良いお年を

ネットのCD通販サイトを見ていると、とくにハッキリとした理由もないのに、何気なく買ってしまうCDというのがあります。
最近のそれは、ニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというピアノデュオによる2台のピアノのためのゴルトベルク変奏曲で、編曲はラインベルガーとマックス・レーガーによるもの、このバージョンはたしか他にもCDをもっています。

なぜこれを買ってしまったのか、商品が届いた頃には、クリックしたときの気分は消え失せていることもしばしばで、自分で言うのも変ですが、「へぇ、こんなの買ってたんだ…」などと他人事のように気分で聴いてみることになります。

聴いて最初に感じたことは、ピアノの音が品がないなぁ…ということ。ところがライナーノートをみると、なんとベーゼンドルファーのモデル280とあり、そのギャップにますます驚いてしまいました。
まるで弾きっぱなしの調律をしていないピアノみたいで、記述がなければベーゼンの280というのはわからなかったかもしれません。かなり使われているピアノなのか、ギラギラした音で、今どき録音するのにこんなピアノを使うのかと驚きました。

演奏はかなり自在な感じで、バッハらしい節度とか様式感を保った礼儀正しさより、感覚的でドラマティックに弾いているといった趣です。音といい演奏といい、はじめはずいぶんくだけたバッハという印象が強く、こんなもの買ってとんだ失敗だったとため息をついていたのですが、とりあえず最後まで聴いているうち(78分)にだんだん慣れてきて、ついにはこれはこれで面白いと思うまでになりました。
今では何度も繰り返し聴いているCDなのでわからないものです。

さらには面白い一面もありました。
ピアノは好ましい技術者によってきちんと整えられたものがいいに決まっているし、録音ともなると、最低でもそれなりに調整された音であるのが半ば常識です。
ところが、こんな言い方はおかしいかもしれませんが、このCDのピアノはずいぶん雑な音であるし、演奏もどちらかというと抑揚のあるテイストなので、一歩間違えれば聴いていられないようなものにもなりかねませんが、このCDにはいつもとは違う危うい面白さみたいなものがありました。

しかも荒れたベーゼンドルファーというのは、どこか退廃的ないやらしさがあって、それが結果として生きた音楽になっているという、じつに不思議なものを聴いたという感じです。
ピアニストのニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというふたりは初めて聴きましたが、なかなか達者な腕の持ち主で、息もピッタリ、テンポにもメリハリがあって、緩急自在にゴルトベルクをまるで色とりどりの旅のように楽しませてくれました。

調べてみると、TWO PIANISTSというレーベルで、しかもこの二人がレーベルの発起人だといい、録音は南アフリカの大学のホールで行われている由で、なにもかもがずいぶん普通とは違うようです。
録音も専門家の意見はどうだか知りませんが、マロニエ君の耳には立体感も迫力もあり、湧き出る音の中心にいるようで、とても良かったと思いました。


ついでに、もうひとつ、思いがけなく買ったCDについて。
いま人気らしい、福間洸太朗氏の新譜がタワーレコードの試聴コーナーにあったのでちょっと聴いてみると、演奏者自身の編曲によるスメタナのモルダウが、えらくピアニスティックでリッチ感のある演奏だったので、ちょうど駐車券もほしいところではあったし、続きを聴いてみようと購入しました。

自宅であらためて聴いても、なかなかのテクニシャンのようで、どれも見事にスムースに弾けているのには感心です。
きめ細やかな、しなやかなタッチが幾重にも重なり、独特の甘いピアノの響きを作り出すあたりは、いかにも女性ファンの心を掴んでいそうな気配です。

曲目はモルダウのほか、ビゼーのラインの歌、青きドナウの演奏会用アラベスク、メンデルスゾーン/ショパン/リャードフの舟歌、リストによるシューベルト歌曲のトランスクリプションなどで、メロディアスな作品が並びます。
敢えて言わせてもらえば深みというより、耳にスッと入ってくる流麗さと快適感で楽しむ演奏で、オーディエンスの期待するツボをよく心得ていて、ファンに対するおもてなし精神みたいなものを感じます。

まあ、そのあたりが気にならなくもないものの、本来、音楽は人を楽しませることが第一義だとするならば、それはそれでひとつの道なのかもしれません。

福間氏は20代の中頃にアルベニスのイベリア全曲を録音しており、以前店頭でそのCDを見て「うそー?」と思った記憶があります。技術的には弾けても作品理解や表現力のために、そこから5年も10年もかけて熟成させたうえで公開演奏に踏み切るといった時代ではなくなったことは事実でしょう。
音楽家としての自分の個性や思慮深さより、なんでもできるスーパーマン的なものでアピールしていく、これが良くも悪くも今どきのスタイルなんだろうとと思います。


気がつけば、今年も残り二日間となりました。
来年こそはより良い年でありますように。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

もうひとつの戦い

NHKのBS1で『もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い〜』が放送されました。

これまでコンクールのドキュメントというと、演奏者側にフォーカスするのが常道で、コンクールにかける意気込みやバックステージの様子など、悲喜こもごもの人生模様を密着取材するものと相場が決まっていました。

ところが、今回は公式ピアノとして楽器を提供するピアノメーカーおよび調律師に密着するという、視点を変えたドキュメントである点が最大の特徴で、途中10分間のニュースを挟んで、実質100分に及ぶ大きなドキュメンタリーでしたから、その規模と内容からみて、これまでには(ほとんど)なかったものではなかったかと思います。

テレビ番組の情報などに疎いマロニエ君は、だいたいいつも、後から気が付くなり人から聞くなりしてガッカリなのですが、今回はたまたま当日の新聞で気がついたおかげで、あやうく見逃さずに済みました。
こんな珍しい番組を見せないのもあんまり可哀想なので、今回ぐらい教えてやるかというピアノの神様のお計らいだったのかもしれません。

前半は主にファツィオリとカワイ、後半はヤマハが中心になっていて、スタインウェイは必要に応じて最小限出てくるだけでしたが、とくにスタインウェイ以外の調律師が全員日本人というのも注目すべき点だろうと思います。

