どうしましたか?

電話をかけたとき、相手の第一声というのは大事ですね。
最初に発する言葉やテンション、明暗の調子でこちらの気分もずいぶん違ってきますし。

なかには、会話になると至って普通なのに、第一声だけはやけに暗く「うわ、まずいときにかけたのか…」と思わず不安になる人などもいますね。ただのクセなのかもしれませんが、けっこう焦ります。

むかしは「もしもし」が普通でしたし、固定電話全盛のころは「はい、○○でございます」と自ら名乗ってくださる方も少くありませんでした。

それがケータイの普及にともない、少しずつ変化が起こってきているのを感じます。

とくに双方ケータイである場合は、アドレス帳に登録していただいていることが多いため、呼び出しの段階で先方の端末には誰からの電話かがわかるため、いきなり「どーもー!」とか「こんにちわー」などというパターンも珍しくなくなってきました。

ただ、マロニエ君の場合は保守的なのか、切り替えが下手なのか、いきなりこういう調子に和していくのがイマイチ苦手で、むこうはもう名乗りの部分をすっ飛ばしてきているのに、いまだに「もしもし、○○ですが…」などと思わず言ってしまうこともよくあります。

まあ、それぐらいなんということもないし、すぐに会話になっていくでの問題はないのですが、どうも個人的にはいただけないと感じる第一声もあったりします。

そのひとつが、
「あ、もしもし。どうしました?」「あ、○○さん。どうしましたか?」っていうパターン。

何エラそうに言ってんの?というか、なんだか微妙に失礼な気分。
こういう言い方が、最近は流行っているんでしょうか。
しかもこれ、そもそもどういうつもりなのかと思います。

マロニエ君にはその心境がさっぱりです。

普通に電話しただけなのに、いきなり「どうしました?」と反応された日には、はぁ…どうかしなきゃ電話しちゃいけないの?とつい反発心から思ってしまいます。
これはニュアンス的に、どこか上から目線な言い回しだとも感じるので、おそらく言っている側は大した意味もないのだろうとは思うけれど、聞くたびにちょっとムゥ…ときてしまいます。

しかも相手に悪意がないというか、ふつうのむしろオシャレな対応だと思っているらしいところがよけいにイラッとします。
どうしました?と相手に「聞いてあげる」ところに、余裕ある自分を演出しているのか。

おそらく、はじめは誰かからそういう言われ方をしたことがきっかけで、いつしか自分も採り入れて、言う側に転身したのだろうと思われます。
というか、この言い方をする人がチラホラいるし、それらが皆、自分のオリジナルだとは到底思えませんから。

こういう言い方が、今風で、さばけた感じというような無意識の意識が潜んでいるのかもしれません。
ま、なんだかしらないけれど、言われたほうは、まるでさも緊急の要件か、困ったことが起こって助けを請う電話であるかのように扱われているみたいで、どうも納得がいきません。
どうかしたとしたら、よほどチカラにでもなってくれるのかと聞いてみたくなるほど。

110番や保険会社ならそれもいいかもしれませんが、ふつうの個人には不適当な気がします。

言葉というものは、どういうつもりで言っているにしろ、それ自体に普遍的な意味やニュアンスがあるので、やっぱり相手側の気分を害さぬよう、誠実に使わなくてはいけないとあらためて思うこの頃です。
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弾きやすさの質

つい先日のこと、所用で隣県まで出かけた折、予定が早く済んでしまいぽかんと時間ができたものだから、悩みました(だって行っても見せてもらうだけですから)が、当地のスタインウェイ代理店にお邪魔させてもらいました。

マロニエ君は普段から、購入予定もないのにお店を訪ね歩いてピアノの試弾をしたり、同様にひやかしで車の試乗をしたりするのはあまり好きではないので、極力それはしないよう控えているつもりです。
…が、このときはつい禁を破って行ってしまったというわけです。

人によっては、やたらとこれを繰り返し、弾いたり乗ったり延々しゃべったりして、それを一方的に楽しんでいる人もいるのですが、お店側にしてみればいい迷惑で、遊び場にされては困るというもの。
というわけで、マロニエ君は車の試乗などをするのもせいぜい年に1度あるかないかです。

と、基本的にはそういう考えなのですが、このときはちょうど時間にも空白ができて、試しにナビで位置確認をしたところ、わずか2キロほどのところでもあり、誘惑に負けてついルート案内を押してしまいました。

