五嶋節物語

古い本ですが、『五嶋節物語 母と神童』(奥田昭則著 小学館)を読んでいます。
こんなブログとはいえ、読了もしないうちから何か書くのはあんまりでは?とも思いましたが、まあ思いつくままに。

五嶋節さんは、言わずと知れた五嶋みどり(弟さんもいましたね)を世界のヴァイオリニストに育て上げたお母さん。五嶋みどりのコンサート終了後の様子をテレビでチラッと見たことがありますが、陽気で気さくな関西の女性という感じで、親子といってもお嬢さんとはずいぶん様子が違うなぁと思った覚えがあります。

なにしろ、二人の我が子をあそこまでにした女性だから並大抵の人ではないだろうと思っていたけれど、この本のページを繰るごとにへぇぇへぇぇと驚くことの連続でした。
なにより驚いたのは、この節さん自身が大変なヴァイオリンの名手だそうで、その演奏はただ上手いというようなものではなく、天才的で、器が大きく、聴く者を魅了するものだったとか。

当然ながら学生時代は優等生タイプではなく、考え方など独自の感覚と存在感があり、普通の生徒とはかなり違ったところのある人だったようで、ヴァイオリンを弾くと圧倒的で、いわゆる天才気質だったとか。
オーケストラに入るのが夢で、相愛学園のオケのコンサートマスターまで務めていたにもかかわらず、当時神のように恐れられて、ときおり指導に来ていたという斎藤秀雄氏による独自の徹底した指導に反発してそこを離れるなど、やはり凡人とは感じ方も行動も違っていたでしょうね

ヴァイオリン奏者としての資質は確かなもので、申し分のないものだったようです。

しかし、家族の反対や時代に阻まれて、本格的な演奏家になる道はどうしても叶わず、その後結婚して生まれたのがみどりなんですね。わずか2歳のころ彼女がピアノなどよりヴァイオリンに興味を示したため、ほんならというわけで徹底的に教えこんだのがこの節さん。
みどりが天才であることに異論を挟む人はいないと思うけれど、子供にとって最も身近な母親が、それだけの天分と尋常ならざる気骨あるスーパー教師なのだから、そりゃあ鬼に金棒でしょう。
当初から一貫して、すべて母から仕込まれたというのも驚きでした。

節さんの演奏を知る人によれば、みどりのほうが完成度は高いけれど演奏は小さいと感じるんだそうで、どんな演奏だったか聴きたくてウズウズするようです。

学生時代は歌謡曲を弾くアルバイトをして、クラシックの訓練だけでは得られない貴重な体験を積んだり、そうかと思えばヴァイオリンから離れて、家出をして、水商売で働いて周りをハラハラさせてみたりと、やることがとにかく奔放で規格外で、まるでデュ・プレやアルゲリッチみたいな、天才特有の匂いを感じます。

それでも、周囲(家族?)の鉄壁の反対は如何ともしがたいものがあり、ついにはプロへの道はあきらめざるを得なかったようで、ご本人はもとより、その演奏によって深い感銘にいざなわれたかもしれない我々にしてみれば、ただ残念というほかありません。

それでも、人間って本質は変わるものではなく、こうと決めたらやり遂げる人だから、英語もできず、多いとはいえない貯金を一切合切もって、10歳のみどりをつれてニューヨークに渡るというような、芝居で言えば「第2幕」といえるような突飛な行動にも繋がったのは間違いなく、このあたりがなにかと常識やリスクに照らし合わせる凡人とは違うところでしょう。

音楽に限らず、芸術/芸術家と名のつく世界には、いわゆる凡人の立ち入る場所はありません。
凡庸な常識の世界ではなく、才能と努力(そして努力を惜しまない才能)、毒と狂気と、突風の吹き荒れる崖っぷちをさまようような苦悩の世界。
そこは、天才という名の常軌を逸した超人だけが棲むべき世界で、そこから紡ぎだされる美の世界を我々凡人は、その美のしずくのおこぼれを得ようと、口を開けて待っているようなものかもしれません。

それにしても関西はヴァイオリニストをよく排出するエリアですね。

五嶋みどりだけでなく、辻久子、神尾真由子、木嶋真優の各氏など、関西はパッと思いつくだけでも大物ヴァイオリニストが何人もいらっしゃいますが、土壌的気質的な何かと関連があるのかもしれません。
続きを読む

iPhoneかわいい

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いくださいませ。


昨年12月、ついにスマホを買いました。

その理由は単純で、この先もガラケーで押し通すほどのサムライでもなく、iPadをカバンに忍ばせて持ち歩くのが重くて面倒くさくなったことと、スマホは今や時代の主役となって久しく、もはや時勢には逆らえないというあたりでしょうか。

知人のアドバイスもかなり後押しになったし、キャッシュレス、カメラ/動画、LINE等の通信手段、ナビゲーション、その他使いおおせないほどのありとあらゆるアプリがあふれ、これを世界の老若男女の大半が持っているわけだからすごいもんだと思います。

思い起こせば、むかしは21世紀になったら誰もが気軽に月旅行に行けたり、車は空を飛んでいるといった無邪気な空想をしていましたが、それはそうならなかったけれど、スマホはある意味それに匹敵する技術革新でしょうね。

世の中の仕組みも、スマホがあることを前提としており、そうではない人のことなど置き去って前進している。
誰もがあの小さな端末を握りしめ、生活の大部分を依存/支配されており、マロニエ君はべつに何かの活動家でもないし、もはやそれを使わない理由もないと思い至りました。

その気になれば、iPadでも似たようなことはできないことではないようですが、サイズも機能のうちで、いちいちあの重い板切れを取り出すのではその気になりません。
バスと普通車ぐらいの差があり、そのための使いにくさと煩わしさがあり、やはりiPadは「小さくない」し「重い」。

マロニエ君が使っていたのは、正しくはiPad mini なので、いくぶん小さく軽いほうでしたが、それでもカバンはズシッと重くなるし、独特の塊感があり長時間になると手や肩は結構な負担になるなど、それを前提としたカバンを持つ必要さえありました。

出かける際も、あれこれの支度に加えて、iPadはカバンに、携帯をポケットに!というのが忘れてはならない必須確認事項に組み込まれ、そうまでしてさんざん持ち歩いたあげくに一度も使わなかったなんてこともザラでした。

昔なら、それでもネット環境がかばんで持ち歩けるなんて夢のようで、そんな程度の重さなんてぜんぜん厭わなかったけれど、時代は常に「当たり前を更新」してしまい、いまではこれが苦痛として迫ってきていたのです。

巷で流行りのキャッシュレスやポイント/クーポンのたぐいも、レジでカバンの中をゴソゴソやってiPadを取り出して画面を開くという手順はけっこうな集中(というか緊迫!)を強いられて煩わしく、下手をすると普通に財布から現金で払ったほうが、どれだけ単純で楽かと思うことも。

ガラケー&iPadという組み合わせは4年間お世話になったスタイルでしたが、iPadとiPhoneは、電話機能を有無を除いてほとんど違いはないと思っていたけれど、実際は「似て非なるもの」でした。
しかもそれは、機能というより、気持ちの上での違いが大きいことも大きな発見でした。

いまごろやっとスマホを手にして、その感動をこうしてブログの文章に綴ることじたい滑稽のそしりを免れませんが、まあそれが事実なんだから仕方がありません。

というわけで、ついに手にしたiPhoneですが、これが想像以上に便利だしiPadにはなかった緊密性があり、長年2つに分かれていたものが小さく1つに集約できただけなのに、このほっこり感はなんだろう!?という感じ。