ヤマハとカワイは日本のピアノだから日本人調律師が当たり前のようにも思いますが、だったらファツィオリはイタリア人調律師のはずであるし、もし本当に必要ならヤマハもカワイも外国人技術者を雇うのかもしれません。それだけ、日本人の調律師がいかに優秀であるかをこの現実が如実に物語っているとマロニエ君は解釈しています。

さて、近年あちこちのコンクールでも健闘している由のファツィオリは、今回のショパンコンクールでは戦略の誤り(と言いたくはないけれど)から弾く人はたったの一人だけ、しかも一次で敗退するという結果でしたが、現在のファツィオリを支える越智さんの奮闘ぶりが窺えるものでした。

ショパンにふさわしい温かな深みのある音作りをしたことが裏目に出てしまい、ほかの三社がパンパン音の出るブリリアント系の音と軽いタッチであったことから、ピアノ選びでは皆がそっちに流れてしまいます。そこで、急遽派手めの音を出すアクションに差し替えることで、限られた時間内にピアノの性格を修正しますが、時すでに遅しといった状況でした。
しかし、よく頑張られたと思いました。

カワイは小宮山さんというベテランの技術者が取り仕切っておられ、ピアノの調整管理以外にも演奏者へのメンタル面のケアまで、幅広いお世話をひたすら献身的にされていたのが印象的でした。フィルハーモニーホール内には通称「カワイ食堂」といわれるお茶やおやつのある小部屋まで準備されており、そこはコンクールの喧騒から逃げ込むことのできる、安らぎの空間なんだとか。

しかし一次、二次、三次、本選と進む中、最後の本選でカワイを弾く人はいなくなり、そこからはヤマハとスタインウェイ2社の戦いとなります。

ファツィオリの越智さん、カワイの小宮山さん いずれも技術者であり楽器を中心とするこじんまりとした陣営で奮闘しておられたのに対し、ヤマハはまるで印象が異なりました。
ヤマハは人員の数からして遥かに多く、見るからに勝つことにこだわる企業戦士といった雰囲気が漂います。
まさにショパンコンクールでヤマハのピアノを勝たせるための精鋭軍団という感じで、周到綿密な準備と、水も漏らさぬ体制で挑んでいるのでしょう。

各メーカーいずれも真剣勝負であることはもちろんですが、その中でもヤマハの人達の独特な戦士ぶりは際立っており、ときにテレビ画面からでさえ言い知れぬ圧力を感じるほどで、こういう一種独特なエネルギーが今日の世界に冠たるヤマハを作り上げたのかとも思います。

ファツィオリも、カワイも、各々コンテスタントのための練習用の場所とピアノなどを準備はしていましたが、ヤマハはまず参加者(78人)が宿泊するホテルの全室に、80台の電子ピアノを貸出しするなど、ひゃあ!という感じでした。
また、いついかなるときも、ヤマハのスタッフは統制的に動いており、カメラに向かって言葉を選びながらコメントする人から、何かというと必死にメモばかり取っている人など、組織力がずば抜けていることもよくわかりました。

ステージ上でも、何人ものスーツ姿の男性達がわっとピアノを取り囲んでしきりになにかやっている光景は、一人で黙々と仕事をする調律師のあの孤独でストイックな光景ではなく、まるで最先端のハイテクマシンのメンテナンス集団みたいでした。

はじめは本戦出場の10人中3人がスタインウェイ、7人がヤマハということでしたが、直前になって2人がスタインウェイへとピアノを変えたことで5対5となり、優勝したチョ・ソンジンが弾いたのはスタインウェイでした。

大相撲で「気がつけば白鵬の優勝…」というフレーズが解説によく出てきますが、気がつけばスタインウェイで今年のショパンコンクールは終わったというところでしょうか。

それにしても、コンテスタントはもちろん、ピアノメーカーも途方もないエネルギーをつぎ込んでコンクールに挑んでいるわけで、それを見るだけであれこれ言っていられる野次馬は、なんと気楽なものかと我ながら思いつつ、番組終了時には深いため息が出るばかりでした。
いずれにしても、とても面白い番組でした。
続きを読む

悪質な番号の検索

先日のパソコン本体へのSDカード誤飲騒動では、ネット情報によって命を助けてもらったばかりですが、どうやらネットの使い方というのは、日々より広範で多様化し、マロニエ君なんぞの知らないものが際限もなくあるらしい…ということを知るに及んで驚いています。

マロニエ君はいちおう仕事用と個人用の携帯電話を持っていますが、仕事用は問い合わせという側面もあるため、着信履歴をそのまま放置というわけにもいきません。とくに登録のない番号の中にも重要なものがある反面、相手の声を聞くなりイヤになる営業目的もしばしばで、運転中出られない場合など、車をわざわざとめてコールバックしてみると、なんと株取引の勧誘であったり、「お近くの不動産を探しています」とか、いきなり「現在のお住いはマンションですか?持ち家ですか?」「お使いにならない宝石などを買取りしています」といった内容で、憤慨することしばしばです。

まあ、相手だって仕事のために必死にやっていることと思えば一定の理解はできますが、何度かかけ直したあげくやっと通じたと思ったら、なんとこの手合だったりすると、やっぱりムッとしてしまいます。

昨日もそれがあり、30分ほどしてこちらからかけましたが夕方だったためか繋がらずで、そうなるとどこか気になってしまうもの。相手の分からない番号へ日を跨いでまで掛ける必要もないかと思いますが、近頃のネットは何が出てくるかわからにというへんな経験があったものだから、試しにその電話番号を検索にかけてみると、なんとなんと、いわゆる悪質な相手の番号であるかどうかを知らせるサイトがあって、その番号がひっかかってきたのにはびっくりでした。

その番号を元に、多くの人の口コミがあって、それをいくつか読むだけで、たちどころに電話の主がどんな相手かがわかりました。

それによれば、ただの営業ではない、限りなく詐欺行為をはたらいている相手らしく、テレビなどで悪徳業者の手口として紹介されるような内容そのままで、こういうものが自分の電話にかけて来たかと思うとやっぱり驚きます。
そんな相手とも知らずにわざわざこちらからかけ直しをしていたなんて、なんたることか!と思うばかりです。

