黄金期のホロヴィッツ

『ホロヴィッツ・ライヴ・アット・カーネギーホール』は少しずつ聴き進んでいますが、1953年〜1965年までのコンサート休止期間の前後では、何が変わったかというと、最も顕著なのは録音のクオリティだと思いました。

というか、演奏そのものは本質的にあまり変わっておらず、40年代までは多少若さからくる体力的な余裕を感じるのも事実ですが、50年代に入ると演奏も黄金期のホロヴィッツそのもので、12年間の空白の前後で著しい変化が現れているようには思いませんでした。
ただ、久しぶりに聴いた1953年のシューベルトの最後のソナタなどは、やはりこの魔術師のようなピアニストにはまったく不向きな作品で、どう聴いてもしっくりきません。

このボックスシリーズでは、従来は編集されていた由の音源にも敢えて手が加えられず、ミスタッチなどもコンサートそのままの演奏を聴くことができるのは楽しみのひとつでしたが、とくに耳が覚えている1965年のカムバックリサイタルなどでは、それがよくわかりました。

冒頭のバッハのオルガントッカータなどもより生々しい緊迫感が漲っているし、続くシューマンの幻想曲もホロヴィッツとは思えぬ危なっかしさに包まれてドキドキします。この日、12年ぶりのコンサートを前に緊張の極みでステージに出ようとしないホロヴィッツを、ついには舞台裏の人間がその背中を押すことで、ようやくステージに出て行ったというエピソードは有名ですが、この前半の演奏を聴くとまさにそんなピリピリした緊迫感が手に取るように伝わってきました。

バラードの1番などはたしかにアッ…と思うところがいくつかあって、ここでもオリジナルは初めて耳にしたわけですが、逆にいうと、昔から音の修正技術というのはかなり高度なものがあったのだなぁと感心させられます。

翌年の1966年のカーネギーライブは、前年のカムバックリサイタル同様のお馴染みのディスクがありましたが、66年は4月と11月、12月と三度もリサイタルが行われており、この年だけでCD6枚になりますが、その中から選ばれたものが従来の2枚組アルバムとなったらしいこともわかりました。

これを書いている時点では、とりあえず1966年まで聴いたところですが、カムバック後の10数年がホロヴィッツの黄金期後半だろうと思います。晩年は肉体的な衰えが目立って、演奏が弛緩してくるのは聴いている側も悲しくなりますが、この時代まではハンディなしのすごみに満ちていて、まさに一つ一つがあやしい宝石のような輝きをもっています。

破壊と優雅、刃物の冷たさと絹の肌ざわりが絶え間なく交錯するホロヴィッツのピアノは、まさに毒と魔力に満ちていて、この時代の(とりわけアメリカの)ピアニストがそのカリスマの毒素に侵されたであろうことは容易に想像がつきます。

ホロヴィッツの魔術的な演奏を支えていたもののひとつが、彼のお気に入りのニューヨーク・スタインウェイです。メーカーのお膝元で、数ある楽器の中から厳選された数台のピアノがホロヴィッツの寵愛を受け、自宅や録音やコンサートで使われたといいます。

それでも、よく聴いていれば音にはムラもあり、今日で言うところの均一感などはいまひとつですが、ニューヨーク・スタインウェイ独特のぺらっとした感じのアメリカ的な音、さらにはドイツ系のピアノにくらべると、音に厚みがなく精悍な野生動物のようなところもホロヴィッツの演奏にピッタリはまったのだと思います。

でもそれだけのことなのに、30年以上むかし、日本のピアノメーカーの技術者達は、ホロヴィッツのピアノにはなにか特別な仕掛けがあるのではということで、日本公演の折だったかどうかは忘れましたが、開演前のステージへ数人が許可なく這い上がっていってピアノを観察したあげく、あげくには床に仰向けになって下から支柱や響板などの写真に撮ったりしたというのですから驚きます。

まあ、それほど強い興味と研究心があったということでもありますが、この時代はまだそんなことがただの無礼や苦笑で許された時代だったのかもしれませんね。

まだまだ聴き進みますが、ホロヴィッツばかりずっと聴いていると、神経が一定の方向にばかり張りつめるのか、ときどき途中下車してほかの演奏が聴いてみたくなるのも事実です。
でも買ってよかった価値あるCDであることは間違いありません。
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『ピアノのムシ』2

マンガ『ピアノのムシ』は、順調に読み進んでいますが、いろいろな意味で感心させられるものでした。

まず読み始めから驚くのは、主人公がピアノ技術者というだけあって、いたるところでアクションや弦や鍵盤など、絵にすることが極めて困難と思われるピアノの内部構造が頻出し、それはほとんどごまかしもなく、あきれるばかりに正確に丁寧に描かれていることです。アップライトの上下前板を外したところひとつ描くのも並大抵の手間ではないでしょう。
この点だけでも、漫画家というのは秀でた画力はもちろん、たいへんな忍耐労働ということがわかります。

また、ピアノを口実にした成功物語やラブストーリーの類ではなく、各章が独立したピアノ技術上あるいは業界に巻き起こるあれこれの裏実情のたぐいが話のネタになっており、勢いかなり専門性の高い内容となっている点にも驚かずにはいられません。

