の記憶といま目の前で聴いている音が、ピタリと一致するという不思議な体験でした。

ところで、豊嶋泰嗣さんという方は、ずいぶん前から九州交響楽団のコンサートマスターをされていて、お名前と存在はよく知っていましたが、肝心の演奏にはほとんど触れたことがありませんでした。
一度だけ、ずいぶん前にいろんな奏者が出演するドビュッシーだけのコンサートがあり、2台のピアノやらチェロなどあれこれとプログラムされていた中、最後のトリをこの豊嶋氏率いる4人が弦楽四重奏を演奏したことがあり、そこで目のさめるような集中力と音楽の勢いにハッとして聴き入った覚えがあったぐらいでした。

マロニエ君はそもそもオーケストラのコンサートマスターをやっていた人のソロというのは昔からどうにも好きになれず、ソロとコンマスは同じヴァイオリンを抱えても、そこには埋めがたい隔たりがあるというのが自分なりの認識でしたから、豊嶋氏の演奏にもその先入観からこれまでなんの興味もなく、したがってこれという演奏を聴いたこともありませんでした。

そこへ突如として降って湧いたようなこのCDの素晴らしさはどうでしょう! 
軸がしっかりしていてパワーもあり、繊細な表現も見事にこなしながらさまざまな性格の多種多様な曲を次々に鮮やかに聴かせていく手腕は、まさに目からウロコでした。

ながらく九響のコンマスであったが故に、マロニエ君にとっては却って灯台もと暗しとなったのは、ただただ自分の不明を恥じるばかりでした。
なんの誇張もなしに、この人は世界で通用する器を持った人だと思いました。
聴いてみたいと思ったときには、豊嶋氏はもう福岡にはおられず、ああ、なんたる事かと思うばかりです。
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リヒャルトへの耽溺

音楽は他の芸術にくらべると、もっとも悪徳の少ないジャンルだと何かで読んだことがあります。

人が音楽から受ける刺激は直接的なのに抽象性というフィルターを通していて、とりわけ文学のように悪徳の花が咲き乱れるということは、ゼロではないにしても、きわめて少なく、いわば音楽には善玉コレステロールが多いと言うことでしょうか。

でも中には例外があるのであって、その際たるものはヴァーグナーの類かもしれないし、いったんこの広大な海に溺れた者は容易なことでは健全な陸に帰ってくることは稀なようです。
そして最近ちょっとマロニエ君が溺れ気味なのがリヒャルト・シュトラウスなのです。

過去にも何度かこれにはハマった時期があって、オペラなども大作がたくさんあるし、いくつかの管弦楽の名曲、とりわけ交響詩やピアノの入るブルレスケ、あるいは4つの最後の歌などは、まさに豪華絢爛と頽廃の極みで、そのまるで腐りかけの、最も甘味の増した果物のような怪しくも豪奢な響きは、これはもはや悪徳の領域に頭だか片足だかを突っ込んでいるがごとくです。

そして最近、このブログにも書きましたがブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレによる《ツァラトゥストラはかく語りき》と《ドン・ファン》を聴くようになって、すっかりリヒャルト病が再発してしまいました。
とくに今回は演奏からくる魅力が加わっているために、いっそう重症となっている気配です。

リヒャルト・シュトラウスはとりわけドイツ系の多くの指揮者が手がけていますから、いずれもキチンとした演奏ではありましたが、カラヤンのような人はどうしてもその音楽の聴かせどころをかいつまんでデラックスに強調するし、ベームなどはむしろこの病んだ世界を四角四面に演奏しすぎる印象がありました。
アバドなどはその点では、はるかに柔軟で現代的な鮮やかさをもって聴かせたのは必然でしょう。

ブロムシュテットの演奏を聴いてわかったことは、リヒャルト・シュトラウスだからといって世紀末的に官能的に崩したような演奏をせず、むしろ理詰めの整然たる演奏の中から見え隠れする頽廃であるほうが、作品の凄味みたいなものが倍増するということです。
いかにもドイツ音楽然とした、組織立って容赦なく押しまくるような演奏をしたときに出てくるその怪しい香りは、気分が高揚しながらも神経のどこかが麻痺していくようです。

リヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品はいずれもオーケストラの性能を極限まで使い切るようなところがあり、《ツァラトゥストラ》の各所での分厚い官能的響きは、それだけで平常心が奪い取られていくようですし、また《ドン・ファン》のような作品は、音楽を聴いているというよりも、むしろもっと別の体験をしているような錯覚に陥ります。
例えばポルシェや重量級のメルセデスでアウトバーンを超高速で疾走しながら、じりじり迫ってくるアルプスの高い峰などを眺めているような、非常に独善的かつファナスティックな快楽に身を浸すようです。

ドイツものというのは音楽に限りませんが、厳格な土台の上に、快楽主義的な狂気が真面目な顔をしながら踊っているようで、いったんそこに落ち込むと、容易なことでは抜け出せない恐ろしさがあるように感じることがあります。
逆説的に見ると、ドイツこそは根底のところに最も不健全なものを隠し持った国かもしれない…ちょっとそんな気がしてくるのです。
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ふたつの未完成

ファツィオリの音を聴く目的で購入したトリフォノフのショパンのCDでしたが、ショパンやチャイコフスキーのコンクールであれだけの成績をおさめた人である以上、きっと何かしらこれだというものがあるのだろうと思い、何度も繰り返し聴きましたが(おそらく10回以上)、どう好意的に聴いても、虚心に気持ちを切り替えて接しても、ついに何も納得させられるものが出てこない、まことに不思議なCDでした。

この人の演奏にはこれといったスタイルも筋目もなく、作品への尊敬の念も感じられません。
ロシアには普通にごろごろいそうなピアノの学生のひとりのようにしか思えないし、そこへ輪をかけたようにファツィオリの音にも一流の楽器がそれぞれに持っているところの格調やオーラがないしで、ダブルパンチといった印象でした。

ショパンコンクールに入賞直後の人というのは、ショパンを弾かせればとりあえずビシッと立派に弾くものですが、この人はなにかちょっと違いますね。体がしっかり覚え込んでいるはずの作品においても、必要な詩情とか音楽が織りなすドラマの完成度がまったく感じられず、コンクールを受けるために準備した課題の域を出ず、アスリート的な気配ばかりを感じます。少なくとも音楽として作品に奏者が共感しているものが感じられないし、内から湧き出る情感がない。
解釈もどこか中途半端で、いわゆる正当なものがこの人の基底に流れているとは思えず、こういう人が名だたるコンクールの上位入賞や優勝をしたという事実が、なんとも釈然としない気分になりました。

あんまりこればかり聴いていると、味覚がヘンになってくるようで、なにか気に入った美味しいもので口直しをしたい気分になりましたが、咄嗟には思いつかず、差し当たりすぐ手近にある関本昌平のショパンリサイタルをかけました。

するとどうでしょう。
どんよりと続いた曇天の空がいっぺんに晴れわたったような、思わず両手を広げて深呼吸したくなるような爽快感が広がりました。
関本氏は2005年のショパンでは4位の人で、これは成績としてはトリフォノフよりひとつ下です。
しかし演奏はまことに見事で、折目角目がきちんとしているのに、密度の高い燃焼感が感じられて、聴くにつけその充実した演奏に乗せられてしまい、日本人は本当に素晴らしいんだなあと思います。

ピアノはヤマハのひとつ前のモデルであるCFIIISですが、これがまたよほど調整も良かったのか、ファツィオリとは打って変わって、聴いていていかにもスムーズで洗練された心地よいピアノでした。
上品で、音のバランスもよく、一本の筋も通っています。
音楽性については、むしろ今後の課題だと思っていたヤマハでしたが、このときばかりはその点も非常に優秀だと思いました。人間、どうしても相対的な印象は大きいです。
やはりコンサートピアノはこのように、それを聴く聴衆の耳に美しく整ったものでなくてはダメで、音色や響きをどうこういうのはそれからのことだと思います。

ファツィオリはスタインウェイ一辺倒のピアノの業界に一石を投じたという点では、大変な意義があったと思いますし、それは並大抵のことではなかったことでしょう。とくにパオロさんという創業者にして社長の情熱には心から尊敬の念を覚えますが、現在のピアノの評価としてはマロニエ君はちょっとまだ納得いかないものがあるのも事実です。

非常に念入りに製作された高級ピアノというのはわかりますが、要するにそれが音楽として空間に鳴り響いたときにどれだけ聴く人を酔わせることができるか、これが楽器としての最終的な目的であり価値だと思います。

その点でファツィオリはいろいろな個別の要素は優れているかもしれないけれども、今はまだ過渡期というべきで、それらが有機的に統合されていないと感じるのです。
今の段階では、とても良くできているんだろうけれども、要は「街の工房の音」であって、完成されたメーカーの個性を問うには、まだまだ乗り越えるべきものが多くあるような気がします。

そういうわけで、トリフォノフとファツィオリはなんだか妙な共通点があると思いました。
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最新のファツィオリ

またしてもヘンなCDの買い方をしてしまいました。

ダニイル・トリフォノフのショパンで、先ごろデッカから発売されている新譜です。
この人は昨年のショパンコンクールで3位になり、今年のチャイコフスキーではついに優勝まで果たしたロシアの青年。これまでに接したコンクールのCDや映像、あるいはネットで見ることの出来る演奏などに幾度か触れたところでは、全くマロニエ君の興味をそそる人ではなかったものの、このCDの購入動機は専ら使われたピアノにありました。