そのサイトでは、当該電話番号に対するだけでも数十件の書き込みがあり、共通しているのが、尤もらしい会社名を名乗って「白熱灯が生産中止になることで、この制度を利用すると助成金が出るためのご案内です」というようなことをペラペラ言ってくるのだそうで、しかも断っても何度もかけてきて「しつこい」というような苦情がずらりと並んでいました。

もちろん、直接話せば断固として断りますが、まるで国の制度がどうのという専門的な話(しかもそれを悪用して収入を得ようという提案)を延々聞かされて、中には、ついその気になってしまう人もいるかと思うと、やっぱり怖くなりました。

くわばらくわばらと思って、その番号は敢えて消去せず、アドレス帳登録して名前を「出るな!」という言葉で登録しておきました。
すると昨日、今度はまったくちがう番号から電話がかかったので出てみると、相手はしっかりこちらの名前を確認し、続いてきちんと会社名(横文字のなんだかわからないような名前)と自分の名前を名乗り、いかにも手慣れた感じのプロみたいな話口調で女性が淡々と喋り出しました。
ところが、その内容というのが、まったく同じ「白熱電球生産中止に伴う…」という話であったのにはびっくり。

「せっかくですが、そういう予定も考えもまったくありませんので、悪しからず!」と決然とした調子でいうと、そういう手合には話してもムダだと思うのか、意外なほどあっさりと「左様でございますか。承知いたしました。お忙しいところ失礼致しました。」といって電話は終りました。

たぶん話に引っかかって来そうな相手かどうかは、絶えず感性を研ぎ澄ませているんでしょう。
それにしても同様の業者がたくさんいるのか、何本もの電話で一斉にかけまくっているのか、いずれにしろよほど気をつけなくてはなりません。

個人情報保護法なんぞ、世の中を暗くするだけのくだらない法律だと感じていましたが、こういう手合が暗躍する時代だということを考えれば、なるほどやむを得ないと思えてくるようです。
皆さんもおかしいと思う番号に遭遇した際は、番号を検索してみられることをおすすめします。
続きを読む

ふれんち

少し前に放送されたNHK交響楽団とパーヴォ・ヤルヴィによる演奏会には、オールフランスプログラムというのがありました。世間の受け止め方は知りませんが、個人的にはこの組み合わせでフランス音楽というのはずいぶん意外でした。

ドビュッシーの牧神の午後、ラヴェルのピアノ協奏曲、後半はベルリオーズの幻想交響曲というものですが、ヤルヴィとフランス音楽というのはどうなんだろう?という思いを抱くのが、なんとはなしに率直なイメージです。
ヤルヴィのみならず、そもそもN響とフランス音楽というのも、デュトワとはずいぶんやったかもしれませんが、それでも個人的イメージではしっくりはきません。
ボジョレー・ヌーボーが解禁などと言って、どれだけワイワイ騒いでみても、悲しいかなサマにならないようなものでしょうか…。

幻想交響曲のような大仰な作品はまだしも、ドビュッシーやラヴェルというのはこの顔ぶれではまったくそそられないのですが、そうはいってもヤルヴィはパリ管弦楽団の音楽監督であった(現在も?よく知らないが)のだから、まあそれなりの演奏はおやりになるのだろうと思いながら聴いてみることに。

出だしのフルートからして、いきなり雰囲気のない印象で、曲が進むにつれ、しっくりこないものがだんだん現実となって確認されていくみたいです。さだめしスコア的には正しく演奏されているのでしょうが、そもそもこの曲ってこういうものだろうかという気がしました。

牧神の午後に期待したい異次元の光がさすような調子というか、名も知らぬ花がしだいに開いていくような空気は感じられず、ただ普通にリアルで鮮明な演奏であることで、むしろ難解に聴こえる気がしました。
個人的にはヤルヴィの本領は別のところ、すなわちドイツ音楽やロシアその他の、いわば立て付けのしっかりした強固な作品にあるような気がします。

彼に限らず、現代の(それも第一級とされる)演奏の中には、わざわざ説明するようなことではないことまで敢えて説明しているような演奏にしばしば出会うことがあります。野暮といっては言葉が悪いかもしれませんが、ようするにそんな感じを受けることが少なくない。

それは進化した技巧と洗練されたアプローチによって、作品の隅々まで見渡すような爽快さがある反面、理屈抜きに音楽を掴む直感力だとか演奏者のストレートな感興、音がそのまま言葉となって聴く者に訴えてくるような醍醐味はやや失っているのかもしれません。
理知的な解像度の高さばかりに目が向いて、率直な感受性や表現意欲の比重が減っているのは、多くの現代演奏に感じるひとつの大きな不満ではあります。

ラヴェルのピアノ協奏曲のソリストはジャン・イヴ・ティボーデ。
昔から、この人の演奏はあまり好みではなかったので、まったく期待していなかったのですが…だからかもしれませんが、意外にもこのときはそう悪くない演奏だったので、これは申し訳なかったと心の中で思いました。
無意味なピアニズムや情緒に陥らず、ラヴェルの無機質をむしろ前に出してきたことで、そこにだけパッとフランス的な屈折した花が咲いたような趣がありました。
また、以前と印象が違ったのは、いかなる音にも好ましい肉感と節度があって、これがもしブリリアントなだけの派手派手しい音であったなら、ラヴェルの無機質が咲かせる花は、またずいぶん違った姿形になったように思います。


フレンチピアニストの名前が出たついでに書くと、ジャン=クロード・ペヌティエのCDで、フォーレ・ピアノ作品第1集を買ってみました。というのもペヌティエというピアニストのことはほとんど何も知らず、ラ・フォル・ジュルネで来日して好評であったということがネットでわかったぐらいで、音としてはまったくの未体験であったので、ぜひ聴いてみたいと思ってのことでした。