さらに言うなら、おかしなことに、なんというか独特の可愛さがあって、小さな相棒というか、まるで頼れる秘書を常に何人も引き連れているようで、これはiPadにはない気分でした。

かくて、4年間行動を共にした2台のiPadは自宅内のパソコンのない部屋用の中間端末へと降格されて、いつもテーブルの上にべたんと鍋敷きのようにへばりついています。
まるでホールに新しいピアノが来て、前のは練習やリハーサル用になるように。
続きを読む

朝ドラのピアノが

NHKの連続テレビ小説は3月で『わろてんか』が終わり、4月から『半分、青い。』が始まりました。

『わろてんか』が吉本興業の創業者を描く、明治から先の大戦後までの物語であったのに対して、『半分、青い。』はいったいどんな話なのかよくわからないまま見ていますが、いまだによくつかめない状態です。
もちろんネットで調べれば、物語の概略くらいはわかるのでしょうが、そこまでして調べようという気もないから、ただ録画したものをときどきダラダラと見ているにすぎません。

放送時間に直接は見られないので、音楽番組と同様、たいてい深夜に録画したものを視ることになりますが、あまりテレビを見ないこともあっていつも数週間ぶんたまっていて常に周回遅れが常態化しており、4月ももう終わりだというのに今回もようやく第二週に入ったあたり。

新しいシリーズの第一週というのは、いつもだいたい面白くなく、主人公も子役がつとめます。
お約束のように、主役の女の子は現実ではあり得ないほど、無制限に明るくて元気なキャラクター。
それでいて普通とはちょっと違った天然な面もありますよというおなじみの設定で、これは半ば連続テレビ小説の条件なのかもしれません。

主人公はこれから人生をともにするであろう男の子の友人と、同じ日に同じ病院で生まれた、誕生したその日からはじまった特別な幼なじみということのようですが、その女の子の家は庶民的な食堂、対する男の子の家はちょっとハイカラな写真館で、お母さんは家でしずしずとピアノを弾いているような人です。

さて、驚いたことに、その写真館の家の住居に置かれているグランドピアノはハンブルク・スタインウェイで、はっきりはわからなかったものの、たぶんB型あたりだろうと思われました。
その男の子もピアノが弾けるということで、何度かピアノがある部屋のシーンが出てきましたが、さすがにロゴマークこそ写ることはないものの、まぎれもないスタインウェイでした。
それも新しめのピカピカしたピアノ。

ヒロインの女の子に懇願されて、その子役の男の子がしぶしぶ弾いて聞かせるシーンがありましたが、子供らしい童謡か何かが、みょうに整ったスタインウェイサウンドで響いてくるのが、なんか笑えました。

おそらく1980年代の時代設定で、むろん家庭にスタインウェイがあっても不思議とはいわないけれど、でもやっぱりNHKの朝の連続テレビ小説に出てくる、商店街の中にある友人の家という設定なので、いきなりスタインウェイというのは、ちょっとオオッ?という感じは否めませんでした。

この『半分、青い。』はどこ(東京か大阪か)のNHKが作っているのか知りませんが、さぞやNHK内にはスタインウェイがごろごろしていて、ピアノ=スタインウェイだから、却ってヤマハやカワイを準備するほうが難しいんだろうなぁ…と思ってしまいました。
続きを読む

今どきはご用心!

最近はネットでモノを売買するにも、いわゆるヤフオク以外のいろんなサイトが増えてきていますね。

普段の足代わりにしている車を買い換えることになったのですが、なにぶん年式が古いために下取りと言ってもほとんど値段らしい値段はつきません。でも、乗ろうと思えばまだまだ数年間/数万キロは充分使える状態ではあるし、どうしたものかと思いました。

マロニエ君の場合、クルマ好きであることや性格的なこともあって、自分で言うのもなんですがとてもきれいで、機関的にも常に整備をしているので不具合は全くといっていいほど無いので、そこを理解して乗ってくださる方があれば嬉しいし、実際少しでも高く売却できればありがたいということもあり、はじめこの手のサイトに出品してみました。

はじめはヤフオクと似たようなもので、より地域色の強いものだろうぐらいに思っていました。
掲載してほどなくして、いくつかの反応があるにはありましたが、なんといったらいいか、お店で言うなら「客層」が違うような印象を持ちました。

くわしい商品説明とともに、価格を提示しているにもかかわらず、❍万円で売ってくださいとか、どうしても明日ほしいとか、からかっているのかと思うようなものがいくつか続いて、なんとなくあまり希望の持てるところじゃないような気がしてきました。
そんな中、とても興味があり直接話しがしたいからと、自分の携帯番号を知らせてきた人がありました。

とりあえず電話してみると、同県異市の方のようで「写真でも程度の良さがひしひしと伝わりました!」「ぜひ見せてほしい」とえらく前向きな感じで言われました。さらに明日は営業の仕事で福岡市内へ行くので、よかったらお昼にでも見せてもらえないかということで、マロニエ君もこういうことはタイミングだと思うので、できるだけ意に沿うよう努力して時間を作ることに。

家からは少し距離もある、大型電気店の駐車場で待ち合わせをしたところ、現われたのはスーツ姿の今どきの普通の男性で、さっそく車を見ながら「これはいい!」「すごいきれいですね〜」「こんなのお店じゃないですよね」などと褒めまくりで、かなり興奮気味な様子でした。
せっかくなので試乗もどうぞということになり、その人がハンドルを握りマロニエ君が助手席に乗りましたが、昼休みなのであまり時間がないといっていたわりにはずいぶん走り回って、はっきりは覚えていませんが30分近く走って、ようやくもとの駐車場に戻りました。

すると「ぜひ買いたいので、ネットの掲載を取り下げてもらうことはできますか?」といきなり言われました。
それほど気に入ってもらえたのは嬉しいけれども、いきなりそれはできません。
「少し手付け金をいただくなど、なんらかの約束を交わした上でないと、すぐに掲載を取り下げることは難しいですね」というと、「…ですよね」となり「じゃあ、日曜の受け渡しは可能ですか?」という提案をしてきました。

車の売買は、一般的には「車両本体+名義変更に必要な書類一式」と「車両代金」を交換すれば成立します。
このときが木曜で、日曜の受け渡しということは3日後です。
書類は印鑑証明さえ取ってくればすべて揃う状態だったので、「可能です」と言いましたが、ずいぶん急な話だなあとは思い、別れ際に念のためにもう一度「では、確認ですが、さっそく書類の準備をはじめていいということですか?」ときくと「はい、お願いします」「夜、詳しいことはまたお電話します!」ということでその場は終わりました。

帰宅後、すぐに区役所に行って印鑑証明を準備をしました。
ただ、自分でも迂闊だったのは、こちらの名刺は渡したけれど、向こうのはもらっておらず、携帯番号以外の連絡手段の交換ができていませんでした。これはまずいと思って、携帯のショートメールで、メールアドレスなどを教えてほしいと書きましたが、なぜかまったく反応はなく、それどころか夜の電話もついにかかってきませんでした。その間、何度かショートメールも送りましたが、一切返信はありません。

