ディアパソン続き

Bさんの初回診断によれば、ダウンウエイトの数値じたいが極端に重いというものでもないということで、差し当たり基本的なところから整えていくべきということでした。

そこで、まずは建築でいうところの基礎工事をしっかりやるということです。まあこれは調律師さんならどなたでも異口同音におっしゃることではありますが、特に今回は早急に見直すべき部分がそこここに確認されたことも事実でした。
基礎がしっかりしていないことには何も先に進めないというわけで、至極ごもっともなことです。

というわけで、初回は正しい土台を作るための「整調」に5時間近くを費やされましたが、それでもまだ時間が充分とはいえず、こちらの都合で時間切れとなったため、また後日続きをやっていただくことで、とりあえずこの日は一区切りつけていただきました。

マロニエ君は、ピアノの調整中にちょっと弾いてみてくださいといわれても、普段と違って大屋根は開いているし、譜面台はなく、鍵盤蓋も左右の拍子木も外されて、いたるところから音がドバドバ出てくるため、これだけ違う条件の中で僅かな違いを感じとるのは、あまり自信がありません。
大きな違いはわかっても、繊細なところ(しかも、そこが非常に肝心なところ)はすぐにはわからないので、帰られた後しばらく弾いてみるのが恒例ですが、まずはずいぶん弾きやすくなったことは確かでした。
一番の目的であるタッチが軽くなったわけではないけれど、その動きに滑らかさと好ましい質感がでていることはよくわかり、これまでのタッチがいくぶん高級になったという感じです。

機構や消耗品を入れ替えるのではなく、整調のみによってタッチに高級感を作り出すというのは、考えてみるとかなり大変なことではないかと思いました。ただ軽くとか早くとか、動かないものを動くようにするのとは違い、高級なフィールというのは繊細な事々の積み上げでしか成し得ないもので、この点にまず感心しました。

翌日、現段階での感想を報告しようと電話したついでに、全体的な印象というか評価を聞いてみました。
というのも、マロニエ君は現在のディアパソンは個性やポテンシャルとしては気に入っているけれど、その音色はもう一つ納得できないものがあったので、この点をディアパソンのスペシャリストとしてはどうお考えか聞いてみました。
しかし、それはなかなか言われません。
長所ならすんなり言えても、その逆は言いにくいのだろうと推察され、そこをあえて忌憚なく言っていただきたいと頼むと、ようやくこちらの心情を理解され率直な感想を聞くことができました。その内容はマロニエ君が感じていることとほぼ同じもので、この点でも大いに納得できました。

こういう印象が一致していないと、今後の進展にも不安が残りますが、そういう意味でも却って安心感が得られました。

余談ながら、マロニエ君は新たな調律師さんにお願いする際には、普段面倒を見てもらっている調律師さんにも必ず事前にお断りを入れて、了解を得るようにしています。現在の調律師さんも、タッチ問題に悩む先代調律師さんが別の方に「セカンドオピニオンを聞いて欲しい」と言われたことがきっかけでした。
というわけで、今回も快く承諾していただき、その方がどういうことをされるか興味があるので後日ぜひ教えてほしいということで、マロニエ君のピアノは、こうしていつも、いろいろな技術者の方に触っていただくようになっています。

中には調律師さんとの関係をよほど特別で厳粛なものと思っておられるのか、かなりの不満があるにもかかわらず、まるで江戸時代の貞操観念のごとく、じっと耐えに耐えながら、ピアノの操を守られる方も結構いらっしゃいます。
しかし、そんなことは甚だしい時代錯誤だとマロニエ君は思います。車の整備でもケースバイケースで、オーナーの判断でディーラーに行ったり専門ショップに行ったりと、そこは所有者の全く自由裁量の領域であるはずです。
その点では楽器メンテの世界はというと、多少の閉鎖性があるともいえるでしょうが、それなりのマナーを守っていれば基本は自由であるはずで、それでも機嫌を損じるような調律師さんなら、もともと大したことない方だと思います。

Bさんは仕事に関しては信念があり厳しさが漲っているけれど、同時にとても気さくで正直で愛嬌のある素晴らしいお人柄の方でいらっしゃる点も併せて嬉しい点でした。技術者である以上は、むろん技術が大事なのは当然としても、やはりそこはお互いに生身の人間なので、人としての波長も合えばそれに越したことはありません。

素晴らしい方との出会いは無条件に嬉しいもの、今後のディアパソンの変化が楽しみです。
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4台ピアノ

ディアパソンの続きを書こうと思っていましたが、ちょっと珍しいコンサートに行ってきたので、そちらを先に。

「浜松国際ピアノアカデミー 第20回開催記念コンサートシリーズ ピアノの饗宴 ピアニッシシモ!!」という長たらしいタイトルのコンサートで、なにがどうピアニッシシモなのかよくわかりませんが、要は過去にこのアカデミーを受講した経歴を持つピアニスト4名が出演されて、それぞれがカワイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、スタインウェイという4台のピアノを弾くという趣向でした。

同じ会場で、違う銘柄のピアノを聴き比べることができるというのは、めったにないことなので、これは行くしかない!と覚悟を決めた次第。会場はアクロス福岡シンフォニーホール。

ちなみに、聞いたところではカワイのみSK-EXが持ち込まれ、残り3台はホールのピアノが使われたようです。

トップはカワイですが、演奏開始早々、このホールの野放図な音響にはいきなりのカウンターパンチというか、あらためて度肝を抜かれました。
音響といえば言葉はもっともらしいけれど、要はだだっ広い空間で音は乱反響を繰り返すばかりで、響きの美しさとか収束感などはみじんもありません。ピアノの音は盛大なエコーがかかったようで、はっきり言って何を聞いているのかさえわからないほどで、よくもまああれで苦情が出ないものだと思います。