あれこれの評価では「弱音の美しさ」「洗練された味わい」「ペダリングの素晴らしさ」といったものが目に止まりましたが、マロニエ君に聴こえたところはいささか違いました。
まず印象的なのは、フランスのピアニストにしては渋味のある楷書の文字をていねいに書くような演奏で、しかもそこに余計なクセや装飾が一切存在せず、純粋に楽曲を奏することにピューリタン的な信念をもったピアニストというふうに映りました。
シューベルトの後期のソナタもあるようなので、マロニエ君のイメージではフランス人のシューベルトというのは痩せぎすで、それほどありがたいもんじゃないと思っていますが、これだったら聴いてみたくなりました。

ピアノはまったく気が付かなかったけれど、ジャケットの中の記述をよく見ると小さくBechsteinとありました。へぇ!?と思って耳を凝らしてもそれらしい声はさほど聴こえてこないので、おそらく最も普通に洗練されていたD280だろうかと、これまた勝手な想像をしているところです。
ペヌティエは教師としても名高いようで、かなりのベテランのようですが、スタインウェイでもヤマハでもないピアノを選ぶあたりに、氏の目指す独自の境地があるのかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: 音楽 | タグ:

ドイツ人とは?

車の月刊誌、CG(カーグラフィック)に面白いことが書いてありました。

ドイツ人とは、いかなる民族なのかということ。
永島譲司さんというドイツ在住30年余になる自動車デザイナーの方(有名なのはBMWの先代3シリーズで、あれは日本人のデザインなのです)が、長年の経験の中から書かれたものですが、読むなり呆れ返ってしまいました。

一般のドイツ人のイメージというのは、ありきたりですが、勤勉で真面目で冗談が下手で、でもバッハやゲーテ、ベートーヴェン、ハイネ、アインシュタインなど、とてつもない歴史上の偉人が綺羅星のごとく何人もいる、非常に優れた能力を有する民族というイメージがありますね。
世界の主たる近代文明の中で、ドイツ人が果たした貢献は計り知れないものがあることは誰もが認めることでしょう。

そんなドイツ人ですが、外から想像するのと、実際に長くその地で暮らしてみるのとでは、どうやらかなりの隔たりがあるようなのです。

ドイツ人は「ルールが好き」というのはあるていど認識されていることですが、実際のそれは、予想をはるかに超えたもののようです。
公園のブランコ、公衆トイレ、ホテルデパートのエスカレーターに至るまで、自己責任で使用すべしという但し書きがやたらめったら散りばめられていて、それをいちいち承諾した人だけが利用することができるようになっているのだとか。

ドイツでは何事によらず、氏の表現によれば「チョー細かいことまで」ルール化し、さらにそれを明文化するのが好きなのだそうで、書かれたものを厳守することがむしろ心地よいのか、精神的にもそれが落ち着くような気配だというのです。

たとえば、ドイツでは自販機のコーヒーから高級店のコニャックまで、すべての有料の飲み物には「何mlに対していくら」という価格と液体量が表示されていて、コーラなどを頼んでも量が正確にわかるように氷などは一切入っていないそうです。
こんなことを聞くと、ドイツ人が大好きなビールも、ジョッキには目盛りでも入っていて、まずそれを確認してからハメを外すのだろうか?などと思います。

唖然としたのは、カップルが結婚する際の手続きでした。
これから婚姻届を出そうというのに、将来何らかの理由で離婚する場合に備えて、財産分割に関する書類を作るのだそうで、そこには預金や不動産などは言うに及ばず、このテーブルはテレビはどちらが取り、この冷蔵庫と電子レンジはどちらの所有かということをすべて取り決め、事細かく書き出して、公証人の前でその書類にサインすることで法的な力を持つとあり、それがごく普通なんだそうですから、朝ドラ風にいえば「びっくりぽんや!」といったところですね。
日本でそんなことをしたら、たちまち破談になるだろうと思いました。

交通マナーに関する記述もあり、永島氏がドイツでの生活をはじめられたころ、フランクフルト市内の大通りでパーキングメーターにバックで駐車しようとすると、不思議な光景を見たとあります。
自分の車の後ろに10台ほどの車がズラーッと並んでおり、何で自分の後ろにそんなに車が並んでいるのか、はじめはその理由が皆目わからなかったというのです。

氏はその後も同様の経験を何度も何度も繰り返すうちに、ついに理由がわかったのだそうで、それによれば、ズラリと並んだ多数の車はただ単に前の車が駐車をし終えるのをずーっと待っているだけだというのです。

驚いたのはその状況で、そこは2車線の大通りで他に交通量も少くスカスカだったそうで、普通ならとなり車線から抜かしていくのが普通であるのに、多くの車は目の前の車が駐車が完了するまで身じろぎひとつせずにじーっと待っているというのです。

氏いわく、「要するに彼等って頭がタカイというか、思いつかないのである。」「目の前で誰かが駐車をはじめるとその車ばかりに気をとられるせいかとなりの車線に一瞬入れば前に行けることに気が付かない。いや、となりの車線がスカスカであることがそもそも目に入らない!良く言えば一点集中力がものすごく高いともいえるが、概してドイツ人というのはそんな具合でただただ一直線。」と書かれています。

予期していない事が起こったりしたときに頭を切り替える器用さに欠けるのだそうで、だから何にでも「規則」を必要とすると分析しています。
すべてのことに「チョー細かい規則」を張り巡らせて、それにしたがってみんながキマリ通りに動くことが前提となり、予定外のことが突如起こると、それに対応するのが不得意なんだそうで、ここまでくると規則に依存するあまり、頭も使わないのかと思えてしまいます。

ドイツも自転車の事故は問題のようで、交差点で車はスピードを落とす規則が「ある」のに、自転車にはそれが「ない」から、車に気づいてスローダウンしなければ衝突することがわかっても自転車はスローダウンしないらしく、おまけにゲルマン民族の健脚で走らせる自転車はたいてい30km/hから40km/hは出ているというのですから、相当怖いようです。

そんなドイツ人が例のフォルクスワーゲンのディーゼルエンジンの排ガス不正問題を引き起こしたのですから、これは珍しく頭を切り替えて器用な対応をやってみた結果なのでしょうか。
しかも、不正のやり方まで、ずいぶんと一直線だったようですね。
続きを読む