マロニエ君などのピアノ好きが喜ぶのは当然としても、世間一般を見渡せば、ピアノなんてほとんど誰も興味のないものであるし、ましてその調律がどうしたこうしたなんて意識したことさえないでしょう。そんな世間を相手に、このマンガが訴え問いかけて行くものは何のか?さらにはメインターゲットとなる読者はだれかという疑問が終始つきまといます。
たしかにマロニエ君を含む一部の好事家や調律師さんなど業界関係者にはおもしろいととしても、まさかそんな超少数派を相手に、雑誌に連載するマンガとして成り立っていくものだろうかと不思議な気分。

もし自分なら、まったく興味のないジャンルで意味もわからない専門的なことの羅列だったら、きっとページを繰る気もしないでしょう。しかるに連載が継続し、順次単行本(現在6巻まで刊行)になっているのですから、果たしてその購読層というのはどういう人達なのか…まあここが最大の不思議です。

また、一読するなりわかりますが、そのストーリー立てやそこで取り沙汰されている内容は、とても一漫画家の書けるようなものではなく、よほど専門家が張り付いて指南と確認を繰り返しているに違いないと思っていましたが、巻末のページに取材協力をした調律師さんやピアノ店などの名前が列記されており、やはり!と納得でした。

巷ではよく「マンガの影響で」とか「あれはもともとマンガがルーツ」などというような話を耳にすることがありますが、その流れでいうと、これを読んで、一流調律師を目指す若者が出てくるのでしょうか?…だとしたら、それはそれでおもしろいと思います。というのも、普通に調律学校や養成所などにいってそれなりの技術者になるより、どうせやるなら始めから一流を目指して挑むというのは大事なことだと思うからです。

マロニエ君の認識では、おしなべてマンガの主人公というのは、何らかのかたちで「英雄」である場合が多いのだろうと思われますが、その点でいうと、主人公である調律師の蛭田は、業界(とりわけ技術者)の間で作り上げられた一種の「英雄」なのだろうという気がします。

物事に拘束されず、昼から酒を飲み、超のつく無礼者、相手が誰であろうと言いたい放題、仕事も選びたい放題、嫌なものはイヤだと完膚なきまでに拒絶しまくる、正道から外れた一匹狼、それでいて技術者としての腕は突出して天才的で、おそろしく繊細な耳を持ち、どんな難題難所でもたちどころに原因を突き止め解決してしまうという、いわばカリスマ的超一流調律師とくれば、(数々の振る舞いはともかく)これはもう調律師の理想の姿でありましょう。

並外れた才能と実力ゆえに、人の顔色をうかがうこともなく、組織の一因として汲々とすることもなく、三船敏郎演ずる素浪人のように、哀愁を秘めつつ好きなように生きていくニヒルなサムライの姿に通じるのかもしれません。

これは裏を返せば、蛭田の取っている行動は、世の調律師さんのの置かれた忍従の世界を、逆写しにしているようにも受け取れます。
忍従のちゃぶ台をひっくり返すように展開されていく一流調律師の目の前に広がる数々の出来事、それがこの『ピアノのムシ』なんだろうと思いますし、そんな奇想天外が許されることこそマンガの醍醐味というところでしょう。

それにしても、繰り返すようですが、よくぞこんなマンガが出てきたもんだとその僥倖には素直に驚き、素直に喜びたいと思います。
ありきたりの発想では商売もままならない世の中、ニッチ商品なる言葉を初めて聞いたのがいつ頃の事だったわすれましたが、これはまさにマンガのニッチ作品なのかもしれません。
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運の波

1年ぐらい前だったか、正確なことは忘れましたが、『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』というCD41枚+DVD1枚という大型のBOXセットがSONYから発売されました。
ホロヴィッツが1943年から1978年までにカーネギーホールで行った主なコンサートを収録したもので、箱もカーネギー・ホールの外観を模したもので、発売当初から目にとまっていたものでした。

マロニエ君は取り立ててホロヴィッツのファンというわけではありませんが、1965年のカムバックリサイタルの冒頭の緊迫したガラスのようなバッハや、この日の興奮の頂点となったショパンのバラードなどは、きわめて深い印象を残す録音であったことは間違いありません。

子供の頃、カーネギーホールという音楽の殿堂がニューヨークにあるということを知ったのも、ホロヴィッツの存在を知ったことと同時だったことをよく覚えています。
亡命ロシア人であったホロヴィッツがアメリカに移り住んで終生暮らしたのがニューヨークで、カーネギー・ホールは彼にとっても最も慣れ親しんだ最高のステージであったことでしょう。

そこでおこなってきた数々の演奏の軌跡を網羅的に聴くことが出来るなんて、現代人は幸せです。
…とかなんとか言いながら、マロニエ君はこのBOXセットが出た時にすぐに買うことはせず、「そのうちに」という気持ちでいたのがいけなかったのです。
つい最近、ホロヴィッツの別のセット物が発売されることになり、それにも興味津々だったものの、順序としてその前にあれを買っておいかないと…と思い立って探してみると、あれ?…どこにもないのです。ネットのHMVやタワーレコードで検索をかけても出てこないので、こちらもむきになって探していると、その片鱗のようなものはなんとか出てきたものの、要するに限定発売だったものが完売してしまっており、だからもう通常の商品として検索にもひっかからないということが判明。ガーン!!!