むろん他のお客さんなどがいらっしゃれば早々に退散するつもりでしたが、幸いにもそのような状況でもなく、来意を伝えるとお店側はたいそう快く迎えてくださいました。

まず通されたのは、2階にある展示室で、そこには内外のセレクトされた美しいアップライトピアノが壁際に並べられ、中央には新品のスタインウェイのBとO、ボストンの小型のグランドが置かれています。
「さあ、どうぞ」といわれて「それでは」とばかりに弾き始めるほどにマロニエ君は度胸も腕もありませんから、軽くスケールを弾いてみる程度にしていましたが、有り難いことにお店の人はこちらが心置きなく指弾できるようにとの計らいからか、早々に姿を消してくださいました。
おかげで、ほんのちょっと(5分ぐらい)BとOの2台を弾いてみたのですが、この2台の「あっとおどろく弾きやすさ」ときたら衝撃的で、これがスタインウェイのタッチかと頭の中の尺度を書き換えなくてはいけないほど好ましいものでした。
まさに目からウロコです。

このときは技術者でもある由のご主人は不在でしたが、店におられた奥さんがとてもピアノに詳しい方で、さっそくこのピアノの思いがけないタッチの素晴らしさを興奮気味に告げたのはいうまでもありません。
マロニエ君があまりにショックを受けているからなのか、少し笑っておられるようでしたが、本当にそれぐらいこれまでのスタインウェイとは違う、軽く、素直で、何の違和感もない、思いのままの理想的なタッチでした。

しかも印象的だったのは、その2台はなにも特別な仕様ではなく、あくまでも現在のスタインウェイの「スタンダードな状態です」ということ。

これは、とりもなおさずこの店の技術力が優れていることもあるでしょうし、そもそも生産段階におけるパーツの正確さ、組み付け精度の面などがずいぶんと進歩してきているのだろうと思いました。
近頃のスタインウェイの、音としては平坦ではあるけれど、いかにもシームレスというか均等な鳴りを聴いても、こういうタッチであることは合点がいくところでもあります。

お店には別室にもう1台10年ほどまえのO型があるということで見せていただきましたが、こちらも実によく調整された素晴らしいピアノでありましたが、新品の2台に較べると、軽く正確で、一瞬の隙もなく反応する「驚異的な弾きやすさ」ではやや及ばないところも感じますので、やはり最新のスタインウェイは、機械的精度という点でかなりヤマハに肉薄してきているのかもしれないと思いました。

いくら音が良くても、タッチが思わしくなく、もたついたりコントロールしづらいなどの問題があると弾く楽しみも半減ですが、その点では、現在のスタインウェイはかつてのような重厚な味わいはなくなったかわりに、ストレスフリーな弾き心地を弾き手に提供しているのかもしれません。
弾くものにとっては、最上の快適感の中で弾けるということは、これはこれで大いなる魅力だと感じ入った次第でした。

躊躇しながら訪ねたものの、大いなる収穫を得て、感嘆しつつ帰途につきました。
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謎の車の中は…

幹線道路の交差点を右折すべく右側の車線を走行し、信号が赤だったので停車しようとスピードをゆるめたそのとき、左からある東北の某ナンバーのダイハツ・コペン(軽の2シーターオープンで屋根付き)が突然目の前に割り込んできました。

ほとんどこちらの急ブレーキをあてにしたような無謀な突っ込み方で、あまりのことにクラクションを鳴らすひまもないほどそれは唐突でした。
しかも割り込んだあと、前の車まで十分な距離があるにもかかわらず、それ以上前進しようともせず、マロニエ君の車の真ん前で斜めを向いて止まったまま動こうともせずに、ほとんど嫌がらせのようなかたちで「一体なんなのか!」と思いました。

さすがにおどろいて、どんなドライバーが運転しているのかと顔のひとつも見てやりたくなりましたが、リアウインドウには今どき黒いフィルムが貼られていて、中の様子をうかがい知ることはできません。

そののち前の信号が「青」になると、ようやくそのコペンも動き始めたものの、ここでも嫌がらせのように、必要以上にノロノロと動いて、その気配たるや、これはタダモノではないらしいと考え始めました。

交差点では無数の直進対向車がひっきりなしにくるので、前3台とマロニエ君は待ったあげく、ようやく右折専用の信号が出るに至って右折開始となりました。
ここでも先頭と次の2台はすみやかに右折して行ったのに対し、コペンはまたまた歩くようなペースで右折を開始。
そこまでゆっくり行くのであれば、せめて右折したあとは一番左の車線でも行けばいいようなものなのに、これがまた、その速度でどうどうと一番右車線に躍り出ます。