心理と味わい

近ごろはCDの聴き方ひとつにも、人それぞれの方法があるようです。
マロニエ君はスマホも持たず、音楽を聴くのは専ら自宅か車の中に限られ、まずイヤホンで聴くというのはありません。そのつど聴きたいCDをプレイヤーに入れて再生するという旧来のスタイルで、自分がそうなので、いつしかこれが当たり前と思い込み疑問にも感じていませんでした。

ところが、あるとき知人のメールによれば、CDをパソコンに読み込んで編集すると、曲のタイトル(トラック名)が表示されないことがあるらしく、それが非常に困るというのです。
トラック名なんてマロニエ君は意識したこともないことで、はじめはなんでそんなことが重要なのかピンとこなかったのですが、スマホやパソコンに音源を落とし込んで、そこからイヤホンなりスピーカーなりに繋いで聴くというスタイルでは、操作画面にトラック名が出ないことには曲を呼び出すこともできないわけで、ははあと納得した次第。

実は、マロニエ君もずいぶん前にiPodを買って、はじめは大興奮でずいぶん遊んだものの、しばらく使ってみて自分には合わないことがわかり、さっぱり使わなくなったことを思い出しました。さらに最近は、車にもハードディスクがあって音楽も相当量がここへ記憶させることができるので、一度読み込みをしてさえいればいちいちCDを出し入れする必要もありません。

こちらも始めの頃は感激して、せっせと読み込みに専念し、あげく一大ライブラリーといえば大げさですが、そういうものを作ったものでした。
ところが、車に乗り込み、エンジンをかけてさあ出発という一連の動作の中、あるいは走行中の信号停車中などに、この呼出操作をするのが(マロニエ君が苦手なせいもありますが)甚だ煩わしく、時間もかかり、鬱陶しくなり便利なはずのものが却ってストレスの原因になることがわかりました。

また、何を聴こうかという当てをつけるのも、トラック名がやみくもに並んでいるだけでは興が乗らず、最後はいつも適当というか、妥協的なものを聴くハメになるだけでした。
要するに選択範囲が多すぎて、しかもそれを液晶の無機質な文字だけでパパッと選択するという行為が、感覚上の齟齬を生み、自分にとっては快適な流れが生まれなかったわけです。

その点でいうと、自宅でCDケースの山の中から何を聴くかを決めるのが自分には自然であるし、車の中でもせいぜい50枚足らずのコピーCDを差し込んだファイルケースをぱらぱらめくりながら探すくらいが規模的にもちょうどよく、無用な神経も使わず、以来ずっとこの方法で通すようになりました。

しかし、今や時代の波はそんな悠長な感覚を顧みるひまもないほど進化し、すでにCDという商品を購入することさえどこか時代遅れの行為となりつつあって、とてもではありませんが感覚がついていけません。

本でも電子書籍などがどれほど流行っているのかいないのか知りませんが、とてもそんなものに切り替えようとは思いません。もちろんちょっとしたニュースをネットで走り読みするぐらいはいいけれど、いわゆる読書をするのに、液晶画面を相手にしようとはまったく思わない。
実際の本を買うほうが、値段も高く、場所もとり、将来はゴミになるかもしれないという主張もあるようですが、それならそれで結構。それでも紙に印刷された本のページを繰りながらゆっくりと読み進むことが読書の楽しみだと思うのです。

その点では、音楽は実際のコンサートでない限り、イヤホンやスピーカーから良質な音が出てくればいいわけで、この点では読書よりいくぶんマシのようではありますが、しかしマロニエ君にいわせれば、そこにもちょっとした違いはあるように思います。

昔はレコードを聴くといえば、大きなLPを注意深く取り出して、うやうやしげにターンテーブルの上に置き、慎重に針を滑らせてという、いまから考えればいささか滑稽ともいえる手順が必要でした。
しかし、その中に、音楽を聞くための心構えや集中力、期待感などもろもろの心理がうごめいて、出てくる音を耳にする前段からそれなりの盛り上げの効果があったようにも思います。

同じようなことが、今ではCDをケースから取り出してプレイヤーに入れ、再生ボタンを押すまでの手順の中に少しは生きているような気がしなくもないのです。少なくとも電話やメールをして写真や動画を撮って、ゲームに興じ、さらには無数のアプリ満載の小さな機械の中に一緒くたに入った音楽を聴くよりは、よほど情緒的なアプローチのようにも思うわけです。

実務実用の事ならそれも構いませんが、音楽や文学に接するときまで、極限まで追求された便利の恩恵に預かろうというのは、なんだかスタートから違うような気がするのですが、まあこれも今自分がやっているスタイルを無意識のうちに肯定しているだけなのかもしれません。
続きを読む

恐怖の20分

パソコンが生活の中に入ってきたことで、計り知れない恩恵に浴してきたことは事実であるいっぽう、同時に神経消耗の機会も断然増えたように思います。

とくにパソコンがめっぽう苦手なマロニエ君にとっては、いろいろなトラブルに見舞われるたび、疲労困憊し、時には寿命を縮めるような目にも遭ってきたのは事実です。

最大のものは、10年ほど昔のことだったと思いますが、CD-RWをしばしば使っていた時期があり、用済みのものは消去して書き換えていたところ、あるとき確認不足もあって、ハードディスクに記憶された内容を全て消してしまうという大ミスもやらかしました。

画面上、CD-RWとHDのボタンが上下隣り合わせであるのが設計の不親切だと今でも思いますが、ともかく一度消えたものはどうしようもなく、友人知人を総動員して修復機能など、あらん限りの策は尽くしてもらったものの、修復できたのはごく一部でした。
まさに身体中の血が一気に下へ落ちていくようで、胸はえぐられ、顔から両肩へかけての皮膚が焼かれるような思いをしたあげく、茫然自失、大切なものを多く失い、こんなことはもう二度とゴメンだと心底思いました。