今どきはCDもどうせ売れないのだから急がなくても大丈夫などと悠長に構えていると、こんなことになるのだと思い知りましたが、無いものは無いのだからじたばたしても始まりません。

こんなときの頼みの綱であるAmazonで検索したら、さすがにこちらではあっけなく出てきました。
どれもほとんど新品ですが、値段はほぼ定価に近い2万円が最安で、高いものでは5万円を超えるものまであるのには驚きました。
まあ、それでも大手CD店では軒並み完売しているものが今なら新品で手に入るのだし、なにより自分が出遅れたせいで、多少安く買える時期に買わなかったことが原因でもあるし、ほぼ定価なら仕方がないと納得はしてみました。しかし、やはりこのぐらいの値段になると、じゃあ直ちに購入ボタンを押すのも気乗りせず、残り一点というわけでもないから、またしても先送りにしてしまいました。

と、そんなとき。天神での待ち合わせのための時間調整のためにタワーレコードを覗きました。
過日書いたように、このところCDは負けが続いて、しばらく買うのはよそうと思っていたので、この日は正真正銘の見るだけだったのです。

見るだけなので、普段はあまり見ないコーナーなどを見て回り、積み上げられたBOXセット(大抵ろくなものがない)のところに来て、あれこれ眺めていると、ふと何か気になる模様が目に止まりました。
それを認識するのに、1~2秒ぐらいはかかったか、かからなかったか、そこは正確には覚えていませんが、とにかくほんの一瞬の空白を挟んで、あんなに探した『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』がいま目の前にポンとあることがわかり、さすがにこの時は胸がズーンとしてしまいました。

すかさず手にとって見ますが、まぎれもなく「それ」でした。
すぐに価格を見るため箱を上下左右に動かしてみると、隅の方に「9,800円」という赤い線の入ったシールが貼ってあります。アマゾンの最低価格の半分です。

迷うことなく、いそいそとレジへ直行したのはいうまでもありません。

というわけで、こんなラッキーがあるなんて、すごいなあ~とルンルン気分でしたが、これによって、このところをのCDの負け続きを一気に取り返すことができたのだと思うと、嬉しさと不思議さが半々でした。
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ルールの死角

つい先日、友人とIKEAに行って、ついでに食事をしていた時のことです。

この日は平日の夜だったので、店内もガラガラでレストランもお客さんは少なめでした。
カートで食べ物を運んで適当にテーブルに座ると、すぐとなりに高校生らしき制服姿の男子生徒が3人で来ていて、テーブルの上には本やノートや筆記用具がこれでもかとばかりに広がっていました。

なんと彼らはそこで試験勉強をやっているらしく、マクドナルドなどの店内で長時間椅子とテーブルを占領して勉強のようなことをやっているのはしばしば目にしていましたが、それがついにはIKEAのレストランにまで進出してきたのかと思いました。

見たところ、食べ物はなにひとつ無く、ドリンクバー(たぶん120円)のためのカップとグラスがあるばかり。
とりあえず勉強という目的があるためか、それほどおしゃべりはしませんが、3人が代るがわる飲み物を取りに行くのは視界の中でもいささか目障りなほど頻繁で、まずい席に座ったものだと思いました。

ときどき骨休めなのか、断片的な会話が聞こえてきますが、飲み物を持って戻ってきたひとりが椅子に座りながら「8杯目!」などと言ってはニヤリと笑ったりしています。
それからも、おかわりのための往復はとめどなく続きました。

いまさらこんなことは珍しい光景でもなし、新鮮味もない話題かもしれませんが、見ればこの3人は、4人がけのテーブルを縦につなぐように占領しており、つまり8人分の椅子とテーブルを3人で広々と使っています。この日は空席のほうが多いくらいでしたから、それで直接的な迷惑が発生したというのではありませんが…。

それにしても、こういう場所で勉強するというのは、どういう感覚なのかと理解に苦しみます。仲間と一緒に勉強したいという気持ちはわかるとしても、そのために店舗の飲食のためのテーブルを目的外に長時間使用するというのはどう考えてもいただけません。

さらには友人が見たと言っていましたが、彼らの足元には大きなスポーツバッグが置いてあり、おかわりを持ってくるたびに何かをそこへさっと放り込んでおり、帰りしなにファースナーが開いているので中が見えたんだそうですが、そこには未使用のミルクや砂糖やティーバッグなどがたくさん入っていたとのこと。
こうなると、ドロボウではないのか!?

最小限度の注文をアリバイにして長時間テーブルを占領し(空いているのをいいことに8人分のスペース)、延々とおかわりを繰り返したあげくに、モノまで持って帰るというのは言語道断です。

これがいっそ万引きなどであれば、店や警察に捕まる危険もあるし、犯罪として明確な罪科があるのに対し、こういうやり方は、いわば店が定めたルールの上に乗って悪用する行為であって、最終的に罪に問われることもないことを見通している点が、なんとも現代的で抜け目がなく、その浅ましさには横にいるこちらのほうがイライラさせられました。

しかもどの顔を見ても、悪事どころか、いかにも善良そうな面立ちで、そこに却って凄みを感じます。

昔の学生時代が良かったなどというつもりはありませんが、あんなに若い頃から、ルールの死角をすり抜けるような悪辣な行為を公然とやってのけて、それを当たり前のようにして育っていくというのは、なんだか末恐ろしい気がしました。