このあたりで不安は強い違和感へと変わり、「やられた」と思いました。
平日の昼間、無理して時間を作って車を見せに行き、さんざん乗りまわされ、日曜の受け渡しまで応諾させられ、急ぎ書類まで揃えたあげくのことですから、かなり不愉快でしたが、腹を立てても仕方がなく、別に車を取られたわけでもないので、もうこの人のことは忘れることにしました。

ところが翌日、夕食中に突然この人から電話があり、「昨日はすみません、家で揉め事がありまして、どうしてもご連絡できませんでした」「すぐにメールアドレスを携帯に送ります」ということですが、もうこのときは半信半疑でした。
だって、どんなに忙しくても、揉め事があっても、本当にその気ならメールの返信ひとつぐらい、その気があればできないはずがありません。

しばらくするとメールアドレスは知らせてきたので、そこに、受け渡しの場所と時間を決める必要があること、せめて互いのフルネーム、住所ぐらいは交換しましょうと、必要なことを書いて送りましたが、それに対する返事はまたありません。
さらに翌日の土曜、向こうからの着信履歴があったので何度かかけ直しましたが、決して出ることはなく、こういう人とこれ以上かかわるとろくなことはないと判断し、「今回のお取引はご遠慮させてください」とメールで伝えました。

結局、この人はいったい何がしたかったのかわかりませんが、ネット社会の不気味さを勉強させられる出来事でした。
続きを読む

塗装は下地

このところ、シュベスターの外装の補修をお願いしてある関係で、毎週のように工房へ通っていますが、お忙しいようで作業は思ったりもスローテンポです。

以前も書いたように、その塗装工房は運送会社の倉庫の一角にあるため、そこに行くには冷え切った倉庫の中を通り抜けていくことになります。
しかもマロニエ君が行くのはだいたい夜なので、人気もほとんどなく、照明の絞られた巨大空間の中には、おびただしい数のピアノが仮死状態のようにしてやたら並んでいます。
それらが次の買い手を待っているのか、どういう今後が待っているのかわからないけれど、いずれにしろ普段はなかなかお目にかかることのない独特な世界であることは確かです。

ピアノとピアノの間は、人がなんとかひとり通れるようになっており、それらの間を進んで倉庫の片隅にある塗装工房へ到達するという感じです。

ここで、わがシュベスターは長年の間についてしまった小キズなどを修復され、少なくとも見た目は新しく生まれ変わろうとしているわけですが、手がけてくださる職人さんは日中は調律師としてのお仕事をこなされ、夕方以降ここに来て木工や塗装のお仕事をされているので、毎日朝からそれだけに専念できる場合と違い、作業は少しずつしか進みません。

しかも、ピアノ専門の木工職人というのは、本当に稀少な存在なのだろうと思います。
とくに現在お願いしている方は「塗装や木工もできる」というようなレベルではなくて、それ自体がかなり得意でお好きのようで、こだわりをお持ちのようでもあり、全国の木工の競技会のようなものにもしばしば出場されては、なにがしかの賞をいつもとっておられるような方なので、ピアノの整備の延長作業として塗装も覚えましたというたぐいの方とはかなり違うようです。

だからなのか、話を聞いていると、現在こちらの分野で抱えておられるピアノの数だけでも30台近い!のだそうで、その「混み具合」には思わずのけぞってしまいました。しかも先述したように、昼は調律をしながら夜は木工塗装という兼業なので、作業の進捗も思うようにはいかないだろうと思います。
とくに塗装は天候にも左右され、乾くのを待つ時間も必要となるため、普通の作業のように根を詰めればよいというのではないところがデリケートで難しい部分のようでした。

マロニエ君のシュベスターも、まず最初の2週間ぐらいは放ったらかしにされ、先日ようやくにしてピアノ本体が作業エリアに移動され、あちこちに散見される小さな凹みなどの傷を埋めるパテの作業がやっと始まりました。
それから1週間後に行ったら、左右の腕(鍵盤両脇のボディの部分)の部分から足にかけての塗装までが終わっていて、その美しさにはおもわず目をパチクリさせてしまいました。時間はかかるけど、非常に丁寧で、良心的な仕事というのは専門知識のないシロウトが見てもわかりますね。

さらに嬉しかったことは、ピアノの年代に合わせて塗料もラッカー系のものになるので、プラスチックの樹脂をドロリとかぶせたようなポリエステル系の陶器みたいなつるつるの感触ではなく、そこになんともいえない木で作られた楽器といった風合いが保たれていることでした。

ここまでくるのに、倉庫到着からすでにひと月近く経ったような印象。
塗装というのは、塗り始めたら早いらしいけど、その前段階の下処理は何倍も大変で、これは車でも何でも基本は同じのようです。

次は、このピアノの中で最も難所とされる鍵盤蓋の補修と塗装で、ついにその段階を迎えつつあるという感じです。
マロニエ君の買ったシュベスターは、50号という最もシンプルなデザインのモデル(それが気に入っている)ですが、濃い目のマホガニーであるぶん暗い色調の中へ沈み込んだように木目があり、それを損なわずに悪いところを剥がしていくのが至難の業だとのこと。

しかもこの鍵盤蓋は、閉めた状態の外側の部分にかなりひどい傷みがあり、部分的に好ましくない補修をしたらしい形跡があるとかで、それがさらに作業を厄介にしているようでした。
いよいよ今週はその作業に入るとのことだったので、予定通りに行けば、果たしてどんな仕上がりになるのかわくわくです。

それにしても、一口にピアノ運送業といっても、そこそこの規模になると、大型のトラックが何台も控えていて、夜遅くでも出発したり到着したりという動きがあるのは、まさにピアノの物流基地というか、それが夜ということもあってかどことなく幻想的な感じがあるものです。
これだけの数のピアノが昼夜を問わず行交う中から、個々のピアノがそれぞれのオーナーのもとへと届けられるということは、なんだか不思議で、楽器と人が「赤い糸」で結ばれているんだなあという気がしてしまいます。
続きを読む

これも地域性

「偏見」という言葉をウィキベディアで見てみると、おおよその意味するところはわかったような気がしました。

「十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」だそうで、「新しい証拠にもとづき自分の誤った判断を修正できるなら、偏見ではなく予断に分類される」とあって、なるほどと思いました。

この説明に添って考えると、「十分な根拠があって、新しい証拠が出たときに自分の判断を修正する用意がある」のであれば偏見ではないと考えてもいいという裏付けを得たようで、差し当たり自分の頭にあったことが偏見ではないと意を強くしました。

というのも、マロニエ君は関東地方のあるエリアにいささか否定的イメージを抱いており、そこには一定の経験と根拠と自信を持っているのですが、さりとて声を大にして言えることではなく、現実は現実だからしかたがないというところです。
市というのでは少し足りないし、県というのでは広すぎるので、その間を取ってここではエリアとしますが、全国的にもつとに有名で、それも非常に高評価をもって上位にランクされてしまうエリアなのですが、どうしようもなく感じてしまう固有の気質というか土地柄みたいなものがあって、それがマロニエ君としてはどうも好意的には受け止められません。

虚栄とニセモノ感にあふれ、人間的にもあまり感心できない気質をもつ人の比率が高いと経験的にも感じます。ちなみにマロニエ君は若いころ2年ほどこの地に住み暮らしたこともありますが、充実した東京生活とは打って変わって、こんなにも違うものかと深く失望したことは今でも忘れられません。
このエリアの人達は、身の丈を超えた自信を持ち、それは通常の地元愛みたいな可愛気など微塵もないもの。作られたイメージに悪乗りした思い上がりというべきで、日本人らしい慎みが薄く、おしなべて信頼という点でも疑問があります。
それはある意味、東京という大都会に対して根底に流れるコンプレックスの裏返しなのかもと思いますし、このエリアが辿ってきた歴史的経緯とも無関係ではないと思います。