そのピアノはファツィオリで、前半が最大モデルのF308、後半がF278という二つのピアノが使われているし、録音は一流レベルのデッカで、いずれも昨年の録音です。
トリフォノフはファツィオリ社がいま最も期待をかけるアーティストで、その彼のメジャーレーベルのデビューアルバムともなれば最高の楽器を準備していると考えられ、いわば「ファツィオリの今の音」を聴いてみるには最良のCDだろうと判断したわけです。
ただしかし、最近のCD製作はコストダウンが横行しているらしく、このアルバムもふたつのコンサートからライブ録音されているようでした。

第1曲のロンドの出だしからして、いやに音がデッドで、ホールはおろか、最近はスタジオでのセッション録音でもこんな響きのない音は珍しいので、まずこの点でのけぞりました。しかし、その分ピアノの音はより克明にわかるというもので、これはこれで目的は達すると考えることにしました。

音に関しては、今をときめくファツィオリで、さらには国際コンクールなども経験し、いよいよ佳境に入っていることだろうと思ったのですが、予想に反して不思議なくらい惹きつけるところがない。
だいいち音があまり美しくないし、深みがなく、楽器としての晴れやかさがない。
倍音にもこだわったピアノと聞いていますが、それが有効に効果を上げているようにも聞こえないし、むしろ寂寞とした感じの音に聞こえたのは意外でした。
なにより音が詰まったようで、ちっとも歌わないのがもどかしく、「イタリアのベルカントの音」なんて喩えられますが、はぁ…という印象です。
音そのものより、楽器の鳴りに抜けと軽さがなく、むしろ鳴り方は重い印象でした。

元来イタリアのものは、どんなものでも光りに満ちて色彩的というのが相場ですが、その点でも肩すかしをくらったようでした。F308などは、奥行きが3m以上もある巨大さは一体何のため?と思うほど、音楽的迫力も豊かさも感じません。
どことなく無理に音を出しているという印象で、その点ではむしろF278のほうが多少の元気さとバランス感もあり、いくらか良い感じですが。

ファツィオリは、新興メーカーにもかかわらず高級ブランドイメージの確立には成功しているようですが、その音はあまり個性的とは言えず、むしろ今風の優等生タイプにしか聞こえませんでした。
以前、マロニエ君はファツィオリはどこかヤマハに似ている、いわばイタリア国籍の高級ヤマハみたいなもの、という意味のことを書いた覚えがありますが、今回もほぼおなじように感じました。

そして皮肉にも、そのヤマハのほうが現在ではCFXによってうんと新しい境地を切り開いたと思います。
少なくともCFXには今のヤマハでなくては作れない、ピアノの新しい個性があるけれども、どうもファツィオリのピアノにはこれだという明瞭な何かを感じないのです。従ってヤマハといっても昔のヤマハに似ているというべきでしょう。

聞いた話では、ファツィオリは間近ではとても大きくわななくように鳴るのだそうですが、それがどうも遠くに飛ばないのかもしれません。
だから、このピアノに直接触れてみた人は、ある種の要素には何らかの感激を覚えるのかもしれませんが、普通に鑑賞者として距離をおいて、演奏される音だけを聴く限りにおいては、どこがいいのやらサッパリわからないところがあるのだろうと思います。

もしかしたらマロニエ君の耳と感性が及ばないのかもしれませんから、それなら誰かにファツィオリの魅力はなへんにあるかをぜひとも教えてほしいものです。
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山本貴志と関本昌平

共に2005年のショパンコンクールで4位に入賞した二人の日本人、すなわち山本貴志と関本昌平のCDを立て続けに聴いてみました。

もとは山本貴志のコンクールライブをCD店のワゴンセールで買い求めたことがきっかけで、ついで関本昌平のデビューCDを聴き、さらに同氏のコンクールライブを購入、最後に山本貴志のノクターン集と都合4枚を聴いたわけです。

コンクールの結果が共に4位であったことが示す通り、いずれも実力は拮抗しており甲乙付けがたい素晴らしいピアニストだという点では大いに納得しました。
コンクールで日本製ピアノを使っている点でも、二人は共通しているようです。
強いていうなら山本貴志が詩的で高い完成度を目指しているのに対して、関本昌平はよりパワフルで燃焼感のある演奏というふうに区別できるような気がします。

山本貴志は大きな冒険心や霊感の発露がないかわりに、きめの細かい隅々まで神経の行き届いた均整の取れた演奏をコンクールでも披露して、その端正でデリケートな美しさがワルシャワの地でも多くの支持を得たようです。
どちらかというとブレハッチ型の演奏ですが、その繊細を極めた心情には日本人ならではのクオリティと美意識が伺えて、ブレハッチよりもさらに上を行くほど姿の整ったショパン演奏を実現した弾き手だと思われます。
対する関本昌平には演奏に力感が漲り、ショパンの音楽が崩壊しない範囲においてピアニズムを輝かせながらガッチリとした重力と推進力があるのがなんともいえぬ魅力で、非常に聴きごたえがある。

関本昌平のデビューCDは日付を見ていると、なんとショパンコンクールの直前に栗東のホールで収録されており、これはコンクールを控えてよほど弾き込んでいたのか、ともかく傑出した演奏だと思いました。曲目もコンクールライブとほぼ重複したものですが、セッション録音だけにより自分の魅力を十全に発揮しているといえますし、ピアノも録音も非常に満足の高いものでした。
コンクールライブでは一発勝負ならではの緊張感や粗さ、わずかなミスなどもありますが、基本は似た感じの演奏でした。

一番の違いはピアノで、セッション録音ではヤマハのCFIIIS、コンクールではカワイのSK-EXを弾いていますが、この両者に関する限りではCFIIISのほうがはるかにピントが合っていて。モダンで華もあり、ショパンにはマッチしていると思いました。

反対に山本貴志はコンクールでもCFIIISを弾いていますが、これはこれで非常に彼の演奏に適した賢い選択だったと思いました。これがスタインウェイでもカワイでも、彼の明晰でセンシティブな演奏の魅力は表現できなかったかもしれません。

どれもが素晴らしいCDで大いに満足していたのですが、最後に聴いた山本貴志のノクターン集は昨年夏、山形テルサで3日間を費やして収録されたもののようですが、その録音が芳しくない点は落胆させられました。
全体的に何かが詰まったようなモコモコした音で、これでは演奏の良し悪しもピアノの音色もなにもあったものではありません。
まるで分厚いカーテンの向こうで演奏しているみたいで、なんの迫りも広がりもない音になっているのは、いかにも演奏者が気の毒だと思いました。

全体として、ショパンとしての完成度ということでいうと山本貴志なのかもしれませんが、あくまで僅差であって、ショパンらしさを狙うのであれば、もう少し湧き出るような詩情の表現があったらと思われますし、聴き手も息の詰まるような完成度より、即興的な優美を期待しているのではないでしょうか。
その点では関本昌平は、質の高い演奏の中にもピアニスティックな逞しさがあるぶん、聴きごたえという点ではこちらのほうが大いに溜飲の下がる思いがして、現段階ではマロニエ君は関本氏に軍配を上げようと思います。

日本人の課題は、許される範囲内で、奏者の感興による微妙な崩しや、聴く者の心を動かす歌が入ることが必要じゃないかという点のように思うのです。
現状ではこの2人に限りませんが、あまりにも固い枠に囚われている印象です。
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得した気分

先日、疲れた体に鞭打ってヤマハを覗いたところCDの処分市みたいなことをやっていました。
とはいっても、量的にはごくごく少数でしたが、なんと定価の半額以下みたいな値札が貼り付けられている上に、さらにそれは最終段階に達しているらしく、どれも3枚で999円という表示がされています。

おおお、これはすごい!と思ってさっそく物色開始となりましたが、なにぶんにも数がない上に、もはや大したものは残っていませんでしたが、それでもありました。

●ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 シュターツカペレ・ドレスデン
R.シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき/ドン・ファン DENON

●ポール・マクリーシュ指揮 ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズほか
ハイドン:オラトリオ《天地創造》2枚組 ARCHIV

●田部京子(ピアノ) マルティン・ジークハルト指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番 DENON

という、しごく真っ当なCDを3点購入して千円札を出して1円おつりをもらうのは、さすがに申し訳ないような気分でした。

とりわけR.シュトラウスはマロニエ君としては文句のつけようがない名演で、オーケストラも超一流なら、作品との相性も最上のもので、実を言うとブロムシュテットのR.シュトラウスは初めて聴いたのですが、これほどのものとは予想もしておらず、そのあまりの素晴らしさに衝撃を受けました。あと2枚、ティルや英雄の生涯、メタモルフォーゼンなどが発売されているようですから、これはぜひとも入手しなくてはならないCDとなりました。
R.シュトラウスはこれまで、ずいぶんいろんな指揮者のものを聴いていましたが、これは一気に決定版に躍り出たという気がしました。これひとつでも大収穫です。