昔のように、無邪気に互いの家に往き来できないような、いろんな複雑な背景が現代にはあるのかもしれないと思いますが、とにかく難しい時代になったものだと思います。

この3人、マロニエ君達が来る前からいて、食事が済んで、お茶をして席を立つ頃も、一向に帰る気配はありませんでしたから、きっと閉店までいるのでしょう。
あの言葉の調子ではひとり10杯として3人で30杯、テーブルを2つ占領され、ミルクや砂糖やティーバッグまで大量にお持ち帰り、それで払った料金は3人合計360円となれば、お店はたまりませんよね。

当人たちは、そういうことは関係ないし、考えもしない、もしくはIKEAは世界的な企業なんだから、それっぽっちのことは痛くも痒くもないはずと思うのでしょうか…。
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『ピアノのムシ』

以前から書こうと思いつつ、つい書きそびれていたこと。

マロニエ君は本はそれなりに買うものの、マンガは日本の誇るサブカルチャーなどと云われていますが、基本的に興味がありません。
ただ、いつも行く福岡のジュンク堂書店は、4Fが音楽書や芸術関連の売り場なので、1Fからエレベーターで直行し、そこから下りながら他のフロアにも立ち寄るというのがいつものパターン。

4Fでエレベーターのドアが開くと、そこはものすごい量のマンガ本売り場で、狭い通路を左に右にとすり抜けたむこうが音楽書や美術書のエリアとなっているため、よく通る場所ではあったのです。

最近はクラシック音楽やピアノを題材にしたマンガもあるようで、その最たるものが「のだめ」だったのかどうか…よく知りませんが、楽譜やCDまでマンガから派生したアイテムが目につくようになり、もはや「ピアノ」という単語の入ったタイトルぐらいでは反応しなくなっていました。
ところが、あるとき本の表紙を見せるように並べられた棚を通りかかったとき、一冊のマンガ本の表紙には、グランドピアノを真上から見たアングルで男性が調律をしている様子が描かれているのが目に入りました。しかもそれが、やけに精巧な筆致で、フレームの構造およびチューニングピンの並び加減から、描かれているのはスタインウェイDであることが明白でした。
「えっ、これは何…?」って思ったわけです。

フレームに「D」と記されるところが「E」となっているのは、まさに内容がフィクションであるための配慮で、歌舞伎では忠臣蔵の大石内蔵助が大星由良之助になるようなものでしょう。
これがマロニエ君が荒川三喜夫氏の作である『ピアノのムシ』を認識したはじまりでした。

そういえば、アマゾンで書籍を検索する折にも、近ごろは関連書籍として「ピアノの…」というタイトルのマンガが多数表示されてくるし、それもいつしか数種あることもわかってきていたので、いったいどんなものなんだろう?…ぐらいは思っていましたが、もともとマンガを読む習慣がないこともあって、ずっと手を付けずにきたというのが正直なところです。

さらに店頭ではマンガは透明のビニールでガードされて中を見ることができず、「見るには買うしかない」ことも出遅れの原因となりました。

話は戻りますが、その表紙の絵ではアクションを手前に引き出したところで、そもそも、あんなややこしいものをマンガの絵として描こうだなんて、考えただけでも大変そうでゾッとしますが、それが実に精巧に描かれているのは一驚させられました。
察するに、これは弾く人を主人公としたメランコリーな恋愛や感動ストーリーではなく、あくまで調律師を主軸とした作品のようで、帯には「ピアノに真の調律を施す唯一の男」などと大書されており、さすがにここまでくると興味を覚えずにはいられません。

「買ってみようか…」という気持ちと「いやいや、バカバカしいかも」という思いが入り乱れて、とりあえず時間もなく、この日買うべき本もあったので、このときはひとまず止めました。

その後はちょっと忘れていたのですが、アマゾンを開くと、過去に検索したものや、頼みもしないのにさらに関連した商品が延々と提案されるのは皆さんもご存知の通りで、その中に再び『ピアノのムシ』があらわれました。
いちど興味が湧いたものは、どうも、その興味が湧いたときの反応まで記憶されるものらしく、書店であの表紙を見たときの気分が蘇り、やっぱり買ってみようかという気に。

こうなると、書店に出向いて、あの膨大な量のマンガ本の中から1冊を探す億劫を考えたら、とくにアマゾンなどは1クリックですべての手続きが済むのですから、ついにポチッとやってしまいました。

こうして、我が家のポストに『ピアノのムシ』第1巻が届き、以降続々と増えているところです。
感想はまたあらためて書くことに。
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もう少し弾く…

「できれば、もう少し弾いてください」
先日ディアパソンの続きの調整にこられた調律師さんは、帰りしなマロニエ君にこう云われました。

以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、よろず機械ものというのは、適度に使うことで好ましいコンディションを維持できるものだということを、今また、あらためて感じさせられています。
人の体や脳も同様で、これが関係ないのはデジタルの世界だけかもしれないですね。

むろん使うといっても酷使ではいけないし、機能に逆らう過度な使い方もいけない。
逆に使い方が足りない、あるいは放ったらかしというのも、消耗がないというだけでこれまた良いことはありません。

最も良い例が家屋で、人のいなくなった家というのは、恐ろしいスピードで荒れ果て、朽ちていくのは誰でもよく知るところです。人が住んで使われることで、家はその命脈を保っている典型だと思います。