さて、今年の7月の下旬のこと、車好きの知人がある中古の輸入車を購入することになり、ネットの中古車検索サイトから全国を探すことになりました。全国と言ってもベンツやビーエムではないので大した数ではなく、ヒットするのはせいぜい20台ほどで、その結果、ある1台が候補に上ったようでした。
仕事が忙しいこともあって、現地には赴かず写真のみでの判定だったようですが、結局その車を買うことになり、ついては車検取得や整備などをおこなった上での納車ということに決まったといいます。
売買契約をしたのが8月に入ってすぐでしたが、実はそのショップというのが上記のエリアにある店だったのです。

「車が来たらすぐに見せに行きます!」ということで、人ごとながらマロニエ君も楽しみにしていたのですが、ずいぶん日にちも経つのに一向に納車の気配がありません。
どうなったのか聞いてみると、8月も下旬になっているというのに「まだ作業に入れていない」という回答で、当初の話ではお盆過ぎぐらいに納車ということだったのが、かなり話が違ってきているようでした。

しかも、約束よりも遅れるのであればその旨連絡があってしかるべきですが、それは一切なしで、こちらから電話しないかぎり向こうから連絡してくることはないばかりか、担当者の話し口調も、始めのころの快活さが明らかになくなり、ずいぶん気のないしゃべり方に変化していることも甚だ不愉快とのこと、尤もな話です。
この時点で8月末までの納車は不可能となり、9月へずれ込むことが確定的になりますが、それで終わりではありませんでした。

問い合わせをする度に、延期に次ぐ延期を「すみません」のひとこともなく平然と言い渡されるのだそうで、ついには9月中の納車さえも危ういことがわかってきました。
はじめは余裕の構えを見せていた知人も、もう完全に憤慨の様子です。

ただ、この知人にも甘さというべき点があり、代金をどうせ払うのだからということで、店から言われるままに契約時に全額支払ってしまったらしいことです。しかも驚いたことには一切の値引きもなく、整備関係の費用から、福岡への陸送費まで、なんらのサービスもないまま整備費用等を一円単位で加算請求してくるという、普通ではあまり考えられない高飛車な条件です。
それらを素直に受け入れたことがますます店側を傲慢にしてしまったように思われました。
従って、契約内容の甘さや店特有の問題がないとは言い切れませんが、マロニエ君はこのエリア独特のメンタルも大きいと直感しました。

中古車と言っても絶対額としては大金ですし、商売はお客さんあってのもの。信頼や他店との比較もあるのだから、そこまで一方的な都合や態度で押し切って、せっかく買ってくれた相手をそうまで不愉快にさせる合理的な理由が見つかりません。
もちろんお店の体質や担当者個人の性格などもあることは否定はしませんが、大きく見れば、ようは文化が違うのだとマロニエ君は思うのです。

マロニエ君も以前、認定中古車というのを全国ディーラー網で探したことがありますが、さすがにディーラーというだけあってどこも悪くない対応だったけれど、「このエリア」の2店だけはやはり様子が違っていたことを鮮明に思い出します。
意味もなく上から目線を漂わせて感じは悪いし、その中の一店に至っては主任とやらが自分の自慢を展開、まるで客と張り合っているかのような微妙な態度に呆れ、車は気に入っていたけれどあと一歩というところで破談にしたことがありました。

人によっては、それはマロニエ君の「偏見」であって、たまたま。みんながみんなではない筈、罪なき人までエリアで十把一絡げに見るのはいかがなものか…といった反論をされると思いますが、これ以外にも根拠となるネタはいくつもあるし、世の中、そういくつも偶然が重なるものではなく、やはりそこには地域性や特殊性みたいなものがあるのは事実だと思います。

日本は外国と比較すれば信頼性が高いというのは事実だと思いますが、それでもやっぱり地域固有のクセみたいなものはあるわけで、そこは注意が必要だと思います。
知人の車は、さすがにもうそろそろとは思うけれど、いまだに納車されてはおらず、どうなることやら…。
続きを読む

言葉の低下

いかに当節の流行りとはいえ、どうしても馴染めない言葉ってありますね。

言葉は常に時代を反映するもので、どんなに間違っていても、マス単位で一定期間使い続けられれば、それがいつしか根を張って標準になってしまう怖さがあって、だからよけいに言葉は大事にしたいと思います。

「マジで」「チャリンコ」「ハンパない」などは、いちいち気にすると無益なストレスになるので流していこうと頭では思うけれど、やっぱり耳にするたびに抵抗がサッと体を通り抜けていくような感触を覚えます。

一部の人達が、限られた範囲内だけで、遊び感覚で言葉を崩して使うのならともかく、たとえば小さな子がはじめに覚える言葉として、こんな妙ちくりんな言葉が無定見に入り込んでいるのはいかがなものかと思います。いっぽう、近頃は男というだけで時と場所を選ばず、一人称を「オレ」と言いまくるのも気になります。

マロニエ君の個人的な感覚で言うなら「オレ」は、よほどくだけた間柄での言い方であって、本来は男友達や朋輩の間で使う言葉であって、使う範囲の狭い一人称だったはずですが、これがもう今では、若い人とほど誰も彼もが無抵抗に使いたい放題で、芸能界や若年層に至っては「ぼく」などと言う方が浮いてしまうほどの猛烈な勢力であるのは呆れるばかりです。

固有名詞は避けますが、いつだったかオリンピックから帰国した選手たちが皇族方と面談した際、さる金メダリストが皇太子殿下に対して自分のことを「オレ」と言ったものだから、あわてて宮内庁の誰かから注意されたという話があるほど、事態は甚だしくなっています。

日本語の素晴らしさのひとつは、尊敬語と謙譲語、あるいはその間に幾重にも分かれた段階にさまざまな言葉の階層があるところであって、それを「いかに適切に自然に使い分けられるか」にかかっていると思います。
ところがそういう言葉の文化は廃れ、現在はやたらめったら丁寧な言葉を使えば良いという間違った風潮が主流で、「犯人の奥様」的な言い回しが横行し、アホか!といいたくなるところ。

最近とくにイヤなのは、「じいじ」と「ばあば」で、あれは何なのでしょう!?
テレビドラマなどでもこの言い方が普通になっていたり、盆暮れの駅や空港での光景に、孫は祖父母のことをこう呼んでしまうのは、思わず背筋が寒くなります。

これを無抵抗に使っている人達にしてみれば「なにが悪い?」というところでしょうが、聞いて単純にイヤな感じを覚えるし、祖父母に対する尊敬の念も感じられず、理屈抜きに不愉快な印象しかありません。
個人的には「じいちゃん」「ばあちゃん」という言い方も好きではないけれど、さらに「じいじばあば」は今風のテイストが加わってさらに不快です。

単純におじいちゃんおばあちゃんぐらいでは、どうしていけないのかと思います。

こんなことを書いているうちに、ふと脈絡もないことを思い出しましたが、最近はお店で物を買って支払いをする際、店員は男女にかかわらず、意味不明な態度を取るのが目につきます。

どういうことかというと、商品をレジに持っていくと、紙に包むなり袋に入れるなりして、代金を受け取るという一連のやりとりの間じゅう、店員は目の前のお客ではなく、一見無関係な方角へと視線を絶え間なく走らせます。