《天地創造》は解説によると、マクリーシュはハイドンをウィーンの伝統様式の中で捉えることはせず、ヘンデルに連なる大編成の崇高な音楽としてこのオラトリオを手がけているのだそうで、聴いていてなるほどそうかと思いました。また初版に添えられた英語版のお粗末さを払拭すべく、練りこまれ熟考された歌詞やレチタティーヴォで演奏されている点も注目です。
演奏は迷いのない、きわめて信頼性の高い安定したもので、音質も良く、この長大な音楽を美しく、そして精密かつキッパリと表現しているのは見事というほかありません。2枚組で定価は5000円もする商品で、こんなに安く買えたことは嬉しいけれど、録音も新しいのになぜ?という気がしてなりません。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、田部京子のピアノが美しく繊細ではあるものの、いささか安全運転にすぎてもうひとつ面白さとか引き込まれるものがありませんでした。この人はもともと感情表現はいつも押さえ気味で、きっちりとした和食の盛りつけのような演奏をする人なので、こういう演奏になるのも頷けますが、そこはやはりベートーヴェンなのだから、もう少し何か迫りが欲しかった気がします。
日本人的繊細さと、塵ひとつない整然と片づけられた部屋のような美しさは立派ですが、音楽はただきれいに整えたら済むという世界ではないのだから、もっと本音で直截に語って欲しいものです。

たまにこんなことがあるから、やっぱり天神に出るとお店を素通りはできないなぁという確信を、またも深めてしまったようです。
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監督の責任

現代の演奏が、店頭に並ぶつややかなフルーツのように、味よりも見てくれを重視して仕上げられていくというのはまったく商品主義のあらわれというべきで、悪しき慣習だと思います。
とりわけ録音演奏では、その傾向がより顕著になるようです。

もちろんセッション録音はライブとは性格が違うので、明らかなミスや不具合があってはならないのはわかりますが、それを求めるあまり音楽が本来もつ勢いとか、生命感までもが損なわれるのはなにより許しがたいことです。
おそらく現代の価値観を反映した結果で、目先のことに囚われて、大事な本質がなおざりにされるのはまさに本末転倒というほかありません。

感動は薄くても落ち度だけは努々無いようにそつなくまとめるという、現代人の気質そのものです。

録音に関しては、とりわけ有能なディレクターが関わらないと、昨日書いたピアニストのような失敗作が生まれる可能性が大だと思います。
録音現場ではディレクターの存在は大きく、ときには演奏家をも上回る権力と重責があるとも言われますが、それも頷ける話で、演奏者はひたすら演奏に専心するわけで、それを統括する芸術性のある責任者・判断者が必要となります。

プレイバックはもちろん演奏者本人も聴きますが、そこで有効な方向を指し示すのはディレクターの役目です。
演奏者が迷っているときに、「もっと自由に」「もっと情熱的に」と言うのと「もう少し節度を持って」「落ち着いてテンポを守って」と指示するのでは真逆の結果がもたらされるでしょう。

とりわけセッション録音には、ライブのような一期一会の魅力はない代わりに、何度も取り直しができるのですから、演奏者の持つ最良の面を理解し、そこを引き出しつつ、限界すれすれのところを走らせるべきだと思うのです。
そのためにも音楽に対する造詣と、演奏者の資質や個性に対する深い理解が求められます。

そういう能力を発揮して、演奏者からは最良の演奏を引き出すべきなのであって、ただ表情の硬いだけの、車線からはみ出さない安全運転をさせるだけなら、そんなディレクターはいないほうがまだましです。

時代の趨勢と言うべきですが、こんにち音楽の世界で最も幅をきかせているのは「楽譜に忠実に」という考え方で、それが絶対的な価値のようになってしまっています。
この流れに演奏者はがんじがらめとなり、若い人はその中で育つから、自分の感性をあらわにする主観的情緒的な演奏が年々できなくなってしまっているようですが、これは音楽の根幹を揺るがす深刻な問題だとマロニエ君は思います。
それはつまり、演奏家から最も大事な冒険や躍動や霊感を奪い取ることに結果としてなっていると思われるからです。

よく、目を閉じて聴いていると器楽のソロもオーケストラも、現代の演奏は誰が弾いているのかさっぱり区別がつかないと言われますが、まったく同感で、そんな同じような演奏家を何十何百と増やしても無駄だと思います。
それに輪をかけたように、凡庸この上ないCDをどれだけ作り重ねても、嬉しいのは当人およびその周辺の人達だけで、社会的にはほとんど意味を失います。

そして最終的にはそういう演奏家や、その手のCDの氾濫によって、結局それがまわりまわってお互いの足を引っぱる結果となるのですから、みんなでせっせと市場を疲弊させ落ち込ませているようなもので、この流れには早く終止符が打たれることを望んでいます。
そのためにも、芸術監督には演奏家を勇気づけ、叱咤激励して、魅力的なCDを作って欲しいものです。
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ライブとセッション

もうかなり前になりますが、NHKのクラシック倶楽部で、ある一人の日本人女性のピアノリサイタルの様子が放映されましたが、その人の演奏というのがマロニエ君はいたく気に入りました。
どちらかというと小柄な女性で、関西の出身で現在はパリに住んでいるという話でした。

曲目はシューベルトの最後の3つのソナタからハ短調D958、ラフマニノフの第2ソナタなど。
語り口がデリケートで、楽節の繋ぎや絡みがとても自然で歌があり、それでいて押さえるべきところはしっかり押さえるという、まことに筋の通ったもの。エレガントでメリハリのある演奏でした。
とくに気に入ったのが解釈が真っ直ぐで深みがあり、溌剌とした歯切れの良いリズム感、歌心があるのにそれをやりすぎないバランス感覚、さらには曲全体が美しい曲線のようになめらかに流れていくところなどでした。

マロニエ君は気に入ったものはDVDにコピーして保存するようにしていますが、この人の演奏はもちろんそれをしているものの、レコーダー本体から消去するのもしのびず、ときどき気が向いたときに何度も聴いているほどです。
一見パッと目立つタイプではなく、演奏もいかにもどうだという感じではなく、こういう本物の音楽作りを目指して静かに活動している人というのは、世の中にはいてもなかなかお目に掛かれるチャンスは少ないものです。
どうしても表に出てくる人というのは、違った意味での勝者である場合が大半です。

さて、その人はYouTubeを探すと、数は多くはありませんがいくつかコンサートの様子がアップされており、その演奏もやはり大変すばらしいもので、ここでもまた小さな感銘を受けることになります。

で、さらに、ホームページはないのだろうかと思って探したら、すぐに見つかりました。
そうしたら、現在はやはりパリ在住ですが、主にサックスの奏者と組んでコンサートをおこなっているようでした。
それはそれでひとつのカタチなのでしょうけれども、もうすこしソロを弾いて欲しいし、あれだけの演奏ができる人が惜しいような気がしたのも偽らざるところでした。

ここの情報を見ていると、日本で初のCDを録音してすでに発売されていることがわかりましたが、普通の店頭に置いているとも思えないので、そのCDを管理している関西のアーティスト協会を通じて購入することになり、代金を振り込むと数日後に届きました。

期待に胸躍らせてプレーヤーにCDを押し込んだところ、出てきた演奏はのっけからちょっと何かが違う感じでした。
冒頭はクープランの小品、続くモーツァルトのソナタも、ショパンもドビュッシーも、概ね同じ調子でした。
栗東のファツィオリのあるホールで3日間かけてのセッションだったようですが、彼女の良さがほとんどなにも出ていない固い演奏だったのはほんとうにがっかりしました。

レコーディングではキズのない完璧な演奏を目指して何度も取り直しなどがおこなわれるのですが、それに留意するあまりなのか、理由はともあれ、あきらかに演奏が死んでいました。
とりわけこの人の魅力だった流れやしなやかさがなくなり、ただ硬直した凡庸な演奏だったのはまったく驚きで、幼い言い方をするなら裏切られたようでした。

データを見ると、上記のサックス奏者がアートディレクターを努めており、なにがどうなっているのやら、いよいよ不可解な気分に陥ってしまいました。
単純に日本語でいうと芸術監督でしょうから、すくなくともピアニストの持っている力を十二分に発揮させるよう誘導すべきところ、まるで別人のように平凡な演奏に終始してしまっているのには、一体なにをやっているんだかと思いました。

ピアニストも初録音ということで緊張したのかもしれませんが、いずれにしても本来その人が持っている力、とくに魅力を損なうことなくセッション録音をおこなうということは、たいそう難しいものだということだけはわかったような気がします。
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プレイエル&横山4/5/6

はやいもので、「プレイエルによるショパン・ピアノ独奏曲全曲集」全12巻のうちの第2期の4、5、6が発売されています。演奏は横山幸雄。

今回は第4巻が3つのエコセーズなどワルシャワ時代の遺作の小品からはじまり、第5巻ではパリ時代の初期の作品が登場しはじめて、op.27の二つのノクターンやバラード第1番なども含まれ、いよいよ円熟の時期を迎えるようです。そして第6巻ではパリの初期のマズルカから入って作品25のエチュードに至ります。

録音データを見ていると、ほぼ毎月にわたって月の中頃に石橋メモリアルホールにて毎2日間、同一のスタッフにより収録されているようですが、横山氏の演奏はどれをとっても安心感のある余裕に満ちたもので、危なげなく淡々と弾き進んでいくのは、好みは別としても大した力量だと思います。

解釈もいかにも中庸を得た薄味なもので、とくに突出しているものはありません。
まさにショパンの、音による作品事典のようで、これだけ一定のクオリティを維持するというのは、聴けばなんということもないようですが、実際には並大抵ではない力を必要とすると思います。