ホールというより、銭湯か温泉の大浴場にピアノを置いて弾いているようで、聴き手の耳に到達するのは、ピアノから発せられた音があちらこちらで暴れまわったあげくのピンボケ写真みたいなもの。音楽の輪郭もあやふやで、むろんピアニストのタッチの妙などもほとんどが霧の中で伝わらず、ただ音が団子状になって聞こえてくるだけ。
あれだったら古い市民会館で聴いたほうが、よほどマシです。

第一曲が始まった時、「これはえらいことになった…」と思いましたが、とりあえず忍耐しかありません。…というか、これだからコンサートは行きたくないのです。なんでお金を払って、時間を使って、そのあげく「忍耐」にエネルギーを費やさなきゃいけないのか、これは単純素朴な疑問ですね。

というわけでエコーまみれの音の中から、そのピアノの音色をイマジネーションを働かせて探すしかありませんが、カワイはブリリアンスとパワーを重視しているのか、音の中にある暗いものと華やかなものが相容れず、まだその決着がついていないという印象でした。
ちなみに、カワイはホームページによればフラッグシップはEX-Lに変更されているにもかかわらず、いまだSKシリーズがステージで活躍しているのはどういうわけなのか…。今年開催されたチャイコフスキーコンクールでもカワイはSK-EXでしたから、EX-LとSK-EXの違いがよくわかりません。もしかしたら…いやいや憶測はやめておきましょう。

次に弾かれたのはベーゼンドルファー・インペリアル。カワイの後だけあって音に輪郭と透明感があるのが印象的で、やはりこのピアノ固有の美の世界があることが頷けます。ただ、音色の変化が乏しいのか(確かなことはわかりませんが)、しばらく聴いていると、その艶やかな音にも少々飽きてくる…といったらベーゼンのファンの方に叱られそうですが、マロニエ君の耳にはいささか一本調子に聞こえてしまいます。
もちろん好みもあるでしょうが、マロニエ君はもう少し美音の中にも陰影がある方が好きだなぁと思ってしまいます。

後半最初はヤマハ。最新のCFXでなはく、おそらくCFIIISだろうと思いますが、これが意外に好印象でした。カワイとベーゼンを聴いた耳には、音の構成というかまとまりがそれなりにあるためか、演奏におさまりがつくようです。個人的にはヤマハのコンサートグランドは現代の好みを追いすぎたCFXよりは、少し前のピアノのほうが懐もそれなりに深いものがあり、きれいに調整されていればこれはこれだと思います。
それでも随所で聴こえてくるのは、日本人の耳に深く浸透した、あのヤマハの音ではありますが。

最後はスタインウェイでしたが、こうして順に聴き比べてくると、やはり一台だけ次元が違うというのが偽らざるところでした。ピアノの音に必要な各音域の美しさ、深み、フォルム、バランス、強靭さなどは、やはり抜きん出ていることが一聴するなりわかります。とりわけ重音やフォルテになるほど音が引き締まり、破綻や乱れとは無縁になっていくあたりはさすがという他ありません。
また、異論もあろうかとは思いますが、どのピアノより音はやわらかなのにヤワではなく、シャープな中に甘いトーンが混在します。
偽善的でダサい木の響きでもなければ、神経に障るような金属音とも全く違う、スタインウェイだけの孤高のサウンドが広がると、不思議な安堵と快感を覚えます。
スタインウェイの音はこうしたいくつもの要素が複雑に折り重なることで達成された、まったく独自の境地だと思いました。

最後は4台揃って、ミヨーの4台のピアノのための組曲「パリ」から数曲が演奏されましたが、そこには混沌とした騒音のかたまりがあるばかりで、熱心に弾いてくださったピアニストには申し訳ないけれど、どことなく喜劇的でした。
こんなにもホールの響きが演奏者の足を引っ張るとは、出るのはため息ばかりです。
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好きという強み

調律師のAさんとのご縁がきっかけとなって、福岡にディアパソンを得意とされる、知る人ぞ知る技術者さんがおられることを教えていただいたのは、ずいぶん前のことでした。

「ディアパソンなら自分はBさんが一番だと思います。」と静かに、しかし自信をもって迷いなく言われたことがとても印象的でした。
どんなふうにいいのか聞いてみると、「とにかく丁寧で、Bさんが調整したピアノはとても弾きやすい。あの方はすごいと思います。」と事もなげにいわれました。言っているご本人もれっきとした調律師さんなのですから、同業者がそこまで太鼓判を押すというのは、よほどであろうと思いました。

マロニエ君のディアパソンはというと、懸案のタッチの重さを含む問題は未だ解消には至らず、それがあって、音色などの詰めの調整ももうひとつその気になれないという状態です。それでも今どきのピアノにくらべると、本質においてはそれなりに楽しいものだから、なんとなく現状でお茶を濁してきたというのが正直なところ。
しかし、別のピアノの調律などがパリッとできたりすると、やはりディアパソンのコンディションはタッチを含めて、とても本来のものとは言いがたい事は認識せざるを得ません。

また、以前書いたようにタッチレールというキーを軽くするための製品があることも、関東のピアノ店の方がわざわざ教えてくださり、一時はこれの装着をかなり真剣に考えました。
しかし、ここはやはり基本的なことをもう一度洗い直してしてみることが先決で、それらのことをやりつくし、万策尽きた時にそのタッチレールも使うべきだろうという結論に達しました。

連休中に再度調整をお願いするはずだった調律師さんが、たまたまこの時期の予定が確定できない状況になったということで延期になり、ならばこの際、思い切ってディアパソンがお得意のBさんに一度診ていただき、ご意見を伺えたらと思いました。

そういう流れでAさんを通じてBさんへ連絡していただきました。
「話はしているので、どうぞいつでも電話をしてみてください。」と番号を教えていただき、さっそくお電話したのは言うまでもありません。