それも近距離ではなく、どちらかというとちょっと距離を置いたあちこちをチェックしているようなそぶり。
まるで自分の科せられた職務は、実はいま目の前でやっていることではなく、もっと大きな責任のあることで、レジ接客はそのついでといわんばかりの気配を漂わせるという、微々たる事ではあるけれど、あきらかに礼を失する態度。

いちおう頭は下げるし、口では「いらっしゃいませぇ」とか「ありがとうございまぁす」のようなことは言うけれど、実体としてはお客さんをどこかないがしろにする自意識の遊びが働いているような、そんな微妙な態度をとる店員は少くありません。
これにはどうやら何らかの心理が潜んでいそうですが、ま、分析する値打ちもなさそうな、ゴミみたいな主張だろうと思われます。

ただ、ここで言いたいのは、こんなちょっとした言葉や態度がじわじわ広がるだけでも、世の中はずいぶんと品性を欠いた暗くてカサカサしたものになってしまっているような気がするということです。
お互いに気持ちよく過ごしたいのですが、それがなかなか難しいようです。
続きを読む

ふたりの達人

今年後半になって、我がディアパソンの調整は新たな段階を迎え、Bさんというディアパソンに精通された技術者さんに来ていただくようになったことはすでに書きました。

これまでに2回、計7時間ほどかけて基本的な部分に手を入れていただきましたが、つい先日3回目を迎えました。
今回は、BさんがさらにCさんという技術者さんを伴っての、お二人での来宅となりました。

ご当人の了解を得ていないので、Cさんがいかなる方であるかの詳しい記述は差し控えますが、ひとことで云うと数年前まで浜松のディアパソン本社でお仕事をされていた方です。
Bさんとしては、さらにディアパソンの大御所の意見も聞いてみようということのようですが、こんなお二人が揃うという事じたい、浜松や東京ならいざ知らず、福岡では僥倖に等しいような気がします。

しばらくは黙って音を出したり、あれこれの和音を鳴らすなどのチェックを繰り返されましたが、その後はBさんとお二人での協議が続きました。

その結果は、ウィペン下部のサポートヒール部分とキャプスタンの位置が大きくずれている事がタッチがスッキリしない原因ではないかという点で、見解はほぼ一致したようでした。

これを正しく説明する自信はありませんが、あえて挑戦してみます。
キャプスタンは鍵盤奥のバランスピン(支点)よりさらに奥側に取り付けられた、金色の小さな円柱状の金属パーツで、上部はもり上がるようになめらかなカーブがつけられています。
このカーブの真上に位置するのが、アクションの要であるウィペンです。そのウィペン下部のサポートヒールという出っ張り部分がキャプスタンと接触しており、鍵盤を押さえると、テコの原理でバランスピンより先にあるキャプスタンは上へあがり、それに連なってウィペンが突き上げられることでジャックが動き、ハンマーが発進し、打鍵に繋がります。

指先がキーを押さえた(弾く)力は、このキャプスタンからウィペンのヒールへと引き継がれていくため、ここは打鍵のための力の密接な伝達という意味で、非常に重要な部分というのはシロウトが見てもわかります。
そのため、ヒールの真ん中をキャプスタンが上に押し上げるようになっていなくては無理のない力の伝達はできません。ちなみにヒール最下部にはキャプスタンの上下動を受け止めるべく、厚手のクロスが貼り込まれています。

さて、我がディアパソンではキャプスタンとヒールの位置関係に見過ごせないレベルのズレがあることが確認され、このズレがあるかぎり、他の何をどうやっても対症療法に終わるので、まずはこの部分を本来あるべき状態に戻すことが基本であり急務であろうというのが結論でした。

クルマでも車軸のアライメント(設計上定められたタイヤの内外左右の微妙な角度)が狂ったまま、他のことをいくらあれこれやっても、気持よく真っすぐ走ったり、安定して曲がったりできないのと同じことでしょう。

具体的には、キャプスタンの位置よりもヒールが前方にずれており、Cさんがおっしゃるには、ダウンウェイトは決して重くないにもかかわらず、正しい力の伝達ができていないために、キレの悪い、もったりしたような感触が残ってしまい、それがタッチが重いと感じてしまう原因だろうとのこと。
タッチにキレがあれば、今の数値なら重いと感じるようなことはないはずとのことでした。

元はといえば、ウィペンをヘルツ式にわざわざ交換したのも、タッチを軽く俊敏にするための手段だったわけですが、このヒールとキャプスタンとの位置関係が悪いために、むしろねばっこいようなタッチになってしまっているというのはなんとも皮肉なことでした。

これを改善するための最良の方法は、キャプスタンの位置を変更することのようです。
鍵盤一式を持ち帰ってもらって、キャプスタンを88個すべて外し、その穴を埋木して、ヒールの真下に来るように位置を定めて付け直すというやり方のようです。

はじめからこの辺りまで目配りと調整ができていればよかったとも言えなくもありませんが、マロニエ君にとってはピアノは趣味であり、こういうことを通じていろいろ勉強にもなったほか、新たな技術者の方々とのご縁ができるなど、そこから得たものも大きく、これはこれでひとつの有意義な道のりだと思っています。

またCさんは、「前の方はとても良い仕事をしておられると思います」と言われていましたが、マロニエ君もその点はまったく同感で、信頼できる確かな仕事をしていただいたことは今でもとても感謝しています。

というわけで、近いうちに鍵盤一式を取りに来られることになりました。
続きを読む

わざとらしさ

ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、多くのピアノ協奏曲の中でも、マロニエ君にとって特別なもののひとつです。
何が特別かということをここでくどくどと書いてもはじまりませんが、ひとことで言うなら格別で、随所に心奪われるようなたまらぬ要素が散在し、喜びと味わいと陶酔に満たされるということかもしれません。

この曲はブラームスの若い時の作品で、紆余曲折を経ながら苦心の末に完成された大作という点では、交響曲第1番と似ているかもしれません。おまけに初演当時は一向に評価されなかったようで、春の祭典ならともかく、このような美しく味わい深い曲がなぜ不評だったかは理解できません。
というか、現在においてもこの作品の価値から考えるなら、人気はいまひとつという状況が続いているともいえるでしょう。とっつきにくい面があるのはわからないでもなく、いわゆる誰からも愛される名曲らしい名曲という範疇にはどの作品も入らないところこそブラームスの魅力なのかもしれません。

強いて言うなら、長すぎるということはあったのかもしれませんし、現に今でも、演奏される頻度はかなり低く、やはり演奏家や主催者にとっては敬遠したくなる要素があるのだろうとは思います。コンクールの課題曲でもブラームスのピアノ協奏曲を選んだら優勝できないというジンクスまであるとか。理由はやっぱり長すぎるからの由。

そんなブラームスのピアノ協奏曲第1番ですが、先日のNHK音楽館でパーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマーフィルの来日公演からこの曲が放映されました。ピアノはドイツの中堅ラルス・フォークト。会場はオペラシティコンサートホール。

フォークトは好みじゃないし、ドイツ・カンマーフィルというのもあまり関心のないオーケストラなので期待はしていませんでしたが、それでも「ブラームスの第1番」という文字を見れば、やっぱり見てみないではいられません。

やはりというべきか、演奏はまるきりマロニエ君の好みとはかけ離れたもので、普通なら10分でやめてしまうところですが、それでもこの50分におよぶ協奏曲を最後まで聞き終えたのは、ひとえに作品の魅力によるものだと思います。