チッと思いながら、中央車線から抜かしてやろうかと思っていたら、一番右の車線は次の交差点では右折専用になるようで、そのことに気づいたコペンは、車線は今度は左車線に移動しました。

と、まもなく目の前の信号が「赤」になったので停車。
そこでマロニエ君は敢えて、横に並ぶべくスピードを落として、コペンが先に止まったことを見ながら右側へゆっくり横付けしました。

「さあ、どんな御仁が運転しているのか!」と思って横を見えると、拍子抜けするほどふつうの若いおねえさんが運転席に座っていて、あれだけ腹も立ち、注目もしていたのに、なんだか「期待?」を裏切られた気になりました。
「なんだ、ただの運転が超苦手な女性か…」と思った一瞬後ドアウインドごしに見えてきたのは、なんとビッグマックのような何重にも分厚く重ねられた特大のハンバーガーで、この女性、これを食べながら運転しているのでした。

真横に並んで、ついあきれて見てしまいましたが、そんなことはなんのその。
気にする様子もなく、モグモグモグモグ、しわくちゃの大きな紙を適宜開くようにしながら、あっちこっちとかぶりついています。
こちらの視線を気にしているのか、決してこっちに視線を向けることはなく、無表情にひたすら食べ続け、信号が青になるとそのままコペンは動き出しますが、口はモグモグ、手にはハンバーガーという状況はかわりません。

そのまましばらく並走しましたが、マロニエ君はほどなく右折しなくてはいけない地点に来たので、観察はここで終りとなりましたが、なんでそうまでして運転しながらあんなに特大のハンバーガーを食べる意味がついにわかりませんでした。

いくら違法でも、スマホいじりをしながら運転というのはまだどこかに理解の余地がありますが、グレープフルーツほどもありそうなハンバーガーを「運転しながら食べる」というのは想像を遥かに超えた行為でした。

マロニエ君など、テーブルで集中して挑んでも、分厚いハンバーガーはこぼしたり落としたりと、無事に食べるだけで精一杯ですが、それを運転しながらとは恐れいったというべきか、よほどの高度なテクニックなのかもしれません。

でも、やっぱり食べている合間合間に運転しているので、他の車の前へ危険な割りこみになったり、前が空いてもちゃんと詰めないなど、車の動きはもうハチャメチャ、安全かつ円滑な動きができないのも納得です。
よっぽど急いでいるのかとも思いましたが、普通なら、あんな分厚いハンバーガーを運転しながら食べなくちゃいけないほど急いでいるときは、食べるのは後回しにしますよね。
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マリナーとオピッツ

90歳を超えたネヴィル・マリナーがN響定期公演の指揮台に立ち、お得意のモーツァルト(ピアノ協奏曲第24番)とブラームス(交響曲第4番)を演奏し、クラシック音楽館の録画から視聴してみました。

ピアノは今やドイツを代表するピアニスト(?)のゲルハルト・オピッツ。
冒頭のインタビューではモーツァルト演奏に際して、いろいろと尤もなことを言われていました。
例えば、
「モーツァルトの場合、大げさにならないようにすることが大切」
「歌わせる部分も過度に感傷的になってはいけない。モーツァルトの音楽に真摯に忠実に取り組む。」

ただ実際の演奏は、マロニエ君の耳にはいささか典雅さの足りない、ひと時代前の演奏のように聴こえました。
指の分離が優れた人ではないのかもしれませんが、タッチが重く、どちらかというと団子状態になりがちなのはきになりました。
独奏ピアノが作品の中で自在に駆け動くという感じがせず、常に前進する全体のテンポに追い立てられ、なんとかそれに遅れないよう気を張って弾いているようで、そういう意味での硬直感が全体に感じられました。

すべての音楽がそうですが、とりわけモーツァルトでは曲そのものが含有する呼吸感の美しさを表現して欲しいのですが、オピッツのピアノは、その点で関節の固い、息が詰まった感じがします。

マリナーの指揮はいつもながらの流麗で心地良く、懐かしい感じがあってホッとすると同時に、古楽奏法の出現によりモダン楽器のオーケストラでさえ、そのテイストを多少採り入れることも珍しくない今日の基準からすると、ふしぎなことにやや古いスタイルといった印象をもったことも事実でした。

古楽の出始めのころは、その独善性というかピューリタン的なものを無理に押し付けられるようでなかなか受け付けられませんでしたが、さすがに最近では研究も進み、演奏としての洗練の度も増して、音楽の新しい喜びを感じるようになったということだろうと思います。