そんなことから、だいぶ用心するようにはなったものの、それでも慣れというのは恐ろしいものです。
戦慄の瞬間は、ついにまたやってくる事になりました。

マロニエ君のパソコンはiMacなのですが、デスクトップの大きなモニターは本体と一体型です。CDドライブももちろん内蔵されていて、メディアは画面横の右側面から挿入するという構造。
さらに、CDドライブのすぐ下にSDカード用の挿入口があり、はじめの頃は目でよく見ながら出し入れをしていたものですが、だんだん使い慣れてくると右手がおおよその場所を覚えてしまって、忙しいときは、いちいち見ないで挿入するようになりました。

ところがです!
昨日、SDカードをいつものようにヒョイと入れたところ、なんだか右の指先に伝わる感触がいつもと違いました。
ん??と思って上半身を右に傾けて見てみると、なんと、CDドライブの挿入口にSDカードを差し込んでしまっており、しかも下に傾いた状態で入ってしまって、SDカードの小さな青い角がほんの1mmぐらい出ているだけでした。

これはえらいことになったと思って、慎重に爪の先でつまんでみたのですが、やはり気持ちが焦っていたのか、取り出すどころかあっという間に中に入ってしまいました。まるで溺れる犬の足をつかみそこねて、氷の張る池の中へ無残に吸い込まれていったようでした。
挿入口はホコリが入らないためか、スポンジ状のものが左右ピッタリと合わさっているため、中の様子を窺い知ることはまったくできません。しかもその間隔は2mmほどだし、パソコン全体もネジ一本緩めるような場所はなく、機械をバラして取り出すことはどうみても不可能です。

この時点で、心臓はどうしようもないほどバクバクし、血圧が上がったか下がったか知りませんが、ともかく真っ青というか絶望的な気分になってしまい、思考力もほとんど停止状態でした。ようやく思いついたのは、事務用クリップを伸ばして先だけ曲げ、それで引っ掛けて取り出そうということですが、これは何度やってもまるでダメで、そもそもSDカードらしきものに触っている感触すらありません。

そのSDカードには仕事上非常に大事な写真が多数入っていることを思うと、あまりに突然のことで、神経の作用だと思われますが両手両足まで痺れてくるのがものすごく不快でした。明日は本体を抱えてアップルストアに行くのかなど、いろいろイヤな想像がめぐります。

そんなとき、ふと思ったのが、ネットで検索でこの緊急事態の解決法が万にひとつもないものかということで、ショックで思うように動かない指先に力を込めて、あれこれの言葉を連ねてキーボードを叩いたところ、同様の目に遭った人の書き込みを発見!
やはり針金のたぐいでは細すぎてダメだとあり、なんと厚紙をコの字型にカットして、それを奥まで差し入れてSDカードごと引っ張りだすというものでした。なるほど!!!と思うや、さっそく机の周りを見渡します。

果たして、これはどうだろうと思ったのが、amazonからCDが送られてきたときに入っていた薄手のダンボールの封筒でした。それを大急ぎで解体し、あまり慌てて怪我をしないよう注意しながらなんとかそれらしきものを作り、さっそく挿入口に差し込んでみますが、なかなか思うようにはいきません。
5~6回やってもダメなので普通なら諦めるところですが、もはや他に手立てがないため、泣きたいような気持ちを抑えながら、それでもひたすら試しました。紙なので、コの字型の付け根の部分がだんだん弱ってきて危なくなってきたころ、天の助けというべきか、ついにSDカードの青色がわずかに顔を出したときの嬉しさといったら、思わず狭い自室で叫びたいほどでした。

今度こそはと慎重の上にも慎重にそれを掴み、ついに無事に取り出すことができました。
世の中には、なんというありがたいことを書いてくださっている方がいらっしゃるのかと、その方にはひれ伏して拝みたいくらい感謝しています。
本当に救われましたが、金輪際こんなことイヤで…非常に疲れました。
続きを読む

さらにひと手間

タッチが軽く生まれ変わったディアパソンでしたが、喜びもつかの間、想定外の変化が待っていました。

本当に軽くてごきげんな状態にあったのは、厳密にいうとはじめの一日のみで、その後は弾くにつれ、時間が経つにつれ、しだいにまたも粘りのようなものが出てきて、ちょっと様子がおかしくなってきたのです。
「ん?」とは思っているうち、数日後にはあきらかに状態が変わっていることを認識せざるを得ないまでの状態に後退してしまいました。

かといって、完全に昔のタッチに戻ったわけではないものの、軽やかさは潮が引くがごとくみるみる失われてしまったのは事実でした。ダウンウェイトを量るとおしなべて数グラム増加しており、やはりなんらかの変化が起きているようです。
ちなみにダウンウェイトを量る錘は、このピアノをOHしてくださった技術者さんが昔プレゼントしてくださったもので、こういうものがあると、なにかと重宝します。

さっそくBさんに報告すると、すぐに様子を見てくださることに。
果たして、ほぼ全域にわたって粘りのようなものがでているのは、キーを触るなり確認・同意され、さっそく再調整がはじまります。

概ねの見立ては次のようなものでした。

キャプスタンと接するウィペンのヒール部分のフェルトが、キャプスタン位置の修正によって、これまで接触していなかった毛羽立った弾力のあるフェルトの一部を含んでいたため、そこが使われ始めたことで短時間で凹んでしまい、結果的に打弦距離が伸びるなどして変化を起こしたのではないかということですが、あくまで推測の域を出ず断定ではありません。

結局、打弦距離などはたらきと言われる部分の再調整などをあれこれされたようです。

で、3度目の正直ではないですが、再び軽快なタッチを取り戻し、それから一週間ほど経ちますが、今度はとても落ち着いているようです。

タッチも音色も整ったことで、現在はとてもまとまりのあるピアノになりました。
ダイナミックでもゴージャスでもない、むしろ渋みのある控えめな音ですが、これまでが音色がバラバラでまとまらないイメージもあるディアパソンでしたので、いまはかなり端正なフリをして取り澄ましているようにも見えます。

細かい点をあげつらえばキリがないけれど、いちおうの完成形にかなり近づいたと思います。
これでもマロニエ君はあまり深追いはしない質なので、とりあえず満足ですし、やはりBさんのお仕事は見事だと思います。