ドイツ・カンマーフィルというのも何が魅力なのかよくわからず、耳慣れの問題もあろうかとは思いますが、ブラームスをこんな薄手の夏服のような軽い響きで演奏されても、不満ばかりが募ります。最近は室内オーケストラの類があちこちに結成されていますが、これが音楽的な必然なのか、大オーケストラの運営上の問題がこんな流れを生み出しているのか、真相は知りませんけれど。
マロニエ君はブラームスには柔らかで重厚な、それでいて大人の情感で満たされるような響きが欲しいのです。

それ以上に不可解なのはフォークトのピアノで、以前もベートーヴェンの3番を聴いた記憶がありますが、それどころではない違和感の連続でした。
聴く者を作品世界にいざなうことをせず、ただステージの上で自分だけ何かと格闘しているようにしか見えません。

音の分離も要所での歌い込みもなく、かといって厚いハーモニー感もないのにフォルテだけはやたら張り切って音は荒れまくります。スタインウェイはもともと強靭なピアノで、いかなるフォルテッシモにも持ちこたえるにもかかわらず、フォークトの粗雑な強打はさすがに拒絶してしまうらしく、珍しいほど音が割れてしまうのも驚きでした。

驚きといえば、会場のホワイエで、ヤルヴィとフォークとの両氏によるブラームスのピアノ協奏曲第1番に対するやりとりの一幕でした。この二人は長年の付き合いということで、さりげなく立ったまま、あくまで自然な会話のような仕立てにはなっていますが、どうみても撮影のために前もって準備された作られた台本があるとしか思えず、マロニエ君の目には完全なヤラセ芝居に見えて正直シラケました。

今や世界で活躍するクラシックの音楽家でも、カメラの前では役者のような演技ができなきゃいけないのかと思うと、なんだか誰もかれもが音楽以外のことに並々ならぬエネルギーを投じているようで、ここでも時代が変わったことを痛切に思い知らされました。
続きを読む

武者修行?

昨日はよく集るピアノの知人が会してしばらくピアノを弾き、そのあと食事に出かけました。
その席では、あれこれの話題が飛び交いますが、最も中心になったのは恋愛から結婚に関する話題でした。

友人知人で楽しむ話題の中でも、この手の話は最も愉快痛快なテーマのひとつだと思います。

なぜなら、そこにはそれぞれの経験に基づいた人生ドラマが色濃く投影されており、まあなんというか…ひとことで云えば爆笑の連続で、恋愛観を通じて相手の価値観や感性、ものの考え方に触れることができ、話はめくるめく展開を繰り返し、退屈するヒマなんてありません。

そのうちの一人は、既婚者ですが、様々な経験を通じて、多くの地雷を踏まされ傷つきボロボロになり、尚もそれを乗り越えて現在があるということを確固として自認されています。
その方によれば、お知り合いの彼女募集中の後輩男性にも深い憂慮と同情の念をお持ちで、まるで江戸時代の剣術指南役のような精神を持たれているようでした。
ところが、その後輩の方は免許皆伝には程遠いご様子…。

様々な出会いから交際を経て結婚に至る過程というものは、マロニエ君が考えているような怠惰で甘ったれのそれとはまったく異なり、ライオンが我が子を谷底に突き落とすほどに厳しい現実を勝ち抜くことであると滔々と述べられるさまは、なかなかどうして一聴に値するものでした。

まるで荒武者か僧侶の過酷な修行談を聞いているようで、忍耐と諦観、悟りの境地も必要らしく、聞いている側は驚きと笑いが尽きることなく、あっという間に閉店近くの時間に突入してしまいました。
マロニエ君などは根が不真面目でもあるし、男女の出会いなんてしょせん自然に発生し消滅するものとしか思っていない側からすれば、その気合と面目さ真剣さにはただただ感服つかまつるばかりでした。

当然ながらピアノも不屈の精神で非常によく練習されており感心させられますが、それにひきかえ、マロニエ君の練習嫌いなど論外とも言える堕落した精神そのもので、爆笑しつつも我が身の甘さを痛感させられました。

本来はもう少し具体的なことを書きたいけれど、そうもいかないのが残念なところです。


やや話は逸れますが、いつごろからか就活から転じた「婚活」という言葉もごくごく一般的となり、いらい何事にも◯活という言い方が流行ってきて、その流れを世間がやすやすと肯定し受け容れているのは個人的にはあまり歓迎はしません。
言葉というものは当然内容を伴いますから、現代はことほどさように何事も目的のために計画を練り、それに沿って我慢の精神で「活動」することが当たり前のようになってしまいました。

その極め付きは、自分が死ぬときまでありのままは否定され、きっちり計画準備した上でこの世からおさらばしろといわんばかりの「終活」で、実際にそういう動きまで出てきているというのですから驚くばかりです。
アナ雪の「ありのままで…」が流行った裏には、すべての事柄にありのままが許されないという実情が反映されているのかもしれません。

そうなるについては時代環境に裏打ちされた必然性があるものとは思いますが、そうはいっても、なんでもかんでも積極的といえば聞こえはいいけれども、要するにガツガツした活動を通じて「自分のぶん」をゲットしなくちゃいけないことをすべてに義務付けられている現代は、やっぱりどこか自然の摂理に背を向けた、いびつな空気が横溢しているようにも感じられます。
続きを読む

続・それぞれの道

長い歴史の中で、職人や物作りの最前線で圧倒的に男性が多いのは、たしかに昔の男社会的な悪しき感性を引きずっている面もあると思いますが、現実問題として仕事のクオリティなどが男性向きであったことも要因のひとつであったと思います。

男性の仕事が正確で美しいのは、べつに男のほうが能力があるからとは思いません。
もてる能力の総量においては、男女でこれといった差はないというのが一般的な認識ですし、そこはマロニエ君もまったく同様の考えです。要は、その能力の用い方、運用の手順や方法が男女ではかなり違うのだろうと思います。

男はなんにつけてもあれこれの気を遣いますし、前後左右に注意の意識が働きますが、これは悪くいうなら臆病で心配性ということもできるかと思います。

それはまさに一長一短で、指導者とか人の上に立つリーダー的なものには、そういった周囲に気が回りバランスをとろうとする性質は良い場合に働くことも少なくありません。
仲間意識というものもこれに類するものでしょうが、時として互いをかばい合ったり、悪しき慣習の是正や改革ができないのも男性の方が強いと言えるようにも感じます。

いっぽう、マロニエ君が個人的に感じているところでは、医師などは意外にも女性は好ましい性質を発揮する職業ではないかということです。
個人的な経験が中心になりますが、これまでの人生の中で自分が医師の診察を受けたことがあるのはもちろん、身内や家族が入院というような状況にも何度か直面しましたが、そのいずれの面でも女性医師の素晴らしさというものが強く印象に残っています。

いろいろ理由はありますが、まず女性医師には変な欲があまりない(もしくは平均して男より少ない)ということがあるのか、医師として目の前の患者に対して必要なことはなにかを、真摯に考えてくれると感じるのは多くが女性医師でした。
もちろん男性がそうではないというわけではないのですが、男性医師はどちらかというと自分本位で、患者の状況説明などを注意深く耳を傾けることより、専ら自分の知識や経験、それに基づく判断や能力が優先されます。