ただ、ときどき横山氏のピアノの語り口に小さな変化が起こるのは、エチュードなどの難易度の高い超有名曲になると気が入ってしまうのか、ことさら技巧に走りすぎてしまうところがあるのが残念な点だと思います。
ちょっとした小品や、普段あまり弾かれる機会の少ない曲などに、隅々まで神経の行き届いた確かな演奏をするわりには、有名曲の技巧的な部分で、ぎゃくにレコーディングには似つかわしくない粗っぽい部分を感じることが何度かありました。

しかし全体としては、全集の名にふさわしい内容を伴ったシリーズだといえると思います。
欲をいえば、もう少し味わいというか、ショパンが我々の耳にじかに語りかけてくるような面があると素晴らしいと思いますが、それは望みすぎというものでしょうか。
現状ではどちらかというと、いかにもテクニシャンによる模範演奏的で、デジカメ写真のような、解像度は高いけれどもクールな感触である点が、マロニエ君などにはもうひとつもの足りない気がするのです。

プレイエルのピアノについては、100年も前のデリケートな楽器を常に整ったコンディションで維持するのも大変だろうと思いますが、それもほぼ達成されているように思われ、技術者のご苦労は大変なものだろうと推察されます。
強いて言うなら、第6巻ではちょっとピアノの御機嫌があまりよろしくないような印象を受けました。

それから以前も書きましたが、やはりプレイエルのような楽器をあまり精密に、完璧指向に追い込んだような調整をするのは正しいことなのか…という疑問があり、それはこのシリーズを聴きながら常に感じさせられる点です。
多少バランスを欠いたとしても、生来の個性を生かした音造りのほうがこのパリ生まれのピアノも本領を発揮すると思うのです。

思わずンー!とため息が出たのは、ある関東のピアノ店で、プレイエルの小型グランドが販売されていて、ネット上にそのデモ演奏がアップされているのですが、そこに聴くのは、あのコルトーの古いレコードそのままの、やわらかで華やかなのに憂いのある音、ショパン以外の音楽を弾いたらどうなるのかわからないような、甘く悲しげな、あのイメージの通りのプレイエルのちょっと崩れかけた美音がそこにありました。

もちろんどちらがマルで、どちらがバツだと決めつけることはできませんが、少なくともマロニエ君のセンスでいうなら、このようないかにも危うい感じの、なにかギリギリの場所に立っているような、そんなプレイエルの音に強く惹かれるのです。
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6枚のCD

過日、CDのワゴンセールを漁って買い求めた6枚について。

『山本貴志のショパン』については既に書いたので省略します。

『ミヒャエル・コルスティックのシューマン』
男性的な表現のスケールが大きいのは魅力ですが、音色の問題と、もう一つはドイツ人故なのかどうかはわからないものの、聴く者の詩的情感に訴えるような面がやや希薄で、説明的かつ堂々とし過ぎたシューマンだったように思いました。ゆるぎないガッチリ体型のクライスレリアーナ&謝肉祭を聴きたいという時にはもってこいの1枚でしょう。
ただし、あまりにドシッと腰の座ったシューマンというのは却って妙でもあり、そもそも音はあてどなく彷徨い続け、ひっきりなく情緒が揺れるところがシューマン作品の魅力でもあるので、これがドイツ的なシューマン演奏かといわれたら確かに疑問ですが、それでもとにかくひじょうに聴きごたえのあるアルバム。

『アンジェラ&ジェニファー・チュン(ヴァイオリン)のファンタジー』
演奏自体はとくだん光ったものがあるとも感じなかったものの、両者ともたいへん上手くて息が合っていて、じゅうぶん観賞に値するものでした。
演奏曲目が魅力的で、マルティヌーの2つのヴァイオリンとピアノのためのソナタ、ショスタコーヴィチのヴァイオリンデュオのための3つの小品、ミヨーの2つのヴァイオリンとピアノのためのソナタ、イサン・ユンのソナタなど、普段あまり聴く機会の少ない作品ばかりなのは得をした気分でした。
マルティヌーは革新的でありながらリズムの刻みなどが耳に心地よく、ショスタコーヴィチは、えっこれが?と思えるほどやさしげな旋律、ミヨーのエキゾチズムなど面白いものばかり。
この二人のヴァイオリニストは名前からも写真からも、きっと中国系のアメリカ人姉妹だと思われます。

『ヴォイス・オブ・ザ・ピープル』
こう題されたアルバムは、大半がフランクの作品と思いこんで購入したものの、よくみるとあのセザール・フランクではなく、ガブリエラ・レナ・フランク?という少なくともマロニエ君はこれまで聞いたこともない作曲家でガックリ。
どんなものやら聴いてみると、これがまたなんともへんな曲ばかりで、しばらく我慢して聴いていまたものの、ついに嫌になってストップしました。後半にはショスタコーヴィチのヴァイオリンソナタが入っていますので、それは後日あらためて聴いてみたところ、これがまたどうにもつまらないもので、演奏のせいもあるかもしれません。
これは完全に失敗でした。

『スザンヌ・ラング ピアノリサイタル』
若い女性ピアニストによる演奏で、リスト、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ヤナーチェク、スメタナ、シューベルト、シチェドリン、ファリャ、プロコフィエフという、なんとも目まぐるしいほど多彩な作曲家の作品が登場するアルバムですが、その選曲の意図も目指す方向も不明で、聴いていて何も魅力を感じませんでした。
演奏レベルもあまり高くなく、いまどきのピアニストとしては、わざわざCDまで作って売るような腕前ではないという印象。なにしろ演奏がパッとしないので、とうぜん曲のほうでもこれといった力を得て本来の姿をあらわしてくるところがありません。
これなら日本人の名もないピアニストの中にもっと優れた演奏をする人がいくらでもいるはずです。これもまた失敗でした。

『スカルコッタス ピアノと室内楽作品集』
近年再評価が著しいといわれるニコス・スカルコッタス(1904-1949)の室内楽作品集で、これはなかなかに聴きごたえのあるもので、6枚中最高のヒットでした。シェーンベルクにも学んだという十二音技法の作品は、しかしシェーンベルクやベルクがこの分野の開拓者だとすると、より一層自由になって近代的なセンスがきらめいており、ある意味では十二音技法をよりしなやかに使いこなした作曲家といえるのかもしれません。
ピアノのウエリ・ヴィゲットという人が、これまたなかなか上手いのには舌を巻きましたし、ピアノの音はいかにも美しいスタインウェイの音。
収録時間もたっぷりで80分を超えるほどですが、何度も聴いても飽きることがなく、これはまさに拾い物だったと思います。

6枚中失敗は2枚、まあまあが3枚、ヒットが1枚であれば充分以上に元を取ったと言えそうです。
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掘り出し物CD

夕方から天神に出たついでにCD店を覗いてみると、なんとレジの横でCDのワゴンセールのようなことをやっていました。
ワゴンセールというだけならいつでもあるのですが、今回はさらにいろいろと珍しいものが投下されており、それらがまるで叩き売りみたいな値段が付けられていました。しかも、そこにはなかなかのレア物が埋もれていることがわかり、つい興奮してゴミ漁りのようにして6枚のCDを買いましたが、支払ったのは合計3500円強でした。

中には買った本人がいまだにどういうものかよくわからないようなものまであり、それは恐くてまだ聴いていませんが、ともかくこういう捨て値みたいな価格で、変なCDを買ってみるというのは正に宝探しで楽しいものです。

もちろん充分まともなものもあるわけで、ドイツの中堅でドクター・ベートーヴェンと呼ばれるミヒャエル・コルスティックのシューマン(クライスレリアーナ&謝肉祭)や、山本貴志氏のショパンコンクール・ライブといったものも含まれています。

山本貴志氏はわりに評判が良いらしいのですが、なぜかマロニエ君はこれまでにほとんどその演奏に接するご縁がなく、その「人々が涙する」というショパンを聴いたことがありませんでした。
ひとつには邦人CDの3000円ルール(?)のせいもあるかもしれません。

どうやらポーランドのCDのようで、バルカローレにはじまりエチュード、スケルツォ、マズルカ、第2ソナタを経て英雄で終わるというものです。
クセのない丁寧な演奏ではありましたが、ショパンコンクールにありがちな青春の燃焼みたいなものの少ない、あくまでも身につけたペースをキチンと守り抜いた、交通違反のない律儀な演奏だったと思います。

とくに日本人特有の折り目正しさにあふれた、キメの細かい美しい演奏であることは間違いないと思います。強いて注文を付けるなら、この人なりの味わいがもうひとつ欲しいところ。

きっと山本氏のコンクールにかける気合いの現れだとは思いますが、曲想にあわせて「シューッ!シャーッ!シェーッ!」という激しい吐息が入っているのが、このCDを聴いている間ずっと気になりました。
生のステージの臨場感ともとれますが、ショパンの繊細な音色が流れ出る中では、子供がプラモデルで熱心に遊んでいる時の声みたいで、あまり相応しいものとも思えませんでした。

それと、CDのどこを探しても記述はなかったものの、おそらくピアノはヤマハだと思われますが、全体に響きの固い、音の通りのよくないピアノだったことが、演奏をひとまわり小さなものにしてしまっているようで、それがとても残念に思われました。
もちろん本人が選択したのでしょうし、ダイナミクスよりデリカシーを採ったのかもしれませんが、ヤマハに限っていえば、その五年後に登場するCFXはやはり劇的変化を遂げたもんだと思います。
とりわけ中音域の発達は大変なものですが、それが全音域でないところが今後の課題という気もしますし、全体のバランスという一点においてだけなら、この時代のピアノ(CFIIIS)のほうがまとまりはいいといえるかもしれません。