これはピアノにもある程度通じることです。
ピアノも長年ほったらかしにされると、弦はさび、フェルト類は虫食いの餌食になり、可動部分は動かなくなるかしなやかさを失ってしまうのはよく知られています。かといって教室や練習室にあるピアノのように、休みなくガンガン酷使されるのも傷みは激しいようで、バランスよく使うというのは意外に難しいもの。

マロニエ君宅のピアノはそのどちらでもないけれど、強いていうなら、弾き方が足りないのは間違いないと自覚しています。もともとの練習嫌いと、技術的な限界、さらには趣味ゆえの自由が合わさって、つい弾かなくなることが多いのです。

楽譜を見て、パッと弾けるような人ならともかく、マロニエ君などはひとつの曲を(自分なりに)仕上げるだけでも、相当の努力を要します。しかも遅々として上達せず、それをやっているうちにテンションは落ち、別の曲に気移りし、結局どれもこれもが食い散らしているだけで、なにひとつものになっていないというお恥ずかしい状態です。

知人の中には、ひとつの曲を半年から一年をかけてさらって仕上げていくという努力一筋の方もいらっしゃいますが、あんなことは逆立ちしてもムリ。見ていて、ただただ感心するばかりで、「よし、自分もがんばろう!」などという心境にはとてもじゃないけどなれません。
むしろ、どうしたらあんな一途なことが出来るのか不思議なだけで、むろん自分のがんばりのなさもホトホトいやになるのですが、そこまでしなくちゃいけないと思うと、ますますピアノから遠ざかってしまいます。

心を入れ替えて、一つの曲の練習に没頭するなどということは到底できそうにもないし、だいいち自分には似合いません。たぶん死ぬまで無理で、これがマロニエ君の弾き手としてのスタイル(といえるようなものではないけれど)だと諦めています。

根底には、いまさらこの歳で、ねじり鉢巻で練習したところでたかが知れているし、根本的に上手くなれるわけはないのだから!という怠け者特有の理屈があるのですが、どこかではこれはそう悪い考えでもないとも思っています。

話が逸れましたが、だからピアノにはあれこれこだわるくせして、実際どれくらい弾いているのかというと、毎日平均すると5分~10分弾かれているに過ぎないというのが実のところですし、それも厳密に言えばダラダラ音を出しているだけで、「弾いている」と胸を張って言えるようなものでもない。

で、冒頭の話にもどれば、これではやはり使い方が少なく、楽器の状態としても理想ではないと思うわけです。本当ならきちんと弾いて使って、その上で技術者さんにあれこれ要求するのが順序というものでしょう。

ところがごく最近のこと、たまたま楽譜が目についたので、ショパンのマズルカを1番から順々にたどたどしく弾いていると、ちょっとおもしろくなって、珍しく2時間ほど弾いたのですが、後半はピアノがとても軽々と鳴ってきたし、アクションも動きが良くなったように感じました。

また30分以上弾くと、弾かないから日ごとに硬化してくるように感じていた指も、いくらかほぐれて活気が戻り、ちょっとは動きも良くなるし、そのぶん自由がきいて脱力もできてくるのが我ながらわかって、こういうときはさすがに嬉しくなってしまいます。
この壁を突破すると、いささか誇張的な言葉でいうなら陶然となれる世界が広がるわけです。

普段からきちんと練習を積んでいるような人は、いつもこの「楽しい領域」に出入りしていて、だから練習もモリモリ進むものと思われますが、マロニエ君の場合、滅多なことではこの状況は訪れてくれません。何ヶ月に一度あるかないかの貴重な時間ですが、たしかにこの刹那、やっぱり練習もしなくちゃいけないし、楽器も弾かなくてはと思うのは嘘偽りのないところです。

そうなんですが、その気分が持続しているのはせいぜい翌日ぐらいまでで、それも前日より弱くなっていて、3日目にはきれいに元に戻ってしまいます。マロニエ君自身がそうなってしまうのは一向に構わないけれど、それにつれて、ちょっぴり花ひらいたかに思えたピアノが、また少しずつ眠そうになってくるのはもったいない気がします。

谷崎潤一郎の何かの文章の中に「怠惰というのは東洋人特有のもの」というような意味のことが書かれていて、読んだときはたいそう意外に思った記憶がありますが、その点で言うとマロニエ君はまぎれもなく東洋人なんだということになるんだろうなぁと思います。
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ケンプのショパン

よろず趣味道において、掘り出し物に出会うことは共通した醍醐味のひとつかもしれませんが、これがなかなか…。

演奏家やレーベルなど、ほぼ内容がわかっているものは安心ではあるけれど、そのぶん発見の楽しみや高揚感は薄く、予定調和的に楽しんで終わりという場合も少くありません。もちろん予想以上の素晴らしさに感銘する場合もあれば、期待はずれでがっかりということもあります。

いっぽう、セールや処分品などでギャンブル買いしたものは、パッケージを開けて実際に音を聞いてみるまではハラハラドキドキで、中にはまるで知らないレーベルの知らない演奏家、知らない作品と、知らないづくしのものもあったりで、そんな中から思いがけなく自分好みのCDなどがあると、その快感はすっかり病みつきになってしまいます。