そういう意味ではマリナーもオピッツも、どこか昔もてはやされた服をまだ着ているようでもありました。

冒頭のインタビューに戻ると、「(素晴らしい作品で)弾くたびに新しい発見があります。」というのは、このフレーズはもういいかげんみんな止めましょうよといいたくなります。
それがいかに真実だとしても、あまりに言い古された言葉というものは、もうそれだけで陳腐になってしまって、素直な気持ちで聞く気になれません。この人はインタビューを受けるたびに何度このフレーズを口にしていることかと思いますし、これはなにもオピッツ氏だけではなく、多くの演奏家が判で押したようにこれをいうのは、聞いているこちらが赤面しそうになります。

でもしかし、インタビューでは「なるほど」と思う言葉もありました。
「もし客席にモーツァルトが座っていたら、ほほえんでもらえるような演奏を目指しています。」
これは実にその通りだと思いました。マロニエ君も、素晴らしい演奏、ひどい演奏に接するたびに、もし作曲者にこの演奏を聴かせたらなんというだろうかという想像はいつもよく考えてみることです。

オピッツ氏はモーツァルトではそれほどの出来とは思えませんでしたが、後半のシンフォニーへ繋ぐように、アンコールではブラームスのop.116-4が演奏されました。
こちらははるかに好ましい、じっと味わえる演奏でした。
厚みがあり、ブラームスの音楽の深いところまで見えてくるようないい演奏だったと思いましたが、この人はモーツァルトよりもこういう性格の曲のほうが合っているのでしょうね。

実際の演奏会では、本来のプログラムよりアンコールのほうが素晴らしい演奏になることはよくあることで、この事自体は珍しくもありませんし、実はアンコールで聴衆への印象を挽回する演奏家も多いだろうといつも感じています。

演奏会ではプログラムが終わると、アンコールを弾かせなきゃ損だとばかりに要求の拍手が継続することがあって、この空気は嫌いですが、実はアンコールのほうが奏者もやっと義務が終わって気分がほどけてくるのか、はるかにリラックスした、それでいて音楽的に集中した演奏をここから始めることが多いので、そういう意味ではこちらに期待するという部分があるのも事実です。
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チェロのショパン

チェロのソル・ガベッタとピアノのベルトラン・シャマユによる、ショパンのチェロ作品を集めたCDを聴いてみました。

ガベッタはフランス系ロシア人を両親に持つ人気の女性チェリスト、かたやシャマユはフランスの若手でこのところ少しずつ頭角をあらわしているピアニストという、なんとはなしにバランスの良さそうな組み合わせ。

曲目はオールショパンで、チェロソナタ、序奏と華麗なるポロネーズ、さらにはショパンと親交のあったフランショームとの合作とされる『悪魔ロベール』の主題によるコンチェルタント・グラン・デュオ、さらにはエチュードやノクターンをチェロとピアノ用に編曲したものが収められています。

音が鳴り出して最初に感じることは、ガベッタのチェロの広々とした自在な歌い方と、趣味の良いデリケートなフィギュレーション、それにつけていくシャマユのピアノの美しさです。
マロニエ君は録音のことはわかりませんが、このCDは、聴いていてまことに気持ちの良い、透明感のある美しい録音である点も心地よさが倍加します。鮮明さと残響がバランスよく両立しており、それぞれの楽器の音が至近距離でクリアに、かつニュアンスを失わずに聴こえ、まるで目の前で演奏しているかのようでした。

自宅にいながらにして、こんなに美しい音と音楽に包まれることができるありがたさに浸りながら、だから不明瞭で混濁した音を聴くばかりのコンサートなど、できるだけ行きたくないという思いがますます募ります。

ガベッタとシャマユは、こまやかな神経の行き届いた演奏でありながら、聴き手に緊張を強いるでもなく、むしろ心を和ませ、かつ細部の見通しもよいという、演奏スタイルのメリハリのつけ方としては好ましい在り方だと思います。
焦らぬテンポの中で曲の隅々にまであたたかな光が射し込むようで、決して冗長にもならず、ショパンのチェロ音楽をじっくり味わえる好感度の高い演奏だと思いました。
やはり、ショパンはフランス系の演奏家の手にかかると、いかにも作品の本質に自然にコミットしているようで、ストレスなく聴いていられる点が安心できるというか、心地よく感じられます。

中でもチェロ・ソナタがこのディスクの主役であり、演奏も最も秀逸だったと思われました。それに対して序奏と華麗なるポロネーズなどは、やや守りの演奏のような気もしました。
ピアノ作品の編曲はフランショームの手になるもので、これはこれで面白いとは思うけれど、オリジナルのピアノソロには到底およばないという印象で、まあそれは当たり前ですが。