コルスティックのシューマンは骨格のしっかりした力強い表現はなかなかのものでしたが、いささか音色に対する配慮が足りず、粗っぽく音が割れてしまうところがあるのが惜しい点でした。迫力は申し分ないけれども、もうひとつ愛情深さみたいなものがあればと思いました。ジャケットの写真を見るたびサルコジ大統領を思い出します。
ともかく思いがけないCDが買えて幸いでした。
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ウゴルスキのCD

過日はウゴルスキのスクリャービンのCDに関して、ひじょうに悔しい失敗をしてしまいました。

ロシア出身のピアニスト、アナトゥール・ウゴルスキ(1942年〜)はリヒテルやホロヴィッツ亡き現在、ロシアが輩出した巨人ピアニストの最後の一人といえるかもしれません。

ウゴルスキはピアニストとしてロシアでは一定の名声を獲得してレニングラードの教授などもしていたものの、ある時期から深刻な迫害を受けるようになり、いらいピアノを弾くこともできない苛烈な時期を過ごすなどして、1990年ついにドイツに亡命。そこからが彼の非常に遅い西側へのデビューとなりました。

その並外れて壮大なスケールと緻密さの合わさった演奏は、たちまちグラモフォン(当時は現在と違ってまだお堅い体質の時だった)と専属契約を交わすこととなり、いらい幾つものCDがリリースされましたが、彼の演奏に見られるpppからfffまでの驚異的なダイナミックレンジの広さと作品に対する深い洞察は抜きんでており、それを演奏として可能にする強靱かつ透徹したゆるぎないテクニックには、当時世界中がこの新たな才能の登場に驚いたものでした。
その後はグラモフォンからはゆったりしたペースでいろいろなCDがリリースされ、その大半は購入していましたし、日本へも何度か来日を果たしてその並外れたスケールの圧倒的な演奏を聴かせたものです。
とくにNHKでも放映されたベートーヴェンのディアベッリ変奏曲などは非常に強烈な印象を残す見事なものでした。

そんなウゴルスキですが、その後はあまりCD等が出てくることがなくなり、どうしたのだろうかと思っているところ、ドイツのAvi-musicというあまりなじみのないレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集をひっそりとリリースしていることを知りました。

マロニエ君は店頭のほか、ネットでもしばしばCDを購入するのですが、この手のマニアックなCDは取扱量が圧倒的に勝るネットのほうが有利なのはいうまでもありません。
しかしこのCDは、あるにはありましたが時間を要する取り寄せ商品になっており、とりあえず「お気に入りリスト」にまで入れておいて、他のものと一緒に注文しようと思っていたら、あるときリスト上からこれが消去されていることがわかりました。
吉田秀和氏の文章にも、このCDのことが書かれており、久々のウゴルスキの新譜を発見したという調子の文章で、いきなりマイナーレーベルからのリリースを不思議がっている様子でした。

マイナーレーベルが困るのは、録音自体があまりよくない場合があること、入手できない場合が多いこと、すぐに廃盤になったりと、なにやかやと危険率が高いことですが、現に取り寄せ可能だったウゴルスキのスクリャービンが早々にリスト上からも消えてしまったということは、経験上、廃盤になったと解釈せざるを得ませんでした。
いかにウゴルスキといえどもマイナーレーベルでのスクリャービンのソナタでは、なかなか売れなかったのだろうと…。

ところが先日、天神のCD店の店頭でいきなりこのCDを発見!!思わず狂喜してしまいました。
ははあ、こんなところに売れ残りがあったのだ、灯台もと暗しだったと思い、これを逃せばもう手に入らないとばかりに迷わず買い求めました。

帰宅してさっそく聴きながら、なんとなくネットのほうを再度検索してみました。
気持ちとしては、自分が手に入れたもんだから市場には「無い」ことをもう一度確認したかったわけですが、なんと意に反してあっさりこれが出てきて、しかも「在庫あり」になっているのにはビックリ。さらに許しがたいことには他商品と3点以上まとめて買うと割引の対象にさえなってお入り、4900円ほどで買ったものがその場合は3300円ほどになるのを知ったときには、気分は一気に谷底に突き落とされる思いでした。

どうやら店頭にあった商品は、最近大量に再入荷した折に各店舗にもまわってきたのだろうと推察されました。
しばらくキリキリしましたが、しかしウゴルスキの力強くもほの暗いエレガントなピアノを聴いていくにつれ、そのゆるぎなさと艶やかな響きなど、あいかわらずの第一級の演奏に満足を感じ、しだいにそのショックも和らいでくるようでした。
録音もメージャーに引けを取らない非常に優秀なものだったのも嬉しいことでした。

めったにないのですが、やはりありますね、こういう失敗。
ですが、こういうことには立ち直りの早いマロニエ君なのです。
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続・コロリオフ

エフゲニー・コロリオフは1949年モスクワ生まれですから、今年で62歳。
まさにピアニストとして絶頂期をひた走っている年齢だといえるでしょう。

しかしこのコロリオフという人はピアニストとしてひた走るといった表現が必ずしも適切ではないような印象です。

プロフィールを見れば、師事した教授陣も錚々たる顔ぶれで、ハインリヒ・ノイハウス、マリア・ユーディナ、レフ・オボーリンというロシアピアノ界の重鎮がずらりと並びます。
コンクール歴も輝かしいものでバッハコンクールをはじめ、クライバーン、ハスキルなどの国際コンクールに次々に優勝しており、レパートリーにはロマン派もあるようで、実際にショパンやシューマンのCDも僅かながら発売されているようですが、本領はやはりバッハなどの古典にあるようです。

「栴檀は双葉より芳し」の喩えのごとく、17歳の時に、モスクワでバッハの平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏会を行ったとありますから、やはりタダモノではなかったのでしょう。
現在は世界の主要な音楽祭にも数多く参加しているようですが、来日はずいぶん遅れたこと、またCDデビューが40歳のときの「フーガの技法」だということですから、その年齢や内容からしても、まるで大衆に背を向けた芸術家としての姿勢を貫いており、いわゆる商業主義に乗らないピアニストということが読み取れるようです。

ハンガリーの現代作曲家リゲティが「もし無人島に何かひとつだけ携えていくことが許されるなら、私はコロリオフのバッハを選ぶ。飢えや渇きによる死を忘れ去るために、私はそれを最後の瞬間まで聴いているだろう」とコメントしたことが、コロリオフの評価を決定的にした一因のようにも感じます。

このところ集中的に聴いているCDでは、フランス組曲ではより端正なアプローチがうかがわれ、これはこれで傑出した美的な演奏に違いありませんが、強いて言うなら、ゴルトベルクのほうに更なる輝きがあるようです。

とくに面白かったのはバッハ編曲集で、リゲティ同様、ハンガリーの現代作曲家であるクルタークによる4手のピアノのために編曲された作品集では、読み方がわからないもののもう一人のピアニストとの共演ですが、演奏はあくまでコロリオフ主導で、コラールなどがなんとも澄明な美しさに照らし出されるような音楽で、バッハは目指したのはこういう音楽だったのかと思えるほどに天上のよろこびを伝え聞くようでした。

ほかにコロリオフ自身の編曲によるBWV.582のパッサカリア、クラヴィーア練習曲第3巻(全11曲)と続いていくわけですが、どれを聴いても極めて純度の高い音楽そのものが目の前に立ち現れることに何度も驚かずにはいられませんでした。

あまりに感銘を受けたので、YouTubeで検索したところ、ライプツィヒのバッハ音楽祭に出演した際のゴルトベルクの演奏の様子がありました。そこに観るコロリオフは、およそコンサートアーティストらしからぬ地味な出で立ちで、黒いシャツのボタンを一番上まで止めた、まるで研究と演奏に明け暮れる質素な古楽器奏者のようでした。
しかし、そのシャツの袖口から出たその手は、まるでショパンの手形のように細い指がスッと伸びた繊細なもので、なるほど、こういう手からあのようなすみずみまで見極められた、聴く者の心を捉える自然な音楽が紡ぎ出されるのだと思いました。コロリオフのタッチと音にはくっきりとした明晰さと充実した響きがあると感じていましたが、妙に納得した気になりました。

こうなると、バッハは当然としても、ショパンなども聴いてみたいという興味が出てくるようです。
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コロリオフ

リサイタルに行ったことがきっかけで、このところメールのやり取りをしているあるピアニストから、コロリオフというピアニストをご存じですか?と聞かれました。

知らなかったのでその旨伝えると、ご親切にも5枚ものCDを送ってくださいました。
エフゲニー・コロリオフ、ロシア出身で現在はドイツに暮らして活躍している人でした。

分厚い包みが届いたと思ったら、そこにはなんと5枚ものCDが入っており、ゴルトベルク変奏曲、フランス組曲全6曲、バッハ編曲集では音楽の捧げものからリチェルカーレ、クルタークによる編曲、クラヴィーア練習曲第3番、リスト編曲の前奏曲とフーガなどでした。
そのご親切に深く感謝するとともに、さっそく聴いてみました。