電話に出られたBさんは、とてもあたたかで礼節あふれるお人柄という印象でした。
さっそくこちらのピアノの状況と希望を電話で伝えられるだけ伝えると、「どこまでご期待に応えられるかはわかりませんが、ともかく一度見せていただきましょう」ということになり、日時を約束することに。

さて、ここからはちょっとウソみたいな話ですが、そのBさんが来られるわずか2日前というタイミングで、まったく見知らぬ方からメールをいただきました。
メールの主は、ありがたいことにこのくだらないブログを読んでくださっている方らしく、その方もディアパソンのグランドをお持ちで、福岡市に隣接する市にお住まいの方でした。文面によると「(自分は)いい調律師さんに恵まれていて、その方は某区のBさんという方で「ディアパソン大好き」で、お客さんもディアパソンの愛用者が多いようです。」と書かれているのにはびっくり!

マロニエ君もBさんとは一度電話で話しただけで、まだお会いしたこともなく、たまたま名前だけの一致ということもあるかもとは思いましたが、メールの方とは翌日電話で話をする機会を得て、やはりBさんは同一人物であることが判明し、先方も驚かれているようでした。
やはりこのBさん、ディアパソンにはかなり精通した方のようで、ますます期待は高まりました。

約束の日時、ついにBさんがいらっしゃいました。
実際にお会いして、さっそくピアノを診てもらいつつこれまでの経緯を説明します。

非常に驚いたことには、電話でごく簡単に説明しておいた話から、タッチに関するあれこれの可能性を想定され、そのための部品や道具などを幾つも準備されていたことで、どれもがこれまでの調律師さんとは一味も二味も違っており、しかもそれがかなり核心に迫ったものであるだけに驚いてしまいました。
こういうところに技術者としてのスタンスというか、心構えのようなものが表れているようでした。

それらをひとつひとつ書きたいところですが、それはとりあえずここでは控えておきます。

Bさんのやり方は、ピアノを触って、考えて、また触って、またじっと考えるということを繰り返され、しだいに方向性が収束していったのか、「どこに問題があるか」「作業の手順として何を優先するか」、そして「今日はなにをやるか」ということが見えてきたようでした。

何度も「…ちょっと考えさせてください」とおっしゃるあたり、静かに自問自答しておられる様子です。

以前、医者の娘だった友人が、「いい皮膚科のお医者さんっていうのは、患部をジーッと時間をかけて観察する人なんだって…」と言っていたのをふと思い出しました。
パッと見て、即断即決して、対症療法的な作業をされると、却って本質的な解決が遠のいてしまい、こちらにとっては一番困るのですが、その点でもBさんはずいぶん違うように感じました。

さらには「ディアパソンが好き」というのはなにより強みです。
いかに優れた技術でも、それを嫌いなものへ仕方なく向けるのと、好きなものへ向けるのとでは、結果は格段の違いが生じる筈ですから。
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アイノラのピアノ

アイノラといえばシベリウスが家族と暮らした住まいとして有名です。
そこはヘルシンキから北へ30キロのヤルヴェンバーという美しい場所だそうで、シベリウスが30代のとき、その地に1500坪ほどの土地を購入して木造の家屋を建て、家族と共に終生ここで生活したと伝えられています。

アイノラという名は、最愛の夫人の名がアイノであることから、「アイノがいる場所」という意味でつけられ、家は現在も保存されて夏季には一般にも公開されているとか。
そのアイノラには、シベリウスが50歳の誕生日にプレゼントされたというスタインウェイがあり、このピアノを使ってシベリウスの作品を録音したCDがあることを知り、さっそく購入してみました。

演奏はシベリウス研究家としても有名なピアニストのフォルケ・グラスベックで、録音は2014年5月。

シリアルアンバーは#171261で、調べてみると1915年製とのこと。
シベリウスは1865年生まれなので、まさに彼が50歳の時に製造されたピアノのようです。

ネットからもアイノラの自邸内部の写真をあれこれ見てみましたが、なんとはなしにB型のように見えますが、もうひとつ確証は得られませんでした。

その演奏は、さすがにシベリウス研究家というだけあってか、非常にこの作曲家を尊敬し、畏敬の念を払った丁寧な演奏で、落ち着いて作品に耳を澄ませることの出来る演奏だったと思います。

さて、最も興味をそそられた、シベリウス自身が使っていたという収録時点で99年前のスタインウェイですが、そのふわりとした柔らかい音にいきなり惹き込まれてしまうようでした。

楽器の音には時代が求める要素も反映されているとはいうものの、現代のピアノが軒並み無機質に感じられてしまうほど、温かい響きで、ストレートで飾り気がなく(飾らなくても充分に雰囲気を持った)、まったく耳に負担にならない性質の音であることに驚かされてしまいます。
とりわけ一音一音のまわりに波紋のように広がる余韻は、やわらかで、現代のピアノが機械的な音になったことを思い出さずにはいられないものです。

むろん、素材の違いやらなにやらと、いろいろあることは承知しつつも、こういうピアノを聴くとピアノ本来の音というのは那辺にあるのだろうとつい考えさせられてしまいます。

音の感じからして、弦やハンマーも、もしかしたらオリジナルのままという気もしないではありませんが、根底にもっているものの素晴らしさは、情感が豊かで温かく、こういうピアノを持っていたら新しいピアノには完全に興味を失ってしまうのではないかと個人的には思ってしまいました。

それでも耳を凝らせば、低音がいささか痩せていたり、ところどころに音が伸びきれないようなところもあるけれど、なにしろアタック音が生き物の声帯のように自然で、同時にまわりの空気がふわっと膨らむような豊かさに満ちています。