それにしても、ピアノのタッチというものは、いまさらながら繊細精妙な領域で、各部のフェルトのわずかな馴染みひとつでも全体のタッチ感に思わぬ影響があるなどは驚きでした。
こういう経験は、日常のあれこれの場面においてもものを見る目が変わるようで、たとえば料理でも、素材の切り方、わずかな火加減、調味料のほんのひとふりでたちまち味は変わり、ひいては全体の印象を左右するということにも繋がるような気がします。


さて、昨夜は車仲間のお茶会があり、まったく同じ型の車でも、わずかな製造年の違いなどによって、微妙な、しかし明らかな乗り味の違いがあるのはなぜかということが話題になりました。
その中で一人が言うには、設計からスペック、タイヤやホイールのサイズまでまったく同一であっても、例えばホイール(アルミ)のデザインが違うことで、アルミ素材の違いがあったり、形状の違いから回転時の質量のバランスが微妙に違う、あるいはそもそも重さが僅かでも違えば、それは即ハンドリングや乗り味に影響する可能性があるというのです。

車のバネ下重量(サスペンションに取り付けられるタイヤやブレーキ装置などの重さ)は、一説によれば車体側の重量の15倍に匹敵するといわれており、これはピアノのハンマーの重量が、鍵盤側では5倍に増幅されるのと似ています。やはりすべての複雑で精密な機構というものは、わずかの違いや変化が、思いもよらぬ結果となって現れることは「ある」ようです。

ディアパソンに話を戻すと、タッチの問題なども考慮していることもあって、現在はどちらかというとこじんまりとした穏やかなピアノになっていますが、奥行き210cmのピアノという点からいうなら、もうひとつ腹に響くものが足りていないようにも感じます。
しかし、ディアパソンの醍醐味は、変な色付けのされていない、素材そのものの味を味わう料理のようなものだと思います。それをいうなら、果たして使われた素材がどれほどのものかという疑問もあり、いうまでもなくこのピアノは高級品ではありません。

それでも、現代のピアノが化学調味料満載の味付けによる、コンビニスイーツみたいな設計された味だとすると、ディアパソンには化学によるトリックはなく、素朴で普及品なりの本物であることは間違いなく、だからこそ気持ちがホッとさせられるピアノなのだろうと思います。
続きを読む

ウエイトレス

とある平日の午後のこと。
仕事の都合で昼食を取ることができず、午後に外出したついでに、軽くなにか食べておこうとマロニエ君とこのときの連れの二人で、某ビルの地下にある中華料理店に入りました。

時刻は16時30分ぐらいで、ちょうど客足が途絶える時間帯なのか、店内に入ったときお客さんはゼロ、準備中かと思ったほどでした。

と、すかさず「いらっしゃいませ~、どうぞ~!」と声がして、ウエイトレスが出てきて奥の席へ案内されました。
奥は通常より床が15cmぐらい高くなったエリアで、壁際には電車のような横長のシートが配され、その前に幾つかのテーブルが並び、それに相対するほうだけ一人掛けの椅子が置かれるという、よくあるスタイル。

こちらもお客さんはゼロでした。
マロニエ君は連れのほうへ奥の席を譲り、一人掛けの椅子に腰を下ろし注文を済ませましたが、無意識に鞄を隣の椅子の上に置き、相方はシートが横長につながっているため、自分の少し横にやはり鞄を置いていました。
それにもうひとつ、やや大きな荷物があり、それをテーブルの真横に置きました。
いま考えても、この状況では特に問題になるようなことではなかったと思います。

するとウエイトレスは注文を聞き取った後、メニューを抱えたまま、「こちらは、ご遠慮いただいてよろしいでしょうか?」とマロニエ君の鞄のことを言い出しました。
さらに畳み掛けるように「それと、こちらのお荷物(テーブルの横においた荷物)は、あちらに置いていただいてよろしいでしょうか?」といささか命令調に言いました。

みると3mぐらい先に、わずかなスペースらしきものがあって、そこが大きな荷物の置き場であるということを言いたいようでした。すかさずウエイトレスは大きな網カゴのようなものをどこからか持ってきて床に置き、「バッグはこちらにお願い致します」というので、やむなくそこに鞄を入れました。
それに続けて相方も鞄を入れようとすると、「あ、そちらはそのままで結構です」といちいちこまかく干渉してくるのが気に触り始めました。

この時点でふたりともかなりムッとしていたのですが、まだ抑えていました。
ところがウエイトレスは、どうでも大きいほうの荷物を向こうへ移動させないと気がすまないらしく、「こちらのお荷物は、あちらにお願いしてもよろしいでしょうか?」と同じ言葉で二度言ってきたので、面倒くさくなり「どうぞ」といって知らん顔しました。要は『そんなにあそこに置きたいのなら、あなたが持って行けば…』という意味ですが、ウエイトレスはお客が「自分で」移動させることに強くこだわっているようで、じっと横に張り付いて、こちらが自分で動くのを待っています。
「なにがなんでも自分の指示に従わせる」ということのようです。

そりゃ、お店が混んでいれば、いわれなくても鞄を隣の椅子の上に置いたりはしないし、あれこれの協力は惜しみません。しかし、繰り返しますが、広い店内にお客は我々を除いて「ゼロ」であるにもかかわらず、飛行機ではあるまいし、なんでこの女性はこうまでムキになってひとつひとつの荷物の位置にこだわり、すべてを自分の采配に従わせようとするのか。

ついにマロニエ君もカチンと来て「どうして、鞄の置き場ぐらいで、そこまでうるさく指示するの?」というと、「は? こちらに置かれていると、他のお客さまをご案内できませんので」と虚しいような建前を振りかざしますが、実際は誰ひとり居ないのですから、これはもう嫌がらせ同然です。
好意的に解釈しても、物事を柔軟に考えることができず、自分はあくまで正しいことを言っているというつもりでしょう。