録音は昨年の11月にベルリンのジーメンス・ヴィラで行われており、写真によればピアノは新しめのスタインウェイのようでした。それも納得で、ここで聞くピアノの音は、ともかく高いクオリティで製造され、さらに見事に調整された現代のピアノという感じで、以前のような強烈なスタインウェイらしさといったものはほとんど感じません。

いかにも今日の基準をまんべんなく満たしたニュートラルなピアノという感じでしょうか。
どこにもイヤなところがないけれど、音の魔力に惹き込まれるような、とくべつな楽器という感じもなく、新しいスタインウェイで一流の技術者が調整すれば概ねこんな感じだろうと思われるものです。
どちらかというとやや無機質で、ハイテクも必要箇所に採り入れた精度の勝利といった感じです。

素材も、むろん悪いものを使っているわけではないと思いますが、むかしほど恵まれない天然素材とコストという制約の中で、量産を前提にした最上級クラスという感じで、かつての特級品がもつ凄味とか、稀少で贅沢なものから湧き出るオーラみたいなものはありません。

現代ではまあこんな感じのところで良しとしなくてはならないのだろうと思いますが、今回、上記のような優れた録音によって感じられたところでは、低音の性質が変わったように思えました。
従来のスタインウェイの特徴のひとつが、低音域の独特の音色と美しさだったと思います。

誇張していうと、その低音には一音一音に個性があり、必ずしも均一ではないけれどずっしりと芳醇で、まるで刃物のようなしなやかさと美しさが共存していて、そこがこのピアノの最も官能的なところであったかもしれません。

その低音の特徴がやや失われ、ただ大きなピアノ特有のブワーッと鳴っているだけのものになっているのは、やはり一抹の寂しさを感じてしまいます。

現在ではドイツのスタインウェイも(いつごろからかは知らないけれど)アラスカ産のスプルースを使うようになったようで、どうも他社のアラスカ産スプルースを使うコンサートピアノと、低音の性質が少し似ているような気がするのですが…気のせいでしょうか。
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整骨院いろいろ

ギックリ腰にまつわる話題はいささかくどい気もしますが、敢えてその後のことなどを。

時間とともにずいぶん快方に向かったものの、椅子から立ち上がる際などの傷みはなかなか消えてくれません。
これは、痛めた腰もさることながら、もともと運動不足だったところへ上積みするようにおっかなびっくりの生活が続いて、さらに筋肉が落ちたためだろうと思います。
できるだけ体操などをして筋力をつけなくてはと、ささやかなことはやっていますが、それだけでは不十分でしょう。

例の整体院に見切りをつけてからというもの、ネットの口コミなどを見てまわって、ついに自宅の近所にあるそこそこ評判の整体院があることがわかりました。

ためしに電話してみると、以前のところに較べるとずいぶんさわやかな感じで、「あつものに懲りて…」ではないけれど、事前に料金を聞いてみるとずいぶん良心的な設定のようであるし、ついでに電気治療は好まないとも言ってみると「もちろんOKです」とのこと。
ならば、店(院?)を変えて再挑戦してみようかという余裕が出てきました。

まずなにより楽だったのは、車で5分ほどと距離が圧倒的に近いこと。
以前のところは15~20分ぐらいの距離で、それだけでも通うのは大変でしたから。

店に入ると、限られた空間の中に、若い整体師が数名いて、カーテンで仕切られた施術台が左右に数台ずつ並んでいるだけのシンプルな構成で、電気治療の器具のようなものはほとんどありません。一見して整体師が身体を使って治療にあたる方針というのが伝わりました。
前の院では、院内を3つぐらいに区切って、電気治療専門のスペースもあり、巨大なマッサージ器のようなものが何台も並んでいましたし、通常の施術台の脇には例の「楽○○」なる稼ぎ頭と思しき最新機器が据えられていましたから、これだけでも雰囲気はずいぶん違います。

ネットで目にしていた若い整体師がいろいろ説明した上で施術になりましたが、やってもらっている間にも次々にお客さんがやってくるし、今どきは場合によって若い世代のほうが良いこともあるという典型かもしれません。
中途半端に上の世代になると、変に大胆というか、あくどいことを欲に任せてグイグイやってしまいますが、その点は若い人のほうが今どきの生き残りの厳しさや、利用者側の心理というのにも通じているように思います。