これにくらべると現代のピアノは、表面上はずいぶんゴージャスで、ある種の高級感さえ漂っていますが、機械的な冷たさや無表情を感じずにはいられません。
こういう音を聴いてしまうと、現代のピアノはどこかハイテクっぽくもあるし、我々の想像も及ばないような技術によって、鳴らないものを遮二無二鳴らしているような印象さえ覚えます。

同じ才能でも、こういうピアノを使うのと現代の新しいピアノを使うのとでは、湧き出るイマジネーションもずいぶん違ったものになってくるような気がします。
耳に刺さるような、印刷されたような音を出すピアノを使っていれば、しらずしらずにそういう要素が作品にも影響してくるように思うのです。

その証拠に現代のピアノ弾きは、音楽的な演奏をしようとするとやたらビビって骨抜きになり、注意ばかりが先に立つ演奏になって奔放さや活力を失っています。とくにアマチュアはいちいち深呼吸のような身振りをしたり、小節やフレーズのおわりでは一つ覚えのように大仰にスピードを落とすなどして、それがあたかも音楽表現だと錯覚するのでしょう。

もしマロニエ君に経済的な余裕があるなら(ありませんが)、ぜひとも戦前の美しい声をもったピアノを買いたいものだと思いました。
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暴走世代

何年か前の事だったと思いますが『暴走老人』というタイトルの本が流行ったことがありました。

マロニエ君は読んだことはありませんが、イメージとして、最近この本のタイトルを連想させるようなことが少くありません。

運転をしていても、まったく身勝手な割り込みや、片側2車線のうちのひとつが工事中で、順次二列の車が交互に合流していくような場面でも、前車に鬼のようにビッタリくっついて絶対に他の車を入れようとしない車などは、見れば大半が熟年〜高齢者の運転する車だったりします。

つい先日もある駐車場でこんなことが。
駐車券をとり、空きスペースを探しながら徐行していると、後ろのクルマが追突せんばかりにくっついて何度もクラクションを鳴らしてくるので恐ろしくなりました。こちらが駐車し終えると、むこうは目の前に車を止めてすごい剣幕で睨んでいます。一体なに?と思ってこちらも見ていると、ついにドアが開き、中から初老の男性が降りてきて「トロトロ走るな!!」といきなり大声で吠えました。
だってここは駐車場、徐行して場所探しをするのが普通だと思うのですが、この方にはそれが許せなかったらしいのです。

テレビでよくやる万引き摘発の様子を見ても、万引き犯じたいも高齢者が多いのに加えて、捕まったときの逆ギレ的な態度がすごいのも、どちらかというとこの世代のほうが多いという印象があります。

またつい最近、とある関東の有名ホールに勤める知人から聞いた話ですが、さる業界のイベントがそのホールで行われたところ、ケータイの電源を切るどころか、暗い客席では無数のスマホがいじられっぱなしで、その光が異様なほど目障りであっただけでなく、なんとあちこちで着信音が鳴り、客席で構わず話をする、長引くと話しながら外に出ていくという驚きの光景だったとのこと。
コンサートではないとはいえ、このような行動を取る大半が、分別もあるはずのいい歳をした人ばかりだったというのですから仰天です。

世間一般でいうと、礼儀や公衆マナーの悪さに憤慨するのはだいたい中高年で、されるのは「若者」とか「新世代」だと相場が決まっていたものですが、どうも最近はそのあたりも怪しくなっているのか、古い世代もかなり荒れ放題のようです。
そして、事と次第によっては若者世代のほうがよほどマシという場合もあるのは、マロニエ君もチラホラ実感しているところ。

若い世代のほうが、何事においても規制の厳しい窮屈な世相で育ってきているためか、いったんルール化されたものには、とりあえず素直に従うという習慣というか体質をもっているのかもしれません。
いっぽう、中年以上の世代の若いころは、今よりももっとダイナミックに生きて来たという下地があるからか、なんでも無抵抗に従順ではないのだろうと思いますが、その悪い面が出てしまっているのかもしれません。

先日も、こんなことがありました。
マロニエ君は10年ほど前の数年間、県内のコンサート情報誌の発行に友人と携わった時期がありました。
掲載は無料、大小すべてのクラシックコンサート情報を網羅したもので、とても好評となり、一時はかなり支持されたときもあったのですが、情報誌というものは凄まじいエネルギーを要するもので、生活の片手間にできることではなく、数年間ふんばってみたもののついに廃刊することになりました。

マロニエ君のケータイ番号はその当時と変わっていないので、しばらくは掲載依頼や問い合わせの電話がよくかかっていましたが、さすがに10年近くも経てば、それもまったくなくなりました。

ところが先日、見知らぬ番号から電話がかかり、いきなりコンサートがどうのこうのという話をはじめられました。
ちょっと聞いた感じは、上品そうな女性の声、丁寧な言葉づかい、コンサートをされる方のご家族なのか、話しぶりと声色でそこそこ年配の方だということはすぐにわかりました。…が、すぐには話の要領を得なかったので、「恐れ入りますが、どちらにおかけですか?」と聞くと「あのぅ…◯☓◯☓◯☓じゃございませんか?」と昔の発行所の名を言われたので、すぐにこちらも理解でき「あれは、もうずいぶん前に廃刊になりました…」というと、ほんの一瞬の空白のあと、いきなりブチッと電話は切られてしまいました。

普通なら「ああ、そうですか」ぐらいの言葉はあって然るべきだと思います。
勝手に電話して、一方的に自分の話をし、廃刊になったと告げられるや、もう用はないとばかりに無言で電話を切るという行為が信じられませんでした。

掲載は無料だったので、要するにタダでコンサートの情報を載せてほしいという目的だけがあっただけで、こちらは電話に出て事情を言っているのに、いやはや、なんとも凄まじいものです。