ゴルトベルクの出だしを聴いたときから、いきなりなんと姿のよい、骨格のある澄みきった演奏かと思いましたが、それは聴き進むうちにますます確信に深まります。
バッハの鍵盤楽器のための作品の演奏に際しては、チェンバロやクラビコードで弾くべきか、現代のピアノで弾くかということは尽きないテーマですが、コロリオフの演奏を聴いているとそういう論争さえナンセンスに思えるほど、ひたすら真正なバッハを聴いている自分に驚き、それに熱中させられてしまいます。

ゴルトベルクといえばグールドの衝撃以来、60年近くが経過するに至っていますが、なんらかの形で彼の演奏は多くの演奏家の耳に刻み込まれましたが、そこから本当に独自の表現ができたピアニストは極めて少ないと思います。

コロリオフはバッハの音楽をあるがままの姿で表出しており、そういう正統表現の価値と魅力を、聴く者に問い直してくるようです。
この当たり前さが、今は不思議なほど鮮烈に聞こえてくることに、言い知れぬ快感と喜びを覚えます。
バッハはピアニスティックにモダンに弾くか、あるいはアカデミックな学者のような演奏に二分されることが多いと思いますが、コロリオフはバッハにはそのいずれにも分類できません。

第一級の演奏技巧で非常に一音一音が明晰で力強く、いかなるときも落ち着きはらったバランス感覚があるのに、生命感に裏打ちされたそれは退屈させられるところがなく、常に音楽の熱がすみずみまでみなぎっています。
シフのバッハも素晴らしいですが、彼にはときに独特な節回しや老けた悟りのようなところもなくはないのですが、コロリオフにはまるきりそういうものが見受けられません。

音楽を聴いていると同時に、なにか荘重な建築を目にしているようでもあります。
とくにトリルや装飾音にはチェンバロのような趣があり、その効果的な入れ方には妙なる美しさがあふれ、文字通り随所で音楽に厳粛さと華を添えているようです。

彼がロシア人であることも関係していると思いますが、どんなにバッハをバッハとして純度をもって演奏することに専念していようとも、背後からロマンティックな何かがこの演奏を支えているような気がして仕方がありません。しかもニコラーエワのような直接表現でないぶん、より克明にバッハの音楽の核心部分へと導かれるようです。

きわめてドイツ的でありながら、決して本当のドイツ人には作り出せないドイツらしさといったら言葉が変ですが、たとえばチリの出身であったアラウがドイツ人よりもドイツ的といわれたことに、これも似ているかもしれません。

ペダルも使っていないように聞こえますし、デュナーミクも過剰にならないところに凛とした気品があり、バッハ音楽の抽象世界を描き出し、聴く者は楽々とバッハの響きと真髄に体が包まれるようです。

まだ一通り聴いただけですが、こんな素晴らしい演奏に出会えて件のピアニストには感謝しています。
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気持ちの鮮度

マロニエ君のCD購入はいつも店頭とネットの二本立てです。
それぞれに特色があり、店頭はあれこれと実物を見て探す楽しみや意外な発見があり、ネットは店頭で入手の難しいものが手に入るなどの利点があるわけです。

とくにマニアックなものを購入する場合などは、ネットのほうが品揃えが比較にならないほど充実しているのでこちらから注文する事が多いのですが、さしものネット店をもってしても「入荷待ち」となることがしばしばあります。
さらにどうかすると、入荷にひどく時間がかかることがありますが、このときにちょっと困ったことが起こります。

ネット購入の場合はマロニエ君が利用しているのはHMVなのですが、送料やらポイントの関係で、大体購入するときは数点まとめての購入となります。
ところがその中にひとつでも在庫のない商品があると、それが整うまでは他の商品は発送されません。
これが1週間や10日ならいいのですが、どうかすると数週間ストップしてしまう状態に突入してしまいます。

それがさらに長引きそうな場合になると、他の商品だけ先に送るかどうかを尋ねるメールが来るのですが、この段階を迎えるだけでも相当の日数を要します。大半は海外からの仕入れ商品ですから、まあ時間がかかるというのもわからないではありませんが。

さて先日のこと、HMVから一通のメールが届き、以前注文したCDが製造中止のため入手不可能になったため、その入荷待を待って一緒に送られてくるはずであった残りのCDを発送する旨のメールが届き、数日後には商品が届きました。
実はこのCDは、今年の4月上旬に発注していたものであっただけに、実を言うと注文していたことも忘れていました。

しかも「カード決済は発送時」というルールなので、うええ、なんでいまさら…という気分になってしまいます。
こんなに遅れたのは店側になにかの手違いかあったようにも感じますが、もしかしたら分送するか否かのメールが来たときに、ろくに内容を見もしないで同時発送を承認するクリックかなにかをしたのかもしれません。
通常は分送のほうを希望なので、まずそんなことはしないつもりなのですが、マロニエ君の間違いということが絶対ないとも限りません。しかとした記憶もないし自信もなく、ともかくこういう次第になりました。

それにしても、今でも欲しいCDは山のようにあるのに、届いたCDは、正直いうといまさら熱が冷めてしまったようなものもあり、しかも今回は「ニーベルンクの指環」が含まれていたので、1枚あたりの単価は決して高くはないものの、合計23枚ものCDとなり、なんだか素直に喜べない状況に陥ってしまいました。
もちろん、届いた以上は気を取り直して楽しんで聴くつもりですが、やはりCDの「聴きたい」という気分にも波があり、あまりにも時間が経つとその高揚感も冷めてしまっているということがわかりました。

個人差もあろうかとは思いますが、マロニエ君の場合、これが続いているのはせいぜいひと月ぐらいのようで、3ヶ月というのはあまりにも長すぎました。
足止めの原因となった問題のCDは「ストラルチク:96人のピアニストと4人のパーカショニストのための交響曲」という、ほとんどどんなものかもわからない、いわばゲテモノ食いみたいなものだったので、こんなもののせいで3ヶ月も出荷停止していたのかと思うとよけいにガッカリしました。

なにごとにも鮮度とかタイミングというのは大切で、CDは旬の気持ちのときに聴きたいものです。
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ジャパン品質

横山幸雄氏によるショパン全曲集のCDが順次発売され、折り返し点に来ました。

このCDはショパンのピアノソロ作品を網羅するもので、その特徴のひとつは、概ね作曲された時代に沿ってCD番号がまとめられているという点です。そのお陰でCDの番号順に聴き進むことでショパンの生涯を辿ることができることにもなっていて、なるほどと思わせられるものがあるように思います。
少なくとも、ショパンのソロ作品を作曲年代順に並べた全集というのはそれほどなかったように思います。

このCDのもう一つの特徴は、以前も書いたことがありますが、ピアノはすべて1910年製のプレイエルの中型グランドを使って日本で録音されているもので、この点は特に画期的なことだと思われます。

わざわざ書く必要もないことかもしれませんが、もともとマロニエ君は率直に言って横山幸雄氏の演奏はあまり好みではなく、通常なら彼のCDを買うことはないと思われますが、これだけきっちりと企画された他に類を見ないCDというものには強い説得力があり、しかも価格も以前からマロニエ君が主張しているような、一枚2000円というものであるので、すでに発売された6枚は全部購入して聴いています。

録音媒体の変化とかクラシック離れとか、あれこれ理由はあっても、やはりキチッとした完成されたものでプロの仕事としての内容があり、価格も妥当なものであれば人は買うのであって、無名の新人演奏家のデビューCDにいきなり法外な高い定価をつけて自嘲気味にリリースする会社は、もう少し本気で反省して、やり方を基本から見直して欲しいと思います。
CDの発売元は採算性だけでなく、アーティストを育てるという一翼を担っていることも強く自覚せねばなりません。

こういうわけで今年は横山氏のショパンをずいぶんと丹念に聴くことになりましたが、ひとつはっきりしたことはマロニエ君の好み云々は別として、この人はこの人なりに、まぎれもない「天才」だということです。
その根拠のひとつが、その安定した技巧と膨大な離れ業的なレパートリーです。

ピアニストは音楽家であり芸術家であるのだから、むろんレパートリーが多いということが直接の評価には繋がりませんが、それはそうだとしても、この横山氏のそれはやはり尋常なものではなく、現実の演奏としてそれらを可能にしているという抜きんでた能力には、これは素直に一定の敬意を払うべきだと思うのです。

しかも、このショパンの全集(まだ完結はしていませんが)でも、驚くべきはどれを聴いても一貫したクオリティと安定した爽快な調子を持っていて、それがほとんど崩れるということがありません。
とくだん魅力的でもないかわりに、いついかなるときも最低保証のついたプロの演奏であるというわけです。
一人の作曲家を網羅的・俯瞰的に聴く場合、これはこれでひとつの安心感があるのは認めなくてはならないようです。

そういう意味における実力ということになれば、横山氏はなるほど大変な逸材で、現在彼に並ぶ才能が他にあるかといえばしかとは答えられません。
どんな大曲難曲であれ、ちょっとした小品であれ、すべてにとりあえずキチッとまとまった演奏様式があり、それなりのアーティキレーションまで与えられて乱れのない演奏に仕上がっていることは、まるで日本の一流メーカーの商品の数々を見るような気分す。

そういう意味では、横山氏はまぎれもない日本人ピアニストであり、日本が世界に送り出すメイド・イン・ジャパンの高い品質と信頼性をピアノ演奏で体現し、世に送り出しているその人という気がします。