ずいぶん熱心にやってくれて経過もいいので、すでに数回通っていますが、料金は以前の院の1/10ほどになり、そのあまりの違いに嬉しいやら呆れるやら。

以前の整骨院はさらに思い出したことがあり、はじめに携帯メールの登録をすすめられ、これをすれば何かの料金(それがどうしても思い出せないのですが)1500円が無料になるということで、云われるままにしましたが、メール登録をしなければ、初回はさらにそのぶんが上乗せされていたわけで、その料金設定は笑うしかありません。

さてその携帯メールには、すでに10通以上のメールが来ており、常日頃から自分達がいかに皆さんの身体の健康を思っているかなど、歯の浮くようなことが綿々と書かれています。

さらに、数日前はハガキまで届いて、ここしばらくお顔が見えませんがいかがお過ごしでしょう、お身体のことを心配しています、また悪くならないよう早めにお出かけください、とあり、後半は○月○日までに来院されない場合には、再度初診料が発生しますので、それを念のためお知らせします、と、親切ごかしに、だから「早く来い!」みたいなことが書かれていて、図々しいのに必死さみたいなものが滲み出ていて苦笑してしまいました。

もう二度と行かないのだから、初診料の心配などしていただかなくて結構ですよとハガキに向かって言ってやりました。
それにしても同じ整骨院という看板を掲げていても、これほど甚だしい差があるというのは驚きですね。
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優柔不断に

我がディアパソンは、度重なる調整の甲斐あって、かねてより懸案であった軽快なタッチが達成できたことは大願成就というところでした。
繰り返えすようですが、技術者のもつ技術力に加え、各ピアノにはメーカーごとの個性や癖があるため、それを熟知した技術者さんの手に委ねるかどうかで結果は大きく違ったものになることをあらためて認識したところです。

仕上げには音色も整えていただいたことで完成度を増してくると、これまであまり感じなかった部分が見えてきて、我が家のディアパソン210Eの場合は、鳴りというかパワー感がやや不足気味という面を感じるようになりました。
一部例外を除くと、多くのピアノはオーバーホールすることで鳴りが悪くなることがよくあるようで、それなのか、もともとこのモデルがそういう性格であるのか判然としないものの、できればあとちょっとだけ鳴りの豊かさみたいなものがあればなぁというのが偽らざるところです。

この点を技術者さんに相談しますが、「ではまた見てみましょう」と快く言ってくださいます。
しかし、これはピアノとして根本のことだとも考えられるので、例えばすでにやっている弦合わせや整音をくりかえしても、それで解決できるとも思えず、結局まだお願いするには至っていません。

あえて単純な言い方をすると、ピアノ技術者がピアノにほどこす各種の作業というものは、煎じ詰めればタッチや音程や音色などの「乱れ」を細心の注意をはらいながら「整える」ことに尽きるだろうとマロニエ君は思っています。
その整え方に、技術や経験が問われ、限りない深さがあり、ひいては技術者各人の人柄やセンスまで表れる匠の世界というのは間違いありませんが、しかし設計者や製作者ではないということも事実でしょう。

ピアノ技術者(つまり調律師)はピアノのコンディションを最良最善の状態へと整えることが仕事のメインであって、楽器が生まれもっている個性やポテンシャルそのものは、さすがの技術者も変えることはできない(だろう)と思うわけです。

よってこの点は打つ手はないだろうと半ばあきらめ気分でいたわけですが、あるときのこと、ネット上で不思議なものを見つけました。

いちおう固有名詞は避けておきますが、それは、もう一歩ピアノが鳴ってくれないと感じるピアノをより鳴るようにするための器具だと説明されていました。
写真をみると「貼るだけのお灸」みたいな形で、木と金属で作られているもののようです。
これを響板とフレームの間へ差し挟むことで響板の響きをフレームへ伝達させ、ピアノをより一層鳴らす効果があるといいうものだとか。

これは果たして、ヴァイオリンの魂柱みたいなものなのか、あるいはスタインウェイのサウンドベル(これが正しく何なのか未だにわかっていないのですが)のような理論のものなのか…。それはともかく、もしもそれで一定の成果が得られるのなら一つの方法かもしれないと思ったわけです。

販売元は関東のピアノ工房のようでしたが、電話で問い合わせたところでは、効果は確かに「ある」とのこと。ただし、それは人によっても感じ方は違うでしょうし、ピアノによっても相性や効果の大小相違はあるのではと思いました。

価格は税込み32400円で、取り付けも出張のついでなど都合が合えば合計で4万円ぐらいとのことでした。
効果があって満足が得られればいいけれど、もしそれほどでもないと感じた時にキャンセルができるかどうかとなると、雰囲気的にそれはできないようでした。