しかも相手が年配の方であっただけに凄みさえ感じ、思わず寒いものが走りました。
きっと普段は、用のある相手には、あの調子で、いかにも上品におしゃべりしている方なんだろうと思うと、べつに人間がきれいなものとは思っていないけれども、しみじみとイヤになりました。
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ヘクサメロン

『ヘクサメロン変奏曲 6人の作曲家の合作変奏曲』というCDを購入してみました。

19世紀前半のパリでは、リストをはじめとするピアニスト兼作曲家たちがアイドルさながらに腕を競っており、社交界ではリスト派とタールベルク派のファン達が対立するほどの過熱ぶりだったとか。

そんな中、ベルジョイオーゾ公爵夫人のアイデアにより、6人の作曲家による合作によって完成したのがこのヘクサメロン変奏曲だそうです。
ヘクサメロンとは「6編の詩」を意味する言葉で、ベッリーニのオペラ『清教徒』の中の『清教徒の行進曲』から主題がとられ、リスト、タールベルク、ピクシス、エルツ、ツェルニー、ショパンに依頼された由。

中心的な役割を果たしたのがリストというのがいかにも彼らしく、イントロダクション、主題、第二変奏、フィナーレの4つを書いたのみならず、ピアノ独奏版のほか、6台ピアノ版、2台ピアノ版、ピアノ&オケ版などのバージョンも手がけたようです。
リストとは対照的に、この手の企画には気乗りせず、最も消極的で仕事の完成も遅れたのがショパンだそうで、まさにイメージ通りという感じです。孤高の作曲家であるショパンがこの手の企画に賛同し、嬉々として寄稿するなんておよそ考えられませんから。

このアイデア、なんだか同じようなことが他にもあったような気がしましたが、そうそう、ディアベッリの主題による変奏曲で、この求めに賛同しかねたベートーヴェンは、ついには単独で同名の傑作を生み出し、現在ではこちらのほうが広く知れわたっているのはご承知のとおりです。
やはり音楽歴史上、抜きん出た天才は、他者との共同作業といった、いわば平等社会の一角を与えられるようなものは向かないであろうことは、理屈抜きにわかる気がします。

折しも世の中は、あれもコラボ、これもコラボというご時世ですね。
マロニエ君にいわせれば、コラボなんてものの大半は、単独で何かを成立させる力のない人達が、実力、資金、責任、集客などを分散させて行うつまらぬイベントのことだと思います。

さて、このCDでは、各変奏を6人のピアニストによって、時にソロで、時に一緒に、代わる代わるに弾くというスタイル。
ヘクサメロン変奏曲じたいは23分ほどの作品で、あとはこの変奏曲を手がけた6人の作曲家の単独の作品が収められています。

はじめに出てきたピアノの音を聴いたとき、なんだかとても存在感のある音にハッとしたものの、咄嗟にどのメーカーであるかは見当がつけきれませんでした。いつもやるこの当て推量は、間違っていることもあるけれど、たぶん◯◯だろう…という予想は立ててみるのが楽しみのひとつですが、このピアノは容易にはわかりませんでした。

ちなみにライナーノートに使用ピアノが明示されていることもありますが、マロニエ君はできるだけはじめはこれを見ないようにしています。
ファーストインプレッションとしては、中音域に甘みはないけれど、枯れた感じとたくましさを併せ持っており、ベヒシュタイン???いやいや、それにしては低音の透明感とか絢爛とした美しさはベヒシュタインとは別種のもので、スタインウェイかと思いましたが、それにしてはやや響きに素朴さがあり、やっぱり違うと思ってしまいます。

まず絶対に違うのは、ベーゼンドルファー、日本の2社などで、自分なりにずいぶん粘ってみましたが、どうしても見当がつけられません。一番近いのはスタインウェイのようにも思いますが、それにしてはある種の泥臭さというか野趣のようなものが混じっており、スタインウェイ然とした洗練に乏しいと思いました。

で、ラーナーノートを探してみると「アッ、そういうことか」と思わず声が出そうになりました。
1901年のスタインウェイDだそうで、そこには#100938というシリアルナンバーまで記されています。

このナンバーを手がかりにネットで調べてみると、それらしきピアノのことが出ており、ドイツのスタインウェイ社でピン板まで修復されたようなことが書かれていますし、このピアノで録音された多くのCDもあるようで、それなりに有名なピアノのようです。

洗練に乏しいと感じたのは、それほど昔のピアノは表面の耳触りに媚びない、飾らない楽器だったということでもあるのだろうと思われます。
修復されているとはいうものの、まさか110年以上も昔に作られたピアノだなんて信じられないほど力強い音を出す健康な楽器であることは間違いなく、ピアノもこの時代の一流品になると、その潜在力にはすごいものがあることをあらためて思い知らされました。

後半の5曲目にはリストの葬送がありましたが、この曲は冒頭からフォルテの低音を多用する作品ですが、そこで聴こえてくるのは荘厳な鐘のようで、まさにスタインウェイの独壇場といえるもの。新しいスタインウェイにはたえて聴かれない凄みのあるサウンドです。
まあ、この作品のあたりでは答えを知った上で聴いたわけですが、葬送まで我慢して聴いておけばこの低音だけでスタインウェイだと確信できただろうと思います。

マロニエ君は使用ピアノへの興味からCDを購入することも少くありませんが、今回はまったくそういうことは知らずに買ったものだっただけに、思いがけずこんな素晴らしいピアノの音が聴けるとは、えらく得をしたような気分でした。
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研ぐ

我が家では夕食は自宅でこしらえるのが大半で、外食はたまに行く程度です。

主には家人が作り、べつに大したものでもなければ凝ったものでもありませんが、それでもひとつだけ、強いてささやかなこだわりがあるとしたら包丁です。
目的に応じて数本の包丁を使い分けないと、まるきりやる気が起きない由。