リサイタルに行く気はあまりしないけれど、曲を目当てにCDを買う場合は、変な冒険をして大失敗するより横山氏の演奏を買っておけば、大間違いは起こらない、そんな保証をしてくれる人のような気がします。
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アルゲリッチの復興支援

東日本復興支援チャリティということで、アルゲリッチが昨年暮れに東京で行ったシューマン&ショパンの第1ピアノ協奏曲がCD化されて発売されています。

参加したアーティスト全員が録音印税を放棄して、収益を楽器や楽譜を失った被災者の復興支援のために寄付するという目的があるのだそうで、こんな思いがけないことからまたアルゲリッチのコレクションが一枚増えることになりました。

このCDは、震災で被災したものの早期に復旧を果たした(株)オプトロムの仙台市の工場でプレスされているというところにも大きな意義があるようで、かつて公演のため訪れたことのある仙台でこのCDが製造されることに、アルゲリッチは東日本復興の兆しを感じているのだとか。

アルゲリッチはカルロス・クライバーと並ぶ大変な日本贔屓で、最近読んだ彼女の伝記でも、何事も気むずかしい彼女が、こと日本のことになると一転して従順になるとありました。すでにアルゲリッチはパリをはじめ、ヨーロッパのあちこちで日本の災害支援のためのチャリティーコンサートを開催しており、多くの友人音楽家が集まっては日本のために素晴らしい演奏を繰り広げているようで、なんともありがたい話です。

さてこのCDですが、アルゲリッチの演奏に関しては、マロニエ君の部屋で宣言しているようにこれに一切触れるつもりはなく、ただ、いつもながらのすばらしいものとだけしておきます。
ただ、その他の点についてはせっかくのCDにもかかわらず残念に感じたことがありました。

まずは共演のアルミンク指揮/新日本フィルの演奏が粗っぽく品位に欠けて、とてもこの稀代のピアニストの精妙な演奏に見合ったものではないという点でした。
新日本フィルは昔は小沢征爾がよく振っていて、アルゲリッチも彼の棒のもとにたびたび共演していましたし、その後は今回の会場であるすみだトリフォニーホールのような立派なホームグラウンドまで与えられて、さぞや素晴らしく成長しているものと思っていたのですが、この演奏クオリティはまったくもって意外でした。

マロニエ君も東京在住時代は、新日本フィル、小沢征爾、アルゲリッチの組み合わせでシューマン、ショパン第2、チャイコフスキーなどを何度か聞きましたが、つねにオーケストラがイマイチという印象を免れることが無かったのは残念です。その後はいくつもの国内のオーケストラもめきめきと腕を上げて、ヨーロッパの二流オーケストラを遙か凌ぐまでになっていることを考えると、この新日本フィルはあんまり変わっていないなぁ…という印象です。

企業もそうであるように、よろず組織体というのはよほど強いリーダーの手腕のもとにドラスティックな改革されないと、意外なまでにその実力や体質というのは人が入れ替わっても尚、綿々と受け継がれていくもののようですから、そんなテコ入れが新日本フィルにはなかったのだろうと思います。

すみだトリフォニーホールのような立派な箱ができ、このところは、このCDでも指揮をしているクリスティアン・アルミンク、ほかにもダニエル・ハーディング、インゴ・メッツマッハー、ジャン=クリストフ・スピノジ、トーマス・ダウスゴーといったヨーロッパの若手指揮者を次々に登用したりと、表向きは派手なイメージ作りをやっているようですが、要は内側に手を突っ込まない限り、いくらこんなふうに表紙だけ外国人に取り替えても、あまり意味がないように思います。

もうひとつはショパンの途中からピアノの音が狂いだし、これがみるみる悪化していったのには唖然としてしまいましたし、たいへん残念なことです。
しかもそれが音楽で多用する次高音の部分だったので、この激しく狂ったビラビラの音が繰り返し出てくるのは興ざめで、ただもう悔しいとしか言えません。

ネット上のCDレビューなどでも、書き込んだ人がこの調律の狂いを問題にしていましたが、当然だろうと思います。

やり直しのきかない、この日のアルゲリッチの演奏に、ピアノが大きな傷を付けてしまったようなものです。
よほど何か理由があったと考えるべきかもしれませんが、手がけたピアノ技術者は、プロとしての結果責任を大きく問われる問題だろうと思います。
ところが、ライナーノートにはしっかりその技術者の名前まで記されていることには更にびっくりしました。
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ものすごいCD

かつて、ミヒャエル・ポンティというドイツ出身、アメリカで活躍した異色のスーパーピアニストがいて、昔から音楽ファンの間ではこのポンティの異色なレコードはちょっと知られた存在でした。
すでに70歳を過ぎて、現在は手の故障から現役を退いているようですが、彼のピアニストとしての絶頂期はおそらく1970年代だったと思われます。
そして、その間に膨大な量の、まさに偉業ともいうべき録音を残しています。

その内容というのが並のものではなく、大半が通常ほとんど演奏されることのない主にロマン派の隠れた名曲の数々で、子供のころからマロニエ君はどれほどこの人の演奏で初めて聞いた曲があったかしれません。

ポンティの優れている点は、埋もれた作品の発掘というものにありがちな、ただ音符を音にしただけの、とりあえず楽譜通りに弾いてみましたというたぐいの平面的な演奏ではなく、どれもが彼のずば抜けた感覚を通して表現された生きた音楽である点です。
まるで長年弾き慣れた曲のごとく、そこには生命力とメリハリがあり、その迷いのない表現力のお陰でどれもが名曲のような輝きと響きをもって我々の耳に聞こえてくるのがポンティのピアノです。

一説には100枚近い録音をしたと言われていますが、よほど卓抜した譜読みができるのか、解釈の参考にすべき他の演奏もないような曲へ次々と的確な解釈を与え、しかも持ち前の超絶技巧で一気呵成に弾きこなしてしまうのですから、いやはや世の中には恐るべき天才がいるものです。
中でもモシュコフスキのピアノ協奏曲などは、いまだにマロニエ君の愛聴盤のひとつです。

そんなポンティの幻のシリーズというのがあって、そのひとつがスクリャービンのピアノ作品全集なのですが、これは長年音楽ファンがその存在を囁き合い、復刻を求めていたもので、それをついに手に入れることに成功しました。
5枚組CDで、完全な全集ではなくソナタは別になっていますが、ほとんどのエチュード、プレリュード、マズルカ、即興曲、ポロネーズ、幻想曲ほか小品が収録されています。
ところで、これって何かににているでしょう?
そうです、スクリャービンはとくに初期にはショパン的な作品を数多く作曲していましたが、しかしショパンらしさというのは実はそれほどでもなく、初期の作品からすでにスクリャービン独特の暗く官能的な個性が全体に貫かれているのは、これまた天才ならではの個性の早熟さを感じさせられます。

驚くべきは、この曲集、ヴォックスという廉価レコードのレーベル(こういう会社でなくてはマイナーな曲ばかり発売なんてしないのでしょう)の制作経費節減のせいで、使われているピアノは、な、なんと、アップライトピアノ!なんです。
そのせいで音ははっきり言ってかなり貧弱かつ突き刺さるようで、表現力も品性もありません。ポンティの多様な演奏表現について行けずにピアノがキンキンと悲鳴をあげているようなところが随所にあり、音としてはかなり厳しいところのあるCDです。

しかしながら、演奏は実に見事な一流のそれで、聴いているうちに音楽に引き込まれてしまい、こんなものすごいピアノのハンディさえもつい忘れるほど聴き入ってしまうことしばしばですが、それにしても、こんな冗談みたいなことが現実におこなわれていたということ自体が信じられません。
いくら経費節減といったって、アメリカのような豊かな国(しかも現在より遙かに)の、しかもピアノ大国にもかかわらず、レコードのスタジオにグランドピアノ一台さえ準備できなかったなんて…ちょっと信じられませんね。

アップライトピアノ1台という劣悪な環境の中、ポンティは楽譜と毛布を渡されて缶詰状態となり、やむなく録音を続けたといわれています。
しかし、内容はそんなエピソードが信じられないほど本当に素晴らしいもので、ポンティの信じ難い才能が、このすべての悪条件を跳ね返しているようです。
アップライトピアノによる一流演奏家の全集なんて、探してあるものではないので、その点でも貴重なCDと言えそうです。
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クリダのリスト

フランス・クリダという、その名の通りフランス人の女性ピアニストがいます。

もうずいぶん昔のこと、日本にも度々やってきてはよく演奏していましたが、当時子供だったマロニエ君はこの人のことはあまり好きではありませんでした。

というのも、演奏云々の以前に、とにかくリストばかりを弾くピアニストだったので、そのころからリストはあまり好みではなかったために、リスト弾きという技巧一点張りなイメージが子供心に強い反発を感じていましたし、彼女のことをリストだけを弾く下品なおばさんぐらいにしか思っていなかったんですね、当時は。

かなり何度も日本に来た印象はあったのですが、ある時期からパッタリと来なくなくなり、次第に名前も聞かなくなってしまい、その後どうしたのだろうと思っていましたが、どうやら後進の指導にあたり、最近はコンサートもあまりやっていないようだということがわかりました。

最近そのフランス・クリダお得意のリストのCDが14枚組になって発売されましたので、いろいろと聴いてみたい曲もあったし、彼女の演奏の記憶はほとんどないので、果たしてどんな演奏をしていたのかという興味もあり、これを購入して、ここ最近ずっと聴いています。