きもち変わったかな?…というぐらいで、それ以上ではない場合、むしろこちらの耳が悪いから…みたいな展開になるのも心配ではあるし、たとえばインシュレーターでも安物と高級品では響きが違うといえば違うけれども、その違いは非常に微妙なものでしかないのがほとんどです。
ようするに最悪の場合、費用というか投資はいっさい無駄になることも厭わないという覚悟をしなくちゃいけないわけで、利用者や客観的な情報の不足もあって、ひとまず保留にしました。

ちなみに、器具を差し込むというあたりのフレームの穴から指を入れてみると、響板とフレームの隙間はせいぜい2cmあるかないかぐらいで、そうすると写真で見たそのパーツは、女性のイヤリングの片方ぐらいであることがわかります。
一概に、モノの値段は小さいから安い、大きいから高いというものでもないけれど、確認もできないまま購入するしかなく、その結果がはかばかしくない場合でも返品がきかないとなると、かなり迷ったのですが、ついに最後の決断がつきませんでした。

弦やハンマーのように、一度使ったら二度と売り物にならないような商品なら、キャンセルできないというのもわかるのですが…。
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雪の爪あと

1月最後の週末は、全国的に記録的な大雪でしたね。
ふだん雪とはあまり縁のない福岡も例外ではなく、土曜の夕刻から降り始めた雪はそのまま街全体を真っ白にしてしまうまで、しんしんと降り続きました。

雨と違って不気味なのは、雪には音がないところです。
まったく足音を立てずにやってきて、すべてのものを別け隔てなく純白に覆っていくさまは、とりわけ西日本の人間には馴染みがないため、打つ手もありません。

深夜、何度か玄関のドアを開けては外の様子を伺いますが、眼前に広がる景色は0時あたりで早くも「ここは北海道か?」というまでの立派な雪景色に変わっており、人の往来もほとんどありません。
日頃は車の出入りも多い向かいのマンションも、ぱったりと動きが止まり、周辺は異様なまでの静けさに包まれました。
結局丸2日間、ただひたすらエアコンやヒーターの風の無機質な音ばかりを聞いて過ごすことに。

それでも所詮は九州、大雪といってもそういつまでも降り続くことはなく、待っていれば必ず溶けていくものです。
火曜には少しずつ車も動き出し、我が家の前の道もしだいにアスファルトの黒い地肌が見えてきましたが、両側にはまだまだ雪の残骸が残っています。

これでようやく終りかとおもわれ、おそるおそる車に乗り始めます。ところがそれからのほうが、雪の残していった爪痕をあらわに感じることに。
まず、車が情け容赦ないまでに汚れてしまうのには参りました!

これほど自分の車が盛大に泥色になったことは記憶にありません。
ネット動画で、ロシアや中国などの車がドロドロに汚れているのを見たことがありますが、まさにあの種の汚れ方で、白くてきれいで風情があるはずの雪の現実はこんなにも汚いものかと今ごろわかります。

さらに幹線道路などでは融雪剤をまくため、その薬品なのか、単なる泥や砂なのかわからないけれど、タイヤが巻き上げる砂や異物のようなものがフェンダー内部に当たってチリチリパチパチと走っている間じゅう音を立てるのも嫌な気分です。

もうひとつ驚いたのは、大きな通りでは路面がザラザラになってしまっていることです。
タイヤチェーンによってアスファルトの滑らかな表面が削られているようで、とくにひっきりなしに行き交う路線バスの巨体が押し付けるチェーンの傷は痛手だったようです。
タイヤからのロードノイズが増しているし、ハンドルにもこれまでにない微かな振動が伝わります。

これは報道などでは云われないことですが、積雪による道路の傷みというのはおそらくすさまじいものだろうと思います。それでも、ひと雪でどれほど道路が損傷を受けるかというあたりは、きっと触れないことになっているのでしょうが、ものすごい被害だと思います。
というわけで雪は高いものにつくということを一つ勉強。

そうそう、高いというので思い出した安い方の話。
つい先日のこと、行きつけのスタンドにガソリンを入れにいったら、なんとハイオクが103円/Lとなっていたのには思わず声が出てしまいました。
このところ原油安がしばしばニュース等の話題になりますが、さすがにこういう価格になるとそれを肌で感じるものです。

いつごろであったか、じわじわと高騰が続き、これはもしかしたらリッター200円にもなるのでは?と思ったときもありましたが、世の中の動向というのはわからないものです。
これを見通して、投資などをする人達もいるのでしょうから、わかる人にはわかることかもしれませんが…。