出刃包丁はめったに使いませんが、それ以外の刺身包丁、普通の三徳包丁みたいなもの、それに小型のものが常に使われ、必然的にその切れ味が問題となります。

どれもずいぶん年季の入ったもので、刺身包丁などは長年使い込んで(研いで)その刃先は新品時の半分ぐらいに痩せてしまっているほど使い込んでいるし、普通の包丁も切れが悪いというのがこのところよく聞くセリフで、それなら新しいものを買おうかということになりました。

いまや日本の包丁は外国人にもかなりの人気らしく、おみやげなどに日本のすぐれた包丁類を買い求めていくとか、あるいは欧米の一流と言われる料理人達の多くが日本製の包丁を使っているというような話をよく聞くので、もしかするとよほど「進化」しているのかもしれず、試しに一本買ってみようかというわけです。

こんなときに便利なのがネットで、どんなものを買うべきか、オススメはなにか、注意すべきはなにかをざっとあらってみました。果たしてそこで述べられているのは、セラミックは研げないので使い捨てになること、どんなに評判の高級品であってもステンレスには限界があること、本当に切れ味を求めるならすぐに黒く錆びるような鋼材を主体としたものがいいこと、さらには包丁は、そこそこのものさえ買っておけばそれでよく、問題はむしろ研ぎにあるとありました。

研ぎの問題はかなり重要と思ってはいましたが、この道に詳しい人の談によれば、なんと、包丁の切れ具合の9割が「研ぎにかかっている」と書かれているのには、いまさらですが唸らされました。
板前の修業でも包丁研ぎは基本中の基本で、一流の料理人は一流の研ぎ師であるのかもしれません。
つまりは、どんなに良い物を買っても、きちんと研がなければその価値はないも同然、宝の持ち腐れだというわけです。

これには激しく賛同。
意を新たにし、包丁を買う前に好ましい砥石を買うことが先決だということになったのは当然というべきでしょうか。
実は、マロニエ君宅で使っている砥石は昔の砥石がすり減ってしまったときに、急場しのぎでホームセンターで買った安物だったのですが、これがいけませんでした。サイズも小さいし、ざらざらして使い心地も良くないし、こんなものを今だに使っていることがそもそも切れ味の不満を招く元凶であることもわかって、すぐさま砥石を調べることに。

その結果、砥石にも上には上があるようですが、普通は人工青砥石というのが一番良さそうで、価格も4000円ほどと思ったより手頃だったこともあり、さっそくこれを注文しました。

翌々日に届きましたが、さすがにホームセンターの安物とは違って、サイズも大きく、表面がこれで研げるのかと思うほどすべすべしていて、なにより美しいことが新鮮でした。もうこの時点からして、長年不適切なものを使ったばかりにずいぶんと損をしたことが悔やまれます。

さっそくかなり黒ずんでいる三徳包丁を研いでみます。
砥石を水に沈めて水分を含ませてから、最初の一二回腕を上下させただけで、てんで感触が違うことにびっくり。ざらざらしてまるでヤスリのようだったこれまでの砥石にくらべるまでもなく、しっとりして粒子の細かさが両手の指先に伝わります。それでいて一回ごとに刃先がずんずんと研がれていくのもわかって、これこそが砥石なんだと感動しました。

包丁の刃先は、どちらかというと柔らかいものに接しているようで、それなのに確実に研磨されて一皮一皮よけいなものが剥かれていくのが使わってくるのは、大げさな言い方をすると生理的快感に近いものがあります。
すっかり気を良くして、こちらもついテンションがあがります。

包丁研ぎは楽器の演奏と同じで、やみくもに力を入れればいいというものではなく、だからといって臆病一本でもダメで、気を入れてメリハリを持たないといけません。楽器がもっとも美しい音を出すポイントや力加減があるように、集中力と合理的な動きが求められるように思います。
また、石の全体をくまなく広く使わないと、長年の使用で片減りのようなことが起こりますから、お習字ではないけれど、意外にこれは精神的作業だなぁと思います。

ひと通り研ぎ終わって、野菜などを切ってみると、果たしてこれが同じ包丁とは思えないほどの切れ味となりました。
刃先がより細く平滑になっているためか、刃先が吸い込まれるように、定規で線を引くように、無理なく、静かに切れていく感じです。切るときの感触もしっとりしていて、落ち着きがあって楽だし、断面も心なしか美しいようです。

砥石ひとつでこんなにも違うものかと感心すると同時に「9割が研ぎにかかっている」という事実をまざまざと体感させられたようでした。ほんとうにその通りだと思います。
むろんより良い包丁、より良い砥石と、さらに上の世界があるのでしょうが、マロニエ君宅の台所ではもうこれで十分で、お釣りが来るほどです。

かかる次第で、新しい包丁を買おうかという話も、ここしばらくは立ち消えになりそうです。
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で、つけました。

いよいよアマゾンにでも注文しようか、あるいはダンプチェイサー肯定派の調律師さんに連絡して購入を打診してみようかと迷っていたときのことでした。

別件で物置で探しものをしていると、壁の隅から、なんと、使っていないダンプチェイサーが思いがけなくワンセットそっくり出てきました。
探しものそっちのけで驚いたのはいうまでもありません。

で、よくよく考えたら、別のピアノに縦横2つ付けていた時期があり、それを乾燥の進む冬場にその片方を外してみたとき、床に放っておいたら、家人に片付けるように言われて、とりあえずという感じで物置に放り込んでいたのをすっかり忘れていたのです。
あやうく「購入する」をクリックしていたかも…と思うと、おマヌケもいいところですが、ともかく危ないところでした。