家族が入院などした場合に於いても、女性医師は思いのほか責任意識が強く(と感じる)、労を厭わずに必要なことを地道にやろうという意志が読み取れます。
必要に応じて説明はきちんとしてくれるものの、その説明が簡潔で過不足なく、よけいなことは省略され、必要以上に患者の家族にもストレスをかけないのも女性医師だったと思います。

では男性医師はどうかというと、ひとことでいうといちいち自慢の要素があり、必要な説明と、不必要な説明の選り分けがなされていません。徒に専門性を帯びた言葉や論理、仮定の話などを延々と繰り返し、それを聞かせたがるのが男性医師という印象です。
今どきということもあって表向きの語り口はいちおうソフトだけれども、どこかに支配的/権力的な響きが混ざっているのも決まって男性医師です。

なにかで読んだことがありますが、男というものは三度のメシより自慢が好きなのだそうで、それを何らかのかたちで出さないでは生きていけない生き物のようです。
優秀だなあと思うことがある反面、男のこういう部分は、根本が幼稚だとも思うわけです。

そしてその自慢に対する押さえがたい欲求が、切磋琢磨のモチベーションになっているという一面はまちがいなくあると思います。

それでも最近では男女の特性にも多少の異変があって、従来は男の牙城のように思われた分野に、ぞくぞくと気鋭の女性が頭角をあらわしているようですから、はてさてこの先はどうなっていくのだろうと思います。
続きを読む

展覧会の絵

「ウマが合う/合わない」という言葉があります。
人間関係の中には互いにそこそこ尊敬し、関係も良好であるのに、どうしても呼吸というか波長というか、何かが合わない相手というのがあるものです。
わだかまりもなく、むしろ積極的に親しくしようとしているのに、なぜか気持ちがしっくりこないといえばいいでしょうか。

これがウマが合わないということだと思います。
取り立てて理由もないのに、どうしても好きになれないと言うのはある意味深刻で、これはどうしようもないことで、運命とでも思って諦めるよりほかはないようです。

歯車の噛み合わないものは、もともとの規格が違うのだからつべこべいうことでもない。

こんな事が、実は音楽の中にもあると思います。
いかなる名作傑作の中にも好きになれない曲というのがあって、これはきっと、どなたにもそんな曲のひとつやふたつはあるだろうと思います。

中には、自分が未熟なためにその作品の魅力を理解できなかったというような場合もあれば、理想的な演奏に恵まれず、良い演奏に出会ってようやく好きになるというようなパターンもあるでしょう。

あるいは自分の年齢的なものにも関係があり、若い頃好きだった曲がそうでもなくなったり、逆にある程度の年齢になって興味を覚える作品もあるわけです。
マロニエ君の場合は、ベートーヴェンの弦楽四重奏やブラームスのピアノ曲、マーラーやブルックナーのシンフォニーなどは、若い頃はもうひとつ魅力を感じず、遅咲きだった記憶があります。

さらにはモーツァルトやシューマン、チャイコフスキーなどのめり込んだ時期があったかと思えば、その反動から聴くのが嫌になって長いこと遠ざかったりと、まあ自分なりにいろんな山坂があるものです。

ところが、中には時代/年齢その他の理由を問わず、終始一貫どうしても好きになれない曲というものがあります。
マロニエ君にとって、その代表格が例えばムソルグスキーの展覧会の絵で、これは何回聴いても、いくつになっても、どうしても好きになれません。あれだけの作品なのですから、悪いものであるはずはなく、自分の耳がおかしいのか、理解力が及ばないのだろうなどとあれこれ思ってはみるものの、要するに嫌なものは嫌なのであって、いわば生理的に受けつけないのです。

有名なラヴェルの管弦楽版も、だからまともにしっかり聴いた覚えがないほどです。
しかし、オリジナルのピアノソロは演奏会でもしばしば弾かれる(それもプログラムのメインとして!)ことがあり、あのプロムナードの旋律が鳴り出すや、条件反射のようにテンションが落ちてしまいます。
このときはできるだけ気を逸らし、会場のあちこちを観察したり、楽器や音響のことを思ったり、あるいは明日の予定はなんだったかなどまったく別のことを考えながら、ひたすら終わるのを待ちますが、音楽というのは待っていると長いものです。

今年のいつごろだったか、ファジル・サイが福岡でリサイタルをやりました。最近では珍しく「聴いてみたいピアニスト」であったにもかかわらず、プログラムに「展覧会の絵」の文字を見たとたん気分が萎えてしまい、けっきょく行きませんでした。

マロニエ君は基本的にプログラムは二の次で、誰が弾くのかという点がコンサートに行く際の決め手ですが、ここまでくると二の次というわけにもいかないようです。
続きを読む

梅雨の辛抱

今年の梅雨は、全国の多くの地域が大変な大雨に見舞われ、ニュースではしばしばその状況などが報道されています。

「平年の1ヵ月分の雨がわずか1日で…」といったフレーズを短期間のうちにずいぶん聞いたような気がしますが、どういうわけか今年の福岡地方は降雨エリアから外れているようです。
まるで布団の中から足の先がわずかに出ているように、天気図に広がる低気圧から福岡はいつもちょこんと抜け出ていて、梅雨入りしたにもかかわらず、むしろ雨とは縁遠い毎日が続いていました。

ところが、月曜午後あたりから今度ばかりは「降りそうだ」という気配を感じました。
こんなブログの場で自分の健康に言及するのは甚だ趣味ではないのですが、マロニエ君は以前から慢性的な喘息体質で、とりわけ湿度に大きく影響されてしまいます。

湿度が高いと呼吸が楽ではなくなり、そういう意味では、マロニエ君が除湿器を始終回しているのはなにもピアノのためだけではないと云えそうですが、自分ではもっぱら「ピアノのため」という意識だけでONにしていて、結果として自分もちゃっかりその恩恵に与っているというかたちです。

不思議なのは湿度がいけないと云っても、だったら入浴などで不具合があるのかというと、それはまったくありません。専ら天候がもたらす湿度+αがいけないようで、その差がなんなのか自分でもよくわかりません。

さらに気が付いたことには、いっそ雨が降り出してしまえばまだしも落ち着く喘息ですが、雨になる直前のあのムシムシする状態が最も身体に悪いように思います。
おそらくは気圧やらなにやら、大自然が生き物に与える何らかの影響があるのかもしれません。

赤ん坊の出産とか人の最期も潮の満ち引きなどに関係があるとも云われますし、低気圧が近づくと古傷が痛むなんて人もあるようですから、私達はそういう大自然の法則の中に生かされていて、それに抗うことはできないようになっているのかもしれません。
だからこそ、なんとか梅雨の時期と仲良くやっていきたいところですが、その努力の甲斐もないほど影響があって嫌なので、それに較べると真夏や真冬はむしろサッパリした気分で過ごすことができるようです。
むろん個人差が大きいと思いますが。

そんなわけでこの季節のエアコンは、いわばマロニエ君の健康維持装置ともいえますが、エアコンも万全ではなく、一定温度に達するとサーモが働いてぬるぬるした空気が入ってきたりしますから、今度はそういう死角のないエアコンに交換したいところです。

もしマロニエ君が人も羨むような大富豪なら、べつに夏の避暑はしなくてもいいけれど、梅雨を避けるためにこの季節だけカラリとした外国へ行って、ピアノ屋巡りやオペラ三昧でもやってみたいものです。
朝の連続ドラマで主人公が「想像の翼を広げる」としばしば云いますが、マロニエ君がそれをやるなら、ヨーロッパをほうぼう回って、気に入ったものがあれば、戦前のプレイエルなどと一緒に帰国できれば、そりゃあもう、この世の極楽ってもんです。