アメリカのシェールオイルが一定のコストがかかることに対抗して、サウジアラビアが原油価格を下げることで対抗しているとか、エネルギーの巨大消費国である中国の景気減退の煽りによるものだとか、さらには世界的に将来を期待される再生可能エネルギーの開発を遅らせようという中東地域の思惑でもあるというような諸説があるようです。
きっとどれも事実でしょうし、それらが複合的になった結果なんだろうなあと思います。

いずれにしろ、なんだか不気味な安さです。
そりゃあもちろん、いま自分が必要とするものが、目の前で安いのは直接的には歓迎ではあるものの、この安さはなんとなく気持的に不安感を伴うというか、素直に得したと喜ぶ気持ちにはなれない危なさを感じてしまいました。

世界情勢は流動的で、ここ当分は不安定な状況が続きそうな気がします。
嫌なことが起こらなければいいですが…。
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田崎悦子

BSクラシック倶楽部で、昨年11月に東京文化会館少ホールで行なわれた田崎悦子ピアノリサイタルの模様が放送されました。

田崎悦子さんの実演は聴いたことはないのですが、CDは何枚か持っていて、バッハのパルティータなどは厳さの中に鬼気迫るような生命感が満ちていてとてもよく、ずいぶん聴いたCDでした。

このところCD店で目についていたのは、この方の新譜で、なんとブラームスのop.117/118/119、ベートーヴェンのop.109/110/111、シューベルトのD.958/959/960というこの上なく濃厚な作品を集め入れた、4枚組のアルバムでした。

なんと思い切ったCDか!というのが正直な印象で、昔ならこういう選曲はよほどの大家でもできなかったことかもしれません。
同時に、この三人の作曲家最晩年の象徴的な傑作ばかりを、3つずつ組み合わせて並べましたという、音楽的必然性のなさが見え隠れする印象もないではありません。
でもまあ、これはこれで面白いので、本当なら買ってみたいところでしたが、6480円ともなると安くもないし、それでも敢えて買うにはよほど内容に期待できるところがなければ…という面があり、まだ買っていないところにこの放送でしたから、まさにうってつけのタイミングだったわけです。

まずはベートーヴェンの最後のソナタ。
ステージにあるピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、これまでの田崎さんの、どこか自分を追い込んでいくような熱っぽい演奏の印象からすると、この選択は「???」という感じでしたが、その杞憂は開始早々現実のものとなりました。

冒頭の激しいオクターブとそれに続く和音は、なにやら虚しく、ずいぶんと頼りなげにほわんと響きました。
正直いうと、このベートーヴェンは少し予想外で、CDをリリースするからにはよほど手の内に入った、説得力のある演奏が期待できるのだろうという気がしていたのですが、少なくとも111では熟成不足という印象を免れないものでした。
また意外なことに、技術的にもずいぶん危なっかしい場所が散見され、この崇高なソナタを堪能するまでには至らなかったというのが正気なところ。それに追い打ちをかけるようにベーゼンの先の細い体質が浮き彫りとなり、残念ながらベートーヴェンの作品の姿を描ききることが苦手なように感じました。

ピアニストとピアノ、いずれの要素によるものかはともかく、何かが表現として伝わってくることはないまま、どこかハラハラさせられながら111は終わりました。

それが多少なりとも挽回したのは、時間の関係で第一楽章のみだったシューベルトのD.960で、ベートーヴェンに較べてはるかに自然で弾き込まれている様子がみなぎります。このピアニストの奥深いところまでこの作品が根を下ろしていることがわかり、印象は好転しました。
暗譜と練習成果に依存するのではなく、弾き手に作品が深く刻み込まれているおかげで つぎつぎに曲が自発性を持って展開します。

さらにはピアノもシューベルトとベーゼンは仲がいいようで、ベートーヴェンのときに感じたようなハンディはずっと後方へ退きました。

ベーゼンドルファーというピアノは、それ自体とても魅力的で個性的で、その丁寧な造りには工芸的な美しささえあるけれど、これ一台で演奏会をまんべんなくカヴァーしていくのは難しいなぁ…という気がしてしまうのは、今回も例外ではありませんでした。
この楽器でなくては出せない美しさや絶妙のニュアンスがあるのは確かだけれど、同時にダイナミクスやオーケストラ的な広がり、モダンピアノに求められるパワーやメリハリなど、多くの制限制約を受けることも実感させられます。

田崎さんはいわゆるハイフィンガー奏法なのか、いつも手の甲を立て、指はハンマーのように忙しく上下する様子は、思えば、昔の日本人はみんなこんな弾き方をしていたなあと、まるで昭和の思い出にふれたような懐かしい気がしました。
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