内容はリストの主要なピアノソロ曲をそれなりに網羅したもので、一枚目の巡礼の年を聴いただけでオッと思いました。
最近のリスト演奏からは聴かれない、深い落ち着きと、作品に対する心地よい自然さがあるのがまずもって意外でした。
その後も1枚のディスクを数回繰り返しながら聴き進んで、まだ全部は終わっていませんが、その全体に流れる一貫した演奏のありかたには深い感銘を覚えました。
同時に、むかしむかし、マロニエ君はクリダに対して大変な誤解をしていたことに気がついて、いまごろ彼女に申し訳なかったような気になってしまいました。「リスト弾き」…それだけで背を向けていたのです。

リストの本当の素晴らしさに気がついたのは、ずっと後年になってからのことですが、一握りのお祭り騒ぎのような、聴いているだけで恥ずかしいような有名曲の陰に隠れるように、なんとも精神性の高い奥深い作品がいくつも隠れていることを知るようになりました。しかし、それらを本当に満足のいく演奏をしているピアニストのなんと少ないことかというのも、偽らざる印象です。
巷では高い評価を受けているラザール・ベルマンもあまりマロニエ君の好みではありません。

その点、クリダは本当に適度な重厚さと自然さが見事に調和し、リスト本来の素晴らしい部分を引き出すような美しい演奏をしていて、冒頭に述べた下品さは微塵もない見事なもので驚きました。

これに比べると、先月のブログに私的で宗教的な調べのことで書いたブリジット・エンゲラーは、それなりの評価があるようですが、てんで奥行きがなく、クリダを聞いた耳には霞んでしまいました。

こんな昔のピアニストで、いまごろその凄さを知って驚くなんてことは、まずないことなので、すごく得をしたような気分です。
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ユンディ・リのライブCD

タワーレコードの試聴コーナーに、ユンディ・リの「感動のショパン・ライブ・フロム北京」というのがあり、昨年5月に北京の国家大劇院でおこなわれた演奏会を収録したもので、どんなものかと聴いてみたところ、これがいろんな面で感じるところのあるCDでした。

マロニエ君は実を言うと、個人的にはユンディ・リは(お好きな方には申し訳ないですが)あまり評価をすべきピアニストとは思っておらず、自分なりにあれこれとかなりCDを買い漁るわりには、たぶん1枚も彼のCDは持っていないはずです。
それはNHKの放送などで何度となくその演奏に触れてみて、一向に惹きつけられるものがないし、昨年はショパンイヤーということもあって、ノクターン全集などもリリースされてそのつど店頭には数種の試聴盤が置かれたりしていましたが、どれを聴いてもまったく購買意欲が湧かない、はあそうですか…というだけの演奏にしか感じられませんでした。

ことさら嫌味はないけれども、いやしくも第一級のプロのピアニスト、わけても「世界的」なというフレーズがつくからにはその人ならではの世界、なにかしらのいざないがあって当然だろうと思います。
しかしノクターン全集などを試聴してみても、ひたすら楽譜通りなだけのガチガチな演奏で、そこには演奏者のなんの霊感も挑戦も感じられない、日本でいえば音大生的演奏のもうちょっと上手い人ぐらいにしか思えませんでした。

さて、その彼の最新盤である《感動のショパン・ライブ・フロム北京》ですが、冒頭のアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズの出だしからして、これまで知るユンディとはちょっと違う、ある種の気迫のようなものをとりあえず感じました。
オッと思ってしばらく聴いてみましたが、基本的にはこれまでのユンディであるけれども、自国でのリサイタルで、しかも面子のかかった北京の国家大劇院、さらにはライブの収録も兼ねているということもあってか、相当に気合いを入れているようでした。

しかし、よく聴くと、なんのことはない、演奏者がノッているというよりは、中国人の好みに合わせたハデハデな演奏を、求めに応えるべくやっているだけという感じが伝わってきました。
同じ気合いが入っているといっても、ショパンコンクールのライブCDでコンテスタントが繰り広げる演奏などは、まさに一期一会の白熱した真剣勝負のそれでしたが、ユンディのこのライブはあきらかにそういうものとは違った、一種のあざとさと、中国の大衆の好みを充分承知した上で表出させた派手さ、あるいは最大のライバルであるラン・ランを射程に収めた演奏だったようにも思われて、とてもタイトル通りに「感動」というわけにはいきませんでした。
ソナタも、英雄も、ノクターンでさえも、ガンガン弾きまくりです。

しかもライブCDの発売も予定されているとあれば、メイン市場はきっと中国国内でしょうから、やはりそのあたりのツボは心得ているように感じてしまいます。まあどうぞお好きなようにという感じですが。

それと、ヒエ〜ッと驚いたのはそのピアノの音でした。
いかにも中国的というか、やたらキンキンして唸りまくる、ユニゾンさえ合っていないようなその音ときたら、まるで安酒場のピアノみたいで、そういえば中国で触れたピアノはどれもこんな音だったことを思い出しました。

ピアノ自体は全体の響きの感じから(たぶん)スタインウェイだと思いますが、中国の技術者はあんな音をいい音だと思っているんでしょうね。しかも会場は国家大劇院という、現代中国の最高権威ともいえる演奏会場でのピアノなのですから、はああ…です。
中国は技巧派のピアニストは続々と誕生してきているようですが、ピアノ技術者のレベルアップはまだまだ当分先のことだろうと思われます。
しかも、驚くべきはEMIというヨーロッパの老舗レーベルのCDであるにもかかわらず、こんなピアノでプロデューサーがよく黙っていたもんだと思いました。

これを聴いて、ふと牛牛のショパン・エチュードもかなりのヘンな音だったことを思い出しましたが、これもやはりEMIでしたから、もはやイギリスの老舗の看板もなにもないのかもしれませんし、もしかしたら中国資本にでもなっているんでしょうか。

その点では、日本のピアノ技術者のレベルは、なんという高みに達していることかと、これまたひとつの感慨にとらわれてしまいます。
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馴れの怖さ

昨日書いた「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」ですが、その第1集を何度も繰り返し聴いていると、見えてくるものもいろいろとあるようです。やはり基本的な印象は変わりませんが、それにしても100年前のプレイエルをここまで精緻な楽器に仕上げるということは並大抵の技術ではないと素直に脱帽です。
横山氏の演奏は、指さばきは本当に見事だけれども、だんだんそのコンピューター的な演奏にどうしようもなく違和感を覚えてきますし、ピアノ学習者がこういう演奏を理想のようにイメージしそうな気がして、もしそうだとしたらちょっとどうだろうかと思います。

曲目はロンド、ピアノソナタ第1番、12のエチュードOp.10ですが、ソナタの第3楽章の夢見るようなラルゲットをあまりにも無感覚に通過したり、Op.10-1でのアルペジョの鋭い折り返しのやり過ぎや、Op.10-10では左のバスにこれまで聴いたことのないような機械的なリズムがあったりと、なんというか…上手いんだろうけれども、それは音楽とは似て非なるものを聴かされているような気分に囚われてしまうのを自分で抑え込むことができなくなってきます。

プレイエルの音もあまりに見事に、少なくともこのピアノが作られた当時想定されなかったような高い次元でバランスされ、統御されているので、その両者を組み合わせることは、結局はせっかくのプレイエルが現代的なピアノのような感覚につい耳が埋没してしまうようです。
さらには、演奏も冒頭に述べたように、あくまでも現代の楽器とメトードで鍛えられた正確無比な今風のものなので、なんだか最終的にちぐはぐというか、どこかしっくりしないものを感じてしまうのでしょう。
こんな調整と弾き方なら、やっぱり現代のヤマハかスタインウェイで弾くのが一番だろうと思えてきたりするわけですが、この印象が的確であるかどうかはまだ自分でもよくわかりません。

そんな疑問が次々に去来してくる事態に達して、ついに久々にコルトーのショパンを聴いてみたのですが、やはりそこにはプレイエルの自然で伸びやかな歌声がありました。
この録音の中にあるものは、すべてが一貫性のある辻褄のあった世界で、コルトーのいささか過剰では?とでもいいたくなるような詩情の発露をプレイエルがどこまでも繊細に受け止め、それを当然のように表現していきます。
楽器と奏者の関係というのは、こうあらねばならないと痛感させられるのです。

でも!
それよりもなによりも驚いたのは、このところマロニエ君はショパンコンクールのライブCDを洪水のように聴いていたためとも思われますが、もともと大したものではないコルトーのテクニックが、まるで子供かシロウトように稚拙に聞こえてしまったことで、これにはさすがに愕然としてしまいました。
もちろん喩えようもなく美しい瞬間はあるものの、馴れとは恐ろしいものです。
あまりコルトーのイメージを壊したくないので、ちょっと今は止しておこうと思ったのが正直なところです。

で、再び横山氏のCDに戻ると、これはまた目から鼻に抜けるような指さばきで、これもちょっとやり過ぎとしか思えません。マロニエ君の欲しいものは、ピアノもピアニストもこの中間に位置するような塩梅の演奏とピアノなんですが、それがまた無い物ねだりなんですね。

原点に返れば、そもそも1910年のプレイエルで新録音が出たというだけでも、僥倖に等しいこのありがたい企画には、素直に深謝しなくてはいけないのはまぎれもない事実ですから、あまり際限のない欲を出してはいけませんね。
つくづくと人間の欲というのには終わりがないようです。
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