ひゃー、嬉しや!とばかりに、さっそくディアパソンへ取り付けることに。

本当は梅雨から夏場での急激な状態の変化を避けるため、あえて湿度の少ない冬場に取り付けて、徐々に慣らしていくことを推奨している技術者さんもおられ、その慎重を期する姿勢には敬意を覚えますが、マロニエ君ときたら低血圧なクセにめっぽう短気で、ゆっくり構えて待つというようなことが大の苦手です。
冬まで待って、取り付けて、その効果が出るのは来年の梅雨以降だなんて、とてもじゃありませんが、そんなに待っていられるか!というわけで、そこは強行突破して取り付けることに。

ピアノ下部のペダルのすぐ後ろぐらいの位置で、左右二ヶ所の支柱へ針金を通して、鍵盤と並行になる向きに吊り下げます。
針金で吊り下げるのは、このほうが作業じたいも簡単であるし、ピアノに無用な加工をしなくて済むので、マロニエ君は必ずこの方法を採っています。

その点では、調律師さんは仕事なので、キチッと作業として仕上げるためにも、そのための費用を取ってビシッと取り付け作業される方がほとんどのようです。調律師さんにとってはそれも商売のうちなので仕方ないですが、本当はいきなり固定せず、あれこれ場所を変えて試してみるのもいいと思います。

頼んで取り付けてもらう場合、「見えない場所だから」ということで、付属の取付パーツを使ってピアノ本体へネジ止めされることになりますが、実はマロニエ君はあれがイヤで、見えない場所でもピアノのリムや支柱にネジ穴を開けるなんて、理屈なしにとにかく感覚的に受け容れられないのです。

それもあるし、そもそもダンプチェイサーの取り付けなんて、いわゆる「取り付け」のうちにも入らないもので、わざわざ作業代を払って人に頼むような種類のものではありません。
それに支柱から、物干し竿のように針金で吊り下げるだけなら、気が変われば、また別の位置や方向に付け替えも簡単で、高さも自分が納得の行くように調整できます。

さて、結果はというと、取り付けたのは夜だったのですが、翌日夕方にはハッキリとした違いがあらわれたのには、さすがのマロニエ君も予想以上でした。まず音に芯が出たというか、艶が出たというか、ややピンボケ気味になっていた音色に精気が戻りました。さらにはアクションの動きが若干スムーズになり、その相乗作用でずいぶんといい感じになりました。

もちろん激変というようなものではなく、微妙な違いでしかありません。
しかし、ピアノにとってはこの微妙な違いでかなり世界がかわるものです。

それともうひとつ確かなことは、閉ざされた箱のなかに取り付けるアップライトならともかく、外部にむき出しになるグランドでは効果は期待できない、「あんなものは気休めだ」という説がありますが、それは完全な誤りで、効果にいくらかの差はあるにせよ、グランドでもかなり有効だということは確かです。
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賛否両論2

前回、飛び入りで「エンブレム騒動」を書いたので、前々回からの続きを。

ある調律師さんがダンプチェイサーに否定的ということで、それはそれでひとつの見解なのでしょうから、お考えはしっかり承っておこうと思いました。

よって、あえて反論する必要もないし、それでもこちらの気が変わらなければ自分で入手すればいいこと。
で、ご意見をふまえてよくよく再検討してみましたが、やはりディアパソンにダンプチェイサーをつけるという考えは変わりませんでした。

いい忘れていましたが、この調律師さんがダンプチェイサーの装着例として目にされたものの一つが、グランドのアクションのすぐ上というか、要するに鍵盤奥のボティ内部にこれを取り付けたピアノだったようで、それがよくない結果になっていたというものでしたので、それはそれで納得でした。

アップライトの場合、ダンプチェイサーをピアノの内部に取り付けますが、位置的には鍵盤よりずっと下で、アクションとはずいぶん距離もありますが、グランドでは、アクションやピン板に接近した極端に狭い空間ということになり、これはたしかにやり過ぎだろうと思います。
ダンプチェイサーは、あくまで補助的かつ間接的に用いるべきで、何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。

マロニエ君はグランドで下に吊るすカタチ以外の使い方の経験はありませんが、そのやり方ならば効果は上々で、実際に使った人からもよくないという類の話は聞いたことがありません。

なにより自分で数年間使ってみて一定の効果があることと、これによる音の悪化というものは、今のところまったく感じられませんが、わずかの変化を感じきれていないという可能性もむろん否定はできません。
少なくとも使用経験の範囲では、気づくほどの悪影響はなかったと言っていいと思います。
いずれにしろ調律が狂いにくい状態が保持できるということは、基本として、ピアノにとってそう悪いことではないと考えるわけです。

そもそもホールのピアノ庫のような特別な環境ならいざしらず、通常、ピアノは日本の四季の移り変わりや温湿度の変化、それに伴うエアコンやらなにやらで、冷え冷えサラサラになったかと思うと数日留守で猛烈な温湿度にさらされるとか、人がいる間の暖房と夜中の凍てつく冷気がくるくる入れ替ったりと、すでにかなりの悪条件にさらされているのですから、いまさらダンプチェイサーの副作用を問題視しても意味があるのかと思ってしまいます。

むしろ、これほど安く簡単にピアノへの悪影響を緩和できるダンプチェイサーは、やっぱり利用価値は大きいと思われ、ここはピアノのために何が良いかを、トータルで考えることが大事ではないかと思った次第。

それと前後して、以前マロニエ君がおすすめしたことでグランドピアノにダンプチェイサーを使っている知人と電話で話をする機会がありましたが、ちょっとニンマリする話を聞きました。
その方のところへは、松尾系のとても優秀な調律師さんが来られているとのことですが、その調律師さんはピアノにダンプチェイサーが取り付けられていることについて、はじめはあまり肯定的な反応ではなかったとのこと。