繁閑の別なく、いつもそうしているのか、荷物はこうだというカタチにさせないと「この人が、個人的感情で気がすまない」のだろうと思います。世の中にはときどきこういう性格の人がいるもので、臨機応変に判断するのではなく、自分こそがカタチで覚えて込んでいるため、状況を問わずそのカタチに収め込んでしまわないと許せないのだろうと思われます。

こういうことに無抵抗では従わないマロニエ君としては、最近はだいぶおとなしくしているつもりですが、大きい方の荷物を手ずから移動させることは、あまりにバカバカしいので絶対にしませんでした。
しかしウエイトレスもさるもので、決して自分で運ぼうとはせず、ついにそのままになりました。

もともと軽く食事でもしようということが、思いがけず嫌な雰囲気になったことはいうまでもありません。相方は「どういうこと? こんな店、食べる気しないですよね」というので、マロニエ君も大いに同感で、まだウエイトレスが立ち去って1分経つかどうかぐらいだったこともあり、サッと席を立ちました。

我々が出口に向かおうとすると、あれだけ口やかましく言ったウエイトレスはぽかんとした表情。その口から出た言葉は「もう、オーダーは通ってますけど…」とさっきよりトーンも低めでしたが、まだやっと鍋を出したぐらいのことはわかっているので、「こんなにガラガラなのに、あんなに命令的に指図をされてまで、食事をする気がしないのでやめます」といって店を出ました。
もう二度と行きません。
続きを読む

ショパンの本

書店で『ショパンの本 DVD付』というのが目に止まりました。
これは音楽之友社から出ているムックで、この手はどちらかというとあまりそそられないマロニエ君ですが、今回はパラパラやって読んでみたい気になり買ってみることに。

ちなみに、ムックとはWikipediaによれば「雑誌と書籍を合わせた性格の刊行物で、magazineとbookの混成語、和製英語。」とあります。へええ。

本自体は、ショパンの生涯のダイジェストからはじまり、主要作品の解説、エディションや装飾音などについての記述など、ひとつひとつが深く掘り下げているわけではないけれど、ちょっと読むぶんにはそれなりに面白くできていると思います。
とりあえず半分ほど読んだところで、とくに印象に残ったのは矢代秋雄さんの「私のショパン」という文章で、ショパンをピアニズムや響きの美しさでばかり捉えるのは間違いで、その卓越した作曲技法や構成力のすばらしさ、対位法の手腕に高い価値を認める内容はさすがだと思いました。
言い古された安全な内容を、ただ並べ替えるだけのありふれた音楽評論家とはまったく違った、作曲家という創造者としての独自の視点と考えには、学ぶ点が多々ありました。

そうこうしているうちに、付属で綴じられたDVDがスムースにページを繰るにもじゃまになるし、その内容はどんなものだろうかと思い、読むのを一時中断してこっちを見てみることに。

果たしてピアニストの高橋多佳子さんによる演奏と、上記のショパンの一生のダイジェストをさらにダイジェストしたようなものの組み合わせで約60分の音と映像でした。

冒頭、ショパンの生家の写真を背景に初期のポロネーズが流れてきますが、そのピアノの音にぎょっとしてしまいました。かなりギラついた派手な感じの音で、ピアノは調整の仕方や演奏される環境によって音はかなり変わるものだとしても、まずスタインウェイとは思えないし、ベーゼンドルファーはさらに違う、ベヒシュタインのようなドイツ臭さもないし、むろんプレイエルでもない。
消去法でファツィオリか…とも思いましたが、残念ながらその短時間ではついにわかりませんでした。

で、そうこうしているうちにピアノごと演奏シーンが映しだされましたが、なんとそこにあるのはヤマハのCFXで「うわあ、そういうことか!」と思いました。なぜかヤマハというのはまったく念頭になかったので、答えを知ってみれば「なるほど」と思いましたが、あとからそんなことを言っても遅いですね。

善意に解釈すると、ショパンを意識した甘酸っぱい音作りがなされたのかもしれません。
戦前のプレイエルが、ふわっとやわらかな軽い響きの中で、一種独特の、腐敗しかけた果物のような甘い音を出し、それがショパンの音楽に見事にマッチングするのですが、しかしそういう複雑な音色とも違った印象でした。

さて、このDVDを見ていて、ふと目が釘付けになったことがありました。
カメラが鍵盤近くまで寄るシーンが何度かあり、ゆっくりした曲のときにそこで見えた鍵盤の動きです。

ヤマハのCFXなので必然的にピアノも新しいし、鍵盤は一分の隙もなく完璧な一直線に並んでおり、弾かれたキーだけがえらく従順に軽々と下にさがるかと思うと、指の力が抜けたとたん、一気にサッと元に戻ります。
これ、ごく当たり前のことを書いているようですが、その当たり前の動きをつぶさに観察していると、なんだか恐ろしいまでに磨きぬかれた、洗練の極致に達した精巧さというものの凄味をひしひしと感じずにはいられませんでした。

下に降りるときも、ただストンと下に落ちるのではなく、奏者の力加減を常に斟酌しながら、それが正確なタッチの動きとして反映されていて、まるで人間の指とキーのメカニズムがつながっているような動きと言ったらいいでしょうか。
さらに驚くべきは、返り=すなわち鍵盤が元の高さに復帰しようとする動きで、その際のこれ以上でも以下でもないというまさに適正な素早さといったら、見ているだけでほれぼれするような美しい動きで、「指に吸いつくような」とはまさにこういうことなんだと思いました。

マロニエ君はCFXは弾いたことはありませんが、視覚的にこれほど弾きやすそうな様子がこぼれ出ている映像は初めて見たような気がします。
これだけでもこの本を買った甲斐がありました。

音には好みなど主観の部分もあり、単純な優劣を決めるのは難しいものですが、その点でいうと、奏者の意のままになるアクションおよび鍵盤周りというのは、優劣の明快な領域ではないかと思います。
とりわけヤマハのアクションは、おそらく世界最高の精度を持つ逸品なのだろうとあらためて感じ入ったしだいで、ヤマハピアノを買うことの中には、ヤマハの優秀なアクションを手に入れるという意味も大きいのかもしれません。
続きを読む