最近はCD店も縮小の波で小さく少くなりましたが、この冒険気分というのはなかなか抜けきらないもので、ときには気になるCDを手にすると、処分品でもないのに一か八かの捨て身気分でレジに向かってしまうこともあったりしますし、ネットでも同様のことがあるものです。

ギャンブル買いである以上は、ハズレや空振りも当然想定されるわけで、それを恐れていてはこの遊びはできません。それはそうなんですが、このところはすっかり「負け」が込んでしまって、いささか参りました。

良くないと思うものの具体名をわざわざ列挙する必要もないけれど、日頃のおこないが悪いのか、運が尽きたのか、マロニエ君の勘が鈍ったのか、連続して5枚ぐらい変てこりんなものが続き、内容が予測できるはずの演奏家のCDさえも3枚はずれてしまいました。さらにその前後にも、なんだこれはと思うようなもの…つまり返品できるものなら返品したいようなCDが続いてしまい、こうなるとさすがにしばらくはCDを買う気がしなくなりました。

そんな中で、かろうじて一定の意味と面白さが残ったのは、ヴィルヘルム・ケンプのショパンで、1950年代の終りにデッカで集中的に録音されたものが、タワーレコードの企画商品として蘇った貴重な2枚組です。
内容はソナタ2番と3番、即興曲全4曲、バルカローレ、幻想曲、スケルツォ第3番、バラード第3番、幻想ポロネーズその他といった充実した作品ばかりです。

ケンプといえば真っ先に思い出すのはベートヴェンやシューベルトであり、ほかにもバッハやシューマンなど、ドイツものを得意とするドイツの正統派巨匠というべき人で、そんな人がまさかショパンを弾いていたなんて!と思う人は多いはずです。

しかも聴いてみると、これが予想以上にいいのです!
とりわけマロニエ君が感銘を受けたの4つの即興曲で、これほど気品と詩情でこまやかに紡がれたショパンというのはそうざらにはありません。わけても即興曲中最高傑作とされる第3番は、これまた最高の演奏とも言えるもので、こわれやすいデリケートなものの美しい結晶のようで、ケンプのショパンの最も良い部分が圧縮されたような一曲だと思います。

逆にソナタやバルカローレなどはやや淡白な面もあって、もう少し迫りやこまやかな歌い込みがあってもいいような気もしますが、それでも非常に端正な美しいショパンです。

ただし、全体としてはケンプらしい中庸をいく演奏で、どちらかというと良識派の模範演奏的な面もあるといえばいえるかもしれませんが、それでもショパンを鳴らせるピアニストが少ない中で、けっこうショパンが弾けることに驚きました。
晩年はなぜショパンを弾かなかったのだろうと思います。

本人ではないのでわかりませんが、やはり当時は今以上に自分につけられたレッテルに従順でなくてはならなかったのかもしれない…そんな時代だったのだろうかとも思いました。ただ、実演ではベートーヴェンなどでもレコードよりかなり情熱的な演奏もしましたから、そんなテンションで弾かれる巨匠晩年のショパンも聴いてみたかった気がします。

このCDの中では幻想曲などが、やや情の勝った演奏だという印象があり、ケンプという人の内面には、実はほとばしるような熱気もかなりあったのだろうと思わずにいられませんでした。

なんでも手の内を見せびらかして、これでもかと演奏を粉飾してしまう現代のピアニストとはずいぶん違うようです。
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報道のセンス

今どきのニュースは、後味の悪いものが年々増えてくるようで、世の中はどうなっていくのだろうという出口の見えない不安にかられることがしばしばです。
政治や外交のこと、経済のこと、内外の殺伐とした事件など、憂慮すべき問題はあとを絶ちません。

そんな中では、最近はようやく安堵できる大ニュースが複数あったのは幸いでしたが、ここで政治や思想に関することを書く気はないので、それには敢えて触れないでおきます。

ニュースに関する不満は、ニュースそれ自体の内容もさることながら、マスコミの報道の仕方も大いに関係していると云うべきでしょう。思想的偏向があるのはもちろん、とくにTVニュースなどでは、つまらぬ流行の押し付けや視聴者の不安を煽って楽しんでいるかのような趣味の悪ささえ感じます。
また、基本となるべきニュースはそこそこに、すぐに地域型の美談のたぐいに走るとか、特集などと称してお涙頂戴の話題に切り替わるのは、いつもながら「こんなものがニュースという枠内で取り上げるべき事柄だろうか…」と違和感を覚えることが、あまりに多すぎるように思います。

もうひとつは、あれほどまでにスポーツを大々的に、何かというと国民最大の関心事であるかのように、わざとらしいテンションで取り上げるのもいかがなものかと思います。
それに連なって、スポーツの場で最高の競技をすることが本分であるアスリートにどうでもいいようなことを喋らせて、それをありがたがるという風潮もどうにかならないものか…。
そもそもスポーツってそんなにまでエライんでしょうかね。

いずれにしろ、マスコミ自身がまず報道するネタの取捨選択をするわけですが、その尺度からしておかしいと思うわけです。

昨日のニュースを例にとっても、第3次安倍改造内閣が発足したにもかかわらず、それはずっと後で、どのチャンネルも申し合わせたように冒頭からノーベル賞一辺倒、これが放送時間の大半を占めています。
知るかぎりで、NHKの7時のニュースはそうではなく、それが珍しいくらいでした。
日本人がノーベル賞を受賞することは、むろん嬉しいことではあるけれども、それを取り扱うニュースの在り方はというと、これはまったくいただけないもので、受賞の根拠となる業績や研究成果などについての説明はパパッと通り過ぎるだけで、あとは受賞者の家族や友人や恩師などの喜びの様子をやたらと取り上げて、それのくどいことには閉口します。