装着前に相談すればおそらく反対された口でしょうが、既に付いていたものなので、ご自分としては懐疑的という程度のニュアンスで、とくに目立ったコメントはなかったそうです。ところが、定期的にそのピアノを調律するようになり、知人いわく、「うちは温湿度管理が必ずしも理想的ではない」にもかかわらず、調律の狂いが少ないことが少し意外だったようで、ポツリと「これ(ダンプチェイサー)が効果あるんでしょうかねぇ…」というようなことを言われたそうです。

「ほほう、やっとこの人も効果がわかってきたか」と内心ほくそえんだのだとか。
というわけで、ダンプチェイサーはその信奉者でなくても、一定の効果は確認できるもののようではあるようです。
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エンブレム騒動

前回の続きと思っていましたが、いま書きたいことを先に。

2020年の東京オリンピックをめぐっては、国立競技場問題に続いて佐野研二郎氏デザインのエンブレム問題が世間を賑わせ、ついには白紙撤回されるというところまで発展しました。

マロニエ君の個人的な、勝手な印象だけを言わせてもらうと次の通り。

どの世界でも盗作盗用など、それに類する行為がご法度なのは、いまさらいうまでもないことです。
この点で佐野氏は、とりわけそれの厳しい広告業界に長年身を置いてきた人間としては、あまりにも脇が甘かったというべきですが、では、それが彼ひとりの問題だろうかとも思います。

マロニエ君に言わせると、世の中の大半はパクリや盗用のオンパレードで、製品開発から何から、すべてが他社の類似製品を研究し尽くしたあげく、そこへ言い訳のように「独自」の違いをちょこっと付け加えるだけ。

出版界もゴーストライターなんて当たり前、作曲でさえも作曲ソフトみたいなもので、ろくに楽器も持たずに安易にできてしまう時代ですから、この問題はいわば象徴的な出来事だと言えるのかもしれません。
連日、佐野氏のデザインをしたり顔でワアワア言っているテレビにしたところで、番組構成から放送時間、出演者の人選、あらゆるものがパクリだか横並びだか談合だかしりませんが、およそそんなようなものばかりで成り立っており、人の真似ではない、本当に独自と云えるものが果たしてどれだかあるかといえば甚だ疑問です。

日頃から、浅ましいばかりに発言をビビり、スポンサーの反応をビビり、視聴率に汲々として、マスメディアとして本当に言うべきことはなにひとつ言えないくせに、いったんピンポイント的に解禁となった事象に関してだけ、毎日、朝昼晩、集中豪雨のようにそれだけを攻め立て叩きまくるのは異様な感じがしました。

誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君は佐野氏を擁護する気など毛頭ないし、だからこの件も問題なしだと言っているわけではありません。
ただ、いまどきの汚い世の中で、あのデザイナーだけをこれほど集中攻撃するほど、だったらほかの業界およびそれに携わる人達は、どれほど正しくてご立派で清廉なのかと思ってしまうのです。
どうせ、もっとひどい、人倫にもとるようなことさえしている人達が、わずかな処理や手続きの違いなどで網からすり抜けて、糾弾を受けることなく、襟を正すことなく、威張り散らして、ふんぞり返っているにちがいないと思います。

たしかに広告業界などは著作権が法的に確立されているジャンルであるため、うるさくいわれますが、たとえばファッション業界あるいはスイーツの業界などは(現在は知りませんが)以前聞いたところでこれがないのだそうで、だからデザインやアイデアの盗用などはやりたい放題で、日常茶飯事だということでした。

また、なにかというと、すぐに訴訟に持ち込んで大金を要求する欧米の体質も、それが正しいのかどうかは知りませんが、感覚として好きではありません。

それと、今回のオリンピックエンブレムでは、公募とはいっても複数の受賞歴を持つ、いわば足切りされたプロであることが条件だったらしく、それさえも、今になって「公平ではないのでは」「誰でも参加できるものであるべき」などと、正義を振りかざして強い調子で言われていますが、不正がなければそのこと自体をマロニエ君は悪いとは思いません。

むしろ、あらゆるジャンルにシロウトがシロアリみたいに侵食して来て、高度に洗練されるべきプロの世界が、片っ端から食い荒らされるのはもうたくさんという気がします。
昔は多くの世界は縦にも横にも棲み分けという不文律が存在し、それで秩序が保たれていたものですが、芸能界でも文筆業でも、生え抜きの人材そっちのけで、シロウトや異業種の人間によって土足で踏み荒らされ、本来の才能が次々に駆逐されることは文化の衰退だと思うのです。

その点でいうと、オリンピックエンブレムに限定しても、近年ろくなものはなかったというのがマロニエ君の率直な感想で、そんな中で佐野氏の作品は、制作の経緯を別とすれば、とても端正で美しく、アーティスティックな仕上がりだったと思います。

凛とした気品とインパクト性、蒔絵を思わせる金銀赤黒の色使い、そのフォルムは涼しげなサムライのような精神性さえ感じさせ、とりわけ都庁や空港などにポスターとして貼られている感じは、日本的なクオリティ感も滲み出ており、とてもよかったと思います。
あれがバリバリ剥がされる様子というのは、理由如何に問わず、なんとなく心の傷むものがあり、佐野氏がもう少し慎重で良識を重んじる人であったなら…と思うばかり。

過程がどうであれ、美しいものは美しいという観点でみれば、非常に残念だったとしか言いようがありません。

これまで、マロニエ君が野次馬精神旺盛な人間であることは折に触れて書いてきましたが、あのエンブレムがデザインとしてつまらないものであったなら、この騒動をもっと単純に面白がって傍観できたかもしれませんが、よかっただけに、さほど楽しめませんでした。

とりわけ日ごとに出てくるものが、目にするたび失笑と狼狽を誘うようなもので、おかげで最後は美しいものが切腹させられたみたいなことになり、後味の悪いものになりました。
後から出てくるデザインは、まちがいなく凡庸なものになるであろうと覚悟しています。
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