…そんな夢物語を云ってみても、現実の梅雨はまだまだ当分は続きそうですし、そこから逃げ出す術はないわけで、なんとかこの時期を無事通過するよう気張るほかはなさそうです。
続きを読む

ミクロの権利2

ミクロの権利の行使は駐車場だけではありません。

ちょっとしたお店や書店などに行っても、今はさりげない譲り合いの精神というものはまず期待できません。むしろその逆で、自分が見たい商品の前に人がいたりすると、少し横から見るようになりますが、昔なら人の気配を感じると、互いに場所を譲ったり、ちょっとした遠慮がちな動きや反応などがありました。
「謙譲の美徳」などはもはや死語だとしても、少なくとも、どうぞとかお互い様という気持ちがあったように思います。

ところが今どきは、そんな気配を察知するや、却ってそこに執拗に居座ろうという「意志的な独占」を感じられることも少なくなく、何のためにそこまでしなくてはいけないの?という疑念に駆られます。

過日もスーパーで急ぎの買い物を済ませようと立ち寄ったときのこと。生鮮食品の売り場で、こちらの目的の商品の真ん前にひとりの女性が立っていました。冷蔵の棚は2段になっており、上の段の商品をしきりに見ています。マロニエ君の買うものはその真下の段にあります。

その女性のほうが先なので、もちろんしばらくは待ちますが、他者が自分の次を待っていると気配でわかっている筈なのに、いくら待ってもその女性は尚も食い下がらんばかりにその場を離れません。

しかもその女性は手押しカートを使わず、買い物カゴを下の段の商品の上にどっかり置いています。
ラップがかけてあるとはいうものの生のお肉ですから、感心できない行為です。

おそらくその気持ちはこんなところでしょう。
人が自分と同じ場所を見たいと思っているなら、今の瞬間は自分が先着して見ている(あるいは品定めしている)最中なのだから、そこには優先権がある。これは常識でなんらルール違反ではない。である以上は自分が納得するまでその場を独占する権利があり、むやみに明け渡す必要などない。他者は自分の必要が終了しその場を立ち去るまで、黙して静かに、そして無期限に耐えて待つべきであろう。

…。こんな小さな小さな、みみっちい権利を行使することに、一服の薄暗い快楽を覚えているのだというのがひしひしと感じられるのです。もちろんその快楽の中には、自分が先であるというただそれだけの優越性と、遅参者に対するささやかな意地悪がこめられているのはいうまでもありません。
しかもその快楽は、この状況に流れる合法的行為という安全の上に成り立っているわけですから、まことにくだらない心情だとしか思えません。

自分が商品を見ていて、そこに別の人がやってきたら、ちょっと半身でも左右いずれかに動いて譲るぐらいの気持ちがどうして持てないものかと不思議で仕方ありません。
残りわずかというようなことならまだしも、商品はじゅうぶんあったのですが…。

これと対照的なのは、エレベーターなどで先に中に入った人が「開」ボタンを押して、人が乗り込むのを待つときなどです。人の目が多いほど、いつまでも遅れてきた人にも気を配り、少しの乗り損ねもないよう最大限の気配りをするする人がいて、これはこれでちょっぴり芝居がかった印象を受けます。
これに呼応するように、乗る人も、降りる人も、ありがとうございますという言葉をいささか過剰では?と思えるほど連発しますが、そこだけ切り取って見ていると麗しい日本人の礼儀正しさのように思えないこともありません。

でもきっと同じ人が、別の場所では、別人のような行動をとるような気がして、そういう意味では、最近の親切や礼儀も、どうも信じられない一面があるのは残念です。
続きを読む

ストラドの謎-2

NHKスペシャルの『ストラディヴァリウスの謎』では、この名器を巡って興味深い事の連続で、あっという間の1時間でしたが、その中でも、とりわけ「ほぅ」と思ったのは、先にも書いた、モダンヴァイオリンとストラディヴァリウスの音の特性を科学的に探るというものでした。

番組の中で、ストラドを使うパールマンも云っていましたが、ストラドの音は大きいのではなく、音に芯があって澄んでいる、だからホールの最前列から最後列まで満遍なく届くということでした。

そんなストラドの特性が、今回の日本での実験で科学的にも裏付けられたわけで、歴史的な名器といわれる楽器は往々にしてこのような傾向をもっており、ピアノでいうとスタインウェイの特性がまさに同様で、けっきょく同じだなあと思いました。

スタインウェイは傍で聴くと音量はそれほどでもなく、音色もむしろ雑音などが気になるのに、少し距離を置いて聴くと、一転して美しい、力強い音が湧き出るように聞こえる不思議なピアノで、これが大ホールの隅々にまで届く、遠鳴りの威力だと思います。
同様の実験はピアノでもぜひやってほしいものだと思いましたが、すでに日本などのメーカーではこうしした実験も極秘でやっているのかもしれません。

さらにマロニエ君の印象に残ったのは、窪田博和さんの主張で、ストラディヴァリは表板の音程を聞きながら製作をしたのではないかという基本に立ち返った考えでした。
それをある程度裏付けるものとして、ニューヨークのメトロポリタン博物館に所蔵される2挺のストラドはロングパターンといわれるモデルでしたが、これはストラディヴァリ50歳頃の作品で、この時期の特徴として通常のヴァイオリンよりもやや長めのボディを作っていたというものです。

現代のヴァイオリン職人の中には、コンマ何ミリという正確さでストラドの正確な寸法に基づいて、徹底的に模倣している人が少なくないようですが、そこまでしても本物にはおよばず、かたやストラディヴァリ自身は、時代によって大きさの異なるヴァイオリンをあれこれと作っているというのは、大いに注目すべき点だとだれもが思うところでしょう。

表板に開けられるf字孔も時代によってその形や位置が微妙に異なるそうですし、本で読んだところでは表板の膨らみなどもいろいろだと書かれています。
ディテールの形状やサイズがそれぞれ違うにもかかわらず、どれもがストラディヴァリウスの音がするということは、研究の根幹を揺るがすことのような気がします。

上記のロングパターンも展示ケースから取り出して演奏されましたが、紛れもないストラドの音がするというのは、まったく不思議というほかはなく、ますます興味をかき立てられるところです。そこには寸法よりももっと重要な「決め手」があると思わずにはいられません。

要するに、ストラディヴァリが作ったものなら、たとえサイズやf字孔の位置や形状が違っても、どれもがストラドの音がするというわけで、やっぱり製作過程にその奥義が隠されているのかなあ…と思ってしまいます。

そこへ窪田博和さんの主張が結びついたような気がしました。
もちろん楽器の音色を構成する要素は複合的で、それひとつでないことは忘れてはなりませんが、窪田さんの製作したモダンヴァイオリンは世界的にも高く評価されているようで、実際のコンサートで使っているヴァイオリニストもおられるようです。
そのひとりルカ・ファンフォーニ氏は「古いクレモナのヴァイオリンのような音」「作られたばかりとは思えない完成された音」と満足げにコメントしていたのが印象的でした。

アメリカのオーバリン大学では、毎年世界からトップクラスの60人のヴァイオリン職人が集い、ストラドの研究成果を互いに分け合っているそうですから、着々と謎の解明へ迫ってきているのかもしれません。
続きを読む