むろん偉大な研究の影には、それを支えた多くの協力者がいるはずですから、家族その他のコメントなども少しはあるとしても、ものには限度というものがあり、あくまでも主役は受賞者でありその業績なのですから、それをはき違えたような捉え方はどうもいただけません。

だからといって、シロウトに専門的な高度な科学の話などをされてもなかなかわかりませんが、やはりそこを少しでも噛み砕いて、一般人にもわかりやすく紹介すべきではないのかと思います。
しかし、マスコミは受賞者の功績より、受賞したという結果だけに興味があるようで、「おらが村から…」的な視点で地元や身内の人間が今とばかりに前に出過ぎることは、せっかくのノーベル賞がただのホームドラマへと変質していく気がします。

マスコミは「喜び報道」の名のもとに、せっかくのノーベル賞をこんなにベタベタと手垢だらけにしていいものかと思います。少なくともマロニエ君はノーベル賞ぐらいのことになれば、もう少しスマートなやり方で栄誉を称えていくことを望みます。

芸術分野では世界的権威である高松宮殿下記念世界文化賞などは、受賞者の取り扱いもよほどまともで、どうしてこんなふうにできないものなのか。
スポーツや科学は巨大なビジネスになるが、芸術はなりにくい…その差なのか。

ともかくノーベル賞の報道は、ほとんどスポーツのノリで金メダル感覚というべきで、これまでの受賞数が20いくつというようなことを繰り返し繰り返し言うのは、やっぱり金メダルでしかないんだなあと思います。
むろん日本は大したものだと思いますが、数でいうならアメリカなどは300人以上ですから、そういうことを言うのもほどほどに願いたいところです。

何かというと「オトナの対応を…」などとしたり顔でいうけれど、ノーベル賞受賞の喜び方というのは、日本はずいぶんと洗練を欠き、ベタベタした家庭色が強すぎて、見ていて喜ばしい気持ちがいくぶん差し引かれてしまうのは、却って受賞者の高い功績をマスコミが汚してしまっているように思います。

喜びをストレートに表すことと、理知的であることは、両立しないものなんでしょうか。
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まんべんなく

使いすぎる害と、使わなさすぎる害。

来る日も来る日もふたは閉じたままの使われないピアノも哀れですが、逆にあまりに繁忙を極めるピアノというのも、どこかブラック企業に就職した人のような痛々しさを感じることがあります。

先日もある調律師さんからお電話をいただいて、近くのファミレスでお茶をしていたときのこと。
この方は、福岡のあるホールの保守管理をされているのですが、今年も弦とハンマーの交換をされたらしく、驚いてしまいました。

たぶん20年以上経ったスタインウェイDですが、これまでにも何度か弦とハンマーは交換されており、稼働率の高いホールのピアノというのは、こうも消耗が激しいのかと思うばかりです。

年がら年中、本番のステージとして、力の限りを尽くすピアニストによって本気で演奏されるピアノは、見方によってはピアノ冥利に尽きるとも言えそうですが、リハーサルから含めると、そのピアノが鳴っている時間と密度は恐ろしいほどのものだろうと思いました。

同じスタインウェイDでも、殆ど使われることもないまま何年もピアノ庫で眠っている個体があるかと思えば、このようにひっきりなしに使わ続けるピアノもあるわけで、同じ工場で製造出荷された同じモデルでも、行先によって本当にさまざまな生涯を送るようです。

どちらが幸せかといえば、それはもちろん頻繁に使われたピアノのほうだと思いますが、そうはいってもあまりの酷使で数年おきに弦やハンマーを交換されるとなると、なんとはなしに可哀想な気もしてしまいます。
しかも、ホールで本番に供されるピアノともなると「言い訳」は通用しないことから、換えたてのハンマーでもいきなり豊麗で熟成した音でなくてはならず、勢い不本意な調整もしなくてはいけないとのこと。
使われるピアノにも、それなりの大変さはあるようです。

先日、マロニエ君の乗るフランス車のパーツのサプライヤーの方と電話でしゃべっていると、話題は古い車の維持管理に及び、その方いわく、「結局は、なんだかんだ言っても、やたら走行距離の多い車と高速などで猛烈に飛ばす人の車というのは、どうしようもなく傷んでいますね」と云われました。

一般的には、遠出もせず渋滞などでノロノロ運転ばかりさせられる車は気の毒で、その点でいうと、ヨーロッパ大陸に生息する車達は大陸間の移動や旅行に供され、高速道路などを縦横無尽に駆けまわって幸せなイメージですが、現実はどうやらそういいことばかりでもないようです。
全力を振り絞るように使われた時間の多い機械は、それだけ至る所にストレスがかかっているというのは、まぎれもない事実のようです。

それがそのまま、そっくりピアノにあてはまるかどうかはわかりません。
でも、稼働率の高いホールのピアノは高速道路や山道を飛ばしまくった車に、レッスン室のピアノはタクシーのように昼夜休みなく走り回る多走行車といったイメージと重なり、消耗もそれなりに激しいことは間違いないでしょうね。

むろんそれはそれで意味のあることなので、決して否定しているわけではありませんが、なんでもぬるま湯式の感覚で、自分のピアノとの使われ方のあまりの違いを考えると、ついこういうことを考えてしまうのです。

そういえば知人のピアノ好きで、大人になってピアノをはじめ、好ましい時代のスタインウェイをもっているひとりは「自分はハノンはやりたくない」というのです。
その理由というのが普通とは違っていて、「ハノンは特定の音域の白鍵ばかり使っておこなう指の訓練なので、あんなものを毎日15分とか30分とかやっていたら、弾かれる白鍵のハンマーばかり傷んでしまって、楽器としておかしなことになるから嫌だ」というのですが、これはマロニエ君もまったく同様のことを考えていたので、へぇぇ同じことを考える人もいるのか!と大いに共感したものです。

だったら黒鍵を交えて半音階全音域でやっていけばいいのでしょうけど、それはまた相当難しいことになるので、なかなかそうもいきません。
だいたいこういうことを考えてあれこれ悩むのは決まって男のようで、女性はあまり気にならない領域のことなのかもしれませんが…。
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本質はいずこ

世の中、ちょっとおかしいのではと思わざるを得ないことは枚挙に暇がないほどですが、先ごろもYahoo!ニュースで目にした記事は、その違和感という点でとりわけ強烈なものでした。

「タダで食べ放題の相席居酒屋で、毎日ご飯を食べていたら退店させられた。ネットの掲示板で、大食い女性の投稿が話題となった。」という文章でそれは始まります。

全部コピペするわけにもいかないので、マロニエ君なりに概要をまとめると、次の通り。

見知らぬ男女が同席する「相席居酒屋」では、男性が飲食代を支払い、女性はタダというところが多いのだそうで、ここからして初めてそんなものがあることを知りました。
投稿者である女子学生は、食費を浮かすため相席居酒屋に通っていて、なんと「一日4食がアベレージ」「ご飯は2、3升におかず数キロ」を食べていたというのです。
さらに同じ系列のお店に、店舗を変えながらほぼ毎日通っていたところ、ごはんをおかわりしようとしたタイミングで、店長らしき人から「申し訳ありませんが、退店してほしい」と言われたというもので、その女性はネット掲示板に事の顛末を投稿することになったというもの。

すると、この件に関して質問を受けた消費者問題に詳しい弁護士というのが、法的な観点から退店を要求したことが正しいか否か、コメントしているというものですが、それによれば、
「飲食店は、客を選べないわけではありませんが、これは入店時においての話です。」
「いったん受け入れた客については、無条件に退店させることができるわけではなく、契約内容がどのようなものだったかによります。」
「通常は、食べ放題・飲み放題の契約として受け入れたのであれば、予想以上に食べる人だったからといって、飲食を拒否することは許されません。」
「ただし、前もって、そのような条件がお客側に示されていたような場合は、別に考える余地があります」

などと、読んでいてばかばかしいような文言が並んでいました。
まだありますが、延々と引用しても意味ないでしょう。

まあ、弁護士という法律のプロの観点からみれば、そういう事になるのかもしれませんが、問題はそんなことはどうでもいいということでしょう。そもそもこういう非常識かつ厚顔無恥な女性が非難されずに、退店を願い出た店側ばかりが問題視されるのは、普通の感覚をもった人なら誰だっておかしいと感じるのではないでしょうか。

こういう場合も「普通の感覚をもった人」って誰のこと? 普通ってなに? 誰が決めるの?
といった類のことを言うような人がいますが、こういう場合にそういうことをいちいち言う人間が、正に普通ではない感覚の持ち主だとマロニエ君は思うわけです。

この女性、食費を浮かすためとはいえ、店のシステムにつけこんで飲食代を支払う赤の他人である男性達と店の両者にたかり行為を繰り返し、食べ放題であることを理由に連日連夜この店に通いつめて「ご飯は2、3升におかず数キロ」などとは、社会に巣食う病原菌のようなものだと思います。

こんな人間の振る舞いが、さほど非難されることもなく、あまさかさまに「女性は飲み放題、食べ放題をうたっているにもかかわらず、客が食べすぎているという理由で、店側が一方的に退店を求めることはできるのだろうか。」というような理由で弁護士に問い合わせをするというところが、社会の感性がまともな平衡感覚を保てなくなっている証ではないかと思います。

一度や二度ならともかく、これほどの「悪質な常習犯」ともなれば、顔を覚えられブラックリストに載るのも当然です。店は難民受入所ではないのであって、あれこれのアイデアを講じながら厳しい商売をやっているのですから、これはいわばルールを悪用した限りなくドロボウに近い行為ともいえるのではないかと思います。
そんな人間はつまみ出されるのが当然で、それはルールや法律家云々の以前の問題でしょう。

いっぽう、ルールやシステムにさえ適っていれば何をしてもいいという風潮はエスカレートしていくばかりで、ルールの盲点や死角に着目できる人間は、まるで優秀でエライかのような取り扱いにも問題があるように思います。

法律はじめ、個別のルールやシステムももちろん大事ですが、それ以前の人間としての品位を保てる教育環境こそが大事だと思います。恥を失った人間というのは、怖いものがないぶん恐ろしいですね。
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